1 :
人間七七四年:
2 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 16:15:12 ID:rk5FHGah
3 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 16:44:19 ID:8aVMXWst
4 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 17:16:41 ID:QAuncT2w
ファビョらずに冷静になろう
5 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 18:51:23 ID:9fyYvAkn
__ __
,ィミ川彡三ヾ三\
{三{※}三}三ll三 }
_ヽ彡川ミノ三レ勿/__
,ィミ川彡三ィミ川彡三ヾ三\
{三{※}三{三{※}三}三ll 三}
__ヽ彡川ミノヽ彡川ミノ三レ勿/__
,ィミ川彡ヾィミ川彡ヾ,ィミ川彡三ヾ三\ っ
{三{※}三{/ ,二二、\{※}三}三ll三} ∧ ∧ っ
ヽ彡川ミノ/ /\ | /ヘ ヽll.ミノ三レ勿/ (´・ω・`) 乙です
I二二二二二| |―‐((_))―| |二二二二二二I二○==○ 年貢を納めに来ました
ヘヽ/ | \,/ / 〈_ノ=レ'
( ( \二二二/ (_vノ (_y)
6 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 19:07:58 ID:xIWFpWTY
年貢といえば、室町時代までは年貢は、各農民が戸別に領主、もしくは荘園主に納めるものだった。
村によって年貢がまとめて徴収される村請は、戦国期くらいから、惣村の発展とともに広まった。
7 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 20:51:20 ID:aXBm1xGn
>5
前スレでもちょっと気になってたけど、
大八車が使われるようになるのは江戸時代から。
一説には明暦の大火(1657)の後の江戸の復興時に発明されたとか。
織豊時代までだと、牛車なら畿内以西ではそれなりに使われていた。
大津や鳥羽から京都まで、木津から奈良までの車借が有名。
>6
「村請」だと庄屋がいて村全体で連帯責任な江戸時代のシステムが思い浮かぶ。
戦国時代だと「地下請」「百姓請」「惣村請」といった用語のほうが良さそう。
8 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 20:58:29 ID:YiBLix0I
荷車なんて紀元前から世界中にあったのにw
9 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 21:05:00 ID:1heNAgN+
坂道や多雨で泥濘と化す日本では、車を活用するに必要なインフラ整備は膨大なものがある
それこそ大消費地への輸送でないとペイしない
10 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 21:25:16 ID:YiBLix0I
ペイもなにも、百姓が年貢を荷車に載せて引く
どこに無駄がある?
11 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 21:25:57 ID:TfTqKG/Z
>>7 戦国期も村全体で連帯責任だろw
どうしても言い換えたいなら地下請がいんじゃね、語呂いいし
惣村請は一揆の香りがしてちょっと違う感じ
12 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 21:32:55 ID:1heNAgN+
>>10 年貢運ぶ日なんて天気が良い日でしょ
それに駄載が基本
13 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 21:39:19 ID:xIWFpWTY
つーか
>>7はなにか勘違いしているようだが、それまでも日本で荷車は普通に使われていた。
江戸期には大八車と言う、車台の大きさが8尺と規格化された荷車が普及するようになった、ってだけの
話だぞ。
14 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 22:17:39 ID:1heNAgN+
輜重輸送や大砲運搬に荷車が使われた例はない
15 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 22:59:13 ID:TfTqKG/Z
船方役、夫役、伝馬役とあったわけだし
使用条件が整ってれば荷車も使われたでしょ
16 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 23:05:26 ID:1heNAgN+
使われなかったということは、荷車の使用条件が当時の
日本では殆ど適合しなかったということに名る
17 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 23:14:21 ID:xIWFpWTY
何時の間にやら年貢の運搬と軍需物資の輸送が一緒くたにされている不思議。
村や都市の中、近郊など道路状態のいい場所では普通に荷車は使われていたと考える方が自然。
18 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 23:21:42 ID:1heNAgN+
確かに、しかし逆に言えばそれ以外の場所や長距離輸送では用いられなかった
19 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 23:23:05 ID:aXBm1xGn
20 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 23:26:22 ID:xIWFpWTY
>>19 それは「人が曳く」のが珍しいってだけでは?荷車を牛馬が曳く分には普通だったと読めるが。
21 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 23:43:59 ID:9fyYvAkn
曳馬城とは・・・・・
/\ ヾ、-=====─-丶\`'‐ .,_ ___ _、ニミ 三.、/
、.ヾ 丶丶----;‐ゝ、 -:==;─- .,∠ i.丶 /_.、 -‐''` `'‐.,
} | ⌒l l‐┬‐'-r.| .,(_Y_) __`' ``{ .二}ゝb'ソ_ ̄ ̄ | ̄
丶 ⌒! !ニ! l|  ̄ ̄ '''' 、d/ ̄リ`‐゙-- |
丶.ノ(ゞ \,_ _.、/ ..:;;ソ |
\'‐\i  ̄ ̄ ̄ 、.. .,__)`'‐--==ー
|::\_、l `  ̄ 、ト:::. i
| :| !
、ト ::! ⊂ニニニ:==‐ー /
城を馬に曳かせることで
城が自由に移動できる移動要塞だったんだよ!
22 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 23:51:41 ID:TfTqKG/Z
はい
23 :
人間七七四年:2010/03/04(木) 23:54:13 ID:GAwa9TFu
上り坂は数人で押さないと動かないし
街道ですら所によっては大き目の獣道みたいなもんだし、川にはしかかってないしで
条件のそろってる場所のみしか使えなかったのは致し方ない
24 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 00:09:25 ID:yFcBWUR1
ソースだ、資料だ言わないで普通に考えればいいこともあるよな
25 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 01:19:42 ID:k8hkAukT
そうはさせない!
26 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 01:26:41 ID:gADJ/bfz
みたことしかしんじないぞ
27 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 01:27:43 ID:mZ7CmYkN
田舎のリアカーって路外性能いい気がするのに(ぬかるみだって板きれで突破)
なんで昔は人力の荷車は道がいい場所しか使わない、とか思うんだろ……
28 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 01:31:58 ID:vZUR1baG
>>27 ゴムタイヤと金属スポークのリアカーと木の車輪とスポークの荷車を一緒にするな。
大八車も当時としては大々的な軽量化があってこそあそこまで普及した。
29 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 01:33:40 ID:mu8cIHx0
>>27 昔の山道がSASUKEのアスレチック並みの危険性だったのかもしれない。
が、牛や若い衆の曳く大八車って野菜満載してても結構走破性あるんだよな。
30 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 01:45:56 ID:sK9oTBcj
>>28 当時は日本全土が山脈や密林ばかりで
平坦な土地に敷設された整備してある街道がほとんど無かったもんな
31 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 02:17:37 ID:xptJBi9h
32 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 03:22:04 ID:mZ7CmYkN
今対象とされてるAA(
>>5)は年貢を納めてるわけで……
荘園から領主への年貢ってので当時の大量輸送の必要性がうまれたわけで
それに当時の最高の技術が使われててもおかしくないと思う
33 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 03:44:06 ID:aa9QHjfm
面倒だから銭にしようぜ
34 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 03:49:16 ID:vZUR1baG
室町期なら年貢の為替決済も普通。
35 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 04:17:25 ID:1ob5P5e9
>>2 こういうのとかな
19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 02:20:41 ID:xIWFpWTY
>>16 信長のやったことは鎌倉室町と変わらぬ旧態依然としたものであり、北条や武田のやったことは
そこからの脱却を明らかに志向した上、近世に引き継がれた。
時代からの脱却を志した側と旧態依然とした慣習の中に安穏としていた側、
どちらが先進的か馬鹿でも解るだろうに。
36 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 04:40:03 ID:sK9oTBcj
>>31 んな頓珍漢な個人サイト持ち出して、何がしたいんだ?w
京都近郊では普通に馬借や車借の商いが成立していたのに
担いで運んだ方がマシとか頭悪過ぎ
37 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 04:44:52 ID:vZUR1baG
38 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 05:56:00 ID:xptJBi9h
39 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 06:36:34 ID:sK9oTBcj
>>38 ちゃんと読むも何も、
>>9で大消費地へ運ぶ以外ペイ出来ないと放言しちゃってるよな
実際は近江や大和、摂泉他(京都近郊)で民間の馬借、車借の商いが成立していたし
今川や北条、その他領国でも小荷駄役や伝馬役を請け負っていた問屋や宿、商人は
当然に荷車を使用してるわけだから、ペイ出来てる事になるよな
40 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 07:10:54 ID:tPpIV4+5
41 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 07:40:32 ID:sK9oTBcj
>>40 yahooソースとか舐めてんの?
>長距離輸送に荷車が用いられた出典を提示されたし
長距離の陸上輸送が全て馬の背に荷物を載せた形態だったと証明すればいいよ
んな筈が無いから無理だけどねw
大量の荷物を伝馬、小荷駄で運搬するのに荷車を使わないわけがない
宿や駅は街道沿いに置かれていて利用条件も整ってる
というより、宿・駅と伝馬・小荷駄があるのにわざわざ荷車を使用してなかったと思う込む理由が知りたいわw
42 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 08:05:48 ID:tPpIV4+5
>>41 では、『日本大百科全書』(小学館)からとしましょう
荻生徂徠が否定しています>輜重輸送に荷車
私も荷車が使用されたという資料を見たことがありません
これは合戦図屏風、合戦記、慶長記などよりの判断です
43 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 08:09:20 ID:tPpIV4+5
後、車が使われたのはあくまで宿や駅の中で、地形上の理由から
街道間の輸送には用いられません
44 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 08:31:44 ID:rf9s86i4
>>40 >基本的に大消費地間の輸送が基本
基本的に基本とはどういう意味でしょう?
45 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 09:01:10 ID:c5Z45SbD
今日も重箱の隅のつつきあいが始まるお・・・
46 :
月孔雀:2010/03/05(金) 09:42:47 ID:blYJ6f2u
w
47 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 11:09:12 ID:CfrDUnlY
>>30 当時は禿山ばかりとも聞いたが
三増峠とか現在は森だけど当時は禿山だったらしい
森林の保全が本格的に行われるようになったのは江戸時代と何かで読んだことある
48 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 12:38:52 ID:j5Dcv54q
>>47 保全が行われるくらい環境破壊が進んだからね
全体的に見れば原生林が多かったのは間違いない
49 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 14:57:20 ID:mZ7CmYkN
交通網(街道)としての話だから、まぁ実際の山が禿げてても密林でも道がないことには……
>>42 いま話題になってるのは輸送手段としての”(荷)車”で、「合戦絵巻に出てないぞ?」ってのは
絵巻にないから戦場ではウンコしなかった!、といっちゃう感じがする……
西欧じゃローマ街道無かった所でも荷車、そんな街道整備されてなかったアジアも車つかってたわけだし
どーみても「車が使える所は使って、使えない所では駄積」ってだけの話じゃ
50 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 15:36:48 ID:cTiukBvA
問題はその車が使えない所に差し掛かった時
車を置いて行くかどうかだな
51 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 15:38:41 ID:ah6FdDAd
荷車は高価で一般には使われてなかったとか言っちゃってるからな
52 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 15:49:00 ID:tPpIV4+5
>>49 人や馬による駄載や、竿担ぎはあっても荷車がない
そして輜重輸送だけ荷車が使えないというのはおかしな話
53 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 17:34:39 ID:mZ7CmYkN
>>50 ”運送業者”あってその権益も保護されてるわけで……
今の宅配もすべてトラックじゃなくてJRなんかもつかってるみたくだったんじゃないですかね
>>52 牛車(人が乗るだけでなく輸送用)って、平安時代から使われていたんですけど……
54 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 17:49:19 ID:tPpIV4+5
>>52 前にも書いたけど、牛車があっても限定的にしか使われていないということ
町中とか京周辺の一部地域
基本的に道路整備された平地のみで、大津・京間は大量需要による例外的なもの
55 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 18:05:51 ID:bG9bAKKY
>>35 その貼られてるレスは別におかしくないと思う
↓に比べればずっと
16 :人間七七四年:2010/03/01(月) 12:16:53 ID:9mkGAgai
最近
>>9のような北条・武田は石高に応じて兵役を決めたから革新的
織田はむしろ遅れていたと主張するのが流行ってるらしいね
実際は後進地域が少しでも周りの勢力に対抗するための必要に迫られた
制度だったんだろう
そんなに信長が先進的で他が後進的だったという事にしたいのかと
56 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 18:39:42 ID:mZ7CmYkN
>>54 >荷車がない(
>>52)に対して、当時は”荷車”は常識だったって指摘ですよ
昔の動力車(牛)ってのは農業労働力目的で日本中に広まってたわけで、
使用可能だけど(荷)車を使わない理由が、インフラ(道路)が整備されていないと無理、というなら、
じゃぁ戦車が戦争に使われていた時代(戦国時代の呉越とか)はどーなる?ってな話に……
軍事の補給については、、例えばアレキサンダー大王が補給を人力だけにしたり、
一般的な輸送とは違う観点から評価しなくちゃならないと思いますけどね
57 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 18:40:31 ID:ah6FdDAd
織田・豊臣より北条・武田が近世を切り開いたと読めるが、無理があるんじゃね?
58 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 18:43:07 ID:bG9bAKKY
別にそこまではいってないような
豊臣はともかく織田は別に近世を切り開いてるとも
59 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 18:53:32 ID:vZUR1baG
後に近世を形作る権力の統合と制度の進歩は別々に起こっていた、って話だな。
60 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 18:53:54 ID:bG9bAKKY
微妙って事ね
61 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 18:58:48 ID:bG9bAKKY
権力の統合は豊臣政権からに見える
織田はまだ自分の領域で完結する戦国大名領国を抜けてない
62 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 19:08:15 ID:CBRpiH5C
そういえば織田って分国法ありましたっけ?
63 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 19:51:53 ID:tPpIV4+5
>>56 インフラ整備されていないの一つの要素に、起伏の大きい地のままという点がある
そういう点も含めて当時の日本の街道は不向き
日本の戦国期の輜重輸送で、一般的な輸送方法と区別する点は特にない
そういう記述もないので軍事輸送と一般輸送は同じレベルと見るべきだろう
また江戸初期を描いた江戸図屏風にも荷車の類は一切、描かれずに駄載のみ
となっている
64 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 21:23:55 ID:zcpBBBT9
>20
江戸での牛車利用は寛永11年(1634)の増上寺安国殿(現在の芝東照宮)の
普請の時がおそらくはじめてで、この時は京都より牛車を召し呼んだ。
続いて寛永13年(1636)の江戸城外濠の開削と土橋石垣の建築に伴い
大量の輸送力が求められ、さらに京都から人と牛が連れてこられて、
牛込に小屋場が設けられた。
普請が終わると招かれた人たちは幕府よりそのまま江戸に残ることを求められ、
寛永16年(1639)に高輪の大木戸の外(後の芝車町、俗に牛町)に移り住み、
この人達が牛車での輸送業を始めた。
駿府では江戸より早く慶長14年(1609)に焼失していた天守の再建のために
伏見鳥羽から牛車を導入した記録がある。
京都から技術移転、人材招聘するまで東国では牛車は使用されていなかったと思われる。
ちなみに江戸時代は幕府が使用を禁止したこともあって
京都、駿府、江戸、仙台以外の都市、街道では牛車は使われていない。
(仙台は貞享4年(1687)の日光の普請のあと江戸から技術移転。)
65 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 21:25:12 ID:zcpBBBT9
江戸での大八車の考案は明暦(1655)以降が通説で、便利だったためすぐに数を増やし、
天和2年(1582)には業務を圧迫された伝馬町が大八車に税金をかけるよう
幕府に要求を始める。(実際に徴収されるのは元禄13年(1700)から。)
大坂でも18世紀中頃からベカ車という人力の荷車が使用され始めるが、
やはりすぐに数を増やし、業務を圧迫された伝馬方や舟運業者からの要求により、
寛政3年(1791)には積荷の種類や重量の制限や、橋を越えて遠方への輸送の禁止といった
規制がされている。
大八車もベカ車も潜在的需要があったところに適合する商品が開発され、
急速に普及→既得権益(特に伝馬)保護の為に規制というパターンだと思われる。
>13の言うようにもし以前からふつうに人力の荷車が使われていたなら、
既存業者がなんの反応もしていないのはおかしい。
66 :
人間七七四年:2010/03/05(金) 23:39:41 ID:sK9oTBcj
>>63 今川、北条も街道沿いに一定間隔で宿・駅を整備しているということ
で、そこには荷駄役や伝馬役が課されているから
荷車による大量の運搬が行われていたと考えるのが自然
わざわざ禁止したってなら話は別だけど、聞いた事ないしね。
67 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 00:52:55 ID:tK9HNH8K
憶測述べるだけじゃなくて史料でもあさってくれば?
使ってたって一次資料があれば一発なんだし
68 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 00:55:16 ID:3jhz7PVg
>>66 どちらも馬の負担と、それに伴う餌やら各種の雑役の負担は課せられていたけど、
車等の負担について記載無いんだぜ?
69 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 01:37:09 ID:bwhuv6Fo
車は餌くわんから
70 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 01:43:19 ID:yPipITQT
損傷時の保障やら部品調達についての記述くらいあってもよかんぺ
71 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 01:49:23 ID:M/1itGCV
気軽に貼ったであろうAAから、とんだことになったな
72 :
年寄り:2010/03/06(土) 04:53:13 ID:1HPtWRC+
大八は押したこと無いが、リアカーは斜面地じゃかなり辛い。
赤土で舗装されてないと難しい。山道など以ての外。道に石が転がってたらもう大変。
やっぱ背負子や天秤の方がいいっす。
73 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 04:58:54 ID:bwhuv6Fo
既に車が通れることを知っている場所であれば車使って、
無理、あるいは判んね知らねって土地では人力か荷馬ってことでいいんじゃねーの
74 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 07:52:15 ID:P3onVTi1
技術的にこうだろww
動力がいきなり馬になるわけがない
手運び→一個一個運ぶかったるいお→荷車→お馬さんに運んで貰おう→荷馬
75 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 08:14:22 ID:a6UUPczL
荷馬と荷馬車は違うぞw
76 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 09:15:57 ID:vQqZE4xQ
>>72 登りよりもむしろ下りが怖い
以前、落ちてくるリヤカーに轢かれそうになった
77 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 10:47:59 ID:vQqZE4xQ
慶長七年に家康の定めた東海道の伝馬駄賃では重量が一駄に付き、
三十貫目と規定されており、駄載のみが記載されている
78 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 15:16:47 ID:dqeZRQbB
>>73 アスベルガーの奴にそんな理屈は通じないw
79 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 16:20:46 ID:bT2+puH4
>>58 近世を造ったのは織田よりむしろ豊臣じゃ…と思ったら
>>60でそういう意味で補足してたのか
80 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 16:47:38 ID:TgscRiGd
というか無理やり分断して○○がやった○○はやっていないと考える方がおかしいってことだろ。
三好から織田豊臣徳川と長い時間かけて少しずつ移行していった、
中世から近世への移行は畿内政権の影響のみではなく西国東国の影響も受けていると、
それらの大きな流れを特定の人物政権の功績としたり特定の人物政権の功績は無いとしたりして
無理やり持ち上げたり貶したりするから話がおかしくなるし荒れる。
81 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 16:54:06 ID:bT2+puH4
豊臣徳川と織田三好じゃ明らかに違う気が…
上でも言われているように織田三好はまだ戦国大名領国であって
豊臣徳川みたいな全国政権じゃないような
82 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 17:00:32 ID:3jhz7PVg
>>80 荒れるとかどうでも良いんだが……
学説的なことで多数決やら妥協的な結論導いたところでろくな結果にゃならんし
中世〜近世ってのは、メルクマールをどこに置くかで結論が変わるだろうが、
それが、たとえば軍事、経済、政治、文化などそれぞれ細論を論じるところから
始めるべきだろう。
で、このスレは経済なわけだよ。だとすると、織田時代には、たしかに(細川〜
三好から引き継いだ)近世化への序章とも言うべき改革は漸進的に起こりつつ
あったが、それが「近世(経済の規模の全国化、流通規格の統一等)」には、ま
だ至っていない、ってな結論を出している人が多いってことだよ。
83 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 17:13:36 ID:54V7yxcl
徳川が集大成みたいな感じですよね
84 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 17:21:17 ID:TgscRiGd
>>82 >織田時代には、たしかに(細川〜
>三好から引き継いだ)近世化への序章とも言うべき改革は漸進的に起こりつつ
>あったが、それが「近世(経済の規模の全国化、流通規格の統一等)」には、ま
>だ至っていない、ってな結論を
いや自分としては正にこういった意図で発言しているのだが。
>>83 そう思うんだけど、どうも上記を見るに過剰反応してレスする人間が多いみたいだ。
85 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 17:23:11 ID:rUnAFpOw
豊臣政権が西国に偏重した政権だったからな。
小田原征伐以降も、西国へのきめ細かさに比べて東北を含む東国統治は大雑把すぎた。
86 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 17:27:46 ID:54V7yxcl
>>85 東国にはやや遅れた地域が多かったのは事実ですが
北条の統治はなかなか配慮していると思いますよ
87 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 17:30:32 ID:rUnAFpOw
>>86 そうじゃなくて豊臣政権の東国統治のこと。
とりあえず家康と氏郷に大領与えて丸投げみたいな感じ。
88 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 17:31:47 ID:bT2+puH4
>>86 >>85が言いたいのは東国が遅れてるかどうかではなく
豊臣政権が西を統治するのには力を注いでいたが
東を統治するのはあまり介入してなかった、って事では?
制度や経済では東国が遅れているとは特に思えないどころか先進的な所も結構ある
89 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 17:32:07 ID:l0fn9tE0
そうね。
大諸侯を投げ入れて統治。
そいつに地方の諸侯を監視させると。
90 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 17:33:45 ID:TgscRiGd
唐入り考えて、畿内と同然のようにしろとされた九州と、東国の違いかな?
唐入りのためか九州から大坂への連絡網を築いたりもしているし。
東国に関しては関東入りした際に永楽銭の扱いについて何かの触れを出したいたと思った、
ただ検地の不徹底さは毛利領だって東国に負けていないと思う。
91 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 17:37:23 ID:bT2+puH4
東国の検地については関東甲信越では例によって北条や武田が結構進めていたみたい
上杉も細かい軍役張をつくってるくらいだからそれ相応のものはあった模様
東北は結構大雑把だったと聞くけどどうなんだろう
92 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 17:42:16 ID:54V7yxcl
>>87 >>88 なるほど。西国への執心ぶりに比べて東国への干渉は薄いですよね
93 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 18:05:09 ID:/eCmYgxW
「経済の規模の全国化、流通規格の統一等」なんて、もう荘園制と銭とともに室町までには定まっていて
織田豊臣以降の流れは、いかに課税対象を増やす(把握)するか、が目的じゃないのかなぁ……
豊臣での検地なんて規格統一名目で面積ちょっと減らしたり「コレすると税収増えますよ」なんていってるし、
隠し財産を明らかにするための政策が、経済全体の発展だどうのってとるのもなんだかな気もするけど
>>91 豊臣時代で一揆が起きなかった地域は、けっこう(それ以前の支配者による)制度が整ってた気がする……
94 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 19:36:18 ID:tK9HNH8K
東国は制度的には先進地帯だから、口挟む必要が少なかっただけ
後進地帯の東北と西国は、それはもう叩き直す必要があった。
毛利島津に対する秀吉のお叱りの書状の数々は、苦労してんなーと涙を誘う
95 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 19:41:57 ID:106tnzc1
>>84 そうですね。いろいろな制度を取り入れながら、
長い時間かけて少しずつ移行していったというのが正解だと思います
それを一つの具体例から強引ともいえる
>>35のような結論を引き出してしまうのは
明らかにおかしなことだと思います
それを指摘すると確かに過剰反応や、信長厨なんて言葉が出てくるので
どのような意図を持った人間がそのような主張をしているのかはなんとなくわかりますが
96 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 19:46:33 ID:C3pthBD+
>>95みたいなレスする人の意図も何となくわかります
97 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 20:14:37 ID:jNDHRYse
たしかにw
98 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 20:48:29 ID:hzBODMi8
99 :
人間七七四年:2010/03/06(土) 22:00:25 ID:54V7yxcl
100 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 02:00:19 ID:IWbGiU41
>>95 長い年月をかけて移行していったとしても
業績を残してない者と残した者を一緒くたにしてイーブンにしてしまうのはおかしなことだと思いますね
北条や武田の制度は業績として評価されるべきものと考えますがどうでしょうか
101 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 10:38:15 ID:JGij0UTG
前スレ見る限りだと
ほとんどの人はそれぞれに功績があったとしているが、一部の人は特定の武将の功績を頑なに認めようとしていないって感じだった
イーブンとかではなく一部の人間が全否定では無いけどそれに近いようなレスする方が問題ってことだろ。
102 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 11:13:00 ID:JvY1ukIw
どうしてイーブンじゃなければならないのですか?
イーブンでないと何か問題があるのでしょうか?
103 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 11:34:39 ID:1QI66653
信長厨のウザさはどこへ行っても異常
104 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 11:36:57 ID:pMS4EUZq
イーブンじゃないといけないとかじゃなくて、一部の記述から特定武将の業績は
まったく無かったという方向に持って行こうとしてるのに疑問があるということ
105 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 12:33:24 ID:dV5z+RNY
誰も言ってないだろ
ただ、ドラマや小説みたいに近世大名(笑)とかは違うんじゃないのって事だろ
106 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 13:15:14 ID:Xc1vLw7z
ここらで”自称”信長厨のおいらが一石?あらぬ方向に投げてみる
信長のやった重要な”経済政策”って、1)比叡山焼討 2)茶会の占有 だと思う
1)は、それまでの経済信用を担っていた強大な民間組織を政治(武力)で潰した、今だと銭経済のリーマンショック
それが、さまざまな対立(宗教的含む)を超えた反対同盟とか成立できた理由の一つだと思う
ほかにも、鎌倉末室町初期の銭飢では選銭”禁止”令が出されてるのに、戦国期の信長は逆な政策をとってる
つまり「銭が足りない」状況で市場の銭量を減らす、というのは、あからさまな銭(信用)から本位制への移行の意図が……
同盟での信玄や謙信の上洛の動きが鈍いのも、自国でも本位制移行が進んだため、その緊急な必要性を認めなかったからかも
そういう見方をすると、焼き討ち直後の信玄の比叡山招聘も宗教的理由ではなく経済的主導権を握るためかも?
2)は、政府保証の貯蓄(国債)を茶器で確立するつもりじゃなかったかと
信長以降、茶器の高額引き取り手の多くは政府だったりする、つか集めたりとか政府管理に集中されてる
そういう見方をとると、秀吉が信長に茶会を開く許可をもらった、というのは国債?取引市場を自前で開く権利の許可
そんな経済的なメリットがあったから、と考えると秀吉が名誉だけで喜んだという従来の見方よりはおもしろいかも?
107 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 14:13:07 ID:IWbGiU41
>>101 それは違うのではないでしょうか
前スレみましたけど結構織田と豊臣が違うと言ってる人は多かったですよ
頑なに認めない人が一部だったようにみえましたが
108 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 14:18:06 ID:IWbGiU41
>>106 比叡山なのですが
既に信長以前に2度焼き討ちされており、信長焼き討ちの時はもう相当に衰退していたと
いう見方もありますね
信長は比叡山の所領を取り上げて困窮させていますから
当時の比叡山に巨大な経済的重要性があったとは考えにくいのでは
茶器に関してはどうなのでしょうね
国債的な価値を生み出しうるほどに茶器は数多く流通してたのでしょうか?
109 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 14:47:53 ID:PV5WOt27
大友氏が肥後を通って豊後府内まで大砲を輸送したときに、大いに難儀した
というのもソリを使ったというのならば納得。
110 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 16:35:32 ID:NdD+x8bR
暴利を貪っていた延暦寺を信長焼討した事は良く言われるけど
それ以前に青蓮院にいた足利義教が完膚なきまでにボッコボコにしてるからな
義教がぼこる前にも比叡山はかなり痛い目にあってる
義教が京極・六角に琵琶湖を封鎖させて越中も封鎖させて比叡山包囲網を敷いてから
比叡山はそれ以前まで京の御所まで神輿を担いでの横行などは止めた
だから比叡山の資料がものっそ少ないので歴史学者も比叡山関連に関しては
決定的な論は出せてないんじゃなかったっけ?
京だと東寺や東福寺・五山禅院などの寺社が幅を利かせていたが
困窮を極めて来た流れで、民衆の不満が高まってどの寺社も行動を起こせなくなっていった筈
松永が大和に侵入してくる1565年まで独自に行動できた寺社勢力が興福寺
その興福寺のお陰で興福寺に仕える奈良の人間は周りの地域から立ち遅れたらしいね
んで民衆の怒りが爆発していき徳政一揆などの横行→応仁の乱に続く
畿内と言えば堺だから堺が応仁・明応の時代にどう立ち回っていたのかが気になるな
111 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 17:02:41 ID:1QI66653
堺は兵庫が潰された代替として発展したんじゃん。
興福寺に仕える大和の住民が立ち後れたってのもよく分からん
政治的な統合は欠いてたが、技術や経済面では先進的だし>興福寺
112 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 17:50:39 ID:aHxWa1vS
大和は古市氏が城下町形成を始めるなど、時代的にも先端を走っていた地域の1つではある。
113 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 20:30:14 ID:EPq7wxzb
0ではないってのを否定するだけでイーブンになるって・・・これまた極端な連中だな
114 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 21:31:48 ID:MTwfucu1
115 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 23:33:40 ID:XU/Mk0ru
特殊法人
116 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 01:37:07 ID:y94sM5vm
>>108 流通、”為替の元請け”としての存在の否定、銭の交換(信用)を停止させる効果が大きかったのではないかと
同時期の本願寺を見ると大谷(1465)、山科(1532)と焼き討ちされていますが規模としては発展しているわけで、
単に焼き討ち(不動産の破壊)が衰退の証と見れるかどうかは微妙なんじゃないかと思ってますが
室町半ばから荘園は地方で押収されて、基本的に都の宗教団体は荘園領主から流通金融会社への転換が促進されていたわけですが、
ほぼ金融流通会社として移行した時期の焼き討ちは、主要収入源となった流通網管理の一時ストップ、
つまり比叡山の存在の否定というより、”銭”の信用(交換)停止の効果を意味して”特別”なんじゃないかと
後の秀吉も高野山に同様の脅しをかけていますが、これも”銭”依存から自分で通貨を支配するため、とも見える……かも?
茶器に関しては、しかも宣教師の茶道に対する否定的な記述からもその価値が国内でしか通用しないもの、だったわけで
茶器の経済的信用が政府が作ったもの、だった点が”国債”だったんじゃないかと
「名物が10万石よりも価値がある」という逸話も、大友宗麟の茶器による軍事費の調達の経緯を見ると
そこに金銭的だけではない政府保証の意味合いを当時は持っていたのではないか? とおもったり……
>>114 あくまで”政府”に対する立場としての”民間”という表現で
信長は、そういう既存の経済団体(これらは政府に財政を委任されてたわけですが)から、
通貨の政府直轄をすすめたことに、それなりの革新な部分があったのではないかと
117 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 02:55:20 ID:bUHfOl+u
単にムカついて焼き討ちしただけでしょ、調子乗ってる奴を〆るヤンキーと一緒
叡山以外にも興福寺、高野山、根来、粉河、延暦寺、金峰山、園城寺、坂本、吉野等々
他にも門前都市はいくつかあったのだから
118 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 14:42:28 ID:pJiOy9PD
> 通貨の政府直轄
信長はそんな体系的な政策は一切行っていない
119 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 14:57:29 ID:qf8j9LgK
多分撰銭令の事を言ってるんだろ
誰も守らない「銭の好き嫌いしちゃダメ(>_<)」令だけどなw
120 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 15:34:06 ID:eeuiapva
南蛮貿易についての話題もここでいいですか?
121 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 18:03:43 ID:WwlnqDJf
撰銭令を徹底できたのって北条だけなのかな
122 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 18:09:27 ID:c4idudFa
北条も何だかんだで鐚文混入、或いは物納への流れを阻止出来なかった訳で。
123 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 18:37:21 ID:pSCkiFCq
今川も撰銭令出したけど出した当人が直ぐ頓死しちゃったしな
西国や畿内の大名は、別にそんなもん布告する必要ないし
124 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 18:59:51 ID:pJiOy9PD
>>123 確認される最初の撰銭令は大内氏のものなんだが(文明17年4月15日)
125 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 19:53:45 ID:bUHfOl+u
最初かどうかは分からないけど、北条の布告した撰銭令と似てんのな
銭納、商売の際に認める鐚文混入の上限割合も同じくらいだし
126 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 19:56:27 ID:O9ME5vtv
そういう制度流行ってたんだろうね
「これいいな。俺もやろう」みたいに
127 :
人間七七四年:2010/03/08(月) 20:09:31 ID:7h3/zFR2
で、みんな上手くいかなくて、結局石高制へ、と。
128 :
人間七七四年:2010/03/10(水) 10:44:56 ID:Xf4OJxMz
徳川家康が発行させた、
慶長金銀は、どのくらいの量が国内に出回ったんかな?
…ちなみに、彼の遺産は、約600万両(江戸に400万両、駿府に200万両)あったそうだが…。
129 :
人間七七四年:2010/03/10(水) 11:22:20 ID:2bnwTzRy
130 :
人間七七四年:2010/03/12(金) 00:40:19 ID:k727DVHb
中世繊維関係の歴史を調べてみた
799年 木綿種子が伝来するも栽培法確立できず
1229年 堺に渡来人が訪れ、京都で唐綾織技術隆盛
室町前期 蛾による天蚕糸から蚕による絹の輸入にシフト
1350年頃 大内弘世が絹帛の領内生産に着手
1477年 西陣にて綾織り再開
1530年頃 博多の満田彦三郎が明・広州に織物技法を研究(参考・1533神谷寿禎により宗丹・慶寿来日)
1530〜40年頃 木綿の種子が朝鮮より伝わり普及
1543年 ポルトガル船による生糸・絹の販売開始
1604年 茶屋四郎次郎主導により糸割符制度
豪商・茶屋四郎次郎って地味に多方面で活躍しているな
131 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 01:21:30 ID:qlNCzVhS
>>130 西陣って絹で威張ってる癖に
博多のパクリなのかよ
132 :
人間七七四年:2010/03/13(土) 01:25:07 ID:bk22E319
パクリとか頭がおかしい
133 :
人間七七四年:2010/03/14(日) 13:00:41 ID:nWzGbQJq
話はそれるけど
製糸の最先端を担っていた富岡製糸場のノウハウをわけてもらって
三河地方で製糸紡績業が盛んになり豊田佐吉の自動織機の誕生につながっている。
その後は製紙産業が衰退する一方で
トヨタ自動車が登場して東海地方を潤わせている。
必ずしも元祖の方が後世の勝ち組になるとは限らないんだよな。
134 :
人間七七四年:2010/03/15(月) 14:10:10 ID:rHTtFp6S
一般的に東北は貧しいイメージがあるとおもいますが
故郷の仙台では東北地方最大の仙台平野があり実質200万石で大変豊かだったと聞いています。
その割には戦国時代は伊達政宗が仙台を開発するまであまりはぱっとしなかったのはなぜでしょうか?
また、全国屈指の石高を擁しながら藩札の導入に苦労していますが、
米以外の産業とか経済の収入が乏しかったのでしょうか?
135 :
人間七七四年:2010/03/15(月) 15:14:11 ID:/w2qdiPA
戦国時代までの平野は排水の問題から耕地に向かず湿地帯か原野
平野が現代のイメージである田園地帯化するのは、中央集権的な領主が現れ
大規模感慨事業が進んだ戦国後期以降の事で、大きく進んだのは江戸時代
もともと戦国大名化が遅れてる東北であり、伊達も中央集権が進んでおらず
集権化の大きな機会である仙台転封の時も、地方の統治に手が回らず部下に丸投げ。
おかげで知行権を持つ大身の部下が山ほど生れて、中央集権が進まず
集権化のため蔵米知行制に移行しようとして伊達騒動になり、これも失敗。
旧来の封建的な構造が大きく残る仙台藩では、トップダウンの改革は難しいと。
136 :
人間七七四年:2010/03/15(月) 15:20:55 ID:sLz+Ofas
>>134 >一般的に東北は貧しいイメージがある
…金売り吉次の伝承なぞ東北から富がくるイメージもあり、縄文時代から東北は豊かだったとは思いますが……
ま、ソレは置いといて、藩札は兌換紙幣なのですが、伊達藩の発行は”藩財政立て直し”が理由であり、
唯一の成功例が、山片蟠桃の創案、商人が裏書きした升屋手形のみ、という点からも
もともと「発行される量に対する経済的信用背景がなかった点」が混乱をきたしたのだと思います
137 :
人間七七四年:2010/03/15(月) 15:22:38 ID:rHTtFp6S
>>135 ありがとうございます
仙台藩ほどの大藩でもそのように苦労しているのなら
青森の方とかはもっと大変そうですね。
138 :
人間七七四年:2010/03/15(月) 15:27:36 ID:rHTtFp6S
>>136 ありがとうございます
収入が多くても、出費も多いので財政難になり
そのために財政改革に支障をきたしていたわけですね。
139 :
人間七七四年:2010/03/16(火) 01:09:32 ID:icc4FjAh
南部津軽はあれだけだだ広い土地を領有していて石高30万強だから
推して知るべし
140 :
人間七七四年:2010/03/16(火) 17:23:19 ID:QxVX9pQj
そもそも石高=国の豊かさの指標、では無いしな。
141 :
人間七七四年:2010/03/16(火) 17:50:59 ID:VCoKyF8G
南部津軽は人口も少ないし他の商品作物も特に無いから
領国に比して小藩だったのは間違いない
142 :
人間七七四年:2010/03/16(火) 19:08:54 ID:IZ6rYNrg
そもそも稲作に向いてないし
143 :
人間七七四年:2010/03/16(火) 20:18:24 ID:rW+wG98x
普請とか参勤交代は石高で決まっていたので
石高が低くて特産品がある大名のほうが有利だね
144 :
人間七七四年:2010/03/16(火) 20:30:23 ID:a5BaomHt
>>143 江戸時代は太平の世なので、「格式」や「名誉」ってものも重視されるから、単に
石高が低くて特産品があるだけじゃ、大名にとっては有利ではないな。
が、国(藩)内財政のみに観点を置くなら、まさにその通りだな。
松前藩とか、小藩なのにかなり裕福だ。
145 :
人間七七四年:2010/03/16(火) 20:40:49 ID:rW+wG98x
たしか宿場町でカッコつけるために大名行列の見栄えをよくしたい藩は
バイトを雇ったりしてますよね
146 :
人間七七四年:2010/03/17(水) 09:16:29 ID:UxU4nkXu
>>145 幕府は大名行列に対し何度も「簡素にしろ」「人数減らせ」と言ってたりする。
参勤交代に馬鹿みたいに金がかかるようになったのは大名同士の見栄の張り合いが原因ですな。
147 :
人間七七四年:2010/03/30(火) 17:26:29 ID:PhrC7Gz+
世知辛い世の中よな
148 :
人間七七四年:2010/03/31(水) 00:07:52 ID:zZs4g8N8
街道沿いのスズメがチュンチュンうるさいので、見栄を張るようになってしまったのでは?
149 :
人間七七四年:2010/03/31(水) 00:34:06 ID:ZKWwPI8n
まぁ世間の風評は大事だからね
150 :
人間七七四年:2010/03/31(水) 01:31:26 ID:Fb3NexVR
参勤なんてことは鎌倉時代、室町時代にも普通に存在したが、
これのための移動が大名行列なんて派手なものになったのは
江戸期だけだな。
街道の整備と平和の続いたこと、都市におけるある程度のメディアの発達あたりが
原因だとは思うが。
151 :
人間七七四年:2010/03/31(水) 11:37:56 ID:E8zFrp0P
なるほど。大名行列のおかげで宿場町が発展したのかとおもっていたけど
宿場町の整備でかえって大名が見栄をはるようになったんですね
152 :
人間七七四年:2010/04/02(金) 00:33:44 ID:/E1U9LHj
奥州はあれだけの広さがありながら、人口は武蔵より少し多いくらいだろ?
発展するには無理がある
153 :
人間七七四年:2010/04/03(土) 17:17:46 ID:CkUDcEo0
>>145 金がないから江戸に入る直前にね。武具や衣装もレンタルされていた。何人雇え!!って決まりがあったから。
154 :
人間七七四年:2010/04/03(土) 19:27:36 ID:oano/5uP
>>153 軍務だから、何人雇えという決まりは当然といえば当然なんだよねい。
155 :
人間七七四年:2010/04/21(水) 22:41:32 ID:pOmbBT1Y
当時の港の序列ってどんな感じだったのでしょうか?
三津七湊でも序列があったと思います
安濃津、博多津、堺津
三国湊、本吉湊、輪島湊、岩瀬湊、直江津、土崎湊、十三湊が
それにしても伊勢以外は日本海側ばかりですね。
156 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 06:06:25 ID:Vd+f0/PC
占領とその復興政策について
駿河の今川館や周防の大内氏館はそれぞれ戦乱で焼かれるとともに街も焼けてしまった。
武田氏は江尻城を築城し拠点としたがかつての駿府の栄光を取り戻すことはできず
徳川家康による駿府城築城までろくに復興していません。
毛利氏もまたかつての大都市山口を復興するには至っておりません。
武田信玄や毛利元就は名将と言われていますが
岡崎→浜松→駿河と拠点を変えて領内を整備した徳川家康と比べて
どうも領国経営が下手なように思えます。
157 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 13:11:57 ID:0/LqgIZD
名将=軍事の評価
ハンニバルが何で名将なのか考えればそんな糞みたいな疑問は出てこない
家康のことを名君って言うことはあっても信玄・元就を名君って言うことはまずない
それが答えだ
158 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 14:14:37 ID:Vd+f0/PC
159 :
人間七七四年:2010/04/23(金) 15:50:01 ID:mpJDZM+m
>>155 ”序列”の意味がわからない、
廻船式目自体慣習法で、三津七湊は当時の大きな商業良港をあげたものでしかないと思われる
七湊は越前三国湊(京都の外港)と日本海航路の拠点、その地元には都の寺社の荘園があり
当時の海運の担い手は全国規模の船主はおらず地侍、年貢を輸送するために荘園領主が整備した、と言われてる
160 :
人間七七四年:2010/04/24(土) 05:54:36 ID:7hVvkIXU
>>156 まあ、勝頼の代での貧窮ぶりから考えれば略奪頼みの政治だったようだからね。
161 :
人間七七四年:2010/04/24(土) 10:30:50 ID:64QuHFjt
毛利なんかは幕末までずっと長門周防を所有していくらでも復興の機会があったが
不便な萩に押し込まれたのと過剰な家臣数のために石高を増やすことばかり熱心で
結局山口は幕末の一時期まで放置だったからなあ
162 :
人間七七四年:2010/04/24(土) 11:50:43 ID:z7O/aOkJ
>>161 放置っつうか、幕府に遠慮もあったんだろうが
163 :
人間七七四年:2010/04/24(土) 13:30:08 ID:/KF9AQMa
徳川スキーな静岡市でも今川文化の見直しの話はよく聞くが武田文化なんていう言葉は造語すら聞かない
武田がやった略奪と焼討が後世の評価に影響していると思われる
164 :
人間七七四年:2010/04/24(土) 14:44:42 ID:ZFG7tOwp
甲斐は江戸時代でも武田流で通してるから、いまさら見直しも何もない。
山梨県民がおらが地域の英雄で独占してるのが問題といえば問題かもね。
165 :
人間七七四年:2010/04/24(土) 19:24:51 ID:7hVvkIXU
長野じゃ大河ドラマが始まるまで長年恨まれていたからな。地元の殿様を殺し略奪の限りを尽くしたと。
166 :
人間七七四年:2010/04/24(土) 19:47:12 ID:05brG5ei
恨み深すぎwww
167 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 00:14:01 ID:/AiL68g4
>>161 むしろ萩が江戸時代末には日本有数の大都市に成長した。
無理に山口へ県庁所在地を置いたことが、山口県の拠点性を阻害したともいえる。
明治6年の日本の都市人口 (一部明治85年〜8年の統計)
595,905 東京
271,992 大坂
238,663 京都
125,193 名古屋
109,685 金沢
89,374 鹿児島 (郊外を含む)
74,305 広島
64,602 横浜
61,124 和歌山
51,998 仙台
48,861 徳島
45,318 萩
44,984 首里
44,682 富山
44,620 熊本
41,635 博多・福岡
40,900 神戸・兵庫
39,784 福井
39,757 高知
38,838 堺
38,118 秋田
37,808 松江
37,796 鳥取 (郊外を含む)
37,724 静岡 (郊外を含む)
34,911 米沢 (郊外を含む)
33,152 新潟
32,886 弘前
32,736 高松
32,372 岡山
29,656 長崎
28,825 箱館
27,460 高田
26,141 松山
--------------------------
14,610 山口
168 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 00:20:11 ID:/AiL68g4
>>167 うお、書き間違えた。
明治5年〜明治8年ね。
169 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 00:51:40 ID:yhY4dG6F
山口って実際、瀬戸内と山陰の中間と言う以外には、これと言った特徴がないんだよなあ。
まあ「山口県」と言うまとまりから考えれば、萩では西に寄りすぎているってのも解らなくも無いが。
170 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 01:29:12 ID:b4W4kqKT
>>165 武田の片棒を担いで民を苦しめた真田は英雄なのになw
あと諏訪や上伊那などの温情政策だった所は今も昔も信玄シンパ。
同じ長野でも温度差はかなり違う。
171 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 01:36:10 ID:yhY4dG6F
>>170 長野は一県にまとめるのはかなり無理が有るよな。
172 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 11:14:11 ID:6U08ZrxW
谷っつうかシナっつうか、盆地ごとに別の国みたいなもんだからねえ<信濃
173 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 15:56:14 ID:nvxNGybP
太閤検地の石高は米だけの評価なんでしょうか
その他の農作物や金銀鉄などの鉱物、絹や綿や
魚介類、材木などは別なんですか
174 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 16:24:22 ID:b4W4kqKT
丈量調査対象が耕地なので農作物すね
175 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 17:04:18 ID:nvxNGybP
>>174 米、麦、雑穀などの生産高で
商業や鉱物は勘定に入ってなんですね
176 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 17:36:00 ID:E22J0Jsk
東北南部は石高は多いけど数字ほど豊かではないし
中国地方は過少申告もあり石高は少ないけど裕福なんだよな
177 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 18:09:16 ID:Dy4mnrbq
>>170 >あと諏訪や上伊那などの温情政策だった所は今も昔も信玄シンパ。
諏訪は勝頼派だよ。信玄は今も昔も嫌われている。
178 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 18:31:16 ID:nvxNGybP
>>176 裕福さの客観的数字ってどうやって
判断できるんですか
人口?
179 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 19:11:47 ID:8wzS4HSH
GDP
180 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 19:18:12 ID:6U08ZrxW
>>178 まあ、残っている古民家や人口一人当たりの田畑の量なんかで、ある程度
は推し量れるけどね<裕福さ
たとえば、奈良県とかだと、天領と高野山領、興福寺領なんかを比較すると、
圧倒的に天領の家屋敷土蔵なんかが立派だったりする。
181 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 19:49:25 ID:b4W4kqKT
182 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 19:52:59 ID:Dy4mnrbq
信玄厨乙。実際に行って聞いてみたら?君には酷だけど
183 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 20:08:36 ID:b4W4kqKT
地元民だし。
>東信地方には武田や配下の国人の圧政を恨む古文書や碑文は多く残ってるが、
>諏訪地方には一切残って無く、後略 (茅野市史)。
勝頼は地元でもかなりマイナー。史料上勝頼が諏訪に長期滞在したこともないし
側近は甲衆、旗本は高遠衆。正直接点が無い。
現在だと湖衣姫と信玄関係ばかりな。まぁ観光の飯の種でもあるから。
184 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 21:26:27 ID:Dy4mnrbq
地元って?まあ、聞いても長野は詳しくないが。
諏訪下社と諏訪湖行った時に地元の人と話す機会があって話したが信玄は嫌われてたな。温情政策なんて聞いた事もない。
勝頼は諏訪様言われてた。武田勝頼ですか?と聞いたら「諏訪勝頼様」と言い直された。
>勝頼は地元でもかなりマイナー。史料上勝頼が諏訪に長期滞在したこともないし
近くにあった城もどき(コンクリ製)の看板は嘘なのか。
マイナー?勝頼は武田と諏訪に挟まれ同情されてる感じだったけどな。
まあ、地元ならもっと詳しいだろうけどね。
185 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 22:07:45 ID:gyOm0A1n
そんなに熱くなるなって
186 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 22:19:27 ID:6U08ZrxW
城もどきって、もしかして高島城のことかねえ?
高島城も知らないようだと、さすがにいろいろと信憑性が………
まあ、勝頼の場合、諏訪より高遠の方が縁が深いのは確かだろうね
高遠も諏訪文化圏の一部であることは間違いないが
187 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 22:58:45 ID:onx++qvJ
>>175 鉱物や材木は別、太閤検地なら海産物も
商業はそもそも税金掛けてたっけ?
188 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 01:01:15 ID:iq+7utr/
>>187 農家には収穫高に応じて徴収していたのに
商家に対しては毎年一定額の徴収をしていたらしい
売上(利益)に応じて累進課税になることもなく、金が移動するどんどん税金で目減りするわけでもなく
現在と違って商売はしやすいね。
189 :
人間七七四年:2010/04/26(月) 01:26:14 ID:9kY9ikDk
>>188 その代わりリスクが半端じゃない
保険とかも整備されていた訳じゃないし
190 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 14:32:11 ID:sORFGszD
>>184「現地のおっさん1人の意見が諏訪の総意(キリッ」
人口何人のところで何人の現地民に聞いた話なんだよw
191 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 14:48:46 ID:zIkUSEVF
192 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 15:10:48 ID:EEKCZLGB
周辺居住者のうち4、50人程度を層化抽出法で調べればある程度の信憑性は出るんじゃね?
193 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 16:20:34 ID:T01ekkDI
父親が長野県人だが信玄好きだな。
父親一家も大河ドラマの時盛り上がってたな。
今年も御柱で諏訪に行ってきたが勝頼の話題を目にすることはなかった。
194 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 16:48:30 ID:5/ksV6ot
195 :
人間七七四年:2010/04/27(火) 23:37:11 ID:EEKCZLGB
196 :
人間七七四年:2010/04/28(水) 04:35:36 ID:v9aDgNXR
信玄だの勝頼だのにどうでもいいってのが大多数なんだから少数派の戯言なんてどうでもいいじゃん
197 :
人間七七四年:2010/04/28(水) 07:15:35 ID:fNEK7npH
>>190 183「俺が信玄神を恨む文書を知らないから地元民温情政策信玄神信仰(キリッ」
信玄云々で100人に聞いて回るほうが気持ち悪いけどなw
198 :
人間七七四年:2010/04/28(水) 07:18:16 ID:6Huw5ysC
>>197 気持ち悪いか?
民俗学やらなんやらで、その辺の調査をやることはそれほど珍しくもないと思うが
199 :
人間七七四年:2010/04/28(水) 07:22:25 ID:cZZsAhYY
俺がって183は出典だしてんじゃんw
まぁ経済に関係ない話はここまでにしとこうよ
200 :
人間七七四年:2010/04/28(水) 12:15:46 ID:v9aDgNXR
頭悪すぎワロスw
地元民がどう思ってるのかを知りたかったら普通だろ
むしろ100人じゃ少なすぎてデータにならない
地元のおっさん「信玄恨んでます。諏訪様(キリッ」
馬鹿(・・・地元民は悪い感情を持ってるのか
普通の人(・・・このバイアスかかったおっさんは勝頼厨なんだな
実際にどうなのか知りたい
馬鹿→バイアスかかったおっさんに聞いてみる
本当に知りたい人→なるべく多くの人に無作為に聞いてみる
普通の人→どうでもいい
201 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 04:33:07 ID:kxcgUqfO
明では王朝が代わると以前の銭は価値をなくしていた
つまり宋銭は価値がなかった。
なのに日本では良銭として明銭よりも通貨価値こそ同じだが受取拒否されないので評判が良かった。
逆転しているのが不思議だ。
あと中国では主流だった紙幣が日本では流行ってないんだよな。
中国依存の経済なのになぜか日本は経済システムが独特だねえ。
202 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 04:52:19 ID:Xb45wzzg
中国の紙幣は塩の交換券が元だったからね
中央政府が塩専売して無かった日本じゃあ意味無いと
203 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 05:51:29 ID:NJRkHMXk
>>201 日本だけじゃなくベトナムなんかでも宋銭が流通していたようですね
204 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 11:23:26 ID:lC20mPYg
東南アジアもおおむね宋銭>明銭だったもよう。
205 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 17:57:29 ID:Vc6s/wR1
制度が進んだのは東国が後進地だったから
先進地だった西日本はその必要がなかっただけ
206 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 18:30:42 ID:lC20mPYg
ヨーロッパとアジアの関係だな
207 :
人間七七四年:2010/05/01(土) 22:39:33 ID:pi9uqkN4
西ユーラシアは逆に西部へ行くほど後進地帯だったしな
208 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 02:34:15 ID:O79T0jv8
209 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 02:57:34 ID:vVsQUn5Y
そのブログに何の信憑性があるというのか
210 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 06:12:03 ID:+mAlfwpB
>>200 197は俺じゃないけどね。183、君の地元とやらは?こそこそ隠れてないで、いい加減書いてくれないか?
別に信玄目的で行った旅じゃないのに、なんで100人に聞くとか発展してんだかw
信玄は名政治家だと思ってたから軽く衝撃的で覚えてたぐらい。別に信玄目的で話したわけじゃなく、
諏訪地方はどんな所か聞いてたら話しの中に出てきただけ。印象的な話しで覚えてたぐらい。
諏訪湖の売店のおばちゃんと、散策してたおじいさんは諏訪を滅ぼした信玄云々言ってた。他の地元のおばちゃんふたりとは世間話。
善光寺の売り子のお姉さんふたりに「武田信玄って長野で人気あるんですか?」聞いたら「お年寄りは嫌ってたみたい。」みたいな事言ってた。
「真田幸村が一番人気あります」とも言ってた。よく分かってないようだったけど。
信玄を悪く言われたから悪意を持て罵倒する感覚がよくわからん。まあ、この話はこの程度でまとめておく。
211 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 13:59:00 ID:nN3uDcvW
信州大学教授の笹本正治は松本平で諏訪やその周辺地域で
信玄を大嫌いだという人を全く見ないと驚いている
信玄が統治した事によって争いが無くなり、攻め込まれることもなくなったこと、
度量衡を統一してくれたこと、さらには裁判を公平にやってくれたことなどから
信玄に対するいい評判につながっているんだろう、と書いている
212 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 14:21:02 ID:n+8sL246
>>208 たぶん撰銭した良い方の銭のこと、だと思う
実は鎌倉室町は選銭禁止令(銭の善し悪しは民間、商人が決めてた)だったんだけど、
戦国時代は支配者が選銭(銭の価値を政令で定めた)したのよ
でもまぁ室町戦国は為替取引が活発になって信用創造による通貨量が増大して
見た目の通貨を制限する政策は失敗して石高制に移行してくんだけどね
そこらは前スレで討議されてるかも
213 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 14:36:59 ID:X8gd9nNY
>>211 逆に言うとそれ以外の信州では…ってことなんだろうな
214 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 14:54:36 ID:YiMQqIg8
>>213 悪くみようとしすぎ
笹本氏は信州大学の教授であり、周りで信玄を悪く言う人を見ないとか言ってるから
別に信州でそこまで悪く言われてないと見るのが自然でしょ
信玄の恩恵は諏訪や松本平以外でも普通に与えられているんだから
215 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 15:25:53 ID:X8gd9nNY
216 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 15:28:34 ID:YiMQqIg8
>>215 よく言われてる根拠が出されたら
いきなりそれ以外ではとか言い出して
悪く言われてるという結論が先にあって
そこに無理矢理あてはめてるようにしか見えない
217 :
人間七七四年:2010/05/04(火) 16:05:03 ID:2J4rRCkB
なんで、そんなに諏訪では嫌われてるってことにしたいんだろうか。
218 :
人間七七四年:2010/05/04(火) 18:20:40 ID:MGYHvVnU
>>217 そういうアイデンティティなんだろう。自分の信じていた世界が崩れるのが嫌なのだろうな
219 :
183:2010/05/04(火) 20:25:44 ID:JP+Bi8mi
>>210 別に隠れてないってw
地元の行事で忙しかったのと、スレタイと関係ない話題だからあれ以上書き込む気がしなかっただけ。
ご要望だから答えるけど、地元は上原って言えば詳しくない人も分かってもらえるかな。
上原から分かれた土地だから現在の住所の地名は違うけどね。
そもそも信玄は名政治家であったとしても人道的政治家じゃ無かったくらいのことは
興味のある人は一度は考えるんじゃない?ショックを受けるのがよく分からん。
あと低質な煽りには反応しないほうが良いと思いますよ。
>>211 ローカルTVの解説でここ何日かこっちにいたよ。つか昨日実物らしき人を見たw
武田と諏訪大社の関係についても解説してたらしい。
>>214 東信だと重軍役かけられてたから、それなりに恨まれてたらしいよ。
現在だと武田酷評すると間接的に真田批判になるからあまり言わないみたいだけど、
真田の圧政はかなりのものってのは史料にも多く残ってるし。
220 :
人間七七四年:2010/05/04(火) 20:29:10 ID:JP+Bi8mi
歴史上では諏訪はあっさり併呑されたおかげで、たいした戦禍も無く、
交通の要所である諏訪を中心に領地が広がったからどんどん安全になるし
交易の中心でもあるから諏訪商人はウハウハ。
(山の中なのに、なぜか海産物商人が幅を利かせてらしいw)
甲斐と同じ税制だったから基本税は安いし、(基本税以外は高い)
高遠城代の与力の時期が長かったので軍役もたいしたことは無いと思われる
諏訪大社も強力な武田が保護してくれるし
(善光寺は勢力は大きいが各宗派が起こる前から存在してて寺自体は無宗派で、
各宗派の争い場となったので、痺れを切らして甲州に持ってかれたけど。)
御柱祭という大きな祭りも戦国期に入って諏訪地方だけでやらざるを得なくなっていて、
領民にとってはかなりの負担だったのを、信濃一円の行事に戻してくれたので楽になったってのもある。
甲州崩れの時は南信の多くの城が離反する中、上伊那高遠と並んで離反せず、
実質的諏訪当主の頼豊はどう死んだかは諸説あるが甲州崩れのうちに死んでるし
弟の頼清も女武者の妻とともに高遠城で仁科信盛に殉じてる。
諏訪行政府である茶臼山高島城(現在の高島城とは別場所の城)は
徹底抗戦の構えをし武田滅亡の方を受けてやっと開城したと言われてる。
おかげ上社下社とも焼かれたけど。
武田を恨んでいたという根拠ってのは別段無いんじゃないかなぁ
221 :
人間七七四年:2010/05/04(火) 20:31:05 ID:JP+Bi8mi
現在だと諏訪市史、茅野市史なんかや、たまに新聞に載る地元史家の書き物は概ね好意的
諏訪出身者には新田次郎という信玄キ○ガイみたいな小説家も居たりw
観光地で良い飯の種だから、駅前は御柱の前は風林火山の旗が乱立してたっけ
戦後に掘った温泉に「信玄の隠し湯」と銘打つのはどうかと思うよw
小説が知識の源の、信玄が家康と並ぶ陰険狸親父の悪玉としか書かれない昔の小説で
育った年配者ならよく思ってない人も居るだろけどね。
同世代だと悪く言うのはいないけどゲームから入った奴が多いからあてにならないw
ただ全体的には、所詮信玄は余所者って空気は感じるね。
勝頼は湖衣姫の付属品?この辺だと地名として残ってる板垣の方があるいは有名かもねw
東信と違って恨まれてたという証拠もないし、自分が調べた範囲でもそのような感じはないな
スレ違いの長文だけど需要があるようなので、興味ない人にはすみません。
222 :
人間七七四年:2010/05/05(水) 04:41:16 ID:djKFh32d
223 :
人間七七四年:2010/05/05(水) 10:26:42 ID:0Oun9P+g
224 :
人間七七四年:2010/05/05(水) 14:03:13 ID:+KYPagxX
225 :
人間七七四年:2010/05/05(水) 19:01:09 ID:czhKOCN6
典型的信長厨だなw
226 :
人間七七四年:2010/05/06(木) 12:22:00 ID:T4n5Wwn5
聞きこみ君の妄想力は53万ですw
227 :
人間七七四年:2010/05/08(土) 07:04:28 ID:/JVL7K06
>>201 は? 黒田明伸ディスってんじゃないよ。
黒田説だと、元・明とも宋の銅銭を積極的に回収や通用禁止にしなかったから市場から完全に宋銭が消えることがなかった。
逆に明代に明銭を私鋳すると役人の目が厳しかったが、宋銭を私鋳して混ぜても明銭私鋳よりは取締が緩かったから、わざと宋銭を私鋳する連中がいた。
つまり、「明代に鋳造された宋銭」というのが当時相当数存在しており、現在宋銭が大量に残っているの中にもそういうのが含まれているって話。
228 :
人間七七四年:2010/05/28(金) 22:43:53 ID:zsHtUZ6d
229 :
人間七七四年:2010/06/03(木) 01:05:35 ID:7fKwOLCZ
一向一揆と経済についての疑問
一向一揆の発生地は経済先進地に集中していますが
経済が発展しているほど格差が生じて貧民の不満が募っていたと言うことでしょうか?
230 :
人間七七四年:2010/06/03(木) 02:19:27 ID:vrlwjMSP
加賀って経済先進地かね
231 :
人間七七四年:2010/06/03(木) 02:24:41 ID:YOcv1Tgx
>>229 「一揆」と言う言葉は元々孟子の民本思想、民が一致団結することで君主に抵抗する行為のこと
つまり、それなりの抵抗できる勢力(財力)をもった階層の同盟(盟約)と考えるべき
本当に貧しかったら秩序だった抵抗ができない現実は今も昔も同じ
232 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 00:05:51 ID:1rXU3JdT
>>229 「一向一揆」と言うのは江戸中期以降の言葉。後世に「多分一向宗の一揆」と思われるものを
一向一揆と称した。
同時代的には「一揆」「土一揆」としか表現されていない。
233 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 20:54:21 ID:bjb/ThlC
今は現代だから一向一揆表記で何か問題でも?
234 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 20:56:51 ID:6+aEiM/6
そもそも一向宗とは時宗一向派を指すのが正しいと言う説もある。
235 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 21:44:49 ID:sckj6QP+
「戦国大名」も当時存在しない言葉じゃなかったかな
236 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 22:20:57 ID:1rXU3JdT
「戦国時代」は明治になって作られた言葉だからな。
同時代的にも「戦国乱世」とは呼んでいたが。
237 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 22:24:46 ID:1rXU3JdT
>>233 だから、「一向一揆」なるものは後世定義されたもので、
同時代的に個々の一揆の内容がはたして「一向一揆」であったかどうかは分からない。
故に
>>229の言うような後世の定義を前提とした「一向一揆の起こった地域は〜」なんて
一般化するのは間違っている可能性が高い。
238 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 22:49:29 ID:2uMVO+rw
>>229 東国など貧しい地域は基本は逃散で抵抗だからなー
一向一揆に関しては一向宗の強い地域で一揆して抵抗できるほど地侍土豪などの勢力が強い地域って感じじゃ
まあ原因は地域ごとに個別に見ていった方がいい気がする
239 :
人間七七四年:2010/06/06(日) 22:54:20 ID:XzWDqlJk
1523年細川と大内の抗争である寧波の乱によって明を怒らせ遣明船は廃止されました
ところが1536年なぜか遣明船が再開されています。
しかも認められた相手は寧波の乱で明を最も怒らせた大内です。
日本で例えるとフェートン号事件の後で英国に反感を持っているにも関わらず
英国に開国するようなものです。普通なら貿易再開はありえないとおもいます。
これを認めたと言うことは当時の明は大内に頼らざるをえないほど倭寇取締に窮していたのでしょうか?
240 :
人間七七四年:2010/06/06(日) 22:56:11 ID:XzWDqlJk
それとも日本と貿易再開したいなにか別の思惑があったのでしょうか?
241 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 00:49:50 ID:ADrqbNso
明にだって日本との貿易で利益をえている連中がいっぱいいたわけで。
13年も経てば「もういいだろ」って雰囲気になったんでしょ。
242 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 02:33:18 ID:N9CAEUfl
>>239 本当に明が怒った、とはいいがたいと思うけど(北方ならこういう事件はいくらでも起きてる)
まぁ寧波の乱てのは、あくまで東夷同士の喧嘩(ととばっちり)なわけで、明自体が関与した事件じゃない
(実際賄賂を取った明側役人は処罰されてないでしょ?)
だから騒乱の主犯引き渡しが行われれば刑事事件としては解決し、
東夷の安定政策として貿易を再開するのは当たり前じゃないかな?
243 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 15:46:31 ID:MOsFueyE
>>237 >一向一揆の発生地は経済先進地に集中していますが
後世で一向一揆と呼ばれた一揆の発生地は経済先進地に集中していますが
に何の問題があって補足したんだ?
って聞いてんだが
補足しても質問の内容同じじゃねーか
244 :
人間七七四年:2010/06/08(火) 13:44:01 ID:Snr8/+/X
畿内を中心に大規模な座が流通を担っていたのは有名だけど
西の要衝である山口や博多で座の話はとんと聞かないね。
大内は寺社優遇していたから座が大きな力を持っていそうなのに。
年行司というか会合衆は性質違うしなあ。
245 :
人間七七四年:2010/06/08(火) 18:58:01 ID:lvQtal+a
>>244 それは山口や博多の商業実態に関する記録が殆ど残っていないため。
まあ畿内でも史料は恐ろしく少ないんだが。なので「座」というものが実際には
どういう物だったか、実は今でも良くわかってない。
246 :
人間七七四年:2010/06/09(水) 04:06:12 ID:jKGXO1pP
近畿の”座”も商取引の記録がないから実態はイマイチわからないような……
247 :
人間七七四年:2010/06/09(水) 19:57:57 ID:417jzlhn
…ところで、(時代や場所にもよるが)座や関所からあがる収入って、
どのくらいの規模だったん?
248 :
人間七七四年:2010/06/09(水) 22:47:56 ID:wyGzbFwN
>>247 どのくらいかと言われてもはっきりとした数字は残っていないのでアレだが、
例えば関の場合、応仁の乱の時東軍に属して大和などで戦った雑賀衆は、
大和と京を結ぶ街道に関所を作って、その通行料で軍費をまかなっていたらしいので
相当のものがあったんじゃないか?
249 :
人間七七四年:2010/06/10(木) 00:18:37 ID:4QxJwXF/
今までの歴史学者がパーの集まりで、この辺の、GDP的試算と
その試算値からの保持できる兵力を全く研究もしていない
火縄銃の量産を見ても分かる通り、当時の日本は世界有数の工業・商業国家だろう
国力を第一次産業・石高だけで測れるはずがないのだ
250 :
人間七七四年:2010/06/10(木) 00:39:49 ID:0cKNNzXr
俺はこのスレを見つけるまでは経済面に目を向けた考え方をする機会がなかった。というより興味がなかった。
戦国時代を専門とする歴史学者も合戦など有事の話題ばかり追いかけて
平時に一番大切な当時の経済面や国力に関する研究を怠っている印象を受けます。
特に地方の大名は興味を持つ学者が少なくいまだにわかっていないことだらけですし。
251 :
人間七七四年:2010/06/10(木) 01:14:30 ID:FX7NDP1A
合戦を一生懸命やってる学者のほうが少ないだろ
252 :
人間七七四年:2010/06/10(木) 14:29:46 ID:k0ZW+b61
>>250 「座」てのは「許可された組合」なわけで山崎の油座みたいな強大なのもあれば行商人がつくった新座とか小さなものまでいろいろ
権益関係の訴訟記録は残ってるけど、それ自体どれくらいの商売規模だったのか、さっぱり……
記録に残る商取引も多くは基本為替(年貢運搬)なわけで、投機(儲け)でどれくらいの動きがあったのかは不明
もちろん領主の中に行人のような大きな経済担当部署があるから、その規模の大きさは想像できるんだけど
中央の経済すらこの程度の把握しかできてない
さらに座の独占権自体、幕府の執行官(つまり守護大名)のさじ加減一つなわけで、
赤松満祐なんてわざと執行せずに楽市みたいな経済地域作ってたり
そんな地方大名の経済事情なんて記録残ってないから、興味を持っても研究成果が上がらない、てのが実情では?
…まぁ、まだ合戦の方が基礎データあって結果がでるでしょうねぇ……
253 :
人間七七四年:2010/06/10(木) 21:17:01 ID:xPOMoZ+d
>>251 だね。
というか著名な研究者の殆どが経済を扱った論文書いてると思うんだけど。
254 :
人間七七四年:2010/06/10(木) 22:00:21 ID:3gdrMHV0
>>253 大体の研究者が経済面の考察か、支配や権力構造の検討をメインでやってるよな。
255 :
人間七七四年:2010/06/10(木) 23:43:50 ID:Sjwr9CM+
あとは外交と各種制度ぐらいか
256 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 02:54:26 ID:GxxZe1Dy
経済面といっても貨幣とか徴税やら「形」の研究しかないような……
経済学の立場に立った研究、ってあるのかな?
なぜ銭経済が成立できたのか、為替による地方の格差を使った儲け方をどこがしていたのか、
とか、経済的な疑問研究してる本あれば読んでみたいのだけど……
257 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 04:31:23 ID:HOkvY9M3
>>256 商売から税金取るだけの行政組織が無かったから当然記録は無いし
座の年賦金?も記録があまり残ってないから研究しようがないんじゃね?
>>249 冶金と鉄製品の製造に関しちゃ圧倒的だけど、その他多くの産業技術や
建築、学問となるとシナの足下にも及ばないレベル、欧州とはいい勝負
商業の発展度はかなりお粗末
258 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 08:58:51 ID:zS0ViAw4
>>256 >銭経済が成立できたのか
それは戦国史ではなく通史の貨幣関係の著書とかによく載る
>為替による地方の格差を使った儲け方をどこがしていたのか
伊勢大湊が有名
読んでみたいも何もあなたの場合は読もうともしていないだけなんじゃ
259 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 10:30:14 ID:OFIL91YB
>>256 あんた自分が「知らない」だけじゃん。
きちんと本を読め本を。
260 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 11:19:49 ID:vQrlXftu
途中で滅亡して没落した大名家は研究資料がほとんど残らないし
逆に明治まで生き残った大名家は自身に有利な誇張捏造した資料を残しているし
真実を検証するのは大変だべ。
261 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 15:43:18 ID:GxxZe1Dy
>>257 いや経済面の研究多いっていうからチャレンジぶるな人がいるのかとおもって……
>>258 その儲けを誰が蓄積したのか、とかそう言う富の動きの考察のあたりをしてる研究がほしいのです
貨幣史の立場だと偽金とかそういうのはあるけど、なぜ銭が通貨として成立してたのか、
銭経済のバックボーンはなにか、とか、そこらの経済学的立場から考察してる研究がなくて……
だって、「銭」ってむちゃくちゃ不思議な通貨ですよね?
滅んだ国(唐)の銭の方が今ある国(宋明)のより価値がある、なんてすっとものの本には書かれてるけど、
銅自体の含有量の価値以上の値段つけられた通貨なんて”変”ですよ、古道具じゃないんだから
しかも悪銭買いとか商売も成立してるし、鎌倉の大仏なんてそうやって選別された悪銭でつくったんですよね
経済的に見れば、市場の通貨量の安定、ってのは最重要経済政策なわけで、現在だったら信じられない状況なわけで
でも、結局銭取引が盛んになるとともに地方にも富が蓄積して戦国大名ってのが生まれた、のなら、
経済の発展から戦国時代を考察するには、そこらの話は避けられない、と思うんですよ……
262 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 18:03:01 ID:OFIL91YB
>>261 少し大きめの図書館などにおいてあるような中世経済史の論文集などを読んだだけで
君の疑問はだいたい解消されると思うが。
263 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 18:07:51 ID:HOkvY9M3
>>262 少し大きめの図書館程度じゃ置いてねーぞ
あと、おすすめくらい教えてやれよ
264 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 18:37:53 ID:P4WK6010
ゼミ論文の臭いがするのは俺だけだろうか
265 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 19:11:21 ID:oMnBBx8M
史料面での制約があるしな
266 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 19:14:58 ID:OFIL91YB
267 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 19:19:04 ID:OFIL91YB
268 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 20:15:11 ID:fErXy/xm
そもそも実体通貨である銭で変とか言われたら
古代から連綿と存在する手形取引なんてどうするんだ。
269 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 22:36:16 ID:oAGdlG9k
>>261 貨幣史の立場だと偽金とかそういうのはあるけど、なぜ銭が通貨として成立してたのか、
銭経済のバックボーンはなにか、とか、そこらの経済学的立場から考察してる研究がなくて……
その辺の分野ならいくらでもあるだろうに・・・
さすがにどの大名や商人が年間でいくら儲けたとかみたいな財務情報は存在しないだろうが
270 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 22:57:09 ID:OFIL91YB
271 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 23:01:36 ID:VV9g98SN
272 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 23:02:58 ID:oAGdlG9k
>>270 ???
>>269で面倒臭がって引用の>を付けなかったから勘違いさせたか?
>貨幣史の立場だと偽金とかそういうのはあるけど、なぜ銭が通貨として成立してたのか、
>銭経済のバックボーンはなにか、とか、そこらの経済学的立場から考察してる研究がなくて……
その辺の分野ならいくらでもあるだろうに・・・
さすがにどの大名や商人が年間でいくら儲けたとかみたいな財務情報は存在しないだろうが。
273 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 23:37:26 ID:HOkvY9M3
>>266 いくつかすっげーゴミなのが混じってるぞw
274 :
人間七七四年:2010/06/12(土) 04:51:52 ID:DOZJAbAn
>>264 いや単なる趣味です……
>>267 それって中世のギルド的な職業同盟の成立と発展が内容でしたよね?
教科書的な農村の経済力の増大とかギルド(座)的な二次産業の発達、じゃなくて
純粋に、当時の日本の貨幣制度の特異性と経済発達に注目して調べてる人がいないかと……
西欧史ではギルドもバンカーの成立も富ってのは「金」が背景にあったわけで
日本の場合、金の普遍的価値はない銭が西欧の金貨と同じような使われ方でしてる
でも「貨幣の信用」なくして経済が安定することがない、と言われてるのに当時の日本の経済発展は順調
となると西欧のバンカー以上の何かが日本の経済を牛耳っていた、つーのもナニな話で
そんな疑問について考察した本を探しているわけで……
275 :
人間七七四年:2010/06/12(土) 05:07:55 ID:gC8pbxB2
中国文明と周辺世界において中国の銭貨が1つの基準で、銅銭は銅の価値とほぼ等価だよ
西域や北方世界には絹や銀が朝鮮や日本やベトナムには銅銭が流入してる
276 :
人間七七四年:2010/06/12(土) 06:33:03 ID:xpzX/3FD
話はそれますが日銀の貨幣博物館に行ってきました。
いろいろ古代の復元した展示物を視ることができましたが
銅銭の穴に紐を通して束ねたものを持ってみましたが随分重かったです。
戦国時代の資料は信玄の甲州金とか有名所ばかり展示していて
マニアックな話題はいまいちなかったです。
277 :
人間七七四年:2010/06/12(土) 17:56:00 ID:Bfc0HmpR
>>274 そんなに難しく考えなくても…
ジンバブエに米ドルもってったらどういう扱いになるか想像してみれば良いじゃない
278 :
人間七七四年:2010/06/12(土) 19:19:54 ID:p+36d3lO
>>277 それは、米ドルってのが国際決済通貨として信用性が抜群だからであってだな
さすがにここで例に出すのはおかしいだろう
279 :
人間七七四年:2010/06/12(土) 19:34:14 ID:gC8pbxB2
おかしくないよ、中国製の銭貨が当時の東方アジアの国際決済通貨として信用性抜群だったのと通じる
280 :
人間七七四年:2010/06/12(土) 21:30:08 ID:p+36d3lO
>>279 中国における銭の信用性って、戦国期にはそこまで高くないわけだが
むしろ、宋銭の方が国内では価値が高いんだぞ?
その辺りまで視野に入れて検討する必要があると思うが
281 :
人間七七四年:2010/06/12(土) 21:31:18 ID:bGD0KSTd
宋銭は中国製じゃないの?
282 :
人間七七四年:2010/06/12(土) 22:02:44 ID:M3ik85B4
>>280は明が「宋銭』も製造していたことを知らないんだな。
宋代の銭が東アジアや東南アジアで信用が高かったため、元も明も貿易の決済貨幣として「宋銭」を
製造していたんだよ。
「宋銭」は元や明が輸出してたんだよ。
283 :
人間七七四年:2010/06/12(土) 22:56:29 ID:Bfc0HmpR
教科書なんかでも宋銭を「輸入」とかいうけど貿易品の代価として入ったんじゃないのかね?
銭自体が取引品目というのもなんだかねぇ?
てかスレチぽいね
284 :
人間七七四年:2010/06/12(土) 22:57:39 ID:4GDk8HO2
あっそう
285 :
人間七七四年:2010/06/13(日) 01:49:46 ID:6nTeQoqn
>>283 銭を得るのが主目的で、輸出はそのための手段に過ぎない。
286 :
人間七七四年:2010/06/13(日) 10:11:15 ID:2wWCWirR
>>239 明が北虜南倭に頭を抱えていたのは事実ですが他にも明側の銅不足という背景もありました。
長門の長登銅山は奈良時代から平安時代にかけて銅の産出が行われていましたが12世期には衰退していました。
枯渇していたわけではなかったのですが当時の技術では硫化銅を精製することができなかったのです。
だから天然銅や酸化銅を掘り尽くしてしまうとあとはその価値を失っていました。
ところが14世紀後半から15世紀前半に大内氏により銅山の再開発がおこなわれ硫化銅を独自に精製しようとした跡が見つかっています。
その後、大内教弘か大内政弘あたりが歴代中国王朝が門外不出としてきた硫化銅精製技術を国内に伝えてもらっています。
この時に倭寇取り締まりや銅輸出を交渉材料にして技術情報を要求した可能性があります。
同じように大内義隆も交渉して貿易再開や灰吹法を手にいれたのかもしれません。
287 :
人間七七四年:2010/06/14(月) 15:17:09 ID:JNLZz+W/
>>274 海賊ギルドからコブラを思い出したじゃんか
288 :
人間七七四年:2010/06/16(水) 14:20:00 ID:q8iuNeKG
>>287 最近クリスタルボーイがエロい改変漫画が出回っているよな
289 :
人間七七四年:2010/06/19(土) 06:52:22 ID:GyrMLd/Y
大内義隆と神屋宗たんって繋がりあったの?
290 :
人間七七四年:2010/07/05(月) 20:08:34 ID:GiMuHTpp
ないよ
291 :
人間七七四年:2010/07/09(金) 00:00:31 ID:QlOAa1Ac
292 :
人間七七四年:2010/07/09(金) 00:58:39 ID:mhBmuciP
>>291 どっちもあっているだろう
神屋宗たんが生れたのは大内義隆が死んだ年かその前後だった筈
大内氏とつながりがあったのはその数代前あたり
293 :
人間七七四年:2010/07/09(金) 01:20:25 ID:8IFQLJ2L
神屋宗湛は大寧寺の変の年に生まれているのだから関わるのは難しいな
祖父の神屋寿貞は大内義興・義隆と関わりが深い。
1526年石見大森銀山の開発
1533年朝鮮?より宗丹と桂寿を招聘した
1539年策彦周良の入明時に総船頭として参加
灰吹法は朝鮮から伝来したとも明から伝来したとも言われている。
明の説だと寧波の乱の1523年に明にわたり修行したことになるね。
此年、寿亭、博多より宗丹・桂寿と言ものを伴ひ来り、八月五日、相談して鏈を吹鎔し、
銀を成す事を仕出せり。是そ銀山銀吹の始なり
(石見銀山旧記)
憲府啓して曰く、「全州判官柳緒宗、金海に居る時、私人を率いて海外加徳島に猟し、
東莱県令に捉えらる。また京中富商を引き、その家に接主し、倭虜を誘引し、我が国の服を変着して、
恣に買売を行わしむ。(略)「柳緒宗多く失する所あり。故に殞命を計らず、得情を期して
刑訊するが可なり。但倭人と交通して、多く鉛鉄を貿い、吹錬して銀を作り、倭人をして
その術を伝習せしむる事、台諫の啓するところをもって推きくせよ。
(中宗実録)
神屋壽貞は博多の産なり。其頃いまだ日本にて金銅を吹分る事を知らずして、多くの銅を明朝に渡して
吹分けさせけるを壽貞おもひけるに、我国の重宝を異国へ渡す事嘆かわしきわざなりとて妻子を捨て
大明に入り十年が間留まりけるに、いかゞしたりけん一郡の主となり、思ひのまゝ金銀の吹きやう及び
錫チより銀を取る事など傳へ得て歸朝し、諸国に金山を起せり。
(石城志)
294 :
290:2010/07/09(金) 13:33:53 ID:15ypqz3/
>>291 神屋宗湛
1551年2月6日〜1635年12月7日
大内義隆
1507年12月18日〜1551年9月30日
生誕〜生後7カ月がリミットなのに関わりを持てるわけねーだろ
>>295 皇太子の学部生時代の卒論かな? 結構面白い研究してたんだなぁ。
297 :
人間七七四年:2010/07/15(木) 14:00:24 ID:ZcDtTMh9
京の経済利権の関所を初めて撤廃したのは秀吉
全国の経済利権の関所を全廃したのは家康になってようやく。
298 :
人間七七四年:2010/07/16(金) 05:10:50 ID:NdwSksaz
悪い話スレにちょうど兵庫関の話が。1581年になっても関所がきちんと
機能していたんだねい。
299 :
人間七七四年:2010/07/16(金) 10:09:51 ID:Gx/9XZvj
1581年といえば本能寺の変の1年前、その前年には石山合戦も終結し織田政権の畿内支配は
磐石といった状況。
それでも兵庫津の関の利権に、何一つ手出ししていない。
このあたりが、信長政権の限界というべきだろうな。
300 :
290:2010/07/16(金) 19:24:11 ID:uJaMnGO2
限界もなにも、多方面作戦中にわざわざ敵作ってどうすんだ
301 :
人間七七四年:2010/07/16(金) 20:56:29 ID:nBCKiLrt
というか信長の政策って、基本は丸呑み温存現状維持じゃん
302 :
人間七七四年:2010/07/16(金) 22:27:10 ID:cIICl21J
アレクサンドロス大王リスペクトだよきっと
303 :
人間七七四年:2010/07/27(火) 22:17:21 ID:4bf88luL
304 :
人間七七四年:2010/07/28(水) 00:43:22 ID:LVKZP50w
そもそも兵庫関が機能していたといっても、ちゃんと税が取れていたかどうかは全く別問題じゃないのか?
305 :
人間七七四年:2010/07/28(水) 01:21:41 ID:kxSnkNTE
問丸は税というか料金取ってるよ、当然ながら
306 :
人間七七四年:2010/07/28(水) 08:55:44 ID:2NoT4d4m
307 :
人間七七四年:2010/07/28(水) 21:53:37 ID:LVKZP50w
308 :
人間七七四年:2010/07/29(木) 02:50:19 ID:0pykA5sI
>>307 衰退しても海賊の拠点となる程度には機能してたんだろ
疑うのならヴァリニャーノの記録を否定する根拠を出さないとな。
309 :
人間七七四年:2010/07/30(金) 02:31:23 ID:qgUGte2j
>>307 それは
>>307が知らないだけ、兵庫関が機能していたなら
当然に場所代を取る領主や海賊がいるのは常識だろ
310 :
人間七七四年:2010/08/13(金) 11:17:09 ID:wWB7O0Be
こちらのブログには個人的考えと思われますが
ttp://cds190.exblog.jp/9329596/ 「金融は経済の重要分野であり、経済活動全体の潤滑油である。寺社勢力がこの事業の最大の担い手であった」
とありますが、土倉差し置いて寺社が金融の中心になりえたのでしょうか?
また、大内義興の撰銭令で本願寺が含まれていないことから
「大阪湾に臨む立地を活かし堺の商人とも結んで渡唐船を建造し明国との交易も企てる石山本願寺」などという書き込みもあります。
加賀以外は拠点が点在している程度の本願寺に大内に対向するほどの経済力があったのでしょうか?
どこかで本願寺は寺社に手厚い大内と仲が良く、瑪瑙を贈答していたという話を聞いた記憶がありますが。
311 :
人間七七四年:2010/08/13(金) 16:21:31 ID:pR/kMV9Y
>>310 土倉を取りまとめていたのが比叡山を始めとする寺社勢力。
312 :
人間七七四年:2010/08/21(土) 19:50:14 ID:/x+5HEJ5
>>310 土倉のような金融業者は寺社勢力の保護を受けていた。
土倉の経営者は表向き比叡山やその系列の僧侶ということになっていたから、坊主の格好を取っていた位。
313 :
人間七七四年:2010/08/23(月) 05:07:03 ID:fNxRlNdM
表向きっつうか、宗教勢力の資金力や技術万能ぶりや生活密着ぶりを考えれば
影響下(大半の都市では直接の庇護下)に無い方がおかしいわな
314 :
人間七七四年:2010/08/23(月) 15:31:24 ID:D70fVXOo
315 :
人間七七四年:2010/08/23(月) 16:12:18 ID:HNB0cLke
それは無いな、楽市楽座してもまだ行政組織が不備で税の徴収は出来ないし
316 :
人間七七四年:2010/08/23(月) 17:40:41 ID:QuHmtlB6
というか
>>314の人は根本的に楽市楽座を勘違いしている。
典型的な、歴史を独りよがりに学んで脳内で勝手な歪んだ戦国像を作っちゃったタイプ。お気の毒に。
317 :
人間七七四年:2010/08/25(水) 02:31:01 ID:/0VMdfBs
>>310 中世日本の都市は一部の例外を除けば大部分が寺社の境内と一致してて
城下町の方がむしろ例外
318 :
人間七七四年:2010/08/25(水) 05:56:22 ID:OKbap4rt
そういう意味では西の京山口や北の京一乗谷は稀有な存在ですね
319 :
人間七七四年:2010/08/25(水) 12:18:59 ID:jPCmQhkU
城下町形成の走りは、畠山義就の河内誉田だったそうだな。
320 :
人間七七四年:2010/08/27(金) 15:05:45 ID:BJe2C3K/
>>274 金を背景にするかいなか(銀でもいいけど)は海外との決済においての話で、国内での
決済では別に宋銭でもいいのではないかと思われ。
むしろ、銀決済とか金決済とすると金山、銀山を抱えるところが貨幣量を決定できるわけで、
豊臣、徳川のような全国政権が誕生しないと逆に国内決済での金、銀使用は弊害があり
それなら、貿易ではいってくる宋銭の方が管理はしやすい面があるでしょう
321 :
人間七七四年:2010/08/27(金) 18:27:39 ID:pwEHZtIG
銅銭の価値はほぼ銅と=なんすけど
322 :
人間七七四年:2010/09/02(木) 10:13:30 ID:or5nGO/i
それだと鋳造技術の劣る私鋳銭の鐚銭は地銀以下になっちまう
323 :
人間七七四年:2010/09/02(木) 18:59:38 ID:yRHGQGb+
シナで私鋳銭造ってたのって産業技術を担う大資本家がほとんどだし
価値がそのままイコールってことは無いだろうけど
324 :
人間七七四年:2010/09/03(金) 15:03:47 ID:6ppZC2MY
明の時代では中国国内は札の流通が主流だったような
325 :
人間七七四年:2010/09/15(水) 02:57:03 ID:QDdW6+jc
銀本位の紙幣だたけど、日本向けに一文銭”だけ”は鋳造してた
正式な貿易だけではなく、例えば台湾とかに私貿易できて
そこにある銭全部持って帰った話もあるので
それゆえ私鋳銭もかなり儲けになったんじゃ無かろうか
室町の輸入品って美術品でも偽物ばっかりだよね?
良い感じに”ダマされてた”のかも
326 :
人間七七四年:2010/09/15(水) 11:00:26 ID:JY6n3Xlp
327 :
人間七七四年:2010/09/16(木) 21:13:25 ID:59hBaAxy
>>325 全く中国国内で流通していなかったというのは事実ではない(貿易港と離れた北京の市中で永楽通宝の贋金混入事件が発生して宮廷で問題視されているから、前提として一般流通している銭に偽物が混じったと考えられる)。
ちなみに頭のいい奴は唐や宋の古銭をわざと私鋳した。当代の貨幣の偽造は重罪だが、古銭の私鋳に対する取締はそれほど強くは無かったから。
328 :
人間七七四年:2010/09/17(金) 02:08:21 ID:123f3VUb
明代から私鋳禁止になってたのか、流石は暗黒帝国
329 :
人間七七四年:2010/09/17(金) 09:01:56 ID:U18J2mpZ
日本だと普通の偽金作り、というよりは”一文銭だけ”作ってた
例えば四文銭を削って一文銭にしたりしてるのが、日本の特別なところ
つか日本では一文銭しか通用してなかった、のが一般論でまとめにくいところだよね
330 :
人間七七四年:2010/09/17(金) 09:21:51 ID:77sCvY7K
>四文銭を削って一文銭にした
こういう話って色々考えさせられるなあ。
331 :
人間七七四年:2010/09/18(土) 08:35:40 ID:YULj1pjJ
江戸期の話
100文や1貫の束から真鍮で出来た贋金をより分けて売る商売が一時期はやる
真鍮の価値が1文より上がったためだったり
真鍮製贋金は煙管の雁首を鋳潰して作ってたらしい
ふと思い出したんでカキコ
332 :
人間七七四年:2010/09/18(土) 18:54:08 ID:8cDq6rus
>>328 私鋳したら死刑って奈良時代の日本には一応法律としてあったのだが。
その後、朝廷が貨幣自体を出さなくなったから法律として行われなくなっただけで。
333 :
人間七七四年:2010/09/19(日) 14:58:29 ID:leC/o4XO
偽銭のが価値があるのか
材料 のが額面より高い貨幣もあるしな
334 :
人間七七四年:2010/09/30(木) 16:38:15 ID:bfUMb2Sm
そも日本が銅銭輸入してたのって、元々日本の銅資源が不足してたからじゃないっけ。
各種金銀銅貨それぞれの価値を決めるのは紙幣のような額面ではなく品質な訳で、
混ぜ物とかで勝手に品質落としたり出来る私鋳を禁止するのは自然な流れかと。
335 :
人間七七四年:2010/09/30(木) 20:15:20 ID:P+oF4s0f
経済の成長に従って貨幣の流通量が増えたせいで
そういった私鋳銭でも流通に利用せざるを得なくなったというのが泣けますね。
大口の決済を手形で代行していたのはどの時代からでしょうか?
336 :
人間七七四年:2010/09/30(木) 21:34:16 ID:wt8DVAyN
>>334 当時の偽金作り(私鋳銭)が”品質=含有貴金属の量を落とした”とは言えないのよ
(明の4文銭を削って一文銭の大きさにしたのが残ってる)
銅銭でも一文銭だけ(明は4文とか10文とかも作ってた)しか貨幣じゃなかったことは、
これは品質(銅含有量とか明の信用とか)より別の基準で”銭の価値”が判断されてたとしか思えない
市場流通量とか幕府が保証も管理もしてない実質額面に満たない貨幣が、当時の”銭”なのよ
さらに鋳造は禁止されてても、所持や使用は公認されてた(悪銭)わけで、これは”私鋳を禁止した”とは言えない状況
実際良銭と悪銭の交換が商売になって、そういう集めた悪銭がどう形を変えたかは想像するしかないけど……
(ちなみに室町幕府のお膝元で銭の砂型が見つかってたりする)
>>335 手形決済は荘園の年貢を納めることから始まってる
つか「自分で作った銭が普通に通用する」って状況は”異常事態”なんだけどね
それが数百年続いたんだから、なんかとっても不思議
337 :
人間七七四年:2010/09/30(木) 22:05:56 ID:njaEJV3w
西日本じゃ永楽の価値が低く、東日本じゃ永楽の価値が高いように品質が価値を決めるというわけでもない、
地域ごとに銭の価値が異なり、遠隔地との銭の為替で儲ける商人がいるように地域ごとの信用経済市場価値であり、
遠隔地や外国との貿易では品質が価値を決める素材価値との混合じゃ。
338 :
人間七七四年:2010/09/30(木) 22:47:21 ID:xTbaaa04
>>334 日本は中世通じて江戸時代に入ってからも銅の輸出国だった訳だが。
反対に中国は仏教弾圧の本当の理由が仏像や仏具に使われている銅を溶かして獲得する目的だったと言われる程の銅不足だった。
339 :
人間七七四年:2010/09/30(木) 22:59:37 ID:P+oF4s0f
>>336 手形の制度は古いんですね。
小口の決済に限定しているのに貨幣が不足してしまうなんてすごい時代だったんだなあ。
偽造防止をするどころか通貨に似せて勝手に作った貨幣ですら(嫌がられるとはいえ)通用したというのは
不思議な感覚ですね。
340 :
人間七七四年:2010/10/01(金) 00:48:45 ID:ddmctkwp
>334
10世紀後半から12世紀後半にかけて日本で新鋳された
梵鐘が1つも現存していないことや、各種文献資料からも
平安後期から末期にかけて、日本では原料銅が不足していたことは
ほぼ確実。
空白の2世紀を超えて12世紀後半からまた梵鐘が新鋳されるようになったり、
鎌倉の大仏の金属組成が宋銭にほぼ一致していることなどから、
輸入された宋銭が原料銅として利用されていたこともほぼ確実。
で、黒田明伸あたりはまず原料銅としての宋銭輸入が始まって
それが次第に流通貨幣としても使用されるようになったという立場だけど、
最初の宋銭輸入の目的が原料銅としてなのか貨幣としてなのかは
まだ定説はない状況。
>338
日本が銅の輸出国に転じるのは15世紀初めの朝鮮貿易から。
日明の勘合貿易だと、銅の輸出が始まるのは1433年。
341 :
人間七七四年:2010/10/01(金) 08:08:51 ID:dNSrIwAY
15世紀になって長門の長登銅山の産出が再開したようですね。
このころは意外に主要銅山は採掘されてませんね。
別子銅山・・1690年に発見
足尾銅山・・1550年に発見と伝えられているが、本格的に採掘が開始されたのは江戸時代から
八総鉱山・・江戸時代末期にすでに採掘の記録があり、
吹屋銅山・・807年開坑。
日立鉱山・・1592年の文書に採掘した記録
342 :
人間七七四年:2010/10/01(金) 08:30:56 ID:c0fcTMIs
銅山だけから銅が産出するわけではないことをお忘れなく。
343 :
人間七七四年:2010/10/01(金) 11:48:21 ID:CVxrbWP/
大仏流用とか銅山がなかったとか
単純に、市場に供給がいらないほど銅資源があまってた、とも見えるけど……
(当時の銅の使い道なんて限られてるし)
国内銅の値段が上がれば(需要が増えれば)必然コストがかかる供給手段も生き返ってくるわけで
344 :
人間七七四年:2010/10/01(金) 16:28:10 ID:BXDLUY7c
1,600年〜江戸初期だと石見銀山の4,000貫(額面か重量かどっちか忘れた)や
その他の鉱山(数は少なかったけど)での割当量が文書に残ってた。
345 :
人間七七四年:2010/10/02(土) 20:08:41 ID:1S5vva2o
江戸初期の年貢勘定で金納、銀納、綿納、漆納、鍛冶年貢なんかはあるけど
銅納が見つからん、とは言っても中国への輸出品に銅があるわけだし
どういうこと?
346 :
人間七七四年:2010/10/02(土) 22:03:01 ID:0UPfRdai
銅は普通に銭に使われているじゃないか。
347 :
人間七七四年:2010/10/02(土) 23:40:45 ID:1S5vva2o
そらそうだw いやー酷い‥
348 :
人間七七四年:2010/10/13(水) 15:13:53 ID:7Pt2IqyF
>>339 荘園領主に対し代官が年貢を現物でなく銭で納めることを要求したり、
領主側も銭納を現物納よりメリットと見なしてたり
銭を単純に”通貨”とだけみるのは間違ってるのかも知れないですねぇ……
349 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 08:30:47 ID:r1ApiTnW
各国の大名の領民よりも
信者数が圧倒的に多い本願寺が一番お金持っていそう
350 :
人間七七四年:2010/11/07(日) 02:19:05 ID:8FWeIAQF
本願寺が信者から金銭を得るのって経済活動や境内使用料、寄進の他になんかあったっけ?
351 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 06:51:06 ID:qimTP6uh
>>350 それだけだったような
宗派成立上の理由から寺社領持ってないし。
352 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 06:53:50 ID:qimTP6uh
大政奉還の時、寺社領は全て取り上げられたので、他の宗派は主な収入を絶たれて悲惨な事になってたけど
本願寺派は元々土地を持ってなかったんで、全然影響を受けなかったとか
353 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 07:57:17 ID:dSxxm5im
加賀とか石山とか長島とかは領土というのは微妙かな
354 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 08:39:51 ID:qimTP6uh
本願寺派は農民ではなく、海運業者などの、
他の宗派からは無視されていた人たちに布教してたと言う経歴があって、寺社領を持たなかったんだ
農民相手の寺の場合は農民が自らの土地を寺に寄進して、それが寺社領になった。
寺社領の方が大名・領主よりも締め付けが少なかったんで、楽な暮らしが出来たんだな。
石山本願寺なんかは交易ハブとして発展していったんで土地からの収益に頼らずにすんだ。
織田が石山本願寺攻めを行ったのも交易拠点を手中に収めたかったからという説があるし
実際、(攻める前に多額の矢銭を要求している。矢銭をよこすんなら攻めないぞ、と)
秀吉が大阪城の場所を石山本願寺跡地に定めたのも地勢的に流通ハブとしての拠点であったからだとも言われている。
一向宗門徒の土地は寺の土地じゃなくて、門徒たちの土地だなぁ。
ここからは寄進(税ではない)としての銭や物資、労働力が得られたけれども。
355 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 11:10:33 ID:dSxxm5im
証如の母、顕如の祖母である慶寿院鎮永尼って大内義隆みたいな感じなんだよな。
正親町天皇の即位式への献金で本願寺を門跡寺院にしたり、
守護不入権のある勅願寺を許されたり、
従二位をもらったり、孫の嫁に三条公頼の娘を欲したり。
このご時世に朝廷に接近した時代錯誤とみるか、
本願寺の権威付けに成功して後々役にたてた功労者とみるか
356 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 18:00:45 ID:5ZxvXjjE
もともと昔から京都経済支配してたのは法華宗で(実際山科とか焼き討ち実行した犯人のひとつ)
それに対抗するために朝廷に接近したんじゃないかな
357 :
人間七七四年:2010/11/10(水) 02:20:07 ID:pHI8iMgL
>334
7週間も経ってからのレスでスマンが、
輸入が始まった当初はともかく、輸入量がピークに達した室町期には地金を輸出して製品で買う流れだな。
銅の地金を輸出する以前にも金や銀の地金の輸出はやってたが、
室町時代には銅の地金も輸出してはいた。
製品レベルの輸出は日本刀ぐらいだったかもしれん?
>335
大口決済で手形を利用していた早い時代としては鎌倉時代ごろか。
私鋳銭でも利用せざるを得なくなる室町後半までには、経済圏の分割によって手形決済の通用範囲が狭まって、
東日本限定とか西日本限定でしか手形が流通しなくなった。
九州は分からん。
年貢を納入するというよりか、もとは「来年に納入される年貢を担保とした借金」
などの形での、借用証書が貨幣代わりに流通するところから手形へと発展したんだろ
年貢を銭貨で払うという前提で行われた制度だよ。
>348
領主側は必ずしも銭納を快く受け入れているわけではなく、
近畿地方と瀬戸内海沿岸地域の近隣地方からの年貢に関しては現物納を要求して譲らなかったんじゃないの。
この地域の年貢は銭納が主流になることがなかったはず。
>355
その時代に朝廷に接近しようとしたことを時代錯誤と評するのは古い見方じゃないの?
358 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 15:10:37 ID:6N7zvQlS
年貢は現物納のが好まれてたのか、ちょっと意外
ってまあ、所領にもよるんだろうけど
359 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 21:47:47 ID:hs44rdSk
現物納の対象は大抵生活必需品だからね
360 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 00:52:13 ID:/fEr1zx5
「現物でくれ!」 は 領主側の希望
「銭で納めさせろ!」 は 代官側の希望
…まぁ そこに何らかの”メリット”が存在していたことは確か
361 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 01:57:58 ID:CR218zkI
1石を送ると、運賃やら税やらで半減してしまう陸路なら銭で
一度に大量輸送できて、運賃も税もそれほどかからない海路なら現物で
こんな感じじゃないかなぁ。
海路で余裕で運べるのに銭できたらショッキングだろ。
1石→1貫→0.5石になっちゃうんだから。1石でくれよって話になる。
362 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 03:52:52 ID:TzsKA8R8
現地値段の銭で納められるより現物もらって京阪とか高値になるところで
売ったほうが儲かるからじゃねかに
363 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 17:10:58 ID:Pcp9T+QH
364 :
人間七七四年:2010/11/12(金) 17:31:03 ID:/fEr1zx5
>>363 一概に輸送コストだけとは言いにくい
都での米相場と生産地での相場は明らかに都のほうが高いので、
銭納ならどこで米を銭に替えるか、ってな問題もあるし
365 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 00:02:27 ID:ayFkldTL
薩摩の島津は、島津四兄弟だったか?兄弟の堅い結束で九州全土を切り取ったイメージだが、
実際は海外交易で荒稼ぎしていて、相当な軍資金が背景にあった。
信長や秀吉は、島津のことを大内同様、貿易大名とみなしていた。
366 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 00:06:36 ID:K/oVdpuh
>>365 つーか島津は西日本における大内派の大名だったわけで。
367 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 00:10:11 ID:CqYcEXsX
豊富に取れる硫黄を買い取ってもらっていたから
大寧寺の変以降、琉球を利用するまで島津は苦労していますね
368 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 00:42:31 ID:n+5u0FiN
>>365 ないない、それは無い、言い過ぎ。覇権は一族の優秀さに負う部分が絶大
島津家は直接海外交易してたわけじゃないし。鉄砲の導入に際しての恩恵は大きいだろうけど
369 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 00:47:59 ID:CqYcEXsX
鉄砲に活路を見出したのも他に産業がなかったからと聞きました。
だからすでに金づるをもってた大内はいち早く鉄砲を手にしておきながら量産に着手しなかったとか・・
370 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 00:57:55 ID:K/oVdpuh
例の三宅国秀の船団壊滅事件も、要は細川京兆家がしつらえた琉球との交易船団を、
細川と敵対していた大内の意を受けた島津が襲った、ってことだわな。
371 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 03:30:31 ID:n+5u0FiN
あいつらそこらじゅうで喧嘩してたのかw
372 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 04:45:48 ID:tGOAA0KK
そりゃ、寧波で明の役人を殺すなんていうトンデモな重大事件すらやらかしているわけで。
内ゲバを、よりによっていくら斜陽期に入ったとはいえ、当時の超大国にまで持ち込むのかよ
ヲイヲイってな感じ。
当時の明は基本的に海禁政策でひきこもりだったから貿易の停止程度で済んだけど、
永楽帝時代の拡張主義だったら、これを口実にして倭寇鎮圧を名目に博多あたりに
攻めこんできたぞ…
373 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 11:18:21 ID:fV2PNGoX
>>372 そこで博多で無く能登に乗り込んでいれば武田信玄2(ホットビィ)のトンデモ戦国時代が現実になったのに…
374 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 02:33:22 ID:wza+PTM4
>361
たとえば、九州北部から船で運ぶ程度でも、
数百石の米の輸送賃を払ったら米の売却額の半分ぐらいが吹っ飛んだみたいだ。
だから、もっと近い場所の年貢しか現物納は続かなかった。
>362
たいていの物資は、現地価格と京都での価格で二倍から三倍の価格差があった模様。
現地価格の半分にも及ぶ多額の送料を払ってでも現物納にしてもらう方がいい。
ちなみに送料は年貢額から差し引き(必要経費として控除)なので、送料が高くなっても現地代官の懐が痛むというわけではない、ハズ。
コストの問題だけじゃなくて、人員調達とか盗賊に襲われる危険の高低(目立たない方が安全?)という理由もあるのでは。
375 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 03:44:25 ID:UbuOYB8s
悪銭とか銭の信用度の問題もあるのでは
376 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 05:21:52 ID:OSneJCjk
>たいていの物資は、現地価格と京都での価格で二倍から三倍の価格差があった模様。
京の米の流通は米座が支配してたんだけど、これがかなり横暴で
米の価格を維持するために、豊作の年に米の流入を阻止して、京で餓死者が出る騒ぎが何度も起こっている。
米座を支配している連中(押小路家、清原家)が顔を縦に振らないと、
京に米を入れられないという状態が織田信長が京に進駐するまで続いたんだよ。
377 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 10:25:31 ID:UhoQ+cdz
>>376 > 米座を支配している連中(押小路家、清原家)が顔を縦に振らないと、
> 京に米を入れられないという状態が織田信長が京に進駐するまで続いたんだよ。
一応言っておくと信長の入京以後も続いた。信長は座の特権を全部保護してる。
京の米座の影響力が亡くなったのは、秀吉が京の米の卸売市場を大阪に持って行ってから。
378 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 11:38:36 ID:P5zTZXzQ
古代の租庸調のうち庸調も都に運んだと授業で習った覚えがありますが
「遠方の一般農民がどうやって京まで運んでんだ?」と疑問におもったことがあります。
こういった物納税制が時代の変化と共にどう変化していったかを日本史で教えていかないのはマズいとおもいます。
仏像の名前とか、書物の穴埋めとかを覚えさせる授業とかつまらないものばかりテストに出るから
日本史は勉強しにくい。(興味のない時代のテストはボロクソでした)
379 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 13:42:10 ID:fyNY3R8I
最近NHKで平城京遷都祭に併せて古代の街道について話があったね
380 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 16:44:00 ID:Ca+Y3/kC
掛かった交通費だけ支給され無賃労働運搬
って条文を律令の中で見たような
381 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 16:54:09 ID:wza+PTM4
>378
農民が自分で運ばなきゃいけなかった、
運送中の食事・宿代も自費払いで、背中に背負ってる租税に手を付けたら死刑になるから道中で逝き倒れる農民があとを絶たなかった
みたいなデタラメを教えられた記憶があるわ
郡・国の租税保管庫である「正倉」に納められて封印され、
中央から輸送命令が出るまで封印し続けられたんだけどな。
たしか、輸送は国司の責任。人員や交通手段の手配、輸送費まで。だったんじゃなかったっけ?
>380
律令の条文の中には、施行されてすらいないものも混じってるんですよね。
ほかにも、施行したその年のうちに訂正されて抜本的に変わっちゃった条文とかも。
382 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 18:10:50 ID:fyNY3R8I
383 :
人間七七四年:2010/11/17(水) 19:19:44 ID:SCRypK2D
まあ、律令が額面通りに施行されたならそうだよね、っていう
384 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 17:51:29 ID:MlIW38RV
>357
東寺領の備中新見荘(新見庄)の研究だと、非常に大雑把に言うと
応仁の乱の頃までは代銭納だった漆、紙、蝋などが戦国時代以降江戸時代に至るまで
現物納になっていたりする。
>374
東大寺文書(大日本古文書 東大寺文書 未成巻文書774など)に
周防国衙の牟礼(山口県防府市)の年貢目録があるけど、
慶長8年(1603)に178石の米を大坂まで運んで、船の運賃が9石、旅費が4石。
126石を大坂の蔵に預け置き、残りを銀394匁に換金(銀だけど)して東大寺に納入とか。
他にも慶長11,12年とかの記録もあるけど、
周防から大坂まで(銀は奈良まで)運んでも目減りは10%もない。
他にもやはり戦国時代ではないけれど、東大寺文書(大日本古文書 東大寺文書 未成巻文書833)の、
明徳元年(1390)の周防仁井令(山口県防府市)の年貢結解状が詳細に費用を書き出している。
この年貢については山崎からの夫賃が費用計上されているので、京都まで米で運んで、
そこで換金したと思われる。
まず年貢が米60石で、その代金が78貫。
次に費用として、関料が兵庫南関に1貫230文、北関に780文。倉敷が780文。
関料は水揚げした米の1%が相場なんだけど、南関に払っている額の算定基準はわからない。
倉敷もやはり1%で、これらは米で支払っていると考えられる。
小揚、船賃が360文。問料、値付引物が270文。
これら流通経費を合計して3貫420文ほど。上の慶長年間の記録と比べて船賃が非常に安い。
さらに費用として、年貢を納める監督者2人の宿代や酒手など細々した旅費が合計で1貫強、
奉公への下給(農民への賃金?)が1貫、山崎よりの夫賃が1貫弱。
合計で3貫ほどだが、夫賃などの経費は2/3だけを年貢から控除する契約で、
2貫ほどが年貢から引かれている。
以上をまとめて総経費が5貫448文。周防から京都まで運んで目減りは7%弱となっている。
385 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 18:13:54 ID:RyPlF0gX
乙。海路だと運送コストも安いんですね。
386 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 00:27:25 ID:VQuR8UOh
>384 (from>357)
現物納から銭納への切り替えが鎌倉時代の前後に起こった後、
戦国時代には貨幣流通に重大なトラブルが全国規模で起こっているために、
やむを得ない対処として、年貢が銭納だった地域の大半(またはすべて)で、
年貢を現物(絹布や塩や特産品? など)もしくは米で納付するように切り替えられた。
357では、この前半部分を言ったんだよ。
戦国時代には銭貨の絶対量が不足したことと選り銭関係の問題(交換レートの混乱/不統一など?)で、
年貢銭納を続けることができない状況になっていったんだ。それが段々と進行、悪化したために、
物納という選択肢しかなくなってしまった。
>384-385
豊臣政権ごろから関所の撤廃が進んだから運賃が安くなったんだよ。
それ以前の運賃は大半が「広義の通関料」だった。
船頭への謝礼よりも高価な「水先案内人への謝礼」とか、いろんな形の通関料があった。
奈良時代(だったか?)の具体例を探しておくので、また後日。
ただし、行き先が京都じゃなくて奈良だけど。東大寺領の荘園からの送付。
路程の大半は舟だけどね。いちおう「陸路よりは安かった」模様ではある。
387 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 01:15:37 ID:yRRD5ord
いろいろ興味深いです。少し前まで年貢の納付は全て
>>5のイメージだっただけに本当に勉強になります。
388 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 01:30:59 ID:REMzlCsU
>>386 まったく逆で慶長年間の事例の方が運賃が大分高いって話じゃないの?
389 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 01:35:41 ID:VQuR8UOh
>387
江戸時代と違って戦国時代だと、一般農民が年貢を納める先は庄屋。
村から出て遠くまで納めに行くわけではない。
ところで、律令の条文って言うけど、きちんと形が残ってるのは延喜の格と式だけだよね。
日本の律令の条文の大半は散逸して残っていない。
令義解など注釈・解説の書、または史書などに引用されたものとか
木簡などに書き写されて発掘されたものとか、
そういった様々な断片を集成して、ほぼ全体が復元されたとは聞くけど。
そういえば、日本の律令が手本としたとされている唐の律令も散逸してるよね。
律は大半が残っているとはいえ、
日本側が長く律を活用できなかったぐらいだし、唐律を見る意味が薄いから残っててもなあ。
唐の令はほぼ完全に散逸してて、ほとんど残ってないわけで。
諸々の断片から唐令を復元する研究がなかったら、唐令と大宝律令・養老律令とを比較することすらできなかったんだよなあ。
それらの研究のおかげで、奈良時代の律令の受容方法などが研究可能になったんだよね。
条文には載ってるけど施行されてない空文とがあったとか。
390 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 06:32:30 ID:LgBzFlwJ
律令の話は国税、生産者は国の出先機関(国府)に納めるだけだったし
それとあくまで私的な荘園の年貢とを同一視してもいいのかな?
…ここらは単純な話にはなりにくいとは思うけど……
391 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 11:05:06 ID:xikFKA53
空気読めなくてすいませんが、
鎌倉〜室町〜戦国(初期?)での納税って守護地頭の直轄地であれば
庄屋→守護地頭 なんだろうけど、国人が支配してる地域は守護地頭に徴税権は無く
庄屋→国人 でいいのかな?
国人はそのかわり守護地頭に対して、兵役や普請の義務を負うということで。
392 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 14:26:48 ID:REMzlCsU
庄屋が請けるようになったのって室町後期以降でしょ確か
393 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 17:54:29 ID:djmKJfZM
>>389 > 江戸時代と違って戦国時代だと、一般農民が年貢を納める先は庄屋。
江戸時代と戦国時代が逆じゃないか?
394 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 17:59:28 ID:kmelW3Yt
商人が代官となっていたりもして村請から直接商人って例もあったりするしなー
395 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 20:44:18 ID:u1keUdE2
>394
そっちの方が一般的と聞いたよ
商人が代官やるって奴じゃなくて、年貢の徴収と保存
集めた年貢から輸送費と保存費を引いた分、為替で領主に渡す。
どの道食い扶持以外は現金化するし、倉なんかの保存設備の問題もあって、こちらのほうが一般的だったんだそうな。
396 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 21:24:02 ID:VbU3BwnD
>>394 武田みたいに商人が代官もやっていたりする例もあれば、
北条家臣の安藤の娘が商人に嫁いでいたりする例や、
小西みたいに商人が武士となって家臣化する例もあるし、
織田家も清州や津島の商人町人が家臣化したりする例もある。
武士と商人は密接に結びついてる。
397 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 18:44:06 ID:xv6LzOUB
>396
つうか、そもそも武士と農民や商人の身分が完全に分離・区別されていた分けじゃないし。
そういや、神職(神主)も武士や農民、もしくは僧侶と分離されてはいなかったっけ。兼業が普通だったんだよな。
398 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 18:52:47 ID:gV3NPe2/
>>397 というか、大きな神社の神職は豪族だったり(諏訪氏やら千家氏やら)、大きな寺院と神社は
同じ組織だったり(比叡山延暦寺と山王権現(日吉大社)とか)、神仏混淆の時代だったしね
逆に村の社は共同体全体の共有物だったりもしたので、なんというか兼業と言うよりは、役職
って感じだったんだな
今だと町内会長とかあんな感じ
399 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 21:22:09 ID:TRZVxxRJ
商人も大身は被官化したり御用商人になったり、完全に民間ってわけでもないよな
僧侶神職が宗教専門になったのは、どの世界でも近世以降だし
400 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 12:28:09 ID:YqZTvPlO
つーか室町時代はある程度の規模の商工民や農民なら、有力な武家や公家の
被官になっているのが普通。
401 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 21:59:20 ID:TS1+CnIu
甲斐の金山って最盛期は信玄のころでしょうか?
勝頼の頃には産出量が減って依存していた武田の財政に打撃を与え、
大久保長安が運営してやや盛り返したというイメージなのですが。
402 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 23:01:32 ID:z+x5m6RS
金山か。
越後の金山も凄まじい経済力を上杉にもたらしたらしいな。
金山経営者同士のバトルだったわけよ。
毛利も石見の銀山経営者みたいなもんだし。
信長はちょっと違うな。
今で言えば、LBO(買収先の資産及びキャッシュフローを担保に負債を調達し、
買収後に買収した企業の資産の売却や事業の改善で
キャッシュフローを増加させることで負債を返済していくM&A手法)
を駆使するファンド経営者みたいなものかな?
403 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 23:48:58 ID:qtXQku1v
>402
甲斐や越後のような人口密度の低い田舎じゃなく、
もっと人口密度が高い土地だったから金山なんかなくても勢力を伸ばせた。
という気もしなくはない。
実際、甲斐と信濃を合わせても尾張一国ほどの人口しかないし、
農業生産力は甲斐と信濃の合計よりも尾張単独の方が上だもん。
隣接大名達と比べて国力で劣っている武田が、
その不利を覆して生き延びることができたのは金山のおかげ、ってレベルと思うんだよな。
今川も北条も上杉も、ことごとく、当時の武田より国力が勝っていたんだから。
404 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 23:53:35 ID:VBhJvOzg
>>402 なんだそのぺらっぺらに薄い俗説に頭の天辺まで浸かった意見はw
405 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 23:57:20 ID:VBhJvOzg
>>401 長安が管轄したのは石見銀山
小規模な金銀銅山は代官じゃなく金掘衆が運営して一定の上納金を徴収
406 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 00:03:06 ID:x1fPQfxY
>>403 長尾家の所領は北陸経略するまでそれほど大きくない
対北条戦で大きな力を発揮したのは当時も厳然と存在した関東管領の体系と権威
尾張一国じゃ駿遠三の足下にも及ばない物資と軍勢しか保持できない
407 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 00:14:17 ID:AsvsUhYk
いや、もう相当衰微してただろ、管領
幕府も、関東公方も弱体化してる中、関東管領だけ厳然と存在なぞとはありえん
ありゃ反北条でみんな立ち上がったんだよ、関東管領を大儀の拠所として
408 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 00:20:31 ID:w2s7USIq
>>407 ありゃあ、北条が相対的に大きくなりすぎて、その他の勢力が単独もしくは少数の連合では
対抗できないから、大連合を作るための旗印として関東管領を利用した側面はあるな
逆説的には、そういう旗印に使えるくらいは権威が残っていたとも言える
409 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 00:44:02 ID:x1fPQfxY
>>407 権威以外にも関東管領や古河公方が関東を統括するという体系はまだ維持されていた
所領安堵のお墨付きを発給したりしてるしね
軍事力があまり備わってないからアレだけど、実力が補完されれば御存知の通り
別に反北条で連合したわけじゃないよ、管領や公方を中心とする実体が残っていた為に起きた戦争
410 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 00:52:34 ID:w2s7USIq
>>409 越後の長尾上杉が介入する頃には、旧来の権威上の争い以上に、反北条(というより自己の
所領安堵+自立性の維持)が主目的に変化していたと思うんだが
公方や管領の権威がある程度以上残っていたことは確かだけどな
411 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 01:23:32 ID:x1fPQfxY
権威だけじゃなく管領や公方が武士社会の頂点にあるという意識も現実の実体も未だ残ってた
反北条は主目的じゃなく結果というかオマケ
412 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 01:28:05 ID:w2s7USIq
>>411 幽閉中の古河公方でも?
さすがにそれはちょっとアレじゃない?
413 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 01:34:51 ID:AsvsUhYk
>>409 実体は存在しないよ、軍事動員を関東公方らが独自の意思において出せない、出しても集まらないのが何よりの証左
仮にそれが存在したならば、越後に走る必要もないし、北条に圧迫されることもないさ
当時の儀礼上、また在地において彼らの権威は残存してはいたが、それが佐竹ら戦国領主にまで及んでいたわけじゃない
公方を擁している北条に対峙するならば、将軍に公方のけん制として作られた管領をもちだせば、北条に対して対等に立てる
それ以上の意味は無いさ
414 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 03:34:29 ID:x1fPQfxY
>>412 だから、わざわざ公方様を囲ってたでしょ北条も
>>413 天文年間に佐竹家は古河公方に安堵状を発給して貰ったり軍を送ったりしてる
権威だけでなく厳然として公方・管領を頂点とする秩序が存在していた
知識も無いのに漠然としたイメージで知ったかぶりするなよw
415 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 12:09:43 ID:MUurohp9
実態とはなにかをまず定義しないと
議論は噛み合わないと思う
416 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 14:04:47 ID:AsvsUhYk
>>414 天文ね
義氏が家督継ぐと、公方家の薄給文書が書状、厚礼化する
対して、彼を囲っている北条のそれは、印判状、薄礼化していく
つまり、それまで北条が分担していた名誉授与文書を、公方が代行?していくようになったそうな
北条の意のままに名誉だけを与える存在、傀儡といわずしてなんという
今見てたら、永禄の、まさに長尾の侵攻のときにも、発給してるね
越後の凶徒の乱入に対抗してくれって、義氏が、関東の武将に
結果、義氏敗走してるわけだ
権威だけでなく、秩序が厳然とあったならば、返り討ちにしてないとおかしいやね
417 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 14:23:21 ID:x1fPQfxY
>>416 つまり公方‐管領権力の一方が対消滅したあと、残った管領の号令によって
北条は数十年に打ち破ったはずの旧体制相手に
居城へ篭り何ヶ月も逼塞せざるを得なかった、それが現実
418 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 14:47:02 ID:SdxuoDrd
ID:x1fPQfxYはいい加減にしとけ。馬鹿すぎる
419 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 16:33:09 ID:zS7TNrfj
>>418 厨二病こじらせてる相手に何言っても無駄だろ
420 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 16:56:38 ID:6VUKKYZu
>406
でも武田と争いはじめた段階では既に小さな大名じゃないだろ、上杉(の苗字を引き継ぐ前、まだ長尾だが)は。
尾張は駿河と遠江を合わせた範囲よりは大きい。
三河が加わると逆転するけども。
桶狭間の戦いまでは今川が東国最大の戦国大名だったんだよな。
>407-414 あたり
関東の争いに関しては、長尾(あらため、上杉)と北条の争いになった時点で2大派閥に分かれての主導権争いに変貌した感じだな。
北条に飲み込まれて生き延びる派と反北条と。
数年か、それ以上に渡って一進一退で、上杉が勝つときも大敗するときも色々あったみたいだな。
武田は両者より弱小で、第三勢力として関わった程度ではあるが、ときにキャスティングボードを握ることができるほどの強さはあった。
>416
すでに公方権力が分裂して、北条方と反北条方に一人ずつ存在してる段階だろう。
「北条の傀儡」という形をとらないと、もう一人の公方との争いに負けてしまう。
一方で。
足利義氏を傀儡として擁立する状態が、関東管領の役割そのものとも言える。
二人の公方を擁立する二人の関東管領が関東(から東北の一部まで)の主導権を巡って争ったと。
421 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 18:36:05 ID:w2s7USIq
>>420 今川は確かに東国では強力な戦国大名なんだけど
永禄3年当時だと・・・どんなもんなんだろ
その当時の北条は、武蔵をほぼ手中にし、上野・下総にも進出していた時代だろ?
(その後、長尾上杉に押し返される訳だが)
既存の権威+勢力って考えると今川かもしれないけど、東国最大というと違和感が
(それ以前は山内上杉家の権威・勢力が大きかったしなぁ)
422 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 18:47:16 ID:eksH5Rxh
永禄三年時だと北条家、今川家、三好家、毛利家の4家が版図、家臣、実績の面において大国でしょうね
423 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 19:10:13 ID:SdxuoDrd
424 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 19:15:32 ID:01IMPptL
永禄3年で1560年とわかるあたりがみんなすごいね。
元号でだされるとさっぽり (`・ω・´)
今川って足利一門の御連枝だけど幕府の役職は守護しかないのね。
せっかくの経済スレなので経済面の比較をしたいと思います。
拠点の規模だけで大名家の優劣が決まるほど単純な話じゃないけど
駿河と小田原を比較すると駿河のほうが発展していたはず。
当時の東海と関東の主な交易港とか商人町はどのような町があったのでしょうか?
425 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 19:31:17 ID:w2s7USIq
>>424 関東だと有名なのは品川
後は伊東、国府津、鎌倉、金沢、内陸方だと関宿、古河、熊谷
楽市のあった、世田谷、白子なんかも栄えていたらしい
駿遠二州だと、江浦や江尻、内陸の富士大宮あたりかな
意外と関東の商業的流通ってのは馬鹿にならないんだよね
特に板東太郎(利根川)を使った内陸水運はかなり発達していたようだ
小田原も「西の山口、東の小田原」と称された城内町だからなぁ
426 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 19:37:28 ID:eksH5Rxh
さらに言えば北条領内では海外交易も確認されている
427 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 22:03:09 ID:01IMPptL
ありがとうございました。
交易都市は日本海側だけの独壇場ってわけでもなかったんですね
428 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 23:35:14 ID:6VUKKYZu
>424
応永の乱だったか、
大内と鎌倉公方を連携させようとした罪状で一旦は失脚したしなあ。
いちおう守護職だけは取り返せたけど、遠江など駿河以外の領地は失ったままだしな。
そういう状況から出発し、スタート直後には当主が若くして戦死するというトラブルもあったのに、
どうにか早期のうちに戦国大名になって、一時は日本有数の大大名にまでなったというのは、
かなりの成功譚ではあったと思うな。
429 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 05:45:08 ID:VZFXQJdz
>>418=419
反論出来なくなって個人攻撃&自演、バカの典型だなw
430 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 05:56:07 ID:VZFXQJdz
>>420 意味不明、自分の都合がいいよう恣意的な判断基準をいくつも当て嵌めて、他人が納得するはず無いよね
当時は越後一国すら完全に支配していないし、420基準だと越後は小国
意味不明、尾張は小さい、地図くらい見ろよ
意味不明、北信での争いで長尾は武田の領有を許し、駿河での争いで北条は武田の領有を許した
キチガイアンチの見苦しさはどこの板に行っても酷いわw
関東管領が一人しかいなかったのは、誰でも知ってる事実だと思うけどね
431 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 06:09:12 ID:VZFXQJdz
>>428 遠江は守護職を剥奪されただけで当然支配地のまま
大内家が守護でもないのに4カ国を支配してたようにね
氏輝の時代には既に三河経略の端緒に付いてるわけだから、遠い昔話だしな
432 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 08:40:38 ID:sYHddg7E
433 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 09:52:34 ID:azEpb9N9
>>417 流れが終わったからスルーしてたけど
権力がどうこうなんて誰も言ってないけど
独り相撲ならみえないところでやっとくれ
434 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 15:52:56 ID:LwZcrgKW
>430
生産量、国力の点で尾張や越後などは駿河+遠江より上だっただろうに。
面積の話じゃないって点ぐらいは読み取れないのか。面白いヤツだな。
>北信での争いで長尾は武田の領有を許し
>駿河での争いで北条は武田の領有を許した
国力に勝る側が戦争に勝つと決まったものではない。国力では劣っていても、戦争に勝てる要素はある。
それだけの話。
甲斐にしろ信濃にせよ、駿河や遠江と同レベルの、農業生産力が低い国。
まあ、相模国だってこれらと同等規模だし、伊豆にいたっては、ずっと小国ではあるが。
>関東管領が一人しかいなかったのは、誰でも知ってる事実
一人しかいないはずの鎌倉公方家が分裂したように関東管領だって実質的な分裂状態と言えなくはない。
そもそも、長尾(謙信)の関東管領就任だって、正式なものではなくて自称。
同様に自称しうるもう一人が後北条氏って事だろ。(それ以外のヤツが自称しても誰も認めないって程度の意味)
>431
守護式剥奪直後はそうだっただろうが、応仁の乱の頃には斯波がほぼ完全に掌握してただろ。
だからこそ今川義忠は遠江に攻め込んだわけだし、その帰途に反撃されて戦死した。
今川の勢力がほとんど駆逐されていた遠江の計略から出発して勢力拡大した氏親の手腕は大した物だと思う。
435 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 17:50:35 ID:Ik12MZd2
>>434 基準が謎過ぎて誰も付いて逝けない新説だな。
まず生産量が何の生産量なのかすら説明せず終い
>>434って越後の知識何も無さそうだしな、経済カスレなのに
国力に至っては土地と無関係の代物で、意味不明
国力以外にも戦争に勝てる要素はあると主張しつつ
その要素を他人には説明出来ないわけか。まあ勝因は国力だな
関東管領は分裂してないよ
新説を披露するならせめて根拠くらい挙げないと、根拠無しでもいいから。
上杉輝虎の管領職が自称?意味分からん、直で相続してるのに自称、凄いな
室町中期はまだ守護職が在地に滞在しないケースがほとんどなのは理解してる?
戦国時代が始まる頃には駿遠を支配し三河経略を窺ってたのが今川
436 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 19:16:40 ID:azEpb9N9
>>435 自称、長尾の管領職は
上の秩序どうこうの人に言わせれば、将軍、公方しか任命し得ない、それこそが秩序
義氏が任命するわけもなく、また将軍が任命したという書状その他も無い
よって、長尾が管領を名乗りだした段階では自称、僭称となる
上で秩序どうこうとわめいてた人じゃないけど(笑)、公方が選んで将軍が任命という形式、これが当時の管領就任の秩序
437 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 20:14:47 ID:jf14DJqb
ありゃ。憲政からもらっただけで継承できるものじゃないのね。
438 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 20:17:02 ID:rPhpGcQK
>>435 管領って慣習上は世襲が通例になっているけど、正式には幕府の(というか征夷大将軍の)
任命が必要って話だろ
幕府の役職は、自動的に世襲される訳じゃないんだから当たり前
それと、関東管領職は長尾上杉家のみならず、(古河公方から氏綱が任命されたとの根拠で)
後北条家が自称し、さらに安房の里見家も自称した形跡がある
>>434 尾張はともかく、越後はそこまで農業生産力(主に米)の高い地域じゃないよ
武蔵、上野、常陸、下総あたりは大国とされ、古代から中世では人口や生産力の高い地域であ
ったようだけどね
越後の農生産力が大幅に向上するのは江戸時代の新田開発以降
439 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 20:20:04 ID:xbJvbrWB
そういや関東管領職っていつ無くなったんだろうか
440 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 20:31:02 ID:e6K6IK2Q
>>439 実質はともかく形式的には室町幕府最後の将軍足利義昭が死亡して
室町幕府機構の源泉たる足利将軍が消滅した時点。
441 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 22:10:15 ID:2q4Q+oPM
>>438 「米どころ」なんて話も比較的最近のことだしね。越後の国力云々についていえば、
謙信が掌握していた青苧の流通などを考えたほうがよさそうだな。
謙信の度重なる出兵を支えていたのも、おそらくこれだろうし。
442 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 22:17:53 ID:jf14DJqb
春日山とか柏崎って人口が多かったような気がします。
443 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 22:24:30 ID:xbJvbrWB
春日山、府中、直江津で3万人とか小田原8千に比べれば大都市
つか日本でもトップクラスと
444 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 23:39:05 ID:jf14DJqb
西の山口、東の小田原と言われる割には小田原って人口少ないんですよね
445 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 14:47:39 ID:WNydfdUz
>>436 はい、また知ったかぶりw
関東管領は鎌倉公方を牽制するための官職
任命権は将軍のみで、公方は任命し得ないしした事例も当然ない
関東管領は上杉家の世襲、それが関東の秩序
446 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 15:07:24 ID:WNydfdUz
>>438 当時は三好長慶が奉行衆取り込んで幕府機能が分裂してるのに正式もクソもない
そもそも関東管領は代々世襲されて、上杉家のモノというのが
当時の関東の現実だったが故に、あれだけの軍勢が参集したわけだし
447 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 15:46:11 ID:urAt3Z9g
>>445 うーんとさ、大体あってるさ、見直してみたら
世襲の扱い以外はね
関東管領の任命権は、将軍に属し、公方がこれを任命した記録も俺は知らない
在るのかもしれないけど
つまり、長尾の管領職の名乗りは自称ではなかったと?
448 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 15:48:46 ID:urAt3Z9g
あぁ、追記追記、自称じゃないなら、当然将軍が名乗りの段階において認めていたという論拠提示してね
できないだろうけど
449 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 15:58:02 ID:mWjc9K8V
鎌倉公方が指名して将軍が任命。
>>447 上杉憲政が上杉家の家督と官職を儀式を講じて譲り
関東の諸将は越山した関東管領上杉輝虎の帷幕に馳せ参じた。
何か疑問点ある?
451 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 18:02:30 ID:urAt3Z9g
>>450 質問の答えになってない、としか言えない
疑問点は、
>>448になぜ答えられないのか、ぐらいかな
改めて、
>つまり、長尾の管領職の名乗りは自称ではなかったと?
452 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 19:06:57 ID:nHMs0jZF
>>450 山内上杉家の家督を長尾景虎が相続したことに、誰も異論はないよ
しかし、官職・役職は自動的に相続されるものではない、と言っているに過ぎないわけだよ
まあ、それを言ってしまうと守護職についても同様なんだけどね
453 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 19:12:43 ID:Blx4pBOj
謙信の関東管領は将軍家公認でねの?
454 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 19:42:21 ID:L3XHLSWY
>452 が言うように、関東管領職を世襲することは自明ではない。
前任者の嫡男を差し置いて別人を任命した事例が幾度かあって、
それが元で戦乱が起きたことさえある。
ところで、堀越公方の執事(堀越関東管領とでもいうのだろうか?)は上杉じゃなく渋川が、当初は就任してたようなんだが、
渋川の失脚後は扇谷上杉が引き継いだんだっけ?
両上杉の抗争が本格化してからは後北条氏が扇谷側で参戦してるし、
扇谷が滅ぼされるまでの間に扇谷と後北条が明白に争ったわけではない。
後北条が参戦した頃には堀越公方はいなくなってるけどな。
堀越公方の消滅後ばらくは、両上杉と古河公方の三者鼎立で同盟したり離反したり。かな。
そうこうしてるうちに扇谷滅亡、もう少し立つと古河公方の分裂。って感じで推移するわけだ。
>453
勝手に名乗ってたのを、後から追認。だったはず。と思う。
>446
南北朝と一緒で、上杉家の権威が高かったからではなくて
「敵の敵は味方」的な事情が大きいんじゃないのかな。
謙信が最初に小田原を攻めたときには、後北条と争う盟主という位置づけ以外の理由は考えられない。
関東管領職は、まだ、ただの自称に過ぎない状態だし。
455 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 19:52:07 ID:9D7FcpCK
あ
456 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 19:52:57 ID:WvxA7df4
渋川といえば九州探題のほうの渋川っていつのまに滅んだの?
たしか了俊の後で少弐と戦っていたかとおもったらいつの間にか少弐と大内の戦いになっているし・・
457 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 21:16:57 ID:jCxiZd8T
謙信はめちゃくちゃ金持ちだったからな
財力が全国トップクラスだった
だからあんな無茶な戦い方できたわけで
458 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 22:21:28 ID:X99GUtrF
>>456 渋川は九州から引き上げて関東の方に回された。
459 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 22:49:55 ID:y04M34PV
>>454 >>450や
>>453が書いたように、関東管領職を上杉家が世襲することは
当時においては自明で将軍も公認しているし、関東の諸家も新管領に異論無く従ってる
関東管領職は公儀において広く認められたものであり
それが故に北条家や傀儡公方ではどうにもならない軍勢の結集と指令への承服が得られた
460 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 22:56:12 ID:y04M34PV
>>457 金山の経営は天正年間以後だけど、青芋の収入が10万石単位であったしね
林業や漆なんかもそうだけど山林地が産む利益は今からは想像出来ないくらい大きい
461 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 23:29:20 ID:L3XHLSWY
>459
上杉氏と言っても、
山内上杉単独じゃなくて扇谷上杉と交代(山内の方が大幅に多いけど)だっただろ。
で、山内と扇谷が争って破れた扇谷の残党を北条が吸収してるわけで。
462 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 23:35:49 ID:nHMs0jZF
>>459 自明ではない、ってのは何度も出ているとおり
ただ、山内家自体の権威ってのもあって、それが関東管領を「自称」することへの正当性を
与えていたことは確かだよ
現代でも世襲ってのはある程度の説得力が残っているし、当時はもっとずっと大きかったろう
ただ、傀儡であっても公方の方は自称じゃ無いんで、本来であれば公方の方が格付け的には
上だった
また、関東管領の権威が「異論無く従う」というものであれば、そもそも山内憲政は本領である
上野からも逃亡せざるを得ない状況に陥るわけはない
やはりここは、長尾家という実力のある家に山内家という権威が組み合わさったことによる相乗
効果と言うべきものであったろうね
個人的には、長尾景虎というのは、そう言った既存の権威を利用した政治・外交作用については
かなり鋭敏なセンスの持ち主だったと思ってる
463 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 23:39:16 ID:nHMs0jZF
>>461 いや関東管領家としては、もっぱら山内家だよ
ただ、勢力としては扇谷の方が大きかった時期があるだけ
(堀越公方の執事(関東管領)は渋川家だったし)
464 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 23:42:01 ID:urAt3Z9g
>>459 相伝守護職ですら、補任状が出されてる
それより重要な管領職においてをや
また公方が異論唱えたら、実際の権力は低下する
そのことについて、後に幕府側が折れるほどに、公方の権威はこと関東において絶大だった
465 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 23:44:52 ID:urAt3Z9g
追記追記
実際に関東武将(といっても、反北条だけというのが不思議だが)が従ったかどうかは関係ない
それ以前に管領の権威というものが低下しているのだから
つまり、越後守護代長尾の関東管領就任が正式だったか否かと、関東武将が従ったということには関係が無い
466 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 23:47:29 ID:nHMs0jZF
>>465 これが古代ローマなら、兵士達の歓呼によって正式に皇帝に選出されるんだけどねw
残念ながら、日本にはそう言う文化はなかった
467 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 01:19:08 ID:5T66F3Sf
>466
そりゃ、皇帝を選挙で選ぶことと関係する風習じゃん。
日本では投票で選ぶような類の文化がなかったからねえ...
468 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 02:22:05 ID:W8jMBJ/G
>>467 アホか。入札や多数決は中世を通して行われておる。
469 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 14:07:54 ID:n/ajVO2u
そろそろスレタイに回帰するか。
470 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 14:54:44 ID:GF8+JgQB
>>461 扇谷の残党を北条が吸収?
意味が分からない、本家筋も傍流も途絶えるか謙信が庇護するかしてるよ
471 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 15:08:25 ID:iORlLvsA
>>456 渋川尹繁が少弐政資・大友政親に圧迫されると大内義興に頼る。
少弐政資を討ってもらったり、山口にいた足利義尹から九州探題に任命してもらっている。
子の義長に九州探題職を譲る。しかし1534年に少弐と結託して大内を裏切るが
すぐに大内に攻められ親子ともども自害している。
守護職や官位の獲得には必死だった大内が空位になった九州探題を
金で買おうとしなかったのは不思議だな。
472 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 15:15:20 ID:iORlLvsA
九州探題といえば奥州探題と共に地方統括の正式な役職で
ホモ仲間の蘆名さんの会津探題の自称探題とは重みが違う。
太宰大弐の猟官運動にあれだけ必死だったのに九州探題に手付かずなのは不自然だな。
473 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 16:15:51 ID:GF8+JgQB
>>462 いみふ、鎌倉公方は役職じゃなく足利の家柄と血筋と権威が産み出した茫とした代物
まあ、実力を伴わない旧体制や古くからの秩序や権威が空虚なのはその通りだろうけど
474 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 17:12:32 ID:ikXeEeGa
謙信って京に上って関東での活動の許可を将軍に取ってなかったっけ?
憲政を奉じてって話だったような気はするが
ちょくちょく京に上ってる時に、その辺りはクリアしてるんじゃないのか
475 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 20:26:25 ID:4nYaVC78
将軍から「五郎進退の義」の許可がでてる。
将軍の名代に近衛前久が関東に下っている。
これで将軍の許可がないなどと言えるのが不思議。
政虎を名乗ったあと上杉輝虎はの改名も許されている。
476 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 23:33:54 ID:bihK/+9E
>>473 足利家執事が前身である以上、公方の上位たりえない
>>475 五郎進退の儀についての許可は見当たらないなあ
上杉の進退について、長尾が意見することを認めてはいるけど
進退について許可を与えるのと、これに意見するのを認める、では大きく意味が異なるよ
ついでに、当の長尾さん自身が許可得てないと言ってるみたいだわ
ついでに前関白もそれっぽいことを言ってるみたい
477 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 12:33:12 ID:dZGqK/o5
内容がスレタイと違う様な・・・。
478 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 12:49:39 ID:WKbjDmIG
官位や役職については、都のえらい人に金配った結果だから
自称であるかそうでないかは、大きくその大名の懐具合に直結してると思うよ
479 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 18:04:29 ID:+6o37DB2
ここは話題を変えるために以前暮らしていた桑名の魅力について語らせていただきます。
桑名は畿内と東海との中間に位置し中継地となっていました。
また、伊勢の玄関ということもあり、美濃から伊勢神宮へ向かう年貢を木曽三川を通じて輸送し、
桑名で海運に積み直して大湊へ輸送していたこともあり、交易都市として大湊とともに繁栄しました。
郷土資料では「十楽の津」などとも呼ばれたそうです。
1510年に工藤長野藤直が桑名を占拠した際は桑名の住人が逃走して水運が滞ったために
年貢の未着に窮した伊勢神宮等が桑名解放を要求して長野は撤兵したそうです。
長島スパーランドこと願証寺もあり長島の一向一揆として織田信長に冷や汗をかかせました。
その後は滝川一益や本多忠勝が領有し、本多忠勝により現在の町割りが整備され
東海道五十三次としても熱田宿に次ぐ宿の多さを誇りました。
一方、長良川が頻繁に氾濫するので輪中といった堤防を作っていました。
木曽川と合わせると江戸時代前半150年間に100回も氾濫したそうです。
wikiによると自分たちの輪中を水害から守るため隣の輪中堤防を破壊することもあったようです。
一会桑は薩長と仲が悪いと言われがちですが、薩摩藩が普請として木曽三川の治水工事を
50人の犠牲を払いながら自腹で行ってくれました。
桑名は妖刀村正の産地でもありましたが、薩摩藩士が幕末に持ち歩いていたのもなにかの縁かも知れません。
480 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 20:18:30 ID:2SijOYAW
姉小路なんかも飛騨の国司買ってるべ。鉱山が物を言ってる。人口も農業生産
力もないけど、経済力ならそれなりにあったんかな。
481 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 20:36:20 ID:+6o37DB2
姉小路ではなく内ケ島ですけど同じ飛騨なので横レスを。
少し前に飛騨の帰雲城あたりに埋蔵金があるとかいうネタをローカル番組でやってました。
前まで亜鉛や銀を産出していた神岡鉱山もあったようです。
冬になると雪に閉ざされる環境なので雪に影響されにくい(寒いと作業はつらいでしょうが)鉱業が伸びたのかもしれません。
482 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 22:34:18 ID:N8BdezyI
石高において麦や他の畑などは米の1/3程の価値なのだから
同じ石高10万石でも米中心の地域では米の生産量が10万石ほどであり
米が作れない地域の石高10万石は麦などの生産量が30万石ほどとなり
人口を支える生産量という点で考えると米が作れない地域はむしろ石高と比較して人口が多いということになると思うんだが
どうだろう?
483 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 22:47:51 ID:aiygQN7j
生産量が1/3だから価値も1/3
484 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 23:06:00 ID:79uGG8/Z
>482
だが、面積あたりの生産量とか労働力あたりの生産量といった面で米に劣るから
米価換算10万石≒麦30万石 で考えて、
耕作地の面積で10倍近くの差が発生するはずだ。
まあ、麦は米と違って商品作物じゃなかったようだから、
領主が勧農に力を入れない傾向はあっただろうが...
「表高」(おもてだか)ってのは、現実の生産能力とか人口ではなくて、
領主として経営したときの徴税・収入額の基準だから、
表高が同等でも産業の種類に応じて人口が違ったりはするだろうな。
農業ではなく商業や工業の場合は、表高としてはどういう換算をしたんだろう。
宅地や屋敷地が「上田」(じょうでん:もっとも収穫率が高い、最上の田地)と同等に扱われたことは確かだし、
手工業や商業がメインの村は農業メインの村よりも税率が高い(表高の8割とか9割の年貢がかかる)から、
表高1石あたりの人口としては、どうなんだったっけ?
485 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 23:52:29 ID:aiygQN7j
表高と人口は直接関係しない
486 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 00:23:19 ID:x1zao2W2
商業、工業は石高には換算されてないよ、林業や染料、高級食材なんかの特産物も
漁業は載ってる鉱業は載ったり載らなかったり
487 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 00:35:41 ID:45nVvrU/
京のある山城は人口は圧倒的なのに石高は低いなあ
488 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 01:25:23 ID:KNgmrZfi
>487
京都の、都それ自体と周辺地域は、山城国の一部ではあるが守護や国司の管轄ではない。
だから、都周辺地域を差し引いた残り、それ以外地域だけの石高や人口ってわけ。
都周辺は、官制としては「京職」、武家の薬務としては、鎌倉期には「六波羅探題」
室町期には「侍所」などが担当したはずだ。
>486
よく調べると、石高換算されてる事例も見つかってる。
たとえば。能登の輪島村は輪島塗など非農業産物への依存度が高いところで耕地は極めてわずかだが、
どこの城下町でもない、宿場町でもないということで、
行政上は「村」と分類されて、「石高」で登記されて、九公一民という年貢がかかっていた。
村民の大半は工芸が生業で耕地はほとんど持ってないから、身分的には「水呑百姓」とされた。
「町」というのは、商業や工業に従事していることそれ自体ではなく、
大名による領国統治上、一定の役割を果たしていることに基づいた特権的地位。
489 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 01:41:30 ID:x1zao2W2
山城の検地高は京都近隣の石高も込み。
特産物が村高に一括して載せられるようになったのは江戸時代中期以降。
490 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 02:54:17 ID:45nVvrU/
>>488 山城の石高の低さの理由がよくわかりました
作物の収穫だけでなく商業や諸工業の産出を調べて諸大名の国力をもっと把握したほうが
普請や参勤交代で藩の体力を削る計画を立てやすいとおもう
作物以外の収入状況も中央政権は把握できていたのかなあ
長州が力をつけて幕府に歯向かったのは専売等によって藩が蓄財しまくった結果と聞いたことがある
491 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 03:49:38 ID:x1zao2W2
>>490 おいおい、法螺話を真に受けるなよ
検地帳にも国絵図にも京近郊の村の石高はちゃんと記録されてる。
そもそも鎌倉室町期に全国を網羅した石高記録は作られてない
>>488の話は真っ赤なウソ。
492 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 05:26:41 ID:4sFx+Mak
>>488の話はおもしろいんだけど、細かいところが甘いのかも……
例えば戦国時代の輪島の主要産物は素麺(畠山家の起業)だったりする
素麺から輪島塗に以降するのは江戸時代、18世紀くらいからなんだよね
493 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 12:29:30 ID:FErn6pmF
みんなよく調べているなぁ。
そいや、占領した田畑なんかは、荒れ具合にもよるのだろうけど、大体
どのくらいで元に戻ったんだろう。
2〜3年はかかるのかな?
494 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 16:14:27 ID:p4voesNy
田畑そのものだけなら、農閑期に破壊された田畑も翌年使えるんじゃね
種籾や費用の貯えはあれだろうけど
495 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 16:27:10 ID:pROuUjPz
>>493 破壊のされ方にもよるだろうが……
日本だと農業設備の致命的な破壊までは行われなかったようだよ
ただ、農民が逃散するので、それを呼び戻したり、他の地域から移動させたり、なんてことは
日常的だったらしい
海外だと、カナートの破壊による農業生産設備に対する致命的な損害って例が結構ある
イベリア半島やらイランやらに
これらの地域は、破壊されてから近代に至るまで不毛の地になったこともある
496 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 18:01:17 ID:45nVvrU/
>>491 >>492 あいやー 一杯食わされたっす
ハンニバルでローマを脅かせたカルタゴは作物が育たないようにローマによって塩を蒔かれたと聞いた
復興すら許さないっていうのはすごい怒りっぷりだな
497 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 18:12:47 ID:KNgmrZfi
>495
用水路などの重要な農業用設備を破壊した事例は極めてわずかしか知られていないはずだが、
武田勝頼による遠州侵攻時だったか、用水路などを破壊したとの記録がある模様
通常の戦争被害としては、「青田刈り」「田畑なぎ」などの略奪か、
放火ぐらいがせいぜいで、耕地そのものへの直接被害は単年度で終わるものが普通
ただ、経済的打撃を受けた農民が死んだり逃げたりした場合には影響が翌年以後に繰り越されたり。
ってか、飢饉が連発した戦国時代に略奪を受けたら餓死と隣り合わせだから...
耕作放棄で荒れた場合には、アレ方によっては〜3年程度じゃ足りないほど整備に時間がかかることもあるのでは。
まあ、現代の減反政策による休耕地も同様だが。
>492
細かくないトコも甘いかも
いろんな時代の話が混在してて区別できないし。
>491
鎌倉期だと、荘園単位で上位の領主(または国司?)の命令で太田部実が作られたぐらいだろうが、
全国規模で統一的に作られたりはしてないな。
全国一律の基準でとかいうものとはまったく無縁なシロモノ。
全国一律の基準での検地は秀吉のときのものが日本史上初だろう。
律令時代のものは、収穫を把握するというものとはかなり違うように思えるから、とりあえず除外するとして、だ。
荘園製の元では、「特産品」という形での把握ではなく、「主要な作物類」として把握されているだけだった模様だが、
塩やら柿渋やら養蚕などに関しては田地・畑地と同様に把握されてはいた模様。
桑の木が何本とか柿の木が何本とか、そういう本数で記録されていた。
栗の木の場合は、栗林の面積で記載されていて、樹木の本数の記録ではない。
戦国時代後半の検地の場合は、領地替えの際の不公平を最小限に留める必要があるから、
石高にせよ貫高にせよ、領主が徴収できる収入の基準という形での把握であって、
収穫物の明細を問うてはいなかったと思う。
とはいえ、飢饉連発の戦国時代には、食用にならない商品作物とか、食用にはなるが収穫率が低いものとか、
そういうものはあまり多く栽培されてはいなかっただろうから、特産品の把握はあまり必要がなかっただろうという気はする。
山城の検地高は、488の話に書かれていない時代の話だな。
明らかに戦国時代より古い時代の話しか書いてない。戦国時代には守護大名はいないしな。
(にも関わらず、「それ以外地域だけの石高や」とか書いてるが。そりゃ違うだろ!)
498 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 18:17:13 ID:p4voesNy
陥落させたあと、全軍動員して完全に通行を遮断し
7日間に渡り昼夜交代で女子供も含め人の気配が無くなるまで徹底的に捜索して
徹底的に虐殺したんだから、塩撒かなくても復興するわけ無いのにな
499 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 18:43:41 ID:pROuUjPz
>>496>>498 ところが、そのカルタゴは他ならぬローマの手によって復興し、アフリカ属州(チュニジア)の首都として
また、北アフリカのローマの支配拠点として発展することになる
(カルタゴが支配拠点でなくなるのは、イスラム進出以降)
500 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 18:55:36 ID:bl1vczjz
>>499 ただ、入植者は完全にローマ人だからなぁ。カルタゴ人は第三次ポエニ戦争で
消滅してしまったと思っていいんじゃないかと。
501 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 19:04:53 ID:pROuUjPz
>>500 このネタは主に土地に視点を当てた話だと思ったからさ
それと、カルタゴ人は多数あった植民地(特に東イベリアと北アフリカの一部)には結構残っていた
から、消滅ってのは違和感があるね
滅びたときにはローマの支配地だったけど、ローマがカルタゴ市街以外でカルタゴ人狩りをしたって
記録は無かったはず
ローマ人や現地の人々と同化して消えていってしまったけど(この次点で消滅……なのかな)
502 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 19:29:21 ID:bl1vczjz
第三次ポエニ戦争でのカルタゴの旧植民市の連中は、もはやカルタゴ人とは
言えないぐらいになってしまったような。フェニキアがアレクサンダーに
征服されたとき、もはやカルタゴがフェニキア人とは言えない存在に
なっていたように。
503 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 21:07:00 ID:45nVvrU/
みなさんの守備範囲の広さに脱帽です!
国破れて山河ありとはいったもので、都市は破壊されてもまた復興できるものなのですね。
原爆で壊滅した広島も中国地方で最も発展しています。チュニジアという国はよく知らなかったのですが
チュニス出身のイブン・ハルドゥーンの名前は聞いたことがあります。
イブン=バトゥータとイブン=ハルドゥーンとイブン=シーナの違いは覚えてませんが。
504 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 21:14:01 ID:x1zao2W2
>>501 カルタゴノヴァ周辺の村落や都市でも、カルタゴ人を誰一人生き延びさせないよう
徹底的に虐殺・破壊する命令を出して、カルタゴが陥落する前に絶滅・大破壊させられてる。
飛び地のカルタゴ領はそこまで徹底した虐殺はされてないけど
505 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 21:56:52 ID:4sFx+Mak
>>493 それって、農地が田か畑かで話が違ってくるよ
田は”同じ場所で毎年同じ作物(米)を作る”ために作られた農地で、
例えば水漏れしないように粘土が敷き詰められていたり灌漑が工夫されていたり
今でも数年耕作放棄されると復活までに時間と手間ひまがかかる
灌漑施設などの破壊は数年の減収だけでなくそれなりの出資をともなったと思われ
畑の場合、近年まで”焼畑”が基本で灌漑も尾根から、荒らされても次の収穫には影響なかった
注意点は、畑でも陸稲という米作が基本行われていたこと(昭和の初めまで日本の山村がそうだった)
もちろん雑穀も作られてたんだけどね(米だけだと連作障害出るから)
まぁ当時の戦での場合は、基本”その年(季節)の収穫が無くなる”という認識で良いと思うけど
506 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 18:19:56 ID:t4wv+zUO
戦国大名における「礼銭」収入はどんなもんだったんだろうね。年によって大きく
変動したんだろうけど。相当大きかったと言っている史家もいるし、どんなもんだろう。
507 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 21:43:33 ID:GLQbQbez
相当小さかったと思うな
相当大きな額を貰っても相当大きな返礼をしただろうから
508 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 11:54:13 ID:t8PcFPbt
全部収入に含めるか、差し引いて使える額を数えるか
どっちが妥当なんだろうか
509 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 21:07:50 ID:GUD2Ua4E
>>507 いや、その場合の御礼は地位だったり訴訟での有利な対応だったりと見えない形で行われることが多かったのでは?
510 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 21:33:27 ID:t8PcFPbt
礼物を持参しそれに近い額の供応を受けるのって、前近代日本で広く見られる風習じゃね
いまでも正月とか結婚式とか残ってるけど
511 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 00:33:37 ID:3x97GQ96
なんか、急に静かになったな。
大規模な規制でも入ったのかい?
512 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 02:17:28 ID:ICnOeuni
いつもネタが無いときは静かなスレだろ?
バカ連中が妄想と思いつきで煽り合ってるバカスレと違って
513 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 08:56:58 ID:6d25kSIn
技術や知識や経典の輸入のために行われた遣隋使・遣唐使が廃止された一方で
鴻臚館貿易(鴻臚館というのは平和台球場が壊された原因でしたっけ?)に移行し
平清盛の父忠盛により日宋貿易が盛んになり清盛が博多を整備して益々大陸との交易が増す。
鎌倉幕府においても御分唐船や寺社の建長寺船・天龍寺船、民間の私貿易で交流があり、
日元貿易も行われていたようですね。しかし元寇失敗で元側が貿易を圧迫したことが倭寇の成立となったそうです。
日明貿易は倭寇取締の見返りとして行われましたが、室町幕府の代理人である大内義隆が横死したのを理由に
足利も朝廷も健在なのに貿易は停止されてしまいます。
流れを見る限り元の一時期を除けば私貿易まで停止された事例はないように見えます。
中国側の損失の大きい朝貢貿易ならともかく、どちらも民間人に利益のある私貿易を
なぜ明王朝は停止させてしまったのでしょうか?
514 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 09:44:09 ID:RReOphV0
倭寇の被害>>>>>>貿易の利益
という判断
515 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 10:12:16 ID:4dT18IjM
私貿易の利益って中国政府には税とれないからメリット無いんじゃ?
つか当時の中国も日本もお上が決めた政策を実施する段階の人が恣意的に施行するから
禁令出ても私貿易拠点の町はいつもあったりする
いまでもそーだから”大”中国ってすごいよねぇ
516 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 13:54:58 ID:0pLmzusv
結局私貿易が密貿易化したことで
倭寇が潤ってしまいかえって活発化しちゃったんだよね
後期倭寇の拠点は明が60年代に制圧されているけど
日本側と背後の商人は長い間野放しでしたっけ?
517 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 15:22:47 ID:4dT18IjM
戚継光とか60年代に討伐されたけど、平行して1567年月港開港など海禁を緩和して私貿易が犯罪じゃなくなって
討伐対象(倭寇)に認定されるものが無くなっただけのような……
もともとこのころの日本の輸出品は銀胴硫黄など中国国内で不足気味なものばかりだから
中国側としても禁止しきれない事情(黙認)があったんですよね
でもおかげで周辺諸国の陶器産業が育ったように日本にとって海禁はメリットの部分もあったんですよ
518 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 15:38:05 ID:j0O0DZjG
>>515 当時の日本と違い、中国では昔から私貿易に税金掛かってるよ
色々と規定がある
519 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 17:05:44 ID:3x97GQ96
>518
「日本と違い」とはいうが、日本でも税金はかかってたんではないの?
国税じゃなかったけどさ。
520 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 19:52:54 ID:ak5MNJhH
海外貿易は堺の様な町が発展したり、キリスト教に転向する武将や大名が
続出する位なんだから儲かったんだろうね。
521 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 20:16:44 ID:ICnOeuni
博多や和歌山、厳島、肥中、温泉津、米子、坊津なんかも繁栄してたしね
522 :
人間七七四年:2011/01/01(土) 13:06:09 ID:pfxOm8Iv
>>520 船がくれば、でかいけど、めったに来ないというものだったらしい。
523 :
人間七七四年:2011/01/01(土) 14:11:59 ID:UcdkvR94
貿易できてたら船転覆で家も連鎖沈没とかあったかもしれん
524 :
人間七七四年:2011/01/01(土) 15:39:38 ID:K20hL63f
貿易で栄えた町であっても、入港する舟の大多数は国内(日本列島内)の貿易だけに従事してたんだよな。
99%以上の舟が国内舟運。
525 :
人間七七四年:2011/01/01(土) 15:49:55 ID:K20hL63f
スマン、さすがに博多とか半島との出入りが多そうな港だと、99%なんてことはないか。
526 :
人間七七四年:2011/01/01(土) 21:46:45 ID:WZQPoJR2
船が沈むリスクってどのくらいだったのだろう?
鑑真のころよりは低いだろうけど
527 :
人間七七四年:2011/01/03(月) 15:20:39 ID:ZGrpT/5D
中国沿海部〜博多なら滅多に沈まなかったんじゃね
南海貿易とかなると別だろうけど
>>524 戦国期の博多の中国人街って15,000とか20,000とか言われてなかったっけ?
528 :
人間七七四年:2011/01/03(月) 15:54:43 ID:fPW7LOL0
元寇の頃の技術だと台風に近い時期しか渡航できなかったとか
529 :
人間七七四年:2011/01/03(月) 16:32:00 ID:/c2wDq3V
>>527 地図見ろ
中国沿岸沖は遠浅の座礁しやすい地域だぞ
530 :
人間七七四年:2011/01/04(火) 14:44:20 ID:CIc0BDLN
>>529 だから喫水の浅いジャンクが発達したんだろ
宋元代は既に特に危険な航海じゃないよ
531 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 23:44:25 ID:zMwFLQoW
織田・豊臣・徳川各政権は中国と貿易再開できなかったのでしょうか?
朝貢で莫大な利益があるのなら再開にこぎつけるべきではないでようか?
532 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 01:16:10 ID:LY8H1nVI
信長以外は交易してたけど
533 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 13:40:10.41 ID:CYl4+V7C
織田信長には南蛮貿易の先見性があったかのように言われていますが
実際問題、日明貿易が途絶すると倭寇を利用した密貿易に走るか
琉球か南蛮商人からボッタクリ価格で交易するかしか選択肢がないとおもいます。
その中から南蛮貿易を選んだことがそれほどすごいことだったのでしょうか?
534 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 16:36:06.15 ID:JHJ0fkey
南蛮人は九州までしかきてなかった、堺の商人は九州→近畿の国内交易で海外品を持ち込んでた
で、信長が押さえた貿易港は堺、
つまるところ信長は海外交易品がどこからきたか、中国韓国南蛮区別して(でき)なかったはず
つか日明間でも禁令してても私貿易は盛んだったんだし、交易途絶なんて状況になったことはないよ
535 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 20:54:02.16 ID:L0Z+s8L3
っすな、南蛮人もメインは中国との貿易で
日本の産物を扱うなら博多があるし、鉄や銀も瀬戸内海岸や日本海側だし
536 :
人間七七四年:2011/03/03(木) 16:28:52.88 ID:DY8IXE0T
銅でできている現在の十円玉は40年程度の経過でかなりボロボロになってしまいます。
中国の宋銭って何百年も通貨が通用していたそうですね。
銅銭が長年にわたって流通できたということは
当時の良銭の基準もかなり低かったのでしょうか?
537 :
人間七七四年:2011/03/03(木) 18:01:15.19 ID:uo2bDVWD
銭の価値は製造年代などいろいろな要素で評価が決まっていた
(ただこれは公定レートというより市場でのそれの話だけど)
まぁ良銭は”貯蓄”され必然保存、市場には悪銭(私鋳銭含む)がでまわった
現在でもときどき瓶に入った銭が見つかるのはそのため
高額の銭というのは銭貫、紐に千枚通して一貫(3.75kg)として使われており、
途中の銭をごまかす(模倣銭とか無字銭とか摩耗した劣化銭)ことは普通だったよう
たぶん日本で一貫が重量単位となっているのは、個々の銭の価値より銭貫を重さで判断してたんだと思う
538 :
人間七七四年:2011/03/03(木) 18:43:57.97 ID:DY8IXE0T
>>537 ありがとうございます。
古い通貨が残っていたのは悪銭ばかりみんなが押し付けあって、
必然的に良い貨幣は手放されず保存されていたわけですね。
古くても通用したというより、古いほうが作りが良いので貯めこまれたというのが驚きです。
プレミア狙いで500円札を貯めこんだりするのとはワケが違いますね。
539 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 08:02:41.83 ID:oZgG6cK7
武田の旗印「風林火山」って、
「侵掠すること火のごとく」って、
侵入して掠める(掠奪する)ってことだよな。
略奪の様が野火のごとし、山火事に焼かれるに等しいっていうんだから、
その略奪は、さぞかし激しかったんだよな?
他の大名たちも大差なく激しい略奪を行ったんだっけ?
540 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 13:16:56.48 ID:3kv/ZDqP
むしろ「お楽しみタイム」が無かったら兵たち誰も行かないんじゃね?
541 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 21:44:30.21 ID:K8pzQYCh
だよね、っていう
武士はそもそも略奪を生業にした略奪のプロなんだから
542 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 21:47:35.84 ID:r4VRhw2L
>>541 武士は違うだろ
国人とその郎党クラスでも、まあ、領主階級な訳で
むしろ足軽だ、それは
543 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 22:51:20.98 ID:cIaO1y/2
>541, >542
うーん。
戦国時代より以前の武士が略奪をしなかったわけじゃないけど
(つか、略奪するときはそれなりに徹底してたみたいだし)
略奪を生業にしてるのは戦国期ごろの足軽ぐらいだろうな。
ヨーロッパの戦史だか経済史だかで、
「農民兵が普及するのは収穫率が低くなる寒冷期だけで、
収穫率が高い時期には専業兵が主流になる」という研究があるとかで、
室町時代中期から戦国時代終盤頃までの寒冷期、飢饉多発期には同様に農兵が増えたんだろ。
それ以前とか江戸時代のような収穫率が高い時期には兵農分離が進む。それだけ。
兵農分離が先進的ってわけじゃない。
で、なぜ農民兵が増えるかというと、飢饉の中で生き延びるために略奪せざるを得ないから。
自分と家族が生き延びるために必至で略奪をする。
だからこそ略奪のプロ。
544 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 22:55:38.14 ID:r4VRhw2L
>>543 そりゃ欧州でも組織的に略奪を行う際には、領主階級である騎士やその上の封建領主が
略奪するけれど、それが生業って訳でもないからね
略奪は軍事的行動の一貫だった
それは日本でも変わらん、って話だろう
545 :
人間七七四年:2011/06/05(日) 01:14:25.20 ID:iC5d6ilp
軍事行動とみるなら略奪っていうよりは”現地調達”の意味合いが大きいような
大坂の陣で、東軍の安藤正次の死体が褌まで剥がされた全裸で運ばれてた、って話があり
これは戦闘に無関係な野武士が戦場にいて勝敗無関係に戦死者から剥ぎとっていたわけで
「戦争当事者じゃないものの略奪」も日本の場合かなりあったように思われるし
一概に「略奪」目的で、というのも大雑把すぎる気がする
546 :
人間七七四年:2011/06/05(日) 22:51:28.36 ID:2/2f+2Sp
欧州の騎士は盗賊、野盗を生業にしてたけど
武士が同じかというと、それはちょっと違う気がする
547 :
人間七七四年:2011/06/05(日) 23:02:52.44 ID:zT0UF2o9
武士は基本的には土地に付いてるわけだけど、
土地ってのは耕作権とか徴税権だけじゃなくて通行権ってのもあるんだよ。
通行権(=関銭徴収)を侵害した不法通行者に対して、
みせしめとして襲撃し、略奪または殺害を行うことは日常的。
稀には、相手が強くて蹴散らされたりする。
そういう行動のことを、他者が海賊とか山賊などと呼ぶことはあった。
蜂須賀氏が元は盗賊だったとかいう話だって、その一類型に過ぎない。
関所を設けて徴税なんて、室町幕府だってやってるぐらいだから、
同じことをしてる地方武士だけを盗賊呼ばわりしたら不公平だわな。
548 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 01:27:26.80 ID:QKx1LY3b
>>547 主権国家以前の権力について、それらの区別をするのは事実上不可能だろうね
549 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 01:13:09.53 ID:Oe8Up6Og
それは解ってるが、騎士はまた違って
森林山沢に潜み、遠出して追い剥ぎするのが生業だからね
550 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 01:17:23.90 ID:NZVJ0rw2
>>549 ・・・あれ?
中世の騎士って、封建領主だよ?
村一つとかだけど
イギリスのジェントリーや、ドイツのユンカーより立場は上
何かと勘違いしているんじゃないかな〜
潜んで住むとか騎士じゃないよ、そりゃ
傭兵と勘違いしてるんじゃないのかな
551 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 01:58:38.52 ID:9GH5TXeS
>中世の騎士って、封建領主だよ?
>村一つとかだけど
封建領主の騎士もいた、が正解。
土地を持たない騎士もいた。
彼らは諸国を廻って槍試合に出たり(勝てば相手から身代金をもらえる。負ければ身包みはがされて廃業)
森に潜んで山賊したり。
彼らは収入源である土地を持ってなかったんで、戦争がないとこんな感じになる。
フェーデの悪用で言いがかりをつけて決闘(という名の追いはぎ)をするのよ。
盗賊騎士で検索すると幸せになれる
552 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 06:22:44.31 ID:KOiEmCz3
ちょっとまて!
盗賊騎士が現れたのは15世紀末、つまるところ傭兵としての騎士の時代の話でしょ
まったくもって封建領主の騎士とかと重ならない(世俗騎士団は14世紀くらい)と思うんだけど
つか元々騎士は宗教騎士団しかなかったわけで、封建領主=騎士ってのも微妙な認識なんだけど……
553 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 06:42:18.40 ID:9GH5TXeS
盗賊(強盗)騎士は封建騎士と重なります。
余りに度が過ぎたんで、神聖ローマ帝国のルドルフは、
この手の盗賊騎士を100名以上を処刑して拠点である城を破壊してます。13世紀の事です。
つまり、封建騎士も強盗をやってたということです。
中世の頃は農業技術も稚拙で、大して税が入ってこず別の収入を必要としていた点が大きい。
フェーデ(決闘)の対象として、騎士ではなく農民や商人を相手にしたものも多く
フランスの古ローマ街道が廃れて修道院を通る新しいルートが誕生するなどもしています。
それだけ、騎士による襲撃が多かったという事です。
戦時は『騎行』といって召集した王公認の略奪行為が行われていてそれが重要な収入源だったりしたのですが、
戦争がないとこれがないわけで……自分勝手な理由でフェーデが行われたわけです。
554 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 06:49:02.62 ID:9GH5TXeS
ちなみに強盗目的のフェーデを禁止した最初のラント平和令は1103年、12世紀の事でした。
まぁ、散々無視されたんでぶちきれたルドルフが武力で始末をつけなきゃならなくなったり。
1495年に永久ラント平和令が発布され、一切のフェーデを禁止。
ようやく盗賊(強盗)騎士を押さえつける事に成功。15世紀の事ですね。
555 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 07:06:39.27 ID:9GH5TXeS
>つか元々騎士は宗教騎士団しかなかったわけで、封建領主=騎士ってのも微妙な認識なんだけど……
もともとの騎士は封建騎士です。
王が給金を払えないんで土地を騎士に与えたのが始まりです。
宗教騎士団は封建騎士とは別組織です。元々聖地防衛&聖地巡礼のための互助組織が始まり。
騎士団員は身分的には修道士で各国の君主とは完全に独立していました。
経営は諸侯から寄進された土地を財源に様々な商業事業を行っていました。
13世紀にイスラム教徒によって聖地を追い出されて衰退。
騎士のいる王国には騎士団はいない(封建騎士)
騎士団のある王国には騎士はいない(世俗騎士団)
騎士のいる騎士団は国王のものではない(宗教騎士団)
こんな感じ
556 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 07:49:26.36 ID:59h69dql
西洋のことはよく知らなかったけど
騎士といえば塩沢兼人や子安武人みたいな声で
鎧を着て馬に乗っている紳士みたいなイメージでした
557 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 08:12:58.81 ID:i3DemVhK
>>556 どっちかというと千葉繁や戸谷公次声で
ヒャッハーと叫びながら旅人や村々を襲うイメージのほうが強いな>騎士
558 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 09:23:09.83 ID:9GH5TXeS
>鎧を着て馬に乗っている紳士みたいなイメージでした
騎士道自身が教会が騎士達に「お前らいい加減にしろよ」って要求したものがベースだし。
それだけ酷かった。
俗世騎士団が設立されて、アーサー王伝説なんかの騎士ロマン文学がでてーの
戦場で騎士が役に立たなくなりーのしてから、貴族のたしなみとして普及したものだからねぇ……
559 :
人間七七四年:2011/06/07(火) 17:21:57.26 ID:l3IDUOf1
>>550>>552 村一つじゃ暮らしていけないから
森林山沢に潜み、遠出して追い剥ぎしてたのが騎士だよ
年貢は固定なのに生産量や物価は上がるからね
560 :
人間七七四年:2011/06/11(土) 03:25:18.93 ID:5Qx1wdgC
慶長17〜18年、木曽谷の御材木販売額
銀1788貫目、金大判131枚1両
元和2年、甲斐の金採掘量、100貫目
なかなかどうして、石高に反映されない収入も大きいのな
561 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 12:49:26.61 ID:sJjdeuON
562 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 12:51:13.23 ID:sJjdeuON
失礼しました。下にもまだ続きがあったんですね。
1682 幕府、寛永通宝以外の銅銭の使用を禁止とありました。
スレ汚し失礼しました。
563 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 00:13:08.64 ID:2K7FBPn5
>561
戦国期の貨幣交換レートと江戸時代のレートは微妙に違う。
戦国期、というか織豊政権期の公定レートである、
金10両=銭15貫文、銀10両=銭2貫文
良銭1文=びた銭4文=(欠け銭・割れ銭・打ち平目銭)10文
のうち、びた銭と同じレートで貨幣を発行したから、
戦国期以前の良銭に相当する貨幣はなくなった。
564 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 00:17:58.61 ID:7FJAMJBe
18世紀中頃になると、真鍮四文銭の寛永通宝が発行されるようになるけどね
565 :
人間七七四年:2011/08/07(日) 14:08:12.37 ID:WU9ww2Tl
まあ、寛永通宝発行以前に世間で主に流通していたのが鐚銭の方だしな
566 :
人間七七四年:2011/08/07(日) 18:12:22.40 ID:xxvO6mYH
>>534 意外とスルーされているが、日本と元の間の交易が途絶したのも元寇の前後数年のみ
もっとも元の役人の中には元寇の逆恨みで嫌がらせをやる者がおり、そうしたトラブルが倭寇の一因になったよね。
567 :
人間七七四年:2011/08/09(火) 16:20:18.57 ID:RXc9VgBg
大湊は商業都市のイメージで海運は安濃津がメインのイメージだけどwikiみて驚いた。
永禄8年(1565年)の冬には1ヶ月の集計で船の入港が119隻、
そこから納められた入港税が34貫870文
(当時の米価は一石あたり600文(60疋/0.6貫)前後とされている)であったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B9%8A_(%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B8%82)
安濃津ではなく大湊だけでも年換算で418貫もある。
入港税だけでも結構な収益があったんですね。港は金のなる木ですね。
568 :
人間七七四年:2011/08/12(金) 16:45:15.80 ID:duvB7bwP
どこにでも作れるってもんでないからな、
569 :
人間七七四年:2011/08/12(金) 22:55:52.18 ID:k2SYqjSa
交通の要衝とされる主要な港はどこであっても入港税の収入が大きいんじゃないか。
土佐大湊って、四国南部(太平洋側)では代表的な、主要な港湾ではあったはず。
まあ、瀬戸内海の水運と比べたら、太平洋沿岸の水運は小規模なわけで、
たとえば兵庫北関より大幅に少ないわけだが。
あちらはたしか、年間三千艘以上だしな。
570 :
人間七七四年:2011/08/17(水) 02:42:58.69 ID:hUmX/ReU
永楽銭って新しいはずなのに西日本では嫌われ鐚銭扱いにされ、東日本では新しいので基軸通貨にされました。
西日本では古銭の劣化(鐚銭化)リスクよりも従来から流通実績を重視していたっぽいですね。
永楽銭は大陸貿易の窓口である西日本に入ってきた後、
東西間の取引で西日本商人が東日本商人から物資を購入した際に
西日本商人が優先的に東日本の商人へ永楽銭を押し付け
東日本商人は喜んで受け取っていた状態が予想されます。
ところが東日本商人が西日本商人から物資を購入する場合は
永楽銭で買おうとしても西日本商人は嫌がります。
元々東日本では古銭の流通枚数が少なく、西日本商人は古銭を貯めこんでなかなか吐き出しません。
そういった背景を考慮すると東日本商人が購入する場合は鐚銭の不利なレートで取引を強いられていたのでしょうか?
571 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 03:06:12.94 ID:BfDUACjm
>>570 そういう問題は起きなかったと思われ
1)明銭より宋銭を好んだのは、そのまま当時の中国事情も同じなわけで
まぁ日本では大内弘興の出した撰銭令は文明17年(1485)とか出された
で、関東で後北条氏が精銭3枚相当と布告したのが永楽12年(1569)
この頃西国近畿では、銭→米銀経済と激しく変化しつつあったわけで
その100年ぐらいの差がある話を同じまな板の上で考える前提はいかがなものか?
2)東国の永楽銭は、茨城県で製作途中の枝銭が発掘されたので、当時の流通永楽銭国内生産説も出てるよ
572 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 07:55:18.28 ID:ZizFqE8z
悪貨が良貨を駆逐した典型的な例にみえる
573 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 20:26:02.18 ID:QTdHQqME
>>572 「悪貨は良貨を駆逐する」byグレシャムは、金本位制での話
その価値が貨幣自体の貴金属量に比例しない通貨である”銭”には
当てはめて意味があるのかどうか、かなり疑問かと
まぁ”銭”の信用はどの背景にあるのかとか当時の経済事情とか複雑怪奇
黒田明伸説(精銭と鐚銭は市場での役割が違う)もでてるので
一概にグレシャムの法則の一例と見るのは無理があると思う
574 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 14:58:21.01 ID:Hx4ugWOL
明らかに失敗作な私鋳銭でも(嫌々ながらとはいえ)最低限の貨幣として通用していたのは
銅の金属的な価値が裏付けになっていたのだろうか?
私鋳銭なので銅含有量とかわけわからんのにね。
575 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 18:02:02.97 ID:6mCFNhGt
銅含有量は当時でも体積と重量調べればわかるよ
つか中国でも、宋銭と明銭では明らかに明銭は格下あつかいだったよ
私鋳銭と言っても品質はピンキリ、完全なデッドコピーから小型化無文字化したものまで
制作場所も中国大陸やら東南アジア、日本国内でも各地で鋳型枝銭発見されてるから
「精銭」と呼ばれていたものが、どこまで”本物(官銭)”か、ちと判りかねる部分もあったり……
576 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 20:55:33.93 ID:BMSBgfr+
そもそも、明銭は宋銭よりも大きくて使いづらかったため、日本での評判は芳しくなかったと言われている。
577 :
人間七七四年:2011/09/14(水) 12:14:48.99 ID:6B35RWbI
米1石の価格は1200年から1600年の間、どの時代どの地域でも
凶作の高い時で1500文、豊作の安い時で500文で推移しており最大3倍も差がついたらしいです。
戦国時代のように知行制でそれぞれが自身の領土を所有していた場合は豊作になって収穫が増えたほうが有利ですが、
江戸時代になって俸禄制になった場合、豊作になって米の価値が下がると貨幣に換算した収入は減ってしまいます。
貨幣経済って面白いですね。
578 :
人間七七四年:2011/09/14(水) 14:20:10.60 ID:J0hhWADP
>577
夏に高く秋に安くなる季節性の推移だけでも2倍以上の変化があるし、
消費地である京都と生産地(農村部)との価格差も二倍を超えるのが常だろう。
そのあたりの差を考慮したら、最安値と最高値の差は10倍じゃ効かないよな。
飢饉の年に米価が平年の十倍を超えるってのは、中世でもよくある話だったし。
579 :
人間七七四年:2011/09/14(水) 15:20:30.05 ID:ve5eJfzP
「知行制から俸禄制経の移行」は、藩主の権力強化が目的で
あんま儲かる儲からないという側面はないと思うけど……
京都の米価の乱高下も”買い占め”による流通不足(一部商人の利益)の面が大きいんじゃないかな
足利義教なんかもそういう商人に臨時課税して、払わなかったら死刑家財没収にしてるし
一般(相場に関わる商人以外)には米価の変動は”迷惑”以外のナニモノでもなかった時代が明治まで続いたと思う
580 :
人間七七四年:2011/09/15(木) 13:04:17.17 ID:Rc6XC251
天道スレで通貨の話題になっていたからこのスレを思い出しました。
グレシャムの法則の前にはみんな苦労していますね。
北条氏康は貫高制を採用すると共に鐚銭を禁止して永楽銭だけ利用させたところ
通貨が不足して鐚銭や米納を認めることになりました。
織田信長は通貨不足を補うために金銀を秤量貨幣として高額決済できるようにして通貨不足を補った上で、
鐚銭の価値を定めて米による売買を禁止しました。ところが鐚銭鑑定が流通を阻害しました。
豊臣秀吉は鐚銭に関する取り決めは行わず石高制米納制により米と貨幣の共存を認めました。
徳川家康は永楽銭以外を鐚銭として定めたところ鐚銭ばかり流通したことを踏まえ、
領国貨幣を巻き取り銅貨を鋳造し金は鋳造貨幣、銀は秤量貨幣とした上で三貨制を確立しました。
581 :
人間七七四年:2011/09/15(木) 14:16:04.58 ID:XXKXFUQ+
>>580 グレシャムの法則って、元々イギリス女王が
「ちゃんとした質の金貨作ってるのに市場で通過不足(仏に流出)になるのはなんで?」
って質問に答えたものよね
もともと貴金属本位制の良質な品質(価値が高い)硬貨が市場から消える理由なわけで
銭のように、供給元がない、銭の価値を保証する正式な機関がない
しかも歴史的骨董的経緯が付加されてる貨幣に当てはめていいものなの?
銭(貨幣)の品質が保証された(幕府で正式な貨幣発行)した時点で解決されたわけだし
逆に、米で代替できた、てことは、ある意味それほど金融が発達していなかった時代、とも見れるわけで
つまり銭に関してグレシャムの法則の”理由”は無関係に思えるけど
582 :
人間七七四年:2011/09/15(木) 14:28:58.34 ID:Ujy1YhLM
日本銀行金融研究所貨幣博物館のコラムによると
流通銭貨の質的変容はグレシャムの法則が働いたという見方をしているな
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_16.htm 一方、Wikipediaグレシャムの法則の項には
>国家による鋳造減少と私鋳銭による鐚銭が横行して撰銭が行われた中世の東アジア地域に関しても
>この法則に当てはまるかどうかの議論が行われていたが、近年では精銭と鐚銭との間に使用目的に
>応じた役割分担が存在しており、両者は一定の相場のもとで共存していたとする説が有力とされ、
>この原則には当てはまらないとする考えが出されている[1]。
>^ 黒田明伸「東アジア貨幣史の中の中世後期日本」(鈴木公雄 編『貨幣の地域史』岩波書店、2007年所収)
とある。
583 :
人間七七四年:2011/09/19(月) 17:24:02.68 ID:PGzm/wOP
そもそも、西洋の理論と言うのは西洋の歴史とか宗教とかその他諸々を前提として成立しているのだから、
東洋でそのまま当てはまる訳じゃないんだよな。
マルクスあたりが言っていた「アジア的生産様式」だってヨーロッパ人のみたアジア観であって、アジア人がそれをまともに受け取る時点で痛すぎるわ。
584 :
人間七七四年:2011/09/19(月) 19:42:00.05 ID:NDsGvCdq
こんなスレがあったんだな。日本史では経済的なことを無視して
租庸調・地頭請とか地下請とか税制くらいしか教えてくれないからあんまりよく理解できてない。
戦国時代は地下請ですか?
585 :
人間七七四年:2011/09/19(月) 20:15:15.27 ID:bIKtrAGy
戦国時代は地下請から村請への移行期間
586 :
人間七七四年:2011/09/20(火) 00:03:28.81 ID:9dg8iwxM
>584
教科書では「租の税率は約三%」などとよく載ってるけど、
実は「3〜10%」だったらしいぞ
収穫率の高い良田なら三%で済むけど、収穫量の乏しい下田なら10%ぐらいに相当するんだと。
で、良田は権力のある郡司とかが押さえてしまうから、
一般人に班給される田は下田とかが多く、実質「税率10%」状態。
んで、租よりも負担が重い調や庸や雑徭があるから、総計すると負担率50%ぐらいになるんだろうかね?
587 :
人間七七四年:2011/09/20(火) 09:00:11.14 ID:wB7/x9eD
ありがとうございます
国司とともに陸路で京都まで自力で運ぶ必要もあったし
地方領主が横領してくれるのならそのほうが助かりますな。
588 :
人間七七四年:2011/09/20(火) 17:51:26.92 ID:9dg8iwxM
>587
>国司とともに陸路で京都まで自力で運ぶ必要もあったし
いや、「租」は基本的に、国ごとに設置された「正倉」に納められて、
いっぱいになったら封印されるだけ。
朝廷から命令が来て、どれどれの正倉(の米)を都へ運べ、
といわれるまでは国司の責任で保管された。
ということは、都までの運搬そのものは「租」としての負担ではなくて「雑徭」扱いになるのでは?
589 :
人間七七四年:2011/09/20(火) 21:28:48.77 ID:3N61Csj5
>>588 元々庸と調の一環として中央まで運ぶ運脚も含まれているのだから、租の運脚もそれに準じるのではなかろうか?
590 :
人間七七四年:2011/09/20(火) 22:49:57.14 ID:9dg8iwxM
租は諸国の正倉へ納めるまでが納税で、
正倉から出して都へ運ぶのは租の徴収過程とは全く別の行為だから、
租の運脚(都まで運ぶ)は調や庸の場合とは別と考えるべきではないかと。
調や庸は都へ運ぶことを前提とした税で、この点が租とは全く異なっているんだから。
591 :
人間七七四年:2011/09/21(水) 15:23:36.07 ID:zJ62T9Jt
漁師は楽だよなあ。口分田がないから納税義務ねえし。副業で適当に海賊もやれるし。
592 :
人間七七四年:2011/09/21(水) 15:40:09.06 ID:lv/IEjQd
>591
いやいや
漁師にも口分田を班給して租庸調の納税義務を課したんだぞ。
それも、時には居住地から数十キロも離れた場所とかに。
近くに余った田地がないからって遠隔地の口分田を割り当てるとか、
時の政府は何を考えてたのか分からんけどな。
593 :
人間七七四年:2011/09/21(水) 15:47:27.03 ID:u7jsgd9m
>591
漁(猟)をするのに税が掛かるんだよ
村で管理している山や野があればそれにも課税されるし。
いわゆる小物成ね
594 :
人間七七四年:2011/09/21(水) 21:36:24.38 ID:/jV/eUn3
租庸調って日本じゃいつごろまでやってたの?
595 :
人間七七四年:2011/09/21(水) 23:13:32.90 ID:3qkdTkEP
班田は醍醐天皇の時代を最後に廃絶している。
平安中期には官物と臨時雑物に単純化されているし、この頃くらいまでだろう。
596 :
人間七七四年:2011/09/22(木) 08:55:42.08 ID:7CvEOtDm
昔の朝廷ってのは圧政を敷いて多くの国民を苦しめて
公家と坊主の生活を支えていたんだよな。
社会の役に立たない公家って今の暴力団みたいだよな。
597 :
人間七七四年:2011/09/22(木) 09:53:36.73 ID:VD8g6600
貴族はどこもそうじゃね?
地主が力持ったもんだし
598 :
人間七七四年:2011/09/22(木) 12:17:21.44 ID:1l6BFOYp
王法両輪でうまくまわしていたよ
599 :
人間七七四年:2011/09/22(木) 13:36:50.28 ID:lRk50TRF
>>596 その”土地の所有権”を都で保証してたのが公家(とかお寺とか)
訴訟の時とか、むちゃくちゃ役に立ってるぞ
600 :
人間七七四年:2011/09/22(木) 16:47:19.65 ID:nznS9ZCP
>>596 むしろ今の官僚や国会議員に近い
というかそのまんま
601 :
人間七七四年:2011/09/22(木) 18:26:05.15 ID:M2xV/dZA
いつの歴史認識だよ
602 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 08:31:46.80 ID:OR/e84wR
603 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 13:12:05.33 ID:g1Qy50Zl
>602
だよなあ。
むしろ。
ヤクザ社会の風習が少なからず武士の世界から来てる
(元の武士はヤクザに似てる)という発想の方が現在的。
やくざ風な社会だった武士を、統治者として道徳的に教化(?)していくなかで、
そこからはみ出して武士の遺習を継承したのが原ヤクザ、そこから発展して現在のヤクザ。って感じかと
もちろん、裏社会適合の中で武士の遺習から離れた点は多いだろうけど。
604 :
人間七七四年:2011/09/25(日) 02:09:11.66 ID:KpYhmCMY
>>569 >瀬戸内海の水運と比べたら、太平洋沿岸の水運は小規模
たしかに関東には房総水軍や相模水軍、東海には熊野水軍や駿河水軍がいたとはいえ
西日本の水軍衆ほど勢威はありませんね。
ふとおもったのですが
西日本や日本海側と畿内の交易は活発だと聞きましたが
北条支配下の関東と畿内の交易はどのくらい活発だったのでしょうか?
水運は先述のように規模が小さいですし、
陸路は東海道が整備されていなかったということは
あまり東西交易がなかったのでしょうか?
605 :
人間七七四年:2011/09/25(日) 06:37:39.50 ID:ZjyZfsG3
伊勢大湊は東海道や東国からの物資を受け入れてたって話
1498年に津波で1000軒の家屋の損害、死者5000人を出した11年後に国人に100貫の献納をしていたりして大変栄えている
戦国期には織田、徳川、今川、北条ともつながりを持ってて堺、博多に並ぶ日本の代表的な商業港だったりする。
関東にも大きな港がいくつかあって1488年に台風で伊豆の商船に被害が出て数千石の米が海に沈んだ記録があったりする。
言われているほど関東、東国は船を利用していない訳ではなかったり
利根川水運も鎌倉期に登場しているし
606 :
人間七七四年:2011/09/25(日) 12:09:31.05 ID:ectf5h6E
遠州灘がな
伊勢湾←→駿河湾までの間を航行中の天候悪化や波高時のリスクが
瀬戸内などに比べるとかなり高め
適度な避難港がなくちょっと沖に出すぎれば太平洋海流もある
607 :
人間七七四年:2011/09/25(日) 19:11:18.75 ID:q3BB27c4
>604
南北朝期もしくは室町初期頃を境にして、
東日本と西日本の間の物資流通は大幅に縮小したとは言われている。
608 :
人間七七四年:2011/09/25(日) 19:39:08.55 ID:KpYhmCMY
皆さまありがとうございました。
瀬戸内海と外洋ではリスクが違ったのですね。
あえて水運と海運と言葉を区別して表すと
関東では水運は盛んでも海運はいまいちだった。
でも肥沃な関東からの物資は西日本にもたらされていたといった感じですね。
609 :
人間七七四年:2011/09/26(月) 02:08:43.72 ID:tgvQREMY
日本近海で一番危険な海域ってどこかな
鳴門?
610 :
人間七七四年:2011/09/26(月) 02:25:10.20 ID:EszYxn6N
何を危険とするかによる。漂流の可能性なら太平洋航路が一番やばいだろうね。
611 :
人間七七四年:2011/09/30(金) 02:21:46.30 ID:GvUSHkCS
612 :
人間七七四年:2011/09/30(金) 02:44:20.40 ID:uwsnzyi9
織田信長のやった経済政策でオリジナルなもの、あったっけ?
613 :
人間七七四年:2011/09/30(金) 04:19:13.68 ID:jUa+jXr/
>>611 序章 信長はいかにして軍資金を調達していたのか?/第1章 日本の経済システムは信長が作った!?/
第2章 長篠の戦いは“経済戦争”だった/第3章 延暦寺の焼き討ちは“大財閥”の解体だった/
第4章 安土城“テクノポリス”構想/第5章 信長の“理想国家”の行方
ひどい本だということは間違いないな。目次見ただけで妄想で書いているのがよくわかる。
信長の軍資金の出所は重税だよ。それ以上でもそれ以下でもない。
614 :
人間七七四年:2011/09/30(金) 04:54:22.72 ID:Bim7sWAD
これはひどいなw
615 :
人間七七四年:2011/09/30(金) 07:19:12.59 ID:WbXsJFvA
武田 知弘
著者紹介
1967年生まれ。福岡県出身。西南学院大学経済学部中退。塾講師、出版社勤務などを経て、
ライター活動を始める。著書に「ナチスの発明」「ワケありな国境」「戦前の日本」など。
616 :
人間七七四年:2011/09/30(金) 10:43:14.09 ID:ekVItLak
>>611 なんか歴史調査・研究の手順を丸ごとすっぽかして書いてるオーラが漂ってるよな
617 :
人間七七四年:2011/09/30(金) 10:55:45.90 ID:WbXsJFvA
経済面を語るなら豊臣秀吉を語るべきだろうな。
618 :
人間七七四年:2011/10/01(土) 01:51:23.82 ID:/65+LxYk
信長の場合経済政策自体はさほど目新しいものはないんだけどなあ。
堺や畿内の流通の掌握なんかも、三好氏がすでにやってることだったし、
もし信長の政策について論じたいのであれば、こういった他大名の
やってることと信長の比較なんかからはいるべきなんだろう。
それにしても信長=革新者、既存秩序の破壊者という結論ありきで
書かれる本のなんと多いことか・・・。
619 :
人間七七四年:2011/10/02(日) 03:17:06.79 ID:m1HugIsG
620 :
人間七七四年:2011/10/02(日) 10:37:09.45 ID:DqDhwyG5
bookoffで100円になったら買ってみるわ
621 :
人間七七四年:2011/10/02(日) 14:38:08.15 ID:EpA0mT4z
織田信長だったら朝鮮出兵は成功させていたと落合信彦氏指摘
信長配下の水軍は1576年の第1次木津川口の戦いで、毛利水軍の火矢による攻撃に屈し、惨敗を喫した。陸で
は破竹の勢いであった信長が、海上では逆に壊滅的な打撃を受けたのだ。しかし、一度失敗があったからといっ
て諦めるというような判断を、信長はしない。
この水域は、当時信長軍が攻略を目指していた石山本願寺への、敵方の補給路だった。ここで制海権を奪えな
ければ、全体の戦略に問題が生じることを信長は誰よりもよくわかっていた。
信長は、伊勢の大名・九鬼嘉隆に命じて、史上初めての鉄甲船を建造させる。毛利水軍の火矢も、鉄板で覆わ
れた船には効かない。こうして2年後の第2次木津川口の戦いでは、毛利水軍を撃破。大坂湾の制海権を信長は
奪取。本願寺の攻略にも成功することとなる。
信長の死から18年後の1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍が勝利し、その後の徳川幕府治世下では
「鎖国」が進められた。対照的に、同じ年にイギリスは東インド会社を設立。七つの海の制覇に向けて、大英帝国
が立ち上がったのだ。
もし17世紀を迎える時、日本のリーダーが信長だったら……。
信長が、中国大陸への進出を計画していたことは多くの史料に残されている。晩年の秀吉の朝鮮出兵はひどい
失敗に終わったが、信長であれば成功を収めていたかもしれない。
世界が帝国主義に傾いていく時代に、日本も肩を並べて足を踏み入れていったのかもしれない。少なくとも、海
外との接触に対し堅く扉を閉ざして、亀の甲羅に引きこもるような時代が270年も続くことはなかっただろう。
欧米では1600〜1700年代にかけて市民革命が相次いで起きた。日本でそれに近い明治維新(1868年)が起き
る100年以上も前のことである。欧州の100 年先を進んでいた信長が死に、逆に100年の後れを取った。
「内向き志向」と揶揄される今の日本人の姿勢の遠因が、本能寺にあったのかもしれない。私には、そう思えて
ならない。
http://www.news-postseven.com/archives/20111002_31329.html この人も同類の臭いがするな
622 :
人間七七四年:2011/10/02(日) 15:09:52.21 ID:z2/9hs33
>信長が、中国大陸への進出を計画していたことは多くの史料に残されている。
「多くの史料」ということは2つ程度ではないだろうから、3つは挙げてもらいたいものだ。
623 :
人間七七四年:2011/10/02(日) 15:20:14.02 ID:EpA0mT4z
アフリカでは3より上は「いっぱい」という括りにされるらしい
624 :
人間七七四年:2011/10/02(日) 17:18:01.20 ID:lIz7yldM
> もし だったら……。
> かもしれない
> かもしれない
> だろう
> かもしれない
悪文の見本みたいな文章だなw仮定に仮定を重ねればどんなことでも主張できるって典型だわw
625 :
人間七七四年:2011/10/02(日) 18:03:03.62 ID:O7Q1Hlvr
>>622 センセイにその”突っ込み”はいけない
根拠はたぶん名前が出せないCIA工作員の大物から聞いたはず
…つか落合信彦をここでだしてやるなよ……
626 :
人間七七四年:2011/10/02(日) 18:06:26.88 ID:UF5n+4nc
巻末にこの物語はフィクションですって書いてあるの見落としてるだろお前ら
627 :
人間七七四年:2011/10/08(土) 08:51:15.40 ID:uVfXTlFF
朝鮮出兵の敗因は制海権じゃないんだがな
制海権はほぼ確保出来ていた
628 :
人間七七四年:2011/10/08(土) 09:02:07.24 ID:uVfXTlFF
>>570 >そういった背景を考慮すると東日本商人が購入する場合は鐚銭の不利なレートで取引を強いられていたのでしょうか?
逆に両替商や伊勢の大湊など、東西と取引する商人が地域間の貨幣の価値の差を利用して儲けたりしていたはず。
なので、そういう意味では公平に、東日本西日本商人は不利なレートであったともいえる。
629 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 11:30:12.27 ID:WWX9xAHh
いつのまにか日明貿易の代表者が幕府→細川→大内に変遷していますが
なぜ中央を支配する幕府や細川から大内に利権が移動したのでしょうか?
特に大内義隆の時代はすでに斜陽だったはずでは?
630 :
人間七七四年:2011/10/21(金) 04:09:52.71 ID:yP48UTsy
末期は海賊対策(日明間を護衛)できる大名が「日本国王」を名乗っただけでは?
つか勘合貿易の実務は商人が行なっていた(勘合符自体商人の蔵に収まってた)
で、当事者の商人と明役人にとって勘合符は「寧波(明本国)に入港する権利」なわけで「日本国王」は誰でも良かった事情もあるかと
寧波の乱とか、最初は先に入港した方を「日本国王」認定しようとしてたしね
まぁ博多とか平戸は私(密)貿易で栄えていたわけで、15世紀終わりにはそう大きな利権ではなくなってたんじゃないかな
631 :
人間七七四年:2011/10/21(金) 09:43:49.36 ID:0gi3Vj4c
>>629 それは俺も疑問だが、アゲて聞いたほうが良かったな。
632 :
人間七七四年:2011/10/21(金) 11:56:39.29 ID:aYugmdZk
633 :
人間七七四年:2011/10/22(土) 12:00:50.87 ID:3kyyvuXW
>>629 >なぜ中央を支配する幕府や細川から大内に利権が移動したのでしょうか?
圧倒的な地理的優位性ってことじゃなくて?
634 :
人間七七四年:2011/10/22(土) 14:39:42.79 ID:1SzFqULo
>>633 おそらく、
文献(一次資料)を出せ(」゜□゜)」
って意味じゃね?
証拠がねぇだろ!?って凄む、刑事ドラマのヤクザをイメージした
635 :
人間七七四年:2011/10/22(土) 23:10:18.73 ID:59y7Mfp0
えーと
明応の政変のあとは細川氏が幕府を動かすようになったから、
それ以外の大名が日明貿易に関与する機会が無くなった。
その後、細川氏の内部分裂の際、
細川高国の時期になって、大内が細川氏を支える形となったことで、
遣明船派遣の主体が移動した。
(大内氏側から、支援の条件として持ち出した可能性もあるが)
という流れなんじゃないのかな。
636 :
人間七七四年:2011/10/24(月) 06:58:53.17 ID:t7Ma2xWM
>>635 > (大内氏側から、支援の条件として持ち出した可能性もあるが)
これっぽいね。証拠はないが。
637 :
人間七七四年:2011/10/26(水) 14:45:19.79 ID:NhSLHkAb
通貨も自力鋳造できない日本が
明に対して戦いを挑んでこれを苦しめたというのは不思議な事だよな
唐入りのほんの50〜60年前までは灰吹法の有無など
明と日本とでは圧倒的な技術差があったのに。
638 :
人間七七四年:2011/10/26(水) 20:19:08.40 ID:0rIQB5pP
明の領土には一歩も入れなかったわけだが
639 :
人間七七四年:2011/10/27(木) 01:36:30.40 ID:/6RNuiX6
明軍といっても全軍の1/10くらいだし
朝鮮半島は短期間で占領したけど、明領には進んでなくね
640 :
人間七七四年:2011/10/27(木) 22:10:33.98 ID:LwyJrNwU
>>636 足利義稙が永正13年に上洛助力への論功として大内義興に自分の代理として日明貿易を認める御内書を与えているのだが。
しかも、細川高国はそれに反対している。
641 :
人間七七四年:2011/10/28(金) 07:39:34.17 ID:BW6TRuYY
642 :
人間七七四年:2011/10/29(土) 09:52:20.26 ID:DXmFWAWi
>>637 >通貨も自力鋳造できない日本が
技術的に出来なかった訳じゃないよ。
通貨の信用確立の問題から、当時の日本では造らなかっただけ。
643 :
人間七七四年:2011/10/29(土) 19:47:31.39 ID:t8dZ8fbV
没落する事なく現在まで本流が残ってる武家はあるのかな
細川護煕のとこ?
644 :
人間七七四年:2011/10/29(土) 20:08:14.15 ID:L3zpU1Xv
一般人になってる事を考慮すればすべて没落しているが?
645 :
人間七七四年:2011/10/29(土) 22:38:52.51 ID:DXmFWAWi
646 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 02:38:16.59 ID:5iTg95lP
>>642 戦国時代にどっかの大名が貨幣発行しても
信用不安から鐚銭扱いで受け取り拒否されるだけだしなあ。
島津かどこかが質のいい鐚銭つくってたとおもう。
647 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 03:18:53.42 ID:+Sme72tS
そりゃ来年になっても発行元が生き延びてるかどうかも分からない世の中で貨幣価値なんざ金属そのものの価値くらいだろうな
648 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 04:33:54.73 ID:J8OIiZTk
649 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 05:34:11.23 ID:zoxiC8BE
中国の真逆なんだな
向こうは銅器の価格が銅銭の価値の5倍とか10倍だったのに
650 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 09:10:40.27 ID:HGbriStF
しかし信長の時代に畿内の銭貨経済は実質崩壊する
651 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 11:06:03.15 ID:J8OIiZTk
”崩壊”というか、日本産銀のライバル、メキシコ銀が多量に明に入ってきた&明が解禁政策をやめた影響で
銀→銭密貿易が消滅して、銭自体の供給が止まっただけじゃ?
信長の出した撰銭令(「精撰追加条々」1569)でも、撰銭の他に金1両=銀7.5両=銭1.5貫文と定めてる
銭が足りなくなったために、金銀の使用が加速されたわけですな(これは”崩壊”と呼んでいいのかな?)
652 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 11:41:43.74 ID:HGbriStF
ちがう。銭の信用不安が信長の時代ついに爆発し、米が通貨の代わりに流通するようになる。
信長はそれを何とか禁止しようとしたが失敗、秀吉の時代になって政策を大転換し、米を基軸とする
石高制が成立する。
653 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 13:14:03.13 ID:J8OIiZTk
確かに「土地の評価(税)」は”米”だけど、貨幣経済の後退は無いどころか
単に高額貨幣としての金銀の使用が盛んになっただけじゃない?(しかも銭の使用はやめていない)
つか信長当時商人から軍費を借りる時も米じゃなくて銭単位だし
税制に米を導入した秀吉だって米じゃなくて”金”配りしてるし
大阪冬の陣の兵量も家康は銀子で払ってたよ
都(当時の中心経済)は、どうみても「米が通貨」になっていたとは思えないけど?
654 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 13:49:46.99 ID:HGbriStF
>>653 銭は信用不安によりその価値が極端に不安定化していた。そのため「貨幣」的存在は
米、金、銀に移った。
その中でも最も安定した価値基準になったのが米。
米を本位とした金銀通貨が成立した。
655 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 14:23:16.84 ID:A2cSqDNV
秀吉が市場の値よりも高い値で買うから銭で売買するより
米のまま取引してたほうが得だっただけだろw
656 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 17:16:55.80 ID:7CwrCiAe
石高制の概念っていつぐらいからできたの
657 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 17:59:21.42 ID:srqw5bCs
>>650,652
銭貨の破綻は信長が生まれるより早くに九州で始まって、
半世紀以上の時間をかけて近畿にまで波及した、
その時期が織田政権の頃だろ。
もう少し遅れて関東へ、さらに東北へと波及したんだろう。
>>656 織豊期を通じて徐々に創出・整備された。
658 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 22:20:14.94 ID:QHF4eTIH
九州で始まった?
単に選り銭に制限掛けただけで
銭貨が破綻したのは信長が調子に乗ってた時期
659 :
人間七七四年:2011/10/31(月) 01:33:52.73 ID:V7S+o5uI
>>657 銭貨の破綻、てのはどういう状況をしてしてるのかな?
撰銭って、銭経済が始まった鎌倉末期からあるし江戸時代にわざわざ自国生産始めるくらいだし
銭が無価値、「銭の信用がなくなった」ことは一度もない
これを「破綻」と呼ぶのは…… 単に漸次高級貨幣(金銀)が導入されて入ってるだけ、のような
660 :
人間七七四年:2011/10/31(月) 05:06:34.10 ID:Xtk0Dpwf
貫高制における年貢や高額商取引まで全て銭を用いる経済の破綻って事じゃね
661 :
人間七七四年:2011/10/31(月) 14:23:05.34 ID:Hd45Ba/7
織田信長の簡単な解説
今までずっと細川氏が室町幕府の実権を握っていたが、群雄割拠で、戦国大名が増える
↓
とうとう初の織田政権が誕生
↓
何を思ったか「明時代に鋳造された明銭を強制的に流通させなさい」法案を提出
↓
大半の商人が安値で売り払って銀取引へ。
↓
今度は水軍衆に対して「海運利権の過半数を譲渡するように、逆らったら逮捕」法案を提出
↓
水軍衆が領外逃亡する
↓
別に商人も水軍衆も、どこの国も経済制裁してないのに、経済制裁と同じ状態に陥る
↓
何もかもの物資が国内で不足するので、
「市場に出回っている物資が不足するなら、物資を持つ物は絶対に市場に売らないといけない」法案を提出
↓
物資の強制売却で、さらに物資不足が深刻化。当然需要と供給バランスが崩れて高値になる。
↓
物資が高値に成り過ぎて買えない人が続出
↓
「物資を絶対に安値で売らないといけない」法案を提出
↓
調達コストよりも遥かに安値で売らないといけなくなったので、当然のごとく利益が出ないから国内企業が次々と倒産する
↓
安定していた経済が、脅威の失業率 & ハイパーインフレ になるのを一年も経たずして達成。おめでとう。
↓
失業者があらゆる物資を強奪し、社会不安が増大、交通機関や警察機関も機能しなくなる。政治も収拾がつかず無茶苦茶に。
↓
信長、新世界の神になる
662 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 01:55:04.80 ID:+RLrI9ef
16世紀初頭には中国からの銅銭輸入が途絶えて国内じゃデフレが進行してたんだよな。
その時期、未だ信長が生まれるより以前の時点で京都でも(戦国時代としては最初の)撰銭令が出されているわけで。
663 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 19:03:52.01 ID:VvosGNrA
>>660 でも”経済的破綻”って言うなら、銭の暴落やらを伴うべきじゃない?
つか銭から米取引に漸次以降したわけではなく、永禄11年(1568)に一気に変化してる
この年近辺に経済的な大事件があって移行した、と考えるほうが普通じゃないかな
あと全国的に貫高制から石高制に移行したのは
もともと現物から銭納に変わったのは、収める側にメリット(儲け)があったからで
秀吉の太閤検地も中間搾取を排除する政策で、”銭”の価値が変化したからって理由じゃないような
664 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 20:23:40.56 ID:a8IlCYKy
銭が機能しなくなったことで米の貨幣的価値が高まったからこそ、中間搾取の排除の必要性が高まったのでは?
665 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 21:01:55.82 ID:MhvKPxG7
>>662 大内や細川の撰銭令は
「自身が輸入した明銭を市中に押し付けたい」いわば鐚銭流通を促すためのお触れ
戦国大名の撰銭令
「市中が抱えて流通が止まっている良銭を流通させたい」通貨不足を補わせるためのお触れ
同じようで性質は正反対じゃね?
前者の大名による身勝手なお触れは意外に守られて経済がうまく循環し、
後者の道理にかなうお触れはあまり守られず経済を混乱させてしまった。
悪法の前者のほうが評判が良かった不思議。
666 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 21:11:05.81 ID:VvosGNrA
>銭が機能しなくなったこと
コレがいまいちピンとこなくて……つか価値評価としての”銭基準”が途切れたことは無いですよね
信長や秀吉は、銭経済に高額貨幣として金銀導入を進めたし、茶器の評価も”銭”、不動産評価だけ”米”なわけで
経済的要因で変化したなら漸次導入されるべきなのに1568年頃から一気に米(現物)取引が急に増加したのは他の要因じゃないかと
中間搾取の排除(検地)は”兵農分離”のほうが重要なのでは、つまり”政策的な意図”のほうが大きいのでは?
667 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 21:27:59.52 ID:MhvKPxG7
>>666 たとえば100円のモノを販売して1円玉が100枚手に入ったとします。
ところが一定期間後この100枚で100円の買い物をしようとしたら
「撰銭令が変更されたのでこの通貨100枚では50円相当のモノじゃなきゃ交換できない」ってどこの店でも言われてしまう。
このように貨幣の信用が日々低下してしまうことがありえた。
しかも鐚銭基準は微妙な線引きなので個人の主観に左右されるので鐚銭か否かで揉めることもあった。
なので一定の信用が保障された米や銀のほうが取引決済に利用しやすかったわけです。
他人には価値の下がりやすい鐚銭を押し付けて自分は価値の安定した米や銀を持つ
こう考える人が増えていったと考えれば自然かと。
668 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 22:24:36.58 ID:VvosGNrA
>>667 受け取った銭の価値を取引毎に確認する作業が「撰銭」、なわけで、銭経済には当初(鎌倉時代)からあったこと
実際の所「撰銭」で”銭の価値は維持されていた”わけで
それ故「撰銭禁止令」は効果がなく、都には「悪銭屋」なんて商売もあったわけで
つか「貨幣の信用が日々低下してしまうこと」「個人の主観に左右される」ことなんて当時はありえなかったとしか……
金銀だって銭の上位高額貨幣として政策的に導入(信長や秀吉の仕事)されたわけで
銭の代わりになったわけではないような(銭の使用が止まったことがない)
669 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 22:53:35.15 ID:m1rGj/4d
670 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 22:54:25.30 ID:Zg8l4xOI
世界史板やん
671 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 22:57:33.68 ID:s/fffDs/
貨幣の信用が低下して個人が撰銭をしたから
信長や東国の大名は銭令を出したわけで、大内の撰銭令とは違う
それに高額硬貨として政策的に導入したわけじゃなく
元々あった高額硬貨を潤沢に生産出来るようになったから
軍資金の為に金銀貨を製造しただけでしょ
672 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 22:58:31.59 ID:MhvKPxG7
>>668 流通実績のある宋銭は劣化しても価値は安定していたものの
新しい明銭に関しては少し経年劣化するだけで鐚銭扱いされることもあったので
保管するにはリスクが伴い、優先的に流通させられたよ。
そして流通すればするほど劣化しやすくなる悪循環サイクルに嵌って
宋銭=安心、明銭=信用不安の構図を助長させてますよ。
673 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 00:16:17.31 ID:cxTP5UdD
む 今問題になってるのは「銭経済の崩壊」ですよね?
高額貨幣として宋銭の価値が維持されてる、のなら「銭経済の崩壊」してないのでは?
「良貨が悪貨を駆逐する」って現象をみて通貨の信用不安につながる、とは思えないんですが……
通常使われる硬貨が劣化して使用不能になるのは現在も同じで、撰銭は劣化した貨幣の排除って一面が大きいし
つか金銀が経済に導入されても「銭の使用」がなくなったわけでもないし
「銭価格で商品を評価する」って習慣が失われていないのに、なにをもって「銭の信用不安」と呼ぶのでしょうか?
674 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 00:33:37.24 ID:b7bXDjDB
>>673 > なにをもって「銭の信用不安」と呼ぶのでしょうか?
銭の価値の混乱だよ。良質な宋銭は皆貯めこんで市場に出てこず、流通している明銭などの
「鐚銭」「悪銭」の価値は急落した。大インフレが起こって紙幣が紙くずになった(しかし使うことは出来る)
というのと同じ状態が起きた。
信長が撰銭令などでこの状況を何とかしようとしたが、結局失敗した。
675 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 01:27:10.56 ID:S7eZUr9+
多聞院日記他の研究から銭の価値(物価)は江戸時代までは変わってないんだろ?
大インフレっていつの時代のことかね
676 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 01:53:28.30 ID:u4505EAo
紙幣?
戦国時代に?
あったっけ?
677 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 02:27:58.33 ID:0x+02SU+
戦国中期→江戸初期で米に対する銭の価値は
半分程度に下がって文字通り半減してるけど
678 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 04:45:58.92 ID:cxTP5UdD
>>674 室町時代は明銭も宋銭もびた銭も、市場で交換レートが定まっていたわけで
なぜ急に戦国中期に「悪銭」の価値が急落、って思われるんですか? どのような記録から??
それで1568年から米(現物)取引が大規模に始まった説明ができるのでしょうか?
>>667 70年で200%の物価上昇って産業の発展インフレ考慮しても健全経済発展、銭の信用崩壊どころか健全通貨としか……
679 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 17:22:44.26 ID:5JhjsAEW
>>676 そういえば大陸は紙幣ばかりだったのに
日本は硬貨ばかり利用されていたなのはなぜでしょう?
680 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 17:27:15.35 ID:iqOMclv6
>>678 > 70年で200%の物価上昇って産業の発展インフレ考慮しても健全経済発展、銭の信用崩壊どころか健全通貨としか……
現代といっしょにするなよ。アホか
681 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 19:50:34.68 ID:dBh4LroR
>>677 1250〜1600までの間の米銭ルートはほとんど変化ありません
1石、500〜1500文までの間で推移しています。
16世紀の撰銭は経済規模に対して銭の市場流通量が不足していたからではないでしょうか?
実際16世紀は渡来銭が止まると同時に私鋳銭が大量に出回りはじめます。
鐚銭のかなりの部分が国内で鋳造された私鋳銭です。
こういったものは1枚づつでは撰銭の餌食になるので、100文なり1貫文の束にいくらか混ぜて使います。
682 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 19:58:50.91 ID:fcgN9JJw
>>681 16世紀中葉から17世紀初頭にかけて米価は約2倍まで上がってるけど
銭が供給不足なら普通は価格が下がるのにね
683 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 20:08:33.70 ID:b7bXDjDB
>>681 何処の史料かしらないけど、「どの銭に対してのレートか」をきちんと明示するべきでしょう。
684 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 20:22:57.38 ID:dBh4LroR
>「どの銭に対してのレートか」をきちんと明示するべきでしょう。
この場合はおそらく精銭でしょう。
商取引ですから、「一文」は1文銭の数ではなく、「1文」という価値の事です。
信長の撰銭令では精銭1枚1文として、鐚銭はタイプに応じて何枚で1文定められました。
ですが百文や一貫文以上の取引の場合、一枚づつ数えて支払うわけではなく(事実上不可能です)
百文や1貫文の束で取引します。鐚銭が混じってても判りませんし、気にもしないでしょう。
685 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 20:34:30.64 ID:dBh4LroR
686 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 22:37:15.03 ID:5JhjsAEW
外国は銀貨とか金貨なのに
なんで丁銀とか小判みたいな釘宮理恵みたいな変な形の貨幣になってしまったんだろう・・・
687 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 23:20:58.30 ID:S3M2cB0u
>>676-677 最終的に良銭1文≒鐚銭4文の相場が成立したこと、
もともと金1両≒良銭1500文だったのが、
江戸時代には金1両≒幕府銭4000文になったこと
なんかを考えれば、幕府銭は旧来の鐚銭程度の価値で通用したと思っていいんじゃないか。
で、戦国中期に良銭1000文で買えた程度の米が江戸期に幕府銭2000文と同等の価値になったなら、
旧来の良銭に換算して5600文相当になるから、逆にデフレだよな。
>>681 あの束って、数えた商人による封緘みたいなのが付いてるよね。
つまり、鐚銭混入率を含めて価値保証があったんじゃないのかな。
信用貨幣たる手形・為替などと同様に、一定程度の信用を付けられて流通していたと。
>>682 戦国時代には頻繁に飢饉が起きてるんだよ。
飢饉の年には米価は前後の数倍に高騰する。
それをきちんと考慮した上で言ってるかい?
688 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 23:21:25.76 ID:qsvNYcd4
でも、大判や小判ってヨーロッパでは世界一美しい金貨として知られていたんだけどね。
689 :
人間七七四年:2011/11/03(木) 00:09:42.30 ID:ZSWaGGIB
>あの束って、数えた商人による封緘みたいなのが付いてるよね。
>つまり、鐚銭混入率を含めて価値保証があったんじゃないのかな。
それはないかと。束に鐚戦を混入させるのは束を作る側です。
また、100文として使う束(通し百文)は実際には96枚の銭を束ねたものです。
元々中国で銅銭不足をカバーする為に行われたもので、日本でも同様の事が行われました。
小額の取引を行う庶民にとってはかなりの不利益が生ずる習慣です。
短陌の価値保障は商習慣によるものと思われます。
690 :
人間七七四年:2011/11/03(木) 01:21:33.19 ID:3fFbVT+H
その4文は保証料、または交換手数料みたいなもんと思った方がいいんじゃないか。
外為と一緒でさ、
単品の銅銭と、束という特殊な銅銭とを交換する交換手数料。
現代社会と違って異種通貨への交換(両替)には手数料が必要だったことを忘れちゃイカンよ。
691 :
人間七七四年:2011/11/03(木) 05:32:40.62 ID:j/+NIsgS
>>687 16世紀に長禄・寛正の飢饉並の全国規模の飢饉あったっけ?
地方での飢饉による一時的米価格変動は考慮しなくていいような
江戸幕府は通貨管理はじめて寛永通宝発行で銭を下位貨幣に設定(新通貨切り替え政策だよね)したから
それ以前の市場取引で価値が決まっていた”銭”と同レベルで見ていいものかどうか、ちょっと気にはなるね
692 :
人間七七四年:2011/11/03(木) 07:49:56.93 ID:ZSWaGGIB
省銭(96文)と丁銭(百文)の差は「数え代」という俗説はあります。
97文の省銭は鎌倉時代から存在します
96文の方はの室町幕府の撰銭令で「銭96枚で100文とする」と定められたのが最初です。
江戸期では銭80枚や75枚で100文とする地方もあったようです
元祖の中国では77枚で100文としていたようです。
また、使用目的や業種によってレートが異なる(官用77枚、市街使用75枚、金銀両替74枚等)
手間賃と考えるのは少し疑問です。
江戸期の両替手数料は1〜2%ですから、丁銭100文を省銭100文に換える手間賃が4文なのは相場が高すぎます。
省銭1貫文目は960文なので余計に問題です。
1両を銭に変える場合は1両+手間賃で省銭4貫文目に変換ですから手間賃の二重取りです。
また、銭から金、銀への交換は両替商の損になります。
693 :
人間七七四年:2011/11/03(木) 09:49:34.18 ID:h0rpMg7R
694 :
人間七七四年:2011/11/03(木) 15:34:48.28 ID:emF3atS8
>>692 中国の官用77文は事実じゃないよ
官僚が100文を77文として数え23文を着服する基準であって
政府の基準は100文=100文
695 :
人間七七四年:2011/11/03(木) 15:40:27.62 ID:emF3atS8
>>689 それと歴代の中国王朝のうち1つとして銅銭不足に陥った政権は無いよ
古い時代の非実証的で愚かな日本人学者が、根拠も無く想いつきで主張してたけど
南宋末〜元代の話なら、銭77文⇔紙幣100文の可能性は皆無ではないけど
記録に残ってるレートはもっと銅銭側の価値が高いから、おそらく違う
696 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 02:36:52.05 ID:xOnFlbg7
南朝末期、珍だっけ?
で、銅銭が不足したから代用に鉄銭つくって偽金が大流行したとか聞いたけど、
あれって「銅銭の不足」とは違うのかな。
697 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 07:04:27.01 ID:vHefXjcU
銅銭不足には色々説があって
十分足りてたよ説から
同じ重さの銅製品と銅銭とでは銅製品の方が価値があって
銅銭を鋳潰す奴が多発して銭が足りなくなったとか
広範囲の地域で流通していて国外に大量の銭が流出して不足したとか
原料の銅そのものが不足したんだよ説とか色々
698 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 07:21:26.80 ID:Y26b7Qxq
珍の国の国宝は珍宝
699 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 14:12:05.07 ID:ChvPAF9J
撰銭令での鐚銭を認めるとか米を貨幣代わりとして運用することの禁止とかは
貧民対策飢饉対策とかとも言われていて、
単なる貨幣経済対策ではないって言われてもいる。
米の値段をはじめとして貫高税などが、全体として戦国期後半は戦国期前半の2倍近いのは、
価値基準が精銭基準(名目的貨幣基準)から、鐚銭基準(市場における実質的貨幣基準)に
変ったせいとも言われている。
あと信長の時代に畿内の銭貨経済は実質崩壊、信長が崩壊させたとか、
信長に責任を求めるのは池上氏などの論文の影響かもしれないが、
1566年67年の段階で信長の畿内への影響力はほとんどないので、
おそらくそれは氏らの間違い、勘違いだろう。
まあ信長上洛後にそれらに歯止めをかけることが出来なかったのは事実だが。
700 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 14:36:12.67 ID:eRUL7UmA
>信長の時代に畿内の銭貨経済は実質崩壊
これってどんな事象から推察できるのでしょう?
信長が堺に課した矢銭って銭二万貫(1658)ですよね、秀吉も借りるのは銭でしたし
現物取引も銭ベースで換算する慣習は変化なかったようですが……
701 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 16:27:41.63 ID:ChvPAF9J
ここでいう銭貨経済は実質崩壊というのは、
銭が使われなくなったという意味ではなく、
良銭を物価や税などの各種基準としていた銭社会
(プラスして銭は良銭悪銭ともに名目上一枚は一文ですべて同価値)
が崩壊したという意味で、
銭が使用されなくなったという意味ではない。
実際には織豊政権下でも銭は良銭悪銭ともに使用されているし、
それは江戸時代も同様。
また石高社会となったことで銭の代わりに米が急に貨幣として使われるようになったわけでもない、
米も金銀、ついでに布も昔から高額貨幣代わりとして使われている。
簡単にいえば単に税の基準が銭ではなく石高で表わされるようになったみたいのもの。
702 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 16:46:28.44 ID:UeLvuGvv
コメで納めましたって実際は銀だったりとか江戸でもあるし、そこらの解明は無理じゃないのか
703 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 18:09:04.66 ID:xOnFlbg7
>>701 だが、近畿と瀬戸内地方の税は鎌倉〜室町期にも銭じゃなく物納が主流だったんだよな。
といっても、米納がメジャーだったとは言いがたいけど。
ただ、様々な品目での物納のうち、割合が最も高いのは米ではあった。
それは戦国時代に入る以前からずっと続いていたよ。
貫高制とか石高制とかが作り出させるより以前からね。
ただ、戦国時代にはいると、一時的ではあれ、畿内でも貫高制を思考しようとしたことはあるんだっけ。
結局は定着させることができずに石高制に切り替えざるをえなくなったけど。
704 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 18:37:40.36 ID:CqVnqnm8
いや畿内でも西国でも戦国時代は史料見る限りは貫高制だった
それが精銭の不足なんかで
>>701の貨幣経済が崩壊して
石高制に移行していくと
705 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 19:14:47.73 ID:xOnFlbg7
もともと荘園領主側は年貢を銭ではなく指定品目での物納で得たがっていた
(ただし、指定品目は必ずしも現地荘園内で生産されているものとは限らない)
が、遠隔地に関しては、輸送に労力を要することなど様々な原因から、
現地の側の都合によって銭納へと切り替えられていって、鎌倉時代頃には銭納が普及した。
対するに、近畿・瀬戸内地域の荘園に関しては、
できるだけ物納を維持しようと荘園領主側が努力したので、
物納が長く続くことになった。
さすがに戦国時代には銭への切り替えが進んだが、他の地域と違って長く銭納が続いたわけではない。
おそらく、銭納が普及していた地域の戦国大名が近畿へはいることが大きな画期だったのではなかろうか。
三好長慶か、織田信長か、どちらがその画期だったのかは知らないが。
いくらなんでも、大内ではないんじゃないかなあ。
706 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 19:25:07.69 ID:CqVnqnm8
>>705 何か凄い勘違いしていないか?
貫高制とは別に銭で税を納めるという意味じゃないし
石高制も米で税を支払うという意味じゃない
貫高制は物価や税額を貫高で示して
石高制は物価や税額を石高で示しているだけだぞ
物納か代替物で支払うかどうかはそれとはまた別の話
707 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 20:36:07.97 ID:xOnFlbg7
あっと、そうだった。すまん。
戦国時代後半に入って貫高制が導入される前には、
税額を一括で表す包括的基準はなかったんだっけ。
708 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 20:40:53.83 ID:47NmfUIl
西国は町歩がそのまま土地生産高と同義だったんじゃないの
四国の史料でしか貫高使ってるのを見たこと無い
709 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 20:44:37.26 ID:EsXOqPTA
北条も貫高表記だろ
710 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 20:49:49.30 ID:CqVnqnm8
大内毛利とかも貫高
あと毛利とかは結構早い段階で南京銭を使用していたと思う
711 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 20:56:33.65 ID:CF6HGvx9
>>709 北條は表記こそ貫高だけど、実際は変動的な銭の額ではなく、田畑を上中下とクラス分けし
それに当てはめる統一した数値として貫高を使っているだけなので、いわゆる貫高制とは
内実がちょっと違うな
712 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 21:09:48.87 ID:CqVnqnm8
>実際は変動的な銭の額ではなく、田畑を上中下とクラス分けし
>それに当てはめる統一した数値として貫高を使っているだけ
それこそが一般的に言われる貫高制なんじゃ?
713 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 23:19:12.53 ID:geFWxPmY
武田も貫高でそ。
714 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 23:21:26.28 ID:EsXOqPTA
715 :
人間七七四年:2011/11/05(土) 05:33:15.52 ID:Lt23FXzx
>>701 >良銭を物価や税などの各種基準としていた銭社会
これが中断されたこと、ってありましたっけ?……って疑問なんですけど……
>良銭悪銭ともに名目上一枚は一文ですべて同価値
銭貨経済時代通して銭の価値の変動が少ない、ってのは、常に価値維持が行われていた(撰銭?)
で、鎌倉末から撰銭は行われて(鎌倉の大仏なんてそれで作ったわけで)
市場ではいつも精銭と悪銭の違いはあった(納税には撰銭強制してた)のに
なぜ100年以上も続いた戦国時代中期にその建前が大問題になったのでしょうか
単純に銭経済に金銀の高額貨幣が導入され高額銭(精銭)が使われなくなった
…ってことなら特筆すべき経済的事件には思えないんですが……
あと、銭経済崩壊→石高制の導入、ってのもいまいち……
全国規模で石高制導入されたのは太閤検地(政策的改革)の影響が大きいわけで
崩壊があるなら、石高制の導入→銭経済崩壊ってほうが当てはまりそうじゃないかなぁ、と
716 :
人間七七四年:2011/11/05(土) 07:21:51.99 ID:qzxYero6
そもそも布帛は高額貨幣じゃないし
精銭が高額決済用だったわけでも
金銀が使われていなかったわけでもない
>>701は前提が色々おかしい
717 :
人間七七四年:2011/11/05(土) 08:58:25.61 ID:25LX/+I6
銭経済が崩壊なんて大げさに評価するから齟齬が起きてるんじゃない
昔から物納だったり銭納だったり、地域に偏りがありつつ行われてたわけでしょ?
ことさら特定の時期を取り上げて「銭経済が崩壊した!」なんていうのが果たして正しいのかどうか
そもそもが
>>650>>652の根拠の無いレスが元でしょ?
718 :
人間七七四年:2011/11/05(土) 09:40:18.39 ID:S07BjiWJ
>>715 >これが中断されたこと、ってありましたっけ?……って疑問なんですけど……
これが中断したのが元亀天正の頃、
畿内において石高制になったり、物価が鐚銭が基準となったりした。
鐚銭が基準となったのは学者の推定だけど、
また学者によっては国によっては鐚銭が基準となっていた国もあると推定している、
例として武田、税率米価が他国と比べて非常に高いのはそのせいと推測。
>市場ではいつも精銭と悪銭の違いはあった(納税には撰銭強制してた)のに
>なぜ100年以上も続いた戦国時代中期にその建前が大問題になったのでしょうか
時代が進むにつれて精銭に悪銭をある程度混ぜてもいいとなっていくが、
名目上幕府の公式見解としては>>良銭悪銭ともに名目上一枚は一文ですべて同価値となっていた、
しかし信長はその原則を諦めて精銭と悪銭の価値に違いがあることを認めた、
まあただ現状を追認しただけともいえるが。
ちなみに確か毛利領では畿内よりはやい段階で悪銭の使用を毛利家が認めていたと思う。
>建前が大問題になった
これはよくわからない、上の方で大問題になったと判断している人に聞いてください。
>単純に銭経済に金銀の高額貨幣が導入され高額銭(精銭)が使われなくなった
そんな事実はないはず、金銀は昔から使われていたし、
精銭も使用されなくなったわけではない。
>全国規模で石高制導入されたのは太閤検地(政策的改革)の影響が大きいわけで
>崩壊があるなら、石高制の導入→銭経済崩壊ってほうが当てはまりそうじゃないかなぁ、と
太閤検地の影響は大きいとは思う。
銭は精銭は海外の影響もあって戦国時代には不足してしまい、
市場では悪銭が使われていくようになるわけだが、
悪銭は地域によって価値が異なるため、各国ごと地域ごとの狭い範囲であれば基準となりうるが、
広い範囲では統一的な基準となりえない。
ちなみにその地域ごとの価値の差により悪銭は遠隔地との取引では特に嫌われ、
海外取引を含むある程度広い範囲で一定の価値を持つ精銭は貿易用としても重用された、
と言われている、まあ精銭も東国西国で価値が大きく異なったりもするが。
精銭の不足により精銭を基準とするのが困難となり、
精銭は高額貨幣贈答用貿易決済用となっていき、一般的には悪銭が使用されるようになる、
しかし悪銭は地域ごとの差が大きいため統一的な基準として石高を用いるようになった、
という流れじゃないかと。
全国的な価値尺度としての機能が曖昧になっただけで、
流通手段、価値貯蔵としての機能は失っていない。
719 :
人間七七四年:2011/11/05(土) 09:51:46.36 ID:S07BjiWJ
また黒田氏なんかによると、
大内の撰銭令は別だが、
その他の多くの大名に見られる、悪銭混入を認める系、
米取引の禁止は銭対策ではなく、飢饉対策。
飢饉時の食糧確保安定供給のため、
商人による投機を防ぐため米取引に介入し、
貧しいものでも売買が出来るように取引時に悪銭を認めさせ、
違反者には厳罰で望んだとか。
>>716 701にそんなこと書いてあるか?
>>717 同意。
ただ池上裕子?あたりが
>>650>>652みたいなことを書いているのも事実。
まあ貨幣などの専門家じゃないからなー。
720 :
人間七七四年:2011/11/05(土) 09:52:53.39 ID:qzxYero6
毛利の悪銭混入黙認は大内の政策を受け継いだだけだし
今現在見つかってる記録上だと、確か畿内より北条のが早かった
721 :
人間七七四年:2011/11/05(土) 11:16:14.17 ID:TNucbSjZ
武田は枡自体が大きい
722 :
人間七七四年:2011/11/05(土) 16:13:35.75 ID:BbiJWAXx
北条の悪銭混入を認めるのは16世紀半ばぐらいじゃなかったか?
確かあまり早くないはずだぞ、畿内西国は16世紀初めぐらいだし・・・
あと文の前後から考えて
>>718の悪銭の使用を認めたは、
悪銭混入のことではなく毛利家が南京銭での支払なんかを認めたことを指しているんじゃ。
723 :
人間七七四年:2011/11/05(土) 17:26:50.43 ID:NelqXBMR
計量のマスが大きかったり
わざとコボして税を多く搾取する大名って典型的な悪政だよな。
724 :
人間七七四年:2011/11/05(土) 20:44:36.12 ID:Ht9plv4Z
集める枡は大きくて、配る枡が小さいのは常識の域
725 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 15:19:00.41 ID:iDQw5FyU
>>718 ビタ銭基準で混乱、てのが、ちょっとよくわからないのですが……
精銭が含まれる貴金属の3−4倍程度の価値で取引されてて
信長の精銭1枚=ビタ銭4枚が一般的レートだったなら
ビタ銭の価値は含有する銅とほぼ一致したことになり
通貨としては(謎の信用分含む)精銭よりビタ銭のほうが安定したもののような気がするのですが……
元亀天正の頃、精銭の混乱が起きたのは、
当時の政治的(信長や秀吉)原因による都周辺の宗教領主や五山の機能不全で
流通での精銭の維持ができなくなり実質貴金属分の評価に落ち着いた
…と、見れないこともないような気が……
銭経済を通して精銭の価値を維持してきたのは都の宗教金融、と考えてもいいのでしょうか?
726 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 16:27:51.65 ID:diKLUiP6
銭金融を支えてきた荘園制度の崩壊も大いに関係あるだろうな
727 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 09:01:03.23 ID:KPf64X0V
信長の経済政策が酷いと聞いたのですが
具体的にどんな失政をやらかしたのでしょうか?
728 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 10:51:58.07 ID:ccvf/tog
>>727 撰銭令→大失敗→民間の決算通貨が銭から米に
729 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 12:48:50.61 ID:KPf64X0V
ありがとうございます
信長は戦国大名としては優秀でも
政権担当者としては苦渋をなめていたんですね
730 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 15:42:52.24 ID:KftBlPjk
>>728 ちょっと上までの流れで、信長の撰銭令は「市場での現状の追認」という性格が強い
…って理解してたんですが、アレは失敗政策だったということなら
「信長の撰銭令で具体的に経済にどんな影響があった」のでしょうか?
資料を教えていただけるとありがたく……
つか信長って経済改革的な政策、出したこと有りましたっけ??
731 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 10:36:07.14 ID:KkREfJXb
南蛮人の船って九州どまりで
堺へは九州から別の船が来ていたと聞いたのですが本当でしょうか?
732 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 10:49:59.72 ID:nvyr2Uh/
本当
733 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 10:54:40.48 ID:KkREfJXb
ありがとうございます。
南蛮貿易の中心で南蛮人が多くいたイメージが強い堺は
狭い意味で(直接的な)南蛮貿易をしていなかったわけですね。
734 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 11:12:50.40 ID:bmV6IOTG
織田軍の軍事行動の頻度から言って経済の混乱なんてありえんのだけど…
銭が無ければ軍も動かんのだぞ?
もし経済の混乱があったとしても超短期でおさめたことになるから信長やブレーンの財政改革がバケモノじみてると言う事になるんだが…
735 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 11:36:38.31 ID:YAGnxBSk
>>734 銭が使えなくなったから金銀決済に移行してるじゃん織田軍
信長がしたのは改革ではない。実態への対処療法にすぎない。
あと貨幣混乱は信長が納めたのではなく、秀吉が石高制にして米決済という民間の状況を追認して
ようやく収まったにすぎない。
創作ならともかく、実際の信長にあまり夢を見ないほうがいいぞ?
736 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 11:41:01.06 ID:nvyr2Uh/
撰銭令出して失敗した後は部下の知行を石高制にするなど
逆に流れに乗ってるのが信長政策
737 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 12:09:04.57 ID:gAiI6+nP
>>736 信長が石高制にしたなんて記録はないそ。
というか土地政策全般において不備を指摘されているのが信長の政権だ。
738 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 12:20:50.66 ID:Sr8lXHQb
>>735 撰銭令なんて鎌倉時代から山ほど誰もが出してる(ほとんど効果がなかった)政策ですよね
”信長のだけ”特別視する理由はなんでしょうか?
つか
>秀吉が石高制にして米決済という民間の状況を追認して
…というのは初見ですが、どこらから判断してるのですか??
通貨混乱起きた場合、基本貴金属本位制に移行するのが普通なのに
当時の日本で金銀が不足したわけでもないのに”米”を通貨と見なした前提
…ってのは、その判断する過程を詳しく知りたいのですが……
739 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 12:31:41.16 ID:nvyr2Uh/
>>737 しとるよ。安堵状等一次資料も残ってるのに無理に否定しなくていいから
740 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 13:10:20.97 ID:KkREfJXb
戦国時代って戦争需要で好景気がずっと続いていそうなイメージ。
少々失政を重ねても好景気がなんとかしてくれそう。
741 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 13:31:05.57 ID:YLMAcBjn
>740
地震、洪水、日照りなど、様々な自然災害が特に多発した時期で、
各地で飢饉が続々と起こる時代だからなあ。
好景気と呼べる時代じゃないよ。
742 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 15:57:35.90 ID:KkREfJXb
∧,,∧
( ´・ω・) いまでも香川は日照りに悩まされているよ
(っ=|||o)
 ̄ ̄ `――´ ̄ ̄ ̄\
743 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 16:26:54.64 ID:ZB1FzUq/
水不足の環境でも麺茹でて湯を捨てるのは
香川人とイタリア人だけ!
744 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 00:06:18.18 ID:jiZQu3J8
>>735 金銀決済は交易等高額決済
秀吉期にも撰銭令出してることから、まだ納められてない
収まったのは徳川の銭による
745 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 02:23:08.50 ID:GgXg7MZ2
>>741 寛正の大飢饉以後、全国的大飢饉はなかったような気がするけど
いつの天災が経済混乱の原因になったと考えておられますか?
>>744 >金銀決済は…
甲州金竹流金金丸(砂金)ヒルモ金上字古金
また各地の切銀についてはどうお考えですか?
つか経済混乱っていうか高額取引(における精銭の価値変動)が問題になってるわけで
日常品の売買にはビタ銭がずーと使われてた気が……
746 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 03:21:04.39 ID:PrsGUL0S
>>744 記録に残ってるだけでも、毛利の大内攻め、謙信の関東侵攻
信長の京都侵攻で飢餓や逃散が発生してるけど
大規模で徹底した軍事行動が起これば、飢饉を招くのは容易に想像できる
747 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 04:52:20.00 ID:GgXg7MZ2
>>746 >大規模で徹底した軍事行動が起これば、飢饉を招くのは容易に想像できる
「信長の京都侵攻で飢餓や逃散が発生」ってことは
経済力=農業生産だった時代、山城和泉近江の経済力が破壊された、って言いたいわけですか?
でもあそこら、飢餓で米輸入どころか米取引なかった年はないし人口減があったわけでもないですよね
つか都の米取引は近江米が基本なのに、「銭→米本位」主張しながら
「その信用背景になる地の荒廃」も同時に言及するのは、なんか矛盾してませんか?
748 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 08:12:11.28 ID:PrsGUL0S
人口減はあったのに、何故
>>747は無いと言い張るのだろうか
京都の人口は室町中期頃から江戸時代にかけて増えてないどころか減ってる
京でも飢饉は起き餓死者は出ているし人口も伸びていないにも拘らず
人口減は無いと断言、意味が解らない。
749 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 08:58:35.14 ID:/zar8cMT
>京でも飢饉は起き餓死者は出ているし人口も伸びていないにも拘らず
豊作なのに米座が米価の下落を防ぐ為に京に米を入れず餓死者が出たって話なら聞いたな
750 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 09:44:41.48 ID:GgXg7MZ2
>>748 ”話”をすり替えてませんか?
「農業生産力=人口」とみた場合、近畿諸国で常に戦乱があった時代でもコメ生産量が下がってない
つまり農業従事者の減少はない=戦乱で経済混乱が起こってるとは思えない、って話なんですが……
京都の人口増減は(当時の農業中心経済の話においては)無意味では?
751 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 10:41:32.88 ID:MGnWfvh4
>>749 そんなこともあったのか。
買い支えならまだしも、流入を阻止して価格維持したのは酷い話だねえ。
752 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 11:04:56.14 ID:sYjB2fww
京都は縮小して塀で囲まれた上京・下京に分離してたそうだしね
753 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 17:15:01.06 ID:RDbwzGp/
>>748 >京都の人口は室町中期頃から江戸時代にかけて増えてないどころか減ってる
京都に限れば応仁の乱の頃が人口の底辺で、市街地も上京・下京に分離した状態だけど、
人口自体は遅くとも室町時代末期には回復したというのが定説だと思うが。
応仁の乱前:10万〜15万人(庶民1万戸5万人+公家、武家、寺社として10万人、
応仁の乱で焼けた地域100町3万余宇として15万人)
1500年頃:10万〜18万人(上京6千〜7千戸、下京万〜1万数千戸、合計2万戸として10万人、
商工民2万戸1万人+上京・下京以外の散所・河原人口+公家、武家、寺社を加えたとして15万〜18万人)
1570年頃:20万〜30万人(ビレラ(6万戸)の記述から)
1610年頃:30万〜40万人(デ・ビレロの記述から)
1634年:45万人(洛中の町方人口41万0089人)
754 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 19:31:06.66 ID:FHAdoRLk
切支丹は行政官じゃあないので、正確な推測する根拠としては全く役に立たないし
江戸時代京都の人口は30万台前半ってのが通説、40万は不正確。
755 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 20:12:45.45 ID:yp4LAcLV
756 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 20:20:19.63 ID:OX50fWHu
>江戸時代京都の人口は30万台前半ってのが通説、40万は不正確。
30万だろうと40万だろうと50万だろうと全て当時のデータと研究者の用いるパラメータによる推測に過ぎず
そういう意味では全部不正確。
安土桃山時代の人口を20万と推測する研究者も入れば30万と推測する研究者もいる
1598年の京都の人口を50万と推定した研究者もいるんだよ
正確かどうかではなく、妥当か否かでしか評価できないよ
757 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 20:24:08.58 ID:RDbwzGp/
>>754 30万人前半ってどこの通説?
最近出版されている歴史人口学者の浜野潔の『近世京都の歴史人口学的研究』でも、
人別帳から書きだした人数帳の数字は否定していないよ。
怪しいとされるのは、50万人越えの数字。
月堂見聞集とかの記述は信用できないが(多分山城国の領民人口と混同している)、
信用できそうな京都御役所向大概覚書の数字を引っ張ってくると、
1674年:町方40万8723人(洛中37万2810人+洛外3万5918人)
1683年:町方35万3707人(洛中37万2810人+洛外3万5918人)+寺社門前3万4435人
1690年:町方35万0549人(洛中32万1449人+洛外3万2258人)+寺社門前3万1532人
1700年:町方35万1692人(洛中31万7936人+洛外2万1280人)+寺社門前2万1280人
1715年:町方35万0986人
1716年:町方35万0367人
1717年:町方35万0033人
1718年:町方34万6431人
1719年:町方34万1494人
1722年:町方35万4802人
1766年:町方31万8016人(洛中25万5947人+洛外6万2069人) 町代諸事覚による
江戸時代の京都の最盛期はおそらく17世紀中頃の寛永期
17世紀後半の記録では、京都御役所向大概覚書によると1674年に町方だけで40万8723人。
1700年頃にはすでに京都の人口減少が始まっているが、町方+寺社門前に、計外人口を加えて40万人を超える。
江戸時代後半の京都の人口の記録は残っていないが、18世紀中頃には町方人口は
35万人を切り、18世紀末には30万人も切ってしまう。
浜野潔の人別帳からの推定によると19世紀前半の京都町方人口は28万人にまで減る。
山城領民人口も1721年の56万4994人から1846年の45万2140人にまで減少しており、
山城領民人口の約60%が京都の人口と推定しても、浜野の推定人口とほぼ一致する。
758 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 20:47:06.65 ID:RDbwzGp/
なお安土桃山時代以前は人別改自体がないけど(古代まで遡れば戸籍制度はあったけど)、
一応秀吉は一部地域で戸籍調査を開始しているので、江戸時代初期の人口もある程度信用できる。
1610年に京都を訪ねたデ・ビレロの場合、
「人から聞いた限りでは京都の人口は30万人から40万人程度らしいが、
自分の見た感じ、絶対80万人はいる」みたいな文書で京都の人口を記述している
(今手元に翻訳がないんで不正確)ことから、本人の勝手な推測ではなく、
ビベロと会話をする立場の人が把握していた人口であることが分かる。
確かにそれ以前の人口はいい加減で、
>>753の室町時代の推定人口も
もっぱら『京都の歴史』3巻に載っている、高尾一彦らの数字を持ってきた。ただ、
>京都の人口は室町中期頃から江戸時代にかけて増えてないどころか減ってる
江戸時代初期の段階で30万人以上だから、これはありえない。
戦国時代、京都の市街地は縮小しているが、都市の人口密度は昔よりも増えている。
下肥の大規模利用は鎌倉時代末からだけど、戦国時代には組織だった下肥の売買も始まっており、
京都に限らず日本全土の都市人口密度も室町時代前半から後半、江戸時代と、どんどん増えている。
759 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 21:08:23.51 ID:RDbwzGp/
あ、ビレロじゃなくてビベロだ。大垣貴志郎監訳『日本見聞記』という翻訳で昔読んだ。
明治時代の研究者は、平安時代の京都は50万人!とか推定していたけど、
現在では多く見積もる人で20万人、少なく見積もる人で10万人。
要するに住民の出すウンコの処理に限界があり、100人/haが限界。
下肥の利用は平安時代以前からもあったけど、
積極的に下肥の利用が始まったのは鎌倉時代後半で、鎌倉末期の鎌倉があの狭い地域に都市
(石井進の推定人口6万〜10万人を採用すると、200人/ha以上)を発達させたのは、下肥のおかげとされる。
江戸時代前半の京都は、洛中21 km2中実際に人が住んでいたのは13 km2程度で、
43万人(斎藤誠治推定)/13 km2として約300 人/ha
洛中町方地区(8.4 km2)だけで計算すると、41万0089人/8.4 km2として約500 人/ha
760 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 00:48:55.13 ID:O8eSLlMP
>>757-758 三好長慶も信長も京の人口推定の手掛かりになる文書なぞ残していない
そもそも応仁の乱前の人口推計の平均的な数字は20万前後
戦乱や飢餓で焼かれたり餓死者で街路が埋まったという日記がある中で
減らなかったとすれば、正に奇跡
人別帳にしても抜けだらけで何割も残ってない
信用出来るとして挙げた京都御役所向大概覚書の数字は
どれも日本の人口が倍増した18世紀前半の数字
秀吉は戸籍調査などしてないよ、電波飛ばさないようにw
やったのは村落の申告に基づく検地だけ、戸籍調査出来たら商税を徴収してるっつーの
戦国期の焼失はあっても市街地は縮小などしてない、というか西も東も含めての数字
人口密度が増えた事実も存在しない、農村部の人口が倍増したのに対し
江戸時代を通じて京都の人口はほぼ一定
京都に限らず日本全土の都市人口密度は戦国末期から江戸時代にかけ
特別な要素(遷都や経済的な状況の変化)が無い限りほぼ一定
761 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 00:58:18.58 ID:WQksiEeE
>>760 >戦乱や飢餓で焼かれたり餓死者で街路が埋まったという日記がある中で
応仁の乱の前にも、大飢饉で10万人近い餓死者が出てますよね。
行き倒れの遺体の数を8万2千まで数えた... という記録。
人口20万程度の時代と思ったら、すさまじい大事件なんだなあ...
多くの死者を出す一方で、それ相応に周囲から流入していた、ということらしいけど。
>>750 平安時代と豊臣期の全国人口の差が小さすぎる、
鎌倉末から南北朝頃の技術発展、農業生産増大期を経ているとは思えないほどに人口の差が小さい。
これは、室町時代後半から戦国時代頃に、人口の減少が起こっていたと考えた方がいいのではないかとさえ思える現象と思うんですが。
豊臣期から江戸時代前半期(元禄年間ぐらいまで)の人口急増と比べ、
戦国時代の人口は少なすぎますよね。
762 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 01:02:33.75 ID:Ely8dbuB
京都研究はおもしろいよな。
最近なんか禁門の変のどんどん焼けも長年有力だった長州藩の放火説が否定されて
腐女子に人気がある新選組がやらかしたことになっているし。
人気のせいか「京都を守る新選組」という表現がいまだ根強いけど。
763 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 02:16:44.61 ID:VNpELG+A
>>760 >そもそも応仁の乱前の人口推計の平均的な数字は20万前後
だからそれは誰の推定?むしろそんな推計があるんなら、その著者を教えてくれ。
>>753に書いたように『京都の歴史』3巻記載の人口推計では、室町時代前期(15世紀初頭)の京都の推定人口は10万人。
その内訳は、一般庶民1万戸5万人、公家・武家・寺社合計5万人。
庶民の戸数は、病院建設計画で1戸当たり1疋徴税して1万疋集めたという日記から。
公卿・武家・寺社の人口の推定根拠も一応記載されている。
応仁の乱後の推定人口については、原田伴彦の推定人口10万人は大乗院日記目録の数字を使い、
『京都の歴史』の推定人口15万〜18万人は、『和長卿記』と『応仁記』の数字を使っている。
>>753 記録に残っている戸数は、
1467年の3万戸(応仁記)、
1471年の20万6000戸(海東諸国記)
1500年の2万戸(大乗院日記目録)〜4万戸(和長卿記)
1549年の9万6000戸(日本通信)
1571年の6万戸(日本通信)
だが、江戸時代の町方戸数が7万戸とかいった規模だから、ザビエルの9万6000戸や
海東諸国記の20万6000戸は何かが間違っている。
1610年に京都に来たロドリゴ・デ・ビベロはフィリピン臨時総督で、むしろ役人側の人間。
764 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 02:17:36.02 ID:VNpELG+A
>戦乱や飢餓で焼かれたり餓死者で街路が埋まったという日記がある中で
>減らなかったとすれば、正に奇跡
別に戦乱の度で人口が減ったことは否定しないよ。碓井小三郎の説に従うなら、4万人まで減っている。
ただ、結局その後には回復している。
>人別帳にしても抜けだらけで何割も残ってない
>信用出来るとして挙げた京都御役所向大概覚書の数字は
>どれも日本の人口が倍増した18世紀前半の数字
日本の人口が倍増したのは17世紀。18世紀以降近畿の人口は全般に減少している。
人別帳は余り残っていないが、人数帳はそれなりの時代にかけて残っている。
で、京都御役所向大概覚書の記録は17世紀前半から18世紀前半までをカバーしてる。
1634年の数字は、幕府からの拝借米に関して記録された役所の書類のもので、現存する最古の宗門改帳の作成年でもある。
>秀吉は戸籍調査などしてないよ、電波飛ばさないようにw
これは失礼。人口調査と書くべきだった。
検地と合わせて人数帳を作成するよう命じているが、全国規模のものは結局作成されなかった。蒲生領など一部地域のものしか残っていない。
>戦国期の焼失はあっても市街地は縮小などしてない、というか西も東も含めての数字
室町時代前期から戦国時代にかけて、京都の市街地は大幅に変化していることが、
発掘調査で明らかになっている。その辺の考察は仁木宏編『都市―前近代都市論の射程』(2002年)に詳しい。
765 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 02:23:59.00 ID:VNpELG+A
>江戸時代を通じて京都の人口はほぼ一定
35万人一定説は、『京都の歴史』5巻が採用していた説
「京都の人口は江戸前期とほぼかわらず、35万人から35〜36万人の間を上下していたと考えられる。もちろん、これは町方の人口であるから、これに公卿・武家を加えるとやはり40万人前後ということになろう。」
一方関山直太郎『近世日本の人口構造』(1958年)は、幕末には京都の人口は30万人を切って20万人台に落ちていたと推定している。
斎藤誠治の論文「江戸時代の都市人口」(『地域開発』1984年, 48-63頁では、京都の推定人口を43万人(1650年)→37万人(1750年)→29万人(1850年)と減少説を支持している。
歴史人口学者の浜野潔の『近世京都の歴史人口学的研究』(2007年)は、京都の町屋の人別改を詳しく調べ、
1864年(元治元年)の京都の戸数に関し、宗門人別改から算出された平均世帯規模を掛けると
洛中世帯規模4.25×洛中戸数53367戸=22万6810人
洛外世帯規模3.39×洛外戸数15688戸=5万3182人
総人口 27万9992人
となることから、京都の人口縮小という説を支持している。
>京都に限らず日本全土の都市人口密度は戦国末期から江戸時代にかけ
>特別な要素(遷都や経済的な状況の変化)が無い限りほぼ一定
最初「室町中期頃から江戸時代」って書いてなかったか?
>>756 >1598年の京都の人口を50万と推定した研究者もいるんだよ
実のところその部分は、戦前の京都在住の日本史研究家Ponsonby-Faneの著作の中で、
友人の碓井小三郎の引用として書いている文しか見つけていない。
Tertius Chandlerも引用しているけど、碓井小三郎の著作の中に京都の人口を推定したものはなく、推定の根拠がさっぱり分からない。
なんとなく江戸時代の人口の記録で50万人以上というのがあるから、現在の京都市街地がおおよそ形成された豊臣期の人口もその位に跳ね上がったんだろうとかいった推定で出したんだろうけど、
まあ明治〜大正初期の京都の郷土研究家だし、根拠を示した文章がPonsonby-Faneの文章以外見つからないので、研究家の推定人口としては無視してもいいと思う。
766 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 02:58:05.15 ID:VNpELG+A
>>761 ファリスの説に従うなら、十分人口は増えていると思うけど。
950年:440万〜560万人
1150年:550万〜630万人
1280年:570万〜620万人
1450年:960万〜1050万人
1600年:1500万〜1700万人
広く引用されている鬼頭宏(1996年)の数字でも
900年:644万人
1150年:684万人
1600年:1227万人
鬼頭宏もファリス説(江戸時代前期の人口増加はせいぜい倍程度)を支持しているのなら、
改訂した全国人口分布の推定を発表して欲しいんだが、
師匠の速水融(150年間で3倍に人口増加説)に遠慮してるのかな。
767 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 03:59:24.62 ID:VNpELG+A
768 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 08:18:48.27 ID:bYtqkhAz
>>760 お前みたいに出典も出さずとりあえず相手を否定って楽そうでいいな
769 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 12:19:24.01 ID:KSuUBHNh
秀吉の人掃令って、どの程度実行されたのかね?
770 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 12:47:59.34 ID:oZs//48J
秀吉の法令なんてありとあらゆるものが不徹底で恣意的で適当なんだから、
人掃令だけがその例外とは考えられないわな
771 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 17:23:58.34 ID:gc4RCA+N
まあそうだな
772 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 19:16:55.58 ID:1K9C6qlz
てきとうだったからこそ
一番繁栄していたようにもおもえます
773 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 19:46:41.83 ID:Hn0shKtX
秀吉の時代が繁栄していたとか何の冗談だよ
774 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 20:31:55.19 ID:1K9C6qlz
秀吉時代が一番繁栄していましたが?
775 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 20:40:39.14 ID:fG26fPDD
具体的に何がどう繁栄していたかを史料を上げて述べよ
776 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 21:21:08.76 ID:KrBvNm51
栄えたかどうかは別にして、一番重税(年貢7割)だったよね
(…秀吉を持ち上げる気持ちがわからん……)
777 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 21:27:05.51 ID:TkEthmSt
権力側の建築物や調度品をみると
如何にも絢爛豪華だが、
民衆はどうだっただろうね。
778 :
人間七七四年:2011/11/26(土) 01:44:10.85 ID:ItvFdAhs
繁栄って言ってもどの時代もどこかしらは繁栄していたわけで。
悪政で庶民に重税を課し、大奥の穀潰しが無駄な浪費を繰り返した頃は商売人が儲かっていたし、
桂昌院のバカタレは国を傾けたけどそれで甘い汁を吸ってたダニがたくさんいたんだよな。
倹約令が発せられた頃は大奥の無駄使いに掣肘が入り商売人の利益は減ったけど
財務も改善せず庶民の重税も変わらず。・・すでに手遅れだと財政再建は痛みしか伴わないかw
779 :
人間七七四年:2011/11/26(土) 02:37:00.27 ID:DPw1/h2X
>>778 講談小説のみでできた時代把握だなw
それに明治新政府の徳川暗黒史観が入り交じって
実に香ばしいものにw
780 :
人間七七四年:2011/11/26(土) 04:55:22.71 ID:ruNWffLO
3段目だけは一般的な解釈だろ
781 :
人間七七四年:2011/11/26(土) 09:53:33.85 ID:ME6HAjuv
結局、豊かな暮らしとは他人の幸せを奪って成り立つものだからな。
全員が等しく豊かに暮らすなんて事はありえない。
782 :
人間七七四年:2011/11/26(土) 10:31:09.34 ID:B8hfXb5i
NHKのさかのぼり日本史で北条は市の開催日をコントロールして税収を
増やしたと言ってましたが、どこの大名も市の開催日なんて調整してたんではないでしょうか?
記録にないだけで普通気付くと思うのですが・・・・・・・
783 :
人間七七四年:2011/11/26(土) 10:54:25.81 ID:tw2UYmVi
市を主催する寺社や座を意のままに操れる強権力のある大名は限られていますので
784 :
人間七七四年:2011/11/26(土) 11:25:15.68 ID:jG/LsC2R
大奥制度はクソだけど
生活保護とか専業主婦や勝手に離婚した母子家庭まで優遇するのはもっとクソだ
785 :
人間七七四年:2011/11/26(土) 11:49:19.41 ID:ME6HAjuv
大奥制度は浮気防止の必要性があったからね。
今みたいにDNA鑑定なんかないんだから他の男の種か判別できない。
世継ぎは不義の子だという噂で家が傾いた例なんかいくらでもあるし。
786 :
人間七七四年:2011/11/26(土) 11:57:42.33 ID:ME6HAjuv
豊臣が滅亡した原因の一つが「秀頼は秀吉の子ではない」という噂である。
秀吉死後にたくさんの豊臣恩顧があっさり豊臣を見捨ててしまった一因にこの噂がある。
もし茶々が秀吉以外と性交不可能な状況で懐妊したのならこんな噂は立たなかった。
それを直に見ていた徳川はそんな事が起きないように大奥という閉鎖された女だけの空間を作った。
787 :
うどんの国から:2011/11/26(土) 12:33:16.07 ID:3UbJr4le
788 :
人間七七四年:2012/01/19(木) 10:50:02.78 ID:V9nilEdq
戦国大名たちが後先考えず貴重な金銀を国外に流出させて火薬とか購入していたのは
今の基準で考えると国益を損なう勿体ないことをしたとおもいます。
彼らが無駄遣いしなければ日本には鉱物資源という強みが残っていたのにとおもうと残念でありません。
戦国大名の無駄遣いというか戦国時代に流出してしまった貴金属はどのくらいあったのでしょうか?
789 :
人間七七四年:2012/01/19(木) 11:20:46.57 ID:1xyY51SG
戦国時代だと銀は流出したが代わりに金が入ってきて
現在の価値から見れば逆に儲けてるという試算もある
幕末の金流出の方がよっぽど大問題だな。
790 :
人間七七四年:2012/01/19(木) 11:44:45.26 ID:XnZd7MBn
後先考えて生きている世代なんか皆無だろ。
今の世代がどれだけ未来を破壊しているか考えたことあるの?
791 :
人間七七四年:2012/01/19(木) 12:09:09.73 ID:1xyY51SG
そら今の国の借金にくらべたら鼻くそみたいな話だわな
792 :
人間七七四年:2012/01/19(木) 14:42:04.98 ID:c7RLl2f2
灰吹法南蛮吹きとか金銀輸出あってこその(民間)技術導入だし
種子島購入自国生産も(政策ではなく)民間の豊富な国内資金あってこそ可能になったわけで
メキシコとかジャワとか外人に豊富な資源を収奪されただけ、てのが一般的な状況で
ものすごく当時の日本は金銀をうまく使って発展した、としか言いようが……
793 :
人間七七四年:2012/01/22(日) 22:12:56.03 ID:S0XN6nL4
地味に銅も輸出しまくっていたけど
銭になって一部もどってきたからこれはいいことか
794 :
人間七七四年:2012/01/22(日) 23:25:29.64 ID:wO0734J0
当時の日本産銅地金は金銀含んでたのよ
「南蛮吹き」が広まるまで、海外の商人は日本産銅買って金銀取り出して儲けてた
795 :
人間七七四年:2012/01/30(月) 20:25:35.66 ID:9vE/XMNW
えええええ
796 :
人間七七四年:2012/01/30(月) 21:53:42.82 ID:cHZox+Wg
まあ海外の商人つっても大半は明商だけどね
797 :
人間七七四年:2012/01/31(火) 00:53:41.59 ID:c4+tXjYN
塩とかは経済に影響あったのかな
798 :
人間七七四年:2012/01/31(火) 00:55:04.68 ID:LZJfaO5L
無いわけがないだろ
799 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 17:42:06.10 ID:vUMiwvHe
800 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 17:54:20.64 ID:IKtANF4H
>>799 こういったリアル等身大な感じは好きです
見栄え良くするために天守閣とか漆喰壁とか後世の建造物を無理矢理くっつけたのは好きじゃない
801 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 18:00:17.96 ID:IKtANF4H
マルチコピペかよ
802 :
人間七七四年:2012/03/04(日) 18:35:14.09 ID:Jctq25KB
803 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 13:50:08.21 ID:C9oexnVs
戦国時代ではないんだが、古代の秋田城の想像復元図を見たい。
804 :
人間七七四年:2012/05/07(月) 06:42:16.90 ID:v5kENgV7
経済の発展した畿内と農業の盛んな穀倉地帯では米の価格に差があったのでしょうか?
あと飢饉や凶作が一部地域だけだった場合は、地域ごとの価格差が発生したのでしょうか?
そういった価格差があれば転売を生業にすることもできますよね
805 :
人間七七四年:2012/05/07(月) 09:32:15.59 ID:skN5B6HU
>経済の発展した畿内と農業の盛んな穀倉地帯では米の価格に差があったのでしょうか?
>あと飢饉や凶作が一部地域だけだった場合は、地域ごとの価格差が発生したのでしょうか?
ありますよ
>そういった価格差があれば転売を生業にすることもできますよね
残念なら無理です。安価な大量輸送手段がありませんから
米って嵩張るんですよ。だから鎌倉・室町の頃は年貢を現金化、もしくは嵩張らず高価なものにしてして京に送るって事をしています
ともかく近世までの飢餓は輸送手段が稚拙だから起きたものが大半です
京に限れば米座が米の流通を独占していて、豊作でも米価格を維持するため流入を制限して餓死者が出たくらいです
806 :
人間七七四年:2012/05/08(火) 00:13:38.88 ID:lHONAG3/
>>804 あった、最大で倍近く
発生した、結局需給関係
商人の存在自体、転売が基本
807 :
人間七七四年:2012/05/08(火) 13:00:17.31 ID:0wbTdQ4v
>あった、最大で倍近く発生した、
倍どころではありません
1250〜1600年までの間、米の値段は安定していて(インフレしていない)
1石500〜1500文の間を動いています
安いときは500文、高いときは1500文ですので3倍近い差が出来ます
ちなみにコレは卸値で小売値はコレの1.5〜2倍の価格になります
それでも儲からないのは、輸送コストの問題です
808 :
人間七七四年:2012/05/08(火) 14:01:44.35 ID:0wbTdQ4v
>それでも儲からないのは、輸送コストの問題です
あとは米の流通の仕組みのせいで一般商人による貿易が難しい点
米は2つの経路で米商人に渡ります
1つは武士からの年貢米
多くの米商人は武士から年貢の収納と保管を任されていました
輸送費と関賃、保管料を差し引いた分を領主の求めに応じて、米なり銭なりを渡しました
もう一つは農民からのルート
農民も自分で食べる分以外は米を銭に替えます
で、この米を米商人が市場に流します
米の交易が出来るとしたら、購入ルートをほぼ独占している米商人だけなのです
そういうわけで米の転売を生業に出来るものがいない理由として
輸送費用の他に流通ルートの独占があるのです
809 :
人間七七四年:2012/05/08(火) 15:20:33.72 ID:lUHcPJ+S
転売が儲からないのは、輸送費用がバカにならない、ってのもあったかと
鎌倉時代だけど、敦賀から山越えで琵琶湖北岸(塩津)まで米一石につきニ斗かかった(20%)
琵琶湖の比較的安い船便だけど北岸から大津まで米一石につき四升八合(4.8%)
年貢の運送料は必要経費だけど、転売の場合は儲けに直結するからねぇ
それにいくら高くても京都の元売りコメは米座商人の独占だしな
810 :
人間七七四年:2012/05/08(火) 17:36:31.24 ID:lHONAG3/
>>808 それだけ詳しいなら米座が有ったの知ってるよな?
811 :
人間七七四年:2012/05/08(火) 18:52:38.64 ID:eJlT++hn
>>810 >805は>808ですから当然です
808は地方の米座(に相当する米商人)の話です
京の米座にしても転売屋ではありません
元々坂本や鳥羽の米商人から京のの米売買の主導権を奪う目的で作られました
結果、京の米流通を支配する事になりました
京の米は近江米を消費していました。さらに瀬戸内航路から西国の米が入ってきます
これらの流入をコントロールし、京の米場に卸していました
この時の売却価格を維持するために米を入れず、
豊作にもかかわらず京で餓死者が出るという事件が頻繁に起こりました
812 :
人間七七四年:2012/05/09(水) 02:50:58.64 ID:uwcyOc1w
>>811 >この時の売却価格を維持するために米を入れず、
>豊作にもかかわらず京で餓死者が出るという事件が頻繁に起こりました
ここらの記録はあるのかな?
本当に都に米がないのなら在住商人貴族武士層にも餓死者がでると思うんだけど
そういう記録は無いよね??
室町時代、諸国で飢饉が起きると食えなくなった貧民が都に上る、ってのは日常になり
そういう人達ってのは基本無職でお金持ってないから都来ても餓死してしまうわけで
そこまでの責任を米座商人に負わせるのはナニって気がするんだけど
ちなみに”悪将軍”足利義教が米価格高騰理由で”悪徳米商人”処刑してるけど
一千貫の冥加金断った後でのことだから、実際のところは……
813 :
人間七七四年:2012/05/09(水) 06:51:19.61 ID:mqRgOVMh
814 :
人間七七四年:2012/05/09(水) 06:53:42.60 ID:mqRgOVMh
>室町時代、諸国で飢饉が起きると食えなくなった貧民が都に上る、ってのは日常になり
>そういう人達ってのは基本無職でお金持ってないから都来ても餓死してしまうわけで
これは一般的な大都市共通の問題で、米座とは関係ありません
なにより"豊作なのに飢餓が起きている"と言うのに当てはまりません
815 :
人間七七四年:2012/05/09(水) 14:59:29.74 ID:uwcyOc1w
四府駕輿丁座のことを「公的機関」とみなすなら、当時の経済はすべて統制経済になっちゃうような
(御朱印だって町人の蔵に収められてる時代だしなぁ)
いや問題にしたいのは、米座の存在が豊作でも餓死者が出る原因とみること(
>>811)
米の価格ではなく”量”のコントロールを米座が行なっていた(許されていた)という点
つか都の米が高騰すると消費側の規制(だいたい酒造り規制)が出され、
ぎゃくに供給側に対しての命令はめったに出されてないので、どうもソコに疑問があるんだけど……
816 :
人間七七四年:2012/05/09(水) 23:47:32.26 ID:qxjjcT0H
>>811 まず、流入をコントロールする必要があるって事は、コメが移送されていたという事
まさかこいつらが全国各地のコメを集めてたわけじゃなかろう?
ということは地方商人が売りに来ていたという事
売りに来ると言うのは当然、利益を見込んでいるから
これつまり転売
こんな視野を広げなくても、鉱山でにぎわってる街の食料はどこから来たんだ?って疑問が発生するわけだ
そしておまえ自身が言ってるけど、各地から集めてるんだろ?
輸送コストはどうなったんだ?
輸送コストが嵩むから転売しないと言ってるやつがいるが?
尾張のコメを鎌倉に輸送したいけど、最近は海上が危険なんで換金したけど...という寺院の幕府への訴状だったかな、が残ってる
そして戦国期にも今川が、米座が友野のコメ売買をけしからんと言ってきたが、コレまでのように友野が売買しろやと申し伝えてる書状もアル
これ伊勢から関東へ送ってるコメを買うときの権利問題なんだが、ばっちり商品米としてコメが西から東に流れてるのが分かる
だから、結論は
>>806 京都の米騒動は一過的なもんだろ
記憶あやふやだが、その後京都の米座の商人がクビ刎ねられて、不正が是正されたら溜め込んだコメが不良債権になって米座衰退したと呼んだ記憶があるが
817 :
人間七七四年:2012/05/10(木) 00:43:52.77 ID:CcKSr5uN
>>816 運送料だけど、日本海航路での敦賀港からだと
敦賀−(20%)→塩津−(4.8%)→大津−(10%)→都、くらいかかった
これに敦賀までの運送料や各地の関所分別にしての話だから
倍くらいの価格差では利益でないくらい必要経費がかかる
で、年貢輸送の場合、経費として年貢の一部で賄われるので輸送費無問題
都の米座は、この京に集められてくる年貢を引き受けて売買してた
そして座に所属していなければ、京に米を運んできても”都で売買”できない名目
(これは米座が貴族幕府関係者の収入に直結してるから守られてた)
つまり都と地方の価格差があっても、それを部外者(地方商人)が利用することは、ほぼ不可能
で、地方の場合、座の権利保護は現地為政者のさじ加減だった
(赤松満祐も座の要求を適当にあしらって楽市作ってる)
この場合、農村と地方都市間での価格差で儲けていた
まぁ状況によっていろいろあったかと
818 :
人間七七四年:2012/05/12(土) 20:13:13.30 ID:kRDafFDD
飢饉と言うのは米の豊凶だけじゃなくて、流通機構の問題とか、民衆の経済状況とかいろいろ原因が考えられるからなぁ。
本当の意味で飢饉と無縁な社会なんて現代のごく一部の地域にしか存在したことはない。
819 :
人間七七四年:2012/05/15(火) 17:06:33.02 ID:8Rn4Sze1
年貢の輸送が遠隔地ほど貨幣納になっている
無論コメも
じゃあ地元に売られたコメはどこに行くんだろうな
むしろコメを買った商人はどこで捌いて利益を得るんだろうな
820 :
人間七七四年:2012/05/15(火) 18:37:13.59 ID:6twQ/+QR
>819
大名、国人が戦用に買い付けるんじゃないの
821 :
人間七七四年:2012/05/15(火) 18:56:43.42 ID:XPPK3bv4
>>819 遠隔地の年貢は銭納以前から米じゃなくて高額品(毛皮金とか現地高額特産物)だったよ
米所の場合、荘園領主が年貢運搬の運輸手段などを整備してる
(日本海航路とか都宗教領主が米輸送のために整備したもの、同時に米為替決済も担当)
で、輸送手段が整備された地域(例えば越後北陸)では、銭納よりは現物納を求められてた
(この地域では”褒美”として銭納の権利が与えられ、勝手に銭で収められなかった)
つまり当時の米輸送は領主自らによる荘園から都への輸送(実体は年貢)
まぁ秀吉により(完全には江戸時代に入ってから)あらゆる関銭が全廃されて
廻船航路が整備され船会社?定期便に完全移行してからが
商業的(投機的)物流の本格化の始まりじゃないかな
(それから日本各地での「名産物」の種類が急激に増えるし)
822 :
人間七七四年:2012/05/15(火) 20:22:59.96 ID:8Rn4Sze1
越後が米どころとは聞いたことが無いが
中国地方、近江、濃尾平野だろ
銭納
その手に入れた銭で何を買ったんだろうな
当然消費としてかなり大規模、生産者から直接物資を買うわけじゃないだろう
823 :
人間七七四年:2012/05/15(火) 20:23:26.45 ID:8Rn4Sze1
あぁ、米どころは文章切れてたのか
悪いそこは忘れてくれ
824 :
人間七七四年:2012/05/16(水) 03:06:57.65 ID:1C1lOoPK
銭納される側(都)が「銭の信用維持(米銭交換の保証)」してるんだぜ
当時の銭が「信用貨幣」だった、ってのは過去ログ読む方が早いと思う……
825 :
人間七七四年:2012/05/24(木) 09:33:16.97 ID:E7IwNE2J
武将風雲録で豊作後の0.8で米を書って2.0で米を売り
今井宗久に大損させまくってた頃を思い出す。
米は輸送量かからないけど1ヶ月で隣国までしか輸送できない仕様だったなあ。
826 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 17:32:06.47 ID:FC0wGs9W
織田氏が金銭授受に関するお触れを出して円滑な流通を目指したものの
当の商人は抜け穴を突いて米札で決済してしまったために狙い通りの効果を得ることはできませんでした。
貨幣の流通時にお触れに違反した場合には処罰する規定がありましたが、
米札などを利用した脱法行為には何らかの対策措置が採られたのでしょうか?
827 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 01:08:36.45 ID:kwDVM9Ns
当時の経済は銭不足の状況、それ故の米札で「脱法」とみるのはいかがなものだろうか
つか「円滑な流通を目指した」というのに違和感が……
当時(室町時代)の経済政策はall商人まかせ、織田氏だって景気政策というより
「納入される税や支払時の銭の価値を維持する」のために撰銭令なんか出してるわけで
本当に行政側が「円滑な流通」を望むなら「良質の通貨流通量を増やす」か
後の豊臣氏が行った「通貨改革」をすべきだけど、そんな様子はないからね
828 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 08:50:17.96 ID:7lmLRt0r
豊臣家は通貨改革したの?
829 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 11:40:29.44 ID:EAUyeEAK
豊臣の規制緩和は大成功
徳川の規制復活は大失敗
こんなイメージ
830 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 13:32:39.61 ID:7lmLRt0r
豊臣の政策は全て軍事のために行われている
831 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 13:48:37.70 ID:E8g2Epr8
>>826 十合升公定に見られるように統一基準を設けていったことが世間にも良い影響を与えていたけど
こと貨幣に関しては杓子定規にあてはめるのは完全に裏目に出た。
従来の撰銭令は混入比率の上限により鐚銭の状態に関係なく一定の利用を保証したのに対し、
新しい撰銭令ではうやむやになっていた鐚銭の価値を細分化してはっきりさせたために逆に混乱の元凶となった。
いままでは鐚銭の価値基準は一定割合までなら同等扱いだったのに今後は良貨より低くなるため
撰銭行為が酷くなり、商人間の決済も滞るようになると
解決法としてやむなく双方納得できる代替措置の活用が広まっていくのは当然。
>>827さんのおっしゃるように織田信長としては撰銭令によって市中経済の流動性を改善するというよりも
自身の保有銭の利用価値を維持することが目的だった。
そのため代替決済に関して取締りは特に厳しくは行われていなかった。
832 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 23:32:25.34 ID:FtGjfJFc
>>827 貨幣経済の進展は農村の荒廃を招き結果的に
領主をはじめ大名の収入源に繋がるからねえ。
日本で初めて通貨を統一した江戸幕府ですら
それを恐れるあまり米中心の石高制から抜けだせなかった。
833 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 23:43:53.24 ID:4WS6X2Jk
後の地租改正では反発されて一揆が発生したようですね。
834 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 00:20:36.06 ID:E/bLEClq
>>833 あれは それまで「収穫」にかかってた税(年貢)が、土地の値段にかかる(地税)ようになったからよ
つまり、それまでは”収穫したとき払う”が”年度末に一定額払う”という形になって
現金を持ってない層(耕作者)では税が払えなくなったから一揆につながったのかと
つか江戸時代は換金作物が広がり、農村でも富は蓄積されてたんで
税が払える仲買庄屋クラスは一気に大土地持ち山持ちになったんですけどね
まぁ時代違いの話題失礼……
835 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 20:22:26.56 ID:kL35Cf9s
小作人制度は多くの兵士を得やすいって利点があったはずなのに
戦国時代は何故、そういう制度が無かったんでしょう?
836 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 20:34:44.61 ID:7Qxp0lhg
そんな利点はありません。
837 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 22:24:47.03 ID:kL35Cf9s
いや。明治政府が小作人制度を容認した背景には
小作人制度で多くの離農者が生まれ
安価な金で兵士や進出先への移民を確保出来ていたって利点があったよ。
ただそれが何故戦国時代で行われなかったのが疑問。
838 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 22:29:19.25 ID:Um77HLya
ねえよ。つーかそれを利点というお前の感性がおかしい。
839 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 23:57:45.62 ID:E/bLEClq
>小作人制度で多くの離農者が生まれ
…この認識がさっぱりわからん、、、前より農業従事者へったら総農業生産量さがるだろうに
つか徴兵制ひいてた明治時代、日清日露戦争なんて根こそぎ兵隊になっってるのに
余剰労働力が軍隊に、とか話の流れがおかしい
840 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 23:58:04.23 ID:75H+0CR6
戦国時代の農村は常時人手不足だぞ
841 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 14:27:12.04 ID:ly3ULYNK
農地改革で小作人に土地を保有させたことで
国土開発の土地収用に支障を来たすようになったのは遺憾だ
百姓栄えて国滅ぶ
842 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 15:05:41.55 ID:Swfj2+QG
歴史ちょっと調べりゃわかるが農地改革以前の戦前の時代も大して変わらんよ。
843 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 23:11:20.19 ID:8mQ21Zhk
>>842 世界史を勉強すれば分るが小作人を生みだす制度っていうのは
安価な金で大量の兵を使える制度だぞ。
ローマ帝国しかり秦王朝しかり。まあ秦はやり過ぎて
滅亡しちまったけどな。
844 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 23:18:29.78 ID:kvntZnIM
秦はやり過ぎたんじゃなくて皇帝が仕事サボると行き詰る政治体制だっただけだ
845 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 23:55:53.86 ID:v+0EuYQq
秦は、統一戦争が終わったのに、戦争用の増税分を撮り続けたからじゃないかな
ここは豊臣政権末期に似てるのかもしれんけど……
846 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 00:01:24.60 ID:kvntZnIM
>>845 その後、ベトナムを攻め、モンゴルを攻めて未だに戦争継続してたよ
847 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 00:06:05.45 ID:SmZeOzs0
>>843 そりゃお前の認識が根本的に間違えてる。
古代世界でも優秀な兵士が提供できるのは自作農だ
848 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 00:11:03.45 ID:qvcLI6WB
>>847 …そんなガイウス・マリウスの軍事革命を否定するような……
849 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 00:28:40.99 ID:p3aX0lDK
ありゃ小作じゃなくてあぶれた余剰人口だろ
850 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 00:30:25.84 ID:5LFHeYzS
ローマは専業化して給料上がって安価じゃないしな
851 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 01:37:07.15 ID:frfal0b5
>>848 あの改革のせいで金持ってない人が指揮官できなくなってんだよ
兵士が無産なので上官が装備とか自弁してやらにゃならんくなってる
852 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 02:09:02.13 ID:SmZeOzs0
兵士が国軍の兵ではなく事実上の将軍の私兵になったのもそのためだしな。
853 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 03:18:34.09 ID:qvcLI6WB
だったら「優秀な兵士が提供できるのは自作農」ってわけでもないじゃない?
(小作制度から安価な軍隊が生まれる、ってな話は自分も理解不能だけど)
戦国期の日本みたいに、余剰人口が発生したわけでもないのに評価の高い傭兵が生まれたりしてるし
農業生産(社会システム)と兵士(軍隊)の質って無関係じゃないのかなぁ……
854 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 04:39:39.79 ID:PHSX/tZ2
そりゃそうだろ
855 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 07:05:43.27 ID:SmZeOzs0
”安価に大量に”ってのが嘘だって話だからな
856 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 11:05:20.77 ID:NxfpkodR
戦乱の世は地主って存在そのものが生まれにくいしな。
857 :
人間七七四年:2012/07/15(日) 21:35:54.98 ID:lSa4aZrw
むしろ不在地主の土地を横領されまくってた時代だからね
858 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 04:00:57.35 ID:YIGOIP/+
どうもあまり生産に向かない土地では傭兵が発生しやすいようだが、
日本の戦国時代においては支配権が弱いところに発生しやすいようだね
859 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 04:46:38.12 ID:NvXHDQC7
支配者が弱い=自衛のために武装=村が半ば独立=支配者が有事の際に雇う
こういうこと?
860 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 06:54:33.75 ID:cR1B2K2U
>>859 最期が違う。基本自衛のための武力を支配者に提供なんかしない。
支配者が村から得ることが出来るのはあくまで余剰人口。
861 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 09:40:13.97 ID:Ny3gx4oR
今で言う防衛費を払う代わりに軍役だから、自衛のため提供。
軍役従事層は土豪、本百姓層なので、余剰人口では無く村の中枢層
862 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 09:47:20.34 ID:2mnI9S4X
騒乱が収束し、軍役がなくなった頃になると
逆に税率が引き上げられたとかあったのかな?
863 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 09:51:23.83 ID:cR1B2K2U
>>861 それは土豪をどう捉えるかの問題。
村落を運営する「百姓」と、いわゆる土豪である「地侍」は階級として明確に分かれている。
864 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 09:54:05.25 ID:cR1B2K2U
>>862 江戸期で言うなら、大名によるが幕府直轄領である天領では基本的に減税に成った。たいていの大名も
減税思考だったのは確か。島津みたいな例外を除いて。
865 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 09:59:50.06 ID:Ny3gx4oR
分かれたのは戦国末期に軍役従事層の固定化が進んだ一部地域のみ、
あるいは秀吉政権以降(いわゆる現象としての兵農分離)
土豪にしても村や地域の支配層なので余剰人口ではない
866 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 10:05:05.31 ID:cR1B2K2U
地侍は小領主であって村落を構成する百姓とは違う。
かれらは一揆を組むときにも同階級である国人・地侍と組み百姓一揆には参加しない。
利害を同一にしないためである。
867 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 10:53:16.94 ID:0hrUq2rH
>>862 軍役がなくなっても新田開発や街道整備といった賦役がある。
ただ基本的には減税に努めようしてたところが多いみたい。
あまり重税を課すと一揆が発生するし逃亡する農民が続出しちゃうから。
868 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 11:11:10.51 ID:bzRK4qkz
>>858 常備軍飼っとく余裕ないからね
傭兵で必要に応じて兵を集めざるを得ない
869 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 11:26:48.19 ID:2mnI9S4X
870 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 13:42:55.51 ID:Ny3gx4oR
>>866 何が言いたいかさっぱりだけど
余剰人口云々は何処に行ったの?
871 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 13:53:57.88 ID:Ny3gx4oR
あとちゃんとした書籍から引用するのが面倒なのでwikipでスマンが
>土豪
>古い資料には地侍とか「名字の百姓」などという言い方で現れる。武士の中では下位で、
>侍でもあり百姓でもあるという兵農未分離の状態という意味である。
流動的な時代ゆえ明確に定義できる用語じゃないけど
俺様定義ならそれはそれで基準をまず明確にして貰わないと会話にならんぞ
872 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 14:08:48.02 ID:A7hI8joK
村の代表格の人たちは苗字っぽいの持ってる場合が結構あるような
873 :
人間七七四年:2012/07/16(月) 23:37:18.72 ID:NvXHDQC7
土方とかそうだっけ?
874 :
人間七七四年:2012/07/17(火) 01:45:49.48 ID:bmke+hxP
名字帯刀を許されるような商家でも、元々武家の出って家も多いよね
875 :
人間七七四年:2012/07/17(火) 02:18:57.04 ID:gyOWgnFx
室町時代には、けっこう誰もが苗字はもってたよ
受領書出だけではなく、「惣」の一員としての苗字もあったりする
まぁちょっと有力な村人だったら官途名乗りした時代だから
わざわざ土豪、地侍、百姓等の区別を付ける意味はないんじゃないかな……
876 :
人間七七四年:2012/07/17(火) 13:27:03.53 ID:zUkPvpo/
話をぶった切ってすまんけど
明の朝貢利権と公的な交易利権と倭寇の私貿易の関係がよくわからんです。
朝貢は明から下賜が行われるメリットがあるので細川と大内で朝貢利権が争われていたというのは有名ですが
交易利権の方は誰が握っていたのでしょうか?
大寧寺の変の後に明側が簒奪者の朝貢を拒否したというのは有名ですが
公的な交易も拒否られてしまったのでしょうか?
下賜の出費を嫌い朝貢を認めないのはわかりますが、
交易で輸入を禁止するのは明にとってもデメリットは大きいと思います。
877 :
人間七七四年:2012/07/17(火) 14:23:50.56 ID:gyOWgnFx
>>876 明ってのは基本的に海禁(鎖国)、つまり”海外交易を認めてなかった時代”
輸入禁止はデメリットも何も、ただの通常営業状態
倭寇対策のためだけに特例として「勘合貿易」が許されていたのよ
だから「朝貢を拒否」ってのは「公的な交易拒否」と同じことだよ
878 :
人間七七四年:2012/07/17(火) 14:33:51.85 ID:zNXLtCsP
>>877 ありがとうございます。
朝貢を認める=特例の対象、朝貢を認めない=特例の終了ってことは
大内の内乱で商人は特例が認められなくなってとばっちりくらったわけですね。
879 :
人間七七四年:2012/07/18(水) 23:13:28.24 ID:sUB0ZF2l
明はやってることは貿易だけど
表向きには
貢物持ってきた褒美に欲しいものを授けようってスタンスだからな
880 :
人間七七四年:2012/07/19(木) 18:05:33.11 ID:LzZkb06X
>>848 秦がやったのは自作農の養成と皆兵制度
武器防具兵糧は完全支給
小作人や商人は制度的に抑制されてた
>>853 戦国期日本の武士も下層は自作農だから
召し抱えられる様なのはエリート専門職で傭兵とは違う
881 :
人間七七四年:2012/07/19(木) 18:37:26.59 ID:ULAOM8wn
>>880 「自作農の養成と皆兵制度」だけが優秀な兵士を作る方法じゃない、ってツッコミじゃ?
882 :
人間七七四年:2012/07/19(木) 23:37:38.63 ID:FH5eg2f8
>>880 自作農が戦国時代の兵士?
いまの学者の前で同じこと言えんの?
883 :
人間七七四年:2012/07/20(金) 01:13:33.94 ID:Y6ZF52zd
一領具足とか有名だろ
884 :
人間七七四年:2012/07/20(金) 04:54:31.51 ID:bis/4Eyx
>>883 ありゃ地侍だ。戦国期は
自作農はあくまで百姓だ。
885 :
人間七七四年:2012/07/20(金) 06:01:18.02 ID:Fy0M5dlS
出征して兵士がいなくなった分の穴埋め役として召集されることはあったみたいだね
886 :
人間七七四年:2012/07/20(金) 06:59:16.71 ID:bis/4Eyx
何故か勘違いされがちだが(多分明治後の徴兵をイメージしているためだろうが)、戦国期の村は足軽を提供していた
わけではない。村が提供するのはあくまで非戦闘員である人夫や軍夫。
足軽の提供を義務付けられていたのは武士階級であり、足軽はその武士と主従関係を結んだ被官身分である。
在村被官は確かに百姓と同じ村内に住んでいたが、お互いに身分が違った。
これの居住空間の分離をはかり村落を百姓の自治体と規定したのが秀吉の身分法令である。
887 :
人間七七四年:2012/07/20(金) 20:42:11.50 ID:Y6ZF52zd
自作農の内の契約軍人である給人は自作農じゃないと言ってる訳ね
あっそ、としか言えんわな
888 :
人間七七四年:2012/07/20(金) 21:36:14.36 ID:GGtG7QBB
>>887 給人は武士だぞ?
領主によって土地を与えられるか保証されることを条件に
兵役義務を負ってるんだから
そしてその土地から税収を得ることが出来る
給人地は血縁者と使用人だけが住まうわけではないから
農作業を行うものは皆農民なら大身でないと武士ではないということになってしまう
農民で兵役義務を追っている例は武田の年貢が払えないほど貧しい土地に住む農民に
年貢の免除の代わりに兵役に出ることを要求した例くらいだな
この兵役義務は決まった村で、大名(武田)との直接契約で行われる
備に組み込まれる時は村のある土地の領主に従うことになる
889 :
人間七七四年:2012/07/21(土) 11:31:56.82 ID:Vt512XiT
徴兵に応じたら戦後に百姓から中間にするって文書があるんだけど
890 :
人間七七四年:2012/07/21(土) 12:04:00.18 ID:ijSPW+5s
それ北条の、秀吉の小田原征伐に対処しようとした時のだろ?特殊例中の特殊例じゃないか
891 :
人間七七四年:2012/07/21(土) 12:13:33.72 ID:jUbVLZMA
武田や北条は軍事機構である軍役衆と内政組織である村を分けて直接支配できた
プレ近世大名とも呼ばれる先進大名だから大名のほうが例外
892 :
人間七七四年:2012/07/22(日) 05:03:16.02 ID:D2Rbg81y
ふむ、都合の悪い事は全部特例にすればいいのだね
893 :
人間七七四年:2012/07/22(日) 11:46:15.20 ID:3dI/kya/
他にも同様の文書がもあれば、特例では無いだろうね
自分は判らないけど
894 :
人間七七四年:2012/07/22(日) 14:34:07.35 ID:+/T1dTYR
>>892 お前は本当に物事を考える頭ってものを持ってないのな。お気の毒に。
895 :
人間七七四年:2012/07/22(日) 15:00:23.01 ID:gNqDECaR
社会構造や支配構造を扱った本は
北条武田ばかり取り上げてるから勘違いするのもしょうがないわな
896 :
人間七七四年:2012/07/22(日) 15:32:08.11 ID:Sv8EYo6C
>>895 何でそればかり取り上げられるのか少し考えてみるといいよ?
897 :
人間七七四年:2012/07/22(日) 15:34:36.72 ID:kMtiKi0a
そればかり取り上げられる理由は簡単で文章記録多いから、だよ
他のところは文章記録がロクに残ってなくて何をどうやってたか不明というか
そもそも行政文章をそれほど残さない未熟な体制だったんでねーの?って話になってる
898 :
人間七七四年:2012/07/22(日) 15:36:19.63 ID:gNqDECaR
他のところは史料が残って無いから。と言うかもともと発給して無いからやね
899 :
人間七七四年:2012/07/22(日) 16:01:08.70 ID:rCOhI/a0
武田だって勝頼がそこらの行政改革進めたんだよな……
900 :
人間七七四年:2012/07/22(日) 19:25:20.61 ID:qvpy5Sde
残ってないわけではないんだがやはり関東周辺は研究家の基礎数が多いし人気もあるので取り上げられやすい
901 :
人間七七四年:2012/07/22(日) 20:09:22.09 ID:+/T1dTYR
畿内近国だって研究者は多いのに文献記録はサッパリである。
特に織田政権とかな。
902 :
人間七七四年:2012/07/23(月) 02:43:09.45 ID:pz8ukGkn
その織田ですら三好細川政権に比べればある方だけどな。
903 :
人間七七四年:2012/07/23(月) 06:07:41.23 ID:vYHPOYQC
在地支配に関する発給文書だと 三好>織田 だろ。
織田政権は全面的に慣習に頼ってるふわっとした構造だからな。
904 :
人間七七四年:2012/07/23(月) 07:02:10.49 ID:Ex7rMlz4
そういう締め付けが無かったからこその急拡大なんだろうなぁ
905 :
人間七七四年:2012/07/23(月) 11:51:50.16 ID:26EptZ1w
そして、だからこその解体かぁ
906 :
人間七七四年:2012/07/26(木) 01:26:04.74 ID:U65VFCph
あんまりにも締めつけが強いと離反を招くからなあ。
堺とかにも金は要求してるけど自治は認めてるし。
907 :
人間七七四年:2012/07/30(月) 17:24:44.04 ID:IjYLIxv1
遊牧民と一緒だな、軍事国家が強勢と略奪などの利益配分で急拡大
権益を巡って分裂、内乱
908 :
人間七七四年:2012/11/20(火) 14:35:14.88 ID:voeilQ3I
.
909 :
人間七七四年:2013/01/07(月) 15:53:35.33 ID:9zK0pARX
国力=石高と思っていたけど地域によって石高と貨幣の交換比率は違うし、(京大坂 0.5貫文〜1.5貫文=1石、 南部領 1貫文=5石)
石高は無くても収益の高い土地もあるので
一概に広大で石高の高い大名=勢威があるとはいえないんだな。
遣明船の利益(少なくとも)1隻1万貫文〜2万4千貫文 (3隻最大7万2千貫文)
堺の矢銭2万貫文(34億円)
石見銀山年間産出量3,600貫文相当
地方の雄を比較しても石高ならここまで差がないのに収益差はすごい。
1529年の越後の雄・長尾氏収入 546貫文
天文年間の東北の雄・伊達氏収入 棟別銭1,642貫500文、反銭6,826貫720文
1559年の関東の雄・北条氏収入 3万6千貫文
910 :
人間七七四年:2013/01/07(月) 16:01:00.49 ID:uqLjhkgN
その時代別なら石高も差があるだろ・・・
911 :
人間七七四年:2013/01/08(火) 02:00:48.85 ID:jej+vEaE
>>909 貨幣の価値が地域によって違うってのもあるし
地域によってどの貨幣を基準にしているかってのもあるので比較は難しい
912 :
人間七七四年:2013/01/11(金) 19:54:55.37 ID:EqBH42pM
913 :
人間七七四年:2013/01/12(土) 21:01:37.96 ID:KLuXUsnN
私貿易できる日本海側が太平洋側よりも圧倒的に有利だな
914 :
人間七七四年:2013/01/12(土) 21:09:09.88 ID:QJOkA49u
毛利が関ヶ原の転封の後、萩に首府を置いたのも、そういう事だ
915 :
人間七七四年:2013/01/16(水) 11:30:14.26 ID:y0+xX6+E
黒川金山は当時年400キロも産出していたと聞きます。
黒川金山や佐渡金山の閉山までの推定産出量(埋蔵量)はどのくらいだったのでしょうか?
916 :
人間七七四年:2013/01/17(木) 19:51:20.16 ID:P8/zwyGp
>>915 16世紀当時の世界の産金量が年5〜10トンらしい。
ちなみに現在国内最大の菱刈鉱山は年間産出量7.5トン、いままでの累計生産量200トンで
確認されている埋蔵量は150トン、さらに30トン分の追加埋蔵量が見込まれているという化け物鉱山。
甲斐の産出量よりもはるかに多いとされる佐渡の300年分を10年で追い越してしまった。
917 :
人間七七四年:2013/01/20(日) 17:01:39.29 ID:3+qj8vB2
日本の鉱山の金産出量ベスト11 (2001年3月時点)
鉱山名 所在地 産金量(t) 現状
01位 菱刈 (鹿児島)113 操業中
02位 佐渡 (新潟) 83 閉山 76トン説もあり
03位 鴻之舞 (北海道) 73 閉山
04位 串木野 (鹿児島) 56 休止中
05位 鯛生 (大分) 37 閉山
06位 山ヶ野 (鹿児島) 28 閉山
07位 高玉 (福島) 28 閉山
08位 大口 (鹿児島) 23 閉山
09位 持越 (静岡) 19 閉山
10位 土肥 (静岡) 18 閉山
10位 大谷 (宮城) 18 閉山
918 :
人間七七四年:2013/01/26(土) 12:23:34.42 ID:gn+om3Fv
貨幣経済が浸透していない地域って
物々交換やってたの?
919 :
人間七七四年:2013/01/26(土) 13:36:52.75 ID:oH4DJM/Q
アイヌのことを言ってるなら物々交換だな
920 :
人間七七四年:2013/01/28(月) 07:29:23.90 ID:ToM1cKAo
貨幣経済が浸透していた地域の方が少数だろ。
都市とか寺院とかぐらい。
921 :
人間七七四年:2013/01/28(月) 07:40:24.60 ID:+tSRp7Ow
922 :
人間七七四年:2013/01/29(火) 00:26:56.49 ID:J9VDNboU
戦国時代はそれまでと比べても貨幣流通がどんどんぐちゃぐちゃになってた時期でもある
宋銭から明銭だけでも価値にいろいろあっただけじゃなく、後のほうになると明からも銭が入らなくなった
そんなわけで私鋳銭(場合によっては貫前提のものまで)や地域通貨も増えていったんだけど、
もう物々交換でいいやって状態まで発展しかけたみたい
政権安定でようやく通貨が作れるようになって一応は安定したけど
923 :
人間七七四年:2013/01/29(火) 07:46:12.42 ID:UQrSQwKj
>政権安定でようやく通貨が作れるようになって一応は安定したけど
それはいつ頃のこと?
924 :
人間七七四年:2013/01/29(火) 08:14:39.42 ID:FKFCnRdu
豊臣以降にきまってんだろ
925 :
人間七七四年:2013/01/29(火) 09:45:33.89 ID:9VyuoArg
926 :
人間七七四年:2013/01/29(火) 16:22:04.52 ID:SS/+8RMX
調布税務署に調絹・調布納めてくるわ
927 :
人間七七四年:2013/01/29(火) 16:37:53.32 ID:IgCNfjdS
貨幣は信用されてはじめて流通するもの。東日本で馴染みのない地域が残っていてもおかしくない。
に、西日本だって出島貿易ではオランダや清国と代物替(物々交換)が行われていたじゃん。
ちなみに海舶互市新例のwikiによると
>わずか60年間で金239万7600両・銀37万4200貫が国外に流出しており、そして100年間では日本で産出した金の4分の1、
>銀は4分の3が流出していたのだった。また銅についても、45年間で11億1449万8700斤に及んでいた。
(ヽ´ω`)ハァ… 徳川のあほー
928 :
人間七七四年:2013/01/29(火) 16:58:39.27 ID:nfaWdNrn
お前があほや
929 :
人間七七四年:2013/01/29(火) 21:18:18.77 ID:QkWcQkiV
>>923 徳川家康の慶長通寳の発行は、皇朝十二銭以来、なんと約600年ぶりの中央政府による通貨発行だ。
930 :
人間七七四年:2013/01/29(火) 21:19:23.10 ID:k+zgCchD
>>927 Wikiを真に受ける馬鹿って未だにいるんだな。
931 :
人間七七四年:2013/01/29(火) 23:54:36.39 ID:s9rgDWV8
>>930 じゃあ、お前が出典上げて反論しろよ。
でないと、話が先に進まないだろ?
932 :
人間七七四年:2013/01/30(水) 00:46:28.92 ID:yzs0Ix7o
>>931 そのWikipediaの記事自体がまともなソースのない記事じゃないか…
933 :
人間七七四年:2013/01/30(水) 01:02:22.07 ID:vLswycj4
>>932 >
>>931 >そのWikipediaの記事自体がまともなソースのない記事じゃないか…
だから出典出して説明してやれって言われてるんだが。
もっともWikipediaはクソとか言う人間こそ、
Wikipediaの編集に加わり、そのレベル向上に寄与すべきだと思うがな。
934 :
人間七七四年:2013/01/30(水) 08:21:53.96 ID:B9Yx2VV4
>>926 土地税が租で人頭税が庸調だっけ?
昔歴史の授業で勉強したはずだけど戦国以前のことはさっぱり忘れてしまってる。
たしか班田制って奈良時代から平安時代くらいまでで
荘園制になると公家や国司、鎌倉からは地頭、
室町に入ると守護が力を持ったイメージだけど流れがよくわからん。
戦国時代に出てきた国人とか豪族ってのは守護とも違うし、あいつらは一体どっから湧いてきたんだ?
935 :
人間七七四年:2013/01/30(水) 08:35:51.08 ID:rQbKbMp4
>>934 国人は荘園制での荘官・郡司・郷司・保司、鎌倉以降の地頭の系譜
これらが独自に自分の領地を獲得、独立したのが国人
豪族(武士)は独立した領地を持つ武家の事
だから地頭や国人出自の豪族もいたりする
936 :
人間七七四年:2013/01/30(水) 09:23:16.54 ID:1AxqLdxi
937 :
人間七七四年:2013/01/30(水) 10:44:54.07 ID:B9Yx2VV4
938 :
人間七七四年:2013/02/12(火) 19:48:59.52 ID:meHcbImw
戦国時代の石高収穫ではなくて各地域の金銭収入の研究をしている学者はいませんか?
石高が高い肥沃な土地が最も豊かだと思っていましたが
港湾都市のほうがもっと栄えていたと聞いて驚きました。
939 :
人間七七四年:2013/02/15(金) 22:11:04.29 ID:IPemddQC
あ
940 :
人間七七四年:2013/03/04(月) 23:58:50.68 ID:jTof0V4u
武力を行使せず、経済面等で敵対大名を疲弊させて弱体化させたい場合
荷留めの他になにか使えそうな方法ってあるかな?
・偽金作って敵領内に流通させ混乱を起こす
・敵領内で盛んな特産品の職人を拉致or引きぬいてパクった上に宣伝しまくってシェアを奪い衰退させる
・関係ない山賊や海賊を利用して通商破壊をする
・敵領内の川の上流に塩を蒔いて農地を破壊する
941 :
人間七七四年:2013/03/05(火) 12:51:51.38 ID:w8oeZ2XC
>>940 塩ってけっこう貴重よ。
作るのに手間隙かかかるし。
塩をまく大名のほうが破産しちゃうよ。
942 :
人間七七四年:2013/03/05(火) 13:09:42.40 ID:8AEZyqrA
中学生ノート小説すかw
943 :
人間七七四年:2013/03/05(火) 13:17:07.37 ID:tssyF7h7
むしろ質のいい贋金だったら流通が活性化するかもしれないw
944 :
人間七七四年:2013/03/06(水) 03:10:50.61 ID:inbWooQs
>>940 日本だと青田刈りや祈祷のような嫌がらせは随時やってるよ。
モンゴル軍だとペスト病死体や病魔を媒介すると思われていた鼠を投石器で投げ込んで疫病を伝染させたこともあるし、
疫病が発生して弱体化した敵拠点を攻略したものの、略奪した兵まで疫病にかかって死ぬなんてこともあったらしい。
ハーグ条約以前なら水源に毒を流したり、井戸に動物の死体を入れて水を腐敗させるようなことは普通にやってる。
(ただし生水をそのまま飲まない地域には効果が薄い)
あと塩といえばハンニバルらフェニキア人を恐れたローマ軍によってカルタゴは破壊された上に草一本生えないように塩をまかれたらしいね。
945 :
人間七七四年:2013/03/06(水) 03:22:10.99 ID:inbWooQs
通商破壊としてはニュアンス違うけど水軍衆や馬借など運送業者を敵に回すと恐ろしい。
法華一揆で山科本願寺を焼いて調子に乗ってた日蓮宗に対して延暦寺が攻撃する法華の乱が勃発。
この際に比叡山庇護下の馬借が同調して京都の日蓮宗勢力下の京に対して徹底した経済封鎖が行なわれた。
946 :
人間七七四年:2013/03/09(土) 22:42:36.62 ID:s/Gq3JSK
桶狭間の合戦直前の織田家も海上封鎖されていたんだろ。
947 :
人間七七四年:2013/03/10(日) 10:12:53.30 ID:m/s7uq+d
伊丹康直らの今川水軍・武田水軍の実態はどんなものだったのだろう?
日本海や瀬戸内海とくらべてあまりに貧弱だと思うんだけど
948 :
人間七七四年:2013/03/10(日) 10:35:13.92 ID:CARBHSKs
東海道の水軍は海運と同様に伊勢神宮系で占められていたので、本気で戦うことは少なかった
949 :
人間七七四年:2013/03/10(日) 11:49:13.31 ID:gqlcuOcH
>>947 当時の水軍は海運業者も兼ねていて
流通の太さが経済基盤の大きさに直結していた訳で
紀伊・伊勢湾水軍からスカウトして増強はしていたが
流通の本場の水軍に比べて貧弱なのはしょうがない
950 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 06:06:05.57 ID:+UJq/Rto
水軍は水運業者の警備、あるいは妨害に関わっていたが、水運そのものには関わってないぞ
951 :
人間七七四年:2013/03/31(日) 00:36:31.59 ID:BCglsWWj
税率について詳しい方いらっしゃいますか?
北条の4公6民が有名で戦国時代の標準税率は5公5民〜6公4民。
江戸幕府の天領は7公3民から徐々に減税して3公7民まで下がったようです。
さて質問です。戦国時代に「重税を課した悪い領主」といわれる水準はどのくらいでしょうか?
江戸時代では薩摩藩による奄美大島の税率8公2民、長州藩の7公3民などの例がありますが、
戦国時代の各大名家の課税に関する資料はなかなか見つかりません。
952 :
人間七七四年:2013/03/31(日) 01:17:20.57 ID:n7FSatm+
そういえば、そういうのって見かけないな
伊達とか知りたいのに
953 :
人間七七四年:2013/03/31(日) 01:58:18.02 ID:YLDB9lBj
北条みたいに重ねて検地して脱税できなくしてる所はともかく
戦国時代の四公六民とか目安にもならんからな。他の税の比率も大きいし。
954 :
人間七七四年:2013/03/31(日) 06:46:24.53 ID:qCEgajca
4公6民も軍記に書かれてるウソだしな。
955 :
人間七七四年:2013/03/31(日) 09:29:51.43 ID:BCglsWWj
雑穀等は免税だった地域もあるみたいですね。
956 :
人間七七四年:2013/03/31(日) 18:05:44.60 ID:w5l0ieEH
水準云々よりもおおまかでもいいから
領民からの評判とか住みやすさとかを知りたい
957 :
人間七七四年:2013/03/31(日) 22:20:37.43 ID:AMcw3bDr
>>951 えっ、
江戸幕府の天領は享保の改革で4公6民から5公5民に引き上げられたはずだが
958 :
人間七七四年:2013/04/01(月) 01:57:21.33 ID:xvRzWEv2
新井白石が大昔の検地による基準なので
実質税率が低いことを指摘しているね。
959 :
人間七七四年:2013/04/01(月) 12:56:29.96 ID:FTKAetMJ
地租改正反対で大暴れしてた地域ほど実質税率軽かったんだろうな
960 :
人間七七四年:2013/04/02(火) 07:29:34.63 ID:0TId9qrN
>>957 天領にかぎらず、ケースバイケースだったりするのよ
収量の低い土地やしょっちゅう洪水で田畑が潰されるようなところは税率を低くしている例が多い
事情によっては年貢の免除なんてものも有る
そのせいで一応4公6民だけど、実際の収益はそれ以下なんてのはザラだったり
戦国期は年ごとに農民と交渉して年貢額を決めていたり
田畑の面積から税収固定になるのは江戸中期頃からだな
961 :
人間七七四年:2013/04/02(火) 23:11:13.96 ID:Pj3qdDxN
>>951の主張だと、
>>960と矛盾している訳だが
951の主張なら江戸中期に税率固定どころかどんどん下がっていることになる。
962 :
人間七七四年:2013/04/03(水) 07:40:36.99 ID:igwTAl1y
>>961 >江戸中期に税率固定
これは定免法というもので、土地の面積もしくは過去10〜20年間の平均から税収を求めるものです
一旦決められると次の更新まで豊凶かかわりなく一定の税を収めることになります
たた、あまりにもひどい場合は税の免除が行われます
この制度を導入した結果、毎年の税収が安定しました(代わりに農民の離散する傾向が増えた)
初期に始めた加賀前田藩は、農民の救済措置も同時に行いました
それまでは毎年の収量から農民と交渉して税率を決めていました
戦国期は農民にも力があって税高くするもしくは隣の村より税か高いとなると
村毎他所に引っ越すなんてことが行われたりしたので領主も強権はあまり使えなかったのです
この検見法は毎年行うため領主側の負担が大きく、年ごとの税収も不安定でした
土地々々、領主により
>ケースバイケース
なので、特に矛盾しているとは思いません
>951のようなパータンも有るのです
963 :
人間七七四年:2013/04/03(水) 18:24:41.33 ID:vI2wcPwD
江戸期は天領に関しては実質税率は10%ほどだったと言われているな
964 :
人間七七四年:2013/04/04(木) 09:32:01.86 ID:p4yR1lUR
965 :
人間七七四年:2013/04/04(木) 23:22:39.28 ID:NfiwjCwo
>>955 南部藩がその典型だな。江戸時代で最多の一揆数を誇る藩だが
面白い事に米があまり取れない北部は一揆の件数が少なく
米がとれる南部の方が、一揆の件数が多く規模が大きい。
大名にしてみれば、金にならない雑穀は目に入らなかったといういい事例。
966 :
人間七七四年:2013/04/05(金) 21:16:21.89 ID:JnBjAIhf
雑穀は兌換性低いんだっけ?だから馬を養ってお金に変えていたとか
967 :
人間七七四年:2013/04/05(金) 22:07:31.86 ID:FmwUuDYm
粟、稗、麦、芋類は米に比べると兌換性は低いよ。
八公二民で悪名が高い薩摩藩だけど
実は八公ってのはあくまでも米だけの話し。
968 :
人間七七四年:2013/04/06(土) 15:43:06.26 ID:+LeHdO+v
そもそも米作りたがるのは農民も一緒。現金収入に直接繋がるからな
969 :
人間七七四年:2013/04/07(日) 00:36:33.32 ID:q5r7jxUZ
そうでもない。田畑勝手作禁止令なんてものが出されるくらい
天領では換金作物の栽培が進んでたからな。
仕舞には換金作物で得た利益で年貢米を市中から買い入れるといった
支離滅裂なことが横行してたくらい。
970 :
人間七七四年:2013/04/08(月) 01:34:57.37 ID:FQMXs08K
初期中期後期でもちがうだろ
971 :
人間七七四年:2013/04/08(月) 18:19:09.93 ID:oaBLV2zH
換金作物の利益で食糧買うのは別におかしいことではなくない?
分業制の結果として正しいと思うんだが。
まあ農地は同じ作物ばっかり毎年作ってるわけにも行かないかもしれないけども。
972 :
人間七七四年:2013/04/08(月) 22:00:46.95 ID:Pf4VPtAO
まおゆう魔王勇者ってフィクションアニメで
商人が小麦を買い占めつつ擬似通貨にして
金貨を蓄えている国々が高騰した小麦を買わざるをえない状況を作っていた。
日本の石高制もあんな感じだったのでしょうか?
973 :
人間七七四年:2013/04/09(火) 14:13:39.45 ID:Nf2lKSWt
江戸時代には米の先物取引が行われるようになったはず
974 :
人間七七四年:2013/04/14(日) 23:22:22.75 ID:WANRDw/v
>>972 そんなこと出来るわけないだろ。
最近の研究だと座や株仲間は商売の独占権を得る代償として
安価に商品を供給することを強要されてた事が分かってきてる。
為政者にとって急激なインフレは、下手をすれば政変に繋がるリスクがある。
アラブの春も生活必需品の値上がりが一因だったし。
975 :
人間七七四年:2013/04/14(日) 23:54:04.99 ID:WvBhr5fd
石高制でちょっとぐぐりでもすれば全く違うとわかりそうなものを
976 :
人間七七四年:2013/04/16(火) 06:35:01.19 ID:QW5PRecq
>>972 いつも思うんだが、なんで穀物交易で利益を得ようって考えるんだろな
単価が安いうえ嵩張るため輸送コストがかかり利益が上がらない商品ですぞ?
977 :
人間七七四年:2013/04/16(火) 06:51:27.69 ID:NyP05Acz
保存が効くから
978 :
人間七七四年:2013/04/16(火) 14:53:06.89 ID:qUjOJ8s/
せいぜい2ー3年でしょ
979 :
人間七七四年:2013/04/16(火) 17:20:43.22 ID:tid34Pam
980 :
人間七七四年:2013/04/16(火) 18:20:29.42 ID:NyP05Acz
金銀宝玉は何年持とうが食えないからな
981 :
人間七七四年:
1570年頃の武田と織田の経済力ってどんなもん?