長谷堂城の戦い 2 【直江兼続VS最上義光】

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547人間七七四年
乱の平定後に秀次と家康が国割りしたが浅野長政家臣浅野正勝が伊達刈田長井郡を政宗が奪われたら政宗の知行高が半分になり
政宗の外聞の悪い国替だと秀吉側近施薬院全宗と富田知信に抗議するなど浅野側はひたすら政宗の為に弁護したのだが。
しかし政宗没収地は40万石を越えていた・・・〜葛西大崎の地の1/3は立毛付きに申し候ほどに荒廃していた湿地と谷地が大部分の地だとも〜
屋代は中目兵庫に文禄2年3/22に「志田郡のうちの二カ所のあれ地5年荒野なのでおこさせべく申し候」と書き送るなど非常に苦しい土地だったようだ。
そんな厳しい開拓に家臣が疲れている中で政宗は愛姫を無視しつつ愛欲に溺れ天正19年に秀宗生まれる。
太閤様御諚覚によると秀次事件の後に政宗は三度命を助け置いたからより忠勤せよと言われた。
奉行をしていた屋代は1608年に百姓が年貢の未進について訴訟してきた地頭にお前に与えた百姓だからぞんぶんにやっちまえと暗に処分を示唆
これで改易されているが屋代が署名したであろう関わる文書のほとんどが処分されて証拠隠滅が図られていて不審である。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1258353808/33-36
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1258353808/65-68
「憶測を語る」史料なら
デタラメ伊達マンセーなために江戸期にはまったく発表できなかった 「伊達冶家記録」のこと。
明治になってから突然に公表する。伊達政宗・片倉小十郎本隊が「宮代の戦い」なるもので野戦で本庄隊に勝利したとする唯一の史料。
これはおそらく元禄年間に編纂が始まったとされるが出典不明の記述ばかりで、他家史料からの盗用の上に改竄歪曲をしているシロモノ。
宮代の妄想は察するに有力家臣達の既得権益たる要害制・地方知行制打破を掲げての財政改革失敗による
伊達騒動で仙台藩主3代綱宗(21歳の若さで隠居)・4代綱村が強制隠居に追い込まれた悔しさから
伊達の偉大さを仙台藩内で洗脳する必要があったからであろう。
そしてそこには松前氏の伊達簒奪の野望が背景ではなかろうか。これより片倉マンセー始まる。
2歳で家督を継承した4代亀千代・伊達綱村の後見人を父が松前安広である片倉景長がやり、松前一族は綱村が成長するや邪魔になり隠居させ
藩主2代忠宗の八男田手宗房正室&片倉景長の娘まつの間に生まれた5代仙台藩主松前吉村にする。
その実、松前藩初代松前慶広八男が政宗に仕えて以来の仙台乗っ取りの野望成就であり陸奥国松川松前1700石による伊達支配なのである。
片倉4代村長も妻市子は松前からで3代景長死後の片倉家は景長の弟の松前為広が実権を握る。
財政破綻と人心荒廃の仙台藩は幕末でもドン五里と呼ばれた弱藩で、仙台城は陸軍に占領され廃藩置県による仙台藩解体
仙台の武士達は絶望して北海道開拓移民 西南戦争後は政宗の居住地は監獄に改造された。
この屈辱の歴史が宮代の戦いを盲信して「伊達冶家記録」の世間への公表となったと言える。
改革無き財政向上という虫のいい浅策による石高向上をやった下記の藩主達は愚君の見本である。
初代政宗の貞山堤 2代忠宗の買米制度 5代吉村「寛永通宝」を石巻で鋳銭の失敗については下記リンクで。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164706052/128-132
その後、伊達家にも豪傑が必要だとの妄想から伊達家の執事だった作並清亮が
大正4年に東藩史稿で 「成実人トナリ英毅大略ナリ。一時勇武無双ト号ス」 と捏造を発信し初めて豪傑武将化し、
いつの間にか鬼庭綱元を能吏に捏造した挙句に伊達三傑と並び称されることにしているのが笑える。