1 :
人間七七四年:
2 :
人間七七四年:2011/07/26(火) 10:00:52.71 ID:5SGh+V75
織田軍の半分位は後方にいたんじゃない
3 :
人間七七四年:2011/07/30(土) 07:54:10.80 ID:+UDeDZvT
勝頼は長篠城を落とさなかったのか、落とせなかったのか?
勝頼はなぜ川を渡ったのか?
4 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 16:33:11.89 ID:0gO0K4+V
そりゃ援軍が来たから向かったんだろう
兵力差も、ゲームみたいに簡単なものじゃないだろう
仮に一万対三万でも一万に対して一斉に三万が攻撃できるわけがない
また一万が一つの塊で動くわけでもない
戦うのは、戦場になるその地形に物理的に入れる人数だから結局、織田が何万いても、戦うのは数十から数百くらいの部隊
5 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 08:26:17.24 ID:VWrtOgjR
それでも、要塞化した陣地に突っ込むのは異常としか思えないんだよなぁ。
ホントにどうしてなんだろう。
6 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 09:25:15.30 ID:OOSlRiR/
要塞化と言えば聞こえは良いけど、一ヶ所を突破されるとその方面に援護を回せない諸刃の剣
7 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 08:08:30.12 ID:TBz36Xc2
布陣からすれば、突破出来そうもなけどね。
8 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 08:30:10.01 ID:4UYRV9sS
だからそう考えて突破しようとアホ勝頼は思ったんだろ
しかし天才信長はそんな事は千も承知の上
9 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 08:40:54.38 ID:7BEJtUFR
10 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 09:53:32.05 ID:30M/7mtq
>>7 布陣からすれば、突破出来そうなものだけどね。
布陣からすれば、突破出来そうも無いけどね。
どっちなの?
11 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 17:26:48.36 ID:6Isq9fua
金田一「謎は全て解けた。武田軍から攻めたって思い込んでた。それが犯人の狙いだったんだ。」
12 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 17:59:40.16 ID:jqemyVhN
信長が決戦を挑むキモチがなかったのは確実であろう
敵の三倍の兵力をもちながらさらに野戦築城して立てこもっては、普通相手が逃げる
信長公は徳川と武田が10年でも20年でも一進一退の攻防をしてればいいと思ってた
長篠城をすくうという約束だけ守ればよいと思っていたのだ
13 :
人間七七四年:2011/08/20(土) 03:16:50.71 ID:KQTJc41e
武田的には今やらなきゃ次はもっと苦しいみたいな重圧があったんじゃね?
後からみればこの後上杉毛利と畿内の小大名が新たな包囲網作るって知ってるから違うタイミング測れるから良いけど、
凄い勢いで朝倉浅井と滅ぼし、長島も壊滅させられて本願寺も基本押さえ込まれてなんて状況みればかなりやばいと思うのが普通じゃね?
決戦仕掛けるタイミングは長島が全滅する前だったね。
勝頼をフォローするならこの後、上杉と歩調合わせて織田と戦うなんて構想は想像しにくいと思う。
武田北条は上杉に対する軍事同盟結んでる訳だし、北条にも上杉にも良い顔なんて無理だろ。
実際最期は首を絞める結果な訳だしな。
14 :
人間七七四年:2011/08/22(月) 03:09:50.33 ID:wb//ELea
長篠合戦直前、織田と戦ってるのは本願寺と武田しか居ないからな
織田主力が出てきている以上一戦やって織田に出血させる必要はあった
でも長篠はねーよw
退路が危ないって時点でさっさと引き上げるべきだった
15 :
人間七七四年:2011/08/23(火) 15:56:35.04 ID:kmWN8jy0
NHK歴史でやってたネタだが、
織田方は兵を隠して、少ない兵力で陣地に籠っているかのように見せたそうな。
それに武田が釣られたのかも知れない。
16 :
人間七七四年:2011/08/23(火) 16:49:16.07 ID:kW+KlBSK
馬鹿者どもが!
17 :
人間七七四年:2011/08/23(火) 17:44:07.25 ID:kmWN8jy0
18 :
人間七七四年:2011/08/23(火) 19:39:58.88 ID:YNSroA+y
売国NHKに歴史などないよ
19 :
人間七七四年:2011/08/23(火) 23:10:41.12 ID:1OfHv6EI
少なくとも信長公記には武田側から分からない様に陣を敷いたとあるな
20 :
人間七七四年:2011/08/25(木) 02:59:01.31 ID:DfyfT4ZV
中央の親類はなんで直ぐ崩れてしまったん?
21 :
人間七七四年:2011/09/26(月) 10:25:25.75 ID:DSVrFoRA
長篠合戦当時、遠江、三河の武田の勢力はかなり大きかった。
長篠への勝頼の出陣は、武田の健在振りを遠江の地侍たちにアピールするとともに、裏切った奥平を成敗して、
遠江、三河での勢力を伸ばそうとしたためではないかな。
信長が織徳同盟の手前出陣してくるであろうことは、武田も読んでいたと思うけど、織田は、高天神を見殺しにした、
前歴もあるので、戦意薄と読んでいたかもしれない。
設楽原の合戦は、お互い陣地戦を意図していたのではないかと思う。
(勝頼としては織田・徳川の援軍を設楽原で食い止めれば、落城手前の長篠を落とし、作戦目的は完遂できた)
勝頼も「敵は陣に篭り手立てを失っている」と手紙に書いているし。
結局、決戦のきっかけになったのは、武田の後方の要地・鳶の巣山の砦が落城し、長篠城の攻略が不可能になり、退路を絶たれたから。
おそらく、一戦を挑み、戦況が有利だったら退却しようとしたのではないかと思う。
22 :
人間七七四年:2011/09/26(月) 12:08:26.05 ID:03xrGSst
寒狭川渡った時点でヤル気満々だったんじゃない?
23 :
人間七七四年:2011/09/26(月) 16:47:04.81 ID:5uGERdEp
映画、ドラマであるように一方的な戦いでなかったことは事実
何時間も戦ったあとの武田軍撤退だし、鉄砲隊指揮官のひとり、前田利家が
武田のなんとかというやつにもう少しで首を取られるところだった
鉄砲隊の指揮官が死にそうになったという事実は相当な混戦であったことの証明
24 :
人間七七四年:2011/09/26(月) 19:55:46.33 ID:ZPJjHNUF
>>23 たしか利家が危機に陥って、村井長頼が助けたんだっけ?
25 :
人間七七四年:2011/09/26(月) 19:58:38.87 ID:5uGERdEp
>>24 うん あのコンビはいいよね ってなんで部隊長とその補佐官が
白兵戦をするハメになったんだろうね
26 :
人間七七四年:2011/09/27(火) 01:37:51.83 ID:TzB7ejc5
前田はまだ部隊長って程でもない小隊長の部類。
前田の立場では最前線にたって戦術レベルで戦功を上げないと出世も望めんだろう。
確かに織田側にも苦戦した一面はあったが動揺を与える程度でもなく、包囲追撃され終わりとはあまりに酷い。
27 :
人間七七四年:2011/10/02(日) 11:57:12.45 ID:b4s0jQwa
前田利家が大きく出世するのは長篠の後、越前一向一揆を殲滅して佐々、不破と一緒に府中に配されてから
28 :
人間七七四年:2011/10/10(月) 12:24:11.59 ID:2G4EbYLx
日露戦争で、乃木が機関銃に突撃をさせたのは、馬鹿丸出しだが
火縄銃だと突撃側も突破のチャンスがあったんだろうか。
でも、兵数から考えると撤退が最善だったのは疑い無しだな。
29 :
人間七七四年:2011/10/10(月) 12:53:07.32 ID:mXMoXr1k
>>28 > 日露戦争で、乃木が機関銃に突撃をさせたのは、馬鹿丸出しだが
一次大戦の全ヨーロッパの将をdisるわけですねわかります。
30 :
名無し@一足軽:2011/10/10(月) 20:01:40.94 ID:OmyLCq+e
勝頼は信玄の真の後継者ではない。だから長篠の合戦図でも風林火山の旗印は立っていない。勝頼には信玄のようなカリスマ性も無い。
信長の術中にはまって退路は断たれてしまっている。
織田・徳川連合軍の鉄砲千丁は弾を2個ずつ込めてガンガン撃ちまくった。武田軍は徒歩で前進したのだが、乗馬の将校級がまずこの鉄砲襖の犠牲になった。
指揮官を亡くした武田軍は者頭、雑兵
達が死んだ兵士を盾として進み、馬防柵を壊して攻め入った。織田・徳川連合軍も死傷者6千名を出したが、指揮官のいない武田軍は総崩れとなり、勝頼は敗走、信長の勝利は確定した。
31 :
人間七七四年:2011/10/10(月) 21:11:35.55 ID:mDvj4DhI
知将の真田昌幸は信長の魂胆を見抜いてたんじゃないの?
「鉄砲で〜」って感じでたぶん戦術まで見抜いていたかも
32 :
人間七七四年:2011/10/10(月) 21:33:25.53 ID:r2Z19yIo
真田昌輝と信綱が討ち死にしてるのに。
33 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 23:45:10.28 ID:nwBHZx7G
オマエラ当然、高柳光寿氏の著書「長篠の戦」読んでるよな
34 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 18:21:07.41 ID:SMRz2glE
馬防柵に向け
ひたすら火矢を放つのは
ダメか?
35 :
穴山信君:2012/01/08(日) 18:56:06.34 ID:3sW9HeRg
私は親族衆筆頭として長篠での決戦はせず、二俣城まで退くことを献策したが、聞き遂げられなかったから、単身撤兵しました
36 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 19:43:47.60 ID:3KD3NX+v
>>32 真田宗家簒奪の為に決まっておろう。家臣団の存在すら怪しい武藤よりも実家が欲しかったんだよ。
37 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 22:24:10.54 ID:nBKGKs1X
でもさ、ある意味籠城みたいなことをしたわけで、信長公って決戦する気は
なかったともとれない? ただ追い返せばいいみたいな感じでさ
徳川と武田は何十年でも一進一退の攻防してくれりゃ一番いいって感じ
徳川の遊撃隊を率いた酒井忠次あたりが一生懸命がんばって武田軍を
決戦に誘い込んだようにも思える
38 :
人間七七四年:2012/01/09(月) 01:59:44.95 ID:VVmRmhiN
そりゃ畿内に強大な敵が残ってる内は大規模な戦闘は望まないでしょ…
行うにしても出血を最小限に抑える必要があるし。
39 :
人間七七四年:2012/01/09(月) 10:58:05.35 ID:IOzAxWM9
>>37 まぁ武田を長篠から撤退させれば勝ちだからね
織田としてはかなり楽な勝利条件だわな
もし武田側が撤退していた場合織田徳川連合軍が追撃してたかどうかはかなり微妙な気がする
下手に追撃すると山岳地帯に引きこまれて鉄砲使えないからね
40 :
人間七七四年:2012/01/13(金) 01:19:48.25 ID:Nl+agqG6
武田が強いってありうるの?
川中島とか相手より兵が多いのに勝ちきれない。味方が原は倍以上の兵力があったから
勝って当然。
ながしのが実力じゃないの?教えてえらいひと
41 :
人間七七四年:2012/01/13(金) 10:59:29.47 ID:/pwgQa9w
勝頼は信玄に勝るとも劣らない能力があったと思うけど時代が悪かったね
信玄の頃は一国を統一してる戦国大名が殆どいないよな時代だけど勝頼が継いだ頃は信長がいたからね
一度の大敗が命取りになった
謙信が死んでなければまだまだ盛り返せる可能性はあったんだろうけど
42 :
人間七七四年:2012/02/29(水) 10:25:16.38 ID:2vzr75GV
馬防柵を鉄砲で壊す事は不可能だと思うよ
武田側の鉄砲の距離よりも織田側の鉄砲の距離の方が長い
鉄砲の性能自体が同じではなかった
43 :
人間七七四年:2012/02/29(水) 17:35:07.46 ID:63bGJxkF
>>37 そんな呑気な事してて長篠城落ちたらどうするの?
前日には寒狭川挟んで攻撃しようとしたけど失敗してるし
44 :
人間七七四年:2012/03/10(土) 19:53:05.41 ID:GATQ9N7I
45 :
人間七七四年:2012/03/17(土) 22:35:58.28 ID:GWxNmzWX
武田方は、信玄公が逝去された後も勢力を保持していた。
むしろ徳川方の遠州を従え勢力は拡大していたと言っても過言ではない。
しかし、伊勢長嶋の一向宗・浅井・朝倉・足利という盟友を失い
包囲網は壊滅状態であった。
また、織田方の貿易による巨万の富と鉄砲の増産により差が開くばかりとなった…
その為、勝頼にしたら信長・家康と勝負に出るしかなかった。
もし武田方が勝利した場合、反信長勢力や地侍などが武田方に靡き一大勢力となり
天下の情勢を打開する事も可能であったと予測される。
武田方は、織田方の鉄砲に関しても研究し十分な対応策を練っていた。
数が多く馬防柵からの狙撃も予測していた(俺達でも予測できるw)
また、戦略的(兵士・配置などを含む)いにも地形的にも勝味が薄い状況を
武田方の古参は見抜き決戦を避けようという動きすらあった。
しかし、勝頼は実績を残し内外へ武田の武勇を示したかったんだと思う。
また、示さなければ家臣一族からの信頼が得られず神輿に担がれたままであった。
前へ出るしか無かった...
だから、勝頼が無能とか兵士が弱かったという訳では無い。
ようは信玄公からの跡目相続がスムーズにいっていなかった事から
周囲の信頼が十分に得られていなかった事が一番の原因だわ。
勝頼の苦しい心情も汲み取らねばなるまいて
46 :
人間七七四年:2012/04/11(水) 08:23:36.86 ID:2lvgIN3D
甲陽の自分解釈かな?
47 :
人間七七四年:2012/04/12(木) 15:25:21.29 ID:Ahz1TZS/
長い 読めん 透明あぼーん
48 :
人間七七四年:2012/05/16(水) 22:38:04.85 ID:X+v2/WUI
織田信長の有名な「三段撃ち」はなかった
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/news/1337173114/ 1 名前: アルビレオ(やわらか銀行)[] 投稿日:2012/05/16(水) 21:58:34.16 ID:rioD7CK30 ?PLT(12030) ポイント特典
三段撃ちしなかった? 織田信長拡大三段撃ちしなかった? 織田信長
■武田を破った新戦術 1000丁×3に疑問
戦国武将・織田信長が、武田勝頼の「騎馬軍団」を破ったと言われる長篠の戦い。
長い間、鉄砲の三段撃ちが雌雄を決したとされてきたが、近年、虚構とみる説が有力になってきた。
(中略)
■撃つ間隔、ばらばらのはず
ところが、この鉄砲3千丁による三段撃ち、かなり怪しいらしい。
国学院大兼任講師の藤本正行さん(中世軍事史)が1975年の論文「長篠合戦における織田の銃隊の人数について」で指摘、論証を重ねてきた。
3千丁三段撃ち説の根拠となってきたのは、江戸初期の儒家・小瀬甫庵(おぜ・ほあん)が記した「信長記」である。
この本には確かに「鉄砲三千挺(ちょう)〈中略〉一段ずつ立ち替わり立ち替わり打たすべし」との記述があるのだが、
藤本さんによると、その元本になった信長の家臣・太田牛一の「信長公記」には立ち替わり撃ったとの記述はないという。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201205150184.html
49 :
人間七七四年:2012/05/17(木) 01:02:56.38 ID:N0O/rpxA
野戦で負けたんじゃなくて
陣城を攻め落そうと長時間粘ってたけど
落せずに撤退したってんだから
このレベルの攻城戦や攻砦戦の失敗なんかで
両軍の優劣なんて測れないだろ。
50 :
人間七七四年:2012/05/17(木) 02:22:33.83 ID:zrjt7amY
そもそも相手より少ない兵力&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面の中城攻めやったんだから
撃退されて当たり前
そんな状況で9時間も戦い続け、織田方6000の被害なんだから
ガチンコで戦術的勝負させたら100%武田の勝ち
51 :
人間七七四年:2012/05/17(木) 04:21:11.70 ID:3WZMIoh7
ガチンコの戦術勝負(笑)
武田勝頼と織田信長が一騎打ちでもすんの?w
52 :
人間七七四年:2012/05/17(木) 04:32:57.19 ID:3WZMIoh7
>>43 織田信長は長篠城のことなんてまるで気にしてない。落ちても徳川の城だからどうでもいいと思っている。
実際長篠本戦の前日に長篠城へ派遣された別働隊の救援部隊は酒井左衛門尉はじめ隊のほとんどが徳川兵。織田兵は金森みたいな一部の目付のみ。
信長は当初の予定では武田軍が撤退すればそれでよしくらいの感覚だったが、本戦開始数日前に武田軍が想像以上に接近して陣を張っていたので
こりゃあ一戦おっぱじめる気かな、上等だ突っ込んできたら根切にしてやると細川幽斎に宛てている。
早い話長篠決戦の前段階で既に武田は戦っても絶望的(相手の備えバッチリ)、退いても絶望的(織田が勢力拡大しまくり)で
信長が桶狭間でもやられて死なない限り武田が逆立ちしても勝てない相手になっていたのが当時の織田
で案の定戦ったけど負けて、山県馬場内藤甘利土屋原真田三枝川窪と譜代家臣がボロボロ死んだ。
53 :
人間七七四年:2012/05/17(木) 06:43:05.47 ID:3d/BLivh
長篠は名将がする戦いではないな。
54 :
人間七七四年:2012/05/17(木) 06:56:11.39 ID:pWvxdV4v
ジリ貧になっても、まともに戦うべきではなかったと思う
55 :
人間七七四年:2012/05/17(木) 09:05:04.66 ID:FHLsG7QE
新東名が出来たので、初乗りも兼ねて長篠に行ってきた。
織田・徳川と武田の陣の間はえらい近いな。
中央よりやや織田よりに川が流れており、攻める武田は不利な気も。
馬防柵を越えても、土塁のような急激な山を登らなければならず、これ、突破
できるのか?と思った。
武士ってのは気合い入ってるなと思ったけど、ますます武田が突撃した理由が
わかなくなった。
56 :
人間七七四年:2012/05/17(木) 16:57:28.70 ID:YuOx00op
まあ、なんていうか、勝てると思ったんだろうなあ
実際ドラマにあるような一方的な大量射殺じゃなかったみたいだし
57 :
人間七七四年:2012/05/17(木) 17:23:36.01 ID:Wq11JvKj
朝倉義景と同じで撤退戦で下手打ったって感じだからなぁ。
58 :
人間七七四年:2012/05/17(木) 17:28:13.94 ID:fSBIkF40
ああいう風に陣に籠ると一箇所を破られるとそこに増援を送ることは難しい
そこから逐次撃破を狙ったのかもしれない
59 :
人間七七四年:2012/05/17(木) 20:10:48.74 ID:Ce2LnzGm
この時の武田が1万5千ということを考えると武田は信長との決戦は意識していなかっただろう。
そう考えると、軍鑑の重臣が撤退を進言したというのもまんざら嘘とも言えないかもな。
実際、「今回の合戦を危ぶむ者もいる」って勝頼の書状があるし。
いずれにせよ、あのような形での決戦はまずかった、ということは間違いないだろうな。
即時撤退か、あるいは川を利用した防御戦か、あるいは馬防柵が完成する前に攻撃するか、のいずれかにするべきだったと思う。
60 :
人間七七四年:2012/05/19(土) 20:13:54.60 ID:527xYrfD
>>59 武田軍が長篠城を落とすために出兵したのだから、
それにしては1万5千は多すぎる。
このとき対上杉に1万の抑えを残しているのだから
1万5千は実質、総動員に近いだろう。
やはり決戦を意識したのでは?
しかし何で武田軍は寒狭川を渡ったのだろう?
信長公記どおりに寒狭川を前に陣を張れば良かったのに。
61 :
人間七七四年:2012/05/19(土) 21:48:48.37 ID:s1Ng7pvk
兵糧が欠乏してたんじゃない
62 :
人間七七四年:2012/05/20(日) 13:14:26.35 ID:xlHExFKW
武田軍は足助城を攻略しただけでなく
5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し
先陣はすでに熱田まで進出してるし
4/16付け勝頼書状では22日出馬して参着次第、
その地に二重堀の普請すると書き(奥平信光のいる三河国設楽郡津具筋?)
遠江方面(光明行之儀)では天野藤秀を利用して
彼地の模様を見届け、調儀するのが肝要で(後回しの方便とも書いてる)
その地は幸い、久しく普請を続けていたので(穴山宛てなので穴山が)加勢望むに任せる。
小尾崎・八幡山之儀は案内者を以って
(尾崎権現山や郡上八幡だから両遠藤氏や安養寺や最勝寺か?)地形御見し、注進を頂くべく候
などと書いてる。
このことから当初案では伊勢長島救援のための出陣計画だが
岡崎内応策が露見した後、作戦変更して
穴山に任せている遠江方面を後回しに三河進出し
長篠で二重堀を作って対陣する予定だったのではないか?
そのために長期対陣に備えて武田軍は実数1万くらいの兵しか連れてこなかった。
しかも長篠後に謙信に出した信長書状では兵糧が足らないから織田は撤兵したと書いてるから
織田徳川は3万を維持する兵糧がなかったため対陣して兵糧攻めを通じて織田軍を崩壊させる。
(熱田方面で挑発され面目丸つぶれの信長が急いで出てこざる負えなくなった)
そしてこの対陣中に美濃の軍事的な予定戦場調査をして、
武田軍が残り2万の大兵力を率いて大挙、美濃へ侵攻して
伊勢長島の日根野や郡上八幡の遠藤氏や一揆軍の南下で織田を引き付けつつ
尾崎権現山(200メートルしかない小山)を武田本軍の陣所として
各務原市〜岐阜市日野で織田と決戦して一気に岐阜城を奪い取る作戦だったはず。
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、陣城攻撃を開始し優勢だったが陣城は落ちず
撤退をしたら殿が下手を打って軍が崩壊。
義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。
三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。
63 :
人間七七四年:2012/05/20(日) 13:15:46.75 ID:xlHExFKW
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
64 :
人間七七四年:2012/05/20(日) 14:25:24.78 ID:xlHExFKW
訂正
伊勢長島救援
ではなく、石山本願寺救援(六角義堯書状から)
武田軍が残り2万の大兵力
ではなく、武田軍が残り5万の大兵力(尋憲記から)
65 :
人間七七四年:2012/05/20(日) 14:31:33.69 ID:R+pwRJr3
ID:xlHExFKW ってsubかい?
66 :
人間七七四年:2012/05/20(日) 14:50:42.52 ID:xlHExFKW
ちなみに高柳光寿氏は長篠の戦いでの武田軍兵力を6000と推定してるね。
(勝頼が謙信を怒らせたので1万を高坂につけて越後の押さえに残し15000で出陣は甲陽軍鑑のネタ)
信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと書いてるが
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。
67 :
人間七七四年:2012/05/20(日) 18:22:59.79 ID:yXfNUofh
実は武田が買ったとかいう新説はないのか
68 :
人間七七四年:2012/05/20(日) 19:21:23.11 ID:ViAzx8tQ
ただ、千人討死程度でここまで有力武将が死んだりするのは異常じゃないか?
確かに武田は戦死する武将が妙に多いがそれでも異常。
兵の質についても長篠の後は著しく劣化したようだし。
一万は多すぎるとしても千人ってのもなあ・・・
69 :
人間七七四年:2012/05/20(日) 19:30:28.65 ID:xlHExFKW
京を支配してる織田の一方的な軍事プロパガンダを聞いて
それを公家が日記に記入してるのであって
公家が日記の記述を他人に見せる目的で
故意に情報を曲げて書いてるなんて一度も書いてないだろwww
本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末だし
姉川の戦いでの言継卿記でも浅井討ち死に、その他8000討ち取りとか書いてる。
また越前以下9600討ち取り(公記ですら浅井の死者1100と書いてるのにw)
そんなに討ち取ったのなら志賀の陣のような体たらくにならんだろう。
長篠の戦いでも大げさな戦果な上に、勝頼も死んだとか書いてるのが信長。
長篠の戦いの信長による戦果捏造宣伝工作
5/26信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと
誇張しまくりを書いていて
5/21の戦い当日付の兼見卿記にも信長が一戦に及んで
数千騎を討死させたと書いてる(騎馬武者だけで数千もいたのかすら怪しいデッチあげぶりw)
つか、こりゃあ武田大騎馬軍団だなw
実際の武田軍の損害については
実際に鉄砲衆を調達してから長篠に従軍した大和国の筒井衆が無事に大和国へ帰り着いた
5/27に記された大和興福寺の多聞院日記の千人ぐらい討死が比較的正しいだろう。
(それですら筒井勢が武勇自慢の宣伝をしている可能性がある。
と言うのも、そんなに圧勝してるなら天正10年の武田征伐を恐れた大和衆が
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士などと不安を訴えたりするだろうか)
5/24に兼見卿記が記す、光秀と会談した際に聞いた長篠の戦いの話では
「ことごとく討ち果たした」に表現が大幅に後退している。
ちなみに6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
家康の知恩院宛て6/22書状でも武田之家討ち果たし候様子を聞いたようですね
などと書いていて討取り数にまったく触れていない。
実は虚報ばかりで討ち取り数すら明言できないのが戦後の織田w
実際にはそんなに討ち取られていない可能性が高い。
70 :
人間七七四年:2012/05/20(日) 19:32:35.13 ID:0j9Z3nl4
千人は妥当かもしれんぜ。近代の日露戦争時の大本営でさえ損害のケタが万台だったのに驚いたようだし…
71 :
人間七七四年:2012/05/20(日) 19:43:15.42 ID:xlHExFKW
>>国半分を制圧したという
織田の大嘘を鵜呑みにして書いてるだけ。
そんな織田のホラを信じてたら中国地方どころか九州まで一遍にすでに制圧完了してたりしてることになるわwww
そんなデタラメ宣伝工作の証明する一次史料はない。
信長は誇張による情報操作を公家相手にかなりやってる。
叡山焼討ちでも言継卿記が3000〜4000人は殺されたと書いてるが、
冷めた目でみてる年代記抄節はおよそ1600余人くらいと誇張に惑わされずに冷静に書いてるしw
だいたい信長は越前一揆を撫で切りした時も
越前府中の街の中は足の踏み場もなく
一面が死体で埋めつくされて愉快だわとか
誇張しまくり。
72 :
人間七七四年:2012/05/20(日) 19:45:37.90 ID:DHQe+AVh
時系列さえおかしいコピペ爆撃の意味がわからん。
73 :
人間七七四年:2012/05/20(日) 20:43:10.44 ID:OJkFrlRP
織田に滅ぼされた武田家の私怨だよw
74 :
人間七七四年:2012/05/20(日) 21:10:43.53 ID:p4gqCVmF
>5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し
>先陣はすでに熱田まで進出してるし
史料稿本では「虚報だ」って切り捨てられてますね。
興味ある方は東京大学史料編纂所のHPで誰でも閲覧できますので。
75 :
人間七七四年:2012/05/20(日) 21:15:49.27 ID:QPFmaYER
つーか、だがさんは、「織田に有利な日記の記述=嘘」「織田に不利な日記の記述=真実」と
非常にわかりやすい判断基準をもってるからな。
76 :
人間七七四年:2012/05/21(月) 20:42:39.54 ID:uPbZjryV
>>68 >ただ、千人討死程度でここまで有力武将が死んだりするのは異常じゃないか?
これは俺も前から思っていた。
強いて言うなら、1万5千のうち戦闘員が半分の7千5百。
そのうちの1千人が死んだと考えると大打撃だが。
あと死ななくても、片手が落ちたなど、
二度と戦場に出られない重症を負った人が3倍近くの3千人は居たのでは?
77 :
人間七七四年:2012/05/21(月) 20:44:21.50 ID:Ykq1kKu7
>>60 三河攻めという意味合いでなら多すぎでもないだろう。
1571年の三河攻めは実際は1575年のこの時期だったらしいので、この時に足助や野田を攻め落としているわけだ。
そう考えると単純に三河攻めと考えるのが妥当じゃないの?
実際、信長との決戦を考える上では1万5千は少なすぎ。
78 :
人間七七四年:2012/05/21(月) 23:25:10.28 ID:zmydP2K4
たしか留守番してた高坂弾正が設楽原から真っ先に逃げた武田一門衆の武将が
一番悪いとかいって切腹させろと勝頼にいったとかいわないとか
精強な武田兵でもさすがに退却となると負けた!逃げろーってなっちゃって、
それを踏みとどまらせるために宿老たちは逃げずに鼓舞してたら結局最前線に
取り残されるカタチになって織田・徳川兵にアワレ首をとられてしまったのだろう
79 :
人間七七四年:2012/05/22(火) 09:04:59.82 ID:7NrkmGQ1
>>74 隠蔽捏造だらけの信長公記
信長公記の5/13に熱田で信長が陣を張り熱田社の八剣宮が酷く荒廃してる様を(癈壌し正体なきを御覧)
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ陣を移し長篠の後詰めに行く記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
一次史料から5/5に尾張の甚目寺不動坊の証秀が熱田社に剣を奉納している。
5/11に熱田社祝師に信長が三河出陣を前に恒例の御祓いをしてくれと懇請している。
5/15の信長書状から13日に信長が出陣して14日に岡崎に到着していたことがわかる。
つまり武田軍は12日には尾張の僧が織田の戦勝が祈願して熱田の神へ奉納した剣を奪い、
信長の出陣にあたっての戦勝の御祓いを13日にしてもらおうとしていたのに
熱田を焦土と化して挑発している姿がみえる(信長が神仏を恐れず、政教分離していたなどお笑いである)
今までの信長は家康への後詰めにおいて、なんだかんだ理由をつけて
三河までやってこなかった。もしくは間に合わないようにワザと遅く行っていたが、
この完全にメンツ丸つぶれの挑発に
長篠まで行かざる負えなくなったのだろう。
80 :
人間七七四年:2012/05/22(火) 09:08:10.53 ID:7NrkmGQ1
織田軍って将が背後にいて
我先に逃亡してるから
大敗だらけなのに将の死が少ないだけだろ。
武田は将が最前線で指揮してるから
川中島などで信玄の弟まで討死してんだろ。
81 :
人間七七四年:2012/05/22(火) 09:22:21.06 ID:ubvU23lg
4次川中島は信玄を謀略で引っ張り出して大混戦に持ち込み幕まで攻撃されたからなぁ。
あれは天才謙信の博打の結果だからちょっと例にはなじまない。
82 :
人間七七四年:2012/05/22(火) 09:42:50.19 ID:7NrkmGQ1
>>81 それ軍記の話だろ・・・
そもそも妻女山すら、実際はどこの山を指してるのかわからんのが現実だぞ。
実際は、行軍中に偶発的に衝突しただけと言われているし。
83 :
人間七七四年:2012/05/22(火) 09:53:56.83 ID:5PIrefgZ
車懸りの陣も上杉側の記録には無いし、遭遇戦というのが妥当と思われる。
84 :
人間七七四年:2012/05/22(火) 10:18:51.73 ID:lXfu6l9G
川中島の戦術・戦略の話し聞いた三英傑の感想とかってのこってないの?
85 :
人間七七四年:2012/05/22(火) 10:24:11.04 ID:VC+AdKUf
啄木鳥の戦法も記録にないの?
86 :
人間七七四年:2012/05/22(火) 10:28:23.66 ID:5PIrefgZ
甲陽軍鑑にしか無い。
87 :
人間七七四年:2012/05/24(木) 00:23:23.50 ID:8l1Tmfku
戦国史の泰斗・権威と評される高柳光寿氏が武田軍兵力を6000と主張するなら
間違いないな。
88 :
人間七七四年:2012/05/24(木) 00:31:51.65 ID:8l1Tmfku
原本信長記によると
長篠の戦いの先陣を徳川にやらせていた。
つまり織田軍は後ろで眺めてるだけで
何もやってなかった。
89 :
人間七七四年:2012/05/24(木) 03:01:49.15 ID:Qmyx2hgS
武田ごとき織田が手を煩わせるまでもないというわけだなw
90 :
人間七七四年:2012/05/25(金) 05:34:21.50 ID:zgq/h6m7
つーかその戦ってる徳川軍を援護するための射撃を、過大に書き立てていった結果いつの間にやら
鉄砲部隊やら三段撃ちやらって話に。
91 :
人間七七四年:2012/05/25(金) 08:26:33.36 ID:6/lqCH0O
実際一番やり合っていたのは、徳川軍と山県勢らしいね。
土屋さんの討ち死にした場所からすると、織田も戦っていたのは戦っていたの
だろう。
92 :
人間七七四年:2012/05/25(金) 15:12:00.48 ID:TCOC8fI2
織田軍が先鋒やったら速攻で崩壊して敗走しちゃうだろ。
甲陽軍鑑によれば、援軍依頼を家康が3度やったけど
勝頼にビビっていた信長は拒否の連発で、
家康がついに「私とあなたは困ったことがあったら助け合う誓約をしました。
だから箕作の戦い以来、若狭陣や姉川などで加勢して助けてきました。
このたび信長公の来援がないなら、もう遠州を武田に進呈して和睦するしかありません。
長篠城援軍無ければ、これまでの誓約を信長公が破ったわけですから
私は勝頼公の先陣を勤めて遠州の代わりに尾張を攻めて
勝頼公より尾張を頂きます。
考えてみますと勝頼公を総大将にして私らが戦うなら10日もあれば充分に尾張をこちらのものとすることは容易いです」
このことを信長が聞くや
やっと織田軍が援軍にくることになったと書いてるし
出陣した織田軍は熱田神宮に到着した時に
信長には、なめかたの謀があったようだが(士気をあげようとした)
ここでも織田の諸人に勇む者なし(士気をあげるのに大失敗した)
長篠に到着して軍議になるや
いよいよ織田の諸人が恐れて勇みなし。
酒井が狂言をして笑いを取って鼓舞したと書いてる。
実際、信康の武田への内通疑惑もあるし、
義昭の使者を三河に家康は招きいれているし
義昭から武田との和睦の要請の書状を家康はもらっている。
間違いなく家康は織田から離反寸前だったのは間違いない。
また熱田神宮が武田軍に襲われて廃墟になっていたので、
織田諸軍の士気はさらにダダ下がりになっていたのもわかる。
93 :
人間七七四年:2012/05/25(金) 17:37:27.66 ID:rxbuPlvO
>>80 最前線で調子にのって首実検していて自分が首を取られた某板垣は擁護できんがな。
94 :
人間七七四年:2012/05/25(金) 17:54:06.35 ID:YzYteqOc
武田家が鉄の盾もってたら結構火縄銃に対抗できたんじゃね?
95 :
人間七七四年:2012/05/25(金) 17:57:22.37 ID:zgq/h6m7
動きが鈍くなるだけやがな。
つーか設楽ヶ原合戦での武田の敗因は鉄砲ではないよ。
長篠城攻めは鉄砲で防御されきった面があるが。
96 :
人間七七四年:2012/05/25(金) 23:29:43.18 ID:47xkTC1J
コイツ公記すら読んでなさそう
97 :
人間七七四年:2012/05/26(土) 08:49:06.46 ID:Yinj7xDJ
公記はウソが多すぎるから読まなくていい
98 :
人間七七四年:2012/05/26(土) 09:15:22.25 ID:faJvUfK2
公記を読むと信長マンセーキチガイになるから
読むと悪影響しか残らない。
しかも公記如きザコ本を読んで
信長のことはなんでも知ってる態度で
書き込んでくる戦国板最大の恥知らずが量産されるだけ。
99 :
人間七七四年:2012/05/26(土) 09:25:38.84 ID:nF543Dth
香ばしいのがわいてきたな
100 :
人間七七四年:2012/05/26(土) 12:53:25.28 ID:Bhantk9K
そいつはだがってやつさ
101 :
人間七七四年:2012/05/26(土) 23:50:13.94 ID:BjHzMRzG
鉄砲で長篠の戦いの全てを語ることはできないが鉄砲が織田徳川軍の勝利に全く貢献していないと言えば嘘になる
102 :
人間七七四年:2012/05/26(土) 23:55:03.36 ID:HKGCEU7M
勿論鉄砲は長篠の戦いにおいて大いに貢献した。しかしそれが合戦の勝敗を決める決定要因ではなかった、というだけの話だ。
103 :
人間七七四年:2012/05/27(日) 01:13:07.09 ID:FINh95NA
むしろ酒井忠次に預けた数百丁?の鉄砲隊の方が貢献してそう
104 :
人間七七四年:2012/05/27(日) 10:33:27.36 ID:P/S/rBqT
でも鉄砲がなかったら武田は姉川の戦いクラスの負けで済んだかもしれない。
105 :
人間七七四年:2012/05/27(日) 10:36:17.40 ID:k0X4fOoT
鉄砲より、あの被害の大きさは織田徳川の野戦築城に引っかかったのが大きいのだろう。
鉄砲並べれば大被害を出せるのならあの時代の戦はもっと楽だわ。
106 :
人間七七四年:2012/05/27(日) 18:21:31.54 ID:j1u3Cfmq
宮本武蔵が鉄砲は防衛用としてなら弓矢より優れている、って言ってるね。
武蔵は実際に撃たれた側だから、鉄砲が怖いのは間違いないんだろう。
107 :
人間七七四年:2012/05/27(日) 23:44:50.89 ID:jgpHnDOa
待て待て、武蔵は「弓矢と違って弾が見えないから視覚的な抑止力がない」とも言ってるじゃないか
108 :
人間七七四年:2012/05/28(月) 10:23:38.16 ID:3USwwwOW
大被害が出たのは撤退時だと言うし、しっかりとした殿部隊がいないとそん
なものなのかも。
109 :
人間七七四年:2012/05/28(月) 20:34:00.90 ID:4lp7fMbE
背水の陣しいてたからね
110 :
人間七七四年:2012/05/28(月) 22:39:49.60 ID:1jpwBww9
>>108 そりゃそうだよ。だから撤退戦が一番難しいと言われるんだ。
それまで優勢だったのに撤退時に反撃されて総崩れなんて事も有る。
111 :
人間七七四年:2012/05/28(月) 23:40:16.76 ID:V2/jTfT2
武田の老臣ども以上の殿が務まる将なんていないだろ、普通。
つか、老臣どもが殿をきっちり努めて、勝頼や一門衆を無事に落としたと見るべき。
112 :
人間七七四年:2012/05/29(火) 08:20:36.34 ID:FRLJuV5V
逃げ弾正がいなかったせいかw
一説には勝頼の指示も無しに一門衆が引いた為に前線が崩壊したと言う話も
あるけど、そう言えば武田一門で名だたる部将は信繁だけかな?
113 :
人間七七四年:2012/05/29(火) 15:20:40.25 ID:VfDF130n
武田信豊とか仁科信盛は?
114 :
人間七七四年:2012/05/31(木) 08:22:01.65 ID:40yaHXQG
信豊は他にいなかった感が強いし、信盛は唯一頑張ったから有名なだけで、名だたる
武将とは言いにくい気がする。
115 :
人間七七四年:2012/06/05(火) 10:43:56.24 ID:HkHcu1V1
>>「武田が雑魚のくせに粋がってすぐ近くに陣取ってきたから根切りにしてやる」と自信満々に答えている。
そんなことは書いてない。お前の感情を込めて文章を捏造してるだけだろ。
それに16日に前哨戦などやってない。18日に備えの節所を探るべく織田の物見部隊が視察に出て
武田の物見部隊レベルと散発的な遭遇があっただけだろ。
つうか、織田チョンは細川文書の全文を読んでないだろ。
完全に切り抜いた一部を紹介した誰かの歪曲が入った文を丸パクリしてるから
デタラメを書いて恥を書くハメになるんだよ。
15日細川宛書状→12日に読んだ書状への返信内容。
鉄砲玉薬のこと申し付けたこと尤もだ。
明日敵陣の近所まで人数を押し出して相備え候。織田軍は無敗の軍なので(無敗の軍ってw)
この天与の機会に根切りしてやる。
20日細川宛書状→鉄砲のこと祝着だ!(細川から纏まった数の鉄砲放と玉薬が届いたのだろう)
17日に牛久保から人数を押し出し長篠との距離は3里。
敵の備えの節所に18日に鉄砲を放った。通路も良くない時期だし根切り眼前。
5/19の家康→石川・鳥居書状でもいまだに「柵をよくよく入念に作るのが肝要」と書いていて
防衛に力を割いていて前哨戦どころの話ではない。
柵の備えが完成したのか
5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃
5/21細川宛書状で本日の長篠での勝利をさっそく報じているが、勝利し天下安全の基の理由として
細川に鉄砲放の調達を仍(しきりに)申し付けたからだ。
もしくは細川に調達させた鉄砲を放たせたので仍(それにより)勝ったからだと書いてる。
鉄砲放を砲手のことなのか、鉄砲を放つの意だかよくわからない。
熊本大学の稲葉継陽氏は細川氏が鉄砲手の調達と解釈してるな。
当時の武士は雑兵を射手として使ったので武士に鉄砲は扱えないとも指摘してる。
おそらく雑賀衆などの傭兵鉄砲部隊を雇って派遣したのだろう。
116 :
人間七七四年:2012/06/05(火) 13:36:48.19 ID:JpL87zjf
鳶の巣山奇襲で、勝頼の叔父である武田(河窪)信実がまず戦死しているよ。
ここまで一方的に織田徳川の手が嵌りまくったのは、地力の差だろうね。
117 :
人間七七四年:2012/06/06(水) 01:41:58.42 ID:th4ouwFa
織田・徳川の轍鮒は実は千丁だったのか?
118 :
人間七七四年:2012/06/07(木) 08:56:18.78 ID:ntNPUBP7
通路も良くない時期って言ってるから
陣城攻めが不利になるほど周囲は泥のような状況だったのかな。
撤退も困難になりそうだね。
119 :
人間七七四年:2012/06/07(木) 18:25:18.73 ID:OO1uiFtl
鳶の巣山の主戦力は浪人集だったらしい
120 :
人間七七四年:2012/06/08(金) 17:45:44.61 ID:FjVhaWyv
>>115 長篠に鉄砲衆を送ったのは雑賀の一向門徒衆や雑賀荘・
十ヶ郷の惣(鈴木氏、岡氏、湊衆、土橋氏など)と敵対した
中郷・那賀郡の土豪を中心とする根来衆。
杉ノ坊照算(津田照算)を中心に、愛染院(鳴神算長)、
弥勒院、十輪院、蓮花院(蓮花院雲海坊)、菩提院(菩提院覚山)、
多聞坊(多聞坊妙山)、両界院(井澤深勝房浄快)、
岩室坊(田中清伝)、池上坊らが根来寺で動員し、
多くの鉄砲衆を率いて長篠に参戦したらしい。
同じ根来寺内でも、雑賀衆に拠った勢力(泉識坊、威徳院、福宝院、
惣福院など)があって、これら寺内で敵対する勢力との抗争も
織田方についた要因の一つらしい。
この面子は、石山合戦の初期から高野山攻めまで一貫して織田方に
従っている。多分傭兵的な契約を結んでいたと思う
というか、永禄〜天正中期頃までの織田方の鉄砲衆の大半は、
根来衆の傭兵だったんじゃないかと推理
121 :
人間七七四年:2012/06/10(日) 23:50:59.37 ID:+wQHPgqX
>>119 守将の人柄で逃げずに戦ったらしい
戦死者が相当出たそうだが
122 :
人間七七四年:2012/06/13(水) 01:06:02.26 ID:6RS0tyzW
根来衆だけにお値ごろだったのかもね
123 :
人間七七四年:2012/06/14(木) 21:21:21.82 ID:BQ1uAtf3
千丁を三千丁
124 :
人間七七四年:2012/06/17(日) 01:04:56.64 ID:P10JGOJl
武田にとっては致命傷で済んだ戦い
信長が強過ぎただけで、勝頼は悪くない
125 :
人間七七四年:2012/06/17(日) 01:50:17.27 ID:SmOxs5cc
ふつうに考えて織田徳川方死者6000は大敗北だろ
126 :
人間七七四年:2012/06/17(日) 08:05:23.69 ID:G5NNal1K
ミッドウェイで東乗員喪失が130人程度で済んだようなものだな。中途半端な損害で延命だもの。
127 :
人間七七四年:2012/06/17(日) 08:43:08.16 ID:+ljCa8hi
長篠は落とさなかったのか落とせなかったのか?
15000で囲んであそこまで押し込んでるんだから対陣する前にさっさと落とせば
撤退する織田徳川連合軍を追撃できたんじゃないのか?
128 :
人間七七四年:2012/06/17(日) 08:48:37.83 ID:tWRdVoi2
長篠城は家康によって火器による防御に特化した城に改造されており、それに合わせて射程の長い強力な銃が
大量に配備された。武田軍の鉄砲はただでさえ射程で徳川軍に劣っており、彼らが攻めあぐねたのはそのため。
力攻めをするなら籠城軍の火器の沈黙を待つ必要があったのだ。
129 :
人間七七四年:2012/06/18(月) 08:17:47.81 ID:x3BE65u3
長篠城は、川が合流している本丸付近からは確かに攻め込むのは難しい
けど、反面反対側はそうでもない気もする。
落とそうと思えば落とせた気もするねぇ。
当時の火器で、攻めあぐむまで近づけないとは思えないが・・・どうな
のだろう。
勝頼としては、家康は後詰めに来ると想定し、もしかしたら、長篠城を
落城させるより、家康を叩くのを目的としていたのかもしれない。
信長まで出張ってくるとは思わなかったのかも。
130 :
人間七七四年:2012/06/18(月) 08:34:35.34 ID:pH68CnDu
>>129 家康がその対応に大規模な本丸土塁や、帯郭を潰す形で堀を増設するという改修をしている
131 :
人間七七四年:2012/06/18(月) 12:54:42.22 ID:VwNjvdfD
この辺り小説なんかじゃ信長が引き返さないように意図的に手を緩めたみたいな話が多いよね
でもそれなら着陣したのを見計らって一気に落城させるよなぁと思う
132 :
人間七七四年:2012/06/19(火) 12:21:00.96 ID:FTEU3zxP
奥平懲罰のつもりが自分が懲罰されちゃったwww
by勝頼
133 :
人間七七四年:2012/06/20(水) 07:54:51.20 ID:1HdwEKIH
>>131 毎回、織田がいろいろと言い訳して
援軍を先送りした挙句に
落城寸前を見計らって出陣→武田が落城させる
→落城したからと織田軍は嬉々として援軍を引き返させるって言う黄金パターンだったからね。
高天神城や岩村城や明智城などの他にも
上杉相手の七尾城や毛利相手の第一次木津川の戦いも
おんなじ理由でビビってた信長は現地到着を遅らせまくって
戦の決着を見計らって出陣し即、逃亡しまくり。
134 :
人間七七四年:2012/06/20(水) 08:07:17.41 ID:6YAaIokb
いや、まあ言いたい事は色々あるのだろうけど、信長批判は他でやってくれ。
ここはそう言ったスレではない。
ところで、鳶の巣山は何故落とされたのだろう。
酒井方の人数は多い話だと4千人とある。
それだけの部隊が動いていれば、近づくまでに気がつくと思うのだが、どうな
のだろう。
135 :
人間七七四年:2012/06/20(水) 14:43:36.54 ID:qR0D25sW
>>131 そもそも信長からすれば徳川領のド田舎小城とか七尾田舎小城なんてどうでもいい扱いだからな。
織田信長は上洛以降一貫して畿内での勢力伸張方針をとっていて、それが証拠に
武田信玄の徳川領侵攻時に信長は近江で浅井朝倉と戦っているし、長篠直前にも摂津にいたからな。
だから意図的に手を緩めたとか、撤退して信長を追撃なんてのはいかにも歴史を知らない素人が言うセリフで
実際はそんなことしても信長は「ラッキー」としか思わない。長篠本戦でも
「武田のグズ共がバッチリ陣を敷いた織田軍の目の前に来やがった、ぶち殺し確定w」と細川幽斎に事前に手紙で送っている。
136 :
人間七七四年:2012/06/20(水) 14:44:17.63 ID:qR0D25sW
撤退して信長を追撃→撤退して追撃してきた信長を迎撃
137 :
人間七七四年:2012/06/20(水) 16:14:50.76 ID:wZUMa13W
まぁ本気で決戦する気なら15000だけで出てこないよなぁ
明らかに対徳川しか考えてない兵力だわな
138 :
人間七七四年:2012/06/27(水) 08:21:52.30 ID:AgDvVmNh
その割には鉄壁に近い包囲網に突っ込んでいった理由がわからないんだよねぇ。
徳川勢さえ潰せば、織田勢は何とかなると思ったのだろうか。
139 :
人間七七四年:2012/06/27(水) 08:59:17.47 ID:V6RJnh1F
まぁ織田が出張ってきて武田が撤退すれば織田は勝利宣言するだろうし
武田の威信は大いに傷つくだろうねぇ
勝頼は負け戦を早い内に経験しとくべきだった
140 :
人間七七四年:2012/06/28(木) 08:14:11.84 ID:iUQFjtz2
少なくても、織田が出張って来る前までに長篠城は落としておかないとなぁ。
後詰めが来ると城内は活気立つだろうし、後詰めにしても、落城した、しない
では、士気的にも全然違うだろう。
141 :
人間七七四年:2012/06/28(木) 12:49:37.58 ID:M60X745j
後詰めは落城した時点で撤退するしね
この時期の徳川の状況考えると「また間に合わなかったか」って感じでかなり士気が下がったと思うけどな
142 :
人間七七四年:2012/06/28(木) 14:08:54.71 ID:8sFdUAm8
威信だけじゃなくて、それまでのばく大な出費がむだになるわな。
信玄末期ごろから武田の内情は、財政的に苦しくなっていたから
手ぶらで帰るわけにはいかなかったんだろ。
143 :
人間七七四年:2012/06/28(木) 17:34:20.23 ID:4h+uhz+Y
もし長篠城が落城して織田が撤退した場合岡崎派が離反してた可能性ってのは本当にあったのか?
今更離反したところで今度は武田の先鋒扱いで織田と戦うハメになるんだから正しい選択とは思えないが
144 :
人間七七四年:2012/06/28(木) 17:45:41.33 ID:8euKSTYx
岡崎派と浜松派の派閥争いという説自体が根拠ない妄説
145 :
人間七七四年:2012/06/29(金) 08:13:00.07 ID:qhcWECoA
派閥争いがあったかどうかはわからないけど、いきさつから、長篠城落城だけ
だとそれほどの離反者が出たとも思えない。
徳川本体を引っ張り出して、勝ったとなれば、ぼろぼろ出てきそう。
146 :
人間七七四年:2012/06/30(土) 01:51:55.29 ID:cL9GcILz
勝頼がこの戦で死んでくれれば武田はあんな悲惨な末路を
辿る事はなかっただろうな、勝頼が空気読めなさ過ぎたw
信勝が家督を継いで、織田に土下座外交→臣従で何とか
生き長らえたかもしれない
147 :
人間七七四年:2012/06/30(土) 03:04:36.31 ID:lBjnC5Wx
野戦で総大将が死ぬとかよっぽどだろw
148 :
人間七七四年:2012/06/30(土) 08:45:35.20 ID:NSPgBEp/
今川の末路を見れば判るな。
149 :
人間七七四年:2012/06/30(土) 10:43:10.69 ID:IEAlw76H
信長は信玄と違うんじゃね
嫡男殺して同盟破って徳川と共同で今川攻めとか極悪非道な事はしない
浅井だって最後の最後まで許したんだし
信長公なら信勝臣従なら武田を庇護してくれたと思うけどな〜
150 :
人間七七四年:2012/06/30(土) 18:10:55.52 ID:NSPgBEp/
浅井を許したってどういう事?
シャレコウベに緊迫貼って飾り付けたのに?
151 :
人間七七四年:2012/06/30(土) 18:15:24.72 ID:oQQsr8aq
>>150 それ立川流の最上位の供養の仕方だけど、何か問題でも?
152 :
人間七七四年:2012/06/30(土) 18:16:32.83 ID:5eQHhM/Q
153 :
人間七七四年:2012/06/30(土) 18:45:30.20 ID:NSPgBEp/
立川流って落語のか?それで朝倉義景を最上位の供養にするのはなぜなの?
154 :
人間七七四年:2012/07/01(日) 05:36:57.50 ID:SVlSyARz
あの狭い土地に3千丁は無理
155 :
人間七七四年:2012/07/01(日) 19:26:38.03 ID:KxrjUzET
156 :
人間七七四年:2012/07/01(日) 19:47:18.24 ID:E++o99PQ
>>138 勝頼も家臣団も浅はかだったんだよ
徳川には勝ったことあるし、織田は弱そうだし、武田というブライドもあるし
布陣みると兵も少なそうだし、あの辺に兵がいたとしてもここを突破すれば
総崩れさせることができそうだし、徳川や織田の軍勢目の前にして
撤退したら信玄が居なくなってからただでさえ肩身狭いのに、ますます居心地悪くなるし…
こんな感じでやってみたら大変なことになっちゃったてのが真相じゃない?
157 :
人間七七四年:2012/07/01(日) 23:08:30.68 ID:LhKxjvrP
長篠の戦いの結果を他の大名はどう見ていたんだろ?
例えば越後の軍神さんなんて、「勝頼は徳川や織田を舐め過ぎw
まだまだ決戦を挑む器じゃねーしw」とか言ってそうなんだけどね
158 :
人間七七四年:2012/07/02(月) 00:20:43.05 ID:tzG4NVyh
実際現地で見れば馬防柵は見えても野戦築城があれだけ徹底されてるところまでは見えないらしいが
159 :
人間七七四年:2012/07/02(月) 00:34:13.51 ID:q5Gu2x9h
謙信「勝頼は父信玄のように敵前逃亡すべきだった、
若さゆえの過ちとは故あまりにも無謀な戦であった」
その後謙信は手取川で強大な織田軍を前に敵前逃亡
160 :
人間七七四年:2012/07/02(月) 08:23:54.33 ID:TsTgH9dg
>>158 馬防柵あるところは、意外と近いし、土地勘がなければ、その後ろの小山も
結構厳しいし、何処まで解っていたのか。
個人的には山が近すぎて、後方は見えていないと思う。
だからなのか意図的なのかどうかしらないけど、激戦区はもっと開けた徳川
沿いだよね。
回り込もうとでも思ったのかなぁ。
車で道を走った感じでは、回り込んでも、厳しいような気がする。
161 :
人間七七四年:2012/07/02(月) 10:30:52.00 ID:v3CW4lka
今で言う縦深陣地に徒手空拳で突っ込んだようなものだからなぁ
穴山の逃げっぷり見ても勝頼書状にある「この戦を危ぶむ者もいる」って事実だったんだろうな
そんな状況だからこそ敢えて決戦して勝てば「もうこいつらには逆らわせない」っていう感じだったんだろうか?
162 :
人間七七四年:2012/07/02(月) 23:20:45.34 ID:HWboQNTd
勝たなきゃどっちにしろ滅ぼされるから同じこと
あえて言うなら信長と同盟切った親父を恨むべき
163 :
人間七七四年:2012/07/03(火) 00:03:35.12 ID:Rl7z3xjr
素人目に見たら武田軍は戦力の大きい織田徳川軍に包囲されているように思える。
不利と見て決戦を避けるという選択肢はとれなかったの?
164 :
人間七七四年:2012/07/03(火) 01:52:01.21 ID:5WwJGlCV
>>162 死ぬ間際にとんでもない大失態やっちまったよな、信玄
信忠と松姫が婚姻してたら武田安泰だったのにね
165 :
人間七七四年:2012/07/03(火) 07:58:16.40 ID:M1NbhNaK
キチガイ織田チョン相変わらず信玄が織田を裏切ったとか捏造w
一次史料を見る限り、信長が信玄を裏切った挙句に
追い詰められてるのにw
しかも信玄死後も長篠で勝頼が失敗するまで
武田が常に織田を圧倒してたのが事実www
166 :
人間七七四年:2012/07/03(火) 08:07:05.50 ID:npJ3NnbE
解ったから、もうどっかに行ってくれ。
信玄好きってのは、脳筋体質が多いのか?
>>163 個人的には本当にそう思う。
徳川だけではなく、織田が出てきた時点で一度引くとか、長篠城を全力で
落とすとかしないと。
陣地構築されて、それに突っ込むなんてのは、危ぶむヤツが出てきても、
おかしくも何ともない。
が、親族衆が命令なしでさっさと引き上げるって言うのも、のはどう言った
了見なんだろう。
167 :
人間七七四年:2012/07/03(火) 14:04:53.86 ID:H0/jbAFq
「この戦を危ぶむ者もいる」の危ぶむ者って結局誰なんだ?
168 :
人間七七四年:2012/07/03(火) 15:36:57.81 ID:5O7tPwm+
親族衆
169 :
人間七七四年:2012/07/04(水) 01:12:07.71 ID:Ys/JPZ0v
親族衆はさっさと勝頼に死んで欲しかったんだろうな
勝頼死んだら信勝祭り上げて、信長公に臣従
そもそも奥平が正しかった訳で、親族衆の多くが
時代は信長に味方をしていると気付いていたはず
170 :
人間七七四年:2012/07/04(水) 08:05:27.23 ID:yMeNFoW1
確かにそういう所もあるかもしれないが、命令無しで撤退はまずいだろう。
それと、勝頼は徳川とはやりあうつもりでも、信長とはしたくなかった様に
も思えるのだけど、どうなのだろう。
171 :
人間七七四年:2012/07/04(水) 08:10:24.39 ID:y80m1M12
そらそうでしょ。
敵の弱いところを叩く原則からして、織田が出てこれないタイミングで徳川だけを分断して叩きたいのは当たり前。
問題は、織田が出てこれないタイミングを見誤ったことで。
172 :
人間七七四年:2012/07/04(水) 08:12:28.67 ID:9YbnNm1b
この時点で既に穴山は徳川と内通してたって説もあるな
173 :
人間七七四年:2012/07/04(水) 12:41:14.77 ID:yMeNFoW1
>>171 見誤ったと言うか、何故出てきたのに突っ込むかって話だよね。
何回も言っているけど、非常に不思議。
穴山は何をしたかったんだろう。
裏切りで弱体しても、それでも総領につきたかったのか、血を残したかったのか。
174 :
人間七七四年:2012/07/04(水) 14:27:41.27 ID:A6CMAPjW
結果としては退却すべきだったんだろうけど
戦場では合理的には行動できないし政治的な思惑から撤退できなかったんだろうな
撤退すれば信長は勝利宣言するだろうし、部下は「臆病者」っていう陰口叩くだろうし
家督継承後にイケイケドンドンで連戦連勝だったのも逆効果だったね
175 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 00:04:32.10 ID:p0UcOnDD
センゴクとかの織田家と「決戦」して勢力を削ぎたかった説は、どのぐらい支持者がいるんだろ?
176 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 01:59:19.29 ID:CJIVY4eL
>>175 本気で決戦する気なら25000は連れてくるだろうし
最初に設定した条件と違う状況では仕切り直しするのが当然なんだけどね
信玄ならあっさり長篠攻略も諦めて撤退してただろうな
177 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 02:30:16.67 ID:16kANtlt
信玄ならそもそも徳川攻撃なんて無謀な事はしません
西上作戦は包囲網で織田の後詰めがほとんど絶望的だった
徳川から領土を分捕るのが目的だっただけで、織田が出張って
来るかもしれない状況で動くほど信玄は馬鹿ではありません
178 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 08:14:11.32 ID:EbxQq3Vk
>>177 信玄だったらと言う期待を持ちたいのはわかるけど、勝頼の立場での話に信玄を
持ち出すのはナンセンス。
>>174 不思議なのは、陣地構築されるまで信長出陣の報はなかったのか、援軍を待って
の戦いを何故しなかったのか。
撤退したくてもそう出来ないのであれば、せめて信長布陣前に長篠城落とすか、
対後詰め用の陣形、もしくは簡易的な砦なりを造らなかったのか。
一番やってはいけない選択肢をしたとしか思えないんだよなぁ。
179 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 09:14:37.15 ID:rSWsbxQs
軍事においては無能ではないはずの勝頼がなんでこんな決断をしたのか、理解できない。
結局、少なくともこの点においては軍鑑の内容が正しかったんじゃないの?
高天神城で勝ったためか有頂天になって「織田ごとき」と思っているようにも見える。
家老衆が反対しても不思議じゃない。
実際彼らの崇拝する信玄なら避けたであろう戦いだし。
なぜ粘り強く戦ったか?それは反対でも武田のために懸命に戦ったってことだろう。
180 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 10:07:33.99 ID:Y2e09dZt
>>167 そもそも今まで何度も聞かれているのに
「この戦を危ぶむ者もいる」の書状の日付や誰が誰に宛てたかの
ソース明示をいっさい出してこないのでまったく不明。
>>169 実際には奥平氏は山家三方衆では一番格下であったため
1000貫以下の領地しか持たない小身の奥平貞能に対して
家康は破格の条件で買収し城から逃げさせた。
家康は3000貫の領地を約束し
さらに嫡男の奥平信昌には家康長女の亀姫を嫁がせ
将来の長篠城主(武田方で菅沼正貞が城主)の約束
貞能の娘を本多広孝の次男と婚姻させる
こんな破格な条件提示させたから欲に目が眩んで城から脱走しただけで
しかも信玄死去後に勝頼は地盤固めの内政のために
自ら援軍する約束をしても実際には援軍に来ないと言う状況もあって
奥平氏が離反しただけの話。
>>174 勝頼は「無二の一戦」で織田を屠り、すべての決着を決めたがっていた
ところがあるからね。父親越えに焦っていたのだろうし
織田徳川を弱いと思っていた。長篠城をさっさと落さなかったのは
岩村城や高天神城や明智城などと同様に織田軍が撤退する口実を与えないためのものだろう。
ただ不思議なのは陣城の中から鉄砲隊で撃たれる状況を勝頼は
踏み破れると判断したこと。
例えば14歳の時の若き中条景泰が一向宗の籠城する朝日山城から鉄砲猛撃を気にせず
突撃していき蜂の巣にされそうになってるのを謙信は慌てて連れ戻させてる。
また信玄は西上野の武田方根拠地だった和田城に鉄砲をかなり配置してて
謙信や佐竹らの軍勢を寄せ付けなかった。この城攻めを謙信は書状で負けたと記しているくらい。
安全な場所から大量の鉄砲で狙い撃ちされ蜂の巣にされる危険性を
勝頼はまったく理解してなかったのか非常に不可解で
あきらかに織田・徳川軍との交戦経験学習からナメて
無二の一戦で早いトコ結果を出そうとしていたとしか思えない。
>>177 もうそういう歪曲やめろよ。
信玄は野田城で冬季を過ごし雪解けを待って美濃へ攻め入る計画で
5月までに織田との戦いで一定の決着をつける予定だったのは明らかなんだから。
徳川の領土なんてまったく信玄には興味はなかった。
181 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 10:49:06.64 ID:m9LsHXAN
ハイハイ
信玄が一番欲しかったのは遠江領土だからな?
本拠地から近い土地の方が欲しい人物だろ
182 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 12:01:16.48 ID:3OT9fwFk
>>180 はいはいソースソース
出せないんだろw
183 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 12:40:50.57 ID:EbxQq3Vk
>>180 う〜ん、ちょっと軍記物が入っている解釈に見える。
「無二の一戦」したいのなら、ここで何回も言われている1万五千なのは
何故か。
上杉への備えってのは理由にならない、何しろ「無二の一戦」したいのだ
から。
そして、勝頼ほど戦上手が、何故陣地をこしらえてる、二倍の的に突っ込
むような事をしたのかの理由にもならない。
そして、信玄は全く関係ない。
184 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 12:44:30.49 ID:EbxQq3Vk
>>179 >それは反対でも武田のために懸命に戦ったってことだろう。
これはその通りだと思う。
欲も悪くも武田の為にって言うのは間違いないないんじゃないかな。
そして、親族衆が勝手に撤退はびっくりだったろうなw
185 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 14:54:25.34 ID:Y2e09dZt
>>183 長篠決戦前日の勝頼が
織田軍のことを
敵失行之術 一段逼迫之躰候之条 無二彼陣へ乗懸
信長・家康両敵共 此度可達本意案之内って書いてるように
勝てる判断をしている。
もっとも15000は甲陽軍鑑の話なので実数は
高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。
長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。
6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだから
陣城での織田側の籠城戦での鉄砲での防衛に戦局は変化してる。
武田側も鉄砲における戦訓を得ていないとおかしいわけで
やはり陣城からの敵前撤退の失敗に敗因があると思われる。
これが朝倉家における刀根坂の撤退戦の失敗と同様のものだったと考えられる。
殿部隊が失敗してしまった軍の崩壊は致命的。
186 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 21:46:17.00 ID:B7MG63ym
酒井別働隊の動きにも全く気づかなかったようだから単に敵兵力を見誤っていたのでは?
要するに情報収集がダメだったと
187 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 22:00:46.87 ID:rSWsbxQs
>>185 6000説がよく出るけど、それにしては武将が死にすぎじゃないか?
長篠後の武田は兵の質が著しく劣化している。ソースは三河物語。
6000だったらそこまでならないだろ?
188 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 00:10:12.76 ID:K5x+6OgS
つか、6000の兵とすると、武将を一門まで含めてほぼオールキャストで投入してるのがおかしいと思う。
近代軍隊に直すと、大隊長クラスに将官を使ってるみたいな話になる。
>>185 一方武田は
山県昌景・馬場信春・土屋昌続・高坂昌澄・真田信綱・小幡信貞
甘利藤蔵・根津甚平・名和無理介・横田備中・杉原日向・和気善兵衛
真田昌輝・高森恵光寺・川窪備後・下曽根源六・浪合胤成・油川宮内
原昌胤・原盛胤・安中景繁・望月信永・米倉重継・土屋直規・内藤昌豊
190 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 01:33:52.72 ID:mGi6VOyA
武田軍6000で織田・徳川軍6000討死ってw
>>189 これ見ると本当に一方的な虐殺ショーだったんだな
あまりにも武田が惨め過ぎるというか悲惨過ぎだろw
これじゃぁ、武田厨が発狂するのも無理はないな
191 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 01:54:24.50 ID:BX96zbKy
田舎大名カス雑魚武田ごときが天才信長公に挑んだ結果の大虐殺ショーだね
まぁ、こんなのは武田征伐時の悲惨さに比べれば屁でもないんだけど
192 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 02:18:36.42 ID:hdRQWYK0
武田厨は織田を貶めて武田を引き上げようとしてるんだろうけど
そんな無駄な小細工しても武田の惨めな滅亡っぷりは変えられない
歴史的事実っていう事に気付いていない痛過ぎる奴等だからな
フルボッコでボロ負けだったと馬鹿でも分かる戦いじゃねーかよ
193 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 07:32:47.00 ID:eBGLik6j
滅亡した後の武田なんて悲惨すぎて語れないからなw
・元武田家臣の大久保長安に仕える武田本家当主の武田信道(信玄の孫、勝頼の甥)
・大久保長安事件で武田信道も一緒に配流、もちろん領土も禄もない
・武田信玄から5代か6代数えた子孫になってようやく高家旗本という血筋の後光以外の何物でもない扱いに甘んじる
・しかしその息子の代になって時の権力者柳沢吉保の一族から養子を迎え入れ血統断絶
・以降柳沢家として明治維新を迎えることになった武田家
194 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 08:03:06.99 ID:lAwgJ4y5
まーた変なのが沸いてる。
煽り合いは他でやれと。
信玄やその後なんてどーでもいい、ここは、長篠・設楽原合戦の真実スレだ。
>>185 いや、まあ勝てると判断したから戦ったんだろうけどね。
後世の俺たちだから無謀と思うのだろうか、それとも陣地&二倍の兵力と言う
情報がなかったのだろうか。あっても勝てると判断したのだろうか。
戦いで互角以上だったとあるが、これも本当だったのだろうか。
本当なら、何故親族衆は無断で撤退し始めたのか、勝っているのに?
その変がわからないんだよね。
ただ、撤退で甚大な被害が出たのは確かなようだね。
そう言えば、岡崎の内応という話も本当なのだろうか。
動員数から、あてにするほど徳川がごたごたしていたとは思えないんだけど
なぁ。どうなんだろ。
195 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 13:55:23.14 ID:psDeLYXd
>>189 これはまた酷いワンサイドゲームだな
こんだけ有名武将が死んだら7年後に天目山で首ちょんぱにもなるわな
もっとも雑魚軍団武田にいたからこいつ等は後世にまで名を残せたけど
世界最強織田軍団にいたら無名の足軽にすらなれなかった雑魚集団w
196 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 22:33:18.89 ID:tQdgI5jY
197 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 11:56:02.70 ID:pPMzIIJI
>>189 その死者リストを裏付ける一次史料のソースを
昔から一回も出さずに逃げてるよねwww
いつまで逃げるつもりなの?
198 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 17:01:15.68 ID:oRGP+ET2
>>189 どうでもいいけど、武田家の武将ってやたら有名すぎじゃね?
長篠での戦死が主な事績みたいな奴いるし。
199 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 18:58:08.26 ID:Axjlbc90
>>197 それで”まともな”研究者が疑問を論文にしたことはない
ソレが全て
お前の妄想を主張するのはどうぞご勝手にw
200 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 19:17:34.00 ID:pPMzIIJI
>>199 はいはいw
一次史料のソースはまったくありませんって御解答乙www
201 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 00:21:23.06 ID:ev4hyErW
6000説は参戦した武将を考えるとおかしいから兵力については史実通りだと思う。
あと戦死者千人説も武将の戦死した人数や兵の著しい劣化から考えるにおかしい。
まあ一万人戦死は言いすぎだとしても戦死、そうでなくても二度と合戦に出られないような戦傷を含めればそれくらいいたのかモナ
202 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 03:04:23.59 ID:mn+cc+tq
農民兵かき集めて武田の最大動員数って4万くらいでしょ
長篠の15000ってある程度精鋭だったんじゃないかな
だからこそ15000で馬防柵突破した部隊もいたと
ただ精鋭の多くを失ったがためにその後大きな支障をきたしたと
203 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 08:11:34.56 ID:+SKwhbOx
>>200 んじゃ、リストアップされてる連中はどこで死んだの?
長篠以外で死んだんだよね?
204 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 12:51:45.63 ID:ga78vRnd
15000は甲陽軍鑑の話だろwww
いつから史実認定になってんだよwww
つうか参戦した武将を
まずは一次史料からリストアップするところから
始めろよ。
205 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 13:58:05.95 ID:wOAS1zZu
実際、信玄時から 尾張 尾張を一望出来る位置 海上の森に武田軍の砦があって
その地は明治維新まで、誰も地付けないパワ−スポットのような場所だったらしい
206 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 14:04:12.85 ID:SD91iEVd
武田厨の質の劣化が酷過ぎるwww
長篠の戦そのものが捏造とか言い出しかねないレベル
馬鹿に何言っても無駄なんで妄想厨には関らないようにw
207 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 07:53:05.11 ID:NRjGPA4i
だ・か・ら、煽り合いは他でやれと。
典型的な煽り合いだし、芸がない。
それだけ、したり顔であーだこーだ言うくらい知っているのなら、
>>194の俺の
質問に誰か答えてくれよ。
208 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 11:38:57.50 ID:q/JpRxNM
岡崎の内応は事実としては怪しいが一応存在する。
腹切ったのは大岡弥四郎と石川春重ほか数名。全て信康つきの家臣。
ただし「これをアテにして武田が攻めてきた」って言ってんのはだがくらい
209 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 12:45:51.06 ID:NRjGPA4i
同じような意見かな。
あてにするには、根拠が薄いような。
210 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 14:04:13.92 ID:5C+6YoBS
まぁそれくらい徳川も武田に追い込まれてたっていう証拠ではあるんだろうね
実際は浜松も岡崎も健在で織田の後詰が期待できるんだから
武田が長篠で撤退して勢力温存したとしても徳川を屈服させるのは困難だったと思う
やはり三方原が最初で最後のチャンスだったんだろうな
211 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 23:23:41.67 ID:RLyuT3Sn
>>185 >高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
高柳光寿氏の書いた原本を読めば分かるが、
氏は長篠の周辺の地形をざっと見て6000と言っているにすぎない。
しかし「高柳光寿氏が存命〜今」は小高い山々に木が生えているけど
当時は禿山だったんだよね。
高柳光寿氏は木の生えていない所にしか布陣できない、
と思っていたようだが。
実際、現地にいって「信長が布陣した山」に行けば分かるが
木が生えていて、戦場が全く見えない(w
当時は禿山だらけで、周辺いったいに布陣できたから
実際の動員数は信長公記どおり
信長・徳川:4万5千
武田:1万5千
が妥当だと思う(実際は非戦闘員が半分近くいただろうが)。
212 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 23:27:00.67 ID:6Zasb61J
鉄砲の三段撃ちはウソくさいってことしか知らない素人だけど、
長篠城を落せないでいるうちに織田徳川軍が到着。
しかも長篠城周辺に築いた砦を徳川軍の別働隊に落されてしまい背後にも敵が。
そのうえ戦場は狭く大軍が動きにくい(兵力で劣る側が機動力で挽回しにくい、また包囲殲滅されやすい)。
この状態で戦力に優れる敵と戦うなんて無謀すぎると思う。
213 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 23:31:42.58 ID:RLyuT3Sn
死者数といっても、それと同時に重傷者、軽症者もいるわけだ。
死者数1000人いても重軽傷者がどれくらい居たかは不明だね。
参考程度にしかならないけど現在の交通事故では10倍になる。
つまり死者数1万人、重傷者10万人、軽症者100万人。
(大まかな数字)
まぁ当時の戦争でも同じ程度ではないか?
(数倍の違いは誤差と見なす、桁数が合えばOK)
すると武田軍1000人死亡、というのは全滅に近い数値だろ。
重傷者軽症者も長篠から信濃、甲斐、駿府に
歩いて帰らなければならないのだから
途中で離脱する人も多かっただろう。
214 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 23:34:43.50 ID:RLyuT3Sn
>>212 長篠城が攻撃された時点で前に突撃するしか道はなかったからだと思う。
しかし最大の謎は「何で武田軍は寒狭川を渡ったか」だね。
信長公記の言うとおり寒狭川を前に陣を取れば
連合軍は行き詰ったのだが。。。
215 :
人間七七四年:2012/07/10(火) 08:04:45.47 ID:fpXP5ul4
>>213 それは意味のない議論。
敗戦側の重症者は捕虜にとってもらえなければ、死者になるしかないよ。
勝った側は重傷でも生きて帰れる目があるけど。
216 :
人間七七四年:2012/07/10(火) 08:12:45.66 ID:hVXsZPyG
>>213 死亡者1000人は、少なくても従軍していた軍は使えないって事だよね。
同数と言われている織田・徳川より深刻だったろうな。
>>214 長篠城は本当に落とせなかったのか、何故手ぐすね引いている相手に
突っ込んでいったのか、ホント不思議。
確かに、行き詰まっって、織田・徳川の方が仕掛けていたら、逆に武田が有利
な展開で終えていたかもしれない。
そう言えば、兵糧的には両方ともルートを確保していたのだろうか。
武田は元々勢力圏だから問題はなかったのぁかな?
217 :
人間七七四年:2012/07/10(火) 23:08:46.15 ID:hpKBgpwu
織田の戦死者が6000ということは、その3倍以上の戦傷者が出てるということか。
寡兵の武田軍に陣城に篭城した3万もの大軍の織田が
6000討ち死に
2万近くの戦傷者を出した戦いだとすると
織田はまた徳川軍に助けてもらったということだな。
しかし、信玄西上のときは三河物語によれば
信玄は天竜川以東を制圧していたら
手引きする者が大量に出たので、
美濃へ向かうことに決して、三河へ入ったと書いてるね。
信玄が東美濃へ向かうのを阻止するべく
家康は追撃して三方が原の戦いが勃発。
大勝利した信玄が浜松城の備えを調べたりしてから
野田方面へ向かった。
家康は律儀に織田領へ向かおうとする武田に攻撃してたわけだ。
しかし家康が天正元年から天正3年まで何度も援軍依頼したのに
武田を恐れて拒否しまくっていた信長。
やっぱり織田軍の弱いんだろう。
218 :
人間七七四年:2012/07/11(水) 00:24:43.85 ID:6YBwSF8V
そんな弱い織田軍に捻られた武田軍団か
どんだけ弱いんだよ口臭兵
219 :
人間七七四年:2012/07/11(水) 01:39:26.13 ID:sntMlUoY
織田徳川の戦死者6000という数字はかなり胡散臭いが
普通は一割も戦死したら軍として機能しなくなるし
まあ信長の統率力が普通じゃなかったといえばそれまでだけど
220 :
人間七七四年:2012/07/11(水) 12:25:18.02 ID:QHRXlnNv
織田の方も予想外の痛手を被ったのは敗走する武田を
追撃しなかった点、さらに木曾が寝返るまで武田に
手を出していないのと、武田征伐時の信長の慎重な姿勢から
窺う事が出来るのではないだろうか
知られているような一方的な戦いではなかったのかもしれない
221 :
人間七七四年:2012/07/11(水) 13:31:07.43 ID:LUxqCPE/
ノモンハン事変で日本軍が一方的にやられてたわけじゃなかったみたいな感じだろうな
信長のそれまでの戦いぶりからして圧勝してたのなら徹底的に追撃してただろうし
222 :
人間七七四年:2012/07/12(木) 08:15:23.84 ID:Ghwx5Bsm
一日的なものではなかったんじゃないかな。
戦っていた時間的にも接戦だったのは間違いないだろうけど、いかんせん時間
とともに兵力差、構築された陣地に攻めた武田の方の勢いがなくなってきたん
だと思う。
そして親族衆の無断撤退・・・他の部将にとっては、「おいおい」って感じ
だったろうなぁ。
>>221 基本的に主戦は徳川方の様だから、信長の追撃も徹底出来なかったのかもし
れない。
目的は後詰めの援軍だし、追うにしても山地になるし、夜は近いし。
武田勢の強さに、追撃は損害を多く出すと判断してもおかしくはないけどね。
223 :
人間七七四年:2012/07/12(木) 13:26:52.54 ID:iy3oEqB/
>>217 大久保の戦況説明だと
内応者続出のため三河攻略より美濃攻略の方が容易いと判断して
長篠方面へ行軍を開始した武田軍を襲って大敗したのが家康。
圧勝した武田軍は浜松城まできて示威行動とったため
本来の長篠→東美濃への行軍計画から野田での越冬後に東美濃へ行軍することになった。
家康が武田を引き付けてくれたから信玄による東美濃本格侵攻が延期され、信長は命拾いしてる。
長篠日記の著者は徳川領に住んでて目撃してんだよな。
だから侵略者武田を悪く書いて、織田と徳川を贔屓目に書いてる。
224 :
人間七七四年:2012/07/12(木) 17:07:01.63 ID:iy3oEqB/
>>208 >>「これをアテにして武田が攻めてきた」って言ってんのはだがくらい
柴裕之も新編岡崎市史の新行紀一氏も主張してるのに、何デタラメ歪曲してんだw
勝頼が奥三河の足助路へ進軍してきたのも徳川家の内紛が原因で
岡崎町奉行の大岡ら一派の内応を得て
一気に岡崎城を手にいれる算段だったから。
しかし発覚してしまったので、当初の出兵計画は中止を余儀なくされ
方向転換してニ連木・長篠方面へ勝頼は転進したとされる。
織田厨って何でもかんでも嘘を事実であるかのように書くからまったく信用できん。
225 :
人間七七四年:2012/07/12(木) 23:26:25.13 ID:rfjRMJGC
新編岡崎市史には大岡と石川が武田に内通して勝頼を
岡崎に引き入れようとして、それが発覚して腹切ったとしか書いてないんだがなw
ついでに言うとこれが起きたのが1575年の春で長篠の戦いには全くドッキングしないという杜撰な捏造ww
もっと言えばこの話は「岡崎東泉記」など元禄年間の創作をベースに書いた話で
史料的根拠はゼロに等しいw
さすが甲陽軍鑑みたいな瑣末史料を重視する武田厨は違うねw
226 :
人間七七四年:2012/07/13(金) 08:01:55.22 ID:RD0vWFxr
煽り合いはやめろと言っているだろうに。
諸説はあるようだけど、
>>224の意見は時代経緯が見受けられないので、信用
出来る意見とは言えないなぁ。
227 :
人間七七四年:2012/07/13(金) 17:28:22.89 ID:rf3Ug6Rg
まあ甲陽軍鑑の信憑性は信長公記と変わらない程度だから気をつけて使わないとなw
228 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 01:35:55.10 ID:GrgHqHJL
え?
甲陽軍鑑は噂レベル、信長公記は日記レベルですけど?
信憑性はどっちが上かは一目瞭然だろ
229 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 02:04:05.82 ID:jWqjOIvw
目くそ鼻くそだな
うんこと焼き味噌と言ってもいい
230 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 10:00:16.22 ID:5LYVGRn7
アンチは黙ってROMってくれ
231 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 11:17:14.90 ID:61wPxEL0
>>62>>63>>64>>79>>180>>185 よく一次史料を調べて丹念に書いてるね。
>>224 柴氏の意見というよりは山梨県史の新解釈の結果だね。
鴨川氏が信玄の元亀2年4月の三河侵攻が軍記の内容により
誤った解釈をしてたのを修正して
勝頼による天正3年3月からの三河侵攻と確定させ
武田軍先陣による足助城攻略→豊田市の諸城攻略(浅賀井・阿須利・八桑・大沼・田代)という
成果が岡崎内応組との呼応と結びつけて考えられるようになった。
信玄三回忌を終えて後詰めとして勝頼が作手まで出張ってきたが、岡崎内応が発覚したために、
野田→吉田へと東三河へ転進したとする。
最前線の山縣隊は戸田の守るニ連木城を落城させ、
吉田城を救援しに来た家康を山縣が単独で即大破させ武田軍は長篠城へ撤退。
5/1に長篠城攻撃を開始しつつ、5/12には武田先陣が尾張国へ侵攻し、
信長が厚く信奉する熱田神宮を燃やして織田を挑発。
家康からの救援の催促を拒否りまくっていた信長も流石に面目が潰れ、
信長は鉄砲隊の準備も兵糧の準備も整わないままに13日に出陣。
(細川に鉄砲隊の調達を命じる・謙信への手紙で信長は兵糧が秋まで欠乏と書く)
20日の勝頼書状には織田は方策に迷って逼塞しているとの判断をしているのがわかる。
232 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 11:32:16.68 ID:61wPxEL0
>>家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
>>3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
>>家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
信康の岡崎城と家康の浜松城で方針の違いが生じて対立し始めてるのは
将軍義昭のこの和睦交渉が原因だろう。
信長が援軍を拒否している情勢から、
徳川が本気で武田に付くかで家中が割れたと思われる。
天正6年3月に信康の岡崎城へ岡崎衆の常住を義務づけた家康だったが、
突然9月に岡崎衆に信康へ出仕することを禁止
天正7年8/4岡崎から追放したと8/8に信長へ報告
9/15の銘文で信康の五輪塔。
三河物語には二股城で15日に服部半蔵が自刃の検使だったと書いてるし。
ちなみに2/20に信長の娘の五徳が桶狭間まで家忠らが護衛して送ったと書いてるな。
これも家康が長篠の戦いを前に武田への内応を考えていたのを
信康が阻止したことが大きいのではないか?
信長娘婿の信康が信長の後ろ盾の元で家康を追放して
徳川を継ぐために、武田へ内応しようとした事実が
信長へ洩れるのを阻止するべく、信康を殺害した。
信康の岡崎城が陥落した場合、援軍を出さない織田に対して
やむなく武田に家康が降ったとしても
信長から遺恨に思われることはないだろう。
233 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 11:36:42.71 ID:4Amt0nMU
だがの自演入りました
234 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 11:40:14.06 ID:5LYVGRn7
235 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 12:07:32.95 ID:61wPxEL0
>>197 一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
236 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 14:17:43.34 ID:6w2nIwWz
負けたり大損害を被ったのならすぐに岩村城を大軍で攻めたのはおかしいだろ
237 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 16:19:50.00 ID:61wPxEL0
>>236 7/19に勝頼が岩村城への援軍を通達したが
7/27に家康が駿河を攻撃する情報が入ったので
岩村城への援軍を中止して遠江へ出陣したから。
勝頼は高天神城へ兵糧補給をして帰っている。
238 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 16:38:04.72 ID:61wPxEL0
>>187 はいはい得意の歪曲乙w
三河物語は徴兵年齢の引き下げにより13歳前後以上の動員をしたのを天正5年のこととして書いてるから
長篠の戦いのあった天正3年に戦力ダウンしたことの証明にはならない。
それを証明するものとして天正5年閏7月5日に
勝頼が今度の出陣は武田家興亡の一戦であるとして15歳以上の者を20日間を上限とした臨時軍役を課してる。
しかしこの時の出兵は富士川の洪水で決戦を断念。
財力に関しても天正6年に諏訪大社の造宮事業に大金を投入しての数年計画を実施しており逼迫してない。
239 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 18:56:14.98 ID:6w2nIwWz
>>236 大損害を受けたらすぐに軍事行動起こせないと書いたんだか?
勝頼の援軍云々は関係ない
また徳川も大損害を受けていたらこれまたすぐに軍事行動起こせないわなあ
だかにはこれがわかるかなあ?W
240 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 11:45:05.07 ID:UD9oXEwJ
>>183 信長の兵数を把握していなかったんじゃね?
241 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 11:46:32.56 ID:UD9oXEwJ
信長のすごいところは、2月の段階で設楽が原を調査させてるところだよな
242 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 11:50:12.27 ID:UD9oXEwJ
>>235 流石にそれはないわwwwww
どういう理屈をこねたらそういう結果が導き出されるんだww
243 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 16:08:03.75 ID:JktYyyOz
>>240 確かに信長は兵力を隠匿するのに腐心していたようだから勝頼をはじめとする武田軍は敵兵力を見誤っていたんだと思う
要するに武田軍は信長にまんまと釣られて罠にはまり壊滅した
信玄ならば云々という意見もあるが彼の癖(相手の兵力が少ないと襲いかかる)ならなおさら罠にはまっていただろう
酒井別働隊の動きに全く気づかないほど武田の情報収集力が低いことからも
長篠以前に死んでいて良かったよ信玄は
244 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 17:59:51.64 ID:uowk1SXf
兵数を隠蔽って言うほど簡単じゃないような
245 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 20:46:01.46 ID:OSD0GgMa
逆に偵察を送って調べるしか無いんだから、陣地に立てこもられて、その陣地自体も規模を隠蔽してるって状況じゃどうにもならんだろ。
246 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 21:08:08.99 ID:uowk1SXf
後から来た敵の兵力を見誤らせるなんて、信長は幻術使い?
247 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 21:49:27.24 ID:OMt/1pl6
兵数が一望しづらい場所に陣取るのと、偵察隊をかたっぱっしから片づければそこまで難しいもんでもないよ
それが難しいんだけどね
248 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 23:06:20.79 ID:OSD0GgMa
武田にとっては敵地だから、情報収集が難しいだろうしね
そもそも正面から見ても全容がよくわからない陣地に立て篭もった敵の総数がわかるはずがない。
249 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 00:37:41.92 ID:LC6mYVzJ
ていうか終わりから岡崎経由で長篠に着陣してるんだし間者が兵数くらい報告してそうなもんだが
250 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 01:23:24.80 ID:J5ZLwJcM
いや、勝頼公は大局が見えていたのよ・・・
天下を望むなら今、信長の首をとるしかないと
そして信長は奴隷が挑んでくる勝負をただパスすればよかった
それで砦を築いて引きこもったんだ・・・
251 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 07:31:02.98 ID:XhjQDQml
>>249 色んなルートを使って小分けにして集合させる
敵の間者は見つかり次第抹殺
偵察は必ずしながら移動
これらを徹底すれば数なんて解りようがない、特に敵地なら
252 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 09:02:39.64 ID:83eN989Q
武田の情報収集力がそれだけゴミレベルだったんだろう
砥石城攻めでも背後に迫ってくる村上軍の動きに全く気づかず挟撃されて大打撃食らっているし
第四次川中島でも謙信の動きを察知出来ずこれまた大損害
253 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 11:26:17.36 ID:9RtVo5AX
中央でブイブイ言わせて勢力を片っ端から撃破していた織田と
当時三流大名だった徳川ごときにもたついてた武田の差
254 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 11:35:36.63 ID:yrUboJ3X
畿内勢力がブイブイ言ってなかったから撃破できたんだがな
255 :
人間七七四年:2012/07/18(水) 00:04:43.25 ID:5sa5EnK0
そらそうやろ
武田は他勢力をあてにしてまで織田を滅ぼしたいの?w
256 :
人間七七四年:2012/07/18(水) 05:19:41.61 ID:zs54iqdY
他勢力と連携しないとかいう発想自体がアホだろ
257 :
人間七七四年:2012/07/18(水) 07:22:09.30 ID:pScpRe1i
だね。
親父に習って、織田が毛利かどこかの相手で主力を動かせない時期を狙って長篠城攻めればいいのに。
258 :
人間七七四年:2012/07/18(水) 08:15:08.76 ID:krrumX6f
つまり他力本願、他人任せ
259 :
人間七七四年:2012/07/18(水) 08:17:29.70 ID:RZgZirSH
時期的に難しかったんだろうと思う。
敵地と言っている人が多いが、長篠城周辺は奥平氏以外の菅沼氏は日和見でも
武田についていた訳だし、この地区の裏切りをこれ以上出さない為にも、しか
たなかったのかもしれない。
又、徳川家だけなら勝てるとふんでいたんだろうなぁ。
織田家が出て来た時点で引き返すか、逆に陣地を構築するとかはできなかった
のだろうか。
260 :
人間七七四年:2012/07/18(水) 09:17:34.12 ID:ZaKSI1Gk
そこが負け知らずのイケイケだった辛さだろうね
連勝記録が信長が出張ってきてあっさり途切れましたじゃ権威失墜だしなぁ
261 :
人間七七四年:2012/07/19(木) 07:05:53.68 ID:wHJ6RKs1
石山本願寺攻撃を阻止するために出兵するように六角から頼まれて、
出兵したのが勝頼で、
結局、織田の石山本願寺攻撃を中止させたのだから
戦略的には勝頼が成功してるのは事実。
262 :
人間七七四年:2012/07/19(木) 08:01:35.80 ID:dVZMmvqq
立ち上がれないくらいの損失をだしちゃった訳だし、戦略的成功と言えるほど
ではないかと。
中止させるだけなら、戦わずに引いてもよかったような。
263 :
人間七七四年:2012/07/19(木) 15:17:35.44 ID:l8CStJaQ
戦略的成功のわりに随分犠牲者が多いわなw
264 :
人間七七四年:2012/07/19(木) 20:33:59.65 ID:dJAPL/ak
老朽化した重臣等を処分したんだよ
その後、勝頼は体制刷新に成功してるし
265 :
人間七七四年:2012/07/19(木) 20:53:54.26 ID:ifb4WFsB
まぁ弱体化したと言われながら武蔵では北条を圧倒してるし
駿河が侵食されたのは確かだが勝頼が出ていくと家康はすぐ逃げるし
それなりに立て直しには成功してたんだろうな
ただ最後に崩れたところ見ると新体制の忠誠心の低さは酷いな
長篠では重臣が命がけで勝頼逃がしたのに
266 :
人間七七四年:2012/07/19(木) 21:54:47.74 ID:JI0NE9RZ
>>265 >駿河が侵食されたのは確かだが勝頼が出ていくと家康はすぐ逃げるし
三河・遠江から追い出されている
267 :
人間七七四年:2012/07/20(金) 01:18:22.06 ID:9qKNODW9
体制刷新の結果が1ヶ月足らずの滅亡かよ
268 :
人間七七四年:2012/07/20(金) 01:40:43.13 ID:YJ4YLeb1
本当に体制刷新できていれば1577年に織田と同盟結べてたんじゃないかな?
269 :
人間七七四年:2012/07/20(金) 07:21:13.36 ID:we6XbcIa
>>263 たしかに武田軍6000を相手にして
織田は6000も討死してるんだもんな・・・
信長がイケイケで野戦したらボロ負けして
家康が作っていた馬防柵に逃げ込んで家康に助けてもらっただけだし。
そもそも5/19の石川宛の家康書状を見れば
馬防柵は家康の指示で作ってるのであって
信長の考案でもなんでもない。
>>243の書いてる兵力を隠匿するなんて話は嘘長公記のデタラメだし。
>>267 浅間山噴火で武田滅亡の前兆の怪異なんて風聞が経ったら
そりゃあ崩壊するわな。
270 :
人間七七四年:2012/07/20(金) 07:34:44.74 ID:gde3rMv6
浅間山噴火のことはあまり知られてない印象
271 :
人間七七四年:2012/07/20(金) 10:05:49.06 ID:Jfda4KP/
>>269 だがさん今日は早起きですね
相変わらず嘘デタラメばかりですが
織田軍が徳川陣営に逃げ込んだという君の大好きな一次資料を出してくださいな
272 :
人間七七四年:2012/07/20(金) 11:48:51.06 ID:UxLNqA5f
織田・徳川軍は有名武将の戦死ゼロから損害はせいぜい戦死者数数百
一方武田は膨大な有名武将が討ち死にしているから少なくとも戦死者数は10000超
弱小田舎大名勝頼が実質天下人の信長公に戦史稀に見る大虐殺劇を演じられてしまった
この戦い以降武田が歴史の表舞台に登場すること無く日本史上稀に見る悲惨な滅亡劇を
演じてしまう事になる
273 :
人間七七四年:2012/07/20(金) 12:51:26.14 ID:pQj5jQBB
274 :
人間七七四年:2012/07/20(金) 13:17:42.28 ID:Jfda4KP/
だがは自分にとって都合のいいものしか認めないから無意味
275 :
人間七七四年:2012/07/21(土) 09:05:33.36 ID:f0BFYxUX
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくり織田方からは6000もの被害が出たんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
こんな連中が勝頼が開戦と決めた以上、敵前で戦わずして退却するわけがない
皆、開戦には反対でも武田の為に懸命に戦ったってとこだろう
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる
これらの事実から軍艦の内容通り勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
276 :
人間七七四年:2012/07/22(日) 10:03:16.60 ID:lx3+DRtu
>>271 織田が馬防柵を作っていたとする一次史料のソースはまだなの?
277 :
人間七七四年:2012/07/22(日) 12:58:16.57 ID:s/nOwPT/
そんなにソース欲しけりゃブルドッグのサイトでも開いておけ
自分は悪魔の証明(実際は全然違うが)で逃げる癖に相手に悪魔の証明を求めさせるお前はここには不要だ
278 :
人間七七四年:2012/07/23(月) 03:59:32.71 ID:Wex6SwRW
馬防柵がなかったのなら武田は織田に正面から挑んで負けた雑魚集団ということになるなw
「織田が野戦で負けて徳川に助けてもらった」というのは妄想レベルなので考慮しなくていいだろう。
考慮してほしいならそれこそソース出すべきだなw
279 :
人間七七四年:2012/07/23(月) 08:26:10.22 ID:sLfn/oW2
>>275 う〜ん、基本的に激戦地は徳川方面だから、馬防柵に無謀にも突撃していった
のは、勝頼の指示でなかったか、陽動だった可能性もある。
が、土屋さんは馬防柵突破しようとして亡くなってるしなぁ。
布陣全域で合戦していたとは思えないのだけど、顔が識別くらい近くに布陣し
ていたわけだし、突っ込みたくなったのかもなぁ。
あと、何回も書いているけど、親族衆の無断撤退はどうにかならなかったのだ
ろうか。
>>278 一番戦っていたのが徳川方らしいし、家康と信長の布陣から、徳川の馬防柵に
逃げ込んだと言うのは、相手にするほどの説ではないでしょう。
つか、そうなっていたら、連合軍の方が崩れて負けていたはず。
280 :
人間七七四年:2012/07/23(月) 09:40:49.33 ID:hn8iHpf3
裏崩れは良くある話
戦わずにじっとしているというのはある意味、ただ戦うより困難
281 :
人間七七四年:2012/07/23(月) 11:57:10.51 ID:FsVvq/jY
戦わなくても身分は盤石なご親類衆
戦って手柄を立ててナンボの御家来衆
後ろで御家来衆が討ち死にしていくのを見て「あーこりゃ負けだ」となっても不思議ではない
あと明らかに勝頼を軽んじてるよな
総大将見捨てて逃げるとか穴山が殿で防いでれば馬場なんかは死なずに済んだだろうに
282 :
人間七七四年:2012/07/23(月) 22:29:34.50 ID:2Rvqt/17
史上類を見ないワンサイドの大虐殺だと聞きました
信長公は本当に天才的な戦略家だったんですね
実質天下人だったのが頷けてしまう戦いでしたね
283 :
人間七七四年:2012/07/24(火) 08:08:28.20 ID:Exc/zTMT
このスレを争うとしないでくれないか?
>>281 そう言えば、撤退前に討ち死にしたのって、山県さんと土屋さんくらい?
真田兄弟は、崩れる中、突っ込んで討ち死にしたと思った。
山県さんが討ち死にしたのは、親族衆からすれば、かなりのショックだったの
かな。
284 :
人間七七四年:2012/07/24(火) 09:18:58.19 ID:JYOdiKv1
織田の鉄砲隊と武田の投石隊。
B29と竹槍の戦いだよ。
285 :
人間七七四年:2012/07/24(火) 11:58:00.12 ID:mecfdCfJ
小山田さんって長篠参戦してたっけ?
286 :
人間七七四年:2012/07/24(火) 12:09:51.12 ID:J6mq0Nik
>>282 いや織田徳川連合軍も大損害を被っている
落ち延びて行く勝頼を追撃できなかったのが何よりの証左
287 :
人間七七四年:2012/07/24(火) 13:08:12.73 ID:fK5gs6Ah
信長は越前攻めが控えていたから深追いしなかっただけだろ
元々東に興味なかった信長にしてみれば武田軍が壊滅してしばらくちょっかいかけてこなくなれば御の字
つーか前にもでていたよね?だがよ
288 :
人間七七四年:2012/07/24(火) 14:40:35.12 ID:UCE5EJVF
馬場って生き残ろうと思えば生き残れたんじゃないか?
殿を務めた後で突っ込んだといわれているが
289 :
人間七七四年:2012/07/24(火) 15:24:29.39 ID:SSASKMKM
織田があまり武田追撃に乗り気でなかったってのは武田側は知らないからね
殿引き受けた時点で死ぬ覚悟だったんだろ
290 :
人間七七四年:2012/07/24(火) 16:29:13.87 ID:K7bitsCk
馬場、内藤、山県の一人でも生き残ってればと思ったりもするんだが
実際は高坂昌信が生き残っててもどうしようもなかったし結局ダメだったんだろうな
291 :
人間七七四年:2012/07/24(火) 16:30:59.56 ID:K7bitsCk
でも御館の乱で北条と手切れた後で北条圧倒してたし勝頼の軍立て直しはそれなりに成功してたんだろうな
292 :
人間七七四年:2012/07/24(火) 18:58:57.72 ID:u8iFjV91
293 :
人間七七四年:2012/07/24(火) 19:55:02.06 ID:UCE5EJVF
>>290 高坂がいてもどうしようもないってのは高坂が海津にいたから。
三人のうち一人でも生きていれば少なくとも史実よりはましになっただろう
長篠の戦い後は武将の質の劣化が半端じゃないから三人のうち一人が生きていれば貴重な戦力となっただろうな
294 :
人間七七四年:2012/07/24(火) 20:21:18.56 ID:cNLXqA2G
>>293 そう言いながら秋山信友を見殺しにしたのは痛かったな
295 :
人間七七四年:2012/07/25(水) 01:40:58.05 ID:o/yKvimE
上野の対北条で圧倒したって言われてるのは真田昌幸だよね?
実際長篠後に再編した家臣団って信玄が山県や高坂や内藤見出したみたいなビッグネーム居ないよね?
296 :
人間七七四年:2012/07/25(水) 07:52:51.43 ID:za7WmIcp
まあ、見いだす前に詰んじゃった感がある。
信玄時代と違い、周りも巨大化しているし、時代の進行が早い。
対応するだけで手一杯で、ゆっくりと育成している時間がなかったと思う。
しかし、それでも四天王のうち誰かが武田攻めまで生きていたのなら、あの
酷い総崩れはなかったように思う。
297 :
人間七七四年:2012/07/27(金) 10:39:04.34 ID:pF2sr1Pu
>>294 当時の勝頼は信長お膝元の東美濃防衛より高天神城防衛を優先しただけの話。
298 :
人間七七四年:2012/07/27(金) 13:28:25.71 ID:03fKgh1b
>>297 高天神城を防衛するなら総力を挙げて諏訪原城を奪還すべき
299 :
人間七七四年:2012/07/27(金) 13:36:50.67 ID:+yLC5CkV
長篠の敗戦もかなりの痛手だったけど一番のターニングポイントは謙信の死だよね
御館の乱→北条と手切れ→関東出兵の流れが武田の滅亡早めたわけだし
300 :
人間七七四年:2012/07/29(日) 19:43:43.89 ID:GLt6nGvW
高天神城を制する者は遠江を制する
301 :
人間七七四年:2012/07/29(日) 20:13:33.33 ID:Wip8MTMH
まだ真田がいたけどね。
上手く使いこなせなかった。
302 :
人間七七四年:2012/07/29(日) 20:15:30.61 ID:moM1dFkA
>>300 掛川城や諏訪原城と比較すると、実はあまり意味がなかったりする
303 :
人間七七四年:2012/07/29(日) 22:02:03.75 ID:Nq5ST4hh
真田は万単位の大兵力の運用に関しては未知数だよ
昌幸も信幸も信繁も5000くらいまでしか運用してないし
304 :
人間七七四年:2012/07/30(月) 15:42:22.51 ID:HdMWJNXJ
佐久間信盛が自分は寝返るからと言って勝頼を誘いだした
305 :
人間七七四年:2012/07/30(月) 19:41:54.00 ID:29kTAuG/
幸村が5千位で突っ込めば織田勢は瓦解するんじゃね?
306 :
人間七七四年:2012/07/30(月) 21:31:32.33 ID:uIEMxlfh
まだ10代の若武者だから無理だろ
307 :
人間七七四年:2012/07/30(月) 23:45:31.98 ID:GtvUZWKj
主敵を織田か北条か上杉に絞れっての
308 :
人間七七四年:2012/07/30(月) 23:47:42.24 ID:JcTh/gHK
長篠の時は絞ってるだろ?
他をギリギリの押さえだけにして全力投入した結果があれ。
309 :
人間七七四年:2012/07/31(火) 07:51:58.63 ID:w3Zvx5JH
信玄ってすごいよな。
内線、外線がきちんと区分けされている。
今川裏切った時に四面楚歌状態になったが、すぐに外交で切り抜けてるし。
やっぱり信玄って傑物だよ。
310 :
人間七七四年:2012/07/31(火) 07:57:55.70 ID:CXq4Z/PV
信玄はNTTか?
それはさておき、ここは信玄がどうののスレじゃない。
脈絡のないヤツが定期的に沸くな。
>>308 一番敵として認識しやすかったのが織田なんだろうけど、国力差考えると
微妙だよね。
後北条は織田、徳川と近寄っているし、上杉が一番かもしれないけど、地
理的に微妙な気が。
どっち行っても微妙なら、織田にって感じだったのだろうか。
311 :
人間七七四年:2012/07/31(火) 08:09:32.76 ID:26quZrkC
つーか、織田徳川とは外交交渉で状況を打開するのが困難な状況だったからじゃね?
親父のせいで。
312 :
人間七七四年:2012/07/31(火) 14:32:46.32 ID:VlHlw/Ro
しかも秋山が斜め上なことをしでかしたからなあ
織田との関係を修復するのなら最低でも秋山の首を差し出すくらいしなきゃ
でなきゃ信長の怒りは収まらないだろう
313 :
人間七七四年:2012/07/31(火) 15:30:11.59 ID:kzG+9Ben
信玄の負の遺産とずっと言われてるけどさ
信玄時代は浅井・朝倉・長島一向宗と生きてたし活発に活動してたから
そういう意味では言うほど博打的要素でもなかった気がする
問題は勝頼が動き出した時には浅井・朝倉は滅亡してて長島一向宗は救えずに見殺しってのがやはりデカイ
314 :
人間七七四年:2012/07/31(火) 16:11:24.93 ID:79qc3CQd
武田・北条・上杉軍連合軍でも
この時の織田・徳川軍には勝てなかったろうな
315 :
人間七七四年:2012/07/31(火) 16:20:16.23 ID:w3Zvx5JH
>314
あの戦いは武田に無理に織田が引きずり出された戦いと自衛隊戦術教官が言っている。
世間一般では武田が有利と見られていた。
316 :
人間七七四年:2012/07/31(火) 16:58:59.04 ID:kzG+9Ben
>>315 明らかに対徳川の準備しかしてないのに織田が出てきて不利になってるんだがw
しかも織田徳川の設定した戦場におびき出されてるのは武田
その戦術教官って頭おかしいのか?
317 :
人間七七四年:2012/07/31(火) 17:00:20.96 ID:N3sJXsyn
やっぱり信玄はすごいよ。
軍事面はともかく、政治面では勝頼は信玄にははるかに及ばなかった。
ところで勝頼はなんで諏訪原城を攻めなかったんだろう?
いかに劣化した軍隊とはいえ高天神よりずっとランクの下がる城なんだから攻め落とすことも不可能ではないと思うが・・・
>>296 一度に有力武将が大量に死んだのがまずかったよな。
少しずつ世代交代していくならともかく急に世代交代するのはきつい。
318 :
人間七七四年:2012/07/31(火) 17:46:02.06 ID:vfgEQjSV
>>317 諏訪原城は大井川の直ぐ側にあるから、渡河しているところを叩かれると痛い
それに徳川家は占領後は誠意、増築を行なっている
最近の研究だと今ある諏訪原城の縄張は大半が徳川家に拠るものとのこと
319 :
人間七七四年:2012/07/31(火) 20:41:17.65 ID:w3Zvx5JH
>しかも織田徳川の設定した戦場におびき出されてるのは武田
そこにおびきだされてしまう状況を作り出された時点で詰んだ。
それまでは武田優位と見られている。
320 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 01:04:35.65 ID:rPhg7wDE
馬防柵が完成する前に決戦していたらどうなっただろうか?
321 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 01:17:55.05 ID:GM3zqmIQ
雨降ってる間に襲撃とよく言われるけどそうなるともし負け戦になった時に退却に失敗しそう
一応小川程度とはいえ川あるしな
322 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 01:54:51.98 ID:W3QzNwDo
そもそも野戦築城の発想がこんな戦国後期まで出て来なかったっていうのが不思議で仕方がない
あちこちに砦作ってやれ馬出しだやれ枡形だと創意工夫してきた戦闘民族なのに
323 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 03:05:59.15 ID:MCSXGc2P
野戦築城しまくった結果あちこちに砦があるんじゃないのかね
324 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 08:05:40.37 ID:bysOVwGS
確か当時は村数より、砦、城数の方が多かったはず。
ただ、村単位とかの小規模なものなので、戦国後期の大規模になった戦には
むかなくなったんだろうね。
日本の場合、この辺がポイントではないかと。
>>319 当時は武田優位と見られていたんだろうけど、後世の自分たちが見ると、織田
が出て来たのに、合戦しようとした時点で詰みなのがわかるよね。
ただ、士気と言うものを考えると、徳川はともかく、織田勢には圧倒的に武田
の方が有利だったと思う。
その結果信長が考えた策が馬防柵であり、防御姿勢になったのかも。
>>320 これは自分も思う。
というか、織田が出て来た時点で何かしら行動しなければいけなかったの
ではないかと思う。
織田の兵数が把握しきれていなかったのかなぁ。
325 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 09:01:54.23 ID:e6myOOab
>>310 >>国力差
ププッwゲーム脳乙w
政治行政・実質支配力・軍事組織改革など
すべての面でクソで遅れている織田の現実を無視して
ゲームみたいに城を落したら一円が
織田カラーにでも染まるとでも思ってんのかw
>>316 >>対徳川の準備しかしてない
はいはいデタラメ乙
武田軍は信長が刀を奉納したり戦勝祈願をするほど信仰していた熱田神宮まで
フルボッコして挑発したので、やむなく織田軍は翌日に出陣せざるおえないほど
メンツを潰されてるのに、織田との戦闘を想定してないわけないだろ。
長篠の闘い前日も織田は手段もなく追い詰められてるから一気に決着をつけると
勝頼は書状まで出して意気揚々なんだから。
>>318 そもそも諏訪原城自体が武田が作ったか怪しいシロモノで
しかもいつ出来たもんかもわからん。
該当時期に存在していない可能性も充分にある。
あったと仮定したとしても駿河方面から田中城→高天神城への連結があるので
諏訪原城自体もさほど重要とも思えないし、高天神から掛川城への心理的圧迫は重要。
信濃・甲斐・駿河への侵攻企図をさせない上で高天神城の進出位置は徳川釘付けに必須。
>>320 馬防柵は一次史料を見る限り徳川軍が作っていただけ。
野戦で大敗した織田軍が馬防柵のある家康陣へ逃げ込んだに過ぎない。
326 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 10:28:10.19 ID:r7sAUuAV
武田有利というが勝頼の書状に「今回の戦を危ぶむ者もいる」と書いてるくらいなんだから
少なくとも兵力差は理解してたんだろう
327 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 11:07:07.42 ID:60jHFT+3
徳川軍の数倍の規模のある織田軍が徳川の陣地に逃げ込んだら戦闘どころじゃねーよw
さすがアスペルガーだがは信長の野望感覚でしか話せないだけはあるw
328 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 11:09:55.46 ID:mr0WNXUn
勝頼が嫌がる織田を無理に引きずり出したのだが、最後に誤ってフルぼっこされたというのが長篠の戦いの現実。
329 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 11:13:56.24 ID:60jHFT+3
勝頼はおろか信玄すら織田と直接対決したくないのがみえみえだけどなw
秋山が岩村城を落とした時点で(これに関しては年次が諸説あるが)、織田信長のいる岐阜城への道へは開けている。
本当に武田が打倒織田を真剣に考えていたのなら、美濃から一気に信長本拠に迫ればいい話w
ちんたら徳川を攻めていた時点で時間稼ぎして少しでも領地を増やしたいと考えが透けて見えるw
まあ武田勝頼は親父に比べて織田への恐れはなかったが、なかったがゆえに道を誤って滅ぼしたというのは皮肉。
330 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 11:15:20.04 ID:PJkPpfht
武田軍が致命傷で済んだのは勝頼討ち取った場合
謙信の信濃進出を懸念した信長様の卓越した計算のお陰です
331 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 11:22:01.91 ID:e6myOOab
>>326 はやくそれの日付と誰から誰に宛てた書状が教えろよ。
332 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 11:53:38.65 ID:e6myOOab
>>327 織田が馬防柵を作っていたとする一次史料はまだなの?
333 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 11:55:45.19 ID:60jHFT+3
>>332 馬防柵のあるなしなんて一言も言ってねーよアスペw
俺が言ってるのは「馬防柵があろうがなかろうが、武田は織田にけちょんけちょんにされた雑魚」ってことだw
大体徳川だけが馬防柵築いている中に織田軍が入れるわけねーだろw
そんなことしたら織田徳川が入り乱れて戦争どころじゃなくなるわw
334 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 12:01:15.15 ID:e6myOOab
織田が野戦で大敗してるのは長篠日記を見れば明らか。
335 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 12:04:05.17 ID:60jHFT+3
野戦で敗退しているのに武田勝頼が退却するのかwww
336 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 12:27:31.61 ID:az50NUaT
織田はその後ピンピンして領土拡張しまくりなのに
武田は岩村、高天神見殺しで何も出来ないまま僅か7年足らずで無様に滅亡www
史実を捻じ曲げてまでボロ負け雑魚軍団が常勝戦国最強軍団に一矢報いたと吹聴
したい気持ちは分かるけどな
337 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 12:45:21.40 ID:bysOVwGS
取りあえず、煽り合いはやめようや。スレの品質が落ちる。
基本的に
>>327の言っている事は主観過ぎていて信用でいないかな。
徳川が作った一時資料とはどれの事かな?
まあ、作ったとしても、それは織田の指示かもしれないし、どっちが作ろうが
馬防柵があった事には変わりがないので、どうでも良い事。
>>333は口が悪いが言っている事はまともだと思う。
2倍近い織田軍が逃げ込めるほどの馬防柵なら、既に防御の体をなしていないの
では。
そして、そんな体たらくの連合軍に負けたのか、武田軍は?
個人的にはそんな事はないと思っている、武田は強いよ。
それに逃げ込んだとする一時資料は?
一時資料と言う言葉が好きみたいだから、逆にその資料先を提示しめみてくれ。
338 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 12:52:51.95 ID:e6myOOab
5/19付け家康→石川・鳥居宛書状で
家康が先刻申し含めた場所の様子を見積もり入念に柵を作るように指示を出してる。
長篠日記でも武田軍が開戦初頭から織田勢を圧倒してる。
339 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 13:03:35.37 ID:60jHFT+3
そもそも本当に織田がヤバかったのなら徳川なんざ見捨てて逃げるのが筋
所詮武田が勝っても取られるのは徳川領なんだからそれこそ徳川を捨石なり殿にして自ら逃亡すればいいだけ。
自国内ならまだしも出先の徳川領で「マズくなったから徳川陣に逃げた」なんてのは妄想以外では絶対に起きない。
そんなことをすれば桶狭間の今川義元のように討ち取られに行くようなものだからなw
340 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 13:07:50.13 ID:e6myOOab
織田が家康の作った柵の中へ逃げ込んで籠城戦を開始。
武田軍が長期対陣の愚を悟り撤退。
武田軍が朝倉軍の刀根坂の戦いと同様に
撤退戦に失敗し殿が崩壊したと言うのが現実だろう。
341 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 13:10:49.55 ID:ka4XbXU0
>>336 歴史の歪曲が酷過ぎるから問題なんだよ
良い子が見て信じたらまずいだろ
そういう妄言は訂正していかないとダメ
それが大人の使命です
342 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 13:11:28.80 ID:60jHFT+3
兵糧もないのに織田が籠城戦するんでつかwwww
徳川軍が自分のためだけに馬防柵立てたのに織田軍が安々と入れるような
柵しか立てなかったんですかwwwザル守備にもほどがありますねwwww
そもそも当初の目的である長篠城の攻略はどうしたんですかね?www
343 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 13:50:17.45 ID:lp4LWnGk
織田に兵糧がないのを武田は知りようが無いだろ。
知っていたとする史料あんの?
つか武田6000に
織田徳川3万だから、
その数で堂々と敵前撤退する勝頼って、
いくら織田徳川に連戦連勝してたからってナメすぎだろ。
明智城や高天神城攻略で、
信長がビビりまくり後詰めに二の足を踏む状態だったから、
わざと長篠城を落とさず待ってたりと、
やることがふてぶてしくなり過ぎて、
信玄のような繊細さを欠いた。
344 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 14:04:57.68 ID:JjqxFHNF
流石武田厨は捏造マンセー大好きだな
内藤山県馬場といった面々が消えたというのに織田方はロクに撃ち取られず
それで武田の勝利?w随分武田の勝利は控え目だなwww
345 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 14:54:49.56 ID:7hhPJ59L
前にも指摘されているが相変わらずだがは矛盾だらけ(なぜか第三者のくせに内情に精通、全兵力の二割も死者を出したのに崩壊しない織田徳川軍など)の長篠日記が根拠ってのがなあ
実態は信長公記にあるように武田軍は全くいいところなくフルボッコにされ完敗で織田徳川軍の損害はほとんどなしだよ
もしも大損害を被っていたのならその後の軍事行動(越前、岩村城、駿河に侵攻)と矛盾する
一朝一夕に兵力を回復するなんて出来るわけないからね
346 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 15:07:20.52 ID:60jHFT+3
そもそも長篠日記そのものがお粗末史料で
武田を中心に研究している学者ですらNoというような俗書。
あの甲陽軍鑑以下の扱いであり、天正六年成立というのは嘘っぱちであるというのが通説。
高柳光寿、太向義明氏を始め、ほとんどの学者は江戸近世の作であると断定。
347 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 15:46:01.43 ID:bysOVwGS
>>338 指示を出しているという書状であって、全て徳川が作ったという証拠には
ならないよね、それ。
それと、前述したけど武田軍は強いでしょ。
押されてて当然と思うけど、総崩れだとか、徳川の陣に逃げ込んだのとは
違うよね。
>>341 どんどん信憑せいがなくなっていっているが・・・、大丈夫か?
348 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 16:43:58.72 ID:/qWTNRwE
なんか織田が野戦で負けて馬防柵に逃げ込んだところに武田が突っ込んで撃破されたのなら
それは釣り野伏せじゃないけどまんまと設楽が原に釣り出されたってことじゃないの?
本当に野戦で織田が敗走したのなら設楽が原で踏みとどまるのはちょっとありえない
織田としてはもう徳川のために義務は果たしてるわけだし
349 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 16:54:35.95 ID:lp4LWnGk
太向氏は甲陽軍鑑や信長記と戦闘経過の記述が似ているから、
長篠日記が近世中期以降整理ではないかと妄想してるだけで、
根拠なんて一切提示してない。
そもそも自然に考えれば、
天正6年成立の長篠日記をパクって甲陽軍鑑や信長記の長篠の戦いが書かれたとするのが妥当なのに、
信長記は絶対に正しいみたいな視点から判断しててアホ丸出し。
しかも15年以上前の旧世紀の貧困な発言。
高柳氏はどの論文でそんなことを書いてるんだ?管見の限り見当たらない。
本多家武功聞書にも馬塞ぎの柵の発案を本多百助って書いてるから、
徳川方が柵を造っていたのは間違いない。
織田が柵を造っていた史料など皆無。
350 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 17:35:53.90 ID:T5bC2o+s
つまり柵すら作ってない織田にやられたのか武田は
351 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 17:57:35.84 ID:7hhPJ59L
>>349 常識的にありえんことが書いてあるからダメなんだよ、だが君
352 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 17:57:55.46 ID:zZuKPkZU
策が無いのは武田のほうでしたっと
353 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 18:26:12.98 ID:60jHFT+3
>>349 そもそも高柳氏が長篠研究を取りかかったのは長篠の戦いを精査するためなんだが・・・
早い話長篠日記などが絶対的な史実だというのなら氏は長篠合戦の研究なんてしてないわけで
これはきっちり氏の著書読んでればわかる話なんだがw
そもそも柵の有無にやけにこだわっているようだが柵の有無なんてぶっちゃけ大した意味はない。
柵の中から鉄砲でバンバン撃たれて武田が死んだなんてのは講談の世界だけで、
織田が馬防柵をしいていたかどうかなんて早い話どっちともとれる。
あるのは武田が織田に長篠でボコボコにされたという事実だけ
354 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 18:49:14.64 ID:lp4LWnGk
>>363 だから、高柳氏がお前が書いたような内容を書いている論文を教えろと言っている。
誤魔化してんじゃねーよ。
どうせネットで拾ってきた内容に、
お前の妄想を付け足してレスしただけだろうけどw
355 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 18:51:28.95 ID:lp4LWnGk
356 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 19:40:49.51 ID:e6myOOab
むしろ追い詰められていたのは織田なんだよな。
勝頼も織田は手段を失い困っているから
一戦してやると長篠の戦い前日に書状に書いてるし
野戦で織田を撃破してるからな。
籠城する織田の相手をするのもアホらしいから
撤退したところを義景みたいに追撃されて殿が崩壊し
高柳氏が言うように武田軍6000のうち、
多聞院日記における1000人が討ち取られたってことなんだよね。
織田チョンが長篠決戦前日夜に鳶ヶ巣山砦が落とされて背後を取られたから
無理な決戦を強いられた挙句に撤退に追い込まれたとかデタラメ捏造を吐くのも見受けられるが
そもそもそこ落とされても背後は取れないし、
さらに渡河の危険を晒さないと武田軍の側面を取れない。
それどころか鳶ヶ巣山砦攻撃が開始されたのは長篠の戦いが開始された午前6時から2時間も遅れた8時になってからで、
まったく認識が誤っている無知ぶりでまったく話にならない。
357 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 19:44:59.18 ID:e6myOOab
織田は野戦の大敗がたたって25000のうち6000討死だもんな。
徳川の馬防柵収用キャパ限界を超えて
陣城逃げ込み拒否られて放置傍観された織田兵はほぼ全滅したんだろうな。
358 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 20:06:01.37 ID:zZuKPkZU
359 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 21:01:34.51 ID:mr0WNXUn
嫌がる織田を無理やり長篠に引きずり出したのが武田。
もちろん武田が優位に進めていたが、最後にポカやって大惨敗。
最初から織田優位とかは違うからそれだけは知っておこう。
360 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 22:21:37.47 ID:rPhg7wDE
長篠の戦いについて、武田側は
・即時撤退
・川を利用した防御戦
・長篠城を強引に攻め落とす
・どうしてもと言うなら馬防柵が完成する前
この4つのどれかにするべきだったな。
361 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 00:06:53.00 ID:JnyG1NXo
362 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 06:44:48.39 ID:3Q7O8lcU
殿は難易度高いからなあ。
一度崩壊したら取り返しできん。
あと戦後の勝った勝った宣伝情報工作も重要。
織田や北条や伊達の得意技。
特に織田は京を抑えてるから
腰抜け公家相手に吹聴しまくり。
363 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 06:56:56.12 ID:yG1gSm1R
>>354 「長篠之戦」を知らないでよくも今まで妄想を吹聴できてたもんだなw
まあ知っていたら
>>357のような「25000中6000が討死」なんていう嘘丸出しの自説なんて出せないかw
高柳光寿氏は自説で「連合軍600 武田軍1000」と犠牲数を推定していて
これが今日の長篠合戦における通説の1つとして今でも大きく注目されている。
>>馬防柵の有無
だから馬防柵なんて大した意味ないから。おまえはほんとすぐ妄想するの好きだなwww
講談や小説じゃあるまいし馬防柵のおかげで勝てたなんて安っぽい説を信用するとかどうかしているw
>>そもそもそこ落とされても背後は取れないし
おまえ武田軍はどこから帰る気でいるの?w
武田軍が領国に撤退するには、長篠城を挟んで飯田方面に逃げるしかないんだけど?w
まさか織田軍の目の前の鳳来寺方面から帰る気か?w地理の知識もないんだなw
364 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 07:07:05.13 ID:yG1gSm1R
日本の地理もできない馬鹿なだがに詳しく教えておこう。
長篠合戦があった長篠設楽が原から武田軍が自領に帰る道は2つ。
1つ目は長篠城から別所街道を逆流するように進んで、信濃飯田に帰る方法。
もう1つは鳳来寺道を通り途中で伊那街道に乗り換えて信濃に帰国する方法の2つ。
ちなみにだがは恐らく布陣する武田軍の真後ろを指して「背後」だと思い込み
長篠城方面は「武田軍から見て右にズレているから」と思って背後じゃないと言い張っているんだろうが
武田軍が布陣した場所から真後ろに退却しても行きつくのは徳川領であり、
三河長篠の地理を心得ている人間なら絶対にやらない退却方法である。
365 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 08:24:38.61 ID:SKQf3Bnv
殿をしていたと言われる馬場の討ち死に地点、負けたのをしった長楽だかの菅沼氏に
入場を拒否され、田峰でやっと一息つけたと言う記実があるらしいから、そっち方面
から退却した事が考えられんじゃね?
いずれにしても、固執している人がいるけど、馬防柵作ったどうのは関係ないんだよね。
それよりも、
>>360が書いている行動が何故出来なかったのかだと思う。
ちなみに、織田勢がいる所は、馬防柵が無くても、急斜面の小山になっていて、それ
だけでも結構な防御になるんだよね。
あそこを逃げて徳川の陣に逃げ込むって言うのは、かなり難しいように思う。
というか、逃げ込むほどのスペースないよ。
366 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 09:55:30.32 ID:F+azChMz
もう武田有利とか言ってる奴は即NGでよくね?
織田が出てきてそれまでに長篠城落城させられなかった時点で武田が圧倒的に不利じゃん
367 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 10:25:20.25 ID:A7wOg7gW
つまりだがは殿の馬場が無能だったから惨敗したと言いたいわけだ
そんな奴を長い間使い続けしかも重臣にした信玄の責任だなこれは
368 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 11:46:04.34 ID:Amc6UATJ
>366
これに関しては君がNG。
369 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 11:51:20.43 ID:F7hX1auE
馬場が無能って・・・・とんでもない解釈だな
370 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 12:10:03.75 ID:ybhen7Y6
>>366 武田有利とか言ってる人は桶狭間の戦いも捏造とか言ってる人と同一人物かな?
長篠の戦いで信長が討ち取られていた可能性があるとか言っちゃってるし
武田厨はもはや妄想・空想の世界の住人になってしまっているからなぁ・・・
371 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 12:35:29.24 ID:A7wOg7gW
>>369 だが理論を素直に解釈すればそうなるだろ?
それまで勝っていたのに撤退に失敗して武田軍は壊滅したんだから
そしてその責任が殿の馬場にあるのは自明
よってだが理論だと勝っていた戦いを台無しにした馬場は無能ということになる
372 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 14:20:13.41 ID:BpB07mhJ
そもそも殿引き受けるべきは予備隊の穴山
あいつが独断撤退したから最前線での戦闘から敗走に移った馬場隊がそのまま殿引き受けるハメになった
373 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 14:25:42.98 ID:BpB07mhJ
OSEプラザからの中継はいらない
374 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 16:51:18.75 ID:yG1gSm1R
穴山はむしろ正しい
あのまま誰も逃げなければ連合軍に虐殺されるのがオチだった
穴山が逃げたからこそ長篠での犠牲者はあれくらいで済んだ
375 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 21:01:13.06 ID:B/cRYN/r
馬場が殿をしたとする一次史料は?
376 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 21:25:03.87 ID:Amc6UATJ
>370
普通に武田が挑発して織田が引きずり出されているだろ。
ゲーム脳か?
武田が最後にポカして大惨敗しているだけ。
これが判らないってのは小説読んだ素人としか思えないな。
377 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 21:34:12.64 ID:Szpun+CE
ほほうほほう
素人さんではないのにその珍奇な解釈ですかw
プロらしく論述したらいかが?w
378 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 23:21:25.76 ID:JnyG1NXo
>>366 NGにするかどうかをいちいち他人に聞くなよ。勝手にすればいいじゃん。
379 :
人間七七四年:2012/08/02(木) 23:23:03.26 ID:JnyG1NXo
380 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 00:56:21.79 ID:d42PmaOs
>>378 お前みたいな奴がNGせずに絡むからスレが荒れるんだよ馬鹿
381 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 00:56:51.47 ID:HFqgWNXD
なんていうか、小説読んで信長まんせーで吹き上がってる人達がキモいね。
ゲームと一緒じゃないよ。
実際は人心掌握とか地理(道)とかいろいろあるしね。
382 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 02:55:34.56 ID:epctvKse
>>381 信長が出てくる面白い小説なんてないからまるで見当違いじゃね
武田信玄や武田勝頼は新田次郎が凄く良いの書いたけど
383 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 06:44:25.00 ID:MS5XsjVE
まあ信長本は読むヤツが無知だから、
クソみたいな内容で似たり寄ったりでも売れるからな。
内容も90年代から全く変わってない。
購入層が変化を嫌うんだろうな
武田研究は盛んに継続されて変化が激しいけどな。
384 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 07:28:08.51 ID:UlXggY8s
信虎が実は凄いとか、板垣は信玄にとって邪魔な存在とかちゃんと拾った小説がほしいな
一般だと、未だに大河の武田信玄レベルの理解がまかり通ってる。
385 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 07:44:41.87 ID:GpPcg/O/
>>381 地理をわかっている人が「街道を無視して真後ろの山岳地帯に撤退すれば安全」
とか言い出しちゃうんですねwww
386 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 08:25:57.16 ID:Q0pCpMrd
>>366 一概にそうとも言えないんじゃないかな。
当時まだ武田軍は強いといった印象だし、有利と思う人がいてもおかしくはない。
ただ、確かに織田が出てくるまで、少なくても布陣するまでには何らかの行動は
すべきだったと思う。
>>374 問題は、許可無しに勝手に引いた事にあるんじゃないかな。
それによって両翼で頑張っていた部隊も崩れだしたようだし。
すぐそばの内藤は戦死するまで頑張っているしね。
>>381 それは武田マンセーの人にも言える事だけどね。
極論じゃなく、全体を見てみるとどうとるかを考えないと、スレの意味がない。
まあ、後世の俺たちからみれば、織田が来る前にこう出来なかったのか、陣地
張ってる連合軍に何故突っかかるのか、武田軍に疑問がわくけどね。
387 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 08:38:36.20 ID:llQnhjgA
>>386 その疑問は信長公記を読めば解けるよ
信長は自兵力を隠蔽していてそれに気づかなかった武田軍がまんまと釣られてしまった
敵の後詰めが来たが思ったより小勢だったので相手を舐めてのこのこ出てきてしまったと
要するに信長の罠にはまっちゃったんだな
388 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 08:44:28.81 ID:Zq830OyF
以降、信長公記をディスるレスが続きます
389 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 10:28:06.34 ID:IdIK1wa3
>>384 信虎無能説は聞いたことがないが・・・
人間的には問題があっても有能だったのは間違いないだろう
しかし性格は違うが、勝頼と信虎は似てる。
戦上手で政治下手というところが。
390 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 11:01:49.02 ID:IdIK1wa3
>>387 勝頼の書状に「今回の戦を危ぶむ者もいる」って書状があるから自分たちのほうが兵力で劣ることは認識していたと思うよ
391 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 11:40:51.26 ID:llQnhjgA
>>390 それイコール認識していたとは言えないと思うぞ?
そもそも兵力差を認識していたのなら「危ぶむ者」以外の武田陣営はバカばかりだったということになる
あとどんなときにも慎重論者はいる(例えば九州征伐時の尾藤)
392 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 12:08:34.64 ID:nGYK5Qyq
>>389 信虎残虐説ってのが正しいかもね
実際は特権を奪われそうになった家臣がやったクーデターってのが正しい所らしい
393 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 15:22:36.87 ID:g41yafIe
妊婦の腹を割いて
この手のテンプレは簒奪者が旧主を貶めるためのプロパガンダだからなー
394 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 17:03:14.73 ID:bte5McKz
妊婦の腹も裂けんようじゃ残虐とは言えんからな
395 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 17:17:54.73 ID:mi9x5IuC
ウソ長公記は根拠になり得ない
396 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 17:23:56.96 ID:llQnhjgA
しかし一番整合性があるのが信長公記なんだな
だが推薦の長篠日記みたいに二割の死者が出たのに軍が崩壊しないとか常識的にありえんものは論外
397 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 17:37:50.56 ID:GpPcg/O/
そもそも長篠日記に限らず江戸出典の軍記はかなり無茶苦茶
独断専行で無策のまま連合軍に突っ込もうとする武田勝頼
戦う前から悲観して水酒盛りで討死の覚悟を決めると言う某四大奇書にありそうなことをした武田重臣
鉄砲の三段打ちや意図的すぎる徳川目線など明らかに後世に推測で書いたのが丸わかり
398 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 17:45:35.90 ID:bte5McKz
インターネッツの無い時代なんてそんなもんよ
399 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 18:01:52.13 ID:ZBFHdhAC
400 :
人間七七四年:2012/08/04(土) 08:35:27.49 ID:50RTxYqi
信長公記の捏造マンセーを一つずつ暴いていくスレにおいて
すでに信長公記が軍記以下のクソ捏造だってばれてるからな。
長篠日記原本が天正6年成立。
実際に徳川領に住んでいて
合戦を見ていた者の貴重な史料なので
筆写が盛んになされ、
その際に観戦していた戦詳述以外の
原著者が知らない武田の軍議の内容などの
尾ひれが付け足された為に
天正6年ではなく、
近世以降ではないかと疑問が出されているだけ。
戦闘詳述など実際に目視している部分は
甲陽軍鑑などの参考にされているために
似てる部分が出てくる(佐久間隊が最初に登場するなど)
401 :
人間七七四年:2012/08/04(土) 09:06:35.18 ID:fyeem5Pj
甲陽軍鑑のパクリが何だって?
402 :
人間七七四年:2012/08/04(土) 10:06:09.84 ID:s7xDE0Tw
織田脳キチガイ過ぎワロス
403 :
人間七七四年:2012/08/04(土) 10:13:34.88 ID:DeeOULln
自虐か
404 :
人間七七四年:2012/08/04(土) 10:55:46.53 ID:bGQD/Hiz
>>400 >>信長公記の捏造マンセーを一つずつ暴いていくスレにおいて
>>すでに信長公記が軍記以下のクソ捏造だってばれてるからな。
さっさとその通説を打ち破る珍説を
論文にして学会発表しろよw
さぞ名のある歴史研究家なんだろうし
405 :
人間七七四年:2012/08/04(土) 16:07:49.30 ID:MTAxOqJT
>>404 傍観者のくせに両軍の内情や損害規模を詳細に知っている不思議
んでこれについて聞かれるとだがはひたすら逃げ回っているんだな
406 :
人間七七四年:2012/08/04(土) 16:29:50.93 ID:yCJDpT5Q
そもそもだが史観では、織田徳川軍は長篠日記などにある
「計30000のうち6000人が討たれた」と言っているのに対して、
武田軍の犠牲者は高柳光寿氏が提唱する「総計6000のうち1000」の説を採用していると言うこと。
相反する2つの結果をいいとこ取りしただけで、何の説にもよらない
オリジナルという名の妄想説を展開している。まあ長篠に詳しい人ならピンときただろうけど。
ちなみに長篠の戦いの犠牲者は、諸説あるが、おおよそ
当時の史料で織田徳川軍6000、武田軍9000〜1万の犠牲者
高柳光寿氏が検証して出した数字は織田軍600、武田軍1000の犠牲者としている。
この2つの説をドッキングして都合よく解釈したのが
だが史観である織田徳川6000、武田軍1000のだが氏主張になる。
407 :
人間七七四年:2012/08/04(土) 19:53:34.36 ID:FVdGKGX4
学会で発表どころか門前払いされて終わるだけだなwww
408 :
人間七七四年:2012/08/04(土) 23:29:49.51 ID:0hqt56VT
>>397 水盃は嘘くさいが、重臣が反対していても不思議ではないと思う。
実際彼らの崇拝する信玄なら避けていたであろう戦いだし。
それに勝頼の書状に「今回の戦いを危ぶむ者もいる」ってのがある。
まあ、勝頼独断説はあり得ないけどね。
親族衆や先方衆が賛成したのではないか?
409 :
人間七七四年:2012/08/04(土) 23:40:53.88 ID:0hqt56VT
譜代の重臣がなぜ懸命に戦ったか?
それはたとえ反対でも武田のために懸命に戦ったということだろう。
実際彼らの武田に対する忠誠心は並大抵のものではない。
410 :
人間七七四年:2012/08/04(土) 23:47:24.67 ID:geNIkYa+
>>406 多聞院日記の1000だろ。
気持ち悪い捏造歪曲ばっかりすんなよ。
411 :
人間七七四年:2012/08/05(日) 02:31:21.43 ID:cVRKYcge
確かに信玄ならさっさと撤退してただろうね
徳川だけ各個撃破したほうが楽だし
412 :
人間七七四年:2012/08/05(日) 07:56:38.61 ID:BPMOB/Pc
>>410 出典がどこだろうがおまえの理屈はどの道同じ。
2つの史料から都合のいい犠牲者数を出したってのがトンデモ理論の根底にあるからなw
多聞院日記から武田軍の犠牲者を提唱するなら当然連合軍もその史料、
あるいはそれと似た数を伝える史料から出さなきゃいかんのは当然。
1ケタも違う犠牲者数を伝える2つの史料を出して、しかもそれを都合よく
捏造しているのがだが理論。少なくとも「長篠で連合軍の方が犠牲が多かった」
という史料、説は未だかつて見たことがないな、おまえ以外w
413 :
人間七七四年:2012/08/05(日) 08:04:48.41 ID:K3PFdRFC
織田チョン論破されまくり、
ついに火病発症ワロスw
414 :
人間七七四年:2012/08/05(日) 16:15:01.46 ID:BPMOB/Pc
アスペだがの思考停止ファビョいただきました
415 :
人間七七四年:2012/08/06(月) 07:22:47.01 ID:1bj2EXbP
まただがが論破されたのか…
>>413みたいなこと言って逃げるのがだがのお得意のやり方
アホの癖に騒ぐから…w
416 :
人間七七四年:2012/08/06(月) 08:24:58.46 ID:4fQ3Rn6J
脈絡のない厨やチョンとか言い出す人は、まともに話を出来ないか、ただ単に
煽りたいだけなんだろうなぁ。
>>387 その部分は個人的にはどうも後からのこじつけだと思うんだよなぁ。
軍記っぽいというか、相手の3倍いて、隠す必要があったのかが疑問。
でも、武田と戦うと言う事と、被害を最小限に抑えたいと言う事から、わざ
わざ、山間に陣地を構築したんだろうか。
それに武田が乗っかったわけだけど、何故乗っかったのかが今でも解らない。
417 :
人間七七四年:2012/08/06(月) 08:54:34.27 ID:DbnxdXDZ
分散してるように見えて各個撃破狙ったか、鳶巣?の軍勢を過大に見積もってどうせダメならの神風精神か
418 :
人間七七四年:2012/08/06(月) 10:39:12.34 ID:ZVTEb5PO
>>416 兵力的に考えれば、武田は対徳川くらいしか意識していなかったという説もあるからな。
織田の援軍は来ても三方が原と同程度の軍勢としか思わんかったんだろう。
逆に信長家康は三方が原の敗戦を逆手にとって、
今度もそれとほぼ同じ数だと思わせるようにしたというのは別にありえない話じゃない。
開戦当初こそそこまで乗り気じゃなかったが、長篠につくと信長も殺る気満々だった
というのが細川文書にもあるしな。
419 :
人間七七四年:2012/08/06(月) 13:45:58.62 ID:642nMkk1
武田が惨敗したのは間違いないでしょ
信玄以来の家臣団が壊滅してるんだし
そんな状況で武田を立て直して対北条で有利に戦い進めてるんだから勝頼は優秀だよ
ただ甲江和与に失敗したのがな
420 :
人間七七四年:2012/08/06(月) 13:49:46.45 ID:PyK3qMmf
大軍を見せつけると武田軍はさっさと撤退してしまい後でまたうざくちょっかい出してくるからこの機会に叩き潰しておこうと信長は思ったんじゃないの?
んで兵力を隠して上手く釣りだそうとした
そして武田軍は戸次川の仙石隊のようにまんまとそれに引っかかったわけだ
421 :
人間七七四年:2012/08/06(月) 16:58:01.53 ID:4fQ3Rn6J
>>418 武田の対象は徳川だったんじゃないかと言うのは個人的にも同意出来るのだけど
織田が出て来た時点で対策をしなかったのが気に掛かる。
逆手にとってかぁ。
問題は武田は武田だがその時と違う武田なんだよね。
織田がそう思っても、武田がそう思うかが焦点か。
>>419 優秀かどうかはさておき、内外的にも健全をアピールする事には成功した気が
する。
その後の外交に問題があったかな。
>>420 そのつり出そうとした手口がどの記にも載っていないのがそもそも疑問点だよ
ね。
それさえ解れば、兵力、巡る環境も悪くなっている武田が何故突っ込んだのか
もわかる気がする。
422 :
人間七七四年:2012/08/06(月) 17:07:22.09 ID:JYNqH5zP
つり出そうとした手口?。
別働隊の迂回によって、武田軍の背後を突いたことだろ。
自分たちのうしろから、銃撃の音が多数きこえてきたら(長篠の砦を奪取されたときの音)
兵たちは居ても立ってもいられなくなるぞ。
423 :
人間七七四年:2012/08/06(月) 21:02:07.76 ID:1nekjt2W
>>421 武田軍が後詰めを寡兵だと認識すればそれこそ釣られる理由になるよ
如何に敵の援軍が少数だとしても挟撃されるような形になれば戦略的にまずいことになる
だからこそ勝頼は挟撃を防ぐために長篠城にある程度の部隊を残したわけだ
そして残る全兵力をもって敵援軍を粉砕する
要するに姉川のときに信長がやったこととほぼ同じ作戦
長篠城攻略という目的を達成するには妥当な作戦だろう
しかしながら信長の方が一枚も二枚も上手だった
424 :
人間七七四年:2012/08/06(月) 21:44:02.42 ID:LRD0QhX8
信長自ら出馬して後詰が寡兵って判断するか?
当時は長島一向宗も浅井朝倉も壊滅して兵力的に余裕あるんだし
425 :
人間七七四年:2012/08/07(火) 00:58:45.95 ID:+cflPd/3
「織田軍が来た?ああまたどうせ適当な家臣だろ・・・」
って思っていた可能性
426 :
人間七七四年:2012/08/07(火) 01:32:08.80 ID:Dlb0dk6Y
数万の軍勢を引き連れてきて信長の旗印さえも見落としたってかw
武田のラッパってゴミレベルかよw
427 :
人間七七四年:2012/08/07(火) 03:26:07.17 ID:ox6xavw6
>>425 三方ヶ原の時みたいに、徳川+織田の少数援軍と思ったのかもね
428 :
人間七七四年:2012/08/07(火) 08:24:20.36 ID:snAn8ka2
>>422 それは時間列的におかしいし、その説だと逆に撤退した方が良いと言う判断に
傾かないか?
武田軍の善戦からして、そこまで士気が落ちていたとは言いにくい。
>>423 >>424が言うとおり、信長が出て来たのに寡兵と思う方がおかしくはないか?
それほど武田が田舎侍とは思えない。
そして姉川とは大きく違うのは、連合軍は防御を固めた陣地を構築している
事。
姉川と一緒にはできないよ。
429 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 12:09:09.59 ID:3YNZAJIg
>>364 見苦しい言い訳、取り繕い乙w
鳳来寺道→田峯城へ向け撤退してる武田軍は
織田と正面衝突している位置から考えて
川を渡らず川沿いの鳳来寺道を撤退しているわけで
この鳳来寺道が武田軍の戦略的にみて退路である背後にあたるわけだ。
したがって河向こうの長篠城を落として伊那街道を封鎖したとしても武田軍の撤退路(背後)は取れていないわけだ。
バカの織田厨は単純に戦略面を理解できずCG地図で見て
視覚的に武田軍の背後を河向こうの長篠城&伊那街道だと誤認してる単細胞バカなのがよくわかる。
なるほどwどうりで話がかみ合わないわけだ。
織田軍は鳳来寺道を制しているわけではないのに
なんで背後を脅かすとか不思議な話になるのかと思ったわw
田峯城へ着いてみたら謀反しそうな雰囲気だったから勝頼は入城しなかったようだけど。
敗退してぼろぼろの勝頼の姿を見て入城拒否されたって説もあるが。
430 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 12:35:50.36 ID:3YNZAJIg
そもそも鳶ヶ巣山砦が落ちたのは何時なんだ?
431 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 12:40:19.58 ID:a6VZA1vJ
>>428 それは時間列的におかしいし、その説だと逆に撤退した方が良いと言う判断に傾かないか?
時間列的におかしいという指摘は鋭いな。
迂回部隊による長篠城への攻撃は、日の出と同時ではなく、朝8時ごろになってから。
しかし!、武田と織田の本隊は、その前にすでに日の出のときから交戦に入っているからね。
その説だと逆に撤退した方が良いと言う判断に傾かないか?という意見に関しては、前後に敵に
はさまれたら、撤退と考えるか、強襲に転じるか、どちらの可能性もありだ。
でも、後に敵にはさまれたから、武田軍は攻撃にでた、というのは、
俺は、当時の資料である信長公記に従っただけだ。
信長公記「前後より攻められ、御敵も人数を出し候」
さらに、もうひとつ資料がある。
大須賀記「酒井忠次 乗取り申し候に付て、勝頼総人数を払い、大手へ懸り申し候」
どうだい?。決定的な資料じゃろ。
432 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 12:59:01.93 ID:a6VZA1vJ
>>430 鳶ヶ巣山砦が落ちたのは何時なんだ?
と言われても、戦闘開始時間は書かれてあっても(午前8時)、
終了時間は書かれてない。主戦場の方は、午後2時ごろに退却が始まったと、上記2つの資料では
一致している。
それから逆算すると、鳶ヶ巣山砦が落ちたのは午後2時よりも前、である。
なお、大須賀記では、主戦場の方で戦いが始まったのは、信長公記のような「日の出」ではなく、
午前11時とある。
ここでオマケとして、武田軍の退却したとき、誤字があり、
「鳳来寺さして敗北なり」(鳳来寺に向かって退却した)部分で、
「風来寺さして敗北なり」(風きたってさして退却した)というトンチンカンな転写になってる。
433 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 13:06:48.24 ID:3YNZAJIg
信長公記ですら馬防柵を先陣の徳川のほかには滝川しか設置してない描写だから
実際には滝川陣だけは、家康から余った柵を分けてもらっていた可能性はある。
434 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 13:10:03.58 ID:Mds0W+dQ
まあ実際の戦闘は徳川が殆どやってて、織田は後方からの援助砲撃をしてた、くらいが
実際のところだったんだろな。
で、勝った後信長が手柄の独り占めをしたのが鉄砲伝説、と。
435 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 13:27:10.32 ID:3YNZAJIg
鳶ヶ巣山砦が落ちた時間もはっきりわからん以上は、
武田軍が撤退を開始したので
鳶ヶ巣山砦も放棄されただけって可能性もあるな。
それを接収したのが酒井忠次とその監視役だった金森長近らの小勢。
公記を読む限り、鳶ヶ巣山砦が落ちたので武田軍が撤退開始したとは読めない。
ただ単に鳶ヶ巣山砦が落ちた話のあとに
メインの長篠決戦の話が登場する順番から誤読しやすいものの
どっちが先に落ちたのかまったく不明。
また織田鉄砲隊は武田が攻めてきたら引き、
後退したら20キロ近い重さの鉄砲隊が前進するなど付かれ離れずの距離を取り弾詰めまでやる
謎の高機動鉄砲手という説明不能な謎運用を公記は描いている。
436 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 14:11:47.78 ID:O/KTbA2Q
鳶ヶ巣山砦攻略作戦からして、
太田が徳川様に配慮して付け足した想像でしかない。
437 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 14:53:53.05 ID:EGe5Jtsu
>>429 実際には伊奈方面から逃げた軍もいたみたいよ。
長篠城だったか、設楽原の資料館だったか、そこで買った本だったかに書いて
あったような。
しかし、設楽原の資料館は鉄砲の展示ばかりで面白くなかったな。
屋上からの一望と、売店のご年配の方々はノリも良く良かったけど。
>>431 なるほど、長篠も鳶ヶ巣山も殆ど同時刻に戦いが始まった可能性があり、先に
鳶ヶ巣山が落ちたと。
それだと攻撃に決していた可能性が出てくる訳か。
公記に照らし合わせるとそう言った事も考えられるか。なるほどなぁ。
>>435 これも言えるよなぁ。
兵力を集中して攻撃に出た可能性もあると。
行った人はわかると思うけど、あの山合いを発見されずに奇襲するのは難しい
と普通思うよ。
信長の密命で何故酒井が動いたのかも疑問の一つだったのだけど、接収しただ
けだったら納得がいく。
438 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 15:48:02.90 ID:/npErirt
鳶ノ巣山で松平家忠の親父が亡くなったし、武田も河窪信実が戦死しているから、
ガチで戦っている
439 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 15:55:20.33 ID:3YNZAJIg
>>438 鳶ノ巣山での戦いで死んだとする一次ソースは?
440 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 16:17:40.46 ID:/npErirt
別に一次史料に拘らんでも、『寛永譜』『寛政譜』で十分でしょうよ
この時代の武将の死亡要因を改竄したという話は聞かないし
後、一次史料厨は歴史マニアの麻疹だから早めに完治することを
お勧めします
441 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 16:23:44.93 ID:3YNZAJIg
『寛永譜』『寛政譜』なんて史料じゃない。
内容の質は軍記と変わらん。
442 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 16:39:53.87 ID:/npErirt
否定する史料がなければ軍記の内容でも尊重されるべき
そも、軍記を採用しなければ戦闘の詳細など知りようも無い
443 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 16:44:56.58 ID:3YNZAJIg
>>436 たしかに一次史料で証明できないから
その戦いがあったとは言い切れない。
また戦死に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く
名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。
また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、
甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で
名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも
織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて
捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い。
444 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 16:45:28.55 ID:WeU8zr8U
この際だから一次史料が無いので何も判らないって結論で良いんじゃね。
445 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 16:58:21.00 ID:/npErirt
一次史料とて誇張や嘘が書かれることはザラ
446 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 17:09:04.56 ID:HldWkHRm
一次史料は内容の信憑性を担保しないと何度言えば・・・
武田の外交文書とか読んでみろ
嘘八百書いてるから
447 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 17:15:53.78 ID:0laLv0v0
一つ言えるのは信長公記信じれなくなったらそれこそ444が言うように長篠なんて何も判らんよw
448 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 17:17:33.15 ID:LoVBzmla
じゃ、実際に見た人が居ない限りダメってことで
449 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 17:19:29.77 ID:3YNZAJIg
>>446 ホラ吹きなのは信長。 宮島敬一氏なども信長の話に誇張・拡大解釈があることは
周知のところであると書いてるし。
450 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 17:43:18.45 ID:/npErirt
当時、書状で誇張や嘘を交えないで書く奴がいたら、
それは圧倒的な優位に立っていない限り、ただの馬鹿
451 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 17:57:44.47 ID:EfbvZ+oh
ID:3YNZAJIg
書き込んだスレッド一覧
悪逆大名
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合計33レス 吹いたwwwww
452 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 18:22:41.00 ID:HldWkHRm
453 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 20:49:22.12 ID:a6VZA1vJ
読む方だって信用しないさ。数千人討ち取ったとかの話なんか。
だから、書状といっしょに、首帳を送る。
首帳に、だれそれの名前が載っていて、有名な武将の名前がいくつも載ってれば、
信用するよ。
454 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 20:57:02.27 ID:vemOuC8Z
>>429 馬鹿すぎわろたwwwおまえ一つの物事しか考えられないのかw
長篠城に救援軍が入ったのは長篠本戦の前で、しかも長篠城は付近の設楽が原、
ちょうど武田軍が布陣する地点を一望することができ、もちろん鳳来寺道に関しても
武田軍より早く到達することができる。実際連合軍で唯一犠牲になった松平伊忠は
長篠城救援軍に参加しており、鳳来寺に至る道へ長篠救援軍が殺到していた事実がわかる。
アスペだがは救援した長篠別働軍が、何もせずに指をくわえていたとでも言うらしいw
455 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 20:57:47.71 ID:WbmwlGPF
>>446 武田の書状が嘘八百なんて誰が主張してんだ?
456 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 21:02:52.02 ID:vemOuC8Z
武田の嘘八百は内容が酷すぎるから仕方ない。
投降してきたばかりの奥平貞能に「織田は朝倉にも敗北して近江を失う雑魚」
「武田が勝つから息子を人質によこせ」「ソースは名前も知らない奴^^」
と言いたい放題で威圧する山県。こんな嘘八百を奥平が信じるはずもなく
信玄が死ぬとあっさり徳川に帰還。怒った勝頼が攻撃して開かれたのが長篠の戦
457 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 21:10:59.68 ID:WbmwlGPF
458 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 21:12:59.91 ID:vemOuC8Z
11月27日付奥平美作守宛て山県三郎兵衛書状で残ってるんだけどなw
459 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 21:19:20.29 ID:WbmwlGPF
>>458 事実じゃねーかよ。
織田チョンのお前が悪質な曲解してるだけだろ。
お前は斎藤も足利も朝倉も浅井も上杉も北畠も興福寺も毛利もみんなウソばっかり書いていて、
織田だけ正確に書いてるとか歪曲しまくってるキチガイだろが。
460 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 21:21:12.00 ID:WbmwlGPF
本日のキチガイ織田チョンvemOuC8Z
461 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 21:42:55.25 ID:vemOuC8Z
武田の嘘八百がバレたのがそんなに悔しかったのかな?^^
嘘から出た真で織田を滅ぼせればよかったのにね^^
462 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 21:52:35.90 ID:vemOuC8Z
そもそも毛利上杉はともかくとして、朝倉斎藤足利浅井武田は全て最終的に滅ぼされた大名だから
いくら嘘を取り繕っても、いくらこれが真実だと言っても
最終的に滅ぼされて大名の地位から引きずりおろされた事実は変わらないんだよね^^
463 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 22:18:18.60 ID:f5O114jo
相変わらず織田厨が基地害で安心した。
464 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 22:36:15.62 ID:vemOuC8Z
IDかえてお疲れ様です^^
465 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 22:39:06.97 ID:HldWkHRm
>>455 え?なになになに?w
武田信玄は真っ正直に包み隠さず伝えてるとでもいいたいの?w
それをよく言えば正直、一般にバカ・要領が悪いって言うんだよw
それとも信玄はバカで要領が悪い、そういいたいの?www
466 :
人間七七四年:2012/08/09(木) 07:40:10.06 ID:fghSPMRl
>>462 朝倉斎藤足利浅井武田って、有名どころだな。滅ぼされた大名だが、
よくこんな大敵を次々と滅ぼせたものだ織田は。
467 :
人間七七四年:2012/08/09(木) 08:25:23.78 ID:bEsF9dqn
んな事は他のスレか、書状は膨張して書いてあるかスレでも作って他でやって
くれ。
>>438 基本的には鳶ノ巣山で戦いがあったのではないかと思っているが、兵力を集中
する為に少なくても大多数の兵は撤収させたと言う考えも否定出来ないと思う。
タイムマシーンがあればねぇw
>>454 う〜ん、行って周りを見た感じでは一望できる位置ではないと思うけどなぁ。
木が伐採されていたとしても、勝頼の本陣くらいしかちゃんと見えないんじゃ
ないかな。
意外とね、長篠城って低い位置にあるし、見張り台から見ても難しいと思う。
でも、どっちが勝ったくらいは解っただろうし、馬場が討ち死にしたとされる
位置からすれば、撃って出てもおかしくはないかな。
468 :
人間七七四年:2012/08/09(木) 09:44:48.19 ID:yJzNgvzi
たしかに一望はできないね。
織田厨の意見は相変わらず想像だけで書いてるからアテにならない。
死に場所なんてのは後世に地元の人が勝手に想像で設置しちゃうから信頼できんぞ。
469 :
人間七七四年:2012/08/09(木) 10:54:38.81 ID:NuVzglcg
>>454 武田布陣位置を河を挟んで単純に長篠前方と誤解してるようだが、
実際は長篠のかなり右前方だから見えない可能性が高いし、
どっちにしろ細かい判別はできない。
それに鳳来寺道を織田の方が早くなんてのもいい加減な妄想。
そもそも織田の方が早く到達できるなら勝頼は田峯城にすらたどり着けずに捕縛されているずだし。
なんでそんなウソばかり吐いてんの?
470 :
人間七七四年:2012/08/09(木) 14:16:42.09 ID:JX8Kl8YV
>>469 逆におまえこそ嘘の自覚がないのか?w
現在確認されている長篠城跡から武田軍の布陣する方向に遮蔽物なんて何もないんだがw
それに長篠城跡から鳳来寺道に近いのも事実、少なくとも設楽が原にいる
軍勢よりは早く到達する距離だが、おまえ本当に地図見た上で行ってんの?w
>>織田の方が早く到達できるなら勝頼は田峯城にすらたどり着けずに捕縛されている
おまえ長篠救援軍が何人いると思ってんの?w本隊ならまだしもこっちの軍勢なんて
数はたかが知れてる。連合軍の中でも数少ない徳川の支軍レベルだし、
当然長篠城の防備も固める必要があるんだから封鎖されていると言っても
兵の数で考えれば武田軍よりはるかに少ない。
471 :
人間七七四年:2012/08/09(木) 14:30:48.94 ID:JX8Kl8YV
>>467 そもそも武田軍が設楽が原にいる連合軍に接近してきているという報告は
決戦前日の5月20日書状で織田信長が周知していたことが細川家文書にある。
これによると5月17日、5月18日の段階で武田軍が長篠にいる織田徳川軍に
近接していたという事実が書かれており、必然徳川軍、ひいては20日夜に
別働軍に参戦していた酒井忠次含め徳川諸将も、武田軍の布陣位置のおおよそは
わかっていたということでもある。
旗幟や地形から考えても当日武田軍の動きをある程度掴むことは容易な話で、
むしろ長篠救援が成功しても本隊が負けたら話にならんのだから
積極的に行動するのはむしろ当然の話だろ?
472 :
人間七七四年:2012/08/09(木) 16:39:29.58 ID:hwfQbHdJ
>>467 書状が膨張?
ちょいちょい言葉の選択おかしいよな
473 :
人間七七四年:2012/08/09(木) 23:58:00.18 ID:MuxTtBkZ
またいつものキチガイ織田厨か。
明らかに現地に行ったこともなく、
妄想だけで話してるな。
474 :
人間七七四年:2012/08/10(金) 00:15:44.56 ID:ddCDcAq9
現地に行ったのに「長篠城跡から武田軍はほとんど見えない」とか嘘言っちゃうんですねw
475 :
人間七七四年:2012/08/10(金) 12:35:18.97 ID:2iN4fl3w
まあ織田厨房は長篠で織田が勝った理由として、
織田軍が武田の背後をとるため、
敵前渡河を開始し、
甲冑20キロ、さらに濡れないようバンザイしながら火縄銃20キロの装備で渡河して特攻し、
武田を撤退に追い込んだとかトンデモ理論を主張してるキチガイだから
マトモに相手できない愚か者。
476 :
人間七七四年:2012/08/10(金) 16:03:11.87 ID:ddCDcAq9
気づかれないよう動いているのに敵前渡河とのたまう痴呆だがw
豊川水系のことを全く知らず、寒狭川宇連川と近辺は支流の川しかないのに
溺れて渡れないとのたまうカナヅチ以前の問題を提唱するアスペだがw
運動不足で家から出ないおっさんならではの意見だなw
477 :
人間七七四年:2012/08/10(金) 17:15:45.53 ID:bzPnUcda
40キロ以上の重武装で敵の監視下を全く気付かれずに、
数千規模の軍勢が渡河できるとかゲーム脳ワロタw
478 :
人間七七四年:2012/08/10(金) 17:20:34.89 ID:bzPnUcda
しかも渡河する以前に鳶ヶ巣山砦を攻略しているはずだが、
武田から陥落の報も伝わらないんですかw
479 :
人間七七四年:2012/08/10(金) 17:22:27.72 ID:ZfC0qa9S
480 :
人間七七四年:2012/08/10(金) 19:48:28.39 ID:0+7bDDsb
いい加減、織田チョンは机上の空論を弄ぶ無知ぶりを神妙に恥じた方がいい。
481 :
人間七七四年:2012/08/10(金) 20:56:54.54 ID:TP8EeY8H
ID:0+7bDDsb
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15 :人間七七四年[]:2012/08/10(金) 19:42:23.41 ID:0+7bDDsb
>>14 キチガイ織田チョンが暴れてるだけじゃんwww
66 :人間七七四年[]:2012/08/10(金) 19:50:39.62 ID:0+7bDDsb
織田チョン涙目乙w
お前、「織田チョン」言いたいだけだろww
482 :
人間七七四年:2012/08/10(金) 21:16:34.36 ID:VrYx0p+k
三段撃ちから始まってこの戦いって実相が歪められすぎだよなぁ
武田が大損害食らってその後の軍の運用に支障を来したのは確かみたいだが
483 :
人間七七四年:2012/08/10(金) 21:34:30.46 ID:DEu7Q15d
長篠は武田有利から互角になった程度でしょ
484 :
人間七七四年:2012/08/10(金) 21:44:48.86 ID:OI/n4AQL
秋山を見殺しにした時点で互角とは言えんな
485 :
人間七七四年:2012/08/10(金) 22:21:21.68 ID:I5uqUwsM
諏訪原城落とされたから互角とは言えんね
486 :
人間七七四年:2012/08/10(金) 23:38:28.00 ID:ddCDcAq9
>>477 おまえ連合軍の本隊が武田軍の付近にいたこと全く記憶してないだろwwww
挙句「鎧兜+武器で数千の軍勢が渡河できない」と国境沿いの戦いを全否定www
渡河できないんなら信長は美濃を攻め取ることもできないんですがwww
>>武田から陥落の報も伝わらないんですかw
敵の本隊が目の前にいるのに陥落した言われても動けるわけないじゃんwww
487 :
人間七七四年:2012/08/10(金) 23:43:19.59 ID:ddCDcAq9
>>485 長篠の戦は武田有利から徳川有利になった戦いだからな。
対織田なんて劣勢から大劣勢くらいになって信忠が秋山せめても何もできなかったしw
488 :
人間七七四年:2012/08/11(土) 06:55:24.95 ID:u0ne3e5d
>>487 第一次信長包囲網に参加した時くらいじゃないかな?
ひょっとして武田有利?だったかもしれないのは。
489 :
人間七七四年:2012/08/11(土) 07:09:13.82 ID:mM2VBHfL
美濃の岩村城より、
徳川が攻めてきた駿河方面の防衛を優先しただけだし、
諏訪原はそもそも武田が作ったもんじゃない。
取られたとかデタラメ吐いてないで一次史料出せよ。
勝頼は高天神城にやってきて徳川を威圧したら徳川逃げたじゃんよw
甲江和与詐欺して状況が好転するまで武田と正面衝突しないように誤魔化していた信長君w
490 :
人間七七四年:2012/08/11(土) 07:37:44.25 ID:82a0ol4p
そりゃ、信長は、包囲網を切り崩すのに忙しくって、
武田と正面衝突しないようにしてたのさ。
岐阜城から30キロしか離れていない長島でも、大規模な戦いを長々とやっていたばかりだし。
491 :
人間七七四年:2012/08/11(土) 09:57:58.56 ID:qbbAXUDj
>>489 天正元年十一月四日付天徳寺宝衍(佐野房綱)宛武田勝頼書状に
「於佐夜郡築地利候、普請太略成就候間、籠置人数候ハハ、可令帰陣候、」
とある
佐夜郡は佐夜ノ中山、掛川の日坂から島田の菊川を指し、この間に諏訪原城がある
後、発掘調査でも本丸に落城の際の焼土が確認されています
492 :
人間七七四年:2012/08/11(土) 20:44:49.17 ID:GU7qVLvj
>>491 願望妄想乙w
そもそもその書状は天正2年だから、
すでに間違えてる。
んで、書状内容は、
家康が篭る浜松を焼き払い、刈田しまくった。
いま久野(袋井市)と掛川を追い詰め佐夜郡に押さえの築城した。
他には佐竹と北条の和睦の提案と、
小田原の軍勢が関宿攻めしてる話に言及してる書状。
さて袋井市と掛川市を制する地の利の場所に築城してるのに、
なんでそれが諏訪原なんだよwww
お前さ、地図くらい見てから書けよwww
机上の空論ならぬ、
妄想願望の暴論だぞw
織田チョンはどうしようも無いアホだわ
493 :
人間七七四年:2012/08/11(土) 21:07:48.55 ID:qbbAXUDj
>>492 『大日本史料』は天正元年としているが、
それに久野城や掛川城を牽制できる位置に諏訪原城はある
後、佐夜郡も忘れないように
494 :
人間七七四年:2012/08/11(土) 21:14:30.13 ID:00SAOYVv
あーあ。悪質な歪曲してるな。
諏訪原城がある位置は榛原郡だから。
495 :
人間七七四年:2012/08/11(土) 21:19:44.13 ID:XR2Pt4wc
信玄が死んだ年の末に浜松城再度襲撃なんて、
そんな大規模軍事行動はしてないだろ…
496 :
人間七七四年:2012/08/11(土) 21:45:58.40 ID:qbbAXUDj
>>494 佐夜郡は公式のものではなく、文学の佐夜ノ中山からその地名を表す名を付けたんでしょう
佐野の人間では榛原郡と言われてもピンと来ないが、佐夜ノ中山がある場所とくれば分かりやすい
>>495 書状の戦果は誇張して書くものです
497 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 09:03:18.08 ID:D6vV5Lys
佐夜郡ではなく、小夜の中山と言う山にある急坂の場所が
宿場町の日坂(掛川)→宿場町の金谷(菊川)
の間にある道中の山の急坂を指しているって話なだけ。
地理まで曲解すんなよ・・・
なんでそれが佐夜郡の支配領域とイコールになるんだよ。
単に中山にある坂が佐夜郡への道だから名前が転化しただけだろ。
そこは榛原郡であって、佐夜郡はもっと西だから。
天正元年に諏訪原ができたってのは
牧野城がすでにあったことを知っている
江戸時代の作られた甲陽軍鑑のネタに引っ張られた間違った解釈だし
そもそも久野城や掛川城を制する位置に築城されたのは天方城のことだとされている。
諏訪原城がその両城を押さえる形にならないどころか
武田軍が大井川の南下して高天神城へ行く道を塞ぐように築城されてるのが牧野城。
見張り台目的で古い砦のような簡素なものが諏訪原にあっただろうが、
本格的な築城は徳川によってなされたと考えるべきだろう。
(特に家忠日記などでは天正6年以降やたら普請を繰り返している)
そして周の文王が牧野で武王を破った故事から築城するにあたり牧野城としたのであろう。
498 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 09:11:35.80 ID:D6vV5Lys
犬居城説などもあり判然としないが、
ちなみに天方城説にも諸説あってよくわからないのだが、
徳川と武田の争奪が激しく新城があったのではと言われている。
当時、天野氏も2派に分かれて派閥抗争をしており
ここを巡って奪回戦が繰り返されたといわれている。
499 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 09:28:03.98 ID:D6vV5Lys
延喜期式には
遠江国佐野郡に己等乃麻知神社が書かれているので
そもそも文学的表現からではなく
元々は佐野郡が佐夜郡に転化したもの。
のちの周智郡なども含まれた広大な領域だったとも言われ
また、中山という呼称は郡と郡の郡堺の山や峠を意味する言葉で
中山から西が佐夜郡であり、東が榛原郡だということがわかります。
500 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 09:40:51.77 ID:RVVoa8vp
>>497 日坂と金谷の間に諏訪原城はありますが?
峠としての佐夜ノ中山とは少し離れているが、だいたいその辺りというニュアンスかと
あと、あなたの言う佐夜郡は佐野郡と勘違いしていない
甲陽軍鑑だけでなく、松平記にも記述がある
天方城は天正元年三月に徳川家が落としているし、翌年には犬居城を攻めて成らず
天方城に撤退している
>>498 犬居城はそれ以前から有る
文書は明らかに新規築城を指している
501 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 12:36:55.09 ID:RVVoa8vp
>>499 延喜式よりも西行法師の歌のほうが一般的に解釋されている
502 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 14:38:42.93 ID:Qme1NHCj
小夜の中山を境に、
東側が榛原郡であり諏訪原城がある地域で、
明らかに対高天神城攻略のために徳川が作った牧野城のこと。
中山の西側が佐夜郡であり浜松襲撃した帰り掛けに袋井市や掛川市を追い詰める意図で
武田が数ヶ月突貫で砦を作った場所だろ。
延喜式より西行の方が…意味不明。つかアホだろお前。
503 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 15:01:00.73 ID:gbuH2lHG
ID:D6vV5Lys
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504 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 15:28:57.83 ID:EGE9aInG
コテハンにしてくれりゃ全部NGできるのにな めんどくせえわ
この板で最悪の癌
505 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 15:55:13.55 ID:RVVoa8vp
>>502 当時、一般に良く知られているのは延喜式では、無く西行法師の歌が載っている新古今集
後、そんな場所に砦があったという事実は無い
506 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 15:59:58.18 ID:Qme1NHCj
当時、一般に良く知られているのは延喜式では、無く西行法師の歌が載っている新古今集
で、それを証明する一次史料は?
507 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 16:30:06.97 ID:qEK8g4WJ
>>506 では当時、延喜式がよく知られていた一次史料は?
508 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 16:54:53.63 ID:RVVoa8vp
>>506 歌会は良く行われているが、延喜式の講義は聞いたことがない
509 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 19:55:55.69 ID:gAA8Xxhr
510 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 23:24:23.61 ID:RVVoa8vp
歌会始
511 :
人間七七四年:2012/08/13(月) 07:23:08.49 ID:J5gOg2g0
>>505 その断言口調が無知信長厨の救い難いところだな。
全国にはゆうに1000を越す、
いまだに知られていない城砦があるのも知らんのか。
文献に載ってない未詳城砦跡も腐るほどある。
512 :
人間七七四年:2012/08/13(月) 07:43:09.64 ID:fassznEU
まあ当然例示してくれるんだろうな、博識の
>>511殿は
513 :
人間七七四年:2012/08/13(月) 10:19:31.57 ID:LhPY2nF1
514 :
人間七七四年:2012/08/13(月) 10:43:59.54 ID:fassznEU
未だに知られていないという城砦をなぜ
>>511殿はご存知なのか
そして
>>511殿がご存知なら、それは既知であって未知ではないのではないか
このあたりも疑問だな
515 :
人間七七四年:2012/08/13(月) 14:07:22.91 ID:NaLpoF+q
511殿は武内宿禰のように300年以上も生きているから誰も知らない事実もご存知らしい。
516 :
人間七七四年:2012/08/15(水) 13:06:36.98 ID:9TgzxfFa
考古学(中・近世城館遺跡研究)中井均
「全国に三万〜四万とも言われる城跡の存在は決してすべての城が
軍事目的のみで築かれたものではないことを雄弁に物語っている」
517 :
人間七七四年:2012/08/15(水) 15:45:06.52 ID:SU8GdJ7a
〜ともいわれると、誰かが言っているというのが根拠だそうで
笑うところですね?w
518 :
人間七七四年:2012/08/15(水) 16:42:23.58 ID:H1Yzs+qq
織田チョンまたまた涙目連続w
519 :
人間七七四年:2012/08/15(水) 18:44:52.71 ID:o3gpj7MF
上田原=長篠
問題は勝頼の時代には相手がデカ過ぎて立て直しの余裕がなかった
520 :
人間七七四年:2012/08/15(水) 19:09:55.21 ID:9TgzxfFa
長篠以前は武田が織田を圧倒
長篠後は織田と武田は互角。
むしろ信長は勝頼に対して
同盟を願っていたが拒絶される情けなさ。
武田はそのうち織田・徳川だけでなく
北条まで敵にして暴れまくる。
毛利が約定とおりに西進しないし
北条相手に関東出兵して有利な武田は
後方が手薄になり
それをチャンスに織田は
甲江和与詐欺でターゲット化を免れようとする。
521 :
人間七七四年:2012/08/15(水) 20:04:16.66 ID:SU8GdJ7a
こいつの主観を排除すると
織田の同盟を武田は拒否、北条を敵に回し、毛利は武田のために動かない
こういうことだな
522 :
人間七七四年:2012/08/15(水) 21:47:41.85 ID:RQq7yN8z
大体信玄が死んで義昭が追放された後の反信長陣営に誰が期待するのかって話
特に勝頼なんて長篠でボッコボコにされとるのに、そんな奴と組んで信長に対抗とか戦国大名としては論外
523 :
人間七七四年:2012/08/15(水) 23:26:31.32 ID:a7G8fZpp
毛利が約定どおりに西進しない、と言っても大友強いからなー。
なかなか九州制覇は難しいよ。
524 :
人間七七四年:2012/08/16(木) 09:25:16.38 ID:57inpfJC
単に義昭&隆景へのアンチ行動をする戦略眼のない元春の何でも反対万年野党ぶりが原因。
こいつらの意見を統一できない輝元の無能も原因。
525 :
人間七七四年:2012/08/16(木) 11:09:06.84 ID:OlTaw0KG
長篠は兵力比率で考えたら
織田の方が武田より被害が多い。
家康や滝川が作った陣城に収容出来なかった織田軍は武田の餌食になった。
武田は撤退戦に失敗しただけ
526 :
人間七七四年:2012/08/16(木) 14:37:00.33 ID:IRlzi+HW
負けたと言うことに何も変わりない
「武田の犠牲は少ない」と言いながら重臣秋山を見殺しにした鬼畜武田w
527 :
人間七七四年:2012/08/16(木) 23:02:06.73 ID:wVFeWwzT
たぶん勝頼が攻撃を仕掛けた本当の理由は「格好付けたかった」からじゃないかな?
宿敵信長が来たのにさっさと逃げるんじゃ勝頼軟弱と吹かれるだろうし、まだ統率できてない家臣団にもなめられる
ある程度戦って相手を後退させたとこで、頃合いをみて撤退するつもりだったのかもしれない。
幼稚なことだと思うかもしれないけど、案外当時はそんなことが重要だったりする。
528 :
人間七七四年:2012/08/17(金) 00:26:53.98 ID:bWl1RaMn
織田の誇張戦果宣伝が一人歩きしただけだろ。
織田や北条や伊達は負けていても勝った勝ったを連呼して
あちこちに書状だしまくるからな。
信長なんて、さらにタチが悪いことに公家を嘘情報で騙すから・・・
529 :
人間七七四年:2012/08/17(金) 06:50:46.68 ID:qdsUcNSG
武田の方が凄いから、特に江戸時代に入ってからはな<誇張
530 :
人間七七四年:2012/08/17(金) 10:28:10.35 ID:t4iXJmk1
武田は戦国期では「織田はすぐ滅びる」「朝倉ごときに負ける雑魚」と吹聴して
江戸時代では「武田は戦国最強」「神君家康公ですら破る信玄最強」と吹聴する
筋金入りの嘘つき集団
531 :
人間七七四年:2012/08/17(金) 18:02:02.02 ID:sPHq1fpQ
病的なうそつき集団の武田厨と被りまつね
戦国最強であっけなく滅亡とか有り得ないし
532 :
人間七七四年:2012/08/17(金) 19:55:34.80 ID:z3Cdkf+I
浅間山大噴火が原因とか言い出すよ
で、長篠は武田が圧倒してたとか言い出す始末
533 :
人間七七四年:2012/08/18(土) 08:24:41.15 ID:WLx0f72B
なんかレベルの低い言い争いになってきたな
534 :
人間七七四年:2012/08/18(土) 09:05:18.70 ID:MIpC0RzW
そりゃだって戦国時代の文章をを読み下せないだがさんですもの
535 :
人間七七四年:2012/08/18(土) 09:22:08.23 ID:hbSYqgDu
もしタイムマシンができたらこんな馬鹿げた論争も全てなくなるのにな
536 :
人間七七四年:2012/08/18(土) 16:23:11.99 ID:9tbnVFGq
タイムマシンの有無なんてアスペルガーだがにはささいな問題だろ。
適当な妄想を「俺が見てきた」とか吹聴してアスペルガーこじらせるだけw
537 :
人間七七四年:2012/08/19(日) 00:02:04.43 ID:XbQij8Bd
タイムマシンがあったとしても
武田厨はこれは俺が知っている過去ではないと言いますよ
結局自分の妄想が史実な訳ですからね
538 :
人間七七四年:2012/08/19(日) 08:30:31.96 ID:mbE3hXqN
539 :
人間七七四年:2012/08/20(月) 10:10:44.55 ID:D7myauqn
規制と夏休みで来ていなかった間にだいぶ論点がズレた様なw
タイムマシンでどうだったか本当に見てみたい気がするけど、そこを想像する
のも歴史好きならではの醍醐味な気もする。
まあ、あっても当然決定事項がされる会議には出られないと思うので、武田が
どうしてああいった行動をとったかは解らないんだろうなぁ。
540 :
人間七七四年:2012/08/20(月) 14:07:08.94 ID:W0KG48tG
イタコつかって呼び出して直接聞けばいいやん
541 :
人間七七四年:2012/08/20(月) 17:04:12.91 ID:D7myauqn
それこそ一次ソース厨が沸きそうだねw
542 :
人間七七四年:2012/08/20(月) 20:15:26.39 ID:fJ+91aj3
>>539 そこで特殊な交渉術ですよ
前日の軍議
勝頼「織田が陣から出てこないんだがどうしたものか?」
穴山「ははは、勝頼殿、敵は武田の武威に怯えているのでござろう、わははは」
山県「親方様」
勝頼「山県なんじゃ?」
山県「ラッパの話ですと敵は鉄砲を大量に装備しているとの話。あの馬防柵もそのためのものと考えられます。
ここは慎重に相手の出方を見た方がよろしいかと」
馬場「このままでは川中島のように睨み合いになるのう。ここは長篠城を強襲で落としてしまうというのはどうでござろうか?」
穴山「長篠城は死にものぐるいで抵抗しておる。強襲すれば我が方の被害も大きいぞ。目の前の織田・徳川を撃破すれば
長篠城など勝手に自滅するわ、わはははは」
逍遥軒「とりあえずここは慎重に敵の動きを見極めようぞ」
勝頼「叔父上の言うとおりですな」
当日
物見「鳶ノ巣山が攻撃されてございます」
勝頼「なんじゃと」
− ざ わ ざ わ −
馬場「これでは退路を断たれる」
山県「親方様ここは引くが肝要かと」
一条「いや目の前の織田・徳川軍を撃破すれば良い」
穴山「さよう」
逍遥軒「・・・・・」
勝頼「・・・・」
馬場「お館様、信玄公ならこのような時無理な戦はなさいませんでしたぞ。退却の合図を。
今ならまだ鳶ノ巣山を武田信実殿が支えてる間に退却できます。敵が追撃してくるなら
山中に引きこんで叩くこともできます。」
一条「何を言うか馬場!」
逍遥軒「お館様ご決断を・・・」
勝頼「(こんな時だけお館様かよ・・・)」
543 :
人間七七四年:2012/08/21(火) 00:56:07.41 ID:HWRVRh0P
鳶ノ巣の失陥が状況を一変させたのは間違い無いだろうね
544 :
人間七七四年:2012/08/21(火) 10:57:16.50 ID:a+rJ85dL
鳶ノ巣への攻撃は長篠の戦いが始まった後だと何度言ったら・・・
しかも鳶ノ巣が陥落したのが長篠の戦いが終結した後か先かもわからんと言うのに
織田厨脳はこれだから・・・
545 :
人間七七四年:2012/08/21(火) 14:20:25.01 ID:8EGhwzZE
いやいや、よくできた話だよ。最後の「こんな時だけお館様かよ・・・」が笑える。
鳶ノ巣山が攻撃される、という件は、武田軍は、前もってわかっていたよ。
織田の別働隊が出発したのは暗くなってからだが、迂回路とはいえ、それは、
武田本陣から距離数キロ先。
川中島の妻女山への迂回を検証したときのように、その距離の大部隊なら、
音が聞こえます。
546 :
人間七七四年:2012/08/22(水) 08:11:47.45 ID:/AaEOMRm
いや、妻女山布陣自体も本当かどうかわかってないからなぁ。
一ヶ月近くいたのに、全く陣の形跡がなかったと言うし。
自分も前までは鳶ノ巣山が先と思っていたけど、それだと奇襲したとか、信長
が家康の家臣に命令したなど、色々と疑問点がわいていたけど、同時進行なら
数的優位な連合軍が、別働隊を向かわせた可能性も有りかなと思うようになった。
>>542は武田内部事象を現した良く出来た話と思うけどねw
547 :
人間七七四年:2012/08/22(水) 12:13:42.09 ID:Kghd/1Hx
妻女山布陣は、山道が細すぎて険し過ぎて、大部隊の展開は不可能とのこと。創作らしい。
が、鳶ノ巣山への迂回路も、グーグルマップで見ると、これまた意外と険しい。
ろくな道がない。
砦を包囲したり、大部隊を展開させるのは、時間がかかりそうであり、朝8時の攻撃となったのは、
移動がやはりもたついたのか、または、砦の数々を、順次撃破していったためか。
いずれにしても、砦を守備していた武田の将兵は、早朝暗いうちには
織田軍が接近、集結していたのは気付くはず。
武田本陣へは馬を走らせれば1時間もかからない。注進しても、助けがこなかったのは、
鷲津、丸山砦のときを連想させる。
548 :
人間七七四年:2012/08/22(水) 12:33:12.26 ID:Kghd/1Hx
コンビニ本で新説がだされていた。
織田は大軍といっても、大軍の大部分は、馬防柵の後方にて見えないように隠されていた。(by信長公記)
そして、馬防柵の最前列には、鉄砲が大量に構えていた。
しかし!、夕方以降、その鉄砲隊から、かなりの数が引き抜かれて、迂回に向かったことが
武田本陣からもわかっただろう。数千人の武田軍が、至近で対峙しあって、
前方の織田陣地を見つめているわけだから、気付かぬはずがない。
そして引き抜かれた精鋭部隊は、後方の鳶ノ巣山の方面へ向かっただろうと予測できたはずで、
ならば、
武田軍としては、早朝から織田軍へ攻めかかったのは、織田軍が手薄になったから、と判断したから。
549 :
人間七七四年:2012/08/22(水) 20:42:28.93 ID:Kghd/1Hx
550 :
人間七七四年:2012/08/22(水) 21:43:48.37 ID:ysygTyOd
親切に新説教えてくれてありがとう
551 :
人間七七四年:2012/08/23(木) 05:03:25.38 ID:jDDzw0WC
あ
552 :
人間七七四年:2012/08/23(木) 08:15:51.98 ID:PeklZujo
>>548 その新説だけど、
>>547が言うとおり、地形を無視している感じなんだよなぁ。
実際、定説とされるところに行ってみたけど、とても気づかれずに行けそうな
ところじゃないと思うのだが・・・。
言われているとおりの奇襲なら、何千も移動しているのに、どんだけ見張りが
とろいのかと。
553 :
人間七七四年:2012/08/23(木) 08:45:09.29 ID:r1HSE+H8
秀吉の指6本を新説とか言ってる時点で萎えた。
説でも何でもねーよ。
554 :
人間七七四年:2012/08/23(木) 08:47:38.73 ID:Hvm44z6L
?
555 :
人間七七四年:2012/08/23(木) 10:55:54.95 ID:2Lr9fiwL
>>552 そういうのは後知恵で、来ると考えなければ意外と気づかない
556 :
人間七七四年:2012/08/23(木) 11:00:20.50 ID:R0ouy2tm
>>553 秀吉の指が6本あったことは、
つい最近10年くらいまで、ほとんどの人は知らなかったことだぞ。
557 :
人間七七四年:2012/08/23(木) 11:10:41.67 ID:0hZ60kwz
>>556 利家夜話にも普通に書いてあるっつーの。知らない人間が多事がなんで新説になるんだよ。
558 :
人間七七四年:2012/08/23(木) 17:19:45.28 ID:4cgiEJma
フロイス日本史
朝鮮人の書いた看羊録など
外国人の書いたものにまで
秀吉の6本指の話は登場してるから
そもそも否定しようがない事実なんだよな。
当時の日本社会では発生率の比較的高い多指症を
新生児段階で削除してなかっただろうから
けっこう普通にいたんだろうね。
559 :
人間七七四年:2012/08/23(木) 18:09:09.44 ID:R0ouy2tm
看羊録
秀吉は、尾張州中村郷の人である。嘉靖丙申年に生まれた。容貌が醜く、
身体も短小で、容貌が猿のようであったので・・・生まれたとき、
右手が六本指であった。成長するに及び、『人はみな五本指である、
六本の指に何の必要があろう』と言って、刀で斬り落としてしまった。
長篠・設楽原合戦の話にムリヤリ戻すと、秀吉は長篠の戦いのときには
すでに切って5本指になっており、設楽原合戦のころは6本であった。
560 :
人間七七四年:2012/08/24(金) 08:08:04.47 ID:J8GEjfWo
>>555 言いたい事は解るが、あの山中を抜けてとなるとなぁ。
武田がよっぽど油断していたかだけど、合戦が始まるかもしれないというのに、
並んでいた砦群の見張りが全部気づかないとか、かなり終わっているような。
561 :
人間七七四年:2012/08/24(金) 09:20:07.33 ID:6fh+R0i2
>>550 世の中には敵勢が眼前まで迫っているのに敵と気づかない
長久手の戦い時の秀次勢という例もありますし
562 :
人間七七四年:2012/08/24(金) 12:02:23.17 ID:d5qlJZI/
あれは秀次があまりにもボンクラだったから
563 :
人間七七四年:2012/08/24(金) 12:35:11.74 ID:6fh+R0i2
他にも旗が揚げられるまで家康が赤坂に到着したことを認識しなかった
西軍諸将という例もあります
564 :
人間七七四年:2012/08/24(金) 19:44:29.63 ID:CNMCCXM0
そもそも織田軍が見えないように隠れてたとか非現実的。
兵糧の補給から炊き出し、糞尿処理など
多くの問題が生じる。
それを隠蔽するなど講談の世界の話。
夜間行軍も遭遇戦や味方討ちを恐れてほとんどやらない。
565 :
人間七七四年:2012/08/24(金) 21:38:22.97 ID:6fh+R0i2
隠れていたのはあくまで織田軍の一部ということ
566 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 11:51:52.97 ID:l36Q2a9L
秀次奇襲軍は機動性が無くチンタラしてたから家康にしてやられただけ
無残に敗走したのも、無防備な食事の準備中を急襲されたため
567 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 14:04:02.62 ID:HA6uIu2H
いや桶狭間の教訓を忘れた代償が高くついただけ
568 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 16:33:06.93 ID:Sb/YiGBV
>>566 >>秀次奇襲軍は機動性が無くチンタラしてたから家康にしてやられただけ
>>無残に敗走したのも、無防備な食事の準備中を急襲されたため
>>あれは秀次があまりにもボンクラだったから
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
569 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 16:35:39.86 ID:Sb/YiGBV
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。
570 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 16:37:04.08 ID:Sb/YiGBV
単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
571 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 16:39:04.08 ID:Sb/YiGBV
あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい
結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし
572 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 16:39:44.04 ID:Sb/YiGBV
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、
長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
573 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 17:39:18.97 ID:7jI2H0nn
同じようなレスを何度も繰り返さないでちゃんと推敲してから送信しろよ。素人か。
574 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 17:48:23.45 ID:snRnQl3G
ほんとに迷惑 死んで欲しい
575 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 17:54:46.17 ID:Sb/YiGBV
秀吉厨の妄言垂れ流し馬鹿に比べればマシ
576 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 17:56:22.26 ID:Sb/YiGBV
秀吉厨死ね
にどとくんなクズ
577 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 18:05:20.94 ID:lYjGGEub
>>572 黒田官べえって
あかんべえみたいなもんなの
578 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 18:37:49.23 ID:4oIvmq3b
チョンうぜえぇぇ
579 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 18:44:50.46 ID:Sb/YiGBV
秀吉厨は馬鹿
580 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 20:48:37.05 ID:qb890p4w
581 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 21:02:17.64 ID:hI/IAZQH
>>565 原文はこうだ。
設楽の郷は、一段地形くぼき所に候。
敵方へ見えざる様に段々に御人数三万ばかり立て置かる。
582 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 21:11:36.00 ID:qb890p4w
つか、だがの主張するように織田軍が兵を隠してなかったとすると
勝頼は3倍の敵軍が立てこもる陣地に正面から仕掛けるクソバカタレだということにwww
583 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 21:14:46.64 ID:d9nPKJiX
>>581 窪地に縦方向で何部隊かに分かれていたということだね
前の部隊が見えても、その後は発見しがたいね
584 :
人間七七四年:2012/08/26(日) 21:41:11.89 ID:hI/IAZQH
家康と信長は、小高い丘というか、円墳らしいのだが、頂上に陣取って、前線で指図した。
武田軍からも丸見え。
>>583の指摘どうり、後方の部隊が武田軍からは発見しがたい状態であれば、
武田軍としては「敵の数は少なく臆しているようだから、一目散に駆け寄って打ち破ることができよう」
と思ったであろう。
585 :
人間七七四年:2012/08/27(月) 08:18:59.40 ID:/dERfHBO
現地に行ってみると、言い伝え通りの布陣なら、確かに家康と信長の本陣は
前線だね。
武田から丸見えと言うか、本陣としてなら近すぎ。
家康の本陣跡は丁度内藤さんの陣前辺り、信長の出ての本陣は、土屋さんが
討ち死にした前にある小山で、勝頼の物見櫓の正面辺りか。
しかし、寡兵と判断する材料にはならない気が。
それほど武田の情報収集力がなかったと言う事なのか。
武田としては、前に誘い出したかったのかもしれないけど、激戦地と言われ
ている場所とは結構離れているかな。
しかし、激戦地でもない戦っていたかどうかもわからない一族衆は何故引き
上げたのだろう。
586 :
人間七七四年:2012/08/27(月) 08:53:54.72 ID:VmkzB37z
587 :
人間七七四年:2012/08/27(月) 10:04:18.94 ID:LXHr39ur
588 :
人間七七四年:2012/08/27(月) 10:28:11.27 ID:4P99nx3y
はっ?現地を見回ったことあるけ数万が隠れる窪地なんてどこにもないだろワロタw
589 :
人間七七四年:2012/08/27(月) 11:57:02.43 ID:LXHr39ur
陣構えた山一つ向こうがわ2・3箇所はある
塚田・溝添・慶蔵地辺り
590 :
人間七七四年:2012/08/27(月) 12:25:28.90 ID:/dERfHBO
>>588 隠すと言っても、そう言う隠すじゃなくて、旗とかを上げていないだけでも
人がいるかわからなくなるとは思うけどね。
個人的にはどっちかって言うと、山々で見にくいってのが正解かと。
でも、それで寡兵と思ってしまうには、歴戦の者が多い武田である話なのか
と思う。
591 :
人間七七四年:2012/08/27(月) 18:02:50.58 ID:1QO+2CA+
万どころか3000すら隠せる場所なんてないぞ。
そもそも信濃の渓谷で戦ってきた武田軍が敵が隠れてるのも分からないなんてあり得ない。
592 :
人間七七四年:2012/08/27(月) 19:42:47.15 ID:LXHr39ur
>>591 ビックサイトの数倍はあるが?
後、隠れているのが分かっても何人いるかはわからない
593 :
人間七七四年:2012/08/27(月) 21:15:56.46 ID:ZTJ610k1
勝頼はやっぱり自信過剰になっていたんだろうな。
少なくともこの点については軍鑑は間違いじゃないと思う。
まあ、ここで決戦を避けてもジリ貧って意見もあるしそれも確かに一理ある話なんだが決戦するなら1万5千では少ない。
重臣が反対していたのも事実だと思う。賛成した人間が誰か知らんがおそらく外様衆か親族衆だろう。
確かに勝頼、あるいはその側近のみ判断とは考えにくい。
実際信玄なら避けていたであろう戦いだし重臣は反対していただろう。
なぜあのような戦いぶりを示したか?それはたとえ反対でも武田家のために戦ったってことだろうな。
彼らの武田家への忠誠心は並大抵のものではない。
594 :
人間七七四年:2012/08/27(月) 22:51:51.07 ID:VnlAizpe
長篠で結構な打撃受けたのは確かなんだろうけど
その後の対北条戦とか見る限り重臣の壊滅で武田軍が激しく弱体化って感じでもないよな
信玄で言うところの上田原の負け戦みたいなもので口うるさい重臣が消えて
親類衆は早期離脱で面目失って勝頼の統制力が強化された感もある
ただ問題は上田原の時代と違って信長みたいな強大な敵がいたことだな
甲江和与が成功してればね
595 :
人間七七四年:2012/08/27(月) 23:32:54.70 ID:CixGL0fs
>>594 武田が滅んだのは、家臣が寝返ったのが大きな理由。
戦いがほぼ終わって、信長が褒美をあげたとき、筆頭は木曽氏(中山道方面)だったが、
2番目は小笠原氏(伊奈街道方面)、3番目は穴山氏(駿河街道)だ。
いずれも、織田の領地に接する最前線に位置する武田家臣だ。
長篠の戦い以後に、あらかじめ懐柔していたとみるべきだろう。
596 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 00:28:47.41 ID:ZlFq0Diy
重臣は戦に賛成したと思うな。親類衆は戦に反対だったからそれみたことかと、さっさと退却したんじゃない?重臣は自分が血気盛んに戦を訴えたから意地になって退却が遅れたと。
597 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 01:00:21.75 ID:Gm1l3doK
重臣達は先の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍に圧勝してるから
当然織田・徳川如きは恐るるに足らずって感じ?
信玄でも落とせなかった高天神まで落としているし
親族衆の退却は何とも言えないけど敵前逃亡なのに
その後何のお咎めも無かった事が後に災いしたかと
秀吉の敵前逃亡を信長が厳罰に処さなかったみたいに
598 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 07:35:07.85 ID:RJtqgbPh
日の出より未の刻まで、入れ替わり相戦い、
諸兵をうたせ、次第に無人になりて、何れも
武田四郎旗元に馳せ集まり、叶い難く存知候。
敵、鳳来寺さして、どっと廃軍致す。
次第に無人になりて、何れも武田四郎旗元に馳せ集まり、という表現から、
穴山などの部隊は、数はまだあっても攻撃をかけられるような部隊ではなかった
とみるべきだろう。
守備向きなんだろうね。歴戦でも、やや年齢がいっている兵とか。
599 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 08:22:22.75 ID:uA8q33b5
>>593 少し前に同じような事が書いてあったような、コピペ?
このスレに信玄は関係ないだろうと書いた記憶がある。
>>595 いやいや、信長が本気で潰そうとしてきたのだから、家臣の裏切るなんて些細
な事。
裏切らなくても滅んでいたでしょ。
そのくらいの差が出来てしまったのがなぁ。
本能寺が1年早くおきて、外交を上手くやれば生き残れたのだろうか。
600 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 09:35:09.87 ID:hnff96gp
>>589 >>塚田・溝添・慶蔵地
もしかして茶臼山駅チョイ北の矢部周辺を言ってるんじゃないだろうな?
おいおいそこら辺はむしろ山へ向かっていく麓みたいな場所で
海抜68Mから88Mへと
どんどん土地があげっていく平地部だから
むしろモロバレするエリアなんだが
お前はアホかw
ちなみに平野部は、川の周辺50Mから少し高い60M前後。
601 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 11:56:00.85 ID:SyVfpVAB
>>600 上がっていくのは南から北へだろ
武田は東にいるのにどうしてモロバレと思う
602 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 12:21:22.05 ID:5FwBJoCy
他の人間がどうだったか知らんが少なくとも勝頼は織田をなめていたんだろうな。
>>599 裏切らなくても滅ぶことは間違いないが史実ほど簡単には滅亡しなかったと思う。
603 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 12:38:46.11 ID:Mbq2kiY6
>>602 舐めていたのは信玄では?
信長の領土があそこまで膨張するまで何もできなかったのだから
604 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 12:59:56.62 ID:XM3tRah0
>>601 普通にモロバレじゃんw
>>602 天災が滅亡原因だから仕方ないしな。
>>603 信長が石山本願寺の大罪をすべて許すからと土下座して勅命連打して
石山戦争が終結したあたりまで
大して国力差なんてねーよ。
武田は6万動員できるが、
織田なんて長篠の戦い後も越前兵まで動員して3万じゃねぇか。
605 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 16:44:17.21 ID:SyVfpVAB
>>604 南しか開けていないのに、東の敵にモロバレか
中々特殊な方向感覚の持ち主のようで
606 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 17:10:22.18 ID:x8BU/VL5
武田6万人wて
嘘も言い続ければ真実になるとでも思ってるのか
607 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 20:04:36.97 ID:5FwBJoCy
>>603 当初は信玄もなめていたのだろう。
ただ長篠の戦い直前の勝頼は明らかに織田をなめていたと思う。
608 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 20:06:05.75 ID:5FwBJoCy
天災と木曽・穴山の謀反がなかったら織田の武田攻めもそう簡単には終わらなかったと思う。
もっとも、最後に武田が滅亡することは間違いないが
609 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 20:08:01.75 ID:RJtqgbPh
なんでも鑑定団で、信長のすごい品が登場するという。何かなあ。
610 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 20:09:41.26 ID:RJtqgbPh
謙信あての平信長の書状
611 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 20:14:46.36 ID:RJtqgbPh
桶狭間の戦いの2年後の書状。
「長尾謙信輝虎殿」
本物かなあ?。ただいま鑑定中。
612 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 20:16:30.60 ID:RJtqgbPh
ああっー!。5000円のニセモノやった!。
「謙信輝虎殿」という表現の仕方は絶対にない、とのこと。
613 :
人間七七四年:2012/08/28(火) 22:47:52.62 ID:CcjUY/NE
何か武田軍が尾張の熱田神宮まで侵攻して熱田神宮を焼き払ったって言ってる人がいるけど、その人が大好きな一次資料って何?
その頃の武田軍が尾張内部まで侵攻できたんなら長篠なんかにこだわらなくてもそのまま尾張を席捲できるんじゃない?
面白いから是非御高説を賜りたい。
614 :
人間七七四年:2012/08/29(水) 04:11:47.89 ID:RwLabG1A
新田次郎が描いてた、
勝頼は佐久間の寝返りを信じてた
ってのは完全な創作ですか?
そんな説や資料が少しでもあったりするのでせうか??
615 :
人間七七四年:2012/08/29(水) 06:32:47.18 ID:+gj9WYru
>>613 ポルナレフさんが過労死させられるレベル!
616 :
人間七七四年:2012/08/29(水) 08:19:57.65 ID:CYLvxCVU
>>602 簡単には滅ぼされなかっただろうね。
さすが武田、見事な引き際と後世言われていたかもしれない。
勝頼はなめていたとは思わないなぁ。
段々と不利になって行くし、むしろ焦っていたのではないかと。
長篠で勝負したけど、負けた感じかなぁ。
実際、後世からみれば長篠は分岐点になるが、当時はそこまで切羽詰まった
感じではなかったのかもしれない。
動員出来る1万を何故待たなかったのか、一旦引く事をしなかったのが疑問
だけど。
>>604 武田が6万も動員できるのなら、信長は20万動員は軽く動員出来る事に
なるぞw
春秋時代の中国じゃないんだから、膨張はよくない。
まあ、中国の場合、本当に100万人くらい生き埋めにしそうだけどw
617 :
人間七七四年:2012/08/29(水) 08:34:35.72 ID:vP/Ay2Xx
信長20万とかバカ過ぎて話にならないwwwwwwwww
捏造と歪曲自演の織田チョン死ねよマジで。
618 :
人間七七四年:2012/08/29(水) 08:48:04.46 ID:DgMybefG
チョンは自分をチョン扱いされると顔真っ赤になってチョン扱いした相手をチョン扱いするって本当だったんだな
まぁそれはそれとして武田6万なら織田20万って過小評価もいい所だな、当然織田側でw
619 :
人間七七四年:2012/08/29(水) 09:26:47.14 ID:2Yrl76W9
20万以上動員できるとする根拠は?
620 :
人間七七四年:2012/08/29(水) 12:33:41.35 ID:CYLvxCVU
>>617 まずは、話の流れを読んでから書き込んだ方が良くないか?
無条件反射で書き込んだのだのかもしれないがw
>>619 まずは武田が6万動員出来る根拠の方が先じゃないか?
話はそれからだ・・・と言ってしまえば良いのだが、武田の動員出来る兵数
は多くて2万5千程度だと思う。
その動員数を6万と言うなら、2倍以上になる。
信長の動員数は8〜10万、単純に20万になるとして書いただけ。
妄想にのっかってはじきだした数字だもん、根拠もへったくれもないわなw
621 :
人間七七四年:2012/08/29(水) 12:42:38.59 ID:2G9dh7SR
おいだが
コピペで荒らすなよ
622 :
人間七七四年:2012/08/29(水) 13:11:00.21 ID:cwvucv28
もう十分荒れとるがな(笑)
623 :
人間七七四年:2012/08/29(水) 13:42:42.11 ID:DgMybefG
>>620 援軍含めて25000だから20000ぐらいが限界でしょ
だから3倍
そうなると20万じゃ過少だと思う
624 :
人間七七四年:2012/08/29(水) 20:55:51.71 ID:sJy49nsS
金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
なんとたった1万しか集まらず信玄に大敗してボロ雑巾の家康にすら近江に援軍を出すように哀願w
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www
元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
625 :
人間七七四年:2012/08/29(水) 21:34:07.44 ID:2G9dh7SR
六万もの大軍を動かして、四ヶ月かけても織田どころか徳川すらも滅ぼせなかった体たらく
得たのはその軍事費に見合わない猫の額の領地と、織田信長の怒り
そりゃそんな負債背負わされたら息子も長篠で勝てんわな、しょうがない
626 :
人間七七四年:2012/08/30(木) 00:23:01.80 ID:D87G8JG7
つーか、6万動員できたら普通に上杉と正面決戦やって勝てるな
627 :
人間七七四年:2012/08/30(木) 01:14:11.92 ID:nRfIsLk/
長篠の戦の時には15000がやっとだったみたいだけど
残りの45000はどこいっちゃったんだよw
上杉の備えに10000でも35000が行方不明
長篠の戦以降行方不明になった重臣達と一緒やな
628 :
人間七七四年:2012/08/30(木) 06:50:26.50 ID:pQP9FHVX
織田チョン涙目w
でさ、早く織田20万以上動員できるとする根拠を出せよw
織田なんて長篠後ですら越前兵まで動員しても3万が限界だし、
岐阜から信濃へ侵攻する時は遠陣だからと兵力調整するほど超低能力兵站じゃんよw
629 :
人間七七四年:2012/08/30(木) 06:52:50.67 ID:pQP9FHVX
しかも長篠で武田が15000ってのは
甲陽軍鑑の記述だと散々指摘されてきてるのに
いまだに持ち出すキチガイ織田チョンwww
630 :
人間七七四年:2012/08/30(木) 07:49:50.94 ID:D87G8JG7
>>629 だからお前は6万の武田軍がはるかに少ない織田軍なんで勝てないか説明しろよ?
武田は糞雑魚だからでFA?
631 :
人間七七四年:2012/08/30(木) 08:16:44.49 ID:sqwxRhME
いやぁ、武田6万と聞いて、ついつい膨張過ぎだと思い煽るような書き込みを
し、結果的に荒れてしまい申し訳ない。
このスレ的に、武田や織田がどのくらい動員が出来たのかはあまり関係ないよ
ね。
話を戻すと・・・何の話だっけか?
何故援軍を待たなかったのか、倍以上の敵、構築した陣地に突っ込んでいった
のかだっけ?
632 :
人間七七四年:2012/08/30(木) 08:24:48.53 ID:8RITTtNt
甲陽軍鑑の記述じゃなくて信長公記だろ。
「一万五千ばかり」と書いてあるよ。
633 :
人間七七四年:2012/08/30(木) 12:35:37.85 ID:sqwxRhME
まあ、1万5千じゃないと言う決定的な資料もないしね。
実際、今の軍隊みたいにきっちり把握されているわけでもないし、どのくらい
の兵数だったかは見る人によって違うのかも。
個人的には、実際は1万程度ではなかっただろうかと思う。
長篠城落とす、家康をおびき出して撃退したいと考えての行動だったら、その
辺が妥当だと思う。
634 :
人間七七四年:2012/08/30(木) 15:53:51.49 ID:8RITTtNt
兵糧を運ぶ部隊など、武田の領地と長篠を
往復している人夫も数千人いるだろうね。
兵が一人1日1kg食べているとすると、1万の軍勢が必要な食料は、1日10トンにもなる。
船が使えないから、駄馬でひっきりなしに輸送していたことだろう。
635 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 04:29:50.80 ID:NLeVyXNE
一キロも食べんじゃろ
米的なものを二百グラムほど現地の水で炊けば五百グラム程度になるんじゃね
636 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 07:48:10.45 ID:PHF1sNn9
米の1合は、1人が1食分という基準でもあるけど、当時の農民は2合ぐらいは
食べてるよ。
1合は150g。2合なら300gであり、1日3食なら約1kg。コメだけ食ってたわけじゃ
ないだろうし、、陣地が山の上なら、水だって運ばねばならないだろう。
消費物資は一人1日1kgは必要だろう。
馬(騎馬用じゃなくて、荷物運びの駄馬?)は、
背の両側に1俵ずつくくりつけて運べたそうで、1俵60kgだから、ざっと100kgとすると、
1日10トンの物資を運ぶとなると、100頭が往復しなくちゃならない。
637 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 08:11:18.82 ID:vZsLkS++
それも蓄積地に物資があればだよなぁ。
領地全体からとなると、かなりの人数、護衛も必要になるか。
ちなみに当時は2食だったはずなので、米だけで1Kgって事はないとは思うけ
ど、その他諸々で結局1日1Kgは必要か。
軍の1/5は輸送隊って話もどっかに載っていた気がするけど、あながち間違
いじゃないのかも。
638 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 08:44:39.72 ID:PHF1sNn9
1/5じゃ、きかないですよ。食料運び以外にも、かぶと持ち、ヤリ持ち、など、
主人にお使えする人数もかなりいますから。使用人も脇差しくらいは持っているので、
戦うことは一応できるけれども。
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/img/nobunagahonjin3.jpg 長篠のときの信長本陣です。
白馬にまたがった信長(王子様かよ!)の右側に、南蛮兜をもったのがいます。その右側には
ヤリ持ち。さらに右に、本陣を示す旗持ち。今度は左側から、ヤリ持ち。白い服きて
ダビデの星を背中につけた3人は占星術師、というのは、ウソでもなくて、軍の方位などを占ったり
する参謀ですが、占いといえば迷信ぽいですが、情報を分析する当時のトップレベルの高官です。
写真右下に赤い円盤を背中につけたのは、母衣(ほろ)衆。親衛隊の中でもエリートです。情報の連絡をします。
ヨロイをつけた兵は戦闘員でもありますが、緑色や白色の服を着た連中は、基本的に戦わず、
戦うのは御主人様だけです。信長ね。
639 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 08:57:12.32 ID:PHF1sNn9
一般的な武士でいえば、
騎馬一騎につき、足軽2人はつく。それら戦闘員に付属して、
中間(ちゅうげん)や、馬の口取り、食料運び(食べ物は自弁)、兜や鎧もち(ランドセルみたいな箱
に入れて、背中に背負う。お土産を入れて持ち帰ることもある)、ヤリ持ち(長過ぎて、主人が普段もつには邪魔すぎる。ヤリは
戦地では物干し竿としても便利)などなど、
戦いで、これら一族郎党のグループで集団行動をするわけですが、最前列に立たされた主人や
足軽がやられてしまうと、他のメンバーは人数からいえば過半を占めているわけですが、もう逃げ出すことになります。
640 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 10:54:19.46 ID:FewJxgdL
>>632 >>627は1万5000にセットで
さらに上杉への押さえに1万置いていると書いてるから
明らかに甲陽軍鑑ネタ
甲陽も公記もどちらも軍記で信憑性ゼロ。
一次史料での武田動員力は6万。しかも二つの史料で信玄の時も勝頼の時も6万と記述。
>>605 お前さ、陣地配置と地勢とか知らんのかよwww
武田軍は信玄台地と呼ばれるところに陣を構えてるんだぞ。
そこは織田が構えていた台地よりも高いから、
数万を隠すようには、なんら遮蔽物になりえない。
しかもご丁寧に塚田・溝添・慶蔵地は北に向かって高くなっていく土地。
そもそも織田チョンは武田軍は周囲の山々に物見を一切置かずに平地から眺めているボンクラと盲信してるようだw
しかも塚田・溝添・慶蔵地は南側がぱっくり大きく開けているんだから、
金で雇う現地人や草を豊川の対岸から迂回させれば
南側から塚田・溝添・慶蔵地がばっちり一望できるわけだ。
織田軍は豊川の対岸も塩沢や日吉や鳥原や船着山や浅間峠まで
ばっちり物見が進入する隙がまったくないように兵力配置してたとでも?w
641 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 11:05:19.42 ID:FewJxgdL
池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは各自に任されていた。
これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。従って武篇道と戦果が問題となる。
(中略)
信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を戦っていかなければならない。
拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
なされていないからこそ生じた問題であろう。
それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
この問題の解決は秀吉の課題となる。
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは
軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
池上裕子
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹
信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
排便などの衛生管理は非常に重大な問題で北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。しかし武田は6万動員してる。
武田や上杉や北条を見習った秀吉はそういったシステムを作る天才だから速攻で全国制覇したし、
海外遠征まで実現できた。 また武田の制度を導入した家康が頭角を現しているのも納得できる。
織田のような略奪による現地調達方式からそういった
信玄や秀吉のように内政・軍政改革をして始めて3万の壁を越えて大軍を一戦場に集中できるようになるのか。
642 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 11:29:57.32 ID:aFOMRCOA
森田善朗はどうした?w
643 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 12:24:01.47 ID:vZsLkS++
>>640 その武田が6万とする一次資料って何?
非常にに興味がある。
石高的にも6万は盛ってるとしか思えないのだが・・・。
信玄台地を何処まで指すかは人によって違う気がするが、基本的には山県さん
と原さんの陣地があったところじゃないかな?
内藤さんや現在の資料館からは後ろの方までは見られない。
まあ、はげ山だったと言う話もあるし、勝頼の物見櫓からは見えたかもしれない。
しかし・・・そうなると余計突っ込んだのは何故なのかわからなくなるかな。
644 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 12:27:54.60 ID:FewJxgdL
武田軍は足助城を攻略しただけでなく
5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し先陣はすでに熱田まで進出してるし
4/16付け勝頼書状では22日出馬して参着次第、
その地に二重堀の普請すると書き(奥平信光のいる三河国設楽郡津具筋?)
遠江方面(光明行之儀)では天野藤秀を利用して
彼地の模様を見届け、調儀するのが肝要で(後回しの方便とも書いてる)
その地は幸い、久しく普請を続けていたので(穴山宛てなので穴山が)加勢望むに任せる。
小尾崎・八幡山之儀は案内者を以って
(尾崎権現山や郡上八幡だから両遠藤氏や安養寺や最勝寺か?)地形御見し、注進を頂くべく候
などと書いてる。
このことから当初案では毛利と呼応しての本願寺救援のための出陣計画だが
岡崎内応策が露見した後、作戦変更して
穴山に任せている遠江方面を後回しに三河進出し
長篠で二重堀を作って対陣する予定だったのではないか?
そのために長期対陣に備えて武田軍は(高柳光寿曰く)実数6000の兵しか連れてこなかった。
しかも長篠後に謙信に出した信長書状では兵糧が足らないから織田は撤兵したと書いてるから
織田徳川は3万を維持する兵糧がなかったため対陣して兵糧攻めを通じて織田軍を崩壊させる。
(熱田方面で挑発され面目丸つぶれの信長が急いで出てこざる負えなくなった)
そしてこの対陣中に美濃の軍事的な予定戦場調査をして、
武田軍が残り54000の大兵力を率いて大挙、美濃へ侵攻して(武田軍兵力6万は尋憲記)
郡上八幡の遠藤氏や安養寺や最勝寺の一揆軍の南下で北からも岐阜を圧迫し織田を引き付けつつ
尾崎権現山(200メートルしかない小山)を武田本軍の陣所として
各務原市〜岐阜市日野で織田と決戦して一気に岐阜城を奪い取る作戦だったはず。
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、
織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの
徳川・滝川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが
さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し
(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない)
撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記)
義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。
三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し
尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。
長篠戦死者に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く
名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。
また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、
甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で
名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも
織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて
捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い。
645 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 12:50:58.63 ID:FewJxgdL
>>643 山県さんと原さんの陣地は平削地であって
そこは信玄台地でも低いところ。
敵陣を見回すのに台地でも低いところから見渡そうとするほど
武田軍はバカばっかりだと言いたいのか?
つか信玄台地はどこからどこまでとか
そういう極めてくだらんところで絡もうとするのかね?
そもそも石高から動員数を出すなんて、
豊臣政権下以降の話で、太閤蔵入地の設定や大名と重臣の家族が上京生活・土木普請・畿内軍と同一武器統一や国元からの木材提供などの大負担の上で負課されていた動員義務数で
しかも秀吉への忠誠をアピールするため政宗などは義務兵数を超えて動員してるんだから
それ以前の時代へ適用なんて不可能だし、
豊臣政権下で兵農分離が達成された時代と兵農一致で惣村全兵と言われた時代の動員力はまったく違う。
しかも武田は甲斐だけでなく駿河金山収益や治水開墾や米が作れない季節の麦栽培などやってる。
しかし信長の場合は興福寺が信長の戦のせいで河内・摂津が田畑が荒れ果てたとか、
地震頻発時期の無理な大金の恐喝で大和一国荒廃と嘆くように
生活基盤そのものまで消滅させる略奪荒らしが織田軍の行動だぞ。
それで織田の石高なんて大減少はしても増えるわけないだろ。
さらに大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。
だいたい信玄上洛にビビっていた織田軍はたった1万しか動員出来なかったしソースは年代記抄節。
しかも織田の国人への動員とは違い
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長厨
646 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 13:05:03.38 ID:3aR3qrAY
5月26日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ去る5月21日の「合戦」の戦果について通知。
その内容は武田軍を即時切り崩して数万人を討ち捕らえたが、武田勝頼(「四郎」)の首は未見であり、殆どを切り捨てたので
河に漂っている武者の死体に紛れているかもしれないこと、武田軍の甲斐国・信濃国・駿河国・三河国の軍兵で生き残った者は
さほどいないという見通し、織田信長はこの勝利で「近年之散鬱憤」したことを通知。
武田6万のうち、数万人を殺害したと信長の一次資料は示しております。わはは
647 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 13:07:55.52 ID:FewJxgdL
京を支配してる織田の一方的な軍事プロパガンダを聞いて
それを公家が日記に記入してるのであって
公家が日記の記述を他人に見せる目的で
故意に情報を曲げて書いてるなんて一度も書いてないだろwww
本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末だし
姉川の戦いでの言継卿記でも浅井討ち死に、その他8000討ち取りとか書いてる。
また越前以下9600討ち取り(公記ですら浅井の死者1100と書いてるのにw)
そんなに討ち取ったのなら志賀の陣のような体たらくにならんだろう。
長篠の戦いでも大げさな戦果な上に、勝頼も死んだとか書いてるのが信長。
長篠の戦いの信長による戦果捏造宣伝工作
5/26信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと
誇張しまくりを書いていて
5/21の戦い当日付の兼見卿記にも信長が一戦に及んで
数千騎を討死させたと書いてる(騎馬武者だけで数千もいたのかすら怪しいデッチあげぶりw)
つか、こりゃあ武田大騎馬軍団だなw
実際の武田軍の損害については
実際に鉄砲衆を調達してから長篠に従軍した大和国の筒井衆が無事に大和国へ帰り着いた
5/27に記された大和興福寺の多聞院日記の千人ぐらい討死が比較的正しいだろう。
(それですら筒井勢が武勇自慢の宣伝をしている可能性がある。
と言うのも、そんなに圧勝してるなら天正10年の武田征伐を恐れた大和衆が
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士などと不安を訴えたりするだろうか)
5/24に兼見卿記が記す、光秀と会談した際に聞いた長篠の戦いの話では
「ことごとく討ち果たした」に表現が大幅に後退している。
ちなみに6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
家康の知恩院宛て6/22書状でも武田之家討ち果たし候様子を聞いたようですね
などと書いていて討取り数にまったく触れていない。
実は虚報ばかりで討ち取り数すら明言できないのが戦後の織田w
実際にはそんなに討ち取られていない可能性が高い。
648 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 13:10:53.17 ID:FewJxgdL
>>信濃国半分制圧
まったく具体性にかけていて、
テキトーに言ってるだけで信用性ゼロ
いつもの関東まで一遍に申し付けたとか
中国どころか九州まで属本意とかと同じ
信長の虚言癖。 つかその時点でまだ武田領国へ織田は足を踏み入れてないしw
織田の大嘘を鵜呑みにして書いてるだけ。
そんな織田のホラを信じてたら中国地方どころか九州まで一遍にすでに制圧完了してたりしてることになるわwww
そんなデタラメ宣伝工作の証明する一次史料はない。
信長は誇張による情報操作を公家相手にかなりやってる。
信長がデタラメを吐いて言ったことを京に常駐してる
村井がそのまま伝えただけ
つうか2/7の時点でどう考えたって
信濃の半分を手に入れてるわけねーだろw
その2日後の2/9には秀吉が関東の太田へ織田は
すでに中国四国も手に入れたとか言ってるし織田の対外宣伝はまったく信用性ゼロwww
太田牛一の公記にも、あきらかに信長による対外宣伝を真に受けて書いてるようなシーンが何度も出てくる。
特に北陸情勢なんて明らかにそんな話ばっかりで
発信者が有利になるように操作された情報を公記に書いてるだけで事実確認なんてまったくなされてない。
叡山焼討ちでも織田の誇張を信じた言継卿記が3000〜4000人は殺されたと書いてるが、
冷めた目でみてる年代記抄節はおよそ1600余人くらいと誇張に惑わされずに冷静に書いてるしw
649 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 13:34:18.67 ID:UqWYYIwG
岩村城の秋山信友は見殺しですかw
650 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 14:24:39.97 ID:I8ohJTcw
家康が駿河に攻め入ったから勝頼が
駿河は甲斐への侵入ルートだから、
美濃の岩村より優先順位が高いと判断して遠江に出兵して家康を追い散らして、
高天神城に兵糧を運び入れたりしてる。
全てを守ろうとして兵力分散して各個撃破されるアホと違い、
二方面作戦を取らずに兵力集中する取捨選択をする能力が勝頼にはあった。
また長篠後に勝頼は武田興亡の一戦をしたいと動員をかけていたから長篠で戦力崩壊は起こしてないのがわかるし、
長篠後に織田が佐竹らに一緒に武田攻めようと提案してるが無視されているのは、
佐竹らが織田のデタラメ過大戦果を全く信じていないからだし。
実際、勝頼が乾坤一擲の勝負をしようとすると織田は甲江和与交渉をちらつかせ戦争回避に腐心してる。
651 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 15:35:51.38 ID:uqE7KbCx
岩村落城は木曾義昌が勝頼の秋山支援命令を拒絶したのが原因
岩村城陥落の一ヵ月後に二俣城も陥落してるから
武田は明らかに徳川に対しても劣勢になっていた
長篠合戦以前は武田にとって徳川は織田の腰ぎんちゃく程度の存在だったのにだ
長篠の戦がいかに武田にとって致命的大敗だったかが良く分かる
実際合戦から僅か7年足らずで武田征伐で挙兵した信忠に瞬殺されて滅亡
652 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 16:13:02.59 ID:9f86lBxH
都合の悪い事はーしらんぷりーぷりぷりッハハッ!
さすがだがさんやで
653 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 17:44:19.34 ID:FewJxgdL
>>651 勝頼は来年春の当家興亡の一戦による決戦をタイムスケジュールに入れていて
軍役定書を出していて天正3年後半はそのための準備期間だった。
しかも同時期に義昭を通しての上杉・武田・北条の和睦外交もあった。
さらに来年初頭には信玄の仏事を大々的にやる予定でもあり援軍派兵は控えていた。
その期間に二俣城が落城したとする妄想もあるそうだが、
その根拠は徳川実紀の出典一覧にまったく存在しない著者不明・成立年代不明の
明らかに鈴木肇氏の妄想で書いた偽書認定されている浜松御在城記にしかないと聞いている。
しかも二俣城側が勝手に脱走しただけの話で家康が攻め落としたとは書いてない。
654 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 19:08:54.34 ID:3aR3qrAY
句読点(くとうてん)「 、 」を
もっとたくさん入れてくれないかな。
読みづらくてしょうがない。
655 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 20:08:55.86 ID:BQrPWuMb
ID:FewJxgdL
書き込んだスレッド一覧
人間七七四年
【疑問】スレ立てるまでもない質問 9【戦国時代】
長篠・設楽原合戦の真実 part3
* 織田信忠 その2 *
織田軍団ってイメージで凄いと思ってたけど…
武田信玄上洛成功part2
悪逆大名
なぜ織田家はあっけなく滅びてしまったのか
織田信長は過大評価されすぎ11
下克上された暗愚な暴君
信玄・謙信・宗麟・輝宗・晴久
【軍神 上杉謙信 毘沙門天 越後の龍】
08/31(金) 10:16〜〜08/31(金) 17:46の間に合計25の駄レスwwwwww
656 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 20:31:53.43 ID:PrVwaR1L
圧倒的優勢を誇っている武田軍は、織田信長の美濃岐阜城を攻略するため兵を挙げる。
主力部隊5万余勢を美濃侵攻軍として美濃国境に隠蔽させ、陽動軍1万5千を長篠に進軍させる。
武田勢に恐れをなして動かない信長を挑発するため、先発隊が尾張内部に侵攻し何の抵抗も受けず熱田神宮に放火し引き上げる。
面目を潰された信長は、兵糧不足のまま出陣し徳川軍とともに設楽原に布陣する。
一生懸命馬防柵を作る徳川軍であるが、織田軍は何もしない。
武田軍にとっては織田軍を引き出す陽動軍であったが、織田徳川連合軍に攻撃を仕掛けると織田軍は総崩れとなり徳川軍の馬防柵に逃げ込む。
武田軍は織田徳川連合軍を散々打ち破り6000余を討ち取る大勝を挙げるが、日没のため甲府へ撤退することとした。
そこを織田徳川連合軍に攻撃され、少々の損害を受けるが無事撤退完了。
陽動作戦が成功したが、主力の美濃攻略隊は何故か動かない。
その後大損害を受けたはずの徳川軍が遠江に侵攻する。
武田軍は美濃攻略を中止し、美濃攻略部隊を遠江に回し、徳川軍を再び打ち破り高天神城に兵糧を入れ甲府に撤収する。
武田に恐れをなした織田徳川はその後武田に手出しができなかったが、浅間山が噴火し何故か武田氏は歴史上から消え去った。
657 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 22:02:20.60 ID:lLkvmMGB
>>645 バカばかりだったから酒井別働隊の動きに全く気づかず奇襲喰らって壊滅したわけで
658 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 22:06:14.69 ID:lLkvmMGB
>>650 格下で大損害を与えたはずの徳川なんて片手間ですむだろ?
秋山を見殺しにした理由にはならんな
659 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 09:21:06.22 ID:dr2k/+3j
>>657 >>酒井別働隊の動き
へっ?なにそれ。一次史料で証明してください。
660 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 09:58:47.66 ID:dr2k/+3j
まぁ実際、真田宝物館が大切に所蔵している
8/10付け勝頼→岡修理宛で
長篠で取り詰めたところ、
織田と徳川が後詰めに出てきたので
累年の願望だったので満足しました。
すぐ乗りかかり一戦して数多討ち取り、その利に乗って
信長の前まで押し寄せたところ陣城を構えて籠もっていたので
人数を入れたところ、私たちの先衆が利を失ったとのことでした。
近日には遠江へ出馬します。このたびこそ尾張三河へ乱入し
是非を決して本意を遂げれることは疑いなしです。
などと書いているから、なかなか勝負してこないヘタレ織田が
やっと長篠包囲でおびき出されてきて累年の願望が遂げれたのは確かなんだよね。
そしてさっそく決戦して野戦で織田軍を大敗させたのも間違いない話で、
家康の構城へ逃げ込んだ信長(滝川が陣城を作った記述は公記にしかない)
の目の前まで武田軍は侵攻してきてる。
さらに陣城への侵入にも武田軍は成功してるから
陣城内での乱戦で不利になったのだろう。
そこで大勝利できずに撤退したが、次回こそ遠江へ侵攻すると同時に
尾張三河へも乱入して勝負を決したいと言っていて
武田軍が崩壊してる姿はまったくない。
織田側の嘘情報宣伝で武田が大敗したと浸透していったんだろうね。
661 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 10:51:48.44 ID:f9qJ/pjc
もっと推敲してから書き込んでくださいだがさん
読みづらくてしょうがないわ
662 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 10:59:02.42 ID:Ul6E6nSu
甲江和与に騙されて
北条相手に無双しすぎた勝頼
663 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 12:19:11.34 ID:dBwsXyLD
>>660 で、なんでその長篠後に予定されていた侵攻作戦で徳川と織田にとどめを刺さなかったの?
自分が負けたことを取り繕うために威勢のいいことを書いたようにしか思えないよ?
違うってんならなんでそれ以降まともに徳川の領域に進出できなくなったか説明してみ?
664 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 12:24:17.72 ID:WMI8UOOD
まぁおびき出されたのか結果としてそうなったのかは分からないが
もし緒戦で織田の先鋒撃破して深追いしたのなら織田に釣り出されたとも見れるね
信玄なら先鋒撃破してそこで追撃止めると思うが
その後長篠落城させれば後詰に来て城は落とされるわ先鋒撃破されるわで散々な結果だと思うが
665 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 12:27:23.48 ID:WMI8UOOD
まぁ結果として若い勝頼に信長の相手は荷が重かったんだろうね
追撃して陣内に突入しても兵力差が倍じゃ結局時間が経てば劣勢になったと
本当なら予備隊投入するところだが穴山は逃げちゃうし
666 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 12:46:20.73 ID:Ul6E6nSu
城攻め中に日没を迎えて利が無かったって感じだなあ。
667 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 13:55:56.56 ID:OsoIHvGm
いや、日没後に追撃で大損害受けるなんてありえないだろ?
668 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 15:11:31.78 ID:zy5Ei9uM
長篠で勝ったはずなのにその後徳川相手に防戦一方
しかも織田が片手間でやった(信忠が大将)岩村攻めに後詰めにも行かず秋山を見殺し
だが理論は見事に破綻しているな
669 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 16:38:53.23 ID:ZFRezTDQ
武田優勢なのに長篠城を落とさない勝頼
裏切り者の奥平はスルーですかそうですか
670 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 18:33:35.15 ID:qbPnNY+P
>>668 ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
(.___,,,... -ァァフ| あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
|i i| }! }} //|
|l、{ j} /,,ィ//| 『おれは長篠の戦いで圧勝したと
i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ 思ったらいつのまにか押しまくられ苦境に立たされていた』
|リ u' } ,ノ _,!V,ハ |
/´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人 な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
/' ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ おれも何をされたのかわからなかった…
,゙ / )ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉
|/_/ ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ 頭がどうにかなりそうだった…
// 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
/'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐ \ 催眠術だとか超スピードだとか
/ // 广¨´ /' /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
ノ ' / ノ:::::`ー-、___/:::::// ヽ }
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::... イ もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…
671 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 23:31:37.72 ID:dYq/XHVw
長篠の戦いで、織田軍は勝ったわけだが、それで得たものといえば?。
長篠城や岩村城を確保して、領地を少々増やしたものの、織田の手取りは大してあるわけじゃない。
武田の方では、討ち死にした武将の兄弟や子供などを新たに任命したりして、数だけは埋め合わせしたが。
織田の手取り増加分は無いが、武田が侵入してこないようになった、というだけのこと
でいいか?
672 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 23:32:20.70 ID:dYq/XHVw
織田の手取りは大してあるわけじゃない。
↓
織田の手取りは大して増えたわけじゃない。
673 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 23:35:08.88 ID:IzKcB5xq
>>664 >>深追いしたのなら織田に釣り出されたとも
それはない。なぜなら丘陵に布陣した両軍の対陣距離は
たかだが200mしかなく、最初から戦闘距離に布陣してる。
すでに火縄銃でも殺傷距離になっている。
武田軍は平地での戦いで織田軍を粉砕し圧勝した上で
織田軍が逃げ込んだ丘陵に構築した徳川の陣城への突入を開始しているのであり
その山城のような徳川防塁内で押し切れずに夕闇とともに撤兵したと考えられる。
674 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 23:45:52.16 ID:AldAfwBd
武田軍の武将の大半が為す術もなく、討ち取られただけとしか思えないな
675 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 23:51:24.90 ID:IzKcB5xq
>>672 むしろ毛利が支援する石山本願寺と和睦した謙信の上洛戦を恐れて
信長は勝頼に和睦を申し込んで拒絶されてる。
謙信死去後も甲江和与詐欺で武田との戦いを回避し続けてる。
武田は新たに北条とも開戦し
氏政が「このままでは北条は終わりだ」
「上野が武田にとられてしまう」と狼狽しまくり
北条の水軍根拠地の伊豆でも武田水軍が圧倒しまくり。
仲介を申し出た佐竹らまで騙しての織田の
甲江和与交渉詐欺を長々と続けていたために
織田・徳川とは大規模戦闘は起きず、
徳川とは武田領から突出し過ぎている
遠江の高天神城での対陣が長く続くも
天正9年正月の段階でも書状の往来ができるほど
緩いものだったが唐突に落城。
この間、武田は織田・徳川ではなく、
北条との全面戦争を開始しており
勝頼への救援依頼さえ来なかった高天神城の落城は寝耳に水の出来事だった。
676 :
人間七七四年:2012/09/01(土) 23:53:19.22 ID:IzKcB5xq
>>674 >>武田軍の武将の大半が為す術もなく、討ち取られただけとしか
一次史料を出して誰が長篠の戦いで討ち死にしたのか説明して欲しい。
677 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 00:04:21.41 ID:h4vpXrEK
長篠以後の武田軍は、上野の奥地で攻勢に出てるね。
ほとんど真田の奮戦だけど。
678 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 00:06:46.61 ID:mtCRJwRM
>>671 織田は長篠城の後詰めに出張って来ただけ
>>673 そんな捏造ドヤ顔で語られてもねー
そもそも合戦は午前6時〜午後2時って言われてるのに
当初の目的だった長篠城攻略と奥平の処罰も出来てないで圧勝とか
679 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 00:13:47.72 ID:iKaguZTX
少なくとも天正10年まで武田は織田と互角だろ。
御館の乱や新発田の乱でジワリジワリと加賀能登が織田領化していく中で
織田に接していながらも武田領国は安定しているし。
織田も武田を刺激しないようにしてる。
680 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 00:17:52.22 ID:IN6ofWiM
互角の訳ないから
包囲網全部合わせてようやく互角かどうかって所だぞ
681 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 00:19:51.28 ID:iKaguZTX
じゃあなんで浅間山噴火するまで武田領へ攻め込まずに
甲江和与詐欺してんだよw
682 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 00:22:39.42 ID:/h+9BCfV
長篠の戦後に真田が群馬の北半分を制圧している。
真田ってのは本当にすごいな。
683 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 00:23:34.20 ID:IN6ofWiM
ああ、だがさんか
浅間山噴火が理由で攻め込んだわけじゃないんでその誤りを修正してから来い
684 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 00:36:14.83 ID:4Q93h4UX
浅間山噴火で大混乱して勝頼が甲斐に撤兵したのを見た森らが、
信長の命令を守って大人しくしてた信忠の現場指揮を無視して
千載一遇のチャンスとばかりに
信濃国境を超えたら、噴火で後詰が期待できないから、
誰も抵抗せずに簡単に高遠城までやすやすと進軍できただけじゃね。
685 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 00:51:53.73 ID:hIwO4JHv
甲斐住人側が戦争どころでない状況なら攻めこむ側も当然軍事活動なんて出来るわけない、ってことがわからないかね?
それとも迷信深い甲斐の土人どもは神罰を恐れてGKBRしてたから、都会人の織田に抵抗する暇がなかったとでも?
686 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 00:56:03.73 ID:9eROdSbU
>>673 >織田軍が逃げ込んだ丘陵に構築した徳川の陣城への突入を開始しているのであり
ねえ、現地見たこと有る?
横に長い陣地でさ、織田が北側、徳川が南側に布陣してるの。
仮に織田が負けたとしても徳川の陣地に逃げ込めるような布陣じゃないの。
もし織田軍が徳川の馬防柵に逃げ込もうとしたら、徳川と武田が激戦しているところを横切って逃げ込まなければいけないの。
とかいろいろ言っても無駄だよね。
一つだけ教えて欲しい。
武田が滅んだ状況を解説して。
687 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 01:17:49.92 ID:4Q93h4UX
丘陵から下山して平地で武田と野戦して織田が大敗。
家康の陣城に入れなかった織田6000は武田に討ち取られたんだろうね。
688 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 01:44:47.51 ID:t7K7FU7S
>>671 うざい武田がちょっかいかけてこなくなればそれだけ他の戦線に戦力を振り向けられる
実際信長は長篠後すぐ越前に向けて進撃しアッという間に制圧した
まあ貧乏な信濃を得るよりは越前奪還の方が重要だったということだろう
武田なんて問題にならない大敵である本願寺を弱める意味もあるし
689 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 01:59:07.65 ID:t7K7FU7S
>>679 進入路を守っていた木曽穴山の調略にてこずっていたんだろうな
この二人は一応武田の一門だし
あと毛利上杉が頑張っていたから武田が助かっていた面もあるだろう
690 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 03:23:08.11 ID:bDv9gqHu
もし武田滅亡後も信長が死ななければ上杉滅亡後に東北の大名もあらかた臣従して北条は用済みだよな
徳川でさえ粛清の噂が広まってたらしい当時新参者の北条とかさっさと踏み潰されてた予感
北条が御館の乱絡みでもうちょっと理性的な行動してれば武田VS北条の不毛な戦も起きなかっただろうに
691 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 08:05:02.31 ID:iKaguZTX
>>688 >>他の戦線に戦力を振り向けられる
それはどの大名にも言えることで
織田に限った話じゃないだろ。
>>うざい武田
うざいならさっさと先に武田を滅亡させたら本願寺攻撃が楽になるだろw
実際は甲江和与詐欺してまで強敵武田との全面戦争回避してたのが織田。
越前への侵攻は軍資金などの調達目的で織田神社以外は略奪対象で、一向宗限定ではなく無差別殺戮で越前府中は無人になってる。
その証拠に長篠後に謙信へ信長は兵糧がないと訴えているし
その後も謙信と協調して信濃へ侵攻する約束まで信長は破ってなじられてるなど
徹底的に武田攻め回避してそのたびに言い訳してるのが信長。
692 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 08:14:32.53 ID:Mbwo5qo3
君の妄想に基づいてどうだ!?と聞かれても困るわけですが
693 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 10:01:54.57 ID:IN6ofWiM
東の山賊なんて適当にあしらっておけばよい、甲信の土地は貧弱で広く地形も悪いためメリットが薄すぎる
ハイリスクローリターンの土地なんてとっても意味ない
重要地区である近畿の掌握が最重要
単にそれだけの事だろ
武田は相手にされてなかった、それだけの事
694 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 10:29:55.21 ID:t7K7FU7S
>>692 あまり得るところがない東に向かっている間に本願寺毛利が攻勢に出てきたらまずいだろうが
弱体化した武田ごとき(実質)織田の一部隊である徳川に任せておけば十分
そして実際に以後の武田は徳川相手に防戦一方になってしまった
695 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 12:11:47.55 ID:1RcAWs3i
天正10年の段階で、
武田上杉が日本一の強さを誇っていた興福寺の一次史料を認めたがらない織田チョンw
その武威はついに
江戸初期に入り甲州越州は軍学として一世を風靡する。
しかし弱織田は織田軍学となるような武勇はまったくないのであったw
696 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 12:40:48.41 ID:d/ltR3nU
武田や上杉の強さってWW2の日本軍みたいなもの
織田の強さはアメリカやソ連みたいなもの
もうわかるよな?
697 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 13:31:50.93 ID:Mbwo5qo3
日本一の強さの軍隊を一ヶ月ほどで壊滅させた織田最強と
噴火?
天正大地震が起きても豊臣家は敗戦などしてませんのでw
698 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 14:59:06.15 ID:VYXO4LJT
なんか「一次史料」の意味を勘違いしている人がいるな〜
「野田首相は日本一優秀な人物」と書いてある日記(一次史料)があったら、
それが事実だという証明になると思っているのかな?
699 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 16:09:35.86 ID:t7K7FU7S
興福寺って確か奈良だよな・・・・何で遠い新潟山梨のことがわかるんだろうね?
700 :
人間七七四年:2012/09/02(日) 22:24:12.69 ID:aIaJx2OE
>>696 武田なんて名前以外何も流行っていないよ
甲州流軍学なんて捏造の証左であって、だがは
「甲州流軍学は江戸時代の一世を風靡した」などと息を吸うように嘘を吐いているが
実際は甲州流軍学の創始者である小幡景憲の一番弟子ともいえる北条氏長にすらダメだしされる有様。
結局北条氏長は「こんなのアテにならねー」と大幅に改善して独自の北条流兵法を作り上げ
これが幕府に大絶賛されて文字通り一世を風靡するに至ったわけ。
他人の功績で相撲を取ろうとするところがいかにも武田w
701 :
人間七七四年:2012/09/03(月) 00:17:47.88 ID:bizIxyig
>>697 天正大地震で圧倒的被害を受けたのは信雄・家康領国の尾張・三河で秀吉領国は河川が決壊したとも
領内めちゃめちゃになったともなんとも記述はない。天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもその状況ですら秀吉は家康相手に侵攻計画を何回も上杉景勝初め諸大名に告げながらいざ実行となると取りやめてしまう大ヘタレぶり。
1万人も討ち取られ雑魚信雄相手にボロクズのように蹴散らされた天正12年の直接対決でよほどトラウマを引きずっている証左
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
702 :
人間七七四年:2012/09/03(月) 01:43:41.59 ID:wI2Z4anc
>>701 両方豊臣に臣従して、その領国の一部なんで
で、浅間山の噴火で溶岩で農業がだめになったとかきじゅつはねえの?w
領内めちゃめちゃになったっていう記述はねえの?w
人に求めて自分は要らないって?w
ああさいですかさいですかっとw
703 :
人間七七四年:2012/09/03(月) 02:12:35.36 ID:bizIxyig
>>702 は?家康が秀吉に臣従するのは天正14年初頭。それまでの行程は下記の通り
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
704 :
人間七七四年:2012/09/03(月) 02:21:29.63 ID:wI2Z4anc
あぁ、御託はいいから浅間山の被害状況の記述はやくだそうな?w
705 :
人間七七四年:2012/09/03(月) 07:10:16.11 ID:grnmzWEF
句読点いれてくれ。よみづらくてしょうがない
706 :
人間七七四年:2012/09/03(月) 08:07:12.36 ID:Rpxf5Unk
つーかさー、噴火までは武田方が圧倒的に有利だったんならなんで、木曽とか穴山とか裏切ったん?
ふつー、わざわざ弱い方に寝返らないよね?
707 :
人間七七四年:2012/09/03(月) 08:21:50.39 ID:jzy1L6aC
浅間山はスレ違い、他でやってくれ。
>>645 あれから仕事が忙しくなって返答出来なかった。
書いてあるのを読んだけど、一次資料的な事がなかったねぇ。
信玄台地が勝頼の物見台まで含まれるかもしれないからそう書いたんだけどそれ
は無視されたみたいね。
又、石高だけで計算うんねんは、そんな事は初歩の初歩なんで詳しくかかなくて
解ると思って省いたんだけど・・・買いかぶりすぎたようだ。
残念。
>>686 この話題は現地見れば直ぐに違うと解るだろうにね。
しかも主力で戦っていたのはそれこそ平地の南側の徳川勢、位置が数百メートル
はずれている。
いつまで逃げ込んだと主張するのだろうか。
>>690 それはあまりにも武田よりな考えかな。
逆の立場だったらそうもいかないでしょ。
勝頼が判断を誤った方がでかい。
が、このスレ的にはどーでも良い事かも。
708 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 12:20:48.04 ID:Jz1JYTuY
>>699 大和衆は長篠の戦いで武田軍の強さは体感してる。
>>700 >>北条氏長にすらダメだしされる有様
>>北条氏長は「こんなのアテにならねー」
はいはい上記の発言のソース出してみろよwデタラメ乙w
>>702 戦国期の災害において統計係りがいるわけでもないし
田畑の被害記録なんて、
そもそも誰も記録して無いんだが。
それを記録する係官の役職があったら教えてほしいんだが。
気象庁の記録からしてほとんどが一次ソースなしの後世の記録や火山灰の堆積状況発掘調査からたぶん何十年の間に噴火あったかも知れないみたいな推測レベルだし。
しかし大分県からも観察できた超級の火山爆発で、しかも
武田滅亡の前兆とされたほどの事実が大被害を雄弁に物語ってる。
>>706 2/14の噴火を経て
2/18に徳川が掛川集結の動員の開始
2/19に桂林院が武田神社に、勝頼にどんな咎があるのかと天意をなじって祈願。
2/20に勝頼が景勝に援軍要請をしてる。
同じ日、北条も陣触れ開始。
勝頼が諏訪から撤兵後の
2/23頃に木曾が織田へ出した人質には信長も不満だったようだ。
替えに幼き者を送るように命令している。
2/28上野方面も混乱しており、上杉は北条高広が謀反して北条に付いたとの誤情報が入る。
2/29高遠城へ降伏を勧める矢文が送られる。
上杉軍が信濃へ援軍に進撃するのもこの頃。
北条氏直と家康の駿河侵攻の結果である穴山謀反が2/29で、
家康が家臣に穴山謀反公表したのが3/1
書状到来により信長がそれを知ったのは3/3
この穴山謀反を契機に勝頼は甲斐府中を捨てて北へ逃亡。
3/2に高遠城が落城。
なんか台地状に長く布陣してるから野戦する時も
そのまま一斉に横に薄く長く一列に降りてきて対陣し
背走する時も一列になって台地に上がるとか思ってるバカがいてワロタw
一次史料の長篠日記を読んでもそんなアホな話にならないのにwww
709 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 12:46:49.15 ID:tps2ctMT
710 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 12:51:31.71 ID:/MncUVkU
噴火がそんなに大事件だったら、歴史の本に載るよ。注目度の高い戦国期ならなおさら。
でも、武田の滅亡に関して、噴火の話なんて、
今まで一度も
本の中に載っているのを見たことがない。
711 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 12:53:51.79 ID:/MncUVkU
偽文書と同じで、そんな内容は
載るわけもない。紙面に載ったら、読者が大勢いるから
こまかく検討されて、作者は恥をかくのがオチ。
紙面に載ったことで、証拠となるので、言い逃れすることもできない。
712 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 12:54:43.23 ID:JFc13udJ
708を要約すると
長篠の戦中、敵に後ろを取られた勝頼は既に親族衆から見限られていた
アホみたいに敵陣地に万歳突撃を繰り返し壊走、追撃されてほぼ全滅
以後まともに戦っていたのは真田くらいで他は財政逼迫を理由に勝頼ガン無視
713 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 13:07:06.89 ID:LetErpx6
まぁ外交で裏切らせて戦わずして勝つのは信玄の十八番だからなぁ
信長に同じ手で滅亡させられた勝頼が迂闊だったとしか
714 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 13:11:22.33 ID:/MncUVkU
信玄にカリスマがありすぎ。
その子供に、
親と同じことを期待しても
そりゃ無理。
信長の次男三男、秀吉の子供、徳川秀忠、前田利家の子供、などなど、いずれも無理がある。
そん中でも、勝頼は相当かなり優れている方。
715 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 14:11:52.23 ID:14i3P4BB
長篠城包囲隊全滅→親類衆逃亡
勝頼は引くに引けずに死傷者が無駄に増えていく
遂に織田・徳川連合軍、防戦から攻勢に転ずる
武田軍総崩れで撤退戦開始
勝頼だけは何とか生き延びさせようと重臣達が次々戦死
さらに追撃して勝頼を討ち取ろうとが信長がこれを制止
信長は武田がこんな雑魚過ぎるわけがないと思っていたのだろう
甲州征伐の時も信長は武田がこんな雑魚過ぎるわけないと思ってたから
716 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 14:24:41.86 ID:K2IOZZwC
勝頼は命からがら共の者数十名と何とか落ち延びたが
田峰城では入城を断られ、山中を彷徨っていたという
717 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 15:04:45.70 ID:LetErpx6
>>714 やっぱ長篠でその辺りの駆け引き身につけてる重臣失ったのが痛いんだろうな
ただ御館の乱での高坂昌信は甲相同盟破棄しての甲越同盟支持してたみたいだし一概には言えない気もするが
718 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 15:17:06.64 ID:/MncUVkU
>>717 痛かろう。すっごく。
まず、攻撃をかける前線指揮官である山県が、討ち死にしたのが痛い。攻勢をかけるときの
中心人物だったから。
他の中堅どころとして、内藤、土屋、真田の長男と次男までもが討ち死にして、これまた痛い。
最後に、長年の忠臣である馬場が、勝頼を逃がすために殿を引き受けて、討ち死にしたのも痛い。
大打撃だろう。
真田家の長男、次男までもが
719 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 15:18:38.23 ID:/MncUVkU
最後の行の「真田家の長男、次男までもが 」は、削除しわすれた。校正せずに書き込んでしまった。
720 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 15:35:57.06 ID:mbV4/gpM
でさ、彼らが長篠で討ち死にしたって言う証拠の一次史料はまだなの?
そもそも家康と違って信長は長篠の戦い後に感状ひとつ出してないのに
なんで織田が勝ったと認定できんの?
あきらかに嘘長公記の捏造を盲信して
一次史料をことごとく黙殺し続ける織田チョンが思考回路が気持ち悪い。
721 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 15:43:01.50 ID:qPk85WMW
戦にボロ負けして数十名の家臣達と山中を彷徨うのが勝頼クオリティー
722 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 15:52:58.83 ID:/MncUVkU
長篠の戦勝報告の手紙とともに、くび帳に載ってるがな。
723 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 16:04:27.46 ID:/MncUVkU
724 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 16:09:52.12 ID:mbV4/gpM
>>722 はいはいwちゃんとここに出典を書いてねw
725 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 16:11:36.54 ID:INPqq+d2
長篠合戦前は対徳川戦で連戦連勝の武田軍
長篠合戦後は対徳川戦で連戦連敗の武田軍
どうしてかな〜♪w
726 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 16:15:05.87 ID:mbV4/gpM
>>707 >>それはあまりにも武田よりな考えかな。
>>逆の立場だったらそうもいかないでしょ。 勝頼が判断を誤った方がでかい。
はいはいw織田チョン君はどうせまた懲りずに平気で軍記ネタである2万両の黄金とか
一次史料にないネタを持ち出してきて勝頼をムリクリ貶そうとして逆に恥を晒したいんだなw
なにが「金に目がくらんだ」として後世まで非難を浴びるこの行動だよwww
勝頼は上杉の内紛がソフトランディングするように あくまで両者の和解を模索しててバランサーの役割を演じていた。
危機に瀕した景虎への援軍を勝頼は出していて木田(上越市)へ派遣したりしてた。
その行為で景勝が自軍に「俺への援軍」と吹聴していた誤魔化していた景勝は「あれはあくまで表向きのことだ」と
むりくり弁明してる。
その一方で勝頼はぜんぜん援軍を出さない北条に
不満を表明し、はやく援軍を派遣するように交渉を指示してる。
北条の援軍を待つ続けて平和維持軍として越後駐留していて
8/20には「景勝と景虎の和平が理由なく破綻したら
双方への加勢を取りやめると宣言するなど
御館の乱での中立性を鮮明にしており
ここにいったん景勝と景虎間に和平を結ぶことに成功してる。
しかし北条の援軍が来るまでと無理して長期に渡り武田領を留守にしてたのも限界がきて
徳川に対応するために8/28に勝頼は帰国。
徳川も9/4には諏訪原まで撤退。
その後も戦国遺文4369には景虎が武田の支援を受けていると書いている。
家康はなおも諦めず田中城を攻め始めたので、
穴山をまずは高天神城まで派遣してから、自分も後詰めすると言っていて
(織田厨はこのことを歪曲して高天神城がやばくて岡部が援軍依頼したとかデタラメを吐いていたが)
9/24に景勝に対して、景虎との和平が破綻したのを勝頼が嘆いている。
10/7には武田軍の大熊と市川が越後和平のために津南市にあたる妻有・赤沢へ入城したが、
景勝の支援要請を拒否している。
勝頼は徳川攻めで出陣し牧の原から横須賀城攻めを開始したが
堅城だったので高天神城で休息を取ってから
嶋田や田中城を襲撃して回り11/25に帰国してる。
12月に富士大宮の遷宮を実施して諸将が神馬を奉納して天正6年は終わっている。
(天正7年に入っても大金を投資し続けている諏訪大社造営事業も継続されており金に心配はまったくないのが現実)
727 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 17:01:19.82 ID:/MncUVkU
長篠の戦いの様子は、信長公記による描写が有名だが、
甲陽軍艦による記述もけっこうリアルだ。創作も混じっていようが、以下に示す。
http://blogs.yahoo.co.jp/hakusyugurume/6044807.html 上柵を二重に設けて、要害を三つかまえて待ちうけているところへ、勝頼公は一万二千の兵で
攻めかかって攻防の一戦がなされたが、武田方が全面的に勝利した。
それは、馬場美濃守が、七百の兵で佐久間右衛門の率いる六千ばかりの軍を柵の中へ追いこみ、
追い討ちに二、三騎を討ちとる。
滝川(一益)の兵三千ばかりを、内藤修理勢が千ほどの兵で柵の内へ追い込んでしまう。
家康の軍勢の六千ばかりを山県三郎兵衝が三千五百の兵で柵の中へ追いこむ。
728 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 17:18:55.20 ID:mbV4/gpM
>>727 出典不明の内容が多く書かれている
甲陽軍鑑の記述の中において
例外的に一次史料の長篠日記を
パクってきて長篠の戦いを描写していることが
間違いないのが長篠記述での甲陽軍鑑。
ほぼ事実に近い内容が書かれていると言ってよい。
729 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 17:33:18.42 ID:INPqq+d2
世間の認識なんて織田の鉄砲3000丁で武田軍虐殺
武田の大敗に変わりないからどうでもいい
730 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 18:06:08.20 ID:hvgorxoF
>>728 > 例外的に一次史料の長篠日記を
長篠日記が??
まあ、仮に長篠日記が一次史料だとしても、その内容の真贋はまた別の問題。
それなのに
> ほぼ事実に近い内容が書かれていると言ってよい。
こんなこと言えちゃうなんて!!!
731 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 19:11:27.20 ID:/MncUVkU
長篠日記の評価は低いね
732 :
人間七七四年:2012/09/04(火) 19:24:07.14 ID:/MncUVkU
733 :
人間七七四年:2012/09/05(水) 09:38:56.11 ID:mqnjCNd6
長篠日記なんてどう考えて脚色まみれだからな。
そもそも武田氏研究をつづけた高柳光寿含め多くの学者が信憑性に疑問を持っている。
734 :
人間七七四年:2012/09/05(水) 09:41:00.04 ID:mqnjCNd6
挙句内容はといえば「勝頼がアホすぎて重臣が愛想をつかし、清水で酒盛りして武田に殉じる覚悟を決めた」など
いかにも後の信長秀吉家康の天下を知り後付したと言わんばかりの内容で、江戸時代の講談と同じような内容があるという有様
こんな瑣末史料が一次史料と言われるなら甫庵信長記ですら一次史料扱いしてもいいw
735 :
人間七七四年:2012/09/05(水) 11:28:38.12 ID:wO4kd5w0
信長公記の記述につづいて、信憑性があるとされるのが「大須賀記」。
大須賀康高が参戦している。しかし、大須賀記 原文の記述は、ネット上ではほとんど全くなし。
736 :
人間七七四年:2012/09/05(水) 11:41:24.19 ID:v/KzyW0U
大日本史料稿本がある、ただし恐ろしく読みにくい
737 :
人間七七四年:2012/09/05(水) 12:10:30.41 ID:wO4kd5w0
>>736 情報サンキュー。
藤本の書いた「信長の戦争」では、
信長公記を中心として、補足資料として、
桶狭間の戦いでは「三河物語」、
長篠の戦いでは「大須賀記」を引用している。
しかし、藤本がその後だした新しい文庫本では、三河物語も大須賀記もカットされている。
なにか気に入らなかったらしい。どこがどういうふうに問題があったかは不明。
738 :
人間七七四年:2012/09/05(水) 18:07:23.69 ID:wO4kd5w0
739 :
人間七七四年:2012/09/05(水) 18:50:12.99 ID:CO74N0VT
長篠日記は原文に加筆が認められ、
実際に筆者が眺めていた戦闘状況と推移に関しては否定出来ないものの、
武田軍の軍議内容やそれを受けた討死描写は
原文筆者が知りようがなく、
明らかに軍鑑や公記から引用した加筆が認められると言われている。
後世になり加筆した人間はさらに正確にしようとした結果、
講談要素を足してしまった笑えない話。
740 :
人間七七四年:2012/09/05(水) 18:55:25.83 ID:v/KzyW0U
>>738 火縄銃の射程ギリギリまで近接しているな
741 :
人間七七四年:2012/09/05(水) 20:25:30.23 ID:wO4kd5w0
742 :
人間七七四年:2012/09/05(水) 20:36:22.24 ID:wO4kd5w0
743 :
人間七七四年:2012/09/05(水) 20:45:42.61 ID:wO4kd5w0
>>741のpdfなんだが、武将塚の位置も
丸数字で記載されている。頸をとったあとの胴体をまとめて埋葬したんだろうけど…。
これの位置が、馬防柵あたりには無い、のが意外だ。やや意外な場所に多い。
意外なところで戦って(討ち取られて?)いたのか?。
744 :
人間七七四年:2012/09/05(水) 20:53:33.41 ID:wO4kd5w0
南方にいた徳川軍は、柵の前に出て戦い、
織田軍は柵から出ないで戦い、
最後には、敗走した武田軍を追撃したわけだが、
pdfの地図見ると、なんだか、ぽか〜ん、とするわい。意外すぎて。
745 :
人間七七四年:2012/09/05(水) 21:52:15.20 ID:f8+UxTsk
>>740 なんか知れば知るほど両軍5万近い大軍が決戦するにふさわしい戦場には思えないなぁ
地の利は織田徳川でそれに対して寡兵の武田が攻撃ってのがどうも引っかかる
この狭い戦場で織田徳川が武田の攻勢衝力の鈍化を捉えて陣前出撃したのなら
穴山らの予備隊が逃げた武田軍はまず退却できない
っていうか壊滅する
746 :
人間七七四年:2012/09/05(水) 22:31:00.81 ID:v/KzyW0U
747 :
人間七七四年:2012/09/06(木) 08:11:58.50 ID:Kx4JbXfZ
>>726 厨とかチョンとか書く人間は、持論に自信がないから人格批判に行くんだよねぇ。
しかも歴史好きなら、第三者的な見方をするのが普通。
それさえ出来てないんだもんなぁ。
残念ながら、一生懸命書いているけど、勝頼の判断ミスをぬぐい去るものでは
ないかな。
ちなみに、信長より勝頼の方が好きな武将だよ、頑張っているし。
でも、だからといってひいき目をしちゃいけない。
>>745 そこが自分も不思議なんだよね。
実際鉄砲がどれほどの活躍をしたかはわからないけど、現地に行ってみると
かなり近いのがわかる。
何故こんな所まで武田は出て来たのだろう。
748 :
人間七七四年:2012/09/06(木) 08:26:56.60 ID:4LGmrLrv
749 :
人間七七四年:2012/09/06(木) 08:39:14.40 ID:4LGmrLrv
750 :
人間七七四年:2012/09/06(木) 13:14:53.57 ID:lF2DeEpp
>>748 この図を見る限り連吾川越えて突撃した武田軍はあと2つ小川越えてもまだ織田の予備隊が居るのかw
まぁそんなとこまで勝頼が知ってたわけじゃないんだろうけど
やっぱり広々とした平野で野戦すべきだったね
751 :
人間七七四年:2012/09/06(木) 13:37:11.84 ID:4LGmrLrv
後方に予備隊もいるように見えるが、徳川軍そのものは、5000人ぐらいしかいない。
752 :
人間七七四年:2012/09/06(木) 14:31:09.29 ID:FTmA0UG+
>>749 つまり徳川が壊滅=連合軍の損害6000。
追撃に掛かった武田が釣り野伏せにかかって
あとはカンナエ状態てこと?
753 :
人間七七四年:2012/09/06(木) 14:52:12.22 ID:4LGmrLrv
徳川の有名武将の討ち死がないから
徳川が壊滅ってことはないだろうけど、
でも柵の前に出て、武田軍と入り乱れて合戦を始めたそうだから、被害はあったと思うんだけどなあ。
754 :
人間七七四年:2012/09/06(木) 15:54:45.99 ID:o0+PA8yf
長篠後武田は徳川相手に防戦一方で戦費が増大して財政破綻寸前
第三次信長包囲網で織田の後詰めが全く期待出来ない徳川相手に劣勢
徳川は逆に織田に援軍を差し向ける余裕っぷり
ジリ貧で金に目の眩んだ勝頼は景勝を支援して北条を敵に回すアホっぷり
長篠は武田にとって政治・経済・軍事的大惨敗でしたと
755 :
人間七七四年:2012/09/06(木) 16:09:47.18 ID:hF9SoFy7
古地図なんて江戸時代の妄想じゃん。
>>武田が釣り野伏せにかかって
なにこの捏造妄想願望ワロタw
756 :
人間七七四年:2012/09/06(木) 16:30:36.50 ID:hF9SoFy7
>>754 ひどいデタラメだな。
徳川は高天神城を攻略するのに長期間苦労して包囲を続ける体たらく。
田中城に至ってはいつも追い返される始末だし
勝頼がいない時に武田領にちょっかい出すも
勝頼が勝負を挑んでやってくると徳川は毎回逃亡するパターンばっかじゃんw
信玄死去で影響力が低下した時期で勝頼が安堵状発給に必死で混乱してる時期に
ちょっと徳川が有利に行動できた一時期だけを誇張してバカじゃねぇのw
757 :
人間七七四年:2012/09/06(木) 17:31:46.15 ID:DtEyEi02
>>754 ではなんで天正10年の武田攻めの前に徳川単独で勝頼の首を取らなかったの?
織田の介入を頼んだから
武田領の甲斐、信濃、駿河、上野のうち、貰えたのは駿河一国のみ
アホ丸出しは徳川
758 :
人間七七四年:2012/09/07(金) 07:05:29.44 ID:EAPI4Jtq
そのわずか数ヶ月後に信長は死んで、家康は信濃を穫って
一気に100万石大名になる。
信長が甲斐からの帰り道で、富士山見物をしながらドンチャン飲み食い騒ぎをしたのは、
あとになってみれば、最後にして最大の慰労となった。
759 :
人間七七四年:2012/09/07(金) 07:13:19.64 ID:EAPI4Jtq
そのときの太田牛一の浮かれっぷりは凄い。こんな素晴らしい山は他にない、見事だと、
ベタ誉めの記述が長々とつづき、家康の接待の数々もすごくて、皆、完全に浮かれ切っている。
このわずか3ヶ月後には本能寺の変が起きて、信長公記も終わりとなる。
760 :
人間七七四年:2012/09/07(金) 08:06:08.14 ID:+JP8YzZA
>>749 ああ、武田じゃなく、徳川方から仕掛けた可能性もあるか。
しかし、山間の戦いだけど、地形的には連合軍の方が守るのに適している様に
思えた。
なのに徳川から攻め込むってのは確かに何か変だw
武田は連合軍に仕掛ける為に布陣したのではなく、防御の為に布陣したって
のは考えてなかったな。なるほどなぁ。
>>754>>756はどっちもどっちだけど、武田がじり貧だったのは確かなんじゃな
いかな。
しかし、なんか論点が違ってないか?
761 :
人間七七四年:2012/09/07(金) 10:34:47.41 ID:GStw8eSh
長篠城奪還、奥平逆さ磔のはずが
気付いたら岩村城奪還され秋山逆さ磔されてたでござるの巻
762 :
人間七七四年:2012/09/07(金) 19:09:06.70 ID:8+zOO1Up
武田ジリ貧を証明するソースをおくれ。
763 :
人間七七四年:2012/09/07(金) 19:52:11.81 ID:bG0ko7aE
764 :
人間七七四年:2012/09/07(金) 21:52:22.56 ID:EAPI4Jtq
>>760 長篠の戦いを描いた超有名な屏風図では、
柵の中から鉄砲を射ったことになっているのに、
下の方にて、
柵の前に出てしまっている鉄砲隊が
描かれている。
それが徳川の兵。
家康と一緒に
信長も高台から指図しているので、
家康の無断命令ではない。
徳川方から仕掛けた可能性もあるが、このあたりは確かに変だ。
でも、変といっても、動かぬ証拠があって、
鉄砲玉の出土と首塚の位置が武田の陣地内なので、
変だといっても、証拠を解説するために、なにか解釈を考えねばならない。
大須賀記は、榊原家の家譜でもあるが(大須賀家の者が榊原家へ養子になって継いで、大須賀はお家断絶)
本多家の『本多家武功聞書』にも長篠のことがちょっと載ってる。
「本田忠勝の陣所へ武田軍の内藤昌豊の1500人の部隊が攻めかかり、三重目の柵を乗り越して24人が
押し込んだが、撃退した」とある。
内藤昌豊は、信長公記では、二番に攻め込んだ正用軒のときの武将。一番の山県と同じ場所を
攻めている。徳川と交戦。
http://blog-imgs-47.fc2.com/a/s/k/askagakki/201201201058029e5.jpg 上記の図のうち、「徳川鉄砲隊」と文字の書いてあるすぐ下にいる奴が山県。右向いている奴が
隣にいるが、山県の首を奪われぬように、甲斐に持ち帰ろうとしているところ。
左下の方に、旗が赤白のものが描かれている。これ内藤昌豊(の旗)。
徳川軍と武田軍では、柵の前で一進一退の攻防をやったらしいのだが、
戦いの終盤で、織田軍がどっと追撃戦をやったときに、武田軍は北東へ逃げ出したのだが、
徳川の正面にいる部隊は、道の関係上、逃げられない位置にいる。西は徳川軍、南は川、東は長篠城(徳川が奪回済み)、
北部方面は、織田の大軍が東に向かって追撃戦中。
武田の首塚、および鉄砲弾出土が、徳川正面の武田の陣地内に多数あるのは、
包囲した武田軍をそこで虐殺したためではないか?と、オイラは解釈している。
765 :
人間七七四年:2012/09/07(金) 22:16:25.30 ID:EAPI4Jtq
766 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 01:54:48.56 ID:bRwB3mwy
信君、信豊、信廉としては勝頼討ち死にで信勝を信長に臣従させたかったとおも
彼等の敵前逃亡は勝頼を織田・徳川軍に討ち取らせるつもりだったんだろうが
まさか重臣達があそこまで勝頼の為に戦うとは予想だにしていなかったはず
親族衆は自分達がさっさと敵前逃亡すれば重臣達も勝頼見捨てて我先に
逃げ出すと思っていたのが、とんだ計算違いだったのが長篠の戦いであった
767 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 07:01:18.50 ID:7ze+Jyka
古地図は史料的根拠の無い妄想だし、
首塚も基本的に後世の人が史料的根拠なく作るので捏造なんだが…
768 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 07:14:34.05 ID:xgRI8Nh8
769 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 07:33:08.31 ID:xgRI8Nh8
>>766 勝頼の親族衆だが、
どこにいたか?となると、本陣のあたりだろう。
勝頼がいた最前線の本陣は、才ノ神(さいのかみ)。
信玄台地が一番狭く、かつ、一番高いところで、道も東西に通っている要地。
丸山方面がよく見える。
しかし!、徳川の軍との攻防あたりは、よく見えない。
信長公記の太田牛一は、長篠の戦いに参加したようで、戦いの描写が詳しいのだが、
戦いの最後のあたりは
「諸卒をうたせ、次第々々に無人になって、いずれも武田四郎旗元に駈集り」とある。
武田四郎の旗元が見えた、ということは、太田牛一は織田の主力がいた
設楽原の北方の陣地にいた
ことが推定される。そこからは、徳川の戦いはよく見えない。
ので、山県と家康の戦いは、聞き書きらしい。
設楽原の北方の織田軍は、柵の中で迎撃専門だったので、鉄砲で柵の中から撃ついわゆる一般的イメージそのもの。
ところで才ノ神の本陣に、最後に生き残った兵が集まっていけば、北東に逃げれば、
そこにいたと思われる親族衆は、一番逃げ易い位置にいる。
770 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 12:03:19.23 ID:wcL1lXyr
>>768 この時代長篠から32年後に行っても多くが死んでるだろうし
だいたい村人は略奪を恐れて逃げ出してるよw
771 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 14:41:49.52 ID:+lN0ZqCG
織田の後詰め情報でガクブルで戦意喪失
あまりの鉄砲の数にガクブルでダブル戦意喪失
後ろを取られてやばいと思って敵前逃亡
こんな感じか
772 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 15:30:38.09 ID:iwKHrQfp
三方原みたいな野戦に持ち込んでても二倍の兵力の織田徳川を撃破できてるとは思えないけどな
皆がそう思うけど長篠で勝頼が攻撃命令出した経緯がよくわからないから
・佐久間の裏切り情報
・勝頼の暴走
だの色々なネタが考えられたんだろうけどさ
773 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 17:42:13.33 ID:RMUFNeP1
長篠城から織田主力との決戦を諦め逃げ出した信玄みたいに
長篠城攻略を諦めて親父みたいに尻尾を巻いて逃げ出すべきだった
逃げ足の速さだけは戦国一の信玄だったが、勝頼には武士としての
意地や誇りような物があったのだろう
774 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 19:09:49.41 ID:sl/mhg1R
太田は参加してないんだけど、
なにがソースなんだよ…
775 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 19:41:31.13 ID:xgRI8Nh8
太田牛一が書いた長篠の戦いで、地形の描写は、一例として下記。
家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為、柵を付けさせられ、彼のあるみ原は、
左りは鳳来寺山より西へ太山つづき、又、右は鳶の巣山より西へ打ち続き
たる深山なり。岸を、のりもと川、山に付きて、流れ候。両山北南のあはひ、
纔に三十町には過ぐべからず。鳳来寺山の根より滝沢川、北より南に
のりもと川へ落ち合ひ候。長篠は、南西は川にて、平地の所なり。
描写がひときわ特に念入り。牛一が実際に参加して、現地を見なければ無理な描写だろう。
『太田は参加してないんだけど、』と名言するソースをむしろ知りたいわ。
776 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 19:53:26.49 ID:xgRI8Nh8
ググったら、前スレで誰か書いてるやないか
498 : 人間七七四年 : 2009/01/20(火) 21:25:18 ID:Fa6MmyCV [1/1回発言]
長篠の戦いにおいて、信長公記によると、武田軍は侍・雑兵合わせて1万ばかり討ち取られた、即ち、約1万人が戦死したことになる。
太田牛一が、長篠の戦いに参戦していたことは、同時代の書状でも確認できるとのことで、実戦に参加し、見聞している以上、信憑性は高い。
この『同時代の書状』とやらは、オイラは知らない。
777 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 21:28:07.73 ID:sl/mhg1R
で、太田が参加したことを証明する一次史料はまだなの?
778 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 21:39:26.90 ID:xgRI8Nh8
で、太田が参加しなかったたことを証明する史料はまだなの?
779 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 21:41:58.27 ID:xgRI8Nh8
>>777『太田は参加してないんだけど、』を証明するソースを示せば、済むことだね。
780 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 23:46:36.31 ID:IWpELfQc
>>773 親子2代で信長にビビッて逃げ出したなんて末代までの恥だろ
勝頼としたらあそこは逃げたかったんだけど逃げられなかった
敵前逃亡した親族衆が正しかったんだけどな
織田と武田じゃ像と蟻並みの差があったからそもそも無謀な戦いで
文字通り蟻が像に踏み潰されたような本当に悲惨過ぎる戦いだった
781 :
人間七七四年:2012/09/08(土) 23:57:44.39 ID:IWpELfQc
象だった
782 :
人間七七四年:2012/09/09(日) 05:38:51.22 ID:3tKpx6yA
>>780の言う通りだろうね。結果から見てもそのとおり。
信玄が西上したときが 最高 で、その後は右下がり。
信玄が死んで、
浅井、朝倉の両大名は滅亡。
足利将軍を追放して室町幕府滅亡。
ここで武田が高天神城をとって、唯一ちょっと巻き返す。
その後、長島が全滅。
その次が長篠の戦いだ。
勝頼にしては、まだ巻き返せるチャンスはあったと感じたかもしれないが、もう戦う前から
負け気味。
783 :
人間七七四年:2012/09/09(日) 10:06:50.29 ID:dTcnBZrx
勝頼6万動員可能
織田・家康連合軍3万まで。
どう考えても武田優勢。
勝頼がナメて6000で3万と戦うバカをやってからも
織田は武田との戦いをひたすら回避し甲江同盟詐欺を繰り返す。
徳川も武田との国境周辺を荒らすが、勝頼がやってくると逃亡。
勝頼は徳川領深くまでやってくる能力がいまだあったが
家康は武田領でも突出し過ぎている高天神城包囲がやっと。
家康が武田との内通係を分担していた嫡男信康を斬ってまで
北条との同盟を土下座哀願したことでやっと相三同盟成立。
信長の娘婿まで家康は切るほど、ヘタレ信長の武田への弱腰には呆れていた。
長篠の戦いの後、家康や謙信から信濃侵攻の約束を何で破ってんだよ?と非難されまくってたのが信長。
徳川と北条を同時に相手にして無双してたのが勝頼。
佐竹らとともに北条を蹂躙しまくり。
しかし浅間山噴火で武田が自壊。これが現実。
784 :
人間七七四年:2012/09/09(日) 10:24:09.06 ID:E7HTbPrN
キチガイの喚きたてる現実ってことはただの妄想か
785 :
人間七七四年:2012/09/09(日) 10:55:53.16 ID:HrtAS9Hp
長篠以後三河領内から完全駆逐され、岩村城の秋山見殺しで
東美濃からも完全駆逐され、二俣・犬居城陥落で北遠からも完全駆逐
諏訪原落城で高天神城防衛がやっとで駿河領内を徳川に頻繁に
侵攻されまくってた事実は完全無視ですかそうですか
786 :
人間七七四年:2012/09/09(日) 10:59:48.11 ID:dTcnBZrx
信長をイザという時に役に立たないとして
家康が保険として武田との関係を維持するのを止めて清算したのは天正6年の情勢変化まで待たないとならない。
天正6年9月22日信康の岡崎城へ岡崎衆が信康へ出仕することを家康が突然禁止した時期が
謙信が死去して御館の乱が勃発したのが3月で
6/29には越後府内に勝頼が到着していたが
真田が景虎と北条側の沼田城攻めをしようとしており氏政が不審に思っていたり
8/19には北条が信濃通過するのに制限をかける代わりに
奥信濃まで武田へ譲渡と景勝と縁組する約定が取り交わされ
9月上旬に北条軍が景勝の実家の上田長尾氏の本領たる越後坂戸城を攻めていたが
景勝が坂戸や妻有へ武田軍の援軍が近いと報せていて
(9月下旬に妻有城や赤沢城も武田へ譲渡され兵を入れている)
しかも武田軍は中立的に景勝と景虎を和睦させる努力をしていたのに
6月以来、北条がやっと越後出兵を開始したことを
「遅すぎる」と不満に思ってきていて帰国してしまった。
これらの情勢から家康は北条と武田の同盟破綻を察知して
親武田のチャンネルを持っていた信康を更迭してしまった。
天正7年9月5日の北条と徳川同盟が成立したことで
伊豆と駿河国境で武田と北条が全面戦争に突入すると信康を9月15日に自刃させてる。
北条と武田同盟が存在する限りは武田は強勢を保ち続けると読んでいた家康は
武田との交渉チャンネルを維持してきたんだろう。
万が一の時には家康が隠居して信康に家督を譲渡して
武田騎下として生き延びれる選択肢を持っていたが、
謙信死去で北陸戦線を放置しての上杉内乱や
甲相同盟破綻と北条と家康の同盟は
武田と互角に戦っていける状況の到来を確信させ
信康が用済みになったと言える。
787 :
人間七七四年:2012/09/09(日) 14:53:14.55 ID:p+ie7KTH
ひどいデタラメだな。徳川は高天神城を攻略するのに長期間苦労して包囲を続ける体たらく。
田中城に至ってはいつも追い返される始末だし
勝頼がいない時に武田領にちょっかい出すも
勝頼が勝負を挑んでやってくると徳川は毎回逃亡するパターンばっかじゃんw
信玄死去で影響力が低下した時期で勝頼が安堵状発給に必死で混乱してる時期に
ちょっと徳川が有利に行動できた一時期だけを誇張してバカじゃねぇのw
実際には奥平氏は山家三方衆では一番格下であったため
1000貫以下の領地しか持たない小身の奥平貞能に対して
家康は破格の条件で買収し城から逃げさせた。
家康は3000貫の領地を約束し
さらに嫡男の奥平信昌には家康長女の亀姫を嫁がせ
将来の長篠城主(武田方で菅沼正貞が城主)の約束
貞能の娘を本多広孝の次男と婚姻させる
こんな破格な条件提示させたから欲に目が眩んで城から脱走しただけで
しかも信玄死去後に勝頼は地盤固めの内政のために
自ら援軍する約束をしても実際には援軍に来ないと言う状況もあって
奥平氏が離反しただけの話。
そもそも徳川が築城した牧野城のことであって
諏訪原城自体が武田が作ったか怪しいシロモノで
しかもいつ出来たもんかもわからん。
該当時期に存在していない可能性も充分にある。
歪曲大好き織田チョンが諏訪原城がある位置は榛原郡なのに
「於佐夜郡築地利候、普請太略成就候間、籠置人数候ハハ、可令帰陣候」
などを根拠にあげて無理やり諏訪原城のことだと主張する基地外はいるけどなw
勝頼は来年春の当家興亡の一戦による決戦をタイムスケジュールに入れていて
軍役定書を出していて天正3年後半はそのための準備期間だった。
しかも同時期に義昭を通しての上杉・武田・北条の和睦外交もあった。
さらに来年初頭には信玄の仏事を大々的にやる予定でもあり援軍派兵は控えていた。
その期間に二俣城が落城したとする妄想もあるそうだが、
その根拠は徳川実紀の出典一覧にまったく存在しない著者不明・成立年代不明の
明らかに鈴木肇氏の妄想で書いた偽書認定されている浜松御在城記にしかない。
デタラメ神君マンセー「大須賀記」にしか登場しない犬居城陥落物語w
長篠の戦いでは信長が一切、皆柵ノ内ニ引籠って出陣を禁止。
織田・徳川は徹底的に引きこもりを続けていたが
大須賀康高が柵の外への出馬が御法度なら馬に乗らずに歩行すれば御法度破りに
ならないじゃんwwwとトンチを利かせて一番合戦を開始し比類無き働きをする。
その後、遅ればせながら大久保忠世・忠佐・内藤家長も出てきて
彼らだけの独力でついには武田を敗走に追い込むことに成功。
大須賀・大久保・内藤連合が武田に勝利するまで織田軍は柵から一切出ずに
縮みあがってヒッキーだったが、追撃の時になってやっと出陣。
長篠の戦いは徳川の勝利であり、織田は単なる引きこもり無能だったというストーリーで
織田軍のヘタレ具合が各軍記・家記でも随一の記述が「大須賀記」
788 :
人間七七四年:2012/09/09(日) 15:05:00.21 ID:mv87DvJr
ためしに”苦労した”とかお前の主観を除いてレスしてみ?w
789 :
人間七七四年:2012/09/09(日) 16:13:10.79 ID:3tKpx6yA
武田が奪った高天神城だが、徳川内の領地に突出しており、
周囲の田畑を支配できずに、城だけの確保であり、
食料の補給とか、負担になるばかり。
徳川にくれてやった方がよかろう。
790 :
人間七七四年:2012/09/09(日) 16:28:07.81 ID:3tKpx6yA
武田の滅亡のきっかえになったのは、木曽氏の2/1の離反であるが、
織田に味方すると連絡を入れたときのセリフが
「兵を入れてくれ」とのこと。
勝頼にはすでにバレており、2/2には勝頼はすでに出陣しているほど。
というわけで、信長は緊急事態で出動、というほどには本人の出動はトロかったが、
息子の信忠がただちに国境の兵を率いて出陣。
飛騨口、中山道、伊奈口、駿河口、相模口などからの、大軍の同時侵攻となった。
武田軍にとっては、木曽氏は中山道の最前線にいたが、
南信州にいた伊奈口の小笠原氏も最前線にいた。長篠城の奥に位置する。この小笠原氏が寝返ったので、
南信州は、一気に織田軍についた。
勝頼は、高遠城の背後に大軍を集結させて、いざ決戦のときをむかえようとしていた。
ここで思わぬ事態が発生。
穴山氏が人質をこっそり引き取って、織田軍につく(木曽氏の人質は惨殺されたが)。
駿河口から家康が侵入してたので、戦う前に寝返ってしまった。
これで、勝敗のケリはついて、武田氏はあっさり滅んでしまった。
あとで信長は、木曽氏、小笠原氏には領地安堵などのサービスをしたが、
穴山氏にはひときわ特別サービスで、京都に観光旅行させている。帰りに土民に惨殺されてしまうけど。
長篠の戦いは武力そのものだったが、武田氏をほろぼすしたときは、武力ではなく、
調略で決まってしまってる。
791 :
人間七七四年:2012/09/09(日) 19:05:02.88 ID:5LwEDoNs
織田信長はおろか織田信忠にすら勝てなかった雑魚武田が織田を倒すなんて夢のまた夢
せめて信忠と一益の首を取るくらいしてから「織田に勝てたはず」とか言い出すべき
若干26歳の息子にボコボコ虐殺された武田www
792 :
人間七七四年:2012/09/09(日) 20:32:24.02 ID:3tKpx6yA
もし、逆転を狙うとすれば(あるのか?)、
追放された足利将軍を、甲斐で引き取るとか…。
毛利の方へ行ってしまったけど。
793 :
人間七七四年:2012/09/09(日) 21:32:37.44 ID:8juAr3MH
やっぱり武田>>徳川>>超えられない壁>>織田だなあ。
794 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 06:35:27.60 ID:ZSlSis5c
なんといっても、石高が違う。武田>>徳川
2倍ぐらい違う。
最後の西上作戦は、
信長包囲網、軍事行動ともに、芸術的な最高傑作。
信玄の調略と、戦の駆け引きは、まさに天才的。
武田がほろんだとき、織田軍は甲府で重臣の殺戮を繰り返している。信長公記では、重臣をかくまった
寺の坊主たちを焼き殺している。心頭滅却すれば火もまた涼しは、このとき。
焼き殺したけど。
武田の上層部に対しては、信長は積年のかなり恨みを持っていた様子。それは天正10年の4月ごろだけど、
2ヶ月後には信長も死ぬ。
795 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 06:52:28.77 ID:ZSlSis5c
武田が滅んだとき、
勝頼の悪行が原因だったと、一応、信長公記は書いてある。
訳
近年、武田勝頼は新たに税金等を申し付けて、新たに関所をかまえ(通行税をとるため)、
民百姓は、
悩み尽きなく、重罪は賄賂をとって釈放となり、少しのカネしか出せなかったときは
懲らしめの理由にして、あるいは磔にかけられ、あるいは討ち取られて、嘆き悲しんでいた。
内心は、信長の分国(領地)になりたいと、大衆は願っていたところ、この時を幸いと、
上の者から下の者まで、信長に御忠節することになった。
796 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 06:56:20.44 ID:ZSlSis5c
武田の武力を信長は恐れていたけど、上記理由をみると、
財政(カネ)の事情が、原因だな。
武田家が窮乏しすぎ。
カネや豊かさとなると、信長の領地の方が断然に
織田>>超えられない壁>>武田
だから。
797 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 07:12:22.38 ID:ZSlSis5c
木曽氏が寝返ったのも、重税が原因だしな。
勝頼が新府に城を作っているため、木曽氏に材木をもってくるように命じている。
イカダ下りで下流の町にもっていくならともかく、
木曽の領内から、甲斐の新府までは、山越え、谷越え、丸太を人馬でひきずっていかねばならない。
大木を何十本か、それ以上の数だ。
雪道を滑らせて、持って行く訳だが、かなり過酷な負担といわざるをえない。
798 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 08:22:34.90 ID:ZkHfz4W4
財政がやばかったとする一次史料は?
公記は全くのデタラメ書いてるから信用性ゼロ。
799 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 09:07:20.28 ID:LMgYUVFI
しかし、一定の時期で話を戻さないと、範囲が広くなるなぁ。
ここは長篠・設楽原の真実スレだよ。
>>764 個人的には第4次川中島の経緯に疑問を感じているるので絵図と言う物をあま
り信用していないけど、馬防柵の前で鉄砲を撃っているのは興味を引くある描
き方だね。
でもこの描き方は鉄砲隊が川の内だし、武田が攻めて来ているように描かれて
いるかな。
真実はわからないけど、描いた作者がどう聞いていたのか興味がわく。
>>766 その考えは個人的には否定的なんだけど、信玄の時の様に、絶対的な当主
ではなかったとは思う。
それでも、親族衆がさっさと引き上げてしまうのは敵前逃亡と見られても
仕方ない。
戦後に親族衆を罰せられなかった事も、武田滅亡の一つの要因なのかな。
800 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 09:17:35.54 ID:nB3XdW2l
801 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 12:10:16.36 ID:ZSlSis5c
802 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 12:27:01.88 ID:qdTH0JGV
一番古いのは名古屋市博物館蔵のだが
803 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 12:59:24.44 ID:ZSlSis5c
804 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 13:13:09.92 ID:ZSlSis5c
805 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 13:36:06.73 ID:pqaYGti3
あげ
806 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 15:35:52.04 ID:LMgYUVFI
>>803 これは面白い。
赤地図も、この屏風も興味深いね。
しかし、徳川方が攻めていたとなると、馬防柵や、布陣は何の為だったのだろう。
その辺は、武田強しの影響だろうか。
807 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 16:30:42.51 ID:ZSlSis5c
808 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 16:39:29.25 ID:HUvtkzPm
勝頼は敵が長篠城救出をせずに防御陣を構築しているのを見て
精強武田軍を恐れて敵は成す術無しと思っても当然だったと思われる
勝頼がこの時点で取れる理想的な行動が一つあった
敵が攻撃を仕掛けてくるまで動かずに寒狭川を挟んで対陣を続ける
兵糧攻めに苦しんでいた長篠城兵の降伏は時間の問題だったから
長篠城陥落後に撤退する敵軍を追撃しても良かった
809 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 16:54:14.35 ID:ZSlSis5c
810 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 17:22:22.13 ID:5Kbklq5/
>>808 勝頼が寒狭川を渡ってしまった事は過去レスでもかなり疑問視されていますね
信長・家康は後詰に出て来たはいいが、武田軍を眼前にしてかなりの恐怖感があったはず
家康なんかは三方ヶ原の大敗で脱糞したとまで言われていますし、信長も武田軍を
心底恐れていたと思います
811 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 20:15:56.88 ID:xN6Vkhst
寒狭川を挟んで睨み合い
織田陣地より発砲したことで開戦
武田軍が渡河し野戦で佐久間が全軍指揮する織田軍に大勝する
崖上の柵に逃げ遅れた織田軍6000が殲滅される。
柵内で徳川が必死に防戦。
夕闇になり武田軍撤収。
徳川が追撃する
こんな感じじゃね。
812 :
人間七七四年:2012/09/10(月) 20:30:30.28 ID:xN6Vkhst
だいたい長篠後も徳川が武田相手に防戦してる中で、
信長は家康には内緒で勝頼に和睦を哀願して拒否られてるしなあ。
813 :
人間七七四年:2012/09/11(火) 01:12:19.34 ID:E1p/vWPh
>>810 どうせ、ハルハ河渡河の辻参謀殿と大差無い精神状態だったとか・・・じゃろ。
814 :
人間七七四年:2012/09/11(火) 07:20:08.53 ID:5hpEuG3T
徳川軍と違って織田軍は弱過ぎるからな。
815 :
人間七七四年:2012/09/11(火) 08:13:14.39 ID:Uie31715
>>809 スレ違いになるけど、妻女山は是非やってもらいたいね。
どう考えても野戦に強い謙信が展開できない急な山に布陣するはおかしい。
>>811 いや、だから一回現地に行った方が良いよ。
陣地に逃げ込むっていっても、そんなスペースも、区切りも出来ないほど近い
のがわかるから。
確かに、織田軍は強いとは思わないけど、あの地形、布陣、兵数の差で追い回
すほど、武田も強いとは思えない。
又、徳川の武田への恐怖心とは言うけれど、そんな軍記的なことが本当かどうか。
武田が怖いなら、諜略かけたり、長篠救出に来たりはしないんじゃないか?
それこそ、その説が通るなら、高天神城放置は、設楽原敗戦で武田が徳川を
怖がった為って事になるw
ナンセンスだなw
816 :
人間七七四年:2012/09/11(火) 09:53:30.95 ID:anCJJH04
結局徳川さえ滅ぼせなかった武田…
財政不足なのに喧嘩売ったバカ武田なのか財政潤沢なのに遥か格下すら滅ぼせなかった雑魚武田なのかは知らないけど
817 :
人間七七四年:2012/09/11(火) 11:32:20.82 ID:AumWo0MO
要するに織田は雑魚だったということかな
818 :
人間七七四年:2012/09/11(火) 13:17:37.30 ID:wa+5maPw
戦いの様相が変化してるのについて行けなかったのが武田の悲劇
浅井・朝倉が一気に滅ぼされた時点で織田の怖さに気づくべきだった
819 :
人間七七四年:2012/09/11(火) 14:41:51.13 ID:kH0cMYg0
戦いの様相は、
大苦戦し岩村城が全く落とせず、
ついには城将秋山を詐術で欺くような悪辣なやり口しか出来ない信長のやり方のことかな。
820 :
人間七七四年:2012/09/11(火) 23:40:22.50 ID:SCxuiUSr
お前がそう思ってるならそれでいいんじゃね
自分の庭で遊んでりゃいいじゃん
821 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 01:29:27.08 ID:gQk/IlZ6
そんな秋山を信長にビビって救援できずに見殺しにした雑魚武田www
さっさと助けていれば秋山が死ぬこともなかったのにwww
822 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 06:48:41.49 ID:gYFBikzQ
>>821 一次史料にしっかり
勝頼が岩村へ支援に行く予定だったが、
徳川が攻めてきたからそっちいくと書いてる。
美濃の僅な領地より
駿河から甲斐へ直撃できる領地の方を重視しただけなのがはっきりわかるんだが。
信玄によって美濃統一すら不可能に追い込まれていた信長にすりゃあ岩村は重要な悲願かも知れんが、
武田に取ってはロクに美濃なんて領地持ってないから維持する必要性皆無。
そもそも謙信や家康から信濃侵攻を約束しながら、
やっぱり本格侵攻は避け続けて
武田を刺激しないシグナルを送ってるのが信長。
おかげで信用性ゼロになり、
謙信は信長との同盟破棄
家康は北条との同盟交渉に移行し、
信康の嫁である信長の娘は冷遇されるも
信長はなにも言えず。
823 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 07:36:38.97 ID:5l2SZUEb
そりゃ冷遇程度で何も言えんわな、昼ドラやら大河じゃねえんだからw
刺激しないシグナルだのなんだのw
824 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 07:43:46.30 ID:DPepG82e
家康の長男である信康は、あとで切腹させられることで有名だが、
初陣が、長篠の戦い。
4年後に切腹させられている。
武田滅亡は7年後ぐらいだから、ちょうどその間。
しかも信康が幽閉されていた場所は、対 武田の最前線である二俣城。
825 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 08:00:26.40 ID:DPepG82e
松平信康が死んだのは、天正7年9月15日(1579年10月5日)。
そのころ、武田に通じたという理由で、織田家の内部でも
家臣の追放が行われていて、
安藤守就 天正8年(1580年)8月。安藤だけじゃなく、理由こそ違うが
佐久間信盛・林秀貞・丹羽氏勝も同時期に追放されている。
ということは、そのころには、対 武田は、もう大丈夫だと一段落していたのだろう。織田は
10年がかりの大敵である本願寺を攻略したばかりで(天正8年 1580年 佐久間追放は年内)、
織田軍は余裕あり。
武田は、もうこの時期には落ち目だったのだろう。
826 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 08:09:36.92 ID:DPepG82e
天正10年(1582年)2月に、木曾義昌の反逆。この後は略。
827 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 08:12:49.16 ID:ETHhLg+u
>>822 美濃の僻地って・・・。
対織田の最前線だろ。
徳川がちょっかい出してきたからそっちに行くのは解るが、考え方が偏り過ぎ
ていないか?
>>825 武田は落ち目と言うより、周りが大国になって来た事もあり何処にも行けなく
なって詰んだ気が。
まあ、打開策として徳川に標準を絞ったのかもしれないけど、バックに織田が
いるからなぁ。
スレ違いだけど、そう言えば、武田と徳川って同盟結ぼうとかの話はなかった
のだろうか。
828 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 08:35:52.89 ID:OZeCf/tE
天正2年に足利義昭が家康・水野信元に勝頼と和睦するように求めている
829 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 08:42:42.88 ID:DPepG82e
>>827 武田と徳川って同盟結ぼうとかの話は、
徳川を織田から寝返らせる、という意味のようだが、さて可能かどうか。
一応、働きかけはあったが、処分されているし。
武田勝頼と信長が、和議を結ぼうとしたことはある。
少なくとも1575年-1581年の6年間は、両陣営は休戦状態になった。長篠で大敗した勝頼にしては上出来だろう。
830 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 08:53:42.77 ID:DPepG82e
思い切って、信長と戦うことはもうやめにして、
武田家は、信長の家臣になってしまおう!、
という手もあるわな。
実際にやったのがいて、穴山信君。領地安堵をしたうえで、
穴山信君が、武田家を継ぐことになった。大名ではなく、信長の家臣となって生きることになるが。
たったの2ヶ月後には死ぬから、武田の跡取りというイメージはないが。
831 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 09:03:10.03 ID:50PrEYgu
>>827 > 武田と徳川って同盟結ぼうとかの話はなかった
> のだろうか。
そもそも今川領に侵攻する時信玄と家康は同盟を結んでいた。
しかしその時の信玄の、約束を完全に無視するような態度に家康が決定的に不信感を持ち、即座に崩壊。
その後はもう修復不能なほど敵対関係になる。
832 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 09:12:10.21 ID:DPepG82e
長篠の戦いで、信長は勝ったものの、
同様の戦いを繰り返して武田家を滅亡させようとは、していない。
長篠の戦いを再現しようとしていたのは、むしろ毛利への戦線。
鳥取城への包囲では、秀吉は鉄砲の陣地を作り上げて、長篠を再現する気まんまん。
侵攻作戦を繰り返して、備中高松城へも攻めている。
一方、武田領に対しては、侵攻作戦はろくにしてない。木曽が反逆して、すぐ救援しないと
木曽が武田にほろぼされるから、信忠を急派遣しただけのことで、
まさかその信忠軍だけで、甲斐の本拠地まで占領、勝頼自害までいくとは予想外。
833 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 09:32:21.52 ID:DPepG82e
>>831 信玄の態度がコレだからなあ。
書状
永禄12年 1569年「信玄には信長以外に味方いません。信長を粗略に扱えば、信玄が滅亡するのは確実です」
元亀2年 1571年「たとえ日本の過半を支配するような事があっても、信長に敵意は持たないし粗略にもしない」
こう言いつつも、その後、信玄は三河に侵攻するありさま。
元亀3年11月20日付で、信長が上杉謙信に宛てた書状
「信玄の行いは前代未聞のひどいもので、侍の義理を知らず、日本中の嘲笑を顧みないものだ。
信玄に対する遺恨は幾重にも重なり尽きることがない。信玄とは二度と再び付き合わない」
と、完全ブチ切れ。
834 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 09:52:41.21 ID:5l2SZUEb
>>832 予想外だったろうな、そこまで武田軍が弱いとは
835 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 10:10:29.55 ID:DPepG82e
>>834 亡き信玄が築き上げた甲斐・信濃が、これほどまでに脆いものとは、
織田家の武将たちには信じられぬことであった。
信長は、血気に逸る信忠を抑えるため、書状を滝川一益に届けさせた。
書状
「信長は油断なく出馬支度を整えている。
情勢を良く見極め、信長の出馬の日取りを確かめ知らせよ。
先手の者どもが気にはやり、失敗することなきよう、無理をするな。
信忠は若年の故、血気にはやり、一人で合戦し手柄を致したいとの様子あり、十分押し留めよ。
万一戦を仕損じた時は命を失わずとも、二度と信長の前には出仕叶わぬと覚悟せよ」
以上、コピペだけど。
836 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 10:12:17.36 ID:DPepG82e
と、信長がどうこう言っている間に、武田は滅んでしまったとさ。
信長おそ過ぎ。
837 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 11:05:26.91 ID:5l2SZUEb
そりゃ先遣部隊にやられるほど弱いと思ってなかったんだろw
838 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 11:59:07.64 ID:ZD+Fe8EZ
長篠であれだけ有利な状況でも武田にかなりの損害を出した信長はやはり武田侮りがたしと思ってたんだろうな
で、若手に瞬殺されたと(´・ω・`)
なんでだろ 北条とかには善戦してたはずだけど
長篠で討死した将達がやっぱり相当強かったのかな
839 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 12:15:11.86 ID:DPepG82e
やはり武田侮りがたしと、信長は強く思っていたようだね。
長篠の戦いの前だけでなく、その後も。
長篠の戦いの後は、
家康や信長の領内から、武田の勢力を追い払うことだけはしたものの(岩村城、二俣城)、
武田侮りがたしと思ってたんだろう。
ひょっとして、長篠の戦いでの武田の将兵って、相当かなりの戦いぶりを見せたのかも。
840 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 12:21:37.80 ID:F8TUA/Il
信玄が対徳川・織田戦始めるにあたって北条と同盟結んだわけだけど
勝頼は北条と手切れして他正面作戦強いられたんだよなぁ
東上野も上杉から割譲された結果上杉は北条の相手を全部武田に押し付けられたわけだ
外交面ではかなりマズイとしか
841 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 12:26:26.04 ID:DPepG82e
織田軍が陣をかまえて待ち構えているところに、
数千の敵兵が突撃してくるのは、姉川の戦いでもやられている。
もちこたえた上で、追撃戦のときに大量に討ち取ったのも似ている。
ではこの直後に浅井を滅ぼしたか?というと、そうでもなくて、
その後、浅井長政が自害するまでに3年もかかっている。
842 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 12:41:27.96 ID:ETHhLg+u
>>829 またまたスレ違いになっちゃうけど、武田が潰れたら侵攻方向が詰まってしまう
と考えなかったのだろうか。
後北条と一戦交えるつもりだったのか。
まあ、当時の家康としては、人質生活から比べれば、3国も手には入って御の字
の人生だったと思っていたのかもしれないけど。
>>832 信長の書状とかを見ると、子煩悩な見方も出来るが、武田を侮りがたしと見ていた
様にも思う。
実際、びっくりしていたかもね。
>>840 外交面で難しい時に、長篠がぶつかってしまった感があるね。
外交がまずかったと言えばそれまでだけど、織田、徳川に運があった様にも
思う。
843 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 12:49:41.83 ID:DPepG82e
>>840 上杉と北条については、難問だな。
上杉領内は内戦を起こして、関東の支配地を失い、越後一国だけに押し込められている。
もはや川中島に押し出す力はなく、武田とすれば上杉とわざわざ組むまでもない。
で、北条と同盟を結んだままでよいかとなると、これがそうもいかない。
上杉の失った関東の土地というか、上野国だが、これがモロに武田と北条との争いのタネになってる。
今川領をとるときも、武田と北条は争って交戦していた。第一、真田氏が領地を拡大できたのも
北条の勢力を駆逐したから。(沼田城を北条から謀略でとる)
北条と武田が敵対しないようにする方法といっても、連合軍となって越後に攻め込むか(できるのか?)、
佐竹が北条に攻めるか(北条の小城を毎年とったりとられたりのショボイ攻勢しかできてない)、
伊達の大軍が南下をはじめるか(そうなるには、まだ10年早い)
いずれも難問。というか、武田の滅亡は、武田の自滅が原因みたい。
844 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 12:59:57.24 ID:DPepG82e
勝頼のウルトラCを、結果から逆算するならば、
北条の息子でもある上杉景虎を支援して、景勝が死ねばいい、ということにすればええ。
北条と利権争いとならぬように、武田は川中島から春日城方面へ侵攻、
北条は三国峠を越えて、越後北部方面を占領、という方法にすれば、
なんとかなったろう。
というわけで勝頼は、上杉景虎でなく景勝を支援したのが、生き延びるか滅ぶかの分岐点になった、
外交的致命傷となったと、妄想する。
845 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 16:15:38.94 ID:aNZFmDtP
滅ぶも滅ばないも北条の意志しだいになりそうだけど
846 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 16:49:43.05 ID:DPepG82e
三河物語にも長篠の戦いについて載っててもいいはずだが、ぐぐってみる。
天正 3年(1575)、長篠合戦の最中、徳川勢の突撃を見ていた織田信長は、
敵と味方の区別がつかない 2騎があるのに気づき、早速、家康公のもとに伝令を走らせると、
家康公は笑って、「2人とも譜代の者であり、敵ではない。金の揚羽の蝶の羽を指物とするのは
大久保七郎右衛門忠世、浅葱に石餅の指物は、その弟の治右衛門忠佐で御座る」と答え、信長は
これを聞いて、「家康はよい家来を持ったものよ」と嘆賞し、さらに、「あの者どもは、
よき膏薬のごとく、敵にべったり貼り付いて離れぬわ。この信長にも、かれらほどの者はないぞ」
と言ったといわれている。大久保忠世・忠佐兄弟は、この時、家康公から長さ 1尺 4寸 5分の
法螺貝を賜っている。その法螺貝は、“長篠”という名がつけられて、長く、大久保家の家宝と
されたという。合戦後、忠世は功により遠江国二俣城主となった。
与力として成瀬正一がつき、長篠の屏風図では、成瀬が描かれている。
どこまで本当か?と思うが、とくに信長の誉め言葉だが、
「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」
鉄砲で離れて射ったのではなく、わりと近い距離で戦ったらしい。
847 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 18:06:05.66 ID:PYhjysi2
勝頼にとって一番痛かったのは謙信の死だよなぁ
謙信が生きてれば北条と手切れすることもなく北陸正面の上杉
東海道正面の武田、石山本願寺、毛利とそれなりに織田牽制できたのに
848 :
人間七七四年:2012/09/12(水) 22:37:27.67 ID:VMQmSW91
ていうか。そもそも火縄銃の射程なんて大したこと無いんだから、一方的に撃つだけで終わるわけがない。
柵の後ろに火縄銃を配置するにしても、必要に応じて出入りするのは当たり前。
敵にまとわりついてはなれない、ってことは敵が撤退して再編成しようとするのを追撃して阻害してるって
ことだろうから、武田軍が一時柵の前から下がろうとしたタイミングじゃね?
849 :
人間七七四年:2012/09/13(木) 08:15:39.08 ID:/PIohly9
藤本正行の『長篠の戦い』文庫本を
読んでみたが、文字ばかりだし白黒で、写真も少ない。
カラーのHPにすれば、だいぶわかりやすくなりそう
850 :
人間七七四年:2012/09/13(木) 08:16:26.16 ID:DIY0cTz6
>>848 え?
どの程度で射程が大したことないと言っているのかわからないけど、あの山間
だと、場所によっては武田の布陣に普通に届くと思うが・・・それほど近い。
まあ、命中率はどうかな?とは思う。マスケットよりは良いんだっけ?
柵前から下がろうとしたタイミングってのはそうかもしれない。
851 :
人間七七四年:2012/09/13(木) 08:17:50.33 ID:YiRa+l82
当然のことだが弓隊なども配備されてたわけで
852 :
人間七七四年:2012/09/13(木) 08:19:19.63 ID:WgBD0IgV
結局、織田は佐久間が前線指揮したが早々に大敗し、
徳川と武田が戦っただけみたいだな。
こりゃ徳川の防戦からの追撃が戦況であり、
長篠の戦いは徳川勝利の戦いで
姉川の戦いと同じく織田は足を引っ張ってたに過ぎんな。
853 :
人間七七四年:2012/09/13(木) 08:26:17.94 ID:/PIohly9
854 :
人間七七四年:2012/09/13(木) 11:21:42.87 ID:DIY0cTz6
>>852 う〜ん、佐久間と徳川では布陣したところが大分違うので、一概に足を
引っ張っていたと言うのは極論な気がするねぇ。
しかも、佐久間の後ろにも織田軍は布陣しているし、最初から徳川が主役
だろうしね。
855 :
人間七七四年:2012/09/13(木) 18:33:45.55 ID:2PoGjSx2
武田は将が陣頭指揮してそうなイメージ
だから強いし負けたら死ぬ
そりゃそんな部隊に佐久間だけでどうしろと
実際佐久間敗退どころかかなり奥深くまで馬場が突っ込んできてるし
武田強しを植え付けた一線でもあるわな
856 :
人間七七四年:2012/09/13(木) 21:26:30.72 ID:X8g/cb8k
丸山だっけ?
あそこだけ連吾川の武田側の際にぽっこりと丘があるんだよね。
織田軍もあそこをどうするか悩んだんじゃないかな。
あそこを武田に取られても一つの拠点が作られるし、高さがあまりないとは言え物見台になるし・・・
史実のように陣取れば川の向こうに突出しているから総攻撃喰らうし・・
実際古戦場を散策してみると色々なことに触れられていいよね。
家康の物見塚と信長の観戦地とか比べても当時の立場の差が何となくわかったりね。
857 :
人間七七四年:2012/09/13(木) 21:45:52.08 ID:X8g/cb8k
何故勝頼が寒狭川を越えて織田徳川連合軍の前に陣を構えたのも謎だよね。
寒狭川を越えずに川沿いに陣をひいて織田徳川連合軍を待てなかったのかな?
連合軍が長篠城の救援に来ないのだったら、寒狭川沿いに陣を構えつつ長篠城を落城させれば、救援軍の織田徳川は面目を失うのにね。
信長にしても設楽原に陣を構えて武田が来なかったらどうするつもりだったんだろ?
武田の兵糧不足とか情報があったのかな?
858 :
人間七七四年:2012/09/13(木) 21:55:18.33 ID:/PIohly9
859 :
人間七七四年:2012/09/13(木) 22:06:09.69 ID:/PIohly9
>>857 そりゃあ、長篠城はYの字型の地形のところにあるが、
武田は、上方(医王寺)と右下の砦(鳶の巣山)に籠っていればなんともなかったろうけど、
Yの字の左下を担当している部隊が
やや低地のため、背後から突かれれば守備しきれなくて、織田軍が長篠へ入城してしまうよ。
となれば、西に向けて布陣しなおさなくてはならない。しかし、連吾川の織田軍の真っ正面まで行って
布陣してしまったのは、謎だな。
860 :
人間七七四年:2012/09/14(金) 13:16:08.73 ID:91jXrroJ
あえて背水の陣をひいて決死の覚悟で突撃したんだよ
861 :
人間七七四年:2012/09/14(金) 17:19:35.45 ID:u+ZECLde
それにしても、長篠の戦いに参加した将兵があれだけいるのに、
手記を残したのが数名だけか。筆まめじゃないのう。
862 :
人間七七四年:2012/09/14(金) 17:40:28.76 ID:u+ZECLde
特に、前田利家!。
桶狭間にも長篠にも参戦したというのに、戦いぶりを詳しく語り残していない。
前田利家は、桶狭間での戦いはちょっと有名だが(中島砦から抜け駆けをして首を持ち帰っている)、
長篠の戦いも過激。
鉄砲奉行だったが、武田軍が敗走したとき、前田利家も猛追。敵将の弓削左衛門に追いついて、
一騎打ちを挑む。が、前田利家は足を切られて重傷を負ってしまう。敵将の弓削左衛門は
前田利家の家臣が討ち取った。
前田利家の回想録といえば、秀吉の手には6本指があったという話が有名だが、
戦いの回想もあるかもしれない。たぶん。
863 :
人間七七四年:2012/09/14(金) 18:14:12.42 ID:u+ZECLde
秀吉や家康、本多忠勝などは、手討ちや切り合いなどの武勇伝はないようだ。
指揮官なので直接戦う必要がないのかもしれないが、
信長は桶狭間ではヤリをもって突撃してるし、尾張統一戦では鉄砲をとっかえひっかえ撃ってるし、
大阪では陣頭指揮して狙撃されて負傷してるので、モーレツ指揮官。なお、下半身の方も家康や利家や信玄を
上回り、戦国大名でもトップクラスの子だくさん。
864 :
人間七七四年:2012/09/14(金) 18:17:08.34 ID:HXO79BIb
武田方はほぼ全滅だったから仕方ない
>>861 織田・徳川将兵はあまりにも圧勝過ぎて特筆に値しないと思ったのだろう
信長が鉄砲大量投入した革新的な合戦だったから有名なだけで
そうでもなかったら日本史の教科書にも載らなかったと思う
865 :
人間七七四年:2012/09/14(金) 22:52:09.20 ID:LWonJNMO
将は兎も角兵は織田もそこそこ被害があったんじゃねえの
織田6000武田10000死亡とか嘘臭いけど
866 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 06:52:41.47 ID:crPz+XuE
867 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 07:34:00.93 ID:crPz+XuE
>>865 織田・徳川で、討ち死にした武将を調べれば、見当がつくはず。
有名な武将には、大勢の部下がつくからな。
松平 伊忠(まつだいら これただ) 「家忠日記」の作者の父。家忠日記は、長篠の戦いの5ヶ月後
のことから現存しているので、父の戦死については載ってない。日記の増補には載ってるらしい。
織田方で、唯一の城主級。鳶の巣砦で深追いして討ち死した。
滝川助義 滝川一益の遠い親戚。勝頼を追撃戦したとき、勝頼の身代わりとなって
立ち向かってきた笠井満秀を取っ組み合いの末、両方とも死亡。
おまけ
鳥居強右衛門 長篠にある墓では、武田のどの武将よりも立派な墓で領主級。
前田利家 弓削左衛門なる者に右足を深く切り込まれる重傷を負い、危うく命を獲られそうになった
所を家臣の村井長頼に助けられ一命を得た。
868 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 11:23:20.12 ID:XN/2i9uc
>>831>>833 信長が武田を絶対許さんと書いてるのはたしかだけど
あれは完全に絶望的屈辱感から来る逆恨みだろw
つーかそのくせ勝頼に和睦要請して拒否られてるのが信長w
1/8 に秋山を呼び戻したと信玄が家康や1/9信長へ謝罪して問題解決済み。
2/18、3/13 家康と謙信が情勢報告をしたりと内通交渉している事実
3/23 市川宛の信玄書状は前後の書状と辻褄が合わないために真偽が疑われている書状で(信長マンセー愛知県史ですら検討の要あり書状認定)
雪解けするので謙信が信濃へやってくるのは疑いない。
北条と興亡の一戦をやるために甲越の和睦を信長に媒介してもらいたい。
ただいま信長に頼む以外にない。粗略にされては信玄滅亡疑いなし。
この織田厨が得意になってたびたび持ち出してくる書状は偽文書の可能性大。
5/23 信長の配下の武井などへ信玄が出した書状。
遠江の人質も渡したし、その後に北条がやってきたから対陣した。
掛川城落ちたのに氏真が無事に三河経由で尾張へ送られたのは
小田原衆と岡崎衆が会面し掛川籠城衆を
つつがなく駿河へ通過させてやったからで存外のことだ。
すでに氏真と氏康親子は和睦の旨。
家康も誓詞を出してる。この状態を信長はどう思っているのか!
信長も家康に氏真と氏康親子に敵対するように催促するべき。
5/24 氏政から酒井へ 氏真が帰国したし、家康から誓詞も届いた。当方との入魂大慶
完全に家康の方が上杉&北条と入魂して武田を裏切ってますね。
本当にありがとうございました。
ちなみに信玄は家康を信長の配下同然にみてます。
そして信長も三好攻めや北畠攻めなどで東側に介入する余裕もない。
翌年には浅井・朝倉と泥沼の戦いを開始するし。
織田チョンってほんと偏執的に武田貶しに必死だが、毎回無知を晒して真性のバカじゃないのかw
元亀3年7/7付けで信玄が小里氏の背後に信長の後援があり残念でならないがとりあえず許すと見て見ぬ
フリをする方針にしたことを述べていて織田との抗争にならないよう配慮してたら
信長が11/15に岩村城を奪った小里内作へ書状を出してる。
明らかに信玄は信長との信義を守っていたら裏切られてる。
>>信長が和睦をかなり武田寄りの立場で仲介する意志
謙信と信玄の和睦の仲介は元亀3年7月はおかしい
元亀2年だと柴辻が2009年に主張して反論はいまだ無し。
家康に至っては謙信との書状の中で「信長と信玄の間をどうやっても裂いてやる」と書いてるキチガイぶりだぞw
そもそも元亀3年に和睦仲介してるのは信玄。本願寺と信長の和睦交渉を仲介して努力してたのに
信長は東美濃で小里氏を支援してた。それを察知した信玄だがそれでも最初のころは見逃して我慢していたんだが。
【むしろ信長の方が裏切り三昧の悪党です】
・武田が織田・徳川に騙し討ちをしかけた⇒織田厨のデタラメ
869 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 11:26:05.56 ID:XN/2i9uc
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
元亀4年1月11日
信玄は義昭に、信長と家康の非法を訴えた激文を送付した。
正親町天皇はその文を読み感動し、写を自ら作成された。
天皇家は武田を信任してるからね。
後奈良天皇も天文22年8/20に宸筆の般若心経で
天下泰平を諏訪大社で祈願して晴信の戦勝祈願もしてるし。
悪党家康信長を討つ大義名分を高らかに謳ってるよね。
特に朝倉や比叡山との勅命和睦無視して
比叡山焼き討ちし、権門や寺社らを侮り
税を好き放題にかけたり、略奪したりと京内外でやりたい放題に怒り
正義と秩序を取り戻す宣言をする信玄。
これ義昭の取次ぎ宛なのに、天皇が手に入れて自ら筆写してんだよね。
天皇が自ら行動するのは、ほかには古今和歌集絡みで細川幽斎助命に動いた後陽成天皇くらいか。
かなり大雑把な要約だね。原文はすげー長文。
特に>>朝倉や比叡山との勅命和睦無視のところで
信玄は5つの大罪を挙げて信長を非難してる。
870 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 12:23:53.90 ID:crPz+XuE
『3/23 市川宛の信玄書状』をググってみたら、もう
どんだけコピペしてたんだ?
と思ったほど、あちこちに張られていたので驚いたヨ。
871 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 13:55:01.83 ID:dj4vYtyt
武田軍戦死一万はないだろ
親族衆がばっくれてるから
それだけでも兵力半減してるし
全滅だったとしても5〜6000くらいじゃね
872 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 14:01:12.09 ID:XN/2i9uc
>>870 織田チョンが執拗に歪曲捏造中傷を繰り返すから、
いろいろとテンプレが完成してる。
873 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 14:22:41.01 ID:crPz+XuE
>>871 武田の一番から五番のうち、山県と馬場が討ち死にしている。
これだけ見ても5分の2の死亡率。
ケガ人も死人と同じくらいに出ただろうから、大損害だろう。
なお、攻撃の主力部隊でその損害ということがポイントで、
補給部隊の農民の5000や1万人は、人数こそ多くても、攻撃部隊の人数とは質が違う。
戦闘部隊のうち、2/5も死亡したら、もはや攻勢不可能。
874 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 14:42:06.84 ID:crPz+XuE
その後、勝頼が後方の味方に送った手紙にある。
『敵は陣城にこもり、我が軍は先峰が敗北したが、○○、○○、○○、○○(重臣の名前)など皆、無事である』
という内容だったが、いくらググってもでてこない。特に○○、○○、○○、○○の部分。
生き残った重臣は親族衆が多かったようだ。大損害を受けたのは事実だが、生き残って甲斐に戻った兵も多数いた模様。
875 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 14:43:46.72 ID:XN/2i9uc
山縣や馬場が長篠で討死したとする一次史料は?
すでに学術論文では、
馬場美濃守討捕の感状である武家雲箋収録の7/20付の信長→岡三郎宛書状写も
研究の余地ありと偽文書指摘されてるくらいなんだけど。
墓とかも史料的根拠ゼロだから。
876 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 14:49:51.95 ID:ivkzjgBs
墓は何処にあんの?
武田家は重臣が死んでも墓の1つも作らないの?
877 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 14:56:41.98 ID:XN/2i9uc
>>874 穴山信君、武田信豊、小山田、甘利、諸頭がつつがないと
一条信竜、小原宮内丞、三浦員久らの質問に勝頼が返信してる。
詳しくは
>>443
878 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 14:57:41.96 ID:crPz+XuE
もっとマシな質問の仕方してくれよ。
879 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 15:03:02.89 ID:crPz+XuE
>>877 サンキュー。あてはめるとこうなる。
『敵は陣城にこもり、我が軍は先峰が敗北したが、穴山信君、武田信豊、小山田、甘利など皆、無事である』
のってない重臣の名前は、すなわち織田軍の首帳に載ることになった。
ソースは藤本の本。
880 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 15:04:54.48 ID:XN/2i9uc
881 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 15:18:21.35 ID:crPz+XuE
まあ、最近はそうだ。以前は天才。信玄の鎧の絵図を解説なんかは、一級だぞ。
長篠で二番の正用軒は、正用軒自身は役立たずだったようだが、カラー絵を描かせると超一級レベル。
882 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 15:22:02.47 ID:+U8iYXfE
親族衆が逃亡して戦線が崩れて全滅したが
我先に逃亡した人達は生き残れたってことだな
その中にどんだけ不忠な重臣が含まれていたのかな
その後の真田以外の重臣達の不甲斐無さは
勝頼の為には戦いたくなかったという事が原因という事だな
最も真田なんかは自分の領土広げる為に頑張っただけだけど
883 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 15:29:15.88 ID:crPz+XuE
鎧を実際に正確に描ける絵師、というのは、じつは数少ない。実物を前にして描けばいい、
と思うかもしれないが、それだと本人や馬がずっと絵師の前でポーズをとりつづけなければ
ならない。
だから、絵師はある程度、想像で描かなきゃならない。また、日本画として、つま先は正面から描いては
ならないとか(だから足利尊氏の絵はものすごいガニマタになってる)、
写実の都合で鎧の肩口とか、一部デフォルメしなけりゃならない。武士でも公家みたいなカッコを
させて肖像画を作られているが、これまた伝統的な絵画形式にのっとって描かなければならない。
だもんで、長篠の屏風に描かれている本多忠勝あたりは、鹿角の兜で有名だが、江戸時代になって
から描かれたものだから、細部はヘンテコになっている。と藤本の本にある。
884 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 15:51:10.04 ID:JSqAL+tR
>>882 不忠な臣を厳罰に処さなかった事が
武田滅亡の遠因になってしまったよな
885 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 15:52:42.61 ID:+5VLbCaS
>>875 戦い以後、そいつらが書状だしたソースは?
886 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 18:15:08.69 ID:6JeLg8Af
>>875 んじゃ、逆に長篠以降でそいつらが生き残って何かやったソースは?
死んだのが嘘ってんなら、生きたそいつらは何かやってたはずだよね?
887 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 18:51:14.76 ID:crPz+XuE
888 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 18:51:21.73 ID:sWfygEqN
実際、軍記講談話を除けば、
馬場や山縣がそもそも出陣してたかすら怪しいし、
長篠で討死した武田信豊配下の左衞門尉には勝頼が、
嫁の信豊の息女に名跡の相続を認める判物を認めてるし、
山家昌美にも子の討死を賞して弟に名跡を認めたり、
天野藤秀にも子の小四郎が最前線で鎗を合わせて粉骨し何事なく退いた武功に感状出してる。
しかし山縣や内藤らに関わる書状を勝頼は一切出してないし、
信長も感状を一切出すことも無い。
唯一、家康が5/18の長篠城防衛への感状を松平勝次に出して賞してるだけ。
明らかに織田も徳川も大した戦功が無かったことを表してるし、
勝頼が6000程度でやってきてるのを証明するように、
山縣や馬場らが長篠に出陣してる証拠が無い。
889 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 18:57:27.39 ID:sWfygEqN
むしろ勝頼は穴山信君、武田信豊、小山田、甘利らだけを引き連れて長篠に現れたとしか思えない。
だからこそ信長は深く追撃することを恐れて、
さっさと帰っていった。
890 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 19:07:23.03 ID:crPz+XuE
そこまで話を主張するか?!。飛躍だな。
891 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 19:21:44.71 ID:crPz+XuE
http://okwave.jp/qa/q4472557.html 山県昌景、馬場信春(信房)、内藤昌豊、真田兄弟は、
それぞれ誰(誰の部隊)に討ち取られたんですか?
山県昌景 VS 本多忠勝
馬場信春 VS 原田直政家臣 岡三郎左衛門(一説には河井三十郎)
>>875に指摘あり
内藤昌豊 VS 朝比奈泰勝(今川氏真の家臣)、榊原康政・大須賀康高との乱戦にて
山県昌景、真田信綱、昌輝は鉄砲隊により。
馬場信春は岡三郎右衛門(左右の違いですが)。>> 875同じく。
内藤昌豊は前答えと同じ。
との説もあります。
892 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 19:49:06.59 ID:2C/Cr+n6
長篠の戦い : 信長の勝因・勝頼の敗因
藤本正行著
世の「長篠合戦」の常識は、天才・信長が、凡才・武田勝頼を世界初の
「鉄砲戦術」=世界的な軍事革命の達成により完膚なきまでに粉砕したことである。
勝頼側の敗因は、情勢分析の失敗であり、信長の勝因は、鉄砲だけでなく総合的な戦力差を利用した作戦勝ちだった。
893 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 19:54:14.88 ID:crPz+XuE
その本は、あんまり…イマイチなんだが、5段階評価で4ぐらい。
原作にあたる「信長の戦争」の方が安いし読み易い。
894 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 20:01:19.43 ID:crPz+XuE
「信長の戦争」の方が高かったわい。1000円。
長篠の戦い : 信長の勝因・勝頼の敗因 ¥ 882
桶狭間の本も最近出しているが、近年の作品ほど、内容が劣化気味。
895 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 21:02:21.61 ID:8Ex8xB+n
>>886 彼はそういう質問に答えないです。
「死んだとする一次資料だせ」とのたまうだけです。
そしてコピペを乱貼りします。
このスレを最初から読むとよく分かります。
相手にする価値はないです。
896 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 21:07:48.55 ID:/sZyuZ2Y
それで放置すると勝利宣言みたいなことしだします
897 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 21:16:32.46 ID:crPz+XuE
898 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 21:21:37.08 ID:crPz+XuE
間違えた!。
長篠の戦いは、天正三年のところ。
武田家滅亡が、天正十年じゃないか。
「武田勢が総軍入れ替わりで突入してきたのに対し、織田・徳川勢は一将たりとも前に出さず
鉄砲のみで応じた。そして足軽であしらいつつ徐々に敵勢を追い崩し、そのあとで人数を
突入させていった。五番手には馬場美濃守信春勢が押し太鼓の音とともに攻めかかってきたが、
結果は上と同様であった。」
一将たりとも前に出さなかったのか、人数を突入させていったのか、どっちなんだ。
899 :
人間七七四年:2012/09/15(土) 21:35:12.43 ID:dj4vYtyt
過酷な課税や労役賦課が木曾謀反の原因だし
国力無視で超大国織田に刃向かった信玄がアホ
900 :
人間七七四年:2012/09/16(日) 02:52:28.26 ID:TBjvxNU/
信玄は先進性皆無の老害
信長が苦しめられた志賀の頃ではなく
信長が息を吹き返して優勢の頃に慌てて寝返り
家を滅ぼしてくれと言わんばかりの行動
901 :
人間七七四年:2012/09/16(日) 09:26:41.57 ID:vntZLysY
興味深いので調べてみた。
山県昌景は勝頼の天正元年8/25書状を最後に消え去る。
真田信綱も天正元年9/8の勝頼書状を最後に消え去る。
信玄政権から勝頼政権への移行で、
構造改革があって引退してるんじゃないか?
長篠の戦いで信長は彼らの名前を一切あげてないのも不審だね。
なにせ岩村城の開城の報せの信長書状には、
秋山のことは引き寄せてから今日、
磔にかけたし、その他の籠城者は残らず首を刎ねたと
秋山を騙し寄せたと名前をちゃんと言明してるし。
902 :
人間七七四年:2012/09/16(日) 09:31:44.45 ID:u8j+6Dck
構造改革w
それで老臣を追いやったなぞという研究、みたことねえなあw
信念が虚構を作り上げた好例だなw
903 :
人間七七四年:2012/09/16(日) 09:57:35.13 ID:vntZLysY
興味深いので調べてみた。
山県昌景は勝頼の天正元年8/25書状を最後に消え去る。
真田信綱も天正元年9/8の勝頼書状を最後に消え去る。
信玄政権から勝頼政権への移行で、
構造改革があって引退してるんじゃないか?
長篠の戦いで信長は彼らの名前を一切あげてないのも不審だね。
なにせ岩村城の開城の報せの信長書状には、
秋山のことは引き寄せてから今日、
磔にかけたし、その他の籠城者は残らず首を刎ねたと
秋山を騙し寄せたと名前をちゃんと言明してるし。
904 :
人間七七四年:2012/09/16(日) 10:04:12.76 ID:vntZLysY
しかし実際、長篠の戦いが迫る天正3年4/16の勝頼書状では真田昌幸と小山田が一緒に登場しているが、
信綱は登場しないし、
山県昌景本人の発給文書も天正元年11/23が最後なんだけど。
905 :
人間七七四年:2012/09/16(日) 10:17:59.08 ID:vntZLysY
ついで言うと
天正元年7/30の時点では、
武藤喜兵衞尉と勝頼が書いていたのに、
天正3年4/16では真田喜兵衞尉と勝頼が書いていて、
明らかに昌幸が武藤氏から真田氏への家督継承を済ませてるのがわかるんだけど。
906 :
人間七七四年:2012/09/16(日) 10:26:41.89 ID:vntZLysY
天正3年4/16の内容は
>>644に書いてあったんだな。
その文書に昌幸が登場する。
907 :
人間七七四年:2012/09/16(日) 10:31:47.23 ID:Kzn0Ap/9
山県昌景は、長篠の戦いに
いなかった!
とはすんごい珍説だな。
でも、資料が証拠としてあるなら、検討しなくてはなるまい。
908 :
人間七七四年:2012/09/16(日) 10:44:12.06 ID:vntZLysY
>>907 んでも、山県の最後は采配を口に咥えたままだったって言う逸話は好きだけどね。
有名武将が畳の上で死ぬより、
壮絶な死に方したほうが大衆受けするし
909 :
人間七七四年:2012/09/16(日) 10:52:45.90 ID:vntZLysY
信綱が長篠で討死したから昌幸が武藤から戻ってきて真田の家督を継承したとする論法は通用しないのがはっきりわかる。
最近は歴史ゲーム板にまで、
一次史料を要求するバカがいるが、
それはこちらの板の役割で、
歴史ゲーム板では軍記講談逸話を元に語って欲しいわー。
ちゃんと棲み分けして欲しい。
910 :
人間七七四年:2012/09/16(日) 11:14:23.08 ID:JJyUvp4P
まぁ、信長も半生を尾張統一と美濃占領につぎ込んでるんだけどね。
早い時期に桶狭間があるからその頃から一気に伸びてるイメージがあるけど。
911 :
人間七七四年:2012/09/16(日) 11:49:13.78 ID:Kzn0Ap/9
信長も半生のうち、後半のわずか15年で
義昭を伴って上洛
日本の過半まで占領
までいっちゃってるからなあ。
桶狭間が
永禄3年,
永禄10年に美濃奪取。
↑
永禄を天正に代えると、長篠と武田滅亡の年と一致だ(^_^;)
桶狭間から美濃奪取まで7年かかっているのに、
その後の15年で西は播磨、東は上野まで制圧しているのだから、信長の後半は急スピード。
912 :
人間七七四年:2012/09/16(日) 12:43:05.41 ID:SHOMUIhz
勝頼も長篠の大敗から7年間で北条潰しそうな勢いだったけどな
信玄が死ぬ間際に織田と手切れしてなければ関東から中部の東半分まで抑えてたかも知れん
913 :
人間七七四年:2012/09/16(日) 13:02:12.92 ID:Kzn0Ap/9
勝頼は、政宗と組めばよかったんだよ、と妄想してみる。
東国すべての大軍をもって西上すれば勝てる。
914 :
人間七七四年:2012/09/16(日) 13:02:30.54 ID:iEYMf6+2
>>912 でも家康が織田と武田の同盟ぶち壊す気満々だったからねぇ。
家康にすりゃ武田から領土を奪う以外に伸びようが無いからね。
北条や上杉と挟撃しようと必死だったし。
勝頼の脅威に信長が全然助けてくれなかった為に、
義昭の使者を受け入れたり、
信康が武田と通じていた?
などで武田と組んで織田領切り取りに
家康が方針を変更しようとぐらついたから、
信長がいやいや出てきたのが長篠の戦いでしょ。
北条との同盟が出来ると信康斬って武田との交渉を打ち切るし。
実際、三河には本願し支援してた一向宗寺院があったのに黙認してる辺り家康はやっぱり腹黒狸だよ。
915 :
人間七七四年:2012/09/16(日) 13:04:58.18 ID:Kzn0Ap/9
>>913 政宗は、天正12年(1584年)10月に18歳で家督を相続。
勝頼が死んだ天正10年年は、政宗16歳か。せめて10年早く産まれていれば。
916 :
人間七七四年:2012/09/17(月) 18:37:22.54 ID:VTJ7GJk2
>>909 そうだよね。ゲームの能力値で一次史料を持ち出すやつって頭悪過ぎ。
武田騎馬軍団や三段撃ちや鉄鋼船が登場してる時点でゲームなんだから。
幸村の名前にそんなやついないとかいちいち指摘するやつも痛い。
917 :
人間七七四年:2012/09/17(月) 18:58:24.58 ID:gBs6wwAr
長篠にて、昌幸は勝頼の近くにいたらしい。その資料は無いが、三方原では本陣にいたそうだから。
長篠で真田信綱と次兄・昌輝が討死したので、居場所で明暗が分かれた。
918 :
人間七七四年:2012/09/17(月) 20:33:23.31 ID:LDzO/HCs
>>917 長篠に真田信綱と次兄・昌輝がいたとする一次史料は?
919 :
人間七七四年:2012/09/17(月) 20:41:09.20 ID:ER4F9GJD
>>918 長篠で二人が死んでないと主張するなら、直後に昌幸が真田の家督を継いだことの合理的な説明は?
920 :
人間七七四年:2012/09/17(月) 21:14:35.27 ID:916QCp8F
921 :
人間七七四年:2012/09/17(月) 21:20:49.50 ID:LDzO/HCs
922 :
人間七七四年:2012/09/17(月) 21:31:09.66 ID:gBs6wwAr
真田の親父も死んだばかりだったので、真田家にとって大打撃だったのは違いない。
923 :
人間七七四年:2012/09/17(月) 22:53:14.89 ID:7dHVL7iS
死んだ以外何があって家督を継承するんだよwww
924 :
人間七七四年:2012/09/17(月) 23:59:38.04 ID:WfaLerM/
そら盲いたとかそういうのだったら別だろうが、病死だとしても死んだのには変わりなかろう
あるいは急な出奔とか
925 :
人間七七四年:2012/09/18(火) 06:46:56.34 ID:/2FH1V+s
長篠以前にすでに昌幸は家督を継いでいたのか。興味深い。
昌幸は勝頼の使者も務めていたから、
勝頼のお気に入りとして真田家の家督を継がせて貰ったんだろう。
926 :
人間七七四年:2012/09/18(火) 07:18:55.86 ID:zwHd2c6E
最早ただの妄想と化しとるじゃないですかー
否定だけして代案ならぬ代史くらい出せや
927 :
人間七七四年:2012/09/18(火) 08:26:40.20 ID:7f8EjiL+
話がズレていってないか?まあ、興味深い話ではあるけど。
確かに、香坂以外に生きていたと言う証拠は無いのかもしれないが、生きていない
と言う証拠も曖昧だよね。
真田、馬場、内藤、山県が参加していなかったとすると、誰が率いていたのか。
主な名前が出てこない以上、通説通りの方が有力、もしくはそう言った方向で
と見るべきじゃないかな。
ただ、武田の軍が6000だった場合には、それほど有力な部将を連れてきて
いない可能性もある。
が、勝頼以下、親族衆が名を列しているのに、主な部将がいないって言うのも
おかしいよね。
928 :
人間七七四年:2012/09/18(火) 11:21:21.40 ID:ynZc4fk2
勝頼の側近団を中心とした改編がなされてたと見るべきだろう。
真田の家督に昌幸を送り込んだりと
勝頼派閥の形成があったのだろ。
謙信から景勝への移行でも側近団の大異変が起きてるように、
前当主家臣団と新当主家臣団への移行は、
一次的に家の弱体化が起こる。
外征を控えて内政に集中し、掌握に務めていたから奥平離反とかあったわけだし
929 :
人間七七四年:2012/09/18(火) 11:38:34.15 ID:/ArkAxyN
ん〜・・・
930 :
人間七七四年:2012/09/18(火) 12:58:58.25 ID:7f8EjiL+
>>928 ん〜・・・それは時系列がいまいち合わないし、そんな理由で有力な家臣が
出てこないって・・・。
その時点で武田は終わっている気が。
931 :
人間七七四年:2012/09/18(火) 13:05:10.41 ID:d29XNvcO
居なかった珍説も
そろそろ行き詰まりですね。
932 :
人間七七四年:2012/09/18(火) 21:44:02.49 ID:EAEr7ytq
で、長篠のいたとする一次史料は?
933 :
人間七七四年:2012/09/18(火) 22:15:36.57 ID:d29XNvcO
今日は早く寝なくちゃ。
934 :
人間七七四年:2012/09/19(水) 05:57:50.79 ID:UfVxwARh
別に家督を継がなくても真田姓に復帰することはあるんじゃない?
あと武藤昌幸宛て書状に真田昌幸って書いてあっても別にありえるんじゃね?
武藤のトコのあの真田さんね、みたいな。
935 :
人間七七四年:2012/09/19(水) 07:24:15.22 ID:zYseAbSX
戦死したかどうかもはっきり分からないとは可哀想だな
936 :
人間七七四年:2012/09/19(水) 08:09:10.13 ID:4Ra6BxRl
>>935 本当にね。
でも、当主はともかく、家臣のその後の資料なんてそうそう残っていないのが
多いんじゃないかな。
いつ頃か、を想定する為、書状がいつ頃から出さなくなっているか、名前が出
てこなくなっているかで考える事が多いみたいね。
でも、一次資料厨の言い方で言うなら、長篠にいなかったという一次資料もな
いんだようなぁ。
937 :
人間七七四年:2012/09/19(水) 08:28:20.96 ID:klF8K+yM
いなかったことの証明史料要求とかw
消極的事実の証明の困難性を持ち出すアホ織田チョン
むしろ積極的事実の証明は必須なんだから長篠にいたとする史料を出すのが筋。
信玄が死んだ天正元年を境に、
勝頼家臣団作りの改編が行われたのは明らか。
938 :
人間七七四年:2012/09/19(水) 08:34:39.07 ID:/+SbuNzh
うわあ、真面目に対応し始めた。なにもそんな質問に。
939 :
人間七七四年:2012/09/19(水) 12:26:32.46 ID:4Ra6BxRl
>>937 いや、何というか、チョンとか煽るやつは論じている所と違うところでしか
攻撃できない人なんだから、書き込まない方がいいんじゃないか?
まあ、いいか、合わせるよ。
どっちにしてもまさしく筋違い。
通説は戦死している事になっているのだから、それが違うと言うのなら、その
説を正当化する証明を先に出すのが筋。
出ないんでしょ?一次資料w
>勝頼家臣団作りの改編が行われたのは明らか。
当たり前の事をどや顔で言われてもなぁ。
改編といなかった事は次元が違う、しかもその関係の説明もないし、何が言い
たいのか、何が明らかなんだか・・。
940 :
人間七七四年:2012/09/19(水) 12:42:17.39 ID:qJvtOTWf
通説とかwアホくさっw
941 :
人間七七四年:2012/09/19(水) 14:15:16.37 ID:H9r2TxBg
そのうち長篠での合戦もなかったとか言い出しそうだな
942 :
人間七七四年:2012/09/19(水) 14:27:14.40 ID:Re1zJ1El
噴火が原因で滅亡とか平気で言っちゃう武田厨だしなw
確かに言い出しかねない
943 :
人間七七四年:2012/09/20(木) 13:21:14.12 ID:z3T2t36t
944 :
人間七七四年:2012/09/21(金) 14:15:31.78 ID:R9JnpGbP
945 :
人間七七四年:2012/09/21(金) 14:35:10.66 ID:ykEBDlkv
悪魔の証明要求するなんて織田厨完全に追い詰められてるな。
946 :
人間七七四年:2012/09/21(金) 15:35:12.69 ID:KLBUTPrN
真田みたいな弱小領主が死んでいようが死んでまいがどうでもいいと思うがなw
一次史料大好き君がいるみたいだが、一次史料では
・甲斐国衆が1000人討死
・勝頼はマッパになりながら1人で逃げる
・武田兵を殺害しまくって勝頼の首の有無もわかんね
と散々な戦果
947 :
人間七七四年:2012/09/21(金) 17:17:34.84 ID:ep7gRFWs
>>944 陣形なんて、道を歩いたときの縦隊から、敵前で横広がりするぐらいが
限界だろ。陣形組んでも、田んぼやら林やら障害物ありすぎて無理。
せいぜい「段々に」組むぐらい。
この段々とは、一列二列三列という意味ではなくて、小集団の固まりごとの場合も言う。
948 :
人間七七四年:2012/09/21(金) 17:23:37.89 ID:ep7gRFWs
>>946 よく調べてるね。言葉は乱暴だがそのとおりだ。
・勝頼はマッパに
というのは、真っ裸のことだが、原文では「赤裸裸」(せきらら)とある。
セキララで画像検索すると、現代ではかなり卑猥。
949 :
人間七七四年:2012/09/21(金) 17:25:59.40 ID:ep7gRFWs
赤裸裸じゃねえや。
「四郎赤裸の体ニて」だ。
950 :
人間七七四年:2012/09/21(金) 21:50:00.77 ID:8QGB+ECE
セキララとアカハダカはかなり違うな。
951 :
人間七七四年:2012/09/23(日) 07:25:18.90 ID:CForQ0Jm
952 :
人間七七四年:2012/09/23(日) 07:48:18.45 ID:aOPBZMMg
なんといっても致命的なのは、モノ運びの人員を含めていないことだ。馬の口取りや、武具や食料を運ぶ人員。
馬上 3 鉄砲 5 弓 2 槍 15 指物(旗) 3 合計 28人で、28人のうち5人が鉄砲兵なので
織田軍が3万人のうち鉄砲が3000では、割合が少なすぎる(10%)、武田軍は鉄砲の割合が高い(18%)、
と判断してしまっている。
953 :
人間七七四年:2012/09/23(日) 07:59:00.25 ID:1K/1tj8+
>>951 そこに出てくる軍役状による動員人数から調達武器数指定命令は、
武田、上杉、北条では当たり前のことで、
あくまで大名が貸し与えている体制なので、
大名の命令で連れてきたそれぞれの軍を解体し、
同兵種でまとめることができたが、
織田はその当たり前が出来なかった後進的軍隊。
むしろ蓄財大好き佐久間や前田などはケチって兵が足らない、
指揮下の国人に代わりの軍役負担を負わせるなどしていた。
当然、蓄財して信長への貢物を家臣はやらないと疑われるので、
鉄砲装備なんてロクにやらずに、
鑓を持って武辺者と呼ばれるを名誉とした。
長篠もそうだが、
織田は鉄砲調達というより鉄砲手を細川や筒井を通して、
紀伊に近い堺などで傭兵として調達してきただけ。
954 :
人間七七四年:2012/09/23(日) 08:14:13.70 ID:1K/1tj8+
利家が死ぬまで織田系家臣に慕われたのも
ガチ武辺者だったから。
またソロバンをはたいて蓄財し、
伊達や細川や堀らに金貸して従わせていた。
955 :
人間七七四年:2012/09/23(日) 08:32:04.44 ID:aOPBZMMg
ソロバンは当時における最先端ツール。
槍使いもうまいが、お金の計算にも強い。ただ同僚たちが
秀吉とか明智とか優秀すぎるのがいたので、ちょっと遅れをとったが
優れた人だったのだろう。花の慶次では、情けなく描かれ過ぎ。
956 :
人間七七四年:2012/09/23(日) 08:40:42.96 ID:aOPBZMMg
プロの将棋指しで代表を勤める会長は、最高峰の名人戦で勝ったか挑戦したことがあるなど
トップレベルの実力がある人でないと、他の棋士たちが納得しないのだそうだ。
その意味からいっても、前田利家のガチ武辺者ぶりは凄い経歴を持っている。もっともそれを言ったら
家康は、桶狭間の戦いから大阪の夏の陣まで歴戦ぶりなので、前田利家を上回るが。
957 :
人間七七四年:2012/09/23(日) 08:45:24.77 ID:aOPBZMMg
秀吉や利家や家康の跡継ぎたちは、そんな武辺者の経歴を持ってないので、
荒くれ戦国大名たちを束ねるのは無理そうな感じ。
958 :
人間七七四年:2012/09/23(日) 17:14:14.45 ID:jt1LVGVH
>>953 指定しないとまともな装備してこないことの証拠だな
実際、最近は乱れて周囲への聞こえが悪いって武田が嘆いてるし
その点、織田は言われずともやる優秀な部下ぞろいだな、こういう部下が欲しいよ
959 :
人間七七四年:2012/09/23(日) 19:11:31.64 ID:nHJyWx79
願望妄想を書くあたりやっぱり織田厨はアホだなw
960 :
人間七七四年:2012/09/23(日) 20:14:50.22 ID:jt1LVGVH
>>953のどこが願望妄想でないというのか・・・w
961 :
人間七七四年:2012/09/24(月) 05:43:18.65 ID:wOT/SYxm
あの文は挑発だね。わざとアホ書いて、誰かが訂正してくれるのを待っているのさ。
962 :
人間七七四年:2012/09/24(月) 08:10:24.26 ID:ZaB35QG9
島津の様に、信長が家臣たちにどのくらいの割合で鉄砲を持つように指示した
かがわかれば、自ずと数量が出てくると思うけど、そんな資料聞いた事ないなぁ。
まあ、個人的には長篠では言われるほど鉄砲が活躍したとは思っていないので、
どうでもいい良いといっちゃなんだけど、戦局を左右するものではなかったと
思う。
963 :
人間七七四年:2012/09/24(月) 09:14:31.81 ID:k7UvhfQ/
鉄砲買う金あったら信長に謀反ありと疑われて粛清されるだろ。
むしろ織田家臣は疑われないよう余財無しをアピールしないとまずい。
中国戦線にいた秀吉は、
年賀の挨拶などでむちゃくちゃ長い贈り物の行列を編成して、
信長の猜疑心を解こうとしてるし。
よく中国戦線から、呼び出しを喰らうのも疑われていたから。
964 :
人間七七四年:2012/09/24(月) 09:37:18.45 ID:cYdoJS7e
> 年賀の挨拶などでむちゃくちゃ長い贈り物の行列を編成して、
これは信長の配下時代から相当な財力があったという証左なんだが
他の信長の諸将らはとてもこれほどの蓄財はなかったらしく
秀吉の金鉱は未だに謎らしい
965 :
人間七七四年:2012/09/24(月) 10:02:17.68 ID:ZaB35QG9
スレ違いだけど、秀吉は承認との駆け引きが上手かったと聞いたが、その辺かな?
966 :
人間七七四年:2012/09/24(月) 11:23:08.52 ID:CUWup2l4
小西みたいな豪商とつるんでたみたいだし金はありそうだ
967 :
人間七七四年:2012/09/24(月) 19:25:56.35 ID:wOT/SYxm
秀吉が、清洲城の塀の修理を受け持って、2班にわけて
競争させて早くできた方にお金を与えたとか、
台所奉行になって、薪の購入を節約して安く仕上げた
とかの話は、ほあんが書いた太閤記の創作だから。
でも、商才や民衆の生活を熟知していることなどは、秀吉は抜群である。
968 :
人間七七四年:2012/09/24(月) 21:31:10.97 ID:8bAj+p/o
>商才や民衆の生活を熟知していることなどは、秀吉は抜群である。
これも創作だと気付かないのか?
969 :
人間七七四年:2012/09/24(月) 21:51:27.27 ID:APRb1NGk
まあ信長の関知せぬ所で相当悪辣な事をやってたんだろうと想像がつくんだけどね
金儲けのノウハウなんか史料に残るわけがないし
970 :
人間七七四年:2012/09/24(月) 23:06:00.05 ID:w5vQRfku
史料だけで歴史を語るなら歴史は殆ど分からないことだらけになる。
史料が全て実際にあったことを記しているわけではないし。
史料が重要なのは言うまでもないけど、史料を元にした推測も有る程度重要だと思う。
で、その推測から来る想像や妄想が歴史の楽しみでもあると思うんだけどなあ。
971 :
人間七七四年:2012/09/25(火) 01:53:59.65 ID:ogUGLjOh
そういう汚れ役は秀長が受け持ってたんじゃなかったっけ?
972 :
人間七七四年:2012/09/25(火) 03:54:26.36 ID:z9YYj5lU
千利休売僧疑惑とかか
973 :
人間七七四年:2012/09/25(火) 06:40:46.55 ID:iJteyG0f
北条氏をほろぼしたあと、家康にその領地を与えられたが、秀吉はそのとき
「江戸はまだ行っていないが、地図で見ると良いところだ。小田原の城は家康の家臣に与えて、家康本人は
江戸にするのがいいだろう」
とあり、家康は同意したと、徳川実記だったか記録がある。
それまでの家康の城は、岡崎城や浜松城は海から離れていた。しかし秀吉は大阪城にて
城内まで舟が入れることによる補給の容易さ、大河川の下流が湾に注ぎ込む地での商業の利便性、
をすでに知っていた。その後の江戸/東京の発展ぶりは皆さんご承知のとおり。
974 :
人間七七四年:2012/09/25(火) 06:55:05.64 ID:iJteyG0f
本スレの主旨から話がずれたので、なるべく戻すとして
鉄砲の火薬の原料である硝石は、戦国時代では、外国からの輸入品だ。
硝石の成分は、日本でも一応あるが、湿気に弱くて雨に流されて得にくい。だから外国の乾燥地帯で
採取する。江戸時代の鎖国中は、古民家の床下で、たとえば白川郷の合掌造りの民家とかで
硝石を作ったりしていた。が、軍事用として大量に緊急に質の良いものなら、やはり輸入品になろう。
975 :
人間七七四年:2012/09/25(火) 07:48:35.66 ID:AFvZQ5Op
火薬の輸入の話は該当スレがあるからそちらで。
実際にはまったくと言ってわからん話だから議論できないけどな。
国内での生産についての史料が断片的にしか窺えない以上
どうしようもない。
富山の五箇山などで生産されていたのがわかるのも関が原前後の書状でわかるが、
それがいつから生産スタートされたかもわからん。
ただ北陸一向宗や石山本願寺関連施設では早くから生産されていたのかも知れない。
976 :
人間七七四年:2012/09/25(火) 08:20:30.06 ID:iJteyG0f
火縄銃の不発はさぞ多かっただろうねえ。訓練とか狩猟とかなら、国内生産分の火薬でも
いいだろうけどさ。
火縄銃が不発だった場合は、まず火縄を外して、遅発の可能性もあるから、銃口を下にして
叩いて弾丸と火薬を出す。たぶん思うように出ないだろう。火縄銃は基本的に、斜め下を撃とうと
すると弾丸が転げ出してしまう。だからきつめの弾丸を自作するかもしれないし、銃身の内部に
すすがついて、べたつくかもしれない。火薬に至っては、銃身に入れて棒で突き固めるので、
逆さにして振っても、思うようにでてこないと思われる。
やはりここでチェンジ!だな。他の鉄砲兵?にその場を代わってもらったうえで、
後方に引き下がって、尾栓をはずして大わらわの分解のハズ。
977 :
人間七七四年:2012/09/25(火) 08:30:14.62 ID:KuD4aRIQ
>>973 家康の場合、天下をとるまであれだけの大身であったにも関わらず
金策に困り続けて、貧乏の状態だったからケチで有名
さすがに将軍にもなればそんな事はなくなったが
秀吉と違って1大名時代は金儲けとは無縁だったらしい
978 :
人間七七四年:2012/09/25(火) 08:37:00.48 ID:iJteyG0f
979 :
人間七七四年:2012/09/25(火) 08:45:54.86 ID:iJteyG0f
>>977 んだね。ケチで有名。家康の金儲けは、信長や秀吉に感化されて
後からのものだろう。
980 :
人間七七四年:2012/09/25(火) 09:04:15.53 ID:we1Fa1Uv
信長死後、自分に味方をつけようと秀吉の賄賂大作戦が始まったが
それができたのも金満だったから
勿論、太政大臣、関白も金で買った
981 :
人間七七四年:2012/09/25(火) 15:01:43.85 ID:eBjjQ0Qe
金で買えるものじゃないぞw
982 :
人間七七四年:2012/09/25(火) 15:23:11.94 ID:RU1FJmHo
徳川家康の征夷大将軍は金で買った
983 :
人間七七四年:2012/09/25(火) 20:24:12.39 ID:gakJK/Om
>>977 金策に困り続けたというのは何が元ネタ?
984 :
人間七七四年:2012/09/25(火) 23:45:02.00 ID:Q0l6rxZ6
今川に三河は搾り取られ家臣でさえ畑を耕す有り様とかいう創作があるじゃん
それじゃね
娘すら与えて先陣を任す家康の家臣や国許をそんな意味わからんことするわけないけどな
985 :
人間七七四年:2012/09/26(水) 07:52:52.53 ID:ZHeKXDl+
まあ、そうだわな。
986 :
人間七七四年:2012/09/26(水) 07:59:24.80 ID:fyogD8Ei
大身であったというのに、三河時代の状態だけをもって困り続けたというのもなんとも
987 :
人間七七四年:2012/09/26(水) 08:25:26.35 ID:kGxgQExN
>>971 たしか大河ドラマ『秀吉』には秀長が「俺は大黒様か!」と怒鳴る場面があったな
まあ元が小説だからな
988 :
人間七七四年:2012/09/26(水) 08:28:02.27 ID:kGxgQExN
>>986 将軍になるまでは物凄くケチだったから
困ってなかったらもう少し気前が良いよ
989 :
人間七七四年:2012/09/26(水) 11:22:26.37 ID:FHy+EYgC
家康が溜め込んだ金を散財する家光w
990 :
人間七七四年:2012/09/26(水) 18:03:27.49 ID:pil7LoIm
まあ如水や利家も蓄財して政宗とかに貸してたから、
ケチと節約は区別するべき。
あと守護大名上がりは、直轄領がほとんどなく、
大友みたいに寺社破壊で荘園没収して褒美に回すケースもあるが。
鎌倉時代からの重代の大身家臣たちや仮想敵に等しい大友支流の同族に領地を与えてるから、
本家は南蛮貿易利潤だけでは追っつかず、
博多商人に金借りたり
ついには大友家菩提寺まで破壊して領地増やしをする窮乏ぶり。
大友も略奪や人狩奴隷売却すれば財政V字快復すんのに、逆に孤児の為の病院や学校作り始めて…
まあそれで人心を得たから島津相手にキリシタン人口多い玖珠郡などでは武将不在でも国人連合で大抵抗できたんだけどな。
991 :
人間七七四年:2012/09/27(木) 00:30:25.80 ID:lmYehr5A
>>988 いや、そのさも事実であるかのように語ってる、けちという事の元ネタをだな
結局
>>984程度だろ?
992 :
人間七七四年:2012/09/27(木) 15:19:27.82 ID:jZYwI483
大体、幕末ですら軍資金が無くてフランスから金借りてたぐらいだぜ
大身だからと言って金に困ってないという考えは捨てろや
993 :
人間七七四年:2012/09/27(木) 18:57:05.18 ID:NErhFr3o
×幕末ですら
◯幕末だから
認識は正確にな
994 :
人間七七四年:2012/09/27(木) 19:00:24.99 ID:9It+jQ9a
家康はたとえば、それこそ長篠の戦いでは城兵に最新の鉄砲を揃えて装備させたと言うな。
そのため武田軍の鉄砲よりも射程がかなり長く、長篠城の改修もあって防御に非常に効果を発揮したとか。
家康は将軍になる以前から金使うところはがっつり使ってるよ
995 :
人間七七四年:2012/09/27(木) 19:15:17.63 ID:JnZY2seI
996 :
人間七七四年:2012/09/28(金) 00:30:17.42 ID:BUe6Mi8d
ソース不明の話ばっかだなw
997 :
人間七七四年:2012/09/28(金) 01:19:31.36 ID:uzoEtDT4
>>992 はなしズレてるぞ
ケチかどうかと金に困ってるか否かは又別の話だろ
998 :
人間七七四年:2012/09/28(金) 06:01:57.61 ID:OxgB8foi
『長篠城を防備するにあたり、徳川氏は200挺の鉄砲をこの城に配備したという。
城兵は500名とされるから、40%という、当時としては異常に高い火器装備率になる。
これを戦闘正面である主郭と帯曲輪の外郭線の約200メートルに、仮に150挺を充当するとして、
1.3メートルに1挺という数になる。』
「戦国の堅城」三河長篠城(樋口隆晴)
999 :
人間七七四年:
はよう次スレ立てろや