結局、信長と信玄と謙信、誰が一番優れているの?2

このエントリーをはてなブックマークに追加
1人間七七四年
戦国板の話題は結局これに終始すると思うので、気が済むまでとことん話しましょう。
色んな面から語ろう。荒らし・煽りは徹底放置推奨
前スレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376726840/
2人間七七四年:2013/11/04(月) 18:27:03.93 ID:hFEdCeJw
信長に決まっとる。
3人間七七四年:2013/11/04(月) 18:27:59.76 ID:hFEdCeJw
天才すぎたんだ
4人間七七四年:2013/11/05(火) 01:27:14.66 ID:xbJs9dYb
織田軍の主力が志賀の陣や三方が原で壊滅したからこそ、信長に1万しか兵が集まらず
信長は兵糧も玉薬も兵も集まらず、誰が味方で誰が敵かわからないなどと泣き言を喚いていたんだろ。
そのこと自体が信長の戦下手を証明するというだけで、信玄死後の話や朝廷への和睦斡旋など
全く関係ない話に摩り替えて信長マンセーされても困る。元々国力的にいえば
圧倒できないとおかしいくらいのバランスなんだし。
5人間七七四年:2013/11/05(火) 08:12:26.42 ID:ttrtb8i5
戦国時代を要約すると
戦国最強の武田家が戦国最弱の織田家に所領を蹂躙されペンペン草も残さないぐらい完璧な敗北と無様な滅亡を演じた史実
織田は勿論上杉毛利北条島津伊達といった一流は生き残れたが武田はその資質は無かった
これがアスペルガーだがの言いたいことなんだと理解している
6人間七七四年:2013/11/05(火) 08:20:10.62 ID:GJ08fjWq
>>4
そんな最悪な状況を戦術的勝利であっという間にひっくり返した信長はまさに戦の天才だな
そう思わないかね?菅沼君
7人間七七四年:2013/11/05(火) 11:14:45.47 ID:qsyuD/Yv
このスレもう必要あんのか?

結論が出ないのは前のスレで証明済みだろ?
8人間七七四年:2013/11/05(火) 12:26:39.78 ID:xbJs9dYb
そもそも織田軍はチート国力の尾張と大垣城と刈谷の水野氏の帰属と斉藤との同盟、
義龍死後内乱で瓦解し、ろくに抗戦がなかった美濃や元々お膳立てされた上洛と畿内と、一条兼定でもあっさり平定できそうな
ヌルゲーの主人公だったが、その圧倒的不利な状況を作ったのは信長や織田軍の戦下手が原因なので、全く信長が天才の根拠にはならない。
ピンチを切り抜けたのは天皇の和睦斡旋と信玄死去のおかげだし、超幸運に見舞われた棚ボタがあっただけにすぎんし
9人間七七四年:2013/11/05(火) 12:27:27.19 ID:gvIuAyrb
あれだけの国力を持ちながら信長に1万しか兵が集まらなかったのは対武田の三方が原や志賀の陣で織田軍が主力を壊滅させられたのが理由としか考えられんし
信長の天才っぷりどころか、信長の戦下手を証明する材料にしかならんよ。
ピンチを脱出できたのも朝廷に土下座して和議を仲介したのと、信玄の死に救われただけで、ますます信長の能力とはかけ離れた棚ボタのおかげだし。
つかその局面で信長の才能が発揮されたというのならどのように発揮しどう乗り切ったかを史料付きで詳しく頼むわ
10人間七七四年:2013/11/05(火) 12:34:55.73 ID:k5Tz4JTq
>>9
歴史知らない人のかよw
何を言っても、最大の勢力圏を持ったのは信長だよ。
棚ボタだろうが何だろうが運も才能のうち。
運がなかったから武田は浅間山の噴火で滅びたって強調してたんじゃない
のか?w
11人間七七四年:2013/11/05(火) 13:09:53.91 ID:aVVOPshV
菅沼君には次の諺を言っておこう
運も実力のうち
運がない信玄謙信は実力がなかったと言える
12人間七七四年:2013/11/05(火) 13:11:18.15 ID:RvJAltH0
信長公記でも信秀が晩年疫癘に御悩みなされ、ご祈祷や治療をさまざま試したが御平癒なくついに亡くなったと書いてるように
天文18年11/5付け織田与十郎書状には備後守病中故と書かれており
神宮文庫の日記断片にも天文17?18年頃に信秀を入道と呼び、信長を若殿と書いており
信秀が当主を退いて後見役になっていたとされる(病だろうと右筆が書くから関係ない)
同じ時期に信長と濃姫の婚儀もあり
それと同時に天文18年11月に藤原信長として熱田村に書状を出していて
これは信長の初見文書であり、明らかに信秀は病を機に出家し後見役となり
信長を後継当主として擁立した流れとされている。
さらに天文21年10/21日には桃岩(信秀の法名)の判形の旨に任せて安堵という書状を
信長は大叔父の玄蕃允秀敏へ知行宛して当主権を行使している。
天文22年閏正月13日に信秀が外交を委任していた平手政秀が信長に悲観して自殺するや
道三は信長の大叔父玄蕃允秀敏に信長の悪行を心配している書状を出してる(浅井家文書)
そして同じく後見役とされていた林も信長を見放す。
しかし道三は娘を人質にされてるためか、信長を見放さず、
水野の小川城に対抗して岡崎衆が村木に砦を築くや天文23年正月に安藤伊賀守の軍勢を派遣し
小川城で水野信元と会談後に砦を落として帰っている。
明らかに信長がどうしようもない馬鹿で尾張が分裂していっただけで、
信秀は万全の体制で信長へ引き継がせてる。義龍によって尾張反語句を奪われたのは信長の糞アスペ人格が原因。

実際には信長と濃姫の婚姻が天文18年11月よりも早いとされ
信秀が信任し織田外交を任せていた平手の交渉による
斉藤との同盟が結ばれた天文17年中と考えられていて
それを以って後継者確定としている(信勝の妻との差は歴然)
そして信長に平手が後見人と付けられたのも
信秀の対外外交方針の変更が信長の代になっても変化ないことの宣言でもある。
しかし平手が自害することから信長は父の外交を引き継がず無謀な行動に出たので
尾張国が混乱し、離反が相次ぎ結果、今川・斉藤へ頼るものが出てきた。
完全に信長の失敗から尾張が崩壊しただけ。
稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17?18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでるとのこと。
信秀の死は天文21年3月だから信長18歳だろ。2年以上の時間をかけて信秀が信長の後ろ盾になってる。

定光寺年代記の死亡記録の信憑性の高さが決め手で確定してるでしょ。
万松寺過去帳はあくまで定光寺年代記の記録の正しさの補強として。
定光寺年代記の殺害記録によって織田信光という人間がいたことが判明したわけだし。この事実は大きい。
新修名古屋市史は信秀の死去についても定光寺年代記を支持してるし
鳥居和之氏や下村信博氏や池上裕子氏や織田信長文書の研究で有名な故奧野高廣氏や
信長公記研究で有名な岩沢愿彦など、 ことごとく天文21年死去を主張。
13人間七七四年:2013/11/05(火) 13:12:25.44 ID:RvJAltH0
天文20年の信秀生前から備後守並びに三郎(信長)の先判の旨に任せて
などと信勝(信行)は明らかに序列によるケジメを付けられ
熱田神宮寺座主に安堵してるし、
その時期に西加藤家の次男へ信勝が信長への取次してる。
お前の言う熱田?ってのは西加藤家の分家の東加藤家へ出した22年10月の
信秀の先判の旨に任せってやつのことだろw
すでに信秀生前から本家の西加藤は信長。
分家の東加藤は信勝と分掌されていたとされる証明書状。
そもそも西加藤家は非常に重要視され
天文18年11月には信長が国内政務に初めて関与した機会として
西加藤家に対して藤原信長の名で熱田村八ヶ村宛てで制札が下され
熱田社造営の課役免除などが示され、信秀の後継地位を表している。
すでに信秀が病で信長が家督を継いでいるので
神宮文庫蔵の日記断片簡で万度 長鮑千本を出家した信秀が寄付し尾張若殿と明確に分けていることからも
すでに家督を信長が継承してる証左としてるし。
あと、信勝が信秀の父が支配下に置いていた織田家発展の原動力になった
大商業地の津島経済圏への影響力がまったくないことからも、
祖父以来の織田家本貫地といっていい津島衆を信長が配下にしているのを織田家を継承していた証左とされてるね。

石山本願寺日記で書かれてる記述は尾張で洪水などの天災があったようだとされてるだけで
信秀の死による混乱なんて無理やりな解釈はできない。というのも
河野門徒が飢餓だけど400疋を献上すると天文21年10/2の記録に書いてあり錯乱の原因が判明するから。
(天文21年5/2に去年は講衆する信者が少志を寄付したと書いていて20年のことと関連してるのがわかる)
河野門徒と言えば蓮如が河野惣道場を復興させて以来、
尾張葉栗郡?美濃国羽栗郡・厚見両郡にいたから木曽川中流の両岸が洪水起こしたんだろうねぇ。
本願寺は経済的に痛手を受けたのなら信長にとっちゃおいしいな。
中流ならむしろ岩倉城の織田伊勢守家と美濃国主がダメージを受けたってことだし。
飢餓による乱世と書いてるんだから本願寺の講衆の田畠が氾濫で流されて生活が苦しくなったから、
以前のように寄付がたくさん出来なくなったって話としか思えないけど。
戦乱乱世とか信秀死去による乱世なんて曲解にも程があるよ。
そもそも一次史料にその時期に戦乱を思わせるようなものは全く無いし。
尾張葉栗郡?美濃国羽栗郡・厚見両郡に住む本願寺の講衆の田畠が氾濫で流されて
飢餓による乱世状態になったので寄付がたくさんできないと申し出てきた史料
尾張の混乱は平手が失望のあまり自害し、それを見て林が見放したほどの信長の大うつけが原因であり
しかもこの信長の織田家内での不評っぷりは隣国まで伝わり
道三も信長の大叔父玄蕃允秀敏(信長が秀敏へ天文21年10/21に中村方三郷を安堵しているが、これが信長初の知行宛行文書)
にそれを心配して問い合わせてるほど
それを信秀の体調のせいだと曲解してんのがお前。
信長も信秀と同じ三郎を名乗っており、後見する宿老おとなが4人も信長には付けられ
明らかに織田後継と位置づけられてる。信勝にはおとなは一切付けられてない。
14人間七七四年:2013/11/05(火) 13:12:35.26 ID:GJ08fjWq
>>7
結論は出ているよ
信長と謙信は戦の天才だが信玄はただの凡人に過ぎないと
菅沼君だけが認めていないだけで

しかし菅沼君が必死になればなるほど信長が如何に戦の天才だったかが強調されるという皮肉
なんたって滅亡寸前の状況を戦術的勝利であっという間にひっくり返したのだから

戦略的敗北は戦術的勝利では覆せないという軍事学の常識を打ち破った信長
あのハンニバルですら出来なかったことを彼はやってのけた
これを天才といわずしてなんという?
そうだよね?菅沼君
15人間七七四年:2013/11/05(火) 13:13:45.87 ID:RvJAltH0
信長の安堵状等の発給文書が天文21年秋以降に増えることから信秀の死は天文21年3月?
信長は元服以前から嫡男として遇されており、 父信秀が熱田の北に古渡城を築いて移った際に、
信秀のいた那古野城を譲られ、宿老筆頭のいちおとな林秀貞をはじめ?
と池上氏が去年末に出した本には書いてるね。
当主が自分の後継者に自分の城を譲って移転するってのは三好長慶が嫡男に芥川城を譲ったり、
伊達輝宗が政宗に米沢城を譲り隠居城を作りはじめたり、
信長が岐阜城を信忠に譲り安土城に移ったりと例がみれるね。
末森城って天文17年築城だから時期的にいって単なる隠居城でしょ。
しかも織田当主信長の名古屋城の東側を守る前衛だし。
柴田権六、佐久間次右衛門なんてしょーじき当時は一次史料にも出てこない程度の存在だし、
織田外交を一手に行ってたのが一次史料ではっきりわかる平手とは天地の差でしょ。
柴田と佐久間って当時はどんな地位で、なんの職だったん?それすらぶっちゃけわからんでしょ?
そもそも信勝に信長と争わせようとする信秀の意図なんて、どの一次史料に出てくんの? 完全に妄想レベルだよね。
だいたい発給文書数自体でいっても信勝はほとんど無いのに、信長に比する地位にいたなんて解釈は文書数からいってもあり得ない。
そもそもたかが末森城ひとつで何ができんの?たった1城持ってただけで当主顔できんの?
末森城なんて守山城とともに名古屋城を守るためにあるようなもんでしょ。

そもそも信勝が信秀と末森城で生活していたなんてデタラメだし、
単に信秀の葬儀の後の遺産分けで末森が信勝に与えられたに過ぎん。
信秀死後に信長が戦をする時はたびたび信勝も家臣の柴田を派兵しているように
織田家総領の信長というスタンスは証明される。
第一、信長につけられた織田家いちのおとなの林は寄親として荒子城・米野城・大脇城を指揮してるが
柴田や佐久間大学や林の弟なんて地位も職もまったくないただの信勝の家臣風情じゃないか。
さらに信勝はずっと信長配下として動いていて、そこに序列を巡る争いの種は一切見つからない。
そうして平穏に時が過ごしていたら1544年に道三が隠居に追込まれ
さらに事態は悪化し1555年に義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵し、信長と義龍が敵対状態になった。
時を同じくして1555年6月に信長と信行の弟の喜六秀孝が守山城主織田信次に謝って殺される事件が発生。
恐怖した信次は守山へ戻らず逃亡。
これの対応を巡って信勝が信長へ相談なく勝手に守山へ攻めこみ
遠乗り中にそれを聞いた信長が「俺の弟ともあろう者がたった1騎で下郎のように歩いていたとは!
生きていたとしても許せない」と激怒。
結局、信次の家臣が篭城していたので信長軍に柴田を援軍で派兵し佐久間信盛の説得で開城し
守山城は信長の弟の秀俊が治めることで和睦。
このころから林と柴田が内通し信長へ謀反を企ててる風聞が流れ
そして1556年4月20日 斎藤道三討ち死にし義龍が完全に美濃を制圧。
1556年5月26日信長と秀俊が林邸に出向いて様子を伺う事件が発生。
翌日林が信長に謀反+守山城で秀俊が角田新五に暗殺されるという事態に発展。
信長は先に逃げていた前守山城主信次を呼び戻し守山城主に復帰させる。
8月22日に信勝から離反して信長についた佐久間大学が前線に砦を築いたことから
24日に合戦に発展。

明らかに美濃の情勢と信勝の挙兵はリンクしていて、
しかも守山城主の織田信次を明らかに信長は厚遇している。
さらに角田新五を不問にしてるため、そもそも織田秀俊暗殺も信長の謀略との疑いがある。
この後まもなく信長の庶兄の信広も斉藤家と内通して清洲城乗っ取りを狙うも失敗するなど
信長による兄弟粛清の荒らしの謀略に追い詰められ義龍に内応する織田一族の構図が見える。
これを見ても信秀が信勝を信長お対抗馬にしようなんて考えはない。
16人間七七四年:2013/11/05(火) 13:14:52.35 ID:RvJAltH0
>>信秀は今川に尾張半分を奪われてた
信長領だった鳴海が今川方になったのは弘治元年(1555年)2/5付書状で証明されてる。
しかし、それ以外は取られてない。半分が今川とかアホだろw
その書状の中で信長が鳴海に同心したら領地没収の話を出してる。
そもそも弘治元年から2年に渡り三河全域で反今川勢力が蜂起して
今川勢と各地で戦ってたのは岡崎市史で指摘されてて、 今川にはこれ以後、余裕がまったくない。
信秀が死んだのは天文21年3月(1552年)で鳴海が今川へ寝返った時期から
すでに3年も経過してるから、信長が相続した時点では鳴海はちゃんと引き継いでいるし。
>>沓掛・高大根・部田村
城も奪われてないのに沓掛・高大根・部田村について触れた内容をもってきて
織田が劣勢とか頭が融けてるんじゃないか。
しかも売地だった土地を買い戻してやっただけじゃん。
そもそもこの手の城も奪わずに土地だけ安堵とかしてる書状なんて
実際にその土地が敵方陣営にいる親族が所持していたらカラ安堵を普通にするもんだし。
当時の国人は国の堺とか関係なしに先祖代々の飛び地を持ってる(越後国人が武蔵や伊豆に土地を持ってたり)
またその地が戦乱で維持できなくなっても安堵状だけはもらって土地所有権を主張しようとしていた。
実際に土地が伴った安堵ではないことは城を落とした結果という過程を経てないことからもわかる。
丹羽氏同士の本家争いで持ってない土地を今川が自陣営にいる方に安堵を出してる可能性も高いわ。
地域の拠点たる城を奪われたりしたわけじゃないのに、これで信秀が不利なら何で同時期に織田との和睦結びたいあまりに、
信秀が和睦の条件に要求した刈谷城を織田に返却してんだよ。
むしろ信秀が今川の背後の北条と連絡を取るようになったから安祥城までしか動けない限定的行動に
制限されたからこそ 翌年には信秀へ刈谷城を返却するはめになってるやん。
そりゃあ城を返却してまで今川は和睦したがってんだもん。面子もあって懇望してきたとかいいわけするだろ。
なにせ天皇が女房奉書で和睦して修理代を出すように言ってきた時ですら
意地になって今川は和睦はできないとメンツを気にしてたじゃん。
結局、信長公記でいうところの備後守殿に御目に懸けられ候と書かれて
信秀お気に入りの山口ルートを使って城を返却するから和睦してってすがってんじゃん。
最初から朝廷ルートで和睦を受け入れてたらメンツを気にすることなかったのにw
だいたい丹羽氏勝と丹羽氏秀の争いは天白川の水利権を巡る同族内争いであり
そもそも今川はまったく関係ない。関係ないんだよアホがw
お前は丹羽隼人佐なる謎人物が義元から書状をもらったことを
無理やりこの争いの関係者に位置づけるトリックを用いて今川が関わってるように捏造してるだけ。
丹羽宗家の岩崎城側が藤島側へ圧力をかけたので、藤島側が双方の上位権力の信長に仲介を求めたから
トラブッた話だろうが。それで言うことを聞かない岩崎を信長が攻めた挙句に大敗し
このことで藤島方は今川方へ逃亡するしかなくなった(名古屋/岩崎/天白川/藤島という位置により名古屋へ逃げれない)
その後、天文22年中に岩崎側も今川を頼り、鳴海城主の山口左馬助父子も織田を見限ってる。
17人間七七四年:2013/11/05(火) 13:16:49.60 ID:RvJAltH0
>>俸禄が増える形になってますけど
そりゃあ松井の功績は七か条に及んで書かれて大きく評価されてるじゃん。
氏真の松井への評価はもともと非常に高い。
いままでの武功を箇条書きにして並べた後に
苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋と書いているのは
苅屋在城していた時に2万疋、最近は1万疋というように
苅屋在城していた時、失った後で時期を区分している。
つまり自分の城が織田に攻められた時に駆けつけたが織田軍に封鎖され城を失ったってことだろ。
その後に続く文章で判明するが、城からの収入じゃなくて 今川家の蔵から吐き出してるじゃんよ。
文脈的には城を失ったから代わりに蔵から手当てが出るように変化したとも解釈できる。
苅屋在城以後弐万疋 近年万疋 以蔵入雖出置之
在城時と近年で時代区分を分けている。
これは失われたことを意味していて、それでも(雖も)忠節してきたから
そのままさし置いておくこととし代わりに蔵から支給してるってことだ。
1万疋追加は依今度忠節を評価して蔵より為彼三万疋之改替に替え改めやってんじゃん。
>>飯豊と密書を送って密議を重ねるなど
へっ?その信秀が今川との和睦をぶち壊そうとして駿河や遠江の国人との内応話の密書が
鵜殿へ回覧されたが、鵜殿は内応に同意せず、あくまで和睦するべしと主張し
逆にこれ以上あちこちへ信秀の書状が渡らないよう飯尾豊前守へ渡さず
鵜殿が止めて安心なる人物へ、この密書をまわすことを批判してるやつのことか?
信秀の申し出を読んだら朝比奈や庵原をはじめとした駿河・遠江の国人が同意し喜んで戦い始めることを予測し
安心も同意するなよと説得してる書状写こそ年がまったく確定できない書状じゃん。
だいたいその義元8万騎はお前の捏造歪曲だろw
定光寺年代記に実際に書いているのは5万騎。そしてこれはどの学者もありえないとしていて
百歩譲っても、当時流れていた風聞をそのまま書いただけだろうとしている。
さらにこれが信長公記を記述する際に桶狭間の戦いの元ネタに盗用されたといわれてる。
新修名古屋市史も 定光寺年代記の「尾州錯乱、八月義元に関して、
義元が知多郡に侵攻した事実は見出せないと否定してたよ。
定光寺年代記には、 天文19年に尾州錯乱したので、
8月に義元5万騎にて知多へ出陣し12月帰陣と言う誤伝があり、
これが信長公記の桶狭間の戦いの元ネタだったりする。
この風聞を天文21年に移動させて創り出された架空話が桶狭間の戦い。
信秀死去との間で調整するために桶狭間の戦いは作り出された。
>>信秀家臣ではなく僧侶中心の行事。
信長公記には信長側近の後に家老の衆も出席したと書いてるじゃないか。曲解もいい加減にしろ。
>>地盤がなければ戦いにも出れん。柴田がその辺の足軽と一緒に1人で供回りもつけず戦うのか?
遺産相続で末森城をもらったんだから柴田だって兵力を率いることができるようになるだろ。
林は平手の自害を見てあきれ果てて信長から離反したんだし、
佐久間大学は正当な主君が信長だと知ってるから信勝の謀反に組しなかったんだろ。
>>でまともに勘十郎本人が協力したなんて記録
信勝の末森城の兵力を柴田が率いて信長の戦闘を支援してんじゃねぇかよ。 屁理屈をたれんな。
>>柴田や佐久間次右衛門もちゃんと城や地盤を持ってるんだけどな
そんな一次史料ないし。勝手に妄想を広げるな。
18人間七七四年:2013/11/05(火) 13:17:32.72 ID:RvJAltH0
>>東の加藤家に対して信長と対抗するために
だから本家の熱田八カ村の管理もしてる西加藤家へは信長、
分家の東加藤は信勝によって分掌されていただけのことだ。
東加藤なんてなんも力がないじゃないか。
さらに天正20年9/20熱田神宮座主に対して備後守並びに三郎の先判の旨に任せ?
と信勝が出してる書状あるように、まだ信秀が生きているし、
信秀の名乗りであった三郎を継いだ信長より下位にいるのは明白で序列がはっきりしてる。
弾正忠を名乗るくらいなら備後守を名乗るだろwそもそも信長は存在しない架空の上総守などと完全にウリジナルを名乗ってるし。
>>天文22年の勘十郎判物
信秀任先判之旨免許舟之事
信秀生前は備後守と書いていた信勝だったが、亡くなったので官名で書かず信秀と書いているだけのこと。
明らかに信秀がすでに死んでいることの証明じゃないか。なんでこれをもって天文21年死没を否定できるのか意味不明
生前から信秀が信勝を優遇してるとしたらかなり無礼な書き方だよな。 やはり信秀は信勝を優遇なんてしてないわな。
>>勘十郎が守護代家と結びついたのは
はいはい妄想乙w達の字に改名したことからの連想ゲームですねw
じゃあ信長に左遷され竜泉寺城主織田武蔵守信成に成り果てた信勝の「成」は誰からもらったのw
弾正忠も軽く捨てて武蔵守を名乗ってますけど、弾正忠にどれほどの価値があったんすかねぇw
なんかその後もテキトーな妄想を書いてるようだけど、結局、信秀が信勝を信長の対抗馬にしようとは
思ってないし、信勝も信長配下として働いている。その良好な関係が崩壊したのが道三の強制隠居劇と義龍の政策にリンクしてるだけ。
誰に利用されてるとか利用してるとかどうでもいいよ。信秀がそう仕組んでいたのではなく、信長が大うつけで尾張の結束を崩壊させ
道三の後見が失われた時に、ついに信長の味方だった信勝もついに信長を見捨てざるを得なくなったことが理解してもらえたら。
>>斎藤義龍は数年前に親の道三を排した直後であり、尾張の情勢に構っている暇はない
弘治3年4/19には当時は高政と名乗っていた義龍が尾張武蔵守宛てに書状を出してるのが残ってるのも知らんようだな。
様子を伺いたい。こちらから派遣した使者に伝えたいことはすべて申し伝えているので、直接聞いてください。
これからも重ねて連絡するので書面には詳しく書くのを避けます。
あきらかに怪しい文面だよな?義龍は尾張情勢に干渉してんだよ。当たり前だよな、失脚させた父が後見していた信長を放置できるわけがない。
委曲申含進之候なんて思いきっり怪しいだろ。
じゃあこの書状の評論した横山住雄氏のコメントも紹介しておこう
「文面に詳しいことはまったく書かれておらず、密書的色彩の濃い書状になっている」
一般常識ある人間ならそう解釈するわなw曲解するアホには単なる挨拶に見えるんだなw
でさ、織田が大垣城を失ったとする一次史料はまだなの?まさかまた妄想を重ねてるの?
道三の大垣城攻撃から信秀が守りきった→信長と濃姫の婚姻→道三の信長後見
この流れでいつ大垣城が道三に襲われて奪い取られるんだよ。妄想もいい加減にしとけ。
信秀は天文18年春あたりから体調を崩してから(美濃国諸旧記)
信長への権力移譲を少しずつ開始していて後見役として、自分が死んだ後も信長が安心して統治ができるよう
親心として内外の問題を解決する方針に変更していた。
美濃では婚姻同盟を結び、北条とも通信し、
美濃と尾張の協調を背景に三河戦線では今川に同盟したいなら刈谷城を水野に返すように迫り
朝廷が和睦するように申し出ても拒否していた今川だったが、信秀の恫喝の前には城を差し出す
これで岡崎が動揺して東条松平家の甚二郎が織田方になっちまって、あわてた岡崎城代たちは甚二郎の弟を引き上げて兄跡職を給与してる。
美濃では大垣を確保し稲葉山城を牽制する状況で道三を折れさせて濃姫を人質に同盟
三河では水野氏を以って三河西部に足がかりを残し、信長は万全の体制のまま引き継いでる。
(今川は北条が駿河や遠江の国人と内通していたりと地盤が弱い)
19人間七七四年:2013/11/05(火) 13:18:48.23 ID:RvJAltH0
そりゃ信長がチートスタートなのははっきりしてるだろ。
そもそも信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
後世に作りだされた写し以外の原本確認できる一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。

そもそも米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。

信長は尾張や三河の水野分や身のの大垣城分もあるので初期段階で75万石
しかしアホ無能だった信長を支えてきた後見役の平手や林が呆れ果ててしまうほどで
せっかく信秀が信長に残したものがどんどん失われていく。
特に後見役道三が信長保護に全力を尽くしたために義龍に打倒されるや
尾張は崩壊を見せ、義龍は信長の弟へ取次役を通さず直接書状を出すなど
離反策を推し進め、義龍が当主だった実質4年の間に信長は義龍によって
尾張の半分を奪われてしまう。しかし義龍が急死し無能幼君の竜興が斉藤を継いだために信長は滅亡せずに済んだ。
織田厨の無知さは義龍によって尾張半国が奪われたことを
知らずに信秀が失っていたと思い込んでいて
しかも指摘されても認めず、信秀は無能ニダ!信長天才ニダとキモイ発言を繰り返していること。
だいたい信長伝説(笑)が一人歩きしててどうしようもない。
たとえば岐阜の命名にまで天下統一の野心が伺えるとか
平気で書いちゃうのがエセ歴史家だからね。
そもそも快川やその師の仁岫らが岐阜を仏教の力で守護するという意味で
護阜という名称をずっと使ってたのも知らんで
信長が名称を改めたって主張する信長公記のデタラメを妄信してんだから。
はっきり言ってこれ美濃で力があった臨済宗への信長の媚び諂いでしょ。
20人間七七四年:2013/11/05(火) 14:27:37.88 ID:GJ08fjWq
都合が悪くなるとまた妄想コピペかね?菅沼君
21人間七七四年:2013/11/05(火) 15:46:43.59 ID:AR1XDVvP
妄想コピペはお前らも十分にしてるから落ち着けよ織田厨。
菅沼は盲目な武田信玄信者だが、お前ら織田厨も菅沼と同類レベルの織田信長信者なんだよ。
いい加減に気づけ。
22人間七七四年:2013/11/05(火) 16:37:44.18 ID:GJ08fjWq
菅沼君自演乙
23人間七七四年:2013/11/05(火) 16:58:02.18 ID:RljjV1ZL
>>22
見事に自爆していてワロタwwwwwwww
24人間七七四年:2013/11/05(火) 17:00:46.16 ID:RvJAltH0
清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統は天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に消え去るので間もなく死去と思われる。
清洲城主尾張下郡守護代織田大和守信友は架空人物。
岩倉城主尾張上郡守護代織田伊勢守信安や子の信賢も江戸期の軍記の架空人物。
織田信清も軍記の架空人物。ただ犬山城は金山城などと共に斎藤氏が信長から奪って支配していた可能性が高い。
織田信光は名古屋城で信長に暗殺されたっぽい。
斎藤氏が短命で滅亡したが行政文書は義龍時代に集中して遺っている。
下々の意見をすくい取り自ら政を重臣に諮る英邁な主君であるのは間違いない。 信長とはえらい違いだ。
この改革の中で別伝の乱という宗教対立が起きる。道三は日蓮宗だったが、最後まで厚遇姿勢のままで、
土岐成頼や政房や斎藤妙椿や妙純などの妙心寺派を統制できなかった。
この宗教権威への介入のため義龍は妙心寺四派のうちの霊雲派の別伝を保護し伝燈寺を開創した。
禅宗寺院の寺統権を新設された寺燈寺に任命するやいなや
土岐や斎藤に創建され尊崇を受けて来た東海派の瑞龍寺が反発。
これに同調し聖沢派や龍泉派も怒る。
そして彼らは崇福寺の快川紹喜の主導で永禄四年1/5尾張犬山の瑞泉寺に出国して会議を行い対抗。
義龍は通達は別伝が勝手にやったこととして撤回したが、 別伝の僧籍削除には断固反対し
義龍は別伝に勅願寺と紫衣着用を奏請し、さらに4/30には将軍義輝にもこれに福書してもらうことで対抗。
しかし対立中に義龍が5/11急死してうやむやになり出国していた諸老も帰国し別伝が逐電。快川は甲斐に行った。
義龍の急死で斎藤氏の宗教統制の挫折となったのは痛かった。
しかし信長がただの不良からヤクザの親分になっただけに比べて義龍は名君であるのは間違いない。

内政すらロクにやってないアホ長と違って義龍は優秀だな。
幼君の龍興が稲葉山を乗っ取られたりと美濃国衆が斉藤を見限り始めたりと信長はホントに運がいいな。
考えてみたら長尾家も家格を引き上げたり、 将軍から朝倉孝景に続いて白傘袋や毛氈鞍覆を
下賜してもらうことで守護の同格の権利を認めてもらい 天皇から治罰綸旨を頂いていながら
為景は家格の高い上条に組みする国人と対抗した挙句に結局、守護上杉方に敗北してるし、
景虎時代にも同じことをして上杉行政府たる公銭方の爆弾を抱え関東管領の養子になってまで家格を引き上げたもんな。
越後が完全統一できたのは天正3年に新発田・竹俣ら国衆が謙信政権に参加した時とされてる。
(白傘袋や毛氈鞍覆をもらって守護権力と互角にしようと努力した守護代家は朝倉の他には赤松の守護代の浦上や大内の守護代の陶・杉・内藤)
信秀の時代にはすでに斯波守護権力は完全に解体されてるし 家格も財力を背景に朝廷工作して三河守まで貰って今川を牽制してるし
(のち三河守を家康に取られて自分が格下になったことを知り慌てた信長・・・)
すべてを解決して信長に引き継ぐ時には 道三の後ろ盾、義元とは家康を返却した時に和睦してるし
その後には内裏修繕費用を献上してもらいたい天皇の仲介により、今川方が信秀の要求に従い水野へ城を譲渡する形で信秀と和睦同盟してる。
信長公記でも信秀が晩年疫癘に御悩みなされ、ご祈祷や治療をさまざま試したが御平癒なくついに亡くなったと書いてるから
死ぬ前の闘病生活の期間を通じて信秀は嫡男のために心配がまったくない状態にして死んでる。
25人間七七四年:2013/11/05(火) 17:02:23.08 ID:RvJAltH0
信長の場合は斯波氏が永禄7年(1564年)に事実上の廃止事件が起きてるからね。
義輝によって武衛斯波義廉邸を没収され、将軍の居邸が造営されてしまった。
これで尾張支配は信長で一本化している。
おかげで信長の上洛の時も畠山高政・昭高親子と細川昭元の三管領家は論功行賞にいたが、斯波氏は消えていた。
それどころか天皇の勅旨で彼らのさらに上の副将軍に信長がいる状態になった。
信長は天皇の鶴の一声で絶対に越えられない家格の壁を打ち壊し、織田家を副将軍になれる家格に引き上げてくださった。
これだけのチートを信長は与えられたのも、父の信秀が生前に非常に勤皇だったことを評価されていたから。
父の七光りで、信長は超チート力をもらっていて、これだけのすさまじい付加能力を付けてくれれば
誰でも苦労なく覇権を確立できるわな。 斯波氏は三管領筆頭だからな。
事実上、織田が斯波氏を上回る家格になったことで、 畿内国人たちが信長の命に従うことを天皇が命じたも同然。
この時点で、義尋を傀儡に信長が死に体のまま幕府運営することも可能になっていた。

道三の美濃統治は不安定なもので、
木曽川長良川の大洪水と六角や朝倉や織田の攻撃による相次ぐ戦乱により、
美濃で大量の餓死者でた天文21年6月に六角が頼芸支援で攻め込んだ。
この戦いののち道三は頼芸を追放するが
越後で長尾氏が上杉の支配機構を解体出来なかったように、
斎藤氏も土岐氏の支配機構は解体できず
かと言って道三には民政の新しい施策も全くなく結局、
重臣達により国主たる資格なしとして、
天文23年3月に道三も隠退に追い込まれる。
そして最後は甲斐を追放された信虎と同じく
追放か抗戦かの選択で道三は抵抗を選び討ち死にした。
ちなみに1554年に道三が隠退した翌年に
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、
捏造信長公記は父殺しイメージを押し付けてるが
この使用し始めた段階ではあくまで道三は隠退しただけで死んでないし
父を殺した范可なんて人物も史記などにも存在しない捏造。

道三独裁から重臣たちによる擁立となった義龍政権は行政を刷新し
1558年を中心に義龍は施策を次々に打ち出し
最高意志決定機関の宿老制が完成し、
用水相論の裁許を重臣連署で解決(用水相論解決は一揆的結合の浅井などでも見られる)
立政寺の門前の池で鵜を飼い網を引くのを禁止した制札も連署。
これは土岐氏の官僚機構を
国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していく動きであった。
永禄三年には印判状という文書形式を導入。
知行あてがいも貫高制が導入され
重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系が構築されていく。
さらに上洛し将軍相判衆になり美濃国主に正式に認められ、
伊勢や近衛との縁組など家格を上げる努力をしているあたりは
越後統治の正当性を求めて対立する国人を取り込みたい長尾家と同じ動きである。
信長にはできない状態の中で義龍の矢継ぎ早の改革は評価されるべきだろう。
さらに道三への援軍でやってきた信長を危険視し、
弘治三年4/19付け高政書状(義龍)などで
末盛城主織田武蔵守信成に(信勝。通称だと弟の信行)
書状を出すなど尾張での反信長蜂起を策動し改革の邪魔をさせないよう信長を牽制。
26人間七七四年:2013/11/05(火) 17:03:13.40 ID:RvJAltH0
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し道三という信長保護後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
当時の斎藤は浅井と戦っていて、六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、尾張を戦わずして勝つの深慮遠謀の策を以って内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。
27人間七七四年:2013/11/05(火) 17:04:00.36 ID:RvJAltH0
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
28人間七七四年:2013/11/05(火) 17:05:25.79 ID:RvJAltH0
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。
29人間七七四年:2013/11/05(火) 17:09:00.86 ID:6Sqva6p3
>>21
妄想コピペと自作自演はアスペルガーだがの得意技
30人間七七四年:2013/11/05(火) 17:18:00.61 ID:xbJs9dYb
具体的にどこがおかしいのか指摘できない時点で負けを認めたようなもんだなw
31人間七七四年:2013/11/05(火) 17:23:00.46 ID:MmnDnzCv
>>30
禿同
だがの負けで決定
32人間七七四年:2013/11/05(火) 17:34:26.15 ID:RljjV1ZL
菅沼のことは検索して理解したけど、「だが」って誰?
33人間七七四年:2013/11/05(火) 17:50:51.18 ID:F3D+QMqw
>>32
菅沼遼太=アスペルガーだが=嘘吐き
34人間七七四年:2013/11/05(火) 18:07:48.65 ID:GJ08fjWq
菅沼君の言うことが事実なら信長はハンニバルを超える戦の天才ということになるからね
信玄が死んだくらいでなぜ状況が一変したのか全く説明出来ていない以上は
35人間七七四年:2013/11/05(火) 18:41:56.54 ID:RvJAltH0
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
つまり公記の記す信長の尾張での内戦話がほぼデタラメなのがわかるのである。
36人間七七四年:2013/11/05(火) 18:43:26.75 ID:RvJAltH0
信秀は1541年伊勢神宮遷宮の際の材木や銭七百貫文を献上だけでなく朝廷に献金でも日本一。
朝廷に献金した金額ランキングが載っています。
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
今川とも竹千代交換して和議が成り、信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」

斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
37人間七七四年:2013/11/05(火) 18:44:12.57 ID:RvJAltH0
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。

天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
伊勢湾貿易の富を独占し商業収入を含む日本一豊かな尾張一国
三河の水野氏の隷属
美濃大垣城
娘婿になったことによる強力な道三の後見
竹千代譲渡による今川との和睦
竹千代を戸田康光が奪ってきて織田家に引渡した際に
即金で千貫文を払ってるくらいバブルなのが信秀。
こんなに親父が信長のために遺してくれたのだから日本一恵まれてるのが信長。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除圧力に追い込まれた無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
今川も別に尾張方面へ調略してた一次史料もなく、どう考えても愚主信長を見限り
今川方に鞍替えしただけの話で、それに対して信長がパブロフ犬のように条件反射で
包囲して砦を構築したから、義元も後詰めをしなければ面目を失うから出てきただけで
今川軍を呼び込んだのも信長本人の悪政が原因であり、それまでは今川と織田の和睦は継続していた。
38人間七七四年:2013/11/05(火) 18:45:13.29 ID:RvJAltH0
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田弾正忠家が高収入源の商業都市津島や熱田を支配しまさに隆盛拡大発展期に入り、
織田弾正忠家の力のみで周辺諸国の国持ち大名とガチで戦闘が行えるまでに成長する。
さらに円滑に家督を継いでいた信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、
この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。
また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解中。
三好配下内で闘争していた池田勝正などもあっけなく信長に降伏し労せずして摂津支配も確定させ
将軍権威を背景に若狭武田なども帰属させ大商業都市の堺・大津・草津をも支配下に組み込む。

一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
天候不順と河川氾濫ばかりの甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html

ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していて東アジア最高の土地になってしまいとてつもないものだったろう。

父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
39人間七七四年:2013/11/05(火) 18:46:35.43 ID:RvJAltH0
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
伊勢湾貿易の富を独占し商業収入を含む日本一豊かな尾張一国
三河の水野氏の隷属
美濃大垣城
娘婿になったことによる強力な道三の後見
竹千代譲渡による今川との和睦
竹千代を戸田康光が奪ってきて織田家に引渡した際に
即金で千貫文を払ってるくらいバブルなのが信秀。
こんなに親父が信長のために遺してくれたのだから日本一恵まれてるのが信長。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除圧力に追い込まれた無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
今川も別に尾張方面へ調略してた一次史料もなく、どう考えても愚主信長を見限り
今川方に鞍替えしただけの話で、それに対して信長がパブロフ犬のように条件反射で
包囲して砦を構築したから、義元も後詰めをしなければ面目を失うから出てきただけで
今川軍を呼び込んだのも信長本人の悪政が原因であり、それまでは今川と織田の和睦は継続していた。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田弾正忠家が高収入源の商業都市津島や熱田を支配しまさに隆盛拡大発展期に入り、
織田弾正忠家の力のみで周辺諸国の国持ち大名とガチで戦闘が行えるまでに成長する。
さらに円滑に家督を継いでいた信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、
この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。
40人間七七四年:2013/11/05(火) 18:48:36.76 ID:GJ08fjWq
誤魔化しにまた妄想コピペかね?菅沼君
41人間七七四年:2013/11/05(火) 18:51:59.19 ID:xbJs9dYb
そもそも織田軍はチート国力の尾張と大垣城と刈谷の水野氏の帰属と斉藤との同盟、
義龍死後内乱で瓦解し、ろくに抗戦がなかった美濃や元々お膳立てされた上洛と畿内と、一条兼定でもあっさり平定できそうな
ヌルゲーの主人公だったが、その圧倒的不利な状況を作ったのは信長や織田軍の戦下手が原因なので、全く信長が天才の根拠にはならない。
ピンチを切り抜けたのは天皇の和睦斡旋と信玄死去のおかげだし、超幸運に見舞われた棚ボタがあっただけにすぎんし
あれだけの国力を持ちながら信長に1万しか兵が集まらなかったのは対武田の三方が原や志賀の陣で織田軍が主力を壊滅させられたのが理由としか考えられんし
信長の天才っぷりどころか、信長の戦下手を証明する材料にしかならんよ。
ピンチを脱出できたのも朝廷に土下座して和議を仲介したのと、信玄の死に救われただけで、ますます信長の能力とはかけ離れた棚ボタのおかげだし。
つかその局面で信長の才能が発揮されたというのならどのように発揮しどう乗り切ったかを史料付きで詳しく頼むわ
42人間七七四年:2013/11/05(火) 20:06:18.09 ID:aVVOPshV
だから豪運ってだけで実力がある証拠なんだけど?
頭大丈夫か?
43人間七七四年:2013/11/05(火) 20:19:57.57 ID:/P/u4SAx
運も実力の内なんだよなぁ…
でもあくまで実力の「内」だから。

実力=運 とは思わないでほしい。

運の信長、戦の謙信、外交の信玄 でもう終わりでいいんじゃない?
44人間七七四年:2013/11/05(火) 20:34:29.48 ID:GJ08fjWq
>>41
妄想コピペ貼っていないでちゃんと答えなさいな菅沼君
なぜ信玄が死んだくらいで滅亡寸前の状況から大逆転出来たのかを
信玄なんて形式上は義昭の使いっぱしりに過ぎないんだぜ?
パシりが一人死んだくらいでなんで義昭が降参しているんだね?菅沼君
45人間七七四年:2013/11/05(火) 20:55:20.16 ID:xbJs9dYb
信玄の死と朝廷への土下座で信長に味方する連中増えたってだけの話だろ。
頭大丈夫か?
46人間七七四年:2013/11/05(火) 21:00:37.11 ID:S3W3dfsC
まぁ運とかどうでも良くて結果がよければ実力あるという馬鹿な妄想なら織田家は大衰退し
江戸期には1万石程度のコジキ大名にしかなれなかったんだから
信長はゴミみたいな才能しかなかったといえるわけで。
47人間七七四年:2013/11/05(火) 21:02:30.65 ID:8rFhEQ77
光秀に殺されて家をほとんど滅ぼされかけ嫡流断絶と実質滅亡させられた信長が実力あるわけがないだろ。
48人間七七四年:2013/11/05(火) 21:46:27.85 ID:dE76Tyzb
>>47
信玄に勝算があるならとっくに信長を滅ぼしているよ
しかし信長が怖くて勝負を避け続けた信玄が真実の姿
格下の家康ですらちょっかい出すのが精一杯で滅ぼすことができませんでした

ID:8rFhEQ77が無知なのはわかったよ
悔しかったら反論してみ?
49人間七七四年:2013/11/05(火) 21:46:56.94 ID:aVVOPshV
>>43
外交の信玄だけはないわ
あいつ周囲敵だらけだったから外交は下手くそだぞ
50人間七七四年:2013/11/05(火) 22:19:06.27 ID:7uOlitq8
武田好きな人にとって、だがはどういう存在なんだろう
51人間七七四年:2013/11/05(火) 22:19:51.27 ID:xbJs9dYb
>>48
信玄に勝算があったからこそ、信長を滅ぼしかけたんだろ。
織田の方が遥かに国力経済力が上にもかかわらず志賀の陣や三方が原で織田の主力を瞬殺し
家臣を殺されまくったあげく、信長には1万程度しか兵が集まらず
信長は細川に宛てて兵糧も玉薬も兵も不足していて、もはや誰が味方で誰が敵かわからないなどと
泣き言をわめく所まで追い込まれているのが史実。
52人間七七四年:2013/11/05(火) 22:27:28.05 ID:StApAhs9
>>48
えっ?美濃で斉藤相手に泥沼の連敗街道まっしぐらの信長が、
養女を提出するから武田と同盟してくださいと頼み込むから同盟してやったのにw
同盟せずに信長を攻めたら余裕で織田滅亡でしたが何か?
53人間七七四年:2013/11/05(火) 22:31:18.24 ID:dE76Tyzb
>>51
横から口を出すな馬鹿タレ
ID:8rFhEQ77の反論だけを受け付ける
お前のようなカスに興味は無い
54人間七七四年:2013/11/05(火) 22:31:40.26 ID:QLeEEs2u
>>44
信玄の西上作戦がうまくいっているのを確認してから、
やっとはっきりと挙兵した義昭なんだから、
信玄死んだらさっさと義昭が降伏するのは当たり前だろが。
55人間七七四年:2013/11/05(火) 22:31:42.47 ID:HYN0q5xe
>>45
武田が撤退した後信長に味方した連中の一次資料を出してくれ。
56人間七七四年:2013/11/06(水) 00:16:47.20 ID:svqXKaPc
>>45
答えになっていない
パシりが一人死んだくらいで何でそうなったんだね?菅沼君
57人間七七四年:2013/11/06(水) 00:19:39.94 ID:svqXKaPc
>>54
信玄が死んだあとも挙兵しているね?菅沼君
58人間七七四年:2013/11/06(水) 00:23:19.67 ID:svqXKaPc
>>51
そんな状況なのに一気に逆転した信長は天才だね菅沼君
あと織田家は大名として残ったが武田は旧家臣らから完全無視され大名復帰は二度となかったのが史実ですよ?菅沼君
浅間山大噴火と同じで相変わらず嘘ばかりだね菅沼君
59人間七七四年:2013/11/06(水) 00:43:05.19 ID:UGN1stdZ
菅沼先生、コピペだけじゃなくて具体的に反論してくださいよぉ
60人間七七四年:2013/11/06(水) 07:54:00.32 ID:OS0gUP98
>>51
>信玄に勝算があったからこそ、信長を滅ぼしかけたんだろ。
え?
まだ勢力内にも入っていないのに滅ぼしかけたって・・・。
妄想にしても酷過ぎないか?
もっとさ、第三者的に見ようよ。
61人間七七四年:2013/11/06(水) 08:25:41.57 ID:LyXQB/uU
>>57
それは鞆幕府を樹立し、毛利や石山本願寺や勝頼の全面支援を受けられる確信があったから再挙兵したんだろ。
62人間七七四年:2013/11/06(水) 08:33:25.69 ID:svqXKaPc
>>61
だからそれはパシリ一人が死んでも状況は変わっていないと義昭が判断したからじゃないのかね?菅沼君
そしてその最悪な状況を戦術的勝利であっという間にひっくり返した信長は戦の天才ということだ
ハンニバルでさえ出来なかったことを信長はいとも簡単にやってのけた
こんな天才相手に凡人に過ぎない信玄が勝てるわけなかろう
そう思わないかね?菅沼君
63人間七七四年:2013/11/06(水) 10:05:36.20 ID:/xrMjd0R
最強信玄、最弱信長を滅ぼしかけたと願望妄想してたのは納得。
現実から目を反らした愚か者はアスペルガーだがのようになるということ。
64人間七七四年:2013/11/06(水) 11:00:10.07 ID:Ac21woaP
65人間七七四年:2013/11/06(水) 12:54:38.43 ID:+6wCvUub
織田厨ってなんでそんなに相手を貶めるの?
意見を出して、だから信長はすごい。 なら分かるけど、そこに凡人信玄とか無能とか悪口を付け加えるとか…
菅沼と同レベルのキチガイ。
もはや織田厨にとって、根拠の無い嘘だらけの信玄崇拝=菅沼 では無くて、
自分に都合の悪い意見=菅沼 になってるよね?
>>53 とか義務教育をちゃんと受けたかどうかもわからないレベルのマナーの悪さだぞ?
66人間七七四年:2013/11/06(水) 13:38:46.80 ID:svqXKaPc
>>65
バレバレの自演は楽しいかね?菅沼君
67人間七七四年:2013/11/06(水) 14:08:58.56 ID:3pQ3nf0D
そもそも武田厨なんていないだろ。
織田チョンが一次史料皆無で、
悪口中傷、デタラメ妄言、捏造歪曲、嘘史料、盲目マンセーを繰り返してきたから、
それはデタラメ間違っていると武田だけに限らず、
適宜、間違いを正すために反論をしてるだけだからね。
勝手に武田を敵視して織田チョンが罵詈雑言を繰り返してるだけ。
武田に対して異常なまでにジェラシーを感じて逆切れしてる厨房が織田チョン。
68人間七七四年:2013/11/06(水) 14:27:20.87 ID:svqXKaPc
この板から武田ファンがいなくなりアンチ武田ばかりになった原因が自分にあるとわからないのかね?菅沼君
というかアンチ武田ではなく正確にはアンチだが(=菅沼)なんだけどね
自演とコピペ爆撃を繰り返し嘘ばかりついて荒らしていたのだからみんなから嫌われるのは当然
69人間七七四年:2013/11/06(水) 16:08:08.07 ID:Bl2VMK4u
>>68
アンチ菅沼ならなんで「信玄」じゃなくて「凡人信玄」とか書き込んでるの?
なにが「アンチ武田ではない」だよ。
お前はただの織田信長の狂信者だろ。
菅沼と同類だよお前は。

ちょっと武田信玄を擁護しただけで菅沼認定されるからこっちとしても困る。
70人間七七四年:2013/11/06(水) 16:38:06.47 ID:IE5wfKRE
自分に都合が悪いレスをするやつは
誰彼構わず、レッテル貼って回って
単発ID自演で排除しまくるのが織田厨。
結果、戦国板住民がほとんどいなくなった。
71人間七七四年:2013/11/06(水) 16:56:25.61 ID:svqXKaPc
>>69
皮肉も理解出来ないのかな?菅沼君は
ならわかりやすく説明しようか

菅沼君の言うような滅亡寸前の状況から信長が戦術的勝利によって大逆転したのならこれは天才というしかない
というかハンニバルやナポレオンをはるかに越えた神レベル
そんな神信長と比べたら信玄は凡人に過ぎない

アスペルガーの菅沼君にもこれで理解出来たかな?
つーか自演バレバレなんだからもうやめたらどうかね?
72人間七七四年:2013/11/06(水) 16:57:56.79 ID:Ac21woaP
つか、意見とか反論に対して史料を提示したり論を主張ではなくレッテル張りで返してる時点で議論じゃ勝てないと認めたようなもんだからな
73人間七七四年:2013/11/06(水) 16:59:07.04 ID:o05p/3DW
そもそも織田軍はチート国力の尾張と大垣城と刈谷の水野氏の帰属と斉藤との同盟、
義龍死後内乱で瓦解し、ろくに抗戦がなかった美濃や元々お膳立てされた上洛と畿内と、一条兼定でもあっさり平定できそうな
ヌルゲーの主人公だったが、その圧倒的不利な状況を作ったのは信長や織田軍の戦下手が原因なので、全く信長が天才の根拠にはならない。
ピンチを切り抜けたのは天皇の和睦斡旋と信玄死去のおかげだし、超幸運に見舞われた棚ボタがあっただけにすぎんし
あれだけの国力を持ちながら信長に1万しか兵が集まらなかったのは対武田の三方が原や志賀の陣で織田軍が主力を壊滅させられたのが理由としか考えられんし
信長の天才っぷりどころか、信長の戦下手を証明する材料にしかならんよ。
ピンチを脱出できたのも朝廷に土下座して和議を仲介したのと、信玄の死に救われただけで、ますます信長の能力とはかけ離れた棚ボタのおかげだし。
つかその局面で信長の才能が発揮されたというのならどのように発揮しどう乗り切ったかを史料付きで詳しく頼むわ
74人間七七四年:2013/11/06(水) 17:00:07.40 ID:KV8haBfz
>>滅亡寸前の状況から信長が戦術的勝利によって大逆転

はっ?何それ?
そんな合戦ねーよアホ
75人間七七四年:2013/11/06(水) 17:03:22.40 ID:EXeDU833
チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだのが信長

最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り北条の大軍大破して150万石まで領土広げた信玄

どうみても信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長でしょ。
信長が甲斐に生まれてたらきつい城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮の信濃の城をほとんどおとせず終わっただろうし
山之内上杉か諏訪あたりに蹴散らされて終りでしょ。史実で弱体化したクーデター騒ぎの幼君斉藤に負けまくり
長島侵攻戦でも何回も大敗し、餓死寸前の一揆勢数百を数万で騙まし討ちにしたら一門10人以上殺される雑魚だし
信濃の拠点落とせるわけがない。
76人間七七四年:2013/11/06(水) 17:08:27.18 ID:0CscJpz/
妄想主張とレッテル貼りのアスペルガーだがが勝てない理由がわかりました
77人間七七四年:2013/11/06(水) 17:25:08.53 ID:svqXKaPc
結局>>68の行動を取る菅沼君であった
君がそんなことばかりしているからアンチ武田が増えるってが理解出来ないのかねえ
78人間七七四年:2013/11/06(水) 17:27:03.51 ID:VTN4Opj0
>>71
神信長wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

やっぱ駄目だお前。
菅沼君は今、信長に入れ込んでるのか。

狂信者に話は通じない。このスレから出てけよ。

自分批判はすべて菅沼 ←こんな奴が批判されないとか、このスレ織田厨しかいねえな。
79人間七七四年:2013/11/06(水) 17:28:41.76 ID:njXW2fXy
武田厨にとっては、だがさんは英雄なんだろうな
80人間七七四年:2013/11/06(水) 17:33:29.57 ID:wzGaJm/N
>>79
ふざけるな
あれはキングボンビーのような疫病神
81人間七七四年:2013/11/06(水) 17:34:35.62 ID:4gBSYhxL
>>77
は?自分の発言に何突っ込んでんの?

>>79
英雄なわけねーだろ。
アレのせいでキチガイ織田厨が歓喜し、純粋な武田好きは被害を受けた。
82人間七七四年:2013/11/06(水) 17:37:20.64 ID:wzGaJm/N
アスペルガーだがが織田厨だったらどんなによかったことか
83人間七七四年:2013/11/06(水) 17:38:17.10 ID:wzGaJm/N
アスペルガーだがが織田厨だったらどんなによかったことか
84人間七七四年:2013/11/06(水) 17:40:22.64 ID:ilaKRoEM
>>82
そうやって煽るのは織田厨と同じ。

そもそもアスペルガーだがが存在しなきゃよかった。
85人間七七四年:2013/11/06(水) 17:44:15.55 ID:wzGaJm/N
>>81
それは違う
レスしてもアスペルガーだがと同一人物と思われるのが屈辱だから武田のことが書けなくなった
諸悪の根源はアスペルガーだが一人だけ
86人間七七四年:2013/11/06(水) 17:48:55.55 ID:wzGaJm/N
>>84
すまん
織田厨の人たちが悪いわけじゃないよな
アスペルガーだがが上杉毛利北条島津伊達徳川豊臣厨房そして中立も全て織田厨扱いだったからな
87人間七七四年:2013/11/06(水) 17:53:13.15 ID:wzGaJm/N
まあアスペルガーだが一人だけがクズということが伝わればそれでいい
武田厨と織田厨はいい人
88人間七七四年:2013/11/06(水) 18:15:34.91 ID:svqXKaPc
>>78
菅沼理論通りだと神信長になるという皮肉だよ
それくらいわからんかねえ
君が仮に菅沼君と別人だとしても皮肉もわからない時点で同じアスペルガーと思われても仕方ないぞ?
89人間七七四年:2013/11/06(水) 18:51:19.97 ID:3ag61CNl
>>88
皮肉()
俺には狂信者のお前が感情的になって「神信長」と書いたのを今になって必死に否定してるだけにしか見えない。

あと、俺は>>78と同一人物。
回線だかプロパイダだかの関係で書き込むたびIDが変わるのはすまないと思っている。
90人間七七四年:2013/11/06(水) 19:08:17.48 ID:xknogDWh
>>89
コテハンになればいい

三好斎藤スレに自演荒らしが一匹いて最悪だった
あんな馬鹿な展開を避けるためにもお願いします
91ID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 :2013/11/06(水) 19:19:56.52 ID:bNHVchTX
>>90
付けた。


まぁ結局は菅沼を相手にしなければ解決することだな。
菅沼議論はさっさと終わらせよう。
92人間七七四年:2013/11/06(水) 19:36:15.13 ID:xknogDWh
>>91


菅沼遼太=アスペルガーだがを相手にしないのはいいが
そうすると駄々捏ねて長文コピペ連投爆撃が始まるからそれも面倒だな
93人間七七四年:2013/11/06(水) 19:40:33.75 ID:rHBUD+T2
>>92
とりあえず放置でいいんじゃね?
すでに7氏も言っているが結論なんか出ないし
94人間七七四年:2013/11/06(水) 19:41:56.49 ID:ezSLZwQm
司法の闇 「特定秘密保護法違反」で市民が逮捕される日

http://www.shinmai.co.jp/news/20131104/KT131102ETI090015000.php

特定秘密保護法は非常に危険
95人間七七四年:2013/11/06(水) 20:18:26.84 ID:KE6TB1rA
都合が悪いので、テンプレをコピペと涙目で言い換える織田厨の虚勢っぷり…
96人間七七四年:2013/11/06(水) 22:36:11.60 ID:svqXKaPc
>>89
んー・・・・アスペルガーと言われたのがそんなに応えたのかな?
勝手に私が必死だとか妄想しているし
私のレスをよく読めば本気じゃなくて皮肉だってすぐにわかりそうなものだけどねえ
それとも菅沼君の「信長は滅亡寸前だった」というのを擁護するために下手な挑発しているの?

つーか君のレスからは菅沼君と同じ臭いがプンプンするんだけど?
彼の得意技は自演だからねえ
まあこれは私の勝手な妄想だけどね
97人間七七四年:2013/11/06(水) 22:53:38.74 ID:LPItbSqv
要するに敬愛する偉大な主君信玄が撤退したので絶望した義昭は畿内から去る
考えたが、ただ京から去るだけでは外聞が悪い。

そこで金銀兵糧全てを使い要害の二条城からボロ城の槙島に移ったと、
ちょうど都合がいいことに1万の乞食兵に恐れおののいた大阪本願寺と毛利が
支援を打ち切ったのも幸いした。

後は三好や松永朝倉や北畠などの包囲網勢力が援軍に来る前に降伏すればいい、
そう考えて挙兵してソッコーで降伏したと。
98ID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 :2013/11/06(水) 23:06:25.37 ID:85cM81VV
>>96
菅沼、菅沼と… 前スレにもお前はいたな。
丁寧語もどきを使って冷静さを装っているのはわかるが、自分のIDを見てみるといい。
冷静な口調に反して真っ赤だ。
世界も、このスレもお前が中心じゃないんだよ。自分批判は全部、菅沼。この考えはもう捨ててほしい。
菅沼は嘘と捏造だらけのキチガイ糞野郎なんだろ?
そんな奴から、正当な回答が返ってくると思ってるのか?俺は思わない。

だからお前ももう、菅沼にかまうな。これで解決するんだよ。
捏造コピペとかいうやつも無視しろ。皮肉で信長や信玄を神扱いしたり、凡人扱いするのはやめろ。
いい加減大人になれ。
99人間七七四年:2013/11/06(水) 23:13:50.61 ID:wrHAtQlO
菅沼認定も狂信者認定も似たようなことしてんだから仲良くしろよ
100人間七七四年:2013/11/06(水) 23:32:41.70 ID:rHBUD+T2
アスペルガーだが(菅沼遼太)一人のために争うのもバカバカしいと思うので双方落ち着け煽り合うな

ID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏の発言を見ると
>>89
>あと、俺は>>78と同一人物。
>回線だかプロパイダだかの関係で書き込むたびIDが変わるのはすまないと思っている。
これを見る限りアスペルガーだがの自演荒らしは
>>70
>>72
>>73
>>74
>>75
この辺りだろ?

ただID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏のこの発言は撤回しろ
こんな煽りを入れたお前が馬鹿だ
反省文を書け
>>78
>菅沼君は今、信長に入れ込んでるのか。

>狂信者に話は通じない。このスレから出てけよ。

>自分批判はすべて菅沼 ←こんな奴が批判されないとか、このスレ織田厨しかいねえな。
これじゃアスペルガーだがと思われても文句は言えまい

ID:svqXKaPc氏もただID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏が反省文を書けば納得できるんじゃないか?
ID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏が反省文を書いたらID:svqXKaPc氏も和解しろ

これで手打ちでどうだ?
101人間七七四年:2013/11/06(水) 23:35:09.86 ID:m+EQYBj8
菅沼という奴が織田中だキョウシンジャだというのも、自分避難するやつ全員菅沼というのも同じなのにな
その辺りが見えていないあたりこいつ菅沼
102人間七七四年:2013/11/06(水) 23:37:00.88 ID:d1ziKsri
レッテル張りとかコテとかどうでもいいんだが
信長が包囲網や武田相手に優勢だったって言ってる輩はちゃんと史料を出せよ
グダグダ関係ない事やって議論から逃げてんじゃねーよ
103人間七七四年:2013/11/06(水) 23:45:37.45 ID:xknogDWh
>>100
それでいいんじゃない
まずは二人の和解が大事だよ
104人間七七四年:2013/11/07(木) 07:10:13.14 ID:sHvaA95n
>>102
ホントそれ。
織田厨は絶対こう言うのに答えない。
105人間七七四年:2013/11/07(木) 07:25:36.06 ID:092BtFmW
>>104
菅沼遼太うざ
106人間七七四年:2013/11/07(木) 07:51:18.58 ID:6hm/Wcn0
だがは1万円級書籍に収録された論文からの抜粋とかを元にレスしてるから、
読むと勉強になり戦国により興味と理解が増すが、
織田擁護のやつはウンコ以下の妄想願望悪口中傷捏造曲解歪曲しか書かないからレスしないで欲しい。
107人間七七四年:2013/11/07(木) 08:01:26.30 ID:1w1BWIt3
>>106
それは良かったじゃないか。
それはそうと、だがの内部事情を随分と知ってる人なんだね。
108人間七七四年:2013/11/07(木) 08:12:09.06 ID:092BtFmW
>>106
菅沼遼太自演荒らしうざ
109人間七七四年:2013/11/07(木) 10:09:38.27 ID:092BtFmW
>>100
例の自演荒らししていた人は反省文を書いてないみたいだけど和解拒否と考えていいのか?
自演荒らしする奴はこのまま逃走すると相場が決まっている

今日中に反省文が書かれることを祈るよ
110人間七七四年:2013/11/07(木) 12:42:16.59 ID:N4QGp80M
自演をしたら菅沼と同格まで堕ちるって気づけない織田厨…
>>109>>100は同じ人が発言してる。
111人間七七四年:2013/11/07(木) 12:44:48.83 ID:gANaUTeB
織田厨は荒らし行為しかしてねーからな。
112人間七七四年:2013/11/07(木) 15:21:31.73 ID:8E9KXHzL
菅沼もある程度は多様な書き込みができるようになったな!
もっとも信長>信玄は揺らがないが
113ID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 :2013/11/07(木) 16:43:39.83 ID:YHiSkS6u
>>100
私を菅沼認定してこないのはとてもありがたい。
>100で挙げた>>70 >>72 >>73 >>74 >>75 も本当に私の書き込みではなくて、その洞察力(観察力?)も本当に素晴らしいと思う。
ただ一つ気になるのが、>100氏が提示した撤回してほしいという私の>>78の書き込みは何がいけないのだろうか?
>>78の発言で私は、ID:svqXKaPc氏を菅沼認定した。それに反省すべきことなのは確かだ。
けれども菅沼認定ならID:svqXKaPc氏の方が散々している。私も菅沼だと言われたしね。
それなのに私が反省文を書けと言われると、かなり抵抗感がある。

もっとも>100氏が私をID:svqXKaPc氏よりも大人と見込んでその提案をしてくれていたのなら、それを裏切るような返答を謝らせてほしい。
114人間七七四年:2013/11/07(木) 17:12:09.23 ID:aVvmjLS/
アスペルガーだがと同一人物と思われてるからだろ?
煽り文句を入れている時点で荒らしと思うがな
俺は100さんの考えに反して今でもおまえがアスペルガーだがと思っている
織田厨という言葉を使って煽るのはアスペルガーだがしかいないしな
115人間七七四年:2013/11/07(木) 17:21:35.63 ID:mmdMLS7r
>>113
86の潔く謝罪している姿が大人の器ってやつなんだとつくづく
116人間七七四年:2013/11/07(木) 18:32:03.90 ID:exoePSlJ
>>102
そんなもんない。あるならとっくに出してる。
117人間七七四年:2013/11/07(木) 18:32:46.35 ID:ug6d+Eks
結局またアホ織田厨が論破されたのか。毎日毎日こりねーな。
118人間七七四年:2013/11/07(木) 19:26:43.62 ID:NzwIXBSr
100です(本当は>>93が最初の書き込みだけどな)

>>113
>その洞察力(観察力?)も本当に素晴らしいと思う。
別に洞察力も観察力も無いよ
ただID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏の言葉を無条件に信じてみただけ
何をするにも相手を信じないと始まらんし疑っていたら限が無い
>>78
>あと、俺は>>78と同一人物。
>回線だかプロパイダだかの関係で書き込むたびIDが変わるのはすまないと思っている。
ここで>>78はID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏のレスと告白しているので単純に信じた
あとコテハンにしたのもプラスに働いた

先に断っておくがID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏とID:svqXKaPc氏の双方に偏った見方はない
えこ贔屓するほど人物を知らんので公平に見ている


>私の>>78の書き込みは何がいけないのだろうか?
理由はいくつかあるが字数制限があるので一番の理由を書く
まず二人が言い争う原因はID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏にあることを自覚しろ

ID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏が>>78でレスアンカーまで付けてID:svqXKaPc氏に先制攻撃している
ID:svqXKaPc氏はこれに応戦したに過ぎない
つまり
加害者はID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏
被害者はID:svqXKaPc氏

敵国が日本にミサイルを撃ち込んできたら迎撃するのは理解できるが
日本がたくさんミサイルを撃ち返したから数が多い方が悪いと言う理屈は通じない
これを理解してないから荒らしプライドから来る抵抗感があるんだろう

ID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏が煽りレスしなければこんな馬鹿な展開にならなかったはず
>自分批判はすべて菅沼 ←こんな奴が批判されないとか、このスレ織田厨しかいねえな。
この一文でアスペルガーだがの自演と確定したようなもんだからそこは理解しろ

以上の理由で反省文を書くのは加害者のID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏にあると結論
反省文があれば被害者のID:svqXKaPc氏もこれ以上争う理由は無いだろうと考えた


>もっとも>100氏が私をID:svqXKaPc氏よりも大人と見込んで
先に書いたようにID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏とID:svqXKaPc氏の双方に偏った見方はない


>それを裏切るような返答を謝らせてほしい。
別に謝る必要はないしこちらの提案に強制力は無い
ただ釈明の機会を第三者の立場で作っただけにしかすぎない
活用するしないはID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏の自由

そもそも何が悪いのか理解してないのに反省文を書いても意味が無い
反省文を書いてもまた同じ過ちを無限に繰り返すだけ

2chでは叩かれる理由は叩かれている本人にある(わかりやすい例がアスペルガーだが)
そこを意識しないといつまでも不毛な戦いが続くだけ
119ID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 :2013/11/07(木) 20:12:00.87 ID:HdRGuVtI
>>118
私自身は少し菅沼について調べてみた。
114氏も言っているが、菅沼は「織田厨」という言葉をよく使ったらしいな。
自分批判はすべて織田厨 ←こんな感じだったとか。 これのせいで私は菅沼だと思われてるということを理解した。
118氏は歴史系の板専門かもしれないからわからないのかもしれないが、○○厨という表現はよく使われるよ。
菅沼だけの話じゃない。

話は変わるけど、
>>7 >>21 >>43 >>65 >>69 >>78 >>81 >>84 >>89 >>91 >>98 >>113 が自分自身の書き込み。
証明のしようがないのはわかるが、ここもまた信じてほしい。
先制攻撃がどちらかは明白。
120人間七七四年:2013/11/07(木) 21:27:56.16 ID:NzwIXBSr
>>119
>これのせいで私は菅沼だと思われてるということを理解した。
理解したなら使わないことを勧める
荒らし認定されるだけ


>118氏は歴史系の板専門かもしれないからわからないのかもしれないが、○○厨という表現はよく使われるよ。
他板は行かないからよくわからん
しかし戦国板で「織田厨」の類を使うのは「俺はアスペルガーだがだからかかって来い」という釣と同義
ローカルルールと言わないが戦国板では暗黙の了解


>>7 >>21 >>43 >>65 >>69 >>78 >>81 >>84 >>89 >>91 >>98 >>113 が自分自身の書き込み。
>証明のしようがないのはわかるが、ここもまた信じてほしい。
>先制攻撃がどちらかは明白。
>>69まではレスアンカーで辿れるの理解はできる
しかし>>69で指摘している>>68にはレスアンカーは無い
事実だけを見れば先制攻撃はID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏になる
68を攻撃しているのは迂闊だったとしか言えない
単発のIDを乱用しているのに信じてほしいは虫がよすぎると思うが?
>>65>>69は同じ日付だから同一IDになったはずだ自業自得としか言えない
しかもageとsageを使い分けている時点で悪意すら感じ取れる

片方の言い分だけを聞くのは公平ではないから仕方がない
向こうには向こうの言い分があると思うぞ
自分の言い分だけが認められるのは難しいな


それとID:wzGaJm/N氏がレスした>>86にもあるが
>織田厨の人たちが悪いわけじゃないよな
>アスペルガーだがが上杉毛利北条島津伊達徳川豊臣厨房そして中立も全て織田厨扱いだったからな
織田厨を悪く言っているのはアスペルガーだがだけだから
実際アスペルガーだがが親切な武田派の人も織田厨と認定して攻撃していたのも見たことある
無闇矢鱈に織田厨認定しているとアスペルガーだがの自演と判定される


和解する気が無いならROMった方がマシ
自分の都合がいいような結末なんか期待するな
121人間七七四年:2013/11/07(木) 21:37:10.84 ID:NzwIXBSr
付け加え
 ID変更対策としてコテハンになった
 「織田厨」を使用しない

あとは
・煽りレスはしない
・煽り耐性をつける
これでくだらん諍いは減るはず
122ID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 :2013/11/07(木) 22:12:16.48 ID:1d97Kbc7
>>120

>単発のIDを乱用しているのに信じてほしいは虫がよすぎると思うが?
>>65>>69は同じ日付だから同一IDになったはずだ自業自得としか言えない
それの対策としてコテハンになったんですが…
IDが変わる証明として、http://anago.2ch.net/test/read.cgi/mobile/1382338272/ ←このスレの141とその返答(142)を見てください。

まぁ…
自分自身がこの板のローカルルールも知らずに「織田厨」という言葉を使い、IDもバラバラだったなんて菅沼と言われても仕方ないな。
返答の節々に煽りを散りばめてたりその他諸々… 批判を受けて当然だな。
織田厨、織田厨と喚き散らして申し訳なかったよ。

すまなかったね。
123人間七七四年:2013/11/07(木) 22:15:18.75 ID:XEaoStyJ
織田チョンって相変わらず執拗かつ粘着質で気持ち悪いなー。
124人間七七四年:2013/11/07(木) 22:25:06.14 ID:0G5APClD
なんでもいいけどさっさと織田厨は信長が押されてなかったとか崩壊前夜じゃなかったとするに足りるソース元の史料提示しろよ
125人間七七四年:2013/11/07(木) 22:27:23.86 ID:jlEOxE0g
>>124
何回聞いても出てこないので、ないと思われる
つまり信長は信玄に押されまくって滅亡寸前の所で、信玄の死と朝廷への土下座で助けられたという結論で間違いなし
126人間七七四年:2013/11/07(木) 22:38:46.52 ID:M7wkTPzu
>>122
レベルが低い奴に合わせるな自分のレベルを保てってことだな
荒らしが目的ではないのなら読ませる文で語ればいい

あとアンチ菅沼の人も今日は特に何も言ってないからそれでいいんじゃないか
ただ見てないだけかもしれないけどね
127人間七七四年:2013/11/07(木) 22:44:31.89 ID:XEaoStyJ
なにこの自分の考えが戦国板の常識で正しいみたいなこと言い出してんよ…うぇ〜ガチ基地じゃん、
群を抜いて気持ち悪い自治厨ぶりで、
戦国板の暗黙の了解とか言い出してガチで気持ち悪い…織田チョンってとっくに壊れてたんだな。
128人間七七四年:2013/11/07(木) 22:49:24.82 ID:Vespw+P0
>>123>>124>>125
自演乙
事の問題は武田を除いても10倍以上の兵力を持っていた反信長方が
信長によって簡単に瓦解したという事なんだけどね。
129人間七七四年:2013/11/07(木) 22:55:02.60 ID:+V1auAd7
信玄に押されまくったってどういうこと。信長と信玄が争ったのは信玄が亡くなる前の1年ぐらいだよね。
信長は直接参陣するまでのこたあなかったんだよね。それぐらいだったんだよ・・・・信玄は・・。
130人間七七四年:2013/11/07(木) 23:06:19.48 ID:0G5APClD
131人間七七四年:2013/11/08(金) 00:32:19.24 ID:6OQTnH3/
そんな押しまくってたのに織田を滅せなかった
織田が強いのか武田がヘタレのビビリなのかあるいは両方か
132人間七七四年:2013/11/08(金) 07:51:01.06 ID:ZXsje+8V
>>129
そのぐらいにしておけ。
またいつもの長文攻撃が始まるぞ。
133人間七七四年:2013/11/08(金) 08:07:21.83 ID:Gd7Z8Xo+
単発IDで自演を繰り返すことしかできない菅沼遼太にうんざり
134人間七七四年:2013/11/08(金) 08:49:29.21 ID:4L85E406
織田厨は史料議論が一切出来ないのに、
なぜ悪口中傷レッテルを貼りを繰り返して荒らしすんの?
全く理解出来ない。
sub TOHO だが 菅沼
などと論破されるごとに次々とレッテルつけて自演し、
工作スレやwikiまで作りレッテルを定着したように見せかけ、
自分に都合が悪い意見をするものを誰彼構わず排除しまくってるゴミ人格。
135人間七七四年:2013/11/08(金) 09:37:18.13 ID:50QA8pI/
だがが全て悪いとか言ってる時点で織田厨丸出し。
あとはいつものように 誰彼構わずだが認定してまわるだけだなw
武田を根拠ゼロの捏造でっち上げ悪口をしてる織田厨が元凶なのにな。
武田厨じゃなくても、嘘デタラメ中傷には反論したくなるわな。
136人間七七四年:2013/11/08(金) 09:40:09.11 ID:6OQTnH3/
>>132
結局それだよな
誰も読まない価値もない、そんなコピペ連投に嫌気がさして無視する
菅沼はそれで言い負かしたつもりなんだから、幸せだ
137人間七七四年:2013/11/08(金) 10:02:41.31 ID:Sst9+FAj
テンプレを
涙目でコピペだと言い換えて
現実逃避する織田厨w
138人間七七四年:2013/11/08(金) 10:05:21.60 ID:Gd7Z8Xo+
>>137
単発IDで自演を繰り返すことしかできない菅沼遼太にうんざり
139人間七七四年:2013/11/08(金) 10:17:24.08 ID:Sst9+FAj
誰彼構わず菅沼扱いwwwいつもの手法ですねwwww
140人間七七四年:2013/11/08(金) 10:43:59.08 ID:Csd9cpcx
141人間七七四年:2013/11/08(金) 10:45:18.16 ID:UYogEkLL
>>140
どうみても信玄>>>>>>>>>>>>>>>家康>>>>>>>>>>>>信長だわなw

一体どこをどうみりゃ信長が上となるのか。
142人間七七四年:2013/11/08(金) 11:33:19.04 ID:6OQTnH3/
お、まさに>>136の通りじゃないか
143人間七七四年:2013/11/08(金) 18:38:39.66 ID:pXah24x8
今日も菅沼遼太くんの単発ID自演荒らし大フィーバー
144人間七七四年:2013/11/08(金) 18:50:01.71 ID:iZipnByp
菅沼理論通り滅亡寸前から戦術的勝利だけで大逆転したのなら信長はまさに戦の神だよ
そうだよな?菅沼君
145人間七七四年:2013/11/08(金) 19:17:13.84 ID:Sst9+FAj
可哀相な織田半島人・・・・虚勢を張り続けないと涙があふれちゃうんだねw
146人間七七四年:2013/11/08(金) 21:10:19.00 ID:Csd9cpcx
そもそも織田軍はチート国力の尾張と大垣城と刈谷の水野氏の帰属と斉藤との同盟、
義龍死後内乱で瓦解し、ろくに抗戦がなかった美濃や元々お膳立てされた上洛と畿内と、一条兼定でもあっさり平定できそうな
ヌルゲーの主人公だったが、その圧倒的不利な状況を作ったのは信長や織田軍の戦下手が原因なので、全く信長が天才の根拠にはならない。
ピンチを切り抜けたのは天皇の和睦斡旋と信玄死去のおかげだし、超幸運に見舞われた棚ボタがあっただけにすぎんし
147人間七七四年:2013/11/08(金) 21:11:16.56 ID:lvdoO1UU
あれだけの国力を持ちながら信長に1万しか兵が集まらなかったのは対武田の三方が原や志賀の陣で織田軍が主力を壊滅させられたのが理由としか考えられんし
信長の天才っぷりどころか、信長の戦下手を証明する材料にしかならんよ。
ピンチを脱出できたのも朝廷に土下座して和議を仲介したのと、信玄の死に救われただけで、ますます信長の能力とはかけ離れた棚ボタのおかげだし。
つかその局面で信長の才能が発揮されたというのならどのように発揮しどう乗り切ったかを史料付きで詳しく頼むわ
148人間七七四年:2013/11/08(金) 21:11:29.02 ID:6OQTnH3/
何の一つ覚えっていうんだっけこういうの
149人間七七四年:2013/11/08(金) 23:11:45.53 ID:8wK/2F5L
>>134
>sub TOHO だが 菅沼
sub だが 菅沼はわかる
しかいTOHOがわからない
TOHOにどんな意味があるの?
150人間七七四年:2013/11/09(土) 00:57:39.02 ID:5ODa2Z9u
懐かしいな。
そういや上杉厨に対してSOHOってレッテル貼って、
アホ織田チョンが上杉の悪口中傷を連呼してて結局フルボッコされてたこともあったな〜。
織田チョンって低脳にも程があるな〜w
151人間七七四年:2013/11/09(土) 01:19:10.95 ID:j2uG/PU0
ヨーロッパより100年早く政教分離を行い
世界初の鉄板船、3千丁の鉄砲を集めた世界史に例のない長篠の合戦
初の天守閣を備えた城
やはり信長の思考回路はすごいものありましたね
光秀が精神病んであのようなことを行わなければ
我々が学んだ日本史の授業は大きく変わったことでしょう
152人間七七四年:2013/11/09(土) 01:29:22.80 ID:j2uG/PU0
農業資本主義から商業資本主義へ
抜擢人事
領地内の関所撤廃
一カ所の土地にこだわらず清洲、小牧山、岐阜、安土と戦略的に
必要とあらば次々と居城を変えたこと
当時の戦国大名の多くが鎌倉時代の一所懸命から抜け出せなかったのに
全くそのような発想を持たなかったこと
織田幕府ができていれば日本は常に世界の先進国であったような気がします
153人間七七四年:2013/11/09(土) 01:40:21.06 ID:j2uG/PU0
当時どの戦国大名も頭痛めていたのが一向宗による一向一揆
それを仏罰なんか関係ないとばかりに根絶やしにしたパワー
現代に例えれば創価学会、日教組、NHK、朝日新聞、在日を
駆逐したようなものなのでしょうね
154人間七七四年:2013/11/09(土) 08:58:52.38 ID:r+Ssiv08
>>151>>152>>153
コーエーの本を熟読して書いた妄想乙w
155人間七七四年:2013/11/09(土) 09:14:32.76 ID:5v84RloB
>>146-147
相変わらずなぜ信玄が死んだくらいで滅亡寸前から大逆転したのか言わないね?菅沼君
156人間七七四年:2013/11/09(土) 09:53:10.86 ID:nMXQE6f9
そもそも生きてさえいれば確実に成功したのなら
そんな成功率の高い作戦を体調管理すらできずに失敗させた信玄はアホとしか言いようがない

現代で言えば、順当にやれば合格できるはずの大学を受験する前日に、
余裕こいて遊び過ぎて、試験当日体調不良で受験できずに不合格になったようなもん

こんなアホなことした人間は末代までの笑いものと言っていい
しかもそのせいで死後に家が滅ぼされて惨めな思いをするんだから
157人間七七四年:2013/11/09(土) 10:50:49.33 ID:xaIEsehE
>>151>>152>>153
箇条書きじゃさっぱりわからないので
根拠を提示してください。
158人間七七四年:2013/11/09(土) 13:25:14.31 ID:sWd9pRpy
>>153
なるほど
天下布武とはそういうことだったんですね
159人間七七四年:2013/11/09(土) 13:29:17.25 ID:r+Ssiv08
具体的な根拠は一切あげられない織田在日くん。
160人間七七四年:2013/11/09(土) 13:32:13.02 ID:sWd9pRpy
たしかに信玄のいた山梨はいまでもブドウぐらいしか産業のない地
謙信のいた上越はいまも忘れられた寒村
粟、ひえ、蕎麦が日常食
戦は億単位のお金がかかること
それでは領地を守ることが精いっぱいで天下を取るというのは
とても無理だったでしょう
161人間七七四年:2013/11/09(土) 14:05:45.21 ID:xaIEsehE
織田厨って黒川金山や湯之奥金山などから採掘して鋳造した甲州金(碁石金)も知らんとかアホだろ。
謙信だって青芋販売と日本海貿易でボロ儲けだし。
ほんと無知な上にウソ吐きだから半島人そのもの。
162人間七七四年:2013/11/09(土) 15:28:28.19 ID:5v84RloB
>>161
いい加減>>155に答えてくれないかな?菅沼君
浅間山大噴火のときみたいにまた逃げるの?
163人間七七四年:2013/11/09(土) 17:07:18.99 ID:T6+yPuk5
品質が悪すぎて上方でわざわざ再精製しないと受け取ってすらもらえなかった口臭菌がなんだって?
164人間七七四年:2013/11/09(土) 18:19:35.05 ID:xaIEsehE
中込力氏
ttp://www.yafo.or.jp/letter/pdf_new/vol154_1.pdf

円の呼称が使われる以前の金銀貨の呼称は「両」「分」「朱」であり、
またその計算単位は「四進法」で、これらの始まりは甲斐武田氏が造った甲州金であった。
戦国大名によって造られた各種の金銀貨が秤量貨幣であったのに対して、甲州金は7段階に及ぶ
量目体系に基づいて造られた先進的な計数貨幣であった。
甲州人の知恵が近世の貨幣制度のルーツとなった。

秤量貨幣であったのを武田信玄の時代に鋳造と秤量の技術の進歩に伴い、量目単位が確立し計数貨幣となった。

このうち四進法の貨幣制度は、徳川家康が踏襲して天正18年江戸市中に採用し
江戸幕府幣制の母体としたことで知られる。このことから江戸時代の幣制のルーツは甲斐武田氏の甲州金だったといわれている。
甲州金は、江戸時代唯一の例外的な公認地方貨幣として鋳造や通用が認められた。

秤量貨幣・計数貨幣とは?
秤量貨幣とは、使用に際に、貴金属としての品位・重さを検査したうえで、
その交換価値を決めて用いる貨幣。
これに対して計数貨幣とは、治世者が一定の品位・量目を保証し、
額面を表示することで、枚数によって交換価値を計れる貨幣のこと。
165人間七七四年:2013/11/09(土) 20:38:29.69 ID:Mc/4eOae
金融政策こそ国家運営の要。
金本位体制こそ理想そのもの。
信長は生野銀山すら有効利用出来なかった。
166人間七七四年:2013/11/09(土) 23:00:52.10 ID:Dg+n9ZEg
167人間七七四年:2013/11/10(日) 13:29:46.12 ID:F/oQ/Uns
ちなみに菅沼君による武田撤退直前の状況

織田
各地守備兵を除けば金欠で1万しか動員できない。尾張や美濃の国人も
ほとんどが武田と長島に調略済み、近江の豪族は全て離反各拠点は包囲網側に
包囲されてしまっているし伊勢湾の制海権も失う。
おまけに義昭に京におびき出される。
徳川
動員できるのは4千程度、もうすぐ武田に降伏。
朝倉
2万5千を動員できる、前年虎御前砦にて上総土岐家にまで伝わる勝利を挙げ
近江蒲生家が降る砦は5月反攻を考えて落とさなかった。義昭と呼応して敦賀に駐屯。
浅井
小谷城に篭城中。朝倉さえ来れば虎御前砦など問題ではない。
六角
兵力2万南近江の主要街道を封鎖中、さらに各一揆を先導。
義昭
朝倉と連携して信長を京におびき寄せる。丹波内藤氏が5千の兵を援軍として送る。
三好三人衆・義継・松永
各自織田派と交戦。畠山や細川はおされ気味。
畿内の反織田派は完璧な連携が出来ている。
長島本願寺
長島一向一揆は美濃に砦を築き近隣を調略、いつでも攻勢に出られる。
北畠
1万5千を動員可能、紀伊・雑賀水軍も動かせる。
武田
兵力6万、野田に駐屯中、水軍は伊勢湾を制圧済み。
大阪本願寺・毛利
直接兵は出していないが物資・資金で協力

包囲網側は天皇の勅書をもらい官軍として行動、逆に信長は賊軍認定される。

ここから武田がいなくなっただけで1年ちょっとで武田以外全部全滅だからな
信長はどんだけ天才だよって話になるよな。
168人間七七四年:2013/11/10(日) 15:52:00.00 ID:raJy4PZs
>>167
ハンニバルやナポレオンを超える戦の天才だな信長は
最も優れているのは信長で決定
それでいいよね?菅沼君
169人間七七四年:2013/11/10(日) 20:00:05.17 ID:NVDKkvrb
織田は無策で茫然自失状態なだけで、
特に何もしてないけどな。
天皇が和睦斡旋したり、
信玄死去と義昭降伏で、
奉公衆がたくさんいる山城や西近江や若狭が自壊したから、
撤退路確保のために豪雨の中を湖北山谷の難路を無理やり撤退しようとした朝倉が離反続出して裏切られ自壊しただけだし。
170人間七七四年:2013/11/10(日) 21:10:47.80 ID:c3TBf+PH
>>169
>>155
いつまで逃げ回っているのかね?菅沼君
171人間七七四年:2013/11/11(月) 01:44:41.30 ID:U3Bv++Hs
天下を統一して戦国の世を終わらせようと考えてたのは
結局信長だけだったんだよね
あとの大名はそんなこと俺には無理と考えてただろう
172人間七七四年:2013/11/12(火) 19:38:50.36 ID:wYmdC5xg
>>171
どこがだよwww
毎回盲目マンセーばかり連呼してないで、
たまには具体的に根拠書いてみろよwww
そもそも山城国ですら、信長は支配出来ずに寄生虫みたいに乗っかってただけじゃんw
秀吉は天正12年戦役で家康を屈服させたあと、
余裕が生まれたので、領地訴訟問題を解決すべく、
さっそく寺社や公家らを含めた山城国で検地し既得権益を整理して実質的な統治を開始している。
寺社や公家にまで検地したのは画期的な出来事として評価が高い。
信長には不可能だったことだ。
173人間七七四年:2013/11/12(火) 20:13:55.45 ID:IFVO+Yff
秀吉、家康ともに信長の下で働いてたので
征夷大将軍になれたけどそうでなければ無理だっただろう
残っていたのは中国、四国、九州、東北はあのころも今でも経済的には
下の部類
信長が中央の強敵を倒していたというのが大きかった
一向宗殲滅も含めて
174人間七七四年:2013/11/12(火) 21:47:57.20 ID:X2TGVD/B
>>秀吉は天正12年戦役で家康を屈服させたあと余裕が生まれた
またお前は天正12年戦役で家康を屈服させたとかデタラメかいてるな
いい加減学習しろよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で
抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく11/13秀吉→伊木、
池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている。そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっているこの時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
175人間七七四年:2013/11/12(火) 21:48:42.31 ID:/AvMpoke
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情。顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停を
はかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの
家康(徳政連発と譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいある
であろう圧倒的優位な状況でありながら軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉

そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、
信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っているまた浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない 実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で 終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない。3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し
兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛 美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう 伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&
池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止 3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で
苦戦・敗戦を繰り返しまくって 尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
176人間七七四年:2013/11/12(火) 21:49:48.15 ID:/AvMpoke
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい

近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記と同じ見解を示している

秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
       秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
       秀吉⇒和仁親王 銀20枚
    7月 秀吉⇒天皇  白鳥三 蝶子三十
        ⇒誠仁親王  白鳥ニ 綿百吊 
        ⇒和仁親王  太刀
        ⇒若御方   料紙

と献品しまくり

また寺社衆への所領安堵もしまくっている    
長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう

そもそも秀吉は政権なんて取ってない。実力のない公家とか朝廷とかが形式的に従えてるのと同じ
秀吉が天下取ったというなら公家や朝廷が天下取ったというのと同じ事
秀吉が本当の意味で天下取ったといえるなら秀吉死んだくらいで豊臣が揺らぐはずがないし
家康三成のごたごたでめちゃめちゃになるなんておかしい
結局皆うわべだけ従ってただけ。武力で統一したわけじゃなく停戦令を通達して
戦いをやめさせただけの間接支配だったからあっさり瓦解しただけ。
177人間七七四年:2013/11/12(火) 21:50:38.23 ID:y5gcLDQC
>>169
朝敵にした信長に和睦斡旋
機内を制圧していた義昭が全く止められなかったのも笑えるが、
朝敵って一体なにという話だな。

圧倒的優勢な義昭がなんで降伏したんだ。

総じてこれらの事がかってに起こったことで信長の徳の高さが
判ろうというもの。朝敵も何かの間違いだったんだろうな。
178人間七七四年:2013/11/12(火) 21:50:43.30 ID:/PiFqJh8
>>家康に勝って、資金的にも余裕が出てきたら
勝ってたらわざわざ朝廷工作しまくって高い官位を必死に狙う必要もない。
>>176にあるとおり明らかに天正12年秀吉が信雄に負けまくってた頃から献品やら朝廷工作が続いてる
>>えっお前アホなの?信雄と家康連合軍は結局、秀吉に負けてんじゃん
負けてねーよアホ
長久手では135000の大軍でわずか16000〜7000の織田家で最も無能なアホ信雄相手に短期決戦で大敗して1万人ぶち殺され
その後の攻防も蟹江・前田・下市場・長久保・浜田などは秀吉方陣地から程近くなのに信雄方に奪回され
二重掘・戸木・松ノ木・東駒野・河波などでも秀吉方はガチンコで城攻めしまくってたが、結局陥落できないどころか、負けを重ねてるのが下記史料でわかるし
尾張でも伊勢でも美濃でも会戦当初から信雄領国では寝返りの連続で崩壊状態、家康も天正11年頃から出してた徳政の影響などで夏の対陣の頃には兵の半分を返し総勢8000ほどしかいなかったにも
かかわらず秀吉方は自力では尾張半国すら切り取れず、秋になって本願寺顕如に取り成しを必死に懇願して、信雄領国で苅田や放火など示威行為してたらたまたま信雄がヘタレ和議にのってくれて助かっただけなのが秀吉
(秀吉は和議の時やその直前期にも諦めて大阪に納馬予定だったのが、信雄が和議を申し入れてきたとかいてて、明らかに示威行動と顕如への取り成し懇願が実ってやっとこさ和睦までこぎつけてるのがわかる)

>>勝ってたら佐々とか紀州勢や長宗我部ら同盟軍を見捨てるなんてことしねーだろ

和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
179人間七七四年:2013/11/12(火) 21:51:30.66 ID:HZICulzW
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな。何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど完全に持久戦の態勢に入っている4/12松井→紹安 一戦に池田親子・
森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人
が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた。播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた5/2信雄→不破広綱
今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが美濃
に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り
討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣した
ので近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
180人間七七四年:2013/11/12(火) 21:52:03.24 ID:/PiFqJh8
秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
181人間七七四年:2013/11/12(火) 21:52:59.00 ID:es2C7J67
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
182人間七七四年:2013/11/12(火) 21:54:05.43 ID:HZICulzW
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
183人間七七四年:2013/11/12(火) 21:55:42.06 ID:/AvMpoke
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

徳川方は8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってた
から後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし状況も兵力比も大阪の陣とは違い過ぎる

尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
184人間七七四年:2013/11/12(火) 21:56:41.75 ID:HZICulzW
>>家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利 秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
>>信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下
伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
>>戦略目標は達成
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
185人間七七四年:2013/11/12(火) 23:19:37.76 ID:mA6CjZLu
アスペルガーって物事をまとめる能力がないんだってね
186人間七七四年:2013/11/13(水) 07:05:00.79 ID:GZpT4G0I
>>178-184見る限り妄想を垂れ流してるのがよく解るわ
こいつは鏡に向かって叫んでるだけなんだなってのがよくわかる
187人間七七四年:2013/11/13(水) 07:58:03.24 ID:UTbuDP5F
>>186
はぁ?どこが妄想かいってみろよボケ
188人間七七四年:2013/11/13(水) 07:59:14.39 ID:nuzQZ7ND
189人間七七四年:2013/11/13(水) 08:13:40.59 ID:sOlEvr5W
部分的に誤りがあるかもしれないが大筋ではあってるよ。
小牧長久手の戦いを詳しく書いた長久手町史資料編とか愛知県史資料編あたりを読めばわかるけど
190人間七七四年:2013/11/13(水) 08:24:12.00 ID:UTbuDP5F
フロイスの捏造
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
191人間七七四年:2013/11/13(水) 08:25:37.81 ID:UTbuDP5F
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
192人間七七四年:2013/11/13(水) 09:01:36.80 ID:0fz+aCap
日本史板でも大論破された後に、
それが認められず歪曲基地外コピペを続けて顰蹙を買ってた基地外アンチ秀吉の織田チョンくんwww
ひたすらコピペ埋めの作業を毎日w
193人間七七四年:2013/11/13(水) 09:20:05.56 ID:rPbH9i9m
論破されて他のお前の方じゃん
194人間七七四年:2013/11/13(水) 10:19:48.84 ID:z3ZcsQTC
アンチ秀吉大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され、超火病発狂しコピペ大量投下で有耶無耶にして誤魔化すw

・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。

アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴

基本的に自分の間違いは訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。

秀吉や三成の悪口中傷して回るアンチ豊臣政権のきちがい在日チョンが
武田厨を装ってコピペ爆撃する自作自演にお気をつけください。
他人の過去レスを盗用し勝手にコピペ爆撃している中に
こっそり自分の作ったアンチ豊臣のレスを巧妙に混ぜているきちがいです。
武田関連の昔の他人のレスを大量にコピペして武田厨を陥れる工作をしつつ
自分が書いた輝元や家康を擁護レスで混ぜて秀吉を巧妙に貶めているコピペ厨。
日本史板・三戦板・歴史難民板・大河ドラマ板・歴史ゲーム板などで爆撃。
195人間七七四年:2013/11/13(水) 10:28:39.42 ID:Sa5QKXmD
>>日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず曲解
はいはい根拠なし。日記は書いた記録の日付と時間を表すだけであって、時間ではなく日付を干支で現したとか曲解乙
>>秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出し
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。 また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
196人間七七四年:2013/11/13(水) 10:30:15.80 ID:Sa5QKXmD
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略  家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
197人間七七四年:2013/11/13(水) 10:31:33.87 ID:Sa5QKXmD
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
198人間七七四年:2013/11/13(水) 10:32:23.93 ID:Sa5QKXmD
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略  家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
199人間七七四年:2013/11/13(水) 10:42:54.28 ID:Sa5QKXmD
>>194お前の嘘を一つ一つ張ってやるよ

>>毛利軍自体が実は来てない

天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
200人間七七四年:2013/11/13(水) 10:43:51.21 ID:Sa5QKXmD
>>だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス

天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、

天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
201人間七七四年:2013/11/13(水) 10:44:57.22 ID:Sa5QKXmD
お前の嘘続き

朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を
>帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
>看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
>戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
>国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
>戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
>また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw


秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」
天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw

>>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲
天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す
天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、
尋で、宗治、同城を復す、
天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記 [参考]備前軍記 [参考]浦上宇喜多両家記 [参考]陰徳太平記 [参考]御答書 [参考]總見記
[参考]柏崎物語
202人間七七四年:2013/11/13(水) 10:46:27.26 ID:Sa5QKXmD
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww

そんな事でどこにも書いてねぇよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

>>萩藩閥越録は毛利の捏造文書集

萩藩閥越録を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な
ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい
203人間七七四年:2013/11/13(水) 12:01:26.18 ID:j+3WLEmz
この板のレス数上位者の長文率と文章の読みにくさは異常

廃れるはずだ
204人間七七四年:2013/11/13(水) 12:26:23.31 ID:Sa5QKXmD
>>上月城という城名は、後世の捏造で、七条城が正しい

天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、

天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
205人間七七四年:2013/11/13(水) 13:10:37.23 ID:BrkwQ5O6
512KB荒らしって規制の対象だぜ
206人間七七四年:2013/11/13(水) 14:34:29.95 ID:GZpT4G0I
●持ちには優しい
昔から2ch運営はそうだよ
207人間七七四年:2013/11/13(水) 14:42:41.29 ID:YSCQm8R+
アンチ秀吉の基地外織田厨のレス埋めたてのクソっぷりは異常
208人間七七四年:2013/11/14(木) 22:37:34.28 ID:eEkGkFAc
合戦の強さでは上杉だろう
ただ当時の大名にしてみれば信玄が相手の方が恐ろしいだろうな
でも天下統一=優秀とするなら信長が一番になるんだろうな
209人間七七四年:2013/11/14(木) 23:50:15.29 ID:IyKRRDBF
信長は光秀に殺されて終わったじゃん
210人間七七四年:2013/11/15(金) 13:26:42.34 ID:NSkR+YCp
信長なんて運だけの人物だろ
211人間七七四年:2013/11/15(金) 23:34:12.60 ID:eMbvscGj
信長なんてとかww
だれだおまえw
212人間七七四年:2013/11/16(土) 17:51:01.60 ID:q9u9HqRC
菅沼消えろよ。
213人間七七四年:2013/11/16(土) 20:22:49.57 ID:OY3mmL+y
運も実力のうち
運が無いのは実力が無いのを認めてる証拠
214人間七七四年:2013/11/17(日) 07:30:23.84 ID:NDSR752O
なんだかんだいって結局信長が運付きで最強だったかは覇をなしたんやな
215人間七七四年:2013/11/17(日) 08:54:21.27 ID:Qe3spEPI
菅沼君はやっぱり逃亡か、まともに質問に答えられないんだから
しょうがないな。
216人間七七四年:2013/11/18(月) 01:10:29.43 ID:30mXaHrh
大局観を持たず近視眼的に弱そうなとこに侵攻しては敵を増やしても戦の強さでそれを誤魔化したのが信玄。

強かったけど関東での戦に明け暮れてたのが謙信。

敵に後詰決戦を強要したり陣城を駆使して城を包囲したりということは信長から始まった。
217人間七七四年:2013/11/18(月) 01:30:01.16 ID:uggFuQs4
>>216
敵に後詰決戦を強要したり陣城を駆使して城を包囲したりということは信長から始まった。

上記の一次史料のソースを下さい。
218人間七七四年:2013/11/18(月) 10:56:36.11 ID:jyLU5Ncb
織田厨のいつもの妄想だろ。
可哀想に病気なんだよ。
219人間七七四年:2013/11/18(月) 11:08:22.03 ID:fvD+R0j7
たまに資料厨って馬鹿だなと思う
220人間七七四年:2013/11/18(月) 13:32:12.91 ID:BhuK9F8w
病気は菅沼だろ。みんなから嫌われてん
だからもういいだろ、消えろよ。
221人間七七四年:2013/11/18(月) 15:28:47.29 ID:lwidQtq8
×みんな
○織田厨の自演ファンネル
222人間七七四年:2013/11/18(月) 17:47:30.48 ID:Geu42ooJ
はいはい、可哀想なやつだな。
菅沼君、君以外はみな織田厨だね。
一人で頑張りな。
223人間七七四年:2013/11/19(火) 10:03:22.29 ID:yqpf6kL9
色々言われてるけど、戦の強弱はみんな同じじゃないかな?
もちろん将棋とかチェスみたいな盤上の戦は謙信が一番だろうけどね。
人と人が織りなす実際の戦に関してはみんな実力は同じ。
224人間七七四年:2013/11/19(火) 11:01:50.16 ID:ENZKREgT
大量単発IDばかりで、過去レスが一切追えない自作自演キチガイ織田チョン
225人間七七四年:2013/11/22(金) 02:19:56.07 ID:ZJeP8Cs8
武田方の資料は信憑性が疑われるものだからなぁ 不自然極まる
武田の出自は半島だと思うよ 史実を残そうとしないから訳が分からなくなる
とにかく史実をはっきりさせてほしいものだ
226人間七七四年:2013/11/22(金) 02:21:41.42 ID:ZJeP8Cs8
武田は朝鮮半島がルーツだと思う(笑)
227人間七七四年:2013/11/24(日) 01:14:53.83 ID:dLHK4p4k
天下布武

七徳の武をもって天下を治める

 七徳の武の武は、武力ではありません。七徳の武とは、暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにするの七つを意味し、それら全てを兼ね揃えた者が天下を治めるに相応しいという意味です


やはりほかの武将の旗印と違い天才信長のスケールの大きさを感じます
228人間七七四年:2013/11/24(日) 04:20:08.07 ID:Y/NYbijY
>>227
そんな話は聞いた事がない。
一次史料を早く出してくれ
229人間七七四年:2013/11/24(日) 15:48:27.01 ID:MlVCURBH
一次史料出さないアホが言っても説得力無し
「歯抜けも自分勝手な解釈もない」一次史料をよろしくな、菅沼
230人間七七四年:2013/11/24(日) 23:25:54.89 ID:/B+lsMED
『春秋左氏伝』の「七徳の武」(武の七徳)

 《「春秋左氏伝」宣公一二年から》抗争・軍事に関する七つの徳。武力行使を禁じ、武器をしまい、大国を保全し、君主の功業を固め、人民の生活を安定させ、大衆を仲良くさせ、経済を繁栄させること。
231人間七七四年:2013/11/25(月) 00:21:12.34 ID:fxF/efKb
天下布部
そのような意味だったのですね
勉強になりました
232人間七七四年:2013/11/25(月) 14:22:39.18 ID:dV6kuUCP
でさ、天下布武=七徳の武だとする一次史料は?
公儀として惣無事令を以って喧嘩両成敗の古法を復活させた秀吉の方が似合うと思いますが、
絶滅殲滅滅亡戦略で次から次へと敵を作り上げて恐怖独裁した信長には最も似つかわしくないように思えますが。
233人間七七四年:2013/11/25(月) 19:44:39.44 ID:htNXhF6a
>>227>>230
なるほど
スケールがでかい
234人間七七四年:2013/11/26(火) 14:24:26.75 ID:Dgcs7Ka2
秀吉は信長に使われてた時はそうでもなかったけど
天下とったら悪い面が出たな
朝鮮出兵、名古屋城築城、甥の秀次切腹と
これがオーナーと雇われ社長の違いかぐらいに
家康もそこらへん見透かして心動かさなかったのだろう
235人間七七四年:2013/11/26(火) 16:23:16.58 ID:jQ0hGp8e
秀吉や秀次の政治に関しては、いまだ大半が軍記からの想像でしょ。
例えば秀次の不行跡は記録が『多聞院日記』や『兼見卿記』にあるあると
2ちゃんで書かれてても実際に調べると
秀次の罪状に関する公家や朝廷の公式な記録は何一つない。

『大かうさまぐんきのうち』の比叡山狩猟の件も信用できない。

文禄2年(1593)の6月8日に女人禁制の比叡山に女人を引き連れ、殺生禁断の地で狩を行い、
止めようとした僧たちの塩酢の器の中に獲った鹿肉を入れたとあるが、

山科言経の日記『言経卿記』では、
秀次はその日に山科らと聚楽第の山里で琵琶法師の平家物語を聞いてる。
(山里町という山里茶亭を由来とする町名があることからおそらく聚楽第の茶亭)
つか、仮に山里が聚楽第でなかったとしてもそういう事実があれば
山科言経が日記に残してない方がおかしい。
秀次の母親の日秀が秀次供養するために建てた瑞龍寺に
村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのは他でもない後陽成天皇だぜ。
そんな不道徳なことを本当にやってたら天皇がわざわざそんなことをするはずがない。

秀次が「殺生関白」と呼ばれてるのは、『大かうさまくんきのうち』が、
正親町天皇の諒闇中なのに狩りをした秀次を批判する京童の落首を引用しているが初出だよ。
庶民を虐殺したから「殺生関白」と呼ばれてるわけではありません。
しかしこの落書も同時期の記録にその落首が残ってないから信憑性を疑われてる。

信長公記の著者である太田牛一(秀頼に仕えていた)がデッチあげてデタラメを並べて秀次を悪く書いてるだけ。
三河物語で大久保から信長記はデタラメと叩かれた著者の太田は金をもらって捏造する売文家です。
しかし織田チョンは、あれは太田牛一が書いた信長記だけは除いて批判したものに違いないと
なんら根拠なく妄言を吐く朝鮮脳で白昼夢を主張するキチガイ
逆に川角太閤記では秀次に落ち度はなく、秀吉が老いて耄碌して三成の讒言を真に受けて
秀次を殺したと正反対の内容を書いているなど、所属する立場や思想信条から相手を悪く書く対立が見え
とても史実とは思えないデタラメが横行してます。
(実際には秀吉が耄碌していたとは思えませんし、讒言をしたとする三成の介入も一次史料から証明できません)
ちなみに謀反人の場合は斬首であり、自刃のような自害による名誉を守る行為は許されません。
つまり秀次は名誉の死であり、秀吉や秀次の政治に関しては、相手を中傷するために落書など平気でデッチあげてます。
236人間七七四年:2013/11/26(火) 16:24:22.66 ID:jQ0hGp8e
漁夫の利を得た利家の陰謀と考えるのが一番分かりやすいです。

南部根元記には秀次が奥州の仕置きを終えたので平泉を見た
そして最上へ向かい義光がもてなし奉り息女いこまの方を秀次公に参らせる
と書いていてその記述には平泉に寄っているなど書かれており
後世の研究調査から平泉中尊寺には秀次軍令書などの文書が納められていることが発見され
秀次の平泉訪問も事実と確定され南部根元記の記述が極めて事実に基づかれているとされた。
そのため義光の方から進んで駒姫を秀次に差し出したのも極めて事実に近いとされる(伊達成実記とも合致する)
南部は秀吉からの武装解除の一環としての一国一城の破却令により天正20年6月に
領内48城中→破却36城の上で存置12城が許されたとされる。
戸沢は角館の1城のみを残して33城を城破りをしているため南部は破格の待遇である。
前田や蒲生と入魂していたからであろうか。利家は氏郷亡きのちの蒲生家存続にも尽力して
秀次・利家・蒲生・南部・浅野らが日本海から奥羽に影響力を行使しているのがわかる。
そして利家や氏郷らは南部と組んで津軽や安東を田舎者と名護屋陣でいじめていた。
のちに困り果てた津軽の働きかけで親しくなるように浅野が仲介してきたが拒否し
前田などが津軽を辱めたので浅野なども津軽に関して何も言わなくなったと記している。
前田家文書には秀吉→関白宛の文録元年5/18に
来年正月の2月頃に3万を率いて兵庫より乗船し秀次が朝鮮へ渡海する命令がある。
南部信直→織笠但馬守に年不詳9/20で秀次公来年高麗国へ出陣。暦明け候はば上洛と記され
南部も前田騎下として秀次とともに朝鮮へ行く予定だった。
どうやら何らかのこともあって秀次&前田&南部の朝鮮渡海は中止となったようだ。
秀次と親しくなることで朝鮮渡海しないで済むような状況があったのだろうか。
ちなみに黒田如水が朝鮮出兵を自ら申し出るように秀次に忠告したと言う。
文禄4年7月秀次自害と同じ頃、津軽が浅利を支援し戦闘開始されており
安東は進退に窮していると知らせがあり、また最上の小野寺侵略の岩崎合戦が開始される。
伊達と最上が秀次と共謀の罪があるとされたので、世上暗澹なこともあり信直は娘が
安東実季の弟に嫁ぐ予定だったが(利家斡旋らしい)安東から連絡もないし延期した方がいいとしている
このことから当時の奥羽がかなりの混乱下にあり秀次との謀反連動の疑いが強い。
(秀次は伊達や毛利に大金を貸していた。また利家も伊達に金を貸している)
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
利家は柴田を見捨てただけでなく、親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて早世した娘の与免と婚約者だった浅野幸長ばかり擁護、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
利家は秀次の死によって秀頼後見役にのし上って、秀吉亡きのちは事実上の天下人になっていた。
237人間七七四年:2013/11/26(火) 20:06:15.98 ID:k35iQE2N
菅沼遼太の嘘吐き
238人間七七四年:2013/11/27(水) 01:54:49.63 ID:+m1zQp6o
だがちょん
239人間七七四年:2013/11/27(水) 04:05:02.15 ID:ZV6d95nS
>>234
朝鮮人乙w
240人間七七四年:2013/12/08(日) 18:26:37.90 ID:Q+eZdPrW
信長に決まってんじゃん。
領土拡張率が天と地ほど違う。
241人間七七四年:2013/12/08(日) 18:30:51.19 ID:aHndV15s
尾張半国から750万石程に急成長させた信長と違って
信玄は甲斐一国丸々つぎながら100万石レベルで終わったしね
倒した相手でいっても
信長は斉藤浅井朝倉北畠本願寺足利将軍家波多野赤井六角一色三好武田と圧倒的だが
信玄は諏訪と村上程度の雑魚しか倒してないし。
242人間七七四年:2013/12/08(日) 19:30:42.88 ID:dVoVpmBD
信長公記でも信秀が晩年疫癘に御悩みなされ、ご祈祷や治療をさまざま試したが御平癒なくついに亡くなったと書いてるように
天文18年11/5付け織田与十郎書状には備後守病中故と書かれており
神宮文庫の日記断片にも天文17?18年頃に信秀を入道と呼び、信長を若殿と書いており
信秀が当主を退いて後見役になっていたとされる(病だろうと右筆が書くから関係ない)
同じ時期に信長と濃姫の婚儀もあり
それと同時に天文18年11月に藤原信長として熱田村に書状を出していて
これは信長の初見文書であり、明らかに信秀は病を機に出家し後見役となり
信長を後継当主として擁立した流れとされている。
さらに天文21年10/21日には桃岩(信秀の法名)の判形の旨に任せて安堵という書状を
信長は大叔父の玄蕃允秀敏へ知行宛して当主権を行使している。
天文22年閏正月13日に信秀が外交を委任していた平手政秀が信長に悲観して自殺するや
道三は信長の大叔父玄蕃允秀敏に信長の悪行を心配している書状を出してる(浅井家文書)
そして同じく後見役とされていた林も信長を見放す。
しかし道三は娘を人質にされてるためか、信長を見放さず、
水野の小川城に対抗して岡崎衆が村木に砦を築くや天文23年正月に安藤伊賀守の軍勢を派遣し
小川城で水野信元と会談後に砦を落として帰っている。
明らかに信長がどうしようもない馬鹿で尾張が分裂していっただけで、
信秀は万全の体制で信長へ引き継がせてる。義龍によって尾張反語句を奪われたのは信長の糞アスペ人格が原因。

実際には信長と濃姫の婚姻が天文18年11月よりも早いとされ
信秀が信任し織田外交を任せていた平手の交渉による
斉藤との同盟が結ばれた天文17年中と考えられていて
それを以って後継者確定としている(信勝の妻との差は歴然)
そして信長に平手が後見人と付けられたのも
信秀の対外外交方針の変更が信長の代になっても変化ないことの宣言でもある。
しかし平手が自害することから信長は父の外交を引き継がず無謀な行動に出たので
尾張国が混乱し、離反が相次ぎ結果、今川・斉藤へ頼るものが出てきた。
完全に信長の失敗から尾張が崩壊しただけ。
稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17?18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでるとのこと。
信秀の死は天文21年3月だから信長18歳だろ。2年以上の時間をかけて信秀が信長の後ろ盾になってる。

定光寺年代記の死亡記録の信憑性の高さが決め手で確定してるでしょ。
万松寺過去帳はあくまで定光寺年代記の記録の正しさの補強として。
定光寺年代記の殺害記録によって織田信光という人間がいたことが判明したわけだし。この事実は大きい。
新修名古屋市史は信秀の死去についても定光寺年代記を支持してるし
鳥居和之氏や下村信博氏や池上裕子氏や織田信長文書の研究で有名な故奧野高廣氏や
信長公記研究で有名な岩沢愿彦など、 ことごとく天文21年死去を主張。
243人間七七四年:2013/12/08(日) 19:31:28.51 ID:dVoVpmBD
天文20年の信秀生前から備後守並びに三郎(信長)の先判の旨に任せて
などと信勝(信行)は明らかに序列によるケジメを付けられ
熱田神宮寺座主に安堵してるし、
その時期に西加藤家の次男へ信勝が信長への取次してる。
お前の言う熱田?ってのは西加藤家の分家の東加藤家へ出した22年10月の
信秀の先判の旨に任せってやつのことだろw
すでに信秀生前から本家の西加藤は信長。
分家の東加藤は信勝と分掌されていたとされる証明書状。
そもそも西加藤家は非常に重要視され
天文18年11月には信長が国内政務に初めて関与した機会として
西加藤家に対して藤原信長の名で熱田村八ヶ村宛てで制札が下され
熱田社造営の課役免除などが示され、信秀の後継地位を表している。
すでに信秀が病で信長が家督を継いでいるので
神宮文庫蔵の日記断片簡で万度 長鮑千本を出家した信秀が寄付し尾張若殿と明確に分けていることからも
すでに家督を信長が継承してる証左としてるし。
あと、信勝が信秀の父が支配下に置いていた織田家発展の原動力になった
大商業地の津島経済圏への影響力がまったくないことからも、
祖父以来の織田家本貫地といっていい津島衆を信長が配下にしているのを織田家を継承していた証左とされてるね。

石山本願寺日記で書かれてる記述は尾張で洪水などの天災があったようだとされてるだけで
信秀の死による混乱なんて無理やりな解釈はできない。というのも
河野門徒が飢餓だけど400疋を献上すると天文21年10/2の記録に書いてあり錯乱の原因が判明するから。
(天文21年5/2に去年は講衆する信者が少志を寄付したと書いていて20年のことと関連してるのがわかる)
河野門徒と言えば蓮如が河野惣道場を復興させて以来、
尾張葉栗郡?美濃国羽栗郡・厚見両郡にいたから木曽川中流の両岸が洪水起こしたんだろうねぇ。
本願寺は経済的に痛手を受けたのなら信長にとっちゃおいしいな。
中流ならむしろ岩倉城の織田伊勢守家と美濃国主がダメージを受けたってことだし。
飢餓による乱世と書いてるんだから本願寺の講衆の田畠が氾濫で流されて生活が苦しくなったから、
以前のように寄付がたくさん出来なくなったって話としか思えないけど。
戦乱乱世とか信秀死去による乱世なんて曲解にも程があるよ。
そもそも一次史料にその時期に戦乱を思わせるようなものは全く無いし。
尾張葉栗郡?美濃国羽栗郡・厚見両郡に住む本願寺の講衆の田畠が氾濫で流されて
飢餓による乱世状態になったので寄付がたくさんできないと申し出てきた史料
尾張の混乱は平手が失望のあまり自害し、それを見て林が見放したほどの信長の大うつけが原因であり
しかもこの信長の織田家内での不評っぷりは隣国まで伝わり
道三も信長の大叔父玄蕃允秀敏(信長が秀敏へ天文21年10/21に中村方三郷を安堵しているが、これが信長初の知行宛行文書)
にそれを心配して問い合わせてるほど
それを信秀の体調のせいだと曲解してんのがお前。
信長も信秀と同じ三郎を名乗っており、後見する宿老おとなが4人も信長には付けられ
明らかに織田後継と位置づけられてる。信勝にはおとなは一切付けられてない。
244人間七七四年:2013/12/08(日) 19:32:18.99 ID:dVoVpmBD
信長の安堵状等の発給文書が天文21年秋以降に増えることから信秀の死は天文21年3月?
信長は元服以前から嫡男として遇されており、 父信秀が熱田の北に古渡城を築いて移った際に、
信秀のいた那古野城を譲られ、宿老筆頭のいちおとな林秀貞をはじめ?
と池上氏が去年末に出した本には書いてるね。
当主が自分の後継者に自分の城を譲って移転するってのは三好長慶が嫡男に芥川城を譲ったり、
伊達輝宗が政宗に米沢城を譲り隠居城を作りはじめたり、
信長が岐阜城を信忠に譲り安土城に移ったりと例がみれるね。
末森城って天文17年築城だから時期的にいって単なる隠居城でしょ。
しかも織田当主信長の名古屋城の東側を守る前衛だし。
柴田権六、佐久間次右衛門なんてしょーじき当時は一次史料にも出てこない程度の存在だし、
織田外交を一手に行ってたのが一次史料ではっきりわかる平手とは天地の差でしょ。
柴田と佐久間って当時はどんな地位で、なんの職だったん?それすらぶっちゃけわからんでしょ?
そもそも信勝に信長と争わせようとする信秀の意図なんて、どの一次史料に出てくんの? 完全に妄想レベルだよね。
だいたい発給文書数自体でいっても信勝はほとんど無いのに、信長に比する地位にいたなんて解釈は文書数からいってもあり得ない。
そもそもたかが末森城ひとつで何ができんの?たった1城持ってただけで当主顔できんの?
末森城なんて守山城とともに名古屋城を守るためにあるようなもんでしょ。

そもそも信勝が信秀と末森城で生活していたなんてデタラメだし、
単に信秀の葬儀の後の遺産分けで末森が信勝に与えられたに過ぎん。
信秀死後に信長が戦をする時はたびたび信勝も家臣の柴田を派兵しているように
織田家総領の信長というスタンスは証明される。
第一、信長につけられた織田家いちのおとなの林は寄親として荒子城・米野城・大脇城を指揮してるが
柴田や佐久間大学や林の弟なんて地位も職もまったくないただの信勝の家臣風情じゃないか。
さらに信勝はずっと信長配下として動いていて、そこに序列を巡る争いの種は一切見つからない。
そうして平穏に時が過ごしていたら1544年に道三が隠居に追込まれ
さらに事態は悪化し1555年に義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵し、信長と義龍が敵対状態になった。
時を同じくして1555年6月に信長と信行の弟の喜六秀孝が守山城主織田信次に謝って殺される事件が発生。
恐怖した信次は守山へ戻らず逃亡。
これの対応を巡って信勝が信長へ相談なく勝手に守山へ攻めこみ
遠乗り中にそれを聞いた信長が「俺の弟ともあろう者がたった1騎で下郎のように歩いていたとは!
生きていたとしても許せない」と激怒。
結局、信次の家臣が篭城していたので信長軍に柴田を援軍で派兵し佐久間信盛の説得で開城し
守山城は信長の弟の秀俊が治めることで和睦。
このころから林と柴田が内通し信長へ謀反を企ててる風聞が流れ
そして1556年4月20日 斎藤道三討ち死にし義龍が完全に美濃を制圧。
1556年5月26日信長と秀俊が林邸に出向いて様子を伺う事件が発生。
翌日林が信長に謀反+守山城で秀俊が角田新五に暗殺されるという事態に発展。
信長は先に逃げていた前守山城主信次を呼び戻し守山城主に復帰させる。
8月22日に信勝から離反して信長についた佐久間大学が前線に砦を築いたことから
24日に合戦に発展。

明らかに美濃の情勢と信勝の挙兵はリンクしていて、
しかも守山城主の織田信次を明らかに信長は厚遇している。
さらに角田新五を不問にしてるため、そもそも織田秀俊暗殺も信長の謀略との疑いがある。
この後まもなく信長の庶兄の信広も斉藤家と内通して清洲城乗っ取りを狙うも失敗するなど
信長による兄弟粛清の荒らしの謀略に追い詰められ義龍に内応する織田一族の構図が見える。
これを見ても信秀が信勝を信長お対抗馬にしようなんて考えはない。
245人間七七四年:2013/12/08(日) 19:33:06.09 ID:dVoVpmBD
>>信秀は今川に尾張半分を奪われてた
信長領だった鳴海が今川方になったのは弘治元年(1555年)2/5付書状で証明されてる。
しかし、それ以外は取られてない。半分が今川とかアホだろw
その書状の中で信長が鳴海に同心したら領地没収の話を出してる。
そもそも弘治元年から2年に渡り三河全域で反今川勢力が蜂起して
今川勢と各地で戦ってたのは岡崎市史で指摘されてて、 今川にはこれ以後、余裕がまったくない。
信秀が死んだのは天文21年3月(1552年)で鳴海が今川へ寝返った時期から
すでに3年も経過してるから、信長が相続した時点では鳴海はちゃんと引き継いでいるし。
>>沓掛・高大根・部田村
城も奪われてないのに沓掛・高大根・部田村について触れた内容をもってきて
織田が劣勢とか頭が融けてるんじゃないか。
しかも売地だった土地を買い戻してやっただけじゃん。
そもそもこの手の城も奪わずに土地だけ安堵とかしてる書状なんて
実際にその土地が敵方陣営にいる親族が所持していたらカラ安堵を普通にするもんだし。
当時の国人は国の堺とか関係なしに先祖代々の飛び地を持ってる(越後国人が武蔵や伊豆に土地を持ってたり)
またその地が戦乱で維持できなくなっても安堵状だけはもらって土地所有権を主張しようとしていた。
実際に土地が伴った安堵ではないことは城を落とした結果という過程を経てないことからもわかる。
丹羽氏同士の本家争いで持ってない土地を今川が自陣営にいる方に安堵を出してる可能性も高いわ。
地域の拠点たる城を奪われたりしたわけじゃないのに、これで信秀が不利なら何で同時期に織田との和睦結びたいあまりに、
信秀が和睦の条件に要求した刈谷城を織田に返却してんだよ。
むしろ信秀が今川の背後の北条と連絡を取るようになったから安祥城までしか動けない限定的行動に
制限されたからこそ 翌年には信秀へ刈谷城を返却するはめになってるやん。
そりゃあ城を返却してまで今川は和睦したがってんだもん。面子もあって懇望してきたとかいいわけするだろ。
なにせ天皇が女房奉書で和睦して修理代を出すように言ってきた時ですら
意地になって今川は和睦はできないとメンツを気にしてたじゃん。
結局、信長公記でいうところの備後守殿に御目に懸けられ候と書かれて
信秀お気に入りの山口ルートを使って城を返却するから和睦してってすがってんじゃん。
最初から朝廷ルートで和睦を受け入れてたらメンツを気にすることなかったのにw
だいたい丹羽氏勝と丹羽氏秀の争いは天白川の水利権を巡る同族内争いであり
そもそも今川はまったく関係ない。関係ないんだよアホがw
お前は丹羽隼人佐なる謎人物が義元から書状をもらったことを
無理やりこの争いの関係者に位置づけるトリックを用いて今川が関わってるように捏造してるだけ。
丹羽宗家の岩崎城側が藤島側へ圧力をかけたので、藤島側が双方の上位権力の信長に仲介を求めたから
トラブッた話だろうが。それで言うことを聞かない岩崎を信長が攻めた挙句に大敗し
このことで藤島方は今川方へ逃亡するしかなくなった(名古屋/岩崎/天白川/藤島という位置により名古屋へ逃げれない)
その後、天文22年中に岩崎側も今川を頼り、鳴海城主の山口左馬助父子も織田を見限ってる。
246人間七七四年:2013/12/08(日) 19:34:15.62 ID:dVoVpmBD
>>俸禄が増える形になってますけど
そりゃあ松井の功績は七か条に及んで書かれて大きく評価されてるじゃん。
氏真の松井への評価はもともと非常に高い。
いままでの武功を箇条書きにして並べた後に
苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋と書いているのは
苅屋在城していた時に2万疋、最近は1万疋というように
苅屋在城していた時、失った後で時期を区分している。
つまり自分の城が織田に攻められた時に駆けつけたが織田軍に封鎖され城を失ったってことだろ。
その後に続く文章で判明するが、城からの収入じゃなくて 今川家の蔵から吐き出してるじゃんよ。
文脈的には城を失ったから代わりに蔵から手当てが出るように変化したとも解釈できる。
苅屋在城以後弐万疋 近年万疋 以蔵入雖出置之
在城時と近年で時代区分を分けている。
これは失われたことを意味していて、それでも(雖も)忠節してきたから
そのままさし置いておくこととし代わりに蔵から支給してるってことだ。
1万疋追加は依今度忠節を評価して蔵より為彼三万疋之改替に替え改めやってんじゃん。
>>飯豊と密書を送って密議を重ねるなど
へっ?その信秀が今川との和睦をぶち壊そうとして駿河や遠江の国人との内応話の密書が
鵜殿へ回覧されたが、鵜殿は内応に同意せず、あくまで和睦するべしと主張し
逆にこれ以上あちこちへ信秀の書状が渡らないよう飯尾豊前守へ渡さず
鵜殿が止めて安心なる人物へ、この密書をまわすことを批判してるやつのことか?
信秀の申し出を読んだら朝比奈や庵原をはじめとした駿河・遠江の国人が同意し喜んで戦い始めることを予測し
安心も同意するなよと説得してる書状写こそ年がまったく確定できない書状じゃん。
だいたいその義元8万騎はお前の捏造歪曲だろw
定光寺年代記に実際に書いているのは5万騎。そしてこれはどの学者もありえないとしていて
百歩譲っても、当時流れていた風聞をそのまま書いただけだろうとしている。
さらにこれが信長公記を記述する際に桶狭間の戦いの元ネタに盗用されたといわれてる。
新修名古屋市史も 定光寺年代記の「尾州錯乱、八月義元に関して、
義元が知多郡に侵攻した事実は見出せないと否定してたよ。
定光寺年代記には、 天文19年に尾州錯乱したので、
8月に義元5万騎にて知多へ出陣し12月帰陣と言う誤伝があり、
これが信長公記の桶狭間の戦いの元ネタだったりする。
この風聞を天文21年に移動させて創り出された架空話が桶狭間の戦い。
信秀死去との間で調整するために桶狭間の戦いは作り出された。
>>信秀家臣ではなく僧侶中心の行事。
信長公記には信長側近の後に家老の衆も出席したと書いてるじゃないか。曲解もいい加減にしろ。
>>地盤がなければ戦いにも出れん。柴田がその辺の足軽と一緒に1人で供回りもつけず戦うのか?
遺産相続で末森城をもらったんだから柴田だって兵力を率いることができるようになるだろ。
林は平手の自害を見てあきれ果てて信長から離反したんだし、
佐久間大学は正当な主君が信長だと知ってるから信勝の謀反に組しなかったんだろ。
>>でまともに勘十郎本人が協力したなんて記録
信勝の末森城の兵力を柴田が率いて信長の戦闘を支援してんじゃねぇかよ。 屁理屈をたれんな。
247人間七七四年:2013/12/08(日) 20:51:30.44 ID:xhiT3hil
信長のスタートは尾張4分の1くらいじゃなかったっけ?
248人間七七四年:2013/12/08(日) 20:54:05.98 ID:IOWzio4w
桶狭間で今川を倒すまではマジで危機的な崩壊前夜の状態だったからな
249人間七七四年:2013/12/08(日) 21:57:42.31 ID:g82hMHPO
桶狭間合戦時における尾張の下半分はほぼ今川に分捕られていたと見ていい。
大高城も鳴海城も今川軍の手に落ちているし、知多半島の水野氏は織田の敗北だと考えたのか
桶狭間の合戦にほとんど参戦せず、逆に水野大膳が今川方として参戦している有様

かつての後ろ盾であった斎藤道三は既に死んでるし、しかも後を継いだのはその道三を継いだ義龍。
つまり斎藤家の後援なんて織田家にまず起こらないし、犬山城の織田信清も全く信長に従わず事実2年後に反乱起こしてる

まあなんにせ織田信秀の死に方が悪すぎるわな
後継者すら明示せずに死ぬとか乱世では自殺行為。
そう考えると後任の新当主に一致団結させた武田信虎や浅井久政は名君だよ。
新当主である武田信玄や浅井長政のもとで家臣が従う名分を自分で作ってあげた
250人間七七四年:2013/12/08(日) 21:59:29.77 ID:h0atuFTK
>これは信長の初見文書であり、明らかに信秀は病を機に出家し後見役となり信長を後継当主として擁立した流れとされている。

「備後守病中故」とされる織田与十郎寛近書状写は年次の否定が不確定だし、
この史料の日付は十月廿三日とあるが同年十一月廿八日には祖父江五郎右衛門尉に尾張の代官を
備後守信秀が直々に命令している(氷室和子氏所蔵文書)

信秀存命期の信長の書状が天文十八年、十一月の熱田神宮に対する制札くらいしかないなど
明らかに信秀が病で危ないから、とりあえず信長を表に立てただけで「万全体制」と揶揄するのはおかしい
信秀が奥に引っ込むどころか、体裁を取り繕うために元気な信長を傀儡当主するくらいの実権行使っぷりで
「只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候(中略)去年以来拙者存分不相叶事候間、兎ニ角ニ御無事肝要候」と
飯豊と密書を送って密議を重ねるなど病身で引いた後任当主とは思えない行動力

当の信長も、後見の信秀を押しのけるどころか、天文十九年十二月廿三日の尾張国密蔵院に対して
笠寺別当職を先代である織田信秀判形の通りにと、むしろ信秀に遠慮しまくっている事実

>信秀は万全の体制で信長へ引き継がせてる。
これも異なる。
天文十八年の十一月には織田領であるはずの安詳城が今川に普通に攻め落とされているし
翌年の天文十九年に至っては

『定光寺年代記』「尾州錯乱、八月義元八万騎にて智多郡へ出陣、同雪月(12月)期皈(帰)陣」同年八月

『豊明市史/今川義元判物・手鑑』
「沓掛・高大根・部田村之事。右、去六月福外在城以来、別令馳走之間、令還付之畢、
前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、并近藤右京亮相拘名職、
自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之事、是又数年令知行之上者、
領掌不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件。天文十九十二月朔日。治部大輔(花押)丹羽隼人佐殿」同年十二月

織田信秀が逝去する天文廿年より前の段階にも拘らず、とっくに尾張国境が今川軍に蹂躙されまくっている
251人間七七四年:2013/12/08(日) 22:01:21.17 ID:h0atuFTK
最初の頃の信長なんて今川と斎藤と北畠に囲まれて滅亡間近と言われる時期だからな
いくら国力があるからといって負けがわかってる戦に参加する奴はいない
1582年に滅ぼされた武田家もまともに味方が集まってくれず悲惨なことになってるし
当時の信長はそれと同等レベルの危険状態

武田は当初今川と和睦、山之内上杉と昵懇、甲斐国内統一で楽々ルートだったのに
約40年後には織田徳川北条に周り全部包囲されてまともな抵抗すらできずにアボン
時の流れとは残酷なものよの

刈谷城は刈谷水野氏の居城で織田の城じゃないでしょ
刈谷城=織田方の根拠は何?岡部元信が刈谷城の水野信近を攻めたからか?
「織備懇望ノ仔細候之間、苅谷ノ赦免ヲ令す」っていう文章からは、刈谷城が織田に帰ったとは
一言も書かれていない。
豊明市史「今川氏真判物写」(土佐国蠧簡集残編三)で
今川氏真が重臣であった松井宗信の功績を羅列した際に
「苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以後度々及一戦」の記述があって
明らかに松井宗信が刈谷城に接触して入っていたことがわかるんだけど。
岡部が刈谷城攻めたのは義元が死んでからでしょ?主君が死んだのに何もしない水野信近を裏切り者だとでも思ったんじゃね?
252人間七七四年:2013/12/08(日) 22:02:39.50 ID:h0atuFTK
>>いったいなんて学者が違う年だと主張してるん?初耳なんだけど。
>>信長公記でも信秀が晩年疫癘に御悩みなされ、ご祈祷や治療をさまざま試したが御平癒なくついに亡くなったと書いてるし

その「晩年」が不明確なんじゃんよ
備後守病中故と書かれた織田与十郎書状を「天文18年」としているが
これは「天文19年」でも辻褄があっちゃうんだよ。どっちにせよ信秀は「天文20年」の3月には死んでるから
万全体制なんてとてもじゃないが言えないほど、急造体制だったことがわかるんだけどな

>>判形の書式はそういう書き方するだろ。上位権力や先祖や父を念頭に
>>それらが決めたことを私も違えず保証するっていう言い回しのどこに「遠慮」を表明してる点があるんだよ。

遠慮でしょ、別にそうしなきゃならないという定型はないし
信長がこれ以降本格的に政務をとっている形跡もない

>>そもそもその永禄3年の氏真書状に出てくる苅屋入城之砌、尾州衆出張もいつの話かぜんぜんわからない。

刈谷市史では「天文19年」で確定されているけどな。理由は簡単で、この翌年の天文20年には
織田信長が擁する丹羽氏秀と、今川義元が擁する丹羽氏勝が岩崎城を巡って横山山麓で戦っている。
また『豊明市史/今川義元判物・手鑑』でも
「沓掛・高大根・部田村之事。右、去六月福外在城以来、別令馳走之間、令還付之畢、
前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、并近藤右京亮相拘名職、
自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之事、是又数年令知行之上者、
領掌不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件。天文十九十二月朔日。治部大輔(花押)丹羽隼人佐殿」同年十二月
とある通り、この頃の尾張国境を巡る戦いは今川義元が断然有利で織田信秀は防戦一方
ちなみに、今川氏真が提示したした松井宗信についての判物は続きがあって
「右、度々忠節感閲也、然間、苅屋在城以後弐万疋」という記述が出てくる。
桶狭間の戦いで死んだはずの松井宗信が、刈谷城に在城していたわけだ。
また今川方の「刈谷赦免」について、劣勢になった今川義元が
和睦のために泣く泣く刈谷城を織田方に返した、なんて言っている奴がいるようだが
「大高町誌」「三河海東記」によれば、天文19年の末に織田方の佐久間甚四郎によって大高城が奪回されており、
刈谷赦免はあくまで大高城の交換条件であったとしているな。これは豊明市史に伝えられている
「今ノ度、山口左馬助、別シテ馳走ス可キノ之由祝着ニ候。
然リト雖モ、織備懇望子細候之間、苅谷ヲ赦免セシメ候。
此ノ上ハ、味方筋之無事、異儀ノ無ク、山左ガ申シ調ヘ候様、両人異見セシム可ク候。」十二月五日 義元(花押)
という12月の今川義元による書状を見てもわかるとおり、あくまで刈谷城の赦免は織備(織田備後守信秀)のたっての願いであるとしている。
どこをどう考えても今川義元が泣きついた結果とは思えないな。
253人間七七四年:2013/12/08(日) 22:04:10.11 ID:h0atuFTK
>>熱田社造営の課役免除などが示され、信秀の後継地位を表している。

その固めるのが遅すぎるって話だろうがw
天文18年の11月なんて信秀が死ぬ1年ちょっと前だし
そもそも生前の織田信秀と土田御前は織田信勝をかなり優遇していて、このせいで信長は
「柴田権六・佐久間次右衛門、此の外、歴々相添へ」と末森城にいる信秀家臣を大量に信行につけてるし
織田信勝自身もそれをわかっているのか、「備後守三郎任先判之旨、不可有相違者也、仍状如件」と天文20年には独自に判物を出して影響力を高めようとしている。
信長に優位権があったとしても、結局それは信秀が死ぬ間際にやったなけなしの援助で、
しかも弟である信勝にも似たようなことをやらせるという、弟が権力増大して家督争いに参入しろと言わんばかりだ

>>それこそまったく証明になってない

丹羽氏勝の岩崎城は刈谷城よりさらに尾張側だろ
刈谷城が織田の勢力圏に完全に落ちていたらそんなところで戦闘は起きない
丹羽氏勝が今川の援助を受けられずに自落して終わりだし、そもそも丹羽氏勝が戦闘に勝っているのはありえない。

>>城も奪われてないのに沓掛・高大根・部田村について触れた内容をもってきて 織田が劣勢とか頭が融けてるんじゃないか。

空手形かどうかもわからんし、それだけ影響力があったのは事実だろうよw
そもそも今川義元は同年の4月に水野十郎左衛門に対して
「夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言。四月十二日、義元 。水野十郎左衛門尉」
と尾張に勢力圏を伸ばすことを明言しているし、豊明市史「今川氏真判物写」でもやっぱり松井宗信が刈谷城に在陣していたことが明確に書かれている。
実際問題として信秀存命期から尾張に今川義元の影響力があったのは明白なわけだ。
元々今川義元が尾張に領地をもっていたわけでもないし、織田信秀は領地をどうあがいてもプラスにできてないんだから
「防戦一方」と言って差し支えないだろ。佐久間甚四郎による大高城の奪還も、奪われた土地を奪い返しただけだし。

>>苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋と書いているのはつまり自分の城が織田に攻められた時に駆けつけたが織田軍に封鎖され城を失った

そもそも刈谷城が織田方に奪われたなんて一言も書いてないだろうがw 曲解もここまでくると芸術だなw

>>城からの収入じゃなくて今川家の蔵から吐き出してるじゃんよ。

城から収入が出ないのは当たり前だw そこは刈谷水野氏が城主であって
松井宗信が実際に支配して領地を統括していたわけじゃない
今川軍の重臣である松井宗信が刈谷城に在陣していたことが重要なんだろ
刈谷城が織田方ならこんなこと起こらねーよw

>>まったく根拠なし。願望妄想そのもの

根拠大ありだよw三河海東記では
「松平同年八月十六日註 御父弘忠公御病死。 (中略)去程に信長家臣佐久間甚四郎と云者、
尾州大高の城に押シ寄セ攻メ取ルに、兵甲斐無き者共にて、逆茂木一重破リ捨テ、城中ニ切リ入リ、
究竟の兵共廿五人討取リしかば、士卒は残ラズ駿河にぞ引キ退ける。 」とある。
大高城に詰めかけている兵が、なぜ遠い遠い駿河に撤退するんだ? 今川軍の兵でなければこんなことはありえない。
つまり大高城は国境争いの前から今川軍の領土であり、ここをいったん奪回されたから刈谷赦免で戻ってきた。
ちなみに刈谷赦免後の大高城であるが、三河海東記では
「去程に永禄元年四月下旬に尾州知多郡大高の城に、信長家人佐久間甚四郎七十騎にて押寄、鬨を上げ矢叫声、山河崩るゝ計也。城には驚き追手に切て出、散々に戦ひけり。
敵も切入突伏、半時計ぞ戦ひける。されども城には小勢なり。寄手は大勢、此ノ如ク真先に進む大久保五郎左衛門、渡辺忠左衛門、
土居新左衛門、平岩七之助、天野清介、小栗又一、榊原小平太、本田吉衛門、柴田七九郎なんぞ命を捨て突入れける故、城方大半討すて、佐久間甚四郎は清須に引退ける故、」とあり
刈谷赦免以降桶狭間の戦いが発生するまでずっと今川軍が大高城に詰めかけていることがわかる。
大高城が佐久間甚四郎の手に奪われた後、なぜか桶狭間の戦いでは今川の味方をした松平勢が詰めかけている。
他に大高城を争った形跡はない。刈谷赦免の際に大高城を交換条件とするしか今川軍が大高城を手に入れる術がないわけだ
254人間七七四年:2013/12/08(日) 22:05:14.10 ID:apKu9x1h
そもそも織田信秀時代から大した領土持ってない
所詮敵の混乱に乗じて城を取っただけであって維持できる地盤もないからな
安祥城も大垣城も最終的に奪われてるし、尾張も岩倉織田家とか水野とか織田本家とか
地方領主が山ほどいる。こいつらは別に信秀の家臣でもないから、信長の地盤になりようがない。
255人間七七四年:2013/12/08(日) 23:26:00.02 ID:ap7cxmUx
信長が凄いのは桶狭間だけ
あとは家臣に恵まれただけ
256人間七七四年:2013/12/08(日) 23:32:02.12 ID:ejOFUZEa
その家臣を見出したのが信長なんだけどな
257人間七七四年:2013/12/08(日) 23:44:23.88 ID:ap7cxmUx
その見出した家臣に殺された信長
258人間七七四年:2013/12/08(日) 23:55:40.72 ID:ejOFUZEa
結果論
259人間七七四年:2013/12/09(月) 00:07:28.56 ID:RYOR2mWX
そう結果として明智だっただけ
あんな家臣の扱いではどのみちああなる運命
260人間七七四年:2013/12/09(月) 08:13:54.32 ID:3UN7rGsu
織田の家臣なんて雑魚しかいないじゃん

中央佐久間軍団
 武田信玄にボロ負け、本願寺戦でも失敗し更迭
北陸柴田軍団
 上杉謙信にボロ負け、加賀を放棄し越前に長期引きこもり。上杉の内乱につけこんで佐々長縄・神保・長の活躍などで
加賀能登越中を火事場ドロするも、上杉内乱が収束に向かいだす天正8年半ば〜本能寺前の2年において越中中部〜魚津・松倉の短い区間で2年も
立ち往生(しかも上杉は内乱直後で疲弊しきった状態で下越に反乱者、天正10年からは信濃と下越・上野との4方面対策)
東海信忠軍団
 武田信玄に岩村城を簡単に奪われ、長期引きこもり
 主戦場はほぼ全て徳川家康が担当 。援軍なしの岩村城に半年ももたつき最後は騙まし討ちで何とか開城
畿内明智軍団
 強敵のいない丹波で大苦戦。2回も敗戦する。
山陽羽柴軍団
 強敵毛利輝元にガチンコ負けして西播磨から敗走、上月城まで奪われる
 激戦区は宇喜多直家と長宗我部元親任せ。三木攻略に信忠の援軍を受けながら2年ももたつき、鳥取でも4か月ももたつく。
清水宗春・補井田元清にも駆逐され、備前児島・忍城・祝山などを奪回される。
関東滝川軍団
 20そこそこの氏直に対して緒戦で上野国衆10000の敢闘を得ながら、本戦で氏直の偽退却戦術にかかって6000人戦死の大敗。


同盟を取捨選択する手腕だけは凄いけど、基本的に戦は弱かったよな
こんな雑魚家臣を率いて領土を尾張半国から750万石まで広げたんだから信長がよほどチート有能だったのがわかる
261人間七七四年:2013/12/09(月) 08:20:08.71 ID:unjJBzZa
織田軍は信長がいない所ではゴミみたいに弱かったけど
信長さえいれば結構強かったからね。いかに信長依存の軍隊だったかわかる。
262人間七七四年:2013/12/09(月) 08:26:37.74 ID:GfIj1hMJ
信長は新自由主義者
坊主や幕府や朝廷の既得権益を許さず
徹底的に潰して商人に売りさばいた
商人は喜んで信長に従った
今も昔も商人を抱き込めば天下が取れる
戦前のイギリス、アメリカや中国のように
263人間七七四年:2013/12/09(月) 10:19:00.43 ID:kPDKpuO6
武田勝頼は決して凡将ではなく、家康や氏政らを押しまくった名将だったが
信長にかかれば赤子の手をひねるような相手でしかなかったからね
264人間七七四年:2013/12/09(月) 10:36:23.56 ID:HonsSIHP
>>柴田や佐久間次右衛門もちゃんと城や地盤を持ってるんだけどな
そんな一次史料ないし。勝手に妄想を広げるな。
>>東の加藤家に対して信長と対抗するために
だから本家の熱田八カ村の管理もしてる西加藤家へは信長、
分家の東加藤は信勝によって分掌されていただけのことだ。
東加藤なんてなんも力がないじゃないか。
さらに天正20年9/20熱田神宮座主に対して備後守並びに三郎の先判の旨に任せ?
と信勝が出してる書状あるように、まだ信秀が生きているし、
信秀の名乗りであった三郎を継いだ信長より下位にいるのは明白で序列がはっきりしてる。
弾正忠を名乗るくらいなら備後守を名乗るだろwそもそも信長は存在しない架空の上総守などと完全にウリジナルを名乗ってるし。
>>天文22年の勘十郎判物
信秀任先判之旨免許舟之事
信秀生前は備後守と書いていた信勝だったが、亡くなったので官名で書かず信秀と書いているだけのこと。
明らかに信秀がすでに死んでいることの証明じゃないか。なんでこれをもって天文21年死没を否定できるのか意味不明
生前から信秀が信勝を優遇してるとしたらかなり無礼な書き方だよな。 やはり信秀は信勝を優遇なんてしてないわな。
>>勘十郎が守護代家と結びついたのは
はいはい妄想乙w達の字に改名したことからの連想ゲームですねw
じゃあ信長に左遷され竜泉寺城主織田武蔵守信成に成り果てた信勝の「成」は誰からもらったのw
弾正忠も軽く捨てて武蔵守を名乗ってますけど、弾正忠にどれほどの価値があったんすかねぇw
なんかその後もテキトーな妄想を書いてるようだけど、結局、信秀が信勝を信長の対抗馬にしようとは
思ってないし、信勝も信長配下として働いている。その良好な関係が崩壊したのが道三の強制隠居劇と義龍の政策にリンクしてるだけ。
誰に利用されてるとか利用してるとかどうでもいいよ。信秀がそう仕組んでいたのではなく、信長が大うつけで尾張の結束を崩壊させ
道三の後見が失われた時に、ついに信長の味方だった信勝もついに信長を見捨てざるを得なくなったことが理解してもらえたら。
>>斎藤義龍は数年前に親の道三を排した直後であり、尾張の情勢に構っている暇はない
弘治3年4/19には当時は高政と名乗っていた義龍が尾張武蔵守宛てに書状を出してるのが残ってるのも知らんようだな。
様子を伺いたい。こちらから派遣した使者に伝えたいことはすべて申し伝えているので、直接聞いてください。
これからも重ねて連絡するので書面には詳しく書くのを避けます。
あきらかに怪しい文面だよな?義龍は尾張情勢に干渉してんだよ。当たり前だよな、失脚させた父が後見していた信長を放置できるわけがない。
委曲申含進之候なんて思いきっり怪しいだろ。
じゃあこの書状の評論した横山住雄氏のコメントも紹介しておこう
「文面に詳しいことはまったく書かれておらず、密書的色彩の濃い書状になっている」
一般常識ある人間ならそう解釈するわなw曲解するアホには単なる挨拶に見えるんだなw
でさ、織田が大垣城を失ったとする一次史料はまだなの?まさかまた妄想を重ねてるの?
道三の大垣城攻撃から信秀が守りきった→信長と濃姫の婚姻→道三の信長後見
この流れでいつ大垣城が道三に襲われて奪い取られるんだよ。妄想もいい加減にしとけ。
信秀は天文18年春あたりから体調を崩してから(美濃国諸旧記)
信長への権力移譲を少しずつ開始していて後見役として、自分が死んだ後も信長が安心して統治ができるよう
親心として内外の問題を解決する方針に変更していた。
美濃では婚姻同盟を結び、北条とも通信し、
美濃と尾張の協調を背景に三河戦線では今川に同盟したいなら刈谷城を水野に返すように迫り
朝廷が和睦するように申し出ても拒否していた今川だったが、信秀の恫喝の前には城を差し出す
これで岡崎が動揺して東条松平家の甚二郎が織田方になっちまって、あわてた岡崎城代たちは甚二郎の弟を引き上げて兄跡職を給与してる。
美濃では大垣を確保し稲葉山城を牽制する状況で道三を折れさせて濃姫を人質に同盟
三河では水野氏を以って三河西部に足がかりを残し、信長は万全の体制のまま引き継いでる。
(今川は北条が駿河や遠江の国人と内通していたりと地盤が弱い)
265人間七七四年:2013/12/09(月) 10:40:08.71 ID:HonsSIHP
そりゃ信長がチートスタートなのははっきりしてるだろ。
そもそも信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
後世に作りだされた写し以外の原本確認できる一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。

そもそも米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。

信長は尾張や三河の水野分や身のの大垣城分もあるので初期段階で75万石
しかしアホ無能だった信長を支えてきた後見役の平手や林が呆れ果ててしまうほどで
せっかく信秀が信長に残したものがどんどん失われていく。
特に後見役道三が信長保護に全力を尽くしたために義龍に打倒されるや
尾張は崩壊を見せ、義龍は信長の弟へ取次役を通さず直接書状を出すなど
離反策を推し進め、義龍が当主だった実質4年の間に信長は義龍によって
尾張の半分を奪われてしまう。しかし義龍が急死し無能幼君の竜興が斉藤を継いだために信長は滅亡せずに済んだ。
織田厨の無知さは義龍によって尾張半国が奪われたことを
知らずに信秀が失っていたと思い込んでいて
しかも指摘されても認めず、信秀は無能ニダ!信長天才ニダとキモイ発言を繰り返していること。
だいたい信長伝説(笑)が一人歩きしててどうしようもない。
たとえば岐阜の命名にまで天下統一の野心が伺えるとか
平気で書いちゃうのがエセ歴史家だからね。
そもそも快川やその師の仁岫らが岐阜を仏教の力で守護するという意味で
護阜という名称をずっと使ってたのも知らんで
信長が名称を改めたって主張する信長公記のデタラメを妄信してんだから。
はっきり言ってこれ美濃で力があった臨済宗への信長の媚び諂いでしょ。
266人間七七四年:2013/12/09(月) 10:41:51.75 ID:HonsSIHP
清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統は天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に消え去るので間もなく死去と思われる。
清洲城主尾張下郡守護代織田大和守信友は架空人物。
岩倉城主尾張上郡守護代織田伊勢守信安や子の信賢も江戸期の軍記の架空人物。
織田信清も軍記の架空人物。ただ犬山城は金山城などと共に斎藤氏が信長から奪って支配していた可能性が高い。
織田信光は名古屋城で信長に暗殺されたっぽい。
斎藤氏が短命で滅亡したが行政文書は義龍時代に集中して遺っている。
下々の意見をすくい取り自ら政を重臣に諮る英邁な主君であるのは間違いない。 信長とはえらい違いだ。
この改革の中で別伝の乱という宗教対立が起きる。道三は日蓮宗だったが、最後まで厚遇姿勢のままで、
土岐成頼や政房や斎藤妙椿や妙純などの妙心寺派を統制できなかった。
この宗教権威への介入のため義龍は妙心寺四派のうちの霊雲派の別伝を保護し伝燈寺を開創した。
禅宗寺院の寺統権を新設された寺燈寺に任命するやいなや
土岐や斎藤に創建され尊崇を受けて来た東海派の瑞龍寺が反発。
これに同調し聖沢派や龍泉派も怒る。
そして彼らは崇福寺の快川紹喜の主導で永禄四年1/5尾張犬山の瑞泉寺に出国して会議を行い対抗。
義龍は通達は別伝が勝手にやったこととして撤回したが、 別伝の僧籍削除には断固反対し
義龍は別伝に勅願寺と紫衣着用を奏請し、さらに4/30には将軍義輝にもこれに福書してもらうことで対抗。
しかし対立中に義龍が5/11急死してうやむやになり出国していた諸老も帰国し別伝が逐電。快川は甲斐に行った。
義龍の急死で斎藤氏の宗教統制の挫折となったのは痛かった。
しかし信長がただの不良からヤクザの親分になっただけに比べて義龍は名君であるのは間違いない。

内政すらロクにやってないアホ長と違って義龍は優秀だな。
幼君の龍興が稲葉山を乗っ取られたりと美濃国衆が斉藤を見限り始めたりと信長はホントに運がいいな。
考えてみたら長尾家も家格を引き上げたり、 将軍から朝倉孝景に続いて白傘袋や毛氈鞍覆を
下賜してもらうことで守護の同格の権利を認めてもらい 天皇から治罰綸旨を頂いていながら
為景は家格の高い上条に組みする国人と対抗した挙句に結局、守護上杉方に敗北してるし、
景虎時代にも同じことをして上杉行政府たる公銭方の爆弾を抱え関東管領の養子になってまで家格を引き上げたもんな。
越後が完全統一できたのは天正3年に新発田・竹俣ら国衆が謙信政権に参加した時とされてる。
(白傘袋や毛氈鞍覆をもらって守護権力と互角にしようと努力した守護代家は朝倉の他には赤松の守護代の浦上や大内の守護代の陶・杉・内藤)
信秀の時代にはすでに斯波守護権力は完全に解体されてるし 家格も財力を背景に朝廷工作して三河守まで貰って今川を牽制してるし
(のち三河守を家康に取られて自分が格下になったことを知り慌てた信長・・・)
すべてを解決して信長に引き継ぐ時には 道三の後ろ盾、義元とは家康を返却した時に和睦してるし
その後には内裏修繕費用を献上してもらいたい天皇の仲介により、今川方が信秀の要求に従い水野へ城を譲渡する形で信秀と和睦同盟してる。
信長公記でも信秀が晩年疫癘に御悩みなされ、ご祈祷や治療をさまざま試したが御平癒なくついに亡くなったと書いてるから
死ぬ前の闘病生活の期間を通じて信秀は嫡男のために心配がまったくない状態にして死んでる。
267人間七七四年:2013/12/09(月) 10:43:43.72 ID:HonsSIHP
信長の場合は斯波氏が永禄7年(1564年)に事実上の廃止事件が起きてるからね。
義輝によって武衛斯波義廉邸を没収され、将軍の居邸が造営されてしまった。
これで尾張支配は信長で一本化している。
おかげで信長の上洛の時も畠山高政・昭高親子と細川昭元の三管領家は論功行賞にいたが、斯波氏は消えていた。
それどころか天皇の勅旨で彼らのさらに上の副将軍に信長がいる状態になった。
信長は天皇の鶴の一声で絶対に越えられない家格の壁を打ち壊し、織田家を副将軍になれる家格に引き上げてくださった。
これだけのチートを信長は与えられたのも、父の信秀が生前に非常に勤皇だったことを評価されていたから。
父の七光りで、信長は超チート力をもらっていて、これだけのすさまじい付加能力を付けてくれれば
誰でも苦労なく覇権を確立できるわな。 斯波氏は三管領筆頭だからな。
事実上、織田が斯波氏を上回る家格になったことで、 畿内国人たちが信長の命に従うことを天皇が命じたも同然。
この時点で、義尋を傀儡に信長が死に体のまま幕府運営することも可能になっていた。

道三の美濃統治は不安定なもので、
木曽川長良川の大洪水と六角や朝倉や織田の攻撃による相次ぐ戦乱により、
美濃で大量の餓死者でた天文21年6月に六角が頼芸支援で攻め込んだ。
この戦いののち道三は頼芸を追放するが
越後で長尾氏が上杉の支配機構を解体出来なかったように、
斎藤氏も土岐氏の支配機構は解体できず
かと言って道三には民政の新しい施策も全くなく結局、
重臣達により国主たる資格なしとして、
天文23年3月に道三も隠退に追い込まれる。
そして最後は甲斐を追放された信虎と同じく
追放か抗戦かの選択で道三は抵抗を選び討ち死にした。
ちなみに1554年に道三が隠退した翌年に
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、
捏造信長公記は父殺しイメージを押し付けてるが
この使用し始めた段階ではあくまで道三は隠退しただけで死んでないし
父を殺した范可なんて人物も史記などにも存在しない捏造。

道三独裁から重臣たちによる擁立となった義龍政権は行政を刷新し
1558年を中心に義龍は施策を次々に打ち出し
最高意志決定機関の宿老制が完成し、
用水相論の裁許を重臣連署で解決(用水相論解決は一揆的結合の浅井などでも見られる)
立政寺の門前の池で鵜を飼い網を引くのを禁止した制札も連署。
これは土岐氏の官僚機構を
国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していく動きであった。
永禄三年には印判状という文書形式を導入。
知行あてがいも貫高制が導入され
重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系が構築されていく。
さらに上洛し将軍相判衆になり美濃国主に正式に認められ、
伊勢や近衛との縁組など家格を上げる努力をしているあたりは
越後統治の正当性を求めて対立する国人を取り込みたい長尾家と同じ動きである。
信長にはできない状態の中で義龍の矢継ぎ早の改革は評価されるべきだろう。
さらに道三への援軍でやってきた信長を危険視し、
弘治三年4/19付け高政書状(義龍)などで
末盛城主織田武蔵守信成に(信勝。通称だと弟の信行)
書状を出すなど尾張での反信長蜂起を策動し改革の邪魔をさせないよう信長を牽制。
268人間七七四年:2013/12/09(月) 10:45:00.88 ID:HonsSIHP
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し道三という信長保護後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
当時の斎藤は浅井と戦っていて、六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、尾張を戦わずして勝つの深慮遠謀の策を以って内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。
269人間七七四年:2013/12/09(月) 10:45:46.36 ID:HonsSIHP
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
270人間七七四年:2013/12/09(月) 10:46:46.29 ID:HonsSIHP
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。
271人間七七四年:2013/12/09(月) 10:49:54.78 ID:HonsSIHP
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
つまり公記の記す信長の尾張での内戦話がほぼデタラメなのがわかるのである。
272人間七七四年:2013/12/09(月) 11:46:14.54 ID:uX719id7
>>250
信秀判形の通りの文面があるから、
元気な信秀が信長を傀儡にして、
信長本人も遠慮していると言うキチガイ理論が通用するなら、
天文22年12月に信長が津島社に出してる書状も、
信秀任判形って書いてあるから、
いまだに信秀が元気に生きていることになるなwwwww
織田チョンってアホ過ぐるwww
信秀が死んで間もなく、
天文21年6/22に道三が織田秀敏に、
若輩新当主信長の評判の悪さを心配してる事実も無視かw
273人間七七四年:2013/12/09(月) 12:17:34.78 ID:J4cPuZ28
>どういう基準の上で遅いと判断しているかまったく説明なく恣意的にお前の願望基準で書いてるだけ。

いやそこは普通に考えてくれよ。他の大名と比べてに決まってるじゃないか。
北条氏康は北条氏政の後見を5年ほど見ているし、形だけの隠居を取って長年後見に回った当主も多い

>それを以って後継者確定としている(信勝の妻との差は歴然)

外交関係を考慮した婚姻関係と当主権力の拡大は全然別問題でしょ
武田義信のように今川の娘を娶っても家督を継げない例だってあるし、
今川義元は逆に大した正室を得ずに当主権力を得ている。
そもそも織田信勝にしかるべき正室を意図的に娶らせなかったとする根拠は?
信長の方が兄貴だから先に回ってきただけ、後々しかるべき正室を娶らせる予定だったとも言えるが。

>もし弟を家督争いに参入させようと謀略を練るのなら、そもそも弟の婚姻相手を道三に対抗できるだけの権力を持つ者の娘を選ぶだろうが。

家督を継ぐことと正室の実家の権力は一切関係ない。そんなもん当主就任の後からいくらでも選べる。
正室の実家の力が頼り、というならそんな正室のいない今川義元は敗死してるし、
斎藤をアテにできなくなった後に家督争いした織田信長も敗死してる。あくまで外交関係が要。

>お前は丹羽隼人佐なる謎人物が義元から書状をもらったことを

丹羽隼人佐は謎人物でもなんでもない。れっきとした丹羽家の姻戚にある名家。
豊明市史の今川義元判物では「右、去六月福外在城以来、別令馳走之間」という記述があり、
丹羽隼人佐が福谷城に在城していたことがわかるのだが、この三河福谷城は
件の丹羽氏勝が在城している尾張岩崎城、丹羽氏秀の尾張藤島城と目と鼻の先にある。
そこまで岩崎まで接近するくらいの城に今川義元の影響力があった、とするなら岩崎城付近まで今川義元の影響力があっても不思議ではない。
実際岩崎方も今川に接近しているしな。

>またその地が戦乱で維持できなくなっても安堵状だけはもらって土地所有権を主張しようとしていた。

安堵状を頼りにするなら、猶更その安堵状を出した主に尽くさないとダメでしょ
縁もゆかりもない人間が適当に出した安堵状を見せつけて、なんの効果があるのよ
当然、安堵状通りに事が進まなかった時に、その安堵状を出した人の軍事力をアテにするくらいはするでしょ

>状況からそう解釈jしてもなりたつ。

織田方に城を奪取されたのに功績に入るの?そもそも今川氏真判物には「苅屋在城以後弐万疋」の文字があるんだけど
あと気になってたけど>>180の「苅屋在城していた時に2万疋、最近は1万疋というように」というのは完璧な誤訳で
その後の「彼三万疋、以蔵入雖出置之」が示す通り、実際には1万疋が追加されている形になる
城を奪われたのに俸禄が上がるのか?

>文脈的には城を失ったから代わりに蔵から手当てが出るように変化したとも

城が奪われたのに俸禄が増える形になってますけど・・・
274人間七七四年:2013/12/09(月) 12:20:06.64 ID:J4cPuZ28
>お前それ永禄3年の書状なのも知らんのかw

水野十郎左衛門と今川義元の書状は年次不定だよ?
豊明市史や愛知県史では永禄三年だとしているけど、岡崎市史では永禄二年以前のこととして
そして両方とも、具体的な年次の比定は避けている。最も、年次などより
今川義元が尾張に攻め入る気が合ったか、という問題だけどね。

>>お前さ、名古屋城ってもともと誰のものか知らんのかよ。義元の弟の城だぞ
その義元の弟である今川氏豊も奪ってるんだけどね。
もともと、今川氏豊が勝手に城主になったわけではなく、那古野家の養子になっただけで。
そしてその那古野家は、後に織田信秀と織田信長が取り立てている。
先代にポッと取ってすぐ奪われた土地を、今川代々の土地と言うのはなあ。
まあ、那古野家も遠い遠い先祖でなら今川と血縁があるから、言えなくもないけど。
>そもそも兄の新九郎が亡くなったことを受けて、氏政が新九郎の名を継ぎ

信長にも兄貴がいるんですけどね。そもそも新九郎が死んで急きょ跡継ぎ指名された北条氏政より
最初から後継者にされていた織田信長の方が後見期間が短いとかどうなんでしょうね?
それ盤石な体制って言えるんですかね?

>意味不明。謀反をたくらんでおいて家督継げるわけねぇだろ。トンデモ話か何かか?
つまりそれだけ正室の実家の権力なんてアテにならないって事でしょ。
あくまで当主権力を決めるのは武田義信の場合、武田信玄の差配であって今川氏真じゃなかった
それはつまり斎藤道三の娘を娶る織田信長と、一応姻戚関係は結ばなかった織田信勝の差もさしてないことになる。
武田信玄が義信を幽閉させて勝頼に織田の養女を迎えたように、織田信勝も家督継いでからどこぞの有力な娘を室に入れればいい

>これも兄の死という特別な事情からだろ。
騒乱の時には正室の権力なぞ不要と言う事例なのだけどね

>はいはいデタラメ乙w
逆に丹羽隼人は誰だと思ったの?
君は年次不定の書状を、他の史料ではこう比定して書いてあるから、としているけど
それなら丹羽隼人佐は、岩崎丹羽氏の1人として比定されている史料が多いのだけど

>実際にはみよし市にあった福谷城との距離は目と鼻の先じゃねぇよ。
最短距離で川の西側にある岩崎城と福谷城は約6qしかないよ?言うまでもなく川の東側にある藤島城にはもっと近いよね?
あくまで距離の話だから要害かどうかなんて関係ないよ。日本で川が流れているところに城を建てるのは常道だし。

>上の人も指摘してるが、在城時と近年で時代区分を分けている。
刈谷城の城主は刈谷水野氏だから、いつまでも松井が在城できないのは当然だよ?

>そりゃあ松井の功績は七か条に及んで書かれて大きく評価されてるじゃん。
だからといって城を奪われたのに増やすんですか?そもそも今川義元が死にかけの織田信秀に
城をタダで返すほど、この時の今川軍って危ない状況でしたっけ?

>大幅に年次確定作業を完成させてる。
現実問題としてそもそも豊明市史と岡崎市史だけでも年次が異なってるし
(前者は永禄三年、後者は永禄二年以前)両方具体的な名言は避けてるんだけどね。

>新修名古屋市史でも今川那古野家と書いているので、今川とまったくかかわりがない家ではありませんが。
今川家との血縁といっても、室町時代初期の名越高範の母親が今川氏の人間だったことや
今川氏に庇護されて育てられたという縁があるだけで、代を下ったそれ以降ほぼ無縁のはずなんですけどね。
275人間七七四年:2013/12/09(月) 12:43:34.07 ID:uX719id7
>>253
備後守併三郎任先判が正しい文章だアホw
かってに文章改変して信秀の先判に捏造すんな。
信秀と信長の先判って書いてんだよクズ。
つか、丹羽氏の水争いや三河海東記なんて一次史料じゃねーだろ。
クソ資料まで持ち出してもう必死にしか見えんw
天文19年の今川軍の大軍の尾張への侵攻を新修名古屋市史が誤伝と否定してるし、
おそらく越中の僧の噂話からの派生だと思われるからそれには同意するが、
百歩譲って事実だとしても、
信秀は寄せてきた敵を国境で支えきったって話なんだから、
尾張の領地を取られてすらいないし、
義元は信秀懇望だから和睦したと面目から虚勢張ってるが、
実際はそんな単純な話じゃなくて、
完全に信秀に外堀を埋められ和睦に応じる他ない状況に追い詰められてるのが義元。
それは後奈良天皇と四辻季遠と
足利義輝と近衛植家と
六角定頼と春蔵主が信秀側に立って圧力かけてんだから。
朝廷も幕府も今川の暴挙にかかずらわっていられなかったの。
なせなら信秀が集中して斎藤道三への土岐頼芸入国交渉が山場で、
信秀の邪魔されたくなかったから。
話がまとまったら信秀を中心に近江、美濃、尾張の兵を以って三好への牽制にしようと義輝は考え、
朝廷は戦する金あったら無事をまとめて御所修理費献上しろって話。
だから今川が織田の懇望を受けてなんて主客転倒した馬鹿な話は成立しねーんだよ。
276人間七七四年:2013/12/09(月) 12:47:00.39 ID:c/WgjKNC
東スポ以下
277人間七七四年:2013/12/09(月) 12:52:40.98 ID:HonsSIHP
信秀は1541年伊勢神宮遷宮の際の材木や銭七百貫文を献上だけでなく朝廷に献金でも日本一。
朝廷に献金した金額ランキングが載っています。
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
今川とも竹千代交換して和議が成り、信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」

信長って永禄2年2月の上洛の時、
公家たちに田舎者基地外軍団ガチきめぇとか思われてんだよな〜。
言継卿記に五百計り引き連れてきたが異形者多いって悪口を記されてるぐらいwww
都会で反社会的な不良チンピラを演じて、
風流かつ雅な歌舞き方を知らず誤解したダサい歌舞き方をしていたんだろうね…寒くて痛いガキ信長軍団。
所詮、信長は和歌すら出来ない文盲だから仕方が無い。
道三も天文21年6/22に、信長のことを外聞が良くないので、こちらも迷惑しているが、
関係が悪化するようなことにはならない。 それどころか捨て置けないので、
相談が必要だよ。まあ信長様は若年なので、
我々が多くの苦労するのはもっともなことだからねって、
織田秀敏に宛て、信長を皆で支えていこうって説得してるしな。
これが信長公記でデッチあげられた信長と道三の会見の元ネタだしな。
桶狭間の戦いを機にやっと家康が岡崎支配を開始なんてのもウソで
事実は今川がノリノリで後援してくれたので、
永禄2年5/16に家康は三河の家臣団へ向けて家中の掟を明示して、
のちの自立に向けての支配統治を開始してる。
278人間七七四年:2013/12/09(月) 12:54:39.91 ID:HonsSIHP
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
279人間七七四年:2013/12/09(月) 12:56:56.78 ID:HonsSIHP
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
伊勢湾貿易の富を独占し商業収入を含む日本一豊かな尾張一国
三河の水野氏の隷属
美濃大垣城
娘婿になったことによる強力な道三の後見
竹千代譲渡による今川との和睦
竹千代を戸田康光が奪ってきて織田家に引渡した際に
即金で千貫文を払ってるくらいバブルなのが信秀。
こんなに親父が信長のために遺してくれたのだから日本一恵まれてるのが信長。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除圧力に追い込まれた無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
今川も別に尾張方面へ調略してた一次史料もなく、どう考えても愚主信長を見限り
今川方に鞍替えしただけの話で、それに対して信長がパブロフ犬のように条件反射で
包囲して砦を構築したから、義元も後詰めをしなければ面目を失うから出てきただけで
今川軍を呼び込んだのも信長本人の悪政が原因であり、それまでは今川と織田の和睦は継続していた。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田弾正忠家が高収入源の商業都市津島や熱田を支配しまさに隆盛拡大発展期に入り、
織田弾正忠家の力のみで周辺諸国の国持ち大名とガチで戦闘が行えるまでに成長する。
さらに円滑に家督を継いでいた信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、
この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。
280人間七七四年:2013/12/09(月) 12:59:04.36 ID:HonsSIHP
ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していて東アジア最高の土地になってしまいとてつもないものだったろう。

父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。


私が思うに信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶 と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで
死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。 これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
281人間七七四年:2013/12/09(月) 13:50:38.44 ID:Ztvop/iJ
なるほど
有り余る金で戦乱を撒き散らし拡散させた基地外信長と
家の懐も考えずおだてられるままに周辺と戦争したバカ晴信と
趣味の戦争と酒を満喫して酒で死んだとされるカゲトラちゃんなら
トラチャンが一番立派だな
282人間七七四年:2013/12/09(月) 13:55:34.91 ID:J4cPuZ28
水野氏の本拠は尾張知多郡なので、尾張一国の中に水野氏の勢力も入ってますよ
もちろん三河にも水野氏の勢力はありますが。
そもそも織田信友や織田信清を差し置いて尾張一国全部支配できてたんですかね?
それは悪弊と言うよりは、北条にかぎらず普通のこと
当主の元気なうちに家督を譲って、後見して経験を積ませつつ、
自分が死んだ後も政権がスムーズに運営されるって形

ちなみに氏康が隠居した理由は飢饉だからって説がある
いわゆる天道思想って奴ね
だもんで投げ出したんじゃなくて、
新体制の元この問題に頑張って取り組むからよろしくね!って対内的なアピール
もともと権力を移譲するつもりはないので引き続き政務を仕切ってる
徐々に権力を移譲していって、死ぬ直前辺りに病気でどうしょうもなくなって政務をしなくなっていったわけ
通説となる死亡年は天文20年3月だよ(「桃岩寺位牌」「張州雑誌」等)
もっとも、信秀の死没年は天文18年〜天文21年説まであるけどな
283人間七七四年:2013/12/09(月) 13:57:34.11 ID:J4cPuZ28
織田信秀死没年が天文21年だとする際の根拠によくつかわれる「万松寺過去帳」
ところが、万松寺位牌では織田信秀の死没年を「天文20年」と記されているんだよな。
同じく「桃岩寺位牌」でも織田信秀の死没年を天文20年としている。
おまけに一次史料と言われる「石山本願寺日記」でも同年五月二日に「今日頭人尾州国中十六日講衆は、錯乱に依り」と
織田信秀が死んだ後の混乱が生じたかのように書かれている。天文21年の記録は、「織田信秀の葬儀の記録」だろう。
付け加えておくと丹羽家譜天文廿年によれば尾張藤島と尾張岩崎の
丹羽氏秀と丹羽氏職が抗争を繰り広げているが、この時の記述では
「尾張藤島城将丹羽氏秀、織田信長ノ援ニ依リ、其カ宗家、同国岩崎城将丹羽氏職ヲ攻メテ敗績ス」とあるんだよな。
織田信秀が生きていれば「織田信秀ノ」でいいものを
「壬子 廿一 三月九日ニ織田備後殿死去、」の記述だけなのに随分強気だね
そもそも天文20年説の根拠は実際に信秀の死を見とって葬儀の交渉に携わった
萬松寺と桃岩寺の位牌が大根拠で、信長公記は全く関係がない。

あと、史料を抜粋するのならちゃんとやれ
天文21年10月2日の石山本願寺日記には「飢餓『乱世』に依り、唯今四百4疋これを上す」だ。
ちゃんと『乱世』も原因であることがきっちり明記されている。戦闘が行われているということは
すなわち「信秀が死んだため」ともとれ、この混乱が同年5月2日に
「頭人尾州国中講衆、使者を以って申す事には、去年迄は少志これを上すと雖も、今歳の儀は、いよいよ各正体無く罷成るの間、其儀通無く申し上げ候」
とあることから、天文20年から「飢餓『乱世』」による混乱が続いているというわけ。
逆に信秀死没天文20年説の根拠になりうるわけだ。いくら信長が家督を継いだばかりとはいえ、信秀が生存しているのにこの混乱はありえないからなw
「大商業地の津島経済圏への影響力がまったくないことからも」というが
信長公記では「柴田権六、佐久間次右衛門、此の外、歴々相添へ」とある
そもそも信秀死没の地は、勘十郎がいた末森城でのことだしな。
284人間七七四年:2013/12/09(月) 14:13:32.39 ID:uX719id7
木曽川氾濫が原因の飢餓による乱世を、
戦乱による乱世に曲解しててワロタw
つか信秀の死去を天文20年だと主張してるやつは誰もいねーよ。
そんなことしたら史料年代比定の大がかりな大変更が必要になり、
愛知県史とか完全否定になりねないわ。
お前が我田引水してるのがよくわかったわw
285人間七七四年:2013/12/09(月) 14:20:01.78 ID:J/m3uB8v
つか、そもそも織田信友や織田信清なんてロクな統治支配実績すら見出せない無いだろ。
286人間七七四年:2013/12/09(月) 20:27:13.82 ID:J4cPuZ28
天文21年説の可能性については否定しないよ
実際学者の中にも天文21年説を支持している人間はいるし、
名古屋市史でも天文21年説を採用しているよね。

ただこれらの「天文21年死没説」は、実際に信秀の菩提を弔う
萬松寺や桃岩寺で位牌に定める「織田信秀」の「天文20年死没」という事項を
何一つ否定できていないんだよな。ちなみに俺は件の石山本願寺日記を
織田信秀の天文20年死没説の根拠として出しているが、
実はこの史料ももともと「織田信秀の天文21年死没説」の根拠として出されていたもので、
天文21年説では天文20年の混乱を「織田信秀が病に倒れたため」とし、天文21年の混乱を「織田信秀が死んだため」としている。

つまり天文20年説も天文21年説も両方確定的だと言える事項はないんだよね。
だから>>225>>229のような「確定」と否定する根拠もたくさん存在している。それが
「織田信秀の死没は天文21年」と確定事項で伝えられていない根拠。

「信勝に信長と争わせようとする信秀の意図なんて、どの一次史料に出てくんの」

いや、誰もそんなことは言ってない。
俺が言っているのは、織田勘十郎の在城した末森城で織田信秀が死去したこと、
そしてその立場を利用して織田勘十郎は織田信長に対する力を手に入れたこと。
そして、それがなされるほどに織田信長の当主権力はアンバランスなものであったということの3点。

織田信秀が実際に織田勘十郎を優遇していたかどうかは、まずわからないと言っていい。
信長公記では「柴田権六、佐久間次右衛門、此の外、歴々相添へ」と言う待遇を受け
また勘十郎自身も織田信秀の名乗りである「弾正忠」を自称するなど、徐々に不穏な対応を取っていくようにになる。
父親の城を継いだことからによるものか、はたまた信長に対抗するためにそうせざるを得なかったかはわからないが、

最低でも、織田信長と織田勘十郎の歴然たる差、当主として織田信長が織田家を滞りなく運営できる立場を
織田信秀は用意していたわけじゃなかったと言えることは確かだけどね

伊達稙宗と伊達晴宗に近いかな、織田勘十郎はさしずめ、相馬顕胤だろうか
287人間七七四年:2013/12/09(月) 20:27:18.96 ID:wLjnogbk
>>285
それは>>282に期待したい。
288人間七七四年:2013/12/09(月) 20:29:17.47 ID:J4cPuZ28
「そもそも天文20年死没を積極的に支持しえる材料が皆無。」
→織田信秀の菩提を弔う萬松寺と桃岩寺の位牌が「天文20年死没」
 これは「天文21年死没」を唱えるどの提唱者も否定できていない。

「単に信秀の葬儀の後の遺産分けで末森が信勝に与えられたに過ぎん。」
→そもそも信長が絶対的な当主権力を与えられていたのなら、末森を勘十郎に与える必要はない。
 当然柴田や佐久間も自分の家臣として使い、勘十郎につけさせる理由もない。

「柴田や佐久間大学や林の弟なんて地位も職もまったくないただの信勝の家臣風情じゃないか。」
→柴田や佐久間次右衛門もちゃんと城や地盤を持ってるんだけどな。もっと言うと林は勘十郎についてるし

「さらに信勝はずっと信長配下として動いていて、そこに序列を巡る争いの種は一切見つからない。 」
→天文23年には「右遣候免許之旨、相違有間敷上者、於向後、(中略)令免許候、然上者免許令破棄共、不混自余、於末代不可有相違候也、仍状如件 達成」と
 東の加藤家に対して信長と対抗するために守護代の織田達勝と結びつく姿勢を表明しているし、
 それ以前にも父親の名乗りである「弾正忠」を称している。 勘十郎が守護代家と結びついたのは信長への争いのために他ならない
 また筆頭家老の林は天文23年の村木合戦に参加しておらず信長を距離を取り、最終的に勘十郎の味方に付くが、
 これも結局信秀同様の拡大政策を取る信長への反発であり、その根幹は大垣安祥などを失った信秀の拡大政策頓挫から始まっている

「明らかに美濃の情勢と信勝の挙兵はリンクしていて、 」
→リンクはしているがリンクの方向が逆。斎藤義龍が織田家の反発を利用しているのではなく、
 織田家で反発している連中が斎藤義龍の権力を利用している。天文23年の勘十郎の書状もそうであるが、
 信長よりも上位に当たる連中の権力を盾にすることで、情勢を有利にしようとしているのであり、
 言い方を変えれば斎藤義龍しかり織田守護代家しかり、両方とも勘十郎や信広らに「利用されている」であり、巻き込まれている。

「信長による兄弟粛清の荒らしの謀略」
→信長が殺害したのは勘十郎ただ1人であり他の兄弟の死や去就に信長は関係ない
 これを見ても反発の芽を抱いているのは信長の兄弟達自身であり、誰かにけしかけられているわけではない。
 特に斎藤義龍は数年前に親の道三を排した直後であり、尾張の情勢に構っている暇はない。
289人間七七四年:2013/12/09(月) 20:30:25.19 ID:J4cPuZ28
まず基本的なことから述べると、位牌は当人の臨終後(つまり死亡後)すぐに作られる内位牌と
四十九日後の法要までに作られる本位牌があり、位牌は基本的に死んだ人の依り代として作られるなら
これだけ重要な代物だから、位牌は基本複数作るのが基本であり(最低でも寺側、遺族側)、位牌が消失して情報が錯そうしたというのはまずありえない。
当人の死後すぐにその死を看取った人間が作る位牌を「根拠なし」と断ずるのは流石にな
>「いや誰も提唱してるやつがいないのだから事実上20年のは否定されてる。」
→天文21年説も否定されてるんだから両方土俵に立ってない。天文21年説では天文21年10月の信長判物と
 天文20年の信勝判物の表記の差を1つの根拠に論じているが、これでは天文22年の勘十郎判物がなぜか天文21年の信長判物と
 表記が異なることを全く証明できていない。事実上天文21年説も否定されている。
「そもそも各家の累代の記録がその都度、書き加えられ寺社が日付けごとに誰を追善供養するかのチェックにも使われ続けてきた」
→その「追善供養」である「〇回忌」は萬松寺や桃岩寺によると著名なものでも1751年、1801年、1951年とされて
 どう見ても天文20年死没を根拠に織田信秀の追善供養が行われているんですが・・・
「唯一、おかしいことは信長が位牌に無礼を働いて大たわけぶりを晒して評判を落としたくらいなもんだ。」
→一次史料大好きなわりに都合がよければそういう講談に片足突っ込んだ情報は好きなんだなw
 信長が無礼を働いたのはそもそも葬儀ではなく「銭施行」であり、しかも
 「銭施行をひかせられ、国中の僧衆集まりて、生便敷御弔いなり。」とあるように、信秀家臣ではなく僧侶中心の行事。
 しかも勘十郎もご丁寧に佐久間大学などを連れ立っているが、この佐久間大学は跡目争いでも信長に味方してるし
 「例の大うつけよ」なんて言ったのは数多集まった坊主共だろう
「そんな一次史料ないし。勝手に妄想を広げるな。」
→そもそも地盤がなければ戦いにも出れん。柴田がその辺の足軽と一緒に1人で供回りもつけず戦うのか?
 もっと言えばたくさんの地盤を持った林が勘十郎の味方についてるだろう。
「と信勝が出してる書状あるように、まだ信秀が生きているし、」
→天文22年にも加藤図書助に対して「信秀任先判之旨免許舟之事」と出しているのだが
 君の理屈で言えば天文22年にも織田信秀はまだ生存していたんだね?
「弾正忠も軽く捨てて武蔵守を名乗ってますけど」
→信長が上総介を名乗り続けているからそれに対する対抗策でしょ
 しかも武蔵守を名乗りだした確たる時期って晩年の死ぬ間際だし
 軽く捨てたと言う割には約2年近く名乗り続けていたわけだけど
「信勝も信長配下として働いている。」
→いや逆に勘十郎信勝はどこで信長に協力したっけ?
 信長の軍事行動でまともに勘十郎本人が協力したなんて記録出てきたことないけど
 これは語るまでもなく守山城の事件での対応の違いもあるように、基本は柴田が出てるだけだし。
 赤塚や村木に至ってはそれすらない体たらく。
「あきらかに怪しい文面だよな〜」
→本当に適当な日本語訳するの好きだなw
 原文では「近日者不令申候、所存外候、其表相替子細無之候哉、時宜承度候、召遣候者、委曲申含進之候、
 直可被聞召候、猶重而可申入之間、閣筆候、恐々謹言、」で、この記述中に斎藤義龍は
 「近頃は連絡もよこさず申し訳ない、所存の外のことです(近日者不令申候、所存外候)」と書き、
 尾張情勢に疎いことを自ら武蔵守信成に吐露しているんだよなあw で、これが「義龍は尾張情勢に干渉」していた根拠か?w

「でさ、大垣城を失ったとする一次史料はまだなの?」
→一次史料を要求するも何も、この時点で大垣城が織田斎藤どちらかであったの一次史料がないでしょ
 最も信用に足る根拠が「織田播磨守を大垣に入れた」とある、江戸時代作の信長公記首巻の時点で。
 で、それを含む二次史料を含めると、竹腰や氏家に奪われているからそう発言しただけ。
 最も、重要なのは「織田信秀による拡大事業の頓挫」だから、これは加納口しかり対今川しかり言う必要すらないか。
 「織田信秀による拡大事業の頓挫」があり、「織田信秀が病に倒れ」、わずか約2年ほどで「織田信秀が死んだ」という、激変を理解してもらえたら
290人間七七四年:2013/12/09(月) 20:32:58.43 ID:z6SHgUkm
「位牌の日付けが信長公記(3/3死没と書く)を読んでだいたいの年号を想像して」
→何を言ってるんだね君はw位牌は基本どの寺でも当人の死後四十九日までには完成させておくべき物で
 信長が若年の当時に信長公記なんてあるわけないじゃないかw当人の霊魂の依り代とされる位牌を、
 それもそこらの浮浪者ならいざ知らず権力者の織田信秀のものを、死没してから放置して後から適当に作ったとか
 随分ザルな論拠ですなw

「信秀生前は備後守と書いていた信勝だったが、亡くなったので官名で書かず信秀と書いているだけのこと。」
→官位なんて辞任したとかいくらでも言い訳つけられるんだが・・・別に官名で書かなきゃいけない決まりは全くないし。

「生前から信秀が信勝を優遇してるとしたらかなり無礼な書き方だよな。 」
→おや?密蔵院文書によれば天文19年に織田信長が「織田信秀判形」と熱田神宮へ命令していますけど
 当人が生きている(多分)にも関わらず随分無礼な書き方ですね。信秀は信長を優遇していなかったんでしょうねあなたの理屈では。

「遺産相続で末森城をもらったんだから柴田だって兵力を率いることができるようになるだろ。」
→柴田が勝手にあれこれできるわけないじゃないですかw
 仮に柴田は勘十郎の代行だったとすると、佐久間次右衛門や他の家臣は?と言う話ですし
 そもそも原文の信長公記では「末森」を勘十郎に譲った上で、新たに「柴田権六・佐久間次右衛門、此の外、歴々相添へ」となっているわけだけど
 柴田や佐久間が自分の城も持てないような歯抜けならこんなこと書く必要皆無でしょ。末森の中に家臣もいるのだから。

「信勝の末森城の兵力を柴田が率いて信長の戦闘を支援してんじゃねぇかよ。 」
→逆にこれを証明する一次史料は何?もっとも赤塚や村木は柴田も参戦していないので
 どっちにせよ怠慢、反抗的のどちらかには当てはまりますが。

「おいおい書状の冒頭の挨拶部分だけ訳して、その結果を書くかw」
→と言ってもその次の「其表相替子細無之候哉、時宜承度候」を訳したところで、何の変化もないからなあ
 ただ単に出方を伺っただけで、これを指して「斎藤義龍は尾張情勢に積極的だった」なんて妄想も甚だしい>>255
 しかも、わざと冒頭部分を抜き出さず、斎藤義龍が尾張情勢を尋ねた部分を削除して訳す(>>255 )などかなり悪質な抜き方
 そして極めつけは

「文面に詳しいことはまったく書かれておらず、密書的色彩の濃い書状になっている」と
→妄想の箔塗のために「書状になくても そういう意思があったに違いない!」と曲解>>257
 どっちにせよ情報が不明確な史料を持ち出して、しかもそれを一部隠蔽して公表し、
 それを指して勝手な見解を持ち出したのは変わらないね>>255 厳密な精査をしても、結局
 斎藤義龍が、ここから尾張に対してどう動こうか考えていたかは、まずわからないわけだ。

「道三の大垣城攻撃から信秀が守りきった→信長と濃姫の婚姻→道三の信長後見 」
→まずこの「道三の大垣城攻撃から信秀が守りきった」と言うのが江戸作の信長公記首巻くらいにしかない。
 全くアテにできないと断言するつもりはないが、大垣占拠の際に入れた織田播磨守なる人物を特定できておらず、
 また、後世作・二次史料の「信長公記首巻」を使用すると言うことは、他の二次史料も俎上に上がると言うことであり、
 他の二次史料、「徳川諸家系譜」や「新撰美濃志」も引用できることになり、この史料では斎藤道三が奪い竹腰、氏家両氏らの支配があったとされる。
 一次史料のみに限定するなら、そもそも織田方が大垣城を奪ったことすら不明確であり、どちらにせよ断定できる要素がない。
 つまり妄想と言えるのは君の方だね
291人間七七四年:2013/12/09(月) 20:34:54.92 ID:J4cPuZ28
「刈谷城を水野に返すように迫り」
→これも同じ。そもそも水野氏は織田と敵対した安祥松平と縁戚関係で
 当然その場その場でつく方を変える連中。そもそも刈谷赦免は信秀が今川に
 たっての願いとして送られているのが現状で、恫喝なんてもっての外。
 恫喝してすんなり返す馬鹿はいないし、そんな高圧的態度を取れる余裕があるなら自力で奪い返している。
 結局一度は今川那古野氏から奪い、その一族を囲って味方に付けた那古野周辺も、今川義元の力と影響力で徐々に萎んだ上での死去
 安祥城近辺に至ってはとっくに勢力圏外になってるし。

まああと、恐らく知らないようだから付け加えておくけど
萬松寺は織田信秀が建立して、開山に織田信秀の叔父(弟という話もあるが・・・)である
大雲永瑞和尚を迎えて行われている。そんな織田一族が核を成す萬松寺が
親族かつ権力者の織田信秀をむげに扱う理由もないし、一般常識として霊魂の依り代である位牌を
適当に後から作る寺院など聞いたことがない。遺族に激怒されて縁切りされるのがオチ

加納口の戦いや安祥城の戦いは有名すぎるくらい有名だし
信長公記首巻にある大垣救援の時も清洲勢に居城を包囲されて絶体絶命でそ
こっちは信秀の生涯をきっちりと考察してるのに
若干10代の信長を捕まえてアスペだのなんだの言ってる方がよほど恨みが濃い話
まあ本人乙だろうけど
292人間七七四年:2013/12/09(月) 20:36:03.50 ID:wLjnogbk
天文21年信秀死去を否定してる学者は誰なの?
俺が言っているのは、織田勘十郎の在城した末森城ということを示す一次史料は?
「弾正忠」を自称したとする一次史料は?
信秀はなんで後継者信長にはおとなを付けてあげて後見させてあげたのに、勘十郎には付けてないの?
そもそも傍兄には三郎の名を与えず、
信長に三郎を名付けた時点で、
信長は生まれた時から嫡男扱いのまま、何の不安もなく織田後継者になってるとしか思えないけど。
293人間七七四年:2013/12/09(月) 20:36:27.51 ID:gKvvM2NQ
アスペルガーだがが木っ端微塵に論破されててワロタw
294人間七七四年:2013/12/09(月) 22:12:16.24 ID:wLjnogbk
柴田や佐久間次右衛門もちゃんと城や地盤を持ってることを証明する一次史料は?
は天文23年の村木合戦に参加しておらずっていう断定した話にも一次史料の根拠くれ。
つかそもそも熱田の加藤図書助順盛に書状を出したから勘十郎は後継者争いで信長に対抗できる立場って論法が全く理解できないんだが。
それを証明するために順盛宛天文23年12月の勘十郎書状を出しているけど、
その前の10月20日に信長が順盛に書状出しているし、
その後は弘治3年8月11日に織田信定が順盛宛に書状を出してるじゃん。
そして11月25日に勘十郎が順盛宛で出してる。
信長どころか信定まで順盛に書状を出してるじゃん。
もちろん勘十郎は順盛に天文22年10月にも出してるけど、
勘十郎が信秀死後に出した書状はたったこれだけだよ。
こんなんで信長と後継者を争える影響力なんてあんの?
信長はむちゃくちゃたくさんいろんなところに書状を出しているんだが。
それに信秀死去を天文21年ではなく、
それより前の年だとすると、
義元が信秀と和睦するように指示を出している天文20年12月5日書状はどうなんの?
あなたは知らないようだけど、
天文20年って朝廷や幕府や六角や斎藤や土岐を巻き込み、
信秀と義元の和睦交渉ばっかりやってんだよ。
11月5日の書状で信秀が病中なので代わりに織田寛近が土岐へ、
道三と稲葉良通との交渉の様子を伝えてるし。
どう考えても信秀の死去は天文21年しかあり得ないんだけど。
295人間七七四年:2013/12/10(火) 09:41:46.24 ID:Y/rJ2MNy
>>274
お前ほんとうにウソばっかり吐いてんなあ。
天文18年9/5付の西条諸老御中宛の駿遠軍中衆矢文の中で、
吉良と今川の由緒が語られていて、
吉良荘内今川県が譲られ、今川と号し、源義家の安倍貞任の追伐に従い、
代々今川嫡男は龍王丸として、
国氏の孫の範国の時に足利尊氏が天下の政治をした時に、
今川は駿河、遠江、尾張半国、但馬、因幡等を拝領って書いていて、
新修名古屋市史の話は間違ってないんだよ。
そもそも自分が論破されると突然、豊明市史や岡崎市史なんてそんな古いもんを持ち出してきて、
年代は諸説あるとか強弁してきたりと頭がおかしいとしか思えん。
296人間七七四年:2013/12/10(火) 12:21:30.44 ID:dTK2AzSO
村上義清を追い払ったのは真田と矢沢のおかげだからな
真田の弟の矢沢が運よく村上方にいたおかげで、真田は裏切りのツテを簡単に見つけられた
んで矢沢は兄貴の頼みだからと快く了承して城門を開けて武田軍を迎え入れた

この2人がいなかったら信玄は村上すら倒せない雑魚のままだっただろうな
所詮信玄坊主は敵を寝返らせなきゃ勢力1つ滅ぼせない雑魚
それをしてもたかだか90万石ちょっとの雑魚だったけどなw
297人間七七四年:2013/12/10(火) 12:22:51.93 ID:/sulOQqu
斎藤や朝倉が体制ガタガタでもなんの意味もないw
なぜなら武田信玄が戦って滅ぼした相手に50万石を越える大名は存在しないからw
諏訪高遠小笠原と地方豪族レベルの雑魚を倒しただけだからなw

【織田信長が戦って滅ぼした主な相手】

斎藤龍興          →美濃60万石
朝倉義景          →越前60万石
三好義継          →阿波讃岐摂津に約50万石
北畠具教(お家完全に乗っ取り)→南伊勢40万石
六角義賢(+浅井長政)    →足して近江ほぼ全域60万石
武田勝頼          →甲斐全部と信濃上野駿河一部、約90万石

【武田信玄が戦って滅ぼした主な相手】

諏訪頼重          
高遠頼継
村上義清
大井貞隆
小笠原長時
笠原清繁        →  全て足して約40万石
今川氏真        →  遠江一部、駿河で約40万石、しかも追い詰めたのは家康w
298人間七七四年:2013/12/10(火) 15:43:04.53 ID:Oe6WtGv0
アスペルガーだがこと菅沼遼太が俺の過去レスを恨みたっぷりにコピペしててわろたw

>>291
→義元が信秀と和睦するように指示を出している天文20年12月5日書状はどうなんの?

今川との交渉役は山口教継だし織田家中の情報を漏らさなければ可能だろ。むしろ信秀が死んだから戦闘続行が不可能になり和議に走ったという解釈もできる。

→信秀の死去は天文21年しかあり得ないんだけど

俺はおまえと違ってどっちが正しいかなんて正直どうでもいいんだけど、超がつく一次史料の『萬松寺位牌』『桃岩寺位牌』を無視するのはただのごり押し

→こんなんで信長と後継者を争える影響力なんてあんの?

もともと勘十郎の権力背景は同城に存在する(した)父親の織田信秀と母親の土田御前の存在だと思うがね
少なくとも信秀が生存していた間は、信秀と勘十郎は同じ城で住んでいたわけで、当然信秀の権力のおこぼれも享受できる
尤も、「そもそも勘十郎は信長の家督継承に対して反対する意味で反乱を起こしたか」ということについても不明瞭なままだがな
単純に誰かに唆されたというだけなら、徒手空拳でも反乱は起こせるし
299人間七七四年:2013/12/10(火) 17:45:01.81 ID:26rZJ4n1
>>298
信秀が死んでいたのを隠蔽していたとする主張はどの学者がしていたのですか?
隠蔽してたのなら病なんて余計なことを普通は言わないよな。
そもそも今まで死んでたのを隠していたなんて一度も君は主張してないのだから、
苦し紛れに思いつきで言っているのは明らかだな。
そもそも最初の頃の君は、強行に天文21年死没はあり得ないと主張していたが、
論破された結果、どちらでもこだわらないと言い逃れした経緯を忘れたのか?
勘十郎が信秀と土田御前と一緒に住んでいたとする一次史料はまだか?
300人間七七四年:2013/12/10(火) 19:43:32.52 ID:UF3Yc8P+
信秀死去を1年近く誤魔化し続けるなんて無理だろアホ杉w
4/12に伊那の山奥で信玄が死んだのを隠すために
甲府に戻ってから隠居したことにしてた武田家ですら、
4/25飛騨の河上→上杉宛で信玄死去説と病気説で混乱している報告があり、
4/30河田→謙信側近吉江宛で信玄死んだのは確実。詳しいことはまた連絡するって言ってるし
7/13信長→毛利宛でも信玄は病死したって書いていて
7/14には北条氏政が新当主勝頼として起請文を交わして、
わずか3ヶ月で信玄死去を隠蔽するのを諦めてしまってるほどなのにwww
301人間七七四年:2013/12/11(水) 13:08:39.53 ID:dNwDoYag
織田信長のスタートラインも厳しかったな。
同族争い勃発、織田家当主が勤めるはずの熱田への書状発給を弟に奪われるほど。
自分自身が陣頭に立ち、槍振るって戦う雑兵働きまでしてのしあがるところから。
302人間七七四年:2013/12/11(水) 13:10:21.36 ID:PMSC73qr
結局尾張半国からわずか20年で750万石まで急スピードで大拡張した信長は日本最高の名将だったって事だな

甲斐一国継ぎながら120万石どまりの信玄や
越後の富裕地元手にしても130万石止まりの謙信とは比較にすらならん
303人間七七四年:2013/12/11(水) 13:13:04.42 ID:LZ0w4ukD
信長の家督継承はかなりうまくいってるよね。
一次史料を見てると内乱なんてまったく起きてないどころか
永禄元年6月には津島社の祭りを桟橋の上から信長は観戦して楽しんでたり
永禄2年2月には上洛して楽しんでるくらい。
ただ気になるのは頭のおかしい信長を諌めたであろう信秀が付けてくれた後見役の
一番家老林秀貞や二番家老平手政秀や
三番家老青山信昌や四番家老内藤勝介と言った人々がすべて早期に失脚してることだな。
興味深いことに弘治3年7/25書状において、
佐久間信盛・赤川景広・村井貞勝・島田秀順の連署があって、
これは増長して狂っている信長の独裁をもう一度、
宿老制の復活による連署合意とそれを施行する奉公人制の復活による
重臣達による当主権制限によった統御牽制しようと試みている表れだろう。
信長がかなり国人や家臣から反発を喰らって離反されている状況下で
信長の身を守ろうとする意志が読み取れる。
もしこれが成功し重臣合議制を施行していれば、
家臣により信長が本能寺で殺され、織田家が傀儡にされ、
信長遺領の家臣団による切り分けが起きることも無かっただろう。
しかしこの試みは信長の怒りを買っただけで、この宿老制は実現せず
家臣はすべて信長の奴隷となって従えばよいんだという意志が貫徹され、
いよいよ暴君となっていったのである。そして経済政策の失敗から貫高制を維持できなくなる信長・・・
一方、道三独裁から重臣たちによる擁立となった義龍政権は行政を刷新し
1558年を中心に義龍は施策を次々に打ち出し 最高意志決定機関の宿老制が完成し、
用水相論の裁許を重臣連署で解決(用水相論解決は一揆的結合の浅井などでも見られる)
立政寺の門前の池で鵜を飼い網を引くのを禁止した制札も連署。
これは土岐氏の官僚機構を国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していく動きであった。
永禄三年には印判状という文書形式を導入。 知行あてがいも貫高制が導入され
重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系が構築されていく。
そして下への理解を一切考慮しない独裁悪政をする信長を見限った者達の支持を集め
義龍は戦わずして尾張の半国を支配するまでに隆盛を極めた。
秀吉は大老による合議制と言う当時、もっとも優れた民主的政治体系を残して死んだが、
まだ戦国の気風が冷めやらぬ早い死去だったために、
時の経過と共にやってくる既定事実化寸前にヒビが入って解体してしまったのは残念である。
半島の港湾を支配しての開国雄藩連合による豊臣政権運営が続けられていたら、黒船に恐れる歴史は来なかった。
304人間七七四年:2013/12/11(水) 13:51:23.46 ID:5pde6/1P
>>299
→最初の頃の君は、強行に天文21年死没はあり得ないと主張していたが

俺が強力に否定していたのは「信秀が天文21年に死ぬまでちゃんと信長の後釜作りをしたのに、アスペ無能信長がそれを台無しにした」という
おまえのくだらない妄想主張であって、天文21年に死んだかどうかは学者達でも揉めているから無理に結論づける気はないんだがな
そもそも天文21年死亡説は岩沢くらいしか強く主張してないから他の学者がどういう解釈を持っているかなんてわからんし。

→隠蔽してたのなら病なんて余計なことを普通は言わないよな

信秀が病身であったというのはそれこそ大分前から取沙汰されてるだろ
そもそもおまえが>>294で取沙汰している、「備後守病中故」という織田与十郎の書状は年次不定なわけだが
この書状が「絶対に天文20年のものだ」というソースは?

つうか、逆に気になっているんだが、そもそも「織田信秀が天文21年に死んだ」という根拠はなんだ?
提示されている一次史料はほとんどが年次不詳だし、二次史料の類も含めて天文20年に死んだものとして扱われているものばかりだ
一次史料である位牌(しかも複数の寺)、二次史料の類を全部否定して、強硬に天文21年に死んだという主張の根拠をくれないか?
ただの妄想補完ですってのは勘弁な
305人間七七四年:2013/12/11(水) 18:28:49.56 ID:LZ0w4ukD
>>304
平成21年3/31出版の愛知県史で
天文21年信秀死亡・天文20年織田与十郎の書状の年次特定してるだろアホがw
306人間七七四年:2013/12/11(水) 21:13:38.96 ID:jsfCZmra
.       ,、r‐''''''''''''''''ー 、
      ,r'         `' 、
     /             ヽ
.    / ,             ヽ
   ,,'  ;    ,、、,_  ニニ  ,、」、    俺は嫌な思いしてないから
   l.  :;;;i    ´ .._`ー   ‐''"....|     それに織田豊臣徳川らが糞味噌に叩かれようが俺の知った事ではないわ
   l:,;'"`'、,     ‐=・-;  -・=‐ ;〈     だって全員俺が嫌いな連中だし      
.   ';i l :::i;;,, ::'   ` ̄,:     ̄´ .:゙,   大袈裟に言おうがそいつらが無能でもなんとも思わん
    l;゙、',.::l;;;i     ゚人,,__,,人:..   l,   それは俺の頭の中では信玄公こそ戦国最強の存在だから
    l;;;;`‐;;;;;ヽ     , __ij..__ 、:  l;;;,,  つまり日本人なら武田信玄公を崇めるべき
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ    `Zエlフ'´ , !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン" ` ̄´´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l  '';;;;;;;;;;;;;;'         ,イ l'''  l `
:.:.:.:| ','、  '''''''''   , ‐---,ェr'".l.|  |  |
:.:.:.:|  ゙、゙、       `''''''''"",ノ l l  .|  |             菅沼 遼太
307人間七七四年:2013/12/12(木) 07:33:38.39 ID:ssIlunUX
>>305
年次比定からか
しかし年次の特定作業からの推測からとなると
根拠としては別れるのも無理はない話か
308人間七七四年:2013/12/12(木) 08:31:28.81 ID:SCyA9JBM
その年次比定の根拠は何だね
309人間七七四年:2013/12/12(木) 08:43:30.18 ID:eew7HvfI
論破されてさらなるキチガイ化w
なにもかも都合が悪いものは全て認めない開き直りっぷりw
キチガイ朝鮮人相手に話をしても無駄だな。
310人間七七四年:2013/12/12(木) 11:16:58.70 ID:7NbDdC9k
.       ,、r‐''''''''''''''''ー 、
      ,r'         `' 、
     /             ヽ
.    / ,             ヽ
   ,,'  ;    ,、、,_  ニニ  ,、」、    俺は嫌な思いしてないから
   l.  :;;;i    ´ .._`ー   ‐''"....|     それに織田豊臣徳川らが糞味噌に叩かれようが俺の知った事ではないわ
   l:,;'"`'、,     ‐=・-;  -・=‐ ;〈     だって全員俺が嫌いな連中だし      
.   ';i l :::i;;,, ::'   ` ̄,:     ̄´ .:゙,   大袈裟に言おうがそいつらが無能でもなんとも思わん
    l;゙、',.::l;;;i     ゚人,,__,,人:..   l,   それは俺の頭の中では信玄公こそ戦国最強の存在だから
    l;;;;`‐;;;;;ヽ     , __ij..__ 、:  l;;;,,  つまり日本人なら武田信玄公を崇めるべき
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ    `Zエlフ'´ , !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン" ` ̄´´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l  '';;;;;;;;;;;;;;'         ,イ l'''  l `
:.:.:.:| ','、  '''''''''   , ‐---,ェr'".l.|  |  |
:.:.:.:|  ゙、゙、       `''''''''"",ノ l l  .|  |             菅沼 遼太
311人間七七四年:2013/12/15(日) 11:19:53.47 ID:4bmYEa7g
連呼リアン相変わらず誹謗中傷レッテル貼りしかできない低能なのであった
312人間七七四年:2013/12/15(日) 19:14:24.91 ID:CG/E5goS
菅沼遼太君いやなことあった?あ、だが2世って呼んだ方がいい?w
313人間七七四年:2013/12/16(月) 12:14:00.64 ID:VGCrGWWk
菅沼遼太が質問に答えられず誤魔化すためにいつもの通り大量捏造コピペ貼りつけ逃亡したら
容量オーバー
1000に到達せずにまたまたスレを潰した件

【朝鮮】アンチ秀吉コピペ爆撃報告スレ【旭日】
//ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1375162107/201-300

こっちが過去に菅沼が史料の間違いを論破され捏造コピペ大量投下逃亡で
容量オーバーさせ1000に到達する前に潰したスレ↓

信玄が長生きしたら、信長、秀吉、家康は晒し首・3
//awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1327544591/601-700
314人間七七四年:2013/12/16(月) 12:25:39.17 ID:jZUhGwgl
>>菅沼遼太が質問に答えられず誤魔化すため

はぁ?質問ってなんだ?(笑)
お前が妄想コピペ垂れ流して
それに対する反証が悉く書いてあるだけのスレッドじゃん。

>>いつもの通り大量捏造コピペ貼りつけ逃亡したら

大量捏造コピペってどれの事だ?w
応えてやるから一つずつあげてみろよカスw

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1375162107/l50
315人間七七四年:2013/12/16(月) 12:27:03.52 ID:PuH4NdoG
>>314

そのスレッドの>>201-247あたりで秀吉厨の妄想が悉く打ち砕かれててワロタw
316人間七七四年:2013/12/16(月) 12:28:50.44 ID:L15aUh34
>>314
秀吉厨の妄想論破スレッドになってるな。
317人間七七四年:2013/12/16(月) 12:30:07.41 ID:VMqz7J0+
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1375162107/169-205

秀吉厨はガチで脳味噌腐ってんなw
決着ついた話題を何回も他スレで張りなおすとか、リアルのアルツハイマーだろw
318人間七七四年:2013/12/16(月) 12:31:02.18 ID:DmQKBQ7W
毎回垂れ流される秀吉厨の同じ妄想集

>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
319人間七七四年:2013/12/16(月) 12:31:45.26 ID:NTb/Nx7V
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
320人間七七四年:2013/12/16(月) 12:32:24.93 ID:DmQKBQ7W
>>秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
信雄も家康も全く追い詰められてもなければ屈服もしてねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
321人間七七四年:2013/12/16(月) 12:33:56.55 ID:DmQKBQ7W
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
全く圧倒されてないしヤバくなってない。
むしろ秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>信雄への援軍すら出せずに見捨て
小牧山城やその周辺拠点には秀吉方の兵力2万以上いたから、秋時点で8000程度しかいなかった信雄・家康勢ではどうしようもない(家忠日記や当代記で
8月時点で家康はただでさえ少ない兵力の半分を領国に帰してるのがわかる)
しかもそんなわずかな兵力にもかかわらず6月には前田・下市場7月には蟹江・浜田を奪回し11月に長久保城を奪回してるのが信雄。
雑魚の信雄でも秀吉よりは遥かに戦上手だったのがわかる。
>>秀吉から懇望があったからとか
織田信雄の書状によれば間逆で秀吉が懇望してきたが断ったといってる
また9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
  信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などとデタラメをいつもの如くデッチあげているが、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
等と、なぜか9月時点での懇望を断ったのに11月では容認という明らかにデッチ上げの内容を書き連ねてる。
池上裕子氏も、小牧長久手の講和は、秀吉の懇望によって行われたと書いてる。
秀吉の戦果報告は以下のようにデッチ上げがほとんどなので、人質と書いてるのは例の如く秀吉のハッタリ誇大喧伝と見るべき。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ
322人間七七四年:2013/12/16(月) 12:34:35.69 ID:NTb/Nx7V
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
323人間七七四年:2013/12/16(月) 12:35:38.79 ID:gZXtymXT
秀吉厨の妄想集続きより

>>天下執りを目指して方々に出兵している秀吉は家康一人に構ってられない

史実で総兵力を集中させて対信雄戦に挑んだ秀吉を家康1人に構ってられないからとか
北条の変心や上杉景勝の川中島侵攻にほとんどの兵力を残しわずか8000しか連れてなかった家康が
小牧長久手に集中してたとか相変わらず妄想をデッチあげてるな。いい加減学習しろよクズ野朗
秀吉はhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/440-447
のように領国中の兵力総動員して短期決戦に臨んだが、秀吉の指揮采配能力があまりにもクズすぎたせいで
わずか16000の雑魚信雄・徳川勢に10000人殺された上に、その後の攻防でも下記のように膠着状態に陥ってる。
長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど完全に持久戦の態勢に入っている4/12松井→紹安 一戦に池田親子・
森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人
が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた。播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた5/2信雄→不破広綱
今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが美濃
に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り
討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣した
ので近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
324人間七七四年:2013/12/16(月) 12:36:32.14 ID:XHeUxnhs
>>天下執りを目指して方々に出兵している秀吉は家康一人に構ってられない

お前は本当に無知だな。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
325人間七七四年:2013/12/16(月) 12:37:31.69 ID:XHeUxnhs
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります

7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
326人間七七四年:2013/12/16(月) 12:39:02.40 ID:sq8zatfB
327人間七七四年:2013/12/16(月) 12:40:15.28 ID:XHeUxnhs
秀吉厨の妄想続き

>>当時は秀吉が家康を下すのは容易い
確かに国力的にはその通りだな。だが史実では135000と総動員して寝返りで崩壊中の雑魚信雄の分国に攻め込んだら
わずか16000そこそこの雑魚信雄に1万人殺された後、秀吉方は二重掘合戦でわずか1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって
楽田から大敗走。本陣の眼前にある蟹江・前田・下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されたあげく、戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城などいずれも1000貫そこそこの雑魚領主が
わずか500程度で篭もった城に大苦戦し、結局会戦当初から総じて離反だらけで崩壊状態の信雄分国を全くと言っていいほど切り取れなかったじゃんよ。

>>戦闘自体は1カ月で終わったとしても
一ヶ月どころか、1年かけても終わらなかったじゃん。
秀吉は短期決戦構想があったのは書状から明らかだが、結局長久手で想像を絶する大敗を喫し結局家康や信雄に土下座して母や妹まで差し出してる。

>>戦後処理で数年は余裕で掛かる
そんな戦争中世の合戦にねーよクズ

>>家康を倒す
直接対決でガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
>>家康は怖くない

信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ

秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
328人間七七四年:2013/12/16(月) 12:41:02.41 ID:XHeUxnhs
>>島津氏の台頭は秀吉も怖かった

島津を攻めたのは天正14年晩秋と大きく時期がずれてるし秀吉はその時点で島津が気になるから
徳川攻めを中止したなどと一言も触れていない。
秀吉は天正13年秋から翌年春にかけて下記のように着々と侵攻計画練ってた。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
直前になったらビビリまくって信雄に仲介頼んだり母や妹を差し出して戦いを避けてる。
家康も家康で軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
天正13年時点じゃ秀吉は家康の事ばかり気にして島津なんて全く文書の中に出てくる気配すらないし
出兵計画始めただの信濃に軍勢をいれ差し遣わすだの一柳に尾張星崎から三河の情報収集を命じたり
来春三河に出兵するだの、西国四国の人数そのほか兵糧の儀を船手で用意させたり侵攻計画を散々書きまくってる様子しか見られないのに
島津を気にして出兵取りやめたとか相当馬鹿な妄想だな。
329人間七七四年:2013/12/16(月) 12:41:49.12 ID:h1hgX/Fw
長文ご苦労様。
まあ、でも秀吉の上に立てなかった事実は変わらないわけすし・・・。
330人間七七四年:2013/12/16(月) 12:43:30.46 ID:1YYEcmMv
>>317-328
秀吉マンセーしてる奴が悉く馬鹿しかいないのがよくわかるレスだな
331人間七七四年:2013/12/16(月) 12:44:50.89 ID:rOLwzlO1
信長や秀吉が現代で異常に過大評価されるのは司馬小説と徳川時代の講談の影響だろ
一時弱体化しきった六角やバラバラの三好や足利将軍家などがら空き状態だった畿内を棚ボタ的に火事場ドロしただけなのに
アホみたいに持ち上げまくるから現代での適正な評価を妨げてるというだけ
332人間七七四年:2013/12/16(月) 12:45:58.19 ID:v9TAwqgg
チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだのが信長

最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り北条の大軍大破して150万石まで領土広げた信玄

どうみても信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長でしょ。
信長が甲斐に生まれてたらきつい城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮の信濃の城をほとんどおとせず終わっただろうし
山之内上杉か諏訪あたりに蹴散らされて終りでしょ。史実で弱体化したクーデター騒ぎの幼君斉藤に負けまくり
長島侵攻戦でも何回も大敗し、餓死寸前の一揆勢数百を数万で騙まし討ちにしたら一門10人以上殺される雑魚だし
信濃の拠点落とせるわけがない。
333人間七七四年:2013/12/16(月) 12:47:19.00 ID:AVd/Y6z3
信長は最終的に光秀に殺されて負けたじゃん
弱体化しきった斉藤や内訌で分裂した北畠に負けまくり対浅井の敗戦や観音寺騒動でよわりきった六角、統制が取れずバラバラな三好などを
火事場泥棒して版図広げるも光秀との戦いに敗れ信長殺されて滅亡、
結局棚ボタの連続で領土が一時的に広がっただけだから光秀にあっさり殺されて死んだだけ
秀吉も織田家を一時火事場ドロして勢力広げたけど結局徳川に大敗して滅ぼされたし
334人間七七四年:2013/12/16(月) 12:48:14.09 ID:sgiElwZR
信長や秀吉って自力で戦に勝ったことないもんなぁ
斉藤…幼君で混乱・クーデター騒ぎ、まともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢…北畠木造長野神戸などが内訌で分裂、崩壊
六角…対浅井の敗戦や観音寺騒動で極度に弱体化
足利将軍家…三好三人衆の決起で 権威が形骸と化し信長に助けを求める
上杉…御館の乱や新発田の乱で崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除

信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
335人間七七四年:2013/12/16(月) 12:49:39.79 ID:9THt0HkG
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
336人間七七四年:2013/12/16(月) 12:50:26.39 ID:AVd/Y6z3
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
337人間七七四年:2013/12/16(月) 12:52:52.53 ID:XHeUxnhs
秀吉が天下取れたのは100%棚ボタでしょ。そもそも天下など取っておらずあっけなく徳川に秒殺されるわけだが。
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
338人間七七四年:2013/12/16(月) 12:54:19.35 ID:eo2MTgfk
○織田対上杉  謙信生前…1万8000程度の寡兵で柴田&織田家オールスター武将4万以上に正面衝突で大勝
謙信死後…  御館の乱やその後の内戦・新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに
越中中部で天正8年から天正10年半ばまで2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の松倉の枝城にすぎない魚津城攻防で上杉が信濃に
派兵した隙をついて 居留守泥棒的に行ったにもかかわらず大苦戦。松倉の須田に手も足も出ずに苦戦し撃退
新発田は完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞
連発した内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北越中中部で苦戦した織田軍
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に 伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず 森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北 新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田家トップの柴田

武田対織田…
上村合戦…武田の圧勝。東美濃攻防戦…武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方ヶ原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間・平手・滝川・水野・前田兄の大軍2万が敗走、平手・前田兄戦死
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
長篠の戦い…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
○武田と徳川…三方が原の戦いで織田の大軍2万&徳川8000を見事正面衝突で敗走させられる
勝頼時代も大いに苦戦し田中城に手も足も出ず高天神城に大苦戦
○織田と徳川…織田は大軍で寡兵の浅井に苦戦し当時の織田四天王の息子の坂井久蔵戦死。
徳川は寡兵で大軍の朝倉に勝利し、瓦解した織田軍を救って引き分けもで持っていく

秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される


以上をまとめると上杉>>武田>>>>>>>>徳川>>>>>>織田>>>>>>>>>>豊臣
339人間七七四年:2013/12/16(月) 12:54:41.89 ID:XHeUxnhs
豊臣…徳川家に滅ぼされる 信長&織田家…光秀に滅ぼされる 徳川家…天下を取る  
武田家…織田・徳川軍に勝ちまくり両家ともに滅亡寸前にまで追い込む 
上杉…武田に大勝する。織田を半分以下の兵力で瞬殺し1800人討ち取る
秀吉…織田で最も雑魚な信雄やアホ輝元に10000人&3000人殺される。滝川に伊勢で蹴散らされまくる 本多500に20000の大軍で敗北する 
北条…滝川18000を瞬殺し6000人ぶち殺す

史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防)
織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍135000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗)
滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城
(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ)
だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はある

信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。 家康は瞬殺した。その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。
秀吉は信雄相手に7.5倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。
氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。
秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。北条は三万で滝川18000を瞬殺し6000人討ち取った。
豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた

小田原合戦時の陣立書で全国から215000&佐竹結城里見宇都宮ら2万で235000。
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。秀吉書状で2、3万。兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で重臣一柳や堀尾の子、前田重臣、平岩弟が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し小田原1000程度や忍1000に手も足も出ない。
勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが北条方の兵力が集中した上野・武蔵・下総の諸城落としたおかげ(ちなみに勝ってない。講和開城しただけ)
北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況
享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず
兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれる

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉

×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無 今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな

以上をまとめると武田>>>徳川・北条>>>>>>織田>>>>>>>>豊臣
340人間七七四年:2013/12/16(月) 12:55:22.86 ID:XHeUxnhs
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ

わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
341人間七七四年:2013/12/16(月) 12:55:53.34 ID:PuH4NdoG
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
342人間七七四年:2013/12/16(月) 12:56:44.41 ID:PuH4NdoG
これらをもとに能力をつける 
 天下人の家臣団 
   政治  統率  知略 
家康  110 114 108
本多  77 105 80 
酒井  87 95 93
井伊  85 94 93
榊原  50 94 70
大久保 47 83 76
氏康  120 105 108
氏政 96 83 84
政宗  107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共

       政治  統率  知略
信長(笑)    90 71 86 
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀       85 79 80
滝川       70 77 83
柴田       60 83 52

贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑)   50 28 30
蒲生(笑)   60 55 68
丹羽(笑)   70 15 67

カス武将の集まり織田軍
343人間七七四年:2013/12/16(月) 13:43:34.25 ID:VGCrGWWk
>>314- >>342
相変わらず質問に答えず逃亡中の菅沼君。

「君の捏造コピペにある朝日姫は家康の人質だったという一次史料」
まずはこれを出そうよ。

答えられないだろう?
いつだってこちらの質問は完全無視だ。
答えているというなら間違いだらけの捏造コピペの大量投下じゃなくて
まずこの質問に真面目に答えようよ。
一レスで答えられるのに逃げ回ってスレつぶしする池沼君。

答えられないのは君のレスが捏造コピペだからよ。
344人間七七四年:2013/12/16(月) 13:58:04.86 ID:Rz2AdJqr
>>343
それは日本史板でのだがの意見だろがwww
アンチ秀吉の織田チョンがついに他人のレスを自分のレスであるかのような態度を装い自演を始めたwww
さすが突き抜けたキチガイwww
だが=アンチ秀吉であると正反対の歪曲工作を最近開始してるがモロバレだからwww
以前から織田チョンがアンチ秀吉の爆撃コピペ投下レスを一切批判せずにきたことを指摘されて浅はかな工作を開始したんだろがwww
過去のアンチ信長だがレスの盗用コピペ指摘をされまくって、
アンチ秀吉=だがと誤認させようとした盗用コピペも使えなくなったもんなwww
次々に工作が失敗しまくって気分はどうなの?w
345人間七七四年:2013/12/16(月) 14:17:07.47 ID:jZUhGwgl
>>343
>>いつだって
例えば?スレとレス番でリンク指定で教えてくれ。
>>間違いだらけの捏造コピペ
同上。捏造なのは、
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1375162107/166-196
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1375162107/198-217
で引用されてる秀吉厨の妄想なのであって、その妄想に対する反論に対しての間違いというのはどこの部分の事だ?

結局お前が毎度毎度垂れ流してる妄想が、全て論破されてるのを認めたくないからって、
たった一つの相手の間違いにつけこんで、全て相手の主張は嘘という事にしたいだけじゃん。
秀吉厨の捏造は細かく指摘してあげてるよ。
秀吉厨は反証がついた妄想コピペを各地で時間が立つと何もなかったかのように貼りまくってるどうしようもない池沼だからな。
346人間七七四年:2013/12/16(月) 14:17:48.00 ID:PuH4NdoG
347人間七七四年:2013/12/16(月) 14:22:10.47 ID:XHeUxnhs
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/l50
ここでも秀吉厨の妄想が悉く打ち砕かれてるw
348人間七七四年:2013/12/16(月) 14:22:48.48 ID:NTb/Nx7V
秀吉厨の打ち砕かれた妄想

>>天正地震の震源地は尾張のあたりみたいだね。三河に入るには尾張を通ることが必要で、その尾張が壊滅的な被害では
>>秀吉とて戦どころではないわな。

尾張ルートが難しいなら信濃ルートで上杉と合流して南下すればいいだけじゃん。
木曽・小笠原・水野・真田・石川も既に秀吉に恭順し軍事機密も露見。
現に天正地震から一月以上経った1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
別に地震だからって通れないような状態になってる所しかないわけではないだろ。
織田信雄だって長島はぶっ壊れたけど、尾張の清洲に移ってずっと避難する事なく在国してるし
通れない状態の所避けて通るなりすれば大丈夫。刈谷の水野氏も石川も既に味方だし、
秀吉は地震があった後徳川への侵攻計画を中止したわけでもなく、むしろちゃくちゃくと準備進めてたし
地震のことなんか全く言及に上がってない。
信濃の徳川の分国支配は領土安堵状を出して国人の自立的統治を後押しするだけの間接統治で
支配力が弱いからせめるには絶好の地域だわな。
ただでさえ離反が続いて徳川の支配圏は諏訪佐久伊那のわずか3郡しかなかったし、
諏訪とか柴田康忠とか保科正直とか知久とか松尾小笠原とか今にも裏切りそうな連中でひしめいてたし。
秀吉は天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
ビビリとヘタレ土下座が秀吉の真骨頂だからね。本能寺の時も、毛利にこれもやるあれもやると口述詐欺で土下座しまくったら
毛利がまんまと騙されて結果的に救われた形になったし
349人間七七四年:2013/12/16(月) 14:24:26.75 ID:qE92h/2+
>>小牧長久手以降、秀吉が家康を許したのは、家康よりも島津氏の伸長を恐れたからだ。家康と戦ったら、島津氏と戦えない。
>>ということで、家康を臣従させて九州平定に取りかかったのだ。

島津を攻めたのは天正14年晩秋と大きく時期がずれてるし秀吉はその時点で島津が気になるから
徳川攻めを中止したなどと一言も触れていない。
秀吉は天正13年秋から翌年春にかけて下記のように着々と侵攻計画練ってた。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
直前になったらビビリまくって信雄に仲介頼んだり母や妹を差し出して戦いを避けてる。
家康も家康で軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
350人間七七四年:2013/12/16(月) 14:24:49.29 ID:NTb/Nx7V
その頃の島津は御船城の甲斐親直に負けまくり その子の甲斐親英にも負けまくり
御船城が攻略できずターゲットを高森城にしたら見事に謀られた島津は高森惟居の反撃に壊滅的ボロ負けを喫して相良領まで大敗走。
天正10年に島津の先鋒となり戦死した相良義陽の死と同時に相良領八代を奪い取っていた島津との最前線の堅志田城で負けまくって攻略を断念していた島津が
天正11年に堅志田城の押さえとして花山城を築いていたが、
天正13年に勝ちに乗じて堅志田城を防衛するために阿蘇軍を率いた親英に花山城が攻略されてしまう弱さを発揮。
阿蘇合戦に大敗した島津は、ついに相良を戦わず降伏させた際と同様の圧倒的大軍で北上。
それでも親英に大苦戦。
親英に勝てない義弘は、親英との和睦交渉の席でいきなり拉致り、弓矢の前では偽りもありと開き直り連行したために阿蘇氏は滅亡。
そういや宝満山城を守っていた宗茂の弟の統増に対しての和睦交渉でも
島津は城兵の命を助ける&母の宋雲院と統増の立花城への移動の安全保証の約束がありながら
宋雲院と統増を拉致り、立花城攻めにおいて高満城兵を前線に出して弓矢の盾にして宗茂に降伏すれば違う場所に城と領地を与えると提案してきたが宗茂はまったく信用しなかったな。
島津の戦を冒涜し、武門を辱める行為の数々は卑劣かつ悪質な犯罪者ですらある。
いつも負けまくり圧倒的大軍でないと勝てない弱島津の捏造マンセーは見るに耐えない愚劣さだ。
351人間七七四年:2013/12/16(月) 14:35:30.20 ID:fIUaRtsx
毎回垂れ流される秀吉厨の同じ妄想集

>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
352人間七七四年:2013/12/16(月) 14:36:27.03 ID:XHeUxnhs
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
353人間七七四年:2013/12/16(月) 14:37:03.51 ID:NTb/Nx7V
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
354人間七七四年:2013/12/16(月) 14:38:06.21 ID:NTb/Nx7V
>>秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
信雄も家康も全く追い詰められてもなければ屈服もしてねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
355人間七七四年:2013/12/16(月) 14:39:04.38 ID:NTb/Nx7V
秀吉厨の余りの頭の悪さに吹いたw
356人間七七四年:2013/12/16(月) 14:42:05.04 ID:XHeUxnhs
秀吉厨はガチで脳味噌腐ってんなw
決着ついた話題を何回も他スレで張りなおすとか、リアルのアルツハイマーだろw
357人間七七四年:2013/12/16(月) 14:43:01.89 ID:PuH4NdoG
>>346-354
毎回垂れ流される秀吉厨の同じ妄想が悉く打ち砕かれててワロタw
358人間七七四年:2013/12/16(月) 14:57:57.93 ID:PuH4NdoG
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
359人間七七四年:2013/12/16(月) 14:58:41.46 ID:gZXtymXT
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
360人間七七四年:2013/12/16(月) 20:54:54.09 ID:C3iLnHUs
【織田信長が戦って滅ぼした主な相手】

斎藤龍興          →美濃60万石
朝倉義景          →越前60万石
三好義継          →阿波讃岐摂津に約50万石
北畠具教(お家完全に乗っ取り)→南伊勢40万石
六角義賢(+浅井長政)    →足して近江ほぼ全域60万石
武田勝頼          →甲斐全部と信濃上野駿河一部、約90万石

【武田信玄が戦って滅ぼした主な相手】

諏訪頼重          
高遠頼継
村上義清
大井貞隆
小笠原長時
笠原清繁        →  全て足して約40万石
今川氏真        →  遠江一部、駿河で約40万石、しかも追い詰めたのは家康w
361人間七七四年:2013/12/16(月) 23:11:45.08 ID:jZUhGwgl
武田厨の言いたいことはこう言う事かな

毛利
一万の乞食兵にびっびって義昭に兵糧を渡さなかった。

本願寺
一万の乞食兵にびっびって義昭に兵糧を渡さなかった。
一万の乞食兵にびっびって長島本願寺を切り捨てた。

義昭
とても陥落しそうに無い強固な二条城からなぜか槙島城に移る、そのため兵糧がなくなってしまった。
そして兵糧も無いのに信長に反抗、一万の乞食兵にびっびって野戦もやらずに 信長に降伏。

朝倉
前年信長本隊を単独で破り虎御前山砦もわざと落とさないほどの強勢を誇り
近江の蒲生家まで配下に置いたが(冬姫がどうなったのかは説明無し)
一万の乞食兵にびっびって家臣が次々と離反、刀根坂で惨敗し滅亡。

長島
伊勢湾の制海権は北畠と武田が握っている、という事は第三次攻防戦で
海からも完全に包囲されているのは武田・北畠が織田と共に長島を攻撃しているのがわかる。
石山本願寺・武田・北畠に裏切られるという哀れな最後だった。
武田
一万の乞食兵をもうすぐ滅ぼせるというのに当主の体調が悪くなっただけで引き返した。
当主はなぜか一万の乞食兵に滅ぼされるような馬鹿を後継ぎに指名。
362人間七七四年:2013/12/17(火) 00:11:40.18 ID:nFXGcF8z
このスレも基地外三河人菅沼遼太による大量捏造コピペで
まもなく容量オーバー終了になるなw
自分に都合の悪いスレは全部コピペ大量貼りつけで終わらせる
糞菅沼
363人間七七四年:2013/12/17(火) 00:25:10.39 ID:sO/zETBp
364人間七七四年:2013/12/17(火) 00:27:44.57 ID:BZL/aZ7j
「大量捏造コピペ」などどこにも存在しねぇよ。
「織田厨妄想論破コピペ」なら存在するけどな。
365人間七七四年:2013/12/17(火) 00:28:27.53 ID:kFdGW8Kh
366人間七七四年:2013/12/17(火) 00:29:13.34 ID:sO/zETBp
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1375162107/169-205

織田厨はガチで脳味噌腐ってんなw
決着ついた話題を何回も他スレで張りなおすとか、リアルのアルツハイマーだろw
367人間七七四年:2013/12/17(火) 00:31:34.64 ID:s+SNc43I
>>自分に都合の悪いスレ

信長や信玄謙信の優劣を語るスレッドがなぜ都合悪いスレッドになるんだ?
368人間七七四年:2013/12/17(火) 00:32:30.37 ID:jkHap7B/
織田厨に日本語は通じないから。
369人間七七四年:2013/12/17(火) 00:43:43.97 ID:AUEQX89l
菅沼遼太君、自演でごり押ししようとしても通じないのはだが2世の出来事で身に染みてないんか?ww
370人間七七四年:2013/12/17(火) 08:27:05.79 ID:EhfGzx/9
自分に都合悪いレスがあると自演認定・レッテル貼り・無視・論点ずらしで逃げようとする馬鹿織田厨はスレッドの癌だな
371人間七七四年:2013/12/17(火) 09:06:04.03 ID:2OBn9H//
>>350
はいこのレスはダウト!
このレスはかなり昔のSUBのレスの盗用コピペであり、
基地外爆撃コピペ織田チョン君が自ら作ったレスじゃないね。
しかも検索かけたら歴史ゲーム板で君がコピペ爆撃を開始し、
君の存在が始めて確認された時期にもすでに盗用していたみたいだね。
またSUBレス盗用がバレて、コピペ使用出来ないレスが増えたねw
どんどん武田厨のフリが出来なくなってきたね。
君が自分で武田厨を装おったレスを作った場合は、
上村合戦なんて一次史料にない合戦や不等号を使う順位付けなど、
頭がむちゃくちゃ悪そうに印象づける駄レスしかないから、
すぐ鑑定できるんだよwww
最近は自分のアンチ秀吉三成のレスを菅沼がやったことに押し付けようと工作しているみたいだけど、
工作大好き単発ID自演反日織田チョンなんて特徴があり過ぎて誤魔化せないよwww
だいたいアンチ秀吉コピペ爆撃を歓迎し、長期に渡り一切アンチ秀吉コピペ荒らしを、
全く非難してこなかった織田チョン君が最近になっていきなり非難し始め、
アンチ秀吉コピペを菅沼の行為だと非難し始めて笑っちゃうよwww
372人間七七四年:2013/12/17(火) 10:27:31.54 ID:k7DMH+hj
【織田信長が戦って滅ぼした主な相手】

斎藤龍興          →美濃60万石
朝倉義景          →越前60万石
三好義継          →阿波讃岐摂津に約50万石
北畠具教(お家完全に乗っ取り)→南伊勢40万石
六角義賢(+浅井長政)    →足して近江ほぼ全域60万石
武田勝頼          →甲斐全部と信濃上野駿河一部、約90万石

【武田信玄が戦って滅ぼした主な相手】

諏訪頼重          
高遠頼継
村上義清
大井貞隆
小笠原長時
笠原清繁        →  全て足して約40万石
今川氏真        →  遠江一部、駿河で約40万石、しかも追い詰めたのは家康w
373人間七七四年:2013/12/17(火) 14:07:37.80 ID:mD8myy+9
>>371
そいつ北条への悪口中傷もやってるよな。
でも、よっぽと秀吉が嫌いなのか、
どっちかを選ぶ段階になると、
北条擁護して秀吉を貶す選択をするあたりとか、
チョンとしての習性が色濃く出てきて笑えるw
実際、家康を擁護してると言っても、目的は秀吉や三成を貶す目的の手段として利用してるだけで、
家康が好きと言うわけでもないしな。
毛利についても同様で、
三成のせいで負けた被害者輝元って論法で毛利擁護をするが、
秀吉が中国戦線にいた時を語る時は無能輝元と貶し弱い弱い主張していても、
それに負ける秀吉って言う論法を使うから、
擁護してるから、そいつが好きなわけじゃなくて、
ただ単に貶す目的の手段でしかない。
武田厨のフリを装い、三河物語解釈で馬脚を出して、
アンチ豊臣の織田チョンって言うことが証明されてからは、
もう信長を叩くフリを装うコピペ爆撃荒らしもやらなくなって開き直ってきてるよな。
374人間七七四年:2013/12/17(火) 15:14:49.80 ID:EhfGzx/9
375人間七七四年:2013/12/17(火) 15:44:11.45 ID:VXpWDi+r
謙信なんてそれこそろくな活躍もしてないし
椎名や神保など雑魚小大名を蹴散らすくらいしか実績ねーじゃん。
関東に関しては北条に攻め込まれて窮地に追い込まれてた大名が、助けを求めて頼ってきただけで
自力で領土広げたわけでもないし、北陸もほとんど一緒。
376人間七七四年:2013/12/17(火) 16:34:49.73 ID:GFCoJJIK
>>370
「馬鹿織田厨」がなければバレずに済んだのに
アスペルガーだがこと菅沼遼太は本当にアホだなw
ID変えればバレないと思っているあたりが底抜けにバカ
377人間七七四年:2013/12/17(火) 16:45:00.25 ID:nLyXXiEl
>>374
妄想アホ織田厨のするレス一つ一つが見事に当てはまっていてワロタw
378人間七七四年:2013/12/17(火) 17:25:40.01 ID:Lox6J4bO
荒らしにレスするのも荒らしです
379人間七七四年:2013/12/17(火) 19:33:17.71 ID:nFXGcF8z
このツイッターで2ちゃんねるのコピペそのままに
武田を上げ連日信長&秀吉叩きしてるのはアンチ秀吉基地外コピペでしょ
お得意の「織田厨」という言葉も多用している
秀吉アンチ=信長アンチだよ

板之菅沼遼太
//twitter.com/itanosuganuma
380人間七七四年:2013/12/17(火) 23:59:17.54 ID:/gNmNUIi
信長は政戦共に過去の物を壊し、新しい物を作った天才
381人間七七四年:2013/12/17(火) 23:59:28.26 ID:8WDvIsxw
Twitterでくだらん工作をしたが、
誰にも気付かれないので、
わざわざここに報告することで、
織田チョンの自作自演っぷりがまた浅はかにも露呈w
382人間七七四年:2013/12/18(水) 05:01:43.18 ID:iQtJQruq
戦国板の人間が作ったのなら
アスペルガーだがという言葉やだがWikiが載っていないのはおかしい
だがの自作自演じゃね?w
383人間七七四年:2013/12/18(水) 17:46:23.33 ID:U3KqiHqY
どうみても菅沼遼太の自演だよな

菅沼遼太の代わりにツイッターやって
菅沼の妄想を代弁する奴など戦国板にはいないよ
384人間七七四年:2013/12/20(金) 08:46:56.60 ID:tZx+qC9F
>>379のTwitterアカウントにある文字列検索したらなんjWikiが出てきたんだけど
菅沼遼太ってなんjと関係あったっけ?
385人間七七四年:2013/12/22(日) 11:52:15.96 ID:uYRQLgEY
・菅沼遼太ことだがチョンの自爆事件がなんJに晒されていた
・菅沼遼太が信長の野望・創造の避難所をなんJ民を使って荒らそうとした
・菅沼遼太がなんJに立ったアフィスレをコピペで埋める

この辺が原因だろう

参考URL
www.logsoku.com/r/livejupiter/1380935906/
www.logsoku.com/r/livejupiter/1380635645/
http://sp.logsoku.com/r/livejupiter/1383019085/
hissi.org/read.php/livejupiter/20130818/WUJyWHJ4UFk.html
386人間七七四年:2013/12/24(火) 16:07:17.54 ID:yoNVHeNv
>>385
なるほどありがとう
387人間七七四年:2014/01/19(日) 06:02:50.80 ID:ItjwLKoU
また織田厨の脳内問答が始まったか
388人間七七四年:2014/01/19(日) 10:56:24.37 ID:1oRBC+KJ
菅沼遼太君友達いないもんね
389人間七七四年:2014/02/24(月) 22:15:45.24 ID:MOFnjCnH
信長は戦が弱過ぎる
岐阜城なんて6回くらいあっさり陥落した雑魚城に苦戦したり
餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ちにしたら一門10人以上殺されたアホ
390人間七七四年:2014/02/25(火) 02:26:19.76 ID:A/bxKZZO
.  |___
. /    (^ν^) 武田信玄は最強だぜ
/    /    \ 信長秀吉家康は信玄が健在なら晒し首っと
     | |   | |
___/ /__.| |___
   //   //
   (Ξ´  ‘ミ)


.   |J( 'ー`)し 遼太ごめんね突然来ちゃって
.   と ノ お父さんも後から来るわ、話があるって
.  | /___
. /    (^  )彡  !?
/    /    \
     / |    , / ))
____/ /| _/ /___
     ̄(⌒__/
       ̄

.   |   
.  |彡サッ
.  |__ 
 /  (    ) 勝手に入ってくんじゃねぇババー!
/    γ⌒\ 俺は今信長厨と戦ってんだ!!!
7``)  / /  \
.`ヽヽ / X  ミ ヽ
  ヽ___ノミ\   \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
391人間七七四年:2014/02/27(木) 01:27:13.58 ID:65SOp1az
26歳の若輩織田信忠に一ヶ月足らずで領土を蹂躙されまくった武田
信玄が20年の年月と莫大な犠牲を払い死ぬ思いでやっと切り取った信濃があっという間に崩壊
しかし、そんな戦国最弱武田軍を率いて領土を広げた武田信玄は優れていたと言えなくもない
392人間七七四年:2014/03/08(土) 11:57:06.13 ID:8vbPAS4A
武田信玄公は日本人
トンスル糞バカチョンの起源主張うぜぇよ死ねカス起源主張しても意味なし起源主張しても担い手はいない
醜蛮トンスル猿マジワロステラワロリンヌ
支那猿とモンゴル蟲にレイプされてできたキチガイは死ねカス祖先から強姦魔のナチュラルボーンレイパーキチガイ糞バカチョン(大爆笑)
てめぇら池沼バカアカバカサヨ糞バカチョンシナ畜猿とかてめぇらとかてめぇらてめぇら図に乗るんじゃねぇよ。捏造偏向歪曲するんじゃねぇよ。生きてる価値ねぇからさっさと死ねカス^^てめぇら死んでも誰も悲しまねぇからよ〜^^さっさと死ねよ〜^^さっさと死ねカス^^
393人間七七四年:2014/03/08(土) 11:59:00.25 ID:8vbPAS4A
394人間七七四年:2014/03/08(土) 12:01:53.88 ID:8vbPAS4A
武田信玄公は日本人
トンスル糞バカチョンの起源主張うぜぇよ死ねカス起源主張しても担い手はいない意味なし
支那猿とモンゴル蟲にレイプされてできたキチガイ糞バカチョンナチュラルボーンレイパーキチガイ糞バカチョン(大爆笑)醜蛮トンスル猿マジワロステラワロリンヌ
てめぇら池沼バカアカバカサヨ糞バカチョンシナ畜猿とか図に乗るんじゃねぇよ。捏造偏向歪曲するんじゃねぇよ。生きてる価値ねぇからさっさと死ねカス^^死んでも誰も悲しまねぇからよ〜^^さっさと死ねよ〜^^さっさと死ねカス〜^^
395人間七七四年:2014/03/08(土) 12:02:52.76 ID:8vbPAS4A
醜蛮トンスル猿マジワロステラワロリンヌ
396人間七七四年:2014/04/26(土) 14:17:43.11 ID:tB0d8Zq6
氏康や政宗は信長より有能だろ
397人間七七四年:2014/05/25(日) 09:37:53.40 ID:ojHd5Jh6
戦では謙信、戦&政治は信玄、政治は信長って感じ?
398人間七七四年:2014/06/01(日) 18:45:34.47 ID:bwvaINws
信長が優れてるのは棚ボタ幸運だろう
399人間七七四年:2014/06/01(日) 19:41:43.23 ID:+p6jOTOG
棚から落ちてきたボタ餅を素早く受け止め、おいしく食べる信長

棚から落ちてきたボタ餅を受け止められず地面に落っことし、そのまま捨ててしまう信玄
400人間七七四年:2014/06/01(日) 20:55:21.98 ID:bwvaINws
信玄は棚ボタ幸運自体全くなかったからなぁ
むしろ毒饅頭ばっかり食わされる損の立場だった。
401人間七七四年:2014/06/01(日) 22:06:33.36 ID:Mwr8+BQH
無能者は自分がいかに恵まれてるかわからないからなあ
402人間七七四年:2014/06/02(月) 08:53:23.02 ID:+9MgNdlr
>>389
雑魚城って表現にワロタw

たしかに関ヶ原でも信長の孫はあっというまに血祭りにあげられたよね
403人間七七四年:2014/11/24(月) 17:53:00.97 ID:HEB4ZTFh
4スレまで来て未だにはっきりとした、「何を以て優れているとするか」が提示されていないとか糞スレかよ
404人間七七四年:2014/12/17(水) 12:16:25.95 ID:Wvu3haoy
直金ルーブル共演センタクフィルターアップルとりでプラズマラーメン

直金ルーブル共演センタクアップルとりでちばラーメン

ETCスキャンじゃぶじゃぶくるーぽんプラズマクラスターらーめん
フェイスブック新幹線ダイヤ開票所速報わがまま女シート
中国あこがれフレンチインサイドパキスタンタンバリンドラマyo-fo-らーめん
405人間七七四年:2014/12/20(土) 16:08:27.04 ID:ono1/wqy
一番優れた武将は、今川氏真だと思う。
蹴鞠ひとつで数々の逆境を乗り越え、今川家を高家として再興した最強の戦国武将だ!
406人間七七四年:2014/12/27(土) 04:09:07.58 ID:t+xOy3/U
謙信は確かに戦は強いけど攻城戦はあまり得意じゃない
407人間七七四年:2014/12/27(土) 11:19:26.59 ID:f1Qm/OBC
まぁ信玄が和田城とか謙信が攻めてくるところは
火縄銃を大量に輸送して火力を大幅に増強してるからな。
誰が攻めても厳しい。
謙信は調略をもっと積極的にやるべきだった。
408人間七七四年:2014/12/29(月) 04:01:52.08 ID:tlSMnMVn
比較してみた。

清廉潔白度、無敵度、仁愛度、カリスマ性、歴史影響度

織田信長:1、3、2、9、9=24
武田信玄:2、8、1、6、7=24
上杉謙信:10、10、25、55、99=199

一番優れているのは、上杉謙信?
409人間七七四年:2014/12/29(月) 05:22:39.27 ID:040jmmnx
このスタンプ使って天下とろうぜ?
https://store.line.me/stickershop/product/1076887/ja
410人間七七四年:2015/01/24(土) 20:42:27.60 ID:x/1trZs9
織田信長生誕の地 勝幡城推定復元模型
http://mirai660.net/castle/shobatajyoh_model.html
411人間七七四年
自民党、グッジョブですわ。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/index.html

☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、改憲の参議院議員が
3分の2以上を超えると日本国憲法の改正です。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。
私たちの日本国憲法を絶対に改正しましょう。☆