1 :
人間七七四年:
スレ分散しても過疎るだけなので、
徳川家・松平家と家臣団まで包括するスレです。
人の一生は
重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
2 :
人間七七四年:2011/11/09(水) 03:27:20.68 ID:zp9vtnn7
('仄')パイパイ
3 :
人間七七四年:2011/11/09(水) 20:36:22.12 ID:bkXfL9XH
家康の天下取りは我々現代人に多くのことを教えてくれる。
幼少期の人質時代の屈辱。信長との同盟を守りきった律儀さ。
武田信玄との対戦。小牧・長久手での熟練した軍略。
豊臣政権下での着実な勢力伸張。そして文句なしの関が原での勝利。
天領400万石の圧倒的な徳川幕府。天下泰平250年。江戸は世界最大
の都市の一つとなった。
東京が首都となったのも、家康が始原。
死ぬまで階段をかけ上がった人生の達人。
4 :
人間七七四年:2011/11/09(水) 21:43:07.57 ID:+g4CjchI
1スレ丸ごと百姓来なかったから、死んだな。
おかしいヤツを亡くしたもんだw
5 :
人間七七四年:2011/11/09(水) 23:11:42.54 ID:FYWtzjPY
信長秀吉に比べると地味な人だね
6 :
人間七七四年:2011/11/09(水) 23:41:54.76 ID:QbdUsPii
地味…?
7 :
人間七七四年:2011/11/09(水) 23:45:29.25 ID:qPyKmT3M
趣味嗜好は地味だね
秀吉みたいに、黄金の茶室とか作ったりしないし
8 :
人間七七四年:2011/11/09(水) 23:49:30.64 ID:QbdUsPii
でも着物か鎧は金色があるんだよな家康
9 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 00:03:30.28 ID:o1SMRph1
天下人なんだから、一丁蘭くらいあるだろw
周りが遊んでる頃に、コツコツ勉強して国立医大行って
医師から総理になったみたいな人生だから派手では無いよな。
10 :
岡部正綱:2011/11/10(木) 00:04:12.17 ID:kK99q4J/
しかし竹千代は駿河遠江随一の知識人である太原雪斎から学問の手解きを受けたし、また今川家筆頭大老関口親永の娘をめとったから、カッコつき人質であり、辛酸を舐めたわけでもない
11 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 03:36:08.05 ID:OilMNT2V
人質をひどい待遇で扱って恨まれるよりは、
自国シンパにして返したほうがメリットあるものな
12 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 06:41:57.54 ID:MbHH5/TW
毛利隆元も超大内派だもんな
13 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 07:47:00.63 ID:OMaUYJU5
太原雪斎の教育を受けたのはものすごく大きかったと思う
信長公や秀吉が中卒高卒のチンピラ経営者なのに大して家康公は
一流大学を出た高学歴のエリート経営者のおもむきがある
14 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 09:03:55.98 ID:aJKZXXON
>>7 金鯱や銅瓦の天守に比べれば黄金の茶室なんて霞む
15 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 09:48:20.62 ID:x373BAT8
雪斎の教育を受けた、のも根拠ないんですけどね
16 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 12:45:54.15 ID:Hfyzixsu
信長:中卒叩き上げ
秀吉:チャラ大卒(早稲田?)の一発屋
家康公:マイナー国立大の苦学生から地道な出世 だろ?
17 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 14:55:23.41 ID:ciZTTx0O
信長=小泉純一郎
秀吉=田中角榮
家康=小沢一郎
こんな感じ
18 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 14:56:21.56 ID:DD5r9qSa
雪斎が家康を教育した=雪斎にそんな時間は無かったと思うが。
義元が、知識人の代表である僧侶を参謀として活用するのを見て、天海や崇伝を用いたと・・
19 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 15:23:22.58 ID:bQagP/7K
桶狭間の後に岡崎に逃げ込むけど、今川人質に
なったのはまだガキンチョの頃でしょう。物心ついたのは人質
時代だったとすると岡崎城の記憶なんてほとんどなかったんじゃないか。
とすると岡崎に脱出したのは親がいたこともあったし周りの老臣みたいなのが
「帰りたい」というのが強かったのかな。
それとも人質時代がやっぱり自分自身不自由で辛かったか。
確か奥さんや子供を残したままだよね。
結局取り返してるしこの頃はまだ不仲?でもなかったとすると
よほどの緊急避難的な岡崎脱出の理由というのが家康自身に
どこまであったかはちと考えるところかな。
20 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 16:18:11.41 ID:Q0lyVTG9
>信長=小泉純一郎 (郵政問題にして長期政権)
>秀吉=田中角榮 (えげつない事やって失脚)
どう考えても逆だろ?
>雪斎が家康を教育した=雪斎にそんな時間は無かったと思うが。
教育なんてのは、月に1度でもやって来て
ポイントを説教するだけでも、充分な効果があると思うのだが?
21 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 16:27:55.34 ID:ng6OHQNd
人に教わったからって出来るものじゃないよ
特に己の実力のみが頼りの乱世で生き延びるのは
秀吉は完全に無教養だったが誰も勝てなかったし
家康より教養のある人物だって山ほどいたが、やはり誰も勝てなかった
22 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 16:42:23.33 ID:aJKZXXON
秀吉の政権が長続きしなかったのは無教養故にと言えるけどね
23 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 16:54:08.43 ID:bQagP/7K
教養の意味にもよるわなぁ。
秀吉家康に共通するのは処世術や反面教師という意味での
学習能力でこれは今で言う「学校で習ったサインコサインなんか社会では
なんの役にも立たない」というのにも共通してくる。
東大出た偉い学者さんほど「秀吉や家康の人間的魅力」みたいなのを
軽視する傾向はちと感じるけどね。
そんなので天下を統一できれば苦労はしないみたいに。
このあたりは逆じゃないかと思うけどまあどうでもいい話。
ところで秀吉政権が長続きしなかったのは家康がいたからで
3代目にしっかりしたのが出れば足利や徳川みたいにそれなりに続いた
かもしれないけどね。あまり秀吉自体に短命の原因を持っていくのも
どうなんだろうなぁ。
24 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 17:08:15.26 ID:aJKZXXON
>>23 豊臣政権は秀吉個人に権力を集中させ過ぎている
それが故に朝霜の如く、消えて言った
ちなみに、同程度の時間を経た初期江戸幕府は年寄に
よる合議制が機能している
25 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 17:24:17.90 ID:Q0lyVTG9
1度集中させた秀次を、自らぶち壊しただけジャンw
んで淀も我が子可愛さか、浅井の復讐か
豊臣家を潰したwww
26 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 17:31:05.30 ID:x373BAT8
初代が死んだときに成人した後継者がいなかった、それだけだな違いは
まあ秀吉は自分で潰したんだが
27 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 17:32:29.47 ID:x3E77WCf
>>25 結果的に豊臣潰したの、あそこに集まってたら浪人連中じゃね?
28 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 17:52:45.55 ID:Q0lyVTG9
秀頼の成長が2倍の速さだったとしたって
猿がぶち壊したのは変わらないし
負けた後に3万石に減俸&最上の隣にでも転報しなきゃ
やっぱり潰されてたでしょ。
29 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 17:58:31.30 ID:bQagP/7K
>>24 まぁそうだけどそれは無教養とかとは少し違う問題かなとか。
大雑把だが急激な中央集権組織の完成には権力の集中は仕方ないだろうし
ましてや初代、それは秀吉が悪いとか無能力とかそういうようには
言えないのじゃないかということでね。
家康は秀吉システムの良いところを受け継ぎ発展したわけで
こういうとこにも家康の学習能力は現れてる。
家康システムを優秀というのならそれは秀吉が作った
超短期集中型システムの発展系としての意味が強いだろうし
秀吉は無教養で家康は教養があったとかとは無関係だろうし
両者の対比を1代で終わったと長く続いたで語るのはそれはまた
別で複雑な話にはなるとは思う。
徳川スレで秀吉かばうのもアレなんだけどね。
30 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 18:06:40.50 ID:MbHH5/TW
>>28 最上の隣ってのはいい場所だな
狐さんは相当恨みが有るだろうから
監視役に最適
31 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 18:55:16.71 ID:aJKZXXON
>>29 どうだろう、若い頃から政治やっているとそうでないとでは随分違うとおもう
後、秀吉が明を軽く見たのは漢籍に触れていないのも理由の一つかと
32 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 19:27:18.84 ID:bQagP/7K
>>31 教養という意味の中に政治史みたいなのがあったかどうか
だよね。
たぶん論語とか孔子とかそういうのがお勉強だったとは
思うけどそういうのがどう将来に役立ったか。
秀吉が明を軽視したかどうかはまた検討の必要があるだろうけど
関白就任後は室町とかの故実にもかなり触れているし
大陸の進んだ文化とかそういうのはある程度公家経由で理解はしてたんじゃないかな。
出兵の理由もこれまた複雑だろうけど、軽視した、のもあるだろうし
それがまた全てでもないだろしね。
明がかなり弱りかけてたなんてのはどこまで把握してたか。
実際タラレバだがもう少し時代がズレてれば明が秀吉に救援要請
なんてしてきたかもしれないし徳川への要請とは50年も違ってないぐらいか。
だから言うほど秀吉出兵は無謀で暴挙とは断定できないだろうし
明の最弱期に重なってたら日本が大陸の歴史に関与してたかもしれない。
あくまでタラレバだが信長の時と重なってたら案外すごいことになってたんじゃないか。
33 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 19:46:27.60 ID:aJKZXXON
>>32 論語や孔子を知っていると知っていないでは全然違うかと
中国の大きさを認識していれば、唐入など妄想としか思えないのだが
34 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 20:21:04.50 ID:bQagP/7K
まぁ家康からしてちゃんと学んだかどうかは明確になってないし
論語や孔子ってのはたとえで「道理」「理屈」のこども向けの
お勉強という意味程度だけどね。
中国の大きさや文化の先進度というのはそりゃ理解してたんじゃないか。
太閤とか金吾って読み方にも現れてるし。
だから無知で犯した暴挙じゃなくて知ってて攻めたのでしょやっぱり。
それをどう表現するかはする側の問題だろうしね。
ただわしらのお祖父さんたちも中国プラスアメリカに仕掛けたりしてるから
後での評価というのはなかなかこれまたむつかしいわなぁ。
35 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 20:26:11.38 ID:aJKZXXON
36 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 20:35:59.58 ID:OMaUYJU5
家康は関東に国替えになり、江戸城を大改修したときに巨大な書庫をつくり、
自分が持ってる膨大な蔵書を保管したらしい それを聞いた秀吉が嫉妬し、
負けてなるものかとあちこちの寺社にお金を寄進し、その代わりにと価値のある書物を
出させて家康のより大きな書庫を作ったと聞いたことがある
37 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 21:00:45.13 ID:bRv9USzf
>>31 秀吉は側近の大村由己から儒学の講義受けてたよ
だから漢籍を知らないなんてのは有り得ない
まあ年取ってからの耳学問だけどね
雪斎本人の指導が有ったかどうかは疑わしいが、
寺で若年の頃から漢籍に親しんだ家康とは年季が違うとは言える
38 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 21:06:41.77 ID:aJKZXXON
情操教育は大切と言う事で
秀吉の育ちの悪さは天下取るまではプラスに働いたが、それ以降はマイナスだな
今太閤や、戦後からバブルまでの間、君臨した経営陣が良い例
39 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 21:58:59.09 ID:ODJ72MVm
>>37 だからその若い頃から〜ってのも不確かなのよ
だいたい寺に通っていたら漢籍に親しむのなら、
信長だってその記録はある
40 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 22:03:53.07 ID:aJKZXXON
信長はしているだろうな、真面目にやったかは疑問だけど
41 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 22:09:50.20 ID:bRv9USzf
『三河物語』か『松平記』のどちらだったかは忘れたが、
桶狭間の頃の家康について家臣たちが
「殿は人質時代に坊主の指導を受けて中国の兵法書を学んだ」
なんて噂されたという記述がある
少年時代の家康が寺で漢籍を学んでいた、
という通説の出所が上記であり、
この件については疑う余地はあんまりない
逆に言えば初出の時点で雪斎の名前が出てないので、
雪斎が家康の指導をしたという俗説は事実じゃない可能性が高いとは言える
後の天下人を禅僧が導いた、ってのは夢のある話だが
42 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 22:35:30.99 ID:0VuUdhFr
当時の禅僧は、経典よりも兵法書を読み込んでるのもいた。
雪斎は両方読んでたんだろうが、本で読んだ兵法をいきなり実践して見せた点では、大村益二郎並みの天才だったろう。
家康も、初陣や第2戦目の桶狭間の前哨戦で活躍できたのは、座学を実践に移す力があったからだと思う。
43 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 23:32:58.80 ID:bQagP/7K
家康が本を集めてたのは事実で死んでそれを
御三家に配って徳川園には文庫として今に残るからね。
半数以上が韓国中国のものだったか、さすが家康だわなぁ。
人質時代にやることないから勉強してたというのはありそだな。
野山を走り回ってた信長とはちと違うか。
ただ桶狭間の頃はまだ高校生ぐらいだから兵法を活用したとまで
持ち上げるのは厳しいかもね。
44 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 00:21:10.92 ID:xIZUu8A6
>>18 資料を分析したらほとんど駿府にいなかったようだと
本で見たことがある
45 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 00:22:29.77 ID:xIZUu8A6
>>19 一緒に駿府に行った年上の人間が岡崎岡崎と言ってたのが頭に染み込んだんじゃない
46 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 00:26:08.45 ID:SLNOzKoz
というか元来は自分の城だしな
47 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 01:37:07.39 ID:Q8ExZtbR
>>45 だろねえ、だから「待望の自国自城に帰った」みたいに
言われるけど意外と「初めて来た、見た」じゃなかったのかなってね。
48 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 01:46:49.11 ID:SLNOzKoz
元服時の一時帰国……
49 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 02:49:05.95 ID:Q8ExZtbR
そか、元服時に帰ってたのか。
ちなみにその後は駿府に戻ったの?
50 :
48:2011/11/11(金) 07:30:38.55 ID:z05NQ//I
駿府に戻ったよ
あと、元康の康は祖父清康の康だし、その祖父が獲った岡崎や父祖伝来の安祥には行かずとも思い入れはあったと思うが
51 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 08:48:07.87 ID:TNN70E3N
>>50 さんきゅ。老臣なんかは思い入れが強くていろいろ話したろうねぇ。
ただ帰れるかどうかもわからないからあんまり話すのも
かわいそうみたいなのもあったかなとか。
52 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 21:42:06.92 ID:w6TeOftQ
>>28 ヒット間違いなしだと思ったのに
何で学問の話になってるんだ、、、
53 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 21:59:25.50 ID:TNN70E3N
市の直筆が発見されたと言うね。時期から見ると怪しいけど増田学長だから
信用はできるのかな。
誰かあれ読めませんかね。「さきやう」って誰だろう。
54 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 22:42:01.90 ID:3VJ0MsI5
「さきょう」つーと左京大夫、となると細川(京兆)家だけど忠興は左京大夫にはなってないよな
でちょっとググってみたら浅野幸長が左京大夫だから、
時期にもよるけど幸長じゃね?
55 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 23:17:31.11 ID:TNN70E3N
>>54 ググってみたが、幸長が左京大夫になるのは1589で、もう市は
亡くなってるんだよね。
徳姫が嫁ぐのは1567で、その前とすると市が嫁ぐ前ぐらいかな。
とすると尾張時代ということになる。
その頃の「さきやう」とすると・・・?
56 :
人間七七四年:2011/11/12(土) 01:14:46.08 ID:m+zfTtQC
>>55 とりあえず家康の左京大夫就任は1568年だ
57 :
人間七七四年:2011/11/12(土) 01:24:57.25 ID:kMU8RSHy
なるほど。その頃市と家康の接点かぁ。
ところで細川は右京だわなぁ。
58 :
人間七七四年:2011/11/12(土) 03:32:05.29 ID:jnx3KFdZ
右近左近は有名だけど
右京左京は誰なのか知らんかった
59 :
人間七七四年:2011/11/12(土) 05:35:47.75 ID:A2/40o85
お市の実父とされる織田勘解由左衛門の弟・柘植左京亮のことでは?
60 :
人間七七四年:2011/11/12(土) 13:41:47.28 ID:nTlZAd5y
織田家伝に載ってる説だよね、お市の父の話。
だとしたらこの書が証拠になるかもしれないね。
この柘植左京亮というのが、左京亮、になるのは秀吉の
時というからこれはどうなんだろう、織田家にいた頃はなんと呼ばれてたか。
柘植というのも後に名乗ったみたいだけど三重の出身で
海の方にいたというのを見かけたことがある。
さて。
61 :
人間七七四年:2011/11/12(土) 19:55:13.58 ID:/eueVVoX
>>41 自分で補足だが、『武辺咄聞書』に以下の記述が有った
>家老物頭舌をふるひ「此君、幼少より臨済寺の雪斎にたより、
>兵書を読習給ふと言共、ケ程の明智はよも不出。
>生付給へる名将也。老前き頼母敷」と感しける。
若干信憑性に欠ける資料だが、これが雪斎師匠説の初出らしい
後は臨済寺に「家康公手習いの間」の遺構が残ってるくらいか
62 :
人間七七四年:2011/11/12(土) 20:46:39.28 ID:nTlZAd5y
>>61 ほ〜、勉強になるなぁ。
ところで清洲同盟時上洛までで1561〜68として
この間家康が尾張に行った記録はどのくらいあるんだろう。
信長の方からはあまり記録がないのかな。
63 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 08:59:26.25 ID:u6WjGNbb
>>60 柘植左京亮が天正十三年に任官する前から「左京」
を自称していたかどうかがポイントだと思う。
「関白任官記」の柘植左京亮、津田大炊頭
「歴名土代」の平重長、平吉広
が対になると思うけど、通説と違って
柘植左京亮吉広、津田大炊頭重長の可能性も考えられ、
柘植左京亮も「大炊」を称した説もあるのでややこしいけど。
64 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 10:33:28.14 ID:cgSEu4Zl
>>59 どこでされてるの?
市は信長の妹でしょ?
そういう説があるのは知ってるが、あくまでも異説でしかない。
そう言ってる学者の名を教えてくれ。
65 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 11:01:41.02 ID:jT7hvLRT
>>64 市は信長の妹扱いで政略結婚をしたのであって、
実の妹であろうがなかろうが学術的には重要ではないから
そんなことを研究している学者はいないと思うよ
66 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 11:43:36.66 ID:QYDARDmB
市は信長の従姉妹という説もあるし、異母兄妹という説もある
でもどっちにしろ、妹として長政に嫁いだんだよね
ところでここ家康のスレなんだが、どうして市の話になってんの?
67 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 13:59:30.64 ID:HEvFPVXV
>>63 天正13年とはかなり空くでしょう。
それに任官した位をその前に名乗るかどうか
「左京」が一般名?というのもあるしね。
それと織田にいた頃のこの人物が市が連絡するほどの
人物だったかという点もある。
年齢的に20代というのもギリギリぐらいだろうけど。
>>66 ごめん、言い出しっぺ。
ネタがなかったし、家康にも少し関わるかなと思って。
それと異説を唱える人たちがお江人気で結構取り上げられたりしてるみたい
だからね。そういうのがこの書状で「間違い」というのが分かってくると
ちと面白そうで。
一つの史料からたくさんのことがわかる実例というのもこれまた
珍しそうだし。
68 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 14:12:38.49 ID:jT7hvLRT
おそらく当該文書は天正十年か天正十一年ではないかと。
例えば佐久間信辰も「左京」を自称していますよ。
佐久間信盛は右衛門尉を自称していたが、後に正式に任官しているみたい。
69 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 14:13:24.28 ID:QYDARDmB
>>67 ああそういうことか
市と家康が何らかの交流があったとして
自分たちの子が夫婦になるって、その頃可能性の一つとして捉えられたりしたのかな
70 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 14:35:50.07 ID:HEvFPVXV
>>68 教えてもらったんだが上杉家臣の、後藤左京亮、に比定されているとか。
となると、い、も、とく、も上杉関連の女性というわけで市の書とは
関係なくなってくるね。
発表の場が場だし、増田学長の「もし」が勝手に拡大解釈されているかも
しれない、いい迷惑ってか。
邪馬台国畿内説でさんざんモメたからなぁ。プレス発表は。
71 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 00:52:50.30 ID:12n700aK
関ヶ原以後は武田や今川の旧臣も譜代ということになったがこのあたりは譜代って言えるのか?
準譜代と考えたほうがいいような気がする。
72 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 04:22:24.21 ID:wmNWXPBl
武田旧臣などは外様と30年程度しか差がないもんな
それでも譜代は譜代だ
73 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 05:59:37.53 ID:WIschtJV
厳格にすると三河武士だけが譜代になるが、それじゃまずいんだろう。井伊、水野(親戚だけど服属は遅い)あたりが譜代からはずれてしまう。
あくまで外様大名と区別する基準だからね。
74 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 08:07:43.64 ID:oQ40lCOU
話は別だが、
小室哲哉が今不幸だ
奥さんが脳出血でマヒだし
派手な生活をしてきたのが、今になって裏目となってきている
暴言吐きまくり自らは高給を取り、低収入者を嘲笑っていたレストランけんの社長も
消えた
人生というのは水戸黄門の歌のように、
山あり谷ありだよな
家康のように、理不尽な苦労に耐えて、
最終的に勝者になっても奢れることなく
清貧な暮らしをしていたからこそ、
徳川250年があり、今の日本がある。
その日本自体が、馬鹿な政治家のせいで
崩壊しようとしている。
家康を一万円札に採用して、
もう一度、家康を再評価する時ではないだろうか。
ちなみに、福沢諭吉の子孫が今TBSの番組プロデューサーをしていて、態度がかなり傲慢だそうだ。俺は偉いんだみたいな。
人の上に人を作らずではなかったのか?
75 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 11:18:27.14 ID:Dnri2brd
秀康母のお万の方っていつ徳川家に仕えたことになってる?
出産したのは浜松城のあたりだったろうが築山ってのは
浜松城には住んでないよね。
とすると築山の世話してたとされるのは岡崎時代ってことか?
そして家康の浜松移転時に連れてったということかな。
76 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 12:51:55.37 ID:gBUuYSPj
岡崎で侍女として手が付いて
瀬名に折檻されて忠勝に保護されながら
浜松行ったんじゃなかったっけ?
77 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 17:30:43.84 ID:WXEfcIX1
おまんさんはヤリマンで、自由にセックスしてた床上手で、家康公もちょっと試しに
やってみたら妊娠しちゃったらしい でも外出ししてたのでほんとにおれの子かー?って
疑わしいので家臣にくれてやったらしい ちなみに土井利勝もその手の家康の庶子らしい
って小説に書いてた
78 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 18:23:11.25 ID:T8xwcB3b
高くて美味しい物を食べていたら長生きできると思っていたが、
質素な食事のほうが長生きできることをしったのは家康から
79 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 19:04:17.30 ID:6xi96sQK
>>73 譜代・外様のくくりは時期によって変わると考えた方がいいだろうね。
桶狭間後の家康独立時に家臣だったものを譜代とすると、
奥平、牧野、戸田、菅沼といった東三河奥三河の国人も外様になる。
80 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 19:41:51.14 ID:WYnINF/n
奥平は親藩だろw
貧乏過ぎる食事でよく長生きしたよな。
薄味の味噌汁に、麦飯と野菜が少なめだろう?
当時だったら美食のほうがはるかにバランス良いと思うのだが、、、
81 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 19:47:08.55 ID:WXEfcIX1
奥平家には家康公が長女をあげてるんだよな
のちに天皇家ともつながる戦国覇王徳川家康公が最初に娘を嫁がせたのが
なんの由緒もないど田舎の弱小武将とは意外なものよ
82 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 20:00:59.01 ID:BCMMmSls
>>77 小説><
>>81 弱いときは手近なところにやっちゃうもんだね
規模はちょっと違うけど織田も息子の養子先が北畠とか神戸って
織田時代ですら特に重用されてもいない家に行っちゃったし
83 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 20:49:36.41 ID:VTbeIBnK
>73
基本的に家康(徳川家)研究は関ヶ原を境にしているようだから、
乱暴な言い方をすれば、それ以前が譜代、以後の臣従が外様になるって考えてる。
個人的には、清康が東三河攻めた時に臣従した近藤氏は松平の譜代と
呼んで良いのか?とか、気にはなるけど、研究されてないみたいだし。
流れ的には、清康臣従→次代の広忠が今川に臣従したので今川に臣従→
遠江侵攻時に家康の先導で、一応、表立って徳川への裏切りはしてないから
アリかなぁと思うんだけど。
一向一揆の時なんか一族入り乱れて敵味方だし、臣従しても裏切って
戻ってきたのがギリ関ヶ原前だったから譜代、なんてのもいるから、
関ヶ原以前の徳川家を調べてると、関ヶ原基準の譜代の括りに疑問はあるけど、
どの時点で区切るかってのは、何を基準にするかで変わるんだよな。
もうちっと初期徳川氏研究が進んだら、基準が出てくるかも知れないけど。
84 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 20:52:12.35 ID:VTbeIBnK
85 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 20:54:22.03 ID:UAZIxMej
真田信之も譜代だったような
>>76 それ重次
>>80 当時の美食だと塩分ヤバいんじゃない?
86 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 21:28:15.95 ID:WYnINF/n
塩田で作るくらいだから
有害なほど取れないんじゃね?
87 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 22:42:58.28 ID:Dnri2brd
>>76 折檻というのは信ぴょう性があまりないでしょうからね。
築山もずっと城外にいたしどの記録を重視するかということに
なってしまうのかな。
88 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 23:43:10.81 ID:12n700aK
厳密に譜代、外様を判断した場合は
家康独立時に家臣だった者→譜代
それから関ヶ原の間までに徳川の家臣になった者→準譜代
以下、外様
という感じかなあ
89 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 23:48:52.07 ID:tIyPB9Wo
折檻の件も築山殿と作左がいた所はその当時違うし変じゃない?
という説もあるけど、当時作左はずっと家康と同じ所にいるんだっけ
まあ折檻も、築山殿悪妻説でただの信憑性の薄いホラ話だと思うけど
90 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 23:59:19.20 ID:VTbeIBnK
「よし、殴りに行こう!」と思い立って、
岡崎から浜名湖西岸の中村屋敷まで
やってくる、アグレッシブな築山殿も嫌いじゃないわ。
91 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 00:01:34.18 ID:H71vQ+kw
>>90 そこまでアグレッシブなら、家康に直接物申すんじゃw
しかし別居みたいに見えるけど、嫡男は別の城を任せて
でもまだ若いから、養育も兼ねて母親である正室も一緒に置いておくってのは
ここだけ見ても、あまり悪いことじゃないよね?
92 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 00:25:27.41 ID:Or7SOoI+
母と子って一緒に住んでたっけ?
ともかくも、小姑と不満タラタラ嫁がいて父が仕事で多忙では
子供はやってられん。
切腹事件は親子不仲説が現代ドラマみたいであれだけど
家臣掌握とか信長に対する遠慮とかが入り交じって
行き着くとこまで行っちゃったってやつかなぁ。
この頃は親子でこういう話はよくあったのかもしれないし
その後おかしな引っ張り方をしなかったのはさすがとは思うけど
家康の最後の一族存続にかける執念はなんか尋常じゃないもんがあるしなぁ。
93 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 00:33:43.32 ID:7WsILYcq
築山殿の場合、城内には住んでないけど、家臣たちが挨拶に行く程度には
公人として意識されている立場なので、そこをどう捉えるかで
判断が別れるところだと思う。
伊奈忠次の姉が築山殿の侍女なんだけど、築山殿の訃報を知って
殉死してるから、悪女というほど性悪でもないと思うんだけどね。
94 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 00:41:15.19 ID:Uk/BzYdA
城の裏にある築山って話だけど、
岡崎城って結構平地だよな?
どこの城?
95 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 01:29:34.15 ID:VRhmLHTb
明治の初めころの小説家によると、
築山御前がお万の方を全裸にして、木にくくりつけた上で馬の鞭で叩いたらしい
そこを見回り中の本多作左衛門が発見し、自宅にかくまったということだ
ちなみに、お万の方の女性器は大変美しく、それがもとで女性器の俗語が
生まれたらしい…とウィキペディアに書いてあった
96 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 01:30:46.06 ID:7WsILYcq
私が読んだ本(郷土史系)だと、今の岡崎城の二の丸外周辺りにあった尼寺とか。
そこの庭だか離れだかを改修して、住んでたと書いてあったな。
そん時盛り土したから、「築山」だと思ってた。
あ、でも何処に住んでたかはハッキリした史料は無いんだっけ?
惑わせてごめん。
岡崎城自体は、竜頭山ていう山の峰を切って造られたと地元の方から聞いたから、
戦国期はもう少し平山城に近かったのかもね。
(平山城と平城って厳密な区分はないらしいんだけど)
97 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 01:38:08.11 ID:7WsILYcq
ウィキペディアは昔、大樹寺に信康の墓があると書いてあったので信用ならんw
98 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 01:51:06.21 ID:koJfYPZH
>>92 べったりして滅亡した豊臣に通じるところが
99 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 06:11:20.51 ID:2wsYoaPE
若い時に遊び楽しみ、40歳以降は平凡な人生を送るような普通の一般人に多い生き方を選ぶか、
逆に若い時は苦労をして人生の辛苦を学び、40歳以降は大器晩成として大輪の花を咲かせたかのような生き方を選ぶか。
人生楽あれば苦あり。
家康の場合は、好き好んで苦労したわけじゃないよな、苦労せざる得ない環境だった。
でも、最終的な勝者は家康になった。
神様がいるのか、誰を勝者にすれはよいのかを神様が選んだとしか思えない程、
家康の晩年の人生の上昇は異常。
100 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 09:33:24.36 ID:khsarIbr
あの時代に若い頃に遊んでいられるような余裕のある境遇を持つ武士がいただろうか
家康に負けたものたちは皆若い頃に苦労していなかったのだろうか
101 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 14:14:41.19 ID:BrLoCZiy
折檻の話は完全にオカルトだけどね、岡崎にいた築山さんが
浜松城の木にくくりつけられるはずもない。
ウィキは、家康と信長が共に幼少時代をすごした、とか
共に天下を誓い合ったとか小説ネタで書かれてるからなぁ。
歴女のウィキ史観ってやつだ。
102 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 15:28:13.55 ID:345sgPP0
でもたぶん家康公が自分の子かなあ〜って疑ってたのは感じられる
ずいぶん長いこと認知しなかったし、長男信康が死んで最年長になったあとも
まったく後継者候補になってない
そこからおまん様がセックス大好きやりまん女伝説が生まれたのだろうか
103 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 05:25:26.98 ID:rFA14lpM
信康と秀忠と20年違うんだっけか。
そっから30年以上たってさらにワラワラ作ってるし。
ただ、マジ話だが、「氏」をつくらなかったのは誰か論じてるか?
「天皇賜姓」が豊臣以降ない、という話なんだが。
価値でいったら、将軍、なんて織田のうつけですら追放できる
しょうもない仕事だし、今でも「万世一系」は価値があるでしょう。
これは、結構重大な話ではあると思うんだがね。
二重公儀制なんてのとはレベルが違う話で。
104 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 10:35:58.16 ID:RGyRKUfq
家康の子供は、秀忠と御三家初代の間で長生きしたのが忠輝だけなんで(夭逝または忠吉のように成人後若死に)、家康は、晩年になっても頑張ったんだろうね。
海狗腎とかの精力剤も使ってたみたいだし。
あと、家康は、熱烈な頼朝ファンだから、源氏を名乗って征夷大将軍になれればそれでよかったんじゃないかと。
将軍がしょうもないかどうかは、実力によるだろうしね。追放といえば、廃帝とか島流しの天皇、上皇もおられたわけで。
105 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 12:17:03.64 ID:O/hMqzEL
>>74遅レスだが気になったんでw
「天は人の上に人を作らずというのは嘘である」が本来の言葉なので
福沢諭吉は現代でいわれえているような平等主義者ではありません
「上になる者そうでない者の差は教育によって作られる。だから学問が大事である」
これが、学問のすすめの著者である福沢諭吉の思想
106 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 14:35:33.58 ID:x8ClyEu/
>>105 そういう間違った解釈はよくあるよね。
エジソンが「99%の汗と1%のヒラメキ」と言ったのは、
努力が大切というのではなくて、
「いくら努力してもほんのちょっとのヒラメキがなければどうにもならない。
ヒラメクかどうかが成功するものとそうでないものの決定的な違いなのだ」
と、続いている。
スレ汚し、ゴメンな。
107 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 16:31:35.98 ID:FVxYrTWo
だから「平民になんぞ娘はやらん!」ってなったんだよなw
108 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 18:34:44.80 ID:3+9BkqVS
>>104 晩年がんばって子供作ったのはお家存続に賭ける
執念と周到な準備ということなんだろうが100年ぐらい後に
機能するところがすごい。
吉宗のマネした御三卿もすぐあとに機能するし。
将軍職というか源長者というのが結構重要で
どっちかというと藤原の手法の長所を狙ってたんじゃないかな。
天皇ベッタリにもならずしかし社会変革的なこともしない
平和で安定の中にお家存続を図ろうとするというか。
平和主義者とか国家のために尽くした聖人とかとは
思わないが「お家の都合しか考えない引きこもり一族」
みたいな八幡もアホな見方だろうなぁ。
109 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 18:36:37.40 ID:yNdTr83M
家康関連でいえば「農民は生かさぬよう殺さぬよう」は
元は正信の「百姓は天下の根本也。飢えず、困窮せぬ如く養うべし」らしいが、どうすればこう解釈できるのか……
110 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 18:52:54.21 ID:c58cns39
>>103 由緒ある源氏の長者になることで、ぽっと出の豊臣なんかとは違うんだということを
アピールしたかったんじゃないかな。
111 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 19:38:37.29 ID:gi9oZ//3
>>109 為政者にとって百姓とはそれ程までに恐ろしい存在である事
112 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 19:57:24.37 ID:6UrHqh51
>>109 百姓から年貢を取ることは鷹に肉を与えるようなもの
多すぎてもいけないし、少なすぎてもいけない
百姓共は生かさぬよう殺さぬよう
という話だったと思う
113 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 21:57:52.97 ID:6KwXsqpI
「農民は生かさぬよう殺さぬよう」の元ネタは、『本佐録』の
>先ず一人ひとりの田地の境目をよく立て、
>一年の入用作食をつもらせ、其余を年貢に収べし
>百姓は財の余らぬ様に不足なき様に、治る事道なり
でしょ
「百姓は天下の根本也」云々という美辞麗句は本論の前の単なる前フリ
114 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 22:32:18.19 ID:3+9BkqVS
>>110 微妙なとこだが、本当は源氏につながるものでもないから
家康初代にした新たな「氏」創設にすれば、消滅したーさせた豊臣よりは
完全に上になるし源平トウキツと同格になるからね。
やはり天皇家を規定した以上はそこからの「賜姓」というのは
かえって天皇家の価値を高めることにつながるからそれを
あの時点では避けたのかなと。
そうでないとそれこそ易姓革命みたいな手法しかなくなってくるけどね。
後に国王は天皇か将軍かとかそういう問題が起きてくるけど
このあたりの曖昧さが逆にうまいもんだとも思える。
115 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 01:12:15.65 ID:FBjJkIS7
NHKの楽市楽座で言ってたけど
信長が大枚はたいてやった常備軍の意味がイマイチ分からん。
繁農期の負担率さえ下げるとか
近隣国から手伝いさせたりしたら
何とでもなるんじゃないのか?
116 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 06:44:30.64 ID:ovREzery
>>115 大まかな答えだが、いろんなメリットはあって
相手が農繁期に攻めていければその分有利。
それと鉄砲とかより高度な専門部隊はやはり専門職でないとできない。
農繁期の負担率とか近隣国というのがよくわからないけど
農業の効率は昔は悪いからそんなにコントロールできるものでもなくて
やはりこれも人数は確保しておかないといけないのだろう。
近隣国から手伝わせて裏切られたりしたらかなわんしね。
というか、信長の常備軍というのがもう少し具体的にならないと
検討しにくいところはある。
織田のみならず武田とか他でも普通に常備軍はいたという考え方もあるしね。
117 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 08:30:41.02 ID:3M84nubm
信長公の常備軍っていうのは金で雇った兵で、派遣・アルバイト
武田や上杉の農民兵こそ正社員
責任感や愛国心があり、命がけで戦ったから武田や上杉の軍は強かった
信長公の兵は自分の命を捨てて戦うということがない 圧勝しないと逃げる
118 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 10:01:38.85 ID:B6N5xRgl
あれは半農半士を専業武士にするか専業百姓にするかって話だと思うんだが
あと村人ってのは村の軍事・治安も担うセミプロで、愛郷心もあるから強くて粘りがあるのは確か。
だけど例えば武田の百姓は村の世紀の構成員を戦争に出すのは嫌がって、
今で言うフリーターを雇って村人ってことにして戦争に送り出した
当然士気は低くて、武田家からちゃんと村の構成員を出すようにってお触れが出てたりする
119 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 10:30:48.36 ID:pfv9mNz/
そもそも常備軍という言葉が西洋軍事史のものだから誤解を招く
日本のはその実際から常駐軍と呼ぶべき物
120 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 15:09:19.69 ID:ovREzery
そういうのには賛成だな。
最近やたら方面軍とか司令官とか見かけて
谷口本の影響だろうがゲーム世代に使われてるみたいなんだな
口当たりもいいし。
ただ当時から使われてたわけでないしいかにも近現代的な
軍や兵とミスリードになってしまうんだな。
「決戦」という単語もあまり正確でないという論もあるし
少なくとも信長が最先端とか天才という文脈においては
あまり使用したくはないわな。
121 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 15:35:03.42 ID:hBz14nQR
>近隣国から手伝わせて裏切られたりしたらかなわんしね。
意味不明w
簡単に言えば、籠城も鉄砲その他訓練もしてない時期は
兵も百姓も同じわけで、だったら無駄な出費をせず
農地へ帰してやれば、効率的だろと思う。
農具を持つか、武器を持つかの違いだけ。
この理論が崩れるには、徴兵が何日も掛からないといけないが
城から遠く離れた農地なんて、そんなにあるのか?
122 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 15:39:24.95 ID:4Bk8K0Me
あれ? ここ家康公のスレだよね?
123 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 16:09:32.30 ID:ovREzery
>>121 あぁ、近隣国、自体がよくわからなかったからいい加減な
オチをつけたんだが、例えば信長が美濃を制圧するでしょう。
中級武将は寝返ったり信長につくわけだが実はその家臣とか
農民さんが略奪狼藉されて織田にウラミをもつものがいたかもしれん。
この頃はまだ天下人どころか「織田のうつけについに征服された」ってものだろうし。
だからいろんな農民ー武士もどきがいて下手に信用したらリスクもあったかなということ。
細かいケンカみたいなのも記録には散見されるしね。
城から離れた農地の話だが、とりあえず城下町システムの完備は
もう少し後で岐阜は広いから農地は離れたとこにもあったんじゃないか。
すぐあとにフロイスの記録によるとすごい岐阜城下の家の数というから
やっぱりどっかから人が来たわけで尾張からの引越しだけとは限らないだろうし
岐阜の奥深い山村なんかからはその他大勢農民さんたちの息子が出稼ぎ?に来ただろう
というのはあるかもということで。
設問がよくわからなかったから勝手に当時の状況を推測してるだけだけどね。
1567〜9あたりで話してるんだがまたイミフな点があったら遠慮なく教えておくれ。
124 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 17:06:09.91 ID:3M84nubm
鉄砲ってのはなんか難しいと思ってる人がいるけど、刀や槍に比べれば楽なんじゃね?
やっぱ遠くからバンバンやってるだけってのは楽だよ
刀や槍は使い方は簡単だよ? でも実際に敵に近づいてやりあわないといけない
これは難しいよ 剣道家なんて何十年も練習してる この槍で敵を突いてください、
なんて言われてすぐできないよ 鉄砲はその点、遠くから打つだけなのでできるかもしれない
・・・鉄砲のほうがむしろ初心者むけじゃないかな・・・ 操作なんて1ヶ月で覚えられるでしょ
125 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 17:10:15.22 ID:hBz14nQR
戦の最中に内乱起こされるとまずい兵は、領地から徴兵して
農業手伝いは近隣国から募るのが普通と思うが
手伝い農に裏切られると、何かまずいの?
ただの夜盗みたいなのと同じじゃね?
126 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 19:20:40.66 ID:B6N5xRgl
>>123 農民、村に関しては相当したたかだよ
恨みつらみではなく、生きるか死ぬかが判断材料だから
うつけだろうがなんだろうが、領主として自分たちの生存権を保証してくれるなら従うし、
どんな善政をしても敗者ではなく勝者に付く
もし生存権を揺るがす事態があれば逃散をちらつかせて妥協を引き出そうとする
それが村という政治単位
127 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 22:23:17.03 ID:PgpE99s0
128 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 23:46:07.72 ID:ovREzery
>>126 もちろん同意だよ。
だからあくまで例外的に個人的にとかそういうのの
話ね。利害損得で割り切れないイミフというのは
どんな状況でも発生するし。
でないとどこぞのうつけのようにはさみうちになるわ
泊まってるところを襲撃されるわ大変なことになる。
129 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 11:09:41.60 ID:BnoYiRB5
そんな事言ったって、「兵出さんと攻めるよ?」
の一言で出すんじゃないの?
130 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 11:22:36.92 ID:DCYi8YZO
>>129 外から虎視眈々と自分の領地を狙う奴がいるのに、
内に敵を作ってどうする
131 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 11:50:16.66 ID:LW9QyfbK
ここって家康スレだよね?
スレ違いの話が延々と続いてるようだが。
132 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 12:16:29.45 ID:BnoYiRB5
同盟者信長が徹底したらしい兵農分離と
諸国の大名がやってた兵農未分離の
有効性について論じてるだけだろ。
133 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 12:26:38.70 ID:pDiJU5bD
秀吉が刀狩りをやることになった背景には結局ずーっと農民兵が
主力だったってことでしょ? そして農民兵のほうが強かった気がする
姉川の戦いで織田が少数の浅井軍へ、徳川が多数の朝倉軍と対戦し、
けっきょ徳川だけで両方撃退したってのはほんとのような気もする
どーも信長の金で雇われた兵は弱い気がする 責任感がない
農民兵って大事だったんだよ 信長の兵農分離ってそんなに有効でもなかったかも
134 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 13:04:17.99 ID:DCYi8YZO
常駐軍なら家康も三河統一期の段階で旗本先手役として保有している
135 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 15:10:00.37 ID:mhXWuYnY
「浜松時代の家康」という本をよんだんだが信長の方の研究家さんの
本とはかなりニュアンスが違うなぁ。姉川、長篠あたりは割り引いてというより
軍記物扱いしてる人も多いから。
徳川に詳しい方はフロイスの本なんかはどういう感じでとらえてる?
136 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 15:32:29.06 ID:DCYi8YZO
>>135 ぶっちゃけフロイスは織田領国以東については碌に記録していない
家康も「三河の王」という認識だけだし
137 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 17:18:07.40 ID:mTIMSBXw
138 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 17:19:07.83 ID:pDiJU5bD
139 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 17:31:35.47 ID:DCYi8YZO
140 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 17:38:26.54 ID:mhXWuYnY
>>136 みたいね、だもんで「誇大妄想的な報告書」と見るか
そこをうまく割り引いて「客観的な記録書」と見るか。
最近は訳も増えてきてそれなりに評価をしてる人も
多いみたいだけど織豊期の研究家さんでも意見の
分かれるところだから徳川の方ではどうなのかなと思ってね。
141 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 21:12:38.56 ID:DCYi8YZO
触れていないのものを評価のしようがない
天下をとった後の宣教師やイギリス・オランダの評価ならあるけど
宣教師がキリシタン禁教前後で好悪を180度変えつつも、それなりに
評価しているのを見ると、司馬の家康評を見ている気になる
142 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 23:07:48.21 ID:mhXWuYnY
家康様自体に関してはそうだろうね。
織田に詳しい人でも徳川の記録を軽視してあまり読み込んでないような
人がいてちょっと違和感感じる時もあるんだ。
逆に徳川に詳しい人は後の詳細な記録を知ってるからフロイスの文化風俗
その他の記録なんかを見て「どの程度客観的か」とかそういうのを
判断できるんじゃないかなとかね。
それとも徳川史?の研究は触れられてないからフロイスを
読んだりしないのかな。
だとしたら是非読んでもらって評価してほしいものだけどね。
143 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 00:33:05.59 ID:c9qBJoka
随分と偏見にもとづいた意見ですね
144 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 03:14:39.25 ID:hrnydZz5
しかみ像の家康が履いている
半透明の草鞋みたいなものは何?
145 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 03:49:39.28 ID:000pJZKZ
ただの白い草鞋でしょw
マジマジ見ると、
・太刀が鎌倉武士っぽい
・椅子が洋風
・足袋が白いし汚れてない
違和感有りまくりだなw
146 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 06:38:41.01 ID:55/YDnGg
まじまじしかみ像を見てみたが、
足袋じゃなくて草履の鼻緒が白いだけで裸足でしょ、
爪も描かれてるし
あと古刀は古刀でステータス
147 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 06:52:33.17 ID:000pJZKZ
大名でも素足に草履だったの?
どっちにしても足元キレイ過ぎる。
148 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 07:02:15.78 ID:oMymUpjF
家康公は倹約家だし、徳川家自体が質実剛健だからなあ
靴下もはかないことが多かったのかもしれない
149 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 07:29:06.61 ID:iF4PMDl9
>>147 絵師が汚れまで描かなかったのかもしれん
150 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 07:45:16.16 ID:Wt3lEaYq
>>143 いやそういうレスもらったからということで。
例えば姉川にしても「信長圧勝」と「十一段破られ徳川が助けた」ぐらい違う。
それと姉川の公記の記事は案外少なくて野田福島と同じぐらいだわなぁ。
だけど徳川の各記録をあまり評価してないんじゃないか、やっぱり。
それなら公記だって不確実だからそんなに簡単に「圧勝」みたいには言えないような。
死者の数だって正確性に欠くとは言われてるし。
長篠なんかもっと徳川の方は細かく詳細だが公記はシンプル
だけどあんまり徳川の記録と比較してる人はいない気がして。
なんか他人の研究領域には口出ししないという暗黙の了解
なのかもしれないがこうやって話してるとネットでも
かなり言い分?が違うものだから面白いもんだなと。
151 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 09:26:37.61 ID:oIFC6aoR
>>145 足は建物に入るときに洗うから、草鞋は後補
後、椅子は洋風というより唐風
152 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 21:30:10.66 ID:000pJZKZ
戒めにするんなら、ありのままのが良いと思うんだが、、、
153 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 02:56:34.69 ID:alH9JLJQ
あの時代ってけっこう裸足だった希ガスる
154 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 23:11:42.51 ID:PcrjTzX+
155 :
人間七七四年:2011/11/21(月) 04:27:34.74 ID:qW7sT3jb
元々家康はイギリスに対して江戸に近い横浜に商館つくれと言ったのにイギリスが中国との貿易の
兼ね合いもあるから長崎の方がいいって言ったんじゃなかったっけ
家康の着物を復元したら金ぴかになったという話もあるし、あの人は結構新しいもの好きで
おしゃれ好きだよ
156 :
人間七七四年:2011/11/21(月) 23:45:01.77 ID:DYO3rySB
ケチで倹約だったのは天下取るまで?
157 :
人間七七四年:2011/11/21(月) 23:45:48.08 ID:6MdIC1LA
天下とっても質素倹約してたよ
というか倹約家だけどケチじゃない 使う時は使っているし
158 :
人間七七四年:2011/11/21(月) 23:48:13.33 ID:iaail4rw
それはトヨタとか三河者の特徴だよ。
割に合うと判断したら、かなりの大金でも使う。
By,通勤時間7割カットの為に、
2割高い皇居そば在住の三河出身者w
159 :
人間七七四年:2011/11/22(火) 07:24:14.05 ID:CIHYS6oc
>>157 そこがポイントだよね 使う時はつかう バーッと
へんに着飾らないんだよね 自然体 ティッシュ用の紙を落として拾った話が
印象に残ってる 他の連中は落ちたティッシュなんか拾うなって笑ってたけど、
家康はこれが自分のやり方だと胸を張ってたらしい
160 :
人間七七四年:2011/11/22(火) 07:38:43.44 ID:Gf/56pNd
下帯(ふんどし)も、汚れが目立たない浅黄色にして、洗濯代倹約とか。
161 :
人間七七四年:2011/11/22(火) 08:12:28.89 ID:vwd165Si
そりゃ今でもケチケチした分結婚式派手だもんなぁ。
引き出物もでかけりゃいい、って新幹線の中でよく顰蹙かったもんだ。
三河というか尾張の方がすごい気がする。
162 :
人間七七四年:2011/11/22(火) 09:13:56.08 ID:ZzF4nAnB
163 :
人間七七四年:2011/11/22(火) 14:56:31.01 ID:8UNHW7cY
色付きなら洗濯も楽だろうがw
164 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 10:00:41.48 ID:6OXhfx1f
使うときは使うと言っても、その「使うとき」が主に戦場がターゲットだからなあ
唐の頭を付けておしゃれするとか、首をとられたときに恥をかかないように、
新品のふんどしを使うとか
信長を蒲原御殿に招待したときは、それなりに豪勢にしたみたいだけど…
165 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 10:47:21.99 ID:pVqALr/7
家康は常の衣装も豪華だが
166 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 12:37:30.98 ID:gSlXITcQ
167 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 13:14:34.78 ID:sv8hW1L6
人に会うときとか見せるときは力を見せなきゃならないから派手になるのは分かるけどね
駿府城なんて徳川家の威信を見せ付けるためにものすごい派手だったらしいから
ただ派手すぎて再建を諦めちゃったんじゃないかねwww
家康死後だしさすがに3回もあんな金かけられんと
168 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 13:41:18.18 ID:KeWpT/lq
>>164 そりゃまだまだ戦国時代だから、戦場がターゲットなのも当たり前なんじゃ?
秀次事件時の細川忠興に金貸したのだって、人心掌握だろうし
これこそが、ここぞという時に使う金だろう
169 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 13:46:38.32 ID:sv8hW1L6
計算はもちろんあったんだろうけど家康って平時でもちょいちょいいろんな大名の世話してるよね
恩を感じないわけが無い
関が原で唐突に家康派になったわけじゃない大名多し
170 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 13:50:50.58 ID:t+A9w713
蒲生氏郷にはケチすぎるからトップには立てんと言われたけど、
よく考えると蒲生氏郷はガチガチの前田利家派だからな
171 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 13:52:21.61 ID:KeWpT/lq
その前田利家の方がよほどケチという
172 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 15:19:11.07 ID:pVqALr/7
>>170 その蒲生も家康に城造りのアドバイスを受けている
曰く、多聞櫓は良いとか、総構に塀は要らないとか
173 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 18:40:15.94 ID:KeWpT/lq
それでもあの魔窟のような仕上がりはどういうことなの蒲生さん…
174 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 22:38:29.86 ID:cKWvstPe
1603年から1868年までは、徳川と武士連中が日本社会を牛耳り、
1868年から現代まで、徳川時代に冷飯を食わされていた薩長が今の社会の上流にいる。
面白いもんだな。
175 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 08:02:03.27 ID:B2sIX7xK
笑うのは藤原家だけですなぁ。
176 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 15:21:52.04 ID:RtZd6Xvg
よく「何も持たずにタイムスリップしたらどうするか?」
って話題があるんだけど、みんなならどうする?
俺なら、西三のご先祖様のとこ行って商人で成上るw
177 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 16:22:18.84 ID:EW/YV1tC
産業革命を起こすぜぇ…
178 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 18:47:08.36 ID:GVpdNMev
未来に行ったらオリに入れられて見世物になるな・・
179 :
人間七七四年:2011/11/28(月) 15:56:39.07 ID:VtH5Hs/c
何で後期譜代の井伊家だけ、石高も権力も多いの?
おかしくない?
180 :
人間七七四年:2011/11/28(月) 17:12:14.04 ID:c7/KZ8pd
井伊んだよ
181 :
人間七七四年:2011/11/29(火) 01:26:50.25 ID:8waheAWq
井伊加減だよね
182 :
人間七七四年:2011/11/29(火) 01:35:56.23 ID:D1ZK1C3s
なにを井伊たいのか?
183 :
人間七七四年:2011/11/29(火) 01:59:32.06 ID:tfk2js7B
つまらんオヤジギャグはもう井伊w
184 :
人間七七四年:2011/11/29(火) 10:01:13.30 ID:xFFAJVNB
姫大河はとうとう、坂崎出羽も無かったな(′・_・`)
185 :
人間七七四年:2011/11/29(火) 11:29:34.27 ID:Z0Fu1nsT
さすが徳川スレだ、オヤジギャクでもハイレベルだなぁ。
186 :
人間七七四年:2011/11/29(火) 23:04:04.55 ID:5TocpKCB
>>169 家康は信長や秀吉のような極端に冷酷な逸話は無いし、まあ天下を取った故
というのを割り引いても人の心情を慮った逸話が割りと残っているけど
ど子供に対しては冷淡だよね。
秀吉は言うまでもないが信長は身内には甘かったけど、家康は晩年に生まれた
孫のような息子はともかくとして息子に対して意外にびっくりする位冷淡な逸話が残っている。
187 :
人間七七四年:2011/11/29(火) 23:39:08.80 ID:L2lACqdD
堀川城とか大賀弥四郎は無視ですか
188 :
人間七七四年:2011/11/29(火) 23:40:34.63 ID:0kWIMvnc
片手で足りる程度
189 :
人間七七四年:2011/11/30(水) 00:19:54.23 ID:V2vLgaK4
冷酷じゃない人間が天下なんぞ取れるわけないわな
190 :
人間七七四年:2011/11/30(水) 05:36:32.35 ID:A1+pWm4r
弥四郎なんて完全に自業自得じゃないのか?
堀川城も何で領民まで立て籠もったのか意味不明だしw
191 :
人間七七四年:2011/11/30(水) 09:09:06.17 ID:yb4D7ZBM
>>190 その件と信長の対一向一揆については理解できるけど
秀吉の秀次一家惨殺は理解できん
192 :
人間七七四年:2011/11/30(水) 18:35:02.52 ID:VWdjw8+M
自分の後継の邪魔になるという判断だろうねぇ。
徳川の秀頼抹殺も似たような意味には思う。
国のトップにはトップなりの価値観が発生するんだろな。
193 :
人間七七四年:2011/11/30(水) 19:03:09.37 ID:8gGebrwb
秀吉死後、秀次が秀頼におとなしく政権を返上するかといえば、微妙だからな
秀次に子供がいればそっちに渡す可能性は高い
だけどそっちのほうが豊臣政権は長生きできたかもしれない
194 :
人間七七四年:2011/11/30(水) 19:52:59.85 ID:k4mjKbOE
殺さない事例って他家にも無かったの?
伊達・上杉・武田・織田みんな殺してるw
195 :
人間七七四年:2011/11/30(水) 21:42:00.51 ID:BEMdGPEP
織田はずいぶん許し続けたぞ。
196 :
人間七七四年:2011/11/30(水) 23:52:50.09 ID:VWdjw8+M
各家の問題と秀吉家康はまた違う思想じゃないかな。
国のトップ、もう少し言うと「氏」としての男系直系の後継の
問題が根底にあるようには思う。
秀次にはすでに男子がいたしかわいそうだったとは思う。
197 :
人間七七四年:2011/12/01(木) 00:10:10.18 ID:Jpe0kiH7
>>190 > 堀川城も何で領民まで立て籠もったのか意味不明だしw
戦時に領民が城に入るのは一般的な話だぞ。
城が明け渡された後に立て篭もった領民が捕らえられ女子供にいたるまで惨殺、
さらに村の家屋が全て焼き払われるなんてのはかなり苛烈。
198 :
人間七七四年:2011/12/01(木) 04:20:40.52 ID:f0vCg/Ig
>戦時に領民が城に入るのは一般的な話だぞ。
珍しくは無いのは分かってるけど、
だったらなお更惨いことしたんだろうか?
ビビらせて近隣を降伏しやすくするとかか?
199 :
人間七七四年:2011/12/01(木) 09:29:05.01 ID:7PhUdYAm
堀江城は発端は掛川城から引き揚げる徳川を攻撃しようとしたからなので、
この場合、領民は積極的に徳川に敵対するものとして扱われたんだろう
200 :
人間七七四年:2011/12/01(木) 13:31:25.33 ID:pwTqUUuh
女子供と一緒にか?
201 :
人間七七四年:2011/12/01(木) 16:41:40.27 ID:7PhUdYAm
惣村単位だから連帯責任を問われたかと
202 :
人間七七四年:2011/12/01(木) 22:58:03.92 ID:xARuP9xx
越前家は将軍に成れなかったからって
ゴタゴタし過ぎだろこれw
ウィキが冗長過ぎてワケ分からん。
誰か5行で概要まとめてくれ!
203 :
人間七七四年:2011/12/02(金) 00:47:27.70 ID:CjrtLfKC
>>198 いろいろ読んでるから何を読んでかは覚えてないが
やはりそれをやったために周辺豪族なんかも徳川に従いやすくなったと
どこでも同じじゃないかね、人間の心理は
204 :
人間七七四年:2011/12/02(金) 05:38:51.13 ID:Q4LEaghP
秀忠の兄、結城秀康の子孫は全員乱心して死んだって思ってたけど、
こないだ出雲の松江城に行ったら松江城主の松平なんとかは秀康の子だった
ちゃんと子孫いっぱい残ったんだな
205 :
人間七七四年:2011/12/02(金) 08:55:12.86 ID:XLSp5UxK
俺なんかモロ地元のはずなのに、
知らなかったくらいだから
影が薄かったのは事実だろうなw
206 :
人間七七四年:2011/12/03(土) 03:27:03.45 ID:KQLaC+ZV
今日は浜松で家康公シンポジウムだと
207 :
人間七七四年:2011/12/03(土) 22:15:32.46 ID:2WkcdPYb
今日は市町駅伝とJリーグ最終節なんで日が悪い
208 :
人間七七四年:2011/12/08(木) 18:45:29.56 ID:LSqPwBGX
家康の質問なんてのはここでいいですか
家康はなんでエドは嫌だって言ってたのに
エドに本拠を定めたんですか
特に本人はその件については何も言ったりしてませんか
209 :
人間七七四年:2011/12/08(木) 18:50:28.44 ID:6evRfFc1
そもそも、江戸が嫌って言ってたってのも信憑性ないのでは?
関八州に移された時、未開の地だった江戸は、逆に言えば開拓し放題
そして江戸は、東北などを監視する位置でもあるから
絶対に嫌だって訳でもなさそうだと思う
210 :
人間七七四年:2011/12/08(木) 19:26:59.47 ID:N44PBbkf
家康公はその時自分に与えられた仕事を全力でやり遂げる人
今川家臣だったときは全力で今川義元につくし、織田傘下にはいったら信長に尽くし、
秀吉に関東にいって江戸を開発せよと言われれば江戸こそ我が都と考えて
一生懸命開発した 信長、秀吉にくらべると地味だけど、やっぱすごいひとだよ
211 :
人間七七四年:2011/12/08(木) 20:08:10.39 ID:u4ebqFt+
208の質問に対しては「秀吉に命令された」という
答え方が明解なのではないだろか。
212 :
人間七七四年:2011/12/08(木) 20:35:17.69 ID:6evRfFc1
秀吉の命令なら仕方ないね
拒否して、信雄みたいに改易されちゃ敵わんし
213 :
人間七七四年:2011/12/08(木) 22:02:14.12 ID:ZUCXwf4l
東照神君は、小田原か鎌倉を本拠にせんとしたが、秀吉は江戸はいかがですかと推薦された。
実際は警察下命だと理解し、従ったのである
214 :
人間七七四年:2011/12/08(木) 23:02:17.90 ID:LSqPwBGX
>>209 江戸じゃありません穢土です
厭離穢土とまで旗に書いていれば
同音でエドじゃ縁起が悪いやってこれっぽっちも思わなかったのかってこと
改名しようとかさ
215 :
人間七七四年:2011/12/08(木) 23:16:40.42 ID:u4ebqFt+
奥羽征伐もあるし家臣への知行地考えると
江戸と命令されたらしゃぁないわなぁ。
しかしそこで消耗せずに関ヶ原に持ち込めるぐらいの
国力つけるのはさすがとしか思えん。
216 :
人間七七四年:2011/12/09(金) 00:15:13.14 ID:Jqn4PATZ
厭離穢土云々て、そういえば今川義元が死んだ時、自分の未来に悲観した家康が
松平家の墓前で自害しようとした時に、お坊さんからこう言われて説得されたって話だったっけ
217 :
人間七七四年:2011/12/09(金) 10:48:48.78 ID:jTC2MswL
家康は間違っても自害する性格じゃないだろ
218 :
人間七七四年:2011/12/09(金) 10:51:58.34 ID:i74uUkTg
>織田傘下にはいったら信長に尽くし、
朝廷と同じように、配下に入り掛けてただけだろ。
>奥羽征伐もあるし家臣への知行地考えると
三河のままだったら、伊達と連携取り辛かったかもなwww
219 :
人間七七四年:2011/12/09(金) 11:31:43.12 ID:tUzC+mU+
>>217 結構、危機的な状況になると「死ぬ」と言っていたようだけどね
220 :
人間七七四年:2011/12/09(金) 23:29:20.04 ID:XeF8920F
221 :
人間七七四年:2011/12/10(土) 00:23:11.68 ID:Hcy5EI3a
どうだろう
作左がいなけりゃ死んでたかも知れないよ
222 :
人間七七四年:2011/12/10(土) 00:23:57.60 ID:gxsCVUwI
むしろ、配下が三河武士じゃなかったら死んでたかもしれない
223 :
人間七七四年:2011/12/10(土) 01:11:14.77 ID:dD0lWujV
三方ヶ原でも伊賀越えでも家康本人に対しては家臣が必死になってたからねえ
224 :
人間七七四年:2011/12/10(土) 09:44:56.63 ID:LzX0m8/q
むしろ「そうですなぁ、殿!介錯仕る」って成った例があるだろうか?
ガラシャとかか? 逃げられたのか知らんけどw
225 :
人間七七四年:2011/12/10(土) 11:10:55.21 ID:jGpa97L2
家臣が必死になるのは当たり前だろw
主君だけが必死になってるような大名ならとっくに滅びてるわ
三河武士とかつまんない妄想要らないから
226 :
人間七七四年:2011/12/10(土) 12:51:33.58 ID:9mfGMLUH
よそでだが、信長は家臣たちに助けられてばっかりだから
頭が上がらなかったろう、みたいな話があっていかにもイマドキだと
思ったな。
227 :
人間七七四年:2011/12/11(日) 00:00:49.01 ID:Y17cjTJm
鎖国で徳川支配強化したけど日の本が脆弱になった。
別な見方で、幕末の近代武器や産業革命、戦術は洗練されたものしか来なかったから
無駄に日進月歩に付き合わず済んだかもしれない。
228 :
人間七七四年:2011/12/11(日) 03:41:01.03 ID:JC47pGpY
下手に開国してたら周辺の国みいたに侵略されてたかも
229 :
人間七七四年:2011/12/11(日) 18:19:34.30 ID:JV02TUEv
ヤワタみたいなおかしな暗黒史観に影響されたのもよく見かけるなぁ。
230 :
人間七七四年:2011/12/11(日) 21:46:33.41 ID:Cs6ym223
荒廃仕切っていた国土を徹底的に改造したのは無駄ではないよ
まあ、吉宗の鎖国緩和政策をもっと踏み込んだものにしてもよかったとも思う
231 :
人間七七四年:2011/12/11(日) 22:16:58.03 ID:wYv4jC6C
鎖国がなきゃ江戸文化が生まれなかったと思うと 鎖国があってよかった
でかい戦もないから貴重な史料も結構残っているしな
232 :
人間七七四年:2011/12/11(日) 23:02:34.82 ID:YB9eQBP9
>>228 閉じ籠っていたからって国を守れるわけじゃない
外国より優れた技術を維持できるなら鎖国でもいいが
単なる引きこもりではむしろ国を滅ぼそうとしてるも同じ
自分は鎖国(秩序ある国交)を高く評価しているが、徳川の場合は発展途上国が何処でも行った蒙昧なる閉鎖であったと言わざるを得ない
233 :
人間七七四年:2011/12/11(日) 23:19:34.62 ID:4nmkfzGl
日本は別に孤立していない
234 :
人間七七四年:2011/12/11(日) 23:38:23.58 ID:9xm3SKVO
鎖国って貿易制限令ってだけで海外との窓口はそれなりに維持してきているぞ
235 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 12:11:53.50 ID:QqsOpibc
だから幕府の罪なんだよ
完全に閉鎖していたなら技術の遅れも言い訳出来るが
現実には幕府だけ世界情勢を把握する事が出来た
にも関わらず幕府は何の手も打たず危機感も抱かず単なる引きこもりを続けた
それに幕府は人の移動を厳しく制限しており、鎖国令以降に出国した者は殆どいない
結局、鎖国は蒙昧な閉鎖なんだよ
外国人の入国制限をしたまでは良かったが、出国まで制限してしまったのはいかにも無能
まるで一昔前の共産主義国だ
秀忠の代までは侵略的意図を持った国を排除するのを目的としていたのに
それ以降は何故か単なる排他的行動に変わってしまった
236 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 12:54:15.39 ID:8xLHDWCh
少し違う視点だが、発達した海外の文明が入ってこなくて
日本は遅れた後進国になった、というのは善悪としては難しい。
例えば、今でも銃が日本にないのは徳川の鎖国が大きいだろう。
いったん入ってしまうと追い出すのは不可能だし日本は
平和に働いて労働で世界に貢献、と意識してたかどうかは別だが
そういう役目を果たして現在でも別に野蛮国のままではない。
麻薬とかもそう。
出国も制限しないと「銃は必要ですっ」みたいな思想が入ってくるかもしれないし
お家が大事、という狭い視野の発想が意外と、平和で安全な国日本、に
結びついてるだろう。
維新日進日露、もちろんこないだの大戦とあって銃の必要さ重要さは知ってるだろうに
「あれは戦争時にほかで使うもの」みたいな発想でずっと現在まで続くのは
江戸期にその根があるようには思う。
237 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 13:03:16.55 ID:93Sr1dXt
>>235 アヘン戦争で明確な危機感を覚えている
後、出国禁止の目的は武器輸出と同じく、傭兵の輸出禁止のため
238 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 13:13:13.27 ID:yDd94li+
そもそも海で守られてたから
厳しい鎖国なんてして無かったんじゃあ?
239 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 17:51:58.08 ID:ovaJ7T+M
>>235 物言いはともかく、概ね同意
当初はきちんとした目的のための手段としての鎖国だったのに、
時代が下っていくにつれ手段であったはずの鎖国が目的化してるのは目も当てられない
幕府の怠慢といえばその通り
ただ何もしてなかったわけではないし、危機感は持っていた
そこは認めるべきだと思う
240 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 18:42:38.14 ID:UXB2Ktg7
241 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 19:06:44.73 ID:7UbjbhTM
鎖国政策で日本の成長が阻害されたとういのは常識
豊臣政権が存続したら大阪が首都だったのに
家康のせいで東京が首都になって悔しい
242 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 19:31:48.95 ID:QFPjfz1a
またいつもの流れか
あんたら飽きないね・・・
お互い過去レスコピペしとけばスレは進行するよwww
243 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 19:37:27.36 ID:U7YIPr35
そんな事言ったら、江戸左遷さえなけりゃ
岡崎とかが首都で俺んちが半端無い土地長者だったかも知れんわwww
そうなったら多分、東西に広がりまくりだと思うが
横長の巨大都市ってあるの?鎖国は微妙に面白くないから、どうせなら
「関東左遷無しで天下とってたら、どこに幕府開いたか?」で妄想しようぜ?
244 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 19:48:32.57 ID:ovaJ7T+M
245 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 21:52:35.48 ID:c456iTTG
東海道メガロポリス知らんの?
つうか都市ってのは川沿いや海沿いに発展することが多いから、
横長縦長ってのは珍しくない
246 :
人間七七四年:2011/12/13(火) 12:28:19.66 ID:mYItY/Jr
意味は調べなくても分かるけど
ぶっちゃけ聞いた事無いかもw
東京みたいに放射状に広がれない巨大都市って
交通網とかどうなってんだろうな。
247 :
人間七七四年:2011/12/13(火) 13:47:59.92 ID:gsv/4uWM
東京からの交通は発達するけど周辺地区
同士の交通が発達しなくて近いけど遠いとかね。
家康は攻撃されるのを防いでいたから
巨大交通路の整備はわざと発展させなかったんだろな。
248 :
人間七七四年:2011/12/13(火) 16:13:29.60 ID:Rz+M8dHp
家康ほど交通路の整備に熱心な奴は居なかったが
249 :
人間七七四年:2011/12/13(火) 21:12:01.01 ID:sWuujZ3v
○○往還とか○○街道とか腐るほど各地にあるんだが
250 :
人間七七四年:2011/12/13(火) 21:36:38.16 ID:gsv/4uWM
参勤交代にも使うから人の行き来用の道や施設は
作ったけどそういう通常の交通路じゃなくて
巨大な橋とか海上交通用の巨大船とか
そういうのは許可しなかったでしょう。
姫街道やらそういうレベルでの整備じゃなくてさ。
251 :
人間七七四年:2011/12/13(火) 21:45:10.14 ID:Rz+M8dHp
>>250 千住大橋、六郷川、矢作川と多くの橋を架けていますが
架けなかったのは主に技術的な理由
船も弁才船は三千石クラスの大型船も建造されている
規制は基本的に軍用船
252 :
人間七七四年:2011/12/13(火) 22:07:56.87 ID:00cYVP5j
千石以上、若しくは2本以上のマストのある船の建造禁止は軍艦について。
廻船があまり大きくなかったのは、沿岸航海で効率よく荷物を運ぶにはあれが
経済的に最適サイズだったから。
帆装については見直す意味があったけどね。逆風で走れないし。
明治に入って幕府の規制がなくなっても、和船の帆装だけ洋式にしたのが走りまわってた。
船体についてはいわゆる千石船で経済規模に対して十分だった証拠になると思う。
(明治政府の船に関する法律が洋式船だけを対象にしてて、和船は好き勝手できたって
理由もあるらしいけど)
和船が消滅するのは機帆船が普及する昭和を待たなければいけない。
253 :
人間七七四年:2011/12/13(火) 22:52:33.33 ID:Rz+M8dHp
逆風でも航行可能だよ弁才船
下の帆桁がないから逆三角帆にして
254 :
人間七七四年:2011/12/13(火) 23:21:24.29 ID:Cseogoc3
お前ら船にも詳しいんだな、すげーな。
ちんぷんかんぷんだから、人馬鉄道路で頼む!
255 :
人間七七四年:2011/12/15(木) 23:34:00.10 ID:RefOvdhV
てst
256 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 13:07:43.26 ID:f4tmWkyb
徳川は橋架けろ。ビビリ杉なんだよ。
257 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 13:14:03.93 ID:W3z/16fJ
架けたよ
258 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 16:32:48.09 ID:MeZrXIOl
昔はダムで水量をコントロールなんてできないから、
橋が架けられない川ってのはがあるんだよ
架けても架けても流されてちゃ金がいくらあっても足らん
259 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 17:18:56.55 ID:oC7DDb/y
橋なんていらないよ
白い布をかけておけば十分
260 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 19:17:12.26 ID:lag8z4BL
ただ公共工事はいっぱいしてたし
どんどん流されてもまた作ると言うのは普通じゃないかな。
だから技術上とかお金がないというよりはやはり
大軍が一気に攻めてこないような足止めの意味も
あってかけなかった場所もあるんじゃないだろか。
261 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 20:07:45.87 ID:ho7pm2x9
俺らには歴史だから、「江戸期に5回も流された!」
って思うかも知れんけど、当時の人で考えたら
生まれて初めて流された! だからなぁw
262 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 20:21:41.99 ID:lag8z4BL
そういうのはあるなぁ。
藤木の飢饉一覧表見ると日本は悲惨な国だけど
同じ場所で数年に1回なら自然災害みたいなもの。
ましてや今の千年に一回レベルでの国政の議論は
前例も何もなくて、特別、で処理してしまえばよいとは
思うんだよな。
263 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 22:41:54.74 ID:PDPudzYh
南無東照大権現
264 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 23:46:22.43 ID:2W6xtf+t
逆に言えば希にしかないからこそ対策が必要だし、対策もしやすいと言う事もある
年に何回も災害が起きるようなら諦めるしかないし
265 :
人間七七四年:2011/12/19(月) 08:14:40.88 ID:k1zSdom+
266 :
人間七七四年:2011/12/19(月) 08:53:27.16 ID:Ngp8jBlQ
あれは平時の制限が多い
267 :
人間七七四年:2011/12/19(月) 13:19:13.88 ID:6Q3jm7D2
流れ橋は橋としての強度をあえて低くしてるからなあ
交通量が多い街道に用いるには不安が多すぎる
268 :
人間七七四年:2011/12/19(月) 23:39:03.22 ID:E7x0Ehhg
当時の技術力では無理だな
技術研究機関なんてなかったし
そもそも建設は諸藩に投げっぱなしだし
269 :
人間七七四年:2011/12/25(日) 15:02:41.73 ID:6nv8wpQi
もう少しで家康公生誕日だな。
去年は岡崎城登城後まで気付かなんだが(´・ω・`)
270 :
人間七七四年:2011/12/25(日) 18:38:11.30 ID:E6Ei/OEs
イブだから味噌カツとか味噌煮込みよ〜い。
271 :
人間七七四年:2011/12/26(月) 01:28:12.35 ID:9H2ILplC
今日が我らにとって本当の聖なる日じゃ!<`ヘ´>
今回も安いケーキが無かったので、
ここ何年もケーキでお祝いできずに残念。
272 :
人間七七四年:2011/12/26(月) 01:29:53.65 ID:1D/E7GXk
おめでとー
権現様お誕生日おめでとー
273 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 08:53:02.32 ID:zSt24DUR
権現様の誕生日だったのけ
権現様は結局すごいお方なの
274 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 10:24:36.31 ID:Mws3pA6+
凄いお方ですよ
275 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 10:28:17.19 ID:/D0IQFV9
スペックが高すぎて、却って評価を低くされてしまう人
276 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 12:08:21.84 ID:3yQJu4GA
いや、どう見てもスペックは低いだろ
低いと言うか平凡と言うか
家康はそんな自分を知っていたのが勝因
277 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 12:10:57.57 ID:Mws3pA6+
様々な免許皆伝してるのにどうしてスペック低いんよ
278 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 12:47:48.25 ID:24jg0h9v
この時代、免許なんて大名なら誰でも取れる
武芸でも文芸でも従事者は有力者に免許を与える事で権威や報酬を得るのに必死だった
家康は同時代の武将と比べてこれと言ってぱっとした実績が何もない
細かな積み重ねで成功したんだよ
279 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 15:19:59.55 ID:XGh6Vcra
姉川で信長を
長久手で秀吉を
あっと言わせてないか?
280 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 15:38:20.69 ID:/jCQVieg
なかなかの人物だよ。
脱糞して涙目姿を絵に残すことは普通はできない。
黒歴史は消したいものが心理
281 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 16:47:04.18 ID:/D0IQFV9
282 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 17:02:01.58 ID:dK7L/5JU
>>279 姉川で信長に誉められたのは高天神衆
後に家康は功臣である高天神衆を見殺しにする醜態を晒している
小牧長久手も非常に締まりが悪い
戦術ではやや優位に立ったものの戦略で簡単に覆された
相手が悪かったと言うのもあるだろうけど
だいたいどの戦いでもぐだぐだになる
上手くいったのは対今川氏真戦ぐらいか
283 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 17:19:09.75 ID:lfiB7ZtQ
>>279 だねー
姉川では大軍の朝倉を見事破りその後苦戦中の織田を救援して
信長に「この戦の勝利は徳川のおかげ」と言われたり
小牧長久手の戦術的大勝利は秀吉を大層震え上がらせ
思わず身内を人質にかけて何とか徳川に和議を持ち込ませた
でもやっぱ凄いと思うのは政治力だね
泰平200年の基盤を作ったのはそうそう出来ることじゃない
284 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 21:26:26.23 ID:suNE31ye
家光の光の由来はなんなんでしょう。
285 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 22:04:12.98 ID:/D0IQFV9
>>284 特に意味は無い
名前を選んだ崇伝は最初に家忠を推したが、花山院の元祖にその名があるとし
新たに七つの案を提出し、家光が選ばれた
286 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 10:58:05.06 ID:I1J9YJtw
> 思わず身内を人質にかけて何とか徳川に和議を持ち込ませた
こういう事を本気で思ってる奴が結構いるんだよな。
287 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 12:34:30.07 ID:qOTBkmyS
その手の程度の低いマンセーレスはチョン工作員だからスルー推奨
288 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 12:53:38.97 ID:ex5iZjOT
>>285 ども。義満にかけたのかと妄想してた・・
>>286 平山さんじゃないが地震の影響も大きく解釈されるようになったし
最初から和議しかないような家康と和戦両様の秀吉と
どちらが有利だったかも面白いとこだし
身内を人質に出すというのは単なる婚姻政策を超えた
秀吉らしさとは思うけどね。
289 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 13:07:09.56 ID:I1J9YJtw
本人か別人か分からんが、指摘されてもまだ分かってないってのが
本気でこういう勘違いをしてる人間が沢山いるっていう証左なんだよな。
290 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 14:31:27.15 ID:ex5iZjOT
別人だけど勘違いというのがよくわからない。
単に解釈の問題ではなくて
100%こうだという決定事項があるということ?
小牧長久手以降の事実関係は確定として
それをどう捉えるかという点に関しては
それなりに解釈問題とは思うけど。
事実がこうだからこうなんだよというのも
たまに見かけるけどそれはあくまで両者の関係の背景でしかなくて
それが何を意味するかに関してはまた違う話じゃないかということなんだけどね。
291 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 15:13:05.15 ID:I1J9YJtw
>>290 あのさぁ、勘違いって言われたんだから、少しくらい調べようよ。
小牧・長久手は徳川が人質を差し出して講和してるわけ。それで終了。
大政所や朝日の話はそれより随分後の話。
解釈だとかそういう問題じゃないの。理解出来る?
あとね、主語が無く、「こう」だの「それ」だのばかり使われても
何を言いたいのかさっぱり分からない。
態と自分の主張を不明瞭にして突っ込まれ難くしようとしてるのかも知れないけど。
292 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 16:27:28.22 ID:ex5iZjOT
>>291 さんきゅ、そういうことね。
ここは徳川スレなんだけど負けた秀吉ファンが
暴れにくるところでそれを懐の広い徳川ファンが見守るスレ
みたいにどっかで言われてて勘違いというのは
どっちがどういう意味で語ってるのかわからないということでさ。
小牧の後の家康臣従あたりまでをトータルで語ってるのではなくて
徳川が人質出して小牧は終了と言うのはわかりやすくていいなと。
最初に283は大政所やそのあたりを語ってるでしょう。
そこまで行かずに小牧のけじめを徳川が人質出したというので
終了させるのが正しくてそのあとのことまでごっちゃにするのは
勘違いというのは、小牧長久手の捉え方としては明解だもんね。
徳川臣従あたりまでを小牧の影響下ということで総論的に
話してるように思ってたわ。
293 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 16:33:16.08 ID:w2x9j/Cr
>徳川が人質出して小牧は終了
どんな人質出してたんだ?
294 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 16:34:29.79 ID:P40EF0Z+
295 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 16:38:00.69 ID:I1J9YJtw
>>292 はぁ?だから小牧と家康臣従は別なの。理解出来るか?
トータルとかそういう問題じゃ無いんだよ。
> 最初に283は大政所やそのあたりを語ってるでしょう。
だからそもそもが小牧・長久手の講和と家康の臣従の時の事を
勘違いしてるって指摘なんだっつーの。馬鹿?
無知なのは仕方ないけどめちゃくちゃな日本語使って誤魔化そうとすんなよ。恥ずかしい。
ところでさぁ、お前ってよく出没する「だもんで」とか使う奴?
文体が似てるからちょっと気になったんだけど。
296 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 16:39:04.05 ID:ex5iZjOT
そういや平山さんの本の年表で秀康人質の記述に
間違いがあったね。細かい話なんだが。
297 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 16:40:30.97 ID:ex5iZjOT
298 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 23:13:01.47 ID:lj+cXLLb
秀康の扱いは泣けるな
殺したければ殺せと言わんばかりだし
299 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 23:56:46.04 ID:cDwxUTT4
秀吉は殺さないと分かっていただろう
300 :
人間七七四年:2011/12/30(金) 08:16:38.89 ID:gFXZnKOX
やっぱり秀康は自分の子か、最後まで疑いの目で見てたんだろうな
すぐには認知しなかったし お母さんがやりまん説が出ている
逆に淀(茶々)はほんとに秀吉の種で孕んだかずいぶん怪しいと思うんだけど、
大坂城にはすでに大奥みたいな男子禁制のエリアがあり、秀吉は
自分の種であったことにそれなりの自信があったとこないだテレビでやってた
301 :
人間七七四年:2011/12/30(金) 11:01:19.64 ID:PZ2BPtUG
まぁ、そりゃ何もしなかったら殺されるわけはないけどな。
秀吉にしても殺すメリットなんざ無いし。
ただ、その後秀吉が四国や九州で躓いてしまい、
大逆転のチャンスが転がり込んできたら分からないよね。
北条の意向なんかもあるし。
そういった意味では人質として殺される可能性ってのも十分想定してただろうね。
302 :
人間七七四年:2011/12/30(金) 16:47:45.45 ID:yIcH3ioJ
俺はむしろ、お市が徳川家に嫁いでたら
面白かったと思ったw
303 :
人間七七四年:2011/12/30(金) 18:08:54.85 ID:v8x/7Kgt
人質といっても縛り付けたり牢獄に入ってるわけじゃないんで
徐々に怪しくなったらとりあえず送り返してると思うよ
戦の前に正室を離縁というパターンはあったし
突然の叛旗だったりしたら見せしめで殺されちゃう可能性はあるけど
304 :
人間七七四年:2011/12/30(金) 20:27:11.45 ID:68J78dq2
家康は晩年に生まれた孫みたいな息子達はともかく息子に冷たい
というかドライな感じがする。
305 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 00:19:43.17 ID:jc74g2KG
何であそこまで冷淡だったのか謎
信康みたいに背かれるのを警戒していたのだろうか
306 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 01:02:46.12 ID:ykG7ZBvs
身内だからこそ甘やかさないで、厳しく育てることにしたのでは?
307 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 01:54:51.49 ID:1xer/rkT
それが分かる子と分からぬ子がいるのだよ。
だから忠輝、忠直は、殲滅するのだ
308 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 02:01:10.84 ID:ykG7ZBvs
忠直の蟄居理由って結局よく分からないんじゃなかったっけ?
秀忠のやり方もよく分からないんだよな
秀忠は忠直をどういう立ち位置にしたかったのかね
309 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 03:36:08.82 ID:n76RcxQl
>>306 う〜ん、家康の冷淡さは愛情ある厳しさではなく、本当に冷たさ
を感じさせるんだよねえ。
家康が早くから両親と離れ人質生活を送っていたという環境が
少なからず影響してるのかそれとも元々の気質か。
家康は三大英傑の中ではあまり残酷エピソードは少ないし、家臣
とか敵将とかに対して心温まるようなエピソードが結構残ってるから
余計実子に対しての仕打ちというか対応の温度差が不思議。
310 :
死:2011/12/31(土) 04:08:50.01 ID:Q/mIVUm2
家康は信長の事はどう思ってたの?
晩年は信長の事聞かれても殆ど答えなかったと読んだ事あるけど
武将としてもどんな評価してたのかな?すっごい知りたい
311 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 04:43:26.47 ID:8l6VwdWd
同族経営の組織がダメになるのは
身内びいきなのがよく分かってたからでしょ。
312 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 04:43:57.34 ID:8l6VwdWd
6日昼にBSプレで信康映画やるっぽいぞ。
6日昼にBSプレで信康映画やるっぽいぞ。
313 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 09:29:12.93 ID:uEhyJY+Z
大名や自分の家臣にも厳しかったから自分の子にも厳しくしたんだな
秀吉はもちろん、信長公も自分の子にはやたら甘かった
家康公が天下をとったのはやはり運じゃない ちゃんとしてたからだな
314 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 12:46:45.20 ID:ykG7ZBvs
>>309 そう言われてみるとそう感じるけど
そういう身内に対しても、もしかしたら優しくしていたけど
それはあまり人目に見せないやり方だったのかもしれん と思ったりする
京都にいる秀忠が所労や腫物で寝込んだ時、家康も伏見から上洛して見舞いに来たり
秀忠が藤原定家筆の和紙懐紙が見たいと望んだら、冷泉為満さん呼んでくれたりしてるんだけど
やはり何かしら会話らしい会話や伝聞がないと、どういう心境だったのかも分からないからなぁ
315 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 13:55:23.44 ID:n76RcxQl
>>310 人間的には家康は信長はあまり好きではなかったろうなと思う。
家康の本能寺の変とか光秀に関する少ない言葉を読むと、本能寺の変
は信長側に落ち度があったような意見に思える。
勿論信長が死んだお蔭で天下統一出来たという部分があるからそういう
部分は差し引く必要もあるけど、長く信長の同盟相手としてこき使われて
色々思う事もあったと思うよ。信長は人使いが荒いからね。
でも武将としては評価していると思うよ。
最晩年に秀忠に送った訓戒状みたいなものに「織田殿は智略にも武略にも
優れ、よく人を使い、近世の名将だった」と書いていたし(かなり昔に
読んだ手紙なので内容はうら覚えだから正確ではないけどこんな感じ
の内容だった)。
秀吉についても書かれていたけど信長以上に褒めていた。
野人から天下人になった事を褒めていて古今東西きっての名将だと。
まあなんだかんだいいながらも信長が桶狭間て義元を討ち取ったから
独立出来たし、信長の同盟相手だったから天下に近かったから
家康にとって信長は好嫌の感情がまじり過ぎた複雑な相手だったのでは
ないかな。
316 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 14:06:07.83 ID:uEhyJY+Z
>>315 ほかの人間なら信長もバカ、秀吉も大バカ、自分だけが優れた天下人って
言うところなのになあ〜 ほんとに家康公の自制心は凄まじいわ
317 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 14:42:51.89 ID:n76RcxQl
自制心もあるだろうけど、天下統一間近い信長が横死して、
秀吉が天下取って本来ならそのまま豊臣家の天下が続く
と思いきや、色んな幸運が重なって自分が天下を取れる
チャンスが巡り天下が取れたら、自分が優れていたから
というより何か天の意志かそういう類のものによって取れた
と謙虚になると思うよ。
318 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 14:56:44.72 ID:ykG7ZBvs
>>315 そんな手紙もあるんだなぁ 史料本や研究本読んでも
最近はどれも似たような内容しか取り上げないから
手紙特集みたいな本も作ってほしいわ
319 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 18:32:51.69 ID:kM6X99Yn
家康は信長や秀吉を反面教師としてみてたろうからね。
どちらも優れた人間だから人もついていったが
それだけでは長きお家存続には結びつかないと。
秀吉臣従後は少しは大人しかったけど死後すぐに
豹変するところがなんか凄みを感じるわ。
あれで関が原で負けてたら日本一のアホ裏切り者に
なったろうしね。
いい年でよくあそこから勝負したもんだ。
320 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 18:56:35.61 ID:n76RcxQl
>>319 >いい年でよくあそこから勝負したもんだ。
これは思う。当時50幾つだっけ?当時の50代なんて老齢だろう。
よくまあ家運をかけた博打にうってでたと思う。
関が原は勝って当然の戦ではなく、本当に紙一重だったからなあ。
おっしゃるように秀吉死後に豹変してるけど、いつから家康は
天下への野心をはっきりと持ち出したんだろうなあ。
元々家康は信長の天下統一事業に早くから携わっていて「天下」というもの
へのが意識が他の五大老よりも違ってたんじゃないかなと思うけど。
321 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 19:43:50.70 ID:crPn243i
秀忠に中山道行かせたのって、わざとじゃないの?
一門の叔父連中でも戦目付けにして
「真田はスルーしろ!」って厳命しとけば良いだけじゃん。
322 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 19:46:37.14 ID:uEhyJY+Z
考えてみればどんなにショボい城でも城兵が死ぬ気で立て篭もると
10倍20倍の戦力でも半年ぐらいは平気で持ちこたえるもんですよね
323 :
死:2011/12/31(土) 20:09:38.34 ID:PFSwDUDG
秀吉は信長の事を勇将ではあったけど良将ではなかった
人に慕われる人ではなかった、明智の反乱は
トラに襲われそうになった人間が
トラから逃れる為に起こしたようなものだつってたけどな
324 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 20:31:26.45 ID:n76RcxQl
>>323 まあ、、、その信長評は当たってるワナ。
秀吉が明智の反乱をそう評するという事は秀吉自身も
明智に共感する部分は多分にあったんじゃないかな。
325 :
死:2011/12/31(土) 20:35:48.36 ID:PFSwDUDG
当時の公家の日記でも信長の死を
外道ついに滅ぶ と書いてたみたいだしな
やはり慕われる人間ではないんだろうな
326 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 20:56:00.57 ID:kM6X99Yn
>>320 よくその話になるけど、かなり早くに野心をもって行きたい
気がする。秀次、出兵で内部がぐらついだあたりはもう
「ラッキ」って作戦ねるぐらいでじっとチャンスを待ってたんじゃないかな。
これはもちろん自分が秀吉より年下というぐらいしか根拠は無いのだけど
だからこそあっという間の行動だったからね。
それと将軍もらってからの政治構想なんかは思いつきで
できるものではないだろう。
反面教師を考えた上で長期安定政権を作るのはどうしたらいいか
朝廷、寺社、外様、農民、商人、それと外人も。
これを60すぎてから完璧にこなすなんてのは
タダものじゃないわな。
327 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 20:57:12.74 ID:kM6X99Yn
>>325 多聞院日記で「天道にで御左候〜」かな。
328 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 21:07:29.43 ID:n76RcxQl
信長がねねに送った励ましの手紙や信長公記に載っている乞食に対してのエピソードを読むと
基本細やかな心使いの出来る人ではあったんだろうなあとは思う。
だから小姓等の信長の側で仕える人間若しくは尾張からの家来は信長
のそういう「柔」の面がわかってるから慕う人間も多くいたと思う。
でもそれ以外の人にとってはとにかく猜疑心の強い、外道にしか映らん
だろうな。
329 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 21:12:33.09 ID:ykG7ZBvs
公家さんと言っても、色々だろうから
信長政権にとってよい影響もらってた公家さんは悲しんだだろうし
逆に信長を邪魔に思っていた公家さんは、ざまぁと思っていただろう
前者は近衛前久とか
330 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 21:14:14.17 ID:n76RcxQl
>>326 豊臣家滅亡の史実を知っている後世の人間から見たら何故秀吉は
あんなに家康を優遇し信頼したのかと思うけど、家康は
秀吉が死ぬまでは本当に律儀だっんだろうなと思う。
家康の変貌振りは凄いよね。
やはり天下を前にすると人は変わるんだろう、秀吉しかり、信長しかり。
331 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 21:18:07.81 ID:kM6X99Yn
まちがえた、327は晴豊記だ。
ただ他の日記の残るような公家さんはみな改竄欠損だらけだから
よほどつい本音がでたんだろなと。
「不可驚事也」なんて残ってるのは黒幕説に利用されかねんわ。
332 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 21:21:16.95 ID:Kn5WWRKH
>>330 最近聞いたばかりの
面従腹背
という感じだろう
秀吉にしても自分を悪いようにはしないのは分かってたから
それなりに従っておけばどんどんと自分を取り立てるはずと分かってた
それで力を蓄えていった
ただそうはいっても秀吉が先に死ぬかは本当に運だったから
そこも備わってたのは間違いなし
333 :
死:2011/12/31(土) 21:22:58.64 ID:PFSwDUDG
寺の坊主を殺したりいろいろやったからなぁ
その面しか見ない人には信長は外道に見えるんだろうけど
>>330 秀吉は甘いよな
あれだけ目を掛けてやったのに死後手のひら返して大阪滅ぼすなんてよ
秀吉の墓までぶっ壊したんだろ、やり過ぎだよな
334 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 21:23:56.78 ID:kM6X99Yn
>>330 あれさ、秀吉がボケて信用したのか
そこはマジで信用したのかどっちだろうね。
もし家康がだましきったのならそれこそタヌキなんてもんじゃない
もんな。
ただ50代後半だしあそこから家康がすべてをかけて勝負に来る
なんてのも確かに想定はしにくいわな。
そのままだって大老筆頭格で何の不満もなかっただろうし。
だから天下を目の前にしたというかかなり前から想定はしてたんじゃ
ないかな。自分が先に死んだら仕方ないが相手が先に死んだら
勝負だって。じゃないと幕府解説後の完璧さが説明できないもんな。
335 :
死:2011/12/31(土) 21:26:57.08 ID:PFSwDUDG
てか秀吉は福島以下、自分の子飼いの武将がみんな家康につくと思ってなかったべw
福島なんて、家康抑えの為の兵糧まで家康に提供しちゃうんだぜ?w
そもそも家康抑えの為に尾張に配置したのに、兵糧ごとごっそり寝返るなんてな
336 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 21:31:40.52 ID:kM6X99Yn
秀吉が三成を地方にとばしてたりしたら
家康はどういう作戦で行ったかね。
無理やり私婚繰り返してアヤをつけたかな。
337 :
死:2011/12/31(土) 21:37:34.28 ID:PFSwDUDG
>>336 史実と同じじゃないのか?
難癖つけて、攻め込むぞ!って脅す
前田をそうしたように、上杉をそうしたように
そして全て配下に収めた後に、大名の取り潰し実行する
これが家康のやり方だね
ま、家康に250万石も持たせたのが敗因かもな
100万石程度の武将だったら発言力あっても
周囲が束になれば勝てない相手ではなかった、兵の動員力が違うからな
338 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 21:53:44.31 ID:n76RcxQl
>>329 近衛前久は徳川の時代になっても信長の追悼句会開いている。
信長は彼を嫌う人間にはとことん嫌悪、憎悪されるけど、
心酔する人間は彼の死後も長く慕ってるんだよ前田利家とか細川忠興とかね。
>>333 秀吉自身が大恩を受けた織田家を乗っ取り、あの仕打ちだよ。
事実上織田家を崩壊させたのは秀吉だからなあ。
同じような事を家康にされても文句は言えないだろう。
>>334 >ただ50代後半だしあそこから家康がすべてをかけて勝負に来る
なんてのも確かに想定はしにくいわな。
そうだよなあ。。。。言われてみれば。。。。
歴史の事実だから違和感を感じなかったけど当時から見れば
「まさかの行動」だったんだろう。
339 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 22:24:50.74 ID:ykG7ZBvs
50って言ったら、本当にもう老人だもんな…
そこから新たに幕府立てて朝廷対策して豊臣政権崩壊て
数年単位じゃ無理だろうし、途中で家康が死ぬかもしれないし
そりゃ健康に気を使うよなぁ
340 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 22:29:05.47 ID:dbcp6HbH
>>337 家康の関東転封は、秀吉としては、体よく左遷したつもりだたんだろう。
要衝の東海道から僻地の関東に移し、しかも全くの新領土だから、経営に手間取って、力を削げる位に考えていたろう。
関東の支配を短期間で固めた家康と家臣団の力量が凄かったんだが、そこまでは予測できなかったんだろう。
341 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 22:39:05.41 ID:crPn243i
旨味のあった連中が懐かしんでただけだろwww
342 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 03:13:46.06 ID:wrXd3Iz/
とりあえず、祭祀とやらを他の何よりも重要のように思ってる奴らは、卑弥呼の時代の祈祷文化から何も進歩してないってことだな。
皇紀2670年だっけ?
じゃあ西暦200年前後と言われる卑弥呼の時代とか何してたんだよという話。
なんで天皇が統治してたのに邪馬台国と言う独立国を勝手に作られちゃってるんだよ?wという話。
はっきり言うと、天皇の歴史は1000年以上サバ読んでて、実在確認されてる天皇は西暦500年ぐらいの人だよ。
神武天皇から漏れなく「漢」字で名前が付いていることには目をつぶるお前ら、いい加減理解しろよ。
紀元前600年とかの日本にいた架空の原始人にとりあえず「チャーリー」とか「ミヒャエル」とか「ロドリゲス」とかそういう名前付けてるのと一緒なんだよ。
松本智津夫と同レベルのインチキ祈祷師の洗脳から早く醒めろよ。
343 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 14:05:34.89 ID:y2H+TTsX
何言ってんだ、この鮮人?
344 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 16:07:40.44 ID:bh/zsP/D
家康が関東に入ったころって石高は低くなかった?
城もまともに無かったようなド田舎とのことだし
そのうちにどんどん開拓していって石高が上がっちゃったていう
345 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 18:05:26.26 ID:GJiXC6J6
ある程度低いが、
武蔵60万石、相模25万石、伊豆10万石、
下総35万石、上総35万石、安房5万石、上野50万石、
以上220万石はあった。
開拓で、255万石に上がったかな。
346 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 18:08:19.89 ID:+7y9H/BG
伊勢氏、吉良氏、上杉氏、富永氏、全部三河繋がり
全くゆかりのない所で、一からやったわけではない
347 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 18:09:09.30 ID:rY+weHQD
それでも35万石かー 開拓すげぇな
348 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 19:20:52.22 ID:+7y9H/BG
九州四国から飛ばされて、イチからなら分かるがな
小田原城の大森氏などもは、先祖が三河の高橋惟康と言っていたんだろ
太田道灌とかの太田氏も三河太田氏で三河に多いわな
関東などとっくの昔に三河に牛耳られてた
家康も統治が簡単だったワケだ
349 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 20:51:33.86 ID:9DGEmAZX
徳川氏関東移転は、土着性の強い豪族連合から脱却する好機だったという説があった
350 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 21:09:07.36 ID:/LCWO1J6
家康は、北條氏直の舅で、氏直と叔父の氏規の助命を秀吉に取りなしているから、北條旧臣らとしては、新領主として受け入れやすかったことが、家康の新領地支配の成功の一因だったかもしれない。
あと、家康は、新領地を家臣団にあてがう過程で領主としての権限強化にも成功している。
でも、あれだけの新領を短期間で掌握したのは、家康の力量のなせる技だったろう。
351 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 21:26:11.31 ID:9DGEmAZX
その典型が、井伊12万石、本多、榊原10万石に対する酒井3万石という薄祿であった
352 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 21:33:22.09 ID:pcHMLk5j
>>351 前三者は秀吉の指示とも言うから、家康としては彼らも酒井と同程度にしたかったのかもしれない
353 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 23:33:36.09 ID:XX7KMmRC
土豪ってよく出て来るけど、
徳川家では具体的にはどんなのを言うの?
354 :
人間七七四年:2012/01/02(月) 01:26:56.35 ID:2rxef1h/
徳川(松平)家自体が土豪だけど
355 :
人間七七四年:2012/01/02(月) 08:15:06.77 ID:NCBGxDXr
関東移転はこないだ本が出てたけどまず家臣に
ほぼ未知の地をあてはめてそこを統率させないといけないし
自分は江戸自体を作らないといけない。
もし飢饉でも起きてたら家康最大の危機だったろうし
新組織団設立のチャンスというのは確かにそうなんだが
ちょと結果から求めすぎでそれを成し遂げたとしたら
家康の評価を高める方向で語るのが一番だろうか。
356 :
人間七七四年:2012/01/02(月) 11:10:57.54 ID:ZTQGNtHg
源三河守範頼の吉見御所
吉良氏の世田谷御所、蒔田御所、吉良殿、吉良の殿様、吉良閣下
三河の源氏を崇拝する文化のあった関東を統治するのは簡単
357 :
人間七七四年:2012/01/02(月) 16:52:07.82 ID:Exo3i3S1
後北条氏の同盟者ってのが半分以上で
そんなのこじつけだろw
〇∧〃
/ > でもそんなの関係ねぇ!
< \ そんなの関係ねぇ!
358 :
●:2012/01/02(月) 18:14:51.88 ID:74M8vOAg
あ
359 :
人間七七四年:2012/01/02(月) 18:20:54.03 ID:oaz5/U88
9 ◇ ミ ◇ ◇◇ / ̄| ◇◇ ◇◇\ |__| ◇◇ 彡 O( ^ω^)/( P `O /彡#_|ミ\
【ラッキーAA】 このAAを見た人はコピペでもいいので 10分以内に3つのスレへ貼り付けるお そうすれば2日後から好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ 出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事だお
360 :
人間七七四年:2012/01/03(火) 03:16:45.44 ID:BDt1gyXg
>>345 それだけあってあの辺グダグダしてたのはなかなか勢力がまとまらなかったせいだよなあ
そこに秀吉が思い切ってどっさり任せちゃったから一気にまとまった力を得られたんだし
>>351 古参の家臣は家康直轄家臣みたいな感覚で
石高は少なくても格が高いからそれで満足しろという感じだったのかも
361 :
人間七七四年:2012/01/03(火) 03:42:44.69 ID:mds9j1RH
日本は必ず負けると見事に予感を的中させた、その屈託した先見性
苦難を排し、見事ハワイ攻撃を成功させた、そのずば抜けた統率力
日本が求めるリーダーを体現した理想の男がいた。
山本五十六は凄い!
______ ___________
V
ヽヽ〃 /
ヽ〃 真珠湾奇襲!
( _)
| | シコシコ・・・ シコシコ・・・
| | /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 )
/ ゝ |
/ _ ゝ___)(9 (` ´) )j
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| ハァハァ…
/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
/ _/ \____/
↑
詐話師 半藤一利 w
362 :
人間七七四年:2012/01/03(火) 10:59:33.54 ID:C53WFIlV
>>345 在京賄料として関東以外に10万石ほどあったんじゃなかったっけ?
363 :
人間七七四年:2012/01/03(火) 11:07:28.90 ID:2tGFz77T
奥州探題(斯波氏、吉良氏、石橋氏、石塔氏)といい九州探題(一色氏)といい、流石に所縁の無いところでは、三河武士も上手くいかなかった
一方の関東民は従順だったよね
いきなり乗り込んで来ても、三河の源氏マンセーだから
364 :
人間七七四年:2012/01/03(火) 22:14:18.99 ID:Vy4kNzB0
その理論は、同盟国・後北条以外の所領が
従順だったんじゃないと、成立たないだろ。
お前ら知識は多くても、頭は悪いのか?
365 :
人間七七四年:2012/01/03(火) 22:36:42.27 ID:aZBKPYrH
人をすぐに馬鹿にするような奴よりは頭いいと思うけど
366 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 00:23:37.95 ID:ja2rWa4F
確か、家康公は、駿府では、北條氏規と屋敷が近く、親交があったらしいね。
367 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 00:26:32.40 ID:YeUawEl+
今川の人質時代の幼なじみだっけ?
小田原の役以降のこの二人が地味に気になる
368 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 00:40:19.51 ID:xidYDTom
駿府時代、家康は、北条氏規、岡部正綱とよく鶇を取りに出掛けたそうです
369 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 01:07:22.27 ID:c0Uywemy
降服後、元味方勢力の統治に
反乱多発した例たくさん出せる人居ませんかぁ(;¬_¬)?
370 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 11:12:59.96 ID:xidYDTom
日本語でおk
371 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 11:57:56.31 ID:liTB9Gu+
後北条と同じように降服後、徳川家みたいな同盟勢力の統治に
反乱多発した例たくさん出せる人居ませんかぁ(;¬_¬)?
出せないと「地縁があったから」って証明には成ってませんよぉ。って事w
372 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 12:29:10.36 ID:FznhNkcF
家康の性質を「凡人の心を持った天才」と考えてみた
何、この厨二病設定
373 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 12:31:21.04 ID:cfyNwt0k
>>363 そもそも小田原北条はよそ者の上に侵略者だったから関東衆に物凄く嫌われてたし
統治も悪かったから百姓からも恨みを買っていた
だから普通の統治してくれれば万々歳だったんだよ
374 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 12:34:05.94 ID:fdxeSMqM
関東民は従順に統治されたよね
日本一の名門揃い、源氏のエキスが濃縮された三河武士
三河様熱烈歓迎だったのかしら
375 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 12:50:52.69 ID:z20ujt+C
北条が荒らし回ったのは大きかったわな
関東は鎌倉どころか平安以来の土着勢力がいまだ幅を利かせていたし
関東公方を頂点とする旧体制が維持されていたから、北条が滅茶苦茶にしなかったら家康も手を焼いただろう
376 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 14:01:40.88 ID:9uHqoZ61
源氏ロンダリングwww
377 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 14:46:22.76 ID:fdxeSMqM
太田道灌が吉良に臣従の態度を示したのは理解出来る
平安末期、頼政系が三河に多数逃げてきて、その一人に道灌の先祖源広綱もいたからね
広綱は安城という所に城を構え、後に伊豆に移住するワケだが、一族の太田氏、大河内氏が三河に残り吉良に仕えていた
後北条氏も分かるんだよな
先祖の伊勢氏、記録に残る最古の資料は、俊継の従兄弟が吉良荘の奉行をやっていた
上層部が古くからの繋がりがあるのは分かるが、中層〜下層まで三河マンセーなんだよな
378 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 18:37:03.63 ID:5Bn/yvzp
5代?大国の後北条が無法者とか
三河者だったから従順だったとか
稀な事例で、一般論を語らないでもらいたいな(′・_・`)
379 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 20:14:12.21 ID:5Bn/yvzp
三河者が関東で絶大な人気あったら
何で吉良上野介はずっと嫌われてて
年寄りにあり得ん不意打ちした挙句に討ち逃した
年寄りにあり得ん不意打ちした挙句に討ち逃した
キチガイ浅野がたんだ(;¬_¬)?
380 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 20:14:29.48 ID:5Bn/yvzp
↑人気だったw
381 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 21:05:46.38 ID:FYA2k3X+
また、太田道灌が文明12年(1480)に山内上杉氏の家臣高瀬民部少輔に提出した書状「太田道灌状」によれば、道灌は成高を「吉良殿様」と敬称をもって呼び、
「吉良殿様は江戸城に御籠城になって、御命令になっていたので、城下の軍勢はそれに従って数ケ度合戦を致して遂に勝利を得た」と武将成高への感謝を記しています。
鎌倉鶴岡八幡宮の供僧だった相承院の快元の記録した「快元僧都記」によれば、快元は吉良頼康を「吉良殿様」「蒔田御所」と敬称を使用、北条氏綱に対しては「氏綱」と呼び捨てにしています。
当時の関東では「足利氏一家衆」という吉良氏の存在が小田原北条氏以上に尊敬を受けていたものと思われます。
家康関係無し
室町時代から、武蔵国の事実上の親分は奥州吉良氏ですw
382 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 21:10:40.56 ID:FYA2k3X+
383 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 01:29:42.79 ID:ZFLSY/nZ
ちょい質問
伊賀越え時の同行者について調べたいんだけど、どの文献に載ってるか知っている人いる?
さっぱり検討がつかなくて困ってる、もしよければ教えてほしい
384 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 01:46:46.08 ID:KZTC6ULJ
忠勝、康政、長谷川、茶屋、服部半蔵と影の軍団、多羅尾半蔵、江
385 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 06:54:08.97 ID:K4gi3Uup
関東がそんなカビの生えた名家をありがたがる土地なら、
なんで北条が関東管領を追放するのに協力したのwww
386 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 13:26:33.48 ID:wrJNm4Q2
>>385 北条は叩いても大丈夫と思ってる阿呆がいるんだよ
387 :
北条氏平:2012/01/05(木) 17:19:34.43 ID:KZTC6ULJ
北条氏を伯耆一国15万石格で国主待遇に復する旨、大老土井近江守勝秋どのとの内諾はあったのだよ
388 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 17:52:36.62 ID:e1LI/Rba
>>383 普通にウィキに載ってる以上のこと?
家康系の一次史料に載ってる以上のことはマイナー書状に
書かれてたりするぐらいしかないだろうけどそういうのは
信憑性に欠ける。
有名人は34人とかなってたけど、江が入ってたらイヤだなぁ。
389 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 18:02:13.29 ID:RqKKOMm+
松方の天地人の家康が一番家康っぽい。
滝田の徳川家康は綺麗すぎて嫌いだし家康っぽいくない。
津川の葵徳川三代はキャラがチャラ男すぎて嫌い
390 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 18:02:29.74 ID:GmUui5sy
>>383 昔、「その時歴史が動いた」のサイトにあったけど
消されているな
391 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 18:35:43.76 ID:7zK7Rbr+
>>389 天地人の家康は松方弘樹が本気出しすぎて超ヤクザだったなあ〜
かっこよかったけど本物はもうちょっと小柄でガメツいジジイだった気がする
暴力団の新しい法律のせいで松方さんテレビ界から干されそうとか
なんとか生き残って欲しい こないだ江戸城大乱やってたけどすごくかっこよかった
酔っ払うと腹を押さえてび、備中〜〜は、はようぉおおお〜〜〜〜ってやってる
392 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 20:47:31.45 ID:DF0BdgmJ
俺は毎年書いてる気がするが
小さい頃に高田なんとかって原作で放映された松方家康公で
最後の「人の一生は、重荷を追いて遠き道を行くが如し」
を知ったその日からずっと尊敬してる。
393 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 23:05:36.44 ID:KZTC6ULJ
松方の家康はヤクザっぽい
394 :
人間七七四年:2012/01/05(木) 23:25:44.70 ID:u4xU/6Vk
コブ康はねーわ
なんだよあのコブ
395 :
人間七七四年:2012/01/06(金) 00:44:12.83 ID:8DKGAe07
396 :
人間七七四年:2012/01/06(金) 04:45:53.21 ID:xlYWf9ZZ
397 :
人間七七四年:2012/01/06(金) 17:18:24.38 ID:sH2hxVu+
穢土に徳川の本拠地があったというのは間違いでしょうな
駿府幕府というのが正しかろう
398 :
死:2012/01/06(金) 17:49:34.41 ID:5EQTqTyB
家康は息子だけじゃなく家臣にも冷たかったべ
ケチケチ親父、譜代の家臣でも最高でも10万石しか知行与えないんだからな
399 :
人間七七四年:2012/01/06(金) 17:53:43.67 ID:sH2hxVu+
Bの家康嫌いは異常
400 :
人間七七四年:2012/01/06(金) 17:55:38.11 ID:awojJ3Bv
401 :
死:2012/01/06(金) 18:00:55.91 ID:5EQTqTyB
なぜ?
秀吉は大盤振る舞いするけど
家康はほんとケチだね
402 :
人間七七四年:2012/01/06(金) 19:30:42.56 ID:Nv4T+HqJ
金貸してくれっていう人には、バンバン金借してるじゃん家康
403 :
人間七七四年:2012/01/06(金) 19:53:05.42 ID:awojJ3Bv
>>401 軍事的には三個備を編成できるあの位で十分
むしろ戦時に他の大名を指揮下に入れるなら半分以下でも良いくらい
404 :
細川忠興:2012/01/06(金) 20:20:47.45 ID:7a3U3ZSB
内府様に金を借りたお陰で秀次事件の連座を免れました。ありがとうございました。
405 :
人間七七四年:2012/01/06(金) 21:16:22.24 ID:HsAJJMTY
あんまりよく知らないんで適当に書くけど
石高を多くしてる大名たちは基本的におまえらは独立だから全て個々でなんとかしろっていうもので
石高が低い立場が近い家臣は「欲しいときだけお小遣い」という感じで何か起きたら兵力は家康から貸与するんじゃないの?
例えば井伊の赤備えがすごいといってもせいぜい中核の直轄部隊ぐらいで
あとは徳川の兵という感じで必要なときに必要な数を家康から+αされるみたいな
でも外様なんかはそういうのも全部自前で持ってないと駄目っていう
406 :
人間七七四年:2012/01/06(金) 21:17:50.12 ID:oLBkRduq
また、太田道灌が文明12年(1480)に山内上杉氏の家臣高瀬民部少輔に提出した書状「太田道灌状」によれば、道灌は成高を「吉良殿様」と敬称をもって呼び、
「吉良殿様は江戸城に御籠城になって、御命令になっていたので、城下の軍勢はそれに従って数ケ度合戦を致して遂に勝利を得た」と武将成高への感謝を記しています。
>吉良殿様
>御籠城
>御命令
力抜けよw万年パシリのカントン民w
407 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 00:51:54.88 ID:tqESw7y2
幹部:暴走出来ない
中堅以下:徳川直参な気がして良い。
家康公は組織をよく分かっていらっしゃった。
408 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 10:46:01.03 ID:ZEaEIENz
409 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 10:48:03.20 ID:gQDzT4dL
>>401 秀吉の大盤振る舞いのおかげで、
死後は有力大名が徒党を組んでの大乱。
室町幕府と同様の失態だろう。
410 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 10:51:44.59 ID:3OSKHkow
大盤振る舞いした信長も殺されちゃったしなあ
411 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 12:34:24.47 ID:jJTJwfsX
そりゃ織田や豊臣と徳川は置かれた状況が全く違うもの
信長や秀吉も別に好きで大盤振る舞いしたわけじゃない
織田は尾張の数郡から始まり、関東から中国にかけて勢力を広げたわけで
その過程に織田家臣は数百万石を切り取る功績を挙げたわけだからそれに応じた報酬を与えねばならない
領地の拡大が大きければ大きいほど家臣の仕事量は増えるから自然、報酬も増える事になる
豊臣に関してはもっと極端で、信長から与えられていた播磨や長浜などの領地から天下統一まで漕ぎ着けたわけで
しかも元より配下が殆どいない為、多くは同格だった勢力の兵を用いていたから恩賞はより多く出さざるを得なかった
天下取りは必ず初めは増やす作業になる
敵の領地を奪って配下に与える、の繰り返しだ
鎌倉政権、室町政権、織田政権、豊臣政権、いずれも臣下が肥大化したのはこの為
一方、徳川の場合はこの作業を飛ばす事ができた
秀吉が天下を統一し体制が整いつつある時点で、豊臣家と入れ替わり政権を継承したからだ
家康の拡張事業は入れ替わる為に行った関ヶ原だけで済み
臣下に大きな報酬を与える機会も少なくて済んだ
412 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 13:45:40.49 ID:Rz/mo/TQ
>>411 妄想乙。
鎌倉、織田は大盤振る舞いしていない。
室町は、将軍権力が脆弱だったので仕方がない面もある。
秀吉は、必要も無いのに大盤振る舞いして自爆した。
徳川は、ある程度以上の規模の大名を作らなかったし
大名同士が徒党を組みにくいように操作した。
413 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 14:14:59.54 ID:jJTJwfsX
>>412 お前の方が妄想全開だろw
現実にどの政権も大大名を量産している
徳川だって関ヶ原で大盤振る舞いしている
戦いが続けば徳川政権でも大大名を量産しなければならなかったのは間違いない
恩賞無しで何十年も戦わせるなんて不可能なのだから
414 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 14:46:25.43 ID:XD73eU+e
415 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 15:05:29.68 ID:LKooypHN
関ヶ原の空手形っぷりは凄いよね
伊達さんに百万石のお墨付きとか、なんて危険なことを…
結局おじゃんにしたけど
416 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 15:08:07.11 ID:ZN+zAou/
徳川は大大名を作らなかったというより
一旦は関ヶ原の戦功とかで作ったものの政治力を駆使して
戦以外の方法で上手いこと弱体化させたり旗本クラスの地位に降ろしたんじゃないかね
関ヶ原以前からの豊富な資金力をバックに唯一抵抗した豊臣は攻め滅ぼされたけど
417 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 16:12:51.14 ID:LKooypHN
ところで、昔の手紙って親しい人に書く時
自分の名前や相手の名前の漢字を省略して書く時があるけど
家康も自分の名前略した文字はあるのかな 康とか?
418 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 17:04:39.60 ID:jlI2lgBz
ブログみてたらこんなのあったんだけど本当?
本多忠勝の家臣の大谷
その大谷の草履取りが殉死のときに残した辞世の句
死にとうない ああ死にとうない さりとては
君が情けの 今は恨めし
419 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 22:41:50.13 ID:Hdg1hXh5
前田・島津・伊達ってどうして、5万石くらいオマケ付けてでも
分離転俸出来なかったのだろうか?
420 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 22:47:26.67 ID:e51bn6y5
>>419 他の土地で100万石工面するのが面倒だったんじゃね?
421 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 23:41:59.63 ID:Hf6qODdS
前田、伊達は大国だが雪国で行動限界あるから捨て置きされた風
秀吉子飼いの大名を潰したかっただけじゃね。
422 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 11:52:36.05 ID:QDQkPjMW
大平洋側は雪国ってほど降りまへんがな
423 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 12:19:18.57 ID:9SkhdC3g
>>421 初期の江戸幕府は、親藩だろうが譜代だろうが平気で取り潰してる。
秀吉子飼いうんぬんは、何の関係も無いな。
424 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 12:31:41.97 ID:W/13sAdu
徳川家は人間はメンドクサイが、方針は苛烈なまでに単純明快
425 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 13:27:21.18 ID:lDaZ0YDe
単純明快にしないと、メンドクサイ人たちがメンドクサイことをし始めるからだろ
江戸城中でションベンしたら罰金五両って決まりにしたら五両払って立ちションし始めたりな
まあ蜂須賀さんは三河武士じゃないけれども
426 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 14:54:20.51 ID:G74+Tj3P
>五両払って立ちションし始めたりな
何だよそれw
427 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 16:09:14.06 ID:nBKGKs1X
なんかの小説読んでたら、(津本陽だったかなあ〜)前田家って、大坂の陣の後、
よく戦ったということで四国まるごとあげるって(北陸のは没収)話があったらしいよ
でも損するってことでうまいこと前田家が断ったらしい
428 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 19:41:18.92 ID:oOMElPe2
>>426 鼻毛の殿様 前田利常公のよくある逸話かな?
429 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 20:59:10.16 ID:rCl1+MlQ
430 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 22:21:37.26 ID:BrrYatFE
実際の徳川家康は真面目で無口だったらしいから、何を考えているのかわからす、とっつきにくい人だったらしいな。
不思議ちゃんなところがあった。
現代に生まれていたら、二ちゃんねらーになっていそう。
431 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 22:33:22.02 ID:nBKGKs1X
おいらはけっこう気が短い武闘派ってイメージがある
気の短いところをすさまじい理性で忍耐しまくった感じ
爪を噛むクセとか我慢人っぽい
晩年たががはずれたのかかなり乱暴なやり方で権力を
掌握した あの強引な武闘派ぶりが本来の家康公ではあるまいか
432 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 22:41:15.47 ID:oB2/c3EQ
南無阿弥陀仏を一万回以上書き、健康オタだから、理系で繊細な人だったと思う。
武道家の気荒い人は、そんな細かい作業しないもん。
真面目でおとなしいガリ勉タイプだと思う。
433 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 23:36:15.44 ID:gOnwhmqf
幼少期から少年時代の織田や今川での人質生活や駿府で英才教育を受けたおかげで
忍耐することや理性に従って生きる事を学んだのだろうが
戦の仕方とか見るに本質的には短気というか積極に攻めるタイプなんじゃない
主な生活地の駿府城とか、仕事の都合もあるだろうが
田舎の江戸や三河よりも京、大阪に多く滞在した事を考えると
意外と派手好みで都会好きである気がする
知的好奇心は強いけど文才は今ひとつだから典型的な理系脳だと思うけど
434 :
人間七七四年:2012/01/09(月) 00:55:39.01 ID:OMrB80oA
普通に高級官僚にでも成って、政界進出してるだろ。
>島津は、あれ以上の僻地はないだろう。
「分離」の話だぞw
435 :
人間七七四年:2012/01/09(月) 13:29:06.76 ID:h0VitYh0
関西人はともかくとして、日本人は三河の源氏のパシリになる遺伝子をもっているよねw
トヨタグループとかもねw
436 :
人間七七四年:2012/01/09(月) 13:30:59.48 ID:h0VitYh0
437 :
人間七七四年:2012/01/09(月) 20:54:07.94 ID:yU8pxm5r
前田家は、まるごと四国移封を引き受けたほうが石高的にもお得だったと思います。
阿波30万石
讃岐30万石
土佐50万石
伊予35万石
★総計145万石
438 :
人間七七四年:2012/01/09(月) 21:19:20.31 ID:2e2+CDIK
439 :
人間七七四年:2012/01/09(月) 21:42:06.34 ID:DAOSrc0R
そんな事したら、独立されたら攻めにくいじゃんw
440 :
人間七七四年:2012/01/10(火) 00:02:53.86 ID:4yHgMmij
家康の2は秀忠に決定しました
441 :
人間七七四年:2012/01/10(火) 21:50:10.61 ID:XSML9kgV
清和源氏満政流
・足助氏(三河源氏)←足助重範、公暁、イチロー(三河鈴木氏(寺部鈴木氏))
・三河山本氏←山本勘助、山本五十六
清和源氏満快流
・三河夏目氏←夏目漱石
摂津源氏頼光流
・大河内氏
河内源氏頼清流
・西尾氏←松井秀喜(父親の旧姓が西尾氏)
河内源氏義時流
・三河石川氏
河内源氏惟義流
・三河松井氏
河内源氏範頼流
・吉見氏
河内源氏義康流
・矢田氏
・広沢氏
・細川氏
・仁木氏
・戸賀崎氏
・榊原氏
・伊奈氏
・荒川氏
河内源氏足利氏流
・吉良氏
・今川氏
・一色氏
・斯波氏
・広沢氏
・石橋氏
甲斐源氏義清流
・形原氏←形原師光、平賀義信の従兄弟
442 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 00:13:05.72 ID:2bXpO+Gj
土佐って表高9万石だったが、寛永期実高は48万石
443 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 01:52:13.58 ID:+mcn3kjZ
家康公は凄いよ
戦国武将だったら、糞鞍に漏らすレベル
444 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 11:45:15.87 ID:Jxc3PW1d
後少しで徳川家康が大事にしてた秘仏の黒本尊が増上寺で開帳されるねぇ。
とても楽しみだなぁー
徳川家康が見てたり触ってたりしたと思うとウキウキしてくるなぁ〜
445 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 14:13:13.97 ID:i+p19M1p
近い人はいいなぁ
遠すぎて気軽に行けないので悔しい!
446 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 23:20:35.86 ID:yFkYiwpR
447 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 00:08:08.64 ID:LjGXClK3
ところで昨日だったかのBS-TBSの番組見なかった?
448 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 08:39:11.44 ID:cDnhaagp
明日の昼過ぎの、竹中・黒田の2軍師ドラマならビデオ撮る予定w
449 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 10:32:57.27 ID:0KSc17VZ
あれなあ
家康の遺言(とされる言葉)を官兵衛がドヤ顔で言うのが失笑モノなんだよなあ
黒官はもっと野心的なキャラでよかったのに
450 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 15:00:23.31 ID:3vn7yp6y
信長には「鉄砲王」、秀吉には「築城王」の名を付けるなら、家康には「大砲王」の名が適当と思う
451 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 15:25:11.34 ID:xvxecvYb
鷹狩り王とか性欲王とかの方が
452 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 15:27:11.28 ID:jh+Hryjx
453 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 16:07:45.38 ID:3vn7yp6y
>>451 一応、兵器の枠組みで
それに鷹狩や性欲は家康が特出しているわけではない
454 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 19:34:02.85 ID:IXHeid6w
455 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 19:44:56.57 ID:BYwTxHNn
万年パシリの低能猿「家康は今川の人質にならず三河にいたら、吾妻鏡を読む事すらなかった」
この発想はどこから来るのか?
三河は日本一の源氏の国であり
源頼朝の母方の菩提寺があり
その菩提寺には北条政子と源実朝の骨も納められた記録もある
鎌倉幕府の御家人でもあった、八条院領荘官の足助重長の娘は、源頼家の室となり公暁を生んだ
想像を超えた田舎猿なのか?w
456 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 20:24:17.89 ID:3Sj/wWjg
>>455 徳川氏は清和源氏と藤原氏のハイブリッドだということでいいんですね?
457 :
人間七七四年:2012/01/13(金) 00:39:50.15 ID:DIMaSycL
このスレにも気持ち悪いのがいるな
家康の人物を評価して人気があるのならいいけど
韓国人は単に秀吉が嫌いだから家康を持ち上げてるだけ
だから言ってる事が目茶苦茶で意味不明
要するに秀吉を貶められればなんでもいいわけだ
こんなゴキブリ共に担がれるなんて家康も迷惑に思ってるだろうな
458 :
人間七七四年:2012/01/13(金) 00:51:06.65 ID:2zcNRUPW
>>457 普通の家康好きは家康のことだけ語っときます
わざわざよその人をsageて持ち上げるような面倒なことはしません
459 :
人間七七四年:2012/01/13(金) 01:00:41.09 ID:lICbZFXK
>>457 ゴキブリに担がれても数センチじゃね
てか潰れるんじゃね、ゴキブリ
460 :
人間七七四年:2012/01/13(金) 02:51:59.69 ID:VTKKHVCM
韓国はともかく、中国はその内日本を追い越して
蔑みにもならんく成りそうだよな(′・_・`)
日本も戦後までは野蛮国家だったしな。
461 :
人間七七四年:2012/01/13(金) 06:56:26.26 ID:0THSh4xe
そうなんですか。
462 :
人間七七四年:2012/01/13(金) 11:52:12.91 ID:h3sI8FQP
戦前の方がまともな国家だったよ
列強の中でも大日本帝国ほど模範的な近代国家はあるまいて
463 :
人間七七四年:2012/01/13(金) 21:05:21.98 ID:Jfj0Ve8X
菅生郷は高師直・高師泰(源義家4男の家系)領、屋敷跡が築山殿で有名な総持寺
下和田郷は佐々木高秀、京極高詮の領地
三河は源氏だらけ
家康は源氏が引いたレールにただ乗っただけだな
痩せた土地で質実剛健、奉公滅私で天下をとったとかアホか
464 :
人間七七四年:2012/01/13(金) 21:30:50.76 ID:atic4/3H
家康は将軍に成れる血筋じゃなかったはずだが。
465 :
人間七七四年:2012/01/13(金) 22:46:20.24 ID:lFcj5sPz
てか、まさに松平という地名を名前にしてる土豪だよね
それで三河統一のあと三河守に任じてもらおうとしたけど身分が
低すぎてぜんぜんダメなんで、たぶん信長公に斡旋してもらって
トクガワという名跡を継いだんだけど、そのときは藤原家系の武士って
ことだったのにいつのまにか源氏になったって聞いたことがある
それも新田系ってのは将軍になる直前に決めたとか
466 :
人間七七四年:2012/01/13(金) 22:54:49.98 ID:us13zJzn
>>465 得川氏末流ってのは、清康の頃から名乗っていたって説がある。
で、得川氏を主張すれば、新田系であり、藤原氏の末裔でもあるってことになる。
467 :
人間七七四年:2012/01/13(金) 23:09:19.92 ID:OfylvEQ1
またループしてる悪寒
468 :
人間七七四年:2012/01/13(金) 23:26:18.52 ID:Jfj0Ve8X
松平の地名、土豪
そもそも松平は、皇室領(八条院→大覚寺統)荘園内の由緒正しい土地
松平から南にすぐの所は、高師直高師泰領の比志賀郷(現在は日近郷)
比志賀郷のすぐ東は細川郷
松平が何もない山の中とか言う奴は、骨の髄まで百姓、育ちの悪い糞カッペ
469 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 00:42:48.47 ID:C+7YqO89
皇室領とか東北や南九州みたいな辺境ですらあったけどw
470 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 00:51:15.65 ID:60cQVEIs
面積は長野県根羽村、加茂郡全域、日進市の一部、桁違いのデカさだが
楠木正成が逃げてきて住んだ屋敷(現在は若宮八幡宮)とか、何かゆかりがあるのかい?
ちなみに比志賀郷の近くには、逃げてきた赤松円心の子孫の、赤松さんの立派な家もあるんだよな
471 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 08:30:41.30 ID:Fiulpjf7
>>465 最初の改名の時は信長は関係ない。
新田が出てきたのは実力で統一して自分がトップなのに
ハクをつけたかったのだけど当然源氏の足利がその頃は
一番。
だからその兄筋に祖を持っていって足利よりも先輩
つまり源氏ー武士の中で最も正統でもあるというところを
「私称」したというあたりがすごい。
家康も秀吉も土豪的な苗字を早く捨てて「一家をかまえた」
というあたりはさすがなんだよな。
それだけ出自が不明確ということなんだけど。
472 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 09:57:03.60 ID:AFsug7p2
家康の場合は勅許を得る形で改姓しているけどね
その意味で私称ではない
473 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 10:10:27.42 ID:60cQVEIs
信長とかの糞カッペはどーでもえーわ
アレだろ、信長とか言う田舎モン、豊田市の長興寺を、あまりのデカさに城と間違えて焼き討ちしたんだよな
で、後から足利将軍家ゆかりの由緒正しい寺と知って、びびって立て直したんだよw
この長興寺は、系図上源頼朝の実の弟の家系である中条氏の創建
豊田は源頼朝のひいおじいさんが開発した所だから、源頼朝の血縁が絡んでいる
474 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 10:15:24.02 ID:RkEffknK
でも将軍家は認めてくれなかった
三河は元々足利一門の領地だったから、それを横領した挙げ句に清和源氏を名乗らせろと言ってきた家康を不快に思ったのだろう
義昭が没落してからは形振り構わず濫発したけど
475 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 10:31:50.25 ID:60cQVEIs
信光の嫁さんは一色氏の出なんだろ、松平は貴種だ
時代はややズレるが、スター勢ぞろいの三河なんだよ
足利義満が三河で
天恩寺創建
足利一族の菩提寺滝山寺本堂立て直し
実相寺本堂立て直し
六名堤造営(堤のせいで下和田郷に水がいかなくなり、佐々木高秀が足利義満に泣きつく)
御馬城築城
細川頼之が三河で
蓮性院創建
斯波義将が代々一族が眠る三河で
永源寺創建
476 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 10:59:26.54 ID:AFsug7p2
>>474 改姓したころの室町幕府は将軍不在だから、そんな話はない
477 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 11:57:19.36 ID:60cQVEIs
そもそも部外者の糞カッペ
三河は足利一族の植民地、松平は土着の土豪
これが馬鹿の壁だな
三河と足利氏の関係は平安末期に遡る
菅生郷(岡崎城近辺)は足利義兼の所領であり、義兼の兄である足利義清(矢田義清)は、西尾の矢田城主であった
菅生郷の郷司は、足利被官で源頼朝からも陸奥国信夫郡の所領を与えられた高階惟長
この高階惟長と矢田義清は同盟関係で、2二人とも水島の戦いで戦死したワケだが
この矢田義清の実の子義範は、母親の父新田義重に引き取られて初代山名氏となる
嫡男である広沢義実は豊田の広沢に移り住み、生まれた子供が初代細川氏の細川義季だ
何故山名義範が、養父(実の祖父)新田義重に反して源頼朝に協力的だったのかも
三河を中心にとらえれば全て裏が読み取れる
478 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 12:26:33.47 ID:SsRjZmmB
>>465 家康が従五位下三河守に任じられたのは、1566年、このとき信長はまだ無位無官、信長は、1568年に足利義昭を将軍に立てて従五位下弾正小忠にはじめて叙位任官している。
家康は、信長を介さず独自の朝廷工作で任官している。
当主が官位を有する今川家で教育され、いまや今川と対峙するようになった家康の方が官位の重要性を先に認識していたのだろう。
あと、出身地、領地(荘園)所在地を「苗字」(本姓ではなく)として名乗るのは当時では一般的なこと。
足利、新田、吉良、島津なんかもそうなんだが。
479 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 13:14:25.85 ID:AqtolcEP
最終的には吉良から系図を譲ってもらい新田系ではなく足利系として将軍になっ
たという解釈でいいんだよな?
480 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 13:25:44.84 ID:AFsug7p2
>>479 吉良にあった世良田の系図をもらったという話
481 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 14:17:18.49 ID:Lp3n2CMv
>>476 お前がないと言い張っても書状が存在しているのだからどうしようもないよ
その後も足利家は家康に「松平」で書状送ってるし
義昭が徳川姓と官位を改めたのはずっと後
482 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 15:09:18.76 ID:oP6bFkt0
>>481 家康の三河守叙任は永禄9年末だが、既に義輝は死亡してる。
次の足利義栄は、永禄11年に将軍に叙任されてるけど
義栄から家康に書状とか出てたっけ?
483 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 18:05:40.17 ID:Fiulpjf7
なんか勘違いしてないか。
叙任叙勲は別に将軍が出すもんじゃないけど。
清盛の初官なんて将軍のいない時代だが一体誰が
出してると思ってるの?
484 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 18:49:04.76 ID:HGLlLkCk
徳川家と松平家の関係がよくわからん。
家康が勅許を得て、自家を他の松平諸氏とは違うんです、とアピールするために改姓したのはわかる。
ってか、主張的には本家を継いだ、って形か。
で、なんで江戸時代に入って、徳川の子供の家が松平になるの?御三卿とか。
485 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 19:30:21.21 ID:oP6bFkt0
>>484 松平家に養子に出したケース。
家康の息子である忠吉や忠輝も同様。
486 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 20:45:35.38 ID:HGLlLkCk
御三卿も新しく家を起こしたんじゃなくて、三河以来の松平の家に養子を押し込んだの?
あと、会津のケースは?
487 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 21:02:35.32 ID:oP6bFkt0
>>486 御三卿は、基本的に徳川を名乗ってるけど、2男3男などは
松平家に押し込んでる。
会津の初代は秀忠の隠し子保科正之。松平性を与えられて
子孫は松平を名乗る。 (結城秀康と同じパターン)
488 :
人間七七四年:2012/01/14(土) 23:26:09.92 ID:HGLlLkCk
ああ、会津松平は徳川の子どもだから松平、じゃなくて、保科家に松平の姓を与えたのか。
秀吉の豊臣大安売りみたいなもんね。
ありがとう、だいたいわかった。
489 :
人間七七四年:2012/01/15(日) 08:58:44.51 ID:Z3q2/nh7
同時代的に言うと松平は土豪的な一族名で
どこにどう馬の骨がいるかわからない。
だからその一族の中できっちり「家康直系」という
特別な価値を明確にしたのが「徳川」姓。
だから徳川の子供でも安っぽくつけなくて「徳川」
を名乗ることは松平一族の中で「特別な価値」があるということが
わかるようになってる。
御三卿が徳川を名乗ったのはこれは異例なことで
吉宗が家康ー吉宗系統で将軍職を独占しようとした
その作戦の一環というのがよりわかりやすい理解。
だから長男以外は普通の松平にされちゃうのね。
平氏の中でも清盛直系だけを「平家」というように
松平だけでは何がどうかわからないイナカッペだから
初代「徳川家」という特別なくくりにした、という感じ。
これを20代前半で実行したのだから当時から天下取りの意思があった
とすると誤解が生じるけどさすがではあるな。
それと上の方でおかしな展開が続いてたけど、
徳川改姓は源氏としては朝廷から認められず藤原家としてなら
ということで認められた。例のチリ紙に書いた系図ね。
だからずっと署名は藤原家。
ここでよく誤解があるけど、藤原家として、ということは
出自がはっきりしない、という代名詞みたいなもので
所謂正統公家的な藤原家の子孫として認められたという
解釈ではない。
これは現在でもそうで藤原さんは子孫でもなんでもなくて
近衛さんとか九条さんが藤原直系になる。
長くてごめん。
490 :
人間七七四年:2012/01/15(日) 09:44:32.52 ID:QtimRa22
>>489 御三卿は、嫡男だけが徳川なんて事は無い。
ついでに言うと、御三卿は他家乗っ取り要員。
場合によっては自家が断絶しても、他家に養子に出してしまう。
491 :
人間七七四年:2012/01/15(日) 10:59:14.28 ID:L4NFrw4P
御三卿はあくまで将軍血統保存要員だよ
御三卿は実質的に領地を持っていないので、当主のみの家であり
子供が大勢生まれた場合は家督相続者以外は養子に出してしまうしかない
将軍家や御三家が後継者を求める場合は空き家にしても養子に出し、再び将軍家や御三家から養子を迎える
の繰り返し
つまり嫡男だけが徳川姓と言うか嫡男しか家に残らないから結果的に一人しか御三卿の徳川を名乗るものはいたかった
また、他家を乗っ取る為にあるわけでもない
あくまで将軍家と御三家の保存が目的
過剰人員を他家に送り込んだだけで、空き家にしてまで養子に入る場合は将軍家か御三家に限られる
492 :
人間七七四年:2012/01/15(日) 13:59:55.76 ID:+cCu7CY2
しかしアレだな、とっくの昔に三河武士が全国に拡散してたワケだから、家康の日本統治など楽勝だわなw
室町幕府樹立後(初期)、西三河人の日本支配構造
【東海道】
・伊賀国守護:仁木義直、細川清氏、仁木義長
・伊勢国守護:仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・志摩国守護:仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・尾張国守護:中条秀長
・三河国守護:仁木頼章
・伊豆国守護:石堂義房
・遠江国守護:今川範国、仁木義長、今川範氏
・駿河国守護:石堂義房、今川範国、今川範氏
・武蔵国守護:仁木頼章
・安房国守護:斯波家長
【畿内】
・摂津国守護:仁木頼有、細川繁氏
・和泉国守護:細川顕氏
・河内国守護:細川顕氏
【北陸道】
・若狭国守護:斯波(大崎)家兼、斯波高経、斯波氏頼、細川清氏、石橋和義
・越前国守護:斯波高経、細川頼春、斯波氏経
・能登国守護:吉見頼顕、吉見頼隆 ← 吉見氏は源三河守範頼を祖とする三河ゆかりの氏族
・越中国守護:吉見頼隆、細川頼和、斯波高経
493 :
人間七七四年:2012/01/15(日) 14:00:28.35 ID:+cCu7CY2
【東山道】
・奥州探題:斯波(大崎)家兼
・羽州探題:斯波(最上)兼頼
・下野国守護:斯波頼兼
【山陰道】
・丹波国守護:仁木頼章、仁木頼夏
・丹後国守護:今川頼貞、荒川詮頼、上野頼兼、仁木頼章
・但馬国守護:今川頼貞、吉良貞家、仁木頼勝
・伯耆国守護:石橋義和
・石見国守護:上野頼遠、上野頼兼、荒川詮頼
・因幡国守護:吉良貞家、今川頼貞
・伯耆国守護:石橋和義
【山陽道】
・備中国守護:細川頼之
・備後国守護:仁木義長、石橋和義、細川頼春
・安芸国守護:細川頼之
【南海道】
・紀伊国守護:細川氏春、
・淡路国守護:細川師氏、細川師春
・阿波国守護:細川和氏、細川頼春、細川頼之、細川頼有
・讃岐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
・伊予国守護:細川頼春、細川頼之
・土佐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
【西海道】
・九州探題:一色範氏、一色直氏、細川繁氏、斯波氏経
・筑後国守護:一色直氏
・肥前国守護:一色直氏、一色範光
・肥後国守護:一色直氏
・日向国守護:細川頼春、一色直氏、一色範親
494 :
人間七七四年:2012/01/15(日) 14:10:21.39 ID:+RRuyb8v
よめんよめん結論だけ言ってくりー
495 :
人間七七四年:2012/01/15(日) 19:20:30.79 ID:iOK384lB
三河武士は雑魚ばっかり
496 :
人間七七四年:2012/01/16(月) 01:52:28.81 ID:C//vCHAb
そもそも〇〇武士ってのがナンセンス
元を辿ればみんなアフリカ武士だし、現状なら今住んでいる場所を名乗るべき
都合の良い期間だけ抜き出す事になんの意味があるんだ
497 :
人間七七四年:2012/01/16(月) 03:40:33.76 ID:p3WWGfbB
>>489 解りきったことを長々と書くなバカタレ!
498 :
人間七七四年:2012/01/19(木) 07:25:05.05 ID:/bUxtqof
499 :
人間七七四年:2012/01/19(木) 12:29:25.31 ID:e0BvloU5
>>495 くやしのか?w
しょうがないだろw日本人は三河武士のパシリになるDNAを持っているw
足助重範が豊田から駆けつけてきて、後醍醐天皇軍3000人の総大将とか、三河の足利一族、家康だけじゃないよな
お前ら今(トヨタグループ)も昔もパシリすぎm
500 :
人間七七四年:2012/01/19(木) 14:03:53.98 ID:4iQjCulg
三河人な俺も、千葉は微妙だけど
北海道・宮城・京都・福岡以外の一流府県は全部愛知県人が
拓いたって思想持ってるけど、
維新の薩長土肥って最近ではどうなってるの?
501 :
人間七七四年:2012/01/19(木) 14:25:38.71 ID:IaW0GfTS
足利のパシリ!西三河w
502 :
人間七七四年:2012/01/19(木) 14:59:38.80 ID:e0BvloU5
物を知らない猿か?w
なぜ足利氏が、三河守護になれたのか考えた事はないのか?
答えは簡単、元々三河に所縁があってなれたワケだな
足利宗家だけでなく、庶流の足利義清は西尾の矢田に住んで、矢田義清と号した
義清の実の子の一人は初代山名氏の山名義範、嫡男の孫が初代細川氏の細川義季
なんてことはない、細川氏つーのは、祖父の代から三河にいたワケだ
そしてなぜ山名氏が新田氏に従わず、源頼朝足利尊氏側で活動したか理由もわかるね
山名氏とは三河にいた足利一族だからさ
503 :
人間七七四年:2012/01/19(木) 23:33:50.39 ID:sURAieTl
昔の人は官職とか肩書きにこだわり杉
元々始皇帝とかも自称したのがはじまりなのに
莫迦の歴史を研究してるようなもんやな。
504 :
人間七七四年:2012/01/20(金) 00:07:09.00 ID:JIvP6Hz+
>>502 元元の所縁とは熱田神宮由来というのでいいのか?
505 :
人間七七四年:2012/01/20(金) 23:56:55.60 ID:JS2ToUwe
薩長(明治政府)←徳川幕府を踏襲しただけ、所詮は遺伝子レベルで馬鹿
1337年 西三河武士団、室町幕府樹立
1603年 西三河武士団、江戸幕府樹立
1937年西三河武士団、トヨタ幕府樹立
2007年 トヨタ幕府世界販売生産世界一
2012年 トヨタ幕府世界販売生産 世界一に返り咲き見込み
実績が違いすぎますわw
506 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/01/21(土) 00:42:39.53 ID:Zqem7at7
今の西三河、他国人ばかりだぞ。
507 :
人間七七四年:2012/01/21(土) 11:28:38.38 ID:6y9zM1Fe
鳥居勝商放送されてたけど、2〜3日に1度の
山城同士の定時連絡とかして無かったんだろうか?
俺が国持ちだったら、全ての砦や城に定時連絡便走らせるんだけどなぁ。
あと月例で侍大将以上集めて、自他国一般情勢の勉強会開いて情報共有すると思う。
508 :
人間七七四年:2012/01/21(土) 12:05:10.85 ID:CVpbzGPr
509 :
人間七七四年:2012/01/21(土) 17:29:42.27 ID:gTUJ8BJp
>>506 言ってみただけじゃないだろうな
過去を遡って、社会増を調べあげるぞ
俺をナメるなよ
510 :
人間七七四年:2012/01/21(土) 19:25:20.86 ID:gaUVTqb3
511 :
人間七七四年:2012/01/22(日) 04:21:41.12 ID:htXS+fOr
512 :
人間七七四年:2012/01/24(火) 19:24:12.62 ID:FBhiMiSH
司馬遼の関ヶ原読んでたら、家康に対する憤りで全身から血が吹き出そうになったわ
513 :
人間七七四年:2012/01/24(火) 19:51:27.73 ID:K1hkmYiO
シバリョじゃなぁw
514 :
人間七七四年:2012/01/24(火) 19:59:25.58 ID:otZt8YKr
小説としてのキャラ付けとはいえ、家康に対して「鷹狩と薬作り以外趣味のない男」とか言ってるからなあ
515 :
人間七七四年:2012/01/24(火) 20:30:47.05 ID:fCxKwPbf
そうなんじゃないのか?
516 :
人間七七四年:2012/01/24(火) 20:55:15.59 ID:K1hkmYiO
勉強家だし、鉄砲撃ったり水泳したり 元気なおじーちゃんだ
517 :
人間七七四年:2012/01/24(火) 20:55:30.19 ID:tR2JMIjm
武芸やったり碁や将棋のボードゲームに写経、果ては洋式算術にまで手をだすハイカラなジジイはそうはおらんだろ
家康は多趣味
518 :
人間七七四年:2012/01/24(火) 21:03:31.61 ID:avYeXohE
>>512 城塞読め、城塞
お前なら切腹して果てるよ
519 :
人間七七四年:2012/01/24(火) 22:58:43.17 ID:mzQI3Qnn
>>517 ホントに多趣味だよなー。
香木マニアでも有名だし。木活字や銅活字での出版までやってたもんな。
520 :
人間七七四年:2012/01/24(火) 23:16:38.10 ID:FBhiMiSH
>>518 これ以上の悲劇は見とうないわw
司馬遼の戦国シリーズはあと播磨灘で終わりにする。口直しや。
521 :
人間七七四年:2012/01/24(火) 23:37:14.91 ID:K1hkmYiO
>>519 後に庶民にまで活字が行き渡るとか
江戸時代の識字率の高さは家康のおかげか
522 :
人間七七四年:2012/01/24(火) 23:47:35.57 ID:mzQI3Qnn
>>521 普及したのは木版本だから、家康の活版が直接原因では
無いと思う。
太平が続いて、庶民が教養や娯楽に時間を取れるように
なったのが大きいんじゃないかと。
523 :
人間七七四年:2012/01/25(水) 00:26:26.78 ID:eH8S8bvP
>>522 そうだね 戦もなくなったし余裕が出てきたんだろうな
524 :
人間七七四年:2012/01/25(水) 09:06:53.06 ID:uex3mPIs
>>522 公家の独占だった古典籍が一般に廻るようになったのは家康が吐き出させたお陰とも言える
525 :
人間七七四年:2012/01/25(水) 09:31:44.98 ID:YKPMF4uK
碁とかの思考性のたかい富裕層のボードゲームが庶民にまで普及したのは徳川家がパトロンになったおかげだね
明治に入ったあと公的な支援がなくなっとの洋化政策によって結構苦労してる
526 :
人間七七四年:2012/01/25(水) 10:58:11.34 ID:iG9gKRoO
碁は中国かインドで生まれたけど、それを今のように育て上げたのは日本だって聞いたことがある
527 :
人間七七四年:2012/01/25(水) 11:12:12.46 ID:YKPMF4uK
平安時代に日本に輸入されて当時のインテリ層の人気ゲームになったけど
室町末期に日本でルールが大幅に改正されて当たらし物好きの戦国大名の間で一大ブームが巻き起こり、近代囲碁が成立する
おそらく、大陸は逆輸入したんだろうね
大衆レベルでは旧ルールでやってるかもしれんけど
528 :
人間七七四年:2012/01/25(水) 11:50:36.76 ID:FJ7tLMYI
囲碁の起源は韓国だよ
中国と日本が盗んで自国の文化と主張してるだけ
529 :
人間七七四年:2012/01/25(水) 15:44:51.27 ID:jAfBfd28
いい話題だ。
今年は初代大橋宗桂名人から記念すべき400年。
あ、将棋ね。
その年にコンピューターに負けるというのもなんだが・・
とりあえず家康さまには感謝しないといけないわな〜。
530 :
人間七七四年:2012/01/25(水) 23:24:45.12 ID:K5DM1WEs
>>524 朝鮮から持ち帰ったものも多いから
ある意味では、秀吉のお蔭かもしれない。
531 :
人間七七四年:2012/01/26(木) 00:42:29.85 ID:Xhfod5dk
平安の庶民の名前とかもちろん各史料とか
みると当時から「識字率」は相当にあったはずというのが
普通だろうな。
でないといきなり江戸で全国に普及すると言うのは
なかなか説明に苦しむ。
昔はひまだから今より普通にカナぐらいは覚えてただろうし。
532 :
人間七七四年:2012/01/26(木) 06:51:31.76 ID:z7GVKIqU
>>531 昔は暇なんて妄想は、ほどほどにしとけ。
533 :
人間七七四年:2012/01/26(木) 15:39:16.57 ID:f91n20Yg
>>531 そんなことを言ったら、
公文書がきっちりのこってる20世紀初頭のヨーロッパの識字率は100%近くないとおかしいけど、
実際は30%くらいだったとか
史料があるからと言って即識字率には結びつかない
史料ってのはだいたい学識のある層がつくるものだから
534 :
人間七七四年:2012/01/26(木) 15:45:12.49 ID:Ayo58s3g
江戸時代の史料って結構多いよね
戦火で喪失しなくなったというのが大きいな 火事はあったけど
535 :
人間七七四年:2012/01/26(木) 16:04:10.43 ID:PnCjoog7
>>533 なので平安としたのだけど、地方の寺なんかに
庶民の名前がたくさんあって書いたのは字がわかる
お坊さんだろうけどひらがなや漢字もいっぱいあって
当然庶民も自分の名前、つまりカナぐらいは判別
できてただろうとは歴史と言うか言語のほうの専門家が言ってる。
歴史の方だと史料中心主義で「それは推測」と認めてないが
江戸の前段階でもある程度はあったろうという話ね。
将棋の駒もそうだが一番古いのは貴族の屋敷や寺社だが
江戸期にあんだけの漢字のゲームが一気に普及するというのも
それまでにある程度の知識はあったかと。
当然「あれは単に記号だよ」と言うだろうが川柳なんか見ても
普通に読み書きパロってるし。
%の話はよくわからないが、各階級によって違うから
あれだけど庶民でも3〜50%ぐらいはあったじゃないかな。
そして平安から400年かけてだんだんあがってきて江戸になると。
536 :
人間七七四年:2012/01/26(木) 22:43:50.20 ID:z7GVKIqU
>>535 裏付けどころか、考証にすらなってない
妄想じゃねーか。
537 :
人間七七四年:2012/01/26(木) 23:31:46.14 ID:xbDYrh5F
名前を述べることが出来る=文字も理解できるは強引だろ
インコは文意把握して喋ってるわけじゃあるめえ
今の小学生と意思疎通はできるが、文語文かけっていってどれだけの人間が正確なもの書けるよ
538 :
人間七七四年:2012/01/26(木) 23:41:50.26 ID:aclcThAl
だが、否定する材料もないんだよな
江戸時代に極て高い識字率があったのは間違いないが、別に義務教育があったわけではなく
民間に学問をする風習があったのが要因なわけで、それがいつ頃から普及したのかが分からないと何とも言えん
まあ、小作人まで読み書きが出来たとは思えないけど
公家、武家、神官、僧侶、商家あたりは100%に近い数字で
百姓は富裕層が中心だったろうと思う
539 :
人間七七四年:2012/01/26(木) 23:47:59.00 ID:PnCjoog7
あのさ、中世には木簡とかもたくさん出土して
物証があるんだけどそっから説明しないといけないのか。
お寺の記録なんかは江戸にも直結するから比較しやすい
だろうと思って例にしたんだけどさ。
平安から残る文字が上級貴族だけに使われてて
庶民には普及して無かったとかいう主張ならそれはそれでいいけど
それはそれで笑われるぞ。
単にからんでるだけの子供ならいいだろうけど。
540 :
人間七七四年:2012/01/27(金) 00:00:05.02 ID:jRdm+upJ
>>538 室町だが、高野山が守護への苦情があったら提出しなさいと言うと
かなりたくさん集まったと記録がある。
まとめた正式な訴状なんかはお坊さんが書いたんだろうけど
各荘民が「うちはこんだけボッタくられた」とかいうのは
普通は庶民がメモ程度とはいえ提出したということだろう。
そういう部分的な例から識字率とかは判定しようが無いが
カナぐらいはある程度は普及していたんだろう。
また守護が「遅れたからあんた2割り増し」なんて文書も
あるがこれはちゃんと「読めた」ということだろう。
江戸に詳しいのならその連続性からその前段階でもそれなりに
普及はしていたというのは理解してもらえるはずなんだけどね。
541 :
人間七七四年:2012/01/27(金) 00:48:58.67 ID:AhMTkxv0
>>538 一揆起こすような連中・層はそれなりに読み書きは出来ただろうな
村の名士みたいなのが文言書いて後は当て字で署名程度だろうけど
>>539 中身ねえな
要約すると「俺はこう思う!それに反論するお前は恥かしい!」
ナンダコレ
>>540 憶測じゃん
文字が理解できるごく一部に充てて書いて証拠とし、それをその理解できるやつらが理解できないやつに読み聞かせろ
こうも解釈できらあな
542 :
人間七七四年:2012/01/27(金) 06:57:48.77 ID:Y9mvlI3W
543 :
人間七七四年:2012/01/27(金) 10:48:53.58 ID:HD992qgQ
>>539 寺が知識階級じゃないとは新説ですね
そこから誤認してるとなると、もうどうしようもない
544 :
人間七七四年:2012/01/27(金) 13:45:28.84 ID:EMoNY9Sb
わかったから少しは言語、国文の本読んでみてくれ。
俳諧、とか風俗の方でもいいからさ。
543に言っておくが、お寺の記録の中に庶民が
書いたと思われるのく見られるのもあるという話ね。
541もだが、当て字、じゃなくてカナが多い、と言ってるでしょう。
「だろう」ってそちらの方が推測になってるしさ・・
結局中世史料を見たことも無くて誤読して
レスされても困る。
ちゃんと「中世庶民はカナも読めない」という
主張をされるならそういう具体例を頼む。
545 :
人間七七四年:2012/01/27(金) 18:26:42.29 ID:AhMTkxv0
>>544 説明できないならレスしなきゃいいのに
541は結論として憶測してるけど、
>>540は憶測を基に自説を展開してる
違いぐらい分かるよな?
546 :
人間七七四年:2012/01/27(金) 19:18:09.93 ID:HD992qgQ
悪魔の証明を求められても困る
無かったことの証明はできない
あったと主張するがわが証明をするべき
それと庶民つっても、
支配階級、つまり庄屋や土豪、地侍あたりは読み書きできても不思議じゃない(出来なくても不思議ではないけど)が、
水飲み百姓なんかがが読めたのかってのが主眼
そこらへんが読み書き出来ないと識字率は上がらないから
庶民庶民というけど、そこら辺の区別がついての発言?
どうも庶民(百姓)で一括りにしてるけど、庶民にもはっきりと差はあるんだよ
今みたいに平等なんてない時代なんだから
547 :
人間七七四年:2012/01/27(金) 19:26:17.79 ID:E5yxtFmT
今ごろ仙台百姓も津波の下で冷たく成ってるだろうよw
548 :
人間七七四年:2012/01/27(金) 20:24:43.39 ID:MtCBk1Ln
見ざる聞かざる言わざるところを磨くべし
549 :
人間七七四年:2012/01/27(金) 22:21:24.19 ID:AhMTkxv0
>>546 その辺だよなー
紙も当時高価なのに、庶民に簡単に手に入るものじゃない
紙を用意できる時点でそれなりの余裕がある、つまり上層の人間
勿論底辺層が簡単に紙を用意できたというならそれはそれで面白い発想だ
550 :
人間七七四年:2012/01/28(土) 00:58:02.83 ID:Jswoz5kT
人生は重い荷物を持ちて坂道を登るが如し
登るは遅く、こければ一気に転げ落ちてゆく如し
さればゆえ油断大敵身のほどを知れ
551 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/01/28(土) 01:02:36.20 ID:CRh4Be67
戦国期に「帰農した武士」なんてのは、下手すりゃ家老の次くらいに偉かったりするのがイメージギャップ。
552 :
人間七七四年:2012/01/28(土) 01:10:38.13 ID:R7bnG1KJ
信長公は自分自身の手でよく家来を手討ちにしてたし、前田利家などは
足軽として最前線で戦ってたし、口論から人を斬り殺したりしてるけど、
家康公って自分自身の手で人を斬り殺したことがあるのかなあ
553 :
人間七七四年:2012/01/28(土) 01:20:19.93 ID:Jswoz5kT
>>551 ポジション的に一番神経疲れそう
現代でも過労死するの中間管理職だろ
554 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/01/28(土) 01:25:00.37 ID:CRh4Be67
>>553 組織に属さない体の金持ち。
「お大尽」てヤツさ。
555 :
人間七七四年:2012/01/28(土) 02:01:46.37 ID:5iani2ip
>>552 家康お気に入りの鷹に怪我させた小姓を切り殺している
関ヶ原でも門奈を切り殺そうとしたし、信長公記でも家康が弓で敵兵を射ったと書いてあるし
結構殺してるんじゃないかな
556 :
人間七七四年:2012/01/28(土) 02:20:42.76 ID:rd1CHHjO
家康はああ見えて動けるデブだから侮っちゃいけない
557 :
人間七七四年:2012/01/28(土) 02:22:08.59 ID:bXNxI8Mm
鯛を天ぷらで食うとか贅沢すぎるだろ
558 :
人間七七四年:2012/01/28(土) 03:26:53.16 ID:Jswoz5kT
天つゆ派?塩派?
559 :
人間七七四年:2012/01/28(土) 04:02:22.56 ID:PyiwX3tJ
てんやの丼たれをドバドバかけるのが好きですだ
560 :
人間七七四年:2012/01/28(土) 09:42:01.21 ID:ajI8zyZg
贅沢っていうか生水、生野菜、生魚は体に気を使ってまず口にしなかったというから
油で高温処理する天ぷらは調理法として安全だと思っちゃったんじゃないかな
当時、保存技術が低いから油が悪かったんだろう
好物ってわけでなく豪商から西洋から伝わった珍しい料理なんすよってすすめられたんだっけ
当時の天ぷらはころものついた天ぷらじゃなく
さつま揚げみたいなのとも聞くけど見た客に出せない目の悪い小鯛をすり身にする経済的な調理法だったかもよ
561 :
人間七七四年:2012/01/28(土) 12:07:06.64 ID:R7bnG1KJ
>>555 やっぱ武闘派だったんだな 悟りきった坊主じゃない 武闘派武士だ
武闘派坊主和崎俊哉
563 :
人間七七四年:2012/01/28(土) 23:17:29.14 ID:cgmmRaMB
564 :
人間七七四年:2012/01/29(日) 00:52:31.07 ID:+GnT+Jh2
人を責めるばかりで教え諭さないなら、
それは人を傷つけるだけのことだ
565 :
人間七七四年:2012/01/29(日) 12:08:40.37 ID:9uATBoeE
家康公の鯛の天婦羅の一件は、胃癌で食欲、体力が低下したんで、珍しい食い物なら食が進むかもということで、鯛の天ぷらを差し上げたんだろう。
舶来のオリーブ油で揚げてるから、高価なものであることは間違いないがね。
食が進んだのはいいが、弱ってるところに油っこいものを食べたんで体調悪化、さらに自分で調合した強い薬を使ってさらに悪化という具合。
当時のことだから、胃癌は助からないが、体の衰弱で少し死期が早まったくらいかね。
566 :
人間七七四年:2012/01/29(日) 12:31:00.79 ID:mNneeRuM
史料では、カヤの油だったけどな。
567 :
人間七七四年:2012/01/29(日) 15:56:23.01 ID:F4hiLJCy
茶屋四郎次郎は首はねられるんじゃないかと焦ったろうなw
568 :
人間七七四年:2012/01/30(月) 22:50:54.97 ID:cnRWdYNm
家康公の性格って、あらゆる準備をしておいて
あとはチャンス(近隣大名が死んだとか)が来るまで待ってるイメージだが
誤解してる? 三方が原の事情説は知ってる。
569 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/01/30(月) 22:59:38.80 ID:2tslDyXI
常に強者の脇に滑りこむことができる位置にいる。
570 :
人間七七四年:2012/01/30(月) 23:16:57.65 ID:xGnKc3dU
>>569 おれが長年、家康が嫌いだった理由がやっとわかったわw
そういう要領のいい抜け目なさが嫌いだったんだ
571 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/01/31(火) 00:14:31.93 ID:/HarLBUW
義元の甥
信長の弟
秀吉の弟
系図を少し齧って、義理を消せられば、ね。
572 :
人間七七四年:2012/01/31(火) 07:36:23.50 ID:GZCdcBQz
573 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/01/31(火) 23:15:30.27 ID:Ti9JZwP1
>>572 長子どうしが夫婦だからさ。フロイスの話こそ全く頭に浮かんでなかったよ。
574 :
人間七七四年:2012/02/01(水) 00:14:17.64 ID:ZNAfX43d
575 :
人間七七四年:2012/02/01(水) 10:53:14.48 ID:HZq0MDwK
清洲同盟だからでしょ?
576 :
人間七七四年:2012/02/01(水) 15:30:35.19 ID:9i+X4yhZ
>>573 長子?
信康はそうだが、五徳姫は信忠の妹だから違う。
577 :
人間七七四年:2012/02/01(水) 22:36:49.00 ID:yuNYQqpT
そう言えばほとんど話題にならないけど
広忠公って、なかなかな大将じゃなかったの?
ヨイショ無しの実績や評価が知りたい。
戸田康光事件の対処しか知らないw
578 :
人間七七四年:2012/02/02(木) 10:13:10.69 ID:LFcKRkyh
広忠は松平の汚点だろ
579 :
人間七七四年:2012/02/02(木) 10:45:53.91 ID:GQjG2ecO
いやー状況的に仕方ないだろ
清康さんが三河固めて死んだならともかく
なにもかも途中な段階で急にムラマサが来たので死んでしまったわけだすから
敵は敵のままだし半端な味方は確実に離反するしよくて様子見
つぶれなかっただけ立派であろう
580 :
人間七七四年:2012/02/02(木) 14:41:52.29 ID:qbCUk3n4
一旦潰れてるじゃん
というか今川の庇護を受けるために臣従したから、独立勢力としての松平氏は広忠の代に潰れたと言っていいだろう
581 :
人間七七四年:2012/02/02(木) 17:02:57.64 ID:yh9FT/Oi
領地支配については、松平宗家家中には今川の直臣となった者もいたものの権力機構は健在であり、
今川氏は松平氏権力の解体・再編を断念し、松平宗家を利用して三河の在地支配を行っていた。
そしてこのことは、松平氏が国人一揆機構から脱却し、すでに家康以前から戦国大名への道を歩み始めていたことの証左である
582 :
人間七七四年:2012/02/02(木) 18:14:11.38 ID:cwjl2fC+
どうして離反しなかったのかの方が気になるな。
583 :
人間七七四年:2012/02/02(木) 19:50:00.22 ID:chD3qcQG
家康みたいな内向的な人は、戦国時代だから血統によってリーダーでいられたけど、
今だと無理だろうな。
584 :
人間七七四年:2012/02/02(木) 20:11:59.49 ID:eZExZRG4
先ず、何を持って内向的と判断したのか
585 :
人間七七四年:2012/02/02(木) 20:46:04.22 ID:chD3qcQG
家康は社会外交的には社交的だが、
性格的には内向的じゃん。
いや、いろんな書物を読んだ上での話だがら、
586 :
人間七七四年:2012/02/02(木) 21:06:52.58 ID:C0Oa9V6g
山岡壮八か?
587 :
人間七七四年:2012/02/02(木) 21:27:53.10 ID:eZExZRG4
家康の人生は自己の内面に向くゆとりは全く無かったと思うが
588 :
人間七七四年:2012/02/04(土) 09:17:20.14 ID:0L12DjZI
内向的と言うよりは内弁慶タイプだろ
外面はかなり良い
589 :
人間七七四年:2012/02/04(土) 09:22:38.44 ID:v4AHn37T
内弁慶は無いな。家臣への対応は穏便そのもの。
590 :
人間七七四年:2012/02/04(土) 13:46:01.24 ID:bdSl+PrD
どこがだよ
他の大名と比べたら徳川の扱いは酷すぎる
みんな冷や飯食らいだし
591 :
人間七七四年:2012/02/04(土) 15:19:36.90 ID:FCwRINLX
理不尽に殺していないし、失脚してもアフターケアはしている
592 :
人間七七四年:2012/02/04(土) 15:53:37.44 ID:0wovavSQ
飽和した資本主義時代には、徳川家臣団みたいな
慎ましい生活が時代の最先端だよな。
つくづく参考になる組織理論だ。
593 :
人間七七四年:2012/02/04(土) 15:57:08.90 ID:/s1h9LL3
他の戦国大名で言えば信長秀吉元就信玄政宗なんかは
性格や思考が垣間見える面白い書状、もっと言えば稚気のあるものが多いけど、
家康に関してはあんまりそういうの思いつかない
そういうのが内向的イメージに寄与してるんだろうね
家康自身が意識的にそういう感情とかを表に出さないようにしてたような気がする
594 :
人間七七四年:2012/02/04(土) 18:12:20.99 ID:xjXTQBVG
ン万石あたえられて冷や飯食らいとはこれ如何に
それに信長・秀吉死後の織豊政権やお家騒動の時の最上とか、幕末の伊達を見ればわかるけど、
家臣が力を持ちすぎるとトップの抑えが利かなくなって暴走してまとまりがなくなる
それを御しきれるカリスマが大名にあればいいけど、そうでない人もなるわけで
権力と実力を分離するのは長期政権を作る上でいい方法
595 :
人間七七四年:2012/02/04(土) 20:43:53.91 ID:v4AHn37T
>>593 「内向的」とは何かまったく理解してないと思われ
596 :
あ:2012/02/05(日) 01:06:16.15 ID:2A27On/0
家康って謀叛を喰らった事は無い?三河一向一揆は別として。
597 :
人間七七四年:2012/02/05(日) 02:02:15.52 ID:TW8MBmo5
>>596 徳川家はすごくまとまってたけど背かれたことがないことはないんじゃね?
武田信玄最後の遠征のときは多くの武将が武田がわに寝返った気がする
いやまてよ あーゆーのは謀反とは言わねーな
598 :
人間七七四年:2012/02/05(日) 02:40:54.20 ID:AcWh6lWI
>>597 国人連中は徳川家に限らず強い方につくからなあ・・・
あんまり参考にはならんかと
石川一益の出奔も、謀反ってレベルじゃないしね
599 :
人間七七四年:2012/02/05(日) 02:57:46.49 ID:9pjTwLqw
大賀弥四郎は……謀反する前にあぼーんか
600 :
人間七七四年:2012/02/05(日) 03:03:00.21 ID:TW8MBmo5
真田昌幸が徳川から上杉についたのも謀反ってほどじゃないよなあ
もともと外様というよりはほとんど他人だもんなあ
謀反っていうからには何年かはしっかり徳川家臣じゃないとな
そうなるとほんと少ないな ぱっと出てこない
601 :
か:2012/02/05(日) 03:49:29.66 ID:2A27On/0
寝首を部下に掻かれそうになった話も無いのかもね。だとしたらとても愛された親方だったのかも。
602 :
人間七七四年:2012/02/05(日) 09:33:51.60 ID:fX6ihF9W
・宗教がらみの離反は除外
・外様の鞍替えは除外
・譜代でも謀反前に露見したら除外
・譜代でも出奔は除外
こんな感じで除外しまくったら大抵の棟梁は謀反なしじゃねいの
>>595 ?
603 :
人間七七四年:2012/02/05(日) 15:29:36.47 ID:AcWh6lWI
国人の離反を謀反に入れたら、大抵の大名は謀反されてるよ
国人ってのはそれだけ微妙な立ち位置の存在だから
604 :
人間七七四年:2012/02/05(日) 16:28:32.26 ID:e1ANrGYp
そんなの定義しなくても、「命を獲る謀反」だけで
大賀弥四郎だけになら無いか?
処罰されなかった?石川数正はイマイチ不明だけどw
605 :
人間七七四年:2012/02/05(日) 16:29:06.11 ID:TW8MBmo5
ひょっとすると長男信康の切腹は謀反を未然に防いだものかもしれない
まだ十代の血気にはやる若者が、織田に土下座する父を追放して
独立しようと企み、武田とひそかに連絡をとってたのがバレたのかもしれない
信長公が他家の跡継ぎのデキがいいから腹切らせたなんて変だ
606 :
人間七七四年:2012/02/05(日) 18:45:51.78 ID:pYhoxd1P
大久保長安がありえそう
経済力も申し分ない
607 :
あ:2012/02/05(日) 20:38:05.86 ID:2A27On/0
釣天井事件は秀忠だったか?家康じゃないしな。
608 :
人間七七四年:2012/02/05(日) 21:33:07.50 ID:AcWh6lWI
釣天井は秀忠
609 :
人間七七四年:2012/02/06(月) 00:29:15.46 ID:+LF6m6A2
あれってでっち上げじゃないの?
610 :
人間七七四年:2012/02/06(月) 00:43:51.20 ID:wMEx+djS
家康の蔵人佐って実際に任官してたの?そもそも蔵人佐って役職あったの?
611 :
人間七七四年:2012/02/06(月) 00:54:59.32 ID:kYZStvVr
五位蔵人のことなんかね? 令外官はようわからん
612 :
人間七七四年:2012/02/06(月) 01:13:45.20 ID:Y4RwHLR9
でっち上げだろうね なんで本多正純が秀忠を殺さないといけないんだ・・・
本多正信、正純親子は徳川家にもっとも貢献したとも言われる大久保家を
蹴落として恨みを買われてたんじゃないだろうか 大久保家を中心に
武闘派が巻き返しをはかって吊り天井事件が起きたのでは・・・
613 :
人間七七四年:2012/02/06(月) 09:42:42.09 ID:MLSXUNRB
個人的には大久保排斥は家康の意思だと思うけどね
614 :
人間七七四年:2012/02/06(月) 10:39:15.84 ID:QkLtNqz0
大久保長安は、死んでから悪事露見で、横領はしてても謀反じゃないと思うが。それも、本多親子が大久保忠隣を失脚させるために仕組んだという説が有力で謀反とは違うような。
615 :
人間七七四年:2012/02/06(月) 15:55:16.82 ID:p83URBFm
さすがの家康公でも、幹部の不正までは
防止できる組織体制敷けなかったって事か?
616 :
人間七七四年:2012/02/06(月) 17:13:40.64 ID:kPYWzWNb
不正を防止できる政体など無い
不正は常に不正ではない
昨日合法今日違法そういうこともある
617 :
K:2012/02/06(月) 18:37:27.56 ID:3/UrInEQ
日本人、全員!!
これを観ないでいろいろ言っても、しょうがないと思います!
↓
http://www.youtube.com/user/amenouzumei#g/u (真実のエッセンスが上手くまとめられています。)
ネット上では、「9.11」「アラブの春」「真珠湾攻撃」「南京大虐殺」「民主党の実態」他、真実は多くの人に知られています ソウル在住の中国人急増、地元住民と対立も(11 が、
政治、戦争歴史、マスコミ、教科書、宗教、医療業界、警察、司法・・・
これらが見事に世界規模でシステム化され、国民は完璧に洗脳されて来ました。
真の情報を得られるのは、インターネットとほんの一部の書籍のみ。
アメリカ人は既に気づきはじめました。
このシリーズの内容は、みごとに集約されています。
初めて観る方にとっては、最初のうちは「100%ウソに決まってる!」と言って観ることを止めるでしょう。
でも、決して観るのを止めないでください!!(お願いします。)
否定するなら、最後 (上級編)まですべて観てから否定してください。
否定は出来ないはずです。
これらの周辺の関連動画も片っ端から観ることをお勧めします。
みなさん、日本が、世界が、幸せになることは、共通の願いなのではないでしょうか。
「自分は知っている!」という先入観は捨てて観ることをお願い致します。
、、、
618 :
人間七七四年:2012/02/06(月) 18:47:49.16 ID:TlmbZZwe
>>612 本多家改易したのって、正純が福島正則のように勝手に改築したからと聞いたんだが
あとお江が寝込んだことにしようとかいうけど、その時期お江さん本当に寝込んでいたようだからね
正妻見舞いがてら一度帰って、また日を改めて行くつもりだったとか?
619 :
あ:2012/02/06(月) 19:42:42.74 ID:R/CqpGjm
有馬の金を横領した奴とか長安とか釣天井とかキナ臭い事件が多いな。いかに家康が良く抑えてたかが分かる。また本多家って明治の大久保利道みたいなイメージだ。
620 :
人間七七四年:2012/02/06(月) 22:30:59.48 ID:kV383DW0
むしろそれらは家康の置き土産
幸い秀忠も家光も堅実に統治していたから大事には至らなかったが
621 :
人間七七四年:2012/02/07(火) 15:00:00.72 ID:K+f70Zya
いくら平和な世を望む機運があったとしろ
危険な2〜3代がのりきったというのはたいしたもんだ。
無能だからよかった、なんてヒネた言い方もあるが偉大な
初代の遺言?を忠実にこなすというのもまた重大な役目
だろうしな。
清盛、頼朝見てると本当に思うわ。
622 :
猿飛佐助:2012/02/07(火) 15:13:14.55 ID:sVv91E0v
世のため人のため、家康を殺すか、考え中・・・
623 :
義経:2012/02/07(火) 15:44:10.14 ID:sVv91E0v
家康は800年前、鎌倉幕府の重臣だったらしい。
もう、いやんになる。
北条討つべし!!!
624 :
人間七七四年:2012/02/07(火) 19:51:09.30 ID:NR+s8j0a
625 :
ら:2012/02/09(木) 19:39:31.31 ID:/hbxgCBH
忠輝と政宗がつるんでの謀反って本当にあり得たのかな?これもでっち上げ?家光時代になっても政宗は戦国の生き証人として重宝されたみたいだけど
626 :
人間七七四年:2012/02/09(木) 20:01:32.69 ID:09SODPLT
>>625 忠輝は100万石近い大封をもってたのにぜんぶとられて坊主になったんだから、
そりゃかなりはっきりした証拠が出ちゃったんじゃないかなあ それで観念した
もしハメられたとしたなら、忠輝にはハメた相手がわかってたはずだし、
キレて殺害してたと思います
627 :
人間七七四年:2012/02/09(木) 23:28:08.42 ID:LAf/QN34
顔が恐ろしいとかで嫌う親なんて居ないよな。
武将としては恐ろしい方が良くないか?
信康がフラッシュバックしたのだろうか?
って事はやっぱり信康は謀反かw
628 :
人間七七四年:2012/02/09(木) 23:35:33.59 ID:wc0oGUxS
政宗は使節団の記録で「政府転覆をたくらんでた」という
話があるね。
それが本心かどうかは別の話だけど
ケイタイも無い時代だし、つるんで、ってのは
かなりあれじゃないかなぁ。
629 :
人間七七四年:2012/02/10(金) 00:45:24.54 ID:oPAuKuEp
家康が悪人って言う人のほとんどの理由が豊臣家への扱いだけどこのあたりを詳しく調べれば調べるほど家康って実は戦国大名で一番律儀だったんじゃないかと思う。
このあたりを秀吉が織田家に対してやった事と比較すると明らかに家康って豊臣家を残そうとぎりぎりまでねばったんだなあというのがわかる。
630 :
人間七七四年:2012/02/10(金) 01:49:12.51 ID:/ISq3aTy
◆源頼朝◆父方:河内源氏、 母方:藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
■三河国高橋荘・高橋新荘
・三河国高橋荘:源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
・三河国高橋新荘:荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:幕府内序列2位、上総介、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(源頼朝を国主とする知行国、国司は頼朝が推挙、当初は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国)
・三河国:源範頼(頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、頼朝と幼なじみ)の娘←三河国司は、頼朝が初めて国主とした推挙した事例
・駿河国:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、後に実兄が伊豆守になり、伊豆に移り住み頼朝と知り合う)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(実の父親は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
■政所(実務を司る役所、室町幕府の管領にあたる)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、四男(海東忠成)が熱田大宮司一族に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司、高師直の先祖)の室)
・執事:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
631 :
人間七七四年:2012/02/10(金) 16:32:47.82 ID:kZLGLy97
そっかなぁ。
律儀に関してはいいんだけど
豊臣家は滅ぼす気だったとは思うな。
結果論にしろ何でも一番いいタイミングをつかまえてるとこ
なんかはさすがだとは思うわ。
632 :
人間七七四年:2012/02/10(金) 16:50:53.68 ID:Okskupmm
豊臣にも逃げ場はあったのに逃げなかったって印象が強くなった
徳川がいちゃもんつけてとよく言われてるが
豊臣も徳川にいちゃもんつけてるよね
633 :
人間七七四年:2012/02/10(金) 17:27:45.55 ID:Xw770qHZ
最初から滅ぼす気はなかったと思うよ
江戸開府した前後では割と情勢が不穏でリスクが大きすぎる
千姫輿入れとかをどう見るかだけど、それで取り込めればよしと見るね
でも予想以上に早く上手くことが収まって幕府の権力が固まった
豊臣の諸大名への影響力も目に見えて衰えてきた
しかも豊臣はなんか今でも主筋と思い違いをしてる
今ならいけると決断したのが1614年、と
634 :
人間七七四年:2012/02/10(金) 18:29:54.08 ID:dcFY/7Tu
>豊臣も徳川にいちゃもんつけてるよね
正論での必死な弁解しか思いつかないが、、、
635 :
人間七七四年:2012/02/10(金) 18:44:54.46 ID:CdNApXJu
でも関ヶ原から14年も待ったってのが腑に落ちない
1600年の時点で家康も結構な年齢だったし
636 :
人間七七四年:2012/02/10(金) 19:28:35.20 ID:X4t+NDlc
加藤清正、浅野幸長などの死は豊臣に大打撃だったと思うよ。
家康としては自分が生きているうちにすべての戦の種を潰すっていう
強い思いがあっただろうね。
豊臣家が健在だったら、家康は豊臣家をないがしろにしている
みたいな理由で戦の大義名分とかにもされかねなかっただろうし。
637 :
人間七七四年:2012/02/10(金) 20:08:21.70 ID:oPAuKuEp
当時の平均年齢から考えるといつ明日死ぬかもしれない年齢だった上1608年?には死にそうな病をわずらったときもある。
豊臣家を屈服させないまま死ぬ可能性が高かったにもかかわらず長い時間をかけて豊臣家の天下を諦めさせようとしたのがわかる
それに比べると秀吉はしずがたけの戦いのあと速効で信考とその母親を殺し、天下を統一した数か月後信雄の領土を、転封に難色をしめしたという理由だけでほとんど没収している。
自分をとりたててくれた恩家を速効でつぶした秀吉と、長い時間を与え転封も人質も断り続けた豊臣家を優遇しつづけた家康。
この二人を比べると家康以上に天下をとってなお豊臣家を長く存続させる事ができた武将はほかにいないと思う。
もちろん秀吉が悪辣だったのではなく家康が戦国武将としては異常に律儀だっただけで。
638 :
人間七七四年:2012/02/10(金) 20:44:18.00 ID:YoYaJi9Z
殺らなければ殺られてた秀吉と、圧倒的な差が出来ていた家康を一緒に語れるところがすごい
秀吉だって完全無力の織田秀信はそこそこ厚遇してたで
639 :
人間七七四年:2012/02/10(金) 20:58:13.62 ID:SQjUYVlv
>>638 秀吉も自身が攻め込まれた訳じゃなく、先制攻撃して抹殺してるから
自衛じゃなくて100%簒奪だな。
640 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 01:24:38.47 ID:1wMw6gRA
>>638 殺らなければ殺られていたのは家康も同じ
天下を統一した後小牧の戦いですでに旧織田家にみはなされていることがはっきりしていて危険性がほぼ無い信雄を改易したのは
改易もしくは反抗した信雄を殺しても反発する大名がいないという確信があったからでは?ちなみに改易後の織田一族の総石高は30万石程度
対して家康は織田家と違い天下を統一した為遥かに危険性が高い豊臣家を65万石の大名として十数年優遇し続けた。
そもそも秀吉の場合は信長の血族がたくさんいた為一人や二人殺しても彼の血族が絶えることが無いため旧主の一族を根絶やしにしたという悪名をかぶらずに済んだ。またその必要もなかった
対して家康は秀頼が背けば当然彼と徳川を恨むであろうその子供を殺さざるを得ない。これが問題で反乱した秀頼の直系を断つことは秀吉の血筋を根絶やしにした事になってしまう。
つまり秀吉は織田家の血筋を根絶やしにしなかったのに{そもそも必要無いし血族が多くて不可能だが}家康は根絶やしにした悪い奴だということになる。
もし秀吉の息子がたくさんいたら秀頼の直系を断ってもほかの血族がいるかぎり秀吉の血筋を根絶やしにしたという悪名を負うことわなかったが
結局秀頼は背き、彼の血筋のみを絶った事が秀吉の血を根絶やしにした、家康はインケンだ、それにくらべて秀吉は織田の血筋を根絶やしにしなかったいい奴という評価になった。
やったことは同じなのに。
641 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 08:26:39.02 ID:wM9NW8tk
信雄も豊臣家も転封を拒否してるわけだ。
これが何を意味するのか理解してないとか馬鹿すぎるだろ。
642 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 08:57:18.06 ID:56ILJWVU
解っていて意地を通したと信じたい…
643 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 10:28:46.14 ID:qqfrT6+T
大坂の陣が始まる前に前田に徳川寝返って豊臣についてね、とか言ってたらしいし
本気で幕府側に勝てると思ってたんかね
644 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 10:53:13.99 ID:XOdgEDkM
645 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 11:54:13.70 ID:9qgbkYpT
恩賞辞退しただけなのに改易とは
646 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 12:51:50.67 ID:2lXKIZAU
というより、そうしたルールが生まれて定着していくのがこれからだろう
転封自体が滅多くあることではなかったし
問答無用で大名を取り潰せる強大な権力も日本史上で初だった
647 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 13:07:57.15 ID:8i/aGbsk
>>646 秀吉は、以前から転封しまくりだよ。
大規模な領土獲得があった場合は特にね。
648 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 14:50:33.23 ID:8WEShukz
◆源頼朝◆父方:河内源氏、 母方:藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
■藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
・三河国高橋荘:源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
・三河国高橋新荘:荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:幕府内序列2位、上総介、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
・三河国:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、頼朝と幼なじみ)の娘)←頼朝が初めて国主として推挙した事例
・駿河国:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、後に実兄が伊豆守になり、伊豆に移り住み頼朝と懇意)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模国:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総国:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃国:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後国:安田義資(甲斐源氏)
・伊予国:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(実務を司る役所、室町幕府の管領にあたる)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司一族に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・執事:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
649 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 15:23:09.39 ID:vnvJ7ix3
最初から豊臣潰す気だったかどうか知らんが、
あれだけ反抗的な豊臣を死の直前にやっと潰すくらいだから、
豊臣がもうちょっと上手く立ち回れば潰されずに済んだんじゃね?
650 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 15:29:28.93 ID:9Y5pPVE/
家康って和歌はどれくらい残しているんだろう
一覧載ってるとこないかな
651 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 15:50:36.52 ID:8WEShukz
◆源頼朝◆父方:河内源氏、 母方:藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
■藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
・三河国高橋荘:源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
・三河国高橋新荘:荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:幕府内序列2位、上総介、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、頼朝と幼なじみ)の娘)←頼朝が初めて国主として推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、後に実兄が伊豆守になり、伊豆に移り住み頼朝と懇意)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(実務を司る役所、室町幕府の管領にあたる)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司一族に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・執事:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
652 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 16:24:53.13 ID:56ILJWVU
>>650 大日本史料の家康逝去の項にあるが、達筆過ぎて読めん
653 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 16:55:56.86 ID:fS7lhYcc
633が言うようにまずは幕府安泰が先だから
ずっとチャンスをうかがってたとは思うな。
最初という意味だと関が原より前から狙ってたようには
思うけど心に1%ぐらいはあったろうぐらいしか言えないか。
転封というのも栄転と左遷があるから時期と場合によって
違うのを単純化しては語れないわな。
それより信孝を殺したのは秀吉ということでいいんかね。
しばらく前は「それは信雄」、秀吉は織田家簒奪なんかしてない
というのがワラワラわいてて話が先に進まなかったもんだが。
654 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 18:46:46.68 ID:1wMw6gRA
司馬遼太郎の関ヶ原と覇王の家で家康好きになれました。
655 :
人間七七四年:2012/02/12(日) 00:29:32.17 ID:HtOmF7eR
◆源頼朝◆父方:河内源氏、 母方:藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
■藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
・三河国高橋荘:源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
・三河国高橋新荘:荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:幕府内序列2位、上総介、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))←頼朝が初めて国主として推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、後に実兄が伊豆守になり、伊豆に移り住み頼朝と懇意)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司一族に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
656 :
人間七七四年:2012/02/12(日) 01:13:48.24 ID:uqA0Bjsb
>>653 >それより信孝を殺したのは秀吉ということでいいんかね。
>しばらく前は「それは信雄」、秀吉は織田家簒奪なんかしてない
>というのがワラワラわいてて話が先に進まなかったもんだが。
史料では信雄でFA
「話が先に進まなかった」って、単純に
貴方が望むような歴史的事実がなかったというだけの話
657 :
人間七七四年:2012/02/12(日) 01:33:54.05 ID:pBmvJOGp
>>653 大阪城を立てたのは大工ってのと同じようなもんじゃね
658 :
人間七七四年:2012/02/12(日) 02:09:29.95 ID:JkXLWJjj
誰に殺されたとしても「報いを待てや 羽柴筑前」という辞世が真作なら
秀吉を恨みながら死んだことだけは確か
もっとも秀吉厨は贋作だと言うだろうが
659 :
人間七七四年:2012/02/12(日) 02:24:04.23 ID:uqA0Bjsb
ま、単なる逆恨みだけどね
一度秀吉と敵対して敗北、母親と娘を人質に出して降伏しているのに
更に秀吉打倒の兵を挙げるなんて畜生のすること
そもそも信孝が秀吉の主君だったことなど一度もないのに
「主を討つ身の」なんて言ってるのは如何にも勘違いの信孝らしい
ちなみに信孝辞世の句の出典は『川角太閤記』
真贋は定かでないが、信孝個人の名誉としては
上述の理由からむしろ贋作であったほうがマシな出来
660 :
人間七七四年:2012/02/12(日) 09:07:38.05 ID:OgRvWGCo
というと今でもここでは、史料FA,ってことね。
別にどうでもいいが、オヤジが生きてた時には
ヘイコラしてたのに、死んだら豹変、というのは
逆恨みと言う言い方もあるだろうが、「主家に対して
ひでぇなぁ」てとこだろう。
一緒に光秀やっつけるあたりまでは、忠臣モード
だったのにいつのまにやらだもんな。
661 :
人間七七四年:2012/02/12(日) 09:33:33.22 ID:OgRvWGCo
ついでだが「史料にない」とことというのは
「わからない」「確認できない」とはいえるが
「事実は無かった」とまではいえないだろう。
「史料にあることは100%事実」としても「ないことは事実としてない」
とまでいうのはそれこそ論理の飛躍と言うかね。
史料中心主義というのはこの「ある」の反対概念を「ない」と
してしまうところに特徴がある。
あくまで史料上「確認できるーできない」としかいえない事を
「事実としてあるーない」というところに変換または飛躍させてしまってるわけだ。
つまり歴史学の一端としての「史料解釈」という方法論を
「歴史学の目的ー結論」にしてしまってるというか。
同じ中世でも様々な解釈や論点が展開されてるんだが
この織豊期というのは特に「信雄が切腹命令出した、はいおしまい」
「100%事実はいおしまい」とね。
もちろんそうなんだがこの結論から逆算して他の事象を
語るからまたおかしくなってくる。
662 :
人間七七四年:2012/02/12(日) 10:26:39.70 ID:SVhvQz8E
無い事の証明なんてのは悪魔の証明でしかない。
しかも他の事実が史料で存在するのに
史料に存在しない事を事実だとするなんて妄想以外の何物でもない。
663 :
人間七七四年:2012/02/12(日) 14:20:54.95 ID:UA8ZBRuR
この人本能寺スレにもいたなww
向こうで黒幕説でもいってろw
664 :
人間七七四年:2012/02/12(日) 14:39:01.49 ID:LE3QXOjf
上の方で「なかったことの証明はできない」と言われてたが、
多分同一人物。
同じスレで同じことを二度も言われるとは懲りてないというか。
665 :
人間七七四年:2012/02/12(日) 16:41:36.67 ID:HtOmF7eR
◆源頼朝◆父方:河内源氏、 母方:藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
■藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
・三河国高橋荘:源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
・三河国高橋新荘:荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:幕府内序列2位、上総介、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))←頼朝が初めて国主として推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、後に実兄が伊豆守になり、伊豆に移り住み頼朝と懇意)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司一族に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
666 :
人間七七四年:2012/02/12(日) 22:02:18.35 ID:PzwKuHGA
徳川家康から家の字貰って名前に入れてた人はどのくらいいるの?
667 :
人間七七四年:2012/02/13(月) 11:40:16.72 ID:hQjQL0M6
島津家久、最上家親、石川家成、奥平家昌、酒井家次、松平家次、松平家広、他
徳川譜代や江戸初期の大名で家が上につくのはみんな家康の偏諱だろう
668 :
人間七七四年:2012/02/13(月) 12:07:50.94 ID:UVhkCSzY
天下は回りもち、実力のある人間が取る
てのは当時の大名たちみんな思ってただろう
清正だって文句あるなら兵隊集めて徳川を攻めろって福島に言ったくらいだし
大体秀吉も自分がやったことをやり返される認識があるなら
秀頼と淀にめろめろになったり海外出兵や派手なパフォーマンスしてる暇あったら
家康みたいに自分が死んでも磐石なくらい組織固めればよかったのに
ライバルだった家康に頼る時点でダメ
669 :
人間七七四年:2012/02/13(月) 12:14:17.99 ID:wE+Wx8R6
ちょっと淀殿には政権担当能力があったとは思えないよねえ
本来なら三成らがうまくやるべきだったんだろうけど
家康公はきちんと天下を治めてた 淀殿に文句言われる筋合いはない
浪人を何万人も集めて家康が死んだら蜂起じゃーとか言ってたら
潰されて当たり前だよ
670 :
人間七七四年:2012/02/13(月) 19:59:46.72 ID:YCEAq60G
あの国家安康の事件の時には家康は豊臣家を完全に潰そうと決心していると思われがちだけど実はこの後も家康からわぼくの申し入れがあったんだよね。
たしか上洛?か、淀を人質にだすか、転封か、浪人放出するかのどれか一つを選べだった。
これを無理難題とは言えないだろう。最初から条件をのまさせないつもりなら全て受け入れろと言うはずだし。
家康の年を考えるとこのわぼくは自分で秀頼を潰す最後のチャンスを家康自身が潰そうとしているような物だから本気でわぼくしようと考えたとしか思えないだが?
671 :
人間七七四年:2012/02/13(月) 20:32:52.62 ID:sIyVbZvx
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏 母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
三河国高橋荘
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、惟康は後に駿河に移住初代大森氏に、小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
三河国高橋新荘
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏)の室)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
672 :
人間七七四年:2012/02/13(月) 21:35:52.84 ID:7GPTeHui
家康は会津征伐が終わったら、それを頼朝の奥州藤原氏討伐になぞらえて
征夷大将軍に就任するつもりだったのかな
673 :
人間七七四年:2012/02/13(月) 21:37:27.26 ID:rs6ZZaVR
大坂城、落とせるなら落としたいと思ってただろ
ただ、後世に悪名を遺すのは確実だし、
大坂城のような巨大な要塞を落とすには桁違いのエネルギーが要るから一筋縄ではいかないと見ていた
大坂でも家康にもうそんなパワーは残っていないと高を括っていた
ところがすべての予測を裏切るほど家康のエネルギーが底なしだったということ
674 :
人間七七四年:2012/02/13(月) 21:38:40.58 ID:4cvYdDAN
>>670 いやそれはもう無理難題だよ
豊臣家がどう思おうと、浪人衆が絶対に納得しない
どうにかしようとするなら、豊臣家が大坂城から逃げ出して家康に保護を求めるしか無いくらいに絶望的状況
675 :
人間七七四年:2012/02/13(月) 23:02:32.26 ID:TLfm7orX
>>670の条件って結局”普通の”大名になれってことだよな
だから他に”普通の”大名だって事を示す方法があれば、それでよかったんじゃね
676 :
人間七七四年:2012/02/13(月) 23:13:24.71 ID:sIyVbZvx
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏 母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、後に高橋一族は駿河に移住し初代大森氏に、頼春が小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))の娘)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍(比企氏)の妹、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
677 :
人間七七四年:2012/02/14(火) 01:20:39.92 ID:NV3nauiN
>>674 まあ、浪人を大阪城に入れたことで詰んだということだね。幕府に武力で歯向かおうとすれば、誰であれ、潰される。
それが分からぬ大うつけが、大阪を仕切っていたのが不幸だった。
678 :
人間七七四年:2012/02/14(火) 04:02:13.11 ID:T6EtWkT9
そもそも城内圧倒多数派の浪人を放逐なんて出来たのか?
下手したら秀頼が討ち取られ兼ねんw
679 :
人間七七四年:2012/02/14(火) 18:22:32.52 ID:USEtIzxS
秀頼は討ち取られないとは思うが神輿強制は間違いないだろうね
大野兄弟あたりは、大野兄弟が片桐且元にしたような感じになると思う
良くて追放、悪くて梟首
浪人衆が居なければ670の言う条件、
つまり淀殿を人質に出すとか転封を受けるとか、やれたと思う
本当にアイツら忠義面した大不忠者だよ
680 :
人間七七四年:2012/02/14(火) 19:16:45.04 ID:1KK5dxkf
>>679 兄弟でも治長と治房とではかなりスタンスが違うようだけど、まあ治長は且元みたく
なっちゃうかもしれないな(実際襲われているしね)。
681 :
人間七七四年:2012/02/14(火) 22:50:04.98 ID:mRu7qSHU
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏 母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、後に高橋一族は駿河に移住し初代大森氏に、頼春が小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
■菅生郷(愛知県岡崎市)
・荘園としては立券されず、後に足利義兼が実母の実父(藤原範忠)から相伝されたもよう
・郷司は足利被官の高階惟長(源義家四男の家系)、惟長は源頼朝から軍功により、陸奥国信夫郡の地頭職を与えられている
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))の娘)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍(比企氏)の妹、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
682 :
人間七七四年:2012/02/15(水) 10:08:46.91 ID:CAmZUjrF
同じコピペを延々と貼り続けているヤツは何がしたいんだ?
683 :
人間七七四年:2012/02/17(金) 23:29:23.58 ID:vKHx20tv
684 :
人間七七四年:2012/02/17(金) 23:47:59.23 ID:R/wZ2azV
685 :
人間七七四年:2012/02/18(土) 07:04:16.24 ID:NhyckgaC
>>682 少しづつ修正しているね
同じに見えるのは、君の出来が悪いからだ
686 :
人間七七四年:2012/02/18(土) 15:12:42.12 ID:9pfoGZnm
勘違いしてる人がいるみたいだけど、
牢人の解雇は大坂の陣の後だな。
方広寺鐘銘事件の時の条件は秀頼の参勤か淀の人質、大坂からの移封のどれかだな。
要は家臣になれって事。
三箇条誓詞提出に際しても豊臣家は対象外で、徳川政権の枠組みの外の存在。
何の理由も無いのに本来主家である豊臣家に家臣になれとは言えないけど、
徳川に対して敵意があるのであれば、安全策として臣従させるというのは理に適うと言えなくも無い。
687 :
人間七七四年:2012/02/18(土) 15:57:06.00 ID:bQpCaY92
ただいま静岡朝日テレビで家康関連の番組放送中
豊臣家は!浪人衆を養うために、いくさをしているのではないっ!
689 :
人間七七四年:2012/02/18(土) 20:33:36.35 ID:NhyckgaC
田舎臭い名古屋の猿の話はどーでもえーわ
室町幕府だけでなく鎌倉幕府も三河色が強いのが判明した
以後は源頼朝、足利尊氏、徳川家康の3将軍とトヨタグループ語るスレにする
えーな
690 :
人間七七四年:2012/02/19(日) 01:15:20.33 ID:brRf/CJi
ただいまBS朝日で長篠ネタ
もちろん徳川話も
691 :
人間七七四年:2012/02/19(日) 18:49:18.76 ID:TaS4ge46
デジアナで凌いでる俺には、
民法BSの話されても、仕組自体分からんwww
692 :
人間七七四年:2012/02/20(月) 09:32:39.28 ID:Qt4nt184
「戦国時代にタイムスリップしたら、どうするか」
という妄想に一定の解決案を思い付いたぞ!
確かにスマホその他の証拠は持って居ないかも知れないが
お前らだって歯に詰め物くらいはしてるだろう?
これを見せれば家康公も納得だw
693 :
人間七七四年:2012/02/20(月) 12:26:28.44 ID:DXMJ7ogt
694 :
人間七七四年:2012/02/20(月) 20:12:01.64 ID:7GaM2eAo
>>691 アナログが終わるまでデジタルなんていらねーと粋がってた俺がヒント
もっと早くBSをデジ化しとけばよかった(´・ω・`)
695 :
人間七七四年:2012/02/20(月) 22:36:12.81 ID:G8DkWrOh
オメガファーマ・クイックステップは総合はペーター・ヴェリトスで行くのかな
ヴェリトスってペーターとマルティンのどっちが兄なんだ?
あと何となくペーターの方が目立つ機会多くいないか?
696 :
人間七七四年:2012/02/20(月) 22:37:43.38 ID:G8DkWrOh
とんでもない誤爆した
家康公ごめんなさい
697 :
人間七七四年:2012/02/21(火) 21:26:32.01 ID:cQOCYfLe
BS朝日
にほん風景遺産 「静岡 歴史旅 家康を歩く」
もう半分来ちゃった
698 :
人間七七四年:2012/02/25(土) 17:31:30.99 ID:jfH4NLI0
結局天皇権威を拠り所にしないと国内統治さえ覚束無かった家康は、その他大勢の為政者と同じ。
で結局、外圧を契機に無力を曝け出して信を失い、大政奉還するハメだ。
やはり天皇超えを本気で目指した為暗殺された足利義満や織田信長の偉大さだけが際立つな。
699 :
人間七七四年:2012/02/26(日) 01:26:53.55 ID:Z0ixqxpT
暗殺されて、安定政権を築けなかった連中のどこが良いのか?
700 :
人間七七四年:2012/02/26(日) 19:46:00.12 ID:rKRHv68x
701 :
人間七七四年:2012/02/26(日) 21:44:57.38 ID:15aieyFV
オカルト過ぎて目眩がするサイトだな
702 :
人間七七四年:2012/02/28(火) 17:59:15.28 ID:PdZpjNgo
家康みたいにどん底から這い上がり天下を取るような人は人類史においても稀。
やっぱ偉大な人だ。
703 :
人間七七四年:2012/02/29(水) 00:24:43.89 ID:QiVFzySo
生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
家康を持ち上げようとしてるのかもだけど逆に失礼
704 :
人間七七四年:2012/02/29(水) 01:38:45.30 ID:RsGv4Pmm
いや、むしろ、どん底という境遇を乗り越えたからこそ、天下人という大輪の花を咲かせたんだと思う。
何も苦労の無い環境だったら、地方の小大名で人生終わっていたはず。
人生とは長き道を重い荷物を背負い歩くがごとし、、、。
705 :
人間七七四年:2012/02/29(水) 02:20:14.19 ID:PT8OpTkD
どん底から這い上がったというより、下積み生活を重ねたというほうが正解
秀吉はトントン拍子に上り詰めた印象だな
706 :
人間七七四年:2012/02/29(水) 10:13:05.61 ID:WtH4KOO6
>>703 今川の人質になった筈が、敵方の織田に捕らわれたのは、
どう見ても、どん底だと思うよ。
その境遇から、自力で脱出した訳ではないから差し引いて
考える必要はあるだろうけどね。
707 :
人間七七四年:2012/02/29(水) 11:30:04.56 ID:pZej52Xj
しかし、今川家にとっては、雪斎が竹千代との捕虜交換をするために城攻めまでしたわけで、駿府では結構大事にされてたらしいが。
708 :
人間七七四年:2012/02/29(水) 11:58:31.95 ID:Rv7QloSy
基本的に人質は大事に育てられるからね
家康や毛利隆元みたいにさ
優秀にしかも自家シンパになってくれれば万々歳なんだから
ただ織田に拉致られたのはどん底って言ってもいい
殺されても文句言えないんだから
>>703 >生まれつき武家の棟梁だった家康
???
709 :
人間七七四年:2012/02/29(水) 12:50:59.82 ID:8ruQsIn0
戸田康光ってどうなったんだろう。
褒美貰ってお仕舞い?
710 :
人間七七四年:2012/02/29(水) 12:53:12.10 ID:WtH4KOO6
711 :
人間七七四年:2012/02/29(水) 20:25:56.61 ID:QiVFzySo
>>708 家康は生まれたときから三河武士の旗頭である松平宗家の嫡男ですよ
「武家の棟梁」と言っても征夷大将軍だけを指すわけじゃないですからね、念のため
712 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 09:22:27.22 ID:ynHneSwQ
>>711 松平宗家と言っても、家康が生まれた頃は義元の庇護を受けて
ようやく岡崎に戻れた頃だぜ。
とても三河武士の旗頭とは言えんわな。
713 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 09:39:07.59 ID:uklEWWGn
>>711 ほう
じゃあ他に誰が武家の棟梁って言われてたの?
714 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 10:21:48.52 ID:KT3qx73I
715 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 11:31:45.72 ID:ErgybYD/
違和感持たなかった俺が、Yahoo辞書調べて見ると、、、
棟梁:《棟と梁は家を支える重要な部分であるところから》
一族・一門の統率者。集団のかしら。頭領。また、一国を支える重職。
三河国最大当主を棟梁が間違いだと言うのなら、
弱肉強食当時の棟梁出せよと思うが?
716 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 11:54:09.68 ID:uklEWWGn
「武家の」ってついてるからな
三河の武家の棟梁ならさもありなんだが
あるいは松平の棟梁
唐突に武家の棟梁って言われたらそりゃ将軍を想起しても不思議じゃないだろ、後年家康がそれになってるだけ余計にな
棟梁だけだと何の棟梁か分からない
武家の棟梁なら武家全体の棟梁、つまり将軍
三河の棟梁なら三河国という限定された棟梁全般、つまり三河の最大の大工さんでもいいわけだ
だからこの場合三河の武家の棟梁というべきだろ
まあ当時の松平の権力についての問題すっ飛ばして言葉遊びして何か意味あるのって思うが
717 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 12:18:05.71 ID:mG8Vjf4k
安祥松平家が宗家となったのは清康以降だと思うけどね
というか当時の清康に対する三河武士の印象は凄まじい物があるのだなと思う
718 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 13:20:08.65 ID:ynHneSwQ
>>715 家康誕生時点だと、松平宗家は三河最大勢力では無い。
719 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 13:35:58.43 ID:85h6CuKJ
それは知らんかったけど
>生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
>家康を持ち上げようとしてるのかもだけど逆に失礼
な時点で、「あぁ、確かに何十家も束ねる棟梁だもんな」
って合点がいかないのか? 柔軟性足りなくね?
720 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 14:03:24.25 ID:oVC5CrV1
松平宗家って言い方もなんかかっこいいけど
要は土豪の一族ってとこだもんな。
721 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 14:11:38.92 ID:KT3qx73I
>>719 松平宗家の〜といわれればだれも勘違いしない
読み手の柔軟性よりも勘違いを誘発するような書き方をした奴の修辞力が原因
「武家の棟梁」だけで将軍職を連想するなってほうが無理難題
722 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 14:35:39.80 ID:uklEWWGn
>>719 件の文章に柔軟性がありすぎるからじゃね
723 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 15:34:53.99 ID:L93gatHS
>>720 宗家と言っても、森山崩れで落ちぶれた後だしな。
岡崎城でさえ直前まで、同族に横領されてる状態だし
とても棟梁なんて偉い地位ではないよ。
724 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 17:54:20.99 ID:lTsbk5B2
松平氏は家康元服以前に領主としての正当性と権力機構を保持しており、戦国期権力ヘの道を歩み始めていた
725 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 18:09:30.66 ID:djcvaibS
>>723 まぁ長男だったというのを棟梁みたいに言った
だけでそんなに深い意味はないんでしょ。
ただその時期から天下への意思みたいに言うのはなぁ。
信長が義元倒さなかったら一生人質だったかもだし。
頼朝もそうだったかもだし、行動起こした直後はまともに
やられてるし人の一生というより歴史の転換、人物の誕生というのは
些細で微妙なとこなんだなといつも思う。
726 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 20:53:04.48 ID:wj/Y9JLj
今川とか武田の旧臣で大名になった人間も江戸時代は譜代大名ってされるけど、実際家康はこういう系の大名を譜代家臣と認識していたのか?
せいぜい外様大名よりは信用できるってレベルだったように見えるが
727 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 21:43:49.16 ID:02cNq0KP
>>712 家康人質時代の松平家臣は今川によって
家臣団再編をされずに、ほぼそのままの形で残されている
『三河物語』などが恨みがましく伝える、
今川直臣から陪臣であるが故に軽んじられる三河武士の悲哀もこのため
陪臣の身に甘んじた三河武士の苦労は察するに余りあるが、
今川からの離反以降、三河武士を譜代家臣団の中核として
引き継くことができた家康にとっては幸運だったと言える
>>716、721
「武家の棟梁」の意味すら知らずに勝手に勘違いしといて
修辞力に問題がある、とか恥ずかしくないの?
つうか平日の昼間から連レスしといて恥ずかしくないの?
そんなに暇なら日本史用語辞典でも引けば良いのに
728 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 22:07:35.57 ID:4tM/DmSI
>>726 井伊さんは元今川家臣だけど、別格扱いかな?
729 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 22:15:21.99 ID:02cNq0KP
奥平氏なんか元今川家臣であり、一度家康から離反した元武田家臣でもあるけど重用されてる
小笠原氏もそうだが、徳川家と婚姻関係を結ぶことで幕政で重きをなした譜代も少なくない
730 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 22:43:53.43 ID:wj/Y9JLj
>>728 >>729 井伊は別格
奥平もそうかな
個人的には諏訪とか土屋とか三枝とかがどう思われていたのか気になる
731 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 22:44:03.45 ID:XJG2StsC
奥平は
>>507 で誰も便乗してくれなかった、
鳥居勝商の功績が大きいんじゃないの?
732 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 22:53:46.70 ID:mG8Vjf4k
井伊の赤備はある意味外人部隊的な運用をされている気がする
733 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 23:07:44.24 ID:uklEWWGn
734 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 23:13:30.17 ID:02cNq0KP
>>733 >棟梁だけだと何の棟梁か分からない
>武家の棟梁なら武家全体の棟梁、つまり将軍
>三河の棟梁なら三河国という限定された棟梁全般、つまり三河の最大の大工さんでもいいわけだ
皆が職場や学校に行ってる時間に2chでこんな小学生みたいな
レス書いてる人間が人様を詭弁呼ばわりとか
恥ずかしくないの?
735 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 23:21:00.88 ID:KT3qx73I
>学校に行ってる時間
どうでもいいが、大学生は随分前から春休みだよ
ああ、大学行ったことがない人は知らないかもしれないけどさ
736 :
人間七七四年:2012/03/01(木) 23:40:37.76 ID:02cNq0KP
春休み中の大学生が朝昼晩に2chとに書き込みとか、
書き込み内容の幼稚さと相俟ってますます惨めになるだけなのに
暇なら大学の図書館で徳川家についてちょっとは勉強したら?
『三河物語』や『徳川実紀』みたいな個人で買うと馬鹿高い本が只で読めるよ
まあ君の通ってるレベルの大学では置いてないかもしれないけど
737 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 00:14:59.68 ID:Eob4ukAV
俺なんてネットやりに大学通ってたな。
画面がデコってあるから、PC詳しいのバレバレで
課題作成中の女子学生に
山ほど教えて教えてされまくったw
738 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 00:17:09.27 ID:fd6kDmRk
なぜ唐突に自分語り?
739 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 01:18:08.23 ID:Sj0dwspD
三河や実紀で勉強というのも変なニカワが増えそうだな。
徳川初期だと誰が読みやすいの書いてるかな。
740 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 06:10:15.02 ID:wiHrJhMk
>>715 違和感を持つべきポイントが違いましたね。
戦国時代に「武家」と言ったら足利氏のことなので「武家の棟梁」と言ったら将軍のことですよ。
741 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 10:04:57.97 ID:yb8xXehW
じゃあ日本中に居た、国持ち大名は棟梁じゃないのかと、、、
742 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 10:17:15.16 ID:GP7h3QI7
むしろ、松平氏が三河の支配者だと思ってた時点でおかしい。
743 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 16:10:03.02 ID:M0XSd9sP
>>742 相手するだけ無駄だよ
>>741みても”武家の棟梁”から”棟梁”に摩り替えてるし
どうやっても言葉遊びで逃げてうやむや、分が悪くなると国語板でやれとかでうやむや
詭弁を弄して反省しないのは無視が一番
744 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 20:11:51.25 ID:8hzKFajk
>>702-703 読んで「日本中の武士の棟梁」だなんて解釈するバカは
お前だけだろ( ´,_ゝ`)
745 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 20:39:56.35 ID:M0XSd9sP
ほら今度はレッテル張り
746 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 21:17:17.39 ID:8hzKFajk
>>家康みたいにどん底から這い上がり天下を取るような人は人類史においても稀。
どん底からかどうか? って話で
>生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
その辺の城主よりも更に上のボス
って言ってるのを、将軍じゃないだろ!!とかキチガイにも程があるから
レッテル貼って何が悪いんだよ( ´,_ゝ`)
747 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 21:32:11.32 ID:TF4YgsSZ
748 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 21:52:23.96 ID:X/VNHb5g
家康の魅力は、その苦労が多かった青年期なわけだから、別にどん底の人生であったとしても、最終的に大輪の花を咲かせたわけだから、家康の人生において、どん底時代があったとしてもいいじゃん。
むしろ、成功してからの家康には魅力を感じないな。
失敗や苦労が多いのが家康の魅力だ。
749 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 22:00:09.48 ID:M0XSd9sP
750 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 22:04:13.25 ID:QfCD01wf
天下取りをした人物で若いときに苦労してないのは、足利尊氏くらいだろう。
有力御家人の惣領だったからね。
まあ、後年、後醍醐天皇や弟との関係で苦労することになるが。
751 :
人間七七四年:2012/03/02(金) 22:04:55.64 ID:jM0SfM+W
「無視が一番」とか言いながらスルーできないなんて惨めだね
「詭弁」とか「反省」とか頭おかしいのか
>>740 そうなの?
石井進氏の『中世武士団』では、確かに武士階級が成立した
最初期において源頼信、源頼義、源義家の河内源氏三代が
「武家の棟梁」の称号を独占的に有したとされるけど、
足利将軍時代に「武家」が「足利将軍家のみ」を指す呼称だったとは初耳
不勉強で申し訳ないけどソースお願いできませんか
ま、現代の歴史用語としての「武家」は、単純に
鎌倉時代以降の幕府・将軍家・御家人を含めた武士一般の総称なんだけどね
>>742 松平氏は長親清康の頃に戦国大名として三河に確固とした権力基盤を築きあげてますよ
広忠の代に今川氏の庇護下に入り、領国である三河に対する実質的な支配権を喪失するが、
依然三河武士の棟梁たる立場を名目上維持し続け、また庇護者である今川氏からも
彼らの三河支配に益するようにその地位を保全することを期待される存在だったわけで
それは今川氏が松平家臣団の解体を志向しなかったことからも明らか
752 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 00:30:35.51 ID:OX2I5gse
753 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 02:31:10.26 ID:d1/+iNLo
家康って下は農民から↑は秀吉のよこした熟女まで寵愛できたのが律儀やなー
754 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 07:34:59.58 ID:uLwCquW3
室町時代の一次史料で足利氏以外を「武家」と呼ぶ事例を見たことないが、あるなら教えて欲しい
755 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 08:36:23.85 ID:BAFpxZav
室町時代に書かれた史料で今手元で参照できるのは『神皇正統記』くらいだが
>一旦の勲功などいふばかりにて、「武家」代々の陪臣の陪臣をあげて高官を授けられ事は、
>朝議の妄りのみならず、身のためも能く慎むべき事とぞ覚え侍る
「足利将軍家」ではなく「公家と対立する武士階級一般の総称」として「武家」と言う用語が使われてる
>>750 武家伝奏なら足利義昭が追放された後の天正三年、
甘露寺庭田勧修寺中山三条西の公卿5人が同職に新たに任命されてるけど
もちろん信長と朝廷との交渉役を期待されて
別に足利将軍家相手じゃなくても「武家」伝奏って言うらしいじゃん
756 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 08:40:34.51 ID:8Ka1gYEA
>>751 誰がどう見ても、頭がおかしいのはお前さんだよ。
事実誤認が多すぎる。
最初の文章と、それをフォローしようとした文章を見てみると
--------------
生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
家康を持ち上げようとしてるのかもだけど逆に失礼
家康は生まれたときから三河武士の旗頭である松平宗家の嫡男ですよ
「武家の棟梁」と言っても征夷大将軍だけを指すわけじゃないですからね、念のため
--------------
まず「武家の棟梁」については、この時代では足利将軍を指すのが通例だな。
次に「三河武士の旗頭である松平宗家」は酷い間違い。
当時の広忠は、吉良氏の支援でようやく岡崎を回復した状況で
三河の一土豪でしかも弱小。
平野氏の著作から引用するのも良いけど、ちゃんと理解してから
引用しないと、自分の馬鹿さ加減を晒すだけだよ。
757 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 09:25:36.49 ID:uLwCquW3
「室町時代の一次史料」がいつの間にか「室町時代に書かれた史料」となっていますが
『神皇正統記』は南北朝時代の歴史書(それ以前の歴史を抽象的に記述)であって、
室町時代に足利氏以外を「武家」と呼んだ事例ではないですよね。
>「武家」代々の陪臣の陪臣
ここで言う「武家」は鎌倉殿(将軍)を指していると思いますが・・・。
758 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 09:41:10.63 ID:OX2I5gse
>>755 義昭は京追放されてるし、信長自身が幕府機構を相当程度継承してるだけだろ
脇田修もそう指摘してる
京都所司代なんか好例
なんだったら将軍の子供抑えてるから代理として交渉してたのかもな
状況が変わって天下がほぼ織田の手中に帰したのに、いつまでも将軍にこだわるってのは”柔軟性が足りない”んじゃないか?w
759 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 10:19:43.33 ID:3uUvVFop
少しズレたらなんだが
760 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 11:58:14.58 ID:ecGZPpsh
自分が詭弁をしてるのに、他人に詭弁とか言っちゃってるバカどもって
「この荷物宅急便で発送して来て!」ってお願いしたら
「隣の佐川では宅配便しか出せないので、
遠くのヤマト運輸まで行って来ました!!」ってしそうだよな( ´,_ゝ`)
低脳は自分の間違いを認めるのは、自尊心が許さないんだろうなwww
761 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 12:05:16.73 ID:ecGZPpsh
岡崎城って、当時の三河で何番目くらいの格がある城だったの?
上位1割に入る城主の嫡男なんだから、
>>家康みたいにどん底から這い上がり天下を取るような人は人類史においても稀。
どん底からかどうか? って話で
>生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
その辺の城主よりも更に上のボス(武家の棟梁)って意味が分からんとか
何かの精神障害者じゃないの( ´,_ゝ`)?
762 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 12:32:23.93 ID:OX2I5gse
御託はいいから実例出したら?
>>754のでもいいし、まともな学者の著作でもいいけど
763 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 13:06:21.81 ID:BAFpxZav
>>756 「平野氏の著作」って何?
このスレで一体誰が平野氏(誰?)の著作を引用してるの?
戦国時代の三河における松平宗家の立場については既に解説したよね?
誰がどう見ても、頭がおかしいのはお前さんだよ
>>757 『神皇正統記』はその本分である歴史書としては
作者である北畠親房の史観の産物としか言いようがないが
(特に天照大御神とか三種の神器とかの件は顕著)、
室町時代に「武家」という言葉がどう使用されていたかの
典拠としては一次資料そのものですよ
ちなみに引用した部分は俗に「建武中興論」と呼ばれる後醍醐天皇の執政部分の記述で、
親房にとって同時代資料として見ていい
>>758 そうそう
当時の朝廷は柔軟だったから、室町幕府崩壊後の政権執行者として
信長を相手として武家伝奏を任命したわけで
「武家といえば足利将軍家以外認めない(キリッ」とか
馬鹿なこと言わず現実路線で対応してたんだよね
ちなみに信長が将軍の子供抑えたからその名代として交渉した、
という事実は自分の知る限り存在しない
最初から一貫して京都所司代村井貞勝が窓口となっている
764 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 13:53:07.84 ID:BAFpxZav
>>762 既に実例は出してる
逆に「室町時代に“武家”といえば“足利将軍家のみ”を指す」という根拠が出てない
(もっとも反証を既に挙げている以上、上記論旨は破綻済みだけど)
言っとくけど『二条宴乗日記』に引用されている永禄十三年一月二十三日付織田信長書状のように、
「武家」を「足利将軍家」という意味で使用するケースが
特に同時代の畿内において一般的だったということは当然知ってる
逆に聞くけど現代の歴史用語として「武家」が「武士階級」という意味で定着してるのに、
敢えて室町時代のみにおける限定的用法に拘る理由って何?
ただやり込められて悔しいから粘着してるだけだよね
765 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 14:28:45.03 ID:orSPgyDF
とりあえず全員一度武家の棟梁でググってこい
766 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 16:34:40.61 ID:OX2I5gse
>>763 両者に共通するのは天下をほぼ手中にしていたこと
つまり武家の代表者であり、棟梁という事
松平タケチヨは・・・?w
だから適切ではない
>>764 どこにでてんだよw
>>751 >足利将軍時代に「武家」が「足利将軍家のみ」を指す呼称だったとは初耳
>不勉強で申し訳ないけどソースお願いできませんか
>>751の論旨は松平に使ってもおかしくないというもの
なんでがソース引用範囲狭めた理由を、ソース求められた側が説明しなきゃならんのだw
言ってる事が二転三転しすぎなんだよ
767 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 16:43:46.92 ID:uLwCquW3
今川人質時代の松平竹千代を「武家の棟梁」と呼んだから皆が違和感持ったんだよ。
そもそもこの時期の「三河武士の棟梁」と呼べる存在は吉良氏か今川氏でしょうね。
768 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 16:57:36.39 ID:ho1A3f3c
>今川人質時代の松平竹千代を「武家の棟梁」と呼んだから皆が違和感持ったんだよ。
それは文脈読んで解説した
>>711 にやり込められてファビョってるお前だけwww
「殿様」ってだけで万石以下の旗本は違う!とか言い出す
お前の柔軟性の低さは精神障害者レベル( ´,_ゝ`)
769 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 17:23:46.28 ID:OX2I5gse
それでいいから早く三河武士を糾合できる権力だったって証明しろよ
770 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 18:01:58.19 ID:pCMMalS5
松平一門ですらまとめ上げられてないのに、三河一国を糾合とか大きく出たな
771 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 18:33:06.43 ID:ho1A3f3c
岡崎松平以上の三河勢力って、具体的にどこがあったの?
772 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 23:26:17.52 ID:OX2I5gse
そんなことも把握せずに棟梁なんて言ってたの?
程度が知れるな
773 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 23:43:28.32 ID:BAFpxZav
>>766 え、既に出してるけど?
『神皇正統記』の記述と武家伝奏について
特に武家伝奏なんて
>>752で挙げたのに
逆に反証に挙げられてどんな気分だった?
織田政権下で武家伝奏が設置されたって知らないのに
武家伝奏云々なんて言うから墓穴掘るんだよ
で、もう一度聞くけど「室町時代に“武家”といえば“足利将軍家のみ”を指す」という根拠は?
現代の歴史用語として「武家」が「武士階級」という意味で定着してるのに、
敢えて室町時代のみにおける限定的用法に拘る理由って何?
答えられない、ってことで良いんかな
人様にソース聞くだけ聞いて自分は何も知りませんってそれは話通らないと思うな
774 :
人間七七四年:2012/03/03(土) 23:47:16.46 ID:BAFpxZav
ついでにもう一つスレ違いを承知で指摘しておくと
>>758 >信長自身が幕府機構を相当程度継承してるだけだろ
>脇田修もそう指摘してる
>京都所司代なんか好例
織田政権の京都所司代は室町幕府の「所司代」とは全く性格が違うし
(前者は天下諸色すなわち京都の政務統括、後者は検断沙汰すなわち刑事事件の検挙断罪)、
室町幕府の所司代が応仁の乱以後廃絶されて100年以上経ってから設置されたもの
どこの「脇田修」が信長の京都所司代が室町幕府由来だって言ってるの?
とりあえず脇田氏の名前出したといたらレスに権威付けできるとでも思ってんすかね
775 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 00:02:42.04 ID:uLUYfoes
>>772 お前が知らないのは確定できた( ´,_ゝ`)
776 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 00:39:05.87 ID:W6YBj3gj
>>773 おいおい今度は改竄か?w
どこに将軍家”のみ”なんてレスがあんだよw
限定したのは
>>751、そして
>>751は松平をさして武家の棟梁といってるやつ
対して
>>766はそれを否定してる
なんで
>>751と対立する意見の持ち主が
>>751の行動の説明をせねばならないのか、論理的に説明しろやw
>>774 一緒だなんて言った?
脇田修も知らんのかw
そんな程度なら松平を指して武家の棟梁というかもなw
>>775 ソッスネ
俺が知ってるか否かとお前が知ってるか田舎はまた別だぞw
摩り替えるなよ
777 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 01:09:13.55 ID:ODOpgndI
>戦国時代に「武家」と言ったら足利氏のこと
>室町時代の一次史料で足利氏以外を「武家」と呼ぶ事例を見たことない
>「武家の棟梁」については、この時代では足利将軍を指すのが通例
こんな書き込みが一杯あったわけだけど、反例挙げられたらちゃぶ台返しっすか
じゃあ「足利将軍家のみに限定されて使用されるわけじゃない」、でFAですね
で、更に繰り返すけど現代の歴史用語として「武家」が「武士階級」という意味で定着してるのに、
敢えて室町時代のみにおける限定的用法に拘る理由って何?
意味のない煽りレスしてないで早く答えてくれないかな
脇田修氏を知らんのは君の方でしょ
脇田修氏が「信長自身が幕府機構を相当程度継承」の「好例」として
村井貞勝の京都所司代を挙げるわけがない
だって室町幕府の「所司代」と織田政権の「京都所司代」は殆ど別物だからね
具体的な著書名挙げてみ
778 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 01:12:38.67 ID:ODOpgndI
>>771 長親から清康までは松平家、広忠元信時代は今川家
そしてその今川家の庇護を受けてたのが松平家
779 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 08:20:28.99 ID:gJRurbL3
>>777 ”室町時代の「武家の棟梁」は足利氏”という命題に対して、
”南北朝時代の歴史書(に書かれた鎌倉殿)”
”安土桃山時代の織田信長”
”近現代の歴史用語”
を挙げても反証にはならない。
そもそも鎌倉殿も織田信長もそれぞれの時代では、
室町時代の足利氏に相当する存在だから、
むしろ補強材料になっているような。
そして、清康期に(西)三河最大勢力だったからと言って、
当該時期に今川家の庇護下にあった勢力を「武家の棟梁」
と呼ぶのは、時期が異なるので論拠にならない。
(江戸時代の足利氏を「武家の棟梁」と呼ぶというレベル)
780 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 09:22:18.45 ID:W6YBj3gj
>>777 ”柔軟性が足りない”んじゃねえのw
限定してねえじゃん
通例としてる、見たことが無い、いずれも将軍を指している場合が殆どっていってるんじゃん
なんで0か1かでしか判断できないかね、ああ詭弁ですねw
極々まれな例を出して、さらに中間を無視して甲か乙かでわけて選択をせまり、自分に反する指摘は煽ると
限定したのは
>>751、そして
>>751は松平をさして武家の棟梁といってるやつ
対して
>>766はそれを否定してる
なんで
>>751と対立する意見の持ち主が
>>751の行動の説明をせねばならないのか、論理的に説明しろやw
これについて論理的に説明したら幾らでも答え捻りだしてやるよ、「松平=武家の棟梁論者」のためになw
本当に脇田修知らんのだな・・・
あとね、お前が水戸黄門の印籠のように使ってる
>>755だけど、原文あたってないからこれだけで訳すとね
「ちょっと功績があったからと言って、武家代々の家臣の家臣に高い官位を与えるのは、朝廷を軽んじるだけでなく、自身のためにも控えるべきだと思います」
ここで武家を将軍としようが武士一般としようが、対象はかわらんのよw
だから一般化も特定化も出来ない
そして公家と対立させた概念としてるけど、その公家の意味は平家物語から朝廷、乃至天皇を指す
古語辞典にもでてるから引っ張り出してみ
コレと対立させるなら、幕府か将軍だわなw
武家の棟梁を将軍の棟梁もおかしいから、幕府の棟梁が当てはまるだろう
よって武家の棟梁=幕府の棟梁=将軍
そもそも武家が武士一般を指すならその棟梁は将軍以外ありえないんっすけどねw
日本国民のトップといって知事を上げるひとはおらんだろうw
あと
>>779の指摘の通りね
なんで織田信長と義昭の共通点あげたか、”柔軟”に理解してほしかったなあw
でえ?三河最大勢力って論証はやくしたらー?w
781 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 10:19:26.01 ID:NznuUp3Y
↑悪魔の証明で逃げて、対抗勢力のボス出せないお前らの負け( ´,_ゝ`)
↑悪魔の証明で逃げて、対抗勢力のボス出せないお前らの負け( ´,_ゝ`)
>>岡崎松平以上の三河勢力って、具体的にどこがあったの?
>そしてその今川家の庇護を受けてたのが松平家
今川家は駿河の勢力で、三河も庇護してただけだろwww
782 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 10:52:22.79 ID:BcNEzkJ2
今日もファビョってんなぁ
783 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 11:02:56.36 ID:W6YBj3gj
784 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 13:11:53.16 ID:gJRurbL3
>>781 >今川家は駿河の勢力で、三河も庇護してただけだろ
という理屈なら
「今川家は駿河の勢力だから、遠江の棟梁も今川家ではない」
ということになってしまうけど大丈夫?
そもそも国単位で区切る意味がわからないけど。
ゲームの仕様ですか?
785 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 13:50:56.99 ID:Jctq25KB
今川出されるの想定して、わざわざ三河勢力ってしてるのに
意図読取れないって言ってんの。
論破されたからって、頑なになり過ぎwww
786 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/03/04(日) 14:38:26.89 ID:hh2DliGZ
なにこの伸び具合。
787 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 16:16:19.92 ID:ODOpgndI
>>779 「“室町時代の「武家の棟梁」は足利氏”という命題」については誰も否定してないと思いますよ
「室町時代に“武家の棟梁”と呼ばれうる存在が足利氏のみだったか?」
「戦国大名としての松平宗家は“武家の棟梁”と呼ばれうる存在だったか?」
というのが今問題になってるわけで
少なくとも近現代の歴史学用語としては上記二つは問題ない
「武家」や「棟梁」、または「武家の棟梁」の同時代的用法については
なお検討を要する、ってのがスレの現状でしょう
ちなみに『神皇正統記』で引用した部分の現代語訳では
「鎌倉幕府の将軍」ではなくそのまま「武家」だし、
武家伝奏の「武家」も『官職要解』の和田英松は
「武家=公儀(将軍)」との交渉役というよりは、「武家=武士階級」からの
要求を主上に伝えるからそう呼ばれたと解釈してるようですよ
戦国時代における三河の権力構造を語るのに、江戸幕府という
強力な中央政権が存在した近世封建制度における
足利氏(喜連川氏)を反証にするのはそれこそナンセンスでしょう
中世において存在し得た「血縁集団や地域集団の統率者」としての棟梁が、
天下一統の後に(徳川家を除いて)その意義を大きく喪失することになったのは周知の事実なわけで
もっと適切な例を挙げるなら、織田信長上洛後に保護された足利将軍家くらいだと思うけどね
もちろん足利家→織田家や今川家→松平家という名目上あるいは実際上の主従関係の違いはあるが、
どちらもその庇護者により、特定の集団に対する権威を発揮することを期待されたのは同じ
>>780 @「室町時代に“武家”といえば“足利将軍家のみ”を指す」という根拠は?(ないということで解決済みでFA)
A現代の歴史用語としての意味を無視して室町時代のみにおける限定的用法に拘る理由って何?
B脇田修氏が「信長自身が幕府機構を相当程度継承」の「好例」として京都所司代を挙げた彼の著書名は?(捏造の可能性大?)
ほらほら、君が中身のない長文糞レスしてる間に宿題がどんどん溜まってるよ
ID:gJRurbL3さんと比べて君のレベルの低さは惨めだね
まともな教育受けてないの丸分かり
788 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 16:21:03.36 ID:W6YBj3gj
>>787 >意味のない煽りレスしてないで早く答えてくれないかな
応えられないならそれでいいよ
勝利宣言でも何でもして逃げてればいい
馬鹿らしくなってきたわ
789 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 16:39:00.40 ID:ODOpgndI
質問を受けて逃げまわってる人間が言うに事欠いて
「応えられないならそれでいいよ」とは此れ如何に
そういうのをネットでは「勝利宣言」というんだよ
「馬鹿らしくなってきたわ」とはこっちのセリフ
790 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 16:40:50.04 ID:W6YBj3gj
あぁ、勝利宣言ね
お疲れさん
791 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 16:43:14.83 ID:ODOpgndI
いや、こちらは君が自説(と言えるほど立派なものではないかもだけど)の
根拠を提示する気になってくれるまで謙虚に待ってますよ
ここ数日の君のレス見る限り平日も休日も一日中暇みたいだから、
そのうちソースを持ってきてくれるんじゃないかと期待してます
それじゃひとまずお疲れ様でした
792 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 17:23:54.81 ID:Jctq25KB
>>家康みたいにどん底から這い上がり天下を取るような人は人類史においても稀。
>生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
結局「武家の棟梁」=将軍って知識をひけらかせたかったバカが
1人か2人居て、将軍の子じゃないって言い張ってただけだよなw
誰もそんな事言ってないのに、、、
793 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 17:25:16.74 ID:Jctq25KB
794 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 17:37:12.95 ID:HSQtC4Yr
家光が「余は生まれながらの将軍」と言ったことはよく知られてるが、
言いだしっぺはそれとごっちゃにしてない?
家康がそうなら、同盟を結んで晩年は家臣のようにしていた信長や
臣従させた秀吉は何なの?って気がするが。
795 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 17:50:45.41 ID:W6YBj3gj
だと思うよ
家康をして生まれながらの武家の棟梁なんか普通言わないし
後半は三河の武家の棟梁にスケールダウンして無理からこじつけてたけど、
有光友學も広忠時代は絶対的な権力は存在せず、混沌とした状況なんて評価してるし
796 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 18:32:33.92 ID:Jctq25KB
日本のTOP100に入りそうなボスを
「どん底」とか言ってたからだろ。
それくらい理解しろよ頭悪いなぁ(′・_・`)
797 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 18:34:33.26 ID:Jctq25KB
798 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 18:45:25.02 ID:o+wPWGxV
>>796 家康スレだから荒らせば自分の勝ち、みたいなw
799 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 20:01:29.12 ID:HSQtC4Yr
>>796 どんな人間にもいい時と悪い時がある。
生まれてから死ぬまでいいことだけの人間も、
悪いことだけの人間もそういない。
今川人質時代の家康を「どん底」と表現することの何が
おかしいの?
それこそ信長が義元を討たなかったらどうなってたか
分からないのに。
800 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 20:18:19.02 ID:kcIPclq+
>>794 さすがにそれは無いだろ。
「武家の棟梁」と言う言葉は本来
大名クラスの家々(武家)を束ねる立場って意味で使われるけど、
普通の武士=武家って思っちゃったから、
多くの武士達を束ねる存在=武家の棟梁って使っちゃったんでしょ。
色々突っ込まれてファビョっちゃったけど、
俺も家康をどん底から這い上がったってのはどうかと思うけどな。
そこそこの勢力の嫡男として生まれて、
人質とは言え当時全国有数の家から親族並みの扱いを受けてるのに。
801 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 20:34:27.90 ID:oA2ABVU6
>それこそ信長が義元を討たなかったらどうなってたか
大高城へ兵糧入れてたんだっけ?
今川義元にとって、何番目くらいの盟友?なんだろうか。
嫡男は出来が良くないワケで、、、
1番は武田北条あたりだよな。その次が重臣連中?
802 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 20:36:47.61 ID:W6YBj3gj
いうほど悪くないけど決して恵まれてるってわけでもないよな
人質にされるってのはなくもないけど、途中で誘拐とかありえないもんな
親父は伊勢に逃げるし
803 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 23:25:18.16 ID:jTEXvk2b
>>801 盟友ってことはないよ。
今なら高校生の年だしガキのパシリだから。
804 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 23:54:41.53 ID:ODOpgndI
>>800 少なくとも近世から現代での用法としては「武家=普通の武士」で問題ないよ
805 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 23:57:21.26 ID:ODOpgndI
>>795 広忠時代ではなくて家康の人質時代の話でしょ
つーか2chに一日中居るのね
806 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 00:22:31.50 ID:NG6DH9iF
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
西条吉良
東条吉良
今川
一色
仁木
細川
斯波
戸賀崎(荒川)
畠山
桃井
渋川
岩松
石塔
上野
鹿嶋
粟生
倉持
高
上杉
807 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 00:27:23.29 ID:NG6DH9iF
■元弘の変当時の室町幕府支配層
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(幕府執事、伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び3つの城
【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官)の屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(石見守護等)の屋敷
・中条一族(尾張守護等)の屋敷と城(金谷城)
【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(管領家、奥州管領)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(奥州管領、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(四職家、九州探題、丹波守護他)の屋敷
・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷
808 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 00:35:51.23 ID:ZjRCR8I5
>>804 武「家」ってのはあくまで独立した「家」が基準になるんで、
近世であっても陪臣クラスを武家とは言わない。
「武士の家柄」を武家と呼ぶのは一家族が「家」となった現代になってからだね。
809 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/03/05(月) 00:40:55.25 ID:xUaUukbj
普段の生活に根ざしていないと理解され辛い。
その部分は特に。
810 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 00:43:57.71 ID:NG6DH9iF
■元弘の変当時の室町幕府支配層
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(幕府執事、伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び2つの城(細川御前田城、細川城山城)
【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官)の屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(石見守護等)の屋敷
・中条一族(尾張守護等)の屋敷と城(金谷城)
【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(管領家、奥州管領)の屋敷
・石橋一族(将軍御一家、備前守護他)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(奥州管領、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(四職家、九州探題、丹波守護他)の屋敷
・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷
811 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 00:52:51.64 ID:vqh/1R5D
>>808 山鹿素行の『武家事紀』では上は天下人、下は諸侯の陪臣まで「武家」扱いされてるよ
812 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 07:26:59.44 ID:oT06n3Zz
なぜ、家康にどん底の時代があったこと嫌いの?隠そうとするの?
家康の魅了は、苦労人が天下を取ったことにあるわけで、どん底や苦労を知らないなら、山岡荘八も小説なんて書かなかっただろうな。
本当の家康ファンなら、どん底時代があった家康を含めて好きになれるはず。
813 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 10:24:16.51 ID:2WbEaU5z
人質時代なかったら、
あらゆる重大局面で自重できずに暴走して
天下取れたと思ってるバカなんて居ないだろw
814 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 11:20:23.24 ID:kWypWHR0
>>780が言っているように「公家」の意味は時代によって異なるのに、
異なる意味で使われている時期の「武家」の定義で松平氏を語ろうとしたから拗れた。
江戸時代の「御家人」の意味で鎌倉時代の「御家人」を語るようなもの。
815 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 12:47:54.54 ID:RfpN1/mS
武田旧臣でのちに徳川の旗本になった横田尹松って武田時代に三方ヶ原と高天神、徳川時代は大坂の陣に参加しているのは分かるが小牧長久手や小田原には参加していたのか?
816 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 17:22:19.55 ID:NG6DH9iF
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆関ヶ原の戦い◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
817 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 19:35:14.03 ID:I51+GDhO
>>808は間違い。804が正しい。
1)武家は将軍家のこと、武家衆はそのとりまき
↓
2)武家衆を略して武家ともいうようになった
↓
3)侍のかっこしてれば「お武家様」
818 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 22:16:22.58 ID:NG6DH9iF
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
西条吉良■後の将軍御一家
奥州吉良■後の奥州管領家、関東公方御一家
今川■後の将軍御一家、九州探題
一色■後の四職家
仁木■後の室町幕府執事
細川■後の管領家
斯波(斯波、石橋)■後の管領家(斯波)、将軍御一家(石橋)
戸賀崎(荒川)■丹後国・石見国守護
畠山■後の管領家
桃井■
渋川■後の将軍御一家、九州探題
岩松■
石塔■後の奥州総大将
上野■奉公衆、御部屋衆、御供衆、申次衆
鹿島■
粟生■奉公衆
倉持■奉公衆
高■後の室町幕府執事、武庫川で一族滅亡
上杉■後の関東管領家
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
819 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 22:17:38.78 ID:NG6DH9iF
■元弘の変(1331年〜)当時の室町幕府支配層(西三河武士団)
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(幕府執事、伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び2つの城(細川御前田城、細川城山城)
【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官)の屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(石見守護等)の屋敷
・中条一族(尾張守護等)の屋敷と城(金谷城)
【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(管領家、奥州管領)の屋敷
・石橋一族(将軍御一家、備前守護他)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(奥州管領、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(四職家、九州探題、丹波守護他)の屋敷
・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷
820 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 22:32:40.60 ID:e3fyEUKV
>>817 であれば、議論の核である『家康スタートライン』は、どの武家が該当するわけ?
821 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 22:41:50.32 ID:2tDwNadC
低脳ってどうしてこう自分の過ちを認められないのだろうか(′・_・`)
822 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 22:51:59.38 ID:NG6DH9iF
>>821 お前は誰と戦っているんだ?w
低能(低脳じゃないぞ)は自己紹介か?w
823 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 23:06:40.17 ID:vqh/1R5D
>>812 単純に家康の出身階級は到底「どん底」と形容されるようなものじゃないから
「体制の破壊者信長」とか「人殺しの嫌いな陽気者秀吉」みたいに
型にはまった「耐え忍んで天下を取った苦労人家康」という人物像が好きなのは分かったけど、
>家康の魅了(魅力のタイプミス?)は、苦労人が天下を取ったことにあるわけで
>本当の家康ファンなら、どん底時代があった家康を含めて好きになれるはず
とか自分個人の好み押し付けられても正直ちょっと
824 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 23:20:20.33 ID:PRvwoP9z
家康は武家の棟梁といってるやつが馬鹿なのがよくわかるレスだな
>>821
825 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 23:26:51.85 ID:vqh/1R5D
>>824は書き込む前に自分のレスを読みなおす癖付けたほうが良いね
相当頭悪いから
826 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/03/05(月) 23:31:25.17 ID:j17TMDtJ
煽り合いはいいから論を出しなさいな。
827 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 23:47:41.90 ID:2tDwNadC
自分のミスを認めたく無いが為に
文脈無視した曲解するなチョンって事w
828 :
人間七七四年:2012/03/06(火) 00:24:24.80 ID:6AmJX+3w
レスからたったの六分でレスしてやがる
>>791はどんだけ必死なんだw
829 :
人間七七四年:2012/03/06(火) 01:50:04.90 ID:fTFcYEGs
大阪の陣をもっと詳細に濃く駆け引きを描いた大河ドラマ希望。
もちろん、家康役は松方で。
830 :
人間七七四年:2012/03/06(火) 16:50:45.85 ID:fTFcYEGs
あ、そう?
むしろ、俺は成功した後の家康には全く興味がない。
特に浜松城時代の苦労をした家康に惹かれる。
どん底から這い上がった男、死ぬまで階段を駆け上がった男。それが、家康だろ。
831 :
人間七七四年:2012/03/06(火) 17:08:44.20 ID:EjFPvdtJ
最初から最後までやればいいんだよ
山岡家康みたいな聖人君子キャラじゃなくて、
葵の時みたいな豪腕腹黒タヌキで
832 :
人間七七四年:2012/03/06(火) 18:49:02.72 ID:w8MzLyHd
833 :
人間七七四年:2012/03/06(火) 18:50:10.93 ID:w8MzLyHd
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後の将軍御一家
02.奥州吉良氏■後の奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後の将軍御一家、九州探題、守護職
04.一色氏■後の四職家、守護職
05.仁木氏■後の室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後の管領家、守護職
07.斯波氏■後の管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■守護職
09.畠山氏■後の管領家、守護職
10.桃井氏■守護職
11.渋川氏■後の将軍御一家、九州探題
12.上野氏■奉公衆、御部屋衆、御供衆、申次衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後の奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■奉公衆
17.倉持氏■奉公衆
18.高氏■後の室町幕府執事、守護職、武庫川で一族滅亡
19.上杉氏■後の関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
834 :
人間七七四年:2012/03/06(火) 18:55:48.75 ID:w8MzLyHd
■元弘の変(1331〜1333年)当時の室町幕府支配層(西三河武士団)■
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(幕府執事、守護職)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(管領家、守護職)の屋敷及び2つの城(細川御前田城、細川城山城)
【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(奉公衆、御部屋衆、御供衆、申次衆 )の屋敷
・中条一族(守護職、奉公衆)の屋敷と城(金谷城)
【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(管領家、奥州管領家)の屋敷
・石橋一族(将軍御一家、守護職)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川一族(将軍御一家、九州探題、守護職)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(戸賀崎氏分家、守護職)の屋敷
835 :
人間七七四年:2012/03/06(火) 19:54:10.45 ID:/MCGz8aC
>むしろ、俺は成功した後の家康には全く興味がない。
組織構築術とか素晴しいだろ?
組織構築術とか素晴しいだろ?
836 :
人間七七四年:2012/03/07(水) 00:11:24.21 ID:1pP/TvnR
>>835 家康って、組織構築とかしてないからなぁ。
837 :
人間七七四年:2012/03/07(水) 01:46:53.76 ID:50IMtxWP
最晩年の秀吉が窮して五大老の制度を設けたなんて、嘘。徳川家による歴史のねつ造。
豊臣政権の作り上げた身分秩序(官位や家格による)は完璧
838 :
人間七七四年:2012/03/07(水) 01:48:50.59 ID:TTvOZGf5
はいはい
839 :
人間七七四年:2012/03/07(水) 01:52:46.23 ID:Alg50Noz
そこだけ見てたらね。
もう少し広く考えるのも大事じゃにかな。
840 :
人間七七四年:2012/03/07(水) 02:05:14.11 ID:FZHWtbe4
何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「歴史上一貫して支配者は西三河から来ている。尾張土着が田舎臭く馬鹿なのはあたりまえw」
■尾張の歴史■
◆平安時代◆
・藤原季兼(三河四郎、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
■藤原季兼(三河四郎、三河国に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
■藤原季兼(三河四郎、三河国に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張守護、地頭職)が支配する。
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
841 :
人間七七四年:2012/03/07(水) 06:49:04.50 ID:1pP/TvnR
秀吉自身が、秀頼に継がせるために、関白を頂点とする
体制をを崩しただけだからなぁ。
有力大名に中納言を与えまくり、秀次を殺して関白ではなく
有力大名が連署する体制に変えたからな。
これを徳川の捏造などと言い張るのは妄想も良いところだ。
842 :
人間七七四年:2012/03/07(水) 10:22:58.49 ID:V2t/PGZG
何が秀吉じゃ
スレ違いだろうが、田舎モンめ
843 :
人間七七四年:2012/03/07(水) 10:53:13.85 ID:DbIqei55
844 :
人間七七四年:2012/03/07(水) 20:13:28.67 ID:FZHWtbe4
何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「歴史上一貫して支配者は西三河から来ている。尾張土着が田舎臭く馬鹿なのはあたりまえw」
■尾張の歴史■
◆平安時代◆
・藤原季兼(三河四郎、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
■藤原季兼(三河四郎、三河国に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
■藤原季兼(三河四郎、三河国に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張守護、地頭職)が支配する。
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
845 :
人間七七四年:2012/03/08(木) 10:27:59.85 ID:mZ4DiFGw
>>843 石川数正が出奔したから、付け替えただけでは?
846 :
人間七七四年:2012/03/08(木) 15:56:23.64 ID:A/l4iITN
>>845 石川数正は一人だが、大番頭は複数いるぞ
そもそも数正は西三河衆旗頭だから立場が全然違う
847 :
人間七七四年:2012/03/09(金) 13:32:01.28 ID:tvxU5Ciy
>>846 西三河衆旗頭を廃して、編成しなおしただけだと思うが。
848 :
人間七七四年:2012/03/10(土) 00:59:00.87 ID:KmBgeh8D
大番ってどんな組織かわかって言ってるのか?
そんなことどうでもいいんだろうけど
849 :
人間七七四年:2012/03/10(土) 18:18:21.44 ID:UY7l9D94
そういえば徳川家の家臣って大幹部でも領地の石高が異様に小さいんだよね
でももちろん兵士の数はそれなりに任されてるはずだから、
領地は少ないけど権限は十分に持ってたって感じかな
850 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/03/10(土) 18:58:52.35 ID:PUy0IF1i
そりゃまあ吏僚に大封与えて基盤が弱まった前例なんていくらでもあるだろうし。
851 :
人間七七四年:2012/03/10(土) 19:42:38.77 ID:aUT9xMS6
久しいな
852 :
人間七七四年:2012/03/10(土) 20:41:59.72 ID:/xk0rtrt
明日は、百姓の一周忌か。南無南無。
853 :
人間七七四年:2012/03/10(土) 21:08:29.02 ID:G9zZohIh
百姓も地獄からこのスレを見守ってくれてる事だろう。
854 :
人間七七四年:2012/03/11(日) 00:43:01.70 ID:mUugy7er
そいや、いなくなって1年になるのか・・
855 :
人間七七四年:2012/03/11(日) 00:49:58.73 ID:dnlF/qL/
居なくなると寂しいもん・・・・では無いなべつに
仮設住宅とかならネット環境無いだろうし元気でやっててくれればいいが
856 :
人間七七四年:2012/03/11(日) 21:28:36.16 ID:kpzQA0kj
百姓タソ、南無南無。
857 :
人間七七四年:2012/03/12(月) 01:18:11.50 ID:JCoeV0To
一周忌
858 :
人間七七四年:2012/03/12(月) 20:28:10.09 ID:Rr+emi9G
まだこの時点では瓦礫の下で生きてたかも知れないだろwww
まだこの時点では瓦礫の下で生きてたかも知れないだろwww
859 :
人間七七四年:2012/03/12(月) 23:00:01.79 ID:Iv85F6EC
駿府年寄
本多正純(菅貫太郎)
860 :
人間七七四年:2012/03/20(火) 14:04:05.01 ID:Kvci7cY8
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
861 :
人間七七四年:2012/03/20(火) 14:05:23.39 ID:Kvci7cY8
■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(西三河武士団)■
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)の2つの城(細川御前田城、細川城山城)
【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生氏(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地氏(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【岡崎市西部地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野氏(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)の城(金谷城)
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城)
862 :
人間七七四年:2012/03/20(火) 16:11:53.12 ID:fEonKCR2
源次郎信康が生きてたら家康の人生も違っただろうか
というか清康以降の安城家の男は早く死に過ぎだ
863 :
人間七七四年:2012/03/24(土) 01:59:05.99 ID:euOhvYhK
そんな事いうなら前田利家が長生きしたらそもそも天下取れてたのか家康?
864 :
人間七七四年:2012/03/24(土) 11:20:29.61 ID:sOX4du5b
取れただろ
利家は結局、家康に恭順して死んだし長生きしても結果は変わらない
秀吉や秀長が長生きしてたら無理だけど
865 :
人間七七四年:2012/03/24(土) 13:20:56.45 ID:HllFMg8/
利家は言われるほど実績があるわけではないからな
所詮は実力主義の織田家でも軍団長レベルには遠く及ばない存在でしかない
たまたま秀吉と親交があって上手く取り入っていい時期に死んで過大評価をもたらしただけだよ
866 :
人間七七四年:2012/03/24(土) 13:45:19.72 ID:CkVfZxie
言うまでもなく優秀な部類には入るんだが、
秀吉とか家康と比べると激しく見劣りするからなあ
相手が悪い
867 :
人間七七四年:2012/03/24(土) 19:26:20.77 ID:MhARo+vF
逆にもし家康が利家より先に死んでた場合、
秀忠と徳川軍団は天下取れてたかな
868 :
人間七七四年:2012/03/24(土) 22:22:36.06 ID:a15XJm0g
秀忠に天下を狙う野心があったかだよな。
親父の跡を継いで五大老になって、そのうち利家も死んで
秀忠、利長、景勝、秀家、輝元の五大老。
飛び抜けた人物がいない分、五大老が案外上手く機能したかも知れない。
869 :
人間七七四年:2012/03/25(日) 01:50:29.89 ID:LVExdaJx
ふーむ その5人だと毛利輝元だけ少し離れて年上になるのか・・・
ひょっとすると輝元が家康公のように天下とりにくるか・・・
870 :
人間七七四年:2012/03/25(日) 03:54:07.05 ID:BPbq0J+n
無能とは言わんが
輝元には天下を狙える器量はないだろ
871 :
人間七七四年:2012/03/25(日) 08:11:13.64 ID:SHUpLtLq
形式上とは言え、利長に代替わりするまでは
輝元が一番格下だったしな。
872 :
人間七七四年:2012/03/25(日) 11:44:04.87 ID:2QnUNeEA
隆景が死ぬまでは豊臣政権における実質的な地位は隆景>輝元だからな
秀吉の評価がそうなんだから仕方がない
873 :
人間七七四年:2012/03/25(日) 17:26:06.73 ID:4wn42o8s
前田、豊臣とかウゼーんだよ
スレが汚れるだろ
何回も言わせるな
874 :
人間七七四年:2012/03/27(火) 23:30:01.88 ID:SNaqKq47
松平長親実弟の超譽存牛が知恩院二十五世になったことって
当時の松平氏に何らかの恩恵はあったんだろうか?
875 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2012/03/28(水) 01:48:15.71 ID:YT3zO/Fw
こんなに恨まれるんだったら天下取らんでほしかった。
876 :
人間七七四年:2012/03/28(水) 02:03:45.50 ID:s9NNHjbD
敗者がピーチクパーチク囀っても何のことやあらん
雀なんて鷹の餌
877 :
人間七七四年:2012/03/28(水) 07:14:24.05 ID:pZhmiD3N
秀忠は重臣の反対を押し切って福島正則の大封を没収するなど、
けっこう武断派なところを見せてたから、ひょっとすると家康公が
天下取る前に死んだとしても立派に後をついで天下とってたかもしれん
878 :
人間七七四年:2012/03/28(水) 08:18:39.94 ID:9+32MYAU
秀忠が福島正則に対して強権発動できたのは、将軍としての地位を確立できていたからだと思う。
それに、秀忠に天下とれる器量があったとしても、その時点で直政・忠勝・康政がいなかったらキツイのでは?
879 :
人間七七四年:2012/03/28(水) 08:30:08.89 ID:s77XecJp
>>877 でも、初陣も済ませてないから、諸侯への押し出しが足りんよな。
880 :
人間七七四年:2012/03/29(木) 04:00:58.57 ID:UaXD1LMv
利家長生きしてたら無理じゃね?
関ヶ原だってやっと勝ったくらいだし。まあ、利家存命だったら
関ヶ原なんて起こってなかっただろうけど。
881 :
人間七七四年:2012/03/29(木) 07:30:24.40 ID:l3Ed8fbt
関が原なんて東軍に不利な地形で小早川寝返り前の前半から東軍優勢だったのが島津の記録に残ってるくらいだから
どうやったって東軍の勝ち
小早川なんて大谷600に三回も跳ね返されるような雑魚だし
ほとんど東軍の勝利が決まった所で寝返っただけ。家康本軍3万も温存だれてたからな
882 :
人間七七四年:2012/03/29(木) 10:26:42.70 ID:UtjTzNdS
家康はバツ2だよね。正室死なれてから側室しかいなかったんだから
883 :
人間七七四年:2012/03/29(木) 16:50:56.35 ID:5zriruRq
スレ違い、失礼いたしますm(_ _)m
九州盲導犬協会所属の盲導犬アトムが 2012/1/23より 行方不明になりました。
有志の方が 『 動画 』 を製作した二つのバージョンあります。
視聴していただけませんでしょうか。
(新)『 Seeing Eye Dog Atom's Story 』 (旧)『 盲導犬アトム号が行方不明 』
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
URLを貼りませんのでお手数をおかけしますが、宜しくお願い申し上げます。
※ アトム失踪事件について示現舎電子書籍ですがとりあげられています。
『 大炎上!盲導犬「アトム号」失踪事件 』(2012年4月号発売)(電子版300円)
(記事の目次)
●大炎上!盲導犬「アトム号」失踪事件 住民を引き裂いた「西日本新聞」の“暴走”
・消えた盲導犬・アトム号はどこへ?
・西日本新聞の報道によってさらに大炎上
・寄付で成り立つ盲導犬事業に募金箱制作費440万円は必要か?
・盲導犬と警察犬を混同する記事に関係者も怒り心頭
・眼鏡橋がある風景で起きたアトム騒動
・怒りの白杖《はくじょう》! N濱さん「ハンパねえ…」
・アトムを世話できなくなったのは家族の事情?
・アトム失踪後、「天罰」の怪文書も出回った
・メディアが訴える美談、感動話の欺瞞《ぎまん》性
・西日本新聞記者「路上放尿はアトムのため」って?
・ケジラミ、ノミ、ダニにも困っていたアトム号
・性善説すぎる盲導犬事業の制度
・戸惑う県と協会、住民にとって障害物でしかないメディアと
884 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2012/03/29(木) 17:27:15.45 ID:b0nsdtUO
>>882 家康より奥さん2人の方に同情するわ。オレは。
885 :
人間七七四年:2012/03/30(金) 13:24:34.73 ID:7tUrMiDx
側室しかいないなんて天国状態なんだがなぁ。
秀忠もだけど、跡継ぎでもめないように非情な行動でも
禍根をたっておくというのは大局視野的にさすがとしか
言いようがない。
886 :
人間七七四年:2012/03/31(土) 05:04:05.70 ID:q88bW8u8
正室は色々と政治的な問題があるから簡単には継室を貰わない
正室が死んだら側室だけという人の方が多いかも
と言うか生きてても疎遠や険悪というパターンが多いからな
887 :
人間七七四年:2012/03/31(土) 13:26:49.83 ID:EJLU6R0Q
歴史ヲタになるまで家康は関が原〜大阪の陣の印象で狸親父とか腹黒な
イメージだったけど、調べてみると秀吉がなくなるまでは本当に律儀な人間だったんだな。
あの人使いの荒い信長を裏切らず20年近く同盟結んでいるし。
小牧・長久手も勿論家康なりの打算があったのだろうけど、織田家簒奪
しようとする秀吉に対抗する信雄についているし。
信雄が勝手に単独講和しなかったら圧倒的に物量・兵力有利な秀吉に負けてた
と思う。
家康を信用してお家を滅亡させた秀吉はバカだなあ〜と思ったけど信頼しても
不思議ではない人だったんだな。
888 :
人間七七四年:2012/03/31(土) 13:53:24.54 ID:rgJv4UWp
歴ヲタを自称するわりには浅すぎる考察ですね
889 :
人間七七四年:2012/03/31(土) 20:38:44.47 ID:dO4KvB5O
律儀といえば律儀か でもいい人とか、お人好しじゃあない
キチンと約束したことはちゃんと守る人 それが小国が生き残る道だと思ったんだろうな
ってか天下人になったってところから逆に見ても大きな判断ミスとかあるわけがないが
890 :
人間七七四年:2012/03/31(土) 21:32:59.55 ID:EJLU6R0Q
>>889 >キチンと約束したことはちゃんと守る人 それが小国が生き残る道だと思ったんだろうな
なるほどね、そうか。
でもそのやり方って約束する相手を間違えたらエライ目に合うというかバカを
見る可能性もあるよね。
運もあるけどその相手を見誤らなかった、機会を間違えなかったのはさすがだ。
891 :
人間七七四年:2012/04/01(日) 03:35:09.81 ID:E63ipQ1o
織田との同盟は徳川家を守る為のものであって律儀とか微塵も関係ないし
小牧長久手は信雄を擁立して秀吉と覇権を争ったわけで、律儀とは正反対の野心から出た行動
律儀だの真面目だの家康を馬鹿にし過ぎ
家康だってれっきとした戦国大名であり、常に野心を持って権謀術策を巡らせていた
892 :
人間七七四年:2012/04/01(日) 04:58:57.09 ID:6Cqo+ZbE
織田との同盟を律儀に終生守った
その同盟者であり織田家家督である信雄の味方をした
視点だ視点
893 :
人間七七四年:2012/04/01(日) 06:14:00.33 ID:snzgxBPN
信長と同盟してなきゃ武田に滅ぼされていただろ
894 :
人間七七四年:2012/04/01(日) 06:31:28.77 ID:dvV79szZ
どうだろ? 今川との同盟を維持したままで、織田を滅ぼせれば拡大した勢力で武田に対抗できるんじゃね?
895 :
人間七七四年:2012/04/01(日) 07:11:37.06 ID:e+6uJlH/
家康が律儀じゃなかったら盟約反故にして織田から離反するか、
滋賀の陣や上洛戦、姉川、金ヶ崎などで援軍よこさず織田軍はあっと言う間に崩壊してたのは間違いない
896 :
人間七七四年:2012/04/01(日) 14:35:16.56 ID:qclcHulC
>>894 同盟維持って
そもそも今川と断交したから織田と同盟をしたわけだから仮定の時点で破綻しているよ
織田と同盟しなかったら今川と織田の双方から攻められて瞬殺されてたのは間違いない
>>895 織田から離反してどうするつもりだよw
武田相手だけでも敵わずに押されまくってたのに、更に織田を敵に回したら即死だろ
897 :
人間七七四年:2012/04/01(日) 14:39:52.04 ID:aMX+n6E+
とるべき政策をきちんとやる人って感じだな
責任感もあるし、落ち着いてる 野望に身を焦がしたり欲望に身を任せたりしない
一番まともな政治指導者ってかんじだ やはり天下とったのは当然のことか
898 :
人間七七四年:2012/04/01(日) 16:25:21.46 ID:rAuQHdc/
小者なら、武田の圧力が強まったとき武田側に寝返っていて当然だったな
実際、援軍よこさなければ武田と一緒に織田を攻めるしかなくなると信長脅迫してるし
899 :
人間七七四年:2012/04/01(日) 23:42:28.76 ID:aMX+n6E+
あのときも武田の傘下にはいっても長い目で見ればいいことにはならない、
むしろ滅亡するのみ、どんなに苦しくても織田・徳川で武田と戦い続けるべき、
と見きって必死で耐え凌いだんだろうな やっぱ先が見えてる
状況判断能力がハンパない 目先のことで右往左往する連中とは格が違う
900 :
人間七七四年:2012/04/02(月) 07:37:22.29 ID:cgfa9rVl
長い目で見ても短い目で見ても自分勝手で同盟者をゴミクズのように扱う信長よりも
武田の元で戦ってた方が天下への近道
信長なんぞ信玄時代畿内でボロボロだったし家康が離反してたら瞬殺されてたのは間違いない
勝頼時代でも丹波や手取川で大敗するくらいだったから家康が離反すればひっくりかえるくらいの勢いになるのは自明
901 :
人間七七四年:2012/04/02(月) 11:23:30.63 ID:27/1y9pB
利害と打算の行動を律儀とか大義名分に結び付けているあたりが
さすが家康さまということなんだけどな。
902 :
人間七七四年:2012/04/02(月) 18:11:48.50 ID:pnQh7FXU
903 :
人間七七四年:2012/04/02(月) 22:56:19.09 ID:Kt/9j51O
>>880 お前はレスすんじゃねー
分かったか?万年パシリの尾張猿
904 :
人間七七四年:2012/04/03(火) 00:13:34.73 ID:Tp+uwInv
>>900 武田と同盟結んでも一時的しのぎにはなってもいずれ反故にされる可能性は大だし
家康にしてみれば長い目で見たとき織田と組んだほうが良かったんだと思うよ
家康は律儀と言われるが信長もそのイメージとは裏腹に同盟、約定に対して驚くほど律儀
お互い東西の抑えには信頼できる相手だったのだろう
信長は家臣や味方からの裏切りは多かったけどね
信長や家康以上に戦上手とか天才といわれる武将は数多くあっても
地方勢力に留まってしまったのは地理性や経済戦略だけではないと思う
905 :
人間七七四年:2012/04/03(火) 00:38:06.17 ID:DONjhzBo
>信長もそのイメージとは裏腹に同盟、約定に対して驚くほど律儀
徳川家以外は同盟破棄されて無いか?w
906 :
人間七七四年:2012/04/03(火) 00:50:57.36 ID:wFSkkQq3
そこがみそだな
破棄してるのではなく、破棄されてる
信長から反故にしたのって、パッとは思いつかないなあ
907 :
人間七七四年:2012/04/03(火) 04:13:35.36 ID:Aa27p+Ak
利益をむさぼる相手から嫌われまくっているのにむしろそのまま倒すのが信長
利益の通じない純粋な野心を持った光秀の相手は敵わんかったけどその後そこから織田家が挽回したのは信長の遺徳
908 :
人間七七四年:2012/04/03(火) 09:08:29.93 ID:ecieIv7/
>>904 元亀3年7/7付けで信玄が小里氏の背後に信長の後援があり残念でならないがとりあえず許すと見て見ぬフリをする方針にしたことを述べていて
織田との抗争にならないよう配慮してたら信長が11/15に岩村城を奪った小里内作へ書状を出してる。
明らかに信玄は信長との信義を守っていたら裏切られてる。
勝頼に対しても武田攻めの所で盟約反故にしてる。
あと斉藤に対しても盟約反故してるし浅井朝倉と和睦した時も反故にしてる
武田は徳川に盟約反故なんざしていない
今川領でたまたま衝突してしまっただけ
しかも急いで謝罪の使者派遣してる
909 :
人間七七四年:2012/04/03(火) 09:17:09.83 ID:DHZCoOpK
だーがー
910 :
人間七七四年:2012/04/03(火) 10:10:47.75 ID:ee0oe8wP
911 :
人間七七四年:2012/04/04(水) 02:48:31.50 ID:W6rt5z2T
家康が九州とか東北の小大名に生まれてたら、どう間違っても天下取りは無理。
というより、信長と隣国でなかったら、歴史的には名も無い有象無象扱い。
浅井長政と異なり、暗愚の親父は早々に死んでるのも幸運だし、
信長や政宗のように家督を争う弟が存在してなかったのも幸運。
で、義元敗死後は信長の戦略に従い織田軍団の一翼を担ってりゃ済むだけの形ばかりの国主。
真田昌幸がカワイソすぎる。
912 :
人間七七四年:2012/04/04(水) 08:39:55.71 ID:BFOtL7lu
ポエム
913 :
人間七七四年:2012/04/04(水) 09:41:13.43 ID:IMVPeLda
信長が他大名の立場に生れていたら
信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に
尾張だから助かっただけ
信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない
家康が義理堅いから信長は助かっただけ
何回武田に攻められて援軍要請出しても援軍よこさない
徳川は織田のために援軍出しまくってるのに
こんな役に立たない同盟者普通なら見捨てるだろうに
織田が畿内平定できたのは全て家康の功績
914 :
人間七七四年:2012/04/04(水) 09:44:06.82 ID:IMVPeLda
他大名が信長の立場で生れていたら
家康 史実どおり畿内美濃を瞬殺
島津 史実どおり寡兵でも大軍撃破
氏康 史実どおり寡兵で大軍撃破&政略を利用して領土拡大
信玄 史実どおり負けをほとんどせず畿内や美濃の雑魚を瞬殺
元就 史実どおり謀略を駆使して分裂状態の斉藤や畿内を併合
元親 史実どおり小勢力でも他大勢力を戦に打ち勝ち併呑
915 :
人間七七四年:2012/04/04(水) 09:44:53.09 ID:IMVPeLda
信長が家康の立場で独立し、家康が信長の立場で独立したら
信長は武田どころか今川氏真に瞬殺され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬殺していたのは間違いない
何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど
敵がアホすぎてなんとかなっただけ
一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬殺したしな
信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない
916 :
人間七七四年:2012/04/04(水) 17:43:14.29 ID:W6rt5z2T
家康なんて桶狭間が無かったなら、生涯今川の奴隷。
それは領地が尾張でも同じ。
義元西上の進軍で、あっさり降伏が関の山。
家康では桶狭間は絶対無い。
三方ヶ原で惨敗して泣きべそ脱糞遁走した家康が、信長のような寡兵電撃作戦なんぞ立案する能力も意志も無いのは当たり前。
そもそも家康は信長が戦国の世で唯一天下を狙った超大物だったから生き残れた訳で、
もし信長が信玄レベルだったなら、義元敗死後、速攻で三河に侵攻され、ジ・エンド。
信長なら家康がいなくても、人材多様な織田家中から代わりの人材を充てれば済む話。
義元敗死後、家康単独では生き残りは無理。
運良く生き残ったとしても、せいぜい真田レベルの小大名として下層で低迷が精一杯。
917 :
人間七七四年:2012/04/04(水) 18:05:17.48 ID:IMVPeLda
信長なんて桶狭間のウルトララッキーパンチがなかったら今川に殺害された
それは領地が三河でも同じ
義元西上の進軍であっさり滅亡が関の山
信長の桶狭間みたいなウルトララッキーパンチはまず自力では起こせない
子供相手に惨敗して泣きべそ脱糞遁走した信長が、家康のような電撃戦術作戦なんぞ立案する能力も意思もないのは当たり前
そもそも信長は家康が戦国の世で唯一天下を取れた超大物だったから生き残れたわけで、
もし家康が信玄レベルだったら、義元が信長を殺した後、義元を裏切って殺し、天下統一
家康なら信長がいなくても人材多様な徳川家中から代わりの人材を宛てれば済む話
三河独立後、信長単独では生き残りは無理
運よく生き残ったとしてもせいぜい保科、諏訪レベルの小大名として下層で低迷が精一杯
918 :
人間七七四年:2012/04/04(水) 18:28:24.50 ID:W6rt5z2T
さすがは村越茂助レベルの小者。
史実歪曲の脳内妄想逃避だけが唯一の取り得。
定見も思考力もゼロなので、他人の変節に脳死で追従の醜態。
919 :
人間七七四年:2012/04/05(木) 00:08:42.44 ID:OnlhxSB1
ちなみに、小山内圭之介(おさないけいのすけ)って知っている方いますか? 高根沢の倉から信長と仲良くしていた人物らしい書面が出たんだけど。
920 :
人間七七四年:2012/04/05(木) 03:55:25.98 ID:D/ZafKKh
脚本 小山内
原作 山岡
921 :
人間七七四年:2012/04/05(木) 07:59:31.07 ID:o7EAueMM
長文だるいので5行でまとめろ低脳( ´,_ゝ`)
長文だるいので5行でまとめろ低脳( ´,_ゝ`)
922 :
人間七七四年:2012/04/05(木) 10:20:36.72 ID:QShWPQXZ
>>915 佐久間とか滝川とか小山田に石ころ投げられたくらいで泣きながら逃げてったしな
援軍とは名ばかりの足手まとい敵前逃亡で即効死ぬ平手
923 :
人間七七四年:2012/04/05(木) 21:19:40.76 ID:QVclfvvO
>>914 それはおかしい。家康にしても元就にしても弱小勢力の出身だったからこその
頭脳派になったって可能性も高いだろう
>>917 最近では桶狭間は情報戦で信長が尾張各地の制圧に乗り出して兵力を分散させてた義元を制して義元の本陣を一気に突いたとかあるけどね
924 :
人間七七四年:2012/04/05(木) 21:27:51.33 ID:j+4GliOz
経過や中身を考慮せず結果だけ桶狭間運良く手薄な今川本陣に勘違いして突っ込んだ信長強い論理でいうなら
動員力ならはるかに光秀上回るにも関わらず本能寺で手薄な陣を運悪くつかれ死んだ信長雑魚と言う事
先陣と勘違いして突っ込んだら本陣があって雨や風が吹いたから勝てただけ
三河物語によると雨が降ってる所に織田勢が切りかかってきたので壊乱したとある。
信長公記にある「天晴るる」は通り雨と風が織田側がいた山の下から
今川本陣のいる山上に流れた、って事だろうな。
つまり今川勢は猛烈な雨と風を向かい側に受けながら織田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際今川方にしてみれば雨と風を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「水をまくるが如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが義元の周りにいた300ほどだった
これが実力で勝ったというなら本能寺は実力負け
圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な所を奇襲されて死んだんだから
925 :
人間七七四年:2012/04/05(木) 22:40:57.34 ID:vyKV22WD
926 :
人間七七四年:2012/04/05(木) 22:48:56.48 ID:w8cAhphY
連呼リアンがいつ正論をはいたんだろう?
927 :
人間七七四年:2012/04/06(金) 00:16:20.38 ID:GtY5Bj2f
鈴木や藤本を妄信するとこうなるんだよな。
928 :
人間七七四年:2012/04/06(金) 01:02:29.12 ID:D5OiLKuZ
桶狭間みたいな奇襲戦って、
総大将逃がすくらいの時間は無いもんなの?
包囲できる兵力は無いはずだよなぁ?
929 :
人間七七四年:2012/04/06(金) 01:02:44.22 ID:jvCcv5QK
信玄が美濃瞬殺とか歴史知ってんのかコイツ
930 :
人間七七四年:2012/04/06(金) 07:13:39.83 ID:UxQoOrkh
>>928 本来なら余裕で防げた。迎え撃った時の地形や天候など言い訳の材料はあるけど結局油断や慢心が最悪のかたちで現れた
>>929 ぼくのかんがえた さいきょうぶしょうしんげん
の話だから武田信玄の事ではない。幼児をあやす感じで対応するといい
931 :
人間七七四年:2012/04/06(金) 07:42:56.74 ID:RYbGqU2R
今時奇襲説は珍しいな。
ひとまわりして戻ってきたか。
932 :
人間七七四年:2012/04/06(金) 08:29:59.73 ID:3NOR6MU/
先陣と勘違いして突っ込んだら本陣があって雨や風が吹いたから勝てただけ
三河物語によると雨が降ってる所に織田勢が切りかかってきたので壊乱したとある。
信長公記にある「天晴るる」は通り雨と風が織田側がいた山の下から
今川本陣のいる山上に流れた、って事だろうな。
つまり今川勢は猛烈な雨と風を向かい側に受けながら織田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際今川方にしてみれば雨と風を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「水をまくるが如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが義元の周りにいた300ほどだった
これが実力で勝ったというなら本能寺は実力負け
圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な所を奇襲されて死んだんだから
933 :
人間七七四年:2012/04/06(金) 19:27:48.44 ID:NpkqLYyH
>>930 宇宙最強の天才信長厨ですね わかります
934 :
人間七七四年:2012/04/09(月) 01:22:39.19 ID:DS7bF/EL
三河はともかくいくらなんでも
こっちは晴れてて向こうは通り雨なんてことはないだろう。
それに戦争中なんだから雨が降ってたからといって
つっこんでくる敵がわからないなんてことはない。
マンガだと雨が今川陣の上だけすごくて敵がくるのもわからない
ぐらいだったかってか。
935 :
人間七七四年:2012/04/10(火) 11:35:47.50 ID:8U678kH5
武田信玄に滅ぼされかかってまで信長との同盟を維持した徳川家康に対し、やはり駿河一国15万石は安すぎる報いだと思います。
もっとも直後には甲斐、南信濃を火事場泥棒しますが。
936 :
人間七七四年:2012/04/10(火) 11:45:34.47 ID:WfwSYKRh
東海道を抑えているからその重要性はかなりのものだと思うが
後、甲斐・南信濃については許可を得ている
937 :
人間七七四年:2012/04/10(火) 14:32:42.62 ID:Aaq4unxf
んだ街道から上がる商業的利益は大したもんだぜ
当時はまだ東山道の方が発達が進んでいたらしいが、駿河から三河までを
支配したことで港湾との相乗効果も増したのではないかな
あとは金山かな
938 :
人間七七四年:2012/04/10(火) 15:05:45.95 ID:gmWNwROO
天正壬午の乱で唯一織田政権の許可を得ての行動が、家康
この件で北条は織豊系大名から不信感を買ってる
939 :
人間七七四年:2012/04/11(水) 16:10:47.18 ID:1yN2r3iN
940 :
人間七七四年:2012/04/11(水) 18:37:36.11 ID:65xS2MAf
>>939 事後っていうのはどのタイミングのことを言ってるのかね。
滝川や森の逃亡、河尻の横死により主がいなくなり、在地領主が好き放題するわ
北条や上杉が侵攻を企てるわと、滅茶苦茶になった甲斐信濃を、どうぞ取ってください
と言われて出陣したのが天正壬午の乱なんだが。
もちろん、水面下での工作は織田家への交渉と並行してやっているわけだが。
941 :
人間七七四年:2012/04/11(水) 18:58:31.54 ID:F3HxkT5q
あの承諾の書状って戦い最中の秋とかに出されてなかったっけ?
942 :
人間七七四年:2012/04/12(木) 12:02:38.14 ID:RlERwpHg
秀吉に対してならちゃんとお尋ねして許可受けてるけど
それのこと?
943 :
人間七七四年:2012/04/12(木) 17:51:11.47 ID:W+U3hI2u
織田信雄が認可したんじゃないの?
944 :
人間七七四年:2012/04/12(木) 19:34:12.20 ID:lw/OY/Nk
もし仮に甲信返せとか言われても絶対返さないよね
俺達が血を流して得た領土を返すくらいなら刀を踏み折って武士を止めるとか
小牧長久手が起きたのも必然だったんだよね
945 :
人間七七四年:2012/04/12(木) 21:00:27.72 ID:fv+Xjxdf
>>941 秀吉の承諾の書状は7月7日付
>>944 秀吉も返せとは言えないだろうな。
甲斐信濃(上野も)はお任せしますと言ってしまったわけだから。
946 :
人間七七四年:2012/04/12(木) 21:52:37.07 ID:W5uIS+ke
愛知県史資料編織豊には7月七日にそんな書状のってなかったけど…
947 :
人間七七四年:2012/04/12(木) 22:40:41.26 ID:fv+Xjxdf
平山優の『天正壬午の乱』(学研)のp135に、羽柴秀吉の書状が下記のように転載されてる。
「今度信長不慮のこと御座候について、信州・甲州・上州置かれ候者共罷り返り候、然らば、
両三ヶ国の儀、敵方へ御渡しなさるるべきにあらず候条、御人数を遣わされ御手に属され
候の様に仰せ付けられ尤もに存じ候、なお追々御意を得るべく候、恐々謹言」
三ヶ国の連中が寝返りまくったんだけど、三ヶ国を敵方(上杉・北条)に渡すべきではなく、
御手によって軍を派遣し、帰属させるのももっともであると書いてある。
なおこの書状のソースは、本書によれば『新修徳川家康文書の研究』第一葺P72とのこと
948 :
人間七七四年:2012/04/12(木) 22:47:28.94 ID:fv+Xjxdf
本来ならソース本の『新修徳川家康文書の研究』を確認しないといけないところだろうけど、
入手困難みたいなんでそのへんは勘弁してちょ。
949 :
人間七七四年:2012/04/12(木) 22:51:39.01 ID:fv+Xjxdf
何度もゴメン。
上記の書状の日付が7/7ね
950 :
人間七七四年:2012/04/12(木) 23:41:01.06 ID:FGB+CeOh
サンクス
951 :
人間七七四年:2012/04/13(金) 11:28:12.10 ID:rEud/yTy
やっぱり事後承諾じゃん
家康が岡崎に帰還して真っ先に指示したのが甲斐下山(穴山氏領)の占領(6月6日)
次いで依田信蕃に命じて信濃の諸勢力の引き込みを始める、更に依田は6月20日に小諸へ入り計略を続ける
家康はその勧誘に乗った武将らに恩賞を約束(6月21日)
翌日には刈坂口、郡内で挙兵した武田旧臣らを追った有泉大学らを賞し、濃尾の兵を整えたから準備が出来次第甲信に出兵する旨を伝える(6月22日)
そして7月3日に出陣
952 :
人間七七四年:2012/04/13(金) 23:52:29.24 ID:rRNLpOX5
事後承諾っていうのは事が済んでから了解を得ること、と国語辞典に書いてある。
この場合は……事中承諾?w
あまりほめられたものじゃないのは確かだね。
この辺の推移は結構面白くて、家康が当初からあわよくば武田遺領を獲得しようと
動いていたのは事実(河尻秀隆の生存中に調略の手を伸ばしてる)。
だけど、それがいつの間にか織田陣営の徳川と、北条、上杉による
三つ巴戦の形に変わっていっている。織田信雄の兵が援軍に向かったという記録もあるし。
(対北条戦の援軍に大軍が向かう予定だったらしいが、秀吉と勝家の対立が激しくなって中止)
953 :
人間七七四年:2012/04/14(土) 00:10:32.81 ID:VaLrwjAB
フライング気味に軍事行動を開始したが、並行して外交的体裁も整えて
いったと考えても良かろう
大義名分で優位に立つことは大事だ品
954 :
人間七七四年:2012/04/14(土) 00:52:54.25 ID:F+qllS/2
気味じゃなくて完全にフライング
そもそも織田方から拒絶されたとしても無視して出兵しただろう
というより織田方が手一杯で勝手に軍事行動を起こしても問題ないと見込んでの行動だ
あわよくば濃尾も取ろうとしていたし
大体、相手に許可貰ってから侵略しようとする馬鹿もおるまい
まして戦国の世に、これだけのチャンスが転がり込んだのに行動起こさないなんて余程頭がどうかしているとしか思えない
955 :
人間七七四年:2012/04/14(土) 09:53:39.97 ID:fvRBbQBz
家康が動き始めたのは清洲会議以降のような
956 :
人間七七四年:2012/04/14(土) 14:24:54.53 ID:zTBh93wg
濃尾伊勢はさすがに反信長勢力壊滅してたのか?
957 :
人間七七四年:2012/04/14(土) 14:57:38.17 ID:A11Cl47u
秀吉も柴田も家康を味方につけて
有利に戦いを進めようと思ってたから
家康の火事場泥棒を容認してただけ。
それに双方とも信濃や甲斐とは基本的に無関係だった経緯もあるからね。
あっちは信忠管轄エリアだったし、
力さえあればと忸怩たる想いは滝川一益くらいなもんだろ。
958 :
人間七七四年:2012/04/14(土) 19:58:10.16 ID:b2wv5ETM
北条にボコられて廃人になってたのにワロタw by大河秀吉
959 :
人間七七四年:2012/04/15(日) 02:18:14.34 ID:QE8uNCEy
もし河尻が逃げて家康の行動を報告してたら大変なことになってたな
その場合、北条側に寝返ってた可能性があるのか?
960 :
人間七七四年:2012/04/15(日) 02:35:33.86 ID:hAEBi89n
無いわー
961 :
人間七七四年:
少し流れ止めるが、
過去スレで豊臣家滅亡させた時家康が「主家(織田家)を蔑ろにしたからだ」と言ったというスレ見たが
「お〜ま〜え〜が言うなよ」だよなやっぱ。
家康にとってラッキーというのか、秀吉自身が大恩ある織田家を簒奪して散々な
事をしてるから家康が豊臣家に似たような事をしても全面的に非難されにくい。
家康が豊臣家にした仕打ちは、秀吉もだいたい織田家に似たような仕打ちをやってるのに
それでも彼が猿爺とか言われないのはキャラのせいなのか?