長篠・設楽原合戦の真実 2

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1人間七七四年
長篠の戦いのスレ

長篠・設楽原合戦の真実
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153127427/
2人間七七四年:2008/11/03(月) 01:21:45 ID:cTCM2uNy
2get
3人間七七四年:2008/11/03(月) 15:22:28 ID:QBo5ZZk0
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4人間七七四年:2008/11/03(月) 19:33:46 ID:/89QChCR
5人間七七四年:2008/11/03(月) 20:17:00 ID:nh4mWY9B BE:280245029-2BP(500)
次スレ建つとは思わなかった・・・
6人間七七四年:2008/11/06(木) 07:08:14 ID:Qm+MDeEk
もう語り尽くした感があるしなぁ……
7人間七七四年:2008/11/06(木) 07:26:41 ID:5MERR3lB
7
8人間七七四年:2008/11/09(日) 01:38:48 ID:fpLUCQGR
今の長篠城址は美しいな。ここで凄惨な戦があったというのがなかなか想像しにくい。
ttp://www15.ocn.ne.jp/~yawa/menew/mikawa/shiseki/higashi/nagashino.j/nagashino2.jpg
9人間七七四年:2008/11/10(月) 21:20:39 ID:swvXnRSB
今、センゴクって漫画読んでるんだけどちょうどそのあたり
あれは歴史マニアから見てどうなの?
光秀参戦とかありえたの?あと勝頼が大将じゃなかったってのはどうなん?
10人間七七四年:2008/11/10(月) 21:22:54 ID:Mr/UK3Pz
>>9
何を具体的にどう聞きたいのか整理してから出直せ。
11人間七七四年:2008/11/10(月) 21:38:20 ID:swvXnRSB
センゴク天正記の3巻だと

光秀が長篠の合戦に加わっていた可能性が高い
みたいに説明されてるんだけどどうなの?

後。武田軍で普通ありえない大将の勝頼が前線まで
きたのは勝頼が大将ではないからだ
みたいな説明があったけどそれはどうなの?
12人間七七四年:2008/11/10(月) 21:42:08 ID:Mr/UK3Pz
上はそう言う説は昔から結構あるが、確証はない。

下はあくまで著者の想像だとしか言いようが無い。
13人間七七四年:2008/11/10(月) 22:37:35 ID:swvXnRSB
前スレが見たいんだけどもうないんだよな。

前スレのまとめみたいなのないかな?
信長の戦法は今の歴史研究だとどんな策とった可能性が高いの?
たしか鉄砲の三段撃ちは創作なんだよね?
後、武田は騎馬に乗ってなかったんでしょ?
14人間七七四年:2008/11/11(火) 01:03:41 ID:8s8MFz2M
>>13
前スレまとめ その1

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/05(日) 12:55:37 ID:K3ZYuSmO
発掘された弾丸を検証した結果では殺傷能力はかなり低かったことがわかっている。
当時の弾は現在の⊃型と違って不完全な○型で空気抵抗が大きく照準も合わない。

また、当時の火縄銃の分析でもバレル内に螺旋が刻まれてなく、弾に回転が加わらないので
弾の安定性、直進性もかなり低かったことが証明されている。

これらから推定される流体物理学上の有効射程距離は13m。
毎秒5mの速さで進軍されたとすると三段撃ちでも次弾発射まで7.8秒しか猶予時間がない。
敵がボルト並の速さだと猶予時間は4.1秒。柵だけじゃどうにもならんね。
やはり火縄銃以外のプラスアルファ部分が勝利に大きく貢献したと考えられる。

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/05(日) 12:59:44 ID:vdhvkYCB
13mって矢より短そうなんだが

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 03:31:16 ID:0E4ZZEJM
>>753
おいら 13mって距離はけっこう真実味あるかも、と思うよ。

当時の一丁あたりの携行弾薬数ってそう多くないと思うのよ。
もっと銃が主役だった朝鮮の役の金海城に用意された弾は銃一丁あたり23発なので、
二昔前の当時もそれ以上は持って行かなかったかと。まぁ硝石は輸入品だし高いものだしねぇ。

で、こういう前提条件では、種子島の有効射程云々よりも、
”鉄砲撃ちの勲功がわかる”距離で使われたと見る方が実情にあってるのじゃないかな。
この戦いじゃないけど、鉄砲の狙撃で武将を倒した功名の記録はあるしね。

となると、兜首を狙える状況ってのは、相手が突撃してきたとき、が一番だよね。
で、有効射程50mも先からバンザイ突撃する軍法は、銃装備もしていた武田軍では考えにくいんじゃないかな。
となると必然匍匐?前進で近寄ってから20m以内からの突撃、だったんじゃないかなぁ。
(これは旧陸軍のバンザイ突撃の距離だけど…)

となると、銃が使える距離もそれくらいに限定されてしまうと思う。
なので当時の銃術の本も至近距離での話しか書かれてないんだと思うよ。

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 12:11:23 ID:t0OTtd2R
島津あたりの鉄砲の打ち方は相手の目がはっきりと見えるぐらいまで近づいたら撃てじゃなかった?

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 13:13:28 ID:7x9W24i9
>>747
なるほど、野球のフォークボールと同じ原理ですね。
回転がないと空気抵抗の影響である地点を境に速度が極端に落ち弾も落ちる、と。
現在の素材と違って砲身内に撃つ度にわずかなひずみが生じるからカーブやシュートする軌道もありえますね。
弾も現在のように完全に規格化されてないから一発一発微妙に大きさや形が違うだろうし、
撃つ度に少しズレが出るのが当然だと思います。

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 13:39:15 ID:qbFElcfi
狙って「ある一点」を撃つ、というよりも「面」を撃つ兵器だったんじゃないかな
最低でも10人単位くらいがまとまって上級指揮者の示す方向におよそで筒先を合わせる
で、撃つ
狙って撃つわけじゃないので照準合わせもない
これなら実質的な有効射程距離は伸びる
たまたまその方向にいた撃たれる側にしてみれば被弾しようがしまいが轟音ともに弾が
殺到してくるイメージになる
15人間七七四年:2008/11/11(火) 01:10:05 ID:8s8MFz2M
前スレまとめ その2

771 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/08(水) 19:57:54 ID:WxqACmyq
火縄銃の射程よりも、さらに集弾率を高めようとするなら、
大砲による大口径化でなく、銃でいえば、
弾を球形でなく、いわゆる砲弾型にして、銃身にライフリングをきざんで
強制的に回転運動させなければならない。
(てるてる坊主型の弾という案もあるが、さほど命中率がよくない。)

当時の日本の工作技術では難問。なにしろネジ1本でさえも、大まかに
形をととのえた後、ネジの回転溝はヤスリでいちいち仕上げたそうだから。

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/10(金) 23:10:20 ID:50368HPF
>>775
いちお13m以内(4、5歩)くらいで射撃→切り込みは、関ヶ原の島津軍がやってる(>>630
数十年後のことだけど、”敵の突撃の勢いを銃撃で止めて切り込む”戦況だから、
武田軍が守備体制の織田徳川軍に突撃した長篠と状況は似てるんじゃないかと。

ただ、兜首は武田軍突撃時よりも、その後の追撃戦(銃が使われにくい)であげられてるから、
有効射程(50m程度)の銃撃で突撃を撃ち挫だいた可能性も大きいとは思う。
ただこれは、武田軍の突撃がどうだか、で決まると思うし、そういうのは軍法の問題だと思うけど、
それを引き継いだはずの徳川軍には敵の柵から100m以上もの離れたところからバンザイ突撃した例がないので…

おいら的には、他の戦のようにススキや小山に隠れて柵に接近して、30mくらいから歓声を上げて突撃したんじゃないかなぁ、と勝手に思ってる。
これなら↑の、13mくらいで指揮官狙撃→傷ついた指揮官を担いで退却で、
守備側は一回くらいしか射撃の機会はないけど、一日に20発も使わずに種子島の威力は十分発揮されたと思う。

あと近代でいう”弱装弾”の問題もあって、種子島の威力が今の均一に生産されたガンパウダーほどなかったと思う。
ナポレオン戦争の時代でも、英仏両方で配給される火薬の質は一定でなかったし、
米墨戦争ではメキシコ側の火薬の質が悪くて射程がのびなかったし、
昔の黒色火薬の質はあまり当てにならないのよ。
当時の日本では補給品に硝石硫黄などがあるので、現地調合だとしたら質はもっとひどかったと思うな。

大阪の役では、小田切所左衛門の額に弾が当たったけど、すぐ取り出し、
「この鎧は信玄公のお手にあったもの」といった(常山紀談)なんて普通の鎧兜で銃弾防げた話もあるから、
実際にはかなり威力が低い射撃も多かった、と思えるし。

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/15(水) 20:30:22 ID:nZrgZb9z
今の時代の拳銃だって近距離でしか使い物にならん
命中精度の低い火縄の有効射程が13mというのもそう不思議ではない

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/15(水) 22:13:09 ID:vY6bKSqQ
>>800
外国の観光地で撃ったなら火薬半分の弱装弾だから扱いやすいよ
一般愛好家相手や軍管理のとこだったら基本通常弾

拳銃でも弓でも動いてる的に一撃必中目指すなら12m弱とはよく耳にするから
そういう記述を勘違いしたんじゃないかな
有効射程がそんなに短ければ松本城の城壁の銃眼とか飾りにもならん

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/16(木) 00:57:11 ID:wmeNIXby
>>803
確かに12mでも狙って当てるには結構距離あるからなー
>>809
軍板いけばその辺は結構詳しい
素人が撃つと肩が外れる拳銃とかあるらしいし

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/16(木) 03:18:25 ID:LGcYoEb1
種子島の有効射程は50mくらい、ってのは誰も反対してないのでは。
「12m」というのは”当時の戦術上使用された距離”の話じゃないかね?
16人間七七四年:2008/11/11(火) 01:19:05 ID:8s8MFz2M
前スレまとめ その3

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/16(木) 18:43:29 ID:NrQbvpCt
12、13mってのは動いている目標に当てられて仕留められる可能性の高い距離だろ
そりゃ火縄でも甲冑着ている相手を致死できる距離なら50mは当然あってしかるべきだが
最大限効果を発揮できる距離は12mほどということ

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/16(木) 19:34:51 ID:Gd/J0sNy
最大限効果を発揮できる距離はその理屈なら13mは遠い。
槍が届かないギリギリの距離でしょ。
弓のがましだな。二回は射れる

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/25(土) 22:42:25 ID:eu2y//0+
現地の伝承では武田3000対織田徳川20000というのがほんとのとこらしいね。
これじゃ誰が采配とっても織田方が勝つ。

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/25(土) 22:51:57 ID:FRg7Wfm7
3000てなんだよ桶狭間レベルじゃん

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 01:19:34 ID:btz18kHO
3000だと、ホントに功城戦だけのつもりだったってことになるな。
そりゃ、こんだけ少数だと、背後の砦落とされたら、そうそう逃げられないが……
そういう意味では、勝頼は生きて逃れただけで、ラッキーだったな。

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 01:55:33 ID:U2TrgXD/
いや、それはそれで勝頼と武田家臣を馬鹿にしすぎだろw
3000しかいないのに20000の織田軍に会戦を挑む大将もいなければ、それに諫言しない家臣もいねーよw

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 01:57:40 ID:qswYHBAq
>>905
ぶっちゃけ織田徳川軍の全体を把握できなかっただけだろ。>武田
ただでさえ見通しが悪い場所なんだから。設楽が原は。

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 06:01:39 ID:seRYqA+M
狭いからな
あんな所で何万もの軍隊が合戦するとか無理だろ
本当はたぶん数百人で殴り合いとかだったと思うよ

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 11:27:09 ID:ahefraww
どんどん規模が小さくなってるw

939 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/27(月) 14:02:30 ID:7Fmoa1eh
長篠・設楽原の戦を語る上で一番重要なことは、現地に行って見ることである。
これに尽きる。

941 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/27(月) 15:11:19 ID:JwWtNseQ ?2BP(500)
そうだね。
行った感想は、狭い。。。

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/27(月) 18:31:04 ID:iNxztSWd
そうだろ?
長篠狭いだろ?
あんな所で何万も戦うの無理。
物理的に不可能だろ、人間が折り重ならないとそんな人数にならん。
だからあれじゃねえの、本当は騎馬隊じゃなくて騎馬戦。

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/28(火) 00:20:23 ID:0n0C8hm6
戊辰戦争時にも長篠・設楽原で小競り合いがあったが500人でも収拾つかなくなって進軍に苦労したしな。
織田武田も実際はもっと少なかったはず。織田3000 VS 武田1000が妥当だろう。
17人間七七四年:2008/11/11(火) 11:06:51 ID:oF7FWyqj
ワロタ
18人間七七四年:2008/11/11(火) 12:35:45 ID:wyNX1pwu
え、そんな小規模な戦いならその後勝頼が
勢力縮めた理由はなに?
19人間七七四年:2008/11/11(火) 12:51:37 ID:6ic9NrSE
>>18
兵力の割に有力な将が山ほど居たからな。
20人間七七四年:2008/11/11(火) 13:43:52 ID:lJWcy4my
兵力が少ないのに有力武将がたくさんいるとか、そんなことあると思ってるのかよ。
21人間七七四年:2008/11/11(火) 20:19:51 ID:l5XWsCaq
武田家の有力武将で生き残った方が少ないような戦いなのに、武田家の兵力が1万以下というのは少なすぎるでしょう。

それから何かというと、長篠は狭いといわれますが、それをいうなら兵力規模で言うと関ヶ原の方が狭いのですが。
関ヶ原の戦いで双方合わせて15万というのにケチをつける人を見かけないのはなぜなのでしょう。
22人間七七四年:2008/11/11(火) 20:21:16 ID:lJWcy4my
現場を実際に見た人間じゃ無いから、狭いといわれたら際限なく狭く想像しちゃうんだろうな。>長篠
23人間七七四年:2008/11/11(火) 22:55:09 ID:n8AdkoW1
通説の連合軍3万5千、武田軍1万5千が本当でも
実際は非戦闘員が5〜7割居るわけで。。。

戦闘員を考えたら数千規模の戦いというのも、あり得るのでは?
24人間七七四年:2008/11/11(火) 23:23:19 ID:OPbaCb3T
まあ戦国時代は現代と比べて人間も馬も小さいし、詰め込もうと思えば詰め込めるんじゃね。
25人間七七四年:2008/11/12(水) 03:21:01 ID:rhUGQHh/
設楽原の馬防柵あたりから資料館あたりは狭いけど
全体を考えるとそうそう狭い気もしないんだよねぇ…
26人間七七四年:2008/11/12(水) 12:24:06 ID:bDk0cvFN
埼京線通勤時の密度で設楽原主戦場に人間を配置すると最大5万2000人が配置可能だそうだ。
名前忘れたけどどっかの大学教授が話してるのを見た覚えがある。
27人間七七四年:2008/11/12(水) 12:44:35 ID:u1YMVm78
ってことは両軍合わせても精々二万ってとこでは?
28人間七七四年:2008/11/12(水) 12:49:21 ID:/L73QvD4
いやあの埼京線の密度だと戦闘どころか満足に移動も出来ないし
29人間七七四年:2008/11/12(水) 13:33:55 ID:qfGXT2a1
あの混雑だと鉄砲構えることは到底無理だし一歩移動することすら困難だな。
戦闘方法も従来の騎馬突撃、鉄砲狙撃、槍突撃以外の方法が取られた可能性が高い。
手足を使わず且つ移動も伴わない攻撃となると頭突き、噛み付き、口喧嘩あたりか。
30人間七七四年:2008/11/12(水) 14:37:45 ID:/L73QvD4
あとは流言蜚語ですね
いきなり痴漢呼ばわりされてそれまで背中をあずけあっていた戦友達からの冷たい視線
こうなるともう戦線維持どころじゃないです
士気が崩壊して戦列が崩れますよ
31人間七七四年:2008/11/12(水) 17:23:42 ID:GLxcFBzc
鉄砲の威力と言うよりも、単純に
数に勝る織田徳川連合軍ががっつり陣地を敷いているところに
数の少ない武田軍が攻めたからなんでしょ?
要は、数が少ないくせに要塞戦に突っ込んだような物
そりゃ、やられるって。

そもそも織田軍って桶狭間以外では数に物言わせて攻めてるよね?
32人間七七四年:2008/11/12(水) 19:33:01 ID:UAD7g5O9
まず第一に狭いという方々は、どれくらいの地域を戦場として考えておられるのでしょうか。
長篠は狭いか、広いか、というのは、どれくらいの地域を考えておられるか、という前提を決めないと話が前へ進まないと思います。
長篠城から連吾川までは数キロあります。この間に武田軍1万5000が在陣したとして、どれくらいのスペースが必要でしょうか。
一人当たり約10平方メートル、約6畳余り確保しても、15万平方メートル、400メートル四方あれば在陣できます。
1人に6畳間のスペースがあれば、馬とか、かなりの大荷物も置けると思います。
設楽原だけに双方合わせて5万人とか、無理やり詰め込もうとしていませんか。
33人間七七四年:2008/11/12(水) 20:19:43 ID:MBznaj2Z
けど勝頼は無能ではないでしょ
そこまで馬鹿な戦術は取らないでしょ。
しかも織田は今川破ってるわけだし
油断はしないと思うんだ。
34人間七七四年:2008/11/12(水) 20:27:00 ID:xtohRd99
>>31
いーえ、あなたの誤認です
35人間七七四年:2008/11/13(木) 11:12:39 ID:l66YceUQ
31説を唱える人も結構いるな。
36人間七七四年:2008/11/13(木) 11:19:24 ID:b6EviZvI
>>31
>そもそも織田軍って桶狭間以外では数に物言わせて攻めてるよね?

尾張統一までの苦難を無かったことにはさせんぞ。
37人間七七四年:2008/11/13(木) 11:39:29 ID:Fd8h8QSz
三千丁の鉄砲の三段撃ちは無かったでFA?
そもそも千丁なの三千丁なの?
38人間七七四年:2008/11/13(木) 11:51:04 ID:Q5BJVrJ3
>>31
天王寺の戦い
二度の朝倉追撃戦
とか敵より少兵力で戦った事例はもっといろいろあるけど、もっとも勝利を確実にするには敵より多い兵力にこしたことはない

そもそも長篠に出陣した織田側の兵力はもっと少ないとする異論は出されているね

武田は自兵力より少なかった小豪族にすぎない村上義清に二度も壊滅的打撃を受け惨敗しているから人の事は言えないはずだが
39人間七七四年:2008/11/13(木) 16:56:42 ID:aNeH+Zx9
あの武田が強いってのは当時からあったのかな?
後の徳川時代に作られた物じゃないの?
実は武田がそんなに強い兵を持ってなかったんじゃないの?
40人間七七四年:2008/11/13(木) 16:58:33 ID:SFXnTGwv
>>39
あの当時「日本一強いのは武田」ってのは、ある程度共通認識だったらしい。
九州にも東北にも、「今日本で一番強いのは武田」っていうような事を書いた記録が残ってる。
41人間七七四年:2008/11/13(木) 16:59:58 ID:aNeH+Zx9
そうなの?けど上杉謙信とは引き分けてるしなぜそこまで
強いって思われてたんだろうな。
42人間七七四年:2008/11/13(木) 17:02:33 ID:f986nscW
朝倉追撃戦が敵より小兵力ということは無いだろう
信長自ら先駆けとなって追撃したからその部隊だけ見るなら小兵力かもしれないが
そんなこといったら他の武将の例もいくらでも変わる
43人間七七四年:2008/11/13(木) 17:03:35 ID:SFXnTGwv
謙信と引き分けても信州は武田が実質確保したし。信長は信玄生前は露骨に武田を恐れていたし。
そういう政戦あわせて「武田は強い」って印象があったのは間違いないよ。

ちなみに信玄の前は、日本で英雄といえば毛利元就だったらしい。
44人間七七四年:2008/11/13(木) 19:09:59 ID:+6DsaeEu
>>40
近畿あたりで書かれた書状なんかにもそういうのがあった気がする
45人間七七四年:2008/11/13(木) 19:55:57 ID:Q5BJVrJ3
>>43
主攻方面の背後だから気にはしていたが、全然恐れている気配ないけど
恐れていたとするのは後世の文書でしょ
信長公記はじめ同時代に近い文書から全くそれらしき気配はなく
むしろ武田側の方が織田の動向を気にしていたと思うが

第一、後に第一次信長包囲網が完成し反信長陣営の形勢が絶対優位に立ち
武田が美濃岩村城を攻めたとき、信長は武田に対し恐れおののくどころか
必ず武田は根絶やしにすると激怒したと言うしね


恐らく武田の領地が甲斐信濃でなく近江あたりにあったならば
信長は美濃制圧後、真っ先に武田を潰しに行っただろう
46人間七七四年:2008/11/13(木) 20:01:31 ID:SFXnTGwv
信長が武田恐れてなきゃ、信玄が信長と断交した時点で、畿内の織田支配が
あんなに動揺したりしないよ。
ああいうのは、上の恐怖が下に伝染するもんだ。

信長は誰も恐れなかったって信じたいのはわかるけど、もうちょっと平静な目で見たほうがいいと思うよ?
47人間七七四年:2008/11/13(木) 20:11:10 ID:Tvz8lffi
>>46
別に動揺していませんよ。
48人間七七四年:2008/11/13(木) 20:25:21 ID:CtYcT/2Y
いや武田恐れてなければ逆に馬鹿だろ
一番恐れてたかどうかは知らないけど
岩村城はそりゃ激怒もするよ
本領扱いしてた美濃に踏み込まれ昔の女を寝取られたんだから
49人間七七四年:2008/11/13(木) 21:30:47 ID:BNG7uFHj
>>48
>昔の女を寝取られたんだから

あれは、義理の叔母では。むしろ、実子を武田が奪ったことに激怒したと思います。
50人間七七四年:2008/11/13(木) 21:48:00 ID:CtYcT/2Y
まあ俗説の類です
伯母で昔の愛人
51人間七七四年:2008/11/13(木) 22:18:56 ID:XeE/BnaO
東国の兵は昔から強いとか凶暴とか思われているみたいだから、
一般人の中じゃ武田は強いと思われていそうだな、実質は別かもしれないけど。
ただそういった強いという風説は結構重要だろうな。
52人間七七四年:2008/11/13(木) 23:22:59 ID:gsq7LF0i
>>38
朝倉追撃戦は朝倉を先陣切って追いかけたのが信長直属だっただけで
実際は兵力を集結させた上で(もちろん朝倉よりずっと大軍)攻撃してるんだけど。

>>45
つーか君が知らないだけだと思うけど。
武田が西上野攻めてる途中で偶発的に美濃に入った武田の一部隊と
自分の部隊が激突したときにあわてて自分から婚姻同盟を求めたのは
信長なんだけど。
53人間七七四年:2008/11/14(金) 00:20:13 ID:vPsGRAeU
>>49
だから秋山信友を残虐な刑に処したのかな?
54人間七七四年:2008/11/14(金) 00:36:11 ID:74dcMO65
>>43
毛利元就と武田信玄ってけっこう時代がかぶってないか?
尼子経久や北条早雲くらいなら分かるけど。
55人間七七四年:2008/11/14(金) 00:48:54 ID:UIQb1QRi
長篠包囲の段階で武田がどれだけ織田主力の救援を想定していたのかは不明だけど、当然それを想定して木曽路から美濃岐阜を突く別動ルートも用意して置くべきだっただろう。

武田は一万五千しか動いてないんだから信濃上野に備えを残しても一万程度は動かせたはず。問題は対上杉で高坂を外し難く、主将格が居ないことだけ。

ただそれは織田方も同じで、本願寺の備えに畿内に居たとされて来た光秀の出陣説も出てるくらいオールスターで来てる。背後を突かれたら相当な動揺があっただろうな。

遠江、三河、美濃と三万動員して三路侵攻を実現させた信玄なら当然長篠一本だけで勝負を決めようとはしなかっただろう。
徳川攻めというのは織田に対する示威行動でもあるから、当然主力が三河遠江に来援した時の背後攻め策を用意すべきなのだが、もし用意してなかったら信玄はあっさり退いていたと思う。

そういう大局観の欠如が勝頼の敗因ではないかと思う。
56人間七七四年:2008/11/14(金) 00:50:48 ID:GanF1Pa5
軍鑑では確かに山本勘助が
諏訪姫輿入れ問題の時に
「今日本で英雄と言えば中国・九州を切り従える毛利元就だが、
晴信公はまだ若くともそれに劣らない人物である。
晴信公ほどの人物に諏訪衆が害をなせるはずはない。
むしろ諏訪姫を側室に迎える事は甲斐と諏訪の絆を深めるものだ。」
という意味の事を1545年にいうくだりがあるw
1545年の時点じゃ元就は厳島さえ起きてなくてただの安芸の国人連合の盟主w

57人間七七四年:2008/11/14(金) 01:16:29 ID:GanF1Pa5
ただ武田の強いという評判が無根という事はないだろう。
「武田・上杉の軍は天下一である。」という大和国興福寺の記録は有名だな。
年代推移でみても元就は晩年に九州で大友にしてやられ、尼子・大内の再興軍の相手に
忙殺され、拡大から維持に主眼がおかれるようになる。
信玄はその同じ時期に駿河から三河遠江美濃と大きな大名を相手にしながら順調に拡大。飛騨も得てる。
これを見れば当時の人間は時代の英雄が元就から信玄に変わったように思えたかもしれない。
織田領土内にいた宣教師ルイス・フロイスも信玄を恐るべき英傑として本国への報告書に記し
もしこのまま信玄が上洛してくればキリスト教徒は迫害されるだろうと不安を吐露している。
当時において信玄や武田の評判が高かったのは事実のようだ。
58人間七七四年:2008/11/14(金) 01:32:50 ID:RYYZqBY3
江戸時代に武田の強さが喧伝されたって言っても、実態がなけりゃ喧伝できるわけないしねえ。
59参加するカモさん :2008/11/14(金) 01:47:49 ID:u6FFxlf7
朝倉教景(宗滴)は「国持、人つかひの上手。よき手本と申すべく人」と評して上杉謙信・武田信玄・
毛利元就・織田信長って挙げてるし他国からも認められる存在だったと思うよ。
60人間七七四年:2008/11/14(金) 03:03:36 ID:LWyjOd40
毛利元就ってなんかイマイチメジャーになれないよね。
そんなにすごいの?
61人間七七四年:2008/11/14(金) 03:20:41 ID:RYYZqBY3
まだ守護大名の力が強力な時代に、安芸の一国人領主の、しかも当主代理の立場から、
一代で中国地方の王にのし上がってるんだぞ。奇跡以外の何者でもない。
62人間七七四年:2008/11/14(金) 10:49:50 ID:/qFnqwdm
>>57
当時は今みたいにマスメディアが発達していたわけではないから
戦いの詳細や推移などが伝わるわけがない
ただ単純に勝ち負けしか伝播しないだろう
川中島とて数回戦ったとするのはかなり後世であって
実際に戦ったされるのは第四回のみだからそれしか伝播していないだろう
とすれば村上に二度も大敗したことは信長には伝わる際にクローズアップする
それにまだ途上にあるとはいえ士農分離がある程度なされている信長軍が
農閑期にしか大規模派兵の出来ない武田側の後塵を拝するとは思えない
時は前後するが、信長軍の士農分離された常備部隊は
天王寺の戦いで信長率いる僅か三千の兵で雑賀鉄砲組を含む本願寺軍三万を破って実力は実証している


長文失礼しました
63人間七七四年:2008/11/14(金) 14:17:48 ID:J/1pZ0Lq
戦国一の成り上がりは秀吉
百姓のせがれから天下人
64人間七七四年:2008/11/14(金) 14:23:41 ID:XVXrg1mp
村上に大敗はしてるけど京で名前の知れ渡っている謙信に潰されなかったのは
名声として大きいかと
ただ本願寺文章読むと朝倉より強いと思われていたとも思えない
65人間七七四年:2008/11/14(金) 17:10:55 ID:+5J9yxU9
VIPに自称戦国マニア沸いてるわ、お前ら軽く凸してくれないか?
合戦で負けた者には首を切り落としてあげなければならないとか知ってる?
激痛から解放してあげる為だって。
あと、豊臣秀吉は指が六本あった。
当時の天皇は士気の上がった戦国武将を抑える力が無く戦国時代突入を阻止できなかった。
無敵の騎馬軍団風林火山武田軍は馬を感謝し食べてた。
朝までデキル奴だけで【応仁の乱】【戦国時代】について語ろう
http://jfk.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1226649392/
66人間七七四年:2008/11/14(金) 21:04:55 ID:gzeWUgif
最新の発掘調査によると、長篠で織田・徳川連合軍が築いた馬防柵の長さは延べ2000mもあるそうです。
2000mの後ろに3万8000人を満員電車並みに詰め込まないと、織田・徳川連合軍は布陣できなかったとは。
陣地の奥行きは、5mも取れなかったのでしょうか。織田・徳川軍にとって、長篠は大変長細い戦場だったのですね。
それに、鉄砲1000挺では、2mに1挺しか鉄砲を配置できません。
当時の鉄砲の射程距離は前スレによると13m。
この密度で、武田軍の突撃が鉄砲で粉砕されるなんて。
本当に長篠の戦いはあったのでしょうか。
何だか、嘘の戦いに思えてなりません。
67人間七七四年:2008/11/14(金) 21:07:13 ID:RYYZqBY3
>>66
鉄砲の事を勘違いしていることは良くわかった。

射撃は銃殺するだけでなく、行動を牽制させるのも重要な役割なんだが。
68人間七七四年:2008/11/14(金) 21:43:11 ID:7lOTlhL9
当時の鉄砲の射程距離が13mしかないとは、これは多分冗談で書いたんでしょう。
野球のマウンドからホームベースまでの距離でも18m以上有ります。
これを5m縮めて13mにして、バッターに当てるっていうゲームにしたら殆ど当たるだろう。
そして、野球のボールに変えて石にして顔面に命中したら、只では済まない。
まあ顔面骨折、歯に当たれば見事な歯もげの出来上がりで戦闘能力などなくなり、下手すりゃ死ぬ。

射程距離13mしかない鉄砲の長篠の戦の再現。
陣城に接近する武田軍に対し一斉に発砲する織田、徳川連合軍だがまるっきり当たらない、まだ距離18mはある。
そこにキャンプで鍛えぬいた武田投石部隊の必殺の石が鉄砲隊めがけて、雨あられと降り注ぐ。

まるっきり発射速度が違いすぎる、銃口に火薬いれて弾いれて、さくじょうでついてなど手間取ってる間にその何倍もの石が降ってくる。
あっという間に鉄砲隊は壊滅、パニックになった織田、徳川連合軍は総崩れ、見事武田軍の大勝利。
以後、織田、徳川を滅ぼし武田幕府開闢、武田勝頼初代将軍に就任。
明治維新まで武田幕府は続くが、ペリーの黒船も石で沈めたという。

グレート武田、武田as NO1
やっぱ日本人の戦い方は精神力です、石で銃に勝つ。
竹やりでB29も落とします、日本ばんじゃーい^^;
 

69人間七七四年:2008/11/14(金) 21:54:43 ID:pTB7uXiK
>>67
前スレだと火縄銃は、13mしか射程距離がないそうです。
名和弓雄氏を始めとする火縄銃の専門家によると、火縄銃は4,5mは間隔をあけて使わないと駄目だとか。
その理由は、火縄銃を発射する際に、火薬の残りかすが飛び散るので、銃兵の身を守るために、間隔を空けるのは必須だそうです。
私だって、隣の人の火薬の残りかすを浴びて大やけどなんてたまりません。
そして、密集して突撃してくる足軽に対し、それよりはるかに少ない鉄砲なんて、行動の牽制になりません。
13mなんて、3秒以内に走り抜けます。1発撃ったら、その後ろから数十人規模の足軽が駆け込めます。
当たるのは、よほど運が悪い人間だけです。
70人間七七四年:2008/11/14(金) 21:55:55 ID:RYYZqBY3
>>69
前スレをソースにしてどうする。アホか。
71人間七七四年:2008/11/14(金) 22:29:36 ID:ZiMuloNF
あのさ、野球のマウンドから投げるのと戦場で撃つのは全然違うから。
野球なら投げるまでいくら間合いとってもバッターは殴りかかってこないから。
それに動く的と動かない的じでも全然違う。13メートル先でちょろちょろ動いてるのに当てるのがどれだけ至難の業か。
オリンピック級の人や催し物で模範射撃する人を例に出すのも間違い。
彼らはプロ、毎日死ぬほど練習してそれで飯食ってる。
弾一発や火薬が貴重な戦国時代に全員が習熟できるほど完璧に訓練するのは不可能。
72人間七七四年:2008/11/14(金) 22:49:21 ID:Au/8nbp8
>>69
前スレで13m肯定派だったけど、種子島の”有効”射程は50m程度、は、肯定派も否定派も同意してたぞ。

問題になってたのは、実際に運用する際での使用(実行有効)距離が13mくらいじゃなかろうか、って話。
細川家の軍法書に「敵の一斉発射で白煙がたったときに突撃せよ」と書いてあるのよ。
そして”13m”は関ヶ原の島津軍の記録にある距離で、「敵突撃を挫くために銃は主に使われたかも」、
…というのが、本論だったはず。
この場合、島津軍は射撃の後、逆切り込みをかけてるので、戦闘のほとんどは白兵戦になるかな。
当時の銃配備数やひとりの所持弾薬量の少なさも、これで肯定できるんじゃないか、と、おいらは思ってるけど。

あと銃間隔だけど、ナポレオン戦争とかマスケット銃での方陣では、
隣と肘すりあわせるくらいの間隔で使用されてたぞ。密集使用が不可能、という仮定は信じにくい。
73人間七七四年:2008/11/15(土) 00:05:17 ID:3/Wd8M92
>>62
なんだかなあ。
兵農分離なんて幻想だよ。実際は軍役を課された郷村が
軍役用の人数やメンツを固定した現象であって政策じゃないし
もちろん信長もやってない。
第一武田が農閑期にしか出陣できないというのも幻想だから。
実際はその戦歴を見れば一年のどこでも戦ってるから。
川中島4回以外にも何度も戦闘は起きてるんだけど。
一番激しかったのが第四回ってだけで。
本願寺軍三万って何の冗談よ。
信長公記でさえ謎の割増しても一万五千だし、
信長の三千も元から砦にいた数千を含めてない。
つーか村上に負けた事をいうなら信長は伊勢長島や斎藤に何度も負けてるから
クローズアップされまくってるはずだが。
74人間七七四年:2008/11/15(土) 01:05:15 ID:qqr6kLXd
>>66
長篠の約十年後、佐竹義重は北条と戦うため六千〜八千の鉄砲集めたけどね
75人間七七四年:2008/11/15(土) 01:36:08 ID:qqr6kLXd
>>73
何訳のわからないこと言ってんの?
専業の足軽などの話まとめた雑兵ものの書籍ならいくらでもあるじゃん
兵農分離されていない大名の軍も農繁期にも出ることは出来るだろうが、兵力は極めて限られる
もし農閑期同様の同兵力出せばその年の収穫は激減するのは確実
結局のところ上杉も武田も北条の篭城策に根負けして引いたじゃないか
兵農分離して専業化していたら秀吉のように長期の城攻めが出来たはずだ

兵農分離があったからこそ信長は短期間に那古野→清須→小牧山と本拠を容易に変えることが出来た

悪書の甲陽なんかに書いてある兵力や戦闘自体を史料批判もせずにまともに信じ込むことはやめた方がいいな
76人間七七四年:2008/11/15(土) 06:57:43 ID:3/Wd8M92
>>75
……。
なんか本当に井沢か何かに毒されてるみたいだから
一度まともな本を読むことをお勧めするよ。
兵力は限られるどころか大軍で普通に戦ってるから。
ためしに君が農繁期だと思う時期をあげてみな。
武田はその時期にも絶対大軍で兵を動かしているから。
長期の城攻めができるかは周辺事情によるのよ。
周りに敵がいる状況で一つの城に時間かけ過ぎるわけにはいかないんだよ。
君の言うとおりなら毛利元就も尼子相手に長期の城攻めやってるけど
毛利は兵農分離してたわけ?秀吉や信長以前に。
拠点変えについても信玄の甲府は父の信虎の代に拠点変えされたものだから
武田も兵農分離してたわけ?君の理屈だと。
というかね、戦国大名の軍隊はもともと軍役衆っていうので構成されてるの。
大名が配下に領地を与え、それに見合った部隊構成を大名が配下に課し、
配下がその指定された数と編成の部隊を連れてくる。これは武田も織田も上杉も
その他の大名もいっしょ。そしてその軍役を課された郷村が戦乱が長引き、
軍役を課される状態が続いた事で、軍役に出す人数を雇ったり養ったりして
戦時に出すようになったのが兵農分離、っていう現象なわけ。
これは武田の領国内でも起きてた現象で、信玄が郷村にまともなやつを出せ、と
指示してる書状もある。

後君にはショックかもしれないが、甲陽軍鑑は最近結構見直されてるから。
77人間七七四年:2008/11/15(土) 07:20:17 ID:3/Wd8M92
>>75
あと補足として川中島で第4回以前に何度も戦いがあった事は
軍鑑によらずとも同時代の資料で裏付けが取れる。
あと信長が伊勢長島や斎藤に何回も負けてるのは
信長を書いた信長公記にも書いてあることだから。
78人間七七四年:2008/11/15(土) 12:55:14 ID:ajSvS1cO
いまだに戦国板で>>75みたいな認識がいた事に驚愕。
79人間七七四年:2008/11/15(土) 17:28:08 ID:49+YbEdT
兵農分離についてだが、農繁期で忙しい時期は、ふつうは田植えとか
稲刈りの時期が思い付きやすいと思う。
が、田植えは現代でこそ5月の連休時だが、昔は梅雨時(6、7月)に行われていたし、
稲刈りにしてもコシヒカリは9月に刈るものの、これは早生品種だからで、昔は
10月に刈ったりしている。
つまり、同じ稲作とはいえ、農繁期の期間が今とは違うし、当時にしても
ばらつきがあったかもしれない。
おまけに、当時は、うるう月とかを、8月ごろに一ヵ月も入れたりしてるし。

が、確実に忙しいことが判明しているのは、雪解け直後。
これは現代でも、春先はやることが多く、大変忙しい。

賎ヶ岳の戦いで、切迫した戦況のため、柴田は雪解けがまだ終わらないうちに
動員をかけているが、賎ヶ岳周辺で当初膠着して滞陣になっている。

なにしろ雪国では最も忙しい時期だ。柴田軍はこの後、総崩れして一気に敗走
しているが、たぶん、動員された農民兵は、
もう帰りたくて帰りたくてたまらなかったに違いない。
80人間七七四年:2008/11/15(土) 20:56:25 ID:08EyYVES
鉄砲の三段撃ちでドレくらい倒せる物なんだろうな。
実験してほしいものだ。ていうか三段撃ちが創作なのは
決定なんだっけ?

ていうか武田のほうの資料ないの?どんな攻撃されたとか
載ってると思うんだけど。なんで戦の方法すらナゾになるのかね。
81人間七七四年:2008/11/15(土) 20:59:42 ID:JUL2/4z8
>>80
三段撃ちの話は、江戸期以降の文献にしか出てこない。
82人間七七四年:2008/11/15(土) 21:57:09 ID:08EyYVES
たしか江戸時代の小説で使われた設定とかは聞いた事あるけど
その小説家のオリジナルなの?なにかしらそういう戦法使った
っていう根拠があって採用したんじゃないの?

ていうか信長には信長公記っていう質の高い資料が残されてるって
なにかで見た事あるけどそこに書かれてないの?
83人間七七四年:2008/11/15(土) 22:09:00 ID:4zqzu5P2
>>76
>後君にはショックかもしれないが、甲陽軍鑑は最近結構見直されてるから

具体的には?
関係ない話の横レスですまんが
84人間七七四年:2008/11/15(土) 22:22:06 ID:uaiM/cHK
>>83
とりあえず君は>>75か?この問いには答えてもらえるか?
85人間七七四年:2008/11/15(土) 22:38:29 ID:uaiM/cHK
まあとりあえず書いておこうか。
別のスレでも書いたことだが、酒井憲二氏は
室町時代の古語や当時の甲斐・信濃の方言、さらに当時の庶民が使っていた
「げれつことば」などが多数使われている事から
江戸時代初期の人間が書けるものではない事、
さらには文体から原本はもともと口述筆記されたものである事が明らかとなり
軍鑑内では「この末切れて見えず」という箇所が多々あり、小幡以前に傷んだ
原本が存在していた事が明らかとなっている。
そして武田家の史実と重ねて正確なところも多いことや、武田家の重要事項などにも
詳しいことから伝承通り原本は春日弾正の口述を筆記したものではないかといわれている。
事件の前後とか年代に間違いが結構ある事は春日自身が
「昔の事を思い出しながら書いてるから細かい年代とか覚えてないし、事件の前後とかまちがってるかもよ」
と述べている。
86人間七七四年:2008/11/15(土) 22:40:38 ID:n51YjXvd
>>57
さすがに70超えてるからかつての英雄も衰え時代が変わったってことだな
ただフロイスの記述はあてにならないような・・・

>>62
単に織田は武田を相手にしていなかっただけだから、それ以前の問題のような・・・

>>64
確かに当時の噂だと朝倉は織田や武田と並ぶような存在と噂されているからなー

>>66
信長信忠信雄の布陣した位置は馬防柵のとこから2キロぐらい後方だから、
いまいちその論旨はおかしい気がする

>>69
前スレのそれは当てられる距離じゃないのか?

>>73
篭城記太平記などの織田以外の記録というか軍記物によるなら、
織田勢を打ち破ったあと、織田を恐れて参加していなかった周囲の門徒がわらわら集まってきて
本願寺勢に合流したらしい、新たに集まった者たちは一万にも上ったとか

>>76
ぶっちゃっけ信長自身こそ、長期の城攻めがないよな、最後まで
一番長いので北畠攻めと長島攻めの数ヶ月、これは信長の性格によるものだろうな、
その分、短期での力攻めが多くて上手くいくときは短期間で城を落とすが、変わりに被害受けて失敗も多い

>>83
戦前は江戸時代の偽書疑惑なんかがそのまま通っていたけど、
戦後は、書かれている文が戦国当時の口述だったりとかで信頼できる部分もあるって感じに変化している、
ただ最近というのは良くわからない、かんすけのことも結構前のことだし
87人間七七四年:2008/11/15(土) 23:19:52 ID:7bLv5nEs
ごめん、鉄砲の射程距離13mて本当か?

13mなら3000人で石を投げた方が効果高いよw
莫大な費用かけてまで各大名が収集するほどの代物でも無いよね。
88人間七七四年:2008/11/15(土) 23:20:22 ID:JUL2/4z8
>>87
そう言う意味不明の数字を信じてどうする
89人間七七四年:2008/11/15(土) 23:55:17 ID:wIbsiTWB
VIPに戦国板顔負けの戦国マニアいるからお前らも参加せい!
朝まで戦国時代の好きな武将や戦術についてマニアな話ししよう
http://jfk.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1226759344/
90人間七七四年:2008/11/16(日) 00:29:00 ID:Cut7tfwb
>>86
>篭城記太平記
横からだけど、この資料は知らない。
検索してもでてこない。これ本当に正式名?
教えてちょ。
91人間七七四年:2008/11/16(日) 01:08:35 ID:SFR2iGb9
92人間七七四年:2008/11/16(日) 01:45:28 ID:+5CJgeKT
>新たに集まった者たちは一万にも上ったとか
その記述があるのは陰徳記だな。陰徳太平記と太平記がごっちゃになったとみた。
篭城記はよくわからない。
でも本願寺系でそんな名称のものもあった気がする、恐らく名前が若干異なっていると思う。
93人間七七四年:2008/11/16(日) 02:35:02 ID:v7Ch6I1I
長篠の戦いとミッドウェイ海戦は、幹部候補生研修でも
敗因の検証をかなりやらされましたよ。
94人間七七四年:2008/11/16(日) 02:37:41 ID:EjhKz1l5
おお、なにやら現役自衛官の登場か?wktk
95人間七七四年:2008/11/16(日) 03:23:46 ID:k0V2lzWM
>>85
信玄嫡孫の信勝には優しいんだよねぇ・・・弾正さん。
敬愛に満ちている。
陣代とその近臣はボロクソの恨み節ばかり。
96人間七七四年:2008/11/16(日) 16:24:15 ID:oOkjClJ/
長篠の3段撃ちの話をしますが、3つの考えがあるようですね。
1、3列に並び、交替で前へ出て1番前が射撃する。(交替制)
2、3列に並び、1列目、2列目、3列目、と交替で射撃する。(一斉射撃制)
3、3列に並び、1列目が常に射撃し、2列目、3列目は、1列目から銃を受け取り、弾込め等をして、1列目に渡す(分業制)。

まず、1については、戦場でそのような交替射撃を行うのは、銃兵の疲労が激しくなるので望ましくない等の批判があります。
実演射撃をする人たちが行ったところ、まず交替を右回りで行うか、左回りで行うか等、かなりの訓練が必要で、しかも疲労で射撃精度もすぐに落ちたそうです。
2については、火縄銃発射の際に大量の火薬の残りかすが前方に飛び散るので、1列目、2列目の危険が大きいそうです。
従って、3が一番正しく実在した(実際に、雑賀衆等でも、2人1組等による射撃方がある)、と思うのですが。
いかがでしょうか。
97人間七七四年:2008/11/16(日) 18:36:02 ID:sQ/eBn15
>>96 藤本正行著「信長の戦争」からのようだな。本で見たぞ〜。
さて1は銃兵の疲労が激しくなるとのことだが、姉川の戦いの直前の
小谷城包囲からの撤収の時に、「繰り引き」をやっている。
(くりひき 退却のさい追撃をかわすため、部隊ごとに順送りで後退と戦闘を繰り返すこと)

「敵の足軽近々と引き付け…、乱れ懸かって引付き候を…」
至近距離まで引き付けてから(ひょっとして13m?)、鉄砲で狙撃している。

姉川の繰り引きでは何キロも移動しながら戦っているわけで
長篠では陣地内部での移動に過ぎないので、銃兵の疲労はそんなにないのでは?。
つまり、1は実現できるのではないかという疑問あり。

2は、最前列にいる銃手がすごく嫌がる。頭上を鉄砲が飛び越えていくわけで、
立ち上がることすらできない。それに伏せたまま玉の装填はできないのでさすがに無理。

3は、弾込めして、火縄もついたままの鉄砲を、受け渡しするという
危なっかしいことが可能かどうか。信長本人はそうやった記載があり、また
現代の機関銃手でも、一人で操作はできるが、一挺に数人が付き、射撃手、弾丸運び、
など分担作業をしているから、補助の人員がついた可能性は高い。

よって3の可能性が高いと思うが、まだ断定できない。というのは、
鉄砲は、「敵を近々と引き付け」たときは、一斉に撃つ必要がある。
各自バラバラに撃つと、敵が逃げてしまい、うまく近寄ってこない。

これを仮に4として、
だから軍配などで、「ぅてっ!」と当時言ったかどうかはわからないが、
合図と同時に発射。次弾までに30秒ぐらいかかったのだから、全員一斉射撃と
せずに、部隊を3分割ぐらいして、いわゆる「3段撃ち」にした可能性はある。

よって、3以外の4?が実在したのではないかと推論中。
98人間七七四年:2008/11/16(日) 18:50:33 ID:sQ/eBn15
       ★総指揮官「ぅてっ!」
  ☆    ☆    ☆ 各指揮官
 ぅてっ! まてっ! まてっ!
○○○○○●●●●●△△△△△ 鉄砲手
↓↓↓↓↓

       ★総指揮官「ぅてっ!」
  ☆    ☆    ☆ 各指揮官
 弾こめろ ぅてっ! まてっ!
○○○○○●●●●●△△△△△ 鉄砲手
     ↓↓↓↓↓

こうすれば、これも3段撃ちになる。想像だが。
99人間七七四年:2008/11/16(日) 18:54:17 ID:sQ/eBn15
3段目
       ★総指揮官「ぅてっ!」
  ☆    ☆    ☆ 各指揮官
 早くしろ 弾こめろ ぅてっ!
○○○○○●●●●●△△△△△ 鉄砲手
          ↓↓↓↓↓

100人間七七四年:2008/11/16(日) 21:24:43 ID:gDmzneEX
鉄砲兵を地面に生めて敵兵が通過したときに一斉射撃とかは
どうだろう?
101人間七七四年:2008/11/16(日) 21:44:12 ID:wlwcJ8OL
一人の侍大将が
「はなてーーー!」
とかドラマでよくやってるが

率直なところ

「マイクがないと、聞こえないと思います。」
102人間七七四年:2008/11/16(日) 21:46:24 ID:eVbAQ5Jg
まあ実際には太鼓とかドラだったらしいがな。打ての合図は。
103人間七七四年:2008/11/16(日) 21:47:25 ID:gDmzneEX
>>101
一人打てばその音に反応して皆が打つからいいんじゃね。
104人間七七四年:2008/11/16(日) 21:57:02 ID:sQ/eBn15
「敵の足軽近々と引き付け…」るためには、

撃たないようにして引き付ける必要があるわけだ。

だから「うつな、うつな」と号令をかけている指揮官はいると思うんだが。
105人間七七四年:2008/11/17(月) 23:40:36 ID:zqQ0DG3T
信長公記には「鉄砲を命令一下、撃った」と書いていなかったけ?
106人間七七四年:2008/11/17(月) 23:48:48 ID:7HJXZasL
って事は信長が上に居て下にいる信玄軍に打ったって事か?
結局いい山かなにかに陣取ることが出来てそれで勝てたんじゃないの?
107人間七七四年:2008/11/18(火) 04:00:19 ID:vu+4blV7
 【質問】
 火縄銃の威力は現代の銃に比べてどの程度なの?

 【回答】
火縄銃の具体的な威力については
日本の武器兵器
で詳しい実験をしているので参照してください.
 長銃身で撃った.44マグナムって雰囲気かな?

 火縄銃の弾丸重量と,前記サイトの弾速(340m/s程度)から計算すると,火縄銃の銃口エネルギーは
標準的な六匁玉で約1500ジュール.
 単純計算では,.44マグナムどころか,AK-74の5.45×39mmを超えます.

 しかし,弾道は回転している尖頭弾ほど安定しないし,空気抵抗も大きいから有効射程は短く,
威力も落ちます.

 また,現代の銃弾は高速で体内に侵入し,衝撃波を体組織に伝播するので,口径以上の範囲に
傷つけますが,砲口から飛び出した瞬間速度のがた落ちする丸玉では,これは不可能です.

 さらに,現代の銃弾は体内で縦方向に回転するなど,人体にダメージを与えるよう設計されています.
 丸玉で撃たれた傷は,奥に行くほど狭くなりますが,現代の銃弾は逆の形になります.
 どちらが深い傷かは言うまでもありません.

 ただ,鉛剥き出しの玉が体にめり込むと,変形による組織破壊が起こります.
 もっとも,これの威力は「思われたほどでもない」ってのが,ヨーロッパの研究者の結論です
(日本のものについては,寡聞にして知らない).

 「馬を止めた」の「人間を貫いた」だのは全て伝説にすぎません.
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq22.html#04674
108人間七七四年:2008/11/18(火) 07:35:09 ID:Qhb9YHNs
>「人間を貫いた」だのは全て伝説

独逸のwikiのハントロフル(火縄銃の前身)を翻訳されてる方がいました。
ttp://www.h5.dion.ne.jp/~gun357/handrohr.htm

そこに、こうあります。
>距離20mまでの場合ハントロフルの弾丸は騎士の装備を貫通できた。
>……あるいは前後に並ぶアーマーのない2人の敵を!

これは表面強化された鋼鉄の鎧の話で、日本では革などが主流でしたから、
至近距離(13m?)での射撃なら”人体貫通”は伝説じゃないかもしれませんね。
それに種子島には鳥銃の他に口径の大きな大筒もありますし。
”馬での突撃”も一度に数丁で狙い撃ちされれば無事には済まないでしょうねぇ。
109人間七七四年:2008/11/19(水) 18:42:40 ID:+8JEvV0x
>>105
信長公記にどう記してあるだろう?。
110人間七七四年:2008/11/20(木) 11:02:34 ID:4z8jT4PU
信長が1000丁X3段=3000丁
並んだ鉄砲隊に向かって
「はなてー」は


確かに
マイクが無いと聞こえんワナwwwwww
111人間七七四年:2008/11/20(木) 11:53:29 ID:1atfwFic
あのさー
前田、佐々、福冨ら鉄砲奉行が任命されてるんだから
その部隊ごと射線目標定め斉射したんじゃないの

鳴り物だってあって各々鉄砲組長だっているのに間抜けじゃあるまいし部隊指揮官の口だけで命令下すわけないだろう
西欧の鉄砲戦術は上記のような部隊ごと一斉の斉射法だし
それどころか欧州、モンゴル、中国などでは弩や長弓、騎乗弓など射撃用武器での一斉射撃なんか地形に関わらず一般的ですがね
それとも日本人の思考力が他国人に比べはるかに劣っているというわけですかね
112人間七七四年:2008/11/20(木) 16:32:19 ID:r4JsWZZb
1000人の部隊指揮なら、ふつうにやってるんじゃね?
その部隊が鉄砲隊であっても、命令や指図はできるだろな。
>>111の意見にさんせー
113人間七七四年:2008/11/20(木) 23:39:55 ID:e/VM8vNS
鉄砲の音に驚いて馬がびっくりして逃げてったってのは?
114人間七七四年:2008/11/20(木) 23:41:35 ID:uUJ+sXDV
>>113
軍馬をなんだと思ってるんだよ
115人間七七四年:2008/11/20(木) 23:43:12 ID:e/VM8vNS
馬はデリケートだから大きい音聞いたらびっくりするって
「じゃじゃ馬グルーミンアップ」ってマンガで見たけど。

人間だって平家が水鳥の音に驚いて逃げたりしたわけだし、。
116人間七七四年:2008/11/20(木) 23:46:30 ID:uUJ+sXDV
「調練」が何のためにあるのか考えろよ。

あと平家物語はあくまで歴史小説だという事を理解しろ。
117人間七七四年:2008/11/21(金) 00:02:21 ID:LJVpA93V
日本の馬はヘタレだな

中世期にノルマンディーに移住したデーン人の子孫ノルマン人は馬に
調教で相手の馬に噛み付いたり、蹄で蹴ったり、頭突きしたりするよう訓練したらしいぞ
別にそれによってイングランドを征服したわけではないが
118人間七七四年:2008/11/21(金) 06:53:26 ID:/mngBDiD
日本の馬も獰猛だが。
中国進出した際に欧州人に猛獣呼ばわりされてたくらいだし。
119人間七七四年:2008/11/21(金) 06:56:30 ID:+l5NO4zd
戦国時代にゃ飼い主殺されたら馬単体で敵と戦ったって言う逸話がいくつも残っているな。
120人間七七四年:2008/11/21(金) 10:10:14 ID:LJVpA93V
>>117で述べたのはあくまで騎手の指示に従って行うことであって
騎手の言うことを聞かない獰猛さとは全然別物ですから
あしからず
121人間七七四年:2008/11/21(金) 20:36:39 ID:qcCQ2hqS
けど昔の馬って今の競馬の馬みたいなのじゃなくて
足の遅い牛みたいな馬だったんでしょ。
122人間七七四年:2008/11/21(金) 20:40:13 ID:+l5NO4zd
>>121
どんな洗脳教育を受けてきたんだよ
123人間七七四年:2008/11/21(金) 21:21:47 ID:6vFUqtWf
いまだに三段射撃がどうのいってるけど、
何千もいる鉄砲装備の足軽が(織田が動員した兵士総数と当時の標準的鉄砲装備率考えたら数千だよね)
それこそ皆一列に並んで一斉射撃ってのも充分ありえない話でしょ。
弓も交えながらの交代射撃って(三段撃ちかどうかはともかく)普通にありえたんじゃないの?
それを後世で派手に創作してみただけとか。
124人間七七四年:2008/11/21(金) 21:22:19 ID:6vFUqtWf
いまだに三段射撃がどうのいってるけど、
何千もいる鉄砲装備の足軽が(織田が動員した兵士総数と当時の標準的鉄砲装備率考えたら数千だよね)
それこそ皆一列に並んで一斉射撃ってのも充分ありえない話でしょ。
弓も交えながらの交代射撃って(三段撃ちかどうかはともかく)普通にありえたんじゃないの?
それを後世で派手に創作してみただけとか。
125人間七七四年:2008/11/21(金) 21:23:15 ID:6vFUqtWf
重複スマン
126人間七七四年:2008/11/21(金) 21:50:34 ID:/H2wZmSh
日本の馬だけど、小型だから役立たず、というのはどうみても間違い。
チンギス・カンの率いたモンゴル騎馬軍団の蒙古馬は、日本馬と同サイズ。
それなのに、日本馬が小型だから役立たない、というのは、モンゴル騎馬軍団は幻というようなもの。
大体、競馬に使うサラブレッドを基準に考えるから話がおかしくなる。
日本馬サイズのポニーは、米国の西部開拓時代でも、日本人より大柄な米国人を軽々乗せて走り回り開拓に活躍している。
ポニーでも、通常の乗馬使用には十分に耐えうる。

127人間七七四年:2008/11/21(金) 22:11:49 ID:4lgF4Oua
日本の山ばっかの土地柄的に
モンゴルの騎馬軍団みたいな活躍はできないだろうけどな
そもそも武田騎馬軍団ていつから誰が言い出したんだろうな
残ってる書物の記録で武田と北条の軍制比べたら北条のが騎馬の
比率が高かったりもするらしいし
特別武田の騎馬軍団が活躍したなんて記録もないらしいじゃん
128人間七七四年:2008/11/21(金) 23:28:52 ID:4+0ZHDQ4
馬防柵の存在意義を無くす様な事をいいやがって
129人間七七四年:2008/11/21(金) 23:35:39 ID:+l5NO4zd
日本中にある「駒場」って地名はなんなのか、ちょっと考えてみろといいたい。
130人間七七四年:2008/11/21(金) 23:35:49 ID:LJVpA93V
>>123
だから一線一斉射撃じゃなくて斉射による部隊ごと、段列ごとの一斉射撃のことでしょ
131人間七七四年:2008/11/22(土) 00:00:37 ID:E79AQGs6
長篠の戦いがそんなに凡戦というなら
歴史群像今月号に出てるチェリニョーラの戦いの方がよっぽど凄い
時期は1503年で1000の銃兵を含むスペイン軍が重装騎兵中心のフランス軍を破った戦いで
非常に長篠に戦いの様相が酷似している
スペイン軍は陣前に深い壕を掘り、自軍側にさらに盛り土し土塁とした
さらにその土塁に杭や逆茂木を築いた
フランス重装騎兵隊とスイス長槍隊は陣前壕の存在に気づかず突撃
壕に嵌まった重装騎兵隊を次々連続斉射で倒し、フランス軍が4割の兵を失い混乱し後退しようとした時に
スペイン軍は予備の長槍隊と騎兵で両翼から攻撃しフランス軍を壊滅させた


この戦いの様相を宣教師が信長に教えたんじゃないかというぐらい戦闘の経緯様相が酷似しているのだが
132人間七七四年:2008/11/22(土) 00:11:24 ID:qXYjOBuh
駒場(こまば)は、馬の牧場のこと。かつて馬の牧場があったことにちなむ地名
馬なんて昔は農業にも使ったし輸送や伝令用としてもどこでも必要だろ
武田騎馬軍団で検索してみたら
武田家元家臣が別の家に仕官する時にない活躍を過大に宣伝するために作ったのが広まった説や
信玄が勝ちが見えた戦で敵に恐怖を植え付けるため最後に騎馬突撃をかけて
武田の強さを印象づける戦をしていた説とかあった
織田は↑の伝聞から騎馬隊を警戒し馬防柵なんか作ったんじゃないかとされてたなぁ
結局は騎馬隊はあったとしても少数で戦を決定づけるような重要な戦力ではなかったぽい
意見が主流のようだったけど
133人間七七四年:2008/11/22(土) 00:17:42 ID:WkcwqPKN
>>132
武田と何度も戦ってる家康が、何で伝聞の騎馬隊を注意しろなんていうんだよw
134人間七七四年:2008/11/22(土) 00:49:21 ID:qXYjOBuh
家康は三方原の大敗で止めの騎馬突撃喰らったんじゃね
あの戦は2倍の武田軍に徳川が挑んだ戦で徳川ぼろ負けだし
あれ以来徳川まともに騎馬隊が活躍するような野戦武田とやってないし
負けた側は恐怖から騎馬隊に負けたように感じ
実際の脅威度以上に騎馬隊に注意していたんじゃないのかという説だったよ
135人間七七四年:2008/11/22(土) 00:54:02 ID:WkcwqPKN
>>134
推測と憶測だらけの解説ご苦労
136人間七七四年:2008/11/22(土) 00:59:22 ID:qXYjOBuh
でも実際特別武田の騎馬軍団が活躍したなんて記録もないのに
なんで馬防柵なんて用意したのかね
武田騎馬軍団の活躍の記録あったら教えて
137人間七七四年:2008/11/22(土) 02:33:13 ID:DLxtmOCy
別に騎馬軍団じゃなくても騎馬武者はいるだろ
それに馬防柵があるだけで、徒歩立ちの兵も一旦そこで止まらざるを得ないんだから十分意味はある
138人間七七四年:2008/11/22(土) 16:28:56 ID:Ke5cUDvE
馬防柵という名前が誤解を生んでいると思う。実際には馬防柵以外にも、織田・徳川軍は土盛りをする等の野戦陣地を長篠で構築している。
足軽や騎馬武者の突撃を防ぐための野戦陣地の設備の一部である馬防柵という言葉が一人歩きして、騎馬軍団の脅威が声高に言われているのではないか。
敵の攻撃を防ぐために、駐屯地に簡易な野戦陣地を築くのは、古代ローマ共和国軍でもやっており、川中島の戦いの発掘調査でも発見されていた筈。
長篠の戦いが特筆されるのは、野戦陣地が大規模化し、簡単には崩れなくなったことだと思う。
武田軍は、従来程度の野戦陣地を想定して強襲すれば破壊できると考えていたが、実際には想定以上に強化されており、惨敗するはめになったのではないか。
139人間七七四年:2008/11/22(土) 17:57:50 ID:S+seEKVK
>>131
と言うか、それが織田の鉄砲隊三段撃ちだの武田騎馬隊だのの創作の元になったのかも
140人間七七四年:2008/11/22(土) 18:37:47 ID:E79AQGs6
騎馬軍団なるものは創作かも知れんが
三段撃ちは武将のみならず兵法者でも容易に考えつく
装填に時間のかかる火繩銃や弩の多段撃ちなら欧州、中国問わず一般的だ
多段撃ちが創作とか言ってる研究家たちはそれを一切無視して持論を展開しているだけ
141人間七七四年:2008/11/22(土) 23:03:05 ID:CeGc74aJ
>>121
競走馬は虚弱過ぎて使えないよ
牛も小さかったんだぜ
142人間七七四年:2008/11/23(日) 00:39:06 ID:Q0SrISpZ
>>118
それは当時の日本の馬が去勢されていなくて、何かあるとすぐに興奮して行軍の妨げとなったから、
日本の在来馬の小ささと合わせて馬のような猛獣珍獣呼ばわりされた。
143人間七七四年:2008/11/23(日) 02:18:37 ID:V9fzcIVb
>>140
できるできない、おもいつくおもいつかない、の前に、
当時の戦術上、そういう用意をしなければならないほど、種子島を連射したのか、ってのがありませんかね??

たとえば籠城戦なら、少数で多数の突撃を防ぐために短い時間に連射する必要があるけど、
野戦の場合、しかも自軍の方が人数多い状況ではどうなるのか、が重要になるかと。>種子島の使われ方
144人間七七四年:2008/11/23(日) 11:10:42 ID:YBhVe0x3
>>143
野戦の連射の事例なんか日本以外でも腐るほどあるでしょ
テルシオ陣形なんか数段撃ちだし、カラコロール戦術なんて十数段撃ちに及ぶ
よく日本みたいな山がちな地形云々いう人がいるが
たいていの合戦は開けた地形で行われることが多いし
欧州でもイタリアやバルカンの山岳地帯において銃でも弩でも連射は当たり前
中国でも起伏の多い地形で弩の連射なんか当たり前のように行われる
145人間七七四年:2008/11/23(日) 16:36:45 ID:25DyZ0lg
>>131
野戦築城して敵を待ち受ける事例なんて昔からあるだろ。
同じく歴史群像で覚えてるのは源頼朝の奥州征伐の際の、
藤原氏が築いた3段に及ぶ巨大な土塁群だな。
頼朝はこの土塁に正面から攻勢をかけると見せかけて
別働隊を密かに迂回させ側面を突かせ、藤原氏を破ったそうだ。

勝頼が織田・徳川の陣城に突撃した理由は単純に、
背後を徳川別働隊に突かれてたから。
左右を山に囲まれ、背後を徳川別働隊が襲ってる以上、進むのは前しかない。
またこの戦いで両軍とも甚大な損害を出してる事は忘れちゃダメだ。
武田方の名のある将の戦死者が多いのは、乱戦の中敵陣に深入りし過ぎ、撤退できずに討ち取られた故。
内藤昌豊などは本多忠勝本陣まで切り込み、討ち取られている。
146人間七七四年:2008/11/23(日) 18:55:31 ID:V9fzcIVb
>>144
古代中国の場合、軍編成上”弩部隊”が存在するじゃない? 欧州の場合も同様。
日本の戦国時代は”種子島部隊”が特別に編成されてなくて、足軽部隊の遠距離兵器あつかい。
野戦の軍編成上、専用部隊ではなく、通常の槍や弓の足軽と一緒に編成されてるのに、
”種子島の面制圧火力を上げる”三段撃ちのような”軍法を”野戦でつかう”前提はないのじゃないか、なぁ…

この戦の場合だって”臨時”に銃兵を3000集めてるだけで、織田軍の通常?編成時に”種子島部隊”はないし、
徳川軍も銃兵あつめて長篠城に送ってるけど、野戦前線に送った記録はないと思う。

それに戦国末期でも、野戦では”銃の一斉発射”はあるけど
三段撃ちのような銃撃連射能力アップでで敵を足止めした記録は籠城戦以外無いのに、
それより二昔前の野戦では、そういう射撃技術が効果を上げた、と考えるのは、
戦術史上のオーパーツなような気がしてならないんですよ。
147人間七七四年:2008/11/23(日) 19:18:13 ID:7JLpOQbL
>>146
後になるけど、徳川家には百人組というのはいますな
148人間七七四年:2008/11/23(日) 19:36:40 ID:fxqNdAW2
>>146
このあたり、日本の戦国時代の部隊編制に問題というか、根源があると思う。
日本の戦国時代の部隊編制は、基本的に武将がいて、その武将によって人が集まり、部隊が編制され、それが集まって軍勢になる。
そして、武将が集めて率いる部隊はせいぜい数百人規模が基本になるので、そんなに武器毎の部隊を作れるほど大きくない。
一方、欧州や中国では、少なくとも数千人、ときとして数万人規模の人を集め、その上で部隊を編制し、軍勢を作る。
このぐらいの規模になると、専用部隊を編制することも可能になり、大規模な軍勢同士の激突の際には有利になる。
最も日本式の方が小部隊に分割して運用する際には有効なので、どちらを重視するか、の問題もある。
149人間七七四年:2008/11/23(日) 19:37:33 ID:V9fzcIVb
>>147
それは、文禄・慶長の役の以後、種子島の要求が高まり、実際、部隊配備数が増えてるので、
それに合わせた軍制改革の結果じゃないかと…

150人間七七四年:2008/11/23(日) 19:49:37 ID:7JLpOQbL
>>149
一番早い根来組は1585年創設とされている
そう考えると家康は鉄砲の装備、編成ともにかなり先んじているのかな

まぁ、長篠城に大量の鉄砲(500人に対し200挺)を配したり、家康自身も長篠で
それなりの鉄砲(「榊原家伝」によると信長700挺、家康500挺)というから
家康も鉄砲にはかなりの知見を有していたかと
151人間七七四年:2008/11/23(日) 19:54:11 ID:V9fzcIVb
>>148
少人数編成だからこそ、”三段撃ち”って技術が本当に必要だったか、が気になるんですよ。
たとえば9丁の銃があった場合、3丁ずつに分けて連射するか、一度気に9丁で一斉発射するか、
どっちが効果があるか、ですね。
記録上は、後の”一斉発射”の記録はあります。そのあとの混乱時に突撃(白兵戦)をくわえる、
のが当時の一般的じゃなかったかなぁ、と。

余所の国の話になりますが、ポワティエの戦いでの英国長弓部隊は仏軍の2回の突撃を受けた後に
矢不足になり白兵戦の用意をしてます。
当時の日本でも、種子島の携行弾薬量は一丁20(これは城備え数)を超えることはまず無いと思われ、
もし”三段撃ち”が頻繁に行われたなら、その程度の弾薬量では8時間もの戦いでは持たないとも思うんですよねぇ。
152人間七七四年:2008/11/23(日) 20:21:47 ID:xyvDeahL
>>150
家康は火力に関してはものすごい熱心だね。本多忠勝も実は砲兵大将みたいな仕事してる。
153人間七七四年:2008/11/24(月) 14:55:51 ID:AwH5loas
>>150
鉄砲はどこの大名も積極的に導入してるよ。
信長も自身で鉄砲運上のインフラを築いたわけじゃなく、
足利義輝の命で六角氏が近江の国友村で組織的に作らせた鍛冶場を引き継いだものだし。

公記をはじめとした軍記物のイメージで武田みたいな大名が鉄砲導入に遅れを取っていたかと思われがちだけど、
天正元年に木曽から信玄に正月を祝した書状のついでに焔硝を50斤(30`)送った事が見えるし、
天正4年に勝頼が諸役を免じて鉄砲弾の作成に専念させる書状とか出してるし。

太田牛一の鉄砲に対する過大評価ってものがこういった背景にあるのかもしれない。
>鉄炮にて過半人数うたれ侯へば
とか信長公記だと鉄砲がやたら活躍したような描写が結構多いんだよね。

長篠の戦いも姉川みたいなもので撃退に成功したものを過剰に喧伝してるだけのような気がするけど。
三河物語だと長篠の戦いでありもしない功名を打ち立ててる者もいると指摘してたし、
松平記でも勝頼の急な布陣によって柵など築く間も無かったようだし。
設楽原を掘り返しても鉛弾は数個しか見つからなかったらしいしね。
154人間七七四年:2008/11/24(月) 15:42:17 ID:Jv87qTBv
>>153
武田はこの戦で多くの重臣が死んでるし、この戦いの前後を境として
軍役規定において鉄砲の領分が際立って大きくなっているというから
鉄砲の衝撃が武田家にあったのは間違いないかと
155人間七七四年:2008/11/24(月) 15:46:15 ID:kk5WKUU7
まあ、長篠城の攻略自体が、家康の用意した大量の火力のせいで
援軍が来るまでに落とせなかったんだけどね。


設楽が原の決戦よりも、そっちの方で鉄砲への衝撃を受けたと考えることもできる。
156人間七七四年:2008/11/24(月) 17:00:45 ID:YzailcT8
>>151
三段撃ちという言葉だが、私としては、3人1組の分業制による射撃法ではないか、と考えている。
なぜか、というと、まず、当時の鉄砲の射撃訓練が実際にどれだけ行われていたのか、という疑問から。
当時の火薬は、多くを輸入に頼っており、実戦でもそんなに多数放った記録はない。
そして、実弾射撃訓練をそう行わないのなら、射撃の名手を育てるのも困難なわけで。
射撃の得意な人間に実際の射撃に集中させ、下手な人間を補助に回した方が、実戦での命中率は向上すると思う。

後、武田軍も鉄砲は重視している。第二次川中島の戦いの際に300丁の鉄砲を旭山城に送り込んだことが、妙法寺記に記載されている。
これは長篠の戦の20年前のこと。
157人間七七四年:2008/11/24(月) 17:08:02 ID:Jv87qTBv
>>156
重視はしているかもしれないが、300挺は怪しいと宇田川氏は言ってたな
それに武田領国では鉄砲の入手は難しいだろうし
家康はその点は信長と繋がってたから、入手は容易であろう
158人間七七四年:2008/11/24(月) 17:37:12 ID:3fi8dEyg
種子島は連続射撃には耐えられない。せいぜい3回まで。
5回以上になると砲身の熱さのために持つことすら困難になり、砲身内の変形が進む。
8回以上になると砲身の歪みがはっきり確認できるようになり暴発の危険性が高まる。
159人間七七四年:2008/11/24(月) 20:54:10 ID:SZ1BlAGY
布をまいて水をかける。
大平洋戦争時における艦艇搭載の対空機関銃の実例。
160人間七七四年:2008/11/24(月) 21:34:11 ID:Jv87qTBv
>>159
持ちにくく、重くなって使いにくい
161人間七七四年:2008/11/24(月) 21:40:44 ID:VtKByN3h
妙法寺記は一次史料で、しかも当事者というわけではないから、割と公平性が保たれているかもしれないけど、
甲斐郡内のこと以外は人づて・噂話などで得た情報だからそこは注意しないといけないということか。
162人間七七四年:2008/11/24(月) 23:34:51 ID:DPH6gH6W
亀レスだけど、
種子島は射程距離が短く人を殺せる確率は低くても
重症を負わせて戦闘不能な状態にする事は充分できたのでは?

重症を負わせるための射程距離ってどの位だろ?
163人間七七四年:2008/11/25(火) 07:09:19 ID:RmCn+qsO
>>161
多聞院日記と似たようなもんですしね
164人間七七四年:2008/11/25(火) 11:39:41 ID:9rYS6Emr
>>157
>それに武田領国では鉄砲の入手は難しいだろうし
戦国時代の流通論って一昔前のものとは違って盛んな地域外流通を示す見解に変わってるよ。
165人間七七四年:2008/11/25(火) 16:09:57 ID:aMJ82b6l
>>160
冷えたら(熱くなくなったら)、濡れた布は外すよ。

先込めの鉄砲なのだから、銃身が熱くて触れないとなれば、
水筒の水を布を巻いてかける、くらいは誰でも思い付くだろう。

そこそこ冷えて、また撃とうとすれば、布を外しておくらいは、これも
誰でも思うことだろう。

濡れた布を巻いたまま、かまえて撃とうと思うかね?
166人間七七四年:2008/11/25(火) 16:18:29 ID:aMJ82b6l
>>162
種子島は1kmもとんだそうで、これは斜め上空に向けて、
放物線を描くような場合だろう。
となれば、200mや300mであっても、たまたま落ちてきた弾に当たりさえすれば、
それが顔面だの、布一枚しか着ていない場合なら、皮膚を突き破ることは
充分考えられるので、大怪我になるだろうね。

質問の意図は、鎧をかぶった武者に怪我させるくらいの射程は?という意味
だと思うので、鎧を貫通できるか否かとなると、射程距離100m以上
ではないかと推測。
167人間七七四年:2008/11/25(火) 20:47:12 ID:qifykBR6
種子島、または火縄銃と一括りにされがちだが、口径による差異(大口径になる程、基本的に射程距離は向上する)も考えないといけないと思う。
168人間七七四年:2008/11/25(火) 21:00:31 ID:PJfDHm/D
逆でそ
169人間七七四年:2008/11/25(火) 22:57:27 ID:vKMtzIUa
>>164
それでも入手は織田・徳川よりし難かろう
>>165
つまり、冷えるまで鉄砲は撃てず、発射速度の大幅な低下は避けられない
170人間七七四年:2008/11/25(火) 23:56:47 ID:G3t23vu7

長篠のあと駿河の穴山が、徳川武田の国境地帯で商人から大量の銃を購入している記録があるな。
171人間七七四年:2008/11/26(水) 03:29:59 ID:NP8m+37C
>>158
…マスケットが実質連続発射3発くらいで使えなくなったら、
後のグスタフ二世とかフリードリヒ大王とか有名にならんだろ……
連射の場合は発射残渣が残って集弾率がさがるほうが問題になると思う。

>>165
銃身加熱は忘れた方が良いと思うぞ。
だいたいそれが問題になるほど銃撃したかどうか、不明だしな。
172人間七七四年:2008/11/26(水) 07:08:50 ID:qrKk1k+q
>>170
あれは海路でしょうね
海は規制されないのが基本
173人間七七四年:2008/12/02(火) 12:21:38 ID:l54z211s
今週のヤンマガの「センゴク」で真田さんたちがえらいことになってるな・・・
174人間七七四年:2008/12/05(金) 20:23:56 ID:gVovY89u
>>173
フィクション
175人間七七四年:2008/12/05(金) 21:11:35 ID:wim0A8wX
>>153
太田牛一は弓衆時代に鉄砲名人の橋本一巴とやりあって、弓矢で鉄砲に勝った事が自慢w
ゴメン、あまり関係無いわ。

>>154
笹本正治氏あたりは、その説に疑問を呈していたが・・・

>>156
そもそも分業体制にするほどの鉄砲を、集中できていただろうか?

>>166
ライフリングもない球形弾丸を、スコープも使わず100m先の標的に当てる事は・・・・
まずできないでしょうな。20間先の信長を狙撃することさえ出来ていない。
機械的な精度が低すぎる。そもそも、銃弾は口径ピッタリには作られていないのだから。

イギリス軍はマスケットの命中率を2%と見ていた。集団で運用してたから、誰かのが当たれば
良いわけだが、それでも有効弾は2%。
アルケブスは反動が小さい分、多少は命中率が高いだろうが、限度がある。

仰角を取って撃たないと当たらない距離になると、大抵の人間が必要な角度よりも
上に向けて撃ってしまい、はるか向こうに飛んでいく。

結局、当てるためにはギリギリまで引き付ける事が重要で、鉄砲でも集団運用を重視せず、
誰が当てたかで恩賞になる日本の戦国時代では、そういう運用が最も理に適ってる。
176人間七七四年:2008/12/05(金) 21:21:13 ID:wim0A8wX
>>133
三方ヶ原で追撃されたからでは?
追撃戦の時は、逃げる方も追う方も馬に乗りますから。
もっとも、甲陽軍鑑などは三方ヶ原のような開けた場所でもいきなり馬で
攻めかかったりはしないと、あくまで追撃時に馬に乗った事を強調。

>>136
軍記とかでは、軍勢を突入させる事を「馬を入れる」と言ったりする。
軍勢=馬という表現が、あるのだよね。

>>140
無煙火薬の発明以前は、鉄砲隊が交替射撃すると硝煙で前が見えなくなったのだよね。
相当数の鉄砲を、ひたすら前に向けて撃ち続ける場合には、前が見えなくても良いが・・・・
177人間七七四年:2008/12/06(土) 20:04:47 ID:VVk5bpw/
三方ヶ原は夜戦でやんす。冬だったので、開戦の夕方はもう夜。
逃げる方はともかく、攻める方はいきなり馬で攻めかかるのは、
地理不案内で無理ぽ
178人間七七四年:2008/12/06(土) 22:05:05 ID:UXV9Cy0Z
甲陽軍鑑が言っているのは、開けた土地でもいきなり馬に乗って攻めたりしないのに
長篠のように狭隘な土地でそれはありえないという話なのに、無理に時間の問題にするなよw

わざわざこんな事を書くってことは、甲陽軍鑑が現在の形で成立した時には、小瀬甫庵の
信長記はある程度広まっていたんだろうな。
179人間七七四年:2008/12/06(土) 23:14:24 ID:TPT8Cprc
三方ヶ原が3万人以上が展開して野戦が出来る開けた土地だとして、
そんな分かりやすい場所ですら暗くなったら地理不案内で馬に乗って戦えないなら、
逃げる徳川勢を追撃する事なんて出来るはずがないじゃない。
180人間七七四年:2008/12/06(土) 23:33:56 ID:TjsDgJcY
今とは違って当時は本当に暗かっただろうしな
せめて月が出ていればまた違ったんだろうけど、粉雪舞う天気だった気がするし
181人間七七四年:2008/12/06(土) 23:47:26 ID:MlMyMUQN
実際問題として、月明かりも無い日だったら暗くなってからでは馬に乗ろうが徒歩だろうが
統制が取れなくて戦が出来ないと思うが。
時間的には暗くなる前に戦をして、追撃してるうちに夜になったので
追撃を中止したぐらいでないと、現実的でない気がする。
182人間七七四年:2008/12/10(水) 21:07:29 ID:8AR6KnIs
また織田信長と武田信玄の姉川の合戦で武田の騎馬軍団が
織田の鉄砲隊に負けた歴史も知っていたと想像されます。
http://www.aso-taro.jp/lecture/kama/2005_6.html
183人間七七四年:2008/12/10(水) 22:21:45 ID:gsRaHq8+
まあアレだ。
戦国時代の軍制をちょっとでも知っていたら武田の騎馬隊なんて空想は出てこない。
184人間七七四年:2008/12/10(水) 22:23:06 ID:VCJxRnQu
でも大概の教科書とドラマでしか戦国時代を知らない人には、まだ武田の騎馬隊だと思うよ。
185人間七七四年:2008/12/10(水) 22:24:57 ID:zeTBILKr
「騎馬隊」の定義による。
186人間七七四年:2008/12/10(水) 22:34:50 ID:VCJxRnQu
変な方向に向かうなよw
187人間七七四年:2008/12/10(水) 22:42:09 ID:gsRaHq8+
>>185
昔の俺もだったけど、殆どの人は三國志や中世ヨーロッパの騎兵のみで編成された攻撃部隊を思い浮かべているはず。
188人間七七四年:2008/12/10(水) 22:43:49 ID:zeTBILKr
>>187
まあ実際はそう言う騎馬隊のほうが特殊だわな
189人間七七四年:2008/12/10(水) 23:10:42 ID:VCJxRnQu
いや、歴史を通して大陸には遊牧系騎兵がいるから、普遍的なものだろう。

逆に中世ヨーロッパの騎士!というと、ガチガチのプレートメイル(板金鎧)に身を固め、
ランスを脇に抱えて、集団で突っ込んで来るつーイメージだろうけど、「中世」に該当する
期間のうち、半分以上の期間において、こんなもんは存在しなかったからなあ。
190人間七七四年:2008/12/10(水) 23:36:54 ID:uaFFfUoC
>>182
武田信玄→武田勝頼
姉川→長篠
織田の鉄砲隊→鳥居強右衛門の呪い
の間違い。
191人間七七四年:2008/12/11(木) 00:01:53 ID:FP5Nk+9i
しかしヨーロッパも中世過ぎてからは下馬戦闘が普及してるよね
速度を重視する場合ならともかくそうじゃないときは馬から下りて方陣強いてる場合が結構ある
192人間七七四年:2008/12/11(木) 00:07:31 ID:2BMaJqhH
騎馬の戦いのイメージは

騎馬隊が敵陣に突っ込んで、とにかく、ぐるぐる
陣内を駆け回って、足軽隊が到着すると同時に
馬から下りて、斬り合った

って感じ
193人間七七四年:2008/12/11(木) 00:09:09 ID:57aYpFYy
本当に感じだけじゃないかw
194人間七七四年:2008/12/11(木) 17:28:46 ID:bEHfYGp3
足軽ならともかく、重装備の甲冑装備だったら、何kmも歩くのは大変だぞ。
当時の人なら歩いたかもしれないがな。

兜に前立?がついた立派な鎧だったら(実用性よりも装飾や権威付けのものらしい)、
歩いて移動よりも、馬に乗って移動するのが便利だろう。
乗ったまま戦闘に突入するかどうかは疑問だが、
長篠の屏風図でも、信長は馬に乗って描かれているしさ。
195人間七七四年:2008/12/11(木) 17:31:47 ID:HIajrCIQ
「鎧?軽ければ軽いほどいいに決まってる。」by徳川家康
196人間七七四年:2008/12/11(木) 19:02:58 ID:bEHfYGp3
関ヶ原の徳川家康は、南蛮折衷の鎧。胴体だけ一体整形の鉄製で、
腕などは従来どうり小さな鉄片をつないだもの。
胴体の鉄は、鉄砲玉が貫通できない強度らしいが、たぶん重くて動きづらく
影武者に着せて自分は軽い鎧を着たと妄想する。
197人間七七四年:2008/12/12(金) 09:10:49 ID:q7gB+4L8
>>182
麻生は歴史も苦手みたいだからな(笑)
198人間七七四年:2008/12/12(金) 20:46:07 ID:JQUn0DJS
>>191
戦国時代の騎馬武者否定論者によると、ヨーロッパの下馬戦闘というのは大ウソらしい。
なぜかというと、戦国時代のキリスト教宣教師が、
「我らの国では、馬というのは乗馬して戦う。下馬して戦うことは決してしない。一方、この国では下馬して戦う。」
と本国に報告していることから。
だから、ヨーロッパの下馬戦闘というのは、本当にあったの、と私は思っている。
199人間七七四年:2008/12/12(金) 20:49:08 ID:bLO+MiFo
その「宣教師」は日本と言っても、九州の戦しか知らないんだよね。
200人間七七四年:2008/12/12(金) 21:08:14 ID:TrjaiHfN
えっ?フロイスの事ではなかったの?
201人間七七四年:2008/12/12(金) 21:14:26 ID:bLO+MiFo
フロイスは実際の戦場は九州の物しか見ておらん
202人間七七四年:2008/12/12(金) 23:49:06 ID:ErOV9v/5
>>198
イングランドは割合早くから騎兵を下馬させて運用するようになるが、
フランスなどは騎士の伝統を重んじて、百年戦争でイングランドに何度もやられて
やっと真似を始めた程度。
さらにスペインの騎兵は、職業騎兵の普及が遅かった事もあって、例え下馬戦闘を
命じられても拒否するぐらい、騎乗にこだわった連中。
フロイスはポルトガル(カスティリア王国=スペインの宗主下)の人間だし、下馬を嫌がる騎兵に
馴染みがあるんだろ。
ヨーロッパだってどこでも同じってわけじゃあない。

じゃあ日本では、東日本だったら騎乗戦闘大好きか?と言えば、なかなか当時の記録だけでは
掴みづらいが、甲州流軍学や上杉流軍学では、基本は下馬戦闘で追撃で乗馬と教えてるしね。
江戸初期からそう言ってるから、基本そうだったんじゃないかとも思うがね。

北条まで東にくれば、武田や上杉に比べて若干だが騎馬武者の割合が増えるがね。
まあそれでも、普段から馬に乗ってる理由がどのぐらいあるか?つーと、あまり合理的な利点は
無いような気もするがね。
203人間七七四年:2008/12/13(土) 01:45:30 ID:Vs0kknnC
騎兵は前進してなきゃただの的。
204人間七七四年:2008/12/21(日) 10:43:55 ID:KlPE+fuf
馬には大将と主力と成る者が一軍勢中(約千人)に七、八人である。
残りは馬を後ろにひきつれて降り立ち、槍をとって徒歩で一備えごとに攻めかかった。
三方ヶ原は騎馬の障害になるものはなかったが、(ここでさえ)騎乗で攻めたに非ず。


馬を並べて突進したというのは、武道を知らぬものの言にて候。

                                         甲陽軍鑑
205人間七七四年:2008/12/21(日) 11:03:32 ID:KlPE+fuf
ageるつもりがsageちまった
206人間七七四年:2008/12/21(日) 12:50:45 ID:QUWZCOGI
なるほど。
207人間七七四年:2008/12/21(日) 14:12:22 ID:FBxSZ00Z
本屋で横光歴史作品を扱った大きいサイズの薄い本があって
否定している奴は実際にやって確認していないと決めつけて
三段撃ちを実際にやってみたらできたってだけで史実だと主張していて呆れた
208人間七七四年:2008/12/21(日) 17:33:00 ID:ICj3TtTf
>>204
甲陽軍鑑だけでは根拠として、信用し難いな。あの資料には、信憑性がかねてから疑われているし。
信長公記や覚書故水野左近物語では、長篠合戦において、武田軍が騎乗して突撃した描写がある。
複数の信憑性が高いとされる資料に描写がある以上、騎乗しての突撃はあったと考えるべき。
209人間七七四年:2008/12/21(日) 17:34:03 ID:LAFETck1
信長公記でも下馬して戦った記述あるけどw
210人間七七四年:2008/12/21(日) 17:50:04 ID:KlPE+fuf
>>208
信長公記のどこにそんな記述が・・・



そもそも武田に限らず騎馬隊が大活躍したなんて戦がどこにあるのか
211人間七七四年:2008/12/21(日) 19:38:29 ID:4DeJLgHK
>>208
信長公記で騎乗して攻めてきたと思われるのは小幡のみ。
しかも直接的には書いていない。
関東衆馬上巧者にて、是又馬入る行にて押太鼓云々とかいう表現だったと思うけど、
「馬を入れる」は軍勢を突入させるという意味の軍記的な表現に過ぎないし、
そのための方法として押し太鼓を打ち鳴らして攻めてきたというだけで、
馬上巧者だから結局どうした?という程度だが。
武田軍が太鼓の合図で部隊の前進・後退をコントロールするよう統制されていたということと、
織田軍がそれを迎撃したという事しか、結局は書いていない。

>>210
ありません。そもそも騎馬武者が全軍の一割もいない上に分散してるからね。ありようがない。
212人間七七四年:2008/12/21(日) 19:51:40 ID:fpV+GsQ3
天正5年、北条氏直が岩槻衆へ宛てた朱印状で、当時の北条氏の部隊は、馬上奉行、鑓奉行、鉄砲奉行等、兵種毎に奉行がおかれていた。
そして、給人別の部隊が解体され、兵種毎に部隊が再編成されたことが確認できる。
その中で、馬上奉行6人は「500余騎の馬上」で編成された部隊を率いていた。
これを見る限り、少なくとも北条氏が、騎馬武者を集中使用していたというのはありえたのではないか。

213人間七七四年:2008/12/21(日) 20:00:47 ID:KlPE+fuf
>>212
しかし実際に運用された記述が無い。



俺が騎馬隊に懐疑的なのは理由がある。
それはヨーロッパと違って日本には馬の去勢が無かったということ。去勢が無ければ調教も難しいし部隊も組にくい。調教していない馬は人を簡単に噛殺したり蹴り殺したりする。
214人間七七四年:2008/12/21(日) 20:05:48 ID:4DeJLgHK
騎馬武者というのは中間や小者といった直属の従者を従えてます。
身代が大きくなればなるほど、一騎あたりの従者が増えます。
これらまで切り離した部隊というのは、まずありませんな。
215人間七七四年:2008/12/21(日) 20:19:03 ID:4DeJLgHK
あと、岩槻城に置かれたのは北条家の直轄地の、要は北条家本隊に
属する部隊なので、ちゃんと奉行がいて指揮を執る体制が出来てるけれども、
結局は「備」の中の分担に過ぎないんだよね。
騎馬武者(と従者)を中核に、長柄と飛び道具で隊列を組んだ「備」が一個の戦闘単位になる。
なので、西洋風に中央にパイク兵を置いて両サイドに銃兵、さらに両翼に騎兵隊と並べて
それぞれバラバラの戦闘行動を取るというようには、まずならない。(できないと言っても良い)
216人間七七四年:2008/12/21(日) 20:24:29 ID:GXrw2nlc
備の構成的にみるとありそうだが
217人間七七四年:2008/12/22(月) 18:41:25 ID:efW3ogqx
備の編成見るに、数十メートルを数十騎で突撃突破を行えるので
そういう意味での騎馬突撃は有り得たと思う
というより、近世以降西洋軍事史的観点を中世日本持ち込まんで欲しい
218人間七七四年:2008/12/22(月) 21:45:03 ID:NK3zd6DO
>備の編成見るに、数十メートルを数十騎で突撃突破を行えるので
>そういう意味での騎馬突撃は有り得たと思う
>というより、近世以降西洋軍事史的観点を中世日本持ち込まんで欲しい

まあ西洋で騎兵隊がまとまって運用されだすのは13世紀でまだ中世だけどね。

それに中間・小者は騎馬武者にくっついたままの編成だから、この時点で騎馬突撃じゃない。
混成部隊の突撃だ・・・・
軍学では白兵戦の時には武士は馬を後方に置いて槍を取って戦うとし、追撃にかかる時に
馬に乗ると教える。混成部隊で指揮系統を維持したまま戦う事ができ、かつ追撃時には
最も重装備の武士階級が馬に乗る事で、足軽が走る速度に合わせて移動が可能。
理に適っていると言えば適っている。
また槍を脇に抱えて突進という戦術が無いので馬上の槍は犬槍(役に立たない)と教える。
馬上槍は2メートルぐらいの長さだが持ち槍は4メートル以上でも扱えるから、敵がこちらを
向いて槍持って構えている時は、こちらも徒歩で槍持って攻めた方がリスクが少ない。

どちらが西洋的な観点に捉われているのだろう?
219人間七七四年:2008/12/22(月) 21:52:08 ID:vvT+xKJU
「伊達家文書」では、大坂冬の陣において、伊達政宗の軍勢は1万8000人を数えたが、その内馬上は660騎とされている。
江戸時代初期という時期、更に攻城戦にも関わらず、騎馬武者の比率は約3.7%、1000人中37人を占める。
長篠の頃の武田軍だと、騎馬武者の割合が更に高いと考えるのだが。
別のところで、これを書いたら、伊達政宗は愚将だったので、騎馬武者を大量に保有していただけ、と叩かれてしまったが。
220人間七七四年:2008/12/22(月) 21:59:43 ID:aBcAcBnB
>>219
政宗が虞聳かどうかは兎も角、660騎いても侍大将とか備えの指揮官クラスとか考えたら殆ど残らないんじゃない?戦闘への集中運用なんて無理でしょ。
221人間七七四年:2008/12/22(月) 22:06:59 ID:C7/eaZgP
伊達家で大坂と言えば、片倉隊の騎馬鉄砲だけで800騎いただろ。
222人間七七四年:2008/12/22(月) 22:07:12 ID:vvT+xKJU
馬上槍は、3間の物もあったことが、陰徳太平記等に出てくる。
実際、西洋の騎士は4,5メートルのランス(言うまでもなく槍より遥かに重い)を、主に使用している。
馬上槍に短い物もあったろうが、長い物もあった。
223人間七七四年:2008/12/22(月) 22:16:47 ID:C7/eaZgP
>馬上槍は、3間の物もあったことが、陰徳太平記等に出てくる。

現実に馬上槍として残されているものは、特に長いものでも2.5m、大抵は2m程度。
中にはそんな長さの馬上槍を使いこなせる奴もいたかもしれないが、レアケースだろ。

>実際、西洋の騎士は4,5メートルのランス(言うまでもなく槍より遥かに重い)を、主に使用している。
>馬上槍に短い物もあったろうが、長い物もあった。

試合用では7メートルのランスもあったが、実戦用は4メートル程度。長くても4.5メートル。
それも、15世紀になって、ランスレストという器具で槍を鎧に固定するようになり、安定性が増した事で
始めて実用可能となった長さ。
この場合、ランスは脇に抱えてるか、行軍時に真っ直ぐ立ててるかだけで、決して「振るう」ことはしないし、できない。
ただ構えてるだけ。
13世紀以前、西洋で馬上で槍を「振るって」いた時代の馬上槍の長さは1.8〜2メートル程度。

日本の場合、馬上であれ徒歩であれ、槍は「振るう」事が前提。中には上のようなレアケースもあったかもしれないが、
一般的だったとは言い難い。東西の武器を比較してみても明らかな事。
224人間七七四年:2008/12/22(月) 22:30:56 ID:efW3ogqx
>>218
突撃時は置き捨て、つまり後続という形
しかも主力は100〜300石程度だから戦闘要員の従者は
若党一人、槍持等が勝手に動く場合もあるけど
そして数十メートルならすぐに追いつく

大切なのは騎馬に乗ることで敵陣に乗り込む時間の短縮と
騎乗することによる敵へ威圧・衝撃を与えること

そして「雑兵物語」には最近では珍しい(大坂役と推定)として
騎乗突撃があったと記されている
225人間七七四年:2008/12/22(月) 23:12:03 ID:aBcAcBnB
そもそも去勢してない猛獣のような馬に乗って西洋のような馬上槍は無理
226人間七七四年:2008/12/22(月) 23:15:31 ID:C7/eaZgP
んーまあ理屈はそうでも、それは机上の空論の気がするが・・・・
何せ数十メートルであっても、万が一騎馬武者が敵陣中に孤立してしまえば、
それだけで指揮系統を分断されて立て直せない可能性が高いからのう。
指揮階級が切り離される状況ってのは、あまり好まれないのう。
勝手に騎馬武者を100〜300石にしてるが、300石でも10人前後の動員があり得るから
従者も3人程度が想定できるしのう。ましてや、「備」の中核たる騎馬武者の集団には、
必然的により上級の武士が含まれているからのう。
故に徒歩の兵を切り離す戦法は、完全に逃げているだけの敵を追いかける場合とか、使える状況が
限定的になるし実際に確認できるのもそんなケースだしのう。

騎馬突撃というと、何が何でも騎馬武者だけが駆け込んでいかないと気がすまないのだろうかのう?
南北朝の頃の軍記など読めば、攻めかかる時は騎乗し守る時は下馬するという戦法を
読み取る事が出来るけれども、これとて従者はくっついたままだからねえ。
ランスチャージでもしない限りは、何が何でも騎馬武者だけ独立させる必要性も、無いがのう。

ということで、ちょっと戦術のおさらいをしてみようかのう?(気が向いたら続く)
227人間七七四年:2008/12/22(月) 23:43:48 ID:C7/eaZgP
馬に乗った時の白兵戦闘の戦い方は、大きく分けると2つあるのう。
一つは、敵兵の横を駆け抜けながら、すれ違いざまに攻撃する方法。
もう一つは、敵を正面に見据えて、脇に抱えた槍で突き倒し、蹂躙する方法。

前者は最も一般的な騎兵の戦法だのう。サーベル騎兵は基本的にこれになるし、
ランスチャージ以外の馬上槍もこれになるのう。前方や利き手と反対側は死角に
なるから、前後の間隔を詰めた縦隊を組んで、左右は利き手側の武器を自由に
振るえる程度の感覚を開けて、敵中を駆け抜けるのが、最も有効だのう。

後者はいわゆるランスチャージだのう。10世紀に東ローマのニケフォロス2世が考案し、
13世紀に西欧で戦術として定着し、16世紀には一旦姿を消して、18世紀に復活してからは
20世紀まで使われた戦術だのう。ただ日本では幕末より前には行われた形跡は無いのう。
正面の敵を蹂躙できるが、左右は死角になるので、左右の幅を出来るだけ詰めた横隊を
組んで、前後の感覚は少し空けて、波状突撃を仕掛けるのが最も有効だのう。

前者でも敵の隊列を崩す力は十分あるが、衝力では後者が遙かに上になるのう。
どちらにも共通しているのは、騎兵というものは足を止めればただの大きな的という事だのう。
また、馬をいくら駆けさせても、自分の武器より長い武器でビッシリを隊列を組まれると、
突破は出来なくなるのう。(そのうち続く)
228人間七七四年:2008/12/23(火) 04:16:56 ID:oZo3dG6g
よく解らんが、やっぱ馬に乗って戦うってのは、間違っているような気がする。あんな安定しないものの上に乗って
戦っても、バランスとるだけで大変だし、落馬したら格好の標的だし、そもそも敵にしてみれば、人間より表面面積
の大きい馬を刺すだけで、あとは楽に相手を殺せちゃう。身分の高い奴が馬に乗るなら、なおさらのことだ。

足場の悪い馬上で必死にバランス取りながら戦う偉い人を見つけたら、我先に馬を刺しに行くと思うんだが・・・
229人間七七四年:2008/12/23(火) 04:31:37 ID:AvO8Um2o
漫画のセンゴクは撤退戦を重要視してるみたいだな
撤退戦を評価したら
武田の勝利だろ
織田は下手な殲滅で被害が多大になったからな
長篠での両軍の被害は撤退戦の被害のこと

織田徳川両軍相当の被害はでたよ
逆に武田はタダでは逃げなかった
このあたり
この漫画はどう評価するのかな
230人間七七四年:2008/12/23(火) 06:37:06 ID:oycwE9jZ
皆さんにお聞きしたいんですけど、
1・武田家の合戦で受けた被害(その後の軍事作戦+戦闘遂行能力の有無と大小)
2・織田・徳川連合軍の被害
3・合戦がどのように展開されていったか

以上についてざっくばらんに説明してもらえないでしょうか?お願いします。
231人間七七四年:2008/12/23(火) 09:18:41 ID:mopF56Ks
>>226
一応、反論として
だからこそ騎馬武者は派手な指物を付ける事で、従者に自身がどこにいるかを知らせようにしていたと思うんですよね
後、200〜300石ですが実はこれでも多い方で、例えば関ヶ原の井伊家先鋒、木俣隊は50騎の内、50石から200石が
主力、さらに若党が含まれるのは500石から

指揮官クラスは最低でも300石(足軽組頭)なので、この点は彼らは中級と言えるでしょう
後、50騎とは別勘定で1000石の隊長と5騎の分隊長がいる

こういうのを見ると、実際は徒歩の戦闘員がいる場合は少なく感じるのだが
232人間七七四年:2008/12/23(火) 12:38:40 ID:xmAuVV1D
>>231
厳密に言えば、若党と中間や小者は違うもの。
若党は若い郎党や旗本に使える武士を指す言葉。
中間は臨時雇いの雑用係、小者は武士が私的に雇ってる従者。
まあごっちゃに使われることもあるけどw

軍役状などで甲持ちの人数など従者を指定したものもあるけど、
小者などはそもそも私的な使用人だから、こまごま指定が無い場合がほとんど。
そのため指定がなくても口取、鑓持、旗持等々、1〜5人程度を引き連れるているのが常。
さすがに50石程度では身一つだろうが。

余談だが口取は騎馬武者の左前方の死角をカバーする役割も負ってるので
必ず馬の左側に付く。偉い人になると口取を馬の左右に付ける。
233人間七七四年:2008/12/23(火) 12:55:39 ID:mopF56Ks
>>232
その上で彼ら(中間・小者)は原則的に戦闘参加しない者とされてます
「雑兵物語」を見る限り、無視する奴は多そうですが
50〜250石では下人3人に駄馬1疋
300〜400石で下人4人に駄馬1疋
口取1〜2人、槍持1人、駄馬口取1人という所でしょう
彼らが果たして主戦場まで追随するかは極めて疑問かと
234人間七七四年:2008/12/23(火) 13:07:44 ID:xmAuVV1D
>>233
こと江戸時代には非戦闘員の扱いだけど、戦国から江戸初期には
厳密な区別はないよ。
武芸の鍛練を積んで主役となるのは士分の者だけど、その背後や
死角をカバーするのが中間などの役回りになる。
235人間七七四年:2008/12/23(火) 13:46:17 ID:ilJHCVW5
そういえば昔ドイツの城に行ったとき28メートルのランスが展示してあったな。
実戦で騎士が使用したって説明書があったけど、あれ振り回したら周囲百人も一度に吹き飛ばせそうだった。
構えて突撃したら凄い迫力だったろう。
236人間七七四年:2008/12/23(火) 17:10:04 ID:kYHXJfeg
去勢してない馬は人を噛み殺すだの蹴殺すだの、大笑いw
237人間七七四年:2008/12/23(火) 17:37:44 ID:V0ZJBTsz
ぶっちゃけ、武田騎馬隊なんて
上の者が移動のとき楽したいから
乗ってるだけで、他国に比べて
山国なのでその比率が多かった
というだけの気がする。
238人間七七四年:2008/12/23(火) 17:48:46 ID:vffLpkC4
騎乗して一騎討ち以外の白兵戦闘を行う場合、決してやってはいけないのが、足を止める事。
騎乗したまま敵中に押し入って、そこでもし足を止めてしまったら、馬上では武器で攻撃できない
死角が多すぎる上に、馬もただの大きな的となってしまうので、たちまちやられてしまう。
騎兵隊が敵に向かって突撃する場合、敵陣を突き抜けるまで決して足を止めないのが、
生き残るための唯一にして最良の方法。

足を止めて戦ったり、押したり引いたりの駆け引きをしながら戦う場合には、下馬の方が合理的。

あと、突撃の速度は速ければ速いにこした事は無いが、人間の走る速度でも十分に敵を崩せる事は、
スイス傭兵や古代ギリシアのファランクスなどが示している。
ただ、前進のみのファランクスは別として、攻撃機動を完全にこなすためには、相当の訓練が必要になる。
ヨーロッパのほとんどの傭兵はそのレベルに達していなかったし、日本の場合は攻撃時には専業兵士たる
武士が前面に立ち、足軽はついていくだけという形を取った。

逆に防御の時には、相手より少しでも長い武器を、できるだけ高い密度で並べれば足りるので、
ヨーロッパの傭兵や日本の長柄足軽は、長い歩兵槍を持って、緊密な隊列を組んで維持し続ける事で、
その役割を果たした。
ヨーロッパのパイクの長さは5〜7mだが、これは3〜4mの騎兵のランスを防ぐための長さ。
日本の長柄は2間半〜3間半だが、これは1間半〜2間半の武士の持鑓を防ぐための長さである。

攻撃する側は、まず槍衾の隊列を乱さない事には手に負えないので、前段階として、飛び道具が必要になる。
あるいはドイツのツヴァイハンダーのように、槍衾を掻き分けて押し入るための武器を使う事になる。
239人間七七四年:2008/12/23(火) 17:54:39 ID:vffLpkC4
>>237
武田家の軍役状を集計すると、騎馬は8%ぐらい。
織田家の明智光秀の軍法だと騎馬は9%ぐらい。
上杉家で12%ぐらい
北条家で20%ぐらい

軍役のサンプル数が多くないので上下はすると思う。

大坂の陣の時の伊達家なんて騎馬は4%もいないが鉄砲は多いから、
馬に払う金があったら鉄砲買うわ!ってとこかね。
240人間七七四年:2008/12/23(火) 18:27:18 ID:B+1vhnDO
>>236
無知ってすばらしいな
241人間七七四年:2008/12/23(火) 18:40:24 ID:vffLpkC4
旧日本軍が大陸に出兵する時、船や貨車に馬を積むわけだが、
馬一頭一頭の間に仕切りを設けて、さらに始終人間が見回っていないと
馬同士が喧嘩を始める。その上見回りの人間にも突っかかるので怪我人も出る。
他国に比べて輸送効率が半分だと嘆いていたな。
242人間七七四年:2008/12/23(火) 19:45:40 ID:mopF56Ks
>>234
中間・下人なんて昔から臨時雇いで、何時何処で逃げ出すか解らず
しかも、複数の侍に仕えて、利鞘稼ぐ連中だよ
戦闘補助要員と見ることはできるが、真っ当な戦力ではないでしょうよ
243人間七七四年:2008/12/23(火) 19:47:33 ID:Q9vXw7xF
>>240
馬に触った事もなさそうだな君はw
244人間七七四年:2008/12/23(火) 20:16:57 ID:2XZwMwL0
>>242
それ言い出したら、足軽だって、まっとうな戦力と言えなくなるよ。
足軽だって、基本的に臨時雇いなんだから。
245人間七七四年:2008/12/23(火) 20:32:33 ID:YxmU9xgu
騎馬武者に従者が付くのは、平安の昔から続く話だしなあ。
普段は家の使用人とかなんだろうけどね。
246人間七七四年:2008/12/23(火) 20:34:46 ID:mopF56Ks
>>244
あれは組編成だからまだましなんですよ
隊列組んでると簡単には逃げないし
247人間七七四年:2008/12/23(火) 20:44:03 ID:YxmU9xgu
>>246
戦国時代には裏崩れ、共崩れなんて言葉が使われたぐらいで・・・
248人間七七四年:2008/12/23(火) 21:00:47 ID:+FLelTQx
騎馬武者・・・馬に乗った武士
徒歩武者・・・徒歩の武士
中間・小者・・・武士の従者
足軽・・・長柄、鉄砲、弓の主力
陣夫・・・荷物運び、基本的に非戦闘員

>>233は陣夫の人数じゃね?駄馬(荷馬)まで指定されてるし。
249人間七七四年:2008/12/23(火) 21:04:34 ID:mopF56Ks
>>247
裏崩れは本陣・後備が逃げる事を主に言うかと
>>248
いえ、若党がある時は「内若党何人」とあります
250人間七七四年:2008/12/23(火) 21:23:20 ID:6mBou+aC
本陣そのものが逃げたらただの敗戦かとw
「本陣や後備の兵が逃げだす」なら裏崩れの内だけど。
251人間七七四年:2008/12/23(火) 21:29:26 ID:mopF56Ks
>>250
先手が崩れぬ内に、戦闘してない本陣や後備が逃げ出すのが
裏崩れじゃない敗戦の一形態としての
252人間七七四年:2008/12/23(火) 21:40:32 ID:6et1LgDQ
大将が自分の意志で撤兵させて負けるのは裏「崩れ」とは違うっしょ。
あくまでも後方が「隊列を維持できなくなる」事で負けるのが裏「崩れ」
253人間七七四年:2008/12/23(火) 21:43:29 ID:mgz2O3zg
他所でやれw
254人間七七四年:2008/12/23(火) 22:05:56 ID:ROAHZ8BF
どうも話がずれまくっている気が。
何だか、人によって、騎馬武者の定義というか、考え方がばらばらの気がする。
私としては、騎馬武者は合戦の場において、乗馬戦闘はしていなかった(できなかった)のか、という点と、
乗馬戦闘はあったとして、騎馬武者だけで編制された部隊はあったのか(備の中において)という点と、
その部隊があったとして、本当に騎馬武者だけだったのか(従者も一緒にいたのか)、という点がごた混ぜで書き込まれている気がする。

なお、私の考えは、騎馬武者は乗馬戦闘も行っていた(下馬戦闘をしていなかったという趣旨ではない)。
備の中には騎馬武者だけで編制された部隊があった。但し、純然たる騎馬武者のみの部隊ではなく、徒歩の従者も混じっていたと考えている。
255人間七七四年:2008/12/23(火) 22:20:03 ID:mopF56Ks
>>254
私の場合、それに加えて突撃時に一時的に従者は置き捨て・後続させるという考えです
256人間七七四年:2008/12/24(水) 00:02:32 ID:LbYobCoo
>>254
ずれると言えば、既に長篠からはかけ離れてるけどなあw
長篠に限定すれば、どう見ても柵を作ったり陣城を築いたりして
待ち構えてる相手に、馬に乗ったまま攻めかかってもしょうがない。
それじゃ柵を引き倒す事も土塁を登って敵陣に踊り込む事もできない。
だから甲陽軍鑑の、一備のうち7、8人だけが馬に乗り、あとは馬を後ろに引いて
戦ったという記述は、まさにその通りなんだと思うよ。

一般論として何もない平地で二者の軍勢が向かい合ったらどうなるか?というのはまた別にしても。
257人間七七四年:2008/12/24(水) 00:17:53 ID:72WLziJ6
で、私個人としては、次のように考えてますね。
・騎馬武者は騎乗戦闘も下馬戦闘もする。ただし使える武器が異なってくる。
・武士は従者と共に戦い、基本的には騎馬の者のみが突出する事はない。
・備の中に騎馬武者と従者からなるブロックがあるが、単独の部隊ではない。騎馬武者のみでの行動は基本的に無い。

基本的にとは、完全に逃げている敵を追撃するだけの時などは、後は隊列など関係無く
逃げる敵を討ち取って手柄を立てる局面なので、騎馬の者が突出する事もあるだろうという事。
この場合は、仮に主従がはぐれても、合流できないという可能性も低い。
258人間七七四年:2008/12/24(水) 00:23:42 ID:5/oxbSB+
>>257
基本的に同意
259人間七七四年:2008/12/24(水) 00:31:53 ID:72WLziJ6
南北朝の頃の軍記だと、攻める時は騎乗する、守る時は下馬するという
場面がいくらも出てくる。これは騎兵は足を止めたらただの的という原則に
合致している。

戦国期の色を残しているであろう、江戸時代の軍学では、武士は白兵戦闘時には
下馬して戦い、追撃に入る時に乗馬すると教える。

両者の差は何か?と言えば、単純に武器が違う。
南北朝の頃は刀の全盛期。
戦国期は槍の全盛期。
例えば武田家の軍役では、武士が使う持鑓の長さは二間半と明確に定義される。
二間半(=4.5m)と言えば、西洋の一般的なランスの長さ(3〜4m)を超える。
西洋のランスは、ランスレストで鎧に固定し、脇に抱えた体制で真っ直ぐ突っ込む
以外の使い方はしない。そうでなければ、馬上でこんな長さのものは扱えない。
ランスチャージが定着する以前の西洋の馬上槍は1.8〜2m程度しかないし、
日本でも一般的な馬上槍は2m程度である。
たまには相当の長物でも馬上で使いこなす者もいただろうが、一般論としては無理だと言える。
長い槍を鎧や馬具に固定して真っ直ぐ突っ込むというような用法は、日本では伝えられていないから
(もしそのような用法が一般化されていれば、そのための器具、馬術、槍術などで痕跡が残るものだ)
持槍で戦う事イコール下馬戦闘だっただろうという考えに至る。
260人間七七四年:2008/12/24(水) 00:36:19 ID:72WLziJ6
すると次に考えなければならないのは、騎乗して刀で戦うのと、下馬して槍で戦うのと、
どちらが有効なのか?という事になる。

だが明日も仕事があるので今日はもう寝ます。
261人間七七四年:2008/12/24(水) 00:46:25 ID:5/oxbSB+
>>260
騎乗して刀は大河ドラマの世界
262人間七七四年:2008/12/24(水) 00:51:29 ID:d6wXzcom
武田騎馬隊は宣伝活動の一つね
赤備えがそう
実際、強かったのは長槍部隊

ある程度勝敗がついてから
騎馬隊が敗走軍を追いかけまわし派手に暴れただけ
武田の武勇を轟かせる宣伝のための部隊


あと重要なのが
荷駄のための運搬手段に騎馬を多く用いたこと。
馬を大量に使うことによって
少ない人手で運搬し
兵は手ぶらで移動することがでた。
プラス武田領内は運搬路が整備されていて兵、荷駄の移動を円滑に速くしていた。
反面攻めに弱い。
滅亡時のあっけなさが証明している

武田の強さは
戦場への素早い移動で先手を取り
移動の早さを生かした攻撃は最大の防御を実感させたところ

263人間七七四年:2008/12/24(水) 21:02:17 ID:C1rn89Gc
>>259
アレクサンドロス大王が率いたマケドニア重騎兵は、長さ3mの槍を持ち、鐙もなしで、長さ5mの槍を持った重歩兵に対し、騎兵突撃をかけていましたが。
騎馬武者の持っている槍が足軽の持っている槍よりも短いことを理由に、騎馬武者の槍は役立たない、と江戸時代の多くの軍学者は説いていますが、私は疑問があります。
なぜなら、彼らは実戦経験がなく、畳の上の水練でしかないからです。
それなら、なぜマケドニア重騎兵を始めとし、歩兵より短い槍を持った騎兵が、世界史において大活躍してきたのでしょうか。
馬のサイズが違う、と言われますが、世界史ではマケドニアやモンゴル等、日本馬サイズの馬がむしろ主力を占めています。
下馬して槍を使うのなら、歩兵と同サイズの槍をむしろ持つべきではないでしょうか。
264人間七七四年:2008/12/24(水) 21:44:55 ID:5/oxbSB+
日本で弩が廃れていったのは山がちな地形と国の狭さによるところが大きい。
大陸では遠くまで見通せるために遠くの敵を発見して弩の準備をできるが、日本ではその平地が少なく森林が多いので敵を確認したときには弩を準備する間もない。

騎馬隊も同じではなかろうか。大軍同士が平原で激突する大陸と違い、山、森林、湿地が多い日本では大陸のような騎馬運用が出来なかったのではないだろうか。
265人間七七四年:2008/12/24(水) 21:56:11 ID:co0N3E+9
>>263
基本的に騎兵が槍衾の隊列に正面から突っ込むのは自殺行為です。
騎兵が槍衾に正面攻撃をかけて撃退された例は、いくらでもあります。

マケドニア軍は敵正面をファランクスで拘束した上で騎兵を側背に回らせる、
鎚と金床戦術が基本のはずですが。槍衾を組む歩兵方陣は、側面や背面に回られると、極めて脆いものです。
騎兵の突撃は、古今変わらず、敵が隊列を乱した時か、側背に回り込んだ時に行うと相場が決まっています。
馬の体格の問題など誰も言っていませんし、そんな問題ではありません。

あと馬上槍が足軽の鑓より短いというだけなら、武士の持鑓だって足軽の長柄より短い。

というより、足軽は密集方陣を組んで長柄を前に向けてガッチリ構えてる事が仕事。
鑓を振るうとしても、上に振り上げてから振り下ろすだけの動作しかしない。だから長い鑓が使えるわけです。
ただし、攻撃機動を行うには練度も機動力も不足している。

一方で、武士は武芸の鍛練を積んだ存在で、持鑓を自在に振るって攻めかかるのが仕事。
この自在に振るうというのがポイントで、馬上で徒歩の場合と同レベルに鑓を使いこなそうと思えば、
一般的に鑓の長さは馬の背の高さまでとされています。そして中世西洋でも日本でも馬上槍は2mぐらい
ですから、ここでも馬の体格は問題ではありません。
徒歩の場合は、二間半ぐらいが槍を使いこなせる限度とされています。徒歩の方が長い持鑓を使える
のですから、軍学で馬上の鑓が犬鑓と言われるのは、鑓使うなら下馬しなさいよ、ってことです。

また私個人としては、「短い鑓でも馬に乗ってた方が速度もあり、衝力では上なのではないか?」という問いの答えが、
日本の戦闘形態の中に、あるのだと考えています。
266人間七七四年:2008/12/24(水) 22:11:56 ID:co0N3E+9
>>264
弩は威力はあるけれども、直射が基本なので、もともとあまり遠くは狙えません。
例えば中国でも敵が150m程度まで寄ってきてから使うものとされていましたし、
その距離でもまだ敵兵はゴマ粒サイズで当たるものじゃありません。
また量産のためには、ある程度の工業力が必要です。
ただし、訓練は長弓に比べて簡単です。

長弓を徹底して鍛えてあれば、曲射によってある程度の距離でも狙えます。
発射速度も弩の3倍。弩に比べれば、工業力が低くても量産できます。
戦闘時の有効性では弩を圧倒しますが、訓練は相当に大変です。

日本の場合、弩が伝来した頃には、量産できる工業力が無かったと思いますし、
工業力が身に付いた頃には、長弓が普及していたので、必要が無かったのでは
ないかと。
267人間七七四年:2008/12/24(水) 23:13:20 ID:CAa/6EvP
日本の足軽は方陣は組みません
一列横陣が基本、その代り機動性は高い

後、江戸初期の合戦図屏風を見ると槍で突き合う騎乗武士はいないが
刀で切り合う騎乗武士は描かれている
268人間七七四年:2008/12/24(水) 23:28:29 ID:jendtrYk
武田家で5割、上杉家で6割が長槍だから一列じゃ
幅広杉な気もする。つか、一列だけじゃあっという間に
突破されてしまって長槍の意味が無いよJK
武士が槍使うなら下馬しようぜ、なのはまさにその通りかね。
269人間七七四年:2008/12/24(水) 23:52:18 ID:lKFveKkJ
槍の少ない織田家で考えると・・・・

明智光秀の軍法だと、たとえば1000石の将の場合、
騎馬武者5人 鉄砲5人 長槍10人 が戦闘の中心で、他に
旗10人 幟2人 その他23人 となっていて、総勢55人の規定。
日本の備の組み方からすると、

最前列  鉄砲 鉄砲 鉄砲 鉄砲 鉄砲
             小隊長?

二列目  長槍 長槍 長槍 長槍 長槍
三列目  長槍 長槍 長槍 長槍 長槍
             小隊長?

四列目   騎馬武者・従者・その他
五列目
  ・
  ・

みたいになるかね。あと旗や幟は目立つ場所に適宜。人数からするとかなり縦長になるけど、
実際は縦長の備を横に連ねて、一つの大きな部隊のようにする。
武田家や上杉家だと、長槍の人数が軍役の5割とか6割だから、長槍のとこの厚みが
増すことになるのかな。
270人間七七四年:2008/12/25(木) 00:20:36 ID:gvO92Rot
槍兵の場合、2列目以降の兵は、前列の兵が押し負けないように支える役目もあるので、
さすがに一列だけというのは少なすぎると思うけどね。

ちなみに西洋の例でいくと、装甲槍騎兵による突撃戦術の全盛期には、槍兵は銃兵の
3倍以上はいて、とにかく分厚い隊列を組んでいたんだけど、装甲槍騎兵が姿を消したら、
槍兵と銃兵の人数は同じぐらいになったんだよね。で、銃剣が普及したら、槍兵は姿を消しちゃった。
(ちなみにヨーロッパの槍兵は、隊列を組んだまま走って突撃できたのはスイス傭兵ぐらいで、
一般的にはせいぜいゆっくり前進するのが限界だったから、装甲槍騎兵がいなくなったら、
突撃を受ける機会は激減したんだね)

だから例えば、織田家では槍兵が少なくて、武田家や上杉家では多いのだとすれば、
武田家や上杉家は突撃戦術をよく使う環境にあり、織田家では余り行われなかった
という事になるかもしれないね。
271人間七七四年:2008/12/25(木) 08:00:14 ID:cyXGsbJO
でもね、一列横隊以外は資料的に存在しないんですよ
どうも機動力を重視して、あっても側面付いたりする
部隊数を増やす事を重視してる気がします
272人間七七四年:2008/12/25(木) 15:03:16 ID:+IgzRzCS
あの藤本正行氏が、桶狭間の新著につづいて、
長篠の合戦について本を出すそうな。
異系統の長篠屏風図も分析するらしい。
273人間七七四年:2008/12/25(木) 20:24:37 ID:79l/5ufn
一列横隊で長柄を編成していったら、下士官に相当する人間を
かなりの人数要するから、結局、まとまって戦闘に投入できる
武士階級なんてほとんど残らないってことなんだろうな。
274人間七七四年:2008/12/25(木) 20:49:31 ID:IA8WT+Cq
戦国当時に隊列について詳しく書いたものって無いもんなあ。
江戸時代の場合は足軽は最下級武士として残ったもの以外は
みんな帰農してしまったから、戦国当時に比べれば人数が非常に少ない。
275人間七七四年:2008/12/25(木) 21:13:46 ID:v+GIEShB
確かに、軍学に伝えられてる備の組み方だと、多くても二列って事になるなあ。
小さな横隊に指揮官がついたユニットが、パラパラと分散して配置されるようなイメージ。

仮に日本で、騎馬武者の集団が全速力で突っ込んで来るような戦い方が
行われていたら、一列ぽっちの槍兵では何の防御にもならない。
まあ一〜二列の隊列を教える軍学では、そもそも下馬戦闘推奨だけど。

・・・・だがそれ以前に、ドイツのツヴァイハンダーよろしく徒歩で大太刀など持った兵が
斬り込んできても、突破されてしまうか。

う〜〜〜〜ん・・・・?
276人間七七四年:2008/12/25(木) 21:21:16 ID:uOFwrWdO
しかし合戦で刀は使われなかったという現実
277人間七七四年:2008/12/25(木) 21:27:44 ID:9B/dUTKs
ふと考えたんだが、鈴木眞也氏の遠戦論なら全て合理的に説明できるぞ。

つまり、基本的に突撃も斬り込みもしない。だからどんな隊列でも構わない。
飛び道具による射撃戦で勝負は既についており、白兵戦は追撃の時にのみ起こる。
故に、突撃されても崩されない分厚い隊列よりも、追撃に移りやすい、動きの
取りやすい隊形が好まれる。

まれに突撃する奴がいると、相手は迎え撃つ事が難しいので、勝利を手に入れられる
時がある。例えば、信長の桶狭間。
だが基本的には突撃などすれば余計な損害が出て自分の財布が痛むので、やりたがらない。

よって、このような隊列も当時の日本の戦術も、全て合理的に説明された。

我ながら完璧だと思うんだけど?
278人間七七四年:2008/12/25(木) 21:31:29 ID:LI/uZF+x
>>276
仮に隊列が一列横隊だったら、刀でも槍衾を突破できる話になる。
つまり逆説的に一列横隊が否定されてしまうのでは?

>>277
そwwwれwwwwwwはwwwwwwwww
そう来たかw
279人間七七四年:2008/12/25(木) 21:40:29 ID:cyXGsbJO
>>273
近世だと50人に奉行(200〜300石)一人
下士官役の組頭一人(足軽)
で長柄は足軽と中間の間とか
このころの足軽は常雇だから
これをどこまで中世に当てはめれるかは不明

>>275
足軽は基本的に足軽と戦うのが基本で
侍はその戦列の突撃突破が主任務なんでしょう
ここで重要なのは隊列組まずに戦闘できる技量と
戦意を持つという事で
これは基本、騎乗・徒歩の区別なく共通でしょう
で、突破の手段として初期は騎乗突撃
後期は赤兵の増大で徒歩突撃に変換じゃないのかと
長柄は初期は前線任務、後期は後方任務と聞くし
この辺は足軽の主力が長柄から鉄砲に変化した
解りやすい流れかと
隊列組んだ長柄はいい的だし


>>276
江戸初期の合戦図屏風見ても、使ってるのは間違いなし

サンデーの「史上最強の弟子ケンイチ」という漫画で
槍持った甲冑武者と闘ってる時に槍だから懐へ入れは良いと思ったら
瞬時に刀に切り替えたという描写は現実に即してると思った
直ぐにやられたけど
280人間七七四年:2008/12/25(木) 21:51:31 ID:LI/uZF+x
>>279
>足軽は基本的に足軽と戦うのが基本で
>侍はその戦列の突撃突破が主任務なんでしょう

足軽同士が同じ隊列で戦う分には問題ないけど、個人の武芸で
突破を図る武士という存在がある以上、それに突破されない構えが
必要になるのでは?

>長柄は初期は前線任務、後期は後方任務と聞くし

本格的に鉄砲が増えるのは、朝鮮出兵の頃なので、戦国期に限って
言えば長柄は常に前線。(ただし最前列が鉄砲である事は変わらず)

>隊列組んだ長柄はいい的だし

基本的に前列に飛び道具を配しているはずなので、よほど強硬に
突撃でもしない限り、長柄の出番が来る頃には杞憂でしょう。
281人間七七四年:2008/12/25(木) 21:52:51 ID:LI/uZF+x
>江戸初期の合戦図屏風見ても、使ってるのは間違いなし

まあ絵画資料は何のために描いたかで全然違うけどね。

軍忠状でも刀による負傷はちゃんとあるので使われたのは間違いない。
でも投石、鉄砲、弓、槍より頻度が少ない。
282人間七七四年:2008/12/25(木) 21:57:26 ID:LI/uZF+x
ふと思ったが、奉行一人と下士官一人で50人を一列横隊にするのは
結構面倒見づらくね?
283人間七七四年:2008/12/25(木) 22:02:33 ID:cyXGsbJO
>>280
>足軽同士が同じ隊列で戦う分には問題ないけど、個人の武芸で
>突破を図る武士という存在がある以上、それに突破されない構えが
>必要になるのでは?
雑兵物語みる限りでは可能な限り粘れとは書いてあるけど
実際はとっとと引いて、侍同士の戦闘になると思われる
突撃する侍部隊にとって一番危ぐするべき事態は
突撃衝力が失われる事態で、これは長柄で槍襖や叩かれで
十分なりえる
これを回避するには先ず、足軽同士の戦闘でどちらかの戦線が
綻び、そこへ突撃突破とそれに対する逆襲での乱戦になるかと

>本格的に鉄砲が増えるのは、朝鮮出兵の頃なので、
どうも長久手の時点で長柄は役に立ってる気がしない
284人間七七四年:2008/12/25(木) 22:03:17 ID:cyXGsbJO
>>282
ごめん二人の間違い
285人間七七四年:2008/12/25(木) 22:10:33 ID:LI/uZF+x
>>283
いやつまり、薄い隊列だと、武器は持槍でも刀でも何でもいいけど、
武芸に長けた武士なら長柄を払って切り込めば突破できてしまうでしょ?
実際に西洋にゃそうやって槍衾に斬り込む兵がいたわけだし。
で、一列二列の隊列なら、その時点で崩壊してしまっているので、衝力も
何も必要じゃないし。
つまり、足軽同士の戦闘をする必要もなくなってしまうよ。
286人間七七四年:2008/12/25(木) 22:14:31 ID:64lwE8fV
鈴木説で完璧じゃないか。いや結構マジで。
287人間七七四年:2008/12/25(木) 22:17:17 ID:cyXGsbJO
>>285
それでも長柄の隊に侍部隊が駆け込んだまま突破できるわけではないですから
刀でも槍でも一度は、停まって腰の重心落とさないとまともに振れないし

そうやって泊ってしまえばこちらのもので、その間にこっちの侍部隊が回り込んで
しまえば包囲してしまいす
288人間七七四年:2008/12/25(木) 23:39:16 ID:lZGDi3wu
せいぜい、長柄の射程ギリギリで一瞬止まって長柄を払い、そのまま走り込んで一撃で突破完了。
そもそも武芸の心得のある奴が、敵に近づいたからまず止まって腰を落としてから・・・なんてやるかとw
密集方陣なら、2列目以降が何人もいるから対応可能だがね。

一列横隊の長槍兵では、敵の正面攻撃を拘束して側背に回り込むどころではない。
回り込む前に正面を突破される公算が高い。
長柄という武器の特性を考えたら、一列横隊はあまりに机上の空論。
「何列も並んだってどうせ一列目しか槍使えなくね?」って発想か。

一列横隊で最も活きる兵科は、長槍歩兵ではなく槍騎兵。槍騎兵の突撃は、一列横隊で
数波に分けて突撃する事で敵陣を完全に蹂躙し尽くす。だがそれこそまさに、馬の速度あっての話だ。
289人間七七四年:2008/12/26(金) 08:39:13 ID:kDAwLgXL
ろくに身動きできない密集方陣の方がよっぽど机上の空論かと
第一、資料的に存在しないし>日本の密集方陣

しょせんは楯の代わりにすぎないのが長柄
50人程度なら横幅も大したことないし
一列なら間から攻めかかることもできる
290人間七七四年:2008/12/26(金) 21:19:27 ID:uf/bVa/o
その長柄というのが、疑問なんだよな。
世界史上、3間半の長さの槍を用いたのは、スイスのパイク兵とディアドコイ時代のファランクス兵だけで、いずれも職業訓練兵。
ところが、日本では、ろくに訓練もしていない臨時雇いの足軽が、同じ長さの長槍を用いている。
講談の長短槍試合のように、実戦を無視して、長い槍がより有利という素人考えで長い槍が広まり、外国との戦争が無かったので広まったのではないか、という疑いがある。
実際、島津氏は短い槍で、大友氏や竜造寺氏に連戦連勝し、九州を制覇寸前までいった、と宣教師は述べている。
実際に3間以上の長槍を用いた人によると、長槍はしなってしまい、叩くことはできても、刺すことはできず、騎兵突撃を防ぐのは無理とのこと。
藤堂高虎を始めとする歴戦の武将達は、長槍を持つ部隊程、武功をあげる目標としたともいうし。
長槍は、江戸時代の軍学者の幻想で強大化したのではないか。
291人間七七四年:2008/12/26(金) 21:40:05 ID:AKYRcff/
>>290
足軽の槍が長いのは、侍の持槍が届かないようにするためじゃないかね?


まぁよっぽど訓練された軍馬でないと”尖ったもの”に向かっての突撃は馬は本能的に避ける。
だから日本では1列でもぜんぜん馬突撃対策にはなったんじゃないかな。
292人間七七四年:2008/12/26(金) 22:24:31 ID:kDAwLgXL
>>290
軍役書より元亀年間の北条は二間
天正以降で三間が基本で、実は三間半は信長公記の道三との
会見時にしか見られない
293人間七七四年:2008/12/27(土) 00:14:37 ID:5igIWPaZ
>>289
世界的に見て、長槍は方陣で運用するのが一般的だし、もともと機動力を求めていない。
敵の主力部隊(槍騎兵など)よりも長い武器を持って、しっかりと構える事だけが求められた。
逆に言えば、機動力を求めるなら長槍は不適切だという事だな。

>>290
15〜17世紀のヨーロッパでパイクはありふれた武器で、しかも隊列を組む訓練しかしてない
傭兵が扱ってたわけだが。で、まさに戦場では敵の突撃を防御するための盾として使われた。
スイス傭兵は、他の国の槍歩兵には不可能だった高度な戦術行動をこなしたから有名なだけで、
逆に言えばスイス傭兵以外の槍歩兵は、本当に隊列を組んでゆっくり移動するぐらいしか出来なかった。
そういう意味じゃ、日本で非専業兵士の足軽が扱う事に何の疑問もない。
長槍の基本的な意義は、数を揃えれば簡単な訓練で強力な防御力を発揮するという事にある。

>>292
北条家は二間半だったと記憶しているが。天正年間に三間に伸ばしているが。
武田家と上杉家は三間。
織田家は太田牛一曰く三間や三間半。どうやら三間半「も」いたらしい。
294人間七七四年:2008/12/27(土) 12:05:32 ID:b0d6C3EF
まあ、日本の槍はブッ叩くものだからな
295人間七七四年:2008/12/27(土) 13:21:33 ID:UhvpsTVn
ヨーロッパのパイクも、騎兵が相手ならしっかり構えて固定して使い、
歩兵が相手なら振り上げて振り下ろし、相手を叩く。
日本の長柄は叩いて使うから西洋と違う!・・・・という事は完全な勘違い。
日本で叩いて使う用法だけがクローズアップされるのは、日本では騎兵の
突撃が無かったからだろう。
296人間七七四年:2008/12/27(土) 20:27:14 ID:xqPj2r0C
日本の槍は茎が長いから容易には斬り飛ばせんでしょう
297人間七七四年:2008/12/27(土) 22:01:33 ID:aOGU1ckh
ツヴァイハンダーでパイク兵の中に斬り込むときだって、別に穂先を
斬り落そうってわけじゃないよ。あくまでも槍を払って踏み込んで行くための武器。
298人間七七四年:2009/01/05(月) 00:41:30 ID:4FWhcyHX
江戸期の軍学は戦国時代の名残を残しているだろうけど、軍制自体が
かなり違うから参考程度だろうね。
戦国期は足軽の大半は軍役で動員した農民や臨時雇いの平民だけど、
江戸期まで足軽として残った者は下級ながら武士になっている。
だから例えば、戦国期には足軽は各武将が各自の領地で動員して装備を与え、
自分で指揮をするものだったはずが、足軽も武士として自分で装備を整えるように
なったわけで、この上下関係、指揮系統が変化してくる。
また江戸期には武士のサラリーマン化が進んで、大名―各武将―足軽という
関係も崩れているから、戦国期には縦割りだっただろう指揮系統も、江戸期には
かなり融通が利くものになっていたはずだね。
また足軽の一部は武士として残ったけど、大半は普通の平民に戻ったから、戦国期に
比べれば足軽の人数、比率はかなり下がったはずだね。

で、軍学で教える基本的な備は、前列に鉄砲を置いて、二番手に武士や従者からなる
主力戦闘部隊を置く。で、銃撃戦の後は武士を中心とした白兵戦が行われるという
想定になってるんだね。ここでは、長柄の足軽は後方にある大将の本陣の防衛や
側面の防衛など、どちらかと言えば予備兵力、遊撃兵力としての扱いになっている。
遊撃兵力として考えれば、隊列を組んで突撃してくる敵をどっしりと受け止めるような、
密集方陣は必ずしも必要ではないんだよね。また足軽も武士身分になっているから、
集団でただ槍を上下に振るような戦い方よりも、複雑な戦い方を訓練できる環境にある。
だから、江戸時代の軍学では、長柄は一列や二列で十分なんだね。
299人間七七四年:2009/01/05(月) 07:01:15 ID:oSmD5g02
>>298
江戸時代でも長柄足軽は大体が足軽と中間の地位で、「長柄の者」と言われてました
弓・鉄砲足軽は専門職なので言われている様な武士化してました
300人間七七四年:2009/01/06(火) 00:03:51 ID:1uUSdXqx
江戸時代の軍役だと、たとえば前橋の酒井氏で鉄砲と弓が752人、騎馬武者・徒歩武者などで518人に
対して長柄は367人しかいない。
戦国期には武田家や上杉家で全軍の5割6割が長柄だったのに比べると、随分と少ないね。
武士たちが持槍を持って飛び道具の隊列の後方に配備されるから、相手が白兵戦闘を仕掛けて
来た時には武士たちが対処すれば良いわけで、やはり江戸期には長柄の必要性が薄れたんだろうね。

江戸時代には平時は戦は無いから、訓練を積んだ精鋭による戦いが出来る。
戦国時代には恒常的に戦があるから、少ない訓練で即戦力として大量動員にできる兵科が重視される。
ま、当たり前と言えば当たり前か。
301人間七七四年:2009/01/06(火) 07:04:50 ID:1+vJqX9m
長柄の地位低下は戦国期より生じている
武田家なんかは長篠以降、長柄を減らしてもいから鉄砲を
増やせと言ってる
302人間七七四年:2009/01/06(火) 22:44:27 ID:QBGvrpnb
違う。それを命じたのは信玄。
言ってはいるが、勝頼の代になっても軍役で明確に鉄砲が増えたという事は無い。一割弱ぐらいのまま。
鉄砲が強力な事は分かっているが、強制できるほど普及していなかったということだろう。
まあ織田家の明智光秀の軍法でも鉄砲は一割弱だ。
303人間七七四年:2009/01/07(水) 00:16:24 ID:8iN9e6cz
要は金がないからでそ。
鉄砲は高いしランニングコストもすごいかかるし武田は貧乏だし。
304人間七七四年:2009/01/07(水) 00:35:09 ID:Hxw6HnUB
武田も織田も鉄砲の割合が対して変わらんのだから
関係ないでしょう。
305人間七七四年:2009/01/07(水) 01:03:29 ID:7cxILCkm
戦国大名の中で火力を揃える事におそらく最も熱心だったのは徳川家康
306人間七七四年:2009/01/07(水) 15:21:54 ID:+RVG7mIA
鉄砲あっても火薬が無ければただの筒だし・・・
307人間七七四年:2009/01/07(水) 17:56:15 ID:Ln+kErwe
鉄砲の有効射程が13Mだったとして、関が原とかでも鉄砲の射程に変わりは無さそうだが
山頂に布陣してる小早川秀秋は東軍寝返りを決断したのか、音にビビッたのか
308人間七七四年:2009/01/07(水) 19:51:44 ID:aCtZ88pA
戦闘不能にするだけの射程距離だったら13Mよりも
長くない?
309人間七七四年:2009/01/07(水) 23:49:16 ID:TvoyU4Fw
”有効射程”って言葉が勘違いさせるよな……

関ヶ原の野戦で島津軍が射撃した距離=13mくらい
…ってことで、当時の野戦時の銃の使われ方として、ってことだと思う。

もともと種子島に来たときは”狩猟銃”だったわけで、
”威力がある距離(有効射程)”は50-70mはあったはず。
攻城戦では城の外の高台から中に銃撃してるくらいだし。
310人間七七四年:2009/01/08(木) 22:18:24 ID:QPDADDVR
西洋ではアルケブスは100m離れるとプレートメイルで防げたというが
マスケットだと貫通された。だが反動の大きいマスケットは100m離れると当たらなかった。
人間サイズどころか物置小屋に当てる事も出来なかった。100m離れると、集団運用でも
効果があるとは言い難かった。そのため、結局どちらの銃も50mから70mが有効射程の
限界と見られていた。

日本では首取りが手柄という風習から狙撃が好まれたわけだが、杉谷善住坊がわずか
20間の距離から信長を狙撃して失敗しているぐらいで、狙撃兵器としての射程はさらに
短く、雑賀衆の佐武伊賀守という人は佐武伊賀働書という文書で、信長の軍勢を相手に
戦った時に、10間まで引き付けてから撃ったのだと引き付ける事の重要性を語っている。

どちらにしろ小早川軍に直接的な被害を及ぼしたとは思えないわけで、戦国期を生き延び
朝鮮出兵も乗り越えた兵たちが音にびびるわけもなく、あくまでも政治的な主張ですな。
311人間七七四年:2009/01/08(木) 23:04:17 ID:rCC+9ceP
設楽原に行ったのだが、小高い山が多かった。
どの山も木が生えていたのだが決戦が行われた当時も木が生えていたの?
信長が本陣を置いたと言われている茶臼山に行ったけど
木が邪魔で主戦場が全く見えなかった。
312人間七七四年:2009/01/09(金) 01:22:01 ID:5QudL+lR
茶臼山に本当に陣取ってたかは知らんけど、弾正山や信玄台地には築陣の跡がある。
陣地を築く時は木などが生えていれば切り払って見通しを良くするものだよ。
連子川の両岸は田んぼがあるけど、昔から田んぼだったんじゃないかって説を
唱える人もいるね。資料によってはあぜ道での戦いを描いたものがあった気がする。
313人間七七四年:2009/01/13(火) 23:10:07 ID:Radxjop5
長篠の戦いの本読んでてふと思ったんだが

武田軍は長篠城を落とせなかったのかな?
それとも落とさなかったのかな?

兵糧庫を奪った後は力押しをやめて、兵糧攻めに切り替えた、とあったんだが
後詰めが迫ってる時に攻撃を時間のかかる方法に切り替えたのは
長篠城はあくまで織田・徳川をおびき寄せる餌で、後詰決戦が目的だったのか、と

ただそれだと戦後、城将奥平貞昌に対する褒賞が大きすぎるのが腑に落ちない。
(亀姫との結婚、大般若長光、信の字の諱、所領追加等)

長篠の戦いの前哨戦とも言える長篠城の戦いについて詳しい人がいたら
教えてください
314人間七七四年:2009/01/13(火) 23:21:16 ID:TBs5YoDi
城攻めについて詳細な描写のある本ほど後世のものですからね・・・・
武田の金堀衆が穴を掘ってきたので、場内からも穴を掘って逆に攻めたとか、
可笑しな話はいっぱいありますが、まあ信頼性はどうでしょうか。

ただ、武田家の前線の将であった奥平を、武田家に対し劣性な徳川家が寝返らせようと
思ったら、相当の好条件を提示するしかありませんよ。
315人間七七四年:2009/01/13(火) 23:22:46 ID:HAzwcFS6
なかなか落とせなかったから
鳥居強右衛門に援軍は来ないと叫ばせようとしたんだろうが
そんな事も分からんのか?
316人間七七四年:2009/01/13(火) 23:26:49 ID:TBs5YoDi
改正三河後風土記などのように、土塀が武田の鉄砲で穴だらけのボロボロになったとか、
三の丸を落とされたとか、本当にそこまで攻め込まれていたなら、鳥居の話はいらなくなりますね。
317人間七七四年:2009/01/13(火) 23:27:44 ID:FeQdfX+E
>>313
亀姫との結婚、所領加増は奥平を徳川家に引き入れる際の条件でした
覚書である「長篠日記」では500人の城兵に対して、鉄砲200挺という非常識な
鉄砲装備率と最近の調査で判明した、三重の堀と高い土塁で守られた長篠城は
安易に落とせる城ではありませんでした

何しろ大鉄砲まであって、武田の物見櫓を打ち崩しています
318人間七七四年:2009/01/13(火) 23:28:09 ID:h1YHRuep
長篠城では家康が、大量の鉄砲を装備させていて、城も火力での防御に適応させた
改修が行われており、力攻めでそう簡単に落とせるようなものではなかった。
319人間七七四年:2009/01/13(火) 23:31:48 ID:TBs5YoDi
>>317
長篠日記は江戸中期以降の成立とされていますよ。
あまり確実な資料とは言い難いですね。
320人間七七四年:2009/01/13(火) 23:36:15 ID:FeQdfX+E
321人間七七四年:2009/01/13(火) 23:43:21 ID:TBs5YoDi
勝頼は、最初は長篠城の攻囲よりも家康の吊り出しを狙っていたようで、
吉田城の近くまで南下したりしていて、真面目に長篠城を攻めていないんですね。
それで家康が出て来なかったので、長篠城の本格攻囲に取り掛かっていると。
これでまた信長が出てきそうだとなった時に、どう思ったんでしょうね。

>>320
長篠日記またはその原本の成立が天正6年だとするのは、甲陽軍鑑を書いたのが高坂昌信だと言うぐらい、
無理のある話ですよ。長篠日記の内容には甲陽軍鑑やら小瀬甫庵の信長記やらとかぶる話が多いですからね。
少なくとも江戸記に流布した様々の本よりも後の成立。仮に原本の原本の・・・・原本ぐらいは天正六年に
書かれていたとしても、内容はもはやゴチャゴチャです。参考の参考の参考、ぐらいのものでしょう。
322人間七七四年:2009/01/14(水) 00:03:57 ID:OTSM9jLg
何だかんだ言ったって、鳥居強右衛門とか引っ張り出したんだから、家康相手ならともかく
信長相手に喧嘩するよりも、早く攻め落としたいってのが本音だったんでしょ。
つまりは、落とさなかったんじゃなくて落とせなかったで、答え出てるじゃない。
323人間七七四年:2009/01/14(水) 00:05:39 ID:FG3FutNo
>>321
その辺は史料批判した上で参考にする他ないでしょう
それは全ての合戦ものに言えますが
軍記物に頼らずに合戦経過を追う事が出来るのは皆無
です
大坂役でも野戦の夏の陣は後世の編纂物を見ないと
戦術レベルでの考察は不可能ですし
324人間七七四年:2009/01/14(水) 00:19:44 ID:Qnqtw6si
>>323
資料批判ってのをやると、結局より後世のものほどダメって話になって、
書いた人が明らかで、かつ当事者か最低でも同時代の人でって話になるんで、
どちらにしろ百年後の軍記ともなると「元ネタはどれよ?」って事なんだけどね。
長篠なら信長公記、大須賀記あたりを中心に、当代記だの三河物語だの
甲陽軍鑑だの、まあ江戸初期までで固めてという話になると思うけどね。
改正三河後風土記とかまでいくと、いかにも話は詳しく書いてあってもっともらしいけど、
どれがホントだか判断がつかないとかねw
325人間七七四年:2009/01/14(水) 00:28:47 ID:fUTRJd/Y
むしろ長篠は同時代の人間が書いた記録多いからいいだろw
326人間七七四年:2009/01/14(水) 00:31:54 ID:0Mfwi6Fi
途中からあれだけチンタラやってたのは織田を引っ張り出したかったからだろう。
僻地の甲斐で織田の伸張を眺めてるしかなかった身としては、1回会戦して痛い目見せて相手の勢い削ごうというのはあったはず。
逆に痛い目に遭わされたが。
327人間七七四年:2009/01/14(水) 00:36:08 ID:1+fYqMEn
だったら鳥居いらなくね?
武田側は、織田軍が岡崎からさらに牛久保へと近づいてきてるのは
当然掴んでたはずで。その状況で鳥居強右衛門を利用するって事は、
やはり信長が来る前に長篠を落としたかったんでないの。
逆に城兵が元気付いたが。
328人間七七四年:2009/01/14(水) 00:37:13 ID:zw6r2cnu
全て裏目に出てるw
329人間七七四年:2009/01/14(水) 01:53:05 ID:IpCq9Sps
>>328
負ける時ってそんなもんだ。
330人間七七四年:2009/01/14(水) 22:12:43 ID:XbO5Izln
そもそも鳥居の話は江戸時代の創作の可能性が高いわけで。。。

個人的に思うのは
「長篠城をあえて落とさず、信長、徳川を迎え撃つ餌」
ですね。

もし長篠城を落とす事が第一目的なら
後詰が来ても、城攻めを続けたはず。

何せ、後詰は武田軍に攻めかからず柵を作って
構えているだけだったのだから。
331人間七七四年:2009/01/14(水) 22:15:01 ID:RbGGeiSH
普通に兵数考えて
長篠城あえて落とさず徳川、織田を釣るつもりだったてのは
現実的じゃないよ
332人間七七四年:2009/01/14(水) 22:20:12 ID:QvadqAmn
そうは言っても距離はそう離れていない。
城を囲んでる背後に強襲かけてこられたら危ないやんw
武田軍も相手の面前に出てはいったけど、ちゃんと陣地を築いて構えてる。
織田軍と睨み合いながら城の攻囲を続けるという発想もあったのではないかな。
333人間七七四年:2009/01/14(水) 22:34:59 ID:QvadqAmn
鳥居の話は三河物語では出てくるし、他の与太話よりは信頼性があるかな。
とりあえず岡崎まで援軍を頼みに行ったって話は、当代記にもあったはず。
子孫もそれなりに出世したようだし、功績はあったんでしょう。
334人間七七四年:2009/01/14(水) 23:20:06 ID:yeuhE/lk
武田勝頼が「今回の戦いで織田・徳川を殲滅できる」(長坂長閑 宛)って
手紙を戦いの前に出してるところを見ると、決戦を考えてた気もする

ただ、手紙が20日付けで決戦前日の物だから
長篠城を落とさなかった理由としては弱いんだよなあ

とはいえ鉄砲装備率が高いとはいえ500の兵で1万5千
の攻撃を10日もふせぎきれるものなのかな・・・
335人間七七四年:2009/01/14(水) 23:25:34 ID:TvAop4Ee
三方が原で圧倒したし長篠までは武田に過信があったのでしょう。織田・徳川は軟弱兵ばかりで数の差も覆せるとかさ
336330:2009/01/14(水) 23:29:41 ID:XbO5Izln
>>331
>普通に兵数考えて
長篠城あえて落とさず徳川、織田を釣るつもりだったてのは
現実的じゃないよ

結局、そこが謎なのだが(w

ただ長篠城が第一目的なら、後詰が来た時点で
川に掛かる橋を落とすか、川を前に陣を張りつつ
長篠城へ攻め続ければ良いわけで。

信長公記にも「川を前に陣を張れば何事も無かったのに」
とあるしね。



337330:2009/01/14(水) 23:39:27 ID:XbO5Izln
後詰戦って普通は、後詰の軍が攻城軍に攻めかかるのが
セオリーなんだけど、長篠の戦は逆なんだよね。

しかも数の少ない武田軍が数の多い連合軍に攻めかかる。

俺の推定だけど、武田軍としては、あせりがあったと思う。

信長との主力決戦の機会は、長篠の戦以前に
信玄の西上、勝頼の高天神城の攻略の2度会ったわけだが
いずれも決戦が出来なかった。

しかし年々、信長との国力の差は広がる一方。
ここで主力決戦をしなければ今度、対峙するときは
今以上に国力がひらいた状態になる。

となれば今しかない。無理を覚悟で決戦をするしかない。

となっていたのか?と思う。
338330:2009/01/14(水) 23:44:20 ID:XbO5Izln
で、推定の推定だけど、

武田軍内には決戦をするにあたり、当然ながら反対意見もあっただろう
(勝頼の手紙にも「今回の戦いを危ぶむものもいるが」とあるので
 これは真実に近いと思う)。

なにせ自軍1万5千に対し、3万8千なのだから。
決戦派か撤退派かで議論した末、決戦になったのだろうね。

そこでここでの議論が後に脚色され、勝頼が重臣の反対を押し切って
決戦を挑んだと甲陽軍艦に書かれたと、俺は推定している。
339人間七七四年:2009/01/14(水) 23:45:48 ID:yeuhE/lk
当時の武田軍が織田・徳川軍の動員可能兵力を
見誤ってたってことは考えられないかな?

今でこそ長篠の戦いの両軍参加兵力が一目でわかるけど
当時の情報収集能力では相手の動員可能兵力を完全に
把握するのは難しいと思う。

しかも織田軍は畿内に敵を抱えてる状態だし
長篠城を攻めはじめた時点で相手が3万8千も
来るとは思わなかった、とか
340330:2009/01/14(水) 23:49:32 ID:XbO5Izln
長篠の戦時点で、信長の敵対勢力と同盟を整理すると

敵対勢力:武田、本願寺、他?
同盟:上杉、毛利は違うかな?

と考えると、武田側からすれば、ここで決戦を回避すれば

信長は本願寺を滅ぼす→信長&上杉&家康が信濃に攻め込む
→これはまずい→だから決戦だ!

と思っていたと俺は推定しています。

341人間七七四年:2009/01/15(木) 00:00:32 ID:a8fXjCyI
>>339
陣の規模とかでも分かるし、ましてや岐阜の信長の動向には諜報手段を張り巡らしてるでしょ。
行軍などを偵察していればさらに正確になる。

信長にしても、柵を連ねまくって鉄壁の「守り」の体制の割にゃ決戦だ〜と書状を書いてる。予知能力者かw
個人的には、敵を前にしたら取りあえず威勢のいい事を言うんだろう程度だが。
342人間七七四年:2009/01/15(木) 00:05:21 ID:a8fXjCyI
>>337
無理を承知で決戦を挑んでも、負ければ再起不能では・・・・?
というのは、その手の意見に対して必ず言われる事ですね。
343330:2009/01/15(木) 00:07:52 ID:2l5RuG/Y
>>342

その通りだと思うよ。

でも武田側からすれば、ここで決戦を挑まなければ、
逆転不可能な状況に追い込まれるのだから、
イチカバチカの決戦を挑んだと思う。
344人間七七四年:2009/01/15(木) 00:08:12 ID:rxyKs/WU
>>334
三分の二が川で遮られている上に、それほど大きい城ではないから
全軍を使えるわけではない
実際に攻撃主力になったのは馬場・小幡・内藤のみ
345人間七七四年:2009/01/15(木) 00:15:28 ID:o9ZJHB1r
>>343
ちょっとでも冷静な奴なら、信長を相手に兵力劣勢で戦いを挑むよりも、
信長のいないときに徳川領なりを侵食して勢力を伸ばし、地盤を固める事を優先するか、
あるいは島津のように、劣勢なりに相手を倒すための戦術を駆使するでしょう。
どちらもしてないって事は、相当の(お察しください)か(お察しください)って事に
なりかねませんが・・・・
なにせ、攻め込まれてやむをえず迎え撃ったというわけでもないので。

ましてや信長は、長篠城から遠い場所に堅固な陣地を築いていて、
どうやら戦う事に乗り気ではない。できれば武田軍帰ってくれないかな〜という構え。
346人間七七四年:2009/01/15(木) 00:17:47 ID:o9ZJHB1r
>>344
砲兵もいないので、攻め口の限られる城に対しては、使える兵力が限られてくるよね。
二股城や野田城にしても、2万5千の武田軍相手に結構もったからね。
347330:2009/01/15(木) 00:19:25 ID:2l5RuG/Y
>>345
>信長のいないときに徳川領なりを侵食して勢力を伸ばし

足助城や高天神城を落とすなり、そこらへんは活発にやっていましたが。。。
まぁ、信長の勢力拡大に比べれば、焼け石に水でしたが。

>地盤を固める事を優先するか

そんな事をしていたら信長との国力差はひらく一方。

>劣勢なりに相手を倒すための戦術を駆使するでしょう

具体的には?

348330:2009/01/15(木) 00:22:29 ID:2l5RuG/Y
>>346

当時の城攻めは、例えば3直交代で
24時間攻め続けるというは、あったのでしょうか?

長篠城跡など他、いくつか城跡を見た事があるのですが
3直交代で攻め続けられたら、あっという間に
落ちそうな気がするのですが。。。
349人間七七四年:2009/01/15(木) 00:28:28 ID:o9ZJHB1r
>>347
5月6日に吉田城を囲みに行くとか、勝頼は家康に対しては
明確に決戦志向を見せていますよ。家康が乗りませんでしたが。

ただ信長に対しては、例えば本当に最初から決戦する気があったら、
長篠の近辺である必要はなくて、自分たちに有利な場所を先に占めるのが
当然だと思います。特に兵力が劣ってますからね。

島津なんかは、劣勢だったいくつもの戦で、典型的にやってますよ。
先に相手を完全に封じ込められる場所を抑えておいて、一軍を囮にしてそこに誘い込むとかね。

どうにも、信長がそこに布陣したから目の前に布陣するとか、あまりにも場当たり的。
むしろ最初から信長を目的にして、そのための戦術を練っていて欲しかったですね。
350人間七七四年:2009/01/15(木) 00:39:36 ID:o9ZJHB1r
>>348
四直三交代みたいな管理手法があったかは分かりませんが、
暗くなってからは相手の城に乗り込めても同士討ちをする恐れもあり、
あまりやらないんじゃないですかね?

高遠城とか北条の山中城とか、空堀と土塁の城の場合、攻め手が損害を
顧みずに次々に堀に飛び込んで土塁をよじ登って攻め入るような攻め方をすると、
守る方が手が足りなくなって早く落ちる事はあります。(どちらの城も一日)
351人間七七四年:2009/01/15(木) 09:14:27 ID:rxyKs/WU
>>350
一応、夜襲は行われています
ただし、夜間は周りが見えないので技量・戦意が比較的低く
その為に隊列を組む必要がある足軽隊は投入されず、
散兵で活動できる侍衆よる切り込みが主に行われていました
(それでも混乱は必至ですが)

鉄砲も篝火だけではまともに狙いをつけれませんから、弾薬の
無駄遣いにしかなりません
大坂役の様にドカドカ音をたてて相手の消耗を狙うという策も
ありますが、そういう大判振る舞いが当時の武田家にできたかは
疑問ですな
352人間七七四年:2009/01/15(木) 13:38:28 ID:uDwgQNq8
火力に関してはむしろ篭城側のほうが上回っていたでしょ。
353330:2009/01/15(木) 18:43:37 ID:368KMcKz
>>349

もし長篠の戦で信長が戦術的に不利になったら撤退するでしょ。

俺が思う武田側の失点は、信長包囲網を崩壊させたこと。
少なくとも長島一向一揆と連携を取り、信長と決戦をすれば
もう少し有利な立場で決戦が出来たと思うけどね。

>>350>>351

お返事、ありがと。

長篠城のように狭い城で24時間攻められる
→籠城兵は、おちおちと休憩もできず、睡眠もろくに取れない
→集中力低下で陥落

と思ったので、聞いてみました。
354人間七七四年:2009/01/15(木) 22:47:15 ID:iZR6JaCf
>>352
それはないでしょ。鉄砲が200挺とかいうのは後世の文書にしかないし、
後世の文書で良ければ改正三河後風土記などによれば、武田の猛烈な
銃撃で長篠城の土塀は穴だらけのボロボロになったというぐらいだからw

>>353
すいませんが、劣勢の側が戦術的な優位も取らずに決戦を志向するというのは
ただのヴァカと言うんじゃないですかね。
355330:2009/01/15(木) 23:08:17 ID:368KMcKz
>>354

武田側として後詰が来た時点で

1.撤退する
2.寒狭川を前に陣を張って迎え撃つ
3.寒狭川を越えて陣を張る(これが史実)

なわけで(他にもあれば宜しく)。
戦術的には2がベストでしょう(大田牛一もそう評価している)。

ところが1、2を選択すれば信長は撤退する可能性が大。
そうなれば武田軍は次、信長と対峙するときには
今以上に国力差がひらいた状態になる可能性大なわけですよ
(実際、三方原→足助→高天神と決戦を回避するたびに国力差が
 大きくなっている)。

となればイチカバチかの決戦となったと思いますね。

麻雀をやった事がある人なら誰しもが経験があるが
不利とわかっても追っかけリーチをした事があるでしょう。
どんな時かと言えば逆転不可能な状況だったはずです
(例えば南3でトップとの差が2〜3万点で親は回ってこない状況とか)。

武田側としては不利と分かっていても決戦をせざるを得ない状況だったと
思います。
356人間七七四年:2009/01/16(金) 19:20:17 ID:qHt3Jcll
ちょっとsageすぎだぞ。あげ
357人間七七四年:2009/01/16(金) 19:31:42 ID:f62z7iqx
>>355
その理屈でいったらただの玉砕では。
一か八以前に敗北確定だよ。
武田だってあの時は戦力を抑えて出陣してるんだから
決戦するなら総動員の時を狙うにきまってるし。
徳川がもう限界近いのでここで引いたって徳川を着実につぶせるように
した方がいい。
書状にあるとおり勝頼は前哨戦の勝利におごって勝てると踏んで突撃したのでは。
358人間七七四年:2009/01/16(金) 20:35:33 ID:xmrOUIFB
国力差開くって言っても現に合戦になると逃げ回っていたのは織田軍だろ。

この戦いだって要塞化した所に閉じこもっていればよし!という戦いで、
たまたまやたらめったら武田が水死者餓死者を増やしてくれたけれど、
少なくとも前日までそんな大勝できるとは、織田軍の誰一人として想像して
なかった状況じゃん。

たまたま義元打ちとれちゃった桶狭間に続くラッキーだろ。
359人間七七四年:2009/01/16(金) 20:44:44 ID:UPmeO8nl
>>358
酒井が迂回して攻撃しているじゃないですか
織田・徳川が来た時点で、逃げようとしたら追撃で
大損害、攻撃しても大損害
ならば、いくばくか勝てる可能性のある攻勢に出るでしょうな
360人間七七四年:2009/01/16(金) 20:53:19 ID:jcG7mqSU
>>355
>ところが1、2を選択すれば信長は撤退する可能性が大。
>そうなれば武田軍は次、信長と対峙するときには
>今以上に国力差がひらいた状態になる可能性大なわけですよ

次に信長が5万の兵を率いてきても、勝頼がフル動員で2万5千連れていれば
長篠よりも兵力比では有利。
信長が撤退すれば長篠は確実に落とせるわけで、既に足助や作手を落としているから、
奥三河の支配はこれで完全となる。家康の滅亡も近付く。
あるいは、家康が武田側になる目も出てくる。
悪い話は一つもない。

>となればイチカバチかの決戦となったと思いますね。

一か八かという場合、何度も言うように出来るだけの策を巡らすのが当たり前で、
ただ馬鹿みたいに正面から決戦というのは、勝頼が意図しなかった形であったか、
やはり勝頼が救いようのない(お察し下さい)だったかという事になる。
後者であれば仮に長篠で武田が勝っていても、遠からず滅亡だw

>>357
19日に長坂釣閑宛に、「指したる儀もなく、対陣に及び候」と書いてますが・・・・?
大敗した後でさえ書状にとんでもない強がりを書く勝頼だけに、書状で何と言ってようと
あまり真面目に受け取るものでもないけれど。
361人間七七四年:2009/01/16(金) 21:19:37 ID:f62z7iqx
>>359
酒井隊が戦闘開始したのと主力決戦はほぼ同時なんだけど。
>>360
あれ?
敵は陣地内に引きこもってて撃滅は目前だ〜みたいな事書いてた書状があった
はずでは。
362人間七七四年:2009/01/16(金) 21:28:39 ID:jcG7mqSU
>>361
信長公記だと朝からずっと武田軍が攻撃していたかのように
書いてあるが、大須賀記では11時頃から3時間だけ。
こちらでは鳶ノ巣山攻撃が先になる。

あと長坂宛書状では続けて敵は一層逼迫しとか書いてるけど、
武田家では前哨戦なんて触れてないかと。
信長は細川宛書状で「十八日押詰鉄砲放候」と書いてるので
前哨戦の証拠だ!と言う人もいるけど、どうだろうね?
信長も根切りは目前だ!と何とも威勢が良い。
363人間七七四年:2009/01/16(金) 21:29:30 ID:UPmeO8nl
>>361
酒井の迂回と合戦が重なったのは故意か偶然か
武田は酒井の迂回は知らなかっただろうし
364人間七七四年:2009/01/16(金) 21:31:07 ID:Ut7CybSm
長篠の戦いですが、鳶の巣砦の陥落が武田軍にとって最大の誤算だったということはないでしょうか。
あの砦が健在ならば、何かあっても武田軍は殿軍をおいてゆっくり撤退できると考えていた。
ところが、織田・徳川軍の奇襲により陥落してしまった。
あの砦があっさり陥落するということは、1万以上の軍勢が後方に回ったに違いない。
従って、このままでは安全に撤退することはできない。だが、裏返せば、前面には3万以下、自軍の倍以下の軍勢しかいない。
ということは、前面の軍勢を強襲し、各個撃破できる絶好機ではないか、と武田軍は考えたのではないか、と私は考えます。
あの頃は、偵察能力が欠如しており、現在の敵の軍勢の正確な人数を現場で把握するというのは困難でした。
何しろ、空は飛べませんし、日本の騎兵の能力不足は言わずもがな。
ところが、後方に回った織田・徳川軍は少数で、前面には倍以上の連合軍が待ち構えており、武田軍は撃破されたと考えます。
365人間七七四年:2009/01/16(金) 21:33:38 ID:jcG7mqSU
>>359
信長が布陣した場所は2km以上も離れてるので、ただ撤退するならそう簡単に追撃なんて受けないでしょ。
迂回攻撃にしても、太田牛一は鳶ノ巣山に陣取られたら手も足も出なかったと書いてるわけで・・・・
もっとも、これは結果を知ってるから書けた話だろうけどw
勝頼が正面に出て来なかったら、そもそも別動隊なんて事はしないわな。
366人間七七四年:2009/01/16(金) 21:36:12 ID:jcG7mqSU
>>364
むしろ偵察ほど重要な事は無いでしょw

だいたい、陣城に籠る敵が「半分以下」だったら勝てると思うかもしれないが、
「2倍以下」だから各個撃破できるってそもそもオカシイでしょ。
367人間七七四年:2009/01/16(金) 21:47:14 ID:UPmeO8nl
>>365
朝倉の前例がありますから
368人間七七四年:2009/01/16(金) 21:57:13 ID:jcG7mqSU
>>367
寒狭川の向こうにいる相手からの追撃を心配する奴が
倍以上の敵に正面から向かうという選択はナイでしょ。
369人間七七四年:2009/01/16(金) 22:00:31 ID:Ut7CybSm
>>366
偵察が重要というのと、実際にできるか、というのは別問題です。
偵察というと現代日本ではなぜか、忍者の仕事というイメージがありますが、実際には騎兵の任務です。
幾ら鍛えても、偵察力、機動力で騎兵に歩兵は勝てません。勝てるのは妄想の世界です。

そして、野戦陣は、所詮、野戦陣です。長篠の戦でも、徳川の陣地は武田軍の突撃で打ち破られています。
後方が砦を楯にした1万以上の軍勢で塞がれている以上、少しでも勝算の立つ前面への突撃に賭けるのは、戦場心理として、そんなにおかしいでしょうか。
それとも、自軍とほぼ同数の可能性がある軍勢が立てこもる後方の砦に強襲をかける方が勝算が高い、というのでしょうか。
370人間七七四年:2009/01/16(金) 22:08:25 ID:UPmeO8nl
>>368
武田がこのまま後退したら、山間部の山道を追撃されるという朝倉と同じ目に遭います
それを避けるには、ある程度の損害を覚悟して攻勢に出る必要があります

>>369
偵察は物見としてしっかりありました
騎馬武者数騎による斥候としての小物見から備単位の威力偵察である大物見まで
しっかり行うのは当たり前です

ただ、山地と緑生に富んだ日本では、その効果は西欧より厳しいでしょうが
371人間七七四年:2009/01/16(金) 22:10:16 ID:jcG7mqSU
>偵察が重要というのと、実際にできるか、というのは別問題です。
>偵察というと現代日本ではなぜか、忍者の仕事というイメージがありますが、実際には騎兵の任務です。
>幾ら鍛えても、偵察力、機動力で騎兵に歩兵は勝てません。勝てるのは妄想の世界です。

で?
騎馬武者を斥候に放つとか、もの凄い普通だと思うんだけど??
日本では日本の在来馬が一番機動力のある乗り物なんだから、貧弱とか関係ないでしょ????

>そして、野戦陣は、所詮、野戦陣です。長篠の戦でも、徳川の陣地は武田軍の突撃で打ち破られています。

江戸初期ぐらいまでで語ろうとするなら、武田軍左翼は家康の陣を突破できていないでしょ。
せいぜい、甲陽軍鑑で右翼の織田軍側において、土屋昌次が柵を2重まで突破したとかあるぐらいで。

>後方が砦を楯にした1万以上の軍勢で塞がれている以上、少しでも勝算の立つ前面への突撃に賭けるのは、戦場心理として、そんなにおかしいでしょうか。
>それとも、自軍とほぼ同数の可能性がある軍勢が立てこもる後方の砦に強襲をかける方が勝算が高い、というのでしょうか。

まず鳶ノ巣山が落ちた時点で後方に一万と決めつける理由が分からないけどね。
そりゃ織田軍まで数百メートルの距離まで前進してしまえば、これに背を向けて後方の敵に向かうというのは選択肢としてはあり得ない。
だがそこで、各個撃破する絶好機だと言い出す>>364のはどうか?と、>>366は言いたかったんだけどね。
最初は絶好機だと言っていたのに、少しでも勝算が、と意見を変えるというのなら、それでもいいけどね。
372人間七七四年:2009/01/16(金) 22:18:49 ID:jcG7mqSU
>>370
織田軍が武田軍を追うとすれば、寒狭川の手前まで進んでから伊那街道沿いに
北上となるだろうけど、武田が寒狭川にかかる橋(大須賀記によれば、滝川橋という橋が
かかっていた)を落として撤退すれば何の問題も無い。
史実のように合戦に負けててんでバラバラの退却戦となってしまったら、橋を落とせば味方も
帰れないのでそのような事も出来ず、損害は増える一方だけどね。

逆に倍する敵に対して受け身のまま戦いを挑んで勝てるか?と言えば、まず勝てない。
決戦を挑むつもりなら、能動的に、先に有利な場所を占めておかねば話にならない。
373人間七七四年:2009/01/16(金) 22:41:27 ID:UPmeO8nl
>>372
個人としては橋を落とせば大丈夫という考えは少し首は捻ります
374人間七七四年:2009/01/17(土) 04:15:23 ID:gv/yDdF0
船橋するにしても架橋するのに手間がかかるから撤退時における戦術効果は高いだろう
375人間七七四年:2009/01/17(土) 09:41:34 ID:w6HecOd1
>>360
>次に信長が5万の兵を率いてきても、勝頼がフル動員で2万5千連れていれば

信長は謙信と同盟を組んでいるから、
謙信を無視した総動員2万5千は厳しいだろ。

>一か八かという場合、何度も言うように出来るだけの策を巡らすのが当たり前で

その策とは??

桶狭間のような一か八かで上手くいった例もあるわけだし。

>>364
>あの砦があっさり陥落するということは、1万以上の軍勢が後方に回ったに違いない。

4千ほどだよ。
尾根沿いに1万人も動くのは無理。
376人間七七四年:2009/01/17(土) 09:56:13 ID:Am2A/5eF
>>374
その時間稼ぎでどの位逃げれるか
1万5000なら相当、動きも鈍かろう
377人間七七四年:2009/01/17(土) 10:40:49 ID:w6HecOd1
武田側の視点からすると決戦を挑んだ理由が謎なんですよね。
その理由を大きく分けると

1.戦術的にも不利だったけど武田側がアホだから挑んだ
2.勝てる根拠があった
3.勝てる可能性は低いが決戦を挑まなければならない状況だった

になるでしょうか。
378人間七七四年:2009/01/17(土) 10:51:07 ID:w6HecOd1
>>376

実際の寒狭川を見ると、あの川に橋が無ければ
かなり時間を稼げると思うが。。。

379人間七七四年:2009/01/17(土) 11:08:21 ID:Am2A/5eF
>>378
攻城時も川の向こうに穴山、原、武田信廉がいるから
彼らが渡河してからでないと橋は落とせないので、その辺
間に合うのかなと
380人間七七四年:2009/01/17(土) 13:39:09 ID:gi+tsDYy
>>374
寒狭川は結構な谷だから船橋は無理でしょ。
簡単に渡れる川なら長篠城の防御の役に立たないもの。

>>375
桶狭間でさえ、今川軍が各方面に出張って分断している中の一つを
叩いている。相手を5分の1とかそういうレベルに削ってるんだよね。

>>376
織田徳川の3万8000が同じ道を通ったら、もっと流れは悪かろうw
一つ重要なのは、合戦に負けての撤退戦なら隊列も何もなく、円滑な後退は
出来ないが、最初から退却なら、粛々と退ける。

>>379
攻城時の布陣など後世の想像ばかりだが、どちらにしろ本隊は川の東にいる。
大した手間になるはずもない。

2km以上も離れた所に織田軍が現れただけで、しかもそれより以前から動向には
注意を払っていたはずなのに、もはや退却も出来ないなんてバカな話はない。
それなら意味もない大決戦が日本中あちこちで起こる事になる。
381人間七七四年:2009/01/18(日) 00:56:24 ID:hqB1T6+6
>>375
ただ相変わらず謙信は北陸戦線に夢中で
やがて北陸方面から織田に敵対する事になるわけだから
関東や信濃にそこまで執着するかという問題はあるわな。
てか勝頼が高天神攻めで2万5千の兵を動かしてたような。
ほかにも徳川攻めで2万近い兵を動かしてた事が何度かあったはず。
そこまで無理かな?長篠だけなぜか兵が異常に少ない。
だからこそそこで決戦やった事が不可解になる。
382人間七七四年:2009/01/18(日) 01:00:56 ID:BWL9lIi5
>>381
高天神攻めた頃と違い御館の乱が起きてからは北条を牽制する守備が必要になってる
383人間七七四年:2009/01/18(日) 01:01:43 ID:hqB1T6+6
追記
>>375
桶狭間は一か八かって話かな?
信長いわく疲れた敵の先陣こちらの新手でたたく事を狙ってたわけだから
少なくとも長篠ほど無茶な判断ではないわな。
実際は突っ込んだら本陣だったり大雨降ったりしてくれたわけだが。

策としては周辺の勢力と外交関係を再構築して
織田の兵力を抑える包囲網勢力をつくる、それに加えて上杉とも関係を修築し
織田との決戦に全力を出せる状況をつくる。ってなところがセオリーか。
実際長篠の後でこれをやることになるんだからできないわけはないし。
384人間七七四年:2009/01/18(日) 01:03:43 ID:hqB1T6+6
>>382
長篠は1575年。
謙信が死んで御館の乱が起きるのは1578年なんだけど。
時系列から言えば問題なさそうだ。
385人間七七四年:2009/01/18(日) 01:34:45 ID:bwPIouT5
>>381
東美濃攻めの時や高天神攻めの時は、謙信が出陣中ですな。
長篠の時は、春日山に居座り中。
それで北方の兵は守備の為に残したとされてますな。(甲陽軍鑑)

あとは連年の出兵で経済的に厳しく、守備という名目で軍役を緩和したかもしれません。
(関東衆などは、実際に軍役の半減を約束されたりしてます。東海地方は遠いので・・・)
386人間七七四年:2009/01/18(日) 01:40:50 ID:hqB1T6+6
>>385
ふむ。だが実際問題として長篠後も勝頼は2万近い兵を動かして
徳川の相手して、途中から北条の相手までして戦い続ける事になる。
結局最終的には経済疲弊するけど、長篠の時に経済疲弊してたというのは
どうも信じがたいんだよなあ。
387人間七七四年:2009/01/18(日) 01:57:09 ID:IIVbzOSB
飢饉でもあったのかもな
388人間七七四年:2009/01/18(日) 03:14:32 ID:SMXXHfd2
勝頼の代になって三河、遠江、美濃に領土を広げたせいで
防衛線が拡大しすぎたんじゃないのかな?
さらに上杉に備えて北信濃にも兵を裂かなきゃいけないし
そのせいで動かせる兵力が少なかったとか

で、兵力差考えると当初武田軍は長篠城は落として
そこで戦う予定だったが落とせず決戦せざるえなくなった、とか。
389人間七七四年:2009/01/18(日) 03:18:29 ID:qhLSlckF
長篠城は発掘してみると結構な規模だが、長篠後も奥三河の拠点として拡張してるはずで、
合戦当時はどんな規模だったかね。
500人で守れる規模だったんなら、まださほど大きくなかったんじゃないかな。
390人間七七四年:2009/01/18(日) 03:19:06 ID:IIVbzOSB
>>388
そういえば勝頼の当事の記録に、領内の農民が軍役に、自分の村からきちんとした人を出さず、
その辺の乞食に金を与えて代理として提出するので、武田軍の軍夫は役立たずばかりで大変見苦しく
他の家のものから馬鹿にされている。これは信玄の時代にはなかったことだ。

なんてものがあったな。
391人間七七四年:2009/01/18(日) 03:22:49 ID:IIVbzOSB
>>389
長篠後は拠点としては機能してないよ>長篠城
392人間七七四年:2009/01/18(日) 10:39:15 ID:UJfn/xf/
長篠の戦以降の武田軍には
「農民が混ざっている」「出家者を連れ戻している」
と言ったことが信長公記、三河物語に書かれている。

武田軍は長篠の戦で崩壊したんだろうね。

>>383
>桶狭間は一か八かって話かな?
信長いわく疲れた敵の先陣こちらの新手でたたく事を狙ってたわけだから

ん〜でも実際は「疲れた敵」ではなく、これは信長の勘違いだったわけで。
一歩間違えれば、信長以下、全滅だったでしょ。

>策としては周辺の勢力と外交関係を再構築して
織田の兵力を抑える包囲網勢力をつくる、それに加えて上杉とも関係を修築し
織田との決戦に全力を出せる状況をつくる。ってなところがセオリーか

その通りだと思うけど。ただ浅井、朝倉、長島一向一揆は絶滅。
残るは石山本願寺のみ。

長篠の戦の時、信長の敵対勢力は石山本願寺と武田のみ。
武田側は焦りがあったと思うね。

>実際長篠の後でこれをやることになるんだからできないわけはないし。

それは今にしてみれば、そう思えるが。

393人間七七四年:2009/01/18(日) 12:45:34 ID:4jTgzKi2
>>381>>386
まずその2万の兵という記録が正しいのかどうかという疑問が
394人間七七四年:2009/01/18(日) 13:02:19 ID:hqB1T6+6
>>392
その記述は長篠直後ね。
でもその後で北条との戦いとか徳川との戦いとかで普通に戦力を維持して
戦ってるから建て直しはされてると思うが。

ここでの問題は判断でしょ?
信長は疲れた敵をたたくという順当な判断で戦いを進めていたわけで
一か八かの勝負を狙ってたわけじゃない。
敵が陣地にこもってて倍以上の相手をするという勝頼の判断とは別物。

毛利上杉北条本願寺その他を使って外交状況を整理して戦うのはおかしくないし、
信玄の戦い方は常に外交を重視したものだったはず。
勝頼が短兵急にせめてしまったのが無謀と思えてしまう。
>>393
少なくともその活動から言っても戦いぶりからみても
ある程度の大軍であることは疑うもんじゃないと思うが。
395人間七七四年:2009/01/18(日) 13:37:11 ID:UJfn/xf/
>>394
>でもその後で北条との戦いとか徳川との戦いとかで普通に戦力を維持して
戦ってるから建て直しはされてると思うが。

でも高天神のときは何もできず見殺し状態。
長篠の戦以降で、武田勝頼が長篠の戦のように総動員して
戦争して勝ったことってある?

>信長は疲れた敵をたたくという順当な判断で戦いを進めていたわけで
一か八かの勝負を狙ってたわけじゃない。

ただ順当といっても判断を間違ったわけだし。

ここで何もしなければ窮地に追い込まれる。
それならば一か八かの決戦

というのはあり得る状況だったと思うけどね。
それはある意味、順当な判断でしょ
(というかそういう立場に追い込まれているのは
 戦略的な失敗なわけだが)

>毛利上杉北条本願寺その他を使って外交状況を整理して戦うのはおかしくないし、
信玄の戦い方は常に外交を重視したものだったはず。

外交重視は同意だが、もう時すでに遅しでしょ。
毛利や上杉は信長と対立していないし、上杉は同盟だ。

個人的には長島一向一揆と連携を取れなかったのが
致命的な失敗だと思うね。
396人間七七四年:2009/01/18(日) 13:44:02 ID:UJfn/xf/
長篠の戦で武田側がアホで突っ込んで敗北をしたとは思えないんですよ。
仮に勝頼がアホでも、武田軍は、甲陽軍艦にあるように勝頼の独断で決戦を
挑める体制ではなかったし。

山県、馬場ら重臣達が集団催眠のようにボケたとも思えないし。

となると、やはり少々苦しくても決戦を挑まなければならない
状況だったから、決戦を挑んだと思うんですね。

戦術的には左翼:山県、右翼:馬場のいずれかが柵を突破して
信長本陣を突く事に掛けたと思うが。
397人間七七四年:2009/01/18(日) 13:51:12 ID:hqB1T6+6
>>395
北条戦線じゃ勝ちまくってるぞ。
てか長篠直後でさえ家康は勝頼が来たら逃げてるくらいなんだが。
高天神も何度も攻防戦があって、最終的に北条との戦いで東海道に力を
注げなかった事で高天神が陥落することになる。

だから信長自身は一か八かなんか望んでなかったんだって。
間違ったかどうかは別物でしょ。
長篠では戦力も不十分なのになんで一回引く程度のことをしないで
決戦しか選択がないという判断なのか不思議。

長篠後で上杉・北条を絡めた三国同盟や毛利参戦からの新たな外交状況構築を
やって一年後には上杉も毛利も織田に敵対するんだから
時すでに遅しというわけじゃないと思うが。
398人間七七四年:2009/01/18(日) 13:57:47 ID:hqB1T6+6
>>396
最近の研究では勝頼の権力は弱いものではなかったということだが。
百万石大名の正式な当主なんだから当然だけど。
陣代説には同時代資料の裏づけはないどころか勝頼が当主就任をあちこちに通達したり
祝われたりしてる。

勝頼の書状を見ると戦う前からかなり決戦に乗り気だったみたいなんだが。
399人間七七四年:2009/01/18(日) 14:55:22 ID:EaNQfKe/
>>392
長篠で武士階級がダメージを追い、出家した次男三男などが還俗して
跡を継ぐという事があったと甲陽軍鑑にもある。
だがそれが大多数なわけもなく。
家康は勝頼が出てくれば逃げまくっているし、北条も勝頼には
東上野や下野でかなりやられてる。

勝頼の問題点は戦略が不明確という一点に尽きるのではないかね。
400人間七七四年:2009/01/18(日) 15:34:02 ID:Kw2eZUDT
横山光輝の漫画勝頼だと
佐久間信盛が織田を裏切ると言ってきたから
決戦に踏み切ったって感じだったな
401人間七七四年:2009/01/18(日) 16:51:59 ID:RKM7jvJF
創作です。
402人間七七四年:2009/01/18(日) 17:16:57 ID:n/U6mUlv
>>397
>高天神も何度も攻防戦があって、最終的に北条との戦いで東海道に力を
注げなかった事で高天神が陥落することになる。

長篠の戦では対上杉への抑えを置きつつ
信長、徳川に対応する事が出来たが、
高天神では北条と徳川の両面に対応できないほど
疲弊していたわけだが。。。

信長公記にも高天神を見殺しにして勝頼は信頼を失った
とあるわけだし。

で、北条戦線で勝てたのは勝頼自ら出兵していたっけ?
あれは佐竹との同盟が効いたと思っているが。
遅まきながら外交戦略が上手くいったわけだが。

>長篠後で上杉・北条を絡めた三国同盟や毛利参戦からの新たな外交状況構築を
やって一年後には上杉も毛利も織田に敵対するんだから

それりゃぁ、長篠の戦の時点で、数年後にも第二次信長包囲網ができる
なんて事を知っていたら決戦を挑まないよ(w

くどいようだが、長篠の戦時点では上杉も毛利も信長と敵対していない。
当時、武田側からすれば、最悪のケースとして上杉と信長が同時に
信濃攻め入られる事もあったわけだよね。

>>398
>勝頼の書状を見ると戦う前からかなり決戦に乗り気だったみたいなんだが

長篠の戦より数日前に後方の婦人?だかに宛てた手紙には
「何事も順調にいっているから心配ない」
と書いているが、一方で
「今回の戦いを危ぶむものが居る」とも書いている。

決戦回避派がいたこと示唆しているよね。
403人間七七四年:2009/01/18(日) 19:28:34 ID:FcSZqs0n
そもそももとから決戦する気なぞないだろ。書状で威勢がいいのは当たり前。
本当に決戦する気だったら、信長より先に地理的に有利な場所を占めて
迎え撃つぐらいしなきゃ、兵力半分で戦えるはずがない。
ギリギリまで長篠城を攻めていて信長の動きには受け身に回ったという時点で、
本心は長篠城を落とせれば信長は撤退するんじゃないかという期待だろ。
だとすれば、信長の面前に出て行ったのも、決戦が目的じゃなくて信長がそれ以上
前進しないように睨み合いながら、後方の兵で長篠城を落とすのが目的って事だろ。
あるいは本当のヴァカだったかだな。
404人間七七四年:2009/01/18(日) 19:55:27 ID:6nukiAfB
>>399
でも長篠以降、家康に二俣城など城を落とされまくっている
勝頼も出陣はするが、奪還はできていない
405人間七七四年:2009/01/18(日) 20:39:01 ID:PR2GOT3n
>>393
甲陽軍鑑だと武田の兵力は上洛時は別として、
それ以後は上杉対策などのため上野北信濃の動員は控えたとして基本的に1万5千〜1万6千
最後の滅亡直前の防衛戦の時だけ2万
三河物語も武田の兵力が記載されている箇所は勝頼時代は基本的に1万5千〜1万6千

武田の外征兵力で長篠の時の兵力だけが少ないとしているのは信長公記ぐらいで
他の史料では出兵する兵力そのものは基本的にあまり変化していない

>>394>>399
長篠以後は無理やり動員しただけの兵力だったんじゃ
あと北条相手にはともかく徳川相手には長篠以降はそうでもない
1575年76年は徳川が警戒していたのか徳川の方が武田が出陣すると
砦に篭ったり引き上げたりと武田から逃げていたが
1577年8月の武田徳川の戦いで引き分けたか徳川が勝って以降は
武田の方が逆に出兵こそするものの徳川が出陣してくると兵を引くようになる
本当に2万だったとしたら半数以下であろう徳川との戦いを武田が避けていることから
内実は>>392の言うように寒いものだったんじゃ

北条相手に優勢に戦えたのは謎だ
兵力的にはどう考えても北条の方が上なはずだし
私見だが長篠の戦いでは上野衆はある程度動員免れているから
武田家の中では比較的に往時の戦闘力を残していたため
上野方面では優勢に戦えたとか

>>395
長島とは長島滅亡直前に連絡取り合ってはいるんだけど
高天神攻めの直後でもあって結局武田は効果的な動きをとる事が出来なかった

>>398
勝頼の権力が信長並みでもない限り独断で決戦を挑むことは無理だと思う
406人間七七四年:2009/01/18(日) 20:55:20 ID:4116OrUE
>>405
「北条相手に優勢に戦えたのは謎だ
兵力的にはどう考えても北条の方が上なはずだし」

北条相手に優勢に戦ったのは、沼田城あたりだろ。
真田ナントカがほとんど単独で攻め取っている。

というか、上田城の真田氏の領土と隣接しているけどな。
北条にとっては、北条の領土のまさに先端で、兵力が行き届かなかったのだろう。
407人間七七四年:2009/01/18(日) 20:58:15 ID:n/U6mUlv
>>403
>そもそももとから決戦する気なぞないだろ。書状で威勢がいいのは当たり前。
本当に決戦する気だったら、信長より先に地理的に有利な場所を占めて

長篠の戦は、城が取り囲まれたから、援軍が到着して攻城軍と戦うという
典型的な後詰戦。ところがセオリーとは違う事が起きたのが大きな特徴。

セオリーだと後詰軍が攻城軍に攻めかかるんですよ
(後詰の意味を考えれば当たり前だ)。

ところが長篠の戦では攻城軍が後詰に攻めかかるという
逆転現象が起きたのです。しかも少数の攻城軍が多数の後詰軍に攻めかかる
というオマケつき。

じゃぁー何でこんな事が起きたのか?
ってことがこの長篠の戦の謎だと思うのです。
408407の続き:2009/01/18(日) 21:07:50 ID:n/U6mUlv
後詰戦のセオリーとは違う逆転現象に対して
「ヴァカだから」で片付けるのは短絡的すぎると思うのです。

武田側は内藤、馬場、山県らの歴戦の武将がいるわけですから。

ただ一方で武田軍は砥石崩れ以降、負け知らず。
特に武田勝頼は負け戦を経験していない。

「武田側(特に勝頼)は慢心があった、自信過剰であった」
と言う俗説は、一理あると思います。

しかしやはり「ヴァカだから」というの短絡的だと思います。

勝頼が後方に当てた手紙にも「今回の戦いには危ぶむものもいるが」
とあるから、やはり撤退派が居たわけです。

しかしそれらを振り切ってでも決戦をしたのだから
そこには何か明確な根拠があったと思います。
409人間七七四年:2009/01/18(日) 21:17:33 ID:4116OrUE
コンビニの本によると、

織田の迂回攻撃の軍勢が出発するのを(←かなりの大軍で、しかも精鋭が)
武田軍が察知していて、

というか、夜間の2kmぐらいだと、ガヤガヤとかなり聞こえるそうですが…
(川中島の検証にて。)

そこで、そのスキを突いて、織田軍に攻め懸かったが、意外にもまだかなりの
大軍が残っていた、というのが真相かと推測していたな。
410408の続き:2009/01/18(日) 21:22:14 ID:n/U6mUlv
後詰のセオリーからすれば武田軍は織田・徳川連合軍を迎え撃つ準備を
する必要があるわけです。当然、>>403の言う通り地理的有利な所に
軍を配置するわけで、当初、武田軍はその通りの行動を取っていた。

後詰の連合軍は5月18日に設楽原に到着して布陣した。
その時、武田軍は寒狭川という大河を手前に連語軍と対峙。
非常に地理的に有利な場所に布陣していたわけです。

武田軍は、ここで連合軍を迎え撃つ準備をしていたと思います。
ところが連語軍は攻めてこないで柵と空堀を作る。

あれおかしいな?何で攻めてこないんだ?
相手は手だてを失って困っているんだろう。
浅井、朝倉、長島一向一揆も滅んで、残るは本願寺のみ。
決戦をするなら今しかない。

という経緯になって寒狭川を渡ったと思います。

よし寒狭川
411人間七七四年:2009/01/18(日) 21:22:24 ID:IIVbzOSB
>>409
迂回部隊がガチャガチャ音立てながら移動って、いくらなんでも織田軍を馬鹿にしすぎだろw
412人間七七四年:2009/01/18(日) 22:05:06 ID:UbKA1NQG
>>409
要するに勝頼には、織田が川中島の信玄をやっているように見え、
だからと己は謙信をやるつもりだったってことか。

検証置いといて一番納得いったわw
413人間七七四年:2009/01/18(日) 22:12:33 ID:PR2GOT3n
>>406
まあ確かに辺境だな
それに北条領とも上杉領ともいえるような地域でもあるし

>>407
>ところが長篠の戦では攻城軍が後詰に攻めかかるという
>逆転現象が起きたのです。しかも少数の攻城軍が多数の後詰軍に攻めかかる
>というオマケつき。
小田井原の戦いとかそれに近いんじゃ、勝敗は逆だけど

>>410
細かく見ると寒狭川挟んで対陣しているのは、羽柴滝川徳川などの部隊のみで
織田の本隊はそこから更に10キロ近く後方だし
尚更攻撃したくなるなと思う
414人間七七四年:2009/01/18(日) 22:18:04 ID:IIVbzOSB
>>413
信長の武田征伐の時点だと、上野は相当広い地域が武田北条の両属になってたはず。
415人間七七四年:2009/01/18(日) 23:09:31 ID:nFxccJYt
>>410
×寒狭川を前に当てて待ち構えていた
○長篠城を攻めてた時の布陣のままだった

だから織田軍の動きに対応して動く必要があった。
この時点では長篠城の北側と東側に主力がいて、
本陣は長篠城の北東の医王寺、あと一部部隊が鳶ノ巣山。

ここで例えば信長公記は、本陣を鳶ノ巣山に置かれていたら手が
出せなかったと言うが、勝頼は結局は信長の面前に出て行く事になる。
全てが後手。
もし決戦志向であったとするならば、全てが後手というのは最悪のパターンです。

ま、鳶ノ巣山に本陣を置いても、逆にお互いに手を出せないので
長篠城は武田が取れるだろうが、決戦には成り得ない。

もし決戦志向であったとするならば、全く違った選択肢が必要。
416人間七七四年:2009/01/19(月) 03:45:10 ID:sAKMogjO
>>402
もともと上杉は北陸重視だしね。
てか北条は武田と対等以上の相手なんだからそれとがっぷり組み合いながら
徳川相手にするのは厳しいんだが。

だから高天神が攻略されるのがいつだと思ってるのか。
勝頼滅亡の一年前だよ。
それまで勝頼は北条の相手しながらも徳川領土にも踏み込んで
徳川は何度も逃げてる。
何年も多方面作戦やった結果の疲弊なんだよ。

打診はされてたはずだが。
実際問題として長篠の後で勝頼は謙信と北条を含めた三国同盟に動いてるんだから。
くどいようだが戦後にできたことができないわけもない。

そうだね。回避派はいたろうね。でも勝頼はノリノリだったと。
417人間七七四年:2009/01/19(月) 03:47:23 ID:sAKMogjO
>>402
追記。勝頼は北条攻めにちゃんと出陣してる。
膳城素肌攻めとか有名でしょ。

>>404
でも徳川は勝頼が着たら何度も逃げてる。
418人間七七四年:2009/01/19(月) 03:54:17 ID:T2qqmSdH
>>417
> でも徳川は勝頼が着たら何度も逃げてる。

そりゃ、必要性も無いのに勝ち負けが定かでない戦に運命かけるほど、家康はバカじゃないからな。
逃げたほうが良い戦は逃げるさ。
419人間七七四年:2009/01/19(月) 03:55:28 ID:sAKMogjO
>>405
高天神攻めも2万5千だったような。

1577年以降は北条との戦いが本格化するんだから
武田も徳川にかかずらわるわけにはいかなかったんでしょ。
実際それが原因で高天神を救えなかったんだし。
それでも1579年の黄瀬川とかでは勝頼が来たら家康は一目散に逃げている。

普通に考えて北条を主戦線にしてるだけだと思うが。
420人間七七四年:2009/01/19(月) 03:56:32 ID:sAKMogjO
>>418
それは勝頼は家康にとってそれだけの脅威であったことを示してるわけだが。
421人間七七四年:2009/01/19(月) 04:02:09 ID:sAKMogjO
>>410
>>あれおかしいな?何で攻めてこないんだ?
>>相手は手だてを失って困っているんだろう。
>>浅井、朝倉、長島一向一揆も滅んで、残るは本願寺のみ。
>>決戦をするなら今しかない。

前半部と後半部が全然違うような。論調が180度違うというか。
>>415
逆だろ。
信長公記もいうように鳶の巣でキープしてれば長篠が取れて織田徳川も撤退せざるを
得ないのに、わざわざ出てったところからして決戦志向と見たほうがいいのでは。
422人間七七四年:2009/01/19(月) 04:07:22 ID:sAKMogjO
>>406
そうでもない。膳城素肌攻めをはじめとして北条戦線に
勝頼が出陣してることも何回もある。
伊豆沖の海戦も2回あって武田方が勝利してる。
423人間七七四年:2009/01/19(月) 04:21:01 ID:T2qqmSdH
>>420
脅威なのは当然だろ。長篠のあとでも、石高も動員兵力も勝頼の方が大きいんだし。
しかし家康には信長の後ろ盾があって、無理な決戦に持ち込まなくてもいいだけの「余裕」が
現実に存在した。だからこそ、織田の支援の無い状況では決戦を避けた。

普通に、ごく合理的な判断だろ?
424人間七七四年:2009/01/19(月) 04:28:39 ID:sAKMogjO
>>423
余裕というか決戦できないのと
北条方面に武田が主力向けてるだけだと思うが。
あと長篠以前でも逃げてるんだが。
425人間七七四年:2009/01/19(月) 04:31:05 ID:T2qqmSdH
>>424
そりゃそうだ。三方ヶ原のあと家康は領国の再建にかかりっぱなしだったんだから。
織田の支援の無い状況で決戦するほうが頭がおかしい。
426人間七七四年:2009/01/19(月) 04:38:09 ID:sAKMogjO
>>425
話がよく見えんな。結局家康は長篠以前でも以後でも
勝頼来たら逃げてるって事は了承済みなんだよね?
とりあえず勝頼が家康にとってそれだけの脅威とわかってるなら
レス付け合う必要なさそうだが。
427人間七七四年:2009/01/19(月) 04:41:47 ID:T2qqmSdH
>>426
脅威であっても家康が飲み込まれるような、信玄時代の武田のような脅威ではない。
家康の側では最終的な勝利を確信した上で、その体制が作られるまでの決戦を避けている。

コッチはそういう認識。
428人間七七四年:2009/01/19(月) 04:46:20 ID:sAKMogjO
>>427
ふーん。
まあこっちの認識は勝頼は家康にとっては脅威であり、
家康は北条が武田を引っ張ってる事や織田の後ろ盾がある事から
勝利への見通しはあるが、単独では勝頼に勝てないので
勝頼本隊が来たら避けている。という認識。

まあなんか大きな差異はなさそうだが平行線になりそうな感じだな
429人間七七四年:2009/01/19(月) 04:48:07 ID:sAKMogjO
まあ勝頼は家康にとって信玄時代ほどの脅威じゃないというのも同意。
430人間七七四年:2009/01/19(月) 09:46:37 ID:CIjEvz/I
ID:PR2GOT3nとID:sAKMogjOの意見が真逆だがどっちが正しいんだ?
黄瀬川とかで家康が兵を引いているのは事実だし、かといって北条と戦いが本格化するのは1579年以降だから、
細かいとこまで考えれば両方とも間違い含んでいるけど。
431人間七七四年:2009/01/19(月) 10:27:15 ID:uxOj8ndh
天正三年八月二十四日に東海道の大井川渡河点にある諏訪原城を家康は落とし、
以後高天神城への補給は勝頼が軍勢を率いて補給しなければならなくなった

諏訪原城攻略後、同じく小山城を包囲した家康に対し、勝頼は二万を動員して
救援に向かい、家康は包囲を解き諏訪原城に後退

天正四年三月上旬に勝頼は兵糧入れに出陣、この時は成功
天正五年八月二十五日に二万を動員した勝頼は、同じく高天神城への兵糧入れを
行おうとするも、家康勢に丸山で撃退され、失敗
天正六年十一月上旬にも同じく、補給を行おうとするも進出した家康に阻まれて、
戦わずに後退
以後、勝頼は高天神に兵を出すことはなくなる

これ以外にも、家康は遠江北部の各城を落とし、更には駿河へも焼き打ちを行っている
天正五年八月二十五日を境として、家康と勝頼の立場は決定的に逆転したと言える
432人間七七四年:2009/01/19(月) 11:32:45 ID:uxOj8ndh
>>431
追記
因みにこの時の徳川勢は概ね八千
433人間七七四年:2009/01/19(月) 13:36:11 ID:uxOj8ndh
>>431
訂正
勝頼は天正七年四月二十五日にも高天神に兵を出すが、
これも特に何も無く撤退
家康は逆に田中城まで攻撃を仕掛けている

また、黄瀬川で北条と対陣していた勝頼は、家康が持船城を
落としたとの報を聞き反転、家康も田中城(未落)よりも東の
持船城は維持するのは困難と判断したのか、直ぐに後退している
434430:2009/01/19(月) 16:46:35 ID:CIjEvz/I
詳しい説明ありがとうございます。
435人間七七四年:2009/01/19(月) 19:17:09 ID:3Dr6WHAG
長篠以降も勝頼が遠江に出陣した時
織田が徳川に援軍送ろうとしてなかったっけ?水野勢達。
武田勝頼の全てだったか東国の戦国合戦だったかに記述あったような…
記憶違いだったらすまん。
436人間七七四年:2009/01/19(月) 20:41:18 ID:3Yg2wBWa
天正3年八月二十四日 東海道の大井川渡河点にある諏訪原城を家康は落とし、以後補給困難。
天正4年三月上旬   勝頼は兵糧入れに出陣、この時は成功。
天正5年八月二十五日 兵糧入れを行おうとするも、家康勢に丸山で撃退され失敗。
以下補給なし
天正6年十一月上旬  補給を行おうとするも進出した家康に阻まれて戦わずに後退。
天正7年
天正8年
天正9年(1581年)3月 落城

補給なしで4年も粘ったのか。
437人間七七四年:2009/01/19(月) 20:47:11 ID:XqRemepl
>>416
>だから高天神が攻略されるのがいつだと思ってるのか。
勝頼滅亡の一年前だよ。

他でレスがついているが高天神以外にも諏訪原城他、支城が落とされている。
特に諏訪原城は高天神城を攻め落とすために築城したのに、
それを落とされたら終わりだろ。

長篠の戦以降は、勝頼は家康に対して明らかに守勢になっている。

また長篠の戦以降の家康の武田にたいする認識は>>427に同意だね。

仮に家康と勝頼の主力決戦で、家康が勝てても、
相当な損害が出ると予想したから、家康は勝頼と決戦を避けたと思う。
438人間七七四年:2009/01/19(月) 21:03:13 ID:uxOj8ndh
>>436
大規模な輸送ではなく、ネズミ輸送なら可能
それをも完全に遮断したのが天正八年に築かれた付城群
この翌年上旬に落城
439人間七七四年:2009/01/19(月) 21:16:09 ID:3Yg2wBWa
付城(つけじろ)というと、桶狭間の鷲津・丸根が超有名ですな。
440人間七七四年:2009/01/19(月) 21:19:32 ID:XqRemepl
>>416
>実際問題として長篠の後で勝頼は謙信と北条を含めた三国同盟に動いてるんだから。
くどいようだが戦後にできたことができないわけもない。

それりゃぁ大敗した勝頼は立場的に謙信よりも格下になったのだから。
441人間七七四年:2009/01/19(月) 21:44:45 ID:3Dr6WHAG
長篠直後は相当なダメージ受けてたけど一応信濃上野方面に押さえの残兵が多くいたし
その後しばらくしてある程度回復したんじゃないの?
高天神城は81年まで持ちこたえてるしそれまでの間にも越後出兵したり
上野や武蔵、伊豆に侵攻したりしてるし。
442人間七七四年:2009/01/19(月) 21:45:28 ID:dMtebRz7
>>421
>信長公記もいうように鳶の巣でキープしてれば長篠が取れて織田徳川も撤退せざるを
>得ないのに、わざわざ出てったところからして決戦志向と見たほうがいいのでは。

長篠攻囲中から鳶巣砦にはほとんど兵は置いていない。
信長公記の言うような布陣をするためには、勝頼が本陣を移す必要がある。
すると信長は長篠城の直接救援が出来なくなる。
つまり、信長が長篠城を直接救援するためには、東進して寒狭川を超えるか
南から迂回して鳶巣山を押さえて豊川を超えるかしかないのに、両方を潰せる。
では勝頼は決戦志向か?と言えば、あまりにもお粗末な動きしかしていないわけで。
信長が到着する直前まで長篠城を攻めていて、信長にむざむざ要害を取られている。
その時点で、決戦志向という奴を疑わざるを得ない。
ギリギリまで長篠を攻めている=信長が来る前に長篠を落として決戦を避けたい
というのは明らかだけど、もし信長が来ちゃったから、じゃあ改めて決戦に変更!という
程度では、倍する敵に勝てるはずがないし、事実勝てなかった。もしそうなら、かなり馬鹿。
戦力的に優勢な軍勢が、戦略目標をコロコロ変えてるうちに裏をかかれるなんてのは
よくある話だけど、圧倒的劣勢でそんなんじゃねえ。
俺は勝頼の行動は、睨み合いながら長篠攻めを継続、だと思ってはいるけれど。
443人間七七四年:2009/01/19(月) 21:51:00 ID:uxOj8ndh
>>441
国力に無茶苦茶な負担をかけた、結果としてね
大損害の補充をするとなれば、いろいろと無理をしなければならない
444人間七七四年:2009/01/19(月) 21:54:54 ID:3Dr6WHAG
ああ、そこは否定できないかもな。金山の枯渇も痛い。
445人間七七四年:2009/01/19(月) 21:57:18 ID:XqRemepl
結局、武田が寒狭川を渡った理由がイマイチはっきりしないな。

今では信憑性が薄い「佐久間が裏切る事を信じて決戦を挑んだ」説が
実は史実なのか?
446人間七七四年:2009/01/19(月) 21:59:30 ID:47tc27A5
>>441
長篠には上州・北信からも有名どこがかなり参戦して、しかもかなり死んでるけどねえ。

上州だったら箕輪城の内藤昌豊(戦死)、安中城の安中景繁(戦死)、岩櫃城の真田信綱、昌輝(両方戦死)、
甘楽郡国峰城の小幡信貞(親父の憲重が戦死)、他に和田業繁(戦死)等々あたりはオイラ程度でも思い出せるし、
北信でも高坂昌信は留守番だけど、高坂昌澄は従軍して戦死してるし、尼飾城の小山田昌行(無事、松平尹忠を
討ち取り唯一の戦果)、雨宮城の雨宮家次(戦死)等々。
真田は信濃の小県郡と上野の吾妻郡にまたがってるか。
447人間七七四年:2009/01/19(月) 22:02:02 ID:47tc27A5
>>445
今ではというか、江戸時代中期以降に出てくるような話で、全く信憑性ないよ・・・・
448人間七七四年:2009/01/19(月) 22:10:09 ID:3Dr6WHAG
>>446
でも三方が原の時と比べたら大分少ないし
武田の国力から考えれば一万程度は残してたんじゃない?
449人間七七四年:2009/01/19(月) 22:12:02 ID:XqRemepl
>>416
>そうだね。回避派はいたろうね。でも勝頼はノリノリだったと。

まさか甲陽軍艦にあるように重臣は反対するが
勝頼が反対意見を押し切って
決戦を挑んだとでも思っているの???

武田は勝頼が単独で決められるほどの体制ではないでしょ。

勝頼は決戦を挑みたかったというのは、その通りだと思うけど、
重臣の中にも決戦派と撤退派がいて、議論の末、決戦を挑んだと思うね。

だからこそ寒狭川を渡って決戦を挑んだ理由が何かあるはずなんだけど。

>>447

それを言われたら、そうなんだけど(w
450人間七七四年:2009/01/19(月) 22:25:40 ID:382rvoSC
>>449
勝頼にしても、決戦を挑みたかったなら、ギリギリまで長篠城を攻めていたらダメでしょ。
ギリギリまで長篠城を攻めてたってのは、むしろ出来れば戦いたくないという意思の
現れだと思うんだけど。俺は、寒狭川は渡ったけど、決戦する気は無かったと思うけどなあ。
451人間七七四年:2009/01/19(月) 22:28:26 ID:cnSg23Ac
>>448
高坂昌信は明確に留守番だけど、それ以外は一門も、譜代も、信濃先方衆も、
駿河先方衆も、そして上野先方衆も、非常にまんべんなく動員されてる。
だから有名武将がやたらと多い割に兵力が少ない状態。
北方の備えというよりは、経済的に動員を抑えたかったんじゃないかと。
452人間七七四年:2009/01/19(月) 22:35:52 ID:XqRemepl
>>449

決戦をする気が無いなら寒狭川を渡る理由がない気がする。。。

453人間七七四年:2009/01/19(月) 23:20:06 ID:ItYv7O51
勝頼は、信長と距離わずか数百メートルのとこまで出て行った事で、確かに信長の別動隊による
迂回攻撃を受けてしまったけれども、逆に考えてみれば、信長も、勝頼の目の前で、別動隊程度
ならともかく、本隊を移動させる事は出来なくなったって事なんだぜい。

前進しようとすれば、勝頼が陣地を築いて待ち構えている。兵力倍でも無傷では突破できよう
はずもない。後退すれば追撃される。兵力倍でも後退しながらはキツイ。つまり、勝頼は逆に
信長を、長篠城から3kmばかり離れた弾正山に、拘束したという風にも見られるんだな。

信長は長篠城救援の援軍として現れたけれども、直接武田軍と戦う以外にも、間接的に
武田の撤退を促す方法だってあるわけでさ。例えば作手や足助など周辺の武田方の拠点を
攻めるとか、遠江方面に動くそぶりを見せるとか、奥三河からなら東美濃も狙えるわな。
長篠を迂回して信濃を突くふりをするとか、いろいろ選択肢はある。

ただ、長篠の救援なら、信長が何かする前に長篠が落ちたら、信長は目的を失う事になる。
だから、長篠が落ちるまで信長に何もさせない事が、勝頼の狙いだったんじゃ、ないかな。
長篠城のように攻め口が限定される城は、囲む兵数ばかり多くても効果は上がらないわけで、
高坂昌澄率いる2000の兵でも攻め続ければ落とせるだろう。
その間、勝頼は、信長がほかのどこにも行けないように、真っ正面で睨み合い続けるわけだね。
454人間七七四年:2009/01/19(月) 23:25:28 ID:uxOj8ndh
>>451
勝頼は前年の9〜10月に遠江・三河を強行横断している
そして長篠城を攻める前に牛久保・二連木城下を焼き討ちし、吉田城を囲んでいる
少なくとも徳川単体との決戦は臨んでいるのは解る
そしてその行動が大胆になっているのも

個人的には勝頼が慢心していたとしか思えんので
設楽原でも織田・徳川連合軍に勝てると思ったのは否定できない
これが勝頼個人か武田家全体かは知らんけど
455人間七七四年:2009/01/19(月) 23:31:43 ID:ItYv7O51
家康に対しては、明確に決戦を望んでいるのは確かだよね。
でも信長に対しては・・・・?
やはり、信長がすぐ近くに現れて陣地築き始めるまで、長篠城攻めに拘ってるのが引っ掛かる。

それに武田家って、小勢で大軍を破るような戦はほとんどした事無いし。
信虎はしばしばやって見せたけど、信玄は見事なほどに避けてる。
せいぜい、三増峠で同数程度かってぐらいでさ。
島津家とかで「我が釣り野伏は無敵なり!」とか言うなら分かるけど。
勝頼自身はおろか、重臣たちまで揃いも揃って無能の馬鹿野郎で、
信玄一人で支えてたって話なら分からんでもない。
456人間七七四年:2009/01/19(月) 23:42:44 ID:uxOj8ndh
無能の馬鹿野郎ではないかもしれんが、油断の夜郎自大になっていた可能性は高い
何しろ、織田・徳川に負けた前歴がないから、勝てると判断しかねん
油断は無能より怖い
457人間七七四年:2009/01/19(月) 23:49:30 ID:ItYv7O51
確かに信長は、勝頼が東美濃攻めた時は戦いを避けた感もあるけど、
それ以外は、武田軍は多勢で寡兵を討つ戦いしかしてないわけで。
もしそれで油断できるなら、勝頼はまあ若気の至りってやつもあるかもしれんが、
あとの老臣どもは無能の馬鹿ばっかだろな、とね。

若気の至りにしても、代償が高すぎるがね・・・・
それに2倍以上の敵が備え固めてても勝てるんだったら、長篠城5秒で落とせるだろ・・・・
458人間七七四年:2009/01/19(月) 23:55:09 ID:uxOj8ndh
>>457
まぁ、世には世界一の大国アメリカに戦争吹っ掛けた、
島国という例もありますし
色々、追い詰められていたのかなぁ
459人間七七四年:2009/01/20(火) 00:05:07 ID:nYLAi3FW
>>458
山本五十六「半年や一年は暴れてみせますが、後はわかりません」

そしてその通りになった。どういう展開になるか分かっててやったんなら、
まだ意義って奴を汲み取ろうって話にもなるんだろうけど。

まあ個人的な意見は>>453なので。勝頼に対して非常に好意的に書いてみた。

やはり勝頼はダメな子だったんだろうかねえ・・・
460人間七七四年:2009/01/20(火) 00:11:11 ID:/HHeI23s
勝頼は武将としては有能だと思うが、武力の使い方が、「涜武」って感じはするな。
461人間七七四年:2009/01/20(火) 03:46:32 ID:sECIytVb
>>431
おやおかしいな。高天神に城将として岡部元信が入ったのは天正7年8月だぞ。
しっかり連絡は取れてるみたいだが。

それから勝頼は遠江にはそれ以後も兵を進めてる。1578年11月からの
第4回遠江侵攻戦も1579年の第5回遠江侵攻戦も高天神が拠点として使われてる。
連絡は遮断されてるとは思わないが。

次に勝頼が1579年以降遠江に出なくなるのは北条との対処もさることながら
佐竹を通じた織田との和睦交渉を進めていたからと言われている。
勝頼は高天神・小山・滝堺の譲渡をもとに和睦を打診しており、岡部もこれを条件に
開城を申し出るが織田は武田の威信をおとすために拒否したとの事。
462人間七七四年:2009/01/20(火) 03:48:40 ID:sECIytVb
>>433
確かに第5次の時は対峙戦だったみたいだが、
第4次の時は逆に武田が横須賀城を攻めてるんだが。
463人間七七四年:2009/01/20(火) 03:51:03 ID:sECIytVb
>>437
その件については>>461>>462にあるとおり。
逆に武田が徳川方の城を攻めたりもしてる。
てかあんた見てる限り他人のレスを切り張りして
文章書いてないか?
なんか主張の要点が浅くてころころ変わってるような感じなんだが。
464人間七七四年:2009/01/20(火) 03:58:21 ID:sECIytVb
>>440
別に格下とも思えないが。
その三国同盟交渉における北条も上杉も書状で武田を対等に扱ってるぞ。
>>442
俺も最初はあまりにもお粗末な結果に勝頼の意思ではなかったのか?と
思った時期もあったが、
鳶の巣砦が攻略されたのと武田本隊が戦闘を開始したのが同時期だった事、
書状にある決戦志向、さらには最近では前哨戦の存在がうかがわれてる事から
勝頼は前哨戦の勝利に酔って進出し、敵本隊の力を見誤ったまま勢いのままに戦闘を
開始してしまったのでは?と思うようになった。
馬鹿とはいわないが敵情を見誤ったのかと。
465人間七七四年:2009/01/20(火) 04:02:21 ID:sECIytVb
>>443
これは前から思ってたのだが
長篠の戦いってそこまで大損害か?
犠牲が大きかったのは認めるが、
同時代資料では千余り討死とされている。
武田勢が七千とすれば千余り討死は大きいが、
三方ヶ原の徳川勢が8千で1千〜2千の死者と考えると
武田は2万を超える戦力を持つ100万石大名であることから考えて
そこまで致命的なのかと。
まあ宿将達の戦死は痛かったろうが、国力的に言うと北条徳川相手に数年戦い続けた事のが
大きかったと思うんだが。
466人間七七四年:2009/01/20(火) 04:08:17 ID:sECIytVb
>>449
いや、単独決戦説なんかとっちゃいないよ。
勝頼書状でさえ「戦を危ぶむ者もいる」だから戦に肯定的な連中もいたんだろ。
そっちは軍鑑をだしてるが、
軍鑑では勝頼側近達や先方衆は決戦を望み、老将達は決戦を避ける事を望んだとされてる。
おそらく決戦派と撤退派が拮抗し当主たる勝頼の意思でもって決戦となったんだろう。
まあこの点ではそっちとあんまりかわりないか。
467人間七七四年:2009/01/20(火) 04:12:14 ID:sECIytVb
>>455 >>456 >>457
勝頼書状にも決戦を危ぶんでいる存在がいた事は示されている。
そして軍鑑では老将達は決戦を否定してるな。
468人間七七四年:2009/01/20(火) 04:12:50 ID:/HHeI23s
>>465
長篠で武田は完全に、一地方勢力に転落した。
469人間七七四年:2009/01/20(火) 04:17:47 ID:sECIytVb
>>468
だからそれにしちゃ損害が千余りryと言ってるんだけど。
470人間七七四年:2009/01/20(火) 04:20:50 ID:/HHeI23s
>>469
損害云々以前に、織田にほとんど被害を与えることなく惨敗したって事実が重要かと。
471人間七七四年:2009/01/20(火) 04:22:19 ID:MkkHY/ES
>>469
wikiったら、千人って書いてるの多聞院日記の伝聞だろ?
あとなんかある?
甲斐かどっかの寺の記録が残ってた気がするんだけど。
472人間七七四年:2009/01/20(火) 04:34:04 ID:sECIytVb
>>470
長篠日記を見る限り織田も相当やられてるみたいだが。
資料見る限り信長公記くらいか。
武田の奮闘に冷淡なのは。まあそれでも激戦の様子がうかがえるが。
473人間七七四年:2009/01/20(火) 04:35:51 ID:sECIytVb
>>471
妙法寺記の事をいってるならあれは1563年までの記録だから
長篠の事は書いてないよ。
474人間七七四年:2009/01/20(火) 04:41:14 ID:/HHeI23s
>>472
それでも織田には幹部、将官クラスには被害皆無だし。
それに武田は川中島のときのように、幹部クラスが多く死んでも
実質的な勝利を収めるようなことも出来なかったし。

これは完敗ですよ。
475人間七七四年:2009/01/20(火) 04:53:34 ID:sECIytVb
>>474
ああ、完敗なのは認めるよ。
負けを否定してるわけじゃないんだよ。
武田の総国力から言って七千動員した戦いで千余り討ち死にが
そこまで致命的なのだろうかと。
476人間七七四年:2009/01/20(火) 05:01:20 ID:/HHeI23s
んだから、軍事的にも政治的にも負けたという事実が大きいと言っているわけで。
今の国家でもそうだけど、戦国大名も他との関わりの中で存在しているんだから、
しかも相手は地域勢力ではなく、今や中央政府になろうとしている織田軍。
武田というものへの求心力が、長篠で大きく失われたのは間違いない。
477人間七七四年:2009/01/20(火) 05:03:43 ID:sECIytVb
>>476
その割には結構長篠後も勝頼はいろいろ動いてるんだよな。
北条との戦いとかかなり有利に進めてるし。
長篠で致命傷を受けたとは思えない動きだ。
478人間七七四年:2009/01/20(火) 05:07:23 ID:/HHeI23s
>>477
だからそれは、失われた求心力を回復させるための戦闘でしょ?
でも勝頼はどんなに合戦を繰り返して、局地的に勝利を得ても、政治的には追い詰められていっている。

政治的な意味で既に詰んじゃってるからだよ。
479人間七七四年:2009/01/20(火) 05:12:40 ID:sECIytVb
>>478
いや、違う。
御館の乱で生じた北条との敵対関係上の戦いで
関東の覇権を争った戦い。武田の主戦線はこっちにシフトしてる。
そしてそこでは勝頼は北条から大きく領土を奪い優勢に進めてる。
480人間七七四年:2009/01/20(火) 05:17:42 ID:sECIytVb
ただまあ影響なかったとはいわない。
長篠の致命的ではないにせよ大きな損害+北条徳川相手の数年間にわたる
多方面作戦が最後の崩壊につながる原因なのではないかと。
481人間七七四年:2009/01/20(火) 05:26:59 ID:/HHeI23s
つーか、武田の置かれた政治状況下で多方面作戦をやらざるを得なくなった時点で、
既に詰んでいるわけで…。

勝頼が長篠のあと、何度も家康に決戦を挑もうとしたのは、何とかその不安定な状況からの
打開を目指したに他ならない。
それに対して家康は、そんな得にもならない戦いを避け続けた。家康の遠江における政治基盤は
格段に大きくなったし、戦わなくてもそれが殺がれる事はなくなったからだ。
これは信長と同盟している北条に関しても言える。
双方とも信長を後ろ盾にしている以上、政治的に勝頼を凌駕している。

信長がもはや、公的な政権としての形を整えている中、武力にしか基盤のなくなっている
勝頼がどんなに局地戦で勝利を重ねても、それは既にほとんど意味がない。
482人間七七四年:2009/01/20(火) 05:34:36 ID:sECIytVb
>>481
北条と武田の戦いに信長は関係ない。
多方面作戦が起きた理由には長篠も信長も関係ない。
北条はむしろ勝頼との戦いで苦戦した結果信長に助けを求めるわけだが。
実際勝頼としては北条戦で結構な領土を得ているんだから意味は十分あるだろ。
信長がどうの、ですべてを見過ぎに思えるな。
武田の崩壊は長篠以後の様々な要素の決算なのだから。
483人間七七四年:2009/01/20(火) 05:37:19 ID:/HHeI23s
>>482
> 北条と武田の戦いに信長は関係ない。

信長が既に全国政権として体制を整えつつある以上、関係ない分けないだろ。
484人間七七四年:2009/01/20(火) 05:41:52 ID:sECIytVb
>>483
体裁を整えてないって。
なんか信長を過大に見過ぎてないか?
信長はその生前に全国に影響を及ぼした事は死ぬ直前のわずかな期間だと
思うが。それでも服属してない地域は多く、それらとは書面でのやりとりでしか
ないわけだけどな。
武田と北条の戦いも信長とはまるで関係ない状態から始まり、
信長とは直接関係しない状態で推移していく。
やがて武田に追い詰められた北条がせっぱつまって助けを求めようとするまでな。
485人間七七四年:2009/01/20(火) 05:44:08 ID:/HHeI23s
>>484
> やがて武田に追い詰められた北条がせっぱつまって
北条本国と言っていい武蔵や相模に手も出せず、上野でどうにかちょこまかやっている程度の
勝頼が、ですか?
486人間七七四年:2009/01/20(火) 05:48:53 ID:sECIytVb
>>485
ちょこまか、ってなあ。
上野ほとんどは武田の手に帰してるし、
反北条勢力も味方につけて北条包囲網形成。
伊豆にも踏み込み陸地で戦い、伊豆沖でも海戦やって勝利してる。
武田は結構大きく動いてる。
487人間七七四年:2009/01/20(火) 05:51:04 ID:/HHeI23s
>>486
よく調べてみるといいよ?
上野はかなり広い範囲が、武田と北条の「両属」になってる。
488人間七七四年:2009/01/20(火) 05:52:11 ID:sECIytVb
>>487
たとえばどこが?
489人間七七四年:2009/01/20(火) 05:55:19 ID:/HHeI23s
>>488
西上州の北条と武田がせめぎあっている地帯
490人間七七四年:2009/01/20(火) 05:56:22 ID:sECIytVb
>>489
だから具体的にあげてよ。
てか西上野はもともと武田領土なんだけど。
むしろ武田が北条の持ってるほうに踏み込んでるんだけど。
491人間七七四年:2009/01/20(火) 05:59:28 ID:/HHeI23s
>>490
つーか、もしかして「半手」を知らないのか?君。
492人間七七四年:2009/01/20(火) 06:02:34 ID:sECIytVb
>>491
知ってる。当たり前でしょ。
でも勝頼の上野支配は結構順調に進んでるんだが。
そっちが両属というならその具体的地名を挙げてもらえるとうれしいんだけど。
493人間七七四年:2009/01/20(火) 06:10:27 ID:/HHeI23s
>>492
具体的地名は今資料がない。
しかし北条氏政の書状から西上野に半手地域が広く存在したことは確認できる。
これじゃ答えにならんか?

つーか、織田「政権」の「容認」のない領土拡張はもはや意味が無い時代に
入っていたと言うことをコッチは言いたいのだが。
太平洋戦争終了間際の日本の占領地みたいなもんだ。
494人間七七四年:2009/01/20(火) 06:15:45 ID:sECIytVb
>>493
いつの書状?とりあえずまるで話がつかめないんだが。

>>つーか、織田「政権」の「容認」のない領土拡張はもはや意味が無い時代に
そりゃさすがに過大評価だろ。
北条VS勝頼の戦いが始まった頃は本願寺も下されてなく敵対勢力もまだまだあって
信長政権自体も畿内政権の域を出てない。
死ぬ直前には九州の大友や東北の伊達にまで書面がいってるが
それでも織田に従ってない勢力も多い。
まして北条VS勝頼の時なんて両者とも織田政権なんか意識して戦い始めたわけでもないだろ。
495人間七七四年:2009/01/20(火) 10:51:49 ID:2hVXNrxt
>>461
そうですね
田中〜小山〜滝堺〜相良〜高天神
のラインは付城ができるまで維持されていたようです
すいません

しかし諏訪原城を落とされた結果、この兵站線が突出
した危険なものになったのは間違いありません
だからこそ勝頼も軍勢を率いたのでしょう
さっさと放棄するべきでしたね

それにしても勝頼は頻繁に軍事行動を行いすぎです
これじゃあ、民心も離れます
496人間七七四年:2009/01/20(火) 13:12:29 ID:BSUvYBxJ
>>485
武蔵も攻めてるよ。79年の終わりに鉢形城が攻撃されてる。
氏政は佐竹方反北条連合と武田の攻勢の前に
『当方は滅亡に向かってる』とか凄い危機感を露にした感情を
書状に書いてる。1581年に高天神城尾とされて後は北条も
四月に甲斐郡内に侵攻したり五月に西上野の宇津木、白井長尾憲景を調略したり
駿東の長窪城を攻略して天神ヶ尾城、沼津城を攻撃したりして反撃に出てるけどね。
497人間七七四年:2009/01/20(火) 21:17:23 ID:wTIx3OGr
>>464
前哨戦については信長が細川藤孝宛書状で「十八日押詰鉄砲放候」などと書いてるのが
根拠だが、勝頼は長坂釣閑宛に「何事もなく対陣となった」と言っており、せいぜい威嚇程度ではないか。

開戦時刻についてだが、信長公記では戦った時間帯については日の出から午後二時とあり、また
鳶巣山攻撃は午前八時。しかし一方で、まず先に信長が勝頼の陣の前に兵を出していた事が書いてあり、
また前後より攻められて武田軍が動いたとも書いてある。大須賀記では戦闘開始は午前十一時と
されている。各記述の整合性という意味では、武田軍の総攻撃は午前十一時で、それ以前は信長から
兵を繰り出しての小競り合いだったのではないかと、俺は考えるが。
そしてなぜ午前十一時が総攻撃開始かと言えば、やはり鳶巣山が落ち、さらに長篠城を包囲していた
部隊が敗走したためではないかと。その結果、信長公記に言う前後より攻められる状態になって、
総攻撃を決意したのではないか。
498人間七七四年:2009/01/20(火) 21:25:18 ID:Fa6MmyCV
長篠の戦いにおいて、信長公記によると、武田軍は侍・雑兵合わせて1万ばかり討ち取られた、即ち、約1万人が戦死したことになる。
太田牛一が、長篠の戦いに参戦していたことは、同時代の書状でも確認できるとのことで、実戦に参加し、見聞している以上、信憑性は高い。
しかし、そうなると、武田軍が実際に1万5000人しかいなかったのか、というのがきわめて疑問になってくる。
全軍の3分の2が戦死する程、籠城して玉砕したのならともかく、野戦で戦った例があるのだろうか。
戦国時代有数の激戦とされる川中島の戦いでも、全軍の死者は3分の1にも満たなかった筈。
本当の武田軍の実数はより多かったのではないか。
499人間七七四年:2009/01/20(火) 21:25:44 ID:wTIx3OGr
>>465
いざとなればとっとと逃げるような雑兵の損害はともかく、武士階級、武将階級の
損害は甚大。名のある武将を羅列したらキリが無いし、また甲陽軍鑑に出家した
次男三男を還俗させて家を継がせたような例が書かれるぐらいで。
長篠後三か月は、家康が動いても迎撃に行けてないわけでね。

>>467
此度の戦を危ぶむ者ね。そもそも即撤退しないで決戦なのか、消極的な睨み合いなのかは別にしろ、
そりゃ戦を継続するという時点で危ぶむ者はいるでしょ。相手大軍だし。

>>471
大須賀記には二千を討ち取ったとある。
人数の規模よりも、質が問題でしょう。二千人だとしても、徳川家で言えば石川数正とか酒井忠次とかに
当たるような武将がバタバタ死んでるんだから、指揮系統から何から、完全にマヒしたようなものでしょ。

>>477
動けるようになるまで、9月までかかってるけどね。その間に三河や遠江の拠点をだいぶ取られてしまった。
500人間七七四年:2009/01/20(火) 21:26:51 ID:wTIx3OGr
>>493
武田家が滅んだ時点で、武田領をどう配分するかでは
織田の意見が通ったわけだけど、そもそも武田と北条が
上野や伊豆で争っていた時分には、関係ない主張じゃね?
501人間七七四年:2009/01/20(火) 21:43:32 ID:/1yF63Bi
死者1千人でも二度と戦えない重傷者は4〜5千程いたのでは?

502人間七七四年:2009/01/20(火) 21:50:07 ID:MkkHY/ES
>>499
死者一万ってことはないだろうが、
重臣あんだけ死んでるんだから2千以上は死んでるだろうな。さすがに1千じゃあないと思う。
503人間七七四年:2009/01/20(火) 21:57:25 ID:8NgYSXEs
武田家の軍制が独特なのか、川中島とかもそうだけど、やたらと武将死ぬからね。
504人間七七四年:2009/01/21(水) 06:26:01 ID:LeHpaZ83
>>495
勝頼の軍事行動は確かに頻繁だったね。
長篠の損害+多年の多方面作戦が武田の疲弊につながり崩壊となった
というのがこっちの見解。
505人間七七四年:2009/01/21(水) 06:36:04 ID:LeHpaZ83
>>497
俺が引っ掛かったのもその信長公記の記述だ。
信長が足軽を武田側にかけていたという事。これが前哨戦にあたるのではと思ったが。
そして信長公記の記述では「日の出から未の刻まで入れ替わり立ち替わり武田が戦った」
という記述。これはどう見ても武田が日の出から総攻撃してたように見えたんだが。
「前後から攻められ、敵も兵を出した」という記述は信長公記の書き方から
「信長さまは武田主力(前)と鳶の巣(後)を同時にお攻めになり、武田も兵を出した。」
という風に読めるんだがどうだろうか?
506人間七七四年:2009/01/21(水) 06:40:43 ID:LeHpaZ83
>>498
地形から考えて主戦場に展開した武田軍は7千程度といわれている。
いくらなんでもいない兵士が死ぬわけがない。
穴山や小山田のようにサボタージュして生き残ってる者もいるし、
信長公記は後になってかかれたもので明らかに織田贔屓な所があるので
織田の公式発表をうのみにしてる可能性が高い。
信長には姉川で敵の損害を100倍以上に宣伝してる事があるので今回もそうだったのでは。
被害が武田側にあった事は確かだろうが、同時代資料の千余り討死が妥当と思うが。
507人間七七四年:2009/01/21(水) 06:45:23 ID:LeHpaZ83
>>499
被害があった事は認めている。
そしてそれが致命的なのか?って事なんだが。
実際三か月たったら反撃開始してその後も頻繁に戦ってるし。

それが老将達だったというのが軍鑑の記述だな。

だがそれから崩壊にいたるまで武田は何度も何度も戦って
領域も獲得したり相手を撤退させたりしてるんだよな。
敗北直後はそりゃ大混乱だったろうが半年もすれば再編成はできたのでは。

逆に言うと9月以後から結構動いてるんだよな。
致命的、って程じゃなかったと思うんだが。
508人間七七四年:2009/01/21(水) 11:39:23 ID:93HPB0YO
>>430
他に
1577年10月にも勝頼の遠江侵入があったが
家康が出陣してくると武田は撤退している。

1577年8月の横須賀城攻めの後詰に徳川が成功して以降は
約2倍の兵力であっても武田が徳川勢との決戦を避けるようになる。
武田が北条と争うようになる以前から形勢は逆転しつつあった。

>>475
現代風に言えば徴兵で代わりのきく兵が多数死んだのではなくて
代わりのきかない下士官クラスや将官クラスに被害が集中したんじゃね.

>>495
ついでにいうと駿河湾の制海権も武田が有しているから
田中〜小山〜滝堺辺りが封鎖されても完全に遮断とはならない。
今川滅亡時に北条が掛川に船300艘で援軍送り込んでた事実もあるし。

>>503
他大名ではたいした身分ではない者でも武田家だと低い身分の将まで勇名で
凄い重要人物かのように思われるってこともあるんじゃないかって気がする。

>>507
半数の徳川との戦いを避けるようになったことから被害はかなり深刻だったんじゃ。
509人間七七四年:2009/01/21(水) 12:07:43 ID:LP0/guep
長篠の戦いでは武田家に負傷者はいないというより少ないかと
ある程度の怪我が負った者たちは殺されてるでしょうし
そうなら高い死亡率もありうるかと
510人間七七四年:2009/01/21(水) 23:38:21 ID:Z8lgwh8O
>>505
信長が足軽を懸けさせたのは当日の朝の話だから、長篠合戦と一体であって前哨戦とは
言わないと思うが。少なくとも、世間一般の「前哨戦説」とは離れてるね。

で、信長公記は「卯の方へ向けて」入れ替わり立ち替わり戦ったと言っているのだよね。
「卯の方へ向けて」戦ったのは、これは織田軍の事。「諸卒を討たせ」とも言ってるが、「せ」って
のは尊敬の助動詞なので、これも信長に敬意を払ってる、織田軍の行動。
「次第次第に無人になりて」からは武田軍の事だと読めるけど。
だから、基本的には織田軍が日の出から東に向けて戦闘してたというだけで、武田の総攻撃が
日の出という事は、直接は言ってないと思うんだけど。
別動隊の行動を隠すためにも、別動隊の到着前から陽動・挑発をするってのは意味があるし。
あと、大須賀記では、武田の総攻撃は11時の事だと言ってるしね。
するとやはり、「前後より攻められ」というのが、武田軍の長篠包囲部隊の敗走を受けての
事だと思うんだよね。
511人間七七四年:2009/01/21(水) 23:44:20 ID:Z8lgwh8O
>>506
地形から考えて、じゃなくて近所の寺の坊さんがそう書き残したってのが
ネタ元だけどね。
準当事者レベルで書いてる信長公記や甲陽軍鑑の兵数の方が、実数に近そうだが。

>>507
敗戦の後の3か月で、家康はかなり足場を固めてるので、対徳川戦の難易度が跳ね上がったのは
間違いないでしょ。そして死んだのが老将ばかりなんて事もなく。
そして何より、勝頼がその後、家康相手でも積極的に戦おうという気を失くしたのは致命的とも言える。
512人間七七四年:2009/01/22(木) 02:02:38 ID:RnvdZA0o
>>511
いや、地形から考えて、だよ。
高柳氏が地形の問題で双方ともに半分程度、と論じたのが
今では多くの書で採用されてたはず。
その近所の寺の記録名あげられる?

どうかな。長篠あとでも三か月後に勝頼来たら家康はさっさと逃げてるし。
1576年の横須賀攻め、1577年、1578年の遠江侵攻、1579年の黄瀬川でも果敢に攻めてる。
黄瀬川では勝頼来る前に家康逃げたし。
513人間七七四年:2009/01/22(木) 02:14:09 ID:RnvdZA0o
>>508
その代り1579年の黄瀬川で家康逃げてるけど。

とりあえず1576年の段階では勝頼は軍の再編成を必死でやってるから
重臣たちが死んだ事での再編成が大変だったみたいだな。
1577年8〜10月のはまだそれが十分じゃなかったのでは?
1578年の遠江侵攻では横須賀城も攻めてるし、島田や青島でも徳川と連戦してるし
北条との戦いも優勢に始めてるし、
1579年には黄瀬川で家康を撤退させてるし。
514人間七七四年:2009/01/22(木) 02:17:04 ID:RnvdZA0o
>>510
そんなに一文の中で主語がころころ変わるんだろうか?
ちょっとわからん。
そしてそちらのいうように前後から攻撃を武田が受けてたのなら
武田本陣勢とか後陣における戦闘の記録が一切ないのは不思議だ。
515人間七七四年:2009/01/22(木) 10:09:58 ID:gXluy1bW
>>513
黄瀬川の時は家康は未だ落ちていない田中城より奥にいるのですから
逃げるのは当たり前です
それに各攻勢も高天神を守るためで、攻勢から守勢に明確にシフトしてます

それよりも国力の回復を待たずに、頻繁に軍事行動を行うこと自体が
既に尻ドンですね
516人間七七四年:2009/01/22(木) 17:59:03 ID:pYtbfwKj
1578年の横須賀城攻めって確か勝頼が大軍率いて遠征してきたけど
家康が出陣してきたらあっさり高天神に篭り、その後撤退
それ見て家康も兵を返したって流れじゃ
517人間七七四年:2009/01/22(木) 19:10:48 ID:aZJZkE15
>>512

今のように山に木が生えていれば、
あの地形に1万5千は苦しいと思う。

しかし当時、山の殆どは木が生えていなかったと思う。
信長や徳川の本陣があったと言われる山にいったけど
あれだけ木が生えていれば目の前は何にも見えない。

馬場隊が佐久間隊を追い散らしたと言われている丸山もそう。
今の丸山のように木が生えていたら、陣を置くなんて出来ないだろ。
518人間七七四年:2009/01/23(金) 11:33:09 ID:T9zENfu2
>>515
まあほっとくわけにもいかんし。
敵もまっちゃくれないしね。
横須賀城とか果敢に攻めてるよ。
>>516
家康来たら一回高天神に帰り、次の日にも城攻め。
その後17日に島田、19日に青島で徳川軍と戦ってる。
>>517
昔のほうが木が多そうなイメージだが。
今のほうが木が多いんだろうか?
519人間七七四年:2009/01/23(金) 12:06:20 ID:RpVAGsui
布陣に際して、立木が邪魔だったら切り倒すさ。
倒した木は、柵や燃料に有効活用。
520人間七七四年:2009/01/23(金) 12:32:48 ID:plIoWjVK
島田は遠江の大井川の西岸で青島は駿河の東岸?
単純にその話聞くと、徳川が来たら負けて駿河まで追い返されたみたいに聞こえるけど・・・
史料じゃその辺は上手く言い繕っているだろうけど。
521人間七七四年:2009/01/23(金) 16:28:50 ID:rfpuU4lC
家康が関東に移った後、三増峠を検分して、
「信玄が本陣を置いた志田山が禿山だったので、北条は負けた。」
って言ったって逸話があったな、そういえば。
522人間七七四年:2009/01/23(金) 17:15:22 ID:/BNtvTct
>>518
横須賀城攻めだって高天神城包囲の対応でしょ
あくまで防御しかも消極的なんですよ
徳川と本気でやるなら、諏訪原城を再奪取するか
そうでなければ、大井川まで戦線を後退するべき

特に御館の乱で上野方面に攻勢主軸を変更したのなら
これじゃ
「徳川は堅いから、北条に目的変更。でも徳川への対応
は特にせず、そのまま」
これじゃ、ダメダメ
523人間七七四年:2009/01/23(金) 20:25:32 ID:FIEQYLI1
>>518
日本の歴史上最も山に木が生えているのが今らしいよ
昔は家を建てたり、燃料にしたりで様々な用途に木が使われてたから
少なくとも里山には木は今よりもずっと少なかったってさ
でもソースは俺がいった研修の資料だから微妙か
524人間七七四年:2009/01/23(金) 20:43:02 ID:rfpuU4lC
戦国時代は軍役でとにかく木を使ったので、日本中禿山に近い状況になったらしいね。
戦国大名は森林の保護に躍起になってる。
525人間七七四年:2009/01/23(金) 22:47:01 ID:+ymh548I
結局1577年で武田が張子の虎ってことが判明
それ以後は徳川が優勢に進めているってことだな
少なくとも遠江では

やっぱ長篠の被害は大きかったんだな
526人間七七四年:2009/01/23(金) 22:58:53 ID:HcRdR/tc
本拠地から程近くにある高天神城落とすのにそれから四年も費やしてるけどな
527人間七七四年:2009/01/23(金) 23:10:50 ID:rfpuU4lC
高天神城だけ相手にしてたわけじゃないからな
528人間七七四年:2009/01/24(土) 00:49:45 ID:ePw98opx
北遠江取り戻した後は高天神方面は武田が出撃した時ぐらいで
それ以外は駿河方面・駿河との国境方面への攻撃が主な感じ。
高天神に本格的に付け城築くのは1580年に入ってからだし。
529人間七七四年:2009/01/24(土) 02:35:20 ID:wtXczJwd
>>522
戦線後退してたら君は「武田は徳川を恐れて戦線後退した!
弱体化著しい!」とかいってそうだが。
勢いづいた敵をはねのけてるんだから文句言われる事かと。
1577年までは長篠の後遺症があったんでしょ。
実際1578年以降は北条の片手間なのに徳川追い払ったり城攻めたりしてるんだから。
>>525
いやだから1578年や1579年で北条の相手しながらも勝頼が果敢に攻めてて
徳川が逃げたりしてるんだって。
530人間七七四年:2009/01/24(土) 02:40:39 ID:wtXczJwd
>>523 >>524
そうなのか?
今の時代しきりと「木が減ってる!森林保護しないと!」
みたいな事いわれてるが。
>>528
徳川が何回も高天神攻めて武田が出てきて撤退ってのを何回も繰り返してるように
見えるんだが。
531人間七七四年:2009/01/24(土) 02:41:02 ID:KuwCqWmM
政治的には孤立しまくってるじゃん。>勝頼
2次大戦後期の日本やドイツの戦術クラスの勝利を「すげー、つえー」って言っているようなもの。
532人間七七四年:2009/01/24(土) 02:42:21 ID:KuwCqWmM
>>530
「軍需物資から見た戦国合戦」を読むといい。
533人間七七四年:2009/01/24(土) 02:50:53 ID:wtXczJwd
>>531
それは否定しない。
てか武田が崩壊して滅んだのって長篠だけが原因じゃなくて
その後政治的に孤立した事での何年もの多方面作戦が原因じゃね?
って事をいいたいのよ。
>>532
そんな本があるのか。面白そう。ありがとう。
534人間七七四年:2009/01/24(土) 09:23:33 ID:l0Wr28jZ
>>529
そういう曖昧な二正面作戦やってる時点で滅ばない方がおかしい
そういう判断できない時点で勝頼は失格
片方に主軸を移すならもう片方は捨て置く位の思い切りが必要
535人間七七四年:2009/01/24(土) 11:20:51 ID:wSp2sHM5
>>529
だからって北条と武田が敵対するのは1579年以降、1577年以降で徳川の方から兵を引いたのは1579年の持船城からの撤退ぐらい、
でもこれも北条との同盟により武田をけん制するため駿府からわずか数キロ地点まで突出したからだろうし、
基本的には武田が逃げている。

>>530
徳川から高天神にはほとんど攻撃していない、高天神方面からの進出を防ぐため城を築いたりはしているが、
武田の高天神方面への出撃に対して行動するくらいで、他の人も言っているように駿河方面への出撃が主。

というか単に自分が間違っていること認められなくてとにかく反論するになっていないか、それとも単に知らないのか。
536人間七七四年:2009/01/24(土) 15:38:55 ID:7e9JyBjx
>>530

徳川は勝敗に関わらず武田と主力決戦をしたくないだけ。
仮に100%勝てる主力決戦でも、自軍にも相当数の損害が出るわけだから
そんな事はしたくない。

姉川、長篠を経験したのだから、それくらいの事を考えるのは当然でしょ。
537人間七七四年:2009/01/24(土) 15:41:57 ID:7e9JyBjx
長篠の戦の両軍の軍勢だが、当時の山は木がなかった事をすれば
連合軍3万8千、武田軍1万5千も充分配置できたので、
あり得た話だと思うが。

ただし非戦闘員を含んだ軍勢だとは思うが。
538人間七七四年:2009/01/24(土) 15:53:01 ID:4cBbw7BY
100%勝てる主力決戦ならするだろ。
持久戦や城攻めだって被害は出るし、兵站の確保や軍費相当かかりそう。
武田は78年に越後遠征もしてるし。長篠の直後やその後数年は城たくさん
奪い返したけどそのあと侵攻が行き詰ってるように見えるけど。
539人間七七四年:2009/01/24(土) 17:52:16 ID:KuwCqWmM
まあ、100%とまでは言わないまでも、家康としては7:3くらいの確立になるまで
じっくり待ったと言うべきだろうな。
幸いにも勝頼は政治的に完全に孤立していて、家康には待つ余裕があったし。
540人間七七四年:2009/01/25(日) 13:07:59 ID:yfFUIM6u
>>534
まあ勝頼も甲尾同盟をねらってはいたみたいだ。
1578年以降勝頼の遠江への動きが抑えられるのは
北条との戦いもさることながらこの和議を進めていたためらしい。
結局うけいれられんかったが。
>>535
1577年も徳川が高天神攻めて武田が出兵。
1578年11月に徳川は高天神攻めて武田が出兵してそれを防いでるが。
このときは武田は逆に横須賀攻めてる。
541人間七七四年:2009/01/25(日) 13:10:19 ID:yfFUIM6u
>>536
兵力から考えると徳川単独だと勝てても被害大きそうだしな。
542人間七七四年:2009/01/25(日) 20:48:40 ID:L+CM4vsg
武田から攻めたよ派長篠以後武田は強勢派
徳川から攻めたよ派長篠以後武田は弱体派

一体何をソースにしているんだ?両派の語る歴史事実完全に異なっているみたいだぞ。
543人間七七四年:2009/01/25(日) 20:50:20 ID:z8hGLN95
>>542
その分け方自体えらい無理がある
544人間七七四年:2009/01/25(日) 21:04:51 ID:L+CM4vsg
いや最初は
ID:yfFUIM6uとID:wSp2sHM5にしようかとも思ったけど、
最初の方から発言している人と同じかどうかわからないし、かといって全部ID抜いてい来るのも面倒、
片方の意見は一人みたいだけど、片方は複数いるみたいだし。
545人間七七四年:2009/01/25(日) 22:00:58 ID:cL+RlrVo
挑戦の役時、長篠で負けた勝頼が攻勢に出て敵の勢いを止めた故事にしたがって
撤退のために一度猛攻をかける話があったはず。

同時(といっても20年後)の感覚では、強弱なんてなかったんじゃないかなぁ……
546人間七七四年:2009/01/26(月) 13:16:40 ID:eVvtcnmp
織田側が布陣してた山ってどんなもんなんだろう。
後ろから攻撃掛けられないのかな。
たんに俯瞰図で見ると、武田が南側から回り込んで後方から攻撃掛けたら、自ら作った柵が退路を断つ形になって
武田の圧勝まであった様にも見える。
酒井が夜間移動で鳶の巣山まで行ってるのをみると、その距離移動自体は全然問題なくできるだろうし、行軍途中で
織田に気付かれてそこから開戦になっても、川の向こうに柵まで作ってる所に強襲掛けるより遥かに有利に合戦できるだろう。
柵に守られてる気分だった織田は突然無防備に敵に晒された上に、山が背後で物理的にもう退けない状況だから、
精神的圧迫も相当なもので、少し劣勢になったら崩れそうに思えるけどなあ。
まあ迂回して攻撃するという戦略を聞かないから現実的には無理だったんだろうけど、それが何故かが謎だ。
どう考えても川渡っておまけに柵も突破、などという位置取りより、川と柵を外す位置を取った方がいいに決まってる。
もちろん武田が決戦を望まないなら自陣を高所に取った元のまま、というのはわかるけど、奇襲を狙うでもなく堂々と
攻撃掛けてるんだから、戦術的に位置取り変えるのは当然ありだろうに。
547人間七七四年:2009/01/26(月) 21:08:12 ID:+xvpM3d3
別動隊の酒井の兵力は4千。
実際、現地に行くと本当に4千もの人間を通れたのか?というほどの山道。
4千が限界だったと思われる。

武田側からすれば迂回するにしても連合軍3万8千に対し
4千では少なかったのだろう。

というのが俺の推定。
548人間七七四年:2009/01/26(月) 21:14:00 ID:+xvpM3d3
武田側の思惑としては、

連合軍は長篠城を落とされたら、足助、高天神のように退却するだろう。
なので今回は連合軍を追撃したい。

なので攻城軍、と長篠城の監視隊を置いて川を渡って退陣。
長篠城が陥落して、連合軍が撤退しだい、追撃を行う

くらいに思っていたのでは?
おそらく馬防柵や空堀も撤退するための戦術としか
思っていなかったのでは???

あと当時も雨が降っていたので(俺の推定だけど)
鉄砲も使えないとも。

しかし史実は酒井の別働隊により攻城軍と監視軍は殲滅、
しかも晴れてしまった。

そんで大敗北と。
549人間七七四年:2009/01/30(金) 21:56:25 ID:xk4itK1m
>>546
単純に高松塚古墳の南方から側面に回るようなのは、戦術としては常套手段なので、
例えば武田軍左翼の山県隊と徳川の大久保隊の激突などは、翼包囲を狙う
武田軍と阻止せんとする徳川軍の激突と見る事が出来るでしょう。

織田軍にすれば、弾正山に布陣した羽柴、丹羽、滝川だけでなく、その後方に
信長と信忠の本隊が布陣しているので、これを予備戦力として考えれば
対応も可能でしょうし。

酒井、金森の部隊が通ったルートに関しては、地理に精通した兵がどの程度いたか?と
いう問題と、あと武田にすれば、あまり多くの兵を大規模な迂回攻撃には割けないという
単純な兵力の問題があったのではないかと。
あまり兵を割くと、感づかれた時に正面攻撃で押し切られてしまうやもしれませんからね。

>>548
まあ5月18日〜20日が雨というのは、改正三河後風土記には出てきますが、これなど
思いっきり後年の作なので、信憑性は分からんですがね。
雨が降って鉄砲が使えないと、武田も鉄砲が使えないので、せっかく信玄台地に
築いた陣地の防御力も落ちてしまいますし。
550人間七七四年:2009/01/30(金) 22:29:44 ID:Y5ltAS3J
負けるほうはいろんな不運が重なり、勝つ方はいろんな幸運が重なってる。
いつの時代の戦争も一緒やね。
551人間七七四年:2009/02/09(月) 22:21:00 ID:Yiqh2Y6N
>>549
それだと半日以上も武田が粘った説明がつかないよ
552人間七七四年:2009/02/09(月) 22:42:01 ID:gprjHIa0
>>68
遅いがクソワロタ
553人間七七四年:2009/02/12(木) 21:28:16 ID:TxJ7MOUb
>>552
小山田の投石部隊は何をしてたんだろう。
自らの老いを最も実感させられたのは誰あろう、信茂ではないか。

と同時に、大恥かいたとも感じたのでは?

相手は種子島なのに、自分は石ころ…。

勝頼への恨みはこの時から始まったのではないか。
554人間七七四年:2009/02/12(木) 21:45:34 ID:T3CAmZ03
>>553
いくらなんでも認識が20年古すぎる発想だよそりゃ。
555人間七七四年:2009/02/12(木) 22:45:46 ID:UZ8UvZqm
>>553
かなり活躍したみたいだよ。
現在のところ資料から鳥居元忠の左頬、佐々成政の右手、水野信元の股間に命中したことがわかっている。
556人間七七四年:2009/02/12(木) 23:00:52 ID:DDCBCpLa
ほんとかよw
557人間七七四年:2009/02/13(金) 10:24:12 ID:uaOoNdZb
何気に>>555の3人、天寿を全うできてないわな

それも当たり所が悪いほど、死に様も…といふ
実は恐るべし小山田の投石?
558人間七七四年:2009/02/13(金) 10:35:04 ID:mj7SYu05
長篠の戦は、信長公記によると、武田軍の戦死率67%(!)
これは明らかに誇張されており信用できない。(掃討戦が徹底された大阪の陣ですら27〜34%)

どうも長篠に関しては、信長の側で戦勝を過剰にアピールするキャンペーンをやっていたのでは
ないだろうか?
559人間七七四年:2009/02/13(金) 10:48:22 ID:f6Kit4s1
まあ状況的に必死のアピールを続けたくなるのは分かるわな。
ただでさえ姉川のようにアピール大好きな信長が、直前まで
ほとんど逃げ回っていた武田にうっかりとはいえ大戦果を
あげられたんだし。

とはいえ合戦直後に勝頼を討ち取ったと信じて大宣伝を
しちゃったものだから、すぐ後で勝頼がまた軍勢率いて
徳川領に侵攻してきて面目丸つぶれ、さらにそれを逆恨み、
以後勝頼側からの度重なる和議交渉を蹴りまくり、天目山の
後はわざわざ首を京都に持って行って
「どうだ今度こそ本当に討ち取ったぞ」
とアピールし直す必要ができちゃったというのがなんとも。
560人間七七四年:2009/02/13(金) 11:08:27 ID:b+UkkVdG
>以後勝頼側からの度重なる和議交渉を蹴りまくり

この交渉には勝頼が信長の臣下になるのはなかったんだよね?
561人間七七四年:2009/02/13(金) 14:20:10 ID:rcOsxdsR
>>559
本当に武田厨はウジがわくような脳みそだな
562人間七七四年:2009/02/13(金) 17:09:22 ID:f6Kit4s1
>>549
いまさらな話題だけれど改正三河後風土記って、新たな元本を再編纂
したものとはいえ、完成したのが長篠から260年も経った天保年間の
書物でしょ。今の我々が田沼時代のことを記録したのと同じで、あの頃じゃ
新しい一次史料が加わったとも思えないし、天気の推移に関しては正直
キツいっていうのは事実でしょうね。
563人間七七四年:2009/02/13(金) 21:27:30 ID:S1fi2HRV
織田の戦力を見誤って「退却のための砦」を攻めているつもりに
なっていたっていう説は、高天神攻めまでの経緯を見ると
ありえる話だと思えてしまう
564人間七七四年:2009/02/14(土) 11:52:06 ID:moicCNzb
>>561
姉川の誇張はすごい。これはガチ。
相手が言ってる被害の120倍殺して浅井長政も討ち取ったという
超過大戦果にまで膨張してる。
565人間七七四年:2009/02/14(土) 15:43:36 ID:j61XIG6U
>>561
蛆が湧いてるのはどう見てもお前w
566人間七七四年:2009/02/14(土) 17:27:07 ID:3+Wenu+L
桐蔭横浜
567人間七七四年:2009/02/14(土) 23:39:00 ID:kSeuFoQ6
武田軍の損害を1万、連合軍6000とか
武田軍の損害1000、連合軍の損害600
とか言うじゃん。
敗走時に武田に大損害が出てる事を考えたら
それまで戦の序盤から中盤までは、
むしろ武田の方が被害が少なかったんじゃないかなぁ。
そう考えると、鉄砲も馬防作もあんまり役に立ってない様な。
逆に考えれば武田側にも十分勝算があったんじゃないか?
568人間七七四年:2009/02/14(土) 23:42:07 ID:2Bv0b7du
>>567
> 敗走時に武田に大損害が出てる事を考えたら

敗走した側に大損害が出るのは、鉄砲の普及したこの時代の合戦では通常の事。
鉄砲は追撃戦での相手の死傷率を格段にアップさせた。
569人間七七四年:2009/02/15(日) 00:03:09 ID:zZH+FdLS
>>568
えーと論旨としては、
敗走時に大被害を受けてるのは、否定してないというか肯定してる。
それで6割ぐらいが敗走時の被害とすれば、それを除けば、
武田の損害400、連合軍の損害600で、敗走するまでは、
多数の敵相手に攻勢側の武田の方が損害が少ない。
それで、世間で言うほど織田側が有利な戦じゃなかったんじゃ
無いかと言いたい訳。

570人間七七四年:2009/02/15(日) 01:23:00 ID:5YREGus0
ランチェスターの法則というものがあって、織田徳川連合軍38000vs武田軍15000が
真正面から激突した場合、武田軍が1人残らず磨り潰されたとしても連合軍側は
損害が3000で済むという計算になるらしい。そういう意味では善戦したといえるかも
しれんが、勝てる可能性があったかといわれると・・・。
571人間七七四年:2009/02/15(日) 01:27:44 ID:1hGGRuKi
>>569
敗走とか崩れとか、そういう状況になるまでの損害が少ないのは当たり前
…な気がするんですが……
572人間七七四年:2009/02/15(日) 06:00:11 ID:3ctcHV+J
あんた川中島も知らないの?
573人間七七四年:2009/02/15(日) 08:03:31 ID:zZH+FdLS
>>571
敗走前でも、数が少ない方、攻勢側の方が被害が多いのが普通、
ましては、敵が陣地に篭ってるなら、被害はかなり多いはず。
逆に考えれば、.織田側の陣地は機能してないと思う。
数も正面戦力では、それほど差がなかったんじゃないかなぁ。
574人間七七四年:2009/02/15(日) 14:45:50 ID:g0AbbfWk
勝った側が、途中経過では被害が大きかったなんて世界の戦史上いくらでも
ある普通の事例だと思うが。
575人間七七四年:2009/02/15(日) 15:01:19 ID:zZH+FdLS
だから別に異常とは言ってない。
576人間七七四年:2009/02/15(日) 15:54:25 ID:1hGGRuKi
>それで、世間で言うほど織田側が有利な戦じゃなかったんじゃ無いか

これだと、何が言いたいのか、よくわからんよ。

世間で言う”有利”ってなになのかわからんし(そんな評価した人いたっけ?)
被害が少なくても、当初の作戦目的を達せなくて直後”崩れ”てしまったなら
どーみても当時の武田側が不利だと自覚してたわけだし……
577人間七七四年:2009/02/15(日) 17:45:16 ID:3ctcHV+J
だから同じ武田軍の川中島合戦程度の知識もないやつが出てこなくていいってw
578人間七七四年:2009/02/16(月) 05:08:49 ID:eHu+kYWM
3ctcHV+Jは、煽るだけで説明をしない馬鹿
579人間七七四年:2009/02/16(月) 21:56:18 ID:0wHp1vn4
>>567

敗因は何だったのだろ?
580人間七七四年:2009/02/17(火) 04:36:27 ID:HZEj7cyK
>>579
単純に兵力の差だろ。
581人間七七四年:2009/02/17(火) 07:26:58 ID:N/9GvLJi
>>579
予備兵力の差、地形等の制限で一度に戦える
兵数を互角以上にすることに成功した為、、
戦術的に武田が優勢に戦えてるんだけど、
織田が予備戦力を巧みに投入して崩れないん
で長期戦での疲労と兵力の損害から、
武田側が逆に敗走って感じかと。、
582人間七七四年:2009/02/18(水) 13:32:11 ID:QwUh8ixj
>>578
どう見てもその程度の知識のないお前がバカだな
583人間七七四年:2009/02/18(水) 20:35:05 ID:a4/jTLXu
>>582
どう見ても煽るだけで説明をしないお前がバカだな
584人間七七四年:2009/02/18(水) 22:27:31 ID:PUlRcM4i
川中島、川中島って何が言いたいのだ??
第4回?でも啄木鳥戦法は創作なんでしょ?

585人間七七四年:2009/02/18(水) 22:36:47 ID:PUlRcM4i
長篠の戦は、

武田軍が連合軍の柵を撤退の準備と思った
→長篠城の攻城部隊と監視部隊を残して追撃の準備のため寒狭川を渡った
→長篠城が陥落、連合軍が撤退しだい追撃をして信長を討ち取る
→しかし連合軍の別働隊が監視部隊と攻城部隊を撃破
→武田軍は前後から挟まれて、連合軍に突撃
→鉄砲の一斉射撃(3段撃ちは無いと思うが)により武田軍敗北

が真相だと思う。

足助、明智城、高天神城の流れから、武田軍は連合軍は長篠城を
助けるとは思っていなかったのだろう。
586人間七七四年:2009/02/18(水) 23:10:21 ID:Nnixxcn1
>>585
>武田軍が連合軍の柵を撤退の準備と思った

この説新しくね?一瞬なるほどと思ってしまったわ。
587人間七七四年:2009/02/18(水) 23:20:45 ID:PUlRcM4i
>>586

俺が勝手に考えたから新しいかもね(w

決戦前の勝頼の書状には
「連合軍に突撃すれば勝てる!」
といった類の事が書いてある。

普通は3万8千の連合軍に1万5千の武田軍が
突撃しても勝てるとは思えない。

しかし撤退する3万8千の連合軍に
1万5千が追撃するとなれば
勝てると思ったのだろう。

特に武田勝頼は長篠の戦以前まで
負け知らずの状態だったからね。
588人間七七四年:2009/02/19(木) 03:08:41 ID:bEKbQ1Lx
武田厨の妄想解釈は実に笑える
589人間七七四年:2009/02/19(木) 11:15:01 ID:7ck0lRoJ
>>588
実際>>587の言うとおり決戦前の勝頼の書状には「敵は追い詰められて打つ手がないみたいだ。
こちらから一気に突撃する。戦を危ぶむものもいるけど大丈夫だろう。」
というような事が書いてある。

ちなみに合戦後に勝頼が出した書状では「織田徳川が兵を出して長篠の後詰にきたので
一気に襲い掛かり多くの敵を打ち取って撃破した。勢いに乗って信長の陣まで押し寄せたが
敵は陣を構えて篭城していたので、攻めたら損害を受けた。」とある。
前哨戦の勝利に酔って突撃してしまったというのが実情みたいだ。
590人間七七四年:2009/03/04(水) 17:15:50 ID:HpSGgSis
長篠を扱った小説ではじめに読んだものが新田次郎だったりしたので、
わりとガキの頃から「3000丁の鉄砲隊で騎馬軍団が壊滅」というのは
否定されている空気を感じながら育ったクチだ。

新田次郎が生前からよく言っていたのは、午前11時から始まった合戦が
織田・徳川軍有利の形で均衡を崩したのは午後2時過ぎとだいぶ長い時間が
経過しているっていうこと。
「もともと武田軍は派手な戦いよりしぶとい戦いをする軍勢で、大きな戦いでは
決まって大将格の戦死者を出すけれど、最後には陣場に踏みとどまっていた。
長篠でもいずれ必ず勝てると踏んでいたからこそ何時間も敵陣を攻め崩そうと
していたのだ」ということをよく言っていて、>>573氏の言うように、ある時点
までは互角に近い戦いをしていたというイメージを刷り込まれたものだった。

つまり昼過ぎまでは、よくある合戦のように双方とも遠距離攻撃(石・弓・鉄砲)を
防ぎつつ接近し、砦をはさむ形で一進一退の戦いを繰り広げていたけれど、
もともとの兵力に劣る武田軍がじりじり数の不利を露呈してきたところで、
形勢不利と見た穴山はじめご親類衆が、櫛の歯を欠くようにどんどん戦場を
離脱していって戦線が決壊した、というもの。

じっさい三河物語などでも「(陣地を)取りつ取られつ」という言い方をしていて、
要塞と化した陣地から鉄砲で迎撃していたとは言うものの、序盤はそれほど
一方的な戦いだったとは思ってなかった。じっさい、「柵の近くで鉄砲で
死んだ武将は土屋昌次だけで、あとはみんな退却の中で討ち取られた」という
話がどこまで信憑性があるかわからないけれど、少なくともみんな鉄砲で
突撃の最中に射殺されたなんていう話は信用できないというのが実感だなあ。
591人間七七四年:2009/03/04(水) 17:30:20 ID:HpSGgSis
このスレの今までの書き込みを見ても、高天神までの流れから
武田側が、連合軍の砦作りを「撤退・退却のための備え」だと
思い込んだ、という考え方は結構広まってるように見える。

そもそも信長の本陣は当初、見えない地点に隠れていたというし
本隊3万の軍勢はいわば武田側が最初の布陣を立案してから突如
湧き出てきた可能性さえあるわけで。

ちょうど信長が姿を見せない時点で敵味方の布陣を終えさせ、しかも
敵方が浮かれるような戦果を挙げたところに、親衛隊2000を率いて
特攻をかけた桶狭間と同じような感じになった要素もあったのかね?
592人間七七四年:2009/03/04(水) 20:45:31 ID:WHCfkifr
>逆に考えてみれば、信長も、勝頼の目の前で、別動隊程度ならともかく、
>本隊を移動させる事は出来なくなったって事なんだぜい。
>前進しようとすれば、勝頼が陣地を築いて待ち構えている。兵力倍でも
>無傷では突破できようはずもない。後退すれば追撃される。兵力倍でも
>後退しながらはキツイ。つまり、勝頼は逆に信長を、長篠城から3km
>ばかり離れた弾正山に、拘束したという風にも見られるんだな。

両軍ともに夜半までに川岸を要塞化して、夜明けとともに布陣して
睨みあい。互いに拘束しあっていたのが、11ごろに武田側が突撃。
それが後ろを切り取られた事によるやけっぱちだったのか、勝頼が
ヴァカだったのか、…とまた話が振り出しに戻っちゃうな。

やっぱり高天神まで信長が直接対決を逃げ回っていて武田全軍が
自信満々だったことが大きかったということだろうか。

593人間七七四年:2009/03/05(木) 01:06:49 ID:yX3uIRVo
なんというかミッドウェー海戦みたいな感じだな。
594人間七七四年:2009/03/05(木) 04:04:43 ID:suG6a6xO
>>583
どう見ても理解できないあんたがバカだぞ。
痛々しい奴。
でも>>577も、相手が知識がないと思ったら解説してやればいいのに
バカ相手に優しさが欠けてる。
595人間七七四年:2009/03/05(木) 04:14:56 ID:suG6a6xO
てか、書いておくと

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/15(日) 01:27:44 ID:1hGGRuKi
>>569
敗走とか崩れとか、そういう状況になるまでの損害が少ないのは当たり前
…な気がするんですが……

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/15(日) 06:00:11 ID:3ctcHV+J
あんた川中島も知らないの?

こういう流れだから、要は戦場確保した武田が副将死ぬほど散々にやられてるときもあるのに、
敗走するまで損害少ないのが当たり前なんて間抜けた事言ってるのを笑ってる話だろ。
無知を指摘されて当然な流れだな。
まあヒントもないから勝手に推測したが違ってたら直しといてくれ。
596人間七七四年:2009/03/05(木) 05:37:13 ID:NtMhbuYz
1hGGRuKiは単発でおいらなのですが……ついでによくわからないので質問。

長篠合戦の被害状況は、突撃での兜首より撤退時の追撃が多いのだけど、
これは 武田軍が撤退に失敗して”崩れ”たわけじゃない、
と判断してるから”川中島”の例を出してるんですか??
597人間七七四年:2009/03/05(木) 08:37:44 ID:EMekxpeP
まあ、もう川中島云々の話はなかったことでいいんじゃないの?

いわゆる川中島第四回会戦については、甲陽軍鑑の記載を除いたら
戦況を知る手がかりは無いに等しいんだし。あるのは武田軍側が
当時の常識では考えられないような大物を失って、でも戦場である
川中島は会戦後、完全に武田の勢力下に置かれることになった…、
という状況証拠しかないわけで。

まあつまるところ「戦史上、負けた側が戦いの途中までは有利だった
例はたくさんある」「武田軍は特に幹部格を失うような戦い方をする
傾向が強かった」ということでいいのじゃないかと。
598人間七七四年:2009/03/05(木) 19:19:06 ID:NtMhbuYz
>>597
信濃が武田の支配下に入ったのは、合戦の結果で奪い取った訳ではなく、
休戦を結んでも敵方地元勢力を取り込むことをやめなかった
信玄の調略的豪腕が理由じゃないですかねぇ……

つか、>>595から>>597の結論は、ちょっと導き出せないですよ。
しかも武田軍だって戦闘を仕掛けたら必ず大物の首が取られてるわけでもないし……
長篠合戦は、勝頼もそれ以後、軍制を北条方式導入(獅子印章の使用etc..)したくらい
武田家とっては衝撃的被害だったわけで、その大部分が突撃時だけ、
…とみなすのは無理な気がしますしね。
599人間七七四年:2009/03/06(金) 12:53:01 ID:IuUujIqg
ところで唯一「柵の外」つまり「要塞なみに改造した野戦陣地」から出撃して、
武田軍左翼と純粋に「野戦」を戦った徳川勢って結局どうなったんだっけ。

>>589にあるように「織田徳川が兵を出して長篠の後詰にきたので襲い掛かり
多くの敵を打ち取って撃破した。勢いに乗って信長の陣まで押し寄せたが
敵は陣を構えて篭城していたので、攻めたら損害を受けた。」というのなら
序盤の戦いでは純粋な野戦が行われていそうだけど、信長公記では柵の外に
織田軍は誰も出さなかったみたいに読めるんだけど。

藤本正行も何度も力説してるように、太田牛一は織田軍団全体ではなく、
いつも信長親衛隊、いわば本隊の動きについて記述している。ところが
大須賀記では対陣していて午前十一時ごろに戦いが始まった、と言うのに
対して信長公記は夜明けすぐに戦いが始まった、と言ってる。

唯一三騎の騎馬武者も含めて外に出た徳川軍が夜明けと共に戦って大敗し、
その「前哨戦の勝利に酔って」武田軍が昼前ごろから織田の陣地に突撃して
防御側の鉄砲を忠臣とした厚い迎撃にすりつぶされて兵を損じていったと
いうならわかりやすいんだけど、逆みたいに読めるんだよね。
まあ布陣を展開するのも戦いなのかもしれないけど。
600人間七七四年:2009/03/06(金) 20:50:40 ID:hCNLjXiI
>>497から>>510にかけて論じられてるよ。
「日の出から未の刻まで入れ替わり立ち替わり武田が戦った」
とあるし「諸卒を討たせ」とも言ってるが、たしかに一兵も
外には出さなかったとも言ってる。
601人間七七四年:2009/03/06(金) 20:51:24 ID:u6oh7lId
当時の火縄銃の射程距離が13mって思ってるアホは戦国を語る資格はない
出直しこい
602人間七七四年:2009/03/06(金) 20:55:26 ID:BSQeyY1m
>>601

>>72
このスレにそんなこと思ってるのはいないよ??
603人間七七四年:2009/03/06(金) 21:04:22 ID:hCNLjXiI
>>601はこのスレを最初から読んで、頭の20スレまで見たところで書き込んだのだろう
604人間七七四年:2009/03/06(金) 21:32:18 ID:HXJadfsV
>>597
織田の戦歴とかも見てみればわかるが
「武田軍は特に幹部格を失うような戦い方をする 傾向が強かった」
というわけでもない。

軍鑑以外でも武田側の妙法寺記には戦いのやや詳しい描写がある。
それでは武田勢の横入れ(側面攻撃)が大きな戦果を出したとあるから
啄木鳥作戦の元ネタはこれだと思われる。

>>599 >>600
信長公記にも足軽を織田勢が繰り出してる事は書かれてる。
後、軍鑑も長篠日記も武田勢と織田勢が陣を中心に入り乱れて戦ってる所が
描かれている。信長公記の書き方は異常にこの戦いに冷淡なように感じるな。
605人間七七四年:2009/03/06(金) 22:55:35 ID:jA7dWlN8
>>604
>信長公記の書き方は異常にこの戦いに冷淡なように感じるな

信憑性の高いと言われている信長公記が何でこんな書き方をしているのだろ?
実際は信長公記にあるように連合軍の圧勝だったのか?
と思ったけど、やっぱり違うと思う今日この頃。
606人間七七四年:2009/03/06(金) 23:20:59 ID:LixUx5z3
うむ。明らかに信長公記の長篠は過剰宣伝。
連合軍の「圧勝」とは言いがたい。
607人間七七四年:2009/03/07(土) 01:38:06 ID:9FrtE6pK
余談だが、実は長篠合戦では明智光秀が大活躍だったんだけど、
当然ながら逆臣である光秀のことを褒めるわけにはいかないので光秀の名と功は省かれた。

って誰かが書いてた気がする。谷口さんだったかな。
608人間七七四年:2009/03/07(土) 07:52:23 ID:SA9YBZ/5
信長公記って司馬遷の史記の列伝っぽい書き方だなと思った
書いてる人物の名誉を重んじる(不名誉なことは書かない)書き方してる
609人間七七四年:2009/03/07(土) 10:00:08 ID:nbILprV9
やっぱり「記述が不自然に飛んでいる」とされている18日からの二日間と
夜明けの戦いが開始されたとされる8時頃から11時までの間に、それぞれ
織田方にとって「不名誉なこと」があったのかな。

それが武田勝頼にとって「前哨戦で快勝した」「後詰めの多くの敵を討ち取った」
ということだったのかどうか。
610人間七七四年:2009/03/07(土) 16:13:48 ID:J1nk8stA
家康と信長との関係、三方ヶ原の戦い以後は必ずしも良好ではなかったのではないかと推測する。三方ヶ原の戦いで、家康は同盟の義務を早めに果たして、以後は傍観しようとした。
このため信長は、生涯最大に危機に陥ったのだが、信玄の死によってかろうじて救われた。信長としては家康が信玄に仕掛けず、後方にあって牽制し、折を見て挟撃することを期待していたのだが、家康はそれを守らなかった。
しかもそれによって織田の援軍の多くを失った。家康は信長に対し大きな借りを作り、両者の間には隙間風が吹き始めた。これを救ったのが、勝頼の高天神城攻めである。信長の救援が遅れたのがわざとであったとは思わないが、救援は間に合わず落城した。
これにより信長も家康に借りを作り、両者の借りは相殺されて同盟は再び蘇った。
つまり勝頼の失敗は、高天神城攻めに成功して、両者を和解させてしまったこと。高天神城を攻めず、長篠城攻めを先に行うべきだった。
611人間七七四年:2009/03/07(土) 16:31:29 ID:kL1eqGHF
武田方は名のある武将がばたばた討ち取られているのに、織田徳川方には損害が殆どない。
城持ち以上の首脳部への打撃にいたってはパーフェクトゲーム。
小競り合いで勝って、それまで畿内の事情とかでやむなく引き腰だった織田軍をそれが実力だと勘違いした勝頼らが逸ったのかな。
散々言われていることだが、重臣の同意なしでは勝頼は決戦に踏み切れない。
最悪、信玄時代にあったように馬場あたりが独断で持ち場かえる可能性すらあった。
612人間七七四年:2009/03/07(土) 18:34:10 ID:B2LS4EZq
>>612
内藤にも起請文だしたり、信玄に取り立てられた連中を制御するってのは
なかなか大変だろうしね。で、集権化に一役買ったであろう跡部大炊などは
奸臣よばわりされると
613人間七七四年:2009/03/07(土) 19:44:20 ID:nbILprV9
武田家の「歴史」って、信玄時代が良く思えた後は一度もその境地に
辿り着くことがないままで、「信玄公最高、他はクソ」状態で延々と
語られてしまったものだからね。

その後良い状態が何度か訪れていれば信玄も「中興の祖」くらいの扱いに
なり、信昌、信虎、義信、勝頼らも正当な評価を受けられたのだろうけど
柳沢吉保も信玄公マンセーで元の黙阿弥。まるで85年に日本一になった
阪神のバースみたいなもので、過剰に神話になってしまった。
614人間七七四年:2009/03/08(日) 01:29:34 ID:f5kun0CI
確かに例の肖像画はバースに見えなくもない。
615人間七七四年:2009/03/08(日) 02:21:31 ID:AsGgmcD2
>>611
決戦前の勝頼の書状では「戦を危ぶむものもいるけど大丈夫だろう」っていうのがある。
この戦いでは勝頼とその意を受けた側近や外様衆などの重臣が決戦を主張し
譜代衆や一門は決戦に懐疑的だったと軍鑑とかにはあるな。
武田家当主の権限は実は結構強かったりする。
>>612
集権化っていう言い方がどうにもな。
とりあえず武田家当主の力は結構強いし、勝頼の権力も権威も最終的には
相当なものになってる。
>>613
実際一代で甲斐一国から100万石超える大国にまで発展させるのに匹敵する業績って
歴代に求めてもなかなか叶わないと思うが。
信虎以前は甲斐一国さえ支配がおぼつかなかった事を考えるとなおさら信玄の業績が
巨大に見えるんだよな。
616人間七七四年:2009/03/08(日) 02:33:45 ID:3kdDyPn+
「集権化」って言うのは、後に武田が滅びる時、家臣団がぼろぼろになったことから来る逆算だよなー。
そう言う意味でなら信長も秀吉も、「集権化」出来てない。
武田家が滅ぶ直前あんなにばらばらになったのは、織田徳川の、ながーい事かけた調略の
成果だよ。

逆算での歴史解釈は絶対に間違える。
617人間七七四年:2009/03/08(日) 16:44:05 ID:f5kun0CI
北条は秀吉に攻められたとき裏切ったり敵前逃亡する奴あまり
いなかったように思うが、それに比べると見劣りするね。
618人間七七四年:2009/03/08(日) 19:12:17 ID:AsGgmcD2
武田は数年にわたる多方面作戦で疲弊してたしな。
北条も自落やあっさり落城は結構多かったし。
619人間七七四年:2009/03/09(月) 01:46:54 ID:D0SqJ+xG
まあ信濃国人の真田昌幸を普請奉行にして(昌幸の経歴を考えると、通常の
信濃衆と一緒に考えてよいのかという問題もないわけじゃ無いが)、新府
築城がなされた点を考慮すれば、勝頼政権の末期には、かなり武田家当主の
権限はつよかったことが窺えるけど、これはあくまでも内部的な話であって、
外圧に対してどうこうとなると、また別問題なのよね。

620人間七七四年:2009/03/09(月) 10:51:52 ID:wWnGaXoO
日本甲冑史下巻で故中西立太氏が長篠の戦いで
信長記を基にして
攻めるか退くかで揉める武田家→信長が出てきて大鉄砲で挑発→柵前に出撃した敵勢と混戦状態で鉄砲の無効化を武田家は想定
→しかし出てきたのは徳川の300騎の騎馬鉄砲隊(?)→慌てて混戦に持ち込むとする武田、しかし騎馬ですぐに逃げる徳川
→退いた前には柵と鉄砲隊→ギャー
という流れを書いているのだけどこれを裏付ける出典あるの?
まぁ、それはともかく素晴らしい本なのでぜひ購入する事をお勧めします
621人間七七四年:2009/03/09(月) 12:06:33 ID:qGPkHqHB
そこだけ読むと、どういう意味で「素晴らしい」のか悩みそうだなww
622人間七七四年:2009/03/09(月) 12:37:37 ID:Ogk+oiV7
>>615
あやぶんだもの、が軍鑑どおりとは限らないぞ。
主力握っていた譜代が反対だったら、戦うことはできない。
むしろ実力はない勝頼側近が反対したが、重臣達が押し切ったというほうがまだ自然。
623人間七七四年:2009/03/09(月) 23:15:28 ID:q85C9fFN
>>620
>攻めるか退くかで揉める武田家

ここまでは同意だが、以下は賛成できないな。
そもそも自軍の3倍近い相手を前に、川を背に布陣する事が
説明できない。

やはり、俺は武田軍が連合軍の柵を撤退のための陣城と
見誤り、川を渡ったと思う。

勝頼の書状には「相手は手だてを失っている」とあるのが根拠。

また信長公記には「相手から見えないように陣を敷き」とあるのが
これは信長が「相手に撤退とおもわせるための布陣」の証拠ではないか?
624人間七七四年:2009/03/09(月) 23:20:43 ID:dBwLzMNE
>>622
長坂とか跡部とか実は信玄時代から重用されてた連中で
実力ないわけじゃないんだが。
まあ長坂とか現地にはいなかったんだけどさ。
それ抜きにしても譜代衆や一門が積極的に決戦求める必要がないんだよね。
外様衆や当主側近が華々しい勝利を得て手柄を立て、自分達の地位向上をはかるというのは
よくある話だし。
625人間七七四年:2009/03/09(月) 23:32:12 ID:9SbOZTPh
>>623
相手が広く展開しているところに(更に相手は山を背にした陣城なので兵力移動は困難)
攻撃の戦力を一点に集中し突破できれば、側面から順繰りに殲滅はできる

因みに信長の挑発は信長本人に大鉄砲足軽5人というからこれで退いたら、天下の笑いもの
という感覚は理解できる
626人間七七四年:2009/03/10(火) 12:38:19 ID:ZTGR6NZi
>>624
占領地の支配を申し付けられ、加増されるのは親族衆を別格とすれば、大抵譜代衆だよ武田の場合は。
新参や先方は損害の激しい役目ばかり押し付けるわりに実入りはよくなく、保守的。
実際、いざ戦いが始まると積極的に戦ったのは譜代衆が主。
627人間七七四年:2009/03/11(水) 12:02:11 ID:30eLWT4O
>>626
先方や新参や低い身分でも働いて能力を示せば出世できるし
譜代に等しい扱いを受けられる、もしくは譜代になれる。
真田とか大熊とか春日とか馬場とか内藤とかね。
真田とか壮絶に戦ってるし、チャンスが欲しかったのは彼らなのでは。
628人間七七四年:2009/03/11(水) 18:01:12 ID:zqhoxUlu
>>627
春日(高坂)などの近臣出身から出世した系統と、真田のように先方衆から
大きく引き立てられた連中とは一概に同列には見れないかも。
原美濃守などのように、他国から流れてきた連中などは、足軽大将どまりと
いうのもあるし
629人間七七四年:2009/03/11(水) 20:35:16 ID:6wYOmv3W
>>626
>相手が広く展開しているところに(更に相手は山を背にした陣城なので兵力移動は困難)
攻撃の戦力を一点に集中し突破できれば、側面から順繰りに殲滅はできる

武田も連合軍に合わせて広く展開したのだが。
630人間七七四年:2009/03/12(木) 11:43:45 ID:6X3GK4Oh
譜代衆が主力になって戦ったのは、
「諫言がいれられなかったゆえの自殺攻撃」みたいに言われているけど、戦国武士の行動原理からしてありえないわけで。
強硬論を主張した譜代が、それを実証するために戦った可能性のほうが高いな。
631人間七七四年:2009/03/12(木) 11:54:24 ID:6X3GK4Oh
もし勝頼が重臣の意向無視するようなことしたら、
それこそ信虎がやられたように重臣らから逆に追い出されるだろう。
武田の大名権力なんてそんな程度だった。
特に小山田らは、武田の家臣というより旧敵から格下の同盟者になった程度で自治権さえもってたしな。
極端な話領土と権益を保障してくれるのなら、主君が武田でなければいけない理由はない。
632人間七七四年:2009/03/12(木) 18:10:19 ID:mufkuB37
>>630
どっちにしろ譜代は主力だから戦闘となれば果敢に戦わねばならないと思うが。
>>631
だからどうしてそう極論に走るのだか。
武田家当主の権限は結構強いし、勝頼も晩年ともなれば一門が積極的に勝頼に近づいて
地位向上をはかってるくらい。
小山田は人質とられてるし、税金かされてるし、法も施行されてるし、
戦にはずいぶん駆り出されてるし、扱いは譜代家老衆なんだが。
明確に家臣化してる。
633人間七七四年:2009/03/12(木) 20:01:26 ID:DRs7Hr4e
極論は複雑な思考が必要なくて、理解するのが楽なんだよなw
634人間七七四年:2009/03/12(木) 22:49:45 ID:eojYLXyS
このスレで重要なのは「長篠の頃の勝頼の当主権力」じゃないか?
晩年のたとえを出されてもどうしようも。

信長だって若い頃は家来豪族からも舐められてたが、次第に抑えつけて
権力を確立していった。家康、元就、信玄、謙信、みな同じ。
635人間七七四年:2009/03/14(土) 15:16:33 ID:RrltMoVU
>>632
極論じゃなくて事実だろう。
実際に当主追放という事実があるのは武田家。
各領主が強い自治権を持っていたのも事実。
信玄時代でさえ、勝手に持ち場変えた馬場などを罰せ無かったのも事実。
(従わなかった馬場が正しく、容れた信玄の度量が大きかったんだ、と軍鑑では美化しているが)
極論どころか、思い切り史実を下敷きにした当然の推論じゃないか。
軍鑑の記述を信じるとしても、敵前逃亡同然の穴山衆らすら罰せ無かったのが勝頼だぜ?
636人間七七四年:2009/03/14(土) 16:00:32 ID:RrltMoVU
>>632
馬場らと同陣していたその穴山衆は、主力だったのにろくに戦ってないが。
他の親類衆の部隊も同様。(本戦においては親類衆からは名のある武将の損害が殆ど出ていない。)
主力だから、反対でも奮戦しないといけない、というのは違うだろう。
637人間七七四年:2009/03/14(土) 16:39:19 ID:SUOVASWz
武田家の負の部分はすべて勝頼と側近に押し付けろってのが軍鑑のスタンスだからね。
信玄公とその譜代はすごかったことにしないと困るみたいな。
638人間七七四年:2009/03/15(日) 12:42:01 ID:zg/jnq3N
>>635
いや、単なる極論。
信虎の一例だけでもって全てを論じられてもな。
その各領主とやらは信玄時代に思いっきり家臣化されてるのが
史実なんだが。
小山田・穴山をはじめとする領主も明確に武田に取り込まれ
各領主が戦争で窮乏してもなお軍役に駆り出しているくらい
武田当主の権限は強いぞ。
その穴山自体が勝頼と縁組して自分の立場をあげようとしてるくらいなんだが。
>>636
穴山はもともと後方支援が主なんだが。
三方ヶ原の穴山の部署知ってる?
一門は大抵後方で支援するのが自然なんだが。
>>637
なんでそんな結論になるのか意味不明だが。

639人間七七四年:2009/03/15(日) 20:53:31 ID:Tw5uY69x
この語り口はまさか・・・・・・!?
640人間七七四年:2009/03/15(日) 21:00:59 ID:t1SX6WVI
知っているのか、雷電!
641人間七七四年:2009/03/15(日) 21:19:19 ID:RZSWYguk
>>638
>一門は大抵後方で支援するのが自然なんだが

でも川中島では武田信繁が死んでいるよね。
長篠のように譜代が死んで一門衆が助かったパターンってある?

>その各領主とやらは信玄時代に思いっきり家臣化されてるのが
史実なんだが。

穴山領の金山に関わる税金や小山田領での通行税などは
信玄が直接決める事も徴収することも出来ていないはず。

あと信玄が「小山田(穴山だっけな?)が言うことを聞いてくれないので
物事が決められない」といった愚痴めいた書状が残っている。
642人間七七四年:2009/03/15(日) 22:43:10 ID:RZSWYguk
>>638
>穴山はもともと後方支援が主なんだが。

長篠での穴山の布陣場所を考えれば殿を務めるべき。
ましてや前線で戦っていないのだから。
しかし実際の殿は前線で戦っていた馬場。

やっぱり穴山は勝頼を見限ったと思うんだけどなぁ。
643人間七七四年:2009/03/16(月) 11:13:53 ID:/KSKgRQg
穴山と勝頼の関係一つとっても、まず前提としてこの時代の甲斐国守と
国人領主、特に御親類衆の関係を概括しておく方がいいと思うよ。

そもそも「家臣化」といってもずっと後代の太閤検地すら拒絶する
領主がざらにいた日本で江戸中期以降みたいな家臣化なんて実現
できていたはずはないし、さりとて国人は国守が呼びかけた戦闘に
参加するもしないも勝手、みたいな戦国初期のごとき関係が維持
できていたはずもない。揚げ足を取るみたいに「極論に対する反証」を
10や20挙げたところで話はまとまらないよ。まあここに来るような
人は大概のところは判ってるのだろうけど。
644人間七七四年:2009/03/16(月) 11:25:28 ID:/KSKgRQg
長篠は、一説によれば足軽大将格以上で死んだ者が42名もいるのに対して
御親類衆で死んだのは鳶の巣の武田信実だけ。
戦いの最中に裏切って離脱した山家三方衆を抱えていた武田信豊の隊はじめ、
信廉、信竜、信君ら中央を固めていたはずの隊がみんな遁走してしまったため
まだ直接戦闘のさなかにあった前線部隊が逃げ遅れて、数に勝る連合軍の中に
取り残されてしまった。

そうなると組織的な退却ができないから、本来ならば被害に遭うはずのない
領主クラスの大将が、追撃された際に常識ではありえない大損害を受けた、
ということなので、極論すれば本部が逃げて兵が置き去りにされた格好だろう。

穴山らは一斉に勝頼を見限ったというより、後方から戦況を見ていて、劣勢を
意識した者からめいめい勝手に離脱していったという感じだ。公記の武田軍の描写
「次第次第に無人になりて」というのがリアルだし、戦場に残っていた部隊が
「いづれも武田四郎旗本へ馳せ集まり」というのも、勝頼の周辺の親類集がみんな
ポッカリ不在になっているさまをうかがわせる感じで。この辺は事情が違うと
わかってはいても、やっぱり武田末期の崩れ方と同じ甲斐の人間の「俺は俺」
という体質を感じてしまう。

まあ秀吉の時代どころから大阪の陣の頃になっても、家臣やら配下の部隊の
合戦を統制できていなかったのが現実なのだから、むべなるかなとも思うけど。
645人間七七四年:2009/03/16(月) 11:32:53 ID:/KSKgRQg
言い忘れていたけど、合戦後しばらくのあいだ信長が「勝頼も討ち取った」と
豪語していたのは、親類衆がみんな戦場からいなくなってしまった後でも
本陣の「大」の字の旗がいつまでも戦闘に参加していたから、他はともかく
勝頼だけは戦場を離脱できないままだったと判断したのじゃないかな。

「あの時点まで戦闘に参加していた勝頼が逃げ切れたはずがない」という
現場の判断で、死体は見つからなくても生きていられたはずがない、と
確信したということなのじゃないかと。

まあ信長は姉川でも「浅井を討ち取った」と公言しちゃうくらいの誇大喧伝屋だと
言われるとそれまでなんだけど。
646人間七七四年:2009/03/16(月) 12:04:00 ID:J63M3sOu
武田内の確執って、勝頼とその側近VSその他、じゃなくて。
親族衆VS新興譜代みたいなもんじゃないの?>同陣だったのに戦意も損害も違う。
武田の譜代って、実は相当数が信虎が他国者を取り立てて譜代化したもので
(そのにわか譜代さえ、信虎追放には賛同したわけだが)
一代の家臣よりは信頼できるかどうかってレベルでしょ。
その手の派閥抗争の煽りで、結果として大敗したためにそれが信玄贔屓の手で捻じ曲げられたのでは?
647人間七七四年:2009/03/16(月) 12:05:22 ID:J63M3sOu
(切れた)
武田軍が譜代は異様な戦意、親族衆は逃げ腰というばらばらじゃなくて、戦うにしろ逃げるにしろ一致団結していたらこれほどの損害はなかったんじゃ?
648人間七七四年:2009/03/16(月) 12:47:23 ID:J63M3sOu
>>638
同じ親類衆でも、信豊衆は譜代に続いて戦っているわけだが。
支援が当然、とかありえない。
三方原でも、荷駄隊を預かって支援したのは譜代衆だし。
649人間七七四年:2009/03/16(月) 12:50:19 ID:J63M3sOu
具体的には、当時の勝頼衆は支援どころか主力として出て徳川軍背走のきっかけになる突撃をしている。
荷駄隊を預かって支援していたのは甘利衆(実際の指揮官は同心頭の米倉で、最後には荷駄を放棄してまで攻撃参加しているが)
650人間七七四年:2009/03/16(月) 13:02:53 ID:J63M3sOu
>信虎の一例

実際には追放とはいかないまでも、有力家臣や豪族の専横を許した例はいくつもある。
信玄にしてからが自治権もった家臣一門に悩まされているし、勝頼は他の親類衆と比べてもふがいない穴山にまったく手がだせなかった。
16代の武田信昌時代とか。
と、いうか戦国時代の大名権力なのはその程度なのが通例で、
むしろ一代で強大な大名権力整備した信長らが異常。
651人間七七四年:2009/03/16(月) 14:31:23 ID:ndaT4mup
信玄時代でさえ、「一年に二度も戦をする」程度で信玄は信虎と同じだ、と民に嘆かれたほど(妙法寺記)
信玄時代中期から勝頼の代にかけては、それこそ全方位敵に回してあちこちで戦していたわけで。
軍役の負担がもう過大すぎて爆発寸前だったんじゃないの?
穴山ら親族は、働きの割りに駿河とか加増されているのに、譜代はぴーぴー。
早く織田徳川倒して領地くれ、と主戦論ぶっても不思議ではないな。
652人間七七四年:2009/03/16(月) 17:34:53 ID:rIGg1Z0p
>>641
上田原とかそうだな。
上田原では板垣、甘利をはじめとする譜代重臣達が死んでるが
一門は死んでない。

もともと金山は武田宗家にしてみても間接収入に過ぎない。
金掘衆の権益を認めて金を上納させる方式。
宗家でも間接収入に過ぎないんだからわざわざ家臣の穴山から取る意味がない。
小山田に関しては>>632を参照。

なんかそれ訳を間違えてると思うが。
あなたがいうのは、俺が思い当たる書状では信玄が若い頃に村上だったか小笠原だったかに
穴山を派遣して和睦を周旋させたが、穴山が振舞い酒を飲みすぎて酔っ払ってしまい、
結局ろくな交渉ができなくて帰ってきた事があり、
その顛末を晴信(信玄)は書状に書き、その結びに「何事も思うようにはいかないものだ」と
愚痴ってる、っていう話。
穴山が邪魔してってわけじゃないのよ。
653人間七七四年:2009/03/16(月) 17:36:51 ID:rIGg1Z0p
>>642
穴山が殿を務めるもんだろうか。
武田家自体に殿戦があんまりないが、
砥石では横田備中、三増峠では浅利、
特に穴山が勤めたというわけではなさそうだが。
654人間七七四年:2009/03/16(月) 17:40:02 ID:rIGg1Z0p
>>644
「次第次第に無人になりて」
これってまあ武田家が信長勢の陣地に突撃して跳ね返され
兵力を減じていった事を表現したいんだと思うが。
なにせ公記では織田は武田勢を1万5千のうち一万以上討ち取ったとしてるから。
ありえないけどw
655人間七七四年:2009/03/16(月) 17:45:29 ID:rIGg1Z0p
>>646
>>武田の譜代って、実は相当数が信虎が他国者を取り立てて譜代化したもので
どこで聞いたのそんな話。
信虎が取り立てたのは横田、小幡、原、多田といった連中で
こいつらは足軽大将どまりなんだけど。
春日、馬場、工藤(内藤)とかいった連中はみんな信玄が低い身分から取り立てた連中。
馬場なんか信虎時代は教来石氏で侍大将ですらなく、工藤は取り立てられるどころか
信虎に親を殺されて追放されてた一族だし、春日は百姓の子。
なんか君の意見だけどうも知識に偏りがあるというか浮いて見える。
656人間七七四年:2009/03/16(月) 17:53:07 ID:rIGg1Z0p
>>648
武田信豊の攻撃は長篠日記では省略されてる。
信長公記でもさっさと引いたみたいに書いてあるので
あまり戦ってないのではといわれてる。
>>648 >>649
なんというか、短い文章なんだからまとめなさいって。
分けて書く意味がわからん。
勝頼衆はもともと前線で戦ってる事が多いからな。
勝頼の率いていた諏訪衆を家臣としてみていたのか、
それとも義信が結構前線で戦ったりしてるから
嫡子は戦わせるのが慣例なのか。
一門衆にあの時の勝頼を入れるのは微妙かと。もう嫡子なんだから。
657人間七七四年:2009/03/16(月) 18:01:26 ID:rIGg1Z0p
>>650
信虎以前では随分混乱してて
それを信玄時代にだいぶ家臣化し権力を強める事に成功したんだって。
信虎時代とは主力家臣の一族はまるで違うし、
信玄時代には武田宗家に次ぐ実力を持つ一門の勝沼氏を滅ぼし、
板垣氏も粛清してる。最終的には武田は領国全土の力を結集した普請とか行えるくらいに
強くなってる。信長を持ち上げるのはやめいって。
>>651
その後で信玄が勝ちまくっていくとそういった記述はなくなり、たたえられていくんだが。
>>それこそ全方位敵に回してあちこちで戦していたわけで
全方位は別に敵にしてないと思うが。北条相手してたときは織田徳川が味方、
織田徳川が味方のときは北条が味方、上杉はあんまり絡まず。
>>軍役の負担がもう過大すぎて爆発寸前だったんじゃないの?
単なる思い込みかと。上にも書いてるように全方位と戦ってたわけでもなく、
軍役の回数で言えば他の大名と比して特に酷いわけでもないから。
>>穴山ら親族は、働きの割りに駿河とか加増されているのに、譜代はぴーぴー。
駿河統治の責任者は穴山じゃなくて譜代の山県ね。山県死んだ後に穴山になる。
春日は北信濃、内藤は西上野、馬場は信濃中部から飛騨・越中方面、
いずれも10数万石に達する大身で、武田の領土からみれば十分もらってると思うが。
これでピーピーいう理由がないし。
658人間七七四年:2009/03/16(月) 18:18:50 ID:rIGg1Z0p
>>657訂正
織田徳川が味方のときは北条が味方×
織田徳川が敵のときは北条が味方○
659人間七七四年:2009/03/16(月) 20:33:23 ID:JxNaB+Kw
>>653
>穴山が殿を務めるもんだろうか。

右翼、馬場隊の後方にあって無傷の穴山隊が殿ではなく
前線で戦っていた馬場隊が殿をつとめた。

これって一般的に言われている穴山隊が勝頼を見限って
戦線離脱をした証拠ではない?
660人間七七四年:2009/03/17(火) 23:48:31 ID:LwCCQNTJ
>>659
砥石の時も前線で戦っていた横田が殿を務めてるが。
661人間七七四年:2009/03/18(水) 13:23:00 ID:PR1TXvP3
つか、長篠城前で対峙する状態になったところでもうアウトだろ。
攻撃すれば、陣地作った敵に突っ込むことになり史実どおり。
退却すれば、もっとも困難な敵前退却でやはり大損害は確実。
織田が今度こそ本気で出張ってくる、とわかった時点で引き上げるのが唯一の手だが、当時の武田首脳にゃそれを知る術なんてないし。
どうしようもない。
662人間七七四年:2009/03/18(水) 13:41:27 ID:PR1TXvP3
武田軍に勝算があるとすれば本隊が織田軍らを抑えているうちに長篠城落として、援軍の名目なくなった織田が帰るのを待つとかの、消極戦法しかないが。
それも鳶の巣山奇襲という一手で不可能になるし。
そうなると残るは織田徳川軍に追撃できない程度のダメージ与えた後退却、という手段しかないが。
これこそ信長らの思う壺だったわけで。
663人間七七四年:2009/03/18(水) 16:55:56 ID:UNB0YGP1
>>661 >>662
撤退は軍議で検討されてるし、
史実でも損害受けまくった後で追撃受けてなお甲斐に結構戻ってるんだから
最初から撤退すれば史実よりは十分マシな格好になると思うが。
664人間七七四年:2009/03/18(水) 22:15:21 ID:yhAnRdw/
陣地を構えてないと攻撃できない相手に「退却すれば、もっとも困難な敵前退却で
やはり大損害は確実」ってのは無理があるだろ。

要塞同然の野陣に引き込んで鉄砲浴びせかけ、バラバラ勝手に撤退して崩壊した
所を追撃したのに、第三者によれば「1000人くらい」の死者しか出せなかった
織田軍が、わざわざ出てきやせんって。
むしろそこで出ないことが織田軍の強さ。
665人間七七四年:2009/03/19(木) 15:09:28 ID:9+L7DLE2
軍鑑著者も明らかにそうだが、「結果から逆算」論者が多くない?
武田にしろ織田にしろ、当事者は限定された情報で判断するしかなかったんだよ?
信長が今度こそ本気で、かつ鉄砲の集中投入を考えてたなんて武田軍は知らなかった。
それまでの戦歴を見ると、信長は膝元の美濃・明智城にすら十分な後詰をせず、開城するととっとと退却したりしていた。
徳川はともかく、織田は長篠が落ちればとっとと帰るぐらいに判断していたんじゃない?
むしろ当事者からすれば、それまでの敵手の行動から次を予測するのは合理的。
敵の後詰をおびき出して叩く、というのは信玄が二股城攻防戦とかでも使っている手段で、これも戦国期では常識的な手。
(このときは本多忠勝らの奮戦で致命傷を徳川軍に与えられなかったが、それでも一方的勝利で二股等を孤立させた結果に違いはない)
付け加えると、軍鑑で描かれる「信玄の遺訓に背いてばかりの勝頼」とは裏腹に、当時の信長の家康宛書状を見ると「勝頼は信玄の遺法をよく守る、油断ならない相手」としていて逆。
666人間七七四年:2009/03/19(木) 15:33:32 ID:9+L7DLE2
重臣連が主張した、とされる「戦わずして退却」も政治的には論外。
そんな真似したら、武田は戦わず逃げた、となってそれこそマイナス。
当時の武田軍には服属したばかりの三河・駿河衆も含まれていたからそんな判断できるはずもない。
離反覚悟で逃げても、国力で劣勢の武田がジリ貧になるだけ。
どのみちどこかで情勢変えるための一戦は避けられない。
もちろん、武田譜代はエスパーで織田信長の兵備から内心、戦力まですべてなぜか知っていた、とでもいうのなら別だろうがw
667人間七七四年:2009/03/19(木) 15:40:21 ID:gR7psHt3
>>666
なんでできないんだか。
織田や徳川が何回戦いを避けてることか。
不利と見れば戦わずして睨みあって帰還なんてよくある話。
どれだけ戦国時代で対峙戦がある事か。

徳川はもう長篠直前には今度だめだったら武田に寝返ろうと言い出してるくらい
追い詰められてるから、ここで織田との決戦避けてまた織田が西に向いてる時にでも
(というか向かざるを得ないわけだが)徳川を攻めれば陥落は近いぞ。
一戦が避けられないわけがない。
実際勝頼の書状を見る限り「敵は打つ手を失っている。戦を仕掛ける好機だ。戦を危ぶむものもいるけど
大丈夫だろう」とか戦後の「織田徳川勢の長篠の後詰部隊を蹴散らして信長のいる陣城まで押し寄せたが、
敵は篭城していたので攻めたら損害を受けた」とか見る限り
前哨戦の勝利に勢いづいて勝頼が突撃してしまったとしか見えないが。
668人間七七四年:2009/03/19(木) 20:56:37 ID:L7ENXAKg
戦争の単純な真理

自陣に乗り込んできた相手を追い返したら勝ち
敵陣に乗り込んで行って何も得られず引き返したら負け

信玄没後、周辺の敵を物凄い勢いで掃討し、凄まじい勢いで勢力を
増している信長が「わさわざ乗り込んできた武田を見事に追い返したぞ」
と大宣伝かけてごらん、「また織田が西に向いてる時にでも徳川を
攻めれば陥落は近い」なんて事態は夢のまた夢になるに決まってる、
とまで言わなくてもまあジリ貧になることは確実だったよねえ。

まあ結果的に「ジリ貧になるのが嫌で討って出てドカ貧になった」
大日本帝国と同じことになったわけだけど。
669人間七七四年:2009/03/19(木) 21:42:38 ID:gR7psHt3
>>668
>>自陣に乗り込んできた相手を追い返したら勝ち
>>敵陣に乗り込んで行って何も得られず引き返したら負け
これ言ったら信長や謙信の戦歴には多々あるから
信長や謙信は崩壊してないとおかしいんじゃ。

その信長は勝頼が美濃の城や徳川の城を攻略しまくってるときに
ろくに援護できなくて攻略され、むなしく帰ってる事もしばしば。
この理屈ならこれまた信長は大変な事になっている。

長篠で一回引いただけでそんなジリ貧になるとはどうにも。
城を攻略寸前だったけど後詰が来たから撤退、なんて本当によくある話だし。

670人間七七四年:2009/03/20(金) 11:17:26 ID:vF9hOFJ6
崩壊かはともかく、徳川と武田の間をいったりきたりしている国人衆が武田から離れる恐れは大だな。
そして織田に対して地力で劣る武田にはそれがドミノ的に致命傷になりかねない。
ポイントは、長篠の奥平氏が一度は徳川を裏切ったのに再度武田から寝返り、(差し出した人質さえ見捨てて)
さらに家康の娘と跡継ぎが婚約するほど厚遇されていた、という政治的事情もあるんじゃないか。
これを捨て置いたり、あるいは攻め切れなかったりしたらそれこそ統制が無茶苦茶になる。
無謀な突撃を武田がかまさないといけなかった理由は、軍事的なもんだけじゃなかったかもよ。
671人間七七四年:2009/03/20(金) 11:42:14 ID:vF9hOFJ6
まぁ元をただせば、信玄時代に盟約破りの攻撃を織田・徳川双方に仕掛けなければ、そもそも講和すらできずに延々と戦わざるを得ない状況にはならなかったわけだが……。
672人間七七四年:2009/03/20(金) 11:45:49 ID:gCzbV0tj
>>670
>>徳川と武田の間をいったりきたりしている国人衆が武田から離れる恐れは大だな
なぜに。それをいったら徳川はあっというまに崩壊だ。

奥平以外の城はどんどん攻略してるんだし特に問題ないと思うが。
奥平攻めるまでに2年近くあったわけだし。
>>671
もとを正せば先に武田と縁が深く、織田武田の両属だった岩村遠山を
無断で兵を派遣して併合したのは織田だろうが。
先に盟約破ってるのは織田だろ。
673人間七七四年:2009/03/20(金) 11:50:10 ID:vF9hOFJ6
>>672
なぜ崩壊、になる?
現に信玄西進のために多数の寝返りが出たときでさえ、徳川は弱体はしても崩壊はしてないが。
だから崩壊はともかく、といっているのに……

>岩村遠山

別に併合してないじゃん。それどころか一族を嫁に差し出しているぐらい。
しかも攻撃かけたのは武田で、遠山家当主(信長の叔母の夫)を殺したのも武田だろ。
674人間七七四年:2009/03/20(金) 11:54:35 ID:vF9hOFJ6
>奥平以外の城はどんどん攻略してるんだし特に問題ないと思うが。
>奥平攻めるまでに2年近くあったわけだし。

問題あるから、わざわざ当主自らが一万以上の大軍率いてたかが五百の城を集中攻撃したんだろ。
数年たっても放置できないほど、ということ。
現実に武田がそう動いてるわけだが。
675人間七七四年:2009/03/20(金) 12:08:53 ID:vF9hOFJ6
……よく考えたら、信長らが来る前に長篠落としていればこの時点での破局は避けられたわけだな。
一万五千とされる軍勢と、武田家歴戦の名臣の総がかりを耐えてみせた奥平一党が実は一番の勝因かな。
676人間七七四年:2009/03/20(金) 12:32:21 ID:gCzbV0tj
>>673
だから一戦でそんな大きな影響があるなら、という意味なんだが。

併合してるが?
織田信広や河尻の管轄になってるんだが。
当主も幼君の織田一族ということになってるんだが。
>>遠山家当主(信長の叔母の夫)を殺したのも武田だろ
どっからこんな話でてきたんだ。遠山当主は病死だ。いい加減にしろ。
病死したのを契機に織田が軍を派遣して強引に併合したんだよ。
677人間七七四年:2009/03/20(金) 12:34:17 ID:gCzbV0tj
>>674
もともと長篠城は武田が進出するには便利な地点なんだが。
ここで勝頼が長篠城をとれば奥三河の征服は完了するわけで。
奥三河制圧の仕上げと見たほうが自然だと思うが。
勝手な裁量で決めんなよ。
678人間七七四年:2009/03/20(金) 13:02:14 ID:Yaqm0Ipz
そう考えるとやっぱり長篠城を押さえてじっくり三河攻略を進めるより、
わざと城攻めを遅らせてでも織田本隊を引っ張り出して叩いておきたい
欲求の方を優先させたのかねえ。

武田内部で駿遠三の統治に関してゴタゴタがあってじっくり制圧している
暇がなくなったのか、畿内の急激な信長の勢力拡大を警戒して一刻も早く
打撃を与えねばと必死になっていたのか。

長篠後、勝頼体制が固まると勝頼・景勝はともに織田との講和路線を
進めるんだけど、人は裏切るくせに自分がかかされた恥は偏執狂的に
こだわる信長が徹底的に無視して殲滅戦に出た現実を考えると、確かに
早いうちに織田勢本体を叩いておくべきだったというのは判る気はするが。
679人間七七四年:2009/03/20(金) 13:06:47 ID:A1cJyxvc
>奥平

信長から宝物と一字を貰い、徳川一門衆格になる多大な褒賞を与えられているからね。その功績は当時から認められたものだったんだろう。
有名な鳥居強衛門の一族も、足軽から一躍奥平家の家老格に。

>遠山

両属だったのが一方についたからって盟約破りになる、という理屈がよくわからんが。
織田の被官になったわけでもなく、飛騨の三木氏やそれこそ武田に対しても独自の外交を続けていたし。
両属どころか、中小とはいえ立派な独立勢力でしょ。
だから織田武田の仲介もできた。
むしろ、遠山氏が木曽にも影響力強めたのが同じところ狙っていた武田とぶつかったのが原因だろ。
だから織田対武田、の流れの中ではなく遠山一族対武田、という構図で戦端が開かれた。
680人間七七四年:2009/03/20(金) 13:12:42 ID:A1cJyxvc
>自分が裏切るが、人は許さない

これは戦国大名のむしろデフォだと思うが。
信玄自身、信長はもちろん長年の同盟者で二代縁戚だった今川を、その今川を裏切った徳川と組んで攻撃しているし。
さらにその徳川にも「大井川を境界にしよう」という約束破って攻撃かけているし。
しょせん、利害で動くのが戦国大名だが、長篠後は織田には武田と講和するメリットが薄くなったし。
相手が苦しいときに裏切り、劣勢になったら(服属ならともかく)講和してくれといわれても、誰でも断るんじゃないの?
681人間七七四年:2009/03/20(金) 13:16:39 ID:Yaqm0Ipz
>徳川にも「大井川を境界にしよう」という約束破って攻撃かけているし。

これは後世の捏造だというのがデフォだと思ってたが。
いまだに武田側の侵攻だったって主張してる史家っているの?
682人間七七四年:2009/03/20(金) 13:23:51 ID:A1cJyxvc
>>681
捏造? それこそ初耳。
仮に協定がなかったとしても、先に攻撃仕掛けたのは秋山信友勢だし。
683人間七七四年:2009/03/20(金) 13:42:56 ID:gCzbV0tj
>>679
>>両属どころか、中小とはいえ立派な独立勢力でしょ
もともと斉藤道三が生きてた時代から武田に対しての従属勢力だが。

>>むしろ、遠山氏が木曽にも影響力強めたのが同じところ狙っていた武田とぶつかったのが原因だろ。
>>だから織田対武田、の流れの中ではなく遠山一族対武田、という構図で戦端が開かれた。
遠山が木曾を狙ったとか戦ったとかいう根拠を一切聞いた事がないんだけど。
もともと木曾は武田に従属して久しい勢力だし。一門でもある。
遠山VS武田じゃなくて明確に武田VS織田。
なぜかというと織田は岩村遠山を強引に自分達の管轄にしたから。
そして最近では岩村遠山はこれに対して反発し武田の軍に呼応したとみなされている。




684人間七七四年:2009/03/20(金) 13:48:20 ID:gCzbV0tj
>>680 >>681
まあ今川との交渉は数年にわたって行われた複雑な外交の結果なんだけどな。
1568年末の状況では武田も今川と戦わざるを得ない。

信長に関しては何度も言うが先に両属の岩村遠山を勝手に組み込んだのは織田。

徳川との協定に関しては下でも言われてるが、もともと江戸時代がずっと下った徳川家の資料にしかなく、
信玄自身が「一緒に今川を倒そう。こちらも遠江に兵を派遣する。遠江であなたとお会いできるのが
楽しみだ。」と家康に書いて送ってる書状がある。
秋山と家康が衝突した後、信玄は家康の抗議を受けてすぐさま秋山を引かせ、
これは手違いだと釈明している。
685人間七七四年:2009/03/20(金) 13:49:42 ID:gCzbV0tj
>>681じゃなくて>>682だった。悪い。
686人間七七四年:2009/03/20(金) 13:50:43 ID:4vmFBLwB
信玄は北条にも「富士川を境に」領土分け合おう、と駿河攻めのときに提案しているんだよね。
かなり危ない多重外交を行っているが、何でそんな無茶したのやら。
結局北条は納得せず交戦状態になり、家康には家臣のミスだったと兵を引く約束するハメに。
そして上杉加えて三方敵に回して、信長に仲介してもらってようやく脱するということに。
最後にはつじつま合わせて駿河取ったうえ北条とも和睦しなおしたあたりはさすがだが。
687人間七七四年:2009/03/20(金) 13:57:57 ID:4vmFBLwB
武田の主敵は長年上杉で、これが多年の問題。
勝頼時代でも北方守備を固めねばならず、それは信玄時代よりむしろ増強されているぐらい。
このあたりは徳川との同盟に背後任せてしつこく斉藤氏を切り崩していった信長のように動けばよかったようにも思うが。
688人間七七四年:2009/03/20(金) 14:03:59 ID:gCzbV0tj
>>686
北条に関しては武田の分割案を断りつつ、
結局今川を併合してしまっている為、柴辻氏は北条には北条で
今川の併合計画があったのではないかとしている。

1568年末の段階では既に今川と上杉に武田に対する挟撃作戦が打ち合わせされており、
信玄としても可能な限り今川を早く始末する必要があった。
そこで本庄をそそのかして上杉に反乱させて謙信の動きを封じ、駿河に侵攻した。
内応者を大量に作っておいた事で一ヶ月もしないで今川主力は倒せたが、その後が
誤算だったな。

>>信長に仲介してもらって
甲越和睦は正確には足利将軍からの仲介。
謙信は足利の権威を国内統治に活用してるから、これは効果が大きかった。
後はやっぱり外交面では北条包囲網の構築が妙手だったか。
689人間七七四年:2009/03/20(金) 14:09:28 ID:gCzbV0tj
>>687
幼君の斉藤と違って謙信は経験豊富だし優秀だからな。
簡単には倒せないだろう。
690人間七七四年:2009/03/20(金) 14:14:45 ID:4vmFBLwB
徳川への盟約破りにしても、自分が掛川攻めてくれ、と頼んだ後にその背後を襲う真似。
裏切るなら裏切るで、当然思い切って打撃与えたほうがいいだろうに何か中途半端。
それも上杉、そして北条という後背の動向が気になったからだろう。(そしてその危惧は現実に)
あと数年信玄が生きていれば、というけども時間を使ったのは信玄自身の撒いた種のような。
691人間七七四年:2009/03/20(金) 14:19:08 ID:gCzbV0tj
>>690
>>684で書状も紹介しといたが、
信玄が遠江に兵を派遣するのは既定事項だったみたいだ。
秋山の動きは本当に信玄の狙い通りだったのか疑問。
実際その後抗議されたら釈明して大急ぎで兵を引かせてるし。

まあ上杉、北条という連中を相手にしながら2年で状況を打開して駿河とって
北条とも再同盟してると考えると時間的にもそれほど悪くないんだけどな。
692人間七七四年:2009/03/20(金) 14:21:30 ID:4vmFBLwB
信玄は長男はじめとする今川融和・対北侵攻論者を粛清したが、之は短期的にはともかく長期的には正解ではなかったか。
義輝時代には将軍家から上洛要請来ようが和睦要請こようが平気で無視していた信玄が、晩年になってなりふりかまわなくなった理由はなんなんだろう。
693人間七七四年:2009/03/20(金) 14:26:43 ID:gCzbV0tj
>>692
>>之は短期的にはともかく長期的には正解ではなかったか。
正解といいたいのか正解でないといいたいのかわからない。

まあ義信事件で処刑されたのは義信と守役の飯富と義信側近の若衆とかなので
あんまり大きな粛清じゃないんだけどな。

そんなになりふり構ってないわけでもないような。
まあ寿命は心配だったかもしれないが。
694人間七七四年:2009/03/20(金) 15:10:08 ID:YYtjJXCH
後から見ると強大な織田に武田その他が束になって挑んだという構図だけども
武田自身から見ると違うふうに見えたんじゃ?
武田が将軍家の要請も無視してずっと領土切り取りしていたのに、
織田信長という格下の小大名があっというまに武田家が稼いだ領地の数倍を制覇してしまった
新興企業に追いぬかれた老舗の危機感、あるいは常識の通じない若者に対する保守的な老人のもつ名状しがたい恐怖感みたいな
利害から考えれば織田と敵対しないほうが得。
でもそれができなかったのはやっぱり合理的理由ばかりじゃないだろう
695人間七七四年:2009/03/20(金) 15:17:17 ID:gCzbV0tj
>>利害から考えれば織田と敵対しないほうが得
どうかな。織田の絶対的優位が確立してしまえば
いずれ武田も危うくなる。
戦国時代では自分を脅かしうる絶対強者の存在は可能な限り阻止せねばならない。
岩村問題もあるし、自分の寿命や後々を考えれば
結構合理的理由だと思うが。
696人間七七四年:2009/03/20(金) 15:42:11 ID:8HMnYIkV
>>683
>斉藤道三が生きてた時代から武田に対しての従属勢力だが
していませんよ。書状を見ても、援軍出陣の依頼はあっても命令はありません。
武田に協力した勢力をすぐさま武田に従った勢力と看做すのは乱暴。

>近では岩村遠山はこれに対して反発し武田の軍に呼応したとみなされている
で、どうして岩村しか武田に従わなかったんですか?
明智などの分家はもちろん、飯羽山など明確に岩村遠山家の家臣である
一族たちですら、本家に従わずに武田に敵対を続け織田に従属し続ける
ことを選んだ。
あなたの意見が正しかったとしても、反発したのは岩村だけで、その他の
遠山十八家と言われる一族は総意として織田へ従属を選んだということ
ですね。

普通に考えれば、遠山一族は織田への従属を選択した。信長はその為に
援軍を派遣した。しかしそれを嫌った武田が遠山氏を強引に武田に引き
戻そうとして合戦になり、結果、岩村だけが軍事力で無理やり従わされた
ということになりますね。だから、残りの遠山一族は強引な武田に反発
して織田への従属を続けた、と。

ちなみに岩村遠山家当主の死因は病死説もあるが、それは武田との合戦の
戦傷が原因とされるもの。さらに明智遠山家当主は記録によれば
はっきりと武田との合戦で戦死している。
697人間七七四年:2009/03/20(金) 15:46:06 ID:YYtjJXCH
単に敬愛する信玄公が信長を裏切った、といわれるのが気に食わないからわかっててゴネてるだけでないかい?
ぶっちゃけ、戦国時代には信義なんて紙の上だけのものだから、道徳的観念からくる好悪なんて無意味なんだがな。
守るほうが特異で、そうすれば賞賛されこそするがみんなやるかはまた別問題と。
698人間七七四年:2009/03/20(金) 21:57:42 ID:gCzbV0tj
>>696
してるって。ていうか書状の内容ろくにしらんだろ。
どうせ知ったかぶりで話をしてるのが丸わかりだが。
その救援要請の前に遠山は天野氏の仲介を通じて武田に従属を申し入れ
武田はそれを受け入れてるんだが。

簡単な話で岩村遠山が武田の従属勢力だったからだが。
遠山18家をまとめて話をされてもこまるんだが。
岩村以外の遠山一族をまとめて話をされても言いがかりとしかいえんな。

ここまで来ると妄言としかいえないな。
岩村は武田が来るとろくに抵抗しないで武田に呼応してる。
信玄の書状でも「味方につけた」という表現。
さらにいっておくと岩村遠山の問題であって他のところを一まとめにする意味もない。
岩村遠山は武田と長いつきあいのある勢力だったにもかかわらず織田はそれを
強引に併合し、その反発をかって武田に攻められ、岩村が呼応しただけの話。

>>ちなみに岩村遠山家当主の死因は病死説もあるが、それは武田との合戦の
>>戦傷が原因とされるもの。
病死で戦傷ね。言ってておかしいと思わんものか。
岩村遠山当主は明確に病死なんだが。織田の併合以前に岩村遠山と武田が戦った記録があるなら出してみな。
明智遠山家当主は岩村攻略以後の戦死だと思うが。
よくもまあここまでこじつけられるものだと思うがな。
699人間七七四年:2009/03/20(金) 22:00:45 ID:gCzbV0tj
>>697
言いがかりはやめてもらおうか。
わかっててごねてるも何も最近の研究では丸山氏をはじめとして
こんな見解だが。
両方に属していた岩村遠山を当主死亡と同時に強引に引き込んだのは織田。
戦国時代に義理だのなんだのが重視されないなんて百も承知。
だが先に織田がやった事を伏せられて武田が裏切ったなんていわれても笑止なんだが。
700人間七七四年:2009/03/20(金) 22:08:08 ID:Yaqm0Ipz
まあまあ。
この板といえども直江兼続は愛と義の人だとか前田慶次郎は巨漢だとか
信じ込んで話をする初心者はやっぱりいるわけなので、大人の態度で
折伏してあげてください。

お話はとても参考になるので、最近の研究をどしどし書いていただければ。
701人間七七四年:2009/03/20(金) 22:52:32 ID:S3I/lOrH
>>699
具体的にソースは?
どうにも信用できないんだが、何か勘違いしていないか?
702人間七七四年:2009/03/20(金) 23:04:37 ID:gCzbV0tj
>>701
何が信用できないのだか。
丸山論文では柴氏の武田氏研究37号を引用し、
武田家に属していた遠山景任・直廉兄弟が病死し、信長が跡継ぎ不在を名目に
軍勢を派遣して併合、これに反発した岩村遠山氏が織田から離反し、武田を迎え入れたとしている。
上記の経緯の資料を丸山論文では上越市史上杉氏文書集1330号としてるな。
703人間七七四年:2009/03/21(土) 01:02:00 ID:51GPwnX6
>>702
で、岩村支配下の豪族や一族、枝城らが誰も従わずに織田に従属を続けたのは何故?
岩村遠山家はそれほど部下家来から嫌われていたのか?それとも武田が嫌われていた
のか?岩村遠山家が自分の意思で武田への従属を決定したというのなら、岩村以外の
遠山一族の動向がまるで説明つかない。
704人間七七四年:2009/03/21(土) 01:15:41 ID:H4VjFQDm
聞きたいのは
>もともと斉藤道三が生きてた時代から武田に対しての従属勢力だが。
>その救援要請の前に遠山は天野氏の仲介を通じて武田に従属を申し入れ
この二つ。

丸山氏の論文がどの論文を指しているかはわからないが、

柴氏の武田氏研究37号は秋山が1572年秋から1573年初めまで三河にいた、
秋山は岩村を攻めていない、書状からも秋山が攻めたことは確認できないまでが主張。

>反発した岩村遠山氏が織田から離反し、武田を迎え入れた
これのソースは?

上越市史上杉氏文書集1330号は1572年10月18日付書状?
>武田家に属していた遠山景任・直廉兄弟が病死し、信長が跡継ぎ不在を名目に軍勢を派遣して併合
だとしたらこれは人によってどう捉えるかなり変るのでは。
705人間七七四年:2009/03/21(土) 09:26:00 ID:OOstvhJM
>>703
だからもともと武田と深いつながりがあったのは岩村遠山だっただけの話。
他の一族と一緒くたにするなと言ってる。
他の一族は織田とつながりがあり、岩村遠山は武田とつながりがあっただけの話。
>>704
下記資料の記載は丸山論文より。
>もともと斉藤道三が生きてた時代から武田に対しての従属勢力だが
1555年8月、武田宛に遠山領に斉藤道三が襲来した事を告げられ、
信玄が援軍派遣と並行して和睦交渉を行うよう支持してる書状。
戦武642号。
>その救援要請の前に遠山は天野氏の仲介を通じて武田に従属を申し入れ
遠山が天野を通じて赦免を願い出た書状が戦武411号。
それを武田が受け入れた書状が戦武650号。

>>これのソースは?
丸山論文では戦武1991号。
ただこれもこの書状をどう解釈するかによるともいえるか。
まあ後は1989号の「岩村を味方につけた」1992号の「岩村が当手に属した」
という表現がいずれも岩村が戦わずして武田の味方についた事を
うかがわせるな。攻略したならこんな言い方はしないだろうし。
706人間七七四年:2009/03/21(土) 10:12:17 ID:51GPwnX6
>>705
だから、織田と繋がりがあった明智遠山などだけでなく、あなたの主張する
武田と縁が深かったはずの岩村遠山家の、配下部下家来家臣達が、いっせいに
主家に逆らって武田につかずに織田についたのは何故かと聞いているのですが。

普通は、主家である岩村遠山家が自己判断で武田につくことを選んだのなら、
分家レベルならともかく家臣たちはその判断に従うのが通常のはずなのに。
707人間七七四年:2009/03/21(土) 10:20:49 ID:OOstvhJM
>>706
だから遠山18家はもともとそれぞれ独立した家だが。
その中で岩村遠山家が武田と縁が深かっただけの話。
当主不在であり織田に軍を派遣されて強制的に併合されてた事もあり、
岩村が独自に武田についた事はまるで不思議じゃないが。

ていうかさ、そっちが言ってた
織田の併合以前に岩村遠山と武田が戦った記録と
遠山が木曾を脅かしてたっていう資料を待ってるんだが。
早く答えてくれ。
708人間七七四年:2009/03/21(土) 13:57:18 ID:kjXJm2vL
武田家は合議制で動いてたんだよ。
功績も失敗も首脳全体で決めたこと。信玄時代からな。
勝頼と一部側近に責任押し付けてもねぇ……。
その勝頼を当主にしたのは信玄ら。側近選んだのも同じ。
しかも当時現場にいなかったことがわかっている側近がそそのかしたんだ、とかまさに講談の世界。
武田家全体の失敗だろ。
709人間七七四年:2009/03/21(土) 14:08:10 ID:OOstvhJM
まあ勝頼自身が決戦前の書状で
「戦を危ぶむものもいるけど大丈夫だろう」とか
書いてるけどな。
武田家当主の権限は結構強いし。
710人間七七四年:2009/03/21(土) 14:09:46 ID:kjXJm2vL
>上村合戦

これって織田対武田じゃなく、むしろ徳川対武田なんだよな。
家康側から出た人質が逃げたので、それを追跡するために兵を美濃へいれたら合戦に。
遠山方に助勢したのも、織田方じゃなくて徳川与党(奥平氏、菅沼氏ら)。これは武田方から見た軍鑑でも同様。
織田が介入したのは、その後だからな。
旧今川領攻略での武田の行動で不信感を抱いていた徳川と、武田の関係はもう抗争レベルにまでいってるがその一環じゃあ?
711人間七七四年:2009/03/21(土) 14:11:49 ID:kjXJm2vL
>>709
合議なんだから、そら何人もいれば反対者はいるだろう。
しかし大勢が決まったら反対者も従う。そうじゃないと合議した意味ないしな。
少なくとも馬場のように、信玄時代でさえ独断で持ち場を離れるような真似できた強い譜代さえ従ったわけだからな。
そこで矮小化しても無意味だろ。
712人間七七四年:2009/03/21(土) 14:14:07 ID:kjXJm2vL
で、上村合戦後武田軍再侵攻→ここで岩村遠山氏が織田に助勢求める。
そして明智光秀がそれに答えて一度は武田軍を山田子村合戦で撃破。
が、よくしられている通り次の侵攻で遠山氏は武田に屈服させられる。
「両属を破った」という理屈なら、先に手を出したのは武田方だろう。
713人間七七四年:2009/03/21(土) 15:02:41 ID:mNkNmstQ
合議=多数決にするなwww
714人間七七四年:2009/03/21(土) 16:30:30 ID:/ELzJMIH
>>707
>遠山18家はもともとそれぞれ独立した家だが
いいえ、明智のように独立に近い、武田と小山田のような関係もありましたが、
岩村遠山家に臣従している遠山分家ももちろんありました。
問題なのはそういった、岩村城の枝城になっている飯羽山やその他の岩村遠山の
家臣になっているものたちですら、岩村が武田についた後も従わず織田につく
ことを選んでいるということです。

あなたが主張するように、岩村遠山家が自分の意思で武田についたというのなら、
当然その家臣たちも宗家の判断にしたがって武田につくはずです。しかしそれは
ない。武田側になったのは岩村一城だけで、岩村の支配下統制下にあるはずの
枝城らは全てそのまま織田についたまま。
こんなにおかしい話はありませんね。

仮にあなたの主張が正しいのだとしたら、遠山十八家のうち、武田を慕って
いたのはわずか一家。それも宗家が武田につくことを決めたら、一斉に
反旗を翻すほど、残りの遠山一族の総意として武田は嫌われていたという
ことになりますね。
715人間七七四年:2009/03/21(土) 18:11:54 ID:XRjRyDIJ
>>714
>>いいえ、明智のように独立に近い、武田と小山田のような関係もありましたが、
岩村遠山家に臣従している遠山分家ももちろんありました。
問題なのはそういった、岩村城の枝城になっている飯羽山やその他の岩村遠山の
家臣になっているものたちですら〜


他サイトからの引用で申し訳ないが
「戦国時代、遠山氏は岩村・明照・明知・飯羽・串原・苗木・安木の
「遠山七家」が諸城に拠って東濃地方に威を張った。
その中でも戦国時代の末期において、岩村城主遠山友通(景任)、明知城主遠山友春(景行)、苗木城主遠山勘太郎(友勝)が、とくに三人衆と呼ばれた。
そして、それら遠山氏の惣領たる存在が岩村城主遠山景任であった。」
を見るとあなたが言っている「岩村遠山家に臣従している遠山分家」って表現はミスリードに思えますが?
だって岩村遠山家は主君ではなく惣領に過ぎないわけで、しかもその惣領であった遠山景任が死んでしまって
普通に考えれば他家への影響力の低下は避けられませんよね。
そんな状況下でもあなたが「岩村遠山家に臣従している遠山分家ももちろんありました」と言うのなら
ソースの提示をお願いしますね。



716人間七七四年:2009/03/21(土) 21:44:31 ID:OOstvhJM
>>710
なにやら随分と愉快な話を展開してるみたいだが、
上村合戦は岩村攻略の後の話なんだが。
どこの話をしているんだかきわめて意味不明だ。
遠山兄弟死亡→織田が岩村遠山に軍勢を派遣して併合→岩村勢、武田に呼応→
岩村遠山以外の遠山一門を主力とした織田勢、岩村に向けて進軍→
武田勢これを迎撃→上村で合戦→武田勝利、っていう流れなんだが。
>>712
上記のとおり。両属を先に破ったのはどうみても織田だから。
717人間七七四年:2009/03/21(土) 21:48:02 ID:OOstvhJM
>>711
下でも言われているが、合議=多数決ではない。
武田家当主の権限は結構強く、これに側近や先方衆が従ったなら
十分武田を動かすに足るんだが。
馬場の事例を挙げてるみたいだが、もともと馬場は抑えの兵を残して
常に少ない兵で参加していたからな。
馬場はもともと強い譜代なんてもんではなく、むしろ信玄に低い身分から
引き立てられた人間だし、その行動は大抵信玄の為、って感じだが。
718人間七七四年:2009/03/21(土) 21:53:44 ID:OOstvhJM
>>714
下でも言われているがミスリードにしか見えないな。
何度も言っているが、岩村遠山が併合された後に武田に呼応してるんだが。
この状態で他の城も巻き込んで動けるわけないだろ。
そもそも武田とつながりがあったのは岩村遠山だと何度もいってるんだが。
城主不在で城も併合されてる状態でどうやって他所を巻き込むのだか。
もともと武田と縁があったのは岩村遠山だと何度も言ってる。

てかさいい加減に
織田の併合以前に岩村遠山と武田が戦った記録と
遠山が木曾を脅かしてたっていう資料を待ってるんだが。
早く出してくれ。
719人間七七四年:2009/03/21(土) 23:01:57 ID:N1rTNrQF
>>718
寛永諸家系図伝とか甲陽軍鑑とか。

上村合戦は現在年次が複数説あり、一度でなく複数あったとの説もあるが、
どの記録でも共通しているのは、岩村遠山景任はほかの遠山一族と協力して
侵攻してきた武田の秋山隊と戦って破れ、戦傷が原因で?病死したとある。
遠山家の記録でね。

あなたの主張は、記録の都合のいい部分のつまみ食いになっていると思う。
720人間七七四年:2009/03/21(土) 23:22:09 ID:Bqh855E9
妙法寺記で
>その後で信玄が勝ちまくっていくとそういった記述はなくなり、たたえられていくんだが。
具体的にはどの年のどの部分のこと?

>>718
既に719が書いているが他に上にあった謙信の直江宛書状にも武田が美濃攻めたって書いてあるし
あと遠山が木曽ってのは木曽宛信玄書状がソースじゃないか?自分はこれ以外は知らない。

>1555年8月、武田宛に遠山領に斉藤道三が襲来した事を告げられ、
>信玄が援軍派遣と並行して和睦交渉を行うよう支持してる書状。
戦武642号にはそんなことは書いていない。
氏は一体どこをどのように解釈してそのような結論を出しているんだ?

>遠山が天野を通じて赦免を願い出た書状が戦武411号。
これ遠山谷の遠山氏のことだが、これがいつ恵那遠山氏を指すようになったんだ?
何か新史料でも発見されたのか?
721人間七七四年:2009/03/22(日) 00:05:15 ID:BTQ/8TBf
>>719
実際丸山氏にしろ平山氏にしろ、遠山景任は病死し、
その後を受けて織田が併合、武田の派兵という流れだが。
丸山氏の論文だけではなんなので
平山氏の論文から補足してみよう。
遠山直廉の死が1572年5月18日。これは遠山家譜と信濃国伊那開善寺過去帳からの引用との事。
病気とされるが、その戦傷も一因だったとされ、それは飛騨国三木氏との合戦で受けた
傷が原因との事。平山氏はこれを武田の飛騨攻めと関連があるのではないかとしている。
そして景任の命日と死んだ原因は定かではないが、上杉謙信が10月18日付け書状で遠山兄弟が病死した事を
述べているので同時期に没したとしている。

この景任の死を受けて信長が織田信広と河尻を派遣して岩村を奪取し併合した。
この資料的根拠を上越市史1130号としている。
丸山論文の該当内容を詳しくしたようなものといえるか。
722人間七七四年:2009/03/22(日) 00:14:10 ID:BTQ/8TBf
>>720
1554年8月の村上追放の記事
「村上殿は8月に塩田を立ち退き行方不明になった。
一日のうちに要害を16攻略し、その戦利品の莫大さは後代にもないくらいのものであった。」

>>木曽宛信玄書状
内容はどんな感じ?時日も教えて欲しい。

>>戦武642号にはそんなことは書いていない。
確かに丸山氏の論文にはそう書いてあるんだが。
ちなみにそちらが見た642号の内容は?

これまたしっかり丸山氏の論文には書いてあるんだが。
恵那遠山氏が属したと。今度こちらも直に調べてみるか。
723人間七七四年:2009/03/22(日) 00:29:47 ID:VMW4oBxf
>>721
上越市史1130号
信玄が美濃を攻撃した、とあるがその部分は?

>>722
>1554年8月の村上追放の記事
それ1553年じゃ?
その年のどの部分が讃えているんだ?どう読んでも民衆が嘆いて信玄を非難しているように思えるが。
724人間七七四年:2009/03/22(日) 00:45:54 ID:VMW4oBxf
>>722
>>木曽宛信玄書状
ぶっちゃっけこれを斉藤織田の協力武田と敵対の根拠とするならまだわかるんだが
1559年(と推定されている)9月27日木曽宛信玄書状
高森の城のこと
城を堅固にすることが重要、
尾張井口は今は今川の敵のようです、信玄と駿河は入魂なのは御存知かと思います
高森の城を渡さないようにするのが重要です。
みたいな感じの書状だったと思う。
恵那に協力しろではなく伊那を守るということからこの時期遠山氏は武田とは敵対かと判断されることに、

(ここからは私の個人的意見)書状の書き方から木曽と武田は同盟関係かって印象も受ける。


>戦武642号
1559年(年未詳)8月18日信玄の秋山室住宛書状
井口で騒動がおきているようです、両者は引き続き美濃の様子を調べて知らせてください
伊那をしっかりと守ることが重要です。
みたいな内容だったはず、というか読めば斉藤父子のことも遠山のことも書いていないのが判ると思うが。
井口相揺之由が道三死亡後に暫く続いた混乱を指しているのか別伝の乱を指しているのかは判らないが。

>これまたしっかり丸山氏の論文には書いてあるんだが。
これには根拠が書いていないのか?
725人間七七四年:2009/03/22(日) 01:05:15 ID:VMW4oBxf
>>542
自分は家忠日記
というかこの時期の遠江方面の武田徳川間の動きが詳しく判る史料はこれぐらいしかないと思うが、
そして、家忠日記をソースにする限り、対陣ぐらいで本格的な戦闘は無かっただろうけど、
武田の方が戦いを避けているように感じられる、
高天神までいっても城に篭ったり、すぐ帰ったり、家康の手勢とは対陣しても、家康が三河の西部の国衆まで動員すると撤退したりといった感じで。
726人間七七四年:2009/03/22(日) 01:11:10 ID:BTQ/8TBf
>>723
書いてないな。
こちらも1572年の武田関連の書状を見てみたが、
そちらは5月半ばに遠山兄弟が武田の侵攻との戦いで死んだとするが、
その近辺での武田の書状には美濃関連での戦闘なんかないぞ。
謙信は三方ヶ原を徳川の勝利とかしてるからあるいは織田方経由で改変された
情報でも得たのか?

1554年としてるのは軍鑑だったか。村上戦の戦果はちゃんとたたえられてるだろ。
1554年は世間富貴で売買安、になってたはずだが。

てかこっちが聞いてるのも教えて欲しいんだが。
727人間七七四年:2009/03/22(日) 01:18:04 ID:BTQ/8TBf
>>724
情報ありがとう。

丸山氏はその高森を遠山氏の領土である苗木高森の事とし
遠山領の守備を固めたものと解釈してる。

なるほど。今度調べてみよう。
728人間七七四年:2009/03/22(日) 01:21:42 ID:BTQ/8TBf
>>725
まあそれも1571年の武田による遠江・三河侵攻戦が
なかったらしい事になりそうで、
それを記載してある家忠日記も後から記事をまとめたものとして
鴨川氏とかにその信憑性に疑念を投げかけられたりしてるけどな。
729人間七七四年:2009/03/22(日) 01:42:53 ID:/IC/t0NU
議論が高々度すぎて、
「スピードが速すぎて何も見えん・・・・・・」と呟く天下一武道会の参加者の気分だわw

とりあえず、「この文献に書いてあるよ」「見たけど書いてないよ」
このやり取りが今後どうなってしまうのか気になってしょうがないわ。
証拠画像をデジカメでアップするということになるんじゃなかろうかと。
730人間七七四年:2009/03/22(日) 09:50:32 ID:eoBxvCe9
>>717

どういう基準で「武田家当主の権限は結構強く」と言うのか分からんが。
731人間七七四年:2009/03/22(日) 11:58:50 ID:BTQ/8TBf
>>729
いや平山氏の著作では上杉の書状における信玄が美濃を攻めたという所は触れられてなくて、
俺が1572年代5月近辺の武田の書状を調べてみたら
美濃での軍事行動に該当する書状は
存在しなかったという意味ね。
>>730
まあ上でも書いたけど、

信虎以前では随分混乱してて
それを信玄時代にだいぶ家臣化し権力を強める事に成功したんだって。
信虎時代とは主力家臣の一族はまるで違うし、
信玄時代には武田宗家に次ぐ実力を持つ一門の勝沼氏を滅ぼし、
板垣氏も粛清してる。最終的には武田は領国全土の力を結集した普請とか行えるくらいに
強くなってる。
これに加えて
小田原侵攻直後の駿河攻めも家臣達は上野防備を固める事を主張したが、
信玄が押し切って駿河に侵攻し攻略してる。
弱い弱いといわれてた勝頼も、最終的には一門が勝頼に近づいて地位の向上を図ったり
穴山が「勝頼が一族の諌めも聞かず新府に城を築いた」と書いてる事や
勝頼が出陣しながらでも嫡男信勝の元服を行えたり、
織田との和睦の為、信勝を前面に立てて自分を隠居としながらも権力を振るえたりと
結構強かった事がわかる。
732人間七七四年:2009/03/22(日) 16:29:08 ID:6tFHxNuT
父親を追放した不孝の子・信玄に比べれば、親父の妄執を報じ続けた勝頼ははるかに親孝行だったな。
勝負に出て負けるのは兵家の常。
733人間七七四年:2009/03/22(日) 16:57:05 ID:eoBxvCe9
>>731

だとすると最後の武田崩れは理解できんな。
穴山の裏切り、逍遥軒の逃亡など。

まともに戦ったのは仁科だけじゃない?
734人間七七四年:2009/03/22(日) 19:04:42 ID:G1osiZBo
>>733
強権化した反動じゃね?
宗家に勢いがあったので不満を抱きつつも従ったが、やばくなったので切った。
そういうことなのでは?
735人間七七四年:2009/03/22(日) 20:34:50 ID:CSwKpL3p
>>726
『一濃州へ之信玄相駆、以其足三州号山家三方へ信玄来〜』
の部分

1553年は単純に足弱を多数生け捕ったとあって、そのことについて喜んだり讃えたりとかの記述は無い、
この『生取』が讃えるになるなら、信虎も讃えられていることに、また1553年以降信玄は讃えられていないことにならないか?
また『世間富貴で売買安』等の記述は最初から信虎信玄時代関係なくあるので、信玄が讃えられていくようになったには当たらない。
あと1553年は信玄の治世への人々の嘆きは言うまでも無い、という結び。

>>727
それなら、話はわかる。
ただ道三の部分は非常に難しいと思うが、一体何を根拠に1555年以前としているのか、
織田斉藤が協力していそうなのが、1555年以前なのでそこに当てはめたのか?
ただ戦武645号も織田斉藤は今川の敵というだけなので、道三死亡前とは限らないし。
戦武414号の信玄書状の小田原祝言と伊那佐久悉本意より、戦武411号と戦武412号を1554年とするのはわかるが。
736人間七七四年:2009/03/22(日) 20:47:09 ID:CSwKpL3p
>>728
家忠日記で信憑性が低いのは家忠日記増補の方。
ついでに家忠日記を否定するなら、
上にあった長篠後の勝頼の遠江での軍事行動はほとんど無かったことになり、
どちらにしても勝頼は長篠後は徳川に手を出せなかった、というような結論になる。

>>729
議論していて感じることだが、多分ID:BTQ/8TBfは史料は見ていないと思う。
なので歴史群像とかでありがちな、各学者や各史料からの都合のいい部分のつまみ食いみたいになっているんだと思う。
妙法寺記とか本当に読んだことあるなら、信虎時代より信玄時代の方が民の嘆きは多いし、主に税関係だが。

>>731
武田の史料に無いというが、武田の飛騨攻めなんかも史料に無いのでそれだけじゃ不十分。

>信勝を前面に立てて自分を隠居としながらも権力を振るえたりと
この辺は当時の大名としてはごく当たり前のことじゃ。
『結構』がどの程度を指す言葉かはわからないが。
737人間七七四年:2009/03/22(日) 20:58:40 ID:/IC/t0NU
>>736さんかっけー!

確かに史料というよりは学者の名前がよく出てるなという印象はあったけども。
738人間七七四年:2009/03/22(日) 21:17:17 ID:CSwKpL3p
付け足し
戦武412号は1554年(年未詳)9月6日天野宛信玄書状で、遠山友政の進退について赦免したこと
戦武414号は1554年(年未詳)9月26日の信玄書状で、伊那佐久を領土に加えたことと、氏政と黄梅院の婚姻のこと
739人間七七四年:2009/03/22(日) 21:41:33 ID:J0JHfSOe
遠山、遠山、遠山、遠山、遠山、遠山、遠山、遠山、遠山、、、、、、、、、、


キーワード「遠山」   抽出レス数:29


うざいなあ。この話決着するの?
どっかで手仕舞いしてよ。
740人間七七四年:2009/03/22(日) 22:57:52 ID:q40Yn7B4
>>739
どっちも手に持ってる資料使っての”ガチンコ殴り合い”で読み応えあったけどな

あんたみたいな内容無しレスの方がこのスレには似合わないと思うよ
741人間七七四年:2009/03/23(月) 00:46:16 ID:Y9MtjBsJ
>>740
一応スレタイの範疇内かなと俺は思う。
俺は可能な限り続けて欲しいと思ってるわ。
742人間七七四年:2009/03/23(月) 13:21:30 ID:srsswf+e
信玄は「瀬田に武田の旗を立てよ」と遺言したそうだけど、これって無茶だよな。
ただでさえ困難だった織田打倒が、自分の死後の武田家でできるかどうかわかんなかったんだろうか。
北条氏康が、死の直前に同盟破りした上娘にも恥かかせた信玄への怒りを捨てて、和睦せよと方針転換を言い残したのと対照的。
まぁそれを無批判に継承した勝頼や武田重臣も問題だが。
743人間七七四年:2009/03/23(月) 13:56:19 ID:9IHhnONt
大勢で行かず代表者数人で立てに行けば
あんな大問題にならなかったのにね
744人間七七四年:2009/03/23(月) 14:13:50 ID:srsswf+e
>>743
「旗を立てろ」というのはやっぱり軍事的制圧を意味するんじゃ?
単にいくだけならそりゃ信長と和睦すれば簡単だろうけども。
もっとも、留守の間に領土狙われる恐れもあるけどな。
信玄自身が、足利義輝の上洛要請にこたえた長尾景虎の留守を、将軍家からの和睦命令破って攻撃したことあるし。
745人間七七四年:2009/03/23(月) 14:49:21 ID:7f1GkzkR
ウンコマン
746人間七七四年:2009/03/23(月) 15:03:56 ID:srsswf+e
勝頼が馬鹿な君主だったのなら、家臣団は放逐すべきだったな。
器量のない当主が追放されたり殺されたりするのは別に戦国時代珍しいことじゃないし。
武田でも二代前にやっていること。
ここで忠義が、とかいうのならだったらそれこそ信虎を追放せず最後まで従え、という話になるし。
もっとも、長篠合戦なら勝頼が無能というより信長家康がすごかった、ということだろうが。
野戦陣地に突撃するなんていうのが無謀だというのは、それこそ歴戦の勝頼ら武田首脳が理解できないはずがない。
勝頼らがたてた本来の作戦は、反対派も合議で結局納得した程度には勝算あったものだっただろう。
(内容はもう想像するしかないが。基本は織田方と同じく敵を挑発して陣から引きずり出し、後年敵前逃亡扱いされる穴山勢ら第二陣が包囲殲滅する、
ぐらいだったと思うが。穴山らの後退は、作戦自体が崩れたことによる判断で、だから処罰されなかったとか)
しかしそれをやらせてもらえなかった、と見るのが妥当かと。
鳶の巣山奇襲によって、武田はとにかく正面の織田勢を打撃しないと撤退さえ困難な状況になってしまった。
個人的には講談の川中島合戦の啄木鳥作戦の元ネタってこれだと思っている。
敵の後背を遮断することで、無理な攻めを相手がしないといけない状況に追い込んで叩く、という。
違うのは現実の織田方は成功、講談内の武田方は失敗、という点だな。
747人間七七四年:2009/03/23(月) 15:11:53 ID:7f1GkzkR
宇連川(三輪川)

寒狹川(豊川)

ランランルー

長篠城趾の右端は鳶ヶ巣山
左側付近には医王寺がある
この合戦の勝因のひとつに鳥居様が一役買っている。
だから付近の駅の名前が鳥居なのは俺だけかな
748人間七七四年:2009/03/23(月) 16:06:04 ID:VqjG6hAD
まぁ基本史料が軍艦だからな。
武田にとって重大だった上田原合戦と戸石崩れの時期を取り違えた挙句、いずれもスーパー軍師・山本勘介の大活躍で結局武田が逆転したことになってたり。
長篠後の高坂が進言した処分だって、新興譜代にすぎん彼が口出しもできない知行替えや一門衆処分にまで言及しているしな。まるで後の武田滅亡時に誰が殉じて裏切るか、を知っていたかのようにw
749人間七七四年:2009/03/23(月) 16:28:03 ID:VqjG6hAD
>美濃遠山氏への武田の攻撃は、対徳川が原因・遠山氏に助力したのは三河衆

これは面白いね。上村合戦の時期が確定すればさらにはっきりするけども。

「信玄事者、只今憑信長外又無味方候。此時聊於信長御疎略者、信玄滅亡無疑候」
(永禄12年3月23日付 信長宛信玄書状)

これが信玄が信長に窮地脱出のための助力を求めた書状だが、
同時期(翌年一月)には徳川家康は上杉謙信に起請文を送って、織田上杉を和睦させる、織田武田の関係(あたらな縁組)を破談させることまで言及している。
武田対織田とそのおまけの徳川、という関係でとらえられがちだが、徳川は徳川で実は結構独自に工作していたんだよね。
750人間七七四年:2009/03/23(月) 16:30:51 ID:VqjG6hAD
訂正。翌年一月→翌年十月付
751人間七七四年:2009/03/23(月) 16:31:39 ID:VqjG6hAD
さらに訂正。悪いorz
あたらな→新たな
752人間七七四年:2009/03/23(月) 19:38:06 ID:8Nf+nVTe
>>733
穴山さんは武田信豊とどっちが自分の子供を
勝頼の子供と縁組させるかで争い、
信豊に敗れた事で武田から離れていったとされている。
後は最終的に武田は複数の戦線を抱えて疲弊していたので
最後の織田の侵攻の時は雪崩が起きたとされている。
>>735
>>731を参照。
>>736
そんな事はないだろう。
武田側の資料にはしっかり遠江進出の事はあるはずだが。

まあ持っている資料と持ってない資料があるわな。
大抵は学者さんの著作を見ることが多いが、持ってる資料は持っている。
ちなみに歴群はまず使ってない。

飛騨攻めが資料にないって事はないぞ。
持ってないとか見てないとか言われるとなんなので
引用してみましょうかね。
戦国遺文武田氏1956号元亀三年9月26日付信玄判物
「飛州之調略、別(打てない字)馳走、執着候、因慈、濃州之内一所相渡候、
名所等可有言上候者也、(打てない)如件
元亀三年 九月二十六日 信玄(花押)
山村三郎兵衛門尉殿」

少なくとも他の大名と比べて弱くないって事ね。特に定説で言われてる勝頼陣代説は
これでは通らないことになる。
753人間七七四年:2009/03/23(月) 19:40:48 ID:8Nf+nVTe
>>746
武田側の資料には小山田勢をはじめとする部隊が
「上杉勢に横入れをした」とあるので啄木鳥の元ネタはこれだと思われる。
754人間七七四年:2009/03/23(月) 20:45:06 ID:8Nf+nVTe
ちなみに>>753は妙法寺記
755人間七七四年:2009/03/23(月) 21:12:49 ID:yIuW63HK
調略と攻めたは別だろ常識的に考えて

他の大名と比べて弱くないってことは他の大名と似たようなもの
それって他の大名と同じように大名の権限は弱くて独断で決戦挑むのは無理ってことに
756人間七七四年:2009/03/23(月) 22:41:12 ID:5O1WdO6p
>>752
>後は最終的に武田は複数の戦線を抱えて疲弊していたので
最後の織田の侵攻の時は雪崩が起きたとされている。

疲弊が起きたから雪崩(戦わずして逃亡)が起きるとは分からんな。
757人間七七四年:2009/03/23(月) 23:26:43 ID:4p1Io/zc
>>756
疲労した状態が限界に達して、気力が尽きたんでしょう
758人間七七四年:2009/03/24(火) 05:28:51 ID:ZVfJoLov
>>755
いやいや、調略が成功して所領増加の対象になってるんだから
十分攻めた根拠になるだろうよ。
あらかじめ調略→軍が進軍して内応ってのが基本パターンだし。

俺も単独とは言ってない。軍鑑によると勝頼側近及び先方衆などが決戦を主張、
譜代や一門が決戦に懐疑的だったとある。
決戦派と非戦派が分かれるなら当主権限で決戦に踏み切るのは可能ということ。
759人間七七四年:2009/03/24(火) 05:31:39 ID:ZVfJoLov
>>756
疲弊してたところに織田・徳川・北条が圧倒的な大軍で来たら
雪崩おきてもおかしくないとおもう。
760人間七七四年:2009/03/24(火) 11:22:17 ID:wDGdxdUJ
信玄時代の家臣宛の書状に、「勝手に持ち場を離れて帰るな」という譴責の文書がいくつもある。
手前の都合で勝手に陣を離れるのは武田じゃ珍しくなかったんじゃないの?
長篠合戦も六月で、農繁期前だ。

>徳川と武田

あと、山県昌景が遠江巡察中の家康を襲撃するとかいう事件もなかった?
761人間七七四年:2009/03/24(火) 11:40:38 ID:wDGdxdUJ
あと勝頼と家臣たちの多くがしっくりこなかったのは、武田贔屓の甲陽軍鑑にさえ書いてある
「嫡子の義信を信玄が冷遇し、勝頼ばかりかわいがるので家臣たちは不信に思った」件とかが伏線になっている根深いものじゃ?
まるで信虎追放前・・・
義信も可哀想な面があるね、武田贔屓の筆にかかると「義信が猪突したせいで信繁ら重臣がやられてしまった」という流れにされているけど。
敵側の上杉から見ると、謙信さえ義信の戦いぶりに感心した、とある。
武田贔屓の書物より、敵の信長らに評価された勝頼と似ている。信玄の失敗の責任押し付けの対象にされた点では共通か。
762人間七七四年:2009/03/24(火) 12:19:24 ID:WNadYWRd
>>760
農繁期云々は別に関係ないと思う。
武田は農繁期も農閑期も普通に戦してるし。
>>761
武田贔屓の軍鑑でも勝頼は強すぎる大将とされているように弱いとはいわれてない。
義信と謙信本隊が激突したのはどうも偶然だったみたいだけど。
勝頼も少なくとも年を追うごとに権力を増してるし、それほどしっくりいってないとは
思えないけど。義信って冷遇されてたんだろうかと。嫡子として信玄にずいぶん箔をつけられて
三管領に準じる格式までもらってる。
というか君は武田贔屓の書物を信用するのか信用しないのかどっちなんだい。
763人間七七四年:2009/03/24(火) 16:00:25 ID:jRm/zkD/
家臣が土地もらって喜ぶのは、そこから収入があるからだ。
軍役で農業邪魔されてたら、その補填を当主は動産による補填をおこなわないと求心力が下がる。
それが金であり、志賀城でやったように武家の妻女でさえ恩賞代わりに家臣に売る、という人身売買だろうが。
前者は金枯渇でできず、後者は戦略的劣勢は変わらない武田がやるのは占領政策上自殺行為。
だからカネがかからないうちに決着をつける必要があったのさ。
764人間七七四年:2009/03/24(火) 16:05:38 ID:jRm/zkD/
そもそも武田の縁戚だったのに騙まし討ちした挙句、降伏した後も幽閉して自害させた諏訪の血を引くってだけで不吉。
軍鑑によると、家臣たちも反対だったのにオリジナル軍師・山本が賛成したんで諏訪の娘側室にできたって話。

つまり武田が滅んだのは天災軍師・山本のせいだろ。
勝頼だって親は選べないからねぇ。
765人間七七四年:2009/03/24(火) 17:41:28 ID:Rx1RhAOL
甲陽軍鑑を見るに、南側山県隊は疲弊した退却しようとした処で昌景に鉄砲が当たって崩壊した様子。

北側馬場隊は隊を交代させながら作を破って攻め入ったが、突如先鋒が崩壊して真田兄弟らが討死した感じ。
766人間七七四年:2009/03/24(火) 21:07:25 ID:RWmYvh3I
なんだか勝頼が猪武者だとか軍師山本勘助とか、このあいだまで
やたらとレベルの高かった議論が、いきなり3ランクくらい次元の
低い話になってるな。

農繁期だの人身売買だの、30年くらい前の本を読んだ厨が、学校が
休みになった途端に過去ログも読まず飛び込んできたとしか思えない
アホぶりだww
767人間七七四年:2009/03/24(火) 21:23:30 ID:ZVfJoLov
>>763
だから戦利品獲得はどこもやってる事だし、
そもそも武田も結構手柄上げた兵には銭とか黄金とか米とかいろいろあげてる。
人身売買が主な稼ぎとかいわれてもな。
金山だって間接収入だし。
>>764
諏訪が先に山之内上杉と領土協定とか結んで武田や村上を踏みにじったんだが。

諏訪姫との子供が生まれれば諏訪統治は安泰だろう、ってのが山本の献策で
もともと勝頼も諏訪四郎だったんだから特におかしかないけどな。
768人間七七四年:2009/03/24(火) 22:47:34 ID:ydX1QCig
>>758
調略成功の書状が攻めた根拠になるなら
その上杉の書状とかに頼ることなくとっくに武田は攻めていたことにならないか?
769人間七七四年:2009/03/24(火) 23:24:23 ID:+ldu1LS1
なんだか甲斐武田氏総合スレみたいになってきたな。
770人間七七四年:2009/03/25(水) 00:05:04 ID:RhuwbpRZ
>>768
言ってる意味がわからない。
遠山がもともと武田に従属してた事をいってるわけ?
まあよくわからんけど、丸山氏とかはこの書状を飛騨攻めの功績としてるな。
実際功績だが。他にも飛騨攻めの根拠となる資料なら武田側にはある。
遺文武田氏1957号1572年9月26日付信玄書状には「飛州之儀相調」とある。
他にも1961号1572年9月28日付信玄・勝頼連署書状では
飛騨の領主である「江馬中務少輔・三村右兵衛門尉」に対し三木自綱を今月と来月で倒すつもりだったけど
寒天の為兵を出すのは無理そうだと伝えるように書いてるし、
1997号1572年12月12日付書状では三村兵衛尉が飛騨から美濃の群上へいたると書いてある。
こんだけあれば飛騨攻めがあった事は十分わかると思うが。
771人間七七四年:2009/03/25(水) 01:03:57 ID:xbOdpxJu
>>770
要はその程度の意味の書状でもって攻めたといえるなら
1572年の10月以前にも武田はいろんなとこ攻めているってことになるってことだろ
俺は詳しくないのでわからないが調略で攻めたことになるなら
織田徳川領だけでなく1568年以前に今川1561年以前に西上野にも攻めていたことになっちゃうんじゃないだろか

あと飛騨攻めってみんな1572年7月だかの飛騨攻めのこと言っているんだよな?
772人間七七四年:2009/03/25(水) 01:14:17 ID:RhuwbpRZ
>>771
いや、だからな。何がその程度なのかわからんのだけど。
・1957号の時点では信玄自身が「飛州の儀は調った」と言ってしまうような状態になってて
・1961号の時点では上杉方であった飛騨の江馬氏が武田に従ってる事が示されてて
・1997号の時点では飛騨を通って武田の使者が美濃の郡上に入ってて
・1956号の時点では飛騨で調略成功した事で所領を恩賞としてもらってる奴までいる。
これらを見れば飛騨のかなりの部分が武田方になっている事は明白なんだが。
これでも飛騨攻めがないと?

少なくとも1568年以前に武田は駿河の一部を調略で領土化したりしてないぞ。
773人間七七四年:2009/03/25(水) 02:01:35 ID:xbOdpxJu
>>772
それはお前さんの論理が
1572年後半の調略は攻めたことに繋がるものであり
それ以外の調略は攻めたことにならないが前提になっているからじゃ

もう少し落ち着いて論理の通った主張してくれ
774人間七七四年:2009/03/25(水) 09:52:10 ID:RhuwbpRZ
>>773
いや、だからね。
なんでわかんないのかな。
飛騨の場合は実際に領土化されてるが、今川の場合は
1568年以前には領土化されてないだろ。

調略だけなんていってないんだが。信玄自身が「飛騨の事は整った」と書き、
上杉方だった江馬氏や三村氏といった連中が武田に従い、
武田の使者が飛騨を通って美濃の郡上に至れる状況から
飛騨のかなりの部分が武田に属してる事はわかる。
調略成功で美濃に一箇所領地もらった奴はいるが、まさかこいつの手柄だけで
江馬氏をはじめとする飛騨のかなりの部分が武田になびいたとは考えにくいだろ。
それだけの大成功ならもっと加増あってもいいだろうし。
そして飛騨のかなりの部分が武田になびいてる事から見て軍事行動があったと見るのは
きわめて自然だといってるんだが。

もう少し落ち着いて相手の論理を読むことをしてくれ。
>>772で説明した事をここまで噛み砕くとは思わなかった。
775人間七七四年:2009/03/25(水) 11:57:20 ID:gcxmV3Y4
駄目だこいつw
776人間七七四年:2009/03/25(水) 13:30:25 ID:9l5Wa49C
対徳川はともかく、武田は本願寺の要請にこたえて織田と敵対したわけで、積極的ではないでしょ?
武田は飛騨から北陸に抜けて出るルートも検討していたが、どちらにしろ一向宗との連携は不可欠。
だからそのボスであり、また縁戚でもあった本願寺の要請を蹴れなかった。
777人間七七四年:2009/03/25(水) 14:07:31 ID://s+8Zlu
本願寺は直接武田に要請なんてしていないけどね
778人間七七四年:2009/03/25(水) 16:42:42 ID:4K+nx4Zs
信玄自身の書状の言葉どおりじゃないか。信長を粗略にしたら当家は滅亡ですって。
わかっててやったんだろ?
779人間七七四年:2009/03/25(水) 16:46:57 ID:4K+nx4Zs
>>777
してるよ。
鴨川達夫「武田信玄と勝頼−文書にみる戦国大名の実像」 には当時信玄がやりとりした書状がまとめてあるから見てみな。
逆に一般に武田の裏切りとされる今川への攻撃が、上杉との挟撃を防ぐための予防措置だったとかも立証されている。
780人間七七四年:2009/03/25(水) 17:39:29 ID:TCW71URm
武田家は事実上滅んだはずなのに、どうしてそれらの書状が残ってるのですか?
781人間七七四年:2009/03/25(水) 19:21:16 ID:RhuwbpRZ
>>778
関係ないって。状況も全然違うし。
何年たった後の話をしてるんだか。
>>780
遺臣とか、受け取った側とかに保管されていったものや
家が滅亡したからって文書が全滅するわけでもないから。
武田氏の文書は遺文集にまとめられて全5巻数千にも及ぶ
膨大なものが残ってる。
782人間七七四年:2009/03/25(水) 19:22:26 ID:RhuwbpRZ
>>775
何が駄目なん?
783人間七七四年:2009/03/25(水) 19:33:55 ID:ZAD/XwY7
>>780
スゲえな。

この人の頭の中にある戦国日本ってどんな世界なんだろうwwww
784人間七七四年:2009/03/26(木) 08:59:08 ID:Sno0HXgA
>>783
合戦に敗れたらその国はすべて焼き尽くされて灰になり
男はみんな殺され女は性奴隷(童門談)にされるっていう
毎日だと思ってるんだろうな

こういうDQNが「戦国武将に学ぶ生き方」なんて言うんだろう
785人間七七四年:2009/03/26(木) 11:32:32 ID:zC5fCdmt
勝負を事実上決めた、鳶の巣山攻防戦の兵力って、
織田徳川 約四千
武田 約三千
で、兵力差はさほどないんだな。武田側が山側の城砦によっていることを考えると、決して武田不利じゃない。
が、実際にはほぼ一刻で突破・殲滅されて武田本隊の背後がら空きに。
ここまであっさり差がついたのはやっぱり奇襲を武田がまったく探知できなかったってことなのかな?
あとは鉄砲火力の違いぐらいか。織田方が、信長馬廻から出された精鋭の鉄砲衆だけで五百をもっていたし、徳川の部隊も自前の鉄砲は用意していただろうから。
786人間七七四年:2009/03/26(木) 15:27:14 ID:kDaMBF4G
鳶の巣山の武田軍は親類衆の武田信実が指揮官とはいえ兵力の多くは一時雇いの牢人衆。
小山田昌行勢はとっとと退却しているし、本隊から救援が出た気配もない。
奇襲・質量の差・武田の統制不足が重なれば山岳城砦の利もないだろ。
787人間七七四年:2009/03/26(木) 16:13:04 ID:jn5Qqxea
稗史に見られるような、
・佐久間信盛の偽内応に引っかかった
・武田方も敵後背への夜襲を考えていた武将がいたが退けられた
これらは信憑性はなさげだが、理屈で考えたらどうだろう?
いずれも後から結果みてつけくわえたものくさい?
788人間七七四年:2009/03/26(木) 16:20:41 ID:RvU5Jqmb
>>785
武田3千といっても各砦に分散しているから実際の兵力比はもっとあったんじゃね
789人間七七四年:2009/03/26(木) 17:48:13 ID:fJ5DLa3G
なんで武田こんなに情報収集能力低くなってしまったん?(´;ω;`)
790人間七七四年:2009/03/27(金) 11:33:13 ID:N5R0MI4i
元々高くないんじゃないの? 講談だと武田の乱波の忍者とかが大活躍するけどさ。
あるいは(講談くさいが)、第四次川中島のときみたいに敵に物見がことごとく始末されてしまったとか。
791人間七七四年:2009/03/27(金) 22:56:16 ID:AknE3Msh
よく言われてるけど、大阪の陣の時代でも、敵どころか自軍の兵が
どこに何人展開しているのかも把握できず、自軍の先手の部隊は
敵に勝手にちょっかいを出して事を荒立て、後備えはいつの間にか
逃亡しているっていうのが割と普通の戦争という時代だ。
負ける時にはいつの間にか人がいなくなっている軍勢が、勝ち戦で
引き揚げてくる時にはなぜか何割増しにも膨れ上がってるし。

我々は何か、一軍の大将は敵の人数も味方の動向もすべて瞬時に
把握して采配を振るうのが当たり前で、そのための情報収集も完璧に
為されて当然だった、みたいな妄想に浸って戦国時代を夢想するけど、
どう考えてもそんなことがあったはずはないわけで。
792人間七七四年:2009/03/28(土) 00:09:22 ID:ldJNfAYw
>>791
たぶん、ゲームの存在が大きいんじゃないかと思う。

ゲームでは
・敵味方含めて詳細な情報がリアルタイムで手に入る
・情報伝達、命令がタイムラグなしに混乱なく正確に伝わる
の二点が絶対的にあるから。
793人間七七四年:2009/03/28(土) 09:27:36 ID:vCoft7bE
>>791
敵戦力についての情報収集は現代戦ですら困難だしね
そもそもこの時代は味方の戦力ですら、動員してみなければ正確なところはわからないんだし
794人間七七四年:2009/03/28(土) 10:58:36 ID:rxrvgssU
>勝頼追放

無理じゃない? 信虎追放が可能だったのは、皮肉にもその信虎の軍事・外交政策によって甲斐がまとまり、また外部からの脅威が激減したから。
強力な敵を抱えたままでのお家騒動やる可能性は低いんじゃ? それこそ積極的に敵手に降伏しよう、という武田末期ぐらいの悪条件にならない限りは。
ただ、追放までいかずとも有力な家臣による専横を警戒した可能性はあるかもね。
武田の過去には一門衆の相克はもちろん、有力家臣(跡部氏ら)による専横が実際にあったし。
長篠合戦でも意見の是非ではなく、政治力学によって評定が決した可能性はあるな。

>武田の財力

なぜ、駿河を直轄支配にせず穴山氏らを介した支配にしたんだろうね。今川を支えた交易・海運・鉱山からの収入が宗家直轄になれば、領国に同時期のライバル達と比べても重い負担をかけずともよかったかもしれないのに。
武田の野戦軍動員力は、領土が増えたのに信玄末期をピークに目減りしている。
まぁ領域が増えたために、その守備や維持に兵力を取られた事情があるかもしれんけど。

>奇襲

武田軍がまったく無警戒だったのならともかく、数千の兵馬が動きさらに鉄砲を多数撃ちかけたら、そりゃいくらなんでも攻撃された、と気づくだろう。
武田が対応できないほど、織田徳川の攻撃が急だったってことじゃないの?
信長の親衛隊含む精鋭だからな。徳川の酒井衆も、譜代きってのつわものでしばしば優勢な武田軍相手に善戦していたし。
795人間七七四年:2009/03/28(土) 13:40:52 ID:g2WMBex1
穴山信君は後の投降の際、黄金千枚はじめとする財物を信長・家康に献上するほど潤沢な経済力あったんだが、これは駿河支配のお陰かな?
796人間七七四年:2009/03/28(土) 15:53:29 ID:cE4Ck+mA
鳶の巣山は長篠の抑えで各砦や本体とも連携を密に取り合わなければいないはずなのに。
連絡網が不完全だったか、織田側が強力すぎたか、よっぽどの幸運が織田側にあったのか。
全部だろうな。
797人間七七四年:2009/03/28(土) 17:38:25 ID:mWvw0uf/
>>794
武田家はあまり代官制を重視してないんじゃない
798人間七七四年:2009/03/29(日) 08:01:38 ID:KEL5IDcP
武田信虎は、なかなか言うこときかない一門衆や国衆に代替する主力として「上意ノ衆」と呼ばれる大名直轄の足軽を重視した。
武田の宗家直属の足軽大将クラスが他家の同程度の人物に比べて有名なのは、軍鑑等の文書の影響もあるだろうけど、戦力の中核を形成していた事情もあるだろう。
国衆の関係者を一本釣りする形で廃れた名家を継承させ子飼いとして独立させたり、他国衆を少なからず指揮官として採用していたのも、国衆へのけん制の意味合いがあったのかも。
勝頼が本当の意味で信頼できた兵力って、母の実家系の諏訪衆とか、こういう直轄部隊ぐらいしかなかったんじゃ?
799人間七七四年:2009/03/29(日) 11:53:24 ID:/0mb5B62
>信玄期の家臣への勝手に帰るな、という書状

これは農民まで戦力として動員していたからでは?
たしか信玄政権後期だと、軍役衆と年貢納める百姓衆って分化が進んだんじゃ?
もっとも、年貢納めるのを免除するからかわりに従軍しろ、という文書もあるけども。
勝頼時代はどうなったんだろ。
800人間七七四年:2009/03/29(日) 17:02:48 ID:UlZzJqA9
確かに信玄後期の書状では
「軍役にはちゃんとした奴をつれてこい。百姓とかを出すのは
謀反に等しいぞ」
ってな感じで郷村に通達した書状があるな。
801人間七七四年:2009/03/30(月) 15:25:19 ID:0/ubOJTZ
たしかどっかの武田関連スレで、信玄最後の西進時に信濃の富農から借金していた、という文書が示されたことがあったな。
西進時でさえ困窮していたのなら、その後はもっと苦しかっただろう。
野戦軍減少はその煽り?
802人間七七四年:2009/03/30(月) 15:27:58 ID:pCNiyHDt
>>801
借金してたのか?
特に知らないけど。今川が確か桶狭間の時にそんなことしてたような。

特に関係ないような。対上杉、対北条に対して兵を割く必要が生じたから
なだけだと思うが。
803人間七七四年:2009/03/30(月) 16:43:53 ID:SLdFzOY2
>>802
わからんぞ。今川がそれまでにない大動員で、豊かな尾張を狙ったのも借金苦が原因だったりするかもよ。
804人間七七四年:2009/03/30(月) 19:50:47 ID:JDg2PZ34
>>801
出典は軍監だった様な覚えがあるが、たしか最後の征西って
かき集めに集めて漸く軍資金が八千両ほどになったとか聞いたな
信玄の最晩年は台所事情も楽ではなかったんだろう
金山の収入も減少してたんじゃないの?
805人間七七四年:2009/03/30(月) 19:58:48 ID:SLdFzOY2
軍鑑なら、穴山が助命と領土の引き換えに信長家康に渡した金品は二万両になる、とかなかったっけ?
806人間七七四年:2009/03/30(月) 20:58:58 ID:pCNiyHDt
>>804
軍鑑にそんな記述あったか?
もともと西上って武田家最大の動員だから費用はそりゃかかったと思うが、
勝頼時代になっても2万近くで普通に戦ってるからちょいと眉唾。
下にもあるが穴山2万両とかあるし、比叡山だったかに勝頼がこれからも献金しますとか
書状送ってるし、金山はもともと間接収入だからそこまでのものじゃないんだけどな。
807人間七七四年:2009/03/30(月) 23:28:45 ID:xCa3NKCN
間接収入でもあるとないとでは違うだろう
808人間七七四年:2009/03/30(月) 23:28:56 ID:HZp/nObJ
金の産出が少なくなったとの説は
信玄時代には金掘り衆の軍役が免除されていたけど
勝頼時代には課せられていたから。

信玄の最後の西上は出兵している期間が長かったからねー。
フル動員で出兵期間も長ければ相当な負担にはなるだろうね。
809人間七七四年:2009/03/30(月) 23:48:12 ID:pCNiyHDt
>>807
そりゃあるにはあったほうがいいだろうが
それがないと財政が傾くってもんでもないと思うぞ。
>>808
まあ実際は徳川支配下になっても採掘続いてるんだけどな。

そして信玄死後半年もしないうちにまた武田は動き始めてる事実もあるし。
810人間七七四年:2009/03/31(火) 00:51:27 ID:GUbDqzwS
信玄没後武田が動いたのは、そうしないと反撃に出た徳川に領土あらされるからでは?
財政、といっても当時の基本は領地安堵と引き換えの軍役だから普通に財政の悪化にかかわらず動員だけはできたんじゃ?
811人間七七四年:2009/03/31(火) 01:47:52 ID:B6tI8wUF
>>810
軍役や動員が関係ないなら
何が財政を悪化させるのかわからない。
武田は別に贅沢して無駄に金を浪費してたとかないよ。
812人間七七四年:2009/03/31(火) 02:10:08 ID:GUbDqzwS
>>811
それは恩賞や、戦闘が長期化したときに供給する食料、宗家直轄の兵士達の俸給や武装費とかに必要じゃないの?
あと外交や内政の費用とか。
813人間七七四年:2009/03/31(火) 02:26:00 ID:B6tI8wUF
>>812
その程度の事なら今まで普通にやってきた事なのに。
なぜにこの時だけ悪化してるのかわからない。
てか武田は棟別銭を領国中から徴収してるから
とてもそれだけで財政疲弊するとは。
814人間七七四年:2009/03/31(火) 02:43:52 ID:GUbDqzwS
>>813
やってないだろう。信玄後期の遠征は、動員数が二万とかに達し、期間も長い。
二俣みたいな小城落とすだけで二ヶ月、とかな。
しかもそれまでの策源地で間に合った甲斐・信濃戦とは兵站ルートも違うし。
815人間七七四年:2009/03/31(火) 02:54:30 ID:B6tI8wUF
>>814
何をやってないと?
二俣は遠江の要衝として名高い城なんだが。
徳川なんか長篠の後にこの城を攻略するために5か月かけて結局城兵の安全条件にして
たちのいてもらったくらいなんだが。

それから武田が二万を動かすなんて川中島、西上野戦、北条戦、と
いくらでもやってる。
武田の領地が甲斐・信濃だけだとかおもってないか?
西上野も駿河も飛騨も東美濃も三河も遠江も手に入れてるし、
関東の小田原まで攻め込んでるし。
816人間七七四年:2009/03/31(火) 02:59:14 ID:GUbDqzwS
>>815
いや徳川の話じゃなくて、武田の話だから。
とりあえず落ち着けって。武田が二万超える兵力を動かすような大戦は、せいぜい数年に一度のペースだった。
ところが信玄後期から勝頼の代になると、西進でそれが常態化するだろう。
それまで休息や交代に充てていた期間や動員対象外にした軍役衆も休ませるのが難しくなった。
財源枯渇とあわせれば、無視できない要素だろう。
817人間七七四年:2009/03/31(火) 03:02:37 ID:B6tI8wUF
>>816
いやだからね、本当にわかってないだろ。
西上野戦でも2万近い動員なんかざらだし、
北条・駿河戦でも二万なんか普通だぞ。
西進以前にふつうにやってるんだって。

財源って金山の事?あれもともと間接収入だから大したもんじゃないし
徳川時代になっても採掘は続いてる。
818人間七七四年:2009/03/31(火) 03:05:36 ID:GUbDqzwS
信玄時代後期になると、例えば棟別銭が五百文まで増額されている。(同時期の後北条氏のそれの十倍の額)。
他にも雑多な税が新設されているからな。妻帯役とか。
信玄や勝頼は領地を増やしたが、それ以上の負担を強いる織田徳川戦をやってしまったため、収支があわなくなったんだろう。
駿河を直轄地にして穴山氏が備蓄した金銭を宗家に繰り入れておけばよかったかもしれんがね。
819人間七七四年:2009/03/31(火) 03:14:01 ID:B6tI8wUF
>>818
妻帯役なんか甲州法度の時からあるんだが。

織田徳川戦なんか信玄の生涯の本当に最後でしかないんだが。
なんで勝手に妙な決め付けをするのだろうか。

それから棟別銭とかは北条とは税制度が違うので
一慨にはいえんのだが。
820人間七七四年:2009/03/31(火) 04:03:24 ID:GUbDqzwS
信玄政権時代ですらこれだからね。勝頼の代になるとさらに関所新設して税徴収の回数を上げたり。
織田らとの戦争をやめられない以上、血を吐くまでやるしかないからな。
しかも鉄砲のような高価な武器の調達にも乗り出さざるを得なかったため、(買い付けは駿河の海上・水運交易を利用したようだが)かなり厳しいことになってただろうな。
821人間七七四年:2009/03/31(火) 04:08:13 ID:B6tI8wUF
>>820
だから、何がこれなんだか。
それから指摘しておくが、穴山が駿河で主導的な役割になるのは
長篠で山県が死んだ後なんだが。
鉄砲は信玄時代から集められてる。

勝頼時代の長篠の敗北と御館の乱での外交失敗からの北条との戦いで疲弊したんだが。
822人間七七四年:2009/03/31(火) 04:08:47 ID:GUbDqzwS
>妻帯役

え? もしかして最初の甲州法度二十五条では僧侶の妻帯自体を罪としていたのに、
後年の五十五条では税収めれば許可する、と変えたと知らなかったの?
823人間七七四年:2009/03/31(火) 04:14:36 ID:B6tI8wUF
>>822
だからその制定がいつだったと思ってるんだと
言ってるんだが。
全然晩年じゃないだろ。
後年、っていう言葉から誤解してるのか?
824人間七七四年:2009/03/31(火) 04:20:11 ID:B6tI8wUF
甲州法度26カ条制定が1547年
57カ条になるのが1554年。
信玄晩年とはとても言い難く、明確に勃興期。
825人間七七四年:2009/03/31(火) 13:52:26 ID:WgVnYoTE
領土拡張、がそのまま武田宗家の基盤強化に繋がらなかったんじゃないかね。
戦功あった家臣や一門にいい土地を与えなければならない。それをないがしろにすれば、信虎みたくクーデター起こされかねない。
鉄砲は本体もさることながら、弾・薬にも莫大な金かかるしね。
長篠合戦では、武田の鉄砲部隊長である(奉行)甘利信康隊さえ、弾切れ起こして結局白兵突撃をしているぐらい。
826人間七七四年:2009/03/31(火) 14:45:37 ID:Ji4GIhYe
信玄晩年から勝頼の時代は、大動員が可能になった代わりに、得られる領土が少なくなったといえる。
つまり、採算が合わない。
それでも軍事力を維持しようとしたら、土地収入以外の収入を増やすしかない。
827人間七七四年:2009/03/31(火) 14:55:34 ID:zydsikiL
>>825
信玄は馬場や春日や内藤といった低い身分から
取り立てて自身の権力を強化してるから
クーデター云々は違うと思うが。
むしろ有力豪族の勝沼氏も板垣氏も粛清されてる。
>>826
信玄晩年は西上で一気にたくさんの領土とってるし、
それ以前の駿河攻めでも2年で駿河一国獲得してるんだけど。
何を持って領土が少ないと?

まあ勝頼時代は当初はそんなに増えてもいないが。
828人間七七四年:2009/03/31(火) 15:19:55 ID:WgVnYoTE
>>827
それは逆にいえば、子飼いを強いて増加させないといけないほど基盤を強化する必要があった、ともいえないかな?
しかも馬場のように、独断や違反をしても責められないほど自立化した者もいるし。
武田の直轄地に基盤をおく、給人層ぐらいじゃないの?本当の意味で信頼できたのは。
829人間七七四年:2009/03/31(火) 15:37:22 ID:zydsikiL
>>828
もともと子飼いに力を与えて権力を固めるのは
基本的なやり方なのでそれほど取り立てていうものではないかと。
どの大名も同じようなことして権力強化してる。

馬場の動員兵力は譜代衆から見てそれほど多いわけじゃないし、
馬場はその担当地域から見て守備兵をいつも十分において少数の兵で
参戦するのが常だったとあるから、小田原の時も配慮はあったわけで。

第一それいったら秀吉も手取川の時に無断で撤退して
周囲から不審がられてるけど、おとがめはなかったわけで。
830人間七七四年:2009/03/31(火) 17:01:59 ID:e70Ets30
>>821
おいらは、拡大政策一辺倒だった信玄の時代のツケ(軍事負担)を
勝頼の代でも払い続けた気がするなぁ、少なくとも国内資源の枯渇は。

長篠以後、獅子印章による公私はっきりさせた伐採の管理(北条方式)に移行したり、
勝頼の代で国内資源の公的把握が進んだのは、完全に余裕が無くなったからだと思う。
この窮乏の責任を勝頼”だけ”に負わせるのには無理が。

親父(信玄)が借金体質で拡大路線を続けたあげくにプロジェクト半ばで頓死、
二代目(勝頼)が必死に改革しようとしても反対する元一代目の重役が死ぬまでできなかった、
…そんな状況に見えてしかたないけどなぁ
831人間七七四年:2009/03/31(火) 17:10:21 ID:zydsikiL
>>830
戦国時代は伐採資源はあちこちで不足してるけどな。
戦のたびに切りまくりだから。
てか公的把握は好意的にとれそうなもんだが。
国内資源は金山は江戸時代まで採掘されてるし、
信玄時代は特に借金体質だったわけでもないし、
結局勝頼は長篠の穴と御館からの多方面作戦で疲弊して
崩壊してるんだけど。
832人間七七四年:2009/03/31(火) 17:19:09 ID:gLdg0gD9
>>831
御館の時点で金に飛びついているんですけど武田家

信玄からの武田家(に限った話ではないが)って結局自転車操業で、
多少無茶しても領土拡大し続けられるのなら維持できる。
でも信玄晩年から相手も複数国を領する大勢力になって、領土を
増やすためには大軍が必要。その大軍を維持するためには収入を
増やし続けなければならない。しかし領土の拡大だけでは増加する
経費に追いつかなくなったと。
それでも勝っているうちはまだ不満も抑えられたが、侵略できる
弱小勢力が周囲から消えて大勢力だけとなって停滞すれば、それで
終わる。
833人間七七四年:2009/03/31(火) 17:43:23 ID:SIn1wdLP
武田家の領土は信玄の代で、信虎最盛期から見ても五倍近く拡大しているのに。
宗家直轄の御料地は相変わらず甲斐盆地(その中では確かに要地だったが)一帯ぐらいだったしね。
せめて金山と駿河の港ぐらいは直轄地にすればよかったとも思うが。
834人間七七四年:2009/03/31(火) 17:44:34 ID:zydsikiL
>>832
武田がもらったのは金だけじゃなくて
上野の支配権と北信濃の上杉領土と越後の一部。
こんだけもらえば飛びつくよ。

だからもともと数万単位の動員は何度もやってるが。
少なくとも簡単にくずれるようなもんでもないが。
長篠と御館の多方面作戦があったからだろ。
835人間七七四年:2009/03/31(火) 17:45:39 ID:zydsikiL
>>833
兄弟や息子に城をあげてるから宗家の力は増大してる。
836人間七七四年:2009/03/31(火) 17:49:11 ID:SIn1wdLP
>>835
その一族から裏切りが出て武田滅んだわけだが。
まぁ信虎時代の一門相克を直接体験してない信玄は危機感なかったんだろうが。あんまり。
まして信虎を追い出す、という信虎体制(近世化・直接支配の促進)へのアンチテーゼとして登場したのが信玄だしね。
837人間七七四年:2009/03/31(火) 17:51:16 ID:zydsikiL
>>836
一族ったって穴山は直系の一族じゃないぞ。
>>835でいったのは信玄の兄弟や息子。
こいつらは崩壊の時も別に裏切っちゃいないな。
838人間七七四年:2009/03/31(火) 17:53:04 ID:zydsikiL
>>836
それからいっておくが
信虎を近代化とかあんまりいうもんでないと思うが。
信虎は足軽大将にしか取り立ててられてないし
信玄は統治初期は信虎体制を継承して戦ってる。
信玄は信玄で前に進んだだけ。
839人間七七四年:2009/03/31(火) 17:54:14 ID:SIn1wdLP
>>837
穴山は信玄の姉の子なんだが。
(何をもって直系といっているのかは知らないが)直系をそんなにいうということは、直系外を重視した信玄の失策、といいたいの?
840人間七七四年:2009/03/31(火) 17:55:22 ID:SIn1wdLP
>>838
思うのは勝手だが、とりあえず意味の通じる文章を落ち着いてかいてくれ。
足軽大将にしか取り立ててない、とか何のこと?
841人間七七四年:2009/03/31(火) 18:07:47 ID:zydsikiL
>>839
だからもともと穴山は独立領主。
信玄が特に重視したというわけでもなく元から勢力を持ってる。
>>840
これでわからないとかなにそれ。
てかさ、何をもって信虎を近代化とか言ってるわけ?
他国者の人材登用とか言い出すなら
足軽大将にしかできてないって事。
そして信玄がアンチテーゼも何も初期は明確に信虎体制を継承してる。
むしろ信虎体制で重きをなしていた勝沼や板垣を粛清し
権力を高めたのが信玄。
842人間七七四年:2009/03/31(火) 18:13:53 ID:SIn1wdLP
>>841
いや、だから元々はともかく信君は従兄弟で、かつ妻も武田直系で実際に一門衆筆頭として遇されていたわけだが。
駿河という要地を与えられたのも信君だし

あの、足軽大将って、番方(軍制)において総大将・侍大将に次ぐナンバー3なんですが。
しかも曾根氏のように、武者奉行兼任になるように重職を加えられたし。
もしかして、足軽大将とかについてゲーム的な、下級指揮官程度の印象しかないの?
843人間七七四年:2009/03/31(火) 18:16:21 ID:zydsikiL
>>842
穴山が駿河の代表になるのは山県の戦死後ね。
それまでは山県だから。

ナンバー3とか本気でいってるわけ?
侍大将が山ほどいて足軽大将も山ほどいる中で
どこをどう間違えたらそんな理屈が言えるのだろうか。
侍大将と足軽大将が何十人いると思ってんの?
844人間七七四年:2009/03/31(火) 18:22:07 ID:SIn1wdLP
>>843
いや、信玄時代から、駿河支配は穴山だが。
穴山が発給する文書で差配していたんだし。(他の城代支配と異なる)

本気だよ。侍大将が山ほど、というのはわけわかんないが、軍制においてはそうなる。
実際、50騎武者持ちとか当時の武田軍としては大部隊を指揮した足軽大将もざらだし。
(いわゆる五名臣もそれ)
845人間七七四年:2009/03/31(火) 18:43:00 ID:zydsikiL
>>844
いや?駿河郡代は山県。
山県が駿河江尻城代にして駿河相備衆統括。
書状なら山県も多いぞ。

侍大将の数は数十人いるんだけど。
ナンバー2がどれだけいるんですかと。
足軽大将も数十人。ナンバースリーもどれだけry
てか足軽大将に他国者を取り立てるのは信玄もやってるしな。
足軽大将は基本的に侍大将の相備えだよ。
846人間七七四年:2009/03/31(火) 19:03:46 ID:e70Ets30
>>831
金山については、江戸時代まで掘れたのは技術改革の問題だけじゃ。
これは大久保長安らの南蛮、少なくとも西国での鉱山技術が導入された結果で、
勝頼末期ですら”竹火縄”を使っていたくらい技術輸入に鈍い甲斐では
末期でも採掘量は激減していたかと。

多方面作戦ですが、基本そのような状況(外交信用皆無)にしたのは信玄だし、
数多くの戦については、朝鮮の役の漢城にて毛屋主水が
「勝頼が長篠の敗戦後攻勢に出て敵の追撃をゆるめた故知である」
と言っているので、当時では勝頼の戦は肯定的な見方をされていた気はしますね
つまり政権維持のために必要だったの”戦”ではないかと。
…これらはすべて”信玄の負の遺産”な気はしますが。
847人間七七四年:2009/03/31(火) 19:09:17 ID:SIn1wdLP
ああ、もっといい例があるな。足軽大将にすぎない(と、ある人からみればそうなる)原美濃守の下に、士(侍)大将がついた、という例もある。
このあたり、地域性や時代ごとに意味合いの変動も勘案しないといけないが、
足軽大将は時には侍大将すら指揮においた要職だよ。
848人間七七四年:2009/03/31(火) 19:11:36 ID:SIn1wdLP
>>845
だから立場が違うって。
誤解覚悟でおおざっぱにいえば、信玄の奉書の代理と、家臣にもかかわらず領主統治者として直接指示していたか、の差。
849人間七七四年:2009/03/31(火) 19:22:26 ID:zydsikiL
>>846
徳川領土になってからも採掘続いてるけどね。
技術改良以前に。武田の採掘技術も悪くなかったといわれてるけど。
採掘衆の技術は江戸時代にも使われてるし。

信玄死亡時は北条とは同盟。これが崩れるのは御館の事なんだけど。
なんか信玄死んだ時北条が敵だったみたいに言う人いるけどなんでなんだろ。

長篠敗北以降にも前に出た事を評価されるのが、なんで信玄時代の負の遺産になってるの。
その逸話は長篠で負けた後も勝頼が前に出て領土を維持したのはいいことだ、って意味だから
信玄関係ないじゃん。そもそも勝頼は長篠前まで順調に領土拡大してる。
北条との戦いが始まったのは勝頼の外交失敗。徳川との戦いならば問題ないって。
>>847
いやだからね、足軽大将は基本的に侍大将の相備えなんだってば。
横田は甘利の相備えだったし、他の足軽大将も後輩の侍大将の指揮を受けてる。

その事例を具体的に出してみて。
>>848
だから山県が駿河衆を統括してるんだって。これが穴山になるのはその死後。
850人間七七四年:2009/03/31(火) 21:00:33 ID:e70Ets30
>>849
三河侵攻は、上洛を目指した信玄の意向の結末ではないですかね?
長篠以後武田家が西に興味をなくすのは、勝頼が”上洛”を念頭に置いてなかったとしか。
国を維持するために”戦”を続けなければならず、それ故国力や改革が遅れたのなら、
もう上洛途中で死んだ親父の”負の遺産”というしか。

また”国内資源の枯渇”は徴兵対象の質の指定やら信玄期から見られる気がしますが。
長篠後、勝頼が兵員人数装備まで指定するようになったのも、
そうしなければならないほどの国内での質の低下があったから、と見たのですがどうでしょう?
つまるところ信玄が甲斐の国力を絞り出しきった所を引き継いだのが勝頼かも?

北条との断交につながったのも、基本信玄以来の拡大政策の結果、ですし、
もともと信玄だって長く友好を守った例は少ないのでは?
851人間七七四年:2009/03/31(火) 21:05:05 ID:u3R3cBr0
まぁ、あの当時は勢力拡大する相手として最も弱かったのは徳川家であるのは間違いない
問題はその徳川家がなかなかしぶとく、見返りが得らるために頻繁に出兵を繰り返した点かと
結局は実入りの大きい地域を占める岡崎、吉田、浜松、掛川の何れも取れなかったし
852人間七七四年:2009/03/31(火) 21:32:59 ID:ePQFJOL0
>>850
>長篠後、勝頼が兵員人数装備まで指定するようになったのも、

そんな事があったんだ。
具体的に教えてください。
853人間七七四年:2009/03/31(火) 22:12:08 ID:jUay4I3X
勝頼の代になると、躑躅ヶ崎館に商人が出入りするようになった、けしからんと軍鑑に書いてあるけど。
実は窮乏する財政を立て直すために専門家の話聞いた、ごく当たり前の対応だったりして。
もし平均的な武田武士が商人(商業)を軽視していたのなら、そりゃ軋轢もおきるだろうな。
854人間七七四年:2009/03/31(火) 22:17:44 ID:jUay4I3X
>足軽大将

当時の軍制は、近代の軍のように序列が決まっているわけじゃなくてよくいえば柔軟、悪く言えばアバウトだからね。
先手大将とか、後大将とかの重要な位置を拝命すると、足軽大将でも平時の上位者含む数千の兵の指揮権を貰ったり(戸石崩れの横田備中とか)。
足軽っつーと身分低い武士のイメージがあるが、そうつくからって軽視していいものでもない。
敵方の信長の記録「信長公記」にも「足軽衆」がでてくるが、これも雑兵ではなく馬廻等と並ぶ主力だし。
855人間七七四年:2009/03/31(火) 22:44:18 ID:u3R3cBr0
>>854
雑兵としての足軽と、身軽に動けるという足軽を分けて考える必要があるのかな
856人間七七四年:2009/04/01(水) 01:17:29 ID:W9FfdqBM
>>752
飛州之調略に関しては他の人も言っている通り、それが侵攻のソースとなりうるなら
1572年5月の遠藤氏の調略をもって、謙信書状の証拠ともなりうるし。
まあ上は枝葉部分で、他にも1576年の遠江横須賀攻めとかでもいいし、
すべての合戦を武田側の史料から見つけるというのは困難、
他家の史料にあっても自家の史料に無いので否定というわけにはいかないと思う。
しかもその史料の一部は引用しておいて、一部は引用しないというのはどうかと。

>>761
信玄死亡直後に勝頼が内藤に対して疎略しない、などの書状を出しているし
上手くいっていなかった可能性は十分ある。

代替わり時に家臣が当主に出すはわかるがその逆はあまり聞いたこと無い、
一応今度他家の例でも調べてみようかと思うが。

>>767
>諏訪が先に山之内上杉と領土協定とか結んで武田や村上を踏みにじったんだが。
一応そういう説もあるが、
『諏訪神使御頭之日記』より、関東勢が攻めてきたが諏訪勢がよく守ったので
関東勢は長窪までは働かず芦田郷を荒らして去っていったという訳でいいと思うが。
平山氏が『身をぬかるる分に候』を武田村上を出し抜いてと解釈しているが、
それだと何で関東勢が荒らしてそのまま立ち去るとなるのか、海野氏のための出兵だったというのに。
また諏訪が翌年武田の出兵を佐久攻めと勘違いしたなどもあるし、
諏訪が協定違反だったのなら、軍鑑で韮崎合戦などに頼ることなく大義名分はあったはず。
村上武田が引き上げた後なのでみたいに訳す通説のほうが前後がしっくり来ると思う。
857人間七七四年:2009/04/01(水) 01:38:43 ID:W9FfdqBM
>>799
>>800
北条家にも似たような内容の書状はあるのでどこも似たようなものなのでは。

>>801
それは多分1572年10月付日にち不明の甲斐の百姓8名から金9万両の借金をした
という穴山『梅雪』『高坂弾正』と土屋の連署の書状ではないかと思う。

>>804
8千両は何かで見た記憶はあるけど、一次史料ではなかったはず。

>>849
金山は勝頼時代にかなり縮小、一部は閉山、
武田滅亡後から江戸時代にかけて技術の発達により再発掘が可能となりまた栄えるという流れで、
勝頼時代に小規模となったのは遺物などからほぼ確定では?
武田の採掘技術も悪くなかったというのは知らない、甲斐の金山は良質過ぎるため、
技術が発達しなかったとか言われてるぐらいだと思ったが
山梨県史や武田氏研究などの受け売りだが。

>>852
日付までは忘れたがその手の書状はある、ただ信玄時代も似たような書状はあるが。
誰も書かないようならそのうち自分がメモしてくる。

信虎がそのままだったら他国者をも侍大将にまで出世させたかもしれないし、
信玄が継いだせいで彼らの出世が止まったという可能性もある(一部の者はそのまま出世しているが)、
あくまで可能性に過ぎないが。
858人間七七四年:2009/04/01(水) 13:01:57 ID:K4EHFJt2
長篠城守って殊勲になった奥平信昌と、徳川家康は剣術の上でも兄弟弟子だったそうだ。
姉川合戦で若年の信昌(当時の名乗りは当然違ったが)が活躍して、喜んだ家康がどうやってやったんだ、と聞いたら、
「剣術のお陰。筋骨ではなく理合で勝つもの」と言上して、師匠(奥山休賀)を家康の耳にいれたそうだ。
あと、真偽不明だが、手元の某合気道流派の本によると、武田家を発祥(正確にはそのさらに前の新羅三郎義光)とする、と主張する武術流派は多いそうだ。
859人間七七四年:2009/04/01(水) 20:02:22 ID:3J2AHYrX
>>850
長篠あとも武田は西で戦ってるし、
さらにいうと北条戦線で忙しくなってるので
あんまり向かう理由がない。少なくとも自分からは。

兵の質を求めるのがそんなにおかしいのだろうか。
領国が拡大すればするほどその軍の質を求めるのは自然な傾向。
郷村が軍役に対して出す人間達を雇ったり固定したりする兵農分離が
あちこちで進みだした当時では、大名達はなんとかしてまともなやつを出させようとしてた。

軍役における兵数・人数・装備についての規定は信玄時代からしっかりされてるぞ。

さらにいっておくと鉄砲重視してるのも信玄時代から。

>>基本信玄以来の拡大政策の結果、ですし
ようわからん。勝頼が上杉にいろいろもらって転んだのが
死んでる信玄とどう関係が?としか。

これも誤解だが、信玄は三国同盟を20年近く守ってるんだけど。
少なくとも短期で破るのが常だったわけでもない。
860人間七七四年:2009/04/01(水) 20:04:26 ID:3J2AHYrX
>>854
ただその横田は基本的に侍大将である甘利の相備えなんだけど。

軍鑑で見ても基本的に足軽大将は侍大将の下にいる立場。
861人間七七四年:2009/04/01(水) 20:15:04 ID:3J2AHYrX
>>857
百姓8人から九万両ってどんだけ金持ってる百姓ですか。
詳しく知りたいので遺文番号教えてくれ。

こちらはもともと金山は縮小しても間接収入なのでそれほど大きくないと
いう立場だが。

丸山氏は金山衆は金山衰退後、その技術を生かして土木工事などに転用して
各地に散っていったと書いてるな。城攻めとかにも使われてるし
なかなかの技術があったと思われるが。

信玄時代にも装備や人数の規定はあるぞ。勝頼時代だけを特別に見る必要もないと
思うが。

どうだろうな。信玄は春日や工藤といった少身から取り立てた連中を侍大将にしてる。
信玄が無理に出世を止める必要はないだろう。
862人間七七四年:2009/04/01(水) 20:23:27 ID:3J2AHYrX
>>856
飛騨攻めについてはその後で述べているが、
調略成功で土地貰った奴もいれば、しっかりと江馬氏三村氏が武田傘下に入っている
書状があったり、信玄が飛騨の事は整ったとか言ってる書状があったり
信玄の使者が飛騨を通って美濃に入ったりしてるから相当な部分が武田に入ってる事がわかる。
まさか調略成功して美濃に一か所もらった奴の働きだけでこれだけの部分が
支配下におかれるわけないだろ。

てか書状長すぎて全部移すのが非常にめんどいんだけど。最初に引用した調略成功以外のは
飛騨攻めに直接関係ないことが多いからだす意味も感じないし。

内藤にわざわざ出してるのは確かに珍しい。
だが少なくとも対外的には勝頼は家督継承を認められ、
国内にも代替わり安堵してるからおかしくないはずだが。

この事に関しては丸山氏も支持者だな。
諏訪氏が勢力拡大する形になっちゃったんだから疑問符はつく。
863人間七七四年:2009/04/01(水) 21:23:39 ID:9Ht2dB+a
信玄時代から長篠合戦前の勝頼時代では、知行200貫の者の軍役でようやく鉄砲一丁が義務なのに。
長篠後は、50貫の者から鉄砲用意が義務付けられるようになるからな。
戦国期の鉄砲装備率は、だいたい全軍の一割ぐらい(後年になるほど増えて、大阪の陣では三割にも達するが)とされているが、
勝頼期の武田家もこの流れに遅れるわけにはいかず、特に長篠で鉄砲の威力を見せ付けられたとしたらやはり重要視が加速したのは自然なことだろう。
864人間七七四年:2009/04/01(水) 21:27:01 ID:9Ht2dB+a
>武田の疲弊

それまでの主戦場だったところ違い、有力な同盟者が至近にいなかったことも原因だろうね。
関東で戦う場合とかは、信玄期に外交で失敗した時期を除けば後北条との共同戦線が期待できた。同陣して上杉と対峙したことも何回もある。
あとは有力な後援者か。川中島合戦のころの信玄書状に、「今川からの物資は関所でとどめないように」というものがあるが、今川家からの補給が期待できた様子。
しかし、西進政策をとるときにはそういった味方はいないし。
(後北条氏から援軍が出たことはあるが、それも信玄最後の遠征の三千ほどが上限)
865人間七七四年:2009/04/02(木) 01:06:52 ID:B5jdVv/o
>>861
>間接収入なのでそれほど大きくないという立場だが。
これが判らないんですが。直接でなく間接であっても、鉱山規模が縮小すれば
上納金も減るわけで。
さらに間接であったところで、山からの生産が減少すれば当然金堀衆の収入も
減少するわけで、それは武田家だけでなく武田領国全体における生産力の低下
でもあるわけで。
866人間七七四年:2009/04/02(木) 18:59:32 ID:I89ewrkz
領土拡大が、軍役負担にペイするものなら、少なくとも長篠までは武田は領土を増やし続けたわけだから税を重くする必要はないはず。
が、実際には増税と新税の繰り返し。
戦略ミス、といってしまえばそれまでだけど、旨みのありかつ適当に倒せそうな敵がいる地方がなかったという宿命もあるかも。
867人間七七四年:2009/04/03(金) 06:55:15 ID:G0hKN1iL
>>863
元亀二年の川窪信実宛軍役定書に(加増分二百九十七貫に対し)騎馬三・鉄砲五挺・持鑓五本・長柄十本・弓二張・持小旗三本とあるが。
二百貫に一丁ってソース何?
868人間七七四年:2009/04/03(金) 11:29:28 ID:PXeK83kt
大井左馬允 知行高230貫 軍役中鉄砲一。知行177貫の桜井次郎の軍役には鉄砲無し、というのを見つけたんだが。
よく出される信実の軍役は(確か)一門だから軍役の負担も大きかったんじゃないのかね?
他の国人の手本になるように、とか彼らに不満いわせにくくするように、とかの意図で。
869人間七七四年:2009/04/03(金) 13:06:34 ID:/zar2ggW
>>867
加増と軍役は別文書だよ
後、加増は三百九十七貫ね
870人間七七四年:2009/04/03(金) 14:19:26 ID:PXeK83kt
あと、織田は長篠戦に限っては、軍役対象外の地域の家からも鉄砲だけは出させている(個別の書状が現存)ようなので、
一般軍役の織田家の軍隊と比べても高い火力と武田軍は対峙することになった、という事情もあるだろうし。
ただじゃあ具体的に織田家の鉄砲軍役の重要度はどうだったんだ、というとわかんないな……。
一応、明智軍法なんかが残っているけど、これは石高制だし。三百石持ちから鉄砲一が義務。
871人間七七四年:2009/04/03(金) 14:51:53 ID:PXeK83kt
ふと思いついたんだが、信長が必ずしも武田軍が鉄砲の正面に突っ込んでくるとは限らない時点で通常軍役以上の鉄砲を動員したのは、
高天神城後詰失敗等で、織田家を不安視する徳川に見せ付けるための、一種の宣伝だった可能性があるんじゃないかと妄想。
872人間七七四年:2009/04/04(土) 05:06:34 ID:YXu4bj2Q
信長は、まだ尾張半国も持ってない道三との会見時に、すでに弓鉄砲五百をもってったぐらいだけども。
(弓と鉄砲の比率は不明。槍とあわせると供回りの人数をオーバーしちゃうんで、一人が複数の武器を携行していた?)
軍役で動員される数的主力は、織田家のような財力のない国人衆だからそんなに鉄砲大量にもってるとも思えないが。
873人間七七四年:2009/04/04(土) 09:04:28 ID:XT05F+WE
>>872
あの記述はどこまで信用できるだろうね。
ヘタしたら道三対面すら創作かもしれないな。
日付とかも書いてないんだったかな。
874人間七七四年:2009/04/04(土) 09:19:08 ID:vUSJ/AoY
>>872
信長は騎馬(御伴衆)七・八百騎、槍五百本、弓・鉄砲五百挺
斉藤は騎馬(古老の者)七・八百騎、足軽は不明

で、信長の方の槍が長い事に道三は不機嫌だったとある
これを見ると槍に注目しているので、鉄砲はそれ程でも
なかったかもしれない
875人間七七四年:2009/04/04(土) 14:31:32 ID:YF/ZylGc
>>864
まあ北信濃戦線とかでも今川北条の援軍は数百程度だったみたいだけど。

川中島の今川からの物資の事は今川からの援軍の為の物資だったみたいだけど。
>>865
金山の生産が減ったからと言って武田家の生産力が落ちるわけでもない。
武田の収入のほとんども他の大名と同じく税収や交易だから。
>>866
まあどこも戦が続けば軍役増大なんてざらだけど。
>>872
信玄も第2次川中島で鉄砲三百を一部隊につけて派遣してる。
876人間七七四年:2009/04/04(土) 15:57:53 ID:jwrPfb6I
鳶ノ巣山奇襲部隊には、「信長馬廻」から五百の鉄砲、とある。つまり特別な軍役で集めたものではなく、直轄のものだろうな。
信長が手元すべての鉄砲を奇襲にあてた、とは断言しずらい。総数はもっとあったのかな。
あと、鉄砲の数もさることながら、質の差も考えないと。
武田家含む戦国大名は通説では種子島での鉄砲国産化から数年かそこらで、結構な量の鉄砲をやりとりているが、
当時の生産力や輸送力から考えると、輸入分を合わせるとしてもちと普及が急すぎる。(より国産化が遅れた火薬なんかのことも考えるとさらに)
だから、既に日本に入ってきていた中国製の青銅鉄砲のことじゃないのかね。うろ覚えだが、そんな予想した学説みたことがある。
また一口に火縄銃、といっても時代が進むにつれて鉄砲対策に呼応するように口径が大きくなっている。それらの中心地は堺や国友といった畿内。
そこらの差もあったんじゃないかね。
長篠後、武田家の鉄砲重視ぶり(指摘されているように、それまで軽視していたわけでもないんだが、「とにかく鉄砲だ」という書状を出すぐらいになる)をみるとやっぱり長篠の鉄砲の猛威はインパクトがかなりあったんじゃなかろうか。
877人間七七四年:2009/04/04(土) 15:59:16 ID:jwrPfb6I
訂正

やりとりている→やりとりしている

だから、既に→だから、少なからぬ数が既に
878人間七七四年:2009/04/04(土) 17:05:31 ID:jwrPfb6I
>金山枯渇

元々、武田の金山支配は金山衆を介した間接支配。彼らは農民同然の諸役も負っていたので、いわれるほど武田家の収入に大きなウェイトだったのかは疑問。
それほど重大だったら、敵である信長のように鉱山は代官支配などの直接掌握をしたことだろう。
まぁ、金山衆の力が強くて支配できなかった、という可能性もあるが。
879人間七七四年:2009/04/04(土) 17:22:56 ID:jwrPfb6I
もっとも大きな収入は、やはり他国に比べて重く多い諸税や、人身売買の利益だったんだろうな。
特に武田の人身売買は、身請け金が二貫文〜十貫文(志賀城での捕虜)とかなり高く、買い手がなければ鉱山に売りつけている。
同時期の謙信の売買だと二十から三十文(こっちは逆に安すぎて疑問になるぐらいだけども)
880人間七七四年:2009/04/04(土) 19:18:53 ID:SK0xJ/dd
>>861
九万両の書状っていくらなんでもあんなのが戦国遺文に載っていると思うよな
というか戦国遺文読んでたらそれぐらいわかるだろ常識的に考えて
881人間七七四年:2009/04/04(土) 19:21:00 ID:SK0xJ/dd
間違えた
訂正 「思うなよ」だ
882人間七七四年:2009/04/04(土) 19:26:39 ID:Qnx/8Xf/
>>879
>やはり他国に比べて重く多い諸税や
つまり勝頼の時代に武田家が疲弊してくるのは、金山枯渇などの自然が原因
ではなく、信玄の政策によると?
883人間七七四年:2009/04/04(土) 20:43:26 ID:2jhqDGJi
いや、金山の収入が仮に全体の一割か二割そこらだとしても。
なくなればやっぱり大きいだろう。
他に補充する手当てがない(だから重税化を進めざるを得なかった)のなら尚更。
884人間七七四年:2009/04/04(土) 21:18:07 ID:9cw7ECOe
甲州金とか計数貨幣として運用するぐらいだったのだから
生半可な産出量じゃなかったんじゃないか
少量しか算出しないようなら計数貨幣として流通させるなんて不可能なんだし
885人間七七四年:2009/04/04(土) 22:40:02 ID:2jhqDGJi
でも当時の金って貨幣としてあんまり流通してなかったんじゃ?
…だからこそ逆に貴重だった、という考え方もあるか。
確か信玄は戦場での褒賞にも使ったりしたんだっけ?
886人間七七四年:2009/04/05(日) 00:22:23 ID:0bmOsz1a
>>880 >>881
何を言いたいのかさっぱりわからん。
武田が百姓8人から九万両の借金をしたという書状があると
そっちは言ってたのに武田遺文にはないっての?
なんだそりゃ? じゃあ何でみたんだよ。
887人間七七四年:2009/04/05(日) 00:25:36 ID:0bmOsz1a
>>882
長篠の敗戦と北条との戦いまではそれほど疲弊してるとも思えんが。
>>885
信玄が手柄立てた部下に三すくい分の金をあげたらしい。
888人間七七四年:2009/04/05(日) 01:21:12 ID:Sy2oJ7Fn
武田家は疲弊してないが、領国は疲弊しているんじゃないの?
取立てた税で目先はいいが、後には当然武田家自体もへばってくる。
そのタイムラグの差がちょうど長篠に重なったとか。
武田家のバランスシートなんてさすがに残ってないしね。
889人間七七四年:2009/04/05(日) 02:02:39 ID:c8938v0w
金山収入が仮に一割程度だとしても、それが半減すれば五分の収入減。
それでも軍の規模を維持できれば拡大するのなら、他に税をかけて
補填しなければならない。
当然、税を架けられたところはその分疲弊していく。
増税を上回る収入アップがあるのならまだしも、軍事規模=必要経費の
増大に比して領土拡大は頭打ちになっていくと。

疲弊が起きていなかったと考える方が無理があるな。
890人間七七四年:2009/04/05(日) 02:20:08 ID:0bmOsz1a
>>889
領土拡大に関しては何気に勝頼は北条と戦って
上野取ったり武蔵取ったり、上杉から越後の一部もらったり
北信濃領もらったりしてるんだけどな。
金山のだけで疲弊するとはとてもとても。

普通に長篠の大損害と御館からの北条との戦いによる多方面作戦が原因で疲弊したと
見るのが自然かと。
891人間七七四年:2009/04/05(日) 04:05:10 ID:qPgeQdkO
>>890
信玄死亡(1573)から武田家滅亡(1581)の8年間で国力を一気に消耗した、
…というのは、いくらなんでも無理な気が。
892人間七七四年:2009/04/05(日) 11:01:05 ID:J0ZABHlv
領土拡大に関して言えば信玄晩年から勝頼晩年で領土増やしても増加率で言えば伸び悩んでいる
かもしれない
疲弊を考えるのであれば領土の増えた絶対量を見るのではなく比率で考える方が正しいと思う

10年単位で考えてみると
1541年〜1550年で、甲斐20万石から信濃半分程度で約2倍に増加
1551年〜1560年で、40万石から北信濃の一部以外を手に入れ約60万石で1.5倍に増加
1561年〜1570年で、西上野に駿河の過半計40万石ほどで60万石から100万石に増加で約1.6倍
1571年〜1580年で、北信濃の一部に上野の一部入れて多めに見ても20万石ほど?1.2倍の増加

5年単位ぐらいで考えるともっと比率がはっきりするかもしれない

>>886
わざわざ調べるようなものじゃないと思うが
そんな気になるなら上洛スレの過去スレでも覗いてきたら
どっかの博物館か何かへのリンクが貼ってあったから
893人間七七四年:2009/04/05(日) 11:12:37 ID:WgMTwjKl
うーん。疲弊の理由にもよるだろうな。
武田宗家は領国全体(独立性の強い領主には事実上ガン無視されていた可能性も伺えるが)に税を掛けられたわけだから、余裕あったかもしれない。
でも、軍役を負担する家臣や国人は、基本自分達の知行からだけだろう。
後年になるほど戦争が激化・大規模化・重武装化するから、負担は大きくなる。
一般に言われる重臣達の避戦傾向の原因も実はこれじゃないの?
徳川軍単体ならともかく、織田軍がきたということは敵兵力は半端じゃないって可能性が高く、そうなると仮に勝っても消耗もしくは損害でかければ後が続かない、みたいな。
894人間七七四年:2009/04/05(日) 11:17:39 ID:TNUUo3tf
実際のところ、武田の体制だと救援に向かうのが難しいんだろうね。
攻め取るのと違って、勝ったとしても新しく得るものがほとんどないと、招集に快く応じる対象が少なそうだ。
そう考えると、攻撃として進軍して、織田と対戦できる機会は、ここしかなかったのかもしれない。
895人間七七四年:2009/04/05(日) 13:02:17 ID:0bmOsz1a
>>892
過去スレ見れないんです。残念だ。
まあしかし百姓8人から9万両ってありえんのかね。
どんだけ金持ちな百姓なのか。
9万両っていったら謙信が残した財産(2万7千両)の3倍以上だけど。
>>894
勝頼は結構救援に赴いてるし、信玄も謙信との戦いで救援を何度もやってる。
896人間七七四年:2009/04/05(日) 13:05:21 ID:iu75iEDg
そんな金持ちの百姓がいるのに武田領内が過度の搾取で疲弊していた
という話をされても違和感がある。
897人間七七四年:2009/04/05(日) 13:35:29 ID:WgMTwjKl
>>895
百姓、といってもイメージされるような農業やってる水呑百姓じゃないよ。
武田の百姓は、惣村単位の自治体をまとめる者。
徴税とかも担当してたから、豪農+行政官ってところかな。
本来なら、税をかけるはずの相手からさえ、さらに借財が必要。
これはかなり深刻な事態なわけだが。
898人間七七四年:2009/04/05(日) 13:38:45 ID:WgMTwjKl
>謙信の遺産

これは、春日山城の金蔵にあった金二千枚ほどを、両に換算したものじゃないか?
当然謙信が残した全額でもないし、換算レートの差もあるからそれこそ単純比較は無理だろう。
899人間七七四年:2009/04/05(日) 14:08:02 ID:0bmOsz1a
>>897
誰も水飲み百姓だなんていってないよ。
その郷村の豪農だとしても8人で九万両とか
一人頭一万両以上という大金を貸せるなんて尋常じゃないぞ。
郷村から徴収したとしても一人の豪農が担当区域の一郷村から一万両なんか
普通出せんだろ。
>>898
その2万7千両を抑えた事で景勝は軍資金で優位に立てたと
いうけどな。てか100万石以上の大名が本城に残した財産の三倍以上っていう時点で
豪農8人に出せる額じゃないと思うが。
900人間七七四年:2009/04/05(日) 14:19:48 ID:WgMTwjKl
>>899
信じられないからって、史料否定したら何もならんだろうに。
そっちは自分の主観が大事なのかもしれんが、普通はそうじゃないのさ。
901人間七七四年:2009/04/05(日) 14:30:54 ID:WgMTwjKl
ちなみにより正確を期せば、史料名は依急借ニ後納之定。
甲斐四郡の「惣代」を勤める百姓に、「恩借」したいというもの。
902人間七七四年:2009/04/05(日) 14:51:31 ID:0bmOsz1a
>>900
いや別に資料否定はしとらんよ。
あるなら教えて、ってな話よ。
>>901
依急借ニ後納之定、ね。
収録資料名もそれでいいの?
国立図書館でも行けば見られる?
903人間七七四年:2009/04/05(日) 15:11:40 ID:WgMTwjKl
あと通説によると(地方や時代による物価はとりあえずおいてw)
黄金一両=銀十両がレートだった。
つまり謙信の金蔵の残り金は、銀換算だと二十万両から三十万両。
信憑性はおくとして、勝頼は上杉から黄金一万両を受け取ったというから、借金しようとした額が銀換算の両なら、それより多いものを受け取ったことになる。
904人間七七四年:2009/04/05(日) 15:31:02 ID:iz4xv3vm
>>902
よく内容見てみろよ。
72年の段階で出家していない「穴山信君」が「梅雪」表記だったり、
香坂姓なんて使ってない春日弾正が高坂と書いていたり捏造文書の可能性が限りなく高いだろ。
905人間七七四年:2009/04/05(日) 15:41:35 ID:WgMTwjKl
え? 梅雪の道号使い始めた時期ってわかるの?
早い説では信玄入道と同時期とか壮年期にはもう、とかいれて諸説あるんだけども。

>高坂

当て字だろう。音が同じなら当時はよくあったこと。
906人間七七四年:2009/04/05(日) 15:47:06 ID:WgMTwjKl
実際、高坂と当て字した書状はいくつか残っているし。
地名とかでも川中島の有名な「さいじょ」山を西条山・妻女山、としたりとかな。
907人間七七四年:2009/04/05(日) 15:50:02 ID:WgMTwjKl
これが当て字含めて一度も使ってない昌信、という軍鑑創作くさい名乗りだったら、確かに偽くさくなるけど。
書いているのは官途名だしねぇ。
908人間七七四年:2009/04/05(日) 16:12:42 ID:0bmOsz1a
>>903
金だか銀だかわかんないんだろ?
武田領国では金が流通してるから金貨幣じゃないか?
>>905 >>906 >>907
手持ちの本では天正9年となってるな。梅雪と名乗ったのは。

当て字に関しては他人が書いた時にそうなるのはわかるが
本人が自分の署名した時に当て字になるもんなのか?ちょっと知らないが。

てか収録資料名と国立図書館行けば見れるかどうか教えて。


909人間七七四年:2009/04/05(日) 16:23:35 ID:0u96RbwO
>信玄時代の借金

むしろ莫大な穀物のほうがきになるな
戦国時代は基本的に食料も軍役のうちで、自弁か現地調達
それが大名自身がそんな食料用意しないといけなくなったってことは、当初予想して伝えていた以上の費用と時間がかかったことが伺える
借りたものだからそら返さないといけないし(満額回答がこなかった、あるいはふみ倒した可能性もあるが)
910人間七七四年:2009/04/05(日) 16:37:12 ID:0bmOsz1a
>>909
確か三割の利子で食糧を部下に貸したってやつのこと?
それとは別?
そういった借財関連の資料って遺文集には入ってないのか?見当たらないが。
911人間七七四年:2009/04/05(日) 17:39:06 ID:TLmguDoE
意外と伸びるなw
パート3もいくか。
912人間七七四年:2009/04/06(月) 02:21:28 ID:H5M3Dj84
>>861
戦武には無い、山梨の博物館か何かにあったと聞いたような気もする。
NDLも何に載っているか判らなきゃ調べようが無いと思う。

>>862
>諏訪氏が勢力拡大する形になっちゃったんだから疑問符はつく。
勢力拡大って具体的には?長窪はもともと諏訪じゃ。
大体諏訪と上杉が分け合ったのなら何で上杉は分け合った領土を壊滅させてそのまま帰陣するんだ、
平山氏の解釈は無理あると思う。
ちなみに柴辻氏も著書で平山氏の説を紹介している。時期的に大河に気を遣ったのかもしれないが。

他はもうパス、説明が面倒だし自分の言うべきことは言った。

>>904
正直こんな書状を真剣に調べようとする人間がいるとは思わなかった、普通に偽書だと思うんだが。
913人間七七四年:2009/04/06(月) 03:11:34 ID:FzTsviyp
でも長篠から離れてほぼ武田総合スレになっている件。
914人間七七四年:2009/04/07(火) 14:51:54 ID:IMrg1cMa
武田が突撃した、というけど。
信長公記によると、織田軍のほうから足軽を出して誘引したみたいだよ。
勝頼と側近が悪者にされてるのは、結果論からの戦犯探しで、
実際には武田も持久狙いだったんじゃ?
915人間七七四年:2009/04/08(水) 05:29:18 ID:I8g0lW4J
それなら、武田方も野戦築城の真似事くらいしてないとなぁ。
916人間七七四年:2009/04/08(水) 12:36:36 ID:WaRD0V79
>>915
真似事どころか、三重の野戦郭・切り岸などの遺構が武田方陣地からも発見されていますぜ。
ポイントはやはり背後遮断した鳶乃巣山攻撃の一手だろうね。
あれで野戦築城同士、先に手を出したほうが不利っていう体勢から、武田は突撃しないと逃げることもできない、に一挙に追い込まれた。
917人間七七四年:2009/04/08(水) 19:19:11 ID:jb0Q+7MT
鳶の巣攻撃は開戦後じゃなかったけ??
あと川を渡った時点で決戦を決意している。
918人間七七四年:2009/04/08(水) 20:46:31 ID:uOBWtHBQ
公記、によると飛びの巣山攻撃が先に描かれている

その頃、信長は山から敵をみていた、とあり

武田軍の攻撃描写→敗退と場面が移る

軍事的に絶対不利な、陣城構えた相手にせっかくに陣地捨てて突撃する理由は、死中に活を求める背水攻撃ぐらいしか思いつかない
919人間七七四年:2009/04/08(水) 20:56:53 ID:uOBWtHBQ
>>917
それは、その場にいないはずの者がいたことになっている、軍鑑の記述では?

勝頼書状だと、勝てる理由を相手は手だてを失っている、と挙げている

つまり後詰にきたのに、城をすくう手段がなくて陣地つくってもたついていることを示したんだろう

実際、奇襲が成功しなければ長篠落ちて、名目失った織田徳川は後退するしかなく、そこを追撃すれば立場は逆になるし
920人間七七四年:2009/04/08(水) 21:13:02 ID:I2V51FIW
>>919

武田軍は連合軍の馬防柵を撤退のための防御と見誤ったんだろうね。

高天神城からの流れを考えれば充分あり得ると思える。
921人間七七四年:2009/04/08(水) 21:37:31 ID:jb0Q+7MT
>>918
>>919
書いてある順番は鳶の巣攻撃は先だけど・・・

公記には鳶の巣攻撃は辰刻
本戦は日の出より開戦。

本戦開戦とは特に関係ないと思う。

長篠攻略は、高天神はじめ美濃諸城攻略から続く一連の流れであるし、

甲陽軍艦にある当時の風評や戦後の勝頼の書状から考えると

信長軍は武田を恐れてるという考えから、川を渡ったんだと思う。
922人間七七四年:2009/04/08(水) 21:53:27 ID:1Kq+aDsp
つまり、織田徳川が武田を挑発して戦闘開始、それを目くらましに夜から回り込んでいた奇襲部隊が攻撃。
武田は後方の変事に対処できず包囲を受ける、こうなったら正面叩いて弱らせてから逃げるしかない、といくつもの部隊を送り出してしつこく攻撃するが、
織田徳川の鉄砲と陣城、そして数量に跳ね返される。
さすがに武田軍も疲弊して、もう後退しかないとなったところで織田徳川追撃、武田軍未曾有の大損害って流れかね?
923人間七七四年:2009/04/08(水) 21:58:27 ID:1Kq+aDsp
信長公は、家康陣所に高松山とて小高き山御座候に取り上られ、敵の働きを御覧じ、
御下知次第働くべきの旨、兼ねてより仰せ含められ、鉄炮千挺ばかり、佐々蔵介、
前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、
近々と足軽を懸けられ、御覧じ候。前後より攻められ、御敵も人数を出だし候。
(公記より)

武田軍は前後から攻められたから、部隊だしてきた、とあるし。
924人間七七四年:2009/04/09(木) 00:09:33 ID:mgHz2xqH
ある意味で啄木鳥戦法の成功例だよな。長篠は。
925人間七七四年:2009/04/09(木) 00:49:17 ID:sunLwLrR
>>924
言われてみればそうだなw目から鱗だわ。
926人間七七四年:2009/04/09(木) 00:55:46 ID:beyEXe/r
>>923
その
>>前後より攻められ
ってのは後に>>「敵も」兵を出した
と続くから織田が主語なんじゃないかな。
つまり「信長公は前(武田本軍)後(鳶の巣)をお攻めになり、敵も兵を出してきた。」
となるんじゃないかと。
これなら鳶の巣襲撃隊は武田本軍には攻撃してない事になる。
実際後陣にいたはずの武田勝頼本陣や一門勢が鳶の巣襲撃部隊と戦闘したという記録はないはず。

927人間七七四年:2009/04/09(木) 01:28:20 ID:69bQN5JT
>>926
それは武田の鳶ノ巣山陣地守備軍を兼ねる後陣と交戦したってことでしょ。
奇襲から落とすまでには時間があるし。
つまり前→織田本軍の挑発、それに応じた山県ら武田先手
後→鳶の巣山奇襲隊と、武田信実勢
928人間七七四年:2009/04/09(木) 01:39:30 ID:beyEXe/r
>>927
うん。君と全く同じこと言ってるんだけど。
929921:2009/04/09(木) 04:34:28 ID:hSmHp8wz
>>922
勝頼 信長の書状からも分かるとおり20日に川を渡った時点で決戦を決意してる。
緒戦で勝利し勢いに乗じるも敵は陣城に篭り、勝てなかったという事は
後年、勝頼本人も言っている事だから間違いない事だと思う。

被害が大きいのは、背面を川 両翼に山 前方に敵という 兵法でいう所の「死地」に
布陣したから。
930人間七七四年:2009/04/09(木) 05:35:26 ID:PWXJhUDM
ま 信長の方も武田の布陣見て天が与えてくれた好機と言っているしな
そこまでは期待していなかったって事なのかも
931人間七七四年:2009/04/09(木) 09:37:17 ID:Hv2VdyaA
勝頼が家臣には危ぶむものもいるっていってるのはいつの書状?
932人間七七四年:2009/04/09(木) 10:44:48 ID:FAG7AO8e
933人間七七四年:2009/04/09(木) 11:49:08 ID:ddehqa3j
家臣に対して主君が出す書状だから、いろいろ脚色あるんじゃないの?
少なくとも「家臣の反対押し切って、無謀な正面突撃」とまでは。
だいたい、軍鑑の記述信じるとしても、長坂跡部も「信玄以来の重臣」だし。
負けた結果からの逆算、信玄を称揚したい意図、その他もろもろからでた創作でしょ。
勝頼と家臣団は、それなりの判断に基づいて動き、それは合理性もあった。
問題は相手がしたたかな信長だったということだけで。
934人間七七四年:2009/04/09(木) 12:33:11 ID:ddehqa3j
反対者がいたとしても、それは猛然と戦った譜代衆とかじゃなくて、
やっぱりこれだけの敗戦なのにほとんど損害を出さなかった(少なくとも名のある武将の討死無し)、敵前逃亡さえ取りざたされる戦意の低い穴山信君ら親類衆だったろうね。
武田信豊は、勝頼と一緒に上野攻めで陣頭突撃したとかのエピソードがあるとおり個人的にも仲良かったのか信長公記にもはっきり書かれるように戦っているが。
935人間七七四年:2009/04/09(木) 13:03:15 ID:ddehqa3j
>>931
それは合戦直前に出した長坂宛書状では?
これは長坂の書状に対する返書だから、危ぶむ者っつーのは実は甲斐にいた可能性すらあるな。
長坂はそういう厭戦気分が留守番にあるってことを知らせたってことで。
936人間七七四年:2009/04/09(木) 20:15:09 ID:hSmHp8wz
>>931
合戦前日の20日付け
935が仰ってるように長坂宛。
どうも信長が出てきたので 先行きを心配している物がいるが
特に問題ないという返事。原文はちょいと今手元にないから分からない。
937人間七七四年:2009/04/09(木) 21:32:56 ID:FW0oNvvr
勝頼が鳶ノ巣山から主力を開けたところへ移動させた件って、太田牛一にも批判されているけど、
山岳地に篭ったままだとそれこそ交通路へのアクセスを遮断されて全軍立ち枯れになるような?
移動させたこと自体は、攻撃にしろ退却にしろ大軍を機動させるための当然の行為じゃ?
938人間七七四年:2009/04/09(木) 21:41:02 ID:hSmHp8wz
川を挟んで睨みあいに終始すれば良かったのに
決戦を急いで、わざわざ自分の不利な地形に布陣したから批判されてると思われ。
939人間七七四年:2009/04/09(木) 22:36:54 ID:BFHrnorN
何で川を渡ったのだろ?
940人間七七四年:2009/04/09(木) 22:42:56 ID:hSmHp8wz
勝頼自身の言葉を借りると累年の願望を叶える為。
941人間七七四年:2009/04/09(木) 22:53:46 ID:FW0oNvvr
家臣に当てた手紙、特に負けを糊塗するための岡修理えの書状はそのまま信用していいのかね?
個人的には、進退どちらも融通利くように前進地を確保した、ぐらいで。
常識的判断だと思うが。
942人間七七四年:2009/04/09(木) 22:59:27 ID:hSmHp8wz
進退どちらも融通効かせるなら
川を背にする自体がありえないわけで。。。

実際、信長公記にも 川で溺死するもの、進退失い山に逃げ込み餓死するもの
凄惨を極めている。

書状の負けを糊塗するっていうのはどこらへん??
943人間七七四年:2009/04/09(木) 23:00:54 ID:BFHrnorN
>個人的には、進退どちらも融通利くように前進地を確保した

山県、馬場らの歴戦の宿将がいるのに川を渡って死地に布陣?

俺は武田軍は連合軍を追撃をする意向で川を渡ったと思うんだよねー

944人間七七四年:2009/04/09(木) 23:01:40 ID:Z8sGEDsl
川を渡った時点で、背水の陣を敷いたと考えるのが普通だろ
945人間七七四年:2009/04/09(木) 23:02:14 ID:FW0oNvvr
>>942
川を前にしたら、防御はいいけど攻撃は困難でしょ。
それまで明智城のように逃げの早い織田をみすみす逃すと思っても不思議じゃないし。

>負けを糊塗
織田の兵を打ち破ってやったが、陣城が硬くて利をうしなったので止めたぜ、みたいな。
もっと直接的に○○は無事だから負けの風聞は嘘よ、という書状もあったような?
946人間七七四年:2009/04/09(木) 23:22:13 ID:FW0oNvvr
もしかしたら、この織田の兵を打ち破った、というのは織田軍が出したけん制部隊のことで、これを追って前進した可能性もあるけどね。
確か学研の日本戦史2では、そんな推理してたような。
信長公記に日にちの空白があるのは、その間に太田が書くのをためらうほどの負けがあった、とか。
947人間七七四年:2009/04/09(木) 23:50:00 ID:hSmHp8wz
>>945
手元にはないけど家臣に向けて
あなたの親御さんは無事だからと手紙を送ったりしてたよね。

ただそれと同時に各被官に遺領の引継ぎを指図する書状も大量に出してたり
したから、悲しいね。。。

>>946
その可能性はあると思う。甲陽軍鑑なんかにも柵外での戦闘が書かれたりしてるしね。
あと信長が20日に鉄砲を撃ち掛けたと メル友の幽斎に手紙を出してる。
948人間七七四年:2009/04/10(金) 13:01:24 ID:eswP4nbU
>>912
そっちが普通に出してて
>>900とかもそれを事実みたいに言ってたから
ありえんとは思いつつも確認してみようと思ったんだよ。
偽書ならそれでいい。
949人間七七四年:2009/04/10(金) 13:06:07 ID:VkHFUpov
>>948
偽書とは思えないわけだが。
偽書扱いする根拠は、実際には不明及び勘違いからくるものだし。
(梅雪の号を使い始めた時期の不定さ、高坂という名乗りは当時でもしていた)
敵方の信長公記でも、長篠で討った香坂一族を、「高坂」の名で書いているし。
ちなみに信長記、のほうではなぜか「香坂」のになってるw
950人間七七四年:2009/04/10(金) 13:28:56 ID:eswP4nbU
>>949
だからそれは他人が書くなら高坂、と当て字するかもしれんが
本人が署名する時にあて字で書くもんなのか?
って聞いてるんだが。ちょっとそんな例知らないんだが。
951人間七七四年:2009/04/10(金) 14:02:47 ID:VkHFUpov
>>950
本人も書いてるわけだが。
使ってないのは、名乗りの昌信、のほう。これは当て字も含めて本人やその関係の書状には出てこない。
952人間七七四年:2009/04/10(金) 14:07:30 ID:VkHFUpov
永禄年間以降の高坂弾正の書状だと(それ以前は春日。この時期名家の名を継いだらしい)、「高坂」「香坂」が混在するから、本人もさほど気にせず当て字を使っていたと思われる。
ただ、最晩年には「春日」の名乗りに戻したりしているがな(家督譲ったりしたからだろうか?)
953人間七七四年:2009/04/10(金) 14:19:29 ID:VkHFUpov
後段、訂正。

ただ、ほどなく「春日」の名乗りに戻したりしているがな(家督譲ったりしたからだろうか?) 。でも最晩年にはまた「こうさか」に戻したそうだ。
954人間七七四年:2009/04/11(土) 00:00:45 ID:L6uWJK80
>>951 >>952 >>953
高坂、で署名した書状って具体的にあげられる?
1572年代で他にそんな風に署名した書状あっただろうか。
とりあえず遺文番号で教えてもらえるか?
そうすれば後はこちらで調べられる。
955人間七七四年:2009/04/11(土) 00:44:57 ID:Tr5uI7PK
>>950-953
>本人が署名する時にあて字で書くもんなのか?
日記や書信など私文書の場合は、在りうる。

ただし、借金の証文だの宛行や感状などのような公文書の場合は、通常在りえない。
字が違うというのは名前が違うとみなされ、それは別人扱いされる。
宛行で当て字なんて使った場合、裁判などで最悪「この土地はお前のモノじゃない」
なんてみなされる。現代でも変わらないね。もう少し融通は利くけど。

ちなみに信長公記も甲陽軍鑑も私文書なので>949の例は根拠にならない。
956人間七七四年:2009/04/11(土) 01:00:05 ID:8H3m9GcF
公文書でも当て字はあるじゃないか。
むしろ問題は印章じゃない?
信玄期の印ってなんだっけ?
957人間七七四年:2009/04/11(土) 01:04:59 ID:ca+3IYpo
>>956
武田家が公式文章のしるしとして印鑑を使い始めたのは、勝頼の時代になってからでは。
むしろこの当時は花押が重要なのでは。
958人間七七四年:2009/04/11(土) 01:12:03 ID:6WdMDOJ6
>>954
戦武なら人名で検索すれば一発だろう
これが山梨県史とかだと悲惨を極めるがww
959人間七七四年:2009/04/11(土) 01:57:39 ID:8H3m9GcF
>>957
いや、信玄入道前から、龍朱印とか使っているよ。
稗史では奸臣とされる跡部勝資も、この印に共同書名する龍朱印奉者を務めた信玄側近。
960人間七七四年:2009/04/11(土) 10:31:00 ID:L6uWJK80
>>958
いや一発とかじゃなくてね。
パソコンじゃなくて本で持ってるんだから
検索とかできるわけないだろう。
961人間七七四年:2009/04/11(土) 10:31:59 ID:L6uWJK80
>>958
検索できるんだったら遺文番号教えてくれ。
こっちは本で持ってるからそうしてくれたほうが早い。
962人間七七四年:2009/04/11(土) 11:53:32 ID:3bWhh+nO
持ってるなら検索しろよと、
ID:L6uWJK80は実際には戦国遺文武田氏編を持っていないまたは見たこと無いに一票。
963人間七七四年:2009/04/11(土) 11:59:15 ID:L6uWJK80
>>962
持ってるって。
だからパソコンじゃないんだからどうやって検索するんだと。
検索できるなら遺文番号すぐに出せるだろ?
早くしてくれ。そしたら後はこっちで調べられるから。
964人間七七四年:2009/04/11(土) 12:07:52 ID:3bWhh+nO
>>963
持ってるのに何で検索出来ないんだ?
普通に人名検索で穴山梅雪や高坂弾正を調べればいいと思うんだが。
自分は持っていないので図書館いかないと無理だが。
965人間七七四年:2009/04/11(土) 12:09:43 ID:L6uWJK80
>>964
後ろのほうの人名索引か?
こっちは出先なんで資料にあたれるのが明日以降だから
遺文番号だけでも教えてもらおうと思ってるんだが。
まあ持ってないなら無理な注文だったか。
966人間七七四年:2009/04/11(土) 12:11:37 ID:3bWhh+nO
ひょっとして6巻だけ持っていないのかな?
967人間七七四年:2009/04/11(土) 12:13:32 ID:3bWhh+nO
>>965
そう
6巻見れば一発で判るだろう。
968人間七七四年:2009/04/14(火) 22:51:41 ID:ADAhVGGy
>>935
>>936
>危ぶむ者
>先行きを心配している物が
どの部分をそんな風に訳しているんだ?
969人間七七四年:2009/04/15(水) 14:38:37 ID:uu9m4dVh
2chは知ったかが多いからなー。
970人間七七四年:2009/04/15(水) 16:37:36 ID:+z9Lk02K
20日に駿河の長坂宛にだした手紙に書いてある。
原文わかるなら書いてくれないか?

然者長篠之地取詰候之所、信長・家康為後詰雖出張候云々。。。

の前にあった文がそうなんだが。

今、戦国遺文は返却して手元にないからお願いします。
971人間七七四年:2009/04/17(金) 04:09:49 ID:OUo4JGJE
その前って
すべて上手くいっているので安心してくださいとかじゃ
972人間七七四年:2009/04/17(金) 15:14:17 ID:XxoBwZzx
皆、無事である、と勝頼が書状で述べているね。

長篠で武将が大勢死んだあとだけど。
973人間七七四年:2009/04/18(土) 09:16:28 ID:FBRW97fc
>>969
裏づけを取る課程で、また新しいことを知れたり、
史実と思っていたことが、ただの創作や伝説の類と知れたりするけどなw
974人間七七四年:2009/04/18(土) 12:30:09 ID:IDvgPOp7
>>971
留守居の三浦や長坂が長篠の陣の様子を聞いている部分をまた妙な拡大解釈してるんじゃね
975人間七七四年:2009/04/18(土) 14:53:15 ID:ZCEH9XNl
イチャモンつけるだけなら他人に頼らず自分で調べればいいのではw
長篠戦なら大きな本屋いけばあるんじゃ?
976人間七七四年:2009/04/18(土) 21:03:18 ID:NjUkLTzF
>>975
調べたからこそ、>>968.>>971.>>974みたいなレスが付くのでは。
977人間七七四年:2009/04/19(日) 20:28:52 ID:13RcBE9i
長坂宛書状と三浦宛書状

当陣之様子無心許之旨、態飛脚祝着候、万方属本意候之間、可為安堵候、
然者長篠之地、取詰候之処、信長・家康為後詰雖出張候、(以下略)

駿河にいたとされる長坂三浦が長篠の陣の様子を気にしていることに対する返書、とされている。

「今回の戦いには危ぶむものもいるが」というのはよくわからない、
書状の内容から三浦や長坂が戦場のことを気にしていることはわかるが、書状の中には「今回の戦いには危ぶむものもいるが」という文言は無い。
978人間七七四年:2009/04/19(日) 22:27:44 ID:QQICXXGW
>「今回の戦いには危ぶむものもいるが」という文言は無い。

これって夫人に宛てた書状に書かれていたと思ったけど。

「体調はどう?こっちは何事にも順調だよ。今回の戦いを心配する人もいるけど」

といった内容だったと記憶している。
979人間七七四年:2009/04/19(日) 22:50:42 ID:13RcBE9i
>>978
何年何日の書状?
時間があれば調べるかもしれない。
980人間七七四年:2009/04/20(月) 21:33:51 ID:arfAw0f2
>>979

決戦前だから天正3年の5月です。
981人間七七四年:2009/04/21(火) 21:26:48 ID:GU0to1z4
>「体調はどう?こっちは何事にも順調だよ。今回の戦いを心配する人もいるけど」
体調はともかく今回の戦いを心配する人もいるなんてのは無いだろ
982人間七七四年
予想・妄想はもういいから。原文待ち。別に急がないけどね。