武田信玄は過大評価されすぎ!!part3

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1人間七七四年
立てた
2人間七七四年:2012/01/08(日) 12:54:42.24 ID:JhiSIIIP
畠山さんのAAは無くなったのか。
3人間七七四年:2012/01/08(日) 14:28:43.71 ID:qSXlCtC9
武田信玄
戦国時代の戦国大名。日本史上、有数の暴君。
あと少しで信濃統一を果たすところまでいくが上杉に阻まれる
同盟や和睦をやぶるなど謀略を尽くしての領土を拡大し、奪った領土からの略奪により家臣や国内をまとめあげた。
しかし、国境を接する弱小豪族をすべて倒したあたりから領土拡大に急ブレーキがかかる。
このような相手国からの略奪によって家臣や国内の領民の不満を封じこむやり方は、領土拡大のペースが落ちると家臣や国内の不満を生むこととなった。
息子である勝頼は家臣や領民の不満を封じるため、無理な拡大路線を強いられることとなった。
また、信玄の度重なる外交に関する不義により武田家の他国への信用性はゼロに等しいこともあった。
その結果、勝頼は、他国との連携作戦もできずにやがて孤立していくこととなる。
結局、勝頼は父親の残した大きな負債を払拭することができなかった。
そして、武田家は一回の合戦で戦闘力を失い、たった一ヶ月で滅亡した。
織田信長が倒した戦国大名の中では武田家はもっとも労を要しない相手だった。

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信玄が信長よりスタートに恵まれない  → だがのウソ
信虎は甲斐を統一し、信玄は労せずそれを丸ごと承継。
一方、信秀は尾張統一に失敗し、今川の戦いにも敗北。信秀の領土で信長が承継したのは名護屋城とその近辺だけ

信玄は信長とちがって、同格とばかり戦って領土を広げた → だがの妄想
一国にまとまらない信濃の豪族という格下との戦いに勝利して領土を広げただけ。同格の上杉やと北条との戦いでは領土拡大の
スピードは目に見える勢いで低下。上杉の謙信の出奔事件の合間をぬった和睦を反古にしての領土拡大や、氏康の病気をねらって
領土を拡大するものの、両国の間の第三国のわずかな領土の領有を得たにすぎない。、結局、上杉や北条といった同格の相手の領土は奪うことができなかった。
4人間七七四年:2012/01/08(日) 15:41:34.22 ID:JhiSIIIP
よしよし。素直な織田厨だなw
5人間七七四年:2012/01/08(日) 16:29:41.21 ID:nuRG9Hze
何言ってんだこいつ?
6人間七七四年:2012/01/12(木) 01:01:40.79 ID:4vJAa70d
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
(『甲陽軍鑑』)

今度上様(織田信長)東国御出馬付、当国(大和国)衆自昨日上洛
(中略)
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也
(『蓮成院記録』)
7人間七七四年:2012/01/12(木) 22:35:11.67 ID:sebA2uct
>>6
軍艦の記述が事実なら滅亡せんだろ?

蓮成記録については、風聞のたぐいなんだから噂話レベル。

実態は火山噴火程度でビビりまくった弱小軍団w
8人間七七四年:2012/01/13(金) 05:39:03.73 ID:8ChlJNk5
そもそも興福寺の連中は武田上杉のことなんざ皆目知らんからな。
織田の兵隊が大動員されると聞いて、じゃあ武田上杉は強いんだろうな、ってのがここでのニュアンス
9人間七七四年:2012/01/13(金) 11:46:22.27 ID:lICbZFXK
天皇と将軍から強いといわれた信長
10人間七七四年:2012/01/14(土) 20:00:39.90 ID:KdNVDpHN
信玄公のおかげで長野・静岡県民と群馬県西部民は今でも山梨県に足を向けて寝れない
これ豆な
11人間七七四年:2012/01/14(土) 21:34:08.16 ID:+As5uVPJ
まぁまずは評価出来る点から抽出していった方がいいんでないの?
あの時代にしてはグローバルに家臣を集めたよね
素晴らしき哉実力主義

………それはそれで譜代や親族衆と後々揉めるわけなんだがw
12人間七七四年:2012/01/14(土) 22:24:15.19 ID:KdNVDpHN
>>10は実は嘘で地域ナショナリズムを傷付けた信玄公は該当地域であまりよく思われていないのが実情
山梨県ではヒーローだが
>>11
そういうとこは信長と共通するとこがあるよな
林佐久間の信長ほどはやらなかったけど
譜代親族も粗末にすることなく実力主義も取り入れたいという
人は城人は石垣人は堀の信玄公らしいですな
13人間七七四年:2012/01/14(土) 23:18:11.34 ID:ceZiv0/1
自己の神格化も織田とかぶってるよな
14人間七七四年:2012/01/15(日) 00:17:11.83 ID:j9oWTXux
信玄を神格化したのは家康と徳川将軍家
信長ほどナルシストでセクハラでパワハラじゃなかったよ
15人間七七四年:2012/01/15(日) 00:33:57.84 ID:h0x+icb0
>人は城人は石垣人は堀

これって何気に酷いよなw
本来なら物で済むところを人間割り当ててんだから
16人間七七四年:2012/01/15(日) 03:15:54.05 ID:g1z/jXbe
天台座主は実際に信玄が名乗ってたかは定かじゃないし
信長の魔王は半ば悪ふざけで、しかも出典が外人の日記しかない
17人間七七四年:2012/01/15(日) 05:58:45.26 ID:4/ldO9Iy
>>15
というか本来そういう意味だと思う。

おまえらは石垣や堀なんだから、城である俺のために尽くしてね、ってことじゃないの?
なぜかいい話化されてるけど、現代でいうなら会社員を使い潰す社長と変わらない
18人間七七四年:2012/01/28(土) 05:24:31.59 ID:ra1ahd7f
わらた
19人間七七四年:2012/02/02(木) 09:15:57.63 ID:KHLNNSfg
人を盾にする無能信玄
20人間七七四年:2012/02/02(木) 18:24:43.29 ID:eYhTM+AM
小学生低学年レベルの理解力www
織田厨って頭がそうとう弱いなw
21人間七七四年:2012/02/02(木) 18:40:31.05 ID:F2FUHN4j
この前高野山行ったんだが信玄の墓もあった
天台宗なのにいいのか?
22人間七七四年:2012/02/02(木) 19:01:44.90 ID:2aef+K0d
>>20
プッwwwwwwwww
23人間七七四年:2012/02/02(木) 21:06:04.85 ID:0wYXvL9b
ある調査によると高学歴な人間ほど信長が好きらしいな
24人間七七四年:2012/02/02(木) 23:32:58.43 ID:NvjN7QCT
今回は全然伸びないなこのスレ
25人間七七四年:2012/02/03(金) 17:54:19.90 ID:RpYMFeIB
おおむね言う事は言ったからねぇ
26人間七七四年:2012/02/06(月) 23:58:54.29 ID:tcaIYODT
元々このスレは信玄を盲信して嘘八百をまき散らすだがをスレ住民がいちいち訂正することで伸ばしていたからな。

ことごとく自説を否定されてトラウマでも起こしたのか、単発煽りに終始するようになっただが相手では意味がない
27人間七七四年:2012/02/09(木) 22:50:54.71 ID:n66Y2wHQ
実験
28人間七七四年:2012/02/10(金) 12:22:57.91 ID:MMyaxrMx
最近の学会で斬新な意見が出てるな
実は信玄は三方原前に死んでたのではないかってやつ
興味ある人は調べてみ
29人間七七四年:2012/02/12(日) 08:39:16.50 ID:7raOqyhf
残虐非道鬼畜武将 武田信玄
30人間七七四年:2012/02/12(日) 09:45:04.26 ID:2xPLtBGt
既存守旧大勢力たる寺社とズブズブだっただけで、信玄は小者にすぎず。
唯一巨大腐れ既得権勢力の寺社に真っ向から挑んで壊滅させた信長は、日本最高の英雄。
この偉業は、秀吉でも家康でも実現不可能だからな。
31人間七七四年:2012/02/12(日) 13:15:24.46 ID:qxA6vKuQ
既得権益と解釈してる時点で歴史的背景が全く理解出来てない。
しかもそれを無法に剥奪する側が乱賊で京を燃やし、恐喝し、
虐殺し自分に反する者は全て敵と思考する悪逆無道の独裁者。
結局、安国寺の指摘通りに無道過ぎて、
家臣に虐殺された自業自得のキチガイとして歴史に記されただけ。
ラッキーだったのは秀吉という天才が瓦解したのちの畿内軍閥争いを速やかに収束させたために、
信長の事業を継承したと歪曲解釈されてきた点か。
32人間七七四年:2012/02/12(日) 13:52:51.25 ID:sH3PWD7b
安国寺の予言なんて「信長はいつか死ぬ」程度のものだろ
予言通りなら1578年の時点で信長死んでるはずだが
33人間七七四年:2012/02/12(日) 16:33:49.29 ID:q/8Yzy0V
>>92 そもそも安国寺がそんなに先見の明があるなら西軍につかんだろ。
34人間七七四年:2012/02/12(日) 17:03:42.97 ID:pUG9QtkD
安国寺は秀吉とのパイプを生かして出世しようとしてる奴だからなー
それで毛利から良く思われてなかったし
いくらなんでも主家の手前「織田が天下取ります!今のうちに織田に降伏すべきです!」とは言えないもんな
35人間七七四年:2012/02/12(日) 21:23:54.92 ID:2xPLtBGt
>>31
一行目、意味不明。
ただ単に、いちゃもんつけたかっただけだから、そんな支離滅裂な駄文となる。
オツムの底の浅さが透けて見えるぞ。

乱世を統一するには、反対勢力を例外なく駆逐するか臣従させるしかない。
そんな初歩さえ分からん脳死空脳君。

信長は明治新政府の政策や軍制を、既に三百年前にやっていた天才。
しかも信長ほど民衆に善政を施した為政者はいない。
ま、妄想と史実の区別さえつかなくなった脳死空脳君に理解できないのも尤もだが。

四方を旧勢力の敵に囲まれていれば、様々な切り崩し工作を受けるのは当たり前。
なのに全守旧勢力を一手に引き受け、完全勝利した信長は、どう見ても大天才。
あの程度の離反で済んだのは、信長だから。
信玄なら本願寺に敵対を決めた時点で、家中は分裂し統制は崩壊だ。

秀吉なんて信長が九割方仕上げた天下統一事業を、それまでの惰性の推進力でやっただけの二流武将。
だから惰性の推進力が切れた大陸侵攻は、見るも無残な大失敗。
これ以上ない絶好の条件を与えられて絶好の環境下で天下統一した秀吉こそ、史上最高の過大評価。



>>32
恵瓊は信長に対しては敵側だったので客観視でき冷徹な評価も可能だったが、
関ヶ原の時点では既に豊臣家とズブズブの関係だったので、反家康になるしか選択肢はなかったんだが。
状況や環境の変化を考慮に入れないとは、浅はかも過ぎるな。
36人間七七四年:2012/02/13(月) 06:49:56.87 ID:nZ9GUH/v
信長は上京燃やして略奪しまくったから
京での支持が得られず、
結局公家の既得権益を返却するために
公家限定で徳政令を出して、
俺に直接仕えろって命令して、
其代わりに信長も公家にして貰って喜んでんじゃん。
安国寺の予見通りに公家になって数年したらたか転びの通りに、
罠にはまって公家になるバカ長w
37人間七七四年:2012/02/13(月) 14:13:08.51 ID:+uSZYDLv
>>35
敵側で客観視できるわけないだろ。

>>36
既得権益っつー言葉使ってりゃなんでも否定できるとは思うなよ?
まーお前のことだからもし信長が公家から完全に領地を没収したりしたらそれはそれで文句つけるんだろうけどなw
38人間七七四年:2012/02/13(月) 15:47:06.94 ID:Brwo6do2
ただの願望を予言扱いされて安国寺も可哀想だけどな
そんな予知能力あるんなら吉川の寝返りくらい看過しろよと言いたいところだが
39人間七七四年:2012/02/13(月) 19:41:17.52 ID:QKVXOcXr
信長こそ旧勢力そのものだし…
40人間七七四年:2012/02/15(水) 11:08:47.50 ID:ofDHxfV9
>>36
天正2年正月に早くも信長は義昭に土下座して京へ
帰ってきて下さいと頼んだがガチに拒否られたからな。
だから公家に徳政令出して関心を買うしか京を統治する策が無かった。
相変わらず構想や計画なんてなくなり、
バブロフ犬並みの行き当たりばったりなのが信長。
41人間七七四年:2012/02/15(水) 14:55:57.19 ID:MuQLiR9q
>>40
義昭から人質とってる信長が「土下座」w
珍解釈もいいところだな
信長が朝廷を大事にしてるのはそれ以前から。
もう少し勉強しようね。
42人間七七四年:2012/02/15(水) 17:53:35.35 ID:AhVmCmF6
信長が義昭の生まれたばかりの
0歳の赤ん坊だった義尋を擁立しても
京なんて治められないだろw
大事にしてたら上京を焼失させ
下京で恐喝して
大殺戮&略奪大会なんてやらんな。
43人間七七四年:2012/02/15(水) 17:58:20.31 ID:MuQLiR9q
>>42
史実で治められてるじゃねーかw
大事にしてるのと上京焼き討ちは関係なし。
44人間七七四年:2012/02/15(水) 19:21:34.42 ID:7Vqb0r2k
だがの考える史実はこうだから

1572年 武田信玄が三方が原で徳川家康を破る 方々に調略済みで信長は滅亡秒読み

1573年 武田信玄が足利義昭の求めに応じ上洛 織田信長は適当に伊勢あたりに逃亡
    
    武田信玄が病を得て本拠地に帰る途中死去 跡を継いだ勝頼は無能で信玄が取った領土をほとんど放棄

    織田信長が便乗して周囲で虐殺を繰り返す

1582年 無能な武田勝頼のせいで武田家滅亡 しかし調子に乗った信長は本能寺で死去 これにより織田家も滅亡

45人間七七四年:2012/02/15(水) 21:39:48.51 ID:/qmRG7+Q
元亀4年正月に義昭家臣に宛てて信玄が書いた
賊徒織田非難の大義名分の書状を
天皇が手に入れて自筆筆記してる時点で…
46人間七七四年:2012/02/15(水) 22:32:36.01 ID:7Vqb0r2k
本能寺で信長死んだ直後に光秀さん光秀さんやっていた当時の朝廷じゃあな・・・
信長が負けることも考えて信玄に媚び売るための材料にしたとしか思えんな
47人間七七四年:2012/02/15(水) 23:42:33.83 ID:/qmRG7+Q
信玄西上に呼応した長島一向衆の日根野弘就
が岐阜城の近くに砦を造ったのも阻止出来ない信長w
48人間七七四年:2012/02/15(水) 23:55:20.14 ID:MuQLiR9q
地名が書けないのは都合が悪いからかね?w
49人間七七四年:2012/02/16(木) 02:04:15.92 ID:Te3msQHv
今川没落後は西上し近江へと向かい、近江の土豪の今井秀形・島秀安らと誼を通じていた[10]が、やがて浅井長政に仕えた。しかし、元亀3年(1572年)冬には既に浅井家を去っており、長島一向一揆に参加して岐阜にほど近い新砦の守備にあたっている[11]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%A0%B9%E9%87%8E%E5%BC%98%E5%B0%B1


だがさん見損なったわーw
50人間七七四年:2012/02/16(木) 02:23:30.77 ID:gG6idrcU
山梨県内で悪口言うと村八分にされるのは有名でだぞw
51人間七七四年:2012/02/16(木) 06:43:43.72 ID:O+w2CaSp
一次史料の書状でも岐阜城の近くに砦を造ったって書いてるから動かし難い事実。
地名は書状にも書いてない。
52人間七七四年:2012/02/16(木) 07:59:16.84 ID:738/uGzr
河内長島って岐阜城の近くですが
53人間七七四年:2012/02/16(木) 12:35:56.27 ID:LNX9PDST
>>52
近くねーよアホか。
54人間七七四年:2012/02/16(木) 15:20:27.53 ID:mOm7Ubha
>>51
んじゃ、さっそく日付と宛先を書いてもらいましょーかいw
55人間七七四年:2012/02/16(木) 23:15:28.71 ID:hjAt5Y3i
>>47
元亀4年1/17顕如書状だね。
遠江、三河、尾張、美濃の門徒が信玄に協力すると報じたり、
家康のお膝元の岡崎市にある勝鬘寺が近日中に蜂起準備完了。
信長に対しては去年冬に長島門徒が岐阜城付近に要害を構築した。
越中には加賀一向衆かま派遣されたと報じてる。
戦国遺文武田4062と静岡県史資料編8巻590
>>54
カス長厨乙w
56人間七七四年:2012/02/17(金) 03:24:47.75 ID:YNBhM3lU
元亀4年の1月17日っつったら信玄がちんたら野田城を攻囲していた頃じゃん。
そんな頃に気の早い壮大な作戦を顕如は立てておきながら信玄死んだくらいで一瞬にしてフイにするのか。

浅井長政の南近江封鎖策といい小島明氏文書といいほんと反信長勢力はやるやる詐欺しかしねーんだなw
57人間七七四年:2012/02/17(金) 07:58:26.89 ID:zxYsu5sa
民主党のマニフェストだな。まるで。
58人間七七四年:2012/02/17(金) 12:57:55.55 ID:e6aSL3CG
>>55
よしよし。
じゃあ次は原文だ!
59人間七七四年:2012/02/17(金) 19:44:55.95 ID:Jk4Nhxj5
>>56
しかもだがによると織田は乞食兵1万しかいないのにな。

乞食兵1万にビビッて義昭や長島を見捨てる顕如。
60人間七七四年:2012/02/17(金) 20:43:14.79 ID:e6aSL3CG
そして岐阜と長島の位置関係がよくわかってない顕如。
まあ石山から出たことなんてほとんどないだろうから無理もないか…
61人間七七四年:2012/02/18(土) 13:14:28.53 ID:FvgoT/U7
>>37
敵側の力量・戦力を客観視できなきゃブザマに戦死するのみ。
利に敏い切れ者揃いの戦国武将は君とは違うのよ、オホホ。
因みに、太平洋戦争で無残な大敗北を喫した無能日本海軍でさえ、日米の圧倒的戦力差は客観視していたぞ。
そんな事さえ知らんのか、君は。
学校行ってた?

62人間七七四年:2012/02/18(土) 14:07:23.58 ID:5lYeWNaC
書状がでてきて織田厨大慌てw
もう少し考えて反論しないと中身がスカスカwww
63人間七七四年:2012/02/18(土) 14:10:32.08 ID:FvgoT/U7
>>40
何回そんな与太話書き込んでんだ。
いつ義昭の息子が足利第十六代将軍に就いたよ。
妄想と現実の区別がつかないくらいラリッてしまったら、そら人間として終わってるわな。
64人間七七四年:2012/02/18(土) 15:35:00.54 ID:t6B3Qmoc
どこに義昭の子供が将軍に就いたなんてレスがあるんだ?
65人間七七四年:2012/02/18(土) 22:33:14.91 ID:gkVWiPto
>>58

旧冬勢州長嶋より申付
濃州之内ニ新要害を相構、
日根野備中守入置候
岐阜与其間三里有之所ニ候
日々及行由候

時間無いから後はきっちりとアホでも見つけられるソース明示しとくわ。
元亀4年1/27顕如文案の上『集成』三、601ページ
66人間七七四年:2012/02/18(土) 23:11:47.22 ID:Yxm0GPEE
時間無い割に1時間以上前から別のスレを見ておられるようですが…w
67人間七七四年:2012/02/18(土) 23:13:18.79 ID:FvgoT/U7
>>65
読めねぇよ。
現代文に翻訳しとけ。
その程度の心配りもできんとは、人間として全然なってないな。
68人間七七四年:2012/02/18(土) 23:19:55.22 ID:mQsw18xk
だがの逃げる準備ワロタw
よっぽど突っ込まれると困るらしいww
69人間七七四年:2012/02/18(土) 23:46:30.33 ID:R8gIN0N6
>>65
その記述や天正元年9月の第二次長島侵攻での織田軍の退却での追撃で、
元亀2年の退却同様に大打撃を受けて、
信長公の一の長の林新次郎(道政)討ち死にも含めて、
一向一揆論の金龍静氏も、
すでに尾張国海津郡一体はほぼ全てが一向衆化していたと書いてる。
第二次侵攻時において恐怖とパニックで周りが全て敵に見える信長は、
深谷部の近藤氏は禅宗に帰依してたのに一向衆と誤認して攻撃してる体たらく。
海津郡失陥は重大な事件で、
これにより尾張から近江へ行く街道が封鎖されてしまい蒲生は敵中孤立。
蒲生が朝倉に帰属するのもうなづける。
また伊勢大湊に伊豆の大船が着岸していた事実から、
甲相同盟に基づき、
北条水軍まで伊勢湾に支援に来ていた。
70人間七七四年:2012/02/19(日) 00:21:30.51 ID:MOHEK543
おまえ蒲生氏の拠点である日野城がどこにあるかわかってねえだろw
観音寺城や長光寺城といった織田軍主要拠点のさらに南側だぞ。ついでに美濃よりだ。

蒲生が仮に反信長勢力に寝返ったらそれこそ織田勢力に囲まれて敵中に孤立するわw
71人間七七四年:2012/02/19(日) 00:57:17.13 ID:cXNg1Kg/
>>70
お前さ、日野城や海津郡の位置を全く理解してないだろ超ワロタw
72人間七七四年:2012/02/19(日) 01:37:26.57 ID:TXveJRJQ
>>71
お前は尾張国に海津郡が存在しない事を知らないみたいだな。
明治以降にできた郡だぞ、それ。
73人間七七四年:2012/02/19(日) 02:33:15.76 ID:MOHEK543
>>71
おうむ返しして虚勢張っている暇があったら日本地図くらい見ておけw
近江日野城から尾張まで直線距離で結ぶ街道なんて皆無。
尾張どころか伊勢へ行くのすら困難を極める。

道なき道の続く山脈だらけのところを行き来する手段がなくなっただけですぐ近くの平野部にいる織田から寝返るのか。
斬新すぎる解釈だなw
74人間七七四年:2012/02/19(日) 06:42:29.22 ID:hLmwNxis
>>72
誰も元亀期に海津郡が尾張にあったなんて書いてねーだろw
なに歪曲捏造してんだ。
金龍静氏が論文で海津郡と書いてるから原文に従って歪曲せずに書いてるだけ。
ただ俺は海津郡全域だと尾張の他に伊勢や美濃の一部も含まれてしまうので、
流石に広過ぎると思ったから尾張側のみと付け足して範囲を狭めただけ。
金龍氏は広範囲に渡って一向衆化したと書いてるが、そこまで信長が失地してはいないだろうと個人的に感じただけ。
ちなみに年未詳8/16書状に、
郡上安養寺乗了披露状•最勝寺専賢披露状という願証寺の下間豊前法橋宛書状があり、
郡上の遠藤と安養寺等の惣門徒が申し談じて郡上郡の境目に一城を構えたので、
岐阜に送られていた郡内の惣人質が全て殺害されたので、
顕如が両遠藤氏に御香物を下され、
御諚次第与覚悟、長島の備えも堅固と伝える書状がある。
だから長島陥落前の時期に書かれた書状だろう。
75人間七七四年:2012/02/19(日) 06:48:49.07 ID:hLmwNxis
>>73
日本語が不自由で無ければ、
八風街道/千草街道が六角、仁木、一向衆影響下に置かれたと理解出来ると思うが。
76人間七七四年:2012/02/19(日) 08:10:38.86 ID:MvK+LWGf
信長って良く生き残ったな
家臣や美濃衆が優秀だったのか?
77人間七七四年:2012/02/19(日) 08:20:07.98 ID:0oZrbEOu
第二次長島侵攻で北勢の国人が1万の乞食兵にびびって次々と人質を
出して降伏しているのに海西郡・海東郡が一揆勢の勢力範囲になったとは
とてもいえないだろう。

それに第二次長島侵攻は浅井・朝倉が消えた後。かりに海西郡・海東郡
が一揆方に落ちたとしても中山道と北勢はは織田が制圧しているわけだから
孤立しているのは朝倉に付いた蒲生ということになるな。
蒲生が織田についているなら孤立なんてしていないけどね。

その後一年後の1974年7月には海上からも封鎖されている。金も兵糧もなく
1572年4月の時点で1万の兵を維持する事も難しく伊勢湾の制海権も武田に抑えられた
織田家が1573年9月で北条水軍まで伊勢湾に来ていることから、1574年6月に
武田から伊勢湾の制海権を奪い返すのは不可能である事がわかる。

という事は1974年6月の第三次長島侵攻には伊勢湾の制海権を持っていた
勢力が協力したのは間違いない。武田・北畠・北条が織田に協力して
長島を一緒に攻撃したのが良く判るな。
78人間七七四年:2012/02/19(日) 08:27:15.25 ID:MOHEK543
>>75
千草街道なんて蒲生氏の日野城付近なんざ全く通ってないぞ
八風街道にしても確かに行けない距離ではないが別に使う必要すらない。
伊勢方面を使わずとも近江方面から本国美濃への連絡ルートは確保されてるし、
そもそも琵琶湖方面の平野部に出ればすぐ近くに織田方の拠点がある。

万が一君の言が真実だとしても立地的に考えれば六角に帰属するのが当然で、
六角や織田を飛び越えていきなり朝倉に帰属したという山県書状はやはり無理があると思うのだが。
79人間七七四年:2012/02/19(日) 11:06:32.00 ID:iFPeB3vr
だがには論理的思考というのが出来ないから
だから上田原は武田の勝ちだの秀吉は毛利に屈服しただの電波を出す
まあ大学受験に失敗して40過ぎまでニートやっている奴だから仕方ないか
80人間七七四年:2012/02/19(日) 13:05:41.37 ID:P+sErgHu
岐阜与其間三里に要害だから
海西郡・海東郡が一揆勢の勢力範囲になっているのは
間違いないな。
そして近江での織田は琵琶湖岸の街道筋しか維持してないのだから
蒲生が孤立してしまっているのは間違いない。
織田は佐和山城方面からでしか近江には出られない状態。
81人間七七四年:2012/02/19(日) 13:10:29.35 ID:P+sErgHu
>>74
郡上郡の境目に一城ってのは鉈尾城のことだから
その書状は元亀3年のことだな。
82人間七七四年:2012/02/19(日) 13:56:20.58 ID:scTxAKXy
信玄→朝倉宛元亀3年11/19でも、
郡上之遠藤向岐阜なたをの取出(鉈尾城)
早々可築之旨
などと報告してるね。
83人間七七四年:2012/02/19(日) 14:04:33.60 ID:MOHEK543
>>80
いやいや孤立しているとか妄想解釈はいいんで
孤立しているんならなんで天正元年の鯰江城攻めに蒲生右兵衛の名前があるんすか?w
84人間七七四年:2012/02/19(日) 14:17:55.68 ID:scTxAKXy
六角が天文11年10月に北畠を破って
仁木氏の旧領だった北伊勢の朝明郡と員弁郡を奪取してる。
仁木義政は六角義久の弟で、仁木氏の養子。
北伊勢と伊賀を領国にして伊勢義昌を名乗っていた。
義昭が越前に行って義景邸を訪問した際に、
義景の貢献者のように義政は振舞って出迎えてる。
仁木義政も元亀4年2月に反織田で挙兵してるから
蒲生も反織田で無ければ即日滅亡してたはず。
85人間七七四年:2012/02/19(日) 14:33:06.68 ID:TXveJRJQ
>>74
知らなかったんだな…w
だからモロに「尾張国海津郡」なんて書いちゃったんだろ?
「海津郡全域だと尾張の他に伊勢や美濃の一部も含まれてしまうので、流石に広過ぎると思った」?
だったら『海西郡』って書けばいい話w

>>77>>80
海東郡は海津郡に含まれてません。
86人間七七四年:2012/02/19(日) 14:37:49.78 ID:/pcF7kQ1
>>83
ひょっとして信長公記がソース?
>>85
論文に海津郡と書いてるなら間違いじゃないだろーね。
海津郡全域が一向衆化したなら、
信玄が岐阜攻めしたら即日陥落するだろw
織田厨涙目必死乙
87人間七七四年:2012/02/19(日) 14:39:17.49 ID:TXveJRJQ
>>86
論文は二次史料ですが???
88人間七七四年:2012/02/19(日) 14:39:45.19 ID:MOHEK543
江源武鑑のような偽書扱いされている史料まで鵜呑みかよw
まあそれは意見が分かれてるからいいんだけども

そもそも元亀4年の2月なんてもう反信長勢力なんざジリ貧
この後数ヶ月もせず足利が滅亡するんだから。
そんな時期に伊賀の領主が兵挙げても大勢に影響なぞあるわけない。
実際仁木義政はその後近江石山、堅田で籠城して以来史料に名前が載ることなく没落している。
89人間七七四年:2012/02/19(日) 14:41:25.77 ID:MOHEK543
>>86
言うまでもない。
まあ江源武鑑のような史料をソースにしている君に比べればよほど信憑性があると思ってはいるが
90人間七七四年:2012/02/19(日) 14:55:22.12 ID:/pcF7kQ1
信長公記なんて捏造軍記がソースよりマシだろ。
公記に登場しない人物が出てくるから偽書とか江戸時代に決めつけられた時点で思考停止とかアホ過ぎ。
信長に都合が悪いものは全部ウソですかw
さすが太田牛一同様の信長マンセー狂信者w
じゃあこの時期の伊賀の国主は誰だったんだよ?
91人間七七四年:2012/02/19(日) 15:00:16.25 ID:MOHEK543
おまえマジでアホなんだなw

江源武鑑が世に出たころは信長公記なんてドマイナー史料
大体信長公記なんてつい10数年前にようやく再評価されはじめてるくらいなのに、
そんなものを江源武鑑の偽書の根拠にしてるわけねーだろw
92人間七七四年:2012/02/19(日) 15:53:04.83 ID:uJBcV8iY
>>85
>海東郡は海津郡に含まれてません。
ごめん海部郡と勘違いしていた。
海津郡だと岐阜県側の海西郡と石津郡の南半分だったな、ありがと。

>>80
という事は六角は愛知・神崎はおろか犬上・坂田まで勢力を持っていたということだな。
つまるところ蒲生の周りは全部六角の勢力圏だったてわけだ。
それなのになんで蒲生は朝倉の傘下になったの。

>>86
そんなに信玄を馬鹿にするなよ。そんな好機だったにもかかわかず三河で
うろうろしてしている無能になるんだからさ。

>>90
簗田政綱は信長公記にほとんど出てきませんがとても有名人でしたね。
93人間七七四年:2012/02/19(日) 16:16:18.22 ID:P+sErgHu
元亀3年10/5の朝倉景亮書状

先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言

蒲生下野入道殿御陣所

近江で信長が支配していたのは主なところで
佐和山・横山・観音寺(一時奪回されたりしてるが)・大津・坂本など
琵琶湖南岸に沿った街道沿いだけであり、その南は六角支配下である。
また天野川以北は湖北十ヶ寺一揆支配圏を構成しており
姉川南部ですら、いまだに安定統治が為されていないのが織田。
大津を維持していた山岡景隆の弟の山岡景友が義昭から山城半国守護になり
近江で有力な山岡家まで分裂してる始末。
秀吉が旧浅井領の一職支配を任されたわけだが
実際は浅井が支配していた全域を任されたわけじゃなくて
浅井が滅亡した時点で浅井が実効支配していた地のみの支配だった。
そのため先の天正元年8月に降伏した山本山城の阿閉氏
(伊香郡の一部・浅井郡菅浦&大浦下庄)
については秀吉には与えられず、阿閉氏は信長直参扱いになっている。
よって秀吉が与えられたのは坂田郡(天野川以北)から
浅井郡を挟んで伊香郡(木之本町)以南の地域でのみ秀吉発給文書がある。
この部分はそのまま湖北十ヶ寺一揆支配圏内であり、
要するに秀吉がいた横山城や虎御前城は敵中に孤立した
大海に囲まれた小島のようなものでしかなかった。
「織田軍が攻略済みの佐和山や横山も街道沿いなように」と書いてるわけだが読めないのか?
さて朝倉は西近江幕府奉公衆高島七頭と抵抗し背後の敦賀へ織田軍が進撃できないようにしてる。
浅井は湖北十ヶ寺一揆から軍事&兵糧支援をしてもらい篭城。
六角は三雲氏など南近江国人達(蒲生を除く)や一揆衆に支えられ、
天正元年4/11鯰江城の六角と挙兵した百済寺を攻撃のため義昭と和睦するや即進撃。
9月鯰江城が落城するも石部城へ後退。
天正2年4/13六角義賢が石部城で抵抗後に三雲氏の本拠地の信楽に向けて退城し、
この時に敵を追い払った山中山城に感状を12/24に出してる。
(この間に勝頼が美濃明智城と遠江高天神城を攻略し、信長は越前での一揆を危惧)
信長が近江で維持してるのは面では無く点でしかない。
多胡宗右衛門ら高島七頭らに邪魔されて
琵琶西岸を北上して朝倉の退路を断つ動きすら
一切取れなかった。
だからちょっと信長が京に入ったり岐阜へ帰るとすぐ
彼らや六角や一向宗がゲリラ化して
京への通路に砦を築いて背後を脅かす。
94人間七七四年:2012/02/19(日) 16:16:43.94 ID:P+sErgHu
山城北部は義昭配下の山本・磯貝・渡辺ら
南は淀城に石成友通
南山城は真木島
木津川辺は松永
元亀3年12月には三好康長・篠原自遁・大和守らが大山崎で禁制出す。
山城東部は義昭に山城半国守護に補任された山岡道阿弥が一揆と連合してるし、
山城西部の西岡一揆の主力は36国人で構成する西岡被官衆だし、
どう考えても荒木や細川が領地を維持していたとは思えない。
12/12に信玄は当年過半任存分候と言っていて
美濃の過半は武田方になったといってるし。
だからこそ来春の岐阜攻撃だからね。
信玄が言ったように、まさに信長滅亡の時がきたんだよ。

近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
山岡家の領地は栗太郡と志賀領であるが、すでに志賀郡が失われているのか、
山岡家が反織田側に内通していたのがわかる。
山岡景友が志賀郡を手中にしていたのか、それとも景隆や景佐も両天秤をかけていたのか。
95人間七七四年:2012/02/19(日) 16:29:21.19 ID:MOHEK543
当時の浅井長政が京にほど近い志賀郡を手に入れるには

琵琶湖をわたって孤立しやすい対岸の志賀郡を狙いに行くか、
付近に存在する織田方拠点全て突っ切って志賀郡もろとも手に入れる必要がある。

志賀郡のみを狙いに行った場合琵琶湖の接岸地点を封鎖されると終わる(実際志賀の陣でも浅井朝倉は退路の堅田を取られるのを恐れて攻撃した)
ため、可能性はかなり低いだろう。となると織田主要拠点を全て浅井が落として志賀郡を手に入れたということになる、

が、まあおわかりのようにこの頃は浅井が織田に対して攻勢に出ることはついぞなく、むしろ追い詰められている側で
近江に点在する織田領をぶち破って志賀郡まで勢力を伸ばすことなお夢のまた夢。

結果的に浅井長政が武田信玄に期待させて上洛させるために虚報を用いていたということに他ならない。
96人間七七四年:2012/02/19(日) 16:39:50.45 ID:pxSs4PFu
それなのに信玄死去後、半年程度で本願寺以外の主な反信長の勢力はあっという間に駆逐されてしまうんだなあ…
97人間七七四年:2012/02/19(日) 16:51:31.70 ID:P+sErgHu
>>91

沢田源内が生まれたばかりの1621年(1615年に大坂夏陣)に江源武鑑が
出版されて好評な為に増版が繰り返されて熱心に愛読されたベストセラーだった。
まだ当事者達の多くが生きている時代であるのに異論が出なかった。
まぁ虚偽が堂々と書かれてもバレる時代だし
そしてその記述における六角家系に対して批判が始まったのは1700年代。
江戸時代中期に六角氏の子孫同士の嫡流争いになり
源内や氏郷が故人となって反論不可能なことを良いことに
あれはウソと一方的キャンペーンで声高に喚いて、自分の主筋の佐々木高重が嫡流だと
建部賢明が主張して回っただけだろ。
戦国時代も終わって百年以上経過しており
信長公記にも載っていない六角氏の人物が登場することから当時は説得力があった。
しかし江源武鑑初版が出版された頃に生まれた源内と氏郷を誤認し
沢田源内と佐々木氏郷を同一視するデタラメの三重奏w
(そもそも没年が30年以上も違う)
さらに完全な別人なのに、江源武鑑を書いた嘘つき源内が現代に生きてたら
俺がぶっ殺してやったのに悔しいとか言ってたら、
今度は「いやお前んトコも庶流だろ。義治は弟の大原高定に家督譲ってねぇよ。
だいたい無許可でいろいろ引用すんなよカス」って義治の子孫の佐々木定賢に激怒されてるしw
キチガイぶりを発揮して人格的にも疑われる建部賢明の主張を信じろと?
自分の主家こそ佐々木嫡流と必死に主張してた建部賢明なんて
大嘘つきだし、 反論の恐れが無い故人を批判し
六角氏末流と自ら名乗る建部賢明の著の大系図評判遮中抄だって1700年代に出版だろう。

>>95
西近江幕府奉公衆高島七頭とか無視ですかw
多胡宗右衛門へ朝倉が援軍を派兵したりしてるから
織田軍は琵琶湖西岸を北上して敦賀を攻めて
小谷に援軍に来た朝倉の背後を閉じることも不可能だったんだがw
常識的に考えて湖北から湖西を進軍して志賀郡へ入れば
簡単に入京も可能なんだけどw
98人間七七四年:2012/02/19(日) 19:38:58.63 ID:MOHEK543
>>97
>>西近江幕府奉公衆高島七頭とか無視ですか

高島七頭って足利幕府奉公衆って浅井からすれば第三勢力じゃん。
この時点でこそ反信長で一致しているけど志賀の陣の頃とかもろ敵勢力だったわけで
そんな第三勢力をアテにして分断されかねないところに領地取りに行くのか?
しかも志賀郡は京に通じる場所で当然信長からの侵攻が予想されて守り難いというのにか?

>>キチガイぶりを発揮して人格的にも疑われる建部賢明の主張を信じろと?

いやいや偽書かどうかってのはまだ学説的にも決定されてないからここではどうでもいいんだよ。
問題はその偽書説の根拠に「信長公記との比較」は全くと言っていいほど関係がないということ。
そもそも認知されてなかったからな。
99人間七七四年:2012/02/20(月) 08:46:16.19 ID:DiRFT6kh
志賀の陣の時は
義昭と信長の関係は破綻して無かったから
浅井や朝倉と敵対してただけなのも知らんとか無知過ぎて笑えてきたw
あのね、信長にみんな従ってたと妄想してるみたいだけど、
その認識を改めないと
話が噛み合わ無いから。
義昭と信長が敵対したことで、
信長はたった一万しか動員出来ないまでに離反されたわけで、
お仲間は荒木と細川以外はみんな信長から去ったわけだよw
100人間七七四年:2012/02/20(月) 10:15:35.50 ID:SjjTgEmV
そっか。そこまで追い込められたのに、武田が4月に軍を返しただけで、
7月、再度挙兵した義昭を追放、
8月、浅井配下の阿閉の降伏を端緒に一気に攻め、まず朝倉を、返す刀で浅井を滅ぼし、
11月、若江嬢を攻め三好義継を自害に追い込む。
翌年9月には、長島一向一揆を完全制圧。

信長って凄くね?
101人間七七四年:2012/02/20(月) 11:04:30.87 ID:sWqJXnfp
凄いな
そんな状況から一気に巻き返したのか
信玄じゃとてもできない芸当だ
102人間七七四年:2012/02/20(月) 19:01:03.53 ID:J3hQE44W
>>99

いや>>98からずっとそういってんじゃん。理解力もないのか?
俺が言いたいのは「つい1年前まで親信長だった高島七頭をアテにして浅井が勢力拡大に飛び地の志賀郡を取りに行くのか」ということであって。
大体反信長になったからといって浅井の味方になったわけじゃないから。ただえさえ高島七頭の上の義昭は勝ち馬に乗ろうとしただけの後追いだったのに
103人間七七四年:2012/02/21(火) 21:03:13.17 ID:j80MHZ/K
一年前まで高島七頭が親織田だったとするソースは?
104人間七七四年:2012/02/21(火) 21:36:36.85 ID:FXnUj0bj
641 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2012/02/21(火) 19:33:42.81 ID:j80MHZ/K
>>636
ソースは?


こっちでもヤッテター
105人間七七四年:2012/02/22(水) 00:04:19.07 ID:hDeAZiI2
>>103
高島七頭は足利奉公衆
足利奉公衆の上司は足利義昭
足利義昭は志賀の陣で信長の和議を斡旋(主導?)

ちなみに高島氏から分離した朽木氏の当主朽木信濃守は信長の金ヶ崎撤退を助けているね。
106人間七七四年:2012/02/22(水) 01:00:47.53 ID:AgZ48Wfl
なるほど、朽木はそういうつながりだったんだ
107人間七七四年:2012/02/22(水) 15:48:35.87 ID:BSFpEmKA
なんだよ、根拠なしかよ。
じゃあ親義昭であって
親織田じゃねぇじゃんか。
やむなく義昭の指示にしたがって
織田に協力してたに過ぎんだろ。
義昭が内心では信長を疎ましく思ってたのを
奉公衆だって知ってただろうしな。
108人間七七四年:2012/02/22(水) 17:28:23.34 ID:bUPYj0u2
妄想元に否定
楽だな
109人間七七四年:2012/02/22(水) 18:33:00.13 ID:BSFpEmKA
>>108
妄想じゃねーよw
永禄12年に義昭が父と呼んで北畠征伐に出発する信長に涙まで流して送った義昭
北畠に大敗して追撃が怖くて退却すらできなかった信長のために
義昭が急いで北畠と織田の和睦を斡旋してあげたので帰洛した信長は
恩ある義昭と衝突してキレて岐阜へ帰る。
朝廷が山科を派遣して信長と義昭の和解斡旋した際に信長は
元亀元年正月23日に五か条の屈辱的要求を義昭に飲ませた。
義昭が信長に反感を持ってるのは明らかなんだがw
110人間七七四年:2012/02/22(水) 18:59:34.75 ID:WWdpmG+D
妄想じゃねーか
111人間七七四年:2012/02/22(水) 20:46:47.32 ID:A89HLZbl
織田チョンは相変わらずクズだな
112人間七七四年:2012/02/22(水) 21:26:29.47 ID:bUPYj0u2
>>109
ナニナニでというのはお前のこじつけだろw
小説家にでもなればいいと思うよw
事実と事実の間に自分の妄想混ぜて、関係者の心情を察するのがお得意なようですしw
113人間七七四年:2012/02/22(水) 23:12:35.40 ID:PUPSZzad
親義昭=親信長ニダ!
とかw
織田厨キチガイ過ぎwww
114人間七七四年:2012/02/23(木) 04:04:24.94 ID:iEALJTpw
>>113
キミが>>103で聞いたことは>>105で完璧に説明されておりますw
115人間七七四年:2012/02/23(木) 19:43:25.34 ID:I5Y8Dtbu
そもそも高島七頭が元亀元年時点で親織田、というか織田に協力してなければ
金ヶ崎で帰ってこれずに首級が野晒になっていてもおかしくなかっただろ・・・

それがやむなくであろうが本心であろうが結局は協力しているわけで元亀元年では信長義昭体制の側
確かに元亀三年時点では信長・義昭が完全に対立して義昭含む反信長側に立ってはいるが、
所詮行き場を失ってかつての仇敵を頼った足利義昭の部下なんだから浅井からすれば信をおいて飛び地を取りに行くなんてのはリスクの塊
116人間七七四年:2012/02/23(木) 23:35:00.38 ID:CvP+I76x
>>115
信長が金ヶ崎で京に帰れたのは
親しい松永久秀が高島の朽木元綱を説得して通過許可を手に入れたから。
しかしその松永は信長から離反してるから
織田の話の前提がすでに崩壊してるな。
117人間七七四年:2012/02/23(木) 23:35:46.30 ID:CvP+I76x
>>115
信長が金ヶ崎で京に帰れたのは
親しい松永久秀が高島の朽木元綱を説得して通過許可を手に入れたから。
しかしその松永は信長から離反してるから
織田厨房の話の前提がすでに崩壊してるな。
118人間七七四年:2012/02/24(金) 01:02:54.92 ID:QJ+Ed7Wn
>>115-117
軍記物ソースはいらんよ
119人間七七四年:2012/02/24(金) 02:34:28.07 ID:IHc0pkDJ
>>117
元亀三年時点で親織田と言うつもりはないよ
そこで親浅井じゃないのに浅井がわざわざ信長に
攻め込んでくださいと言わんばかりの志賀郡手に入れる必要はあるか?
120人間七七四年:2012/02/24(金) 20:49:13.49 ID:hORpuViq
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで柴田が落とせずに苦戦してるじゃんw
坂本の明智軍はすでに崩壊してるし。
すでに琵琶湖西岸はことごとく義昭側。
大津で柴田が立ち往生して入京すら出来ず。
2/23に信玄撤退したから上洛する発言してた信長だが、戦況悪化と兵力が集まらず
まったく動けず義昭に土下座交渉を継続する始末。
義昭が信長の人質を突っ返し断交するに及んで、
やっと3月末に信長は上洛するも味方は細川と荒木だけでみんな離反。
自暴自棄の信長は京を地獄にして略奪殺戮しつつ、
天皇に和睦斡旋哀願。
和睦したら即日、背後の六角と一揆衆を攻撃しに帰るほど切迫した情勢。
しかも六角を攻め落とせない。
そのうち信玄死亡情勢が流れる。
すると情勢は織田優位に一変。
天皇の威光と信玄死亡に助けられただけなのが信長
121人間七七四年:2012/02/24(金) 21:29:49.79 ID:Y57GrO/x
天皇は三好から奪ったものですが 負けた言い訳かw
徳川すら滅ぼせず死んだ信玄が生きても大して変わらないだろう
勝頼の代になっても徳川滅ぼせない無能集団だからな武田は
122人間七七四年:2012/02/24(金) 22:51:26.43 ID:FWMgDTp5
天皇が三好や織田の所有物とかバカ丸出しだなアホ長厨房って
123人間七七四年:2012/02/25(土) 00:05:02.50 ID:A8tDX+R6
てか志賀の陣って要害に立て篭もり、
織田の補給線を分断しまくり
焦って正々堂々と決戦しようぜって短期決戦しないと破滅するのがバレバレの態度とか
信長って項羽みたいだよな。
朝倉が劉邦って感じ。
124人間七七四年:2012/02/25(土) 00:08:48.79 ID:ugiUZ3zV
伊達に天皇から古今無双の名将と言われていないからな信長はw
まあ朝廷の重要性に気づけず行き当たりばったりの戦ばかり仕掛けた
無能信玄が武田当主であったことが武田家最大の災難だっただろう
125人間七七四年:2012/02/25(土) 01:13:36.33 ID:nHOsGxuz
まともに戦ってもろくに勝てないから土下座&騙まし討ちのオンパレード

人間性ゴミだから人望もなく最期は四天王にまで抜擢し恩を与えた光秀に討たれて死んだ。

武士のクズ
126人間七七四年:2012/02/25(土) 02:18:46.69 ID:DA0svG11
>>125
そのクズにやられた武田君(笑)
127人間七七四年:2012/02/25(土) 07:48:14.92 ID:18+6oyYB
武士のクズと呼ばれたのはむしろ信玄なんだけどなw
128人間七七四年:2012/02/25(土) 09:46:34.23 ID:Qm3dQLfP
結局武田はいくら織田を貶めてもその織田に滅ぼされてるから相対的にマヌケな事になる…w
129人間七七四年:2012/02/25(土) 11:13:38.84 ID:CDXuDWXI
糞なのは武田を過剰に持ち上げるだがなのに何故か同じく糞扱いされる信玄
130人間七七四年:2012/02/25(土) 14:06:36.38 ID:yHd8zryd
織田厨って結局、負け惜しみレスの連発になるんだよなw
信玄死んで10年後のことまで責任持てるかよwww
織田なんて信長が家臣に殺されてすぐ崩壊してんじゃんwww
131人間七七四年:2012/02/25(土) 14:29:04.34 ID:nHOsGxuz
信長は秀吉に滅ぼされ秀吉は家康に滅ぼされた。よって家康最強
その家康が生涯唯一やられまくり恐怖を味わった最強軍団=武田

よって武田が有無をいわさず最強 

武田>>徳川>>>>>>>>織田(笑)
132人間七七四年:2012/02/25(土) 14:29:59.74 ID:jfH4NLI0
豊臣家も秀吉死んで、すぐ崩壊してるけどな
133人間七七四年:2012/02/25(土) 14:32:12.41 ID:jfH4NLI0
>>131
惰弱小早川の寝返りと吉川の傍観頼みでやっとこさ勝った家康が最強ってか。
流石は、朽木・脇坂・小川・赤座レベルの小者だ。
134人間七七四年:2012/02/25(土) 15:45:26.28 ID:G1yd6ctS
>>131
信玄は家康の倍以上の兵力を用意してようやく勝てた。

よって信玄の実力は家康の半分以下ということになる。
135人間七七四年:2012/02/25(土) 17:12:28.38 ID:ugiUZ3zV
ちなみに三方が原の時は信玄御年52歳(享年53歳)、家康は御年31歳(享年75歳)で
信玄はほぼ全生涯費やして家康の半分以下の年齢の能力しか達しなかったという無能
136人間七七四年:2012/02/25(土) 18:21:00.24 ID:yHd8zryd
ようやく勝てた

えっ?圧勝で一方的フルボッコですが。
ついでに織田の援軍も屠りましたしw
東美濃でも織田軍を大敗させてるしw
137人間七七四年:2012/02/25(土) 18:21:16.16 ID:nHOsGxuz
2.5倍の兵力比で10倍の被害差&重臣クラスことごとく討ち死にだから相当壊滅させてるだろ
普通なら城に籠もられて厄介な所を信玄の天才的な用兵で釣り出せた訳だしな
年齢なんて全く根拠にならん
姉川や対今川・吉良戦、重臣達がことごとく寝返った三河一向一揆などみるに
家康は若年の頃でも相当な強さだしな
138人間七七四年:2012/02/25(土) 18:27:10.09 ID:nHOsGxuz
>>133
戦のたびに敵の離反と連携不足&朝廷の和議&騙まし討ちで勢力広げたはいいが
重用してた家臣に裏切られ全て失った領土拡張率0のカスがどうかしたか?
139人間七七四年:2012/02/25(土) 18:33:31.80 ID:18+6oyYB
>>136
それは戦国史研究に波紋を与えるぞ
ぜひとも合戦があったと論証してくれ
140人間七七四年:2012/02/25(土) 18:34:46.12 ID:nHOsGxuz
なんだその戦国史研究ってw

織田バンザイしよう研究会かなんかが開かれたのか?w
141人間七七四年:2012/02/25(土) 19:28:35.32 ID:jfH4NLI0
>>135
信玄は一応己の才覚で領土を拡張させたが、家康は殆どが他力本願。
前半生は信長という巨大な「核の傘」に入って安泰安泰。
秀吉の惰弱転封で濡れ手に粟の二百五十万石という焼け太り。
敵失で政権の弱みに付け込み、狂人の気まぐれの丁半博打に運良く大当たりで、雑魚共に名将扱い。
夏の陣では圧倒的戦力差にも関わらず、浪人主体の烏合の軍に後一歩で討ち取られる寸前の醜態。
よくもまぁ、これだけ幸運が続いたもんだ。
そもそも家康なんて、隣国が信長で無かったら、一生今川の奴隷だろ。
自力で奴隷の境遇から抜け出せない能無しが、信じられない幸運の連続で天下を取ったからって、何の自慢にもならんな。
142人間七七四年:2012/02/25(土) 19:32:53.86 ID:jfH4NLI0
>>136
敵軍主力が寝返れば、どんな能無しだって圧勝できる。
小早川離反までは西軍優勢で、東軍はジリ貧の戦局。
結局秀秋の気まぐれという偶発的事象により運良く地滑り的に勝っただけ。
143人間七七四年:2012/02/25(土) 19:34:49.53 ID:18+6oyYB
>>140
字義通りなんで説明のしようが無いんですが・・・
144人間七七四年:2012/02/25(土) 19:40:33.95 ID:jfH4NLI0
>>138
信長は四方の敵を一手に引き受けた挙句完全勝利。
こんな神業、信長以外では誰も実現不可能。
この偉業は、朽木・脇坂・小川・赤座レベルの小者では理解できないのも尤もだ。
しかも信長前と信長後では、日本社会の構造は劇的に一変。
信玄や秀吉、家康が何やったよ。
今の民主や自民のようなしょーもない寸土の拡張や権力闘争止まりだろぅが。
ま、大概の大事は全部信長が片付けてしまったから、そんな些事しかやる事なかったんだけどな。
145人間七七四年:2012/02/25(土) 19:50:53.23 ID:nHOsGxuz
>>141
>信玄は一応己の才覚で領土を拡張させたが、家康は殆どが他力本願。
吉良や今川の大軍を自力で突破したり譜代衆が多く離反した三河一向一揆など自力で勝利
ついでにいうと武田の猛功に対して織田は援軍を中々送らず武田への鞍替えを検討
一方徳川は姉川を始めとして織田の畿内平定戦に力を貸し、窮地に陥った包囲網との戦いでも
織田を見限らず戦った。家康が義理堅い武将で家康がいたから助かっただけなのが信長
>前半生は信長という巨大な「核の傘」に入って安泰安泰。
むしろ徳川がいたから巨大になれただけ。徳川がいなけりゃ瞬殺されるレベルでしかないのは
上村合戦東美濃攻防戦姉川などでわかる。
>秀吉の惰弱転封で濡れ手に粟の二百五十万石という焼け太り。
そら兵力比7倍程&敵の主力が雑魚で権力基盤の脆弱な信雄軍という状況で1年一杯かけて尾張半石すら切り取れず
木曾小笠原水野石川真田が離反し軍事機密が露見した状況で母と妹人質に出す雑魚だからどんな場所に家康いたってそう変わらん
>敵失で政権の弱みに付け込み、狂人の気まぐれの丁半博打に運良く大当たりで、雑魚共に名将扱い。
でも半分近くが敵な上に家康が条約反故にしてたわけだから
大義名分でいえば西軍に分があるだろ。それなのに一日で勝利して西軍主力を壊滅させ
信長や秀吉が大苦戦した畿内や美濃を瞬殺
>夏の陣では圧倒的戦力差にも関わらず、浪人主体の烏合の軍に後一歩で討ち取られる寸前の醜態。
講談ですねお疲れさん
しかもあんだけの大規模な戦いにしてはあっさり早く終わっただろ
>よくもまぁ、これだけ幸運が続いたもんだ。
まんま信長の事ね
>そもそも家康なんて、隣国が信長で無かったら、一生今川の奴隷だろ。
そもそも信長なんて斉藤が子供が当主でなく、桶狭間で奇跡が起こらなきゃ〜など無数に存在する仮定ですね
>自力で奴隷の境遇から抜け出せない能無しが、信じられない幸運の連続で天下を取ったからって、何の自慢にもならんな。
まんま織田の事じゃねえかw
自力がないから織田幕府が開かれなかっただけ
>>142
信長の斉藤戦&畿内平定戦&武田征伐の事ですね
まともには勝てず離反が起きたから勝てただけ
>>143
つまりお前の妄想という事ね
146人間七七四年:2012/02/25(土) 19:54:42.22 ID:nHOsGxuz
>>144
四方の敵が連携が悪くて助かっただけ
常に圧倒的大軍で寡兵の敵に大敗&大損害&大苦戦。

しかも信玄死ぬまでは一方的に追い詰められて滅亡寸前まで追い込まれ
信玄の死と朝廷権力に助けられただけなのが信長
信長が大苦戦した畿内や美濃を瞬殺したのが家康
147人間七七四年:2012/02/25(土) 20:31:38.77 ID:jfH4NLI0
>>145
そもそも多くの譜代衆を門徒化させてるだけで家康の家中統制に問題有り。
単に己の失態の後始末をしただけ。
織田家では有り得ない醜態。

家康は信長を見限らず戦ったというより、寄らば大樹の何とかで、
自力では戦国の世で生き残っていけない能無しなので、信長に見捨てられないよう忠犬のように尽くしてただけ。
家康の義理堅さではなく、単なる打算。
小牧長久手で信雄を利用し秀吉と一戦したのも単なる打算。
信長の権威を借りて信康始末も打算。
終生打算だけの人生。
君のその甘い見通しは小一レベル。というか今時の小一でも、こんな甘かない。

並みの武将なら、今川零落後、攻めやすい三河に侵攻だ。
が、信長は敢えて東は放置。
信長の天下戦略の一環として、家康は領土を保っただけ。
これが信玄だったら、速攻で滅亡か再び奴隷。

信長や秀吉が大苦戦した畿内や美濃を瞬殺って、これら地域は、とっくの昔に信長によって平定済だろ。
大戦さに勝てば、オセロゲームのように全てがひっくり返るのは必定。
そこまで分からん小者か。

夏の陣で真田の突撃で危うく討ち取られそうになった史実も知らんときたもんだ。
都合の悪い史実は「講談」扱いか妄想内逃げ込み。

幸運で、四方の全守旧勢力相手に完全勝利はできんのだが。
ま、草野球レベルにイチローのバッティング技術のレベルの高さを理解しろと言っても無理か。

桶狭間は凡人の篭城作戦を一蹴して、敵軍を分散させた上での計算されつくされた急襲。
都合の悪い史実は妄想内逃げ込み。

自力が有り過ぎて、朝廷から三職推任があったのも知らん無知。
開幕を蹴ったのは信長の意思。
そもそも信長に開幕なんていう古臭い政体なんて眼中に無い。
ま、小者の理解を超えてるから仕方無いけどさ。
148人間七七四年:2012/02/25(土) 20:43:38.80 ID:jfH4NLI0
>>146
敵将の気質を見抜いて包囲網の一角を崩壊させたのは信長の識見・洞察眼の高さだ。
四方の敵が連携してたから、信玄は農閑期に満を持して西上したんだが。

信玄だけが相手なら、怖くも糞も何とも無い。
複数の敵と同時交戦中、信玄までは相手にできる余力がなかっただけ。

信長が大苦戦した畿内や美濃を瞬殺したのが家康って、関ヶ原後の前記地域には雑魚しか残っておらんだろ。
いい齢こいた大人が幼児相手に腕力で勝っても、自慢にもなりゃしない常識さえ、
朽木・脇坂・小川・赤座レベルの小者には理解できんか。
可愛そうに。
149人間七七四年:2012/02/25(土) 20:54:28.13 ID:nHOsGxuz
>>147
>そもそも多くの譜代衆を門徒化させてるだけで家康の家中統制に問題有り
独立後わずか数年、元々一向宗の影響の濃い三河地方において
家康が門徒化を防げないから問題とは一体何を根拠に?

>家康は信長を見限らず戦ったというより、寄らば大樹の何とかで、
>自力では戦国の世で生き残っていけない能無しなので、信長に見捨てられないよう忠犬のように尽くしてただけ。
武田を頼ればいいだけ。包囲網で信長が滅亡寸前まで追い込まれてた頃普通の打算で動く武士なら
とっくに織田を見限っている
>信長の権威を借りて信康始末も打算。
信康謀反が主要因とする説が出されているから打算も織田どうこうもあまり関係ない
>君のその甘い見通しは小一レベル。というか今時の小一でも、こんな甘かない
駄文ですね
>並みの武将なら、今川零落後、攻めやすい三河に侵攻だ。
>が、信長は敢えて東は放置。
そら美濃の方が国力高いというだけ。上洛するのも都合いいしな
>信長の天下戦略の一環として、家康は領土を保っただけ。
家康からみりゃ自分勝手な同盟者だが家康が義理固いから助かっただけ
援軍要請も一方的にされるだけ。
>これが信玄だったら、速攻で滅亡か再び奴隷。
妄想ですね
>信長や秀吉が大苦戦した畿内や美濃を瞬殺って、これら地域は、とっくの昔に信長によって平定済だろ。
秀吉時代も家康時代も畿内や美濃で戦乱が起きてますね
>大戦さに勝てば、オセロゲームのように全てがひっくり返るのは必定。
畿内上洛戦という大戦に勝ってもひっくり返らず頑強に抵抗されましたね
ついでにいうと大戦に勝つ>>>>>小勢力を各個撃破だろ。達成の難易度&功績の大きさでいえば。
>夏の陣で真田の突撃で危うく討ち取られそうになった史実も知らんときたもんだ。
>都合の悪い史実は「講談」扱いか妄想内逃げ込み。
実際そんな史料は講談でしか存在しません
>幸運で、四方の全守旧勢力相手に完全勝利はできんのだが。
家康がいたのと、包囲網の連携が悪くて朝倉が馬鹿だから勝てただけ
信玄が死んだのに助けられただけ。国力があったから助かっただけ
ほとんど運。
>桶狭間は凡人の篭城作戦を一蹴して、敵軍を分散させた上での計算されつくされた急襲
先陣を襲撃しても勝ちの決定打にはなりません
たまたまそこに本陣があり雨や風が都合よいタイミングで都合よく吹いたから助かっただけ
150人間七七四年:2012/02/25(土) 20:59:34.46 ID:nHOsGxuz
>>148
>敵将の気質を見抜いて包囲網の一角を崩壊させたのは信長の識見・洞察眼の高さだ。
>四方の敵が連携してたから、信玄は農閑期に満を持して西上したんだが。
滅亡寸前で信玄の死と朝廷権力によって助けられただけ
>信玄だけが相手なら、怖くも糞も何とも無い。
信玄も信長だけが敵なら瞬殺できそうだな
信長より戦巧者の家康を壊滅させ東美濃や上村合戦で織田方を撃破したんだから
>複数の敵と同時交戦中、信玄までは相手にできる余力がなかっただけ。
信玄が家康を押しまくってる間畿内で雑魚勢力相手に大苦戦してましたね
>信長が大苦戦した畿内や美濃を瞬殺したのが家康って、関ヶ原後の前記地域には雑魚しか残っておらんだろ。
畿内や美濃は元々信長が戦ってた時から雑魚しかいませんね
勢力の大きさ、遠征能力の欠如、当主の資質など
>いい齢こいた大人が幼児相手に腕力で勝っても、自慢にもなりゃしない
信長の美濃攻略の事ですね
151人間七七四年:2012/02/25(土) 21:29:59.82 ID:jfH4NLI0
>>149
義元在世時に三河一向一揆って起こってたっけな。
何で家康が領主となると一揆が勃発するんだろうな。
そこんとこ分かってんの。

織田の傘下では一応同盟者扱いだが、武田に寝返れば格段に扱いが粗雑になるから、それを嫌っただけ。
つまり織田の方が待遇がいいからで、よって単なる打算。
包囲網で信長が滅亡寸前まで追い込まれているのに見限らなかったのは、織田諸将が奮戦中だからであり、
それを横目に流れに従ってただけ。

信康に謀反の意思無く、それは信康切腹時の独白で証明可能。
家康こそが有りもしない武田内通をでっち上げ、陰謀で信康を葬った張本人。
このやり口は、利家死後、前田家に謀反の意志有りと難癖つけた手法と瓜二つ。

北の美濃より義元亡き後の東の方が遥かに攻め易いのだが。
小者だとこの程度の眼力も無いか。
三河・遠江・駿河の国力は相当なんだが、敢えてそこを放置した信長の天下構想の巨大さで、領土保全の幸運。

家康では勝頼だけでも手に余る。
で、信長に泣きの救援要請。

国人連合体の武田では、家康の入り込む余地は無い。
運よく傘下に入っても往時の奴隷扱い。

秀吉時代、畿内や美濃で戦乱とは驚いた。
まさか対柴田戦の事じゃないだろうな。
なら筋違いも甚だしい。
流石は朽木・脇坂・小川・赤座レベルの小者。

畿内上洛戦と関ヶ原では戦に規模も社会環境も全く違うのだがな。
朽木・脇坂・小川・赤座レベルの小者だと、それさえ理解不能か。

真田の突撃で死を覚悟した家康が近臣の前で「死ぬ」とブザマに喚き散らしたのは、
三方ヶ原の時恐怖で脱糞したのと同じ有名な話。
必殺の妄想内逃げ込み。

家康担当以外の戦線が崩壊したら元も子も無いのだが、朽木・脇坂・小川・赤座レベルの小者には、それさえ理解を超える難問ってか。
信長以外では朝倉の惰弱さに付け込む戦局打開の閃きも無いな。

行軍中たまたま義元本陣と鉢合わせなんて偶然、有り得ないんだが。
小早川の気まぐれで名将扱いの家康とは違うのだよ。
152人間七七四年:2012/02/25(土) 21:43:09.16 ID:18+6oyYB
>>145
いやいや、遠山氏の帰属をめぐって織田と武田が直接戦火を交えたか否かって論争分かれてるところだから
キチンと説明しないと
153人間七七四年:2012/02/25(土) 21:46:28.61 ID:jfH4NLI0
>>150
兵農未分離の武田では、どのみち農繁期間近になると甲斐にUターン。

信玄がいつ信長のような多方面同時戦線維持を強いられたっけな。
信玄は単に信長包囲網の一角を担ってただけ。

戦巧者の家康が三方ヶ原で惨敗し、ウンコを垂れ流しながら泣きべそで逃走するかね。
しかも関ヶ原の唯一の戦略が敵の離反という他力本願のお粗末さ。
これで名将とは恐れ入る。

天下を視野に入れてた信長は、守旧派の代表みたいな信玄なんて相手にしている暇は無い。
よって天下取りに逆行する東方侵攻は敢えて避け、家康を道具として使っただけ。
家康、信長が大物だったお陰で命拾い。
天下を狙ってない領土拡張だけが命の並みの武将なら、家康はあっさり大名の地位を追われてる。

まだ雑魚の一人に過ぎなかった信長が、より大きな雑魚を攻略する苦心は、
生涯朽木・脇坂・小川・赤座レベルの小者から脱しきれない雑魚には理解不能なのは尤も。
154人間七七四年:2012/02/25(土) 22:01:08.47 ID:3fPYsanP
このスレレベル高いんだか低いんだか
155人間七七四年:2012/02/25(土) 22:03:57.00 ID:ajr/Vrk2
守旧かつ頑迷で汚職にまみれた既得権益抵抗勢力を潰す
兵農分離した革新的な信長像とかコーエー本かよw
思考回路がイかれてて気持ち悪過ぎ。
156人間七七四年:2012/02/25(土) 22:10:34.95 ID:jfH4NLI0
その程度の書き込みしかできない事で、己の空脳を披露したい気持ちは、よく分かった。
157人間七七四年:2012/02/26(日) 00:35:19.51 ID:PSQUBt04
みんな遊びに来てね!
信濃の戦国武将について語るhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1323574327/l50
158人間七七四年:2012/02/26(日) 06:53:14.63 ID:sAFn6TZH
織田厨はゲーム脳だから仕方が無い
159人間七七四年:2012/02/26(日) 13:35:44.36 ID:bfW4a1Zx
ブーメラーン♪
160人間七七四年:2012/02/26(日) 23:16:52.13 ID:VywmrtPy
守旧かつ頑迷で汚職にまみれた既得権益抵抗勢力とは
まさに信長の事だな
161人間七七四年:2012/02/28(火) 02:03:18.97 ID:ngs5jTUP
信長はホリエモンタイプだろ
162人間七七四年:2012/02/28(火) 08:35:34.79 ID:aYyjA2/4
信長「天皇から京の警備を任されていた私が、京で放火略奪虐殺恐喝することが悪い事なんですかね?」
163人間七七四年:2012/02/28(火) 11:45:48.59 ID:Wf7Lty3G
ついに捏造ですら信玄が過大評価ってことに反論できなくなったか…
164人間七七四年:2012/03/01(木) 15:25:17.05 ID:/SjLd6RA
今川義元討死後も駿河とは真反対の北信濃の猫額の地にこだわって謙信と戦やってる信玄は、どう見ても田舎大名。
速攻で遠・駿・三に侵攻すれば信長に多大のプレッシャーをかけれたものを。
所詮はその程度の器と言ってしまえばそれまでだが。
165人間七七四年:2012/03/01(木) 15:50:28.04 ID:+i0qwUHN
一応まだ氏真の能力は未知数だし、何より北条まで出張ってくる可能性があったから
それこそ根回しもせずに場当たり的に手を出せない状況であったとは思うが
166人間七七四年:2012/03/01(木) 16:10:57.49 ID:Q/caQzqz
むしろ謙信が予想以上に強かったせいじゃないか
仮に謙信がいなくて越後を数年で併呑したとしよう
甲信に加え越後があり北条、今川と同盟結んでるんだから関東を半分以上支配するか、関東を北条に任し越中加賀越前と支配下に置いていき上洛できたかもしれん
謙信が無駄に強いのがいけなかった 信繁を始め大量に武将が死んだのも痛い
167人間七七四年:2012/03/02(金) 00:09:12.12 ID:5AbHVLN3
予想以上に強かったなら能登畠山くらい一掃できるだろ
168人間七七四年:2012/03/02(金) 02:04:06.75 ID:/Skly6v+
>>167
「信玄にとっては」、予想外に強かったんだろう。
169人間七七四年:2012/03/02(金) 10:05:18.71 ID:9/O6o+5A
越中は統治無理ゲーだからなあ。
信長も織田方になった国人たちを近江に騙して呼んでブチ殺してたし、
一城を残して城割り政策をして拠点全ての無力化を開始してるし。
背反が激し過ぎる。
越前みたいに何万単位で大虐殺と略奪して一国亡国にするまで統治できないな。
なんせ武田滅亡寸前の時に織田敗北の流言が流れただけで、
蜂起されて織田は富山城取られてるし。
謙信が帰ると早速蜂起のシーソーゲームと変わらんことを織田はやってただけ。
170人間七七四年:2012/03/02(金) 10:10:54.84 ID:Y5cpdE5j
そんな土地で奮戦する羽目になった佐々は無理ゲーだよなぁ
でも信玄なら本願寺を通じてなんとかなるんじゃないかね
171人間七七四年:2012/03/02(金) 14:46:59.51 ID:/Skly6v+
>>169
その後ちゃんと取れてますが?w
172人間七七四年:2012/03/02(金) 16:39:57.07 ID:zDjDSYcj
佐々は国人の頑強な籠城に粘られ、
柴田と秀吉の対決にも包囲を続けて、
越前へ行けれなかったから
秀吉に屈するハメになったし。
173人間七七四年:2012/03/02(金) 16:51:15.23 ID:/Skly6v+
いけれなかったw
174人間七七四年:2012/03/02(金) 18:50:16.46 ID:U60yyYD4
1565年9月28日に織田への味方をして孤立奮闘してた
加治田城の佐藤紀伊守親子って信長に会って
感涙にむせび言葉も無いほど感激してありがたがったんだけど
翌29日に龍興が信長と決戦に出てきたら、
佐藤紀伊守親子を見捨てて信長逃亡しちゃうんだよな・・・
佐藤紀伊守が斉藤に出してた人質の娘が串刺しにされたのに。
結局のところ息子は斉藤軍の前に討死するし
岐阜陥落後に佐藤は用済みとばかりに隠居を強制され
加治田城は養子名目で送り込まれた
斎藤新五郎により乗っ取られちゃうし。

稲葉山を信長が奪ったあと
戦乱で失われてしまった名物の壺を義龍妻に
絶対に隠し持ってるだろ!さし出せと執拗にいびる信長に
無いものは無い・・・と義龍妻がもう自害するより仕方ないと決意したが、
信長に冷遇されている面目丸潰れの濃姫や
その親類、一族、美濃有力国人たち17人が結束し
失業していた佐藤紀伊守も参加し、
これ以上嫌がらせを続けるなら美濃国衆共みんなで自害するといって
信長に抵抗した話が言継日記に佐藤紀伊守から聞いた話として出ている。

朝廷の高位にいる殿上人の言継に佐藤紀伊守が
さびしい身の上についてグチって憤懣をブチまけているほど信長は冷酷。
そもそもその後の佐藤忠能は史料上では行方不明扱いで抹消されてる・・・
三次史料の堂洞軍記によると伊深村でひっそり野たれ死んだみたいだが。
ちなみに伊深村は織田軍の佐藤信則の領地だから
完全に領地を奪われて追放されてる…可哀想に。
175人間七七四年:2012/03/02(金) 19:30:54.13 ID:/Skly6v+
またどこぞで仕入れてきた情報を編集したのかな?
176人間七七四年:2012/03/02(金) 21:24:27.15 ID:Y5cpdE5j
ていうかスレチ
武田とどう関係があるんだ?
スレタイも読めない奴の長文なんぞ読むに値しない
177人間七七四年:2012/03/02(金) 22:17:54.23 ID:vG6kHt4O
△スレタイも読めない奴の長文
◎妄想の発表会をしてる奴の長文
178人間七七四年:2012/03/02(金) 23:12:42.79 ID:rjfBGBF2
>>169
越中統治に関しては謙信はヘマをしたと思う
縁戚関係を結んでいた椎名の意志を無視して神保を赦したのは明らかに失敗ではないかと
それが結局椎名の不満と反逆になり
さらに赦した神保も結局は裏切っている
神保をぶち殺して越中は椎名と自分の子飼い達に統治させるのが良かったんじゃないかな?
179人間七七四年:2012/03/03(土) 00:15:50.16 ID:rEYdOKkQ
>>178
順番が逆
永禄11年7月に椎名が突如謙信を裏切った。
裏には永正3年の後北条の一向衆禁制で鎌倉を追われて
甲斐に亡命していた長延寺(信玄の子の龍芳が養子に入る)を通じた武田がいて、
武田の書状には
椎名が本願寺之門主の高意を得た。当方にも無二相通したと書かれてる。
反椎名の神保がこれを知り上杉側に回った。
ちなみに永禄4年の謙信による関東侵攻に恐れを感じた北条は
武田方の神保を一向衆が応援するなら領内に一向衆寺院が帰ってきても良いし保護すると約束してた。
弘治3年に顕如が結婚したことで武田と姻戚になっていたが、
永禄8年には長延寺が対上杉を目的に本願寺と武田の文書による正式な同盟を取り持ってる。
謙信が椎名攻めをする中で、
永禄12年の一向衆による増山城大規模攻撃などで神保は徐々に弱体化し一向衆と和睦。
椎名は上杉に敗走させられ、
上杉が一向衆と直接攻撃を開始すると
越中一向衆は劣勢になり、
信玄の要請もあって顕如が元亀3年5月に金沢御坊から
杉浦を将に加賀北ニ郡の大兵力を越中に派兵。
瑞泉寺や安養寺も上杉に対して徹底抗戦で蜂起。
元亀4年正月に椎名が上杉に降伏し神通川を安全に渡河できるようになる。
信玄死去し邪魔が入らなくなったことから、
天正元年8月から12月にかけて、謙信が一向衆掃討を開始し
越中奥域まで蹂躙し安養寺まで侵攻し加賀まで到達。
一向衆に従う神保も椎名もすでに崩壊しており、
ここに謙信による越中平定が成った。
180人間七七四年:2012/03/03(土) 00:31:51.29 ID:OX2I5gse
>>179今日のだがさん
181人間七七四年:2012/03/03(土) 01:43:10.33 ID:iCWYGOXI
織田厨って反論できなくなるとだが認定して逃走するだけ。

よっぽど論理的思考能力が欠如しているんだろう。
182人間七七四年:2012/03/03(土) 08:11:40.73 ID:OX2I5gse
そうでちゅね
183人間七七四年:2012/03/03(土) 11:04:18.17 ID:OpYJPIIS
>>181
スレタイすら読めない子が論理的思考?
ああ、自分の事か
184人間七七四年:2012/03/03(土) 12:32:28.01 ID:iCWYGOXI
公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。


濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。
185人間七七四年:2012/03/03(土) 13:43:52.08 ID:5lB0BvoL
そんな信長に勝てなかった信玄って・・・
186人間七七四年:2012/03/03(土) 14:11:53.37 ID:iCWYGOXI
滅亡寸前で信玄の死と朝廷権力で救われただけ
実質は負けも同然
187人間七七四年:2012/03/03(土) 14:18:28.67 ID:0THODRj4
朝廷が相当な権力持ってるのにそれ使えない信玄って一体なんなの?無能?
188人間七七四年:2012/03/03(土) 14:19:51.14 ID:5lB0BvoL
>>186
正親町天皇が信玄の打倒弾劾書状に感動して筆写したって言ってたけどあれ嘘なの?w
189人間七七四年:2012/03/03(土) 18:29:53.52 ID:OpYJPIIS
むしろ朝廷を手にいれるまで回りは何をしていたのか
朝廷を手に入れたのを承知でみんな戦ってたのではないのか
そんな批判当時誰もしてないのに現代人、ってか信者の擁護の見苦しさがわかるな
190人間七七四年:2012/03/03(土) 19:14:10.72 ID:ROMWvNAt
朝廷は本能寺後の光秀にすりよって、光秀が敗れた直後には秀吉にすりよってるからねー
まあ信玄も謀反人の光秀程度には信頼されてたかもね
191人間七七四年:2012/03/06(火) 10:57:23.64 ID:tIuQZ8yO
>>65
>>74
>>82
>>93
近江も美濃も見事に終わってるw
信長詰んでんじゃんワロタw
192人間七七四年:2012/03/06(火) 11:22:45.96 ID:tIuQZ8yO
>>152
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状
遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候
などと書いてあって織田と武田の間で
数多討ち取るような戦火が東美濃であったのは間違いないと柴辻氏が指摘してる。
また信玄三河から信濃へ撤退する6日前の
元亀4年3/6に秋山虎繁に東美濃出陣を命じていて
本願寺から朝倉出陣予定を聞いた信玄による
実質上の美濃侵攻の先鋒を兼ねていた。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
193人間七七四年:2012/03/06(火) 11:35:47.46 ID:bRKrzyQ/
詰んだ状況巻き返した信長すげえとかいうマンセーは信長スレいけよ
194人間七七四年:2012/03/06(火) 13:04:38.72 ID:CAoPIaiq
信玄死ぬまで岐阜に引き込もって反撃すら出来ず無策だった信長…
195人間七七四年:2012/03/06(火) 17:45:57.72 ID:6AmJX+3w
>>192
なんて論文で指摘してんだそんな事
196人間七七四年:2012/03/06(火) 23:13:30.36 ID:6AmJX+3w
>>192
あら逃げちゃった?w
芝辻が指摘してるのは衝突があったのだろうという事
武田と織田との衝突は述べていないからw
197人間七七四年:2012/03/07(水) 02:29:39.63 ID:e+nMZ5HS
ちなみにだがのねつ造している書状全文
だがの抜き出した箇所は【】づけ

急度令馳一簡候、仍信玄濃州之内【遠山号岩村認候処、城主取合、敵数多討捕、敵追払候】、
則織田信長兄弟ニ候織田三郎五郎・河尻与兵衛、遠山岩村江入置、遠山七頭織田被入手候、惣躰遠山証人信玄ニ、
差置候処ニ、遠山兄弟病死候付、此度信玄打不虞候、結句以此次而信長遠山入手、信長成吉事事候、岐阜へ者、佐久間貮千余人ニ而、留守中被申付候

この書状は歴代古案に記されている10月18日付書状で上杉謙信から河田伯耆守重親に宛てたもの。
ちなみに文書の内容は武田信玄の認める遠山氏が織田にボッコボコにされ、
その岩村に織田三郎五郎(織田信広)と河尻与兵衛(河尻秀隆)を岩村に入れてその周辺は皆織田が取りましたという内容。

つまり城主取合 敵数多討捕 敵追払候と言われるくらいボコボコで悲惨な目にあったのは武田
198人間七七四年:2012/03/07(水) 08:25:24.35 ID:oOqwJsRR
信玄って毛利元就みたく権力ある家臣をどうして粛清しなかったの?
妥協しすぎだろ。天下なんて取れんよ。
199人間七七四年:2012/03/07(水) 09:39:06.03 ID:/XGe+UId
粛清しなかったんじゃなくてできなかっただけ
200人間七七四年:2012/03/07(水) 23:43:53.48 ID:Gbv9Cfpr
>>192 >>195 >>196でコピペしてるやつの言は信用に値しないのが露呈したな
201人間七七四年:2012/03/07(水) 23:49:55.32 ID:iaQ7qK/H
>>197
これが事実だとすると、岩村城の帰属はどういう順番で変わったことになるんだ?
202人間七七四年:2012/03/08(木) 01:34:06.58 ID:80VOA52E
>>201
もともと遠山氏は武田氏に近い立ち位置で行動していた。
で、この遠山氏の当主が死んだのを機に家中で織田武田どっちにつこうかなーって
なって、いろいろあって最終的に遠山氏が織田につく。
でこれに信玄がムキーってキレて秋山に攻めさせた。
203人間七七四年:2012/03/08(木) 01:43:59.36 ID:jMaOTgOq
>>202
それで秋山に勝った後、信忠が岩村城が落とすまでは何があったの?
204人間七七四年:2012/03/08(木) 06:29:34.02 ID:KWOnPiFs
秋山が攻めたってのは確実な史料は無い
205人間七七四年:2012/03/08(木) 19:10:17.39 ID:80VOA52E
>>204
攻めたのは秋山でほぼ間違いない
ただ攻めた時期が信玄期か勝頼期かで揉めてる

>>203
何もない、もともと岩村は美濃よりではなく信濃より
こんなところ取ったところでさあ次は美濃だなんてのはかなり早急
206人間七七四年:2012/03/08(木) 19:17:27.42 ID:KWOnPiFs
織田になったあとすぐ武田に属してるのに一体秋山はいつ攻めたんだ?
207人間七七四年:2012/03/08(木) 21:23:13.33 ID:jMaOTgOq
>>205
つまり


秋山が攻めてきたのを織田が撃退して岩村城を取った

(岩村城が再び武田方につく)

信忠によって落とされる


でおk?
208人間七七四年:2012/03/08(木) 21:49:34.35 ID:80VOA52E
その武田に属したって部分で攻めたのが秋山じゃないのか
209人間七七四年:2012/03/09(金) 00:21:56.56 ID:podCwrxK
その武田に属した時に秋山を派遣したという史料が存在しないといってるわけだが
210人間七七四年:2012/03/10(土) 04:17:52.68 ID:V36Rogp8
信忠>武田
211人間七七四年:2012/03/10(土) 13:00:32.19 ID:2Zh4Tzoj
秋山は三河とか美濃よく攻めてるんだけど、武田の戦略と一致していないような気がするの自分だけ?
というか、後始末が信玄がして消耗して、戦略が長期的に狂ってる印象すらあるなぁ。

と織田厨の戯れだけど。
212人間七七四年:2012/03/11(日) 04:25:06.55 ID:il6/SbLq
>>210
信忠どころか信雄にすら怪しい
213人間七七四年:2012/03/11(日) 05:06:08.11 ID:cfaPEK+V
>>211
信玄的には信長と本気で事を構えるつもりはなく、信長を包囲網連中に引き付けといてもらうため、
「包囲網に加わってるんだぞー」っていうポーズとして秋山を美濃に送ったが、その秋山は信玄のポーズを本気にしてしまって
やりすぎてしまった、という説はある
214人間七七四年:2012/03/11(日) 18:16:03.68 ID:ADO3/QG/
>>213
誰の説?
215人間七七四年:2012/03/11(日) 19:42:14.78 ID:cfaPEK+V
>>214
さあて?誰の説だろうねぇ?
知らないねぇ…w



下克上された暗愚な暴君
15 :人間七七四年[]:2012/03/11(日) 17:55:34.87 ID:ADO3/QG/
>>14
まさに嫡男側近までブチ殺された信長こそ
軍事教本入門のお手本のような包囲殲滅戦で壊滅した素人愚主そのものだな。



武田信玄の天下取りの難易度は高すぎ
606 :人間七七四年[]:2012/03/11(日) 18:04:14.50 ID:ADO3/QG/
>>605
この時点ですでに氏郷が信長の娘婿だったとする一次史料を何度も織田厨に聞いてるんだけど、
解答はまだなの?



信玄・謙信・宗麟・輝宗・晴久
31 :人間七七四年[]:2012/03/11(日) 18:12:28.12 ID:ADO3/QG/
>>28
ザルだから結果は下克上されて畜生みたいな無駄死に。
挙句に別の家臣により屈辱に満ちた傀儡政権にされ
百姓あがりに主家織田一族は生殺与奪の権を握られて土下座。
216人間七七四年:2012/03/11(日) 21:23:54.18 ID:Dovnexco
また織田厨得意のあるある詐欺か…
217人間七七四年:2012/03/12(月) 12:49:52.39 ID:OwzZbOQR
>>197
なんでそれで捏造なんだよアホwww
順序立てて説明しようか。
まず>>152における論争と織田厨が言及してる部分は
織田厨が毎回論破されても執拗に持ち出してくる
2007年の鴨川氏の岩村城の無血開城指摘のこと。
それに対する反論が柴辻による2009年の
>>192
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状による反論であり
その文中には
「遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候」
と抜き出して柴辻が論を展開してるだけなので
忠実に一字一句の抜き出しも付け足しもしてないので
別に歪曲したり捏造などしてない。
そしてこの柴辻への反論はまったくなされてなく
無血開城論などすでに廃れた話で現在は誰も無血で譲渡されたなど書いてない。
さらに武田方の遠山氏が勝ったなどとこちらは一度も書いてないのに
「織田にボッコボッコにされ」などと得意がっててバカ丸出しの織田厨だが
結局、この信玄死去に至る経過において
岩村城周辺でボッコボッコにされまくったのは織田方な事実はスルーw
さて、じゃあ推移を説明しようか。

信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
218人間七七四年:2012/03/12(月) 12:50:18.33 ID:OwzZbOQR
ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。
信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。
だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。
どう考えても織田が岩村城を奪回して秋山を討つまでは
苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。
信勝に弓を引くとか考え難い。

松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから
武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって
義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)
10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。
12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ
12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。
完全に信玄が情勢を操ってる。

義昭が村井屋敷を包囲して先制攻撃したのは御湯殿上日記にあるし、
信長親子が頭を剃り、武器も持たずに謁見して和睦したいとするのはフロイス書簡にある。
お前こそデタラメ吐くんじゃねーよw
細川に信長はお前も人質に出せって義昭が言ってるんだぜ!とか喚いたり愚痴りまくってるだけじゃんw
上洛した時は荒木と細川しか味方に参加するやつがいなくて、
信長は細川に贈り物まで贈って大喜びして関心を買う
普段は横柄なのに困った時だけ媚びる卑しさを露呈。
美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を岩村城攻め感状だと横山住雄氏が指摘してるわけだがw
お前は信長に都合悪い話はぜんぶ認めないキチガイなのは明白なんだがw
219人間七七四年:2012/03/12(月) 12:51:28.08 ID:OwzZbOQR

木曽考にでてる美濃の一郡なんてバカでかい話を信じないよな?
8/7山村三郎九郎宛て三木攻め感状における内容を見ても加増なんて話は出てこない。
岩村城の攻防は激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。
11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。
しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。
これにより岩村城の武田所属が確定し、
信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。
その報告を信長が得て11/12に赤沢、11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。

遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、
西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と
伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。
また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。
そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
220人間七七四年:2012/03/12(月) 17:34:12.53 ID:t8r0hzrS
10月に岐阜を射程圏内におさめておきながらそこから徳川いじめに走る信玄
信長にビビり醜態をさらしたあげくの垂れ死んだ信玄こそ戦国最弱大名

岩村城が美濃と信濃の国境付近にあることも知らないだがは
つくづく無知だな
221人間七七四年:2012/03/12(月) 17:47:36.65 ID:FOAYCMpD
>>217
阿呆
芝辻は”打捕”だ
しかも文脈は秋山と織田の衝突の補強として使ってるわけだが、その秋山との衝突の根拠は軍艦に過ぎない
秋山はこのとき山県と遠江で十一月まで一緒に行動してるから、秋山ではない
秋山でないとすると、織田が衝突したという武田軍を率いていたのは誰なんだ?
それまで武田と織田の両方に属していたはずなのに、なんで武田の軍隊が遠山にいるんだ?

遠山は十一月に織田を離反して武田に属してるが、その過程においても織田と武田の遠山での合戦の記述は無い

一体いつ戦ったというんだ?
恐らくお前の言う
>ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
>信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
これは、上の河田宛謙信書状の内容のことだ
おまえ自身ここで衝突があったとは認識してないんじゃん
あと、延友さんは武田から離反したやつな
武田家ガタガタじゃん
222人間七七四年:2012/03/12(月) 19:31:08.23 ID:OwzZbOQR
>>221
お前歪曲しすぎw
>>217はそもそも秋山が元亀3年に美濃出陣してるなんて一度も書いてねーじゃんwww
勝手に脳内妄想変換して相手を非難www
秋山が3/6に美濃出陣したのは戦国遺文2027にちゃんと書かれてるから
軍鑑のネタじゃねーしw
なに糞レスしてんだよキチガイ織田厨くんwww
223人間七七四年:2012/03/12(月) 19:35:13.50 ID:OwzZbOQR
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。
224人間七七四年:2012/03/12(月) 19:35:38.16 ID:OwzZbOQR
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
225人間七七四年:2012/03/12(月) 19:36:01.10 ID:OwzZbOQR
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに美濃は尾張半国を取っていると書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)

226人間七七四年:2012/03/12(月) 19:52:56.92 ID:FOAYCMpD
>>222
芝辻がそう書いてるわけだが?
お前読んでないだろ
そして、秋山の出陣は元亀四年な
そのころには遠山が完全に武田方で戦の起こり様もない
それとも秋山は武田の城を攻めて合戦になったのか?
227人間七七四年:2012/03/12(月) 19:56:20.55 ID:jJI2Lx2O
死ね糞カス織田厨
228人間七七四年:2012/03/12(月) 19:56:43.16 ID:2uIcdm1e
こんだけ争奪戦が繰り広げられてるのに
血が一切流れてないとか主張する屁理屈信長厨…
229人間七七四年:2012/03/12(月) 19:58:33.89 ID:jJI2Lx2O
信忠は統率20くらいのカス

秋山3000程度に50000くらいで半年かかり騙し討ちでしか殺せなかったクソ雑魚武将
230人間七七四年:2012/03/12(月) 20:00:58.98 ID:jJI2Lx2O
織田厨が贔屓する雑魚武将リスト
信忠 秀吉 秀長 雑魚長 丹羽 蒲生 堀

こいつら全能力20くらいが妥当 
231人間七七四年:2012/03/12(月) 20:12:04.92 ID:jJI2Lx2O
織田厨は馬鹿

死ね
232人間七七四年:2012/03/12(月) 20:12:49.30 ID:jJI2Lx2O
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
(『甲陽軍鑑』)

織田両国内の記録

今度上様(織田信長)東国御出馬付、当国(大和国)衆自昨日上洛
(中略)
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也
(『蓮成院記録』)
233人間七七四年:2012/03/12(月) 20:28:54.57 ID:ic1acPCM
鴨川→14日岩村城の武田方への自発的な降伏開城説

芝辻の反論→18日付け謙信宛河田書状に書いてある通り岩村城を巡り攻防戦があったのは間違いない。
同城が織田方重要拠点なのに城将達が自発的に投降なんて説は奇異だ。

その後は一切反論なし。
織田チョン恒例の曲解屁理屈ワロスw
234人間七七四年:2012/03/12(月) 20:29:39.38 ID:uAIHj5gD
天下一の軍と言われたその月に一瞬して滅ぼされた武田・・・
235人間七七四年:2012/03/12(月) 20:34:52.31 ID:FOAYCMpD
236人間七七四年:2012/03/12(月) 20:39:58.06 ID:jJI2Lx2O
それ織田の事だろ
赤井や波多野にボロクソに負ける雑魚光秀に瞬殺されて滅ぼされたカス
237人間七七四年:2012/03/12(月) 20:54:17.96 ID:ic1acPCM
>>235
織田キチは文盲なのか?
芝辻も秋山本人が11月に岩村城に出陣したとは書いてない。
少なくとも河田書状から争奪戦があったのは間違いないと
鴨川説に対する反論をしているだけだ。
いい加減くだらない曲解で粘着すんなよ。
238人間七七四年:2012/03/12(月) 21:17:01.65 ID:NBY+hOli
>>233
どうせまた学者さんの名前出して好き勝手捏造してんだろ?
原文出せよ原文w
239人間七七四年:2012/03/12(月) 22:12:50.70 ID:FOAYCMpD
>>237
なんで十一月になってんだ?
その直後読んでるか?
”この問題もまだ確実な史料が不足しているとしか言いようが無い。”

その謙信書状の内容、芝辻引用の軍艦の内容、殆ど同じだろ?
そしてお前が捏造した”討捕”じゃなくて”打捕”
打は動詞の強調、捕ふは捕まえるの意で他動詞
城主を取り合い、(上杉にとっての)敵を捕まえて、追い払い、その後織田信長が信広と川尻を入れた
どこに合戦の意があるんだ?
240人間七七四年:2012/03/12(月) 22:36:31.91 ID:NBY+hOli
また論破されちゃったねーだがさんw
241人間七七四年:2012/03/12(月) 22:37:15.54 ID:jJI2Lx2O
まだ反論がきてないのをいい事に論破とか馬鹿すぎね
242人間七七四年:2012/03/12(月) 22:41:02.10 ID:FOAYCMpD
>>241
良い指摘だな
で、あれば件の芝辻の論文に対する反応が未だ無いのに反論がないだの言うのは尚早だな
243人間七七四年:2012/03/12(月) 23:10:02.11 ID:iiDpNeB3
977 :人間七七四年:2012/03/12(月) 18:04:48.67 ID:jJI2Lx2O
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
北条早雲     1460       0 万石   25万石      ∞ 
3徳川家康     1560年      2万石    1790万石     895倍
4最上義光     1533年     1万石    54万石      54倍  
5葦名盛氏    1532年?     2万石  105万石     52.5倍
6津軽為信    1540年      0.7万石    24万石      30倍
7伊達政宗    1585年     15万石    180万石     13倍
8武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
9上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
10毛利元就    1526  10万石    60万石     6倍 
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長 30万石    0           0倍



ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長

244人間七七四年:2012/03/12(月) 23:10:09.50 ID:jJI2Lx2O
:人間七七四年:2012/03/12(月) 18:35:55.82 ID:jJI2Lx2O
要するに徳川が負けたから武田が最強だったというだけ
武田最強は天下人家康が語った現実
客観的に見て天下人であり最終勝者であり徳川だけが誰が強く誰が雑魚だったか語る権利がある

織田は徳川と比較するまでもなく雑魚
武田はおろか浅井朝倉斉藤本願寺長島一揆雑賀赤井波多野どこと戦っても圧倒的大軍で寡兵の敵に負け続け
家を滅ぼされた雑魚
武田・徳川はおろか、北条や伊達以下


982 :人間七七四年:2012/03/12(月) 18:43:21.61 ID:jJI2Lx2O
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
(『甲陽軍鑑』)

織田両国内の記録

今度上様(織田信長)東国御出馬付、当国(大和国)衆自昨日上洛
(中略)
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也
(『蓮成院記録』)
245人間七七四年:2012/03/12(月) 23:11:47.96 ID:NBY+hOli
>>244
自分のレスコピペとかwww
246人間七七四年:2012/03/12(月) 23:12:00.59 ID:jJI2Lx2O
つか、長篠の戦いで織田が武田の背後を取ったとか
デタラメはいてんのは笑えるw
実際の地図を見てないで書いてるの丸分かりw
武田本隊前方の左の川向こうに酒井隊が進出してきただけで
どうやって背後を取ったことになるんだ?
しかも当時の武装は重量ハンパじゃないのに
どうやって渡河するつもりだよw
どう考えても船は全部、長篠攻撃側の武田方にあるはずだぞ。

247人間七七四年:2012/03/12(月) 23:13:39.62 ID:jJI2Lx2O
長篠後の信長に武田を放置する理由は0
勝頼の自爆で弱らせたただでさえ貧相な土地しか持たない弱小国
さっさと潰せば戦力回復される暇もなく再出兵の手間もかからない
肥沃な畿内や播磨は国力に富んでいるだけに待ち受けている敵も兵力や装備など充実してるはず
貧国な上に弱ってるならならさっさと滅ぼした方が利多し
本願寺が外征能力に長けているならともかく当の信長は待ち構えてればいいだけ
攻める理由は何もない
本願寺の相手は佐久間にでもやらせとけばいい


853 :人間七七四年:2012/03/11(日) 23:32:20.90 ID:il6/SbLq
そもそも信長は武田のことなどまるで眼中にない。
武田の相手はもっぱら徳川に委ねて、不利なようなら持ちこたえられるだけの軍を援軍に出すだけ。
長篠はたまたま余裕があった、家康が三方が原でボコられたのこともあって心配になったから自分も来ただけのこと。

のちの武田征伐も便宜上武田征伐とされているが信長にとっては征伐と呼ぶことすら烏滸がましい余興にすぎない。
所詮は後継者の織田信忠の箔塗りや経験積みのための戦で、信長は美濃で休んでただけで何もしてない。
織田家後継者の格上げのために利用された武田は惨めと言わざるを得ないな。


854 :人間七七四年:2012/03/11(日) 23:32:34.61 ID:0GqmK1cC
んで織田と武田の一大決戦はいつ起こったんだ?だがよ


855 :人間七七四年:2012/03/11(日) 23:34:39.97 ID:cMUUwJls
つーか手取川明らかに信長きてるだろ
>>779-780>>792-793読めばわかる


856 :人間七七四年:2012/03/11(日) 23:36:09.23 ID:U2JuEww9
お前の脳内で起こってるんじゃねぇの?連呼リアン




859 :人間七七四年:2012/03/11(日) 23:39:06.91 ID:cMUUwJls
そもそも勝頼は雑魚長の事などまるで眼中にない
雑魚長の相手は謙信や本願寺、毛利に任せて不利なようなら軍を出して
織田軍をひきつければいいだけ
長篠はたまたま織田軍が来た、信長が上村合戦や東美濃攻防戦、三方が原でボコられた事もあって
ちょっと調子にのってた勝頼がやらかしただけのこと。

のちの本能寺の変も便宜上本能寺の変とされてるが勝頼にとっては
自分の意思をついだ光秀にまかせた余興にすぎない
所詮は武田軍団が天下人の資質たる家康の元で大暴れして名を上げるための戦で
武田家臣の格上げのために利用された織田は惨めといわざるをえないな
248人間七七四年:2012/03/12(月) 23:14:33.80 ID:jJI2Lx2O
貧国でしかも直接戦闘に負けて弱ってる国⇒兵数&装備等圧倒的に劣るから滅ぼすのに持ってこい
富裕国でしかも外征能力微妙&防衛戦めちゃ強くて数も多く装備も優れた本願寺等⇒数が多く防衛拠点も堅固、放置して迎撃に徹するが吉

せめてもせめても負け続け、長い年月を無駄に費やした雑魚長であった。
一方織田厨は戦国時代の人口密度が現代程差が大きいと勘違いしてる低脳であった。


249人間七七四年:2012/03/12(月) 23:17:14.88 ID:jJI2Lx2O
政宗はガチで戦上手

北 大崎 葛西 最上 
東 相馬 
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
 
これだけガチで敵対して拡張した。


政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。

信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。

政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。

比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長



これまでの考察で分かった事

氏康>>>>信長
政宗>>>>信長
本願寺、島津>>>>信長
家康>>>>信長
元親>>>>信長

信長が他大名の立場に生れていたら
信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に

尾張だから助かっただけ
250人間七七四年:2012/03/12(月) 23:18:31.98 ID:jJI2Lx2O
954 :人間七七四年:2012/03/12(月) 14:11:37.28 ID:jJI2Lx2O
>>947
何回も同じ事言わせないでくれ>>902
最も醜態晒したのは織田軍だから十分証明になる
織田なんて武田と比べるまでもなく斉藤浅井朝倉本願寺北畠長島一揆どことやっても醜態さらしてるだけだから
武田と比べる事自体間違い
北条や伊達あたりと比べた方がまだまとも。それでも北条や伊達のが遥に上だろうけど
>>948
全方面敵&内乱で自壊して極端に疲弊&圧倒的兵力で不利な上杉にすら
越中中部〜魚津松倉間の短い距離で2年も食い止められ
挙句の果てに越後侵攻軍を大破させられ長沼奪われた雑魚織田軍がどうかしたか?
どちらにしても軍団が設置された状況では織田の天下なんて程遠いから>>937
はただの妄想 もしそうだとしたら信長はただの馬鹿



955 :人間七七四年:2012/03/12(月) 14:17:56.43 ID:jJI2Lx2O
>>946
主君なき後自家同士で潰しあい
挙句の果てに徳川に天下奪われた織田家臣団と
主君なき後徳川の貴下に入って大活躍して出世した武田家臣団の間違いでしょ
>>948
つうか君はいつ軍団が設置されたと勘違いしてるの?
>>950
高遠の戦いで50〜60倍の兵力比で絶対的に兵数が物を言う城外戦で大損害だして信濃の伝説になった雑魚信忠がどうかしたか?
信ヤボでいえば統率20くらいだろこんな戦下手
信長は天下なんて取ってませんが??
251人間七七四年:2012/03/12(月) 23:19:14.70 ID:jJI2Lx2O
金ヶ崎の時は
敦賀郡司朝倉景恒と対立していた
大野郡司朝倉景鏡が援軍を送らず失脚狙いだったから
織田の奇襲が成功しただけだし、
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは
徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから
織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、
比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には
進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。
それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く
志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ

織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのは
それ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。

10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。

 遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
252人間七七四年:2012/03/12(月) 23:26:14.91 ID:jJI2Lx2O
大軍と雨でぬかるんだ地面と城みたいな陣地と高性能鉄砲に無謀に突っ込んで大打撃を受けた状態でも
長篠から無傷で退却してる部隊が存在するから砦どうこうは大して重要ではない
勝頼の発狂で皆が死んだだけ。普通に退却すればよかっただけ。

かなりの兵力差&高性能鉄砲の待ち構える中&丸で城攻めみたいな陣城&雨でぬかるんだ地面
この基地外のような不利な状況下で馬場や山県はじめとする武田軍は勝頼の発狂につき合わされ
8時間以上戦って柵も所々突破できるほど名将ぞろいだったんだから総大将が馬鹿じゃなかったら
織田軍は瞬殺されてたのは間違いない
253人間七七四年:2012/03/12(月) 23:27:14.55 ID:jJI2Lx2O
経過や中身を考慮せず結果だけ桶狭間運良く手薄な今川本陣に勘違いして突っ込んだ信長強い論理でいうなら
動員力ならはるかに光秀上回るにも関わらず本能寺で手薄な陣を運悪くつかれ死んだ信長雑魚
と言う事

先陣と勘違いして突っ込んだら本陣があって雨や風が吹いたから勝てただけ

三河物語によると雨が降ってる所に織田勢が切りかかってきたので壊乱したとある。
信長公記にある「天晴るる」は通り雨と風が織田側がいた山の下から
今川本陣のいる山上に流れた、って事だろうな。
つまり今川勢は猛烈な雨と風を向かい側に受けながら織田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際今川方にしてみれば雨と風を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「水をまくるが如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが義元の周りにいた300ほどだった

これが実力で勝ったというなら本能寺は実力負け

圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な所を奇襲されて死んだんだから
天王寺は信長公記の講談ネタでしょ。
まともな史料には見られないし
254人間七七四年:2012/03/12(月) 23:29:05.95 ID:jJI2Lx2O
武田が滅んだのは
勝頼の長篠の自爆、御館の乱の外交失敗、あの時期での新府築城という失敗
無理な中央集権化といった失敗の連続があって成立しただけ
上記のような失敗を繰り返さず普通に織田徳川を侵攻していたら滅びていないのは
まともな知能を持った織田厨以外の人間ならわかる
255人間七七四年:2012/03/12(月) 23:34:24.18 ID:iiDpNeB3
>>246
おまえ無知すぎワロタw
長篠・設楽が原近郊付近の川は全部浅瀬なのw
具体的には五反田川、連吾川、豊川、宇連川といったあの付近の川は舟使わないと溺れるどころか、
膝丈まで水が浸かるかどうかといった川ばかりで、軍隊が歩いて通るくらい余裕なんだがw

せいぜいドジった足軽が川底の石にすべって転ぶくらいで、おまえが想定しているような
舟使って移動しなきゃならんような、それこそ中国の大河みたいな川ねーからw
256人間七七四年:2012/03/13(火) 01:19:47.57 ID:rZq5XPcS
まただがが無知を晒し架空戦記を披露してしまったか…
史実では徳川すら滅ぼせなかった弱小武田に夢を見れるとは羨ましい事だ
257人間七七四年:2012/03/13(火) 02:14:58.73 ID:SGoac0AT
まあ今でも川の中流付近とかは浅瀬が多いわな
水深が深いのはだいたい下流〜河口辺り
258人間七七四年:2012/03/13(火) 03:04:49.96 ID:4vCKnl/8
259人間七七四年:2012/03/13(火) 03:08:14.61 ID:eiQg3xv1
ちなみにだがは恐らく地図も見ていない。いや、理解していないというべきか。

酒井忠次、金森長近ら別働隊がやった一番大きな功績は、鳶ヶ巣砦を落としたことではなく長篠城の軍と合流したこと。
これにより酒井金森ら別働隊は長篠城から決戦地である設楽ヶ原を一望することが可能になり、武田軍がどこに動いても瞬時に判断し動くことが可能。


また長篠城は優秀なことに豊川と宇連川(ともに信濃に通じる)の流域をほぼ両方把握できる位置にいて、
万が一武田勝頼が逃亡を考えてもある程度阻止できる状況を整えることが容易。

長篠設楽ヶ原から信濃に通じる川は他にも五反田川、連吾川などあるが、ともに織田徳川本隊のすぐ眼前にあり、
そこから逃げる場合は織田徳川本隊の正面で退却準備を整える必要がある。

いずれにせよ長篠城が救援された時点で、武田勝頼が信濃へと撤退する経路はほぼ全て織田徳川が抑えられる状況にあったと言っていい。
260人間七七四年:2012/03/13(火) 03:13:03.13 ID:WDCx6eG3
地図だけじゃなくて当時の物流もまったく把握してないと思う
補給の概念なさすぎだろ
261人間七七四年:2012/03/13(火) 04:09:44.98 ID:2JS2mARR
武田は偉大だから例え補給路確保してなくても天から降ってくるんだろ
常識だぜ?
262人間七七四年:2012/03/13(火) 05:15:54.33 ID:L0o9C8Y/
そんな状況で無事に帰還した勝頼その他武田諸侯達。
その前の戦闘では圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&丸で城のような陣地
こんな中に無謀に突っ込んで大損害だしながら。
よっぽど武田家臣団が名将ぞろいだったんだろう
263人間七七四年:2012/03/13(火) 06:40:38.21 ID:Mf9WTjU+
>>239
お前無知過ぎ
宛て字すら知らないとかバカ過ぎ
264人間七七四年:2012/03/13(火) 06:49:20.43 ID:eiQg3xv1
>>262
馬場も山県も内藤も土屋も原も真田も三枝も死んだのにか?
生き残った連中って穴山とか信廉くらいしか知らんぞ・・・
265人間七七四年:2012/03/13(火) 06:55:11.44 ID:L0o9C8Y/
勝頼も穴山も信廉も小幡も生き残った
死んだのは無謀に突っ込んだ連中だけ
後ろとられてたのに。
これはよほど武田軍団が名将ぞろいだった証拠
266人間七七四年:2012/03/13(火) 09:22:52.39 ID:DKoYuAxJ
名将が集団自殺か 素晴らしい名将ですね
ついでに死ななかった奴等も名将なら何で徳川に押し返されたんでしょうね
267人間七七四年:2012/03/13(火) 13:05:50.64 ID:L0o9C8Y/
彼らは勝頼の援軍もない圧倒的に絶望的状況の中田中城高天神城など各城郭で徳川軍を大いに苦しめ
敢闘 依田、岡部、相木など外様衆ばかりなのに名将ぞろい
268人間七七四年:2012/03/13(火) 14:32:14.19 ID:H06QSqGm
勝頼の独断で物事を決められるのかという疑問がある
武田家臣が名将ばかりなら勝頼に意見具申し押し留めるはず
269人間七七四年:2012/03/13(火) 16:00:54.37 ID:L0o9C8Y/
軍艦では止めた事になってるが勝頼が無理に押し切って決戦を挑んで負けただけ
そもそも当時の武田譜代連中はもう60そこそこの老兵ばかりなので
討ち取っても何の価値もないのに勝った勝ったと騒ぎ立てているのが織田厨
270人間七七四年:2012/03/13(火) 16:06:08.76 ID:eiQg3xv1
60越えた老兵って馬場くらいだろ
山形内藤ですら50いくかいかないか、原も40代で真田や三枝土屋に至っては30代だぞw
271人間七七四年:2012/03/13(火) 16:15:11.84 ID:X5MMHMJc
そうか長篠で散った武田の将たちは無価値な奴ばっかかw
すると勝頼はいわば産廃を上手く処理して若く優秀な家臣で固めることができたわけだw
勝頼はその後優秀な家臣とともに雑魚の織田家を討ち滅ぼしたことであろうなwwwwwww
272人間七七四年:2012/03/13(火) 16:58:32.38 ID:H06QSqGm
生き残ったはずの有能な家臣たちが
信忠と戦わずに逃げ惑い降伏したとか武士の風上にもおけん
武田雑魚すぎ
273人間七七四年:2012/03/13(火) 17:26:14.36 ID:dmstAjOj
>>269でまた無知を晒したか…
せめて武田配下の年齢くらい調べなさい
274人間七七四年:2012/03/13(火) 17:28:16.34 ID:L0o9C8Y/
武田が滅んだのは徳川と北条のおかげ
ガタガタに弱った所をこれ見よがしと圧倒的大軍で騙し討ちかけたら離反の連鎖になって運よく勝てただけ

美濃攻略の時と似たようなもん
275人間七七四年:2012/03/13(火) 17:29:41.82 ID:L0o9C8Y/
だから小田井原は妙法寺記という一次資料にあるんだが。
原文は訳すると大体以下の通り。
「志賀城を救援するために、山之内上杉の将である高田が部隊とともに城に入った。
さらに上野の随分な軍勢が浅間岳に布陣した。
武田は軍勢を派遣してこれを撃破し、上野の大将14、5人討取り、兵を三千ほど討ち取った。」
お前の言うとおり救援軍が三千だったって資料なんなんだとしかいえないのだが。
山之内上杉軍は全滅したのか?兵力差1.3倍で皆殺しにしたなら前代未聞の成果だが。

だから塩尻はこれまた一次資料の妙法寺記で大勝利だと書いてあるんだが。
相変わらず息をするように嘘をry

三増峠は戦力差以前に戦略状況の打破が光った戦いな。
しかも武田北条両方の遺臣が残した軍記ではともに武田の勝利で一致してる。

三方ヶ原も同じく。敵をおびき出して完全勝利したんだから褒められてしかるべき。

上田原でも武田は板垣の独断首実験から追い詰められたのを反撃して村上の武将を何人も討取り
最後には戦場から追い返したが。

野々宮の戦いって小笠原が主張してるだけで
武田側にはないけどな。
しかもそれを信じたとしても先鋒を破っただけで
本軍が来たら逃げ出してるし。

砥石が武田の被害5千ってなんなんだ。
軍鑑ですら793だぞ。

三増峠は豊前山城が北条側で死んでることも書いとけ。

犀ヶ崖の戦いなんて布の橋で敵を引っ掛けたとか言う明らかに作り話なんだが。
仮にそれを真実と見たとしても数十人程度しか殺せないってのに。
数百ってなんだ。

276人間七七四年:2012/03/13(火) 17:31:53.60 ID:dmstAjOj
誰と話してるんだ
統合失調症ですね
277人間七七四年:2012/03/13(火) 17:40:08.67 ID:3yNWwi8J
何でお前ら雑魚雑魚言い合ってるの?
両家とも雑魚なわけないじゃん
278人間七七四年:2012/03/13(火) 18:19:28.21 ID:gmj2J8Y3
>>263
まず芝辻は”打捕”と書いてるから、”討捕”は捏造、これは確定

そして当て字ってのは知識人には見られなくなる
秀吉の自筆文書には当て字が酷いというのは、さすがのお前でも知ってるだろう
件の文書は謙信のもので、祐筆の手によるものか若しくは自筆だ
祐筆ならなおの事、謙信にしてもほぼ国主の父親の子供として育てられ、筆跡も高柳光寿も景勝に手本を示すほどと褒めているし、教育は受けているから知らなかったというのは考えにくい
だから当て字の可能性は低い

仮に当て字、失念して文字を充てたと仮定したとしても、有りえない
おそらく”打”が、本当は”討”だと言いたいんだろう
だが、有りえない
捕ふは他動詞、打を動詞とすると(討でも同じ)これも他動詞
どちらかは目的語が存在しなくなるから両方他動詞はありえない

以上、件の書状の書き手の素養の面からも、文法的にも当て字は有りえない
ところでこの程度の事を知ってる無知な俺より知識がないお前はなんと呼べばいいんだ?
279人間七七四年:2012/03/13(火) 21:07:20.56 ID:bw8RYsSc
バカだなあ。
宛て字ってのは間違いとか思ってんのか?
当時も文部科学省みたいなもんが存在していて
正しい表記はこの漢字ですと通達してた前提で
見事に断言するバカ織田厨房
どの漢字を使用するか正誤表なんて戦国時代には無いことが今回理解できて良かったな。
280人間七七四年:2012/03/13(火) 21:23:35.34 ID:gmj2J8Y3
もうおまえ自身が惨めなだけだから止めたら?
どう解釈しても合戦があったという意味は無いから
281人間七七四年:2012/03/14(水) 21:42:08.10 ID:tY43MyS4
だがは苦しくなると自爆し出すから
また無知をさらけ出してしまったか…
282人間七七四年:2012/03/15(木) 20:58:36.04 ID:astslNZC
どう考えても戦があったとしか思えないんだがw
無血で城を取り合いって
どんな爽やかなスポーツだったんだよwww
283人間七七四年:2012/03/15(木) 22:08:56.68 ID:m1Qgx2r7
七尾城が落ちたのを知ってさっさと越前に戻ったのが真相だろう
284人間七七四年:2012/03/15(木) 22:22:15.76 ID:3lTNwoyz
>>282
お前は主語を把握してないからそう考えるんだよ
取合、打捕、追払、これらの主語は遠山だぞ
285人間七七四年:2012/03/15(木) 22:42:50.04 ID:zbDUCGsa
>>282
お前は考えるだけ無駄だから何も考えなくていいかもな。
人生楽そうw
286人間七七四年:2012/03/16(金) 20:39:48.41 ID:xXSXLbkU
武田方になった遠山だろw
織田チョン得意の曲解乙w
287人間七七四年:2012/03/16(金) 21:12:07.72 ID:wlpJ1jay
いつのまに武田になってたんだ?
具体的にな
長文コピペいらんから簡潔に
288人間七七四年:2012/03/16(金) 21:34:58.34 ID:imVRfvQk
>>286
なるほど、武田方になった遠山が織田三郎五郎・河尻与兵衛を岩村に入れたと。
斬新な解釈だなw
289人間七七四年:2012/03/16(金) 22:18:58.60 ID:wlpJ1jay
その突っ込みとっておいたのに
まあ小手先で思いついた珍説を書き込むからこんな矛盾が発生する
290人間七七四年:2012/03/17(土) 08:41:49.95 ID:wfBtLC5w
最近自分がチョンだからか織田チョンとか言い出したな、だが
291人間七七四年:2012/03/17(土) 16:07:41.81 ID:LqTkClFB
>>197でお前自身がすでに原文転記で討捕って書いてあんじゃんw
ただの宛て字問題で騒ぐしかない哀れ織田厨・・・

そもそも武田方になった遠山氏の岩村を織田方が取り合い敵を追い払ったんだろ。
それで織田三郎五郎や川尻を岩村に入れて守らせたが
武田方に再度奪われて、織田方はボコボコなわけだ。

完全に戦が行われてるし、>>288>>289の曲解にはさすがに腹痛ぇw
292人間七七四年:2012/03/17(土) 16:16:48.60 ID:afywaHqA
>>291
いいえ、原文ではありません。
「だがさんが原文から都合よく捏造した文」です。
293人間七七四年:2012/03/17(土) 16:46:33.92 ID:LqTkClFB
>>255
プッ
お前さ、長篠城と武田軍初期陣地の間の
宇連川が徒歩で渡れるって、
そりゃあ上流に宇連ダムがあって
河川氾濫防止の水量調整してるんだから当たり前だわw
294人間七七四年:2012/03/17(土) 17:03:34.42 ID:LqTkClFB

>>259
>>設楽ヶ原を一望することが可能になり、武田軍がどこに動いても瞬時に判断し動くことが可能
それほど不利なら武田軍は初期配置上の海抜200Mの地域群から
河川渡河して前進するわけがないからそんな妄想は成立しない(鳶ヶ巣砦も海抜200m群)
むしろ酒井らが初期陣地へ攻撃をかけてくれたら要害に立て篭もり返り討ちにできるし。
>>逃亡を考えてもある程度阻止できる状況を整えることが容易
重武装で渡河できればの話だな。
つうかそもそも武田軍が撤退する時は初期陣地のあったところへ
後方退却したわけじゃないからその妄想も成立しないけどな。
>>長篠城が救援された時点で、武田勝頼が信濃へと撤退する経路はほぼ全て織田徳川が抑えられる状況にあったと
だから撤退する時は初期陣地の方へ逃げたんなら、渡河さえ成功すれば側面を襲えたかも知れんが
後方の遮断なんて出来てないし、そもそも退却方向がそっちだと
武田軍も渡河して初期陣地へ戻らないといけないから、そんな危ない行動はしてない。
295人間七七四年:2012/03/17(土) 17:05:23.65 ID:afywaHqA
また現実逃避はじめちゃったか…
296人間七七四年:2012/03/17(土) 17:32:06.53 ID:PT5rKYXS
>>291
ほう、では>>197以前に遠山が武田に旗色を鮮明にした史料をだせ
武田方であるはずの遠山が主語である以上、お前の腹を痛くした>>288の解釈になるんだよ
297人間七七四年:2012/03/17(土) 18:10:48.02 ID:LqTkClFB
元亀3年7/7付の信玄書状で遠山氏が武田側なのがわかる。
織田が小里氏を後援してるのは残念だが許すと信玄は言って
織田・武田の友好関係護持のために見て見ぬフリをしている。
つうかどう考えても戦で取り合いしてるとしか思えない。
どんなスポーツで無血で城主を降りたり譲ったりすんの?
298人間七七四年:2012/03/17(土) 18:48:30.69 ID:afywaHqA
>>297
また捏造ですかw

>>197
>武田信玄の認める遠山氏が織田にボッコボコにされ、
>その岩村に織田三郎五郎(織田信広)と河尻与兵衛(河尻秀隆)を岩村に入れてその周辺は皆織田が取りましたという内容。
299人間七七四年:2012/03/17(土) 19:02:19.56 ID:9yQlzXDq
実は織田信長は信玄の息子だった。
家康は信玄の隠し子。
300人間七七四年:2012/03/17(土) 19:05:37.66 ID:LqTkClFB
バーカw
捏造すんなよw
それ永禄12年2月の書状で
信玄が東美濃の遠山へも人数を少々立て置いたと
三木良頼が謙信に報じてる書状じゃねーかw
相変わらず織田厨は捏造三昧で信用性ゼロだな!
元亀2年には飛騨の江馬と鍋山が武田方になったので
元亀3年に木曽氏を先鋒に三木攻めに出撃しており
その戦いで武田方として従軍した苗木城主の遠山直廉が戦傷を受けて死去してる。
ちなみに永禄9年か10年と解釈される6/13の信玄→遠山景任書状で
謙信が信濃へ攻撃の情報が事実なら越後攻めするから
遠山には約束どおり鉄砲衆50人送ってねって書状がある。
信玄と美濃の関係は、義龍に対立していた東美濃の
金山城の長井隼人や久々利を
遠山氏経由で兵糧などを支援して対立していた。
しかし義龍死後に龍興が長井隼人と和解して厚遇したことで
逆に龍興と西美濃衆が対立状態になるなどしていた。
301人間七七四年:2012/03/17(土) 19:14:49.58 ID:9yQlzXDq
西美濃衆だけにコーヒー奢ったりしていた事が最近では有力視されている。
302人間七七四年:2012/03/17(土) 19:35:53.29 ID:mrU3a95+
一方東美濃衆は紅茶派が多くこれが武田が岩村を攻略できた最大の要因と最新の研究うんたらかんたら
303人間七七四年:2012/03/17(土) 19:53:52.71 ID:9yQlzXDq
その紅茶代金をアヘンで支払っていた事から争いが激化。
304人間七七四年:2012/03/17(土) 20:09:31.93 ID:kN1Ky6iB
>>293
おいおい大丈夫かだが。
宇連川ダムがつくられた理由は干ばつ対策で、逆に水が少なすぎるから貯めておこうって配慮で作られたものだぞ。
大体おまえ少し考えろよ、宇連川や豊川が常に激流で舟使うレベルの川なら長篠城の丘陵が削れてがけ崩れ起こすだろw

>>294

>>河川渡河して前進するわけがないからそんな妄想は成立しない

おまえ本当に地理ダメだな。いやそれ以前の問題か。
織田徳川本隊がすぐ近くまで来ているのに長篠城の攻撃つづけてたら背後から襲われるだけだぞw
それこそ勝頼の首取ってくださいと言わんばかり。河川渡河するために出てきたんじゃなくて織田徳川本隊を叩くためにでてきたんだろ。

>>重武装で渡河できればの話だな。

山間部の上流で渡河できないってまずありえないぞ。
おまえ大和川や手取川みたいなすぐ氾濫する川と混同してるだろ。
あれは下流域だから氾濫しやすいだけで上流はかなり穏やかだぞw

>>後方退却したわけじゃないから

どこを後方とみてるんだ、俺が言ってるのは信濃方面だぞ。
305人間七七四年:2012/03/17(土) 20:52:21.54 ID:PT5rKYXS
>>297
ならお前が腹を痛くした解釈>>288の結論になるんだよ
つまり、武田方であるはずの遠山は織田信広川尻を招きいれた、とな
だから、お前の読み違えか、異常な解釈してるかのどちらかだ
とりあえずその史料の引用元を明記しろ

>>300
やっぱり主語をきちんと把握してないなw
武田信玄紛夜被入馬候間、敗北之由候、東美濃遠山人数少々立置候、彼者共帰陣候而、申鳴分如此候、必定候歟
この文章で”東美濃”に人数を置いたと読むためには、於を使う必要があるからなw
それがないから主語と解する他ない
仮に、有りえない仮定だが、武田信玄が主語とするとこれも珍妙な訳になるぞw
試しに訳してみ、ムリだろうけどw
306人間七七四年:2012/03/17(土) 21:37:21.74 ID:USAxIeRh
旱魃が起きていたのは渥美半島であって
長篠じゃねーよボケ
しかも人口増加と田畑増加と工業化で、
生活用水、工業用水、農業用水で飛躍的に需要が高まった昭和の要求だわ。
しかも水量足らないも何も天竜川からも取水しても足らないと言われた時期もあったのに
なに織田バカ君はデタラメ垂れ流してんだw
307人間七七四年:2012/03/18(日) 01:45:48.80 ID:i+ml8TrP
アホすぎて笑えてくるなw
その渥美半島にどうやって水を送るんだ?ん?言ってみろ
ふってわいてくる、なんて言わないよな?w川の水を使うんだぞ、わかってるよな。


>>生活用水、工業用水、農業用水で飛躍的に需要が高まった昭和の要求だわ。

つまり昭和期に経済活動を潤滑化させるために国策で立てられたダムで、
本来は豊川宇連川ともに氾濫などする余地のない浅瀬の川ということが逆に証明されちゃったけど、
自分で自分の首を絞めた気分はどうですか?w
308人間七七四年:2012/03/18(日) 07:05:18.53 ID:l6hP5WdY
>>305
人数を置いたと訳したのは、
美濃や尾張研究の大家で、特に斉藤道三研究の第一人者である横山住雄氏の翻訳そのままを写しただけだが?
お前は誰の訳を元に反論してんの?
>>307
もうお前の屁理屈は失笑以外に無いな。
そもそも上流は川幅が狭く傾斜があるから流れが強い。
下流は川幅が広く、傾斜が少なくゆったり流れることすら知らんアホぶり。
利根川の上流は川幅狭いから徒歩で渡って水死してこいよw
309人間七七四年:2012/03/18(日) 08:18:16.17 ID:i+ml8TrP
一つの物事しか見れない視野の狭いだがw

>>そもそも上流は川幅が狭く傾斜があるから流れが強い。

おまえが見ているのは流速だけだろw
上流は水量と深さが知れているから台風の大洪水でも起こらん限り川渡れずに溺れ死ぬとかないのw
おまけに自分で川幅狭いっていってんじゃん。川幅も深さもないところじゃせいぜい滑って転んで終わり。

挙句の果てに一級河川扱いの利根川の例に出すとかwあんなのと一緒にすんなよ。
伊達に日本で一番デカい川認定されてないぞw
310人間七七四年:2012/03/18(日) 09:45:31.63 ID:kpF/f/uT
>>309
い、いや、すまん、だがの味方をするのは気にくわんが一言言わせてくれ。
中国地方出身だが、中国山地の川の上流はどこもそこそこ流速があって深いぞ?
浅瀬にちょっと入って鮎とか岩魚とか釣るぐらいはできるが、そうとう泳ぎに自信がないと
渡るのは難しい。
つか、数年に1回は溺死者が出るし。

ひょっとして、東海地方は違うの?
311人間七七四年:2012/03/18(日) 10:39:59.16 ID:dn78M9Bn
UNNTARAKANNTARA
312人間七七四年:2012/03/18(日) 12:22:46.33 ID:1vwpJ5QJ
>>308
主語を問題にしてるわけですが?
訳文そのものに文句つけてるかね?
313人間七七四年:2012/03/18(日) 12:27:03.91 ID:qYioVtvd
当時の甲冑の重さが40キロ前後もあり、
現代人では重過ぎてロクに歩けない件
さらに武器を持って川を渡るリスクをまったく理解できないバカな織田厨…
そもそも織田厨は長い流域の中で、
浅瀬や三角州のある渡河点の概念すら欠如していて、
どこだろうが渡れると妄想してる時点で話にもならない。
314人間七七四年:2012/03/18(日) 12:34:54.59 ID:zZ5CfwKp
そのバカな織田厨に論破されて悔し涙を流す無知なだが…
315人間七七四年:2012/03/18(日) 13:26:58.83 ID:gZbQlx9E
>>313
第四次川中島の戦いでは上杉軍も武田軍も川を渡って移動しているが?
316人間七七四年:2012/03/18(日) 13:30:23.73 ID:dQoxUOLw
>>313
40キロあっても歩けないなんてことはねえよ。
荷物として抱えるのと、装備として身につけるのでは体にかかる負担がぜんぜん違う
317人間七七四年:2012/03/18(日) 19:34:02.62 ID:ApI8EWqt
>>315
どこでも関係なく渡ってねーよアホ
瀬踏みで浅瀬を調べた上で渡ってんだよ。
利根川も渡れるポイントがあった。
舟が用意できたら舟橋をかけて渡る。
織田厨の主張するように簡単に長篠城から対岸までの往復が難なく渡れたら、
要害の地でもなんでもないわけで、
築城したヤツはバカ過ぎ。
318人間七七四年:2012/03/18(日) 22:17:52.78 ID:gZbQlx9E
>瀬踏みで浅瀬を調べた上で渡ってんだよ。

ほう・・・・んでそれを証明する一次史料は?
319人間七七四年:2012/03/18(日) 22:25:40.36 ID:cEK7zCkv
それは常識部分でいいんじゃないのかなあ?
320人間七七四年:2012/03/18(日) 22:43:52.09 ID:gZbQlx9E
>>319
じゃあ酒井別働隊も渡れるポイントを事前に知っていたってことでいいでしょ
321人間七七四年:2012/03/18(日) 22:49:24.27 ID:71r8N0y1
>>320
三河にあるし、徳川方に所属していたこともある。
それが自然な答えだな。
322人間七七四年:2012/03/19(月) 00:30:21.54 ID:UMJnlblh
>>317
おまえ長篠城のこと知らないだろ。
長篠城が要害とされる理由は川じゃなくて川から城への丘陵だぞ。
この丘陵は断崖絶壁に近くてそれこそ甲冑こみの装備では登ることができない。
で長篠城はこの丘陵を背にする形で城を築いている。

つまり表の平けた部分から進もうにも守りは固く、
横や後ろは断崖絶壁の丘陵と城壁でまともに登れないから要害扱いされてる。
323人間七七四年:2012/03/19(月) 00:38:24.53 ID:UMJnlblh
>>310
地方によるというより河川によると言った方が早い。
確かに上流でも水量が多くて渡れない川はいくらでもある。
ただ長篠近郊はそうじゃないというだけ。特に酒井が長篠方面に行くときに使うであろう宇連川は
もともと支流で流れも水量もそこまでいうほど。

豊川の方は下流域では水量がかなり多いとされているけど上流は様々な支流と合流する前で川の水量自体は長篠近郊ではそれほど。
324人間七七四年:2012/03/19(月) 06:50:23.60 ID:1ypqLYA0
>>323
なるほど。日本も広いな。正直、よくイメージできないが。
子供の頃からの思い込みって簡単に治らないな。

とにかくありがとう。
325人間七七四年:2012/03/19(月) 09:42:44.98 ID:C7DZ/66j
現代の河川水量を元に語る織田厨。
河→平野→断崖絶壁
さて、断崖絶壁がなぜ出来るか理解できるかな?
断崖絶壁は急流に削られて丘陵地ができる。
平野部はもともと水が流れていたが、
ダムを造り水量を調整したから干上がり平野化した跡だ。
326人間七七四年:2012/03/19(月) 10:18:55.47 ID:UMJnlblh
おまえねぇ、長篠の戦いは軽く見積もっても430年近く前だぞ?
断崖絶壁の崖なんていうのは徐々に河川が土壌を侵食したり、
地震や火山といった急激な地形変動によって発生するものだ。

急流に削られてできた断崖絶壁の城とか怖くて住めないだろアホだがw
327人間七七四年:2012/03/19(月) 10:26:51.84 ID:UMJnlblh
それにしても発想が陳腐すぎる。
急流河川でチェーンソーのように土壌が削られていったら、あんな崖にはならない。
木曽川長良川などのように土壌ごと持って行って川の流域に吸収されるのがオチだ。

そんなことすら知らずに急流でできた、今とは違うとか、社会の知識なさすぎだろ。
328人間七七四年:2012/03/19(月) 10:48:59.86 ID:5n2Da5XJ
水量が全くない川なのに断崖絶壁が作られた謎の川。
長篠城と対岸は重量40キロの甲冑にさらに武器まで持って簡単に渡れる築城者がアホ過ぎな城。
しかも長い河川に接するため、
都合の良い場所から渡ったあとに簡単に平野部から回り込んで攻撃できるのに、
回り込んで攻撃しない敵を想定。
さすが織田チョンの脳内はお花畑w
329人間七七四年:2012/03/19(月) 12:14:41.27 ID:nAojxQxh
そんな簡単に長い河川のどこからでも渡河できんなら
武田の長篠包囲はまったく成立せず、
徳川軍は簡単に兵糧も援軍も長篠に入れられるから
長篠籠城余裕じゃないかw
信長厨って屁理屈だらけのキチガイだわ
330人間七七四年:2012/03/19(月) 12:44:07.29 ID:UMJnlblh
だがの妄想が窮まったな。
断崖絶壁の崖は本来急激な地形変動でもなければ1000年2000年単位でようやく地形なのに
長篠の430年前と今とは全然違うと嘘吐きw

しかも長篠城は分類上山城に入り、かつ長篠城は2つの川で形成された崖の上にあってこの崖が難所なのに
川が防衛できないなら要害でもなんでもないと自分に都合の悪い城はボロ城認定w

地形を全て無視して全て平面で語り「長篠での籠城は余裕」とのたまうだが。
ある意味机上論で全て押し通す無能信玄と瓜二つとも言えようw
331人間七七四年:2012/03/19(月) 12:50:53.44 ID:UMJnlblh
ちなみに一般的に断崖絶壁と呼ばれる場所は垂直〜60度近い角度で剃り立っている。
日本でいうなら東尋坊や三段壁なんかがこれに当たる。

一方人間が足だけで登れる坂の限界角度は概ね30度から40度。
甲冑担いで断崖絶壁を登れないくらいさすがのだがでもわかるだろうかw
332人間七七四年:2012/03/19(月) 15:31:03.74 ID:Nv/IRtXB
うんたらかんたら♪
333人間七七四年:2012/03/19(月) 17:05:42.08 ID:X6uNIXJQ
石高の低い信濃なんて僻地に人生の殆どを費やした時点で大名としてのビジョンは全然だよね
上洛も信長がいい感じになってるから焦って始めただけで元々興味なさそうだったし
334人間七七四年:2012/03/20(火) 16:24:15.23 ID:emQYe3r/
335人間七七四年:2012/03/22(木) 13:01:33.71 ID:H0xr62R8
貫高に応じた軍役を負担させるほどの権力すら国人に課せないほどの弱体支配の織田に石高比較なんて成立しない。
ケチケチで兵数が足らない信長直臣前田利家や
蓄財に励み新たな兵を養おうとしない織田家随一の家老佐久間…
336人間七七四年:2012/03/22(木) 13:05:39.15 ID:H0xr62R8
1577年に北条氏直が岩付衆にあてた御朱印状だね。歴史群像アーカイブにも載ってたな。

このとき宮城四郎兵衛個人に届いた着到状では、
騎馬8騎(含本人)、槍17人、歩者4人、旗持4人、鉄砲2人、弓1人連れて来い、と動員が割り当てられてるんだが、
備を編成する段階では、武田氏と同様に一旦バラバラに解体され
槍600、騎馬500、歩者250、小旗120、鉄砲50、弓40、と兵科ごとに奉行が割り当てられ編成されてる。

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/09(日) 22:32:44 ID:/8LodR9d [4/6]
>>244の岩付衆の備だと一つの備で戦闘員1560人、うち500騎が騎馬だね。
337人間七七四年:2012/03/22(木) 13:39:40.08 ID:2MkI94oD
>>335
論点ずらし乙!
338人間七七四年:2012/03/22(木) 22:38:12.71 ID:ffjuDU0p
武田の捏造酷すぎ。。。過大評価 信濃、甲斐、駿河の実質3か国支配だし、三方原でも家康に勝ったとはいえ、兵力ありすぎだし、
浜松、吉田、岡崎といった家康の中核の城を落としていない。

このように武田勢が総軍入れ替わりで突入してきたのに対し、織田・徳川勢は一将たりとも前に出さず鉄砲のみで応じた。
そして足軽であしらいつつ徐々に敵勢を追い崩し、そのあとで人数を突入させていった。五番手には馬場美濃守信春勢が押
し太鼓の音とともに攻めかかってきたが、結果は上と同様であった。
5月21日日の出の刻から始まり、織田勢が東北東をさして戦ったこの戦は未刻Nまで続いた。その間武田勢は諸卒を突入
させたが、そのたびに織田・徳川勢に討ち果たされて次第々々に無人となっていった。それでも生き残った将兵は武田勝頼
の旗の下に集まり、敗戦を悟って鳳来寺の方角へ退却をはじめた。信長公はそのときを逃さず、陣をくずして総軍を乱進させ、これを追撃した。
この戦で討ち取られた首は、よく見知られた分だけでも山県昌景、小幡信貞、横田備中、川窪備後、真田源太左衛門信綱、土屋惣造昌次、甘利藤蔵、杉原日向、名和無理介、仁科、高坂又八郎昌澄、奥津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場信春など多数にのぼった。
なおこのうち馬場信春の働きは比類のないものであった。この者達をはじめとして武田勢はこの一戦で数多の将兵を失い、討死した者の数は一万にも達したO。その中には山に逃げ入って飢え死にした者や、橋から川へ落とされて水死した者も多く含まれていた。
339人間七七四年:2012/03/23(金) 08:19:29.50 ID:PM26fWgh
斎藤龍興による河野島大勝は大嘘だった



河野島の戦い全文

一去月廿九日織上当国境目へ出張候、其時分以外水迫候て、河表打渡、河野島へ執入候、即時ニ竜興懸向候、依之織上引退、川縁ニ居陣候、
国之者共限堺川詰陣を取続相守候、自出張之翌日、風雨濃水ニ付而、自他不及行候き、漸水引候間、取懸可相果之由令儀定候之処、去八日未明ニ織上敗軍仕候、川へ逃入、
没溺水候者共不知数候、残党於川際少々討候、兵具已下捨候為躰、前代未聞ニ候、不遂一戦退散候之間、数多不討取事無念不少候、雖然此方任存分之条、可御心易候、
織田在陣中可注進申候へ共、無程落居候間、無其儀候、此等之通御伝語可畏存候、可得尊意候、恐惶敬白、

ここからわかる斎藤方の嘘

・行き道は凄く増水していた木曽川をなんなく渡河したにもかかわらず、帰りに水が引いた木曽川を渡る際に溺死者が多数出た点(其時分以外水迫候て、河表打渡、河野島)

・織田方が命令に背いて攻撃した(その前の信長弾劾)にも関わらず斎藤方が木曽川よりさらに先の境川に来ただけで軍を止める織田勢(即時ニ竜興懸向候〜国之者共限堺川詰陣を取続相守候)

・水が引いて斎藤が攻撃をかけようと考えた何日か前、既に織田軍は撤退していたにも関わらず斎藤方がその一部始終を見たと記している点(去八月八日〜前代未聞ニ候)


斎藤方の9割近くの誇張でできた河野島
だがのような無知無能なる人間に対する喧伝、アピールのためにこういった誇張が生まれたのだろう。


340人間七七四年:2012/03/24(土) 01:34:13.58 ID:JaWFYxfN
長文コピペでマルチポストとか…
だがみたいなことすんなよ、恥ずかしい。
341人間七七四年:2012/03/24(土) 06:09:07.29 ID:F8SZbvy0
338を受けてだろう
342人間七七四年:2012/03/24(土) 18:56:55.69 ID:ckPCWmhp
>>339は内容こそ違うがIDはだがだぞ

ID:PM26fWghの他のレス↓

信玄・謙信・宗麟・輝宗・晴久
66 :人間七七四年[sage]:2012/03/23(金) 00:09:59.36 ID:PM26fWgh
島津なんて宗教問題で混乱してた大友領火事場泥棒しただけだよな
耳川なんて大友3軍部隊の上に田原が勝手に退却するなど滅茶苦茶な状態だったから負けただけだし
普通に戦った戦闘じゃむしろ撃退されまくり。
宗麟がちゃんと主導権握って戦ってたら100%島津に勝ち目なかっただろ

【軍神 上杉謙信 毘沙門天 越後の龍】
506 :人間七七四年[sage]:2012/03/23(金) 22:15:19.25 ID:PM26fWgh
あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのか?信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。9/27には逃げ帰った信長が美作
の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
信長が京か安土城にいた一次史料はない。信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまい
やっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。
明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。 8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる
防御力向上を図ったんだろう。松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
(以下略)

武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part2
725 :人間七七四年[sage]:2012/03/23(金) 22:20:53.16 ID:PM26fWgh
武田方が突撃したのが砦陥落より前だからそれは絶対にない
しかもあんなとこ突っ込んで8時間以上戦ってボロボロになった状態で背後取られてたら無事に退却できるわけないし
砦どうこうは勝敗の決め手になってないのは明らか
ようは圧倒的兵力差&高性能鉄砲の待ち構える中&城みたいな堅個な陣地&雨でぬかるんだ地面
こんなとこに無茶して突っ込んだから負けただけ


要は哀れな織田厨乙と後で自演したいだけ
343人間七七四年:2012/03/24(土) 19:39:26.55 ID:wd6EhtMT
>>342
だがさんも多少は頭使うようになったんだ。
まあ、他にも下品な口調や不自然な改行、age、マルチなどでバレバレだけどね。
344人間七七四年:2012/03/25(日) 12:55:14.50 ID:azxi54O/
345人間七七四年:2012/03/25(日) 13:09:24.42 ID:boSddDYB
>>326>>330
相変わらずキチガイ織田厨だなwww
河は海より危険で、浅くて渡れると見た目で判断しても
ちょっと先に進むといきなり深くなり足を取られ
緩やかな流れに見えて、実は早い流れであり
そのまま体をもっていかれるから
海よりも危険なのも知らんのか。
しかも大重量の武士じゃ、水面下の石でも踏んだ時にコケに滑って転落して水死ですよ。
火よりも水の方が危険とされるゆえんです。

そもそも今までの経緯レスを読んだが、
水がほとんどないと主張しながら
河川の土壌が徐々に侵食ってwものすごく矛盾してるんですがw
侵食するくらいの洪水が成立する水流のある河川ってことですよね?

1000年単位にしたって水源での地下工事で水流変更でも起きない限り
河川の流路変更というのは下流で起こるもので、岩盤が固い上流ではほとんどおきません。
それは関東太郎と呼ばれる利根川ですらそうです。
しかも断崖絶壁は地震や火山で成立するものではありません。
地震でおきるのは小規模な落盤か、土石流のたぐい。
いきなり超大規模に地が割けて人を飲み込むのは映画だけですw
火山で断崖が生成されるなんて日本にはそんな発掘調査はありません。
1000年単位で悠久に変化がなく、戦国期も同じように継続していた流れです。
明治以降の開発で現在のような状況になっただけ。
縄張り段階での思考で河を要害として利用するつもりがないなら
そもそも掘を作る必要性は皆無なのに、なんで作るんでしょうか?
つか川をナメ過ぎですね。戦国期に高度なすべり止めの縄靴でもあったんでしょうか?
苦し紛れに河川の話から断崖の話にすり変えた挙句に
東尋坊とか持ち出してバカっぽいですね。
長篠城の脇を流れる長い河川が簡単に渡れるなら
徳川は自分に都合がよい場所で渡って断崖のない方向へ大回りすれば良いだけじゃないですかwww
武田側は河川流域の全てに砦を構築して兵を配備して
監視しないと自由に渡河されちゃうんだよねwww
それじゃ、そもそも長篠城は危機でもなんでもないよね。
346人間七七四年:2012/03/26(月) 07:16:40.59 ID:/U6IIC5e
忘れたころにアホすぎて笑えてくる文章を書くなよw

>>水がほとんどないと主張しながら河川の土壌が徐々に侵食ってw
>>ものすごく矛盾してるんですがw 侵食するくらいの洪水が成立する水流のある河川ってことですよね?

一朝一夕で断崖絶壁が出来るくらいなら数年経てば崖ごと持っていかれるぞw
断崖絶壁ができているってのは要するに「崖として大地丘陵ができるだけの川の水量が安定している」ってことだからなw

>>ちょっと先に進むといきなり深くなり足を取られ緩やかな流れに見えて、実は早い流れであり

もともと水量が少ない上流でいきなり溺れるって、台風起こっていてもそうそうないぞw
ましてや渡るのは地元の徳川勢、そんな初歩的なことくらい知ってるだろw

>>火山で断崖が生成されるなんて日本にはそんな発掘調査はありません。

文脈を少し読め、火山が原因じゃなくて火山活動によって生じる急激な地形変動だ。
実際今の数ある崖は全て海流の浸食によるものではなく急激な地形変動で本来海水が来ないところまで海水が来るようになったというのが主流なんだが。
アホなおまえでも断層くらい知ってるだろ、日本は地震大国だぞ。

>>縄張り段階での思考で河を要害として利用するつもりがないなら

川なんてほとんど考慮してないから、川にそびえる絶壁を考慮した要害だからなw

>>東尋坊とか持ち出してバカっぽいですね。

アホなおまえでもわかるように著名なところを出してやったんだがなw

>>徳川は自分に都合がよい場所で渡って断崖のない方向へ大回りすれば良いだけじゃないですかwww
>>それじゃ、そもそも長篠城は危機でもなんでもないよね。

武田軍が大軍でどこにいるかもわからんのに長篠救援に向かうのか。
随分無茶な特攻をさせるんだなw
347人間七七四年:2012/03/26(月) 07:41:51.37 ID:SEd5npfz
武田って関東レベルでは通用したけど
覇王信長さんには通用しなかったよね。
しょせん東夷が近代国家に勝つのは無理があったね。
348人間七七四年:2012/03/26(月) 10:22:55.76 ID:Z2xcVyCs
武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

349人間七七四年:2012/03/26(月) 10:23:48.38 ID:Z2xcVyCs
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
350人間七七四年:2012/03/26(月) 10:24:58.78 ID:Z2xcVyCs
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も2500〜3600倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利
以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する

それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって

これらを元に数値をつける

120 上杉謙信
110 武田信玄
100 徳川家康
97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
93  立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
92 織田信忠
91 島津家久 伊達政宗
90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴

20 羽柴秀吉
351人間七七四年:2012/03/26(月) 10:26:23.85 ID:Z2xcVyCs
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくったんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる

これらの事実から勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
家臣の連中がどうだったとかどうとかはただの妄想
わかるのは譜代衆は皆命を賭して戦ったという事だけ
352人間七七四年:2012/03/26(月) 10:28:58.64 ID:Z2xcVyCs
徳川家臣団でいえば、
本多>酒井、榊原、井伊>水野、依田信繁、大久保兄弟>松平康国、鳥居元忠、大須賀康高、石川数正
>菅沼、小笠原貞慶、岡部正綱 >石川家成、奥平、木曽義昌>諏訪頼忠
>平岩、柴田康忠、保科正直>>>>>>雑魚織田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>馬鹿織田廚
353人間七七四年:2012/03/26(月) 16:06:13.97 ID:U9X32x3w
武田対織田の結果

上村合戦    合戦というほどのものはなかった
東美濃攻防戦 >>278>>298の通り武田がボコボコにされる
三方ヶ原     武田が兵力で勝利。織田の援軍3000はほぼ無傷で帰還
長篠       信玄の負の遺産によってせざるを得なくなった戦い。
          勝頼はイチかバチか勝負をかけるものの、合理的な判断であったがゆえに読まれ敗北。
          もっとも、ここで引いていてもいずれ武田が滅んだ事は確実視されている戦い。
岩村城      秋山が信忠にボコボコにされ降伏を求めてきたので、捕まえて磔にした
高遠城      またしても信忠にボコボコにされる。
          武田征伐でほぼ唯一といっていい戦いのため、武田厨の心の拠り所とされる。
354人間七七四年:2012/03/26(月) 16:42:11.48 ID:SEd5npfz
第六天魔王>>>>>甲斐の山猿
355人間七七四年:2012/03/26(月) 17:32:07.19 ID:wdxfOxAq
>>346
そんな侵食されるなら今頃どうなってるんだろうな
海溝レベルになってんじゃねw
356人間七七四年:2012/03/26(月) 17:54:28.78 ID:Z2xcVyCs
武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

357人間七七四年:2012/03/26(月) 18:00:54.73 ID:Z2xcVyCs
岩村城の攻防は激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。
11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。
しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。
これにより岩村城の武田所属が確定し、
信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。
その報告を信長が得て11/12に赤沢、11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。
ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。
信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。
だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。

苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して
秋山を討つまでは苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。
信勝に弓を引くとか考え難い。

信玄は元亀元年7/19に天台座主のトップの交代で
新座主に猿の絵を送って祝福してる。
天台宗といえば比叡山であり、その比叡山には日吉神社があり
延暦寺の守り神とされ、猿は日吉神社を象徴していた。
つまり信長が比叡山を焼き討ちした元亀2年9月に信長は信玄へ挑発したも同然の悪行をしている。

織田一族が既存の土地に執着する古い豪族の連合体で
武田家などは集権化が比較的進んでいたことが判明しているんだよね
織田一族の領域では在地構造がそのまま温存されたり
私的な関係や便宜的な寄子寄親関係で適当に済ませてるケースが非常に多いが
武田家の領国では代官支配や主城主を中心とした再編成が多く見られる
ざる統治だったので、ちょっと体制を整備しようと
取り敢えず重臣2人のクビ斬ってみたら、反動で連続謀反が起き死亡ってとこじゃね
織田に離反が多いのも私的な主従関係を築いて一蓮托生な国人が多いから。

永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、信玄が今川を討たないと
逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた
358人間七七四年:2012/03/26(月) 18:07:29.22 ID:Z2xcVyCs
武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果>>356の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
359人間七七四年:2012/03/26(月) 19:17:00.37 ID:wdxfOxAq
>>357
激しく感状を出した後ってなんだよw
360人間七七四年:2012/03/26(月) 19:46:33.67 ID:/U6IIC5e
だが史観

武田家:武田勝頼は天目山で自害しなかったので武田家は崩壊しなかった
    その後徳川家康に領地を貰い大名として存続。

織田家:織田信長が本能寺で討たれると実子の信雄信孝、弟の信包長益すら織田家相続をなぜかボイコット
    「信長の跡なんて継げません」と拒否宣言したため織田家はそのまま霧散して滅亡。
    嫡男信忠の遺児であった織田秀信は羽柴秀吉に引き取られて織田姓を捨てる。

結果武田>織田というのがだが史観
361人間七七四年:2012/03/26(月) 20:03:56.82 ID:Z2xcVyCs
信長死んだ途端家臣は皆好き勝手に行動、織田家が織田家として二度と機能しなくなった。
信雄信孝信包秀信は織田家当主どころか秀吉の天下取りに利用されて滅んだだけ。誰も彼らを当主として機能していない。
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
362人間七七四年:2012/03/26(月) 22:26:49.73 ID:U9X32x3w
>>361
秀吉がちゃんと機能させております。
363人間七七四年:2012/03/26(月) 23:01:08.43 ID:Z2xcVyCs
秀吉‥織田家が機能していて織田家家臣として天下統一がなされたというなら
秀信に実権全て渡さなきゃいけない。しかし実際やった事といえば信雄信孝の内訌につけこみ
織田家を侵奪しただけ。はなから織田家とは関係なく好き勝手に行動していたのは明白である
364人間七七四年:2012/03/27(火) 00:36:38.25 ID:HK84Gk0t
まるで無知なんだなだがは
天正13年に秀吉は関白に任じられている。
つまり朝廷や天皇から武士の中で一番偉い官位を貰ったわけ。

いくら織田家が羽柴家の主家といっても関白豊臣家の方が官位は上なんだから朝廷の下従わなきゃならない。
それとも関白秀吉に逆らって朝敵の汚名を末代まで残すか?w織田秀信や織田信包といった織田一門は決してそんなこと望まなかっただろうな。

ま、征夷大将軍を奉じていた織田家に逆らった武田家があんな無様な最期を遂げたのを見ていただろうしw
365人間七七四年:2012/03/27(火) 00:49:21.35 ID:HK84Gk0t
この状態で豊臣秀吉が実権を織田秀信に移譲すればどうなるか、言うまでもない。

秀吉は関白職と同時に豊臣氏まで貰っている。いわば朝廷が秀吉に対して最も偉い、武士の棟梁と認めたわけだ。
その朝廷の信頼を自ら崩して、自己満足で織田秀信に実権を移譲することは朝廷に対する侮辱であり、
また仮に織田秀信が反朝廷思考であったなら、これが原因で内乱すら起こりえただろう。

当の織田家の連中にしても朝廷の信頼をぶち壊し、家臣の信頼を失ってまで実権を移譲するなど望んでもいないことであり、
そんなのはどう考えても御免であっただろう。
366人間七七四年:2012/03/27(火) 01:02:59.29 ID:cW9XDM84
>>363
織田家とは関係なく好き勝手に行動していた



信雄信孝の内訌につけこみ織田家を侵奪した    ← 思いっきり織田家と関係がある
367人間七七四年:2012/03/27(火) 08:21:16.10 ID:IOZrMTGt
だったら官位も貰わないか、秀信に奉納すればよかただけ。
理由がどうあれ、秀吉は織田家を利用して天下人の地位を簒奪しただけ
どんな理由があれ、織田家の武将として行動していたというなら
織田家後継の資格を持つ信雄秀信信孝などに実権渡し、彼らの命令で行動しなくてはいけないのは自明
実際やった事といえば秀信を傀儡として利用して天下人の地位を簒奪しただけ
368人間七七四年:2012/03/27(火) 16:14:42.18 ID:cW9XDM84
>>367
秀信を傀儡として利用   ← 織田家の武将として行動しているじゃん。
369人間七七四年:2012/03/27(火) 16:19:49.03 ID:IOZrMTGt
織田家に従ってはいない
370人間七七四年:2012/03/27(火) 16:24:04.91 ID:cW9XDM84
>>369
従ってるよ。
形式上、秀信を君主として立ててるんだからね。
371人間七七四年:2012/03/27(火) 16:29:24.15 ID:IOZrMTGt
秀信成人後、秀信に実権を返上しているならばそれも説得力あるけど
実際申し訳程度に領土与えただけだからな
織田家家臣として動いていないのは明白
秀吉のみならず他の連中も同罪だが。
372人間七七四年:2012/03/27(火) 16:32:59.80 ID:cW9XDM84
>>371
それは秀吉が関白になり、主従関係が逆転した後の事。
そえrまでは表向き秀信を君主として、織田家の家臣として動いてる。
373人間七七四年:2012/03/27(火) 16:54:39.08 ID:IOZrMTGt
だからそれが家臣としてならやっちゃダメって言ってるの。
秀信の家臣としてなら秀信に官位を帰さなくてはならない
官位貰わない事だってできるだろ
374人間七七四年:2012/03/27(火) 17:37:53.34 ID:cW9XDM84
>>373
だから秀吉が織田家の家臣として動いていたのはそこまでだよ。そんな分かりきったこと言われても。



主君 織田秀信   家臣 羽柴秀吉

秀吉が関白に任官(ここで逆転)

主君 羽柴秀吉   家臣 織田秀信
375人間七七四年:2012/03/27(火) 18:04:17.86 ID:IOZrMTGt
秀吉が関白に任官(ここで逆転)
要はこれを始めから狙ってただけだろ。
織田家臣だった時点で任官を断らず受け入れてるなら「家臣としての」行動ではなく織田家への叛意
大体秀吉が織田家臣として行動してたというなら一門格の信孝殺しちゃいけない。
信雄も粗末に扱うな
秀信が成人するまで織田家が秀信を当主としてうまく機能するように精一杯努力しないといけないが
秀吉は自分の勢力拡張を広げる事中心で結局織田一族には申し訳程度の領土与えただけ。
後見人なんだからちゃんとそれ相応の立場を補佐しないとダメ。
376人間七七四年:2012/03/27(火) 18:12:21.99 ID:cW9XDM84
>>375
だから形式上って言ってるじゃん。
377人間七七四年:2012/03/27(火) 18:24:24.87 ID:IOZrMTGt
中身のない形の上だけの関係でいいなら朝廷とか公家が形式上大名を家臣にしているのと同じ事
378人間七七四年:2012/03/27(火) 18:56:04.81 ID:wFphm9Qy
武田信玄は無能。凡人。。。。。。。。。。。。。。
武田信玄は上洛をしようとしている、と言われているが、たかだか、2万程度では尾張も落とせない。
目的は、遠江三河の攻略でしょう。。。。。。。。。。。
信濃、甲斐、駿河の実質3か国支配だし、三方原でも家康に勝ったとはいえ、
兵力ありすぎだし、浜松、吉田、岡崎といった家康の中核の城を落としていない。
379人間七七四年:2012/03/27(火) 19:41:22.02 ID:bTz+gdeJ
>>377
公家がいつ大名を家臣にしたんだ?
380人間七七四年:2012/03/27(火) 20:40:37.67 ID:IOZrMTGt
足利公方とか朝廷とか形の上で大名家に臣下の令を取らせている
381人間七七四年:2012/03/27(火) 21:00:13.66 ID:bTz+gdeJ
>>380
朝廷は朝廷でいわば天皇の機関であって公家のものではない
将軍は武家
公家が大名を家臣にした例は?
382人間七七四年:2012/03/27(火) 21:30:24.36 ID:IOZrMTGt
朝廷に頭下げたりしてなかったっけ
献金も一杯したり
383人間七七四年:2012/03/27(火) 21:54:34.11 ID:bTz+gdeJ
公家がって言ってるだろうが
384人間七七四年:2012/03/27(火) 21:55:57.69 ID:zISJlFr4
>381
豊臣秀吉(キリッ
385人間七七四年:2012/03/27(火) 23:56:53.63 ID:HK84Gk0t
そもそも豊臣政権は権力の二重構造

実際は織田秀信が当主であり、後見人の織田信雄、家臣の羽柴秀吉という図式であったが、
朝廷の特例措置で羽柴秀吉を関白職に任じ、織田秀信、織田信雄はそれぞれ関白より下の官位についているだけ。

つまり織田秀信は武家社会では秀吉の主君だが、朝廷の下では官位が上の秀吉に従わなくてはならない。
武士といえども天皇や朝廷の沙汰に逆らうことはできないからである。

結局この凄くややこしい権力構造が秀吉が合法的に天下の頂点に立つことの証明、根拠となり
同時に豊臣政権の欠点でもある。
386人間七七四年:2012/03/28(水) 00:04:32.79 ID:UrgzvLC7
この欠点は秀吉死後、露骨に露わになる。
もともと朝廷の官位体制に合法的に武士を組み込む形で権力を握っていた豊臣秀吉ではあったが、
跡を継いだ秀頼はかつての秀吉のような高官位もなく、天下の頂点たる正当性もなかった。

結局この矛盾をついた徳川家康によって征夷大将軍という位を朝廷に認可させ、
再び朝廷と武士が切り離されるに至る。豊臣家は他の関白職を継ぐ五摂家と同じくただの公家として扱われることになった。
やがて宙ぶらりんな豊臣家は滅ぼされるに至る
387人間七七四年:2012/03/28(水) 00:12:29.24 ID:dEuuxWNE
まあ少なくとも真田や保科なんかよりは旧主筋を大事にしているよな
388人間七七四年:2012/03/28(水) 00:39:21.46 ID:+ZlTCV8b
欠点も何も秀吉自身がそのシステムぶっ潰したわけだし
389人間七七四年:2012/03/28(水) 09:53:02.15 ID:eWlIFm3a
>>385>>386
デタラメ吐くなw
そんな説は誰も唱えてない。
織田が秀吉に簒奪されたことを誤魔化すために
キチガイ理論で捏造擁護してて痛いわw
主筋を大切にしてるなら
秀吉が売官運動して、主家に前もって官位いただいてよろしいですか?と
断ってからもらうもんで、勝手にもらうなんてありえない。
信長生存していたら、信長にぶっ殺されるレベル。
そもそも秀吉が官位の上でも織田を凌駕する目的で
計算された官位上昇だし、
信雄などの官位上昇も秀吉が働きかけて「やった」もの。
完全に筋目が逆になってる。
秀吉が専横している状態。
390人間七七四年:2012/03/28(水) 10:09:17.91 ID:ZXdOXSOS
時間軸がずれてる
人間関係が不変のまま推移すると思っている
お話にならんよ君
391人間七七四年:2012/03/28(水) 10:14:07.28 ID:eWlIFm3a
信長が生存していたら
決して恐ろしくてやれないことを
平然とやってのける者が続出してる織田家中。
完全に政治を専断し織田家なんて軽視しまくりだろがw
そろそろ光秀・秀吉によって織田は下克上されて
かつて織田が斯波家を、斉藤が土岐家にやった同じことをされたと認めろよw
392人間七七四年:2012/03/28(水) 11:03:17.38 ID:UrgzvLC7
土岐家も斯波家も下剋上されてから大名に返り咲いた瞬間は一度もなかった。
織田家はどうか、なんのことはない、織田信雄も織田秀信も大名のままであり、
織田信包、織田長益らの尽力もあって大名としての織田家は決して滅ぶことはなかった。

いくら武田家が織田家に滅ぼされてその後どこのだれかもわからぬ出自の連中と同格以下にされたからって逆恨みはよくないなw

>>前もって官位いただいてよろしいですか?と断ってからもらうもんで、勝手にもらうなんてありえない

朝廷が、天皇が秀吉の功績を称して公家たちが揉め事を起こしていたせいで空白だった関白を秀吉に与えただけのこと。
それともおまえは天皇の沙汰より織田家の沙汰を重視せよと、逆賊や朝敵みたいな振る舞いを秀吉にしろ、というんだな?w
393人間七七四年:2012/03/28(水) 11:14:39.40 ID:UrgzvLC7
そもそも関白職を売官運動で秀吉が買ったなどとお話にならん妄想を繰り広げるだがには恐れ入る。


関白というのは摂政を除いて公家の最高位で、関白職に任じられるのは秀吉以前は藤原氏だけであった。
あの平清盛や足利義満ですら任じられないという特別職扱いで、こんな重要な官位を売官運動だけで任じられないのは自明の理。

いくら朝廷公家社会のゴタゴタが背景にあったとはいえ、基本的には例外中の例外でそれこそ拍子の瓢箪、慮外の褒賞であり、
天皇や朝廷側の苦慮も大いにあっただろう。それを秀吉個人の一存であっさり退けろという身勝手ふりを晒すだが。
おまえ本当に社会人か?w
394人間七七四年:2012/03/28(水) 12:12:29.59 ID:LPmebqHz
武田は滅んでねえだろw
仁科の家系などが徳川直臣として重用され名家として存続w
織田は信長の死と当時に皆織田家とは関係なく勝手に行動して一気に崩壊。
信雄信孝‥神戸北畠の人間で本家織田家とは別
信包‥政権争いのカヤの外
秀信‥幼すぎて実権なし。秀吉にいいように利用されて傀儡化
織田家臣達は誰も彼らを織田家当主として扱う事なく織田家は瓦解w
織田を簒奪した豊臣も徳川に大敗し、天下は徳川の物へ
395人間七七四年:2012/03/28(水) 14:08:14.93 ID:LPmebqHz
信長公記のデタラメっぷり

公記曰く
信長御憑み御請の事
義昭が信長をひとえに頼み入れられたきの趣を仰せ出され、
既に国をへだて其の上にも信長沽弱の士なりと言えども
天下の忠功を致さんと欲せられ一命を軽じ信長はお受なさった。
永禄11年7/25越前へ御迎へ。

などと公記に書いてあるが実際にはその前から義昭は信長を頼りにしていたが
信長がヘタレ過ぎて半ば、呆れていた件w

永禄8年から計画された義昭の上洛作戦の主導者の箕作城の六角宗房が
武田が美濃を攻めないように協力を申し出、
「阿波から将軍の座を目指して足利義親が上洛する前に
覚慶(義昭)が家督継承宣言させないとダメ。紀伊の根来衆にも話をつけた」
と細川配下の薬師寺に書状を出してる。
一色・細川は清水寺に禁制を与えるなど京の寺院掌握に動き出し、
義昭は近江矢島に拠点を移動し、いよいよ上洛を目前に控えつつ永禄9年を迎えた。
すでに能登の畠山義綱・大和の十市遠勝も出陣準備を整え、
2年前に岐阜城を家臣竹中にパクられた斉藤龍興も公方様の上洛に協力しなければ
罪状を受けることを恐れて細川に誓詞を出している。
三河・尾張・美濃・近江・伊勢の軍勢で上洛戦開始を8/22の信長出陣に合わせよと遠勝に命じていた。
しかしビビった信長が寸前になって、やっぱり辞めようと言い出す。
これを聞き龍興(15歳)が信長はヘタレwと嘲笑するや、逆ギレした信長が8/29に美濃へ攻め込み
閏8月夜に斉藤軍に大敗するカッコ悪さ。
結局、三好軍に襲撃された義昭は朝倉を頼りに北陸へ出発。
永禄11年2月には足利義栄が将軍に就任してしまい
ヘタレ信長がまさかの逆切れで斉藤攻めを開始し六角氏の計画が崩壊した。
さらに今度は天皇まで上洛の要請を信長にしてくるまで上洛を決意できずビビり続けた信長・・・
396人間七七四年:2012/03/28(水) 15:21:31.52 ID:GOyIAiFM
>仁科の家系などが徳川直臣として重用され名家として存続w

墓穴掘ったw
397人間七七四年:2012/03/28(水) 16:57:26.24 ID:TylhsSST
信長さんは織田信成というオリンピックアスリートを生んだよね
398人間七七四年:2012/03/28(水) 18:49:38.84 ID:UrgzvLC7
仁科家が名家wwww
高家旗本ですらないただの徳川旗本に入れられた程度で重用wwww
たかだか5000石にも満たない武田家と総石10万石の織田家の差は歴然w

挙句織田信高や織田信貞が高家旗本にいたのを無視して
「高家旗本は偉い、大名より上」と信玄死後6代後になってようやく高家旗本になった
カス武田家を持ち上げるだがw
399人間七七四年:2012/03/28(水) 18:59:38.88 ID:UrgzvLC7
カス武田家の末路

武田義信:信玄嫡男、無能当主信玄を諌めたせいで逆ギレされ廃嫡。女系のみ

海野竜芳:信玄次男、盲目のため出家。武田滅亡後に自害し息子は家臣であった大久保に寄生、のち5代後に高家旗本入り

武田信之:信玄三男、早死

武田勝頼:信玄四男、武田家最後の当主。父に劣らぬ無能っぷりで名門甲斐源氏を滅ぼす。

仁科盛信:信玄五男、息子が徳川旗本になる、家系偽造説がある。

葛山信貞:信玄六男、よくわからんまま死亡、断絶。

武田信清:信玄七男、嫁のつてを利用して仇敵上杉家に仕えるという屈辱を味わう

武田信実:信玄弟、息子が徳川旗本になる



一方の輝かしい織田家

織田秀信:信忠遺児。本能寺後に織田家当主になるが朝廷が秀吉を認めたため彼に従い初期領地10万石の大名という異例の出世コースを歩む。
     関ヶ原で西軍に属したため改易

織田信雄:信長次男、暗愚扱いされるがしぶとく生き残り最終的に大坂の陣の後大和に5万石を領する大名に返り咲き

織田信包:信長弟、争いはもっぱら好まずひたすら中立を保ち続けて家を残した織田家の功労者。最終的に江戸期の丹波柏原3万石に落ち着く。

織田長益:信長弟、茶人かぶれ扱いされるが関ヶ原では少数の兵で奮戦し戦後4万石の大名となる。

織田信高:信長七男、関ヶ原後に徳川家の高家旗本に列せられる。

織田信貞:信長九男、関ヶ原後に徳川家の高家旗本に列せられる。



織田信長>>>>>>>>>>>織田信雄>>>>武田信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>武田勝頼w
400人間七七四年:2012/03/28(水) 18:59:54.85 ID:LPmebqHz
武田は滅んでねえだろw
仁科の家系などが徳川直臣として重用され名家として存続w
武田一門の木曾も関東に一緒に移転して徳川直参系として存続www
織田は信長の死と当時に皆織田家とは関係なく勝手に行動して一気に崩壊。
信雄信孝‥神戸北畠の人間で本家織田家とは別
信包‥政権争いのカヤの外
秀信‥幼すぎて実権なし。秀吉にいいように利用されて傀儡化
織田家臣達は誰も彼らを織田家当主として扱う事なく織田家は瓦解w
織田を簒奪した豊臣も徳川に大敗し、天下は徳川の物へ
401人間七七四年:2012/03/28(水) 19:01:11.49 ID:LPmebqHz
織田信長は領土拡張率0
402人間七七四年:2012/03/28(水) 19:02:55.55 ID:LPmebqHz
信長死んだ途端家臣は皆好き勝手に行動、織田家が織田家として二度と機能しなくなった。
信雄信孝信包秀信は織田家当主どころか秀吉の天下取りに利用されて滅んだだけ。誰も彼らを当主として機能していない。
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
403人間七七四年:2012/03/28(水) 19:03:45.03 ID:ZeBGjD0v
仁科氏が徳川直臣ってソースはwikiですか?
404人間七七四年:2012/03/28(水) 19:09:09.02 ID:UrgzvLC7
大名として二度と地位に復することがなく滅びた武田家の信者だがが発狂したww


悔しいですねぇ織田家は本能寺の変という難局があっても10万石も最終的に残っちゃったんですからw
心中察するに余りあるww滅びた家はかくも無残www
405人間七七四年:2012/03/28(水) 19:18:57.98 ID:UrgzvLC7
さらに時代を下りましょう

江戸期〜明治期の両家

カス武田家

ほとんどの武田家一族は名前が見えなくなる、大名として残っていないのであるから当然である。
挙句徳川家康に息子の武田信吉を武田家当主にすると言われあわや家を乗っ取られるところであった。
この件は武田信吉が早死にしたためおじゃんになったがそれだけ武田家は忘れ去られていたのだろう。

大久保に寄生した信玄孫の武田信道であったが大久保事件で主家が改易され巻き添えを食らう。
ほどなく復帰したらしいが存在そのものはほぼ全て忘れ去られていた。
孫の武田信興が側用人柳沢吉保の家に寄生していたこともあってなんとか高家旗本には復帰する。
だが結局その子武田安の代で高家武田家は断絶。柳沢吉保の一族の連中が養子に入り以後実質は柳沢家として明治まで続く。


織田家

江戸時代中期には織田信包系や織田長益系の改易が相次いだが先祖の薫陶をよく残したのか
肝心の信長次男であった織田信雄系はしぶとく明治時代まで織田家直系の血族のまま生きながらえる。
織田信長、織田信雄の薫陶、血族は全て彼らに受け継がれていたと言ってよいであろう。

戊辰戦争が終わり時代が明治となって武士が必要とされなくなった頃、時の当主織田信敏が
相馬家からやってきたのちの織田信恒を養子にすることでようやく織田家の直系はその役目を終えた。
406人間七七四年:2012/03/28(水) 19:19:07.32 ID:LPmebqHz
本能寺の変時点で織田家は織田家として機能していないから信長の拡張率は0
それを秀吉が織田家簒奪の名分利用のお情けでちょろっと申し訳程度の領地与えただけ
407人間七七四年:2012/03/28(水) 19:21:17.45 ID:UrgzvLC7
織田家は織田家として機能していない(キリッ

清洲会議や信長葬儀はなんのためにやったんですかね?wwwwwww
暇つぶしっすかwwww
408人間七七四年:2012/03/28(水) 19:22:32.29 ID:LPmebqHz
織田家が実質滅亡同然だったから
柴田も秀吉もその他連中も織田家の家臣という立場利用していかに勢力拡張するかという事に邁進したのが清洲会議
409人間七七四年:2012/03/28(水) 19:23:39.67 ID:LPmebqHz
傍から見てて誰もが秀吉の思惑通りに進んだと実感してんだよ。
そもそも三法師が信孝の元にいるのも4家老による清洲会議で決定していたもんだ。
丹羽が安土城の普請で住めるくらいのある程度完了したら三法師を
岐阜から移す取り決めをしてたのも知らんのか。
その後、柴田も秀吉も対立してるため、それぞれ別々に9/11.9/12に信長百日忌をやってる。
その間に、テキトー清洲会議のデタラメぶりが噴出し
清洲会議から織田一門を排除していた為に細部合意を当事者同士が合意していない結果
(明と日本が当事者のチョンを無視して講和交渉して、決定したことを受け入れろやと言われるようなもんだしな)
信孝と信雄が国境線争いで対立し始めてるし
さらに秀吉がそろそろ安土へ三法師を!との意見に
清洲会議の屈辱から巻き返すべく柴田が秀吉への反発を強めていて
柴田が畿内がよく治まった上で宿老総意を得て安土へ移す方がいいと
秀吉方だった丹羽に同意を求めて味方化しようとしたが見事に拒否られてる。
(柴田が合意不可能な条件を提示していて、あからさまに三法師を手元から離さない信孝とつながっていたのがわかる)
これが9/3の情勢であり、
その後、11/1になると三法師を安土に移そうとしない信孝の違背から
秀吉は信雄を柴田を除く三家老合意で担ぐことを家康へ書状を出してる。
8/7秀吉は京都で専横していた桑原貞也を罷免して浅野と杉原を京都奉行にしたことが
柴田との対立の直接的なスタートになったなんてソースは聞いたことない。
そもそも山城国を秀吉に与えた時点で、そんなことは想定できる話だし柴田はそんなにバカなのかw
しかも信雄を擁立したのは11月になってからの話で、
三法師をなんとか信孝の手から離して安土へと動く秀吉は8/11の書状などを見ると
信孝との関係をそれ以前はまだ破綻させようとは思ってなかったのがわかる。
対立が先鋭化したのは9月であり、それ以前はまだ明智残党を討ったり、
体制固めをしていたから先鋭化してないだけで火種は存在し対立しつつ、双方相手の情勢を窺っていた。
しかし明らかに「おおむね羽柴がままの様なり」な清洲会議の結果、
秀吉への反発がスタートしたのは明らかで三法師を手元におき傀儡の主導権を握るべく、
秀吉・丹羽・池田と信孝・柴田が対立開始していて双方が対抗心剥き出しで
織田家内の多数派工作をしてる(7/11には秀吉は丹後の処置を完了し細川家との同盟を結んでる)
また外交政策も織田家が窓口代表ではなく、柴田も秀吉も各自でおのおのやっており織田主家なんて無視。
そして信孝と信雄も国境問題で対立しているので、自然と信雄が秀吉側になるのも当たり前。
410人間七七四年:2012/03/28(水) 19:24:56.01 ID:UrgzvLC7
実質滅亡同然wwwwww

滅亡しているなら柴田も羽柴も好き勝手やりゃいいじゃないですかw
織田家の家臣という立場の利用とか、存在しない家の家臣をやるんですか?wwww
信長葬儀とか時間の無駄っすよwwww信雄や秀信だってぶっ殺しちゃえばいいじゃないですかwww

羽柴も柴田もずいぶんハートフルだったんですねwww
411人間七七四年:2012/03/28(水) 19:26:48.03 ID:LPmebqHz
滅亡同然だからこそ利用する価値があるんだろ
そもそも家臣に勢力拡張の大儀名分として利用されてる時点で家が機能していない事なんて馬鹿でもわかる
あの時代の軍事行動は名分有り無しじゃ全然意味合いが違うからな
味方どんどん増やせるし
412人間七七四年:2012/03/28(水) 19:27:24.13 ID:UrgzvLC7
しかも織田三法師秀信も織田信雄も織田信孝も関わりまくりwwww
え、こいつらの親は誰なの?www秀吉?wwww

特に信孝なんて超やる気出しちゃって、今日から俺は実質当主とかやっちゃってるのに
織田家は滅亡(キリッwwww
413人間七七四年:2012/03/28(水) 19:27:44.68 ID:LPmebqHz
つーか信孝ぶっ殺されたしな
信雄も改易されたりしてたし
414人間七七四年:2012/03/28(水) 19:29:22.32 ID:LPmebqHz
信雄信孝⇒神戸北畠の人間で織田ではない 復姓していない
秀信⇒幼すぎて実権なし 傀儡として利用されただけ
誰も彼らを主君だなんて思ってもないし行動してもいない
415人間七七四年:2012/03/28(水) 19:30:58.50 ID:UrgzvLC7
挙句勢力拡張とかwwww
織田信雄殿に対する謀叛だと直々に言っちゃってるのにwww他勢力扱いwww
挙句信雄も昔年の恨みで弟ぶっ殺しちゃってるのにwwww名分www担ぎ上げwww

で、越前は秀吉の領地になったんですか?www美濃は秀吉の領地になったんですよね?wwww
416人間七七四年:2012/03/28(水) 19:32:58.36 ID:LPmebqHz
美濃は神戸信孝の領地
織田信雄も北畠の人間 ただの後見人
本能寺の変が起きると、
伊勢の兵は四国攻めに派兵してたことと、
旧北畠家臣らの蜂起で治安崩壊。
毛利の記録には光秀と柴田が信長を討ったと書かれ、
近衛は家康家臣に本能寺の変は織田家臣達の仲間割れの争いと証言。
蒲生を除いて近江はあっさり明智派。
美濃も斎藤利堯が岐阜城を奪い取り勝手に自分の名で安堵状を次々出して領国化を始める。
森長可が信長の遺令を無視し団の岩村城を勝手に奪い取り
東美濃攻略を開始し自領化を進める。
織田家臣たちの書状には一向一揆に協力を願いたいとの内容があり、
一向一揆の蜂起を恐れて懐柔しようとしてるのがわかる。
尾張は家康を警戒してたとおもわれる。
高野山は景勝宛に勝利宣言。
義昭も勝利宣言。
野心家秀吉は中川や高山を味方にして摂津掌握し、
瓦解した四国征伐軍を吸収し河内や和泉方面を抑え、
大和方面に圧力を加え筒井に動揺を与える。
信長死んで撤退中に宴会まで開いた北陸軍は
柴田が光秀討伐のポーズだけ、
それに答える佐々は1000くらいしか派遣しないからと冴えない返答。
利家もお断り、どうしてもというならちょっとしか兵出さないと冷たい返事。
若狭の丹羽にすら援軍出さず。
光秀は秀吉が摂津から京に向かうか、
河内大和方面から京に入るつもりか悩む。
417人間七七四年:2012/03/28(水) 19:33:46.09 ID:UrgzvLC7
復姓してないんなら、織田上野介さんを頼ればいいだけwwww御馬揃えの地位は信孝より上だものw
で、その織田上野介信包さんは、誰を支持したんでしょうね?wwww

朝廷の評価に、文句ひとつ言わずに従った織田上野介さん、立派だよな
織田ごとき天下悪逆の徒、みたいなこと言って哀れに滅んだ武田家とは大違いwwwww
418人間七七四年:2012/03/28(水) 19:37:09.89 ID:UrgzvLC7
上杉との戦争にかったんだから兵をねぎらうのは当然wwww
領地を守るのが先決で敵味方や行動指針を決める必要があるのも当然。
秀吉の神業と信孝丹羽池田の協力で打ち破った。もちろん明智が近江に兵を集めていたのもあった。
つまり間接的には柴田も信雄も頑張っている、織田家の執念が亡き主の仇を討ったといういい話。


主君死んだ途端こぞって徳川に走った挙句再興しなかった武田家とは大違いwwww
419人間七七四年:2012/03/28(水) 19:39:22.53 ID:LPmebqHz
信長死んだ途端家臣は皆好き勝手に行動、織田家が織田家として二度と機能しなくなった。
信雄信孝信包秀信は織田家当主どころか秀吉の天下取りに利用されて滅んだだけ。誰も彼らを当主として機能していない。
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
420人間七七四年:2012/03/28(水) 19:43:10.66 ID:UrgzvLC7
秀吉が清洲会議で乗っ取り開始wwwwwおっさん司馬遼太郎の読みすぎwwww

当主秀信を野心がギラついた信孝にとられ信孝は柴田とがっちり手を組む出遅れ感www
これで「羽柴が織田家を乗っ取った」と妄想するアスペだがwwwww


挙句山崎での明智領戦功褒賞を指した「おおむね羽柴がままの様なり」という多聞院日記の箇所を
清洲会議全文に繋げるという愚挙wwwwおっさん日本語くらいちゃんと読めよwwww
421人間七七四年:2012/03/28(水) 19:44:08.52 ID:LPmebqHz
傍から見てて誰もが秀吉の思惑通りに進んだと実感してんだよ。
そもそも三法師が信孝の元にいるのも4家老による清洲会議で決定していたもんだ。
丹羽が安土城の普請で住めるくらいのある程度完了したら三法師を
岐阜から移す取り決めをしてたのも知らんのか。
その後、柴田も秀吉も対立してるため、それぞれ別々に9/11.9/12に信長百日忌をやってる。
その間に、テキトー清洲会議のデタラメぶりが噴出し
清洲会議から織田一門を排除していた為に細部合意を当事者同士が合意していない結果
(明と日本が当事者のチョンを無視して講和交渉して、決定したことを受け入れろやと言われるようなもんだしな)
信孝と信雄が国境線争いで対立し始めてるし
さらに秀吉がそろそろ安土へ三法師を!との意見に
清洲会議の屈辱から巻き返すべく柴田が秀吉への反発を強めていて
柴田が畿内がよく治まった上で宿老総意を得て安土へ移す方がいいと
秀吉方だった丹羽に同意を求めて味方化しようとしたが見事に拒否られてる。
(柴田が合意不可能な条件を提示していて、あからさまに三法師を手元から離さない信孝とつながっていたのがわかる)
これが9/3の情勢であり、
その後、11/1になると三法師を安土に移そうとしない信孝の違背から
秀吉は信雄を柴田を除く三家老合意で担ぐことを家康へ書状を出してる。
8/7秀吉は京都で専横していた桑原貞也を罷免して浅野と杉原を京都奉行にしたことが
柴田との対立の直接的なスタートになったなんてソースは聞いたことない。
そもそも山城国を秀吉に与えた時点で、そんなことは想定できる話だし柴田はそんなにバカなのかw
しかも信雄を擁立したのは11月になってからの話で、
三法師をなんとか信孝の手から離して安土へと動く秀吉は8/11の書状などを見ると
信孝との関係をそれ以前はまだ破綻させようとは思ってなかったのがわかる。
対立が先鋭化したのは9月であり、それ以前はまだ明智残党を討ったり、
体制固めをしていたから先鋭化してないだけで火種は存在し対立しつつ、双方相手の情勢を窺っていた。
しかし明らかに「おおむね羽柴がままの様なり」な清洲会議の結果、
秀吉への反発がスタートしたのは明らかで三法師を手元におき傀儡の主導権を握るべく、
秀吉・丹羽・池田と信孝・柴田が対立開始していて双方が対抗心剥き出しで
織田家内の多数派工作をしてる(7/11には秀吉は丹後の処置を完了し細川家との同盟を結んでる)
また外交政策も織田家が窓口代表ではなく、柴田も秀吉も各自でおのおのやっており織田主家なんて無視。
そして信孝と信雄も国境問題で対立しているので、自然と信雄が秀吉側になるのも当たり前。

422人間七七四年:2012/03/28(水) 19:47:04.38 ID:qz5A99IC
>>404
信長死後の雑魚織田家なんか三流大名として残しておいても天下に影響はない。だからあえて何もしなかった。
しかし武田家はそうはいかない。しかし、滅ぼすのは恐れ多い。だから高家旗本にはしたが、大名にはしなかったんだよ!!!!
ってキバヤシが言ってた。
423人間七七四年:2012/03/28(水) 19:47:21.13 ID:UrgzvLC7
あまりに信孝が強情張るから、秀吉お手上げ状態で三家老と合議して
天正10年11月に織田信雄御家督相続として書状で徳川家康に同意すら求めているのに
その事実を全く無視するだがwwwwww
424人間七七四年:2012/03/28(水) 19:49:49.35 ID:LPmebqHz
「おおむね羽柴がままの様なり」は一次史料ですよw
あなたの妄想願望を語っても仕方がないんですがw

秀吉にしてみれば信雄や信孝ら成人したものが織田当主にならないことが
重要だったのは明らか。
取り決め通りに安土へ帰さないで三法師を傀儡にしてることを糾弾して討伐する根拠すら生まれる
長浜如き程度を棄てて、その代わり山城や丹波をもらえるは、
摂津の池田や若狭の丹羽が味方になってくれるは
「おおむね羽柴がままの様なり」そのものじゃねぇかw
425人間七七四年:2012/03/28(水) 19:52:18.75 ID:LPmebqHz
家臣に殺されるなんてぶざま過ぎます。
秀吉が知略を用いて、
対抗勢力をさっさと叩き、
出来得る限り戦力集中と兵糧の補給を重視し
そのために奉行を設置したり、
河川流通の促進のために大坂から京都に至る大治水で景気浮揚させたりしたから、
元上司と言う理由だけで信長は持ちあげられただけのDQN暴君
426人間七七四年:2012/03/28(水) 19:53:18.90 ID:qz5A99IC
>>424
字は読めても単語も文章も読み取れない御仁が言っても…
427人間七七四年:2012/03/28(水) 19:54:15.41 ID:LPmebqHz
信長はガチガチの独裁者。
そのくせ守護領国制の昔に戻そうとして、
一職支配の許可(知行安堵権・軍事統率権・裁判権)
などえお考案し内政すべてを丸投げをしてるため各地で軍閥化が進展した。
その一方で織田家老の柴田は北陸に領地を与えられず(信長から預け置くと言われてる)
佐々や利家ら信長直参家臣らに監視されている状態で働かされており
(本能寺の寸前には利家の長男が信長の娘婿になってる)
すべてが没収される寸前に謙信が死に
御館の乱に発展したおかげで柴田は加賀を攻略できて
佐久間や林や水野らと違って首がつながり
滝川も武田攻略開始のあたって信長から
「俺が出陣するまで軽挙するな。砦普請に力を入れろ。若い信忠をキチンと制御しろ、
失敗したら2度と俺の前に参上を許さんから覚悟しとけよ!」と言われていた。
そして森を先陣に信忠が軽挙進撃を続けて、老人滝川は動揺していただろう。
結果的に武田征伐は成功したから良かったが
失敗してたら滝川も佐久間と同じように追放されていた。
秀吉も宇喜多が内応して味方になった報告を安土で信長にしたら
勝手なことやってんじゃねぇ。いますぐ帰れと激怒され、
急いで播磨に帰って即、死ぬ気で合戦して武功を挙げて信長の怒りを鎮めてる。
光秀も長宗我部の取り次ぎをしてきた経緯を無視され
光秀の側近家臣の利三の妹婿である長宗我部元親攻撃をぶち上げる始末。
本能寺の変とはつまるところ斎藤道三や武田信虎や長尾為景の失脚(信長謀死)と
家臣団による信雄や信孝や秀信の傀儡化=義龍や晴信や輝虎が合議制の導入であり、
織田家は信秀が優秀だったのと、尾張の富が、信長への円満家督継承につながり
一世代遅れた歴史展開となっていた。と言うか信長はさらに封権制への深化を推進し時間の針を戻していた。

信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも織田家の傀儡化が早くも始まり別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ
(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった25日後には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され
森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に
安堵状を発給しまくる始末www
織田信澄を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
428人間七七四年:2012/03/28(水) 19:55:41.24 ID:UrgzvLC7
しかも清洲会議では
「信忠様御子ヲ取立申、為宿老共モリタテ可申ト相定、御兄弟之儀ヲ伺候ヘバ尤之由被、
 仰出候間、四人之宿老共ガカヨウニモ可有御座(以下略)」

と金井文書にきっちりあって、織田秀信を擁立する間は四宿老が合議の上でそれぞれ外交をすることが決まり切っていたのに
無知無能なるだがが「勝手に外交をするのは織田家を無視している証拠」と妄想コピペで散らすだが
おっさんがコピペに躍起になるのは哀愁漂うからやめとけよw
429人間七七四年:2012/03/28(水) 19:58:17.94 ID:UrgzvLC7
>>426
多分戦後の反戦教育みたいにこいつの見た多聞院日記は墨汁でビーって線が引いてあるんだよw
本当に一次史料を見たというならすぐ前文の箇所を無視してこんなアホな妄想はしないからねw
430人間七七四年:2012/03/28(水) 19:58:32.91 ID:LPmebqHz
実際に四宿老が合議の上で何か決めたかね?w
431人間七七四年:2012/03/28(水) 20:02:21.56 ID:UrgzvLC7
何か決めたかね?だってよwwww真顔で何アホなこと言ってんだwww

織田秀信が織田信孝のいる岐阜城に預けることそのものが既に合議で決まっているんだよアホw

金井文書「(中略)御誓紙ヲシルヘト、従清洲岐阜ヘ御供申、信孝様、若君ヲ預ケ申候事。」
432人間七七四年:2012/03/28(水) 20:07:02.80 ID:LPmebqHz
>当主秀信を野心がギラついた信孝にとられ信孝は柴田とがっちり手を組む出遅れ感www
>これで「羽柴が織田家を乗っ取った」と妄想するアスペだがwwwww
つーか主君の子と「手を組む」って時点でもう織田家家臣じゃないだろ
主君なら信孝総大将で柴田が信孝の武将として色々命令出されて一つ一つの政務軍事外交など行わなくてはいけない

>挙句山崎での明智領戦功褒賞を指した「おおむね羽柴がままの様なり」という多聞院日記の箇所を
>清洲会議全文に繋げるという愚挙wwwwおっさん日本語くらいちゃんと読めよwwww
明智領戦功褒章に関して会議したのが清洲会議だから明智領戦功報酬が秀吉の思うままなら
清洲会議の進行も秀吉のままといってるのとほぼ同意
433人間七七四年:2012/03/28(水) 20:10:21.24 ID:UrgzvLC7
>>つーか主君の子と「手を組む」って時点でもう織田家家臣じゃないだろ

何を言ってるんだおまえはwww当主織田秀信の前では織田信孝だろうがただの一家臣だ。
一門という格ですら信長妹を娶った柴田の前では指して意味がないwww

>>清洲会議の進行も秀吉のままといってるのとほぼ同意

でそれのどこが織田家乗っ取り開始なんですか?wwww
明智を滅ぼしたのは秀吉と信孝や丹羽あたりなんだから秀吉周りが最大限領地貰えるのは当然のことですがwwww
434人間七七四年:2012/03/28(水) 20:11:48.36 ID:LPmebqHz
清洲会議の時だけじゃん
それ以外で合議によって4宿老が何か決めた事などない
秀吉の独断行動で全て行われているのが織田家
435人間七七四年:2012/03/28(水) 20:14:05.10 ID:UrgzvLC7
秀吉の独断行動が全てwwwww
織田家臣が殺されたり逃げ帰ってきたりで空白地になった甲斐信濃の徳川領有権を
推進するように家康に書状を出したのは柴田勝家ですがwwww
436人間七七四年:2012/03/28(水) 20:16:02.16 ID:LPmebqHz
>>433
ああ秀信が主君で他が家臣といいたいわけね 確かに形はそう決められたな
だが中身は何もない張子の虎
それは秀吉が天下統一後実権を秀信を帰さなかった事からわかる
家臣として行動したなら秀信に実権渡さなきゃいけないし
秀吉の独断で行動してる時点でアウト
清洲会議侵攻で明智領が秀吉の物になったんだから秀吉による織田家乗っ取りの開始で何も問題ないな
合議制を採用してる様子もないし
437人間七七四年:2012/03/28(水) 20:20:27.12 ID:UrgzvLC7
>>436
秀吉が実権を返さないのは朝廷がそれを認可したからだと言ったろwww
痴呆にしても釣りにしても質が酷いなwwwww朝敵に進んでなれという子供みたいな意見www

挙句合議制を採用している様子もないwwww
宇都宮国綱宛て徳川家康書状に「羽柴丹羽柴田が合議して出兵することを決めたらしい、上方にも兵が続々集まっているから安心してね」って書状を
書いていてどう考えても合議制で物決めてますがwwwww

438人間七七四年:2012/03/28(水) 20:21:49.28 ID:UrgzvLC7
頭の御悪いだがさんの生活費稼ぐ手伝いも大変だ
439人間七七四年:2012/03/28(水) 20:23:13.69 ID:LPmebqHz
だったら官位も貰わないか、秀信に奉納すればよかただけ。
理由がどうあれ、秀吉は織田家を利用して天下人の地位を簒奪しただけ
どんな理由があれ、織田家の武将として行動していたというなら
織田家後継の資格を持つ信雄秀信信孝などに実権渡し、彼らの命令で行動しなくてはいけないのは自明
実際やった事といえば秀信を傀儡として利用して天下人の地位を簒奪しただけ

秀吉が関白に任官(ここで逆転)
要はこれを始めから狙ってただけだろ。
織田家臣だった時点で任官を断らず受け入れてるなら「家臣としての」行動ではなく織田家への叛意
大体秀吉が織田家臣として行動してたというなら一門格の信孝殺しちゃいけない。
信雄も粗末に扱うな
秀信が成人するまで織田家が秀信を当主としてうまく機能するように精一杯努力しないといけないが
秀吉は自分の勢力拡張を広げる事中心で結局織田一族には申し訳程度の領土与えただけ。
後見人なんだからちゃんとそれ相応の立場を補佐しないとダメ。
440人間七七四年:2012/03/28(水) 20:24:19.45 ID:LPmebqHz
>>435>>437
検索したいんだけどそれいつの書状?
441人間七七四年:2012/03/28(水) 20:28:48.56 ID:LPmebqHz
天正十年十月、堀秀政宛、柴田勝家書状

『覚

一・羽柴筑前守(秀吉)、約定違反のこと

一・清須において誓い、それぞれに印も押した置目について、秀吉は全く守っていない。
  政治の形が今までと全く変わったことに、庶人は不信を申し立てている。諸国の下々がそのように言っているのは
  当然のことである。政治が分明に、決まった通りに行われていればどうしてこんな事になるだろうか?

  羽柴筑前とこの勝家の間は、、元々は疎遠でなかったはずなのに、この頃では人々も不和だといっている。
  天下の織田家御分国を静謐にするという評定は当然のものなのに、清洲会議以来の秀吉の裁許は、言葉にもならない
  有様である。諸人がこれを不審に思うのも尤もである。
  
一・この勝家自身のことを言わせてもらえば、私は長浜を分配していただいた以外、米一粒、一銭足りとも私していない。
  申次の諸侍から、この事に対して私に嘆いてくるものが聊かあるが、そういった者たちにもその理由を申し使わして、
  道理のあるところをよくよく説明しているので、私の方では知行にも諸侍にも手心を加える事は一切無いのだ。

一・若子様(三法師)の事だが、惟住五郎左(丹羽長秀)より、岐阜に申し上げるべきだとの意見により、各一同の
  兼ねてからの約束通りに、岐阜から安土への御動座をされるようにと、岐阜へも、五郎左へも返事をした。
  その墨付は双方に存在している。

一・今度の上様(信長)のご不慮によって、天下は混乱し治め難き様相となった。未だ四方に敵があるのだから、
  内輪は対立を自重し、上様の行いを引き継ぎ四方に馳せ走る。上様がおられなくてもそのようにするのが
  本来で有るべきなのに、全くそのようになっていない。

  一方で家康の行動を見てみろ。彼は度々の上様の御動座によって、武田一類を尽く討ち果たし、その後の平定を
  仰せつかった。ところが北条が、彼らは上様御在世中は上様の御意に従っていたというのに、状況が変わると
  その態度を一変させ織田の軍を攻め家康と対陣に及んだ。事ここに極まって、天が味方もしてくれたのだろう、
  徳川家の者共は皆で一致してこれに立ち向かい、即座に追い崩し討ち果たした。誠に上様の時より続く軍忠、
  これは上様へのお弔いにもなるもので、かつ天下の誉れ、これに過ぎるものはないではないか!

  しかるにそんな事を考えもせず、御分国の内に私的に新城(山崎城)を建設するなど、様々な我意を通している
  秀吉は一体、誰を敵としているのか!?
  政治を担当するものがそのような事をするのは許されないものである。私と彼との関係が悪いといっても、
  今は心をあわせて、上様のご苦労によって治められた織田家御分国をあい治め、御分国の政治を、たとえ
  上様には及ばなくても、相守るべきなのである。
  このままでは結局共食いをして双方果て、織田家の領国も他人の国になってしまうだろう。
  これは我々一同の本位ではないだけではなく、天道にも背いた行いであろう。
  しかし今、情勢はそのような方向に向かっていることが、無念至極なのである。


                   柴修 勝家(花押)
天正十年十月六日
  堀久太郎殿』
  

清洲会議の約束を守らず独自行動を拡大する秀吉に対する、柴田勝家の危機感が溢れる書状である。
(南行雑録)
442人間七七四年:2012/03/28(水) 20:32:05.85 ID:UrgzvLC7
>>440
9月3日付柴田勝家書状(愛知県史)
9月13日付徳川家康書状(宇都宮氏家蔵文書)

>>439
その織田家が勝手に衰退していったんでしょ。
発想は悪くなかったが結局信孝の専横が身内の分裂招いて結果自分の首絞めたし、
信雄も信雄でなんとか自分が後継者の座を秀信から狙おうとするも失敗。

でそれを見かねた朝廷がこれじゃああかんわ、と秀吉を実質的な頂点と認めただけ。

>>要はこれを始めから狙ってただけだろ

関白職なんてそうなれるかよwwwその辺の官位と一緒に済んなwwww
たまたま入れてもらっただけで偶然もいいとこだぞwww
443人間七七四年:2012/03/28(水) 20:37:42.25 ID:UrgzvLC7
>>441だけの史料を見て秀吉の独断とみるのは早計

一番わかりやすいのは若子様(三法師秀信)の項目で、柴田丹羽間によって織田秀信が安土に移る約定をしたと書いているが
実際には秀吉が軍を起こして強引に送るまで信孝は自分の城にとどめている。

もちろん柴田が羽柴に対して懐柔に乗り出そうと考えて出したということも考えられるが、
いずれにせよ秀吉の独断で全部やったというのは書状だけを見てもおかしい。
444人間七七四年:2012/03/28(水) 20:40:03.56 ID:LPmebqHz
>>442
秀吉が織田家臣なら衰退していく自家を尻目に勢力拡張したり高い官位貰ったりしていい事にはならない
精一杯織田家臣として信孝信雄秀信などを立てて家臣達同士協力して織田家を発展させなくてはならない
445人間七七四年:2012/03/28(水) 20:42:05.15 ID:UrgzvLC7
>>444
朝廷がそれを認めなかっただけ
織田家としてではなく、羽柴秀吉に関白職を与えて強大な権力を与えた。
いかに織田羽柴の繋がりといえども、朝廷天皇の鶴の一声を無視するわけにはいかない。

446人間七七四年:2012/03/28(水) 20:45:52.78 ID:LPmebqHz
>>443
??
約定をした事と三法師を信孝が自分の城にとどめている事は別に矛盾しませんが?
447人間七七四年:2012/03/28(水) 20:49:13.07 ID:UrgzvLC7
約束した以上状況が整ったら履行しなきゃ意味ないでしょ。
約束は守るけど守るのはいつかわかりませーんじゃ嘘つきと同じ
448人間七七四年:2012/03/28(水) 20:49:54.89 ID:LPmebqHz
>>446
朝廷からの官位を秀信に帰するようにするか官位を断ればいいだけ。
主君が秀信。家臣は主君に従うのが道理
だから織田家の中で機能する事の障害ともいうべき官位受諾を織田一家臣が受けていいわけがない
449人間七七四年:2012/03/28(水) 20:51:03.63 ID:LPmebqHz
>>447
いや約束したけど実際には信孝の行動でそれが不可能になったというだけでないの?
450人間七七四年:2012/03/28(水) 21:03:22.88 ID:UrgzvLC7
>>448
そんな状況ならハナから朝廷は任官なぞしない。
朝廷の信頼や天皇の沙汰を裏切ってまで秀吉個人の思惑を押し通すというのは
天皇にとっても朝廷にとっても武士にとっても迷惑な話。
そんなデメリットだらけの状況に誰がするんだよ

>>449
もちろん柴田が巻き込まれただけというのも考えられるし
裏で信孝と繋がっていたともいえるが、少なくとも信孝が妨害している時点で
秀吉の独断にはならない
451人間七七四年:2012/03/28(水) 21:15:47.29 ID:LPmebqHz
>>450
どんな状況でも任官を断るくらいできると思うし
任官されたからといって主君との立場を逆転させていい事にはならないでしょ
>>435
この書状だが、秀吉の畿内の政務にばかり集中してるのを批判してる一節があるし
家康の甲信攻略を褒めているのを合議制の表れと解釈するのは違うんでないの?
合議によって家康の甲信領有が認められ、合議によって家康に書状を出す事が決められたのか?
452人間七七四年:2012/03/28(水) 22:35:48.80 ID:ZXdOXSOS
>>434に対するレスだぞ>>435
織田家の家老として柴田も徳川に甲信の領有を勧めている
つまり”秀吉の独断行動で全て行われているのが織田家”というお前の論拠>>434が崩れたんだよ
本当に大丈夫かお前?
453人間七七四年:2012/03/28(水) 22:45:08.61 ID:LPmebqHz
独断行動で全てはいいすぎかもしれないが
織田家が実質的に秀吉の物になっていったのと柴田が徳川に甲信領有を認めているのとは別に
背反しないしおおむね明智領配分も清洲会議の流れも秀吉のままなりになったのとも矛盾しない
そもそも宇都宮に当てた家康書状は清洲会議で話あわれた内容じゃないのか?
清洲会議から程ない時期だし合議制といっても清洲会議限定あるいはその直後のみだけみたいなもんでしょ
454人間七七四年:2012/03/28(水) 22:51:21.99 ID:ZXdOXSOS
自信まんまんに>>434言ってそれかよ
恥かしいやつだな
455人間七七四年:2012/03/29(木) 10:39:15.94 ID:PtmCKu8A
そもそも官位を秀信に奉納て・・・朝廷の人事配置を勝手に秀吉が決めてどうするん?w
456人間七七四年:2012/04/01(日) 14:28:39.55 ID:oSEv2uDc
主家を凌ごうとする秀吉が売官しただけだろ。
朝廷が金で動くのを知らんのかw
関白になって官職任命権まで手に入れ
秀吉から織田家のアホどもに羽柴の名と一緒に官位を下賜してんじゃんよw
457人間七七四年:2012/04/01(日) 19:43:40.41 ID:6Cqo+ZbE
任命権手に入れたのか秀吉
すげえな、是非一次史料で説明してくれ
458人間七七四年:2012/04/03(火) 04:22:01.20 ID:Aa27p+Ak
自分が関白職になったのに自分だけは得をするのはダメだ、と
主君の恩義や元同僚たちに姓を与え格式をあげる配慮をする秀吉

滅ぼされて地に落ちた武田家と天下取った徳川家にすり寄った旧武田家臣のゴミっぷりが凄い凄いw
459人間七七四年:2012/04/03(火) 10:39:05.39 ID:7dPvbygm
秀吉にすり寄った旧主家の織田w
>>457
つか関白職って任命権持ってるじゃんw
460人間七七四年:2012/04/03(火) 11:01:37.83 ID:ee0oe8wP
だからそれを具体的に示せと
宣旨を秀吉が関白名で行ったものをな
461人間七七四年:2012/04/03(火) 21:28:08.36 ID:Aa27p+Ak
天皇が関白職という最も格式の高い官位を与えた秀吉に
逆らって朝敵逆賊の汚名でも被れ、というアホだが

さすが名門甲斐源氏を滅ぼした武田家の信者なだけはありますねw
462人間七七四年:2012/04/05(木) 16:11:54.36 ID:W3TLRQZE
過大評価したのは(その反動で勝頼世代を貶めたのも)主に徳川に取り入った武田遺臣団の処世術が原因。
御家滅亡しなければそんな卑劣な真似をせずとも生きていけた。
ある意味悲劇の縮図。
463人間七七四年:2012/04/05(木) 16:33:06.56 ID:A/6x4YDJ
>>462
大衆迎合で購入者を楽しませようとする
歴史群像とかに書かれたりした
そんな俗説を必死に繰り返すバカな織田厨w
ソースなしの妄想なのにwww
464人間七七四年:2012/04/05(木) 19:06:04.42 ID:NmurDeaS
465人間七七四年:2012/04/05(木) 20:17:14.42 ID:9819VKPH
森田喜明の戦国10大合戦の大ウソとかいう薄っぺらい本を根拠にしてた武田厨もいましたがw
466人間七七四年:2012/04/05(木) 20:27:36.72 ID:Ap9TDcCh
薄っぺらでもソースがあるだけマシ。
連日コピペ狂いの馬鹿なんぞ、捏造オンリーという。
467人間七七四年:2012/04/05(木) 20:29:55.52 ID:j+4GliOz
織田厨が馬鹿妄想吐く⇒コピペで反論っていうだけの話だろ
レス内容全て妄想だけの織田厨馬鹿に勝てる人間なんぞおらん
468人間七七四年:2012/04/05(木) 20:38:03.20 ID:ovxpMlC/
だが史観
469人間七七四年:2012/04/05(木) 20:56:18.82 ID:9819VKPH
>>466
なら歴史群像()とかいってんなよって話になるよなw
それに対する指摘だからw
470人間七七四年:2012/04/05(木) 22:11:49.65 ID:j+4GliOz
314 :名無し曰く、 :2012/04/05(木) 21:46:27.31 ID:8v2E5Jjq
まーたはじまった。

新発田重家宛て佐々成政書状では「然者、伊勢之国司ニ御スハリ候御息様(織田信雄)、上様(織田信長)御時不相替天下被成御存知候(以下略)」
とあり、秀吉が宿老の中で頭角を表したと言うだけで大勢は信雄主君のままなのにな。
名目上の当主だとか、傀儡だというのは所詮おまえの後付で、きっちり政務も外交もこなしている時点で名目も糞もない。
あえて言うなら宗主権が信長の時に比べて少し弱いだけで、傀儡だの気休めだの言うのは極論。

>>織田信雄か信孝を当主にして全権渡せばいいだけ

完全に清洲会議全否定だけど、そもそも清洲会議自体が信雄信孝の対立を加味して開かれた会議なんだから
どちらかに全権渡すと暴走するのは目に見えてるだろ・・・明智領の相続にしても山崎合戦の戦勝褒賞で
むしろ秀吉は主導したわりに山城一国とあまり貰えてないんだが。

>>そりゃ露骨に殺したりしたら外聞が悪すぎて主殺しの光秀を討ったにもかかわらず

下剋上の世の中で何寝言言ってんだ。
光秀の外聞が悪くなるのは主従関係が厳格化した江戸時代だし、そもそも縁起悪いとされた由縁は主君殺して滅ぼされるという
結果的に典型的な小悪党みたいな生涯になってしまったからであって。むしろ秀吉からすれば自分の宣伝材料くらいにしか思ってない。
特に関白即位後はその気になればいつでも織田一族を滅ぼすことくらいできた。そうしなかったのは秀吉が織田一族に対して厚遇、配慮していたからに他ならない。

>>官位なんて勢力や軍事力がでかいだけで向こうから雨のように降ってくるわけないしな

勢力デカけりゃほどほどに朝廷に貢献しているだけで官位は降ってくる。
つか、そうじゃなかったらわずか4ヶ月足らずの関白出世はありえない。
まさか秀吉が内大臣になって4ヶ月で金貢ぎまくるとも思えんし、実質藤原氏独占職の関白だぞ。


315 :名無し曰く、 :2012/04/05(木) 21:48:24.12 ID:8v2E5Jjq
>そもそも信孝の若君(三法師秀信)の岐阜城預かりは一時的なもので(金井文書)
どの文書?ちなみに君が参考にしている文献名は何?

金井文書と南行雑録ってちゃんと書いてあるだろw
471人間七七四年:2012/04/05(木) 22:40:05.45 ID:j+4GliOz
>>470
秀吉がかなりこの頃実権を握っていたのは
この書状の「羽柴筑前万端御指南申儀候」や9月26日の信雄領国伊勢の徳性の件の処置を伝えていたり
伊勢の長屋・高向両郷の訴訟を秀吉へ申し上げていたりと秀吉の影響力が信雄領国伊勢にも及んでいる点でもわかるし
京都奉行の問題解決権を与えられていた事や小早川隆景に5月15日信孝討伐状況を伝えたりと
外交面においても影響力を発揮している
ちなみに84年の信雄討伐の頃になると、秀吉は「織田家の一員」という建前を書状などで使わなくなる
それもそのはず。当主であった信雄を攻めているんだから。攻めたのは秀吉の方
信雄は自分の領国の家臣を殺してその土地を奪い取っただけ。自分の領国内の問題でどうこうする権利は秀吉内にない
しかもこの年の秀吉の書状は家康に対する存念むき出しで三河への総攻撃という、織田家家臣としての大義名分ではないものを使うようになる
逆に信雄の方が秀吉を批難し、上洛文言を使用している
>完全に清洲会議全否定だけど、そもそも清洲会議自体が信雄信孝の対立を加味して開かれた会議なんだから
ソースは?
>どちらかに全権渡すと暴走するのは目に見えてるだろ
どちらか認めず中途半端な状況にした方が内輪もめしやすいなんて「目に見えて」ますね
どちらか決めてそちらに全員従うようにするのが織田家家臣としての本来の行動
そうしなかったのがそもそも下心みえみえ
>下剋上の世の中で何寝言言ってんだ。
下克上の世なのになぜこんな織田家がごたごたして誰を当主につくか誰をたてるかでもめてる状況や
主殺しの光秀に人が集まらなかった状況、朝廷を味方につけ、名分を得ようとと諸大名が奔走した状況
を考えれば大義名分がいかに大切かなんてアホでもわかる
>光秀の外聞が悪くなるのは主従関係が厳格化した江戸時代だし、そもそも縁起悪いとされた由縁は主君殺して滅ぼされるという
>結果的に典型的な小悪党みたいな生涯になってしまったからであって。むしろ秀吉からすれば自分の宣伝材料くらいにしか思ってない。
そんなわけないだろうがw秀吉はなぜ毛利との対陣をやめて光秀を討ってみんなこれに賛同したのか考えてみよ妄言厨w
皆柴田も光秀討つポーズは見せてただろうがw
>特に関白即位後はその気になればいつでも織田一族を滅ぼすことくらいできた。そうしなかったのは
秀吉が織田一族に対して厚遇、配慮していたからに他ならない。
そら利用するだけしてポイ捨てするだけじゃあまりにも外聞悪いからね
でもこれが秀吉が織田家家臣として行動していたという根拠には到底ならないな
だから朝廷に貢献してたら、だろ?織田家臣ではなく始めから織田から脱却して行動してたからこそ朝廷の問題解決や
金品献上など工作をしたからもらえただけ
>つか、そうじゃなかったらわずか4ヶ月足らずの関白出世はありえない。
因果関係が意味不明
>まさか秀吉が内大臣になって4ヶ月で金貢ぎまくるとも思えんし、実質藤原氏独占職の関白だぞ。
四ヶ月で貢ぎまくらないのはなぜ?それ以前の朝廷貢献も関係してると思うけど?
あと文書じゃなくて文献や論文は読んでないの?読んでたら勉強のため聞きたかったんだが君はソース確認は愛知県史かい?
472人間七七四年:2012/04/05(木) 23:28:21.03 ID:ovxpMlC/
>>471
実権を握っていたのは元からで今に始まったことではない、仮にも織田家の四宿老なんだから。
この中から天正10年の騒動で唯一対抗できる柴田が抜けている。丹羽や池田にはそこまでの強権力はない。

「羽柴筑前万端御指南申儀候」も所詮は経験不足の織田信雄を秀吉が補佐するという意味あいで他意はない。

>>それもそのはず。当主であった信雄を攻めているんだから。攻めたのは秀吉の方

小牧の時点で織田信雄は当主ではない。つか最初に言ったが、信雄はあくまで代わりの当主であり、これは羽柴秀吉書状の
「柴田以所行三七殿被企御謀叛候条、此上者惟五郎左衛門尉(丹羽長秀)、池田勝三郎、我等申談、三介殿ヲ御代ニ相立テ」の部分からも明らか。

もともと三法師を匿って専横を測った信孝、柴田により織田家が円滑に運営できないと考えた三宿老らの要望でなったもので、
柴田も信孝もいなくなって三法師がいるのだから、本来の当主である三法師秀信に再び戻そうと信雄を三法師のいる近江から退去させた。
で、それに信雄が反発してついに挙兵に及んだというだけで、この段階では明確に秀吉の越権はない。

>>ソースは?

天正記とか漁っただけでも普通に書いてあると思うが。
そもそも清洲会議で柴田が信孝推したってのは江戸時代の川角太閤記によるでっち上げだぞ?

>>どちらか決めてそちらに全員従うようにするのが織田家家臣としての本来の行動

織田家臣は全員従うけど信雄、信孝本人たちが別。彼らは両方とも織田家の家督相続権があるのだから
どっちを立ててもどちらにも織田家当主としての正当性が残る。で真っ二つに割れるから問題なのであって。
特に信孝は代替案の三法師秀信にすら決まっても、匿って実権握ろうと考えていたくらいだからな。

そもそも合議制は別にやましい方法でもなんでもなく、江戸時代の徳川家はおろか、ほとんどの戦国大名はこれなんだが・・・
今まで信長がブイブイ言わせてたから変な感じするだけであって元々大名家としてあるべき形に戻ったに過ぎない。

>>主殺しの光秀に人が集まらなかった状況

光秀に人が集まらなかったのは主殺し以上に情勢判断する時間が各領主になかったから。
光秀が行動を秘匿して動いていたのもあるし、「いきなり信長殺したから俺の味方になってくれ」って言われても意味わからんだろ。

そもそも関白職についた秀吉には朝廷の支持というこれ以上ないくらいの大義名分がある。
今更織田家の御恩がーなんて名分はなくてもいいし、その価値もない。にもかかわらず秀吉は織田家を厚く遇した。
473人間七七四年:2012/04/05(木) 23:36:05.41 ID:ovxpMlC/
>>秀吉はなぜ毛利との対陣をやめて光秀を討ってみんなこれに賛同したのか考えてみよ妄言厨w

それは信長本人がそれだけ家臣から慕われていたという稀有な例だったということ。
そもそも信長自身が下剋上の体現者であり、織田信友や斯波義銀、足利義昭を相手に下剋上を起こしまくっている。
主筋の織田信友や斯波義銀、足利義昭らを排したからと言って、信長に主君追放の不義者という風評が立ったか?

>>そら利用するだけしてポイ捨てするだけじゃあまりにも外聞悪いからね

朝廷の支持まで貰った段階の秀吉が今更その程度の外聞に振り回されるわけないだろ。

>>だから朝廷に貢献してたら、だろ?織田家臣ではなく始めから織田から脱却して行動してたからこそ朝廷の問題解決や

はじめから織田家を脱却して行動したのなら賤ヶ岳の段階で高官位を貰っている。
朝廷の問題解決って関白職授与のすぐ前だしな。天正13年を契機と考えるべき。
474人間七七四年:2012/04/05(木) 23:55:31.16 ID:j+4GliOz
長いから一部だけ答えて残りは他の日に反論する

>天正記とか漁っただけでも普通に書いてあると思うが。
君はそのソース確認はどの書籍でしたの?あと
>そもそも信孝の若君(三法師秀信)の岐阜城預かりは一時的なもので(金井文書)
これもどの書籍で読んだのか教えてくれ
>そもそも合議制は別にやましい方法でもなんでもなく、江戸時代の徳川家はおろか、ほとんどの戦国大名はこれなんだが・・・
本能寺後の織田家のように、当主の裁量ではなく4家老の合議により政務軍事外交がなされている例を教えてくれ
>それは信長本人がそれだけ家臣から慕われていたという稀有な例だったということ
信長は最も多くの家臣に背かれたと谷口氏の信長の消えた家臣達に書かれていたけどこれはどう思うの?
信長死んだ後を思うと到底家臣から慕われていたとはいえないと思うが?
家康には甲斐・信濃を横領され
森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に
安堵状を発給しまくる始末www
織田信澄を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
475人間七七四年:2012/04/06(金) 00:15:56.58 ID:fIVo8Nm4
>>474
金井文書と南行雑録さえあればソースの確認には十分だと思うが書籍名必要か?
正直複数の書籍照らし合わせているのと手元にないのもあるから出すの面倒なんだが

>>本能寺後の織田家のように、当主の裁量ではなく4家老の合議により政務軍事外交がなされている例を教えてくれ

そんなもん当主が未熟な家は大体そうなるだろ。例えば毛利興元が死んだあとの毛利家もそうだし、
江戸時代になっても若くして将軍になった徳川家継なんかも実質は父親の側近であった間部詮房や新井白石の傀儡同然だった。
権臣の力が強いと成人してからも面倒になったりするのはいくらでもある。

>>信長は最も多くの家臣に背かれたと谷口氏の信長の消えた家臣達に書かれていたけどこれはどう思うの?

それは信長の一面にすぎん。確かに背かれたケースも多かったが慕っている家臣も多かった。
あと死後のことを話すのはさすがに酷だぞ。死んでからも皆から大々的に慕われていたのって権現様くらいだし。(これも半ば家光の強制によるところもあるが)
476人間七七四年:2012/04/06(金) 03:45:40.81 ID:h0qaR3dd
信長より謙信や宗麟の方が凋落と宗教狂いが合わさって酷いけどな
謙信なんか遺体を放置されて住職の抗議文が残ってるし

能登畠山は遊佐、温井、長ら国人連合が当主を蟄居に追放や暗殺
追放された親子より擁立された孫が朝廷、幕府、周辺大名から認められ政権運営している
477人間七七四年:2012/04/06(金) 08:33:44.22 ID:3NOR6MU/
>>475
だからその文書だけ言われてもどの文献でどう参考にしたのか名前くらいは挙げてくれよw
天正記にしても。お前はそれを原文でよんだようではないみたいだし>>472
それとも上げるのに何か不都合があるのか?
478人間七七四年:2012/04/06(金) 12:41:35.05 ID:u5iQrIXN
>>477
横からですまんが
後からああこれも読んでたとかなったらどうすんだ?
それより此処から此処まで読んどけってのを挙げた方が早くないか?
479人間七七四年:2012/04/06(金) 13:23:14.61 ID:1KzQhSSC
もはや話題自体からそっちのけにされる信玄さん……。
480人間七七四年:2012/04/06(金) 14:51:16.19 ID:fIVo8Nm4
>>477
おまえの今までの経歴から考えると
「○○氏の文献はデタラメだらけwww」とか言い出しかねないからな
俺の言っていることが捏造かどうか確かめたいんなら書状とか論文とか見た方が早いと思うが
481人間七七四年:2012/04/06(金) 15:09:50.88 ID:3NOR6MU/
なんでもいいけどお前が参考にした文献・論文名を教えろよ
あと秀吉の朝廷貢献に関して俺が今日確かめてきた書籍類だと秀吉側からの接触があったと共通してたぞ
あと小牧・長久手の戦いの構造や近世成立期の大規模戦争によれば
秀吉は当初武力統一を目指したため高官位を貰わず
小牧・長久手の戦いを契機にして方針を変えたと論文で書いてるぞ
他の書籍類もこれと同じ見解を示している物もある
482人間七七四年:2012/04/06(金) 15:38:50.94 ID:Vm6HdqYk
>>481
ソース。
具体的に書籍類の題名と該当ページ及びに全文をw
483人間七七四年:2012/04/06(金) 15:45:25.35 ID:3NOR6MU/
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
大して長い本じゃないから見て確かめてくれ
お前の方の参考文献は?>>474-475
484人間七七四年:2012/04/06(金) 16:58:54.87 ID:fIVo8Nm4
>>483
とりあえず手元にない文献もあるので一番参考にさせてもらった文献だけ載せておく
「小牧長久手の戦い前の徳川・羽柴氏の関係」谷口央氏 これはネットでも見れたはず

本能寺の変から天正十一年までの話ではこれが一番わかりやすかった。

他、小牧長久手の戦いの構造も通読しているが今回は手元になく俺の記憶が曖昧かもしれんからこれに関してはちょっと控えておく。
485人間七七四年:2012/04/06(金) 20:47:43.71 ID:u7U5pDPb
信長以外に味方いない・見放されたら当家は滅亡ですと泣きついた信玄。
で、和睦斡旋してもらって息ついたら信長の背後に臆面もなく襲いかかる。
このあたりの史実は、やっぱり武田厨の中ではなかったことになっているの?
軍鑑が信玄の有名な敗戦を実は勝利だったんだ、と捏造しているように。
486人間七七四年:2012/04/06(金) 20:57:45.52 ID:3NOR6MU/
元亀3年7/7付けで信玄が小里氏の背後に信長の後援があり残念でならないがとりあえず許すと見て見ぬフリをする方針にしたことを述べていて
織田との抗争にならないよう配慮してたら信長が11/15に岩村城を奪った小里内作へ書状を出してる。
明らかに信玄は信長との信義を守っていたら裏切られてる。
勝頼に対しても武田攻めの所で盟約反故にしてる。
487人間七七四年:2012/04/07(土) 00:33:05.90 ID:CjwYLQP3
>>484
俺の方の他の論文
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
これも手元にコピーがないから後で反論に加えとく

そっちのソース元の論文や文献名、他にあったら覚えてる物だけでいいから
目を通したいので題名だけ紹介してくれ。
488人間七七四年:2012/04/07(土) 00:58:48.37 ID:1F6JDZYO
>池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」

論文じゃないじゃん。
489人間七七四年:2012/04/07(土) 07:16:23.99 ID:CjwYLQP3
書籍類も一緒にみてるだけ
そっちのソース元は?
490人間七七四年:2012/04/07(土) 15:11:48.31 ID:Jqsg6/wY
書名だけ適当にググったんじゃ……。
それ以前にスレ違いの話をいつまで……。
491人間七七四年:2012/04/07(土) 15:50:09.03 ID:eL1hRm2t
幼君を傀儡として擁立して
実力ある者が専横しようとするのは
古来からよくある事例。
織田は1500年代前半に相次いだ下克上ブームも
とっくに終わったはずなのに
まぬけにも光秀・秀吉とダブルで起こされた稀有な事例
492人間七七四年:2012/04/07(土) 19:26:42.52 ID:17k71xv2
2012年4月7日第41回信玄公祭り〜日本最大の武者行列〜
http://www.yamanashi-kankou.jp/shingen/

出陣の儀で山本勘助役の伊吹吾郎が上杉謙信討伐に出陣を願い出ると

武田信玄公役の沢村一樹は NHKのサラリーマンNEOのセクシー部長のノリで

笑いながら 「いいよ〜!!」とふざけまくり!! ギャラリーから非難の嵐・・
493人間七七四年:2012/04/07(土) 19:52:06.48 ID:eMAr9dhD
足利義教が家臣に暗殺された時に
看聞日記は諸大名同心か・自業自得と書いている。
さらに建内記には義教が殺され、人々恩赦の時分と書かれ
義教暗殺が幕府の大名達にむしろ歓迎されており
義教の恐怖政治と理不尽な処分を受けた者達が恩赦される方向に変更された。
そして義勝9歳を傀儡擁立し専横を開始した。
信長もまた自業自得で家臣団から暗殺を歓迎され
幼君を擁立し家臣団が好きなように振る舞い織田主家は下克上された。
494人間七七四年:2012/04/07(土) 20:05:34.37 ID:lDHFHH+Z
>>493
それも捏造かい? 「だが」君?
本当なら
・史料をうp
・スレ違いの信玄スレでそう泣き喚く理由
この二つを提示せよ。できなければ「また」お前の負けね♪
495人間七七四年:2012/04/07(土) 20:20:59.13 ID:1ylBbuP4
過大評価を通り越してほぼ架空の存在と化している信玄像。
実物があの世でみたらどんな顔するかな。
496人間七七四年:2012/04/07(土) 23:27:18.31 ID:WzjC28Sj
織田家を足利家と比例するなら、せめて足利義材と足利義澄だろ。
497人間七七四年:2012/04/07(土) 23:51:32.01 ID:ZftbKaq0
幼君を傀儡として擁立して
実力ある者が専横しようとするのは
古来からよくある事例。
織田は1500年代前半に相次いだ下克上ブームも
とっくに終わったはずなのに
まぬけにも光秀・秀吉とダブルで起こされた稀有な事例
498人間七七四年:2012/04/08(日) 11:57:01.37 ID:9MBCEIbz
秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
499人間七七四年:2012/04/08(日) 15:35:44.15 ID:aa4Mgblb
信玄は雑魚、狂った厨ですら話し逸らしコピペしかでなくなって終わり、かw
まあ妥当な末路だな。
500人間七七四年:2012/04/08(日) 16:25:09.62 ID:PCL1z+18
バカ晒しage
501人間七七四年:2012/04/08(日) 17:14:59.02 ID:+SwV95Es
>>498
誘われもしないのに禁裏の饗応や連歌興行に出る奴はいない。
朝廷に秀吉と積極的に接触したいという意思があってこそ
502人間七七四年:2012/04/08(日) 17:17:45.41 ID:hkYkbVJ/
それ以前は参加していませんが?
あと上洛って誘われたからするものなのか?
503人間七七四年:2012/04/08(日) 17:18:56.59 ID:aZVhsxtO
武田が滅んだのは信玄の悪逆のせい、と江戸期にはいわれていたが。
その一つに朝廷や幕府との約定を蔑ろにしたから、というのがあったな。
直々に下された和睦を受け入れながら騙まし討ちとかやっちゃったからなぁ。
504人間七七四年:2012/04/08(日) 17:20:59.04 ID:hkYkbVJ/
あと御所造営なんて別に頼まれてないから。自分で縄打もやってるくらいなのにな
505人間七七四年:2012/04/08(日) 17:22:31.02 ID:+SwV95Es
上洛というか朝廷交渉は本来織田家がやるべきところをやらなかったから
織田家宿老の中で頭角を表していた秀吉が代替してやっただけ
で、朝廷がその秀吉を気に入り、天正12年の末期から朝廷の官位攻勢で秀吉はバンバン出世
天正12年に秀吉が権大納言に就任してからわずか7ヶ月で関白という異例の出世劇は秀吉個人の努力でできる範囲を超えている
506人間七七四年:2012/04/08(日) 17:25:40.13 ID:aKeLDXBf
自分に官位もらってる時点でどうなんだよ
信雄か信包にあげる交渉しろよw
507人間七七四年:2012/04/08(日) 17:27:34.62 ID:+SwV95Es
>>506
信雄ほか織田家一門に代わりにあげるというのは、理由はどうあれ天皇の人事配置に不満があり、
朝廷の人事配置を秀吉が勝手に行うということ。そんな恐れ多いことをやれるのは当時の日本には誰にもいない。
508人間七七四年:2012/04/08(日) 17:28:52.77 ID:aKeLDXBf
だったら最初から信雄や信包にやらせればいいだけ
自分が官位ほしかったから主体的に動いたんだろうが
509人間七七四年:2012/04/08(日) 17:33:08.54 ID:+SwV95Es
>>508
で当人たちは朝廷の交渉をしていたの?
朝廷の交渉をしていて、おいしいところを秀吉に取られた、というのならまだわかるが
ハナからやっていなかったのに秀吉が褒められたからズルいってそりゃ無茶苦茶。
510人間七七四年:2012/04/08(日) 17:35:07.79 ID:+SwV95Es
そもそも朝廷にゴマをする大名なんて古今東西いくらでもいるわけで、
秀吉が織田家を出し抜いてせこせこゴマすったところで大勢の官位に影響がないのは自明の理
せいぜいお情けの下級官位くらいはくれるだろうが、それ以降は朝廷側にも支持する姿勢がないと不可能。

明らかに朝廷が秀吉贔屓の人事配置を進めている。それを秀吉が拒否れなかっただけ
511人間七七四年:2012/04/08(日) 17:35:59.12 ID:aKeLDXBf
信雄はしてたよ天正11年11月16日に近衛信輔と園城寺で面会している
512人間七七四年:2012/04/08(日) 17:38:33.28 ID:aKeLDXBf
>>510
それは秀吉が京を秀吉が制圧してたから天皇・公家衆と積極的に関係築きやすかっただけ
それに明らかに秀吉は朝廷へ接触してるんだからいらないのにもらったとか完全に妄想
513人間七七四年:2012/04/08(日) 17:43:25.99 ID:+SwV95Es
>>511
面会しただけだとあんまり朝廷交渉、貢献をしたとは言えないと思うけどな
別に近衛信輔が朝廷全て牛耳っているわけじゃないし、それでは私人同士の会見にしかならない。
514人間七七四年:2012/04/08(日) 17:47:55.86 ID:+SwV95Es
>>512
秀吉が京を制圧していたってなんの冗談だ?
別に秀吉が京を封鎖して他大名と朝廷の交渉を封鎖、検閲しているわけでもないから全く影響はない。
おまけに秀吉の朝廷に対する交渉はそのほとんどが朝廷の要請によるもの。朝廷の秀吉への接触は賤ヶ岳直後から始まっていて
わざわざ朝廷が織田家一家臣の秀吉に勅使を送って戦勝祝いをしたほど。
で小牧を越えたあたりから朝廷の官位攻勢が始まりやれる官位は全てやったというくらいの贔屓っぷり。
515人間七七四年:2012/04/08(日) 17:54:21.91 ID:RWaq2wrl
馬鹿だなあ
京の近くにいた方が関係築きやすいに決まってんだろ
しかもこの一説は水野智之氏の論文だぞ
秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになる
これ全部科兼見卿記に書いてたけど朝廷が一方的に秀吉に接触したなんて書いてる馬鹿な学説かいてる学者がいたら教えてくれ
小牧を越えたあたりから朝廷への官位攻勢が強まったのは秀吉が軍事力で家康をねじ伏せられなかったから
将軍を目指す権力構想の転換を余儀なくされただけ
秀吉の朝廷接近・官位昇進もその影響によるという見解は学説で一致している(近世成立期の大規模戦争84ページ)
516人間七七四年:2012/04/08(日) 18:07:02.31 ID:kEd17ERH
お前がその水野の文章を読み違えてるんだよ
517人間七七四年:2012/04/08(日) 18:11:16.52 ID:lhrb8VFo
イエズス会日本報告集
秀吉は三歳の男児を擁立し日本の君主と称して安土に置き
信長2子の信雄を守役にした。
しかしこれはすべて上辺のことであり
羽柴殿がいっさいを治め、己れの望むことを行い
信雄さえも父に対するように彼に従っている。
これを整えた後、彼は柴田・池田・丹羽とともに
諸国と俸禄を意のままに分け合い、
信孝には美濃を与えたが彼は天下の主君になるのを望み満足しなかった。

多聞院日記7/6
天下のさまは柴田・羽柴・丹羽・池田・堀の5人で
分け取りのような沙汰になった(彼らは勝手に分国を形成)
信長の子らはいずれも詮(なすべき手段、方法)に立たず。
7日
信雄と信孝は言い争っているので名代を止め
尾張・伊勢と美濃の仮
柴田は長浜※、堀は信忠の子も御守として近江中郡
丹羽は志賀・高島郡。池田は大坂と十七所
筑前は山城一円・丹波一円
西ノ岡勝龍寺以下河内にては東の山の子まで秀長。
おおむね羽柴がままのさま也。
下京六条に城をこしらえて
名代なしにして
5人して異見を申してもりたてるとのこと。
中略
以上このごとく定まったが、
欲まみれ又種々これあるべく。
信長子息が大勢いるのにいずれも詮にこれ立たず
狂いべし出来事か。
また秀信3歳が秀吉に伴われて上洛したとも書かれている。

※10/10付け柴田→堀でも
柴田は長浜付之配分之外、一粒一銭も得てないと書いている。

また柴田と秀吉が直接に書状でやり取りすることは一切してないどころか
柴田は丹羽や堀に味方になって欲しい感丸出しの書状を出している。
すでに秀吉・丹羽・池田・堀らは派閥を形成しており、
その首魁の秀吉に柴田は書状すら出さない以上は明らかに対立している。
清洲会議ですでに多数派工作が開始されており、明らかに敵対化している。
また安土の普請をしてる間は信忠の岐阜城に秀信がいることになったが
柴田・信孝が条件をつけて秀信を安土に移さないと知るや
秀吉は10月末には丹羽や池田と謀り、織田主君の首を挿げ替えるべく
勝手に秀信を廃して信雄を擁立し
柴田と信孝を謀反人呼ばわりを開始する専横ぶりを顕わす。
信孝死後はいとも簡単に自分が挿げ替えた織田主君の信雄を攻撃する秀吉。
518人間七七四年:2012/04/08(日) 18:13:37.43 ID:RWaq2wrl
じゃあ一応転記しておく
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
519人間七七四年:2012/04/08(日) 18:18:47.08 ID:RWaq2wrl
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
520人間七七四年:2012/04/08(日) 18:24:47.04 ID:lhrb8VFo

公家とのつながりが強かったのは信孝。
京都の寺社院の所領安堵をしまくってる。
秀吉が検地を通して山城の支配を進めていた時、
こういう形で信孝が影響力を発揮していたことから
秀吉と信孝が衝突が避けられなかった一因とする。
信雄は伊勢神宮や本願寺・近衛家・園城寺くらいしか関係を持っていない。
別に信孝は京を制圧してないけど、そういった形で影響力を行使している。
秀吉が京を支配してるから有利と言うのは関係ないだろう。
521人間七七四年:2012/04/08(日) 18:57:14.38 ID:lhrb8VFo
ちなみに清洲会議で柴田が信孝擁立を推したとする川角太閤記も
信長公記程度の信憑性はあるから
それに対して一次史料による反論が無ければ史実扱いしても構わないと思うが。
522人間七七四年:2012/04/08(日) 19:03:54.75 ID:lhrb8VFo
>>天皇の人事配置に不満
織田と羽柴の主従関係を無視して
こういうバカなことを言うヤツはキチガイだなw
523人間七七四年:2012/04/08(日) 19:05:54.98 ID:kEd17ERH
>>518
「と言う説があるが、筆者はこれには賛同できない」とかその直後に書かれてるんだろw
お前のその引用が確かだという担保は誰がしてくれるんだ?w
524人間七七四年:2012/04/08(日) 19:14:08.54 ID:LpqcqJ9R
>>523
近所の大学の図書館いけばおいてるから見てみなよ
この論文では反論は特に書かれていない
525人間七七四年:2012/04/08(日) 19:32:01.89 ID:jv8GM4jj
公家衆や門蹟衆が京都を支配する秀吉を上洛に合わせて出迎える(兼見卿記)ことから
擁護者秀吉を重視してみていたと書かれているな
526人間七七四年:2012/04/08(日) 20:43:22.64 ID:nb8oq9xP
445 :人間七七四年[]:2012/04/08(日) 19:33:01.23 ID:jv8GM4jj
話そらそうと必死な馬鹿織田厨晒しあげ


345 :人間七七四年[]:2012/04/08(日) 19:33:35.69 ID:jv8GM4jj
馬鹿織田厨さらしあげ


794 :人間七七四年[]:2012/04/08(日) 19:34:59.90 ID:jv8GM4jj
織田厨さらしあげ
527人間七七四年:2012/04/09(月) 00:38:32.92 ID:0SPwlRsb
>>521
肝心の天正記がその説に対して真っ向から反証されているから史実扱いされないんだろ。

>>522
いい加減無知を晒すのはよせよだがw
天皇に逆らうとどうなるかっていうのは、後醍醐天皇と対立して朝敵扱いされた足利尊氏で証明済み。
秀吉ひいては羽柴、織田の家臣達を朝敵にしようというおまえの無知無能な発想には恐れ入るw

>>517の多聞院日記を見ても
織田家は当主に三法師秀信が入り、織田信雄、織田信孝、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、堀秀政(三法師御守)の7人を中心に政権を運営していくことがわかり、
これは一次史料たる秀吉や勝家書状で既に証明されている。

そもそも騒動の元凶は安土城に秀信を入れるという旨を柴田―丹羽間で約定したにもかかわらず
岐阜で秀信を預かっていた信孝が違約して秀信を軟禁して権勢を振るったのがはじまりであり、
当主を軟禁されて無主君の状態であるお家をそのまま円滑に運営するというだがの妄想に近い所業は当然できるわけもなく、
結局困り果てた織田家臣が秀吉丹羽池田を中心にいったん織田信雄擁立して三法師秀信の奪還を始めるというのが顛末で騒動の非は100%信孝にある。

小牧の時も信孝の二の舞を恐れて後見人の信雄を遠ざけたのに対して信雄が逆ギレしただけであり、
当然正当性は織田三法師と羽柴秀吉側にあるのは明白で、事実池田恒興や織田信包といった名のある重臣達が信雄に賛同できず寝返りをする状態であった。
528人間七七四年:2012/04/09(月) 02:26:43.38 ID:GvY0IWcH
信雄からしてみりゃ一時利用だけしてポイ捨てって身勝手にも程がある
秀吉の家来でもなんでもないはずなのになぜ一時のみの後見役に担ぎ出されて
ムリヤリ降ろされなきゃならんのか
実際小牧の時織田・徳川方は秀吉の「恣の振る舞い」を諸大名あて書状で非難してるのに対し
秀吉側は丹羽や小早川、木曽などに宛てた書状で「家康さへ討ち滅ぼせば」「三河へ総攻撃をかける」「家康に対して存念がある」
等とむしろ信雄よりも徳川を非難し打ち滅ぼす意思を一貫して述べ、信雄の非や自己の織田後継者としての正当性など
何も述べていない
朝廷への接近も含めこの頃の秀吉はもうあからさまに野望むき出し
529人間七七四年:2012/04/09(月) 03:28:49.82 ID:0SPwlRsb
>>528
そら家康は当事者でもない第三者なのに反体制側の信雄に協力しようと織田徳川同盟を捨てて寝返ったんだから秀吉がそれをお題目にするのは当たり前。
織田信雄はまあ仮にも信長の息子だから正当性をこじつけることくらいはできるが、
家康に至ってはただ信雄に便乗して自分が得をしようと考えただけで、正当性は万に一つもない。

そもそも織田信雄に家督を代行させたのは当主たる三法師秀信が軟禁状態で織田家が上手く回ってなかったという状況を打開するための緊急策で
ポイ捨ても何も信雄は本来の位置に戻っただけ。それを不服と考えただけだから当然正当性なんかあるわけもない。

一門の織田信包が寝返りしていて、旧織田系家臣が秀吉に従っているのが既に秀信、秀吉側に正当性があると証明している。
信雄についたのは信雄の直系家臣だけで三家老ですら抗戦に反対だったからな
530人間七七四年:2012/04/09(月) 03:32:19.83 ID:0SPwlRsb
加えてつじつまも合わない。
織田家を簒奪し乗っ取る気でいるんなら反体制の信雄の非を弾劾するくらい造作もなくできる。
秀吉が織田家の乗っ取りを画策した時点で信雄は敵であり遠慮する必要性は全くない。

信雄の非を全く取沙汰しなかったと言うのは、信雄に対して遠慮している証拠。
挙兵行動に対して軍を興したというだけで、ハナから秀吉のやる気はなかった。
531人間七七四年:2012/04/09(月) 07:33:52.18 ID:KYJnGgbq
信雄領国の伊勢方面・方面諸城(信雄本城をも含む)を合計12万くらいでめちゃめちゃ攻め込んでる上に
三河方面にも思いっきり侵攻計画を丹羽・毛利・木曽などに宛てて書状で書いた上に
実際その通りの行動してるのに信雄に遠慮してるとかやる気がなかったとか凄い妄想だな

信雄の非を取り沙汰しないって織田家や秀信に刃向かったという逆徒としての非ね
そら当然。筋目から考えて信雄の方が正しいからな
出兵の大儀名文として家康側の方が秀吉に対し恣の行いという非難を浴びせている
532人間七七四年:2012/04/09(月) 07:34:46.69 ID:KYJnGgbq
伊勢方面・方面諸城→ 伊勢方面・尾張方面諸城
533人間七七四年:2012/04/09(月) 07:41:14.68 ID:KYJnGgbq
>そもそも織田信雄に家督を代行させたのは当主たる三法師秀信が軟禁状態で織田家が上手く回ってなかったという状況を打開するための緊急策で
>ポイ捨ても何も信雄は本来の位置に戻っただけ。それを不服と考えただけだから当然正当性なんかあるわけもない。
それは秀吉側の勝手な都合。一度当主になったんだから当主の人間の命令に従うのが道義
しかもなぜ秀吉が実権を握る立場になって得をし、自分の家老をしたくらいで
攻め込まれなきゃいけないんだ?

>一門の織田信包が寝返りしていて、旧織田系家臣が秀吉に従っているのが既に秀信、秀吉側に正当性があると証明している。
>信雄についたのは信雄の直系家臣だけで三家老ですら抗戦に反対だったからな
三家老にはすでに秀吉が接近してたというだけ。自分の家臣でもない人間が殺されただけで思いっきり攻め込んだのが秀吉
534人間七七四年:2012/04/09(月) 08:03:56.51 ID:0UPRd0GY
秀吉は家康・信雄を逆意を企て、などと毛利輝元に向けて書いてるけど
織田家に対する賊徒とか、秀信に対して不忠だ、とかは全く書いてないね
どういう筋合いで逆意なのかは全く触れていない
535人間七七四年:2012/04/09(月) 15:58:12.62 ID:0SPwlRsb
>>531
秀吉は信雄領を思いっきり攻め取ったもかかわらず、最終的に信雄に首を取ることなく和議を模索して
しかも信雄に旧領のほぼ全ての統治権をそのまま任せるという破格の待遇をしているわけだがw

>>出兵の大儀名文として家康側の方が秀吉に対し恣の行いという非難を浴びせている

結局のところ家康側の大義名分もそれだけ拙い論拠だったということ。
この時点での秀吉はあくまで織田家の宿老であり、本来の当主は織田三法師秀信
織田信雄には三法師秀信を弾劾する根拠なんてまるでないから、とりあえず秀吉を標的にかかげているだけ

>>しかもなぜ秀吉が実権を握る立場になって得をし、自分の家老をしたくらいで

そもそも織田信雄が攻め込まれた要因は織田三法師秀信に服属していたのに対して、自身の血統を根拠に
自分がよりふさわしいと考えて離反したから。どうもおまえは勘違いしまくっているようだが、この時点での秀吉はあくまで代理の総大将にすぎず、
本来は織田秀信が軍を率いて平定するところを、若干5歳だから不可能であり秀吉が代ってやってるだけ。

>>秀吉は家康・信雄を逆意を企て、などと毛利輝元に向けて書いてるけど

織田家を運営する宿老として織田一門の信雄に強気に出れないのはわかりきっていること。
仮に信雄を秀信に対する逆意であると書いたら、信雄は織田家に逆らう逆臣なのであるからそれ相応に処罰しなければならない。
信雄に遠慮して曖昧な言葉で濁しただけだろう。
536人間七七四年:2012/04/09(月) 17:40:36.66 ID:fi20Y9PS
>>535
それは単に織田領国や徳川相手に苦戦したというだけで織田家一門として信雄を尊重している根拠にはならないだろう
攻め取ったといっても秀吉側が優勢だったのは長久手前の3月の攻防だけ
しかもこれも内実は当初織田方につくと思われ迎撃を意図していなかった池田と森が秀吉方につき、
徳川方が当初迎撃予定の伊勢方面から尾張方面に転進せざるをえなくなり、また秀吉が蹂躙した伊勢鈴鹿・河曲は
前年滝川と秀吉の間で激しく戦いがあった地域で一旦秀吉の力が強く及んだ地域であり
さらに南部の安濃郡は伝統的に力を養って来た長野氏の名蹟をつぐ織田信包の支配下で
彼が早い段階で秀吉についたから南伊勢攻略は楽にできたというだけ。北伊勢ではその後も抵抗がずっと続き
秋になって信雄の居城周辺で苅田を行うなど示威行為をし、和議を信雄に持ちかけている
長久手敗戦以降秀吉は家康の後詰がこれない木曽川筋を時間かけて攻め取るだけで
松ノ木・戸木・蟹江・長久保・浜田など各城郭で苦戦・敗戦して夏の対陣でも家康が領国に兵を帰したため
今まで以上に兵力的に優位な状況にもかかわらずわずか数町先にある織田徳川方砦を攻略できずに帰陣している

あと家康側は秀吉に対し天下の儀に関して恣の振る舞いといっている
また家康は信雄の「後見」として見られており(長久手町史48号)
家康は信雄を掲げて上洛する志向を各大名にあてている
また一旦当主としての座を与えられながら秀信が成人しているわけでもないのに
ムリヤリ信雄から奪い、秀吉が一手に実権を持つのは「天下の儀に対する恣の振る舞い」と
言われても仕方のないような身勝手な行為
また秀吉が他大名宛書状に向けて出兵の目的について信雄・家康の討伐を書いた文言こそあれ、
織田家として、とか秀信の名代として、などと述べ、織田家臣としての位置において今回の出兵を成す
事を述べた文言は存在しない

では織田家や秀信に対する逆意ではないのなら何を名分として信雄領国に攻め込んでいい事になる?
信雄は自分の家臣を切腹させ、その領地を自分の物にしようとしただけで完全に領土内問題だから
秀吉にとやかく言われ、攻め込まれる筋目なんてない

それから関白になったらあっさり信雄を改易しているね
やはり信雄を自分の野望のため利用だけしてポイ捨てしているだけのように見えるけど?
537人間七七四年:2012/04/09(月) 17:46:33.01 ID:fi20Y9PS
そもそもいつの間に当主が入れかわったのか。当主交代の儀礼・会議も成されていないはずなのに。
秀吉が織田家中での圧倒的な政治的優位性を背景に信雄から「自然な形で」自分を当主とする事に成功しただけでは?
538人間七七四年:2012/04/09(月) 22:28:03.67 ID:0SPwlRsb
>>536
北伊勢って信雄徳川が抵抗したっつってもまともな戦闘なんてなかったはずだが。
信包の影響力が高かった南伊勢と違って北伊勢は信雄の本領に近いんだから、
北伊勢の信雄勢力が秀信秀吉側に同心しようとして、秀吉が本格介入する前に潰されただけ。

>>また家康は信雄の「後見」として見られており家康は信雄を掲げて上洛する志向を各大名にあてている

これこそかなりの無茶苦茶な行為だと思うけどな。この当時の信雄は当主でもなんでもなく、
ただ信長の子息だというだけ。その信雄を今まで協力らしい協力もしてこず織田家の構想でもわりと中立を保っていた家康がいきなり信雄を担ぎ上げて政権作ろうと考えているんだから。

>>織田家や秀信に対する逆意ではないのなら何を名分として信雄領国に攻め込んでいい事になる

自分で言ってなかったか?この戦いの秀吉の目的は家康を討ち果たすことで、
これは丹羽、毛利、佐竹に対する秀吉書状から見ても明らかなはず。

三法師、秀吉陣営からすれば信雄は立場に不満はあったものの、担ぎ上げられただけという認識で
さすがに織田家臣でもない徳川家康を討ち取るのに織田家の名分は使えないだろ。

実際小牧長久手の戦いで秀吉は家康のいる尾張方面には大軍を向けているのに対して、信雄領国の伊勢方面ではほとんどが内応や調略といった説得の側面を呈している。
539人間七七四年:2012/04/09(月) 22:54:54.89 ID:xZ5LF8rQ
>>538
伊勢でも攻防はあるよ。4月20日以前に北伊勢一揆が蜂起7月5日家康が浜田城普請
9日家康が神戸城攻略次いで秀吉方が浜田城攻略、神戸城奪回
尾張松ノ木城の吉村氏吉や戸木城主木造具政が秀吉に対して頑強に防戦しまた滝川が計略で蟹江その他数城を落とし
家康がこれに対応するなど尾張口で両軍の主軸がおかれていたから北伊勢は直接戦場になりにくい側面があった。
540人間七七四年:2012/04/09(月) 23:02:14.34 ID:0SPwlRsb
>>539
ああごめん、言葉足らなかったな。
全く軍事衝突がなかった、というわけじゃなくて、両軍の本格介入がなかったということ。
家康はともかく秀吉本軍は一貫して尾張口からの攻撃に終始しているし、伊勢は他の武将に任せきりな側面がある
541人間七七四年:2012/04/09(月) 23:48:47.80 ID:djDdGrJX
こちらも言葉足らずで言葉返すようで悪い。
秀吉・家康双方ともそもそも伊勢に向けて出兵したんだよ
秀吉は先手衆を関近辺に進ませ(3月九日書状)また蒲生を亀山に派遣(3月12日書状)
甲賀から伊勢の間に城3城を「通路城として」申しつけ(3月13日書状)
峰城を攻撃(3月15日書状)松ヶ島城を包囲(3月17日書状)
伊勢には亀山の関盛信など地元勢に加え蒲生氏郷長谷川秀一堀秀政日根野兄弟滝川一益を派遣
また関から甲賀方面の通路上の城に多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、甲賀に加藤光康堀尾、木村
筒井順慶も伊勢に呼び出し、これに答える形で徳川織田も酒井を桑名に派遣し水野を桑名に派遣するなど
伊勢を攻撃される事を想定していたと考えられる(谷口氏論文)また佐久間や中川といった重臣も桑名に出陣していた(長久手町史60)
特に中川は美濃国との境界に位置する城主であり、この事は織田徳川全軍が桑名近辺に集結した事を意味する
つまり信雄家康は長島を攻撃されると想定し、そこに全軍を集め戦闘する作戦であった。
542人間七七四年:2012/04/09(月) 23:56:32.86 ID:djDdGrJX
3月13日に犬山城を、予想に反して秀吉についた池田・森が攻略したため徳川方酒井が北尾張へ向かう。
羽黒で徳川の反撃を受けた秀吉は北尾張に向け21日頃美濃池尻に出陣
この出陣は今までの伊勢での戦闘と違い、家康討伐を意識したものだった(長久手町史48、43、39)
当初は信雄征伐の目的で出兵したけど途中で家康によって池田らが大チャンスの尾張攻撃を食い止められたため、
戦局打開のため秀吉が尾張口に出兵したという流れと考えられる
543人間七七四年:2012/04/10(火) 00:27:27.72 ID:OWaVQdsw
>>541-542
なるほど、一応当初は伊勢方面での戦闘を見込んでいたというのはわかった。
でもそれは家康が伊勢方面に出てきたから、戦線を想定していたからと思えるんだよ。

秀吉はこの戦いで九鬼右馬允を味方につけて水軍衆まで動員して家康領国を狙っているし、
尾張方面に転進する際につけた書状では徳川家康の名前を先に出して、信雄に殿付するなど
明らかに織田家宿老である秀吉が、織田家一門である信雄に対して慮っていて、担ぎ上げた家康をかなり弾劾している。

>>つまり信雄家康は長島を攻撃されると想定し、そこに全軍を集め戦闘する作戦であった

確か小牧近辺での信雄居城は伊勢長島だったはず。家康が信雄を担ぎ上げるつもりなら戦線がそこに集中するのも予想できただろう。
544人間七七四年:2012/04/13(金) 15:24:54.15 ID:X8OJh2hJ
>>517の追加
清洲会議前後からの各人の敬称

蓮成院記録
三七殿(信孝)・御茶筅様(信雄)
多聞院日記
御本所(信雄)・三七(信孝)・上野殿(信包)
筒井は大和一円、筑州一円入魂
※丹波一円が織田秀勝へ渡されたとレスする人がいるが
これはどの一次史料から?
織田秀勝は丹波亀山城しか与えられてないのでは?
しかもいつの間にか羽柴秀勝が丹波亀山城主に摩り替えられていて怪しい。
また信孝死亡後に、信雄から三法師に家督が返却されたとするソースは?

イエズス会日本報告集
御本所殿(信雄)・三七殿
諸国の大半を我が物としたのは羽柴筑前殿である。

7/3
信孝が本能寺を信長墓所とする書状を本能寺に出す。
8/11秀吉→丹羽
若子様(三法師)がまだお越しにならないのは普請等ができてないからだ。
その分を聞いたので、その方は近いのであるから、自分のトコの普請を後回しにして
安土の普請を仰せ付ける。参らなければ油断と存す。さようになれば
その方も我らも外聞が悪くなる。こちらも山崎の普請を中断して安土へいく。
坂本で詳しくは会談しよう。
三七殿より言われたように美濃と尾張の国境を木曽川にする

信雄が発給する文書は「三介信雄」「信雄」もしくは印や花印だけで署名なし。
しかし8/26付け木曽宛の信孝文書には突如「織田三七郎信」と署名する信孝。
また文中では信雄を「三介へも申し遣べく事」と呼んで、家康への援軍を出そうと思ったが
相州勢を包囲して勝利眼前とのことだから止めた。かわりに尾州から兵をだすと書いてる。

8/14・15の信雄の堀や丹羽宛書状には千福遠江守が旧領復帰して
若君様への奉公ができるよう頼んでいる。
545人間七七四年:2012/04/13(金) 15:25:41.89 ID:X8OJh2hJ

9/3柴田→丹羽
若子様の事は丹羽、池勝、我らはご近所とも言うべき者。
せめて仰せの如くにしてくれ。我の意を知っている衆までお越しして
もし不慮が起こったらおのおのの沽券に関わることなので
重ねて申し談じてよくよく御分別するべき。
(これ追而書なので、一番したの段の続きの話で、柴田が一番伝えたいこと)

三七郎殿(信孝)は大河切りにすると三郡まで尾張になるので川切りを主張
三介殿(信雄)は国切りを主張し同意ない。
我ら4人の奉行を境目に出して究明することがいいと兄弟に返事した。
三介殿は貴殿の書状にあるように同意してくれたので
なにぶんにも申し談じて裁判していこう。羽柴・池勝は程遠い間柄。
あなたと我らは同前に申し談ずべく候。
若子様は御幼少なので上方がとくりと落ち着いて、御座所も御普請が定まってから
申し談じて、各一同の同意を得てから上国するのがめでたい。これは境目の返事の時に兄弟にも伝えた。

10/14の晴豊記
茶筅と三七郎が上洛してきて明日の信長葬礼を抑えに出ると言う噂がある。

秀吉の葬儀に関して信孝から糾問があったのか
10/18付けで信孝の臣に秀吉が返書。
柴田と我らの間柄について何を聞いたのかね?
信孝様と三助様の両人が名代を争っていたから
清洲で宿老が談合して信忠の御子を取り立てた。
そして清洲から岐阜へ御供して信孝様に若君を預けた。
日数程無くして安土へ若君を移参らせると信孝様が
言ったのに、いまだにその儀は御座なく候こと。
(多聞院日記7/8には三法師が上洛して諸大名衆礼とある)
名代を争い御主に事欠くことで迷惑した。秀勝も15.6歳の武者なので
御主にしようという話もあったが、私の養子でもあるので
御主にさせることは誰が申すことであってもありえません。
ご兄弟や宿老衆の御悪を請け申すことは迷惑です。
信孝様が信長の仇を討てたのは私のおかげです。
濃州にかんして堀久太郎を岐阜御城に上置申し候へども
御国を人質ともども信孝様へ進上したじゃないか。
尾州も人質も三助様に全部渡した。
坂本を持とうとするのは天下を包み候て、筑前が天下の異見を申すことか
さらに志賀郡まで持てばと思い、迷惑に感じて丹羽に渡した。
御仏事に関して御兄弟から返事もなく、宿老衆からも仏事の沙汰がなかった。
天下の外聞はいかがかと思いやった。

10/6
柴田→堀
秀吉批判の書状
清洲において誓った置目の条々に相違している。
仕置きを一向変えて、諸人は不審がっている。
静謐の評定をするのは無論のことなのに
清洲以来、裁許に及ばず、諸人の分別になっている。
若子様の移動の件は、各一同に兼ねての約諾の如く
御座を移すことを岐阜への丹羽にも返事している。
四方に敵がいるので、それらを討ち果たし平均するのが
御弔なのに、それに手を付けず分国内に私構新城、種々に渡り雅意。
誰を敵と想定してこのようなことをしているのか。
我らの間柄が悪くてもこの情勢のもとでは入魂して
信長公が苦労して治めた分国のお仕置きをして
守るべきところを共食いして相果てるつもりなのか。本意にあらず。
546人間七七四年:2012/04/13(金) 15:26:23.41 ID:X8OJh2hJ

10/22秀吉→下間
明智を討ち天下静謐にし、若子を取り立てあい極め、誓詞をたくさん出したが
相違候。若子安土へ上国のところ、押し留めることは是非に及ばず。
芳情忘れ難く信長の葬儀をしたところ、かえって、各人が愚かな考えで分別できてない。
しかし五畿内の悉くから人質を取ってる。

10/28
丹羽・池田らが入洛し秀吉が信雄を家督に据える。
11/1付け秀吉→石川数正
上様の仇を討ち、国々に固く申しつけ安堵しようと思っていたところ
一年も(織田主君)あい立てず。かようなことを申す悪心の輩が出来て外聞が悪く迷惑だ。
柴田の所業をもって三七殿が謀反を企てているので、丹羽・池田と語らって三介殿を御代にあい立てる。

イエズス会日本報告集
羽柴はただちに山崎や都から三里の八幡に強固な城を築いたので
柴田と三七殿は大いに懸念し、彼に使者を送り、当初の約束では
三者対等であったはずなのに、彼は天下の絶対君主となる素振りを見せている。
すぐ二城を破壊しなければ春には彼を滅ぼすと伝えた。
秀吉はそれに対して、望むところだ。誰が天下の主になるかは、各自の腕で決まることだろうと返答した。
そして岐阜の町を包囲し三七殿は羽柴の慈悲を乞い、母と娘と家中の子弟と信長の孫を人質に取った。

1/17秀吉→小早川
25日に三介殿が安土へ上国し即、御家家督に据えた。
4/12秀吉→小早川
滝川と柴田が信雄に謀反したのですぐに滝川を成敗した。
5/21信雄判物
前田玄以を京都奉行に申しつける。筑前にに尋ね、何事も筑前の申す次第にあい極めること。
11/21の家忠日記 小田三介殿が御腹めされた風聞を聞く。
2/14家康→毛利
信雄・秀吉らが公方様御帰洛を御請することを伝える。
3/3信雄→小川
自筆で申すがここのところの働きは余りにも是非なく、無念だ。
3/6信雄→吉村
津河・岡田ら、こいつら余りにもほしいままに仕置きするから成敗した。
3/7信雄→香宗我部
羽柴天下をほしいままに働き是非に及ばず。羽柴に心合う者三人を切った。
3/7織田信張→香宗我部
同上
3/8顕如上人貝塚御座所日記
三介殿が四人切り、筑州もっての外腹たちて詰問の使者を出すが
すでに15日には尾州表に軍を出す予定だそうだ。
3/9兼見卿記
斬られた者は筑州諸式国々仕合申付の人なり。この注進を聞き筑州もっての他立腹。すでに勢州へ出陣。
3/10晩に及んで羽柴上洛、諸勢ことごとくまかり上がり尾州へ出陣。

547人間七七四年:2012/04/13(金) 15:29:21.51 ID:X8OJh2hJ
信雄追放について

イエズス会日本報告集
御本所と称される信雄に別な国を授けることにしたが
父の形見なのでと申し出た。
関白殿はただちに、その所領も他の国も有することまかりならぬ。
汝はただ1人の召し使いのみを残し置く。
中略
じつに従順な姿勢で願ったというのに。

日本史
関白はその返答に激怒し領国を持つことを禁止し
1人の草履持ちだけしか家来を伴うことを禁止し
中略
関白はただ1人の小者と称せられている若者しか
仕えることを許さなかった。そして日本の最果ての地に流された。


家康の関東移封がもはや現実のものとして準備が開始される中で
信雄も移封の噂が流れ、領内では諸道具の運び出しの準備が開始されたが
信雄は7月朔付け書状でも神に誓ってありえないと書き
準備する者ははりつけの刑にするとまで言っている。
さらに小田原攻めの時に清洲城や星崎城は小早川隆景に接収されている(長島城は地震で崩壊している)
そして尾張伊勢は秀次に与えられ、流された信雄は8月には常真と号して出家した。
548人間七七四年:2012/04/13(金) 15:33:55.16 ID:X8OJh2hJ
秀吉の野心を嗅ぎ取って
柴田や信孝が政治闘争をしているのがわかる。
それで秀吉が三法師を一方的に廃して信雄3を擁立。
逆らう者はすべて謀反人とレッテル貼って叩きつぶす。
その後、信雄は秀吉への屈辱から家康の後援を得て戦うと
秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
そして北条戦では家康の岡崎城には吉川広家を入れて接収し
関東移封を拒否できないようにしている。
信雄の場合は最初から秀次を入れるために信雄を潰すつもりだったのだろう
549人間七七四年:2012/04/13(金) 18:32:37.76 ID:X8OJh2hJ

>>544の訂正 8/11秀吉→丹羽
×
坂本で詳しくは会談しよう。
三七殿より言われたように美濃と尾張の国境を木曽川にする


三七殿よりも私へ仰せこしてきたが回答してない。
大河切りがしかるべく存ずる。その方も同じだろう。
坂本で詳しくは会談しよう。


信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。

清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。

信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。
550人間七七四年:2012/04/13(金) 20:00:47.81 ID:X8OJh2hJ
イエズス会日本報告集
根来を攻める予定だったが、突如として信長の息子で御本殿(信雄)が羽柴に対して叛旗した。
彼は羽柴殿に人質を出していた者三人を切り三河の国主の助けを求めた。
羽柴は陰謀の経過がよくわからなかったが、迅速かつ容易にいかなる陰謀かを想像し
彼自ら敵を求める決意をした。伊勢国へ着く頃には7万になっていた。
同国に入るやただちに敵の諸城を取り囲み武力で落とし全土を抑え、長島と称する一城のみになった。
伊賀はただちに降伏したので即座に尾張へ向かった。
中略
小牧長久手の戦いが終わったのち越前・加賀・能登より3万が羽柴の援軍にきたが
かくも多くの兵力を必要としないのでただちに帰らせた。
根来の者達がこの機会に大坂を奪おうとしたが、岸和田に羽柴が中村一氏を隠していたのを知らず
奇襲され大敗し短時間に4000人以上が殺害された。
羽柴の海軍司令官の小西は敵の出陣を知ると70艘の艦隊を率いて堺の前へ出た。
豊後の国主が信長に贈った大砲一門を備えており、敵軍が通る和泉国の海岸を急襲し敵兵を殺した。
1584年6月末の書簡によれば、記述の戦ののち、三河国主も本所殿も己の城より出ることを望まず
羽柴は武力で少しづつ彼らを陥落させてゆき、今は極めて重要な城を攻めている。
難攻不落の城だったが、敵を溺死させるべく塁壁を築き、水を入れ、籠城者は恐れをなし命乞いしたが
羽柴は耳を貸さずに皆殺しにしようとしている。
彼は小西を呼び、水上からも攻撃するためであった(織田厨自慢の最強九鬼水軍はどこいった???)

イエズス会日本報告集
御本所は三河国主を味方にして羽柴に敵対した。
彼は父の下僕が高い地位に上り、父の子である自分が羽柴の家臣に留まることが我慢できず除こうとした。
しかし羽柴は優れた武将であり、大きく優位にあったので彼らは降伏し和平を乞わざるおえなかった。
羽柴は和平を認め三カ国のうち、一カ国半を自分のために取り、一カ国半だけを彼に残し
彼の娘と三河国主の長男を人質として取った。
尾張の国で戦が始まるときに都に敵が来る事件が起きた。
都の副王(前田玄以のこと)も留守で大騒ぎになったが、都の反対側から三里のところに
羽柴が兵を配置しておいた1人の武将が助けに向かい敵は殺されたり連行され、副王が厳重に調べた。
すると都の二街の住民が逃げ出した。このことを聞くと羽柴は捕らえた者を餓死させようとした。
この中には裕福な者もいたので賄賂を贈り、内裏の太子に助けを求めた。そして仲介の労をして
街へ戻らせた。羽柴殿は尾張から戻ると坂東のほかの国主や大身も味方になっていた。
というのも彼の戦での成功を見たからである。

日本西教史
羽柴はもっぱらその帝国を堅固にせんことに励み、信長の三男は、その父の臣下が簒奪をもって
己らを制御するに堪え忍ぶことあたわず、三河殿とはかった。
中略(水攻めの話が続く)羽柴は2人を許した。
551人間七七四年:2012/04/13(金) 20:04:26.86 ID:X8OJh2hJ

重要な城での水攻めとは?
小牧長久手ののち、秀吉の戦略は尾張西部へ攻撃対象を変更した。
一柳直末に大浦城(羽島市)の普請を命じ、楽田から岐阜へ移動。
5月、秀吉は尾張富田(一宮市)に進出し加賀野井城(羽島市)包囲を開始。
この城は信雄首脳陣たる林・楠・千草・小坂らが篭もっており、
信雄が救援に木曽流域にきたところを捕捉殲滅しようと策した。
しかし信雄と家康は城から出ず、6日には籠城衆が脱出を図るところを大量に討たれた。
その次に竹鼻城攻めが開始された。この城が水攻されたのである。
一両日で水に沈み抗戦不可と悟り、不破らは信雄の許可を得て長島へ退去し一柳が入城した。
滝川が清洲と長島の連絡を寸断すべく蟹江城を乗っ取った。一益はロクに兵も物資も持ってないので
これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、すぐに蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
9月に和議が持ち上がり、蒲生氏郷に秀吉は南伊勢五郡の知行を与えている。
和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し
信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
秀吉軍は北伊勢から信雄のいる長島城を脅迫するべく10/25近江から行動開始。
秀長も木曽川に沿って大垣から長久保(海津市)まで南下。
秀吉の行軍により伊勢筋からの信雄の注進により10/23に松平家忠が清洲に入っていたが
(酒井忠次が10/17清洲へ移っていた)家康も11/29に尾張へ明日出陣を伝え
清洲城へ11/8に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない。
もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
秀吉自らは11/10長島目前の桑名町屋川まで押し詰め付け城を構築開始(11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある)
これに恐怖した信雄は降伏。11/12に講和成立。これにより北伊勢4郡も信雄は失い尾張のみになり、
重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
しかも翌年の7月には100年来体験したこともない大地震が三河で起こっていた。
続く11/29には天正大地震がおきて長島城が崩壊し周辺が川と化し、翌年に信雄は拠城を清洲城へ移動。

結局
信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、堪えられず籠城を続けた挙句に王手となり
無条件降伏を飲む形で集結し、小田原征伐に乗じて家康は国替・信雄は小者1人付きだけの流罪にされる。
552人間七七四年:2012/04/13(金) 20:08:09.98 ID:X8OJh2hJ
結論
三法師を織田家督に据えたといっても
秀吉がやりたい放題をしていて
安土に織田主君はおらず、無主状態のままに
三法師の名代も廃絶され
信雄を利用して信孝を消した秀吉は
信雄を家臣扱いして挑発。
結局、信雄は屈服。

本能寺の変をもって織田は実質滅亡し
残りカスが秀吉の手のひらの上で踊らされた挙句に
ポイ棄てされた。
553人間七七四年:2012/04/13(金) 21:39:19.38 ID:umRZuLyT
戸木城は開城なんてしてないよ。小和田氏の本では軍記引用が用いられてるけど一次資料では確認できない
あと和睦条件がデタラメだな
北伊勢4郡は信雄に渡し、北伊勢4郡内で今回構築した城を双方とも破却する事を報じている
他の小牧長久手関係の項目も一次資料類で確認不可能
>>544-550は同意
554人間七七四年:2012/04/14(土) 02:26:34.40 ID:ZPTlIS5O
イエズス会日本報告集とやらを積極的に書いてるけどこれアテになるのかね?

羽柴はただちに山崎や都から三里の八幡に強固な城を築いたので
柴田と三七殿は大いに懸念し、彼に使者を送り、当初の約束では
三者対等であったはずなのに、彼は天下の絶対君主となる素振りを見せている。
すぐ二城を破壊しなければ春には彼を滅ぼすと伝えた。

文中から察するに八幡は近江国の八幡山の事だろうと思いますが、近江八幡山城が築城されたのは1585年で柴田も信孝も既に故人ですよ?
再建する安土城のことにしても、秀信が入る予定であるから当然秀信が城を貰うはずであろうし、直接普請したのは丹羽ですしね。

池田や丹羽を悉く秀吉信者と捉えているのも気にかかりますが、そもそも彼らは信長生前でも柴田羽柴ほどの権力はないのだから
四宿老といっても丹羽も池田もそこまで強権は発揮できない。池田に至っては滝川が帰ってこれなかったことによる急ごしらえ感が否めないし、
そもそも清洲会議のメンバーは秀吉が募って集めたわけではなかったはず。

小牧長久手の戦いの際に織田家当主が秀信であったか信雄であったか、というのは自分にはわかりかねるが、個人的には安土城の動きを見ていると秀信の可能性が高いかと。
さすがに信雄が当主だったとすると信雄を公然と追放したら織田家家臣(池田、丹羽、滝川あたり)が黙ってないでしょうしいくら秀吉でも危険すぎる。
足利義昭が帰ってきたので信雄を捨てたとするのもちょっと無謀かと。この時点での義昭には権力なんて全くありませんからね。

安土城はごぞんじ織田信長が建てた城で、信長死後に一度燃えていますが、織田秀信の居城としてその後は再建されつつ秀信が居座っていたというのは
まあ当時の一次史料に書いてあることです。が、小牧長久手の戦いの和議がなった1月後の1584年の12月に三法師は丹羽長秀のいる坂本城へと入り、安土城は空城となっています。
その後秀吉が関白になった1585年に秀吉は近江八幡山城を建築して安土城下のほぼ大部分を移築しています。

信長の居城であった安土城を廃城にして八幡山城に移築した、というのは秀吉が頂点に立ち織田家が転落したというこれ以上ない根拠だと思いますね。
555人間七七四年:2012/04/14(土) 02:46:45.34 ID:ZPTlIS5O
あと、これも少し変ですね(>>546引用)

11/1付け秀吉→石川数正
上様の仇を討ち、国々に固く申しつけ安堵しようと思っていたところ
一年も(織田主君)あい立てず。かようなことを申す悪心の輩が出来て外聞が悪く迷惑だ。
柴田の所業をもって三七殿が謀反を企てているので、丹羽・池田と語らって三介殿を御代にあい立てる。


一年も織田主君が立っていないというのはさすがにおかしいでしょう。清洲会議では織田秀信が当主になっているし、
織田家の主君が立っていないのに柴田や三七殿が謀叛を企てるというのは理屈が当てはまりません。そもそも11月なら清洲会議からまだ半年も経っていないですし。

()の部分が付け足しと考えると一年もあいたてず、というのが恐らくは原文なのでしょうが、
これは前の「国々に固く申しつけ安堵しようと思っていた」に繋がるのでは?繋げて読むと

上様の仇を討ち国々に固く申しつけ安堵しようと思っていたところ、一年も持たなかった。(=国が乱れている)
かように申す悪心の輩が出て外聞が悪く迷惑だ。柴田の所業を持って三七殿が謀叛を企てているので丹羽池田と語らって三介殿を御代に相立てる。

つまり
「信長の仇を討って国々を安定させようとしたけど、一年も持たずに乱れた(あい立たず)。このように言う悪い心を持った連中が出て迷惑だ。
柴田の行動のせいで三七殿が謀叛を企てている(織田秀信に対して)ので丹羽池田と語らい三介殿をかわり(御代、もしかすると御代(みよ)の方かも)に立てた。」

ということではなかろうか?
   
556人間七七四年:2012/04/14(土) 02:49:18.51 ID:ZPTlIS5O
あい立たずじゃなくてあい立てず、ですね
557人間七七四年:2012/04/14(土) 03:19:19.41 ID:ZPTlIS5O
もう1つだけ 同じく>>546から

11/21の家忠日記 小田三介殿が御腹めされた風聞を聞く。
2/14家康→毛利
信雄・秀吉らが公方様御帰洛を御請することを伝える。

これ、時系列おかしくないですかね?
腹切らせようとしていた、という風聞が流れたのにその人をアテにして公方様(義昭)を帰洛させるんですか?


あと、この家忠日記とやらが事実なら、やはり主君は織田秀信であった可能性が高いのでは?
この小田三介殿が御腹めされたという風聞を考察すると、腹を切らせる(御腹めされ)というのは目上の者が目下の者に切らせる、というのと
目上の者が目下の者に軍事行動を起こされて(俗にいう下剋上ですね)腹を切るというのが考えられます。

けれども、さすがに信長を軍事行動の末に切腹させた光秀を間近で見ていた秀吉がそんな方法取るとは考えづらいですし、
そんな秀吉が光秀と同じような末路を辿る破滅の道を歩もうとするわけがないというのは馬鹿でもわかりますから風聞にすらならないかと。

仮に主君が織田秀信であった場合、その秀信のもとで勢力をつけた秀吉が何かしら理由をつけて信雄を切腹に追い込んだ、というならかなり信憑性が増します。
いつのことがわからないので明言できかねますが、1583年には織田信雄とその信雄のもとで勢力をつけた秀吉が、信孝を切腹に追い込んだという前科がありますからね。

仮にこの風聞がそれより後だったとしたら、主君織田秀信を擁する織田家のもとで、信雄が信孝の二の舞を辿った、ということになり、それこそ風聞があったとしても全然不思議ではないように思われますね。
558人間七七四年:2012/04/14(土) 10:10:29.90 ID:A11Cl47u
>>553
戸木城開城はたしかに一次史料には無いけど
他でもない木造家の編纂した木造記に具体的に無事を扱って開城したと
書いてあるので事実だと思っている。
そこには奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が戸木城へ来て
木造親子を宥められて扱い入れてくれたことで木造家は無事になった。
10月下旬に左衛門佐具康父子が戸木城を退出し
信雄の清洲へ退いた。それにより木造・小倭の領地は上野介信兼(織田信包?)へ付けられた。

そういうや信包が秀吉方にいたと確認できる資料って見たことないけど
どの史料に出典あるの?木造記から戦争末期には秀吉側にいるのは間違いないだろうけど。
織田有楽斎は信雄方に最後までいたのは間違いないんだが。

10/28秀吉の脇坂(伊賀上野に駐留して11/3に伊賀城割開始))宛書状には
桑名まで押し詰め付け城4、5ヶ所申し付けって書いてるし
同日の丹羽宛秀吉書状には書状が浜田表に届いたが、浜田城は滝川三郎(雄利)の持ち城だが
取り巻いて付け城4、5ヶ所申し付けって書いてあって、もう完全に信雄方は追い詰められていて
清洲までやってきた家康も近づけない有様になってると見ていい。
しかも大和から筒井勢を新たに動員し始めてるし、丹羽は利家への援軍を出してるし
秀吉側はかなり兵力に余裕をもって伊勢でやりたい放題やってる。
信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
11/6の大垣にいる加藤宛秀吉書状にはあちこち落として、あちこち砦を造り
北五郡之儀無残所任存分候条って言ってる。
翌日の土倉宛ての秀吉書状では東駒野取詰 即時乗崩と感状を出して
美濃でも攻勢を開始してるのがわかる。
>>和睦条件がデタラメ
これは本や史料によって解釈がまちまちで正直わからん。

尾濃葉栗見聞集によると、
木曽川西北羽栗・中島・海西の三郡割り秀吉方へ
勢州度会郡・篠島(知多郡)・海西の三郡割りを信雄領
天正12年甲申年9月の秀吉朱印状には
壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・渡会郡・大和宇多郡の
大半を氏郷とその与力に与えていたりするし
これ取り消したりしないだろうし。
559人間七七四年:2012/04/14(土) 10:47:23.74 ID:A11Cl47u
講和条件については
北伊勢四郡相渡の文章の解釈が難しい。
しかも細部の内容がまったくわからないし。
実際、虫あき的な状態で秀吉給地となった場所も多かったと思う。
尾張に関しても犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)は秀吉人数入れ置きと書いてるが、
別な史料を除くと岩倉も秀吉方だと書いてるものもある。
川中島は一円、長尾方と書いてあるが実行されたんだろうか?
解釈が難しいが検地から逆算すると桑名・員弁・朝明郡の三郡は返却されたかも知れない。
尾張北東部では丹羽郡〜葉栗郡東部・春日井郡北部などが奪われたか。
尾張北西部も西加賀野井などが奪われたか。それとも返却されたのか不明。

どちらにしろ、家康完敗であって、家康の優勢勝ちなんて判断は一切できない。
そして秀吉が信雄に遠慮して、家康を討つと言い換えていたなんて
トンデモ理論を持ち出す織田厨のバカさが突き抜けたキチガイぶりで笑えたw
560人間七七四年:2012/04/14(土) 11:27:39.79 ID:A11Cl47u
>>554>>555
イエズス会の史料は信憑性が非常に高く、断片的ではなく、
過程や内容を詳しく書いてあるからある程度の信憑性はあると思うが。
>>近江国の八幡山
違うだろ。そもそも柴田に長浜城を譲渡した意味ねーじゃん。
八幡なんて源氏の八幡宮のある場所とかいろいろ考えられるじゃんよ。
池田は信長の乳母の子だし摂津の一職支配権を信長から与えられていたと
指摘されてるんだから巨大権力をもってるでしょ。
丹羽だって柴田や佐久間の次くらいの次席でしょ。
新興勢力の秀吉や明智が抜かしたかも知れんが
そもそも安土城建築の方の仕事をしている間に
彼らが軍功を上げて追い抜いたって感じだし、信長は別に軽んじ始めたわけじゃない。
四国征伐での実質、信孝後見役の立場だったでしょ
光秀が四国取り次ぎだったから丹羽に奪われた形だし
(信長が非常に寵愛してた光秀の妹が
天正9年7月8日に死去して光秀が比類ないくらい力を落す
などと書いてあるから、それを境に光秀は転落していく)
秀信が当主なんて織田家中では、誰も思ってなかった単なる政略の道具。
義昭も帰京するから援助しろと島津に同時期に伝えているし
9月になると竜造寺や宗像にも援助しろ=金をせびってる
(毛利ケチすぎだからねw隆景とか超うそつきケチ)
秀吉の主張は簡単な話、秀吉に反する者は誰でも彼でも謀反していると主張してるだけでしょ。
はっきり言って秀吉本人が謀反者そのものなんだけど、
お前らは誰に付くんだ?選べよ的な威嚇を内外でやって人質を取り捲ってるのが現実。
もう織田を主家なんて思ってない。外聞が・・・とか口先だけであり、
誰が味方になり、誰が敵になるか見極めてるだけの話。


そういや秀勝が丹波全域貰った説って丹波の衆を引きつれさせた時があるから
その拡大解釈に過ぎないのかな。
実際、別な日付の6/15の秀吉書状には楽田城への加勢に秀勝4470人と書いてあるから丹波全域なんてありえない。
編成された軍勢は11200で、これ全部丹波衆なのかもしれんが、
稲葉や日根野や尾藤や山崎らの名前からして違うっぽいし。
561人間七七四年:2012/04/14(土) 14:38:51.50 ID:zt1orSf/
>>558
木造記は勢州軍記を大幅引用しただけの軍記のさらなる重ね本だぞ
秀吉は書状で、敵方の城の誰々が降伏したとか、攻略したとか細かく書いてるのに
戸木城の場合はそれが一切ない
>織田有楽斎は信雄方に最後までいたのは間違いないんだが。
ソースは?
秀吉自身書状に4郡を渡すとかいてるのに秀吉が分捕ったと書いていたり
3月〜4月にかけても伊勢南部を攻め取っただけで伊勢全体を取ったように書いたり
岸和田に攻撃かけてきた紀伊衆を撃退しただけなのに紀伊国内に攻め込んだとか
尾張は半分すら取ってないのに須田に全部切り取ったとか
ただえでさえ外交喧伝&誇張捏造だらけの秀吉書状がそのまんまソースになっていたり
一体どんな本を読んで一連の攻防を知ってるのか改めて聞きたい
どんな文献・論文を読んでるの?
秀吉の織田家のっとりの方は全面的に同意
562人間七七四年:2012/04/14(土) 15:21:45.50 ID:A11Cl47u
逆、勢州軍記がいろいろな史料を集めて編集しただけ。
講和になり抵抗していた者たちから人質を秀吉が取る時に
源五殿実子(織田有楽斎)を人質に出すことになってる。
滝川雄利も実子または母を出すとなっているが、
木造長政の名前がないのは、
この時点ですでに秀吉方に降伏してるからだと思うがな。

家康も秀康を「養子」として出すと吹聴してるが
秀吉方では「人質」としてる。石川数正も人質を出してるが
のちに家康を裏切り出奔するフラグだな。
563人間七七四年:2012/04/14(土) 15:40:57.50 ID:cKH0Fc0T
>>562
お前どんな本読んでんの?
伊勢北畠氏の研究の論文だと勢州軍記をほとんどトレースして書かれたのが木造記だと書かれている
で、吉村氏吉や水野氏などは人質出したの?
出したというならソース付きでよろ。
石川数正は84年初頭から秀吉の方に心が移っていたのは三河物語などに書いてある
秀吉マンセーの都合いい解釈なんぞどうでもいい
史料出せ
564人間七七四年:2012/04/14(土) 15:57:06.43 ID:A11Cl47u
>>563
なんでお前キレてんの?意味わからん
つーか吉村氏吉は関係ないだろ。。
だって木造一族の滝川雄利や木造長政ら信雄首脳陣と違うじゃんよ・・・
水野が人質出す理由もないじゃん。
家康の交渉で石川になっただけの話じゃん。
つうかあなたの好むストーリーじゃなきゃキレるんなら
勝手にここで暴れてればいいと思うよ。おれもうレスしないから。
565人間七七四年:2012/04/14(土) 16:17:20.07 ID:A11Cl47u
ちなみに信雄・信益・中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵のメンツが
人質を出してるのに木造親子が一切、人質を出してないのは不自然。

勢州軍記の方は信雄が和睦したので木造家も城を渡したとしか書いてない
しかし木造軍記は奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が
無事を扱ってくれたので開城したと書いてあって内容がぜんぜん違う。
566人間七七四年:2012/04/14(土) 16:18:26.56 ID:EsCIhGc0
吉村は思いっきり首脳部だぞ
松ノ木で秀吉方相手に奮戦してきたし信雄や家康との書状のやりとりも最もさかん
高木氏水野氏など他の面子も人質出してないっしょ
567人間七七四年:2012/04/14(土) 16:25:33.90 ID:A11Cl47u
首脳じゃねーし。単なる前線の城を持つ国人レベルじゃねーか・・・
まぁいい。君の勝手にすればいいと思うよ。。
568人間七七四年:2012/04/14(土) 16:29:26.40 ID:A11Cl47u
これ面白いね。

当時の当主は北畠具房(具教の嫡男)であり
まず北畠具教と木造具政(晴具三男・具教の弟)の内訌において
木造が織田の力を借りて内訌を有利に運ぼうとしたことが挙げられる。
北畠に苦戦した織田は義昭の和睦調停において茶筅を人質に出して安全撤退した。
(北畠は人質を出してない)その時に茶筅の安全を守るため織田家から津田一安が付けられ、
木造からは滝川雄利(木造一族)と拓植三郎左衛門(木造重臣)が警護に付けられた。
さて成長し茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
そして具教や具房の奉公人である山室氏(9/16・10/13・10/14・10/16・10/29)や
鳥屋尾氏(10/13・10/16・10/19・10/晦)によって大湊への軍事動員書状が発給されてる。
9/20頃に伊豆の敵船が大湊入り津田一安が現地入りして糾明に乗り出し大湊諸衆と交渉してる。
しかし大湊の船主たちが軍事動員に反対して拒絶している姿が山室氏の書状で判明する(太田家古文書)
つまり大湊の船主の総意は織田に従いたくないという大前提が見て取れる。
また天正元年11月15日に山田三方中と北監物に信雄は文書発給しており
大意としては両御所様御同前に北監物(伊勢大神宮御師)の息子の
福島左京亮(皇大神宮御師)の跡職相続を認めたもの。
これも9/16・9/22・10/22に山室氏から奉書が発給済みのもの。
天正元年の信雄の具豊名での発給文書はこの3通のみ。
このように信玄が死去し義昭が追放された後になってやっと信雄の発言力が多少向上してるに過ぎない。
ここに至っても伊勢水軍が織田に服属してないのが理解できる。

次ぎに信雄が発給しているのは天正3年7/24から「信意」の名前で発給開始している。
つまり天正2年はまったく書状を発給していない。
よって7月の伊勢長島一揆討伐の軍事動員も具房らが主導していると見てよい。
ではなぜ天正3年から発給が開始されるのか?そして「具」ではなく「信」が使用されるのか。
それは多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
569人間七七四年:2012/04/14(土) 16:32:23.32 ID:ClRs72eC
そんなら木造も本拠地から程遠い、信雄からしてみれば外様中の外様の国人レベルだから
人質求められなかったという妄想もあり。実際7月の頃離反しようとしてたくらいだし
そもそも軍記にしかないのを論拠として持ち出してるあたりで乙としか。
しかも他の軍記では別の書かれ方してるくらいなもんで。
570人間七七四年:2012/04/14(土) 16:34:43.41 ID:fbqMNZOZ

天正10年の武田攻めを語るスレ 4
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/
571人間七七四年:2012/04/14(土) 18:12:07.92 ID:ZPTlIS5O
>>560
確かに八幡とあるだけで近江八幡とは書いてませんね。

ただ足利義昭が帰ってきたから織田家が用済みになったとするのはどうも・・・
足利義昭の帰洛は毛利家との和議の一貫であってさすがに足利義昭を主君に奉じるのは博打すぎでしょう。
織田家の人間からすれば足利幕府を京から追放した当事者ですし「義昭公が帰ってきたから織田家はいらない。今日から主君は義昭公ね」っていって織田家臣が納得するんですかね?

織田秀信は誰も当主と思っていなかった、とするのもわからなくはないですが一応血統的には嫡流(まあ側室腹ですけど)ですし、
全く考慮されなかったというのはさすがに無理があるでしょ。少なくとも他家の人間である義昭に比べれば織田家の人間である以上利用価値はあるでしょうし
ある程度は重用されていたとは思いますけどね。

秀吉の織田家に対する対応(簒奪とか簒奪してないとか)は早い話史料には載っていないのでわかりかねますが、個人的には小牧を既定事実にした感がかなり大きいですね。
小牧では秀吉が羽柴軍としてなのかあるいは織田家主君秀信の代理なのか、という解釈はあるにしろ、結果的に「秀吉が軍を率いて、それに皆がついてきた」
という事実が出来ちゃってるんですよね。

官位昇進履歴を見ても秀吉は小牧の後すぐに従三位権大納言に就任していて、これは織田信雄、織田秀信(元服してないのでまだ無位無官)を凌ぐ官位であるとともに、
しかもこの役職はかつて織田信長が叙任された役職であり、小牧の戦いを境に秀吉が「信長の統一事業の後継者」と朝廷に認識されていたというのはあながち間違いではないかと。
572人間七七四年:2012/04/14(土) 18:22:44.50 ID:ZPTlIS5O
時系列で追いますと1584年の11月に羽柴秀吉と織田信雄の和睦が成立、
秀吉は京に戻ってすぐに官位昇進(従三位、権大納言)を受けていますね。
これは小牧の戦いを朝廷が知っていた、というのがかなり現実的でしょう。

この後同年12月には安土城(再建されたものなので信長時代よりは質素なもの)にいた織田秀信が坂本城に移ります。
これを境に安土城は空城になってそのまま翌年に廃城になります。官位で織田家を越える官位を得たので、
もう朝廷の支持をとりつけた、織田家の威光はなくてもいいと判断したのだと思います。

ちなみに翌年の1585年に秀吉は3月に正二位内大臣、7月に関白職を叙任されますから、この時点では羽柴秀吉の権力が織田家一門のそれを越えている、
というのが朝廷の目から見ても明らかだった、ということなんでしょうね。
573人間七七四年:2012/04/15(日) 06:56:35.37 ID:mBHj32xQ
武田信玄って結局は何をした人なの?
574人間七七四年:2012/04/15(日) 17:25:43.14 ID:2X1WObtx
甲斐出身の戦国大名
それ以上でもそれ以下でもない
575人間七七四年:2012/04/17(火) 10:22:45.95 ID:IpxGSEgF
>>568
北畠は結局、兄弟内訌で滅んだだけだしね。
木造具政は織田を利用して兄の北畠具教を滅ぼして戸木御所を自称してた張本人で
>>569
信雄を傀儡擁立にした木造家本家を継いだ首脳人物だからね。外様なわけが無い。
(息子は木造長政・具康・長正・長忠など別名多数)
>>566
吉村は単に史料が大量に遺されていただけの話で、
しかもその内容は家康や信雄から「前線の様子の報告ありがとう」な内容の書状ばっかりで
正直、内容も書かれてないので役に立たない書状ばっか。
これで首脳とかありえないから。

信雄は天正2年はまったく書状を発給していないことに着目し
信雄が織田家に突っ返されてしまったとする考え方もある。
そして天正3年6月に再度、伊勢入部したとする。
その後、8月の越前一向宗殲滅戦には信雄はなぜか大和衆を率いる塙を部下としているように見え
滝川一益や津田一安は信長の命に従っているように見え、信雄とは別系統とも思える。
伊勢衆は信雄の統制下にはまったく置かれてない独自行動してるのがわかる。

>>572
秀吉はすでに清洲会議から叛意むき出しで徒党を組んで会議出席してるとしか思えない。
そもそも宿老だけで重要決定をしてるのだから、
専横権臣たちによる合議であり主君に諮ることをしない政策に変更されてる。
そしてまったく合議をしようとせず、それにより秀吉に不都合が生じると、
まるで道具を扱うかのように軽く自分に都合がいい北畠家の信雄を持ち出してきて、
相手を謀反人呼ばわりし信孝を殺す。
そして信雄や家康との戦いではもう大義すら掲げずに狂犬のように信雄に噛み付いてきてる。
朝廷は既得事実を積み重ねた秀吉に対する事後認定に過ぎない。
本能寺の変で織田は事実上滅亡したと言っていいだろう。
576人間七七四年:2012/04/17(火) 10:27:12.38 ID:IpxGSEgF
ところで信孝を殺したあとに
秀信を安土に移したとか
織田信雄滅ぼした後に坂本へ移動したとか
ソースはなに?
これWIKIに載ってるよね。
これの出典がわからん。
577人間七七四年:2012/04/17(火) 10:41:06.20 ID:5lWiAmo/
信玄は甲斐の近辺の雑魚をやっつけただけというイメージしかない
天下をとれたかもしれないという可能性を感じない
578人間七七四年:2012/04/17(火) 12:18:50.97 ID:C8cgneO+
無知すぎてワロタw
579人間七七四年:2012/04/17(火) 12:46:28.36 ID:3xZq4JpI
>>575
>>秀吉はすでに清洲会議から叛意むき出しで徒党を組んで会議出席してるとしか思えない。

それはあなたの妄想としか言えないでしょう。
清洲会議はそもそも織田家の今後を決める会議で、秀吉が贔屓人事して会議のメンバーを決めたわけではありません。
贔屓で決めるなら柴田なんてまず真っ先に除かれる人材。ただ柴田が丹羽や池田に嫌われていただけとしか言えませんね。

>>そして信雄や家康との戦いではもう大義すら掲げずに狂犬のように信雄に噛み付いてきてる。

信雄との戦いは大抵にいえば信雄の権力低下を狙ったものであなたの指摘では矛盾だらけです。
信雄は一度国元に戻されてその上で軍事衝突になっていますから、本当に消したいのなら近江にいる段階で消せばいいだけです。

>>本能寺の変で織田は事実上滅亡したと言っていいだろう。

滅亡していたら清洲会議なんて開かれませんけどね
580人間七七四年:2012/04/17(火) 13:15:02.83 ID:3xZq4JpI
ちなみに秀吉の行動を官位昇進と合わせてみると

1584年の10月に秀吉は従五位左近衛少将に就任。多聞院日記に見られ、のち公卿補任では日付をずらされて1582年のことと記している。
当時織田家一門であった織田信雄が左近衛中将だったのでこれに遠慮しつつも最大限に官位を貰った形。

で、この後いきなり翌月の11月には従三位権大納言に就任。就任前には小牧で信雄との和睦が成立していて、実質信雄が秀吉の下についた形となる。

後は言わずもがなトントン拍子に出世し1585年の7月には関白に就任する。

事後認定というのは事実その通りだが、実際秀吉の活躍が朝廷の官位叙任という形で内外に認められだしたのは小牧長久手の後からですね。
581人間七七四年:2012/04/17(火) 13:15:44.02 ID:3xZq4JpI
小牧で→小牧で争った
582人間七七四年:2012/04/17(火) 13:24:18.41 ID:3xZq4JpI
で、織田秀信の安土城云々、という話ですが、これは種々の史料による推測なので動向は確実とは言えませんが、

1582年の10月に柴田勝家が出した秀吉弾劾書状(南行雑録)によると
織田秀信の岐阜城から安土城への御動座について柴田勝家と丹羽長秀と岐阜(信孝?)と確約したとあり、
一応秀吉の介入はありましたが秀信が死んでいない限りは安土城にいた可能性が高いかと。

で、秀信が安土城を去ったときの議論ですが1585年には最低でも秀吉一門の秀次が雑賀征伐の功を受けて
近江八幡山の地に領地を置き、近江八幡山城の築城に伴って安土城は廃されているんですよね。

どうもこの処置には秀吉の近臣たちの動きから近江を羽柴色にするという意向があったようで、
この段階ではもう秀信は安土城にいないことがわかります。その間の動きは個人的にはわかりかねますね。

「織田秀信が動いた」という明確な史料があればわかりやすいですけども。1583年には秀吉が安土城に信長廟を築いているので
この時期の秀信異動はないと思ってますけど
583人間七七四年:2012/04/19(木) 12:42:18.05 ID:McY9FLgr
>>織田秀信の安土城
ぜんぶ根拠なしの願望を自信満々に書いてきてたのかよw

三鬼氏は織田家筆頭格の柴田を破り
大坂城を築いて全国制覇への基盤を着々と固めた。
この動きに危機感を抱いた信雄は家康と結んで対抗。
小牧長久手の戦いは局地戦ではなく
尾張・三河連合軍と畿内中央政権とが争うものだった。
中略
そののち関白に任官して豊臣姓を受けたことで
名実ともに「天下人」となったとしている。

つまり柴田・信孝が秀吉の天下への野心から織田を潰そうと企むことに
危機感を抱いて挙兵したが敗れ去り、「実力ある」秀吉が安土を無視して大坂に大城郭を建築し始めた秀吉に信雄も恐れて家康と結んだが
この戦いは畿内中央政権となっていた秀吉への挑戦であり
それに敗れて屈服した信雄の姿をみて
朝廷も「名分」を与えたといえる。

結局、清洲会議とは織田家をいかに実権のない傀儡化させるための会議であり
各家臣が主君に諮らずに勝手に分国を形成して自立したきっかけを与えた。
自立した宿老たちは、自分が優位になるように織田家を道具のように利用した結果、
ますます軽くなっていく織田家の地位が凋落していく姿しか見えない。
584人間七七四年:2012/04/19(木) 14:10:48.60 ID:McY9FLgr
>>559
>>尾張北西部も西加賀野井も奪われたか
奪われてるね。竹鼻城は水攻め落城後に一柳直末が入っていたが
のち天正13年のことだが
11/3付けで竹鼻における不破広綱の領地を
池田輝政配下の伊木忠次に与えてる秀吉書状がある。
天正14年の木曽川大氾濫で流路変更がおきて
尾張国から美濃国扱いになってしまったが
当時はまだ尾張領。しかもここからすぐ下流の長島城まですぐだから
信雄は完全に頭を抑えられた格好になってる。
まぁ天正13年11月の天正大地震で長島城はぶっ壊れたから
清洲へ移転することが天正14年2月に決まったが
実際は長島の修理をせずに、竹鼻城から遠い清洲へ逃げた格好だろうね。
信雄にしてみれば、おちおち枕を高くして眠れないからね。
なんせ長島城の堅固さは関が原の戦いでも
正則の弟の福島高晴が籠城してる中で
西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して
攻めずに関が原へ急行してるしね。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけど
そもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
585人間七七四年:2012/04/19(木) 16:49:32.26 ID:Euor2ZgY
>>583
せめて引用と解釈くらい一致させてくださいよ、私より酷いですよ

「三鬼氏は織田家筆頭格の柴田を破り大坂城を築いて全国制覇への基盤を着々と固めた」のどこに
「柴田・信孝が秀吉の天下への野心から織田を潰そうと企むことに危機感を抱いて挙兵したが」があるんですか・・・

ちなみに大坂城は「天下を狙う基盤」となる大城ではありませんからね。

現代の大変大きな大阪城は3代目で、しかも昭和初期に再建されたという代物。
この再建された現代の「3代目大阪城」のモチーフになった「2代目大阪城」は豊臣色を払拭しようと見栄張って大きく建てた徳川氏時代のもの。

豊臣時代の大坂城はあまりよくわかっていませんが、設計図や屏風が残っており、少なくとも徳川政権時代のものよりは3分の2ほど小さい、当時から考えると普通の城です。
豊臣大坂城は本丸だけでも完成まで一年半近くかかっているので、この時点ではまだ更地同然の城ですね。

本丸どころか何もない、石垣すらあるか怪しい城を見て「信雄と家康が危機感を抱いた」というのはただのご都合理論かと。
586人間七七四年:2012/04/21(土) 23:48:35.73 ID:PKko6Dz2

最近の甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。
1990年代に国語学者酒井憲ニ氏の大著甲陽軍鑑大成を完成させてからは
柴辻氏なども軍鑑を史料に取り込むなどの風潮が出始めており、
それどころか桶狭間の戦いにおける黒田日出男氏を始めとした今川軍乱捕り中の隙を
織田軍が攻撃した為に義元を討てたとする論拠として軍鑑を援用している。
これは藤本正行氏の正面攻撃説や小和田氏の正面奇襲説の
信長の不可解な成功の理由として充分な証明理由となろう。
旧日本陸軍の迂回奇襲説はこれにより論破されてしまったのである。
読む場合に注意すべき点は
軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし
ごくまれに偽文書が挿入され操作をしている
特に史実と食い違うのが山本勘助がらみの誤記創作が多いと言う事で
勘助自体が存在しないと言われる所以である
原因は高坂弾正の口述を猿楽者大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記した作品を
小幡景憲がのちに自家のために加筆し歪曲捏造改悪をしていると言われている。
市河文書「武田晴信書状」に山本菅助の名前があり存在が確認され
晴信側近である事がわかり軍鑑では足軽衆である事がわかる。
この文書では勘助と共に原与左衛門尉が足軽大将衆であったのがわかる。
この原の舅が小畠景憲の祖父である虎盛であり東信や北信で活躍しており勘助との関わりが見える。
また小畠景憲は出版する金がなかったから出版出来なかったと言うのが通説だが
出版出来なかった理由が自家に都合がよく改悪捏造したからとも考えられる。
三条藩主稲垣重種が筆写のために借りた軍鑑を宇佐美勝興に書写された時に
無断で密にもう一つ筆写して京都で出版したと言う。
587人間七七四年:2012/04/22(日) 14:04:00.44 ID:NMUkDfhr
甲陽軍鑑がある程度は正しい記述を書いていたからと言って
無能当主の武田信玄の再評価にはならない
588人間七七四年:2012/04/22(日) 16:56:54.44 ID:O4xO0oin
相変わらず一次史料の根拠のない悪口中傷しかできない無能織田厨w
589人間七七四年:2012/04/22(日) 23:51:02.79 ID:mX4ty4Ie
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
(『甲陽軍鑑』)

今度上様(織田信長)東国御出馬付、当国(大和国)衆自昨日上洛
(中略)
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也
(『蓮成院記録』)
590人間七七四年:2012/04/27(金) 13:24:10.80 ID:eUIrfBQN
しかしその風聞からわずか1ヶ月で滅亡した武田
591人間七七四年:2012/04/27(金) 14:54:57.00 ID:XxOE7ZV2
そして三河経由で帰陣してまもなく家臣の謀反で死体がないまでに切り裂かれて信長親子が豚のように殺された。
592人間七七四年:2012/04/28(土) 03:27:24.70 ID:prAFJiFb
遺体が見つかってないのに「豚のように殺された」と勝手に捏造
まるでその場にいたかのような言い方だなw
593人間七七四年:2012/04/28(土) 03:34:55.44 ID:6CucrLY4
結論)過大評価
信長>>>>>>>>>>>信玄
594人間七七四年:2012/04/28(土) 05:06:52.78 ID:XqhE+8Im
のぶやぼ厨涙目w
595人間七七四年:2012/04/28(土) 13:57:21.79 ID:SwuD0ZMF
いや過大評価的には
信玄>信長は動かんだろw
実績でかい信長が+αされんのと
実績がさほどでもないお屋形が+αされるのとではなあ
596人間七七四年:2012/04/28(土) 14:34:35.61 ID:1IH7rWaP
信長の実績なんて家臣にぶっ殺されて織田家を崩壊させただけ
597人間七七四年:2012/04/28(土) 16:39:16.30 ID:prAFJiFb
だがさんちーっす
598人間七七四年:2012/04/28(土) 16:42:17.68 ID:prAFJiFb
織田家

初期領地:20万石+津島
最大領地:800万石(本能寺直前)
江戸時代:12万石(織田信雄5万石+織田信包4万石+織田有楽斎3万石)+α(高家旗本)

武田家

初期領地:20万石(甲斐一国)
最大領地:150万石(武田勝頼最初期)
江戸時代:0万石(大名家になった家系はゼロ)+α(他家の家臣になったりしてひっそり生きている一門)
599人間七七四年:2012/04/28(土) 18:51:12.29 ID:1IH7rWaP
実績とは最初から最後までの事だから途中の都合いい時点で比べるのが間違い

甲斐は18万石で毎年飢餓が発生しまくりの最貧国

尾張は57万石のチート収入の上に津島港と全国断トツトップの献金額のチート収入
600人間七七四年:2012/04/28(土) 18:57:50.74 ID:1IH7rWaP
織田家

初期領地:30万石+津島+信秀時代の多額な貯金
信長の死の時点:無主状態&家臣達もめちゃくちゃで実質的に崩壊。清洲会議にて形骸だけ復活
江戸時代:12万石(織田信雄5万石+織田信包4万石+織田有楽斎3万石)+α(高家旗本)

武田家

初期領地:18万石(甲斐一国)マイナス例年の飢餓
信玄の死時点:150万石(武田勝頼最初期)
江戸時代:30万石(武田信吉、木曽義昌、穴山衆、諏訪頼忠、武田信清、仁科の家系)
601人間七七四年:2012/04/28(土) 19:30:42.56 ID:S5FkNFn9
>>600 信吉って江戸時代になる前に松平性戻ってるはずだが。
602人間七七四年:2012/04/28(土) 20:55:09.82 ID:prAFJiFb
武田は江戸時代に30万石もねーよw
武田信吉は1603年に死んで後は完全に徳川頼将に受け継がれているし、
木曽義昌は江戸時代には既に故人で、跡を継いだ義利は1600年に改易。

武田信清、仁科の家系だけなら1万石もいかないw
親戚関係だけなら織田家は徳川家光、豊臣秀頼を出すことで完璧に上回るなw
603人間七七四年:2012/04/28(土) 20:56:06.82 ID:prAFJiFb
しかも信長が死んだときは信忠は生きているから織田家は無主君状態ですらないw
相変わらず妄想しか吐けないだが哀れw
604人間七七四年:2012/04/28(土) 21:22:46.77 ID:S5FkNFn9
>>600 武田滅亡後の最大領土で見ても武田信清が3300石
仁科が4100石。諏訪頼忠が3万2千石。木曽が10万石か。
さすがに信吉を武田とするのは無理だろ。
総計14万石。しょぼ。
605人間七七四年:2012/04/28(土) 21:45:42.96 ID:1IH7rWaP
結果が全て。
光秀に殺されて織田家を滅ぼした信長
最貧国から150万石まで拡張した信玄
606人間七七四年:2012/04/28(土) 22:02:00.96 ID:prAFJiFb
>>604
木曽は江戸時代には存続していない。
2代目義利の代で改易、これが江戸開府の3年前

結果が全てとか言いながら信玄は拡張した、で終わらせるアスペだがw
おまえの理屈で言うなら武田家の結果は0万石だよwwww
織田家を揺らがせたのは織田信忠、信長はこの時当主じゃないんだから当然だろw
607人間七七四年:2012/04/28(土) 22:04:48.98 ID:1IH7rWaP
は?
信忠が当主????

信忠の命令で織田家全体が動いていないんだから実権は信長
608人間七七四年:2012/04/28(土) 22:07:41.14 ID:prAFJiFb
>>607
播磨別所攻めの総大将は織田信忠だし
中国戦線は全て信忠(のち秀吉)の命令で動いてるんだが?ww
長篠以降は信長はほとんどロクに出陣せず、出た戦いといえば天王寺と紀州雑賀討伐くらい。

隠居中の信長に対して「おまえは当主だから責任をとれ」と発狂するアスペだがw
そもそも本能寺で織田は滅んでないから信長の責任でも信忠の責任でも問題ないけどなw
609人間七七四年:2012/04/28(土) 22:11:06.01 ID:prAFJiFb
織田家は織田信長、織田信忠を筆頭に
織田秀信、織田信雄、織田信孝、織田信包、織田長益と優秀な一族ばかり。
信長と信忠死んだあとは誰かが廃れても誰かが発展しの連続で決して織田が大名家から転げ落ちることはなかった。

一方武田は信玄筆頭にアホの集まりw
挙句武田征伐の時には発狂して武田勝頼以下、仁科盛信、武田信豊、武田信廉、一条信龍、葛山信貞、海野竜芳など数多くの一族が集団自殺w
以降武田信玄の直系男子は仇敵上杉に寄生したり徳川に寄生してお情けの旗本にしかなれなかった武田惨めw
610人間七七四年:2012/04/28(土) 22:13:30.86 ID:1IH7rWaP
単なる地方方面軍じゃねぇかw

信忠が信長の意向無視して柴田や羽柴や明智に指示だせるわけねぇしw

本能寺で滅亡した織田家は信長が光秀に殺された事によるんだから信長が滅亡させたのと同義
611人間七七四年:2012/04/28(土) 22:15:48.99 ID:prAFJiFb
織田家がwwwww本能寺でwwww滅亡wwwww武田厨哀れwwww

織田信包は津15万石を領有していて、
織田信雄と織田信孝もそれぞれ伊勢にいる

いくら織田家が混乱期にあったっていってもwww
直属家臣くらい命令聞けるような状態だったってのにwwww

だが哀れwwwww
612人間七七四年:2012/04/28(土) 22:18:08.33 ID:prAFJiFb
仮に本能寺で明智も柴田も丹羽も秀吉も全員寝返ったとしても、
織田信包率いる津15万石は健在wwwww

織田家を領主にしている以上、信雄や信孝が仮に死んでも信包が織田家になるだけwwww

どうあがいても織田の滅亡にはつながらないのに武田厨は征伐後に三条河原で糞まみれにされたのが我慢ならないらしいwww
613人間七七四年:2012/04/28(土) 22:18:17.16 ID:1IH7rWaP
信雄⇒北畠
信孝⇒神戸
信包⇒政権論争の蚊帳の外
家臣達⇒無主状態でバラバラ。命令出されないから好き勝手
614人間七七四年:2012/04/28(土) 22:19:28.26 ID:1IH7rWaP
なら武田も穴山や木曽や諏訪がいるから到底滅亡にはならないな
615人間七七四年:2012/04/28(土) 22:19:54.04 ID:prAFJiFb
だからwwwwおまえはアホwwww

仮におまえの言い分が全て正しくて、
政権運営で蚊帳の外だったとしても、信包+直臣連中を指して
「織田家」ということはできるのwww

織田家は大幅に勢力を削減した、というのはあてはまっても
どうあがいても滅亡にはならないのに哀れwwww
616人間七七四年:2012/04/28(土) 22:20:51.64 ID:prAFJiFb
穴山wwwww木曽wwwww江戸時代には両方いないんですけどwwww
穴山は勝千代が死んでめでたく滅亡www木曽は1600年に改易されて終了wwww

諏訪?www信玄が滅ぼしたあの家を武田一門って言うんすかwww
617人間七七四年:2012/04/28(土) 22:21:29.82 ID:1IH7rWaP
鼻糞みたいなもんが残っただけで織田が残ったとは普通言わん
武田だって少しとはいえのこってるじゃねぇかw
618人間七七四年:2012/04/28(土) 22:24:00.78 ID:prAFJiFb
そもそも諏訪頼忠は武田と血が繋がっていないのに一門wwwwwwおまえ武田信玄のファンにキレられるぞwwww


    諏訪頼隆(兄)   諏訪満隣(弟)
     ┃         ┃
    諏訪頼重     諏訪頼忠(こいつが後に江戸期に大名になる)
     ┃         ┃
 =  諏訪御前(信玄妻) 諏訪頼水
 ┃
武田勝頼


武田一門wwwwww
619人間七七四年:2012/04/28(土) 22:25:21.94 ID:prAFJiFb
>>617
どんな状態でも大名として家を残したら「大名」扱いはされますよwww
で武田一門で江戸時代に誰か大名で残っているんですか?w
620人間七七四年:2012/04/28(土) 22:27:08.49 ID:1IH7rWaP
木曽・諏訪・仁科・武田信吉・穴山・信清子孫・氏直の家系・上杉景勝
一杯残ってますね
621人間七七四年:2012/04/28(土) 22:27:44.49 ID:S5FkNFn9
江戸期に限定するなら信清が500石。仁科が4100石。以上だな。
諏訪が武田なら家光だって織田一族になるわ。
622人間七七四年:2012/04/28(土) 22:29:51.52 ID:prAFJiFb
武田信吉なんてのを挙げる時点でよほど滅亡した事実を受け入れたくないらしい
縁戚関係なら織田に勝てる家なんてそうないんだけどな

前田家、丹羽家、豊臣家、徳川家、京極家、多すぎて上げられない
623人間七七四年:2012/04/28(土) 22:30:35.13 ID:1IH7rWaP
結果が全て。
光秀に殺されて織田家を滅ぼした信長
最貧国から150万石まで拡張した信玄
624人間七七四年:2012/04/28(土) 22:31:52.85 ID:S5FkNFn9
>>622 もう止めとけよ。これはだがじゃない。完全にキチガイだ。
625人間七七四年:2012/05/06(日) 01:41:28.14 ID:arD9ezxW
有名無実で売名でしか功績を伸ばせない信玄
626人間七七四年:2012/05/06(日) 11:39:06.95 ID:RvpkYr1r
>>601
ソースは?
そのネタってWIKIからパクってきただけだろwww
627人間七七四年:2012/05/07(月) 01:18:51.55 ID:r5TxAjPC
はんかんふ
628人間七七四年:2012/05/07(月) 20:40:24.67 ID:YA3zz1qP
駿河より北信濃の猫額の地に拘る田舎大名・信玄は、所詮信長の敵ではない
天下構想ゼロだからな
629人間七七四年:2012/05/07(月) 23:33:45.76 ID:kld67TBz
天下構想あったじゃん。
その信玄の名文に感動した天皇が筆写してるほどだし。
630人間七七四年:2012/05/08(火) 04:44:15.02 ID:PaqIwXCA
具体的なことほとんど何も言ってないじゃん。
唯一といっていいのが比叡山の復興で。
631人間七七四年:2012/05/08(火) 08:37:51.56 ID:mxNDFvxj
朝廷が信玄に浮気したというだけだな
632人間七七四年:2012/05/08(火) 23:18:48.49 ID:Fk31P9b3

信玄死す判明するや槙島城で義昭を追放し、浅井朝倉を討った後に小康状態となり信長が傲慢になっていく反面で
10月25日に長島一向宗に敗走し養老山地で捕捉され殿の林通政が討ち死にしてしまうのである。
(元亀2年5月にも敗走中の殿をしていた柴田が重傷を負い、代わりの殿をした氏家が討ち取られている)
さらに天正2年に入るや本願寺の指示のもと越前一向宗に前波吉継が殺され越前国を失い
さらに呼応していた武田勝頼が東美濃へ侵攻し明智城を落とし
武田軍の勢威の前に信長親子は援軍を打ち切り岐阜城へ逃走することになる。
3月には東大寺正倉院の蘭奢待を切り取り天皇に許された正当性ある織田政権を内外に宣伝し
反乱ばかりの大和国人への示しをしようと試みた。
(降伏して大和多聞山城を差し出した久秀も佐久間配下でありながら義昭や武田や北畠に内通していた)
しかし6月に信長は長島一向宗に敗れて風雨の中を逃げていった。
9月に入りやっと長島一向宗を制圧できたが織田信広や弟の織田秀成らも討ち取られた。
一方でその間に本願寺と共に抗戦準備をしていた紀州にいた義昭は
石山本願寺の前衛である河内高屋城の畠山氏の守護代遊佐信教&三好康長合同軍に
義昭は合流しようとしていたが、なかなか実現せずに側近の一色藤長を責めている。
将軍の高屋城動座が成功していれば信長もやばかっただろう。
そして高屋城では佐久間・明智が苦戦して長期戦になっているのが窺える。
高屋城に細川を先鋒に織田本軍がやってくると義昭のいない高屋城も降伏し
本格的な本願寺包囲と察知され信長を牽制するために武田勝頼が再び出撃してくる。
そこで信長は本願寺攻めを中止し、家康の援軍に向かう。
ここで勝頼は織田軍を引き付けておいて、撤退すればよいのが大戦略なのに失策をしてしまう・・・
織田軍を東奔西走させて疲弊させる戦略に失敗したことは謙信上洛への戦略にシフトすることになる。
勝頼の失策に助けられた信長は実に運がよい。
謙信を東奔西走させて疲弊させ、上杉重臣を調略した信玄が生きてたらそんな失敗は絶対にやらかさない。
633人間七七四年:2012/05/09(水) 19:03:03.19 ID:BKJOZfUy
所詮は信玄も信長には勝てない甲斐の山猿
634人間七七四年:2012/05/09(水) 19:44:05.78 ID:FCtIp40x
のぶやぼ厨涙目w
635人間七七四年:2012/05/11(金) 08:25:45.88 ID:2yMOyBpY
信玄に関しては、希望的な言い方が多いなぁ。
636人間七七四年:2012/05/11(金) 15:02:01.17 ID:zSKz2b59
それだけ可能性が低いって事だろ
637人間七七四年:2012/05/13(日) 16:18:47.16 ID:mPEJkY0E
本願寺が朝廷の和議に応じた後に
信長が天正8年8月に出された佐久間親子弾劾状には
明智が丹波、柴田が加賀をそれぞれ一カ国平定したことを挙げているが
秀吉の場合は数カ国比類ないと信長が述べていて
天才秀吉が別格扱いの実績を叩きだしてる。
その攻略スピードの速さと言い異常すぎる。
さすがその神速で明智と柴田を速攻で滅ぼして天下統一しただけある。
神が与えた大略を持つ秀吉がいなければ信長は朝倉軍にぶっ殺されて終わってた。


戦国時代を平定した秀吉
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/l50
638人間七七四年:2012/05/13(日) 16:32:29.60 ID:MC5NYEgR
秀吉の場合は数カ国比類ないと天才秀吉が別格扱いの実績を叩きだしてる、と言いながら
同じ条件で複数の国を神速で切り取った織田信長は無視するアスペだがw

さすが織田に滅ぼされた武田の信者は違いますなぁw
639人間七七四年:2012/05/13(日) 17:06:18.26 ID:mPEJkY0E
>>638
信長の独力じゃなくて
完全に他力本願じゃねーかw
640人間七七四年:2012/05/13(日) 18:00:17.28 ID:MC5NYEgR
他力本願?wおまえは何を言ってるのwwww

「信長が軍を率いて国を取った」というだけで信長の自力なんだがwww

あ、おまえもしかして「家臣に頼るのは反則」とか言っちゃうクチ?w
なら秀吉は単身で数か国切り取ったんだな?w
641人間七七四年:2012/05/14(月) 07:54:57.65 ID:RLlht0cO
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
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642人間七七四年:2012/05/16(水) 22:33:43.52 ID:FxhpLXXi
看羊録によると尾張国は地が厚く、土地が肥えていて
種を蒔くだけで放置してても1000倍を得ることができ
里の多さでも日本国でも抜群に優れており大上国であると
尾張国のチートぶりを超絶賛!
(ちなみに三河国は土の層が浅く一尺ばかりしかないので
五穀があまり熟さないので下下の小国と書いているので
信玄が三河占領に興味が無かった理由もわかる)
643人間七七四年:2012/05/16(水) 22:52:31.48 ID:FxhpLXXi
耶蘇会の1584年の年報にも
はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。


644人間七七四年:2012/05/16(水) 23:28:45.90 ID:QXoyR/KM
>>643
そんな書き方をしているから底が浅いんだよ
都合の良い所の切り貼りはあまり意味がない
良い所と悪い所の両方を押さえてこそ発言に重みが出てくる

一般市民が秀吉を嫌って命懸けで十首の狂歌を書き殴っていることも覚えておけ
645人間七七四年:2012/05/17(木) 00:40:26.27 ID:N0O/rpxA
>>644
>>十首の狂歌
ソースは?
646人間七七四年:2012/05/25(金) 16:29:42.86 ID:TCOC8fI2
>>579
家忠日記を見ると
6/15に明智を三七殿・筑前・五郎左(丹羽)・池田が
討ち取ったよし注進が入ったと書いてある。

イエズス会日本報告集
秀吉は三歳の男児を擁立し日本の君主と称して安土に置き
信長2子の信雄を守役にした。
しかしこれはすべて上辺のことであり
羽柴殿がいっさいを治め、己れの望むことを行い
信雄さえも父に対するように彼に従っている。
これを整えた後、彼は柴田・池田・丹羽とともに
諸国と俸禄を意のままに分け合い、
信孝には美濃を与えたが彼は天下の主君になるのを望み満足しなかった。


このことから明智を討った功労者メンバーに
秀吉・丹羽・池田の三人の名が家康側にもたらされていて
明智討伐で遅れを取った信雄が秀吉へ急接近している姿が見える。

明智を討った発言力の高さと言うのはかなりのもので
この功を背景に抵抗勢力の織田家宿老柴田への対抗の図式が清洲会議では見られる。
647人間七七四年:2012/05/25(金) 17:08:56.21 ID:TCOC8fI2
そもそも6/14の美濃の佐藤宛の家康書状には
若君様がいるので奉って供をして上洛し
逆臣の明智を討ち果たす覚悟。
今日14日に愛知郡鳴海へ出馬し、
其の地の日根野や金森と相談すると書いていて
すでに安土天守で臣下の礼を取り
信長を上様と呼び織田家臣となっていた家康も
秀信を織田家の後継者と見ていたのがわかり、
秀吉同様に織田家臣一般には
信孝や信雄を排除して
傀儡幼君を擁立することに
織田家臣団の中に
暗黙の合意があったのがわかる。
この幼君を後継にするとする織田家臣の合意は、
15日に光秀が討ち取られたのを徳川が知った以前の話であり
明らかに光秀が生存していた時点から一円的な同意があったように思える。
さて、いつ形成されたのだろうか。
信長親子生前から光秀と秀吉と家康は若君擁立の打ち合わせをしていたのだろうか。
648人間七七四年:2012/05/26(土) 12:36:24.89 ID:faJvUfK2
秀吉や秀次の政治に関しては、いまだ大半が軍記からの想像でしょ。
例えば秀次の不行跡は記録が『多聞院日記』や『兼見卿記』にあるあると
2ちゃんで書かれてても実際に調べると
秀次の罪状に関する公家や朝廷の公式な記録は何一つない。

『大かうさまぐんきのうち』の比叡山狩猟の件も信用できない。

文禄2年(1593)の6月8日に女人禁制の比叡山に女人を引き連れ、殺生禁断の地で狩を行い、
止めようとした僧たちの塩酢の器の中に獲った鹿肉を入れたとあるが、

山科言経の日記『言経卿記』では、
秀次はその日に山科らと聚楽第の山里で琵琶法師の平家物語を聞いてる。
(山里町という山里茶亭を由来とする町名があることからおそらく聚楽第の茶亭)
つか、仮に山里が聚楽第でなかったとしてもそういう事実があれば
山科言経が日記に残してない方がおかしい。
秀次の母親の日秀が秀次供養するために建てた瑞龍寺に
村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのは他でもない後陽成天皇だぜ。
そんな不道徳なことを本当にやってたら天皇がわざわざそんなことをするはずがない。

秀次が「殺生関白」と呼ばれてるのは、『大かうさまくんきのうち』が、
正親町天皇の諒闇中なのに狩りをした秀次を批判する京童の落首を引用しているが初出だよ。
庶民を虐殺したから「殺生関白」と呼ばれてるわけではありません。
しかしこの落書も同時期の記録にその落首が残ってないから信憑性を疑われてる。

信長公記の著者である太田牛一(秀頼に仕えていた)がデッチあげてデタラメを並べて秀次を悪く書いてるだけ。
三河物語で大久保から信長記はデタラメと叩かれた著者の太田は金をもらって捏造する売文家です。
しかし織田チョンは、あれは太田牛一が書いた信長記だけは除いて批判したものに違いないと
なんら根拠なく妄言を吐く朝鮮脳で白昼夢を主張するキチガイ
逆に川角太閤記では秀次に落ち度はなく、秀吉が老いて耄碌して三成の讒言を真に受けて
秀次を殺したと正反対の内容を書いているなど、所属する立場や思想信条から相手を悪く書く対立が見え
とても史実とは思えないデタラメが横行してます。
(実際には秀吉が耄碌していたとは思えませんし、讒言をしたとする三成の介入も一次史料から証明できません)
ちなみに謀反人の場合は斬首であり、自刃のような自害による名誉を守る行為は許されません。
つまり秀次は名誉の死であり、これを自ら選択したのであれば、恨み腹で秀吉一族に怨念をかけたことになります。
秀吉や秀次の政治に関しては、相手を中傷するために落書など平気でデッチあげてます。

649人間七七四年:2012/05/26(土) 12:36:52.71 ID:faJvUfK2
漁夫の利を得た利家の陰謀と考えるのが一番分かりやすいです。

南部根元記には秀次が奥州の仕置きを終えたので平泉を見た
そして最上へ向かい義光がもてなし奉り息女いこまの方を秀次公に参らせる
と書いていてその記述には平泉に寄っているなど書かれており
後世の研究調査から平泉中尊寺には秀次軍令書などの文書が納められていることが発見され
秀次の平泉訪問も事実と確定され南部根元記の記述が極めて事実に基づかれているとされた。
そのため義光の方から進んで駒姫を秀次に差し出したのも極めて事実に近いとされる(伊達成実記とも合致する)
南部は秀吉からの武装解除の一環としての一国一城の破却令により天正20年6月に
領内48城中→破却36城の上で存置12城が許されたとされる。
戸沢は角館の1城のみを残して33城を城破りをしているため南部は破格の待遇である。
前田や蒲生と入魂していたからであろうか。利家は氏郷亡きのちの蒲生家存続にも尽力して
秀次・利家・蒲生・南部・浅野らが日本海から奥羽に影響力を行使しているのがわかる。
そして利家や氏郷らは南部と組んで津軽や安東を田舎者と名護屋陣でいじめていた。
のちに困り果てた津軽の働きかけで親しくなるように浅野が仲介してきたが拒否し
前田などが津軽を辱めたので浅野なども津軽に関して何も言わなくなったと記している。
前田家文書には秀吉→関白宛の文録元年5/18に
来年正月の2月頃に3万を率いて兵庫より乗船し秀次が朝鮮へ渡海する命令がある。
南部信直→織笠但馬守に年不詳9/20で秀次公来年高麗国へ出陣。暦明け候はば上洛と記され
南部も前田騎下として秀次とともに朝鮮へ行く予定だった。
どうやら何らかのこともあって秀次&前田&南部の朝鮮渡海は中止となったようだ。
秀次と親しくなることで朝鮮渡海しないで済むような状況があったのだろうか。
ちなみに黒田如水が朝鮮出兵を自ら申し出るように秀次に忠告したと言う。
文禄4年7月秀次自害と同じ頃、津軽が浅利を支援し戦闘開始されており
安東は進退に窮していると知らせがあり、また最上の小野寺侵略の岩崎合戦が開始される。
伊達と最上が秀次と共謀の罪があるとされたので、世上暗澹なこともあり信直は娘が
安東実季の弟に嫁ぐ予定だったが(利家斡旋らしい)安東から連絡もないし延期した方がいいとしている
このことから当時の奥羽がかなりの混乱下にあり秀次との謀反連動の疑いが強い。
(秀次は伊達や毛利に大金を貸していた。また利家も伊達に金を貸している)
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
利家は柴田を見捨てただけでなく、親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて早世した娘の与免と婚約者だった浅野幸長ばかり擁護、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
利家は秀次の死によって秀頼後見役にのし上って、秀吉亡きのちは事実上の天下人になっていた。
650人間七七四年:2012/05/26(土) 12:53:49.92 ID:Bhantk9K
そいつはだがなんでスルー推奨
651人間七七四年:2012/06/02(土) 10:55:38.96 ID:6ZEqH5Ka
>>647
実際、三法師は側室腹だから
後継候補になるわけもないからな。
信長の庶兄だった信広が織田家の家督が継げなかったことでも明らか。
652人間七七四年:2012/06/02(土) 12:53:45.75 ID:oru+Jk6C
>>651
正室に跡継ぎが生まれたならそうだろうけど、
跡継ぎが生まれなかったら十分後継候補だぞ。

日本は諸子に相続権が無いということは無いからな。
653人間七七四年:2012/06/05(火) 11:30:56.55 ID:HkHcu1V1
本能寺後の7/11に清洲会議の結果を無視して
私的に徒党を組んだ
秀吉→幽斎・忠興への血判起請文と同日で
秀吉独断で丹後国安堵書状も出してるんだよな。
丹波でも明智の城の2つを知行するとか書いてるし。
その文中で織田の名なんて一文字も出てこず、
畿内を支配する秀吉が新たに持ち出した「公儀」を前面に押し立ててる。
8/8秀吉書状だと、どうも忠興も摂津三嶋で秀吉と折衝してたようだし。
忠興も信長個人への気持ちは別として、
明らかに織田家を見限って秀吉についていってるんだよな。
654人間七七四年:2012/06/06(水) 01:50:30.76 ID:th4ouwFa
海野家の名跡を継がせた次男の嫡男を取り立てなかったのはなぜ?
655人間七七四年:2012/06/07(木) 13:12:38.62 ID:ntNPUBP7
656人間七七四年:2012/06/10(日) 23:56:18.99 ID:+wQHPgqX
>>654
その子孫が現代の公認(?)(甲斐)武田家
657人間七七四年:2012/06/11(月) 03:18:56.83 ID:Ir9Wj+ag
内政→領内で取り立てすぎて領民逃げすぎ、しかも実数把握してない
外交→自分の失策で反包囲されて信長に泣きついて助けてもらってるぐらいのダメっぷり
戦→優勢なのに負けたり(講談込で最低4回)、引き分けたり(川中島、小田原攻め<攻め側が手も足も出せず退却は普通負けと言われる>)、追い詰めきれない(家康)というダメっぷり
調略→越後で成功した調略をフイにしたり、織田徳川北条への調略はほとんど成功しないというダメっぷり(妄想はソースから完全除外)
後継者問題→嫡男殺して後の問題の種を作るほどのダメっぷり

これがテンプレだっけ
658人間七七四年:2012/06/12(火) 21:34:51.80 ID:YXxpiozZ
信玄の伝記を読んでたら、だんだん腹が立ってきた
大局観に欠けるし、謙信のようなポリシーもない、北条のような民政も無い
659人間七七四年:2012/06/14(木) 22:09:10.90 ID:BQ1uAtf3
三方ヶ原の為に江戸時代に過大評価された
660人間七七四年:2012/06/16(土) 17:59:02.60 ID:XEFE65rD
三方ヶ原が一番過大評価されすぎ
普通に考えて圧倒的兵力差&25000vs11000&52歳vs31歳&待ち伏せ強固な布陣
こんな状況下で2時間以上戦い続けて家康は無事浜松城帰還する激戦をやってのけたんだから
普通に退却前の本戦で多く討ち取られただけだろ
逆に退却に失敗してたら全滅して一門衆も皆死んで即徳川滅亡してるくらいの勢いじゃないとおかしい
実際には徳川は直後に軍動かしてる上に家康は三方ヶ原後たった半年で長篠城奪取、奥平調略に成功してる
野田も500で一ヶ月も持ち堪えたし、高天神城、浜松城安泰で遠州のラインも概ね維持できている
三方ヶ原はただ家康が信玄をなめ過ぎていて発狂自爆しただけだろ
661人間七七四年:2012/06/16(土) 18:07:35.62 ID:n1dR4CCr
家臣団が暴発しただけじゃね?
対今川共同戦線で条約反故にされたりやたらと挑発されてた訳だし
相手が略奪山賊団だから猶更でしょ

作戦も何もなしに自分たちより大軍の敵突っ込んで勝てるわけがない
662人間七七四年:2012/06/16(土) 20:58:33.70 ID:CBlKHxGl
>>660
双方の正確な兵力が分からない戦いなのに、一番過大評価とか言ってもなー。
思い込みよくない。
663人間七七四年:2012/06/16(土) 22:00:27.11 ID:JUI2CJac
武田3万以上、徳川1万以下とかだったかも知れんからな
家康が過小評価されてる戦いだよな
664人間七七四年:2012/06/25(月) 08:47:42.64 ID:J2cM59Xk
信玄は平手長政の首を、信長が武田に敵対した証拠として送りつけ
それまでの和議を断交した。
信長は「家康が未熟者なので心得違いをして武田に噛み付くのを避けるため・・・
事態を丸く収めるため家中の者を派遣しただけです。
それなのに勝手に戦を始めたのですから成敗されるのは当然です。
私の誠意の証として成敗された者の家は断絶させて頂きます」などと申し
家康の行為が言語道断なので彼とは断交し、改めて信忠を信玄公の婿にして頂きたいし
信玄公が希望する人質を進上致しますなどと15条に渡って土下座文書を送ってきた。

これに対して元亀4年1月17日信玄は信長へ書状を出す。
「さてさて信長がいろいろと口実をもって信玄の縁戚になりたいと
懇望してきたので、やむを得ずあなたと親しくしてきました。
近年、家康が讒言をし、あなたも欲心を起こして汚い本心がはっきり顕れてきた。
まるで甘い蜜の中に毒を入れるようだ。信長は生国が都から近く、幸運に恵まれ
将軍のお供をして上洛し武名を轟かせたが、汚い欲心があったので
裏切り行為を繰り返し、それを以って誉れを棄て、良からぬ妄想にふけり
政賢の道によって政治を実現しようと夢にも考えない。
こんなありさまでは天より見放され、軍神の罰を受け、
ついには飼い犬におのれの肉を咬みさかれ、
命を失い末代までの悪名を残すのは疑いないところだろう。
今後はニ度と再び、手を携えることはないであろう」
665人間七七四年:2012/06/25(月) 08:51:00.84 ID:J2cM59Xk
むしろ信長が旧勢力の亡霊でしかない。
雪斎の意見に従い今川義元が合議制を導入したし北条も合議制導入したことで
さらに国威が揚がり領土拡大しており、謙信や信玄も合議によって運営してる。
合議制の中でリーダーシップしていける指導力とカリスマを見せつけることが大事。
信長はガチガチの独裁者。そのくせ守護領国制の昔に戻そうとして、
一職支配の許可(知行安堵権・軍事統率権・裁判権)
などえお考案し内政すべてを丸投げをしてるため各地で軍閥化が進展した。
本能寺の変とはつまるところ斎藤道三や武田信虎や長尾為景の失脚(信長謀死)と
家臣団による信雄や信孝や秀信の傀儡化=義龍や晴信や輝虎が合議制の導入であり、
織田家は信秀が優秀だったのと、尾張の富が、信長への円満家督継承につながり
一世代遅れた歴史展開となっていた。と言うか信長はさらに封権制への深化を推進し時間の針を戻していた。

666人間七七四年:2012/06/25(月) 08:53:38.59 ID:J2cM59Xk
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに
まずは小手調べで賀茂〜嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
恐ろしくなった上京が払った銀1300枚の受け取り拒否した上で上京を焼き討ち略奪。
(信長に金を渡しに行く際に織田軍に略奪され、改めて高利貸しから借金して信長に渡すなど酷い状態になったりした)
御所への延焼の恐れが出てきて天皇も逃亡準備。桂川が死体で埋め尽くされる大虐殺開始。
下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
しかしあっちゃこっちゃ延焼しまくりで火だけは統御できない。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
しかしもう恐喝できる相手すらいなくなり
みんな貧民だらけになってしまう現実・・・北朝鮮的織田統治下全員貧困化政策。
667人間七七四年:2012/06/25(月) 08:54:12.36 ID:J2cM59Xk
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。

もう金が無くなったのかよ浪費家殺人鬼信長…

堺、草津、大津の関に代官を置いて税金取ってた信長に対して、
三好や六角や一向一揆は
その交通量を激減させ
織田軍の補給や退路を遮断させ疲弊させる戦略だから、
かなり有効だったと思われる。
京での暴挙は自暴自棄に等しく完璧に物心両面で信長は追い詰められていた証拠だろう。
さらに奈良京都堺尼崎で恐喝略奪をして荒廃させた以上、
これ以上の略奪における大利益をあげるのは難しく、
天正2年春に織田が攻勢をかけるも、
また資金難で停滞し、
各軍が各国で苦戦している。
兵力分散してるのも各軍が各国に現地調達をして軍を養わざる負えないからだろう。
原則は軍役負担者が安堵地から輸送による自給ではあるが、
軍役に次ぐ軍役でとても負担出来るわけもなく、
現地略奪方式を取らざるを得ない。
織田軍が虐殺したりしてるのも略奪や財産没収が目的だろう。
この略奪モンゴル方式は天正8年の本願寺との和睦まで続く。

あんだけ無理を強いて戦い続けてりゃ軍費だって無くなるだろ。
戊辰戦争でも軍費問題はデカかったんだから。
668人間七七四年:2012/06/25(月) 08:54:53.94 ID:J2cM59Xk

黒川金山が永禄初期に本格稼動しており
まだ衰退してはいませんので財政問題はそれほど深刻ではありません。
事実、天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
しかも武田軍は駿河平定の元亀2年初頭以降は大規模軍事行動を一切してないので出費もあまり無いはずです。
信長は金がないから荒木と細川に用意しろと要求しており、間違いなく金が無い。
そして彼らが調達できずに京での恐喝となったわけです。信長は奈良の旧都でもカツアゲしてる前歴があります。
奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を恐喝したりで大和亡国と呼ばれました。
寺社の荘園を没収しまくり、朝廷からの荘園返還要求の勅使からも信長は逃げ回ってる。
軍役に次ぐ軍役に追い立て内政は無視してる以上、金がなくなると犯罪行為に走って調達してるのが織田。
内政といえば信玄は天文16年には甲州法度之次第55ヶ条を発布し
天文23年に条文追加で公事検地を目指したものと高く評価され
永禄6年恵林寺での検地などの記録も残る。
信玄堤や伝馬制など次々と整備されていて
今川義元も天文22年に分国法かな目録と訴訟条目を制定してる。
信長はそんなもん一切やってない
天文16年の甲州法度の最後の条文が、
史学において誉れ高いんだよね。
晴信が法を犯したら、
貴賎の身分を問わず目安に申し立てよ。
晴信が法治国家の魂をちゃんと理解していたのがわかる。
669人間七七四年:2012/06/25(月) 09:01:56.28 ID:hQHILFM4
そんな偉そうな事言ってて信長より長生きしてた癖に信長謙信以下の領土しか築けなかったのか
口先だけだなw
670人間七七四年:2012/06/25(月) 09:29:58.40 ID:J2cM59Xk
2/26の長政書状には津保や加治田の話が出てるついでに
朝倉軍ももうじき出撃するとも書かれている。

西近江高島郡の多胡宗右衛門も3/18に朝倉義景から
近江十条坊城の支援頼むわ〜うちもお前に援軍必ず出すからと言われてるし
事実、4/7には近江で普請してるからそっちへの援軍遅れるわ〜って
朝倉義景が多胡宗右衛門に書状を出してるから、
すでに朝倉先陣は4月には近江に来てるのが分かるんだな。

多胡宗右衛門は8月に義景が織田に大敗して敗走したのを見て
織田に降伏して領地を安堵されてるから、信玄西上中での織田への裏切りは
あまりに多くて信長も不問にせざる負えなかったんだろうな。

松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。

3/19の謙信→織田家臣の長景連への書状でも
3/11には一乗谷から出陣した義景が越前府中まで到着してるのに触れている。
その文の中で謙信は信州と濃州の境を用心をして油断するなと信長へ強く警告している。
信玄が三河から美濃へ転進する情報を謙信は得ていたのだろう。
其の日は続けて2通出していたようで、別文書では3つの条文をかかげており
1.この書状は焼き捨てること。
2.比叡山再興の説得に信長は納得したので信玄が比叡山復興を掲げているのも失手となるだろう。
3.浅井の身の上も朝倉が主張することは尤もなので、その通りにすることで
信長と家康の分国は静かとなるので、
これをもって私と信長と家康で申し合わせれば〜と書かれており
信長が全面降伏モードで比叡山・朝倉・浅井を許すから謙信様助けてくださいと言っているのがわかる。
671人間七七四年:2012/06/25(月) 23:53:41.04 ID:hw0vvgGs
要約すると武田は織田との全面戦争を避けたという事か
672人間七七四年:2012/06/27(水) 23:51:35.63 ID:lLTU2wDy
そりゃ戦争したら長篠みたいになるのがオチだからな
673人間七七四年:2012/06/28(木) 02:57:30.97 ID:9/H/C7JD
敵前逃亡した信玄は賢かったって事だな
でも敵前逃亡の途中で死んじゃってるんだよねw
お陰で包囲網は破綻して浅井・朝倉は滅んじゃったけど
674人間七七四年:2012/06/29(金) 15:16:42.80 ID:HqEpRUfn
浅井も朝倉もギリギリだったからな
強気に諂い、弱気をくじく
これが信玄流孫子の教え
675人間七七四年:2012/07/01(日) 04:10:32.90 ID:SVlSyARz
三方ヶ原での家康大敗北で江戸時代に過大評価された
676人間七七四年:2012/07/01(日) 13:45:31.58 ID:Z3MYMsJZ
信玄も謙信も信長の軍門に下る前に死ねて良かったね
677人間七七四年:2012/07/04(水) 01:08:48.44 ID:3CUNgUOD
ここもネタ切れしてるね
678人間七七四年:2012/07/05(木) 12:07:56.64 ID:Y2e09dZt

>>655
織田厨がキチガイなのは天正6年諏訪大社の遷宮で信濃一国に
造営費をかけた時に出来る限り負担したくない者が
いい加減な言い訳を書いてる文書の一部を切り抜いて
武田の悪政とか重税で民が苦しんでたとか歪曲してたところだよな。
今でこそ遷宮は諏訪市の負担だけで執行してたが
昔は信濃一国に費用が課せられていて
費用負担を嫌がって非協力的だった戦国期の国人たちも
信濃一国支配を完成させた信玄により
古来の通りにサボりを許さずに諏訪大社の復興を行っただけなのが現実。
金山が枯れはじめたというのも一次史料には存在してない妄想でしかない。
679人間七七四年:2012/07/06(金) 07:28:43.79 ID:eBGLik6j
自分で自分のレスに返すアスペルガーだがw
680人間七七四年:2012/07/20(金) 07:58:41.20 ID:we6XbcIa
>>678

一段が500文というのは荘園の基準貫高であり
北条も今川も一段が500文だったので
遠江〜関東に渡って共通した荘園の統一基準。
しかし武田が駿河を領有すると荘園システムの再編成を開始。
一段を田畑の内容の吟味を通じて
500文・400文・300文の三等級にすることで
税負担を軽減した。これはその後、徳川に引き継がれていく。
また武田が統治政策として一斉に発給する公文書と言う形式も
七か条の定書などの例を見れば徳川が継承しているのがわかる。
武田の統治ノウハウが徳川の地方支配として継承されている点からも
武田家臣団&給人の優秀性が見て取れる。
681人間七七四年:2012/07/20(金) 08:46:36.37 ID:e6n+AjS+
という過大評価をしていると
682人間七七四年:2012/07/21(土) 12:19:12.26 ID:MVfBjGiV
金ヶ崎の時は
敦賀郡司朝倉景恒と対立していた
大野郡司朝倉景鏡が援軍を送らず失脚狙いだったから
織田の奇襲が成功しただけだし、
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは
徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから
織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、
比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には
進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。
それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く
志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ

織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのは
それ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。

10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない 275:名無し曰く、[] 2012/02/21(火) 01:21:04.93 ID:ahkvbOK(37) 織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。

 遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
683人間七七四年:2012/07/21(土) 15:46:19.55 ID:Xd9qVEh6
だがよ十三段構えなんてバカな布陣はあり得んから
684人間七七四年:2012/07/23(月) 13:33:19.75 ID:99V5Dpba
長生きしたら信長公に勝ててたとかいうとんでも論だけはまじ勘弁
真実は信長公との決戦を恐れて逃げ出した途中で野垂れ死に
685人間七七四年:2012/07/23(月) 17:27:55.01 ID:vT4XTOg2
普通に考えて信長5万なら氏康でも3万で楽勝
686人間七七四年:2012/07/23(月) 18:20:28.65 ID:Wex6SwRW
楽勝で死ぬんですねw
687人間七七四年:2012/07/24(火) 13:32:38.22 ID:YxVuM3Pu
氏康もどうのこうの言って相手より多く数を集めてるからねえ
同数だとどっちも攻めんだろ
優勢でも攻めるかどうか怪しい
まあ優勢で攻めてフルボッコされる甲斐の山猿とは違うわな
688人間七七四年:2012/07/25(水) 07:53:08.78 ID:yz5GR6yB
信長1万で信玄6万と戦って勝てるわけがないな。
689人間七七四年:2012/07/25(水) 10:26:39.69 ID:HOEUQvoT
野田城の救援すら出来ずにビビりヒッキーな時点で…
690人間七七四年:2012/07/25(水) 16:40:21.58 ID:JoJnw8Q+
他人の城に救援出すとかwww
691人間七七四年:2012/07/25(水) 18:49:58.02 ID:4njCZrPp
信長とか元服前のちびっこでも勝てるよ^^って言いたくなるくらい
弱いです。
692人間七七四年:2012/07/25(水) 21:10:52.07 ID:JoJnw8Q+
つまり勝てなかった信玄はちびっこ以下かw
693人間七七四年:2012/07/25(水) 23:47:05.06 ID:W+x7zLVF
毎回のことだが信長をコケ下ろせば信玄が救いようのない無能となるだけ
アスペルガーだがはそれを理解できないからみんなに馬鹿にされるわけだ
694人間七七四年:2012/07/26(木) 21:05:26.91 ID:WslD/9b1
実際、信長は武田との戦闘を恐れ、
野田城救援もせずに家康を見捨てたよな
695人間七七四年:2012/07/26(木) 21:48:01.41 ID:zyj9Gkio
ここ信玄すれなんで
信長のことはそこでやってください
斉藤を怖がって同盟を図るも達せず、勢力伸びてきた織田と結び、
徳川を恐れて遠江を掠め取ろうとした軍を引き上げさせ、なんとか仲介してくださいと信長に泣き付き、
上杉との仲も取り持ってくださいと要請した信玄
情けねえw
696人間七七四年:2012/07/27(金) 00:55:29.67 ID:Wl9uvOPS
家康見捨てたって勝手に家康殺すなよw死んだのは信玄だろ
野田城攻略に一ヶ月もかかるから信長さんはその間
余裕物故いてあちこちに調略かまして
ビビリの信玄が信長公を恐れてコソコソ逃げ出して野垂れ死んだ後
僅か半年足らずで浅井・朝倉滅亡させてますけど、何か?
697人間七七四年:2012/07/27(金) 10:01:48.91 ID:pF2sr1Pu
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
1565年9月28日に織田への味方をして孤立奮闘してた加治田城の佐藤紀伊守親子って信長に会って
感涙にむせび言葉も無いほど感激してありがたがったんだけど翌29日に龍興が信長と決戦に出てきたら、
佐藤紀伊守親子を見捨てて信長逃亡しちゃうんだよな・・・
佐藤紀伊守が斉藤に出してた人質の娘が串刺しにされたのに。
結局のところ息子は斉藤軍の前に討死するし岐阜陥落後に加治田城は斎藤新五郎のものになっちゃうし。
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を美濃が不景気と飢餓で
戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城/織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城/城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている「欠落」と
農地が荒廃していた「退転」状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。

龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば←NEW
信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は
西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと。
698人間七七四年:2012/07/27(金) 10:02:26.94 ID:pF2sr1Pu
ボロ負けの連続の信長は信玄の武威を借りたいがため・・・
永禄8年11月に信玄を恐れていた信長は
苗木遠山氏の娘を貰い受けて養女となして勝頼へ嫁がせて同盟を結ばせて頂いている。
(重要な外交政策なのに公記が隠蔽している)
これをぶっ壊そうとしたのが家康で元亀元年10/8に謙信へ宛てて
甲・尾の縁談の儀を事切れるように風諫せしめ候と書いている。

永禄10年の斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中で←NEW
信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために
4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから
年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている。

信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように、つなぎとめるため領地を次々と宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。 東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
天正4年の信玄葬儀記録である天正玄公仏事法語によれば
天正元年2/10に野田城を攻略して北上した信玄だったが
4/10に信玄が突然、軍営中に俄然斃れたりと書いていて4/12に死んだと書いてあり
その死は急だったようだ。雪解けするまで待った上でやっと東美濃へ侵攻する寸前に死去だから無念だったろう。
699人間七七四年:2012/07/27(金) 10:06:32.82 ID:pF2sr1Pu
>>信玄や勝頼の悪政で領国は疲弊してた
悪政どころが飢饉対策と洪水対策の成果が出たので
永禄6年に都留郡で洪水がおきて田畑が流される被害を最後に
毎年必ずおきていた災害記録はまったく記録されなくなります。
それどころか武田領は敵に侵攻され燃やされる心配もなく
安心して暮らせる領内となってます。

織田厨の大ウソ「信玄晩年には黒川金山が枯渇したので財政破綻」
枯渇したはずなのになぜか慶長19年になってさえ甲斐一国の金産出量は72000石相当もあった事実w
以前、織田厨が必死に「徳川の財政を支えた大久保長安の新しい技術のおかげ」と反論し
「おいおい長安って、武田配下だったんだがw灰吹法はとっくにあったしw」と嘲笑されていた恥かしい過去ありw

実際に破綻してたのは織田。
信玄上洛にビビっていた織田軍はたった1万しか動員出来なかった
ソースは年代記抄節。
金も鉄砲も金もなく京で略奪虐殺放火恐喝をして資金調達した犯罪者集団が織田。

金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www

元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww

3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

700人間七七四年:2012/07/27(金) 10:07:08.19 ID:pF2sr1Pu
>>信玄の外征で破綻したので「世の中一向悪くなる」と書いてあるよなw
はい、これ自然災害が多発していた晴信初期の国情を書いている部分であり
完全に織田厨の歪曲で、その後の晴信の内政治水の努力により、毎年災害多発の甲斐から
災害記録がなくなってしまうのが史実です。
そして甲斐では妙法寺記に「世間が富貴になった、先代にはなかったことだ」と賞賛され
数百年にわたって神として尊崇された 長野在住の学者も身近で信玄を悪く言う人がいないことに驚いているくらい
本当にまあ、そうやって織田の所業を武田におしつけて印象操作すれば騙せると思う、
姑息なゴミニートの印象操作はいい加減にしとけやゴミ

織田厨のデタラメ「信玄が毎年戦をしまくって財政破綻して
兵糧はなくなり長期遠征は不可能だし民衆は怨嗟した」

1570年1月の駿河西部制圧後の信玄は
内政に集中していて
1572年10月の西上作戦まで
大規模出兵は一切やってないから、
それ以前の例年の頻繁な出兵は無し。
だから兵糧にはまったく心配ない。
むしろ信長は金も米も火薬もなく兵も1万しか集まらなかった。
織田厨の話の誘導パターンは毎回下記のように家康攻略が目的と話を強制的に変更させる。
「どうしても野田城で苦戦してたから三河制圧なんて出来ないし
そこからさらに尾張へいくなんて無理w」
実際は鴨川氏「信玄が三河方面に出てきたのは
信長を誘い出して殲滅するため。
その一方で別働隊に岐阜を突かせるつもりだっただろう
もし出てこないなら別働隊と本隊が合流して岐阜を攻めただろう」
森田氏「信濃と美濃国境の神坂峠の雪解けは当時の暦だと
3月下旬からなので、信玄は雪解け待ちをしていた。」
朝倉などへの手紙でも信長を敵として戦っているとか
来春に美濃攻撃すると信玄が書いている上に、
3/6付けで信長が東美濃にやってきたので三河や遠江は別人に任せて
秋山隊は信長を追い払えと先陣を命じている。
その後の情勢を見ると明らかに信長が東美濃で大敗しているとしか思えないw

701人間七七四年:2012/07/27(金) 10:07:49.59 ID:pF2sr1Pu
>>息子すらぶっ殺す悪党信玄
信玄は息子を殺したくなかったんだよ。
つかそもそも殺したとはどこにも書いてないから病死だろうし。
永禄8年5月に富士山麓の勝山で、義信妻(今川からきた)
のために信玄は祈祷してあげてるし、
でも6月に義信は甲斐二の宮美和神社で不穏な集会を開いた。
この出席者の署名のうち17名中4名は名前に花押がない。
これは反信玄決起集会に集まらなかった人々がいた証拠とされる。
そして10月に飯富を親子不仲にする陰謀の罪状で死刑にしてる。
11月には去る6月より文句が多いと三枝昌貞を信玄は叱責してるし、
翌年8月に三枝を含む3人が知行を与えると言う条件で
信玄に反逆を企てたりしませんと信玄に忠誠を誓ってる。
その後に義信の存在がまったく無くなると鴨川氏が指摘してる。
義信は明らかに信玄に反逆し、その態度を改めなかったので自業自得で自滅した。
信玄は父を追放してるだけにそれを黙認するわけにもいかなかっただろうね。

信玄は晴信を殺したとは一次史料にはないしただの急死だろ。
そもそも嫡男殺したのはまずい事だと連呼してるバカ長厨は
江戸幕府を作った家康が信康を殺したことはどう思ってんだw
それに本能寺の変の時に信長は秋田城介(信忠)の仕業か!と言ったと言うから嫡男の謀反は想定内のことだったようだしな。
だいたい自害に追い込んだのは家康だろ!なに混同してんだw
天正6年3月に信康の岡崎城へ岡崎衆の常住を義務づけた家康だったが、
突然9月に岡崎衆に信康へ出仕することを禁止
天正7年8/4岡崎から追放したと8/8に信長へ報告
9/15の銘文で信康の五輪塔。
三河物語には二股城で15日に服部半蔵が自刃の検使だったと書いてるし。
ちなみに2/20に信長の娘の五徳が桶狭間まで家忠らが護衛して送ったと書いてるな。
織田厨ってなんでこんな初歩的なことも知らずに無知を晒すだけでなく
武田義信のことと恥ずかしくもなく混同して書いてんの?
なんでそんなにアホなの?
恥ずかしくて自害する気にならないの?

702人間七七四年:2012/07/27(金) 10:08:35.33 ID:pF2sr1Pu
>>将軍家仲介の和睦を平気で反故にする信玄
いやいやそんな証拠はいっさい無い。
第三次川中島の戦いの後、信玄に交戦の非難が幕府から届く3月まで
甲越両軍とも戦をした形跡が一次史料からはまったく確認できない。
信玄は反論として謙信の方が従わずに信濃へ出兵して海野地方を放火したと言ってる。
その後、謙信は二度目の上洛して義輝に会っている。
永禄11年3月からの義昭・信長による近じか上洛するからお前ら和睦して
上洛してきて協力しろよ交渉の時も
9月に謙信が武田の使者を抑留して断交宣言するなど、武田側に非は見られない。
(ちょうど謙信は今川氏真との武田挟撃の秘密交渉を成立させていた)

>>朝敵にされても、まったく動じなかった約束破りの常習犯信玄
信玄は朝敵になんてされてねーぞ・・・
むしろ幕府へ宛てた逆賊信長打倒の激文を
正親町天皇が取り寄せて筆写し醍醐理性院に奉納してるほど。
その後の話は同意。信長は何も考えてなかった乱暴者に過ぎない。

>>同盟を破り奇襲したキチガイ信玄
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が、今川が武田に攻められたのも止むを得ないと情勢報告してるから、
信玄が今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた。
ちなみに義昭の斡旋で越後と相模と甲斐の同盟が水面下で動いていたのを今川が察知して焦って
俺を同盟の保証人にしてくれ除け者にすんなよと今川は参入を希望して
そんなの噂だけでねーよwと拒絶されたっぽい。
だとすると今川に内緒にしていた北条も同罪だしな。
武田と北条が上杉と戦っている裏で、今川が上杉と秘密同盟する表裏をしていて、
武田に起承文を出したことまで上杉に報告。
武田が本庄を謀反させ 飯山城攻めし、上杉を追い込んでいる最中にこんな真似をして、
駿甲国境を封鎖するは、謙信に信濃出兵を依頼する始末。
しかし信玄が一揆を依頼したために謙信は越中攻めする必要に迫られて無理だった。
ここにおいて武田が今川攻め開始。明らかに今川が関係悪化をエスカレートさせてる。
と言うか開戦に向けて今川が動いてる。

703人間七七四年:2012/07/27(金) 10:09:53.42 ID:pF2sr1Pu
>>同盟を破って家康を攻撃した同盟破り常習犯信玄
絶対許さんと書いてるのはたしかだけど
あれは完全に屈辱感から来る逆恨みだろw
つーかそのくせ謙信にビビッて勝頼に和睦要請して拒否られてるのが信長w
1/8 に秋山を呼び戻したと信玄が家康や1/9信長へ謝罪して問題解決済み。
2/18、3/13 家康と謙信が情勢報告をしたりと内通交渉している事実
3/23 市川宛の信玄書状は真偽が疑われている書状であり見当余地ありだが
雪解けするので謙信が信濃へやってくるのは疑いない。
北条と興亡の一戦をやるために甲越の和睦を信長に媒介してもらいたい。
ただいま信長に頼む以外にない。粗略にされては信玄滅亡疑いなし。
この織田厨が得意になって持ち出してくる書状は偽文書の可能性あり。
5/23 信長の配下の武井などへ信玄が出した書状。
遠江の人質も渡したし、その後に北条がやってきたから対陣した。
掛川城落ちたのに氏真が無事に三河経由で尾張へ送られたのは
小田原衆と岡崎衆が会面し掛川籠城衆を
つつがなく駿河へ通過させてやったからで存外のことだ。
すでに氏真と氏康親子は和睦の旨。
家康も誓詞を出してる。この状態を信長はどう思っているのか!
信長も家康に氏真と氏康親子に敵対するように催促するべき。
5/24 氏政から酒井へ 氏真が帰国したし、家康から誓詞も届いた。当方との入魂大慶
完全に家康の方が上杉&北条と入魂して武田を裏切ってますね。
本当にありがとうございました。
ちなみに信玄は家康を信長の配下同然にみてます。
そして信長も三好攻めや北畠攻めなどで東側に介入する余裕もない。
翌年には浅井・朝倉と泥沼の戦いを開始するし。

>>天文22年に謙信が天皇直々の「治罰」令を貰っている。
>>が、それでも信玄はへっちゃらだし、謙信の配下も謀反。
>>後年、謙信と信玄の和睦が成ると信玄は見返りに朝廷から信濃守の官位貰っているが、
>>和睦破りで奇襲し春日山近辺まで略奪。それでも特に不利蒙ったことなし。
この頃の謙信は越後を統治するのも難しい状態で
平子と松本の山俣の領地を巡る紛争は幕府の介入による解決を謙信は依頼してるし
越後守護上杉家の伊達時宗丸養子問題から対立していた揚北衆の抗争もいまだまったく解決できてない。
その挙句に関東管領山内上杉まで越後に逃亡してきた。
そこで混乱する越後統治の正当性と北条化した上野国への対応として天皇権威が必要だったんで
天文22年4/12治罰の綸旨を謙信は貰っているが、
一方の5月には武田も後奈良天皇の綸旨と義輝の御内書をもらってる(村上氏と一進一退の攻防中)
7/23には義輝が嫡男に義の字を与える使者も甲斐に来てる。
8/20には後奈良天皇が諏訪大社に自筆文書を奉納してるが
それには信玄の戦勝を祈願し信濃を安定させた上で禁裏奉公するように頼んでる。
8月中に村上氏との勝敗が完全に決したことから、謙信が危機感を抱き9月に南下開始しており
それ以前の段階である謙信がもらった治罰の綸旨が信玄を朝敵にしたとする曲解捏造は非常に気持ち悪いぞ。
>>朝廷から信濃守の官位貰っているが、 和睦破りで奇襲し春日山近辺まで略奪。
いやいやそんな証拠はいっさい無い。
第三次川中島の戦いの後、信玄に交戦の非難が幕府から届く3月まで
甲越両軍とも戦をした形跡が一次史料からはまったく確認できない。
信玄は反論として謙信の方が従わずに信濃へ出兵して海野地方を放火したと言ってる。

織田チョンってほんと偏執的に武田貶しに必死だが、毎回無知を晒して真性のバカじゃないのかw

704人間七七四年:2012/07/27(金) 10:12:16.68 ID:pF2sr1Pu
元亀3年7/7付けで信玄が小里氏の背後に信長の後援があり残念でならないがとりあえず許すと見て見ぬ
フリをする方針にしたことを述べていて織田との抗争にならないよう配慮してたら
信長が11/15に岩村城を奪った小里内作へ書状を出してる。
明らかに信玄は信長との信義を守っていたら裏切られてる。

>>信長が和睦をかなり武田寄りの立場で仲介する意志
謙信と信玄の和睦の仲介は元亀3年7月はおかしい
元亀2年だと柴辻が2009年に主張して反論はいまだ無し。
家康に至っては謙信との書状の中で「信長と信玄の間をどうやっても裂いてやる」と書いてるキチガイぶりだぞw
そもそも元亀3年に和睦仲介してるのは信玄。本願寺と信長の和睦交渉を仲介して努力してたのに
信長は東美濃で小里氏を支援してた。それを察知した信玄だがそれでも最初のころは見逃して我慢していたんだが。

>>諏訪氏を裏切った信玄
武田と村上と諏訪は同盟していたはずなのに諏訪氏が突然、
関東管領上杉の軍勢を信濃に呼び込んだ挙句に
佐久郡を管領軍と分割してしまう背反行為に
諏訪と同盟していた武田と村上が激怒した挙句に、武田が管領軍を大破し
信濃で孤立無援となった諏訪氏が滅亡するのは当たり前です。

【むしろ信長の方が裏切り三昧の悪党です】

まぁ、信玄西上の頃の織田の石高なんて
美濃ですら信玄に内応してるし、伊勢一向衆が岐阜の近くに砦を構築してるし
かなり削りとられているし
近江だって街道の維持すら不可能で、柴田らが琵琶湖を渡海して大津へ移動してるし
蒲生まで朝倉に内応してるし
石高ですらも武田以下だろう。
バカな織田厨は最低でも300万石以上とか言ってて池沼ぶりを発揮してるがw
信玄死んでないなら、吉川軍が丹波へ突入して丹波の赤鬼の赤井と合流しちゃうし
三好軍は京の西端の桂川以西に駐留しちゃってるし
六角義堯の書状から四国から大規模な三好軍の上陸が開始される寸前だろうし
完全に織田が終わってるのは明らか。

一度決着のついた話を繰り返すのは無駄だからテンプレにこれいれよう

・武田が織田・徳川に騙し討ちをしかけた⇒織田厨のデタラメ
705人間七七四年:2012/07/27(金) 10:12:54.80 ID:pF2sr1Pu
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。

元亀4年1月11日
信玄は義昭に、信長と家康の非法を訴えた激文を送付した。
正親町天皇はその文を読み感動し、写を自ら作成された。

天皇家は武田を信任してるからね。
後奈良天皇も天文22年8/20に宸筆の般若心経で
天下泰平を諏訪大社で祈願して晴信の戦勝祈願もしてるし。

悪党家康信長を討つ大義名分を高らかに謳ってるよね。
特に朝倉や比叡山との勅命和睦無視して
比叡山焼き討ちし、権門や寺社らを侮り
税を好き放題にかけたり、略奪したりと京内外でやりたい放題に怒り
正義と秩序を取り戻す宣言をする信玄。
これ義昭の取次ぎ宛なのに、天皇が手に入れて自ら筆写してんだよね。
天皇が自ら行動するのは、ほかには古今和歌集絡みで細川幽斎助命に動いた後陽成天皇くらいか。

かなり大雑把な要約だね。原文はすげー長文。
特に>>朝倉や比叡山との勅命和睦無視のところで
信玄は5つの大罪を挙げて信長を非難してる。

大和一国支配者の興福寺

1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
多聞院の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw

秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。

織田の差出の検地なんてこんなズサンなもの

石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。
706人間七七四年:2012/07/27(金) 10:13:34.83 ID:pF2sr1Pu
織田厨がキチガイなのは
天正6年諏訪大社の遷宮で信濃一国に
造営費をかけた時に
出来る限り負担したくない者が
いい加減な言い訳を書いてる文書の
一部を切り抜いて
武田の悪政とか重税で民が苦しんでたとか歪曲してたところだよな。
今でこそ遷宮は諏訪市の負担だけで執行してたが
昔は信濃一国に費用が課せられていて
費用負担を嫌がって非協力的だった戦国期の国人たちも
信濃一国支配を完成させた信玄により
古来の通りにサボりを許さずに諏訪大社の復興を行っただけなのが現実。
武田は宗教改革もやってんだよな。富士山本宮浅間大社の宮司の富士氏は富士兵部少輔や蔵人と呼ばれ大宮城主で
有力な武将だったはずが兵神分離政策によって武力のない神職である大宮司になっていってる。

一段が500文というのは荘園の基準貫高であり
北条も今川も一段が500文だったので
遠江〜関東に渡って共通した荘園の統一基準。
しかし武田が駿河を領有すると荘園システムの再編成を開始。
一段を田畑の内容の吟味を通じて
500文・400文・300文の三等級にすることで
税負担を軽減した。これはその後、徳川に引き継がれていく。
また武田が統治政策として一斉に発給する公文書と言う形式も
七か条の定書などの例を見れば徳川が継承しているのがわかる。
武田の統治ノウハウが徳川の地方支配として継承されている点からも
武田家臣団&給人の優秀性が見て取れる。
707人間七七四年:2012/07/27(金) 10:20:58.09 ID:gkfYQXOK
武田信玄から嘘や騙しを取ったら何にも武器が無い
708人間七七四年:2012/07/27(金) 11:03:48.77 ID:yrC2n9ZI
>>707
それ基地外虐殺恐喝野郎の信長のことだろ。
京洛を焼いて御所まで延焼しそうになり、
天皇まで避難許可を信長に申し出るとか前代未聞
709人間七七四年:2012/07/27(金) 11:04:16.64 ID:pF2sr1Pu
元亀2年には駿河の富士金山・安部金山・井川金山などが武田金堀衆により本格稼動し始めてる。
といっても、もともと採掘してる武田領の長畑金山を駿河側から掘ったり(井川金山)
武田の早川金山を駿河側から掘ったり(安部金山)
武田の中山金山を駿河側から掘ったり(富士金山)
要するに武田氏が従来の金脈を駿河側から掘って採掘力を2倍に強化したと言うこと。
これで武田の財力基盤はさらに強化されている。

小規模な範囲での興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
ミクロレベルでの政策なら一定の成果が上がるが、マクロレベルでやった信長はアホ。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。

一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。

このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。
一方、1560年代より島津が大隈の加治木で偽銭製造を開始し
偽造硬貨による信用不安で西国において銭より米が決済に使われる頻度が上がる。
東国では悪銭でない永楽銭が信長の失政で信用低下著しい京銭4文との交換比率になっていた。
この信用不安を解消する手を打ったのは秀吉。
とくに天正大判を発行するなど秀吉の金本位体制は
西欧重商主義と金融資本の概念を先取りしていて驚愕的である。
710“武田家”滅亡…最大の敵は資金難か:2012/07/27(金) 11:20:45.73 ID:bs02MUxc
巨大な勢力を誇った武田家は、1573年の信玄の死後、わずか9年で滅亡している
武田家は金山から得る収入で、常に豊富な資金があったかのように思われがちだ。
金によって栄えた武田家は、金によって滅ぼされた一族でもあったのだ。

http://www.zakzak.co.jp/economy/ecn-news/news/20120710/ecn1207100711002-n1.htm
711人間七七四年:2012/07/27(金) 11:46:21.42 ID:QN0/kIaW
また論破されただがが発狂してコピペ爆撃しているのか?
712人間七七四年:2012/07/27(金) 12:06:51.88 ID:q5T/O3mX
>>701
>>信玄は晴信を殺したとは一次史料にはないしただの急死だろ。

だがさん、コピペ爆撃もいいけどたまには推敲ぐらいはしようよ
713人間七七四年:2012/07/27(金) 12:08:42.44 ID:pF2sr1Pu
>>710
そいつ所詮は作家風情だから
平気で軍記ネタである2万両の黄金とか
一次史料にないネタを
持ち出してきて恥を晒してんだなw
なにが「金に目がくらんだ」として後世まで非難を浴びるこの行動だよwww
勝頼は上杉の内紛がソフトランディングするように
あくまで両者の和解を模索してて
危機に瀕した景虎への援軍を勝頼は出していて木田(上越市)へ派遣したりしてた。
その行為で景勝が自軍に「俺への援軍」と吹聴していた誤魔化していた景勝は「あれはあくまで表向きのことだ」と
むりくり弁明してる。
その一方で勝頼はぜんぜん援軍を出さない北条に
不満を表明し、はやく援軍を派遣するように交渉を指示してる。
北条の援軍を待つ続けて平和維持軍として越後駐留していて
8/20には「景勝と景虎の和平が理由なく破綻したら
双方への加勢を取りやめると宣言するなど
御館の乱での中立性を鮮明にしており
ここにいったん景勝と景虎間に和平を結ぶことに成功してる。
しかし北条の援軍が来るまでと無理して長期に渡り武田領を留守にしてたのも限界がきて
徳川に対応するために8/28に勝頼は帰国。
徳川も9/4には諏訪原まで撤退。
その後も戦国遺文4369には景虎が武田の支援を受けていると書いている。
家康はなおも諦めず田中城を攻め始めたので、
穴山をまずは高天神城まで派遣してから、自分も後詰めすると言っていて
(織田厨はこのことを歪曲して高天神城がやばくて岡部が援軍依頼したとかデタラメを吐いていたが)
9/24に景勝に対して、景虎との和平が破綻したのを勝頼が嘆いている。
10/7には武田軍の大熊と市川が越後和平のために津南市にあたる妻有・赤沢へ入城したが、
景勝の支援要請を拒否している。
勝頼は徳川攻めで出陣し牧の原から横須賀城攻めを開始したが
堅城だったので高天神城で休息を取ってから
嶋田や田中城を襲撃して回り11/25に帰国してる。
12月に富士大宮の遷宮を実施して諸将が神馬を奉納して天正6年は終わっている。
(天正7年に入っても大金を投資し続けている諏訪大社造営事業も継続されており金に心配はまったくないのが現実)
714人間七七四年:2012/07/27(金) 20:28:40.98 ID:S0avd1OX
>>707
男へのラブレター
715人間七七四年:2012/07/28(土) 00:38:13.98 ID:bKBQNi+0
>>714
違うだろ
愛人(♂)に対する詫び状だろ
716人間七七四年:2012/07/28(土) 07:57:12.12 ID:8r0d1pbE
利家のことだな。
利家自らが自慢して、
周りから羨ましがられたからな。
717人間七七四年:2012/07/28(土) 08:57:55.13 ID:kivXGI8J
実際過大だろうなぁ
3、40の信長が信玄より遥かにでかい領土築いてるのに50まで何してたのかってくらい小さい領土
その後死ぬ寸前の無茶な行軍で無理矢理領土を広げたけど維持できるわけもなく徳川と一進一退の攻防してる時点で信玄含め
武田がゴミカスなのはわかりきってる
田舎者の大嘘に感化されたアホが騒いでるだけ
718人間七七四年:2012/07/28(土) 12:18:43.35 ID:9wX+GCms
武田信玄ダサすぎる
719人間七七四年:2012/07/28(土) 12:20:32.33 ID:v1nGmzNA
信長カルト信者ホイホイスレ
720人間七七四年:2012/07/28(土) 18:46:59.74 ID:wflCQ9um
武田信玄=生涯の半分を長野県征服に費やした人
721人間七七四年:2012/07/29(日) 06:40:34.56 ID:EcE5c7HN
信濃は実際、経済力などを含めるとかなりの国力があり、
興福寺の記録に至っては、
信濃の守護は上杉房定と小笠原政秀の二人であると書かれているように実質二か国扱いだったからな。
722人間七七四年:2012/07/29(日) 09:58:12.64 ID:A3FfxpWO
信長が甲斐の大名でスタートしたら相続直後に黒人衆に内乱起こされまくって今川に攻め込まれてアボーン
723人間七七四年:2012/07/29(日) 10:28:54.23 ID:FidQsQsr
724人間七七四年:2012/07/29(日) 12:53:56.19 ID:xRyTDlT3
信濃は統一されてなく
さまざまな国人や大名が乱立してたから
725人間七七四年:2012/07/29(日) 13:23:26.42 ID:ZHqc8TpD
真田がいなければ甲斐にひきこもってたチキン山猿が信玄
信濃も西上野も真田無しでは攻略なんて出来たかった
真田がその後数々の武功をあげ続け見事に生き残り
武田が日本史上稀に見る無様で悲惨な滅亡をした史実を
見れば信玄がいかに無能雑魚だったかは火を見るより明らか
726人間七七四年:2012/07/29(日) 15:50:22.59 ID:O+5HAX6r
>>725
同感
真田は戦い方が卑劣でかっこ悪いが、まぁ評価はできる
影武者何人も使って生き延びてた信玄は真田無しじゃ生きていけなかったのがダサすぎる
727人間七七四年:2012/07/29(日) 19:06:34.40 ID:GLt6nGvW
>>714
それは各国人たちが割拠出来得るほどの要害堅固な地が信濃にはあったから、
割拠がなしえた。
728人間七七四年:2012/07/29(日) 19:07:57.49 ID:GLt6nGvW
訂正
>>714でなく>>724
729人間七七四年:2012/07/29(日) 20:42:01.55 ID:0w6CjaPo
具体的に何を根拠に堅固要害なんていってんだ
730人間七七四年:2012/07/29(日) 23:45:02.30 ID:gFH+nK7P
>>725
>>726
信長は秀吉が居なければ何も出来ないクズ以下の糞雑魚だぞ
731人間七七四年:2012/07/30(月) 00:15:54.95 ID:mpVL6HWB
なるほど
知将幸隆、池沼信玄だったわけですね
732人間七七四年:2012/07/30(月) 02:37:04.55 ID:u8I3Atye
「秀吉は解らない時は信長に指示を仰ぐ」と佐久間への書簡に書かれてますがな
733人間七七四年:2012/07/30(月) 08:48:45.75 ID:HdMWJNXJ
統一されている国の方が珍しいんだがな
734人間七七四年:2012/07/30(月) 09:02:37.62 ID:4eL8CGBj
まあ濃尾平野や近江平野では割拠できんからな
735人間七七四年:2012/07/30(月) 09:05:36.92 ID:uIEMxlfh
六角や浅井はなんなんでしょうね
736人間七七四年:2012/07/30(月) 12:02:49.94 ID:GsU+RL3f
信長は秀吉がいなくても上洛出来ていたろうが
信玄は真田幸隆がいなければ信濃半国止まりだったろう
737人間七七四年:2012/07/30(月) 15:48:39.50 ID:8xbiQPhy
>>732
勝手なことをすると何するか分からない基地外に従うのは精神的にきついと思うよ
そりゃあいちいちお伺い立てるわ
その佐久間はいきなり追放されてるしw
光秀さんなんてパワハラでズタズタにされたし
738人間七七四年:2012/07/30(月) 15:49:41.10 ID:8xbiQPhy
739人間七七四年:2012/07/30(月) 19:53:05.98 ID:8cirNlXd
>>737
>勝手なことをすると何するか分からない基地外に従うのは精神的にきついと思うよ
おまえは企業社員じゃないだろ?
例え利益が出てもそいつの評価が下がるのが大手企業

勿論おまえが八百屋とかラーメン屋の世界しか知らないなら分からんでもないがな
740:2012/07/30(月) 20:27:35.96 ID:8xbiQPhy
何言ってんのこいつ?
頭蛆沸いてるの?w
741人間七七四年:2012/07/30(月) 21:01:04.99 ID:88Kkr+FR
分からないならお前の頭が沸いてる
お前の意図と違う捕らえ方をされてるなら、お前の書き方が悪い
742人間七七四年:2012/07/30(月) 21:28:31.82 ID:uIEMxlfh
だがはニートだから企業社員どうこう言われてもわからないよw
未だに終身雇用が当たり前とでも思ってるよw
743人間七七四年:2012/07/31(火) 09:40:12.82 ID:n0BUyEmU
>>1
スレタイは武田信玄は過小評価されすぎ!!であるべきだね
744人間七七四年:2012/07/31(火) 16:30:53.90 ID:BUO1sAjg
甲斐を制覇した信虎はすごかったんだな
745人間七七四年:2012/07/31(火) 18:24:55.24 ID:I6v82eoB
信虎は調べてくと結構凄いっぽいのが解るんだよね
信玄と真逆
746人間七七四年:2012/07/31(火) 19:08:01.19 ID:8ZLIfgxd
>>740
うわぁ
顔真っ赤にして反論してくるとは思いもしなかったな
社会の仕組みをガチで理解してないとは痛すぎるを通り越して哀れすぎる
747人間七七四年:2012/08/01(水) 01:01:30.34 ID:zZuKPkZU
社会に出ないとそのあたりは実感しにくいから仕方ない
お前も大人になってやれ
748人間七七四年:2012/08/01(水) 07:20:48.32 ID:60jHFT+3
>>745
もともと信玄には地頭も実績もないからな。
せいぜい徳川幕府に擦り寄って捏造の功績を吹聴するしかなかった。
今になってそれが晒されているだけの事。
749人間七七四年:2012/08/01(水) 09:08:55.60 ID:e6myOOab
朝倉義景スレでも織田チョンが第一次義昭上洛戦の件で
織田が約定違反して斉藤を攻めて大敗した事実の
捏造歪曲を繰り返しててワロタwww
義昭も斉藤も織田の約定違反を非難してるのに
ムリヤリ曲解しまくりのキチガイwww
750人間七七四年:2012/08/01(水) 10:52:58.02 ID:60jHFT+3
織田の約定違反をした、織田の背信だと言っておきながら
敵であるはずの織田を有利にする織田浅井婚姻の手助けをして
味方であるはずの斎藤を織田が滅ぼす手助けをした足利www

751人間七七四年:2012/08/01(水) 11:17:40.07 ID:zZuKPkZU
さらに、だがによれば要害堅固という二条城から、
ボロ城の槙島に移って、その移転費用でうなるほどあった資産も枯渇させた足利www
752人間七七四年:2012/08/01(水) 11:32:34.21 ID:e6myOOab
三好と結んで独裁していた六角義治への巻き返しを図り六角義秀と六角重臣達は
再度、義昭を上洛させるべく策を巡らし、信長の違背が起きないように婚姻による保険をかけた。
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。
信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
(六角兵力の根拠は言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道(承禎)と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣と元禄初期の織田の動員力は2万)
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけだし
それでさえ、家康がいなければ信長は死んでた。姉川の戦いを織田圧勝などと捏造してるが
朝倉・高島七頭・一揆連合軍が9/20には宇佐山城攻めを開始し織田信治と森可成を討死させ
21日には山科までやってきて志賀の陣になり、朝倉軍が大敗した姿などまったくない。
信長は「朝倉殿が天下をとってください。我に望みなし」の土下座降伏してる。

織田厨はバカ無知だから相手すんなw
どうせ信長が北伊勢で北畠へ攻撃かけたと思い込んでるんだから。
実際は六角氏から伊賀国主仁木氏へ養子に入っていた仁木義政が
天文11年10月に北畠を破り仁木氏の旧領だった
北伊勢一円の朝明郡・員弁郡を取り戻している。
仁木義政は幕府御判衆で永禄10年に義昭が朝倉義景邸御成りの時には
義景の後見者のようにしていて朝倉取り次ぎをしてたと思われてる。
信長が戦ってるのは仁木氏の統括エリアであって北畠の統括エリアじゃない。
信長公記では六角氏をワザと弱く見せかけていて
六角氏関連人物を消しまくってる。それは信長マンセーに都合が悪いからね。
志賀福田寺文書の和田惟政12/17三雲対馬親子宛て文書では
六角氏が浅井と織田の婚儀を取り持ってるのがわかるし
信長のために上洛の協力してた六角義秀が死んだことに驚愕して
承禎の帰国を恐れる信長の姿が永禄12年5/11信長→浅井書状でわかるし
婚姻斡旋者の義秀が死んだことと承禎の帰国により
浅井・織田の同盟が崩壊したのは明らかだし
二条宴乗日記5朔を読む限り浅井が謀反?の噂が届いたから
信長が京へ帰ったのはわかるが、金ヶ崎の戦いなどと言う
浅井と朝倉の挟撃を受けた4/末の秀吉殿の撤退戦なんて存在しておらず
承禎が鯰江城に入り浅井と連絡して5月になってから挙兵し下記のような戦いになっただけ。
言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道(承禎)と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣
753人間七七四年:2012/08/01(水) 11:52:58.28 ID:60jHFT+3
つまり織田に裏切られたはずの足利が

浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)

というほどに織田に入れ込んで、自分に味方してくれたはずの斎藤を
必死かけて滅ぼそうとしていたんだなw

よく足利もそんな酔狂なことできるよなw織田が三好と結んだらどうするんだかw
754人間七七四年:2012/08/01(水) 13:00:39.91 ID:e6myOOab
加賀一向衆と朝倉の和睦を纏めつつ朝倉のトコにいて謙信の合流を待って上洛戦をする予定だった義昭だったが、
上杉領内で本庄の乱が勃発し内戦になったために断念せざる負えなくなったので
三好・義治と敵対していた義秀&観音寺騒動の重臣たち&将軍家奉公衆らと信長・家康を利用する代替案を採用しただけ。
目的を達する冷徹な政治外交において「あの時、裏切ったから2度と利用しない」などの感情論は君のガキ思考でしかない。
失敗を教訓にいかに次回は相手が裏切らないように保険をかけるかが重要なわけだ。
755人間七七四年:2012/08/01(水) 13:06:11.35 ID:60jHFT+3
で、味方として協力してくれた斎藤を滅ぼすメリットはあったの?w
おまえの理屈だと浅井と織田を結ばせた理由が全く説明つかない。
「もう1回織田に寝返られると困る」って言うなら、もう一度織田斎藤で和議結べばいいだけw

少なくともおまえの理屈で言うなら、斎藤は足利に対してなんの背信もせず、
味方がゴロゴロ裏切る中でずっと味方でいてくれた貴重な勢力なんだが、
そんな1度裏切った挙句味方になるかもわからない織田のために斎藤滅ぼすの?w

自分で論理が破たんしているって気づかないのは怖いねw
756人間七七四年:2012/08/01(水) 13:53:58.05 ID:lp4LWnGk
>>755
織田厨って史料的根拠ゼロの妄想のみで反論するキチガイですねワロスw
757人間七七四年:2012/08/01(水) 14:46:17.63 ID:60jHFT+3
>>756
史料的根拠なんて全て>>752>>754が自ら出してるじゃんw
読解力が足りないんじゃ話にならないわw

そもそも当の斎藤ですら中島文書で
『去春已来三好カタヨリ、種々懇望仕候、其外御調略之筋、幾重ニ存之由候キ、彼等依妄言、御上洛相滞』と書いており
三好方のせいで今回の上洛に至らなかったということを自らバラしている。

この後すぐに「剰江州矢嶋御逗留モ難届式候之間、朽木歟若州辺ヘ可被移御座之旨候、無是非題目候、」と続いており
近江の連中が寝返ったことを指して直後の「竜興奉対 公儀不存疎意段」で暗に「斎藤は協力しない」とすら言っている節がある。
758人間七七四年:2012/08/01(水) 14:53:21.75 ID:60jHFT+3
この中島文書の最も面白いところは、なぜか斎藤龍興が
「織田軍の侵攻のせいで上洛できなかった」とは書いていないこと。

斎藤龍興による中島文書で織田について触れている箇所は『織上天下之嘲弄不可過之候』
(織田が天下の笑いものになるのは避けられないだろう)の部分と、
『前代未聞ニ候、不遂一戦退散候之間、数多不討取事無念』
(前代未聞のことだ、一戦を遂げるのを避けて退散し、数多討ち取ることができなかったのは無念だ)
の河野島の部分だけ。

本来織田が軍の上洛を阻害したのなら、斎藤は当然そのことを書くはずであるが
なぜか全く触れておらず、あくまで三好の動きが原因であるとしている。
759人間七七四年:2012/08/01(水) 16:01:47.34 ID:e6myOOab
834:人間七七四年 07/07(土) 10:14 pPMzIIJI
>>833
はいはいデタラメ乙
義昭は閏8/26の書状の中で
織田の斉藤への不意の暴虐を聞いて
「尾州への矢止の儀について
人質の交換にも同意してくれ
喜んでいたところ、突然の信長の乱入に驚き入った」
とまで書いてるのに、なに歪曲捏造してんだw
837:人間七七四年 07/07(土) 10:46 pPMzIIJI
ついでに言うと
中島文書の斉藤側の閏8/18の書状の中でも
「対尾州へ我らに矢留の儀に同心して忠節」と
書いてたり
織田の斉藤への不意の暴虐を書いているなど
ほど義昭書状と同内容が書いてあり
斉藤側の書状が正しいことへの裏づけにもなっているのが
名古屋市博物館所蔵の義昭書状。
また織田尾張守出勢相違故って言う9/13の上杉家文書の義昭→上杉書状でさらに裏づけが取れる。
842:人間七七四年 07/10(火) 23:20 hpKBgpwu
彼等依妄言、御上洛相滞

×あいつらのせいで上洛はできなくなった
○彼らの妄言により、義昭様の御上洛が遅滞していた

×足利義昭を見限って三好の上手い話に乗りましたってのが書状からでもわかるな
○三好の妄言を無視して義昭を奉じていたが遅滞していた。

844:人間七七四年 07/12(木) 13:19 iy3oEqB/
>>843
中島文書
名古屋市博物館所蔵の義昭書状
上杉家文書の義昭→上杉書状
どれを見ても織田の裏切りを指摘してます。
お前のような織田チョンのキチガイ歪曲オナニーは
チラシの裏に書いておけよカス。
760人間七七四年:2012/08/01(水) 18:40:05.53 ID:60jHFT+3
相変わらずコピペのデタラメ乙www

>>彼らの妄言により、義昭様の御上洛が遅滞していた

その義昭の上洛を支えるのが斎藤であり織田だろwww
まさか義昭1人で上洛する気でいるとか馬鹿なこと考えちゃいないよな?w

>>信長乱入儀

原文全く読んでねーんだなwいかに妄想だけで語ってるかがわかるw
原文では「雖然尚以参洛之事対尾張守申遣之間、最前之筋目無相違様」とあり
ただ想定外のことが起きて、当初の確認をしようとしている段階にすぎないw
織田尾張守出勢相違も、予定通り軍を出してくれなかった信長を咎めているだけw

そもそも信長の方ばかり見ていて斎藤を全く無視しているのが如何にもアスペのやりそうなことだなw
だが理論でいえば斎藤は足利を裏切ってすらいないんだから、予定通り斎藤も軍を出せばいいだけ。

軍を出せなくても、せめて「織田の裏切りでこっちが軍を出せなかった」と
でも書くはず。だが中島文書にもそれはなく、
あくまで上洛軍が来ないのを驚いているのは足利義昭だけである。

結果的に「彼等依妄言、御上洛相滞」にある「御上洛」の行為者は斎藤であり織田。
もちろん足利義昭も入っているが、それだけではないのは文脈からでもあっさりわかるw
761人間七七四年:2012/08/01(水) 18:43:22.89 ID:60jHFT+3
755 :人間七七四年:2012/08/01(水) 13:06:11.35 ID:60jHFT+3
で、味方として協力してくれた斎藤を滅ぼすメリットはあったの?w
おまえの理屈だと浅井と織田を結ばせた理由が全く説明つかない。
「もう1回織田に寝返られると困る」って言うなら、もう一度織田斎藤で和議結べばいいだけw

少なくともおまえの理屈で言うなら、斎藤は足利に対してなんの背信もせず、
味方がゴロゴロ裏切る中でずっと味方でいてくれた貴重な勢力なんだが、
そんな1度裏切った挙句味方になるかもわからない織田のために斎藤滅ぼすの?w

自分で論理が破たんしているって気づかないのは怖いねw
762人間七七四年:2012/08/01(水) 20:09:37.64 ID:e6myOOab
>>790
>>原文全く読んでねーんだなwいかに妄想だけで語ってるかがわかる
原文読んでないのはお前。信長乱入儀というのは義昭の理解不能な事態であり
永禄9年閏8/26現在の情報として
若狭へ逃亡した義昭が尾張に矢止めの和平に
織田も人質を出すことに同意してくれて喜んでいたところ
信長が突然に美濃への乱入という事態になり驚きいったと書いていて
明らかに信長の意表をつくあまりに信じ難い裏切りの原因の情報収集をするように命じている。

というのも閏8/18に斉藤家が
信長の裏切りに義昭が言語道断と怒り、
織田の裏切りの結果、義昭が若狭へ逃亡せざる負えなくなったと報じてる。
(細川藤孝に罰文まで提出して義昭に忠節を誓っていたのが斉藤家)

9/13に義昭が上杉へ状況説明する中で
織田尾張守出勢相違の結果、三好と松永により近江に居られなくなり
若狭を越えて8日に越前敦賀に着いたと書いている。

どう読んでも織田の斉藤への奇襲(しかも敗北するw)という裏切りのせいで義昭が逃亡するハメになっているようにしか読めない。

ちなみにボロ負けの連続の信長は信玄の武威を借りたいがため・・・
永禄8年11月に信玄を恐れていた信長は
苗木遠山氏の娘を貰い受けて養女となして勝頼へ嫁がせて同盟を結ばせて頂いている。
(重要な外交政策なのにこれも公記が隠蔽している)
763人間七七四年:2012/08/01(水) 20:18:26.22 ID:GggBbqF5
ID:e6myOOabは偏ったモノの考えを改めるべき
764人間七七四年:2012/08/01(水) 20:35:02.56 ID:O7Rp4v3F
懐柔しようと格下に嫁がせたはずが滅ぼされた…武田家の末路は今川家と一緒の先見性の無さを出しとるわなw
765人間七七四年:2012/08/01(水) 21:56:11.98 ID:lZ4xhNel
>>764
懐柔しようと六女の松姫を信忠の嫁にと所望したのは信長なんだが・・・。
言ってる事が色々おかしいな
766人間七七四年:2012/08/01(水) 22:18:03.54 ID:zZuKPkZU
残念だけど武田から織田に擦り寄ったって書状があるから
婚姻はその延長だな
767人間七七四年:2012/08/01(水) 22:47:45.88 ID:GggBbqF5
>>765
知識無いんだからてきとうなこと書くなよ
言っていることがおかしいのはオマエだ
768人間七七四年:2012/08/02(木) 06:48:46.82 ID:3Q7O8lcU
可哀想で同情したいほど痛い織田チョンw
769人間七七四年:2012/08/02(木) 07:24:10.60 ID:yG1gSm1R
>>762
>>どう読んでも織田の斉藤への奇襲(しかも敗北するw)という裏切りのせいで義昭が逃亡するハメになっているようにしか読めない。

おまえの読解力がおかしいだけw
当の斎藤はそんなこと一言も書いていない。

斎藤は中島文書で「三好カタヨリ、種々懇望仕候、其外御調略之筋、幾重ニ存之由候キ、彼等依妄言、御上洛相滞」
として、上洛できないのはあくまで三好のせいだと言っている。
織田のせいでできなかったなんてことは、一言も書いていない。

自分が持ってきた史料すらまともに読めないとか終わってるなw
770人間七七四年:2012/08/02(木) 08:49:08.93 ID:sz967pjS
>>768
このスレは特に重度の妄想捏造基地外織田厨が揃ってて話にならないよねw
771人間七七四年:2012/08/02(木) 10:19:40.26 ID:f8XSnmDx
>>764
武田厨説によると信玄が長生きしたら
織田家も今川家のように信玄に裏切られて滅んでたらすぃよ
772人間七七四年:2012/08/02(木) 10:54:06.19 ID:yG1gSm1R
53歳のジジイに「もっと長生きしろ」っていう鬼畜だからな武田厨はw
773人間七七四年:2012/08/02(木) 18:11:52.06 ID:opRpiwGj
アホだな 信長厨
暑さで頭がやられたか・・・ っていうかもともとおかしいけどな
774人間七七四年:2012/08/02(木) 21:09:21.11 ID:opRpiwGj
>>772
真田信之や細川忠興らと比べれば53なんてまだ中年の年齢だろw
775人間七七四年:2012/08/03(金) 02:19:28.18 ID:nGYK5Qyq
病弱の信玄にそんな長生きしろって言われても困るだろw
776人間七七四年:2012/08/03(金) 07:42:25.58 ID:GpPcg/O/
真田や細川なんて後半生は泰平の世の中だったから長生きできただけだろw
最初から最後まで戦国だった奴はほとんど50代で死んでる。
上杉謙信、北条氏康、宇喜多直家、尼子晴久などなど挙げればキリがない
三好長慶や佐竹義昭のように若くして死んだ者もいる。

武田信玄が50代で死ぬのは天運
777人間七七四年:2012/08/03(金) 23:56:24.78 ID:BaJYlLQt
>>773
アホだな 武田厨(アスペルガーだが)
暑さで頭がやられたか・・・ っていうか元々ガチのキチガイだからしかたがないな
778人間七七四年:2012/08/04(土) 09:56:39.35 ID:dOsee5Eg
>>776
毛利元就は?
779人間七七四年:2012/08/05(日) 14:26:39.20 ID:8CBwiRGA
北条早雲
龍造寺家兼
尼子経久
780人間七七四年:2012/08/06(月) 10:45:51.48 ID:ZVTEb5PO
そら探せば年寄りの大名もいることはいる。でもレアケースだから。
ついでにいうと北条早雲はそこまで長寿じゃない、死にそうで死なないイメージあるが。

本願寺顕如といい、島津貴久といい、長宗我部国親といい、50代で死んだ大名を探すのは容易
781人間七七四年:2012/08/18(土) 21:19:10.47 ID:MIpC0RzW
人間五十年だからな
782人間七七四年:2012/08/23(木) 09:02:50.99 ID:r1HSE+H8
織田厨SABが建てたスレだし、削除した方がいいだろ。
783人間七七四年:2012/08/23(木) 10:25:11.16 ID:4cgiEJma
sabは織田だけは中傷しなかったもんな。
謙信や信玄のホモネタは書くが、
信長のホモネタは絶対に書かなかった。
784人間七七四年:2012/08/26(日) 18:41:19.37 ID:4oIvmq3b
Sab長厨って呼ぼうぜ!
785人間七七四年:2012/08/27(月) 09:21:26.01 ID:6ilfrkWu
>>781
それ実は意味が違うんだけどな、
人間界の50年は、下天の1日にしか当たらないが正解。
786人間七七四年:2012/08/31(金) 06:31:11.49 ID:Eacpatrl
それでも歴代武田当主の中では
信虎とともにぬきんでた業績を持っている
787人間七七四年:2012/09/04(火) 16:36:01.50 ID:mbV4/gpM
天正壬午の乱の時甲斐に入った家康が真っ先に甲斐の人々に約束したのは
勝頼の菩提寺の建立&恵林寺の再興

強豪である武田旧臣を味方につけたい願望とともに
完全に織田の悪政を完全否定してますね。
信長を否定し、武田を肯定することで
家康は翼が生えた獅子のように強くなった。
788人間七七四年:2012/09/04(火) 17:23:10.02 ID:bJccg3Lt
>>787などと意味不明の供述をしており動機は未だ不明
789人間七七四年:2012/09/05(水) 19:06:14.57 ID:CO74N0VT
まあ織田は呆気なく潰されたな。
川尻なんて信長への増悪を一身に背負って無惨に殺されたからな。
790人間七七四年:2012/09/06(木) 19:06:15.23 ID:rbqDwFwu
>>789
噴火の混乱から立ち直ってしまえば
織田軍なんて雑魚だから瞬殺だったよな。
791人間七七四年:2012/09/06(木) 19:59:05.81 ID:ARESCJ/q
ろくな被害記録もない小噴火にびびった武田が?
ないないw
織田軍の鉄砲100丁程の一斉射撃の音で小便ちびらして雲散霧消するわw
792人間七七四年:2012/09/07(金) 19:26:49.08 ID:8+zOO1Up
川尻なんて逆さ吊りにされたって言うし、
織田あまりにも弱すぎ…
793人間七七四年:2012/09/09(日) 22:22:19.65 ID:8juAr3MH
北条にすら大敗する織田w
794人間七七四年:2012/09/11(火) 00:50:04.88 ID:1g/WALz0
滝川一益:北条にボコられ領地を手放し本領伊勢長島へ帰還
森長可 :ボコられる前にとっとと帰還、帰還先の美濃で暴れる
河尻秀隆:逃げ遅れて甲斐で死亡
武田勝頼:敵の侵攻と味方の裏切りによって甲斐で死亡


森>滝川>>>>>>>>河尻≧武田勝頼
795人間七七四年:2012/09/11(火) 09:49:36.65 ID:anCJJH04
武田って織田から一国も奪えずなんかいつの間にか終わってたよね
ほんとに戦ってたの?w
796人間七七四年:2012/09/15(土) 08:20:52.19 ID:FnKjo6CB
信長が上洛戦で主導的役割をもらい、上洛から畿内制圧がアホでもできるほど
簡単にできたのは朝廷の招聘による権威のおかげ。
永禄10年11月7日に顕如が信長が上洛しようとするのを祝福して太刀を贈ってるし(顕如上人御書札案留)
また同じ頃に朝廷からも上洛するようにと
同じ時期に勅使が来たと織田信長文書の研究の奥野高広氏が書いてる。
これ論文などでは「決勝綸旨」と書かれる歴史用語で
芝辻氏はこの永禄10年11月の決勝綸旨による朝廷認可の
正当性を機会に信長が「天下布武」の印を使い始めたと論じてる。
(ちなみに信長は無知かつ文才が無く、文書の格式や決まりをまったく知らず
書札礼が無視されていたり、書止め文言も一貫性がまったく無く
武家文書としても判物・印判状・書状の様式区分がまったく守られていないし
朱印・黒印の使い分けもまったくわからないなどまったく以ってデタラメ)
万里小路惟房も勅裁が下された上は信長も朝廷を早く馳走するのが肝要と言って上洛を促してるし。
急速に畿内に信長呼応勢力が大増加してる。
12/1には信長が興福寺に義昭の上洛に供奉する&松永久秀が信長に協力すると言ってるし
1/18には三好義継までが義昭と信長の上洛は成功すると詠んだ歌を多聞院が見てる。
3/11には大和国人の十市氏や篠原弾正や三好康長まで
義昭上洛側に組してるのを多聞院が3/14に書いてるし(三好康長らはのちに仲違いしたが)
4月にはさかんに和田を含め甲賀衆や蒲生郡の義昭擁立派と織田と連絡を取り合ってるし。
(蒲生郡には義昭を後援していた奉公衆が活動しており、義昭と共闘する信玄に蒲生が呼応する理由は存在する)
比叡山も荘園の奪回を期待して信長を後援してるし
(しかし約束は果たされず元亀元年10/26正親町天皇が信長に荘園を延暦寺に返せと命じてるがやはり無視)

比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。

蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。

797人間七七四年:2012/09/15(土) 08:22:54.53 ID:6qPegW/F
>>795
織田徳川はおろか寝返った穴山梅雪、木曽義昌も満足に討伐できない雑魚大名だぞ?w
織田を避けて徳川遠山と弱い者いじめをするのは信玄時代の伝統
しかし勝頼がその暗黙の了解を破ったがために長篠でボコボコにされてしまう有様・・・
798人間七七四年:2012/09/15(土) 13:16:29.41 ID:XN/2i9uc
朝敵信長の破滅を予見した安国寺
朝敵になって10年で信長破滅。
朝敵織田を蔑ろにした秀吉を朝廷は厚遇。
799人間七七四年:2012/09/15(土) 13:36:33.38 ID:+5VLbCaS
と、信玄過大評価すれで喚きたてる武田厨
800人間七七四年:2012/09/16(日) 07:34:43.12 ID:UfoDte/n
信玄の戦争のほとんどは信濃の小名との戦いだからなぁ。
人生のほとんどを信濃一国の小競り合いに費やした人ってイメージしかない。
801人間七七四年:2012/09/17(月) 19:00:08.49 ID:IX1BDlGF
所詮信濃のド田舎にいる豪族しか倒してこれなかった雑魚専
802人間七七四年:2012/09/17(月) 21:07:54.73 ID:VFEt8QVm
織田厨って無駄に頑張っててキモイよね
803人間七七四年:2012/09/18(火) 10:40:25.80 ID:TaoZJJ6v
>>800
しかも嫡男殺して、諏訪の子に武田乗っ取られんだもんな。
無駄な努力の人生でした。
804人間七七四年:2012/09/19(水) 00:18:27.56 ID:MdlyQvgO
>>801
真田幸隆がいなければ甲斐の山猿で一生を終えていた

>>803
黄梅院も同盟破りの鬼畜信玄に殺されたようなもんだしね

2年の歳月と莫大な戦費を費やしても、弱小徳川すら潰せなかった雑魚カス無能禿
805人間七七四年:2012/09/19(水) 23:22:43.07 ID:lade6maB
>>795
信長の領地で当時まともに統治できてたのは、尾張、美濃だけだろ
つまり一国取られたら即詰みの状況の中、岐阜城で震えてたのが信長チンだよ?
806人間七七四年:2012/09/19(水) 23:50:00.38 ID:qJvtOTWf
美濃も尾張も一向宗の攻勢と武田への内通者で崩壊寸前だった。
807人間七七四年:2012/09/20(木) 05:03:44.61 ID:4YtRUHXr
崩壊寸前の織田との決戦避けて、9年後に滅ぼされるとかw
崩壊寸前の織田に速攻滅ぼされた浅井・朝倉www
808人間七七四年:2012/09/20(木) 11:23:27.15 ID:aEyQr3cK
武田厨はどんだけ織田にコンプもってんだよ・・・
809人間七七四年:2012/09/20(木) 16:47:16.41 ID:upgCG8PJ
信玄が有能なら地球統一してるだろ、してない事実が信玄は無能という評価に落ち着く
信玄へのハードルは高くなる、信長へのハードルは低くなる、これでいいでしょ
810人間七七四年:2012/09/20(木) 19:13:48.38 ID:upgCG8PJ
学者を論破出来ないだが
811人間七七四年:2012/09/20(木) 23:01:49.00 ID:3yscdMX9
9年後は俺何してるかな?
812人間七七四年:2012/09/26(水) 09:07:12.24 ID:XfrXYOw5
>>811
信長に滅ぼされています
813人間七七四年:2012/10/02(火) 23:08:55.48 ID:4UZKtM3G
>>812
9年後に君を滅ぼすから待っててくれい
814人間七七四年:2012/10/12(金) 22:41:36.33 ID:ViBZ9hqB
9年殺しw
815人間七七四年:2012/10/16(火) 23:04:33.30 ID:DY3QagBG
山山山の甲信地方を統一し駿河や上野果ては三河にまで手を出した時点で超有能。
残忍な性格っぽいけど、しっかり内藤、馬場らを見出して厚遇。
信玄堤など内政事業でも非の打ちどころがない。外交でも北条上杉今川織田徳川ら錚々たる面々に引けを取らなかった。

でも義信殺害、今川との同盟破棄で北条とも敵対、みたいな結果的に躍進できなかったり、滅亡につながっちゃったヤバすぎる失点もある。
なので過大評価されてるんじゃないかと思う。大軍で少数の家康を散々に蹴散らしたおかげで変に評価されちゃった。
816人間七七四年:2012/10/21(日) 15:50:32.53 ID:5ZdxnaFt
>>815
三方が原では、織田・徳川勢の方が兵数は多かったらしいよ
817人間七七四年:2012/10/21(日) 18:11:24.94 ID:9q9/i1O4
卑怯な手を使わないと勝てなかったのが史実上の武田信玄w
818人間七七四年:2012/10/21(日) 18:23:34.28 ID:hR9zBf6S
合理的に勝ったということか。
819人間七七四年:2012/10/22(月) 08:07:11.13 ID:YEfRYEJo
信玄は条約破ったりデマ流したり女の腐ったような戦法使ってたんだよね
戦闘力の無い武田って本当にダサい
820人間七七四年:2012/10/23(火) 23:40:09.86 ID:2gcP5Ioq
武田信玄は影武者を沢山使ってる時点で臆病者で弱い証拠
821人間七七四年:2012/10/24(水) 17:27:49.85 ID:K9Yfdm63
822人間七七四年:2012/10/24(水) 19:30:53.65 ID:UN+KSFK/
普通に考えて、前哨戦で負け続けている徳川が少数でわざわさ城から野戦にうってでるわけない。
家康はそんなにバカじゃないし、信長も許すわけない。
武田より織田徳川のほうが兵数が上回っていたのが真相。
823人間七七四年:2012/10/25(木) 00:49:21.29 ID:g0keh2WD
『総見記』
佐久間右衛門尉・平手甚左衛門ヲ両将トシ、林佐渡守・水野下野守・毛利河内守・美濃三人衆、都合三千ノ人数ヲ遣ハサレ

織田勢3千人の唯一の根拠が、記載が怪しい事で有名な総見記。
このメンバーで3千人はありえない。
824人間七七四年:2012/10/28(日) 21:44:12.25 ID:ktvMp87J
>>女の腐ったような

すげえ久しぶりに聞いた気がするフレーズだ
825人間七七四年:2012/10/30(火) 10:52:40.84 ID:AKZKwAB5
ばばみのが大好きだぜ
826人間七七四年:2012/11/17(土) 20:59:51.44 ID:hJcL/kVK
武田厨はコピペを改変すると論破されたと認めるから意地でも改変しない
827人間七七四年:2012/11/18(日) 15:59:45.23 ID:QuBp+dkN
武田信玄=卑怯&臆病者

最近はすっかり定着したなw
828人間七七四年:2012/11/19(月) 10:09:17.44 ID:1AcfpWIL
まあ、臆病者くらいの方が色々と考えそうだし、生き残るには良いのかもね。
829人間七七四年:2012/11/19(月) 17:05:43.07 ID:x6q3vDmk
大きくなった大名は総じて臆病だし卑怯
そうじゃなきゃ生き残れない時代だった
それを雑魚とか言っちゃうどこかのコピペ野郎は馬鹿としか言いようがない
830人間七七四年:2012/11/20(火) 00:05:31.92 ID:z+OkRe6g
卑怯でも臆病でもない武将なんて、越後の軍神様ぐらいじゃなかろうか
831人間七七四年:2012/11/20(火) 02:12:02.88 ID:GY+9qOm0
少なくとも卑怯はあるし臆病もあるんじゃね?
臆病じゃなかったら小田原力攻めしてね?
832人間七七四年:2012/11/20(火) 08:23:28.45 ID:Ssh51yL1
軍神様は本気で小田原攻めるつもりだったのかどうか。
何となく、関東管領の前のパフォーマンスな気がする。
833人間七七四年:2012/11/22(木) 06:46:58.10 ID:GYY2MbVb
上杉謙信・村上義清・森長可=軍神

徳川家康・武田信玄・真田昌幸=小心
834人間七七四年:2012/11/23(金) 20:59:58.06 ID:59thWJzt
>>827
織田チョンが大嘘を自演でばら撒いてるだけだろw
835人間七七四年:2012/11/24(土) 20:44:48.42 ID:TMcYyMJQ
徳川軍が10万人いれば普通な負けてたからな、三方ヶ原は運がよかっただけ
836人間七七四年:2012/11/25(日) 21:21:23.52 ID:LsNWYRpy
武田厨は村上に負けたのは査定に入れないでほしいラッキーパンチですましてくれってことだよね
837人間七七四年:2012/11/25(日) 23:30:17.57 ID:2XwBvwz2
板垣甘利が死んでおいてそれはねーわなw
織田軍でいうなら柴田丹羽が戦死したって言ってるようなもんなのにw
自分に甘く他人には偏執的に厳しい武田厨は醜いw
838人間七七四年:2012/11/30(金) 10:01:42.23 ID:KoR6ikF7
織田家って家臣に裏切られて、あっさりと家臣の家臣になったんだ
839人間七七四年:2012/11/30(金) 14:28:49.93 ID:QVjo7LgK
当主が3歳じゃ何もできないじゃん
武田家みたいに成人当主が家臣に寝返られて家滅ぼしたのに比べればマシw
840人間七七四年:2012/11/30(金) 14:29:57.77 ID:ZKNhmIrO
>>836
信玄が正攻法で、圧倒的多人数で村上義清を攻めて、二回も負けたこと(葛尾城奪還も含めると三回)、

小心で臆病者な故、敵地で極悪非道を尽くしたこと、

上杉謙信、村上義清に直に傷を負わされて早死にしたことは、

武田厨の間ではタブー。
841人間七七四年:2012/12/02(日) 00:09:10.19 ID:cYMkH3kO
小学生の悪口スレかw
842人間七七四年:2012/12/03(月) 11:11:18.68 ID:2kwuB1aJ
>>839
村上義清も家臣の裏切りで武田に負けた
武田家みたいに滅びては無いけど
843人間七七四年:2012/12/03(月) 11:49:02.99 ID:nEm1mguT
蘭丸のケツねぶってたら光秀に火だるまにされた天才信長
844人間七七四年:2012/12/03(月) 16:24:38.89 ID:7+v2C/E4
そう言えば信長って痩せてたんだろうか、太っていたのだろうか。
信玄は信玄と言われている肖像と違って、痩せていたらしいが。
845人間七七四年:2012/12/04(火) 04:04:05.34 ID:O7gz+X0d
信玄さんは始終ビクついてストレスで胃痛だったから痩せてたよ
846人間七七四年:2012/12/12(水) 17:30:07.35 ID:rLrj7IzO
史実から検証した武田信玄像

チビ
デブ
ハゲ
残酷
臆病
狡賢い
しつこい
体中虐められた傷だらけ
ホモ
847人間七七四年:2012/12/13(木) 02:24:00.57 ID:AbfdtuJP
>>846
勝頼は大柄だったらしいし
ちびってことはないような気がするが
848人間七七四年:2012/12/14(金) 23:10:50.78 ID:8xkFY+2f
想像するしかないんだが、

上杉謙信は中肉中背細身
村上義清は大柄筋肉質

とすると空いてるキャラはチビデブ。

武田信玄はチビデブという図式が成り立ってしまう。

信玄は上杉謙信と村上義清両人に傷を負わされてるけど、
小さかったからだと思う。
849人間七七四年:2012/12/14(金) 23:21:41.81 ID:W5RGm4FH
>>846>>848
完璧な検証すぎてワロタw
850人間七七四年:2012/12/16(日) 14:54:14.98 ID:5lOw/kAm
霊視結果

上杉謙信 身長156cm 体重65kg 乾燥肌 薄毛 家臣の間での呼び名=毘沙門様
村上義清 身長180cm 体重95kg 多汗症 剛毛 家臣の間での呼び名=御屋形様
武田信玄 身長147cm 体重104kg 多脂症 無毛 家臣の間での呼び名=豆禿

信玄は背の低い馬にも家臣二人に支えられてなんとか乗っていたようです
信玄は職人達にシークレット兜、シークレット草鞋を作らせ、証拠隠滅のため、納品後にその職人達を殺していたようです
851人間七七四年:2012/12/16(日) 15:25:02.07 ID:uiO2OGJu
異能者だったのかw
852人間七七四年:2012/12/20(木) 13:38:02.22 ID:8Xjo6SuG
燃える男、信長
853人間七七四年:2012/12/21(金) 23:07:43.92 ID:6czb1NfT
戦国奇形軍団武田二十四将
854人間七七四年:2012/12/27(木) 08:57:52.66 ID:zk7kc52T
>>850
信玄は、山県さんと同じくらいの背だったのか!w
855人間七七四年:2012/12/28(金) 18:59:49.04 ID:4wanK48i
敵対勢力の捕虜を無闇に殺害せずにすませる関東流の流儀による人身売買について
信玄の人身売買 勝山記(妙法寺記は亜流)の天文15年の項に記述されているのは下記
浅間山周囲に陣を構えた関東管領の大軍を板垣・甘利・横田・多田といった武田軍が大破し敵大将15人と3000を討ち取る。
その後、志賀城が落城し依田一門や高田一族や志賀殿御内6兄弟のうち
300ばかり討ち死にし男女を生け捕り甲州へ引きつれ2貫、3貫、5貫、10貫にても親類ある人は請け申したと書いてある。
読み解くとあくまで抵抗した志賀城に篭城した志賀や高田や依田の一族郎党が生け捕りになり
本来殺されても文句が言えないが死を免れ、親類の経済力に応じて
それぞれ身分に応じた金額で人質を親類へ返還したということが書いてある。
しかし待ってほしい。志賀城落城は天文16年(晴信25歳)であり、
この日記が後世の歪曲された伝聞記録の可能性が高く、一次史料ではないので信憑性が低く、
数ある史料の中でも信玄が人身売買したと記述しているのは
なぜかこの志賀城攻めでのたった1回だけである。本当のことなのか疑問が残る。
謙信もたった1回だけ奴隷売買をしている。それは小田城落城後に奴隷売買(20銭〜30銭で飯代レベル)をやっているが、
そもそも謙信は初めて関東出兵した際に簗田氏に、自分は関東のことに不案内なので、
なんでもあなたの言うことに従うので助言をしてほしいと頼んでいたり、
結城氏などが小田氏のことは自分に任せて欲しいと一任を願い出ていたり、
そもそも佐竹義昭の死去に乗じて懲りずに反旗した小田氏という下衆な行為に対する懲罰的行為なのでは・・・
謙信の意思というよりも関東諸将の意思であろう。しかも土浦へ逃亡した小田氏が詫びを入れたら
せっかく占領した小田城を返還してやる領土欲の無さが謙信。
856人間七七四年:2012/12/28(金) 19:04:45.56 ID:4wanK48i
さて基礎史料を掲示しておこう。鎌倉時代後期以降の人身売買は最低価格が2貫文だったと磯貝氏が指摘してる。
実際、借金苦から子供を売る習慣を宣教師があり得ないと驚いているが、2貫文で売れるなら止むを得ず売り、
残された家族を養うのも止むを得ないかも(2貫文はあくまで鎌倉時代後期最低価格であり2貫以上ということである)
またキリスト教徒同士では敗者であっても同じ教徒を奴隷に出来ない代わりに
イスラム教信者は異教ゆえ奴隷にできるため、奴隷狩りが戦の目的となる場合もある。
日本人は宗教による差別が存在しない代わりに日本人同胞を奴隷にできる一方、そのまま養子にしたり、
奴隷が得た物は奴隷の所有物に見做されるなど恩情的奴隷制度であった。
しかし九州南部を中心に奴隷収容施設を造るなど倭寇文化圏は残虐な扱いを奴隷にしていたり、
しばしば奴隷獲得のために戦を惹き起こしている。 まったく蛮族と言う他はない。
人身ん売買を批判されたポルトガル商人は「酷い扱いを受ける日本人や朝鮮人奴隷を買うことで、
待遇をよくしてやった」とうそぶく始末で開き直ることができたのは、
恩情的奴隷制度の無い島津を代表とする九州倭寇文化圏の習慣を悪用したからである。
また信長のように命乞いをいくらしても捕虜にするのを徹頭徹尾拒絶し敵対者は撫で斬り虐殺で一切生かしておかず、
時に偽り欺いて降伏を受け入れるフリまでして冷徹かつ組織的効率的大量虐殺を行い
大量虐殺の感想を書状で鬱憤が散じてスッキリした!と愉快犯のように
殺戮を楽しみ好む人格で数十万の日本人を殺し社会を荒廃させまくったような者もいる。
857人間七七四年:2012/12/29(土) 04:06:08.75 ID:Q+PnR45b
武田ミゼットプロレス軍団
858人間七七四年:2012/12/29(土) 06:24:40.01 ID:HU8FCD/2
そもそも、甲斐といえば風土病の土地だからのぅ。
859人間七七四年:2012/12/29(土) 13:30:48.45 ID:wW2nD/bN
元亀2年11/3付け 穴山→蒲生下野入道殿宛書状 武田が武蔵や伊豆で圧倒的優勢であることを報告しており
信長に内密で蒲生殿が御望の乗り心地の良馬を武田家に所望してきたのを承諾し、栗毛の馬を
使者の蒲生舎人に馳走贈呈している書状である。また演説した内容について不能一二候と言っている。
ちなみに12/27に甲相再同盟が成立している。
元亀3年10/5の朝倉景亮書状により蒲生家すらも織田を見限るのがわかる。
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言   蒲生下野入道殿御陣所
上記を証明するように元亀3年11/27の山縣書状に
朝倉軍が織田軍を大破したし尾張・美濃衆が数多討死って書いてある
織田が朝倉に大敗して近江勢が寝返ったと書かれている。で、この書状の最後に
日野蒲生が朝倉に寝返ったとあり、手紙の内容と合わせて織田の敗北、武田の躍進を山県が強調している。
嘘長公記はこれを隠蔽。この大敗で信長は岐阜へ引きこもり震えていた。
神戸具盛(妻は蒲生定秀の娘)養子信孝を冷遇していた為に元亀2年に山路弾正など家臣が大虐殺され
信長により幽閉されるも義父を頼り日野城へ逃亡し、元亀3年に神戸家は信孝が家督を継ぐ。
ちなみに永禄11年の観音寺城の戦いで蒲生賢秀を降伏させたのはこの人
関盛信(妻は蒲生定秀の娘)亀山城主。信孝との不和が原因で元亀4年に信長により幽閉され義父を頼り
日野城へ逃亡。嫡子の関盛忠は天正2年の長島討伐で信孝や蒲生賢秀に従い従軍し討死。
860人間七七四年:2012/12/31(月) 16:22:24.97 ID:VArkTkXe
(武田信虎や六角氏の拠点である甲賀郡や蒲生郡には義昭を後援していた奉公衆が活動しており、
義昭と共闘する信玄に蒲生が呼応する理由は存在する)
比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。
ちなみに正親町天皇が国寺にした恵林寺や天皇が見込んで天正9年に大通智勝の号を贈って
国家安寧の国師に任命した快川紹喜は翌年には暴虐無道の織田軍により
消失&焼死に追込まれ天皇は面子を天下に失ってしまった。
861人間七七四年:2013/01/02(水) 17:47:38.31 ID:aNvq+N/R
>>860

武田信玄は早死にして、
武田勝頼が自害して、
武田家は滅亡した。

まで読んだ
862人間七七四年:2013/01/06(日) 00:28:01.81 ID:FPGIwoSC
信玄は53で死亡だから早死にでもなんでもない
あれが信玄の天命
863人間七七四年:2013/01/06(日) 07:56:48.06 ID:17W9ntOj
>>853
「日本なんてどうなったっていい!」発言で有名な自民党の甘利明
こいつの先祖は村上義清軍に成敗された武田二十四将の甘利虎泰
甘利明はH・R・ギーガーの絵に出てくる奇形児に似てるから、
戦国奇形軍団武田二十四将というのもありえる。
864人間七七四年:2013/01/07(月) 21:39:33.05 ID:jerz4qKP
原文では
一、此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、一度帰参致し

になっている。「いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ」なんて明らかに手柄を立てて来いという話しだし、
あと言っておくが佐久間はその辺の新米家臣じゃない、信長が佐久間につけた家臣の他に
佐久間が自ら雇った家臣もいる。そいつらを率いるのは佐久間の自由なんだがw
865人間七七四年:2013/01/10(木) 23:17:06.41 ID:v1LioJdT
デブ信玄と奇形な仲間達w
866人間七七四年:2013/01/12(土) 11:04:49.98 ID:OdXmHpHs
家康に勝ったところでその10倍くらいの織田勢がいるので
なんで勝てると思ったんだろ?
867人間七七四年:2013/01/12(土) 13:00:38.46 ID:iv/jQuO9
だから、朝倉にお前ら織田をひきつけろよって必死こいて書状かいてるじゃん
それも、お前らのためにお前らの味方になったんだからて恩着せがましく
868人間七七四年:2013/01/12(土) 13:55:21.55 ID:OdXmHpHs
最低の戦略だなw
869 忍法帖【Lv=2,xxxP】(7+0:8) 【Dnews4vip1358001287286722】 【東北電 69.0 %】 【1.2m】 :2013/01/13(日) 01:35:06.71 ID:Oq4u18An
age
870人間七七四年:2013/01/13(日) 19:01:05.52 ID:rbOaGTje
>>866
はいはいまた捏造ですかw
朝敵織田軍は朝倉軍に大敗した挙句(朝倉軍は織田軍が逃亡したので帰国)
東美濃や北美濃で離反が相次ぎ、
尾張南西部は伊勢の一向宗エリアにされ、
岐阜至近の距離にまで砦を造営されるも手が出せず
伊勢湾〜駿河湾まで武田・伊勢水軍に制海権を握られ
近江も完全封鎖され琵琶湖を船で渡るしか通過する方法がなくなり
西近江の砦や柵で光秀がボコボコにされ援軍の柴田もボコボコにされ攻略すらできず。
信長自らの京着陣で集結した織田軍は
総勢たった1万しか集まらなかったので
義昭が篭城した二条城すら力攻めできず
秀吉の兵力を抽出するために信玄に大敗した家康にすら近江へ交替要員として援軍出してくれと泣き土下座。
義昭との和睦を斡旋してもらう為に天皇を威圧し御所への延焼も辞さない上京焼き討ち、
桂川が死者で埋まったほどの大逆殺(桂川の対岸は三好勢力で充満w)
京全域での略奪強奪の阿鼻叫喚の地獄にしてた自暴自棄が信長。
おまけに信玄は6万の大軍で東美濃侵攻前夜で死去したラッキーがなければ信長死んでただろ。
871人間七七四年:2013/01/13(日) 19:21:30.40 ID:h/+lQyV9
>>870
そこまでヤバイ状況になっても逆転できた信長ってやっぱりすごいんだな、という
感想しか出てこない
872人間七七四年:2013/01/14(月) 00:34:34.78 ID:LPpEhxZj
6万の大軍で1万の乞食兵の信長軍を相手にするのに
弱小勢力の家康と道草食って肝心の信長と対決できずに死後その信長と家康に滅ぼされる武田w
873人間七七四年:2013/01/14(月) 21:17:10.25 ID:sOaZDESa
>>867
相変わらずデタラメですね。
信玄は、せっかく織田に勝ったのに帰ったの?
兵の疲労を労わるのは将として当然のことだけど
せっかくの機会を逃すことになるよって書いただけじゃんよ。
実際、天が与えた好機を受け取らなかった義景は
かえって天の罰を受けて常敗の天才信長に敗れてしまうわけだが。
まぁ将軍が信玄死去を知って信長に降伏してしまい、
将軍家の勢力圏だった若狭が動揺し相次ぐ寝返りで
朝倉軍は背後が不安定になってしまい撤退を余儀なくされたが、
撤退戦というのは非常に難しいため駄犬織田軍に
朝倉軍は尻をかまれてしまった。
874人間七七四年:2013/01/15(火) 00:16:04.79 ID:sJn7K0yw
>>873
外交文書で俺らのためにお前ら人身御供になれと書くわけないだろw
何のために外交してるか考えれば、その内容で何を狙ってるかぐらいわかるだろ
875人間七七四年:2013/01/15(火) 16:15:31.48 ID:chpLT9P0
信玄が死んだくらいでフイになる反信長連合とか話にならない
よほど朝倉や三好足利浅井本願寺は信長に押されていたんだろう
信長が劣勢なら信玄なき武田軍などおらずとも自らの手で信長を討ち果たせる
むしろ美濃近江を略奪できる格好の機会
876人間七七四年:2013/01/15(火) 21:11:31.58 ID:uxxNYaIQ
義昭は金銀兵糧全てを使って要害の二条城からボロ城の槙島にわざわざ
移った挙句に1万の乞食兵の織田に恐怖した本願寺と毛利が義昭を
見捨てたから支援を受けられずに野戦すら戦えずに降伏したんだろ。

三好・浅井・朝倉・長島・北畠が全く援軍を送らなかったぐらい人望が
あるからな義昭は。
877人間七七四年:2013/01/17(木) 22:11:01.62 ID:NGr8b8z6
全然このスレ盛り上がらないな
過大評価じゃないからか?
878人間七七四年:2013/01/17(木) 22:13:48.96 ID:bLumdgBW
キチガイが暴れ始めてスレをgdgdにするから
過大評価なのは間違いないよ
879人間七七四年:2013/01/18(金) 20:21:26.70 ID:DI7HCM4R
というか戦国板は1日の書き込み数が80程度だから
これくらいがむしろちょうどいいんだよ

基地外が湧いているのを「盛り上がる」とは言わない
880人間七七四年:2013/01/18(金) 22:47:42.70 ID:/lJyNJUK
基地外が沸く
酷い時はアスペルガーだが1人だけで150レスくらい使うからな
※自演でIDを乱発したものは除く(これも含めたら200は越す)
881人間七七四年:2013/01/18(金) 23:19:24.67 ID:s7ZPb/it
>>876
当時は織田と毛利は表面上では笑顔だったけど水面下では
織田は備中三村・播磨浦上&別所&小寺&赤松・摂津荒木・尼子残党を傘下に加え
義昭&毛利は備前宇喜多を利用して代理戦争してて、
播磨〜但馬ラインで暗黙の帰属抗争してたし。
これはもう信玄が西上を開始してから冷戦状態が開始され
この時の毛利は織田の背後を襲う火事場泥棒で、
浦上や山名ら織田傘下を攻めても織田本軍と敵対する決意は無かった。
信玄の死去が判明してからはいったん毛利が低姿勢を取って中断したが
天正3年に入ると再度、冷戦激化していた。
そして信長が丹波の赤鬼に敗れたり、
石山本願寺に大敗したのを知った毛利が
天正4年に冷戦状態からハッキリした挙兵をする。
そして木津川口の戦いで毛利は勝利し、
上杉が手取川で勝利したりと織田は危機に陥る。
しかし謙信や丹波の赤鬼が天寿をまっとうしてしまうなど
毛利は運が悪かっただけでなく、
上杉戦線から逃げてきた秀吉が播磨戦線の担当者になってしまった。
882人間七七四年:2013/01/19(土) 07:44:05.46 ID:kMt9BgK5
信玄西上中に吉川は織田領だった但馬へ侵攻してるしな。
織田が山名を討って但馬を坂井政尚が代官としていたが
山名が大金を貢ぐ約束で復帰を信長が認めたものの
朝倉軍が坂井政尚を討ち取った戦略的大金星で
伊丹氏などを織田から離反させ摂津から東進してきて
ついに京の桂川以西まで平定した三好軍に対する
織田の中国地方支配の牙城だった但馬が
織田支配から脱落したところを元春が襲って
丹波の赤鬼との合流を目指していたが
信玄死去を知り吉川軍は撤兵。
大和ではその後も松永久秀親子が織田へ反抗を続けた。
このへんすべて信長公記は隠蔽。
883人間七七四年:2013/01/19(土) 07:55:14.22 ID:kMt9BgK5
坂井政尚の討ち死には政尚の但馬取次ぎを通じて
中国支配を固めようとしていた織田にとって致命的被害となった。
なんせ中国地方戦略拠点である生野銀山利権を失ったのである。
手取川の戦い前に敵前逃亡した秀吉が中国地方へ
進出するまで織田は毛利の躍進にクレームすらつけられず
但馬は毛利領となってしまった。
秀吉兄弟の但馬占領によって背後から丹波へ援軍が
派遣できるようになって初めて苦戦する光秀の丹波・丹後平定への道筋が見え、宇喜多の調略が現実化し、鳥取城などの長期包囲の財政的裏づけが可能となった。
生野銀山を支配し経済的強者となった秀吉の野望の成就をも意味していた。
884人間七七四年:2013/01/19(土) 09:07:55.20 ID:A4M7G6jj
尼子残党や山中が織田方として但馬・因幡・伯耆で暴れまわってる
そもそも但馬守護代の山名は重臣の台頭と守護大名としての権威喪失でたいした力もなかったのが実情
885人間七七四年:2013/01/19(土) 11:04:17.19 ID:+bdqNW/H
但馬の山名って元々両属的で毛利派とはいえないだろ
宇喜多離反前の天正6年時点ですら態度がはっきりせず
吉川元春は「豊続が宵田を攻めた時出石より加勢があったなら…」
「敵か味方かわからない」などと不満を表してる
垣屋にしても光成は織田方
886人間七七四年:2013/01/20(日) 08:04:38.86 ID:pIUcpYOQ
武田を2度も撃退した村上義清と互角に渡り合ってた、高梨政頼はかなりの名将か
配下に有能な家臣がいたのかな?
887人間七七四年:2013/01/20(日) 12:32:08.17 ID:yx69/IO1
毛利は織田の乞食兵1万にびびるへたれだったということか。
888人間七七四年:2013/01/21(月) 02:45:14.27 ID:UsKnDHRh
>>884
えっ?尼子残党が大活躍してたのは元就死去前後の元亀2年であって
信玄上洛戦の時の尼子残党なんてゴミくずレベルだったのに何言ってるんだw
むしろ天正3年には再度の毛利但馬進出の口実に尼子残党が利用され、
危機的状況下の織田は毛利に屈して悔しさを滲ませながら容認してるじゃんよ。
これで味をしめた毛利は、義昭を奉じて再び、丹波の赤鬼との合流を目指すまでに成長。
>>885
両属って・・・無知すぎだな。しかも天正6年すらってどういう意味だよ。
お前タイムスケジュールすら理解できてないだろ?
天正6年は秀吉による但馬平定が完成した年なのも知らんでいい加減なこと書くな。
信玄死去により義昭降伏を経て、義昭の受け入れ先をめぐる織田毛利の交渉で、
義昭の子の義尋に挨拶に来いと言った信長が
ついでに来春に兵を但馬方面へ派兵する意向を示した為、義尋という新大樹公を擁する大義の前に
正面衝突を嫌った毛利が織田が尼子を支援しない条件を勝ち取ったみかえりに
天正2年になって毛利は但馬の支配権から身を引いただけだし
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328637941/199
それは義昭上洛した時の永禄12年の織田軍の播磨・但馬侵攻の時は
2万の軍勢だったが、天正5年10月に秀吉が京都から播磨へ出発した際は
織田軍与力がなく、ほぼ長浜衆独力で中国へやってきていたから。
そこで秀吉は但馬銀山を早期制圧して資金面の貧弱さを補うべく
播磨から一気に奇襲北上しているが、その際の兵力はたった3000。
永禄12年の時は10日で養父・朝来郡18城を陥落させたが、
天正5年の秀吉軍は18日で両郡を平定して、前野長康に銀山支配を委任してる。
このあまりの強さと速さに出石有子山城の山名祐豊も毛利軍もどうすることもできなかった。
さすが天才秀吉である。完全にビビった山名に出石・城崎・美含・ニ方の4郡を
信長には黙って独断で安堵の条件を出してる裏で、北但馬各地の国人達へ夜も休まず
使者を派遣しまくって秀吉方に付くように説得しまくった結果、
天正6年春には山名氏政が土産をもって秀長の但馬竹田城へ訪問し但馬全域平定。
889人間七七四年:2013/01/21(月) 02:46:45.90 ID:UsKnDHRh
信忠の援軍も上月城に籠城する尼子を見捨てろ命令とセットで信長が毛利との決戦を避けただけで
秀吉はメンツ丸つぶれ。せっかく尼子軍と秀吉が共同して毛利の先陣でやってきた
宇喜多軍を撃破して上月城を落城させ播磨但馬両国を平定成功し士気があがってたにも関わらず。
そもそも三木別所が離反したのは赤松家臣として同列だった別所と浦上の関係を無視して
浦上の配下に別所を繰り入れた信長の失策が原因
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/535
さらに秀吉同様にほとんど準備もなく信長の気分で丹波へ派遣された光秀が案の定大敗して
秀吉は畿内との連絡も断たれる中で独立勢力同然に孤軍奮闘していた。
絶望的なのは信忠の軍も東播磨の神吉・志方郡でチョコっと軍事行動したらさっさと帰り
(6/16に秀吉が上洛して報告→三木城の支城で神吉城は7/20落城し、それをみた志方城は人質を出して8/10開城)
三木城攻めは実質、秀吉軍独力でやっていた。毛利水軍の兵糧運び込みも阻止するために秀吉は各地に砦を造り毛利軍の排除を行っている。
しかも同時に光秀の苦境を救うために秀長の但馬衆4000を三木城包囲から抽出して西丹波へ侵攻させ
無茶な夜久野高原迂回奇襲で波多野氏が何ら手立てを及ぶ前に天田・何鹿郡をわずか7日で平定し、
波多野氏の本拠地の氷上郡へ乱入。これに光秀軍も合流してきて落城に追い込む。
天正7年に入り、吉川元春が但馬攻略を目指し「八木・竹田をまず抱えて」と竹田城に付随する銀山再奪取を目指し
毛利方に呼応した但馬衆と合流すべく8月に但馬へ大軍で侵攻してくるが
元春の背後の南条元続と宇喜多直家を秀吉が調略して元春の背後を封鎖し、
元春に味方した因幡の山名豊国の動向すら怪しくなってくるし、丹波派遣中の秀長軍も来援との風聞を流す。元春が逃げ帰る中で、
毛利に呼応した西播磨の国人達を制圧するや毛利方に呼応した但馬衆は秀長6000でフルボッコ、秀吉は因幡へ侵攻開始。
890人間七七四年:2013/01/21(月) 10:27:43.94 ID:kjYXA9lE
>>888-889
俺が読んでる文献にはんなアホな妄想書いてないんだがソースを出してくれ
891人間七七四年:2013/01/21(月) 10:35:36.73 ID:kjYXA9lE
天正5年10月23日 秀吉、信長の命令で中国を平定に着手、是日、京都を発す
播磨小寺孝隆の姫路城に入りて、同国諸士の質を徴し、更に但馬に赴きて、岩洲城を攻略する
12月3日秀吉、竹中重治、小寺孝隆をして、備前宇喜多直家の属城播磨福原城を攻略せしめ、自ら同国七條城(上月城)を囲み、之を赴援する直家と戦ひて、之を破り、是日、七條城を陥る、尋で、秀吉、尼子勝久、山中幸盛を播磨三木城より同城に移らしむ
12月5日羽柴秀吉、播磨龍野に入る、尋で、上京す
天正6年2月23日秀吉、再び播磨に入り、書写山に陣す、尋で、同国三木城別所長治、毛利氏等に通じ、兵を挙ぐ、
3月15日秀吉、播磨中島隆重等に基本領を安堵せしむ、
3月29日羽柴秀吉、別所長治を播磨三木城に攻む、
4月3日羽柴秀吉、播磨三木の属城同国野口を攻め、是日、城將長井四郎左衛門を降す、
4月4日織田信忠、摂津石山城を攻む、尋で、軍を班す、
4月18日吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲む、
4月29日信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援させる
5月1日 信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む、
5月4日 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5月6日信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5月16日羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5月21日羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、
是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5月24日羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報じる
6月16日羽柴秀吉、入京して信長に謁す、信長、秀吉をして、播磨高倉山の営を徹し、神吉、志方の両城を攻めしむ、
6月21日毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
6月26日羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す、明日、織田信忠等と共に、別所長治の属城神吉を攻めて克たず
6月29日信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7月5日播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、
尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、
7月7日織田氏の兵、毛利氏の兵を摂津木津の砦に攻む、
7月20日 織田信忠、羽柴秀吉等、播磨神吉城を攻めて、之を陥れ、秀吉、同城を守る
8月10日織田氏の軍、播磨志方城を攻略す、尋で、同国三木城を囲む
8月17日織田信忠、播磨より岐阜に帰る、
10月9日信長、摂津に出陣し、諸將を遣して、荒木村重を打たしむ、尋で、耶蘇会宣教師を遣し、同国高槻城高山友祥を誘降せしむ、
10月17日 荒木村重、新五郎父子、義昭、毛利氏及び本願寺光佐(顕如)と通じて、信長に背く、是日、光佐、村重と盟約す、
10月22日羽柴秀吉の兵、別所長治等と播磨三木城下に戦ひて、其弟治定を斬る、
11月14日織田氏の諸將、荒木村重を摂津在岡城に攻め、之を破る、
11月24日信長、摂津刀根山の塁に陣し、茨木城中川清秀を誘降す、尋で、瀧川一益等を遣し、同国兵庫等に放火せしむ、
12月11日信長、陣を摂津古池田に移し、將士をして、諸塁を守らしめ、羽柴秀吉等を播磨に、惟任光秀を丹波に遣す、尋で、安土に帰城す、
12月23日毛利輝元、荒木村重に援兵を遣す、是日、之を湯浅將宗に報ず、
892人間七七四年:2013/01/21(月) 11:59:27.83 ID:kjYXA9lE
史料総覧  毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
【管理番号】020100216456
【編/冊/頁】10編911冊179頁
【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、

晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下

荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判

巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
893人間七七四年:2013/01/21(月) 12:55:15.38 ID:BzWpvPih
但馬守護の山名あき煕は上洛して信長に謁見してるから明らかに織田方。
894人間七七四年:2013/01/21(月) 13:33:58.29 ID:kjYXA9lE
つうか山名は信長の援助もらいながら但馬に復帰してるんだから最初から織田方も糞もない
11/21今井宗久自筆書札留で宗久と山名が同道して岐阜へ下向しているのがわかる
4/19信長→山名入道、太田垣、八木、垣屋、田結で信長が山名を援助して銀山経営にあたろうとしているのが読み取れる
信長軍に追われた山名紹煕が許されて但馬入国するが、それは信長の監軍がつけられ
山名四天王が自立大名化を進める中、紹煕はその次のクラスの伊吹、下津屋、宮、森本などの諸氏を擁して国中に点的に勢力を及ぼす大名であった。
895人間七七四年:2013/01/27(日) 11:45:21.16 ID:D+gM8TUd
なるほど納得
896人間七七四年:2013/01/29(火) 23:29:52.95 ID:LFWBWXEL
たいして過大でもないだろ
信長には勝ったわけだし
897人間七七四年:2013/01/30(水) 00:14:08.61 ID:eHkKNaXi
釣りキター
898人間七七四年:2013/01/30(水) 21:37:59.65 ID:29IEg3PD
釣り堀で釣りして何が悪いと小1時間問い詰めたい
899人間七七四年:2013/01/31(木) 15:58:06.74 ID:ZQoSmjOY
>>898
釣り堀で釣りをするのは悪くないけど、ここは釣り堀ではないので。
あなたに釣り堀に見える、もしくは釣り堀にしたがってるのはわかるけど、そういう所じゃないんです。
900人間七七四年:2013/01/31(木) 22:08:22.89 ID:IG02+d8T
頭が悪いんだな
誰がどう見ても釣り堀なのに
901人間七七四年:2013/02/02(土) 08:17:31.09 ID:iWrQPZBO
信玄の話しやがれこのバカっちょどもが
902人間七七四年:2013/02/06(水) 00:14:54.06 ID:e/eXzc8s
信玄の寿命が10年延びても結局織田信長には勝てなかったな
田舎者には限界がある
信玄はちまちましすぎだし動きが遅い
903人間七七四年:2013/02/06(水) 11:01:57.40 ID:n5nhBrF2
そう言う書き方をすると、顔を真っ赤にして書き込む人がいるよ。
信玄は、遠征中に病死したので先があったと期待されがちだけど、自分も
あれが限界だと思う。
せめて、同時代に謙信や後北条がなければね〜。
904人間七七四年:2013/02/06(水) 19:37:16.41 ID:x9NI/D4p
武田厨の俺がこんなことを書くのもなんだが

そもそも信玄が信長と同盟を結んだ時点で武田家の命運は決まったよ
これ以降、信長は美濃平定や上洛と一気に勢力を拡大させた
これに対し信玄は駿河と他国の山間部に拡大した程度
しかも家康と敵対してしまうミスも犯している
上杉と北条を敵対しているのにあまりにも迂闊だった
これでは話にならん

さらに言えば信長と結んだせいで武田家は内訌を引き起こし
嫡男義信と多くの家臣を粛清する羽目に陥った

川中島で実弟信繁が討死しなければこんな阿呆な展開にならんかっただろうよ
つくづく信長と同盟しなければと良かったのに思う今日この頃
905人間七七四年:2013/02/06(水) 20:31:01.99 ID:sFTVdB76
相変わらず織田厨の一次史料なしの願望妄想の落書きレスは気持ち悪いな・・・
906人間七七四年:2013/02/06(水) 21:07:44.78 ID:XYmLg+mz
一次史料込でも無理ですやんw
907人間七七四年:2013/02/06(水) 22:54:35.42 ID:GrnWnJd4
いみ
908人間七七四年:2013/02/07(木) 07:30:46.79 ID:H0zps05J
織田厨の一次史料は嘘長公記だからなw
909人間七七四年:2013/02/07(木) 22:17:15.63 ID:7uh8btlq
え???
910:2013/02/08(金) 00:14:26.89 ID:42slJAnz
野戦に持ち込んだら信長に勝つチャンスはあったかな?
家康はやっつけたけどノブを野戦で倒せるかどうかだ
911人間七七四年:2013/02/08(金) 00:46:07.28 ID:MvzzqZKN
ホームじゃないと信玄って勝率低いし、よくて痛み分けなんじゃねえの?
912人間七七四年:2013/02/08(金) 01:02:59.54 ID:njGO0dXs
光秀や秀吉のような実力成り上がりは別だが(実際は信長が大きくなったから)
信長や家康・信玄・謙信・正宗は元々大勢力の嫡男クラスで持って生まれた運が
良かっただけ・・・家臣に恵まれたとか
凄いのは小身から身を起こしたのは2万石クラスが出発点の毛利元就くらい?
後は最初から何万分の1の宝くじに当たった幸運からの出発だろうに・・・
913人間七七四年:2013/02/08(金) 01:05:31.21 ID:njGO0dXs
真田信之・幸村も親の3男昌幸がたまたま真田の後継ぎになったから
世に出ることができた幸運・・・普通は格下で埋没していた
914人間七七四年:2013/02/08(金) 02:31:46.45 ID:U2cwV7Np
元就なんて大内や尼子の自爆待ちで火事場泥棒的に領土広げただけだろ
厳島の合戦も有田太井手の戦いも軍記にしかないデタラメ話だし
大友にも蹴散らされまくってるし戦は正直糞弱いと思う
915人間七七四年:2013/02/08(金) 02:51:06.32 ID:Z35nCwB9
大内と尼子の自爆待ちで
気付いたら当時の平均年齢50歳でみんな死んでて
自分が地域の長老になってたので
死んで他に誰もいないのでやむをえずみんなに推戴され
(元就視点ではもともと安芸の国人一揆の盟主の家柄だし当たり前じゃボケ国人どもめ!)
吉川も小早川も普通に跡継ぎいないから次男か三男くれない→いいよ別に!
大内義隆が陶の謀反を知り調伏の護摩焚いてたらマジに陶が殺しにきた→陶が山田事件起こす→石見国人謀反→討伐中に元就火事場泥棒→
厳島でなにやら占いや気をみたりする陶がここ数日は大凶だから休戦日だな!→大凶?関係ねーよと元就襲撃→卑怯なり元就ぃ!
→石見銀山ゲット!ってあれ晴久突然死→20歳義久は毛利をビビリ石見を毛利にプレゼントするから和睦しよ♪→石見の国人見捨てられる→
うっひゃひゃ銀を出雲国人にばらまけ和睦なんて関係ねーし侵略じゃ!

実際は水上兵力を含めれば毛利より少なかったりしてなw
なんせ当主を殺してしまったので主従が疑心暗鬼になり、まとまりにかける陶軍は石見で大苦戦して和睦せざる負えなくなったくらい追い詰められた軍だし
石見から強行軍で中国地方を縦断して進軍してきたら使役の割に褒美がもらえるかもわからんし部下も離散するだろう。
長門守護代の内藤氏すら甥と叔父が内紛中だし。
周防の残留軍は火事場泥棒した毛利にすでにやられてるし北九州にも一応は備えないとだし石見にも兵力を拘置しなきゃならん。
陶は背後に多くの火種を抱えて戦力集中はできないのは明白。周防の石高から6000も動員できないんじゃないか?
元就の壮年期はセックル大好きでひたすらガキを作りまくって成長後には親戚作りをやってたんだろう。
外交的にはことなかれ主義で主に大内の庇護と援助をうけていた。
家督問題介入で怒ってたが尼子にも良い顔をしたりと卑屈だが八方美人をしてた。
大内としても安芸守護武田の支配に対して昔から反抗していた国人一揆の議長役をしていた毛利を通して安芸支配を固めていた。
尼子も武田がダメなら安芸支配のポイントは毛利だとして吉川氏経由で支援して優遇していた。
要するに大内と尼子の勢力圏の緩衝地帯に毛利がいたってわけ。
だから双方の傘下に両属し厚遇された毛利はけっこう美味しい地位にいたし力を蓄える事ができた。
またセックル好きのおかげでガキに恵まれ自身も地域の長老になるとかなり有利になった。
毛利は典型的な他力本願タイプで寄生虫・宿り木・小判鮫をして主家が衰退するのを待って地位を簒奪したと言える。
毛利家は代々の安芸国人一揆の議長役という地位が非常に有効になったんだろう。
916人間七七四年:2013/02/08(金) 23:15:40.44 ID:uNfUNSI+
元就すげーな
917人間七七四年:2013/02/09(土) 19:18:58.89 ID:HQ8QP9Mh
>>910
家康の場合は信玄が数倍の兵力を持っていたから勝てただけであって
信長と直接対決を見込むなら少なくて同数、むしろ信長の兵力の方が多い確率が高い
で、信玄はこの「相手より多い兵力」と戦った経験そのものが乏しい。

上杉謙信や北条氏康に対しても、時間をかけて堅実に歩むような信玄だから、
自分よりデカい勢力である信長に対しては、さらに時間がかかる。
信玄の性格上、一か八かで信長と全面戦争するのは、まずないと言っていい。
信長に勝つにしても、美濃半分分捕るとかそのレベル、信長が致命傷を負うには至らない。

信玄が一旦信長と戦うのをやめたら、信長は足利浅井朝倉と潰せる勢力をボンボン潰して自領を拡大する
時が経てば経つほど信長有利になるし、信玄が死ぬ確率も高くなる。あのまま信玄が延命したところで
被害が多少変わるくらいでさしたる影響はない。信長を殺せれば、別かもしれんがな
918人間七七四年:2013/02/10(日) 00:03:19.26 ID:IJUCRo1d
>>917
じゃあ、家康は数倍の兵力の敵に野戦を挑んだバカということ?
家康を愚弄するのはやめなさい。
信長もそんな自殺行為を許すわけがない。
野戦で勝負できる兵力差であったことは間違いない。
それに畿内に反信長がいるからこそ信玄が動いたのである。
信玄はおそらく西の毛利と共同で信長を挟み撃ちにするつもりだったのだろう。
919人間七七四年:2013/02/10(日) 02:07:54.06 ID:Zk1BfVAU
>>918
お前社会で部下持ったこと無いだろ
920人間七七四年:2013/02/10(日) 03:17:13.86 ID:0HEx/2Y0
三方が原の戦いの、双方の顔ぶれから推測した兵数考察

・武田(約18,000人)北条(約3,000人)
・佐久間、林、平手、滝川(約9,000人)水野(約2,000人)徳川(約12,000人)

/武田、上杉は全兵力を投入できない為、自国の兵士はせいぜい18,000人程度が限度
/佐久間、林、平手、柴田は代々重臣の家柄
/戦略家・織田信長が相手より少ない兵を送り込むとは考えにくい
/洪水や退却中というのも恐らく織田側の情報操作、織田家武将の退却戦は定評あり

『総見記』元禄初年(1690?)
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆、都合三千
三方原合戦については谷口克広でさえ、このメンバーで3千人という
信長の援軍は少なすぎると述べている
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく

@劣勢な家康が出陣した理由

A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。

鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。

三方原については、

佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領

全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。

更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。


元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容

信長本隊
佐久間信盛軍団
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)

佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう
921人間七七四年:2013/02/10(日) 11:47:51.08 ID:rxedmyN4
>>917
援軍の水野信元は24万石の戦国大名だから、
5000人クラスの動員力がある。
総見記の織田・水野援軍の3千人なんて嘘っぱちだよ
922人間七七四年:2013/02/10(日) 12:21:37.43 ID:jWvDb+tz
何を根拠に多数の軍勢を動員したと思ってるのだろう…?
923人間七七四年:2013/02/10(日) 12:28:08.58 ID:rxedmyN4
>>922
当時の佐久間信盛がどういう地位だったか、
林秀貞、平手汎秀、滝川一益、毛利長秀、美濃三人衆、水野信元
の諸将がどのような兵力を有し、任務に着いていたかを考えれば、
その軍勢の規模は簡単に計算できるよ
924人間七七四年:2013/02/10(日) 13:11:40.17 ID:rxedmyN4
近江で諸勢力に追い込まれ守りに入っていた信長は、
西美濃と尾張全域から1〜2万の大兵力をかき集め、
NO.2の佐久間信盛に命じて武田信玄をくい止めようと試みた。
当時、柴田勝家は長島一向一揆に負傷させられ、
東美濃は武田家の勢力下に入りつつあった。

兵力で勝る織田・水野・徳川連合軍は鶴翼の陣を敷き、
兵力の劣る武田・北条連合軍は魚鱗の陣を敷いた。

結果は、前者の完敗だった。
925人間七七四年:2013/02/10(日) 13:45:48.79 ID:jWvDb+tz
>>923
動員可能数=毎回の動員数じゃないだろ?
926人間七七四年:2013/02/10(日) 15:02:17.03 ID:rxedmyN4
>>925
武将は十分揃っているのだから、
あとは予算が尽きたとか、危険すぎて募集しても
人が全然集まらないくらいかな。
927人間七七四年:2013/02/10(日) 15:10:55.35 ID:rxedmyN4
>>925
人員の確保はそれぞれが信長から安堵された所領に応じて
最大数確保することが各武将の義務であって、
そもそも本来は、 動員可能数=毎回の動員数
となるべきだよね
928人間七七四年:2013/02/10(日) 15:27:54.65 ID:zaBlaiKd
つーか、動員された兵員数が間違ってると主張してるのに、動員された武将の名前は正しいって前提で話してるのっておかしくね?
兵員数が信用出来ない適当な資料なら、動員された武将についても信用出来ないと考えるべきだろ。
929人間七七四年:2013/02/10(日) 15:39:35.62 ID:rxedmyN4
>>928
兵数は水増しできるけど、参加武将を水増しするのは、
著者にとって危険すぎる行為だよ。
子孫も沢山生きているわけだし。
逆に実は参加していたという話の方が載せやすいよね。
930人間七七四年:2013/02/10(日) 15:43:11.61 ID:rxedmyN4
それに総見記以外に載っていない武将は美濃三人衆と毛利長秀だけど、
それって総数の25パーセント程度。
931人間七七四年:2013/02/10(日) 16:11:09.04 ID:zaBlaiKd
>>929
兵員数だって「うちの親父がこんな少数兵力で手伝いに行かされるはずがない。当家を軽く見てるのか」って怒られる可能性があるのは一緒だろ?
932人間七七四年:2013/02/10(日) 16:33:40.01 ID:rxedmyN4
>>931
兵員数が多いと「織田家の援軍が多すぎる、徳川家を軽く見てるのか」と怒られる可能性が高いので、
天秤にかける必要があるね。
933人間七七四年:2013/02/10(日) 20:35:42.62 ID:zaBlaiKd
>>932
徳川家中を考えるなら、「実はうちの先祖も東照権現を助けにいって討ち死にしたんですよ^」とか主張したい人に頼まれて水増ししてるかもよ?
934人間七七四年:2013/02/10(日) 21:03:25.21 ID:4f5eKW3h
えーと、武将が討ち死にしたら記録に残るんだけどね
なんか凄い依頼だね
935人間七七四年:2013/02/10(日) 21:08:01.65 ID:4f5eKW3h
討ち死にしたのは平手汎秀と鳥居忠広ら家康の家臣
水増しは難しいよね
936人間七七四年:2013/02/10(日) 21:24:59.07 ID:T54VKmer
>>918
信長が浜松に籠城しろと言ったのわすれてないか?
937人間七七四年:2013/02/10(日) 23:53:11.73 ID:4f5eKW3h
>>936
信長は死に物狂い(兄弟を討ち死にさせるくらい)で
佐久間信盛は戦うべきだったと言っているね


一、一世の内、勝利を失はざるの処、先年、遠江へ人数遣し候刻、互に
勝負ありつる習、紛れなく候。然りといふとも、家康使をもこれある条、
をくれの上にも、兄弟を討死させ、又は、然るべき内の者打死させ候へば、
その身、時の仕合に依て遁れ候かと、人も不審を立つべきに、一人も殺さず、
剰へ、平手を捨て殺し、世にありげなる面をむけ候儀、爰を以て、条々無分
別の通り、紛れあるべからずの事。
938人間七七四年:2013/02/11(月) 00:21:49.63 ID:fK6fzY8V
>>936
ほう
劣性の軍にw
少数の援軍でw
重臣が多数かねw
犬死させたかったのかね、信長はw
信長公はバカじゃんw
939人間七七四年:2013/02/11(月) 09:41:09.44 ID:hCFc419D
>>934
とっくに死んだはずの人が出てきたりする家譜って多いじゃん。
有名なあれとかあれだって他の記録と完全に食い違う記録も多いのに普通に世の中に出回ってたんだから、総見記だけはそうじゃないって主張は無理っしょ?
成立年代が古くても、政治的な影響が記述にないわけがないし。
つか、あなたも政治的なことで兵員数が歪められてる、って考えてるんでしょ?
なのに、他は正確な記述だ、他の本と違ってたら他の本が間違ってる、って主張してるわけで。
恣意的な主張と見られても仕方ないよ?
940人間七七四年:2013/02/11(月) 10:23:17.36 ID:zgQgRruK
>>937
出撃したあとは頑張れということだろ
本願寺戦も佐久間のやる気のなさに激怒したわけだしな

>>938
何で籠城で討ち死にするんだ?
兵力で劣った場合籠城するのは戦略的に正しいよ
武田軍が深入りすれば挟撃も出来るしな
941人間七七四年:2013/02/11(月) 12:49:58.57 ID:URyfs50B
お前らただ言い返し合ってるだけだろ
もうちょっと論理的に話し合え
942人間七七四年:2013/02/11(月) 12:55:22.54 ID:URyfs50B
第3者が解かる様な文章書け

>家譜って多いじゃん
>有名なあれとかあれだって
>そうじゃないって主張は無理っしょ
>恣意的な主張と見られても仕方ないよ
>出撃したあとは頑張れということだろ
>何で籠城で討ち死にするんだ

あれそれ使いすぎ
前提がぼやけすぎて何を言いたいのか、
単体から推測しても、流れから推測しても、全然わからん
943人間七七四年:2013/02/11(月) 22:56:49.60 ID:AouNks2p
佐久間は織田家No1の地位だったから
唯一、家臣を代表して信長にも諫言や意見できた。
そんな佐久間を増長した信長には邪魔で仕方が無かったから
テキトーにデッチあげた罪状で放逐した。
信長末期は家臣にテキトーな罪状をデッチあげて領地没収をやっていた。
尾張や近江に領地を持つ佐久間は一番のターゲットにされた。
信長は領地没収し、親族や家老監視役を勤めてきた信長直臣へ与える体制へ移行している。
林の罪状はそのまま織田家No2柴田へも転用できるもので、
信長がもう少し生きていたら用済みとなった織田家家老の柴田も追放を免れなかっただろう。
信長直臣でなければ功臣であっても最後は追放・・・
信長から寵愛を受けた姉妹が亡くなったことで織田信澄への全ての強制譲渡を察した明智により信長は抹消され、
柴田と秀吉によって織田家は専断され簒奪された。
944人間七七四年:2013/02/11(月) 23:49:58.24 ID:CXUHKeKE
>>943
で、それが「武田信玄は過大評価されすぎ」というスレにおいて、なんの意味があるの?
945人間七七四年:2013/02/12(火) 00:21:20.66 ID:5nbEDsH3
>>940
だからね、
籠城しなければいけない状況で、
なぜ援軍側である織田が派兵する兵数が少ないにもかかわらず、
重臣を何人も送り込むわけ?
どう考えてもおかしいだろ。
例えば玉砕寸前の硫黄島に大日本帝国の中核を担う、大将や中将を送り込むか?
それが戦略的に正しいか?。
だから前提が間違っていると言いたいわ。
重臣が大勢派遣されることは、すなわち織田の派兵は大軍であり、
織田徳川で合わせて、武田と野戦でやりあえる兵数であるということが帰結される。
946人間七七四年:2013/02/12(火) 00:26:11.72 ID:qEwvi2Tc
なるほど。信長が義昭の二条城攻めにきた時、
1万しか集められず、二条城を攻めることすらできず
天皇に泣きついて和睦を取り持ってもらっていたり
細川宛書状には誰が敵で誰が味方かわからないと泣き言を
書いているのは織田家最強の佐久間軍団が信玄に負けた為に
皆が織田を見限ったということか。
947人間七七四年:2013/02/12(火) 01:40:51.98 ID:LNVKeKvE
>>945
まず徳川は玉砕寸前でもないし、佐久間らは重臣ではあるが大将に当たるようなもんでもない
ということだろ
前提が間違ってる
嫡子でも送り込んでたなら別だがなー
948人間七七四年:2013/02/12(火) 11:57:32.24 ID:egnoGxWJ
>>945
逆に劣勢だからこそ防御戦に定評のある佐久間を送ったと考えられないか?
949人間七七四年:2013/02/12(火) 22:39:06.95 ID:rGALwVlR
>>945
納得だな
信長公記よめばわかるが佐久間は、柴田と並ぶ織田家の大将
むしろ柴田より格上
林、平手は家老
重臣、大勢送り込みすぎだろって感じだ
>>948
佐久間って防御戦に定評なんかあったか?
戦場で最も困難とされる殿軍の指揮は、防御戦とは全然違うし
950人間七七四年:2013/02/13(水) 00:21:42.65 ID:wloN8bGN
>>945
小兵力の信玄が城に背を向ければ、織田軍は追うしかないわな。
まさか完膚なきまでに叩きのめされるとは、誰も思わなかっただろうな。
951人間七七四年:2013/02/13(水) 03:40:32.04 ID:tyNtFubw
退き佐久間
撤退戦に定評
言ってしまえば劣勢の防御戦に定評あるってこったな(撤退する部隊は普通は劣勢で防御しながら戦闘&撤退なんで)
むしろ少数精鋭を送った感じにも取れるな
で、お前の言葉使わせてもらうけどさ、多数の重臣送ったってソースはまだなの?
952人間七七四年:2013/02/13(水) 08:36:14.18 ID:JLkY/5od
>>949
撤退戦は防御戦だよ
953人間七七四年:2013/02/13(水) 18:40:31.14 ID:aii8er4E
>>949
>戦場で最も困難とされる殿軍の指揮は、防御戦とは全然違うし

味方が撤退する時、敵の追撃を防いで本隊を守ることが殿軍の役割
戦国時代の知識が無い素人にはわからないと思うけど
知るは一時の恥、知らぬは一生の恥ということだから勉強になって良かったね
954人間七七四年:2013/02/13(水) 21:11:27.68 ID:tKkvDJpj
>>951
いやだから籠城の前提で話をしてるわけでね。
なんでいきなり撤退の話に飛ぶの?
撤退を念頭に置いてるなら、最初っから派兵しないほうが戦略的に得策だろw
佐久間の援軍は武田の侵攻を食い止めるとのが本来の役割であって、
撤退戦とは関係ないからwww
それこそ家康を救出する目的なら理解できるが、
信長の本心は全員討ち死にしてでも、武田の侵攻を食い止めることだろwww
955人間七七四年:2013/02/13(水) 21:25:21.48 ID:wloN8bGN
>>951-953
撤退戦というのは、防御だけでなく退却の要素も加わる機動戦となるから、
陣地に篭って防御する防御戦とは難易度も考え方も全く違う。

撤退戦=劣勢の防御戦>>951

と、とんでもない定義をしている時点で、
織田を擁護する君らが軍事分野に疎いことが露呈したわけで、
状況認識が物凄く甘い理由も明確になった。
956人間七七四年:2013/02/13(水) 21:59:18.56 ID:aii8er4E
>>955
おまえ根本的に馬鹿だろ?
おまえ自身、撤退戦が防御戦ということを認めていることに気が付かんとはな
戦が理解できないのならいくら説明してもしかたがないな
957人間七七四年:2013/02/13(水) 22:05:17.00 ID:aii8er4E
>>955
ついでだ、おまえのレベルに合わせて>>955の言葉を使って置き換えてやる

>撤退戦というのは、防御だけでなく退却の要素も加わる機動戦となるから

○撤退戦というのは、退却だけでなく防御の要素も加わる防御戦となるから

少しは理解できたか?
958人間七七四年:2013/02/13(水) 22:19:22.41 ID:wloN8bGN
>>957
甘いよ。その程度の理解では戦国の軍事を語る資格は無いね。
その論法であれば、

撤退戦というのは、退却だけでなく追撃部隊に対する攻撃の要素も加わる攻撃戦となる

ということさえ言える。
理解及び分析が甘すぎるからその程度の認識になってしまう。
959人間七七四年:2013/02/13(水) 22:28:28.71 ID:wloN8bGN
理解、分析、判断、、
全て物事を分けたり、解体することから始まる。

撤退戦と防御戦を分けられず、同じものと判断しているようじゃ、
佐久間信盛の戦闘力も、武田信玄の軍略も、織田厨には一生理解できないだろうな。
960人間七七四年:2013/02/13(水) 22:29:34.53 ID:tKkvDJpj
>>958
いやだから甘いのは君だから。
あくまでも撤退戦は味方の損害を少なくするのが主目的であって、
そのために敵の追撃をかわす程度でしかない。
今回のような武田の大規模な侵攻を食い止めることには適してないからwww
961人間七七四年:2013/02/13(水) 22:31:15.36 ID:aii8er4E
>>958
>撤退戦というのは、退却だけでなく追撃部隊に対する攻撃の要素も加わる攻撃戦となる

お前はやっぱり馬鹿だ
「追撃部隊に対する攻撃」とは防御そのものだと理解できるか?

おまえが顔を真っ赤にしていくら喚き散らしてもこちらが有利になるだけ
おまえに戦国の軍事を語る資格は無いね
962人間七七四年:2013/02/13(水) 22:34:58.47 ID:wloN8bGN
>>954
まさにその通り。
佐久間信盛は家康と合流し戦うために派遣された。
信盛が篭城が上手いという話は全く無いし、
しかも城に篭る人数を増やすのは無意味。
963人間七七四年:2013/02/13(水) 22:39:26.29 ID:wloN8bGN
>>951
林秀貞、平手、佐久間、滝川、、
重臣ばかりだぞ。
964人間七七四年:2013/02/13(水) 22:42:05.01 ID:wloN8bGN
>>960-961
おいおい、どんどん論理が遠ざかっているぞ。
武田の大規模な侵攻を食い止められないのに、なぜ重臣を大勢送り込んだんだ?
いったい何しに来たんだw
965人間七七四年:2013/02/14(木) 00:13:57.07 ID:rznWy5C3
>>958
籠城でも敵に対して攻撃するだろ
だがは相変わらずバカだな
966人間七七四年:2013/02/14(木) 00:21:57.81 ID:rznWy5C3
あと兵力で優位に立っているなら武田軍が通り過ぎるまで城に引きこもるなど普通はしない
さっさと迎撃に向かう
つーかだがの言うとおりなら佐久間じゃなくて信長直々に来るわな
967人間七七四年:2013/02/14(木) 00:28:57.32 ID:rznWy5C3
>>964
一万の軍勢で籠城すれば武田は完全に足止めを食らうだろ
また素通りして三河に向かったとしても武田は常に背後を気にしながら戦うというリスクを負う
下手すれば挟撃されて壊滅するかも知れない
全ては信長の戦略だよ
968人間七七四年:2013/02/14(木) 01:20:15.89 ID:7GNGOM6V
信玄自身が手紙で”織田が徳川に援軍三千ぐらいおくるっぽ”って書いてるのにな
一次資料は絶対なんだろだがよwwwwww
969人間七七四年:2013/02/14(木) 04:01:25.73 ID:/Gnq3F7/
そもそも>>920
「織田軍の援軍の数はもっと多い、ソースは総見記」って時点でダメだろ
江戸時代の史料持ってきて一次史料否定とかどういう根拠があって言ってるんだw
970人間七七四年:2013/02/14(木) 05:16:18.25 ID:MxNAfLHJ
>>969
他の史料でも大体織田方メンバーは>>920の通りでしょ
971人間七七四年:2013/02/14(木) 05:32:45.75 ID:cmUICX3b
信長公記にあるのは佐久間と平手、水野だけだな
江戸時代に入って林が増やされて更に毛利と美濃三人衆が増やされとだんだん盛られてってる

一次史料には3人しか載ってない
972人間七七四年:2013/02/14(木) 05:35:23.03 ID:1WYuAdv0
っていうか「知るは一時の恥、知らぬは一生の恥」が気になる
973人間七七四年:2013/02/14(木) 11:38:44.40 ID:ETIMBP7s
>>967
だからね,
田舎の小城である浜松城に1万も籠城できないからwww
974人間七七四年:2013/02/14(木) 11:48:48.03 ID:ETIMBP7s
>>971
歴史は時間がたったほうが資料が整備され、真相がわかるものでしょ。
旧ソ連の実像や内部事情が20年前より今現在のほうがわかるようにね。
975人間七七四年:2013/02/14(木) 14:53:45.06 ID:cmUICX3b
>>974
んなこたーない
都合のいい事実ばっかを取ってきすぎ
同時代史料を集めてまとめてようやく整備される
旧ソ連なんてその典型だぞ
後、儒教が絡むと史料は質が落ちるってのは覚えとくべき
976人間七七四年:2013/02/14(木) 17:55:19.63 ID:7GNGOM6V
>>974
どんな史料が整備されて、林とかが援軍にいったって真相にたどり着いたんだ?
977人間七七四年:2013/02/14(木) 22:39:05.90 ID:3JouwL9u
>>969
まず織田の援軍三千人というのが嘘だよな。
佐久間、平手、水野で普通に1万くらいの面子だ。
>>968
その手紙、三千人討ち取ったの間違いじゃねーのw
978人間七七四年:2013/02/15(金) 00:09:28.93 ID:qPEZHkwS
>>972
つーか、一時の恥を覚悟して言うと、
撤退戦と防御戦が全然違うという事を知れて良かったよ
散々言っといてアレだが
979人間七七四年:2013/02/15(金) 00:41:08.65 ID:0H/2bNST
>>978
そもそも防御戦という概念がおかしいだろw。
基本は野戦か籠城だろw
そこに配置や陣形で攻める、守る、様子を見るに分かれるんだろw
撤退は派生的であって、攻め手でも守り手でも様子を見るでも状況によって発生するもんだろw
980人間七七四年:2013/02/15(金) 00:47:37.05 ID:0H/2bNST
>>975
>同時代史料を集めてまとめてようやく整備される
だから時間がかかるだろうがw
スターリンが在命の時はプロパガンダが流布するが、
死後はスターリンの実像が公開されやすくなるでしょ。
「歴史は後世が決める」という格言とその意味することを忘れちゃだめよ。
981人間七七四年:2013/02/15(金) 00:49:08.00 ID:qPEZHkwS
あ、防衛戦の間違い
982人間七七四年:2013/02/15(金) 00:55:45.64 ID:0H/2bNST
>>968
初耳なんだがw
もっと詳しく教えてよw
まさかフカシじゃないだろうねwww
983人間七七四年:2013/02/15(金) 01:11:43.12 ID:0H/2bNST
>>966
>あと兵力で優位に立っているなら武田軍が通り過ぎるまで城に引きこもるなど普通はしない
いやするからw
籠城組と別働隊に分ける場合あるよ。
三方ヶ原の仮説の一つとして別働隊( 織田の大軍)と籠城組(家康)で信玄を待つ。
別働隊で武田を誘い込んで、そのタイミングで籠城組が出撃し挟撃の可能性もあるね。
まあ、信玄が返り討ちにしちゃうんだけどwww
織田の援軍が大軍だと仮定すれば、実は多くの謎がとけるんだよ。
なぜ、織田は三方ヶ原後は身動き一つとれなかったとか、
なぜ、勝頼にビビり、対武田に慎重になったとかね。
援軍が大軍なら佐久間の追放も納得ものだわなw
984人間七七四年:2013/02/15(金) 03:32:45.50 ID:IwyeMYgx
願望だけで勝手に話を膨らますな
それじゃ単なる妄想だ
985人間七七四年:2013/02/15(金) 10:11:34.05 ID:brwg9NvM
>>980
おそらくお前がおもってる意味は間違ってるだろうけどな
それより>>976に答えろよ

>>982
いっつもフカシてるお前だからそうおもうんだろうけど、残念ながら違う
つかそんなことも知らないでよくそんな吼えまくれてたなw
986人間七七四年:2013/02/15(金) 12:42:31.83 ID:y/xb2VUN
ソ連崩壊の場合は野坂がスパイだったとかみたいに「一次資料」が新たに見つかっただけだろ
だがは相変わらずアホだな
987人間七七四年:2013/02/15(金) 12:47:54.47 ID:y/xb2VUN
>>983
お前の作戦なら織田軍は三河方面に置くのが普通
挟撃部隊が何で徳川軍と一緒になって追いかけるんだ?
988人間七七四年:2013/02/15(金) 16:55:58.29 ID:IwyeMYgx
儒教全盛の時代は前提が勝手に固定されるんだよ
江戸時代なら家康は強い、それに勝った信玄はもっと強いって感じで
その整合性を合わせるために前提を作るから林とか美濃三人衆が援軍に来たとか勝手に話を作るの
理解した?
989人間七七四年:2013/02/15(金) 19:27:09.50 ID:fhf5qH/R
>>978
いや、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」の間違いなんじゃないか、と。
990人間七七四年:2013/02/16(土) 00:02:23.37 ID:IocEz6Di
織田厨ズタボロだな
>>968>>985
早く根拠の書状出せよ
どうせ逃げるつもりだろーが
991人間七七四年:2013/02/16(土) 09:34:47.79 ID:UC88oiW4
>>990
>>985の要求にこたえたら教えてやるよ
まあ、そうやって要求し続けて、俺が教えないのを良いことにして、逃げた!とか勝ち誇れるから絶対に応えることは無いだろうけどな
992人間七七四年:2013/02/16(土) 21:00:52.32 ID:gEaX7Ycp
968と985なら
普通は>>968の方が先に答えるべきだよな
993人間七七四年:2013/02/16(土) 23:22:28.47 ID:gEaX7Ycp
>>991
というか良く見たら、
968は手紙があると「断言」してるんだからすぐ出せるだろ

985の要求も簡単な話、
松平記、明智軍記、佐久間軍記等、時代が下がれば下がるほど、
史料の数は増えている
9.11事件でもそうだが、時間がたった方が正確な情報が集まるのは必然かと。
横レスだけど答えられる範囲でこちら側は答えたんだから、そちらも書状よろしく。
994人間七七四年:2013/02/17(日) 01:58:33.36 ID:2SDYnfpx
信玄が三河城をスルーせずに家康を殺していれば、俺は今頃・・・
995人間七七四年:2013/02/17(日) 04:59:45.24 ID:8EY9I+y/
史料の数が多くてもそれが正しいとは限らない
そもそも史料の数として重要なのは同時代史料である一次史料の数
軍記物が何冊増えようと正確にはならない
996人間七七四年:2013/02/17(日) 07:56:38.93 ID:DzeHdgY5
>>993
江戸時代にまともな史学研究して論文書いてるとでも思ってるのか?
そもそもお前さん、一次資料以外は価値ないっていつも言ってるじゃねえか。
997人間七七四年:2013/02/17(日) 08:59:35.25 ID:SvbEAYbW
>>993
ほう、軍記やらなんやらの二次史料な、それを整備?それで事実?正確?ふうん
その程度ってことだが、まあ要求には応えたな
手紙は戦国遺文な
こっちが恥ずかしいから”見当たらない””書き出せ”とかいうなよ?w
見つけられないならお前の能力を恨めw
998人間七七四年:2013/02/17(日) 16:44:15.19 ID:8CK5s6SH
>>997
東京堂出版の本で、全部で30巻近くあるじゃねーか
武田氏編だけでも1〜6巻あるぞ
なんでページを言わないどころか、巻数までごまかすんだ?
実は嘘言って逃げようとしてるだろ?
999人間七七四年:2013/02/17(日) 21:40:12.64 ID:Y81/4ahc
うめ
1000人間七七四年:2013/02/18(月) 03:12:58.34 ID:P/B00g7y
1000
10011001
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   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
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  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
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