真田昌幸 真田信之 真田信繁

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1人間七七四年
真田昌幸、真田信幸(のち信之)、真田信繁(芸名:幸村)を中心に真田氏全般をマッタリ語りましょう。

真田氏総合スレッドです⇒真田氏に少しでも関係ある話なら脱線もOK
2人間七七四年:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:Xcpwllfj
北条家臣・猪俣邦憲が豊臣家との裁定を踏みにじり、沼田領の西・名胡桃城(真田領)を急襲したのである。名胡桃城代・鈴木主水はこれを恥じ沼田正覚寺で自刃する。
昌幸の訴えを聞いた秀吉は激怒し、北条氏に宣戦布告を行う。全国の諸大名に動員令を発令した。小田原征伐のはじまりである。
3人間七七四年:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:Xcpwllfj
信濃國松代藩主・真田伊豆守幸貫は遠江國浜松藩主・水野越前守忠邦によって、帝鑑間席から召し出され、
奏者番や寺社奉行といった業務経験がないのにも関わらず、ただちに老中に抜擢をされ、官位も従四位下侍従、信濃守に昇格、
併せて松平の姓を許され、松平信濃守幸貫と名乗り、御用部屋に入った。
4人間七七四年:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:Xcpwllfj
江戸期の上田藩内にこんな話が伝わっていた。
「真田幸隆が箕輪に走る前、その領地は藩内の甲石・原・横尾の三村
 千六、七百貫文(石高にして三、四千石)であった。」

その証にとされていたのはこの三村にのみ正税のほかに外田役米として
米八十九石(甲石二十八石・原三十四石・横尾二十六石、およそ300俵)が課せられていたことであった。
幸隆がこの地を去り、その主家であり小県の一帯を支配していた海野氏が滅んでも
その支族妻子の危急を忍びなく思った村々の者たちは年々それだけの物を供し続けた。
それが綿々と続き遺習となって残ったのがその役米であるという。
5人間七七四年:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:Xcpwllfj
幸隆

真田頼昌を棟綱の娘婿とする説
海野棟綱の子である幸隆が頼昌の養子になった説
6人間七七四年:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:HGE/pLTg
>>1
7人間七七四年:2013/07/25(木) NY:AN:NY.AN ID:8OSGuhG8
「史上、単独一位は真田、第二の功は毛利。惜しいかな、後世、真田を言いて、毛利を言わず」
8人間七七四年:2013/07/25(木) NY:AN:NY.AN ID:8OSGuhG8
天正17年(1589年)、豊臣秀吉の調停で沼田城を含む利根沼田の3分の2は後北条氏になったが、真田氏の墓所があった名胡桃城を含む残り3分の1はそのまま真田領として安堵された。
名胡桃城には鈴木重則が城代として入る。同年11月、沼田城代となった北条の猪俣邦憲が、重則の家臣を寝返らせて名胡桃城を奪取する(名胡桃城事件)。
これが惣無事令に違反したとして秀吉の怒りを買い、翌1590年に小田原征伐が行われる。
これによって後北条氏は没落し、真田氏の沼田領が安堵されると、名胡桃城は廃城となる。
9人間七七四年:2013/07/25(木) NY:AN:NY.AN ID:8OSGuhG8
真田本家(伯爵家) 現当主は宇和島伊達家からの養子であった10代幸民の男系。伊達政宗の男系でもある。

伊達政宗(仙台@)−忠宗(仙台A)−綱宗(仙台B)−宗贇(宇和島B)−村年(宇和島C)−村候(宇和島D)−
山口直清(旗本)−直勝(旗本)−伊達宗城(宇和島G)−真田幸民(松代I)−幸正−幸治−幸長−幸俊(現当主)
10人間七七四年:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN ID:04VruQ+T
幸村の最期に新説、越前松平家の古文書で発見

読売新聞 2月25日(月)8時52分配信

 1615年の大坂夏の陣で戦死した武将・真田幸村の最期を記した覚書が、越前松平家に伝わる古文書集「松平文庫」(福井県立図書館保管)から見つかった。

 同家の家臣と戦って討ち取られたと記されており、戦わずして首を差し出したとの定説を否定する新説だ。

 幸村は、大坂夏の陣で徳川軍の本陣に迫って家康を窮地に追い込み、「日本一の兵(つわもの)」と呼ばれた。覚書は、徳川方で参戦した、のちの福井藩主・松平忠昌の戦功を記しており、福井市立郷土歴史博物館が昨夏、文献調査で発見した。

 幸村の最期は「もう戦う気はない。手柄にせよ」と、のちの福井藩士、西尾仁左衛門に首を差し出したとする逸話が知られており、徳川幕府の史料にも残る。

 だが、覚書では、仁左衛門が、相手を幸村と知らないまま槍(やり)で戦い、討ち取ったと記述。後に、家臣が陣中見舞いに来て、幸村の首とわかったとしている。
11人間七七四年:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN ID:04VruQ+T
大坂の陣における徳川方の主な戦死者
本多忠朝(本多忠勝次男)、小笠原秀政(信濃松本8万石)
12人間七七四年:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN ID:04VruQ+T
子孫の為に松代に移り申し候

真田信之は松代に転封された際にはこれに不服を持ち、検地資料などの重要書類を焼き捨てた上で、さらに上田城の植木や燈籠などを全て引き抜き、持ち去ったと言われる。
13人間七七四年:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN ID:04VruQ+T
小野のお通

1622(元和8)年、上田藩主である真田信之から松代移封についての手紙を送られており、信之との親交が深かったとされている。
友人だった可能性が高いが、事実上の側室だった可能性も指摘されている。

真田信之の次男・真田信政の側室に小野国子(2代目小野お通)がいる。
信政と二代目お通との間に信就が生まれている。
14人間七七四年:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN ID:04VruQ+T
真田信繁(幸村)の孫は大名になっている。

幸村と豊臣秀次の娘(隆精院)との間に生まれた娘(顕性院、真田幸村の五女)。

顕性院が出羽亀田藩の岩城宣隆の側室となり、岩城重隆(出羽亀田藩第3代藩主)を生んだ。
15人間七七四年:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN ID:04VruQ+T
真田大八丸、刑場の露と消える前に事故で死す……この知らせはすぐに幕府に届き、
正式に検死が行われ、大八丸の死は確定した。
高野山蓮華院の記帳に「大八丸五月五日、加茂河原の印字打ちにて御死去賜う」とある。
16人間七七四年:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN ID:04VruQ+T
仙台真田家 系図

片倉守信⇒真田辰信(真田姓に復姓)⇒信成⇒信経⇒養子・信親(田村顕道三男)⇒また養子・信珍(大條頼始三男)⇒(以下略
17人間七七四年:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN ID:04VruQ+T
鈴木右近

真田信之病没後に殉死した。享年84。
出奔・帰参の前後に大きな戦い(関ヶ原・大坂の役)があることから、真田氏の諜報官であったとする説があるが、証拠になるような史料は見当たらない。


松代真田まつりでは信之(松代真田家現当主)の側近くには鈴木右近(右近の子孫)の姿が見られる。
18人間七七四年:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN ID:04VruQ+T
滝川三九郎一積

真田昌幸の娘・於菊を妻にしていた縁から、討死にした真田信繁の娘を養女に迎え、伊予松山藩家老・蒲生郷喜に嫁がせるなど、たびたび真田氏のために働いた。

しかし寛永9年(1632年)になって、幕府から突如としてこれら信繁の娘を養女として他家に嫁がせたことなどを罪状にされ、幕府使番の職を解かれて除封される。
19人間七七四年:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN ID:04VruQ+T
松代城の三日月堀確認 城の全容把握へ「貴重」 07月19日(金)
http://www.shinmai.co.jp/news/20130719/KT130718SJI090017000.php

 長野市教育委員会は18日、同市松代町の松代城跡近くの長野電鉄旧屋代線跡地で、江戸時代に造られたとみられる「三日月堀」や「外堀」跡などが確認されたと発表した。
絵図などの資料で堀などがあることは知られていたが、これまでは線路があったため詳細な位置は分かっていなかった。
市教委は「松代城の全体像を正確に把握するための貴重な手掛かり」(文化財課)としている。

 城跡南東側一帯は、今秋に同地区で開く「松代藩真田十万石まつり」の臨時駐車場として整備される。使用前に城郭跡の範囲を確認するため、市教委が今月1日から19日までの日程で調査している。


 市教委は幅1・5メートルほどの試掘溝を5カ所、計約140メートル掘って調査。松代城には、前身の「海津城」を築城した武田家特有の構造とされる三日月のような形の「三日月堀」が2カ所あるとされてきた。
今回確認したのは城跡東側の松代駅ホームすぐ脇。他に、線路があったため広がりが分からなかった土塁や外堀の遺構も確認した。

 現在残る城跡は、江戸時代の城郭の一部に限られている。1922(大正11)年に長野電鉄の前身の河東(かとう)鉄道河東線が開業して以来、宅地造成などが行われなかったため、保存状態が良く、
市教委は「復元に足る遺構で、保全整備を進める上で重要な発見」(文化財課)としている。

 松代城は武田信玄が1560年ごろに築城した海津城が始まりとされる。1622(元和8)年に真田信之が上田から松代に移されて以来、真田家が松代城を居城として松代藩を治めた。
20人間七七四年:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN ID:mjoKW2YX
天正17年(1589年)、豊臣秀吉の調停で沼田城を含む利根沼田の3分の2は後北条氏になったが、真田氏の墓所があった名胡桃城を含む残り3分の1はそのまま真田領として安堵された。
名胡桃城には鈴木重則が城代として入る。同年11月、沼田城代となった北条の猪俣邦憲が、重則の家臣を寝返らせて名胡桃城を奪取する(名胡桃城事件)。
これが惣無事令に違反したとして秀吉の怒りを買い、翌1590年に小田原征伐が行われる。
これによって後北条氏は没落し、真田氏の沼田領が安堵されると、名胡桃城は廃城となる。
21人間七七四年:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN ID:9HDfR4cW
>>1
重複

真田幸隆・昌幸・幸村・信幸を語るスレ 5
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1337347672/
【信綱】真田氏を語ろう【頼綱】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1294954414/
22人間七七四年:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN ID:mjoKW2YX
羽尾氏という豪族が上州吾妻郡にいた。

本姓は滋野、家紋は六文銭であの真田氏とは同族であり
四阿山を挟んでほぼ隣同士という間柄であった。
天文10年(1541年)の海野平合戦に海野氏が敗れ、その下にいた真田幸隆が上州に脱出した際
当時の当主羽尾幸全はその手助けをしたという。

この二人が再び相まみえたのは永禄6年(1563年)9月、敵味方に分かれてだった。
当時真田幸隆は信濃先方衆として武田家に仕え
同じく武田に仕える鎌原氏を支援するために吾妻郡にやってきた。
羽尾幸全は上杉に臣従しており、同じく上杉に臣従した岩櫃城の斉藤憲広の援軍として
岩櫃城に立て篭もる。

幸隆は3000の兵を持って攻め立てたが、天険を利用した山城である岩櫃城はなかなか落ちない。
力攻めは不利と悟った幸隆は和睦を結んんで一時兵を引くと同時に調略を開始
城主の甥弥三郎、羽尾幸全の弟である幸光・輝幸を寝返らせ城を落した。
幸世はこの時討ち死にしたとも越後に逃れたともいわれるが、消息は不明である。
形はどうあれ幸隆は恩人を攻め滅ぼしたのだ。

この時裏切った幸光・輝幸であるが、その後は真田氏の有力家臣として活躍し
幸隆の子昌幸の代には岩櫃城、沼田城の城代になっている。
が、天正9年(1581年)謀反の疑いをかけられ粛清された。
23人間七七四年:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN ID:mjoKW2YX
天文16年(1547年)
8月、武田晴信が志賀城の志賀清繁(笠原清繁)を攻める。
上野国から上杉憲政の援軍として金井秀景が来襲するが、小田井原で迎え撃つ。武田方は板垣信方を大将として、 飫富虎昌、上原昌辰とともに真田幸隆が参戦して勝利する。

天文17年(1548年)
上田原合戦
真田幸隆は、武田晴信の家臣として上田原で村上義清と戦う。この戦で武田方は、板垣信方や甘利虎泰などの重臣を戦死で失っている。
2月22日、村上義清は上野国高山(安中)の小領主小林氏に佐久郡の知行を条件に援軍を要請。すでに板垣信方ほかを討取り、武田方の敗北は時間の問題だと伝えている。

天文18年(1549年)
3月、真田幸隆は望月一族を懐柔。望月源三郎、望月新六郎が武田氏に服属し、 真田幸隆は所領安堵の朱印状を望月源三郎に伝達した。 真田幸隆の活躍が確実な文献に見える最初である。 真田幸隆の工作に応じて蘆田氏(依田新左衛門)、伴野氏らも武田方に降る。
24人間七七四年:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN ID:mjoKW2YX
天文20年(1551年)

5月26日、真田幸隆は戸石城を不意を襲って乗っ取る。

7月25日、武田晴信が信濃に出陣する旨を飫富虎昌が真田幸隆に連絡する。これは飫
富虎昌と上原昌辰宛ての武田晴信の書状であり、 武田晴信が佐久、小県郡へ出馬する
ことを伝えた後、「尚、この趣、真田方へ物語り有るべく候」とあって、佐久郡小諸城
主飫富虎昌、内山城主上原昌辰と同列に扱っていることにより、 真田幸隆の武田家臣
としての地位が固まったことが明らかである。
25人間七七四年:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN ID:mjoKW2YX
天文22年(1553年)
川中島合戦 4月9日、宿敵村上義清は武田方によって葛尾城を攻落され、長尾景虎を
頼って越後へ亡命している。ここでも真田幸隆は大須賀氏を調略しており、真田幸隆の
活躍が大きかったことが窺える。 真田幸隆は戸石城の普請の実務担当をつとめた。

8月10日、真田昌幸を人質として甲府へ送る。代わりに真田幸隆は、武田晴信から上
田秋和の350貫の地を与えられる。真田昌幸が奥近習衆(小姓)に出仕した頃、 曽根
総次郎、曽根与一、金丸平八郎(土屋昌恒)、三枝勘解由、三枝新十郎含めた6名があげ
られる。

弘治2年(1556年)
長尾氏v.s.武田氏 真田幸隆は埴科郡東條の雨飾城を攻め落とし、城将となる。
26人間七七四年:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN ID:mjoKW2YX
明治維新の時点で真田信之の女系が当主だったのは
大和郡山の柳沢、越後三日市の柳沢、高家武田の3つ
いずれも真田幸弘の娘と柳沢信鴻の子である柳沢保光の子孫
大和郡山の柳沢、高家武田は現当主も信之の女系だが
郡山の柳沢は更に女系となり今は女系の女系となっている
三日市の柳沢は現当主が信之の女系の血を引くかどうかはわからない
27人間七七四年:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN ID:32uvjsTN
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1360467487/13

13 :”削除”依頼:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN HOST:PPPa787.e22.eacc.dti.ne.jp
削除対象アドレス:
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1374618983/ 21で誘導

削除理由・詳細・その他:
6. 連続投稿・重複
28人間七七四年:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN ID:IjJBwCOA
重複ではありません。
信繁と幸村は全然別人ですから。
29人間七七四年:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN ID:JXEJYzG4
>>28
それを決めるのはあんたじゃない
30人間七七四年:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:0fn3KZno
長寿武将

北条長綱 享年97
龍造寺家兼 享年93歳
真田信之 享年93歳

 万治元年(1658)10月17日に信之が93歳の高齢で没すると、鈴木右近は2日後に殉死した。右近の享年は75歳または85歳。
 当時の幕府は殉死を禁止していたが、右近は信之生前より殉死の約束をしてい
たらしく、また右近自身も高齢であったことから幕府から特別に許可が降りたといわれている。

 信之の隠居所だった大鋒寺には信之の墓の傍らに右近の墓が建てられている。 現在も松代真田まつりでは信之(真田家現当主)の側近くには鈴木右近(右近の子孫)の姿が見られる。

鈴木右近の出奔・帰参の前後に大きな戦い(関ヶ原・大坂の役)があることから、真田氏の諜報官であったとする説があるが、証拠になるような史料は見当たらない。

鈴木右近の墓  長野県長野市松代町法泉寺
http://nakahori2.mints.ne.jp/shiseki/hon110-21.jpg
31人間七七四年:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:0fn3KZno
真田家は信之以外にも矢沢頼綱や真田信尹みたいに長命が多い
32人間七七四年:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:0fn3KZno
永禄4年(1561年)

5月、真田幸隆は西上野に出陣。

9月21日、真田幸隆・真田信綱父子、川中島合戦に参戦。 真田幸隆・真田信綱父子は、妻女山を攻める。

斎藤憲広によって鎌原城を攻め落とされ、羽尾幸全が斎藤方として城代となる。真田幸隆は甘利昌忠とともに鎌原城を奪還する。
33人間七七四年:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:0fn3KZno
大坂夏の陣

天王寺口は真田信繁、毛利勝永など14,500。 岡山口は大野治房ら4,600。 別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000?が布陣
34人間七七四年:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:0fn3KZno
信繁は豊臣性を持ってたので、息子と一緒に秀頼の親衛隊長みたいな感じになってたっぽい。
そのためどうも目立つポジションには居たらしいが、実戦でどれだけ活躍したかは全く疑問。
35人間七七四年:2013/07/31(水) NY:AN:NY.AN ID:gp8dxmXm
赤備え

飯富虎昌、山県昌景、小幡信貞、浅利信種、井伊直政、真田信繁、北条綱高


第二次長州征伐では赤備えであったことがかえって格好の的となり、夜間にも関わらず
長州軍の狙撃を容易にした。この為、彦根藩兵は由緒ある鎧を脱ぎ棄てて逃走した。
36人間七七四年:2013/07/31(水) NY:AN:NY.AN ID:gp8dxmXm
後藤基次の近習、長沢九郎兵衛の証言によると
真田丸は「真田と長宗我部で半分ずつ受け持っていた」という
37人間七七四年:2013/07/31(水) NY:AN:NY.AN ID:hNMyN6A/
幸村(信繁)と後藤基次の仲が悪いのはそれも一因かも知れない
38人間七七四年:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN ID:Tj4yy0Je
真田幸隆の働きなら幸隆が海野を継いでてもおかしくないはずだが、実際には信玄の次男が海野を継いでる

であるからして幸隆は海野の嫡系ではないと推察するのが妥当では?
39人間七七四年:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN ID:Tj4yy0Je
40人間七七四年:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN ID:/t8bkwDQ
楠幸村について語りましょう。
41人間七七四年:2013/08/08(木) NY:AN:NY.AN ID:ONFSyuan
真田は最後の男系藩主だった6代幸弘に繁信って言う部屋住みの弟が居て
当初は幸弘が参勤交代で松代入りする際には、繁信が仮養子として届けられてたんだけど、
兄の幸弘より先に亡くなってしまい、仕方なく井伊家から娘に養子を摂って繋いだ(7代幸専)
で、幸専にも男子がおらず、当時まだ存命だった大殿だった幸弘が
自分の孫娘(井上正甫)と、松平定信の子の幸貫を幸専の両養子にとって跡を摂らせた。
このとき、真田家と井上家の仲立ちをしたのが松平定信。
42人間七七四年:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN ID:xdXAOqhJ
イメージ
「あの会社は中小企業だけどやるねえ」=真田
43人間七七四年:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN ID:xdXAOqhJ
犬伏

「滋野世紀異説」

昌幸「われは上方に味方しようと思う。家康はわが領土を削り、わが家を滅ぼそうとした。
日頃の鬱積を晴らすべきではないか」

信幸「内府とは親類であり、今更 敵となることは出来ませぬ」
44人間七七四年:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN ID:xdXAOqhJ
2009年、朝日新聞

87年4月。慶応大学理工学部で数学を教えている教授の前島信は、新入生の名簿を見ていて、ヤバイと感じた。
「真田幸俊」という名前の学生がいたからだ。
前島は東京育ちだが、先祖は「六文銭」の旗印で有名な信州の真田家に戦国時代から仕えた名門の家柄だ。

授業の後、「君、真田家と関係があるの?」と尋ねた。「14代当主です」と言われ、思わず「すいません」と口走ってしまった。

「もうハハーッて感じで。すぐに思ったのは、まさか悪い成績を『殿』につけるわけにはいかないんで、この子、本当に出来てくれるといいな、と」

幸いなことに成績は優秀で、現在、同じ学部の電子工学科で教える准教授になっている。

その真田幸俊が旧松代藩10万石、真田家の家督を継いだのは、父が亡くなった14歳の時だった。
翌年が善光寺の、数えで7年に1度の御開帳の年。回向柱の奉納は藩政時代から松代藩が行う伝統の儀式で、裃姿で出席し、挨拶状を読み上げた。
完璧にやらなければ、との思いから、緊張で声が震えた。

後日、菩提寺の住職から言われた。「失敗しても、お殿様はいいんです。その代わり、堂々としていて下さい」
なるほど、と合点がいき、以来、気が楽になった。

幸俊は大学生の頃から、毎年、秋の「松代真田まつり」に駆けつけ、有名な幸村の兄で藩祖の信之(信幸)役の騎馬姿で練り歩く。カナダに留学中も、このために帰国したほどだ。
長男が生まれた時、地元に報告すると、大喜びだった。次男の時は「これで真田家は安泰だ」と言われた。

恋愛結婚した妻の綾子は肩の荷がおりたとホッとしたが、幸俊が頭を悩ませたのは息子たちの名前だ。
「『幸』の下の字が、もう大変。先祖の名前になく、姓名判断でいい画数の漢字となると、残り僅か。息子の代では付ける漢字が殆どないはず」
45人間七七四年:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:qsnCNrzD
>>44
いまでも、旧藩主家の当主と旧藩士の子孫の間には、そういう感情があるんだな。
46人間七七四年:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:qsnCNrzD
>>44
前島氏は上田、松代を通じて代々真田家に仕えた家臣。一族の中には、真田昌幸・信繁(幸村)父子にお供して
和歌山県の九度山に移った人々もいたと伝えられます。
http://www.sanadahoumotsukan.com/facilities/facility.php?n=10
47人間七七四年:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:qsnCNrzD
48人間七七四年:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:qsnCNrzD
>>9
真田家と宇和島藩伊達家は、宇和島藩2代伊達宗利の娘・豊姫が、松代藩3代真田幸道の正室として嫁いでおり、江戸時代初期よりお付き合いがあった様子。
豊姫は輿入れする際、故郷を偲ぶ品として杏の種を持ち込み、松代藩も杏仁は咳止めの効果があるとして栽培を奨励。後には地域の特産となり藩の専売となっている。
旧松代藩内の森地区(千曲市森)は現在も日本一のあんずの里として有名で、市の農業、観光を支えている。
このあんずが取り持つ縁で、旧更埴市(千曲市)と宇和島市は姉妹都市となっている。
松代には、この豊姫の関係?の末裔か「伊豫田」姓の人が結構いる。
49人間七七四年:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN ID:mfOxPjF9
信繁(幸村)が大坂城に入城する際、支払われた一時金は、なんと2000両余り。
50人間七七四年:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN ID:lpnA9MSn
少ないくらい
ソレでいろいろ賄わなければいけない訳だろ
飯喰わして足りないモノ買ってたりしたら手元には何も残らない
51人間七七四年:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN ID:xkg++i1W
>>44
今は慶応理工の教授に昇格していますな@真田家当主
52人間七七四年:2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN ID:RUXyOtWm
九度山で真田フォーラム 和歌山
2013.8.18 02:28
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130818/wky13081802280000-n1.htm
53人間七七四年:2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN ID:RUXyOtWm
九度山町指定文化財:「真田庵」を指定 特殊建築の本堂など6棟 /和歌山

毎日新聞 2013年07月30日 地方版
http://mainichi.jp/feature/news/20130730ddlk30040428000c.html
54人間七七四年:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN ID:+DKh6hEW
上杉謙信49歳
織田信長49歳
真田信繁49歳
55人間七七四年:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN ID:+DKh6hEW
東京行きバスに上田市のPR広告掲載 真田氏甲冑や家紋など 08月07日(水)
http://www.shinmai.co.jp/news/20130807/KT130806SJI090015000.php
56人間七七四年:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN ID:+DKh6hEW
真田本家(伯爵家) 現当主は宇和島伊達家からの養子であった10代幸民の男系。伊達政宗の男系でもある。
真田男爵家 9代幸教の子・幸世が本家から別家した系統。8代幸貫の系統であり徳川家康・吉宗の男系だったが、現在は女系。
真田解勘由家 2代信政の長男・信就の系統。旗本から後に松代藩士となり明治維新まで存続。
仙台真田家 信之の弟・信繁(幸村)の二男・片倉守信(真田大八)の系統。仙台藩士として明治維新まで存続。
越前真田家 信之の叔父・昌輝の系統。福井藩士として明治維新まで存続。
旗本真田家 信之の叔父・信尹の系統。旗本として明治維新まで継続。
57人間七七四年:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN ID:NCzBNuBM
真田幸隆(幸綱)

 海野氏の一族。幼名二郎三郎。松尾古城に生れる。父親も諸説あり。海野棟綱か?それとも棟綱の孫か?娘婿か?
昌幸の叔父で幸隆の弟の矢沢綱頼は『矢沢氏系図』によれば真田頼昌の三男という。
とすると、父が頼昌になる(寺島隆史氏説)。ちなみにこの説によると長男は右馬助綱吉、次男が幸綱(幸隆)。
58人間七七四年:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN ID:NCzBNuBM
 天文14〜15年(1545〜1546)頃、幸隆は信玄に臣従するが、この経緯については信玄の器量を見抜いた幸隆が自分から臣従を言い出したという説、
信玄が村上義清を討伐するために小県郡をよく知る幸隆に目を付け山本勘介を遣わして勧誘したという説、勘介がかねてよりの知人であった幸隆を信玄に推挙したという説など多数ある。

 旧領の小県郡を取り戻すためとはいえ、自分や祖父を故郷から追った信虎の息子に仕える決心をするまでには多くの苦悩があったと思われる。

 武田家に属してからの幸隆は、「信州先方衆」のひとりとして信濃・上野方面の攻略のため各地を転戦し軍功をあげてゆく。
59人間七七四年:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN ID:NCzBNuBM
天文20年(1551)5月26日、名将・信玄ですら落とせなかった戸石城を幸隆は自分の手のもののみで落とすことに成功する。
武田家臣・駒井高白斎が著した「高白斎記」には「砥石(戸石)の城真田乗取」と簡潔に記されているのみで詳細はわからないが、
地元出身の幸隆は戸石城内にも知人がいたと思われ、調略を使って内部切り崩しなどを行ったものと考えられている。

 前年、幸隆は信玄から旧領の小県郡一帯を与えるとの約束は貰っていたが、この戦功により安堵され、故郷を追われてから10年で旧領を回復することができた。

 天文22年(1553)、幸隆は三男・昌幸を信玄のもとに人質として差し出し、秋和(長野県上田市)三百五十貫の地を与えられた。これが後年、山中の真田郷から上田平へ進出する基盤となる。
60人間七七四年:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN ID:NCzBNuBM
 永禄2年(1559)、信玄が出家したのにならって幸隆も出家し「一徳斎」と称した。他の武田家臣も多く出家したらしい。

 永禄3年(1560)、信玄は上杉軍侵攻に備えて千曲川近くに城を築くことを幸隆・勘介・高坂昌信らに命じ海津城(長野県長野市)が築城される。
この海津城は、幸隆死後の天正13年(1585)に昌幸の次男・幸村が上杉への人質として入ったり、元和8年(1622)に昌幸の長男・信之が上田から移封になったり、真田家と縁の深い城となる。
61人間七七四年:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN ID:NCzBNuBM
 元亀3年(1572)、信玄は上洛軍を興したが、幸隆は参陣せず息子たちが信玄に従軍していた。幸隆は信玄留守中の上野の守備を任されていたが、高齢のため病気がちであったようだ。

 翌元亀4年(1573、後に天正元年と改元)4月12日、信玄は信濃伊那郡駒場(長野県阿智村)で病死し、翌天正2年(1574)5月19日には幸隆も信玄の後を追うように病死した。

 死の直前の幸隆は小康状態だったらしく、信玄の跡を継いだ勝頼から信綱に宛てた5月28日付の手紙には「幸隆の病気も快方に向かったようでなによりだ」と書かれている。
しかし、実際には幸隆はその手紙の書かれた頃にはこの世の者ではなかった。享年は62歳。墓は長野県真田町の長谷寺にある。
62人間七七四年:2013/08/23(金) NY:AN:NY.AN ID:CfGb5Txz
真田幸隆は村上義清によって真田の地を追われ、上州箕輪に逃れて長源寺という寺に身を寄せた。
この寺での幸隆の扱いはけして良いものではなかったが
寺で知客の役にあった晃運という僧が幸隆の境遇を憐んで何かと世話を焼いてくれた為
二人は遠慮のない親しい間柄となった

ある時幸隆は戯れてこのようなことを言った。
「禿坊主、お前は儂に良くしてくれた。真田を取り戻したら寺を建てお前を招こう。」
晃運も怒ったような真似をして答えた。
「貴殿は臆病者である。はたして何が出来よう。」
そして二人は大いに笑いあった。

のちに幸隆は武田信玄の配下となって村上義清と戦い、これを越後に奔らせた。
旧領真田を取り戻した幸隆は長国寺という寺を建て、真田山と号して晃運を開山にし徳に酬いた。

『長国寺記』
63人間七七四年:2013/08/23(金) NY:AN:NY.AN ID:CfGb5Txz
江戸期の上田藩内にこんな話が伝わっていた。
「真田幸隆が箕輪に走る前、その領地は藩内の甲石・原・横尾の三村
 千六、七百貫文(石高にして三、四千石)であった。」

その証にとされていたのはこの三村にのみ正税のほかに外田役米として
米八十九石(甲石二十八石・原三十四石・横尾二十六石、およそ300俵)が課せられていたことであった。
幸隆がこの地を去り、その主家であり小県の一帯を支配していた海野氏が滅んでも
その支族妻子の危急を忍びなく思った村々の者たちは年々それだけの物を供し続けた。
それが綿々と続き遺習となって残ったのがその役米であるという。
64人間七七四年:2013/08/23(金) NY:AN:NY.AN ID:CfGb5Txz
羽尾氏という豪族が上州吾妻郡にいた。

本姓は滋野、家紋は六文銭であの真田氏とは同族であり
四阿山を挟んでほぼ隣同士という間柄であった。
天文10年(1541年)の海野平合戦に海野氏が敗れ、その下にいた真田幸隆が上州に脱出した際
当時の当主羽尾幸全はその手助けをしたという。

この二人が再び相まみえたのは永禄6年(1563年)9月、敵味方に分かれてだった。
当時真田幸隆は信濃先方衆として武田家に仕え
同じく武田に仕える鎌原氏を支援するために吾妻郡にやってきた。
羽尾幸全は上杉に臣従しており、同じく上杉に臣従した岩櫃城の斉藤憲広の援軍として
岩櫃城に立て篭もる。

幸隆は3000の兵を持って攻め立てたが、天険を利用した山城である岩櫃城はなかなか落ちない。
力攻めは不利と悟った幸隆は和睦を結んんで一時兵を引くと同時に調略を開始
城主の甥弥三郎、羽尾幸全の弟である幸光・輝幸を寝返らせ城を落した。
幸世はこの時討ち死にしたとも越後に逃れたともいわれるが、消息は不明である。
形はどうあれ幸隆は恩人を攻め滅ぼしたのだ。

この時裏切った幸光・輝幸であるが、その後は真田氏の有力家臣として活躍し
幸隆の子昌幸の代には岩櫃城、沼田城の城代になっている。
が、天正9年(1581年)謀反の疑いをかけられ粛清された。
65人間七七四年:2013/08/24(土) NY:AN:NY.AN ID:TWmK/c5F
松代城跡:武田流築城術の痕跡 旧家臣・真田氏が整備か /長野

毎日新聞 2013年08月23日 地方版
http://mainichi.jp/feature/news/20130823ddlk20040029000c.html
66人間七七四年:2013/08/24(土) NY:AN:NY.AN ID:TWmK/c5F
他家から養子が入ったり、分家からの養子で男系が復活したり、なんやかんやあるようですが現在では仙台真田家の男系子孫は途絶えているようなかんじですね。
http://www.kakeiken.com/report004-2.html
67人間七七四年:2013/08/24(土) NY:AN:NY.AN ID:TWmK/c5F
三弾正

攻め弾正:真田幸隆
逃げ弾正(退きの弾正):高坂昌信
槍弾正:保科正俊
68人間七七四年:2013/08/24(土) NY:AN:NY.AN ID:TWmK/c5F
真田本城(松尾新城とも。現代は真田山城の呼称)

松尾古城 真田幸隆以前の真田氏の居城といわれる。真田本城(松尾城)より後に築城

砥石城(戸石城) 真田氏の外城として築城。後に村上義清の拠点となるも、真田幸隆が調略により落城させる

天白城 須坂・松代方面からの上杉氏の侵攻に対処したものといわれる

箕輪城 幸隆・信綱父子、信玄より在番を命じられる

尼巌城(尼飾城) 東条氏の居城 幸隆が攻略

嶽山城(斎藤氏) 幸隆が攻略

厩橋城、八崎城、今村城、不動山城、小川城、猿ヶ京城 昌幸が調略し無血開城(1579年)

丸子城 昌幸が攻略(1584年)

沼田城 真田信幸の支配城。沼田藩真田家の居城

岩櫃城 幸隆が城代に就任

上田城 真田昌幸の居城

名胡桃城 昌幸、沼田城奪取の重要拠点

松代城 松代藩真田家居城
69人間七七四年:2013/08/24(土) NY:AN:NY.AN ID:TWmK/c5F
70人間七七四年:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN ID:HhVXnzUd
信之の晩年、実際に戦場を経験した大名たちはすべて死に絶え、信之は実戦を知っている唯一の人物だった。
しかもその戦歴たるや、徳川家と戦っての勝利も含んでいるので、自ずから尊敬を集めていた。
徳川家自身も畏敬の念をもって信之に接していた。
家康、秀忠、家光、家綱の4代にわたって仕えていたが、家光は特に信之を好み、戦さ話を聞くのを楽しみにしていたと云われている。
71人間七七四年:2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN ID:7Pzt/NOn
>>44
先祖と同じ名前でもいいと思うけどな
72人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:3dcvNwKY
 ◇堺の歴史

5世紀    仁徳天皇陵が造られる

1045   藤原定頼の歌集に地名「さか井」現れる

1522   千利休、堺の商家に生まれる

1550   宣教師ザビエルが訪れる

16世紀半ば 自治・自由都市として繁栄極める

1569   織田信長が直轄地に

1615   大坂夏の陣で焦土に

1868   「堺県」が創設される

1878   与謝野晶子、堺の菓子屋に生まれる

1881   堺県、大阪府に合併される

1889   市制施行、初の市議会

1945   堺大空襲。市街の大半が焼け約1800人が死亡

1961   八幡製鉄(現新日鉄住金)堺製鉄所、開所

1989   市制100年

2006   政令指定都市に移行し7区が置かれる

2009   シャープ堺工場、操業開始
73人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:PM5ucjDR
上川隆也:「真田十勇士」で里見浩太朗とファン争奪戦
2013年08月30日
http://mainichi.jp/sponichi/news/20130830spn00m200009000c.html
74人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:PM5ucjDR
「史上、単独一位は真田、第二の功は毛利。惜しいかな、後世、真田を言いて、毛利を言わず」
75人間七七四年:2013/09/01(日) 00:30:10.09 ID:PeQzMtEN
徳川四天王の娘-第一話

その日、昌幸と信幸の親子は馬にまたがり数名の供を引き連れ
婚礼の日取りを決めるため徳川四天王の1人、本多平八郎忠勝の
屋敷に向かっていた・・・

昌幸:信幸・・・ほんに、かまわぬのか?わしは、気が進まぬがのう・・・
本多殿の娘を嫁に娶る、しかも徳川殿の養女としてじゃ・・・
う〜ん・・・わしは、どうも家康という男は好かん・・・妻や嫡男を
死に追いやる男など・・・う〜ん・・・
信幸:ははは・・・父上?では真田の立場で断れると申されますか?
わたくしは、とうに諦めております。良いでは、ございませぬか・・・
弟の源次郎(幸村)には父上が気に入られた娘を嫁にもらえば・・・
ははは・・・(大声で笑う)

その頃、忠勝の屋敷では・・・
忠勝の家臣(うろたえている):殿!本当に良いのでございますか!
このようなことをいたして・・・
もう知りませぬぞ!・・・こたびの縁組は、おやかた様が決められた
こと・・・勝手にこのような・・・
忠勝:かまわぬ、かまわぬ・・・おやかた様には既に伝えておる
おやかた様は、そなたの娘が嫌と言えば無理強いはせぬ・・・
と申された。
忠勝の家臣:しかし・・・これは・・・いくらなんでも・・・

屋敷には、娘の婿選びと称して多くの若者が集められていた・・・

真田親子が屋敷に着くと、忠勝が出迎えた。
忠勝:本日は、娘、稲の婿選びの席においでくださり
誠にご苦労様にござりまする・・・
昌幸:何?
昌幸を制して信幸が、前に出る。
信幸:ありがたきしあわせ、当方も望むところでござりまする!

信幸はニヤリと笑って忠勝を睨み返した。
76人間七七四年:2013/09/01(日) 00:34:48.06 ID:PeQzMtEN
徳川四天王の娘-後半-第二話

忠勝は、娘の婿選びの様子を隣の部屋の隙間からニヤニヤ
しながら眺めていた。
大勢の若者が横1列に並べられ、顔を下に向けている・・・・
稲姫が女中とともに部屋に入り扇子で若者たちの顔を、
ひとりひとり、ひょいと持ち上げ品定めをしていく・・・信幸の番になった
・・・他の若者同様扇子が信幸の顎に触れた瞬間

信幸:無礼者!男の顔を扇子で持ち上げるとは何ごとぞ!
このような縁組こちらからねがいさげじゃ!

信幸は大声を張り上げ、扇子を跳ね除けた。

稲姫は狼狽し女中が胸の小刀に手をやり”何をなさる”と叫ぶ。

そこに隣で様子を伺っていた忠勝が、あわてて部屋に入ってきて
信幸の前で正座し手をついて言った。

忠勝:数々のご無礼の段、平に平にお許しくだされ・・・よくぞ
娘の扇子を払いのけてくださりました。信幸殿こそ我が娘に
ふさわしいお方と確信いたしました!稲!いぞんは、あるまいな!
稲姫:はい!生涯を供にできるのは信幸様ただおひとりのみ
でござります!

信幸は、初めて姫の顔をよく見た。いかつい顔の忠勝とは
似ても似つかぬ美しい姫であった。色が白く目鼻立ちの整った
雛人形のような顔立ちをしている。そこに騒ぎを聞きつけて
昌幸が入ってきた。

昌幸:信幸!なにごとじゃ!
信幸:父上!これにて拙者の嫁は稲姫と決まり申した!
見てくだされ、これほどの美女、拙者、今まで見たことはございませぬ!
ははは・・・!(心の中の声:どうりで忠勝殿は姫を手放したがらぬ
わけじゃ)
稲姫は、真っ赤になったが、すぐに居直り昌幸に向かって三つ指を
突いた。
稲姫:真田の父上殿、ふつつかものでござりますが信幸殿との
ご婚礼お許しいただきとおござります!
昌幸:あい、承知つかまつった!
こちらこそ、よろしくおねがいたてまつる!

こうして稲姫は無事に真田に嫁ぐ運びとなった。
77人間七七四年:2013/09/01(日) 23:07:30.36 ID:PeQzMtEN
今日の帰宅時に電車の中で女子高生(中学生かもしれぬ、私服だったのでよく分からん)と思われる二人組が隣に居てペチャクチャ盛り上がっていたのだが、

突然そのうちの一人が、「あー上田城に行きたいなー。小田原城は行ったし。」みたいなことを言い出したので思わず二人組の会話に注目してしまった。

最近流行っているらしい歴女のようで、自分でそんなことも言っていた。
見た目普通にかわいい少女だったのだが、普通に『上田城』とか知ってるのには驚かされた。

もう片方の子は城に興味は無いらしく城トークはすぐに終了していたが…。

まぁ、戦国武将ではメジャーな真田幸村(信繁)で上田城を知っているのかと想像されるが。

下見板張の渋い城郭で、堀の中を上田交通真田傍陽線が走っていたことでも有名だ。
78人間七七四年:2013/09/02(月) 03:00:26.94 ID:QXjK6vlm
永禄6年(1563) 9月 幸隆、西上野に出陣し、岩櫃城を攻める。
10月 幸隆、岩櫃城を攻め落とし、吾妻郡代になる。
永禄8年(1565) 11月 幸隆、岳山城を落とす。
永禄9年(1566) 9月 武田軍に攻められ、箕輪城、落城する。
永禄11年(1568) 12月 武田信玄、駿河に進攻し、駿府を占領する。
元亀3年(1572) 3月 幸隆、箕輪城代になる。
8月 幸隆、白井城を攻め落とす。
天正元年(1573) 4月12日 武田信玄、上洛の途中、伊那郡駒場で病死。
5月 白井城が上杉軍に奪われる。
12月 幸隆、箕輪城で病に倒れるが、快復する。
天正2年(1574) 4月 幸隆、再び倒れる。
5月19日 幸隆、死す。
79人間七七四年:2013/09/02(月) 03:05:33.61 ID:QXjK6vlm
幸隆(幸綱)の智略と功績は信玄に高く評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許された。
武田家中でも一目置かれていたと言われており、戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。
ただし現在のこうした幸隆像は、19世紀前半に近世の松代藩主真田氏の業績を記した『先公御事蹟稿』などを土台にしており、真田家の主張を前提として過大評価されたものである事は注意を要する。
80人間七七四年:2013/09/04(水) 05:13:59.63 ID:2qztNEG2
真田幸隆(幸綱)「お願いに御座いまする。それがしも(西上作戦に)御伴させてくださいませ」

信玄「留守居役はそちしか出来ぬ」
81人間七七四年:2013/09/04(水) 05:24:23.10 ID:2qztNEG2
映画「戦国自衛隊」で真田昌幸を演じたのは角川春樹。

真田昌幸「真田鉄砲隊放て!」

この時代は、まだ鉄砲が大して普及していなかったのだが、そこは映画。
82人間七七四年:2013/09/04(水) 05:44:56.68 ID:2qztNEG2
真田幸隆(幸綱)は三十箇所という傷を受けながら戦場を駆けた猛将(&某将)
83人間七七四年:2013/09/04(水) 05:56:25.93 ID:2qztNEG2
戸石城攻めで武田軍が「戸石崩れ」と言われるほどの敗北の後、謀略で一日のうちに城を攻め落とした事で武田家で謀将として名が上った事などが真田幸隆(幸綱)が「攻め弾正」と呼ばれた理由。

高坂昌信は「逃げ弾正」「退きの弾正」と言われますが別に逃げ出すわけではなく、退却の時の指揮能力が高いという意味。

戦争においては「進むより引くほうが難しい」と言われる。
勝っているときは、兵士が前に出過ぎない程度に軍を適度に勢いに乗せて動かせばいいのだが、
劣勢になって退却時に軍をまとめ敵を追い返せないまでも安全な所まで敵を抑えられるだけの戦上手であることが求められる。
「逃げ弾正」と呼ばれるほど彼は退却戦がうまいと武田軍では評価されていたと言えるでしょう。

他の話では敵と味方の戦力と戦況等情報を集められるだけ集めて無理と判断とすれば、即座に兵を引いて策を練り直したほどの深慮遠謀の人だったので
「逃げ弾正」と呼ばれたという話もありますが・・。

高坂弾正は美男子で有名で、あの武田信玄から送られた恋文も残っているそうですし(別の話では浮気がばれたので高坂に送った詫び状とか)。
ですが当時の武将は男色である事は別に今と違って珍しくなくありませんが・・。

攻めの弾正真田幸隆・逃げの弾正高坂昌信・槍の弾正保科正俊を「三弾正」と言いますが、武田信濃先方衆で120騎を持ち槍の名手だった保科正俊ですが・・
先の二人に比べるとドラマでも小説でも目立たない存在ですが・・
84人間七七四年:2013/09/04(水) 06:02:35.99 ID:2qztNEG2
4人の比較

村上義清は猛将
小笠原長時は弓
諏訪頼重は歩兵戦術
真田幸隆(幸綱)は信玄の配下で知略の将。
というイメージ。

戦闘能力では村上義清でしょうが、
戦術・トータル的には真田幸隆でしょう。
85人間七七四年:2013/09/04(水) 06:08:43.75 ID:2qztNEG2
真田家の歴史は古いが、戦国武将としての真田家は幸隆(幸綱)の代から世に出たといえる。

それまではその他大勢である国人衆に過ぎなかった真田家は幸隆の代に一度武田信虎らに滅ぼされる。

領地を失い関東管領上杉氏を頼って落ち延びたが、いつまでたっても埒が明かないことに業を煮やし、
武田信玄を頼り、信濃攻略の尖兵となった。その活躍により武田24将の一人に数えられるようになった。
86人間七七四年:2013/09/04(水) 06:29:42.74 ID:2qztNEG2
>>69
真田幸隆(幸綱)の上州亡命時の庶子ですな
87人間七七四年:2013/09/05(木) 02:00:48.59 ID:iPqZi0t9
松代藩真田家と彦根藩井伊家との関係。真田家6代目藩主の真田幸弘の息子が早世していたため、彦根藩12代目藩主の井伊直幸の息子幸専が真田家の養子になり、真田家7目代藩主となっている。
88人間七七四年:2013/09/05(木) 02:03:52.29 ID:iPqZi0t9
誤:7目代
正:7代目
89人間七七四年:2013/09/05(木) 02:16:53.42 ID:iPqZi0t9
http://www.city.nagahama.shiga.jp/section/rekihaku/news/info114/s5.html

「(信之が)訪ねてきたときに会えなくて申し訳ない」(石田三成)
といった内容の書簡が現存。

その宛名書きが「さいつどの」(真田伊豆守の略)
というくだけた宛名だったので、気安い間柄だったのかも?
90人間七七四年:2013/09/05(木) 02:20:58.08 ID:iPqZi0t9
真田家には「吉光のお長持」というのが代々伝わっていて家老でさえ中を見たことがなく、常に4人の不寝番がいて厳重保管されていた。

中身は家康から拝領した吉光の短刀が納められいるとされたが、
明治になって開けたときに石田三成から届いた書状をはじめ、徳川家を敵にしていた頃の危険な証拠書類が詰まっていた。

これが徳川幕府に発覚すれば、取り潰しの好材料になっていた。

信之が危険な証拠書類を焼却せずに 秘蔵していた理由は謎。
91人間七七四年:2013/09/05(木) 03:33:03.03 ID:iPqZi0t9
真田信之(信幸)・幸村(信繁)の扱いの違い

数年前、長野県の上田・松代を旅行しました。
上田でびっくりしたのは町全体で「幸村様万歳!!!」という雰囲気と、
兄完全無視(笑)なことです。
上田真田祭りでは真田三代が幸隆・昌幸・幸村になっているそうで苦笑するしかありません…(地元の方、ごめんなさい^^;;)
一応、初代藩主は信之のはずなのですが。
松代はそうでもなかったのですが、
長国寺の信之のお墓は蜘蛛の巣だらけでした。

いくら弟の方が有名とはいえ、この扱いは…
確かに信之は地味ですが、調べてみると中々の名君だと思います。
92人間七七四年:2013/09/05(木) 18:06:11.85 ID:i3h1ZDmx
>>91
蜘蛛の巣だらけなのは長国寺ではなく大鋒寺じゃないか?
長国寺はよく手入れされていると思うよ
93人間七七四年:2013/09/06(金) 01:24:53.06 ID:Ym0hAfvl
大鋒寺ですな
94人間七七四年:2013/09/06(金) 02:58:50.62 ID:Ym0hAfvl
北条との戦いで、真田信之は手勢800騎を率いて、北条方の軍5,000が守る手子丸城を一日で落とすという離れ業をやってのけた
95人間七七四年:2013/09/06(金) 03:04:08.04 ID:Ym0hAfvl
馬場主水は真田家の忍びだったといわれています
大坂の冬の陣で実際に働いていたようです
(夏の陣には負傷したため参戦していません)

その後領民の娘を辱めて自害させ、その罪で牢に入れられるがそこから逃げ出し
幕府に「信之は反逆の意志があり信繁(幸村)と内通していた」と訴えのです

それを聞いた信之は「自殺する!!」と幕府から派遣された中山勘解由と朝倉藤十郎にきっぱり。
二人はあわてて「反逆の気持ちがあるなら自殺するのはもっともだが、その意志がない場合は弁解すべきだ」とフォローします

そして秀忠の計らいで主水と真田家家老の討論(裁判に近いもの)が行われ
その結果信之の無罪が確定します

その後主水は真田家家臣に暗殺されてしまいます

一説には主水は秀忠のスパイであったとも言われています
96人間七七四年:2013/09/09(月) 18:41:14.10 ID:a+lF/psX
真田丸の戦いでの徳川方の被害

騎馬武者780騎&多数の足軽
97人間七七四年:2013/09/11(水) 14:13:41.38 ID:ZqMi89n9
大坂冬の陣の戦死者の8割が真田丸の攻防によるもの
98人間七七四年:2013/09/11(水) 15:00:40.94 ID:ZqMi89n9
大坂夏の陣

「真田が赤備
つつじの花咲たるが如く
堂々の陣をはる」

徳川家「武徳編年集成」
99人間七七四年:2013/09/11(水) 15:04:54.38 ID:ZqMi89n9
「家康様を守る者は
一人だけにて
他はちりぢりに逃げた」

「三河物語」
100人間七七四年:2013/09/11(水) 15:16:04.85 ID:ZqMi89n9
いわば左衛門佐(信繁)は、本当の侍であり、
それに比べ我らは
作り髭をして肩を怒らせている道具持ちというほどの差がある。
誠に物腰柔らかな男であり、口数は少なく、
日頃いきり立つこともなかった。

「幸村君伝記〜真田信之の言葉」
101人間七七四年:2013/09/11(水) 18:54:59.74 ID:ZqMi89n9
102人間七七四年:2013/09/13(金) 05:52:02.55 ID:QHMFuCEk
山県昌景は勝頼の天正元年8/25書状を最後に消え去る。
真田信綱も天正元年9/8の勝頼書状を最後に消え去る。
信玄政権から勝頼政権への移行で、
構造改革があって引退してるんじゃないか?
長篠の戦いで信長は彼らの名前を一切あげてないのも不審だね。
なにせ岩村城の開城の報せの信長書状には、
秋山のことは引き寄せてから今日、
磔にかけたし、その他の籠城者は残らず首を刎ねたと
秋山を騙し寄せたと名前をちゃんと言明してるし。

実際、長篠の戦いが迫る天正3年4/16の勝頼書状では真田昌幸と小山田が一緒に登場しているが、
信綱は登場しないし、
山県昌景本人の発給文書も天正元年11/23が最後なんだけど。

天正元年7/30の時点では、
武藤喜兵衞尉と勝頼が書いていたのに、
天正3年4/16では真田喜兵衞尉と勝頼が書いていて、
明らかに昌幸が武藤氏から真田氏への家督継承を済ませてるのがわかるんだけど。
よって信綱が長篠で討死したから昌幸が武藤から戻ってきて真田の家督を継承したとする論法は通用しないのがはっきりわかる。
103人間七七四年:2013/09/14(土) 22:02:49.50 ID:vmRBIJLq
良スレ
104人間七七四年:2013/09/15(日) 00:07:07.33 ID:SYvucSya
三方が原の戦いですが、味方が原と名将言行録にはあります。
真田昌幸は第4次川中島の戦いが初陣と言われていますので、戦いには参加していたはずですが、自ら抜刀して切り込んでゆくタイプの将ではありません。
長兄の信綱は青江貞次の3尺3寸の陣刀を揮い…とあるので勇将タイプのようでしたが。

昌幸は武田信玄の両眼のごとくなり、と言われたように謀将タイプの武将です。
この戦いの時に信玄の寵臣、馬場信房(信春)は信玄に対し、
徳川の兵は下人にいたるまで武田の陣の方を向いて死んでいる者はうつ伏せに、徳川の陣の方を向いて死んでいる者は仰向けに死んでいる、
これは誰一人逃げることなく戦った証である。
もし、先年、今川を討ったときに遠州の支配を徳川に任せ、手を握っていたなら今頃は中国、九州まで手に入っていたことだろう、と残念がったそうです。

真田昌幸には上田城で徳川軍は2度苦杯をなめていますが、2度とも家康自信は出陣していません。
同じ兵力でがっぷり四つに組んだらどうかは分かりませんが、様々な言い伝えやエピソードを聞くにつけ、家康は将に将たる器量があり、
天下人になったのは決して運が良かったからだけではありません。信長、秀吉はその点をよく分かっていたので優遇し、又、恐れもしたのでしょう。
105人間七七四年:2013/09/15(日) 00:09:20.63 ID:SYvucSya
徳川 対 豊臣が勃発した場合、一般論として豊臣が江戸に向かって攻め寄せることは万に一つも有り得ない。
徳川が西上する形で大阪に向かうであろうから、近江の瀬田あたりで長旅に疲れた東軍を迎撃。
以降はゲリラ戦で疲弊させつつ大阪までおびき寄せ、大阪城を中心にした籠城戦+城から部隊を出しての奇襲攻撃で少しずつ戦力を削っていく…

早い話が第一次上田城決戦の焼き直しです。それを大きいスケールでやろうとしていただけですね。

仮に昌幸が存命で大阪に入城していても実行できたか・・・そこは怪しいと見ております。
いくら二度に渡り徳川を撃退したとはいえ、所詮田舎の一大名、しかも蟄居させられていた身ですからね。
真田が評価されたのは、この大阪の役の後です。冬の陣での真田丸防衛戦や夏の陣で家康の旗本を突き崩した事実、さらに島津忠恒による「真田日本一の兵。古の物語にもこれなき由」の評価などによる事が大きいので。

信繁大坂入城時の家康の「親のほうか?子の方か?」は完全なフィクション。昌幸がすでに死亡していたことは、お目付け役の紀州浅野家から家康に報告されてますので。
106人間七七四年:2013/09/15(日) 01:30:12.28 ID:SYvucSya
夏の陣での毛利勝永の活躍は信繁(幸村)人気に食われてしまって気の毒ですね。
どうして同等の活躍をしながら信繁のように日の目を見なかったか、それは活躍の仕方が似ていたからだと思います。
夏の陣で勝永は信繁と同じく(あるいはもっと)圧倒的優勢の敵陣を突破し、家康本陣にせまりました。
しかし家康本陣は一歩はやくたどりついた真田軍に蹂躙され既にも抜けの空であったといいます。
真田の敵陣突破も勝永が四天王寺〜岡山口で徳川方の大軍を引き受けていたからこそ成り得たものですが、敵陣突破をほんのわずかに信繁に先をこされたことでこの戦いの名声のほとんどをもっていかれた感じです。

それと後世に物語として語り継ぐには二人より一人にほうが分かりやすかったのではないでしょうか。
家康をすんでのところまで追い詰めた英雄を語るには失礼ながら勝永より、父の代からの因縁もある真田信繁のほうがよりドラマチックです。
それに信繁には冬の陣での功績も大きいですし浪人衆のリーダー的存在でしたからね。

地味で活躍に見合った名声を得ているとはいいがたい毛利勝永ですが、その働きが歴史に埋もれず史実として残っていることだけは幸いでしたね。
107人間七七四年:2013/09/15(日) 03:02:59.25 ID:SYvucSya
松代通記には、藩祖信之が、信勝と同時に元服を許された、とあるけど、それ以外、武田家臣当時の信幸(信之)の事跡がない。
108人間七七四年:2013/09/16(月) 14:25:49.04 ID:h2xgj1sc
武田信玄は、信濃守護小笠原氏を滅ぼし信濃国内での勢力を回復。
北信への勢力拡大を目論み、村上義清留守中の戸石城を攻める。
しかし、戸石城は落ちず撤退。村上義清の猛追撃を受けて大敗を喫す。

翌年、真田幸隆が独力で砥石城を落とし(「高白斎記」に「砥石ノ城真田乗取」とだけ記してある)、これによって幸隆は真田旧領を回復した。
109人間七七四年:2013/09/16(月) 15:11:36.97 ID:h2xgj1sc
通字について。

戦国期はそこまで、通字という意識はなかったと思います。

江戸期になって、幸の字を受け継ぐという意思が明確に働いたものと思われます。

戦国期は、昌幸の兄は信綱、昌輝、弟は信尹で、幸は付いてません。
幸よりも信の字が多く、武田家の通字である信の字にあやかったものと考えます。

また、信繁ですが、これもまた、武田信玄の弟・典厩信繁にあやかったもので、
信繁と名乗った(昌幸が名乗らせた)頃は、そこまで幸の字にこだわりはなく、
主家・武田家ゆかりの文字を優先していたと考えます。

江戸期になり、信幸が関ヶ原後に父・昌幸ゆかりの幸の字を捨て信之と改名しました。
そして、徳川の治世も四代将軍・家綱の頃になると
徳川を悩ませた昌幸・信繁たちの武勇もはばかることではなくなり、
松代藩真田家では藩祖・信幸が捨てた幸の字を復活させました。

捨てた幸の字を意識的に使うことで真田の武勇の象徴は幸の字であると
伝えたかったのだと考えます。
同時に、徳川に歯向かった昌幸・信繁親子に、より真田家の武勇を強調したいチカラが働きます。。

信繁とともに大坂夏の陣で討死した大助幸昌ですが、祖父・昌幸にあやかり、
幸の字をわずかな時間でも強調したかったのかも知れません。

つまり、関ヶ原の戦いで、信之が幸の字を捨てたことにより、
これを境に、真田両家(九度山本家、上田分家)で
幸の字を意識的に受け継ぐようになったと考えます。
110人間七七四年:2013/09/16(月) 15:46:04.79 ID:h2xgj1sc
上田城

真田昌幸時代の上田城は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、
家康の命令で破却されており、その構造などは殆ど解明されていないそうです。

廃城後に上田城主となった昌幸の嫡子・信幸(後に信之と改名)は城の普請は行われていなかったようで、
総構えの中に居館を建て、そこで政務を執ったといわれます。現在に残る城郭は、仙石忠政が改修したものです。

昌幸時代の上田城は、南を流れる千曲川の河岸段丘にあり、本丸南の断崖を尼ヶ淵といい、そのことから尼ヶ淵城とも呼ばれ、
かつてはこの地の土豪・小泉氏の城だといい、小泉曲輪はその名残といいます。
本丸下の淵を深く掘って防備を固め、さらに矢出沢川・蛭沢川を改修して堀に導き、
二の丸の通称でもある大きな濠(ほり)・百間掘を形成しています。
上田城は本丸、二の丸、小泉曲輪、捨曲輪(臨時防御の曲輪)、家臣屋敷と町屋が総構えの掘で守られていたと考えられます。
なお本丸には天守はなかったようです。また昌幸は本丸に住んでいたと思います。
111人間七七四年:2013/09/17(火) 13:43:52.48 ID:QF1uYFXQ
大坂夏の陣
難波の夢も・・・終わりけり・・・

その日、信繁は茶臼山の陣で戦況を伺っていた。既に豊臣方は
後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、
疲弊していった・・・
”もはやこれまでか・・・”
信繁は、目を閉じて腕組みをし
つぶやいた。
”もう、この手しか、あるまい・・・”
信繁は、うしろを振り返り叫ぶ。
”狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!
みなのもの!昨日の打合せどおり、これから最後の大いくさを
しかける。生きて帰ること無き、大いくさじゃ!死にたくなき者は
去ってよし!いっさい咎めだてはせぬ!・・・”
もちろん、去るものはいない。
味方の1人が叫んだ。
”左衛門佐様!われら大阪の陣に参加したときから左衛門佐様に命は
おあずけ申しておりまするぞ!
ひとあわ、大御所に吹かせてやりましょうぞ!
わっはははは・・・!”
陣内に大きな歓声が沸きあがった!
信繁は槍を手に持ち馬に飛び乗った。
他の者たちも次々と馬に飛び乗っていく・・・
信繁隊、50数名が信繁を取り囲み同じ赤色の甲冑に身につけ
一塊(ひとかたまり)になって越前隊(松平忠直)の大軍
めがけて真一文字に家康本陣へ突撃を開始した。
数(かず)のうえでは、圧倒的に徳川軍優勢であるが、少人数で1つにまとまって
いる分、的は小さく、通り道を遮る兵のみを防げば良いわけである。
ただ時間勝負・・・・長引けば長引くほど、不利になるのは目に見えている。
家康本陣にさえたどり着ければ・・・槍の使い手である信繁に勝機はある。
家康本陣が見えてきた・・・既に信繁隊は幸村1人になっていた。
”みなのもの、かたじけない・・・”
”大御所のみしるし頂戴仕る!”
信繁は叫びながら、家康めがけて突進していく・・・幸い、本陣の、ほとんどが
出払っていて数名の供がいるのみである。
まず2、3人の供を槍でなぎ倒し家康の目の前に迫った・・・その時、家康の
前に槍を持って立ちはだかった武将がいた。見覚えの、ある顔・・・
滝川三九朗であった。三九朗は信繁の妹の婿、つまり義理の弟である。
今回の戦では、徳川家康護衛の旗本として警備にあたっていた・・・
三九朗は見事な槍さばきで信繁を食い止め、その隙に家康は馬で逃れた。
援護に駆けつけた十数名の鉄砲隊が信繁に鉄砲を打ち掛けた・・・
”すまぬ・・・兄上・・・”
”三九朗ならば・・・やむおえず・・・”
と二人は言葉をかわし鉄砲で深手を負ったまま信繁は去っていく・・・
その後、信繁は
四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内
にたどりつき、馬から降りて、どっかと腰を降ろした。
肩と腹に銃弾を受けたらしい・・・血が流れていた。
そこに越前隊鉄砲組の西尾宗次が、現れた。
信繁は、宗次を見つめて一言・・・
”介錯を頼む!”と言い
その場で腹を切って果てた。
享年49
112人間七七四年:2013/09/17(火) 13:55:03.81 ID:QF1uYFXQ
数年前、大阪天王寺区の真田丸跡地の真田山公園に初めて行った時、
どこを探しても碑とか案内板を見つけられなかった
辛うじて北部の東側の神社で幸村像に出会えたが、説明文までは無かった
最近になって西に迂回した道沿いの寺の入口に真田丸の碑文があることを
NHKのテレビ番組内で知ったが、ただの地図持参では絶対気付かない所だ
砦の規模が想像以上に大きかったという証か
113人間七七四年:2013/09/17(火) 14:40:39.64 ID:2FHyidPz
もう街に取り込まれてるからね
114人間七七四年:2013/09/17(火) 16:07:36.79 ID:QF1uYFXQ
「真田家伝記」には、真田昌幸は上州吾妻城に勝頼を迎えようとしたという。
この吾妻城は別名 岩櫃城ともいい、名前の示すとおり、
峻険な山々と平沢川の急流に守られた天然の要害であった。

上州は真田昌幸が制圧しており織田・徳川軍にもここで対抗できるし、時をみて上杉景勝の後援を頼むこともできた。
また近燐には内藤昌月(箕輪城)、武田信豊(小諸城)が守りを固めていたため、再起をかけるのであれば、真田昌幸を選ぶべきであったろう。
115人間七七四年:2013/09/18(水) 07:15:35.77 ID:vyYg4oOz
>>112
真田公園の一角は靖国霊場だね、戦没者の忠霊塔とかあるはず
戦前は軍事色の強い地域だったが、戦後は官営じゃなくなり未整備状態
東京の靖国の扱いとはかなり差があるわ
116人間七七四年:2013/09/19(木) 18:19:35.31 ID:Age0Sa1r
長篠合戦図屏風には、その時点での真田家当主・真田信綱(真田幸隆の長男で、真田昌幸の兄)が描かれています。
すでに被弾したのか馬上からずり落ちて目は開いておらず、周囲の兵も倒れています。その中の真田信綱の従卒とおぼしき兵は、有名な六文銭の旗を背中に指しています。

真田信綱本人が指している旗は、なぜか木瓜紋です。真田家が使用した『結び雁金』や『六文銭』や『州浜』ならわかりますが…。
117人間七七四年:2013/09/19(木) 18:25:56.29 ID:Age0Sa1r
「真田幸隆方面軍」→「信玄に作戦を伝えず北信濃攻略」
118人間七七四年:2013/09/19(木) 19:04:19.43 ID:Age0Sa1r
・織田信長
「桶狭間」「刀根坂」「天王寺の戦い」など前線に出る事多数。
「天王寺」では太股を撃たれるが味方を救う。

・毛利元就
「有田中井手の戦い」で自身を劣りにし前線に出る。

・北条氏康
「河越の夜戦」でも自ら刀を振るい
「向かい傷」といわれる傷が顔にあったほど。

・武田家の将
「真田幸隆」「原美濃」「山県昌景」「小幡虎盛」など前線に出てくる
大将格だらけ。

・蒲生氏郷
前線に出てくる逸話多数。

・井伊直正
前線に出てくる逸話多数。

・上杉謙信
前線に出てくる逸話多数。
119人間七七四年:2013/09/20(金) 16:33:12.52 ID:R/cXhO+B
真田家と宇和島藩伊達家は、宇和島藩2代伊達宗利の娘・豊姫が、松代藩3代真田幸道の正室として嫁いでおり、江戸時代初期よりお付き合いがあった様子。
豊姫は輿入れする際、故郷を偲ぶ品として杏の種を持ち込み、松代藩も杏仁は咳止めの効果があるとして栽培を奨励。後には地域の特産となり藩の専売となっている。
旧松代藩内の森地区(千曲市森)は現在も日本一のあんずの里として有名で、市の農業、観光を支えている。
このあんずが取り持つ縁で、旧更埴市(千曲市)と宇和島市は姉妹都市となっている。
松代には、この豊姫の関係?の末裔か「伊豫田」姓の人が結構いる。
120人間七七四年:2013/09/21(土) 09:19:43.47 ID:GPRDhq7V
道明寺の戦いでは、発生した濃霧により、真田信繁と共に後詰を務めた毛利勝永が間に合わなかった事から後藤基次らが討死し、真田信繁は毛利勝永に対して
「濃霧のために味方を救えず、みすみす後藤基次らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない。」
と弱音を吐いて、討死を覚悟したが、毛利勝永は、
「ここで死んでも益はない。
願わくば秀頼様の馬前で華々しく死のうではないか。 」
と言って真田信繁をなだめて退却の指揮をとり、無事に自軍を大坂城へと帰還させた。
121人間七七四年:2013/09/22(日) 19:35:10.37 ID:HtSzYzVG
書店行ったら「真田信綱」が置いてあった
122人間七七四年:2013/09/23(月) 06:27:08.92 ID:RnX7TLHu
真田信綱(のぶつな) 弟・昌幸がもっとも尊敬した真田家随一の剛将 (PHP文庫)
123人間七七四年:2013/09/23(月) 12:04:51.24 ID:RnX7TLHu
大坂冬の陣における真田丸の戦いの最中に石川康勝(石川数正の息子)配下が火薬を誤爆させてしまい石川康勝自身も負傷したが、この騒ぎを東軍が内応の合図と勘違いした。
124人間七七四年:2013/09/24(火) 09:09:52.35 ID:w+8CWHs2
test
125人間七七四年:2013/09/28(土) 20:03:22.79 ID:lNar8uwT
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130922/edc13092218000000-n1.htm
【小山評定の群像(18)】
真田父子 運命を分けた「犬伏の別れ」
2013.9.22 18:00
126人間七七四年:2013/09/28(土) 20:04:34.75 ID:lNar8uwT
http://abeno.keizai.biz/headline/1004/
天王寺区内で「真田幸村博」開催へ−大坂の陣から400年で
2013年09月27日
127人間七七四年:2013/09/29(日) 08:35:49.43 ID:Lz9yFFyp
抜粋

市の文化財を担当する佐野市生涯学習課は「(真田親子の別れが)犬伏とされるのは小説が始まり。
古文書では確認できず、伝承の域を出ない」と説明する。
同課によると、家老の日記には下野には行ったとしているが、詳しい場所については記載がなく、「あれだけの武将が来たなら地元にも何か記録が残るはず」(同課)。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/130922/edc13092218000000-n1.htm
128人間七七四年:2013/09/30(月) 02:43:35.04 ID:ehSK3b58
>>127
犬伏が伝承だったとは。
129人間七七四年:2013/09/30(月) 04:33:07.41 ID:Dp+e+ZSF
>>109
割と幸とか綱の字、つまり海野氏との関係の主張ってぽっと出の真田氏には大事な物なんだが

信の出どころはよく解らんが、主家筋の通字を下賜された訳でもなく使うのは失礼に当たる
130人間七七四年:2013/09/30(月) 08:18:36.97 ID:NjXvKRua
>真田昌幸 真田信之

このふたり全国的に圧倒的な知名度を持つ英雄幸村の父と兄でなければ
無名の存在だったろうね
131人間七七四年:2013/09/30(月) 09:04:23.98 ID:VstQLf2m
昌幸 関が原において徳川の主力3万を釘付けにする
信繁 大阪夏の陣において「真田日本一の兵」と称される活躍を見せる
信之 弟に信繁がいる

1行でまとめるとこうだな
132人間七七四年:2013/09/30(月) 20:14:27.95 ID:ehSK3b58
>>127
ナイス情報サンクス
133人間七七四年:2013/09/30(月) 20:23:09.37 ID:ehSK3b58
588:日本@名無史さん:2008/10/01(水) 00:37:49
伊達家の家臣となった真田信繁の子・大八の家系って
途中から養子が入って信繁の男系は途絶えたんじゃなかったか
134人間七七四年:2013/09/30(月) 20:24:34.32 ID:ehSK3b58
433:日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:30:12
>仙台真田家は信繁の男系を主張しているが、一仙台藩士の家系なんてアテにならないと思う。



434:日本@名無史さん:2008/07/21(月) 07:35:10
仙台の真田はそもそも最初の大八が本物かどうかアレだからな。
公式には京都で石投げの石があたって死んだ事になってるし。
135人間七七四年:2013/09/30(月) 20:25:28.63 ID:ehSK3b58
437:日本@名無史さん:2008/07/22(火) 20:50:52
仙台の真田は途中で傍系から引張ってきてて、これも怪しいんだよな。
家老クラスならともかく
ヒラの仙台藩士の家系図なんてあてにならないと言えばあてにならない
136人間七七四年:2013/10/01(火) 01:24:36.52 ID:3B/Sqg1F
>>133-135

仙台真田家は眉唾

姉夫婦の子が養子に入っていたり…etc.
誰の男系か?も誰の女系か?もサッパリ分からなくなっている。

松代真田家は宇和島伊達氏の男系男子で確定。
137人間七七四年:2013/10/03(木) 12:14:11.98 ID:YTekftqo
祝!信之無双参戦
138人間七七四年:2013/10/03(木) 13:29:40.76 ID:KLuPfmK6
菅沼遼太も無双に参戦・・・?
139人間七七四年:2013/10/03(木) 14:49:21.43 ID:RtPK0khA
当時、歴史読本に記載された。池波先生と
真田六文会の皆様の座談会の記事を
抜粋してあります。

「 歴史読本 」 昭和60年5月号


池波正太郎
    「真田太平記」を語る 聞き手:真田六文会

http://www.geocities.jp/roodstar2005/rekisi.html

池波:樋口角兵衛ってのが出てくるでしょ。上田に樋口角兵衛の子孫て人が
    いるんですよ。女の人でね。

六文会:そうですってね。

池波:「うちの先祖は、あんな男じゃありません」とかね。夜中に電話かかって
    くるんですよ。

六文会:でも、最後にはうまくどんでん返しがありますもんね。

池波:ぼく、角兵衛のことは、悪く書いていない。

六文会:書いてないですよ、ちっとも。
140人間七七四年:2013/10/04(金) 18:52:21.88 ID:oXdpp1oA
昌幸って晩年は関ヶ原の敗戦で不遇で終わって本人としては無念だったかもしれんが
結局、名前は息子と共に後世に残してるんだよな

やりたい放題に生きて後世に悪名を残すのとどっちが良いんだろうな
141人間七七四年:2013/10/06(日) 08:58:07.79 ID:OWDBKgg8
信繁も一発屋で名を残したしな
142人間七七四年:2013/10/06(日) 13:31:42.88 ID:jIZnVijz
名前を残したのは幸村w
143人間七七四年:2013/10/06(日) 15:40:33.68 ID:TeVbRISt
「信繁?それ誰?」って感じだな(笑)
144人間七七四年:2013/10/06(日) 17:15:05.14 ID:gtmdOODY
来年の大河、明智よりはいいけど
やっぱり真田が見たかったわ
黒田の親父が主役じゃラストが消化不良だ
実質関ヶ原で終了、大坂の陣は無し
145人間七七四年:2013/10/06(日) 17:21:59.35 ID:gtmdOODY
風林火山は真田の扱いよかったね
小ネタも多くてスタッフに真田好きがいるのかと思った
146人間七七四年:2013/10/06(日) 19:19:02.81 ID:gtmdOODY
真田家って勢力小さいわりに要所要所で目立つことしてるよね。
147人間七七四年:2013/10/06(日) 19:20:04.63 ID:gtmdOODY
幸隆は戦国好きにはよく知られてるけど、一般的にはマイナー
信長の野望ではチート遺伝子を持つ男として有名なんだが
148人間七七四年:2013/10/06(日) 19:23:03.85 ID:gtmdOODY
真田信繁(幸村)は大大名や政治劇の中心にいた人物でもなく最期は討ち死に
だから大河題材としては取り上げづらかったのかもなぁ。
最近じゃ山本勘助や直江兼続が大河主役になる時代になってきてるから
チャンスと言えばチャンス。
149人間七七四年:2013/10/06(日) 19:27:47.00 ID:gtmdOODY
「真田太平記」は、始まるのが1582年の武田滅亡からだが、
大河ドラマでやるなら、スタートの時期を変えるべきだ。
いっそ、1575年の長篠の戦いから始めるべきだ。
この時、昌幸の兄の信綱・昌輝の二人が戦死して、
昌幸は真田家に復帰したし、幸村は9歳の少年だった。
それに、長篠の戦いといえば、信長・秀吉・家康の三英傑勢揃いではないか。
それに、長篠のあとも新府城の作事奉行は昌幸だったと言うし、
小山田信茂・木曽義昌・穴山梅雪らの裏切りで武田が滅亡までのプロセスは
1クールぐらい時間をかけてじっくり描くべきではないか。
150人間七七四年:2013/10/06(日) 19:40:44.84 ID:gtmdOODY
大河が時代劇を鳴り物入りで放棄して「現代劇」として再スタートした時に
実質的な大河として機能していたのが水曜の「新大型時代劇」枠。
時代・歴史ドラマオタにとってはあの三年間は大河が水曜に移動していた時期。

1984年「宮本武蔵」 出演・役所広司 原作・ 吉川英治 脚本・杉山義法、音楽・三枝成章
1985年「真田太平記」出演・渡瀬恒彦 原作・池波正太郎 脚本・金子成人 音楽・林光
1986年「武蔵坊弁慶」出演・中村吉右衛門 原作・富田常雄 脚本・杉山義法ほか 音楽・芥川也寸志・毛利蔵人

セットや合戦シーンに金はかけられなかったけれど、演技者の熱演で歴史に
残る快作揃いになってる。特に真田は大河現代劇がさっぱり話題にされなく
なっても(橋田ドラマなんて当時は偉い視聴率取ってたんだけど)、いまだに
歴史的傑作としてCSやレンタルを通じて新しい世代の信者を次々生んでる。

草刈正雄の幸村が秀吉の謁見を受けるシーンの絵ヅラなんて、まるっきり
「花の慶治」のネタ元としか思えない華やかさだよ。
151人間七七四年:2013/10/06(日) 19:47:47.81 ID:gtmdOODY
上田合戦で寡兵による戦い方を実地に見、関ヶ原では父と兄が敵味方に別れるという心理的修羅を経験した信繁(幸村)にとって
人の心理に明るくなるっていうのは、至って自然な事
152人間七七四年:2013/10/06(日) 19:50:18.94 ID:gtmdOODY
真田三代における、第四次川中島の信玄と政虎の一騎打ち、
信玄は影武者で、政虎は別の騎馬武者という解釈になってるね。
153人間七七四年:2013/10/06(日) 19:52:09.79 ID:gtmdOODY
真田三代の小説も、天地人の小説と同じく場面描写があんまり上手くないな
戦も盛り上がらないし、会話の場面も盛り上がらない。
そして、今年の全く下らない大河の原作者が書いた作品かと思うと、
実際以上につまらなく思えて読む気が萎える。
昌幸が家康に嫌味を言う場面があったけど、大河の加熱具と被って見えて
なんとも嫌な気分になった。
154人間七七四年:2013/10/06(日) 20:06:43.29 ID:gtmdOODY
和歌山は、家康父子を顕彰する和歌祭と、
信繁(幸村)親子を顕彰する真田祭を平気で両立させる県です
155人間七七四年:2013/10/06(日) 20:20:22.13 ID:gtmdOODY
以前、NHK和歌山で夕方番組の男性キャスター(長野県出身)が
九度山の真田まつりに感動した!みたいな事言ってたよ。
紀州は基本徳川だけど、真田も人気ある
156人間七七四年:2013/10/06(日) 20:41:51.52 ID:gtmdOODY
九度山は城下から離れてるものの、
徳川藩政時代に敵将を偲ぶなんて大それた事は無理だろう。
たぶん明治以降の成立だと思う。
家康を祀る東照宮の「和歌祭」と、
昌幸&信繁(幸村)を顕彰する真田祭は時期をずらしてやっている。
県民は深く考えてないので並存できる
157人間七七四年:2013/10/07(月) 14:47:58.39 ID:vpAAuwry
433:日本@名無史さん:2008/07/20(日) 23:30:12
>仙台真田家は信繁の男系を主張しているが、一仙台藩士の家系なんてアテにならないと思う。



434:日本@名無史さん:2008/07/21(月) 07:35:10
仙台の真田はそもそも最初の大八が本物かどうかアレだからな。
公式には京都で石投げの石があたって死んだ事になってるし。
158人間七七四年:2013/10/07(月) 14:48:48.48 ID:vpAAuwry
437:日本@名無史さん:2008/07/22(火) 20:50:52
仙台の真田は途中で傍系から引張ってきてて、これも怪しいんだよな。
家老クラスならともかく
ヒラの仙台藩士の家系図なんてあてにならないと言えばあてにならない
159人間七七四年:2013/10/08(火) 15:24:20.00 ID:14zr+wdV
真田の屋敷跡の上田高校では校歌に「・・♪関八州の精鋭をここにくじきし・・」と上田城攻防戦の歌詞が組み込まれている。
160人間七七四年:2013/10/18(金) 02:22:20.31 ID:l8mDLr+R
松代藩真田十万石まつり 秋晴れの城下町、華やか時代絵巻 10月14日(月)
http://www.shinmai.co.jp/news/20131014/KT131013GDI090002000.php
161人間七七四年:2013/10/18(金) 02:59:26.61 ID:l8mDLr+R
 長野市松代町で13日、第58回松代藩真田十万石まつりのメーンイベント「真田十万石行列」があり、
初代藩主の真田信之や弟の信繁(幸村)、藩士で思想家の佐久間象山らに扮(ふん)した市民約250人が、
大勢の見物客に見守られながら秋晴れの城下町を練り歩いた。

 出発地の松代城跡には、華やかな時代絵巻を一目見ようとカメラマンや家族連れが詰め掛けた。
信之に扮した真田家14代当主の真田幸俊(ゆきとし)さん=慶応大教授=や、
公募の小学生らが武者姿で玩具の鉄砲を持つ「松代甲冑(かっちゅう)隊」、約2メートルある棒を振りながら男衆が歩く
「槍(やり)振り隊」など趣向を凝らした行列が次々と進んだ。

 インターネットで知り合ったという歴史好きの県内外の女性7人で訪れた長野市川中島町今井の会社員神田麻美さん(24)は
「武者行列がものすごく近くで見られるのが魅力。仲間も喜んでくれてよかった」と話していた。
162人間七七四年:2013/10/26(土) 15:38:52.95 ID:zJtzAwn+
結局昌幸の男系は残ってないわけか
163人間七七四年:2013/10/26(土) 22:27:51.12 ID:SvhtWZxN
4兄弟の信幸 信繁 昌親 信勝
信勝は死んだとされているし 昌親も信幸の子孫に繋がって消えてしまうからなぁ
その後は次から次へと養子が入るから血は薄まる一方で、最後はまったく関係ない人になるからなw
真偽が怪しい仙台真田家も入るしw
164人間七七四年:2013/10/30(水) 21:05:43.95 ID:7UHeQ/px
上田高校が甲子園に出場したとき大阪で人気があったそうな
165人間七七四年:2013/11/08(金) 22:36:12.86 ID:Y/zxvc3d
真田幸村の10代目子孫、喜平太の生涯まとめ刊行
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/11/20131104t15002.htm
166人間七七四年:2013/11/08(金) 22:38:21.27 ID:Y/zxvc3d
真田家のルーツ真田幸隆 武田家に再就職し旧領を取り戻す
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20131101/dms1311010729012-n1.htm
167人間七七四年:2013/11/08(金) 22:39:57.02 ID:Y/zxvc3d
【小山評定の群像(22)】
真田信之 大局観持った「信濃の獅子」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/131027/trd13102707010000-n1.htm
168人間七七四年:2013/11/08(金) 23:07:12.89 ID:Y/zxvc3d
169人間七七四年:2013/11/08(金) 23:08:25.25 ID:Y/zxvc3d
170人間七七四年:2013/11/08(金) 23:09:54.69 ID:Y/zxvc3d
171人間七七四年:2013/11/22(金) 03:48:52.38 ID:spgjKPNR
【歴史的名作】真田太平記 その十四
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/kin/1383843388/l50
172人間七七四年:2013/11/22(金) 04:59:29.36 ID:spgjKPNR
秀次事件

豊臣秀次(羽柴秀次)の妻子が皆殺しにされたわけではない。
豊臣十丸の祖母北野松梅院は死を免れている。
直系の親族では、淡輪徹斎隆重の娘・小督の局との娘で生後一ヶ月であったお菊は祖父の弟の子の後藤興義に預けられ、
後に真田信繁の側室・隆清院となった娘とその姉で梅小路家に嫁いでいた娘の同母姉妹も難を逃れている。
173人間七七四年:2013/11/22(金) 05:21:09.04 ID:spgjKPNR
豊臣秀次の血統はしっかり残されてます。
しかも秀頼系の血統は天秀尼(秀頼娘)の死で江戸前期に絶えたのに対し、秀次の血統は実は現在も続いてます。
秀次の次女の血統は真田信繁(幸村)の子孫として現存してます。
当初は秀次の名籍を継ぐ形で「三好姓」を名乗ったようですが、
最終的には「真田幸村の子孫のほうが見栄えがいい」という理由かららしく、明治には真田姓に戻したようですが。

歴史の神様は秀次を見捨てなかったとも。取れますね。あんなに残したかった秀頼系よりも、秀次系のほうが血統のこりましたからね。
174人間七七四年:2013/11/22(金) 06:17:19.20 ID:spgjKPNR
真田幸村の娘たち 古沢襄
http://www.kajika.net/wp/archives/34

真田幸村の娘「お田の方」 古沢襄
http://www.kajika.net/wp/archives/53
175人間七七四年:2013/11/30(土) 04:57:09.94 ID:/kqsR7vC
石川康勝(石川数正の次男)

慶長19年(1614年)、大坂の陣が勃発すると豊臣方に与して大坂城に入る。
大坂冬の陣における真田丸の戦いの最中に配下が火薬を誤爆させ、
康勝自身も負傷したが、この騒ぎを東軍が内応の合図と勘違いした一件が有名である。
翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において天王寺口の将として出陣、真田信繁隊と運命を共にして乱戦の中で戦死した。
176人間七七四年:2013/12/01(日) 13:32:45.71 ID:0DiD0Gxf
真田信繁(幸村)「敵も聞け、味方も聞け。関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」
177人間七七四年:2013/12/01(日) 13:43:25.01 ID:0DiD0Gxf
徳川方の先鋒は、本多出雲守忠朝、命令無視で抜け駆けした越前少将松平忠直。

・対する大阪方の南面の守りの中心は、毛利勝永、真田幸村で、毛利が本多、真田が松平に当たりました。

・毛利勢が巧みな戦術で本多勢を撃破し、大将の忠朝は戦死します。

・両翼のうち、片方が総崩れとなり、もう方翼の松平勢へ、真田勢と毛利勢が正面と横から突入しました。

・松平勢も総崩れとなり、真田勢が松平勢の正面を突破。

・何段にもわたる徳川方の備えを突破。

・家康の本陣にまで突入。

・旗本集は総崩れで三里も逃げ、三方ヶ原以降倒れることのなかった家康の金扇の馬印も倒れたらしいです。必死に防戦した のは大久保彦左衛門くらいで、逃げた者たちは戦後、厳しく罰せられたそうです。

・家康は馬に乗って辛うじて逃げたというが、一時、自害も覚悟したほど追い詰められたとか。そのとき付き添っていた、高野文珠院勢誉という僧に励まされ、なんとか自害を思いとどまった。

・数度の肉薄も及ばず、時間とともに兵力に勝る松平勢が軍勢を建て直し、真田勢は壊滅。
178人間七七四年:2013/12/01(日) 13:46:10.16 ID:0DiD0Gxf
・幸村は満身創痍で戦場を離脱し、安居天神社で休息中、松平勢の鉄砲頭・西尾久作(仁左衛門)に討たれた。

・首実検で、家康の前に供された幸村の首は、幸村の叔父で徳川方についている真田隠岐守によって幸村に間違いなしと証 明された。

・幸村を討った状況の説明を求められた西尾は、槍を数合、合わせた後討ち取ったとウソをつき、家康に見破られ、大喝される。
179人間七七四年:2013/12/01(日) 14:08:25.62 ID:0DiD0Gxf
>>44
前島氏は上田、松代を通じて代々真田家に仕えた家臣。一族の中には、真田昌幸・信繁(幸村)父子にお供して
和歌山県の九度山に移った人々もいたと伝えられます。
180人間七七四年:2013/12/04(水) 09:34:55.14 ID:meJpvH9r
家康養女(本多忠勝娘)を妻にしている信幸(信之)が
西軍につくなど鼻から有り得ぬこと
181人間七七四年:2013/12/04(水) 11:04:32.43 ID:meJpvH9r
真田幸隆(幸綱)の智略と功績は信玄に高く評価され、
外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、
甲府に屋敷を構えることを許された。
武田家中でも一目置かれていたと言われており、
戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。
ただし現在のこうした幸隆像は、19世紀前半に近世の松代藩主真田氏の業績を記した『先公御事蹟稿』などを土台にしており、
真田家の主張を前提として過大評価されたものである事は注意を要する。
182人間七七四年:2013/12/05(木) 08:36:59.82 ID:3DiZTal1
真田信之の辞世の句

「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり 」
183人間七七四年:2013/12/06(金) 14:46:38.41 ID:/Y8VGySB
真田信尹は武田滅亡後は真田本家とは別行動を取っていたが、徳川・真田の橋渡し役以外でも絶えず昌幸の下に情報を送り続けたとされ、
真田本家が生き残るための助力を分家として惜しまなかったと伝えられる。
184人間七七四年:2013/12/08(日) 08:51:47.85 ID:RPzAhtKd
伊木七郎右衛門遠雄は信繁(幸村)の数少ない理解者として有名です。
戦死した説の他に5月7日に逃亡したが真野頼包と刺し違えて死んだという説もありますが、
頼包には藤堂家に仕えたという話しもあるし。う〜ん。
185人間七七四年:2013/12/10(火) 01:09:10.19 ID:8nrDLZpo
真田大八

真田信繁の次男。1615年5月7日に大坂城を脱出して幸村の一族・三井備後(三井豊後のことか?)
の家臣である西村孫之進と吾妻佐渡に守られて、他の姉妹とともに伊達家の重臣・片倉重長の陣に行き保護された。
そして重長の居城・白石城に匿われ、成長すると真田四郎兵衛守信と名乗って千石を与えられる。

【身分を偽る】1640年に幕府から守信の家計調査を命じられると、伊達家は
『大八は7歳で早世し、守信は真田信尹の子・政信の息子で別人』として提出した。この時に片倉久米之介守信と改名している。この年に二代藩主・伊達忠宗に召され
て藩士となり、300石を与えられた。
186人間七七四年:2013/12/10(火) 01:14:09.95 ID:8nrDLZpo
真田昌幸・信繁の九度山での生活は決して楽なものではなかった。
信之からの仕送りがあるので、食うや食わずということはなかったが、
元大名のプライドがある昌幸は浪人になってもある程度の生活レベルを維持しないわけにはいかなかった。
そのため何かと金がかかり、借金をすることも度々だったと言う。
結局、家康の怒りは解けないまま、1611年6月4日、昌幸はこの世を去る。
187人間七七四年:2013/12/10(火) 08:33:45.91 ID:8nrDLZpo
真田氏は、信濃国の名族・滋野氏の後裔である海野氏支流の豪族。

@真田氏は東信(信濃国東部)出身で、北信の豪族ではない。
※真田氏が北信に移るのは、江戸時代の1622年(元和6年)に信濃国小県郡上田より真田信之が埴科郡松城(松代)に移封されてからである。
※【北信地方(北信濃・北信州・信濃国北部・長野県北部)】とは、明治初期までは水内郡・高井郡・更級郡・埴科郡の4郡で、それ以降は位置・気候の面から北安曇郡が加わる。

A海野棟綱・真田頼昌・真田幸隆は身を寄せたが、長野業正の家来にはなっていない。
“海野平の戦い”で敗れた海野氏一族は、関東管領の上杉憲政を頼って上野国に逃れ、真田一族の知り合いでもあった上野国箕輪城主・長野業正を下に身を寄せてただけです。
長野氏の客将扱いでした。
本家筋の海野氏は、信濃国では少し抜けた存在でしたが、その一族であり組下(家臣)の真田氏は小豪族です。

武田信玄に仕官した真田幸隆は、旧領を回復して“海野平の戦い”で敗れた村上義清を倒す為に、東信・北信地方に調略を行い村上方の家臣・城を下して活躍した。
村上義清を含む北信対策では、正しく幸隆は武田信玄の水先案内人だったと言えるでしょう。
真田幸隆・信綱(長男)父子は、信濃先方衆筆頭として北信・上州方面の抑えで活動し、戸石城番・東天飾城番・・箕輪城代務めるなど信玄の扱いは譜代衆並みだった。
188 忍法帖【Lv=19,xxxPT】(1+0:8) :2013/12/19(木) 18:24:10.72 ID:/dsvQiay
大河ドラマ「武田信玄」の真田幸隆(幸綱)(橋爪功)が最高
189人間七七四年:2013/12/20(金) 17:05:01.15 ID:BQyKZgdh
橋爪功最高だね。
一癖も二癖もある曲者っぽくて。
190人間七七四年:2013/12/22(日) 20:43:10.98 ID:Hh1Ru9Wt
大河ドラマ風林火山の幸隆はイマイチだった
191人間七七四年:2013/12/23(月) 00:05:57.90 ID:rCLzFeTM
真田のお家芸

敵を引き付けるだけ引き付けてから反撃
192人間七七四年:2013/12/23(月) 05:47:30.35 ID:rCLzFeTM
真田昌幸の主君

@ 武田信玄
A 武田勝頼
B 織田信長
C 北条氏直
D 徳川家康
E 上杉景勝
F 豊臣秀吉
G 豊臣秀頼
193人間七七四年:2013/12/23(月) 06:09:12.72 ID:rCLzFeTM
真田昌幸が安房守を叙任したのは1590年と言われていますが、
丁度この時期は安房の国を治める里見氏が代替わりして、安房守に空きがあったことも関係しているらしい
194人間七七四年:2013/12/23(月) 06:13:35.38 ID:rCLzFeTM
1594(文禄3)年に秀吉から豊臣姓を与えられ豊臣信幸の名で従五位下伊豆守に叙任・任官、同時に弟信繁も豊臣姓で従五位下左衛門佐に叙任・任官
195人間七七四年:2013/12/25(水) 19:37:48.98 ID:ankoHb0a
矢沢頼綱

若い頃出家し京都鞍馬の僧となるが、程なく郷里に戻って還俗し、
武田信玄に仕える兄の幸隆の下で信濃先方衆として活躍する。
幸隆や後を継いだ甥の信綱に従い、更に長篠の戦いで信綱が亡くなると、
真田家を継いだ甥の昌幸に従って上野国岩櫃城を攻略し城代となった。
その後も独立勢力となった真田氏の重臣として、
小那淵城、名胡桃城、小川城の諸城を攻略。
さらに沼田城も攻略し城代となり、北条氏邦の侵攻を受けるが、上杉景勝の援軍を得てこれを撃退するなど活躍した。
196人間七七四年:2013/12/25(水) 19:53:00.42 ID:ankoHb0a
矢沢頼康

真田氏の家臣矢沢頼綱の嫡男。真田昌幸の従兄弟にあたる。幼名三十郎。名は幸貞、頼幸とも。受領名は但馬守。
若い頃より沼田城代であった父に従い、天正期には既に城代をまかされていたとの記述もある。
天正12年(1585年)に昌幸の子信繁が上杉景勝の元へ人質に出される際には、
警護として随伴。翌年の第一次上田合戦では、上杉氏からの援軍と共に支城の矢沢城に篭って依田勢1500を退け、
追撃戦では大久保忠世らを散々に蹴散らす活躍を見せた。
関ヶ原の戦い後には当主となった信之に仕え、大坂の役では信之の代わりに出陣した子(信政、信吉)らを補佐した。
出陣にあたって、信之は頼康に「何事も油断なく、間に入って頼み入り候」と書き送っている。
頼康に子はなかったが、弟の頼邦が後を継ぎ、その後子孫は代々松代藩家老職を担って真田氏を支えた。
197人間七七四年:2013/12/25(水) 20:14:27.38 ID:ankoHb0a
真田幸隆(幸綱)の功績や事績をあげられるだけ挙げていくと
・1549年三月信濃国衆望月源三郎を調略。
・上記に対して信玄の朱印状を渡して認可。
・1551年、村上の要衝である砥石城を調略。
・その手柄によるものか、千貫文を与えられる。
・1553年には塩田城攻略で手柄を上げ、加増を受ける。
・1562年、上野攻略戦争における別働隊指揮官として活動開始。
鎌原城に在城。
・1564年には上野に岩櫃城を築く。
・上野国人大戸氏などを調略。
・岩下城を攻撃し、上野の斉藤氏を滅亡させる。
・1567年、臼井長尾氏の本拠地白井城を攻略してそこを在城。
・以後、西上野でも主要な守りの要となる。
198人間七七四年:2013/12/27(金) 12:23:06.43 ID:vZ0xNDfU
真田昌幸の旧主君・武田勝頼は無位無官ではなかった。
大日本古文書内上杉家文書収録の上杉景勝宛書状の署名によると勝頼は大膳大夫。
199 忍法帖【Lv=7,xxxP】(2+0:8) :2013/12/30(月) 09:06:23.71 ID:55AUIovx
大河ドラマ「風林火山」には真田信綱、真田正輝、真田昌幸が(子役で)出ているのな。
200人間七七四年:2013/12/30(月) 09:10:25.95 ID:55AUIovx
真田昌輝の子の信正は徳川家に仕え、松平忠輝、忠昌に従って越前に在したといい、子孫が今も越前真田家として存続している。
201人間七七四年:2013/12/30(月) 16:59:28.29 ID:55AUIovx
武田信之 (武田信玄三男)
真田信之(元信幸)

武田信繁
真田信繁
202人間七七四年:2014/01/03(金) 05:32:25.18 ID:rYtjs2Ed
矢沢頼綱

若い頃出家し京都鞍馬の僧となるが、程なく郷里に戻って還俗し、武田信玄に仕える兄の幸隆の下で信濃先方衆として活躍する。
幸隆や後を継いだ甥の信綱に従い、更に長篠の戦いで信綱が亡くなると、真田家を継いだ甥の昌幸に従って上野国岩櫃城を攻略し城代となった。
その後も独立勢力となった真田氏の重臣として、小那淵城、名胡桃城、小川城の諸城を攻略。
さらに沼田城も攻略し城代となり、北条氏邦の侵攻を受けるが、上杉景勝の援軍を得てこれを撃退するなど活躍した。
203人間七七四年:2014/01/03(金) 05:34:08.84 ID:rYtjs2Ed
矢沢頼康

幼名三十郎。名は幸貞、頼幸とも。受領名は但馬守。
若い頃より沼田城代であった父に従い、天正期には既に城代をまかされていたとの記述もある。
天正12年(1585年)に昌幸の子信繁が上杉景勝の元へ人質に出される際には、警護として随伴。
翌年の第一次上田合戦では、上杉氏からの援軍と共に支城の矢沢城に篭って依田勢1500を退け、追撃戦では大久保忠世らを散々に蹴散らす活躍を見せた。
関ヶ原の戦い後には当主となった信之に仕え、大坂の役では信之の代わりに出陣した子(信政、信吉)らを補佐した。
出陣にあたって、信之は頼康に「何事も油断なく、間に入って頼み入り候」と書き送っている。
頼康に子はなかったが、弟の頼邦が後を継ぎ、その後子孫は代々松代藩家老職を担って真田氏を支えた。
204人間七七四年:2014/01/03(金) 05:36:41.72 ID:rYtjs2Ed
鈴木忠重

松代藩家老。
真田氏家臣の名胡桃城主鈴木重則の子。
通称は右近。幼名は小太郎。
上野名胡桃城が北条家臣で沼田城主猪俣邦憲に奪われた名胡桃事件の際には、母とともに北条氏に捕われる。
城から開放された後は真田昌幸に引き取られその家臣となった。
19歳の時に出奔、その際に柳生宗章と出会い、弟子となった。また柳生の庄で柳生宗厳にも剣を学んだと言う。
7年間漂泊の後に帰参したが、関ヶ原の戦いの前後に再度出奔した。理由はよくわからない。
十余年後に真田氏に帰参し京の伏見真田屋敷留守居役を務める。
昌幸死後は沼田城主・真田信之の家臣として、真田氏の松代転封後は重臣に名を連ねた。
主君・信之が参勤交代で江戸に向かった後には藩政を司るため松代城に残っていたとされる。
信之病没後に殉死した。享年84。
出奔・帰参の前後に大きな戦い(関ヶ原・大坂の役)があることから、真田氏の諜報官であったとする説があるが、証拠になるような史料は見当たらない。
205人間七七四年:2014/01/03(金) 06:55:19.29 ID:rYtjs2Ed
鈴木重則

主水。
真田氏家臣。
鈴木忠重の父。

天正17年(1589年)に真田氏と後北条氏の間で領土争いが起こったが、この場は豊臣秀吉の仲裁によって収まる。
しかし、和議を反故にして謀略を仕掛けてきた北条家臣の猪俣邦憲によって、
自身が守る上野国名胡桃城を奪われてしまった。重則は城を奪われた自分のふがいなさを恥じ、正覚寺で自害して果てた。
この事件を機に豊臣秀吉は小田原征伐へと動いて行く。
なお、切腹時は通常座ってするのが普通であるが、
重則は、立腹といい、立ったまま切腹をした忠義の武士であったという記録が沼田市正覚寺に残っている。
206人間七七四年:2014/01/04(土) 06:03:12.30 ID:T/rWkjFU
>>127
>市の文化財を担当する佐野市生涯学習課は「(真田親子の別れが)犬伏とされるのは小説が始まり。
古文書では確認できず、伝承の域を出ない」と説明する。


犬伏の別れが伝承だったとは…
207人間七七四年:2014/01/04(土) 06:09:17.76 ID:T/rWkjFU
【ゆるキャラ戦国時代】
勇ましきオトメ「小松姫」 群馬・沼田商工会議所
2013.12.29 18:00 [ゆるキャラ]
http://sankei.jp.msn.com/life/news/131229/trd13122918000019-n1.htm
http://megalodon.jp/2014-0104-0606-39/sankei.jp.msn.com/life/news/131229/trd13122918000019-n1.htm
208人間七七四年:2014/01/04(土) 06:37:28.77 ID:T/rWkjFU
真田信之

正室:小松姫(本多忠勝の娘)
側室:右京(玉川秀政の娘)、真田信綱の娘
209人間七七四年:2014/01/04(土) 07:05:25.79 ID:T/rWkjFU
真田信之奥方大連院

真田信之の正室(妻)、小松姫のこと。
天正元年(1573年)生、元和6年2月24日(1620年3月27日)死亡。
本多忠勝の長女で、母は側室の乙女。幼名を稲姫(いなひめ)、または於小亥(おねい)という。
徳川家康の養女となり、天正14年(他年の説もある)に真田信之に嫁ぐ。信政、信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)らを生んだ。
夫からの信頼は厚く、良妻賢母の誉れも高かった。
晩年、病にかかり江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、武蔵鴻巣で亡くなり、夫・信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆したという。
210人間七七四年:2014/01/04(土) 07:11:00.06 ID:T/rWkjFU
真田信繁の正室は大谷吉継の娘・竹林院で1594年に嫁いでいます。
1595年に豊臣秀次は謀反の罪で切腹させられています。
その際に遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女39名が処刑されています。
難を逃れたのが何名かいますが後に真田信繁の側室になる隆清院もその一人です。
このように主君の一族ですが咎人の娘ですから妻にするのも容易ではなく咎人の娘を正室にすることはありません。
211人間七七四年:2014/01/04(土) 07:41:02.85 ID:A8OWuuqI
何この自演だらけの気持ち悪いスレ

しかも同じネタを使いまわしてるし

かなり精神病んでるわ
212人間七七四年:2014/01/04(土) 08:32:24.29 ID:T/rWkjFU
高野山の過去帳に「天文九…真田弾正忠幸綱母義」という一節があり、また四阿山奥宮という神社の棟札に「大旦那幸綱并(ならびに)信綱…永禄五」として真田親子(子は信綱)が社殿を修復した記録があります。
これから見るに、従来真田幸隆と伝えられていた人物の本当の名は「幸綱」であったと考えられます。
213人間七七四年:2014/01/04(土) 08:39:30.78 ID:T/rWkjFU
内藤昌豊 → 内藤昌秀
高坂昌信 → 春日(香坂)虎綱
秋山信友 → 秋山虎繁
真田幸隆 → 真田幸綱
小山田昌辰 → 小山田虎満
土屋昌次 → 土屋昌続
三枝守友 → 三枝昌貞
日向昌時 → 日向是由

が最近の調査で右の方の名が正しい名だと判明しており真田幸隆などは入道した時の名で真田一徳斎幸隆(さなだいっとくさいこうりゅう)といったのを後世の人が名前と勘違いして広めたのではとも言われています。
214人間七七四年:2014/01/04(土) 10:27:47.15 ID:wVb+k+In
>>211
仙台真田家乙
215人間七七四年:2014/01/04(土) 13:39:38.36 ID:L5S8bC9R
上田は幸村一色
216人間七七四年:2014/01/04(土) 17:38:53.10 ID:eOqDPllj
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http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/pcqa/1385047140/
217人間七七四年:2014/01/08(水) 11:59:14.95 ID:eKRVumZN
伊信?信伊?
って昌幸の兄弟?
なんて読むんだこいつは
218人間七七四年:2014/01/08(水) 18:26:11.92 ID:omPzh/P1
>>217
昌幸の弟の「のぶただ」
219人間七七四年:2014/01/14(火) 20:59:12.60 ID:VgRoJa5V
真田氏ゆかりの縁、そば打ち交流 上田に九度山町の児童来訪 01月14日(火)
http://www.shinmai.co.jp/news/20140114/KT140113GDI090004000.php
http://megalodon.jp/2014-0114-2055-57/www.shinmai.co.jp/news/20140114/KT140113GDI090004000.php
220人間七七四年:2014/01/14(火) 21:02:54.12 ID:VgRoJa5V
221人間七七四年:2014/01/22(水) 19:05:11.13 ID:/NrpqpVa
222人間七七四年:2014/01/28(火) 04:30:36.76 ID:s7yluzNM
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、牧野康成は徳川秀忠軍に属して真田昌幸(西軍)が守る信濃国上田城攻めに参加した。
徳川方の刈り田働き阻止をめぐる偶発的戦闘で、康成は友軍の危機を救援することを命じたが、
これが城攻めにまで発展した。
しかしこの城攻めは秀忠に無許可で、しかも結果は「惨敗」であったため、
康成はその責を問われた。直接指揮をした部下の贄掃部を切腹させるよう命じられたが、
康成は自ら責を負うとしてこれを拒否した。
嫡男の忠成もこの命令に逆らい、贄らを伴い出奔したため大いに秀忠の怒りを買い、康成は上野国吾妻に蟄居処分となる。
223人間七七四年:2014/01/29(水) 08:09:56.60 ID:udy6PlOD
【真田丸】はどう凄かったんですか?

「大阪の冬の戦い」で有名な「真田丸」ですが
どう凄かったのでしょうか?
224人間七七四年:2014/01/29(水) 22:04:37.42 ID:jKWYsQT+
城を攻める場合はその城の弱点から攻めようとしますが、大坂城はとてもひろくてどこからでもせめられる構造でした。
そこで真田はもっとも弱点であるところに真田丸という出城をつくります。
この砦は従来あった砦をさらに外側にひろげて砦の出入り口をおおきくひろげます。
こういうことをすると敵は入口がひろいので一見せめやすくおもいますが、
そこがじつは真田の計略なのです。
というのは出入り口がひろいということは敵に侵入されやすいがまもりやすいということなのです。
おおきくひらいた砦に敵をさそいこみ3方向から攻撃できこれにより徳川方の兵はおおきな損害をあたえられます。
そしておおきな出入り口により大勢の兵を追撃しやすくなりましたこれにより真田丸と敵方よりなずけられて有名になります。
225人間七七四年:2014/02/10(月) 02:17:35.19 ID:Y3QMLaGe
よく最終石高で人物評する奴いるけど
そういう奴って
みんな同じ状況、立場でスタートラインに立ってるとでも思ってるのかな?
昌幸と同じ状況で
真田家と同じように存続させられる有名大名が幾人いるか・・・。
226人間七七四年:2014/02/13(木) 05:54:07.06 ID:JmweS2xK
.
戦国屈指の手腕、真田昌幸 外交と謀略駆使し家名を知らしめる
2014.02.07
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140207/dms1402070726004-n1.htm
227人間七七四年:2014/02/16(日) 09:56:49.52 ID:3S6q5pln
真田信繁は九度山で子づくりの日々
228人間七七四年:2014/02/22(土) 22:27:05.65 ID:FOMLDtwT
>>225
じゃああんたは昌幸が有名大名の立場なら余裕でそいつより勢力広げてたと思ってるのか?
昌幸が独立して生き残った状況が本能寺の混乱とそれを秀吉が素早く纏めたお陰でもあるんだし、石高以前に戦国大名の扱いで評価するもんじゃない
229 忍法帖【Lv=20,xxxPT】(1+0:8) :2014/02/23(日) 17:32:15.80 ID:nh8hjjcL
大坂夏の陣に際しては、城方が巻き返した折、前田軍中から城方に味方するようにとの声が起こったが取り合わなかったという逸話が伝わる。
230人間七七四年:2014/03/03(月) 03:18:33.44 ID:dPUjEk1w
>>228
は?
余裕でそいつより勢力広げてたなんて書いたっけ?w
最終石高で評価するのは間違ってると言ったまでだ
扱い?w
地政学的な問題など
個人の能力以外のことが如何に大きく作用するか
誰でもわかることだ
それと秀吉が上杉に手を回して
真田を守ったのは秀吉の都合云々も当然あるが
昌幸が恩を売るにたる人物だと考えたことも大きい
231人間七七四年:2014/03/03(月) 18:26:03.70 ID:xfVpj3bG
喧嘩するような事じゃ無いから双方止めなさいよ(調停)
232人間七七四年:2014/03/04(火) 12:22:45.90 ID:tx3Mm/8A
昌幸で面白いのは関ヶ原で家康本隊秀忠隊を上田に縛り付けたので関ヶ原で西軍が負けたのが信じられない、と思っただろうけど、その戦法がかつて自分達武田軍が家康に使った戦法だとは。
233人間七七四年:2014/03/10(月) 01:16:00.58 ID:T1D+eCR+
幸隆

昌幸

信之(松代藩初代)

信政(松代藩2代)

信就(旗本。真田勘解由家初代)

信弘(松代藩4代。旗本真田信親養子→松代藩3代幸道養子)

貞徳院(大和郡山藩2代藩主柳沢信鴻継室)

柳沢保光(大和郡山藩3代藩主)

女(外山光施室)

外山八千代(竹内治則室→島津久光養女)

島津(竹内)輯子(松代藩10代藩主真田幸民継室)

幸正(伯爵)

幸治(伯爵)

幸長

幸俊(現当主)
234人間七七四年:2014/03/10(月) 01:20:30.04 ID:ss4m96jp
江戸時代、松代藩の藩政は厳しく、圧政から一揆が頻発
一揆首謀者は打ち首
また、重税軽減を松代藩に願い出れば、その首謀者も磔
また幕府に訴え出れば、松代藩が叱りを受けるため、その首謀者のみならず
その村ごと焼き討ち、親類縁者皆殺しと相成った
松代城焼失は、そんな村人の恨みを買っての事と思われる
235人間七七四年:2014/03/10(月) 20:06:47.63 ID:o3uT/a4g
私の母親なんですが旧姓が真田なんです
詳しく書くと特定されちゃうのでザックリで済まんが出身は山形県の某市
それで本家の墓なんですが家紋が六文銭なんですわ
周りの墓も結構な割合で六文銭が見られるんですが
やっぱり夏の陣の残党が逃げ帰ってきて定住したのですかね?
236人間七七四年:2014/03/10(月) 20:44:01.40 ID:WHBmryYy
山形だと越前真田家の流れの家かも 家康の時代に松平家に仕官している
仙台真田家の流れという場合も在るが
237人間七七四年:2014/03/10(月) 20:47:34.11 ID:WHBmryYy
山形藩は越前松平家が入っているから真田家も付いてきている可能性が大きい
238人間七七四年:2014/03/11(火) 20:09:30.06 ID:w3vepq72
家の菩提寺である
浅草の池の妙音寺には武田今川後北条と真田遠山朝比奈以下のその家臣団の末裔と思しき墓があるんだ
誰か来歴ご存知の方いたら教えてくらはい
239人間七七四年:2014/03/11(火) 21:59:22.84 ID:QAfxhFrW
>>238
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1390465028/278-n

質問スレ↑にコピペしておいたから結果を自分で確認してください。
240人間七七四年:2014/03/12(水) 00:21:45.87 ID:WmVf6x8u
>>235
山形県なら羽黒山の山伏となった幸隆の庶子の清鏡か幸村の庶子の宥清に関係があるかも

ttp://hirasan.canada2194.com/yamagatameisyo2.html

鎌倉時代にも真田家久という人物が羽黒山にいたらしいので、そっちかもしれないね
家久と戦国真田氏の関係については不明
241 忍法帖【Lv=6,xxxP】(1+0:8) :2014/03/18(火) 21:38:35.32 ID:guFYAJow
大坂夏の陣

真田信吉敗走・・・
真田信政敗走・・・
242人間七七四年:2014/03/21(金) 13:07:56.75 ID:888FwomQ
おーぷんにこんなスレが立ってた

【戦国一の武将】 真田幸村【日本一の英雄】
http://ikura.o●pen2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1395327836/ (●は抜いて)
243行断:2014/04/08(火) 06:41:11.52 ID:HmGOGQtZ
父昌幸は偉大な武将だな。
真田幸村のやったことは、すべて父昌幸が考えたって説がある。
そう考えたら、幸村はさほどの人物じゃあない。
昌幸は、武田信玄の人質に行ってたんだよ。
だから、信玄の戦い方をずっと見てきた。
まあ、昌幸に限らず、武田家の家臣はみんな優秀だと司馬遼太郎が言っていた。
でも、大坂の陣を見てて、幸村は戦が上手くても、天下人にはなれないな。
そういう器量じゃない。
昌幸が地域領主にしかなれなかったのと同じ。
244人間七七四年:2014/04/29(火) 18:34:53.28 ID:pYIkUdge
GWは長旅になるから久々に真田太平記読む、
今回は何ヶ月掛かるかな。
前回は2ヶ月くらい掛かった。
245人間七七四年:2014/04/29(火) 20:07:48.01 ID:WMsDoaFH
沼田市が町おこしで小松姫使い始めた
その「おまけ」で信之さん押しも始めた
246人間七七四年:2014/04/30(水) 13:41:57.57 ID:OkGH+Hco
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本日の講義は【大日本帝国は生きている 武士道】です。

現代でも日本人の心に受け継がれている武士の魂…

日本刀とはまさに神が宿る神器とも言えるでしょう。

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/
247人間七七四年:2014/04/30(水) 19:11:35.34 ID:dGFQlTW7
>>245
吉報
248人間七七四年:2014/04/30(水) 20:11:53.49 ID:DbZ0mUAx
沼田市 真田信繁(幸村)表記で統一しているところに好感が持てる
249人間七七四年:2014/05/18(日) 16:15:15.19 ID:eR2LYZ5+
長篠の戦いで兄2人が死んだおかげで昌幸が家督を継ぐことになったんだよな。
結果的には良かったのだろうか。
250人間七七四年:2014/07/30(水) 01:19:46.50 ID:+th0sPcV
保守
251人間七七四年:2014/08/02(土) 20:56:18.43 ID:ydSPlkKb
保守
252人間七七四年:2014/08/03(日) 11:40:51.16 ID:nT2vY5MI
第一次上田合戦の時の徳川は戦慣れした兵士が少なかったのが敗因みたいだね
253人間七七四年:2014/10/10(金) 05:04:50.73 ID:RxVMY9+b
test
254人間七七四年:2015/02/18(水) 19:22:13.47 ID:fJv8a+qA
上杉と武田という大勢力に挟まれてたのに吹っ飛ばなかった大名だったね
ただあまりにも時期が遅すぎたか毛利元就や徳川家康みたいに大勢力大名
にはなれなかった…
それにしても信之は晩年は地味すぎるね…
立花宗茂なんて晩年の島原事件の時でもオラオラしてたらしいし…
255人間七七四年:2015/02/18(水) 20:53:02.84 ID:B/vB7ihf
真田信繁は可哀想だ。
確かに日本一の兵だな。
ただ相棒的な存在の毛利勝永も覚えてほしい。
こちらは可哀想な上にさらに活躍の割にはあまり名前を覚えてもらえていない。
ある意味とても可哀想な武将。
256人間七七四年
本家はまだしも
他の一族の奴も他家で出世してる中
山の中で寂しく老人介護やってれば
一旗あげたくなるよ