信長の領土拡張は実力なのか?棚ボタなのか?

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1人間七七四年
過去スレを様々読んでみたが、イマイチよくわからない。
一般書籍や郷土史の類も今ひとつ詳細に記載されてるものがないので
詳しい人にお聞きしたいです。
2人間七七四年:2013/09/27(金) 00:28:37.87 ID:zArEC7La
アホのだがに惑わされてる人ハッケソ
3人間七七四年:2013/09/27(金) 00:33:50.05 ID:lRQF1MNc
>>1の 不自然な 改行
4人間七七四年:2013/09/27(金) 01:03:36.66 ID:OgZE4wUe
信玄や謙信や氏康と比べてみると一目瞭然だし
5人間七七四年:2013/09/27(金) 02:56:08.28 ID:2giP3FeW
十河一存 斉藤義龍 三好義賢 細川晴元 細川氏綱 三好義興 安宅冬康 三好長慶と 畿内の有力武将は次々病死した上に
六角も北畠も斉藤も内訌で崩壊。足利義輝が暗殺され、畿内が混乱状態になって足利義昭が信長の下に訪れ、中央へ行く大儀名分と味方を得た信長は
六角義秀や和田や浅井の援軍を受けまくりながら斉藤攻略・上洛に行き着くというここまで棚ボタを得たのが信長の領土拡張
6人間七七四年:2013/09/27(金) 19:41:08.57 ID:jqubM3rP
棚ぼたの方がよっぽど凄い
7人間七七四年:2013/09/29(日) 03:20:44.39 ID:eVQ2+9/3
棚ぼたで得たと言うことはそれだけ信長の強運が凄いと言うことだからなw
信長が祈っただけで義元が死に信玄が死に謙信が死ぬ世界
あまりに上手く行きすぎて飽き飽きしたから、本能寺も自分で引き起こしたんだろう
8人間七七四年:2013/09/29(日) 04:05:14.24 ID:pX2S4xG9
全盛期の信長伝説

敵国侵略は当たり前、自国の領土を攻め取ることも
初陣大将首を連発
信長にとっての敵国侵略は大将討ち取りの出来そこない
城にいるだけで敵将が悶絶死した、一族郎党滅亡する敵将も
信長に滅ぼされたことを気づかない敵将も多い
あまりに敵を滅しすぎるので敵でも謀叛扱い
その謀叛もガンガン鎮圧する
信長が一睨みしただけで浅間山が大噴火する
三職推任状も馬上で受け取った
軍兵を使わず1人で攻め込んだことも
刀を一閃すると周囲が焼け野原になるので力をセーブしていた
熱田神宮に願掛けしたら今川義元が急死した、ついでに斎藤義龍も急死した
信長と戦うと決意した武田軍が信玄急逝で失意の中帰国すると、何ヶ月も前に信長からお悔やみの書状が届いていた
民衆の敵対行動に流暢な尾張弁で説得しながら敦盛を舞っていた
長篠の山奥から丹波平定の軍を指揮していた
刀を3回振るだけで天下統一ができた
返書は常に褒め倒し、息子を叱るときもまず褒める
洛中行事に手が回らず分身したことも
1576年世界10大事件 第1位「信長が大腿部を負傷」
信長の着る鎧兜は、防具ではなくオーパーツ
信長を驚かせた人間は信長自身だけ
本能寺の変は信長の過去旅行に対する送別会
それでも気に入ってたのか「天地夢ノ助」と名乗っては時々秀吉にちょっかいかけに行っていたらしい
9人間七七四年:2013/10/02(水) 00:11:20.38 ID:PQIIcOQJ
>>7
オカルトにそういう設定あるよね
10人間七七四年:2013/10/02(水) 11:29:12.95 ID:K+y2GQUw
他力本願だけで生きて生きた信長
11人間七七四年:2013/10/02(水) 11:58:43.26 ID:g9j6oEvH
>>8
何もしてないのにけなして荒らしてたやつの本名がバレた
12人間七七四年:2013/10/02(水) 17:10:10.22 ID:4CEVzBwG
まあ菅沼遼太の件は他力本願だなw
13人間七七四年:2013/10/02(水) 21:10:05.79 ID:5ZfU1WBA
信玄が活躍したのは菅沼遼太のおかげ
14人間七七四年:2013/10/03(木) 12:37:37.63 ID:1+QJOrlz
>>6も言っているけど、棚ボタの方がよっぽど凄いよなぁ。
他力本願でも凄い。
そんな強運が欲しいわ。
15人間七七四年:2013/10/03(木) 13:05:18.89 ID:VfXBxpde
ぜんぜん凄くないだろw
16人間七七四年:2013/10/03(木) 13:30:57.82 ID:KLuPfmK6
世の中の大半は運や不可思議な要素で占められているからな
そういう部分がなければ天下人になれないのは至極当然
17人間七七四年:2013/10/03(木) 20:47:09.59 ID:ZeMrxdUY
成功者は運と実力を兼ね備えているのが普通だな
しかし、スレタイみたいな二択なら、運だけのほうが実力だけより凄いだろ
18人間七七四年:2013/10/04(金) 07:39:51.01 ID:0hhSmII7
つまり信長はただの無能アスペDQNキチガイ殺人鬼だったわけだ。
19人間七七四年:2013/10/04(金) 07:43:03.08 ID:qvRpJQa4
などと菅沼遼太君は意味不明の事を述べており
20人間七七四年:2013/10/05(土) 06:57:09.00 ID:gd2UjJzF
>>18
菅沼クン、病院に行こう!
21人間七七四年:2013/10/05(土) 10:56:43.41 ID:RAUyI2XV
>>17
むしろどれだけ負けても強運のおかげで一切致命傷にならないとか
神様に比例できるレベルだから満場一致で当該人物の最強論ができるレベル
どんな強い人物でも1人の時とか軍勢が揃わないときとか負けた時とか隙はあるのだが
それだけの強運を自由自在にできるなら、その点もカバーできるのでそいつを負かして討ち取る手段がない。
22人間七七四年:2013/10/05(土) 11:03:06.09 ID:Y7q2ONpJ
ただ単に
棚からぼた餅
なだけだろ。

信長が愚主だから家臣に焚殺という私刑で穢され
(当時は遺体を燃やすことを野蛮かつ不面目なこととして忌避されていたし
キリスト教でも火刑は天国へ行けれない極刑。ちなみにいまだに栃木の田舎なのでは死体を焼かずに埋葬する習慣が残っている) 
家臣に織田家を乗っとられたわけだし。
23人間七七四年:2013/10/05(土) 11:16:44.49 ID:TsYu9Q1E
武田が信長に滅ぼされたのは神の思し召しということですね
24人間七七四年:2013/10/05(土) 11:20:33.95 ID:RAUyI2XV
プププwwww火葬が野蛮かつ不面目wwww
日本では702年の持統天皇が死後に火葬したのを皮切りに文武、
淳和天皇など火葬された天皇も数多くいるという事実www
そもそも仏教大国の日本では仏教の開祖である釈迦が既に火葬されていたので
火葬が汚いだの忌避しただのマイナス認識はほとんどなされていなかった事実

そういえばお隣の北朝鮮や韓国は儒教の影響が色濃く火葬は汚いニダ、土葬じゃなきゃ嫌ニダと言っておりますなぁwww
25人間七七四年:2013/10/05(土) 11:23:47.24 ID:Y7q2ONpJ
いやいやフロイス日本史でも
日本では見捨てられた人々や貧しい人が火葬されると書いてあるわけだがw
26人間七七四年:2013/10/05(土) 11:26:53.81 ID:RAUyI2XV
日本では既に700年近くの頃から当時の高貴階級天皇を始め
火葬が既に一般的となっていた事実は周知のとおりだが
お隣の韓国北朝鮮では儒教思想から火葬を忌避する人間が多く
2006年現在でも亡くなった国民の47%が土葬を選択すると言う土葬大国
そのため土葬をした死者を埋葬する土饅頭と呼ばれる墓を国中に作りまくり
国土のどこでも少し掘れば死体が出てくるという不名誉な問題が頭を持ち上げている情けなさw
そのため火葬を選択する国民も増えてきているのだが現代でも韓国朝鮮にとっては
「火葬は埋葬する土地を持てない貧民階級がやるもの」との蔑視が強い。
>>22はどこの国の人なんでしょうなあwwww
27人間七七四年:2013/10/05(土) 11:32:32.04 ID:RAUyI2XV
>>25
朝鮮人らしい浅ましき大嘘乙www
日本の貴族階級の頂点に位置する天皇家は代々仏教式の葬式をするのが慣例で
持統文武淳和を始めほとんどの天皇が火葬という方式を選択されていたのが事実
むしろ土葬なんてのは天皇埋葬の慣例を破る行為として「御密行」と扱われ
土葬された天皇でも世間には「火葬」と発表していたくらいの火葬重視主義w
28人間七七四年:2013/10/05(土) 11:34:46.21 ID:FqlobQfq
天皇皇后を始め現在ですら皇室は基本的に土葬で、
身分が高い人々は古来から土葬。
江戸時代でも棺桶に膝を抱えるように遺体を入れて埋葬するのが基本。
遺体の骨を折ってから埋葬することで蘇らないようにする呪術的埋葬方式もあった。
29人間七七四年:2013/10/05(土) 11:40:11.14 ID:Y7q2ONpJ
孝明天皇から昭和天皇まで土葬を貫いていたが
2012年4月26日に宮内庁がこれからは火葬することに変更し、
それに伴って、天皇と皇后を一緒に埋葬することを検討し始めてる。
やっと皇室も意識変化し始めてる。
30人間七七四年:2013/10/05(土) 11:42:14.92 ID:RAUyI2XV
見苦しいな朝鮮人はwww
天皇皇后が正式に土葬になったのはつい100年前の孝明天皇からで
その慣例も平成の今上天皇が検討あらためをするという拙い慣習
日本では持統天皇以降天皇家は仏式に習い火葬が一般的であり
とくに中世では持統元明元正文武と火葬にされた天皇が数多くいた。
江戸時代になると天皇みずから火葬や土葬を選択できたが
それとて持統天皇以来の伝統を守るために葬式の形は「京東山の泉涌寺」で執り行い
火葬される場合と同じような葬式を執り行うという徹底した火葬伝統主義がまかり通っていたと言う事実www
31人間七七四年:2013/10/05(土) 11:44:14.84 ID:Y7q2ONpJ
バッカw
神道は土葬やってんだよwww
お前がやたら仏教式を声だかに書いて牽制を入れてる姿が笑えるwww
32人間七七四年:2013/10/05(土) 11:46:37.02 ID:Y7q2ONpJ
神道は朝鮮式とか書いてデタラメ歪曲を公然と流布させてるキチガイ織田半島人きもっw
33人間七七四年:2013/10/05(土) 11:55:37.43 ID:RAUyI2XV
馬鹿はおまえだよバーカwww
天皇家が神道と結びつきを強めたのは神仏習合以来で
そもそも日本神道は火葬を禁止しておらず
1873年に「仏教のような世俗に満ちた教えを信じるな」とばかりに国のお達しで一時期火葬を禁止しているが
わずか2年で解禁されてそれ以外は神道系でも火葬が復興してしまうという事実www

そもそも火葬が汚い汚らわしいというのは「肉親を炎に包んで苦しませる」という行為を好ましく思わない
儒教思想が元凶で、日本では神道だろうが仏教だろうが火葬を一切禁止していないと言う事実。
そして日本では仏教に熱心だった持統天皇以降、火葬にされる天皇も多かった事実www

日本神道まで捏造し歪曲し朝鮮流の「土葬偏重主義」を持ち込むだがチョンこと菅沼遼太wwww
34人間七七四年:2013/10/05(土) 11:55:59.85 ID:FqlobQfq
朝鮮人が古代日本を支配してた説の根幹部分が
神道=朝鮮
とするトンデモ説だから反日するやつは基本的に土葬を貶める。
しかし土葬文化は割と消えずに残ってる。
奈良の田舎ではまだ守り通してる。
35人間七七四年:2013/10/05(土) 11:58:17.57 ID:Y7q2ONpJ
仏教かぶれの天皇を持ち出して
ミスジャッジへ誘導しようとする織田朝鮮人www
36人間七七四年:2013/10/05(土) 12:00:10.62 ID:RAUyI2XV
自演してまで朝鮮流を捏造しなくていいからwww
日本では6世紀に伝来した仏教を巡り廃仏派の物部が崇仏派の蘇我に敗れて以降
一貫して天皇家では仏教を神道と同様に崇め、両者とも火葬を禁じていなかったため
仏教式の火葬を持統天皇が始めたのを皮切りに天皇家では多くの天皇皇族が火葬にされたと言う事実www

日本では既に700年近くの頃から当時の高貴階級天皇を始め
火葬が既に一般的となっていた事実は周知のとおりだが
お隣の韓国北朝鮮では儒教思想から火葬を忌避する人間が多く
2006年現在でも亡くなった国民の47%が土葬を選択すると言う土葬大国
そのため土葬をした死者を埋葬する土饅頭と呼ばれる墓を国中に作りまくり
国土のどこでも少し掘れば死体が出てくるという不名誉な問題が頭を持ち上げている情けなさw
そのため火葬を選択する国民も増えてきているのだが現代でも韓国朝鮮にとっては
「火葬は埋葬する土地を持てない貧民階級がやるもの」との蔑視が強い。
37人間七七四年:2013/10/05(土) 12:02:49.45 ID:Y7q2ONpJ
子規自身は土葬されたように、明治の半ば頃までは、
日本人の埋葬は土葬が圧倒的に多く、火葬は一割程度だったとされる。
それも京都などの既成の大都市や、真宗地帯に偏っており、殆どの人は土葬されていたのである。
火葬が急速に普及するのは戦後のことである。

ttp://japanese.hix05.com/Folklore/Burial/burial02.cremation.html
38人間七七四年:2013/10/05(土) 12:07:26.18 ID:RAUyI2XV
また適当なホームページがソースかよワロタwwwww
そもそも日本はキリスト教対策で江戸時代に強制的に寺請制度が作られ、
どんな庶民でも寺院を菩提寺にしろというお達しが出ていたので
庶民の大半が仏教式の葬式を営んでいたことも知らないのかwwww
39人間七七四年:2013/10/05(土) 12:17:10.51 ID:RAUyI2XV
そもそも火葬が禁忌とされる儒教やユダヤ教ではその理由が告示されており
儒教では身体の毀損行為が望ましくないと言う点、ユダヤ教では
死者が復活する転生(いわゆる最後の審判の後)思想が堅く信じられており
この際に体が必要だからという理由で禁止されていた。

一方仏教や日本神道では人間は死後、人間あらざる存在になり、
仏教ではこれを成仏といい、日本神道では(守護)神という存在になる
つまり遺体は抜け殻と同義なので教義には一切入っていない。
ただし仏教の場合は開祖の釈迦が火葬されたので、それに習って火葬しているだけ。
火葬が忌避される状況など生じるはずもないのだが、さて>>22はどこの国の人かな?www
40人間七七四年:2013/10/05(土) 12:21:25.15 ID:FqlobQfq
本当にアホなのか。
火葬に移行したのは明治時代に感染症の知識が入ってきたからだぞ。
江戸時代は土葬が一般的。
そもそも昔は遺体を骨片にするまで焼く火力がなく、
やろうとすれば一昼夜焼き続けるだけの木材が必要で、
そんな金と木材資源を庶民は用意出来ない。
極めつけは徳川将軍家からして土葬なこと。
そして大規模災害で大量の誰だかわからん死体が生まれた時だけは、
一気に火葬で焼いて全部まとめて処理をしていた。
41人間七七四年:2013/10/05(土) 12:29:22.46 ID:Y7q2ONpJ
>>38
そんなら江戸時代は火葬が圧倒的に多く
土葬はごくわずかだったと書いているHPが一つでもあるなら出してみろやwwwwww
42人間七七四年:2013/10/05(土) 12:37:11.86 ID:RAUyI2XV
馬鹿かおまえ?
土葬がいいか火葬がいいかなんて今の議題じゃねーんだよ

おまえは>>22で確かに
「当時は遺体を燃やすことを野蛮かつ不面目なこととして忌避されていた」と
確かに言ったよな?wwww日本では仏教だろうが神道だろうがこんな考えが出る幕なんてねーんだよw
両方とも遺体に関しては何も触れていないからな。で、俺はこの部分を指して
おまえはどこの国の人間だ?wwwと聞いているわけなんだが。

ちなみに徳川将軍家が代々土葬なのは始祖の家康が吉田神道の方式で土葬にされたのを受け継いでいるからで
鎌倉室町の将軍はむしろ火葬にされているのだが
43人間七七四年:2013/10/05(土) 12:42:34.58 ID:RAUyI2XV
>>41
HPなんて好き勝手かけるだけで全くアテにならんのに何言ってんだこいつ
今から俺が短時間で作って「どうだこのHPには火葬が一般的だと書いてあるぞ」
とでも言えばいいのか?w

そもそもおまえは>>40でコストの問題を出してるようだが、
おかしいじゃないか、>>25でおまえはフロイスの言を借りて
「日本では見捨てられた人々や貧しい人が火葬されると書いてある」と発言しているわけだが
見捨てられた人々や貧しい人がおまえ(>>40)のいう「コストのかかる方法」で丁重に弔われるのか?www
44人間七七四年:2013/10/05(土) 13:24:45.06 ID:FqlobQfq
>>42
別所氏の人質を身分ごとに3つのグループに分けてから信長はそれぞれを別な手法で殺す差別化をしている。
36人の貴人は斬首
120人の国人豪族は磔して槍で殺す。
それより下の身分の人質514人は焚殺で生きながら焼かれ苦しみ死んでいく苦刑。
キリスト教世界では火刑で生きながら焼かれ獣のように叫びのたうち回る苦しみへの同情から火刑前に殺してあげる温情処置が取られたほど。
洋の東西を問わず火刑は極刑で、
江戸時代は放火が極刑とされた。
45人間七七四年:2013/10/05(土) 13:39:22.12 ID:LrsuFKCk
菅沼くーん
暴れてると完全に特定情報流れちゃうからやめとけよ
46人間七七四年:2013/10/05(土) 13:58:45.61 ID:RAUyI2XV
>>44
日本はキリスト教の国じゃねーしそもそも信長の死因は自害だアホ
47人間七七四年:2013/10/06(日) 08:25:53.72 ID:KBomKo9Q
>>46
自害したとする一次史料はまだなの?
焼死しただけでしょ。
48人間七七四年:2013/10/06(日) 11:48:48.13 ID:Vrim/7NG
>>43
>>見捨てられた人々や貧しい人がおまえ(>>40)のいう「コストのかかる方法」で丁重に弔われるのか?www
フロイスはその場合は僧が死体を拾い集めてから、僧が責任をもって処理するルールになっていると書いている。
まぁ無縁仏にされちゃうってことだな。
49人間七七四年:2013/10/06(日) 14:45:21.72 ID:lVDRhY+5
>>47
蓮成院記録、多聞院日記、兼見卿記、など当時の記録に「生害」と思いっきり書かれているがw
そもそも蓮成院記録によれば火をかけたのは信長自身だという記述がある
おまえの国ではこれから自害しようとする人間が火をかけるのを焚殺と言うんだな菅沼遼太w
50人間七七四年:2013/10/06(日) 14:56:42.81 ID:lVDRhY+5
>>48
えっ、1人焼くにもコストと燃料がかかる贅沢手法だと>>40で言っておきながら
無縁仏になるような見捨てられた人間や貧しい人間を一度に大量に処理する必要があるようなケースで
贅沢手法の火葬を選択するとか凄まじく矛盾した方法論じゃないかw


無縁仏になるような見捨てられた人間や貧しい人間こそただ土に埋めるだけの土葬の方がはるかに楽だし
しかも無縁仏になるような人間は御墓が必要ないから猶更火葬してお骨をあげる必要性もないわけだが。
そもそもフロイスはキリスト教の人間で「土葬=崇高、火葬=卑賤」という凝り固まった観念常識を持った
人間であるということを頭に入れて発言しているんだよな?w
51人間七七四年:2013/10/06(日) 18:58:48.23 ID:gBqy6a9c
>>40>>50の自演です

愛知県安城市今池町3丁目7-32 サニーグレープU 菅沼遼太
52人間七七四年:2013/10/06(日) 21:32:52.75 ID:gozLNNCN
>>46
例え最後は自害でも、ああいう形なら普通に戦死扱いされるな。
勝頼とかも同様。
53人間七七四年:2013/10/06(日) 22:36:50.59 ID:cfUY4cDb
織田家としては名誉のために自害と発表するしかねーよな。
本能寺から一町しか離れていない至近距離にあった教会が一番信憑性あるコメントだろうが、
フロイスの情報は二つの死に方を描いている。
一つは信長は長刀で戦っていたが銃弾を腕に受けたので切腹した説と
生きながら焼死した説。
フロイスはどのようにして死んだか分かってないと結論づけ、
はっきりわかっているのは信長の体が毛髪も骨も一つ残らず灰燼に帰し、地上になにも残らず燃え尽きた事実だけと書いてる。
前者は明らかに織田家スポークスマンによる対外イメージ広報に過ぎず、
後者が事実だろうね。
54人間七七四年:2013/10/06(日) 23:10:01.05 ID:qdaYPJrH
>>53は明らかにアスペルガーだが=菅沼遼太によるアンチ織田の糞レスに過ぎず、
真相は謎だろうね。
55人間七七四年:2013/10/07(月) 08:26:39.91 ID:+wrEV0Ca
まあ、スレ主思い通りの展開だな。
56人間七七四年:2013/10/07(月) 08:45:34.90 ID:XeCPJQ3T
蓮成院記録によると火をかけたのは信長自身だから
信長が焼死したならそれは焼身自殺になるから名誉的には自害より上だね
そもそも「信長の体が毛髪も骨も一つ残らず灰燼に帰し、地上になにも残らず燃え尽きた」と言うのが
大変怪しく、人体が完全に灰燼になるほど燃え尽きるのに必要な火力を引き出すには原爆などの近代兵器でも難しいとされているが
これが事実だと言うならそもそも信長の遺体そのものがでっち上げということになり、信長が生存していても不思議ではないね。
57人間七七四年:2013/10/07(月) 08:58:49.99 ID:Ii6QlKTs
美化されたネタなんて情報操作だから、
実際は生きながら苦しみ悶え、獣のように喚きながら信長は焼け死んだんだろう。
火薬に引火させた光秀の勝利だな。
58人間七七四年:2013/10/07(月) 09:17:17.01 ID:XeCPJQ3T
火をつけたのは信長なのに光秀の勝利wwww
菅沼遼太の朝鮮解釈はやはり一味違うなwww
59人間七七四年:2013/10/07(月) 11:42:09.48 ID:/QcPYVrS
>>44
なるほど最下層階級のみが火で焼かれて殺されたのか。
信長も最下層扱いで火に焼かれて死んだんだなwww
60人間七七四年:2013/10/07(月) 12:00:54.46 ID:XeCPJQ3T
独特の朝鮮理論を講じる菅沼遼太w
61人間七七四年:2013/10/08(火) 10:33:33.72 ID:2cFuMLiR
内政放棄で軍費調達方式が略奪恐喝犯罪組織型統治の織田組
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
(織田は兵糧が手に入らず1万を養うのも不可能になる反面、朝倉軍は3万で比叡山で豪遊)
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
(志賀の陣での和睦条件である荘園返却を実行すると織田財政は完全破綻)
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに
まずは小手調べで賀茂〜嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
恐ろしくなった上京が払った銀1300枚の受け取り拒否した上で上京を焼き討ち略奪。
(信長に金を渡しに行く際に織田軍に略奪され、改めて高利貸しから借金して信長に渡すなど酷い状態になったりした)
御所への延焼の恐れが出てきて天皇も逃亡準備。桂川が死体で埋め尽くされる大虐殺開始。
下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
しかしあっちゃこっちゃ延焼しまくりで火だけは統御できない。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
しかしもう恐喝できる相手すらいなくなり
みんな貧民だらけになってしまう現実・・・北朝鮮的織田統治下全員貧困化政策。
堺、草津、大津の関に代官を置いて税金取ってた信長に対して、
三好や六角や一向一揆はその交通量を激減させ
織田軍の補給や退路を遮断させ疲弊させる戦略だからかなり有効だったと思われる。
京での暴挙は自暴自棄に等しく完璧に物心両面で信長は追い詰められていた証拠だろう。
さらに奈良京都堺尼崎で恐喝略奪をして荒廃させた以上、 これ以上の略奪における大利益をあげるのは難しく、
天正2年春に織田が攻勢をかけるもまた資金難で停滞し各軍が各国で苦戦している。
兵力分散してるのも各軍が各国に現地調達をして軍を養わざる負えないからだろう。
現地略奪方式を取らざるを得ない。 織田軍が虐殺したりしてるのも略奪や財産没収が目的だろう。
この略奪モンゴル方式は言わば、牟田口司令官のような者が信長であった証明であろう。
アスペ・パワハラ独裁権力者だったから日本は不幸の闇に包まれたってわけだ。

武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長
兵科別の編成がなされていたから
北条・上杉・武田は部隊別の兵種の占める割合がわかるんだよね。
だけど織田はそんなことやってないからまったく不明。
62人間七七四年:2013/10/08(火) 10:53:02.74 ID:rlqtfO/9
武田は小学校低学年に滅ぼされたってことか…
63人間七七四年:2013/10/08(火) 17:48:15.34 ID:2cFuMLiR
>>50
寺社は自分らで管理していた寺領で管理していた木材がただで使用できた。
64人間七七四年:2013/10/08(火) 19:51:14.39 ID:dBXgEoTW
兵科別編成www
どっかの本でもそんなトンデモ説主張していたなぁ〜w
65人間七七四年:2013/10/09(水) 09:28:00.22 ID:jArGHNId
>>63
まさか個人が1人でやる葬式は資金を用意する必要があるから、とか言うわけないよな?w
そもそも大量の死体を一度に焼くなんざ現代でも困難と言われているのに
大量の死体を一箇所でえっちらおっちら1人ずつ焼いては埋葬なんて七面倒なことしてたとでも言うのか?w

そんなことするより一箇所に穴掘ってそこに死体を大量に埋める方が効率的だし
現代でも無縁仏の扱いは個人墓のそれよりいい加減で所狭しと大量の無縁仏が一箇所に埋葬されているくらいなのに
お骨の類が必要ない無縁仏で「火葬は当時の贅沢手法だ(>>40)」と言っておきながら身寄りのない貧民集団のために
いちいち1人ずつ火葬すると言う凄まじい矛盾


そもそもフロイスはキリスト教圏の人間で「土葬=崇高、火葬=卑賤」という凝り固まった偏重主義を持った人間だと言うことを完全に忘却した理屈w
66人間七七四年:2013/10/09(水) 09:54:46.47 ID:J7UsKLTy
いちいち1人づつ火葬

そんなことどこにも書いてないのにお前はバカか。
それに遺体は獣葬に近い状態ですでに損壊しているから、
それほど焼く必要がなくなってると想像できない貧困さが哀れ。
67人間七七四年:2013/10/09(水) 12:33:18.81 ID:RxFhBxGq
一片に全員焼けないんだから1人ずつ焼くしかないじゃんよw
日本語もできないのか朝鮮人さんよw

しかもそれ火葬って言わないじゃんw
ただ供養してるだけなんだからむしろ土葬だろ哀れwww
そもそも獣葬は肉を腐敗させた後に火葬にするが
この時火葬にするのは身寄りのある人にお骨を渡すため
身寄りのない貧民集団でお骨あげてそのお骨どうするんだよwww

自分で言ったこと>>40を自分で否定しちまいやがんのw
68人間七七四年:2013/10/09(水) 12:38:39.32 ID:RxFhBxGq
ここまでの流れ

だが「フロイスの言を借りれば火葬は貧しい人や身寄りのない人のためのもの(>>25)」

だが「火葬は贅沢な手法でスタンダードは土葬(>>40)」

だが「火葬は無縁仏のためにやる(>>48)」←えっ>>40を自ら否定?w

だが「寺社は自前の木を使って焼くからタダ、大量に火葬するのはわけない(>>63)」←同じく>>40を否定

だが「無縁仏になるような遺体は損傷激しいから焼く必要なし(>>66)」←>>48も自ら否定ww
69人間七七四年:2013/10/09(水) 13:09:25.85 ID:+sWkwhX/
一人づつ火葬と捏造
論破されると今度は
焼く必要がないなどと曲解
しないと成り立たないほど追込まれてんの露呈w
70人間七七四年:2013/10/09(水) 15:59:59.62 ID:RxFhBxGq
えっ、>>66で既に
「遺体は獣葬に近い状態ですでに損壊しているから、それほど焼く必要がなくなってる」
と、まぬけた見解がでてるじゃんw

あ、もしかして「身寄りのない貧民集団は遺体が腐敗しているからすぐに焼ける」とでも言いたかったのか?w
ごめんなーわかってやれなくて。なんせ成人の人間が地上で死んで白骨化にかかる期間は
約1カ月かそこらで、獣葬に近い状態で放置されていたら焼く必要もなく綺麗な白骨になってるからさーw
そもそも火葬をやるのは身寄りのある人間にお骨を形見として分けるケースが高いから、身寄りのない貧民集団には無用の長物のものなんだけどもw
71人間七七四年:2013/10/09(水) 16:00:54.01 ID:RxFhBxGq
分けるケース→分ける確率
72人間七七四年:2013/10/09(水) 17:06:56.72 ID:+1g+MhIJ
>>70-71
よっぽど悔しくて焦ってレスしたんだね^^よちよちww
73人間七七四年:2013/10/09(水) 17:22:39.15 ID:+sWkwhX/
それほど焼く必要がなくなってきてる
この文章を歪曲すると焼く必要がない
などと変換できるのか。頭おかしいなw

つか、名誉を守る自刃や自害には、介錯する側にも
苦しまずに首を刎ねる腕前と礼作法が必要で
介錯に失敗すると恥なので人選を慎重にする。
しかし火刑にはそういう礼法や技術が必要ないので
身分に応じた刑罰になる。
74人間七七四年:2013/10/10(木) 10:55:41.81 ID:RTM1vRa8
>>72
何言ってんだこいつ^^;
にほんごもわからないんでしゅねw

どうせ>>73も菅沼遼太だろうから俺が知恵遅れにもわかりやすいように説明してやるけど
一般成人が死んでから完全に白骨化するまでかかる期間は約1ヶ月
しかも一部白骨化してから完全に白骨化するまでの期間は大変短い

つまり>>66で菅沼遼太が「遺体は獣葬に近い状態ですでに損壊しているから、それほど焼く必要がなくなってる」というデタラメを吹聴しているが
こんな都合のいい状況はそもそも発生しない。まただがチョンは>>66で獣葬の言葉を出しているが
これも知ったかぶりが凄まじく、実際の獣葬では火葬は儀式同然で既に白骨化を終えてから行う。

日本の場合は儀式ではなく遺族や身寄りの親族にお骨を形見分けするためなのだが、
だがチョンは>>40で「身寄りのない貧民集団に行う」と主張している。
身寄りのない人間がお骨を形見分けする必要がないので、猶更火葬を行う必要がないというわけだなww
(現代では土葬自体がまず行われないので、火葬して遺骨は寺が管理することになるが)

ちなみに名誉を守る自刃や自害には介錯する側が云々などと>>73でも吹聴しているが
介錯人が完全に必要とされるのは江戸時代になってからで戦国時代までは介錯なしで自害する人間もいた。
他ならぬ信長がその1人で信長記では介錯人もつけず「部屋に誰も入れるな」と遠ざけるところで話は終えられている
もちろん自害せずトンズラこいた可能性も否定できないわけだが
75人間七七四年:2013/10/11(金) 14:37:39.58 ID:Mo4qPUyC
完全に白骨化するまでかかる期間は約1ヶ月
しかも一部白骨化してから完全に白骨化するまでの期間は大変短い


ばっかだなぁ。季節、天候、湿度、気温、
死体の保管場所や土壌状況、生前の健康状況や栄養衛生状況、
諸々でかなり違うのも知らんとか小学生レベルの想像力しかねーなお前。
76人間七七四年:2013/10/11(金) 15:00:23.25 ID:RCDjzbpD
>>74
お前さ、自分が思った願望妄想を書いてるだけだろ。
相変わらず根拠ゼロの話を書く時だけは元気いいなw
でもほとんど意味不明な屁理屈垂れ流しになってるからやり直し。
77人間七七四年:2013/10/11(金) 15:23:20.39 ID:upBStJzg
浅井久政の介錯人は福寿庵
>>介錯人が完全に必要とされるのは江戸時代になってからで

えっ!?思いつきでデタラメ吐き散らすなよ・・・
浅井久政の介錯人は福寿庵
松平元康の介錯人は服部正成だったができず、
代わりに検死役の天方道綱が介錯にあたった。
別所長治の介錯は三宅治忠
武田勝頼の介錯は土屋昌恒
武田信勝の介錯は武田勝頼
小山田信茂の介錯は則武三太夫
織田信忠の介錯は鎌田新介
豊臣秀次の介錯人は雀部重政
78人間七七四年:2013/10/11(金) 21:18:14.27 ID:rZvWxaPq
>>75
そんなわかりきった話に今更揚げ足取りとかww
これは一般成人が地上で死んだ時の記録だ、わざわざ地中に埋めるなんて非現実的だしなw

>>76
都合が悪くなったから議論をうやむやにしたいのはわかるが、
>>68の流れがあったことは否定できないぞ菅沼遼太w

>>77
おまえの中では松平元康は途中で切腹したことになってるんだなw
ついでに言えば武田勝頼の介錯人は複数説あるし
そもそも信長は信長記を含むどの史料にも誰々が介錯人になったとは記録されていない有様だぞw
79人間七七四年:2013/10/11(金) 22:10:56.02 ID:v8jhAKtG
信長は焚刑で焼け死んだから介錯する人はいらないだろ。
ほんとに自害してたら介錯人の名前書いてるわな。
80人間七七四年:2013/10/11(金) 22:40:32.52 ID:rZvWxaPq
火をつけたのは信長だと一次史料にあるのに焚刑wwwww
菅沼遼太の朝鮮理論wwww
81人間七七四年:2013/10/12(土) 00:13:27.13 ID:LdRu0g9V
信長が火を付けたところを誰が見たんですか?
目撃者を教えて下さい。
82人間七七四年:2013/10/12(土) 01:09:16.99 ID:o2bOdmz2
生き残った織田家家臣や女中が見てるだろうし
そこから蓮成院記録に残ったんだろうな
そもそも信長を自害に追い込むために行動している光秀が
火をつけてそれに紛れて信長が逃亡するような状況を作るわけないしな
83人間七七四年:2013/10/12(土) 12:44:14.90 ID:21bCWyJl
>>82
織田厨が涙目で願望妄想を書いている哀れさワロタw
84人間七七四年:2013/10/12(土) 13:19:56.95 ID:OQgJqjyI
だが敗北あげ
85人間七七四年:2013/10/12(土) 21:24:37.61 ID:GZjbB1oZ
信長のブザマな死に方を隠蔽した
織田公式見解だろw
そもそも信長が火を放ったのを見たやつなんて包囲下で生存してるわけねーからな。
女中だって火が放たれる前に逃げてるだろうし。
名誉の自刃をするやつはみんな敵に見せつけて意地を見せつけ自分の死を演出してる。
隠れてこそこそやって火をつけるなんて様式は武門の文化に存在しない。
86人間七七四年:2013/10/12(土) 21:38:51.39 ID:YR4WnDZ7
菅沼遼太が涙目で願望妄想を書いている哀れさワロタw
87人間七七四年:2013/10/15(火) 20:18:04.38 ID:Fv/moyoH
本拠地移したり街道整備したりして勝つべくして勝ってる
父親の代より商業を重視して軍資金はそれなりに集めてるし
兵力を整えて勝っている戦も多い
実力といっていいだろうな
88人間七七四年:2013/10/15(火) 22:16:38.42 ID:+lHh0pLl
武田だって
石和→川田→府中と次々に移転し城下町を作り家臣を集住させて、
街道と駅馬制度を整備してるし、
別にそんなことは特別なことじゃねーよカス
89人間七七四年:2013/10/15(火) 23:51:48.26 ID:e9udGVlm
いちいち煽らないといられないところが哀れだ
90人間七七四年:2013/10/15(火) 23:56:35.98 ID:jjLdjIP/
最近論破されてばかりで気が立ってるんだろう
91人間七七四年:2013/10/16(水) 11:07:13.92 ID:Vxi2/ylc
>>88
つまり当たり前のことを当たり前に行い、そして結果を出した。
それは普通「実力」と評されるのではないかね?
92人間七七四年:2013/10/16(水) 15:49:07.36 ID:FuGv9CA5
十河一存 斉藤義龍 三好義賢 細川晴元 細川氏綱 三好義興 安宅冬康 三好長慶と
畿内の有力武将は次々病死した上に、六角も北畠も斉藤も内訌で崩壊。
足利義昭が信長の下に訪れ、六角義秀や和田や浅井の援軍を受けまくるとここまでお膳立てされたのが
信長の上洛
93人間七七四年:2013/10/17(木) 08:06:53.36 ID:xKbrg4wn
順番に見てみよう

尾張統一→実力と見ていい、手腕も中々
美濃侵攻→義龍とは一進一退、義龍が病死で幼い龍興になって家中混乱、ラッキー
近江侵攻→浅井は同盟国、六角は観音寺騒動でズタボロ、棚ぼた
畿内侵攻→三好長慶の死後は三人衆と松永の泥沼内紛状態、三人衆に追い詰められていた三好義継と松永久秀があっさり臣従、ラッキー
伊勢侵攻→苦労するが制圧、実力だが、最終実積から見ると苦労しすぎの印象

こうなると、将軍をようし、京も押さえ、もはや経済的にも、国力的にも日本一の勢力

次に越前侵攻→浅井の裏切りもなんのその、朝倉義景に家中統率力がなかったのもあるが力でねじ伏せる
そして本願寺、比叡山などの宗教勢力を打倒、実力といっていい
いよいよ武田信玄が中心の信長包囲網が発動、反乱続出→信玄病死、包囲網ガタガタ、各個撃破、超ラッキー
将軍を追放して怒った上杉謙信が上洛開始→病死、後継者争い勃発、自滅、ラッキー

次は中国、四国制圧だ、で本能寺

こうやって見ると、運の要素は非常に高い
が、実力無くして出来ることじゃないのも確か
好機を逃さず、確実に成果を上げたのは間違いない
棚ぼたとまでは言わないが運を実力に変えた名将
94人間七七四年:2013/10/17(木) 09:19:02.62 ID:YGB52EzL
>>93
志賀の陣をガン無視ですか?
そもそも朝倉は常に織田を圧倒。
将軍が信長に降伏したから、将軍任国の若狭が動揺し、
本国への退路に不安要素が現出したので、
急ぎ無理やりな撤兵をしたために追撃を受けて敗れるまで、
朝倉は織田に負けたことすらない。
95人間七七四年:2013/10/17(木) 12:14:33.70 ID:xKbrg4wn
>>94
え?
それは義昭を封じ込めた信長の手腕を評価するところで
その結果が朝倉戦の勝利、つまり棚ぼたではなくないか?
96人間七七四年:2013/10/17(木) 12:37:12.63 ID:Kv/M/Yd/
えっ?信長が天皇に土下座して義昭と和睦するように涙目で懇願したからでしょ。
つか、斉藤龍興を伊勢へ逃亡させたのも、
織田軍が斉藤軍の旗を持って、味方のフリをして近づいてきての
騙し討ちで信長が勝ったからだとフロイスも日本史に書いてるからなー。
信長がまともに戦って勝ったことなんてないだろ。ただの卑怯者。
97人間七七四年:2013/10/17(木) 13:55:05.35 ID:5y2oH8mg
斎藤→龍興は元服しており別に幼君ではない
六角→武田のように裏切り者逃亡者続出だったわけではない

普通に信長の実力です
98人間七七四年:2013/10/17(木) 14:10:21.29 ID:cc7U6zKe
戦国時代で騙し討ちは正当かつ策略に満ちた立派な行動だからな
騙し討ちがなければ武田の当主は武田信繁が継いでいただろう
99人間七七四年:2013/10/17(木) 14:52:44.45 ID:Kv/M/Yd/
悪辣な強盗・詐欺師「俺がやった姦計はキレイな犯罪だ」
やっぱりキチガイ織田厨・・・
100人間七七四年:2013/10/17(木) 16:03:42.70 ID:cc7U6zKe
戦国時代と平和な時代を同一視するだがチョンw
101人間七七四年:2013/10/17(木) 18:23:07.65 ID:Xz5DP1yL
ぶっちゃけ領土の拡張なんていかに棚ボタのタイミングを見逃さずにやれるかどうかなんだがな。
棚ボタを見逃す奴が愚将なだけ。
102人間七七四年:2013/10/17(木) 18:32:44.18 ID:0BX5mzvp
信長程棚ボタがあれば領土拡張できない雑魚なんてそうそういないだろうがな
103人間七七四年:2013/10/17(木) 18:37:10.03 ID:Xz5DP1yL
信玄さんて超ド級の雑魚だったんだね。
周り弱小しかいなくて長尾は北条片手間でほとんど空き巣狙いできたのに十年もグダるという。
死にたいの今川潰すのも5年ぐらいかかったよね。
その間、上杉に手出しされないように必死に信長に泣きついて。
104人間七七四年:2013/10/17(木) 22:03:15.17 ID:0BX5mzvp
大仏を燃やした三好らに危機感を持ったため
畿内では義昭将軍擁立にむけてお膳立てしてもらったのが信長じゃん。
義昭を蔑ろにした途端、信玄に追い詰められてたった兵1万しか動員できないまで無力化され
自暴自棄で京で乱逆無道の賊行為を働いたのが信長。

そもそも美濃は斉藤の元で統一されてるから、
濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
105人間七七四年:2013/10/17(木) 22:03:53.43 ID:0BX5mzvp
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
永禄3年に六角軍は北郡征伐に失敗し浅井長政に敗北。これをもって長政は家督を継ぎ六角からの再自立を達成(肥田・野良田の戦い)
六角は斉藤氏と共同しての浅井攻め戦略に移行。
翌年2月には逆に長政が美濃へ進攻する攻勢を示したが
3月に入るや背後から六角軍が進攻し佐和山城を落とされた(斉藤家の竹中重高への六角氏の感状あり)
しかし長政は反転し六角の退路を封鎖する動きを示すことで退却を誘い佐和山城の奪回に成功する。
またこの長期に渡る六角と斉藤との攻防の中で義龍が病死し美濃からの脅威は減少したこともあり、
畠山高政と六角義賢による三好長慶との京を巡る戦いが始まるや、長政は太尾城(米原市)を攻めるなど六角の背後を混乱させた。
このように浅井による北郡造反は畠山への援軍派兵の遅れを誘発し六角弱体化をさらに助長した。
そしてこの攻防は三好の勝利に終わり畠山の没落が確定し、
単体では三好にかなわない六角は三好と和睦を結び京を巡る戦いに終止符を打つ決断をすることになる。
三好政権に服従する義賢が騒動で家臣暗殺をして家中は一時的に統制されたかに見えたが、
義輝が暗殺されるや畠山や奉公衆や反義賢の六角家臣による義昭の近江脱出が図られ、
永禄9年4月になると義昭を左馬頭に任官させ、
一方、三好が働きかけている左馬頭義栄の将軍任命拒否を出させるなど朝廷工作を成功させた上で、
反義賢家臣や畠山や若狭武田や信長や徳川や北畠を率いて義昭が8月に上洛戦開始することになる。
しかし土壇場で信長が義昭が和睦斡旋した斎藤を奇襲する背反をした挙句に大敗し、
この上洛戦自体が崩壊し、三好の後援を受けている義賢の威勢が増し義昭は近江にいられなくなり朝倉を頼り逃げた。
そして信長の裏切りから脈なしと見た朝廷が三好が押す義栄を将軍にしてしまった。
このように義昭問題によりさらに混迷したものの、反義賢重臣たちは奉公衆と協力し、
織田と浅井の婚姻を成立させるなど上洛戦を成功させる手を打ち、
中央政界でも朝廷工作をして反三好+義賢+近衛の勢力と結託し、
ついに永禄10年に当主権限を制限する六角氏式目に同意せざるを得なくなるまで義賢らを追い詰められた。
これが可能になったのは再度、義昭上洛戦をする為であり、斎藤と義賢を凋落させることに成功。
これにより義昭は再度、近江に戻ってくる。
今回は奉公衆の他に大和衆や松永久秀も三好軍を引き付ける為に義昭上洛戦を前に挙兵させるなど辣腕を振るう。
しかしこの近江の反義賢勢力や浅井らを統合指揮して
高いレベルの朝廷工作もやってのけるだけの高い家格の持主が誰なのかわかんないんだよね。
京極は浅井の操り人形に過ぎず六角系家臣は操れないし(天文18年が京極氏奉公人奉書現存最古の発給)
信長公記から消された人物がいるのは間違いない。そもそも浅井氏が挙兵しての天文日記に書かれる
北郡錯乱・国錯乱は天文21年の六角定頼死去翌年であり、この時に浅井久政は六角軍に敗北し六角に従属したわけだが
このような大規模な近江国人を二分する近江国錯乱の理由として考えられるのは
六角義賢を六角氏相続には大きな大問題がはらんでいたのだろう。
六角義賢親子と朝廷との強いパイプを持つ近江の舊主(旧主)との対立・・・この六角分裂が義昭上洛と絡んでいくのである。
106人間七七四年:2013/10/17(木) 22:06:36.04 ID:MzA2ag73
甲斐は鎌倉公方や古河公方などの関東勢と将軍との権力争いの修羅場だったからな。 双方ともどもの後ろ盾を得て代理戦争してたから守護代や国人どもが暴れまわり混乱に拍車がかかった。
この管轄外へも影響力を及ぼそうとするやり方には関東管領とそれに協力する将軍側の駿河今川氏も困惑していた。
信重の跡を継いだ武田信守は5年で死亡し、(上杉禅秀の乱での武田の失敗を機会に立場を逆転した跡部氏)
実権を持つ守護代跡部駿河守明海・上野介景家親子に暗殺されたと言われている。
さらに飢饉や疫病の蔓延、一揆の発生が多くなる時代へ突入した武田信昌が継ぐと穴山氏、大井氏、今井氏、小山田氏ら
国人層もどんどん力をつけてきて完全な甲斐戦国時代へ突入。
家督を信縄に譲った後に信昌は次男の油川信恵への家督相続を考え始めて、それぞれの国人が彼らを擁立し内乱発生し
混乱に乗じて北条早雲んぽ甲斐進攻まで招く。
東郡の栗原氏、西郡の大井氏はもはや武田氏の統制から離脱し穴山氏と離合集散を繰り返し
おまけに明応の大地震まで勃発し一揆は頻発し甲斐乱国とまで王代記に書かれる。
こんなむちゃくちゃな甲斐国を継いだのが信虎。もう国内政治内政を無視したとんでもない人だったから
甲斐国史上最大の暴君とされ、武田氏は怨嗟の泥まみれだった。だから甲斐国主の座を追放されてしまった。

信虎平生悪逆無道ナリ。国中ノ人民牛馬畜類共ニ愁悩セリ

塩山向嶽禅庵小年代記

信長文書研究で有名だった奥野高広氏の信虎評 「奉公衆が他国に逃げるような事態をひきおこすようでは、守護の地位を保つことはできないだろう」
武田研究で有名な上野晴朗氏 「天文5年以来の家臣団の離反が根にあり、義元と同盟したことで、北条氏をより強く敵に回したことで、
北条と今川の友好関係が破れた。このような関係は武田家臣団の喜ばぬところであり対隣国関係の政策上で信虎と家臣団は二つに意見が割れた」

信虎のワンマン独断専行的態度に対する家臣団の不満と過酷な収奪による農民の疲弊。これは道三や信長とも共通した性格であろう。
一方、信秀は類い稀なる器用の人と賞賛され、その才覚で人心を得た。
信虎は在京守護としてほとんど京にいて公家たちと交際したり旅行行ったりで甲斐の財を湯水のように使うわ、
甲斐にたまにしか帰らないから、甲斐国人は統制されず、やりたい放題。
越後では守護の上杉房定が在京守護を止めて越後支配に乗り出し、検地をやって守護代や国人の横領を取り締まったりしているが、
信虎にはそんな意識もなく、たまに甲斐に帰国するや戦マニアの顔を出して戦乱三昧にして甲斐を荒廃させた。

権臣重臣たちによる晴信を御輿に担いでの悪人信虎の追放(妙法寺記)
此年六月十四日武田太夫様(晴信)親ノ信虎ヲ駿河ヘ押シ越シ申シ候。余リニ悪行ヲ成サレ候間、
カヨウニメサレ候。サルホドニ地下、侍、出家、男女共ニ喜ビ満足候コト限リナシ。

勝山記を読めばいかに甲斐が貧しく連年の災害に苦しんでいたかわかる。それを信玄が領内開発と法治による信賞必罰で
見違えるような国にした。

織田厨の捏造歪曲の実例
信玄の外征で破綻したので「世の中一向悪くなる」と書いてあるよなw
はい、これ自然災害が多発していた晴信初期の国情を書いている部分であり
完全に織田厨の歪曲で、その後の晴信の内政治水の努力により、毎年災害多発の甲斐から
災害記録がなくなってしまうのが史実です。
そして甲斐では妙法寺記に「世間が富貴になった、先代にはなかったことだ」と賞賛され
数百年にわたって神として尊崇された 長野在住の学者も身近で信玄を悪く言う人がいないことに驚いているくらい
本当にまあ、そうやって織田の所業を武田におしつけて印象操作すれば騙せると思う、
姑息なゴミニートの印象操作はいい加減にしとけやゴミ
武田には徳役という税制があった。
これは有徳銭とも呼ばれ、富裕層にだけ税を追加で取るもの。
これを当時は悪政と言っていたが、
これらが河川改修などの災害防止にあてられていた。
逆に北条などは富裕層である高利貸しを優遇して
借金苦で家族を質に入れて流されてるケースが多発してる。
107人間七七四年:2013/10/17(木) 22:34:30.25 ID:Xz5DP1yL
まだこの板に存在したんだね。
アスペルガーだがさん。
108人間七七四年:2013/10/18(金) 11:43:04.60 ID:E7wvLonU
>>96
だから、マトモに戦ったかどうかが焦点ではなく、そこを制圧したのが棚ぼたかどうかだろ?
卑怯でもなんでも、越前制圧は棚ぼたじゃないじゃないか
109人間七七四年:2013/10/18(金) 12:38:35.04 ID:6cbgcnWC
>>103
信玄が運も才能もない雑魚武将だったってことだしな
何も持っていない人間が天下なんざ取れるわけねえ
110人間七七四年:2013/10/18(金) 17:57:39.78 ID:43MJgnsY
111人間七七四年:2013/10/18(金) 18:32:17.95 ID:YGDFH+KE
>>109
武田の当主ってロクな人物がいない
領民を苦しめまくった信虎
寝返り裏切りで一門すら不幸にしまくる信玄
誰彼かまわず当り散らしては迫害した勝頼
他人を顧みない無能ばかりが当主になる家は滅んで当然。
信長父子が死んで天下への野望を断たれた織田とは大違い。
勝頼が織田秀信の立場だったら死ぬまで秀吉と戦って最後は城を枕に一族全員討死だっただろうな
112人間七七四年:2013/10/19(土) 12:33:23.94 ID:8JMWufit
北条と長尾上杉がやり合っていくらでも空き巣し放題だったのに
十年もグダった信玄って勝機を見抜く目がないと言えるね
川中島の頃は信濃の国人衆すらろくに掌握できてなかったことが
感状の発給でモロ分かり。
113人間七七四年:2013/10/19(土) 21:16:08.08 ID:eLuOpp09
織田の当主ってロクな人物がいない
領民を苦しめまくった信長
寝返り裏切りで一門すら不幸にしまくる信長
誰彼かまわず当り散らしては迫害した信長
他人を顧みない無能ばかりが当主になる家は滅んで当然。
親子ともども討ち死した現実から目をそらしてはならない
114人間七七四年:2013/10/19(土) 23:00:04.25 ID:QeFMGtOv
>>113
>他人を顧みない無能ばかりが当主になる家は滅んで当然。
仰るとおり
織田家は有能な当主がたくさんいたおかげで江戸時代も大名として生き残った
武田家は信虎・信玄・勝頼と立て続けに大馬鹿三代が当主になったおかげで民衆に地獄を見せる醜態を晒して滅亡した
本当に無能な当主は信虎・信玄・勝頼だけだな
115人間七七四年:2013/10/19(土) 23:02:07.46 ID:pnD1vJDr
だよな 子孫はサル顔さらしてスケート選手してるんだから
116人間七七四年:2013/10/19(土) 23:11:20.43 ID:QeFMGtOv
それに比べて武田家は無様だな
死んでも恥だけが残って哀れだ
117人間七七四年:2013/10/19(土) 23:12:19.42 ID:pnD1vJDr
武田家は後世に評価されまくりですが? サル顔織田は誰も見向きもされないカス一族
118人間七七四年:2013/10/19(土) 23:16:38.94 ID:ZjdJYel2
必死の涙目即レスに滅亡に追い込まれた武田の哀愁を感じた
119人間七七四年:2013/10/19(土) 23:23:14.88 ID:QeFMGtOv
アスペルガーだがにできることは365日24時間2ch常駐と粘着荒らしだけ
120人間七七四年:2013/10/19(土) 23:24:15.83 ID:pnD1vJDr
図星を疲れ涙目になってる生き恥織田の哀愁ry
121人間七七四年:2013/10/19(土) 23:28:29.73 ID:ZjdJYel2
間違った日本語を得意気に使いまくる朝鮮人だがに爆笑
122人間七七四年:2013/10/19(土) 23:30:11.90 ID:pnD1vJDr
連呼リアンが何か言ったか?
123人間七七四年:2013/10/19(土) 23:31:52.58 ID:QeFMGtOv
日本語を理解しないアスペルガーだがに正しい日本語を教えてあげよう

×図星を疲れ

○図星を突かれ

正しい日本語が使えるようになるといいね
124人間七七四年:2013/10/19(土) 23:32:38.06 ID:pnD1vJDr
そんなことで得意気になるなよ 中学生
125人間七七四年:2013/10/19(土) 23:35:40.14 ID:ZjdJYel2
菅沼遼太くんは中学レベルの学力が無いから間違ってもしかたがないな
126人間七七四年:2013/10/19(土) 23:36:24.13 ID:pnD1vJDr
2ちゃんは初めてか 中学生
力抜けよ
127人間七七四年:2013/10/19(土) 23:37:44.89 ID:QeFMGtOv
アスペルガーだがは小学生でもやらないような間違いなんかするなよ 朝鮮人
128人間七七四年:2013/10/19(土) 23:40:00.42 ID:ZjdJYel2
力入れすぎて日本語がうまく使えないのか 菅沼遼太くん
力抜けよ
129人間七七四年:2013/10/19(土) 23:59:45.09 ID:QeFMGtOv
アスペルガーだがは今日も敗走だな
130人間七七四年:2013/10/20(日) 00:04:41.73 ID:LfgiKrVZ
>>114
武田は子孫がマジで悲惨すぎて目も当てられないからな・・・

武田信道:武田信玄の孫、些細なことで家康に文句つけられ伊豆大島に配流
武田信清:武田信玄の息子、姉妹のツテを頼りに仇敵上杉を頼る

武田信正:武田信道の息子、人生の大半を伊豆大島で暮らす。63歳にしてようやく赦免され本土入り
武田勝信:武田信清の息子、子供ができなかったため本庄家から婿養子を取る形で家を乗っ取られる

武田信安:信道系武田。武田信道のひ孫。家督を柳沢家の人間に譲り信玄の血脈を絶やした武田の戦犯

武田旧温会:現代に存在する信玄を含む武田を慕う会。ただし信玄の子孫はいない。最高顧問は柳沢家の人間
武田あんり:読者モデルであり、自称武田子孫。武田子孫を公言して子孫のいない旧温会から文句を言われる。
131人間七七四年:2013/10/20(日) 10:13:43.17 ID:Qrnkk9ss
武田家旧温会

最高顧問武田家十六世 武田 邦信
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E9%82%A6%E4%BF%A1

武田信玄公子孫決定の経緯
ttp://www.kyuuonkai.net/

ちゃんとした組織をつくり信玄子孫家系を選出してるし
現子孫も立派な経歴の持ち主で、山梨の実質顔役じゃん。

その一方、織田子孫なんてwww
132人間七七四年:2013/10/20(日) 10:38:24.46 ID:QAZh69Zv
武田旧温会メンバー

最高顧問:武田邦信  → 武田信玄や武田家と一切血縁関係のないエセ子孫www

  組員:武田茂   → 上杉家臣の本庄に家を乗っ取られた、正統性なき武田家www

     林正彦   → 存在するかも疑問視される仁科盛信の長男盛正の家系wwしかも実家を継いでいない長男www


一方の織田家

     織田長功 → どこぞのエセ子孫と異なり正真正銘織田家の血を引く存在。街の名前にもされる家元有楽斎を祀る

     他にも織田一磨(明治大正を代表する画家。こちらも正統子孫)や織田泉之(勘定奉行・函館奉行)など
     正統子孫がきっちりと結果を出し続けているのが織田家

     子孫も先祖の気風よろしく無能揃いで、他家から優秀な人材を取り
     先祖薫陶を客寄せ商売のように考えているのが、武田家www
133人間七七四年:2013/10/20(日) 10:40:22.70 ID:QAZh69Zv
長男盛正→長男信正
134人間七七四年:2013/10/20(日) 10:51:10.89 ID:QAZh69Zv
いくら泰平の江戸時代とはいえ自分の家に誇りを持っている武士の家が
そう易々と他家から養子を貰い受けるわけないもんなw
どうしても子孫ができなかった時に血縁関係のある親戚から頼み込んで
その子に跡を継がせると言うのは将軍家でもある話だが
全くの赤の他人がその家にいきなり迎え入れられて血脈を断絶させたまま
当主になるなんて馬鹿げた話は滅多にない。


徳川家で言うなら徳川家康の跡を宇喜多秀家が継ぐようなもので先祖顕彰や御家伝統もあったもんじゃない。
こんな軽薄かつ憚られるような所業を武田家は江戸時代に3回もやっているという先祖不孝っぷり
しかしこの所業を子孫に全て負担させるというのは酷な話である


天皇の血を引く甲斐源氏武田家がその辺の浪人や町民レベルにまで身を落としたのは紛れもなく信玄勝頼という無能バカ当主のせいで
そのために一家は散り散りになるわロクな地位も用意させてもらえないわ挙句の果てに日本本土から隔離され伊豆大島に連れて行かれるわ
江戸時代を通じて武田は部落民のそれと似たような扱いを受け続けている。
子孫達はなんで無能な先祖のために自分達が迫害されなければならないのかと嘆き悲しんだことだろう。


そしてそんな哀れな武田子孫を拾ってくれて重用した柳沢が地位を得ると
待ってましたとばかりに柳沢から養子を貰い入れ武田の血脈を本家が断絶させると言う
忌まわしき血脈との決別を武田本家は選びとり以降柳沢家と松平家が武田の名を冠して甲斐源氏の名門に相応しい家を作ろうと奮闘することになる
135人間七七四年:2013/10/20(日) 11:08:35.50 ID:Qrnkk9ss
井伊直政の家臣団は嫡男井伊直勝が引き継ぎ、
次男の井伊直孝には武田信吉死後の武田旧臣達が付けられ、
さらに秀忠近習に家康から任命され徳川軍の赤備隊として期待された。
そして直孝は家光後見役となり、
実質、大老として幕政を主導した。
家康が直孝をやたら贔屓し期待をかけ武田旧臣まで付けて赤備を許していたことから、
家康のご落胤説もあった。

山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。
136人間七七四年:2013/10/20(日) 11:10:03.39 ID:Qrnkk9ss
秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。

小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。

米沢藩 表高 15万石 実高 33万石
上杉氏は実高で水戸徳川家(20位)や越前徳川家(18位)を抜いており石高ベスト20内に入る大藩。
一方、浅井三姉妹との親戚関係だけと言う理由で大名家の家格すら失いながら
お情けで再興を許され命脈を繋げていた乞食の醜態を晒す恥さらし織田陣屋家は?

柏原陣屋      3万石未満    2万石とされる。 
兵庫県丹波市 織田信包系だったが慶安3年に改易し天領。
信雄系の宇陀藩で信武が発狂し宇陀崩れを起こして宇陀藩が改易されたことから
元禄8年に柏原藩が再興され信武の子が入る。
大名ではないので当然に城もなく陣屋。もちろん幕府に遠慮して城を作らなかったわけでもない。
信長以来の名族という理由だけで城主格にしてもらった為に
現代ではここを藩と呼称することもあるが
そもそも藩という言葉自体が明治以降の造語。
年貢軽減愁訴・百姓一揆・打ち壊し騒動が頻発する超絶貧困藩


天童陣屋       1万石未満    2万石とされる。 
山形県天童市 信雄系 「裸足で紅花さしても織田に取られて因果因果」
で有名な奥羽で南部藩と1、2を争うの超絶貧困藩 天保元年に城主格にしてもらう。
上野国小幡藩時代の不祥事で信長以来の名族としての特権を全て剥奪されて出羽へ飛ばされた。


芝村陣屋   1万石未満  9000石とされる。
奈良県桜井市 有楽斎系 百姓が死ぬ覚悟で藩を大批判したいわくつきのキチガイ藩で
藩の借金が銀2693貫と言う途方もない額に膨れ上がる始末。城主格にしてもらう。


柳本陣屋      1万石未満    まったく不明
奈良県天理市 有楽斎系 陣屋
他の織田系と同様に嘉永5年に信長以来の名族ということもあって城主格にしてもらう。
重税の末に武器を持たない百姓の叛乱に対してガチで織田軍が絶滅戦争をした地獄の超絶貧困藩

信雄は秀吉のオモチャにされて 栃木や秋田や愛媛に流罪に次ぐ流罪でしかも小姓1人しか御付人いなかったし
こんなブザマな状態だったのを救ったのは市が懐妊したからだし家康にオモチャにされた時はコジキになって細川や前田らに押しかけ居候して捨て扶持を催促して
親子が食い繋いでただけだしそれでも栄養失調で上の息子3人は早死に追い出され最後はプライド捨てて大坂城で生活保護。
こんなブザマな状況を救ったのはお江が次男駿河大納言徳川忠長との縁組を計画したからだし。
おかげで残った食い扶持減らしで仏門行だった下の息子3人を呼び戻して陣屋主とその家臣にしただけ。
それでも家光に忠長が遠ざけられると 織田家への待遇も地に堕ちたしな。
137人間七七四年:2013/10/20(日) 11:14:57.44 ID:QAZh69Zv
あれ、馬鹿で無能ばかりな先祖のせいで不遇だった武田子孫は否定しないんだwww
138人間七七四年:2013/10/20(日) 11:33:02.49 ID:Qrnkk9ss
>>132
織田の子孫すっげーショボイじゃんw
愛知県ですら織田子孫を盛り上げようとしてないしwww
139人間七七四年:2013/10/20(日) 12:55:04.47 ID:Qrnkk9ss
織田長益の茶道(有楽流)
現在は大和芝村藩系の織田長政の末裔を宗家

長益の次男織田頼長、その長男織田長好、信長の孫織田貞置と継承され、貞置以降のものを貞置流

大和柳本藩系の織田長功は除外www正統でもなんでもないしダメじゃんwww
140人間七七四年:2013/10/20(日) 15:13:14.04 ID:gQclY49L
無能な当主が三代も続いたため甲斐武田氏が滅亡したことは理解した
141人間七七四年:2013/10/20(日) 18:24:00.48 ID:1UyESaZg
>>115
アイツは家系図詐称してるだけだぞ
142人間七七四年:2013/10/20(日) 21:51:12.20 ID:QAZh69Zv
>>138
直系子孫が誰もいない武田子孫よりマシじゃんwww
有能な人間が武田の名を騙って事業やってるだけだしwww
143人間七七四年:2013/10/20(日) 22:02:33.71 ID:321Af2A+
>>142
お前は日本人じゃないな。
日本は中国や朝鮮みたいに血縁重視じゃないし。
先祖を祀る為に家を絶やさないように養子を取るのは当たり前。
それは日本が一夫多妻制の文化にあまり積極的じゃなかったことにより、
不妊妻と娶ったリスク管理でもあり、
愚藩主を家臣団が押し込めて、養子に継がせることも可能だったように、
あくまで家の存続を重視した藩コミュニティの生存戦略でもある。
144人間七七四年:2013/10/20(日) 23:22:47.17 ID:QAZh69Zv
朝鮮が血縁重視wwwww
流石朝鮮人は言うことが一味もふた味も違うなw

朝鮮人は家柄ブランドが大好きで血筋の内訳なんてどうでもいいというのが大半
李朝時代には貴族出身の人間が全人口の50%越えというありえない人口分布を成していて
在日朝鮮人は天皇が朝鮮人系だと真偽定からぬ情報をひたすら盲信している

つまり「高貴な家の出身だ」という事実さえあれば赤の他人でも何の問題もないというのが朝鮮人の家系で
江戸時代に直系子孫が自ら血筋を絶やして有能な人間を養子に取るという血統的な愚を犯した武田そのものじゃないか

まあ先祖の信玄や勝頼が無能バカ当主だったからそんな無能で忌むべき血なんて子孫もお断りだったんだろうなw
家を真に守ろう、先祖を真に奉ろうという家は天皇家や将軍家のように血筋絶対主義を貫いているわけだw
145人間七七四年:2013/10/20(日) 23:37:52.25 ID:vkO77CcZ
中国人や朝鮮人は先祖代々の家系図を必ず持つ程、血縁重視主義。
しかし日本人は三代前の先祖の名前すら知らない程で養子でも何でも良いから家の存続を重視なんだよ。
朝鮮人が先祖を貴族階級に捏造するのも家系図重視してるから。
だから苗字も似たようなものばかりになる。
日本人の苗字にバラエティがあるのも血縁重視じゃないから。
とにかく先祖を供養する為に養子を取るのが重視されるのが日本人。
146人間七七四年:2013/10/21(月) 00:24:11.01 ID:EVIR43Lh
家系図重視と血縁重視じゃ全然違うじゃんよアホチョンw
家系図重視ってのは家柄を誇示するためで血のつながりなんてどうでもいい家でもやる
逆に日本では血縁重視で「家柄」よりも「家族血縁」を重視する
だから藤原氏でも後半は五摂家として帰属意識を狭めてるんじゃんよw

日本人が血縁重視主義じゃなかったら天皇家や将軍家なんて存在しないじゃんよw
ローマ法皇みたいによそから有能な人間を迎え入れて天皇家を継がせて終わりなんだよアホチョンw
147人間七七四年:2013/10/21(月) 00:25:18.29 ID:EVIR43Lh
法皇→法王
148人間七七四年:2013/10/21(月) 09:40:42.21 ID:YgWYl/X6
いろんな藩が普通に養子相続してるのに何言ってんだアホか。
中国は一人っ子政策で男児を是が非でも欲しいと言う理由から、
男女人口比が圧倒的に男が歪なまで多くなり、
結婚できない男が多くなり社会不安要因になってるのも、
血縁相続重視だからなんだぞ。
149人間七七四年:2013/10/21(月) 10:41:56.95 ID:i0Ij33G0
普通養子を使って相続する時は
できる限り血縁関係のある者から選び
天皇家や将軍家では傍流や親戚から選定される。

それでも候補がいないときは女系の嫁いだ家の子供から
家系の血を引く子供を見つけてきて家を継がせ
それでもいない時は優秀な人間を他家から連れてきて、その連れてきた人に
自分の家の女を嫁がせて生まれてきた子供に跡を継がせると言う苦肉の策を行う


血脈断絶させたまま放置して家を完全に乗っ取らせるようなマネをする家はそういない
しかも武田は藩ですらなく生存戦略は一切必要ない
信玄勝頼のような無能バカ当主の血を忌み、自らを助けてくれた柳沢家の人間に恩返しする目的で継がせただけ
こんな考えを持つ家が真に先祖を祀るわけない。あと中国と朝鮮を一緒にするのは中国が可哀そうだからやめてやれw
朝鮮は世界から孤立しているんだからな菅沼君w
150人間七七四年:2013/10/21(月) 11:05:42.35 ID:BSlnGuwW
>>146
家系図重視=血縁重視だぞ。
朝鮮人なんて庶民レベルで家系図を持ってるし
庶民レベルで両班貴族の先祖にしてしまう家系図改竄屋商売が成立してるほど。
それはなぜかといえば、血縁先祖が誰につながっているか
これで現在進行形で差別が生まれるから。だから苗字も大族のものばかりになる。
ここまでしないと差別されるほど血縁社会であり男尊コネ社会。
それというのも儒教によって家系図を常に作り血縁先祖崇拝・大家族家長主義・身内しか信用しない社会が肯定されているから。
しかし日本人は家格が高い家くらいしか家系図を作らなかったし、戦国大名など下克上組も先祖なんてほとんど不明な者だらけ。
現代でも、自分の祖父の名前がかろうじて知ってるレベルが一般庶民で、先祖の由緒なんてはっきり言って日本人は関心を持たない。
ただ死んだら自分を供養してもらいたいと言う願望があるので、家を絶やすことが不孝とされ、養子斡旋業者も戦前まではいた。
そして名門の家を絶やして、先祖を供養する者がいなくなった家を復興させたり、絶えそうな名門家を絶やさないように配慮するのが
為政者の徳や度量と言う意識があり、養子として家のを継ぎ復興をしていたのが信玄だし
秀吉がやった御伽衆だし、家康がやった高家認定だし、家の重代の家宝の相続をした者であれば血縁が無くても構わず、正式に認めるのが日本人。
151人間七七四年:2013/10/21(月) 11:16:44.45 ID:BSlnGuwW
後宮システムや一夫多妻制に消極的である時点で、日本人が血族重視ではないのがわかる。
本気で血族重視の男尊社会なら、是が非でも男児を欲しがり、
数十人の妾を侍らせるし、双子だろうと関係なく、血縁を残す確率から厚遇される。
しかし日本は双子兄弟と言うのは忌むべきものとして、歴史の表舞台から消されるし、
決して子種が多くない家族ですら、せっかくの兄弟を仏門に入れてしまうケースも多い
これは、家族の中で誰か一人が仏門に入れば、先祖や家族が供養されるとする考えがあったからで
血族男子が生まれる可能性よりも、先祖が供養されることを重視したからに他ならない。
152人間七七四年:2013/10/21(月) 12:15:26.93 ID:i0Ij33G0
>>150
家系図重視≠血縁重視だぞ何言ってんだだがチョン
おまえの言う理屈では差別をされたくないというのが主な理由で
要するに見栄を張るために朝鮮人は家系捏造から苗字改変までやってるってことじゃんw
こんな奴が先祖を祀るとかただのパフォーマンスでしかないし
結局自分が社会的立場を得て得するためにやってるだけの茶番じゃんw
儒教の影響に毒されているだけしかなく宗教や社会構造に無理やりやらされている状況なのが朝鮮



一方日本は家系図に関してはあまり興味を持たないが、先祖供養や父祖顕彰はきっちりとやる人間が多く
しかも社会的背景や宗教などによる強制された朝鮮形式と異なり
自発的に損得関係なく行っているのが日本人



事実天皇家や将軍家では血縁絶対主義が貫かれ、その他の諸藩でも血縁の濃さを重視しているのが実情
血縁重視だから徳川将軍含め武士は基本皆子だくさんで側室も多く囲っているし
仮に子供が少ない家ですら先祖供養や跡取り探しは苦心しながらキッチリやるのが当時の日本人
武田みたいに先祖の血脈を断絶させたまま放置して家を乗っ取られるようなマネをした家なんてほとんどない


大体血のつながりもない赤の他人の先祖を当主が心から祀るなんてまずありえないし
赤の他人を養子にしてもその養子だけが1人で来るわけがなく当然お付きの家臣がいるわけで
赤の他人を養子にすると言うことは赤の他人に当主と組織の中核を全て譲り渡すような危惧すべき行動なのに
平然とそんな行動をやった武田家はよほど信玄勝頼のような無能バカ当主の血を嫌ってたんだろうなw
153人間七七四年:2013/10/21(月) 13:33:16.62 ID:z5cm9gtC
関東管領山内上杉が家臣筋の長尾に家督相続させたり、
伊勢氏が北条を名乗ったり、
血縁無視しているのは朝鮮人だからなのか?
世間的に受け入れられているのは朝鮮人だらけだからなのか?
そうじゃないだろ。日本人は血縁ではなく、家を重視し、別人が住む土地の元領主の名を継ぐなんて事もやってる。
本気で血縁重視なら、最も家康嫡男に近い血の者を将軍にするはずだが、
そんなことを気にしてないどころか、
時を経ると遠い者を将軍にしたりしてるのは、
日本人が曽祖父の名前すら知らないのと同様に、
親子の情がせいぜい三代までなのが現れてる。
大名や藩など公的組織となると、家臣の存続にも関わるので、
家の存続のために血縁にこだわっていられないから。
そして妾、側室の文化が容認されずらかったのは女系社会だったからだ。
男尊女卑ではなかったから、女性大名もいたし、立花宗茂みたいな血縁外への相続も可能だし、
龍造寺から鍋島への相続も可能。
154人間七七四年:2013/10/21(月) 14:30:24.32 ID:DO8QJGNf
関東管領山内上杉は当時子供や親戚が一切いなかったことによる苦渋の決断
姓の改姓は別に血が入れ替わっているだけで全く問題はない
このあたり「家名」よりも「血筋」を重用する日本人の気質が出ていると言える


別人が住む土地の元領主の名前を継ぐなんて典型的な「家格軽視」「血縁重視」の日本人気質で
名前はあっさりと変更して、しかし血筋や家族がかわらないなんてのは家格重視の朝鮮人にはない発想。
徳川将軍も例外なく後世で言う「御三家」「後三卿」の出自からは一切輩出されておらず
明らかに神君家康公とそれに連なる子供達を特別視されているのが現状。


本当に血筋を重視しない家柄なら徳川将軍家は家康と一切血が繋がらない将軍を輩出しているし
天皇家も今上天皇や代々天皇家と全く血縁のない人間がローマ法王のようにかわるがわる努めるだけ


大体特殊な事情でもないのに自分の父親や祖父が受け継いできた家を赤の他人に譲る等理解不能レベルで
武田のような信玄勝頼の無能バカ当主達の血脈を絶やすという目的がなければ通常しない。
立花や竜造寺なんて周りが勝手にそう決めつけただけだし竜造寺は鍋島政権でも重用されてるし
他に親族が存在したにもかかわらず本家が嫡流血脈を断絶させたままなんて珍しい事例はそうないw
155人間七七四年:2013/10/21(月) 15:42:53.25 ID:BSlnGuwW
>>154
>>当時子供や親戚が一切いなかったことによる
はいはいデタラメ乙
>>姓の改姓は別に血が入れ替わっているだけで全く問題はない
えっ?完全に矛盾してるのに問題なし?w

つかさ、武田貶しのために無理やり歪曲化し正当化してる我田引水そのものじゃねーか
さすがキチガイ織田チョンは狂ってるわw
米沢藩が上杉氏親族の子を後継にせずに吉良義央や秋月種美の子を養子に迎えたりしているように
どうしても血縁じゃなきゃいけないなんて常識は存在しない。
お前の言う論理で言えば福岡藩も黒田治之は徳川宗尹の子が養子になってるし(秋月黒田家から養子も取れるにも関わらず)
人吉藩なども池田宗政の子を養子にしてるなど、血縁へのこだわりはない。
156人間七七四年:2013/10/22(火) 01:22:02.02 ID:gIcgcFEf
菅沼遼太らしい都合の悪い部分を隠蔽した朝鮮捏造理論だなw


吉良氏から迎え入れた上杉綱憲は母親が上杉氏の出身で上杉の血を引いているし
秋月氏から迎え入れた上杉鷹山(一応母方の祖母が上杉氏)はピンチヒッター的存在で、
上杉鷹山には実子の顕孝がいたにもかかわらず、前藩主上杉重定(上杉の血を引く)の息子を養子にして後に藩主にしている(上杉治広)


黒田治之も例にもれずピンチヒッターの存在で秋月藩系の黒田長舒系(こちらも女系でなんとか血を繋ぐ)が継いでるし
相良家の場合は血脈末期状態で頼峯、頼央と直系当主が2代続けて不審死した挙句の断絶だから全く意味なし
どの家も基本的に男系を重視し、次に女系を重視し、さらには母方の実家などを詮索し、最後に幕府の公儀の下、藩生存のための戦略を練るのであって
結局朝鮮の「家格重視・血縁軽視」とは真逆の「家格軽視・血縁重視」と言う事実は変わらない


名ではなく血を重視する家が多いのに、なぜか武田は米沢武田(ここも本庄に乗っ取りくらっているが)から養子を迎え入れることをせず
助けてくれた柳沢の血を入れて、その後も松平や柳沢の血を入れ替えている時点で
明らかに家格のために先祖(信玄勝頼などの無能バカ当主)への決別を図っていることがわかる。
親戚縁者がいるのに最終的に本家に血が一滴も入らないという事態を引き起こしているのは日本では異常事態


>えっ?完全に矛盾してるのに問題なし?w

そこは書きミス「血が入れ替わっているだけで」→「血が入れ替わっているわけではないので」
157人間七七四年:2013/10/22(火) 09:19:27.96 ID:5ZIwqvVa
上杉→長尾がすでに血脈じゃないし、
長尾→上杉も血脈切りしてる時点でお前の主張は矛盾してるだろ。
上杉→長尾→上杉は二度も血脈断絶を自らやってる。
それに是が非でも男系親類から養子を取ろうとするのが血脈主義だが、
わざわざむちゃくちゃ遠い女系を選ぶ時点で矛盾してる。
それは違う姓名による乗っ取り行為にしかならんからな。
158人間七七四年:2013/10/22(火) 11:52:55.86 ID:oaiflYh/
つか、日本って古来から家格の違いってのがあって
家格の高い相手や精強の相手から、養子を貰うことで
自家の家格を少しでも引き上げたり、
立場を強化しようとする行為をやってきてるわけ。
だから破格な将軍家に連なる人を養子にもらえるってんで
徳川宗尹の子黒田治之を喜んで迎えた。
しかし治之には嗣子もできず30歳で亡くなってしまったから
京極高慶の七男である黒田治高が継いだが、これまた29歳で死に
一橋徳川家当主になっていた徳川治済(11代将軍・徳川家斉の父)の三男・黒田斉隆(兄が将軍)を迎えたって流れだろ。
子供がうまれなくて京極から嗣子をもらっただけの話なのにピンチヒッターとかアホだろお前w
それでも将軍家の血に戻そうと必死になってるのが黒田家なのにwww
だいたい黒田斉隆の子黒田斉清が黒田長舒の子なんて話はでっち上げで根拠なんてねーよwww
それなら叔父の将軍徳川家斉から斉の一字拝領はありえないわ。
お前はほんと武田を貶すためだけに、我田引水するキチガイ屁理屈ばっか書いてて気持ち悪い粘着ストーカーだよなw
159人間七七四年:2013/10/22(火) 14:31:25.79 ID:euiqrqeW
>上杉→長尾→上杉は二度も血脈断絶を自らやってる。

あれ俺の記憶が正しければ上杉景勝は謙信と長尾の血が繋がっているはずだが?
もっと言えば上田長尾と越後長尾も遠い先祖で血が繋がっているわけだが?
上杉憲政が親戚が全くいなかったことによる苦渋の判断だが?

>是が非でも男系親類から養子を取ろうとするのが血脈主義

もちろんそれができれば越したことはないね
できないからしぶしぶ女系から取ってくるんだけど

>家格の高い相手や精強の相手から、養子を貰うことで自家の家格を少しでも引き上げたり、立場を強化しようとする行為をやってきてるわけ。

えっ、おまえの理屈が正しければハナから実子などに継がせずに偉い家から
養子を貰ってその家を継がせるのが武士のしきたりということになるが?
大名家は実子を無視してより家格の高い徳川将軍家から子供を貰って後を継がせ
その徳川将軍家はより家格の高い天皇皇族から子供を貰いそいつに継がせる。

能力の高い者、格式が高い者が多くの家に散らばってその家を継いでいくシステムになるはずだが
そんな家督継承方法を行っていた家はどこにありますか?w

>黒田斉隆の子黒田斉清が黒田長舒の子なんて話はでっち上げで根拠なんてねーよwww

えっ、「でっち上げ」だという根拠なし?w


結局信玄勝頼という無能バカ当主の子孫と言う血縁より
自分を厚遇してくれた大身の柳沢家の人縁の方が
武田の子孫にとってありがたいものだったということには変わりないんだよなあw

なまじ天皇は朝鮮系なんて盲信している在日朝鮮人のことだから
まさかその血を引く武田信玄が無能バカな当主であるとは思いたくないがために
必死に日本の伝統を歪曲捏造してまで信玄弁護に走る哀れな菅沼w
160人間七七四年:2013/10/22(火) 16:11:29.94 ID:ScIbvBHE
ほんと織田厨はアホだな。
誰も息子への世継ぎを否定してないのに勝手に否定したことに曲解してまで正当化しようとしてるしw
そもそも私はあなたより家格が低いけど養子くれよ!なんて話が通用すると思ってるところからして無知。
六角義治と斎藤義龍が同盟しようとした際に、
斎藤の家格じゃ無理って話で同盟自体が破談したくらい家格は重要。
蜂須賀は譜代筆頭彦根藩の妻を貰ったりと外様からの地位向上を図っていたが、
将軍家慶の弟の蜂須賀斉裕を養子にもらえて大喜びして、
将軍の実子の養父だから官位あげてくれって要求して正四位を貰ったりしてんのに。
鳥取藩の池田斉稷も息子に池田斉訓がいながら、将軍の子である池田斉衆を養子にしてるし。
それで冒頭の話に戻るが、織田厨は武田みたいに血縁にない養子を受け入れるのは屈辱的とする論法を展開してるが、
全くのデタラメ論で、養子相続だから卑屈になるなんて思考は存在しない。
それは家名や家格が上がると先祖も喜ぶと言う論理であって、
そこに血縁子孫かどうかの差別は無く同等に扱われる。
だから絶えて久しい名家を再興させて、今までの名を捨てて継ぐことを許すと言われれば、
それを侮辱ととらえず褒美として喜ぶのが日本人。
だから血縁以外の養子を継がせたところで織田厨が主張するような周囲から卑下されたり、
異常事態になったり、
赤の他人が先祖を祀るのがあり得ないとか、
家が乗っ取られたとか
そんな風に思うやつはいねーよ。
ほんと織田厨はバカだな。
161人間七七四年:2013/10/23(水) 02:37:15.27 ID:jHDS0ltl
>誰も息子への世継ぎを否定してないのに勝手に否定したことに曲解してまで正当化しようとしてるし

完全な血縁重視じゃんw

>斎藤の家格じゃ無理って話で同盟自体が破談したくらい家格は重要。
>家名や家格が上がると先祖も喜ぶと言う論理

それは子孫が必死こいて努力してあげるべきものであって他人の箔を使えば誰もが高貴な家になれるわなw

>将軍家慶の弟の蜂須賀斉裕を養子にもらえて大喜びして

そら将軍の子供なら体裁上は喜んでおかないと何されるかわからんわなw
ちょっと盾突いただけで改易や減封くらう世の中だししかも二十二男とか親にとって捨て駒レベルだし

>織田厨は武田みたいに血縁にない養子を受け入れるのは屈辱的とする論法を展開してるが、 全くのデタラメ論

あれ、おまえの理屈が正しければ毛利家から養子を取った吉川家や織田家から養子を取った北畠家は
養子縁組に大変喜んでいたということになるのだが、こいつらの元当主って最期どうなったっけ?w

>赤の他人が先祖を祀るのがあり得ない

養子に出された人間にも実家に先祖や父祖がいるのに
それを曲げて赤の他人の遠い先祖を祀るとかそれこそ非現実的な話だしな
蜂須賀のように他に子孫が安寧の地位を保ってたら野心なく家を明け渡すかもしれんが
武田のように他に子孫がまともにいない状態で家を全部他人に丸投げとか先祖不孝もいいとこだろw

>家が乗っ取られた

そら赤の他人を養子に迎え赤の他人の養子の付き人が藩の中核を担うようになるんだから
当然それは乗っ取りに近い行為なのは当然だわな。事実吉川や北畠はもはや乗っ取り同然と言っていいし
162人間七七四年:2013/10/24(木) 18:53:13.53 ID:mkedj3eO
歴史板にはへんなヤツいるなぁw
163人間七七四年:2013/10/26(土) 09:15:34.42 ID:D120SKbB
織田のようなカス家系を継ぎたいと思う奴はいなかったってこったなw
164人間七七四年:2013/10/26(土) 09:18:06.78 ID:MUyBDkVO
武田も織田も負け犬だろ
キャンキャン吠えてないで仲良くしろよ
165人間七七四年:2013/10/26(土) 09:33:25.69 ID:D120SKbB
お前はどこの犬だよw
166人間七七四年:2013/10/26(土) 11:39:39.39 ID:WkegeyP/
朝鮮の犬やろうな菅沼遼太君
167人間七七四年:2013/10/26(土) 13:14:52.77 ID:D120SKbB
基地外織田厨はまたレッテル張りか 
168人間七七四年:2013/10/26(土) 23:04:46.23 ID:4ZfIgQe/
unko
169人間七七四年:2013/10/27(日) 10:51:01.72 ID:7ebexO59
今の時代を生きる俺達には馴染まないが
日本は昔から家格第一主義
本人の能力はあまり関係なく、産まれがすべて
田舎じゃ今でも80以上の年寄は結婚するときに相手の家の格とかいったりする

平安初期の藤原貴族しかり
平安後期の、平氏にあらずんば人にあらず、しかり
江戸の武士階級しかり

鎌倉も頼朝に東国武士が従ったのは源氏の御曹子だから
室町も尊氏に諸将が従ったのは源氏の棟梁的立場だったから
時代のトップに立つのは常に高貴な血筋の者

戦国大名もほぼすべては源平藤橘の出身を自称している
なぜ自称する必要があったのか?

それは自分の家系に箔をつけたいから
つまりそれだけ昔の人にとっては家系(血統)は大切で、かつ絶対的なものだった

ま、そこだけ見ると血族第一主義だが、逆に元々の血統的立場が悪い者からしたらどうか?
もし、養子で遥かに格上の家から子供を貰える事になれば?
自分の子供がいようが関係ない
まずは家格を上げる事が第一
それによってさらに格上の相手とも縁組みができ、格を上げる事ができる
格が上がれば上がるほど、絶対ではないが未来に渡る自分の家の繁栄が約束される

勘違いしてはいけない
昔の人にとっては家名を未来に残すことがすべて
そこに血の繋がり有無は絶対ではない
170人間七七四年:2013/10/27(日) 11:52:04.37 ID:qDvj+7UP
白河結城氏である小峰義親も佐竹義広を養子に迎えて喜んで源氏を名乗り書状を出し始めたもんな
北畠氏は義昭の和睦斡旋を受け入れ信雄を人質として受け取ってたから、当初は北畠後継者にすらなってないし。
吉川や小早川にしたって、元就が強制的に継がせたなんて一時史料はまったくない。
滅亡回避を目的に家名存続のために進んで血縁外の養子を迎えただけでしょ。
171人間七七四年:2013/10/27(日) 12:48:23.11 ID:7ebexO59
まぁ毛利は特殊だから
元就が元春、隆景に、養子に行ってもお前たちは毛利の人間〜て逸話があるだろ?

あれは当時の感覚では
本来は養子に行ったらその家の人間
いかに養子先の家を繁栄させるか考えるのが普通

しかし元就は逸話のように最初から乗っ取り目的
これは異例

現代で考えても、息子が婿養子に行けば、仲は良くても他所の家の人間だろ
婿にいかせて嫁の家の財産を奪おうと考えるのは異常

だから逸話として残ってる
当時の感覚で普通の事なら逸話として残らん
172人間七七四年:2013/10/27(日) 15:48:33.38 ID:xMvddRhW
棚ぼたは織田信長よりむしろ武田信玄の方だ
織田信長が今川義元を討ち取り今川領に手を着けなかったおかげで駿河を占領できたんだからな
しかも今川を滅ぼしたのは徳川家康で武田信玄は火事場泥棒しかしていない
これが史実
173人間七七四年:2013/10/27(日) 15:52:12.71 ID:qDvj+7UP
桶狭間の戦いなんてなかったけどな。
174人間七七四年:2013/10/27(日) 16:03:29.50 ID:xMvddRhW
>>173
日本の教科書には桶狭間の戦いは必ず記載されている
韓国の教科書で教育された菅沼遼太には史実を理解するのは無理
これが日本人と韓国人のレベルの差
捏造ばかり繰り返している菅沼遼太よ、己の無知を恥じたまえ
175人間七七四年:2013/10/27(日) 16:08:32.57 ID:qDvj+7UP
>>174
なら写しじゃない一次史料出せよ。
176人間七七四年:2013/10/27(日) 18:02:23.22 ID:23xhg0ES
>>175
中学レベルの参考書に苦戦しているのに一次史料とか身の程知らずだな
まずは日本で使用されている教科書を理解し基本を身につけることが先だよ
177人間七七四年:2013/10/27(日) 19:02:55.92 ID:Lmbs0klm
信長じゃ今川を滅ぼせなかっただろ 
178人間七七四年:2013/10/27(日) 21:10:35.28 ID:0zjyvabW
そうだな
武田なら朝倉も浅井も足利も北畠も斎藤も三好も別所も武田も滅ぼせなかったなw
179人間七七四年:2013/10/27(日) 21:10:52.54 ID:u4zlHabG
信長公記によれば1552年に今川義元が討ち死にしたらしい。
一次史料によると1560年に今川義元が突然死した事がわかる。
180人間七七四年:2013/10/27(日) 21:43:01.42 ID:23xhg0ES
>>179
韓国人には理解できないんだから無理するなよ
中学レベルの日本の教科書で正しい歴史を学べ
181人間七七四年:2013/10/28(月) 06:57:27.03 ID:MjysfNkf
今川が衰退したのは
遠州騒乱による国人たちの反乱に乗じた家康の三河横領であって、
それ以前に今川は衰退してないし。
そもそも織田と徳川の清洲同盟もウソだしな。
義昭の上洛工作の中で織田と松平の同盟が生まれただけ。
182人間七七四年:2013/10/28(月) 10:44:28.17 ID:wtmIqE3M
運の要素が強いのは間違いない
が、信長は当時では考えられないくらいの合理的な現実主義者
一族経営で、ただ何となく繋がってるだけの勢力は、スキを見せたら確実に食われてただろう
183人間七七四年:2013/10/28(月) 15:01:24.64 ID:WcSP28Jl
棚からぼた餅がない成功大名はあんまりいないと思う
184人間七七四年:2013/10/28(月) 16:52:01.34 ID:e5qsURV0
桶狭間の戦いのほかにも第一次小豆坂の戦いもでっち上げ捏造だしな。

>>182
>>信長は当時では考えられないくらいの合理的な現実主義者
へっ?どこがだよwww相変わらず理由や根拠が一切書けないんだよねwww
185人間七七四年:2013/10/28(月) 17:34:58.62 ID:ERGA3E76
>>184
単発IDで捏造するのは菅沼遼太くんしかいないぜよ
186人間七七四年:2013/11/06(水) 20:28:04.77 ID:KE6TB1rA
太田が書いていない、作者不明の公記首巻に書いてある
信長の戦いは全て想像妄想のでっち上げ捏造戦記だしな。
187人間七七四年:2013/11/08(金) 00:37:23.63 ID:6OQTnH3/
検定通じてお国も学者も認めてる桶狭間合戦
ただ一人その痛切に立ち向かう菅沼良太
厨二だね最高だねその展開
是非国と学者とまとめてぎゃふんと言わせてくれ
こんなところで吠えてる場合じゃないぜ!
188人間七七四年:2013/11/08(金) 10:04:37.31 ID:Sst9+FAj
検定なんて信長マンセー検定の言い間違いだろw
189人間七七四年:2013/11/09(土) 00:52:00.45 ID:5ODa2Z9u
信長はただのゴロツキチンピラ集団であって、
とてもじゃないが国家の体をなしてないわな。
終いには信長を御神体にしたカルト集団になっちまったし。
190人間七七四年:2013/11/09(土) 22:49:17.58 ID:k5LLgU7u
菅沼君史観だと、桶狭間の戦いは今川の圧勝だったとか言ってたと思ったけど無かったことに変わったの?
菅沼史観の遠州騒乱の詳しい経緯を説明してほしいな。
191人間七七四年:2013/11/09(土) 23:05:09.19 ID:k5LLgU7u
菅沼史観だと織田信長は一度も戦に勝っていない。

桶狭間        織田VS今川       今川の圧勝!しかし後の遠州騒乱で今川滅亡(最近異説あり)
美濃攻略       織田VS斉藤       織田は連戦連敗!しかし気づくと何故か稲葉山城は織田の居城となっていた。
姉川の戦い     織田徳川VS浅井朝倉 織田徳川ボロ負け!しかしその後浅井朝倉は何故か滅亡。
三方ケ原の戦い  織田徳川VS武田    通説を覆す織田徳川の主力と武田の戦いで武田家圧勝!しかし信玄死亡で武田は引き返す。
長篠の戦い     織田徳川VS武田    初戦で武田軍圧勝するも何故か日没で撤退をはじめ織田徳川軍の反撃に遭い撤退。

多分一向一揆にも全敗で六角とか伊賀とか三好一党にも連戦連敗のはず。
しかし何故か相手に不幸が起こり滅亡していき何故か織田家の領土になる。
おそらく信長は稀代の呪術師だったんだろうね。
関わると不幸になるという・・ 

一度菅沼史観の戦国時代の物語を見てみたい。
これまでの定説を覆す物語だけど、辻褄をどう合わせるのか興味深々w

朝倉は津波で滅んで、浅井は山火事で滅ぶのかな?
192人間七七四年:2013/11/10(日) 00:37:12.48 ID:fdadClm+
193人間七七四年:2013/11/20(水) 10:08:28.71 ID:hV4HvKy8
単純に
戦する→利益(商売権拡大)>戦費
戦する→利益(年貢)<戦費
前者が信長で後者が信玄だったように思える。
負けても相手より財力の損失(負けた場合の宣伝損失含み)が少なければ勝ちでしょ。
194人間七七四年:2013/11/20(水) 18:12:51.91 ID:WnyHmsPx
>>193
そういう結果を導き出すに至った思考の経緯と
判断材料の一次史料ソースを書いてください。
それともあなたの妄想願望ですか?
それなら以後はチラシの裏に書いてください。
195人間七七四年:2013/11/21(木) 00:10:51.91 ID:kMir4FcV
フロイスが増長傲慢にしてすぐ激昂する信長よりも、
斎藤龍興の方が記憶力も理解力も優れているって書いてるよな。
ガスパルも龍興がキリスト教の教えに対して因果応報ではなく、勧善懲悪でもない無常感ある世界に対する義憤に人間性の高さを見て驚いているし。
14歳で家督を継ぎ竹中らのクーデターを経て20歳で美濃から逃げた若き日々と違って、
辛酸を嘗めて龍興は成
長してんだよな。
もう一度、主君をやらせてあげてみたい人物だよな。
196人間七七四年:2013/11/23(土) 10:09:57.31 ID:R/1BiOvh
上杉景勝に属して敗死する長景連書状にも
上方の儀は不実に候と書いていて
信長への不信感から上杉に属していると述べている。
197人間七七四年:2013/11/24(日) 14:40:26.92 ID:DLjWeWss
>>41
朝日新聞デジタル
ttp://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201205090243.html

124代(2人は2回即位)の天皇のうち、火葬になったのは約3分の1。

狭川真一さん(仏教考古学)は、火葬が盛んになった理由について、
「中世以降については、高野山など各地の有名な寺に自らの遺骨を分けて納骨し、
極楽往生を願った貴族たちの納骨信仰と関連がある」と推測する。「火葬はすぐに骨になるので、分骨には向いていたのでしょう」


「武士の間に儒教思想が浸透したことが大きい」と
立正大名誉教授の坂詰秀一さん(仏教考古学)。儒教では、火葬によって肉親の遺体を傷つけることを大きな罪と考えるからだ。

庶民は古代から近世の終わりに至るまで、一貫して土葬だった。
理由は「火葬は燃料代が余分にかかるから」(坂詰さん)。火葬が増えたのは埋葬地の確保が難しくなった明治以降
198人間七七四年:2013/11/28(木) 23:14:52.48 ID:zFd+OBoK
十河一存 斉藤義龍 三好義賢 細川晴元 細川氏綱 三好義興 安宅冬康 三好長慶と 畿内の有力武将は次々病死した上に
六角も北畠も斉藤も内訌で崩壊。足利義輝が暗殺され、畿内が混乱状態になって足利義昭が信長の下に訪れ、中央へ行く大儀名分と味方を得た信長は
六角義秀や和田や浅井の援軍を受けまくりながら斉藤攻略・上洛に行き着くというここまで棚ボタを得たのが信長の領土拡張
199人間七七四年:2013/11/29(金) 13:33:23.80 ID:NsCiPdm7
信長って精神病質(サイコパス)の脳の構造してたんだろうなぁ
200人間七七四年:2013/11/29(金) 14:24:00.79 ID:G7C16x2p
菅沼もサイコさん。
201人間七七四年:2013/12/01(日) 19:35:20.13 ID:sluP0KDp
信長って永禄2年2月の上洛の時、
公家たちに田舎者基地外軍団ガチきめぇとか思われてんだよな〜。
言継卿記に五百計り引き連れてきたが異形者多いって悪口を記されてるぐらいwww
都会で反社会的な不良チンピラを演じて、
風流かつ雅な歌舞き方を知らず誤解したダサい歌舞き方をしていたんだろうね…寒くて痛いガキ信長軍団。
所詮、信長は和歌すら出来ない文盲だから仕方が無い。
道三も天文21年6月に、
信長のことを外聞が良くないので、
こちらも迷惑しているが、
関係が悪化するようなことにはならない。
それどころか捨て置けないので、
相談が必要だよ。まあ信長様は若年なので、
我々が多くの苦労するのはもっともなことだからねって、
織田秀敏に宛て、信長を皆で支えていこうって説得してるしな。
202人間七七四年:2013/12/02(月) 08:36:50.50 ID:OL57xQSH
道三って信長が好き過ぎだよな。
道三と信長の会見は公記のでっち上げ妄想で参考にならないけど、
娘が可愛かったんだろうね。
濃姫は岐阜城落とした信長が2年の長きに渡り、
義竜後妻から戦乱で失われた壷を差し出せやゴラ!と精神圧迫のイジメやってた時に、
たまたま天皇の勅使がきたチャンスを狙って濃姫が信長の非道を非難して信長を土下座させたから、
勅使が帰洛した後に信長が怒り離縁させられたんだろうなあ。
203人間七七四年:2013/12/03(火) 02:21:16.66 ID:NuNwh4bu
まあ両方だろうな。
実力があったのは事実。ただ最後以外はかなり運強いぞ
実際に武田信玄が生きていたらどうだったか分からない
その前の桶狭間も危ないところだったしな
204人間七七四年:2013/12/03(火) 08:41:05.10 ID:8VaP3VPy
実力は全くない。
あるというなら一次史料を論拠に箇条書きしてくれ。
205人間七七四年:2013/12/03(火) 15:12:12.22 ID:T8huy7eS
>>199
松原氏「信長は異常人格者だったのではないだろうか」

角鹿氏「信長の姪の江の息子の家光は島原の乱で
普通の人には真似できない極めて過酷な粛清を行っている。
あれは信長の資質を受け継いでいるからではないだろうか」
206人間七七四年:2013/12/03(火) 17:30:42.79 ID:4zV113xq
誰松原って
仁?
207人間七七四年:2013/12/03(火) 19:01:57.32 ID:IB6UIX7T
角鹿氏は「でも家光は家康の血の方が濃いよね」と突っ込んで欲しいと思っているな
208人間七七四年:2013/12/04(水) 23:26:16.20 ID:kvBj+L0b
菅沼、一次資料ばっかうるさい。
お前は捏造資料だろ、消えろって!
209人間七七四年:2013/12/08(日) 10:50:19.14 ID:DsJlEpTX
>>203
桶狭間の戦いが既に怪しい
辻褄が合うのは、伝承通りの、義元の神憑った間抜けさ由縁の信長の奇襲の成功だが
それを否定する資料がポコポコ出てる。

桶狭間がまぐれや奇跡じゃなくて、力勝ちしたとなれば、甲斐の引きこもりなんて数の内にも入らん。
古い伝承を持ち出して人数を一生懸命書き連ねてる糖質もいるが、
結果として信長は本能寺の変までは生きて戦争をやってる。

無難なことを言えば運も実力の内ってことだ。
210人間七七四年:2013/12/08(日) 18:21:31.36 ID:h0atuFTK
>それを否定する資料がポコポコ出てる。

例えば?
211人間七七四年:2013/12/10(火) 04:04:00.48 ID:07CgtR8+
>>191
崇徳上皇もビックリの禍々しさだよな
それが事実ならむしろ信長は本当に神として崇められるべき
信長と敵対していない勢力(徳川、島津など)にはなぜか不幸が起こってないんだから
信長と敵対した今川浅井朝倉武田などが不幸の連続だったのは信長の力によるものとしか思えない
今川や武田のタイミングを見る限り信長が敵の大将の名前を呟くだけでそいつが死ぬレベル
明智光秀は怖くなって謀叛を起こしたが最後には敗死したところを見ると死んだ後もしばらくは効力があるのか、それとも生きていたのか。
212人間七七四年:2013/12/11(水) 14:28:53.19 ID:HR+OJTQU
.       ,、r‐''''''''''''''''ー 、
      ,r'         `' 、
     /             ヽ
.    / ,             ヽ
   ,,'  ;    ,、、,_  ニニ  ,、」、    俺は嫌な思いしてないから
   l.  :;;;i    ´ .._`ー   ‐''"....|     それに織田豊臣徳川らが糞味噌に叩かれようが俺の知った事ではないわ
   l:,;'"`'、,     ‐=・-;  -・=‐ ;〈     だって全員俺が嫌いな連中だし      
.   ';i l :::i;;,, ::'   ` ̄,:     ̄´ .:゙,   大袈裟に言おうがそいつらが無能でもなんとも思わん
    l;゙、',.::l;;;i     ゚人,,__,,人:..   l,   それは俺の頭の中では信玄公こそ戦国最強の存在だから
    l;;;;`‐;;;;;ヽ     , __ij..__ 、:  l;;;,,  つまり日本人なら武田信玄公を崇めるべき
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ    `Zエlフ'´ , !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン" ` ̄´´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l  '';;;;;;;;;;;;;;'         ,イ l'''  l `
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213人間七七四年:2013/12/20(金) 22:54:05.79 ID:0U9batZX

信玄も信長を敵に回したくなかった一人だな。桶狭間の戦いで信長の強さを知った信玄はとにかく信長とは戦わない
ようにしたんだよな。徳川領を仕方なく攻めたのも、駿遠の分割の縺れだから仕方なかったんだよね。信玄は
家康を甘く見ていたんだけど、信長には恐れていた。そそくさと徳川領を平定したら、信長とは友好関係を回復
するつもりでいたんだよ。

しかし徳川領の併合には思いのほか時間がかかり、息子の勝頼の代まで引き継がれたんだけど、結局併合できず、
信長と争うこととなったんだっけかな。
214人間七七四年:2013/12/27(金) 13:30:46.72 ID:0A6on5H7
>>213
まあ、辻褄は合うな
信長が怖くてしょうがないから信長を牽制することはあっても上洛を強行することは無かったとw
一次資料厨が発狂するな
215人間七七四年:2014/01/10(金) 13:49:44.16 ID:jRM3ntvJ
本当に有能なら本能寺くらい予見できんかな
信やん「おう!みっちゃん!」
みっちゃん「う、うーん」(目を伏せる
216人間七七四年:2014/01/10(金) 17:07:40.36 ID:aWgXvLLH
普通に運が良かったし、実力も有ったって事だろう。
実力だけなら、跡取りが死んで兄弟が死んで耄碌して病死してしまった長慶みたいな例もある。

桶狭間は何が起こったか未だに不明なんだから、信長が普通に勝ったとしか言えない。
信長の実力だったのか、運なのかすら不明だ。
信長一番の強運は当時互角の勢力だった斎藤義龍が都合よく死んでくれたこと。
あいつが死んだおかげで、信長は美濃尾張を抑えて飛躍出来た。

ぶっちゃけ信玄と謙信は信長に負ける前に死んだから伝説になってるだけだろう。
あの戦力差、国力差を信長相手にひっくり返せる力量があるなら信長の勢力伸長をもっと早く止めてるよ。

信玄、謙信ヲタは三英傑を過小評価しすぎ。
その三人の下が長慶や毛利元就でその下あたりが信玄、謙信の妥当な所。
217人間七七四年:2014/01/10(金) 19:24:39.52 ID:xC29wAGr
それって前半と後半で話が矛盾してるじゃん
その意見なら信玄と信長の優劣はわからないとするべきだろ?
信謙信が尾張に信長が甲斐や越後に生まれてても信長が天下統一寸前までいくのなら
信長>信謙信だけど
218人間七七四年:2014/01/10(金) 22:42:11.62 ID:9kXGrZ30
十河一存 斉藤義龍 三好義賢 細川晴元 細川氏綱 三好義興 安宅冬康 三好長慶と 畿内の有力武将は次々病死した上に
六角も北畠も斉藤も内訌で崩壊。足利義輝が暗殺され、畿内が混乱状態になって足利義昭が信長の下に訪れ、中央へ行く大儀名分と味方を得た信長は
六角義秀や和田や浅井の援軍を受けまくりながら斉藤攻略・上洛に行き着くというここまで棚ボタを得たのが信長の領土拡張
219人間七七四年:2014/01/10(金) 22:46:18.58 ID:9kXGrZ30
チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだのが信長

最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り北条の大軍大破して150万石まで領土広げた信玄

どうみても信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長でしょ。
信長が甲斐に生まれてたらきつい城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮の信濃の城をほとんどおとせず終わっただろうし
山之内上杉か諏訪あたりに蹴散らされて終りでしょ。史実で弱体化したクーデター騒ぎの幼君斉藤に負けまくり
長島侵攻戦でも何回も大敗し、餓死寸前の一揆勢数百を数万で騙まし討ちにしたら一門10人以上殺される雑魚だし
信濃の拠点落とせるわけがない。
220人間七七四年:2014/01/10(金) 22:48:08.34 ID:9kXGrZ30
上杉謙信は1万8000程度の寡兵で柴田&織田家オールスター武将4万以上に正面衝突で大勝したので柴田勝家の4倍以上の統率値が妥当
柴田が90なら謙信は360くらい。

長家家譜(織田側)

そ(七尾城)の援将には柴田勝家・丹羽五郎左衛門尉長秀・長谷川藤五郎秀一・
稲葉伊予守通胤・滝川左近将監一益・羽柴秀吉・ 前田利家・徳山五兵衛則秀・
柴田伊賀守勝豊・佐々内蔵助成政・不破彦三・金森五郎八・堀久太郎秀政その勢四万余、


信長不在で4万人を動員している。その後、秀吉の離脱、退却などいろいろな説があるが、
おそらく隠蔽したい真実があるのだろう。

長家家譜によると
長連龍は進軍を望んだが、秀吉には真実を打ち明け、秀吉が撤退していることになっている
ここで謙信は先に松任(石川県松任市)まで南下している
更に柴田勝家は水島まで進軍している(石川県白山市水島町)
手取川を渡り謙信の陣まで約1kmまで進み、数的優勢の状況で、
撤退を判断するというのは軍事的にありえないのでは無いだろう。

戦後、柴田だけでは北陸防衛が不可能になったために
織田軍最大兵力の七ヶ国の与力を信長から与えられていて
畿内軍として石山本願寺攻囲の指揮官をやっていた
織田家No2の佐久間信盛まで北陸防衛に派遣されてる。
しかも毛利の攻勢に謙信の死が確定が事実なら信長自身が毛利攻めに行くと書いていて
信長自身も謙信への備えで動けなかった。
221人間七七四年:2014/01/10(金) 23:23:11.78 ID:/aCKDS6X
統率値ww
222人間七七四年:2014/01/11(土) 00:56:35.94 ID:peGruXhS
領土拡張は実力だろ
223人間七七四年:2014/01/11(土) 11:08:25.59 ID:vPm8pCYs
信長が自力で切り取った領土なんて皆無だろ。

斉藤…幼君で混乱・クーデター騒ぎ、まともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢…北畠木造長野神戸などが内訌で分裂、崩壊
六角…対浅井の敗戦や観音寺騒動で極度に弱体化
足利将軍家…三好三人衆の決起で 権威が形骸と化し信長に助けを求める
上杉…御館の乱や新発田の乱で崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除

信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
224人間七七四年:2014/01/11(土) 11:11:53.72 ID:upJBsN49
>>223
無知過ぎてワロタ
225人間七七四年:2014/01/11(土) 11:21:50.93 ID:wToDKmjG
>>223
確かに斉藤攻略から上洛戦までの一連の版図拡張とか、畿内で次々に有力者が死んで
畿内の内乱によって足利嘉昭が信長の元を訪れた上に
信長に協力した六角義秀が次々に斉藤攻略や上洛で援軍出しまくってくれたから攻略できただけだしね
226人間七七四年:2014/01/11(土) 11:23:12.09 ID:wToDKmjG
大仏を燃やした三好らに危機感を持ったため
畿内では義昭将軍擁立にむけてお膳立てしてもらったのが信長じゃん。
義昭を蔑ろにした途端、信玄に追い詰められてたった兵1万しか動員できないまで無力化され
自暴自棄で京で乱逆無道の賊行為を働いたのが信長。

そもそも美濃は斉藤の元で統一されてるから、
濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
227人間七七四年:2014/01/11(土) 11:23:38.76 ID:iQduvxx1
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
永禄3年に六角軍は北郡征伐に失敗し浅井長政に敗北。これをもって長政は家督を継ぎ六角からの再自立を達成(肥田・野良田の戦い)
六角は斉藤氏と共同しての浅井攻め戦略に移行。
翌年2月には逆に長政が美濃へ進攻する攻勢を示したが
3月に入るや背後から六角軍が進攻し佐和山城を落とされた(斉藤家の竹中重高への六角氏の感状あり)
しかし長政は反転し六角の退路を封鎖する動きを示すことで退却を誘い佐和山城の奪回に成功する。
またこの長期に渡る六角と斉藤との攻防の中で義龍が病死し美濃からの脅威は減少したこともあり、
畠山高政と六角義賢による三好長慶との京を巡る戦いが始まるや、長政は太尾城(米原市)を攻めるなど六角の背後を混乱させた。
このように浅井による北郡造反は畠山への援軍派兵の遅れを誘発し六角弱体化をさらに助長した。
228人間七七四年:2014/01/11(土) 11:24:35.84 ID:iQduvxx1
そしてこの攻防は三好の勝利に終わり畠山の没落が確定し、
単体では三好にかなわない六角は三好と和睦を結び京を巡る戦いに終止符を打つ決断をすることになる。
三好政権に服従する義賢が騒動で家臣暗殺をして家中は一時的に統制されたかに見えたが、
義輝が暗殺されるや畠山や奉公衆や反義賢の六角家臣による義昭の近江脱出が図られ、
永禄9年4月になると義昭を左馬頭に任官させ、
一方、三好が働きかけている左馬頭義栄の将軍任命拒否を出させるなど朝廷工作を成功させた上で、
反義賢家臣や畠山や若狭武田や信長や徳川や北畠を率いて義昭が8月に上洛戦開始することになる。
しかし土壇場で信長が義昭が和睦斡旋した斎藤を奇襲する背反をした挙句に大敗し、
この上洛戦自体が崩壊し、三好の後援を受けている義賢の威勢が増し義昭は近江にいられなくなり朝倉を頼り逃げた。
そして信長の裏切りから脈なしと見た朝廷が三好が押す義栄を将軍にしてしまった。
このように義昭問題によりさらに混迷したものの、反義賢重臣たちは奉公衆と協力し、
織田と浅井の婚姻を成立させるなど上洛戦を成功させる手を打ち、
中央政界でも朝廷工作をして反三好+義賢+近衛の勢力と結託し、
ついに永禄10年に当主権限を制限する六角氏式目に同意せざるを得なくなるまで義賢らを追い詰められた。
これが可能になったのは再度、義昭上洛戦をする為であり、斎藤と義賢を凋落させることに成功。
これにより義昭は再度、近江に戻ってくる。
今回は奉公衆の他に大和衆や松永久秀も三好軍を引き付ける為に義昭上洛戦を前に挙兵させるなど辣腕を振るう。
しかしこの近江の反義賢勢力や浅井らを統合指揮して
高いレベルの朝廷工作もやってのけるだけの高い家格の持主が誰なのかわかんないんだよね。
京極は浅井の操り人形に過ぎず六角系家臣は操れないし(天文18年が京極氏奉公人奉書現存最古の発給)
信長公記から消された人物がいるのは間違いない。そもそも浅井氏が挙兵しての天文日記に書かれる
北郡錯乱・国錯乱は天文21年の六角定頼死去翌年であり、この時に浅井久政は六角軍に敗北し六角に従属したわけだが
このような大規模な近江国人を二分する近江国錯乱の理由として考えられるのは
六角義賢を六角氏相続には大きな大問題がはらんでいたのだろう。
六角義賢親子と朝廷との強いパイプを持つ近江の舊主(旧主)との対立・・・この六角分裂が義昭上洛と絡んでいくのである。
229人間七七四年:2014/01/11(土) 11:26:34.34 ID:Lsewow5i
>>226-228
信長のチート棚ボタっぷりに吹いたw
230人間七七四年:2014/01/11(土) 11:43:43.24 ID:/iaJHLV2
>>216
斎藤義龍の死も都合がいいかと言えば微妙
斎藤義龍時代は斉藤氏の単純な勢力圏は道三時代どころか龍興時代よりも小さい
近江方面だけでなく武田とも敵対している
231人間七七四年:2014/01/11(土) 11:57:12.34 ID:AaY9deyC
義龍は信長後見役道三を討ち死にさせた後に、
尾張半分を信長から奪い取ってるじゃん。
232人間七七四年:2014/01/11(土) 12:21:40.30 ID:zMs8g2ny
>>231
ほう、そうなのか。
ということは、それから10年もかからず取り返されたわけか…
義龍の優秀さは三国一だね。
233人間七七四年:2014/01/11(土) 12:34:50.46 ID:kOYZvnrD
菅沼遼太www
234人間七七四年:2014/01/11(土) 12:37:09.52 ID:nHYwi/kf
単に信長の侵攻前に死んだから有力者扱いされてる奴が多いんだな

信長の侵攻時にそいつらが生きてたら、そいつらが雑魚扱いされ
その前の世代が超有力者扱いされるだけじゃね
235人間七七四年:2014/01/11(土) 12:58:10.77 ID:peGruXhS
はっきりしてるのはおめーらだったら「今川怖い〜」で那古野城に籠城を続け
今川率いる軍勢らに嬲り殺しにされていた
236人間七七四年:2014/01/11(土) 13:15:46.30 ID:lmS1sWi8
義元急死したしなー。

そもそも信長公記の記述だと、
寡兵の信長が低い土地から攻め上がり、
鳥瞰できる高地にいた大軍の今川軍を、
正面から正々堂々と攻撃して勝つという、
およそあり得ない意味不明な話になるしな。
237人間七七四年:2014/01/11(土) 14:36:30.54 ID:kOYZvnrD
菅沼遼太の珍説炸裂www
238人間七七四年:2014/01/11(土) 16:24:14.83 ID:5PWAue+a
十河一存 斉藤義龍 三好義賢 細川晴元 細川氏綱 三好義興 安宅冬康 三好長慶
こいつらは間違いなく畿内での有力者でしょ。
逆に信長が進出した頃なんて雑魚しかいないじゃん。
239人間七七四年:2014/01/11(土) 16:27:10.62 ID:Lsewow5i
信長って本能寺の変で死んだから逆に非業の死を遂げた英雄みたいに神格化されてるだけでしょ。
謙信も信玄も直正も元就も病死した後で、家康も武田のせいでまだまだ版図が小さく
周辺大名も各家内で内乱ばっかやってたから、それをまんまとドロボウできただけ。
ぶっちゃけ空き巣狙いみたいなもん。
武田征伐もコソ泥みたいなもんだしな。武田は防衛体制一切解除してたし。
240人間七七四年:2014/01/11(土) 18:49:14.19 ID:kOYZvnrD
信玄みたいな微妙当主のために防衛体制一切解除してまで喪に服す武田wwww
241人間七七四年:2014/01/11(土) 21:40:57.35 ID:rDXfwYWK
>>236
完全妄想だから辻褄が全く合ってない。
だから明治に入り参謀本部が、勝った勝因解説に悩み果てた末に、
根拠なく信長が奇襲したことに歪曲して解説した。
この時、参謀本部は理想的な奇襲として教えた為に、日本陸軍はクソみたいな事を繰り返した。
戦後は、甲陽軍鑑の記述から、
信長が攻めてきた時に今川兵が略奪に熱中したりしてたまたま全軍の兵がバラバラに散っていたと解釈するようになり、
事実上、信長公記の記述を否定してる始末。
242人間七七四年:2014/01/11(土) 22:26:12.21 ID:NYVI9zGH
信長は、
軍備解除しての義龍7回忌の最中に、
襲撃して美濃を盗んだからなあ。
243人間七七四年:2014/01/12(日) 09:10:32.91 ID:oOFzB76p
DQNだからないつの世もDQNが得する
244人間七七四年:2014/01/12(日) 09:49:39.41 ID:hrTxrxlt
信長の場合は法すら作らず私刑を喜び、
内政無視して暴力を好むチンピラ大名の成り上がりだから、
流儀やしきたりや約束事などルールが無いから暴虐なことができた。
それがまともな頭をしている人には、
恐ろしく天道を侮る卑劣卑怯な行動にしか見えず、
それゆえ奇襲効果となった。
だからと言って高邁な哲学に裏付けられた革命行動理論でもなく、
ただの粗悪アスペルガーなだけの話で、
これは陶との戦いで悪日には停戦ルールを堂々と破り皆殺しにしたり、
高橋に長女を人質に出してから襲いかかる元就にも言える。
良く言えば義経と同じで学が無く素養も悪くて蔑視されていたが、
義経の回りがみんな下賤な似た者同士しかいなかったので、
アドバイスできる人間など近づかず、
周囲の空気に反発するだけで、
協調し合わせることも出来ず、
自爆してバカバカしく死に方したんだな。
245人間七七四年:2014/01/12(日) 10:54:55.61 ID:DbTt2PQD
>>244
じゃ結局、信長は実力で勝ったんじゃんw
ていうか、義経は立場が違い過ぎて話にもならんけど、元就も信長も時代の流れに従っただけだろ
246人間七七四年:2014/01/12(日) 12:19:26.13 ID:HJLIfR6H
>>245
ただの略奪恐喝虐殺の暴虐組織しか作れなかった信長。
だから織田家は家臣に見捨てられ、
アスペDQN犯罪者信長は、
生きたまま火あぶりの極刑で死体損壊より重い死体消滅刑にされたじゃん。
これが天意だと義昭なども書いてるからな。
鞆幕府を率いる義昭にすら負けたのが信長。
247人間七七四年:2014/01/12(日) 13:00:41.16 ID:DbTt2PQD
>>246
厨二?
248人間七七四年:2014/01/12(日) 13:32:10.56 ID:HJLIfR6H
厳島神社の眼前で、陶に卑怯な手段で勝ったから、
無念過ぎて成仏できない陶の怨念の祟りを恐れまくった後ろめたい元就は、
首を祭壇に祀り、祟り封じの鎮魂儀式やったりしてんだよなwww
そもそも陶には、大内殺しの共犯者なのに、
何で元就が裏切って襲ってきたか理解出来てないから余計に成仏できない。
249人間七七四年:2014/01/12(日) 13:44:44.24 ID:Fvb8puH+
卑怯は武田のお家芸
嘘で人を騙すのは信玄がピカ一
250人間七七四年:2014/01/12(日) 13:56:53.58 ID:DbTt2PQD
騙すのは武士にとっては武略ってんじゃなかったっけ?
251人間七七四年:2014/01/12(日) 19:07:55.20 ID:WgEQMUWR
戦国時代は騙してナンボだからな
かの有名な信玄も信虎を騙して隠居に追い込んだ
騙し討ちができなければ信玄は謀叛未遂の罪で殺害されて武田の家督は信繁が継いでいた
別に家臣からすれば信玄でも信繁でもどっちでもいいしな
252人間七七四年:2014/01/12(日) 19:56:44.02 ID:vV7FCH8K
義龍あたりも実際は家臣の傀儡だったんだろうな

信虎や道三みたいなタイプより扱いやすそう
253人間七七四年:2014/01/13(月) 03:27:51.37 ID:+x7bAEET
菅沼くん、信玄も親や子をだましたんだぞ
254人間七七四年:2014/01/13(月) 10:40:41.00 ID:coVnNXhG
>>252
最初は傀儡だったろうが、
道三時代の曖昧な組織から、
国としての組織整備を勧め、
一色を名乗り将軍や朝廷から自分自身の権威を高めてもらうように働きかけをしたり、
裁判を指導し宗教改革は義龍の強い意思で開始されてるし、
次第に指導力を発揮してる。
255人間七七四年:2014/01/14(火) 14:30:27.28 ID:XjQsmIZN
「大坂の陣で豊臣家が幕府軍に勝利する方法スレ」から抜粋

アンチ信長キチガイたちの主張

・信長以外の武将が尾張にいたら、尾張で今川を迎撃するどころか自力で自分から攻撃して三河を攻略してるだろ。
・織田信長の支配基盤は、今川義元より遥かに強固
・織田信長の動員兵力は17000、今川義元は21000程度
・信長は尾張や三河の水野分や身のの大垣城分もあるので初期段階で75万石
・信長は義龍によって尾張の半分を奪われてしまった
・超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記
・桶狭間合戦前の織田家は博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル
256人間七七四年:2014/01/14(火) 15:37:54.75 ID:VVK/et3g
ID:XjQsmIZNがいっしょうけんめいあちこちのスレにエサをまいている
257人間七七四年:2014/01/14(火) 15:40:20.10 ID:fB6zwii+
しかし信秀って天才的だよな。
馬鹿息子が死なないように、
道三という強力な後見役をつけてるほどの先読み能力で、
濃尾百万石を背景に今川を恫喝だもんな。
しかし道三が後見中に信長は末弟成長しなかったから、
義龍に信長は領地を奪われた。
さすがの信秀も道三死後まで面倒を見切れなかった。
258人間七七四年:2014/01/14(火) 15:42:03.74 ID:fB6zwii+
訂正
末弟成長→全く成長
259人間七七四年:2014/01/14(火) 16:45:53.15 ID:D78Hyk3r
息子に裏切られた信玄さんとじゃ器が違うな
260人間七七四年:2014/01/14(火) 17:26:46.41 ID:yC7K6GNq
武田信玄は親父を追放して息子を幽閉し別の息子に家を乗っ取られたという稀有な経歴の持ち主だからな
まさか武田家臣もかつて滅ぼした諏訪の子に家を乗っ取られるとは思わんかったんだろうなw
261人間七七四年:2014/01/14(火) 18:44:50.73 ID:cywPXC0v
家康が息子を殺した事や、
毛利元就が高橋に長女を人質に出してから、
高橋を攻めて長女を敵を安心させ騙す道具に使った事実には、
見て見ぬ振りをする事大主義織田チョンくん。
262人間七七四年:2014/01/14(火) 18:55:04.76 ID:dwh0wWUT
信長が弟を暗殺した話はキレイな暗殺ニダ!

上杉に信繁が戦死させられたのに信玄がクソだからニダ
信長が弟を戦死させたのは天才だからニダ!


おでこから大量に流血させながら宗主国中華様は特別ニダと泣きながら開き直る、
心底卑劣なダブルスタンダードを常習する織田半島人w
263人間七七四年:2014/01/14(火) 19:09:13.29 ID:A89N8OZQ
>>257
義元は斎藤織田婚姻同盟をかなり恐れ焦り、
家康の自立化にむちゃくちゃ熱心だったよな。
おかげで義元急死した後も、
家康が信長を恫喝牽制してくれたおかげで、
信長の三河進出を防いでくれた。
義元の先見の明も大したもの。
遠江総乱が起きて駿河と三河が連絡不能になるまでは、
さすがの義元も予見不明だった。
264人間七七四年:2014/01/14(火) 20:13:09.32 ID:yC7K6GNq
織田も毛利も徳川も不幸にして肉親と争ったことはあっても
肉親全員が対立構図になったわけではないからなぁw

武田信玄の場合は
まず父親であるはずの信虎が信玄と対立して追放され
そして息子であるはずの義信が信玄と対立して廃嫡幽閉
妹婿にあたる諏訪頼重は信玄と対立して切腹し
従兄弟にあたる勝沼信元は信玄と対立してこれまた切腹
義兄弟にあたる諏訪長岌は冷遇され(一説には信玄に殺されたとも)
甥にあたる今川氏真は信玄に裏切られて滅亡
娘婿にあたる北条氏政も信玄と対立したせいで泣く泣く嫁を手放す

と、信玄のせいでこのように身内が悉く不幸になっているのが武田家w
事実勝頼は生涯武田の通字である「信」の字を用いていないし
甲州崩れ当時も穴山や信廉、木曽といった武田一門や重臣から多く寝返りを出しているにも関わらず
なぜか信玄によって降伏させられた諏訪が最後まで戦うなど明らかに諏訪勝頼独自の体制色が出まくってるし
265人間七七四年:2014/01/14(火) 20:13:47.03 ID:yC7K6GNq
肉親全員→肉親のほぼ全員
266人間七七四年:2014/01/15(水) 18:04:56.77 ID:TPombuGQ
まーたアホ織田厨が甲陽軍鑑のネタだと知らずにシッタカかwww
>>諏訪頼重は信玄と対立して切腹
それ甲陽軍鑑の話を引っ張ってきて解釈してるだけなんだがw
しかも軍鑑では和議の結果、頼重が自分で甲府へ3回も出仕してきたと書かれてるが、
もちろんそんな事実はない。
諏訪頼重を殺してない。 諏訪大祝に預けていたら勝手に自害してしまってた。
それどころか頼重の嫡男の虎王や娘を保護してるくらい。
本当に信玄が頼重を殺していたら成長後の虎王(諏訪長岌)
や娘の報復を恐れ保護などせずに殺してるわな。

勝沼信元が殺された話は一次史料にはなく、軍鑑のネタ
信玄と信虎は対立してない。これも軍鑑のネタ
信虎は家臣団と対立していたから追放された。
あとは申そうが酷くくだらな過ぎて反論する価値もねーわ。
267人間七七四年:2014/01/15(水) 19:32:21.26 ID:oQuezNiu
勝手に自害www
そもそも諏訪頼重が領国を追われたのはなぜなんだろうね菅沼君w
268人間七七四年:2014/01/15(水) 19:54:29.90 ID:TPombuGQ
頼重の身柄を預けた諏訪大祝の配下だった守矢頼真が
諏訪頼重と課税方針を巡り対立していた経緯もあるし、
諏訪氏の内部争いに武田氏は不干渉だった。
虎王を諏訪一族がどう待遇するかは諏訪一門で決めること。

>>諏訪氏を裏切った信玄
武田と村上と諏訪は同盟していたはずなのに諏訪氏が突然、
関東管領上杉の軍勢を信濃に呼び込んだ挙句に
佐久郡を管領軍と分割してしまう背反行為に
諏訪と同盟していた武田と村上が激怒した挙句に、武田が管領軍を大破し
信濃で孤立無援となった諏訪氏が滅亡するのは当たり前です。

関東管領山内上杉軍が志賀城救援で浅間山のまわりに布陣。
8/6に武田軍が突撃し打ち負かし名大将15人を討ち取り、雑兵3000討ち取り。
これらをことごとく志賀城の周りにかけたので、
志賀城の者どもは力を失い、水にもつまり8/11に300の討ち死にをだして落城。

河越野戦は一次史料が存在しない架空戦のため
関東管領上杉が衰退した理由は
信玄によって名大将15名を討ち取られたのが原因なのが明白。
むしろ信玄が苦戦していた戦いといえば、
天文17年の村上戦だろう。

これは佐久郡攻防戦といってよく、
佐久郡の志賀城を攻略したあとも佐久郡攻防戦は続いており
村上や小笠原ら信州連合軍と武田の戦いである。

2/14から村上と武田は塩田原で川をはさんで
軍をいれたりを繰り返していたが武田側が打ち負けて板垣や甘利が討ち死に。
しかし信玄は本陣を払わず踏みとどまり、」小山田出羽守の比類ない働きもあって戦線を維持
だが小笠原軍5000が武田の背後を襲うために進軍
7/15に武田軍は朝駆けで小笠原軍を悉く撃破し村上の近所の村井に要害を築く。
8/18佐久郡田の口要害へ小山田出羽が働いたものの、信州兵に包囲され
9/12信玄が救援に出撃し佐久郡の大将及び信州兵5000を討ち取る。
269人間七七四年:2014/01/15(水) 22:14:36.29 ID:38nzN+4L
それ甲陽軍艦の寝ただろ?
270人間七七四年:2014/01/16(木) 10:08:17.77 ID:ot7UNKv6
>>269
なるほどw
つまり織田チョンは甲陽軍鑑自体を全く読んだことがなく、
読んだフリをして虚勢を張っている事実が判明したわけだw
271人間七七四年:2014/01/17(金) 00:30:01.65 ID:oslOSu+k
また菅沼遼太が暴れているのか
272人間七七四年:2014/04/08(火) 22:50:06.99 ID:KdjfKqqc
ねぇねぇ、キリスト教って湯田屋教がモデルの湯田屋人が考え出した宗教ですよね
だってイエス様は湯田屋人なんですからね
それをアングロなどのヨーロッパ人が信仰して侵略してるんですよね

湯田屋の世界制覇戦略の手先になってるのがキリスト教なんだよねぇ
十字軍遠征の昔っから

日本でも戦国時代からそうだよねぇ
湯田屋人がエグイ強欲なことしても恨みを向けられないようにキリスト教を巧みに利用してるんですよ

異教徒はできるだけ惨たらしく殺せっていう教義があるような宗教ですからねぇ

織田信長は湯田屋の力と知恵を借りて日本の統一をしようとしたんですね
だから常識破りの戦術を使い、名もない小大名が天下人にまで成りあがった
信長が日本の仏教徒を残虐に大量殺戮したのも理解できますよね

明智光秀はファインプレーをしたんじゃないのかねぇ
あのまま信長が生きてたら皇統もヤバかっただろうし日本はキリスト教になり
ローマ法王の配下国になってたろうな
273人間七七四年:2014/04/09(水) 04:21:27.88 ID:mpgdqP+F
要するに信玄て人は騙し討ちで地域の小名を潰して食っていただけで、大きな戦争には勝ちきれてないわけでしょ?
この程度の人物を神格化しておいて、なだたる戦国大名を片端から滅亡させるか寸前まで追いやってる信長を棚ぼた呼ばわりはないわ。
274人間七七四年:2014/04/09(水) 05:17:51.00 ID:xQyIFsax
大きな戦争に勝ちきれてない?
はあ?
275行断:2014/04/09(水) 05:41:30.88 ID:xQyIFsax
どうあれ、信長のやっていることは、凄いよな。
よく、歴史研究者が、信長は大したことがない、と、話していても、結局は、最後には凄いって結論になるのだから。
結局、省略主義、というのが、信長にあって、
当時は、形式とか多かったわけだよ。
その形式に意味はあるか?って考え、信長は省略しはじめた。
最初は、なにをバカなことを、
と諸大名は思っていたが、結局、結果を出すわけだから。
領土拡大にしても、あれだけ上手くやったのは、信長が初めてだからな。
武田信玄にしても、コツコツと領土を広げたけど、
信長はあっという間だったし。
領土拡大に関しては、秀吉も、結局は信長を参考にした。
信長がいなければ、秀吉も家康も、歴史舞台には現れなかったかもよ。
276人間七七四年:2014/04/09(水) 09:58:14.69 ID:eG4PkVU6
信長や秀吉は地の利や自国の国力に馬鹿みたいに恵まれてたからね

斉藤…道三・義龍・龍興と三代続けての内紛と幼君で混乱しクーデター騒ぎで弱体化しきったまともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢… 木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で分裂、自壊
今川…たまたまおきた遠州騒乱と松平独立で極度に弱体化
六角… 観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化、信長の斉藤攻めや上洛戦では信長に大いに協力
足利将軍家… 三好や松永らの反逆で権威が落ちきり形骸と化し信長に助けを求める
播磨但馬丹波…守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない
摂津… 石高がわずか12万石しかない
浅井…もともとは織田方で上洛戦や斉藤攻略などで信長を大いに助ける。石高はわずか10万石程度
波多野…石高は10万石以下。
上杉…謙信死後の御館の乱や新発田の乱で自爆崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除
277人間七七四年:2014/04/09(水) 09:58:57.89 ID:RaXVUm7p
信長がチートスタートなのははっきりしてるだろ。
そもそも信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
後世に作りだされた写し以外の原本確認できる一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。

そもそも米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。
278人間七七四年:2014/04/09(水) 09:59:27.00 ID:RaXVUm7p
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
279人間七七四年:2014/04/09(水) 10:02:02.32 ID:9iqKZXXQ
斉藤が三代続けての内紛や幼君での混乱・クーデター騒ぎで弱体化しきっててまともに抗戦するものが皆無で自落していったし
義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけ。
その上さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてただけ。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になる。
280人間七七四年:2014/04/10(木) 18:36:48.44 ID:4TMkUSPi
信長は地の利や自国の国力に馬鹿みたいに恵まれてたからね

斉藤…道三・義龍・龍興と三代続けての内紛と幼君で混乱しクーデター騒ぎで弱体化しきったまともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢… 木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で分裂、自壊
今川…たまたまおきた遠州騒乱と松平独立で極度に弱体化
六角… 観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化、信長の斉藤攻めや上洛戦では信長に大いに協力
足利将軍家… 三好や松永らの反逆で権威が落ちきり形骸と化し信長に助けを求める
播磨但馬丹波…守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない
摂津… 石高がわずか12万石しかない
浅井…もともとは織田方で上洛戦や斉藤攻略などで信長を大いに助ける。石高はわずか10万石程度
波多野…石高は10万石以下。
上杉…謙信死後の御館の乱や新発田の乱で自爆崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除
281人間七七四年:2014/04/10(木) 20:10:52.69 ID:QjthWlCs
>>274
じゃあ具体的に信玄が戦争に勝ちきって相手を滅亡させるか、その抵抗を排除しきった例をあげてよ。
信長はそれができたから天下取り寸前までいけたんでしょ。
信長を棚ぼた呼ばわりするんなら、幸運頼らずに大を為した実例をあげてくれなきゃフェアじゃない。
282人間七七四年:2014/04/10(木) 20:16:19.46 ID:bFZya9Ux
まあ適当にこじつければ領土拡張したどんな大名でも運が良かったで片付けられるからな
もう何年も言われていることではあるが
283人間七七四年:2014/04/10(木) 20:47:56.01 ID:ThYZdxIP
領土拡張なんて自国の周辺国が弱体化・分裂してたり自国の国力に比べて弱小かどうかってだけの話じゃん
なんで比べる基準が「最初〜最後までの結果」あるいは「最初から最後まで経過や状況考慮した個々の戦闘や外交や内政などの考察」
ではなく「最初から最後までのある特定時点での比較(経過・状況等も無論無視)」なのか意味不明
そんなんがありなら本能寺時点で広範な領土があった織田家は信長が殺され結果的に大きく版図が減少したから
一代で失った石高ランキングでダントツトップだからダントツ最下位クラスだなw
まあ最大石高なんてある一時点での考察にすぎないし結果だけでみるなら光秀に殺されて死に織田家を木っ端微塵にされた信長は能力0だしな
284人間七七四年:2014/04/10(木) 20:48:52.99 ID:01U6eenP
織田は負けてばかりいたし結局滅ぼされたから低評価でも仕方ないと思う
ただ信長の分国の尾張美濃近江河内山城などの機内や西日本は経済力が圧倒的だったしそこが動乱の影響で分裂・弱体化・内訌の隙をついて
棚ボタ火事場ドロするのをちゃんと描くべきだね。
分国の経済力という概念がドラマにはないから、もともとチートな国力持ってた信長尾張の小国から実力で大版図築いたとか捏造したり
機内で600万石程度ある状態で波多野18万石と本願寺12万石と上杉120万石を敵に回しただけなのを
あたかもピンチみたいに描くのははっきりいってふざけてる。
あと東国勢は国力が軒並み過大だし武器性能も圧倒的に劣るだろうからそこは大きく考慮しないといけないね
285人間七七四年:2014/04/10(木) 20:49:40.47 ID:99GfVxVp
戦争において弱小勢力なんて周辺の強国に飲み込まれてくだけだし
小さい勢力で大きな勢力跳ね返し続けた大名なんて佐竹とか田村とか甲斐とか名将しかいない。
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
圧倒的大軍で寡兵の敵に蹴散らされるのは指揮能力が雑魚の奴だけだよ
地形を生かした陣取りの主導権握ってるのも攻撃側。兵力が勝ってるから
そこで会戦するのが嫌なら別方面に兵力展開したり誘い出す作戦練ればいいだけだし
相手が乗ってこなかったら持久戦に切り替えるなり違う拠点攻めるなりして攻撃続ければ勝手に追い込まれてくだけ
286人間七七四年:2014/04/10(木) 20:50:10.68 ID:99GfVxVp
信長を初めとする織田系列の部将は城攻めが無茶苦茶弱いだけで
それ以外の武将は中世の雑魚城郭なんてあっさり瞬殺してるのがほとんどだよ。
信玄謙信は上野や信濃や奥三河や奥遠江など日本で一番堅固なガチの山城が立ち並ぶ地域を自力で攻め込みまくって
苦戦しててもすぐに落してるし、また上杉北条間や武田上杉間で何回も取ったり取られたりしてて、早い時には一日で16も城が落ちる事もあった。
それに対して織田系統の部将は城攻めの度に馬鹿みたいに多大な時間や戦死者を出してる。
これは岐阜城や大河内城攻め、本願寺攻めや赤井、別所征伐などでわかる。
信玄なんて最も時間がかかった三河野田城でも1ヶ月程度だし。戦下手とか捏造されてる氏康ですら上野の山城何回も落してるし。
287人間七七四年:2014/04/10(木) 20:50:35.28 ID:rmGuwT0K
岐阜城って土岐や竹中や信雄や福島や斉藤利尭やらに馬鹿みたいに落とされまくってるのに苦戦したの信長だけなのに
なぜか城が堅かったとか馬鹿な捏造されてるんだよな
単に寄せての大将が雑魚だっただけでしょ
288人間七七四年:2014/04/10(木) 20:51:22.85 ID:CrPYBtM3
チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだのが信長

最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り北条の大軍大破して150万石まで領土広げた信玄

どうみても信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長でしょ。
信長が甲斐に生まれてたらきつい城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮の信濃の城をほとんどおとせず終わっただろうし
山之内上杉か諏訪あたりに蹴散らされて終りでしょ。史実で弱体化したクーデター騒ぎの幼君斉藤に負けまくり
長島侵攻戦でも何回も大敗し、餓死寸前の一揆勢数百を数万で騙まし討ちにしたら一門10人以上殺される雑魚だし
信濃の拠点落とせるわけがない。
289人間七七四年:2014/04/10(木) 20:52:38.19 ID:CrPYBtM3
上杉と北条での関東の城郭攻防戦とか両軍の遠征のたびに天嶮のガチ山城が陥落しまくってるし
武田の信濃侵攻なんて侵攻側にしては大して多くもない兵力で北信濃の日本で最もキツイ天嶮山城を毎回毎回簡単に落しまくってるからな。
織田徳川の大軍に対して行われた三・遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってる。
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
290人間七七四年:2014/04/10(木) 20:53:36.81 ID:CrPYBtM3
織田がやった戦なんて火事場泥棒しかねーじゃん
美濃を斉藤の幼君&混乱&分裂で寝返りばかりなのを火事場泥棒したら負けまくり
動乱でぐちゃぐちゃになった畿内を浅井や徳川や足利義昭の力を頼って火事場泥棒したはいいが
その後信玄に負けまくり滅亡寸前
伊勢でも分裂状態の北畠を無理矢理乗っ取ったりしたしたはいいが大河内城や長島一揆に負けまくり
しまいには御館の乱や新発田の乱で極度まで疲弊した上杉を45000の大軍&神保・佐々・長など地元諸侯派遣しまくり
火事場泥棒しようとしたら越中中部〜魚津・松倉の短い区間で天正8年から2年も立ち往生するなど大苦戦。
まともにガチンコで切り取った土地なんかねーだろ
291人間七七四年:2014/04/10(木) 20:54:17.35 ID:hv0VdgV1
確かに。
比べる基準が「最初〜最後までの結果」あるいは「最初から最後まで経過や状況考慮した個々の戦闘や外交や内政などの考察」
ではなく「最初から最後までのある特定時点での比較(経過・状況等も無論無視)」なのかが非常に不可思議。

そんなんがありなら本能寺時点で広範な領土があった織田家は信長が殺され結果的に大きく版図が減少したから
一代で失った石高ランキングでダントツトップだからダントツ最下位クラスだなw

まあ最大石高なんてある一時点での考察にすぎないし結果だけでみるなら光秀に殺されて死に織田家を木っ端微塵にされた信長は能力0だしな

光秀に殺されて死んだのが信長


結果でいえば信長は能力0だからなぁ
経過をちゃんと考慮して石高なんぞで比べず状況や運やら地理条件考慮するってのならわかるが
292人間七七四年:2014/04/10(木) 20:55:05.53 ID:y+NpoQ7H
信長は最終的に光秀に殺されて滅ぼされたじゃん
弱体化しきった斉藤や内訌で分裂した北畠に負けまくり対浅井の敗戦や観音寺騒動でよわりきった六角、統制が取れずバラバラな三好などを
火事場泥棒して版図広げるも光秀との戦いに敗れ信長殺されて滅亡、
結局棚ボタの連続で領土が一時的に広がっただけだから光秀にあっさり殺されて死んだだけ
293人間七七四年:2014/04/10(木) 20:55:41.04 ID:LcYgCEjQ
信長の周りには畿内で賢主と呼ばれた大名はみんな死んでいて最盛期が過ぎ 衰退に向かっていく弱い大名ばかりだが
信玄の周辺には実力が同等国か同盟国ばかりだった。 仕方ないから謙信方面に行くしか道がなかったよね。
北条・武田・上杉の三国が互角の鼎のように竜虎獅子が合い戦う強豪っぷりだったしな。
武蔵国の名は武器の蔵と言われていたと信玄も言ってる。 家康は武田旧臣を配下に入れて翼が生えたようなもんだ。そのおかげで信濃や甲斐が統治できたしな。
そんな中で勢力拡大してた武田さんは素直に凄い
294人間七七四年:2014/04/10(木) 20:56:43.86 ID:ThYZdxIP
武田さんも長尾さんも貧乏からのスタートであそこまで成ったのは凄いね

信長は…まあ家康との同盟までは奇才。美濃はガチ運。ただゴリ押ししたようにしか感じない。
その後、濃尾伊勢+徳川との同盟あれば普通の人ならあのくらいやれても驚かないよ、
畿内なんて大した勢力いないし
295人間七七四年:2014/04/10(木) 21:23:43.74 ID:SDLzd0e2
>濃尾伊勢+徳川との同盟あれば普通の人ならあのくらいやれても驚かないよ、

久しぶりにまっとうな意見だ
296人間七七四年:2014/04/10(木) 21:38:59.74 ID:xcDUEd2H
また菅沼遼太が暴れているのかw
297人間七七四年:2014/04/10(木) 21:44:15.72 ID:tVwCqMOV
>信玄の周辺には実力が同等国

小笠原長時とか?
298人間七七四年:2014/04/10(木) 22:06:35.45 ID:u3GK/6k3
北条氏康今川義元上杉憲政斉藤義龍長尾景虎
299人間七七四年:2014/04/10(木) 23:19:59.66 ID:ThYZdxIP
こうしてみると信玄はやっぱりすごいよなあ
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末

信長が甲斐にいたら諏訪や山之内上杉に到底勝てず、甲斐に引きこもって北条今川に攻め込まれて滅亡だろうな
300人間七七四年:2014/04/11(金) 08:11:55.50 ID:NmRecn2h
297
上杉憲正とか?
301人間七七四年:2014/04/11(金) 11:48:38.26 ID:kPFRk5GH
>>299
それだけ四方八方とケンカしてケリをつけられなかったら滅亡もしますわ。
結局、人生まるまる使って攻勢正面さえ決められなかったんでしょ?
302人間七七四年:2014/04/11(金) 12:12:36.25 ID:qrwDgYeS
信玄は敵作りすぎだろ
有能だけどバカってオチ
303人間七七四年:2014/04/11(金) 16:39:16.60 ID:YndwX7uC
>>302
考えなしに誰にでも敵を作るのはむしろ無能者のやることだ
有能な奴はちゃんと段階を踏んで敵を作る
現代でいえばボクシング始めたばかりの奴がいきなり日本王者とやるようなもん
304人間七七四年:2014/04/11(金) 16:40:58.78 ID:BpH/lRkz
>>301
>>302
高度の柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対処しただけだろ。
305人間七七四年:2014/04/11(金) 16:51:21.19 ID:YndwX7uC
その結果が織田徳川北条に挟まれてあぼん
上杉も不義理さに信用できず援軍を甲斐に派遣することなくトンズラw
306人間七七四年:2014/04/11(金) 17:28:40.28 ID:kPFRk5GH
>>304
ビュコックじいさん「ようするに行き当たりばったりということかね」


信玄は土地争いの名人だとは思うけど、どうも機会主義者すぎて、自分の技におぼれていたように見える。
菅沼の言うように関西の国力が圧倒的なら(そんなことないと思うけど)、関東や北信なんかじゃなくて中仙道か東海道を西上すべきなんじゃないのか?
ずいぶん遠慮ぶかいんだな信玄。
307人間七七四年:2014/04/11(金) 18:42:13.98 ID:CD3Xk6CT
関西ってか尾張美濃畿内の石高は圧倒的だな。
領土面積あたりの石高が信濃甲斐上野あたりと
近江尾張河内摂津とではまるきり違う。
商業も発展してるし、鉄砲の原産地や入手経路でいっても相当有利
308人間七七四年:2014/04/11(金) 18:43:03.15 ID:ZhJe2gNz
尾張はあんな小さいのに57万石もあるからね
309人間七七四年:2014/04/12(土) 16:52:14.06 ID:aMkSvscG
信玄は織田、徳川、上杉、北条から領土を奪い取り、
自分は彼らから一切領土を奪われていないあたり
まさに最強と呼べる存在なんだよな。
情勢を操り、常に自分が有利なように組み替える天才。
信玄を囲んでいるように見えて、気づいたら実は自分が囲まれていたって言う怖さがある。
310人間七七四年:2014/04/12(土) 17:57:02.48 ID:MomUbwZa
彼らからは領土を奪ったと言えるのか?
織田、徳川、上杉、北条からすれば領土と言うより保護国属国みたいな土地を奪ったとか
他大名に奪われた領土を取り戻したじゃないか?
311人間七七四年:2014/04/12(土) 18:40:17.70 ID:zfnrD9zi
>>309
たいしたもんだとは思うけど、この延長線上に天下の覇者という地位があったとは思えない。
どこまでいっても群雄の一人どまりではあるまいか。
312人間七七四年:2014/04/12(土) 20:22:34.79 ID:HEM3WKfs
そもそも領土なんて取りやすいところから取るのが定石。
わざわざ強い奴に喧嘩売りたがるのはただのバカ。
313人間七七四年:2014/04/12(土) 22:26:11.58 ID:b/AxeGPG
織田厨って相変わらずバカだな。
314人間七七四年:2014/04/12(土) 23:30:42.18 ID:Crov4Bpj
通常兵器に核攻撃したようなもんだから
だいたい飛び道具なんて卑怯でしょ
一人一人名乗って戦うのが流儀だから
それをそうした習慣を無視して一斉攻撃とか
ルールに則らない反則勝ちみたいなもん。
戦国時代の戦闘から除外すべきでしょ
315人間七七四年:2014/04/13(日) 00:34:50.39 ID:irW556QU
菅沼遼太理論だと経済や生産性に優れた畿内や関東より
守りづらくて生産力のない甲斐信濃を優先的に狙わなければならず
しかも生産力の低い土地でも相手に奪われたら絶対に取り返さないといけないルールが
戦国時代には蔓延っているらしいからな

ニート菅沼らしい見栄を優先する思考w
316人間七七四年:2014/04/13(日) 08:50:58.82 ID:9b72wy4n
秀吉→毛利との但馬生野金山争争奪戦をいち早く制し、
毛利との戦いで優位に戦う経済戦略を確立し、
堅城の長期包囲を可能にする。
信玄や謙信も金山経営に乗り出す。
毛利→尼子との石見銀山争奪戦を制する。
信長→バカだから補給などの根本たる戦争経済政策が理解出来ず、一国亡国平均政策で悪魔の現地調達軍を駐屯させ恐喝略奪放火虐殺で兵を養う。
北条→堀越公方が運営していた伊豆金山を利用する技術が無く鬼高利貸しに乗っ取られ民衆搾取政策を進める。
317人間七七四年:2014/04/13(日) 10:08:26.31 ID:FZdAzpYL
但馬生野銀山制圧戦も糞も肝心の毛利が但馬方面に出兵せず放置状態だったから秀吉はほとんど空白地に近い状態の但馬をコソ泥できただけ。
但馬は山名が元々織田方に謁見を願って出てくるほどで織田方だったし、但馬平定は超絶ヌルゲーだった。
しかも天正8年には再度但馬侵攻してみると竹野衆らに撃退されたりしてる。
318人間七七四年:2014/04/13(日) 10:09:20.48 ID:FZdAzpYL
実際には但馬平定は天正8年になって光秀の援護を受けながらようやく終わっただけだし
毛利から寝返った宇喜多・南条に毛利が苦戦したせいで、但馬・播磨戦線まで出てこれなくなっただけで秀吉は特に何もやってない。
天正8年の山名氏政→古志書状(古志文書)4/13には織田勢が今度但馬に乱入してきて種種入魂之被申分、尤祝着候とか書いてるし
5/19には去4月18日但馬水生表の合戦で織田勢と竹野衆が合戦し竹野衆が勝利したと報じている
6/13垣谷豊続→岡遠江守感状で宵田表相動候処、則織田勢罷出候之間誠砕手数剋相戦切崩、得勝利などと勝利を書き綴っている
播磨戦線でも毛利に3000殺されるガチンコ負けして西播磨一帯を占領され尼子衆ぶち殺されてるし
319人間七七四年:2014/04/13(日) 11:07:48.02 ID:FZdAzpYL
但馬守護の山名は上洛して信長に謁見してるから明らかに織田方。
信長の援助もらいながら但馬に復帰してるんだから最初から織田方も糞もない
11/21今井宗久自筆書札留で宗久と山名が同道して岐阜へ下向しているのがわかる
4/19信長→山名入道、太田垣、八木、垣屋、田結で信長が山名を援助して銀山経営にあたろうとしているのが読み取れる
信長軍に追われた山名紹煕が許されて但馬入国するが、それは信長の監軍がつけられ
山名四天王が自立大名化を進める中、紹煕はその次のクラスの伊吹、下津屋、宮、森本などの諸氏を擁して国中に点的に勢力を及ぼす大名であった。
320人間七七四年:2014/04/13(日) 11:08:21.70 ID:OmVT6oBI
天正5年10月23日 秀吉、信長の命令で中国を平定に着手、是日、京都を発す
播磨小寺孝隆の姫路城に入りて、同国諸士の質を徴し、更に但馬に赴きて、岩洲城を攻略する
12月3日秀吉、竹中重治、小寺孝隆をして、備前宇喜多直家の属城播磨福原城を攻略せしめ、自ら同国七條城(上月城)を囲み、之を赴援する直家と戦ひて、之を破り、是日、七條城を陥る、尋で、秀吉、尼子勝久、山中幸盛を播磨三木城より同城に移らしむ
12月5日羽柴秀吉、播磨龍野に入る、尋で、上京す
天正6年2月23日秀吉、再び播磨に入り、書写山に陣す、尋で、同国三木城別所長治、毛利氏等に通じ、兵を挙ぐ、
3月15日秀吉、播磨中島隆重等に基本領を安堵せしむ、
3月29日羽柴秀吉、別所長治を播磨三木城に攻む、
4月3日羽柴秀吉、播磨三木の属城同国野口を攻め、是日、城將長井四郎左衛門を降す、
4月4日織田信忠、摂津石山城を攻む、尋で、軍を班す、
4月18日吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲む、
4月29日信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援させる
5月1日 信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む、
5月4日 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5月6日信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5月16日羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5月21日羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、
是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5月24日羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報じる
6月16日羽柴秀吉、入京して信長に謁す、信長、秀吉をして、播磨高倉山の営を徹し、神吉、志方の両城を攻めしむ、
6月21日毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
6月26日羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す、明日、織田信忠等と共に、別所長治の属城神吉を攻めて克たず
6月29日信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7月5日播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、
尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、
7月7日織田氏の兵、毛利氏の兵を摂津木津の砦に攻む、
7月20日 織田信忠、羽柴秀吉等、播磨神吉城を攻めて、之を陥れ、秀吉、同城を守る
8月10日織田氏の軍、播磨志方城を攻略す、尋で、同国三木城を囲む
8月17日織田信忠、播磨より岐阜に帰る、
10月9日信長、摂津に出陣し、諸將を遣して、荒木村重を打たしむ、尋で、耶蘇会宣教師を遣し、同国高槻城高山友祥を誘降せしむ、
10月17日 荒木村重、新五郎父子、義昭、毛利氏及び本願寺光佐(顕如)と通じて、信長に背く、是日、光佐、村重と盟約す、
10月22日羽柴秀吉の兵、別所長治等と播磨三木城下に戦ひて、其弟治定を斬る、
11月14日織田氏の諸將、荒木村重を摂津在岡城に攻め、之を破る、
11月24日信長、摂津刀根山の塁に陣し、茨木城中川清秀を誘降す、尋で、瀧川一益等を遣し、同国兵庫等に放火せしむ、
12月11日信長、陣を摂津古池田に移し、將士をして、諸塁を守らしめ、羽柴秀吉等を播磨に、惟任光秀を丹波に遣す、尋で、安土に帰城す、
12月23日毛利輝元、荒木村重に援兵を遣す、是日、之を湯浅將宗に報ず、
321人間七七四年:2014/04/13(日) 12:12:21.83 ID:bW69apg6
勝頼は織田、徳川、上杉、北条から領土を奪い取られ、
自分は彼らから一切領土を奪えていないあたり
まさに最弱と呼べる存在なんだよな。
情勢を操られ、常に自分が不利なように組み替えられる愚才。
勝頼が囲んでいるように見えて、気づいたら実は自分が囲まれていたって言うヘボさがある。
322人間七七四年:2014/04/13(日) 14:05:49.31 ID:ZF3RHC1C
信長の領土は経済的に圧倒的に恵まれてたんでしょ?
なら金山、銀山に頼らなくても大軍を維持できてたってだけじゃないのか?
どうも菅沼理論は筋道がわからんな。
323人間七七四年:2014/04/13(日) 14:41:16.33 ID:FQJoI0T7
信長は差出検地すら満足に執行できなかったアホ。
検地結果から、それに対して兵役数を決め、
軍備・軍装・課役や兵糧や軍政の改革への発展過程がある。
信長には最初の土地からの収入とそれに伴う税収把握ができずつまずく。
そこで行われたのが収入不足を略奪・恐喝・虐殺などの一国亡国平均政策。

信長が内政を諦めた結果、中世にあった一職支配という家臣への内政丸投げによる
在地国衆と家臣が織田とは関係なく主従関係を結ぶ軍閥化を助長。
これが一国レベルでの織田への組織的謀反を可能にした失敗軍政。
そこには軍役上限すら設けられず、信長が命令した際限ない軍役と、
それに対する民衆の不満には虐殺を持って答えるというもの。
軍事目標の一刻も早い攻略と限界を超えた負担増をうまく解決するには
家臣個人個人の才覚と寝る間を惜しんで奔走することが要求された。
そして攻略が遅れた場合は、謀反を疑われ改易される。
織田の大国力なんてのは幻想。
324人間七七四年:2014/04/13(日) 14:51:27.57 ID:IKMkWuTr
>>322
信長の野望では金山銀山は金のなる木だからね
信ヤボ思考の菅沼君には重要な代物
325人間七七四年:2014/04/13(日) 14:54:12.52 ID:j+KDNvZ1
そんな珍説誰も主張してないだろ。
織田の分国は尾張美濃をはじめ畿内など富裕国しかないからチート国力じゃん。
尾張一国時代ですら57万石&津島港の交易収入+刈谷の水野20万石+大垣城と
普通の大大名レベルの経済力持ってたし。
326人間七七四年:2014/04/13(日) 15:05:20.37 ID:E3s1v+OQ
尾張57万石・美濃55万石伊勢53万石近江74万石越前53万石とチート収入ばかりの分国を持ってたから
織田ほどヌルゲーの戦ができた大名はいない。
国力に応じて動因されるのが兵力であり織田が家臣への内政丸投げだの織田と家臣が関係なく主従関係結んでいただの
限界を超えた動員をかけていただの、攻略目標のいち早い攻略を求められてただの、池上くらいしか唱えていないただの妄想。
その証拠に播磨に天正5年に派遣されて信忠や明智や滝川らの援軍・尼子残党・宇喜多・南条の離反とお膳立てされまくった上に毛利方がろくに播磨口に出てこない
超絶ヌルゲーの環境ですら播磨と但馬の攻略に5年も費やした雑魚秀吉ですら改易されてないし
明智も赤井に負けたり、柴田が上杉に蹴散らされたり、御館の乱やそれに続く内戦と、新発田の乱で極度に弱体化した中、織田からは
佐々長縄・神保長住・長連龍や斉藤の援軍らが派遣されて、上杉の内戦の最中に、能登や越中をコソ泥できたのにその後自力ではろくに進軍できていない有様でも
誰も改易されてない。信忠に至っては、岩村攻囲戦で援軍なしで孤立状態の秋山数千に半年以上かかっても自力で落せない雑魚っぷりを発揮してたが
信長は予定していた武田侵攻を諦めて、予定変更するほどの不始末だったが、不問どころか、その後の戦でも優遇されまくってるほど、織田家は身内や家臣に超絶甘いヌルゲーの環境。
327人間七七四年:2014/04/13(日) 15:08:32.48 ID:Zzksbcdd
但馬守護の山名は上洛して信長に謁見してるから明らかに織田方。
信長の援助もらいながら但馬に復帰してるんだから最初から織田方も糞もない
11/21今井宗久自筆書札留で宗久と山名が同道して岐阜へ下向しているのがわかる
4/19信長→山名入道、太田垣、八木、垣屋、田結で信長が山名を援助して銀山経営にあたろうとしているのが読み取れる
信長軍に追われた山名紹煕が許されて但馬入国するが、それは信長の監軍がつけられ
山名四天王が自立大名化を進める中、紹煕はその次のクラスの伊吹、下津屋、宮、森本などの諸氏を擁して国中に点的に勢力を及ぼす大名であった。
328人間七七四年:2014/04/13(日) 15:31:38.58 ID:ZF3RHC1C
美濃や尾張がそんなにおいしいんなら、なんで武田は北信だの関東だので猫の額みたいな土地争いをせずに中仙道を西に向かわなかったの?
そのへん菅沼理論ではどうなってんの?
西は超絶ザコばかりなんでしょ?
329人間七七四年:2014/04/13(日) 15:34:30.09 ID:IKMkWuTr
菅沼遼太理論だと武田信玄は目の前に自落同然のザル領国であった美濃があったにもかかわらず
戦国最強クラスの上杉謙信に10年も挑み続けて家臣や弟を戦死させた無能だからなw
330人間七七四年:2014/04/13(日) 15:35:07.94 ID:FQJoI0T7
>>327
ニセだがクンはほんと嘘つきだね。
柴田勝家、森可成と並ぶ大将で但馬取次ぎだった坂井政尚が
朝倉義景に討ち取られてから、但馬は織田から離反。
毛利が但馬侵攻する際に、信長は山名から連絡が途絶えたのは残念だが、
但馬は織田の前々からの分国である。しかし毛利が領国安定のために
どうしても但馬侵攻するなら止むを得ないと、
危機的状況だった信長が嫌々ながら認めているじゃんw
331人間七七四年:2014/04/13(日) 15:54:22.73 ID:IKMkWuTr
設定がザルすぎw
332人間七七四年:2014/04/13(日) 15:57:37.59 ID:1n9+CMpL
そんだけ畿内が豊かだったら他の連中は何していたんだよ?
333人間七七四年:2014/04/13(日) 16:11:07.84 ID:2ZbyAY/r
将軍を暗殺したり身内同士殺しあったり不毛な戦続けてたのが、戦国大名じゃん。
信長の場合は斉藤の3代続けての内紛やクーデター騒ぎや
畿内での騒乱の解決を求めた足利義昭の訪問によって
美濃や畿内の攻略が和田ら甲賀衆・浅井・六角などの活躍でお膳立てされるチート棚ボタがたまたまあったけど。
334人間七七四年:2014/04/13(日) 16:18:35.86 ID:ZF3RHC1C
信玄は斉藤の三代続けてのクーデター騒ぎをぼさっと見ていたことになるのか?
美濃さえ押さえていればその後のチートお膳立てやらは自分のものになっていただろうに?
335人間七七四年:2014/04/13(日) 16:44:01.27 ID:IKMkWuTr
しかも信玄の場合この時点で東美濃に領地をもっていた遠山直廉が味方だから
信玄が美濃を落とすのはマジで楽勝だったっていうw
そんなチート棚ボタやらをボサッと見逃し
後から入ってきた信長に家を滅ぼされる武田w
336人間七七四年:2014/04/13(日) 17:19:08.61 ID:cgI33FJq
将軍の信濃守護任命という事象は一体どう説明すれば
それでも不安で不安で堪らなくて血判書提出させた信玄の猜疑心よ
337人間七七四年:2014/04/13(日) 18:53:45.13 ID:DTrBTwvM
昔のSABレスや後期だがレス盗用で武田厨のフリをして正体を隠蔽し信長批判を避ける偽装工作が日常業務
秀吉が何よりも大嫌いなので、信長を持ち上げるだけじゃ満足できず、むりくり家康を持ち上げる
豊臣政権に対する恨みも当然深いので、輝元や家康を持ち上げて三成を貶す
朝鮮出兵で「小西の謀略で元均が討死したと朝鮮側が記述」し、島津と共に李瞬臣を殺した名将小西も蛇蝎の如く憎みきっている。
いままで一度たりともアンチ秀吉・三成の無差別複数スレ爆撃コピペだけは
絶対に批判・非難しない織田在日wwwなんどそれを指摘されようが常に黙殺を続ける習性www
武田厨のフリを装う為のだがコピペ盗用では志賀の陣で信長の敗北解釈のまま貼っていたが、
武田厨が釣り目的で秀吉の努力で何とか浅井を完全に抑えていたから志賀の陣で織田は壊滅せずにすんだとレスしたら
同一人物が慌てて志賀の陣は信長の勝利であって秀吉は雑魚と180度違う志賀の陣解釈のレスをしだして、
それを指摘されたらアンチ秀吉コピペ爆撃で埋め立てする低脳織田朝鮮人www
同一人物が同時に関が原スレで三成を捏造で叩いていたしなwww
その事件があってから小まめにIDを変えまくる現在のスタイルで単発ID自演をするようになったのが織田チョンwww
織田厨得意の単発ID自演で武田厨のフリをして、だが認定するいつものお約束の法則www
たしかに織田厨が単発IDを頻発投下してるのは間違いないだろ。
そして自分の意に沿わないレスをした相手を排除するために
必死チェッカーで相手の全レスをストーカー粘着してるのが精神病織田厨。
自分がそれをやってるため、相手も必死チェッカーで追跡するのを極度に恐れて
単発ID自演を駆使して足跡を残さない品性下劣な織田厨www
どんだけ何十回指摘されても、 絶対に単発ID自演アンチ秀吉爆撃コピペキチガイを批判しない織田チョン。
アンチ秀吉爆撃コピペ狂人=SAB&後期だがレス盗用コピペ爆撃キチガイ行為工作で武田厨のフリを装うゴミ織田チョン。
武田厨を装うキチガイは一次史料にない岩村合戦を持ち出して武田をマンセーしたり(SABも後期だがも岩村合戦に言及したことはない)
信長謀反死で最終石高は0石と書いたり、 浅間山噴火を黙殺したり、 信玄上洛で6万の兵力を否定、
信長が信秀から引き継いだ領地として、信秀姉妹のおつやの方が嫁いだ岩村を絶対に含まない。
信玄上洛戦において、追い詰められた織田軍が1万しか動員できなかったというだがの意見も、
だがレスコピペ盗用コピペ織田厨は絶対にコピペしないのは確定してる。
というのもこいつは織田は何度でも10万ぐらいの兵力を無制限に動員できる巨大な国力があると常々主張してるのがわかる。
志賀の陣でだがレス盗用コピペした内容と真逆の内容をレスする
志賀の陣の解釈において、武田厨の誘導に見事に引っかかって、
だがレス盗用コピペ爆撃してるのが織田厨であり、アンチ秀吉と同一人物だと判明したのは大金星だったな。
>>などの不等号を使用して強さをランキングするバカ丸出しのレスをするなどあきらかにだがとは全く違うんだよな。
暗に織田擁護を混ぜる一方で徳川や輝元をむりやり擁護して敵意を徳川や毛利に向けさせる工作を常用してる低脳が織田チョン。
同じ手法で信長は秀吉の才覚のおかげで天下統一寸前までいったという
論法をものすごく嫌がり、織田在日による強烈は敵愾心による豊臣政権排除を行うようになった結果、
現在の織田在日によるアンチ秀吉の爆撃コピペ人格が新たに生まれた。
だがは秀吉を褒めてた。だがのレスを盗用してコピペ爆撃してる織田厨が
必死に自演でだがに濡れ衣を着せようとしているかがわかる。
織田厨はだがが秀吉を貶している証拠をあげろと言われても誤魔化し逃げ続けているし。
歴ゲー板にだがは出没してないし、歴ゲー板にだがを装い荒らし行為を輸出して、自ら工作用にだがスレを立てて、
それをわざわざ戦国板に報告してきたのも織田厨じゃんw
自作自演してて、誰にも気づかれず、わざわざ自作自演でここに報告してきただけじゃん。
それまで誰も歴ゲー板なんてノーマークだったのにw
歴史ゲーム板の荒らしの犯人はSABレス盗用コピペ織田チョンがやっていただけだぞ。
歴史ゲーム板で暴れ始めた最初期において、SABが戦国板で大昔に相良や島津スレなどでレスしていた
文章を丸パク盗用したものを爆撃コピペしてたのが初動。
338人間七七四年:2014/04/14(月) 07:12:41.93 ID:vtX3s4ww
>>321
領土は勝頼の時代が最大なんだが
339人間七七四年:2014/04/14(月) 17:04:53.20 ID:DjrMIRvH
その後に信長に滅ぼされたけどな
340人間七七四年:2014/04/15(火) 05:33:27.94 ID:mlx71Fzz
>>328
後ろから刺されたらイヤじゃない、北にも東にもいつ攻めてくるかわからない状況の敵がいる
そういう事情もあって「攻めても大丈夫そうな時にしか領土拡張ができない」わけだよ

信長だってイージーモード状態に手を打ってないほどポンコツだったわけでもないし、
後から見ると「あれ? これもしかして攻めてたら勝ってたんじゃね?」って状況でも穏便に済ませたいもんだ
341人間七七四年:2014/04/15(火) 08:55:22.53 ID:dvOxH3jZ
>>337
偽だが指摘が激しくなると、
過去のだがレスコピペ盗用を毎回、一次的にやめるから、
ほんとわかりやすい織田在日の工作だよなwww
342人間七七四年:2014/04/15(火) 12:20:52.99 ID:52JjwcOg
>>340
そりゃ理屈がおかしい。
周囲に敵を抱えてるのはどこの大名だっておなじだ。
信長だって松平が完全に信用できたわけでもなかろうに美濃や伊勢を攻略したわけだし、美濃をとった後は背後は武田だよ。
背中突かれないの?
突かせないのは信長の外交がうまかったからであって、棚ぼたとかじゃない。
武田信玄は周辺諸国を小さな利益の為に裏切り続けたから、それができなくなったんでしょ。
戦術は信玄が上でも、大戦略は信長には全く及んでないと見るけど違うかな?
343人間七七四年:2014/04/15(火) 12:33:56.60 ID:E3OLu1Bl
信長の場合尾張の国力がずば抜けている上に、
北と西が大河で守られてて、
西側の伊勢は全くといっていいほどまとまってないから
別方向からの侵攻を全く気にせずに済んだという点で非常に楽だった。
松平は、今川から独立した以上今川と和を結ぶというのは考えられないし
北はいわずもがなの内紛と幼君・クーデター騒ぎで崩壊。
これで足利嘉昭訪問と、浅井や和田ら甲賀衆や六角義秀の協力によってお膳立てまでされてるんだから
ここまでのヌルゲーな大名なんてどこにもいない。
344人間七七四年:2014/04/15(火) 13:09:24.93 ID:3FJUjxH+
織田は自国の国力はずば抜けているが、
東側は貧国ばかりの上に山がちな地形(信濃南西部や奥三河など)だから
東側からは全くといって侵攻を気にせずに済んだ。
南は海。
345人間七七四年:2014/04/15(火) 15:02:11.14 ID:52JjwcOg
松平の今川からの離反が偶然だとでも?
では今川が松平を倒して織田と隣接すればいい。
松平なんかザコなんでしょ?
今川が混乱してたってんなら今川を倒して武田が今川も松平も倒せばいいじゃない。ザコなんでしょ?
東国が脅威だってんなら、そもそもなんでそれらを敵に回す外交をしたのかって問題なのよ。
信長が幸運なのは事実だろうけど、武田は不運じゃなくて自業自得。
機会主義者が必然的に行き詰まったんだよ。
わずかな土地に固執したから美濃→京→天下への棚ぼたルートとやらに乗れなかったんだよ。
わかる?
戦国大名の完成形のような機会主義者の武田信玄はノブナガにはなれなかったの。
346人間七七四年:2014/04/15(火) 16:26:43.29 ID:Y5jFYi4z
今川って遠州騒乱まではほとんど弱体化してないからな。
遠州騒乱でたまたま信長は東からの脅威はなくなっただけだし。
今川弱体化の最中、武田は上野侵攻戦で謙信とやりあってたし、
上野戦線放置は上杉を強大化させることになるし、北条との同盟果たす意味でも不可能
347人間七七四年:2014/04/15(火) 17:01:08.71 ID:cOcX9YVF
今川が弱体化していないってちんせつはどんな偉い学者先生が提唱してるの?w
348人間七七四年:2014/04/15(火) 17:46:49.61 ID:52JjwcOg
上野侵攻して謙信とやりあってるのがまずいんだよ。
ちょっとエサが見えたらすぐ食い付くのかよ。武田信玄はブラックバスかよ。
美濃へ行けよ。
そっちに天下ないよ。
349人間七七四年:2014/04/15(火) 18:39:26.37 ID:MuNmZqVN
今川が弱体化していないなら松平は離反しなかったんじゃ
今川もそのまま織田攻めればよかったんじゃ
350人間七七四年:2014/04/17(木) 00:15:38.49 ID:x8qpovQz
松平が離反したのっていつなんだろう
岡崎入城の時点ではまだ離反とは言えないよね?
351人間七七四年:2014/04/17(木) 06:15:33.51 ID:PaNNCf0m
その時点でもう足元をみられている。
義元生前は許されていなかった。
ということは元康の岡崎帰還は今川にとってマイナスのはず。
352行断:2014/04/17(木) 06:54:08.30 ID:MMV7Lvyj
司馬遼太郎は、しばしば信長を
「働き者」って言っているな。
つまりは、行動力がある男
っていう意味と思うけど。
信長が家督を継いで、本当の休みは、
家康の接待だけだと言っていた。
日本歴史史上、信長ほど動き回った
男はいないって。
まあ、行動力は、ワルの象徴だからな。
オレも、20前後の頃って、滅多に家に帰って
来なかったからなあ。
信長を見習って
ってわけじゃなかったけど。
行動ってのは、即ち、攻撃を意味するんだよ。
守りに入っているのは、つまらないからな。
ただ、ときに大火傷を負うことがあって、それでも動く。
行動力がある男は、動き回っている自分が好きなんだよ。
353人間七七四年:2014/04/22(火) 19:45:44.98 ID:9XKmIraR
東三河が反乱だらけだった隙に家康が自立しただけだぞ。
354人間七七四年:2014/04/23(水) 04:44:59.56 ID:BdrWoyNi
ん?
今川家が弱体化してなかったらそれぐらい抑えられたんじゃね?
菅沼の主張は今川は弱体化なんかしてないってことだよね?
だから武田は駿河も取れないし美濃にも行けない、だったよね?
話がおかしくない?
355人間七七四年:2014/04/23(水) 05:59:41.89 ID:6GPTNFpw
弱体化の意味が何かによるけど、桶狭間がきっかけで求心力は間違いなく低下してるってことになるよね
356人間七七四年:2014/04/23(水) 12:03:17.45 ID:GmLrRfjy
いや桶狭間の戦い以前に、
岡崎直轄下を諦めてるくらい、
三河統治に今川は失敗してるよ。
だから家康には姪を与えて、
家康が岡崎に掟を発布したりと、
家康自立をバックアップしてるのが義元。
それでも東三河は落ち着かずに反乱だらけ。
357人間七七四年:2014/04/23(水) 13:34:31.43 ID:Gy8wUXgu
那古野、清須を今川領に出来れば元康を岡崎に返してやっても良かったんだろうね
358人間七七四年:2014/04/23(水) 14:39:56.18 ID:BdrWoyNi
桶狭間以前から弱体化していたんなら尾張侵攻なんて無理じゃないんですか?
359人間七七四年:2014/04/24(木) 08:43:44.45 ID:M4yglWry
むしろ信長の方が今川領に攻め込んで和睦をぶち壊し挑発しとるから、
義元としてもやむなく三河入りして離反防止に勤めざる負えなかった。
信秀が朝廷や六角や斎藤を利用して義元に和睦を強要させて以来、
義元は領国安定に力を割いて大量に安堵状を発給しまくり必死だったが、
道三の後援を頼みに信長が攻め込んできたから、
義元は守勢側に立たされていた。
織田の国力に比べたら今川は非力だから、
全面衝突を今川は避けてきてた。
360人間七七四年:2014/04/24(木) 08:49:22.14 ID:2u18OorP
そんなに今川が弱いんなら武田信玄はなんでとっとと駿河をとってしまわないんですかねぇ?
ザコ信長に押されまくるなんて超ザコですやん?
それとも信玄は超ザコ以下なわけ?
361人間七七四年:2014/04/24(木) 09:49:03.06 ID:Tl1j4DVP
実際、超雑魚以下だったんだろう。
というかこの時期の東国大名は軒並み超雑魚。
大名個人の資質がどうとかいう問題じゃなくて
富士山の噴火とプチ氷河期で少なくなったパイを
互いに取り合って国力をすり減らして一律雑魚化。
だから織田が強大化していくのを指を咥えて見ているしかなかった。
362人間七七四年:2014/04/24(木) 12:50:04.97 ID:8qStucrF
だよね、そんな雑魚武田を北条も上杉も倒せなかったわけだしみんな雑魚なんだろう
中央獲得までが棚ぼただったとしてもそれ以降は経済力と物量でガンガン押せたんだよ
363人間七七四年:2014/04/24(木) 15:02:29.31 ID:2u18OorP
じゃあ信長の領土拡張は実力ってことで結論付けていいかな。

菅沼くんには気の毒だけど。
364人間七七四年:2014/04/24(木) 18:16:02.46 ID:uNT15I7a
今川と武田が同盟してるのに、
信玄が今川を攻めるわけねーし。
信玄が今川を攻めざるを得ない状態になったのは今川が武田を裏切り上杉と挟撃しようとして、
一方的に国境を封鎖し塩止めしたからだし。
365人間七七四年:2014/04/24(木) 19:22:41.31 ID:2u18OorP
おや?
俺の住んでる日本では信玄は嫡子に腹を切らせてまで駿河に攻めいった事になってるはずなんだが?
366人間七七四年:2014/04/24(木) 19:28:35.02 ID:2u18OorP
途中で送信してしまった。
つまりアレか。
信玄は超ザコの今川家を一方的に守ってやっていたのにあっさり裏切られた。
その段階になってやっと駿河を取って西上する気になった、と言いたいのかな?
ねぇ、信玄てホントに戦略眼あるの?
367人間七七四年:2014/04/25(金) 12:23:00.55 ID:cN9Okeq3
信玄は義信を殺してないと何度指摘されても、
何度も繰り返すキチガイ織田チョン。
嫡男を殺したのは家康、
実弟を殺したのは信長。
368人間七七四年:2014/04/25(金) 13:17:11.38 ID:fr46qBlu
結局、都合の悪いことは「それはお前らの妄想だ」で押しきるのか。
さすが戦国板をまるまる破壊した男とよばれるだけのことはあるな、菅沼くん。
369人間七七四年:2014/04/25(金) 15:19:16.38 ID:BHNaTjZa
嫡男に背かれている時点で既に異常だと気づかないのがだがチョンこと菅沼遼太
370人間七七四年:2014/04/25(金) 21:20:05.40 ID:bGSYK1RH
>>369
信長は本能寺の変の首謀者を信忠の仕業だと断定していたね。
371人間七七四年:2014/04/25(金) 23:12:03.55 ID:BHNaTjZa
断定はしてねーよ
信忠の謀叛かと疑ったら森が来て明智の軍ですーって言ってるだけ
しかもこれ京にいないはずの大久保の話(三河物語、巻四十)
だから完全に二次史料の類
372人間七七四年:2014/04/25(金) 23:12:43.05 ID:BHNaTjZa
ってなんだ菅沼遼太か
373人間七七四年:2014/04/27(日) 08:53:45.19 ID:bncsu6ql
信長は常に信忠の謀反を恐れていたってことか。
こりゃ信長が信忠を謀反の罪で殺そうとしてたからの恐れである証拠だな。
なんせ信長は信雄を寵愛していたからな。
374人間七七四年:2014/04/27(日) 10:47:53.89 ID:OnEimvI0
大久保彦左衛門が信長をそういう目で見てたってだけのことだろ。
本能寺で信長のそばにいて生き延びて証言を残した奴なんているのか?
375人間七七四年:2014/04/27(日) 12:03:59.29 ID:fkL0jhS1
法螺吹き爺の彦左衛門の愚痴日記をなに鵜呑みにしてんの?
子孫もこんな恥ずかしい日記他人には見せられないと隠してたシロモノなのに。
376人間七七四年:2014/04/27(日) 18:48:30.10 ID:h03gZpR4
売文家太田が書いた信長公記のような最初から読み物として書かれた軍記講談と違い、
ワイロを一切貰ってない三河物語は世間に出すことを前提としない一次史料だから事実と見て間違いない。
377人間七七四年:2014/04/27(日) 18:53:16.66 ID:OnEimvI0
だからさ、大久保彦左衛門が「そう思ってた」ってだけで、事実かどうかは別の問題だと言ってるんですよ。

なんでヒコザが本能寺の中の事を知ってるって思えるんかなぁ?
378人間七七四年:2014/04/27(日) 20:19:58.92 ID:SRiEa1zo
三河物語=愚痴りまくった日記帳
だからな。
379人間七七四年:2014/04/27(日) 20:24:31.52 ID:doaQ4o3s
>だからさ、大久保彦左衛門が「そう思ってた」ってだけで、事実かどうかは別の問題
こういったことを理解出来ない人間とは議論が出来ないよな
お隣の半島タイプの思考とでもいうのか
380人間七七四年:2014/04/27(日) 21:29:08.33 ID:OnEimvI0
>>379
あのな、俺がお前の事を「今日、チョンの馬鹿に絡まれた」って日記に書いたとしても、
「お前=チョンの馬鹿」
という証明にはならんだろう。
三河にいた大久保がなんで信長の言葉を「事実」として知ってんだよって話しをしてんの。
ヒコザは「そういう話を聞いた」そして「さもありなんと思った」から書いただけで、それは事実の証明にはならないの。
わかる?
わからんだろうなぁ。
381人間七七四年:2014/04/28(月) 14:47:30.04 ID:3WBwkPan
>>380
>>379はだがのことを指しているんじゃないか?
382人間七七四年:2014/04/28(月) 20:29:29.53 ID:nOC4YMLz
(・_・)エッ......?

(・ω・;)

(°д°;;)

ごめん
(ノ_<。)


頭丸めて仏門に入って条約破って塩止められて嫡男殺して家滅ぼしてくるわ

(; _ ;)/~~
383人間七七四年:2014/04/28(月) 20:36:42.69 ID:3WBwkPan
塩止めも現在はまた史実かどうか不明になったんだよな
今川氏が塩止めしたという根拠となるソースが武田家臣が命じているものであるため、
単に関銭払わなかったから荷を抑えられただけじゃねみたいな感じで
384人間七七四年:2014/04/29(火) 13:03:57.43 ID:6+emXjws
>>383
は?関銭払わないもなにも、
関銭に関する一字一句すら書いてないのに、
なんでそんな唐突な飛躍が生まれんだよwww
妄想を根拠に解釈をトンデモで補うなよwww
385人間七七四年:2014/04/29(火) 13:33:43.01 ID:BPWrsa3o
確か戦武の小論文にあったな
しかし塩止めの根拠とされたソースが否定されてから10年ぐらいたつわけだが
一般向けではどうなっているんだろ

信玄の治水とかも地元じゃ信玄のみがやったってのが否定されているらしいと大分前に聞いたが
386人間七七四年:2014/04/29(火) 14:15:09.96 ID:t+E1R9LU
戦武の小論文とやらを紹介してみろよwww
387人間七七四年:2014/04/29(火) 14:39:43.42 ID:0GScHEHR
戦武の巻頭についている小さい冊子のことだろ。
塩止めは何巻だったかな。
388人間七七四年:2014/04/29(火) 14:57:52.69 ID:rhXaMjeb
つか、駿河国駿東郡の国衆葛山氏元や芹沢玄蕃允へ命じた書状のことだろ。
今川家臣同士の話なのに、恣意的に武田家臣同士の話に歪曲してんのかwwwwwww
389人間七七四年:2014/04/29(火) 14:58:35.31 ID:rhXaMjeb
訂正
葛山氏元が芹沢玄蕃允へ
390人間七七四年:2014/04/29(火) 23:45:58.26 ID:P1RPirDl
信玄ぐらい周辺諸国との約束破りまくってたら経済制裁の一つや二つくらっても不思議ではないけどな。
391人間七七四年:2014/04/30(水) 08:47:55.63 ID:rvFixfPy
信玄は全く破ってねーよアホが。
破り回ってるのは信長だろ。
392人間七七四年:2014/04/30(水) 10:42:35.48 ID:xnvAtuLt
棚ぼたってことはないにしても
史料的には信長の統治システムや戦略にはとくに目新しいところがないんだよな
検地・軍役帳・掟・法令・備などなど全般的には東国大名にやや遅れていた

そういったことから
支配地域の豊かさ、単位面積当たりの人口や生産性の高さが理由との指摘になるんだろうが
同様に豊かさのあった畿内美濃尾張伊勢の大名はいくらでもいるんだから
それだけでは説明になっていない

特徴的なのは
独裁的であることと動員が速くかつ長期に及んでいることだと思うが
前者はともかく後者はどうやって実現したのかよく分からん
393人間七七四年:2014/04/30(水) 10:56:37.56 ID:aD2y1CT/
>>391
ホホゥ
斬新な見解だなw
394人間七七四年:2014/04/30(水) 16:18:43.89 ID:ZBrWGF37
動員が速くかつ長期に及んでいること

上記の内容を裏付ける一次史料は?
395人間七七四年:2014/04/30(水) 16:42:14.82 ID:1mhUs4wk
斎藤にビビっていた信玄とそうでなかった信長の差だわな
396人間七七四年:2014/04/30(水) 17:48:17.73 ID:ACrnKTc7
ぶっちゃけそんなに美濃が楽勝なら川中島は適当なところで手打ちにして
美濃取りに行けばよかっただけの話だもんな。
397人間七七四年:2014/05/01(木) 04:03:15.91 ID:Q6ccFYP4
菅沼理論的には
「手を出さない=ビビってる」
になるから、信玄は斎藤にビビっていて、引き継いだ織田にビビっていたことになりますな。
さて、こうなってくると武田信玄を「天下人としての織田信長」と比べて語る意味があるのかどうかも疑わしくなりますな。
398人間七七四年:2014/05/01(木) 09:42:41.99 ID:QR6fF4xi
信玄の場合は謙信での上野での攻防とか、今川との駿河との攻防とかあったしどちらも
国力的に同格の相手なんだから比較にならない。
信長の場合は自国の国力が500万石程度あり状況的に余裕で瞬殺できないとおかしい状況にもかかわらず
徳川上杉という同盟者までいながらろくに侵攻できないのはビビってるかよほど雑魚だったといいようがない。
399人間七七四年:2014/05/01(木) 09:44:01.11 ID:XmdhRTMV
織田厨は小学算数できないから、自国の国力と敵対勢力の国力割合を比で考えることとか
同盟者の存在とか全く考慮できないアホだから。
400人間七七四年:2014/05/01(木) 09:47:25.49 ID:ghVuU3oZ
500万石近くある織田が100万石程度で長篠で大損害受けたはずの武田に徳川40万石+上杉120万石の協力がありながら侵攻できない理由を本願寺22万石程度との戦いを言い訳にするのが馬鹿織田厨理論
401人間七七四年:2014/05/01(木) 09:50:46.10 ID:6cMQFrZM
本願寺なんて拠点が堅固なだけで自分から積極的に攻勢にでる基盤がなく
外征能力に欠けてるから一番放置していい勢力なのに優先したとしたら信長はアホすぎる。武田は110万石前後で弱ってるのに対し本願寺は勝っても20万石前後しかないのに
402人間七七四年:2014/05/01(木) 09:52:02.35 ID:fWr5exg+
つか信長の謙信宛書状を読めば武田侵攻をちゃんと考えてたのがわかるし
信長が武田を後回しにしたみたいな馬鹿な妄想は出てこないはず。
403人間七七四年:2014/05/01(木) 10:57:00.30 ID:5JI50ZeD
つまり上杉や今川をいちいち敵にまわしちゃう信玄は外交能力ゼロの無能ってことですね。
わかります。
404人間七七四年:2014/05/01(木) 11:14:21.39 ID:Q6ccFYP4
あのさ菅沼くん。外交とか戦略って何のためにあるのかわかってる?

取りやすいとこにいちいちダボハゼみたいに食い付いてたり、騙し討ちで条約破ったりしたあげく、川中島で「啄木鳥の計シャキーン!」とかやってたんじゃ天下なんか取れないんだよ。三国志演義じゃあるまいし。
405人間七七四年:2014/05/01(木) 11:51:30.96 ID:5JI50ZeD
まあ謙信と川中島でちんたらやってた最大の理由は
そうでもしてないと信濃一つまとめきれないぐらい
武田の信州支配の基盤が脆弱だったってことだがね
川中島の頃は信濃の国衆が日和見状態だったのは感状の発給状況からわかる
406人間七七四年:2014/05/01(木) 12:42:03.24 ID:MZzXhLcc
そんな脆弱な信濃に500万石の石高+上杉徳川の同盟者がありながらろくに攻め込めなかったのが織田
407人間七七四年:2014/05/01(木) 12:46:27.74 ID:5JI50ZeD
わざわざ進んで攻め込むほどの価値がないでFA。
濃尾から近江・京・堺の商業ベルト繋げる方がよっぽど重要。
408人間七七四年:2014/05/01(木) 13:22:26.53 ID:4m6w7tLe
尾張統一もせず今川と戦えるだけで凄い
いかに流通の要衝を抑えていたかが分かるな
409人間七七四年:2014/05/01(木) 14:03:11.45 ID:Q6ccFYP4
>>406
これだけで菅沼くんが戦略も攻勢正面を設定することの大切さも理解できてないことがよくわかる。
信玄が死に物狂いで手に入れた信濃なんて、信長にはいらん土地でしかない。
410人間七七四年:2014/05/01(木) 14:08:48.48 ID:5JI50ZeD
つうか放っておけば実際そうだったように勝手に内部崩壊してくれるのに
急いで取りに行く必要がこれっぽっちもないよね
411人間七七四年:2014/05/01(木) 14:14:13.54 ID:6wXgWBoO
だいたい当時日本一の金持ちだった本願寺という強敵がいるのに遠征なんてアホだろ
412人間七七四年:2014/05/01(木) 14:49:24.29 ID:KA1fIdk+
500万石近くある織田が100万石程度で長篠で大損害受けたはずの武田に徳川40万石+上杉120万石の協力がありながら侵攻できない理由を本願寺22万石程度との戦いを言い訳にするのが馬鹿織田厨理論
413人間七七四年:2014/05/01(木) 14:49:54.22 ID:6cMQFrZM
本願寺なんて拠点が堅固なだけで自分から積極的に攻勢にでる基盤がなく
外征能力に欠けてるから一番放置していい勢力なのに優先したとしたら信長はアホすぎる。武田は110万石前後で弱ってるのに対し本願寺は勝っても20万石前後しかないのに
414人間七七四年:2014/05/01(木) 14:50:16.72 ID:KA1fIdk+
つか信長の謙信宛書状を読めば武田侵攻をちゃんと考えてたのがわかるし
信長が武田を後回しにしたみたいな馬鹿な妄想は出てこないはず。
415人間七七四年:2014/05/01(木) 14:50:44.15 ID:6cMQFrZM
織田厨は小学算数できないから、自国の国力と敵対勢力の国力割合を比で考えることとか
同盟者の存在とか全く考慮できないアホだから。
416人間七七四年:2014/05/01(木) 14:51:31.35 ID:KA1fIdk+
信玄の場合は謙信での上野での攻防とか、今川との駿河との攻防とかあったしどちらも
国力的に同格の相手なんだから比較にならない。
信長の場合は自国の国力が500万石程度あり状況的に余裕で瞬殺できないとおかしい状況にもかかわらず
徳川上杉という同盟者までいながらろくに侵攻できないのはビビってるかよほど雑魚だったといいようがない。
417人間七七四年:2014/05/01(木) 15:01:16.34 ID:HwgFjd69
自国の25分の1程度しかない国力の外征能力もない本願寺との対決を、長篠で弱りきった状態の武田を攻略できない原因にするとか苦しいにも程があるわな。
しかも同盟者の存在もしっかりあるのに。

そんな言い訳でいいなら、信玄が美濃を攻略できなかったとか
駿河に侵攻するまで少し時間が必要だったのは自国の1.2倍の上杉に自国の1.4〜1.5倍の北条と、自国の3分の1の今川と、自国の2倍の織田と、自国の4分の1の徳川に囲まれてたからって言い訳でも何でもありなわけで。

しかも本願寺は外征能力がないが徳川も織田も北条上杉今川も皆外征能力があるから
多方面戦略敷く上でかなり不利だが、そんな条件でも信玄はしっかり領土拡張やってのけてる。
418人間七七四年:2014/05/01(木) 15:03:24.49 ID:6wXgWBoO
本願寺はたった20万石なのになぜ日本一の金持ちなんだろうね?菅沼君
さあ早く答えなさい
419人間七七四年:2014/05/01(木) 15:09:18.65 ID:Q6ccFYP4
>>418
確か「石山なんてただの山」だったっけw
菅沼くんたら日本の地理もご存じ無いw
420人間七七四年:2014/05/01(木) 15:46:19.29 ID:CaNFckUa
本願寺が日本一の金持ちとかないだろ。
本願寺が日本一の金持ちなら、毛利の支援なんて不要。
毛利が遠路はるばる中国から石山まで危険な物量支援してたのは、本願寺がろくな策源地もなく、放置すれば、枯渇するのが目に見えてる20万石程度の国力しかない外征能力のない大名だから。
421人間七七四年:2014/05/01(木) 15:47:31.96 ID:QR6fF4xi
本願寺が日本一の金持ちなら自分から積極的に外征しまくったり、
毛利に自分が物資支援とかやったりしてる。
それが逆に毛利から物資支援受けてるのが本願寺。
422人間七七四年:2014/05/01(木) 15:48:41.75 ID:6wXgWBoO
>>420
当時の宣教師がそう書いているんだけど?菅沼君
423人間七七四年:2014/05/01(木) 15:57:41.09 ID:5ooUqQNe
>>422
それなら宣教師の記述が誤りだったでFAだろ。
お前はフロイスの日本史とか読んでないだろうけど、長久手合戦関連の記事とか
正確な記事の方がないくらいインチキ記事ばっかり載ってるんだが。
木曽川が犬山城より南とか書いてる始末だし。
424人間七七四年:2014/05/01(木) 16:01:20.16 ID:SkKkjEaX
宣教師の記事が一次資料なら、看羊録も一次資料になっちまうよw
425人間七七四年:2014/05/01(木) 16:05:52.32 ID:6wXgWBoO
一次史料は絶対じゃなかったのかね?菅沼君
426人間七七四年:2014/05/01(木) 16:07:22.30 ID:RnA3n+o2
宣教師の記録が一次資料なわけないじゃん。
一次資料ってのは日記・文書だろ。せいぜい覚書くらいまで。
427人間七七四年:2014/05/01(木) 16:10:02.38 ID:KA1fIdk+
フロイスには家康が大坂城で20万人を残さず殺したとか書いてるのは捏造
大坂城には20万人なんてハナからいないしそんな事やってる気配もない。
秀吉が柴田の息子の妻や家康の息子の妻や信忠の妻や信雄の娘を己のものとしたと書いてたり
主だった貴人の大勢の娘達を養女として召し上げ12になると情婦としたと書いてたり
器量がよいという評判の娘で、連行されなかった者は1人もいなかったと書いてるのも捏造
秀吉の好色というのは陰徳太平記などの軍記物にしかない後世のデッチ上げにすぎず、特別側室が多かったわけではない
428人間七七四年:2014/05/01(木) 16:10:22.06 ID:KA1fIdk+
ざっと読んだだけでもこれだけ捏造記事ばかりで埋め尽くされてるフロイスを正確とか頭おかしいw

>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
429人間七七四年:2014/05/01(木) 16:10:53.23 ID:KA1fIdk+
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
430人間七七四年:2014/05/01(木) 16:12:19.39 ID:KA1fIdk+
・日本の戦国期の戦乱の最も大きな目的は奴隷狩りだったとかデッチあげてるくらいだしな
・第32章  信長は勇敢であり驚嘆すべき軍将であった。彼は14カ年に日本の約50ヵ国を征服し死ぬ前には既に全66ヵ国の絶対君主になる間際であった。
・43章 1573年公方様はまだ統治上の経験が乏しいのに加え、彼を取り巻く若者達の謝った扇動のためにまったく信長と不和になり彼を敵として公言し
信長が公方様に本件について弁明したあらゆる根拠もその悪しき見解を諫止しようとした努力もなんら功をなさなかった。
・秀吉は種なしで、秀頼が生まれた際、誰も秀吉の本当の子供だと信じなかったらしい

犬山城と木曽川の位置とか超基本的な尾張美濃の地勢を知らないとか無知にも程がある。
こんな基本中の基本すら間違いをするような外人の伝記なんてハナからあてにならん。
431人間七七四年:2014/05/01(木) 16:14:23.62 ID:6wXgWBoO
本願寺が大金持ちと書いたのはフロイスではありませんよ?菅沼君
432人間七七四年:2014/05/01(木) 16:20:32.17 ID:RnA3n+o2
20万石程度の本願寺が日本一の金持ちと本当に書いてたのなら
その外人が相当無知だった事が証明されるだけだな。
433人間七七四年:2014/05/01(木) 16:22:15.61 ID:Q6ccFYP4
>>432
そうそう
「石山」を「山」だって言ったり、ホント外人はしょうがないねぇw
434人間七七四年:2014/05/01(木) 16:35:44.49 ID:CaNFckUa
そもそも信長って対本願寺に原田(原田戦死後は佐久間)くらいしか送って無くないか。
一時的に遊撃軍の加わることもあったか知らんが、基本一方面軍司令官の原田・佐久間一人担当なんだからせいぜい25000程度を当てたってだけだろ。
それでもって信長は信盛に持久戦で攻めたのを憤慨した譴責状送ったりしてる。
信長はつまり本願寺が金持ちなことや、毛利が支援してたこと、石山が要害なのも知らずに持久戦で時間くったって理由で佐久間を叱責したってわけ?
だったとしたら相当馬鹿だな。
435人間七七四年:2014/05/01(木) 16:39:23.74 ID:6wXgWBoO
信長は佐久間がサボっていたから激怒しただけだと思うぞ?菅沼君
436人間七七四年:2014/05/01(木) 16:43:23.23 ID:CaNFckUa
佐久間がさぼってたというのは例えば?
佐久間は石山の周辺に、拠点を築いて兵糧攻めにしてただけじゃん。
確か譴責状では、調略もせず攻める事もなく、とか書いてたと思うが、
石山は要害らしいから、それくらいしか手がないじゃん。
石山が要害じゃないというなら、ますます対本願寺戦なんてヌルゲーだろって話だし。
437人間七七四年:2014/05/01(木) 17:25:35.04 ID:6wXgWBoO
与力ばかり酷使して茶会三昧だったのはサボっていると言わないかね?菅沼君
438人間七七四年:2014/05/01(木) 18:13:06.80 ID:2s2T2dib
茶会なんて信長がやりまくってたし
439人間七七四年:2014/05/01(木) 18:22:26.29 ID:5JI50ZeD
>>431
それ前回おれも突っ込んだ
ほんと学習のうりょくないよね。菅沼は
440人間七七四年:2014/05/01(木) 18:27:43.73 ID:5JI50ZeD
本願寺
・各地の一向一揆の総元締め 影響力は絶大
・京から堺の中間点に位置しこの地域の交易の要

武田
・長篠で痛めつけた もう徳川一人で相手にできる安パイ
・東国の山国 切り取っても商業的な旨みはさほどない
441人間七七四年:2014/05/01(木) 19:15:07.53 ID:04p7jINd
>>439
前回も論破されてたのに毎回本願寺が金持ちだとか捏造持ち出してきて相当学習能力ないなお前。
442人間七七四年:2014/05/01(木) 19:16:53.55 ID:6wXgWBoO
別に捏造じゃないぞ?菅沼君
443人間七七四年:2014/05/01(木) 19:22:08.83 ID:DbByhEdM
○武田

・長篠合戦で大ダメージを受けており、滅ぼすまたとない機会
・徳川40万石・上杉120万石と同盟者の存在までいる
・総石高110万石程度あり、肥沃な関東平野に通じる上野や甲斐、駿河といった要衝を掌握
・甲斐信濃上野駿河を制圧すれば、北条や上杉への圧迫も一層強められる。
・実際に信長は謙信に当てて、武田を滅ぼす気満々の書状送ってる。
・信長は信忠に大軍をつけて、岩村に派遣し、後から佐久間までつけて送ってる。

○本願寺

・総石高20万石程度。とっても旨みは少ない。
・石山が商業の中心地だったという根拠はない
・その割に拠点だけやたら固く、攻めるのに苦労する。
・外征能力がなく、専守防衛なので放置しても基本問題ない。
・信長が佐久間への叱責の様子から、信長は本願寺を降す事はさして苦労するべきでないと想定してる。
・信長は本願寺に向けて実際原田、原田戦死後は佐久間くらいしか派遣していない。



優先順位は武田>>>>>>>本願寺だなw
444人間七七四年:2014/05/01(木) 19:22:34.18 ID:6cMQFrZM
自国の25分の1程度しかない国力の外征能力もない本願寺との対決を、長篠で弱りきった状態の武田を攻略できない原因にするとか苦しいにも程があるわな。
しかも同盟者の存在もしっかりあるのに。

そんな言い訳でいいなら、信玄が美濃を攻略できなかったとか
駿河に侵攻するまで少し時間が必要だったのは自国の1.2倍の上杉に自国の1.4〜1.5倍の北条と、自国の3分の1の今川と、自国の2倍の織田と、自国の4分の1の徳川に囲まれてたからって言い訳でも何でもありなわけで。

しかも本願寺は外征能力がないが徳川も織田も北条上杉今川も皆外征能力があるから
多方面戦略敷く上でかなり不利だが、そんな条件でも信玄はしっかり領土拡張やってのけてる。
445人間七七四年:2014/05/01(木) 19:24:11.72 ID:sARnmUAU
本願寺なんて20000程度送っとけば十分だろ。
実際信長はそのくらいしか送ってない。
たまに遊撃軍に援護させたりもしてたか知らんが。
残りの90000〜100000+上杉徳川でさっさと長篠で壊滅的な損害うけたはずの武田を瞬殺すればよかっただけ。
446人間七七四年:2014/05/01(木) 19:25:23.04 ID:DbByhEdM
実際それができてないのは長篠で武田の損害が鼻くそ程度しかなかったか、
武田が織田よりはるかに強くヒビリまくってたかどちらか。
まあ両方かもしれないけど。
447人間七七四年:2014/05/01(木) 19:30:32.60 ID:5JI50ZeD
そして鼻くそみたいな被害で見殺しにされる秋山さん
なんか勝頼に嫌われることでもしたの?
448人間七七四年:2014/05/01(木) 19:37:39.13 ID:5JI50ZeD
三方が原で大打撃与えたはずなのに野田城なんてチンケな城しか奪い取れず
それも兵を引いたらあっさり取り返された武田さんに比べたらマシですわ
菅沼理論でいくと三方が原での徳川の被害ってそれこそ鼻くそだよね
一度、武田についた奥平が徳川に乗り換えるぐらいに
449人間七七四年:2014/05/01(木) 20:51:53.34 ID:MitHqXpk
>>427
おい武田厨のフリを装うキチガイ自演織田チョンくん、
フロイスがいつ死んだかも知らんのかよwww
秀吉より先に死んでるフロイスが大坂陣の記述を書けるわけねーだろ低脳。
他人のレスを盗用ばっかりしてるから、
ソース元すらわからねーんだろwww
450人間七七四年:2014/05/02(金) 09:24:52.59 ID:YQITnusH
三方ガ原の戦略的戦果

・死に体のはずの家康にビビッて浜松城攻め込めず
・織田の援軍2万(と菅沼は主張)を打ち破る大戦果にも関わらず朝倉は撤兵 半年ちょっとで浅井・朝倉滅亡
・その後、攻め落とした城は野田城一つ。それも1年ほどで取り返される。
・遠江・三河の国人は誰もなびかず。それどころか一度味方についた長篠の奥平が半年もたたないうちに造反

こんだけ並べると三方が原の勝利ってなんだったの?と思えてくる。
これほど大勢に影響を及ぼさなかった大規模野戦も珍しいな。
451人間七七四年:2014/05/02(金) 10:19:56.27 ID:tZaWw0fr
三方が原の大勝利の結果織田方はろくに兵が集まらず、浅井朝倉相手に劣勢一方で
滅亡一直線だったじゃん
452人間七七四年:2014/05/02(金) 11:21:34.43 ID:iUdb/MbL
>>451
俺の知ってる歴史じゃあ滅亡したのは浅井朝倉なんだけど、アンタの世界じゃ違うの?
453人間七七四年:2014/05/02(金) 11:46:29.66 ID:PsIuLO9y
滅亡一直線だった織田に一年も絶たずに実際に滅ぼされた朝倉さんと浅井さん…
454人間七七四年:2014/05/02(金) 12:25:48.18 ID:YQITnusH
滅亡寸前だったのに浅井・朝倉の武将調略して逆に滅ぼした信長の外交力マジチートですね
大勝利したはずなのに織田・徳川方の国人誰も切り崩せず奥平に離反された信玄さんは
どんだけ外交力なかったんですか?
455人間七七四年:2014/05/02(金) 20:19:22.67 ID:C1Jqb9J+
信玄が死んだのを知り、義昭が降伏したことで、
西近江の将軍奉公衆が降伏し、
将軍任国の若狭が動揺しまくった為に、
本国撤退路が危機に陥る前に撤退しようと、
朝倉が浅井を見放して雨天の難路を無理やり強行撤退しようとしたから、
背後を襲われ朝倉軍が混乱し自壊しただけだし。
456人間七七四年:2014/05/02(金) 20:25:13.69 ID:YQITnusH
なんで武田は三方が原でボロ勝ちしたのに国人は誰も寝返らなかったの?
織田軍を2万も引きつけて打ち破ったのに朝倉はあっさり兵を引いちゃったの?
なんで奥平はボロッカスに叩きのめされた徳川に出戻ったの?
教えて。菅沼君。
457人間七七四年:2014/05/02(金) 21:46:05.71 ID:iUdb/MbL
>>455
それを「しただけだし」で済ませるから菅沼くんは誰からも相手にされないんじゃないかな?
458人間七七四年:2014/05/02(金) 22:49:34.44 ID:Z7HEic1w
信玄は暗殺だろうな
伊賀が甲賀の毒だろう
459人間七七四年:2014/05/03(土) 10:24:12.97 ID:+8pCn3W3
>>456
えっ?信長の味方したやつが、
荒木と細川だけにまで減少して、
信長が泣きをいれてたじゃんwww
460人間七七四年:2014/05/03(土) 10:56:43.89 ID:J5TkSSmf
>>459
その状態からわずか半年で朝倉滅亡でしたっけ?
461人間七七四年:2014/05/03(土) 11:13:11.03 ID:aQ877EX6
それいうと織田500万石のチート国力なら云々とか返してくるぞ
462人間七七四年:2014/05/03(土) 11:13:42.95 ID:m9AhxCzv
織田軍の精鋭馬廻はサイヤ人揃いだからな
463人間七七四年:2014/05/03(土) 16:06:25.72 ID:FX4iwdOO
>>388
なんだまたまた織田厨の大ウソだったんかw
相変わらずのクズだな。
464人間七七四年:2014/05/03(土) 16:33:07.45 ID:J5TkSSmf
>>463
しばらくコッチを留守にしてると思ったら歴史改変スレでまた自演ID自爆を起こしておられた菅沼くんじゃないですかw
465人間七七四年:2014/05/03(土) 20:55:04.34 ID:TLi1n95V
アンチ秀吉のキチガイ織田ちょんが、
バカな武田厨のフリをして自演してるだけだしw
466人間七七四年:2014/05/03(土) 22:34:23.70 ID:JtxiwkS1
>>455
将軍任国の若狭
若狭武田氏は居なかったことになっているな。

>>460
近江の織田方は佐和山や横山などの拠点周辺だけで南部は六角に完全に制圧
されているうえに蒲生氏は朝倉に下っている。
つまり刀根坂直前は、朝倉・浅井・六角に完全に包囲されているんだってさ。
467人間七七四年:2014/05/04(日) 09:16:37.28 ID:c5h+Sn7F
若狭武田なんて、
将軍義昭の義兄だった当主が一乗谷に連れさられ、
すでに滅亡してんじゃんアホか
468人間七七四年:2014/05/04(日) 13:08:47.67 ID:s87Q3FON
つか、そもそも武田は若狭の一部しか支配できてないし。
守護代の反抗ばっかりの中で奉公衆の協力でなんとか維持してただけでしょ。
469人間七七四年:2014/05/14(水) 20:53:46.66 ID:oDhOqgzW
棚ボタで領土拡張できるわけねーだろ
470人間七七四年:2014/05/14(水) 21:44:07.85 ID:TTnWCqLY
そんなことより俺のアナル拡張がいよいよ佳境に迫ってるんだが
471人間七七四年:2014/05/15(木) 20:27:23.91 ID:1VKunBNt
>>470
で、きみの拡張は実力なの?
棚ボタなの?
472人間七七四年:2014/05/15(木) 21:13:25.00 ID:SM1XmPkn
>>471
実力ならいいが棚ボタって・・・
想像するといろいろと嫌な感じがw
473人間七七四年:2014/05/15(木) 22:33:19.37 ID:f53aQScw
>>469
むしろ棚ボタを逃がさない才覚があるかないかだな
凡人は棚ボタに気づかずにやりすごす
474人間七七四年:2014/05/17(土) 13:18:26.88 ID:8X4pGTht
信長ほどの棚ボタに恵まれた大名なんて中々いないからな。
周辺国が悉く内訌分裂弱体化、当主の死に次ぐ死
自国がチート国力
足利将軍家や六角義秀や浅井や甲賀衆のお膳立て。
ここまで棚ボタ条件が揃ってたら毛利レベルの雑魚でも天下統一できるだろ。
信長はそんな条件ですら、家臣に殺されて家は大衰退したが。
475人間七七四年:2014/05/24(土) 02:39:13.35 ID:epElFOeh
>>474
そうそう、特に、信長より東にはザコ大名しか居なかったしねw
476人間七七四年:2014/05/24(土) 02:42:41.49 ID:uacpQEeP
強いて言えば武田勝頼と上杉謙信、景勝
後は別に雑魚というわけじゃないけど織田領に侵攻して真っ向勝負に出る気概と戦力を持つ勢力は無かった
477人間七七四年:2014/05/24(土) 12:20:11.36 ID:ucMQjvus
>>476
景勝は戦力的に無理ではないかしら?
478人間七七四年:2014/05/25(日) 09:19:21.25 ID:fXSUHBf3
棚ぼたというなら景勝の方がそれに当てはまるような
滅亡寸前からなんか知らんがいつの間にか120万石の大名になっていたんだから
479人間七七四年:2014/05/25(日) 17:57:52.86 ID:KPL5wWBv
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞

上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田に
あと数月で落とせるわけがない
まず手も足も出ず苦戦しまくりの須田のいる松倉城どうするかだな
480人間七七四年:2014/05/25(日) 18:01:15.21 ID:XNiYe1Sc
御館の乱
家中二分。武田北条伊達蘆名が敵方でこぞって国内出兵
これで当初は景虎優勢なほどだったが武田北条の大軍が迫りくる中
本城と枝城の連絡を復旧して逆転勝利
天正8年〜天正10年
9倍もの圧倒的大軍で御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化したところ狙って迫りくる中
越中中部〜魚津松倉間で2年も敢闘。長沼攻防で森長可撃退
本能寺後
信濃を北上してくる徳川勢4000を二年連続で撃破(麻績・青柳の戦い)
長久手戦でも徳川方軍勢をほとんど領国に残させるほどの貢献を見せる
上野でも北条の軍勢打ち破り北進阻止。同時に佐々も越中に足止めし
八幡原の戦いで新発田も新潟津から駆逐し蘆名義広にも大勝。

ちなみに上杉の動員兵力は5000程度で、北信4郡と佐渡と出羽庄内が加わった小田原合戦時でも1万そこそこ。
どうみても景勝は強いです。本当にありがとうございました。
481人間七七四年:2014/05/25(日) 18:06:23.19 ID:1bjQ84mv
上杉景勝の家督相続時の状況

景勝派景虎はは真っ二つで、会戦当初は景虎が優勢だったほどで、
伊達・蘆名・北条・武田がこぞって景虎方で国内に出兵
この状況から自力で逆転し、御館の乱に勝利

御館の乱や新発田の乱の隙につけこんで織田は
圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で 能登・加賀・越中を火事場泥棒した
にもかかわらず、新発田以外の内戦が落ち着きだす
天正8年〜10年頃にかけて越中中部〜魚津松倉間の狭いエリアで二年も食い止める。

松倉城でも飛騨口別働隊は撃退され
ろくな備えもない魚津城では4ヶ月もかかり
柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦し
天正12年段階ですら富山奪い返されたりしてる
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
しかも当時の上杉は石高もしょぼく御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化


どうみても景勝>>>>柴田(織田家トップクラス)だな
482人間七七四年:2014/05/25(日) 18:06:50.04 ID:KZwNbS3Q
森なんて長沼城攻防戦に景勝に敗れて後
長沼どころか、上杉方の島津忠直が仁科地方に滞在してることが景勝→仁科書状でわかるし
長沼よりずっと南西部すら突破出来てない事になるもんな
483人間七七四年:2014/05/25(日) 18:08:04.08 ID:KZwNbS3Q
下越・奥州・北陸・上野方面と全方面に味方がいる状況で動員兵力わずか5000の上杉に対して
長沼城攻防に敗れ、長沼奪回はおろかそれより南の仁科地方制圧すらできなかったのが森。
放置しても全く問題なさそうだな
何せ御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・下野(20000)
から総兵力7万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ
484人間七七四年:2014/05/25(日) 18:10:35.19 ID:1bjQ84mv
謙信だったら織田が数週間で滅ぶんじゃないか
謙信より格下の景勝相手に内乱につけこんで9倍もの圧倒的兵力差で火事場泥棒したら
越中中部〜魚津松倉で二年も食い止められたし
勝頼相手でも発狂があった長篠以外は織田方は上村・三方が原・東美濃攻防とヘタレビビリだったし
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&城みたいな陣地に発狂して突っ込んでも織田方に6000も被害与えて
9時間も戦い続けられたくらいだしガチンコで勝負したら勝頼にも劣るっしょ
信長自身勝頼を名大将的な評価してるし

また他の連中も圧倒的大軍&調略で内乱で自壊した所を火事場泥棒したのに
越中中部〜魚津・松倉の短い区間で9倍もの圧倒的兵力差がありながら2年も足止めくらう
普通に景勝>>>>>>>>>>>柴田だな

謙信時代は手取川で一級メンバー普通に蹴散らされて「案外手弱いので、もうすぐ上洛できる」とか言われてるし
謙信>>>>>>>信長だな
485人間七七四年:2014/05/25(日) 18:16:04.49 ID:+f+WZU9h
織田厨にはドラマとか司馬小説史観しか頭に無いので
危機みたいに勘違いしてるが
信長は超絶ヌルゲーの戦がほとんどだからな
滋賀の陣はマジで織田軍が武田に大破され、浅井朝倉に圧倒されまくって滅亡寸前のところだったけど
他は楽勝で勝てるような戦しかしてない。
486人間七七四年:2014/05/25(日) 18:16:47.93 ID:+f+WZU9h
信玄が信長の立場なら2年くらいであっさり斉藤滅亡させて即効上洛→2年程度で畿内平定
朝倉浅井みたいな当時の織田からみて雑魚国力の勢力に負けまくって滅亡寸前まで追い込まれるのは信長だけ。
487人間七七四年:2014/05/25(日) 18:17:14.44 ID:tgO41hEM
織田がやった戦なんて火事場泥棒しかねーじゃん
美濃を斉藤の幼君&混乱&分裂で寝返りばかりなのを火事場泥棒したら負けまくり
動乱でぐちゃぐちゃになった畿内を浅井や徳川や足利義昭の力を頼って火事場泥棒したはいいが
その後信玄に負けまくり滅亡寸前
伊勢でも分裂状態の北畠を無理矢理乗っ取ったりしたしたはいいが大河内城や長島一揆に負けまくり
しまいには御館の乱や新発田の乱で極度まで疲弊した上杉を45000の大軍&神保・佐々・長など地元諸侯派遣しまくり
火事場泥棒しようとしたら越中中部〜魚津・松倉の短い区間で天正8年から2年も立ち往生するなど大苦戦。
まともにガチンコで切り取った土地なんかねーだろ
488人間七七四年:2014/05/25(日) 18:17:58.48 ID:tgO41hEM
信長は地の利や自国の国力に馬鹿みたいに恵まれてたからね

斉藤…道三・義龍・龍興と三代続けての内紛と幼君で混乱しクーデター騒ぎで弱体化しきったまともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢… 木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で分裂、自壊
今川…たまたまおきた遠州騒乱と松平独立で極度に弱体化
六角… 観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化、信長の斉藤攻めや上洛戦では信長に大いに協力
足利将軍家… 三好や松永らの反逆で権威が落ちきり形骸と化し信長に助けを求める
播磨但馬丹波…守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない
摂津… 石高がわずか12万石しかない
浅井…もともとは織田方で上洛戦や斉藤攻略などで信長を大いに助ける。石高はわずか10万石程度
波多野…石高は10万石以下。
上杉…謙信死後の御館の乱や新発田の乱で自爆崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除

美濃は斉藤の元で既に統一されてるから、
濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
489人間七七四年:2014/05/25(日) 18:18:16.57 ID:tgO41hEM
斉藤が三代続けての内紛や幼君での混乱・クーデター騒ぎで弱体化しきっててまともに抗戦するものが皆無で自落していったし
義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけ。
その上さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてただけ。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になる。

信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
490人間七七四年:2014/05/25(日) 18:18:36.46 ID:tgO41hEM
信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
後世に作りだされた写し以外の原本確認できる一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。

米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。
491人間七七四年:2014/05/25(日) 18:18:50.75 ID:1bjQ84mv
信長の周りには畿内で賢主と呼ばれた大名はみんな死んでいて最盛期が過ぎ 衰退に向かっていく弱い大名ばかりだが
信玄の周辺には実力が同等国か同盟国ばかりだった。 仕方ないから謙信方面に行くしか道がなかったよね。
北条・武田・上杉の三国が互角の鼎のように竜虎獅子が合い戦う強豪っぷりだったしな。
武蔵国の名は武器の蔵と言われていたと信玄も言ってる。 家康は武田旧臣を配下に入れて翼が生えたようなもんだ。そのおかげで信濃や甲斐が統治できたしな。
そんな中で勢力拡大してた武田さんは素直に凄い
492人間七七四年:2014/05/25(日) 18:22:12.99 ID:k0pzXIZf
織田厨は算数ができないので、自国がチート国力であり、自国に比べて周辺には弱体化しまくってた雑魚国力の大名しかいなかった織田を棚ボタではないとか言ったり
自国が貧国・山国・雪国の制約があり
自国と同等レベルかそれ以上の国力に囲まれてる上杉や武田などを棚ボタなどと妄想したりする。



武田の場合


            上杉 120万石

 
織田500万石       武田  100万石


            徳川 40万石              


  




織田の場合




                                上杉120万石(しばらくは同盟)
                       
赤井10万石             
本願寺20万石                         武田100万石(徳川・上杉が抑えてて対織田戦はろくに兵も出さず)

              
             織田500万石+徳川40万石






全然立地条件が違うわな。

織田の場合は総軍を四つにわけても各個撃破が余裕で可能な国力がしっかり整った状態で雑魚を周辺に抱えてるだけで、到底「四方を敵に囲まれてる」などとはいえない
「雑魚国力が回りに散らばってる」の方が正しい
493人間七七四年:2014/05/25(日) 18:25:51.72 ID:bKYHZO5h
自国はチート国力

周辺国は
斉藤…道三・義龍・龍興と三代続けての内紛と幼君で混乱しクーデター騒ぎで弱体化しきったまともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢… 木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で分裂、自壊
今川…たまたまおきた遠州騒乱と松平独立で極度に弱体化
六角… 観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化、信長の斉藤攻めや上洛戦では信長に大いに協力
足利将軍家… 三好や松永らの反逆で権威が落ちきり形骸と化し信長に助けを求める
播磨但馬丹波…守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない
摂津… 石高がわずか12万石しかない
浅井…もともとは織田方で上洛戦や斉藤攻略などで信長を大いに助ける。石高はわずか10万石程度
波多野…石高は10万石以下。
上杉…謙信病死、謙信死後の御館の乱や新発田の乱で自爆崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除 、信玄が都合よく病死


しかも、義昭が信長の下を訪問し、斉藤攻略→畿内平定までを和田や甲賀衆や浅井などの派遣により楽にお膳立てするヌルゲーっぷり。

謙信・信玄・直正・元なりらも都合いいタイミングで病死。
残ってるのは当時の織田から見れば雑魚国力の大名ばかり。
ここまでヌルゲーな大名なんて織田以外にはそうそういない。
494人間七七四年:2014/05/25(日) 18:26:33.31 ID:bKYHZO5h
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
495人間七七四年:2014/05/25(日) 18:33:20.32 ID:8d3aEcbv
自国の6倍程度ある織田と交戦状態の中、家中を二つにわけた後継者争いで
周辺大名がこぞって国内に出兵してくる窮地の中の窮地で勝ち抜き
その後の内戦の中、自国の10倍もの兵力で侵攻を受けて、2年もろくに進ませず耐えた景勝や上杉 120万石 織田500万石 徳川 40万石 と計自国の6倍程度の相手と戦わなければならなかった勝頼が棚ボタとか相当馬鹿だな。
棚ボタは織田しかいねーだろ。

周辺国が悉く内訌分裂弱体化、当主の死に次ぐ死
自国がチート国力
足利将軍家や六角義秀や浅井や甲賀衆のお膳立て。
ここまで棚ボタ条件が揃ってたら毛利レベルの雑魚でも天下統一できるだろ。
信長はそんな条件ですら、家臣に殺されて家は大衰退したが。
496人間七七四年:2014/05/25(日) 18:35:28.56 ID:ap8iz3Ws
織田厨は算数ができないから、自国と敵対大名の国力を比率で考えることはできないし
敵国が内紛だったりクーデターだったり、お家騒動だったりといった、状況を追う事ができない。
だから平然とそんな馬鹿な発言をする。
497人間七七四年:2014/05/25(日) 19:51:10.52 ID:iHvQQHx4
おかえり菅沼遼太君w
498人間七七四年:2014/05/26(月) 21:41:57.78 ID:WMABS3jd
また菅沼祭りですね
499人間七七四年:2014/06/03(火) 14:32:15.91 ID:Uwhreusl
信長の家督継承はかなりうまくいってるよね。
一次史料を見てると内乱なんてまったく起きてないどころか
永禄元年6月には津島社の祭りを桟橋の上から信長は観戦して楽しんでたり
永禄2年2月には上洛して楽しんでるくらい。
ただ気になるのは頭のおかしい信長を諌めたであろう信秀が付けてくれた後見役の
一番家老林秀貞や二番家老平手政秀や
三番家老青山信昌や四番家老内藤勝介と言った人々がすべて早期に失脚してることだな。
興味深いことに弘治3年7/25書状において、
佐久間信盛・赤川景広・村井貞勝・島田秀順の連署があって、
これは増長して狂っている信長の独裁をもう一度、
宿老制の復活による連署合意とそれを施行する奉公人制の復活による
重臣達による当主権制限によった統御牽制しようと試みている表れだろう。
信長がかなり国人や家臣から反発を喰らって離反されている状況下で
信長の身を守ろうとする意志が読み取れる。
もしこれが成功し重臣合議制を施行していれば、
家臣により信長が本能寺で殺され、織田家が傀儡にされ、
信長遺領の家臣団による切り分けが起きることも無かっただろう。
しかしこの試みは信長の怒りを買っただけで、この宿老制は実現せず
家臣はすべて信長の奴隷となって従えばよいんだという意志が貫徹され、
いよいよ暴君となっていったのである。そして経済政策の失敗から貫高制を維持できなくなる信長・・・
一方、道三独裁から重臣たちによる擁立となった義龍政権は行政を刷新し
1558年を中心に義龍は施策を次々に打ち出し 最高意志決定機関の宿老制が完成し、
用水相論の裁許を重臣連署で解決(用水相論解決は一揆的結合の浅井などでも見られる)
立政寺の門前の池で鵜を飼い網を引くのを禁止した制札も連署。
これは土岐氏の官僚機構を国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していく動きであった。
永禄三年には印判状という文書形式を導入。 知行あてがいも貫高制が導入され
重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系が構築されていく。
そして下への理解を一切考慮しない独裁悪政をする信長を見限った者達の支持を集め
義龍は戦わずして尾張の半国を支配するまでに隆盛を極めた。
500人間七七四年:2014/06/13(金) 12:47:53.76 ID:1OXn9O3x
>>http://nozomi.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1402445179/772

>>秀吉は平地で行われる野戦では常に相手より多い兵力を持って勝利

・熊見川合戦→単なる上月城の防衛戦にもかかわらず大友や宇喜多に負けてばかりの雑魚毛利軍相手に3000人戦死の大敗
・美作攻防戦→宇喜多と連携しての攻防で捕井田清に見事駆逐される
・馬野山の対陣→わずか6000の吉川元春にビビッてへたれ退却する
・鴨城攻防戦→毛利方の冷泉に敗北し、備中から備前まで一挙に敗走する
・山崎の合戦→ 兵力比2.5倍で光秀方は山崎を捨てる形での不利な布陣を強いていたにもかかわらず
被害は秀吉軍のが多い秀吉の戦べたが露見した戦(ランチェスターの法則でいえば兵力差2.6倍なら被害差は6.25倍じゃないとおかしい)
・しずヶ岳の合戦→ 勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけのただの防衛戦。
秀吉方は長大な塹壕を築き、柴田方は6分の1の寡兵で秀吉方塹壕を破壊し押しまくる。秀吉と兄弟の契り結ぶ程関係が親密だった中川清秀戦死。
秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら 逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末
不和や前田などが撤退した棚ぼたにたまたま秀吉は救われる。
二重堀合戦→わずか1000そこそこで奇襲しにきた信雄に大敗し、二重堀から敗走、伊勢や退却する。

>>三倍の兵力を持ちながら家康に敗れた経歴

小牧長久手の合戦は雑魚信雄と秀吉の主力決戦だが
信雄方は3月に尾張美濃伊勢伊賀信濃と離反連鎖で崩壊状態で家康と合計しても16000〜7000前後しか動員できてない。
それに対して秀吉方は領内の兵力総動員して135000の大軍(3月下旬に尾張へ転進したのは100000だが、そのあと到着した秀長24000と美濃の秀勝勢らがいる)

>>その城攻めの巧妙さは誰もが認めるところ。


・三好長慶などが瞬殺した平城の三木城に信忠らの援軍支援を何回か得た状況で2年近くもたつき、その間に谷ら重臣を失う
・毛利の支援なし・信忠らの支援受けまくりの状態で播磨攻略に2年以上費やしてる。
・吉川や尼子残党軍などが3回くらい瞬殺した鳥取城(城内は兵糧欠乏状態)で4ヶ月もたつく
・備中鴨城・冠山城攻防戦で、毛利方の補井田・冷泉に撃退される
・わずか1000貫そこそこの雑魚松ノ木城の吉村や、同じく1000貫前後の東駒野の高木に撃退される
・自身が縄張り熟知している河波城も攻略失敗する。
・300しか城兵がいない戸木城で撃退される。
・小田原合戦で、わずか1000そこそこしかいない小田原城に手も足も出ず
忍城では石田の進言無視して水攻めに及び、見事に失敗する。
・わずか500程度の韮山城でも苦戦しまくる。
・総勢34500で、和戦で割れており、寝返りをボロボロ出してた結束力0の北条に対し、
240000の大軍で攻め込み、一柳・堀尾嫡男・前田重臣平岩弟・依田を戦死させ、氏家行継を負傷させる。
501人間七七四年:2014/06/13(金) 12:49:05.38 ID:1OXn9O3x
>>ちなみに妙に評価の低い信長や 秀吉の野戦能力についてフォローをしておけば、

なぜフォローする必要があるのか意味不明

>>彼らが直接指揮した戦闘は九割近くが勝利


基本的に信長や秀吉は戦えば必ず家臣を殺されまくったり、1000貫そこそこの雑魚領主に苦戦するゴミのような指揮采配能力なので
毎回圧倒的大軍で敵の反抗を諦めさせてるだけ。位攻めというのは敵の反抗を諦めさせる規格外の大軍と、
敵の諸城の周辺に完全な攻囲のための砦や根城などを築く技術と、長期戦に耐えうる物資さえあれば誰でも可能で
最も指揮能力や采配能力が問われない楽な戦いだからね。でもそんな超絶ヌルゲーですら秀吉は失敗して家臣を多く殺されたりしてる。

例えば小田原合戦の時も享禄以来年代記によれば29万、那須記や榊原書状によれば50万といわれる圧倒的な大軍だった。

しかしわずか34500しかいない北条とまともに戦いだすと半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
秀吉軍は兵站ギリギリのところまで追い込まれてたのは事実
これはフロイスの日本史に書いてある。
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない



指揮能力や采配能力が劣っていようが数でごり押しすれば勝てるのが戦
秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったので
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ

兵を率いる武将の指揮能力や采配能力が欠如してるのが信長秀吉を初めとする織田軍の特徴
基本的に織田軍は、攻城能力が低すぎるから苦戦しただけ。
三木城にも2年、鳥取城には4ヶ月
岐阜城にも8年、岩村城にも半年かかっても自力では落せず。
大河内城戦では配下を殺されまくる。
伊勢長島侵攻戦では、餓死寸前の一揆勢数百を数万の大軍で騙し討ちにして一門10人以上殺されてる。
滋賀の陣前後でも、織田方は城攻めや城の防衛で森や坂井親子や織田信治・青地を初め、大量の家臣を殺されてるし。

織田ってのは戦下手な部将の集合体だったから
それを資金活用した土木工事とか塹壕をほっての築城とか技術と
長期戦に耐えられる物量の調達でうまくカバーしようとする集団だった。
これならいくら戦べたな連中でも、敵の周辺を砦や根城の築城により
補給を断ち、兵糧攻めなどにすれば、そうそう負けないし。
502人間七七四年:2014/06/13(金) 12:50:00.42 ID:1OXn9O3x
>>敗北は彼らが戦場にいない時が多いという、

むしろ逆で彼らが戦場にいないときの方が強いのが織田軍や豊臣軍。
例えば美濃攻めや長島攻め、浅井・朝倉あたりとの攻防は信長が指揮を取ったため散々だったが信長があまり指揮を執らなくなる
天正あたりから織田の戦は大分苦戦が減っていく
豊臣の場合でも九州征伐四国征伐朝鮮出兵など秀吉が指揮を執らない戦はまずますだったが
天正12年の信雄との攻防主力決戦・毛利との攻防の熊見川合戦・鴨城攻防戦・美作攻防戦・馬野山対陣・小田原合戦の山中・韮山・小田原・忍城攻防戦
山崎合戦・滝川攻略戦・しずヶ岳など秀吉が命令直接出して指揮を執ると馬鹿みたいに苦戦が多くなり、戦死者だらけになるというのが織田豊臣軍の特徴
家臣はまずまずの能力があったが、大将の指揮能力や采配能力が欠如しすぎているので、苦戦が増えるのは当たり前。

>> 大勢力の長であり全てを自分で指揮できないという事情

その通り。信長や秀吉が直接指揮を執ると大変弱いので、家臣に委任したりする事が時々あったが、そういうときは中々強かったのが織田豊臣軍

>>ヨーロッパの大英雄であるナポレオンも同様の傾向があり、彼も部下の敗北を考えないと生涯勝率はかなり高いです。

ナポレオンみたいな天才と信長秀吉みたいな棚ボタ過大武将を比較するのはあまりに失礼。
また、ナポレオンの方が管轄・支配範囲が比較にならないほど広いので、到底日本のショボイ国土の戦争と一緒くたにはできない。
503人間七七四年:2014/06/13(金) 12:51:21.60 ID:1OXn9O3x
>>http://nozomi.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1402445179/792

山中城攻防戦・韮山城攻防戦では秀吉方本陣と、攻囲戦の戦場はごくごく至近距離にあったため
秀吉の指揮下での戦いと見なければならない。
というか、それが秀吉の責任ではなく指揮下ではないというなら
秀吉の指揮を執った戦いなんて戦場から離れた場所で悠々と指示を送ってただけだから
秀吉の功積で落としたり勝った戦いなんて全くなくなるだろアホ。
敗戦の責任だけ部下になすりつけて、都合いい戦だけ秀吉の手柄とか都合よくデッチあげてんじゃねぇよw
忍城攻囲戦では三成は秀吉に水攻めの困難を訴えて
強襲を提言したが、秀吉は結局これを聞き入れず、水攻めを敢行。
そのために結局失敗し、忍城は落ちぬままで終わった。完全に秀吉の負け戦。
504人間七七四年:2014/06/13(金) 18:41:23.13 ID:jT+xttDa
なんか延びてると思ったら菅沼くんか。
案の定大河板でファビョーンして連投爆撃しちゃったんだってね。
こうやってどこでも嫌われて可哀想だね。
505人間七七四年:2014/06/13(金) 23:11:29.17 ID:1OXn9O3x
【2014年大河ドラマ】軍師官兵衛 Part49
http://nozomi.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1402649388/45

45 名前:日曜8時の名無しさん[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 22:05:37.00 ID:DWvQdcN9
織田厨の定義は下記ね。


@繰り返し論破されてるにもかかわらずhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1399803174/19-26 にでてくる
毎回同じ織田厨の妄想を、何事もなかったかのように垂れ流す

Aそれに対する論破レスに当たるコピペを貼り付けて反論すると
コピペ・自演・菅沼・だが・w・珍説・嘘・ごり押し・連投・アスペルガー
などの織田厨の捨て台詞をはいて逃亡する。

上記ワードがコピペの後に出てきたらほぼ間違いなく織田厨の仕業。
上記ワードは織田厨が追い詰められて都合が悪い時に決まってでてくる捨て台詞なので、これが出てきたら織田厨が論破されてる証拠と思っていい。

B相手の主張してない事を勝手にデッチあげる
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1399803174/68-69
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1399803174/22-23

C小学算数の割合や比を理解していない。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1399803174/22

@とAはほぼ間違いなく織田厨の仕業。特にAが出てきたら決定的。
Bは織田厨の仕業の可能性が非常に高いが、100パーセントとは言い切れない。
Cはほぼ間違いなく織田厨の仕業。論理的思考能力どころか、小学レベルの数量の考え方が身についていないから
平然とhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1399803174/22
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1399803174/25
みたいな妄想垂れ流す。
506人間七七四年:2014/06/13(金) 23:11:55.63 ID:1OXn9O3x
【2014年大河ドラマ】軍師官兵衛 Part49
http://nozomi.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1402649388/49

49 名前:日曜8時の名無しさん[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 22:13:15.56 ID:LreSNDu1
○軍師官兵衛スレでの荒らしの特徴


・歴史の話が出るとすぐに自分からシッタカ説明する。 しかし論拠となる具体例や、史料・論文などは一切なし。
・それに突っ込まれたり長文で詳細に反論されると物凄く嫌がる
・自分から歴史の話を持ち出してるにもかかわらず反論相手を荒らし認定する
・詳細な内容や論拠が詳しく書かれたレスを極端に嫌がり、馬鹿でも読める短い短文のみを好む
・自分から歴史の話持ち出す割には、突っ込みどころ満載のハッタリ願望や妄想ばかり書いているので、よく長文に突っ込まれる
・長文は特に荒らしていなくてもすぐに荒らし認定する。
・気にいらない意見だとコピペでなくても「長文コピペ」「荒らし」「菅沼」などといってレッテルを貼る



○荒らしの使うワード

・キチガイ長文
・バカ長文
・長バカ文
・ガチキチ長文
・マジキチ長文野郎
507人間七七四年:2014/07/04(金) 16:16:41.68 ID:3dP9GAiA
信長の領土拡大

尾張 織田本家が斯波氏を裏切ったので謀反人討伐の大義名分で制圧
美濃 斎藤道三の遺言の大義名分
近江から機内一円 足利義昭の上洛命令により諸侯に帰順を促す反対勢力は討伐

伊勢のみ侵略と言えるな
508人間七七四年:2014/07/04(金) 16:57:55.61 ID:zQ+Bwis/
伊勢には斎藤竜興が逃げ込んでるからな、一応
509人間七七四年:2014/07/05(土) 07:11:22.63 ID:yTWC1fND
>>507
だが理論によると伊勢も棚ぼただな
長島は武田水軍が滅ぼした跡地を横領しただけだし、北畠は信雄を人質に取っていたのに
朝敵とされていた織田が蘭奢待を拝領したのにびっくりして降伏したし。
510人間七七四年:2014/07/21(月) 15:21:21.70 ID:7QBI+l1l
>>96
それで言うと諸葛孔明なんか卑怯者の極致と思う
そこそこにしとけよ
511人間七七四年:2014/12/07(日) 07:22:08.48 ID:lLCTvy2r
wqqsw
512人間七七四年:2014/12/22(月) 08:54:20.30 ID:AMS5sIKd
信長が死んだ途端に、信長生前に自分の才覚で切り取っていた領地を
家臣達が自分の領地に併合している。
これは織田の力で切り取った領地ではないと言う感覚である。
信長は内政統治をまるでやらず、領地収入とそれに基づく動員兵力数についても全く把握してない。
全て家臣の才覚による努力であった。
一職支配のもと家臣に丸投げして信長は遊興三昧していた。
ために織田が領地を支配していたと言う構造にはなっておらず、
才覚ある家臣による一国単位の謀反が頻繁できた理由であり、
信長が謀反で死んだ理由でもある。
一番ひどい例が信長が死んだ途端に信長が与えた団の領地の森による奪取である。
興福寺は信長の葬儀もやらずに家臣達が領地の切り分けに熱心なのを皮肉っているが、
そもそも信長の力で領地を拡大したのではなく、
家臣の武辺道と才覚による努力で切り取られ、家臣により統治支配された領地だからこそなのである。
513人間七七四年:2014/12/22(月) 10:28:39.97 ID:fYJWLrYa
>>512
要約すると人間の身体は各部位が勝手に動いているのであって脳ミソなんかいらないってことだね。
514人間七七四年:2014/12/22(月) 11:59:11.57 ID:AMS5sIKd
むしろ腕の部分を頭に変えたら
きちんと組織化でき
統治ヴィジョンに基づき統治行政が作られ
速攻で天下統一できた。
515人間七七四年:2014/12/22(月) 13:47:48.12 ID:2w9zhu4F
まー現地略奪方式の信長のやり方じゃ
6万を動員を支えるような信玄や
秀吉のような兵站や衛生に関わる整備と補給や
武具の一定以上の質と数を要求する
軍備に関する賦課を課すことすらもできず
大軍による位攻め戦略はとれないから
畿内平定すら失敗したしな。
(小牧長久手の秀吉兵力を三鬼氏は10万は誇張で実際は6万と指摘)
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
一方、信長は最大3万を支えるために越前に集結して大虐殺と大略奪をした。
516人間七七四年:2014/12/22(月) 15:15:42.59 ID:3zgJ4lJh
一応言っとくと、越前のことは脱税者懲罰、単純にこれだけね
517人間七七四年:2014/12/22(月) 15:37:18.44 ID:FwIXKUXc
ま〜た暴れてる

>>8に反論してみろよw
518人間七七四年:2014/12/22(月) 16:10:16.93 ID:2w9zhu4F
>>516
まーた願望妄想かwww
越前豊原まで着陣した信長は滝川への書状の中で
「走り入り候う者共、悉く首を切るべく由しかるべく候
とまで言って越前内で織田側へやってくる仲間まですべて皆殺しにしろと
大虐殺の徹底を指示してるのにw
519人間七七四年:2014/12/22(月) 17:10:46.85 ID:3zgJ4lJh
>>518
越前の詳細
まず寺「納税しろ〜」、門徒「脱税出来ると思って入信したのにそんなの聞いてね〜」
そこに織田軍到来、門徒達、坊さん助けず大脱走

ってことで、上の書状が言ってる「走り入り候者」とは、寺の人か脱走しなかった一部の門徒か知らんけど、
寺の人だったら一揆の首謀者は根絶って意味だろうし、門徒だったら脱税者懲罰、見せしめって意味だろう。
520人間七七四年:2014/12/22(月) 18:00:25.15 ID:2w9zhu4F
などと願望妄想の作り話を書き散らす低脳が織田朝鮮人。
521人間七七四年:2014/12/22(月) 18:22:08.68 ID:AMS5sIKd
ひどいデタラメを見た…これが織田在日クオリティか。
522人間七七四年:2014/12/22(月) 20:04:12.49 ID:3zgJ4lJh
納税のことで寺と門徒がケンカ。この辺の話は「朝倉始末記」って史料に書いてあるよ。

その寺に今まさに所属してる人とか、不快かも知れないけどあえて書いちゃった。
事実は事実として認める懐の広さもあるだろうと期待しまして。
523人間七七四年:2014/12/23(火) 22:28:47.26 ID:wCllHCEK
>>522
そんなこと天正3年の信長の越前侵攻の記事にまったく無いだろウソつくな。
書いてあるのは織田軍が妻子は刺し殺したり、
手足に薪を結びつけて燃やして、人間を土に戻したり、
穴を掘って人を埋めたりという手段で大殺戮すること夥しいって書いてるだけだろ。
524人間七七四年:2014/12/23(火) 23:19:54.92 ID:sRibuShb
>>515
また小牧長久手が6万とかデッチあげてるな



小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)

一次資料や陣立書類から、秀吉軍は下記のように総軍フル動員で戦闘に臨んでる。 黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。 三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。 合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる (4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して 攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。 堀と長谷川は中入り組。 (戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、 池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で 「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。 丹羽長重も派遣されてる。 信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も それに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は 秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、 蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、 蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、 長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。また秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字。その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と
美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる。また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した。また長久手合戦参加者の家記や家譜、 合戦記などでも同じ数字が用いられている
525人間七七四年:2014/12/23(火) 23:23:54.93 ID:sRibuShb
>>三鬼氏は秀吉軍戦力を10万は誇張で実際は6万と指摘しておりその中から別働隊に割ける兵力も少ない

一次資料や陣立書類から、秀吉軍は下記のように総軍フル動員で戦闘に臨んでるからそれは絶対にない。
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。

秀吉方は 秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
526人間七七四年:2014/12/23(火) 23:46:46.69 ID:sRibuShb
3/22渡辺清忠→元行書状
勢州之儀は、為御先陣御次様・羽柴美濃守殿・滝川殿人数二万四五千にて御打ち入り候
家康尾張境陣取候之条、可被討果之由候て、築州御人数十万余にて、至濃州御陣替候、


4/8秀吉→長秀書状
去六日に池勝入・長可・孫七郎・左衛門督人数二万四五千にて、至小幡表差遣…
勢州表人数二万余りも五三日中に可令著陣候…
泉州表為番勢、備前衆一万計相越候条、岸和田・大阪ニ達、最前遣申候人数五六千候間、
至当地令著陣候事

4/11秀吉→長船・富岡
勢州表人数二万余昨日令著陣候
527人間七七四年:2014/12/23(火) 23:55:31.91 ID:sRibuShb
享禄以来年代記
21日秀吉率十二万五千兵出大阪、二十七日著陣犬山
八月下旬秀吉率十六万兵出尾州

6/2小早川秀包→藤四朗書状

我等之事、今度存外遠国令在陣、軍労雖無是非候、最前以来十万余之人数見物、本望此事候
528人間七七四年:2014/12/24(水) 01:24:50.60 ID:UItYDs0/
秀吉文書をすべてチェックし『豊臣秀吉文書目録』を編纂した三鬼清一郎は、
秀吉研究の第一人者だから間違いはないだろうね。
世界で一番秀吉に詳しい人と言っても過言じゃない。
529人間七七四年:2014/12/24(水) 09:03:08.17 ID:WShmnNIF
三鬼清一郎は享禄以来年代記6/2小早川秀包→藤四朗書状3/22渡辺清忠→元行書状
4/8秀吉→長秀書状
4/11秀吉→長船・富岡 すら読んでなかったって事だな
530人間七七四年:2014/12/24(水) 09:07:15.00 ID:IJSlkyEe
信長だって15万くらい軽く兵ひねり出してるし
兵の動員限界が6万や4万とかマジで馬鹿だろ
531人間七七四年:2014/12/24(水) 09:08:37.68 ID:WShmnNIF
秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」

天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ
ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw
そもそも大軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる
源平合戦とか戦国期より遥かに後進的軍隊の頃でも10万20万と大軍動員してるし
中国とかヨーロッパの戦史とかだとそれより遥かに昔の時代に規格外の大軍が動員されて動かされてるのに
戦国期の日本の軍隊の動員数が2〜3万が限界とかアホにも程があるだろ。
戦史まともに勉強しろや。確か元寇のときでももっともっと動員してただろ
信長も多聞院日記天正5年2/13条で信忠信雄信孝を始め分国中の兵力かき集めて15万余騎もの
大軍を河内に集めてるのがわかる
織田は西は播磨方面北は丹波越前加賀
東は美濃飛騨と広範な版図を有するため、一箇所に兵を集中できないから、でFA
ゲームじゃあるまいし
複数に戦線があるのに一箇所に全ての兵集中とかできるわけねーしな
大体織田の国力でいえば15万くらい余裕だろうし
富士川の戦い(源氏方兵力4万)
倶利伽羅峠の戦い(平家兵力4万)
篠原の戦い(平氏方兵力40000)
一の谷の戦い(源氏方兵力66000)
元寇(日本方兵力10万)
筑後川の戦い(両軍計100000)
四條畷の戦い(足利軍60000〜80000)
湊川の戦い(足利軍50000)
532人間七七四年:2014/12/24(水) 09:10:09.44 ID:WShmnNIF
秀吉厨の妄想

>>織田は位攻めが使えなかった

一箇所に集中させるには、敵勢力の数が少なくないと不可能
数箇所に敵がいるのに、複数の敵を放置して一箇所に集中とか自殺行為。
実際には東京ドーム(面積46755平方m、うちグラウンド13000平方m)の観客席部分ですら50000人も収容可能。
50000人程度の軍勢なら33000平方mあれば余裕だから、30000程度の兵力が一箇所の限界兵力のわけがない。
例えば50000人が兵を集結する事ができる限界面積を仮に33000平方メートルとすると、
さらに50000人が集結するには、その横の33000平方メートルを配分すれば済むだけの話だろ。
補給や排便や物資補給どうこうの話なら、後方からの小荷駄隊を背後から増やせばいいだけ。
わかりやすくいうと、織田の分国の総兵力が仮に15万だとして、北方向に5万、東に5万、西に5万と配分するよりも、
一箇所に15万集結させる方が、兵糧物資補給の観点からみても、補給地点が一箇所で集中し、分散する事がなくなるため、よほど効率がいいし
ローコストで済むんだよ。
それができないのは単に織田分国の敵が四方に分散してて、一箇所に兵力を集中させたら、別の敵への備えがなくなるというだけ。
分散して15万程度の兵力が展開できるのにそれより遥かに難易度が低く補給路の負担の低い一箇所集中補給ができないわけねーだろw
つか、3万が限界とか、三鬼とか一部の妄想学者くらいしか唱えてねーよ。
533人間七七四年:2014/12/24(水) 09:11:10.22 ID:WShmnNIF
そもそも源平合戦とか戦国期より遥かに後進的軍隊の頃でも10万20万と大軍動員してるし
中国とかヨーロッパの戦史とかだとそれより遥かに昔の時代に規格外の大軍が動員されて動かされてるのに
戦国期の日本の軍隊の動員数が2〜3万が限界とかアホにも程があるだろ。
戦史まともに勉強しろや。確か元寇のときでももっともっと動員してただろ

信長も多聞院日記天正5年2/13条で信忠信雄信孝を始め分国中の兵力かき集めて15万余騎もの
大軍を河内に集めてるのがわかる
織田は西は播磨方面北は丹波越前加賀
東は美濃飛騨と広範な版図を有するため、一箇所に兵を集中できないから、でFA
ゲームじゃあるまいし
複数に戦線があるのに一箇所に全ての兵集中とかできるわけねーしな
大体織田の国力でいえば15万くらい余裕だろうし
534人間七七四年:2014/12/24(水) 23:23:58.42 ID:Wl+nnu1s
誇大宣伝の誇張戦果や誇張兵数による情報戦だろ。
535人間七七四年:2014/12/24(水) 23:27:28.94 ID:Wl+nnu1s
あっ、アンチ秀吉の織田厨にレスしてしまった。
荒らしにレスするのはマナー違反だったすまぬ。
536人間七七四年:2014/12/25(木) 00:06:08.38 ID:bOSKA9Mw
>>534-535
いえいえ、わざわざ名乗っていただいてありがとうございます菅沼さんw
537人間七七四年:2014/12/25(木) 08:31:40.95 ID:G54Spxm4
信長が15万動員されてるのは多門院日記にあるし秀吉が計135000動員してるのは毛利の秀包や渡辺の書状や秀吉が配下に宛てた書状や享禄以来年代記からも明らかだもんな
538人間七七四年:2014/12/25(木) 15:00:25.74 ID:72DQmI+f
三鬼清一郎は享禄以来年代記6/2小早川秀包→藤四朗書状3/22渡辺清忠→元行書状
4/8秀吉→長秀書状
4/11秀吉→長船・富岡 すら読んでなかったって事だな
539人間七七四年:2014/12/26(金) 00:29:22.80 ID:vgoaK9PH
そもそも万石250人計算は明治時代の算出法だし
540人間七七四年:2014/12/26(金) 08:01:14.47 ID:FUf7MQ93
戦国期だと一万石300人くらいだな
秀吉の朝鮮出兵のころだと大体平均一万石350人くらい動員かけてるし
伊達など一部の大名は一万石450人か500人くらい動員かけてる
541人間七七四年:2014/12/26(金) 18:21:37.45 ID:+GKcDIvT
>>537
15万騎も動員されてるとかあからさまなウソ宣伝じゃんあれw
馬だけで15万匹も揃えたら兵が食うもんなくなるわw
運動量が高くなる戦闘用の馬は高タンパクの穀物を飼料とするため
人間の食料と競合するデメリットが存在してるからな。
ただそこらの草を食わせるだけの放牧とは違うんだぞw
だからあくまで聞いた話で事実かそうかわからない「云々」がついてるじゃん。
多聞院も半ば信じてないから云々で書き止めてんだよ。
542人間七七四年:2014/12/26(金) 18:26:13.48 ID:+GKcDIvT
>>天正3年5/15奥平書状
おいおい愛知県史ですら検討の余地ありとして、この写を偽書状認定してるだろ…
>>毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
あれ秀吉が自軍兵力を2万か3万でとか書いてて好い加減だろ。
信孝相手にどんだけ俺が苦難と苦労してたと思ってんだ〜みたいな文章で敵兵力を吹いて誇張して、
自分の正統性をアピールしてるにすぎんでしょ。
そもそも褒美すら満足に出せず、国人に欠所地を自分で探してきたら、
そこを加増してなるとか言ってる毛利にそんな経済的余裕ないし、
そんなに兵力あるなら清水宗治を見捨てて和睦に応じないだろ。
いやいやあんな戦国時代に思えない違和感バリバリの単語使った文章で
(信長卿とか、盟約や婚姻など神仏に誓う文面じゃないのに、わざわざ天正とか書いてたり)
さらに徳川が2万余騎を動員してるとかあり得ないし、
しかも信長が岡崎に着いた日も間違えてる書状の写なんて…
検討の余地ありって言い回しを使うのは、
それを持つ人の手前、はっきり断ずることを避けて配慮してるからだし。
アンチ秀吉キチガイのお前の主張はいつも無理やり過ぎるわ。

天正3年5/15奥平貞能→奥平信昌宛書状写どころか
実は奥平氏系の書状には怪しいものが多い。
というかそもそも長篠の戦いにおける書状も結構に怪しいもんが多い。
5/19付け家康→石川伯耆・鳥井彦兵右衛門宛書状家康の花押が
天正7年以降のものなので、長篠合戦譚から作成された疑惑が出されたりと
愛知県史での収録の時に大問題となったが、偽との決定的証拠もなくグレー判定だった。
しかし播磨良紀氏は偽書状とする決め手がなく、県史での議論で押し切れなかったことに悔しさを滲ませている。
また天正3年7/20信長→岡三郎宛書状写(馬場討ち取り)なども偽書状とされてる。
長篠の戦いについては大きく見方を変える必要がある虚構性の高いものだといえる。
まあ有名な戦に関する書状は価値が高いし、先祖がそれに参加してるとなると家の名誉だから
捏造書状は作られやすい。
543人間七七四年:2014/12/26(金) 18:30:31.85 ID:+GKcDIvT
偽書状の話か。
そういや高天神城落城を喜ぶ3/25信長→家康書状も偽書状らしいね。
これ高天神城皆殺しして勝頼の威信を失墜させたことを証明する書状で、
一人も洩らさず討ち果たさるの由って書いてる。
でも、宛名は三河守殿などと不審極まるもんだし、
なにより天正4年以降の信長は天下布武の朱印か黒印による印判を使っていて花押を書いたりしてない。
さらにこの信長花押は非常に珍しい形で類例がないそうだ。
三好と畠山が激突した久米田の戦いが
三好実休が根来寺側の砲撃で戦死したりしてるが
畠山1万、三好方17000の兵力で、
近国無双の大合戦って言ってるくらいだからな。
南北朝や源平での数十万動員なんてのは軍記話であって一次史料では存在しない誇張表現にすぎない
日本と大陸では比較対象にならない。
中国のような兵糧を集積した施設や、
富が集中した長期籠城に対応した城郭都市からの補給が可能な地域では長く兵力を維持し養うことが可能。
しかし、日本には城郭都市は無いし、兵糧集積地も無いし、
通商キャラバン商隊との合流や、
遊牧民族のような燃やし奪い移動する廃都遺棄前提の略奪移動型のような馬による大移動型軍隊ではない。
まあ信長のやっていたことは遊牧民族のような行為であったのは事実だが、
それを逃げることが出来ない土地に依存していた農民相手にやったら喰えなくなった領民に支えられる領主も含めて、
一揆謀反だらけになるだけで、
まともな統治は行えないから撫で切り根絶政策に陥り、次から次へと敵が増えるだけ。
結局、信長は石山本願寺を支えていた、
高野山、粉河、根来、雑賀などの4大宗教団体で組織構成された
フロイス曰く紀伊共和国に敗北し謀反死した。
しかし兵站概念を持つ秀吉は規格外の大兵力を投入した位攻め戦略で彼らを速攻で降伏に追い込み、
彼らに船を出させて四国すら瞬く間に制圧してみせた。
家康は彼ら同盟者を見捨てて震えあがりビビっていた。
544人間七七四年:2014/12/26(金) 18:33:13.30 ID:+GKcDIvT
一箇所に集中しないのではなく補給兵站能力が皆無なのでできないのが正解だ。
だから美濃の隣国である信濃への出兵ですら おっかなビックりで兵数調整した挙句に
運よく浅間山噴火で武田が自滅したにも関わらず
諏訪においては兵糧不足で寒さに耐え切れず凍死続出し急いで美濃へ逃げ帰る織田www
現地調達なのだから、その駐留地から離れたら途端に兵糧不足になるのが織田。
それを解消するには、国主なしになった越前で補給を兼ねてやった
越前府内は見渡す限り生きている者は見当たらないと信長が喜んだ超大虐殺による世紀の大略奪大会。
謙信には兵糧がなくて勝頼の追撃ができない理由を兵糧が尽きたからと言っていたが、
その解決策が釜茹、磔などで越前を無人にしての食料財産没収。
信玄西上でたった1万しか動員出来なかった織田w
長篠の戦いで家康5000と合わせて3万しか動員出来なかった織田。
越前一向一揆討伐で北陸の織田方国人を合流させて限界3万動員するも維持できる兵糧が無いので越前で大量虐殺して物資略奪大会w
隣国信濃出兵で食料が足りるように人数調整した織田。
しかも武田滅亡を確認したら速攻で軍を解いて急いで帰ろうとするも諏訪で大量に栄養失調で兵が寒気に耐える熱量が体に無く死にまくる織田www
秀吉のような規格外の圧倒的な戦力を一戦線に集中する位攻め戦略が最後まで使えなかった信長www
よって信長が大敗した紀伊一揆共和国を、位攻めでわずか一ヶ月かからず秀吉は制圧しそのまま四国まで一気に制圧。
秀吉自身が紀伊にも四国にも行く必要がまるでない楽勝ぶりだったから、
手持ち無沙汰な秀吉自身は越中へ向かう余裕っぷり。
信長があんだけ苦労したのは兵站概念欠如し位攻めが使えなかったからに他ならない。
だから信長は天下など統一出来ない。 そもそも国力を正当に活かせられない張り子の虎が織田。
545人間七七四年:2014/12/26(金) 18:40:03.72 ID:+GKcDIvT
信長公記70種類以上をすべて閲覧研究した唯一の人で信長研究の第一人者の金子氏の信長評

「戦国大名は天下統一の為に競い合っていた」という戦国大名観は近年では否定されていますが、
信長だけは例外と見做されてきました。しかし著者が発見した書簡を初めとする史料から見えてくる
客観的な信長像は、他の戦国大名とさほど違ったものではありません。
有名な「天下布武」の印章も、信長が「天下を取る」ことを宣言したものではありません。
天下とは日本「全国」ではなく、京都を中心とした畿内のことに過ぎません。
「天下布武」とは、畿内の秩序維持を、足利将軍をサポートして自分が執り行うという意味なのです。
秀吉が行ったのはまさに「全国統一」でしたが、信長にはそういう意志はなかったのではないでしょうか。
しかし『天下布武』の構想も信長の言うなれば「脳内」のものに過ぎず、
「大義名分」として説得力のあるものではありません。信長が足利義昭になりかわって
事実上の将軍の職務を担っているからといって、
他大名には信長の「言い分」に従わなければならないいわれはないのです。
結局、信長は武力で「言い分」を認めさせるしかなくなります。
自称「天下をおおせつかっている」信長は、かくして諸大名との衝突を繰り返します。
例えば上杉氏とは当初、良好な関係にありましたが、
信長の版図が拡大し直接境を接するようになると両者は戦争になります。
そのような行動が後世の目で見ると、着々と諸勢力を征服して
「天下統一」へと邁進していたかのように見えたのです。
そもそも信長は、組織的な「政権」は作りませんでした。
征服した領土の経営も家臣に丸投げで、支配の方式に革新的な面はありません。
その点でも秀吉に比べ信長の「権力」は中途半端な中世的な段階に止まっていたと見做した方がよいのです。
546人間七七四年:2014/12/26(金) 18:41:54.29 ID:+GKcDIvT
池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは各自に任されていた。
これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。従って武篇道と戦果が問題となる。
(中略)
信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を戦っていかなければならない。
拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
なされていないからこそ生じた問題であろう。
それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
この問題の解決は秀吉の課題となる。
547人間七七四年:2014/12/26(金) 18:46:11.60 ID:+GKcDIvT
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは
軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。

池上裕子
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹
信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。

排便などの衛生管理は非常に重大な問題で北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。しかし武田は6万動員してる。
武田や上杉や北条を見習った秀吉はそういったシステムを作る天才だから速攻で全国制覇したし、
海外遠征まで実現できた。 また武田の制度を導入した家康が頭角を現しているのも納得できる。
織田のような略奪による現地調達方式からそういった
信玄や秀吉のように内政・軍政改革をして始めて3万の壁を越えて大軍を一戦場に集中できるようになるのか。
548人間七七四年:2014/12/26(金) 23:56:30.72 ID:4efWSBgP
>>賎ヶ岳の戦いでの一次史料では柴田軍3万と秀吉軍が4万+秀吉馬廻衆
天正11年5/15秀吉→小早川書状の曲解乙
「先手の備をは二万計濃衆岐阜口へ相向、」「滝川をも二万計にて取巻候事」と滝川包囲の伊勢方面軍と
秀吉方の美濃口に向かった先手勢だけの兵力で、当然先手と滝川包囲軍が全てなわけがないのでこれは単に秀吉方の軍のごく一部なだけ。
西は宇喜多・南条領の備中・備前・美作・伯耆、東は美濃、尾張、北は若狭・近江まで広範な版図持つ秀吉が4万+馬周りとかそんな少ないわけねーだろクズ

>>一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。
天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw

そもそも大軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる

そもそも源平合戦とか戦国期より遥かに後進的軍隊の頃でも10万20万と大軍動員してるし
中国とかヨーロッパの戦史とかだとそれより遥かに昔の時代に規格外の大軍が動員されて動かされてるのに
戦国期の日本の軍隊の動員数が2〜3万が限界とかアホにも程があるだろ。
戦史まともに勉強しろや。確か元寇のときでももっともっと動員してただろ

信長も多聞院日記天正5年2/13条で信忠信雄信孝を始め分国中の兵力かき集めて15万余騎もの
大軍を河内に集めてるのがわかる
織田は西は播磨方面北は丹波越前加賀
東は美濃飛騨と広範な版図を有するため、一箇所に兵を集中できないから、でFA
ゲームじゃあるまいし
複数に戦線があるのに一箇所に全ての兵集中とかできるわけねーしな
大体織田の国力でいえば15万くらい余裕だろうし
549人間七七四年:2014/12/26(金) 23:56:52.05 ID:4efWSBgP
信長も多聞院日記天正5年2/13条で信忠信雄信孝を始め分国中の兵力かき集めて15万余騎もの
大軍を河内に集めてるのがわかる
織田は西は播磨方面北は丹波越前加賀
東は美濃飛騨と広範な版図を有するため、一箇所に兵を集中できないから、でFA
ゲームじゃあるまいし
複数に戦線があるのに一箇所に全ての兵集中とかできるわけねーしな
大体織田の国力でいえば15万くらい余裕だろうし

富士川の戦い(源氏方兵力4万)
倶利伽羅峠の戦い(平家兵力4万)
篠原の戦い(平氏方兵力40000)
一の谷の戦い(源氏方兵力66000)
元寇(日本方兵力10万)
筑後川の戦い(両軍計100000)
四條畷の戦い(足利軍60000〜80000)
湊川の戦い(足利軍50000)
550人間七七四年:2014/12/26(金) 23:57:12.21 ID:OmpI6XGS
秀吉厨の嘘続き


朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を
>帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
>看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
>戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
>国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
>戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
>また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。

こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw


秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」

天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ
ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw
551人間七七四年:2014/12/26(金) 23:57:37.47 ID:4efWSBgP
基本的に秀吉は戦えば必ず家臣を殺されまくったり、1000貫そこそこの雑魚領主に苦戦するゴミのような指揮采配能力なので
毎回圧倒的大軍で敵の反抗を諦めさせてるだけ。位攻めというのは敵の反抗を諦めさせる規格外の大軍と、
敵の諸城の周辺に完全な攻囲のための砦や根城などを築く技術と、長期戦に耐えうる物資さえあれば誰でも可能で
最も指揮能力や采配能力が問われない楽な戦いだからね。でもそんな超絶ヌルゲーですら秀吉は失敗して家臣を多く殺されたりしてる。

例えば小田原合戦の時も享禄以来年代記によれば29万、那須記や榊原書状によれば50万といわれる圧倒的な大軍だった。

しかしわずか34500しかいない北条とまともに戦いだすと半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
秀吉軍は兵站ギリギリのところまで追い込まれてたのは事実
これはフロイスの日本史に書いてある。
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
552人間七七四年:2014/12/26(金) 23:58:17.40 ID:4efWSBgP
織田は西は播磨方面北は丹波越前加賀
東は美濃飛騨と広範な版図を有するため、一箇所に兵を集中できないから、でFA
ゲームじゃあるまいし
複数に戦線があるのに一箇所に全ての兵集中とかできるわけねーしな
大体織田の国力でいえば15万くらい余裕だろうし

云々は不確かな情報の時ではない。不確かな情報の時は「実否は定かナラズ」とか書かれてる。


例えば30000人が兵を集結する事ができる限界面積を仮に5000平方キロメートルとすると、
さらに30000人が集結するには、その横の5000平方キロメートルを配分すれば済むだけの話だろ。
補給や排便や物資補給どうこうの話なら、後方からの小荷駄隊を背後から増やせばいいだけ。
わかりやすくいうと、織田の分国の総兵力が仮に15万だとして、北方向に5万、東に5万、西に5万と配分するよりも、
一箇所に15万集結させる方が、兵糧物資補給の観点からみても、補給地点が一箇所で集中し、分散する事がなくなるため、よほど効率がいいし
ローコストで済むんだよ。
それができないのは単に織田分国の敵が四方に分散してて、一箇所に兵力を集中させたら、別の敵への備えがなくなるというだけ。
分散して15万程度の兵力が展開できるのにそれより遥かに難易度が低く補給路の負担の低い一箇所集中補給ができないわけねーだろw
つか、3万が限界とか、三鬼とか一部の妄想学者くらいしか唱えてねーよ。
553人間七七四年:2014/12/26(金) 23:58:52.32 ID:4efWSBgP
>>秀吉のような規格外の圧倒的な戦力を一戦線に集中する位攻め戦略が最後まで使えなかった信長www
秀吉の頃より一度に戦う敵の数が多く、自国の国力と敵対勢力のバランスから動員できなかっただけ。

>>信長が大敗した紀伊一揆共和国
信長の頃は顕如が紀伊一揆の味方だったくらい強大だったが、秀吉の頃になると相当弱体化してて、顕如も全く干渉なしどころか
秀吉方で動いている。確か鈴木重秀?ら主だった部将も既に味方だったはず。信長が力を大幅に殺いでいたおかげで
雑賀は雑魚になっていてくれたおかげで、秀吉は自国の兵力を集中させて雑賀攻めに取り組み事ができただけ。
当時の秀吉は1000万石、雑賀は5万石程度だし、こんなアホな戦を失敗する部将は秀吉くらいしかいない。
運よく秀吉は此の戦を部下に任せたからうまくいったが。
>>位攻めでわずか一ヶ月かからず秀吉は制圧
信雄や家康が怖くてビビリまくって、和睦した隙に、少しでも敵領土を削って味方を強大にするために雑魚イジメしてただけじゃん。
孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
当時の秀吉の領土は畿内一円に、毛利・上杉・宇喜多・木曽・信雄。
高野山なんて10万石いかないかわからん雑魚なんていじめて何が凄いんだよタコ
秀吉軍畿内総結集すれば15万くらいいくだろ。 5000もいくか怪しい高野山なんて、馬鹿でも叩き潰せるわwこんな指揮采配能力と全く関係ない雑魚イジメで
将の資質や戦のうまさなんてとわれねーよクズ。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
554人間七七四年:2014/12/26(金) 23:59:07.05 ID:n+OnQDfy
秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」

天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ
ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw
そもそも大軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる
源平合戦とか戦国期より遥かに後進的軍隊の頃でも10万20万と大軍動員してるし
中国とかヨーロッパの戦史とかだとそれより遥かに昔の時代に規格外の大軍が動員されて動かされてるのに
戦国期の日本の軍隊の動員数が2〜3万が限界とかアホにも程があるだろ。
戦史まともに勉強しろや。確か元寇のときでももっともっと動員してただろ
信長も多聞院日記天正5年2/13条で信忠信雄信孝を始め分国中の兵力かき集めて15万余騎もの
大軍を河内に集めてるのがわかる
織田は西は播磨方面北は丹波越前加賀
東は美濃飛騨と広範な版図を有するため、一箇所に兵を集中できないから、でFA
ゲームじゃあるまいし
複数に戦線があるのに一箇所に全ての兵集中とかできるわけねーしな
大体織田の国力でいえば15万くらい余裕だろうし
富士川の戦い(源氏方兵力4万)
倶利伽羅峠の戦い(平家兵力4万)
篠原の戦い(平氏方兵力40000)
一の谷の戦い(源氏方兵力66000)
元寇(日本方兵力10万)
筑後川の戦い(両軍計100000)
四條畷の戦い(足利軍60000〜80000)
湊川の戦い(足利軍50000)
555人間七七四年:2014/12/26(金) 23:59:27.46 ID:4efWSBgP
秀吉厨の妄想

>>織田は位攻めが使えなかった

一箇所に集中させるには、敵勢力の数が少なくないと不可能
数箇所に敵がいるのに、複数の敵を放置して一箇所に集中とか自殺行為。
実際には東京ドーム(面積46755平方m、うちグラウンド13000平方m)の観客席部分ですら50000人も収容可能。
50000人程度の軍勢なら33000平方mあれば余裕だから、30000程度の兵力が一箇所の限界兵力のわけがない。
例えば50000人が兵を集結する事ができる限界面積を仮に33000平方メートルとすると、
さらに50000人が集結するには、その横の33000平方メートルを配分すれば済むだけの話だろ。
補給や排便や物資補給どうこうの話なら、後方からの小荷駄隊を背後から増やせばいいだけ。
わかりやすくいうと、織田の分国の総兵力が仮に15万だとして、北方向に5万、東に5万、西に5万と配分するよりも、
一箇所に15万集結させる方が、兵糧物資補給の観点からみても、補給地点が一箇所で集中し、分散する事がなくなるため、よほど効率がいいし
ローコストで済むんだよ。
それができないのは単に織田分国の敵が四方に分散してて、一箇所に兵力を集中させたら、別の敵への備えがなくなるというだけ。
分散して15万程度の兵力が展開できるのにそれより遥かに難易度が低く補給路の負担の低い一箇所集中補給ができないわけねーだろw
つか、3万が限界とか、三鬼とか一部の妄想学者くらいしか唱えてねーよ。
556人間七七四年:2014/12/27(土) 02:22:09.27 ID:UvBDQXY6
三鬼氏は秀吉文書目録を完成発表した秀吉研究での第一人者なのも知らんとは…
557人間七七四年:2014/12/27(土) 08:07:08.90 ID:TYpjdsth
三鬼が秀吉の文書を読んでたら>>515みたいなバカな発想は出てこんわなw
558人間七七四年:2014/12/27(土) 08:35:24.04 ID:FyORG85F
三鬼の大昔の妄想論文に何の意味があるんだよ
559人間七七四年:2014/12/27(土) 08:37:19.42 ID:FyORG85F
そもそも大軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる

そもそも源平合戦とか戦国期より遥かに後進的軍隊の頃でも10万20万と大軍動員してるし
中国とかヨーロッパの戦史とかだとそれより遥かに昔の時代に規格外の大軍が動員されて動かされてるのに
戦国期の日本の軍隊の動員数が2〜3万が限界とかアホにも程があるだろ。
戦史まともに勉強しろや。確か元寇のときでももっともっと動員してただろ

信長も多聞院日記天正5年2/13条で信忠信雄信孝を始め分国中の兵力かき集めて15万余騎もの
大軍を河内に集めてるのがわかる
織田は西は播磨方面北は丹波越前加賀
東は美濃飛騨と広範な版図を有するため、一箇所に兵を集中できないから、でFA
ゲームじゃあるまいし
複数に戦線があるのに一箇所に全ての兵集中とかできるわけねーしな
大体織田の国力でいえば15万くらい余裕だろ

富士川の戦い(源氏方兵力4万)
倶利伽羅峠の戦い(平家兵力4万)
篠原の戦い(平氏方兵力40000)
一の谷の戦い(源氏方兵力66000)
元寇(日本方兵力10万)
筑後川の戦い(両軍計100000)
四條畷の戦い(足利軍60000〜80000)
湊川の戦い(足利軍50000)
560人間七七四年:2014/12/27(土) 10:04:20.55 ID:f1Qm/OBC
奥平氏の編纂だから話を余計に盛ってて信用性が著しく低下してんだよアホ。
奥平氏の書状を集めた中津市立小幡記念図書館にある叢林に収録されてる文書なんて
愛知県史でことごとく排除されてるくらいだぞ。
唯一、収録された天正3年5/15奥平貞能→奥平信昌宛書状写ですら
愛知県史は検討の余地あり文書として遠まわしに参考程度に収録した始末。
その内容も戦国時代に思えない違和感バリバリの単語使った文章で
信長「卿」なんて呼んでるし、信長が岡崎着陣したのは14日なのに15日と間違ってるし
盟約や婚姻など神仏に誓う文面という例外でない限り無年号が当たり前なのに
わざわざ天正と年号を書いていたり、
さらに徳川が「師2万余騎」の騎馬を動員してるとかあり得ないし、
つか師って帥のことを指してるんだろうけど、そんな文字を当時は使ってない。
しかも磔エピを事実のように見せかける目的で作られたとしか思えない
鳥居強右衛門の存在を唯一証明する書状の写なんて…
秀忠が死ぬ時に家康長女を娶っている松平忠明が井伊直孝と共に
家光の後見執事職として大政参与(大老級)になって奥平氏の功績をデッチあげてんだよ。
561人間七七四年:2014/12/27(土) 10:07:04.32 ID:f1Qm/OBC
>>541
愛知県史もそこの云々をあくまで噂と訳しているんだよなー。
562人間七七四年:2014/12/27(土) 10:21:45.39 ID:f1Qm/OBC
徳川如きが2万騎も動員されてるとかあからさまなウソ宣伝じゃんあれw
馬だけで2万匹も揃えたら長篠で対陣するために柵を作ったのに兵が食うもんなくなるわw
運動量が高くなる戦闘用の馬は高タンパクの穀物を飼料とするため
人間の食料と競合するデメリットが存在してるからな。
ただそこらの草を食わせるだけの放牧とは違うんだぞw
武田征伐の時だって北条が織田に馬の飼料を贈呈しにやってきてるところを見ても
そこら辺の草を馬が喰っていないことを証明してる。
563人間七七四年:2014/12/27(土) 10:29:07.30 ID:f1Qm/OBC
6万動員できた信玄
3万しか動員できなかった信長

兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代

賎ヶ岳の戦いでの一次史料では
柴田軍3万と秀吉軍が4万+秀吉馬廻衆

秀吉は武田軍の兵制を学んだのか動員限界の壁をぶち破りはじめている。
そして小牧長久手の戦いでは信玄が自由に指揮していた根拠とされる陣立書を秀吉も作るようになる。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。

排便などの衛生管理は非常に重大な問題で北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。
564人間七七四年:2014/12/27(土) 13:32:57.50 ID:UvBDQXY6
アンチ秀吉の織田厨のキチガイさは世界一〜。
565人間七七四年:2014/12/27(土) 14:50:30.37 ID:TYpjdsth
>>560>>562
つまりお前の願望で偽書状でしたってことか
566人間七七四年:2014/12/27(土) 14:53:34.50 ID:TYpjdsth
信長は多聞院日記天正5年2/13条で信忠信雄信孝を始め分国中の兵力かき集めて15万余騎もの
大軍を河内に集めてるのがわかる
兼見卿記においても10万もの兵力を動員したと書かれてるし、相当規模の大軍を集結させられているのは間違いない
567人間七七四年:2014/12/27(土) 14:55:09.29 ID:kRuOWOFl
多門院日記において嘘だと判明してるときはウソナリとしっかり書かれてるからな
云々なんてどこの条にも書いてる言葉だし
568人間七七四年:2014/12/28(日) 14:26:29.89 ID:eWm0dRZV
愛知県史が確かに云々を噂と訳しているのを確認しますた。
569人間七七四年:2014/12/28(日) 15:19:06.27 ID:EHfTKD+h
云々が噂なら全条噂になっちまうよ
570人間七七四年:2014/12/28(日) 20:57:49.02 ID:qxHW/Fh2
全条が噂とか読んだことないのが露呈w
571人間七七四年:2014/12/28(日) 22:17:45.20 ID:gO/i+FuP
多門院日記2/13条を見ると信長が分国の人数15万余騎を今日河内へ来させて、一揆退治の用云々と書かれてる
信長が一揆退治をさせてたのは続く15日条でも明らかに事実だし、その条に書かれてる事も事実だろ
572人間七七四年:2014/12/29(月) 08:01:31.71 ID:4j8Ug3OV
>>571
平然とウソを書くなよキチガイ織田チョン君。
13日に織田の大軍が河内国へ一揆退治でやってきた噂が書かれたが
その風聞とは違い、
15日の条で実は信長手勢だけでやってきていて、しかも和泉国へ入ったのがわかったと書いてるだけだろ。
573人間七七四年:2014/12/29(月) 08:17:08.19 ID:4j8Ug3OV
そもそも馬を大量に養っていたり、賦課した軍役における騎馬についての命令
といった史料による裏づけ証拠が織田軍には一切ない。
一方の武田軍で騎馬隊があったと思われる証拠がいくつかある。
一騎合衆や軍役衆と呼ばれる下級武士、家臣達が軍役として負担した
騎乗の家来や傭兵など多様な身分の人々がおり
また武田信玄旗本陣立図に騎馬のみで編成された馬之衆などの記載があり、
甲陽軍鑑にも馬上戦闘に関する記載が散見されることから武田軍に騎馬隊が存在することがわかる。
また長篠戦で馬防柵を作られた点からも騎馬隊への防戦をしようとしていたのがわかる。
織田軍には多くの軍馬を養える場所すらまったく記述がない。
まずは最低でも織田軍が軍馬を養っていたとする証拠をあげよ。
574人間七七四年:2014/12/29(月) 08:41:21.76 ID:3Zn3uKyF
>>572
お前は相当馬鹿だな
2/13条で書かれてるのは信長が分国の人数15万余騎を今日河内へ来させて、一揆退治の用と書かれてて
一揆退治のために15万かき集めているのと
2/15条で、信長の衆泉州に入ったと書かれてるのは全く矛盾しない

お前の馬鹿な解釈&amp;#9352; 「信長の衆」を信長が分国からかき集めた15万ではなくなぜか信長手勢だけと勘違いしてる
お前の馬鹿な解釈2 河内に13日に来た軍勢が和泉の国へ15日へ入り終わったというのをなぜか矛盾だとわめき散らし、河内→和泉と軍勢が移動したのではなく、河内に軍勢が来たという条を
          捏造だという馬鹿な解釈をしている
575人間七七四年:2014/12/29(月) 10:16:26.06 ID:X2iXwrb8
ばかもなにも「噂」を事実のように書くキチガイで、
他人のレスを盗用改竄し武田厨のフリを装うアンチ秀吉のコピペ爆撃織田チョンのウソがまたバレただけwww
576人間七七四年:2014/12/29(月) 10:50:02.23 ID:hiS5llr5
云々が噂という根拠がない
また、兼見卿記にも信長が10万集めたという記事が同様に出ているので真実だとわかる
577人間七七四年:2014/12/29(月) 18:15:21.97 ID:gl0eWSvt
云々が噂って誰の見解?
菅沼大先生?
578人間七七四年:2014/12/30(火) 01:36:07.81 ID:2xL3L/aM
菅沼超先生だろうな
579人間七七四年:2014/12/30(火) 09:33:46.42 ID:xEFENgwh
愛知県史で云々を噂と訳している。
相変わらず織田厨は事実を正視できないクズだな。
580人間七七四年:2014/12/30(火) 15:05:28.89 ID:TWVcoIvd
どうせ菅沼君の曲解でしょ?
意味が変わらないからって一字省いたモノを転記なんて言っちゃうぐらいだからね
581人間七七四年:2015/01/02(金) 09:47:52.50 ID:aKh0+hoF
>>573
まったくない
そもそも織田は兵種ごとに隊を編成してすらいない。
そういう訓練を馬がしてないで300騎の馬を動員するだけでも
馬が興奮して暴れだし軍隊が崩壊する。
582人間七七四年:2015/01/03(土) 09:50:41.63 ID:ixRYGPY6
1騎につき最低5人以上は兵を引き連れてくるから、
15万騎となるとたかが農民一揆相手に75万以上の大軍か。
さすが信長の手勢はすげーな。
曹操軍100万と号す!と同じか。
それでまったく戦果がないってどういうこと?
583人間七七四年:2015/01/04(日) 12:27:30.59 ID:da+YjIRs
信長の手勢だけでなく、
宿老や重臣や譜代や与力や外様を合わせたら500万の兵力はあるよ。間違いなくね。
普通は主君直率の側近層が一番兵力が少ないからね。
584人間七七四年:2015/01/04(日) 13:02:14.64 ID:DvBcYbXO
まぁ最後に謀反で殺されるところが信長らしいというかw
585人間七七四年:2015/01/04(日) 17:46:44.82 ID:w5kekiZ0
信長が持って生まれた運がいいのは間違いないが、実力の方が大きいと思う
586人間七七四年:2015/01/04(日) 17:54:07.44 ID:w2BKY6qo
まぁ運が良すぎて実力が過小評価されてる部分はあるな
桶狭間も大雨だの奇襲だの実態とかけ離れた通説がまかり通ったせいで
587人間七七四年:2015/01/04(日) 19:07:29.98 ID:38KeBzt4
今川が本格的に攻めてくる前に尾張をある程度統一するタイムアタックが
なにげにキツイからなあ。
588人間七七四年:2015/01/04(日) 19:53:46.41 ID:bSzjCRor
今川義元を打ち取ったら家康が独立、信玄が駿河に攻め込んで東の心配が無くなる
信長を苦戦させた斉藤義龍が早死に、ガキの龍興が国主となり美濃大混乱
信玄、謙信が絶妙なタイミングで死亡
御館の乱で北条と武田が手切れとなった上北条が勝手に臣従してきて信州切り取り放題

最近の研究だと朝倉氏も一族に内紛を抱えてて
それが原因で信長包囲網の際に十分に兵を出せず信長を打ち取り損ねたって話もある。

棚ぼたとはちょっと違うが恐ろしくツイてたのは間違いないな。
589人間七七四年:2015/01/04(日) 20:54:43.68 ID:mhXgJij9
ツイててもそれをきっちり掴んで成功するのは案外難しいからなあ
590人間七七四年:2015/01/04(日) 22:02:00.63 ID:0zCz3xyG
>>589
そうなんだよね。
その運を掴めるかどうかが実力なんだよ。
591人間七七四年:2015/01/05(月) 00:49:39.83 ID:SEqxa/Tn
今川や斎藤はまあわかるが、信玄や謙信を運がいいで片付けるのはちょっと違うだろ
これは信玄謙信どちらにも言えるが双方とも信長を甘く見積もって好き放題できる状況を作ってしまったことが原因
仮に1570年の段階で反織田連合に謙信や信玄がいたら相当信長は堪えたはず。
信玄謙信にとってのミス、ひいては信長の外交戦略の成果だろ。
592人間七七四年:2015/01/05(月) 01:12:44.34 ID:wX0I1EJW
謙信は室町将軍崇拝してた割に出てくるのが遅すぎるわな
593人間七七四年:2015/01/05(月) 04:05:47.83 ID:u95lzLTa
織田厨の特徴
まったく具体的根拠を示さず
信長を盲目マンセーするため
読む価値が一切無い
理解不能の文章を書く。
594人間七七四年:2015/01/05(月) 14:40:03.50 ID:sn8W/LC4
1570年の時点じゃ信玄の方こそ信長に頼らなきゃ詰んでただろ。
北条と片ついたから畿内で手いっぱいの信長の間隙ついて徳川領に侵食しただけやし。
595人間七七四年:2015/01/05(月) 16:13:40.87 ID:4ayRKKhJ
結局信玄は戦略性がダメダメだっただけやね
謙信はよーわからん。気まぐれか?
596人間七七四年:2015/01/05(月) 16:46:37.39 ID:sn8W/LC4
謙信も謙信で越中の一向一揆やらに手こずってたから信長と戦う以前の話だった。
だいたい謙信の一番の敵は北条だしね。
597人間七七四年:2015/01/05(月) 19:20:11.95 ID:qj4NIBlu
まぁ信玄も今川義元みたいに上洛目指してた感じはないよなぁ
なんか最後に棚ぼた来て織田と手切れした感じで
行き当たりばったりの外交の犠牲者が勝頼と
598人間七七四年:2015/01/05(月) 19:25:10.64 ID:sn8W/LC4
いや義元も上洛なんて狙ってないよ
味方側の大高城が織田の砦に囲まれたから後詰めにでて蹴散らそうとしただけ。
そこで運悪く討ち取られてしまったと。
状況的には長篠のときの信長の立場に近い。
599人間七七四年:2015/01/05(月) 22:39:40.95 ID:GZ8DcvLP
ここはゴミ織田チョンの願望を書く落書き帳じゃないんだぞ。
600人間七七四年:2015/01/06(火) 00:05:10.33 ID:1exsvFq0
菅沼遼太が言ってもなあw
601人間七七四年:2015/01/06(火) 01:13:27.33 ID:emFmKNLB
ゴミ詐欺師の明智光秀がいなければ天下を取れた
口先がうまい詐欺師光秀
ろくな功績もないくせにいつの間にか口先で信長の信頼を得て信長を裏切ったゴミ光秀
602人間七七四年:2015/01/06(火) 01:16:16.70 ID:emFmKNLB
本能寺の変もゴミ光秀の欲望から出たもの
しかしあくどい詐欺師の子孫が今度は黒幕がいると騒ぎ立て始めた
でも、実際にはそんなのはいねえし、詐欺師光秀がゴミだという事を知らない現代人
603人間七七四年:2015/01/06(火) 01:18:01.89 ID:emFmKNLB
ゴミチョン詐欺光秀は最近は信長より有能な武将だったと寝言を言い始めた
全くゴミはどこまで行っても腹黒いゴミだ
604人間七七四年:2015/01/06(火) 03:48:17.92 ID:riRBhryq
>>597
とは言っても代替わりした時点で織田は和睦しようとしたわけだし勝頼もそれを蹴った訳だからな
でも結果的には織田にとっちゃ仮に和睦が成立してた方が武田の勢力が巻き返し、損だったかも
605人間七七四年:2015/01/06(火) 06:03:50.90 ID:V8HkHDXK
浅間山噴火の火事場泥棒のおかげじゃん。
しかも信玄三年の死を隠していた関係から
天正10年が信玄7回忌で武装解除していた隙だし。
美濃稲葉山城を攻略できたのも義龍7回忌で喪に服して
諸将が武装解除していた隙を突いたコソ泥行為だし。
606人間七七四年:2015/01/06(火) 06:21:09.96 ID:1exsvFq0
武田も斎藤も敵国がすぐ近くにあるのに
死んだ人間のために武装解除してお休みモードwww
607人間七七四年:2015/01/06(火) 08:01:26.41 ID:3W1aPGdO
武装解除するほうが悪いやろ
608人間七七四年:2015/01/06(火) 08:53:07.99 ID:p5/xDD8k
>>604
その場合武田はまた上杉との果てしなき抗争にw
さすがに織田と和睦して徳川攻撃はできないだろうし
609人間七七四年:2015/01/06(火) 08:53:58.04 ID:p5/xDD8k
喪に服して攻めこまれて大敗って春秋戦国時代の中国ではよくあるが
610人間七七四年:2015/01/06(火) 14:55:56.26 ID:VR7KqpUW
>>605
信長は孫子以上の名将やね
611人間七七四年:2015/01/06(火) 18:20:09.54 ID:V8HkHDXK
侍の筋目ってやつがあるからね。
いくら有利だからと言っても喪中に襲うのは劣悪動物がやるもの。
612人間七七四年:2015/01/06(火) 20:10:26.96 ID:+mCQ/av+
不意打ちや騙し討ち、裏切りや寝返りの類が卑怯で劣悪というなら
武田信玄なんて劣悪動物のテンプレみたいな存在じゃんw
613人間七七四年:2015/01/07(水) 08:30:52.21 ID:3um+t+Zg
今の常識に当てはめて言っている人たちは、何でこの板にいるんだろうかw
冠婚葬祭は節目(主たるものが緩い状態で集まる事が多い)だから、攻めやす
いし攻められやすいのに、それなりの防備をしないと。
614人間七七四年:2015/01/07(水) 12:51:40.24 ID:DeEzKiO7
常陸小田城の小田家では毎年大晦日に連歌会を催していることを聞いた武蔵岩槻城主の太田資正は
「連歌会の時は油断しているはず」と考えて大晦日の夜に小田城へ攻め込んで奪ったことがあった

戦国の世では大晦日でも安心できないようだ
615人間七七四年:2015/01/07(水) 20:39:30.64 ID:zTKyJI5Z
才覚や戦術がない無能だから
喪中に襲うという
侍の筋目を冒涜するしか手段が無かったほど追い詰められていた。
616人間七七四年:2015/01/07(水) 21:48:57.74 ID:lTV/EVWN
確かに敵を滅ぼした挙句自分の姪を嫁にするような奴は侍の筋目(笑)に反してるよなw
自分の父親を追放して息子も廃嫡したんだっけ?w
ゴミみたいな奴だよなそいつーw
617人間七七四年:2015/01/08(木) 08:26:24.06 ID:Tmf9LbN6
侍の節目とかw
そんなものがちゃんと確立されたのは江戸時代からだよw
当時の状況を考えないからそういう考えになる。

>>616
親父の追放は騙し討ちに近いよね。
でも、それから国を安定に持って行けたのだから優秀だったのは間違いない。
節目とか、常識とか、とは関係ないけどw
618人間七七四年:2015/01/08(木) 11:42:03.57 ID:Gh2mrs4o
江戸時代に侍の筋目なんて言葉はないわアホ
619人間七七四年:2015/01/09(金) 00:04:42.15 ID:UjR9VI9r
信玄が首謀者として親父と追放したとする一次史料は?
そんな話はまったく聞いたことがないが。
しかも勝頼ですらも甲斐衆の大反対にあって
祖父を甲斐に入国させずに高遠止めしてたんだが。

それと自分の姪を嫁にするってなんの話しだ?
禰津御寮人は信玄の姪じゃねーぞ。
これについても一次史料くれ。
620人間七七四年:2015/01/09(金) 08:25:13.05 ID:j/3S9oR/
>>618
物の本質が解らないなら黙っていなさいよw

>>619
誰と戦っているのか知らないが、通説を否定するのなら、それを否定できる
一次資料を出すのが先だよ。
621人間七七四年:2015/01/09(金) 09:05:10.78 ID:uIYwE46M
クソ低脳織田厨は根拠ゼロの悪口中傷のレスしかできない無能。
622人間七七四年:2015/01/09(金) 11:35:45.32 ID:vZifNT9M
たった1行でここまでブーメランを投げるのか菅沼はw
623人間七七四年:2015/01/11(日) 20:57:45.26 ID:yAFPHunV
伝馬すら織田は整備してないくらい後進的だったからどうしようもない。
624人間七七四年:2015/01/12(月) 08:13:17.09 ID:ay0PY0dC
武田は小田原まで伝馬制を接続させてたから情報の往来がむちゃくちゃ早かった。
625人間七七四年:2015/01/13(火) 14:17:19.40 ID:ynBvmZg3
武田軍などは略奪没収をしない軍隊なので、出張期間が予定をはるかに超えて進出してきた際には
現地調達として寺社に貸札を使い調達をする善後策が行われた。
いまと違い寺社は米蔵管理をしていて応急処置が可能だった。
特に一向一揆団体は特定大名へ税を納めていない民衆なので潤沢にあった。
しかし織田はそういった寺社の荘園を略奪し、その領民を釜茹で、磔、部屋に閉じ込めて火で焼き殺すなど
悲鳴が飛び交う中で現地調達の略奪をおこなっていた。
626人間七七四年:2015/01/13(火) 14:18:36.36 ID:igoPGk/L
武田が略奪するのは女だけ
627人間七七四年:2015/01/15(木) 08:20:54.05 ID:d6utfx7k
逆にそれだけやっても勢力が広がっている信長はやっぱり凄い!って事に
なるけど、それでいいのだろうか?
628人間七七四年:2015/01/16(金) 16:45:59.15 ID:RuEW3lcL
信長は運と実力両方兼ね備えています
629人間七七四年:2015/01/17(土) 19:14:05.22 ID:AJhxP0D+
>>627
多分、菅沼遼太は運も実力もないやつのテンプレ的発想である
「あいつは運だけwww」って考えていると思う
630人間七七四年:2015/01/18(日) 07:23:34.87 ID:Y5uXu0Tq
そんだけ運のパラメーターでなんもかんも決まってまうなら
運の低い奴はのきなみウンコってことでFAやん
631人間七七四年:2015/01/18(日) 23:57:17.19 ID:WbVFZLxQ
運も実力も仕事も無い織田厨を憐れむスレになっててワロタ
632人間七七四年:2015/01/23(金) 07:13:30.61 ID:SXX6EO7p
菅沼遼太定期
633人間七七四年:2015/01/24(土) 19:51:28.16 ID:Y9W/8X+J
織田信長生誕の地 勝幡城推定復元模型
http://mirai660.net/castle/shobatajyoh_model.html
634人間七七四年:2015/01/24(土) 21:15:07.57 ID:ZRFSJHFB
金子拓氏
領国支配のやり方については、
信長のそれに他大名と比較しての先進性はなく、
むしろ遅れていたと考える見方が、
戦国大名研究の立場からかたちづくられつつある。

いくさの結果として獲得した領域に対する支配のやり方は、
同時代の戦国大名とさして変わらなかった、
むしろ後進的であったという評価が、
これも戦国大名研究の立場から指摘されている。

こうした統治の未熟な面は、紛争が起きたときの解決方法にもあらわれている。
実務的な仕事を担当する吏僚層の活動は目立たず、
側近的立場である馬廻や重臣層がそのような職務を兼ねる状態がしばしば見うけられるのだ。
秀吉は全国統一を成し遂げ、太閤検地をおこなって石高による所領支配の統一的基準を打ち立てるいっぽうで、
既成の官位秩序などを巧みに利用して従属する諸大名の身分統制をおこなった。
大名たちは京都や大坂・伏見に屋敷を与えられ、そこへの居住が求められた。
信長のばあい、官位によって、彼の「天下」の外にあって有効的(もしくは従属的)
な関係を結んでいる諸大名までも統一的に秩序づけようという考え方はまったくもっていなかった。
馬廻などの側近集団の安土集住の強制は確認できるし、
安土城跡では重臣たちの邸宅跡だとする伝承ある遺構も発掘されてはいるが、
周辺諸大名までをもここに集住させようとした形跡はない。
たとえばそれは、小田原北条氏が鷹や馬などを献上するために
安土に使者を派遣するといった程度の関係にとどまっている。
ましてや俗に鉢植えと呼ばれるような大名の封地替えまでには当然のことながら、
彼の権力はおよんでない。
秀吉の構築した支配体制が徳川幕府に継承されてゆくことを考えれば、
信長と秀吉のあいだには大きな断絶がある。
秀吉の時代を近世の始まりとしていいのなら、
信長の時代はいまだ中世の色合いが濃厚に残っている。

その行き着くさきは誰しもが大筋で予想できることなのではないだろうか。
すなわち、そのまま天下静謐はなし崩しに破られ、
毛利氏や長宗我部氏を敵とした戦乱状態がなお収まらないという状況である。
そうなると、武家による平和が達成された近世が到来するのは、
もっと先の話になっただろう。あるいは、そうした時代が訪れることすらなかったかもしれない。
635人間七七四年:2015/01/25(日) 00:56:19.92 ID:LdxAWQHp
そりゃ信長存命時はまだ統一できてないからだと言っておく
636人間七七四年:2015/01/25(日) 06:56:15.83 ID:OVg0r5Tk
>>635
さすがにその言い分はどうかと。
信長は分国法の制定も特にはしてないんじゃない?
新しい統治システムを作って領土を遍く覆うって発想はなかったっぽい。
特に不都合がなければこれまでどおり、不都合があれば対処療法的に対応って感じ。
あくまで信長個人有りきでしか構築できてない。
そういう意味ではむしろ古代の英雄的といった方が近いと思う。
637人間七七四年:2015/01/25(日) 07:54:01.69 ID:MaSgTGcq
捏造歪曲してるキチガイ菅沼は無視。
638人間七七四年:2015/01/25(日) 11:46:37.01 ID:GmyjYvYB
>>635
まあ基本的にそれで片付くな
>側近的立場である馬廻や重臣層がそのような職務を兼ねる状態
これは秀吉政権も同様といっていいし
徳川政権だって否定できるものではない

>周辺諸大名までをもここに集住させようとした形跡はない
>鉢植えと呼ばれるような大名の封地替え
外様の大名に対しては統一前の秀吉も出来ていない

>>636
分国法の制定というが豊臣政権でさえ画一的な法なん晩年まで無かった
対処療法的に対応って感じなのは一緒で秀吉個人有りきでしかない
639人間七七四年:2015/01/25(日) 12:42:35.61 ID:q2pGLH5n
後々の後の江戸幕府中期頃を引き合いに難癖つけられちゃ信長もヤレヤレだな
640人間七七四年:2015/01/25(日) 20:24:01.90 ID:6l1Fqz9r
>>1
なんで二択なの?
信長の戦歴は、どちらのパターンもあるし、両方が合わさったものもあるだろう
641人間七七四年:2015/01/26(月) 01:46:23.65 ID:nRvzL6XT
信長の運の良さは半端ないよ。
信長は持ってるよ。
その運を自分のものとして活かした信長も凄いよ。
642人間七七四年:2015/01/26(月) 02:58:22.85 ID:nU4dgJxS
どんな才能に優れた賢臣や名将が部下にいても運は補えないからな
運に優れているというだけで超絶名将
643人間七七四年:2015/01/26(月) 08:20:31.10 ID:0R1wDBVS
これが根拠皆無で願望妄想だけを書く織田厨かw
644人間七七四年:2015/01/26(月) 09:59:15.58 ID:nU4dgJxS
事実じゃんw

6万の兵力を持ち、かつ敵対者が兵力ロクにいなかったのに
攻めるところを間違えて家まで滅ぼした無能坊主が甲斐にいたじゃんw

無能は実力もなければ運も生かせないし、運に恵まれてるだけで超絶名将じゃん
しかもその運をいかして敵を滅ぼしてる。文句のつけようがないわなwww
645人間七七四年:2015/01/26(月) 20:17:05.61 ID:0R1wDBVS
またまた事実を直視できない織田チョンw
646人間七七四年:2015/01/26(月) 21:57:27.65 ID:p1zwBNXx
織田
各地守備兵を除けば金欠で1万しか動員できない。尾張や美濃の国人も
かなり調略されているし、虎御前砦の敗戦で近江の豪族は離反し近江はほぼ失陥
伊勢湾の制海権も失う
おまけに義昭に京におびき出される。
徳川
動員できるのは4千程度、もうすぐ武田に降伏。
朝倉
2万5千を動員できる、前年虎御前砦にて上総土岐家にまで伝わる勝利を挙げ
近江蒲生家が降る砦は5月反攻を考えて落とさなかった。義昭と呼応して敦賀に駐屯。
浅井
小谷城に篭城中。朝倉さえ来れば虎御前砦など問題ではない。
六角
兵力2万南近江の主要街道を封鎖中、さらに各一揆を先導。
義昭
朝倉と連携して信長を京におびき寄せる。丹波内藤氏が5千の兵を援軍として送る。
三好三人衆・義継・松永
各自織田派と交戦。畠山や細川はおされ気味。
畿内の反織田派は完璧な連携が出来ている。
本願寺
長島一向一揆は美濃に砦を築き近隣を調略、いつでも攻勢に出られる。
北畠
1万5千を動員可能、紀伊・雑賀水軍も動かせる。
武田
兵力6万、野田に駐屯中、水軍は伊勢湾を制圧済

こんな状態で織田を滅ぼせない武田

こんな状態からすべてを滅ぼした織田

事実はちゃんと直視しないとね
647人間七七四年:2015/01/27(火) 06:08:55.00 ID:3YrX/Th8
>>646
菅沼遼太大先生によると織田は各地守備兵すらロクにいなくて岐阜で引きこもるしかない状態だそうだぞwww
つまり金欠で動員した乞食兵1万が当時の織田の全兵力
徳川の4千を含めても北畠にすら届かない兵力だ

つまり織田信長は1万しか動員できない状態で
朝倉2万5千+六角2万+足利5千+北畠1万5千+三好連合(約3万か?)+本願寺(約2万?岐阜の間近に砦を築き織田の動きは筒抜け)+浅井(大体5千?)の
計約12万に渡る反織田連合相手に戦争をしかけてこのうち本願寺以外の全てを下すという大戦果をあげているという事実w
648人間七七四年:2015/01/27(火) 07:14:35.26 ID:RXXYW/rH
信長は革命児とか呼ばれたとおり天才的な偉人
例えば武士道で弓は卑怯者の得物とか綺麗事はいわず、長篠の戦いに代表されるように
徹底した合理主義者で祟などの迷信も受け付けず後の憂いのないように殲滅戦を徹底し
極めつけは鉄甲船で他の凡庸な武将とは違い実録である←結論
649人間七七四年:2015/01/27(火) 13:02:01.06 ID:d0TzPbWu
自分の意に沿わないやつらを一緒くたにレッテル貼っての排除の論理で動く
盲目のキチガイ織田厨の狂信ぶりキモい。
650人間七七四年:2015/01/27(火) 15:07:29.55 ID:gIqiy5I5
>>649
ワンレスブーメランw
651人間七七四年:2015/01/27(火) 16:03:15.85 ID:3YrX/Th8
意に沿わないも何も俺は菅沼遼太大先生を支持してるんだがなぁw

乞食兵1万しか集まらなかったのに12万の反織田連合を駆逐した信長は凄い!
味方が12万もいて自身も6万率いていたのに余裕ぶっこいていた信玄はアホ!


っていう話じゃないの?www
652人間七七四年:2015/01/27(火) 21:52:34.65 ID:dEA19WBO
653人間七七四年:2015/01/28(水) 01:24:04.56 ID:uW6H+Yd6
信長は山間部勢力を屈服させることができず畿内統一に失敗した挙句に謀反死。
654人間七七四年:2015/01/28(水) 09:32:36.19 ID:Kq6eTk4P
>>646
この時武田信玄が野田にいたのは戦国史上最大の謎だな
状況からして三河には1月上旬、尾張には1月中旬に入っていても全くおかしくはなく
しかも信長家康は絶体絶命だったのに、一領主にすぎない野田城の菅沼を包囲するのに何ヶ月もかかっている。
それこそ野田の連中なんて武田軍6万の前には取るに足らぬ小兵で、一押しすれば1日で城を落とせるような兵力差だったのにも関わらずだ。

松平記や菅沼家譜ではここで信玄が鉄砲を受けて重傷を負ったから、なんて書かれているが
出来事や状況を追えばこの時点で武田信玄は既に死んでいたのではないか?
満身創痍で今にも死にそうな家康を殺さなかった時点で既に臭う
655人間七七四年:2015/01/29(木) 11:55:07.66 ID:/ibknw+H
池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは各自に任されていた。
これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。従って武篇道と戦果が問題となる。
(中略)
信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を戦っていかなければならない。
拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
なされていないからこそ生じた問題であろう。
それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
この問題の解決は秀吉の課題となる。

池上裕子氏 〜信長は人的破壊者〜
信長は多くの人を殺害した。
そして「鬱憤を散じた」というのである。
異常に感じるほど残忍なやりかたが多かった。
それでも敵対者は次々と現れ必死に戦った。
戦功を積み重ねても、謀反の心を持たなくても
信長の心一つでいつ失脚するか抹殺されるかわからない
不安定な状況に家臣たちは置かれていた。
一門と譜代重視のもと、譜代でない家臣には
より強い不安感があった。
独断専行的で、合議の仕組みもなく
弁明・弁護の場も与えられず
家臣に連帯がなく孤立的で、
信長への絶対服従で成り立っている体制が
家臣の将来への不安感を強め、謀反を生むのである。
領域支配には譜代と家長権を振るえる子供や弟の登用が中心になる。
自分のそばにいて手足のごとく動き、あるいは自分の意を体して
各地に赴く者たちも譜代であった。
信長の政権の基盤は一門・譜代にあった。
長住は信長の怒りを買って越中を追われ、二度と戻ることはなかった。
もう用済みだったのである。
一度でも失敗すれば、それを理由に存在を否定される。そのようにして国人層の多くが命脈を絶たれた。
656人間七七四年:2015/01/29(木) 11:57:49.85 ID:/ibknw+H
信長公記70種類以上をすべて閲覧研究した唯一の人で信長研究の第一人者の金子氏の信長評

「戦国大名は天下統一の為に競い合っていた」という戦国大名観は近年では否定されていますが、
信長だけは例外と見做されてきました。しかし著者が発見した書簡を初めとする史料から見えてくる
客観的な信長像は、他の戦国大名とさほど違ったものではありません。
有名な「天下布武」の印章も、信長が「天下を取る」ことを宣言したものではありません。
天下とは日本「全国」ではなく、京都を中心とした畿内のことに過ぎません。
「天下布武」とは、畿内の秩序維持を、足利将軍をサポートして自分が執り行うという意味なのです。
秀吉が行ったのはまさに「全国統一」でしたが、信長にはそういう意志はなかったのではないでしょうか。
しかし『天下布武』の構想も信長の言うなれば「脳内」のものに過ぎず、
「大義名分」として説得力のあるものではありません。信長が足利義昭になりかわって
事実上の将軍の職務を担っているからといって、
他大名には信長の「言い分」に従わなければならないいわれはないのです。
結局、信長は武力で「言い分」を認めさせるしかなくなります。
自称「天下をおおせつかっている」信長は、かくして諸大名との衝突を繰り返します。
例えば上杉氏とは当初、良好な関係にありましたが、
信長の版図が拡大し直接境を接するようになると両者は戦争になります。
そのような行動が後世の目で見ると、着々と諸勢力を征服して
「天下統一」へと邁進していたかのように見えたのです。
そもそも信長は、組織的な「政権」は作りませんでした。
征服した領土の経営も家臣に丸投げで、支配の方式に革新的な面はありません。
その点でも秀吉に比べ信長の「権力」は中途半端な中世的な段階に止まっていたと見做した方がよいのです。
657人間七七四年:2015/01/29(木) 11:58:34.24 ID:/ibknw+H
軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。

池上裕子
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹
信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。

排便などの衛生管理は非常に重大な問題で北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。しかし武田は6万動員してる。
武田や上杉や北条を見習った秀吉はそういったシステムを作る天才だから速攻で全国制覇したし、
海外遠征まで実現できた。 また武田の制度を導入した家康が頭角を現しているのも納得できる。
織田のような略奪による現地調達方式からそういった
信玄や秀吉のように内政・軍政改革をして始めて3万の壁を越えて大軍を一戦場に集中できるようになるのか。
658人間七七四年:2015/01/29(木) 17:24:00.07 ID:TU/+VbW8
徳川家康が降伏をしない時点で武田信玄はとっくにおっ死んでいたんだろう。
織田徳川はほとんど壊滅状態で、反織田連合との兵力比など絶望でしかない。(この時点で約12倍)
普通に考えたら降伏するのが当然。武田からも降伏の使者なり来ていただろう。
武田も野田なんてどうでもいい城を攻めるより浜松攻めたほうが早い。野田なんて浜松降伏すれば自動的に落ちる。
武田が野田を攻めた時点で上洛や対織田との戦争は実質放棄したと見てよく、事実上信玄の上洛計画がこの時点で頓挫したといっていい。
だから普通にやれば1月中頃には尾張に入れたはずの状況で、2月後半になってようやく三河の片田舎にある野田城が降伏という摩訶不思議な現象が起きている
659人間七七四年:2015/01/29(木) 20:11:36.86 ID:1V4nkxBH
織田厨のデタラメ「信玄が毎年戦をしまくって財政破綻して
兵糧はなくなり長期遠征は不可能だし民衆は怨嗟した」

1570年1月の駿河西部制圧後の信玄は
内政に集中していて
1572年10月の西上作戦まで
大規模出兵は一切やってないから、
それ以前の例年の頻繁な出兵は無し。
だから兵糧にはまったく心配ない。
むしろ信長は金も米も火薬もなく兵も1万しか集まらなかった。
織田厨の話の誘導パターン
「どうしても野田城で苦戦してたから三河制圧なんて出来ないし
そこからさらに尾張へいくなんて無理w」

実際は 鴨川氏「信玄が三河方面に出てきたのは
信長を誘い出して殲滅するため。
その一方で別働隊に岐阜を突かせるつもりだっただろう
もし出てこないなら別働隊と本隊が合流して岐阜を攻めただろう」
森田氏「信濃と美濃国境の神坂峠の雪解けは当時の暦だと
3月下旬からなので、信玄は雪解け待ちをしていた。」
朝倉などへの手紙でも信長を敵として戦っているとか
来春に美濃攻撃すると信玄が書いている上に、
3/6付けで信長が東美濃にやってきたので三河や遠江は別人に任せて
秋山隊は信長を追い払えと先陣を命じている。
その後の情勢を見ると明らかに信長が東美濃で大敗しているとしか思えないw
660人間七七四年:2015/01/29(木) 21:29:09.60 ID:wTkhi5Pj
>>655-657
池上氏の論説を見ていつも思うこと…
日本には信長を悪にしておかないと、自らの正当性を保てないと考えてる宗派があってだな、
池上氏はそこの信者さんなんだろう。
金子氏、黒田氏は分からんな。
661人間七七四年:2015/01/29(木) 21:51:46.09 ID:1V4nkxBH
信長研究してる人はみな池田を支持してるぞ。
金子にしたって信長の等身大の姿を描いたとして話題になった池田による信長の伝記であると説明しているしな。
いい加減、願望妄想の優しい世界にひきこもって白昼夢みてないで目を覚ませよ。
662人間七七四年:2015/01/29(木) 22:30:13.00 ID:1Lch8ki9
>>661
> いい加減、願望妄想の優しい世界にひきこもって白昼夢みてないで目を覚ませよ。


お正月にお父さんにこう言われて悔しくて誰かに言いたくてしかたなかったんだと推察しますよ菅沼くん
663人間七七四年:2015/01/29(木) 23:47:14.32 ID:/ibknw+H
相変わらず事実を認められない朝鮮人脳の織田在日w
反論は常に根拠ゼロの妄想願望のオナニーレスだけ。
664人間七七四年:2015/01/30(金) 01:26:49.05 ID:52d2hSoU
菅沼遼太理論では織田は3万の兵すら率いることが不可能で基本的には
1万程度の乞食兵程度しか率いられなかったのに
武田や三好や六角は平気で2万3万、ひいては6万の兵力を率いているという事実w

そしてこれほどまでに圧倒的不利であった信長は乱世に名を残し
誰がどう率いても家を残せたであろう武田や三好や六角は揃って滅亡して一族は乞食浪人
栄枯盛衰というにはあまりに悲惨な結果
665人間七七四年:2015/01/30(金) 02:13:54.49 ID:t8Vq8w7n
いくら動員数が多くても軍制が優れていても
結局戦で勝てなければ仕方ないんですよ
戦国だもの
666人間七七四年:2015/01/30(金) 10:46:50.85 ID:O0UIx5OX
経済政策に失敗した信長は貫高制を維持できず崩壊。
その結果、土地を支配できず税収も把握できず、
軍政改革も分国法も作れず
軍事費用と兵糧困窮の解決策として虐殺と現地調達の略奪を繰り返し、
家臣にすべてを丸投げして、無謀な攻略目標の強要だけを命令。
結果、一揆と謀反だらけのうちに
統治と組織作りをしなかったツケが回ってきて
50年前に流行った時代遅れの下克上を招く。
しかもダブル下克上を達成され信長が火あぶりの私刑にされ
織田家は乗っ取られた。
667人間七七四年:2015/01/31(土) 14:10:37.11 ID:AoHGTxD1
菅沼遼太のトンデモ史観がまた登場w
668人間七七四年:2015/02/09(月) 02:04:34.24 ID:jyIlv+R7
切羽詰って相手を在日扱いするしかないという、わかりやすい子やからね
669人間七七四年:2015/02/09(月) 09:28:25.52 ID:dBPCBvCH
>>664
最近、菅沼の存在を知って戦国板を読み始めた者だから教えて欲しいんだけど

@織田は軍制改革が遅れてて動員兵力が少ない、兵農分離なんて美化もいいとこw
A織田は実は三方が原に2万の援軍を送ってたがコテンパにされた

@は「兵農分離をしてたとこ、あるいは動員効率が良い大名が優れてる」ってことにしたいから
信長に動員能力がなかったということを言い

Aでは「兵数が多くても武田に負けたことにしたいから、ここでは兵数を多く言ってる」ということで@とAの両立は
目的(織田叩き)ありきで書いたご都合主義の破綻理論だと思うんだけど、今までここ突っ込んだ人っていないの?

ちなみに三方が原当時の織田は北近江で小谷城を囲んでて、姉川封鎖(浅井⇔朝倉遮断)してて
伊勢で一向一揆と対峙してたから家康にも3000の援軍しか送れなかったと理解してるんだけど
事実、信玄軍が信濃に引いたのを確認してから大規模な越前攻めの兵を出してるし
670人間七七四年:2015/02/09(月) 10:20:12.71 ID:kEl+gflP
>>669
そういったことは何度も突っ込まれてるからw
671人間七七四年:2015/02/09(月) 18:57:44.66 ID:OS062yCN
尾張自体がチートってのもあるし
信長の父、祖父が財政基盤に尽力してたってのもあるだろうし
棚ボタって言えば棚ボタかな

飛騨とかに生まれてたらどうしようもないだろうし
それは戦国武将の誰であっても同じではあるだろうけど
672人間七七四年:2015/02/09(月) 21:18:57.40 ID:dBPCBvCH
>>670
菅沼のテンプレサイト(まとめwiki)読んだわw
確かにほぼ論破されてるな
つーか個人情報流出前の北条スレでの暴れっぷりとか見たけどヤバイでしょ菅沼w
もはや狂人としか
今の活動はあれでも大人しくなったほうなんだな
673人間七七四年:2015/02/09(月) 23:54:59.56 ID:8G1i/wus
昔は都合悪いスレや流れだとコピペで埋めて流してたりしてたから、
それに比べればまあマシかもしれん
けど今でも織田や武田絡みのスレは必ず現れてそれまでの流れをぶち壊しにするからなあ
674人間七七四年:2015/02/10(火) 20:42:41.41 ID:xiH3+9LU
>>671
継いだときはかなり弱体化してたけどな
そこは謙信や信玄の方が棚ボタ継承と言える
675人間七七四年:2015/02/10(火) 21:15:27.17 ID:RHk6HWqm
尾張で信秀個人が掌握してたのは全体の1/4ほどに過ぎないからな。
他は信秀の羽振りがいいから協力してただけで。
晩年は安城を今川に奪い返されてだいぶ落ち目だったしねえ。
676人間七七四年:2015/02/11(水) 12:44:46.05 ID:jWpU7rmf
運がいい論をいくら振りかざしたところで
足元の部下にあっさり寝首を書かれた時点で全部台無し
677人間七七四年:2015/02/11(水) 12:50:24.16 ID:AyXvcpxx
家康ほど棚ボタではないけどな
武田の遺領を濡れ手に粟で手に入れたのと比べたら
信長なんて苦労してる方だろ
678人間七七四年:2015/02/11(水) 13:11:28.10 ID:PHDyYLgl
>>675
立地がよかったのは確かだけど領土自体はそんなに広くないよな
立地言い出したらほかの畿内大名の方がよほど優秀だし
679人間七七四年:2015/02/12(木) 18:55:28.94 ID:JHMcyI+b
足元の部下にあっさり寝首をかかれる信長に完膚なきまでに滅ぼされる武田家・・・
信玄の親不孝、子殺しの罪の重さやね
680人間七七四年:2015/02/12(木) 19:03:31.30 ID:jYMXgvWK
>>675
はいはいデタラメ乙
681人間七七四年:2015/02/12(木) 21:10:50.67 ID:MWKc5/d3
>ちなみに三方が原当時の織田は北近江で小谷城を囲んでて、姉川封鎖(浅井⇔朝倉遮断)してて
>伊勢で一向一揆と対峙してたから家康にも3000の援軍しか送れなかったと理解してるんだけど
9月末の段階で秀吉と一部の将を残して横山に引いてそこから岐阜に帰っているから、
三方が原当時織田家の主力は美濃尾張に普通にいたと思われる。

籠城するには3000で十分、冬の遠征は織田家はあまりしない、
そして翌年信長が上洛したのは武田軍が信濃に引く前。
682人間七七四年:2015/02/13(金) 10:53:51.46 ID:+giP0JE5
織田軍は東美濃で秋山隊に追い散らされてるけどなw
その後、信長は岐阜で引きこもり。
信玄撤退後に上洛したときはたった1万の貧乏軍で
二条城の義昭に勝てる見込みがゼロだったので城攻めすらできず
さっそく上京も燃やして虐殺略奪で補給物資調達。
信長に京の警備を任せていた天皇も御所に延焼する前に
吉田山へ避難しようとするも信長から拒否される始末www
683人間七七四年:2015/02/13(金) 11:44:30.57 ID:CFYCDGxU
と今日も妄想にふける菅沼くんであった
684人間七七四年:2015/02/13(金) 12:32:49.06 ID:GJDTWRA4
貧乏軍1万で反織田連合18万に勝った信長
6万の自軍に12万の共闘軍がいたのに余裕こいて負けた信玄


ウサギと亀より酷いなwww
685人間七七四年:2015/02/14(土) 16:35:54.31 ID:yC+qwlAJ
>>677
自分よりも強大な今川・武田と戦い続けた上での幸運ですしー
686人間七七四年:2015/02/21(土) 02:20:01.59 ID:vWVYiP6d
オープン書き込めないから久しぶりにここ来てみたら菅沼大暴れでくっそワロタwww
687人間七七四年:2015/02/28(土) 08:26:11.51 ID:s1Ja+x0C
信長は頑張っていた
688人間七七四年:2015/03/03(火) 03:53:02.75 ID:CDlr8/Rz
>>682
東美濃で信長を蹴散らしたのにどうして上洛されちゃったんですか?w
689人間七七四年:2015/03/10(火) 17:08:24.16 ID:gS1QhV4U
信長が武田系の仕官を認めなかったが、家康が率先して武田系を配下に加えたので
下記のように家康の幕府覇業を支えた旧武田家臣団。
所詮、武田流を領地支配に活用しなくては旧武田領の経営などできるわけもなく
信長の現実無視の強権主義によって、いつものように大反乱がおきて信忠後見役に任じられた
重鎮中の重鎮の川尻が殺される。
佐久間や川尻が信長死後も目を光らせていたなら織田家の家臣による乗っ取りは起きなかっただろう。

甲斐国川窪に領地を持っていた武田(法名は一機)信實(長篠で戦死し恵林寺に葬られる)
その子信俊(妻は正親町中納言公仲の娘)が武田本家滅亡後に家康に仕え
信濃凶徒を平らげ長久手の戦いでは首級9の戦功を上げる。
元禄時代にその後裔の信貞が従五位下越前守で武蔵丹波5710石領した。
また弟の武田信安に上総国700石を与え、さらに信安は新恩として上野下野下総で加増され1700石領する。
信俊の次男の信世の系統
信世は常陸400石→信亮が武蔵国に新領をもらう。
その後に信有と武蔵国200石を分け与えられた信近の系統に分派する。
他にも武田信俊五男信次系や六男信通系があり、この川窪系武田氏が江戸時代に繁栄する。
長篠で戦死した油川系の武田信吉は武蔵上総350石でその子信忠の時に550石に加増。
甲斐国山梨郡の岩手系武田信盛が長男の信景(武田滅亡時に自刃)
その息子の一信が家康に仕える。のち明和の時期に改易。
信盛次男の武田信政120石(武田滅亡後に織田信孝に仕えるが離反し天正11年家康に甲斐国本領を安堵される)
岩手系武田信国系は天明の時期に改易。他にも岩手からの分派とされる岩出系武田信定系もある。
甲斐国山梨郡の小佐手系武田信房(武田滅亡後流浪し天正18年に家康に仕える)信房の三男信次系もあり。
甲斐国下曾根系武田信正
元は信玄により小諸城を任される。家康に仕え岩槻攻略で討ち死。上野国にて1000石
田澤系武田正忠 武田滅亡後に家康に仕えて武蔵国400石。他にも田澤系はほかに5系統がある。
今井から高尾に改めたとされる武田信俊系300石。武田時代には駿河田中城を任された家。
今井の養子となった昌俊が父の高尾が天目山で討ち死にしたため、家康に請うて高尾の家を継いだ。
高尾系は他に1系統存在する。
栗原系武田政長 武田滅亡後に家康に仕え甲斐国長井郷を領した日向守。息子の代に下総500石。
大井系武田昌次 武田滅亡後に家康に仕えて武蔵300石。ほかに大井系はもう3つの家あり。
また大井系より分派した青木系もある。
山高系武田信親系 三方が原で討ち死に。武田滅亡後に家康に仕える。武蔵200石。他に2系統あり。
ほかにも安藤系や内藤系や駒井系や青木系や山寺系や柳澤系や
折井系や仁科系や小尾系曾根系や東條系や米倉系や津金系や
酒依系や牛奥系や曲淵系や近山系や入戸野系や馬場系や竹川系や櫻井系など多数にわたる。

江戸時代の武田流はこのように大繁栄を極めた。織田家が甲斐経営に失敗したために信濃や上野まで乱が波及。
しかし武田家臣団を手なづけた家康の駿河は安定経営できた理由がこの人材活用によるもの。
690人間七七四年:2015/03/10(火) 17:34:42.68 ID:gS1QhV4U
>>689
信玄の兄弟で河窪を領地にした武田信実は
兄の武田信是の松尾の遺領も継いでるため
信玄に継ぐ武田名門として名声があったからね。
息子の信俊の妻は信玄に娘を嫁がせた従一位左大臣太政大臣三条公頼に
息子がいなかったために正扇町三条家から入った三条実教が入ったりと
名門中の名門である正扇町三条家の娘をもらってるほどなため
江戸時代には武田正統本流とされた。
691人間七七四年
大繁栄というわりに全部足しても1万石いかなそうでわろたwww
数字のマジックしかできんのか菅沼遼太は