1 :
人間七七四年:
2 :
人間七七四年:2010/10/23(土) 00:27:03 ID:HkSyIEfZ
/i (~) iヽ
《 ヾ⌒ソ /
. {ヽ,二,,ノ}
∠(´●ω・´)ゝ
>>1乙でがんす 我が家のように仲良く喧嘩するといいでがんす
(:::::::::::::::)
しωJ
3 :
人間七七四年:2010/10/23(土) 07:05:51 ID:iBZGMFqm
4 :
人間七七四年:2010/10/23(土) 09:09:44 ID:W/DO6eWo
5 :
人間七七四年:2010/10/23(土) 12:15:02 ID:JI91N8BU
6 :
人間七七四年:2010/10/23(土) 12:26:53 ID:wDeK2bHB
∧ ∧
( ´・ω・)
>>1 大儀であった!好きな美姫を取るがよい
( ∪ ∪ ただし、自己責任じゃ!当方何があっても与り知らんぞ!
と__)__)
/ ̄ ̄ヽ ∞/⌒⌒丶∞ / ヾ丶 / ̄ ̄ヽ ∞/⌒⌒丶∞
| ノノ)ノ))) <_Li(("))_> |ノ从从| ( ノノ( ノ))) ( *((")) _)
/ │^ヮ゚ノ| |│‘ヮ゚ノ| ││゚σ゚ノ| 丿|│゚ヮ゚ノ| 丿|| ‘ヮ゚ノ|
おね 茶々 五徳 まつ お市
/⌒⌒丶 / ̄ ̄ヽ /⌒⌒丶, / ヾ丶 /⌒⌒丶
|ノノ †)ノ)| |ノ从从 | | イ从|从) |ノ从从| ヽ从 从 _ノ
丿ノ‘ヮ゚ノ(, || ´ω`ノ|. 丿!#゚Д゚ノ| ││;-;ノ| ( ゚ヮ゚ )アーッ
ガラシャ 新庄局 小松 亀寿 蘭丸
/⌒⌒丶 ∞/⌒⌒丶∞ / ヾ丶 / ヾ丶オ / ̄ ̄ヽ
( ノノ(-)))) <_Liミν ) |ノ从从| ( ノノ)ノ)))タ <_Li(("))_>
ノ│゚Д゚ノ( 丿|│‘ヮ゚ノ| ││ - ノ| 丿│^ヮ゚ノ|ベ 丿|│゚ヮ゚ノ|
ァ千代 江与 瀬名 義姫 帰蝶
7 :
人間七七四年:2010/10/23(土) 12:30:49 ID:qnI2Me28
>>6殿・・・
そなたに越中守殿から宴の招待状が届いておるが・・・
8 :
人間七七四年:2010/10/23(土) 12:54:15 ID:bvROUpCb
賤ヶ岳で敗北した柴田勝家は、その居城北ノ庄にて妻お市とともに自害。
その時天守に火薬を集め火をつけ、爆破したことは有名であろう。
さて、この時の爆発で天守の破片は四方に飛び散り、秀吉が陣をとった愛宕山は
城から10町(約1q)程も離れていたが、そこにまで瓦などの破片が飛んできたという。
勝家の遺骸も爆発で粉砕しあるいは火に焼け、探し出すのに大変な困難が伴うであろうことは
既に見て取れた。
愛宕山の本陣で秀吉方の諸将が天守の燃えている様子を見ていたが、秀吉はこの時、
前田利家が心配そうな顔をしていることに気がついた。
「又左衛門殿、何かご不審なことがあるのかな?」
秀吉にそう声をかけられ利家は
「勝家は本当に自害致したのでしょうか?もしやこれは、武略ではないでしょうか?
この事について考えていたのです。」
「武略?武略とはいかがなことかな?」
「勝家は天守に火をかけ自害したように見せかけ、自身は先に落ち延びたのではないか、
ということです。」
秀吉、これを聞くと
「勝家ほどの者が、居城の天守に火をかけたのですぞ!
我も人も城持になるほどの者、天守とは自身の運を開くための天守であると心得ているはずだ。
それに火をかけたのだから、自害したこと間違いない。
また、仮に又左衛門殿の言うように一旦落ち延び、かつての足利尊氏のように後で挙兵するような
戦略を考えたとしても、柴田軍は完全に解体しあのような有様になった以上、最低でも2、3年は
挙兵すること不可能だろう。
その間に、尊氏のようには上手く行かず捕縛され、縛り首にされてしまうさ。
それに、そんな事が心配だからと勝家の頚や遺骸を探そうとすれば、ここで5日も3日も
滞留することになるだろう。そんな暇は我々にはない。遺骸の捜索など必要ない。
又左衛門殿、そなたは今から直ぐに加賀を抑えこみに行くべし!」
そう言って利家の軍勢を、その場から加賀に向かわせた。
目の前の事象を見ていた利家と、その先を見ていた秀吉、とも対比できるような
北ノ庄城落城の時のお話。
9 :
人間七七四年:2010/10/23(土) 13:43:52 ID:jYotowuH
>>6 晒首にしか見えんのでどう見ても首実検です、ありがとうございました
10 :
人間七七四年:2010/10/23(土) 14:51:02 ID:769u16WF
秀吉の合理性のお話
お市の方の死骸見たくなかったのでは?
11 :
人間七七四年:2010/10/23(土) 15:44:16 ID:QQQqxAd+
>>1乙であった
それにしても何故か.
>>6の小松の髪が一瞬縦ロールに見えて寿命が縮んだよ・・・
12 :
人間七七四年:2010/10/23(土) 15:44:25 ID:1REFYu5h
勝家さんがそんな武略を使える男じゃないと読み切ってのことだと思うんだが・・・
小説だかで「あの右大臣が先鋒を任せた程の男、そんな手をつかうと思うか?」みたいなこと言ってたな〜
13 :
人間七七四年:2010/10/23(土) 18:14:23 ID:1nQe9RFl
確かに先鋒にうってつけな蒲生氏郷の場合でも、そういう武略は使えそうにないし、戦場でも敵がそんな武略を使うとも考えもしないようなイメージがあるな
でも酒の席での良い話悪い話では、そういう事についてあれこれ論評していそうな・・・
14 :
人間七七四年:2010/10/23(土) 20:28:22 ID:297HiF9g
まとめの投票結果がおかしいんだが
15 :
人間七七四年:2010/10/24(日) 00:27:26 ID:s/TIvm/9
まとめで言え
16 :
人間七七四年:2010/10/24(日) 02:54:38 ID:nGtaAsjX
>>8 この逸話、生き延びた権六に悪い風評をたてられることを利家が恐れているようにも思える。
穿った目で見てしまうのは、小物っぷりを示す逸話の多い犬千代さんだからですかね。
17 :
人間七七四年:2010/10/24(日) 07:33:14 ID:G2w6TS6x
賤ヶ岳の逸話を見るたび、本能寺があと1日早く起きていれば……ってIFをつい考えちゃう
18 :
人間七七四年:2010/10/24(日) 08:42:09 ID:N03Z6p9z
『小田軍師行方刑部』
小田家臣・行方刑部少輔貞久は小田家の軍師であった。
彼は若くして才を持ち、小田軍が敗戦する度に氏治へ策を与えるなどして、
決定的な大敗になる事を防いでいた。
その為、氏治は彼に絶大な信頼を置いていた。
1573年、小田城最後の落城後、氏治は土浦城にて篭城していた。
その篭城で敵を待ち構える最中、行方刑部は急病を患って急死してしまった。享年29才。
この死に氏治はひどく悲しみ、城内の士気も下がった。
人々は、もし彼がもっと生きていてくれたなら、再び小田城は奪還できたろうし、
小田家が潰えることもなかったろうと囁き合った。
以上。補足等はまとめへ。
19 :
人間七七四年:2010/10/24(日) 12:47:42 ID:eW9Tw/hr
>小田軍が敗戦する度に氏治へ策を与えるなどして、決定的な大敗になる事を防いでいた。
敗北は防げないのねw
20 :
人間七七四年:2010/10/24(日) 12:49:55 ID:3N1hDFcs
だって小田さんだし。
21 :
人間七七四年:2010/10/24(日) 12:57:40 ID:K3F7JhGF
>>19 敗戦後に策を授けるわけだからな。
戦前は献策しても聞き入れてもらえないんだろう
22 :
人間七七四年:2010/10/24(日) 14:49:17 ID:OIoquo6q
コレが前スレのコテハンなら随分好い書き方になったな
23 :
人間七七四年:2010/10/24(日) 15:07:54 ID:G2w6TS6x
なめがた? なめかた?
難読だよね行方氏
24 :
人間七七四年:2010/10/24(日) 15:25:04 ID:l82GwbYr
小田軍師行方不明、かと思った
25 :
人間七七四年:2010/10/24(日) 18:03:41 ID:hrS+v0ph
>>16 権六の口封じか秀吉へのおもねりか
とにかく利家必死だなと俺も思えてしまう。
個人的な色眼鏡も入ってるんだけど。
26 :
人間七七四年:2010/10/24(日) 18:54:24 ID:qUk25e55
>>18 三楽斎「計画通り!」(キラリーン!
と言ってそうな気がする
27 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 00:14:30 ID:dbCSlpx6
まとめブログのコメントによるとこのスレはニートしか書き込んでいないんだって
まとめのコメント欄に書き込む紳士を楽しませる為に2chのクズどもは
戦国の逸話を書き込まなきゃいけないらしい
ソースはまとめの小田逸話の紳士さん
だから2chのゴミカスニートはまとめブログの住人を楽しませる為にどんどん逸話を書き込んでね
あと貴重な小田関連の逸話を投稿しているコテ様を叩く奴は死刑ね
罵詈雑言はまとめブログに乗らないけど陰口は気分が悪いからね
28 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 00:18:14 ID:5Bq3a+1j
>>27 ここはそう言う煽りとかやるスレじゃないんだよ。
他で遊んでくれ。
29 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 00:34:00 ID:qIr7TxZi
義景の悪い話
朝倉義景は、信長に破れて落ち延びるとき、
一人の農民に「東郷はどこじゃ?」と、聞いた。
農民「あちらの山路を進めば東郷でございます」
その路を進み辿り着いたのは、越前大野だった…。
居城とは全く違う方向に進んでいたのだ。
側に居た、一族の景鏡は(ここまでか…)と思い
義景を裏切り彼を討った。
東郷は朝倉氏の居城の側にある土地だが、
幾つもの山を超えた山深い盆地、則ち大野にもあったのだ。
30 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 00:37:48 ID:YXF2yT/l
自分の領地の地理も把握してなかった義景の悪い話だな
31 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 00:38:27 ID:4iVBkwFC
地名にまつわる地元の逸話なのかな
32 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 01:11:25 ID:jkxbSDOS
文明元年(1469)3月16日の事。
将軍義政の養子、足利義視を迎えて意気上がる西軍に対し、東軍の総帥細川勝元は
「西軍は遠国の兵が多く、長い滞陣に気力も衰え、守備の怠りもあるだろう。」
と、伊賀、河内の忍びの者数百人を集め西軍の陣に忍び込ませ、さらに夜軍の準備をした。
この作戦、忍びの者達のうち西軍総帥、山名宗全の陣に忍び込んだ者が合図の燧火を上げる。
それと同時に西軍の陣を放火、これに混乱している間の夜討ちの軍が攻め入る、という物であった。
時間は五更(夜明け前)、決行の時間である。敵が深く寝ていることを計り、忍びは火を放ち
東軍の軍勢は攻め込もうとしていた…が、
山名宗全はそう甘くはなかった。彼は普段から守りの備えに対し万全を期していたため、
東軍は攻めいること全く出来なかった。
その間に山名宗全自身が甲冑をつけ現れ自ら指揮をし、そのため潜入させた忍びの多くが
殺され、夜討ち軍も逃げ帰ることになったという。
長い応仁の乱の中の、忍者を使った作戦とその失敗についてのお話。
33 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 07:05:49 ID:oz/5RrGo
今週、小田さん関係の話がなんかいくつも投下されてるのはチラ見で知ってたから、期待して休日だし見に来てみれば、何?あの本スレ見てる奴らの態度は?
投稿者の態度がどうこう言ってるのがいたけど、どうみたって逆だろ。投稿者の態度は終始正しのに、見てる奴つってか書き込んでる奴の態度がずっと悪いだけじゃん。イミフ。
投稿者の人、内容的に見たってすげえ詳しく書いてくれてるし、しっかり説明や補足入れてくれてて情報量半端無えよ。
しかもわざわざちゃんと注意書き入れたり、ちゃんと見る人の事を考えてくれてるのが分かった。逸話や伝承とかもちゃんと入れてんじゃんか。
たまに見かける、始まりもオチもちゃんと書いてない、軍記ものだかの切抜きを貼ってそのまま投げっ放しの投稿者の奴に爪の垢でも飲ませてやりたいぜ。
スレ違いもクソも無く、批判してる奴のが筋違いだべ?
で、何でおまいらは批判だの自由適当に書き込みしてんのに、投稿者には『逸話だけ書き込め』とか指示してんの?
何かあんたら偉いのか?俺らはあくまで読ませて貰ってる側なんだから、むしろ礼の一つでも言うべきじゃない?
空気悪くしてたのは、ずっと見てる側の書き込みだったぞ?
投稿者さんがまだ見てくれてるか分からんけど、すげえ興味深すぎる内容だったよ。
俺は休日じゃないとあんまスレ開けないし、2chは基本ほっとんどLOMってるけど、ちゃんと楽しませて貰った。ちゃんと支持するのがいるってのはどうしても書き込んどきたかった。
まだ何か投稿するっぽい感じだったから期待してるぜ。
こんな奴らのせいで凹んだとかで、投稿やめられたりしたらマジ有り得んからな。
34 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 07:15:45 ID:4iVBkwFC
オタクって変な怒り方するから怖い
35 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 08:01:14 ID:O5MN1v2d
どうせコピペだろ、無視無視
36 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 13:36:31 ID:KeSGVTOq
続・最上四天王?
以前「最上四天王」が「5人」だってまとめスレにあったんだが、
「歴史読本」の最新号で「有名武将の家臣団」で「最上四天王」が挙げられてて、「6人」に増えてたw
まぁ、このまま内容を書かせて頂きます。
「最上四天王」
「河北文書」だったかでは
楯岡満茂・志村光安・鮭延秀綱・延沢満延・里見民部の「5人」だった。
今回の「歴史読本」では
「最上四天王」の表記の後に
氏家守棟・楯岡満茂・志村光安・鮭延秀綱・延沢満延・里見民部の「6人」の名があった。
変じゃねーかと思ったんだが、
解説に
「志村光安・鮭延秀綱・延沢満延」は確定だが、
残りの人選は「最上義光分限帳」「軍記物」「書物」によってまちまちだとあった。
氏家守棟は軍師だから入らない
楯岡満茂は副将格だから別枠
里見民部は裏切って他家に逃げたから相応しくない
理由はわかる。
でもこのままだと
「最上四天王」は谷柏直家や江口五兵衛、北楯利長や山家国頼も含め
「何人いても四天王」といったエグザイル状態になってしまわないだろうか?
1600年を一区切りにするなら
死んでいる氏家守棟と延沢満延が除かれる代わりに
延沢光昌(満延の息子)が四天王入りしてしまう・・・
竜造寺以上に判断の難しい「四天王」である・・・
37 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 13:57:40 ID:KeSGVTOq
まーくんの「そんなのいたっけかな?」
ここ最近の伊達政宗信奉者に「奥州を統一した筆頭に負け戦は似合わない」と存在を消された伊達家臣達がいる。
郡山城主の伊東肥前もその一人である。
郡山合戦で佐竹は逃げ隠れて勝負しない政宗に対して策を講じる。
兵を渡河させて囮として伊達の砦の前面に配置し挑発し、これにまんまと釣られた成実と小十郎が襲撃をかけると見るや佐竹全軍を渡河させて攻撃。
背水の勢いで伊達を一気に押し込み、佐竹は成実と小十郎を完全包囲してフルボッコ。
砦から殲滅を受けて崩壊している姿に驚いた政宗がその救援に出たら、待ち構えていた佐竹に政宗まで包囲されたのを見て、
主君を脱出させるべく伊東肥前は政宗の馬印を借りて敵を引き付けさらに突っ込んでいったものの、
遠方で闇雲に逃げる政宗がみるみる討ち死にしそうなのを見てあわててとって返して政宗の身代わりに討ち死にした。
惣無事令を受けた相馬が和睦調停しての二本松城開城の違反をして、大義無き政宗の奇襲から始まった郡山合戦。
この伊達敗戦の後、佐竹への恐怖に二度と陣から出なくなった政宗は伯父達に和睦を嘆願し再度秀吉の惣無事令の威光を尊重した。
奥州の流儀と言われた謂わば平和秩序維持制度である中間人制度のもと、中間人石川氏・岩城氏の斡旋もあり再度、最上佐竹と和睦となり政宗は命拾いした。
もちろん舌の根が乾かぬうちに再度、惣無事令を無視して奇襲をして敗戦する懲りないまーくんの罰の悪い話。
38 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 14:27:47 ID:KeSGVTOq
最上の三男坊(最上義親)だけ話が無いんで
某AAを利用してみた。
俺のとーちゃん、普通に内政はそこそこ旨かったんだけど、ごはんのセンスはなくてさ。
好きなもののほとんどは鮭。あとは米だけ…。
ときどき川魚かカボチャ…よく家臣から鮭もらってた
タンパク質食べたいっていっても焼き魚とか、よくてせいぜいはらこ。
旨いは旨いんだけど、とにかく茶色一食で色気もくそもねえ弁当だった。
食うのが恥ずかしくて、こっそり食ってた
|ω・`) よしちかへげんきですか。いま手紙書いてます
(`Д) うるさい死ね 手紙書くな殺すぞ
|ω・`) ごめんね。おとうさんはじめて手紙したから、ごめんね
(`Д) うるさいくたばれ、手紙すんな
|ω・`) あなたのために豊臣さんのところで小姓の仕事先見つけました。食事はしていますか?
(`Д) 死ねくそばか 鮭ばっか食ってんじゃねー
|ω・`) 長谷堂で勝ったので、清水城あげます。
(`Д) うるさい、せっかく帰ってきたのに山形から追い出す気か
義光死亡、次兄家親が義親討伐を発令
('A`)トーチャン…
39 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 15:54:26 ID:PFkiHDKC
40 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 16:58:56 ID:oVwDh5cD
上杉謙信の塩どめ
塩をかけて虫を食う伊那地方にダメージが大きかったそうな
41 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 21:19:10 ID:ZErkdQpE
42 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 21:21:55 ID:gJIEWtTw
字が住所上は省略されてるんじゃね?
43 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 21:23:42 ID:5UyBIRCc
稲郷ならある。読みが一緒だからなw
44 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 00:33:04 ID:5/l1kMMW
KeSGVTOqが伊達と最上嫌いなのはよく分かった。
奥州郡山合戦は1588年6月から約40日間安積郡郡山・窪田城で行われた伊達対佐竹・芦名・白河・二階堂
その他連合軍の戦いを指す。
その数600対2万あるいは8千あるいは4千あるいは2千と資料によってバラバラで一定していない。
ちなみに2万といっているのは奥羽永慶軍記である。信憑性?えーと。
伊達方の600はまあ確定らしい。兵数がやたら少ないのは大崎合戦のすぐ後で
最上・大崎・相馬側にも兵を裂いていたことによる。
基本にらみ合いが続いた戦いであり、まともな戦闘があったのは7月4日ぐらいで、
伊東肥前重信はこの日討ち死にしている。
その後18日に石川昭光・岩城常隆の仲介で和議成立。
8月には伊達が田村領を確保したことで伊達勢の反転攻勢が始まる。
んで伊東肥前のその後。
重信の死後も伊東氏は伊達家の重臣として要害も与えられていたが、孫の代で事件が起こる。
孫の名は伊東七十郎重孝。伊達騒動の登場人物の一人である。
1668年伊達兵部を討とうとした七十郎は果たせず斬罪となり、伊東一族は追放処分となる。
しかし寛文事件が起こり、兵部の失脚後に伊東家は再興された。忙しいですね。
1694年、藩主綱村は重信のひ孫にあたる重良に、重信が戦死した逢瀬川岸に忠魂碑を建てさせた。
以後、仙台藩主は参勤交代の際必ずここに立ち寄り香華を手向けたという。
また、幕末の二本松藩の儒者安積艮斎は、この碑を見て「忠臣骨を埋めるも名は埋もれず」と
重信を称える漢詩を作った。
地元では仙台仏と呼ばれたこの石碑は重なる水害や道路の拡張工事で場所を転々とし、
現在は政宗が陣をおいた山王山、日吉神社に移されている。
郡山市指定史跡となった伊東肥前重信忠魂碑、移転した12月27日には今も慰霊祭が行われています。
いい話になったけど流れ上こっちに。
45 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 00:39:10 ID:M6xpGv3i
KeSGVTOqは別に最上嫌いじゃねえべ
46 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 01:19:31 ID:8jlO4lfS
47 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 01:26:16 ID:jRdGAN47
遠江に横地城という城がある。別名を金寿城。
文明8年(1476)今川義忠の攻撃により城主横地太郎秀国が討たれ落城。
ところがこの後、今川義忠が駿河に帰還する途中、残党の襲撃に会い討死。
これから駿河は義忠の嫡男龍王丸(今川氏親)を要する一派と、今川一門の
小鹿範満を要する一派との内戦が起り、その調停のため京より、北条早雲こと
伊勢新九郎盛時が派遣され戦国史に華々しいデビューを飾ることに成るのだ…が、
で、ここで語りたいのは、その横地城において行われた、ある特殊な軍事訓練について、なのである。
横地城の城兵は戦闘訓練として、城の近くにある膝つき谷と言う谷の底に連れていかれ、
そこに膝をついて待機。
すると谷の上から、太鼓の合図と共に金の玉が谷底に向かって落とされる。
これと同時に谷底の兵は駆け上がり一斉に玉を探し出す。
玉を見つけた兵は谷の上に駆け上がり、賞を得、大いに讃えられた。
これが横地城の軍事訓練であった。
このような訓練が行われてていたため、この谷は一般に、膝つき谷ではなく
訓練に由来した別の名で呼ばれ、今もその名が残る。曰く
『金玉落としの谷』
金玉落としの谷、由来のおはなし。
48 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 01:26:17 ID:wqjgr//4
|ω・`) (`Д) (゜∀。) (´∀`) (=゚ω゚)ノ ( ゚ω゚ ) (>Д<) (゚听) ( ´ー`)
(・∀・) (゚з゚) (^o^) (;´ρ`) ( ^ω^) ( ゚ё゚ ) L(・∀・ L) ヽ(゚д゚)ノ (゚д゚)
49 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 02:56:55 ID:vQg4CAh2
最上の三男坊が余りにも鬱だったんで
似たスレから
清水(最上)義親、父義光の回想
私の父は昔から家臣や領民に弱くて、それが理由かは知らないが、
父の作る領内法はお世辞にも華やかとは言えないほど質素で見映えの悪い物ばかりだった。
他家の者に見られるのが恥ずかしくて、毎日愚痴ばかり吐いていた。
ある朝父が嬉しそうに「今日は義親の大好きな鮭を入れといたよ」と私に言ってきた。
私は生返事でそのまま大坂の豊臣家へ奉公へ行き、こっそり中身を確認した。
すると確かに鮭が入っていたが骨抜きもめちゃくちゃだし、彩りも悪いし、
とても食べられなかった。
手紙で父は私に「鮭美味しかった?」としつこく尋ねてきた。
私はその時イライラしていたし、いつもの父に対する鬱憤も溜っていたので
「うるさいな!あんな汚い鮭捨てたよ!もう作らなくていいから」とついきつく書いてしまった。
父は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と返信の手紙で言いそれから鮭を余り食べなくなった。
それからしばらく後、父は死んだ。私の知らない病気だった。
父の遺品を整理していたら、日記が出てきた。
中を見ると鮭のことばかり書いていた。
「最近手の震えが止まらず上手く手紙が書けない。鮭も焼けないし、食欲も無い・・・」 日記はあの日で終わっていた。
後悔で涙がこぼれた
50 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 03:01:32 ID:vQg4CAh2
49の続き
義光は手紙や感状を自分の手でしたためるのが何より好きだった。
本を読むのも好きなビブリマニアの一種とも言えるが
晩年の手の震えにより、それまで用いなかった右筆に手紙を口頭記述させる事もあった。
手の震えは山国では良くある高濃度の塩分の取り過ぎによる高血圧の症状とも言われている。
医者に止められ鮭が食べられなかったと想像するのは難しいことではない。
51 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 03:04:11 ID:vQg4CAh2
J( 'ー`)し('・ω・`) いくら金を積んでも手に入れられない思い出
( )\('∀`) )
|| (_ _)||
52 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 07:14:47 ID:xYfgHvNV
明らかな嘘話は止めなよ…。
作左が叱るぞ。
53 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 08:54:55 ID:nDLjYcDs
こんなくだらない改変コピペ書き込みされちゃ
アンチ最上に肩入れしたくなってくるよ。
54 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 09:21:48 ID:wrbaFTZw
昨日今日と同じヤツがやってるのか。
真性っぽいな
55 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 10:10:45 ID:0r8uIF1K
このスレだったら作左が来る前に真剣か槍振り回す人たちが来るだろう
56 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 12:12:20 ID:FKJovfN9
もうこうなったら富田さんに暴れてもらおうか
57 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 12:14:41 ID:W3BpBWFp
用済みになったら銃ぶっ放すんですね
58 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 12:29:49 ID:WoADGw2H
最上好きな俺でさえ大暴れしたくなった
59 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 12:36:42 ID:WE56mGZR
秀吉の死後、いわゆる形見分けがおこなわれた。
品定めは前田利家の伏見邸において石田三成を初めとする五奉行によってなされた。
当時の記録によると、徳川家康には「遠浦帰帆」の絵と金子三百枚
前田利家には政宗の刀と金子三百枚
石田三成には吉光の刀と金子五十枚
加藤清正には金子三十枚 などとある。
このほか広く大名、旗本に加え直江兼継のような陪臣、山名禅高のような御伽衆まで遺品を賜った。
しかしそんな中、意外な人物が形見分けの選から除外されていた。
黒田如水と吉川広家である。
如水に関しては息子の長政が賜っている事を隠居の如水を除外した理由にしたのかもしれないが、
播州以来の長年の秀吉との関係、その働きを思えばどうにも腑に落ちないことでもある。
如水としてはいよいよ奉行たちに豊臣家から遠ざけられたと思ってもおかしくはない。
一方広家はすぐさま三成たちに問い詰めた。慌てた三成達は「たまたま形見分けに入れ忘れた」と
後日刀が送られる事になったが、仮にも毛利家の重鎮を入れ忘れるだろうか?
少なくとも誇りを傷つけられたとは思っただろう。
後の関ヶ原でこの二人は三成に背を向ける事になる。これとの因果関係は不明であるが、一因にはなったかもしれない。
モノの恨みは恐ろしいかもしれない話
60 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 12:36:55 ID:kBy7F+aN
>>58が逆三段スライド方式で暴れている図が目に浮かんだ。
61 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 12:57:16 ID:F5oYoIMq
広家さんは当時は、陪臣なのかね?
それとも、愛の人みたいに特別ラスボスの覚えがいいとも思えないんだけど〜
62 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 13:14:30 ID:LhkNVY4I
遺産相続ってのは揉めるのはお約束だよな
63 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 13:15:51 ID:ChCmZnZe
俺の家も揉めてるしな、遺書のおかげでなんとかなりそうだけど
64 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 13:18:40 ID:DvEEGwcP
家康は秀吉に形見分けとしてもらった金を(おそらく)天下取りに使ったわけか、皮肉だねえ
65 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 13:51:55 ID:CaIkRIOE
家康「天下を形見として頂きました^^」
66 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 15:28:04 ID:DAuUW+D7
67 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 21:26:28 ID:ptKOKnXD
>>58 オレも。最上好きの恥だからとりあえず半年ROMっててくれ。
駒姫と義忠関連で捏造創作した奴ともどもな。
68 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 22:50:37 ID:VJ8IeuX4
三成は家康がお嫌い?
−事例その1−
ある普請現場での事である。石田三成が同じく五奉行の浅野長政と共に焚き火にあたっている時に
五大老の一人、徳川家康が多くの共を連れてやって来た。
浅野「おお、これは徳川殿!おい、治部少輔、被っておる頭巾を取らぬか、失礼であろう!」
と三成に注意するが。
三成「 ・ ・ ・ 。」
まるで聞こえていないかのように火にあたり続けていた。これには浅野も怒り
浅野「取れと言っておるのが聞こえぬのかぁっ!」
ガ シ ッ バ サ ァ ッ !
頭巾を剥ぎ取り焚き火に投げ入れてしまった。しかし、それでも三成は
三成「 ・ ・ ・ 。」
素知らぬ顔で火にあたり続けた。
−事例その2−
石田三成がある普請現場の検分をしていた際に何かの拍子で指揮をするための竹杖を落としてしまった。
そこへたまたま通りがかった家康が杖を拾い、三成に渡してやるが
三成「 ・ ・ ・ 。」
三成は杖を無言で受け取ると、礼も言わず別の場所へ行ってしまった。
69 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 22:53:43 ID:LhkNVY4I
三成は意地っ張りやのう
70 :
人間七七四年:2010/10/27(水) 01:09:36 ID:+0TaYfsV
てかガキw
71 :
人間七七四年:2010/10/27(水) 01:56:53 ID:WHDhtSvq
関ヶ原で集められんのが良く解る話ダナー
72 :
人間七七四年:2010/10/27(水) 02:22:36 ID:w2ZUoG+C
腹芸が出来ない奴は上には立てないよな。
本多正信の爪の垢を煎じて飲むべき。
73 :
人間七七四年:2010/10/27(水) 06:51:52 ID:zdq94MD9
だが、それがいい
74 :
人間七七四年:2010/10/27(水) 08:01:30 ID:6C0PflZZ
そんな無礼に耐えてる家康△
75 :
人間七七四年:2010/10/27(水) 08:21:25 ID:+VQQDNrs
こういうの読むとますます三成が好きになるから困る
ま、こんなエピはあからさますぎるから関ヶ原後に創作されたものだろうけど
76 :
人間七七四年:2010/10/27(水) 08:30:34 ID:iYKQJ0lf
キモイ
77 :
人間七七四年:2010/10/27(水) 17:00:15 ID:YJa8I/9H
豊臣家の野戦派の武将がやれば「何と剛毅な」という良い話になりそう
三成だから「…」な話にされるだけで
78 :
人間七七四年:2010/10/27(水) 17:14:55 ID:DbKFaCWO
大内さんがやったら痴情の縺れかwwwwwwww
って言われるんだよな。
人による判断基準の違いは恐ろしい
79 :
人間七七四年:2010/10/27(水) 23:26:42 ID:BuqUrwL6
宇喜多さんや松永さんがやったら、相手は三日後くらいに怪死
南部さんだったら訛りコンプレックスで喋りたくないんだと同情され
上杉さんだったら通訳が入る
80 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 00:23:00 ID:8gFcbvmw
人間が小さすぎる
カッコ悪い
81 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 00:43:33 ID:tkzQqhL1
腹芸出来ない奴=小物、ガキという図式も頭の中にあるけれど、どうしてもって相手はいるよなw
でも、相手も自分もそれなりの身分の人間なんだから、もうちょっとな・・・。
82 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 00:53:22 ID:InD1FPD7
いい年したおっさんのすることじゃあないなw
83 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 02:52:02 ID:0yEfTd04
しかし立場をわきまえないその頑なさが三成の魅力にして美点
三成が人並みに空気読んで胡麻する奴だったら佐近や舞兵庫みたいな猛者はついてこなかったと思う
84 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 03:17:53 ID:F8coTZ6K
魅力ではあるが美点では・・・
ゴマ摺るのと形だけの社交辞令も出来ないのはちょっと違う
85 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 03:30:22 ID:p4mYNlO/
秀吉にはゴマすってそうだけど
86 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 06:37:39 ID:EquylpMx
>>85 でも、そういう逸話って一切ないんだよね。
誰に対しても媚びてる話が一切ない。
やはり人間的には問題ありまくりだけど、有能だから秀吉に頼りにされたってことじゃないかね。
それと、誰にも媚びない性格から公正さを信用されたとか、こいつは俺が死んでも誰かに靡いたりしないな、と判断されたとか。
87 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 07:07:45 ID:884jy2+0
三成は他人に媚びない男なの〜
悪評は全部徳川の捏造〜
88 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 07:10:31 ID:Etkq0dA8
退かぬ!媚びぬ!省みぬ!
89 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 07:16:01 ID:A8wKXzHO
媚びない事と公正である事はイコールじゃないけどね。
90 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 08:25:48 ID:bkjKfFUt
人に媚びない実直な政務官⇔融通の利かないKY野郎
というキャラづけがテンプレ化して逸話が作られてるわけやね
91 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 09:03:25 ID:mrQs+VzO
>>86 「佐吉は諫に付ては、吾気色を取ず」
だっけか。
秀吉が自分の顔色をうかがわずに還元するのは三成だけだと言ったという話があるね。
92 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 14:05:36 ID:gDNR3IFt
>>88 おまえのせいで三成のイメージがサウザーになった…
お師さんは秀吉か?
93 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 14:49:30 ID:TPUppJQx
白鷺拳の鳥居シュウ元忠で一合ほどは泣ける
94 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 14:55:21 ID:nn9MN1xT
島津ケンシロウ義弘「伏見城守る手助けしようか?」
鳥居シュウ元忠「ここは拙者の戦場ゆえ、助太刀ご無用」
95 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 14:57:36 ID:p0VSVxYl
野党の化けたババア:前田玄以
96 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 15:12:00 ID:KY1Kr/xw
種籾じいさんは誰になるんだ
97 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 16:51:24 ID:RAOjDhaZ
トキは大谷吉継か?
98 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 17:20:36 ID:GWPSyzKU
千葉繁に小早川裏切り〜大谷隊壊滅の回を予告させたら凄いことになるな
99 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 17:46:59 ID:i5W5k6Pp
石田三成の悪い話
石田三成は関が原の戦いで下痢だったので
敗走途中に野グソをしながら逃走したらしく
追っ手が野グソの近くに上質な美濃紙を発見!
石田三成が捕まる原因になったらしい・・・
石田三成 野グソのお話
100 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 17:55:10 ID:c76Xp8DI
ちょwww
なんちゅー話だww
101 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 18:07:13 ID:jMdOby3K
永正9年(1512)の事だそうだ。
讃岐の寒川氏は大内義興の命により兵卒を揃え引田の浦にて五艘の軍船を整えた。
そこに同じく讃岐の香西氏、安富氏の軍船が集合し、計二〇艘となって引田の浦を出航、
備後の鞆に到着すると伊予の能島に報告、能島、因島の村上氏と合流すると、瀬戸内を拔け
南洋、中国南部方面へと進んだ。
さて、このような船団が組まれたことには、こんな理由がある。
この少し前、能島村上氏(村上隆勝か?)より大内義興に提言があった。
「南洋にある離島があります。これを得れば和漢の交易路を保持するのに、長く日本の利益と
なるでしょう。」
寒川家の記録には、その島の名は書かれていないものの、どのような島かは記載がある。
島の主は元々明国は浦東(今の上海か)の領主であり、明から大船を招き、日本と中国との中間交易の地として
大いに栄え、住民達は互いに親しむこと親友以上であり、その島はまるで一国の首都のような賑わいだというのだ。
島に行った日本人の中には、自らの国が乱世であり、一夜の安眠すら困難なのに比べ、この島には争いもなく
皆安楽に暮らしていることに、帰国を嫌がるものも多かったという。
さてこの島、日本の武装した兵船が押し寄せるとすぐに通詞を出して和を請い日本に服すことを約束した。
このため何事も起こらずこの遠征は終わったのだが、これには理由がある。
この当時の日本船というもの、外国船に行き当たればそれに押し寄せ攻め立て、資財を出させてそれを取り、
嫌だというものには攻め懸けて船を乗っ取った。
このようであったため、異邦人でも日本の兵船の言うことを聞かない、という者はなく、海上において
日本船に行き会うことを恐れない船はなかった。
ためにこの島も、あえて日本船と戦おうとはしなかったのである。
ところでこのころの日本船、皆八幡宮の文字を書いて旗印としていた。
このため異邦人より、日本船をさして八幡船と言うようになったそうである。
大内義興の命による、瀬戸内水軍の連合軍によってなされた、とある島への遠征についてのお話。
102 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 20:00:35 ID:am/sgdqW
>>99 下痢気味だったってのは聞いた事あるが
まさか野グソが原因で見つかるとは…………村の人が密告とか関係ないじゃん……
103 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 20:11:31 ID:b2DwIzeL
>>102 日本軍もガダルカナルのジャングル戦で野グソが原因で発見されて殲滅されて負けた。
米軍は逆に絶対にそういうことがないよう
新兵の頃から大きな穴の中に集団でクソする習慣を付けさせ、羞恥心を殺す訓練を受けてたから勝った。
104 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 20:51:47 ID:InD1FPD7
>>102 いや上質な紙が問題なんだよ。
当時は専用のへらか、葉っぱで拭くのが普通。
なのにわざわざ紙を使うなんて、そうとう高い身分の奴に違いないってんで集中捜索されて見つかったと。
105 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 20:58:29 ID:5SE9mo44
>>104 いや、野グソで(尻拭いてその紙によって見つかった)なら密告関係ないじゃないかという話だろう。
括弧内は省略しただけで理解していると思われる。
106 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 21:15:42 ID:NVTqAnCd
>>101 この頃は村上水軍は大内に心中していたんですね
どういう縁でこの後離れて義隆の代に攻められることになったのかな?
107 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 21:24:21 ID:8gFcbvmw
108 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 21:35:36 ID:TPUppJQx
109 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 21:38:49 ID:IPXEZqu7
みっちゃんみちみちうんこたーれてー
110 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 21:39:44 ID:5SE9mo44
いや、草で拭くもんだぞ。
野グソってものは。
現代人でも山育ちなら柔らかくて拭ける草とか解る。
111 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 21:40:50 ID:8yCrs8Ql
クソベラといえばすぐに前田慶次郎利益を思い出すぜw
112 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 22:08:52 ID:Oi75YAUo
埋めとけばよかったのに。
113 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 22:13:53 ID:b2DwIzeL
逃走中だから一秒でも惜しい
葉っぱを選んだりもみほぐす暇があれば紙使うほうがずっと早い
埋めるの手間はもちろんのこと
114 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 22:20:11 ID:IU5W+G8m
ウンが付いてるからそのまま紙を懐に戻せば・・・
あ、ごめん、味噌でしたね
115 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 23:03:14 ID:BtLG5Fkn
糞か・・・・
糞はふんどしの中にするもんじゃわい。
野糞などしとったら、笠の台が飛ぶわな。
いや、ほんと、これは真剣な話だぞ。
わしは、ふんどしの中に糞をしたから天下が取れたのじゃ。
116 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 23:51:18 ID:C5vRPPso
ウンコ漏らしても生き延びたのが家康
ウンコ漏らしてつかまったのが三成
117 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 00:02:16 ID:Pj+0oTq6
>>116 違う。漏らすと逃げきれるが、ちゃんとすると捕まるんだよ
118 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 00:04:57 ID:OEdpU6YD
>>109 やwめwろwww
戦国時代の緊迫感ある話だな
119 :
1/2:2010/10/29(金) 02:28:14 ID:9aBb5P9U
関ヶ原の戦後処理も一段落したころ、福島正則の屋敷に大名が集まり夜話をしたことがあった。
集まったのは亭主の福島正則を始め、加藤嘉明、加藤清正、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、といった
面々であったという。
さてこの雑談のうちに彼ら、関ヶ原において家康が宇都宮で上方挙兵の報を聞いた時の行動と、豊臣秀吉が
毛利攻めの最中備中において本能寺の報を聞いた時の行動の比較をし始めた。
「この双方、状況としては全く同じであろう。
だが、片や太閤殿下は毛利輝元と和睦し居城である姫路にご帰陣されたが、一夜も御逗留されること無く
すぐに出陣され、正龍寺表において明智を討ち果たした。この戦果を得たのも太閤殿下の素早い
軍事行動の故であっただろう。
ところが御所様(家康)の場合、上方挙兵の報を聞くと我々を呼び
『ここまで我らと共に下って頂いたこと、大変嬉しく思っている。
ところであなた方は上方に人質を置いておられる。
皆はこれより上方に登り治部少輔(石田三成)と和解されてはどうか。』
と、なんとも重たい存念を言われた。
そして我々の助けは要らない、もし歯向かう者がいれば自分でいちいち踏みつぶしていくと言わんばかりに
江戸城へとご帰還になった。
もし宇都宮の段階で、我らを引き連れそのまま上方に向かって打ち立っておれば、8月のうちに
御所様の天下になったものを、太閤殿下に比べれば実に行動が重い。」
そのように皆皆語った。
この時、細川忠興一人がこの雑談に加わらず、ずっと無言でいることに皆が気づいた。
120 :
2/2:2010/10/29(金) 02:29:38 ID:9aBb5P9U
彼らは忠興に
「今日は皆、思っていることを残らず語ろうという集まりである。君がひとり黙っているのは宜しく無い。
君の存念も語りたまえ。」
と迫ると忠興
「そういうことであれば申します。太閤殿下と御所様の比較ですが、先ず明智討伐の時と
関ヶ原の時の、それぞれのお立場を思い出してみてください。
あの時太閤殿下が領していたのは、わずか播磨一国でした。その小身で、大敵である毛利輝元と対峙したまま
明智が畿内を安定させこちらに向かってくるような事態になれば、まさに籠の中の鳥となります。
そのため太閤殿下は明智に対して早急に打って出るより他、選択肢はなかったのです。
殿下が籠城の準備を全くしなかったことからも、それは見て取れます。
これに対して御所様は関八州の大領土を持ち、その上海千山千の武功を重ねた直臣を沢山に抱えており、
また金銀も多く蓄えられておられた。
御所様が『上方に上って治部少輔と和解せよ』と言ったのは、このさい治部と共に我らも一気に滅ぼし、
我らの領地をも奪おうと考えたからではないか、と、あの時私はそう思いました。
あの時の我々は御所様に対し、なかなか一戦にすら及べないような状況だったからです。
それでも、御所様に味方すれば、今は無理でも後で国の一つも頂けると思い、御意に任せて
上方に向かっても、見捨てられ領地からも離れ我が身だけとなり、命からがらの状況になるのではないかと
心配しましたがそれも無用のことで、御所様がいざ関ヶ原へと上られた時は、先の太閤殿下のものより
十増倍も軽々とお上りになられた。
私はこう思います。
あの方は、太閤殿下を十倍増したよりも恐ろしい天下持ちだと。」
これを聞いたほかの大名たちは
「我々も若輩なことを言ったものだ。」
と、忠興の分析に感じ入ったとのことである。
細川忠興による明智征伐と関ヶ原時の、秀吉と家康の比較分析についてのお話。
121 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 03:48:09 ID:Y+gDUUty
>>119 >関ヶ原の戦後処理も一段落したころ
>御所様(家康)
こんなのあり得るのか?
122 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 04:15:07 ID:9aBb5P9U
>>121 御所様というのは原文にあったものをそのまま使ったが、この文章が書かれた時期自体は
家康の将軍就任以降ということだろうね。
それに関しては書き方間違えたと思うw;
123 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 04:21:55 ID:XRS53tLd
124 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 04:24:00 ID:9aBb5P9U
ギャー orz
すまんかった
125 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 07:23:16 ID:wQPKYAqo
関ヶ原の前と後どちらが正しいんだろうw
筋としては後が自然だが…
126 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 08:53:51 ID:MJSmMthX
事の真偽は置いといて、オチに三斎さんが来るとことかもっともらしい話だよね
127 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 09:26:39 ID:lVBUzZzz
128 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 11:16:25 ID:YmkILJn7
とある質問箱にこんな回答があった。
>そもそも戦国時代でゲームみたいに
>武将が自ら先頭に立って突っ込むなんてふつうありません。
>まぁピンチの時の決死の突撃とか味方を鼓舞するときなどには前線に出ますが、
>そうじゃない場合に特に必要がないのに気分の高揚だけで前線に出てくる武将は
>指揮官として失格です。というかただの馬鹿です。
「そうじゃない場合に特に必要がないのに気分の高揚だけで前線に出てくる武将は
指揮官として失格です。というかただの馬鹿です。」
(´・ω・`)「・・・」
光安「殿、帰りますよ」
あれ?おかしいな・・・なにかが脳裏をよぎった様な・・・
129 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 11:25:57 ID:4QJyzayn
>>128 > 「そうじゃない場合に特に必要がないのに気分の高揚だけで前線に出てくる武将は
> 指揮官として失格です。というかただの馬鹿です。」
蒲生氏郷・黒田長政「あ”あ”?」
130 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 11:45:53 ID:gDOKwkws
小早川秀秋「そう、私は指揮の鼓舞のために朝鮮で前線に出たのです」
131 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 11:47:30 ID:gVlZPMg1
>>129 信長「いやいやいや」
後藤「これだから…」
132 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 11:57:55 ID:m4i8okQx
鬼某「ヒャッハー!」
133 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 12:26:20 ID:OEdpU6YD
BBCが製作した関ヶ原の戦いの映像では家康が
「うてー!!」
って自ら先頭きって突っ込んでいってた
134 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 12:32:18 ID:J0nv0qwu
歴史が変わり西軍が勝利するなw
135 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 12:35:19 ID:7gxsk/AM
なかなか寝返らない秀秋陣のほうへ鉄砲を打ち込んだときなら合ってるかも
136 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 16:56:25 ID:Boqao04q
137 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 17:51:35 ID:G+D00IqO
>>128 戸沢盛安「ちょっと合戦後、角館裏まで来いよ」
138 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 17:58:41 ID:GdCiM2+t
>>137 (`・ω・´)「あいわかった!」
光安「殿ぉ!!!」
139 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 18:47:06 ID:aAVoclCe
,;r'"´;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`ヽ、
,r'";;;;:::::;彡-=―-=:、;;;;;;ヽ、
/;;ィ''"´ _,,,,....ニ、 ,.,_ `ヾ;;;;〉
`i!:: ,rニ彡三=、' ゙''ニ≧=、!´ 人間無骨を持て・・・・・・
r'ニヽ, ( ・ソ,; (、・') i'
ll' '゙ ,;:'''"´~~,f_,,j ヾ~`''ヾ. 久しぶりに・・・・・・
ヽ) , : ''" `ー''^ヘ i!
ll`7´ _,r''二ニヽ. l キレちまったよ・・・・・・
!::: ^''"''ー-=゙ゝ リ
l;::: ヾ゙゙`^''フ /
人、 `゙’゙::. イ
140 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 20:50:50 ID:jnXhWsuv
島津兄弟「前線に出てくる武将は、皆釣り上げてやったぞ」
141 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 21:15:26 ID:nLAY8ySo
義光と光安の顔文字ネタ、いい加減同一人物なんだろけどしつこくてキモくて勘弁して欲しい。
まとめブログのコメントまで顔文字でかなりげんなりした。
どうして最上オタってキモイ創作とか同じネタばっか使って受け狙おうとすんの?
そういう狙いがなきゃ最上結構好きだけど、最近の流れキモいわ…
142 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 22:52:31 ID:MJSmMthX
AA貼ってる人に言われても・・・
143 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 22:56:42 ID:lVBUzZzz
今気付いたが悪い話の方が伸びてるなんて
両スレが始まって以来かな
144 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 07:38:11 ID:Xg4TnVSl
145 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 08:14:27 ID:lcws2BBO
小倉城はな〜
物凄い悪趣味な外観のショッピングモールがすぐ裏にできちゃってね。
天守の美しい景観が丸っきり台無しなんだよ。
それに比べたらラブホみたいなライトアップなんて些細なことだ。
まあ、大半の北九州市民にとって景観なんてものは知ったこっちゃないのさ。
市の屋台骨だった明治以来の鉄鋼業が壊滅寸前でね。
みんな仕事ないのさ。
こんな悪趣味な城になっちゃったことを三斎さんが知ったら、三十六歌仙が万葉集になっちまうよ。
146 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 09:24:22 ID:Hh1W8SQf
乳がん月間だかで世界的にやってるからなぁ・・・
きっと、三斎さんもライトアップに関しては苦い顔をしつつ許してくれるyo!
147 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 10:13:41 ID:qzuP0Gjy
>>146 さすが、ご聡明な忠興さま。乳ガンの危険をよくご存じでいらっしゃる。
では、早速、ガラシャ様に触診を・・・
148 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 10:29:48 ID:OJ8e1tL6
ガラシャ以外の女性の健康など屁とも思ってないから
許してくれません
149 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 10:30:42 ID:TEsz3GHU
>>147 小笠原少斎「痴れ者め!それは拙者のおいなりさんじゃ」
150 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 10:54:07 ID:EVU7TGj6
151 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 14:58:46 ID:ookZ7Ln1
親子鷹
親子大喧嘩の末、氏家定直の注進もあって最上家の家督は義守から義光にようやく引き継がれた。
近隣の諸勢力から祝いの贈物が届いたが、ちょっと変わったエピソードを挙げておく。
最上家臣「こちらに名を記されよ」
A「大江家臣中山玄蕃」
B「大江家臣中山玄蕃」
最上家臣「めでたい席とはいえ、いたずらはやめられよ。名は何と申す?」
A「なかやまともまさにて」
B「なかやまともまさにござる」
最上家臣「ふざけるのも大概になされよ!」
A「はぁ?」
B「ふざけてなんかないんだけど・・・」
最上義守「おお、これは中山殿!今日は御子息もお連れか」
最上家臣「???」
父、中山玄蕃朝政
子、中山玄蕃朝正
子の朝正は後に大江氏滅亡後最上義光に仕え庄内攻めの仲介役となっている。
152 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 15:19:45 ID:250oD+DI
153 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 18:02:21 ID:70ZQeu6q
鮭の話
鮭って言っても鮭好きのあの人の話じゃないから
顔文字ウゼェとかいうのは無しにしてね。
大坂の陣の際、真田信繁から知り合いにこんな文が届いた。
「大坂入城を無事果たしました。今使いが来てる前であわただしくこの手紙を書いています。
大坂なのに城内に異様に生鮭と干鮭があるんで、ついでなんで貰ってください。」
手紙のおまけで鮭二尾が付いていた。
大坂夏の陣の前に徳川方の使者が天守閣に入ると大量に鮭が保存されていたといった伝承も残る。
9月頃の新聞に「秀頼の骨発見か?」といった記事が載っていたが、
その数日後「大坂城本丸北側で大量の魚(鮭)の骨発見される」といった小さな記事が書かれていた。
大坂の陣には鮭様もその息子も参戦していない。
大坂方には鮭様以上に鮭に溺れた台所奉行でもいたんだなーと勝手に想像してみる。
154 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 18:40:38 ID:70ZQeu6q
成沢道忠と龍の兜
昔話なんで深く突っ込まないで欲しい。
最上四十八楯の一角に長谷堂と双璧を成す成沢館という岡城があった。
館主は米沢の伊達侵攻の際にも家名を保った最上義定の一門成沢氏。
天文の大乱にも参加した成沢氏には家宝とも伝わる龍の前立ての兜があった。
多くの最上重臣が討たれた対伊達家の長谷堂の戦いでも成沢氏の武名と家名を守った栄光の兜である。
やがて時が流れこの兜の噂を聞きつけ氏家守棟の嫡子が成沢館を訪れた。
氏家某「それがし初陣はまだ叶わないものの、初陣の折には是非高名なる兜をお借りできませんでしょうか?」
成沢道忠「この兜は当家の宝にて、お貸しするワケには参りません」
氏家「そこをなんとか・・・」
成沢「くどいですぞ!実子の光氏にもそれがしが死んだらくれてやると言ってるくらい大切なものです。お引取りくだされ」
連日に渡って陳情しに来る氏家に、道忠も熱意に打たれ(いい加減に折れて)ついに家伝の兜を戦の時に貸すことと成った。
龍の兜を被った氏家が参加したのは「十五里ヶ原の戦い」
知る人ぞ知る、「最上義光の代で最大の負け戦」である。
氏家は戦死したが、兜だけは後に成沢家に戻ってきたという。
事の詳細は判らない。
龍の兜は二度と被られることは無く、
成沢道忠の息子の光氏は後に氏家守棟の養子となり、名門成沢家は家名を失った。
件の龍の兜の行方は現在判っていない。
「山形の昔話」より
155 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 19:06:54 ID:fjcYRv8S
>>153 当時の鮭の骨もちゃんと出てくるとはいい話だ
>>154 三河武士が聞いたら説教しそうな話だな
縁起のいい兜に浮かれて自ら心に油断を生じさせるとは何事かと
156 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 20:06:22 ID:WoSFzdP7
投稿の準備をしていたのに、アクセス禁止だの、
マシントラブルだのでしばらく投稿出来ませんで
した。
その間に市松関連のレス&コメントで軽く紹介さ
れてしまった話なんですが……
少々重複気味なんですが、折角準備した話なので
投稿しておきます。ウザいようなら、スルーして
くださると助かります。
広島城を召し上げられた後、信州川中島+越後国
内に計4万5千石を領していた福島正則。
寛永元年7月12日、64歳で死去する。
幕府は検使として堀田勘左衛門正利を派遣するの
だが、福島家としては真夏のコトとて、あまり長
くは遺体を保管しておくコトは出来ない。
福島家臣、津田四郎兵衛は検使の到着する前に正
則の遺体を火葬してしまう。
この処置に幕府は激怒。正則の死は不審であると
して、末子福島正利への領地相続を認めず、3千
石の旗本に落とされてしまう。
大名の死に際して検使が使わされるというのは普
通だったのでしょうか?あまり聞かないように思
うのですが。
それとも市松の死には何か、不審な事情があった
のでしょうか?
ちなみに広島から川中島に転封された理由ですが、
一般には幕府の許可なしで石垣を修理してしまっ
たとなっていますが、今回私が参照した本(廃絶
録)によると、それ以前に幕府から天守閣を壊し、
二の丸に移るよう命令されていたそうです。
それを無視した上で、石垣やら堀やらを修理した
ので、幕府の逆鱗に触れてしまったとか。
あー、そりゃ、怒られるよね。(^^;
157 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 20:25:47 ID:tgUgFv5D
158 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 20:36:11 ID:tvni0t9O
>>157 幕府が福島家を潰したかった、っていうのは必ずしも正しくないと思うよ。
実際この無断改修問題が持ち上がった時も、一度は正則の謝罪を受け入れて
城の破却をすれば処分なし、ってことに決まったのだもの。
ところがそれでも幕府の指示通りの行動を取らなかったことが問題を悪化させ改易。
159 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 20:38:19 ID:9nBDSgYP
正則はその前にも一度勝手に修理して怒られてるのにまた同じ事したから改易されたんだろ。
160 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 21:52:07 ID:YRZ25+Tg
161 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 22:06:20 ID:dZrgSghk
>>156 > それとも市松の死には何か、不審な事情があった
> のでしょうか?
正則の死体が急いで火葬された理由として、正則は幕府の措置を恨んで発作的に切腹したからだ、
という説もあるにはあるね。
162 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 22:08:21 ID:Vr7GhCm5
>>154補足
諸説色々あるが
1570年代に伊達勢に後押しされた上山軍が最上を攻めてる。
この時迎撃したのが資料では「成沢道仲(みちなか・どうちゅう)」
1580年代後半に大崎合戦の傍ら行われた「十五里ヶ原合戦」には
「成沢道忠(みちただ・どうちゅう)」が60−70歳で出撃しているとある。
最上義光が死んだ1614年には成沢道忠入道が「山野辺義忠」を主君に据えようとして失敗し、
伊達領松島に逃げ、この子孫は現在も伝わっていると最上歴史館の人物史に表記がある。
同一人物だったらゆうに100歳越えてるわな。
道仲と道忠は二代だという説もあるけど
史料ではっきりとしないバツの悪い話って事で。
あと、この龍の兜「水魚の立ち物」とも「鯉の兜」とも言われてるみたい。
決して鮭の被り物じゃないよ。
163 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 22:13:10 ID:Vr7GhCm5
あと誰か昔学研に載ってた「銀鯉の兜」の話知らない?
矢田作十郎助吉の「鯉の兜」とは別な話で
銀鯉の前立ての兜を借りて返しに行ったら「銀鯉は死んだのだ」と無下にされた若武者の話。
164 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 22:24:29 ID:LlkSV3CQ
>>163 「鳩巣小説」では矢田作十郎が「鯉の兜」を友人の阿部四郎五郎に貸したら
その友人が思うように活躍できなかったので「お前のせいで鯉は死んだのだ!」と
兜を受け取ろうとしなかった、とあるそうだが
この話じゃないなら知らない
165 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 00:00:21 ID:VGJLsiVI
166 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 00:24:45 ID:yr9oKwel
寛永九年頃の初春より飢饉が始まり、江戸や大阪の米価は
慶長金一両で六斗から七斗ほどにまで上がった。
これに対応すべく老中以下が集まって議論した。。
その席で意見を求められた将軍徳川家光は
「町中では米が払底しておろうが田舎には貯えがあるはずだ。
これは早速詮議して在所より米穀を送らせ民が飢えぬようにせねばならぬ」と言ったという。
飢饉とはどういうものなのか知らなかった徳川家光29歳の話。
167 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 00:30:06 ID:/w10P4Bl
>>166 いや、飢饉と言っても普通は全国規模で起こるわけじゃないから、米の余っている地域から
足りない地域に送るというのは間違った認識じゃないぞ?
まあ寛永の大飢饉はこう言う認識の通用しない、本当に大規模な飢饉だったが。
168 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 00:31:40 ID:ugjAQWd7
家光は間違ってないよ。
実際最近の江戸時代の飢饉研究でも、飢饉は流通の問題が大きかったという研究成果が出てる。
例え飢饉でも、日本全国が一様に飢饉だったことの方が珍しい。
あるところにはあるってこと。
169 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 00:32:23 ID:9idapj1s
司馬衷「全く倭国の王は馬鹿じゃのう。米がなければ肉を食わせればよいではないか」
170 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 00:32:31 ID:ugjAQWd7
かぶったw
171 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 00:32:36 ID:fmfoavVw
172 :
166:2010/10/31(日) 00:36:05 ID:yr9oKwel
ごめん、肝心なところが抜けてた。
寛永九年頃の初春より飢饉が始まり、江戸や大阪の米価は
慶長金一両で六斗から七斗ほどにまで上がった。
さらに田舎でも米不足が深刻化し、四斗から五斗と求めても
米自体がないために買えないありさまだった。
これに対応すべく老中以下が集まって議論した。
その席で意見を求められた将軍徳川家光は
「町中では米が払底しておろうが田舎には貯えがあるはずだ。
これは早速詮議して在所より米穀を送らせ民が飢えぬようにせねばならぬ」と言ったという。
飢饉とはどういうものなのか知らなかった徳川家光29歳の話。
173 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 00:36:27 ID:ugjAQWd7
>>171 言い過ぎだw
当時の人が、「公方様はこれだから分かってねーな」と判断したのは確かだろ
174 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 00:36:29 ID:+aRf0yXT
これはもう殿様を世間知らずと嘲るためテンプレだよなw
175 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 00:42:06 ID:ugjAQWd7
>>172 ところでさ、
>一両で六斗から七斗ほどにまで上がった。
これって一両=約一石(=10斗)から、
一両=6〜7斗に上がったってことだよね?
176 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 00:55:45 ID:VGJLsiVI
六斗だったのが七斗に上がってお買い得になったのかと思った
そういうことねw
177 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 12:51:08 ID:8IQCeERI
>>164 トンクス
学研だと同一人物かはわからないけど
若武者は面頬を付けて初陣で活躍したものの
元の持ち主が兜を他人に貸したことを後悔して「鯉は死んだ」と言った様な書き方をしてた。
178 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 17:49:18 ID:D7oXCVRT
小瀬甫庵先生による市松さんの解説
・福島市松、後に左衛門太夫と号する。備後、安芸を領した。
人々を殊の外見下す人で、家臣たちからの恨みも多い人であった。
家臣に対しては小さい過失であっても、それを殊の外大きく言い立て、
あるいは牛裂き、あるいは煎殺し、あるいは刀脇差を取り上げ磔にし、
あるいは杖にてたたき殺し、あるいは指を切り落とす、など、そういった残虐な刑罰は
その数知れずといった有様であった。
元和の末に法に背くことあって信州にて4万石に改易され、そこで死去した。
息子である備後守(忠勝)は酒に溺れて、父より前に病死した。
とまあ甫庵先生、市松さんに何か恨みでもあったのかと思うような書きっぷりである。
文中にあるが、もしかすると正則から実際に見下された経験があったのではなかろうか。
そんな、後世、軍記物語などで福島正則というキャラクターが形成されていく中で、おそらく
大きな影響を与えたと思われる、甫庵太閤記にある正則についての解説。
179 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 18:18:37 ID:/4iBQjPq
小瀬甫庵自身が非常にアレな人物だからなぁ…。こいつがどう論評しようが
無視したほうがいいという感じが。
180 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 19:18:58 ID:YVB84GD0
韻を踏む
最上の鮭様は家臣の名前を見てこう思った事だろう
(・・・こいつらなら出来る・・・これだけ揃っていて出来ない道理はない!)
大井五郎(仙北のフードファイター)
大風五郎(長谷堂の足軽大将)
大崎義成(大崎兄?)
大崎義名(大崎弟?)
坂光重(坂父)
坂光秀(坂子)
里見兵部(里見父)
里見民部(里見子)
志村光安(志村父)
志村光清(志村子)
中山朝政(中山父)
中山朝正(中山子)
新関久正(新関父)
新関成正(新関子)
成沢道仲(成沢父?)
成沢道忠(成沢子?)
山家国頼(山家父)
山家公頼(山家子)
(`・ω・´)「連歌大会やるお!」
家臣「ザワザワザワザワ・・・」
結果は皆の知っての通りであろう。
181 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 19:25:36 ID:ugjAQWd7
前田家の幇間っぷりを見るにつけ
「パトロンになってくれればよく書いてさしあげましょう」なんて市松に申し出て
邪険に扱われたんじゃないか、その恨み爆発で。
182 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 19:33:53 ID:/w10P4Bl
甫庵太閤記を読んで最大の疑問は「なんでこの勇知完備の名将である前田利家が
天下を取れなかったのだろう?」って点だからなw
秀吉のことは批判している場所もあるが、利家は絶賛の嵐。
183 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 19:38:22 ID:bQAkofRB
前田利常「甫庵、父のことを悪く書いたらどうなるか分かっているな?」
184 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 19:38:45 ID:cm4c9LzF
相良武任の辞世の句を最近知って同情してしまった。
空蝉の つくしよしとは 思はねど 身はもぬけつつ なくなくぞ行く
185 :
sage:2010/10/31(日) 21:13:37 ID:m8oslHVx
>>184 周防守護代の家柄の、あの方が許しません。
186 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 22:31:45 ID:8l9ek6Ub
きかんしゃやえもん(上)
薩南島津家の家臣に、鎌田弥右衛門という男がいた。『鬼島津』家中にあって大剛の人として知られたが、この男
得物として大きな棒を使い、城への出仕の時も、棒を持ち込んだ。ドス黒いシミのついた棒を持った男が隣にいれば
気持ちの良いものではない。当人に言っても聞かないため、非難は本家筋の家老・鎌田出雲に集中した。
「…という訳で、『アレは、あまりに異様だ』と評判が悪い。即刻、改めるように。」
「何と言われようと、あれは両刀の代わり。手放せませんな。」
「鎌田家の惣領たる、わしの言うことも聞けぬか。そんな勝手を申す不届者を、鎌田家の者と認める訳にはいかぬ。
ただ今より、鎌田家を勘当する。以後、『鎌田』の名字を名乗ること、まかり成らぬ!!」
後世に『名字帯刀御免』という言葉が生まれるように、両刀を携え、家名を名乗って他家に出入りしてこそ武士である。
「お、お待ちを!それでは武士として、やって行けません。その儀ばかりは!」「ならば、棒を持ち歩かぬか?」
「それは…」「では、決まりじゃ。明日より当家に出入りも許さん。」「……………」
翌日、出雲の邸宅に再び弥右衛門がやって来た。「拙者、川上弥右衛門と申す。以後、お見知り置きを!」
「…川上?お主は鎌田もとい、ただの弥右衛門ではないのか?いったい、どういう…」
「実は昨日、あれから城へ行って川上忠兄どのを捕まえまして。『頼みがあります。名字を二、三日お貸し下さい。』
と言ったら、最初は『鎌田家のお主には無用だろう。』と断られましたが、再三頼んだところお許し下さったので、
『では四、五日お借りします。』と言って別れました。」
(殿の側近に、ナニしてくれてんの…てか、さりげなく貸出し日数増えてんじゃん……)
「そんな事で、本日はご挨拶に伺いました。え〜、川上弥右衛門!川上弥右衛門をよろしく!」「……………」
五日後は、樺山弥右衛門かも知れない。その五日後は、新納弥右衛門かも。その五日後は、島津弥右衛門かも。
でも非難は鎌田家に来るだろう。
「どうも扱はれぬ者也。(原文ママ)」と出雲もあきらめ、弥右衛門は大手を振るって棒を持ち歩くようになった。
187 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 22:33:09 ID:8l9ek6Ub
きかんしゃやえもん(下)
鎌田弥右衛門が、同僚と家中の勇者について話した。「当家に兵は多いが、別して藤田市助は大強の者じゃ。」
これに弥右衛門が反論した。「ふん!市助、なにするものぞ。あの程度の者、わしがブン殴ってくれよう。」
(これは面白い。殴られて黙っている市助ではない、すると殴り方に工夫が要るが、弥右衛門はどんな手を使うやら。)
同僚たちが面白がっているうちに数日が過ぎ、肝心の藤田市助が数人と雑談している所に、弥右衛門がやって来た。
☆(`o(○=(゜Д゜)o 「「「普通に正面からイッた――――――!?」」」
何事か理解できず固まっているうちに弥右衛門に逃げられた市助は激怒し、日に二、三度も弥右衛門邸に出向いた。
「弥右衛門出てこい、ゴルァアアアアア!!」
が、弥右衛門家の門番が言うに、「あいにく弥右衛門さまは出かけておられます。」「だ、そうだ。帰れ帰れ。」
横から聞こえてきた声の方を驚いて見ると、『外出中』の弥右衛門が、塀から身を乗り出していた。
「おのれ、何たる無礼!!」
完全にキレた市助は、門番の静止も構わず弥右衛門邸内に押し入った。「弥右衛門は何処じゃあああああ!!」
「み、見間違いでは?ウチの弥右衛門はおりません。お疑いなら、お探し下さい。」
弥右衛門の母に言われて邸内を探した市助だったが、確かに弥右衛門は見つからない。「ここだ、ここだ!」
またしても、どこからか声が聞こえ、行って見ると弥右衛門が鍵の掛かった納戸の窓から顔を出していた。
「お主のせいで母者に、こんな所に閉じ込められてしもうたわ。」「知るか!早く出て来い!!」
弥右衛門は市助の呼びかけに応え、鍵を開けさせると路上に飛び出し、褌までも脱ぎ捨て、大の字に寝転がった。
「さあ、逃げも隠れもせん!煮るなり焼くなり、好きにせい!」
「…お主の有り様では、その気も失せたわ……」
その後、弥右衛門の母の手料理など食わせてもらい帰ったという、聞かん者・弥右衛門の話。長々失礼。
同じ九州人の高橋統増が、きかんしゃとうますだった…という話は残念ながら、ない。 ( ´w` ) ナンチテ
188 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 22:38:30 ID:VGJLsiVI
もうこれ漫画だ漫画www
189 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 22:41:42 ID:z768TvMp
おっとろしかw
190 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 22:47:54 ID:cf24GEXK
顔文字はやめて欲しいなあ
191 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 22:54:54 ID:UmnmHU72
>>184 相良さんは人吉相良の一族らしいが人吉球磨の山ん中まで逃げればよかったのに・・・
表は2万石でも山深い盆地の人吉は実質10万石ってぐらい豊かなのにね。
他の九州南部地域と違い焼酎を米でつくってるしねえ。
192 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 22:57:46 ID:SlfftqGy
>同じ九州人の高橋統増が、きかんしゃとうますだった…という話は残念ながら、ない。 ( ´w` ) ナンチテ
イラッ☆
193 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 23:16:00 ID:+aRf0yXT
書いてるうちに自分のテンションが上がってきていらないこと書いちゃう人いるよね^^
194 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 23:30:24 ID:sZ/Cuel6
195 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 23:35:23 ID:FaH95+dL
なんでおかんの飯食ってんだw
196 :
人間七七四年:2010/10/31(日) 23:56:56 ID:Y933scIF
そこは「おいの肝っ玉のすわりば見せもんそ」と
年老いてしわくちゃの婆あを強チンしてこそ薩摩っぽだろうに・・・
197 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 00:11:59 ID:Q8ALSc9m
>>184 大内義隆の寵臣だけあって辞世も風雅に溢れていますね
主君義隆が諦観の境地とも言うべき歌を残しているのに対して
あえて未練を残しつつと言うのもおもしろいですね。
関わりは無い人物ですが武田勝頼の辞世などはもう悲惨の一語ですが
「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは」
武田の弓勢も衰え僅かの供と逃げ惑い、小山田か北条を頼るつもりで東へと進んでいる筈なのに
もはや行き着く先は西方浄土であろう。
武田勝頼勝頼が落ち延びながら見上げた月は
きっと自身の雲行きと同じく雲で少し遮られた弓張り月だったのではと思いますが
弓張り月は秋の言葉なので雲懸った所も合わせて春の言葉である朧月が良く似合います
亡くなる寸前であろうともこれだけ言葉に趣向を凝らす古人は偉大ですね。
198 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 01:04:29 ID:soExALX+
199 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 01:06:41 ID:B/KK1uk2
北条氏綱が、北条氏を名乗ったけど、元の伊勢氏と同族だってね
200 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 11:27:06 ID:LKmOwSnP
え?199はいまさら何を言ってるんだ?
201 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 11:50:02 ID:pKcON8qI
何か深い意図があるんだよ、きっと
202 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 15:58:41 ID:IHFvpLBS
隆景さんの深い意図か官兵衛の深い意図か小田さんの深い意図かで変わる
203 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 16:06:24 ID:Pb6kL2qz
「元の伊勢氏」になにやら含みを感じる
204 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 16:09:00 ID:GWSBmuas
>>202 隆景さんの深い意図 →先の先を読んだ的確な構想
官兵衛の深い意図 →先の先を読んでいるがウッカリを内包
小田さんの深い意図 →至急真逆の対策を打て
205 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 16:51:19 ID:D8YtHNfo
隆景さんの深い意図 →羽生善治級の詰め
官兵衛の深い意図 →野村監督級のID
小田さんの深い意図 →エロ詩吟級の「なんだか今日イケそうな気がする〜!」
菅谷さん「ないと思います!!」
206 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 18:14:20 ID:R/S2XQGq
隆景さんの深い意図 →無言実行
官兵衛の深い意図 →一言余分
鮭様の深い意図 →「ひらめいた!」
光安「殿、帰りますよ」
天庵様の深い意図 →「いいこと思いついた!」
菅谷ドラえもの「これだからのびきっ太君は・・・」
207 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 18:14:26 ID:0DNKjVdU
隆景さんの深い意図 → 甥が頼りないから俺が何とかするしかない
官兵衛の深い意図 → 俺ってば天才だしどうとでもできる
小田さんの深い意図 →ま、家臣か領民が何とかしてくれるさ
208 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 18:19:58 ID:R/S2XQGq
隆景さんの深い意図 →九分九厘
官兵衛の深い意図 →晴耕雨読
小田さんの深い意図 →右往左往
209 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 18:36:36 ID:86Q7wazx
>>199が隆景なら
話題投下の為に敢えてピエロを演じた
又は官兵衛なら
微妙なネタで釣ってみたのだろう
どちらにしても目標は達成できたと思う
しかし、
>>199が小田ならドヤ顔で本気で書き込んだんだと思う
210 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 19:22:04 ID:IzRNQj0k
211 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 19:22:28 ID:R/S2XQGq
>>209 隆景さんの深い意図 →お題目
官兵衛の深い意図 →引っ掛け問題
小田さんの深い意図 →どや
212 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 19:33:49 ID:p1Bkz8Zt
もうこのへんでよか
213 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 19:38:55 ID:oTd4tJWj
なんで天庵様がオチなのか・・・?
214 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 19:40:39 ID:0DNKjVdU
それは天庵様は人気があるからさ。
215 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 19:47:25 ID:rJxO6ask
馬鹿な奴ほど可愛いって言うしな
216 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 20:39:28 ID:ESctXzrq
菅谷「こんなんでも殿なんだから馬鹿にしないでください」
217 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 22:12:04 ID:uUAlkY95
隆景さんの深い意図 →前フリ
官兵衛の深い意図 →序説
小田さんの深い意図 →オチ
お後が宜しいようで
218 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 22:38:00 ID:3k/zY/CO
そして城も落ちると。
219 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 23:22:37 ID:uUAlkY95
220 :
人間七七四年:2010/11/01(月) 23:27:19 ID:5p5Lab+d
小早川(こばやかわ)隆景
小寺(こでら)官兵衛
小田(おだ)氏治
そうか!天庵様も小田(おだ)じゃなくて(こだ)だったら名将になれたのか!
221 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 01:11:03 ID:MHTeo/X2
>>220 織田信長「いやいやいや」
尾田栄一郎「これだから・・・」
222 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 01:17:35 ID:CES0qY+w
島津歳久の家臣の辞世の句が一番興味深い。
死を覚悟してきたけど、まさか今日死ぬことになるとはなあ
という句だった。
223 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 01:19:53 ID:c0vBYybT
ソーセージマフィンがいかん
224 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 01:20:35 ID:c0vBYybT
ごめん、酷い誤爆をした上にageてしまった
225 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 01:24:51 ID:v0KNtd6q
>>222 これ思い出したw
大田蜀山人の辞世の句
いままでは 他人のことだと思いしに おれが死ぬとは これやたまらん
226 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 02:03:36 ID:8fWe1uV2
>>225 連歌界最強の下の句、「それにつけても金のほしさよ」で有名な狂歌の名手だね。
こういう人になりたい……
227 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 02:15:07 ID:DdomJ89+
>>222 それ、伊勢物語の最終段の
「いにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとはおもはざりしを」
のパクリ?
228 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 02:15:59 ID:DdomJ89+
うげ、「つ」が落ちた。
「ついにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとはおもはざりしを」
ね。
229 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 02:25:56 ID:dqCME91s
>>227 うーん、違うんじゃないかな?
勿論蜀山人はその伊勢の詠を意識して詠んだとは思うが
そこに自分の意志とユーモアを付け加えてるからパクリって表現はどうかと
本歌取りの変形みたいなものって自分は理解してた
230 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 02:38:13 ID:8fWe1uV2
パロって笑いを取ろうと思っただけだと思うな。
231 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 02:38:42 ID:MHTeo/X2
前に出てくる方が悪い
山形の最上氏と寒河江の大江氏との間では小競り合いが絶えなかった。
橋間の戦いで最上方は優勢を誇るも、寒河江城主大江高基を追い詰めた所を高基の弟、羽柴勘十郎によって側面を突かれた最上方志村軍は突き崩され
突出した最上義光に代わって氏家守棟が指揮を執り、最上勢は崩れる事無く戦線を支えた。
義光「敵の首挙げてきた」
守棟「・・・」
光安「・・・」
志村・氏家双将に睨まれ翌日の戦いで義光は本陣から出ることは出来なかった。
そんな所へ報告が入った。
物見「敵襲にござる!敵陣の先頭は羽柴勘十郎!」
義光「なにっ!こしゃくな!」
最上軍に突っ込んでくる羽柴を種子島の一斉射撃で葬ったのはそれから少し後のこと。
義光「大将自らか掛かってくる方が悪い」
守棟「・・・」
光安「・・・殿、山形に戻ってからたっぷりとお話があります・・・」
長谷堂で同じような事をしでかして直江兼続に撃たれる20年ほど前の話である。
232 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 06:40:38 ID:QoGSTHqT
鮭ネタイラネ
マジイラネ
233 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 07:26:49 ID:OipxbSct
>>231 前半部分は前にも出たことあったような。
234 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 08:50:05 ID:gokdBFe3
>>232 そんなに嫌なら最上義光をNGに入れろ
何様なんだ
235 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 10:23:46 ID:6GQ4JfqV
鮭様とか言っていろんな所にくだらないネタを
ねじ込んで来るからウザいんだろ。
俺もいい加減ウザいと思う。
236 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 10:26:42 ID:x6OMl0tN
231には「鮭」なんて一文字も書いてないけどな〜
237 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 10:32:48 ID:u79cKVwY
もう最上を改易しろよ
238 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 10:36:46 ID:6GQ4JfqV
なんか最上ネタを投稿してる人間って
粘着質で気持ち悪い感じがちょっと嫌だ。
>>236のレスとか。
東北人の気質なのかね。
239 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 10:42:01 ID:UXgXHf1F
そんなことより家臣の奥さん物色しようぜ!
240 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 10:43:16 ID:v0KNtd6q
>>238 君も充分粘着質やがな。
あと
> 東北人の気質なのかね。
こういう事書くような人間が人を気持ち悪いとか言うのは、そのほうがはるかに気持ち悪いぞ。
そういう煽りなんだろうけど一応忠告しておく。
241 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 10:45:46 ID:x6OMl0tN
242 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 10:45:55 ID:NPuGBe+x
最上ネタにからんでる奴がしつこいのはガチ
243 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 12:18:08 ID:Ta6Dy8zG
まぁ、その、ときどき「あとは言わずにわかるよね」的な感じで尻切れトンボで投下されるのは困る
何がどういう話なのかわからんし
244 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 12:23:34 ID:wFgE52fs
小田が出陣
黒田が助言
森が橋に差し掛かる
福島が飲酒中
これなら次の流れはまぁ分かるけどやっぱオチはちゃんとつけないとねw
245 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 12:24:56 ID:DdomJ89+
正純がツッコミ
というのも思いついた
246 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 12:43:15 ID:5rO0tEPl
>>225 これがマジで辞世の句なの?なんかすごいね
才能も教養もある人なんだから、いくらでも格調高い感じの歌が作れるだろうに
辞世の句としてこれを遺すって、強烈な自負心と誇り高さだな
憧れるわー
247 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 12:50:53 ID:1BSpfLbp
>>243 長谷堂合戦で家臣が止めるのも聞かずに突出し、直江軍に狙撃されてる。
248 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 13:03:35 ID:Ta6Dy8zG
249 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 14:33:31 ID:YEp87UTR
殿の奥方の顔を見てしまう。
三歳「後はわかるな」(ズンバラリン)
なんか三歳様、以外とムスリムと仲良くなれたような気がする。
「やっぱり妻を他人の目にさらしたくないですよねー」とか。
250 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 15:42:30 ID:rSM/T7Tm
妻を人目に晒したくないなんて、神話時代からの日本の伝統だろ
なんたって「奥方」だぜ
251 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 15:58:58 ID:8fWe1uV2
フランスなんて出産まで半公開なのに……ww
252 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 16:00:32 ID:m31YTM7Z
いや、向こうは妻だけやないし
てか、晒したらほうまで罰くらうがな
253 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 16:50:54 ID:N8HfnWQa
>>248 まとめサイトの「歌掛神社」同様
名前に「韻」を踏む家臣揃いなのに「連歌大会」すら開けず
「れんがし?」→連樫?→槍を作る材料か?→赤樫や白樫はありますが、連樫は見つかりませんでしたーってなオチ
254 :
253:2010/11/02(火) 16:51:46 ID:N8HfnWQa
歌懸だった・・・
255 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 16:57:19 ID:tPfmgD2S
それぞれが気に入らない武将名をNG登録するしかないんだよ
最上嫌いな人間もいれば三河武士ネタが嫌いなやつもいる
人の好みは十人十色
256 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 16:59:21 ID:rSM/T7Tm
武将が嫌いなわけではない
257 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 17:02:12 ID:7P2+sO8r
subなだけ
258 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 17:26:34 ID:bbtR+XkX
玉山大和の化物退治 その1-1
南部氏の家臣玉山大和。彼は南部信直の父南部高信のもとで、岩手郡の平定などに功を成した勇武の士であった。
ある時、彼は同僚の福士伊勢と共に三戸城へ向かっており、ふたりが蓑が坂という所にさしかかった時、
突然玉山の馬が病になり倒れてしまった。
どうしたものかと思案しているとちょうど巫女が通りがかり、玉山はお祈りしてくれないか頼んだ。
巫女「えー、嫌ですよ、馬なんか祈ったことないし」
玉山「人と獣じゃ薬が違うってのは分かるが、祈りに異なることはねえだろ、祈らなくばここを通さんぞ!」
玉山の脅しに巫女は渋々馬に祈ったが、すると巫女は突然神がかり口走った。
「我は坂の下の池に千年住む大蛇なり。諸人が我が頭の上を乗りうちすることが無念で
それを咎める為に馬を倒れ伏させたのだ」
巫女に乗り移った池の主の言葉に、玉山は切れた。
「この坂を通る皆が下馬する中で俺ひとりが乗りうちしたなら咎めるのも分かるが、
なんで俺ひとりだけ咎められなきゃならんのだ、姿を現せ!」
怒鳴るが大蛇は姿を現さない。
巫女は正気に戻り、馬は祈りもあってかすぐに回復した。
福士「まあまあ怒るな、たかが巫女の言ったことではないか。もう日暮れだ、先を急ごう」
玉山「……貴殿は先に三戸へ行ってくれ」
よっぽど怒りが溜まっていたのか、玉山は服を脱ぎ捨て、池の中に入ろうとする。ちなみに季節は真冬である。
「ちょっ、トチ狂ったか玉山!?」
止める福士の話も聞かず、玉山は池に飛び込んだ。
259 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 17:27:41 ID:bbtR+XkX
玉山大和の化物退治 その1-2
池は奇麗でチリもなく、水は湯の如く温かかった。
池の主らしきものは見つからなかったが、四〜五丈ほどの臥せ木が横たわっている。
あるいはこれが池の主かもしれない。玉山はこれを引き上げようと福士に縄を用意させた。
福士はあきれ果てながらも、玉山の指示通り縄を用意した。
縄を木に付け終えた玉山は家臣二十〜三十人でこれを引かせたがびくともしない。
往来の人に縄を牽くよう脅し誘い、さらに集まってきた見物人をも参加させて、
百人ほどでようやく岸辺まで上げたが、そこからどうにも動かない。
玉山は急いで三戸に使いを出す。
使者「玉山・福士が蓑が坂の池の主を引きあげています、ご加勢をたまわりたい!」
信直「……あの玉山が無茶苦茶すんのは今に始まった事じゃないからなぁ」
と信直はさらに五十人を遣わし、そうしてようやく引き上げたのは、なんの変哲もない朽木だった。
もう日も暮れる。玉山は根っこのほう三尺ばかりを斬り、それを三戸へ土産として持っていった。
翌朝朽木を見れば、それは何とも恐ろしい大蛇の首になっていた。それを見た信直はこう言った。
信直「こういうものは後でたたりをなすという。だが、その肉を食べればたたらぬそうだ。
玉山、食え」
大蛇は煮て食べられ、たたりも起きませんでしたとさ。
260 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 17:28:32 ID:bbtR+XkX
玉山大和の怪物退治 その2
南部家の家臣、玉山大和は信直の命を受け、前田利家への使者のひとりとして出立、出羽を抜けて日本海に出、
そこから船に乗って利家の領国へ向けて出航した。
乗った船は順調に航海を続けていたが、突然船が動かなくなる。騒ぎ出す乗員達。
船頭曰く、これは鰐が船をはさんでいるという。
海上では渦が巻き船も回り始め、このままでは船が覆されてしまう。乗員達は生きた心地がしない。
船頭「鰐がこのようなことをするのは何か望みがこの船にあるからだ。持っている物を海中にかざしてみてくれ」
乗船していた人々は自分の所持する物をかざしてみたが反応がない。
さては鰐の望みは物ではなく人であろうと、人々は髻を斬り海に投げてみる。
どの髻にも反応がない中、玉山の投げいれた髻は、海は落ちるより先に引込まれた。鰐の思い人は玉山だった。
玉山は乗員に迷惑を掛けまいと海に飛び込む決意をし、その前に鰐を見てから海に飛び込もうと
弓に矢をつがえて名乗りを上げる。
「我こそは南部家臣の玉山某なり! 何の遺恨あって我を害そうとするのか!」
すると、渦巻く海から恐ろしい大鰐が現れ、玉山を睨みつける!
玉山は慌てず騒がず、弓をひきしぼり矢を放つ。
矢は大きく開けられた喉の奥に命中! 鰐は波間に沈んでいった。
さて、船は無事に利家の領国へ到着し、使者の任をつつがなく終えた玉山は、
陸路帰還する際浜辺で大魚の肉を切り分けている所に出くわす。
話を聞けば矢が刺さっているという。あの大鰐であった。
確認してみると、喉には確かに自分の放った矢が突き刺さっている。
「俺を食おうとした天罰だ、思い知れ!」
と玉山は鰐の頭を踏んだ。その際エラが少し足に当たった。
その時は何もなかったが、帰還した後、足の痛みが増し、それによってついに落命した。
玉山の家では鰐を退治した矢の鏃を槍の穂とし、大蛇を斬った剣は蛇切りとして代々伝えたそうだ。
化物を倒した良い話というより、化物の為に周囲を否応なく巻き込む玉山のはた迷惑な話
261 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 19:17:49 ID:2/jB8DPt
>>259 >縄を牽くよう脅し
往来の人すごい迷惑w
262 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 21:10:03 ID:FKThJDro
>>255 ○○ネタうざいって言われるのは、その武将のアンチだからじゃなくて、
逸話として残ってるわけではない出来事に、自作のキャラ乗っけて勝手な話作るからだろう
>>180なんか完全に創作じゃん
263 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 21:23:50 ID:c6jX6V9e
>>262 同意だけど、そいつらに何を言っても無駄。自分が正義だと思ってるから。
264 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 21:45:54 ID:UfgZpsZ+
戦国時代みたいな合理主義が妄信を駆逐するような時代でも
こんな話が残るのは東北が草深い田舎だったからなのかそれとも・・・
265 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:09:38 ID:RY/CC7nx
>>264 中央部ですら可児さんみたいに尻をなでる妖怪にあった人もいるわけで。
266 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:13:39 ID:IApwpm+E
義光と普通に書けばいい物をわざわざ鮭様と書くのはちょっとウザい
そして他所のスレでもその呼称用いる奴はすごくウザい
267 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:15:11 ID:MUt707Cu
自然の猛威を神や妖怪に例えていたのかもね。
妖怪にとり憑かれた〜とかなら現代でいう精神疾患だろうけど。
268 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:15:32 ID:xIXXKR6x
>>263 話わかるわ!俺何度か顔文字止めて欲しいって書き込んだら
「いつもの鮭いらねの人でしょ」って決め付けられた
俺そんなこと書き込んでねーのに、自分=正義って思ってるからこうなるんだよねwww
269 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:21:16 ID:vsV1j8cr
ならラスボスとか言ってる奴にも文句言えよ
なんでそこだけ反応してるんだよw
いい加減しつこい
270 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:21:43 ID:iwyVNs4y
戦国ちょっと空気の悪いスレ
271 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:23:18 ID:RY/CC7nx
つーかID:c6jX6V9e ID:xIXXKR6x は典型的な自作自演だから。
272 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:25:04 ID:MUt707Cu
揉め事は合戦場でやりたまえ
ここは俗世の争い事を持ち込まない茶室なのさ…
273 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:32:28 ID:x6OMl0tN
奥州では中間人制度という独自の調停機構があって
合戦やもめごとがおこっても仲裁が入るのさ
274 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:37:30 ID:TXdefoR2
>>267 オッカムの剃刀とかの概念が無い時代だし、事象の解釈が雑多でも問題ないから
狐憑きとかの外的要因を想定するのはむしろ当然じゃないかね
当人たちが納得できればそれでいいんだよ
275 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:44:34 ID:xIXXKR6x
276 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:46:04 ID:ugWDABRN
正直最上好きんだけど、あきらかに同一人物の創作と既に出たネタを一部改変して連投する奴には殺意すら感じる。
半年ROMってくれ。最上ファンの恥だから。
277 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:55:14 ID:QoGSTHqT
鮭様が人気投票でぶっちぎりの一位だったからアンチがファビョッてる
とか言い出しそう
278 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:56:30 ID:HUqDg2QM
遠州掛川城3万石を領する北条出羽守氏重。
保科正直の四男であり、「地黄八幡」北条綱成の孫、氏勝の養子として北条家を継
いだ人物である。
氏重は常々一頭の黒駒を秘蔵しており、六十四歳という高齢にも係わらず、掛川に
帰ってくると、この黒駒に乗って鷹狩に出かけるのを楽しみとしていた。
しかし、歳には勝てなかったのか、ある時、鷹狩の途中で落馬。そのまま死去して
しまう。
主君の死を悲しんだ家臣達は、
「この黒駒こそが殿の仇! 普段からあれだけ眼をかけられておりながら不届きな
畜生め!」
と、掛川城内の広場に引き出し、四方から槍を持って取り囲み、滅多突きにして殺
してしまった。
この馬殺しの噂は瞬く間に世に広まり、「酷いコトをするものだ」と評判になった。
その後、北条家では跡継ぎが居なかった為、末期養子を願い出たのだが、それを許
されなかった。幕府が馬殺しの悪評を嫌ったせいだと言う。
死んだコトにこれだけ逆上されるんだから、家臣には慕われていたのかな。
慕われ過ぎて家を潰してしまった地黄八幡の末裔の悪い話。
……綱成のひ孫に当たるワケだから、江戸に入ってからの生まれだと思っていたら、
関ヶ原より前に生まれてる人だったのね。
279 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:56:43 ID:2/jB8DPt
誰が書いてたか忘れたけど、東北人って語ってるうちに話が大きくなって、
自分でその世界に入り込んじゃう傾向のある人が出易いとか何とか
極端な例として太宰治が挙がってたかな
長い冬を囲炉裏かこんで無駄話で越すわけだから、合理主義より
娯楽性が優先だったのかもねえ
280 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:57:04 ID:v0KNtd6q
解ってると思うけどこいつら触られると喜ぶだけだから一切スルーな。
281 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 22:58:49 ID:xIXXKR6x
282 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 23:12:06 ID:ugWDABRN
東北人とか最上オタでくくらないでくれ…しつこい創作野郎が馬鹿でカスでどうしようもないだけだ。
まとめブログにのっからない時点で空気嫁マジで…
283 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 23:17:01 ID:Ta6Dy8zG
284 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 23:23:27 ID:v0KNtd6q
細川京兆家内衆であり、讃岐の名門香西氏の家臣に、讃岐山田郡木太郷城主、
真部五郎と言う勇者がいた。
この真部、明応の政変から永正の錯乱における畿内の戦乱を、香西家の部将として
よく戦い、武功を表すこと数回、自ら敵を撃つことも多く、33人の首を獲った者のみが行える
首供養も行ない、討った者の数はその数知れず、という人であった。
さらに真部は、太刀筋の速さでその名を知られていた。
真部が太刀をチロリ(チョロリ)と動かしたかと思えば、既に斬り落としている、
というほどの腕前であった。
そのため世の人々、この真部五郎のことを『チロリ真部』と呼んだそうである。
いい話なんだけど、豪傑にしては妙に可愛らしいあだ名なのでこっちにw
285 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 23:28:29 ID:HS7Kvr01
チロリ真部も見慣れればかっこい・・・い・・・?
286 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 23:33:52 ID:F7YqJCYA
287 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 23:34:27 ID:EM0cKwtQ
変なあだ名でも由来がすごければそれなりに凄みがある様に感じられる
のか?
288 :
人間七七四年:2010/11/02(火) 23:41:40 ID:ugWDABRN
もう人気投票一位が最上も最後だろうなw
オタがここまでウザイと…_| ̄|○
289 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 00:18:32 ID:rDpPWsMn
コロリ(コレラ)みたいに滑稽な響きの中に残酷さがあって恐ろしいぞ…
290 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 01:03:03 ID:w/1bLKfQ
いつものように一人でID切り替えて荒らしていた感じか。いい加減こいつ死ねばいいのに。
291 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 02:41:43 ID:en+pKiE0
>>288 まあバカがいろいろやって一位にするんじゃないの。
今回だって、ほんとにあそこまで突出して人気あると思えないが。
292 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 06:09:14 ID:A+hoAhX9
初心者のチラ裏だがスマソ
このスレ面白いからまとめサイトとかもロムってたんだけど一言言わせてくれ
俺の地元に小さい城跡があって、子供の頃遠足とかでも言ったし、色々思い入れのある城跡なんだ
もちろん小さな城跡だし、何て事はないんだけど、みんな
あまり小田さんを悪く言わないでくれ〜
偶然だけど俺の名字も菅谷さんw
293 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 08:37:08 ID:N5k1hr1Q
>>292 こんなに愛されてる迷将いねーよ菅谷さん
294 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 08:37:19 ID:19tMjrcs
小田さんを悪く言う?
違うな、(ネタ的に)愛でているだけだ。
295 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 08:40:12 ID:nP9pUT1O
でも、時々「あのバカw」とか書いてる人いるよねw
296 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 08:48:07 ID:70BwJTJ7
400年も生かさず殺さずできたから
粘り強く意地が悪い東北の農民
297 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 08:48:38 ID:xQnLk3Xs
愛があるからいじっていいのw
とか思ってる奴はちょっと反省しろ
298 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 08:57:27 ID:WK50rOjU
>>296 いい加減しつこい
粘着質で意地が悪いのはむしろ、特定の地方の人間をいつまでも悪く言う奴のほうだと思う
器が小さいんだよ
299 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 08:58:16 ID:A+hoAhX9
何だか皆さんのレスを見てると愛されてるんだか、バカにされてるか微妙な感じですなw
だけど地元の人は、城跡にある、大きな立て札の城跡の説明文を読んで、何だか寂しい気持ちになるんだよね
小田氏は滅亡して城も廃城になった
って最後に書いてある
重ねてチラ裏でスマソ
300 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 12:34:16 ID:SQqR/NqN
大分県中津市本耶馬溪町に「羅漢寺」というお寺がある。
全国の羅漢寺の総本山で、なんでも645年にインドから来た法道仙人が開基したという。
つまりとんでもなく由緒のあるお寺なわけだが、戦国九州の寺社を恐怖に陥れた暴風はこの寺にも襲い掛かった。
「大友宗麟」である。
天正9年。宗麟の命で数百の軍勢が焼き討ちに押し寄せてきた。もはやこれまで、と思われた時、
突如、龍が出現。大友軍に襲い掛かった。
唖然とする大友軍に、龍の両眼からほとばしる怪光線!
大友の軍勢はバタバタと倒れ、逃走。こうして羅漢寺は守られたのであった。
現在でも、羅漢寺にはその時の龍の石像が置かれ、寺を守護し続けているという。
・・・・・・まあ、昭和になって麓の火事が飛び火して焼失してるんだけど。
http://www.yado.co.jp/kankou/ooita/yabakei/rakanji/rakanji.htm ちょっと前で東北のモンスターが話題になってたんで、九州版を。
プラス、大友のかっこ悪い話ということで。
301 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 12:47:14 ID:19tMjrcs
耶馬溪か〜…
今年行ったなあ、そんなお寺があったとは。
とりあえず道の駅が小さくてガッカリした記憶しかない…w
302 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 14:31:50 ID:nwaLBOb2
実際は大友軍に焼き払われちゃったんだよね
こういう負け惜しみ的な逸話も(逸話として残っているなら)嫌いじゃない
303 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 14:56:09 ID:ApeJkgSy
目から怪光線出すとかどこのメカゴジラだよwww
304 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 15:10:22 ID:rUc62TRu
デビルアイなら透視力
305 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 15:56:14 ID:alKk/7/L
宗麟は自由な男だな
306 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 18:41:45 ID:1zdyFUTe
「それ、オレの・・・」
小山評定の際に徳川軍に参戦する武将達が如何に誠意を示すかを話し合っていた。
山内一豊「戦働きで活躍を示すなんて皆言うよね。」
堀尾忠氏「オレだったら居城も民も皆徳川殿に差し出すくらいの誠意を見せるよ。」
山内「ほう・・・(ニヤリ)」
石田三成が兵を挙げたと聞くや
諸将が東軍西軍への去就に迷う中、一豊は真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言しその歓心を買った。
要領の良い人間とタイミングを逸した要領の悪い人間の話。
307 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 18:51:06 ID:1zdyFUTe
慶長6年、掛川から土佐に移封となり大幅な加増があった山内一豊。
余所から入部してきた大名はただでさえ人手も足りなくなるので
地元の元家臣を大量に雇用するのが常であったが、
一領具足を中心とした旧長宗我部氏の武士の多くは新領主に反発し
土佐国内で多くの紛争を起こした。
これに対し一豊は重要なポストを外部からの人材で固め、
家康の敵であった長曽我部元親の遺臣らを桂浜の角力大会に招待しておいて
捕縛し73名を磔にして殺すなど、あくまで武断措置を取ってこれに対応した。
この為一豊は常に領内で命を狙われる危険性があり、高知城の築城の際などには6人の影武者と共に現地を視察した。
上士・郷士のしがらみが後の明治維新の原動力になったとはいえ、長宗我部遺臣にとっては非常に性質の悪い話。
308 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 19:01:22 ID:6u8abJFa
>>306 しかし関ヶ原後の論考で言うなら
堀尾忠氏出雲24万石>>>>>>>>>>>>>(色々と越えられない壁)>>>
>>>>>>>>>>>>>>山内一豊土佐9万8000石(後に一豊自身の検地でも20万石)
なのだが。
309 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 19:05:14 ID:QYIbabVW
権現様「おや、土佐は50万石くらいはあると思っていた。悪いことしたのお」
310 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 19:12:20 ID:/yTZ2qap
>>307 最近では長宗我部の一族が、山内の家臣として普通に存在してることが確認されたり、山内家の旧長宗我部家臣差別政策は本当に存在したのか?
って疑問も提示されてたりするよね。
ぶっちゃけ、新領主に対して従わずに武力蜂起して潰される話なんて、豊臣政権期にはそれこそ日本中にあるし、武装蜂起した連中が処刑されただけ
だとするとそれほど特異なケースじゃなかったんじゃないかと思う。
311 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 19:12:30 ID:6u8abJFa
>>307 > これに対し一豊は重要なポストを外部からの人材で固め、
これも実際は、一豊は山内家中に長曽我部旧臣をかなり取り込んでるんだよね。
幕末の上士、郷士のしがらみはかなり別の話。
つーか幕末に上士に対抗した「土佐郷士」、とくに土佐勤王党の連中は長曽我部侍というより
新たに経済的に成功して郷士株を買った「新興武士」がその中心。
幕末、由緒正しい長曽我部以来の郷士は、実はほとんど上士についていた。
312 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 19:15:59 ID:nwaLBOb2
堀尾も山内もほぼ倍増だから結果は同じか
313 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 19:20:55 ID:1zdyFUTe
>>310>>311 トンクス
県外に居ると通説を鵜呑みにしてしまう。
家臣団の血筋とか貫高は無視して能力で査定していたのでしょうか?
バツの悪い俺の話。
314 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 19:24:48 ID:ngad/fgT
>>312 しかし堀尾さんの浜松12万石→出雲24万石は、畿内に近いことから言っても文句なく栄転だが、
山内さんの掛川5万1000石→土佐9万石(20万石)が栄転とは言いがたいんだよなー。
高知の人には申し訳ないけど当時の土佐って、僻地中の僻地の一つだし。
315 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 19:49:04 ID:1zdyFUTe
頭文字D 催促伝説
伊達政宗の長子秀宗が宇和島領を与えられると、政宗からは秀宗に藩惣奉行(筆頭重臣)として山家公頼が付けられた。
公頼は初期藩政の構築のみならず、仙台藩(伊達宗家)や江戸幕府との関係調節に苦慮し、
仙台の政宗に宇和島藩10万石のうち3万石を隠居料として割くことで宗家からの借財返済を繰り延べたり、
幕府の大坂城修復事業に参加したりした。
だが、こうした行為が秀宗や秀宗派重臣の桜田元親ら他の重臣らとの対立を招く。
秀宗「公頼、お前は宇和島藩の人間だよな?」
公頼「はい。私は宇和島藩の人間であると共に、伊達の人間である事を誇りに感じております。
借りたものを返す、やる事をやるのが正しい人間の在り方と思います。」
秀宗「・・・わかった、もういい・・・」
元和6年6月29日、秀宗の命を受けた家臣達が山家邸を襲撃、翌未明に公頼は家族共々討ち取られた。
これを知った政宗が秀宗を幕府に訴えた。
( ●Д゚)「もう、大切な家臣貸し出してるのに勝手に殺すなんて息子でもなんでもない。
生きた公頼を返せ。それが出来ないなら宇和島なんていらないから幕府に返しちゃう。」
言われた幕府も訴えられた秀宗も迷惑である。
その後幕府の取り成しもあり、政宗と秀宗の仲は改善された様ではあるが
殺された公頼と仲介を押し付けられた幕府にとっては迷惑な話。
316 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 19:50:13 ID:v0z4I7VC
当時で栄転というと、近畿、東海道、北九州あたりですか
317 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 19:54:09 ID:nP9pUT1O
>>306 >>307 こんな有名な逸話がまだ出てなかったのか・・・
大河ドラマにすらなったのに、どんだけ戦国板の連中には人気ないんだ、一豊w
318 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 20:05:27 ID:EPHfTlkX
>>314 土佐の長曾我部が四国統一をしたのは、讃岐、阿波、伊予からしてみたら、土佐に侵攻するだけの価値が無かったから
という話もあるね。他の三国を押さえたとしても、それからは土佐以外の方向に進出した方が利益になるから
319 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 20:07:54 ID:QYIbabVW
三好長慶「やっぱり畿内だよねー」
320 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 21:04:22 ID:PV1r30AC
>>417 逆だよ逆、有名すぎてドヤ顔で書き込んだと思われるから
有名すぐる逸話はみんな書き込まないんだよ
321 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 21:10:25 ID:v0z4I7VC
ちょっと未来な話
322 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 21:20:48 ID:WRqTlkMH
>>231 羽柴姓の武将って秀吉たち以外にもいたんだなー
秀吉が羽柴を名乗ったのは、有名な丹羽と柴田から貰った逸話じゃなく
なにか羽柴姓を名乗る由縁があったのかも
323 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 21:30:59 ID:nP9pUT1O
ちょっと調べたら山形には羽柴って苗字結構あるみたいだね。
羽柴クリニック 羽柴興業 羽柴青果 (株)羽柴・・・
羽柴っていう地名由来の苗字なのかな?
324 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 21:35:59 ID:JXLWIusU
>>315 山家公頼を祀った和霊神社の信仰の広まりっぷりは結構すごいと思う。
坂本龍馬の家の氏神だったって話はわりと有名だよね
325 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 21:39:17 ID:QUWnpHMu
>>231の人物は橋間勘十郎
奥羽永慶軍記かなんかが間違えて書いたんじゃなかったかな?
326 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 22:02:50 ID:/yTZ2qap
>>320 有名な話だと、逸話の逸話みたいなのが他の人から付いてきたりするから、書き込むのは悪いことじゃないと思うけどね
327 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 22:58:53 ID:QYIbabVW
>>325 まとめスレのコメントだと
「大江尭元の弟で柴橋館主の橋間(羽柴)勘十郎。
ーと書かれる事もある。」
羽前柴橋→羽柴なのか
柴橋→橋間なのか
328 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 23:22:53 ID:ajTD3bPb
地名からの名字なら、柴橋なのかとも思うけど、なんともかんともだな
軍記物は名前をいじくったりするし
329 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 23:24:41 ID:QUWnpHMu
羽前は明治になって分割されたんだけど…
330 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 23:35:29 ID:QYIbabVW
じゃあ出羽柴橋→羽柴ってことで
331 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 23:55:01 ID:C77rw0lY
>>315 まともなことをやっていても殺される
ほんと武家社会は地獄だね
332 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 00:37:36 ID:cjWHRwfn
ある日突然、戦うのが嫌になりました
333 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 00:42:50 ID:xt8BJeFd
>>332 江戸時代の成立って、非常にそれに近いと思う。
334 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 00:50:06 ID:KFkB/Pak
>>327 江戸時代の書き物見ると
寒河江に「羽柴(=橋間)」「橋場」「端場(はしば)」といった地名が見える。
「高基」も「尭元」と書かれてるから、単に読みに漢字を当てただけだと思う。
335 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 00:51:06 ID:CRjOOLvA
336 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 01:37:53 ID:xPjEUdgK
天正十年、本能寺の変を受けて滝川一益と北条氏直の間で行われた神流川合戦。
周辺一帯にも被害は及び、現在の埼玉県上里町にあった実弘寺という寺院も本堂以
下、殆ど全てが火災により焼失してしまった。
その後、実弘寺は江戸初期の元和年間に奥喜兵衛尉安盛という人物によって再興さ
れ、喜兵衛尉の名前を取って安盛寺と改称された。
宝暦年間にも再び火災に遭い、焼失&再興を繰り返すコトになるのだが、不思議な
コトに境内にあるカヤの巨木のみはいつの時代も焼け残っていたと言う。
このカヤの巨木、根元に大きな洞があり、中には石作りの祠が祀られている。
洞の中には白蛇が住み着いており、祠はそれを祀った物だと伝えられる。
近隣の住人は何か願い事があると、このカヤの木に鶏卵を供え、白蛇に祈ったのだ
と言う。
安盛寺の案内板にはカヤの木は現存しているようなニュアンスで紹介されていまし
たが、境内をザッと歩いてみても、そんな木は見つけられませんでした。
見落としているのか、伝説のみで現存はしていないのか、詳細は不明です。
つか、村人が祈る対象って白蛇かい。本尊の立場ってドコ?www
本尊を差し置いて、実質信仰を乗っ取ってしまった白蛇さん。というコトで、どっ
ちかと言うと悪い話か?
337 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 01:42:19 ID:KFkB/Pak
>>332 羽柴勘十郎調べてたら
一休さん繋がりのあの人の子孫が出てきた・・・
なんか縁を感じる。
蜷川親世(?〜1568)
別名親俊とも。蜷川親世も十三代将軍足利義輝に仕え、丹波国船井郡蟠根寺城に拠ったが、
1565年義輝が松永久秀に討ち取られ、親世は所領を失い、落衣(元・寒河江)の高松左門を頼って出羽に落ち延びた。
親俊は金谷原(寒河江)で数年暮らしたが1568年失意のうちに亡くなり、金谷原の土佐林に葬られた。
その墓は「土佐壇」と呼ばれた。子の親長は土佐の長宗我部元親、後に徳川家康に仕え、子孫は旗本となった。
338 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 01:48:01 ID:KFkB/Pak
なんか東北って戦国期になっても
千葉とか斯波とか大江とか葛西とか細川とか旧体制の旧家多いよな・・・
339 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 01:59:35 ID:WLkN2Wu6
別に東北に限らず、地方では多いよ
340 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 02:04:57 ID:kVxZ+qmY
341 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 02:27:31 ID:KFkB/Pak
>>340 蜷川家は代々足利家に仕え、政所付云々とあった。世襲らしい。
342 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 02:28:28 ID:KFkB/Pak
足利と京とも縁の切れた悪い話。
343 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 14:16:17 ID:/+vd38xE
>>337 出羽だの土佐だの、とんでもない僻地にばっかり行っているなぁ
344 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 19:42:24 ID:Vfl2yWtp
345 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 20:41:14 ID:IWnC0ENi
出羽とか四国なら
海路や修験道が昔から開けてたから
典型的な「近くて遠い国」でしょ
346 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 20:51:22 ID:CRjOOLvA
出羽は海運の関係である意味京から近い国だけど
土佐は当時日本有数の辺境だぞ
347 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 20:55:18 ID:SqconMNf
辺境だけに偏狭な人間が多いってな
348 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 21:00:35 ID:EbgRmsIg
>>347 よく言った、君に返り血まみれな興奮状態の鬼武蔵の前に立つ権利をやる(AA略
349 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 22:35:13 ID:SqconMNf
兄弟が最も強大な敵…ナンチテ
350 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 22:53:31 ID:A3kQGKE+
>>349 あなたを宇喜多直家と行く豪華晩餐会へ招待しましょう
351 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 23:59:06 ID:WBE0nt0G
宇喜多忠家「当晩餐会は服装規定がございまして鎖帷子着用が義務付けられております」
352 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 00:01:24 ID:eEbd9G1X
353 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 00:26:41 ID:sr0EymY7
注文の多い宇喜多家
354 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 00:35:10 ID:xGiJ4dGB
伊達家主催
毒の膾食べ放題
宇喜多家
毒の茶会開催中
最上家
高血圧注意塩鮭の品評会
355 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 00:35:34 ID:CPQMtm7m
鮭ネタイラネ
356 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 00:38:08 ID:xGiJ4dGB
357 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 00:38:57 ID:DUyTMZ3L
まずそこで服を脱いでください
次にお風呂にお入りください
次は…殿、それはなりませぬ
358 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 00:42:11 ID:xGiJ4dGB
>>357 一条「次は何をすれば良いのでおじゃる?」
家来「帰りましょう」
359 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 00:44:43 ID:xGiJ4dGB
天庵様が現れた!
どうする?
・勝つ
・勝つ
・勝つ
・見逃す
360 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 00:47:05 ID:MteqO1dW
361 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 00:49:25 ID:eEbd9G1X
>>359 最初に菅谷を殺る
天庵はいつでも始末出来るし
362 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 01:16:20 ID:xGiJ4dGB
家康のガマンのレベルは?
家康は関ヶ原の戦いが終わった後、若い家臣の小荷駄隊が野陣を設営する資材道具を片付けるのを見て、
「いまどきの若い者はかしからん。この程度の合戦に野陣の資材道具を積んでくるとはもっての外。
老練な者ならこんなことなどしない」と激怒した。
するとまた野陣の資材道具を積んだ小荷駄が現れた。
これを見て家康は再度激怒するが、渡辺忠左衛門の小荷駄と聞いて言葉を詰まらせた。
家康が「老練な者」と良く周囲に引き合いに出したのがこの渡辺忠左衛門。
怒りに震える家康に、まわりの家臣たちはクスクス笑った。
363 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 01:17:29 ID:sRvqs+Oc
364 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 01:18:57 ID:xGiJ4dGB
天庵「生きるほうが戦いだ!」
365 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 01:19:32 ID:nbTfxTl5
366 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 01:19:40 ID:xGiJ4dGB
367 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 01:24:52 ID:xGiJ4dGB
トトカルチョ
第一戦
大友義統(オッズx2、2)
vs
黒田官兵衛(オッズx1、2)
第二戦
天庵様(オッズx3、1)
vs
ぬこ(オッズx1、1)
*天庵様に菅谷さんは付きません
368 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 01:29:59 ID:8qA6XDCZ
>>367 君は書き込むスレを間違っていると思う。
ここは雑談スレじゃないんだぞ。
369 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 01:36:42 ID:3ovTydvr
織田信長が美濃攻略を進めていた頃のコト。
信長に降伏する美濃の国人衆が次第に増え始めたとは言え、斉藤龍興の本拠、稲葉
山城は堅固で、依然として降伏の気配はない。
そこで信長は、近江の佐々木氏(六角氏)と同盟を結び、龍興の腹背を脅かすとい
う策を取った。
当時の佐々木氏当主は修理太夫義秀。しかし若年の義秀は佐々木一門で、後見人で
もある箕作義賢(六角承禎)に全ての国政を任せきりにしていた。
その為、信長は交渉相手を義賢に絞り、佐々木氏と織田氏の同盟を取りまとめるコ
トに成功した。
しかし、その際の条件として、
「佐々木氏の被官である浅井長政に信長の妹を嫁がせる」
「信長の弟である喜六郎秀孝、半左衛門秀成の二人を人質として佐々木氏に送る」
という、殆ど佐々木氏への降伏にも近い、屈辱的な条件を呑まされている。
やがて斉藤龍興の逃亡を受け、美濃全土を平定した信長の元に、足利義昭が転がり
込んでくると、この織田家に取って屈辱的だった同盟関係に変化が現れる。
義昭を擁しての上洛に協力を呼びかけると、佐々木家は真っ二つに分裂してしまう
のである。
当主義秀や彼を支持する進藤氏、後藤氏らは信長の呼びかけに応じたのだが、箕作
義賢らはそれに抵抗。信長の義弟である浅井長政も呼びかけを無視した。
信長が南近江に進軍すると、義秀派の蒲生将監が、保護していた信長の二人の弟を
連れ、信長の元に降伏。
それをきっかけに中立派の武将達も雪崩を打って信長の元に参じた為、箕作義賢は
城を捨て落ち延びたと言う。
『明智軍記』に記録された信長の南近江攻略戦。
六角承禎が六角家の当主じゃなかったり、浅井長政が六角家の被官だったり。
六角義秀の存在は『明智軍記』の他、『江源武鑑』等にしか記されておらず、これ
らは全て信憑性の低い記録である為、通常は存在しない架空の人物とされているそ
うです。
370 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 01:47:33 ID:j+mARxTx
>>369 尾張57万石の時点で、六角にそこまで媚びるかよ。
371 :
369:2010/11/05(金) 01:59:00 ID:3ovTydvr
>>370 浅井が六角の被官ってコトだから、六角も「南近江半国」ではなく
「近江一国」を領していたという設定ではあるんだケドね。
でも、卑屈すぎるよね。
まぁ、「信憑性が低い記録」って言うのが前提だから、「おいおい、
そりゃねーよ!www」って笑って突っ込みを入れてくれると嬉し
い。
372 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 02:02:15 ID:sRvqs+Oc
明智軍記は元禄時代の作品だからねえw
100年前の出来事を書いた、まあ歴史小説ですわな。
373 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 02:17:04 ID:/G7D1nrl
つまり光秀が砲術の名人では無い可能性が高いという訳ですかね。
374 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 07:40:53 ID:3Eg0lrk0
蒲生しょうげん(阿呆携帯なので変換できない)って安藤守就の弟とは違う人?
375 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 07:45:56 ID:kI8mVHfJ
信長に降伏した六角家臣って言うんだから別人なんだろけど、誰だろ
376 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 09:05:31 ID:KZR27zED
工場長のお父さん?
377 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 09:23:52 ID:8stCbz8Z
蒲生賢秀さんは将監じゃないしなあ。
378 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 09:25:46 ID:KUlFc55S
信長は頭下げるときは、焼き土下座も辞さない位の勢いだからなぁ・・・
でも、掌返すのも凄く早いけどw
379 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 09:25:55 ID:kI8mVHfJ
明智軍記が間違えてるってことでいいのかな
380 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 11:03:34 ID:cIco2awT
381 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 13:08:53 ID:VVy/2V3J
>>359 ・挨拶を交わす(グリーティング!)
382 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 18:39:31 ID:6l9zrulG
仙谷ちょっと悪い話
383 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 21:41:29 ID:DL81c4Z+
縁起を担ぐ
志村光安は最上家の家臣である。
光安は上杉合戦では長谷堂を守備し、城山が甲羅に籠った亀の様にも見える事から長谷堂城を「亀ヶ城」と呼んだ。
縁起を担いだとする一方、上杉に攻められなかなか反撃に移れない事から「堅固」な城というより「手も足も出ない」状況を自笑したのかも知れない。
後に上杉軍の志田義秀が籠もる庄内の東禅寺城(酒田城)攻撃にも加わり、これを落とし、
酒田に巨大亀が上陸し、亀の献上を主君・最上義光に報告したところこれを「吉兆」として
「東禅寺城」が「亀ヶ崎城」、「大宝寺城」が「鶴ヶ岡城」と改められた。
長谷堂合戦図屏風の志村の旗印は「鹿角」。これは「深い山合いにも武名・名声が鳴り響く様に」との思いで付けられたらしい。
(´・ω・`)「でも名前は苦労(九郎)なのよね」
光安「・・・果たして誰のせいですかね・・・」
384 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 22:33:06 ID:Zxl8h/Dm
スレごとにNGワードを指定できる2chブラウザってないかな
このスレじゃ(´・ω・`)って文字列つかうとあぼーんだけど他のスレじゃ普通に見える、みたいなの
385 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 22:34:43 ID:t/OAVBjP
最上ネタの逸話でもないのをこじつけて逸話にするの、しばらく自粛して欲しい…
最後の2行もきもいし
386 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 22:35:08 ID:4WSgSWE2
少なくともここで聞く事ではないのは確か
387 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 22:38:39 ID:Y5Cu4uzt
>>385の言うとおりだな
ここは逸話スレであって創作ネタスレじゃないことを解ってほしい
でもちゃんとした逸話にも鮭ネタイラネって言うのもどうかと思う
388 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 22:40:30 ID:MuwInukK
創作なのか知らない逸話なのか、区別が
389 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 22:41:03 ID:ZIofhnqg
定番の荒らしなので言っても無駄
390 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 22:41:10 ID:sRvqs+Oc
391 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 22:44:33 ID:KUlFc55S
>>384 NGExってのは、指定スレだけにNGワードの指定ができるはずだが・・・
392 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 22:45:32 ID:t/OAVBjP
いやさ。
>>385とかフツーに書けばいいんだよ。
下手に受け狙って、キモイ最上義光のキャラ作って、かわいいでしょ、俺の考えた義光タンかわいいでしょw
って書き手がドヤ顔になっているのが透けて見えてなんかイラっとくるんだよ。
最後の2行とか蛇足以外の何者でもない。
393 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 22:45:33 ID:8qA6XDCZ
最後の2行で台無しだな。
そうなるの分かっていてやめられないのかな?
394 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 22:56:56 ID:vLYj0thr
なんでああいうキャラ付けになっちゃったんだろうな。政宗をまーくんとか言うやつもきめぇ
395 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 22:58:48 ID:n1t1XOLF
火種を持ち込むやつもそれを火事にするやつも両方悪いだろ
396 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 23:01:17 ID:1p5UxLEL
腐女子は女にだけ用いられる呼称が男にも同族がいないわけではない
397 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 23:02:50 ID:MuwInukK
勝手に火を熾してるんだろう。
火種といわれているものを持ち込まないってことは
荒らしの思い通りにするってことではないか。
398 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 23:04:41 ID:AAlqGpuG
鮭様は鮭が好物だったって逸話が元ネタだけど
まーくんとか頭おかしいだろ・・・
399 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 23:09:17 ID:4WSgSWE2
ここは文句を言うスレではなく逸話を投稿するスレですよ〜?
投稿されたものに文句を言うなんてナンセンス
2chなんだから下卑たものだってあるさ
嫌なら自分で逸話投稿して流れを作るんだ
逸話の投稿は歓迎だぜ
400 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 23:09:54 ID:3ovTydvr
最上ネタは「鮭ネタイラネ」まで含めて一つのネタだろ。
様式美ってヤツだよ。
401 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 23:10:56 ID:t/OAVBjP
まあそうなんだけどさ…あきらかにあの2行をつけている奴とかは、
鮭にジャム塗りたくって出してくるようなもんだろ?
そんなもんを出されたら、いくらなんでもちょっとむっとこないか?
義光ごと嫌いになるわw
402 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 23:12:43 ID:4WSgSWE2
>>401 ムッと来るのはスレの問題ではなくお前自身の問題だ
403 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 23:13:12 ID:KZR27zED
お前ら橋のたもとで駄弁ってんじゃねえよ ちゃんと橋守りの仕事しろ
404 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 23:13:21 ID:pb3u6Ke8
>>383 鶴岡市の名前はこの時の城名変更が基のようだな。
大宝寺は義勝が上杉で存命してるし、
一度庄内を取った後上杉に取り返されてるのは既出の通りだから、
大宝寺の名前が残る城名を変えるのが主眼だったかも。
405 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 23:13:49 ID:1p5UxLEL
ムッどころじゃねえもんな
死ねばいいのになw最上の顔文字野郎
406 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 23:14:24 ID:kI8mVHfJ
最上厨もアンチ厨もしたり顔の自治厨もうぜぇ
407 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 23:14:24 ID:4hSOpbhz
>>398 まぁ星野曰く仙台の本家まーくんもそろそろまーくん卒業らしいから
ここのDQ眼竜さんのまーくん呼びも下火になってくるんじゃないかね
それと「(´・ω・`)」「帰りますよ」を定番オチネタにしようと頑張っている方には
いい話スレの144の政宗遺訓を捧げよう
408 :
369:2010/11/05(金) 23:16:09 ID:3ovTydvr
>>374-377 「日野谷の蒲生将監」となっているので、工場長のお父さんだと考えて
良いようです。
官命が違っているのは、まぁご愛嬌ってコトで。
409 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 00:07:38 ID:rPU2JWxI
>>405 人のことを死ねばいいとか言う人間はまず自分が同じ目に遭え。
話はそれからだ。
410 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 00:32:59 ID:B4FcR7EC
最上厨が死ねば丸く収まるで
411 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 00:35:09 ID:fnAiAAoh
某大名「皆鮭は食べ秋田ようじゃの。三河名物焼き味噌を用意させたゆえ、遠慮のう召されよ。
さあ。さあ。」
412 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 00:46:16 ID:V6VLCovx
病気見舞いに鮭送りましたよ(^ω^)
413 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 00:50:31 ID:AWA8RrQz
414 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 00:52:56 ID:AWA8RrQz
ちょっと調整しますね
415 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 00:53:58 ID:6Dfm35oK
大永年間(1521〜28)のこと。
信州は上田、塩田平というところに「鶏岩」という、雄鶏と雌鶏二組の、
鶏に似た岩があった。
その西にそびえる山には吉沢城という城があり、吉沢民部之介光義という人が城主をしていた。
時に武田信玄により信州侵攻が起こる。
吉沢城も武田軍の標的とされた。
吉沢城はもとより小城であり、剽悍な武田軍を防ぐすべもなく、瞬く間に落城寸前となった。
その時である
『 コ ケ コ ッ コ ーーーーーーーー!!!!!』
雷鳴のように大きな声の、鶏の鳴き声が轟いた!
その声は雄鶏岩より発せられていた。
この突然の、巨大な鶏の声に武田軍は大いに驚き恐れ、慌てて退却。
城は落城をまぬがれた。
…と、まあここまでは怪異譚ながらいい話ですが、城主、吉沢光義はこの後
信玄の派遣した山本勘助の説得され、
「うん、やっぱり武田軍にはかなわないよね」
とあっさりと降伏、吉沢城を開城したそうである。
とまあ、いい話なんだか悪い話なんだか結局岩が鳴いたのはなんだったのか、等々
色々と謎を残す、信州上田に伝わるお話。
416 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 00:54:06 ID:AWA8RrQz
人権擁護法案通ったら2ちゃんも規制か
417 :
417:2010/11/06(土) 00:54:59 ID:AWA8RrQz
418 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 01:01:01 ID:AWA8RrQz
鮭にジャム塗ってみた。
意外と食べられた・・・
ついでにバター塗ってみた。
なんか涙が出てきた・・・
419 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 01:03:15 ID:fnAiAAoh
なにやら氏真公の後姿が見えたような・・・気のせいか
420 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 01:08:23 ID:AWA8RrQz
今気付いたんだが
IDが
AWA・・・「阿波」
8・・・「蜂」須賀
あと
>>419 fnAiAAoh
「愛」の文字が
421 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 01:12:50 ID:B4FcR7EC
変な流れになっちゃったな
>>415みたいに書いてる人のレスがくだらない流れに埋まっていくことだけは避けたいものですね
422 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 01:26:14 ID:AWA8RrQz
じゃあジャムの口直しに
猪苗代家の家督相続の悪い話
陸奥猪苗代氏は蘆名氏の重臣であったが、自立傾向が強く度々反乱を起こしていた。
猪苗代盛国も最初は蘆名盛氏の家臣として仕える。
1585年、嫡男の猪苗代盛胤に家督を譲って隠居したが、
1588年、後妻の息子である宗国を溺愛し、後妻の讒言に乗って盛胤を廃嫡しようと画策した。
盛胤に譲ったはずの猪苗代城ごと伊達軍に寝返り、その軍勢を招き入れ、摺上原の戦いでの蘆名氏惨敗の原因を作った。
その際、後妻の息子を伊達方に人質として差し出している。
この功績により伊達氏の準一門に列せられ、5000石を食む栄光を手に入れたのである。
結局猪苗代氏の家督は次男の宗国が継いだ。
本来嫡子であった猪苗代盛胤は葦名義広と常陸へ逃れたが
やがて猪苗代に戻り庵を作って隠棲したと伝わる。
423 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 01:51:38 ID:AWA8RrQz
攻めるも守るも伊勢侍
鳥屋尾満栄さんのカテゴリーが単独でないようなので一筆。
織田信長の伊勢侵攻で北畠具教の立て籠もる大河内城が包囲された。
立て籠もるのは筆頭家老鳥屋尾満栄他伊勢の豪族衆。
これを包囲するのは羽柴秀吉によって津・関から集められた柘植・神戸などの伊勢衆であった。
満栄の機転で大河内城には事前に兵糧が蓄えられていたが
兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が信長に寝返るなどの悪条件も重なり、圧倒的兵力による包囲で城は落ち、北畠家は信長の次男・織田信雄が養子として入り、満栄も信雄に付けられた。
後に具教は信雄に謀殺されたが満栄は北畠遺児を山名家に匿い、
後に御家再興を果たしている。
424 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 07:54:26 ID:OokD/8Qd
信長の伊勢侵攻って小説等では大概さらっと流されちゃうよねw
どうしてなんだ?
425 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 07:57:30 ID:CPNOf8DG
>>422 長男悲惨だな…
殺されなかっただけましだろうか
426 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 09:09:18 ID:JXdQMnCt
>>424 盛り上がりにかけるからじゃね?
瞬殺されてるだけだし
六角承禎戦もさらっと流すよね
427 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 09:54:57 ID:C7OpFNAB
政治的な根回しが上手いからどんどん切り崩しちゃうんだよね
428 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 10:03:32 ID:4Yj7Rl2q
北畠って国司が戦国大名やってるレアな例なのにあっさり滅亡は
なんかもったいない
北畠信雄、神戸信孝も伊勢調略の産物だよな
429 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 10:10:03 ID:6Dfm35oK
>>426 瞬殺って事より、北畠も神戸も信長は、最終的に騙し討と言っていいえげつない方法で
処理してるからねえ。
信長主人公にするなら見てて気分の良いものではないから、そのへんあえてスルーするんだろうな。
430 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 10:17:53 ID:0dUyMYLw
どの小説も大きく扱うポイントが大体一緒だよねぇ
三国志もそうだけど同じ視点の小説ばっかってつまんない……ってスレ違いか
431 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 10:32:56 ID:A50hw+HU
432 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 12:07:50 ID:V6VLCovx
以前にテレビで今でも地元は信長怨み節だということをやっていたような>伊勢侵攻
433 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 14:04:33 ID:3PXFphwh
>>415 こういうフラグ投げっぱなしにする話は
いかにも民話っぽくて好きだぜ
434 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 22:25:42 ID:6RZjQHDj
>>415 嫡男 VS 弟&父
この構造ってほんと多いねー
伊達と蘆名に別れて御家の生き残りを賭けたのかな。
435 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 22:27:22 ID:6RZjQHDj
436 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 22:35:28 ID:jCznDZLf
>>415 てっきり吉沢さんが最後の手段で鶏を真似てコケコッコーと絶叫したのかと思った
437 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 22:37:25 ID:kCzuxUdj
>>434 家中が揉めるテンプレですから^^
江戸時代に入ってからでも大して変わってない気がする〜
438 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 22:48:24 ID:V6VLCovx
>>434 大陸じゃそれがあるから父親が若い女こさえて子供ができたときは、
古女房とその息子が、父・女・子供を先んじて殺しとくもんだ。
とか書かれていた本があったな。
439 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 22:56:16 ID:XNFL6uOv
柴田源左衛門勝定、勝家に追放される。その理由とは?
天正七年のある日、近江坂本の明智長閑斎、その子十郎左衛門光近のもとに
柴田源左衛門と名乗る者が一族郎党百余騎随え訪ねて来た。
自分は故あって主君勝家に改易されましたので、明智家に仕官したいと願い出る。
この源左衛門、明智左馬助の妹を娶り、十郎左衛門もまた左馬助の妹を妻として
いた縁により越前より頼ってきたそうな。
十郎左衛門の父、長閑斎は明智光秀の伯父であったので、源左衛門の願いを聞き
光秀と引き合わすこととした。
さて光秀、源左衛門と対面して尋ねられる。
汝の先君柴田殿は北陸を平定してこれを良く治め、威勢盛んであると聞くが、其方
いったい何をして越前を立退くこととなったのか。
源左衛門勝定これに答えて申すには、勝家様は領内を統治するにあたって家臣の所替を
決められました。その中にそれがしも含まれており越中木船の城へ遣わされることと
なりました。けれども実はそれがし寒いのが苦手でございまして、元居た越前安居
でさえ難儀していたところ、今度は越中と聞き、これより寒い所に行くのは困ると
訴えたのですが、勝家様は既に決めたことであるのに命令に背くのかと甚だ立腹され、
たとえ一族の者であっても聞き届けるわけにはいかないと、それがしに暇を言い渡され
たので越前を立退き参ったのです。と。
光秀はこれを聞いて、それならば当家で召抱えようと、彼を丹波の国柏原の城に
入れ置かれました。
以上、寒がり柴田源左衛門のお話でした。上の方で明智軍記のことが出ていたので
便乗仕り候。想像力を働かせれば勝家なりの気遣いと思えなくもないが、こっちに
投稿します。なお、寒がりと書いたけど、原文では寒気を痛むる持病候てとあるので
もしかしたら病気か何かかもしれない。
余談であるが、この源左衛門、本能寺の変後も光秀に属し山崎合戦に従軍。光秀が
滅ぼされてからは堀秀政に仕え越前へ、久太郎没後は子の秀治に仕え越後へとどんどん
寒いところにいってるわけだが寒気痛むる持病とやらは治ったのだろうか・・・?
440 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 23:04:27 ID:F7kNdUSJ
この主君に仕えていては危ないと言う悪寒がしたと言うことかw
441 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 23:09:32 ID:OokD/8Qd
当時の暖房や衣服の貧弱さって洒落にならないからなw
さらに雪を掻き分けて戦場に出ることを思うととんでもない寒さだろうよw
442 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 23:15:01 ID:RaOCGfo+
解説が静かだけどトイレ大丈夫か?
443 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 23:17:51 ID:lACxLaiV
誤爆か?
444 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 23:20:46 ID:F8HkL/TZ
ちょっと面倒な骨折したことがあるんだけど、寒い日には
本気で涙目になるほど痛むからなあ・・・
445 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 23:31:16 ID:OIfE65EY
漢よといわれた傷が秋を知る という川柳を思い出した。
446 :
人間七七四年:2010/11/07(日) 10:42:42 ID:9XwkQx06
>>425 摺上原の戦傷が元で亡くなったとも殿やって最期に突撃して討ち死にしたとも云う異説も有ります
447 :
人間七七四年:2010/11/07(日) 19:30:23 ID:EpOZWkRo
戦国の略奪婚いわゆるえくぼ姫争奪戦
有名な話だけど、載ってないので投下。
陸奥の岩城重隆に久保姫という奥州一の美少女がいた。史書では「久保姫」だが、『奥羽永慶軍記』は「笑窪御前」と記されていて、
「みどりごの頃から色白で美しく、靨(えくぼ)があったので、笑窪御前とよんでいた」とまで大絶賛(尤もこれは江戸時代の書物だが)。
そのえくぼ姫だが、父重隆の政略で白河の結城晴綱に嫁ぐことになった。
しかし、その直後伊達稙宗から「岩城の久保姫を、わが息子晴宗の嫁に貰い受けたい」という申し入れがあったが、重隆は「結城との約束があるから」と拒否した。
これに激怒したのが稙宗の息子晴宗。予てよりえくぼ姫の美貌を知って惚れ込んでいた彼はその後何としても手に入れようと企んだ。
そして輿入れの日。白河に行くえくぼ姫の一列が岩城と白河の中間地点滑井に差し掛かったその時、
突然行列の前に山賊が現れた。しかし山賊にしては身なりがいい。そしてその先頭には…
晴宗「はっはっはー!久保姫は俺が貰い受ける!」
なんとこの伊達の御曹司、自ら「軍勢」を牽き連れ花嫁行列を襲撃したのだ。
護衛の兵は蹴散らかされ、えくぼ姫の輿もつき従っていた侍女達もろとも拿捕。輿は向きを変えて伊達領へ向かった。
これに驚いたのが花嫁を待ってた白河の結城家。急変を聞いてあわてて軍勢を整えたが、嫁取りかと思いきや、花嫁を強奪されたというので、
酒宴の準備を急遽、合戦の仕度に切り替え、慌てて馬に鞍も置かずに駆け出したり、具足を半分つけただけで走り出す者もいたらしい。
晴綱「追いつけー!何としても久保姫を取り返せー!」
その結城方の猛追で、えくぼ姫の輿を運ぶ伊達勢に追いついたが、
なにせ十里ばかりの山坂道を疾駆してきたために、迎え撃つ伊達勢の前に敗退してしまった。
晴宗「思い知ったか晴綱め!はっはっは…」
その後強引に正室にした晴宗。当然岩城家はカンカンになるが、相手は急成長中の伊達家さらにはアンチ伊達の相馬家が親伊達の時代。
結局、「最初に生まれた男の子を岩城の跡継ぎに」ということで終結となった。
こんな経緯で正室にされたのだからさぞかし仲が悪い…と思ったら案外仲が良く、岳父の重隆とも仲直りして天文の乱の際には援助を受けている。
晴宗は記録上側室がいない珍しいタイプであり、尚且つ子供の数が六男五女。よほどえくぼ姫を気に入っていたのだろう。
(因みに最初の子岩城親隆が生まれた時、晴宗は十九歳であった。)
一方、「元」婚約者の結城晴綱は佐竹・那須と連戦。次第に勢力を失い、挙句に失明する。
晩年は家臣の小峰義親に実権を奪われてしまった。
えくぼ姫は晴宗の死後出家し栽松院と名乗り宝積寺を建立し夫を供養した。
文禄三年(1594)六月九日、孫の政宗を頼って白石で没した。遺言によって宝積寺に葬られた。
その宝積寺の御利益が「待ち人きたる」「子宝に恵まれる」というのがなんとも…www
448 :
人間七七四年:2010/11/07(日) 19:43:12 ID:OWdkGusy
ホント伊達さんちは代々ぶっ飛んでるなあw
449 :
人間七七四年:2010/11/07(日) 19:47:56 ID:613oJlxN
>>447 いや、この話既出じゃなかったか?このスレで見た覚えが有る様な・・・
450 :
人間七七四年:2010/11/07(日) 19:56:30 ID:CQaztpDU
451 :
人間七七四年:2010/11/07(日) 20:02:50 ID:qvUwjqt+
>>447 当時の結婚は、親が決めるんで相手が自分のこと、どう思ってるかわからないし、既に愛人が
いるかもしれない。そんな相手よりだな。
「俺はお前に惚れてるんだ。俺の嫁になれや!」という晴宗を見たえくぼ姫、その場で惚れちゃった
んじゃないの?その上、側室なしのオンリーワン状態だから、当時の女としては最高の勝ち組かも
452 :
人間七七四年:2010/11/07(日) 20:04:06 ID:613oJlxN
453 :
人間七七四年:2010/11/07(日) 20:06:44 ID:RPwpiP4X
ただの田舎のDQNじゃん・・・
しかも代々・・・
454 :
人間七七四年:2010/11/07(日) 22:29:13 ID:Kb2+d64v
確か当時晴宗16歳、久保姫14歳とかだったような。
青春ですねー
この夫婦は大勢の子供を成人するまで育て上げてるとこが何気にすごいと思う。
455 :
人間七七四年:2010/11/07(日) 22:41:21 ID:El8IVLBo
青春というか高校生くらいのドヤ顔バカップルというか、犯罪臭というか…
456 :
人間七七四年:2010/11/07(日) 22:53:21 ID:3SF8FCQs
あれ?
もしかして輝宗って伊達家で唯一の常識人だったんじゃね?
457 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 00:19:55 ID:FY0qh4Ex
常陸国を巡って、佐竹と小田で覇権争いをしていた頃の事。
佐竹義宣は小田氏治の息の根を止める為に、小田家の家臣に調略の手を伸ばし、内
応の約束を得る。
彼は祖父の代に氏治の祖父に取り立てられ、今や近隣に知らぬ者のない、小田家の
重臣として名を馳せていた。
彼の名を菅谷左衛門尉と言う。
佐竹家に通じた菅谷は、土浦城主・信太氏に謀反の気配があると小田氏治に讒言。
それを信じた氏治の許可を得て、信太氏(名前は書いてません。範宗か?)を宴会
に呼び出して暗殺。土浦城を自分が乗っ取ってしまう。
その後も着々と小田家の切り崩しを進める菅谷は、「佐竹の攻撃が激しいから」と
言って氏治の身柄を自分の土浦城に引き取り、片野三楽斎(太田三楽斎)&梶原政
景を初め、真壁や北条と言った小田家臣を氏治から遠ざけた。
これにより、小田家の主だった家臣はすべて氏治から離れ、佐竹家に従うようにな
ってしまったのである。
「頃合は良し」
小田家中の詳細な報告を菅谷から受け取った佐竹義宣は、氏治が籠もる土浦城に二
千の兵を率いて押し寄せる。
重臣達は去り、唯一残った菅谷左衛門尉も敵に内通している。これでは氏治に勝ち
目はない。
一揉みに押し潰され、小田家は滅亡してしまった。
小田家滅亡の後、菅谷は佐竹義宣に仕え、以前と変わらず土浦城を領していた。
しかし、菅谷の智謀と、主家を裏切った性根を警戒した義宣は、菅谷に加増を与え
ず、やがて菅谷は佐竹から徳川へと寝返る事になる。
『多賀谷七代記』より菅谷正光となっていますが、菅えもんこと菅谷政貞さんの事
だと思われ。
どうしてこうなった!?
『七代記』の小田家関連の記載には、「『天庵記』の記述と違う」「『小田記』に
はこう書いてある」という注釈がやたら大量についてます。
挙句の果てに「この本は多賀谷氏について書いた本。小田氏の事は『小田記』を読
めばいいじゃない!」と逆ギレ気味の注釈。
じゃぁ初めから小田の事は書くなや!
記述の内容よりも、注釈に突っ込みたくなったのは初めてだよ……www
458 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 00:37:03 ID:xrZf+405
小田に限らず、関東の軍記物って
なぜか戦国時代の話なのに佐竹義宣が活躍してる話が多いよね。
最初に書いた人が義重と間違えて、それを孫引きして軍記書いてるからそうなったんだろうけど。
459 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 00:41:45 ID:x5zuj3/G
>>457 >常陸国を巡って、佐竹と小田で覇権争いをしていた頃の事。
ダウト!!!
460 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 00:48:51 ID:HTQlx/sJ
関東の軍記物は後世の人間が
自分の家の寝返り戦略を正当化するのに必死だからな
461 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 07:22:17 ID:oB4MJDt2
軍記物の性だろ >正当化に必死
関東の場合は子引用孫引用を経てどんどん形を変えまくってるのがものすごく顕著だけどな。
462 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 12:20:10 ID:ibln7Uv4
軍記モノで小田にかかわりがあるといったら関東の孔明と言われた栗原義長か
いったいこの時代に何人のいま孔明がいたんだろうな
463 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 13:59:33 ID:310y7ftS
何人居ようが本物はただ一人
一度立てば軍神をも蹴散らす臥竜とはこの小田氏治のことである
と東関東の方より投書がありました
464 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 14:38:51 ID:Qup+r9qV
たしかに居城の小田城付近の水辺で臥していたかもしれませんね
465 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 15:10:38 ID:04fiwgG4
伏せっぱなしや
466 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 15:20:17 ID:ctJ8EKtu
三楽斎「なんか伏せて寝てる奴が居たので鎖で縛っときました^^」
467 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 15:24:25 ID:dc9qC969
悪久「足の腱を切っておくと、良きしんがりになり申す」
468 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 17:54:28 ID:kXij/fd1
天庵様の人気に嫉妬
469 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 20:19:49 ID:P9pZT7Sq
>>463 >この小田氏治のことである
匿名を装っているのに堂々と名乗りを上げてしまうとはさすが氏治様w
470 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 20:39:08 ID:gZAvjMSH
471 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 21:33:13 ID:qXNq1CEf
>>458 真壁久幹の手柄もほとんど氏幹に持っていかれてるというね。
鬼真壁自体久幹だとか。
472 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 21:38:27 ID:Hv0ZsTGV
朝鮮の役での事。朝鮮水軍が集中している閑山島沖に殴り込みをかけ、日本水軍が大勝したことがあった。
その際、水軍を率いた藤堂高虎は秀吉に戦功を報告する横目奉行に言った。
「水軍の先頭に立って、群を抜く働きをしたのは我ですぞ。かように殿下にお伝え下され。」
これを聞いた加藤嘉明は冷笑した。
「何を言うか。左州(高虎)殿は、深夜に敵の寝込みを襲っただけではないか。
いわば、寝首を掻いた様なものだ。」
そう言って大声で笑った。奉行の前で恥をかかされては立つ瀬が無い。怒りながら佩刀を抜いて嘉明に
斬りかかった。が、その場に居た者に押し止められしまった。その様を、嘉明は顔色一つ変えずに見つめ、
薄笑いを浮かべたままこう言い放った。
「大薙刀の刃の外れるが如く、見苦しき形かな。」
この後から二人が蛇蝎の如く憎み合う様になったのは言うまでもない。以上、嘉明の悪い話。
473 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 21:45:53 ID:A4Tw86r4
天正10年、本能寺の後秀吉によって明智光秀が討たれ、清洲会議によって
当面の体制が決まった。その頃出された、丹羽長秀宛、柴田勝家書状より
『尾張と美濃の国境のことですが、私の方にも御兄弟様(織田信孝・信雄兄弟)双方より
同時に言ってこられています。
この両国が御兄弟様に渡された以上、国境を決めて分けるのは当然のことではありますが、
三七郎殿(美濃を領有した信孝)は
「大河(大川)を国境にしないのなら、自分の家臣たちからは勿論、百姓たちからまでも
不満の声が出るのは間違いなく、領主としてそういうことは出来ない。」
とおっしゃっています。
三七郎様は前々から大河を国境とするよう主張されていますが、これを国境とすれば東部において
尾張の三郡が美濃に編入する事になり、これを目論んでそう言っておられるのでしょう。
三介殿(尾張を領有した信雄)は旧来の古木曽川(足近川)による国境線を主張し、
当然ですがご同心ありません。』
この、濃美国境線問題における対立は羽柴秀吉が漬け込む絶好の隙となり、
間もなく賤ヶ岳を引き起こし、織田体制を完全崩壊させることとなるのである。
織田家体制崩壊の端緒となった、信孝と信雄の国境問題についてのお話。
474 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 23:34:31 ID:7t9ra+0k
これは信孝が悪いのかな?
475 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 23:41:20 ID:A4Tw86r4
>>474 おそらくこの頃川の流れが変わって、古木曽川が衰退しこの大河というのが現在の木曽川の
流れを形成し、尾張三郡が岐阜側から見て川の内側に入ってきたと考えられるわけです。
なので信孝の立場から言えば、行政の一体化から言っても川を国境とする慣習から言っても
国境の変更が正しく、信雄からすれば当然受け入れられない、という対立ですな。
476 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 00:09:39 ID:oqSRgyQZ
>>475 詳しくありがとう。
これは勝家も困っただろうね。
477 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 00:13:43 ID:y7kThAtc
江戸時代初期にも利根川の付け替え工事で
武蔵=下総の国境が大きく変わってるからなぁ
478 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 00:14:29 ID:usvRIPA2
>>476 ついでに言うと信長・信忠が濃尾両国を支配していたときはどうも、その尾張の三郡は
美濃側の行政区域の中に入ってたっぽいのね。
なので信孝としても現地の領民としても、当然それが踏襲されるべきだと考えていて、
それに対して信雄が旧来の国境線を主張した、という感じみたい。
479 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 01:19:45 ID:rxepfjbR
え〜昨日に続いて『多賀谷七代記』から。
常陸国、小田家の配下に豊田治親という豪族がいた。
豊田家は小田領の侵食を企てる多賀谷家と領地を接しており、常に多賀谷との紛争
を抱えているという状態であった。
天正五年、多賀谷重経は一息に豊田領を飲み込むべく、一千の軍勢を従えて進軍を
始める。
重経は一門の多賀谷氏経が率いる三百の兵に先鋒を申し付け、豊田城に向かわせた。
この先鋒の中に、僧形の男が二人いた。
彼等は赤塚浄阿彌の息子、虎蔵&熊蔵と言う兄弟であり、周囲の人々は二人合わせ
て「商買金坊」(意味は不明)という異名で呼んでいた。
二人とも多賀谷家随一の力持ちとして名を馳せ、長さ八尺、周囲一尺という鉄の棒
を軽々と振り回していた。
重経は彼等を護衛として重用し、兄弟も戦の時には主君の側を離れず、鉄壁のボデ
ィーガードとして活躍していた。
この二人が唯一主君の側を離れる時が、攻城戦の時。敵の城門を打ち破るのに、彼
等の鉄棒が非常に役立ったからである。
この豊田攻めの際、多賀谷勢は持盾や竹束の用意もなく攻め寄せた、と言う話が残
っている。また、虎蔵&熊蔵兄弟が普段通りに重経の護衛ではなく、先鋒部隊に混
ざっていたという事も、あるいは「豊田勢は打って出ては来ない」「城に籠もって
小田の援軍を待つに違いない」という侮りが多賀谷側に存在していた証拠かも知れ
ない。
しかし、先鋒部隊が蛇沼という沼の畔に差し掛かった時、突然足元の地面が崩れる!
何が起こったのか判らず動揺が走る中、豊田の伏兵が矢を射かけ、豊田治親の弟、
将親が率いる三百が一気に斬り込んできた。
豊田勢では、あらかじめ多賀谷重経の侵攻に備えて沼の畔に巨大な落とし穴を作っ
て待ち構えていたのである。
地面に立って敵と対峙したなら、決して引けを取らない自信がある虎蔵&熊蔵も、
勇み立って先頭を進んでいた為、見事に落とし穴にはまってしまった。
多賀谷の誇る力自慢は、二人揃って何も出来ぬまま、弓矢にて射殺されたのである。
先鋒の将、多賀谷氏経は命からがら逃げ帰ったが、この結果に重経は激怒。
今度は自ら蛇沼まで兵を進め、豊田治親&将親兄弟と雌雄を決さんとしたのだが、
小田の援軍として菅谷左衛門、行方刑部らが豊田勢に加わった為、何も得る物なく
引き上げざるを得なかった。
多賀谷さん、余程この時の事が腹に据えかねたのか、
>>
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4246.html#view_comment という事になります。
こちらの逸話だと豊田治親と戦ったのが多賀谷重経の父・政経だったり、治親の弟
の名前が違っていたりと、結構な差がありますが、今回私が参考にした『多賀谷七
代記』についてはググッても何も詳細が判らない。なので信憑性等も不明です。
……まぁ、話半分以下と考えた方が無難か?(^^;
あ、ちなみに上記まとめの逸話で稲見(七代記では飯見)を寝返らせた白井全洞で
すが、「あれは自分の領地を広げたくて勝手にやった事。多賀谷の命令ではないし、
忠義でもない」と言って、恩賞は一切出なかったそうです。
480 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 08:26:18 ID:aWOy9bNS
>>472 会津転封の逸話の原因はこれだったんだね。
しっかし地味加藤さん案外性格悪いのね。
481 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 08:58:03 ID:0Q69pM5T
自分の手柄を謙遜するならともかく、他人の手柄を貶すのはなぁ
482 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 08:58:37 ID:g3imZh66
塙さんともいろいろ揉めてるし
483 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 09:50:05 ID:jR1Woegq
>>479 栗林義長でお馴染みの『東国戦記実録』の上巻に虎三と熊三の金棒兄弟は出てきます。
「多賀谷修理太夫岡田郡へ発向の事」
・三人張に十三束を番ひ引放つ矢虎三が鎧の胸板に当ると雖も流石の強弓の矢先なれとも刎返り立ささりける。
(坂野)監物が矢熊三が鎧の胸板に当れとも是も同く刎返れは口惜く思て同矢筈を二の矢射たりけれとも立ささりけり。
兄弟大に怒て例の金棒を打振り飛かかる。両人は叶はしと逃けるを遁さじと追かけたり
ごらんのように矢はほとんど効かず、射た側が追いかけられる始末w
そんな彼らも「能登守謀て金棒兄弟を殺す事 附 下妻猿島和睦の事」において
空堀に飛び込んだところを釣塀を落として蓋をし、さらに松明を投げ込むという罠にはまり焼死です。
落とし穴という点では同じですね。
484 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 10:06:25 ID:y7kThAtc
>鎧の胸板に当ると雖も流石の強弓の矢先なれとも刎返り立ささりける
一体どんな鎧着てるんだよw
485 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 10:13:43 ID:jR1Woegq
・其重さ十五六貫に余る鉄の棒を軽々と打振て多勢の中へ飛び入り人馬の嫌ひなく振り廻る
此兄弟に出合ふ者こそ不運なれ。生て帰る者更になし。忽ち百騎ばかり打ち殺す。誠に金棒兄弟とて
当国に名を得たるこそ理なり。皆々打散て寄合ふ人もなし。
こういう人たちですから。人というか、きっと火だけに弱いモンスターか何かだったんじゃないですかね?
486 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 10:19:11 ID:oD4BJozu
今なら帰依して寺社仏閣を叩き壊すだけでモンスター対策の聖水と白木の杭をお安くお分けシマス
487 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 10:25:02 ID:3A4cXBQK
神父「お友達に暴力を振るってはいけません
暴力を振るってもいいのは、異教徒と悪魔どもだけですよ」
488 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 10:30:38 ID:y7kThAtc
>>485 60キロの鉄棒を振り回し、一瞬で百騎を殴り殺すってw
関羽や張飛以上だよ、それwww
489 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 10:34:12 ID:PgcJLuI6
490 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 12:27:04 ID:D2sBgw7p
国崩しだ!国崩し持ってこい!
491 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 13:27:30 ID:mmaNyIkL
鬼島津は聖水と白木の杭じゃあ倒せなかったんだな
492 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 13:34:19 ID:6q0MjXPB
丸に十字を見た聖水が、相手を十字軍と勘違いしたんだ。きっと
493 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 18:18:44 ID:IvKFBwGm
「成実記」に出てくるお話。
あるところに黒川式部という人がいて、
国人領主の黒川氏から伊達輝宗→政宗に奉公に出ていた。
あるとき、信夫郡(今の福島市あたり)飯坂城主の飯坂右近から
「婿入りして家を継いでくださらんかのー」
申し出があった。
飯坂氏は伊達家とは遠い親戚の譜代家臣の家柄。
そして、黒川式部のお父さんはこの飯坂氏から養子入りした黒川景氏。
家柄申し分なし、
うはうはだったであろう黒川左近は約束を交わした。
…しかし、しばらくして。
飯坂右近はふと思ったらしい。
娘は10歳ばかり。対して黒川左近は30過ぎ。ちょっとなぁ…
ワシももう隠居間近な年だし…
そうだ!娘を政宗様に差し出してその子どもに家を継いでもらえば!
そうなりゃ家臣のためにもなるしー
あーでも約束しちゃったし…どうしよ…
でも約束だけで未だ祝言もないしぃ
じゃ、式部クンこの話はなかったことに。
とあっさり約束を反故にして娘を
まーくんことに継がせることに。
見事に裏切られた黒川式部クン面目丸潰れ。
精神的にも来たらしく、黒川氏のところにも戻らず
失意の内に越後へ行ったきり戻らなかった(らしい)
さて、その件でぶち切れた人がいる。
式部の甥(といっても同い年〜年上)であり、
陸奥の国人領主、月舟こと黒川晴氏。
のちに勃発した大崎合戦で娘婿の留守政景が率いる伊達軍に
反逆、政景を大崎の地に閉じ込めてしまった…
…と後年、伊達成実さんが後年
大崎合戦で黒川月舟が裏切った理由を記している。
なーんか、伊達さんちの周りって嫁がらみの話多いなぁ。。。
494 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 18:24:16 ID:2gzqGth0
左近って誰だよ……
495 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 18:24:57 ID:IvKFBwGm
間違えた。左近→式部だ
496 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 18:37:25 ID:r/+Qb4C3
>>493 お前は分かっているからそういう軽い口調でも良いんだろうけど、
みんなに読んでもらいたいなら、もっときっちりした日本語で書いてくれ!
497 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 18:38:37 ID:2gzqGth0
自分で読んで確認しろよって言われそうだけど、
約束を反故にした理由が「成実記」に載ってるん?
それとも約束を反故にしたってとこまでが載ってて、反故の理由は想像?
498 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 18:39:05 ID:rIxvgpeI
伊達さんに限らず、婚姻ってのはかなり重要な政になるんじゃないのかな〜
499 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 18:49:34 ID:nT+OLAjM
池田輝政なんか北条氏直の未亡人をもらわなかったらどうなってたか
加藤・福島と池田輝政はほとんど行動をともにしてた 彼らとの差は徳川の女を
妻としている、ということだけだわ・・・
500 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 18:49:45 ID:y7kThAtc
伊達「女は産む機械」
501 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 18:51:16 ID:L6yQv9Bs
いへやす「千姫を救い出した者には、千姫を嫁にあげる」
502 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 18:51:39 ID:Z7Em1P3v
てゆか戦国期の東北はみんな親戚じゃん
503 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 18:52:39 ID:HmH2MFLB
>>499 > 加藤・福島と池田輝政はほとんど行動をともにしてた 彼らとの差は徳川の女を
> 妻としている、ということだけだわ・・・
福島正之「…」
満点姫「…」
504 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 18:57:36 ID:FeauGR/u
>>499 加藤清正の妻も一応家康の養女なんだが・・・
地味加藤さんの方のつもりならすまん
505 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 19:07:56 ID:nT+OLAjM
家康ってちょっとセコいところがあるから、実の娘と養女じゃあつかいが違うんじゃねーか?
506 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 19:17:26 ID:NY6iCV/F
武将の呼び名について
寛政重修諸家譜(江戸古本)を見たら
「織田信雄 おだ のぶを」と書いてあった。
「のぶかつ」だと思っていたんだが、読みがわかってちょっと残念とも思える話。
江戸中期以降の編纂でも、今よりはまだ史料も揃っていただろうからある程度信頼は置けると思う。
そうすると「壬生義雄」も「みぶ よしを」か・・・
「明石全登(あかし てるレ登)」さんの読みに期待。
507 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 19:17:58 ID:HmH2MFLB
・家康の実の娘
長女・亀姫(母:築山殿) - 奥平信昌室
次女・督姫(母:西郡局) - 北条氏直室のちに池田輝政室
三女・振姫(母:お竹) - 蒲生秀行・浅野長晟室
四女・松姫(母:お梶)(夭折)
五女・市姫(母:お梶)(夭折)
・養女
小松姫(大倫院) - 本多忠勝娘、真田信之正室
満天姫(葉縦院) - 松平康元娘、福島正之妻・津軽信枚正室
栄姫(大凉院) - 保科正直娘、黒田長政継室
阿姫(光照院) - 松平定勝娘、山内忠義正室
蓮姫(長寿院) - 松平康直娘、有馬豊氏室
国姫(栄寿院) - 本多忠政娘、堀忠俊妻・有馬直純継室
亀姫(円照院) - 本多忠政娘、小笠原忠脩・小笠原忠真室
万姫(敬台院) - 小笠原秀政娘、蜂須賀至鎮室
久松院 - 松平康元娘、田中忠政妻・松平成重継室
浄明院 - 松平康元娘、中村一忠妻・毛利秀元継室
唐梅院 - 松平康親娘、井伊直政正室
高源院 - 岡部長盛娘、鍋島勝茂継室
清浄院 (加藤清正室) - 水野忠重娘、加藤清正継室
貞松院 - 保科正直娘、小出吉英室
昌泉院 - 牧野康成娘、福島正則継室
名前不詳 - 松平家清の娘、浅野長重室
名前不詳 - 松平康元娘、松平忠政(大須賀忠政)妻・菅沼定芳正室
名前不詳 - 松平康元娘、岡部長盛継室
そんなに違いがあるとは思えん
508 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 19:24:01 ID:nT+OLAjM
じゃあ加藤・福島と池田の差はなんなんだよ
かたや取り潰し、かたや池田一族あわせて100万石の大大名だぞ!
ちなみに前田家も徳川秀忠の実の娘をもらって100万石だ!
なにか差があると思うじゃないか・・・
509 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 19:27:45 ID:2gzqGth0
>>508 かたや、元は秀吉の子飼い
かたや、元は信長の重臣
その辺りじゃね?
510 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 19:28:48 ID:rIxvgpeI
>>506 資料は揃ってるのかもしれないが、ルビが振ってるある資料はないからなwww
511 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 19:29:36 ID:HmH2MFLB
>>508 差というならこういう事だ
加藤→孫がアホ
福島→家康の養女が嫁いだ養子を殺したり晩年かなりアレ
池田→2代目、3代目とかなり賢明な君主が続き幕府にも忠誠を尽くした。
512 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 19:34:43 ID:zA4KlqKz
>>508 加藤→槍働きで出世
福島→槍働きで出世
池田→槍働き(夜の)で出世
513 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 19:40:49 ID:eEzXdL0F
家康の養女と言えば。
未亡人を子供つきで引き取っている場合もあり。
養女にした時期が子供が幼少時と成人間近なら。
教育内容や栄養状態からくるスペックの違いは甚だしい。
他家の娘を養女に抜擢した場合とは違うと思う。
江戸時代の女性の武家奉公が女子高等教育機関と就職・退職後の養老保険を一部担ったわけで。
514 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 20:39:30 ID:JTobI9La
O友以下略「失礼、戦国寝取り寝取られスレはこちらで間違いなかろうか?」
515 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 20:40:48 ID:D+i6h8XX
上杉謙信の人身売買。
516 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 20:51:54 ID:HmH2MFLB
>>506 端的に言うと織田信雄の場合、武家読みだと「のぶかつ」なのだが、
彼は内大臣にまでなった公家でもあるので、公家読みでは「のぶお」と呼ばれる場合もある。
517 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 21:30:34 ID:TCm1j7a1
>>515 よく言われるが、商売してもいいよと人買いに認めてるだけだからな、あれ。
武田信玄が直接遊女屋にたたき売ったのとはぜんぜん違う話。
518 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 21:52:18 ID:JTobI9La
のぶおが織田家の三男坊に生まれたようです
519 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 22:15:39 ID:njBPSRkv
しんおにはならないの?
520 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 22:20:32 ID:y7kThAtc
それいうなら
しんゆう
521 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 22:39:59 ID:rxepfjbR
常陸国小田城が佐竹氏配下の太田三楽斎、真壁道夢等に攻撃された時の事。
小田方では佐竹軍接近の方を聞いて、手這坂の辺りまで迎撃に出る。
その小田軍の陣中では、小田氏治の嫡男・守治が海上武経と笑いながら会話してい
た。
「小田家の中で、オレとお前の勇名は群を抜いてる。今回の戦で、どっちが上か決
着を付けようじゃねぇか!」
「おお、良いですな!若君が相手と言えどこの武経、決して手は抜きませぬぞ!」
元々血気盛んな海上武経、この提案を喜び、周囲一尺二〜三寸ほどもある樫の木を
手に取り、三間ほどの長さに捻じり切って、それを振り回しながら陣を出て行った。
(「折る」じゃなくて「捻じり切る」って……)
守治も負けてはいない。五尺三寸の大太刀を振りかざし、まっしぐらに敵陣に突入
するという有様。
片や樫の棒、片や大太刀を振り回しながら、縦横無尽に戦場を駆け回るモンスター
二人に対し、
「まともに相手にすんな。遠巻きにして討ち取れ」
佐竹軍は飽くまで冷静だった。
「ちょっ……大将が何深入りしてんの!?」
遠巻きに包囲される二人を見て、菅谷範政は慌てて全軍に攻撃命令を下す。
作戦などそこにはなく、予備戦力など置いておくゆとりもなし。
全軍入り乱れての乱戦となってしまう。
……ただ一人を除いて。
「あれ……? オレ、今、ノーマークじゃね?」
ただ一人、攻撃に加わっていなかった小田家臣、江戸崎監物。
こっそりと自らの手勢を動かし、『敵』の背後に出る。
そして……
「江戸崎監物、只今より佐竹殿にお味方いたす!」
敵味方入り乱れる乱戦の中、小田軍には新たな敵に対応するだけの余裕はなかった。
辛うじて守治、武経の二人を救出すると、小田城を捨て、土浦城に退却せざるを得
なかった。
何で関東の軍記物には、一家に一人〜二人モンスターがいるのかな?w
しかもそのモンスターが戦場でまったくの役立たずと化している辺り、小田さんち
はぶれないなぁ。
あぁ、そーいや多賀谷さんちのモンスターも役立たずだったね。(
>>479) ……常陸
ってばそーゆー国柄なの?(^^;
ちなみに今回の文献は『菅谷伝記』です。
522 :
人間七七四年:2010/11/10(水) 00:01:47 ID:VGptWkYA
スイマセン
小田家の話って何処が悪い話なの?
これってタダの逸話じゃね?
523 :
人間七七四年:2010/11/10(水) 00:05:01 ID:yS9ZfKrs
↑ちょっとかわいそうなくらい頭悪いね。消防かな?
524 :
人間七七四年:2010/11/10(水) 08:55:12 ID:iF8657Ub
「戦国ちょっと良くも悪くもない話」スレがあるならそっちに投稿したんじゃね?
お前が立ててみれば?
525 :
人間七七四年:2010/11/10(水) 10:12:26 ID:hQyUXeUF
天正13年(1585)6月、羽柴秀長の阿波一宮城攻めに従った藤堂高虎は、側近の服部竹助を連れて斥候のために
城に忍び込んだ所、城方に見つかってしまい狙撃されたが、弾丸が甲冑の継ぎ目にはさまり、九死に一生を得た。
(
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1414.html )
崩れ落ちた主君に、竹助は必死で声をかけた。
「殿―――――っ!!」
(い、痛え・・・何とか助かったが、熱持った弾が鎧にメリ込んでやがる・・・叫びたいが、ここは敵地。ガマンだ・・・)
「おお、殿!お立ちになったということは、ご無事だったのですな!おケガはありませんかっ!?」
(うるせーよ・・・まだ敵地のド真ん中なんだから、黙って逃げる事考えろよ・・・)
「へ、返事がない?まさか重傷なのでは?!おケガはどこですか、殿ーっ!」
(・・・・・・・・・)
「殿ーっ!大丈夫ですか、殿おおお!!」
「大丈夫じゃねぇに決まってんだろがボケェェェエエエ!!」
「ひでぶっ!!!」
六尺二寸(190cm)、三十貫(110kg)を誇る高虎渾身のエルボーが側近の顔面を捕らえ、竹助は黙り込んだ。
こうして二人は無事に自陣へ逃げ込んだが、「歯が!歯がぁぁぁ!!」
哀れ竹助は一生歯抜けのままだったという、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2586.html に出てくる真田さんちの河原綱家さんと言い、あんまり主君を心配するのも考えもの、というお話。
526 :
人間七七四年:2010/11/10(水) 10:16:50 ID:1Qf1GUbg
世の中TPOですな
527 :
人間七七四年:2010/11/10(水) 10:27:52 ID:FznAY+r8
528 :
人間七七四年:2010/11/10(水) 11:59:28 ID:ygJ99Rkc
>>521 .|:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;i;:;:;:;:;:;:;:;:;:|
.|;:;:_:;:_:;:_:;:_;:;氏治:;:_:;:_:;:_:;:_:;l_:;:_:;:_:;:_;:|
.|___________|___.|
iイ彡 _=三三三f _ _ヽ
!イ 彡彡´_ -_=={ 三シ ヾ三ヽ.
fイ 彡彡ィ 彡イ/ ィ_‐- 、  ̄ ̄ ヽ ま
f彡イ彡彡ィ/ f ._ ̄ヾユ fヱ‐ォ丶 .る
f/ミヽ======<|でiンヽ lr=〈ィでiン!フ い で
イイレ、´彡f ヽ 二 _rソ/ !弋_ { .リ. .な 成
fノ /) 彡! .ィ,' : !. ..l .い 長
トヾ__ら 'イf u i ,、 ,..、ヽ . ! : し
|l|ヽ ー '/ _ _ イ../ .: て
r!lト、{'ー‐ ヽ ,ィチ‐-‐ヽ i/ :
/ \ゞ ヽ ヽ .ゝ、二フヽノ/
./ \ \ ヽ ー一 //
/〈 \ ノ
-‐ ´ ヽ ヽ \\ \ 人
529 :
人間七七四年:2010/11/10(水) 12:30:11 ID:qKsJyFcM
530 :
人間七七四年:2010/11/10(水) 12:33:10 ID:w48y/bLd
父親譲りの無鉄砲な坊ちゃん
531 :
人間七七四年:2010/11/10(水) 12:49:53 ID:hJSjrxVJ
夏目某「父親譲りの無鉄砲で、人殺しちゃいました」
権現様「吉信の息子なら許す」
532 :
人間七七四年:2010/11/10(水) 18:05:04 ID:h8do/tE3
泣いた
499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 22:11:34 ID:dVjKZndG
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| |
| にいちゃんへ |
/ 子ができたから /_____
/ 仕送り増やして /ヽ__//
/ 下さいな / / /
/ / / /
/ のぶしげ / / /
/ / / /
/ / / /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ / /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 22:38:04 ID:es882a1P
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| |
| おとうとへ |
/ 父上に /_____
/ 節約に努めて /ヽ__//
/ と伝えなさい / / /
/ / / /
/ のぶゆき / / /
/ / / /
/ / / /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ / /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
533 :
人間七七四年:2010/11/10(水) 23:04:07 ID:ayC4ya/F
戦国時代末期、陸奥国田村家の一門に大越顕光という人物がいた。
この人物、天文初年から田村家に仕え続けて四十余年。
田村家中で第二の大身(一万石ほど)として文武に渡って田村家を支え続けてきた柱石の一人だが、
天正十四年に田村清顕が病死して家中に伊達派と相馬派の争いが起きると、
顕光は相馬義胤の従兄弟でもあった関係から相馬派の指導者として主導権争いに敗北、
他の相馬派のメンバーともども地理的に近かった岩城家の軍門に下っていた。
さて、時は下って同十七年。
伊達政宗は田村家の旧領全域を確保したいという算段から、
自ら三春城への出仕を禁じて追放とした親相馬派メンバーの全面赦免に踏み切る。
これに顕光と行動を共にしていた田村梅雪らが応じて田村家に帰参し親相馬派は瓦解、
岩城家に残り続ける顕光の立場は微妙なものとなった。
その顕光はといえば、このごろ本田孫兵衛という小姓に随分とご執心だったらしい。
奥方も随分放置プレイだったと見えて、日ごと本田との逢瀬を重ねる夫に対して
日に日に怒りと嫉妬を募らせていた。
そんなある日のこと。夫が外出した後に玄関を見渡すと、なにやら手紙が落ちている。
妻はそれをさっと手に取ると、
「……どうせあの淫売野郎への恋文でしょ(ビキィ)」
……読みもせずに断定した。せめて読め。
だけでなく、
「お兄ちゃん聞いて、あいつ殺s(ry」
「おちけつ」
大越家一門で、自らの実兄である大越甲斐守のところに手紙を手にして駆け込んだ。
んでもって、自分で開けてもない手紙を渡して「これ読んで、酷いでしょ」などと言い放つ。
だから読んでもない手紙でなんで第三者に苦情を言い立てるのか、しかも渡しちゃうのか。
おそらく大越甲斐守も困惑しただろう……と、思いきや。
「……これは酷い。義兄上には相応の報いがあるだろう」
一読してのその反応は、まんざらなものでもなかった。
彼は妹に義兄顕光の過ちを質すと快く請合って、上機嫌な妹から手紙を受け取った。
そして妹を大越城へと送り出すと、甲斐守は手紙を懐にして馬上の人となる。
向かう先は、大越城――では、ない。
馬首を巡らすは岩城家の本城、飯野平城へと、である。
実はこの妻が玄関先で拾ったという手紙、本田への恋文などでは決してなく、
田村宗顕への帰参と、岩城攻めを打診する謀叛のはかりごとを記した手紙だった。
甲斐守はもとより義兄顕光と仲が悪く、当主の座も狙っていたことから、
妹が愚かにも持ってきた手紙を一読するや、これを岩城常隆に注進する決意を固めたのだった。
果たして通報から時を置かず、顕光は急ぎ飯野平に登城することを求められ、
ことの露見を知らずにその下命に従い、その場で切腹を命じられた。
大越家当主の座は甲斐守が継ぎ、以後の彼の妹、顕光の妻の消息は不明である。
嫉妬と浅慮のコンボで全てを亡くしてしまった悪いお話。
534 :
れこ:2010/11/10(水) 23:46:56 ID:ReFSE21/
ヽ j .す
. ゙, l. ご
悪 ! ', く
い ', ', :
で ト-、,,_ l
す ! `ヽ、 ヽ、 _
; / ヽ、`゙γ'´
/ \
! ト, ヽ
ヽ__ ___ノ ,! | | ト, ゙、
レ'゙ ,イ ./|! .リ | リ ! .|! | ト|ト}
,イ ,/ ./〃/ / | / .リ/ //イ|.リ
// //ノノ //゙ ノ'////|.リ/
´彡'゙,∠-‐一彡〃 ト.、,,,,,,,,,,,レ゙
二ニ-‐'''"´ /`二、゙゙7
,,ァ''7;伝 ` {.7ぎ゙`7゙
ゞ‐゙'' ,. ,. ,. l`'''゙" ,'
〃〃" ! |
! l
! (....、 ,ノ !
j `'゙´ ,'
ー--===ァ /
_ _ ./
\ ` ̄ ,/
` .、 /
:ミ:ー.、._ /``'''ー-、
`゙三厂´
535 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 00:00:12 ID:cOpIhbmv
>>521 関東の軍記物にはモンスターが〜
軍記作者「○○家の軍記書こうと思うんですが、何か逸話ありません?」
旧家臣の末裔「ああ、うちの家に伝わってるよ。どこそこの戦いでうちの先祖が(もう事実を知ってる奴はいないし、大活躍させよう。うまくいけばその評判から仕官できるかも!)」
536 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 01:55:11 ID:INjin6tZ
ラスボスの関東仕置きの際の話。
駿河に集結した諸将を前に、最後の軍議を行っていた。
「それでは山中城攻撃は二十九日に行う。誰か先陣を願い出る者はいないか?」
衆知の如く、箱根の険に構えられた山中城は攻めるのに困難な堅城である。
皆尻込みをしてしまい、願い出る者は一人もいない。
「勿論、これは危険な任務だ。ただ働きさせるつもりはない。先鋒を務め、首尾よ
く山中城を陥とす事が出来たなら、どこなりと望みの一ヶ国を与えよう」
この破格の恩賞を聞いて、一人の男が進み出る。
豊臣譜代の将、一柳直末であった。
「おぉ、直末か。お前なら首尾よくやってくれるだろう。どの国が欲しい?今の内
に申しておけ」
「それでは伊豆を頂きたいと存じます」
「うむ、良いだろう。今日から一柳伊豆守を名乗るが良い」
「はっ 必ずや山中城を陥としてご覧に入れます」
直末は自陣に帰ると、早速物見を出し、山中城の偵察を入念に行わせた。
「……大筒が?」
「はい、三門ありました。ただでさえ急な斜面をよじ登らねば城に取り付けぬと言
うのに、進軍途中を大筒で狙われては一溜まりもありませんぞ」
「しかしなぁ、殿下の御前で大口を叩いてしまった以上、退く事は出来ぬぞ。被害
は覚悟で進むしかない。出来なければオレもお前も皆、死ぬだけだ」
攻撃開始の数日前、既に直末は悲壮な覚悟を決めていた。
一方北条方、山中城内。
この城の大将は間宮豊前守。
彼は小田原城での軍議において、松田尾張守等によって篭城策が採られた事に憤慨
を隠す事が出来なかった。
「この戦で北条家は滅びるだろうな。私も既に七十六歳になってしまった。最早惜
しむ物など何もない。潔く一戦して名を残して死のうではないか」
「打って出るおつもりで!?わざわざ小田原から運んだ大筒は如何なさるのですか?」
「敵とは言え、上方の連中に恨みはない。あのような物で打ち殺したとて、何の益
もないよ。敵の姿が見えぬ内に適当に何発か威嚇射撃しておけ。後は捨て置いて良
いさ」
537 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 01:58:08 ID:INjin6tZ
そしていざ、二十九日。攻撃当日になると山中城の方から、頻りに大筒を撃ち放つ
轟音が聞こえてくる。
「我等がまだ近づいていないと言うのに、盲滅法に撃ちまくっているな。山中城は
思ったよりも浮き足立っているようだぞ。これはチャンスだ!者共進め!」
しかし、山の斜面を登り進める彼等の前に、意外な光景が現れる。
「そこに見えるは先手の衆と見える!我は山中城将・間宮豊前守!尋常に勝負いた
し、この首を上方への手土産にするが良い!」
「な……っ!?篭城じゃないのかっ!? 大筒はフェイクだったのか!?」
慌てた一柳隊に、一斉に襲い掛かる間宮隊。
元より斜面の上から下へと駆け下る間宮隊は勢いに任せて一柳隊を押し捲る。
「お主が大将か!腕に覚えがあるなら、このジジイの首、取って見せよ!」
直末の姿を見つけた間宮豊前、足場の悪い山道を一直線に突き進んでくる。
馬を並べ、槍を合わせる事数合。斜面の上から突き降ろしてくる豊前の槍に、直末
は遂に捌き切れなくなり、バランスを崩して落馬してしまう。
「その首、冥途の土産に貰い受ける……ををぅ!?」
落馬した直末に止めを刺さんと槍を突き込んだ間宮豊前。
だが、ここが険しい斜面である事、足場が悪い事を忘れていた。豊前も直末同様、
バランスを崩して落馬してしまったのである。
「殿!? しっかりしてください!!」
双方、最早戦どころではない。
したたかに地面に打ち付けられ、ぐったりと意識のない主人の身体を抱え起こし、
それぞれの陣に分かれ退いたと言う。
結局、一柳直末、間宮豊前共に落馬にて死去。
城将を喪った山中城の兵は小田原に向けて逃げ去った。
一柳直末の活躍で、難攻不落の山中城は一日にして落城したのである。
城からの一斉射撃で討死にした、という通説と比べると、なんか締まらねぇなぁ、
という一柳直末さんの落命異聞。
みんなも足場の悪い斜面でハッスルする時は気をつけなきゃ駄目だZO!☆
(元ネタ:箱根山中城責由来)
なお、史実としてはどうだったのかと言うと、一柳さん戦死の報を聞いた幽斎さん
が、
「いと毛なる 具足をかけて鉄砲の 玉にもぬける一つ柳か」(東国陣道記)
と詠んでおられるので、やはり鉄砲で撃たれたのが死因で間違いないようです。
538 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 02:58:27 ID:fEgY9cdh
林蔵のご先祖さまかっこいい!
と思ったのに・・・
539 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 03:19:39 ID:OL1ydP+F
ちょっと締りの悪い話だなこりゃ、
540 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 03:29:00 ID:+CvpBu8+
小田厨房はレスすんなよ
541 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 09:42:45 ID:RgHWwt98
是非に及ばず
542 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 18:50:01 ID:IPxc0myw
加藤清正と銀杏の話がニュースでやってたんだが詳細知ってる人居る?
543 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 19:24:41 ID:F4D/as6k
熊本城に植わってるイチョウの木の事か?
詳細はしらんが
544 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 19:40:55 ID:y94gnRCd
あれだろwww
最近折れちゃったそのイチョウの木に隠れて将軍の叔父さんこかして首獲っちゃたんでしょ?
ってこれしか思い浮かばなかったorz
545 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 20:51:30 ID:dzA8P0hT
朝鮮の籠城戦で死ぬ思いした清正が食えるものを手当たりしだい熊本城に配したって話し?
井戸も深く沢山あって西南戦争では大いに役立った。
546 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 20:51:33 ID:f1Sxz2qQ
公暁さん・・・
547 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 21:04:55 ID:IPxc0myw
皆の衆道ありがとう
教えて貰ってきたw
>>545の話に近いんだけど銀杏の木に雄雌あって熊本城に植えたのが全部雄で銀杏採れなくて(´・ω・`)ショボーンとした話だた
548 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 21:20:25 ID:IPxc0myw
あ、清正の(運)の悪い話だな
549 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 22:09:11 ID:KyAMrvmj
天文17年(1548)、甲斐の武田晴信による信濃支配は、2月14日の村上義清との合戦、上田原の戦いにおいて
大敗を喫したことにより大きな動揺を見せた。
信府(松本)の信濃守護小笠原長時は活動を活発化させ、同年7月10日には諏訪の有力な国人、地侍が
長時の側につき、同地方の武田軍への攻撃を始めた。
晴信はこの報を聞くと直ぐに出陣したが、18日まで本国甲斐から出る様子を見せずグズグズと動かなかった。
そして18日夜、密かに進軍し19日、諏訪上原城に入ると、そのまま信濃塩尻峠に布陣する小笠原長時の軍を
急襲する!世にいう塩尻峠の戦いである。
当然のことながら、武田軍がグズグズしていたのは理由がある。
晴信は回にとどまっている間、長時派の国人に工作をしかけていたのだ。武田軍の攻撃が始まると、
その仕掛けが動く。
小笠原長時軍5千の中にあった信濃の国人三村長親とその配下500が、長時に対し反旗を翻したのだ!
武田からの不意打ちにただでさえ動揺していた長時軍は、この三村の突然に反旗にもはや耐えることが出来ず
壊滅。この勝利により武田は上田原での敗戦の痛手から回復、信濃侵攻の勢いを完全い取り戻す。
すべては三村長親の内応のおかげであった。
…と、戦後武田晴信は三村長親を、論考を行うからと甲府に呼んだ。
なにしろ三村長親は塩尻峠の戦いにおける最大の功労者である。彼は意気揚々と
2百名ほどの一族郎党を引き連れ甲府に入り、今の太田町にあった一蓮寺に宿をとった。
その夜である
武田晴信は言う
「主を裏切るものは、又裏切るであろう」
彼は一蓮寺に兵を向けた。
突然の焼き討ちを仕掛けられ、三村長親を始めとした三村一党は為す術も無く皆殺しにされ、一蓮寺とともに
焼かれた。
信州三村氏は、ここに滅んだ。
長野県塩尻市、妙義山の麓にある釜井庵は、かつて三村長親の屋敷があった場所だとされてているが、
そこに今も、夜泣き石という石がある。
この石は三村一族の妄念により、夜更けになると泣き叫ぶのだ。と、言い伝えられる。
塩尻峠の戦いと三村一族についてのお話である。
550 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 00:26:22 ID:78KsDCTh
備中も信州も嫡流は同じような時代に滅ぼされてるんだな。
551 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 01:50:41 ID:SiS9Y7zT
室町幕府は足利義持の時代、鳴海刑部賢勝という人物が朝鮮より貢がれた永楽銭
3000貫文を幕府に献上した。
義持はこれを大層喜んだが、それでも「我が国で流通させるには量が足りぬ」と言
って、永楽銭の模造品を賢勝に作らせた。
それ以来、鳴海家では代々銭奉行を務めたという。
時は下って賢勝の孫・兵庫則賢の時。将軍足利義澄に子供が生まれた。
しかし時代は戦乱の真っ只中。京の混乱を避け、義澄は妻と子を、妻の実家に帰す
事にした。
この妻は陸奥国会津の蘆名盛隆の娘であった事から、生まれたばかりの身で遠国に
行かねばならない息子の身を案じた義澄は、則賢を側近として若君に付け、共に下
向させたのである。
義澄は結局、幕府の権力争いにより将軍職を追われ、復帰出来ぬままで死を迎えた
為、息子の安全を確保する為に、この処置は極めて的確であったと言って良いだろ
う。
やがて成長した若君だが将軍、しかも失脚した将軍の御落胤となれば政治的に利用
されかねない立場だ。一つ間違えれば蘆名家のお家騒動にも繋がりかねないし、下
手に担ぎ出す事にも抵抗がある。
様々な事情を考慮して、寺に入り出家する事になった。
僧となった若君にも則賢は変らず仕えていたが、彼が死に、息子の刑部重則の代に
なると、寺を離れ、水戸の佐竹氏に仕え始める。
552 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 01:53:14 ID:SiS9Y7zT
再び時は流れて江戸時代、徳川家光の時代である。
ある時家光は不思議な夢を見た。何故かその内容が気になったので、乳母の春日局
を通じて天海僧正に夢判断を頼み込んだ。
「家光様は夢の中で、江戸城を出て南の新しい城に移るという夢を見られたそうで
すな。しかも、徒歩で新しい城まで移動されたとの事。これは吉夢と言うべきです」
家康より三代に仕えた側近、天海は春日局にそう告げる。
「まず城が変わるというのは、『代替わりする』という事です。物を買った時、銭
を支払う事を『お代を払う』と言うでしょう? そしてまた、代金の事を『お足』と
も呼ぶではないですか。これは新しい貨幣を鋳造せよ、という事を告げているので
す。銭を替え、新たな銭が国中を巡る事で国は栄える。まことに天が将軍家に新た
な政の指針を授けたと言うべき吉兆なのです」
その夢判断を受けて家光は、土井大炊頭利勝を責任者として新貨幣鋳造プロジェク
トを立ち上げ、細かい計画は利勝と天海で相談して進めるよう命令を下した。
新しい貨幣は『寛永通宝』と名づけられる。これは天海が住職を務めたのが東叡山
寛永寺だったからだと言い、当時の元号が寛永と言ったからだとも言う。
『寛永通宝』の鋳造責任者として、常陸から招聘されたのが、鳴海刑部重則の孫・
鳴海兵庫賢信。
賢信は先祖から伝わる知識と技術を持って『寛永通宝』を作り上げ、銭座の棟梁と
なったのである。
しかし、常陸の片隅でひっそり暮らしていた鳴海一族に、銭の鋳造技術が伝わって
いる事を、何故土井利勝や天海が知っていたのだろう?
……そう、足利義澄の血を引き、会津で育ち、鳴海一族が仕えた僧。彼こそが後の
世の天海僧正だったのである。
え? 天海って足利将軍の落胤!?
光秀になったり将軍の息子になったり、忙しい奴だな、天海。
一応、出家した若君は常陸国江戸崎の不動院の住職になったと伝わっており、天海
が武蔵国川越の無量寿寺(後の喜多院)住職になった時、江戸崎不動院の住職も兼
務していたらしいので、辻褄は合うようですが……
いい話か悪い話か迷ったのですが……天海、あまりにもその夢判断は無茶しすぎだ
ろ、と言う事で悪い話に。
いや、本当は鳴海一族の忠誠を忘れずに取り立ててやった天海のいい話のつもりだ
ったんですが、前半を間違って悪い話に投下してしまったので、無理矢理こじ付け
てみた(笑)
553 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 08:29:37 ID:UWBG0hZ/
天海いくつなんだよwwwwって感じだな〜
554 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 09:21:12 ID:TrBe5Was
妖怪に向かっていくつとは失礼なw
555 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 13:09:12 ID:as+3AHTe
>>552 >光秀になったり将軍の息子になったり、忙しい奴だな、天海。
逆に考えるんだ、将軍の息子が光秀で、なおかつ天海だったと考えるんだ。
556 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 13:38:58 ID:06EEDWpW
明智光秀「実は将軍の落胤でした」
羽柴秀吉「実は天皇の落胤でした」
柴田勝家「実は斯波高経の子孫です」
信長「お前らいい加減にしろ」
557 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 15:08:07 ID:zhyHBNYh
信長「かくいう俺も実は桓武平氏な訳だが」
558 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 18:21:28 ID:9JfZvB4b
北南それとも知らずこの糸のゆかりばかりの末の藤原
559 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 23:43:46 ID:w0dK5RUx
>>557 由緒ただしい神社の神主の家系だから、それなりに良血でも不思議はないんだがな
560 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 01:27:12 ID:anahTt+O
上州吾妻郡に、海野能登守輝幸という者がいた。
羽尾幸全という者の弟で、真田家の一門に連なる出身である。
この輝幸、新当流の名人であり、百人力と言われる大剛の持ち主だった。
自分の武勇を鼻にかけた彼は、武田・北条・上杉の間で難しい一族の難しい立場を
省みる事もなく、遂には上州を出奔。兵法修行と称して各地の戦に参加して、その
全てで手柄を立てていたと言う。
輝幸はやがて、上原姓を名乗るようになり、上原能登守と名を変えて武田家に仕官
する。信玄&勝頼に仕え、大いに名を上げたが、七十歳を超えた頃、武田家を辞去
して上州に帰ってきたと言う。
その当時、吾妻郡岩櫃城には上杉氏家臣・斉藤摂津守が城代として入っていた。
摂津守は輝幸の武勇を知ると客将として遇し、城の裏手に屋敷を与えて住まわせた。
さて、そんなこんなで故郷での生活を始めた輝幸老人なのだが、その年の大晦日、
日頃から可愛がっていた女児が急死するという不運に見舞われる。
悲しみの中、家中の者は女児の遺体を寺に運ぼうとするのだが、それを阻もうとす
るのは摂津守の配下。
曰く、
「目出度い気分で新年を迎えようって皆で準備をしてるのに、死体なんて不吉なん
だよ! 絶対にこの門松の間を通す訳にはいかねぇな!」
門番の口上を聞いた輝幸は逆上。
「それを聞いてハイソーデスカと帰って来たんか!? もう良い、俺が行く!」
女児の遺体を懐に入れ、今度は自ら城門へと走り出した。
「この門松があるから、この子を寺に連れて行けねぇんだ。だったらやる事ぁ簡単
だ! ぶっ壊してやる!!」
門番達が恐れ、手を出せぬ程の剣幕で、目出度い正月飾りを散々に打ち壊した上で、
悠々と寺に遺体を置いて来た。
しかし、それでも輝幸の怒りは収まらない。
元旦の挨拶はサボり、二日になってから漸く斉藤摂津守の下に挨拶に出てくる。
「この間、珍しい刀を手に入れましてな。摂津守殿にもご覧に入れようと、本日は
お持ちいたしました」
と言うと腰の刀を抜き放ち、摂津守の頬に刀身を押し当てる。
一同仰天し、慌て騒ぐ所を、摂津守は何とか気を鎮め、
「お、おぉぅ、これは大した業物ですな。ほら、お前たちも見せていただけ。ワシ
はちょっと奥の様子を見てくる。肴が出てくるのが遅すぎるからな」
そう言って座を退出すると、家臣達を抜き身の刀を持った物騒な老人の前に置き去
りにしたまま、一人で秘かに越後に逃げ帰ってしまった。
上杉家が吾妻郡を支配し、斉藤氏を派遣していたのは謙信の時代で、次の沼田の話
とも合わせて時代がどうしても合いません。
武田家なら小山田の配下に上原能登守が居たのですが、この二人を同一視した為に
辻褄が合わなくなってしまったのでしょうか?
斉藤氏が吾妻郡に居たのと真田氏が沼田城を領有するようになったのとでは、十年
以上離れている筈です。
561 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 01:29:23 ID:anahTt+O
領主が逐電し、空白地帯となってしまった吾妻郡。輝幸は自らの領土として周辺の
土豪に激を飛ばすのだが、普段の言動のせいで、殆どの者はそっぽを向いてしまう。
仕方なく、その当時勢力を伸ばしていた真田昌幸に助けを求め、その後援の元で岩
櫃城の城主となった。
その後、真田が沼田城を領有すると、輝幸は沼田城代に取り立てられたのだが、こ
こで再び、DQNの血が騒ぎ出す。
「昌幸殿、吾妻郡は元々私が一人で斉藤を追い出して手に入れた土地だ。私に返し
ていただけぬだろうか?」
だが、今度ばかりは相手が悪い。
真田昌幸は表面上は、
「そりゃ勿論です。何せ真田家の上州支配は貴殿がおらねば立ち行かぬのですから
な!」
と輝幸の要求を全面的に呑み、裏では矢沢頼綱と謀議を重ねていた。
前々から、頼綱も昌幸も、輝幸では上杉・北条が攻めてきた時に内部崩壊を起こす
可能性が高い、と踏んでいたのである。
「北条が沼田城に攻め寄せるようだ。援軍をやるから、よろしく」
との口上と共に、昌幸の弟・信尹が沼田にやって来たのは秋も深まる十月二十二日。
「北条が来るなんて聞いてませんよ? 怪しくないですか?」
この頃にはすっかり驕り高ぶっていた輝幸に部下が進言をすると、
「別に何てこたぁねぇだろ。あいつ等にそんな度胸ねぇよ。そんなに心配ならお前、
信尹の所に行って問い詰めて来いよ」
だが、この部下はいつまで経っても帰って来ない。続いて様子を見に行かせた者も
やはり帰って来なかった。
その時分になると、城の中が慌しく、まるで戦の前のような雰囲気になっているの
が輝幸の所にまで伝わってくる。
「前の二人は殺されたようだな。お前は十分に警戒して、もう一度だけ様子を見て
きてくれ」
三人目の安中勘解由もやはり、本丸を固めていた真田兵に襲撃されたのだが、用心
していた分だけ命拾いし、そのままどこかへと逃げ去ったという。
逃げ帰った安中の従者から話を聞いた輝幸は、またも激昂する。
「オレは謀反なんて起こす気はない! オレが何をしたってんだ! 吾妻郡がオレの
物だってのは当たり前だろ!? オレは当たり前の事しか要求してねぇ!! きっと
誰かがオレを妬んで昌幸の奴に讒言したに違いねぇんだ!!」
……おいおい、こんなんでよく信玄に仕えていられたな。
562 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 01:30:53 ID:anahTt+O
どうも輝幸、驕り高ぶってはいたが、自分の行動が100%理に叶い、正義に基づ
いた物だと思っていたらしい。
この期に及んで「加葉山に参り、そこで申し開きをすれば昌幸も判ってくれる。そ
れでも駄目なようだったら、腹を切ろう」と言い始める。
輝幸の嫡子・中務の妻は矢沢頼綱の娘だった事から、妻子は沼田に残したまま、包
囲を脱出しようと試みる。
「真田家に人多しと言えども、オレの相手になるのは殆どいない!。木ノ内八右衛
門辺りを連れて来たならともかく、お前等如きじゃ無駄死にが良い所だ!」
完全に開き直った輝幸。ぐるりと取り囲む真田兵に啖呵を切ると、中務と共に切り
込んで行く。
老いたりとは言え、流石に諸国に名を馳せた上原能登守である。
自ら啖呵を吐いた通り、取り囲む真田兵を誰一人として寄せ付けず、包囲の一角を
切り崩して沼田城外へと逃げ延びて行った。
「こんにちわ、木ノ内八右衛門Deth」
「げぇっ! 八右衛門!!」
だが、流石に真田の包囲網。それだけでは終わらない。
城外へと切り抜けた輝幸親子を待ち受けていたのは、真田信尹の副官であり、今回
の暗殺の検分役・田口又左衛門と、輝幸自身が「こいつならオレに勝てる可能性が
ある」と言った勇者・木ノ内八右衛門だった。
観念した輝幸は馬を降りて八右衛門と一騎打ち、中務と彼等に従う者達は、田口が
率いていた兵と切り結ぶ。
八右衛門が二尺八寸の太刀、輝幸は茶磨破と号した備前長光の三尺三寸の太刀を用
いて打ち交わす。
……で、この七十過ぎの爺さん、勝っちゃうのである。真田家一の勇者に。
いや、この流れは「八右衛門のモンスター退治」じゃねぇのか、空気読めよ。と言
いたくなる展開だ。
中務も田口又左衛門を討ち果たし、追っ手の真田軍は壊滅。
田口の死体に腰掛けた父と息子は、改めて今後の事を話し合う。
「田口は真田の重臣だからなぁ。こいつを殺っちゃったんじゃ、申し開きは出来ね
ぇよなぁ……」
「ですが、我等に非はありませぬ!」
「それ、昌幸に言って通じると思う?」
「そ、それは……」
「こうなったんじゃ仕方ねぇ。死ぬか」
上原能登守輝幸&上原中務父子、刺し違えて自殺。
この報せを聞いて真田昌幸は大いに喜んだという。
まぁ、自分の配下に制御不能のモンスターがいるのは嫌だよね。
真田みたいに綱渡りを繰り返すしかない小大名なら特に。
とりあえず岩櫃城から斉藤を追い出し、真田に従属。その後、用済みとして昌幸さ
んの手で処分されたというのが史実のようです。
諸国を巡るだの、上原と名を変えて武田に仕官だの、沼田城を任されるだの、と言
った辺りは完全に年代が合いませんから、『逸話』としてならともかく『歴史』と
してはスルーなさるのが良いかと思われ。
あ、ここまでの一連の逸話は『羽尾記』からの出典です。
563 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 03:05:41 ID:tXlQBak6
長文読み終わったら全否定されたでござる
564 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 05:41:27 ID:JV9iNVJy
この人って、真田十勇士の「海野六郎」のモデルかな?
この逸話が元々知られていて、それを踏まえて真田十勇士に採用されたんだとすると、結構有名な話だったのかも。
565 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 08:12:42 ID:X+OLEwPS
現代の物語のテンプレになれてると戦国時代は思わぬところで勝ったり負けたり死んだりするから
ほんとびっくりさせられる
566 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 10:12:37 ID:+4khnmRI
めっちゃ強そうな描写しといて
次の瞬間には秒殺されてるとか軍記物ではよくある事
567 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 10:39:28 ID:DO+hKaMl
現実はセオリー通りにはいかんもんです
568 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 11:28:04 ID:498/+9kG
この人の兄の羽尾幸全って流浪の真田幸隆を助けたのに攻め滅ぼされた人だよな
というかその時裏切ったのが輝幸だけど
569 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 12:55:01 ID:xH2Fc66J
>>555 細川幽斎が足利義晴の庶子で
明智光秀が足利義澄の庶子なら
明智光秀は細川幽斎の叔父ということになって
忠興は親父の従姉妹を娶ったことに
570 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 13:23:12 ID:+f3S1D7U
そんなに珍しいことではないんじゃない?
つか、いとこ同士なら現在の日本でも結婚はできるけど・・・
571 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 13:36:26 ID:xH2Fc66J
いや、近親相姦がどうのこうのじゃなくて
ネタ的に血縁関係だなと思っただけ
572 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 14:58:27 ID:3G+Ry19D
>きっと 誰かがオレを妬んで昌幸の奴に讒言したに違いねぇんだ!!」
>……おいおい、こんなんでよく信玄に仕えていられたな。
曲淵庄左衛門「上原能登守殿の武名を傷つけた
>>560を訴える覚悟がある!」
573 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 15:10:31 ID:q6JHq00S
負けるだろ、どうせw
574 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 19:04:07 ID:oygqTyTy
姉妹スレに政宗と家光のいい話が出てたので、釣り合いを取ってみる。
ある日、将軍家光主催で大名を招き、宴席が設けられた時のこと。
伊達政宗が突然立ち上がり、家光の御前に銚子と盃を持って来た。「上様、思い差し仕るっ!」
見ていた井伊直孝が、あわてて止めた。
「な、なにをいきなり無礼千万なことを!正気に返れオッサン!!」
「ええい、止めてくれるな掃部殿!武士の情けじゃ!」
説明しよう!『思い差し』とは、宴席等で特に「これは」と思う者に酒を注いでやる事を言い、
おもに『上司』が『部下』に対して行なう行為であり、ときに衆道的意味も含むものである!!
「お、俺は別に・・・・・・/// 」
「上様までナニ言ってんスか!誰か来てー!殿中!殿中にござるーっ!!」
カオスのうちに宴が果てた翌日、直孝邸に政宗が訪れた。
「それがし昨夜は、いささか酩酊いたし、公方様に対し無礼を働かんところを止めて下さり、誠にかたじけなし。
貴殿のお蔭を以って、無事に相済みましたる段、平にご容赦の程をいただきたく・・・」
「・・・あ、いえ・・・ヨカッタデスネ・・・・・・」
昨夜のへべれけぶりとはうって変わった、作法にかなった挨拶に、かえって直孝のほうが面食らったそうな。
575 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 19:19:43 ID:+4khnmRI
ヽ、 / 思 佳
仕 思 上 ! ! い き
る い 様 ! | つ こ
. 差 | !, い と
し ノ l′ た
゙! ___ 丶
,,ノ' ´ ` ' /=ミ
/ 彡ll'''´
} / 彡lll
ノ|L_/ ___ {彡lノ
'- 、.....、r‐''´ }///i ''^'tォー` }j/i',|
ヽ l.| ´ |  ̄ vijソ.!
丶 └、 Fイ l′
/ ',''゙ ,,、二''‐ ,イ ケ|
, ,/. ヽ `''"´,/ ! ^|ー、
/ / _,,」、'....ィ' '|. \、__
. /./ ,. ‐'''"´ ! / , _」__ヾ',
.,'.,' /´ └ 、_ ノi ノ (、_ ``ヾ!
,'/ / ヽ、 ` ''ー 、ィ-─'' r`'^ `
l| ! リ `ぅ ー=、_
| | サ 〉
ト ′ ./''ー- 、,.._
| ヽl / ヽ、
| !,、 ! / ∠_
,イ ヾ' ィ 、 . / ,,ィ'´
576 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 19:57:53 ID:DO+hKaMl
アッー!
577 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 19:57:59 ID:pSR28xWX
政宗は本当にw
578 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 20:02:34 ID:wrl66x6D
やっぱりおじさんが少年を監督・貢献してやりたい気持ちとか
家光かわいいから布団の中でもかわいがってやりたいとか
まーくんも思ってたのかなw
579 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 20:32:07 ID:sflfPDKq
天正16年(1588)、伊勢松ヶ島城主、蒲生氏郷は、その居城を飯高郡矢川庄
四五百森(よいほのもり)に移すことを決定。四五百森は名を改め『松島』とした。
こうして松島の新城下が形成されつつあった頃のこと。
氏郷の御伽衆に、種村大蔵入道慮斎という者がいた。
彼は元々、織田信長の御伽衆であったという。
そんな慮斎も氏郷より松坂に屋敷地をいただき、そこに美々しい屋敷を建てた。
特にその庭は造形に念を入れ、中に富士山を模した山を筑山した。
ある時氏郷、慮斎が庭に富士山を作ったという話を聴き
「ぜひ御辺の庭を見たい」
と、彼の屋敷を訪ね庭の山を見てみると、なんとその山は、頂上の丸いものであった。
氏郷はかつて織田信長の甲州攻めに参加した際富士山を見ており、その頂上が平らであることを
知っている。
「これは如何に。こんな富士山は聞いたこともない!」
氏郷は大いに笑い、硯と紙を持ってこさせ短冊に一首詠み、それをこの山に立てて帰った。
その短冊に曰く
『富士見ぬか 富士には似ぬぞ松坂の 慮斎の庭のすりこぎが嶽』
松坂のすりこぎが嶽、と言うおはなし。
580 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 20:34:07 ID:sflfPDKq
>>579 素で間違えた!2行目3行目、松島じゃなく「松坂」ね!
581 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 22:17:22 ID:XFdW3X0M
>>574 どこまでがマジなのかまるで分からんのだが、この爺さんw
582 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 22:51:07 ID:vV0cZMmP
武田信虎のころ、甲斐河内に武田正昌という、鷹に詳しい男がいた。
当時の戦乱からか、鷹狩りが上方では流行っており、それが地方にも伝播してきていた(この頃には上方では茶が流行り出す)。
信虎も鷹が大好きで、ある日目利きと噂の正昌が所用で登城した際に、とっておきの鷹を見せた。
正昌は「地暮らしの柔鷹とは思えない、どこで手に入れたのですか」と口を極めて褒めた。
実はこの鷹、長尾為景から北条氏綱に贈られたもので、信虎が難癖を付けてぶんどったのである。
それを聞いた正昌、急に大声で叫んだ。
「なんと、伊勢(北条)のものたちが、いついつごろ領内を通ったので荷を改めましたがそれですか。
ならば、もう一匹、耳の後ろの毛が縞に荒れた、小さい鷹がいませんでしたか。あれこそが至高の鷹です」
信虎は仰天した。立派な鷹のほうが良いと思って、大きい一匹を召し上げてもう一匹は残してやったのである。
普通ならここで諦めるところだが、なにせ大名から大名へ贈られた荷をカツアゲしてしまう男である。
すぐに使いを立てて、鷹を交換させようとした。
それも、偽物と交換されたら大変だとでも思ったのか、この武田正昌を使いにしたのである。
可哀想なのは氏綱である。一匹は取り上げられたが、配下とより良い鷹が残ったので愛でていたら交換しろである。
氏綱は当時敵に囲まれており、武田正昌は甲斐河内の実力者であり、無念のほぞをかんだ。
ちなみに武田正昌は晴信のクーデターの時抵抗するが、穴山氏の仲介で血脈を保っている。
武田正昌と虎と鷹のおはなし。
583 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 22:57:56 ID:SeIaibzf
>>582 逸話とは直接関係ないのだが…
> 武田正昌
読みは”たけだまさまさ”?
584 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 23:09:09 ID:IjrTzsR4
585 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 23:18:05 ID:vV0cZMmP
すまん、栃木の人間で、武田はよく知らないのだ。狩猟習俗って本に書いてあったことのほぼ丸写し。
586 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 23:27:00 ID:wrl66x6D
感情ではともかく、鷹一羽で武田が味方になってくれるなら安いもの
ってこれ後世の逸話じゃなくて、文書が残ってる歴とした史実なんだよなw
587 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 23:33:05 ID:vV0cZMmP
>>584 いまリンク先読んだのですが、元々鷹狩りの一族だったっぽいですね。ありがとうございました。
588 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 23:41:37 ID:BPyfmfao
この丹沢氏は武田信長系の武田氏。
上総武田氏や真理谷氏と近く、和歌でも名を残した家柄。
鷹狩は丹沢山で生きるために身につけたのでは、と前前スレでは推測してたけど、
都の流行に敏感だったからかもしれないね。
武田が味方に、というよりは不可侵でいてくれる程度だな。
あと当時の名鷹は小城の一つくらいする値段。
589 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 23:52:40 ID:9yQUECx3
落語「くっしゃみ講釈」の「難波戦記」について語っている部分
「大阪城中千畳御上段の間には、内大臣秀頼公、御左側には、御母公淀君をはじめとして、
介添として、大野道犬主馬修理之助、軍師には、真田左衛門尉海野幸村、せがれ大助幸昌、
四天王の銘々には、木村長門守重成、長曾我部宮内少輔秦元親、薄田隼人正兼相、
後藤又兵衛基次・・・」
真田信繁「・・・」
毛利勝永「・・・」
長宗我部盛親「おい!」
※「元親」になっているのは、本の誤植ではなく、なぜか落語ではずっと「元親」の
まま語られてきたらしい
590 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 23:55:19 ID:xQdgwL9M
薄田隼人の逸話といや、狒々退治があるけど、なんであんな話ができたんだろうね?
実際にでかい猿を狩ったことがあったんだろうか。
591 :
前スレ401:2010/11/13(土) 23:59:20 ID:bf/H7pq2
話が戻って済みません。ムダに長い丹沢正信のものを投下した奴ですが、
「正」名前の読み方に
592 :
前スレ401:2010/11/14(日) 00:24:35 ID:IJVByBoq
途中で手が滑りました……。
この一族の「正」の読み方なのですが、結論から言えば「ただ」ではないかと思います。
>>584さんと
>>588の説の通り、この一族は
武田信長――武田信武―――(中略)―――武田信正――武田正信――武田正昌――武田正俊――武田正忠――
↑(上総武田初代) ↑(甲斐に戻る、新千載和歌集) ↑(ここから丹沢とも、初の鷹匠) ↑(駿河へ) ↑(ここから田沢。多摩へ)
という感じらしいです。
そのころ、武田信昌など、「信」系統が宗家嫡男の一文字目として流行っていたので、「正」を頭にしたのではないでしょうか。
つまり、 のぶただ――ただのぶ――ただまさ――ただとし――ただのり(ただあつ) ではないでしょうか。
そうしないと「まさまさ」「ただただ」になってしまうのですよ。
いま、「武田の分家が戦国時代を生き残るようです」あたりを書こうかと戦国時代初期〜中期の武田氏を整理しているのですが、
何ですかこの戦闘民族。島津に匹敵するgdgd&ヒャッハー具合です。あと豪族、それも由緒正しい甲斐源氏多すぎワロタ。
信虎の子供たちって、武田宗家としては相当珍しいタイプだったんじゃないでしょうか。
593 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 00:33:45 ID:Vo7pMxvP
そもそも武田の祖先はヒャッハー!のやりすぎで
苗字の地である常陸の武田荘から追放されて甲斐に流れ着いたからなw
594 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 00:49:54 ID:CHcnIVJB
武田信武をググッたら武田宗家第十代当主の方が出てきて困惑してしまったんだぜ。
武田信長も自分の高祖父(祖父の祖父)と同じ名前を嫡男じゃない子供に付けんなw
595 :
前スレ401:2010/11/14(日) 01:23:19 ID:IJVByBoq
お説ごもっともですが、そんなことを言い出すと、信正――正信のコンボもなかなかだと思いますww
もしかしたら、ひっくり返したのは「信」系統の宗家と名前がごちゃ混ぜになるからかもですねwww
せっかく武田のカオスっぷりの話になったので、前スレ401でカットした、前振りの部分を書き込みます。
戦国時代のちょっと前あたりのゴタゴタぶりが(頭ではなく心で)わかる内容となっております。
申し訳ありませんが、また長文です。
間違いありましたらご指摘ください。
とにもかくにも甲斐源氏というのは親戚が多いが、その中の一つの家のお話。
応永年間に甲斐武田氏13代当主だったのが、甲斐国と安芸国守護を兼任した武田信満。
応永というのは、大体1400年前後だと思ってよい。昭和と明治に次いで長い元号で、割と平和な時代だった。
しかし応永24年に上杉禅秀の乱が勃発、関東は再び戦乱に明け暮れることになる。
武田信満はこの上杉禅秀の縁戚であり、味方して戦うが敗れる。
やがて、幕府軍に通じた逸見氏によって甲府盆地を追われ、木賊山にて自害する(勝頼が自害した天目山と同じ山)。
ここに武田氏は甲斐源氏統領の座と国主の実権を失い、逸見氏、穴山氏、跡部氏、勝沼氏など(彼らも甲斐源氏)が台頭。
甲斐は100年にわたる動乱に陥るのである。
さてこの武田信満は、郡内(富士河口湖方面)の領主、小山田氏の娘を妻にしていた。
その嫡男武田信重・次男信長は、国主の地位を取り戻すべく戦うが敗れ、甲斐は群雄割拠のままにらみ合いとなる。
信長は甲斐を逃れ、若狭武田氏の支援のもと、足利義教に仕える。信長は結城合戦で武功を挙げ、さらに上総を制圧。
ここに上総武田氏とその分家である真里谷氏が誕生するのである。親戚大名が増えるよ!やったね信ちゃん。
さてこの武田信長は、郡内(富士河口湖方面)の領主、小山田氏の娘を妻にしていた(二回目)。
その縁あってか、その次男・武田信武は甲斐に戻る。以後この家は上総武田氏と甲斐武田氏のパイプ役となる。
信武は和歌に優れ、新千載和歌集にも作品が取り上げられている。
京都に上ったことはなかっただろうから、人づてに都まで聞こえる才能があったのだろう。
さて、その孫・信正は郡内(富士河口湖方面)の領主、小山田氏の娘を妻にしていた(三回目)。
信正は最後の勅撰和歌集である、新続古今和歌集にその作品を残している。
ようやく本題なのだが、その子に武田正信('A` ) という口の悪い男がいた。
……と、いう予定だったのですが、あまりに長くなるので前スレ401では、本題からお届けしたのです。
596 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 01:35:14 ID:YzYyrFnZ
大内氏の応永の乱とか越後の大乱とか応永の外寇とかがすぐに浮かぶから
割と平和って言われてもなぁ。
597 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 01:36:30 ID:Vo7pMxvP
畿内は平和ってことなんじゃないの?
598 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 01:38:52 ID:Q+kIgmTC
小山田の娘ワロタwwww何のフラグだwwwww
つまり、上総に逃げて地位を作った武田信長が、甲斐の実権を取り戻す支援のために信武を送り込んだというわけね。
しかし甲斐はまさにミニ東北だな。
甲斐以外でも甲斐源氏は若狭、南部、上総、真理谷、紀伊、あと北関東にもいたっけ?
カオスだ・・・。
599 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 01:42:18 ID:YzYyrFnZ
600 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 01:47:51 ID:Vo7pMxvP
郡内(富士河口湖方面)という書き方はちょっと・・・
河口湖は郡内の一番外れで、もちろん室町・戦国時代にも郡内の辺境地帯だった。
郡内(都留・大月方面)と書くべきでは?
601 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 01:55:15 ID:Q+kIgmTC
関東だと天気予報であのへんを、富士河口湖っていうからじゃない?
あともしかしたら大月を小山田がとったのはこの後かも。
応永だけど、朝鮮とは対馬の宗さんだけですぐ済んでいるし、
大内をのぞけば少なくとも近畿から関東は平和なんじゃ?
越後の大乱は上杉禅秀の乱としてちゃんと書いてあるぜ。
602 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 09:25:02 ID:gSCbXPuN
戦国話でなくてすみません。信武話が出たので嬉しくて…
>>598 薩摩にもあるんだよね、確か。ちなみにこれらの所領はほとんどのものが、武田信武(先代)やその一族が尊氏からもらったもの。
武田信武は甲斐・若狭・安芸守護で、(真偽は諸説あるけど)九州探題にも任じられ、薩摩、紀伊にも所領を得て、尊氏留守中の軍事権を委任されてまでおきながら、知名度がイマイチなのが寂しいところ。息子が禅秀の乱でケチつけちゃったからなあ。
ちなみに代々の任官名である「陸奥守」も、知る限りは彼からだと思います。他にも「伊豆守」や「左馬頭」にも任じられているから、いかにアノ尊氏の信任が篤かったかが分かろうというもの。
面白そうな逸話がないので、まだ向こうのスレには書けませんが。
603 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 11:59:28 ID:DKDiitDt
wiki見てたんだけど
土佐の香宗我部も武田から来てるんだね
604 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 14:06:08 ID:QYLbc0KU
立花宗茂、ひとこと吐き捨てる
その一
関ヶ原の後改易になった立花宗茂に、前田利長から
「十万石でウチこない?」と誘いがあった。
使者が帰った後のひとこと。
「腰抜けの分際で偉そうなことを(゚Д゚)ケッ」
故太閤との縁の深さでいえば前田家は筆頭格なのに、東軍についたことを怒ってるんだろうか。
でも清正にはもっと長い断り方をしてるので、武辺でない利長が嫌いだったのかもしれない。
その二
小瀬甫庵が太閤記を書くにあたって立花宗茂に取材しようとした。
オファーを受けてのひとこと。
「俺の働きは天下の人が知っている。自分から功名をいい立てたりするかよ(゚Д゚)ケッ」
完璧超人は何か誤解しているようだ。
605 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 14:09:43 ID:ZsdmcQEl
606 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 14:14:32 ID:64bme31L
>>604 強い人は性格悪くても敬意を置くが
弱い人は軽蔑しちゃう
宗茂も戦国時代の人だからね。
607 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 14:17:18 ID:RumIE1UC
608 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 14:43:10 ID:jyB+3nh/
清正は最初から家康に協力してるけど
利長は家康に敵対されたのに抗戦せずに人質送ったから、その違いじゃないの
宗茂に限らず戦国時代って「誰に」より「どういう経緯で」敵対or味方したかの方が重要じゃね
あと、宗茂は関ヶ原後、清正にえらい世話になってるので、これで利長相手と同じ態度とってたら
さすがに人としてどーよと思うわ
小瀬甫庵の太閤記みたいなのは、単なる歴史書とか娯楽読物ではなく
「自家の武功を宣伝できる媒体」と捉えられてた節があるので
「自分はそういう手段で名声を得るつもりはないですよ」という意味だろう
黒田長政は「泰平の世に武功自慢とか、もうそーいう時代じゃないよねw目立つな目立つな」って
言って、家臣が甫庵に黒田家をアピールする書付を送ろうとしたのを止めたそうだ
609 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 15:21:45 ID:oKjv/OtX
毛利元就の逸話にも「伝記を書かせてください」って言ってきた奴を「お前らみたいなのが変なこと書き残して後の世で物笑いの種になるのだ」って追い返した話があるな。
このスレを見ているとまさに卓見であると思う(藁
現代でも、偉くなった人に「伝記を出版させてください」って執筆費と出版費をたかる商売があるけど、よっぽど自意識過剰な奴だけでしょ、そんなのに引っかかるの。
610 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 17:24:53 ID:Jfg+xTPp
>>604 小瀬甫庵は前田に世話になってるから秀吉の暗黒面(秀次事件)を詳しく書いたくせに
利家の暗黒面(一向一揆惨殺、荒木村重家族虐殺、賤ヶ岳寝返り)を詳述しない奴!
金によって相手から聞いた話を取捨選択して、落としたり持ち上げたりする。
最大の被害者は福島政則だったかな・
こんなくず野郎に自分の業績を語らなかった立花宗茂のいい話じゃないのか?
611 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 17:44:39 ID:NAnF1vCv
でも太田牛一も、池田家に出した「信長公記」には、池田一族の活躍を多めに盛り込んだりしてるらしいし
612 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 19:02:28 ID:JTbDp2to
>>611 むしろ、膨らませてあれなのか……>池田氏の事跡
613 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 20:50:13 ID:soG83UPg
>>610 甫庵のは給料貰ってる所(前田関連)の話は隠蔽し、
嫌いな相手は貶めているだけで、
一般人としては普通の対応だろう?
三河者(彦佐)なら書き付けるだろうけど、
彦佐だって御旗で事実を隠蔽(と言うか歪曲)してるしな。
公的な歴史書の類なら、批判されても然るべきだが、
そういう性格の物でも無いのだから、
読み手が甫庵という色眼鏡が掛かってる事を理解して読めば良いだけで、
そこまで腐すものでも無いよ。
614 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 21:14:50 ID:Jfg+xTPp
>>613 ということは、「あんたのこと(良く?)書いてやるから、なんか話しありません?」って来てる奴が
前田家の飼い犬だぜ。スポンサーの家臣になりませんかって勧誘を「けっ」って蹴飛ばした野郎の
事を良く書くわけ無い罠。
そこらへんがわかってるから、なんも話さなかったんだと思うね。
615 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 22:05:22 ID:K/oVdpuh
朝鮮征伐の際の、日本軍本営たる肥前名護屋に置いて、水汲みの問題を発端として
あわや徳川家と前田家の衝突へと発展仕掛けた事件については
肥前名護屋水騒動
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3540.html こちらに詳しいが、今回はこの事件の、前田家の方の記録を見てみよう。
天正20年(1592)5月5日のこと、水争いから始まった徳川、前田の騒動は次第に大きくなり、
ついには一触即発の事態となった。
徳川前田の両家は臨戦態勢となり、今にも合戦が始まらん、という状況になると、
普段より利家びいきである蒲生氏郷、浅野幸長、毛利河内守といった面々は家中の者達に
具足を付けさせ、前田屋敷より少し離れたところに自身陣取り、合戦に備えた。
また前田家重臣である長九郎左衛門も急遽500の人数を引き連れ屋敷に入った。
これに利家も大変に気を良くしたという。
さらに、金森法印、堀秀政、村上義明などは公儀をはばかり自身は出なかったものの、
加勢の人数を前田屋敷によこした。
さて、この事件より少し前、伊達政宗は前田利家から金三千枚を借金していた。
この事件が起こると、政宗は、徳川家にも前田家にも冷静な対応を呼びかける使者を送った。
その上で自身の屋敷に家中の者達を集合させ屋敷の防備を固めた。
名護屋の各家の動向を横目に調べさせていた利家はこの報告に
「ということは政宗は衝突に参加せず、中立を守る気か?」
これに横目の家臣、表情を曇らせ
「いえ、それが…」
「なんだ?政宗は屋敷から動かないつもりなのであろう?」
「たしかに政宗様は人数を屋敷内に固めております。ただ、その鉄砲の筒先がすべて、
我が前田家の屋敷の方に向いております。」
利家これを聞くとさすがに
「伊達政宗という男、若いくせになんという二股膏薬だ。」
と、大いに呆れたそうである。
『菅利家卿語話』より、肥前名護屋水騒動の伊達政宗についてのエピソードw
616 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 22:07:27 ID:gYBZrHt6
さすが、政宗。格がちがった。
617 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 22:17:08 ID:64bme31L
この手の逸話を聞くたびに思うが「筒先が向いてる」ってどういう意味なんだろ?
象徴的表現?
それとも実際に鉄砲足軽を並べて銃口を向けて射撃姿勢をとらせたの?
後者だったら大問題になるような・・・
618 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 22:36:41 ID:K/oVdpuh
>>617 象徴的表現でしょうね。
「あいつ中立を装ってるけどいつでも前田屋敷の方に向かって攻め込む態勢取ってますよ」
という意味でいいかと。
619 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 22:40:30 ID:64bme31L
620 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 22:49:28 ID:kWQGupho
本当に汚い男よ
だがこういう奴は長生きするw
621 :
人間七七四年:2010/11/15(月) 00:01:48 ID:4x5nmmZO
その点武蔵さんなんかは生きてたらどっちかに突っ込みかねんしな、早死にも宜なるかな。
…いや、両方にだろうか。
622 :
人間七七四年:2010/11/15(月) 00:15:13 ID:WL3Vk0mr
鹿島左衛門大輔義幹は兄の前五郎の討死を受けて、幼くして鹿島家の家督を継ぐ事
になった。
当主が弱い家は勢力を失う。鹿島家も義幹が幼いのを良い事に、家臣や周辺の豪族
達が、好き勝手に鹿島領を横領するという状態に陥った。
それでも何とか断絶する事なく、家を保った鹿島家であったが、義幹は成長するに
つれて、武勇を好み、勉学を嫌う、粗暴な青年に育って行った。
義幹が側に置き、重用したのは玉造源三と言う浪人上がりの小者。
この男は「仁義を蔑み、利を貴ぶ」悪人であると言われ、何と数年前に家臣達が鹿
島家から強奪した領地を、何の相談もなく取り返してしまうという暴挙にでたので
ある。
そればかりか検地を行い、鹿島家の収入を増やす。増えた歳入のおかげで予算に余
裕が出来ると鹿島城の改築を行い、防備を固めるというトンデモナイ事をやり始め
た。
折角宗家から盗み取った領地を取り返され、検地や軍備の強化で宗家の権力を固め
られては、我々家臣が好き勝手出来ない。
困り果てた鹿島家臣団は、江戸家や行方家に話を持ち込む。
その結果、
「鹿島家の領地を江戸但馬守通泰に割譲する」
「先代・鹿島前五郎の娘(江戸通泰の姪)を府中忠幹(大掾忠幹)の弟・次郎に嫁
がせ、鹿島家当主に迎える」
という二つの条件で協力を取り付けた。
そして遂に江戸・行方・府中の連合軍三千が鹿島城へと進軍を始める。
対する鹿島城には七百余の兵力しかない。
家臣団の中で義幹側に残ったのは東右衛門大輔と林左京亮くらいであった。
「殿、源三殿が進めていた城の改築は未だ済んでおらず、兵力差も明らかです。三
千の敵勢を普請途中の城で堪える事など出来ませぬ。ここはどうか、私の居城、東
城へお退きください!」
「東殿の城へ移り、総州の加勢を得た上で捲土重来いたすべきです!」
義幹は二人の進言を聞き入れ、下総国東城へと落ち延びていった。
623 :
人間七七四年:2010/11/15(月) 00:18:36 ID:WL3Vk0mr
義幹を追い出した連合軍により、府中次郎が鹿島通幹と名乗って鹿島家の家督を継
ぐと、民と臣下に恩愛を施し、国中に慕われる名君となった。
……のではあるが、城の中でも外でも、色々と大変な事が起こっていた。
まず城の外では、義幹方の勢力が、未だにゲリラ戦を続けていた。下総から東氏の
兵も海を渡ってやってきており、彼等との間で連携を取っていた為、容易に揉み消
す事の出来ない火種となっていた。
そして城の中。義幹によって頭を押さえつけられていた重臣達が、彼を追い出した
事により調子に乗り始めていたのだ。
特に眼に余る振る舞いが多かったのが根本右馬。
横柄に振る舞い、周囲を貶め、罪を捏造し、裁判結果を歪めたりもする。
神輿として担ぎ上げられたものの、漸くとんでもない家に来てしまったと気が付い
た通幹、なんと実家へ帰ると言い始めたのである。
この情報をキャッチした義幹、今こそ好機、と手勢を率いて鹿島に向かう。
「通幹を迎えに来た府中の兵士」を装い、船着場の人夫にも兵を紛れ込ませて鹿島
城へと潜り込む計画を立てる。
しかしこの計画、少々杜撰過ぎた。
と、言うよりそもそも「根本右馬の横暴で通幹が困っている」「通幹が府中に帰る」
という情報自体、大掾氏側がわざと流した情報だったのである。
義幹が罠にかけられた事に気付いた時には、鹿島城の城門は堅く閉ざされていた。
しかも義幹&源三が進めていた鹿島城の改築は、改築に反対していた筈の重臣達の
手によって、ちゃっかり完成していたのである。
「露見したなら仕方ない。総攻撃だ!」
義幹の命令と共に、下総勢&鹿島ゲリラ部隊によって一斉攻撃が始まる。
しかし元々、計略を使わざるを得ない程度の小部隊である。
改築が済み、堅牢な要害と化した鹿島城を陥とすには、兵力が全然足りない。
義幹勢は敗北。しかもここで義幹自身も討死にしてしまう。
これによって鹿島家は江戸氏の影響下に置かれる事になる。
(鹿島治乱記)
鹿島義幹や玉造源三を暴君だ、奸臣だと罵倒のオンパレードで書かれているんです
が、罵倒されてる割に、書いてある事跡自体は普通に名君・名臣じゃね?と思いま
す。
どうせ悪く書くなら、なんで暴君のテンプレで書かなかったんだろ。
どんな立場の人がこの本を書いたのか、ちょっと気になりますね。
それとも、僕の読み方が間違ってるだけか?確かに所々、この解釈で良いのか不安
な所はあるんですが……
あ、冒頭に書くのを忘れていましたが、常陸国鹿島氏の話。
>>
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4125.html の数代前の話に当たる筈です。
624 :
人間七七四年:2010/11/15(月) 20:39:11 ID:ixK7umrh
著者に関してはこうした考察がされていますね。
『群書解題4』
・また漂泊の隠士といっていることから考えてみれば、没落した主家にゆかりのあるものではないであろうか。文の始めには
「君ハ舟也、臣ハ水也」とも記しているし、文中に古語・漢書などを引用したりして、漢文調で儒教的な表現や意識を強く出しているから、
そうした教養も深いものであったろう。
『鹿嶋の歴史 中世・近世編』
・成立年代は、その奥書によると大永六年(一五二六)に漂泊隠士という匿名の人物の筆による。この人物の素性は明らかではないが、
おそらく敵役である鹿島義幹ゆかりの者と思われる。
義幹側で、漢籍の教養があった人物のようです。それだけ複雑な思いで書かれたものかと。
625 :
人間七七四年:2010/11/15(月) 21:05:07 ID:ixK7umrh
×それだけ
○それだけに
私も義幹たちの行ったことは一面から見れば戦国の世にはかくあるべき、というようなことだと思います。
主家の力を強め、軍備を強化する、そうしたことは他勢力の干渉を招いた宿老たちよりよっぽどいい。
ただ、義幹側と目される著者ですら書かずにはいられないほど、義幹の暴政も目に余るものがあったのかと。
626 :
人間七七四年:2010/11/15(月) 21:49:40 ID:wi+21HcP
627 :
人間七七四年:2010/11/16(火) 00:25:22 ID:1bo331D+
慶長19年(1614)、大阪冬の陣でのこと
12月6日、茶臼山へと陣を変えた徳川家康は、備前島片桐且元の陣屋に入り
そこから幕府方の陣地を視察、家康は自ら銃弾避けの竹束の外にまで出て、戦場を観察した。
さて、家康の巡察が始まるまで、大阪城内からは切れ間なく銃弾が放たれていたのだが、
家康の巡察が始まったとたん銃撃が止まった。
これにはこういう理由があった。
この方面の指揮官は後藤又兵衛であった。
又兵衛は家康を見知っており、家康の姿を認めると
「ここのような、兵士であってもなかなか出てこれない場所に出てくるとは、
さすがは徳川家康である。」
と、家康の勇気を褒め、すぐにこのような指示を出した
「あそこに出てきたのは徳川家康である。大将というものは、弓鉄砲で討つものではない。
命令を変更する、射撃を中止せよ!」
このため、大阪城からの射撃が止んだのである。
ところがこの後、大阪城内ではこの事により
「後藤又兵衛は家康に一味しているのだ!」
という風聞が広がり、疑いの目で見られるようになった。
又、かねてより家康は近習の者達に対し
「後藤又兵衛や御宿越前などは御所様(秀忠)に対し遺恨などあるはずもないのに、
どうして籠城してしまったのだろう。」
などと言っており、この事も大阪城内に聞こえてきたため、さらに疑惑が囁かれた。
後藤又兵衛が早々に討ち死にしたのは、この為であったという。
戦国華やかなりし頃なら、後藤又兵衛のこの行為は勇者のものとして讃えられていただろう。
そんな、戦乱の時代が終わる直前の、勇者の義のお話。
628 :
人間七七四年:2010/11/16(火) 00:50:16 ID:TRCFI7RL
常陸国に勢力を伸ばす小田天庵氏治。
そのあまりの強大さに悩まされた周辺諸豪は、佐竹・結城・宇都宮を中心に同盟を
組んで小田家に対抗する。
しかし、それでもどうにか五分に持ち込めた程度。小田天庵の勢いを押し返すまで
には至らなかった。
困り果てた反小田連合は、ちょうどその時上州に来ていた上杉輝虎に着目する。
「お前達も俺の幕下に入れ」
そういう通告が来ていたのに対し、
「小田天庵を締めてくれたら、喜んで馳せ参じますよ」
と返答したのだ。
その返事を聞いた輝虎、
「ん、わかった。じゃあ早速行くわ」
と、越後から率いてきた八千の兵のみを連れて、進軍を開始。
真壁道夢が送った使者が復命した時には、既に下野国氏家原にまで輝虎の先鋒が到
着していたと言うから、恐るべきフットワークである。
この進軍速度に天庵は仰天。しかし、天庵以上に仰天したのが連合軍の諸氏である。
「俺等、全然準備出来てないよっ!?」
「天庵相手に八千の越後勢だけで戦うのか!?」
まぁ、戦自体は、
>>
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4003.html こんな感じでいつもの天庵クオリティなので、安心して見ていられる。
ついでに言うと、命からがら逃げ出した負け戦のくせに、天庵様ってば逃走途中で
「馬が疲れてて可哀想……」
と言って川辺で馬を休ませ、たらふく水を飲ませたりしている。
当然発見されて弓矢鉄砲を雨霰と撃ち込まれて九死に一生を得る訳だが。
この「山王堂合戦」の結果に驚愕したのは小田家だけではない。反小田連合の諸勢
力もである。
上杉軍のスピードに付いて行けなかったのもあるが、自分達が力を合わせても勝て
なかった相手に独力で挑む、と聞いて少々の反発もあった。
「お手並み拝見」
とばかりに高見の見物をしていたのだ。
予想外の結果に慌てて兵を出し、小田城を取り巻く。
大敗に合わせて連合軍+軍神に囲まれた小田城。
天庵は信太鴨之助の進言に従って、藤沢城へと退却。天庵の身代わりとして鴨之助
が切腹、小田城は陥落した。
が、勿論輝虎が上州に帰った翌日、天庵はあっさりと小田城に復帰。
結局連合軍は、鴨之助が城主を務めていた坂戸城を、城主不在となった隙に宇都宮
勢が乗っ取っただけの結果に終わった。
スカッと大敗した割には被害が少なかった小田軍。(いや、人的被害は多大だろう
が)「軍神鳴動して坂戸一城」と言った所か。
『常陽四戦記』から、軍神様・天庵様というマイペースな連中に振り回される周辺
諸勢力のお話。
……冒頭の一節への突っ込み、お待ちしております。だってそう書いてあるんだも
ん。仕方ねぇじゃんwww
629 :
人間七七四年:2010/11/16(火) 00:55:33 ID:C0RfVSE9
>>627 でも大阪方にわずかでも勝ち目があるとしたら家康を討つしかないしなぁ。
又兵衛個人としては満足なのかもしれんが、大阪方の将としてこの行動はちょっと……
630 :
人間七七四年:2010/11/16(火) 01:22:36 ID:1bo331D+
>>629 つーか後藤又兵衛は他の浪人たちと違って、大野治長あたりと一緒に主戦派を押さえて
豊臣と徳川の和平を目指してた節がある。
木村重成あたりにもそういう事を言ってた話も残ってて、それもあって主戦派から
かなり怒りを買ってたらしい。
もしかするとこの話も、家康を殺したら和平が出来なくなる、という判断からのものかも。
なので討ち死にの時真田たちが遅れたのは、又兵衛をわざと見殺しにしたのだ、
という説もある。
631 :
人間七七四年:2010/11/16(火) 19:39:01 ID:x9tGid+t
汚い!汚な杉!さすがはタカリ屋!お兄ちゃん、可哀相(。。;)
と長年思っていましたが、そういう背景が有りましたか。
632 :
人間七七四年:2010/11/16(火) 22:29:33 ID:hfcrC9xH
>>627 >「御所に遺恨などあるはずないのに」
南部への嫌がらせで入城した北十左衛門と、
地元の名士だから入城した安井道頓を思い出した。
いや、家康のいうこととは違うというのはわかってます。なんとなく。
633 :
人間七七四年:2010/11/16(火) 23:41:43 ID:DvvhC7eM
>>628 小田さんちはいろんな軍着物的逸話があって面白い
実は本当は名将だったのかもしれないし
634 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 00:43:49 ID:6Ktlog4K
小田と最上の子孫の方は退場願いますね^^
635 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 04:48:53 ID:oGJcjzqp
>>627 >大将というものは、弓鉄砲で討つものではない。
鬼武蔵「え?」
636 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 05:14:15 ID:VzGxn/FS
リカバリーできる程度にいくらでも負け続けることができる能力というと天才のように思えるふしぎ
637 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 06:16:58 ID:VfNiFEmO
>>635 大将というものは、弓鉄砲で討つものではない。ただし、鬼は除く
638 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 06:26:47 ID:cz15z1MF
鬼畜三兄弟の策謀により討たれた佐久山義隆。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-606.html 参考
しかし、これで佐久山氏が滅んだわけではなかった。
一族の佐久山泰秀が福原資孝に佐久山城を落とされる際に落ち延びることに成功し、
入江野に逃れ、その地に城を築きなんとか佐久山氏は存続することが出来た。
不思議なことに、その後も那須氏の配下に留まっていて、那須資晴にこの件での対応を求め続けていた。
ところが、三兄弟を恐れた那須資晴は具体的に対処することは無かった。
このことから、佐久山氏は那須氏と距離を置くこととなった。
結局、泰秀の子泰清の代になった1586年に具体的に敵対行為を取っているわけでもないのに塩谷氏に接近しているらしいという理由で滅ぼされた。
なんとなくすっきりしない、不幸な一族の末路。
639 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 19:03:57 ID:2cB7aYbu
どう考えても、大関さんの差し金です。
本当にありがとうございました。
640 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 00:16:05 ID:tFJEiQGt
天正12年4月9日の長久手の戦い。
秀吉の三河中入り軍を大いに打ち破った徳川軍は、近くにあった池で血に濡れた
刀や槍を洗った。その血の量があまりにおびただしく、そこは大きな池であったのに
全体が真っ赤に染まったという。
刀槍を洗ったこの池は、槍洗い池と呼ばれる。
と、それからのことである。この池では毎年長久手合戦が行われた頃になると、
必ず池が赤く染まるようになった。
人々、これは長久手合戦の犠牲者の血が浮かび上がるのだといい合い、かくして槍洗い池は
「血の池」と呼ばれるようになった。
現在、この池は埋め立てられ公園となり、桜なども植えられ長久手町の人々の
憩いの場となっている。
ちなみにこの公園の名は「血の池公園」である。
長久手の「血の池」という地名の、由来についてのお話。
641 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 00:23:08 ID:nkwyw5lt
何というか、ベタな話だね・・・
642 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 00:23:30 ID:zeS6XxRZ
643 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 00:28:33 ID:yEdTOpGx
憩いの場が血の池公園って名前なのか…ちょっとゾッとしたぜ
644 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 01:15:14 ID:MY7sqxkw
常陸国笠間の城主・笠間大和守心休と猿子(益子・マシコ)城主・猿子某は共に宇
都宮尚綱に仕える同僚同士であった。
それも笠間は家老、猿子は一門と、常陸方面における宇都宮家の大黒柱と言っても
良い二人だったのである。
ところがある時、両家の領民の間で山林争論が起こる。初めは口論だったものが、
徐々にエスカレートし始め、笠間側の領民が猿子側の領民を殺害してしまうという
事態にまで発展する。
これ以来、笠間と猿子は互いに争うようになってしまう。
互いの領内で境を接していたのは富谷城の加藤大隅守(猿子側)と橋本城の谷中玄
蕃允(笠間側)。
加藤は谷中に押されつつ三年の間、何とか持ちこたえていた。
しかし、主君・宇都宮家からは何のアクションもない。配下の者同士が三年間も戦
争を続けているというのに、どちらかを成敗する気配もなければ、和平を仲介する
でもない。まったくのスルーである。
「笠間領民による猿子領民の殺害」が原因で戦となり、「富谷城が笠間軍によって
陥落寸前」であるという現状に対し、宇都宮家の援軍を期待していた猿子は激怒。
一門衆の身でありながら宇都宮家を見限って、結城家と手を結ぶ。
結城家の動きは素早かった。
約束した五千石の領地を受け取ると同時に富谷城へと援軍を派遣する。
猿子軍は加藤大隅守の手勢を囮に笠間軍を誘き出すと、結城軍と共に包囲殲滅、こ
れによって谷中玄蕃允も戦死する事になる。
大敗を喫し、谷中玄蕃允を失った笠間氏は、橋本城に江戸美濃守を派遣する。
谷中の息子・孫八は十八歳と未だ若く、紛争地の最前線を任せる事は出来ない、と
の判断であった。
これを屈辱と受け止めた孫八、江戸美濃守を上回る手柄を立て、皆を見返してやろ
うと心に決める。
孫八の従兄弟(谷中玄蕃允の甥)である安達大膳もこの次第を聞きつけ、笠間心休
の許を辞し、橋本城に入った。
谷中勢の生き残りを集めた孫八と大膳は兵を三つに分け、自らは富谷城近辺にまで
出向。近くの畑で農作業中の少女達を襲い始める。
勿論、富谷城の猿子軍はこれを座視してはいられない。
逃げる孫八&大膳、追う猿子軍。まんまと孫八達は猿子軍を伏兵のど真ん中へと誘
き寄せたのである。
合図と共に二方から一斉に襲い掛かる谷中勢。
猿子軍はこの戦で、勇者と名高い伊達出雲守が孫八に討たれたのを初めとして、青
柳豊後守、青柳肥前守等、主だった将を大勢失ってしまった。
三手に分けた最後の部隊は、その隙に富谷城を突いたが、これは流石に失敗。
富谷城と橋本城の間での睨み合いはその後も変わらなかったと言う。
しかし先年敗北した分は二人の若者の活躍で取り返す事が出来た。
笠間心休はこの働きを大変喜び、橋本城を孫八に任せ、亡父・玄蕃允の名を継がせ
たのであった。
『常陽四戦記』より宇都宮家中骨肉の争い。
んでも益子家って、この事件の前から度々宇都宮家に対して反乱を起こしてる、半
独立領主だったみたいですね。
那須にしろ宇都宮にしろ、この辺りは大変だったんだなぁ。
645 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 01:38:50 ID:nkwyw5lt
史実では益子と笠間の争いがあったのは天正9年から11年。
せっかく佐竹=宇都宮=結城の三氏同盟を中心に常陸・下野・下総の諸勢力を結集させて北条の侵略を阻止しようとしたのに、
洞中連合は全く足並みがそろわず、相変わらず仲間割ればっかりで、
厩橋の北条や由良・長尾等の味方を北条に各個撃破されてしまいましたとさ。
646 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 02:32:24 ID:rQgo9qW5
>>645 利根川東岸の豪族衆は基本こんな感じだよなぁ。
647 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 03:00:39 ID:nInl/KPt
逸話じゃなくてゲームなんだが、信長の野望・天道の追加シナリオでクリア特典で小松姫がでるらしいんだが、でるのはいいよ、いいんだが、
武勇の数値が兄ちゃんより高いんだ
648 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 07:56:37 ID:owFimAtl
KOEIゲーに何を期待してるんだ?
649 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 08:23:47 ID:UE8dqYSg
姫武将は笑うところ
650 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 08:29:21 ID:NbLXl4oQ
さすがに流れぶつ切りで雑談始めるのは勘弁してほしい
ゲームの場合はふさわしいスレが他にあるだろう
651 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 09:36:41 ID:pEMafOx1
U字工事の益子卓郎の適当な「ごめんねごめんね〜〜」は先祖譲りか
652 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 10:23:15 ID:H7MlkTNX
>>640-641 源平合戦の古戦場にもあったなあ
屋島山頂水族館の血の池でアシカショー、違ったか
653 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 15:37:14 ID:Np2HG5hu
654 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 16:06:21 ID:q888NI4o
益子の最後の当主って芳賀氏出身だっけ?
あの辺のgdgdぷりはひどいよなあ
655 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 16:34:03 ID:FgimBAEK
>>645 隣近所には色々あるんだよね…
関東における北条包囲網はどうにもうまくいかない。
一番うまくいった謙信の小田原城攻めも微妙な結果に終わるし。
656 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 18:37:29 ID:FpFA1fe/
>>654 そうだっけ?
逆に益子氏出身で芳賀氏の当主になった人なら知ってるが
657 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 21:55:14 ID:tFJEiQGt
前田玄以の嫡男は前田左近将監秀以といったが、この秀以の素行甚だ悪く、
親子は仲違いをした上、秀以は出奔し伊勢の朝熊山にて頭を剃って流浪した。
色々とこの親子の和解をさせようとした動きはあったものの。前田玄以がそれらを全く受け付けず、
ついにはこの親子不仲の事、豊臣秀吉の耳にまで入ってしまった。
これを聞いた前田利家は、このように評した。
「徳善院(玄以)は今の世の中に置いて分別者であると褒め讃えられているが、
彼の分別は間違ったものだ。
わしの息子である肥前守(利長)は若い頃、諸事素行について、それはもうわしの気に入らぬことが
多かったものさ。
しかしあいつを安土に置いた頃、わしは越前府中にあったが、そこから村井豊後、
近藤善右衛門、木村三蔵、小塚藤右衛門といった者達をみんな安土の肥前守の元に遣わし
行儀などを大いに教育させた。
また肥前守の語る言葉も、きちんとしたことを語るよういちいち気を使わせた。
そのため世間の評判も高くなり、信長様の婿として選ばれるほどとなった。
これは全て、我らの教育の結果である。
父が子をそのように悪く育て、親子仲違いし主君の耳にも入る、などと言う恥ずべき事態に
至ったのは、これはひとえに徳善院が無分別であったためである。」
この利家の言葉に周りの者達、何れもご尤もな事だと感じ入ったそうである。
前田利家の、子供の教育についてのお話。
658 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 22:20:02 ID:M5w3jjEn
教育の甲斐有ってティンコ丸出しできる漢になりました
659 :
鬼武蔵:2010/11/18(木) 23:13:30 ID:VBtVPcfr
ヒャッハァーしないとな
660 :
人間七七四年:2010/11/18(木) 23:56:43 ID:TO1NLHvm
某「腰抜けが何をぬかすか」
661 :
1/2:2010/11/19(金) 01:30:33 ID:4a5suRdh
有名な話だけど全体を書いたものはまだ無いみたいなので投下
天正12年(1584)の事だという。
そのころ、出羽の支配をめぐって激しく争っていた最上義光と白鳥十郎長久は和睦。出羽には一時的な平穏が
訪れた。が、白鳥は氏家尾張守などと密かに連絡をとるなど義光に対抗するための謀りをめぐらし、その
平穏も長くは持たぬと思われていた。
そんな時である
最上義光より白鳥に書状が届けられた。
『私は病にかかり重病に陥り、最早長くはない状況である。
このような私を哀れと思うのなら、とうか十郎殿と対面し、我が領地の後々のことをお頼みしたいのだ。
そしてわが子修理太夫が成人するまで、我が最上家の系図も預かっていただきたい。
どうかお頼み申す。』
これはつまり、自分の死後最上家の管理を全て、白鳥十郎に任せたいということである。
戦うこと無くライバルが消え、その領地が手に入る!白鳥は大喜びで訪問する旨の返事をし、
日をおかずして山形城に向かった。
さて、白鳥が義光の屋敷に入ると、その中は非常に重苦しい空気に包まれている。
最上の家の子達は残らす屋敷に詰め、書院では清就院の護摩壇が作られ病気退散が祈られていた。
御座の間の次には最上一門の者達が集まり、義光の病状の重さに深刻な表情を浮かべていた。
白鳥十郎は普段ならもっと用心深いのだが、この様子を見て『義光はたしかにもうすぐ死ぬのだ』と思い、
その哀れさに思わず涙ぐんだ。
そして白鳥は最上義光と対面する。
義光はもはや立ち上がることも出来ず、床に臥せったままであった。
弱々しい声で義光は、白鳥に話しかける
「あなたに直に言っておきたいことがある。どうか近くまで寄ってもらいたい。」
白鳥が枕の近くまで顔を寄せると、義光は白鳥の耳元でつぶやく
「今まであなたと音信が無かった事は、私の本意ではありませんでした。
これからはどんな事でもお心を置かれること無く、いつでも言ってきてもらいたい。」
そして枕から頭を上げ
「私がこのような哀れな体であなたをもてなそうとしたのはな、十郎殿、いつ死ぬかもわからぬ以上、
息のあるうちにあなたとの対面を果たしたいと思ったからなのです。
私が死んだあと、ここには他方から攻められること間違いないでしょう。
その時はどうか、この最上家のことを全てあなたに頼み入りたいのです。
そのためこの最上家代々の系図、息子修理太夫の成長まで、あなたにお預けいたしましょう。」
662 :
人間七七四年:2010/11/19(金) 01:30:53 ID:W229jPBS
663 :
2/2:2010/11/19(金) 01:31:40 ID:4a5suRdh
白鳥は渡された系図を三度押しいただき、『これで私が出羽の主人となったのだ!』との色が
その顔に見えたとき、
義光、枕の下に隠し置いた重代の太刀を取り出しそのまま白鳥を抜き打ちに、斬る!
剛勇の誉れ高い白鳥十郎、このとき真二つとなって死んだ。
広間には馳走を出されていた白鳥の共多数がいた。
奥より太鼓の音が鳴る。合図。
かねて討ち手を申し付けられていた者達、三方から斬りかかり、一人も残らず討ち取る。
すぐさま法螺貝が鳴る。
熊澤主税助、高橋主計、志村藤右衛門、最上家の侍大将たちが準備万端、兵を率いて集まる。
その真中で鎧兜に身を固めた最上義光、ゆらりと愛馬にまたがると、かつての白鳥勢力圏、
寒川に向かって、駆けた。
最上義光の出羽統一の端緒となった、白鳥十郎謀殺事件のおはなし。
664 :
人間七七四年:2010/11/19(金) 01:57:36 ID:ibyVPa6s
なんつーか、ここまで演出しなくてもいいじゃん、って気がするなー
665 :
人間七七四年:2010/11/19(金) 11:58:31 ID:ElWpXHsz
666 :
人間七七四年:2010/11/19(金) 13:48:18 ID:dYb2g0gt
室町から戦国時代にかけ、源姓畠山氏の守護代として栄えた一族に遊佐氏があった。
14世紀に畠山高国が奥州探題として出羽国に入国した際、その家臣となった一族である。
さて戦国時代には、室町期の栄華の名残として畠山氏には全国で大きく三つの流れがあった。
一つは総領家である河内畠山氏。
一つは河内畠山氏から別れた能登国守護畠山氏。
最後に本来は畠山一族の総領家であったはずの陸奥国二本松畠山氏である。
この三家はいずれも旧態依然とした体制のまま戦国時代を乗り切ることができず、
それぞれ大名家としては滅亡の道を歩む結果となるのだが、その末路は概ねこんな感じである。
●河内畠山氏
早くも文安年間には実子vs養子のお決まりの構図で内乱を起こし、応仁の乱の原因となる。
長期化した相続争いで大きく力を殺がれて戦国時代後期には家中の主導権を握りきれず、
内乱に勝利した尾州家でも末期の当主の畠山高政、昭高兄弟は半ば家臣団の傀儡であった。
兄高政は三好氏の進出とそれに通じた『遊佐長教』の専横に悩まされた挙句、
三好氏を逐って入洛してきた織田氏に下った後に長教の子『遊佐信教』に追放されている。
その高政の後釜に担がれた弟・昭高も、織田氏の力を借りて信教排斥を企てた結果、
三好氏に通謀した信教一派によって逆に殺害されて大名河内畠山氏の滅亡を迎えてしまった。
●能登畠山氏
戦国時代中期までは名君・義総のもと安定した栄華を誇っていたが、
その子である義続の時代には家督争いに敗れた叔父が一向一揆を能登に引き入れるなど、
一気に家中の不安定化が進んだ。
天文末年から弘治年間に掛けては七尾七人衆と呼ばれる重臣団の権力闘争で七尾城が焼かれるなど、
もうしっちゃかめっちゃかの状態である。
権力回復を狙う義続・義綱父子は温井総貞と三宅総広の勢力を弘治の内乱で撃滅したものの、
そのために一度追放したものを呼び戻した『遊佐続光』の謀叛を受けて国外追放の憂き目に遭い、
以後二度と能登に返り咲くことはなく。
跡を継いだ義綱の子や孫たちも遊佐続光と長続連の権力闘争の巻き添えで次々と死亡し、
織田信長に従属した最後の当主春王丸も疫病で倒れて大名としての能登畠山氏は滅亡する。
その後、遊佐続光らはクーデターで親織田の長氏を滅ぼし上杉謙信に降服するが、
謙信没後に能登に侵攻してきた織田軍によって続光・盛光父子は斬首されている。
●二本松畠山氏
本来の総領家ながらも幕府からの役職もなく、領地も二本松周辺のびびたるものであり、
ただの国人領主に過ぎない存在だった二本松家は戦国期初期から伊達家の影響下にあった。
伊達洞中の空中分解が進むと畠山義国は蘆名家に接近して伊達輝宗と対立する路線を打ち出し、
その子である義継は父の路線を継承して蘆名家に服しつつ、同じく蘆名陣営の大内定綱と姻戚を結ぶ。
この姻戚が仇となり、天正十二年に伊達政宗の怒りを買って定綱が敗走すると二本松も標的となり、
その降服交渉が拗れて義継による輝宗の拉致と両者の殺害、二本松攻囲と佐竹蘆名等の連合軍の来援、
そして人取橋に至った経緯は言うまでもないところ。
さて人取橋の合戦の結果、幸運にも引き分けを拾う形となった伊達勢は二本松の反撃を受けるのだが、
被占領地域奪回を狙うこの反撃は本格化する前にあっさりと終息してしまった。
というのも、引き続き二本松を狙う伊達成実らの誘降工作に我先に応じる重臣が続出し、
攻撃続行どころか二本松での持久すら不可能になってしまったからだった。
中でも二本松に残された支配地域でも最前線を担う『遊佐丹波守』『遊佐重勝』らの寝返りは深刻で、
遊佐兄弟の居城であった田子屋館は渋川城として成実の二本松攻撃の拠点になってしまった。
結局二本松国王丸とその後見新城弾正はこれで抵抗を続けるだけの戦意を失ってしまい、
相馬義胤の調停を受けて二本松を開城、蘆名領へ亡命することとなってしまう。
ちなみに遊佐兄弟はそのまま伊達成実の家臣となり、特に弟重勝は成実とは馬が合ったようで、
のちの成実の伊達家出奔と帰参にも行動を共にしている。
以上、日本各地の畠山さんと遊佐さんのお話。
或いは遊佐さんが畠山さんに同時多発テロを仕掛けたお話。
667 :
人間七七四年:2010/11/19(金) 14:08:02 ID:6DOCOnP7
初歩的な質問だが、各地の畠山家に仕えた遊佐氏って親戚同士?
668 :
人間七七四年:2010/11/19(金) 14:15:36 ID:2/umWVRG
一応、畠山氏の進出に従って出羽の遊佐氏から分かれた同族のはず
669 :
人間七七四年:2010/11/19(金) 21:39:24 ID:z4QOYvGg
>>668 長男、次男と別々の家を建てるからね。
済む場所も、河内、能登と分かれる。
670 :
人間七七四年:2010/11/19(金) 22:56:52 ID:k7gDckPq
どっちも似たような悪党だから笑える
671 :
人間七七四年:2010/11/19(金) 23:35:05 ID:nFgw74Gn
血は争えんね
672 :
人間七七四年:2010/11/19(金) 23:37:46 ID:4a5suRdh
畠山氏の歴史は殺伐としすぎてる。
特に応仁の乱の直接の原因と言っていい畠山義就と畠山政長!
この二人のうちどちらかが生まれていなかったら、戦国時代は起きなかったと断言ていい。
673 :
人間七七四年:2010/11/19(金) 23:47:47 ID:c1uBjkqj
戦国時代が来るのが50年遅れた位の感じじゃね?
674 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 00:05:01 ID:mjTOLHYu
義就の方かなぁ、生まれなかったら……と思うのは
政長は人並みの人間に人並みのプライド持ち合わせているだけで
周囲に振り回されてる感がある
675 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 00:29:10 ID:IuyHqysh
義就が化物じみた名将なのが又、応仁の乱やその後の両畠山の戦争が
にっちもさっちも行かなくなる理由になってしまったりねえ。
676 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 00:34:07 ID:nN51s4Y9
義就って日本で最初に水攻めしたんだっけ
677 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 00:41:22 ID:Z3U2s3uf
義就はよくもまぁ天寿を全うして死ねたもんだよ。
678 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 00:52:09 ID:IuyHqysh
義就は領地の独立割拠や城下町形成など、日本で始めての戦国大名化を志向していた節もある。
679 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 01:34:09 ID:mjTOLHYu
義就にはそこまで名将というイメージはないが
細川の大軍が居なくなった時にサッと湧いて河内を荒らし回る
→細川の攻撃に晒されて耐えきれずに落ちる
これの繰り返し
680 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 16:22:13 ID:LUkrCdpr
>>679そして細川の被官だった三好……
三好の被官だった松永……
681 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 17:36:11 ID:IuyHqysh
木村常陸守重茲には、その年13歳になる娘がいた。
彼女は木村自慢の娘で、木村の主君、豊臣秀次からも成長すれば側に置くよう
所望があった、とも噂されるほど、輝くように美しい少女であったと言う。
文禄4年(1595)。秀次事件があった。
関白豊臣秀次は切腹。秀次の家臣、関係者も次々と粛清を受ける。
秀次重臣木村重茲も、連座により切腹した。
さてこの時、木村重茲の母、妻、そして娘は越前にあった。
彼女らは重茲が死ぬ前密かに遣わした野村静六という少年の報により、
秀次事件と重茲の切腹を知る。
野村はそれを伝えると、
「賤しき者の手に掛かり御一門の名誉を汚す前にどうぞ、ご決断を。
私は先に行っております。」
と言うや腹を十文字に斬って果てた。
木村の妻、これを見て守刀を取り出し自害。
木村の母はかねてより親しい僧侶を呼び、金品を与えて後の一門の弔いを頼むと、
また、自害。
木村の娘だけは乳母が殺すことをためらい、密かに連れ出し、逃げた。
娘は乳母と共に山の中に逃げ込んだが、もとより蝶よ花よと大切に育てられた娘である。
険しい山道に足からは血が滲み、岩山に踏み迷い、獣の声に怯え、そんな道を夜もすがら歩くうちに
すっかり疲れ果て、
「こんな苦しい思いをするなら、母上たちと共に死んだほうが良かった。」
そう思い、どこか深い淵に身を投げて、母上たちの後を追おうと、乳母から離れ
川を求めて谷伝いに降りて行った。
その頃、ようやくに夜が明けた。
娘は、夜明け前から山田に出て作業をした百姓が帰るところに出会した。
彼女は叫んだ
「私は道に迷った者です!どうか吾が家までの道を教えてくれませんか!?」
百姓は「お安いことです、どうぞ私の後を付いてきてください」と快く言い、
娘は喜んで、転げるように百姓の後を追った。
こうして娘は、元の家に帰りついた。
家には、京より秀吉の派遣した捜索の者達がいた。
娘はその場で捕縛、京都に連行された。
そして罪人として三条河原において磔にされ、その遺骸を、朽ちるまで晒された。
木村重茲の、13歳の娘に起こった悲劇についての話である。
682 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 18:23:19 ID:zLTlMaBn
ちょっとじゃない
683 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 19:49:24 ID:lV4E1B+r
嫌な・・・事件だったね
684 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 20:23:02 ID:gGUGe0kL
武家の娘なら覚悟もあろうに潔く自害しなかったばかりに恥をさらしたのか
しかしあたら若い娘をしかも美少女…
俺が百姓なら手をつないで逃げるところだ
685 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 21:03:09 ID:3l/Lfd24
秀次事件絡みは本当に陰惨だ
686 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 21:09:40 ID:JEgarUI+
信長秀吉家康と三英雄はみんな酷いこともしているけど、秀次連座の件は戦じゃないぶん一番嫌な事件だなあ
687 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 23:22:15 ID:6VRm9Ws0
仙千代丸 百丸 お十丸 土丸 御姫(以上秀次の子)
一の台御局 小上臈 お妻御前 お亀の前 お和子の前 山口将監娘 おチャの前 お佐子の前 お万の前
おなめの前 お阿子の前 お伊満の前 阿世智の前 小少将 左衛門後殿 右衛門後殿 妙心尼 お宮の前
お菊の前 お喝食の前 お松の前 お伊佐の前 お古保の前 お仮名の前 お竹の前 お愛の前 お藤の前
お牧の前 お国の前 お紋 東 お三 津保見 お知保
「葉隠」より三条河原の受刑者一覧 刑場のお触書等から書き写したと思われ
駒姫や木村の娘はどれに当たるのだろうか・・・
688 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 23:57:36 ID:4hPLnlUB
「お伊満の前」だそうだ。>駒姫
瑞泉寺の墓には「於伊萬ノ前」とあるそうだから、ひょっとして「駒」と書いて「いま」と読んでいたのだろうか。
689 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 01:23:28 ID:M4yaFFC1
つか秀吉の血縁はほとんどろくな死に方してないなあ
690 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 04:20:42 ID:yXt9f80q
>>689 日秀の三人息子は秀勝は陣没、秀次はアレで、秀保も秀次と同時期に変死
だからなぁ。
691 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 16:13:52 ID:XDFURSEL
貞方をば、門前に引すへ、千葉介して謀叛の子細を尋らる。一事の陳答にも及ばず、たゞ、「天魔のすゝめ也。」とぞなげかれける。
我身の重科をもしらず、「今度ばかり、いかにも申たすけさせ給へ。」と、たりふし申されければ、千葉介、「あれほどの不覚人、助をかせ給ひたりとも、何ほどの事候べき。」
と申されしかども、鎌倉殿、「朝敵の最なり。とう<きれ。」との給へば、千葉介、此上は力及ばずとてたゝれけり。
やがて七里ヶ浜にして、すでに敷皮のうへに引居たれども、おもひもきらず、「あはれ、千葉介は身内とこそきゝつるに、などや貞方をば申助給はぬやらん。」とて、
起ぬふしぬなげきて、もだへこがれ給へば、幡谷刑部少輔切手にてありしが、太刀のあてどもおぼえねば、をさへて掻頸にぞしてける。見ぐるしかりし有様なり。
大の男の肥え太りたるが、首は取られて、むくろのうつぶさまに伏したる上に、すなご蹴かけられて、折ふし村雨の降りかかりたれば、背みぞにたまれる水、血まじりて紅を流せり。目も当てられぬ有様なり。
692 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 17:17:18 ID:hU9E1oTV
グロい風景が想像できる描写だなあ…
693 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 17:39:09 ID:1e5TCGG/
それは鎌倉ちょっと悪い話スレに・・・
694 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 23:13:57 ID:djmKJfZM
義弘さん、愚痴る
天正19年(1591)、上方の島津義弘より、国元の家老、鎌田政近宛書状より
『もうね、困ってるの。
今の世の中で国持の大名といえば、まず毛利殿に徳川殿、その次くらいに来るのが
我らが島津家なんだよ。世間ではそのくらいの認識なんだ!なのに…、
上方でその島津家が関白様(秀吉)の御用のお役に立つことは、一つもないんだ!
何故か!?
例えばどこかの国で一揆が起こったとしよう。
我ら島津家がその鎮圧の先手(先鋒)に加えてもらおうとしても、無理なんだ!
軍勢が無いから!
では、先手は無理でも関白様のお側を守るお役目に加えていただいてはどうだろう?
それも、無理。
今俺がこの上方で率いられる騎馬武者、数人だけ。
わずか数人でどの面下げて
『これが日本有数の大名、島津の人数でございますー!』
って言えると思う!?
先手できない、お側も守れない。じゃあ御前向きの御咄衆の役でもするのかといえば、
…まあ、解っていると思うが、無理だ。
さらに人数が無いから御普請のお役も出来ない。
なあ?こんな公儀に対し何に役にも立たない家、長く持たせる事が出来ると思う?
我が島津家の家士は、京大阪を往復するときの、5騎・3騎の供衆さえ、槍を1本持っているだけという
体たらくなんだ。同じ九州の大名である龍造寺、鍋島、立花、伊東達にも劣っている有様なんだぞ!
言語道断、沙汰の限りとはこの事だ!
今の京の島津家がどういう立場か言ってみよう。
関白様に対し何の忠義もなく。人並みの振る舞いも出来ず、他所に優れているのは
借銀(借金)の額だけ。
もう、露ほどの希望もないよ…』
島津義弘、上方で深刻な絶望感に浸る。と言うお話。
695 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 23:28:35 ID:G+XKskO8
そのグダグダさのおかげで関ヶ原で減封も無く生き延びれたんだから
おにいちゃんに感謝してもらいたいなっ
696 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 23:34:32 ID:V3+RI8MR
ハーマイオニーしゃくれとるなー
697 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 23:37:43 ID:JyqEQqUU
意図的に派兵してなかったのかそれとも出来なかったのか…
698 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 03:04:28 ID:d5Oy4Pni
>>697 伊集院の反乱と朝鮮討伐で本当に苦しい財政状況
699 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 08:55:20 ID:Gsk9phxT
つまり悪久の伊集院忠棟謀殺はそこまで見通した苦肉の策だったんだな。
なわけないか。
700 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 09:51:01 ID:aHSadx3y
第一次国府台合戦の結果、生実御所(小弓御所)が滅亡。上総に北条家の勢力が少
しずつ進出してくる。
ある者は北条に従い、ある者は北条に対抗する為、常陸の佐竹家に助けを求めた。
一時は「上総の三分の二を支配する」とまで言われた土気酒井氏も、佐竹と北条に
圧迫を受け、その威勢は衰えて昔と比べるべくもなかった。
当時の土気酒井家の当主は、左衛門次郎玄治。初代越中守定隆の孫に当たる人物で
ある。
この玄治には息子が一人あったのだが、足に障害を抱えており、腰から下にくびれ
がなかった。(足の関節がなかったという事?)
それでも努力の末、家中に並ぶ者なしというほどの馬術の達人となった息子である
が、流石に当主として家中を纏めるのはどうか、と考え、重臣から養子を取って酒
井家を継がせる事となった。
この養子が中務丞胤治。障害を抱えた実の息子は別家を立て、板倉大蔵介と名乗っ
たという。
しかし、これに反発したのが同族の東金酒井氏。
家臣筋の胤治を総領と認める事が気に入らなかったのか、定隆の後を継いだ二代目
定治&東金初代の隆敏の代にまで遡って、
「我が東金家こそが定隆公の正当な跡継ぎであり、上総酒井家の総領である!」
と逆に土気家に対して臣従を求めてきたのである。
ただでさえ分裂し、がたがたになっている上総国の中、同族同士で争われては堪ら
ない。
特に実際に戦争となると、両家がそれぞれ他国の勢力を国内に引き込んでの争いに
発展しかねない。
当時勢力を伸ばし、「上下両総の旗頭」と呼ばれていた臼井城の原式部大輔の仲介
によって漸く和睦。最悪のシナリオだけは回避されたのである。
『土気古城再興伝来記』から土気&東金家大喧嘩のお話。
結局この後、両家とも北条に臣従。土気家は里見に寝返るものの、北条・東金から
の圧迫で降伏する羽目になっちゃうんですけどね。
701 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 21:39:37 ID:bbIeWp9h
なんか前から特別悪い話でもないのを貼ってる人がいるな。
702 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 21:42:08 ID:8lcHkYeI
そりゃ「ちょっと」悪い話スレだからな。
703 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 22:06:23 ID:j3SMbbtU
704 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 22:09:56 ID:bbIeWp9h
>>703 どういうことだか?前にもこういうこと書いた人がいたの?
705 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 22:41:59 ID:j3SMbbtU
>>704 あんたも(悪い話が)好きね〜ちょっとだけよ
706 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 22:43:19 ID:OFcpXlAj
ちょっと悪い話のスレなのに勘違いしてる人が若干一名
707 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 23:29:32 ID:auvWP8u5
ガチで悪い話はほどほどにしとき隊
708 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 23:37:51 ID:LDgAF04R
秀次事件関連の話か…
709 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 00:31:59 ID:YsFTPk7a
ぬこ好きの条件
さみしがりや
自由気まま
気まぐれ
マイペース
束縛を嫌う
自分勝手
ワガママ
甘えん坊
団体行動は嫌い
気分屋
(グーグルリサーチ)
(´・ω・`)「光安・・・」
光安「用も無いのに呼ばないでください」
710 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 00:43:23 ID:++2Br7xV
最上厨をNGにしといてよかったw
711 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 01:00:52 ID:YsFTPk7a
712 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 01:22:20 ID:NIXwUveN
>>701 こういう話を「両酒井家の仲の悪い話」とか言って悪い話に投稿するのはずっと以前から
このスレでは行われていた事。
こじつけだろうが、無理矢理だろうが、とりあえず「悪い話」と言ってしまえば悪い話な
んだよ。
それがここのルール、というか慣例というか。
とりあえずこのスレはアカデミックな堅苦しい場所ではなく歴史好き達が集まって楽しむ
為の場所だぞ。
ごちゃごちゃとケチつけるよりも、深く考えず楽しんだ方が良いんじゃないか?
もし楽しめないと言うのなら、無理して来る必要もないんだし。
713 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 02:56:17 ID:yzZil/kB
向こうで穴山信君と武田勝頼の話が出ていたのでこっちでも。
昔河口湖に合宿にいったときの古老(というほど年でもなかったが)に聞いた話。
木曽が裏切る前か織田が攻め入る直前か要領を得なかったが、そのあたりのころ。
滅亡直前の武田家には、織田家から頻繁に降伏勧告が届いていた。
その条件は、婚姻と従属という、和議ともとれなくもない譲歩したものだった。
武田の姫を織田の嫡男の正室にして、間に生まれた長男を織田の後継とし、
その後に生まれた適当な子を勝頼の養子として武田を継がせるというものだったらしい。
一族の会議ではこの案を受け入れることを決定したが、勝頼はこれを拒否。
勝頼は自分の身だけを考えていると非難囂々だったらしい。
(勝頼が腹を切れというわけじゃなかったみたいだが、分からない)
そこで穴山信君自らが新府城に登って説得しようとしたのだが、勝頼は聞かないばかりか
「織田を討つ」「御旗楯無ご照覧あれ」と言って人質(木曽の?)を殺してしまった。
穴山信君が謀反を起こしたのはそれからしばらくしてのことで、驚く人は誰もいなかった。
むしろ「穴山様が勝頼に代わるならば安心だ」とほっとしたのだという。
「このあたりの領主だった小山田さんも、それで勝頼の首を差し出して、穴山さんを新たな
殿様にして武田を立て直そうとしたんだけど、勝頼に逃げられちゃって、身代わりとして
信長に殺されるはめになったんだ。勝頼は自分の格好ばかりつけようとする悪い奴だ」 と語っていました。
714 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 02:58:55 ID:yzZil/kB
あ、先に謝っておきます。 自分は穴山と一緒に寝返った人物の末裔ですので、
穴山信君に甘い聞き方をしていたかもですし、甘い書き方になってるかもです。
715 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 03:34:18 ID:YsFTPk7a
( ●Д゚)「小十郎・・・」
片倉「帰りましょう」
天庵様「・・・」
菅谷「帰りますよ」
716 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 04:13:46 ID:9PWsLyeS
>>713 北畠の時と同じやないけw
さすが信長www
717 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 09:29:54 ID:BcqWemlR
>一族の会議ではこの案を受け入れることを決定した
結局、勝頼は後継者って思われてなかったのかなぁ
この案の場合、勝頼の子の信勝は消されるんだろうか
718 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 10:45:03 ID:xtS0U3Pw
>>712 IDを変えてまで自分の擁護するのは止めなよ
前もそんな事を言って散々ココを荒らしてたよね
719 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 10:48:05 ID:vhuJVHgY
>>716 同じ言い草で命どころか御家まで丸々ぶんどった信長からこんな提案されたら首肯しかねるよなw
720 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 11:02:12 ID:WJzUmZ63
史実では織田は武田の詫言(降伏)を拒絶してるのにな。
そういや河口湖近辺まで小山田領だったことに初めて思い至った。
721 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 12:11:51 ID:Z69JN7gC
勝頼が言うことを聞かなくて滅亡へという筋書きにはどうも首肯し兼ねるんだよな。
勝頼の逸話には逆に言い分を懸命になって消化しようとする律儀な一面も透けて見えるし。
俺の身贔屓なんだとは思うけどさ。
722 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 12:18:31 ID:0ILJiCxQ
親の因果が子に報いってことだろうね。
本人は頑張ったんだと思うけど親父のやり方では
甲斐武田家の末路はさもありなんとも思える。
723 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 12:20:58 ID:nQ+OGLiP
>>722 信長「君はいい鴨であったが、君の父上がいけないんだよ。ハッハッハッハッハッ」
724 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 12:56:26 ID:N/OkD4cG
>>722 信玄のせいで勝頼と武田が滅んだというのもどうもなあ
信長のせいで息子達と織田家が瓦解したのか
秀吉のせいで秀頼と豊臣家が潰れたのか
言い出したらどうとでもなるんじゃないか?
725 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 12:58:42 ID:1C21UKU1
武田家の話に便乗してこんなのを投稿してみる
江戸中期の儒学者で、徳川吉宗の享保の改革にも参画した室鳩巣による、テンションの高い
武田信繁評がある。
どうもこれが武田信繁最評価の走りだったらしい。
それを抜粋してみよう。
『足利時代の末期、天文、永禄の頃で、真に『賢明』と呼ぶべき人は、甲州武田信玄の弟、
左典厩武田信繁なのである!!!
なのに近頃の世間ときたら武功のことばかり尚んで、徳行というものとに関心を示さないから
信玄の名は高く知られているのに、信繁の賢明さは兄の名前に隠れて世の中に知る人すらいない!
今わしが彼について書き表さねば、一体誰がこれを言い出すというのか!!
そもそも信玄は父信虎と不和で、群臣何れも信玄が武芸に長じているのを見て信虎を捨て
何のかんのあって信虎を追放した。
信虎は信繁を愛しており信玄を廃して信繁を家督に立てようとしたこと、これは信玄も含めて
皆知っていることだった。
そんな彼は間違い無く信玄から憎まれ、警戒されており、にもかかわらす国に残って信玄に仕えるとは、
自ら危難の場に身を置いたと言うことなのである。
武田信玄という人は父親を追い出すような人間であり、肉親への友愛の気持ちなど欠片も持っていない。
そうであるのに信繁が信玄に仕えて、兄弟の間に摩擦があったという話を聞いたことがない。
昔後漢の東海王強は光武帝の太子であったが廃され、光武帝に母が寵愛されたことにより新たに立太子された
明帝に仕え名臣として全うしたがそれは、そもそも明帝が考友厚い性格を持っていた事が大きいのであって、
信繁はそれとは違い、あの残忍至極な兄に仕えたのである。
それでも日々国家の重責を任され、人臣の節を失うこと無く、あの信玄から常に信任され、嫌疑を受けることもなく
最後まで兄弟一体のようであった。これは信繁の忠信、誠実さが信玄を始めとした武田家の人々を
感化したのでなければ、どうしてこうなるだろうか!?
(このあと長々と川中島での討ち死にを讃えたり普段の言動を誉めそやしているが略)
仮に信玄に社稷をおもんばかる心があって、早いうちにこの信繁を世子として立て、監国の任を
任せておけば、甲州武田家は長く滅ぼされることはなかっただろう。
それなのに昏昧剛腹の武田勝頼に跡を継がせたばかりに、信玄が死んで程なく織田氏のために滅ぼされた。
何と嘆かわしいことだろうか。』
以上、室鳩巣先生、武田信繁を熱く語る。
726 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 13:04:33 ID:Bg5znj3j
>>725 大和大納言>>>>>>>>>>>>>>>>>>典厩
真田信繁≧毛利勝永
727 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 13:07:07 ID:WJzUmZ63
728 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 13:58:12 ID:7pZQOhFf
家名を保てない当主は当主たりえないからなぁこの時代
どんなに正当性があっても引きずりおろされる
…逆に言えばどんだけボロ負けしようが家さえ保てば、ね?
729 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 14:17:24 ID:28xKgT88
天庵「いや、いくらなんでもそれはバカすぎるだろw」
730 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 14:53:20 ID:2oKc20PS
>>713 信玄の後継者としての責任やプライドがあるから、簡単に頭を下げられないのよ。
景勝も、相当なプレッシャーがあったので、滅びる時は仕方ないと、佐竹に手紙を送っている。
731 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 14:56:13 ID:2oKc20PS
>>724 秀吉は死ぬ直前に、大阪城の改修工事を徹底的にしてる。
思い切って、城を家康に渡すくらいしてれば滅びずに済んだ。
732 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 15:13:59 ID:c9u2mhOq
>>713 武田の姫と織田の嫡男が、松姫と信忠だったら面白いな。
733 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 15:19:51 ID:RNqz7lWv
まあ信忠と松姫の話がすでにあったとはいえ
降伏勧告の内容が織田の嫡男に姫を継がせるぞ、って辺りが自分達(武田)の矜持なのかね
信忠の正室が空いていたのは内親王狙っていたんじゃないかと、個人的には思うんだが
734 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 19:44:05 ID:yzZil/kB
>>732 多分そうじゃないですかね。まあ非常に一方的な主観を感じる逸話ですが、
それは下々に言い伝えられた逸話と言うことで処理してください。
735 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 20:13:38 ID:HI9SiVRG
>>726 お兄ちゃんにめーわく掛け通しだった左衛門佐さんは自重しましょうネ?
736 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 20:20:47 ID:HI9SiVRG
>>713-714 諏訪神社の神意やら願文うんぬんの話とか聞くと、
勝頼は既に滅亡やむなしって諦観があったんかなあと思ってしまう……
木曽や穴山、小山田は家を残そうと行動したんで普通の武家・領主なのかもしれんがね
737 :
人間七七四年:2010/11/24(水) 18:55:46 ID:mQ1m8E7Y
御旗楯無の名の下に我が命ずる!
738 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 00:10:28 ID:YqZTvPlO
延沢満延シリーズ
最上義光が最上八盾の天童頼澄が守る天童城(舞鶴城)を攻めた時の事である。
最上勢、千手堂という場所で天童勢を大いに破ると、その勢いのまま天童城に攻め寄せた
この時延沢満延は最上八盾の一人として天童城に援兵として入っており、場内から最上方の攻勢を見ると
大手の門を押し開き、ただ一騎討って出た。
この日の満延の出で立ちは、鎖帷子の上に黒糸縅の鎧を着、八方頭の兜をかぶり、月毛の馬に打ち乗り、
常に身から話さぬ5尺1寸(約1.5メートル)の鉄の棒を打ち振るい、向かってくる最上勢をばったばったと
なぎ倒し、これには最上勢、延沢満延の方を見ることも出来ない有様だった。
さて、最上勢の中に安間某という、長く羽黒山に住む弓の名手がいた。
彼は味方が延沢満延一人を恐れている様子を見て
「いくら能登守(延沢満延)と言っても鬼神ではない。よし、俺が勝負をしてやろう!」
と一直線に駆け寄ると、これを見た延沢満延、
「わしとの勝負を望むとは、なんと面白い振る舞いかな。ならば我が手並み、見せてやろう!」
と、安間某に向かって突進した!
「この鉄棒を所望のようだな。さあ、一打取らせようぞ!」
安間某が弓をつがえた、その時、
延沢満延、信じられないスピードで拝み打ちに鉄棒を、安間某の頭上に振り下ろす!
そのあまりの衝撃に、安間某の頭は胴の中にめりこみ、乗っている馬も衝撃に足が地面に埋まった!
鉄棒の一撃で頭が体にめり込んだ安間某と足が埋まった馬。
このギャグマンガか、はたまた北斗の拳でしかありえない光景に
最上勢皆驚き呆れ返り(それも当然だろう)、われ先にと引き退いた。
延沢満延と安間某の一騎打ち、のお話。
739 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 00:24:41 ID:Lbgl1t5+
安間某「ぱっびっぶっぺっぽぉっ」
740 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 00:28:10 ID:p2nffH7V
むか〜しから思ってたんだけど
五尺や八尺の棒を振り回すより、三間の長柄鑓の方が絶対強いと思うんだが・・・
まあ、江戸時代の鍵屋の辻の決闘でも
荒木又右衛門の豪刀を鎖帷子の上から食らった仇役の首が胴にめりこんだなんて俗説あるからね。
741 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 00:37:08 ID:S4mE7Ucz
集団で固まって使うならともかく、一騎打ちで三間の長柄鑓は使いにくいんじゃないか。
742 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 00:43:16 ID:w/ZZb8hq
三間って・・・5mオーバーだよね?
743 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 01:22:20 ID:L/5g5H1K
上総国土気城の酒井康治には一人の弟がいた。
この弟は出家し、一位殿と呼ばれていたが、悪僧と名高い乱暴者であった。
ある時、酒井家の帰依している本国寺の日典上人が土気城に出向いている隙に、こ
の一位殿が本国寺にふらりと姿を現した。
そして、
「今日、この時からこの寺は俺様の寺だ!お前等もそのつもりで俺様に仕えろ!」
そんな無茶な。
そうは思うが領主の弟君である。寺としても下手に事を荒げる訳には行かない。
とりあえず土気城に使いをやり、日典上人と康治とに今起こっている事を説明した。
「あの馬鹿は何をやってるんだ!!」
話を聞いて激怒した康治は、すぐさま配下の者に命じて本国寺から弟を追い払わせ
た。
一位殿も弟の我儘の一つも聞き入れない兄の態度に激怒し、寺に籠もって抵抗する
も、手勢を持たぬ僧侶一人が何をやった所で領主には逆らえない。
遂には力尽き、酒井氏の領内から追い払われてしまった。
一位殿が抵抗する間、寺に帰れない日典上人は近くの畑ヶ中村に滞在せざるを得な
かった。その事がまた、康治の逆鱗に触れてしまった。
一方、弟は弟で、兄に対して怒り心頭であった。
兄は上総酒井家総領として踏ん反り返っていると言うのに、自分は出家させられた
のである。
せめて、兄が武家の上に立つなら、自分は僧侶の上に立つのが当然。そう考えて領
内で一番の寺を奪い取ったと言うのに……
こうしてこじれまくった兄弟の仲(片方は明らかに八つ当たりだが)は、どちらも
一歩も譲る事がなかった為、面倒臭い方向に転がり始める。
数日後、安房国里見家の門を叩く一位殿の姿があった。
「兵を貸してくれりゃぁ、俺様がクソ兄貴の首を取ってきてやる。その時ゃ酒井家の
総領として、里見家に仕えるのも吝かじゃぁないぜ」
だが、この一位殿による土気攻めは実現しないままに終わる。
一位殿が里見義弘に謁見した直後、この僧侶は病を発してしまうのである。
病のせいか否か、里見家では一位殿の計画に乗る事はなかったようだ。
安房を辞し、上総国長南の辺りまで来た所で、一位殿はあえなく死去してしまった
と言う。
出家の身でありながら、法を犯し、上を軽んじ、兄を討とうと企んだ。その浅まし
さ故に報いが下ったのだと、彼の顛末を知った人々は噂したという。
『土気古城再興伝来記』から面倒臭い方向に転がったけど、転がりかけで治まって
くれた兄弟喧嘩。
……これ、暗殺じゃね?
744 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 03:39:23 ID:o60gM2F/
>>740間合い
懐に入れば、短い武器の方が逆に有利になるっしょや。
長柄の武器は馬上や開けた場所で使う分にはいいが…
745 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 06:02:32 ID:txhbKGEn
三間槍とか集団戦用だよね
746 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 06:29:50 ID:llfbNwDt
武士の使う槍ではなくて、兵卒の使う集団戦用の槍だね。
747 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 10:35:37 ID:HoW6MPg8
ラスボス「槍は長いほうがよい」
748 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 11:29:31 ID:q1zIg7Fz
長くても子が出来るわけではないしなあ
749 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 11:33:28 ID:5v68Rb8A
750 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 11:37:02 ID:bwvWe17T
つロンギヌスの槍
どうぞ
>>748の脇腹をお突きください
751 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 11:48:15 ID:p2nffH7V
>>745 一般的にはそうだが
蜻蛉切には2丈(6m)の柄が付いていたとされる
752 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 21:08:17 ID:bpQ7LGzr
写真で見る蜻蛉切の刀身は長い。重心を調節するため柄も長くなったんだろう。
用途や使い手の個性で合わせるものでないかんs。
753 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 22:09:43 ID:llfbNwDt
蜻蛉切のような大身槍はぶった切るのが目的の武器だからな。
分類で言えば鎗だけど鎗のような戦い方とはちょっと違う気がするぜ。
754 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 22:56:48 ID:FWhjzZmF
まあ大力にまかせて風車の如く振り回し当たるを幸いって感じなんだろうな
6メートル超の槍振り回されたら誰も近づけないから
忠勝さん怪我を負わなかったのかもw
いくら柄が長かろうともそこに触ったからって斬られる訳じゃない
って言ってのけた卜傳さんはマジパネーっす
755 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 23:32:17 ID:Lbgl1t5+
足軽と武士じゃあ槍の長さも違ったろうけど当然戦い方も違ったんだろうな
756 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 23:34:37 ID:YqZTvPlO
というか源平の時代以前からそうなんだが、騎馬の武士は自分の手に合う好きな武器を持って
戦っていい、という不文律があった。
757 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 23:52:18 ID:/isf+rgf
>>743 やっぱり武士は長男以外は不遇だなあ・・・ねえ森忠政くん
758 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 23:56:01 ID:hLVGUz8Z
759 :
人間七七四年:2010/11/26(金) 01:47:27 ID:BUtYr6Ey
ラスボス殿下の関東仕置きの時の事。
北条氏は配下の武将を全て小田原に呼び寄せ、篭城するという策を取った。
それに対して豊臣軍は圧倒的な戦力で小田原城を囲んだ上で、別働隊に関東各地に
散らばる北条方の城を虱潰しにさせるという作戦に出る。
酒井康治の上総国土気城もその例に漏れず、浅野弾正少弼らの軍勢に囲まれてしま
う。
上方軍は開城を命じるラスボスの書状を持ち、無条件降伏を呼びかける。
それに対して土気城は、
「今、うちの殿様、留守なんですよ。ちょっと待っててくれます?」
いやまぁ、そりゃ留守だろう。小田原に篭城してるんだし。
が、土気城の酒井家臣、単なる時間稼ぎのつもりではなかったようだ。
浅野から預かったラスボスの書状を持ち、使者を小田原に向かわせた。
本気で「主君に開城の許可を貰ってきますね。それまでちょっと待ってて」と言う
のである。
当然、小田原城は上方軍に包囲され、簡単には入城出来ない。
しかし酒井家中から選びぬかれた使者であり、勇者である。戦場での不測の事態に
備え、水練の訓練もしっかりと行っていた。
そう、彼等は迷わず水に飛び込み、海側から包囲網を突破、見事小田原城に忍び込
んだのである。
困ったのは篭城中の主君・酒井康治である。
わざわざ居城から使者が来たと思ったら、敵の総大将からの手紙を持って、
「開城しても良いっスか?」
と言うのである。
「うん、いいよ〜」
などと返事の出来よう筈がない。
当然、北条氏からも疑いの目を向けられる。
必死の弁明で許しては貰えた物の、守備の受け持ちは交代させられ、城内では孤立
してしまう羽目となった。
『土気古城再興伝来記』から康治さん涙目な悪い話。つかお留守番の人達、もうち
ょっと空気読んであげて。
「攻撃に耐え切れず部下が開城を決めちゃった」なら康治さんの顔も立つんだから!
忍城の成田さんほど面の皮厚くないんだから!
ちなみに関東仕置き後、酒井康治は小田原で蟄居&病死。二人の息子が家康に仕え
たと言います。
760 :
人間七七四年:2010/11/26(金) 15:54:22 ID:AqGeQn5v
家来が真面目すぎたんだな。
761 :
人間七七四年:2010/11/26(金) 16:21:46 ID:ndPVmgoe
攻撃が始まったら皆殺しにされる可能性が…
前田や上杉も降服開城させたら「何勝手に助けてんの?」とか
ラスボスに脅されてるし
762 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 02:48:30 ID:ZtkkmtZC
もう一つ関東仕置きの時の土気酒井氏の事。
>>
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4908.html のちょっと前。もうすぐ上方勢が土気に攻め寄せてくるだろう、という時の話。
第二次国府台合戦の後、>>
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4903.html の冒頭であっさりと死んでしまった池野和田城主・多賀蔵人に、息子が一人いた。
父が死んだ時にはまだ幼く、城を逃れて隠れて生活していた浪人である。
この多賀内膳という青年、関東仕置きが始まると、
「上方勢に加わり、父の無念を晴らし、多賀家を再興する」
と志し、上総・下総方面の攻略を任された浅野弾正少弼の元に出仕する。
この頃土気城では、近づく上方勢の攻撃に、どう対処するのかが議論されていた。
「相手はとんでもない大軍なんだろ?篭城しても勝ち目はないぞ」
「……打って出るか?」
「本行寺に篭城してみよう」
「本行寺?城を捨てて寺に篭ると言うのか?」
「そうじゃない。城には囮の軍勢を残しておく。相手は我々が討って出るなどと考
えてないだろうから、警戒もせずに城を囲むだろう」
「そうか、城を包囲した上方勢の背後を……!」
「……本行寺の主力で叩く!!」
「一度しか使えない手だ。一旦は敵を退けられても、二度目はない。一度勝って、
意地を見せた上での玉砕という事になる。皆はそれで良いか?」
「おう!」
「上総武士の意地を見せてやるぜ!」
こうして酒井勢の作戦は決定した……………が、
763 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 02:49:45 ID:ZtkkmtZC
「……ってな作戦を土気城では立ててます」
流石に地元の土豪。多賀内膳には土気城内にも伝手があった。
悲壮な覚悟で決定した作戦は、あっさりと浅野弾正少弼にばれていた。
「本行寺は中々の要害で、ここに主力が篭るとなると、判っていても少々厄介です。
今の内に焼き払っておくべきだと思います」
多賀内膳は浅野から数十騎ばかりの兵を借りると、多賀家の遺臣・大島小太郎を連
れて浅野勢に先行、本行寺へと急いだ。
ところが内膳は本行寺に到着すると、僧侶を避難させる事もなく、問答無用でいき
なり放火してしまう。
逃げ惑う僧侶達の中、火は本堂を包み、全ての堂宇を焼き尽くした。
それを確認して悠然と本陣に帰還する内膳であったが、何の弾みか突然に落馬、血
を吐いた挙句、狂ったような声を上げて息を引き取ってしまう。
若君の隣りで全てを見ていた大島小太郎は、
「仏罰だ!主家の再興を夢見るあまり、我等はやってはいけない事をやってしまっ
たのだ!」
頭を抱えそう叫ぶと、次の瞬間、馬を取って返し、未だ炎の治まらぬ本行寺の本堂
に駆け込み、寺と運命を共にしたと言う。
結局、作戦を実行出来なかった酒井勢。心が折れてしまったのか、玉砕するでもな
く、篭城しつつ開城への路を模索するしかなかった。
『土気古城再興伝来記』から本行寺を巡る戦い。こちらはこちらで、お留守番の人
達だって涙目だったんだい!という悪い話……と言うか可哀想な話?
多賀内膳が寺を焼き払った悪い話っつっても良いか。
以上、『土気古城再興伝来記』からの一連の話でした。上総酒井氏の成立から、土
気開城まで、ですね。
お付き合い下さり、ありがとうございました。
764 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 12:59:22 ID:9lxeJoVu
765 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 13:37:27 ID:B1SEEmtX
>上総酒井氏の人
いい悪い両方含めて面白かった。
焼身自決しちゃった大島さんには悪いが
畿内では南都山門大坂との闘争を経て薄れつつあった
寺院への素朴な畏怖が残ってるのを見ると微笑ましくもあるな
766 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 13:49:07 ID:tE13QuhJ
>>763 ありがとう。上州酒井氏の話って、酒井金三郎と原吉丸の草履の話しか知らなかったから
非常に面白かったよ。
767 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 21:06:24 ID:t/qyTeyj
>>763 仕返しにヒットマン送り込まれただけのような…
768 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 23:04:28 ID:+ZxmFEjP
>>767 むしろ、内通者は敵を倒したら不要なので…
769 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 21:58:26 ID:klJ5C+WU
ある日、東郷重位は主君の島津忠恒から上意討ちを命じられた。が、忠恒は今回一つ注文をつけた。
「憎っくき彼奴めの死ぬところを、直に見てみたいのだ。オレは城の角櫓から見ているので、城門の前で
討ち取ってくれ。出来るか?」
「殿の仰せ、しかと承りました。どうぞ存分に御覧下さい。」
さっそく重位は、城門の前で目指す相手を待ち受けた。数刻後、相手が城門を出たと見るや、剣士は動いた。
「上意であるッ!チェストオオオ―――――!!!」
重位が相手の脇を抜けた、と見えた次の瞬間、相手は崩れ落ち、その頭は瓜のように真っ二つに割れた。
身なりを改める間もなく、重位は再び忠恒に呼ばれ、ねぎらいの言葉を受けた。
「重位、ようやった。それにしても、相も変わらぬ腕前よ。諸人に勝れたる仕留め方であったわ。」
「いやあ、拙者の示現流もまだまだ未熟にて、恥ずかしき次第にござる。使命を果たすには、首飛ばすだけで
良いものを、殿の上覧だからカッコつけようと欲心を起こし、あんな派手な事をやってしまいましたわい。」
東郷重位、生涯に十九度の上意討ちを果たしたという。
示現流開祖の豪剣ぶりを語るいい話…と言えなくもないが、悪久主従の思考がなんかアレなのでこっちに。
770 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 22:09:13 ID:7CzQdynq
忠常「東郷、たのむ!島津家のためにこやつを暗殺してくれ!」
東郷「分かった やってみよう」
忠常「おおっ!!」
771 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 22:17:01 ID:YXhN5Zfo
上意討ちっていっても単なる私怨にしか思えないってのは、
悪久さんの普段の行いかね〜
772 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 22:35:11 ID:rNf5YOEl
不意打ちに何流も糞もあるまい
尋常に勝負されよ
773 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 22:47:16 ID:yWasqKfi
悪久さんは気に食わない相手をプロに任せて自分は見物して喜んだ。
一方三斎様は気に食わない相手を自力で殺してその刀に風流な名前をつけて喜んだ。
不思議、三斎様のほうが清々しく感じる。
やってる事自体は変わらないのに。
774 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 23:00:30 ID:hAN+X4cK
悪久もアレだけど、それに合わせて腰巾着で人殺しやってる東郷重位もかなりヤな奴にみえるな。
775 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 23:03:48 ID:JoJNoFHL
主君の命令だから仕方ないだろ
逆らったら自分が殺されるかもしれないし
776 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 23:10:28 ID:oNGi6zUD
悪や
純粋な悪や・・・
777 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 23:18:46 ID:2CNZHalu
>憎っくき彼奴めの死ぬところを、直に見てみたいのだ。
ほんとこの人はいい趣味してるよ
778 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 23:28:06 ID:I4gGcUga
水戸黄門だと悪人は代官とか家老まで
なぜか大名は善人というのがお決まりのパターン
大名自体が極悪だった場合どうするんだ?
取り潰すパターンは一度も見たことないわ
ちなみに麻呂は中納言がちょい悪だったwww
779 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 23:46:18 ID:6sMpQy5I
取りつぶしちゃうと、江戸時代に大して詳しくない人間にも
「あれ、そこまでやっていいの?」という創作でのやり過ぎ感がでるからじゃね?とは思う。
780 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 23:51:25 ID:9G1ZDnop
麻呂は印籠効かなかった珍しいタイプだったなw
781 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 23:51:31 ID:YXhN5Zfo
大名自体が極悪だった場合は、御老公一行じゃなく柳生さんちのご子息が伺いますから〜
782 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 08:04:26 ID:mB/WTp9I
>>778 子孫からクレームが来るのを恐れて大名自身の悪いエピは出さないんだと思う
このご時勢になっても旧華族の方々は要職にあったり家臣の末裔による
旧藩士会なんてのが残っているからなあ
783 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 08:49:43 ID:sYHddg7E
>>782 でも、大河ドラマだと今に続く家の悪い話を出すことあるやん。
「功名が辻」では一領具足を相撲大会でおびき寄せて虐殺エピソードが
出てきたし。
784 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 09:32:19 ID:UB1aLZui
史実とか気にしてない100%フィクションの水戸黄門と、一応歴史準拠の大河ドラマを一緒にするのかね
785 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 09:46:58 ID:U+rWiRFV
考えてみると水戸黄門とか暴れん坊将軍とか
銭形平次とかのドラマって初期設定考えた人は凄いな。
786 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 09:47:49 ID:QA6uVwpY
柳沢「どうせ俺がまた黒幕やんなきゃなんないんだろ?ケッ」
787 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 09:57:05 ID:MVJYrPUX
水戸黄門はフィクションとして楽しめるけど
大河は視聴者に史実とミスリードさせる手法が使われてるから罪深いなw
788 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 10:53:24 ID:pau4F0ZC
789 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 11:24:10 ID:jWgA8zdL
>>782 昔、学校の教師が、
「旧華族の人にVIP限定のバーに連れて行って貰ったら、
会員名簿みたいなのに、ズラッと大名の名前が並んでた」
と言っていて。ホンマかいな?と思っていたのだが。ガチだったのか。
790 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 11:28:30 ID:68BU79a7
水戸黄門とかは時代劇って言うジャンルだけど、大河は大河ドラマって言うジャンルだからな。
791 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 11:36:06 ID:BQ+5c/wm
秋田県知事は、北家だっけ?
792 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 13:24:17 ID:NQE4ka3t
極めてどうでもよさげな協会のトップには旧華族が座ってること多い気がする。
793 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 16:34:12 ID:gIMOCkA0
有馬記念の有馬は久留米有馬家の当主によるのが有名どころ。
今の相国寺の管主もその親戚筋のはず。
津和野藩主の直系は国会議員してるし、大学の先生方にも大名の末裔は少なくないね。
794 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 16:57:27 ID:3+Wcs+4Z
>>786 北大路欣也の旗本退屈男で上様の目前で
貴方が斬り殺された時は唖然としちゃいましたよ
795 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 18:27:05 ID:X99GUtrF
天正19年(1591)8月、関白豊臣秀吉の一子、八幡太郎鶴松がざずか3才で夭折。
日本国中の大小名はその髻を切ってその死を悼む。
関白秀吉は愛息の死のショックから覚めず、食事すら満足に取れない有様であった。
そんな時、加藤清正が御前の上がって、こう申し上げた。
「古の神功皇后、応神天皇以来、三韓よりは日本へ貢ぎ物を贈る習いでした。
ところが近年に至り、そのようなことを行われなくなりました。
そこで、八幡太郎様のお弔いとして、高麗を攻めてはいかがでしょう?
その時はこの清正が先陣を取り、高麗国王を捕え、前例通り日本へ貢物を
納めさせるようするでしょう。」
秀吉はこれを聞くと、それまで顔を覆っていた暗く落胆した雰囲気が初めて晴れ
「…ふむ、良い話をしてくれた。高麗陣のこと、考えてみよう。」
そう答え、直ちに備定め(戦争計画書)の作成を命じたという。
『清正高麗陣覚書』より、朝鮮役の原因は加藤清正、お前だったのか!
と言うお話。
796 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 18:57:06 ID:Rx6fe16p
『清正高麗陣覚書』って清正を貶める意図は全くなくて
清正の直臣が戦功を称える目的で書いた記録なんだよなw
それでこの内容w
797 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 19:05:12 ID:Tyn/l+Cu
仮に朝鮮征伐成功してたら清正が朝鮮に転封になったのかもしれないな
当時の朝鮮は石高換算で350万石くらいだったかな
798 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 19:06:27 ID:OFM+wjju
チョンの討伐の理由なんてどうでもいいって事だ
799 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 10:09:26 ID:I9Z4eltE
つーか関東の家康領だけで200万石とか行ってるはずなのに、
国土全部で400万石行かないってどうなのよ
800 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 10:15:12 ID:wtfYngtL
北海道で稲作できるようになったのいつからか知ってる?
801 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 10:29:05 ID:XmchYVTu
802 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 13:10:57 ID:ED4+oLf8
>>799 国土面積自体本州より少し小さいくらいだし、地勢は山がちで気候は全土が東北並みに寒冷
まあこんなもんじゃないかな。
803 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 13:34:26 ID:anSLDXpb
>>800 緯度は朝鮮半島の方がぜんぜん南だぞ・・・
804 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 13:36:32 ID:W8jMBJ/G
805 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 13:42:17 ID:tTJnwAo7
806 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 13:43:33 ID:anSLDXpb
朝鮮半島じゃ当時稲作してなかったみたいに考えてんじゃないのかな〜と思ったからさ〜
807 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 13:53:30 ID:AOLyrRpX
寒帯と言えば寒帯なんだが、一応北海道は朝鮮半島とは別区分。
亜寒帯湿潤気候が北海道、東北。
亜寒帯冬季少雨気候が朝鮮半島の大部分と満州の方、あと栃木県奥日光だそうな。
実は多分朝鮮半島の方が稲作は難しいんじゃないかな。
雪解け水少ないだろうし。
808 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 14:43:47 ID:E4hTb8uK
実際気候的に米はあんまり獲れなかった上に農業技術的にも低かったんじゃなかったっけ?
室町時代の朝鮮通信使が日本の農民が水車使ってることに言及して技術を朝鮮に持ち帰ってる
李朝は国内の開発にあまり熱心ではなかったって政治的理由もあるけど
文禄の役で朝鮮に行ってた加藤清正から秀吉にみすぼらしい銀の貢物があった
添えられていた書状には
「朝鮮咸鏡道にて未採掘の銀山を発見しました
地元民になぜこの銀山は採掘されないのかと聞いたところ
採掘してしまうと明に献上しなくてはならないため手をつけず隠しているのだ。との事です
とりあえず部下に製錬させましたのでそちらに贈ります
今はこのような粗末な銀しか献上出来ませんがいずれは良質の銀を献上出来るでしょう
領民も私に良く従い上手く統治出来ています。
ところで平壌の小西行長は統治が上手くいかず領民の反発を食らいグダグダになってるそうですよ!
まったくけしからんですね!」
と書かれていた
明の圧迫ってのはやっぱり強かったみたいね
809 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 14:57:22 ID:uFPoZfa2
810 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 16:13:44 ID:Wy39gH6P
ちょっと(意地が)悪い話w
811 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 17:44:11 ID:Y/Haic7a
行長の悪口吹いたw
812 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 19:13:46 ID:MhVqZBRY
>>808 確か水車は、便利そうだと思って試作したはいいけど
川の流れの速さとか水量が全く違っていて、結局実用にはならかなったってなんかで読んだ
あんなに近いのに、気候もなにもかも本当に違うよね
いろんな武将の逸話で「朝鮮はとにかく寒い!」って出てくるけど
近いからって主力になった九州出身の兵士にとったら本当に洒落にならない厳しさだったろうな
813 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 19:24:24 ID:PEKgo6IP
しかもあの当時って時代的に寒かったらしいし
814 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 20:03:49 ID:/tTPy/5X
小氷期で平均気温が1度くらい寒かったんだっけ
815 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 20:17:39 ID:XmchYVTu
水車といえばこのコピペにはワラタ
1429 世宗11年12月3日 日本の水車が凄いと報告。
1430 世宗12年9月27日 水車を造ろうとする
1431 世宗13年5月17日 中国も日本も水車の利を得ているが我が国(朝鮮)にはそれがない。
1431 世宗13年12月25日 水車導入を試みる。
1451 文宗元年11月18日 どうやら水車の導入に失敗。
1488 成宗19年6月24年 水車導入の試みがあります
(そして音沙汰無し・・・。)
1502 燕山君8年3月4日 水車導入の試みが書かれています
(そして音沙汰無し・・・。)
1546 明宗元年2月1日 水車導入の試みが書かれています。琉球(沖縄)と中国で教わった福建式の水車の様です。
ここから100年間水車の記述が有りません。消滅したようです。
1650 孝宗元年5月15日 水車導入の試み
そして30年記述無し。
1679 肅宗5年3月3日 水車を造らせたと記述。
そして70年記述無し。
1740 英祖16年4月5日 水車など無くなりました。『孝宗大王嘗頒遼瀋水車之制於外方, 今無見存者』
1740 英祖16年11月20日 また水車を造らせたと記述。一向に普及する様子が有りません。
1764 1763-1764年 の朝鮮通信使の「日東壮遊歌」に(淀城の水汲み水車の感想)
「その仕組みの巧妙さ見習って作りたいくらいだ」と記述有り。 上の通り。
1795 正祖19年2月18日 水車之制について盛んに出てくる。普及している感じはしない。
1811 純祖11年3月30日 ここの記述でも水車なんか必要なのか?と書かれており全く普及していない事が読み取れる。
816 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 20:27:15 ID:wtfYngtL
その後、200年位経つと水車発祥は・・・とかに
817 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 22:13:58 ID:H3JfxBaP
>>812 ソウル以北の冬の平均気温は氷点下
シべリアからの寒気団の動向によってはマイナス10度を下回る。
朝鮮側の記録で「倭兵は我々のように革の靴を知らず、藁の草履を履いて苦しんでいる」
みたいのがあったはず。
明軍参戦から一気に戦線が後退したのも寒さが一因だったのだろうか…
818 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 22:15:40 ID:wtfYngtL
冬将軍、半端ねぇ〜
819 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 22:20:20 ID:I4mVLde9
寒さに比較的慣れてるはずの北国組は
前線出てないしなー
820 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 23:48:00 ID:Z12oOW5a
今の季節に草履で外出るってだけでもあまり考えたくないなw
821 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 23:51:19 ID:8gl1hWmD
貫って革じゃなかったっけ?
822 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 00:25:18 ID:caSzaZZN
綱貫を何万足を揃えられるとは思わないが…
823 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 00:35:08 ID:7xF+lqUJ
佐々を改易しなければ冬将軍にも負けなかったのにな
824 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 11:50:26 ID:EpoDt9cu
宇喜多勢を遼東あたりに極秘裏に渡海させて挟撃すれば良かったのに
825 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 11:54:51 ID:4bAgphLf
大将を遠泳させる気か?
826 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 13:31:03 ID:yE7dmBHe
>>824 細川忠興の晋州城攻撃が失敗して、半島西岸の確保ができていないからそれは無理
827 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 13:56:50 ID:3abgkoIj
>>782 暴れん坊将軍じゃ尾張藩の殿様は決まって悪人じゃい
吉宗の質素倹約に対抗してちょっとどんちゃん騒ぎしただけの愛すべきキャラなのにWww
828 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 15:16:22 ID:caSzaZZN
時代劇や講談だと経済を発展させるやつは悪人なんだよね
829 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 16:41:23 ID:tTHhbEIB
>>827 その2代後の9代目の人は
なぜか時代劇で正義の味方になってた
ツッコミどころ満載な時代劇だったけど
830 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 17:19:22 ID:0tD4YbLJ
>>829 最終回で将軍の目の前で田沼意次が斬られる殿さま風来坊隠れ旅かw
831 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 18:01:17 ID:z4C2ahXP
>>826 おかげで兵糧は陸送せざるを得ず、統治の失敗のせいで各地に義兵が出没して
いたので、輸送路をガシガシと襲われるように。碧蹄館の戦いに勝ったのにも
関わらず、兵糧不足で平壌の奪回どころか結局は漢城も放棄し、釜山近辺にひきこもり…
832 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 21:27:15 ID:w0cxl+Yr
>>828 商工業から税収を得る手法が確立されていない幕藩体制下では、農業を優先させるのは当たり前。
ぶっちゃけ、いくら商業が発達しても税収につながらないんだから。
宗春公は結局それを無視したせいで財政破綻寸前まで行ったから隠居させられた。
833 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 21:32:22 ID:skxtHIsZ
室町時代は商工業が税収源だったけどな。
古河公方ですら古河なんて辺鄙な場所で権力を維持できたのは
河川交通の関銭などの税収が大きかったからだそうだ
834 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 21:40:45 ID:YKZLm19V
>>833 そのために日本中に関所を作りまくったわけで>室町幕府
835 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 22:03:44 ID:z4C2ahXP
でも、物流阻害して税を徴収しようとするのは間違いだよなぁ。
836 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 22:15:43 ID:eAdtIhrv
流通に関税をかけるではなく生産=農業を重視すべきってのが西洋の経済学の始まりだったり。
837 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 22:24:09 ID:skxtHIsZ
>>834-835 もともと自分の領土・領海の通行権と安全を保障するという意味で
中世の関所が始まったの知ってる?
838 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 22:32:38 ID:YKZLm19V
>>837 室町期はどの関所もほぼ完全に経済目的になっているよ。
応仁の乱なんて各勢力がどんどん私関所つくってその利益を軍費に当ててるし。
839 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 22:38:58 ID:YKZLm19V
ついでに言うと通説とは違い、織田信長は陸河海の経済関所は全て認めていたし存続していた。
秀吉の時代になってようやく京の七口などの関所が撤廃され、日本の経済関所の全廃は
家康の時代になってから。
840 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 22:53:25 ID:skxtHIsZ
>>838 当たり前のことだけど、戦国時代には街道の防備や防諜の意味で
どんな戦国大名や国人も領内に関所沢山作ってたんだけどね。
山田邦明の「戦国のコミュニケーション」とか齋藤真一の「中世を道から読む」を読めば分かるよ。
841 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 22:58:54 ID:YKZLm19V
>>840 申し訳ないが多分君とは話が噛み合ってないと思うw
842 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 02:28:22 ID:8mDCzNsA
『沼田記』より沼田城を巡る攻防。
沼田城を領する沼田氏は上杉輝虎に属していたのだが、輝虎が三十九歳にて突然死
んでしまうと、武田信玄の侵略を受ける。
真田弾正忠(幸隆)の手勢三千に攻められた沼田景貞は城を脱出。家臣の金子美濃
守の元へと落ち延びるが、美濃守は景貞を裏切り、暗殺。真田に降伏してしまう。
この行為を憎んだ弾正忠は、吾妻川の河原に生き埋めにし、諸人への見せしめとし
た。
突っ込み1:謙信死後に信玄生きてる!?
突っ込み2:幸隆も生きてる!?沼田を落したのが幸隆?
その後、海野能登守、矢沢但馬守が交代で城代を務めるが、北条氏の攻撃は激しく、
遂には攻め取られてしまう。
秀吉の関東仕置きを経て、徳川家康が関東を領すると、関ヶ原合戦の際の働きを賞
され、真田安房守(昌幸)が沼田に封じられた。
突っ込み3:ここでも海野は沼田城代か……
>>
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4867.html 突っ込み4:何故昌幸が関ヶ原の働きを賞される……?
沼田城は真田伊豆守信幸、大内記信政、河内守信吉、伊賀守信行、弾正忠信成と代
を重ねたが、その後領地は没収されたと言う。
安房守昌幸の妻は本多中務大輔忠房(平八郎となっているから忠勝でしょう)の娘
であり、家康公の孫であったと言うのに、惜しい事だと皆、話していた。
突っ込み5:K○MATU殿が昌幸の妻デスカ……?
『沼田記』を読み進めていた時はすっげぇインパクトのある記述で、それこそ突っ
込みを入れながら読んでいたんですが、こうやって文章に起こしてみると、
「あれ? 単に一代ずつずれてるだけじゃん?」
という事に気付いて拍子抜けしてしまいました。
ぬぅ、私が読んだ時のあの衝撃を伝えられぬとは、何か悔しいぞ。(^^;
まぁ、お兄ちゃんの事跡が昌幸パパンに盗られちゃった悪い話という事で一つ。
843 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 02:51:39 ID:W2LIcs14
まあ親子なんだから幸隆に華を持たせても文句なし…
かな?www
844 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 02:55:41 ID:kvKs0j2c
何が理由で一代ずつずれたんだろ?w
845 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 07:00:56 ID:mD2tm/VA
原文(報告書っぽいの)が殿とか大殿とか代名詞でしか書いてなかったのを整理してまとめたときに間違った説を提唱
846 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 12:09:37 ID:S7p8BozB
847 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 19:42:07 ID:gsiYezwB
ある時、大納言前田利家が20日ばかり大阪城に詰め、太閤秀吉よりようやくお暇をいただき、
日暮れの道を伏見へと向かっていた。
この時利家は大変機嫌が良く、乗り物の輿の両側を開き、またお供の者たちも全員馬から降り、
色々と物語しながら道を進んだ。そのうちに森口と牧方の中間くらいに至った頃である。
前の方から騎馬の侍が来た。
年の頃四十ばかり、鹿毛の馬に乗り槍一本持ち、供の者を4,5人連れて顔には頬被りをしていた。
そんな一団が利家たちとすれ違おうとした。それを見た利家、突然
「頬被りはご法度ではないか!あいつを馬から引きずり下ろせ!」
と言い放った。
これに前田家のお供の者たち、すぐさまその頬被りの侍に一斉に飛びかかり、相手を馬から引きずり下ろした上
頬被りを取り上げた。頬被りをしていた男はこの突然の乱暴におおいに驚いたが、相手が大納言前田利家と知ると
何もすることも出来ず、ただただ迷惑の体であったという。
後で解ったことには、この時の侍は安芸毛利家の家中の者であったそうだ。
伏見に帰った利家からこの事を聞いた近習や家老の面々は大いに面白がり
「殿もまだまだ気持ちがお若いですなあ」
などと物語したそうである。
前田利家、頬被りの侍にお仕置きする。というお話。
848 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 20:27:19 ID:/Mk2wI8x
大谷吉継だったらどうすんだ
849 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 20:34:48 ID:6LCsIKdn
吉継なら馬じゃなく輿に乗ってるんじゃね
850 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 00:06:51 ID:KGfwYQp6
豊臣政権の時代、とある9月の節句の事。
前田利家、前田利長、蒲生氏郷、細川忠興の四人が揃って城(伏見城か)に出仕した。
ところがこの時、城の門番が
「それはいけません!」
と、彼ら四人が連れてきた多数の御供衆を城内に入れることを拒絶した。
これに四人の大名は怒る
「ああ!?我々を誰だと思っているんだ!?」
しかし門番、引き下がらない
「誰であろうと、これは御法度で決まった事です!断じて入れるわけにはまいりません!」
すると
この門番の左右の手を蒲生氏郷と前田利長ががっちりと捉え、門番の体を二人に取られた忠興は
後ろに回し刀に手をかけ、その上で前田利家は、体を押さえられ動けない門番の顔を張り上げた!
(殿様其者の面を御張りなされ候。彼者の左右の手に肥前様飛弾殿御取付きなされ候。
越中殿は、なられべき様なき故に、刀に手を懸け、彼番衆の後ろに御座候。)
その夜、利長、氏郷、忠興の三人が集まって物語をしているおり、蒲生氏郷は昼間の憤慨が収まっていない様子で
利長に憚りもなくこう言い出した
「利家卿へすらあのような無礼な態度を取るのなら、豊臣家を見限るべきだ!
肥前殿(利長)も、当然そう心得るべきだぞ!」
(飛弾殿肥前様へ御申分構なく、利家卿へあの程の体ならば、見限られ申すべく候。
肥前殿も、其御心得然るべき由御申上候)
この事は後に前田家家臣の斎藤刑部が氏郷のもとに使いに行った時に、氏郷が斉藤に対して
語ったことだそうだ。
蒲生氏郷、門番への憤りから前田利長に豊臣政権からの離脱を進める、というお話。
851 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 00:10:14 ID:QhrU5l8J
852 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 00:10:30 ID:hO55I8B1
既出
853 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 00:11:09 ID:KGfwYQp6
確認してなかった。すまんかったorz
854 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 00:51:46 ID:KGfwYQp6
お詫びにもう一つ。こっちは出てないはず
秀吉の死の10年前というので、天正16年(1588)の事であろうか、豊臣秀吉が
伊勢山田の伊勢神宮から、金子百枚を没収したことがあった。
さて、10年後の慶長3年(1598)、病に苦しむ秀吉にその枕元に立つ、白装束の人物が見えた。
その人物は言う
『伊勢より取り上げた金子を、早く、早く返すのだ。』
秀吉はその金子の事、全く覚えていなかった。
目覚めてから奉行たちに問いただし、奉行衆は古い帳面を必死になって調べた。
この時、石田三成が思い出した
「そう言えば昔伊勢神宮から、何かの過怠の罰として金子百枚を召し上げたことがありました!」
これを聞くと秀吉、直ぐに
「な、ならばその金、急いで伊勢に返してくるのだ!」
こうして10年前に召し上げられた金子百枚は、奉行衆の手により伊勢神宮の神主やその他の
者たちに残らず返却された。
その後秀吉は
「弱気になると色々と不安になり、あらぬ物なども見てしまうが、そのなかでも
先の伊勢の神霊は特に恐ろしかった。」と話たそうである。
豊臣秀吉、伊勢の神霊に取り上げた金の返還を迫られる。というお話。
855 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 00:57:11 ID:olN5UzYT
故右大臣みたいに冥土へ行こうぜ久しぶりにキレちまったよって言わないだけマシだろ
856 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 01:17:54 ID:clw3nPM4
>>855 `ヽ、
`ヽ、__ \
, へr-y \^Y^ :ヘ __, へ
_,_,ノ_: r': _\・_:.l| ・ .}_,_,_
ノ: ‥>'  ̄ _二ハ `リー、 :} :__} , -――――――- 、
rーイ : / ,ィ 7 ̄// ,イi|!ィiヽ、`く⌒‥^ ァ i 冥土喫茶へ. .i
{:_r{_./ /,イ / /// " i ハ ヽ.\ :} ノ ようこそです |
_rK :/ ///:: //,イ:: / .l i ト、 ヽヘ : ハ / ________ノ
<‥ / /:,イ :::/ /// i /! |::i l i i ', Y^ヽ}  ̄
ヽ: / /:// ::///// .l.ハ.! lイi ! i! i i. i ‥>
{:Y /://i :::i i !!i/ !!_!!__ _!イ l li i l i | :メ
rェ{.:!/.://ィi :::il !!!レ彡!lュ! /ニ7メ、!!.! ! ノ|イ:}
{レミ/.://:{ イ!:::レイィE;;;;ン!ハ / iT;;メ、メノノイ |うノ __
Vイ ://|::ト、ヘ::::ト,{ハヒ;;;と! !;;セリ}///ノ:i |ノ <´゚ノ `,>《. ∠二二二ア
i::!::{ |i|! Tハ、トミ、" ̄:::: , .::`゙'シ//イi:::i::|ヽ Φ ` ̄ ̄(∞). │ 酒 │|
レハヘハ! ヾ ヾ:|\ (フ 彡',〃/イノ:レ! 義姫の手料理 ヽ┴┴┴ ′
|:! ヽ> /^^゙'、ヽ、 _ , イヒ" . /.// ノ|:| (毒見禁止) .備前の酒
W rーノヽ、r'ミヽ、_ ^^ヽト'人シ⌒イ_く/ L! (二三三三三三三三三三三三三三三三二)
{^>'⌒ヽ,}ヽ ヽ、ミミュ、ゞイく Y⌒イ{_ /:/. ̄ ̄:.ヽ_ /
r'/.:.:.:.:.:.:.:.:.:く_<、 i ./:ハ::\ Y二フ`\ {:.:.:.:/.:.:..彡三{
/.:.:.:.:.:.〃:.:.:.:.:.:.::y) i /::ノi oi\:} Y つ.:.:.:.:.\ //:.:.:.i:.:.:.:(.:.::ヽ::>
/;;;;;;;イ;;;//:.:.:.::.::.;;;;;;;ik' レ' ! } ト! .Yフ:.:.:.:.:.:.:.::ヽ /:.:.:.:.:./:.:}.:.:}`ー⌒
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!;;;i;;;/;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ;;;;;;/ソ i i (⌒Y⌒);;:.:.:.:.ヾ:.:;:.:リ /:.:.:.:.:.:.:i.:.:.:/ノ
ノヾ、:;;;;;;;;;;;;;;;/;;;; ノ ̄` ーー''7 \ /!ヽ:.:;;;;;;;ヾ;レ{r'ニヽ:.:.:.:.i:.:.//
/i.:.:.;;;;;入、:;;;;;ヽ.:.:/:.: i i.: // Y |;;;;ヽ、ニ;;yy'.:.:.:.:.ヽ:i.:.:.:i.:.:./
''"::.:.:.i:.:.:.:ノ;;/`ー'{ 7:.:.:.:. :ノ / // / ノ i`ー- ミニノ:.:.:.:.:.:.:.i;;;}:.:.i./
857 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 02:31:09 ID:4tyj8BWl
冥土あり
858 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 08:46:09 ID:U1hRc5py
白装束の人物は家康の手の者だな
859 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 11:45:43 ID:uBcVPQAM
某右大臣とは総見公のことかえ
860 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 12:56:34 ID:LzixUZCQ
昔々、筑後国に、三原弾正貞吉という豪族がおった。
大友宗麟の傘下に属し、本郷城(現小郡市の辺り)を領しておったそうな。
ある日、この男が宗麟の元へ参勤する途上、通りかかった大池にふと目をとめた。
その水面では鴛鴦(おしどり)につがいが仲良く遊んでいたそうな。
三原「鳥のくせにリア充だと!?許せん!!」
家庭運に恵まれず、色々とストレスのたまっていたこの男は、弓で片方を射殺してしまった。
それから数日後、宗麟との所用が終わっての帰路、再びその大池を通った時のことじゃ。
見ると、あの時の鴛鴦が一羽だけで水面に浮かんでいた。
三原「お前もあの世に送ってやんよw」
この鴛鴦も射殺された。
が、家来に命じて死骸を引き揚げさせたこの男は、信じられないものを見たんじゃ。
殺された雌鳥は、羽の下に雄の亡骸を抱いておった。死してなお、つがいの愛情は消えていなかったということじゃ。
この男は、はじめて自分のやったことがどれほど罪深かったかを知った。
三原「ごめんよ、ごめんよ……」
打ちのめされたこの男はその場で武士を捨て、仏門に入ってしまったそうな。
無方坊と名乗った彼は、やがて人々の喜捨を集めて立派な仏像を造らせた。
慈悲深い笑みの薬師如来像の周囲に、鴛鴦のつがいが仲良く飛んでいるこの仏像は「鴛鴦観世音菩薩」と呼ばれたそうな。
後に、その地方の領主となった黒田家の重臣栗山備後が譲り受け、
亡き先君如水公の為に建立した円清寺に、今もご本尊として祀られておるそうな。
ちなみに、これと同じパターンの話は日本全国にあるそうじゃな。
861 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 13:00:41 ID:LzixUZCQ
訂正じゃ。我ながらボケとるのう……
×その水面では鴛鴦(おしどり)につがいが仲良く遊んでいたそうな。
○その水面では鴛鴦(おしどり)のつがいが仲良く遊んでいたそうな。
862 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 13:02:34 ID:7HUk1dFo
863 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 13:38:55 ID:hO55I8B1
おしどり夫婦とか言って、仲のいい夫婦の代名詞だけど
最近の生物学的研究では、メスもオスも浮気しまくりらしいなw
864 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 14:44:32 ID:MDbymgJ9
浮気しまくりでも、それはそれこれはこれで仲が良いてことか?
深いな。
865 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 15:38:50 ID:BH1DBcKE
不倫は文化とかまるで公家のように雅でおじゃるな
866 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 15:43:05 ID:V7bLqyDz
867 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 16:59:30 ID:LzixUZCQ
>>866 どっちか悩んだのじゃが、宗麟の名前が出たら自動的に……
868 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 17:02:39 ID:b88vgr6P
改心したとはいえ苛立ちを鳥にぶつけた悪い話だろ、と書き込もうとしたんだけど
>>867の基準はそれ自体が(宗麟の扱いが)悪い話だw
869 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 17:08:04 ID:szztXoxH
サイン変えました('A`)
永禄8年、京で将軍足利義輝が三好・松永勢に襲われて落命する。いわゆる「永禄の変」である。
義輝の弟で奈良・興福寺一乗院門跡の覚慶は、近臣の活躍により奈良を脱出し、伊賀次いで近江へ
逃れ還俗して義秋と名乗る。この一連の動きに尽力したのが、義輝の相婿にあたる朝倉義景である。
その後、若狭から越前へ移った義秋は、義景の加冠で元服、名も義昭と改める。義景は義昭を盛大に
もてなしたが、義昭の悲願である朝倉氏の武力により上洛、そして征夷大将軍へ任官、という構想
には同調しなかった。
朝倉家の当時の状況を見れば無理もない。
外様の有力家臣である堀江景忠が本願寺に通じて謀反を起こし、鎮圧まで義昭は一乗谷へ迎えられず
敦賀に留まったままであった。義昭の斡旋により本願寺とは和睦したものの気を許せる状態ではない。
義景の代になってからは上杉謙信と連合して、それまでより積極的に加賀一向一揆を攻めていたので
ある。
一族内では大野郡司の景鏡(義景の従兄弟)と敦賀郡司の景紀(義景の叔父)が対立していた。両者は
数年前の加賀攻めの折、景紀の息子景?が景鏡と大将争いをして敗れて自害して以来、険悪な関係に
あったが、義昭の敦賀滞留がそれに火を点けてしまった。敦賀滞留の折、義昭は景紀の次男景恒を
中務大輔に任官して重んじたが、景鏡がその後巻き返し、義昭が一乗谷へ移る際にその出迎えを務め、
式部大輔に任官される。一乗谷での饗宴の際、景鏡と景紀は席順を争って、片方が出席すれば、もう
一方は欠席する有様であった。
三好・松永に同調する勢力との差もあり、京都制圧の自信は持てなかった。むしろこのまま駒である
義昭を手中に置いて、周辺勢力との外交交渉に使おうとしたのだろう。越前公方の設立を考えたのかも
知れない。
そうこうするうちに、義景の嫡男阿君丸が死亡する。真相は不明だが京都から毒が調達され毒殺された
ともいい、義昭周辺が下手人との噂も立ったという。
一乗谷滞在9ヶ月にして、義昭は織田信長の元へ去る。義景は反対したが止めることは出来なかった。
「最後まで義景を見捨てない」言い残して義昭は去った。
大事な跡継ぎを喪い、一族の結束は更に乱れ、あまり当てに出来ない本願寺との和議だけが残った。
この直後、義景はおのれの花押を変更している。「足利様」と称される武家様の花押を家督相続後
20年にわたって使用してきたが、全く別の公家様の花押に変えたのである。
「新しい花押に変えたのでよろしく願いたい」
薩摩島津氏に宛てた書状で義景はわざわざこう断りを入れている。義景の心境や如何に…
870 :
869:2010/12/04(土) 17:09:28 ID:szztXoxH
文字化けした('A`)
「景?」は「景みつ」ね
orz
871 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 18:32:09 ID:nilzV520
薩摩の島津に書状なんて送ってるんだね。
内容はなんだろ
872 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 19:22:56 ID:olN5UzYT
義景「いちどあそびにきてください。」
873 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 20:48:39 ID:Jkv0mX8x
>>863 「鴛鴦」と「オシドリ」は別物だと考えた方がいいと思うよ。
実在の「キリン」(ジラフ)と伝説上の「麒麟」が別物って言うのと同じ。
「鴛鴦」は鴛が雄、鴦が牝だったかな?それぞれ片方の翼しか持っておらず、雌雄が一対と
なって初めて空を飛べるという中国の伝説上の生物。
その為、夫婦円満の象徴とされる。
「片翼の天使が相方を見つけて……」という三文小説(漫画)は良く見かけるが、その元ネ
タは数千年前の中国だったというお話だね。
874 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 21:30:29 ID:AfsV1lOK
875 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 11:58:06 ID:SH1J2ONJ
>>874 朝倉の琉球貿易に島津が協力してくれる事に感謝する内容の書状
の事じゃないか?
義景「今度俺、信長倒したら、薩摩にあそびにいくんだ」
義久「…と言う書状が届いて以降返事がありません、この間何故か信長に日向鷹をかつあげされました」
876 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 12:29:52 ID:eM2psqAH
>>875 信長「はくだみにした杯やるから日向鷹くれよ」
877 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 14:46:41 ID:8eyipvI9
・・・そろそろ、ヘタレ死天王枠作るべきじゃないか
878 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 15:00:25 ID:FSD/GZSR
稲富さんはトップか?
でも歴史に名前が残ってるような人は
ヘタレな逸話があっても、基本的に2ちゃんねらーにヘタレ呼ばわりされるレベルの人ではないと思うけどね。
879 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 15:24:18 ID:JtrVkf6H
>>878 それをいいだしたら江戸期の町人なんか何も口にできない。
そもそも逸話なんか無責任なものでしょう。
偉人や歴史上の人物の噂で盛り上がれる自由を愉しめばいいのでは。
忠臣蔵にしても、町人に腑抜け呼ばわりされるという「タメ」があるおかげで、終盤の潔さが光るのだと思います。
880 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 17:27:30 ID:bgzH12Ex
ヘタレ四天王
仙石秀久
稲富祐直
朝倉義景
足利義政
あと1人が思いつかない
今川氏真、織田信雄、一条兼定あたりも思いついたけど、ちょっと違う気がする
それにしても、みんな小物ばかりだな
平宗盛みたいな大物はいないもんかね
881 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 17:51:59 ID:A1WlNkZ9
882 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 17:53:46 ID:faWDD5c8
>>880 某スレからの引用だが、宮部長房なんかはどうなんだろう
883 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 17:55:51 ID:WEZxMgYX
>>867 俺は宗麟が仏像をぶち壊すオチかと思ってハラハラしながら読んだんだがw
884 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 18:02:02 ID:PbtWd5uL
>>880 当たり前のように四天王は5人必要なのかw
885 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 18:15:58 ID:faWDD5c8
>>884 二十四将だと、三十人必要だからそれに比べたら少ないよ
886 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 18:17:37 ID:Fa/WUKp1
世の中には七十二名将なのに七十二人居ないというのもあってだな……
887 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 18:19:28 ID:Szbx7sT6
尾藤知宣もヘタレだな
888 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 18:32:26 ID:VZRAgFiS
尼子さんの十勇士とかも大概酷いしな。
889 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 18:39:37 ID:PxGNlk6p
890 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 18:53:29 ID:m7hunWQU
>>887 このメンツは何か分かる?
宮田光次
神子田正治
尾藤知宣
戸田勝隆
これが「羽柴四天王」だよ!織田四天王・徳川四天王と比べて渋すぎ。
891 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 18:58:43 ID:Szbx7sT6
>>890 知ってるよ
ポスト半兵衛と言われながらも土下座して帰参を願い出て自害させられた神子田
四天王の中で一番軍事に長じているはずなのに小牧長久手で強行、九州で慎重論でどっちも失敗した尾藤
弟のほうが有名な戸田
wikiが未だに赤リンクの宮田
これが羽柴四天王だ!
892 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 19:04:09 ID:faWDD5c8
秀吉「NANAHON!YARI!NANAHON!YARI!」
正則&清正「むぎゃおー!」
長泰「平野です・・・大名になれなかった平野です・・・」
893 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 19:08:02 ID:YMKLxL62
宮田ェ…
894 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 21:31:56 ID:IkJGy0Rt
>>880 氏真は桶狭間で中核家臣団が壊滅したのに信玄坊主が侵攻してくるまで
まがりなりにも領国を保った。ちょっとヘタれとは言い難いんじゃないかな。
義政は、その、時代が……あとタイミングが……
まあしょうがないよね! と言わしめる何かがある。
895 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 21:34:54 ID:wI9n7Cvn
>>894 氏真はヘタレと言うより戦争、戦略音痴だな。天庵様なんて目じゃないくらい
本質的に戦がわかってない。
896 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 21:36:06 ID:HUjIj1jP
戦なんて下々のやることでおじゃる・・・
897 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 21:49:18 ID:V8xgvBwI
領国保ったのは氏真くんじゃなくてババアの功績でそw
898 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 21:56:21 ID:/GX2tB5e
>>897 まあ、寿桂尼が死んだ途端に信玄がやって来て、裏切り者があちこちに湧いて
だものなぁ。
899 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 22:27:08 ID:1nXylbP9
>>895 天庵様「ちょっと今川を攻めて来る」
菅谷「やめて!」
900 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 22:55:33 ID:vKOgyKCE
大友義統先生どうやら出番のようです。
901 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 23:08:22 ID:SH1J2ONJ
南のヘタレは大友義統で決定だろうね
西のヘタレは朝倉義景として
東は織田信雄あたりになるのか?
北方面にDQN以外のヘタレっていたっけ?
902 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 23:10:14 ID:bgzH12Ex
まあ、氏真はしっかり内政もこなしてたし、決して能力がないわけではない
でも、ちょっと他人の意見に左右されすぎというか、自分の信念を持ってない気がする
903 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 23:13:58 ID:dbhZkW9k
DQN父「そういえばどこかに女に説得されて」
鮭様「戦をやめたヘタレがいたような気が」
904 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 23:27:50 ID:FjYY8vBF
戦国のババアは割と強いよな
905 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 23:39:02 ID:eM2psqAH
秋山信友「ババア結婚してくれ」
906 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 00:07:50 ID:oilPUIu3
北でヘタレと言えば、斯波とか大崎とか?
両方とも末路も大概酷いし。
907 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 00:11:58 ID:F+gguYjV
土岐頼芸「ヘタレ大名ワロスw」
斎藤龍興「お前が言うな」
908 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 00:12:40 ID:8L2AuDP0
>>880 その4人だと稲富祐直はなんか違う気がする。
秀吉子飼いの筆頭格だった仙石、京を牛耳る事も不可能ではなかった朝倉
天下の頂点にあった義政と来て、稲富だけがただ個人の域にあるというか…
信雄のほうが合ってるんじゃないかな。
909 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 00:39:58 ID:OLvMARRS
北ね…
小野寺は…天庵様系か
910 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 00:40:23 ID:pZpjAjvk
前に出るべき所で一歩引いちゃって能力を無駄に・・・がヘタレだと思う俺
なので俺の中では稲富さんはまさにヘタレオブヘタレ
あと元から無能な宮部(
>>882)、テメーはダメだ
911 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 01:00:31 ID:H5YYRw6a
今まで出てきた面々は
無能・資質に欠ける系 宮部 氏真 天庵 仙石 尾藤
臆病・グダグダ系 稲富 大友 朝倉 義政
に分けられると思うんだ
912 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 01:02:08 ID:CZEe/RWG
三方ヶ原で戦わずに逃げ出した佐久間信盛は?
913 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 04:31:53 ID:rEFEH7I9
むしろ三方ヶ原で織田の援軍の内、平手勢だけ特攻した理由が知りたい。
佐久間や滝川らは無益に過ぎる野戦で兵の損失を防いだだけだ。
結局、土地勘のある家康他は無事に逃げ帰れたが、
平手汎秀は置いてけぼりにされて死んでるしな。
914 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 06:00:00 ID:/1LUBfWE
DQN四天王に入り損ねた、有能なのに逸話ではへたれなあの方は?
915 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 08:00:37 ID:Ed6mmv/U
佐久間はヘタレなイメージあるなあ
916 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 09:18:01 ID:weACdhnW
北だと一押しはやっぱ大崎義隆だなぁ。
寵童二人の権勢争いを収められなかった挙げ句、
寵童の片方に押し込められて身動きが取れなくなって伊達の介入を招き
なんとか勝ったはいいけどその後結局属国になって家臣調略され
最後には小田原に参陣しないで没落――とか酷すぎるw
917 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 10:55:14 ID:IyYQn1WT
関ヶ原で逃げた木下 勝俊もなかなかだと思うけど
918 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 11:57:13 ID:q3RRfTys
前田利家は、鶴の汁を見ると思い出すことがある。
あれは織田信長が安土に築城し、その記念に家臣達を呼んで馳走を振舞った時のことだ。
鶴を始めとした色々珍しい料理が並べられた上、信長自身が引き出物を、それぞれの席に
渡して廻っ。
まず柴田勝家の前に来ると、
「勝家、おぬしを初めとして皆が度々手柄をいたした故に、このように天下を鎮め、万事成就いたした。
まったく満足である。」
と、声をかけた。
そしてその他の者たちにも、引き出物を渡しつつ次々とお声を懸ける。
さて、この時の宴会では末座に70人ほどが固まっていたが、その中に前田利家もいた。
信長はその末座にも入って引物を渡して回ったが、利家に引き出物を渡したとき
「この利家は若い頃わしの秘蔵のものでな、わしの側で添い寝していたものだ。
そのころこいつは大髻(もとどりを大きく結うこと)であった。その髻を取って(元服し)、
あれは稲生合戦(弘治2年8月24日(1556年9月27日))の時のことだ。
利家は15,6であったか、こいつは武蔵守(信長弟・織田信行)家臣であった宮川官兵衛の首をとった。
その時わしは馬上から
『お犬は一兵卒であるがこれほどの手柄を立てたぞ!皆々見よ!』
と叫んだ。これに味方は気力を得て、7,8百ほどの軍勢で3,4千の人数を押し崩した。
ここにいる者はみなそのような手柄を立てた。そのおかげでわしは今のように天下を鎮め、
万事が成就いたしたのだ。」
このように褒められた利家のところに、信長の近習衆はもとより給仕をしていた者たちまで集まり
「さてさて冥加なる又佐殿かな。あやかりたい者よ」
と利家の奪い合いのような状況になった。そこであまりに給仕されるので、かたじけないかたじけないと、
ついつい鶴の汁を食い過ぎた。そして…
「その汁があたっちゃったんだなあ。それ以後、寄生虫の病で苦しんでおる。」
前田利家、意外なところで生涯の持病と出会う。というお話。
919 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 12:30:58 ID:o3lZyXkD
利家の鶴の汁話しは出てるよな
920 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 12:34:25 ID:8L2AuDP0
921 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 12:35:36 ID:zmcNA5Cv
922 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 19:05:17 ID:zo7SECoe
直茂「わしは鶴が好きだぞ」
923 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 19:35:01 ID:8aQPgBlf
>>917 木下勝俊は文人としての才覚を惜しまれて、朝廷などから助命工作があったって説もあるからね。
それを振り切って城を枕に死ぬ覚悟がなかったといえば、それまでだけどさ。
924 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 19:45:53 ID:WyyW0O8e
寄生虫って、鶴の吸い物って生使うのか?
925 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 19:46:13 ID:8L2AuDP0
幽斎も開城したことで「所詮唄詠み…」と嘲られたとか。
926 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 20:03:46 ID:puL/ugQi
>>925 京極高次や富田信高なんかも、色々と言われたんだろうか。戦後、家康から功績を認められたくらいしか知らないけど
927 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 20:06:22 ID:Bom5OLMA
>>926 京極さんは立花勢の足止めに成功したから何とかってきいた
928 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 20:56:31 ID:o3lZyXkD
京極さんは開城して高野山に逃げ出したんジャマイカ?
929 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 21:03:17 ID:8L2AuDP0
開城までの一週間の籠城戦で負傷までしている>京極さん
1万以上の西軍の足止めに成功
930 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 21:06:20 ID:bjG+pbNI
ある朝廷の人間の日記に
「大津の事、笑止の沙汰あり」と書いてあったらしい。
同じ名門でも、田辺城には朝廷が幽斎の為に色々動いたのにw
931 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 21:21:28 ID:DEaNKSHZ
笑止にはいろんな意味があるから、どう解釈するか難しいところではある。
932 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 21:38:32 ID:+/e/D26c
京極さんからは武辺者ってイメージがこれっぽちもわかないからオレ的にはヘタレッぽくないw
933 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 23:05:09 ID:UuTp9Kdw
室町時代前半、三河国は一色氏が四代にわたって守護を務め勢力を扶植していた。
60年にわたる一色氏の支配が崩れたのは永享12年(1440年)のこと。
当主である一色義貫が、「ミスター万人恐怖」足利義教に大和の陣中で謀殺されたのである。
一色氏の領国のうち、若狭・三河はそれぞれ謀殺の実行者である武田・細川両氏に奪われた。
残る丹後守護職も嫡流である義貫の子には渡されず、傍系の一色教親へと移ってしまった。
それから四半世紀後。
応仁の乱勃発。
成人した義貫の子一色義直は丹後守護職を奪取し、更に細川成之の領する三河にも一族を派遣、
徐々に勢力を回復していた。当然、反細川の西軍中核メンバーとなり、成之の軍勢と激しく
戦った。
戦いの舞台が地方へ移ると、三河において成之の守護代と一色一族が火花を散らす。
文明8年(1476年) 三河において成之の守護代である東条国氏が切腹
文明9年(1477年) 三河宝飯郡で一色時家が討死、渥美郡で一色政照が没落
文明9年9月、京都において前年敗死した東条国氏の後継者である東条修理亮の屋敷を一色軍が
攻め、一族郎党300人が奈良へ没落する事件が起きる。
しかも、「修理亮を討伐せよ」 という足利義政の御教書により事件は正当化された。
完全に面子を潰された修理亮の主人細川成之は、幕府出仕を拒否、館に引き篭もった。
11月、東西両軍の和睦により、長い戦乱に一応の終止符はうたれたが、細川・一色両軍は
そんなこと何処吹く風という調子で堀を掘って館を要塞化し戦支度に余念がなかった。
一触即発のぴりぴりした状態が続く。さあどうする?
明くる年の2月、成之の館を使者が訪れる。
「一色義直から誓書を提出してもらいました。二度と三河には手を出さないという内容です。
将軍義尚様は貴方の出仕拒否をひどく心細く思っています。どうかお腹立ちをおさめて
再出仕くださるようお願いします。」
さすがの成之も辞を尽くしての懇願に負け、幕府に出仕することに同意した。
こうして三河国をめぐる一色・細川の争いは決着がついた?が、この後、同国に守護が任じられた
形跡はなく、同国の情勢はより混迷の度合いを増し、一足先に戦国時代へと突入したようである。
「ご苦労であった」
京都では、やっかいな問題を一応片付けることが出来たとして、使者を労う日野富子の姿があった。
( ゚д゚) あれ?
934 :
人間七七四年:2010/12/07(火) 01:09:45 ID:wr+yQxpY
>>926 >京極高次の篭城は頑張った方よ、毛利の重臣が何人か死んだり大怪我してるし。
935 :
人間七七四年:2010/12/07(火) 01:19:46 ID:Lep7ejhJ
>>933 それで幕府や有力守護につながった国人たちの勢力闘いになって松平氏が急拡大したり、
一向宗が一気に信者を増やしたりとカオスな状況になるんだよなー。
>>926 京極高次に関しては関が原後大津城を視察した家康が
「この程度の被害で降伏したの!?まだまだ全然戦えるじゃないか!
奥平は長篠城で…」
って文句言ってたw
936 :
人間七七四年:2010/12/07(火) 03:14:54 ID:/+EbqQ+2
東条は東条吉良氏のことで良いのかな?
三河守護を巡っては御料地の経営を巡って将軍家を後ろ盾とする伊勢氏が
暗躍していた様子だね。
一色氏や西条・東条の両吉良氏が地盤固めを抑制された結果、隣国から
今川氏や斯波氏(と被官の織田氏)が浸透を図るようになり、伊勢氏の被官
である松平氏が台頭したわけだね。
937 :
人間七七四年:2010/12/07(火) 03:54:37 ID:v4EBOa/i
>>935 そりゃ、長篠城は大砲でドッカンドッカン撃たれたりしてないもん。
938 :
人間七七四年:2010/12/07(火) 13:31:12 ID:ri14sMkL
>>913 以前その逸話でてなかったっけ?
今まとめサイトで探してみたんだけど分からなかった・・・
939 :
人間七七四年:2010/12/07(火) 16:26:14 ID:cWH78Ec/
>>935 ついでに攻め手に西国無双いないもん。
正直、関ヶ原の時といい戦略レベルはともかく戦術レベルではこれ以降の家康の行ってることはあてにならない。
つーか、昔は良かったレベルの発言ばかりだ。
940 :
人間七七四年:2010/12/07(火) 17:17:56 ID:FefEdApq
>>939 武田マニアの権現様にしてみりゃ、「あの武田軍に攻められて落ちなかった」ってのはスゲェ事
だったんじゃないの?
「大筒+立花」<「武田軍」って事か。
あくまでも『武田マニアの権現様にしてみれば』の話。
941 :
人間七七四年:2010/12/07(火) 17:41:33 ID:zZ17ekBH
近くで見たか遠くで話聞いただけかの違いじゃね
942 :
人間七七四年:2010/12/07(火) 17:44:26 ID:UakVvkLi
年取った家康は「昔の三河武士と比べて最近の若者は(ry」の愚痴ばっかりだからあまり本気にしない方がいいんじゃw
943 :
人間七七四年:2010/12/07(火) 17:49:23 ID:4jL9PBG9
そりゃあ武田のお館の攻め弾正は街道一の弓取りがウンコ食わされるレベルだもん
どうせ漏らすなら野グソにしろってことだろ
そのほうが衛生的で健康にいいに決まってる
944 :
人間七七四年:2010/12/07(火) 20:56:32 ID:OzSmRfbi
大坂の役の際、井伊隊の中にボロボロの甲冑を着ている者を見ると、あれぞ元祖・赤揃えじゃ!と褒美与えちゃう位の武田ヲタだからな家康は
945 :
人間七七四年:2010/12/07(火) 21:00:32 ID:oAbrbSM+
946 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 11:32:53 ID:S1eZ7nNo
家康って何で武田ヲタになったの?
一回殺されかけたのに
947 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 11:45:33 ID:UpWrsQgC
信長は理解できなかったが、信玄は理解できたからじゃね
948 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 12:47:16 ID:eDNDhgkS
日本人の体質だろう
日本人はマゾだから
949 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 18:42:58 ID:6ycTF1yq
山中七難八苦さんとかな
950 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 19:15:14 ID:SeO58wt0
足利義教「そう、みんなマゾだよマゾ」
951 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 23:27:35 ID:22qowhUG
毛利元就が安芸武田氏を討ち、一躍中国地方に知られるようになった有田合戦でのこと。
元就の家臣、粟屋源次郎は奮戦して兜首を取り、井上兄弟に続いて本陣に意気揚々と引き上げようとした。
しかし運悪く途中で流れ矢が股に当たり、足を止めているうちに後ろから十四、五人が本陣に駆け込んで来た。
何とかこの集団と一緒に本陣に入った源次郎は、首帳をつけていた元就の祐筆に、
「粟屋源次郎、三番首なり!」と宣言したが、祐筆は本陣に入って来た順番通り、源次郎を七番目とした。
「おう!合戦の首帳は、坊主や尼が台帳つけとるのとは、訳が違うわ。よーく目を開いて確かめんかい!」
源次郎は詰め寄ったが祐筆は、
「さあ?戦場を見通せぬ拙者としては本陣で見たものが全てゆえ、ここに来た順番通り記録するのみです。」
と答えるのみだった。
「なんじゃとワレっ!!」
激怒した源次郎は首帳をもぎ取って引き裂き、筆入れを奪い取ると祐筆の顔面に叩き入れ、突き転ばした。
ようやくの事で立ち上がった祐筆は、顔が流血と墨でまだらになっており、それを見た諸士は手を打って笑った。
見かねた元就の、
「本陣での事なので、仔細はわしも分かっておる。まだ戦の最中とて、ひとまず論争は止め、敵を切り崩せ。」
という言葉のおかげで、ようやく諸士は再び敵軍に向かって行った。
952 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 23:28:21 ID:22qowhUG
慶長の役後、毛利家では朝鮮から帰国する際、手柄ある侍に対大将の毛利秀元から杯を与えることになった。
左に吉川広家、右に宍戸隆家等、重臣団が居並ぶ中、まず秀元は晋州城の戦いで奮戦した三刀屋監物に杯を与えた。
「次は当然わしじゃな!」
古志清左衛門がみずから進み出て二の杯を取ろうと左手を伸ばした時、横から有地九郎左衛門が進み出て
清左衛門の左手をつかむと、自分の膝の下に押さえつけ、杯を奪ってしまった。
すかさず清左衛門は空いた右手で脇差を抜き、九郎左衛門の脇にあてがい、秀元の方を見た。
「ヤッてもえぇですかいのぅ?」
「…い、いや、いいワケないだろ!?ひとまず落ち着け!」
あわてて秀元は立ち上がって二人をなだめると、両人一度に杯を与える事で場を丸く収めた。
以上、仁義なき毛利家の2話でした。なんだろう、メンツに関わると感じたら、ブチ切れて祐筆ボコろうが
大将の前で抜刀して刃傷沙汰起こそうが、構わない不文律でもあったんだろうか。
953 :
人間七七四年:2010/12/09(木) 00:13:18 ID:jw4ZFurA
ただ単に血の気が多いだけじゃね?
954 :
人間七七四年:2010/12/09(木) 00:25:39 ID:PiS+NBl2
>>946 家康には武田軍団が最強に見えたんだろうな。
955 :
人間七七四年:2010/12/09(木) 01:07:35 ID:E5fXw7SP
つーか家康が武田マニアって感じなのは、せいぜい石川数正出奔後の軍制改革期ぐらいのことだろ。
それ以外で武田のものに特にこだわったことなんて無いよ。
イメージで物事を語りすぎ。
956 :
人間七七四年:2010/12/09(木) 06:52:27 ID:exNxDjFx
>>951 股を射ぬかれてるのに、何でこんなに元気なんだw
957 :
人間七七四年:2010/12/09(木) 12:41:16 ID:Oz0iw69H
同じ地域の昭和時代の映画とかw
958 :
人間七七四年:2010/12/09(木) 23:05:48 ID:E5fXw7SP
959 :
人間七七四年:2010/12/09(木) 23:14:50 ID:dP7DZ60j
どんどんグッズが増えていくなw
960 :
人間七七四年:2010/12/09(木) 23:24:44 ID:1Tpr/D9c
前回は下駄で
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4651.html 今回は草鞋か
落語「浮世床」より
「真柄じふらふざえもんは真っ向…立ち向かって、一尺八寸の大刀を…」
「オイオイ、一尺八寸のどこが大刀だよ? それじゃあ肥後の守だ
だいたいな、真柄十郎左衛門といえば北国の大将とまで呼ばれた人だぞ。
そんな短い刀のわけはないだろ?」
「そこは但し書きが書いてある。『一尺八寸とは刀の横幅なり』…」
「馬鹿! そんな戸板みたいな刀があるかい!? 第一、前が見えないだろ?」
「そこはもう一つ但し書き。『刀には窓が付いていて、敵が来たらそこから覗く』」
本気で幅一尺八寸の刀もつくりそうだ
961 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 00:23:09 ID:2tIDTRTj
真柄さんのビジュアルがベルセルクになって困るw
962 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 00:26:34 ID:HloUx1ZN
ガッツというよりゾッドだなw
963 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 01:42:48 ID:e4m6amDR
ワロタww
964 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 06:38:28 ID:hXAru9TU
武田がらみで、ちょいとヒトネタ
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-828.html で紹介されていた、諏訪の御柱祭り中、しかもちょうど催し物のある4月と6月に
小笠原長時が諏訪に攻め込んでヒャッハーしたので諏訪の人間がぶちきれた、というお話。
<諏訪神使御頭之日記>という一次資料に記載されている出来事で、
これは天文17年(1548年)のことなのだが…
御柱祭りは6年に一度開催される。
ということは、この前回は天文11年(1542年)。
この年の6月、諏訪で何があったかというと…
武 田 信 玄 の 諏 訪 攻 め
『甲陽軍鑑』では、信玄(晴信)諏訪頼重の娘を側室にすることに重臣たちは大反対だった。
その理由は「姫は武田家に恨みを抱いており、大変危険である」
お家を滅ぼされたりなんだりというのは、戦国時代ならそんなに珍しい話でもないし、恨まれているのは当たり前。
なんでわざわざ書き記すしたのか?
実際、相当恨まれることを信玄がやらかしていたからだった。
965 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 11:50:36 ID:N76sHVrf
>>958 250kgならすぐにボロボロになるだろ?
966 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 12:38:32 ID:lJtNhjQt
しかし出典は知らないんだが、松姫だって本能寺のとき野豚だのところに向かってたんだろ?
どう考えたって恨まれてるどころか呪われてもおかしくないだろうに呼び寄せる奴の気が知れん
もしかして呼び寄せてぬっ殺すつもりだったのか?
967 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 19:09:59 ID:CeVH3IYv
>>964 甲陽軍鑑が勝頼が武田を滅ぼしたというスタンスだからだろ
968 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 19:33:00 ID:MmjxQbhZ
>>966 奇妙さんは普通にロミオとジュリエット的な状況に酔いしれてた可能性も…
というか松姫と信忠って悲恋物の題材に出来そうなもんだがならなかったのは
松姫が畳の上で死んでるからだろうか。
969 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 19:53:03 ID:CeVH3IYv
じゃあ御柱関連で
寛正五年(1464)
当時、甲斐国内では武田信昌と跡部景家が国内を二分し覇を争っていた。
武田信昌は跡部氏と蹴りを付ける為に諏訪勢に援軍を要請し、
これを受けた諏訪勢も大軍勢を仕立てて出陣したが、
甲斐国境で待ち受けていたのは跡部勢では無く、神官長守矢貞清の使者だった。
守矢使者 「おい、来週は何があるか言ってみろ。」
諏訪光有 「え、そりゃ六年に一度の御柱で・・・。」
守矢使者 「ほう、御柱と戦どっちが大切だ?」
諏訪光有 「そりゃ血沸き肉踊る、漢たちが名と命をかけた・・・・御柱です。」
諏訪光有達は早速に軍勢を取って返し、祭日に間に合うように瞬く間に祭りの準備を済ませ
例年に増して盛大で熱狂的な御柱祭を執り行ったのであった。
その後、諏訪勢は再度援軍に出陣し、
跡部氏は、武田軍とやけにテンションの高い諏訪勢に挟撃され
当主と一族の多くを討ち取られ滅亡となった。
後日談、実は武田と跡部ともに守矢貞清の檀家であり
守矢貞清は跡部氏の戦勝祈祷も執り行ってたのがばれて謹慎させられてしまったとさ
970 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 19:56:24 ID:CeVH3IYv
あ、訂正
×守矢貞清
○守矢満実
出典、「守矢満実書留」
971 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 20:22:14 ID:HloUx1ZN
当時は戦争よりも御柱祭の方がむしろ危険だったりしたのかなw
もちろん現在の御柱祭よりもはるかに過激な祭りだったんだろうが
972 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 20:59:40 ID:N6BLiUPb
戦は日常茶飯事だし従軍強制もあるからなあ
御柱祭はオリンピックみたいなもんか
973 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 21:06:09 ID:HloUx1ZN
なるほど、古代ギリシャでオリンピック開催のために戦争を中止したのと同じか
974 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 21:13:02 ID:hXAru9TU
>>967 同時代資料の『高白斎記』でも頼重の娘は無視されてるから、相当、武田方は警戒していたかと
諏訪方については… <守矢頼真書留>では、この時の御柱祭りについては触れてたかな
975 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 22:06:37 ID:CeVH3IYv
「高白斎記」では12月15日御祝言とさらりとは触れられているね
「守矢頼真書留」の天文11年の御柱関係の記載は
御柱基金を頼重が取り崩して、「神様の金に手を出すとは諏訪家のためにならんと
皆で噂していたら、案の定滅んじゃった。ありゃりゃ。」とか
976 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 22:18:36 ID:hXAru9TU
>>975 『高白斎記』のアレ、やっぱり諏訪御寮人なんですかねえ? 彌津からってなってますが
それに、祝言なのか裡言なのか、原文見てないんでわからんです
977 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 22:26:12 ID:CeVH3IYv
彌津元直の元に身を寄せてたから彌津の姫って事らしい
原文は見てないからなんともいえませんが
978 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 22:36:03 ID:hXAru9TU
>>977 いろいろご教授ありがとうございました
母方の実家じゃなく有力氏子に身を寄せてたのですか
それにしても<守矢頼真書留>には
頼重の方の悪い話がのってたのですな、御柱祭りの公金横領とは
979 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 09:09:59 ID:J7VjYktY
そろそろ新スレたててみる
980 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 09:13:15 ID:J7VjYktY
981 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 09:22:36 ID:oSVIUoMx
982 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 09:32:47 ID:J7VjYktY
>>981 感謝。埋めがわりに
文禄元年(1592)、秀吉の朝鮮出兵、文禄の役での出来事。
慶州を攻略した加藤清正の軍は忠州に進出。そこで捕虜にした中国人に、ここより先に日本勢は
通ったか?と尋ねれば「一人も未だ通らず」との答え。
そこで同じ先鋒である小西行長勢を待つためこの忠州で2日間逗留した。そこにようやく現れた小西勢は、
小西行長の2万5千の人数は忠州に到るまで大いに略奪を行い、布・木綿の類を多く分捕った。
それを牛馬に付けて運ばせたため移動速度が鈍り、そのため忠州への到着が清正に大きく遅れてしまったのだ。
これを見た加藤清正は激怒し、小西行長に向かって言い放った
「朝鮮の首都に行けば、金襴・緞子・金銀・株玉、皆充ち満ちてあるのに、そんな汚らしい物を分捕って
どうしたいというのだ!?
そんな荷物はここで悉く焼き捨て身を軽くし、急いで首都に到着するべきである!」
そして小西の返事を待たず彼らの略奪品を没収し、一箇所に山のように積んで、火を着け焼き捨てた。
『清正高麗陣覚書』より、加藤清正、小西行長の略奪品を焼く。というお話。
983 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 13:35:05 ID:HL9G6XJI
清正側からの小西行長の記述は信用できない
逆もまた然り
984 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 15:12:51 ID:Zi5nm2GD
>>982 清正も行長もどっちもどっちだろw
結局掠奪じゃんかw
985 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 15:39:16 ID:59pMDBJH
小西「君はソウルを宝島か何か勘違いしてるのでは無いか?」
986 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 17:39:41 ID:nbQLIfjG
清正「漢城はでっかい宝島 そうさ今こそアドベンチャー!」
987 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 17:51:21 ID:P+hj6MUS
正則「ちゃら〜へっちゃら〜」
988 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 18:33:43 ID:fEaAdjCm
>>983 じゃ、行長側というかキリシタン側のルイス・フロイスの「日本史」から
アゴスティーニュ(小西行長)が忠州に至った時、別な道を来た虎之助(加藤清正)の軍勢と出会った。
アゴスティーニュの先陣を率いていた小西末郷は自分たちより前に出ようとする虎之助たちを詰った。
「貴公らはこんなに遅く、逃走者のようにどこから来たのか。
アゴスティーニュとその兵士達だけが高麗国の大半を制したのである。
彼らが多くの敵を征服している間、貴公らは姿さえ見せなかったではないか。
それにアゴスティーニュが先陣を務めることは関白の命に基づいていることと知られよ。」
このことで双方は激しく口論し、刃傷沙汰になりかけたが
虎之助と肥前の領主(鍋島直茂)は途中の大河で船の不足から軍勢を渡しきれず、2000の兵しか率いていなかった。
彼(加藤清正)はその兵力でかろうじてアゴスティーニュの前に出たのであるが
結局無念やる仕方がない気持ちで後方に下がった。
だが彼はこの失敗を胸中深く宿すに至った。
989 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 19:28:28 ID:59pMDBJH
アゴスティーニュ
特集、小西行長と行くソウル
毎号の付録を組み立てると漢城が完成
全50巻予定
初巻は特別定価980円
990 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 20:13:36 ID:1zSVnVjw
でぃっあごっすてぃーにゅ!
991 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 22:15:31 ID:q8dO/1wv
さっきの世界ふしぎ発見が忠臣蔵で2問目が吉良氏の字の由来は何?って問題が出た
選択問題で1番・地元の坊さんから吉と良という縁起のいい字を使いなよ
2番が家康が頭がキラリと光るから吉良になった
3番が領地キラキラひかるものが出てきたから吉良になった
このスレ的に家康のダジャレで2番かなって思ったら違ってた
992 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 22:20:49 ID:+JUodI8S
足利将軍家が絶えれば吉良が継ぐとまで言われた名族の由来が家康な訳ないだろww
993 :
人間七七四年:2010/12/12(日) 00:29:07 ID:Yx1/OlQP
俺は1かと思ったけど、3番だったね
なんでもきらら(雲母のこと)がとれるから吉良になったとか
994 :
人間七七四年:2010/12/12(日) 00:48:26 ID:Rl0ku3gD
わざわざ直茂のことまで書いてるのはやっぱあれか、冷たくされたからか
995 :
人間七七四年:2010/12/12(日) 04:09:50 ID:58KCKU7T
>>993 > 俺は1かと思ったけど、3番だったね
> なんでもきらら(雲母のこと)がとれるから吉良になったとか
それで吉良荘で吉良姓を名乗った。
やっぱり地名から先でしたね。
996 :
人間七七四年:2010/12/12(日) 12:55:16 ID:P0MYj+Rq
>>960 「その窓を細めに開けて『あーらそこのお兄さん、お安くしとくからちょっとよってらっしゃい』」
って女装したそのじいさんがやってるところまで想像しちゃったじゃないかバカヤロウ!
997 :
人間七七四年:2010/12/12(日) 16:30:30 ID:MJ3PKqSn
>>996 「てめえの首の代金をなぁ! グハハハハ」と続くわけだ
998 :
人間七七四年:2010/12/12(日) 19:27:55 ID:ms9jbPaL
>>991私もAが解答だと思いました
家康のネーミングセンスはヤバいですからねぇw
999 :
人間七七四年:2010/12/12(日) 21:13:47 ID:7LJ+3/fa
>>998 信長のネーミングセンスに比べればマシだろw
侯景「全くだ。俺のセンスを見習え」
1001 :
1001:
/ `ヽ、
ー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
/`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
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