戦国ちょっと悪い話35

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1人間七七四年
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2013/01/01(火) 21:21:58.49 ID:N569VcYa
  あけましておめでとうございます
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:::::::: :.: . . /彡ミ゛ヽ;)ヽ、. ::: : ::  
::::::: :.: . . / :::/:: ヽ、ヽ、i . .:: :.: ::: 
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
3人間七七四年:2013/01/02(水) 21:40:55.61 ID:eJG5YrwL
       _,..-――-:..、    ⌒⌒ あけましておめでとうございます
     /.:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::.\      ^^
    / .::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::..ヽ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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4人間七七四年:2013/01/03(木) 13:49:56.89 ID:wIuyxsJR
天正中の初め、小田家は土浦城を佐竹勢に囲まれたうえに、一騎当千と
頼んだ海上武経と行方幸菊丸の討死によって城中の空気は失望一色となった。
そこに佐竹軍が鉄砲を激しく撃ち掛けてきた。

その頃、常陸両国にはいまだ鉄砲がなかったのだが、佐竹はこれを求めて
絶え間なく撃ち掛けてきたので城中の者たちは肝を潰し「これは一体
どうしたことだ。人間の行為とは思えない」と恐れをなした。

既に大手の軍は破れたと知った小田氏治は守治、菅谷、由良、丘見らに
向かって「氏治の運命ここまでなり。自害する。防矢を射させよ」と命じた。
諸臣は「心得候」と涙ながらに敵陣へと馳せ向かっていった。

氏治は広縁に曲録を置かせてその上に座り、法華経六巻、寿量品を心静かに
唱えた。そして結跏趺坐し、近習の櫻井豊之助に目配せすると櫻井は後ろに
廻り、太刀影光れば氏治の首は前に落ちた。豊之助もまた刀を取り直し腹を
一文字に掻き切った。

野中瀬入道鈍斎は氏治自害と聞いて攻め口より来たり、その有様を見て
「それがしは君と同年にして幼少竹馬の昔より付き添い奉った。死ぬ時は共に
と申し上げましたのに先立ちなさるとは、恨みに思いますぞ」と泣きながら
法華経をしばらく唱えて、自身も腹を切って殉死した。

誠に日本は義国なりと白居易が誉めたのもその通りだと思い当たるばかりである。

――『小田天庵記』

小田天庵記では自害したことになっている氏治公であった。
一応「越前で死んだって説もあるよ」と紹介されてはいる。
5人間七七四年:2013/01/03(木) 13:52:43.03 ID:LBHjonDx
一瞬ポカーンとなった
不死鳥だから、死んでも灰から蘇ることくらいあるよね
6人間七七四年:2013/01/03(木) 13:55:28.46 ID:XLLsn5J4
そこで自害した事にしておけばそれ以降の黒星も無かったことに・・・ならない気がする
7人間七七四年:2013/01/03(木) 14:15:51.82 ID:/5wrQpZm
氏治殿がまた死んでおられるぞー!
8人間七七四年:2013/01/03(木) 14:20:23.68 ID:HQEuFh0X
天庵様は大陸に渡って…渡って…


帰って来たんだよ!
9人間七七四年:2013/01/03(木) 16:32:28.49 ID:T3iNMd/x
さすが天庵さまだ、首を斬られてもなんともないぜ。
10人間七七四年:2013/01/03(木) 18:47:16.28 ID:yPRMNO+J
青森あたりに何故か天庵様の墓があるに違いない
11人間七七四年:2013/01/03(木) 19:12:05.85 ID:nynan+pS
ここで死んだことにしといたほうが軍記的にかっこいいからね、仕方ないね
12人間七七四年:2013/01/03(木) 19:18:35.89 ID:rZWVXNrF
天庵1「わしが死んでもいずれ第2、第3のわしが現れるだろう」
天庵2「わしが死んでも代わりはいるもの」
天庵3「多分、わしは3人目だと思うから」
13人間七七四年:2013/01/03(木) 19:37:42.51 ID:HQEuFh0X
天庵様、またエゲレス商人からその様な怪しげな石の仮面などお買い求めになられて…お戯れが過ぎまするぞ
14人間七七四年:2013/01/03(木) 20:04:32.89 ID:XLLsn5J4
守治「どんなありえない負け方をしても元気に帰ってきていた父上が・・・」
菅谷「思い返せば何故ここまで生き延びれたのか不思議だったが・・・」
野中「死んでしまわれるなんて信じられませぬ・・・」
櫻井「小田城を取り返すぞという殿の声がまだ聞こえて来そうで・・・」
天庵「そうだよ小田城まだ取り返してないじゃん!ごめん今の自害なし!」
一同「ギャー!」
15人間七七四年:2013/01/03(木) 20:06:57.91 ID:wIZdr5L4
氏治「オール・フィクション!」
16人間七七四年:2013/01/03(木) 21:30:22.66 ID:zP9mTyd7
天庵様なら切腹しても生きてるかもしれないなw
17人間七七四年:2013/01/03(木) 22:51:33.33 ID:pGc6Ni5S
氏治「俺は不可能を可能にする男だ」
18人間七七四年:2013/01/03(木) 22:53:58.41 ID:Cz5MolTa
日根野さんの記録を超えるのか
19人間七七四年:2013/01/03(木) 23:20:24.54 ID:ByLAKb5F
魁!小田塾
20人間七七四年:2013/01/04(金) 00:20:59.61 ID:gFpaJxLb
天庵さまの本体はあの猫に違いない
21人間七七四年:2013/01/04(金) 00:25:32.18 ID:NG/d2FRT
氏んでも治るんだな
22人間七七四年:2013/01/04(金) 04:31:56.86 ID:iI2/cSXe
なぜか、悪い話スレなのにスレが華やいでみえる
これが正月と天庵様の力なのか・・・!
23人間七七四年:2013/01/04(金) 08:09:27.36 ID:ez98fwjA
どうしても負けられない戦いがあるーーー小田氏治
24人間七七四年:2013/01/04(金) 11:55:56.88 ID:RmWu27QF
天庵様は魔界転生をされたのだ。
25人間七七四年:2013/01/04(金) 13:20:03.67 ID:0MhBORgu
クローンが用意してあるんだろ
26人間七七四年:2013/01/04(金) 18:25:46.25 ID:UOm9OmPL
足利茶々丸の死後、北条早雲は伊豆の侍の帰順や土民百姓の待望を
背景に御所の跡を残らず押領した。その時、茶々丸の侍・戸山が早雲の
野宿する御堂へ忍び入って火を放ち夜討ちを仕掛けた。

この時、運も尽きたということだろうか、早雲はぐっすりと寝入っていたので
枕の上に火が及んでも気付かなかった。しかし間一髪のところで笠原が
走って来て、手で火を払い早雲を救い出した。

だが、笠原の左手は焼けてしまい、指も皆焼け落ちて生姜のようになって
しまったのだとか。夜討ちを仕掛けた敵は皆逃げ落ち、あるいは討ち取られた。

元々生姜は『はじかみ』と呼ばれた。しかしこの一件より伊豆国では早雲を
恐れて『しょうが』とばかり言うようになった。その頃、何者かが早雲の門に
落書を立てた。

「草の名も所によりて替りけり伊豆の生薑は伊勢のはじかみ」

本名が伊勢氏だったのでこのように言ったのである。

――『異本小田原記』
27人間七七四年:2013/01/04(金) 20:21:43.58 ID:E79KxmtN
早雲の代は伊勢しか名乗ってないから当然のような。北条を騙るのは氏綱から。
28人間七七四年:2013/01/04(金) 20:35:13.78 ID:lan9uoEA
天庵:義重、オレは人間をやめぞぉ”””””
29人間七七四年:2013/01/04(金) 21:15:27.58 ID:86vESgDD
いくらなんでも早雲は寝入りすぎだろw
寝耳に水でも起きないタイプかよ
30人間七七四年:2013/01/04(金) 22:55:13.82 ID:UOm9OmPL
>>26
申し訳ありません、手で火を除いて助けたのは笠原だけど
左手が焼けたのは早雲の間違いです。
31人間七七四年:2013/01/05(土) 03:41:15.87 ID:csZ8M9er
この人は劉備とイメージがかぶるな。負けても何度でも復活する事や優秀な家臣に見捨てられないあたりが。
32人間七七四年:2013/01/05(土) 04:32:57.03 ID:dMECkd1l
蜂須賀小六の子孫の蜂須賀茂韶侯爵(華族)。

明治天皇に参内したとき、明治天皇のタバコを盗んだ。
それに気づいた明治天皇が「先祖は争えないね」と失笑。

それに激怒した蜂須賀侯爵は、自分は泥棒だけど先祖は盗賊で
ないことを明治天皇に主張した。
33人間七七四年:2013/01/05(土) 05:16:04.39 ID:VLGGpfmQ
>>32
何故か可愛いと思ってしまった
悔しい!
34人間七七四年:2013/01/05(土) 07:32:15.74 ID:ni4j45E+
板違いだけど、なぜそのあとを省略するんだ?
35人間七七四年:2013/01/05(土) 08:44:22.67 ID:P9kmL0hU
36人間七七四年:2013/01/05(土) 12:04:28.29 ID:UXG39IIH
さて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7167.html
この本城常光の誅殺は毛利方についた石見の国人を大きく動揺させ、再び離脱するものが相次いだ。
これに慌てた毛利元就公は、この事態は本城常光の怨念によるものだと考え、陣所からほど近い
鰐淵寺に参詣し、和多坊栄芸に対面して

「本城の怨念を沈め、また尼子晴久の一命を奪うよう、無二の祈祷をして頂きたい。」

と、依頼し、栄芸もこれを辞することが出来ず、よって鰐淵の滝壺に壇を構え、
初三日三夜は五大尊の法、中三日三夜は六観音の法、終わり三日三夜は七仏楽師の法を修した。
炉壇の煙は満山に霞み、振鈴の音は万峰に響き、大法秘密九日九夜修行あって、元就公は陣所に帰られた。
間もなくその験が顕れるのかと人々は、暗に恐ろしく思った。

そもそも、天子将軍が天下の軍乱を鎮め、万民が安全に生活できるようにするために、怨敵退治・調伏の
秘法を修せられる旧例は確かに多い。しかしこれらは民の利益のための、大仁大度によるものである。

ところが毛利・尼子の争いは、民を治めるための仁戦ではない。私利を目的とした軍事行動によって、
他の国を切り取って自分の物にしようとする欲心のため、累年に渡り中国を騒動させ、万民を苦しめる
戦である。

それがせめて、剣戟刀槍によって敵を滅ぼし、その国を得るのであれば武門の業とも言えるのだろうが、
智謀計略によっても敵を滅ぼすことが出来ずに、仏神に祈り呪詛して敵を落命させるなど、
元就公や吉川元春には、こういった不仁不義の例が少なくないのだ。

また六観音の法を修めれば、呪詛や諸毒薬はたちまちその本人に還るという要文があり、
これによって毛利家にも今後不思議の憂いが生じるだろうと、人々は眉を寄せて愁嘆していた。

尼子晴久公は、永禄五年十二月二十四日の晩、48歳にて手水のために縁先に出た所頓死された。
大変いたわしい事であったが、これは毛利が、厳島や鰐淵山で修めた祈祷の験であった。

そして翌年、和智誠春の毒薬によって、毛利大膳大夫隆元は、享年41歳にて頓死された。
これは只事ではない。毛利家の柱石に対しそれまでの利益の報いが還り、砕けたのだ。
父元就に先立たれ、わずか11歳の幸若丸殿を捨て置かれて、隆元公は逝った。
隆元公の、無念の御心の内が推し量られ、大変いたわしいと、人々は因果の道理を感じたのである。

(雲陽軍実記)

尼子家の家臣であった河本大八隆政が1580年頃に著したとされる雲陽軍実記より、
尼子側から見た元就の戦いや、隆元の死についての所感である。
37人間七七四年:2013/01/05(土) 12:37:38.69 ID:ik93pClb
そこで綺麗な隆景さんなわけですね^^
38人間七七四年:2013/01/05(土) 16:55:29.86 ID:lL2z65fE
長尾景虎「不仁不義・・・だと?」
39人間七七四年:2013/01/05(土) 17:51:19.54 ID:LwzvXhLM
ある時、毛利輝元が老臣を召して「公方義昭公は退屈な日々を送っている
ことだろう。かといって武家在家の人などでは安らかに伽することはできまい。
そこで我が領国の禅宗役に三人当たり一年代わりで伽を申し付ける。
この公方は詩連句を詠み秀才であると聞くから、相応の相手でなくてはならぬ」

と、命じた。老臣は承って寺領千から三千石などを寄付して、秀才の僧侶たちに
義昭を慰撫させた。義昭は大層喜び、彼等に慰めさせて一日を過ごすようになった。

それから歳月を経たある年に、鑑首座という禅律僧がいた。彼は天龍寺妙智院で
修行した悟道発明の僧であったので、義昭は仏法を皆首座に聴聞し、少しも側を
離さなかった。春秋に至っては山野の樹木、紅錦の林を飾る風情を観覧する時でも
この首座と同道して一日を過ごしていた。

さて、義昭には持病があった。この持病が殊の外悪くなり尋常ではない苦しみよう
だったので、人々は何かと義昭を労わった。御伽の僧たちが芸州へしかじかと
報せるとただちに名医が遣されて来た。医術を尽くして治療が施されたが、日々
容態は悪くなっていったので、人々は「どうなってしまうのだろう」と今になって
驚いた。そんな時に義昭は首座を枕元近くへ呼びよせた。

「我は武将の家門に生を受けながら戒力は薄く、その徳は備わらなかった。
だから織田信長に一度は救われ厚恩は感謝しきれないほどであったが、己身有世の
為にたちまちに我を排除した。そこを秀吉が情をもっていたわり、輝元が大分の扶持を
参らせ、そのうえに諸々の懇志があったことは後世までも忘れ難い。この旨を心得てくれ」

首座は涙に咽び、少し間を置いて上意を承った。そして「そのように心細く
思われますな。御顔の色はいつも通りですから程なく御快気することでしょう。
きっと御持病の程度がひどいので弱ってしまわれたのですよ」と義昭を慰めた。

その後、義昭は采女を召して「御料紙箱に色紙が二枚あるはずだ。持って参れ」と
命じた。首座は以前に色紙を望んだが今日まで打ち過ぎていた。義昭は「この世を
去ることになるから、これを取って筐に見てくれ」と言った。首座が頂戴して涙ながら
に見ると、そこには古歌があった。

「いづくにも心とまらば住かへよながらへばまたもとの故郷」
「朝露は消え残りてもありぬべし誰かこの世に残りはつべき」

二、三日経って義昭はますます弱っていた。暁方に監物入道と采女を召して
密かに話すことがしばらくあって、その後は仏号を静かに唱えていたが、明方に
眠るようにこの世を去った。遺言通り火葬にされ、遺骨は高野山に納められた。
また、かつて豊臣秀吉が田舎暮らしは退屈だろうと参らせた秘蔵の御局は中陰後に
京へ参らせた。万事遺言の通りに処理されたのであった。

――『室町殿物語』
40人間七七四年:2013/01/05(土) 20:32:02.34 ID:LwzvXhLM
>>39
ちなみに持病はさしこみだそうで。
41人間七七四年:2013/01/06(日) 11:02:16.22 ID:gKzfWS5Z
永禄6年(1563)、毛利隆元公は大友との和平締結に成功すると、7月10日、本拠地吉田郡山に帰還。
翌日、城内にあった嫡子・幸鶴丸(輝元)公と正室福原殿を城下の宿舎に呼び寄せ、三献のあとお供の衆も
召し出し、近年の戦局の次第、今回の大友との和睦のこと、公方方からの上意のこと、そして何より、
父・元就公が数年にわたり油断なくお心遣いされており、ご苦労されているのだということを、心静かに
仰せられた。

そうして幸鶴丸公母子を御城に帰されたが、久しぶりの妻子との再会だというのに、あまりうちとけない物であった。

腰を落ち着かせる間もなく、翌12日には尼子攻めの出雲戦線に合流すべく吉田を立ち、佐部という場所で
軍勢の集結を待ち、8月5日には出雲に向けて出立するということになった。

その直前の3日夜、和智誠春に招待されそこで夕食を取り、本陣に帰られた。
翌4日夜、にわかに体調が崩れ、そのまま隆元公は急死した。
これに下々に至るまで嘆き悲しむこと、言語を絶する程であった。

御遺体は吉田大通院に納められ、葬礼相調えられた。御法名は花渓常栄大居士とされた。

隆元公はその御一生の間、行跡能く御孝行を第一に考えられていたので、『平重盛以来の御名将である』と、
他国の人々も揃って唱えていた。

隆元公が最期に吉田に帰られた時も、2日ほど滞在されたのに、遂に御城には入られなかった。
どうしてかと尋ねられると、隆元公は

「今、父上は雲州において、昼夜ご苦労されているのだ。そんな所に、例え一夜であっても自宅に立ち寄るというのは、
あまりに気ままのように思う。
まあ、父上に対する敬意だよ。」

そう仰ったのだという。

御孝行の事など書き付けるのは、畏れ多いことだとも思うが、旧記によればこの様であったとの事である。
(吉田物語)

吉田物語より、毛利隆元急死に関する記事である。
42人間七七四年:2013/01/06(日) 15:19:37.82 ID:6Fgka5PV
平重盛とかw後世の作り話かよ
子供がいたら三好義興も揶揄されていたんだろうか
43人間七七四年:2013/01/06(日) 17:45:37.34 ID:JQ7zQg3R
世に生き仏と言われた一休和尚も岩木ならぬ身の悲しさには女色男色を
見て心を動かすこともあったのである。かつて一休が駿河に行脚した時、
府中に小玉弁之助という田舎には似つかわしくない実に艶やかな美少年
がおった。

一休は彼を一目見て大変堪え難く思い、しきりに弁之助を口説くも
拒否されるばかりであった。そこに一休が一首の狂歌を送った。

「花は根に鳥は古巣にかへれども人は若さにかへることなし」

弁之助はこの狂歌に心動かされて返事を送り、その夜に一休を訪ねてきた。

「あなたの御望みに従います」

「これはよく来たな。しかし今朝までは左様に思っておったが、
今はもうその念も去って用なきことだ。早く帰りなさい」

一休はそう言って弁之助を帰したそうだ。
いつもながらその心の動く時にこれを動かし、動かない時には堅くこれを
動かさないことは、実に行く水の如く、誠に敬服のことである。

――『一休禅師 頓智奇談』
44人間七七四年:2013/01/06(日) 19:40:18.94 ID:sFzTHeAL
アニメ化不可能な一休さんだな
45人間七七四年:2013/01/06(日) 19:57:03.18 ID:jHAy2Bxv
(男色が)好き好き好き好き好き好き♪(美少年を)愛してる♪
まあ坊さんなら美少年好きは当たり前と甲斐の虎が
46人間七七四年:2013/01/06(日) 20:51:55.10 ID:wRA34UrV
最期も、孫くらいの年齢の女性を侍らせて死にとうないだもんなあ
47人間七七四年:2013/01/06(日) 20:54:52.04 ID:z4RRmrRx
死にともな、ああ死にともな、死にともな
48人間七七四年:2013/01/06(日) 20:59:22.62 ID:8JYGJM2b
>>45
アッー! アッー! なむさんだアッー!♪
49人間七七四年:2013/01/06(日) 21:20:04.74 ID:Pf6zJm12
門松はメイドの足袋の一里塚 愛でたくもあり愛でたくもなし
50人間七七四年:2013/01/06(日) 21:32:55.22 ID:3SAwhwqW
>>49
一休が天才に思えてきた
51人間七七四年:2013/01/06(日) 21:45:16.81 ID:4JTzrEST
しかし、本当に後小松天皇のご落胤だとしたら、
還俗して天皇になった可能性あり?
52人間七七四年:2013/01/06(日) 21:56:40.29 ID:qR6AvXc+
還俗する理由があんまりないんじゃね?
一休さん以外にも皇子もいた気もするし・・・
53人間七七四年:2013/01/06(日) 22:00:38.33 ID:4JTzrEST
wikiでみたら、後小松天皇の皇子の称光天皇には皇子がなく、他の宮家から養子とったみたいだったから
54人間七七四年:2013/01/06(日) 22:02:03.76 ID:UeIs6lrl
みんな先に死んでるけどね
55人間七七四年:2013/01/06(日) 22:03:04.32 ID:qi0zRP+G
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4178.html
一休禅師「賢者モード?」
こっちは相手は女だが似たような話
56人間七七四年:2013/01/07(月) 00:01:37.19 ID:dVmOGLXB
>>49
何という才能の無駄遣いw
57人間七七四年:2013/01/07(月) 17:37:32.51 ID:3GxYd8/y
九条稙通が若年の頃は天下の乱れも激しく公家の知行も絶え絶えとなった。
都での生活もままならないということで稙通はあるいは和泉堺、あるいは
九州に徘徊した。また、武勇も心掛けていた。

稙通は機嫌の良い時には色々と昔語りをしたものだった。

ある時、稙通は「何事も思い立ったならば中途半端にせず極みに至ることを
肝要とするが、私が飯縄の法で成就したと思われるのは、どこで寝る時でも
家屋の上に、夜半時分に鳶が来て鳴くのだ」と言った。また、歩く先には
辻風が巻き起こったのだとも。

――『日本史伝文選(戴恩記)』

なにそれこわい。
58人間七七四年:2013/01/07(月) 18:11:26.96 ID:3GxYd8/y
>>57
すいません、ちょっと訂正します。
×私が飯縄の法で成就したと思われるのは、
○私が飯縄の法を成就したと思われるのは、
59人間七七四年:2013/01/07(月) 18:29:19.42 ID:Q9pptOGo
>>57
鳶職「へぇ、この屋根の立て付けがね あっしも半端な仕事じゃ家に帰ぇらない性分でして、夜分すいやせん」
60人間七七四年:2013/01/07(月) 18:30:00.35 ID:NKp8GPB6
>>57
飯縄の法を極めた関白か…
くっ…鎮まれ!俺の厨二心よ!
61人間七七四年:2013/01/07(月) 18:50:27.51 ID:eUhicQen
あるとき、能楽師の観世宗節・同三郎が御見舞として、毛利元就の居城である吉田まで罷り下った事があった。
月迫(12月末)であり、合戦の前でもあったが、十二月中旬に一座は登城し、ご対面の上、御囃子申し付けられ、
同月23日には、郡山の麓、興禅寺に舞台の設置を仰せ付けられ、能興行を行うこととなった。

しかし前日より大雪で、その日の能は延期であろうと、大夫衆も考えていた所、なんと毛利元就が、
未明のうちに既に能舞台の桟敷へお下りになったとの報告があった。
元就、この日をものすごく楽しみにしていた模様である。

そこで観世太夫たちは取り敢えず楽屋に入り準備し、日の出とともに能は始まり、晩に終わった。
元就はご機嫌よく城に帰っていかれた。

この時、国衆から家来まで見物するよう仰せ付けられていたため、彼らは雪の上に敷き皮を敷き、その上に
座っていたのだが、その日は昼ごろから天気が良くなり、雪が溶け大木の上から落ちるなどし、
彼らは水の上に居るような状況で、終日座っていたそうである。

そんな中元就はお酒などを召し上がることもなく、膝を直すようなこともせず熱心に能に見入っていたので、
宗節も大変忝く思い、後で御礼申し上げたそうである。
(吉田物語)

毛利元就、能見物を大いに楽しむというお話w
62人間七七四年:2013/01/07(月) 19:00:17.30 ID:L0ct/Gz8
事例1
まず油揚げを準備します。
毎夜、飯縄権現へのお供えします。
寝ます。
鳶「ピーヒョロロロロ(油揚げウメェー)」
九条稙通「飯縄の法極めたどー!!」

事例2
まず油揚げを準備します。
出かけるときは手に持って行きます。
絶対に手放してはいけません、周囲を警戒しながら歩きましょう。
ビュッ
九条稙通「飯縄の法極めたどー!!」
鳶「(チッ、失敗か・・・)」
63人間七七四年:2013/01/07(月) 20:52:46.49 ID:OgEUKHyR
油揚げさえあればいいのかw
64人間七七四年:2013/01/07(月) 23:14:54.93 ID:dVmOGLXB
>>57
何の役に立つんだろう・・・(ボソッ
65人間七七四年:2013/01/08(火) 07:46:33.70 ID:4FONf9sT
歩く先を旋毛が走るんだぞ
カッコいいじゃないか
それで十分だよw
66人間七七四年:2013/01/08(火) 09:40:44.36 ID:ayThlQHv
半将軍様がアップを始めました
67人間七七四年:2013/01/08(火) 11:08:13.56 ID:vaXDizch
長享2年「池の上に人の頸」
明応2年「頭は馬、尾は蛇、蹄は牛のような化鳥」「炎をまとった鳶付きの辻風」
半将軍様、次はいったい何を!?
68人間七七四年:2013/01/08(火) 11:34:56.52 ID:uSvpzqj7
九条稙通は妻不詳で養子をとってるんだね
これはつまり…
69人間七七四年:2013/01/08(火) 12:06:59.19 ID:F95Y3Phd
>61
国衆、家来一同「寒い…冷たい…。」
70人間七七四年:2013/01/08(火) 12:34:42.86 ID:4Gc5Tpgu
>>68
毘沙門の人も達人だったの?
71人間七七四年:2013/01/08(火) 13:32:00.27 ID:Ia4v72Fr
>>68
現代日本だと、同性カップルは法律上で養子という形が一番収まりがいいと聞いたことがあるがwww
72人間七七四年:2013/01/08(火) 16:19:27.50 ID:Pgi4d1yL
>>71
妾への遺産贈与もな>養女
>>70
養子4人とるってどういう現象なんだ 上条も山浦もそんな大した容貌だったのかよ
73人間七七四年:2013/01/08(火) 18:10:26.54 ID:0hE/5ubr
今川義元の不慮の死によって諸人の心もまちまちになっていた頃、
義元の舅・武田信虎は謀叛を起こして駿河を取ろうと目論むも、
望み薄であった。

そこで今川の一門衆、国人をそそのかし、子息信玄へ引き付けて
信玄に駿河を取らせようと謀った。

ところが、この事がたちまちに露見して信虎は駿河より追放となり、
上方へ牢人することになった。

――『今川家譜』
74人間七七四年:2013/01/08(火) 18:25:36.68 ID:cXxe4Yzx
>>72
容貌は良くなくとも具合は良…おや?誰だこんな時間に法螺貝吹いてr
75人間七七四年:2013/01/08(火) 18:32:52.17 ID:c1DZkqlY
>>74殿はどちらに行かれたのだ?
宇喜多直家様からいただいた酒をお裾分けに参ったのに
76人間七七四年:2013/01/09(水) 11:08:49.48 ID:sZfwjdbG
>>73
晴信「チッ、本当に使えねえ親父だ。」
77人間七七四年:2013/01/09(水) 12:39:43.58 ID:tR7TIoDh
信虎の願いは帰郷だからな
謀反の旗頭を膝元に置くわけにはいかねえ
老人とはいえ黒官みてえに油断ならぬ武人
78人間七七四年:2013/01/09(水) 14:47:58.58 ID:3aNpmInH
>>76
四郎某「だな、親父がアレだと子が苦労するわ・・・」
79人間七七四年:2013/01/09(水) 17:48:49.36 ID:y6KLxx1F
武田信虎の策謀は失敗に終わったが(>>73)この時、武田信玄は堀越六郎に、

「堀越六郎は今川家の一門であり了俊の家筋なのだから、早く謀叛を起こして
駿河を攻め取りなさい。こちらも手を合わせて人数を出し両方より攻め寄せよう。
御舘を其の方に遣わし、今川の家督も継がせようぞ」と偽りを言って扇動した。

これを受けた堀越は思慮のない人であったので引間の飯尾豊前守を
味方に付けて永禄六年に逆心を起こし、近辺の地侍をも勧誘した。

今川氏真はこれを知るとすぐさま出陣し、飯尾方には新野左馬介と
朝比奈備中守を、堀越方には匂坂六右衛門や三浦左衛門尉らを差し向けた。

堀越も飯尾も防戦叶わず自害して果て、残党は尽く討ち取られて城は
火をかけられ焼失した。しかしその一方で、今川方も新野左馬介が討死した。

――『今川家譜、今川記』
80人間七七四年:2013/01/09(水) 20:03:11.86 ID:VHv98zS/
義元死後の氏真の袋叩きっぷりは本当に哀れだと思う
81人間七七四年:2013/01/09(水) 20:18:36.30 ID:9+Ft+XXI
素人意見で申し訳ないけど、そう考えると
やっぱり義元(と太原雪斎)は優秀だったんだろうね
82人間七七四年:2013/01/09(水) 21:31:30.27 ID:gwrWpT+j
一度弱みを見せると、周りが一斉に群がってくる
世の中って常にそういうものなのよね
83人間七七四年:2013/01/09(水) 21:50:55.34 ID:8vj25gK7
特に戦国なんて弱肉強食の野生の王国だからなあ
84人間七七四年:2013/01/09(水) 22:28:24.07 ID:GH3fM1xL
この謀反に対する氏真の速攻果断ぶりと、
桶狭間直後の対応との差がどうにも解せないんだよなぁ。
それだけ義元に頼ってたってことなのか?
85人間七七四年:2013/01/09(水) 22:36:44.49 ID:swr7NiEg
今川家の立地がすごいからな北に武田東に北条と大国ばかり
史実の義元のように西に向かうしかないだろうな
86人間七七四年:2013/01/09(水) 23:00:16.74 ID:VfpkpcN/
>>84
桶狭間で重臣もまとめて死んでるからね。
家内の秩序をまず建てなおさないと復讐戦どころじゃなかったのは当たり前。
ところが、一族を嫁にもらってる松平がいきなり寝返るし。

今川にとっての松平って、武田にとっての木曽だよね。
87人間七七四年:2013/01/09(水) 23:04:15.60 ID:8vj25gK7
>>86
つーか松平は対織田の最前線なんだから、義元の敵討ちまで行かなくても、最低でも援軍出してもらわないと
自分たちが持たないんだけど。実際に家康と織田との戦いは継続されている。
だから家康は何度も何度も氏実に軍の派遣を要請してるのに、なしのつぶてじゃ、そりゃ見限るしか無いわな。

氏実はこれにかぎらず、自分の都合でしか周りをみなさすぎる。
88人間七七四年:2013/01/10(木) 01:01:05.50 ID:JG6tkxw5
その辺の対応の悪さで家中が混乱してる事が露呈して、
周辺にヒャッハーカモだーと思われたんだろうな
89人間七七四年:2013/01/10(木) 06:05:07.33 ID:XacCXBzr
当主が頓死したときの権力継承は難しそう
90人間七七四年:2013/01/10(木) 06:49:37.90 ID:lUVkXVMV
龍造寺鍋島の事情の如何に特異なことかよくわかるわ
91人間七七四年:2013/01/10(木) 07:15:38.96 ID:R2+Mr6TH
>>84
謙信が大挙して関東を襲ったので、北条に援軍を出してて
身動きが取れない状況。

翌年には小田原も囲まれるような状況で、尾張へ侵攻する
ような余裕が無かった。
92人間七七四年:2013/01/10(木) 13:37:44.75 ID:Wpyf2j0J
>90、九州のクマーのところは戦闘民族に四天王五人狩られてなかったっけ?どっちがキツイんだろうな?
93人間七七四年:2013/01/10(木) 14:44:58.72 ID:lUVkXVMV
四天王つったって別にそんな大身てわけでもなくないかね
94人間七七四年:2013/01/10(木) 22:08:22.75 ID:JG6tkxw5
四天王って、狩られたのが確定してるの4人だけじゃなかった?
95人間七七四年:2013/01/10(木) 23:29:07.61 ID:wGXF/xUU
大丈夫、百武とかは奥さんも強いし
96人間七七四年:2013/01/11(金) 01:11:17.27 ID:DpVNpQT6
重臣大領主を大量に刈られた大友さんと
家中一同期待の嫡子を狩られた長宗我部さんの事も思い出してあげてくださいね
97人間七七四年:2013/01/11(金) 14:02:40.05 ID:e+KGQapZ
龍造寺は肝っ玉かあさんの功績だろうな
98人間七七四年:2013/01/11(金) 15:56:40.98 ID:Oyh2u4Kz
当主が戦死か・・・少弐さんのとこはあんだけ死んでもあれだけ持つってそれはそれですごいんだろうな。
99人間七七四年:2013/01/11(金) 17:15:45.67 ID:2l6JDzWf
背景に大内と大友がいるからね

当主が遠征中に討死って今川、松平、三村、龍造寺
ほかにいたっけ?
100人間七七四年:2013/01/11(金) 17:17:33.89 ID:GIfpOHDi
山内、扇谷の両上杉が
101人間七七四年:2013/01/11(金) 17:25:01.60 ID:tdshmuWr
>>99
相良さん
102人間七七四年:2013/01/11(金) 17:35:59.93 ID:XhniWsAa
鼻毛を伸ばしながら加賀百万石の礎を作ったことで評価も高い前田利常。
そんな利常公は当時の知識人である儒者に対して、この様に言っている

『別に儒者が政治をしないと、どうしても国を治められないなんて事はないよね。』
(終に儒者が国の仕置をせねば、国不治というためしもなし)

『学問も、そりゃあ少しはしたほうがいいけどさ、だけどやり方によってはその人にとって邪魔になることも有るわけで。』
(学問も少は仕たるが好し、去共仕様に依て結局邪魔に成事も有)

『学問を間違って心得ると、学問を鼻にかけて人を見下すとか、悪い影響もあるよね。』
(悪敷学問を心得れば、人を見下し凶き事あり)

『まあ、経験上、たいていは人柄が悪くなるよね。』
(大形は人柄悪成かと覚ゆる)

(拾算名言記)

どうも、儒者に対してろくな印象が無かったらしい、微妙公の発言である。
儒教の日本への定着は、まだまだ遠い道のりであった。
103人間七七四年:2013/01/11(金) 17:37:17.74 ID:CNXpJ5z1
遠征じゃないけど遠出中に横死した信長親子とTERU宗さん
104人間七七四年:2013/01/11(金) 18:14:40.85 ID:2l6JDzWf
輝宗って隠居してるだろ
的外れなレスはいらないから
両上杉は没落した感がある
相良は失念してたけどあれは死ぬ気だったのかな
105人間七七四年:2013/01/11(金) 18:19:59.05 ID:GIfpOHDi
>>98
輝かしい少弐氏の呪い

2代目・少弐資能 元寇・弘安の役で深手を負いそれが元で死去(事実上の戦死)
少弐景資(3代目経資の弟) 兄貴に霜月騒動で殺される。
5代目・少弐貞経 南北朝で足利に味方したが南朝に攻められ自刃。
8代目・少弐冬資 今川了俊に根拠のない疑いをかけられ暗殺される。
11代目・少弐満貞 大内家との戦いで戦死
12代目・少弐資嗣 大内家との戦いでry
14代目・少弐教頼 大内家ry
15代目・少弐政資 大内ry なお息子の高経も運命を共にした。
16代目・少弐資元 一旦大内と和睦するも欺かれて自害に追い込まれる。
17代目・少弐冬尚 龍造寺隆信と争い、永禄2年(1559年)に勢福寺城で自害、少弐氏滅亡
106人間七七四年:2013/01/11(金) 18:30:40.48 ID:TnB43XQJ
よくまあ17代まで滅びなかったなw
107人間七七四年:2013/01/11(金) 18:55:43.78 ID:CNXpJ5z1
>>104
嫡子に家督を譲る=隠居なら信長も隠居だ罠w
108人間七七四年:2013/01/11(金) 18:57:05.04 ID:FD+Ug/Sh
第二第三の少弐氏が…
109人間七七四年:2013/01/11(金) 18:59:25.81 ID:tDS/0ztR
>>105
うわあ… 政資さんがあんな達観した歌を残すのも仕方ないな
110人間七七四年:2013/01/11(金) 19:06:10.00 ID:TnB43XQJ
それだと、今川も家督は氏真に譲っていたといわれているしなあ
111人間七七四年:2013/01/11(金) 19:10:58.94 ID:GIfpOHDi
>>110
今川だと今川義忠が遠江遠征中に討ち死にして、太田道灌も介入しての、
嫡子龍王丸(今川氏親)と、従兄弟の小鹿範満の内乱が起こってる。
これが伊勢盛時(北条早雲)の歴史的デビューにもなってるな。
112人間七七四年:2013/01/11(金) 19:21:16.20 ID:Oyh2u4Kz
あんだけ負けて死なない天庵さまってやっぱすごいんだなw
113人間七七四年:2013/01/11(金) 19:24:02.30 ID:CNXpJ5z1
短命の家系か
毛利さんも元就以前はそうなんだっけ?
114人間七七四年:2013/01/11(金) 19:27:16.25 ID:Gco1m4sO
>>105
鍋島さんはこの呪いを受け継がなくて良かったな
115人間七七四年:2013/01/11(金) 19:33:14.96 ID:CNXpJ5z1
>>114
龍造寺が呪ってたよーな気が
116人間七七四年:2013/01/11(金) 20:36:09.75 ID:OjGi8bi4
少弐氏の歴代当主の戦死or自害率は半端ないからなぁ。
よくあそこまで家を存続できたもんだと思うわ。

>>109
花ぞ散る 思へば風の 科ならず
時至りぬる 春の夕暮れ

達観と野心と無念さと・・・
読み返せば読み返すほどに涙が・・・

>>112
天庵様には色々教わることが多いよなw
117人間七七四年:2013/01/11(金) 21:38:55.53 ID:HUlcgUKg
>>115
あそこはオーナ一族として大きな顔してるだろw
118人間七七四年:2013/01/11(金) 21:51:12.03 ID:bxtzdcCQ
>>105
これはひどい
栄華を誇った時代でさえ一族が死にまくってるのか・・・
119人間七七四年:2013/01/11(金) 21:57:58.38 ID:FiqVeOMj
>>105
これで少弐を滅ぼせない大内可哀想すぎる
120人間七七四年:2013/01/11(金) 22:08:36.34 ID:OjGi8bi4
>>119
そういうものの見方もあるのかw
大内からしたら不気味な存在だったかもねぇ。
121人間七七四年:2013/01/11(金) 22:11:46.98 ID:FiqVeOMj
或いは大内ヘタレすぎるなのか
122人間七七四年:2013/01/11(金) 22:12:33.85 ID:cEJRc+Un
>>114
なんで鍋島
123人間七七四年:2013/01/11(金) 22:19:26.81 ID:bxtzdcCQ
>>122
少弐が滅びたとき、少弐を滅ぼした龍造寺に呪いが移ったんじゃね?
124人間七七四年:2013/01/11(金) 22:38:41.80 ID:gHh19563
散々内ゲバ繰り広げてもなかなか滅びなかった河内源氏といい勝負だな
125人間七七四年:2013/01/11(金) 23:07:25.84 ID:tdshmuWr
>>105
九州って元寇から島原の乱まで平和が50年続いた時代がない気がする
126人間七七四年:2013/01/11(金) 23:09:02.78 ID:JVGkX0VC
>>119
歴史ある大族は庶流が腐るほど居るから担ぐ価値無しになるまで滅びないんだろうね
127人間七七四年:2013/01/11(金) 23:10:57.85 ID:FiqVeOMj
>>123
その辺は龍造寺も少弐に粛清されてるから因果が廻ったのかもしれぬ
鍋島は別に龍造寺に粛清されてないしなあ
128人間七七四年:2013/01/11(金) 23:43:30.75 ID:KjivEowv
江戸合戦の折、北条氏綱は太田資高らの内応を得て扇谷上杉朝興を破り、
江戸城を手中に収めた。敗れた朝興は河越城に立て籠もった。

そこで、山内上杉憲房は鉢形城へ入って人数を遣わし、
河越衆と力を合わせて江戸城に夜討ちをかけ、氏綱より奪還せんとしたのだが、
運が尽きてしまったのだろう、高上庄平居の陣で重病に侵された。

色々な養生が尽くされ、宮々社々に限りなく願が立てられたのではあるが、
定められた業報が来たのであろう、平癒することなく大永五年四月十六日、
五十九歳で亡くなった。

誠にこの人は関東長者であり、諸軍もよく親しみ、政道に私は無かった。
憲房の死を敵に知られれば押し寄せられてかなわないとして、葬儀は密かに
執り行われ、人々は悲しみを隠して声を呑んだ。

その後、京都より御意を受け、古河公方高基に憲房の実子憲政はいまだ
幼年なので家督は務まらないからと頼み、養子をもらって憲広(憲寛)とし、

管領と定めて長尾・大石・小幡らの長者たちが名代として関東の成敗を司った。
これによって諸家の支配はもとのように、領国もまた平穏無事に治まった。

――『異本小田原記』
129人間七七四年:2013/01/11(金) 23:55:38.18 ID:82JftKoW
>>123
龍造寺のおかげで鍋島は少弐一門にしては平穏なのかw
130人間七七四年:2013/01/12(土) 20:43:43.44 ID:KOOn3C1+
龍造寺敗北の原因となった島津は兄弟仲良く平和だよね
131人間七七四年:2013/01/12(土) 21:48:59.55 ID:ZwFwfcCg
家久(悪)当主期はひびが入ってたみたいだけどな〜
132人間七七四年:2013/01/12(土) 22:14:23.98 ID:QJOkA49u
文正元年(1466)2月29日から閏2月23日まで、戦国初期の貴重な記録である蔭涼軒日録で有名な季瓊真蘂、亀泉集証らは
同門、門下などとともに有馬温泉に出かけた。

閏2月2日になって彼らのもとに客として現れたのが、京都所司代の多賀豊後守、安富勘解由左衛門尉、日野殿内修理太夫、
日野墓崎若狭守、東坊、巣河又次郎、慶阿弥、今春與四郎、二条町千千代といった人々であり、皆当時の文化人であった。

が、ここに一人問題人物があった。墓崎若狭守である。
彼は人の口を吸うのが好きで、老少美醜を問わず、人の口を吸う癖があった。つまり、キス魔だったのである。

閏2月5日、日野殿内修理太夫の宿所に人々が集まっていた所、安富勘解由左衛門尉も強面の顔をして現れた。
この安富さん、苗字から言って細川京兆家家臣の安富氏の一族であろう。すなわち、有力な武将の一人だったはずである。

その安富に、墓崎は狙いをつけた!彼は突然、安富の口を吸おうと突進してきたのだ!

安富、当然ながら逃げ出す!しかし追いつかれ、

『ムチュ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜』

とうとう唇を奪われた。

後で安富は「足が悪いので逃げきれなかった。老いてこの様な災に遭うなんて…」と悲嘆したそうである。

また石頭という者も墓崎に口を吸われそうになり、驚いて逃げ去ったそうだ。

季瓊真蘂はこれを『蔭涼軒日録』の中に苦々しげに、『稀有な戯言よ』と記録している。

(蔭涼軒日録)

戦国初期にもキス魔は居たのだ(ただし男)、というお話である。
133人間七七四年:2013/01/12(土) 22:30:13.81 ID:nCjse1e9
日本最古の接吻魔の記録なんだろうか
134人間七七四年:2013/01/12(土) 22:50:27.44 ID:G6E3CgIT
科学技術は進歩しても、
人間そのものは大して進歩してないってことだなw
135人間七七四年:2013/01/12(土) 22:53:39.96 ID:5+3cLWx7
>>130
九州征伐後は秀吉のせいで壊れちゃったけど。
136人間七七四年:2013/01/12(土) 23:05:16.59 ID:Q3Oz3vZv
強面の武将が不意に男にキスされる光景とかシュール過ぎるw
137人間七七四年:2013/01/12(土) 23:13:32.37 ID:CEYRXdNC
>>114,>>122,>>123
龍造寺のワンクッションが、効いてますなあ♪ 鍋島さん、よかったね  
138人間七七四年:2013/01/12(土) 23:27:42.19 ID:f8aCMExu
>>132
酒の席ならまだわかるんだが…
素面でこれ?
139人間七七四年:2013/01/13(日) 01:29:43.91 ID:B1SZJONL
また鍋島さん嫌いがいるなあ
なんでここまで鍋島が嫌いなんだろうか
140人間七七四年:2013/01/13(日) 01:36:19.32 ID:2NxFShLh
歴戦の老武者もキス魔には逃げ出すのかw
141人間七七四年:2013/01/13(日) 07:22:33.10 ID:Hdr9LuUx
>>139
オーナー面してる龍造寺一族粛清したからだろう
142人間七七四年:2013/01/13(日) 08:06:30.94 ID:aQUcm2NA
>>141
幕末までオーナー面してますが
143人間七七四年:2013/01/13(日) 09:20:07.53 ID:EnF1051S
>>141
あまりにも無知すぎる。
ほんとアンチってこういうのっばっかだな。
144人間七七四年:2013/01/13(日) 09:25:08.57 ID:FD/qhtUh
自殺したり急死しただけだな
145人間七七四年:2013/01/13(日) 09:28:16.87 ID:lH8GEr5C
>>132
これはちょっといい話だろう
146人間七七四年:2013/01/13(日) 12:42:00.02 ID:D5wlnBBc
>>144
不審な点もあるから、想像は膨らませやすいけどな。
147人間七七四年:2013/01/13(日) 12:48:55.46 ID:fTZVYRM/
妄想も大概にせよ、と直家公が申されております
148人間七七四年:2013/01/13(日) 13:38:27.29 ID:aQUcm2NA
>>147
あの人の話、今のところソースは軍記物ばっかりだからねー
149人間七七四年:2013/01/13(日) 13:56:03.53 ID:wE1BiC9L
(●Д`)「俺ですら人前では唇に吸い付いたりしないのに」
150人間七七四年:2013/01/13(日) 16:09:39.32 ID:2sdZcTlL
>>141
政家と高房二人だけで一族って言うのもなんじゃらほいよ
151人間七七四年:2013/01/13(日) 18:45:19.55 ID:9CM630Tj
>>149
そーいやこの人も何かやらかしてた気がするが…
逸話が多すぎて調べ切れぬorz
152人間七七四年:2013/01/13(日) 18:52:50.62 ID:i6YKe17B
>>138
>>132書いたものですが、明示されていませんがおそらく酒の場です。
153人間七七四年:2013/01/13(日) 20:26:05.68 ID:gJUxCNgb
>>152
びっくりした
シラフでこれがまかり通ってたらどんだけ戦国の世はフリーダムだったんだと思ってしまう
154人間七七四年:2013/01/13(日) 21:27:09.82 ID:wE1BiC9L
(●∀・)「シラフでブチューするなんてありえねーわ、のう小十郎」
155人間七七四年:2013/01/14(月) 14:06:58.72 ID:yQtNbD4W
まーくんのブチュー話はまとめに載っていないのか
有名過ぎる話はわりと出ていないんだね

誰か片倉代々記か老翁聞書を訳してくれないかな〜
俺ができればいいんだけど、俺はTOEICは100点だけど古文は30点だからな〜チラッ
だれかやってくれる人いないかな〜チラチラッ
156人間七七四年:2013/01/14(月) 14:16:01.46 ID:gWH7bDnp
TOEIC100点ってネタってはやってんの?
157人間七七四年:2013/01/14(月) 14:20:39.48 ID:gWH7bDnp
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-829.html
片倉ジュニアへのほっぺにチュウ事件・いい話?
って普通に載ってた
訳はないけど
158人間七七四年:2013/01/14(月) 14:34:05.75 ID:yQtNbD4W
>>157
載っていたのか
失礼した
こう見ると、これは原文ママのほうがいい気がする
159人間七七四年:2013/01/14(月) 14:56:43.39 ID:DCe73MJY
ではそんな政宗についての逸話

(1611年11月23日、セバスチャン・ビスカイノ一行は仙台伊達政宗領・牡鹿湾の測量を行っていた)
この時、そこから2レグアほどの所で王(伊達政宗)が猪や鹿の猟をして廻っている様子について
便りを受け取ったので、飛脚を出して、この港(牡鹿)やこの時までに発見した他のことについて
報告した。地図は全て色付きで描き、作図した。

すると、当方の報告に礼を述べ、領内に良港が見つかり大変嬉しく思っていると返答があり、
鹿や山の狩りの獲物を贈って来た。そして

『今もし山野に出ているのでなければ、大いに引見したいものだが、その楽しみは
城に戻るまで置いておく。陽の光も寒さも、彼を損ねることが無いよう、司令官を
輿か籠に乗せて連れてきたら嬉しいだろう。
私の領地で村落発見御ための行った苦労を大変高く評価している。それらの製図の方法を
見てみたいものだ。』

このように言ってきた。
そこで、司令官はそれを通訳と奉行に託して送った。
これに王は大層喜び、残っていた他のことにも許可を与えてくれた。
私たちはその領国のいずこでも歓待を受け、常に歓迎の強い意志が有ることが解った。

木曜日(24日)我々はこの港にとどまり、南中高度の測定をし、旅を続行するための用意を、
翌日入手するためこの港に留まった。というのは、(伊達家の)家中ことごとく、王の狩りに
忙殺されていたからだ。

この事のために家臣と、掻き集められた周辺の農民をあわせて、百万ほども居たに違いないが、
その巧みさと獲物を追い立てるために山を取り囲んだ人間の多さは見事であった。
獲物は羊の群れほども多く、素手や鉄砲で捕まえていた。

この王(政宗)の勢力は収入、家臣共に強大で、3万の騎兵と20万の歩兵を6日で何度でも
召集でき、領内に80の出城を持っているほどだ。
(これらの軍勢)すべてを賄い、満足させている。

統治においては正しく、怠惰なものと悪しき生活をするものを敵とする。そして既述のように
我々のキリスト教に感心を寄せ、話によれば、千万以上の年収が有るという。

(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)

以上、スペイン人による政宗の記録であるが、スペイン側がそうしたのか政宗が吹いたのか、
軍勢を盛るだけ盛ったことがよく解る内容であるw
160人間七七四年:2013/01/14(月) 16:22:19.61 ID:sfg8/o+o
世界征服さえできそうな軍勢を東北のいち大名が・・・
政宗が盛った数字をビスカイノがさらに盛ったんだろうか
161人間七七四年:2013/01/14(月) 18:08:30.98 ID:hcrvlj6N
どうしてここまでばればれの数字を平気で報告できるんだろうか
162人間七七四年:2013/01/14(月) 19:41:45.38 ID:WZLGLef0
政宗だからさ
163人間七七四年:2013/01/14(月) 19:57:58.92 ID:uEQXOC36
富士の巻狩りどころの騒ぎじゃねぇな
164人間七七四年:2013/01/15(火) 11:30:45.18 ID:zXyjhLRk
>>141
とはいえ龍造寺一族は鍋島家の宿老だぞ
多久、須古、後藤、諫早あたり
姻戚になったり養子押し付けられて乗っ取られてるけどな
165人間七七四年:2013/01/15(火) 18:24:11.03 ID:E1QPnyG9
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7192.html
↑このお話で、儒者や学問に対して否定的な見解を述べた前田利常。これに対し家臣の岡田将監がこう尋ねた

「殿の仰ることは御尤もだと思います。ですが御前は、太平記・東鑑などをいつもご覧なされ、
その他日本の古筆や珍しいものを集め、ご覧になっています。これはどうしてでしょうか?」
(御尤に奉存候。去ながら御前には太平記、東鑑など毎度御覧なされ、其他日本の古筆珍敷物を被召上て
御覧被成候。如何之御事に候)

これに利常
「それはな、日本に生まれたものは、日本の古今の風俗を知るべきだと思って見ているのだ。」
(夫は日本に生る者は、日本古今の風俗を知たるが好と思ふに依て見たる物也)

すると将監が申し上げるには
「それは学問ではありませんか?」
(夫は学問にて無御座か)

「えっ?」

利常は少し言葉に詰まり、

「いやいや、世間でいう学問というものは、そういうものだとは考えていなかった。」と、少しして仰った。
(いやいや、世間の学問は左様の事とは不思と、良有て御意被成)
(拾算名言記)

前田利常の学問についてに認識みたいなことが、少し見えてくるお話である。
166人間七七四年:2013/01/15(火) 19:43:35.63 ID:U6QVPNwk
利常にとっての学問は歯食いしばって寝不足になりながらやるもの、だったんかね
167人間七七四年:2013/01/15(火) 21:05:01.96 ID:cPvN4JSj
「金吾利口書・朝倉宗滴話記」から引用する、宗滴の考える名将の条件。

 ――巧者の大将と申は一度大事の負(おくれ)に合たるを可申哉
    吾々は一世の間勝合戦計にて終に負に不合候間年寄候へ共
    巧者にては有間敷事――

 (現代語訳:名将というのは一度でかい敗戦に遭って、それを乗り越えた奴を指して言うべきだ。
        そこ行くと、私はこれまでの生涯勝ち戦ばかりで、ついぞ大負けすることなく
        この年になってしまったから、とても名将なんて言えないな)

『大負けした事がないから名将じゃねえ』というのは自慢なのか謙遜なのか。
意外に口の悪い金吾宗滴殿であったw
168人間七七四年:2013/01/15(火) 21:34:10.56 ID:3dp2Hi6v
天庵様に謝って下さい
169人間七七四年:2013/01/15(火) 22:02:47.72 ID:DRNd85Fx
家康「そうそう。そのためにわざと大敗したんだよ。」
仙石秀久「まったくそのとおり。」
170人間七七四年:2013/01/15(火) 22:05:36.85 ID:cPvN4JSj
>>168
勝率が低すぎるのもいかがなものかと思います


上記の「金吾利口書」の名将論の少し後、具体的な人物例

――当代日本に国持の無器用人使下手の手本と可申仁は土岐殿、大内殿、細川晴元三人
   又、日本に国持人使の上手よき手本と可申仁は今川殿、甲斐武田殿、三好修理太夫殿、
   長尾殿、安芸毛利、織田上総介方、関東正木大膳亮方、此等の事――

(現代語訳:今日び日本でダメな大名の例に挙げるなら、土岐頼芸殿、大内義隆殿、細川晴元の3人。
       逆に、いい大名の例としては今川義元殿、甲斐の武田晴信殿、三好修理太夫長慶殿、
       長尾景虎殿、安芸の毛利元就、織田上総介信長、関東の正木大膳亮時茂たちだ)

ちなみに、宗滴が直接関わっているのは土岐頼芸・細川晴元・三好長慶。
大永7(1527)年に足利義晴・細川高国を支援して細川晴元・三好長慶とやり合っているし、
土岐家は朝倉本家と縁戚ということもあって何度か内乱に介入している。

ダメ大名3人のうち細川晴元だけ呼び捨てしているのは含むところがあったのか。
信長に目をつけていたのは、親父の信秀と組んで斎藤道三と合戦した縁からかも。
171人間七七四年:2013/01/15(火) 22:33:23.42 ID:cPvN4JSj
もうちっとだけ続けます「金吾利口書」、上記に一文挟んで(意味がよく分からんかったので割愛)主君評。

――義景様御器用は英林様已來有間敷候、其故は我等八十歳に及候を加州武者奉行に被遣候事
   大丈夫成御心中難計候、但自今以後御器用に候間如何可有旨常々被仰候事――

(現代語訳:義景様の手腕だが、親父(朝倉英林孝景)に比べたらまだまだダメだ。
       だいたい俺は八十も近いのに加賀方面の総大将に任命するなんて、何考えてんだか。
       まあ、『これから先上手にやって行くにはどうしたらいいか』ってよく聞いてくるから見込み無しではないな)

兄の曾孫とはいえ主君に堂々とダメ出しをする金吾入道殿、やはり口が悪い。


ちなみに朝倉家は、現代でいう背広組と制服組のトップを並立させている少し変わった体制を取っていた時期が長いです。
背広組としての当主が朝倉本家で、制服組の総大将は宗滴なんですが、
宗滴死後、この総司令官ポストが実質空席。

朝倉氏の一門衆って安居家(英林の次弟・経景流)・大野郡司家(義景の叔父・景高流)・
敦賀郡司家(宗滴の養子・景紀流)の3家が重臣格なんですが、この3家は仲が良くない。

序列争いが激しいので、出兵時の総大将なんかは3家の持ち回りになってる様子があります。
かの元亀元年の合戦の際は、最初の防衛指揮は敦賀郡司の朝倉景恒、
信長撤退後の追撃は大野郡司の朝倉景鏡、次の浅井救援(姉川の合戦)は安居家の朝倉景健という回し方。
……そりゃ、自分の当番は無難に済ませようとして中途半端な結果になりがちだよね。

そもそも、宗滴が自分のポストを若い世代に移譲していれば、80間際で総大将になる事も無かったわけで。
金吾宗滴殿は後継者人事の問題を考えていなかったらしいという、タチの悪い話でした。
172人間七七四年:2013/01/15(火) 23:58:57.27 ID:0huMzW0b
第一次国府台合戦の折、北条勢は河を渡河して松戸へ向かおうとしていた。
小弓勢先陣は物見の兵を本陣に参らせて、

「敵が河を越え始めました。その勢は雲霞の如く二、三万騎はいると思われます。
小勢で大勢を討つことは難しいでしょう。急ぎ本陣を動かして河中で勝負を決するか、
味方を引かせて敵の先陣が半ばを越える時に急いで河へ押し込めば必ず御味方の
勝利となるでしょう」と具申した。

この策に諸軍はそれがよいと賛成したのだが、足利義明は大笑いして一蹴した。

「一足でも引けば虎も鼠になり一足でも進めば鼠も虎になる、と合戦の例にある。
引くような真似をすれば、それは敵に利を与える端緒となる。

また、勝ち負けは数が多いか少ないかではない、兵の剛勇と臆病によるのだ。
氏綱の武勇など我が片手にも及びもしないものを、何程のことがあろうか!

河を渡らせて敵を近くまで引き寄せ、我が手にかけて氏綱を討ち取った上で
東国を安々と治めてくれよう。年月の本望ここにあり! 氏綱を逃がしはせぬ!」

そのように言って義明は扇を打ち振った。
(諸軍の?)運も尽きて驚きあきれることは、たとえようもなかった。

――『異本小田原記』
173172:2013/01/16(水) 00:31:35.24 ID:7Sib5sOb
>>172
すいません、ちょっと訂正します。
×鼠も虎になる、と合戦の例にある。
○鼠も虎になるのが合戦の例である。
174人間七七四年:2013/01/16(水) 01:31:45.21 ID:8Cq6zkPG
鼠が虎って、早雲の両上杉倒す夢みたいだ
で、北条に殺されると
175人間七七四年:2013/01/16(水) 01:54:46.62 ID:mUK2EPMb
小弓公方様はそれまで腕力と気合でどうにかなる程度の弱小雑魚
しか相手して来なかったんだろうなあ・・・

身の程知らずにも通りすがりのケンシロウに挑むモヒカンを連想した
176人間七七四年:2013/01/16(水) 02:04:04.46 ID:mUK2EPMb
ところで、小弓御所家ここで親父と兄貴が揃って討ち死にした後
どうやって50年以上後の小田原征伐まで存続したんだろ?

秀吉が古河公方家に姫様との結婚を強要する程度の存在感をちゃっかり残した上でさ
堀越公方なんて跡形も無く消えちゃったじゃん?
177人間七七四年:2013/01/16(水) 02:24:55.58 ID:YKcYCbdl
堀越公方は本家に復帰しただろう。
178人間七七四年:2013/01/16(水) 08:28:53.75 ID:qZF6u4Ag
>>171>金吾宗滴殿は後継者人事の問題を考えていなかったらしいという、タチの悪い話でした。

宗滴は朝倉家中や敦賀郡司家の事をかなり計画的に考えてるタイプだよ
宗滴自身が26歳で郡司職を引き継いでるので同様に養子の景紀が26歳、宗滴が54歳の時に郡司職を譲っている
その宗滴の教えに従って景紀も又54歳で郡司職を嫡男へと譲っている
自身が担った軍奉行の役職も晩年は譜代家臣の山崎吉家に任せる事もあった

光玖ー宗滴と続いた一族の重鎮ポジションに就くには景紀や景隆では経歴的にやや役不足な感もあったので宗滴頼みになるのもいたしかたない部分もある
179人間七七四年:2013/01/16(水) 09:14:17.75 ID:WbnAYkiJ
>>170
大内義隆が健在のころは毛利元就はまだ安芸の一国人に過ぎないんだが
180人間七七四年:2013/01/16(水) 10:00:00.31 ID:8325FJE1
>172
前秦の苻堅そのままw
181人間七七四年:2013/01/16(水) 10:31:47.84 ID:p3T6jrcE
>>176
なんだかんだで里見の支援を受けてたはず
182人間七七四年:2013/01/16(水) 13:58:20.77 ID:ZU0VQrEr
苻堅は大軍を川から引かせたら、「負けだー、撤退だー」のデマが流れてそのまま総崩れだから
ちょうど逆では
183人間七七四年:2013/01/16(水) 19:17:39.87 ID:eFWE5c3x
>>178
横レスですが、最後の行、この場合は「力不足」だと思われます
184人間七七四年:2013/01/16(水) 20:55:18.03 ID:bRHHCH/T
>>181
里見さん小田原討伐の段になっても小弓公方を擁立
しようとしてるからなあ。
185人間七七四年:2013/01/17(木) 01:57:41.77 ID:Qg3I4pHf
最近ものの本を手に入れたので、陶隆房の謀反から変な意味で有名になってしまった大内義隆公の山口退去までを。

天文二十年八月二十八日、陶隆房は遂に謀反の軍を挙げ、それぞれ山口の西と南西より兵を進発させた。
山口の大内氏館に集った義隆方の緒将はここで一戦し館を枕に自刃することを主張たが、館は防ぐに向いていないため法泉寺に拠を移すことを薦める者も居た。
また寵臣ら(纏めにあるアイツとか)がそれを推したため、義隆は館を捨て、大内氏館の北、山間の法泉寺に入ることを決した。
それに従った兵三千余。本営を法泉寺に定め、迎撃のため冷泉隆豊らの緒将を近隣に配した。
ところがその夜、大内氏館退去を聞いた内藤興盛は叛旗を翻して陶方に参陣し、また法泉寺にあった義隆方の兵はその多くが逃散してしまった。

明けて二十九日、本営の守りを補強するため隆豊ら緒将を本営に呼び戻すことになったのだが、その使者に立ったのが阿川隆康。
義隆の侍大将・先手衆であり、平素より自ら十人力を誇っていた人物である。
皆その最期の戦闘はどれほどのものになるかと期待していたのだが、彼は本営召還の命を隆豊らに伝えた後、鎧兜を脱ぎ捨てて逃亡してしまった。
衆これを見て更に意気消沈したという。
昼頃になり、山口へ陶方の兵が押し出してきた。その数五千余。
それを迎えた隆豊らの緒将がいざ最期の戦と出戦しようとしたその時、ついと一人の兵士が進み出で、陶方の不忠を罵り責めた。
陶方の兵はこれに恥じ入って進まず、また義隆方も敢えて出戦せず、矢戦のみ行ったあと互いに退いたという。
その日、義隆は捲土重来を期して長門に逃れることとなる。
法泉寺に残った陶隆康(隆房の伯従父)は義隆の名を騙って陶方を引き付け、その嫡子隆弘や貫隆仲と共に戦死した。

名があろうとあるまいと、その人の生き様は土壇場に現れるのだなぁと思った次第。
186人間七七四年:2013/01/17(木) 07:20:26.07 ID:I/8YvJiB
>>179
信長も家督をついでないころだしなぁ
187人間七七四年:2013/01/17(木) 09:32:29.23 ID:c9uPLLm2
 後に土佐の大名となる山内一豊の妻の千代にはお合という妹がいた。
お合は山内一豊に仕える美濃侍 野中権之進良平と結婚して息子の良明を産んだ。
一豊は一人娘のよね姫と甥の良明を婚約させ、ゆくゆくは養子にして後を継がせることにしたが、
よね姫は天正13年に幼くして亡くなってしまったため、婿養子の話は白紙に戻ってしまった。
 それでも、一豊は良明への愛情を失わず、土佐の大名になった時には良明に2万9千石を与えて
厚遇した。
 一豊の死後、家督を継いだのは弟の康豊の息子にあたる14歳の忠義である。忠義の実父である
康豊が後見人として山内家を治めることになった。康豊は一時でも後継者候補だった野中良明を
うとましく思っていたのか、山内一豊の四十九日法要が済んだ後で良明を呼び出し、2万9千石の
知行のうち1万8千石を返還するように要求した。
 この理不尽な要求に立腹した野中良明は怒りのあまり、わずかな家来を連れて土佐から出奔した。
そして、数年の流浪の果てに京都で亡くなった。
 もし婚約者のよね姫が長生きしていれば婿養子として山内家を継ぎ、存分に手腕を発揮することが
出来ただろうに惜しい話である。


 ちなみに良明の一人息子は後になって山内家の家臣となり、藩政改革で大いに活躍した。この
一人息子こそ土佐藩を建て直した名家老の野中兼山である。
188人間七七四年:2013/01/17(木) 10:13:56.96 ID:mQsqxy5j
野中兼山次の藩主に嫌われて失脚、幽閉で失意のうちに死亡。
189人間七七四年:2013/01/17(木) 12:19:41.85 ID:mzEsTvx/
ガチで男系が絶えるまで幽閉されてたのな、こええ
190人間七七四年:2013/01/17(木) 12:27:42.08 ID:xGWKjNeo
あの山内だからねw
191人間七七四年:2013/01/17(木) 17:17:05.13 ID:kNCidfLH
山内ってなんか頭の回転鈍いけど、やることは徹底するよな。
192人間七七四年:2013/01/17(木) 18:19:31.83 ID:Mp3UtaJ+
豊臣秀吉は山城国の山里という所を梅松という坊主に預けた。
そこに新しく松を植えたところ程なくして松茸が生えたとして、
松茸が献上されてきた。

秀吉は笑って「我が威光ならば、そういうこともあるだろう」と言った。
それから数度松茸が献上されてきたが、実は他所から取り寄せたものだった。

秀吉は左右の側近に向かい「もう松茸を献上するのはやめさせよ。
生えすぎじゃ」と言ったという。

――『老人雑話』
193人間七七四年:2013/01/17(木) 19:26:18.57 ID:baYWWs4p
その後、梅松が改めて竹を植え筍を献上…とかいうオチはないのか
194人間七七四年:2013/01/17(木) 19:38:22.67 ID:TShLZXlu
秀吉で松茸というとこれを思い出す 秀吉を喜ばそうと嘘をつく点も似ているし
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-47.html
195人間七七四年:2013/01/17(木) 19:52:25.14 ID:9ci98yPY
>>191
一豊も掛川時代に蔵入地の支配のことで秀吉に大目玉食らっていたり
するし、さして有能な人でもないわりに、妙に腹黒いイメージがあるな
196人間七七四年:2013/01/17(木) 20:05:46.33 ID:Ljq41Z5p
天文16年(1547)、長宗我部国親は下田駿河守が籠る、下田城(別名・蛸の森城)攻めを
決断し、久武肥後・福留隼人を大将として総勢800騎、本拠である岡豊を出立しようとする所に、
尼僧が一人、福留隼人の元を訪れ、畏まってこう、申し上げた

「私は、下田の百姓の妻でありました。
夫は死にましたが、常陸という一子があり、これを杖とも柱とも思い頼って生きていたのですが、
去年の秋、年貢の納入が遅滞した咎で、常陸は是非もなく殺されてしまったのです。

それから、このような、明日をも知れぬ老いの身の、頼る所もないままに、所縁の者になんとか
扶けられ、今日まで存命して参りました。

こちらではこの度、下田に御旗を向けられるということです。ならば!私が城中に手引きし、
お手を砕かれるまでもなく、城を焼き崩し、下田殿に思い知らせ、それを我が子への供養とし、
この老尼の、恨みを晴らしたいのです!」

そう言って、声を上げて泣いた。
福留隼人もこれを聞くと涙を流し、直ぐに国親に報告した。国親はこれを大いに喜び、
屈強な若侍3人を老尼につけて遣わした。
その上で、城中に火の手が上がれば攻め入るようにと、軍兵250騎を、福留隼人を大将に、
片山・衣笠の山陰に、10人、20人、5人7人と分散して忍ばせ、合図の煙を待った。

さて、老尼は3人の男を下人に仕立てて、一人には袋に衣装を入れて持たせ、残りの2人には
雑掌と思えるものを担がせた。これには火打石・火付け竹・その他兵具が入れてあった。
そして下女一人を召しつれ、下田の城のある蛸の森へと参った。

老尼は番の者に近づくと、「衣笠の何某の母ですが、御台所様へお目見えのため参りました。」
と言うと、番人は問題ないといって、懇ろにして彼女を通した。
元より内部の事は知っており、直ぐに木陰に隠れて支度をし、そのまま火をかけた。
その時丁度西風激しく、堀門矢倉に延焼し、黒煙が天を焼くように上がった。

城中はこれを敵の仕業とは思わず、何かの過失と考え、「火を防げ!財宝を避難させろ!」と
上へ下への大騒ぎとなっていた。

ここで国親が付けた3人の男たちが、そこかしこに走り鬨の声を上げると、隠れ伏せていた
長宗我部の軍勢は火の手を見て、貝を吹き太鼓を打ち、鬨を作って押し寄せた。

下田の城兵たちは大いに驚き、敵を防ごうとしたものの、城の猛火が襲い来て、
為す術もなく我先にと落ちていった。

これにより勇猛の名高き下田駿河守も、遂に討ち死にし、下田城は落城した。

この頃、誰が詠んだのか

『いでもせで 焼崩したる蛸魚の森 いかなべの料理なるらん』

という歌が人口に膾炙したそうである。
(土佐物語)

長宗我部国親の、下田城攻めに関する逸話である。
197人間七七四年:2013/01/17(木) 20:57:02.92 ID:srhmAF+C
>>192
ばればれやん
198人間七七四年:2013/01/18(金) 08:13:11.75 ID:w5hL6f7H
>>192
秀吉はご機嫌取りやすくて実に扱いやすいな
199人間七七四年:2013/01/18(金) 08:58:04.78 ID:9EdWJUsl
>>193
最後は自分を献上するんですね
食べてもらえないけど
200人間七七四年:2013/01/18(金) 11:22:49.61 ID:EugR66oG
「殿下、献上品のきのこの山にございます」
「たけのこの里にございます」
「すぎのこ村にg…
201人間七七四年:2013/01/18(金) 12:53:25.71 ID:CQbuSB+b
>>196
長宗我部国親にとっては城攻め成功、尼僧にとっては仇討成功で
普通に良い話に思えてしまった。
強いて言えば情け無用の徴税で恨みを買い破滅した下田駿河守の悪い話か?
(しかしこの尼僧、かつては「百姓の妻」だったという割に
巧妙果敢に城に放火するわ、若侍ら長宗我部陣営と見事に連携取ってるわと
本当は過去に忍者やってた前歴あるんじゃね?という位に工作レベル高いな)
202人間七七四年:2013/01/18(金) 18:09:52.04 ID:yadoiax/
武州の国司、扇谷家の上杉朝興は度々の合戦には負け、江戸城も落とされて
おもしろくなかったが力は及ばず、何とかして北条氏綱を亡ぼしたいものだと、
骨髄に徹して思い暮らしていた。

しかし、重病に侵された朝興は瀕死の状態になってしまう。
朝興は子息朝定、三田・萩谷以下の老臣を呼び出して遺言を残した。

「わしの命は尽きようとしている。汝等はしかと遺言を聞いて背いてはならない。
わしは氏綱と合戦すること十四度に及ぶが、一度も勝つことはできなかった。

この事が未来永劫の恥辱に思うのだ。この恥辱は妄執ともなるであろう。
よいか、わしが死んだら仏事作善よりもまずは氏綱を退治して国家を平定せよ!」

天文六年四月下旬、朝興は朝の露と消えた。上杉朝定は十三歳で家督を継ぎ、
父の遺言に従って仏事作善をかえりみずに、まず武州深大寺の古要害を取り立てて
城とし、氏綱を退治せんと支度を始めた。

しかし、この動きを知った氏綱が出兵したために河越城の戦いが勃発し、
朝定は敗北して松山城へ走った。

――『異本小田原記』
2031/2:2013/01/18(金) 22:06:04.11 ID:9r6Gn5yu
本山梅慶入道(茂宗)といえば、その当時「土佐七雄」の中でも最も勢力が大きく、
「其器傑出して、偏に興立の志ありければ、近辺の金銀衣食を与へて是を懐け、諸士に賄を厚くして
親みをなし、遂に人数を催して、土佐・吾川両郡に発向して、随はざるをば攻亡し、降を乞ふをば、
免して幕下になし、両郡く打摩け、猛威を振ふ事甚し」
と言われた傑物であり、長宗我部国親の成長を押さえつけた最大の障害でもあった。

永禄元年(原文ママ)六月十一日の早朝のこと、本山梅慶入道が庭の木々の梢を見ると、そこに
年の頃17・8程の美しい少女が、鮮やかな衣装を着て、松の梢に立ち、梅慶を見て
ニッコリと笑った。

梅慶はこれを見るや「誰か有る!弓を持って来い!」と声を上げ、若侍が何事かと急いで弓矢を揃えて
渡すと、梅慶弓を構えてその少女を狙う。が、少女の姿はかき消すように消え、虚空にただ笑う声が響き、
それは城に程近い、朝倉の宮の方へと消えていって。

4.5日ばかり後、城の大手に植えてあった杉の大木の根から火が燃え出た。
見る内に数百本に燃え付いて、黒煙が天を覆った。
人々は驚き、「水だ!熊手だ!」と騒いで近づいてみると、それは火ではなかった。なんと、
杉の枝々から、血が流れ出ていたのだ。
集まった人々は皆、真っ赤に染まって帰っていった。

このような不思議なこともあるのかと、上下の者共、囁いていた所、ある夜女の声で、
数百人ほども踊る音がした。

『これを聞けば、本山はまた本山になる』

と歌っていた。その夜は月明かりがあったのに、踊っている者達の姿は全く見えなかった。

その次の夜、2・3千人の声にて鬨の声が上がり、大石大木を崩す音がした。すわ!敵が寄せてきたか!
城内の上下の者たち、大いに騒いで城の外に出てみてみたが、人影すらなかった。

途方に暮れた本山の人々は、これはきっと天狗の仕業である、遠行寺において大般若経を真読あるべし、
ということになった。

やがて準備が整い、住持が真読を行うため、仏前に向かって勤行していると、どこからともなく、
大きな鼠が一匹、燈明の油注ぎの中に飛び込み油に浸り、そうして本堂の棟木に駆け上がり、身体を
擦りつけてまた走り下りて油に浸かり、再び棟木に擦りつけた。このような行為を行うこと、
百度あまりに及んだ。
2042/2:2013/01/18(金) 22:06:40.53 ID:9r6Gn5yu
住持は不思議に思い、鼠の行動を目も離さず見守っていたが、鼠はまた来て、尻尾に火をつけ棟木に上がると、
たちまち火が付き猛火となった。

同宿の下部らは驚き騒いだが、住持は「これは、自滅の時が到来したのだ!経台を始め、寺の物一つも
持ちだしてはならない!このまま焼き捨てよ!」と言い、本尊の薬師如来だけは同宿に背負わせ、
寺の方を振り返ることもなく朝倉まで走った。
歴史と格式ある遠行寺はこれにて焼きつくされ、灰燼となった。

朝倉の宮の神主は、逃げてきた遠行寺の住持よりこれを聞いて驚き、

「これは只事ではない、当社の祟りなのだ!
それは何故かといえば、かつて、何のためだったかも解らないが、梅慶の下知によって、
この宮林の木を伐らせたことが会ったのだ。

この時私が出て、『神木を伐られるとは、一体どういうことでしょうか!?』と申し上げると、
梅慶殿は『これほど茂った林から、僅かばかりの木を伐ったからといって、どれ程の事があるものか。
それも神が惜しんでいるのではない、神人たちが私の心で惜しんでいるにすぎないのだ。

しかし、もし神が本当に惜しく思われたとしても、この梅慶はここの領主である、少しは
許してもらえるだろうよ。』と、大笑いされた。

なんと恐ろしいことであろうか。この宮林は大昔、斉明天皇の時代、当時の皇太子であった天智天皇、
そしてその弟君の清見原王子(後の天武天皇)が天皇の命により伐採したため、祟を受け、斉明帝は
間もなく崩御されたのである。

天子ですら宮林を伐採したために祟があったというのに、いわんや凡下の身である梅慶が、
奢侈のあまりに神木を伐るなど、どうして神意に背かないで済むだろうか。
なんと恐ろしいことだろう。」

と、語ったそうであるが、はたしてそれから間もなく、本山梅慶も死去したのだという。
(土佐物語)

本山城の奇異、という逸話である。
205人間七七四年:2013/01/18(金) 22:51:05.09 ID:vqvnAQxv
>>204
土佐は迷信深い地域なんだなぁ…
206人間七七四年:2013/01/18(金) 23:19:40.48 ID:EugR66oG
美少女は大切にしましょうというお話
207人間七七四年:2013/01/19(土) 02:21:42.76 ID:xrxrjIIm
美少女を射るなんてとんでもない
208人間七七四年:2013/01/19(土) 09:51:10.91 ID:o45zFqcb
祟りが回りくどい上にお城じゃ無くてお寺焼いちゃうとかちょっと
209人間七七四年:2013/01/19(土) 10:25:23.61 ID:dPgtRPnc
あの辺って、いまも民間に潜った陰陽の末裔がいなかったっけ?
210人間七七四年:2013/01/19(土) 10:47:46.18 ID:kWAbT5Np
阿波には忌部氏がいるが土佐はどうだろ
211人間七七四年:2013/01/19(土) 14:38:14.20 ID:8RQmEhTO
女装した元親さんとか
212人間七七四年:2013/01/19(土) 17:34:03.12 ID:Ql6k2Qxx
>>113
その辺気にしてか、長命な一族から
嫁もらってるな、福原、吉川、熊谷、高橋も久光は長生きだったし、乃美の大方も長生きだった。
地道な当主改良だったが残念ながら、
早死にした者は結構多い。
213人間七七四年:2013/01/19(土) 17:55:54.31 ID:kWAbT5Np
落語では美人妻は短命のもととされてるが
吉川元春も鮭がなければ嫁のお陰で長命だっただろうに
214人間七七四年:2013/01/19(土) 18:04:32.45 ID:z433MgKY
>>213
落語というか神話ネタだからな
美人薄命、醜女長寿ってのは
215人間七七四年:2013/01/19(土) 18:10:26.98 ID:h3JffrHL
そんなのは迷信だって本多さんちの娘さんが
216人間七七四年:2013/01/19(土) 18:12:07.95 ID:k/Asygyv
コノハナサクヤヒメとイワナガヒメ?
中国でも周瑜は奥さんがきれいだから早死にして、孔明は奥さんが不細工だから周瑜よりは長生きした、
て評があった気がするが
217人間七七四年:2013/01/19(土) 21:08:55.20 ID:cnHI7wVa
>>202でその話が出たから、
いつか書こう書こうと思っていた話をば
出典は北条五代記

かつて武州江戸城には上杉朝興が居を構えていたが、北条氏綱に城を奪われ河越城に逃げ込んだ
そこに追い込まれて十余年、病気を患い若くしてこの世を去り、その跡は嫡男朝定が継いだ
その朝定、服忌七十七ヶ日も経たないうちに深大寺城を再興し、反撃の準備にかかった
「親父の喪くらいちゃんと服せよJK。軍神も不孝者なんかに加護なんぞを与えないだろうになあ…」と民衆に噂される始末

さて朝定の動向を察知した氏綱は朝定勢が万全の備えで待ち構えている深大寺城を華麗にスルー、
一挙に上杉本拠の河越城の間近である武州は入間郡の三木まで軍を進めた
これに対して朝定も兵を繰り出し、ついに合戦が…始まらない

両軍の軍師「ちょっとまって、まだ吉兆が出てないから!あと五分、あと五分だけまって!」 呑気なものである

そうこうしているうちに日もどっぷりくれ丑三つ時、
空は晴れやかで満月の光が露草を美しく照らしだし、旗がたなびく田畑の中、虫達が鳴き声を競い合い、
もののふ達もそのあまりに詩情的な光景に勇者の道も忘れただただ感じ入るしか無かった…

軍師「GO/NOGO判断はGO!MINAGOROSHIにしろー」 空気読めよ、お前

打ち鳴らされる軍太鼓、響き渡る鯨波の声は高き天の雲にまで反響し、地獄の底にまで響き渡るかのようであった
互いに進みぶつかり合い、互いに矢を射かけ、その様はさながら神仏の争いの如き凄まじさ、
その一進一退の攻防にこれはちょっとやそっとのことでは勝負もつくまいと思われかけたその時、
上杉朝定方の一隊が崩れ、あとはもう将棋倒しのように一挙に瓦解し、日が明ける頃には河越城も北条方の手に落ちた
朝定は難波田弾正の松山城に難を逃れ、上杉家残党もそこに集結した

氏綱はそれを聞くと追撃を決意、勢いに乗って松山城に押し寄せる
難波田弾正は残党を率いて防戦するも、士気の差、数の差はいかんともしがたく敗走した
その時に例の詩合戦(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3372.html)の話になるのであった

夜襲じゃない方の河越夜戦の話
218人間七七四年:2013/01/19(土) 23:46:24.98 ID:ZXtKoq7+
>>215
信之にいちゃんが短命だったのはK○MATSUが美人じゃなかったからではなく
ブ・・・わあ蜻蛉切でなにを
219人間七七四年:2013/01/20(日) 00:00:32.30 ID:FH9nC42R
>>213
妻が美人だとついヤりすぎて腎虚でぶっ倒れる ってあれか
220人間七七四年:2013/01/20(日) 07:03:45.50 ID:tIWBcdkc
>>213
人生50年位の時代だから元春はまあまあなんでは?
残念なのは息子の方、
隆元が元春位生きれたらね。
221人間七七四年:2013/01/20(日) 07:08:19.73 ID:tIWBcdkc
>>220
訂正

>残念なのは息子の方、
残念なのは息子の元長の方、

>隆元が元春位生きれたらね。
後、隆元が元春位生きれたらね。
テルも少しはマシになったかもな。
222人間七七四年:2013/01/20(日) 11:01:48.31 ID:GJYFeAjg
>>221
ただ隆元が死んだことによって
それまでなめた態度の弟たちが猛反省、
スーパー両川になった節があるからなあ。
223人間七七四年:2013/01/20(日) 12:18:30.11 ID:1ig2Tq6e
>>210
戦国時代の長宗我部家には芦田主馬太夫という陰陽師がいて、
現在もその流派が「いざなぎ流」と呼ばれてる。
224人間七七四年:2013/01/20(日) 13:57:12.00 ID:VMIu7Y9O
伊達政宗によって派遣された、支倉常長をリーダーとした慶長遣欧使節団。
さて、この遣欧使節団がヨーロッパでどのように受け入れられたか、スペインの
記録を見てみよう

『マドリードの同村のフランシスコ会修道院とその院長は申し立てます。
日本使節が当宮廷に来た際、彼らのマドリード到着のわずか数日前に、インディアス枢機会議議長が
院長を呼びに人をよこしました。この日本使節を修道院に宿泊させるべし、とは陛下(フェリペ3世)の
賢明なる命令であると、議長は言われました。

その頃、宿坊と僧坊は大変窮屈な状態では有りましたが、陛下の御ためになることであるので、
使節と彼に従う30人の日本人を受け入れ、使節に心から、喜んで仕えました。

修道院は8ヶ月以上に渡り、階下と病室と、そして他の僧坊を彼らの宿泊に使用させました。
それらの部屋はすべて、本来、老齢で病の修道士をいたわり、養生させる所でした。
この間、多くの者がこの修道院を去りましたが、そのかなりを死亡者が占めます。
居室が不足していたため、老病の者たちを養生させるのに極めて不便だったためです。

この修道院のいたるところにあの蛮人(日本人)が居るので、我が国の者達が絶えず見物に来て、
その数は無数であり、彼らによって破損された箇所の修理もできない有様で、たいへん大きな混乱と
無秩序の原因となり、この修道院ではそれが常態にすらなりました。

ですが陛下の御ためになることであるので、彼らが宮廷を退くまで我々は、忍耐して全てを
耐え忍んできました。しかし彼らは、宿泊していたこれらの僧坊を荒らし、破損したままに
して行きました。それゆえ、それらを修理し、以前のように戻すためには、修道院の管理者は
非常に多くの金子を費やさねばならない程などです。』
(ヴィーリャ・イ・コルテ修道院による覚書)

さて、ここにある「宿泊していたこれらの僧坊を荒らし、破損したままにして行きました」とは
どういう事か?これも記録が残っている

『日本人が使節を奉ずるために宮廷に上がった日のことを証言する。
彼ら(日本人)は、宿泊所に当てられたフランシスコ会同修道院の僧坊に鍵を残していった。
そのため、留守中に一室が開けられ、刀や他のものが盗まれた。
盗まれたものの中には、寝台に敷いていた麻の敷き布三枚があった。
それは陛下が下賜されたものであったが、敷き布の持ち主に、代金が払われていなかったからである。
以上は真実であるので、私はここに、本日1615年4月、署名する。』
(フライ・イグナシオ・デ・ヘスースによる証言)

と、使節団が宮廷に上がっている間に略奪を受けた模様なのであるw
これによって修道院は大いに荒らされたのだ。

以上、支倉使節団を受け入れたスペインはマドリードのの宿泊先での記録である。
225人間七七四年:2013/01/20(日) 14:29:19.97 ID:rsGFzIc1
>>218

当斎さまが短命?

ごめん、なに言ってるか分からん
226人間七七四年:2013/01/20(日) 14:41:29.15 ID:wDv7vfvP
真田のおにいちゃんが短命なのは真っ黒親父のせいだろjk
227人間七七四年:2013/01/20(日) 14:46:39.52 ID:hgUxMQCN
>>226
あと、空気読めない弟も原因。
228人間七七四年:2013/01/20(日) 14:47:17.64 ID:+C6uw1+y
父と弟と妻に恵まれてたら後50年は生きられてたのにな
229人間七七四年:2013/01/20(日) 14:50:25.64 ID:bX1IcSA7
息子の後継者争いもあるからもう+10年だな
230人間七七四年:2013/01/20(日) 14:51:34.38 ID:rZERt5Az
>>228
むしろ、息子たちが死に絶えたあとの
孫達の跡目争いの心労が死因なのでは?
231人間七七四年:2013/01/20(日) 15:21:44.40 ID:3vk41j6c
嫌がらせしたことになってる秀忠と上田に入った仙石も追加で
232人間七七四年:2013/01/20(日) 15:24:17.81 ID:rZERt5Az
>>231
加賀藩から徳川秀忠への献上品を
小松姫が強奪しているから、
むしろ徳川秀忠のほうが真田に虐められていたと
判断するべきでは
233人間七七四年:2013/01/20(日) 15:34:01.90 ID:B7czfvlc
>>224
スペインの民度が低過ぎってことしかわからない
234人間七七四年:2013/01/20(日) 15:53:55.86 ID:qC4l2zOU
>>224
これ使節団のせいじゃないよね
指定した宿泊先に泥棒が入るってフェリペ3世の威光が行き届いてないんじゃ
235人間七七四年:2013/01/20(日) 16:09:10.57 ID:++PBvWax
>>224
これはひどい
野次馬が建物をぶっ壊すわ接待した側が逆恨みするわ
236人間七七四年:2013/01/20(日) 17:52:33.11 ID:bH2vIChk
しかも謁見したフェリペ3世に跪いて手に接吻しようとしたら手引っ込められたとか…
後にクリスチャンに改宗したらやっと受け入れてもらえたり
237人間七七四年:2013/01/20(日) 19:54:49.40 ID:Up3jsjfM
んで、やっと日本に帰って来たら禁教令で厄介者扱いで。
238人間七七四年:2013/01/20(日) 22:40:50.22 ID:qC4l2zOU
しかも家臣がキリシタンだったせいで息子が処刑
可哀想なくらいツイてない
239人間七七四年:2013/01/21(月) 18:32:01.97 ID:w82+h7jv
豊臣秀吉が伏見城に移転した時、近習の面々に向かって、
「今日は『火』と申してはならない。何であろうと火と申した者は
必ず銭を出してもらうからな」と言った。

そのようなところに、御咄衆の前波半入が秀吉に申し上げた。

「実は私事で珍しい茶の湯に遭遇しました。木の釜を使っていたのです」
「なんと! その釜は火に焼けないものなのか?」
「では、銭を御出しください」

――『良将言行録』
240人間七七四年:2013/01/21(月) 18:50:14.09 ID:yDJApdJq
アニメの一休さんみたい
241人間七七四年:2013/01/21(月) 19:21:00.09 ID:f2OaEZnK
逆上して殺されそうだな
242人間七七四年:2013/01/21(月) 19:38:05.70 ID:l85OPTLI
お題が「火」じゃなくて「尻」のバージョンもあったな
まあこっちの方が上品だけども
243人間七七四年:2013/01/21(月) 20:08:06.66 ID:M1qczVWh
くそwこんなので笑ってしまったw
244人間七七四年:2013/01/21(月) 23:05:43.99 ID:cGGNbMLQ
言行録というより落語だなこりゃw
245人間七七四年:2013/01/21(月) 23:37:27.29 ID:4c/t8Rak
>>241
何言ってるんだ?
秀吉はこういうの大好きなんだぜ
246人間七七四年:2013/01/21(月) 23:39:44.51 ID:zXsU+5fv
この手の担当は幽斎様だと思ってた
247人間七七四年:2013/01/21(月) 23:40:49.37 ID:TzX/bKSZ
いや曽呂利だろう
もしかしたら曽呂利噺に取り入れられているかもしれない
248人間七七四年:2013/01/22(火) 00:29:14.37 ID:R7CVAhBT
【国際】アルジェリアで「人間の盾」にされた邦人人質目撃…比の技術者
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1358777043/

鬼武蔵に比べたらかなり良心的なイスラムテロリスト...
249人間七七四年:2013/01/22(火) 01:21:59.96 ID:PNOCPoXy
鬼武蔵方式だと人質の意味成さなくなっちまうもの
250人間七七四年:2013/01/22(火) 04:04:12.64 ID:1BmS8sxE
251人間七七四年:2013/01/22(火) 11:45:18.36 ID:C+X8rxWM
鬼武蔵「人質だと?、軟弱者め」
252人間七七四年:2013/01/22(火) 17:24:56.32 ID:Z9CrnUO9
さすがに不謹慎だろ
253人間七七四年:2013/01/22(火) 22:50:39.20 ID:JKUd/vIY
戦国時代なら人質殺すのはアタリマエ
254人間七七四年:2013/01/22(火) 22:53:16.57 ID:KjfK8raV
人質になるのも地味に死亡フラグだよなぁ
255人間七七四年:2013/01/22(火) 22:59:41.29 ID:Rd1oEYc6
>>254
竹千代「いや全然」
256人間七七四年:2013/01/22(火) 23:02:29.03 ID:e1TzfBPV
北条氏規とか今川への人質時代に家康と友達になってたおかげで、小田原陣のあと生き延びれたようなもんだな。
そう考えると今川の人質は意外と恵まれているかも。
257人間七七四年:2013/01/22(火) 23:16:59.75 ID:Rd1oEYc6
>>256
秦の?政と燕の太子丹みたいにならなくて良かった(´・ω・`)
258人間七七四年:2013/01/22(火) 23:18:23.46 ID:szTyxOIl
今川さんとこは結構なお家柄だからあまり野蛮な扱いはしないんじゃないかしら〜
メンタル的なイヂメはあるかもしれないけどさ
259人間七七四年:2013/01/22(火) 23:30:44.20 ID:HOxdM2s0
人質として越後に来た。人質なのに景虎の名前をもらって優遇された。
同盟は手切れになったけど、殺されるところか親族と結婚して一門に
なった。
そして気がついたら跡継ぎ候補になっていた...





やっぱり人は見た目だと思う(´・ω・`)
260人間七七四年:2013/01/22(火) 23:31:47.91 ID:ZEZTVJ8s
戦国のファンタジスタさんとも茶飲みながら思い出話できるぐらいの仲だしな
261人間七七四年:2013/01/23(水) 07:34:20.54 ID:67T9fInI
>>259
悲劇的な人物は美化される傾向にある
それも後世になって出てきた不確実な情報

出っ歯の醜男説のある義経が浮世絵で美男子になってる現象もある 実物はどっちなのか
262人間七七四年:2013/01/23(水) 07:41:13.27 ID:HMDK0N41
>>261
> 出っ歯の醜男説

それ義経の時代から200年近く後の軍記で初めて出てくる話な
263人間七七四年:2013/01/23(水) 08:29:45.80 ID:K4svOgWU
美男として知られた源義仲の都落ちの際には数百人の妻妾が慕って後を追い
義経の時には数百人の妻妾でただ一人静だけが義経を追ったというので・・・
264人間七七四年:2013/01/23(水) 08:43:17.09 ID:MkxSg/qn
>>254
隆元「すごく優遇された。絵の才能も開花した。実家に帰ったら何故か怒られた。」
265人間七七四年:2013/01/23(水) 09:13:45.15 ID:Jx9EJUim
人質を差し出すと変に偉くなって帰って来て、逆に人質送って来られると後々ロクな事が無いラスボスさんち
266人間七七四年:2013/01/23(水) 12:30:20.74 ID:IPgng3p6
嫡男なんだけど半ば陪臣扱いで伊豆守のお兄ちゃんと、
人質なのに左衛門佐でお兄ちゃんよりちょっと格上な弟。
267人間七七四年:2013/01/23(水) 12:56:09.51 ID:Vt9c6L6O
>>266
どちらも従五位下として叙任だけどね
伊豆守さんは従四位下侍従に昇叙もしてる
268人間七七四年:2013/01/23(水) 13:46:28.38 ID:Y0nq9o2V
>>265
家康「後継者争い対象外の次男がやたら立派になって帰ってくるし、へんなブサイクを押し付けられるはで大変でした」
269人間七七四年:2013/01/23(水) 14:46:03.42 ID:IPgng3p6
>>267
そですな。同じ位なので弟のほうがちょっと格上ってぐらいで済んでいるけど、
官位相当だと従七位下と従五位上なので、官だけだと圧倒的に弟のほうが格上。

侍従でも官位相当は従五位下だけど、従四位下に叙任されので、ようやく弟より格上になった。

でも、それ以後もずっと豆州とか、さいづとか言われているんだよなぁ…
270人間七七四年:2013/01/23(水) 18:14:25.56 ID:RhkJVVsk
正室と郷御前は義経と死ぬまで一緒だったのでは
271人間七七四年:2013/01/23(水) 18:14:40.57 ID:RhkJVVsk
正室の、のつもりだった
272人間七七四年:2013/01/23(水) 19:10:39.19 ID:nzAR/2VI
>>269
>侍従でも官位相当は従五位下だけど、従四位下に叙任されので、ようやく弟より格上になった。
ここ違うよ
官位相当はその時々で変動があるし武家官位もまた違う
そして特に豊臣政権時代は従来の形式と異なった形態を取っている
例えば秀吉の聚楽第行幸の際には侍従の大名は従四位下に叙位されていた(聚楽第行幸記)
またその後の従五位下侍従でも「四品の礼」は与えられていたとのこと

精華成=三位相当
公家成=四位相当
諸大夫成=五位相当

そして「左衛門佐は諸大夫成」で「侍従は公家成」に該当する
ちなみに従五位下の武士に与えられた官職は付随的なもの

下村效『豊臣氏官位制度の成立と発展--公家成・諸大夫成・豊臣授姓』
池享『戦国・織豊期の武家と天皇』
273人間七七四年:2013/01/23(水) 19:30:45.01 ID:nzAR/2VI
あと四位でも諸大夫の者も結構いる
中将、少将、侍従以外の四位は公家成に該当しなかったのではないかな
274人間七七四年:2013/01/23(水) 20:13:22.28 ID:HMDK0N41
京都の、織田信長を祀る建勲神社に、『義元左文字』という、二尺二寸一分の太刀が蔵されている。
その中子に、金象嵌で刻まれた文字には

『永禄三年五月十九日義元討捕、則彼所持刀、織田尾張守信長』
(永禄3年5月19日に今川義元を討取り、その折に彼が所持していた刀である。織田尾張守信長)

と、書かれている。義元が最後まで持っていた太刀なのだという。

ところが、この太刀は義元が持っていた時点では別の名で呼ばれていた。
それは『三好左文字』という。
この『三好』とは、管領細川晴元の側近であり、三好長慶と激しく争った彼の叔父、三好政長の事である。
この三好政長が江口の戦いで長慶に敗れて討ち死にした時、持っていたのがこの『三好左文字』であるというのだ。

その太刀を、武田信玄に追放された武田信虎が。畿内を周遊していた時に手に入れ、これを義元に贈ったものだという。


三好政長、今川義元と、その所有する者を2代にわたり討ち死にさせた(信長まで入れれば3代である)、
数奇な太刀についての話である。
275人間七七四年:2013/01/23(水) 22:08:44.34 ID:Xtm37D+S
『宗三左文字』だったような

ぶっちゃけ武将で数寄者と言えばこの人が元祖だよな
息子も数寄者でしかも手癖悪いし素晴らしい上に刀目利きでは幽斎の師
数寄者としての三好氏もかなりの可能性を秘めた存在
276人間七七四年:2013/01/23(水) 22:32:26.22 ID:o7s9aYFW
277人間七七四年:2013/01/23(水) 23:29:11.62 ID:jpTOhSIv
寛永年中のことだが、小幡景憲は実子がいなかったので某の次男を養子にした。
その頃、御旗本の若輩たちの間で丹前風という名の、髪の結い方から
刀脇差・服装に至るまでも異様な風俗が流行していた。

景憲の養子も若者だったので、彼もまた丹前風を学び、二面の鏡を用いて
髪を結っていたのだが、そこを養父・景憲に見られてしまった。

「若輩だからといって、武家に生まれた者が二面の鏡を用いて形を作るとは、
遊女男娼のふるまいだ!」と、景憲は腹を立てて咎め、養子を義絶してしまった。

その後、景憲は横田次郎兵衛の子を養子にした。これが今の又兵衛である。

――『良将言行録』
278人間七七四年:2013/01/24(木) 00:02:44.85 ID:ABbkugDD
Twitterで余分なこと言って内定を取り消し合う感じだなw
279人間七七四年:2013/01/24(木) 10:53:48.62 ID:KzxdUlrJ
>>269
>でも、それ以後もずっと豆州とか、さいづとか言われているんだよなぁ…

いつ任官されたのかも定かではないし、侍従は何人かいるし
昔から使い慣れた兼官などで呼ばれるのはよくあるんでない?
280人間七七四年:2013/01/24(木) 10:58:12.44 ID:xoQfaxwK
そういえば家康には、将軍を退任して大御所になった後に、自分のことを「内府」と署名した書状があるのだとか
281人間七七四年:2013/01/24(木) 13:00:19.28 ID:KzxdUlrJ
>>272
豊臣官位制度の中では、左衛門佐も伊豆守も従五位下で特に上下の区別がなく
空いている官に適当に押し込めただけなんだろうな。
江戸時代になると、「四品以上に昇進する大名家一覧」でWikipediaするとわかるけど
家ごとで完全に統制されるようになるね。
282人間七七四年:2013/01/24(木) 21:15:45.13 ID:/cMzjHMl
「奥羽津軽一族」に書いてあったのを抜粋。

九戸政実らが投降したことで諸将は各陣所に引き上げていったが、一方で南部信直は浅野長政の陣所を尋ねた。

「津軽為信は実父高信の仇である。幸いにも為信がこの地に在陣している。まさに天与の機会である。
 この際、為信を攻めて父の仇を討ちたい。是非、貴将の許しをいただきたい。」
と申し入れをした。

これに対し、長政は
「この度の出陣は貴殿に対して謀反を起こした政実を討伐するためであり、
 この機会に津軽為信に対し私怨を晴らさんとすることは認められない」
と拒否した。

この時信直は言葉もなく下がったが、次いで蒲生氏郷の陣所を訪れて同様の願いを述べた。
これに氏郷も同調、ともに長政の陣所を訪れ重ねて願いを繰り返した。

これに対して長政は
「為信は殿下に属し、それに拠って朱印を賜りたる者であり、此度も当地で十分武功を顕し、天下へ忠勤を示している。
 そのような時に貴殿が私怨を晴らそうとする行為は容認できない。」
と拒否し、津軽為信には不測の事態を避けるために即刻の帰国を勧告し、為信は従って帰国した。


なお、後に名護屋で津軽が馬鹿にされたことで津軽家と浅野家は絶縁しているので本当にあったやり取りなのかは疑問が残る。
283人間七七四年:2013/01/24(木) 21:56:55.38 ID:sfOCPR+u
工場長が同調しちゃうのがちょっと意外
284人間七七四年:2013/01/24(木) 21:59:56.63 ID:voF6uaqJ
津軽と九戸どこで差がついた

時流の読みとしたたかさの違い
285人間七七四年:2013/01/25(金) 08:36:14.11 ID:ASx27AZm
>>282
まあ、南部と津軽は相手をディスる為に無茶苦茶な話を書き残してるからなぁ
286人間七七四年:2013/01/25(金) 11:47:46.61 ID:uij6e+ed
●∀・「もっと仲良くしようぜ!」
287人間七七四年:2013/01/25(金) 14:25:14.84 ID:hDIRbCtu
>>283
工場長の娘か養女だったかが
信直の息子の嫁になってるし、仲は良かったんだろう
288人間七七四年:2013/01/25(金) 19:25:27.80 ID:1XAQkbOF
永禄12年(1569)、長宗我部元親は宿敵である安芸国虎を滅ぼし、その居城であった安芸城には、弟の香宗我部親泰を
入れた。

この時、国虎の家臣であった畑山内蔵丞・右京の兄弟は、国虎の嫡男である千寿丸を阿波の矢野備後の元に
落ち延びさせ、その後故郷の旗山に帰ったが、安芸一族は皆滅び、その幕下はみな元親に降参していたため
自分たちの身を置く場所もなかった。

そこで、この畑山兄弟は元親家臣の野中三郎左衛門と所縁があったため、これを頼り、元親に降ることを乞い、
そうしてようやく畑山に居住した。

ところが、元親からの内命によって、香宗我部親泰はこの旗山兄弟を謀って安芸城に呼び寄せ。
そこで彼らに詰め腹を切らせて、殺害したのだ。

畑山の家臣たち36人はこの報を聞くと直ぐに集まり、涙を流して評議した

「さても!かのご兄弟をたばかり殺されるとは、無念というにも余りあることだ!
もし我々が従っていれば、あのように暗々と討たせることはなかったのに!
この上は安芸の城に押し入って香宗我部親泰を討取り、この鬱憤を散じよう!」

そうしてこの36人は皆で神水を飲み、出るを最期と思い定め安芸城に向かった。

これを知った香宗我部親泰は
「死夫の向かう所、砕き難き習いであれば、小勢といっても侮ってはならない!」と、屈強の兵200人余りを出して
これを防がせた。

36人の者たちは、元より覚悟のことであれば、切られようとも突かれようとも物ともせず、一歩も引かず、
一人残らず一箇所にて討ち死にした。
城兵も、数多討たれたのだという。

この事が岡豊に知らせられると、元親は
「哀れ、なんという剛の者たちだろう。一騎当千とは彼らを指すべき言葉だ。最も勇も有り義もあり、感嘆するに余りある。
その霊魂を弔わないでおくということがあるだろうか!そしてこれは、緒士に手本として見せるためでもある!」

そう言って、彼らが討ち死にした場所に、36本の卒塔婆を立て、数多の僧を請じて弔った。

それからはその場所のことを、『卒塔婆ヶ本と』呼ぶようになったそうである。
(土佐物語)
289人間七七四年:2013/01/25(金) 19:56:34.90 ID:pktUq91W
弟が汚れ仕事を担当して不穏分子を掃討
それをネタに当主が人心掌握か…さすがに元親も戦国武将だな
290人間七七四年:2013/01/25(金) 21:16:49.17 ID:kbbZaQx1
そもそも騙し討ちするなよ(´・ω・`)
291人間七七四年:2013/01/25(金) 21:23:50.67 ID:k43E7Hju
山内家一同「そうですね」
292人間七七四年:2013/01/25(金) 21:58:26.49 ID:XkN8xL7S
山内一豊「うわー、こいつらマジでクズだな」
293人間七七四年:2013/01/25(金) 22:03:49.98 ID:kbbZaQx1
因果応報ってやつだね
しかし、どうやって兄弟を誘い出したんだろ?
やっぱり相撲見物か...
294人間七七四年:2013/01/25(金) 23:57:48.96 ID:Y9nw/FoC
藤原惺窩は林道春が図書編を求め得たと聞いて、数通の書を送って
借りたいと伝えた。だが、道春は「手に入らなかったので」と、
最後まで貸さなかった。そのため、惺窩は、

「道春は非道の者だ。

図書編を手に入れたことは明白なのに、偽って無いと言うのは非道だ。
あるけども貸さないと言うむごさよりも、遥かに劣っている」

と、人に語ったのだとか。

――『老人雑話』
295人間七七四年:2013/01/26(土) 09:04:42.24 ID:wEgG3y83
貴重なモノなら他人に貸すの嫌がる人もいるんじゃないか
296人間七七四年:2013/01/26(土) 09:15:00.67 ID:QDP4NrwQ
欲しい物が手に入らなかったからファビョって相手のネガキャン始める

藤原惺窩ってどうも好きになれないなぁ
297人間七七四年:2013/01/26(土) 09:34:07.34 ID:k7tv7XKn
>>290
騙し討ちは元親のお得意な手
298人間七七四年:2013/01/26(土) 11:15:51.03 ID:XHq7c7EC
阿波の一宮と細川だっけか
299人間七七四年:2013/01/26(土) 12:45:31.60 ID:jmXpP8jV
こりゃあたまげたあ!
http://www.youtube.com/watch?v=Wnn0gKoc8jI
300人間七七四年:2013/01/26(土) 17:27:09.75 ID:JQFp8nqq
惺窩さんって、
高尚な思想やら学んでるんだろうけど自分の行動は子供と変わらないんだよね・・・
301人間七七四年:2013/01/26(土) 18:57:24.87 ID:W4G5L8Lw
>>296
この人の小早川秀秋評もこの類だったりするのかも
302人間七七四年:2013/01/26(土) 19:11:29.47 ID:H3lkLhi5
>296
このスレ向きの人物じゃないけど、松平不昧も若い貧乏藩主の頃は「今の茶の湯は古道具商か」って批難してたけど、
藩の財政立て直しに成功してからは「名物は財産価値あるから」って結局高価な名品を集めだしたっていう
303人間七七四年:2013/01/26(土) 20:14:46.08 ID:nBFo//FR
藤原惺窩て儒学スキーが昂じて抑留から解放されて帰国する姜に
「明・朝鮮連合軍で日本占領しちゃって下さいよ」とか言っちゃうとか、
学はあるけどどこか足りてない人なんだと思う
304人間七七四年:2013/01/26(土) 20:34:27.39 ID:J0oJwCr2
伊達政宗の派遣した、支倉常長の支倉遣欧使節団には、支倉と共に帰国せず、そのままヨーロッパに留まった者もあった。
その一人で、支倉とともにフェリペ3世の宮廷で受洗した武士、ドン・トーマス・フェリーペについて、1622年の記録が、
スペインに残っている

『私、ドン・トーマス・フェリーペは、日本の(支倉)使節と共にこの宮廷に来た日本の武士であり、キリスト教徒に成りました。
陛下(フェリペ4世)の、今は上の御元におられる御父陛下(フェリペ3世)は、その姉妹、極めてキリスト教的フランス王妃
と共に我が洗礼の代父母になって下されました。

サフラ在住のディエゴ・ハラミーリョは、私トーマスが彼に仕えていた時、私が奴隷身分でないにもかかわらず。
(奴隷の印である)焼印を私に押しました。これは、私トーマスが給与の支払を求めたためなのです。

この侮辱に大して正義が行われるよう、陛下に嘆願申し上げます。
また、日本への帰国の自由と許可をくださるよう、陛下にお願い申し上げます。
何故ならば神の恵みによって、私は自由人にしてキリスト教徒だからなのです。

以上の請願をお聞き届けいただけるのなら、喜びと感謝に絶えません』
(1622年 ドン・トーマス・フェリーペよりの請願書 A.I.G.,Indif.1452.))

これに、スペイン宮廷のインディアス枢機会議は、1622年9月26日の会議において、彼に帰国許可を与え、
翌1623年6月7日、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)艦隊によって、「ドン・トーマス・フェリーペ、日本人」を、
彼が来た地に向けて送り返した、と記録されている。
(A.I.G.,Contrat.5539,vol.U,f.368r.)

スペインに残った武士についての、その後の記録である。
305人間七七四年:2013/01/26(土) 22:11:26.61 ID:HAsWnEHa
>>298
有名な丈六寺の血天井というやつだな
(あれはたしか新開道善だったはず)
306人間七七四年:2013/01/26(土) 23:59:19.02 ID:X1wNx43t
徳川家康が伏見城にいた夏頃のこと。家康は天守に十一の茶壺を置いて、
壺一つにつき二人の番をつけて守らせ、三井左衛門佐(吉正)を責任者とした。

家康は「窮屈にならず、大事に番をせよ」と、料理を下し、碁・将棋・双六の盤までも
遣したので、終日心安く番の仕事が行われた。その三日目に使いが来て、御用とのことで
二つの壺が引き渡された。

その後、家康が天守にやってきた。初めは「御番大儀。そのまま(碁や双六を)うっておれ」
などと言っていたのだが、壺を見ると三井に向かい「先日、十一の壺を預けたはずだが、
何故九つしかないのか」と尋ねたので、三井は「御用とのことでしたので御使に
二つの壺を渡しました」と答えた。

「それはわしの命がわかっていないのだ。お前は念を入れるだろうと思って命じたのに
配慮が足りないぞ。始めから大事にと命じたのだから、取りに来たなら他の者に跡を任せて、
お前もその使いに付き添うべきだろう」と、家康は三井を叱った。

これは家康が三井の心を試すために使いを取りに遣したのである。
このような次第だったので、家康の取り立てた衆はいずれも皆念入りの人であった。

――『紀伊国物語、徳川実紀』
307人間七七四年:2013/01/27(日) 00:25:34.24 ID:fsrXLPkh
うわぁめんどくせぇ…
308人間七七四年:2013/01/27(日) 01:40:11.90 ID:a7EzabTl
原城を攻めたときのこと、
田崎外記がとてもきらびやかで派手な具足をつけ参陣した。
勝茂さまはその姿がお気にいらなかったようで、
それ以降、きらびやかで目立った物を御覧になると、

「まるで外記の具足のようだ」

と仰った、ということだ【葉隠】
309308:2013/01/27(日) 01:48:54.11 ID:a7EzabTl
この話には山本常朝の註釈もあるのでそれも

『この話から、武具というものは、
きらびやかで目立ちすぎるものは、
逆に凄みを失い弱々しく見えて、
相手にその心の内を見透かされ、侮られてしまうことがわかる』
310人間七七四年:2013/01/27(日) 02:05:54.01 ID:f6GCJYYj
目立つ具足ってのは手柄立てた時に周囲へ周知するって意味もあるからなぁ
311人間七七四年:2013/01/27(日) 02:38:29.52 ID:pAZksPQb
とはいえ身の丈以上に目立つ武具は味方からすれば嫌味だし相手からすればカモに見られそう
312人間七七四年:2013/01/27(日) 03:12:29.38 ID:eXEXYI+w
中村新兵衛「武具は目立たなきゃダメだろ」
313人間七七四年:2013/01/27(日) 09:25:40.10 ID:U+JEcG04
目立ちたかったら全裸に素手だろ!
314人間七七四年:2013/01/27(日) 13:19:34.04 ID:IIJcNzxh
編笠七蔵「俺の出番か!」
315人間七七四年:2013/01/27(日) 19:16:54.45 ID:+zEci214
一条信龍「勝負服なんだから目立ってなんぼ」
信龍's 「「「そうだそうだ」」」
316人間七七四年:2013/01/27(日) 19:43:28.56 ID:YiBaonjf
剣聖さまなら全裸でもやばいだろうな・・・種子島で一斉射撃か畳で畳みかけて槍でぶすぶすやるしかねえか
317人間七七四年:2013/01/27(日) 20:14:38.40 ID:awzvNXJe
1525年、六角家臣・蒲生高郷(氏郷の曽祖父)は、
当主の座から追った甥・秀紀を毒殺した(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1276.html)。

蒲生氏は京の将軍家とも関係の深い家だったため、秀紀毒殺について将軍家から六角氏に追及があり、
六角義賢(※)は毒殺犯の僧・善知客を捕え、五十五度もの拷問にかけ真相を白状させようとした。
しかし僧は拷問に耐え抜き、自白しないので処刑するわけにもいかず、
とりあえず獄舎につないでおいた。

しばらく後、義賢は銀杏の紋の入った鞍を他国へ遣わそうとしていた。
しかし担当の者は無学だったので、漢字でイチョウをどう書くのか知らず(送る物の品目を書く必要があったのだろう)
更に周りの者共にも聞いてみたが、誰一人その漢字を知る者はいなかったのである。

「ま、まさか仮名書きで書いて送るわけにもいかないだろ…どうすりゃいいんだ…?」

どうすべきか話し合っていると、獄中の僧がこれを聞きつけ、
「イチョウの漢字を御存じないのか? 銀杏と書き、鴨脚という異名もある。」

と教えたので、義賢は「良いことを申したものだ。これで今回は恥をかかずに済んだ…」
と深く感じ入り、僧を助命したのであった。


(蒲生軍記)


(※)原文では義賢だが、義賢は1521年生まれなので父の定頼の間違いのはず
318人間七七四年:2013/01/27(日) 21:08:09.76 ID:GK/Zq8Q+
結局、毒殺の真相はどうなったんだ?。
それにしても55回の拷問に耐えるってのも凄いな
319人間七七四年:2013/01/27(日) 21:39:54.17 ID:nTGBlkvA
>>318
良く生き延びたよな
それとも僧侶相手だから直接痛めつけない拷問だったんだろうか

寝かさないとか
320人間七七四年:2013/01/27(日) 22:11:07.94 ID:fsrXLPkh
クッションの刑とか安楽椅子の刑とかの恐ろしい拷問を…
321人間七七四年:2013/01/27(日) 23:47:22.68 ID:HRn8JFsi
丹羽五郎左衛門の家臣に成田十左衛門(弥左衛門道徳)という勝れた武士がいた。

丹羽家の大きな領地が、子の長重の代には豊臣秀吉に取り上げられて四万五千石に
なってしまった時、成田は広間で「誰か我に一味する者はいないか」と言ったのだが、
座の者は誰一人として答えなかった。

「お前たちは人間じゃない」と、成田は言った。

後にこれが秀吉に知られ、成田は(出奔して隠れていた)伊勢で誅された。

――『老人雑話』
322人間七七四年:2013/01/27(日) 23:52:34.90 ID:ZU0288WA
当主毒殺の疑いがあるので僧を拷問することにした。
他人の目に触れるとまずいので家に連れ帰る事にする。
嫌がる僧を風呂場に連れ込みお湯攻め。
充分お湯をかけた後は薬品を体中に塗りたくりゴシゴシする。
薬品で体中が汚染された事を確認し、再びお湯攻め。
お湯攻めの後は布でゴシゴシと体をこする。
風呂場での攻めの後は、全身にくまなく熱風をかける。

その後に、乾燥した不味そうな塊を食わせる事にする。
そして俺はとてもじゃないが飲めない白い飲み物を買ってきて飲ませる。
もちろん、温めた後にわざと冷やしてぬるくなったものをだ。

その後は棒の先端に無数の針状の突起が付いた物体を左右に振り回して僧の闘争本能を著しく刺激させ、体力を消耗させる。
ぐったりとした僧をダンボールの中にタオルをしいただけの質素な入れ物に放り込み寝るまで監視した後に就寝。
323人間七七四年:2013/01/28(月) 00:00:35.99 ID:WtrO6cYH
>>322
井伊直孝、島津義弘「まさかおぬし、そのような拷問を猫に対して行なっているのではあるまいな」
324人間七七四年:2013/01/28(月) 01:02:22.84 ID:c1txSWuX
僧の玉を抜くとき聞いたところ
お湯攻めの後は熱風ではなく冷風がお勧めだそうじゃぞ。
でも冷風だと捗らないんですけど。
325人間七七四年:2013/01/28(月) 01:27:02.00 ID:lbee8xBg
>>324
>>僧の玉を抜くとき聞いたところ

それが一番の拷問や(; ;)
326人間七七四年:2013/01/28(月) 18:16:00.79 ID:C2ohUS3j
>>321
当時丹羽家で最大の重臣だった長束正家が、とっくに秀吉に取り込まれているんだよなあ…。
327人間七七四年:2013/01/28(月) 23:46:18.10 ID:aBPZahBa
善悪報応の理は決しがたい。細川はかつて不仁だったが、今子孫は盛んである。

池田勝入は信長の乳母の子で、城介殿や常真と同じ乳房に育った人だ。
常真に向けて弓をひく理はないのに、小牧の陣で太閤の黄金五十枚にあざむかれて
常真の敵となった重悪の人である。

しかし、その子は備前、備中、播磨に手を伸ばし、因幡、伯耆に手を伸ばす子孫もいる。
一方で加藤肥牧(清正)などは律儀な人だが、子孫は既に絶えてしまった。

――『老人雑話』
328人間七七四年:2013/01/28(月) 23:51:11.20 ID:aBPZahBa
>>327
ちょっと訂正。
×黄金五十枚にあざむかれて
○黄金五十枚の賄にあざむかれて
329人間七七四年:2013/01/29(火) 00:03:32.99 ID:piD4P2sK
ちょっとまって!
勝入入道と同じ乳房で育ったのは、城介殿や常真さんのパパの信長さんだと思うの・・・
330人間七七四年:2013/01/29(火) 12:14:37.59 ID:hpGkLg9I
息子たちの乳母も兼任してたんだろ
俺は50手前だがまだまだ元気で白いミルクがいっぱい出るぞ
331人間七七四年:2013/01/29(火) 12:17:13.67 ID:d1qysb2o
こういう伝承ミスで構築される逸話の成立過程に興味がある
332人間七七四年:2013/01/29(火) 12:51:37.96 ID:e+3He9uu
老人雑話「なお武田や大内が滅んだのは当然の報い」
3331/2:2013/01/29(火) 18:39:16.52 ID:QkWcQkiV
槿花の宮の事

長宗我部元親が仁井田を巡見し、堂原に至った所に、槿花の宮という祠が有った。
元親は、これは聞いたこともない祠だと思い、現地の老人を召し寄せその縁起を尋ねた。
老人が畏まって申し上げるには

「この宮については、不思議な物語があります。

志和の城主和泉守の息女は、容色無双の美人でありました。これを西原藤兵衛重介が娶り、
比翼の語らい(いつも寄り添って語り合っていること)の夫婦仲であったのだが、
ある時この妻女が藤兵衛に涙とともに語った
「私には悩ましいことがあります。どうか暇を与えてください!」

藤兵衛は驚き
「これは心得ぬことを。私はお前と、二世までとも思っているのに。さては他の誰かに想いを寄せているのか!?」
これに妻女、涙をこぼし
「申すも恥ずかしいことですが、申さねばお疑いなさるでしょう。
実は、夜な夜な私の寝室に通って来る者があります。どこから来たとも知れず、又如何なる者とも知れず、
夢ともなく現ともなく忍び入ってくるのです。

初めの頃は私もこれを拒みました。しかしついにこれに従い、終夜語らい、この者が帰ったと解ると、
夢が覚めたようになるのです。

始めは、これは夢だと思いました。しかし彼は一夜も欠けることなく現れ、生臭い移り香も感じました。

一体どんな化生の仕業でしょう?わたしは、心ならぬ事とは言いながら、あなたと二世を約束したのに、
このような浅ましいことになってしまいました。
どうかお暇を下さり、私は急いで里に帰ります。とにかくもそうしないと…」
そう、声を上げて泣いた。

しかし藤兵衛はこれを聞いて呆れながら
「一体何を言っているのだ?お前は私と枕を並べて寝ているではないか。それなのに
私が知らないのだから、それは夢に違いない。
そんな夢で、私がどうしてお前を厭う事があるだろうか?そのような事を気にしないように。」
と、苦笑しつつ言った。

だが一方で『もしかして、浮気をしていて私を欺いているのだろうか?いや、不思議のこともあるものだ』
と思い、様々な祈祷をし、憑物落としなどもしたが、妻女はただ、物思いに沈む体であった。

大永七年(1527)三月二十二日、未の刻(午後2時頃)の事である。

妻女は藤兵衛に向かい、世の中の儚い事などを語っていたが、何気なく、ふと立ち上がり、縁の方に
行くかと思えば、庭の梢の上を、まるで平地を行くように歩いて、塀の上にたった。

藤兵衛は突然のことに驚き駆け寄って、彼女を引き止めようとしたが、妻女は
「藤兵衛殿、さらば!」
と言って塀から飛び降りると、はたひろ(約4メートル)ばかりの大蛇となって、淵の中に入っていった。

不思議というのも愚かなことである。下女や端女達は大いに恐れて逃げまわり、藤兵衛は、
妻女がこのような事になったのを見ても、どうしても彼女を名残惜しく思い、途方に暮れて嘆いていた。

そうして、しばらく経った頃の事

あの妻女の父である和泉守が常に召し使っていた次郎介という下部(卑役の雑人)が草刈りに出て、
その川上で鎌を落とした。あたりを見ても見つからず、草を分けて探していると、気がつけば
広々とした野に出た。四方を見渡してみても、全く見慣れぬ場所で、帰る道も解らず、仕方なく
足に任せて歩いていると、そこに大きな築地塀があった。

そして大きな門を始め、中の家も結構と言うばかりの立派な作りである。
門の中を覗いてみると、人一人もおらず、思わず奥に入ってみると、そこに一人の女性が機を織っていた。
3342/2:2013/01/29(火) 18:39:54.32 ID:QkWcQkiV
そして彼の方を振り向き「それなるは次郎介か?」と声をかけた。
次郎介は驚いた。それはあの、藤兵衛の妻女だったのである。

「ど、どうしてこんな所にいらっしゃるのですか!?姫君が行方不明になって以来、ご両親様のお嘆きは
言葉で表すことも出来ないほどでした!そして御母上君は終に嘆きのあまりお亡くなりになり、
御父上君も嘆きに身体を崩され、今はお命も危ういように見えます。

姫君様!さあそこから出てください!私がお供いたして、帰りましょう!」

妻女はこれを聞くと涙を流しながら
「私がこのようになって後は、我が二親のお嘆きを思って朝暮に悲しく、我ながら浅ましく思っています。
であるが、これは前世からの縮合であるため、仕方のない事なのです。
せめて父君に、このような有様ではあるが、子も多く産んだと言うことも伝えなさい。
少しはお嘆きを安める事も出来るでしょう。
私が再び、人界と交流する事は出来ません。これだけは悲しく思っている。

今日はここの殿も、あびやうし殿といって、ここから二十町ばかり北にあびやうしが淵の主があり、
それへの慰めのため、眷属共をみな引き連れて参られた。よい隙なので、お前にここを見せ、また
今の状況を父君に伝えたいと思い、お前の鎌を取ってここに隠したのです。
お前の鎌はこの機に懸けてあります。これを取って帰り、この有様を詳しく父君に申し上げてください。
絶対に他人には語ってはいけませんよ。」

そう申し渡され、次郎介は
「で、では、お子様達はどこにいらっしゃるのでしょうか?」
と尋ねると、「あそこで昼寝をしています」という。そこでそちらに行って見てみると、
数知れぬほどの小蛇が、うずくまり重なり伏せていた。

次郎介は身の毛がよだったが、何でもないようなふりをして「ど、どうか殿の留守の隙に、
故郷にお帰りください!御供仕ります!」と重ねて申し上げたものの、妻女は涙にむせび
「私もそうしたいが、再び人界に戻ることはならぬのだ。お前は殿の戻らぬ内に、急ぎ帰りなさい!」
と言われ、もはや致し方なく、「又こちらに参ります」と出立すると、妻女は名残惜しげに
見送った。

次郎介が四、五町ばかり歩くと、元の川端に出た。後ろを振り返って見ると、今来た道はどこに行ったのか、
川が流れ草が生い茂り、その跡形も見えなかった。

次郎介はあまりに不思議な事だと思い、友人達に「このような事が有った」と語ったが、
恐ろしさに舌を震わす者も有ったが、「そんな馬鹿なことがあるか」と否定する者も多かった。
と、そんな所に次郎介は、にわかに物怪のように踊り狂い

『人に語るなと言いしものを、悪い奴かな!我が棲家へ連れて行くなり!』

と大声で叫び、その夜行方知れずとなった。

西原藤兵衛はこの話を聞いて
「わが妻女が蛇道へ落ちたとは、なんと嘆かわしいことだろう。一体どういう業因なのだろうか。
せめてその苦しみを助けてやりたい。」
そう思われ、この祠を建てられ、槿花の宮と名付けられました。なんといじらしい心でしょうか。

西原藤兵衛は深く嘆きましたが、間もなく空しくなり、子も無かったためその跡も絶え、城には住人も
おりません。妻女の父和泉守は、悲しみに耐えず、志和の里に天神の宮があったため、一社に祀りこめて、
北野の天神、今天神など、一社の中に社壇を並べられましたが、後に、妻女が蛇道をを免れた事が
新たに御託宣あり、諸人これを承り、有難きことと肝に銘じたのであります。」

長宗我部元親はこれを聞くと「そうであるなら西原の城を見よう」と立ち入り一見した。
この城は山の尾先、屏風のような切崖の上に塀をかけており、下は鵜の巣の淵といって、
深いこと限りなく、その藍の水の色からは、大蛇が住んでいるというのも偽りではないと感じさせた。

こうして元親は高岡郡の城々への仕置の下知を完了し、岡豊へと帰られた。
(土佐物語)
335人間七七四年:2013/01/29(火) 22:31:42.54 ID:HfG/u7B+
獣姦NTRとはまた高度な・・・・・・
336人間七七四年:2013/01/29(火) 23:35:31.62 ID:gJtbY3kA
しかもヌラヌラした爬虫類
蛇×美女とかいくらなんでもマニアックすぎでしょう
337人間七七四年:2013/01/29(火) 23:37:09.82 ID:2atgh01A
古事記における倭迹迹日百襲媛命からの日本の伝統
338人間七七四年:2013/01/29(火) 23:41:52.43 ID:emQAy27q
小田原陣の折、松田尾張の嫡子・笠原新六郎は太閤方へ内応し、引き入れようと
計ったが、二男の松田左馬助は同心しなかった。

後に太閤は左馬助を誅殺しようとして「松田を誅せよ」と、黒田如水に命じた。
ところが如水は聞き誤った様子で、尾張と新六郎を殺してしまった。

太閤は如水を責めたが、聞き誤ったということで、さしつかえなかった。
これは如水一生の大事件だった。

左馬助は後に加賀大納言に仕えて五千石を領したが、近頃死んだとか。

――『老人雑話』

実際は笠原については左馬助の注進があった時点で殺されている。
339人間七七四年:2013/01/29(火) 23:48:44.00 ID:2atgh01A
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42919_25723.html
坂口安吾「二流の人」にも出ているな
340人間七七四年:2013/01/29(火) 23:51:39.65 ID:emQAy27q
>>338
申し訳ありません、訂正します。
×さしつかえなかった。
○特別な事情もなかった。
341人間七七四年:2013/01/30(水) 00:58:35.08 ID:1VXwlu3Z
大陸なら蛇女と人間の男の組み合わせもある
蛇女は陰の気が強いから男は死ぬか瀕死化になるけど

狐なら、孫だとされている栗林義長がおるね
342人間七七四年:2013/01/30(水) 01:06:40.00 ID:dNqXk2JW
時代はズレるけど、
安倍晴明も妖狐・葛の葉が母親という説もあるね
343人間七七四年:2013/01/30(水) 12:40:34.97 ID:6xFcnk2s
どこが一生の大事件なんだ?
344人間七七四年:2013/01/30(水) 12:58:38.18 ID:CUb0+MDX
一歩間違えれば処断される可能性があったってことかと
如水さんだから許されてるけど二流どころの武将だったら怒りを買って切腹だろう
345人間七七四年:2013/01/30(水) 13:06:51.23 ID:l1M2p6bT
>>338
間違えて2人はない、わざとだろー
と思ったが本当は1人だけか
346人間七七四年:2013/01/30(水) 13:14:08.27 ID:pSHQSXmM
松尾山に鉄砲射掛けろと言われて全力射撃の上、総攻撃掛けちゃった的な
347人間七七四年:2013/01/30(水) 14:42:07.21 ID:K8W3+3LZ
確か既出だね、この話。
348人間七七四年:2013/01/30(水) 15:50:50.19 ID:kVgfvNS6
>>336
蛇の手触りはサラサラだよ
ヌラヌラは両生類、蛙や山椒魚のたぐいかと
349人間七七四年:2013/01/30(水) 15:54:15.32 ID:6xFcnk2s
北條家の宿老が寝返るんだぜ
天下統一イベントでな
不忠者はいらないでしょ
350人間七七四年:2013/01/30(水) 17:03:47.30 ID:rmMALY3x
なんだろ、直家とか真田パパンとかなら黒いな直家、さすが黒いと思うのにクロカンさんだと何間違えてるんですか?と思うのはなんでだろ?
351人間七七四年:2013/01/30(水) 17:14:33.31 ID:yzs0Ix7o
>>350
うっかり官兵衛だからなあw
ホントにこの人、逸話的にもうっかりが多いよなw
352人間七七四年:2013/01/30(水) 17:17:15.58 ID:ypS6ksqG
滲み出る人徳の差ですな
353人間七七四年:2013/01/30(水) 19:45:39.17 ID:JvVKd3X5
>>344
しかし坂口安吾の小説の題名は
「二流の人」

来年大河の主役だから、この逸話も脚光を浴びそうだ
354人間七七四年:2013/01/30(水) 19:51:59.03 ID:7XW+VPVS
>>344
小田原城開場の第一の功績者がクロカンだし
処断されるわけないだろ
355人間七七四年:2013/01/30(水) 20:23:05.04 ID:yzs0Ix7o
>>354
ただ小田原陣のあと、第一線から退く形になるんだよな、クロカン
356人間七七四年:2013/01/30(水) 23:58:22.92 ID:xoPSghuK
金吾中納言殿は政所殿の姪(ママ)である。政所殿の御寵愛によって太閤は養子となされた。
始めは微々たるものだったが、筑前一国を与えられたので筑前中納言殿という。

治部の乱までは二心もなく、伏見城を攻落した。伏見城は鳥居彦右衛門が守っていたのを
金吾殿が攻落した。その時、金吾殿は抜群の賞禄があるだろうと思っていたが、

治部にそのつもりがないと見て心替わりし、関ヶ原で東照宮に属して治部を攻め滅ぼし、
その忠によって備前美作を宇喜多殿のごとく遣わされた。

――『老人雑話』
357人間七七四年:2013/01/31(木) 01:12:34.54 ID:XawLom8i
>>355
このころには既に隠居してたからな
358人間七七四年:2013/01/31(木) 11:24:51.31 ID:kMMhBF0x
狡兎死して走狗烹らる

張良を見習っただけ
359人間七七四年:2013/01/31(木) 11:47:30.71 ID:pCXFRDOj
祭姪稿思い出したw
360人間七七四年:2013/01/31(木) 21:47:12.57 ID:nEkc9jOh
>>358
そういえば、秀吉って劉邦ほどには功臣殺してないなぁ。
身内は秀次を筆頭にかなり不幸な目にあわせたけど。
361人間七七四年:2013/01/31(木) 21:49:48.06 ID:VfpptJNS
劉邦は世界史でもトップクラスだから、比較対象が悪いかと
362人間七七四年:2013/01/31(木) 21:54:49.63 ID:rnWsM+Ym
同じく低い身分から成り上がった明の太祖・朱元璋なんて、功臣を本気で皆殺しにしようとしたフシすらあるな。
なんで殺されたのかサッパリわからん人がゴロゴロいるw;
363人間七七四年:2013/01/31(木) 22:24:03.88 ID:NqBMAViV
秀吉に限らず家康にしろ信長にしろ、佐久間のように追放はしても家臣殺すまではしてないよな
茶坊主とか門番とかはまぁ別として…
364人間七七四年:2013/01/31(木) 23:01:04.74 ID:ftL6n08a
めんどくさいは嬉々として殿と一戦つかまつる!ってやりそうだw
365人間七七四年:2013/01/31(木) 23:09:42.10 ID:nEkc9jOh
>>363
神子田と尾藤…
んまぁ、追放された時点でおとなしくしていれば殺されはしなかっただろうけど。
366人間七七四年:2013/01/31(木) 23:29:00.12 ID:39+r6Txq
>>363
不手際で切腹ってのはあるけどな
367人間七七四年:2013/01/31(木) 23:34:28.58 ID:VfpptJNS
しかしそうを考えると、
三十六人手打ちにしたあの方とか、触るモノみなぶっ殺すあの鬼とか、
ロクでもねえな…
368人間七七四年:2013/01/31(木) 23:56:38.71 ID:BVrO7s82
>>360
でも天下統一後は功臣を退けて自分に都合が良い凡夫ばっか重用したんだから同じこと。
369人間七七四年:2013/02/01(金) 00:10:30.36 ID:ojd14J+c
鬼武蔵は門番と敵は殺すけど、身内や家臣を殺す話は意外と無いと思う。
370人間七七四年:2013/02/01(金) 00:32:44.64 ID:sA9e94wC
鬼武蔵が関所の門番を無差別に殺したことによって、自然と関所の廃止につながった
わけはないか
371人間七七四年:2013/02/01(金) 00:34:21.73 ID:nBaR6HsR
敵対したり後継者争いが絡まなければ身内は殺さないだろ
備前のあのお方じゃあるまいし
372人間七七四年:2013/02/01(金) 01:38:55.25 ID:y2S2LRuz
統一後に功臣で固めると、
勝ち組と負け組が明確になって、
体制派と反体制派にわかれやすいってのはあるかも
373人間七七四年:2013/02/01(金) 02:29:31.03 ID:YO9iI/fO
でも徳川政権じゃ露骨に分けたけど正面切って反旗翻す様なのは既に居なかったよなぁ
いつやるか油断出来んてのなら奥羽辺りにいたかもしれんけども。
374人間七七四年:2013/02/01(金) 09:29:19.65 ID:7ZtKo2qt
>>373
徳川政権は豊臣政権が全国統一の基盤を固めたからこそ多少の混乱があってもうまくいった。
シナの秦と漢の関係と似ている。
375人間七七四年:2013/02/01(金) 09:32:39.96 ID:6cSJSAkh
>>368
不始末をしでかして追放されたのはいるけど
別に功臣を退けては居ないだろ。
376人間七七四年:2013/02/01(金) 10:26:23.78 ID:XfCy3cnR
クロカンガーとかその手の人だろ
377人間七七四年:2013/02/01(金) 10:52:10.69 ID:Ll0MaEDq
自分から身を引いた→くろかん
僻地に追いやった→うじさと
378人間七七四年:2013/02/01(金) 11:08:16.00 ID:YO9iI/fO
自主的に退いて飛ばされた→SENGOKU
379人間七七四年:2013/02/01(金) 14:54:04.30 ID:lgQ/A4q5
一条従三位権中納言兼定卿はその頃、御諱を改められ康政と号せられた。

この卿は元来から性格が軽薄であり、常に放蕩を好まれ、人の嘲りも顧みず、日夜酒宴・雄興に耽り、
男色女色しへつらいを受け、又は山河に漁猟を事とし、軽業、相撲、異相の者に熱中し、
近習の輩とは主従の隔てがなく、まるで親友同士のように肩を押し膝を組む有様であった。

ある時は男女を集めて踊りを踊らせ、その中に立ち交ざり、祭礼の場や説法の道場にも、
深編笠をかぶり頬かむりをして人々に交ざり、男に触り女にもたれかかり、様々な戯れをされていたが、
人々がそのことを知らないとでも思われていたのだろうか、外様の人々に向かっては、立ち振舞・行儀重々しく、
目を見返すことすらセず、軽々しく言葉もかけなかった。

鷹狩、巻狩などの折に、往来の旅人がそのことを知らず、傘をかぶったまま、あるいは馬に乗ったままで通りすぎようとする
者があれば、奇怪であると鉄砲を撃ちかけ弓を射かけ、又は人を駆けさせその者を打擲させた。
無礼不義を許さぬと、僅かな罪であっても許すことがなく、大小上下、心を安んずる時がなかった。

老臣である、土居、安並、羽生、為松といった人々は、主君に不義があるのを見て諫言をしたものの、
これを受け入れることもなく、慢心のままに振舞われていた。
(土佐物語)

長宗我部の立場からの記事であるが、一条兼定の放蕩についての記録である。
380人間七七四年:2013/02/01(金) 15:17:23.05 ID:MNSsPeLy
康政って、まんま源康政と諱がかぶるじゃないかw
381人間七七四年:2013/02/01(金) 17:15:49.33 ID:lgQ/A4q5
>>379
2行目 >日夜酒宴・雄興に耽り
×雄興 ◯遊興 です。申し訳ない
382人間七七四年:2013/02/01(金) 18:18:19.65 ID:2RXaVO+b
>>379
一条兼定ってツンデレだったのか
383人間七七四年:2013/02/01(金) 23:04:49.07 ID:U9Ql8MBf
>>365
むしろこの2人は徹底的に下手をうちすぎた感がある。
神子田は妙な意固地を立ててラスボスを完璧に怒らせちまったし
尾藤は小田原戦終了後に帰参の求めなんかするから、「やる気あるのか?」と
ラスボスの不興を買ったし(同じ古参の臣である一柳が討死しているから特に)

>>368
古参の生き残りの宮部とか傍においているし、別に功臣を疎んじてはいないが。
と・・・いうか、この手の功臣冷遇で名前が挙げられているクロカンなんて、
譜代の中では領地面で滅茶苦茶厚遇されているぞ。
表高でこそ福島や加藤なんかに負けているけど、自己申告の検地だから、けっこう
裏石高があったっぽいし、ラスボスもそれを黙認している。
384人間七七四年:2013/02/02(土) 10:58:13.36 ID:FdNgoi5U
脳筋との違いですう
385人間七七四年:2013/02/02(土) 18:36:09.17 ID:5X37aWTD
愚堂東寔の名声が天下に轟くと、将軍家光に江戸城に呼び寄せられ、
その他に保科正之、石川忠綱、松平親英らとも面会した。

ある時、保科邸にいた際に儒士の某が「儒家は雷を陰陽によるものと見る。
仏家はどのように見るのか」と質問した。

愚堂は背後の歩障を叩いて「轟!轟!轟!」と声を出し「斯くのごときものじゃ」
と、答えた。某は口をつぐんで退いた。

――『近古禅林叢談』
386人間七七四年:2013/02/02(土) 18:53:06.12 ID:yc3dpVV8
「江!江!江!」

大御所「それは恐ろしい」
387人間七七四年:2013/02/02(土) 20:04:25.15 ID:Yp8Hd7hg
関ヶ原の敗北から土佐に帰り着いた長宗我部盛親は、家臣を集め、家康への謝罪のための上阪について相談した。

「とにかく大阪に上がると決めた上は、片時も急がなくてはならない。
供の人数が多いのは良くない。士が80人ほど、雑兵180人ほど、日限は10月1日である」
と決定し、皆その準備のため退出しようとしていた所、久武内蔵助(親直)が進み出て申し上げた

「今度大阪に御上りされるのなら、その前に津野殿(津野孫次郎親忠)を殺されるべきです!
何故かといえば、津野殿は藤堂和泉守(高虎)殿と御入魂であり、今度我々が反逆に与したのを幸いに、
土佐のうち半国は津野殿に宛てがわれるように、取持ちをすること疑いありません!
その時になって後悔しても後の祭りです。急いで孫次郎殿を謀り呼び寄せ、詰め腹を切らせるべきです!」

これを聞くと盛親は顔色が変わり
「これは内蔵助の言葉とも思えない!この盛親は庶子ではあったが、長男の弥三郎殿(信親)は討ち死にされ、
五郎次郎殿(香川親和)は不幸にして早死され、孫次郎殿は他家を継がれていたために、私が家嫡となったのだ。
これは、実際には亡き父上の、私に対して慈愛が深かったためである。

それに、今回謀反に与した上は、公儀よりの御赦免はただでさえ計り難いものである。
その上に津野殿に腹を切らせては、重罪を逃れることは出来ない!
この事が、例え露見しなかったとしても、兄を殺して自分の身を立てるなど、出来るものか!」
そう苦々しく言い捨て、これには久武も、返す言葉も無く退出した。

ところが久武内蔵助は自宅に帰って思案し
「今回の私の進言が津野殿に聞こえれば、きっと深く恨まれるだろう。そうなっては、どんな事をされるか
解ったものではない。よし、たばかって討ち取るのだ!
盛親公とて今はあのように言っているが、いざ所領を分割されれば必ず後悔するだろう。
しかし、私一人でこの事は出来ない。」
と、かねてから親しくしていた津野藤蔵を急ぎ呼び寄せ、暗に自分の計画を伝えると藤蔵も同意し、
この事は時間をかけてはならぬと、その場から津野親忠の元に、盛親からと称して直に使いを立てた。

使いは「今回の(関ヶ原での敗戦の)件に関して、ご相談したいことがあります。
赤岡にてお待ちしておりますので、どうか急ぎお越しください。」と伝えた。

これを聞いた津野親忠は、「家の安否はこの時である」と、取るものもとりあえず手勢少々を引き連れ
赤岡に向かって急ぐとこにに、久武内蔵助は人を遣わして、先ず岩村の吉祥寺に入るよう伝えた。
一行がここでしばらく休憩していると、久武と津野藤蔵が数百騎を引き連れ押し寄せた。

「土佐守殿(盛親)の仰せである!孫次郎殿、急ぎ御腹召されるべし!我ら二人、御介錯のため罷り越しました!」

この突然の自体にも。津野親忠は少しも騒がず
「一体何の罪によって、この親忠を謀り寄せて、討ち手を差し向けたのか!?
血の繋がった兄を殺して、自分が安泰になどなれるものか!天罰たちまちに来て、すぐに思い知るであろうよ!」

そう吐き捨てて直ぐに切腹しようとするのを郎党たちが押しとどめ
「これはなんと口惜しいお振る舞いでしょうか!?何の罪で、おめおめと御腹を召されるとのでしょう!?
ここは寄せ手の奴原を追い散らしてやるべきです!」そう、打って出ようとした所、津野親忠は

「お前たちの志は誠に神妙である。だが、もはやとても逃れられぬ状況だ。
この親忠は自害する。だがお前たちは、何方へも立ち退き、妻子を養ってやれ。」
そう言うやいなや腹を十文字に掻き切った。

これを郎党の久松源蔵が介錯し、その太刀を持ち直し、自分の喉笛に突き立て、主君の死骸にうち重なって死んだ。
津野親忠、享年29歳。戒名は教山寺雪庭宗筝と号した。これにて、土佐津野氏の正統は18代にて断絶したのである。

この久武内蔵助親信の父・肥後守則義、兄・内蔵助親直は、性格柔和にして、信頼厚く
忠義を専らにし、主君の不義を諌め佞奸を退けたため、人々は皆彼らを敬ったというのに、
今の内蔵助親信は、親にも似ず兄とも違い、奸佞にして邪智深く、人を滅ぼし身を立てようとする人物であった。
このような悪人が威を振るえば、どんな事が起こるのかと、心ある人々は嘆いていたが、
彼は蓮池、此江山を始め武功の者たちを讒言し、今またこのような悪事を行って、
結局は長宗我部家を滅ぼしたのである。
(土佐物語)
388人間七七四年:2013/02/02(土) 20:11:10.62 ID:NAZeXtiQ
そういや盛親って、無位無官だよなぁ
389人間七七四年:2013/02/02(土) 21:18:44.06 ID:7eErHXlA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4870.html
この逸話?
長曾我部宮内少輔と書かれているが
390人間七七四年:2013/02/03(日) 01:19:56.57 ID:lidqeqCk
いや元親は正式に叙任されてるけど、盛親は自称でしかないんだよ。
391人間七七四年:2013/02/03(日) 08:01:01.44 ID:wW0No1gv
豊臣政権下の国持大名が無位無官って不思議だね?
392人間七七四年:2013/02/03(日) 09:37:06.73 ID:EVY1IRcA
実効支配を黙認されてるだけで正式な承認は受けてなかったんじゃ
393人間七七四年:2013/02/03(日) 09:44:22.58 ID:Rvo8ZQwG
代替わりでゴタゴタがあったんだっけ
確か秀吉が元親の後継者として指名したのは他の人物だったとか
394人間七七四年:2013/02/03(日) 10:58:27.33 ID:lidqeqCk
軍役は慶長の役を含めて一貫して土佐侍従(元親)宛に出されてる。

元親の死去が秀吉死後だから、ゴタゴタしてたんだろうなぁ
領知宛行状も出てない筈だし
395人間七七四年:2013/02/03(日) 11:01:07.97 ID:sbncRgEz
豊臣政権下は武家官位が重要視されてたということだから
前ちょっと出てた公家成、諸大夫成とかいうのだよな
国持大名でありながら諸大夫成でもなかったのか
396人間七七四年:2013/02/03(日) 11:30:16.01 ID:lidqeqCk
世子が元服した時点で諸大夫成するのは、清華として扱われてる家くらいかと
397人間七七四年:2013/02/03(日) 11:36:10.14 ID:lidqeqCk
間違った。清華は元服した時点で公家成だな。
398人間七七四年:2013/02/03(日) 11:40:50.34 ID:sbncRgEz
>>397
誰がいるの?
399人間七七四年:2013/02/03(日) 12:22:24.68 ID:lidqeqCk
>>398
徳川秀忠、宇喜多秀高

微妙な例としては、毛利秀元が秀吉に輝元の後継と認められた時点で侍従になってるのと
前田利長が前田家が清華になる前に侍従になってる。
400人間七七四年:2013/02/03(日) 17:47:26.27 ID:f95ciS3r
徳川家康は囲炉裏に本多平八郎を呼んで「この陣を退くべきか、否か」と、尋ねた。
これに平八郎が「御引き上げなさるべきです」と申し上げると、家康は「腰抜け!」
と、叱った。平八郎は「腰抜けの覚えはございません」と言った。

また、家康は酒井忠次を呼んで「平八郎は引き上げろと言うが、お前はどう思う」
と、尋ねた。忠次は「若い平八郎の意見ではありますが、私も同じ意見です。
もっともだと思います」と、申し上げたので、家康は引き上げたのだが、
その様子は少々みっともないものだった。

そのため平八郎は「私は最後まで敵に押付(鎧の背の上部)を見せませんでしたよ」
と、家康を風刺した。この時、忠勝は十八歳だった。

――『良将言行録』
401人間七七四年:2013/02/03(日) 17:54:30.95 ID:TZdT6oPj
>>400
忠勝18歳というと家康は23歳か。若い主従だな。
402人間七七四年:2013/02/03(日) 18:34:15.44 ID:N57BYism
安心の三河武士クオリティ
403人間七七四年:2013/02/03(日) 19:01:03.81 ID:wXP5DRQl
存念を問われると安全策というか正攻法を進言するけど、自分が戦に出ると相当な無茶をやらかすイメージだな忠勝は。
404人間七七四年:2013/02/03(日) 19:33:27.59 ID:ztwanxXe
とは言っても、それは若いうちだけだよね
高天神とか、姉川とか
まあ、長久手のときも無茶だったかもしれないけど、それは計算ずくに違いない
405人間七七四年:2013/02/05(火) 14:05:37.66 ID:3vM630+7
徳川家康が発布した禁教令によってキリスト教は禁止となった。
禁止とはなったものの信仰をというのは人間の内面の問題なので検めるのは難しい。
幕府側は苦慮した末キリシタンが崇める教主を象った浮き彫りを作り
それを踏ませる事で非キリシタンである事の証明とすることにした。
踏み絵である。

早速奉行は鍛冶屋に踏み絵となるものを注文した。
しかし注文を受けたこの鍛冶屋はキリスト教について全く知らなかった為
奉行側から肖像を詳しく聞き出して製作することとなった。
奉行からの注文と言う事で未知の製作物ながら意匠を凝らして踏み絵を完成させたが
何の目的で使うものなのか鍛冶屋は知らなかった。

完成した踏み絵を持って鍛冶屋が奉行の下へ赴くと
奉行は踏み絵の出来に満足し、鍛冶屋を誉めた。
鍛冶屋も奉行直々にお誉めの言葉を賜った事に平伏したが、
注文した奉行と対面しているのは良き折であると思ったのか
これは何に使うものなのかと奉行に尋ねてみた。
奉行は鍛冶屋の問いにこう答えた。

奉行
「これはキリシタンを見つけ出すために使うものである。
キリシタンの教主を象ったこの浮き彫りを踏めなければ
キリシタンであるとして厳罰に処すのだ。
事の初めにまずお前から踏んでみよ。」

鍛冶屋はこの答えに驚き踏む事は出来ないと拒絶した。

奉行
「なぜか。お前はキリシタンなのか。」

鍛冶屋
「いいえ、私は神仏に誓ってキリシタンではありません。」

奉行
「では何故踏まないのか。」

鍛冶屋
「これは私がお奉行様の為に丹精込めて作り上げた作品です。
私の作品を足蹴にするなど出来ません。」

奉行
「しかし踏めずば罰するというのが決まりである。
踏めなければお前をキリシタンとして罰さねばならないのだぞ?」

鍛冶屋
「それでも構いません。」

こうして踏み絵を作った鍛冶屋は処刑された。
踏み絵によって最初に死んだのは、踏み絵を作った非キリシタンの鍛冶屋だった。
406405:2013/02/05(火) 14:06:36.21 ID:3vM630+7
と、言う出典不明の話を20年以上前の中学校時代の日本史の先生が言ってたんだが誰か知ってる?
407人間七七四年:2013/02/05(火) 14:35:05.71 ID:y3AZVCV5
職人の意地だったんだろうか?
悲しい話だな
408人間七七四年:2013/02/05(火) 14:59:11.92 ID:ytqKMuJn
色々出来過ぎてて、戦後の創作話の匂いがプンプンするな
409人間七七四年:2013/02/05(火) 15:20:11.08 ID:Addo4ChY
明治維新後の創作かもしれん
授業中の"面白い話"を今思い返してみると、トンデモだったり、イデオロギー込みだったりが多かったな
410人間七七四年:2013/02/05(火) 15:55:53.23 ID:vEAxz5Z2
>>387
後半部分に誤字があるんだが誰も指摘してないのなw
纏める奴に苦労かけんな
411人間七七四年:2013/02/05(火) 16:00:25.45 ID:niwVIRcY
五藤吉兵衛為浄は、山内一豊譜代相伝の家臣であり、いつも一豊に従い、武功を顕した。
そして天正11年(1583)
小牧長久手の前哨戦として、羽柴秀吉が滝川一益の居城・伊勢亀山城を攻撃した時、
この軍に従った一豊とともに真っ先に進み、大いに武功を表し、そして壮烈な討死をした。
時に32歳であった。

五藤吉兵衛には祖父江新右衛門といって、これも同じ一豊の家臣であり、年来の親友が有った。
吉兵衛が死んで、祖父江はこんな事を、人に語った

「私と吉兵衛の仲の良さというのは、親族以上のものだった。
あいつとはいつも、怒ることもなく、隠すこともなく、戦場に挑んでも共に励んだものだが、
私はいつも、吉兵衛に劣っていたよ。

今度の亀山城攻めの前の夜、私の陣に吉兵衛がやってきて、夜半過ぎまで軍物語をしていてな、
そこで、お互いの今までの手柄を数えてみたんだ。

自身で敵の首を獲ったこと、吉兵衛は26回。私は24回。
生け捕りをしたのは、吉兵衛が15人、私が11人。
敵の城に乗り込んだのは互いに6回。
敵と組み打ちをしたのは、吉兵衛が7回、私が9回であった。

吉兵衛はその時こう言った
『組み打ちはお主に負けたなあ。』

私は言ってやったんだ
『いいや、もう一つ勝っているものがあるぞ』
『それは何だ?』

『私のほうが5つ、歳が勝っている。』

お互いに大笑いしたものさ。
その夜は互いに酒を飲み、物語して別れたが、これを暇乞いにして、翌日、吉兵衛は討ち死にした。

私は、比翼の友(二羽の鳥が一体になって飛ぶように仲睦まじいこと)を失ってしまった!
もはや戦場に挑んでも勇む気持ちになれず、酒宴の席で楽しむ気持ちにもなれないのだ。」

そう、涙を流して語ったのだという
(土佐物語)
412人間七七四年:2013/02/05(火) 17:33:28.20 ID:SnRRoljf
『比翼の鳥』
一眼一翼の“雌雄のつがい”が一体となって飛ぶという想像上の鳥。
「天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん」
と詠われているように男女の仲睦まじい様を表す。

アッーーー
413人間七七四年:2013/02/05(火) 17:51:57.57 ID:DKCNhZHT
>>406
長与善郎「青銅の基督」
414人間七七四年:2013/02/05(火) 20:35:06.95 ID:3vM630+7
>>413
小説か…
あるいはその小説も元となる話があったのかもしれないけどスレ汚しすまんね
415人間七七四年:2013/02/05(火) 21:18:20.16 ID:Kb9Dzb1f
>>413,414
青銅の基督の主人公はそもそも踏絵の制作を依頼されているからちょっと違うような
ただし付記にこう記してあった

>> 附記
>>寛文の頃長崎古川町に萩原といふ南蛮鋳物師がゐた事、そしてその踏絵の神々しく出来すぎた為め信者と誤られて殺された事は事実である。

なにか共通の元ネタがあるのかもね

詳しくは下記参照のこと
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/001521/files/52216_46233.html
416人間七七四年:2013/02/05(火) 21:28:09.82 ID:s9De63wh
その「青銅の基督」や遠藤周作「沈黙」にも登場する
クリストファン・フェレイラ(沢野忠庵)も面白い人物だけど
時代が離れるか
417人間七七四年:2013/02/05(火) 21:35:36.22 ID:3vM630+7
>>415
まったくの嘘っぱちとも言えないのか
どの道寛文では戦国時代とはもはや言えないからスレチだね
いや、ありがとう
ちょっとそれ読んでみるよ
418人間七七四年:2013/02/06(水) 15:33:58.83 ID:GpFgiqzI
関ヶ原の土佐国主となり入国した山内一豊は、早速家中の者達に知行をあてがい、そのうち
山内刑部一照には本山を与えられ、かれは古城を改修しここに入城した。

さて、この地には高石左馬助・吉之助という兄弟が有った。
彼らは長宗我部氏に属した武士であり、この地の領主であったが、長宗我部盛親の没落後は、旧領の傍・下野に
忍び暮らしていた。

慶長8年(1,603)11月、この年は旱魃が続き、田野に青臭もない状況となり、高石兄弟も年貢を収納することが出来なかった。
山内刑部の役人たちは高石左馬助に使いを出して、年貢を納入するよう求める。
左馬助は様々に詫びたが、使いは「殿がこちらに入部された最初の納入である!今後のためにも、疎かにしてはならない!」
と言って、しきりに左馬助を責めた。左馬助は致し方なく使いに向かって

「今年が凶作であることは、世の中皆知っていることである!私には納入するものが無いのだ!
万物が実らないのは天の業であり、我が力の及ぶ所ではない!」

そう返事をした。
使いは帰ってこの旨を伝えると、役人たちは腹を立て、「そのような奴らの言うことを、そのままに聞いてしまえば、今後
狼藉が絶えないだろう。その者を召し捕り牢獄に入れ、諸人への見せしめとするのだ!」と評議して、再び使いを出し

『誠に納入しないのか、その方に直に仔細を聞きたい。すみやかにこちらに来るように。』

と伝えた。これを聞いて左馬助「心得たり」と出立した。この時、弟の吉之助は「俺も一緒に行こう」と言い出したが、
左馬助
「いやいや、お前は無用だ。どうせ、私を擒にするための企みであろう。
なあに、どれほどの事があろうか。お前は旧交の者たちを集め、瀧山に立てこもる用意をせよ。
私は城下に行き、思うままに言い散らし、近づく奴原があれば、50人でも70人でも踏み倒して、さっさと帰ってくるさ。」
そう事も無げに言って城下へと向かった。

到着し、役人たちの集まっている場所へ少しも臆することなくつつと入り、役人の頭人に膝下近くに畏まり、申し上げた
「それがしを召されたのは何事でしょうか?」
頭人「年貢の収納を、どうするつもりなのか?」
左馬助カラカラと笑い出し

「さてさて道理を弁えぬ人々かな。治めるべき年貢など無いと、何度も言ったというのに、さては使いが申さなかったのか?」

これを「天晴悪き言い分である!」と両方より左馬助を捕えようと近づいてくるのを「心得たり!」と左右に突き飛ばした!

「やあ、ここに留めようと思っているのなら留めてみよ!」

と刀の柄に手をかけあたりを睨みつける。その場の者達、ひしめきながらもあえて彼に手を出そうとはしない。
そこで左馬助は

「なにか私に言うことはありますか?…無いのなら、暇を申し上げる。」

そう言い捨て悠々と立ち去った。

さて、彼の帰りを待っていた吉之助、左馬助の姿を見ると「どうだった!?」と聞いてきた。左馬助
「なあに、大したこともない。だが油断してはならん。」と、同心の者達300人ほどを集め、近郷の家々を略奪し、
そうして瀧山に立て籠った。
これが長宗我部旧臣による最後の武力抵抗となる、本山一揆(瀧山一揆)のはじまりであった。

本山一揆勃発に至る過程である
(土佐物語)
419人間七七四年:2013/02/06(水) 17:44:46.05 ID:lxU2Eyzq
最近は土佐物語からのエピソードが多いね
420人間七七四年:2013/02/06(水) 17:55:44.35 ID:ghSHSGRK
図書館で本でも借りたんだろ
421人間七七四年:2013/02/06(水) 18:12:31.45 ID:qA9n4nAv
土佐なら悪い話がいっぱいありそう。あの山内だしw
422人間七七四年:2013/02/06(水) 19:43:02.96 ID:5fqtHZgc
土佐物語なら借りなくても、近代デジタルライブラリーで誰でも見れるじゃないか
423人間七七四年:2013/02/07(木) 08:30:00.44 ID:MvBKONK+
土佐ってでかいよねー
よく分割しなかったもんだ
424人間七七四年:2013/02/07(木) 11:33:46.06 ID:n5wWtfTD
>>423
陸奥国、出羽国って知ってる?
425人間七七四年:2013/02/07(木) 11:40:42.70 ID:ThisqVey
最終的には分割したじゃん
426人間七七四年:2013/02/07(木) 11:53:09.38 ID:gJ85x875
分割したのって明治だし
427人間七七四年:2013/02/07(木) 11:53:45.11 ID:n5wWtfTD
>>425
明治になってからな。
3年後には廃藩置県で国自体なくなってるし。
428人間七七四年:2013/02/07(木) 11:55:36.90 ID:cS9AvGs+
>>418
凶作なのに略奪するなよ・・・
429人間七七四年:2013/02/07(木) 11:59:48.18 ID:kVsdyv36
守とかが任命されなくなっただけで別に廃止はされてないんじゃないの?
430人間七七四年:2013/02/07(木) 12:16:39.54 ID:GPmz+1wR
>>429
行政単位として消滅したんで、消滅。
431人間七七四年:2013/02/07(木) 12:23:21.75 ID:wleVTKD0
廃藩置県?
432人間七七四年:2013/02/07(木) 13:21:40.49 ID:gJ85x875
>>429
住所として通用しなくなった時点で消滅してるわな
433人間七七四年:2013/02/07(木) 15:06:34.49 ID:x61VS0Dg
そもそもでかくないだろ
434人間七七四年:2013/02/07(木) 15:20:56.20 ID:n5wWtfTD
神奈川県は歴史的にも大きさ的にも伊豆+相模+武蔵の一部でいいと思う
435人間七七四年:2013/02/07(木) 19:03:33.36 ID:+qU8SqyK
四国まるごとでさえ岩手県と同じくらいの大きさしかないからなぁ
436人間七七四年:2013/02/07(木) 19:13:46.90 ID:4TDVtYRN
武田信虎は、甲州に侵入した福島上総介を討ちとった頃からその威、いよいよ盛になり、
その勇に誇り、またその悪行も心のままに行うようになった。
ある時信虎が言うには

「私は累代の甲州の太守として威を遠境に震い、何事も心に任せずということはない。しかしながら、
懐妊した女の腹の中を見たいと思っているのに、未だに心に任せぬぞ。」

と、それより孕んだ女を探しださせ、当月妊娠した女から、2ヶ月目、3ヶ月目と続き、10月目にまでの女の腹を切り裂いて、
男子・女子の境を見分け、又は10ヶ月間の月々の胎児の形を見定めるために、ここまで13人の腹を切り裂き、殺されたのは
目も当てられぬ有様であり、人々は皆大いに恐れた。

武田家の重臣である馬場伊豆守虎貞・山縣河内守虎清は、このような信虎の悪逆を見るに忍びず、大いに嘆き悲しみ、
両人心を合わせ、57ヶ条の書付を以って信虎を諌めたが、少しもその諫言を用いず、挙句には引き籠って、
馬場・山縣に対面しようとしなかった。
これに両人とも如何とも出来す、しかし、密かに話し合った。

ある日の早朝、二人は信虎に急報した
「一揆の奴原が起こり、当国山梨まで乱入し、領民は略奪を受けています!」

これに驚いた信虎は、急ぎ両人を寝所に呼んでその次第を聞いた。
馬場・山縣はお側近くに寄り、畏まって

「一揆の起こったというのは、嘘です。我々両人は臣たる者の道を守り、先日書状を以って諫め申し上げましたが、
一言たりとて御許容無く、それどころかその後お目見えも許されなく成りました。
そうして申し上げるべき手段がなくなり、だからといって打ち捨てておいては、恐れながら当家の滅亡、近くにあるでしょう。
悪名を、長く末代に残すこととなります。心あるものはどうしてこれを嘆かないでいられるでしょうか?
しかしながら今や、君のお怒りを受けることを恐れ、己が身を顧みて、一言の諫言を申し上げるものもいなく成りました。

今は戦国の最中です。村上・平賀・小笠原といった大敵が信州には充満し、味方の虚を伺っている次節です。

我々の諫言を御許容しないのなら、必定、御家を滅ぼさんこと、目の当たりにあります!」

そう、憚ること無く申し上げると、信虎は二人を睨みつけ

「私がお前たちに諌められて国を治めるというのか!?その上、私を侮って嘘によって予を謀ること、許されぬ!」
そう言うや、武田家重代の左文字の刀を抜き放ち、直ちに山縣を一刀に切り捨てた。

しかし残った馬場虎貞は少しも動じる様子もなく、そのまま畏まっていた。
信虎は「馬場!これを見たか!?」と怒鳴ると、虎貞

「諌め争って死を賜うのは、臣たる者の道であり、また、君たるものの道では有りませぬ!
古今、このような例は多くあります。我が身を守るような心底で、どうして諫言を申しましょうか!
この私にも同じ刑を給わって、快く相果てましょう!」

そう言い終わるのも待たず、肩先からずんどと切り離した。

このことを人々、恐れ慄き、諫言を申すものも絶えて無くなったため、信虎はいよいよ悪行を行ったとのことである。
(武田三代軍記)
437人間七七四年:2013/02/07(木) 20:41:55.55 ID:eYj158qX
>>435
面積だけで単純比較してもなぁ
438人間七七四年:2013/02/07(木) 20:55:03.12 ID:ELsyPILc
信虎を貶めて信玄の正当性高めるために作った、いかにも江戸時代の軍記物って感じだ
439人間七七四年:2013/02/07(木) 21:01:11.79 ID:rYJ+8NgI
妊婦の腹を切るって紂王にもあったけど暴君のテンプレみたいなものなのかしら
440人間七七四年:2013/02/07(木) 21:03:39.45 ID:+3/czfIX
考え得る限り一番悪いことって事だろ
441人間七七四年:2013/02/07(木) 21:06:31.36 ID:DfJfvLEP
テンプレそのもの
武烈天皇とか松平忠直とか
442人間七七四年:2013/02/07(木) 21:25:53.04 ID:unNWgkwq
本当にあったかもしれないのに
443人間七七四年:2013/02/07(木) 22:50:35.96 ID:26lwa1/B
>>435
三日月が丸くなるまで南部領とは良く言ったもんだね
津軽は残念な事になったけどw
444人間七七四年:2013/02/07(木) 23:50:00.67 ID:g1MLdBO3
>>442
ただここに出てくる山県虎清も馬場虎貞も一次史料上一切出てこないし、
それどころか甲陽軍鑑にさえも出てこない、1715年ころ成立とされるこの武田三代軍記が初出の人たちだからなぁ
これに関しては現状江戸期の創作とみなされてもしょうがないのではなかろうか
445人間七七四年:2013/02/08(金) 00:12:32.51 ID:gbouL30C
>>442
さすがにテンプレすぎて創作以外の可能性がカケラも無い
446人間七七四年:2013/02/08(金) 00:29:23.24 ID:FEnlrAHz
事実は小説よりも奇なり、という言葉もあるし事実だった可能性が全く無い訳でもない
447人間七七四年:2013/02/08(金) 01:25:04.65 ID:07343PjP
山本勘助みたいに実際に居た人をモデルにしたスーパーヒーローにするケースもあるからね
448人間七七四年:2013/02/08(金) 01:57:19.47 ID:3uwNSDA2
>>446
上にも書いたけど、この逸話に出てくる主要人物はおそらく創作だし、
妊婦の腹を切り裂いた話も、同時代史料はおろか甲陽軍鑑にも出てこない
170年くらい後の時代に書かれた武田三代軍記が初出だから、その可能性はちょっとないんじゃないかな
449人間七七四年:2013/02/08(金) 02:01:35.65 ID:FEnlrAHz
>448
マジレスしてもらって何だけど、自分は全く信じてないw
450人間七七四年:2013/02/08(金) 02:21:57.55 ID:3uwNSDA2
別の観点から見ると、信虎をここまで悪逆非道に描くっていうのは
親子の忠孝が非常に重んじられた江戸期の倫理観からすると、
父親がこれくらい悪逆非道でないと、実父を追放するという信玄の行いを肯定できないってことの裏返しなんだろうね
451人間七七四年:2013/02/08(金) 09:49:01.60 ID:9eHBeX7i
となると義信さんも相当悪く言われてる逸話もあるということかな?
452人間七七四年:2013/02/08(金) 10:47:29.70 ID:Wtciglvq
>>451
義信の場合は親への謀反で、最初から非道だから
わざわざ悪い言う必要が無い。
453人間七七四年:2013/02/08(金) 12:56:18.69 ID:GhqO2gNS
義信さんと言やあ第四回川中島大会での失態ってえのは事実なんだろうか?
454人間七七四年:2013/02/08(金) 16:49:45.21 ID:VA8g7zlb
たしか謙信が残した書状に「敵ながら天晴れな活躍」と書かれていたとか>義信
455人間七七四年:2013/02/08(金) 18:07:15.13 ID:OdiVkhQ9
本山一揆を鎮圧した山内一豊であったが、土佐国内には未だ多くの一揆の与党が隠れ潜んでいる
という情報が多く入ってきた。

参考
本山一揆勃発顛末
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7270.html

そこで一豊は謀をなし、国中に触れをだした

『浦戸において、相撲を取らせ一見すべし!上下によらず、望み次第にまかり出よ!』

これに、男伊達するほどの者は、我も我もと馳集まった。
見物の貴賎も群集しこれを見る。
相撲始まり、上下目を澄まして楽しんでいた

と、ここに、かねてから目付けを付けて監視してあった者達で、この場に来ていた者たちへ
捕手を向け、一揆の残党七〇余人を搦め捕り、種崎の浜にて磔とした。

この時、岡豊の城下、八幡村の名主は、これも一揆に組した者であったが、相撲の場に出向かず
用心の体で自宅に取り籠っていたが、ここにも若侍を差し向け生け捕りにして、同罪とされた。

これにより悪党どもも懲り、土佐は在所在所の山の奥まで、豊かに治まったのである。
(土佐物語)

例の浦戸相撲事件ですが、土佐物語では無差別に鉄砲を撃ちかけたわけではなく、
捕物で捕らえたという、印象で言えば、鉄砲に比べれば穏健なものになっています。
456人間七七四年:2013/02/08(金) 18:40:49.49 ID:NTGNfMNb
指名手配犯を誘き出して逮捕したようなもんか
司馬史観の影響ってこわいなw
457人間七七四年:2013/02/08(金) 18:49:53.18 ID:gGGYkKFs
>>455
そりゃ鉄砲で無差別にってのは、司馬さんの創作ですから
他の史料には無いでしょうな。
458人間七七四年:2013/02/08(金) 18:50:40.94 ID:iYNC0wg3
山内ってほんと屑だな
459人間七七四年:2013/02/08(金) 18:56:50.38 ID:gGGYkKFs
>>455
突っ込み忘れてたので、もう一点だけ。

時系列と顛末がメチャクチャになってる。

本山一揆は慶長8年で、今回のエピソードは慶長6年3月。
この残党は浦戸一揆のものだろう。
460人間七七四年:2013/02/08(金) 19:14:07.92 ID:OdiVkhQ9
>>459
土佐物語では本山一揆の残党ということになっていますね
461人間七七四年:2013/02/08(金) 20:23:28.68 ID:QSJ/rZu2
大友家の全盛期に軍中ではやった戯歌があった

「柳川3年、肥後3月、肥前・筑前朝茶の子」

大友支配下の蒲池氏の居城柳川城の堅牢ぶりを唄った戯歌である。

しかし、その後の大友は朝茶の子呼ばわりした「肥前」の竜造寺に今山合戦で敗れ、肥後筑前の半分を失い、柳川城も竜造寺に奪われ、
名将立花道雪が最晩年命を削って戦った柳川城攻略船の敗退をを見るに栄枯盛衰を感じさせる戯歌である。
462人間七七四年:2013/02/08(金) 21:42:44.33 ID:rPt1Y9ft
鬼武蔵の高遠城銃乱射事件も誰かの創作であって欲しい..
463人間七七四年:2013/02/08(金) 23:00:54.09 ID:9eHBeX7i
事実は小説より奇なり って言うじゃないですかwww
464人間七七四年:2013/02/09(土) 00:18:31.27 ID:ni7Pero9
一豊が高知で人気がないのは、やったことがあまりにもセコイからな。
長宗我部を弾圧したのが間違いだよ。
465人間七七四年:2013/02/09(土) 00:36:36.33 ID:+ZZuHC3h
旧領主関係の弾圧自体は珍しい話じゃないし、山内はうまくやった方
466人間七七四年:2013/02/09(土) 00:40:27.27 ID:vjQuvMep
≪転載≫湧ヶ淵の伝説

何時代か解らんが伊予、松山の道後の奥道後、ここで大昔に雄雌の大蛇が住みついており近隣の住民に迷惑を災いをもたらしていた
そしてその大蛇に見かねた石手寺(四国88箇所51番)の僧が石剣で♂の大蛇の首を切り落とし退治したと言う
その石剣と大蛇の頭は宝物館で見る事が出来るらしく大きさは成猫位の大きさらしい。
 しかしその後の元和年間(1615−1623)にて♀の大蛇が再び害をなすものとして登場する
この♀大蛇は夜な夜な美女に化け、通行する者を誑かして淵に引きづり込んだらしい(アァー!)
そこで湯山菊ヶ森城主・三好長門守秀善の長男で
鉄砲の名手である三好蔵人秀勝が一夜密かに待ち構えていて水面から顔を出した♀大蛇を鉄砲で撃ち殺した
♀大蛇はのたうち回り翌朝に死亡、流血は3日続いた。

別説によると、雌の大蛇は、人間の姿で三好家の下女となっていたが
夜な夜な湧ヶ淵へ忍んで行ったところを怪しまれて殺されたとも言われる。
こちらの雌蛇の頭骨は三好家に代々伝えられてきたが
現在では同じホテルの敷地内にある竜姫宮に祀られているとのこと。
大蛇伝説としても夫婦の蛇が害をなす点が非常に珍しく
また実際に頭骨が残されるなど物証もある点も希少であると言えるだろう。 らしい

転載です
ttp://b-spot.seesaa.net/article/133292659.html
ttp://makild.exblog.jp/18930709/
ttp://miyoshisan.jimdo.com/ ←子孫方のおまけページ
ttp://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/miyosi/miyosi2.htm
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/rekishibunka/bunkazai/shi/isiteji_sekken.html

菊ヶ森三好氏の存在は知っていましたが、まさか続いておられるとはビックリ
おまけに載ってる松山藩の記述だと三好長慶の孫ってなってるけど後付けくせえww
元々河野の家臣として菊ヶ森三好氏は活躍してるみたいだから箔付けの為に長慶と繋げたのかね?
♂大蛇の逸話から何故にこんな期間が開いたんだろうか
別の人のブログ見ると古代の話とリンクしてるような感じもあるし面白い
阿波三好氏は元々この松山の三好氏が出の可能性が高いし
同じく三好実休の叔父だった久米義広の久米氏も松山の久米遺跡と繋がりがある一族
久米と三好は同族だった可能性もある事を考えるとこの両氏が古代とリンクするのが面白い
三好実休と久米氏が繋がるのも何かしら意味があった事なのかも・・・
467人間七七四年:2013/02/09(土) 00:54:49.54 ID:ni7Pero9
>>465
一豊含めての山内は身分差別を明らかにして、
地の者(長宗我部)とよそ者とを厳然と分けていたが。
平成の今の時代になっても高知で一豊が嫌われていることは事実。

それが発端になって龍馬たちの脱藩から明治維新が起こる、とか言わんでくれよ。
468人間七七四年:2013/02/09(土) 01:54:48.17 ID:UuXjbRZo
かつて武田信玄に滅ぼされ、信州伊那郡を追われていた知久氏という豪族がいた。
その武田家が滅亡すると、信玄に討たれた知久頼元の子・頼氏は20数年ぶりに
本領を回復し、神之峰城主となっていた。
本能寺の変後は徳川家康に従い、家康の命に従って軍事行動を起こしながら、
回復した所領の仕置に取り掛かるなど頼氏は活発な活動を展開する。
その甲斐あってか、天正11年6月には、かつて武田信玄に焼き討ちされていた
文永寺を再建した功績により、従五位下に叙されるなど、領内は不安定ながらも
知久氏は再興に向けて、少しずつ歩みを進めていた・・・かに思われた。

が、翌天正12年の11月、突然頼氏は徳川家康のいる浜松へ呼び出され、自害を
命じられた。詳細な資料は残っていないものの、一説には、木曾義昌に同調して
羽柴秀吉に通じたという嫌疑をかけられたからだとも言われている。

頼氏の没落と前後して、伊那郡には奥三河の菅沼小大膳定利が入部し、知久氏の
家臣団および頼氏の遺児・万亀は定利の支配下に組み込まれ、知久氏は自立した
国衆としての地位を失うこととなった。
ところが定利は知久衆や万亀に対し尊大に接し、傍若無人な振る舞いをしたと伝えられ、
それに憤り「この恨みいつか晴らしてくれん」とつぶやいた知久氏の家老・知久右馬介は、
後日茶会に招かれた際に謀殺されてしまった。

この事態に身の危険を感じた頼氏の妻は万亀とともに遠州へ逃れ、大久保忠世を頼って
菅沼定利の非道ぶりを家康に訴えたが、結局定利の行動は不問に付され、彼はその後
飯田城、関東転封後は上州吉井2万石の大名に取り立てられてた。

本能寺の変後、甲信へ勢力を広げる中で、しばしば家康の三河衆と現地の豪族との間で
軋轢が生じていたようで、この菅沼定利以外にも、家康から二年という期限つきながら
信濃の統括を任された酒井忠次は「家康公は信濃を私に下されたのだ」と公言してはばからず、
家康からの委任を受けたことを背景に、諏訪頼忠に対し高圧的な態度をとり、結果として
頼忠の離反を招いている。

ちなみに、知久氏のその後に触れておくと、万亀は大久保忠世の庇護の下にあったが、
後に忠世のとりなしで家康の小姓に取り立てられた。万亀は後に知久則直と名乗り、
関ヶ原の合戦後に信州伊那郡の旧領阿島に3千石を与えられ、旗本として復活を遂げた。
定利に謀殺された右馬介の遺児もまた、則直に仕えたと伝えられている。
469人間七七四年:2013/02/09(土) 01:58:57.53 ID:+ZZuHC3h
>765
逆だ、逆
嫌われるような事をしたのは山内一豊の"当時"としては正しかったと思ってるよ
470人間七七四年:2013/02/09(土) 01:59:55.60 ID:+ZZuHC3h
訂正 誤り>765 正>467
471人間七七四年:2013/02/09(土) 02:12:09.28 ID:ni7Pero9
>>469
いや、正しくないし。当時とか関係ない。
あえて言う、よそ者理論を駆使した一豊は決して正しくない。
地の人間を殺した歴史は覆らない。

山内では山内容堂だけが認められているくらい、山内は嫌われている。
気質も違う。
高知では山内は「…」というところだ。
472人間七七四年:2013/02/09(土) 08:20:48.32 ID:TQMlNAe3
>>467
申し訳ないが、山内体制下の土佐で長宗我部侍が”差別されていた”ってのも伝説にすぎん。
主な長宗我部の家臣は”上士”として山内家に取り込まれている。
例えば、幕末の土佐藩で独裁権力を握って土佐勤王党に暗殺された、あの吉田東洋も
長宗我部系の家系だ。
差別された層が独裁権力握るとか、そんなことがあると思うか?

そもそも、差別されていた側の勢力とされる土佐勤王党は、長宗我部侍ですら無く、商業などで財力を得た
新興ブルジョア層が新たに郷士株を買って武士になったものが殆ど。
坂本龍馬なんて典型だな。

彼らが上士と対立するのは、新たに財力を持った自分たちの層が政治に影響力を与えられない不満からで、
彼らが勃興した幕末期のごく新しい問題。それを山内系と長宗我部系の対立としたのは、一時苦境に陥った
新興ブルジョア派が支持勢力を拡大するための政治上のプロパガンダにすぎん。長州や薩摩が幕末になって
幕府と対立してから突然関ヶ原の怨念とか言い出したのと全く一緒。

明治維新前後の「維新史観」は、明治以降教育で広まったためかなり強力な影響力を未だに残しているけど、
そろそろそういう意識から離れて正面から歴史を見てもいいと思う。
473人間七七四年:2013/02/09(土) 08:49:24.10 ID:goxuAUug
長宗我部家の有力な家臣は山内家に取り込まれたが、そうでない人たちは虐殺されたり差別された
このように長宗我部遺臣といえども一枚岩ではないし、世の中しょせん力のあるものだけが美味しい目にあえるという教訓
474人間七七四年:2013/02/09(土) 08:55:40.32 ID:TQMlNAe3
ここでイデオロギー論争するつもりはないが、上士・郷士の身分差(差別ではなく”身分”)なんて土佐に限った話ではないし、
土佐が特にそれが酷かったという証拠も史料もない。
郷士は郷士で権益が有り、上士はそれを犯す真似をしていない。その相互性が身分制でもある。

現代的価値観で歴史を見ないほうがいい。
475人間七七四年:2013/02/09(土) 09:33:49.76 ID:qCs64YMW
まあその辺は過去を知り考える上での鉄則だわなあ
476人間七七四年:2013/02/09(土) 09:44:41.75 ID:goxuAUug
当事者じゃない限り、歴史の真相なんて誰にもわからないし、現代人の書くそれは憶測でしかないしね
この話題はこれまでにしよう
477人間七七四年:2013/02/09(土) 10:07:07.96 ID:+LwKwR4F
>>473
別に虐殺はされてないな。処罰されたのは一揆をおこしたもの限定だよ。
478人間七七四年:2013/02/09(土) 10:36:42.13 ID:1gTh+Rkp
慶長五年(1600)8月10日、関ヶ原の役が進行している最中である

6日に江戸に到着された家康公は、その日は大変ご機嫌が良く、料理の間に、鶴を持ってこれを料理するようにと言い、
鍋に火をかけさせこれを調理している所に、本多中務(忠勝)、私(卜斎)、全阿弥の3人が御前に出た。
家康公は私達にも料理を馳走しようと、鍋をかけている囲炉裏の近くに行かれた所に、どこから来たのであろうか、
いかにも細かな文字で書かれた書状が到着し、家康公はそれをご覧になられた。そして

家康公は、誰に言うとも無く、こうつぶやかれた

「去る1日、伏見城は落城した。」

そして西の方をご覧に成り、はらはらと涙を流された。

本多中務はこれを見て、急いで次の間に下がり、私と全阿弥もこれに続いて御前を下がった。
(慶長年中卜斎記)

板坂卜斎の記録した、伏見城落城を知った時の家康の様子である。
479人間七七四年:2013/02/09(土) 14:04:36.34 ID:pf9AQe/Q
伏見城は鳥居さんが奮戦したところだっけ?
480人間七七四年:2013/02/09(土) 15:45:22.54 ID:0WT0ef00
天井板の産地です
481人間七七四年:2013/02/09(土) 19:25:58.44 ID:GuhCliiw
わかっていてもつらかったんだろうな
直前までの様子も空元気のように思えて…

…ん?もしかしてこれは鶴を食いそこねた間の悪い話ということなのか?
482人間七七四年:2013/02/09(土) 21:44:32.53 ID:Vw+3bc1M
城を包囲されたという報告が先にあったはずなのになに家康はのんきに鶴食べようとしてんの?
落城してからこれ見よがしに涙流すとかわざとらしすぎだろう。
483人間七七四年:2013/02/09(土) 21:52:13.69 ID:TQMlNAe3
>>482
のんきもなにもなにが出来たと…
江戸と伏見がどれだけ離れてるか解ってる?
典型的な批判のための批判だなあ
484人間七七四年:2013/02/09(土) 21:53:36.67 ID:+LwKwR4F
背後も固めず突撃させたいのだろうか
485人間七七四年:2013/02/10(日) 05:27:34.19 ID:4Tw3l5ai
>>483
ワープすればいいだろ、GOみたいにw
486人間七七四年:2013/02/10(日) 11:39:07.22 ID:eLvd41FM
>>482
だからといって四六時中オロオロしてたら目の前の仕事が片付かないじゃない
頭の切り替えも必要でしょ
487人間七七四年:2013/02/10(日) 12:22:37.68 ID:RDl7EASX
>>486
まあテンパると刀振り回して錯乱状態になっちゃうみたいだからなあ
伏見城のことはそんなに大したことないみたいな報告にしてたのかもね
488人間七七四年:2013/02/10(日) 12:49:02.68 ID:VGo0xDkR
想定内だったけどやっぱり悲しいくらいの話だろ
489人間七七四年:2013/02/10(日) 13:34:53.28 ID:vHa/QTIK
伏見城でいったいどれほどの思い入れが。。。聞くのはナシか。
490人間七七四年:2013/02/10(日) 15:49:15.85 ID:7762iH9T
慶長5年(1600)9月23日、関ヶ原の決戦に勝利した徳川家康は、東軍いついた京極高次が籠り、関ヶ原決戦の前日、
9月14日に降伏開城した大津城を視察した。

大津城は南面に50間(約90メートル)に及ぶ多聞作りの防御施設が有り、その下が水濠、
石垣を見ると、鉄砲の弾を受けた跡が一つあった。

家康はこれを見て、独り言のように

「この多聞作りだけでも、5日や7日は敵を防ぐことが出来る。
古の名城などというものはいずれも、今の城と比べればいかにも貧相であり、石垣などもなかった。
しかし城主が良ければ、そのような貧相な城でも名城になるものだ。
逆にどれだけ要害化した城でも、城主がしっかりとしていなければ…」
(此多聞作計にても五七日も城を可持事なり。古の名城をハ何れも当時に合せてハ如何にも貧相なり
石垣杯もなし。城主よけれハ能もなき城も名城に成、如何に要害能ても主しかとなけれハ)

と、つぶやいたそうである。
この時、傍には小姓衆5,6人が居ただけであったそうだ。

(慶長年中卜斎記)

ちなみに大津城は、開戦から7日で開城している。
家康の、京極高次の能力への評価が垣間見られる記録である。
491人間七七四年:2013/02/10(日) 16:33:41.26 ID:iHQ/8OB+
それだと質の悪い凶悪な城に凶悪な椰子が立て篭もったらどーにもならんわけですね。だから関ヶ原に遅刻してきても仕方ないですなw
492人間七七四年:2013/02/10(日) 16:45:26.21 ID:eLvd41FM
奴は敵の挑発にまんまと乗せられて城へ攻撃をかけちゃったのが運の尽きだな
冷静に考えれば力攻めで落とせる城じゃないのに
493人間七七四年:2013/02/10(日) 17:26:09.63 ID:bviiB16B
古には無かった大砲も使用されたわけだし
名将ではないかもしれんが尻蛍さんはがんばったと思うぞ
494人間七七四年:2013/02/10(日) 17:26:54.76 ID:YuFT599p
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1856.html
家康の大津城訪問といえばこんなのも
495人間七七四年:2013/02/10(日) 17:33:02.47 ID:Q5PSFVr+
西軍は東軍と違って城落としたけど本戦に参加できなかったって話を良く聞く気がする
東軍は本戦で勝ったし城も落とせず参加も出来ずって人の影に全部隠れてるんだろうか
496人間七七四年:2013/02/10(日) 20:36:40.80 ID:ljFf4mIf
>>492
奴って誰?
あと大津城って西軍連中が結局力攻めで降伏させてるよね。
まさか京極側が勝ったと思ってる?
497人間七七四年:2013/02/10(日) 20:39:23.30 ID:7wbAMymm
秀忠の上田攻めだろ
>>491から考えて
498人間七七四年:2013/02/11(月) 00:02:25.65 ID:z+ioS8Nx
「来るなら来いやオラ」
と、田辺城で幽斎様が申しておられます
499人間七七四年:2013/02/11(月) 05:44:51.07 ID:oG07Eiqy
>>497
秀忠の上田攻めっていともアッサリ中断してるけどな。
500人間七七四年:2013/02/11(月) 08:40:03.42 ID:oG3b9jCM
大津城って、物資の保管のための城郭で攻防戦には不向きって説と
水堀に囲まれた要害だったっていう説があるんだよな
復元図なんかを見ると結構攻めにくそうな城に見えるけど、
13日の攻撃で三の丸と二の丸を一気に占拠されて14日に降伏してるから
最初の堀をどう越えるかの勝負だったのかな
501人間七七四年:2013/02/11(月) 09:00:12.94 ID:9xtgfeVC
>>500
なにより淀君の妹がいるから最初は脅しだけで降伏させるつもりだったんだと思う。
京都の民衆が昼飯持って見物しにくるくらいだし。
502人間七七四年:2013/02/11(月) 09:50:43.22 ID:oG3b9jCM
ねねも茶々も、竜子と初の救命のために講和の使者を送ってきてるしね
資料によって使者がちょっと変わってくるらしくって
孝亮宿禰記だと、眞常(織田常眞信雄?)と新庄東玉
筑紫古文書だと、孝蔵主、饗庭局、木食応其
時慶記だと、孝蔵主と木食応其
寛政重修諸家譜だと、孝蔵主、木食応其、海津尼(浅井鶴千代)
って感じなんだけど、豊臣家からこれだけ送られてきたら西軍としても
攻撃がやりづらかっただろうね
503人間七七四年:2013/02/11(月) 10:24:11.66 ID:ZanhqXPI
>>499
アッサリといっても開城要求も含めて5日以上無駄にしてないか
504人間七七四年:2013/02/11(月) 11:04:51.39 ID:oG07Eiqy
>>503
無駄も何も、家康の指令を受け取った時点で
即日、移動を開始してるじゃないか
505人間七七四年:2013/02/11(月) 11:19:28.96 ID:IsFMzBs/
問題はプラン変更と、その指令が遅れに遅れて結局
家康「あさってまでに美濃に来い!」
秀忠「んな無茶な!」
となってしまったこと
506人間七七四年:2013/02/11(月) 12:17:50.99 ID:djfJ/Tn7
関ヶ原の役の折、大津城には二の丸に松の丸殿(京極竜子・秀吉の元側室)が住居していた。
西軍による大津城攻めが行われると、火矢の用心のため屋根を尽くまくったが、鉄砲の音にその女房衆が驚き
泣き悲しむこと甚だしく、これが殊の外、城の弱りとなったため、戦闘中に松の丸殿を京に移す事になったという。

この大津城攻めでは、京の町人たちが城攻めを見るため重箱、水筒を持って三井寺観音堂において、恐ろしげもなく
日夜見物をしていたそうだ。

大津城は14日に西軍に開城し、京極宰相殿(高次)は16日に高野山に上ったのだが、寅〜辰の刻(午前3〜9時)にかけて
関ヶ原で撃ち負けた西軍の雑兵達が際限もなく大津の方に逃げ込んで来た。
人々、せめて今日まで持ちこたえていれば運も開けたのに、残念なこと多い京極宰相の戦ぶりであったと申しあったという。

実は京極殿は城にて切腹すると決心し、これを明け渡すなどありえないと言われていたのだが、家老の伊予守というものが
腰抜けであったので、あのような事になったと取り沙汰されている。
(慶長年中卜斎記)

以上、慶長年中卜斎記より、大津城に関するお話
507人間七七四年:2013/02/11(月) 14:00:04.33 ID:a1f/eeAp
>>500-501
防衛機構以前に見物客が城内の様子を具に観察できるくらい周囲を高地に囲まれた構造の時点で
どう足掻いたって篭城戦闘を一週間とか無理だろ、と。

>>490が下手に褒めると論功が高くついてまずいから
取りあえず難癖つけて下げて上げる下準備をしてるようにしか思えんw
508人間七七四年:2013/02/11(月) 14:59:04.16 ID:Hb/1GD5J
>>506
むしろ結果的に高次が生き延びられたいい話じゃね?
509人間七七四年:2013/02/11(月) 16:04:47.20 ID:oG3b9jCM
>>507
周囲に高地っていうか、西側に長等山があるくらいかな
そこの三井寺観音堂に見物人が来てて、大筒もその辺りに
配置して撃ってたらしいね。
水城を直接攻めるには準備がいるし、高次が9月に突然裏切って城に
籠ったことや、自ら城下を焼き払って遮蔽物を無くして堀に近づく敵を
攻撃しやすくしてたこと、竜子や初を極力助けなければならなかった
こととかを鑑みると、攻略に時間がかかる要素も結構多いと思う
510人間七七四年:2013/02/11(月) 16:16:52.96 ID:iJlbPKmi
戦見物って楽しそうだな
511人間七七四年:2013/02/11(月) 16:24:16.33 ID:8j7AoL9/
しかしヒャッハーされる可能性も
512人間七七四年:2013/02/11(月) 17:16:49.71 ID:HT8wnR5d
>>510
自分達の村の将来(ヒャッハーされるか否か)を見極めなきゃあいけないんだぞ
513人間七七四年:2013/02/11(月) 20:45:58.63 ID:MXaPvd23
>.511
中立の寺や神社に篭っていれば大抵は大丈夫
まさに駆け込み寺
514人間七七四年:2013/02/11(月) 20:53:18.28 ID:061Z9LVQ
>>513
門徒や寺領以外のやつを入れるわけ無いだろ
515人間七七四年:2013/02/12(火) 03:14:34.10 ID:SLzEI9g/
信玄に貰ったばかりのお墨付きをたてに頑張っても信玄にめちゃくちゃにされた寺があったよねえ
516人間七七四年:2013/02/12(火) 04:53:16.45 ID:ENohQV+Y
信長より信玄の方がよっぽど寺焼いてるイメージ

飛騨行った時も結構信玄にやられたって話が残ってたなぁ
今東博でやってる円空仏展でも信玄配下に焼き討ちされたって解説があった
517人間七七四年:2013/02/12(火) 09:20:42.09 ID:c+CUr8AV
詰まるところ「延暦寺が焼かれるはずが無い」みたいな認識が
当時の(主に京都の)人間にとって大きかったんじゃないかなあ。
これが「信長が園城寺を焼いた」だったら多分誰も反応してない。
518人間七七四年:2013/02/12(火) 09:51:05.10 ID:7rGOf7Yj
いやいや、延暦寺は信長の前に、足利義教と細川政元の手によって2度も焼かれてる。

ちなみに延暦寺を焼き討ちした義教、政元、信長は、全員家臣に殺されている。
519人間七七四年:2013/02/12(火) 10:03:40.47 ID:iF86PqRn
光秀「信長様に限って家臣に討たれるとかそのようなことあるわけがない。」
520人間七七四年:2013/02/12(火) 10:12:36.62 ID:4sI+iKuP
>>518
金剛峯寺「焼かれてから仕返しするのは二流の仕事」
521人間七七四年:2013/02/12(火) 12:27:01.13 ID:jPxOiobz
この時代来日した宣教師ルイス・フロイスは信長と直接面会して、
その声の高さを記録にとどめています。
一方快活な人柄で語られる信長ですが、実際は家臣の失敗を責め、逆らう者を皆殺しにする冷酷な人物でもありました。

秀吉は関白・太閤として君臨しましたが、正室北政所(きたのまんどころ)と
は仲が良く、人前でも夫婦で良くしゃべると、貴族の一人は驚いています。

家康は実直で忍耐強いと思われていますが、非常に短気で怒ると興奮が収
まらない性格でありました。

http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1595

明日から
522人間七七四年:2013/02/12(火) 13:12:20.54 ID:kJ+jif11
>>521
家康だけソース省略なんだな。
てか、中身そのままならURLとタイトル紹介だけで良かったんじゃ?
523人間七七四年:2013/02/12(火) 13:57:38.34 ID:D93TIXfu
信長は確か戦見物するような奴は見つけ次第切れっていってたよね?
このころはだいぶゆるくなったのかな。
あっラスボスは見せびらかすのが好きだから奨励したのかも?
524人間七七四年:2013/02/12(火) 14:47:32.07 ID:no7R50Lb
信長はゲリラ相手に戦ってたから
525人間七七四年:2013/02/12(火) 16:34:48.41 ID:j1raPjNi
イメージ悪いこと前提かよ

【山形】最上義光の知名度・イメージ向上狙う
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1360650593/
526人間七七四年:2013/02/12(火) 16:43:05.15 ID:no7R50Lb
みんな伊達が悪い
527人間七七四年:2013/02/12(火) 17:39:16.03 ID:7//QQLH9
まあ恨むなら山岡荘八とジェームズ三木を恨みなさいとw
528人間七七四年:2013/02/12(火) 18:00:17.27 ID:hfabC8RU
自分の友達は好きな武将答えて、て言われて鮭様あげてたぞ
「ほら、山形のもがみ…よしみつ、だっけ?」
529人間七七四年:2013/02/12(火) 18:13:39.80 ID:A3A8cp0u
悪いイメージの根本原因は山形自身の市史、県史なんじゃないですかね…
530人間七七四年:2013/02/12(火) 18:26:39.22 ID:4RkKBkn4
HATTORIも悪いw
531人間七七四年:2013/02/12(火) 21:41:35.22 ID:u5XOBaMx
こないだ父親から、我々の先祖は上杉信玄に繋がる由緒正しい血統だとか言われた。
…聞かなきゃ良かった。
532人間七七四年:2013/02/12(火) 21:45:32.59 ID:NHwpnPwp
まさか上杉景勝と菊姫との間に子供がいたとは(これなら上杉・信玄につながる)
533人間七七四年:2013/02/12(火) 23:26:26.66 ID:hfabC8RU
父親から、お前は武田信長の子孫だ、と言われた人はいないかな
534人間七七四年:2013/02/12(火) 23:34:09.11 ID:sy6E1MDL
>>533
今はお医者さんやってるらしいよ
535人間七七四年:2013/02/13(水) 00:39:17.60 ID:39o8gHcp
上杉っていっても無口な殿とは限らんわけで
536人間七七四年:2013/02/13(水) 01:48:07.03 ID:RAmXAnLO
扇谷上杉家か
537人間七七四年:2013/02/13(水) 06:30:40.31 ID:bcpf+jII
上杉信玄って響きが地味に笑える。なんでだろ?
538人間七七四年:2013/02/13(水) 13:38:07.27 ID:nqQWCqd+
>>531
米沢武田家と親戚とか
539人間七七四年:2013/02/13(水) 22:47:13.38 ID:zC16DRc2
いったい何者なんだ・・・、上杉信玄
540人間七七四年:2013/02/13(水) 23:02:14.71 ID:XeSaLn5a
上杉朝興の娘との間の子が実は死産じゃなかった展開か
541人間七七四年:2013/02/13(水) 23:09:09.91 ID:wTZd4NxJ
上杉信玄と書いて「うえすぎのぶはる」と読むんだよたぶんw
542人間七七四年:2013/02/14(木) 02:03:39.89 ID:Q9pyW6AA
>>533
没落してはいるが残っていた気がするが

武田信長が実在し、波乱な人生を歩んだのを知らんのかな
まあ、たいていの人は"本当に居たんだ"とびっくりするだろうが

>>541
武田信玄と書いて"たけだのぶとら"と読ませる犯罪者が平成の世にいたな
543人間七七四年:2013/02/14(木) 03:25:21.67 ID:fD3C6ewQ
羽柴誠三秀吉と読んでだな…
544人間七七四年:2013/02/14(木) 09:58:56.04 ID:I2R0rnbJ
>>543
いきなり「読んで」だとネタ潰しすぎる。
545人間七七四年:2013/02/14(木) 11:10:25.61 ID:Ipts4lFH
これは慶長9年(1604)3月29日のことであった。

家康公が江戸から伏見に到着になり、北国五畿内の諸大名はこれを出迎えるため伏見の入り口で
群集してお待ちしていた。
そのうちに雨など降ってきて、松の木に雨宿りするものなども有り、皆思い思いに立ち休んでいた所
槍2本、長刀一つ、挟箱2つに徒歩の者達が20人ばかり、乗り物も雨の用心にしっかり包んであり、
騎馬の士は十余騎、家中の道具もない、誠に簡素で小規模な一団が通り過ぎた。

諸大名は「今のは本多上野介(正純)あたりかな?」と思い、下々に、今通ったのが何者かを
一応調べさせた所、帰ってきた答えは「大御所様です」

諸大名は驚愕し、大慌てで走り先程の一団を追いかけた!伏見に下る町でやっと追いつく。
家康はこの事を聞くと、乗り物を止めさせ、上の雨具を取り乗り物の戸を開け、諸大名に

「ここまで遠々迎えに出てきてくれたこと、礼を申す」

と仰って、そのまま伏見へと向かわれた。
それにしても何と軽い事かと、諸大名は大いに驚いたそうである。

この時供の衆なども、伏見近くになると、下々の者たちを先に通しておいたそうだ。
(慶長年中卜斎記)

どうも家康的には、雨で道の悪い中の混雑を避けてこうしたようなのですが、それが
リアルに「バッカモーン!今のが大御所様だ!」常態となってしまったというお話w
546人間七七四年:2013/02/14(木) 13:29:36.43 ID:SB5HxREc
こういう身の軽い感じの家康は好きだな。
547人間七七四年:2013/02/14(木) 13:42:28.94 ID:/C7r2hgf
影武者だろ
548人間七七四年:2013/02/14(木) 16:52:23.50 ID:a2wFIuKa
>>525
この県職員の人、以前は米沢市にある支所にいて「天地人」での観光誘致の仕事してたんだよな。
活動としては色々と努力してて、信長の野望シリーズとタイアップして山形の武将を数人採用させてたり。
あのころは直江兼続命!!とか言ってくれてたんだけどw

それで、最上の悪人イメージが先に立って何とかしたいのはわかるんだけど、ageようとする人たちは他をすんごくdisるんだよね。
こういうのとか

@endnob

まとめ管理人@1059kanri

何故か義の家ということになっている上杉家ですが、少なくとも上杉景勝の時代は、景勝の個性なのか直江兼続の
個性なのかわかりませんが、あんな油断できない覇権主義意識満々で陰謀だらけの大名は他にないくらい。政宗より
たちが悪いと思いますw
549人間七七四年:2013/02/14(木) 17:03:33.58 ID:9orClnD1
>>548
そりゃまあ、各大名それぞれ問題を抱えてるけど
ぶっちゃけ景勝、兼続の頃の上杉はかなりブラックだろ
550人間七七四年:2013/02/14(木) 17:05:24.97 ID:ZIeoIbLl
>>548
そもそもそれ最上に言及してなくね?
551人間七七四年:2013/02/14(木) 17:13:39.86 ID:XPXGIr6d
>>542いたのを知っていてネタにしたんだが
>>545この話と同じでは
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5191.html
552人間七七四年:2013/02/14(木) 17:36:10.01 ID:jyPgi/fS
まーくんより質が悪いって・・・まあカブキ者と付き合えるんだから本人もアレなんだろうなw
553人間七七四年:2013/02/14(木) 17:37:24.48 ID:Uf1rbq4N
>>548
てかここのまとめの管理人さんやん
554人間七七四年:2013/02/14(木) 21:41:16.46 ID:s1726Kuf
>油断できない覇権主義意識満々で陰謀だらけ
kwsk
直江の口が悪いんだか性格が悪いんだかな逸話ばかりが印象に残ってるw
555人間七七四年:2013/02/14(木) 21:56:12.68 ID:kBGqZNKh
上杉も毛利も関ヶ原で西軍についた理由は覇権主義意識満々だったから以外の何物でもないからな
宇喜多もそうだが徳川が抜きん出て力を持つ世では何も出来んし
556人間七七四年:2013/02/14(木) 22:24:06.87 ID:QbJZP/Oj
バトルロイヤルの基本は、とりあえず一番強い奴をみんなでフルボッコ
する事

徳川はそれを阻止する為、有力大名にいちゃもんで各個撃破作戦。
前田は母ちゃん人質で服従。上杉は直江状で宣戦布告。
テルは...
557人間七七四年:2013/02/14(木) 22:43:59.48 ID:hHRj5XhB
大友、村上でこっそり西日本を荒らしつつ
名目上総大将のくせして兵力温存、引きこもり
負けが濃厚となれば両川にあとは任せて暗黒JKに罪を全部きせて
二国だけはなんとか保つ
558人間七七四年:2013/02/14(木) 22:52:41.63 ID:kBGqZNKh
抜きん出た徳川側が勝たない限りは戦国の世は終わらなかったのは間違いない
559人間七七四年:2013/02/15(金) 00:15:18.13 ID:pO46lMSw
あの時代、自分の頭使って判断して切り盛りして家を大きくしたのは家康さんくらいしか残ってなかったしね
まぁ、凄く大雑把な言い方だけど、政治家と官僚の違いってのかな・・・
大名となってるけど、禄が万石以上になってるだけで自分で切り取ったわけじゃない家が大半だろからね

上杉家が会津に帰らなかったらまた色々と違ったんだろうな〜
560人間七七四年:2013/02/15(金) 00:22:10.20 ID:TDbkGuGc
>>559
>自分の頭使って判断して切り盛りして家を大きくしたのは家康さんくらいしか残ってなかったしね

DQNを忘れるな
561人間七七四年:2013/02/15(金) 01:12:25.61 ID:G2U8lkJq
家康の場合、運命の分かれ道で驚くほど正しい選択をし、不利をチャンスに変えてるからな

豊臣としては、徳川を関東に追いやったのは失敗だったか
まさか、260万石を数年で実高320万石にしちゃうとは思わないよなあ
562人間七七四年:2013/02/15(金) 02:13:28.57 ID:EEheH4tH
おかげで神君補正も合わせて
すべて計画通りの古狸に
563人間七七四年:2013/02/15(金) 08:22:21.16 ID:Vf0fK9Ye
実際の家康は状況にあわせて行動を変えてるのに
全て計画通り扱いだもんなぁ
564人間七七四年:2013/02/15(金) 08:27:49.75 ID:DuVj0Kgg
秀吉が耄碌して勝手に転がり込んできただけな気がする
565人間七七四年:2013/02/15(金) 08:30:35.98 ID:zvtNX2Rp
昨今では家康陰謀論の代表格のように言われていた大阪の陣ですら、計画が狂いまくってあの結果に、なんて
言われているしなあ。
566人間七七四年:2013/02/15(金) 08:50:53.15 ID:fxxBmvAo
徳川政権は豊臣政権の自爆の産物でしかないよ
567人間七七四年:2013/02/15(金) 10:06:16.79 ID:TIKvAwby
別に自爆でもないな主催者が死んで、有力な構成員に取って代わられるのは
織田政権のときと同じパターンだし。

結果から過程や原因を歪めすぎてる感じだな。
568人間七七四年:2013/02/15(金) 10:20:35.51 ID:Ek6mn/0f
豊臣政権が自爆だったとしても、
家康が他のすべてを排除して政権奪取できたのは家康の力だろ
569人間七七四年:2013/02/15(金) 10:27:29.99 ID:sT1vL1b2
家康は秀吉と違って担ぎ上げられたと言った方が相応しい
570人間七七四年:2013/02/15(金) 10:34:53.06 ID:eKvOIuwe
>>548
そもそも天地人に最上義光って出たのか
とおもってググったら、イメージか余計に悪くなるから山形が出させなかったのか
571人間七七四年:2013/02/15(金) 11:03:17.46 ID:zvtNX2Rp
>>568
家康は最初から政権奪取を意図していたのか、って部分だね、問題は。
例えば前田や上杉を屈服させようとする圧力は、あくまで豊臣政権「内部」の主導権争いであって、
その過程で家康の意図しない関ヶ原という大戦が起きて、それに勝った結果、家康の意図とは無関係に
独自政権を作るだけの巨大な権威を得てしまった、という解釈が最近は主流だと思う。
572人間七七四年:2013/02/15(金) 14:42:14.34 ID:9+zZP8U/
>>570
正確に言うと、山形市民が悪人にするなするなとうるさいから、後で何か描写に問題があるとか
クレーム入ると嫌なので制作陣と脚本家が出さなかった。

そして前田慶次が出なかったのは、只でさえ視聴率厳しいのに慶次なんて出したら主人公の
人気がくわれてしまう、と制作陣と脚本家が思ったから出さなかった。

こういうようなことを講演会やイベントなんかでそれぞれ本人たちが言ってます。
573人間七七四年:2013/02/15(金) 14:48:36.69 ID:TIKvAwby
>>571
関ヶ原の結果、天下を掌握したのはそうなんだろうが

そもそも豊臣政権内の主導争いと政権簒奪の違いを、
そこまでハッキリと意識してるかどうかが疑問
574人間七七四年:2013/02/15(金) 14:48:57.59 ID:u5vvY0yg
天庵様で大河作ったら問題無さそうだな
575人間七七四年:2013/02/15(金) 15:04:48.23 ID:HLCuktbM
あの軍神に挑み、民に愛され、不屈の心を持つ男…
話題性やメッセージ性もバッチリだな!!
576人間七七四年:2013/02/15(金) 15:11:33.66 ID:0tNrSl2D
もうその辺にしようぜ、スレ違いになってる
577人間七七四年:2013/02/15(金) 16:23:24.38 ID:h+9LZ1Yt
>>574
天庵様の場合、最終回はどーしたら良いんだ
578人間七七四年:2013/02/15(金) 16:58:50.06 ID:pO46lMSw
頭に浮かんだのが漫画版のデビルマンの最後
理由がまったくわからんけどwwww
579人間七七四年:2013/02/15(金) 17:51:04.13 ID:zvtNX2Rp
大阪の陣の勃発前から、京都所司代である板倉勝重は大阪に間者を入れておき、城中のことは
大小と無くこれを知っていた。

そして片桐且元が鐘銘事件の弁明を行い駿府を出発した頃には、本多正信の計らいによって、卯殿半助、田中一蔵という、
甲賀衆のうち間者の手腕に名を得た者両名を大阪に登らせ、諸事万端を聞き合わせてこれを
板倉勝重の元に報告していた。

この卯殿・田中の両人は冬の陣・夏の陣共に大阪城内に有り、
そのため、大阪城の中にいるものすら知らないことでも、勝重はよく知っており、これは全て
関東に報告されていた。
(慶元記)

大阪の陣前後における、板倉勝重による大阪城への諜報についての逸話である。
580人間七七四年:2013/02/16(土) 02:06:01.29 ID:PcH8+oDT
>>577
あの奥州藤原氏を興から亡まで大河で描けるんだから弱小天庵様の些細な興亡程度なら余裕だろう
581人間七七四年:2013/02/16(土) 07:14:56.81 ID:xxfBOTXE
奥州藤原氏はドラマチックに滅んだけど、天庵様は・・・
582人間七七四年:2013/02/16(土) 08:27:41.85 ID:/YV5FSHG
つか、藤原三代で半年じゃねえか。
その理論だと天庵様の大河は2ヶ月で終わる。
583人間七七四年:2013/02/16(土) 10:49:03.17 ID:p0S3xEwM
織田かと思ったら小田だったで苦情殺到だろ
584人間七七四年:2013/02/16(土) 11:39:39.38 ID:/O+SNlF+
タイトルはこれでお願いします

「家康が最も恐れた男 小田氏治」
585人間七七四年:2013/02/16(土) 14:10:29.97 ID:obKfq3In
天庵様にもその称号かよwwww
586人間七七四年:2013/02/16(土) 14:20:36.26 ID:xxfBOTXE
そういや家康って関東諸大名と通交があるけど、天庵様とはあったのだろうか?
587人間七七四年:2013/02/16(土) 14:21:19.66 ID:eRPrsEYq
>>584
「家康が最も(警戒した豊臣秀吉と戦った北条氏政と敵対していた佐竹義宣が少し)恐れた男 小田氏治」

こうか!
588人間七七四年:2013/02/16(土) 14:52:32.12 ID:Ziy3iXx3
天庵さまの娘が結城秀康の側室だっけ?
589人間七七四年:2013/02/16(土) 15:00:29.95 ID:Hoeyod+u
YES
でも家康との直接的なつながりってないような気がする
590人間七七四年:2013/02/16(土) 15:18:06.55 ID:XezMpZLU
たしか息子の守治一家も妹の縁で秀康の家臣になってるよね
591人間七七四年:2013/02/16(土) 15:52:46.21 ID:xxfBOTXE
いっそ大河は菅谷一族にしたらどうだろう。ハッピーエンドだし
592人間七七四年:2013/02/16(土) 17:22:58.71 ID:sqKWkQoJ
ある時、後水尾法皇は高桜に上り、公卿以下の邸宅がひどく傷んでいるのを見た。
そこで、所司代の板倉重宗にこれを修繕させることにした。

ある日、重宗は烏丸光広の邸宅に来て事情を説明し「しばし他に移ってください」
と、頼んだ。しかし、光広は「東廂に雨が漏れたなら西室に避け、そこも傷んだなら
すぐに北舎に移る。我はそれを少しも厭わない。このまま放っておいてくれ」と断った。

重宗はすぐにこれを法皇に奏上した。法皇は「主人が気に掛けるようなことをするな」
と、言った。そこで重宗はこの旨を伝えて、有無を言わさず邸宅を修繕した。

――『近古禅林叢談』
593人間七七四年:2013/02/16(土) 17:33:38.92 ID:TdPGBP3V
…え?
594人間七七四年:2013/02/16(土) 17:54:51.08 ID:XezMpZLU
法皇「そこの邸宅傷んでるから直した方がよくない?」

重宗「把握した。家主追い払って全部修復するわ」

光広「いや大丈夫だから。構わんといて」

重宗「は?」

法皇「家主が迷惑がってるならやめた方がいいよ」

重宗「把握した。家主追い払って全部修復するわ」


・・・こういう事?
595人間七七四年:2013/02/16(土) 17:57:08.52 ID:RrkEA/2p
修繕しましょうかなんて聞いたら公家のプライド?とかが邪魔していらないって言うに決まってるんだから
勝手にやっちゃった方がいいよってことなんじゃない?
596人間七七四年:2013/02/16(土) 18:08:26.52 ID:XezMpZLU
なるほど、そういう事か
597人間七七四年:2013/02/16(土) 18:15:39.34 ID:a4jfOvKN
>>561
プランはなくてもビジョンはあった、ってことなのかもな。
598人間七七四年:2013/02/16(土) 19:00:19.10 ID:sqKWkQoJ
>>592
すいません誤訳です。本当に申し訳ありません…。
○「主人に管することなかれ(主人を気に掛けるな)」
道元の言葉にかけてるんですかね…。
599人間七七四年:2013/02/16(土) 19:06:17.32 ID:0Paxqfy/
>>592
強制排除ならぬ強制修繕かよ
600人間七七四年:2013/02/16(土) 19:20:26.47 ID:iL3HnnwB
高桜ってもしかして高楼?
601人間七七四年:2013/02/16(土) 20:04:24.94 ID:oe4uA0wP
烏丸さんって、ボロボロの着物でもそのまま着てた人だっけ
確かに壊れようが気にしなさそうだ
602人間七七四年:2013/02/16(土) 21:53:56.62 ID:Xp4iIm19
>>598
ということは>>595さんので正解か。
何にしても公家周辺のはなしは少ないので面白いな
603人間七七四年:2013/02/16(土) 22:13:32.82 ID:ZJN35ml5
>>506
大津城を攻めたのは、あの立花でしょう。
よく7日間も耐えたと思うけどな。
604人間七七四年:2013/02/16(土) 23:42:41.90 ID:obKfq3In
淀さんの妹も一緒に籠ってたりしたかもしれんし本気では攻めてないんじゃないのかな?
605人間七七四年:2013/02/17(日) 00:55:55.29 ID:DKhibnuo
所詮城攻めに必要なのは人数と時間だよ。
7日で攻め落としたのは凄いし、落とされたのは恥ずかしい。

岐阜城の織田さんとこは防戦に必要な兵隊が足りなかったケースだから別。
606人間七七四年:2013/02/17(日) 03:33:39.05 ID:tB85yrKT
大津城の堀が埋まったのが12日だったようだから
実質的な城への攻撃は13日だけだったんじゃないかな、
14日もだいたい開城交渉で攻撃止めてたようだし
607人間七七四年:2013/02/17(日) 03:49:15.02 ID:CtyWhCwq
周囲の状況とか政治判断とか、単純に命をかけて守り抜くだけの城とはわけが違うと思うんだが
608人間七七四年:2013/02/17(日) 07:42:42.65 ID:m172MTMb
>>605
大津は大軍を展開するスペースも十二分にあって堀を埋めたり
しやすかったから、恥でも何でもないな。

むしろ必要な兵力を野戦で損じた岐阜の方が恥ずかしいだろう。
609人間七七四年:2013/02/17(日) 07:48:55.40 ID:Rx+wZgDD
もうやめてあげて!三法師さまのHPはゼロよ
610人間七七四年:2013/02/17(日) 08:00:24.00 ID:DzeHdgY5
>>606
いや、堀を埋める時点で普通は「城攻め」にカウントするだろ。
埋めに来るのを何もせずに待ってるわけがないんだから、埋めに来る←妨害攻撃←さらにその妨害と戦闘は起こる。
611人間七七四年:2013/02/17(日) 08:47:37.33 ID:lzy7EarS
大津城は最初から本気で攻めていれば山からの砲撃の嵐で速攻落ちてるよ
重要人物がいるから手加減してたのが見え見え
612人間七七四年:2013/02/17(日) 09:52:59.91 ID:m172MTMb
砲撃の嵐とか夢見すぎだろ
613人間七七四年:2013/02/17(日) 11:36:57.35 ID:1JiT4w5T
福井藩史事典っての借りてきたんだが、家臣の一覧(幕末頃?)に小田家が見当たらんなぁ。
水戸(江戸)と山川は高家として扱われてるのに。
614人間七七四年:2013/02/17(日) 11:56:43.38 ID:m172MTMb
>>613
断絶したとかでなければ、越前松平家が分裂してるから
福井藩じゃなくて、別の藩なんじゃないかな。

結城の紋を継いだ、前橋松平家あたりはありそうだけど。
615人間七七四年:2013/02/17(日) 11:58:08.46 ID:ED2zy0Da
何らかの理由で苗字が変わってる可能性もあるなあ。
616人間七七四年:2013/02/17(日) 12:00:20.43 ID:m172MTMb
そういや八田氏に戻したのも居たっけか
617人間七七四年:2013/02/17(日) 12:10:37.90 ID:1JiT4w5T
うん八田は100石でいるな。
しかし水戸の米百俵とか山川の二十人扶持とかどんだけ落ちぶれてるんだか。
618人間七七四年:2013/02/17(日) 12:40:37.19 ID:M11bCOqh
>>605
茂助「 この城は出来損ないだ。籠城出来ないよ。明日松江に来てください、本物の堅城をお見せしますよ 」
619人間七七四年:2013/02/17(日) 15:33:31.77 ID:ED2zy0Da
大阪夏の陣で大阪が落城したあと、逃亡していた長宗我部盛親も潜伏先の京都八幡の葦原で発見され捕縛。
その身柄は二条城へと運ばれた。

盛親はここで板倉伊賀守(勝重)の尋問を受ける。
そこで勝重は、このようなことを聞いてきた

「あなたはこの度の合戦において戦われた東国勢の中で、何れが最も軍功優れていたとお考えですか?
また、大阪方の敗北の責任は、誰にあったとお考えでしょうか?」

これに盛親
「東国勢では井伊掃部頭(直孝)の軍功を第一とすべきでしょう。
そして大阪の落城は、この盛親が原因です」

「あなたが?」

「はい。その理由ですが、あの八尾での合戦において、関東方の先手は藤堂和泉守(高虎)と井伊掃部頭、
そして大阪方は木村長門守(重成)と、この盛親でした。
長門守は掃部頭に当たり、私は和泉守と対戦しました。

私は見事高虎を討取り、秀頼公への忠勤に備えようと思っていた所に、長門守が不意に討死をしたためその部隊が崩壊し、
井伊勢が我々の横合いから攻めかかってきました。
このため、我が方はついに敗北したのです。

一陣が敗れた上、残党を無事に回収できなかったのですから、大阪方が敗北したのは、第一にこの盛親が
原因だったというべきでしょう。」

これを聞いた勝重は、大いに感じ入ったとのことである。
(土佐物語)
620人間七七四年:2013/02/17(日) 18:43:03.58 ID:eP7uYQxR
「徳川の勝因は盛親を破ったこと!大阪の敗因は盛親が敗れた事(キリッ」の元ネタはこの話か。
621人間七七四年:2013/02/17(日) 19:55:01.38 ID:RP78d43e
この後に粗末な食べ物を足軽からあてがわれ悔しがっていることを聞きつけた直孝が
盛親を座敷に上げて大名料理で饗応して感動の涙を流したという話があったな
622人間七七四年:2013/02/17(日) 20:20:03.88 ID:i6W42d/S
良い,Come onのCome in

て言って呼んだんですね
623人間七七四年:2013/02/17(日) 21:02:44.10 ID:aXxE8anV
>>621
盛親さん頭いいなあ
624人間七七四年:2013/02/17(日) 21:48:30.80 ID:gc7ACnQo
暗に木村重成が悪いって言ってるようにしか見えない
625人間七七四年:2013/02/17(日) 23:23:26.56 ID:UCghsgW/
>>618
稲葉山城は見た目凄いけど攻めてみるとそうでもない城の典型だよな
626人間七七四年:2013/02/18(月) 05:57:56.43 ID:InM3MCTW
髑髏ヶ崎館も名前負けしてると思う。
627人間七七四年:2013/02/18(月) 09:58:25.95 ID:aytRm3LB
>>626
躑躅ヶ崎?
628人間七七四年:2013/02/18(月) 10:06:03.51 ID:WU04mRwf
どこの魔王だよ!w
629人間七七四年:2013/02/18(月) 10:06:30.48 ID:gyH6AgR3
>>626
髑髏ヶ崎館ってどこだw
630人間七七四年:2013/02/18(月) 10:37:34.80 ID:iYPsK9sN
コワイ!
631人間七七四年:2013/02/18(月) 10:54:42.08 ID:ZGsDVx4x
髑髏の杯が霞んで見えるぜ…
632人間七七四年:2013/02/18(月) 11:17:37.56 ID:eWF9Voca
当面 >>626 関係のコメントしか期待できんな
633人間七七四年:2013/02/18(月) 15:03:30.47 ID:g1g84q1K
しかし「躑躅ヶ崎 髑髏ヶ崎」でググってみると…
634人間七七四年:2013/02/18(月) 15:11:30.09 ID:QEVRWymS
久しぶりにこっちが恥ずかしくなるような勘違いを見た
635人間七七四年:2013/02/18(月) 16:51:21.17 ID:MXQVCfmU
音で覚えてないんだろなぁ
636人間七七四年:2013/02/18(月) 17:04:58.92 ID:vv8UpmZA
天道スレで昔ネタにされてたな。
637人間七七四年:2013/02/18(月) 17:11:15.42 ID:aNMAjEpH
まあ別の名前にしてしまうことは少なくても読み間違えなら良くあるよね
城井鎮房をしろいちんぼうと読んでしまったあの恥ずかしさは一生忘れない
638人間七七四年:2013/02/18(月) 17:14:06.47 ID:bpPmMlrL
最上義光はもうヨシミツでいいと思う
639人間七七四年:2013/02/18(月) 17:30:12.08 ID:MMm8AWLu
ヨシミツって音だけ聞くと「鉄拳」のキャラが思い浮かぶ
640人間七七四年:2013/02/18(月) 17:34:08.15 ID:mYVQcWot
浅田長政

浅井長政
浅野長政
山田長政
黒田長政
さぁどれだろう…
641人間七七四年:2013/02/18(月) 19:19:08.09 ID:9lk/mFCZ
>>637
いやんえっち
642人間七七四年:2013/02/18(月) 19:33:06.63 ID:bSxWEju3
大阪の陣が終わり、長宗我部盛親が捕縛された時、盛親の弟である長宗我部右近大夫は、加藤清正が父元親の
親友であった縁によって肥後にあったが、盛親の罪に連座し、召し捕らえられ京へと上ることとなった。

この右近、肥後では譜代の郎党・小宮崎久兵衛と言う者がただ一人仕えていたのだが、これも共をして
上京をした。

伏見に到着すると、藤堂和泉守高虎を検使として、右近に切腹仰せ付けられた。

これを聞いて郎党の久兵衛は、「私も一緒に切腹させて頂きますよう!」と望んだが、
高虎は「いやいや、お主のことはお上より何の仰せもない。そのようなことは許可できない。」と諭した。

が、久兵衛畏まって

「ここにある右近は未だ、人が腹を切る所を見られたことがありません。ですので、切腹のやりようをご存知ありません。

その手本を、見せ候べし!」

言い終わらぬうちに諸肌脱ぎになり腹を十文字に?っ切り、右近に向かって

「かく切らせ給え!」

と申し上げると、右近はうち笑いながら「心得たり」と、潔く腹を切られたという。
(土佐物語)

盛親の弟、長宗我部右近大の切腹の模様である。
643人間七七四年:2013/02/18(月) 19:38:41.71 ID:yKP7YXYQ
長宗我部盛親の弟で、
香川親和の弟で、
津野親忠の弟で、
細川真之の弟で、
三好長治の弟で、
十河存保の弟、
って説明したら兄弟でなんでそんなに苗字違うんだよ!
と言われそうだ
644人間七七四年:2013/02/18(月) 20:35:40.87 ID:pZAn2DQM
腸は痛覚ないからつかんでも痛くないらしいがどこが痛いんだろう?
645人間七七四年:2013/02/18(月) 21:19:50.95 ID:E/YX39Pe
じゃあ下痢ぴーになった時はなんで臍の下辺りがメチャクチャ痛いの?
646人間七七四年:2013/02/18(月) 21:50:31.84 ID:9lk/mFCZ
うん
647人間七七四年:2013/02/18(月) 21:55:31.71 ID:rrHjUb/f
腸管も攣縮すれば疝痛が生じる
648人間七七四年:2013/02/18(月) 22:54:37.70 ID:uuefnXgR
え?

【地域】明智光秀謀反の理由で激論 岐阜でフォーラム…「本能寺の変無かったら大阪が首都になっていただろう」の意見も
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1361187988/
649人間七七四年:2013/02/18(月) 23:15:48.73 ID:aP8N5R5X
>>643
この「小少将」って十河存保の母親とは別人。
十河存保の母親については、天正5年に亡くなったことが
『己行記』という史料に登場する。
いつも思うんだが、長宗我部右近大夫の母親と
十河存保の母親が同じ人物じゃ年齢的におかしいじゃないか・・・
650人間七七四年:2013/02/18(月) 23:31:46.04 ID:MdmCsSJ8
12歳で細川真之
27歳で三好長治
28歳で十河存保
57歳で右近太夫
ぎりぎり自然妊娠可能?
651人間七七四年:2013/02/18(月) 23:40:11.18 ID:MdmCsSJ8
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4375.html
過去に議論あったんだ
しかし、「戦国三好一族」でも小少将が同一人物とされていた気が
疑問に思わないんだろうか
652人間七七四年:2013/02/18(月) 23:43:34.63 ID:51zUyYq3
>>650
30年の空白がこわいw
同一人物だとしたら元親は相当な熟女好き?
653人間七七四年:2013/02/18(月) 23:46:55.51 ID:RLYVO50o
実は元親のは、朝倉義景の方の小少将だった、とか
654人間七七四年:2013/02/19(火) 00:16:45.57 ID:r91GqvMQ
>>650
元親が四国をほぼ制圧した頃ならまだしも、前年に三好長治が滅亡して
ようやく・・・という時期の天正5年に没しているわけで、元親のところに流れる
理由も状況も全く考えられないし、同一人物という線はないだろw
655人間七七四年:2013/02/19(火) 00:17:49.36 ID:j1OudHiP
度々の功のある人だった長岡玄蕃(細川興元)はこう言ったという。

「私は関ヶ原の時、引いて退く馬武者を見て『かえせ!』と言ったのだが、
その武者はすぐに立ち帰って来て、私は組みしかれた。

あわや首を取られるという時に、郎等の一人が来て武者を引きはがし私に首を取らせた。
危ない目にあった。足を乱さずに引く武者には、かえせと言ってはいけないのだ」

――『老人雑話』
656人間七七四年:2013/02/19(火) 00:21:36.29 ID:j2wQy1hN
情けない話のようだけど、教訓にしてるからイイ話かもな
657人間七七四年:2013/02/19(火) 00:33:46.89 ID:Y9dVhO/Q
「もう二度とあんな真似はしないよ」
658人間七七四年:2013/02/19(火) 00:45:02.40 ID:e6ubEhM2
有楽「知り合いに、助命のお願いしてやるとか言ってはいけないのだ」
659人間七七四年:2013/02/19(火) 13:20:31.65 ID:0g8ybFHf
帰師には遏むることなかれって孫子にあるじゃないですかやだー
660人間七七四年:2013/02/19(火) 16:01:12.22 ID:vgNhBVPG
クマ「足を乱さずに」
宗麟「撤退する島津を」
センゴク「深追いしてはいけない 」

四天王、信親、存保「…(-_-;)」
661人間七七四年:2013/02/19(火) 16:04:17.26 ID:5SQiINAA
一人だけ落ち着いてて目だってたからつい声かけ事案を起こしてしまったのかな
662人間七七四年:2013/02/19(火) 17:53:06.68 ID:wTlf7E0P
>>660
リアルさを損なわないために、釣りの餌には何も教えないと言うブラックな説もあったなぁ
663人間七七四年:2013/02/19(火) 19:34:38.35 ID:Nr6+gYY6
「かの長宗我部盛親という人は、国政のことも心にかけ、知勇もある方であったのに、
一日の命を捨てかね(大阪の)死地を逃れ、その結果賤しき者たちの手に渡り、縄目の恥に及びました。
しかしこの人の常の行跡や、八尾合戦での活躍を聞けば、それほどの不覚人には見えません。

一体どんな因果によってこのような事になったのだろうかと考えてみますと、久武内蔵助という大悪人が、
盛親を立てて己が威を欲しいままにしようとしたため、蓮池左京進、比江山掃部助、以下を讒言し、
津野孫次郎に詰め腹を切らました。

これらは、盛親自身の考えではありません。ですが、皆盛親を立てるために行われたことでした。
ですので、それら積悪の餘禍が見に積もり、その罪が盛親一人に帰して、
武運薄く、生きながらに捕らえられ、白昼に誅せられたのでしょう。

本当に痛わしい事です」
(土佐物語)

土佐物語より、長宗我部盛親の生涯についての、著者の所感である
664人間七七四年:2013/02/19(火) 22:07:10.32 ID:Dj7pfXN7
>>660
大友の場合はそーりんじゃなくて田原さんやで。
665人間七七四年:2013/02/20(水) 03:33:34.66 ID:oinhnwMU
>>660
井伊直政、松平忠吉「足を乱していても深追いは危険」
666人間七七四年:2013/02/20(水) 11:39:42.16 ID:7hBVIyPC
いい話スレで輝元と義昭の話が出てたので、義昭帰洛に関する
天正11年の輝元宛家康書状を紹介
----
公方様の帰洛について書状を受け取りました。
信雄、羽柴、その他家老の衆の請書も添えられており、即座に読みました。
拙者としては各々次第ですのでいささかも問題ありません。
他に東国に御用の際は仰せください、恐々謹言

  二月十四日 三河守家康(花押)
 謹上毛利右馬頭殿
----
足利義昭は本能寺の変の後、都へ帰洛しようと各所へ工作を行っていたが
この書状にも見えるとおり天正11年の初頭には、織田政権の合意を取り付け
帰洛は目前とも言える状況だった。

書状の主である家康は「みんなにお任せ」って感じでスルーっぽい対応。

このまま帰洛が実現すれば良かったんだけど、織田政権内部の抗争が
激化して「賤ヶ岳の戦い」や「小牧・長久手の戦い」が続発した事により、
義昭の帰洛は九州征伐後まで延びてしまったので、ちょっと悪い話だろうか。
667人間七七四年:2013/02/20(水) 13:02:30.11 ID:niM9yblT
弟がノートに《中国大陸の覇者、毛利元就》って書いてた。本人以上に大風呂敷を広げたもんだなぁと思った
668人間七七四年:2013/02/20(水) 17:34:40.97 ID:9cvhG7sP
大内義長と斎藤龍興役…
669人間七七四年:2013/02/20(水) 18:35:59.10 ID:wE1Ty/nJ
>>667
つまり秀吉の中国大返しは海を越えて…
670人間七七四年:2013/02/20(水) 18:44:46.70 ID:cSRvLzSS
>>667
20年近く前に出版されて、一部ではものすごく有名な『中国人と名古屋人』て本がある。

これは明治時代に内村鑑三が、中国人と名古屋人は最低で酷い奴らだってこき下ろしている文章を読んで、
内村ほどの人格者でさえも帝国主義的に支那人を見ていたのかと、義憤にかられた著者が書いた迷著。

でも、内村の原文読むとわかるんだけど、中国人とは中国地方の長州閥のことなんだよねw
確かに明治の政治情勢を反映してるわけだけど。
名古屋人についてはまあ置いときましょう。
671人間七七四年:2013/02/20(水) 19:02:40.40 ID:Ao0PogLb
清水義範「蕎麦ときしめん」
のような、批判に見せた名古屋愛
ではないよなw
672人間七七四年:2013/02/20(水) 20:55:30.82 ID:EwovXTKT
>>667
当時は中国なんて国ないからあながち間違いでもない
673人間七七四年:2013/02/20(水) 21:23:25.36 ID:ZjnaWDw1
>>670
中国人ならともかく日本人が意味を取り違えるなんて…
674人間七七四年:2013/02/20(水) 22:52:39.14 ID:4ogifjk4
>>668
【芸能/事件】少女わいせつ容疑 俳優でベーシストの河野智宏容疑者(38)逮捕 大河ドラマにも出演
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1361334374/
675人間七七四年:2013/02/21(木) 08:36:06.28 ID:eqDDpVrm
>>673
中国地方の人を中国人と呼ぶ風習は現代の日本人には無いでしょ。
676人間七七四年:2013/02/21(木) 08:50:39.12 ID:XUiF6BHw
>>675
君の国には元の文章をよく読まずに批判本書く風習でもあるのか
677人間七七四年:2013/02/21(木) 11:03:19.21 ID:1pLgutxL
>>675
シナ人、清人を中国人と呼ぶ風習も内村鑑三の時代には無いけどな
678人間七七四年:2013/02/21(木) 11:04:55.91 ID:IQ6ZY2mu
雑談にしても脱線し過ぎと思うんだ
679人間七七四年:2013/02/21(木) 11:05:27.36 ID:q8j4I5Rx
まぁ、中国大陸の覇者の元就さんからは完全に脱線してるけどな〜
680人間七七四年:2013/02/21(木) 11:32:27.27 ID:Ekw1Flg6
>>678
脱線というより揚げ足取りばかり。 >>670 の時点でオチはついてるのに
681人間七七四年:2013/02/21(木) 11:35:33.65 ID:+0LF3YVN
スレ読んでたら中国地方の人をまとめてなんて呼んでたのかわからなくなった
そしてじっと考えてそもそもまとめて呼んでなかった事を思い出した…
682人間七七四年:2013/02/21(木) 13:08:51.33 ID:Ekw1Flg6
>>681
ニュアンスは微妙に違うけど、当時だと「中国衆」が一番近いんじゃないかな
683人間七七四年:2013/02/21(木) 16:21:11.07 ID:D2iT0Itc
西日本人
684人間七七四年:2013/02/21(木) 16:25:00.56 ID:HJs81U3t
まとめ管理人が上杉をボロカスに言ってる悪い話
685人間七七四年:2013/02/21(木) 18:23:06.60 ID:qJ149ImL
「愛」はぼろくそ言われてもしゃあないと思うw
686人間七七四年:2013/02/21(木) 20:23:27.37 ID:rDSnYhpH
景勝期の上杉って、特に国人にとっては辛いよね。
忠節を尽くしても追放されたり、出奔に追い込まれたりするし。
687人間七七四年:2013/02/21(木) 20:25:44.67 ID:M3FtAB46
全く最低だな上杉信玄は
688人間七七四年:2013/02/21(木) 20:57:01.38 ID:PFaghLHI
>>685
愛があれば兜の差なんて
689人間七七四年:2013/02/21(木) 22:23:08.70 ID:Dja3HCi9
>>681
人国記見ると中国地方でも備前美作播磨だけは別ものと考えていい
690人間七七四年:2013/02/22(金) 01:08:15.37 ID:cfRrwnCF
>>686
阿賀北衆なんて「御当代(景勝)からは厚意を受けていないし、謙信様
にも格別の恩義はないよ」などと公言してはばからない連中だし(これを
書いた竹俣や新発田は晩年の謙信政権の奉行人に取り立てられている)
こいつらを押さえていかなきゃならないわけで。

どこぞの作家さんじゃないけど、とかく景勝期の上杉氏について
「上田衆以外にとっては暗黒時代」みたいにいいたがる人が多いけど、
このへんの事情も考慮する必要があると思うなあ。
691人間七七四年:2013/02/22(金) 06:21:54.74 ID:zCr+jh17
>>690
阿賀北衆から見ればその通りじゃないか。
特に何かしてもらった訳でも無いからな。
692人間七七四年:2013/02/22(金) 07:22:27.20 ID:PYli8qM8
土佐の幡多郡を支配していた一条兼定公が没落されたのは、一説に天正元年(1572)8月、兼定公御歳31の時に
法礼がありこれを口実に、所縁によって豊後大友方に送られた。その仔細はこのようなことである。

当時、土佐七郡のうち6郡は長宗我部元親が切り取り、一条氏は本拠の幡多郡をどうにか確保していた有様で、
一条家中には様々な雑説が流れ、諸氏の心はバラバラであった。

ではあったが一条家家老に土居宗珊(宗算)という、武勇智謀に優れた人が有り、この人が生きているうちは
元親も幡多郡に手出しすることは出来ないと、人々も思っていた。

そこで元親も宗珊を殺すための謀略を廻らされ、先ず宗珊方に数通の文を遣わし音物を送り、
親しい友人同士であるかのように、人が思うように仕向けた。
そうしてある時、元親と宗珊が意見を合わせ謀反を企てる準備を行なっているかのような文を落とした。

一条殿はこれをご覧になり、きっと御運の末であったのだろう、真実だとお考えになり、宗珊を召し出して、
その場で手討にしてしまった。

このため一条の家中は勿論、一条家に従っていた国人や城持ちも一条兼定を疑い、仮病を使って出仕を
止めるものが多く、家中は大きな騒動となった。
元親はこれを聞いて、

「手を汚さず幡多郡を取りたり!」

と喜び、一条殿の家老、並びに国人36人の城持ちに申し渡されたことには

『一条殿は我らの先祖をお取り立ていただいた筋であるので、主君だと考えていたのに、私が安芸と合戦の時、
安芸に対して軍勢を御加勢され、私は大変な迷惑に及びました。
その後、津野との合戦の時も、また津野方に加勢なされましたが、この両度とも私は天運にかなって勝利を得たのです。

このように、一条殿は私を御悪みになっておられますが、この度一条の御家から、突然のことで私には
全く思いもよらない事だったのですが、家中の家老国人衆の判断により、私に対して若君の御後見をするように、
と申し遣わされたのです。』

として、元親は一条兼定を隠居させ豊後へ送り、若君である一条内政を元親の後見によって取り立てた。
こうして幡多郡は初めて、元親の支配下となったのである。

一年過ぎた頃一条家の家老や国人達が蜂起し元親と合戦に及んだ。
この時元親は幡多郡の武士たちに、「その郡が乱れている所に、若君を置いておく訳にはいかない。
大津の城に移してこの元近の婿とする」と言い渡し、若君を長岡郡大津城に入れ、元親の息女を輿入れさせた。
一条殿の居城には、普通の者では恐れがあると、吉良左京(親貞:元親弟)を入れたということである。
(土佐物語)

以上、長宗我部元親による一条兼定追放、土佐統一についての逸話である。
693人間七七四年:2013/02/22(金) 08:08:20.39 ID:lQ6SLSDO
手紙怖い
694人間七七四年:2013/02/22(金) 11:13:05.68 ID:u1ioEcDP
一条さんの悪い話だなw
695人間七七四年:2013/02/22(金) 13:57:35.36 ID:BZ6YdGLW
馬超「手紙ごときで情けないな」
696人間七七四年:2013/02/22(金) 21:33:21.35 ID:dmey9F2s
端役の蘆名義広と武田義信から立派に成り上がった人が実在するのに>>668と来たら・・・
697人間七七四年:2013/02/22(金) 21:59:07.43 ID:pHhKhLQg
陶晴賢「偽の手紙で離間しようなんて、使い古された手だよね」
698人間七七四年:2013/02/22(金) 22:33:19.95 ID:i24N83en
義昭公「ウソはだめだよね」

三斎様「忠利くんへ…」
699人間七七四年:2013/02/22(金) 23:43:38.41 ID:HaIsVkcW
晴久「こんな見え見えの手に引っかかるわけないだろ。・・・・・・これは利用できる。」
700人間七七四年:2013/02/22(金) 23:51:03.10 ID:3T3cUQBH
大阪冬の陣が始まらんとしていた時の事である。
大阪城中では関東勢(幕府軍)が軍勢を発進させた、との報を受け、諸方の砦。そのほか外構え等の
軍事施設の普請を急いでいた。

この時に豊臣秀頼は譜代新参の諸将を集めて評定を行ったが、そこで秀頼は

『先に達って申し付けた各々の持ち口(担当場所)であるが、その配置に善悪が有り不満が出ている。
よって改めて、籤によって持ち口を決め直す。』

と仰せになった。これを聞いた各持ち口の頭分の者たちは

「最前、既に仰せ出された持ち口であるのだから、それに善悪があるといっても今になって又
変えるべきではない。それに武士が籤を用いる時は、その故実に従うべきものであるので、
ともかくもそのままに差し置かれるべきだ。」

と思い、敢えてその沙汰に同調する雰囲気は無かった。

この時、大野治長と渡辺糺は籤奉行であり、両人は座の中央に居たのだが、治長が進み出て
申し上げることには

「黒門口は平野口に近く、これも又大手の要害ですので、かの口の30間は、私治長が
これを固めます!」

渡辺糺はこれを聞くやいなや怒鳴った

「治長のやり方は全く理解できない!今、持ち口の善悪があるからと籤を用いようとしているのだ!
そんな所に黒門口は治長自らがこれを固めると言い出す。
然らばこの籤は無いのと同じではないか!

そもそも修理亮はいつもそうだ!何でも己のほしいままに行い、諸将を軽んずる。
甚だ奇怪なことである!今後そのような態度は謹むべきだ!」

治長もこれに怒鳴り返した

「黒門口は内側が広く、そのため小勢ではここを守るのは難しい。それ故配下の多いこの私が、
籤を引く前にここを固めると申したので、これは全く我意を挟んだものではない!
だいたいそのように言う貴殿こそ、秀頼公の思し召しが良いのをいいことに、諸士に対して
無礼に振るまい、人々もこれを憎んでおるぞ!
この治長の事を言う前に、先ず自分の身を謹まれよ!」

糺はこれに激怒し

「日々の事はともかく、黒門口の担当も籤で決めるべきで、特別に治長に任せるような事は
出来ない!それでも強いて要求するのなら、余人には渡さぬ、この糺が自らここを請け負う事とする!
未だ言いたい事があるなら、申されよ!」

渡辺糺は目を怒らし居丈高となり肘を張って言葉を投げつけた。
これに治長も膝を立て、今にも斬りかかろうとしたのを、座中の人々が慌てて両人の中にはいり

「御両人はこの大阪城をまとめる老臣ではありませんか!それがこのような論争をするのは
ただでさえ似合わぬことであり、しかも今のような大事を控えた状況で、朋輩同士の
口論などしている場合ですか!
第一これは、君のためになりません!」

そう言って二人を制した。ここでようやく渡辺糺が鎮まり、治長も「ついカッとして言い過ぎた」
と謝罪し、各々その座に戻った。

しかしこの騒ぎのために、籤の件は沙汰止みとなったそうである。
(慶元記)
701人間七七四年:2013/02/23(土) 03:24:38.25 ID:bgqSXdkM
文明十二年(1480年)、斉藤妙椿死去。享年70。
東常縁と歌のやりとりで城を返したあのひとだ。

応仁の乱をきっかけに美濃の荘園を横領して所領にし、飛騨・近江を暴れまわって、
守護代家の舎弟でありながら守護も守護代もしのぐ勢力を持った。

その報を聞いて公家の大宮長興はこう書いている。
「応仁の乱のさなか、数々の行いを強行し、(そのせいで)いまだに東の騒乱が収まらない。
今出川大納言どのを擁立していまだに自国においている。(このころ、足利義視・義材親子は入京できず美濃にいた)
この間死んだということで、世の中も平和になるだろう」
(「此者一乱中種々張行、于今東近国煩不休、今出川大納言殿奉扶持、于今御在国、
如此之間、於死去者、世間静謐之由有其沙汰者也」)

もちろん戦乱が終るどころか、全国的には荘園制の崩壊で戦国時代へと本格移行し
美濃国内では守護代家と妙椿の持是院家の争いが泥沼化してせっかく妙椿が建てた威勢も衰えてしまうんだけどね。
702人間七七四年:2013/02/23(土) 07:28:04.71 ID:7nKpJU6+
>>700
諸将が不満に思う籤をやめさせるために二人で芝居した……ってことはないだろうな
703人間七七四年:2013/02/23(土) 09:02:31.22 ID:R+0y1Ibw
どっちなんだろうなw
先に籤は間違いであることが述べられて、最後に結果として
籤は取りやめとなかったとあると解釈に悩んじゃうなw
704人間七七四年:2013/02/23(土) 16:50:36.38 ID:tILfhH+y
その長宗我部家も関が原後没落してるんだよね
因果応報だな
705人間七七四年:2013/02/23(土) 20:02:38.17 ID:bgqSXdkM
まあ、元就さんの
「きっと恨まれてるよ復讐されるよ誰も助けてくれないよ
家族だけが頼りだからなわかってるなおまいらガクブル((;゚Д゚)」
に比べると長宗我部は隙が大きいかな
706人間七七四年:2013/02/23(土) 22:24:15.23 ID:dhQT+eJC
肉親相食むことも多いけどね
707人間七七四年:2013/02/23(土) 22:33:59.44 ID:j4GGDB0W
山陽の人間は信頼出来ない
708人間七七四年:2013/02/23(土) 22:47:23.70 ID:lMZuhj91
やっぱり島根だね!
709人間七七四年:2013/02/23(土) 22:50:38.87 ID:+pVDKjPo
堀尾忠氏「島根と高知、どっちがよかったんだろう」
710人間七七四年:2013/02/24(日) 16:25:04.34 ID:KfCYJF5t
大阪冬の陣が始まろうとしている時である。
ある日、江戸の将軍秀忠は福島正則を御前に召してこの様に言った

「関ヶ原の時も、あなたが第一の勤功を示してくれ、ついに凶徒を退治することが出来た。
今度私は大阪に発行するのだが、万一上方での合戦が手間取った場合、この幕府に反逆を起こすと
考えられるのは、加藤嘉明と黒田長政の両将である。

私はあなたを頼みに思っている。もし彼らに反逆の様子が見えるようなら、これを殿中に招いて
あなたの手で誅殺して頂きたい。

そしてこの事は、どうか心中に秘して、ゆめゆめ面に出さないようにして頂きたい。」

このように慇懃に頼まれたため。福島正則は

「何と有難き仰せでしょうか!」

と、直ぐにこれを了承した。

さて、秀忠はその後、密かに黒田長政を召し出した。そして
「福島正則と加藤嘉明の両名は、故秀吉の厚恩のある人たちであるので、上方の合戦の状況によっては
謀反を起こすことも考えられる。万一そのような徴候があれば、あなたが速やかに計って
彼らを殺して欲しいのだ。あなたのことを、偏に頼みに思っている。」

この秀忠からの要請があまりに懇切であったため、長政は感動し落涙してこれをお請けした。
この時の長政の態度が、殊の外幕府への貞節が顕れていたため、秀忠もまた感じ入り、
彼の嫡男である右衛門介に、松平の姓と諱を与え、忠之と名乗らせたとのことである。

最後に秀忠は加藤嘉明を召し出し、言った。

「あなたは格別の人であり、この時代の英雄の一人である。故に、あなたに我が嫡子・竹千代(家光)の
鎧の肩入れ(鎧親)を頼みたいのだ。
そして、あなたが大御所(家康)からも疎意なく思われているのであえて頼むのだが、
今度上方の闘乱を鎮めるために近々出馬をすることとなった。よって、関東のことはあなたに
任せたいと思っている。

この事は、深く心中に秘して油断の無いようにして頂きたい。
特に、福島正則、黒田長政の両者が、まさかの事を起こすようであれば、あなたが宜しくこれを
取り計らって頂きたい。
これは絶対に口外しないように。」

このような事から、大阪の陣の間この福島、黒田、加藤の三家は互いににらみ合い、
何か怪しいことはないかと監視しあっていた。
そのため江戸は、常にまして日々静寂であったそうである。
(慶元記)

大阪の陣における、徳川秀忠の深謀遠慮についての逸話である。
711人間七七四年:2013/02/24(日) 18:37:24.39 ID:xrqqCrCd
夷狄を以て夷狄を制すですな
712人間七七四年:2013/02/24(日) 19:31:20.06 ID:UUVitJgg
じつは福島黒田加藤三家で将軍の言動を笑ってたりして
713人間七七四年:2013/02/24(日) 20:06:10.55 ID:1mhG3QfG
その三人て元々仲悪くなかったか?
714人間七七四年:2013/02/24(日) 20:10:44.99 ID:mWC+upp3
昔のレスでこんなのがあった、福島はどうだっけ

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 21:48:29.28 ID:lzBTSYpa
三斎は高虎と仲良いんだよな
んで長政は高虎と犬猿の仲の加藤嘉明と仲良し
領土接してるからいざこざ耐えんのだろうけど

北九州  忠興 vs 長政
       |     | 
伊 予  高虎 vs 嘉明

ちょうどこんなイメージ
715人間七七四年:2013/02/24(日) 20:12:17.87 ID:0xl0QDbE
三成死ね死ね団の元メンバーじゃないの
716人間七七四年:2013/02/24(日) 20:20:32.25 ID:QacvpE5d
>>712
こいつら仲いいからありえそうだw
717人間七七四年:2013/02/24(日) 21:07:17.14 ID:PGwd0Ig1
さらに当節はやりの美少女武将だったら、まちがいなく全部しゃべっちゃってるな
718人間七七四年:2013/02/25(月) 02:56:51.02 ID:sRthtU6N
黒田長政→信長の命令に反して命救われる
福島正則→いとこ。超優遇で大名にしてもらう。
地味加藤→長浜時代からの譜代。

どの面下げて地獄で太閤に弁明するんだよ
719人間七七四年:2013/02/25(月) 07:15:25.58 ID:EWuoLoQg
長政「右手の温もりが忘れられなくて。」
正則「大坂城が落ちるとは思わなくて。」
地味「どうせ目立たないと思ったんで」
720人間七七四年:2013/02/25(月) 07:45:00.74 ID:VUGiWm8e
地獄でノブに折檻されるラスボスを目撃する
721人間七七四年:2013/02/25(月) 09:48:32.87 ID:DwgtOsy9
>>718
NGMS救ったのは竹中半兵衛だろ
722人間七七四年:2013/02/25(月) 10:45:25.00 ID:Fp8mjWwa
>>715
共通の敵がいる間は同心出来るけどそいつを排除したら新たな敵を作るって流れやね
723人間七七四年:2013/02/25(月) 11:58:15.03 ID:ugtIOuAI
>>718
山内一豊「譜代同様で裏切るとは…、ひどい連中よ」
浅野幸長「親戚でありながらそのようなことに加担するとは、まったく…」
724人間七七四年:2013/02/25(月) 14:43:41.26 ID:TsXrrAwh
【歴史】真田幸村の最期に新説、越前松平家の古文書で発見
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1361759516/

知らないほうが良い真実もある(´・ω・`)
725人間七七四年:2013/02/25(月) 14:53:49.58 ID:/97hQ0OF
新説か?
西尾と家康の逸話とほとんど変わらないのでは
726人間七七四年:2013/02/25(月) 15:00:28.46 ID:uAs2KXnD
西尾仁左衛門の黙して語らぬ話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3009.html

真田地蔵・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-682.html

ってことで、西尾仁左衛門の主張したとされることすら諸説ある。
越前松平家の古文書には徳川実記にあった西尾の主張が記録されていると
考えれば、>>725の言うように、逸話とほとんど変わらないことになる。
727人間七七四年:2013/02/25(月) 19:15:48.13 ID:bUH1jP/W
酷過ぎて言葉にならねぇ

【芸能】“武田信玄の末裔”、モデルの武田アンリ(23)「親や親族が結婚相手の血筋を気にするので、それが大変」
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1361785970/
728人間七七四年:2013/02/25(月) 20:19:33.15 ID:6fs5PM93
>>724
逆に首差し出したってのが初耳っすw世間じゃそっちが有力だったん?
729人間七七四年:2013/02/25(月) 20:20:25.48 ID:MnkWAjcK
武田家は滅亡したのに末裔とはどういうことだ
明智家の末裔といい、自称末裔は何がしたいのやら
730人間七七四年:2013/02/25(月) 20:36:57.46 ID:9MRmQ/w7
高家旗本になった勝頼の兄の筋とか?
731人間七七四年:2013/02/25(月) 20:58:10.40 ID:pVmaNCqT
信清の流れも男系は絶えてるんだっけ
よそから養子が入ってたような
732人間七七四年:2013/02/25(月) 21:10:47.35 ID:uiUWiy5Q
何代かが抜けている家系図があって
本当の末裔から聞いたことないと言われている織田信成みたいなもんじゃね?
大名の末裔って結構頭良さそうな人が多いんだけどね
733人間七七四年:2013/02/25(月) 21:38:43.21 ID:BB3igLOO
>>732
織田信成は受け継いだ技能(能・フィギュア)的には順当な気がする。
(自称している織田信高系統は途中で三介殿の子孫が養子に入っている)
734人間七七四年:2013/02/25(月) 21:55:07.64 ID:Iau01Nr5
途中数代抜けてるとか祖父の名前の読みがおかしいとか昔の日本史板のスレで見たな。
735人間七七四年:2013/02/25(月) 22:13:05.23 ID:lfvRiyzz
織田信成のスレでは
・祖父の名前は「重治」で通字の「信」が入っていない
・だいたい70年の間に4代も抜けているとかおかしい
とか言われてた
中には祖父の織田重治が、古田武彦(邪馬台国論争で有名だが東日流外三郡誌を擁護し信用を喪失してしまった)
のつくった「市民の古代」という会の会員だったことから経歴(京大出)を詐称しているのではないかとさえ勘ぐる人もいた
(京大の前進である旧制第三高等学校の出身であることは京大卒業名簿に名前があることから確かだろうと思われる)
http://a2.upup.be/cG5FOpPjHJ
736人間七七四年:2013/02/26(火) 00:40:36.57 ID:tSnTn1Te
系図があそこ作のあれだったんでしょ
737人間七七四年:2013/02/26(火) 01:14:29.82 ID:kZr82zgy
>>729
滅亡たって死に絶えたわけじゃない
738人間七七四年:2013/02/26(火) 06:49:21.46 ID:Aq/RUiIt
こういう流れになると自称名家筋がたくさん出てくるのが2ちゃん
739人間七七四年:2013/02/26(火) 07:15:41.16 ID:WU67qpNi
ねつ造でも系図がしっかりしてればいいんじゃないかな?
740人間七七四年:2013/02/26(火) 07:33:15.42 ID:8YGriW15
林羅山「呼んだ?」
741人間七七四年:2013/02/26(火) 07:47:58.69 ID:b/rrCrrN
自称○○の子孫は90%位インチキ
742人間七七四年:2013/02/26(火) 08:39:42.80 ID:7WbnB9DX
そこで生まれ変わりですよ
743人間七七四年:2013/02/26(火) 09:16:16.55 ID:kGSI/mDu
>>728
真田太平記はこれじゃなかったか?
草刈さんが手柄にせよとか言ってたような記憶が
744人間七七四年:2013/02/26(火) 12:45:08.83 ID:Cf0AGfZk
>>743
池波正太郎には勝てんな。
鬼平犯科帳の飯が旨そうで困る・・・。
745人間七七四年:2013/02/26(火) 12:47:46.52 ID:k4fnI85x
長宗我部元親が織田信長公に通じられた事に関してだが、
明智日向守(光秀)家来、斎藤内蔵助(利三)は元親の小舅であった。ここから元親は明智の取り成しを以って、
元親の嫡子。弥三郎の実名の契約を信長公といたし、その偏諱を頂いて、信親と名乗った。
このような友好関係から、四国のことは元親手柄切り取り次第との御朱印を、信長公より下されたのである。

ところがその後ある人が、元親のことを信長公にこう申し入れた
「元親という人物は、四国に並びなき弓取りです。今のように切り取り次第を許していては、後々天下の災いにも
なるでしょう。阿波・讃岐まで手に入れその上淡路にまで手を出すことは、あってはならないと考えます。」

信長もこれを尤もだと考え、その後、先の朱印の内容を一方的に変更し、『切り取っていいのは伊予・讃岐まで。
それに阿波南郡半国を付けて与える』と仕えてきた。

元親はこれに大いに怒り
「四国のことは、私が自分の実力で切り取ったもので、これは信長卿のご恩義ではない!
この要請は私が思いもしなかったことで、驚き入っている。」
と、これを完全に拒絶した。

その後、織田方より重ねて、斎藤内蔵助の兄・石谷兵部少輔(頼辰)が使者に使わされたが、元親はこれにも
拒絶することを言い切った。

これによって織田と長宗我部は断交し、信長は息子である三七殿(信孝)を四国征伐の大将として
泉州岸和田まで出陣させた。

この時、斎藤内蔵助は四国のことを強く気遣かい、明智に謀反を急がせた。よって6月2日、
信長卿は御切腹された。
このため四国は無事にすんだのである。
(土佐物語)

土佐物語より、本能寺の原因についての言及である。
746人間七七四年:2013/02/26(火) 17:03:22.16 ID:Zr0bAbLG
急がせたってことはそれ以前から叛意を持ってたってことだから原因なんかね?
747人間七七四年:2013/02/26(火) 17:28:36.19 ID:piLWkscz
【芸能】話題の“武田信玄の末裔”モデルは偽者!? 武田家末裔者の会が否定 「その様な方はいない」
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1361863497/
748人間七七四年:2013/02/26(火) 20:26:57.06 ID:2g+V1I9S
67 :名無しさん@恐縮です:2013/02/26(火) 16:39:52.73 ID:5pyO+SSG0
明治まで大名家として続いた家系はウソつきにくいけど、武田とか織田とか本流が
戦国時代に滅びた家系は言ったもん勝ちだな


まさにその通り
売名行為だったのか先祖が云った嘘がそのままつたわっちゃったのか知らんが
売名行為だったら成功か
749人間七七四年:2013/02/26(火) 21:06:51.34 ID:Bq7pCKRk
K-1の武蔵が新右衛門さんの子孫ってのはどこまで本当なんかな?
750人間七七四年:2013/02/26(火) 21:16:22.83 ID:7Oggaqv6
【芸能】話題の“武田信玄の末裔”モデルは偽者!? 武田家末裔者の会が否定 「その様な方はいない」★2
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1361878187/

伸びるね
751人間七七四年:2013/02/26(火) 21:16:47.95 ID:r5P643P5
頼むから他所でやれ
752人間七七四年:2013/02/26(火) 21:41:56.03 ID:tKdtSfyh
面白いからいいじゃん
753人間七七四年:2013/02/26(火) 21:48:58.74 ID:hTVtKC/m
>>745
結果的には滅んじゃったけどな
754人間七七四年:2013/02/26(火) 22:08:59.67 ID:c5vsZAoX
>>753
長宗我部に限った話じゃないけど、そうやって家を大きくしても
結局たったの十数年後に滅びましたというオチが付いちゃうと悲しいねい。
755人間七七四年:2013/02/26(火) 22:28:46.68 ID:Ad6RZUrn
俺も滅亡しようかな・・・
756人間七七四年:2013/02/26(火) 22:38:53.97 ID:2US/it7g
まだ興ってもないじゃないですか!
757人間七七四年:2013/02/26(火) 23:03:24.50 ID:k4fnI85x
昔は、地方の知行を測るのに、『百貫千貫』という単位を使っていた。現代でも仙台では、その単位を使っているところがあると聞く。
しかしこの単位は、西国においてはもはやはっきりと知る人はいない。

武家系図の、相模入道高時(北条高時)の項に領地28万7千貫とある地が、現在知行143万5千石であり、これから
おおよそ田5段を1貫としている計算となる。

またある人が、奥州の人に聞いたことだとして語ったことには、昔は永楽銭10文で、米4合8勺が販売されていたという。
故に100文は4升8合、1貫は4斗8升、100貫は48石に当たる。
ということは、知行100貫というものは、今の知行100石とほぼ同じになる。(おそらくは5公5民計算)
後世、家によっては知行を蔵米にして渡すが、4つ8分の免ならしとして、米48石と名付けて遣わすのは、この古法によるのだという。

しかし今考えてみると、この土佐はそのようではない。
私の友人が、古い證文などによってこれを研究したのだが、彼が言うには、土佐国幡多郡は、中村郷不破村の八幡宮の宝蔵に、
かつてこの地域を治めた一条家の古文書があって、それによると


     於本郷中村
    八幡江新御寄進田之事

                       有間之内
中ノ前田               光任小作
一所壹貫                彌五郎

ハシラ松               目黒之内
一所壹貫分               泉(欠損)

大ホトケ
一所七百五十分          蔵橋分

ミソノ下
一所貳百五十分          立石分

合参貫分宛
 永禄二年巳未3月吉日
                  康政(印)      』

この文書から、現在の八幡の地領の土地を比較して考察してみると、田1歩を1文として、100歩を100文、1000歩を1貫と
していることが解った。これは銭1000文を1貫とするのと同じである。とすれば、1貫は3段3畝10歩である。
100貫は10万歩、現在の計算では33町3段3畝10歩、知行333石3斗3升3合、とするべきであろう。(但し1反=1石とする)
おそらくは関東でも計算式もこのようなものであったのだろう。

かつて一条殿を、幡多郡1万6千貫の主と呼んでいたと伝わる。
これに、先の計算式を当てはめると、5万3千3百石あまり、となる。

現在の幡多郡の石高は、元親以後の(検地の)改出と、開発された新田等を加えて、7万石あまりである。
ということは、かつて幡多郡が1万6千貫であったというのは、この法則からいってほぼ相違無いと考えられる。
(土佐物語)

以上、土佐物語より、貫高と石高についての考察である。土佐物語が成立した頃は既に、貫高の事は全く解らなくなっていたのですね。
758人間七七四年:2013/02/26(火) 23:14:30.67 ID:x1emc8lH
読んでて混乱してきた
759人間七七四年:2013/02/27(水) 04:52:51.84 ID:mznTk9Ao
>>754
いまの日本企業の平均寿命が30年くらいだったか
760人間七七四年:2013/02/27(水) 05:03:00.63 ID:zOS/PnjH
街のラーメン屋の平均寿命も知りたい
761人間七七四年:2013/02/27(水) 05:52:59.08 ID:1zHo4Y8F
>>760
今の勤務地の近くにここ2年で4回テナント変わった建物があって内3回はラーメン屋だった

駅前で周りの店は昔からあるのにその建物だけ次々に変わる


スレチすまん
762人間七七四年:2013/02/27(水) 09:48:40.03 ID:vwFC7TfY
>>757
その頃には「石高」も意味不明になってるけどね。

生産高なのか物成なのかさえ分からなくなってて
現代も議論が分かれてるし。
763人間七七四年:2013/02/27(水) 21:30:16.16 ID:CCA7Q7+k
>>750
閉鎖早っ
764人間七七四年:2013/02/27(水) 22:06:18.25 ID:B1hB7/09
何気に近衛文麿をwikiったらその親族が
戦国を生き残った有名名門大名家ばかりな件
765人間七七四年:2013/02/27(水) 23:44:44.29 ID:7zJTOQv7
そら五摂家筆頭の当主だから大名家の方が家格下だしな
766人間七七四年:2013/02/27(水) 23:45:54.45 ID:zOS/PnjH
藤原家なんて天皇の寄生虫みたいで気持ち悪いだけだわ
767人間七七四年:2013/02/27(水) 23:49:53.22 ID:Vogd7rXa
>>766
そんなんお前の現代的感覚での感想にすぎんわ。
意味があったから続いていたんだよ。
768人間七七四年:2013/02/28(木) 01:18:20.00 ID:Cy3RPm5P
天皇という大樹に絡みつく藤蔓
という形容は聞いたことある
769人間七七四年:2013/02/28(木) 05:40:11.75 ID:9qkidDlc
むしろ藤原氏におんぶされてるのが皇室じゃね?
770人間七七四年:2013/02/28(木) 05:43:41.97 ID:MbUG01Jr
>>750
ホラを吹くこと風のごとく、通名すること林のごとし
炎上すること火のごとく、沈黙すること山のごとし
771人間七七四年:2013/02/28(木) 10:31:06.66 ID:5or2uBWL
>>155
亀でスマンがTOEICは990点満点なんだが…
772人間七七四年:2013/02/28(木) 10:36:23.06 ID:SoIyg7UM
>>156でもうつっこんでる
773人間七七四年:2013/02/28(木) 10:45:55.94 ID:EngjyjMs
変体仮名を勉強してこの辺り読めるようになると古文は楽しくなる
http://www10.plala.or.jp/koin/onnaimagawa2.gif

答え
ひとつ、だいじをもわきまへなく うちとけ、ひとにかたること
ひとつ、ひとのひをあげ、われに ちありとおもふこと
ひとつ、げにんのぜんあくをわき まへず、めしつかひやうただし からざること
ひとつ、みちをまもるひとをきらひ、 われにへつらふともをあいす ること
「女今川操鑑」
774人間七七四年:2013/02/28(木) 11:04:49.67 ID:GUH1MaMB
いろはにほへと〜を学んだ時点で風雅さを堪能できるような気もする
775人間七七四年:2013/02/28(木) 14:37:39.43 ID:2VrNl8Bp
きたない(褒め言葉だぞ)お屋形様の子孫ならことごとく絶えるということはないだろうな。
776人間七七四年:2013/02/28(木) 19:32:31.80 ID:lO79rbaV
まとめ管理人さんのツイートより

うへー、ドイツの参謀メッケルが、関ヶ原の布陣図を見て「西軍の勝ち」といった話って、
ほぼ司馬遼太郎の創作と判断していいのか!恐ろしいな司馬さんは(;´Д`)


えーっ!?
777人間七七四年:2013/02/28(木) 19:34:49.55 ID:C4m2i9m1
まじかよ…
司馬は昭和の害悪だな
778人間七七四年:2013/02/28(木) 19:36:54.78 ID:89Prow9T
>>776
あの話って他に出典を聞かないからなぁ
779人間七七四年:2013/02/28(木) 19:43:05.60 ID:TAS4E0Cu
わかい人はしらないけどさ司馬遼太郎のライバルは山田風太郎なんだよ
780人間七七四年:2013/02/28(木) 19:53:26.45 ID:89Prow9T
メッケルが滞在中に「関ヶ原の布陣図」なるものがキチンと
存在してたのかと言うのが一番のネックかな。

有名な「日本戦史 関原役」は明治26年刊行。
川上操六が日本戦史の編纂を始めたと言われるのは明治22年。

そしてメッケルは明治21年に帰国してるからなぁ。
781人間七七四年:2013/02/28(木) 21:15:29.68 ID:dh2WKYlt
古代の鎧は格別としても、例えば八幡太郎義家の鎧は、現在我々が知る当世具足とは
似ても似つかないものである。
右大将(源)頼朝公の時代は大袖の鎧である。
しかしそれ以降時代が下って、甲冑もそれに付属するものも、全て変わってしまった。

天正の頃から現在までは、甲冑の作りなどは変化していない。尤も天正の当時は、
甲冑を着る時は袖を付けず、飾るときには袖を付けたと言う。
実際の戦闘の時に袖を付けないというのは、武田家の侍大将、馬場信房の工夫であると伝わる。

おおよそ、甲冑の製造、またその他の武具の造り方は、武士が学ぶべき第一のことである。
それが今のように平和な世の中に安んじて、鎧の毛の引き方、弓矢の拵え、鑓刀の利害も知らないような
者がいる!こう言った者たちを武士と呼ぶべきだろうか!?

それに加えて、甲冑を着るにも習いというものがあり、普段から着慣れておかないと、甲冑を着たまま
遠くに行けば股を擦り行動が困難になる。
しかしこういう時は、草履の付け方を工夫することによってそういったことが起こらなくなる。

こういうことがあるから、故実というものは良く学んでおかないといけないのだ。
(慶元記)

甲冑の変化の説明から最近の若い者への不満の吐露に繋がってしまった、慶元記の既述であるw
782人間七七四年:2013/02/28(木) 21:20:45.35 ID:2nmQo1Uo
海音寺潮五郎「武将列伝 戦国終末篇」
石田三成では

関が原戦は負けるべくして負けた戦争だ。明治年代にドイツの有名な戦術家が
日本に来て、関が原に遊び、案内の日本陸軍の参謀から、両軍各隊の配置・兵数を聞いて、
「これでどうして西軍が敗けたのだろう。負けるはずはないのだが」
と不審がったところ、参謀が戦い半ばに小早川秀秋が裏切りしたことを告げると、
手を打って、「そうだろう、そうだろう」と言ったという話がある。

との記述がある。「武将列伝 江戸篇」のあとがきは
昭和41年8月4日は書かれているから、昭和43年に連載開始の「坂の上の雲」より前の文章
司馬遼太郎の「関ヶ原」は昭和39年から41年に連載されていたようだが
メッケルの記述があったかは覚えていない

もし海音寺潮五郎の話が最初なら布陣図は関係なくなる
(メッケルとは断定してないし)
あと、角川文庫「日本史探訪」12巻によれば司馬遼太郎はたしか明治18年だったと思いますが、
と言っているからそのころのメッケルの動静を見ればいいと思う
783人間七七四年:2013/03/01(金) 00:02:30.46 ID:5c9UZQ3g
大阪冬の陣が始まろうという時、大御所徳川家康は真田幸村が大阪に入城したことを知り、
その兄である伊豆守信之に、駿府での留守居を命じた。
この事を信之は大変不本意に思い、家康に対し様々なお断りを申し上げた。

この頃信之は書によって再三、幸村へ異見をなしていた。

『父祖のため家のため、である。
去る庚子の乱(関ヶ原)の時には、私の身の上に変えて其の方の命を助けたのだ。
今もしお前がその時の恩義を思うのなら、速やかに切腹をすべし。
お前の息子の大介のことは、私が責任をもって引き受ける。』

しかし、幸村からの返事はなかった。

その後に、幸村は信之の家臣である木村縫殿を密かに呼び、大阪城内の
一室において密会し、このように語った

「私がこの大阪城にあるのは、父上の遺言を守ったというだけではない。兄上への恩義も考えた
上なのである。

今回の合戦で、秀頼公がもし御運が開かれることになれば、私には一国を給うという御証文を
頂いている。私が仮に功を立てて一国を拝領したとしても、それを我が嫡子大介に与えようなどと
考えてはいない。兄上の子である河内(信吉)と内記(信政)の両人の内一人を我が養子とし、これに
一国を与えて先年、我が一命を助けていただいた厚恩を謝せんと思っているのだ。

であるからして、私がこの城に入った事は自分の栄達を思ってのことではない。
また家康公の方でも、私が敵対したからといって兄上の領地を削るということもないであろう。

こういうつもりで私は籠城に及んだのだ。お前は帰って、この旨を兄上に伝えてほしい。
しかし、重ねてここに来ることはならぬぞ!」

そう言って木村を返したそうである。
(慶元記)

真田信之・幸村兄弟の、噛み合わぬ意識をよく表わした逸話である。
784人間七七四年:2013/03/01(金) 00:52:53.10 ID:SGpO814R
>>781
三歳「故実に詳しいからって俺に甲冑作らせるな!」
785人間七七四年:2013/03/01(金) 01:01:10.33 ID:awcaMlqh
200年以上昔のいでたちで鉄砲の的になる為、
はるばる遠征するに井伊さん...(´;ω;`)
786人間七七四年:2013/03/01(金) 02:05:24.76 ID:AgSfvIFC
>>784
などと発言しているものの、まんざらでもない模様
787人間七七四年:2013/03/01(金) 05:39:42.69 ID:0SSTrw88
>>785
いいカモんされる訳ですね、わかります
788人間七七四年:2013/03/01(金) 09:22:57.77 ID:nQUW0JjW
勝頼「時代が俺に追いついた」
789人間七七四年:2013/03/01(金) 10:27:37.43 ID:G7Gh5bir
>>782
メッケルの来日が明治18年だな。何月かは知らん
790人間七七四年:2013/03/01(金) 10:33:35.10 ID:SKX271fp
>783
東のお兄ちゃんの胃がキリキリと。w
791人間七七四年:2013/03/01(金) 11:39:38.18 ID:YUFHjDzn
複数の人がかいていて昭和三十年四十年ころに誰も異論を挟まなかったということはその頃の周知のことだったのかな
792人間七七四年:2013/03/01(金) 13:50:05.90 ID:gOOxG2rY
>>783
KYな弟が言う事を聞いてもその嫡男を抱えて胃痛が進行してたんだなw
793人間七七四年:2013/03/01(金) 20:07:35.21 ID:A+eQvhek
ついでにまとめ管理人さんのツイートにあった歴史群像の関ヶ原特集のやつ借りてきたところ(2011年2月号No. 105)

作戦研究「関ケ原合戦」
メッケル判定の誤謬−関ヶ原布陣図の盲点−
という一節が設けられていて、
実のところ、この総和は事実として確認されていない(瀬戸利春「クレメンス・メッケル」本誌78号)。
いわば軍事史上の都市伝説である。

と書かれているのは事実だが、
「関ヶ原一帯の地形には布陣図からは読み取れない情報がいくつもあり、
仮に裏切りがなくとも西軍が修理することはまずなかったと考えられるからである。」
とその「メッケル判定」を否定した上で、

「参謀旅行による地形判断を日本に導入した張本人であるメッケルが、近世の戦いであることを踏まえず、
地形を無視して包囲成立を判定することはありえない。
そうした論理的思考とは異質の『メッケル判定』は、徳川家康とメッケルの双方を同時に
矮小化するために、何者かがメッケルに仮託した創作、と考えるしかないのである。」

と、海音寺、司馬どちらも名前は出していないし、両者の作品における
「メッケルが実際に関ヶ原に来て」という記述を踏まえずに、単に布陣図を見て、としている。
これらを考慮すると、歴史群像は別に司馬遼太郎がこの説を唱えた、としたわけではなさそうだが
管理人さんのツイートはなにによるものなんだろう
794人間七七四年:2013/03/01(金) 20:08:23.91 ID:A+eQvhek
訂正

?西軍が修理
○西軍が勝利
795人間七七四年:2013/03/01(金) 20:22:24.65 ID:VDtVKRIK
布陣図すらないのに現地に行ってわかる訳ないじゃん
796人間七七四年:2013/03/01(金) 20:24:02.98 ID:mYOKNMpJ
だから海音寺も司馬も、実際の地形と布陣図(武将の配置)の情報を元に
って書いているんだが
797人間七七四年:2013/03/01(金) 20:26:00.85 ID:5c9UZQ3g
まだ続くようならこっちでやりなさい

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
798人間七七四年:2013/03/01(金) 22:21:26.33 ID:JdbHj4Ui
>>768
摂関政治のときからそんなこと言われてたような
他の公家の僻みやっかみだった気が
799人間七七四年:2013/03/03(日) 16:30:09.41 ID:fRz+AZVj
播磨の歴史・地理に関する書物を集成した「播陽万宝知恵袋」(宝暦10年)に、「赤松則房雑談聞書」というものが収録されている。
これは、赤松則房が、「日頃聞き及んでいる俚諺や、土俗の話を思い出し、土地の話・都の話・田舎の話・戦の話などを色々と取り交えて、
雨の暇にまかせて書き連ねた」ものを、家臣・堀五郎左衛門に清書させたものである。

その内容は、則房の言葉通り多岐にわたり、

「志水氏、将軍家、渇水(の)時、水を奉し功とて、清水を改(め)下さる」
「赤松は伊豆にはりまをとられじと あしき新二郎嘉吉年中」(一般的に流布しているのは、公方の首を嘉吉元年)
「多淫の女は三十歳余。藤井の小松 高尾身なし つねや(恒屋)家執 松原(の)女「その女」」
「高尾の野沢ハほうしころし(法師殺し)」
「三宅の小藤は見越女(大女?)と云。」など、赤松家の身内ネタから、

「風呂へ入は、左の足より入る也。」
「輿へめ(召)す女臈ハ、右の足より入る。」
「主人にハ、笠をさすは右の方。」
「馬上へかさをさすハ、左の方より。」
「手をつくハ、入と形せよ。」
「渡り橋(箸)、塩の十でん、つまみくらひ、端にぎり、かきこミ箸ゆるすまじ。」
「酒をしいるに、中扱(なかくみ)に三盃のますもの。」
「かまいなきハ何の助。充、大夫、介、進、私ならず。はゞかるべし。」
といった、作法や有職故実に関するもの、
800人間七七四年:2013/03/03(日) 16:31:18.41 ID:fRz+AZVj
「都鳥、業平をいふか。」
「百千鳥ハ百官百敷の座。」などの和歌・文学に関するもの、

「大明神 おゝあきつかミとよむ。」
「腰おりかゞむ、おがむとか。」
「今の鳥居といふハ天の字を形る。」
「和銅銭は日本製。」
「ひより(日和)をば天気晴れたると云。もとハ、よき、あしきと付ねばならず。」といった、豆知識的なものや、

「爪につめなく、ふり(瓜)につめあり。」
「石山寺ハ景石多し。」
「峯相記(中世播磨の地誌)七巻、見るべし。多具山(沢山)になし。」
「よしあし 二物 一物か。」
といった「つぶやき」までもが、短文の箇条書きで、合計186条も書き連ねられている。
まるで、戦国時代の殿様のツイッターである。

中には、こんな一文も・・・。
「四天王とておこがましき者あり。頼光朝臣の。木曽氏(義仲)の。当家。」

・・・則房さん、自虐的過ぎないかい?
ってことで、こっちに投下。
801人間七七四年:2013/03/03(日) 16:37:39.20 ID:ery+cQl2
ちょっとしたメモは楽しいな、赤松則房のファンになりそうだ
802人間七七四年:2013/03/03(日) 16:42:17.89 ID:MCHlR11e
忠利くんへ、この前コイツ狐でも憑いてるんじゃないかって奴が…#まさむね
803人間七七四年:2013/03/03(日) 18:26:15.96 ID:8Dup4I0A
このころには和同開珎が日本の銭なのか大陸の銭なのかも不分明になってたんだなあ
804人間七七四年:2013/03/03(日) 20:08:07.61 ID:k2ycYb5M
江里口「四天王と聞いて」
805人間七七四年:2013/03/03(日) 20:42:47.15 ID:M6d0l7GH
本能寺跡地に新施設「信長茶寮」 命日の6月2日にオープン…(´д`‖)
806人間七七四年:2013/03/03(日) 21:02:31.46 ID:+JSIyBKe
>>799
「手をつくハ、入と形せよ。」
実践しよう
807人間七七四年:2013/03/03(日) 21:05:29.51 ID:SOYj+wSV
方広寺鐘銘事件が紛糾し、弁明のため片桐且元が駿府に赴いたが、
この時片桐且元は本多上野介(正純)、成瀬隼人正(正成)、安藤帯刀(直次)、伝長老(金地院崇伝)を
前に、このような提案をした

「今回の鐘銘のことは、秀頼公並びに母公(淀殿)が全く存ぜぬことです。
とにかく、大阪の地が日本第一の名地であり、そこに秀頼公が居住されているため、
世上に様々な風説が起き、それが大御所様(家康)のお耳に入るのでしょう。

であれば、秀頼公が大阪を明け出て、何方へも代わりの領地を遣わされ、その上江戸に屋敷を拝領し、
そこに秀頼公と母公が交代に参勤される。この考えをいかが思われますか?」

これに対して先の面々は相談したが、

「それを我々から促しても、秀頼公がお聞き入れになるのは大変難しいだろう。
秀頼公ご自身がそのように望まれるのであれば、その時は公のお心次第に我々も対応する。」

と返答し、結果的にこの提案での事態の落着には至らなかった。

所でこの、片桐且元が申し出た提案は且元自身が考えたことではない。
実は亡くなった加藤主計頭清正がかねてからこの考えを語っていて、それを聞かされていた且元が
この度申し出たというのである。
(村越道伴物語留書)

鐘銘事件の際の、大阪城明け渡しの提案についての記録である
808人間七七四年:2013/03/04(月) 01:25:51.63 ID:g2x+9n2c
>>805
昔の本能寺跡って小学校だったよーな覚えが・・・
統合か何かで移転したの?
809人間七七四年:2013/03/04(月) 01:39:21.39 ID:5EmUR2d4
>>808
本能小学校は統廃合されて今は堀川高校と老人福祉施設だかになってたはず
810人間七七四年:2013/03/04(月) 02:58:03.97 ID:XnXjWdMR
信長「アーチーチーwwアーチーww燃えてるんだwww廊下ww」
811人間七七四年:2013/03/04(月) 04:55:32.96 ID:Iz/osWK2
地図で見たが……いわゆる本能小学校跡地の北か
おそらくそのあたりにメインの建物があったんじゃないかと目されてる地域のようで
812人間七七四年:2013/03/04(月) 16:01:03.91 ID:U8qpeY/a
戦国時代の武将達が現代に生まれ変わったらヤクザになって全国制覇するよな
813人間七七四年:2013/03/04(月) 16:03:26.01 ID:YqyWQql3
普通に逮捕されたりしてw
814人間七七四年:2013/03/04(月) 16:07:32.71 ID:8iXOkB8b
>>793
まとめ管理人がクズすぎて吹いたわ
815人間七七四年:2013/03/04(月) 17:41:15.00 ID:KWkIqVzj
816人間七七四年:2013/03/04(月) 20:04:56.17 ID:JtyqrRGR
大阪冬の陣が始まろうとする時、徳川家康より、黒田右衛門佐(忠之)には島津押さえのため
在国をし、この他筑後柳川城主。田中筑後守(吉政)、豊前小倉城主・細川三斎、加藤肥後守忠広の
計4人は九州に残り、大阪で戦闘が始まれば、各々が島津を誘い、田中と黒田が先に出発し、
中に島津を行かせ、後ろから長岡内記(細川忠利)、加藤が後払いをして上洛するように、との
命が下った。

ところがその所に、細川越中守三斎から、押して大阪に着陣したいとの要望が提出された。
その内容には

『私は秀頼に対して、3度まで遺恨を持っているのです!
そのため前々から、今のような事態が起これば将軍家のお供をつかまつり
ご奉公申し上げたいと思っていた所、このような好機が訪れました。
ここは押して、罷り上がりたいと思います!
そのため、軍勢は国元に残し、私はただ7騎だけを召し連れます。』

これを見た家康は尤もな事だと思い、「将軍の秀忠はまだ若輩であり、本多佐渡守(正信)の
組に入り、旗本にあって補佐してほしい」と仰せ出なされたとのことである。
(村越道伴物語留書)

これによると三斎様にはよりによって豊臣秀頼に遺恨が、しかも3つもあったとのこと。
一体どんな遺恨なのか、秀頼は何をして三斎様を怒らせたのか、内容が非常に気になる、そんな逸話である。
817人間七七四年:2013/03/04(月) 20:31:30.33 ID:KWkIqVzj
遺恨は建前で戦いに飢えてただけかも
818人間七七四年:2013/03/04(月) 20:38:03.16 ID:xal1JMkw
@秀頼の父親のラスボスが利休を切腹させた事

A秀頼の父親のラスボスの家来の三成がお玉を自害させた事

B秀頼の父親のラスボスの軍師の息子がムカツク
819人間七七四年:2013/03/04(月) 20:47:44.42 ID:tllSGyrA
秀次のことも絡んでそうだな
820人間七七四年:2013/03/04(月) 22:34:21.55 ID:GTMLJwHY
秀頼「全部しらんがな」
821人間七七四年:2013/03/05(火) 07:29:57.24 ID:D5EsEx4u
親の因果が子に行く悪い話だな。
豊臣といい武田といい子供もあほじゃないだけに気の毒
822人間七七四年:2013/03/05(火) 10:36:18.98 ID:4WdYuiZL
>818
もっと具体的に挙げてったら某19ヶ条の折檻状みたいになりそうだな。w
823人間七七四年:2013/03/05(火) 11:03:44.77 ID:I7biCgT7
>>818
どう考えてもAが全てで3つの遺恨なんて取って付けたような気がする。
824人間七七四年:2013/03/05(火) 11:08:15.22 ID:FlIt+4OE
長男忠隆廃嫡の経緯とかから察するに、どうせ難癖なんだろうと思う
825人間七七四年:2013/03/05(火) 11:28:00.51 ID:o+bA4p+T
遺恨のうち秀頼の名前を使ったものだと・・・
・ガラシャを自害に追い込んだ
・丹後に兵を差し向けた
・大友吉統に杵築城を渡す朱印状を出した

それ以降は無いよね? 多分。
826人間七七四年:2013/03/05(火) 13:01:46.98 ID:FUC88L43
>>823
>>825
その辺は関ヶ原で晴らしたでしょうに
827人間七七四年:2013/03/05(火) 13:12:15.12 ID:o+bA4p+T
関ヶ原当時に数えで八つの子供だし、あの時点で遺恨があるとは思えんけど
その後は接点がほとんど無いからなぁ。
828人間七七四年:2013/03/05(火) 13:15:02.56 ID:tssyF7h7
実は特に遺恨は無くて
単にヒャッハーしたかっただけじゃね?
この人武闘派だし
829人間七七四年:2013/03/05(火) 13:20:34.70 ID:DxhmMoME
まぁ、アレだ「この間の遺恨、覚えたるか」的な何かで
830人間七七四年:2013/03/05(火) 15:47:02.76 ID:g8S3FBo3
もし稲富祐直を捕まえたらどういう方法で殺すのか
気になる
831人間七七四年:2013/03/05(火) 17:58:17.69 ID:vkryKHfZ
>>830
あのホラーな蝋燭の逸話の発展系かも知れん。
垂らす、燃やすetc.
832人間七七四年:2013/03/05(火) 18:02:31.85 ID:rYcjJfQJ
稲富自身が調合した花火の火薬とともに「たまやー」
いわゆるパノラマ島
833人間七七四年:2013/03/05(火) 19:22:35.98 ID:mLcDgo1B
やる夫によると
井伊直政の仲介により役目失敗の罪を問われることなく細川家へ帰参がかなうことになった
とあるから祐直に万が一のことがあったら直政が黙ってないんじゃないか
それこそこの逸話もあるしな・・・
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3993.html
834人間七七四年:2013/03/05(火) 20:09:53.16 ID:R912+cQE
>>832
たまさんが亡くなってるだけに、その掛け声は死亡フラグだ。
835人間七七四年:2013/03/05(火) 22:11:46.83 ID:Y1RKo5Mw
たまや、とは、たまの御霊屋のことだったのだ
836人間七七四年:2013/03/05(火) 23:02:59.95 ID:lp6Siulz
北畠顕忠は浪岡城主北畠顕村の従兄弟であった。
浪岡城が落城した際は油川城におり、落城の報を聞き涙を流して悔しがったという。
その後、土民に変装して行方不明の妻子を探して見つけ出し、顕忠は顕村の一人娘と自分の子顕佐を老臣沼山勘解由に預けた。
成長した時には二人を結婚させ、北畠氏唯一の正統な血統とし、先祖を祀らせることを頼み、顕忠は秋田に落ちていった。

やがて沼山勘解由は大浦為信の軍門に降り、大浦城に仕官するようになったので秋田にいる顕忠にも、
降参して一族で同じところに住むことを奨めた。
しかし、顕忠にはどうにもならないことで、その返書に金五十両を添え、重ねて一族の養育を頼んだ。
その返書の内容である。

--------------
去月二十八日の来状、いま拝見候。いよいよ御無異の条、満足致し候。
しかれば、このたびの貴様御官僚(仕官)に有りつきなされ、ごもっともに存じ候。
ついては、拙者も降参いたすまじきやのむね、御親族のよしみと御厚情浅からず、かたじけなく存じ候。
譜代の長者(家臣)、もろもろ歴々の大方、降参のうえは、拙者若輩の身、
さっそく貴様の御深情にしたがい申すべく候えども、亡君の契り、忘れがたく存じ候。
ことに近ごろ、多病に相なり候間、いまさら降参の望み、
これなく、このうえとて四海いまだ定まらず、ただ風波と漂着仕るべき存念に候。
しかれば、御地にて唯御先祖祭りごとも分にいり、御成長の後は、先祖祀らせくだされたく候。
北畠中納言(顕家)の正統末葉とも、ほかにこれなく候間、拙者の心底を御察し、何分頼み入り候。
妹に別紙進ぜず候、よろしく頼み入り候。
一.金五十両、軽少の御座候えども、これを進呈仕り候。
一.おたがい御存じ、もちろんの儀に候えども、御当家の先祖由緒、大方書き記して進じ候。
こども成長ののち、先祖を祀らせ仕り、別家のためにもつかまつり候節、
この遺物相添え、こどもへ御渡しくだされたく、委細の記録は、先だって兵乱の折り、散乱致し候。
この度も急使、ことに粉乱のなか、委細記しかね候。
ただ胸中に覚え候趣きばかり、書き記し候のみ。

八月十六日     北畠左近顕忠

沼山勘解由殿

---------------

名家が滅びゆく様をありありと伝えている書状でした。
837人間七七四年:2013/03/06(水) 00:41:51.33 ID:lUiVf2eH
ところで丹後の細川家が何で杵築なんて飛び地領有してたの?
大友家改易のどさくさ紛れじゃ無いみたいだし
細川だけ加増される程の功績あったっけ?
838人間七七四年:2013/03/06(水) 00:58:17.30 ID:Lb+2/C9f
大友改易の後に細川忠興が入るまで二回か三回領主が変わってるよね、あそこ
wikiには三成襲撃事件のどさくさで家康がねじ込んだように書いてあるが
839人間七七四年:2013/03/06(水) 00:58:24.71 ID:Vj3HGFvx
>>837
三成襲撃後に家康の推挙で加増
840人間七七四年:2013/03/06(水) 01:15:50.89 ID:lUiVf2eH
何だあ、家康の派閥工作かあ
841人間七七四年:2013/03/06(水) 11:01:18.00 ID:76K/+dF+
忠興の加増は、三成襲撃より家康に人質(忠利)を送った代償に見える。

三成はこの件で相当アタマに来てたようで、輝元を抱き込んだ直後から
田辺、杵築に改易を申し渡して、城を受け取るように手配してたな。

まあ両城とも開城を断られたうえに、ガッツリ籠城されちゃったけど。
842人間七七四年:2013/03/06(水) 18:26:53.65 ID:OabeYdxl
日本人なら100代遡れば一人は必ず皇族がいるんだからそっち名乗ればいいのに
特別感無いから駄目なのか?
843人間七七四年:2013/03/06(水) 18:28:05.92 ID:OabeYdxl
うわぁぁっ、ごめん!
リロードしてなかった…
844人間七七四年:2013/03/06(水) 20:42:42.96 ID:AILjEv2P
>>836
悪い話ではないんじゃないか?
845人間七七四年:2013/03/06(水) 22:05:15.79 ID:cEcaCZCt
さて大阪冬の陣
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/641
↑の話で、これは自分が直接見ないといかんと思ったか、徳川家康は諸大名の仕寄の
巡見をすることとした。
当日、その道筋には諸将がまかり出てお目見えを望み、家康は乗り物から「何れも骨折りである」
と声をかけた。

そして家康は備前島の、片桐且元の陣屋に入った。
この仕寄場は大阪城に殊の外近く、矢狭間からは城中の男女の衣服まで、鮮やかに見て取ることが
出来た。

家康は乗り物から降りると、杖をついてそのまま竹束の外に出ようとした。
これこそ家康の近習たちが最も恐れたことである。城から近いということは、敵からの銃弾も
ここには降り注いでいるのだ。お供の者達は慌てて「どうか竹束の陰に入ってください!」と
申し上げ、どうにか留めようとした。
そして本多上野介(正純)が御側に行き

「大御所様ご自身で外に出るなど勿体無いことでございます!どうかこちらにお入りください!」

と説得した。と、これに家康、激怒

「黙れ黙れ!」

家康は怒鳴り彼らを下がらせる。それでも正純と永井右近太夫(直勝)の両人が矢面に立ちふさがり家康を
行かせまいとしたが、家康は強引に脇に寄らせ、そのまま外に出て、大阪城からの銃弾が飛んでくる中、
悠々とその城内を視察した。

そして上野介(正純)、使番の小栗又市、初鹿野伝右衛門、横田甚右衛門、真田隠岐守(信尹)、
島弥右衛門、朱倉六郎右衛門を呼び、彼らをその場の矢面に立たせた。

そこで島弥右衛門の草摺に三匁五分ほどの鉄砲の弾が当たった!
が、それは当たると平たくなって落ち、体まで届くようなことはなかった。

家康は距離などを見立て鉄砲があたっても大したことがないことを計算した上で視察し、
近習たちにもそれを体験させたのである。

所で家康が巡見を始めた頃には大阪城の四方から甚だしく鉄砲が撃たれていたのだが、
やがてそれは止まった。それは後藤又兵衛基次が射撃を静止させたためである。

後藤は竹束の外に出てきたのが家康と気づき、嬉しげに

「皆銃弾を恐ろしがって中々出てこない所に、このように出てこられるとは、さすが家康公である!」

と、大いに褒め、足軽たちに
「あそこに出てこられたのは家康公である!大将などは弓鉄砲で討つものではないぞ!」と、
命令の変更を下知したのだ。

だが、これにより大阪城内では『後藤は家康と一味している』との風聞が流れ、また家康がかねてから
「後藤又兵衛や御宿越前(政友)などはわしに対して遺恨はないはずなのに、どうして籠城したのか?」
と言っていることが城中に知られ、更に妬みを買い、城内で孤立していくことになったという。
(村越道伴物語留書)
846人間七七四年:2013/03/07(木) 02:09:21.52 ID:+ZxFXNdZ
もしもK.Nさんが見にきていたとするとどうなっていたのか…
847人間七七四年:2013/03/07(木) 10:02:47.94 ID:ZAxsvGvM
イニシャルが違うがな
848人間七七四年:2013/03/07(木) 16:20:19.51 ID:d/MQd/n/
N.G.M.S!
N.G.M.S!
849人間七七四年:2013/03/07(木) 19:43:49.11 ID:8BqcARGe
>家康は距離などを見立て鉄砲があたっても大したことがないことを計算した上で視察し、
>近習たちにもそれを体験させたのである。

標準的な6匁玉の射程なら分かるかもしれんが
オーダーメイドの火縄銃の射程なんて分かるわけないだろ
確実に作り話
850人間七七四年:2013/03/07(木) 23:41:19.46 ID:eaUdJoLU
  
  
851人間七七四年:2013/03/08(金) 00:59:49.12 ID:uUdFZGBb
大阪冬の陣の講和もつかの間、慶長20年(1615)4月26日、幕府と豊臣家は再び手切れと成った。
27日、伏見城の将軍・徳川秀忠は二条城に有った家康と会談し、大阪攻めのため秀忠は
翌4月28日に出陣、家康は5月1日に出陣することと決め、秀忠はその準備のため伏見へと帰った。

が、その夜、秀忠は翌日の出陣のため早くに寝所に入っていたが、亥の刻(午後11時頃)家康より
秋元但馬守が使者として訪れ、

『明朝の出陣は中止するように』

との命を伝えた。

秀忠はこれに大いに驚いた
「大御所様は一体どういうおつもりなのか!?既に出陣が決定しているのに、俄に繰延するとは
その御心計りがたい!
既に先手として、井伊掃部頭、藤堂和泉守、榊原遠江守、本多美濃守、松平下総守が、
平潟橋本まで進出しているのだ!まったく心得難い!」

そうりた本多佐渡守(正信)を呼び出して相談したが、正信からは「ともかく家康公にお任せになるべきです」
と言われ、そのため家康の命を了承した旨を伝え、秋元を返した。

しかしそれでも秀忠は、この命令変更の理由を知りたいと思い、安藤対馬守を二条城に派遣した。
このようであったが、出陣の延期は変わること無く、秀忠は5月1日出陣、家康は同3日に出陣と決まる。
が、これもまた延期され、最終的に秀忠は5月3日に、家康は同5日に出陣となった。

この時家康は大阪路を取って大阪城へ向かう事とし、諸軍勢に対し3日分の腰兵糧を持っていくよう
触れをだした。荷駄馬を使うのも無益とし、家康自身、糧米5升、味噌2升、塩3升、塩鯛2枚、
鰹節10、というごく軽い支度であり

「今度の合戦、勝ったとしても負けたとしても、3日目には京に帰る」

と言っていたという。

ところで家康が出陣を延期したのは、このような理由があった。
古田織部少の家来に木村宗喜という茶坊主が有ったが、これが大阪城からの謀略に従い、
家康秀忠が大阪に向かって出陣した後、京伏見を焼き払う計画があったのである。

この計画は、大阪城内のものが幕府方に返り忠をして知らせたため発覚した。
知らせたのが何者なのかははっきりしていないが、人々は大隅与左衛門であると
言っている。

然して5月3日の晩、木村宗喜は捕縛され翌日斬首と成り、また古田織部少も
板倉伊賀守に身柄を拘束された。

こういった事態のため、家康は出陣を引き延ばしていたのである。
(村越道伴物語留書)
852人間七七四年:2013/03/09(土) 09:26:28.19 ID:8+NklLJ6
>>851
家康の支度が激しく謎だな。

三日分で糧米5升、塩鯛2枚は納得するけど
味噌2升、塩3升、鰹節10は一年分かよって量だ。
853人間七七四年:2013/03/09(土) 11:07:05.05 ID:5GTWu+47
合戦で汗かくと塩分消耗激しいからかな?
味噌と塩は携帯できる調味料の主だろうし
鰹節も持ち運びやすい保存食
854人間七七四年:2013/03/09(土) 11:23:00.76 ID:bLD2QM57
本能寺と言えば、信長を暗殺したのは穴山梅雪の部下で、光秀は信長に馬揃えするから来いって呼び出されただけで嵌められたんだってテレビでやってたけど、どれ位信憑性がある話なんだろうか。
855人間七七四年:2013/03/09(土) 11:36:22.10 ID:2n7YpawG
>>854
信憑性で言うなら皆無
856人間七七四年:2013/03/09(土) 11:40:16.27 ID:DQl4b6nV
>>854
魏略の劉禅トンデモ冒険譚クラス
857人間七七四年:2013/03/09(土) 11:56:10.65 ID:n7oovZqc
テレビは『面白さ』を特に重視してるから真面目に観るのは時間の無駄すぎる
ネタとして観る分には楽しい珍説も多いからアリ
858人間七七四年:2013/03/09(土) 12:34:04.09 ID:aukjIRIn
>>854
織田信奈の野望レベル
859人間七七四年:2013/03/09(土) 12:59:04.26 ID:clGK8/6t
あれって織田信雄が黒幕なんだぜ
小牧長久手はいわば天下分目の大戦だったんだ
860人間七七四年:2013/03/09(土) 13:26:12.59 ID:Hyp80/nA
>>854
義経がチンギスハーンになったくらい
861人間七七四年:2013/03/09(土) 13:35:17.49 ID:8+NklLJ6
>>853
いやいや一日「一升」の塩を採るのは不可能だろ。
一日の摂取量はせいぜい「勺」単位だと思う。
862人間七七四年:2013/03/09(土) 14:35:15.63 ID:slsb1I88
松野亀右衛門は細川家の侍大将にて、鉄砲の名手であった。
かつて熊本の自宅において、一匁筒を磨いていた時、庭の南天の実をヒヨドリが啄みに来た。
亀右衛門は鉄砲に弾薬をつめ、標的を見ずに火箸で火を着火させたが、事もなく撃ちぬいたという。

さて、島原の乱の前のことである。
細川家の家臣に南條大膳という者があったが、恨むことがあって細川家を傾けんと策謀し、
幕府に対し、細川家中に切支丹があると訴えでた。

幕府はこの南條を江戸に召喚することを命ずる。これに細川家は驚きどう対処すればよいか
途方に暮れたが、ここで松野が「私にお任せください」と、これを引き受けた。

さて、南條を江戸に船で護送するのであるが、松野は南條が囚人の扱いであるので、船内に
厚い板で詰め牢を作り、医師一人にだけ密謀を言い含め熊本より出立したが、天気を待つといって
所々で船を止め、日を経るうちに、健康のためと言って人参を入れた薬を南條をに与えた。
さらに朝夕の食事も、人参湯で飲食をさせた。

南條は長期間牢に閉じ込められ気が鬱していた上に、人参数百斤を飲まされたため、終に心狂乱した。

松野は江戸に至ると彼を召しつれ幕府に対し、「南條は数年来狂気の者である」と説明した。
切支丹の訴えの件を問われても、「ただの狂言に過ぎません」と答えた・
何より訴えた本人が狂乱の体であるので幕府も致し方なく、「では熊本に帰せ」と、南條の身柄も
松野に返した。

この謀を知っていたのは、人参を調薬した医師一人のみであったと言う。
(軍人頓智叢談)
863人間七七四年:2013/03/09(土) 14:46:53.06 ID:19OH1Eir
人参こええええ
864人間七七四年:2013/03/09(土) 15:13:25.68 ID:qwxpDY3F
人参責めとか
865人間七七四年:2013/03/09(土) 15:17:16.77 ID:67BDpLzD
人参いらないよと言い出すな・・・しかし37人目にならなかったのか
866人間七七四年:2013/03/09(土) 15:31:23.02 ID:KZx70caN
>865
医者
867人間七七四年:2013/03/09(土) 18:18:34.74 ID:67BDpLzD
数百斤の人参か・・・いくらすんだろうなw
868人間七七四年:2013/03/09(土) 18:56:29.02 ID:3e+1wSdj
最上義光に悪いことしたよね・・といわれてしまう伊達成実だが


成実といえば毛虫の前立て兜。
決して後退しないことを表したものとして有名だが、毛虫だったり百足といわれていたりする。

実は、成実の名跡を継いだ亘理伊達家の伝承では、毛虫であって百足ではない。

そもそも伊達政宗自体がNHK「独眼竜政宗」で全国的な知名度を得たわけだが・・・
この作品での甲冑のモデルは、宮城県亘理町の甲冑をまとった成実木像。
たしかにあの前立てを見ると百足っぽい。棒状の胴体の左右に細い毛が無数に生えていて、
ぱっと見は百足に見える。
だが、よく見るとわかるのだが、胴体の腹側と背中側にも同じように毛が生えていて、胴体を
真上から見ると十字状に毛が生えていることがわかる。
つまり全身に毛を生やした毛虫なんですね。

現在北海道伊達市にある甲冑も、宮城県の木像も、どちらも毛虫。


一応NHKの名誉のためにいっておくと、作中では毛虫とは言っているが百足とは一言も無い(はず)。
どうもテレビでのイメージが膨らんで後からそういうことになってしまったらしい。
まあ宮城県民でも百足説の方をを信じてる人が多いしw


アニメ化された4コマ漫画とかアニメ化されたラノベとかじゃ百足なんだよなあ
869人間七七四年:2013/03/09(土) 19:09:06.61 ID:SACV+UOR
其れがし、具足を誂える際は「ニャッキ」の前立にしとう御座る
870人間七七四年:2013/03/09(土) 20:21:47.16 ID:OSCC/mep
かなりの遅レスですまんけど

>>625
稲葉山城って初期に織田家が落とせずに苦労しただけで
半兵衛さんが落として以降は一度も守りきったこと無いんじゃないかな

半兵衛さん乗っ取り→信長により落城→本能事後のごたごたで城代独立すぐ織田に出戻り
→信孝、秀吉に降伏→信孝、信雄に降伏→信秀、東軍に降伏→廃城

攻められると毎回落ちる必敗の城という気がしてきた
871人間七七四年:2013/03/09(土) 20:43:31.03 ID:clGK8/6t
ありゃふぐりだろ
872人間七七四年:2013/03/09(土) 23:33:36.78 ID:cvjvjifR
>>870
なんでそんな欠陥城を本拠なんかに・・・>信さんと道さんよっちゃん?
873人間七七四年:2013/03/09(土) 23:41:07.93 ID:Qe53tkiv
人は城、人は石垣、人は濠

合戦とは常に他国に攻め込むものなので本拠は館で十分
874人間七七四年:2013/03/09(土) 23:45:58.29 ID:slsb1I88
あと信長の居城というのは縄張りがかなり甘い。安土城も防御的には全くダメ。
かといって居住性とか拡張性とかをあまり考えたふうでもないのが信長の不思議なところだけどw
875人間七七四年:2013/03/09(土) 23:49:08.29 ID:hw9Y0aM3
安土周辺は今と地形全然違ったんだろ?確か
876人間七七四年:2013/03/10(日) 00:00:51.73 ID:42nW6Tk0
安土城は琵琶湖に浮かぶ水城
光秀の坂本城も
877人間七七四年:2013/03/10(日) 00:03:19.05 ID:Q9ndjW6e
書いておいて何だが稲葉山城が防御的にダメというわけじゃなくて
そこまで踏み込まれたらアウトって状況が続いてしまったからとは思う

そうは言っても天庵様の小田城だって落ちた経験も豊富な代わりに守りきった経験も豊富だしな、と思うと名誉ある戦歴ではないよなと。
878人間七七四年:2013/03/10(日) 00:22:39.76 ID:zdESkUC4
守城はハードウエアよりユーザーがどうするかの方が大事だべ
879人間七七四年:2013/03/10(日) 00:48:54.55 ID:Bk9V3IU7
加当段蔵(飛び加藤)と云ふものあり、忍術を能くす。
謙信、これを試みて厚く賞賜す。

其の夜、謙信、鬼小島弥太郎を招きて曰く

「段蔵狐面にして狼眼なり。その術、奇といへども用ふべからず。他国に逸せすめずして
これを斬れ」と。

弥太郎直ちに馳せて段蔵の旅宿に至る。段蔵、謙信の意を察して逃る。
然れども心ひそかに謙信を怨み、密かに入りてこれを刺さんとす。

事ならず、走りて甲斐に至り、仕を信玄に求む。

信玄、乃ち段蔵を召見す。段蔵、自ら其の術の妙を陳ず。
信玄莞爾として、近臣・土屋平八郎を視る。

平八郎、起って段蔵を斬る。
(軍人頓智叢談)
880人間七七四年:2013/03/10(日) 00:52:30.14 ID:aI7FMnLI
段蔵かわいそうだろw
881人間七七四年:2013/03/10(日) 00:58:00.03 ID:RhZ4Px+5
跳躍して空中で方向転換したとの噂の持ち主だっけ
882人間七七四年:2013/03/10(日) 00:58:08.86 ID:gnU1VWjb
信玄は謙信より上手であったと
武田ファンに良い話だね
883人間七七四年:2013/03/10(日) 01:04:08.49 ID:gnU1VWjb
まあ、仕官断って追っ手を差し向けたくらいで当主本人に直接反撃する危険な奴は
逃さずその場で確実に抹殺が安全策で後腐れない
884人間七七四年:2013/03/10(日) 01:07:05.98 ID:T/3iRVbA
よってたかって、段蔵が何したってんだwww
885人間七七四年:2013/03/10(日) 01:09:06.61 ID:Q9ndjW6e
土屋平八郎って土屋昌続か
弟は片手千人斬りだし凄まじい兄弟だよな
886人間七七四年:2013/03/10(日) 01:17:25.38 ID:gnU1VWjb
恨んで謙信を殺害しようとした事実を、事もあろうに信玄の前で自慢気にバラしちゃいかんよ
明日は我が身と思うだろ普通は
887人間七七四年:2013/03/10(日) 07:27:03.64 ID:OQpQMMtl
笑顔で斬らせんなよ
888人間七七四年:2013/03/10(日) 09:46:21.63 ID:1vD1W6ZD
段蔵も、もう少し安全そうな所に仕官しに行けばよかったのに・・・
天庵様なんて大喜びで雇ってくれると思うぞ。
889人間七七四年:2013/03/10(日) 09:48:30.90 ID:IYAcCoz4
戦国武将は顔つきが気に入らないだけでブチ殺すから困る(´・ω・`)
890人間七七四年:2013/03/10(日) 10:15:46.52 ID:9Go8rDR4
人は見た目が九割
何が悪いか知らないけど、狐面と狼眼のせい?
891人間七七四年:2013/03/10(日) 11:24:48.03 ID:aL6ePVo9
>>889
魏延「せやな」
892人間七七四年:2013/03/10(日) 12:09:54.01 ID:42nW6Tk0
猫口の山県さん(´・ω・`)
893人間七七四年:2013/03/10(日) 20:42:59.02 ID:sAIZ2IeI
朱元璋「面構えを気に入られて婿になりました。滲み出る君子の気品が認められましたね。」
894人間七七四年:2013/03/10(日) 21:25:31.37 ID:hxIqCdTh
禿が出たぞー
895人間七七四年:2013/03/10(日) 21:29:22.34 ID:vwIfTQfC
殺りましょう
896人間七七四年:2013/03/10(日) 22:44:15.46 ID:0DhvHLVm
>>888
口車に乗せられて菅谷さんの反対も聞かず召し抱える

どこからともなく段蔵の悪い噂が流れ出す

信じた天庵さま、やっぱり粛清してしまえ

色々押し付けられる菅谷さん
897人間七七四年:2013/03/11(月) 00:26:23.94 ID:fx5oiDcI
>>890
山本勘助を雇った信玄公なら俺の事もきっと認めてくれると思っていました
898人間七七四年:2013/03/11(月) 08:41:07.97 ID:hMVKhpgC
きっとエンジェル伝説の北野くんみたいに
一目でイカれたジャンキーだと分かるくらい悪人顔だったんだよ
899人間七七四年:2013/03/11(月) 09:55:57.50 ID:p4g9rU24
俺も釣り目で頬骨張った奴は信用しないことにしてる
900人間七七四年:2013/03/11(月) 15:48:55.60 ID:/oraico/
なんか姓名判断が出来るサイトがあった。
 みんなの名前辞典
試しに真田信之と入力してみた。
なんか笑えた。

流れ全然関係ないね。ごめん。
901人間七七四年:2013/03/11(月) 18:41:11.55 ID:ZjMDm8tB
>>868
ちなみに仙台市の観光客向け「おもてなし武将隊」の伊達武将隊には、伊達成実役が
いるわけだが、その紹介文では百足の兜や香車の陣羽織が堂々と説明されている。

自治体の資金で運営されてるわけだから、つまりは宮城県と仙台市が公認でこの話を
広めてるということなのだったw
902人間七七四年:2013/03/11(月) 23:07:09.38 ID:VtjlTHp7
直家か弾正なら使いこなせないかな?
903人間七七四年:2013/03/12(火) 01:51:54.47 ID:+UJq/Rto
慶長19年7月19日、福島掃部頭高晴(正頼とも)は、幕府より閉門を仰せ付けられた。
これはその先年、高晴の家臣が、主人の行跡よろしからずと訴訟を起こしたためであったが、この時は、彼の兄である
福島左衛門大夫正則の旧勤に免じられ、厳密の御沙汰には及ばなかった。

この時、彼を訴えた家臣は蓄電したのだが、この高晴はその行方を探し出し、終に駿府の町家に潜んでいるのを
突き止め、手のもの5人を差し向け理不尽に搦め捕ったのである。

これに駿府町奉行の彦坂九兵衛は、届出なしにこのような捕物が行われたことを憤り、高晴を譴責した。
そのためこの騒動は大御所・徳川家康の裁定を仰ぐこととなり、詮議の上勘気を被った。

こうして、事件の翌年6月下旬、高晴の咎は重畳であると、小堀新助宗次、中坊左近秀政によって伝えられ、
彼の和泉国宇多郡6万石を没収、改易となった。この時同時に、宇陀城も破却された。
(関難間記)

福島正則の弟、福島高晴改易についての記録である。
904人間七七四年:2013/03/12(火) 21:49:23.77 ID:+UJq/Rto
天正13年(1586)11月、伊達政宗と、佐竹・会津諸侯連合の戦った、いわゆる人取橋の戦いでの事である。

17日、伊達軍を一方的に打ち破り追い詰めた佐竹・会津諸侯連合軍は、日暮れにより追撃を止めたものの、
翌早朝より伊達本営へ押し寄せ、勝負を決するべしと決議し、その作戦も綿密に立てられた。

が、その夜も信じられない事が起きて、合戦を行うこともなく、全軍は未明から撤退を始め、皆本国へと帰還した。
それは、このような理由からであった。

今回の合戦に当たり、佐竹より小野崎義昌(佐竹義重叔父)という者を大将として、大軍を派遣した。
ところでこの小野崎義昌という者は、常日頃より人に超えて馬を労る人物であったのだが、特に明日は
大事の敵に逢う馬であるからと、陣屋の前に下郎を呼んで、自ら立ち会って馬の足など洗わせていたのだが、
この時心に叶わぬことがあり、下郎の一人を、木沓を履いたまま蹴り倒した。

蹴り倒された者も、下郎ながら短気であり、蹴った足を引く前に、刀を抜きざま、義昌の心臓を刺し貫いた。

無残なことに義昌は二の息もなく死んだ。陣中は、これは何事かと大騒ぎになり、やがて事の仔細が
各陣営に伝えられると、会津諸侯の面々も

『これはどうするべきか。明日の合戦で建てとの勝負を決しようと強く決意していたが、それはそもそも、
佐竹勢を頼もしく思っていたためだ。
それなのに大将の義昌殿がこのような事になった以上、佐竹勢の雑兵達はこの夜のうちにも本国に向けて
帰っていくだろう。

そうなっては、残る我等が軍勢だけで雌雄を決する戦いが出来るとは思えない。
そもそもこんな事件が起こり気後れした軍勢で合戦を行なっては、とても我等に利があるとは考えられない。
ここは一先ず黒川に引き返し、体制を立て直すことこそ、後日の軍の利もあるというものだ。』

この様な結論にいたり、これを格陣営に知らせ合い、まだ夜中のうちから本国に向けて退却をしたのである。


一方伊達政宗の軍は、そのような事など夢にも思わず、本宮に置いてあった物見から
『一体どういうわけか、会津勢が合戦を仕掛けてくる様子はなく、それどころか徐々に撤退をしています!』
との急報が入り、一体い何が起こっているのかまるで解らず、追々物見を出して状況を確認すると、
やはり敵勢は、どういうわけか撤退しているというのが明らかとなり、そこで本宮まで移動した。

(会津四家合考)

伊達政宗が絶体絶命となった、人取橋の戦いについての逸話である。
905人間七七四年:2013/03/12(火) 23:29:20.33 ID:/s6mj3XF
言い訳つけて帰りたかったんだなー
906人間七七四年:2013/03/12(火) 23:31:55.80 ID:+UJq/Rto
すいません、7段落目の1行目 ×建てとの勝負 ◯伊達との勝負 です。
907人間七七四年:2013/03/14(木) 00:02:03.89 ID:33Xk3Rsh
大永7年(1527)、毛利元就31際の時、厳島参拝の折に棚守房顕の屋敷に立ち寄ったが、そこで初めて
山本勘助に出会った。

元就は勘助の容貌を奇として、どこから来たのかを尋ね、さらにをの所志を質問し、しばらく考えた後
帰城したが、5,7日ほど後、使者を遣わして棚守にこう伝えた

『先日一見した所の京都牢人(勘助)は、早くこの地から去らせるのだ。そして日本国中を遍歴させるべし。』

棚守はこの意を受けて、勘助に他所の土地へ興味を向けようと考え、関東の諸将の威烈を語った。
山本勘助はこれを聞くやいなや、棚守に暇を告げて立ち出ようとした。

棚守は勘助があまりに早く暇を告げたことを怪しみ、止めてそのわけを聞いた。
勘助曰く

「私はこの国に仕官を求めるために来ました。貴方もまた、私を推挙してくれたではありませんか。
ところが今、関東の諸将の威烈を語られました。これは貴方の御心が、既に変わったことを表しています!」

「な、何故そう思ったのだ!?」

「関東とは”還当”、すなわち”還る当し(かえるべし)”と読めます。これが私が暇を乞うた理由です!」

棚守は勘助のあまりの明敏さに、感嘆したとの事である。
(軍人頓智叢談)

なにか噛み合っていない気がする。気のせいだろうか?w
908人間七七四年:2013/03/14(木) 00:11:36.94 ID:K6cpGKyN
駄洒落か
909人間七七四年:2013/03/14(木) 00:12:54.95 ID:NOytU+1x
民明書房だよな
910人間七七四年:2013/03/14(木) 00:20:54.12 ID:3A123S6K
関東が還当とかこじつけなくても、他の地域の武将の話をしだせばいらないって言ってるも同然な気が
911人間七七四年:2013/03/14(木) 00:30:07.69 ID:4pi1deYS
大御所臭がするんだが・・・
912人間七七四年:2013/03/14(木) 15:23:25.12 ID:FrjM3yl+
腹黒さんがうちで捕獲できないなら殺してしまえな椰子じゃなくてよかったな
913人間七七四年:2013/03/14(木) 20:14:10.16 ID:7q8hpfO6
天正17年(1589)、蘆名義広は摺上原の戦いによって、従兄に当たる伊達政宗より会津を追われた。

それ以前から伊達政宗の累年の狼藉は豊臣秀吉の耳にも聞こえており、蘆名義広に対して少々の
援助は有ったものの、何と言っても都鄙は遠く離れており、援兵を送ることが出来なかった。
その為この様な事態になったのである。

こういう事であったので秀吉は義広に、会津を奪われた罪を問うこともなく、この年、
小田原征伐のため関東に下向した後に、政宗を所領を取り上げ、先規のごとく義広を旧領に戻すと、
折あるごとに伝えてきた。
これを義広は一途に頼りに思っていた。

さて、3月になって秀吉は、北条退治として相模国に下向し、小田原にしばらく陣を定めた。
この時蘆名義広は石田三成を通して、前から内々に言われていたよう、会津への復帰・安堵の
御沙汰が出ることを願い上げたが、はたして、鳥がいなくなれば良い弓も捨てられ、兎が死ねば
猟犬も煮て食われる、という諺の通りであろう。

秀吉は去年までは、北条を退治することを心にかけ、関東・奥州に一人でも味方をつくろうと
考えている時は、義広にも会津への復帰の御沙汰などあったのだが、この頃小田原北条氏は
秀吉軍の猛攻に言う甲斐もないほど弱り果て、残った燭の火が今まさに消えようとする有様であり、
逆に秀吉の威光の上り立つこと、烈火の焔を巻くにも似ており、この様な状況で義広は、
旧領復帰の沙汰を、言い出すことすら出来なかった。

こう言った状況で、取次の石田三成は蘆名義広に対し、内々にこのように提案した。

「あなたは”義広”と名乗っていますが、蘆名の家督を相続されたのですから、(蘆名の姓である)
平氏累代の一字、例えば”盛の某”などと名乗るべきなのです。
それなのに、いかに源氏の名門である佐竹の御子であるとは申しながら、養子に入っても
そのまま”義広”と名乗られていること。これでは平氏の家督を相続されたとは、言い難いのでは
ないでしょうか?」

これを聞いた義広は、誠にその通りだと思い、すぐに”盛重”と改名した。
その後も折につけ様々に訴えたが、秀吉の方ではこれに全く関心を示さず、会津の旧領を
回復することは終に無かったのである。
(会津四家合考)
914人間七七四年:2013/03/14(木) 23:36:32.21 ID:q2hi2GXb
三成のエピソードは何なんだ。名前変えたらいいことがあるのかと思いきや何もないじゃないかw
915人間七七四年:2013/03/15(金) 02:59:22.00 ID:Rsw3PLK2
アピールしすぎてウザがられたんじゃw
916人間七七四年:2013/03/15(金) 06:36:54.47 ID:L/B8O0RT
前線で一隊率いてアピ。アボーンすればそれで御仕舞いリスクはあるけど。
917人間七七四年:2013/03/15(金) 09:55:37.06 ID:bmlkKorS
三成ってほんと、普段気を遣わないくせにたまに余計な気を遣って失敗しますます恨みを買うっていう、天才タイプというかなんというかだな
918人間七七四年:2013/03/15(金) 10:43:46.45 ID:dvPhRh2j
養子とはいえ佐竹の子息だし勢力拡大を恐れたんじゃないの?
小田原で何か戦功があったわけでもないのに旧領復帰とか虫がよすぎる
919人間七七四年:2013/03/15(金) 14:50:16.84 ID:Oh8VcyrX
家康と政宗の両方を牽制しないといけない場所に
家柄だけの人間を置くわけにはいかないだろうな
920人間七七四年:2013/03/15(金) 15:46:14.35 ID:81johXuF
まーくんと仲良く攻めて来ちゃまずいしかといってタヌキとま−くんとガチ戦争するような椰子でもまずい・・・やっぱ工場長とかになるだろうな、クロカンじゃ絶対陰謀しそうだし
921人間七七四年:2013/03/15(金) 18:21:11.24 ID:RguHCmfy
>>914
>>917
「はいはいわしが悪いわしが悪い」
922人間七七四年:2013/03/16(土) 00:14:16.48 ID:jmwYLjKu
文禄4年、秀次事件が起きると、その重臣・前野長重に娘を嫁がせていた
細川忠興にも疑いの目が向けられた。
秀次から黄金百枚を借りていたことも問題視され、閉門を命じられたのだが、
竹田永翁(※注1)からは、石田三成らが忠興を切腹させようと企んでいるとの報まで入っていた。


そんな中、またもや三成がしきりに讒言をしていると永翁から松井康之に知らせがあった。

これを聞いた忠興大いに怒り、

「本来なら年来の戦功に対し恩賞があるべきなのに、日頃三成と仲が悪いために
妨げられ僅かな恩賞すらなく、功ある家臣を賞することもできない。
さらにこの上、讒言が信じられ死を賜ったなら、むざむざ腹を切るものか!
三成を襲い討ち、この伏見を黒土にした上で、自ら首を掻き落してくれる!」

康之はこれに対し、

「もし幽斎様御夫婦が安穏に許されるなら、ご孝行の為大人しく切腹なさるべきです。
そうなれば御介錯を務め、御供仕りましょう」

忠興は深くこれに感じ、それからは切腹を申しつけられた時の用心に、毎日行水して白い肌着を着ていたという。

また、米田助右衛門を聚楽第の細川屋敷へ遣わし、伏見よりの一報次第で忠興夫人と子息を生害させ、
屋形に火を掛けた上で切腹せよと定め、死期を待ったのである。

(綿考輯録)

※注 永翁は忠興のいとこ違いにあたり、松井康之の甥にもあたる。
   目付役を務めていたので、五奉行の相談している席にも出入りできたという。


三斎様、どうせ死ぬなら三成を殺して伏見も焦土にする!とブチ切れるお話。
この後は前田利家や徳川家康に頼んで金を借り、
秀次から借りた黄金百枚をなんとか返すことで許されるのであった。
923人間七七四年:2013/03/16(土) 11:44:11.06 ID:z6oHy/xE
竹田永翁って名前だけ大坂の陣で出てくるけど細川家の親戚だったんだ
924人間七七四年:2013/03/16(土) 14:09:28.30 ID:ErCvbDB9
寛永五年、祇園祭の夜のこと。
儒者、菅玄同が弟子の安田安昌に斬り殺される事件がおきた。
これを受けた林叔勝(羅山長男)は、
藤原惺窩の弟子で、京都では知られた存在であった玄同擁護に立ち、
弟子が師を殺すなど不義不忠の至りであると、
安昌への徹底的な批判を展開した。
学問派閥の頂点、林家が意見したことでこの事件は瞬く間に全国へ知れわたることとなった。
林家が言うのならばと、安昌への批判はいっそう激しさを増したのだが、
伊予国は大洲藩の下級武士、中江与右衛門がこれに異議の声をあげた。
近江滋賀生まれの与右衛門は京での菅玄同のふるまいを知っていたこともあり、
菅玄同という儒者は、膨大な書物を読み知識歴史には詳しいが、
詳しいがゆえに、あくまでも文字で示した「仁」であり「義」の型に人を押し込め、
「忠」という文字をもって弟子を扱い、
その態度はまるで畜生を扱うようであったことを批判し、
あれでは弟子の人間性も武士の誇りをも傷つけて当然である。
しかし、弟子の安昌も短絡的に過ぎたとし、
師、弟子ともに人面獣心であったと結論した。
そして、その三年後には、
「林氏、髪を剃り位を受くるの弁」
という論文を発表し、林羅山の知識偏重と美麗字句を批判するに至る。
それが与右衛門二十四歳のころ、
後の日本陽明学の祖、中江藤樹である
925人間七七四年:2013/03/17(日) 20:42:22.92 ID:hdRxHcR5
林羅山って「地球が丸い訳ないだろm9(^Д^)プギャー」してたよね。


自然科学とか完全に専門外なのに、その自信はどこから来たのだろうか
926人間七七四年:2013/03/17(日) 20:54:00.17 ID:mdybG4BY
朱子学者の逸話は常に驚くほど自信満々
実態どうなのかは知らないけど逸話では頭固くて教条的で糞面倒くさい人達に描かれるよね
927人間七七四年:2013/03/17(日) 21:09:34.16 ID:JR21/ZPh
御用学問だしねい…
928人間七七四年:2013/03/17(日) 21:59:16.62 ID:aYjT4tuw
家康が既に駿府に隠居した後のこと。

少し具合を悪くしたがすぐに回復した家康、医師に言うには
「今日は体調が良いぞ。食も進むしな」

それに対して医師が
「それは何よりでございます。『命は食にあり』とも申しますし、めでたいことです」
と喜んだところ、

「・・・なあ、『命は食にあり』ってお前どういう意味だと思ってんの?
 例えば赤ん坊に乳飲ませる時のこと考えてみろよ、
 飲ませる量に過不足がないように親が絶えず気遣ってやる必要があるだろ?
 『命は食にあり』ってのはそういう意味なんだから、
 俺の食欲が戻ったからって
 今度は却って食べ過ぎるようになるかもしれないんだから、手放しで喜んでちゃダメじゃないのか?」
と、なぜか説教を始めた大御所様。

内心では(食が進むって言い出したのはアンタの方だろ・・・)と思ったかもしれないが、医師は
「私が間違っておりました」
と詫びたのであった。

(『駿河土産』)
929人間七七四年:2013/03/17(日) 22:09:32.79 ID:RqUENzqg
>>928
既出。出典元もいっしょだ

戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/245
9301/2:2013/03/18(月) 00:07:17.45 ID:dElQWAOG
天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐。
ここに奥州より伊達政宗がついに参陣し、秀吉に対し臣従の礼をとった。

しかしそのことだけで政宗のこれまでの不穏な動きが見逃されるわけではない。
政宗の身柄はしばらく底蔵という山中の宿舎に置かれ、そのまま沙汰もなく、伊達家中の者達は
何か不測の事態が起こるのではないかと薄氷を踏む思いで居た所、秀吉から
浅野弾正少弼(長政)、宮部善祥坊(継潤)、施薬院(全宗)が派遣され、政宗に対し尋問を行った。

「そもそも会津の地は、先の三浦介(蘆名)盛隆が、亡君信長公に臣従して以来、常に金上遠江を
代官として上洛させ、完全に君臣の礼を取っていたのだ。であるのに汝は雅意に任せてそれを押領し、
誠に傍若無人の振る舞い、言語道断である!
汝が自身の非を明白に弁明できないのなら、速やかに厳罰を申し付ける!」

これに政宗、畏まって
「去年私が(摺上原の戦いにより)会津を押領つかまつった事、偏に私の暴虐なる振る舞いと
お考えになっているのでしょう。しかし、その事の仔細を申し上げます。

過去からの経緯を申し上げます。
私の郎党に大内備前と申すものが居たのですが、私に対して野心を含み、会津の蘆名に属したのです。
これを私は強く無念に思い、即座に誅せんと考えましたが、蘆名義広は思いもよらぬことに
かの大内備前に合力し、あまつさえ佐竹義重、磐城常隆らまで、義広に一味して、事態は私にとって
大変困難なものとなりましたが、幸運にもかの大内備前を退治する事が出来ました。

そして二本松についてですが、かつて、私の父親である輝宗は二本松の畠山義継が不慮の参会で討たれました。
二本松の者共はその父の仇の末であります。ですので打ち続いて二本松を攻めようとしましたが、
ここでも蘆名義広の企てで、佐竹義重、磐城常隆、相馬義胤らまで一同に二本松に集結し、私一人を敵にして、
度々合戦を仕掛けてきたのです!ですが、不思議に一戦の利を得て、結果的に会津を横領する形になって
しまったのです。

そうでありますが奥州では、大崎義隆、磐城、相馬の者共を始めとして、出羽には最上義光、常陸には佐竹義重
等に至るまで、皆私一人を敵にし、隙を伺っていたため、昼夜を問わず彼らへの対応に追われ、京都に対し
臣従することも、今まで引き延ばしになってしまったのです。」

これを、3人の使者はそのまま秀吉に伝えた。すると秀吉から重ねての諮問があった。秀吉の疑問は唯一つ
9312/2:2013/03/18(月) 00:08:43.26 ID:dElQWAOG
『政宗に敵対しているのは全て政宗の肉親親戚の者達だ。
政宗は肉親親戚全てに見捨てられ、隣国に一人も心を合わせたものがいない。
これは甚だしく不審なことである。』

実にご尤もな疑念である。政宗はこれに

「ご疑念、承りました。先ず、最上義光は、勿論これは我が叔父であり、特に所領も隣接しているのですが、
私がその国境に追いた鮎貝藤太郎という者をそそのかし、私に対して野心を持つように仕向け、彼の者はついに
義光の元に亡命しました。私はその頃若年で、しかも父を亡くしたばかりで何の支えもない身であったのに、
よりによって叔父である義光がこのような振る舞いをしたこを、激しく情けなく思い、敵同士になったのです。

次に相馬ですが、父輝宗存命の頃は度々争っていましたが、私の代になって和睦いたしました。ところが
私の舅、田村清顕と申す者が亡くなると、私の郎党・石川弾正という者が相馬義胤にそそのかされ、
私に対して野心を企てたため、軍勢を出してこれを退治せんとした所、義胤は彼の者に合力し、後詰を
してきたため、短期間での討伐が不可能となリました。そのため私が、所領の中にある大森城に暫く
引き退いたところ、義胤はよりにもよって田村清顕の郎党たちと語らい、田村領を奪う企てを起こしました。
しかしそれは、田村清顕に忠節であった者達が私に味方したため、陰謀はならず義胤も相馬に引退きました。
これにより石川弾正も力を失って相馬領に亡命しました。
すなわち、相馬義胤こそがこの政宗に対して敵対したのであって、私が相馬に対して期待したわけでは
ありません!

それから大崎義隆と合戦に及んだのは、累年、国境線についての論争が有り、それが徐々に双方の確執と
なったからなのです。

このような事は皆、政宗の不幸であります!
この面々の悪巧みにより、今のようなご不審の中にある以上、私の真心を伝えるのが大変難しい状況です!
私は何を否定し、何を肯定すれば良いのでしょうか!?」

そして使者に向かい
「仰ぎ願わくば、真実をその言外から受け取り、嫌疑を目前に決せられ、この政宗の悲嘆の眉を
開いていただくのは、偏にあなた方の聡明さに任せるより他ないのです!」

使者たちは再び秀吉にありのままに伝えたが、秀吉はこれを聞いて重ねての諮問は無く、
ただ押領した会津・仙道領は残らず没収され、本領だけは安堵ということになった。
政宗は不思議にも大難を免れたのである。
(会津四家合考)

以上、伊達政宗、弁明についての話である。
932人間七七四年:2013/03/18(月) 00:11:56.31 ID:WrevTh1S
     俺たちは皆親戚だー´
 ∩∩                                             V∩
 (7ヌ)     っ                                        (/ /
 / /     っ            .∧_∧                         | |
/ /  ∧_∧     .∧_∧  _( ´A`  )  ∧_∧    ∧_∧    ∧_∧ / /
\\( ´Д`;)―--( ´∀` ) ̄       ⌒ヽ( ´∀` )―--( ´∀` )   ( ´∀`)./
  `。:、       /⌒   ⌒ ̄ヽ 蘆名  /~⌒      /     ⌒丶/    /
   |岩城  | ー、 相馬  / ̄|    //`i  伊達  /ー、 最上 /ヽ /.\\ /
.   .|      |  . |      /  (ミ   ミ) |     l Λ_Λ   // / 留守 \\
   |    | |     | / Λ_Λ\ |  __  _( ´∀` )  ミ)//      l(_)
   |    |  )    / __( ´∀` ) \ | ( .|/,     ⌒ヽ\/   /\ \ 
   /   ノ | /  ヽ ヽ、_      .⌒ _)/ ニ)ノ        /\ ).\ / \  \
'  |  |  | /   /|   / |  佐竹  |  | | ニ) |  田村 ヽ / ,/ / | 二階堂 ||  |
933人間七七四年:2013/03/18(月) 00:13:40.22 ID:YpyoLUsz
>ですが、不思議に一戦の利を得て、結果的に会津を横領する形になってしまったのです

言い訳が斜め上過ぎてお茶吹いたw
934人間七七四年:2013/03/18(月) 00:23:29.19 ID:dElQWAOG
ああ変換ミス、931の4段落下から2行目 ×私が相馬に対して期待 ◯私が相馬に対し敵対
申し訳ない
935人間七七四年:2013/03/18(月) 00:25:12.20 ID:4ToNuic4
電車が急ブレーキで止まった際、
不思議に手が前に立っていた女子高生のパンツの中に入ってしまい、
結果的に痴漢した形になってしまったのです。
ほんと不思議に...
936人間七七四年:2013/03/18(月) 07:57:44.25 ID:5AfH8JXe
大難とは打首のことかな?
でも苦労して切り取った領地かなり没収されてるから大難だな
937人間七七四年:2013/03/18(月) 10:00:09.46 ID:uAzwk/RO
せっかく残った本領も翌年には巻き上げられるし
938人間七七四年:2013/03/18(月) 16:15:55.35 ID:9vcXUa+W
そりゃやんちゃが過ぎて工場長おちょくるからw
>926、三河ならなにやってもめんどくさくなるかと
939人間七七四年:2013/03/18(月) 17:05:51.32 ID:OYbNrBs8
太閤殿下も亡君信長公の弔い合戦に利を得て、結果的に天下を差配する形になってしまわれた
いや実に不思議なことがあるものですなあニヤニヤ

まで読んだ
940人間七七四年:2013/03/18(月) 17:20:13.65 ID:dmvAtqb1
台徳院様の御時に本多上野介殿の身が果てたことについて、世上には色々と雑説が多く、
逆心の様に取り沙汰されるが論じるまでもないことだ。上野介殿は誠に忠臣というべき人である。

父佐渡守は智謀の深き人ではあったがいやなる人で、上野介殿はその子ながら父には似なかった。

権現様が最初に結城の秀康公を御立てになるべきか、台徳院様を御立てになるべきかと老中へ
意見を求めた時、佐渡守は「秀康公は一度太閤へ御養子になされ、結城の家を御継ぎに
なったのですから、天下は秀忠公が御継ぎなさるのが当然の理でございましょう」と申され、
老中はいずれもこれに同意した。

しかし、上野介只一人が「佐渡守の申すことではありますが、私は左様には思いません。
どのようであれ、秀康公は御長子でございます。只今までは太閤に御遠慮にてわざと御疎々しく
なされたといっても、御父子の情に替わりはないのですから、長子に御生まれになりながら、
庶子になられては御痛わしきことです。秀康公こそ御順道と思います」と申された。

その時、佐渡守が「悴は何を思って粗忽なことを申すのか!」と叱られると、上野介は座を立たれた。
結局は佐渡守の考えに極まり、秀忠公を御総領に御定め、秀康公は越前へ封ぜられた。
台徳院様はこの事を殊の外御遺恨に思し召された。

――『鳩巣小説』
941人間七七四年:2013/03/18(月) 19:47:30.21 ID:dmvAtqb1
>>940
すいません、訂正します
×御父子の情に替わりはないのですから
○御父子の情に変わりはないのですから
942人間七七四年:2013/03/18(月) 21:46:50.73 ID:6bSE+HXy
秀康が西軍に着いちゃえば面白かったのになー
943人間七七四年:2013/03/18(月) 21:52:41.87 ID:4X1WrXap
秀康がもう少し長生きしたらな
944人間七七四年:2013/03/18(月) 22:24:57.03 ID:4/hoyBeF
>幸運にもかの大内備前を退治する事が出来ました。
(今は私の家臣に納まってるんですけどね!)

流石は政宗公
945人間七七四年:2013/03/18(月) 22:32:55.97 ID:7aqBVfiX
政宗が幕末に仙台藩の藩主だったら迷わず
会津と米沢攻めて領土拡大狙っただろうに…
946人間七七四年:2013/03/18(月) 23:50:32.42 ID:XwnGIj9m
政宗が大戦中に生きてたら満州あたりに行って部隊率いて暴れまわっただろうに
947人間七七四年:2013/03/19(火) 00:05:30.78 ID:p7+Npn/g
でも政宗は家臣への手紙では凄く細やかに気を使ってるんだよなあ
気を使って丁寧な言葉を選んでおかしな計画を語る
948人間七七四年:2013/03/19(火) 00:07:36.91 ID:hj2dJNea
政宗は教養があるから(嘆息
949人間七七四年:2013/03/19(火) 00:55:03.50 ID:agq1cYgD
>>946
なるほど
では順ちゃんは生まれ変わりだな
950人間七七四年:2013/03/19(火) 04:40:24.34 ID:SMoxuC6R
天正18年(1590)、小田原の陣が始まると、白河結城氏当主、小峰義親も秀吉への臣従を考えるようになった。
ここで一族の中島上野は、すぐに小田原の陣へと参上し、秀吉に直に臣従するようにと進める。
しかし義親は「財力がなく、行程の費用も献上品の費用も覚束ない」とその案に懸念を示す。これに上野重ねて

「今回の小田原参陣の費用は。家中のものに課役して調達すれば大丈夫です。また献上品としては
合戦の最中であるので、白米二百表を持って行くべきでしょう。そのうち百表は私が用意します。
残りの百表は、これもまた家中の者達に課役して整えれば良いでしょう。
白河から小田原までは遠路であり、殿ご自身が行かれるのは様々な苦労が考えられますので、恐れながら
私が代官として罷り行き、良きように取り計りたいと存じます。」

上野は心からの提案であったが、義親が他の家臣達にこのことを相談すると、家中の者達は課役の負担を嫌い、
「我々の愚案を申し上げますと、上野が申すことは一向に心得難いものです。
現在の乱世に、白河の諸民も疲弊している上、白米二百表の運搬の課役が加わっては、民間の負担は
莫大になり過ぎます。これが一つ。

そしてもう一つ。上野は大変頭の切れる人物です。これが代官として秀吉公の前に出た時、その立場を利用して
一体どのようなことを言い出すか、計りかねます。
この2つの問題はどちらも穏やかなものではありません。懸念の少ない方に従われるのが、然るべきだと考えます。

幸いにも伊達政宗が、小田原へと参陣するそうです。であれば政宗を頼り、使者を一人添えて、馬や鷹など
折に宜しきものを持たせこれを献上するのが良いでしょう。」

運の末とはこういうものであろう。義親は彼らの言葉に同調し、政宗に頼んで使者を一人同行させ、
海松黒(みるくろ)という良馬と逸物の鷹を秀吉への献上品とした。
政宗は「仔細は聞いた。献上品は良きように秀吉公に披露し、御前にて申開きができるようにしよう。」
と軽く請け負い、使者を同行させて会津を出発し小田原へと向かった。

ところが政宗は思いもよらず秀吉の不審を被り、底蔵という山中に蟄居させられ、自分の身が危なくなり、
義親のことなど構っている場合ではなく、使者を取り次ぐ事は一切なかった。
あまつさえ義親が献上品として持たせた馬と鷹を、「政宗からの献上品」として秀吉に披露した上、
義親の使者にも、

「お主のことは随分良きように秀吉公の方に申し上げたのだが、陣中の忙しさに紛れ、未だはっきりとした
御沙汰も無い状況である。その上、この政宗の身の上もなにかと不透明だ。であるのでお主は
先に帰国するのだ。小峰義親の事については今後承り、帰国後そちらに報告する。」

そういって白河に帰させた。国元の小峰義親はこれを信じ、所領安堵の事は仔細なく認められると思い
政宗の帰国を心待ちにして日を送っていた。

ところが政宗は近年の横逆な振る舞いを咎められ、横領した会津・仙道を没収され、本領だけを
安堵という命令を受け、会津へと下った。そして義親に使いを立て

『あなたの事は大変力を入れて弁明に務めたのですが、一体どういう理由からか、何の御沙汰も
得られませんでした。そのうえ私の身上もこの様に成ってしまった上は、もはや力ない事であり、こうなった以上
あなたが居城にそのまま居住されるのはどうかと思われます。ひとまず城は開城し、他日秀吉公より
御免を受けた後、晴れて所領安堵という事になるでしょう。』

この思っても見なかった報告に、義親は途方に暮れたが、ともかくも暫くの事と、城の西に当たる
金勝寺という禅寺に移った。

しかし秀吉の東北仕置により、白河は伊勢の住人である関右兵衛尉(一政)に与えられ、
金勝寺の小峰義親は新領主の関一政から、治安への懸念などを理由とし領内からの退去を求められ、終に
白河を出て那須の湯元という土地に移住した。
(会津四家合考)

奥州の名族白河結城氏・小峰義親の没落、についての逸話である。
951人間七七四年:2013/03/19(火) 10:23:12.10 ID:+7S+YBMQ
政宗のことは知ってただろうになぜ所領安堵のお願いなんて大切なことを頼ってしまったのか
やはり恐るべきは政宗の謎のカリスマ
952人間七七四年:2013/03/19(火) 12:19:07.34 ID:rO+ftDAx
例え自分単騎でも参上すれば良かったんだな
贈り物なんて他の大大名から山ほど貰ってるんだし

最近出た本に、北条と対立する北関東の豪族に対して取次が「とにかく上洛して挨拶しとけ。所領奪われても奪還してやるから。」みたいな書状出してる例が載ってたな
953人間七七四年:2013/03/19(火) 12:34:13.11 ID:MKu8LUIR
>>949
華族から馬賊へ華麗なる転身
間違いなく伊達の血のなせる業だよね
954人間七七四年:2013/03/19(火) 13:04:17.91 ID:Lpu59eFS
山内氏みたいに取次の約束を無視して潰されちゃった例もあるから
一概に信用はできないと思うな
955人間七七四年:2013/03/19(火) 15:32:32.03 ID:1yCE392A
伊達順之助だけはガチ。
しかも直系子孫なんだよな。
家系的には華族の超ボンボンお坊ちゃんなんだけど、
人間の人生てどうなるかわかんないよな
956人間七七四年:2013/03/19(火) 18:33:58.04 ID:KjaOCjQ8
こんな目に遭って10年ほど放浪した末に結局は政宗を頼って
伊達家に仕官するんだよな小峰義親

なお白河結城家は仙台藩では約1000石で一門格とそれなりには
遇されて分家も創出したそう
957人間七七四年:2013/03/19(火) 18:47:42.86 ID:tdY5fDm7
>>956
溺れる者は藁にもすがる…
958人間七七四年:2013/03/19(火) 19:21:54.03 ID:cCNBhWhP
地方の小領主にはつらい時代だよね
959人間七七四年:2013/03/19(火) 19:26:17.30 ID:pzjZLk/S
伊達順之助って、愛姫の子孫でもあるなら、漢の霊帝の子孫ってことに一応なるから
大陸では劉姓名乗って漢帝国でもつくればよかったのに
960人間七七四年:2013/03/19(火) 21:47:50.86 ID:p7+Npn/g
>>952
北条と対立する佐竹上杉が豊臣とがっちり連携とってたから
北関東の国人領主はその2家からもきっちり根回し行ってたみたいだしね
取り次ぎ含めて複数のルートで豊臣と渡りつけた北関東東関東の領主と比べると
他人任せにしちゃったところは悪目立ちしただろうなあ
961人間七七四年:2013/03/19(火) 22:36:58.95 ID:kIdJ8lYZ
伊達に服従してた時期で、外交権も伊達に預けてた小領主の一人なんかね
962人間七七四年:2013/03/19(火) 22:40:16.26 ID:6a82V/9u
家臣なのに四国征伐の時点で秀吉に息子を会わせてた大関さんを見習うべき
963人間七七四年:2013/03/19(火) 23:00:18.62 ID:p7+Npn/g
政宗は豊臣に臣従後領地減ってるのに家臣たくさん雇ってるけど俸禄はどうやって工面してたんだろ
964人間七七四年:2013/03/19(火) 23:00:52.77 ID:8K5nxJgm
オマエラ、ヒゲ殿を持ち上げるのはその辺にしておけ
965人間七七四年:2013/03/19(火) 23:56:40.88 ID:3evJ41Vt
>>945
佐竹さんとこは、絶対勝てる方に味方するよう代々語り継がれてるよねw
それに比べ、DQN眼竜に義理とか情けなんて皆無なのに子孫は全く受け継いでないな。。
966人間七七四年:2013/03/20(水) 00:00:39.97 ID:tmOY4E6E
>962、かえって周りにはサルなんか無視しとけ!っ空気作って(であんたの領地は没収されるぜで少し掠め取るぜw)ぐらい考えていても驚かないぞ
967人間七七四年:2013/03/20(水) 00:18:38.79 ID:EszNZX5M
>>965
そうか?
ゴネる亘理を結局切れなかったり、むしろ情を捨て切れなくて後の世代に禍根残した印象が強いな。
968人間七七四年:2013/03/20(水) 00:54:27.56 ID:zoP8SRMa
>>965
佐竹さんは源平合戦で失敗したときからあまり変わってない気がする
まぁあの日本史上屈指の万馬券をつかめと言うのは酷な話だけど
969人間七七四年:2013/03/20(水) 15:09:18.06 ID:cr4VQPS8
>>965
んー? 中途半端に会津に味方して、結局貧乏くじ引くところは押すところと引き所の判断を間違うまー君の家系らしいと思うが。
970人間七七四年:2013/03/20(水) 18:13:37.03 ID:tmOY4E6E
>968、黒いところは全部甲斐のお屋形様が持って行ってしまったんでしょうw
971人間七七四年:2013/03/20(水) 21:10:26.31 ID:3449Dmoo
甲斐源氏は源氏の長が立ち上がった時、いつもクソ真面目に素早く馳走するのに
何故か毎回勢力強大化を警戒されて貧乏籤を引くのが伝統のような気がしなくも無い

でも冷遇されても文句も言わず反乱もしないからあまり酷い目にはあってなかったりする不思議な人たち
972人間七七四年:2013/03/20(水) 22:00:08.87 ID:R8PTPxwb
陸奥相馬氏13代目である相馬盛胤は病気がちで体が弱く、未だ幼い嫡子顕胤への家督相続を
進めていた。そして顕胤の嫁として、奥州最大の勢力である伊達稙宗の息女を望み、
婚約を交わした。

所で先にも言ったように盛胤は病気がちであり、ある時伊達家より、その見舞いの使者として、
伊達家中でその武勇が近隣にまで聞こえた飯淵尾張という者が派遣された。

しかし盛胤は病重く対面はならなかった。かわりに嫡子である顕胤、この頃10歳ほどであったが、
彼の前に召し出されることとなった。

この時顕胤は丁度味噌を製造する下屋に居り、飯淵への対面もそこで行われた。
この場所を選んだのは、相馬家の家臣たちが考えて行ったことであった。

『隠れない武勇の者である飯淵尾張なら、相馬の大将は未だ幼少であるが、早くも弓矢の心得が有って、
味噌など兵糧のことにも心がけられていると称賛するでしょう!彼は合戦の時の必需品として
味噌が第一と言っている程の者ですから!』

そのように言って顕胤に進めたのである。

さて、帰国した飯淵尾張は、伊達稙宗の前でこのように報告した

「殿はご息女をむざむざと御捨てになりますか!?今回私は婿殿を見て来ましたが、
あの方はご自身で味噌の奉行をするような人物であり、その程度の者が相馬の大将とは、
一体何と申し上げていいのか…」

ほとんど罵倒である。大失敗であった。
報告を聞いて稙宗も不安になり、相馬盛胤が「私が生きているうちに新婦へ対面したい」
と行ってきても、色々と理由を構えて輿入れを引き伸ばした。

このような状況に盛胤および相馬家中は焦り、輿入れがないのなら伊達と合戦を行うという
事にまでなり、この強硬姿勢にようやく稙宗も娘を輿入れさせることに同意した。
時に永正17年(1520)、相馬顕胤13歳、稙宗息女15歳であったという。
そして稙宗息女が相馬の居城・小高城に輿入れしたその日、相馬盛胤は没したという。
(奧相茶話記)

後に奥州に様々な影響をもたらした伊達稙宗の婚姻政策の内、相馬顕胤への輿入れについての
逸話である。
973人間七七四年:2013/03/20(水) 22:03:31.64 ID:nzS+1SPZ
教訓 小細工するな
974人間七七四年:2013/03/20(水) 22:54:37.57 ID:x0eXJf0A
白い装束で謝罪みたいな小細工はしないよねー
975人間七七四年:2013/03/20(水) 23:06:14.14 ID:17oJ7skP
合戦の時の必需品として味噌が第一って言うのは、やっぱり塩分が大切ってことなのかな?
976人間七七四年:2013/03/20(水) 23:10:53.58 ID:3449Dmoo
味噌の奉行くらいでそこまで言うか
戦国を終わらせ伊達を屈服させたのは味噌作りどころか何でもかんでも自分でやってきたような人物なのに
977人間七七四年:2013/03/20(水) 23:24:23.51 ID:nhRz/fRl
もうくそみその話はいいです
978人間七七四年:2013/03/20(水) 23:45:07.34 ID:jxkXI0L0
伊達って本拠地羽州なんだけど奥州最大の勢力だったのか?
979人間七七四年:2013/03/21(木) 05:48:35.05 ID:Nf7/3pFx
相馬盛胤って生涯戦い続けた猛将みたいなイメージあったのに・・・


と思ったら先々代が同じ名前だったんだな
980人間七七四年:2013/03/21(木) 08:27:05.88 ID:mbqVQr6r
味噌蔵対面案を出した奴は左遷されただろうなw
981人間七七四年:2013/03/21(木) 09:40:00.86 ID:/x+ohJg7
>輿入れしたその日
安心してポックリ逝っちゃったのかなあ。
ギリギリ会えてなかったりしてたら気の毒。
982人間七七四年:2013/03/21(木) 10:19:16.25 ID:Up30wcjl
>>975
腐りにくく携帯しやすいのが最大の利点じゃないかな
栄養学的な面は当時は不明だったろうが、貴重なタンパク源でビタミンも豊富
983人間七七四年:2013/03/21(木) 11:18:57.47 ID:9XyJggfE
味噌が戦場の必需品なのは、ウンコ漏らした時焼き味噌だと誤魔化す為
984人間七七四年:2013/03/21(木) 12:49:53.26 ID:TtsoQ8ho
wiki見たら顕胤から盛胤、義胤と勇将揃いじゃねーか
顕胤を婿にして正解だろ
反故にされたとはいえ伊達七世弓を相馬に引くべからずは相馬が信義に厚いということのあらわれ
そんな相馬を滅ぼそうとした政宗は流石俺らのクソムシ
985人間七七四年:2013/03/21(木) 18:26:23.36 ID:4kXo+laV
どうしてあんなDQNに育ったんでしょうな、小十郎さん?
986人間七七四年:2013/03/21(木) 18:48:55.13 ID:lDI89spo
>>984
つまり見抜けない飯淵さんの悪い話ということか?
987人間七七四年:2013/03/21(木) 20:36:17.39 ID:A60osmLa
>>985
教育係のせいじゃないでしょうかね、和尚?
988人間七七四年:2013/03/21(木) 20:39:36.28 ID:++prJIAg
そろそろ新スレ立ててみる
989人間七七四年:2013/03/21(木) 20:42:15.08 ID:++prJIAg
だめだった、どなたか頼みます

↓スレタイ
戦国ちょっと悪い話36

↓テンプレ
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1356968224/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
990人間七七四年:2013/03/21(木) 23:46:16.93 ID:CPEiUndL
991人間七七四年:2013/03/21(木) 23:49:35.40 ID:fcowhW+O
味噌の話で大御所さんが登場しないなんて・・・
992人間七七四年:2013/03/21(木) 23:50:33.30 ID:5JI6beGj
>>990
993人間七七四年:2013/03/22(金) 00:44:08.72 ID:3Jo90yzA
醤油が大量生産される前の時代なので、当時ほぼ唯一のうまみ系の調味料ということもある
994人間七七四年:2013/03/22(金) 03:12:45.58 ID:ss+x3tS+
慶長5年、徳川家康による上杉景勝征伐が勃発しようとする中、伊達政宗は急ぎ国元へと下る。
それを知った通り道となる相馬家では、一族家中の者共集まり、対応を評議しした。相馬家は政宗への恨み深く、
特に当主・相馬義胤の弟隆胤を討たれ、その弔い合戦も出来なかった無念も有り、今こそ好機、相馬領に入ったところで
政宗を討ち果たそう、との論が大勢を閉めた。

が、家老の水谷式部「が進み出て言う
「なるほど、ここで政宗を討ち果たすのは容易なことでしょう。ですが愚意を申し上げますと、政宗が
ここを通るのは、景勝への対応のためであり、きっと家康公の味方としての行動であると考えられます。
これを討ってしまえば、後のためのいかがかと存ずるのです。

それは、治部少(石田三成)は小身であり、その家臣も昨今に成って召抱えた侍であるからです。
例え諸大名が彼に味方したとしても、結局は強に付き弱は捨てられるものです。であれば、末々覚束ないと言うべきでしょう。

一方の家康公は、老巧の大将であり、大身であり、家中にも歴々の武勇巧者が数多くあります。であれば、結局御利運は
家康公のものとなるでしょう。
その上(義胤の嫡男である)利胤公は今も在京されており、その身の上も心配です。

よって兎も角、今政宗を討つというのは如何かと考えるのです。」

相馬義胤はこれに同意し、政宗の領内通過を許可した。

さて、政宗は400騎ほどで相馬の領内に入った。そして宿舎として涼ヶ森の花光院を提供された。
政宗はこの山寺の四方に鉄砲・弓・槍で武装した足軽を三重に配置し、これに物頭を付け厳重に警備させた。
さらに近隣の村にまで人を配置し警戒に当たらせた。

ここで相馬義胤より政宗に、兵糧300俵・大豆100俵が贈られたが、政宗は用意があるとこれを断った。
相馬方では政宗への接待役として、出田与三右衛門が置かれた。

さて、その夜半、寺の中で馬が放れ駈け出したのに四方の警備の者達が驚き騒ぎ、混乱して寺の前の田地に飛び込んだり、
山に逃げたり、折口に落ちたりという有様となった。

この騒ぎの中、出田与三右衛門は小者一人だけを連れて政宗の宿所へ向かうと、庭中に出ている侍は一人もなく、政宗は
側に若侍一人だけで、縁側に薙刀を持って立って不審そうに状況を見ていた。与三右衛門は縁近くまで進むと

「寺の中で馬が放れたために騒いでいるだけです。少しもお気遣いなされるものではありません。」と申し上げた。

政宗はこれを聞いて
「与三右衛門がここに詰めておったか!大義なり!」と声をかけ、騒ぎが静まると盃を与えられた。
この時政宗の宿所には、料理人や役者めいたものなど多く居たのであるが、この騒ぎに「騒ぐな!様子を見ろ!」と言われたのだが、
聞かずに散り散りに逃げ出したのだという。

又、庭の方にも竹もがり(障害物)を結び、これに槍100挺を立てかけていたのだが、その立てかけが悪かったのか、
しばらくすると一斉に倒れ、この音でまた騒ぎが起こった。この時も政宗は縁側まで出て、侍4、5人とともに様子を見守っていたが、
出田与三右衛門がいち早く気が付き、「警護の槍が倒れただけです」と説明すると非常に喜び、再び盃を与えられた。その上で

「お主が今後、もし相馬家を離れることがあったら、いつでも伊達に参れ。」

と言って、自筆でこの旨を書きその紙を与えた。しかし出田与三右衛門はこれを隠し、後々まで人に見せることもなかった。
また、後日与三右衛門がこの時のことを思い出して

「混乱した中でも政宗様のご様子は、流石大将のご気性が備わっておられた。」

と、回想したそうである。
(奧相茶話記)

相馬家の記録による、”敵地”に恐怖し、混乱していた伊達家の様子である。
995人間七七四年:2013/03/22(金) 10:18:30.33 ID:tcBY2WN4
一族の敵からのWelcomeお手紙なんて隠し通さなきゃ死ぬだろw
996人間七七四年:2013/03/22(金) 10:34:20.08 ID:8e22FhqE
>>993
いやいや、醤油はうまみ調味料じゃないでしょ。
無理やり主張するとしても「出汁」くらいしか該当しないんじゃないか?
997人間七七四年:2013/03/22(金) 10:39:31.63 ID:Tnd+sRIr
家老の水谷式部は切腹しとけ
998人間七七四年:2013/03/22(金) 11:11:16.61 ID:v8s3J/G9
998
999人間七七四年:2013/03/22(金) 11:39:06.65 ID:EefbRU2C
政宗は流石だな
天庵様ももう少し落ち着いておられれば、という悪い話
1000人間七七四年:2013/03/22(金) 11:46:41.95 ID:v8s3J/G9
1000
10011001
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      ー┬――─‐ァ
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   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
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  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
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