戦国時代の動員兵力を語るスレ

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1人間七七四年
一国すら統一していない大名が一万人動員したり
一国しか領有していない大名が数万人動員したり
と戦国時代の動員戦力は誇張が激しい時があります。
このスレでは合戦の動員兵力や大名の動員兵力を検証したりしましょう。


・関連スレ

【捏造】兵力や戦果を捏造し過ぎだろ【辺境】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1210524233/

戦国大名の経済力 2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1235291839/
2人間七七四年:2009/12/03(木) 20:27:09 ID:hjHTzJBv
一国云々は関係ないだろうに。
3人間七七四年:2009/12/03(木) 20:36:48 ID:BagW00t0
ケチ利家は石高よりかなり低い動員力ですw
4奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/03(木) 21:08:24 ID:qyhW60Yk
>>1
乙にございます。
5人間七七四年:2009/12/03(木) 23:01:21 ID:0mNDe8PM
軍記物語の兵数は120%デタラメと思って間違いない
江戸時代になると騎数と全動員数の区別もつかない著者が多い
6人間七七四年:2009/12/03(木) 23:46:23 ID:36HeejxT
明智光秀の家中軍法以外に石高と軍役が明確になってる史料って存在するの?
7人間七七四年:2009/12/04(金) 00:42:29 ID:rAiR0wW/
>>6
「小田原衆所領役帳」
8人間七七四年:2009/12/04(金) 12:21:09 ID:a2UWCYIT
旗持ちとか馬の口取りとか戦力になるんかどうか分からん。
9人間七七四年:2009/12/04(金) 12:24:16 ID:i0+AYRQD
幕末は投入戦力がしょぼい
あれが本当の姿なのかもな
戦国時代は水増ししすぎ
10人間七七四年:2009/12/04(金) 12:36:32 ID:pxxUzBcj
上杉軍役帳
11人間七七四年:2009/12/04(金) 14:42:00 ID:kmgOAQ7B
>旗持ちとか馬の口取りとか=完全武装で戦場に出て行く戦闘員。
例えば5万石の場合、騎馬武者70+歩兵戦闘員で1000、
それに非戦闘員500で、計1500がMAXと普通言われている。

桶狭間では今川本隊5000に織田2000(全員戦闘員)が突っ込んだが、
戦力は今川3000対織田2000で、状況から織田の楽勝も当然。
12人間七七四年:2009/12/04(金) 15:15:10 ID:k/HX5l/6
一万石あたり250人から300人
石高は経済力と同時に人口も表す
13人間七七四年:2009/12/05(土) 11:55:35 ID:qDFyKcFE
東では北条、西では毛利が異常に大軍を動員するイメージがあるわ。
14人間七七四年:2009/12/05(土) 12:04:53 ID:oI1e1TE4
時代は下るがこういう数字がある。
尾張徳川宗春が大掛かりな鹿狩りと称して(謀反のシミュレーションという噂)
藩内総動員令を出して、侍1万人、百姓町人1万5千人を動員した。
この時代は藩の隅々まで支配が行き届いているから、計2万5千も動員できたと考えられる。

戦国時代なら、豪族・国人を完全支配できている大名は殆どいないから
50万石で2万5千は無理だろう。
15人間七七四年:2009/12/05(土) 12:36:45 ID:ZGLV2CJC
>>13
毛利は10万を動員したって記述がウィキかどっかにあったな。
周りの豪族、宇喜田とか従えての数字だろうね。
一方北条は5万がマックス。石高の割りに少ない感じだね。
16人間七七四年:2009/12/05(土) 13:35:11 ID:V3frqtpZ
戦国の動員兵力が嘘なら朝鮮の役の数も出鱈目になるな。
幕末の数引き合いに出してる奴アホすぎる。
200年にわたり借金増えて装備にも金が掛かる時代になったのに一緒にするなよ。
第2次大戦じゃ米軍は一度の航空作戦で1700機なんて飛ばしてるが現在そんな数の航空作戦はまず無い。
終戦時の日本でさえ7800機保有してたほど。
今の日本が7800機も軍用機持ってるか?
第2次大戦の時よりも何処の軍も縮小されてる。それと一緒。
17人間七七四年:2009/12/05(土) 14:42:53 ID:44Aq17q5
軍役状は上杉は全体的のが残ってるし、北条武田明智と豊臣の小田原朝鮮時のも有名。
西国大名のいい史料ってあるかな?軍制が未発達なせいかあまり見ないけど。
18人間七七四年:2009/12/05(土) 16:21:14 ID:gkg6SbTB
>>15
北条が5万がマックスって何の史料なのさ?北条領を殆どそのまま引き継いだ家康は関ヶ原の時に
8万前後が出陣して、更に上杉の抑えとして結城秀康の軍が下野に駐屯してたわけだが
19人間七七四年:2009/12/05(土) 18:33:48 ID:irZ/5Kbc
小田原陣の時の北条の動員数は、トータルで8万ほどだな。
20奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/05(土) 20:03:45 ID:ZpCVj8e2
甲斐の武田さんちの80騎持の逍遥軒さんの動因能力はどのくらいかね。
21人間七七四年:2009/12/07(月) 00:39:01 ID:lAxouRbB
西国と言えば船岡山合戦の動員人数は多すぎるように思えます。
この戦いはあまり教科書では取り上げられませんが、長引いていたら応仁の乱のような扱いになっていたかも。
22人間七七四年:2009/12/07(月) 13:54:52 ID:PsmFnWh+
>>16
最近はどこの軍隊も世界系規模になっちゃってるからね
23人間七七四年:2009/12/07(月) 14:06:40 ID:GS74ZGa3
日向(12万石)の全域を支配してるわけでもない伊東氏が飫肥城を2万の大軍で攻めたのは不思議だ
24人間七七四年:2009/12/07(月) 14:59:44 ID:PUKvmcYZ
戦の前に間者(忍者?)を先発させて3倍くらいに言いふらした。
これも戦術の一つ。
間者「大変だ!上杉が2万で攻めてくるぞ!」
農民「女を隠せ!」
大名「ふむ、総勢1万か?7000で篭城すればやり過ごせるな」
実際は5000だったり
25人間七七四年:2009/12/07(月) 15:11:56 ID:lAxouRbB
誰の逸話か忘れたけど
家臣に貝の枚数を予想させて
「実際より多く見えるものだ」みたいなことを言った人がいたよな
26人間七七四年:2009/12/07(月) 16:26:55 ID:jIBefXr/
>>25
若い頃の信玄(=武田晴信)じゃなかったっけ?
27人間七七四年:2009/12/07(月) 21:53:11 ID:lcc4mVrG
日本戦史上もっとも大軍を動員したのは上杉謙信だろうね。
小田原城を囲んで関東を席巻した時は関東中の兵50万が謙信に従ってるし北陸を制圧した時ですら30万の軍を動かした。
28人間七七四年:2009/12/07(月) 22:12:26 ID:MiJEHRBU
太平記のがおおいぞ
29人間七七四年:2009/12/07(月) 22:14:22 ID:FqPkBoaE
>>19
小田原の時は15〜60歳の男を徴兵したんだっけ?
あれは極端な例だとしても
通常時はどの程度の年齢の民が徴兵されたんだろう
30人間七七四年:2009/12/08(火) 07:06:32 ID:16VQ9zuP
戦国時代は時代が下るにしたがって動員数が増えてるね。

もともと兵力に入らなかった農兵や雑兵がいつからか防衛兵力や予備兵力として運用されて、
戦力価値を期待されるようになり、小牧長久手の徳川や秀吉の小田原城包囲の時には総動員体制になったように思う。
31人間七七四年:2009/12/11(金) 00:36:51 ID:b02yI4Yu
従属勢力って動員には含むの?
それとも単独動員力?じゃないとダメ?
32人間七七四年:2009/12/11(金) 00:46:44 ID:wEdQnZ35
>>31
何とでも言えるようになるから単独が良いかと…
33人間七七四年:2009/12/11(金) 01:02:34 ID:Tu9ZS3br
徳川家の1600年時の動員を見る際の基準は??
一門+譜代?
34人間七七四年:2009/12/11(金) 03:21:47 ID:cBqAkqSd
基礎的な動員力と外部勢力を含めた動員力は分けた方が良いかもな。
35人間七七四年:2009/12/11(金) 21:12:07 ID:KPuNyXXX
んじぁ毛利の6万は嘘っぱちだな。
だいたい中国地方全部足しても280万石もいかないだろ。
36人間七七四年:2009/12/11(金) 21:53:49 ID:xENFi1Yl
小牧・長久手の合戦の織田信雄と徳川家康の連合軍の兵力が2万足らずという信じがたいほど少ないのは何故だ?
信雄は大国の尾張と伊勢を支配し、家康は今川氏や武田氏の領国を併せるほどの大大名だったのに
37人間七七四年:2009/12/11(金) 22:10:17 ID:KPuNyXXX
>>36
勝者の徳川が寡兵で大軍破った。すげーみたいにしたのかね。
三国志の曹操VS炎症の官渡の戦い。
兵力差10倍とか言うけど曹操軍には青洲兵30万がいたのに何処いったんだって疑問視されとる。
中国は前の王朝悪く書くこと多いしこういう兵力差捏造が多い。
日本もそういう面はあったとしてもおかしくない。
なんか武田もすんごい過大評価されとるし。
徳川を苦しめた武田が弱いだと立場無いから必要以上に印象操作したんだろう。
第2次大戦のアメリカ軍も日本軍は手強かったって証言してるけどこれも
「日本は強かった。でもそれを倒した俺達はもっと強い」ってことだったしな。
38人間七七四年:2009/12/11(金) 22:43:43 ID:b02yI4Yu
三方ヶ原も8000でしたよね
39人間七七四年:2009/12/11(金) 23:19:22 ID:zWhXdcrn
推測するだけだけど、信濃から三河にかけて防衛ラインを築いていたから、実際の指揮兵力が少なかったとか?
40人間七七四年:2009/12/11(金) 23:26:10 ID:bQuIdNrC
武田の領国を全て手に入れたわけでもないし、上杉、北条にも抑えが必要だから
小牧・長久手に全軍動員できるわけじゃないよ
41人間七七四年:2009/12/12(土) 00:32:32 ID:F8o8tLlJ
本多の500で10万だかをひきつけて時間稼ぎしつつ撃退ってのなんか嘘くさいんだよね。
井伊のは池田討ち取ってるから文句のつけようが無いんだけど。
42人間七七四年:2009/12/12(土) 04:17:41 ID:DwFBCdhh
うそ臭いと思うのは勝手だが議論をしたいのならきちんとした根拠を示してから書き込め。
感想だけ言われても困る。
43人間七七四年:2009/12/12(土) 09:19:09 ID:tk1JEqEx
本多の行動については実際のところ、秀吉がその意図を読み取って無視したので、
時間稼ぎという観点からはそれ程、効果はない
それより重要なのは敵の追撃部隊と随時、接触していたということで、これにより

家康は秀吉が何時、来るかということを十分に認識して行動することができた
こっちのほうが単なる時間稼ぎよりも効果は大きい

それに忠勝がいれば、長久手にいるのは本当に家康がといるかという疑念も生じる
この戦では秀吉は殆ど、五里霧中の戦いであったし
44人間七七四年:2009/12/12(土) 11:56:01 ID:SdwKXVWU
門司城攻防戦といえば1561年が有名ですが1554年にも戦いがあったんですね。
厳島の戦いが1555だからそれ以前になりますが陶との戦いを前に2万も動員できる訳ないと思うのですが。

http://bungo79.hp.infoseek.co.jp/newpage4.nenpiyou.1550.html
45人間七七四年:2009/12/12(土) 21:47:11 ID:NF0/lZXv
三好之長は永正十七年に二万を率いて上洛しているな。
まあ、半数が京周辺の兵で、あくまでも動員権は細川氏にあったので、
細川澄元がいない中では、あっさり瓦解してしまったが。
46人間七七四年:2009/12/12(土) 21:51:35 ID:pMPfPdQe
その2万は陶の軍勢だろ
毛利は5千あるかないかだな
47人間七七四年:2009/12/12(土) 21:55:27 ID:pMPfPdQe
おっと、間違った
でも九州にも味方はいたから2万そこそこ行くんじゃないかな
48人間七七四年:2009/12/13(日) 22:51:31 ID:lObP5YPR
ttp://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq22t.html#09399
このサイトによると兵農分離前と後では動員数に大分差がある
兵農分離がしっかりしてない時代や大名ならば大兵力を動員出来てもおかしくはない
そもそも戦国期の動員数は20人に1人とかいう異常な割合のようだ
49人間七七四年:2009/12/14(月) 03:37:28 ID:9PejUnMV
織田家ですら10万も動員できたのか
http://sound.jp/unira/nobunaga/n_table.html

なら関ヶ原って規模しょぼくないか?
50人間七七四年:2009/12/14(月) 03:41:32 ID:484ZH5+f
なにこの妄想兵数
51人間七七四年:2009/12/14(月) 04:02:22 ID:4/bigeqD
つーか戦国期に兵農分離なんて行われていない。
兵農が分離したのは江戸期に入ってから。

よくある「兵農分離したから信長は動員が〜」っていうのは根拠の無い幻想。
単純に畿内の人口が多かったから多く動員できただけ。
信長の動員体制は、他の戦国大名に比べてむしろ遅れている。
52人間七七四年:2009/12/14(月) 04:15:23 ID:xbnKzwWg
この板でも戦力分析や比較をするときには1万石あたり250人って数値で計算してるけど、
これゼッタイってもんでも無かったみたいだな。
やろうと思ったら500人ぐらいまで行けたんだろう?
53人間七七四年:2009/12/14(月) 05:43:37 ID:YpmLWRqW
1万石250人は何処からきた数字なんだっけ?豊臣政権の軍役?
なんにしてもあくまで目安にしかならないよな。
信長の甲斐遠征の時に
「遠征なので兵糧がつづくよう人数は少なくすること、但し多いのと変わらぬよう粉骨するように」
みたいな意味の書状が信長公記にあったと思ったけど、状況により必ずしも最大動員でなくても
良い場合もあったようだし。正確な動員数は分りよう無いよ。
54人間七七四年:2009/12/14(月) 06:01:04 ID:M/m3sJG1
検地もできず自己申告しかないのに正確な石高あたりの動員数を
知る方法は文書以外にないからなあ。
55人間七七四年:2009/12/14(月) 07:59:31 ID:JP+ZEa7F
>>51
根拠のない妄想と看破してるのに自身は根拠出さないって笑い草だな
56人間七七四年:2009/12/14(月) 09:18:22 ID:O0ZzngfN
なんか多いんだよね
やたらと今までの説は間違いと言いたがる人
57人間七七四年:2009/12/14(月) 11:07:53 ID:Qvsh8AuD
でも朝鮮や関ヶ原大坂みたいな動員って政権が最低限のノルマを指定した数だから
動員数=全兵力ではないよね
戦国時代も銭や現米での支給があったし、合戦になると傭兵を雇い入れた
つまり田畠以外の各産業の収入や毎年の収穫量で兵力も増減する
支配者の采配次第で兵力も変わって来るという事だ
後は攻戦か防戦でも違ってくる
徹底防戦ともなればもはや軍役だとか言っている場合ではなく
女子供や隠居の老人を問わず動ける者は皆武装して防戦にあたる
幕末にもこれらの事例が確認できる
要するに状況次第で変化するものであって石高だけから兵数をはかる事は出来ない
58人間七七四年:2009/12/14(月) 11:15:20 ID:6DakR+nd
もしも仮に一戸1人の動員として
50戸=一里
3里=1郷
20郷=1郡
10郡=1国

ぐらいだと1国あたりの最大動員数は3万くらい
59人間七七四年:2009/12/14(月) 13:02:40 ID:2cf3iHWF
>>51
こういう珍がたまに出るから2chは面白い。

ま、一服の清涼剤と思って許してくだされ。
60人間七七四年:2009/12/14(月) 13:18:19 ID:KkYJ2Qbe
兵農分離は豊臣からだな。きっちりわけれたのは江戸時代だが
61人間七七四年:2009/12/14(月) 15:13:33 ID:1oCPmocF
システム(決まりごと)上定められた動員数と、実際にかき集められた兵数とを
同列に扱うから混乱するんじゃないかなぁ……

”金”さえあったら、所領石高に無関係(例えば大坂の役の豊臣側)に、
また動員後でも(関ヶ原の黒田如水とか)兵は集まったわけだし

”所領に対して最大限の兵数を決めて計算”は戸籍と徴兵制が整った以後には確実だけど、
それ以前には”あくまで仮定”という前提を忘れちゃいけない気はする
62人間七七四年:2009/12/14(月) 15:26:09 ID:nLAWTNgn
まあ状況によりけりなのは確かでしょう
昭和に入っても総動員みたいなことをしてるし

ただし石高はそのまま人口をあらわすといっても過言ではないので
石高から動因可能数を割り出すことは見当違いではない
63人間七七四年:2009/12/14(月) 17:10:55 ID:y7hsr8WP
兵農分離どころかその前段階となる兵農一致したのが織田の時代じゃね?
64人間七七四年:2009/12/14(月) 17:34:59 ID:CdorzkZN
>>59
別に珍説でもない気が。
実際問題、織田家に残っている唯一の軍役基準の資料が明智の軍役なんだから、
そこから考えると、100石あたり6人の基準で兵農分離は無理があると思う。
速水融が100石なら70人の人口としていたし。
むしろ兵農分離していたと考えるほうが珍説に思える。
もちろん、全体ではなく一部は分離していたと考えるのが当たり前だが。
65人間七七四年:2009/12/14(月) 18:02:54 ID:0e4YcYvq
江戸期に入ってから戦役がほとんどないんだから兵農分離が完成したというのはちょっと違うだろ
66人間七七四年:2009/12/14(月) 19:21:39 ID:4/bigeqD
>>65
兵農が一致していたのは、村落にかかる「軍役」の存在のため。
軍役は江戸期になって消滅なんかしていない。

兵農分離には、農村が軍役に対して代銭で対応できるほどの経済力の向上と安定、
金銭によって軍夫として雇い入れられる都市の余剰人員の存在、
およびそういった労働者を組織し安定して供給できる業者の存在、
さらにそれらを運用する仕組みの成立、
こういった諸条件が整って、初めて兵農分離とい状態が出現する。

これらの諸条件が成立したのは江戸も徳川家光の時代あたりでようやく。
少なくとも信長の時代には、兵農分離などカケラも存在しない。
67人間七七四年:2009/12/14(月) 19:28:12 ID:KfSvux06
>>66
なるほど
68人間七七四年:2009/12/14(月) 20:12:44 ID:ouL5lA0h
小荷駄とかの陣夫などの動員は、兵農分離の範疇からは除外するべきだと思うけど
通常、兵農分離の対象とされているのは、侍とか足軽とかの直臣クラスの戦闘員と
自分は考えている
69人間七七四年:2009/12/14(月) 20:25:14 ID:4/bigeqD
>>68
陣夫、軍夫がいないと合戦なんて出来ないんだが。

あと足軽が農村から離れて都市居住が始まったのも徳川期。
多少早く取っても豊臣末期。
70奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/14(月) 20:30:02 ID:5HLbpR2A
江戸期に入って整備される名主・庄屋とか村町の三役クラスには大名の直臣だった家もあったり。
少なくとも戦国期に武士だ農民だなどという区切りは、意識的にはあったかも知れんが明確なもんじゃないわな。
71人間七七四年:2009/12/14(月) 20:31:59 ID:OMz6OxYI
武器の没収による武装国人層の解体(かつ戦術指揮官職が農民層から別れた)
ということが兵農分離だよね??

いまここで考慮されてる”石高からの動員数推定”って、
あくまでその土地から得られる総戦闘員(足軽含む)になるわけで、
(武器技術の有無に関わらず)人集めて武装させる、って作業に、
現在でいう下級士官の問題(兵農分離)が絡んでくる意味がいまいちわからないのだけど……
72人間七七四年:2009/12/14(月) 20:35:45 ID:Q0L0qYAE
ウミウシ
73人間七七四年:2009/12/14(月) 20:57:25 ID:ouL5lA0h
>>69
陣夫は江戸期も動員が原則、それも範疇に入れれば兵農分離は存在しない事になる

足軽が農村在住というのは再考する必要があるとおもう
時代・場所によって金銭による雇用、知行を与えているもの、短期、長期など多様な形態がある
74奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/14(月) 21:08:47 ID:5HLbpR2A
例えば飛騨のような辺境を例に挙げてみる。(検地後40石で1人とする)
・天正14年に金森長近が飛騨一国38000石を拝領。40石で1人として一国挙げても1000人の軍役が不可能。
(1000人で外敵にあたると国がカラになる)
・元禄八年、大垣の戸田氏が検地を実施したところ860石だった。40石で1人として軍役は22人。

以前もどこかで書いたけど、
・飛騨だけで見ると、三木氏とか江馬氏は運動会の騎馬戦程度の規模で戦争していたことになる。
・大大名とされる織田武田上杉は、たかだかこの程度の地域勢力を競り合って支配下におさめようと躍起になった。

支配体系が未編成な戦国期に、ざっくり考えて>>58でもまだ動員量は多いと感じる。
75人間七七四年:2009/12/14(月) 21:17:31 ID:4/bigeqD
>>74
> ・大大名とされる織田武田上杉は、たかだかこの程度の地域勢力を競り合って支配下におさめようと躍起になった。

織田武田上杉が飛騨を争ったのは、飛騨がそれぞれの勢力圏がちょうど接する場所に
存在してしまった地理的理由からだと思う。
76人間七七四年:2009/12/14(月) 21:22:39 ID:CdorzkZN
飛騨(益田郡・大野郡・吉城郡三郡)は元禄5年の時点で60000石。
38000石から増えた分は全て開墾と言う事になってるが、これの評価次第だね。
実際に開墾したのか、最初の検地の時点で過少に見積もっていたのか。
どちらにしても少ない事には変わりなさそうだが。
戦国時代は6人役をしいたのかもしれない。
当時にしては非農業人口が多い地域だろうし。
コレくらいならなんとか合戦らしい合戦になるんじゃなかろうか。
77人間七七四年:2009/12/15(火) 00:36:08 ID:MTHxeCNp
やっと軍記物から離れたな。
78人間七七四年:2009/12/15(火) 10:58:58 ID:jAcHofsl
下国の飛騨三郡が総動員して千人だとしても、大国の動員力がその十倍あるだろうか?
万単位の兵力がほとんど軍記物の誇張なのかと疑いたくなってきたわ
79人間七七四年:2009/12/15(火) 11:26:49 ID:QpszLopU
>>78
姉川の時、近江の四分の一程度の領主でしかない浅井が八千
しかもこれは横山城の守備兵などを除く主力部隊にすぎない
近江一国でかるく三、四万はあるだろう
浅井の旧領の六割くらいを支配した(四割くらいは丹羽)
長浜領主時代の秀吉が姫路へ侵攻したときの兵力で七千五百くらいだし(黒田勢含む)
近江は最大級の大国だが、周辺の越前、美濃、伊勢、尾張もそこそこ巨大
80人間七七四年:2009/12/15(火) 11:53:47 ID:io2LKTmx
長篠の合戦でこういうのもあるぞ

織田3万、徳川8千、武田1万5千が、実は
織田1万2千、徳川4千、武田6千だった。
これなら織田の鉄砲隊が3千ではなく千五百というのも真実と思える。
81人間七七四年:2009/12/15(火) 12:02:31 ID:R6sf7ZWd
>>36
まあそれは理解できるかも
信濃に甲斐は手に入れたばかりで
領内をまとめている途中で
動員などはまだ出来ない状態だったと思う
よって両地区からはの動員は見込めない
それにいくら北条と同盟を成功したとしていても
背後にはそれ相応の手勢を置いておかないといけないからやはり
大兵力をつぎ込めないと思う
三河、遠江の兵中心だったろうね
反対に信雄は防衛戦だから極限まで動員できたかもね
82人間七七四年:2009/12/15(火) 12:35:03 ID:aVVzfVhd
確か飛騨の動員兵力は2、3000程度
飛騨は、近江を通した交易の中継地に当たり
しかも金山もあった
食料は輸入頼みだが石高よりもはるかに人口が居た
83人間七七四年:2009/12/15(火) 12:38:12 ID:QpszLopU
関ヶ原合戦時の石田一族は関ヶ原本戦とそれに続く佐和山籠城でほぼ最大動員だと
思われるが、関ヶ原に出撃した三成とその父兄(父兄とも三成とは別に領土が与えられていた)
の合計戦力は六千七百、三成の父兄が指揮した佐和山籠城兵二千八百といわれている
併せて九千五百だが、このときの石田一族の支配地、北近江四郡は浅井長政の支配領域
とほぼ一致している
84人間七七四年:2009/12/15(火) 12:44:16 ID:aVVzfVhd
江間氏などは日本海と琵琶湖を結ぶ商売をやっていたようだ
つまり、単なる中継地にとどまらず中継商売そのものを行っていた
動員された兵は、他国から臨時に集めた傭兵が極めて多かったようだ
85人間七七四年:2009/12/15(火) 12:59:06 ID:QpszLopU
>>84
北近江と飛騨の守護は佐々木京極氏
室町初期の佐々木道誉以来、商工業を積極的に保護してきた家柄だから
飛騨も近江と似たような非農業人口の多い地域だった可能性はあるな
86人間七七四年:2009/12/15(火) 14:50:33 ID:bFIPVDYi
江馬は越中にも領地があったと思う。
武田が越中の影響力を失ったときに全部失ったかもしれんが
87人間七七四年:2009/12/15(火) 15:09:43 ID:Om8S4KIR
傭兵家業の人間もいたでしょ
88人間七七四年:2009/12/15(火) 15:28:20 ID:jAcHofsl
推論で話がどんどん拡散していくな・・・
89人間七七四年:2009/12/15(火) 19:26:49 ID:ciRPC5X3
後日談としちゃ水増し人数でもいいけど
実際の戦闘するとなると物見(偵察)の人数認識能力は、必要となるけど
どんなもんだろうね
90人間七七四年:2009/12/15(火) 19:28:23 ID:ciRPC5X3
SAGE忘れ失礼
91人間七七四年:2009/12/15(火) 19:47:23 ID:2JstD308
関ヶ原の軍記物なんかは西軍の兵数は東軍の偵察値を載せているんだと思う
だから諸本によって数値のばらつきが大きい
92奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/15(火) 20:06:35 ID:A2oaFkCa
(街道の通り方はともかく、近江と飛騨は隣接しとらんぞ)

まず>>74訂正。
誤:・元禄八年、大垣の戸田氏が検地を実施したところ860石だった。
正:・元禄八年、大垣の戸田氏が白川郷に検地を実施したところ860石だった。

>>75
目に見えて荒立ってくるのは木曽氏と三木氏の争いの延長からなんだろうけど、
木曽谷は飛騨諸郡と大差あるような地形でもないので動員数に大差があるだろうか。
>>82-87のように動員力を何とか上に見積もりたいなら、
男児は二番目以降婚姻せず、女児は二番目以降間引く合掌造りの風俗に頼って
1戸あたりの動員数は多かったという見方もできなくはない。
それでも飛騨兵3000はもう講談やゲームに毒され無理ありすぎだけれど。
93人間七七四年:2009/12/15(火) 22:06:50 ID:zxsfjaSK
桶狭間合戦の兵力がいつもありえないと思う。大概は織田約3000に対して今川約25000と。尾張の石高は今川の三ヵ国の
総石高の四分の三に匹敵する。確かに尾張の一部は今川領であるが逆に、三河には織田領が存在し今川が織田を戦力的に
圧倒するとはとても思えない。あの戦いはどちらかの兵力がおかしいと見て間違いない
94奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/15(火) 22:21:01 ID:A2oaFkCa
今川が25000動員した場合、遠江は武田・駿河以東は北条に獲られて終了。

講談に則って考えても守将がいないからわかりそうなもんですきゅ。
95人間七七四年:2009/12/15(火) 22:40:55 ID:MTHxeCNp
また軍記物にもどるか
96奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/15(火) 22:46:14 ID:A2oaFkCa
オレが戻したか。
97人間七七四年:2009/12/15(火) 23:06:47 ID:+KMN8Mk0
かといって性格に動員数がわかる訳でもなし
98人間七七四年:2009/12/16(水) 01:16:49 ID:fOZAD7Yr
軍役状、着到状から正規軍の規模は大体推定できる。一部の大名のみだが
99人間七七四年:2009/12/16(水) 09:44:37 ID:Xb7Hv32R
>>98
軍記物がダメならそこでストップだな
100人間七七四年:2009/12/16(水) 10:03:41 ID:Z6Ki26bv
正確にわからないまでもこのスレを見るだけで
武田三万だ今川四万だ果ては上杉十万などと語られる兵力は
十倍近い誇称だとわかるな
101人間七七四年:2009/12/16(水) 10:13:43 ID:ORt1OHN8
十倍は無いわ。
つーかこのスレ見ただけで解った気になるってのは、酷い知識レベルだとしか言いようが無い。
102人間七七四年:2009/12/16(水) 10:17:47 ID:Xb7Hv32R
>>100
どこを読んだらそんな答えになるんだw
103人間七七四年:2009/12/16(水) 10:46:16 ID:Z6Ki26bv
>>102
>>74から今まで見て、兵力を上に見積もる人たちが書いているのは
数字や史料の裏付けがない個人の思い込みだけ。
この人たちにとって兵力は兵農分離どころか金で雇える派遣みたいなインフラが
整備されていて湧いてくるモノでしかないんだよな。

十分の一くらいに考えたら自分の中で整合が取れたから>>100を書いただけ。
知識レベルの高い>>101様あたりに納得できる落としどころを
お教え願いたいものです。
104人間七七四年:2009/12/16(水) 11:00:55 ID:Xb7Hv32R
2500人対800人の三方ヶ原、3500人対1500人の長篠・・
105人間七七四年:2009/12/16(水) 11:09:46 ID:qmhQEVJR
>>103
そりゃあ、当時の兵力はインフラ関係込みの人数だし
106人間七七四年:2009/12/16(水) 11:16:34 ID:Z6Ki26bv
>>105
タイムリーな口入れ屋込みか。これは不勉強だった。
107人間七七四年:2009/12/16(水) 11:53:54 ID:qmhQEVJR
当時の西洋は傭兵制なので、給料を払う戦闘員のみを数える
一方、日本は米を配らなければならない全員の数を数える必要がある
108人間七七四年:2009/12/16(水) 13:53:43 ID:B5/5AIFu
思い込みばかりとか愚痴るくらいなら自分の意見と根拠を言えよ。
批判するだけなら猿でもできるだろ。と横から言ってみる。
まあ、それなら先に俺なりに大雑把な数字を出そう。

北条氏は大体永7貫あたり一人。北条氏の当納法ならば永一貫あたり一石四斗。
7貫なら手取り9石1斗、馴染み深い江戸期の表記に直せば四公六民で22.75石に一人。
大体100石あたり4.4人役。
ただし、足軽隊に対しては3貫1人の割合で軍役を課しているなど例外事項は多い。
しかし、7貫1人役以下の事例は鉄砲(10貫1人)などを除けば少ないので
平均すれば4.4人よりも多いことになるだろう。
加えて北条氏はイザというときに農村から臨時に兵を集める事があった。
これは城を空にするほど(実際に空にしたとまでは思えないが)の兵力を動員したときに
城の留守を守る非常設部隊。
この臨時徴兵は上記の軍役義務の範囲外。

以上から、北条氏は100石あたり低く見ても4.4人程度の動員が可能であると判断する。
しかもいざと言うときはその大半を一戦場に動員できた。

武田二万五千は上洛スレみてもわかるとおり決して非現実的な数字ではないし
(あそこは100石あたり2.5人計算)、北条氏の事例に照らし合わせても現実的な数字。
三千というのはどの辺で整合性が取れたのだろうかね。
講談が正しいとは決して言わないが、十分の一は無茶がありすぎる。
109人間七七四年:2009/12/16(水) 14:51:12 ID:qmhQEVJR
特定個人に向けたものではないが、講談と軍記物語(軍記物)と戦記・軍記は
それぞれ別物と認識しなければならない
110人間七七四年:2009/12/16(水) 15:31:34 ID:ggv2E/BE
>>93
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html

これを見ると今川の勢力が駿河、遠江、三河を制圧しているとして、約100万石
織田が尾張76万石の半分を掌握しているとしたら、国力は約1/3くらい。
その内の半分が今川とぶつかることを恐れて降りたとすると、1/6くらい。

こじつけだけど3000vs25000に近づけてみた。
111人間七七四年:2009/12/16(水) 15:44:38 ID:laR0XUKU
上杉十万は永禄四年の小田原城戦を言ってるんだと思うが、
軍役帳だと上杉だけで五千人(農兵含まず)は下らないから、関東勢をあわせたら数万は余裕で超える。
なんで十分の一だと思ったのか、根拠が知りたい。
112奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/16(水) 20:41:14 ID:oiC/F36H
面白い。オレは1/10説に乗るとしよう。
113人間七七四年:2009/12/17(木) 03:36:28 ID:tRMQsACC
十分の一説によれば300人で飛騨や東濃は切り取られていったのかぁ。
遠山十八子城やべーな。一城あたり10人とかしかいないんじゃね?
114人間七七四年:2009/12/17(木) 06:26:47 ID:aTk9LKkw
日本は狭くて人口多いから短い期間の戦争がやれて沢山動員できるんだろうな
115 ◆uGKMKNYQ3g :2009/12/17(木) 07:04:45 ID:fct2CYea
(極論を挙げているのは承知なので引受用にトリップ付けます)
一律に十分の一ではないだろうが東濃にあるような山城は小城ばかりで
要害として機能するほどの大きさがない館規模、100人も籠もれば満員御礼。
山城の全てが岩屋城のような要害ではない。
江戸時代の城は役所機能を持ち収容力を必要とするから構えが大きいが
小田原姫路と岩村苗木を一緒くたにできるものではない。

二百五十騎持の秋山信友がその与力を複数引き連れても三千は明らかな誇称。
(伊那谷が傭兵の一大拠点だとしたなら納得できなくもないが)
恵那郡の小城はそれこそ多くても50人くらいしか集められないだろうな。
もとから人口がないのだから。
116 ◆uGKMKNYQ3g :2009/12/17(木) 07:21:53 ID:fct2CYea
>>111
>なぜ思ったのか根拠が知りたい

十万どころか三万でも越後から南関東に押し寄せたときの疑問。
・越中や下越、北信ガン無視。誰もいないのだろうか
・荷駄を運ぶ街道をいつの間に整備したのか。
・食糧を現地調達したなら北条氏は翌年免税でもしたのだろうか
・武蔵は無人の平野か領主のいない農民の楽園だったのだろうか
117人間七七四年:2009/12/17(木) 07:22:46 ID:WKfhg8Bs
別に住民だけが兵になるわけじゃない。戦国期には渡りの足軽集団が多く存在していた。
戦国期は大名がそういった傭兵を一括して大量に雇い入れそれを必要に応じて
配下に振り分けている。

強力な戦国大名なら地域性に係わり無い兵の運用が可能であり、
「人口が少ないから」と言うのは、あまり理由にはならない。
118人間七七四年:2009/12/17(木) 07:24:50 ID:WKfhg8Bs
>>116
> 十万どころか三万でも越後から南関東に
この時点で何もわかって無い。小田原攻めの上杉は関東諸勢力との連合
だっつーの。上杉軍の兵糧はそういった関東の協力勢力から賄われている。
119 ◆uGKMKNYQ3g :2009/12/17(木) 07:30:37 ID:fct2CYea
合わせると万単位の渡りの傭兵集団?
上手く組織したならちょっとした大名家を乗っ取るくらい余裕だね。
便利なモブもいるんだな。
120 ◆uGKMKNYQ3g :2009/12/17(木) 08:07:52 ID:fct2CYea
上から目線さんだったのか。

>>118
なるほど関東の諸勢力が弁当を用意してくれているなら理屈は通るかな。
合わせて三百〜四百万石の大名連合軍の大行進は壮観だな。
その組織力を以てすれば小田原どころか朝鮮までノンストップで制圧できそうだが
なぜ小田原ごときが落とせなかったのだろう。
121人間七七四年:2009/12/17(木) 08:13:57 ID:feBDXi4F
>>115
騎乗侍に十掛けが総数の一つの基準、この場合は二千五百となり近似はする
もっとも騎乗侍の直接の従者は五倍ほどで、残りは大名に直接雇用・動員される
足軽や陣夫といった者達
122人間七七四年:2009/12/17(木) 08:29:47 ID:a701n243
>>120
小田原を落とすことより、鎌倉で関東管領の就任式を行うことが目的だったから。
北信濃は当時越後に真田を含む国衆が忠誠を誓っており、越中も前年に平定済み。
兵糧は越後からも大量に送り届けられていた。上野までの糧道は以前より謙信の指示で整備されている。
上野以南は新たに開拓しなくても北条が使っていたものを逆利用できた。
しかし、ある時期より兵糧が不足するようになり、謙信は本国に「もっと真面目に兵糧を送れ」と指令。
関東勢の参加で兵糧不足が生じたのか、北条の妨害工作で糧道が絶たれたのかは不明。
十万人も兵力がいたとは思えないが、総勢一万程度はありえない。数万程度で北条を小田原に押し込めたとしていいだろう。
123人間七七四年:2009/12/17(木) 09:25:27 ID:dQAER7/+
1/10氏の意見は極論だがそれに対する ID:WKfhg8Bs氏は「何もわかってない」というわりには
史料を挙げるでもなく説明に全く説得力がない。
話半分という言葉もあるから半数くらいに思っていればいいみたいだね。
124人間七七四年:2009/12/17(木) 12:37:57 ID:wJnYIDkt
まあ、俺としてはまず>>108に返答が欲しいところだが、それよりかは今の話にのってみようか。

例えば上杉侵攻時に北条から家臣の大藤やその与力に対して兵を出せという命令書がある。
彼らは足軽隊500人ほど出兵する義務を負っている。軍役に足りない数字であったら当然咎められる。
このときも500人ほどの出兵があったと考えてよいだろう。

さて、十分の一原則であれば北条氏は上杉一万に対して篭城を強いられている。
つまり、北条氏の戦力はそれ以下と考えてよい。
仮に5000人としてその中で500人というのは巨大な部分を占めたわけだ。
だが、北条氏の家臣の所領全体で72668貫のうち彼らの所領は合計で2120貫。
ちなみにこの72668貫には北条氏直轄領、養子戦略で実質的に乗っ取っている家、
従属している国人の一部等が含まれていない。
奉行衆などの軍役免除されてる人達を含めて考えても彼らの領地の割合は小さい。
少なくとも総兵力の十分の一には到底届かない。
これはおかしいよね。
総兵力の十分の一の軍役を担っておきながら、
領地は軍役全体の三十五分の一以下なんて。

つまり、結論として以下の二つがあげられる。
まず、十分の一説に固執するなら軍役状の数字自体が『嘘』であること。
これの最大の問題点は北条氏と大藤その他与力の間で嘘のやり取りをする理由がないこと。
この文書は命令書で、外部への宣伝効果も全く無い内部文書だから。

もう一つが前提条件としての北条氏の総兵力5000(別に一万以下ならいくらでも良いが)
間違っていること。ひいては上杉軍総兵力1万というのが間違っている事。
これが一番無難な考え方じゃないかな?
125人間七七四年:2009/12/17(木) 12:44:38 ID:US0PThFO
十分の一はもういいじゃねえか
本人も極論と言ってるし
その検証でスレが進んだらすげーつまらん
126人間七七四年:2009/12/17(木) 12:57:06 ID:wJnYIDkt
動員兵力について語るスレなので実数について話してるだけなのだけれど。
十分の一についての検証に終始するつもりはないし、
実数を把握する上で参考になる数字と根拠は出せていると自負してる。
それに極論が間違っていると決まっているものではない。
何についてスレを進めたいのかがわからん。それなら話題を出してよ。
127仙台藩百姓:2009/12/17(木) 13:42:23 ID:CYbBMUsn
結論からいくと今更兵数を導き出すのは不可能だお( ^ω^)
そもそも大名自身実数を把握していなかった可能性が高いお( ^ω^)
僅か60数年前の戦争ですら身元の知れない兵員がたくさんいるのだお( ^ω^)
128人間七七四年:2009/12/17(木) 13:44:41 ID:lWGDpT3N
60年前どころか今のアメリカの、イラクやアフガンへの派兵だって、
アメリカ自身も全貌を把握しているとは言いがたい。
129人間七七四年:2009/12/17(木) 14:15:43 ID:wJnYIDkt
>>127
それは当たり前だろ。言い出せばキリが無いし話にもならない。
400年前の正確な兵数なんて今更誰も知るわけが無い。
その上で研究してるんだから。
軍役の概念はミニマム。最小限の概念。大名自身が把握していた戦力。
それが厳密に実数でなくとも、両者の戦力を考える上で役立つ。
少なくとも分からないと結論だけ言い立てる無意味な思考停止よりはマシだと思うが。
結論だけ言い立てるのは全くの無意味。
130 ◆uGKMKNYQ3g :2009/12/17(木) 16:48:07 ID:fct2CYea
>>124
真摯に付き合ってくれて有難う。
正直この強弁もネタ切れかけてきて苦しいけれど1点だけ難癖を。

命令書は内部文書であるという前提はどうだろうか。
本領安堵に対して軍役を以て仕えるのが当時の主従関係であり、
勢力同士の境界に近い国人が背反常ないのは当時の世相。
命令書とはいえ誇張した数字が記されても不思議ではない。

杜撰かもしれないが太閤検地で上杉方越後39万石、上野49万石、武蔵半国33万石。
北条方武蔵半国33万石、相模は19万石。
攻勢総動員は理屈で5万人、守勢総動員としても2万人が限界の数値、
さらにその他の前線を全て放棄した状態。これはいかにも無理がある。
1/10は確かに極論だけど、公式発表値と実数値の差よりは近い結果が導けるのではないかな。
131仙台藩百姓:2009/12/17(木) 22:27:11 ID:CYbBMUsn
>>129
そりゃ想像するのは勝手だけど永遠に結論は出ないお( ^ω^)
数自体にはあまり意味がないし多いか少ないかだけ分かれば事足りるお
それより軍制や運用について探る方が有意義だと思うお( ^ω^)
132人間七七四年:2009/12/18(金) 03:09:18 ID:/1CIalhN
島原の乱の時の小倉藩が15万石で6000人動員(8000人って記述も福岡県史にあった記憶もあるが)ってあるので
100石あたり2〜5人が動員の幅って感じかね?
133人間七七四年:2009/12/18(金) 03:17:48 ID:yodNXNPe
>>130
太閤検地ってことはその石高はその国の農業生産力分だけよね
「金さえあれば兵が揃う」時代(大内なんてそうだよね)で商業の分を考慮しないのは、
ちょっと規模を小さく見積もってしまうことにならないかな?

当時の経済活動は記録が殆ど残ってないから、その分を推測することが難しい、
ってのはまぁ置いといて……
134 ◆uGKMKNYQ3g :2009/12/18(金) 07:08:39 ID:k5VnTuhj
>>133
太閤検地は戦国期に最も近く、ある程度信用おける
統一指標の石高として例に挙げてみた。
「金さえあれば兵が揃う」時代の商業分で生じる誤差については
統一検地前に各勢力領内を統制できていなかった
(絶対的な仕置が不可能で両属や独立した小領主が多く組織化が不充分)
あたりで相殺できると仮定して考えた。

ざっくり過ぎるかな?
135人間七七四年:2009/12/18(金) 09:07:02 ID:7ByVxqGw
お前らみたいな糞ニートが10万集まっても加藤神1人に勝てないからどうでもいいだろカスども
136人間七七四年:2009/12/18(金) 14:35:48 ID:nuDAKSh5
俺らみたいな糞ニートを10万人養うには3200万石は必要
137人間七七四年:2009/12/18(金) 14:53:33 ID:+KnLqQFE
10万人とすると、合戦で1日当たり一人に供給される米を五合として、
1日あたり兵糧だけで最低500石。
例えば関ヶ原が三成挙兵から決戦までおよそ100日なので、それと同じ期間
雇われると50万石

3ヶ月で清正の領地熊本の石高を食いつぶす。
138人間七七四年:2009/12/18(金) 15:25:45 ID:nuDAKSh5
だてにタダメシ食らってるわけじゃねーってことよ。
139人間七七四年:2009/12/18(金) 18:02:40 ID:yodNXNPe
>>134
もちろん石高=経済力(金)ですから、その計算値は重要な判断材料とは思いますが
それ以外の”金の力”を無視してしまうのはちょっと、、、と私は思いますね

例えば秀吉の北条攻めの忍城ですら(北条の総動員令あとでも)”金”で土木工事を済ませています
この労働力のもとは、その国だけではなく広範囲に人が戦地に集まってきた結果じゃないでしょうか

それゆえ「金さえあれば兵が揃う」という表現をしたのですが、
そういう時代に土地生産だけを見て「兵数の限界」を決めてしまうのはいかがなものでしょう??
140奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/18(金) 20:26:21 ID:/VJP60tm
秀吉の金の力っていうのに小田原を持ち出すのは、ほぼ全国制覇できる算段がついてから
北条氏を贄にして最大級の宣伝効果を狙っているから時期的には参考にできないんじゃないか。
141人間七七四年:2009/12/18(金) 21:27:34 ID:6hc6ZMdT
>>137
勝ったら、それくらいペイ出来る算段だったんでしょ。
ここで大きく張らなくていつ張る!
142奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/18(金) 21:44:23 ID:/VJP60tm
胴元誰なんだよ。
143人間七七四年:2009/12/18(金) 22:18:32 ID:q1/7DwVd
越後一国で5500人。国外出張組等あわせても面子的に2割増える程度。
太閤検地40万石+貿易金山でこんなもんだしなぁ
144人間七七四年:2009/12/18(金) 23:01:25 ID:P4zUEcar
軍役の面子的には越後一国とは言えないけどね
145人間七七四年:2009/12/18(金) 23:24:16 ID:Zc+WxALV
>>115
岩屋城は要害じゃなく正しく小城なんだが・・・
146 ◆uGKMKNYQ3g :2009/12/19(土) 17:37:31 ID:UXXaHjpy
八百もの兵が籠もれるなら要害でしょう。
147人間七七四年:2009/12/19(土) 19:49:59 ID:M+tTd7tL
室町末期の大大名って広域の版図を築いていたと思います。
最大でどのあたりまで支配していたのでしょうか?

以下勝手な予想

細川
山城・摂津・河内・和泉・大和・丹波・讃岐・阿波・土佐・淡路

大内
安芸・備後・長門・周防・石見・筑前・筑後・豊前・肥前

尼子
出雲・石見・隠岐・備前・備中・安芸・備後・美作・因幡・伯耆
148奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/19(土) 19:54:47 ID:LY3rFlON
支配体系が複雑になった室町末期を謳っておいて、細川大内尼子ってのはどんな取り合わせなんだ。
149人間七七四年:2009/12/19(土) 20:34:26 ID:M+tTd7tL
よくしらない西国の大名の版図ってどんな感じだったか知りたかったもんで
150人間七七四年:2009/12/19(土) 21:48:38 ID:r0PX0BJ0
ぐぐれ
151人間七七四年:2009/12/20(日) 08:16:27 ID:zGK/RiBO
知らぬなら とことんぐぐろう いんたーねっつ
152人間七七四年:2009/12/21(月) 18:08:16 ID:TPZqXCPf
戦国時代に比べて幕末期の動員兵力の少なさといったら無いな
153人間七七四年:2009/12/21(月) 18:14:33 ID:3QHMS5cS
武器が揃わないと人数だけ出してもしょうがないからな。幕末期は既に。
154人間七七四年:2009/12/22(火) 04:18:22 ID:hhpfYZVN
抜刀隊は残って居るけど
戦国期に大勢いた長槍と弓は絶滅種だもんな
155人間七七四年:2009/12/22(火) 11:25:27 ID:2AYe1zoY
>>154
一応、組織としてはあるけどな、弓矢槍奉行・先手弓組・槍組など
156人間七七四年:2009/12/23(水) 02:26:43 ID:UIWaCq+M
>>152
兵農分離してるからね
武士だけの動員だと大した数がいないんだよな
江戸時代で財政難で軍縮やった可能性はあるけど

農兵は奇兵隊とかいたようだが
157人間七七四年:2009/12/23(水) 08:03:51 ID:VvkfHFlh
>>156
長州は奇兵隊を入れても石高あたりの兵数は少ない。
158人間七七四年:2009/12/23(水) 20:35:58 ID:PyScCNed
兵農分離すれば常備兵ができて兵の動員が容易になると思っていたけど
このスレを見て考え違いをしていたことに気がつきました
159仙台藩百姓:2009/12/23(水) 23:58:04 ID:aL6T1uZ2
>>157
それは戦闘員のみをカウントしているのと、国内で防衛に当たった数を含めていないからだお( ^ω^)
例えば長州藩だと幕末の武家数(陪臣含む)は約13000件あるお
つまり一家に一人、当主のみが出兵しても13000人は動員できたと言う事だお( ^ω^)
石高と比較しても妥当な数だと思うお( ^ω^)
他にも何処の藩でも人夫や時に戦闘員としても百姓(猟師等も)を動員しているお
これはカウントしていない場合が多いけど
総数で見てみると案外戦国時代の数も誇張とばかりは言えないお( ^ω^)
160人間七七四年:2009/12/24(木) 00:05:25 ID:UFpyh3L0
戦闘員と同数。もしくは2倍近い非戦闘員がいるでなぁ
161人間七七四年:2009/12/24(木) 04:32:58 ID:I2I6tv1T
その非戦闘員というのは荷駄車曳いてる奴とか、旗持ちとか馬引きとか、伝令とか
ゴミ糞尿処理をする人とか、小間使いとか、ただの見物に来た奴とか色々な人が居るわけでしょ

そういう人達も竹槍持たせば一応は戦闘員になる訳で

戦闘員と非戦闘員の境界は曖昧で、簡単に変動するもんじゃないのかな
実際に会戦すればそれなりにはっきりするだろうけど
戦闘中に非戦闘員とされる人はいったい何をしてるんだろ
162人間七七四年:2009/12/24(木) 08:36:52 ID:brbFMUlH
>>161
戦国時代の小荷駄は別に非戦闘員でもなかっただろうな
163人間七七四年:2009/12/24(木) 10:35:13 ID:C/k2ORiu
陣夫、軍夫は基本戦闘に参加することはない。
戦闘に参加しない代わりに、敵の方も攻撃を邪魔しない限り
彼らを攻撃しない不文律のようなものが有ったらしい。
164仙台藩百姓:2009/12/24(木) 10:46:59 ID:2YTEGGZh
配下の武士以外については領民を徴発する場合や現地で募集する場合があったお( ^ω^)
これらは後方輸送をするただの人夫だったり戦闘員だったり状況によって違うお
あとは地侍(郷士)などをお互い引っ張り込んだりするお
つまり出兵した際と現地に着いた時では数が違うという事があるわけだお( ^ω^)
敵側から見た場合も、カウンター使って全員数えているわけでもないし
総数を見極めるのは極めて困難だお┐ (´ω`) ┌

小荷駄といえば、「荷駄」と言うくらいだから馬で運んだ訳だけど
米だけにしても一万人一月分運ぶとなると千頭ぐらいは必要だったはずだお
他にも乗馬用の馬もいたわけだし、思いのほか馬って多かったのかもしれないお( ^ω^)
165人間七七四年:2009/12/24(木) 10:56:34 ID:qwxbmc+1
合戦の給料ってどのタイミングで支給されていたのだろうか?
前払いだと逃げるやつでそうだし、後払いだと敗走したらただ働きになるし
166人間七七四年:2009/12/24(木) 13:09:30 ID:z26RTbUi
>>165
基本は前払い。

うろ覚えだが、関が原の直前、黒田家が傭兵を募集した時、
集まった数百を越える浪人や百姓が並んで金を受け取ったが、ズルをして2回3回と並ぶ者がいた。
金を渡す役人は怒り捕らえたが、如水はその者の名を聞くと「よし覚えたぞ、おまえには3人分の働きを期待している」
と言って許した。
167人間七七四年:2009/12/24(木) 13:15:06 ID:qwxbmc+1
>>166
サンクス
ワロタ
168人間七七四年:2009/12/24(木) 13:16:50 ID:C/k2ORiu
>>166
関ヶ原の黒田の例はかなり特殊なものだよ。
それにその逸話で支給されたのは給金そのものと言うより、支度金の性格が強かったと思われ。
169人間七七四年:2009/12/24(木) 14:08:51 ID:8H+RwGJk
前田家は人口百五万、動員が二万五千と本で読んだ。
170仙台藩百姓:2009/12/24(木) 14:26:05 ID:2YTEGGZh
前田は武家(陪臣含む)約20200件だからおおよそ合っていると思うお( ^ω^)
171 ◆uGKMKNYQ3g :2009/12/24(木) 16:14:06 ID:fl2zrlJC
江戸時代は兵農分離どころか士農工商が布かれた後だから、百姓が挙げた
長州や加賀百万石のように兵力を把握しやすい。

で、蒸し返す。
兵農分離さえまともにできていない戦国時代中期までに
江戸時代並みの動員が可能と考えるのは明らかに不自然。
両時代には人口にも大きな隔たりがあるし、
最も大きな外様でさえ加越能三国の二万が限界。
いよいよ十万だ六万だの数字は疑わざるを得ない。

分限帳なり何らかの記録に残る数字にしても、これには
非戦闘要員が含まれていないと言えるのだろうか。
まあそれも含めて戦力という定義なら大した問題でもないが。
172人間七七四年:2009/12/24(木) 16:19:31 ID:CVv6LmVG
自領の食糧減らさないための戦さ(略奪)だったら非戦闘員も連れていくよなぁ
173人間七七四年:2009/12/24(木) 16:33:55 ID:siN6pDDJ
現地調達つっても代金は払う建前だから、非戦闘員増えても困るんじゃない?
174人間七七四年:2009/12/24(木) 16:42:42 ID:Zj5RVv8k
他国から兵糧を略奪させるというけど、不確定な兵站を頼りに戦略を立てることは不可能だよな。
中国や西アジアなら敵は城壁に囲まれた一箇所に物資が山積される。でも、日本だと寺や各地の要害に分散するからねえ。
175人間七七四年:2009/12/24(木) 21:21:04 ID:s6zGeQzd
>>166
それは逸話だからなあ
まあ急遽集めないといけないから多目には払っているかもしれんがの
普通は支度金と働きによって報酬じゃないの
176奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/24(木) 21:34:19 ID:cvdMh247
段々と1/10に近づいてきたな。
177人間七七四年:2009/12/24(木) 21:59:17 ID:siN6pDDJ
ぜんぜん近づいてないぞ、、、
178人間七七四年:2009/12/24(木) 23:46:34 ID:RFEjUpAD
>>171
兵農分離すると動員数が増えるという根拠が欲しい。
理論的に。
179奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/24(木) 23:50:42 ID:cvdMh247
主がはっきりしていない土豪だらけの戦国期と、全て藩主に帰属させられている江戸時代。
どう考えても動員率は江戸期のほうが高いだろ。
180人間七七四年:2009/12/24(木) 23:59:16 ID:RFEjUpAD
>>179
主がはっきりしていないような土地に検地できたのか?
石高に含まれるのか?
181人間七七四年:2009/12/25(金) 00:49:51 ID:xv8XEHlA
石高(土地の生産力)の把握での推定動員数は「その土地の生み出す金なら兵何人出せるよね?」という数字
けっして”その土地で徴兵できる限界数”とかそういうものじゃない
つまり「人がいれば兵隊にできる”必要”条件満たす」わけだから、”動員率”とはちと意味合いが異なる

たとえば戦国時代には成人男性全員の”根こそぎ動員”の例は北条島津かなりあるけど、
そういう場合の考慮は↑の推定じゃしてないよね??
兵農分離がはっきりなされていない時代こそ農民(土豪層)がねこそぎ戦場に出る(その年の生産を無視して)ことも考えられるわけで
江戸時代みたいに兵農分離どころか「農民は農業だけしないとだめよ?」なんて時代とは事情もちがうと思うよ
182人間七七四年:2009/12/25(金) 01:04:18 ID:TtScnEBK
つーか、江戸期にも農村に軍役は普通にかかっていたわけで、「農民は農業だけしていれば」なんて
時代ではない。ただ銭納によって農村の住民を出さなくてよくなっただけの話で。

まあ江戸期は住民の把握がそれ以前の時代とは段違いなので(幕府なんて全国の家屋の一軒一軒まで
間取りがどうなってて家主は誰で家族構成は、なんて事まで把握している)、動員効率と言う面でも、
それこそ戦国期とは段違いだったと言っていいでしょ。
183人間七七四年:2009/12/25(金) 01:45:35 ID:zPm/QRXz
100石2.5人はあくまで100石の石高で2.5人の『専業』の『常備』兵を作ることが出来るという基準。
戦国時代だと村に住んでる地主が自分の村で働いている活きのいい農民に槍と鎧持たせればそのまま兵になる。
ところが、城下町に住んでて領主から給料貰うだけの武士にそんなことは無理。
彼らは村とのかかわりがあんまりないから。精々年に一回か二回名主が挨拶にくるだけ。
納税効率は上がっただろうけど、動員の効率は上がったとはいえなさそう。
兵農分離とは兵を(基本的に)常備するという非常に非効率なことをするやり方なのだから。
184人間七七四年:2009/12/25(金) 04:03:06 ID:TtScnEBK
長州征伐の時に幕府が動員した兵は、第一次、第二次とも約15万。
財政負担はともかく、基本かなりスムーズかつシステマチックにこれを集めている。
このあたりを見ても、江戸期の動員効率はかなり高かったと考えていいんじゃないかな?
185人間七七四年:2009/12/25(金) 04:32:51 ID:zPm/QRXz
日本一国を統治する幕府の動員で、二ヶ月も総督が決まらずにぐずぐずしてたっぷり準備期間が
与えられた上で15万程度を集められないようでは困る。
もちろん、これは必要十分な兵力であったのだろうが、少なくとも多いとは言えない兵力。
戦国時代が終ってすぐに長州藩より遥かに小地域である島原の乱にも12万以上の動員があった。
それもだけで九州だけでこれだけ動員してる。
関が原の戦いの折にも一戦場に18万から集まってたわけだ。
もちろん他の奥州やら九州やらの戦線で戦っていた人数は含まずにね。
186人間七七四年:2009/12/25(金) 08:18:55 ID:5X6qny4H
禁門の変・下関戦争で敗戦した長州は疲弊しており
戦わずに降伏すると思ったんじゃなかろうか?
187人間七七四年:2009/12/25(金) 13:37:26 ID:m5DbuCdY
十河城攻撃の時、長曾我部は三万五千動員したらしいが、十万石あたり一万人相当?
多すぎやしないかな。
ただ、土佐の百姓は農作業行く時、いつも武器、武具持って行って畦に置いて起きて
出陣となったら家に帰らず、そのまま戦争へ行ったらしいから、通常よりはかなり動員率
高かったんだろうけどね。
188人間七七四年:2009/12/25(金) 13:39:06 ID:eKjEcT1z
海外から新装備を揃えておいて
戦わずに降伏なんてするのか?
189人間七七四年:2009/12/25(金) 18:27:22 ID:Mt1qbh+M
長州は表向きは恭順の意を示し、その隙に亀山社中や薩摩に依頼して密に武器を集めたから幕閣は知らなかったんじゃ
190奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/25(金) 19:37:42 ID:H/+IOYZJ
>>180に意味を間違えて取られているようなので>>179を書き直し。

主である大名がはっきりしていない土豪だらけの戦国期と、全て藩主大名に帰属させられている江戸時代。
領内に非帰属勢力がないぶんどう考えても動員率は江戸期のほうが高いだろ。
191人間七七四年:2009/12/25(金) 20:02:08 ID:x5Jc3zzs
書き直しても>>183>>185に較べると説得力ない
192奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/25(金) 20:58:43 ID:H/+IOYZJ
時間軸を考えなきゃそりゃわからんだろうな。
193人間七七四年:2009/12/25(金) 21:10:25 ID:Qa8FcBlz
>>187長曽我部の半農半兵は屯田兵と微妙には違うが、イメージ的には屯田兵と考えておいて問題ないと思う。
だから普段は農民として活動するが、戦となれば兵力として集まる。
35000の兵力は更に若年の者や老年の普段の戦では召集しない者たちを召集したとかだろう。
兵糧やお金に余裕があり、短期的だったから問題なかったのだろう。
他の大名も似たようなもんだろうけど、それ以上に常備兵力を用意出来ない四国の土地柄を示している感じだな。
194奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/25(金) 21:24:41 ID:H/+IOYZJ
直臣に餅も買えないヤツが混じる土佐だからなあ。
195人間七七四年:2009/12/25(金) 22:20:43 ID:5X6qny4H
苦悶さんのことかー
196人間七七四年:2009/12/26(土) 01:28:33 ID:Pe3BUAY4
>>194
あんた何を根拠にそんなこというとるの?
197人間七七四年:2009/12/26(土) 01:38:34 ID:CgangdWB
有名な逸話だろ
198人間七七四年:2009/12/26(土) 11:13:30 ID:/2A6gg/R
逸話って背景によるよな
199人間七七四年:2009/12/26(土) 13:44:12 ID:Kx2u+WNO
逸話を何でも鵜呑みにしたらいかんね
200奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/26(土) 15:03:15 ID:h0hgLeVL
突っかかってくるのは構わんが、ある程度の下地がないと話が通じないので困る。
201人間七七四年:2009/12/26(土) 15:06:40 ID:DjuibA9D
長曾我部の餅の話は、秀吉からいただいた餅をありがたいから家臣にも見せますって言う、
秀吉に対する露骨なヨイショだろ。
202人間七七四年:2009/12/26(土) 17:26:39 ID:4u8wyWpq
始まりました。スペシャルドラマ 「坂の上の雲」 (2009年放送開始・全13回・各回90分)
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1261366996/

当時の日本の映像
http://www.youtube.com/watch?v=sF52fmUMW_o
当時の日本を語るインド建国の父・初代インド首相の映像
http://video.google.com/videoplay?docid=-8960593568071128585
203人間七七四年:2009/12/26(土) 18:39:45 ID:6qI358Lq
>>190
江戸時代に戦国時代みたいな「根こそぎ動員」行われた例はあるの??
(比較して動員率が高い、って意味がいまいちわからん……)

つか、ここって”兵力動員の限界”の話をしてるんじゃなくて、
当時の大名の維持出来た軍の規模、を推定するスレなの??

だったら飛騨の兵力も「そのときの状況による」ってだけで永遠に結論でないと思うし
戦国時代と江戸時代の比較も徴兵や戦争のシステム社会機構が違うから簡単にいかんのでは?
204人間七七四年:2009/12/26(土) 18:44:00 ID:DjuibA9D
動員に関するあらゆる話題をするスレでいいでしょ?
なんで限定したがる?
205人間七七四年:2009/12/26(土) 18:47:00 ID:3JzuTXul
大阪夏の陣くらいの時期なら戦国期とあまり変わらないだろうが
三代将軍のころには余計な兵力は幕府に改易の口実になるし
経済的にも辛いから動員力は相当落ちているだろうね
具足も付けられない武士が出てきているくらいだから
戦役とは無縁になってきている
206人間七七四年:2009/12/26(土) 19:40:11 ID:Kx2u+WNO
やはり江戸期の動員力のが戦国期より劣るだろうね。
207奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/26(土) 19:52:38 ID:byqSJsF4
>>203
オレに何の答えを求めてるんだか全然わかんねえや。
土地あたり、人口あたり、それぞれ定義の違うものをいちいち研究させられるのは勘弁な。

>>206
お前本気で中身のない煽りだけやの。
208人間七七四年:2009/12/26(土) 19:57:40 ID:DjuibA9D
だいたい「根こそぎ動員」なんて非効率この上ない状態なんだが…。
209人間七七四年:2009/12/26(土) 20:11:28 ID:wN3zdTfh
>>203
>だったら飛騨の兵力も「そのときの状況による」ってだけで永遠に結論でないと思うし

まあその通りなんだが
でもいない人間は動員できないんだから人口推計で動員可能な数字はある程度わかるんじゃね
210人間七七四年:2009/12/26(土) 20:25:40 ID:Kx2u+WNO
>>207
あなた、なんでそこまで人の発言を悪く受け止めて憎悪するのかよくわからないよ…
211奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/26(土) 20:34:29 ID:byqSJsF4
いない人間の動員というのはまだ公式に則っているから解るとして。

土佐の例は確かに説明が付かんわな。
212人間七七四年:2009/12/26(土) 20:40:08 ID:vx2EV2jQ
つまりだ。
波動拳が出せるだけで充分な戦力になった戦国時代と
スパコンが出せるのが戦力としての最低限の江戸時代とでは
どっちが格ゲーが盛り上がるかって話よ。
213人間七七四年:2009/12/26(土) 21:21:32 ID:g2ELxG68
どっちもどっちで盛り上がるだろ
「俺が一つ声かければ云十人は集まる」とか
「お前は人集めてこい、ノルマ最低3人な」みたいな
悪党の延長でしかないような事例でも実際に人が集まれば
立派に動員したと言える
214奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/26(土) 21:29:17 ID:byqSJsF4
出入りの理屈かね。
215人間七七四年:2009/12/27(日) 03:39:03 ID:0LfJi61w
議論がかみ合ってないね。
ぷらっとは戦国時代には非御家人やら主無しやらの勢力がいるから、
同じ国でも動員率が江戸時代のが高いってことでしょ。
そこで疑問なんだが、主である大名がはっきりしていない土豪の領地を
大名の領国と言えないと思うのだが。
実際にそんな勢力は江戸時代にも旗本とかに編入されちゃってるわけで。
もちろん、曖昧な君臣関係の者が豊臣、徳川を通して大名の領地に取り込まれていった
場合もあるだろう。
でも、そういった者にしても例えば阿賀北衆の軍役みたいに軍事力の提供を行っている。
それすら行わない土豪国人の領地を大名の領地に含めて考える必要は無いと思う。
216人間七七四年:2009/12/27(日) 05:51:23 ID:7YBdZpFP
その大名の領国と言えないはずの地域を含めて考えないと
越後や相模の兵力が本当に1/10になってしまうのではないか?
少なくとも兵糧についての矛盾は無理があるのは分かったしな
217人間七七四年:2009/12/27(日) 06:07:16 ID:0LfJi61w
少なくとも相模の兵力がそうでないことは既に124あたりで説明されたと思うが。
具体的な根拠のある数字で言って欲しい。
十万となると大げさになるが、十分の一は極端すぎる数字であることは既に言われてるだろ?
そもそも、大名領国に含まれない地域が『存在する』というだけで、
それがどれくらいの割合かを示さずに十分の一になるというのはあまりに飛躍しすぎている。。

ちと極論だが兵糧の問題も消費量そのものではなく、運搬と現地調達の問題だと思う。
兵だって家にいても飯をくうわけだし。
218人間七七四年:2009/12/27(日) 09:52:33 ID:VSIJ0vao
まだ十分の一とか言ってるの?
219人間七七四年:2009/12/27(日) 10:10:46 ID:1LH3wMFw
戦国時代の動員数が
書かれている数が多すぎるというのは確かに同意する
しかし。河越夜戦など明らかにおかしいものを持ち出して
10万はありえないといっても仕方ないのでまず除外すべき。
220人間七七四年:2009/12/27(日) 10:14:26 ID:1LH3wMFw
そして、補給などの人夫が半数以上いたと考えるなら
それなりに動員人数に信憑性が出る。

そして、現代なら補給などを担当する人間を
戦争に参加していないと考える方がおかしい。

現実に戦争というものは、
実際に前線で戦う以外の人員が大量に必要なものだよ。
221奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/27(日) 10:18:24 ID:kWdc/pyV
>>124という札には>>137,143という札で押さえ込んでみる。
222仙台藩百姓:2009/12/27(日) 10:31:28 ID:htwPYb2e
大坂の陣あたりから諸藩の武家数はそれほど変わっていないはずだお( ^ω^)
極端な加減封されない限り何千人も暇出したり召し抱えたりなんてないお( ^ω^)
223人間七七四年:2009/12/27(日) 12:14:28 ID:+MQzUgek
関係ないが戦国末期くらいから、どの大名家でも政治を担当する文官と軍事を担当する武官を
かなり意図的に分化させたらしい。

江戸期になるが会津藩では、軍事関係の家臣は同じ家中でも「外様」と呼んだそうだ。
224人間七七四年:2009/12/27(日) 14:42:25 ID:0LfJi61w
>>221
>>137については人数多くても問題ないよね。上杉氏の場合相模一国が『国中山野の体』といわれるほど
現地調達したのだし。もちろん、事は武蔵でも行われただろう。
関が原に至っては川や海からの大規模運輸すら期待できる。
量的には原則の自弁分と領主の支援があれば十分まかなえるでしょ。
兵だって家でも飯食うんだから。
それに江戸時代でも各国で兵糧の備蓄は行われていたし、
戦国期になんの備えもなされてないと考えるのはおかしい。

>>143は越後の軍役状なのだが、国外出張組や謀反真っ最中の本庄の以前にも未記載分が多すぎる。
多少の特殊な例を除いて30人以上の家臣しか記載されていないのだから。
225人間七七四年:2009/12/27(日) 16:14:28 ID:zINRsWkk
一口に軍記物といっても同じ戦争のこと書いていても書物によって動員数にかなり差があったりするし
226人間七七四年:2009/12/27(日) 20:00:15 ID:C9Zdw4/W
>>224
国中の山野の体は現地調達の結果ではないでそ。原文読んでみ。
227人間七七四年:2009/12/27(日) 20:30:26 ID:0LfJi61w
>>226

妙本寺の
此度北狄出張、国中山野之躰
これの話だよね?
まんま読めば北狄(=謙信)がきて国中が山野のようになったとある。
荒らすだけ荒らして何も取らないという解釈なのかい?
生産破壊にしても他の例から言えば現地調達が付随するのは当然だと思うけれど。
228人間七七四年:2009/12/28(月) 01:34:56 ID:XvFNtzYV
謙信の小田原攻めでは明らかに輜重に苦労している。
越後に兵糧を送ってくるように何度も催促している。
229 ◆uGKMKNYQ3g :2009/12/28(月) 14:28:42 ID:7F6HUNo0
また矛盾か
230人間七七四年:2009/12/28(月) 17:03:15 ID:4R0nULfZ
略奪で物資調達できていたら、そんなもん本国に要請しないわな
長尾軍が略奪したから山野の体になって、領民が国に戻らないことが心配されたんじゃないでしょ
231人間七七四年:2009/12/28(月) 17:25:31 ID:c4vlc7IX
全てを現地調達、或いは全てを領地からの輸送で賄うなんて極論誰も言ってないんだけど。
224でも両方言及してる。地元からも輸送しただろうし、現地調達もしただろ。
尼子が吉田郡山城攻撃したときとか、領民がみんな城に篭っちゃってたから現地調達が難しい
別にこっちもそれで尼子軍が霞食って生きてたなんて言ってるわけじゃない。
そもそも食料だけでなく現地調達不可な物資だってあるのだから。

あと山野の体の解釈にしてもこっちは原文引いて反論したのに
特に理由なしで否定するだけとかはやめて欲しい。
232人間七七四年:2009/12/28(月) 17:28:37 ID:HfK8FNJU
現地調達で物資の多くを賄ってたとしたら、
毎年攻め込まれた上野あたりは無人の地になっとるわ
233人間七七四年:2009/12/28(月) 17:31:39 ID:XvFNtzYV
まあ輜重が足りず、購入も上手くいかない状況で初めて大規模な略奪があったと考えるのが
常識的だろうな。その上で謙信の小田原攻めの時の相模では、それに近い状況が有ったとも思うよ。
234人間七七四年:2009/12/28(月) 22:38:18 ID:ShY2RrE8
余分の輜重をどの程度の割合で事前準備するのか は、大名によって個癖の
ようなものがあったんじゃね?
例えば
A家の他国遠征 予定3ヵ月 + 予備1ヶ月  計4ヶ月分の輜重
B家の他国遠征 予定3ヵ月 + 予備0 + 現地調達1ヶ月分 計3ヶ月分の輜重
235人間七七四年:2009/12/31(木) 15:01:40 ID:YljWgIWo
ヤジロベーが仙豆を食い尽くさなければ兵糧に困ることはなかった。
236 【だん吉】 【43円】 :2010/01/01(金) 14:19:53 ID:4hc1ZaC7
今から現地調達に行ってまいります
237人間七七四年:2010/01/03(日) 23:28:48 ID:Nyl/ROXF
どこまで調達に行ったんだ。
まさか死んだんじゃあるまいな。
238人間七七四年:2010/01/04(月) 06:35:37 ID:8zqFr6Yb
乱捕り中には逆に殺されるなどよくあること
239人間七七四年:2010/01/04(月) 20:31:50 ID:brXTHxO1
天正九年(1581)の明智光秀の軍法では、軍役人数は「百石に六人」と書いた上で、
500石で「甲一羽、馬一疋、指物四本、鑓四本、のほり一本、鉄炮一挺」
1000石で「甲五羽、馬五疋、指物拾本、鑓拾本、のほり弐本、鉄炮五挺」
のように規定されている。

http://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/fukuchiyamaisanWEB/siteibunkazai/komonjyo/goryoujinjya%20mituhidekankei.html
http://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/fukuchiyamaisanWEB/siteibunkazai/komonjyo/katyuugunpou.jpg
実物はこんなの。画像直リンだと結構大きいサイズで見られる。

戦闘要員は1000石だと騎馬5、鑓10、鉄炮5、弓が不明で合計20〜25人程度か。
「百石に六人」なら、1000石で60人の動員になるはずなので半数以上は非戦闘員。
240人間七七四年:2010/01/04(月) 20:33:10 ID:brXTHxO1
豊臣秀吉は軍令や陣立書がたくさん残っているようなので、動員の努力目標は明確。

http://sans-culotte.seesaa.net/article/18336456.html
ここを参考に書かせてもらうけど、
基本は100石につき5人で、これを「本役」と呼んでいる。
この他、100石につき4人の動員なら「四人役」のように呼称する。
石高制で知行を定め、100石につき何人という軍役賦課をする動員方法は
明智光秀の軍法と共通しており、織豊の政策の継続性が感じられる。

天正十八年(1590)の北条征伐の際は五畿内が半役(2.5人か5.5人?)なのに対し、
北国が六人半役、三遠駿甲信が七人役とか。
徳川前田上杉いじめにもみえるが、戦場との距離に応じて役の重さを決めている。
(軍令の写しは小田原市史資料編にあるそうなので、確認したい人はそちらを。)

文禄元年(1592)からの朝鮮役では九州勢が本役で、中国四国勢が四人役。
ただし大友、立花、島津、宇喜多などは役が軽い。
ここに慶長の役の陣立書の写真あり。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/27010047.html
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/27010048.html
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/kaidai74.html

あと、秀吉の場合は知行を宛てがう際に、大名家によっては「無役」と称して
軍役が控除される割合が結構大きく、政治的な恣意性が強い。
毛利、小早川、佐竹(たぶん鍋島も)といった豊臣家に協力的だった大大名は
石高のおよそ1/3が無役なので、動員の強度は他の2/3の水準になる。
たとえば小早川家の場合、筑前30万石のうち10万石は無役で、軍役は残り20万石だけにかかり、
朝鮮役では九州勢は本役なので動員目標は1万人となる。

その他、宮部家が因幡但馬5万石のうち1万石(1589)、丹羽家が加賀12万石のうち2万石(1590?)、
浅野家が甲斐22万石のうち3万石(1593)、中川家が豊後6万6千石のうち1万6千石(1594)と、
知行高の15〜25%程度が無役になって、軍役を軽減されているケースがたくさんある。
加藤、福島、蜂須賀といったあたりはこの無役による控除がないようなので、
織田政権時からのステータスに応じてアメを配って手懐けているような印象。
241人間七七四年:2010/01/04(月) 20:33:52 ID:brXTHxO1
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、4月27日に島津義弘が大坂で徳川家康と会見したあとで
薩摩の島津義久宛に送った書状で、会津征伐の動員が三人役になると述べている。
旧参謀本部の日本戦史ではこの記述をもとに、会津遠征には参加しなかった西軍の分まで
関ヶ原の役に参加した全大名の動員兵力を100石につき3人で一律に試算して列挙している。
この試算の数字は非常に有名になっているが、値にはほとんど裏付けがない。

西軍側の資料としては8月に石田三成が真田昌幸に送った書状に陣立書がある。
http://www.city.nagahama.shiga.jp/index.cfm/6,8312,c,html/8312/20091026-105207.pdf
これの8番で書状の一部だけど写真が見られる。
これによると宇喜多秀家は57万石で18000人だから三人役だが、
小早川秀秋は52万石で8000人だから一人半役、
長宗我部盛親が22万石で2100人なので一人役、
毛利秀包にいたっては13万石で1000人と一人役にも満たない。
三人役を命令できるほど三成の政治的な立場が強くなかったのか、
戦場との距離を考慮しているのか。

もっとも8月20日に島津義弘が薩摩の家臣に送った書状に、
長宗我部は2000人の動員でいいのに5000人も連れてきている、
だからうちももっと兵士を寄こせ、と催促しているものがあるそうなので、
各大名は自主的に三成の要請以上の動員をしたらしい。
242人間七七四年:2010/01/04(月) 20:34:43 ID:brXTHxO1
江戸時代に入ってからの軍役はここを参考に。
http://sito.ehoh.net/gunyakukitei.html

慶長十年(1605)の幕府の軍役規定では
500石で鉄炮1挺、鑓5本(+本人1騎)
1000石で鉄炮2挺、弓1張、鑓5本、馬上1騎(+本人1騎)
2000石で鉄炮3挺、弓2張、鑓20本、馬上3騎(+本人1騎)、旗1本

他はほぼ等倍で増えてるのになぜか5本→5本→20本と歪な規定になっている鑓の数は
慶長十九年(1614)に1000石で10本に訂正されているらしい。
訂正後の値に従えば、大阪冬の陣の時の戦闘要員は1000石で15人。

元和元年(1615)の大阪夏の陣では鑓の数が減って
500石で鉄炮1挺、鑓3本(+本人1騎)
1000石で鉄炮2挺、弓1張、鑓5本、馬上1騎(+本人1騎)
2000石で鉄炮3挺、弓2張、鑓10本、馬上3騎(+本人1騎)、旗1本
戦闘要員は1000石で10人。

慶安二年(1649)の旗本の軍役規定では
500石で侍2 立弓持1 甲冑持1 鑓持1 馬口取1 草履取1 挟箱持1 小荷駄2
1000石で侍5 押足軽1 立弓持1 鉄炮1 長刀1 甲冑持2 鑓持2 馬口取2
草履取1 挟箱持2 沓箱持1 小荷駄2

このうち"立弓持"と"長刀"は5万石級の大名家でもそれぞれ2人と規定されていて、
主人の武器を運ぶだけの非戦闘員だと思われる。
(普通の弓兵は立弓持とは別に"数弓"として人数が規定されている。5万石なら数弓30人。
この他大名家だと鉄炮とは別に主人の"手筒"を運ぶ人数がいたりする。)

さらに"鑓持"は甲冑持や馬の口取りとセットになっていて、
騎馬武者の持ち槍を運ぶ従者かと思われるのでこれも非戦闘員か。

"押足軽"はぐぐったところ非戦闘員の監督役っぽいので、
戦闘時の戦列には組み込まれないと思われる。

動員総数は1000石で22人、基幹戦闘要員は1000石で侍5、鉄炮1、騎馬2騎で合計8人か?
243人間七七四年:2010/01/04(月) 20:35:25 ID:brXTHxO1
以上のように、明智光秀の時代に1000石で60人動員だったものが、
時代を追うごとに漸減していき、徳川家光晩年には1000石で22人にまで減少。
戦闘要員も同じくらいの割合で20人から8人に減少しているようにみえる。
244奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/01/04(月) 20:56:44 ID:lVxpIHN1
思い切り調べてもらい大儀。つかお疲れ様。

大坂の両陣は戦国期じゃないから無理してない感じだな。
245人間七七四年:2010/01/05(火) 16:50:25 ID:YuQ5spAl
平和な時代になっていくにつれ必要性がなくなり減っていったのかな
大きな軍備は財政を圧迫するだろうし
246人間七七四年:2010/01/05(火) 20:35:14 ID:IYCq0tlX
>>241
> これによると宇喜多秀家は57万石で18000人だから三人役だが、
> 小早川秀秋は52万石で8000人だから一人半役、
> 長宗我部盛親が22万石で2100人なので一人役、
> 毛利秀包にいたっては13万石で1000人と一人役にも満たない。
> 三人役を命令できるほど三成の政治的な立場が強くなかったのか、
> 戦場との距離を考慮しているのか。

こっちは家康が上杉征伐に課した軍役で

> もっとも8月20日に島津義弘が薩摩の家臣に送った書状に、
> 長宗我部は2000人の動員でいいのに5000人も連れてきている、
> だからうちももっと兵士を寄こせ、と催促しているものがあるそうなので、

こっちは「関ヶ原」と言う新事態に対応するため、各大名が新たに動員をかけた、
と言うことじゃないかな?
247人間七七四年:2010/01/16(土) 18:39:56 ID:GQgWo2sM
織田家のように勢力が大きくなると家臣が大名化してしまう
自在に動員できる当主直属の兵・命令で間接的に動員できる家臣の兵・動員できるけど情勢次第で離反する国人の兵

こんな感じで大名家が大きくなって全体の動員人数は増えても
当主の直接動員力は一定以上は増えないっぽいな
248人間七七四年:2010/01/16(土) 18:45:35 ID:0/QFyAzy
釣り?
249人間七七四年:2010/01/21(木) 17:40:04 ID:UeYYLdFg
そもそも
上杉軍8万とか何が根拠でそんな数字が出てるのか
農民全部投入すれば可能かもしれないけど
そんなこと出来るかわけないし、8万なんて大軍
大して道もない時代に移動手段も大変じゃないか?
コントロールするのは至難の業じゃないか?
250人間七七四年:2010/01/21(木) 17:47:54 ID:UeYYLdFg
その割りに幕末の戦闘では5000人程度が
主だし全面戦争じゃないにしても、生活水準が上がった
幕末より桁外れに多いのはおかしい気がする。
251人間七七四年:2010/01/21(木) 18:43:13 ID:C7TvsRXu
幕末の場合は入手できた西洋銃の数にも左右されただろ。
洋式装備の部隊のみ出兵させた藩が多かった。
和式装備だと他藩からバカにされる。
252人間七七四年:2010/01/21(木) 23:58:38 ID:V7aLGsBc
幕末は射撃戦ばかりで斬り合いなんて殆どなかったからね
火繩銃やゲーベル銃装備の兵でさえ役に立たず、後方に追いやられていったわけだから
火器無しではとても戦場には立てない
つまり火器数=兵数(戦闘員)にならざるを得なかった
253人間七七四年:2010/01/22(金) 14:27:33 ID:SXgNEXyC
幕末の時点じゃ新式火器を持たない兵なんてただの的だからな。
254人間七七四年:2010/01/22(金) 19:28:42 ID:ENbQXb+k
ただ本土決戦になって総動員をかけた会津藩や秋田藩などは二十万石ちょい程度の
石高で七千人や九千人の兵員だったからこれだと関ヶ原戦役の頃と変わらないだろう。
255人間七七四年:2010/01/22(金) 21:39:52 ID:ieFbcjZb
>>250
だから何で時代が新しいほど動員兵力が多いと思うわけ?
おめでたい頭してんだなコイツ。
256奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/01/22(金) 22:56:54 ID:XPHLmvow
小出しにしたい家があっても不思議ではない。
257人間七七四年:2010/01/27(水) 01:26:56 ID:sm7Xzqhn
幕末の動員数なら島津家最強
まあほとんど郷士だけどね・・・

二番手は伊達か?
258人間七七四年:2010/01/27(水) 05:08:56 ID:FPZt7RDf
職業軍人と農民に違いだな

幕末は農民が別に戦争に参加していない
259人間七七四年:2010/01/27(水) 09:22:39 ID:sWhYbGoQ
籠城している時に兵糧ではなく給料が尽きてタダ働きを要求したとする。
その場合、籠城で援軍の見込みがない場合は、やっぱり脱走者が続出してしまうのかな?
260仙台藩百姓:2010/01/27(水) 09:42:10 ID:l8XXoqKK
戦での脱走者はつきものだお( ^ω^)
戦闘による兵力の摩耗より脱走による兵力の損失で城は落ちる
261人間七七四年:2010/01/28(木) 17:56:48 ID:udYBLJuW
>>258
幕末の農民は実戦経験者がほとんどいない。
戦国時代はベテランの猛者の農民が多くいた。
戦国時代の武士は当主だけでなく、親子兄弟も従軍したりしたが、
幕末の長州征伐の時、将軍が旗本を招集すると子供ばかり集まってしまった。
当主が戦争を怖がって引退してしまい、未成年当主が増えてしまったため。
262人間七七四年:2010/01/29(金) 14:00:51 ID:18WfL/u0
信長が美濃を攻略して2国の大名になった後、六角は逃走し、三好や松永も服属し
織田の躍進が始まっているようですね。
徳川や浅井などの同盟者がいるとはいえ、たった2カ国の大名が
なぜ名門六角や最大の実力者三好を圧倒するほど兵力を動員できたのでしょうか?
263人間七七四年:2010/01/29(金) 14:53:26 ID:gMymUhGD
2ヶ国といっても大国2国だし、甲斐とか駿河とか相模のような中小国とは違う。
264人間七七四年:2010/01/29(金) 16:26:34 ID:lWjIZ6qs
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/
の太閤検地を参考にすると、尾張美濃2ヶ国で111万石だね
ちなみに、相模・甲斐・駿河・遠江・三河の5ヶ国を合わせると113万石
265人間七七四年:2010/01/29(金) 17:45:20 ID:08E28O5F
石高だけでなく、経済も大きなポイント。
織田信長は祖父の代から経済の要地を押さえているのが大きいね。
266人間七七四年:2010/01/29(金) 19:30:32 ID:gNdwxbsJ
もっと重要な直のはすでに織田勢には滋賀県や福井県や三重県の豪族も従軍していたこと
267人間七七四年:2010/01/29(金) 20:51:26 ID:18WfL/u0
なるほど。将軍を奉じる大義名分のおかげで近隣の勢力も動員できるわけですな。
268人間七七四年:2010/01/29(金) 21:28:37 ID:tVn5v5Qh
最大動員兵数

伊達 25000?(対佐竹芦名)
北条 50000(対豊臣)
上杉 20000?(対織田)もしくは小田原包囲
武田 25000(対徳川)
今川 25000(対織田)
徳川 70000(関が原)
織田 ?
豊臣 ?
毛利 30000?(対織田)
島津 50000?(対豊臣)

こんなもんかな?
269人間七七四年:2010/01/30(土) 16:44:27 ID:qutB8n2V
三好政権があっさり信長に敗れ去ったのは当主の義継と重臣筆頭の松永が信長方だったのが一番大きい
270人間七七四年:2010/01/30(土) 17:58:00 ID:Ug/zsSeV
家康が動員したわけじゃねーだろ
271人間七七四年:2010/01/30(土) 18:04:38 ID:NOzJPAeo
関ヶ原の戦いの家康じゃなくて
関ヶ原の役の徳川の話だろ
家康3万、秀忠3万、秀康1万として
272人間七七四年:2010/01/30(土) 18:26:39 ID:rSDBxjEF
その他に東海各地の守備兵も居たから+一万くらいにはなるな。
273仙台藩百姓:2010/01/30(土) 23:10:49 ID:M3C8mEhj
秀康は結城家当主だから徳川とは別物だお( ^ω^)
274人間七七四年:2010/01/30(土) 23:33:19 ID:hKk9CF0a
>>273
一門大名じゃん。一緒だよ。
275奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/01/30(土) 23:37:02 ID:roAA6Z7G
松平一門の筆頭で元は御三家よりも石高高いもんなあ。
276人間七七四年:2010/01/30(土) 23:59:05 ID:Ug/zsSeV
たったの11万石だろw
277人間七七四年:2010/01/31(日) 00:11:52 ID:2okWZS08
5人しかいない10万クラスじゃん
278人間七七四年:2010/01/31(日) 04:28:27 ID:MF4z1XS9
ていうか、豊臣と織田の最大動員数がいまいち分からん
秀吉の小田原包囲や九州征伐ってどんだけ動員したんだ?

織田は各地に兵を分散してるんでどれが最大かイマイチ分からん
石山本願寺攻めか手取り川の織田オールスター戦か?
279人間七七四年:2010/01/31(日) 04:43:23 ID:dyGfcATh
朝鮮征伐の14万じゃ不足か?
280人間七七四年:2010/01/31(日) 05:50:29 ID:MF4z1XS9
いや、それじゃ支配下の他大名から動員した兵数がほとんどじゃん?
そうじゃなくて、単独の最大動員兵数を知りたいわけよ
そうなると、織田や豊臣を計るのがかなり困難なわけで、実際どうなのかと
281仙台藩百姓:2010/01/31(日) 08:58:34 ID:aYtgkyM0
朝鮮の役当時は全国諸氏が豊臣氏に臣従していたのだから
あれは連合軍ではなく純粋に豊臣軍だお( ^ω^)
ちなみに東国諸氏はかなり少ししか兵役かけられてないおね( ^ω^)
282人間七七四年:2010/01/31(日) 11:30:48 ID:3oFrBSJm
戦国時代もっとも兵を集めたのは上杉謙信が関東征伐で集めた30万騎が最大だろうな。
本気出せば上洛して幕府を開くのは簡単だったろうが無欲な謙信公らしい。
283人間七七四年:2010/01/31(日) 12:07:55 ID:yKVdc3T+
一揆の20万だか30万ってのとおなじで誇張が酷そうだな。
だいたいそんな大人数を動員すると戦う以前に財政が破綻しないか?
284人間七七四年:2010/01/31(日) 12:20:59 ID:S9hQJF05
10万でさえ誇張なのに30万とか即崩壊するわw
宗滴が3千で30万を打ち破ったとかめちゃくちゃな誇張話がありすぎる時代だからな
285人間七七四年:2010/01/31(日) 12:29:50 ID:yKVdc3T+
戦国時代の万の動員は結構誇張ありそうだよな。
幕末の長州征伐は幕府十数万が動員されたけど
あれだって幕府は戦費調達に相当苦労してやっとの思いで動員したんだよな。
286人間七七四年:2010/01/31(日) 14:48:00 ID:v9O9DIFs
>>268
関ヶ原時の徳川が一門合わせて7万なら毛利だって大坂表の輝元本軍と関ヶ原に出張った
甥・小早川・吉川・安国寺合わせりゃ9万くらいになるだろ。
287人間七七四年:2010/01/31(日) 17:31:53 ID:GLzQSaBL
このスレを少し前から読んでみれば、十万なんていう兵力は
誇張か釣りでしかないわけだが
288人間七七四年:2010/01/31(日) 18:33:54 ID:KjRQ5lAh
永禄3年(1560)から翌年にかけての上杉謙信(長尾景虎)の
最初の関東遠征では、最終的に関東のほとんど全ての勢力がこれに服属し、
その多くは何がしかの兵力を派遣していたと思われる。
北条氏以外で明確に最後まで景虎方に反抗した記録が残っているのは
古河公方足利義氏とそれに従う結城晴朝、壬生綱雄、下総の千葉氏系(国分氏など)だが、
古河公方の重臣であった梁田氏、結城氏の重臣であった多賀谷、水谷氏は景虎に従っている。

軍記の記述から景虎方の総動員数を拾うと
豆相記で11万3千人、相州兵乱記、北条記(小田原記)、甲陽軍鑑では9万6千人。
30万人としている本って何?

より後世に成立した鎌倉管領九代記では関東の諸将の総勢が9万6千人
プラス謙信譜代が1万7千人で合計11万3千人だったとしていて、
関八州古戦録もこの説に従っている。
先に書かれた軍記をもとにした数字あそびっぽい気はするが、
遠征から帰った同じ永禄4年の第四次川中島合戦の甲陽軍鑑の記述では、
上杉軍は1万3千人とされているので、
謙信の当時の動員力は1万数千人だと(江戸初期には)思われていたらしい。

北越軍記では越後を出た時の景虎の動員数を2万8千としているがこれは過大だろう。


大雑把に動員数を検証してみる。
相模を除いた関東7州と越後の石高を合計すると太閤検地時に320万石超。
このうち8割が景虎に味方すれば250万石、
100石あたり4人の動員をかければ総数は10万人となる。
実際に10万人で小田原近辺まで進軍したかどうかはともかく、
軍記作者が全く実現不可能な数字を誇張して書いたというほどでもないと思う。
289人間七七四年:2010/02/01(月) 01:02:05 ID:+8sHL7EL
全力出撃するわけねーだろ
290人間七七四年:2010/02/01(月) 14:40:22 ID:ONvd5bfD
小田原囲んだ時の10万の話?

当然、北条に対するプレッシャーの為に数を誇張したのはあるだろうけど
引きこもるだけの北条を見て、
他の奴らが謙信にコビ売るためか、自分の軍事力を誇張して他の勢力への牽制でもしようとしたか
自分の動員数を誇張した可能性はあるかもな

実際に、連合兵数をすべて把握していた人間なんて当時誰も居ないだろう
全軍出してないのに全力出撃しました、って嘘ついてもバレない
291人間七七四年:2010/02/01(月) 16:00:12 ID:CS5/Pd0J
多めに申告すれば、お手当多くなるから
292人間七七四年:2010/02/01(月) 16:36:35 ID:qAh/ROwK
>>289
100石あたり4人の動員、ってぜんぜん全力じゃないと思うけど……
293人間七七四年:2010/02/01(月) 17:56:49 ID:+8sHL7EL
お遊びで100石4人出してる例を挙げろ
294人間七七四年:2010/02/01(月) 18:16:06 ID:CS5/Pd0J
十河城の戦いの三万五千は完全にデモンストレーションの動員だな。
あんな小さな城にそれほどの大軍は必要ないから。
295人間七七四年:2010/02/01(月) 18:26:56 ID:ixMjU3xk
3人役ですら集めることがままならず、
日之本一の遅陣と馬鹿にされた島津さんになんか用か
296人間七七四年:2010/02/01(月) 20:27:48 ID:qAh/ROwK
島津さん、なめるな
文禄検地で56万9千石余と認定されてるけど実質35万石(総人口30万程度だし…)、名目3人役(17070)は5人役相当だぞ

さらに本気出して2万〜3万動員した耳川の戦いだと当時も35万石として計算で6〜9人役
たぶんこれくらいが全力(総動員)といっていいんじゃないかな??
297人間七七四年:2010/02/01(月) 21:03:23 ID:YoFLEgB4
石高も表高だと過少・過大申告とかあるから
実高を検証し考慮するのはいいことだと思う
298人間七七四年:2010/02/01(月) 23:05:19 ID:VSy3TXFT
島津さんの場合は、三成検地やるまでは国内の大部分を占める国人衆の
知行に関してはアンタッチャブルな扱いで島津家としての実高不明だからな
299仙台藩百姓:2010/02/01(月) 23:26:30 ID:b5VFFqm2
それは殆どの大名が同じだお( ^ω^)

石高なんて曖昧なもので兵力を計るのはナンセンスだお
実石なんて毎年違うのだから比較しようがないお┐ (´ω`) ┌
300人間七七四年:2010/02/02(火) 00:20:14 ID:m9Uzejxl
>>296
島津の割り当ては1万。35万の3人役だよ
それでも集まらないから半分の5000人にしてもらったけどね。
301人間七七四年:2010/02/03(水) 20:22:20 ID:5/vigasW
対馬の宗って朝鮮征伐の時五千人だっけ?
絶対傭兵が加わっているな。
根こそぎ動員しても徴兵だけではそれだけの数は確保できない。
302仙台藩百姓:2010/02/05(金) 22:35:29 ID:Abgtcxud
東国大名は大大名クラスでも5000程度だおね( ^ω^)
303人間七七四年:2010/02/05(金) 23:38:56 ID:Tig1cJXn
小田原の時は東国大名が大動員して、朝鮮は西国大名が、
公平でいいじゃないかw
304人間七七四年:2010/02/06(土) 00:40:11 ID:NoMs5Lwj
朝鮮征伐の時、家康は渡海しないにもかかわらず、
名護屋に15000の軍勢滞在させてるな。
305人間七七四年:2010/02/06(土) 08:36:16 ID:cXC73ZJP
島津氏の場合、ぐぐると文禄検地が行われる前は22万5千石だったって記述があるんだけど、
これの1次史料がどこにあるか分からない。

で、石田三成の指揮で島津領国の検地が行われたのは文禄3年から4年にかけてで、
これは文禄の役の軍役が決定された後で、慶長の役の軍役が決定される前にあたる。
文禄4年6月29日の朱印状では57万8千石から
太閤倉入1万石、石田三成6千石、細川藤孝3千石を除いて
55万9千石が島津家の分とされている。(島津家文書447と1095)、

軍役は文禄の役では義弘1万人、慶長の役では義弘1万人と豊久8百人なので、
22万石だと五人役なんだけど、55万石だと二人役相当みたいな感じに。

朝鮮役では長宗我部氏の場合も、表高9万8千石が過少(後に土佐は20〜22万石)なのを
おそらく豊臣政権も承知した上で四人役相当と思われる3千人の動員になっているので、
四国征伐、九州征伐の事後処理で当事者の表高は意図的に実高より低めに決定されていて、
その結果として文禄・慶長の役の軍役負担は軽めになっているのではないかと。

>295
文禄の役で「日本一の遅陣」云々っていうのは島津義弘が
国元への手紙の中で自嘲して愚痴っている文面なので、
当時そのようなキャッチフレーズで馬鹿にされたのかどうかはわからない。

また、遅陣の原因は直接的には国元から船が着かなかったことであり、
その背景には上層部での政策に対する意見の不一致と遅延工作があったと考えられる。
島津義弘は本来一緒に行くはずだった4番隊毛利吉成等が名護屋を出発した3月20日までには
名護屋に到着しているので、義弘が遅陣した事と動員能力には関連はない。

「名護屋江モ能(よき)時分ニ参候得共、舩延引之故、日本一之遅陣ニ罷成」、
「舩一圓不参」「迷惑之至」なので「賃船を以」て渡海した、
とあるので(旧記雑録 5月5日義弘書状)、
島津勢は名護屋でずっと船を待つうちに本来の出発日から一ヶ月以上遅れてしまい、
最後は諦めて船をチャーターしたらしい。
306あらた:2010/02/06(土) 22:07:54 ID:cZxbtNfO
誇張しているというよりか物見による
目測の誤りと言った方が正しいのではないでしょーか
307人間七七四年:2010/02/07(日) 12:44:05 ID:MlRiEaBa
同じ動員するにしても
近所に動員するのと遠方に動員するのとで負担は違う。
参勤交代でもそうだけど地方から出向くのは大変だよな
308人間七七四年:2010/02/07(日) 13:21:11 ID:23Pj7PRQ
参勤といえば、どこの藩でも藩士は参勤について行きたい連中ばかりで、
藩や、それこそ幕府の方が人数を抑えるのに大変だったそうな。
地方の人間に取って大都会江戸は、それだけ魅力のある場所だった。
309人間七七四年:2010/02/07(日) 13:32:26 ID:MlRiEaBa
なるほど
310人間七七四年:2010/02/09(火) 00:19:14 ID:DbN9qgMm
>>305
実石高で云々……てな流れでまた表石高で計算してどうする 
しかも島津さんの特殊な台所事情を普通の外様と一緒にするなんて、ちゃんとググってるのか?? 

というのも普通は玄米に課税するのに島津では籾(精米する前)だった結果、表1石=実質0.6石で検地された
それ故、表石高56万9千石でも玄米換算(当時の一般的石高)だと概算35万程度ではないかと推察されてるが
検地以前は↑でも指摘されてるように伝統的に有力配下の力が強く、さらに下回る石高であったとしてもおかしくはない
ちなみに江戸になっても、これは修正されなかった(島津自身も言い出さなかったのは、たぶん藩の格の問題?)

なぜ島津だけ籾高で検地したのか、はよくわからないんだけど、秀吉政権以後は動員規模は表石高で決まっていたわけで、
九州征伐後に軍縮を行わなかった結果の余剰人員分をごまかした可能性は大きいかも(平和がくるとは思ってなかったろうし)
ちなみに検地自体は短期間で終わり、三成は島津側の自己申告をそのまま認めたと思われる
結果、島津家では他の土地より1.7倍の税が普通な上に、薩摩は食料生産にむかないシラス台地が広がり新開拓の余地も少なく、
(当時はサツマイモ無かったことに留意)家久が他所でやらない豚飼育奨励するほど食糧事情はキツキツ、
つまり藩財政は尋常でない自転車操業だったと思われる

てなわけで、家久遅参の原因も「金策に時間がかかった(まにあわない)」ってのが実情じゃないかな?
このあたりの”貧乏具合”は中央も把握してたらしく、遅参のとがめもないし琉球分は軍役免除してるね
現代でも重要イベント遅刻の言い訳に「自家用車がこないので遅れました」「駅に車こないので会場まで走ってきました」
なんて理由で上司が「あなたもたいへんだねぇ」なんてコメント残すわけないでしょ?
個人的には、関ヶ原後の急な島津征伐取りやめも、ここらの都に上洛できっこねぇ事情を家康が把握したからだと思ってる
311人間七七四年:2010/02/09(火) 01:03:07 ID:vBF8K2fs
検地は土地の面積を計測するのだから、
収穫後の米を俵に詰める際に、籾のまま入れる風習があっても、
石高に影響しないはずなのだが。
312人間七七四年:2010/02/09(火) 01:29:18 ID:DbN9qgMm
>>311
ググったらヤフ知恵袋で説明してるとこがあったよ
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1214296847?fr=rcmd_chie_detail
313人間七七四年:2010/02/11(木) 08:05:13 ID:ueBpwNW8
那須家の動員は軍記物でもしょぼい。

自力で2000も動員出来ない。
314人間七七四年:2010/02/11(木) 17:58:31 ID:RtTV3MQU
那須のあたりは今でもそんなもんだろ
315人間七七四年:2010/02/11(木) 19:33:46 ID:B4E3TnlO
10万人ぐらいしかいないからな
316人間七七四年:2010/02/16(火) 19:22:20 ID:tL29bSan
昔から動員兵力の妄想をするときに計算したのは
1万石につき300人という感じ。
元々石田三成の約20万石で関ヶ原に6000人だったからそんなものだろうと。
その式で行くと徳川家康の250万石で7万5千人。だいたい合ってるだろう?

まぁ史料によりいくらでも捏造できるので史料に書いてあるから正しいなんてことはない。
兵力計算はやっぱり経済面からみるしかないんだろうね。
>>313
那須で2000人となると恐らく7万石くらい?
大体イメージ通りになるよね。
317人間七七四年:2010/02/16(火) 19:49:39 ID:/EPr9OlF
那須以外の七騎は50人とかもザラだなw
318人間七七四年:2010/02/16(火) 19:49:40 ID:7XBM1nrl
軍役状や着到状は捏造しないだろ。
319奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/02/16(火) 21:22:31 ID:BGvWpW+y
七騎以外に馬に乗ってる奴がいなかったりして。
320人間七七四年:2010/02/18(木) 08:13:47 ID:9rlSMAMo
第一次月山富田城の戦い

・大内方約20,000
大内義隆、陶隆房、杉重矩、内藤興盛、弘中隆包ら15,000
毛利元就、小早川正平、益田藤兼ら5,000

・尼子方不明

大内が全力を挙げたにしては動員が少ないな。
たった15000で尼子を倒せると思っていたとか
九州側の人員は動員できなかったとか理由があったのだろうか?
321人間七七四年:2010/02/18(木) 19:41:57 ID:Lku2Cxme
飛騨や志摩の動員力はどれくらいですか?
飛騨は石高以外に鉱山や木材資源 志摩は水産や海運の資源があると思いますが
322人間七七四年:2010/02/18(木) 19:45:11 ID:ZDbrIKi4
飛騨の人口考えろ
323人間七七四年:2010/02/18(木) 19:51:17 ID:VW+Doksi
ここも面白いスレになるかと思ったけど、ちょっと残念なスレになってしまったな
324奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/02/18(木) 20:51:27 ID:kl2JwaE1
いろいろ頑張ったんだけど、それぞれの思い込みが折衷できないもんだから仕方ないのかも。
325月孔雀:2010/02/19(金) 01:02:32 ID:cnRvP6TV
動員兵力も大事だが、思想も大事な気がするよ。
勝てば賊軍かもね・・・
326人間七七四年:2010/02/19(金) 03:29:01 ID:6+XvmQIM
信長、秀吉、家康
10万の大軍を率いさせて関ヶ原みたいな戦をさせたら
秀吉、家康、信長の順で強いと思う。

327人間七七四年:2010/02/19(金) 04:58:42 ID:J+SVGRXo
スレのレベルが中学生レベルまで落ちてきた
328人間七七四年:2010/02/19(金) 05:26:09 ID:4vxBnjAU
動員とは直接関係ないが、「国人一揆」って組織はどういう形態だったんだろう?
ある種の攻守同盟のようにも見えるし、行政体にも見えるし、相互扶助組織にも見える。
毛利を中心とした安芸国人一揆は巨大になりすぎた特殊なものだろうが、
信州や上州などの国人一揆も数千から万の動員をしてたりする。
しかも戦国期には、ある程度全国にまんべんなく存在していたようなのだが、
全国的に共通する組織形態や運営形式などは存在したんだろうか?
329月孔雀:2010/02/19(金) 05:45:57 ID:cnRvP6TV
浄土真宗が黒幕?よく分からない。やっぱ、その土地の、
名家って、長く残るみたいね。
近くに、富樫の末裔の人たちがいて、僕を助けてくれるよ。
330人間七七四年:2010/02/19(金) 07:10:59 ID:6+XvmQIM
ていうか
武田も毛利も、その他、全国の大名たちが
この浄土真宗の豪族家臣たちへの配慮で
家内を統括管理する労力の半分以上を費やしていたのは常識

現代で言えば、「労働組合」それが当時の浄土真宗という組織だったんだよ。

家内でこの組織の力が強ければ強いほど、家全体の勢力は削がれるし
しかし無下に扱おうものなら家内は一つにまとまらず、最悪、謀反もおかしくない
そんな勢力が当時の信仰宗教であり、その最たるものが浄土真宗とキリシタンなんだよね

だからこそ、義に厚い謙信は全力で一向宗と戦ったし
信長の実現目指した合理主義政権にとって宗教勢力とは絶対に認めてはいけない既得勢力だったんだ

そしてそれは後続の秀吉、家康にとっても同じことで
秀吉はキリシタン規制をしているし、家康とて貿易の範疇を越えるイエズス会には常に注意を払っていた
幸い、一番の宗教勢力であった浄土真宗は先代の信長が一生をかけて葬り去ったから対処の必要がなくなったが

信長の生涯での一番の功績を挙げるとしたら
教科書に載っているような楽市一座やら鉄砲の三段撃ちのような誤った喧伝ではなく
この日本に宗教戦争の火種になるような巨大な武装宗教勢力一向宗を葬り去ったということが
真実の価値を持つ業績だろうね
331人間七七四年:2010/02/19(金) 08:12:57 ID:imEFQS+d
葬り去ってなんていないじゃん
方向転換には持っていったろうが
332人間七七四年:2010/02/19(金) 08:33:35 ID:lLGgSam0
>>328
加賀一向一揆のように政治を共同で担当する組織から
ただの軍事同盟までさまざまだからなあ
あくまで国人が共同して大勢力に対抗するのを国人一揆と総称しているだけなのであって
同じ括りだからといって共通点が多いというわけでもないんじゃないかなあ
333人間七七四年:2010/02/19(金) 11:14:00 ID:vcubsHJ5
>>328>>332
難しい問題だよね
加賀、山城、安芸
有名どころでそれぞれ国人一揆ではあるけど意味合いが全然違う
334人間七七四年:2010/02/19(金) 12:08:59 ID:w/JbKJmP
倭寇の動員もここでいい?
この怪しいサイトによると
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/2-17.htm

朝鮮海軍が1419年に倭寇の拠点対馬を攻撃した時の動員は
227艘。当時朝鮮全兵船が613艘なので4割弱を割いた計算になる。
その時に倭寇129艘を捕えたとある。大型な貿易船ではなく軍船なので
両者船の規模に差がなかったとすると捕えただけで朝鮮海軍の2割程度の規模を有していたことになる。
対馬以外にも松浦党や済州島の倭寇もいたことから明や朝鮮政府がなかなか討伐できず
頭を悩ませていたのもうなずけますね。
千数百の騎馬隊と数千人の歩兵を擁しているなんて記述もありますし
どこかのゲームの諸勢力より遥かに動員力がありますね。
335人間七七四年:2010/02/19(金) 23:03:48 ID:9ooX34cN
>328
「国人一揆とは何か」ということがわからないと、
戦国時代にどんな人が何のために武装して戦っていたのか
戦国大名はそういった人をどのように統合していったのか、といった
基本中の基本が理解できないと思うので、ちゃんと本を読むことをおすすめする。

「一揆と戦国大名」『日本の歴史13』 講談社 文庫版もあり
「戦国大名と一揆」『日本中世の歴史6』 吉川弘文館
「一揆の時代」『日本の時代史11』 吉川弘文館

どれも通史のうちの一冊で、同じ時期の同じようなことを説明する本が
似たようなタイトルになるところに一揆というキーワードの重要性が現れている。
上の2冊は共に良書だと思う。戦国時代関連の良書スレでも推薦されてるし。
一番下は論文集の形式なので一揆について直接述べる部分は少しだけ。

>332 >333
加賀は「土一揆」であって国人一揆という呼称はあまり適切ではないように思う。
同時代史料では加賀の一揆は主に土一揆と呼ばれていて、
地侍や土豪のような武装集団層だけによる一揆とは明確に区別されている。
また「一向一揆」という呼称は同時代史料では使われていないらしい。
(「一向一揆と石山合戦」『戦争の日本史14』 吉川弘文館)

山城など畿内の国人一揆、惣国一揆は危機に対応して短期間だけ
結成されるところに特徴があるという指摘が池享氏によってされている。
(「近世の形成」『日本史講座5』 東京大学出版会)

安芸との比較で言えば、畿内では一揆の結合性よりも、
むしろ惣郷、惣村といったミクロな組織の独立性に特徴があり、
地域社会の安定が回復すれば一揆がなくなってしまうような性質が、
後に毛利氏領国として集権化していく安芸との違いになった可能性がある。

もっとも国人一揆が戦国大名化したのは毛利氏のケースしかないので、
安芸の状況や毛利元就の個人的手腕などが安芸の一揆の特殊性を生み、
畿内の一揆との違いになったという可能性もある。
336奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/02/19(金) 23:11:41 ID:+4Om0Qc5
一揆の分類がいかにも恣意的で理解しづらいわな。
岩波も小学館もココについては同じだ。
337人間七七四年:2010/02/20(土) 00:45:22 ID:JgfK9EZ7
>>335
戦国期には、領主権力の確立していない地域では、百姓一揆と国人一揆が
それぞれ交渉して地域を運営していたり、あるいは敵対したりしていますな。
概念的に西欧の貴族院と下院のような、階層ごとに集団に分かれて、ある種の
自治、運営をしていたのはちょっと面白い。

思うに土一揆と言うのは、一つの目的のために国人一揆と百姓一揆が合同したものではないだろうか?
338人間七七四年:2010/02/20(土) 01:21:40 ID:9PhnKDYg
百姓一揆は専業農民がやるもので階級闘争、だから江戸時代の一揆
戦国時代の国人一揆と土一揆は、規模の大小や目的別に「便宜上」分けたもので
根本的には、ほぼ同一の物
339人間七七四年:2010/02/20(土) 01:23:46 ID:9PhnKDYg
って習ったが今は違うんかね?
340月孔雀:2010/02/20(土) 01:55:30 ID:88kOxkdN
一揆=革命でいい?
341人間七七四年:2010/02/20(土) 02:07:52 ID:mEWenD/R
>>340
全然無理

http://www.tabiken.com/history/doc/O/O164L100.HTM

こんなに革命が起きていたら日本が滅んでいたと思うw
342月孔雀:2010/02/20(土) 02:17:22 ID:88kOxkdN
虐げられている人は、最後、一揆するよね。
一揆の成功は、日本だと、加賀だけかな?
343人間七七四年:2010/02/20(土) 02:26:21 ID:FCJFtzgK
…徳政一揆なんて”虐げられていた”とはちょっと言えない人たちだと思うけど……
344人間七七四年:2010/02/20(土) 02:27:44 ID:JgfK9EZ7
一揆は抵抗運動ではなく、相互扶助組織で中世には普遍的なものだぞ。
常日頃から普通に存在するものだ。
345人間七七四年:2010/02/20(土) 02:40:06 ID:mEWenD/R
>>342
唯物史観に毒されすぎw
346月孔雀:2010/02/20(土) 03:04:43 ID:88kOxkdN
あり。
347人間七七四年:2010/02/20(土) 10:41:46 ID:VCEgJySZ
>>336
同意
348人間七七四年:2010/02/20(土) 10:45:35 ID:x+ILdnOV
地元に義民伝説があるがどうにも嘘臭い
一揆の指導者は本当に獄死したんだろうか…あと例によって空海や日本武尊、将門伝説なんかもフルセットで揃ってるな
349人間七七四年:2010/02/20(土) 11:09:43 ID:pJ2HjNHj
加賀の一揆は国人一揆と土一揆の中間って感じなのかなあ
しかし参加したのが半農半士やら国人やら宗教勢力やら色々いるから
きちんとした分類は難しそう
350人間七七四年:2010/02/20(土) 11:23:20 ID:VZ0byR7S
虐げられた〜っていうと島原の乱をイメージするが
戦国の一揆はなんか違う気がする
自身の権利を認めさせるため、現代でいうとストライキに近いような
351人間七七四年:2010/02/20(土) 11:50:25 ID:JW8yuvq/
階級闘争的な史観の見直しっていうか、
中世から近世にかけての社会秩序、身分秩序の移行過程を精査する社会史研究が
ここ20-30年の流行りだからね。

その成果として、「一揆という横関係の繋がりが大名による支配という
縦関係の圧力によって断ち切られた」みたいな古い構図が訂正されることになった。
一般書としては「一揆」(勝俣鎮夫 岩波新書 1982)がその嚆矢になるのだと思う。
(今読むと古い本だと思うけど、問題提起のポイントを抑えたいなら。)

それゆえに>335であげたように、最新の研究成果を一般向けに紹介しようとすると、
必然的にまず一揆とは何かを説明するところからはじめるという形になる。
352人間七七四年:2010/02/21(日) 04:27:26 ID:pAVzGNYU
飛騨の江馬氏は石高にしてわずか8000石程度にもかかわらず3000人程度の動員ができたそうだ。
鉱山による収益は石高に反映されないからこのような極端な事例もあるんだね。
353人間七七四年:2010/02/21(日) 04:50:40 ID:4Da5ZJVJ
300人か、もしくは30人の間違いだろ
354人間七七四年:2010/02/21(日) 05:42:39 ID:QW+xIW9h
池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より

「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
各自に任されていた。
これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
従って武篇道と戦果が問題となる。

(中略)

信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。

信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
戦っていかなければならない。
拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
なされていないからこそ生じた問題であろう。
それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。

この問題の解決は秀吉の課題となる。」

355人間七七四年:2010/02/21(日) 19:53:51 ID:DrHHpYPQ
>>352
飛騨全体で人口6万ぐらいしかいないのに、飛騨北部だけで3000人も動員出来るわけねーだろ
どこの戦闘民族だよ
356人間七七四年:2010/02/21(日) 20:36:36 ID:AAwIPPQb
>>355
飛騨で編成された兵が飛騨出身者だけである必要性は全くないと思うのだけど……
357人間七七四年:2010/02/21(日) 21:20:05 ID:QW+xIW9h
そういえば長篠の戦いの後、徳川家康の遠江回復のための軍は、傭兵部隊も多かったらしい。
358奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/02/21(日) 21:32:15 ID:FHMbBr4A
>>356
で、その半分はどこから連れてきたんだよ。
359人間七七四年:2010/02/22(月) 02:54:49 ID:k3zorS6E
>>358
美濃とか回りの国じゃないの? 流民(逃亡)けっこういた時代だし

北条とかに残る禁制みると、村から兵士として出される人間が村出身者でなかったことは、当時よくあったみたいだよ
360人間七七四年:2010/02/22(月) 03:47:25 ID:dWBE/XKT
戦国時代は足軽引き連れて戦場から戦場に渡る、傭兵隊長みたいなのが結構いたらしい。
361人間七七四年:2010/02/22(月) 03:52:57 ID:LJDbe54h
3000人ちゃあ10万石大名規模の傭兵団か、んなのどこにおんの?
362人間七七四年:2010/02/22(月) 05:08:32 ID:dWBE/XKT
一つの傭兵団が3000人も引き連れる訳ないだろ。
そんな傭兵隊長がいたらとっくに戦国大名化するわ。

十数人から数十人単位のものをいくつも雇ったと考えるのが普通。
363人間七七四年:2010/02/22(月) 07:42:48 ID:t/iLcaDj
すっげぇ金かかりそうだな
364人間七七四年:2010/02/22(月) 09:10:55 ID:X1et3dCe
紀伊の雑賀衆なんて、そんな数十〜数千の在外出身の百姓〜足軽身分の傭兵集団を束ねる首領や土豪、地侍、海賊衆が、地縁や利害関係などで惣国を結び、戦国大名に匹敵する勢力になったんだろう。
雑賀衆には名字の無い実力者や流民の流入も多かったらしいし。
といか雑賀衆は稀なケースだろうけど
365人間七七四年:2010/02/22(月) 11:27:22 ID:ak9f/sLo
>>363
作戦中の食料だけの条件でも、たくさん人が集まる時代だからそんなに金はかかんかと
366人間七七四年:2010/02/22(月) 15:19:48 ID:c7/RRkXv
現代ですら飛騨で短期バイト集めるの厳しいだろ

常時手元に置いとかなきゃ即時性がなさすぎる
367人間七七四年:2010/02/23(火) 00:45:59 ID:2pi9Ut1z
飛騨の動員の話は、このスレの最初の方に出てこなかったか?
金山あるところに人が集まる事も一応考慮に入れたほうがいいと思う
368人間七七四年:2010/02/23(火) 01:29:41 ID:BbNZO/9x
その江馬3000人のソースって何?
369人間七七四年:2010/02/23(火) 02:57:30 ID:rg8oMYY9
なんで何時も飛騨の話になるんだろ?
370人間七七四年:2010/02/23(火) 13:24:14 ID:Kez4iEgy
帰雲城の怨念だろう
371人間七七四年:2010/02/23(火) 17:43:16 ID:5oDsR1mX
土地が貧弱で石高の変化がほとんど無かったからじゃねえか?
他だと新田開発や洪水で、石高の変動が多い。
それと小さいので把握しやすい。
372人間七七四年:2010/02/23(火) 19:58:52 ID:Un97G5yw
特殊な例をクローズアップして検証し、全体を見誤る愚を犯す
373奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/02/23(火) 21:58:36 ID:IgmFwc51
傭兵集団がいたという真偽はともかく、わざわざ辺鄙の窮みのような山間に赴くその集団は
もう少し記録が残っていても良さそうなもんだな。
374人間七七四年:2010/02/23(火) 23:19:38 ID:XIWLlOaY
>わざわざ辺鄙の窮みのような山間に赴くその集団は
…律令の時代から木工技術(飛騨匠)の先進地なのに……

技術者は金をザクザク生むんだよ
そんな”金を生む鵞鳥”を戦場に行かせて無駄に殺す、なんて馬鹿なことすると思う??
375奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/02/23(火) 23:25:16 ID:IgmFwc51
飛騨の匠が金に結びついているならな。
岐阜県民のオレに突っ込むなら被差別民の観点が落ちてるだろ。
376人間七七四年:2010/02/23(火) 23:33:55 ID:5oDsR1mX
飛騨近辺は山賊が多くいたらしいが。サンカとかいう。
377奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/02/23(火) 23:40:22 ID:IgmFwc51
ここで山窩説を展開されても傭兵集団とは別物だわな。
378人間七七四年:2010/02/23(火) 23:44:48 ID:SWtCtub7
関係ない話だけど以前、白川郷の合掌造りの家のうち長瀬家を見学したら
二階とか三階とかに家の中で手作業に使うような生活用具が置いてあった。
冬場は雪深くそとで活動できないから家の中にこもって作業をしていたっぽいね。
あんな豪雪地帯では戦国時代でも冬の間は合戦するのは無理だろうね。
379人間七七四年:2010/02/23(火) 23:46:29 ID:BbNZO/9x
ALL佐々ならあるいは
380奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/02/23(火) 23:49:01 ID:IgmFwc51
合戦かケンカか、というレベルじゃないかなと。
三河物語の初期にも通用する言い回しだけどな。
381人間七七四年:2010/02/24(水) 00:02:48 ID:RKZ+hS1w
>>378
賤ヶ岳の戦いで勝家は雪が原因で出陣できなかったからねえ
上杉謙信も雪が原因で関東から撤退してるし
雪はかなり戦いに影響を与えてるね
382奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/02/24(水) 00:08:33 ID:p+7yvWVS
それもまた都雛の差異。
383人間七七四年:2010/02/24(水) 12:36:58 ID:+JUpct17
>>374
鉱夫のほうじゃないか?

384人間七七四年:2010/02/27(土) 20:06:00 ID:zhvu/qcP
実戦投入されてるじゃん>金山衆
385人間七七四年:2010/02/27(土) 20:35:06 ID:iz6ql8VN
敵の急な侵攻があった場合
本拠地に兵を集めてから要害に向かって迎撃しては間に合いません。
そういうときは集合地点を決めて各々現地集合にしたのでしょうか?
386人間七七四年:2010/02/27(土) 23:44:12 ID:zhvu/qcP
現地集合なんてしたら各個撃破されるだけだろ
387奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/02/27(土) 23:59:51 ID:OlLIEYnE
また戦力にならないものを。

都鄙の誤字に誰か突っ込んでくれよ恥ずかしい。
388人間七七四年:2010/02/28(日) 00:39:34 ID:FrEm+9mX
こっちもよろしく

戦国時代の情報網・兵站網について
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1267284849/
389人間七七四年:2010/02/28(日) 00:55:56 ID:2neN8tg2
>>388
似たようなスレ乱立させるなボケ
390人間七七四年:2010/03/10(水) 23:57:44 ID:5WcsT8f2
戦国期で畿内でも比較的大きい戦であった
教国寺合戦の三好6万VS畠山4万はどうなの?

wikiとかだととりあえず両軍とも近辺から根こそぎ数を集めてきた
って書いてあるがそれでもここまで集まるのか?
391人間七七四年:2010/03/11(木) 00:12:17 ID:Kxm7rb1o
当事者の勝った側は、こんなに倒しました。僕こんなに強いんですと宣伝したい。
当事者の負けた側は、たいした被害も無く手を上げたより、
大戦で負けたというほうが、まだ面目を保てるから口をつぐむ。
第三者の情報を伝える側は、注目を集めたいから過大に言う。
第三者の情報を受ける側は、大げさなほど喜ぶ。

不利益を被る人が居ないから、戦争物の誇大表現はそのまま定着するんだと
392奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/03/11(木) 00:12:31 ID:oYq1LhWL
ない。
配下人口あたりで手ェ打ちゃそんな感じだろうけどさ。
393人間七七四年:2010/03/11(木) 07:47:35 ID:gjEjf7Do
当事者の負けた側は謝罪と賠償を請求するために兵力を水増しする
某隣国
394人間七七四年:2010/03/11(木) 12:14:13 ID:nzAlrioI
大内氏の出雲遠征の動員がわずか1万5千だったのはなぜでしょう?
貿易のために倭寇への備えとかが必要なことを考慮しても
大大名の尼子の戦力や堅牢な月山城を攻撃するには
あまりに少なすぎるのではないでしょうか?
395人間七七四年:2010/03/11(木) 15:19:56 ID:APDnKYdJ
大内氏は義隆の代で遂に南北朝以来の敵少弐氏を滅ぼし筑前豊前をかため大友氏と
和睦し吉田郡山城への救援遠征で尼子方を総崩れさせ討ちに討って安芸守護武田氏を
前年度に滅ぼしていた
万全を期して、大内の大将自らいよいよ尼子を滅ぼすぞ〜と号令発して出動
周辺国人衆(安芸石見出雲)はほぼ軒並み大内方になっていったわけよ
そして和睦していたとは言え潜在的には敵の九州大友氏から妙なちょっかいを
かけられてもかまわず出雲遠征継続可能なだけの兵を九州方面に残しておく必要は
あった
わずか1万5千というよりも大内本軍は1万5千もあれば充分だったって感じ

1582年の武田崩れってあるでしょ
当時の尼子はまさにその時の武田
武田勝頼が木曽裏切り、穴山裏切り、高遠城落城
この状況下から一転して、信忠、明智、森、穴山、木曽、徳川を討ったくらいありえ
ない大逆転が尼子経久晴久による大内義隆の出雲崩れ
396人間七七四年:2010/03/11(木) 20:07:00 ID:gjEjf7Do
あれはオセロゲームみたいなもので、黒と白に交互にひっくり返っただけだよな
397人間七七四年:2010/03/12(金) 21:40:06 ID:VAgZ4STM
なんで出雲国人は大内の勝ち馬に乗らなかったの?
398人間七七四年:2010/03/12(金) 22:38:11 ID:IvZ7/+J4
そこまで大内が磐石では無かったからだろ。
399人間七七四年:2010/03/13(土) 09:42:51 ID:7isbKHGh
もちろん出雲衆も雪崩をうって勝ち馬大内に乗り換えてたけど
老衰で隠居してたはずの経久が現役復帰して年寄りの冷や水かと思っていたら
現役バリバリにフル稼働
出雲衆どころか石見衆安芸衆もびびり尼子にまた乗り換えた

武田崩れとの違いは経久が隠居とはいえまだ生きていたことだろうな
木曽や穴山、信濃衆にしても信玄が生きていた!しかも元気溌剌!となれば
高遠城陥落後でも話は違ってくるだろ
400人間七七四年:2010/03/14(日) 08:42:59 ID:nWzGbQJq
>>394
全力で出雲攻めていたらあの倍は動員できたろうね
401仙台藩百姓:2010/03/15(月) 09:14:22 ID:SiNUwrSe
時代的にも地域的にも仕方ないお( ^ω^)
戦で勝ったから俺の土地!というわけじゃないし
402人間七七四年:2010/04/13(火) 14:28:54 ID:w18r8XRW
ぶっちゃけ動員なんて数百人規模がほとんどで
国持大名の大きな戦いも数千同士の激突だったのでは?
戦闘のない参勤交代で動員するだけでもかなり財政を圧迫していたのだから
たかが一国程度、しかも領地の境界も日々変わり収入が不安定な財政下で
万なんて動員をしていたら勝てたとしても経済が破綻してしまいませんか?
403人間七七四年:2010/04/13(火) 15:44:37 ID:W1McwuHz
参勤交代は江戸滞在時も含めれば数カ月にも及ぶが、戦闘なら近場で行われて
大抵は一ヶ月未満で終わる
404人間七七四年:2010/04/13(火) 16:16:11 ID:x+Lu4+jX
同心や軍役衆は年貢や夫役などの租税の一部を免除される代わりに、
領主層は所領安堵の見返りに、基本ただ働き。
もちろん純粋にただ働きとはいかず、大名にも恩賞や兵糧の負担はあるが、
広く浅く各層で負担を分け合う形で大規模な動員が出来る構造ではあった。

もっとも朝鮮征伐のように限度を超えてると借金地獄になったりするが。
405仙台藩百姓:2010/04/13(火) 23:44:42 ID:I7Bwxa2i
でもあれだけ長期間、海を越える兵站を維持出来た事は驚異だお( ^ω^)
戦国時代に軍制が洗練されていったのか、豊臣氏の軍制が優れていたのか
或は双方か
406人間七七四年:2010/04/14(水) 00:55:47 ID:3yVqSbXv
豊臣と北条武田等の軍制を比べて
制度面では豊臣が特に優れているということは基本的には無い
西国大名には制度的なメスは入れたが、近畿東国大名には何人連れて来いと命令を出すだけ。
軍勢中の陣夫などの非戦闘員の割合を減らすなどはしてるが。
ただし強力な中央政権であり、諸大名もその威光を利用して検地などを進め、
中央集権化が進んだことによる深化は大きく影響があっただろうと思われる。
407人間七七四年:2010/04/14(水) 01:26:59 ID:nqPitrgM
朝鮮の役で日本軍が兵站を維持出来ていたかと言うのは甚だ疑問だがな。
408人間七七四年:2010/04/14(水) 10:36:30 ID:FnCVaFGQ
釜山まで出来てたろ
409人間七七四年:2010/04/14(水) 10:49:45 ID:qaUTUARc
後方要員の大規模な徴発や大量の物資を朝鮮に送った為に、耕作地の荒廃や物資の高騰が生じている
410人間七七四年:2010/04/14(水) 22:53:53 ID:MDXH6jqN
人夫の逃亡も起きている
411人間七七四年:2010/04/15(木) 07:37:54 ID:7FTsEcJY
>>408
本国から沿岸までの海上輸送は完璧だったんだが、奥のほうはなぁ。
まあ内陸部での兵站確保なんて日本や明はおろか現地王朝も出来てないわけだが
412人間七七四年:2010/04/15(木) 12:38:54 ID:lMY6nLDS
輸送が完璧で兵糧が潤沢なら内陸への兵站もあんなに苦労しねーよ。
釜山当たりのみどうにかかつかつ、と言うのが実体だったと考えられる。
413人間七七四年:2010/04/15(木) 20:05:35 ID:/TfWA6Yg
主戦力である福島正則を兵站確保の責任者である釜山城代に任命したため、
前線の制圧力が不足し、前線の補給が困難になった。
兵站軽視では無く、偏重が問題。
414人間七七四年:2010/04/28(水) 19:54:40 ID:rx1/Ql0O
社会工学研究所(1974年)による1550年頃の推定人口は

日本全国 1029万0100人

石見 8万4700人
備後 11万9900人
安芸 15万2800人
周防 11万1200人
長門 8万7800人
筑前 12万3100人
豊前 9万4000人

大内支配下合計 77万3500人

一方1550年当時すでに日本の人口が1400万人を超えていたとする
最近の斎藤修らの説に立つと、大内支配下の人口は110万人。

1550年頃の日本の人口は1600万人近くいたとする
藤野正三郎の説に従うと、大内支配下の人口は120万人。
415人間七七四年:2010/04/28(水) 19:58:07 ID:rx1/Ql0O
1550年頃の都市の人口は

京都:20万〜30万人以上
山口6万人
博多5万人
天王寺:3万5000人
伊勢山田:3万人
堺:3万人
柏崎:3万人
春日山:3万人
鹿児島:2万1000人
416人間七七四年:2010/04/28(水) 20:00:41 ID:cZZsAhYY
越後すごいな
417人間七七四年:2010/04/28(水) 20:05:27 ID:rx1/Ql0O
他スレからの転載です。

資料が30年近く前の古いものなので
最近の学説だとどんな感じなのでしょうね。
418人間七七四年:2010/05/01(土) 18:10:43 ID:uUCJpQAm
河越夜戦や厳島の戦いなど合戦の数字は誇張されたものが多いですが
最近ではどのくらいの動員だったとされているのでしょうか?
419奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/05/02(日) 00:04:46 ID:WfUGc2AE
十万の兵を率いる土壌は現れんね。
420人間七七四年:2010/05/02(日) 00:13:04 ID:IH40+qct
10万っていったら>>414でいう一国相当。
これには女子供や老人も含まれる。
そんな動員するなんてありえないよな
421奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/05/02(日) 00:19:48 ID:WfUGc2AE
ぶっちゃけ ◆uGKMKNYQ3g はオレの自演ネタだったんだけどさ。

ここまで万単位の立証ができないのは異常事態なんじゃなかろうか。
422人間七七四年:2010/05/05(水) 04:29:33 ID:BERL5pON
>>414
人口比では全国と比較して1/13.3だが大内や毛利の石高と比較すると以下の通りとなる。
(本来は一国全体を所有していたわけではないが、ここでは全体を所有していたとして)
もし大内や毛利が最大版図を維持したまま幕末を迎えていたら前田氏2倍以上の恐ろしい石高となる。
さらに彼らは交易の独占や50万石相当の石見銀山を持ち石高以上の実力を持つことになる。
関ヶ原で吉川の口約束通りに毛利が減封されなければなんらかの難癖をつけられて改易されていただろう。
(中国地方の太閤検地は過少申告な反面、長州の幕末実高は過大申告であることに注意されたし)

    太閤検地表高  幕末実高
全国 1848万4153石  3185万4419石

石見  11万1770石   17万2209石
備後  18万6150石   31万5061石
安芸  19万4150石   31万3164石
周防  16万7820石   54万8871石
長門  13万0660石   45万4256石
筑前  32万5695石   63万3434石
豊前  14万0000石   36万3350石
大内計125万6245石  280万0345石
全国比率 1/14.7      1/11.3

美作  18万6017石   26万2156石
出雲  18万6650石   30万2627石
伯耆  10万0947石   24万5034石
因幡  08万8500石   19万3334石
備中  17万6929石   37万2534石
石見  11万1770石   17万2209石
備後  18万6150石   31万5061石
安芸  19万4150石   31万3164石
周防  16万7820石   54万8871石
長門  13万0660石   45万4256石
毛利計152万9593石  317万9246石
全国比率 1/12.0      1/10.0
423人間七七四年:2010/05/05(水) 05:32:19 ID:2rRMFGqV
>>412
いや、内陸への輸送は船が使えないから苦労するのは当然。
大量の兵糧を陸運で運ぶことなんて当時の技術では不可能だから。
釜山までの海運とそこから先の陸運は分けて考えるべき。
424人間七七四年:2010/05/05(水) 16:53:05 ID:IlFZGzRB
全盛期だともはや圧倒的なので武田を破った長篠の頃の織田家石高
この頃ですらすでに周囲を圧倒しているね。毛利・上杉・武田を同時に敵に回せるのも納得できる。
当然畿内の経済力は日本一なのでこの石高以上に実力を持っているだろう。
濃尾地方や近江は豊かなイメージが有ったが、伊勢・越前・大和も石高がすごいな
幕末実高だと伸びが低いことから戦国時代にすでに開発が進んでいたんだね。山城なんか減ってるし。

    太閤検地表高  幕末実高
全国 1848万4153石  3185万4419石
尾張  57万1737石   76万4695石
美濃  54万0000石   65万4657石
伊勢  56万7105石   69万6928石
志摩  01万7853石   02万1535石
越前  49万9411石   68万0924石
近江  77万5379石   85万8524石
大和  44万8945石   49万7405石
伊賀  10万0000石   11万0917石
山城  22万5266石   22万2222石
摂津  35万6066石   41万6136石
河内  24万2105石   29万3308石
和泉  14万1512石   17万1222石
織田計448万5379石  538万8473石
全国比率 1/4.12     1/5.91
425仙台藩百姓:2010/05/05(水) 18:05:15 ID:Yu8kruFj
実高とか意味不明だお( ^ω^)
それって検地による見込み高だおね?
全国の藩は検地による正確な石高を正直に届け出て
幕府はその結果を否認し続けたという事かお?
426人間七七四年:2010/05/15(土) 15:02:09 ID:GN4LzfbL
>>423
正解
427人間七七四年:2010/05/16(日) 20:30:34 ID:KzpmPfcI
>>414の最小の数値1029万にだいたい海外でも当てはまる動員限界3%をかけたとしても30万
最大の1600万にかけたら50万
日本最大の関が原で20万くらいだから、案外正しかったりするのかもね
428人間七七四年:2010/05/17(月) 00:27:50 ID:7yoL3NWG
日本全国の半分も集まるかなあ?
429人間七七四年:2010/05/24(月) 22:40:27 ID:XB7njtvs
動員に関しては本願寺が最大でしょうか?
430人間七七四年:2010/05/25(火) 22:43:35 ID:cGCY1Cy5
>>429
>本願寺
一つの戦略に対し指向的に用いることの出来る兵力はさほど多くない。
各地で領主層に対する反抗を扇動する事で瞬間的に敵方の行動を阻害できる人員は多い。

一般に言われる動員力は前者だから、「違う」と言っておく
431人間七七四年:2010/05/26(水) 11:58:04 ID:udXX9ogb
朝倉が蹴散らした一揆軍は20万だとか
432人間七七四年:2010/05/26(水) 17:49:18 ID:TGnelUH5
延べ人数ならそれくらいでもいいだろう
433人間七七四年:2010/05/27(木) 18:16:08 ID:Lh5+6D7d
>>418
関東公方連合軍1万5千
北条1万3千

これが最近の定説。
そもそも夜襲自体存在しなかったという見方が圧倒的です。
北条家は代々、武勇を誇大に吹聴するお家柄のようで
それだけ成り上がり者の自家を強く見せる工夫をしていたというところでしょうか
因みに三代氏康の頃の関東豪族相手の戦では
北条3万
豪族4千

それこそ常に圧倒的な兵力差で戦に臨んだようです。
それでも里見氏に負けるなど
そちらの方がある意味、河越夜襲的敗北だったと思います。
434人間七七四年:2010/05/27(木) 18:40:53 ID:HmkXLM5q
>>433
お前はこんなところに書き込むより前に病院に言った方がいい
435人間七七四年:2010/05/28(金) 01:41:15 ID:T/9S1pR3
>>433
勉強になりました。
実際は兵力差なかったんですね。
それなら地の利に明るい北条方の方が有利なのは当然ですね
そんな味方優位な状況での戦なのに
あたかも自分達は不利を跳ね返したみたいに喧伝するのは
北条にはよほど、他に自慢になるような勝ち戦がないからなんでしょうか?
436人間七七四年:2010/05/28(金) 02:00:44 ID:L0kff/r7
文体くらい変えろよ・・・
437人間七七四年:2010/05/28(金) 08:55:49 ID:hgRq0gC6
恥ずかしいヤツだな
そんな小細工したところでどうにかなる板だとでも思ってんのかね
438人間七七四年:2010/05/28(金) 18:25:24 ID:uSJbTT02
自演は2chの華やで
439人間七七四年:2010/06/03(木) 22:09:53 ID:RGSwbnMx
>>435
一度、北条家の歴史を調べてみるといいよ。

5代通しても、まともな勝ち戦が一つもない。
地方豪族相手になんとか兵力差で辛勝するのがやっとというな感じで
少しでも強い相手となると、もう結果は散々

武田、上杉、佐竹、里見、織田、豊臣

これだけ数々の有名大名に負けてる大名も珍しいよ。
にも関わらず5代までお家が続いたのは
1にも2にも周囲の敵が相殺しあったお陰
それだけ関東という地盤が中央から離れた僻地だったということが幸いしたんだね

440人間七七四年:2010/06/03(木) 22:23:54 ID:7fKwOLCZ
里見とか佐竹とかいまいちぱっとしない弱小を倒しきれてないんだからなあ
441人間七七四年:2010/06/03(木) 22:35:08 ID:57z5U14z
>>439>>440

うんうんそうだね。わかったからカウンセラーの先生に合いに行こうね。
お薬ももらおうね。
442人間七七四年:2010/06/03(木) 22:57:58 ID:RGSwbnMx

こいつがスレ名物の
24時間365日毎日張り付いて
いつも見えない敵と必死に戦ってるっていう
例の北○厨?
443人間七七四年:2010/06/03(木) 23:10:38 ID:bErWyFwH
>>442
うんうんそうだね君の敵だね。わかったからきちんと先生に相談しようね。
444人間七七四年:2010/06/03(木) 23:24:21 ID:7fKwOLCZ
IDが単発なのは察してやろうぜ
445人間七七四年:2010/06/03(木) 23:44:35 ID:RGSwbnMx
ワロタwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

北条の悪口言われると、それが史実に基づいた意見であっても
即、相手を自演認定する例の○条厨が

単発ID自演
無様に失敗wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
446人間七七四年:2010/06/04(金) 01:26:39 ID:ek+CBTG2
そもそも戦って本当にあったのか?佐竹が防衛戦で勝ちまくったてのも北条が攻めにくい兵の配置をして石投げや弓射ちをやり合っただけじゃないのか?
それなら撤退させても勢力拡大は阻止出来ないだろうし
447人間七七四年:2010/06/04(金) 02:09:29 ID:1Wbh3ZXs
さ〜て、今日は、どのスレにあぼ〜んが出てるかな
448人間七七四年:2010/06/04(金) 09:45:27 ID:nNd8zN4t
でも河越夜戦以外大して凄い勝利もないのによく250万石まで広げられたね
449人間七七四年:2010/06/04(金) 09:49:04 ID:X0lWf3BO
当時の関東平野は人住んでなかったからな
450人間七七四年:2010/06/04(金) 10:04:57 ID:1Wbh3ZXs
短く持ってコツコツ当てるってのを繰り返したのと、
あと一門が団結してたのがデカイんじゃね?
争乱の元から言って関東勢の他のとこって
ほとんど内ゲバで自ら身を削っていったからさ
またそこにつけ込んでいるし
あとはハプスブルグ方式で、子沢山の結婚と養子の送り込みがスゴイっす

おもしろみはないけど、戦わずして勝つ、ってとこかね
451人間七七四年:2010/06/04(金) 21:04:48 ID:2uMVO+rw
大して凄い勝利もないのにとか短く持ってコツコツ当てるってのを繰り返して領土広げたとかは
武田上杉今川大友なんかにも言えそうなことだが
ぶっちゃけ氏綱時代で関東での最大勢力となって氏康時代以降は単独で戦える関東勢力はいなくなったからってのもあるな
452人間七七四年:2010/06/04(金) 23:54:34 ID:XqWBl0hx
にも関わらず
里見や佐竹に単独で負けてるあたり
やっぱり戦は相当弱かったのかな?
453人間七七四年:2010/06/05(土) 00:07:05 ID:cbzTYuvp
戦線が多方面に広がりすぎたってのもあるな
454人間七七四年:2010/06/05(土) 00:36:32 ID:UuT5Kt75
俺の持つ北条のイメージ。
あまり正面から戦わないで押されたら引いて、相手が引いたら押し返す。
野戦をする場合、戦場では常に相手より数を多く揃える。
455人間七七四年:2010/06/05(土) 00:44:47 ID:87AeWnlr
北斗の拳で言うところの海のリハク
456人間七七四年:2010/06/05(土) 14:22:52 ID:5nDm9+vT
北条に勝てる佐竹が何度攻めても首を取れない小田氏治最強、まで読んだ
457仙台藩百姓:2010/06/07(月) 02:06:27 ID:klztcYEn
取れないじゃなくて取らないのだお( ^ω^)
関東東北じゃ潰された大名なんて殆どあるまいお
大名権力が弱いからいくら軍事力で圧倒しても留めは刺せないのだお( ^ω^)
それが出来たのは政宗公と北条ぐらいのものだお( ^ω^)
そう考えるとやはり取れないと言う事かお( ^ω^)…
458人間七七四年:2010/06/07(月) 02:50:30 ID:t0Ch8Xxa
勝率0割近い小田が最強とは(w
459人間七七四年:2010/06/07(月) 10:43:25 ID:YddY4WW7
無事是名将
460人間七七四年:2010/06/07(月) 12:13:36 ID:x8SP2hOO
また小田厨か
若狭武田厨のが余程マシだ
・・・そんな厨いるんだろうか
461人間七七四年:2010/06/08(火) 22:15:28 ID:bEC5C//u
>>460
愛されるネタ的な要素すら乏しいからなあ・・・・
親子喧嘩したり朝倉に拉致られたりといろいろ話はあるんだが、
いかんせん・・・・・
462人間七七四年:2010/06/12(土) 23:36:07 ID:4GDk8HO2
>>454
100点満点だな
463人間七七四年:2010/06/12(土) 23:58:25 ID:YiMcOSGg
>>454
ロシア?
464人間七七四年:2010/06/13(日) 00:26:10 ID:FmDedskG
ロシアやソ連は使い捨ての人員をガンガン押し出すイメージ
465人間七七四年:2010/06/14(月) 07:31:30 ID:yd45jzAf
>>464
ロシア、ソ連も十分な物資や装備があれば犬死な戦い方ばかりはさせないけどな。
無い物ねだりせずあるものを徹底的に使い倒す主義で、独ソ戦前半でソ連にあるものは動員力だった。
「一方ソ連は鉛筆を使った」の精神ここに極まれり。
466人間七七四年:2010/06/19(土) 16:27:16 ID:fOVmXSWI
上杉謙信は、越後のみで常時8000人以上の動員数だな
(第一次と第二次川中島が8000人、第三次は10000人、第4次は13000人)
8000人いればどんな敵にでも勝てると言ってるね
晩年の越後、北関東、越中、能登にまたがる、
最大版図100万石以上(太閤検地。吉宗検地なら179万石)の時の最大動員数は、
一向宗を含めて65000人がピークだった(織田攻めの時集めた兵数)
率いたことがある最大人数は、関東征伐の時の約10万人だけど烏合の衆だったw

あのときもう少し上手に立ち居振る舞ってれば、関東は謙信のものになっただろう
467人間七七四年:2010/06/19(土) 16:32:06 ID:w4otaQHF
ソースは?
468人間七七四年:2010/06/19(土) 18:07:38 ID:yUjw7Ges
越後一国だと浅井長政の領土とほぼ同じだな
469人間七七四年:2010/06/23(水) 18:48:04 ID:/S4wckAG
かぶっているレスが有ったらスマソ。

太平記の時代の千早・赤坂城攻めの鎌倉幕府軍は100万とかなってるけど
なんでこの時代だけこんなとんでもない動員兵力になっているわけ?
戦国、源平、幕末とかのそれと違い過ぎる。
470人間七七四年:2010/06/23(水) 19:50:52 ID:oUKT2PB2
実数じゃないから
471仙台藩百姓:2010/06/23(水) 21:24:57 ID:YD1d4U+U
軍記はノリで書いているから兵の数などは筆者の気分次第という事だお( ^ω^)
472人間七七四年:2010/06/23(水) 22:25:47 ID:FgqOk5cq
訳すと
太平記の時代の千早・赤坂城攻めの鎌倉幕府軍はスゲー数
473人間七七四年:2010/06/23(水) 22:37:29 ID:XXP/9/ZS
なんか「幕府スゲー」感を出したかったんだろうな、0一個どころではない粉飾
474人間七七四年:2010/06/23(水) 23:17:34 ID:/S4wckAG
でも、10万とかでも十分スゲー感は出せるでしょ。
100万ってのはちょっと他の時代のと違いすぎじゃ?
ゼットンの「1兆℃の火球」と少しイメージがかぶる。

>>473
幕府でなく、「それを撃退した楠スゲー」感を出したかったのではないかと。
475人間七七四年:2010/06/23(水) 23:26:25 ID:M7SoVXdo
明初期は三国志演義とかが完成した時代で、足利義満は明と仲良しで・・・。
その辺の数字が微妙にそっち系に似ていると感じているのは俺だけかなあw
476人間七七四年:2010/06/24(木) 00:56:45 ID:xS209uW6
三国志の赤壁も
曹操軍が100万で攻めてくるっていって実際は8万程度みたいだしね
477人間七七四年:2010/06/24(木) 00:58:55 ID:jwdV7r1M
こんなに動員出来る実力あったらそもそも負けないっていう
478人間七七四年:2010/06/24(木) 01:09:30 ID:35cPqf2P
つか人口と生産力が右肩上がりで
戦国時代のように補給線や人件費(装備含む)をあんま考えなくていいから
実際結構集まったんだと思うよ>太平記
479人間七七四年:2010/06/24(木) 01:14:28 ID:Hsh3LmOs
>>476
戦線全体で孫権・劉備連合で3万強で曹操が10〜15万くらいじゃなかった?
480人間七七四年:2010/06/25(金) 23:54:46 ID:5E+qU8pV
100万人も動員したら補給だけでもとんでもないことになりそうな・・・
481人間七七四年:2010/06/25(金) 23:56:18 ID:RzAGyi7B
中世までの技術では世界中どこでも、1地域に集中できる軍勢は4万が限度。
482人間七七四年:2010/06/26(土) 09:08:09 ID:9jDnh1/x
天保の近江の一揆は、水口で決起した時は数千人規模だったらしいが、
甲賀郡を出撃する頃には二万人ほどに増強され、野洲郡で幕府代官を
完全包囲した時は四万人にまで膨れ上がっていたという。
ボランティアの烏合の衆の(ただし各一揆勢間の連絡は甲賀忍者が担当)
一揆ですら、これほどの組織的大規模動員が出来るのだから、
大軍の運営は以外と楽なのかもしれない。
483人間七七四年:2010/06/26(土) 18:23:30 ID:1DZJQehb
天保=近世末期
484人間七七四年:2010/06/26(土) 23:33:51 ID:k/mjshvD
一揆って誰が指揮してたんだろう
485奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/06/27(日) 00:51:53 ID:shFCBlZV
そこいらの屋敷持ってる奴とか。
486仙台藩百姓:2010/06/27(日) 10:08:02 ID:ACe2tzPK
一揆の指導者は庄屋(名主)や郷士が殆どだお( ^ω^)
487人間七七四年:2010/06/27(日) 11:05:07 ID:bpDOvLfE
江戸中期以降の一揆とそれ以前の一揆は実態としてかなり異なる。
中世の一揆も時期や地域によってその内容はかなり異なる。
488人間七七四年:2010/06/28(月) 15:28:28 ID:ZTX7xZ2k
単なる住民反乱
489人間七七四年:2010/06/28(月) 22:04:39 ID:AsMZk7bf
個々の事例によってそれに参加する層も決して一定ではないので、
「住民」の定義付けにも慎重さが求められる。
490人間七七四年:2010/06/28(月) 23:21:28 ID:lqklqQTE
戦国時代の一揆=非正規軍。江戸時代は非公認の政治的集団行動。
その内容はまさに様々
491人間七七四年:2010/06/29(火) 00:03:26 ID:OnPoitsj
>>490
一概に非正規軍といっちゃうのも正確じゃないような。何らかの目的のために結合した集まりと考えたほうがいいと思う。
加賀の「郡中」は守護の行政に関与してたりもするし(守護富樫氏の遵行に従うように命じている)。
492奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/06/29(火) 00:07:05 ID:MKPPUqTW
また士農工商の弊害か。
493人間七七四年:2010/06/29(火) 00:08:08 ID:g0stDxlz
だいたい戦国期は「一揆」単位の行政区画も珍しくない
494人間七七四年:2010/06/29(火) 01:39:11 ID:GT/NBu1d
>>489
エゴイストが愚民を扇動する構図は不変
495人間七七四年:2010/06/29(火) 01:49:15 ID:wnIgJHnV
一揆で一括りにされてるけど惣村・宗教宗派・国人・馬借とか形態が様々だろ。
496人間七七四年:2010/06/29(火) 11:55:42 ID:g0stDxlz
>>494
まず「愚民」の定義を明確にせよ。そして君のいう「愚民」および「煽動者」の存在を証明せよ。
497人間七七四年:2010/06/29(火) 18:57:12 ID:nw4QXOu0
大塩とか近江での
天保年間の一連の反乱は
首謀者が陽明学者という共通点があるな
498人間七七四年:2010/07/01(木) 00:22:52 ID:aZQ2X/WC
松岡修造みたいな連中だからな
499人間七七四年:2010/07/01(木) 08:01:54 ID:YWsn24GI
>>495
馬借一揆は比叡山を代弁して暴れたり
暴れて比叡山に討伐されたりと実にわけがわからんw
500人間七七四年:2010/07/01(木) 23:06:18 ID:yB0Yjulm
馬借一揆はその時その時で金融業者がバックにいたり米商人がバックにいたり
501奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/07/01(木) 23:15:16 ID:j3lLxtjC
経済社会の発達と差別意識の発達する速度が全く違うから妙なことになるのかね。
502人間七七四年:2010/07/03(土) 01:11:17 ID:Shks8FEI
>>494
いつの時代、どの地域でも同じだなw
503人間七七四年:2010/07/03(土) 14:09:25 ID:bIOqCwOd
GACKT 謙信出陣! 平成22年8月22日(日)
http://www.city.joetsu.niigata.jp/kankou/10kensin/gaiyou.html

世界中の誰もがわからなくてもいいさ…君が待っているなら♪
今も変わらない君を見てる このまま…♪
504人間七七四年:2010/07/19(月) 04:46:38 ID:NWupC4iJ
慶長出羽合戦

直江勢25000
vs
最上義光軍(山形城)2500
志村光安軍(長谷堂城)1500
里見民部軍(上山城)600
楯岡満茂軍(湯沢城)1500
江口道安軍(畑谷城)350

って妥当な数?
505人間七七四年:2010/07/19(月) 10:38:32 ID:EE5iIqdX
こっちが300人程度なのに万単位の相手が攻めてきたら
俺なら一目散に逃げるか戦わずに降伏してしまうな
いくら援軍が数日後に来るのがわかっていても
離反者がでたりしてそれまで時間稼ぐのが難しそう
506人間七七四年:2010/07/20(火) 23:01:46 ID:V0hRjNxg
討ち死に覚悟じゃなきゃ抗戦の選択肢なんかないから、離反者はでない
507人間七七四年:2010/07/20(火) 23:44:28 ID:TWCdzjWk
>>504
転封直後で全力動員が出来たかどうかおいといて
当時の上杉は6人役なので最大動員は120万石×600=7.2万人
全方位、敵なので守備部隊置いて、江戸方面の備えに景勝本隊を置いたとしても
2万5千はまぁ何とか計算上は動員できる。非戦闘員込みなら十分ありうる数字
ただし上杉軍は6軍に分かれてたので直江直轄軍は半分ほどと予想

最上軍は各拠点の守備兵力としては城の規模からみてほぼ妥当
領地の大部分の防衛を放棄して山形盆地要塞化した割には流石に少ないので
ほぼ同数の戦力が他の拠点か遊軍としておいとかれてた感じかな
508人間七七四年:2010/07/21(水) 09:47:01 ID:lfNkJUdg
しかし戦国と幕末という情況の違いはあれど
当時の上杉とおなじ程度の実質120万石の長州が多方面からくる幕府討伐軍に兵を割いた時は
一方面あたり非正規兵を含めても1000人弱だったらしい。
上杉の2万の動員は相当無理したのではないでしょうか?
509仙台藩百姓:2010/07/21(水) 10:37:11 ID:N0d9VKWk
だから幕末は火器の数に影響されるから動員数=全兵力ではないお( ^ω^)
長州の武家(陪臣含む)は約1万3千件だお
戦国時代のように刀槍ぐらいでも前線に送れるならば
単純に1家から1人出しても1万3千人は動員できるはずだお( ^ω^)
非正規兵も含めれば更に増えるお( ^ω^)
510仙台藩百姓:2010/07/21(水) 10:52:39 ID:N0d9VKWk
ちなみに上は長州藩のみだお( ^ω^)
支藩を含めると約1万8千件の武家があるお( ^ω^)
おおよそ2万というのも遠からずだお( ^ω^)
511人間七七四年:2010/07/21(水) 19:29:12 ID:EZjUjRdS
テスト
512人間七七四年:2010/08/19(木) 03:06:30 ID:/DGM4kx2
>>326
秀吉が大軍なら強いとか基地外だな
三傑はおろか全国的に見ても最弱クラスだろうがw

・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・ 熊見川で毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で襲ってしばらく持ち堪えられる
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取る
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
513月孔雀:2010/08/19(木) 05:47:19 ID:hA96xqE5
謙信の直轄領は、越後一国なのに、
出陣するといっぱい兵が集まるね。

514人間七七四年:2010/08/19(木) 07:28:39 ID:nUotHcu6
領国の大きさとしては確実に動員できる兵は少ないと思う。
連合軍としても集まるときと集まらないときの差がありすぎ。
515人間七七四年:2011/01/27(木) 23:37:07 ID:93pVZlLB
保守しとくか
516人間七七四年:2011/01/28(金) 17:41:09 ID:JiKFHNXW
>>513
謙信は怖いから
出征した先の領主がみんな降参して手下になるんだよ
でも心から従っているわけではないから
謙信が越後に帰るとまた独立する
謙信は裏切ってもゴメン言えば許してくれるし
517人間七七四年:2011/01/28(金) 18:39:33 ID:icUPtWsv
小田原の役の秀吉軍って北条の降伏がもうチョイ遅かったら補給が間に合わなくなって
壊滅してた可能性もあるって静岡大?の小和田教授が言ってたんだけどマジ?
518人間七七四年:2011/01/28(金) 18:46:25 ID:QRKHYXiH
>>517
九州役は兵糧問題でガチ崩壊しかけたし、小田原役も実態は秀吉の集めた兵糧だけでは
間に合わず、穀物の価格高騰で諸侯とも大変なことになっていたらしいので、
可能性がなかったとは言えない。
519人間七七四年:2011/01/28(金) 18:49:22 ID:QRKHYXiH
ついでにいうと秀吉の軍は通説とは違い兵糧の集積が下手で、
小牧長久手も兵糧不足で大軍を展開することが出来なくなり引き上げたという面が大きい。
520人間七七四年:2011/01/28(金) 19:13:08 ID:E/sscjfL
>>517-518
惣無事令完成までの最後の一戦だから、壊滅するより先に強権で商人や土倉に吐き出させるくらいはしただろうけどな。
少なくとも高騰する段階ではまだまだ物自体はあると考えるのが普通だし
521人間七七四年:2011/01/28(金) 19:18:57 ID:34Xjp5fg
戦費調達とか物資調達って大軍になればなるほど大変だからな
幕末の長州征伐なんかも幕府や諸藩の負担は半端ではなく
撫育金を溜め込んでいた長州側と違って長期戦になればなるほど不利だった。
522人間七七四年:2011/01/28(金) 19:45:58 ID:izEWg78S
しかしそう考えると
信濃と関東と北陸を従軍しまくった上杉軍ってすごいよな
523人間七七四年:2011/01/28(金) 19:52:09 ID:iRVaeWLn
>>522
1:謙信自身が率いる軍自体は必ずしも大軍ではないこと
2:上杉が遠征をするときは必ず現地の有力大名・国人を味方に付け、それらに
  兵糧を提供させたこと。

これが上杉軍が広い範囲を行動できた理由。身軽だがその分現地の政治状況に
左右されやすく、最終的に支配を確立できなかったのもここに理由がある。

ちなみに上杉軍自体の輜重はお世辞にも褒められたものではない。
524人間七七四年:2011/01/28(金) 20:03:01 ID:OQ/eZT4/
上杉はよく8千人を率いて遠征に参るとか見た気がする
越後国内で直ぐに集まるのが8千人で他は遠征先の大名豪族達だろうね

それによく遠征するのは冬場の金稼ぎだろう、仕事が雪降ろししかないしね
525人間七七四年:2011/01/28(金) 20:37:08 ID:izEWg78S
>>523
>1:謙信自身が率いる軍自体は必ずしも大軍ではないこと
>2:上杉が遠征をするときは必ず現地の有力大名・国人を味方に付け、それらに兵糧を提供させたこと。

ふーん
それを計算に入れて従軍したのだから、システムとして完全に構築されてんだな
で、あったとしても飯代だけで戦地を駆け巡るってやっぱすげーな
負けないんだから直接支配すれば良かったのに

526人間七七四年:2011/01/28(金) 20:42:33 ID:YXzWV+GP
傭兵のつもりで辺境の軍を招き入れたら傭兵に国を占拠されましたってよくある国の滅び方だね
527人間七七四年:2011/01/28(金) 20:57:54 ID:34Xjp5fg
略奪などを条件にして遠征したというのはうまいやり方だと思う。
成功報酬型なので士気の下がりやすい遠征でも従軍兵の気合が入るしなw
528人間七七四年:2011/01/28(金) 21:15:48 ID:L0qlrjT2
関東の民衆涙目だな
529人間七七四年:2011/01/28(金) 22:40:01 ID:N5TNvFZS
デタラメ書いて必死だなワロタw
530人間七七四年:2011/01/28(金) 22:51:05 ID:izEWg78S
ツッコまなくてよろしい
俺ももう、ふーんしかいう気しないし、それで充分
531人間七七四年:2011/01/29(土) 10:16:11 ID:ztrhOods
謙信は関東遠征に召集かけたけど、
誰も集まらなくてぼっちでショボーン(´・ω・`)なこともあったよ
532人間七七四年:2011/01/29(土) 21:59:32 ID:7ZjbY2su
そういえばそんな事もあったね
米の大事な時期だったのか、信濃や越中行った後だから拒否したのかも
533人間七七四年:2011/02/02(水) 20:14:34 ID:3zeDNjhk
結局当時の日本の人口がどの位居たのか分かれば概算もし易いんだけど
人によって1000万〜2000万弱と論がかなりバラつく
534人間七七四年:2011/02/02(水) 20:54:31 ID:mBJoCfo4
1615年元和偃武の後は一揆を除いたそれなりの規模な戦いってこのくらいか?

1637年島原の乱
1837年大塩平八郎の乱
1863年天誅組の変、生野の変、薩英戦争、下関戦争、第一次長州征討
1864年天狗党の乱、禁門の変
1865年第二次長州征討
(1867年大政奉還)
1868年鳥羽・伏見の戦い

江戸幕府の安泰ぶりはすごいね
535人間七七四年:2011/02/02(水) 20:55:42 ID:mBJoCfo4
誤爆しますた( ´ω`)
536人間七七四年:2011/02/05(土) 00:41:12 ID:OD+uWf7K
1600年で2000万人近くはいたと思ってるけど
少なくとも石高以上はいたはず
537人間七七四年:2011/02/11(金) 10:20:34 ID:WRQJskZ8
>>528
関東の中でも特に武田・上杉・北条・その他関東中小大名に
恒常的に荒されまくられてる上野の衆は哀れすぎるよな・・・
538人間七七四年:2011/09/06(火) 04:15:08.14 ID:xWDLRQ7K
>>415
鎌倉は8万人居たそうだよ。北条の動員数は鎌倉からの動員が
多かったって書いてあったよ。
539人間七七四年:2011/12/06(火) 01:23:01.17 ID:AuCmxpC9
謙信の小田原攻めは、11万人
540人間七七四年:2011/12/06(火) 21:03:45.80 ID:OxTLOPx/
誰が数えた?
541人間七七四年:2011/12/06(火) 23:26:01.79 ID:mHPuzC3R
クックロビン
542人間七七四年:2011/12/14(水) 00:27:26.64 ID:RQ0Y7Rh4
あっ!そ〜れ♪
543人間七七四年:2011/12/15(木) 02:55:39.93 ID:Kgqcckz4
>>425
諸藩の領地については、主に慶長年間の検地の石高(表高)で安堵したが、
それとは別に新田開発分を織り込んだ内高(実高)についても届け出るように命じていた。
特に郷帳作成のときに、色々報告させている。

最新の内高に表高を変更することも願いでれば可能だけど、
その代わりに義務が発生するから、あえてどの藩もやらなかった。

>全国の藩は検地による正確な石高を正直に届け出て

まったく新田開発をやらないと、幕府から怠けているとみなされるけど、
新田開発をやりすぎると、幕府から警戒される。

そこで内高を報告する際に結構捏造をやっている藩も多い。

例えば徳島藩の場合、表高は幕末までずっと25万6940石083合
一方幕府に報告した内高は、正保3年(1646年)には32万4789石660合、
享保元年(1716年)には35万0126石264合、
天明7年(1787年)には36万1499石727合、
天保9年(1838年)には36万6059石113合。
ところが藩内に残る史料によると、享保15年(1730年)の内高は40万7513石5斗4升3合06才で、
幕府に報告した内高よりも5万石多い。
天保郷帳用に報告した内高を作成する過程を示す控えには、
石高の増えた村の分を、減った村へ補填させて、さらに全体の石高を1割程度カットする
という作業の記録が残っていたりする。
544人間七七四年:2011/12/15(木) 15:09:03.26 ID:8nyMdTnt
>>27
それが本当なら、大軍率いといて越後一国も統一できなかった
日本一のダメ武将ってことに…。

アル中でいい歳こいて子供もいない。で、便所で力んで脳溢血、
謙信のイメージがどんどん崩れていくよ
545人間七七四年:2011/12/15(木) 15:41:53.24 ID:GOY9S6Yd
せやな
546人間七七四年:2011/12/16(金) 20:04:42.34 ID:2AA0x5XC
>>544 まあ大軍つっても関東から集まる兵なんてイワシの集団の如き雑魚だし仕方ないよ。

ちなみに日本一のダメ武将は伊達政宗で確定済みだから謙信は日本2ってとこかな。

ちなみに日本3は俺だ
547人間七七四年:2011/12/16(金) 20:51:09.02 ID:3UWdoZvh
50万とか30万とか中国かよw
デタラメ書くなよ
548人間七七四年:2011/12/17(土) 11:00:06.48 ID:bTX/X0fJ
>>547
名門北畠は東北から20万の軍勢を率いて足利討伐に参陣したそうだから
そっから200年後の近場での戦争だからそれくらい動員出来ることになるだろ?(爆)
549松屋 【大吉】 めし大盛り 【353円】 :2012/01/01(日) 17:46:58.30 ID:J9TN0F7/
昔の軍記物なんかは話半分とまでは言わないが、誇張がほとんどだろ。
550人間七七四年:2012/01/06(金) 22:49:25.23 ID:2tmhfIBX
そりゃそうだが人数かさ上げの一定の法則はある
551人間七七四年:2012/05/04(金) 01:10:32.00 ID:J4/XS4AZ
とりあえず日本が統一された後の「日本軍」としての
一度に動員できる兵力としては唐入りの14万だかが妥当なところなのか?
552人間七七四年:2012/05/04(金) 02:39:00.74 ID:4Ln3Aong
越後上杉氏は、最盛期には越後、上野、佐渡、越中、能登、加賀、東越前、北飛騨、北信濃、南出羽に版が及び、総石高260万石、小田原包囲時には、11万5000の動員を可能にした
553人間七七四年:2012/05/04(金) 16:33:30.39 ID:GaGL5wUB
>>551
大阪の陣の20万だな
554人間七七四年:2012/05/04(金) 23:04:05.39 ID:ih5chQqd
ちとグロい設定だが産女とか。元祖和風ゾンビ娘。
555人間七七四年:2012/05/23(水) 21:54:51.83 ID:uOFjeZwl
関ヶ原本戦の各隊の兵数を見ると
一万石:250人(〜300人)を超えているのがある
国許は誰が守っていたのかと。
556人間七七四年:2012/05/23(水) 22:23:24.34 ID:Qr7bjLrB
本業農民の足軽が20万いても烏合の衆
557人間七七四年:2012/05/23(水) 22:27:31.68 ID:H4NPZrS+
実際には 足軽≠農民
むしろ農村からあぶれた人口
558人間七七四年:2012/05/23(水) 23:51:48.40 ID:j/22FOCs
>>555
関ヶ原あたりだと総軍備は100石あたり6人役だから300人超えてもまだまだ余裕がある
559人間七七四年:2012/05/25(金) 12:16:53.48 ID:nCdDqBA5
>>557
娯楽が小作りしかない時代に、
不作や戦で土地が足りないとかなると、
まあその辺で人口調整しないとねww
560人間七七四年:2012/05/25(金) 18:51:11.90 ID:vgozKd6m
今でいうニートとかフリーターみたいなもんだな。
村ぐるみで食わせてやって必要なときに軍役を代行してもらうってな感じか。
561人間七七四年:2012/05/26(土) 01:09:32.62 ID:45URy85P
基本的に武具って自前なんだよね? それとも支給品だったりするの?
562人間七七四年:2012/05/26(土) 01:15:46.07 ID:AGc69lpW
モノにもよるし大名にもよる
武田は玉薬が無いからお前ら自分で用意しろやと言い放ってる
一方で、大将側が用意するのが当然なのだがと断ってるあたり、こと玉薬は大名(少なくとも武田においては)が用意するのが当然
ほかに帽子やら顔面保護具やらは規定を設けて用意させてる
入手難度の問題なんだろう、恐らくは
563人間七七四年:2012/05/26(土) 07:09:41.44 ID:UereMTzB
何か一番兵隊多かったのって本願寺勢力じゃね。
信徒の百姓がそのまま兵隊なるわけだし。
まあソースはないけど。
564人間七七四年:2012/05/26(土) 07:36:58.20 ID:8ARtNs4G
ส็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็
565人間七七四年:2012/05/26(土) 08:06:27.46 ID:HKGCEU7M
>>563
本願寺も別に一枚岩ってわけじゃないからなあ。むしろ地域ごとに独自の動きをしてて、本願寺そのものが
直接指揮出来たのは畿内の一部と越前くらいで。

あと本願寺の兵も主力は傭兵だよ。「山越」という給与が支払われてて、信長との講和の時は
「今まで山越で妻子養ってきたのにそれがなくなったら生活できない!」そういう連中が講和に反対してる。
566人間七七四年:2012/05/26(土) 09:17:37.38 ID:45URy85P
>>562
用意しろって言われても困っちゃいそうだ。当たり前だけど、お金ないと戦争ってできないんだなー
567人間七七四年:2012/07/21(土) 01:17:51.51 ID:DD3uBF1F
雑兵の実情を語るスレであげられてたけど、雑兵の3分の1が女だったらしい。
強制的に連れて来られたんだろうけどウガンダの神の抵抗軍の半数が誘拐された
少女だという話しを思い出す。アフリカの地方軍閥とやってることは変わらんな
戦国大名も。
568人間七七四年:2012/07/21(土) 01:33:58.88 ID:f4/+Jsaq
石高=住民の数=動員能力って聞いた事があるが、その基準でいえば戦国時代で動員
能力が一番高いのは近江と考えておK?
569人間七七四年:2012/07/21(土) 01:40:14.02 ID:DD3uBF1F
石高辺りの動員数は、その時よりによるから一概に言えない。例えば1390年代
大山荘で行われた徴兵では2石当たり1人の割合でとられてる。動けるものは、ほ
とんど根こそぎ連れて行かれたかんがある。
570人間七七四年:2012/07/21(土) 01:49:46.19 ID:DD3uBF1F
>>561
基本は武器も食糧も持参。戦国遺文みると棒でも何でもよいから持って来い。
なんて書いてのまである。また徴兵範囲は法律によって定められているわけで
はないので、はっきり言って生きているなら誰でも戦場に連れて行かれる可能
性がある。

フロイス「日本史」  第四五章
そこで薩摩の国主島津殿は、自国に危険が切迫しているのを見ると、国内の全地方から人々の招集を
図り、老若男女を問わず、ついには武器を手にし得る者はことごとく、いかなる逃げ口も許さず、領
国の自由のために参集するように命令した。その際彼は、各人はただ四、五日分の米を帯に入れて携
えよ、その糧食が尽きる時までには、戦の勝敗は決していなければならぬと伝達した。このようにし
て、人々が確信するところによれば、薩摩の国主は五万人近い人を招集した。それは何も驚くには足
りぬことである。日本では国主または大名が他と戦を始める時、彼は兵士たちになんら支払いはしな
い。彼はせいぜい特殊な家臣に対して費用を払うくらいであって、軍隊にはほとんど費やさない。
571人間七七四年:2012/07/21(土) 09:46:25.76 ID:jUbVLZMA
>>567
女性が戦争に参加するのは避難拠点防衛戦だけ
その発掘調査もたまたまそういう所を調べたんだろ
572人間七七四年:2012/07/21(土) 09:54:27.40 ID:DD3uBF1F
>>571
それは違う。例えば武田と北条との合戦で死んだ兵士の死体を集めた静岡の
千本松原首塚でも、やはり3人に1人が女だったようだ。また、この時の合
戦を記した園太暦にも「山名勢猛からず、七八百騎か。そのうち女騎多し。」
とあって武田の騎兵に女が多かったという記述がある。当然騎兵使ってるんだ
から野戦だよ。
573人間七七四年:2012/07/21(土) 09:54:49.67 ID:ijSPW+5s
>>571
> 女性が戦争に参加するのは避難拠点防衛戦だけ

それはどういう史料からそう断定してるの?
574人間七七四年:2012/07/21(土) 09:59:40.21 ID:DD3uBF1F
また、この時の合戦を記した園太暦 ×
    ↓
また、南北朝期の出来事を記した園太暦 ○

武田の騎兵に女が多かった  ×
    ↓
山名の騎兵に女が多かった  ○

575人間七七四年:2012/07/21(土) 10:09:45.23 ID:jUbVLZMA
千本松原首塚は女性じゃなくて若年層だろ

>>573
信長公記の高遠城女武者を始め村の城などの防衛戦に女性が出てくる史料は多い
しかし攻め手に女性が出てくる史料は極わずか
576人間七七四年:2012/07/21(土) 10:17:20.03 ID:DD3uBF1F
>>575

「沼津市千本浜の首塚と関東地方の中世日本人頭骨」 鈴木 尚
               人類学雑誌 第97巻 第1号 別刷 平成元年




○年 齢
 全て成人である。大多数は青年で、老年及び幼少年は全く認められない。
 (町ぐるみの合戦、籠城でなく)野外の合戦だったからであろう。

◆総 括
1)沼津千本浜の首塚が形成された時代は人骨の研究に基づくと、伝説の通り、室町時代中期から戦国時代にかけての合戦による戦死者と見なされる。遺体は合戦が終わると、直ちに埋葬されたが、その数は少なくとも200体に達したことであろう。
 遺骨は永い年月の間、海浜で風雨波浪に曝され、明治の改葬の頃は、人骨の多くが破片となって海浜に散乱し、ごく一部の遺骨だけが、埋葬当初のまま埋まっていた。改葬時、頭蓋骨が重点的に現在の首塚に移された。

2)発見された遺骨の2/3は男性、1/3は女性と判断され、彼らは成年が主体で、熟年は少数、老年と幼少年はない。

3)人為的損傷:頭骨には穿孔されたと思われる大小の円孔があったが、天正年間に千本浜で起こった武田・北条氏の合戦(北条五代記)に際し、種子島銃、矢、槍によるものと思われる。
577人間七七四年:2012/07/21(土) 10:28:13.42 ID:jUbVLZMA
それはすまんかった、それでも限定的な記録だろう
578人間七七四年:2012/07/21(土) 10:28:20.57 ID:DD3uBF1F
>>575

武経七書の一つ尉繚子や史記には功城戦にも女子が加わってる記述もあるよ。古代中国の例だけど
この二つは日本でも広く読まれた書だからね。当然武将たちも目を通していただろう。
そもそも古代から日本に女の武人がいたことは古墳の発掘調査から明らかだから、戦国時代にもい
たとしても不思議ではないだろう。
579人間七七四年:2012/07/21(土) 10:37:45.09 ID:DD3uBF1F
>>577
千本松原を発掘調査した鈴木尚はほかにも鎌倉の極楽谷で新田義貞の鎌倉攻め
の際に死んだ兵士たちの遺体1000体を発掘しているんだけど、やはり男2
に対し女1の割合だったそうだよ。
まぁ新田軍に加わっていたのか鎌倉防衛のため町民から徴発されたのかわから
ないけど、少なくとも敵軍が侵略した際の拠点防衛には間違いなく女兵士も参
軍していただろうね。


580人間七七四年:2012/07/21(土) 10:53:20.02 ID:jUbVLZMA
着到状や軍役状に女性の名があることは皆無
北条や武田などは軍法状では
「物持ちとか武勇の人を除いて、百姓・職人・神主・幼弱の者などつれて参陣するのは、
もってのほかである。」と、規定されていて当然女性の出る幕は無い。
ただし防衛戦においては城が近隣住民の避難所になっていることもあり
島原や長島など極端な例を出すまでも無く女性が戦闘に協力している史料は
散見できる

581人間七七四年:2012/07/21(土) 11:29:17.92 ID:DD3uBF1F
>>580
う〜ん。場合に寄りけりかも知れない。強行軍を編成する場合では訓練のほとんど
行われていない者を連れて行くわけにはいかないしな。そもそも雑兵ひとりひとり
の名まで記された史料ってあるの?

それと女を騎兵にするってのは、外国でもわりと見られることだけどね。騎手は体
重が軽いほど有利だから。例えば後漢書にも女官たちに印綬を与え騎兵としたとい
う記述があるし、モンゴル軍も敵を誘導する騎兵は女で構成していたらしい。山名
が連れていた女騎も、この類のものかも知れない。
582人間七七四年:2012/07/21(土) 11:42:58.54 ID:jUbVLZMA
>そもそも雑兵ひとりひとりの名まで記された史料ってあるの?
時代は下るが朝鮮征伐以降ならある。そこにも女性の名は無い
また騎兵なら士分格なので余計に記録が残りやすくなるだろうけど無い
583人間七七四年:2012/07/21(土) 11:50:10.84 ID:DD3uBF1F
>>582
そうか。防衛の際以外には徴発されてないと。なら、あの千本松原の遺骨
はなんだったんだろう?
ちなみに当時男女問わず軍事訓練をおこなっていたことは間違いなく、日
本に何年か滞在したことのある明人が書いた「日本一鑑」に倭国では女児
ですら武技を教わるという記述がある。まぁこの人は九州以外の地域には
行かなかったそうだが。
584人間七七四年:2012/07/21(土) 11:57:01.95 ID:jUbVLZMA
骨盤なら間違いなく男女分かるけど頭蓋骨のみ
それも調べたのは十数遺骨のみで時代もかなり昔、
偶然の発見を伝承に当てはめただけとなると
解釈の幅が大きすぎてなんとも
585人間七七四年:2012/07/21(土) 12:01:43.67 ID:piJ6CRnR
唐入りの時期は女性兵士を投入しなければいけないほど日本は切迫していたのか?
男子兵士が普通に投入できるなら女性兵士をわざわざ投入するのはどうかと思うぞ

士分格の話なら甲斐姫とかァ千代とかも士として否定ということか?
586人間七七四年:2012/07/21(土) 12:07:28.00 ID:jUbVLZMA
唐入りの時期は女性兵士、意味不明
甲斐姫、実在の人物か不明
ァ千代、実戦参加無し
587人間七七四年:2012/07/21(土) 12:10:58.10 ID:DD3uBF1F
>>584
十数じゃなくて107な。それに極楽谷だと1000発掘している。あと頭蓋骨さえ
あれば男女の区別はつくらしいよ。鈴木尚によると。

>>585
中国の歴史書でも女兵士を投入したという記事は普通にあるんだが、例えば秦の南越征伐とか。
しかし名前までわかる例はほとんどない。婦好などの例外を除いて。呂布征伐のときも婦人に盾
を持たせ、曹操の身を守らせたという記述はあるんだが侍衛の任という大役を任されたのに関ら
ず名が残ってない。
北欧でも兵士が妻に弓を持たせ戦場に連れて補助とする慣習があったようだが、夫の従属者扱い
なので、やはり名簿に名を残すことはなかったようだ。
588人間七七四年:2012/07/21(土) 12:14:02.53 ID:piJ6CRnR
>>586
答えられないなら別にいいよ
そこまでの知識と理解しておく

とりあえず返レスあり
589人間七七四年:2012/07/21(土) 12:21:14.63 ID:piJ6CRnR
>>587
こちらも返レスあり
590人間七七四年:2012/07/21(土) 12:28:20.83 ID:jUbVLZMA
>>587
昔斜め読みしただけだから記憶違いだらけではずかしい
また読んでみる
591人間七七四年:2012/07/21(土) 12:37:15.44 ID:DD3uBF1F
>>590
こちらも各自治体の郷土史調べてくるわ。ところでフロイスによると薩摩が
老若男女あわせて5万集めたそうだが、これって当時の薩摩の人口の何パー
セントにあたるんだろう?
592人間七七四年:2012/07/21(土) 12:54:02.65 ID:jUbVLZMA
参考にしかならんが人口スレから拝借してきた
薩摩藩30万2021人(1636年)
593人間七七四年:2012/07/21(土) 13:16:44.34 ID:jl/1O8ep
戦国時代に女性が動員されて戦うという例はよく聞くね
本多忠勝も女兵士について語った話しもあるし、中村一氏が
女丈夫と戦った伝説もある
尼などが武装して戦いに赴いた例や、従軍中に出産した足軽の話なんてのも
(多分女なんでしょうねこれは)
名が残らないのは、やはり当時の世相があるのではないだろうか
とにかく、この時代の女性の名前が今に伝えられているのは
本当にごく一部だから
女の動員は、中世まではわりとポピュラーだったのかもしれない
594人間七七四年:2012/07/21(土) 13:22:29.08 ID:jl/1O8ep
>>580
そういう御法度は、逆にそういう人々が従軍することが多かった証左にもなる…
という考えもある
上層階級の武家は、人身売買や物取りを堅く禁じたりもしたけど
この御法度も、乱暴物取が戦場で横行していた証左であるし、実際多くの文書や伝承が残っている
神主、百姓、職人だって多くが戦争に従軍していたし、女の従軍も可能性大
595人間七七四年:2012/07/21(土) 13:30:57.86 ID:jl/1O8ep
>>563
石山本願寺はそこまでの兵力、兵制はないよ、というか
本願寺大谷氏は常備兵力を全く持っていない
戦争が近づくと、各国の門徒に給金を払って傭兵として雇用していたし、
その中には浄土宗や根来衆などの真言宗、神道、キリシタンもいたといわれている
門徒であっても支払い不足で早々に国に帰る集団もいた(飛騨衆、近江衆など)
決して信仰心だけではないよ本願寺の動員は
596人間七七四年:2012/07/21(土) 14:48:58.38 ID:lradwvRl
1636年の薩摩藩の男女別、地域別人口構成
30万2021人 鹿児島本土
17万4911人 男
12万6063人 女
内、薩摩14万8477人、大隅8万9821人、日向国諸県郡6万3723人

11万1669人 琉球
5万4496人 男
5万7173人 女

1677年の薩摩藩の男女別人口構成
38万0223人 鹿児島本土
22万2139人 男
15万7003人 女

12万2213人 琉球
6万0558人 男
6万1655人 女
597人間七七四年:2012/07/21(土) 14:52:00.85 ID:lradwvRl
1677年の薩摩藩(本土のみ)の身分構成

7万2877人 諸士
4468人 諸座附者
7万4353人 又内・又々者
1万3346人 寺社家付門前
16万7387人 在郷
4万3861人 町浜
2850人 罪人
1081人 被差別階級
38万0223人 合計
598人間七七四年:2012/07/21(土) 15:50:52.60 ID:jUbVLZMA
>>594
さらに逆に言えばその証左の中にも女性は含まれてない訳やね
599人間七七四年:2012/07/21(土) 17:30:40.99 ID:spKo9TpY
仙台藩の武士人口は圧倒的だったのに
明治政府からは士族として認められなかったのが多い。
なんで?
600人間七七四年:2012/07/21(土) 18:28:39.05 ID:lradwvRl
それは仙台藩が陪臣2万3千家12万人を帰農・帰商させたからであって、
明治政府が認めなかったからではない

28万石への減封で給料を払えなくなった原因は明治政府にあるとも言えないこともないけど
601人間七七四年:2012/07/21(土) 18:30:11.06 ID:mghdd9uP
サンクス
士族認定前に藩から首にされてしまったんだね。
602人間七七四年:2012/07/21(土) 18:46:17.52 ID:DD3uBF1F
>>594
フロイス日本史、園太暦といった日記や回顧録といった確実な史料や古戦場の
発掘結果から照らし合わせてみて、まずあったと見て間違いないでしょう。
それよりも一体この女兵士たちが、どういう身分の人間だったかが気になる。
漢代では地方在住の農民は男女問わず一定期間の辺境防備任務か兵役免除金3
00銭の貢納を義務付けられていたけど日本でも類似する制度があったんだろ
うか?
どうも日本の兵制って適当で武将の気まぐれに左右されている気がする。
603人間七七四年:2012/07/21(土) 18:54:27.64 ID:A1znW8TL
>>53
旧帝国陸軍参謀本部の分析
604人間七七四年:2012/07/21(土) 18:56:45.83 ID:ijSPW+5s
>>602
まあ統一したシステムがあったわけじゃないからな。だいたい全国一律になるのが秀吉の時代以降だし

>>603
今や正しい歴史理解を妨げる諸悪の根源みたいなデータだよな、アレw
605人間七七四年:2012/07/21(土) 19:15:33.94 ID:lradwvRl
いや、1万石250人自体は、もっと前からある数字で、
例えば江戸時代の慶安2年の軍役だと、表高1万石で235人で、
実際はもっと細かく規定が決まっている(「徳川禁令考」に収録されている)

1670年頃に書かれた『玉露叢』によると軍役は1万石で300人

徳川昭武所蔵修史館写本による寛永元年(1624年)改全国兵数によると
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762790/82
内訳 兵数 馬上 鑓 旗 鉄砲 弓
大名 25万2219人 1万1770騎 4万2036本 2522本 1万6814挺 8407張
一門 15万2997人 7149騎 2万5495本 1530本 1万0199挺 5099張
旗本 14万1300人 6609騎 2万3464本 1395本 9300挺 4650張
合計 54万6516人 2万5519騎 9万0995本 5447本 3万6313挺 1万8156張

表高1万石250人みたいな形式的な数字が出てくるのは江戸時代以降だけど、
全く根拠の無い数字というわけでもない
606人間七七四年:2012/07/22(日) 03:30:23.40 ID:HbjeTdKF
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771069/204
参謀本部編『日本戦史 関原役』(1911年)

東西両軍兵員の実額得て知る可らず
然れども是年四月廿七日島津惟新より同龍伯に遣りたる書
(附録文書第十九号)に家康の奥州会津に向うべき兵賦は
禄一百石毎に三人なりと云うことあり
及ち試に之を法数として東軍諸将の兵を算すれば左の如し

参謀本部は、島津家の手紙の内容を根拠に、
関ヶ原の役での兵数を1万石300人で計算している。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771063/9
『日本戦史 桶狭間役』(1898年)では、
関ヶ原の1万石300人、大坂役の1万石200人の間をとって1万石250人とし、
織田の推定石高16〜17万石(尾張の1/4程度)から4000人内外
今川の推定石高100万石以上(駿河・遠江・三河78万石+尾張の一部)から約2万5000人
って石高の推定も相当いい加減だな。
607人間七七四年:2012/07/22(日) 03:47:54.81 ID:HbjeTdKF
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771072/17
百石三人のソースとしている手紙の一節

「百石に三人役に被仰付、奥州へ出張申候由候」
608人間七七四年:2012/07/22(日) 04:12:52.86 ID:HbjeTdKF
って、>>239-242で既にまとめてあるな

609人間七七四年:2012/08/06(月) 17:45:37.15 ID:eym4tAI0
入来文書の水俣城包囲の際の着到状みると、総勢で11万5千とあった
610人間七七四年:2012/08/06(月) 19:40:23.56 ID:d8ec3x6v
611人間七七四年:2012/08/06(月) 19:43:11.11 ID:d8ec3x6v
>>602

ミス
中央集権統一王朝の漢と、地方の軍閥が分国法定めて勝手に自治してる戦国時代比べたら
そうなるんじゃないか
612人間七七四年:2012/08/18(土) 13:42:05.33 ID:dIRIm3Hl
宇喜田氏が明善寺合戦で大量の鉄砲を所持してた事は意外と知られてない。
613人間七七四年:2012/08/18(土) 14:36:08.36 ID:vlScy37s
事実かどうか分かる資料があればいいんだがな
614人間七七四年:2012/09/21(金) 16:32:55.56 ID:R9JnpGbP
http://1st.geocities.jp/sengokujidai_sougou/D-500_sengoku.htm
私のHPに詳細を載せているので感想等よろしく

615人間七七四年:2012/09/29(土) 21:43:13.11 ID:08qlPSyA
616人間七七四年:2012/10/02(火) 08:52:24.45 ID:GV4dywpJ
鉄砲の実戦使用が認められる最古の記録が
1550年の三好と細川が清水寺近辺で戦った時だったっけ
1543年に種子島で畿内からも津田とか色々が貰いに行って細川晴元に献上してるし
7年間で実戦で使用できるものができる技術が発達したのかねぇ。
種子島以前でも堺で鳥銃とか同じような物があった気がしないでもない。
617人間七七四年:2013/03/07(木) 17:08:50.03 ID:lmAehmLd
日本三大奇襲戦

桶狭間の戦い ●今川戦闘員3千(非戦闘員2千) ○織田戦闘員2千
厳島の戦い   ●大内8千                ○毛利軍5千
河越夜戦    ●連合軍1万5千            ○北条1万3千

わりかし大逆転ってわけでもないんだな
618人間七七四年:2013/03/20(水) 18:26:19.71 ID:xtyOcg1O
中世の戦闘で思うのだが
そんな数万の兵力を移動させるだけでも大変な気がするんだけど
甲子園一杯分の人が移動がどれだけ大変か理解できれば

大昔にそんな優れた道があったとは思えんし、山じゃ谷を数万の移動は
あまりできるとは思えない
619人間七七四年:2013/03/20(水) 19:51:13.09 ID:evtVoXjT
ぶっちゃけ中世の行軍より、東京駅の朝の方がすごい
620人間七七四年:2013/03/20(水) 21:35:42.25 ID:NTDHmQUs
俺は朝の新宿駅の方がきつい

謙信なんかは八千で現在でもキツイ三国峠を何十回も越えてるんだから統率すげえと思うわ
621人間七七四年:2013/04/15(月) 16:17:13.49 ID:yjKzWzQW
いわゆる完全武装の戦える兵士は30%くらいなんでしょ?
兵力3万でも戦えるのは1万程度・・・
622人間七七四年:2013/04/15(月) 20:10:02.91 ID:SP/gZYeb
唐入りの記録だと戦闘員と補助員の割合は半々くらいだな
623人間七七四年:2013/04/15(月) 21:46:27.01 ID:x9h219ci
>>621
兵数って補助員含んでる場合と含んでない場合があるから一概には言えない
624人間七七四年:2013/05/06(月) 15:06:05.71 ID:wljyAOwI
日本陸軍
対露戦動員100万(実80万)
装備化師団20万規模
予備装備化師団20万
待機40万(小銃まで含め実60万限界)
砲2000門海40万トン

大東亜戦争開戦前
動員100万
装備化30万
予備装備化20万
砲4000門海80万トン

開戦
動員200万
装備化40万
予備実80万
砲8000門海80万トン

戦国オールスターモード時
正規、直参、旗本級15万予備15万
その他ちょういん30万
傭兵15万
銃各種50万刀150万人海20から40万
正規15万
即応予備正規15万規模
傭兵15万
待機30万
その他後方動員50万
625人間七七四年:2013/05/06(月) 15:15:07.31 ID:wljyAOwI
その他建設および工業従事者50万規模
識字500万以上


正規20万規模
動員予備90万
建設従事者20万
識字50万から150万

ロシア
正規2.5万即応7.5万
最大20万
建設及び工業人口5万から15万
識字50万

日清時
正規20万予備20万砲2000門海20万トン
建設100万
識字3000万

しん
正規30万予備70万砲6000門海25万
建設30万
識字300万
626人間七七四年:2013/05/06(月) 15:34:20.54 ID:wljyAOwI


信長250万から450万石超大名説は誤りで

初期ハンズ10万石直轄5万石
平均ハンズ120万石直轄40万石
最盛期ハンズ250万石直轄100万石が限界

名古屋、畿内、金沢の当時人口が350万前後
農業生産は非常に低く300万以下
通年的な戦国末石高は数値が相当おどっていてだいぶおかしく
正規的な統計手段をとってなく正しくない。

また畿内は小人口、小農業地域で地域別で全国最小人口圏最小経済圏であるためそれほど石高いかない。

そもそも中国方面よりも経済、人口規模は小さく
畿内、金沢、名古屋の合計経済規模よりも巨大
というか鎌倉、江戸期は通年的にそちらの石高、人口が多く(正規統計で)、戦国期、名古屋、畿内の人口増大要因はありえない。

そもそも全科学根拠的に信長大々名要因はない。
秀吉はハンズ500万石直轄150万石以上はあった。
627人間七七四年:2013/05/06(月) 16:12:53.93 ID:mzpFv2/F
ソースなしの妄想駄文はチラ裏にどうぞ
628人間七七四年:2013/05/07(火) 06:29:58.99 ID:93jEmCsB
検地でおおよその税収が明らかになってる石高と違って
経済面の豊かさの指標って都市人口以外あまり明らかになってないんだよな
629人間七七四年:2013/05/09(木) 22:06:45.88 ID:gpXpXa/Y
>>624-626
これはゲームのパラメータ?
630人間七七四年:2013/06/16(日) 09:07:50.18 ID:1ensVIjg
日本全土から集めた終戦時で人口8000万で
あらゆる市民から集めたので
兵力500万強(生き残り350万死亡200万)程度だし

それよりも5分の1しかない人口だから太平洋戦争時の生産力があっても
その人口じゃ日本全土でも100万が限度だと思うのに
その時代じゃ実際半分の50万も動員出来るはずもないのに
産業革命すら起こっていない時代で上杉8万とかの兵力はおかしい気はする
631人間七七四年:2013/06/16(日) 09:42:01.05 ID:XGoEJTZ2
正規兵だけじゃなく農民達も加わったんじゃね?
632人間七七四年:2013/06/17(月) 02:17:34.40 ID:4K12nAzm
120万石で6人役だと72000人
別におかしくはない
633人間七七四年:2013/06/21(金) 17:05:32.63 ID:iI2TTwIQ
大陸や南洋遥か彼方に動員するのと同列には語れないかもね
装備も輸送も維持も錬度もコストが違いすぎる
戦争が始まりそうになったら、普段はいない一時雇い狙いの流れ者なんかも入国してくるだろうし
634人間七七四年:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN ID:bt3MhgnH
馬に乗っている人て実際どれくらいいたのかな?
昔の農耕馬でも一大名に1000頭とか
いたのかな?
635人間七七四年:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN ID:HIS3TJvh
だいたい戦闘員の10%前後が騎兵
たとえば10万石大名だと本役6人役で軍勢6000人、内戦闘員3000人、内騎兵300人
636人間七七四年:2013/09/07(土) 14:07:05.88 ID:9RQEgivy
日本は狭くて人口多いから短い期間の戦争がやれて沢山動員できるんだろうな
637人間七七四年:2013/09/22(日) 14:35:29.03 ID:AnC5gjXE
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
638人間七七四年:2013/09/22(日) 15:20:47.87 ID:ArOLSc+0
>>635
騎兵って何だよw 士分以上が騎乗してるだけだろ。
639人間七七四年:2013/09/22(日) 15:54:57.73 ID:wY6oZwM4
鈴木さんこんにちわ
640人間七七四年:2013/10/03(木) 19:15:18.19 ID:MCQOIL1A
1万の兵力のうち1000人程度が死んでも
大打撃は本当なのか・・・
641人間七七四年:2013/10/10(木) 14:03:43.22 ID:sT3c5iyd
近代軍では3割死傷で全滅判定。
中世の軍隊は農民が兼ねてるから、1割減ったら年貢に響く大打撃だな。
642人間七七四年:2013/10/10(木) 15:19:29.18 ID:yZwqRaOa
軍の半数は陣夫などの非戦力、死者と負傷者の比率は1対3あたり、と言うことは、
1万の軍で死者1千だと、残りは健在1千・負傷者3千・非戦闘員5千で
戦闘力5分の1のぼろぼろよ

ついでに近代軍は正面戦力が3割。だから3割の損害は正面戦力の全滅を意味し
正面戦力がいなければ当然戦えないから全滅判定
643人間七七四年:2013/10/11(金) 01:04:04.47 ID:m1p7c4Hl
そりゃ遠巻きに、つぶてばかり投げ合うわ
ってことだ

戦なんて半分、大名同士の見栄の張り合い、予定調和的な部分が大きかったのだろう

ヤクザの喧嘩と似てる
644人間七七四年:2013/10/12(土) 10:04:41.61 ID:baixu+ED
>>641
その発想は無かったw
確かに年貢に響くな。
645人間七七四年:2013/10/18(金) 01:24:26.31 ID:CIP7b68M
>>643
つぶて投げ合ってだけで終わった合戦とか一つもないやろ

でもそんなに人が死ななかったのも確か
ノルマンディー上陸作戦のときの連合軍の損害は15万人中死者3千人
近代でもこの程度だから昔であればなおさら少なかったはず
646人間七七四年:2013/10/31(木) 12:19:18.49 ID:DhARhHe+
ノルマンディーで地獄になったのは一部地域のその中でも前半の部隊だけだから
硫黄島もってきて全滅するのが当たり前って言うのと対して変わらん
647人間七七四年:2013/11/10(日) 20:47:27.67 ID:gPGx8d5Z
>>ノルマンディー上陸作戦のときの連合軍の損害は15万人中死者3千人


硫黄島や沖縄に比べたら楽勝だな

そりゃ米軍も原爆使いたくなるわな
648人間七七四年:2013/11/24(日) 11:25:03.33 ID:O6VNnSh3
戦国時代当時の兵力の数え方てチョット昔のプロ野球の観客数みたいに
適当に見てああ、敵は1万くらいるなて数えてるんでしょ
実際は2000人程度でも1万人にするんだよな
649人間七七四年:2013/11/24(日) 13:03:15.06 ID:z84A8loa
日本野鳥の会でも呼ぶか
650人間七七四年:2014/05/16(金) 17:13:35.70 ID:5JNK+AmN
動画添附禁止 裁判 遠隔キンピラ 詐称 ハウスアメリカ

動画添附禁止 裁判 遠隔キンピラ 詐称 ハウスアメリカ

動画添附禁止 裁判 遠隔キンピラ 詐称 ハウスアメリカ
651人間七七四年:2014/07/02(水) 23:33:18.90 ID:1zTSXVhT
鯖読みが普通
652人間七七四年:2014/07/03(木) 02:02:23.58 ID:aDpHYdM1
白髪三千丈みたいなもん
653人間七七四年:2014/07/03(木) 10:02:03.37 ID:otDbqSv9
大坂の陣で幕府側は30万人
654人間七七四年:2014/07/03(木) 21:37:52.16 ID:+tB2qCcJ
高松城救援に来た毛利の軍勢は3万と1万の二説あるけどどっち?
655人間七七四年:2014/07/03(木) 21:58:18.57 ID:MEtkIWnX
後詰の輝元本隊含め全軍で3万、そのうち高松表まで来た小早川軍が1万ってとこじゃ無いの
その数字自体当てにならんけど
656人間七七四年:2014/07/04(金) 00:49:03.95 ID:Tl/yk95Y
>>655
意外と少ないんだな。秀吉軍だけでも3万いたのに。
これでもし信長の本隊が来てしまったら・・・
657人間七七四年:2014/07/04(金) 17:11:05.28 ID:1mCYhvtC
一国で人口十万とか居るのだから、住民たちまで含めて本気で戦う気があるならば数万単位の動員もあり得るだろう(島原の乱)
658人間七七四年:2014/07/04(金) 18:33:13.09 ID:9JFx7jBy
>>657
長島一向一揆は一揆勢10万、織田軍8万と言われているしねい。
さすがに1574年での織田軍で8万は盛り過ぎじゃないかとも思うけど。
659人間七七四年:2014/07/04(金) 22:17:27.07 ID:fhqvaxpJ
一揆勢10万は当然非戦闘員も含んでいるだろ。
660人間七七四年:2014/07/04(金) 23:03:42.77 ID:gYMc/hZ3
兵数は軍記物はもちろん大本営発表的な一次史料もまったく信用できんもんね
661人間七七四年:2014/07/04(金) 23:29:58.31 ID:nQXaNZzJ
つか大半は鋤鍬竹槍などで武装した農民だろうが
これらは戦闘員扱いなんだろうか
662人間七七四年:2014/07/05(土) 07:17:06.63 ID:2lFSQXwO
でも江戸時代の士族・卒族の数を見ると案外軍記物の記述も大きくは違っていない様だが
勿論、一口に軍記と言っても物によって大きく違うけど
そもそも動員数と戦闘員数をごちゃ混ぜにしてしまう人が多いからおかしな話になる
663人間七七四年:2014/07/05(土) 08:17:46.68 ID:f5ga8AYr
薩摩藩 1852年の総人口62万5365人(琉球・奄美を除く)
内、直士17万0694人、諸子家来7万3634人、合計24万4328人(総人口の39%)
明治維新後は、総人口77万2363人(琉球・奄美を除く)
内、華族9人、士族19万2949人(琉球士族を除く)、卒族9万5569人
合計28万8527人(総人口の37%)
内高 86万9,593石

仙台藩 1825年の総人口68万7802人(一関藩を含む)
内、一門・諸士・諸組・諸職人14万6352人(総人口の21%)
1867年頃の推定総人口79万人
内、士分17万2239人(1869年、総人口の22%、但し12万5736人は帰農)
内高 101万8818石

佐賀藩 1854年の総人口40万2769人(支藩を含む、出稼ぎ人を除く)
内、武家15万5487人(総人口の39%)
内高 88万6525石

熊本藩 1869年の総人口71万6817人
内、華族10人、士族1万6050人、卒族7万1733人、諸陪臣1万9221人
合計10万7014人(総人口の15%)
内高 78万6015石

長州藩 1869年の総人口79万9553人(支藩を含む)
内、華族26人、士族2万0710人、卒族2万2575人、陪臣2万5487人(平民扱い)
合計6万8798人(総人口の8.6%)
内高 97万8004石

加賀藩 1870年の総人口108万6159人
内、華族11人、士族2万8683人、卒族2万7038人、中間小者5938人(平民扱い)
合計6万1670人(総人口の5.7%)
内高 133万8083石

尾張藩 1870年の総人口99万0428人(支藩を含む)
内、華族19人、士族1万9327人、卒族3万6518人、合計5万5864人(総人口の5.6%)
内高 91万3827石

土佐藩 1870年の総人口51万6545人
内、華族8人、士族3万0506人、卒族1万8908人、合計4万9422人(総人口の9.6%)
内高 49万5486石

紀州藩 1870年の総人口72万6766人(支藩を含む)
内、華族13人、士族2万6267人、卒族2万1519人、合計4万7799人(総人口の6.6%)
内高 61万5453石
664人間七七四年:2014/07/05(土) 10:59:06.22 ID:U5wIBRX+
>>661
それなら戦闘員扱いだろうな。
665人間七七四年:2014/07/05(土) 14:31:33.98 ID:PiX5PA47
武器持っていようが百姓は数に入らん
近代で言うところの軍属のようなもの
一応武家に仕えている中間小者ですら数には入らない
書状などの戦死者数と軍記類の戦死者数が大きく違っているのもこれが原因だ
雑兵の類いは討ち取っても手柄にならないからカウントされない場合が多い
侍の首いくつ、雑兵の首がいくつ、といった書き方をしている場合もあるが
666人間七七四年:2014/07/05(土) 15:06:23.14 ID:CNQl3zAD
>>665
数の計算には入るぞ
食料の支給の割当に必要だからな
総数の計算が出来ていなかったら
一瞬で兵糧不足になり崩壊する
667人間七七四年:2014/07/05(土) 17:09:09.43 ID:1Y+ZJIXL
>>666
その通りだな。
668人間七七四年:2014/07/05(土) 17:30:37.77 ID:Ht6XSUXc
何を前提としてるか曖昧な議論に言っても無駄な話だけど
別に大名が食料支給するわけじゃないから総数なんて知らんでも問題はないぜ
669人間七七四年:2014/07/05(土) 21:03:46.02 ID:wN+w2u3F
>>668
それを言ったらスレ自体が終わってしまう。
推測・検証するのが楽しいんじゃないか。
670人間七七四年:2014/07/05(土) 23:52:15.08 ID:I9+BLYfg
戦国じゃないが一番有り得ないのは太平記の
千早城攻めの幕府軍100万だな。
671人間七七四年:2014/07/06(日) 00:09:43.43 ID:AtNQ/tB5
>>669
別に終わらんよ。
当てにならん軍記や外交書状で語るのがあほなだけで、
誇張したら用を足さなくなる、いわいる事務書類に当たる軍役帳や陣立て図をもとに考察していけばいいだけ
672人間七七四年:2014/07/06(日) 17:48:10.41 ID:HZ1L2Td9
そもそも100万の軍勢集結したらあっという間に餓死者続出だろ
673人間七七四年:2014/07/06(日) 18:17:42.47 ID:WNBQttBW
>>670
100万人
クセルクセスのギリシア侵攻も100万
早々の赤壁のときの兵力も100万

古代中世ぐらいだと、100万というのがめちゃ大軍のメルクマールで
軍記物に連発するようだな
674人間七七四年:2014/07/06(日) 20:25:04.24 ID:1gfBeP4W
>>663
仙台の知人が「伊達は石高200万石」って言ってたので信じていたけど
幕末時は長州とほとんど石高変わらないってことは
江戸期にあまり伸びなかったのね。
675人間七七四年:2014/07/06(日) 22:28:40.07 ID:NlqWOpF2
>>673
赤壁の時の魏軍は83万ではなかった?
いずれにせよ盛った数字だろうけど。
676人間七七四年:2014/07/06(日) 22:30:02.57 ID:I8CUF+lO
>>670
太平記には80万と書いてあっただろ
677人間七七四年:2014/07/06(日) 22:55:44.59 ID:NlqWOpF2
>>676
鎌倉幕府軍80万+六波羅軍20万で
計100万じゃなかったっけ?
678人間七七四年:2014/07/07(月) 10:27:38.93 ID:vEDDCgr4
いくらなんでも盛り過ぎw
679人間七七四年:2014/07/07(月) 20:44:58.73 ID:sikrpGfG
本当は10万以下だろう。
680人間七七四年:2014/07/07(月) 23:41:09.88 ID:ZjGqr9YB
兵力ばかり誇示する人は大抵兵站が頭に入っていない。
681人間七七四年:2014/07/07(月) 23:44:27.95 ID:P0qED9OS
兵站分かってる人ですか?ご教授ください具体的に。
682人間七七四年:2014/07/08(火) 01:00:50.34 ID:H3aYtal/
>>680
一般的に1日あたり1人五合だが九州征伐の時は大盤振る舞いで一升あった。馬は乗馬の頭数、駄馬の匹数に、乗馬と駄馬で餌の違いもあったりするので一定では無い
683人間七七四年:2014/07/08(火) 08:34:17.42 ID:1r5Xl8ps
兵站というか補給というか
684人間七七四年:2014/07/08(火) 10:59:08.17 ID:lV77clPs
そのコメだけで本当に食っていけたのか?
おかずはなんなんだよ?
脚気が流行ったデータもないな。
前線に集積された米を保管する遺構はあるの?
誰がどうやって送る?
料理はいつ誰がやる?
腰兵糧なんて真夏は腐らないか?
水分と排便もどうなの?
685人間七七四年:2014/07/08(火) 11:07:30.14 ID:c++Tanqk
>>684
玄米で脚気になるわけ無いだろ
真夏に殆ど戦も無い
根本的に知識が不足しているぞ
686人間七七四年:2014/07/08(火) 18:19:41.01 ID:lV77clPs
玄米のまじってない白米のおにぎりが
鮫が尾城跡から発掘されています。
夏の合戦では、桶狭間、姉川、山崎、大坂夏の陣があります。
687人間七七四年:2014/07/08(火) 23:32:51.74 ID:P78WyCVQ
>>684
>おかずはなんなんだよ?

焼き味噌とか。
688人間七七四年:2014/07/09(水) 00:18:53.25 ID:rZi2gZPn
>>686
へぇすげぇ
「軍隊入ったら銀シャリ食える」みたいなのが当時からあったのか
689人間七七四年:2014/07/09(水) 00:54:56.56 ID:MpTJAVdH
それ自体が戦国時代の名残だし。
690人間七七四年:2014/07/09(水) 07:41:14.95 ID:L6xToMwk
普段から白米食べていたのは江戸時代の江戸や大坂など大都市圏ぐらいのものだろう
例え戦の時に1ヶ月程度白米だけ食ってても脚気なんてならんわ
691人間七七四年:2014/07/09(水) 08:44:00.03 ID:KDm1lK6W
>>687
家康
「その話はするでない!」
692人間七七四年:2014/07/09(水) 09:58:54.47 ID:dva3wpRH
>>14
宗春のころなら実高百万石ぐらいだろ

うちも尾張藩領(美濃)だけどうちの動員数は農兵50人だったわ
693人間七七四年:2014/07/09(水) 10:59:21.77 ID:+BmyGh8G
>>663
これだったら幕末に長州藩や薩摩藩はもっと出兵できたと思うんだが
薩摩で鳥羽伏見で5千で一番やばい長州征伐の時の長州藩が4千だっけ?
694人間七七四年:2014/07/09(水) 12:38:37.86 ID:BnkAAxEu
>>693
装備の出来てない兵隊出しても無駄飯喰らいの弾の的だっつーの。
新式銃の数で軍隊の数が規定される
695人間七七四年:2014/07/09(水) 17:17:00.45 ID:L96x7IX0
>>693
鳥羽伏見の五千は総数で、薩摩の実数はもっと少なかったような・・・
戌辰になると、新規編成の部隊を秋田戦線とかに送ったりしてる

長州征伐の方は藩直属の四千以外に、ゲベール銃や火繩銃装備で古い軍制の部隊が海岸監視目的で配備されてる
大島の戦いで幕府歩兵隊と最初に戦って負けたのが、たしか代官や村上水軍の末裔が編成したこれ系の部隊
つまり動員能力だけ見れば四千は確実に越えるが、総数は不明なんで余り参考にならない
696人間七七四年:2014/07/09(水) 18:52:50.51 ID:DDh879d4
西南戦争での薩摩軍は1万5千だっけ?
697人間七七四年:2014/07/09(水) 21:59:53.07 ID:bYkO1K5E
>>964
いや、世の中には人海戦術というものがある
698人間七七四年:2014/07/09(水) 23:43:05.24 ID:b49tTJFu
中国得意の戦術ですか
699人間七七四年:2014/07/10(木) 10:02:50.39 ID:mBorPoAR
1人で10人
700人間七七四年:2014/07/10(木) 12:24:01.46 ID:XaLIDeki
>>699
それは兵数のカウントの仕方か?
つまり、100万とされてるのは実際には10万だという。
701人間七七四年:2014/07/10(木) 21:22:02.83 ID:/YVrMi1n
小牧長久手の戦いにおける家康・信雄連合軍は1万8千。
両者の石高からして少なすぎないか?
702人間七七四年:2014/07/10(木) 21:26:34.37 ID:P/AaQ7zO
>>701
家康は甲信を支配したばかりであり、まだ動員出来ないばかりか、鳥居などを残している
703人間七七四年:2014/07/10(木) 21:45:16.23 ID:sPeWPP1T
>>674
仙台藩実高は幕末でも100万石程度だろ。
幕末長州だと100万石あるいは120万石という説がある。

ちなみに今の宮城県なら減反した状態でも米は毎年36万t位とれる。
一石3俵180kgで計算すると、約200万石相当だ。

その知人は現代の宮城県と仙台藩を混同しているのでは?
704人間七七四年:2014/07/10(木) 23:55:12.15 ID:dQMNP+xt
>>702
しかし秀吉軍の12万5千に対して1万8千ではあまりに無謀ではあるまいか?
705人間七七四年:2014/07/11(金) 00:38:32.40 ID:AOYiLLGs
そんな適当な数字もって来れられても答える人も困ると思うよ
706人間七七四年:2014/07/11(金) 00:46:04.14 ID:h7aJG3Ej
>>703
ありがとう
地元自慢で話を盛っていたのかもしれない
707人間七七四年:2014/07/11(金) 06:50:21.34 ID:BL/h26iC
>>704
豊臣方の10数万と言うのは総兵力であって家康の本隊の前に全部いる訳じゃない
逆に徳川の1万数千と言うのは前線にいるだけの数で総兵力ではない
豊臣方は四国、紀州、北陸、伊勢などに兵を割かねばならなかったし
徳川・織田方は基本的に拠点防衛であったから、直接前線で対峙していた双方の戦力にはそれほど差がなかったと見て間違いない
そもそも、それほど戦力差があったら徳川・織田方が戦を仕掛ける訳がない
708人間七七四年:2014/07/11(金) 08:41:39.27 ID:YLNJEvQd
陣立書には陣夫も含んでいたのかどうか
まあそれを抜きにしても羽柴勢は遠国からの参戦が多いから純粋な戦闘要員以外が多く含まれていそうではあるが
709人間七七四年:2014/07/11(金) 11:06:16.55 ID:AOYiLLGs
武田北条の軍役帳は陣夫は別。
豊臣(と江戸幕府)の軍役や陣立図は陣夫込み。
710人間七七四年:2014/07/11(金) 18:27:28.36 ID:b311rJ49
>>707
そういった事情があるにも関わらず>>704みたいな数字が定着しているのは
「寡兵をもって大軍を手こずらせ負けなかった家康スゲー」って
家康を持ち上げたいからか。
711人間七七四年:2014/07/11(金) 21:42:49.68 ID:rveneOC3
これに関わらず徳川の記録というのは眉に唾つけて見たほうがいいんだろうな。
712人間七七四年:2014/07/11(金) 22:19:48.05 ID:/aMzRiy3
信長の命令で涙を振るって信康を斬ったとかな
713人間七七四年:2014/07/11(金) 22:28:19.19 ID:PzyZG1MI
>>711
関ヶ原戦役なんて嘘だらけ
石田三成の謀反を予想して死を覚悟した鳥居元忠を残したとか
関ヶ原へ進軍するというデマを流して西軍をおびき出したとか
完全に嘘だと判明している
714人間七七四年:2014/07/11(金) 23:09:29.89 ID:AOYiLLGs
菅沼遼太少しは隠せよ自演馬鹿
715人間七七四年:2014/07/12(土) 01:25:36.39 ID:Aut2F4Vd
築山殿が武田に内通したというのも眉唾
716人間七七四年:2014/07/12(土) 08:15:11.90 ID:W9PHpkUU
鳥居元忠は明らかに後付の美談だろうな。
実際は三成が単独でこと起こしたところでたいしたことないとたかをくくっていたのだろう。
まさか毛利や宇喜多まで抱き込んで西軍立ち上げるなんて予想もしていなかったかと。
717人間七七四年:2014/07/12(土) 12:19:32.17 ID:96a3uJr0
>>716
家康って意外と読みが甘かったのかな。
当時既に58歳だったのに。
718人間七七四年:2014/07/12(土) 12:46:00.38 ID:B54c7j2o
>>717
石田三成だって甘かった
味方だと思っていた福島正則が敵だったから
石田三成が予定していた矢作川決戦構想が
瞬時に崩壊した
719人間七七四年:2014/07/12(土) 12:50:35.23 ID:96a3uJr0
>>718
三成・・・福島正則が味方になると思っていたのかw
720人間七七四年:2014/07/12(土) 13:32:02.57 ID:zt/Oger9
三成は7月時点で三河や遠江に速攻で侵攻をかける計画を書いてて
東海道筋で家康が西上前に攻め込むことが肝要と考えてたが
当の毛利が馬鹿すぎて大坂に居座ったままのんびりすごして
伊勢湾だの四国だの関係ない方面に出兵したせいで
西軍の中核となる兵力が足りずに大敗した。
総大将がここまで馬鹿では三成がどれだけ有能でも勝てるわけがない。
721人間七七四年:2014/07/12(土) 13:39:24.76 ID:W9PHpkUU
>>717
鳥居に根回ししなかったせいで本来一緒に伏見城守るはずだった島津が
敵方についちゃうなんてポカやらかしてるし色々と甘かったと思う
増田と淀から三成がなんか企んでるから引き返せって書状届いてたのに
スルーして小山までいってから鳥居から攻められたって連絡来てようやく引き返しだし。
722人間七七四年:2014/07/12(土) 15:52:59.65 ID:X1dZUup2
>>720
家康だって江戸を出発したの9月だし
江戸へ戻ったところで伏見陥落の知らせ
ビビって仮病を使って江戸に閉じこもり
激怒した福島たちが速攻で岐阜を叩き落とす
(伏見城籠城戦14日、岐阜城籠城戦1日)
伏見陥落で戦意喪失していた家康は
福島たちの強さを見て、ようやく安心して
江戸を出発
毛利は石田たちに安心出来なかったんだな
723人間七七四年:2014/07/12(土) 15:58:00.47 ID:w2TVAIiF
菅沼遼太着たりてクソスレ化
724人間七七四年:2014/07/12(土) 16:25:48.98 ID:eWbf5ySa
>>723
どういう意味?
725人間七七四年:2014/07/12(土) 17:16:18.90 ID:VP68AHWz
>>722
岐阜城なんて織田信雄や斉藤利尭や土岐や竹中重治らが速攻で瞬殺したザコ城だからな。
おまけに西軍は中核となる毛利軍が奉行衆の重視する美濃ラインの防衛を軽視して
伊勢湾や四国などに派兵したり、大坂に引き篭もったりで
迎撃する兵力が足りず、美濃口では西軍諸侯が次々に寝返り・降伏・開城が続き
福島らは岐阜城の城縄張りを知悉してたおかげでラクにコソ泥できた。
西軍の奉行衆での計算では、三成の書状にあるとおり、輝元などを含めた総軍で
三河方面に速攻で攻勢をしかけるべきだったのが
当の毛利がアホすぎて大坂に引き篭もってたために
西軍は軍の数が決定的に足りずに大敗するに至ってる。
726人間七七四年:2014/07/12(土) 21:07:40.74 ID:Aut2F4Vd
岐阜城は呪われた城。
歴代城主でまともな死に方をしたのは池田輝正のみ。
727人間七七四年:2014/07/12(土) 21:09:48.47 ID:ip9S5Oe1
>>718
三成だけじゃなくて俺だってそう思いたいよ…。
このままの時勢でいけば秀頼がまともな扱いを受けるわけがない
それなら、子飼いの正則は流石に自分と仲が悪くても私情を捨てて…って
思いたいよ。

バカな奉行集が一掃されて奸臣がさり、内府が実験握って
豊家も安泰、なんて正則が本気で考えているわけ…!

まぁそうじゃなかったら自分のお家大事に逆らえなかった
っていうのと、本気でバカで、
『いざというときは自分が先頭に立って内府を討ち秀頼公を!』
とか馬鹿なことが出来ると考えてたかの二択になるんだけどな。

せめて子飼いが団結してて、覚醒輝元が全力参戦してくれて
大和中納言の後釜に100万石くらいに加増されて忠義MAXの如水
とか居てくれたらなぁ…。どれ一つかなわねぇw
728人間七七四年:2014/07/13(日) 03:28:47.49 ID:d+Y4FEE8
だってその直前に三成は福島正則らに命まで狙われてるんだぜ
729人間七七四年:2014/07/13(日) 06:26:01.78 ID:5zIzVCT3
三成が甘かったのは淀が自分に協力してくれると思ったとこ
実際は淀は秀頼の出陣要請は頑としてはねつけて
家康宛てに三成のたくらみを止めろと手紙を出して
それを撤回する文書も出さずに東軍に奸臣を討つという大義名分を与えている
妹婿の京極も土壇場で東軍について大津城に籠城するし
淀を籠絡できなかったのが三成の最大の失敗
730人間七七四年:2014/07/13(日) 11:24:49.21 ID:33bwBgaw
しかし三成って想像以上に相当嫌われてたんだな
秀吉の寵愛をいいことに専横をふるったみたいな考えだったんだろうか。当時は
731人間七七四年:2014/07/13(日) 11:29:08.41 ID:EGhM9q0L
動員スレで関係ない話をいつまでも自演してるなよ菅沼遼太
732人間七七四年:2014/07/13(日) 12:32:36.64 ID:6t8dfhm5
海音寺潮五郎も三成のこと『武将列伝』でボロクソに貶してたね。
こんなに卑しい性根の人間はいない、という感じで。
733人間七七四年:2014/07/13(日) 15:26:24.86 ID:cM/JGpze
落とされやすい割に岐阜城って畿内攻防における要所なんだよな。
岐阜城陥落のあとは消化試合って考え方すらある。
734人間七七四年:2014/07/13(日) 15:41:03.10 ID:uIeYVM3e
要所だからこそ何度も争奪戦の対象となり落とされることになる
735人間七七四年:2014/07/13(日) 18:29:16.61 ID:935NtpQS
>>730
大谷吉継にも言われていたみたいだな
736人間七七四年:2014/07/13(日) 18:42:08.37 ID:5zIzVCT3
>>730
検地の実行役だったから大名連中からはそりゃ嫌われる
嫌われ役担当として秀吉も三成を重用してた
自分の死んだ後のことはろくすっぽも考えてなかったツケ
秀頼の後見できる人材が自分と同年代の利家しかいなかったのが不幸
蒲生氏郷辺りが長生きしてればだいぶ違ったと思うんだけどな
737人間七七四年:2014/07/13(日) 19:23:41.96 ID:++0e2WEB
蒲生氏郷って木造攻めや滝川征伐で敗北しただけのザコじゃん。
寡兵で田中隊や黒田隊、藤堂隊相手に互角以上の戦いをした石田や大谷の方が遥かに有能だわ。
738人間七七四年:2014/07/13(日) 21:09:09.30 ID:McYp0q2v
石田が戦で有能はないわ
739人間七七四年:2014/07/13(日) 21:30:17.27 ID:EOl7Fosx
石田や小西や大谷など奉行集らはろくに戦闘経験がないのにもかかわらず
実践経験豊富な藤堂、田中、京極、黒田隊など相手に、石田は2分の1程度
大谷は10分の1か8分の1程度の寡兵で互角以上に戦ってたからな。
戦闘経験豊富な武闘派よりも遥かに戦闘センスがある。
740人間七七四年:2014/07/13(日) 21:30:51.88 ID:EbkNR56w
武断派といっても実際には功績なんて皆無だからな。
741人間七七四年:2014/07/13(日) 23:59:35.30 ID:aTDINOIg
皆無は言い過ぎだろ
742人間七七四年:2014/07/14(月) 00:56:27.99 ID:mCHWCzfw
まあ加藤とか福島は秀吉の親戚だからってのが大きい
743人間七七四年:2014/07/14(月) 06:49:28.85 ID:ZZ1wEZG/
動員された兵力の殆どは領地内外から給金目当てでやってくる村の若い連中だろ
カネがなければ動員数減るかもしれんけど
そういうところは常に練兵やってる戦闘のプロだけだから
寡兵といえど数だけが多い軍になら勝てるわな
744人間七七四年:2014/07/14(月) 08:28:43.84 ID:vdGs3VJ+
実際、清正とか武功無いのに肥後半国貰えてるからな。
賤ヶ岳の戦い直後に加増されてるから、
賤ヶ岳の戦いで武功を挙げた結果と解釈されてるが、
それ以外で武功を挙げたと思われるケースは全く無い。
ただ単に秀吉と同じ尾張中村出身だから厚遇されて肥後半国貰えただけ。
745人間七七四年:2014/07/14(月) 08:29:23.07 ID:e5p1ej4S
清正の率いた兵力

対信雄と家康では150人

九州出兵では170人

朝鮮出兵では清正1万人+鍋島1万2000人+相良800人を率いる。

あきらかに武断派は身分不相応な出世で増長して狂った結果が、
利家死去直後の失脚中家康に教唆されての武断派のクーデターである私戦禁止令無視。
746人間七七四年:2014/07/14(月) 11:13:34.16 ID:aKnk7nqu
福島は秀吉のいとこで清正ははとこだから
747人間七七四年:2014/07/14(月) 11:50:30.90 ID:lWQQrSZM
>>739
まず参謀本部の数字が石高から適当に算出したインチキ数字なので
その辺りは参考にならない
石田三成の兵力も参謀本部だと6000弱になっているが、
実際は6700、これは石田三成自身の手紙で判明している
参謀本部の数字の酷さは小早川の兵力を、江戸時代中期の黒田氏の
石高で算出しているとか致命的なものがある
徳川秀忠が黒田長政に与えた朱印状が33.6万石であるにもかかわらず
748人間七七四年:2014/07/14(月) 12:07:21.35 ID:HAp3Lfxs
>>744
なら何故小西はもう半分をもらえたんだ?
749人間七七四年:2014/07/14(月) 12:11:31.97 ID:Uzk/1gi0
また菅沼遼太が暴れてるのか
750人間七七四年:2014/07/14(月) 16:23:04.38 ID:TCbItwE5
だがはどこにでも沸くからな
算数もできないのに声だけはでかい
751人間七七四年:2014/07/14(月) 17:00:13.33 ID:hsweGQXa
ちょっとでも人がいるスレは自己主張の場にしようとするからな
それでも相手にされないぼっち菅沼遼太
752人間七七四年:2014/07/14(月) 17:42:03.87 ID:QRyz2KJG
菅沼遼太って何者なんですか?
特に>>749のレス、あちこちで見かけるんですけど。
753人間七七四年:2014/07/14(月) 18:54:53.33 ID:xIUnp4Ud
>>752
戦国板最悪の荒らしアスペルガーだがの本名が菅沼遼太
嘘をごり押せば史実になると考えてる
日本の歴史教科書を認めない人
754人間七七四年:2014/07/14(月) 19:21:20.52 ID:yUgubz41
嫌がるリアクションだけで興奮する変態なのが分かってて
嫌がるレスをしちゃうお前らは手コキしてるようなもの
755人間七七四年:2014/07/14(月) 19:36:22.82 ID:q3NiavOt
>>754
アスペルガーだがはレスしないでもらいたい

スレ住人も餌を与えないように
スレに粘着されたら大変だぞ
756人間七七四年:2014/07/14(月) 19:50:30.77 ID:HAp3Lfxs
結局実在しない人物でしょ?
757人間七七四年:2014/07/14(月) 20:39:16.00 ID:Uzk/1gi0
実在しない名前を規制してくれと頼んだ人が
758人間七七四年:2014/07/14(月) 21:31:44.54 ID:ImxQN/Xb
>>717
三成挙兵について、いわれるほど三成に人望がなかったとは思わないが、近江佐和山に
十数万石しかもたない豊家官僚の一人が総勢10万以上の大軍を仕立ててくるとは、
さすがの家康も思わないだろう。

個人的には、名ばかり総大将とされる毛利輝元(と家臣団)が三成と同程度に家康打倒に暗躍していたのでは?
と思っている。

敗戦後の毛利家存続のいいわけとして、輝元は三成に騙された暗愚、凡庸な君主とされ、自らもそう演じたとか。
759人間七七四年:2014/07/14(月) 22:07:59.86 ID:lWQQrSZM
>>753
菅沼って武田厨じゃ無いのか
武田と関係無いところにも出没するのか?
760人間七七四年:2014/07/14(月) 22:37:14.75 ID:+/qp/xAb
>>759
どこでも出没する。
唯一見分ける方法は信玄を貶めないかどうか。
あと氏政も貶めているところは見たことがないからそれも怪しい。
761人間七七四年:2014/07/14(月) 22:42:11.38 ID:q3NiavOt
>>759
仰るとおりアスペルガーだがは武田厨です
昔は武田関連スレや武田上げ織田下げするために織田関連スレに粘着していた
しかしあいつの言い分は嘘ばかりなので名無したちに尽く論破され悪名だけが残った
この悪化しつつある状況を打開するためまだアスペルガーだがの手口が通用するスレや他板に進出
こんな背景があるため餌をばら撒くスレなら何所にでも現れる
悪質なかまってチャンということ
762人間七七四年:2014/07/14(月) 23:08:14.34 ID:FbOi0utP
ここにもいたのか>菅沼
763人間七七四年:2014/07/15(火) 00:44:54.90 ID:d44n5IDh
>>759
武田とは関係ないところにも出没して
突然武田上げ織田下げの長文コピペを張り付けていく
スレと関係ない話をして住人に注意されると織田厨だの在日だの言って罵る
764人間七七四年:2014/07/15(火) 03:01:15.15 ID:y0zNHcNC
>>763
変なヤツだなw
765人間七七四年:2014/07/15(火) 06:28:21.64 ID:Tnc5+3Y3
本物のキチガイだし
766人間七七四年:2014/07/15(火) 20:21:36.52 ID:DII6B9Bi
>>763
あんた、昨日はだがスレで躍起に菅沼擁護してたじゃん。
つーか今日も誰もいなくなってから騒いでるし。
767人間七七四年:2014/07/15(火) 20:23:57.36 ID:VcMibzot
菅沼遼太は何人ぐらい兵力を動員できるの?
768人間七七四年:2014/07/15(火) 20:36:28.38 ID:xKrMw8DF
菅沼遼太君は自分で誰が誰だか分からなくなるくらいいっぱい動員できるよ。:



IDチェンジ的な意味で
769人間七七四年:2014/07/15(火) 22:25:09.17 ID:EQuSwOMw
>>768
917 :人間七七四年:2014/06/15(日) 21:57:51.35 ID:xYADPFyJ
織田厨に気に入らない意見=菅沼なんだと。
とんでもないゴミクズだな。

918 :人間七七四年:2014/06/15(日) 21:58:30.66 ID:yZo0oMmn
>>917
そりゃ、まともに議論すると勝てないからレッテル貼りと罵倒で逃げるしかないからな。

919 :人間七七四年:2014/06/15(日) 22:01:30.14 ID:puvL+3lJ
>>918
だから自己紹介は飽きたんだよ。
テメーのほうが根拠出せ菅沼遼太。
(ゴミクズだがの駄文コピペ)

920 :人間七七四年:2014/06/15(日) 22:03:14.40 ID:+VVZ7xgn
>>919
だからそんなレス書き込んでねぇっつの。
さっさとそいつに聞け。なんならそいつにIP晒させろ。
そしたら俺も晒して別人だって証明してやる。

921 :人間七七四年:2014/06/15(日) 22:04:33.84 ID:puvL+3lJ
>>920
何でテメーが申し開きすんだよ他人なんだろ?
馬鹿丸出しでジエンゴして傷を広げてんのが分かんないのか?


御館の乱スレで、氏政age景虎sage工作をしていた菅沼の汚い花火。
これはテンプレにされてもおかしくない位の醜態だ。
770人間七七四年:2014/07/15(火) 23:07:02.43 ID:bPu3VVz4
菅沼w
771人間七七四年:2014/07/16(水) 00:07:24.66 ID:acpao3O1
この暴れてる人は
前の だが かな?
772人間七七四年:2014/07/16(水) 01:33:38.39 ID:4jSQ6ibt
>>771
どのような意味?
773人間七七四年:2014/07/16(水) 06:18:51.01 ID:cg3O+667
>>772
仙台藩百姓みたいに代替わりしてるんじゃないの?
774人間七七四年:2014/07/16(水) 09:19:07.67 ID:pYuy0HIt
みっともないほど無駄な努力だな菅沼遼太w
775人間七七四年:2014/07/16(水) 10:59:04.37 ID:lTxb56ew
読んでる方が恥ずかしくなるようなこと言うなよ菅沼くん。
人前で爆笑しちゃったじゃないか。
776人間七七四年:2014/07/16(水) 16:59:32.33 ID:41QrCvu9
だがのマジキチ理論による贔屓勢力の謎兵力

・武田家
三方が原で6万もいた兵力のうち、いつの間にか5万4千が消滅している。
浅間山の噴火による影響と言い訳をするが、北条の被害から非現実的でしかない。
劣勢と言い切った織田に何故か内通する木曽など、不可解な原因によって滅んでいる。
なお勝頼は大した存在とは思っていない模様。

・北条氏政
およそ25〜30万(時には吹いて50万)の大軍を、支城含め1万の軍勢で何カ月も耐えたため、
伊達が加勢していれば勝てたと強弁する。
しかし御館の乱の時代では、上記の豊臣軍の1/20程度の石高しかない反北条連合に対し、
籠城は危険だとして鬼怒川での戦を正当化するという、馬鹿げたアンチノミー理論を展開。
こんな状態で先見の明があったと擁護されても、汁かけの量すら見誤りそうである。


改めて見ると、分数どころか足し算すら出来そうにないな菅沼は。
777人間七七四年:2014/07/16(水) 17:31:56.26 ID:/L94S998
都合の悪いレス全部菅原認定しているのも頭悪くみえるよ
778人間七七四年:2014/07/16(水) 17:48:38.78 ID:acpao3O1
謙信ヲタの自分だが、菅沼遼太ちゃんのレスを見てると、信玄や謙信を馬鹿にしているよにしか見えない。
779人間七七四年:2014/07/16(水) 18:15:03.77 ID:IiN8cogP
>>776
マジキチだな
780人間七七四年:2014/07/17(木) 01:27:55.65 ID:BZL+9q1M
菅原に一度兵を率いさせてみたい
781人間七七四年:2014/07/17(木) 01:32:11.16 ID:xqPr9aAs
農民に馬鹿にされておしまい。まず兵が集まらんわ
782人間七七四年:2014/07/17(木) 03:04:43.84 ID:GfY6zUEi
つまらない仮想軍記妄想するなら菅原スレにでも変えたら?
783人間七七四年:2014/07/17(木) 07:17:43.54 ID:z04dRLOh
菅原道真公が兵を率いたらだと
784人間七七四年:2014/07/17(木) 09:55:45.90 ID:x49QMl8r
>>776
実際に北条軍はわずか345000の軍勢で29万(享禄以来年代記)の豊臣軍を
韮山城500や忍城1000などで大苦戦させ
小田原1000人に手も足も出させなかった上に
豊臣軍は重臣の一柳、堀尾嫡男、前田重臣、依田、平岩弟などが戦死し氏家も負傷する始末。
さらに佐竹の史料やフロイスの日本史によれば豊臣は兵站維持できるギリギリのラインまで追い込まれてたので
政宗が味方していれば100%勝てた。
785人間七七四年:2014/07/17(木) 10:31:56.19 ID:z04dRLOh
わずか345000か。すごいね。豊臣余裕でぶっ潰せる兵力ジャン。
北条が本気出したら100万は兵力ひねりだせそうだぜ。
786人間七七四年:2014/07/17(木) 10:37:29.51 ID:7SqO2Ic1
>>784
兵站ギリギリ?
豊臣軍は船で運搬した兵糧だけでも、一年間保てるぞ
787人間七七四年:2014/07/17(木) 10:41:31.38 ID:2CaLV4Zo
>>786
豊臣軍は米20万石と金一万両で規格外の物資搬入をしたのだが
会戦からわずか3ヶ月前後の6月時点ですら兵糧が欠乏していたとフロイスの日本史に書いてるし佐竹の史料からも伺える。
788人間七七四年:2014/07/17(木) 10:46:41.57 ID:m6IZW7B6
>>784
北条方兵力は34500だな。
小田原1000忍城1000韮山500など豊臣が城攻めした地域の城は悉く寡兵だったが秀吉の指揮能力が欠如していたのでろくに歯がたたなかったが
北条方兵力が集中した下総や北武蔵や上野の諸城は佐竹結城宇都宮那須ら反北条勢や
上杉依田真田らが速攻で潰してくれたので、運よく豊臣は優勢になった。
しかし政宗が北条に味方すれば反北条勢や上杉依田真田らも背後から攻められて速攻で崩壊するのは目に見えてる。
その後超巨大になった伊達・北条軍が徳川、豊臣らを蹴散らして終わり。
豊臣はフロイスによれば兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたので
政宗さえ北条の味方なら100%勝ってた。
789人間七七四年:2014/07/17(木) 10:50:06.49 ID:JW77vdUh
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 ちなみに小田原城は1000人しかいない。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前

そんな戦闘で一柳や堀尾の子や平岩弟や依田や前田の重臣が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000に大苦戦し小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で
北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
790人間七七四年:2014/07/17(木) 10:50:51.19 ID:bruXP6JB
フロイスの日本史によると豊臣方は兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれてたしね
政宗が北条に味方してたら100%勝ってたのは間違いない
791人間七七四年:2014/07/17(木) 11:06:12.56 ID:4J7VsDyX
また始めたの菅沼遼太?
それで何か挽回できるの?菅沼遼太?
792人間七七四年:2014/07/17(木) 11:45:58.27 ID:McIdSbv1
>>790
別に補給線を絶たれていたわけでもないし問題はあるまい。
793人間七七四年:2014/07/17(木) 12:47:45.65 ID:ivLvKn8F
>>789
へーすごい強いんだねー
そんな篭城すごいのに1578年は兵力が少ない佐竹が危険だからって
鬼怒川進軍を優先して四面楚歌を作り上げるんだー
馬 鹿 じ ゃ ね ?
794人間七七四年:2014/07/17(木) 12:56:04.78 ID:94FFdYt4
ルイス・フロイスの歯ぎしり日記w
795人間七七四年:2014/07/17(木) 13:14:06.61 ID:juAkNwzF
>>792
豊臣軍は米20万石+金一万両を使って物資かき集めても3ヶ月程度でなくなる
巨大な軍勢だったので
後から物資が急に追いつくわけが無い。
秀吉もこれ以上物資を後から補給できなかったらしく
実際に6月時点で兵站崩壊寸前状態だったのが
フロイスの日本史や佐竹の史料にしっかり書いてある。
796人間七七四年:2014/07/17(木) 14:07:38.38 ID:DZGSHDiZ
一石とは成人1人が1年間に消費する量にほぼ等しいと見なされているわけだが
普通に考えれば米20万石あって3ヶ月程度でなくなるはずがない

まあフロイスは宗教絡むとアレだからな
バテレン追放令後の秀吉に対しても(ry
797人間七七四年:2014/07/17(木) 14:37:38.52 ID:nmgrcQJJ
実際に米20万石を秀吉が用意させてたのは天正17年10月に秀吉が長束に命じて
来春早々駿河江尻・清水に船で運搬すべきこと
黄金一万両で伊勢・尾張・三河・駿河の米を買い付け
小田原付近へ船で輸送すべきことを命じている(小田原市史728号)し
天正18年一月の真田宛書状で四国西国の人数兵糧以下の儀船手を以って申しつけ候などと書いてて
之に加えて前田などの北国勢も同様に3/25に国許の家臣に信濃川中島まで兵糧5000石を届けるよう命じている。

フロイスの日本史


フロイスの日本史はむしろ秀吉にこびへつらってた宣教師が秀吉に有利なハッタリ喧伝ばかり事実かのようにデッチ挙げて書いてるはったり史料。
これは小牧長久手の記述を見れば分かる。
798人間七七四年:2014/07/17(木) 14:41:22.01 ID:9cRpr4zW
フロイスの日本史第22章にしっか豊臣の兵糧欠乏っぷりが書かれてるね。
小田原市史の久保田氏や小和田哲夫も豊臣方の兵站の不備を指摘してるし
確か佐竹の史料にもそういう記述がある。


ちなみにフロイスの日本史は秀吉が垂れ流したハッタリ誇大喧伝ばかり引用して書かれてる秀吉マンセーインチキ史料。
799人間七七四年:2014/07/17(木) 14:42:17.59 ID:azaKCSVS
フロイスの日本史だと木曽川が犬山城より南に位置してたとかめちゃくちゃ書いてるからなぁ。
800人間七七四年:2014/07/17(木) 15:23:46.94 ID:3M9bmA68
フロイスの日本史は、最初はフロイスらが秀吉に布教活動を認めてもらいたい一心でこびへつらってたから
秀吉に接触しまくったあげく、秀吉マンセー誇大喧伝を書きまくってたが
秀吉が布教を禁じるとわかったので、秀吉マンセーしても仕方ねえやと思った宣教師たちが、秀吉のありのままの姿を書くようになっただけでしょ。
布教禁止前のフロイスの記述なんかは、秀吉の一次資料の軍令書と並べると、全くあってる記事がないくらい酷い捏造っぷりで史料として使い物にならないけど
その後はちゃんと正確な秀吉の残虐性を記すようになってきてるし。
フロイスの日本史は京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって 秀吉をマンセーしまくってるよ。
小牧長久手合戦の記述とか見ると、秀吉が佐竹らに当てたハッタリ喧伝のまんまの内容がそのまま書かれたりして、ほとんど正しい記述がないくらいだし。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615
801人間七七四年:2014/07/17(木) 15:25:14.84 ID:GV5JZsk5
フロイスは日本でキリスト教を広めたかったために日本の情報操作において最も広範な影響力を持つ秀吉の顔色を伺いまくり
元々秀吉のハッタリ誇大喧伝によって捏造された情報ばかりを事実かのように記すなど秀吉マンセーしまくってたが、
秀吉が禁教の構えを見せだすと、日本で秀吉の影響によって、キリスト教が禁止される事を恐れて
それまで全く書かなかった秀吉の本来の闇の部分をちゃんと事実として書くようになった。
802人間七七四年
菅沼遼太ゴミコピペ