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人間七七四年:
大阪冬の陣の慶長19年(1614)12月6日、徳川家康は茶臼山の本陣に到着した。
この時家康を出迎えた者達が初めに報告したことには
「諸大名の仕寄場は何れも能く敵陣に対して付けています。思った以上に敵の近くに攻め寄せています」
(諸大名の仕寄場何れも能く付き候。存の外近く攻寄せ候)
とした。
ところが、御前においてこれを聞いていた本多三弥(正重)は
「各々は偽りを言っている!私が見廻った限りでは、そなたたちが言うほど仕寄も寄ってはおらぬ!」
(各偽申上げられ候。我等参り見候所に、存候程には仕寄も寄らず)
続いて小栗又市が声を上げた
「大名たちは皆々臆病で、竹束の内から敵を見るばかりです。かなりの距離を隔てて
相まみえている状況ですな!」
(皆々臆病にて。竹把の内より見申候。中々間隔相見え候)
このように、家康に報告した者たちの面目を丸潰しにし、また参陣した諸大名もまとめて侮辱したと
見られても仕方がない両人であったが、彼らに対して家康からいかなるお咎めも無かった。
(両人共に如何様とも御咎これなく)
(村越道伴物語留書)
おそらく諸大名の体面に気を使った報告だったのでしょうが、そんなモノは断じて許さない
古い三河者共の頑固さはこの時も健在であったのだ。