◆◇◆ 安土城 2 ◆◇◆

1人間七七四年
安土城―。
覇王信長が巨費を投じて築いた城ですが、
完成からわずか数年で謎の焼失を遂げてしまい、その全貌は謎に包まれています。
「吹き抜けだった」「御所の構えを意識した造りだった」など多くの説があり、その謎に包まれた全貌は歴史マニアの想像力を掻き立てています。

さて実際安土城とはなんだったのでしょうか?
また世界的に見てこの安土城とは、どのような建築物だったのでしょうか?
安土城を語りませんか?


前スレ
◆◇◆ 安土城 ◆◇◆
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1161766176/
2人間七七四年:2009/06/19(金) 17:40:11 ID:ErzHBF2s
謎の焼失?明智秀満が自害と共に火を放ったんやなかったか?
3人間七七四年:2009/06/20(土) 00:59:02 ID:ltEaxvK4
>>1



滋賀県立安土城考古博物館
ttp://www.azuchi-museum.or.jp/

滋賀県安土城郭調査研究所
ttp://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/castle_ruin_labo/index.html

ビョウブログ
ttp://www.town.azuchi.shiga.jp/byobu/

安土城 QuickTime VR
ttp://castle.kiku.com/azuchi/
4人間七七四年:2009/06/20(土) 01:02:41 ID:ltEaxvK4
文化財保護課城郭調査担当(旧滋賀県安土城郭調査研究所)
ttp://www.pref.shiga.jp/edu/sogo/kakuka/ma16/index.html
5人間七七四年:2009/06/21(日) 00:28:13 ID:4eCDTHs3
今日飛騨の高山陣屋に行ってきた。
高山城の復元模型が展示してあったが、主格部いっぱいに建物がぎっしりと立っていたんだね。
安土城の影響もあったような事が考えられるみたいだけど、安土城も渡り廊下で行き来できる程度の連結ではなく、高山城みたいに建物がつながった状態で立っていたんだろうか。
6人間七七四年:2009/06/21(日) 18:00:58 ID:04n1Rp3i
天主を中心に、本丸取付け台(上台所?)、本丸御殿、二の丸御殿等と複数の廊下で繋がってたんじゃないだろうか。
天主台南西に遺物の出土状況から用途は蔵と思われる大きな礎石がびっしり据付けてあるから、天主と一体構造の連立式だった可能性も考えられるが。
7人間七七四年:2009/06/30(火) 23:58:57 ID:J/85GHLO
ぶっちゃけ規模としてもそんなに大きくないよね>安土城
8人間七七四年:2009/07/01(水) 00:19:07 ID:cEOuRXw4
元亀元年本願寺に信長が要求し、顕如の書状に残る
「破却すべき由」「耐え難きもの」
これは石山退去というのが通説。
9人間七七四年:2009/07/01(水) 00:21:07 ID:cEOuRXw4
規模の大きい観音寺山城に無く安土城にあって、
信長が重視したものは何?
10人間七七四年:2009/07/01(水) 00:39:50 ID:CZjzRNPG
琵琶湖の水運
11人間七七四年:2009/07/01(水) 01:00:56 ID:CFcOkPao
「そうだ、京都に行こう。」と思った時にいつでも行ける近さ!
あとは景観でしょ。やっぱ
12人間七七四年:2009/07/01(水) 10:44:06 ID:MjX5T2Y6
>>8
九月六日の顕如の書状は寺内町の破却ともとれるので石山退去とは言えないよ。
13人間七七四年:2009/07/01(水) 11:47:51 ID:sYDk2o6y
>>9
直接船で乗り付けられるし、低いほうが上り下りが楽だから。
安土建設時信長は40歳越えてんだよね。
14人間七七四年:2009/07/01(水) 12:52:30 ID:ZquWWJGe
>9
景観はもちろんあると思う。
それと信長領の中で割と人口密集地に近いが割と過疎な所に位置してて、これから街道を
整えたりするのに都合のいい場所かな。領民が領内を自由に移動できるという政策を
自ら過疎地に移動する事である程度領民に強制している。と思う。
人・モノの移動が金を落とすことを知っていただろうから。反対意見の人はスルーして下さい。

大坂に移る前の武士政権と水運と交易のプチモデルとか。
15人間七七四年:2009/07/01(水) 13:55:41 ID:UNSSxNj0
山城である事は重要だったんだろうな。
どうも信長は本能的に、平城より山城を信頼していたような気がする。
16人間七七四年:2009/07/01(水) 19:15:20 ID:eAS+ItZ0
あの時期、城といえばほとんど山城だろ。
17人間七七四年:2009/07/01(水) 19:34:20 ID:UNSSxNj0
んなこたーない。
安土以前は、信長家臣の物だけでも、光秀の坂本城も秀吉の長浜城も勝家の北の庄城も
みんな平城だ。
家康の浜松城だって台地上に作られたが、縄張りは平城のものだ。

安土城は完全に山城の縄張り。こういう部分から言っても、信長という人間の感性は
少々古臭いと言える。
18人間七七四年:2009/07/01(水) 20:50:47 ID:MjX5T2Y6
>>17
>安土城は完全に山城の縄張り。こういう部分から言っても、信長という人間の感性は
>少々古臭いと言える。
秀吉だって平城の大坂城と山城の木幡伏見城があるから古臭いとか言えないでしょう。
19人間七七四年:2009/07/01(水) 22:15:27 ID:UNSSxNj0
>>18
木幡伏見城は台地上の築城で、安土のような、山麓の地形を利用した築城とは
全然別だと思うよ?
20人間七七四年:2009/07/01(水) 22:27:59 ID:MjX5T2Y6
>>19
あれ?
山城の縄張りの話じゃないのか?
21人間七七四年:2009/07/01(水) 23:05:41 ID:06yCOBa/
上から地上界を見下ろしたかったんでね?
ところで、普通は山城といえば麓に館がある(無いのもあるが)。
まあ、観音寺城しかり、岐阜城しかり。
しかし、安土城にはない。
山がそんなに高くないからか?
館に住むのではなく、天主に住むから必要無かったのか?
天皇陛下を小馬鹿にするためだけの施設だったからか?
行幸のあとは大坂に移る気だったからか?
しかし、安土城は行けば解るが小さな曲輪の集合体である。
一万も入らない。籠城向きではない。
まあ、南側の正面に門が四つもあるのではね…。
22人間七七四年:2009/07/02(木) 01:44:29 ID:fAAf7XeB
信長は、中世城郭初期の、長城にあこがれていたふしがある
23人間七七四年:2009/07/02(木) 17:27:55 ID:25qlNPod
ついにデアゴ『隔週刊 東映時代劇 傑作DVDコレクション』から東映の『風雲児 織田信長』が出るぞ

第16号 【2009年8月4日発売】
通常価格:1890円 (税込)
24人間七七四年:2009/07/03(金) 20:41:21 ID:P/l8fwef
昔ネットオークションでタイムマシンが出品されててすごく話題になったんだけど
(もちろん賛否両論、冷やかしの入札多数)生で安土城見られるんだったら1億2億くらいの
借金してでも当時に行きたいよなぁ。
25人間七七四年:2009/07/03(金) 21:14:06 ID:Ia35IMdw
一億二億はすぐに取り戻せる。
逝け。
26人間七七四年:2009/07/04(土) 18:01:25 ID:JzNkF49i
安土城の通し柱が吹き抜けの橋で止まっていたなら構造的に欠陥になるの?
27人間七七四年:2009/07/07(火) 00:19:58 ID:BqPYLnQs
>>21
信長は篭城を真面目に考えていない節があると思う。
天守とか石垣とか遊んでばかり。
28人間七七四年:2009/07/08(水) 09:11:14 ID:gsaDsoyH
安土城は内湖にあったわけだけど内湖周辺の防御施設については全然わかってないのかなぁ。
29人間七七四年:2009/07/10(金) 18:21:13 ID:Ufk/ndG2
岐阜城からは今でも名古屋駅が見える。
昔はきっと清洲城や那古屋城に集結する兵が丸見えだったのだろう。
安土城も守る為に城でなく、逃げる為の城だったりしてw
30人間七七四年:2009/07/11(土) 00:27:55 ID:aHaQu13Q
視力いくつですか?
31人間七七四年:2009/07/11(土) 13:38:39 ID:UZi83xxx
岐阜城をちゃんと下から登城すればわかるけれど、いまだに防衛施設が機能している
途中で、子リスの大群に襲われてほとんどの人が天守までたどりつけません(^_^)
32人間七七四年:2009/07/11(土) 19:51:17 ID:wWvJSh5Q
>>30
1.0だけどミッドランドスクエアとか曇りでも見えるよ。
昔だったら野営の煙とか見えそう。
33人間七七四年:2009/07/15(水) 21:26:29 ID:31uTyHss
岐阜県から名古屋駅見れるの?


すごくね?
34人間七七四年:2009/07/16(木) 18:09:46 ID:1fqCZxqD
直線距離で30キロぐらいだからね 電車でも500円くらいの距離
高い山の上からなら見えない事もないかな
35人間七七四年:2009/07/16(木) 22:47:30 ID:1Pk18fVM

昔は江戸のそこらじゅうから富士山が見えたんだよ。
空がきれいで建物が低いから。
富士見って地名が、東京にたくさんあるのはそのせい。
36人間七七四年:2009/07/17(金) 01:02:45 ID:Y7BMQmel
冬の良く晴れた早朝とか阿佐ヶ谷からでも見れる。
子供心に富士山デケーと思ったものだ。
37人間七七四年:2009/07/17(金) 05:11:37 ID:W9WWTROC
「安土」が消える、合併で「近江八幡市」に

 滋賀県近江八幡市と安土町の合併承認議案が16日、県議会で可決され、
嘉田由紀子知事は総務相に合併を届け出た。
来年3月21日に新しい「近江八幡市」が発足し、織田信長が築城した安土城や、
城にちなむ「安土桃山時代」など、歴史に名を刻んだ「安土」が自治体名から消える。

 安土町は2004年と05年にも近江八幡市との合併を進めようとしたが、
いずれも住民アンケートで単独町政を求める意見が多数を占め、断念した。
4、5月にあった今回の合併協議では、新市名を「近江八幡安土市」とする案も
出たが、過去の経緯を踏まえ、市が「近江八幡市」案を譲らなかった。

 安土町では合併に反対する住民団体の請求により、津村孝司町長の解職の
是非を問う住民投票が8月3日告示、23日投開票の日程で行われる。しかし、
県によると、仮に住民投票で町長が解職され、その後、反対派の新町長が
誕生しても、合併は中断できないという。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090717-OYT1T00109.htm
38人間七七四年:2009/07/18(土) 16:20:43 ID:yfkrew11
安土城までいってきたが石垣も古いのは少ししか残ってないな
当時の石垣も敷き石も戦と炎上のせいで黒く変色しているから分かり易いしかし少ししか残ってないから実際の建物は想像するしかないな
バチカンにあると言われている信長が寄進した安土城の屏風絵が見つかると全体像が把握できるんだがな
39人間七七四年:2009/07/18(土) 23:56:45 ID:QWO22uJO
大手道周辺は平成の復元整備
黒金門から続く南面の石垣、本丸虎口の櫓台、本丸南部石垣はは昭和の積み直し。
ただ、二の丸石垣、天主台は当時のままらしい。(天主台は上部の一部に崩落防止、入口石段の石材補完はある。)
古い石垣が見たいのだったら、腰越峠付近から入ると東門跡や馬場平等安土城の東部廓類を見ることができる。
但し、東部分は現在、地蔵さんが要所要所に置かれ、霊場巡りの場となっており、城の雰囲気を削いでいるし、それに伴う改変も入っていと思われるので、当時の石垣そのままかと言われると情報を持っていないのでわからない。

バチカンの屏風絵は唯一の希望ではあるが、おそらく出てこないだろうな~。
出てきても、全体像ではなく、天主とその周辺くらいしか描かれていないんじゃないかな。
40人間七七四年:2009/07/19(日) 00:00:04 ID:Qo0mHhAC
訂正
腰越峠→北腰峠
41人間七七四年:2009/07/19(日) 02:41:07 ID:NMlFQwTO
>>39 腰越峠にある狭い石段を上がり、御茶屋平から尾根続きに西方面に進む道、現在は通れないのでは。この前すぐ横を通ったんだが、柵でふさがれていて上がれなくなっていた。
峠の少し南にある小さな寺の本堂のような建物の横から、御茶屋平へ上がれたんだが、こちらの方はどうだろうか。最近、城域への管理が厳しくなっているように思える。
馬場平は、復元図などでは屋敷が描かれるのが常だが、間違いなく鉄砲の練習場だったと思う。30メートルぐらいの近距離用と、50メートルぐらいの中距離用に分かれている。その間は高い土塁でしきられ、同時に練習できるようになっている。
42人間七七四年:2009/07/19(日) 10:17:11 ID:Qo0mHhAC
東門を通ってお茶屋平に入るのが推奨ルートらしいが策などは無く、そのまま進むことはできる。
但し、お茶屋平を通って先に進む通路に合流する所に綱が張ってあり、正規ルートではないことが分かる。
俺が初めて訪れた2年前から現在まで変わっていない。
おそらく霊場巡りのルートから外れているので入ってほしくないって事だと思うけど、未整備で危険と言うこともあるかもしれない。
馬場平がどんな用途で利用されていたかは不明だが、当時も現在の様に北側石垣土塁上に通路があったとすれば、西から東に向かって撃ったとしても通行人に対して危険だと思うがどうだろう。
信長公記とかに射撃場があるような事が書いてあるのか?
地形の他に何か根拠があれば、賛同者も出てくるとおもうが。
43人間七七四年:2009/07/20(月) 18:59:56 ID:hMtKIS/K
某所の新説安土城だが、
日記に三間四方とあるいじょうは最上階が方三間(けん)+二間(ま)なのは疑問ではある。
内部が座敷造りで、上段の間、或いは付書院が有ったならば三間四方内に収めるべきではないのかな?
二重目の南側にあるはずの十二畳の墨絵の座敷が欠如しているのも気になる。
44人間七七四年:2009/07/20(月) 21:25:14 ID:fxUhLNh8
e
45人間七七四年:2009/07/20(月) 21:26:43 ID:fxUhLNh8
>>43
まぁ某所の主は完全に逝っちゃってるから相手にするな。
46人間七七四年:2009/07/22(水) 13:02:55 ID:19jYR85W
>>42 もし射撃場の跡ならば、土塁に弾丸が残っている可能性がある。
47人間七七四年:2009/07/22(水) 21:45:55 ID:eebOmd0l
山の上層部は貴重な平坦地だし、本丸にも近い。
銃の発射音がどの程度届くかはわからないけど、下界だったら本丸まで音はほとんど届かないだろう。
一般兵のための設備だったらもっと違う場所に造るんじゃないかな。
48人間七七四年:2009/07/23(木) 00:04:05 ID:EVAyYqsc
馬場平と堀邸は造りが似ているな
49人間七七四年:2009/07/23(木) 00:13:20 ID:EVAyYqsc
馬場平の入口は枡形で、上の曲輪上の先端箇所に櫓台が有るところをみると
かなり立派な施設だったようにも感じられる
50人間七七四年:2009/07/23(木) 15:31:00 ID:l7YYDTci
堀邸も馬場平も、本丸の各種建物を建設する際の木材加工の作業所として使われたと考えている。七曲り道が資材の搬入口でここから山へ上げ、本丸南側を通って堀邸や馬場平へ移し、ここで木材を加工した後本丸へ、という手順だったのだろう。
堀邸の北側は高く盛り上がった斜面となってており、三の丸と地続きだったと考えられる。ここから本丸方面へ運びこんだのだろう。
51人間七七四年:2009/07/23(木) 15:43:06 ID:l7YYDTci
>>47 むしろ鉄砲の発射音を周囲の人々に聞かせることが目的だった、と考えている。北側は土塁となっているため、反射して音は南側の城下に伝わる。
馬場平の西側にある櫓台にあった建物が、鉄砲及び火薬の保管と練習の指揮に使われたのではないか。
52人間七七四年:2009/07/23(木) 17:29:21 ID:sAArZPQf
東門を通って、お茶屋平から馬場平へ行く尾根に神様平があることは意外と
知られていない。ここには現在下豊浦にある活津彦根神社があったとされる。
築城の際、遷されたらしい。
53人間七七四年:2009/07/25(土) 15:26:11 ID:0adinvvy
信長の相撲好きは有名で、何度も相撲大会を開いており、天正6年以降は安土山内で行っている。3月の大会は300人、8月のそれは1500人という大人数であった。
相撲をとるだけならば、それほどのスペースは必要なく庭先でも可能だが、これほどの大人数となるとそうは行かない。競技会として盛り上げるためにも、それなりの観客数が必要になる。
安土山内には相撲大会に使用するための施設があった、と考えられるが、それはどこであろうか。
それにふさわしい場所が一か所だけある。本丸の北側にある谷にある、逢坂(おうさか)郭群と呼ばれる区域である。ここには西から伝市橋下房守邸、伝福富平左衛門邸があるが、その東、谷のいちばん奥にかなりの空間がある。
周囲を山の斜面に囲まれて、さながら円形劇場の舞台を思わせる場所である。ここが相撲場として使われた、と確信している。現在は立ち入ることが出来ないが、10年ほど前に実際に見ている。
54人間七七四年:2009/07/26(日) 12:16:27 ID:Qd/6oWHw
思い込みが激しいな。

もし本当にその人数の参加者があったんだとすれば、場所や回数を分けたとしか思えない。
また、信長が観戦したのも暇を見てぷらっと立ち寄った時に見たり上位の取り組みだけだったと思える。
上位の決勝戦に関してはそんな裏閉鎖感の有る場所より、現在整備されている大手道脇の郭などの方がふさわしい様な気がするが。
55人間七七四年:2009/07/26(日) 14:36:44 ID:Emu22MAF
大階段に続く安土城大手門が出来たのは多分天正8年頃で、安土城建造の最終段階。しかもこの門は一般人が使用することは許されなかった。
実質的な大手門は、安土山の西側、逢坂郭に続く場所にあった。安土城建造が始まった天正4年をそれほど経ない時期に作られ、大手門としての役割を果たした。したがって、相撲場があったと考えられるこの部分は安土城の主要部分。
安土城は、西側が大手で東が搦め手。現在の大手門(というより行幸門か)に惑わされてはいけない。
56人間七七四年:2009/07/26(日) 15:42:26 ID:ijNYL908
安土山図は琵琶湖側から描かれていたらしいから、大手が西側だった可能性はあるな
57人間七七四年:2009/07/26(日) 23:12:19 ID:Qd/6oWHw
>55
逢坂郭群が一般的な登城道だったとすると、八角平の北か南あたりに接続していいたのか?
安土城の登城道としては、一般的に認知されていない道だよな。
地形図を見ても、道か?と思えるような点線しか描いてないけど、埋もれてしまっているということか。
逢坂郭群の入口付近の正面は当時は琵琶湖がすぐ前まであったようだし、城下から見ても、外れの遠い入口になる。
それに比べて七曲道はしっかりと石段と思われる道が描かれているけど、何故こちらの道じゃななくて逢坂郭群の方なんだ。
58人間七七四年:2009/07/27(月) 00:09:26 ID:C0L9XeFJ
岐阜城の、りすは、当時の城主である織田信長が間者として放ったのが嚆矢とある
よって、岐阜城の、りすは、間者とともに、敵の侵入をはばむ防衛機能であったことが
容易に推測できるのである。
59人間七七四年:2009/07/27(月) 00:23:50 ID:E9gIOTsJ
黒鉄門に接続してるのは総見寺道と九品寺平郭群だけだろ

現在の通称大手道は仮設の石段で黒鉄門に接続してるだけで
通称大手道の本来の終点は本丸南東のスロープ状の櫓門跡
60人間七七四年:2009/07/27(月) 00:48:29 ID:p/imA7dV
>>57 八角平の西側斜面は土砂崩れがかなり激しく、原状をとどめていない。現代に行われたとおぼしき土木工事で崩壊を止めている。現在は確認できないが、八角平の北にある虎口と山の下にある逢坂郭を結ぶ、かなり広い、つづら折りの道があったと思われる。
当方の認識によれば、逢坂郭群は安土山で最も古く開発された地域で、ここを拠点として八角平の建設と、そこにあった建物の準備工作が行われている。逢坂郭群および八角平の建設は、本丸に先行して行われた。
信長はそれまでの本拠、岐阜を信忠に譲り、天正4年2月に安土に移り、安土城建設を直接指揮を取るが、この時点で八角平は完成していた、と考えている。つまり八角平が、あの七層の天守が完成するまでの信長の安土での仮の御座所。
逢坂郭群は、八角平を仮の本丸とした場合の二の丸としての機能を果たした。
七曲り道は、確かに規模は大きいが、本丸の建設に必要な各種資材を山に上げるための主要な通路で、その建設が終了する天正8年頃までは、一般の使用はできなかったと思われる。ちなみにあの蛇石を上げたのが、この七曲り道であったと考えている。
七曲り道はかなり良く残っているので、整備されるとよいのだが。



61人間七七四年:2009/07/27(月) 01:16:48 ID:PjIF68GZ
妄想はもういいよ
62人間七七四年:2009/07/27(月) 01:44:26 ID:/QQ4Mv/W
八角平って本当に八角なの?八角にした理由があったら教えてください。
63人間七七四年:2009/07/27(月) 13:15:41 ID:kYUFo6JQ
>>62 北は4つほどの辺からなる多角形だが、角はあまりはっきりしていない。むしろ曲線に近く見える。敷地のスペースを広く取るためには、このような造形は不利。建物の平面は普通四角形だから、どうしても無駄がでる。
何故このような形にしたかははっきりしないが、安土城天主の天守台に似た形であることから見て、その試作だったのではないだろうか。
ちなみに、八角平そっくりの石垣が安土城の付近に存在する。観音山から北方に峰が伸びる。ここを東から西に越える古道が地獄越えだが、それを見下ろす高地にある。
現在は石垣の上に神社の祠が建っているが、神社に比べ遥かに立派な石垣で、神社のために作られらものではない。東は中山道を見下ろし、西には安土城を見下ろす場所。安土城の出丸として作られたと思われる。
石馬寺の階段をいちばん上まで登るとすぐ近くに出る。この付近、ほかにも安土城関連のものがあるようだ。
64人間七七四年:2009/07/27(月) 13:48:27 ID:chBGK5jN
>>63
>敷地のスペースを広く取るためには、このような造形は不利。
山城の場合敷地スペースを最大限に確保するために、地形に沿って石垣を築いたのではないか?
櫓が有ったとしても矩形の櫓ではなく多聞櫓だったのかもしれん

>安土城天主の天守台に似た形であることから見て、その試作だったのではないだろうか。
天主の試作は高い山頂の岐阜城、赤瓦の坂本城、九重の北ノ庄城などで経験積みではないだろうか
65人間七七四年:2009/07/27(月) 18:44:30 ID:JTwyY8id
天守の試作という事ではなく八角の石垣を積む練習って事ではないですかね。
でも確かに天守台の試作というよりは山の形に沿って広場を作った方がスッキリします。
安土山以外にも色々と関連施設?があったんですね。
一度も安土に伺った事がないので早く行ってみたいです。
66人間七七四年:2009/07/27(月) 22:11:14 ID:C0L9XeFJ
安土城でも、りすが間者として放たれ、さらに防衛機能に使われたという文書は
残っているのでしょうか?
67人間七七四年:2009/07/27(月) 22:37:34 ID:R/TvCtI8
何故八角か。
おそらく、角を直角で高く積み上げる技術がまだ未発達だったからと考えられる。
安土城の石垣の角は、未発達な算木積か、それ以前の積み方。
石垣の角は、しっかり積まないと、崩れやすい。
安土城に限らず古い時代の高石垣は皆鈍角に積まれている。
有名所では岡山城の本丸石垣はで初期に積まれた部分は角が鈍角。
安土城の本丸、二の丸、三の丸全てを見渡してもほとんど鈍角。
部分的に直角に積まれている所もあるが、高さが5m程度。
しっかりと積まれている様に見えるが、昭和の積み直しで崩れた部分を積み直しているので、それ以前はどれほど残っていたかは不明だが、崩れていたらしい。
八角平の石垣の状況はわからないが、火災にあっていないはずなので、崩れていない可能性がある。
68人間七七四年:2009/07/28(火) 00:26:34 ID:59sBLM9G
>>67
そんな誰もが知ってることを鼻息荒くレスしなさんな
それよりも、リスの当時の役目や、遺構での証明などに力をつくしなさい
うふふふふふふふ
69人間七七四年:2009/07/28(火) 01:21:10 ID:3l/pHDd4
特別史跡安土城跡修理工事報告書ゲット
70人間七七四年:2009/07/28(火) 01:28:28 ID:6cvrpRJh
>68
誰もが知っている?
じゃあ、自分の意見を述べてみよ。
ほら。ほら。
71人間七七四年:2009/07/28(火) 01:34:55 ID:8IVhEtn9
何故八角か。

六角家の領地だったからもう二角多くしたんじゃないの。
72人間七七四年:2009/07/28(火) 01:36:02 ID:3l/pHDd4
その発想はなかったわw
73人間七七四年:2009/07/28(火) 05:19:10 ID:Sa3ygNhn
何故八角なのかって本気で聞いてるわけじゃないよな?
74人間七七四年:2009/07/28(火) 05:56:39 ID:W1HYSwco
八角平の石垣は、10年ほど前近くで観察したが、上部から少数の石の脱落はあるものの、ほとんど完全な形で残っている。たぶん後世の修理は加えられていないと思う。樹木が石の間に根をはっており、これが問題となるかもしれない。
隅が直角でないのは、技術が未発達だったから、というのはそのとおりかもしれない。津田信澄の大溝城の天守台は、安土城に僅かに先行するが、平面は四角形であるものの角はしっかりとした石組になっていない。
>>60 八角平が、天正4年の安土城建設に先立って作られていた、という根拠を補足。「二月廿三日、安土に至って、信長、御座を移され、先ず、御普請、御意に相、御褒美として御名物の周光茶碗、五郎左衛門に下さる。」と公記にある。
つまり、安土城建設が始まる前の段階で、信長が評価するほどの普請がすでに安土山にあったことになる。八角平は、独立した区画だから、信長の御座所として、保安面からも、格式面からも不足はなかっただろう。
ただし、この時の八角平が、現在の姿とは異なっていたことは、考えられる。本丸の完成にともない、その役割が変わったために、大規模な改修を受けた可能性がある。
本丸方面と八角平南との接続は、現状のような地面によるものではなく、橋によっていたと思う。
75人間七七四年:2009/07/28(火) 10:50:30 ID:tcDRAqk0
>>57 天正8年五月七日に、安土城の普請が終了し、丹羽長秀、津田信澄はその任を解かれ、安土から退去した。この時を安土城の一応の完成と見ることが出来る。
七曲りの付近には「大門」という地名がある(織田信長と安土城 秋田裕毅著による)そうだから、完成時には七曲りが大手門となった可能性は大きいと思う。
ただ、黒金門を利用できるのは、家臣の内でも大名クラスだけであり、それ以下は逢坂郭にあった門を使ったのではないか。
76人間七七四年:2009/07/28(火) 18:04:29 ID:kW8urCkK
77人間七七四年:2009/07/28(火) 22:13:20 ID:6cvrpRJh
>74
信長公記からの考察、ナイスフォローだ。
改修の形跡、木橋でつながっていたというのもそれらしき記載があるのか?

俺も公記を読んでみたいと思うが、お勧めの本があったら教えてほしい。


>75
大門と言う地名があるのか。
だとしたら、安土の時代は、そこに有った門がその様に呼ばれていたに違いないだろう。


78人間七七四年:2009/07/29(水) 00:17:56 ID:/sah46O2
>>74
>二月廿三日、安土に至って、信長、御座を移され、先ず、御普請
特に信長公記からの考察になってないし、これだけでは八角平が、天正4年の安土城建設に先立って作られていた、という根拠にはならない気がする
79人間七七四年:2009/07/29(水) 07:09:03 ID:y3UfHl7j
80人間七七四年:2009/07/29(水) 07:21:32 ID:D/9LTd/y
>>78 たしかに、根拠そのものとはならないが、外堀を埋めるぐらいの意味はあると思って提出。
八角平改修については、現地観察に基づく。(しばらく前までは立ち入り可能だった)八角平の平面は現在、北側多角形、南側は変形した長方形だが、西北側の多角形と長方形がつながる部分で、石垣が内側にまがっている。
これは横矢がかりを考えた段差ではなく、もともと多角形であった郭の下の辺を取り壊して長方形を付け足したと思われる。ただし、図面でもほとんど分からないぐらいの、数十センチの段差。
八角平は、もともとはほぼ円形に近い多角形として作られたものが、後になって現在のように拡大された、と推測。
本丸との連絡が橋によっていたとする理由。八角平の東側には搦め手道郭群があり、ここは、食糧をはじめとする城内での必要物資、およびそこで働く下働きの者たちの城への入口であった、と考えられる。
八角平は、本丸完成後も安土城の表向きの役割を果たす区画で、身分のあるものが本丸方面と行き来したと考えられる。一方で、搦め手道側から、山の西側へ行く道は八角平の南を通るほかない。
下働きの者の通る道と、身分のある者の通る道は分離されていることが望ましいから、この部分には橋があった、と推測した次第。


81人間七七四年:2009/07/29(水) 15:07:28 ID:Fbe7hMEm
>>77
織田信長と安土城

城と民家

安土城再見 天守閣の復原考証

復元・安土城 信長の理想と黄金の天主

南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城

第六天魔王信長 織田信長と異形の守護神
82人間七七四年:2009/07/29(水) 22:16:06 ID:k+O1LpQ9
安土城は、一つの城ではなく三つの城として考えるべきだと思う。
1 信長が六角氏をこの地から追放して、一応の支配を確立した時、各地に軍事拠点としての城をつくったが、そのひとつとしての安土城。
 元亀元年における、この地域の城。永原城 佐久間信盛 長光寺城 柴田勝家 安土城 中川重政。(公記による)
2 天正4年二月、信長が岐阜から移り住んだ安土城。つまり安土城の第一期工事。
3 天正4年から建設が始まり、天正8年に完成した安土城。現在もっとも一般的に知られている安土城。
これら3つの城が、現在の安土山には残っている、と考える。
このうち、3については改めて説明する必要はない。2の第一期工事としての安土城が、先に書いた八角平を本丸、逢坂郭群を二の丸とする城。
1の中川重政が立て篭もった元亀安土城も、一部改修は受けているが、遺跡として残っている、と考える。
その場所は現在の安土城の正面右側、伝江藤加賀右衛門邸跡の横にある小高い丘。この丘が元亀安土城の本丸であると思う。
この丘の麓には舟入の跡が二つ残っており、そのうちのひとつには石組も残る。ところが、そのすぐ南を旧下街道の県道が通り、舟入としては機能しない。
下街道が存在しない時代に作られた、と考えることができる。
83人間七七四年:2009/07/30(木) 23:11:56 ID:85c6lm3R
天正6年(1578)正月、信長は有力家臣を屋敷に招き、宴を開いた。お茶の後、酒がふるまわれ、その後屋敷の中が披露された。
「御殿御座所まで皆見せられ、三国の名所を、狩野永徳に仰せつけられ、濃絵に移され、・・・(以下略)」(公記)とある。
あの大天主に信長が移るのが、この翌年の五月十一日のことであるから、これはまだ安土における仮の御座所のこと。仮とはいっても一時しのぎの建物ではなく、当時として第一級の豪華な建物であったことがわかる。
この仮の御座所は天正4年の二月に移り住んだのと同一のものである。この建物は永徳の手になる絵によって飾られていたことが分かるが、建物自体についての言及はないので、どのようなものだったかは分からない。
岐阜城での御座所が四層の建物であったこと、信長は多分、単身赴任していたのではないことを考えれば、それに匹敵する重層の建物であった可能性もある。
豪華な建物にはそれ相応の敷地が必要である。八角平はそれに相応しいと思われる。
84人間七七四年:2009/07/30(木) 23:23:08 ID:85c6lm3R
本能寺の変直後の安土城炎上の後、織田家跡目となった三法師が安土城に移り住む。本丸は焼失しており、使用は不可能である。
この時は、八角平にあった建物を使用した、と考える。逢坂郭の建物も火災には遭っていないだろうから、城として十分に機能しただろう。
85人間七七四年:2009/07/30(木) 23:37:24 ID:WOfeB9qU
八角平には高さが1尺程で2間四方ほどの基壇があるが、それいじょうの規模の重層建築の基壇は無くね?
地表に直接建ってたのか?
86人間七七四年:2009/07/31(金) 02:10:47 ID:XHDTRjfu
>83
天正4年に移り住んだ場所を2年後に披露するのは時間的に言って矛盾がある。
天主に移るのが翌年だとしても、既に完成前の状態であれば、内部を皆に見せると言う事は十分あり得る。
また、天主が完成していても、その他の施設が完成していなければ直ちに移り住む事はしなかった可能性も十分考えられるので、時間的矛盾を解消しない限りその説は無理があるとしか思えない。
仮に八角平にそれなりの建物があったとしても、主郭部内に中枢となる天主や御殿を建てる事は当初より決まっていたことであり、それらが完成すれば八角平は搦め手からの出入りに対する、番所的な役割等、裏方の使い方になると考えられる。
信長自身が利用する事はほとんどなくなる様な施設に豪華な装飾を施すような無駄を信長がするとは考えにくい。
87人間七七四年:2009/07/31(金) 07:03:04 ID:QdkZ4aYZ
>>86 新年を迎えるに当たって、有力家臣達が何らかの目的で各地から安土に集まっていた機会に、信長が彼らを招いて宴を催したもの。屋敷の披露は、そのついでに行われたのであり、それ自体が目的で会を催したのではなかった。
「色々、御名物はせ集まり、心も詞も及ばれず・・」とあり、調度も整っていた様子が伺える。また、屋敷披露の後、雑煮や、唐物の菓子なども振舞われているから、建築途中の建物ではありえない。
この建物を建設したのは、丹羽長秀である。信長の意向がどうであれ、粗末な物を用意するはずがないではないか。
>>85 八角平の北側それ自体が天守台に相当するのではないか、と考えている。
88人間七七四年:2009/07/31(金) 07:49:35 ID:XHDTRjfu
>87
建設途中と言っても柱だけとか畳がないだとかを言っているのではなく、それなりに出来上がっていたので披露した可能性があるのではないかと思ったのだが・・・
また、天主ではなく、本丸の建物など、主郭部の他の建物だって可能性があるのでは?
各地に赴任していた家臣が新年と言う事で集まった可能性が高いような気がするが、仮に一同に集まった機会がその時初めてだったとしても、2年前からそこにあった建物に信長がいたのであれば、それまでの間に訪れる機会は十分あったはず。
有力武将だったらなおさら。
狩野派の絵師を使えること自体が天下人としての特権のようなものなので、信長が、2年もの間、披露しなかったこと自体が不自然。
89人間七七四年:2009/07/31(金) 08:07:08 ID:XHDTRjfu
追記。
天主は主郭部建物の中でも最初に建てられたと考えらるが、並行して、その他の建物が建てられたとしても、同時に完成すると言う事は考えにくい。
天主が完成していても、他の建物や塀の建築や、地面の整備が行われていれば、それに携わる人や資材の出入りはあるので、主郭部の建物全てが完成してから移ると言う事は自然な事なので、新年の特別な集まりの際に、完成した部分を使用した可能性は否定できないのではないか?
90人間七七四年:2009/07/31(金) 09:40:19 ID:pyttogDV
>>87
これ、八角平の隅に小さい基壇が有るでしょ?
ttp://teke348.dyndns.tv/src/up9951.jpg
91人間七七四年:2009/07/31(金) 10:01:09 ID:pyttogDV
つまり、これがじゃまして北側それ自体に天守に相当する物を建てることは出来ないのでは?
92人間七七四年:2009/07/31(金) 12:20:54 ID:L1m3uXcY
>>90
それ、峰沿いに侵入し天主を目指す敵を防ぐための、銃撃用の張り出しじゃないのかな?
93人間七七四年:2009/07/31(金) 21:26:54 ID:8gW7FTGw
この基壇については、現地を調査した時の印象にまったく残っていないので、なんとも判断できない。当初のものではないのでは、と言っておく。
これに関連して思い出したのだが、西側の食い違い箇所の近くに、畳2畳分ぐらいで高さが30センチぐらいの石組があった。小さすぎて図面には出ていない。これは旗を立てる施設の基壇らしい。この上に木製の枠組みを作り、その中心に竿を立てる仕組みであったようだ。
城主が在城である場合、旗印を掲げる習慣が当時あったらしい。そのための施設であるとすれば、この場所が本丸相当の場所であったことの証明にならないか。
ちなみに同様の施設が、安土には当方の知る限りもう二か所存在する。ひとつは本丸南虎口の西、もう一つは安土城下北東の須田地区のはずれの下街道沿い。

94人間七七四年:2009/07/31(金) 21:34:18 ID:XHDTRjfu
>91
87は、「それ自体が天守台に相当する」などと、一部おかしなことを述べてはいるが、八角平に天主があったとまでは言っていない。
単なる御殿や、それに準ずるような、建物だとしたら、地形はあまり関係ないと思う。

そもそも、地形図を見ると>90が言っている、基壇の下側に記されている南北に走る線で八角平の東西で段差がある。
地形図を読む限り東側は、八角平の西側一般面に対して、5mは低い地形になっている様だ。

(菅谷邸跡)と書いてある上に「177.9」と書いてあるのが標高を示す。
その右下に「172.9」と書いてあるが、菅谷邸跡の南の段の標高。
等高線をたどると、基壇の東側の段とほぼ同じ高さにあると読める。
よって、177.9-172.9=5mで段差は約5mと読める。
八角平の上面はそもそも八角ではなく、南北に長い平行四辺形に近いことになる。
安土城天主台とは全く関係ない。
95人間七七四年:2009/07/31(金) 22:10:55 ID:XHDTRjfu
八角平基壇だが、地形図が小さいので正確ではないが、基壇の大きさは1辺がやく4.5mくらいの様だ。
この寸法は、本丸礎石間の2つ分くらいに相当する。
石垣が組まれているし、位置から言って、小規模な櫓台があった可能性も考えられる。
96人間七七四年:2009/08/01(土) 01:24:23 ID:UXyFyZWC
昔から狩野永徳の絵が好きなんだが、安土城にあったのが燃えたのが残念
見たかった
97人間七七四年:2009/08/01(土) 02:05:29 ID:Sa1jmOHT
>93
2畳分くらいの石組みだが、図面に記載がないという事は、近年の石組みだからの可能性が考えられる。
安土城には、昭和の発掘調査の際等に出てきた崩落した石を郭の隅に積み上げたと言う事実がある。
それらが全て記載されていないわけではないけど、小さな所では、仏足石や二の丸南帯郭の石段上の門の礎石等も記載されており、大きさは関係ない。
但し、遺構の礎石が全て記載されていない事も事実で、何を目安に記載しているのかよくわからない図面になっている。
ただ、2畳の平面で30cmの高さの遺構であれば、当然載っていてもおかしくない大きさだと思うので、描かれていないと言う事は、遺構ではないのでは?と思うのだが・・・
98人間七七四年:2009/08/01(土) 02:46:55 ID:1PJR1kbZ
>図面に記載がない

>描かれていない

あの図面は1976年の測量図で、図面に記載がある
また、1986年の測量図にも同位置に同じ記載がある
99人間七七四年:2009/08/01(土) 02:57:15 ID:1PJR1kbZ
>昭和の発掘調査の際等に出てきた崩落した石を郭の隅に積み上げたと言う事実がある。

崩落栗石を積み上げた箇所の記載は赤で示した部分で、表現方法は他と違っており歴然
ttp://teke348.dyndns.tv/src/up9959.jpg
100人間七七四年:2009/08/01(土) 04:12:31 ID:1PJR1kbZ
>>97
2畳分くらいの石組の件か・・・
勘違いしてた
101人間七七四年:2009/08/01(土) 09:05:03 ID:EBIfwplE
>>94 八角平の東側が低くなっているのは、認識している。この部分に天守相当の建物があった、と考えたのはこれと関連している。
八角平の平面形を裏返すと何かに似ていないか。それは岡山城天守のそれ。岡山城は左側が低くなっており、この部分の付け櫓に出入口がある。
岡山城は安土城を模した、とも言われるのだが、八角平に岡山城天守を左右反転したような建物があったのではないか、と考えたのがそもそもの始まり。
102人間七七四年:2009/08/01(土) 10:21:31 ID:T1pQhklq
安土山内には、かなり早い時期から丹羽長秀の屋敷があった。長秀は安土城建設の総責任者であったから、その屋敷は個人の住まいではなく、安土城建設の総司令部であった。
それがどこにあったかは記録に残っていないため、文献からは証明できず、遺跡から判断するより他ない。
長秀の屋敷に相応しい場所は、安土山内に一か所存在する。それは八角平から尾根伝いに200メートルほど北にある、薬師平。ここは本丸部分に次ぐ安土山二番めのピークでもある。
薬師平最高部にかなり広い屋敷があり、その南の尾根沿いに少し規模が小さい屋敷が並んでいる。これが薬師平郭群である。
この東斜面には、中央を通る道の両側に、階段状に郭が造成されているが、これが北小山田郭群である。この反対側の斜面には、少し離れて菅蔵郭群があるが、こちらは大きな敷地を持った郭である。
これらが、安土城建設部隊の駐屯地であったと思われる。
最高部が丹羽長秀の屋敷で、その下に続く屋敷が、岡部以言ら幹部の屋敷。東斜面の北小山田郭群は大工たちの宿舎で、西斜面の菅蔵郭群に狩野永徳の工房があったと思われる。
103人間七七四年:2009/08/01(土) 14:56:05 ID:khW95rgX
>>101
>八角平の東側が低くなっているのは、認識している。この部分に天守相当の建物があった、と考えたのはこれと関連している。

東側?初めは北側と主張してなかった?↓


63 名前: 人間七七四年 投稿日: 2009/07/27(月) 13:15:41 ID:kYUFo6JQ

>>62 北は4つほどの辺からなる多角形だが、角はあまりはっきりしていない。むしろ曲線に近く見える。敷地のスペースを広く取るために
は、このような造形は不利。建物の平面は普通四角形だから、どうしても無駄がでる。
何故このような形にしたかははっきりしないが、安土城天主の天守台に似た形であることから見て、その試作だったのではないだろうか。
104人間七七四年:2009/08/01(土) 15:11:37 ID:khW95rgX
八角平は今は柵が有って入れなさそうだが監視員とかもいるの?
七曲り道やお茶屋平とか主郭の背後から登山して見学とかしたら逮捕かね?
105人間七七四年:2009/08/01(土) 15:42:21 ID:aC+AsH0X
かなり前だが八角平まで行ったことあるよ。こっそり入れば大丈夫だろう。
106人間七七四年:2009/08/01(土) 16:23:00 ID:KYt/vkFT
安土山全山が総見寺の寺領というか所有地なのです。
所有地が観光客に荒らされるのを防ぐ目的、あるいは入山料が寺の収入になる
と考え寺側は散策区域を制限したのです。
文化財保護、発掘調査のためにだけ制限したわけではないのです。

寺側が指定している区域以外に進入すると不法侵入になります。
107人間七七四年:2009/08/01(土) 18:15:19 ID:wnUoKThf
作られてから400年以上経っているから、石垣の崩落等の事故が起きないと言う保障はない。そのような事故が起きた場合、寺は管理責任を問われる恐れがあるから、立ち入り禁止にするのも無理からぬところだ。
しかし、出来るだけ整備を進めて公開する区域を広げてほしいものだ。
108人間七七四年:2009/08/01(土) 18:32:22 ID:B53OgkjV
その整備金はどこらから出るのだ?
109人間七七四年:2009/08/01(土) 20:53:40 ID:uyRNTrVF
安土山の整備金は県税、つまり県民の血税です
そして入山料が寺の収入になります
110人間七七四年:2009/08/01(土) 21:06:20 ID:uyRNTrVF
つか、安土山は松茸が採れるから入山区域を制限してるという理由もある
111人間七七四年:2009/08/01(土) 22:12:00 ID:Sa1jmOHT
>101
岡山城の左側?
左って、どっちなんだ。せめてどちらから見てとか、東西南北で言ってくれ。

付け櫓の事を言っているから、天守台の有る部分と無い部分の段差のことを言っていると思われるが、そうだとすれば話が強引だとおもうが。
天守台の上と下の段差と、八角平の段差は根本的に違うと思う。
岡山城の場合、天守台に石蔵がないので付け櫓が必要。
八角平の東の段は地形図で見る限り搦め手側とは石垣と土塁で区分けされており、北側の一の坪側からしか入れない構造。
安土城は存在していた期間が短いので郭の大規模な変更等やっている時間もなかったと思われるので、当初から計画的にこうなていた可能性が高い。
そんな場所を天守の等の入口にすることは不自然だと思わないか?

岡山城天守が安土城天主を模したと言う話、単なる伝承程度のレベルで外観が似ているのではないかという程度のものだろう。
そもそも安土城に本丸以外に天守相当の櫓があれば、公記に載っていてもいい様なものだし、主郭部の完成を遅らせるような無駄な建物を建てる必要性がどこにあるのか。
まづは主郭部の完成が第一優先だろう。
112人間七七四年:2009/08/02(日) 00:08:36 ID:pZHriK+D
畳二畳分の基壇がどこにあるか不明だが、
八角平の北西にはもしかしたら櫓台が有ったかもしれないな
安土城址に20回ほど足を運んだ櫻井氏の模型だと段差が有り、櫓台となっている
図面では、はっきりとは書かれていないので、現地で確認するしかないが
ttp://teke348.dyndns.tv/src/up9974.jpg

八角平東側は敷地が狭く、敷地内に重層建築を建てるのは無理だと思うが
無理やり建てるなら半地下式にしないと無理かと
113人間七七四年:2009/08/02(日) 00:34:05 ID:pZHriK+D
説明不足なので訂正

八角平東側は敷地が狭く、梁行を考えると敷地内に大型の重層建築を建てるのは難しいと思うが
もし建っていたならば、八角平西側から東側にせりだす半地下式だったのでは
114人間七七四年:2009/08/02(日) 01:08:47 ID:gJ0PWDCF
>>111 八角平が造成され、そこに建物が建てられたのは天正3年(1575)と考えている。つまり、信長が安土築城を正式に発表する天正4年正月の前。長秀との間では当然事前の申し合わせがなされていたのだろう。
「(天正4年)正月中旬より安土山御普請、(中略)二月廿三日、安土に至って、御座を移され・・・」(公記)とある。いくら急いでも一月に命じて、二月に建物が出来るはずはない。
本丸に取り掛かる頃にはすでに完成していたので、影響はない。
搦め手郭側から八角平の東へ行くことは出来る。実際行ったことがあるから間違いない。
信長はそれまで岐阜城の四層の御殿に住んでいた。宣教師の報告があったはずだが、上の階に女性が暮らしていた。安土城の完成の期日は決まっていなかっただろうが、数年かかることは予想できた。
いくら仮の住まいとはいえ、岐阜城よりはるかに規模が小さな建物では、生活がなりたたない。来客もあるはずだから、格式を保つ必要もある。
重層の御殿が必要である考とえる。八角平の北側の石垣いっぱいに重層の建物があり、東側、一段低くなった部分に付け櫓があり、それがこの建物の入口となっていた、と推測。
115人間七七四年:2009/08/02(日) 01:14:02 ID:pZHriK+D
え?
>>101で重層建築は東って・・・
116人間七七四年:2009/08/02(日) 01:17:19 ID:TcnwZUgU
>113
可能性は否定しないが、行き当たりばったりで城は造らないので、わざわざ段差を設けて造りにくくするとは考えにくいと思うが。

アップしてくれた画像を見ると、櫻井氏は模型を作るのが苦手だったのか、自分のイメージを優先させる人だったようだ。
各郭の様子が、地形図と微妙に違う。20回もいって写真とか撮らなかったのかな。
例えば米蔵跡の付近の石垣が妙に高すぎ。天主台と同じかそれ以上は有りそうだけど、地形図によれば、米蔵下の、主郭部外周路からの高低差はそれほど無い。
いずれにしても、八角平の発掘調査はされていないと思うし、礎石があったとも聞いたことがないので、あんなにたくさんの建物があったのかは想像の産物なんだろうね。

3つある図は左がもっとも古く、正確な測量ずというよりは、大雑把に測量した結果と言う印象。
中央はもっともポピュラーな図で、右がより描写が細かいので最も新しい地形図と言うところかな。、
中央と右は、東西の段差の部分は石垣ではなく、土塁になているようだが、石垣が土砂で埋もれている可能性はあるものの、最上部まで埋もれるとは考えにくい。
その他周辺の石垣は崩れた表現がないので、ここの辺だけが、崩れているとも考えにくいので、やはり土塁の可能性が高いと思う。
上段と下段にまたがる建物があったとすれば、土塁ではなく、石垣が築かれていたはずなので、実際どうなているのかで可能性が変わってくると思う。
櫻井氏の模型は立派な石垣になているけどね。

それから、以前から気になっていたのだけど、郭の中央部分に八角形が描かれているけどこれは何かな?
八角平の名称の由来になったものが何かあるのか、それとも、八角平にちなんで、近世に何か造られたものか。
117人間七七四年:2009/08/02(日) 01:29:27 ID:pZHriK+D
>>116
いや、>>114の説に補足をしてみただけで、自分は八角平に天守級の重層建築が有ったのは否定派なんだが(汗)

郭の中央部分に八角形は見学者用に造られた東屋
118人間七七四年:2009/08/02(日) 01:43:54 ID:pZHriK+D
左の図は戦前の天主台が完全には発掘されておらず、二の丸下帯曲輪も補修前の図
ttp://teke348.dyndns.tv/src/up9975.jpg
119人間七七四年:2009/08/02(日) 01:55:31 ID:TcnwZUgU
>114
なるほど。
つまり、安土築城の準備期間があって、信長は築城当初から安土で城のできるのを見ながら過ごしていたと言う事だな。
八角平は準備期間に用意されたと。
準備が始まったのが天正3年の根拠はあるのか?
しかし、何故、八角平なのか。
伝秀吉邸のほうがむしろ可能性があるのではないか。
秀吉邸は、1家臣の邸宅としては門が重層すぎだとか、いくつかの謎が言われているが、信長の仮住まいとしていたならそれなりの門であっても不思議ではない。
防御性という点では山頂部には劣るかもしれないが、南側は琵琶湖とつながっている湿地帯で(後の堀)武田氏等平地に居を構えていた武将は他にも居るし、岐阜でも麓が住まいになっていた。
むしろ、普段の住居となると、山頂は不便で、あまりメリットが無いと思う。
それに、2月と言うと冬場で山の高い所ほど、雪が積もりやすいのでその様な場所を選ぶだろうか。
120人間七七四年:2009/08/02(日) 02:14:55 ID:TcnwZUgU
基壇の東側、良く見たら基壇の半分くらいまでは石垣表現がされているね。
部分的に石垣なのかその面全てが石垣で埋没してしまっているのはは分らないけど少なくても少しは石垣になっているみたいだね。

>117
>否定派なんだが
はい、一応さっしておりました。
八角形は東屋か~。
そんなものをわざわざ造って、見学ができる時代が有ったんだね。
121人間七七四年:2009/08/02(日) 11:24:53 ID:db66iZBd
>>119 安土山内で、御座所になりうる場所は、一応すべて検討してみた。多くは実際に足を運んで自分で見ている。本丸より南は、山の上から見下ろされる上、人の侵入を完全には防止できないので保安上問題がある。
このことは、家臣以外の不特定の人間が出入りする工事期間中は、特に問題がある。
大手道周辺は、前記の理由のほか、下街道が整備される天正7年以前は不便な場所。八角平は、逢坂郭群を二の丸として使用可能、搦め手道郭群をバックアップ施設として利用できる等、すべての問題をクリアーし、御座所として最適。
もし、ここに重層の建物があったとすれば、本丸建造を監督するのにも最適。岐阜の山頂に比べれば、標高は低いから、山の上ということは問題にならなかっただろう。
天正3年については、特に理由はない。天正4年の二月に完成しているためには、この年に作られただろう、というだけの話。
122人間七七四年:2009/08/02(日) 12:00:44 ID:TcnwZUgU
>121
前提として、搦め手郭群や逢坂郭群が完成もしくはそれなりに出来上がっているよ言うことだよね。
いくら、事前の準備をしていたとしても、記録にないからといって、どこまでさかのぼればそれらを準備できるのか。
普請奉行として丹羽長秀が安土に縛られることになるが、それまでの戦の行動と辻褄が合うのかな。

部外者の侵入については、確かに峰の頂上の方が防ぐのに有利かもしれないが、麓だからできないと言う事もない。
一般人が侵入したのが見つかれば打ち首になるのは容易に想像できるので、一般人の侵入は考えなくても良いと思うし、敵対勢力がその気になれば頂上だって侵入は可能で、そういう意味ではあまり意味がないと思う。
近隣の敵対勢力も一掃されていたからこそ安土に移ったわけなので安土での戦は考えなくてよい状態だったと思われるし、万一その気配があれば、近くの家臣の城に避難すればいいし、八角平だけでは、籠城自体中途半端で危険。
下街道が整備されていないと言っても道はあったろうし、造るのは容易。
岐阜の山頂と比べるの比べる相手を間違ってないか?
岐阜の信長邸宅は麓にある。
現在のロープウェイの下側駅の直ぐ脇あたり。
山頂から見れば平地も同然な場所。
123人間七七四年:2009/08/02(日) 12:53:02 ID:snIeHNGQ
>>122 岐阜城の山頂に現在あるのは、模擬天守だが、当時もそれなりの施設があった。信長自身がここで過ごすことも多く、山科言継が岐阜を訪れた時、自分で登るか降りてくるまで待つか問われて、下山して来るのを待つ方を選んだ、という記録もある。
伝秀吉邸の門の後には道が続き、百々橋方面に続くのだが、下街道開設以前には安土山の南斜面で東西をつなぐ重要な道であった、と思われる。ここに門が作られ、一般の通行が出来なくなったのは下街道開設以後のことと思われる。伝秀吉邸の建造は安土築城の最終段階。
丹羽長秀の行動については、すべてを調べているわけではないが、天正3年の長篠の戦いに出ていないことは確か。
124人間七七四年:2009/08/02(日) 14:09:34 ID:TcnwZUgU
>123
俺が以前、安土城の発掘調査に携わった県教育委員会の人に話を聞いたときは、山中に街道とかそれに準ずるような一般道が通っていたかを質問したことがあるが、その様な記録は残っていないし、聞いたこともないと言っていた。
普通に考えたら、山道程度の道は安土築城以前から何カ所かあったかもしれないが、仮に以前からあった道にしても安土築城が始まった時点で全て封鎖していてもいいくらいじゃないのかな。
いろいろ考えを巡らせているのは分るけど、秀吉邸から百々橋にかけてが一般道と言うのは文献等の出典や根拠となる事柄を記さないと誰も共感しないと思うが。


岐阜城の件についても山頂に施設があればそりゃ行き来はするだろう。
山頂にどのくらいの割合で居たかは知らないけど、岐阜の居館が麓にあるのは山頂部では、不便だからだし、情勢が安定してきていたからだと思う。
普通に考えれば、普段の生活や政治活動等は明らかに下だろう。
岐阜から安土に居を移したのも京への行き来が多くなり不便になったからだし、その他にも頻繁にお出かけしたり、馬で移動をする事を考えるとやはり山裾部の方が場所としてはニーズに合っていると思うけど。
125人間七七四年:2009/08/02(日) 15:43:22 ID:c31dt8Iw
出入りするのに便利な居城なんて城である必要がないなww
それだったら本能寺のように寺か屋敷で十分
城を構えるからには必ず戦いを想定しているもの
126人間七七四年:2009/08/02(日) 15:53:16 ID:QG0Qh+F4
>>124 安土山の南を東西に走る道は、街道と言うほどのものではなく、安土以前のこの地区の中心、常楽寺と東方面をつなぐ近道。
地獄越えで観音寺山山系の東に出て中山道につながる。石馬寺の僧侶などがおもに使ったと思われる。
信長が六角氏を追い、この地を手に入れた時この道に目をつけ、この道沿いに築城し、中川重政を置いたのがそもそもの安土城のはじまり。
この元亀安土城は大手門の右側、伝江藤邸の横の小山を本丸とする一角。内湖に向かい南側に張り出した半島の付け根部分に切り通しを作り、郭として独立させたもの。
後に大手道が出来るあたりで少し山側に入っていた道を、南向きに付け替え城内の切り通しを通し、交通を支配しようとしたのが、この城。
現に伝秀吉邸の下段、厩跡の後には百々橋付近まで、立派な道がある。通行禁止だが見ることは出来る。
127人間七七四年:2009/08/02(日) 16:22:01 ID:etsMyy24
伝秀吉邸の下段、厩跡の後からは百々橋付近までの道は使用人が使ってたくらいだろ。あんな通路は山中にいくらでもある。
128人間七七四年:2009/08/02(日) 16:52:45 ID:DDIsdTyV
丹羽長秀は長篠の戦いに参加しているだろ。
129人間七七四年:2009/08/02(日) 17:15:34 ID:etsMyy24
交通の支配とかいうが平地があるのにわざわざ不便な山中を往来に使うか?普通
しかも城内の道だぞ
130人間七七四年:2009/08/02(日) 21:33:36 ID:TcnwZUgU
>126
う~ん。仮に伝秀吉邸の所の道がその様な近道だったとしても、安土城築城が開始された時点で封鎖されているんじゃないかと思うのだけどな。
なぜなら、上層部から工事が始まり、まだ下の方では工事をしてないとしても、不特定多数の人が出入りしてほしくないよね。
だったらどこで入山制限するのがいいか。
山中より裾の見通しのきく部分に策や見回りを置くのが一番いい。
関係者が出入りする際は、限られた出入り口で手形の様なものを使って通行するようにしていたんじゃないか。

まぁ、そう言っても確信しているんだろうから、上記の様には思わないんだろうけど。
その自信の源は何なんだ。

>125
城とは言ってない。居館だよ。
それに、その理屈から言ったら、平城とか根古屋は城じゃない事になるね。
まぁ、根古屋は平時の居館だけど山上の砦とセットで城だと思うけど。
それから、昔の寺を知らないようだね。
昔の寺は堀が巡らされた立派な要塞だよ。
本能寺もそのたぐいだった。
131人間七七四年:2009/08/04(火) 19:40:57 ID:RSqY0p97
ところで伝秀吉邸とかいくつか家来の住宅後があるけどその中に
勝家、光秀、一益、長秀の屋敷がどこにあったとかはわかってないの?
出てくる名前で有名どころはあと家康邸ぐらいじゃない?
てか、家康は家来でもなかったのに屋敷がある事が不自然。
132人間七七四年:2009/08/04(火) 20:18:48 ID:Y8OCoR5h
つーか安土の「伝○○邸跡」は、信じないほうがいい。
あくまで伝承と想像の産物。
133人間七七四年:2009/08/04(火) 23:37:10 ID:2ASfvOix
>>132
安土にいけば、秀吉と利家の伝しか気にならなくなるがなwww
134人間七七四年:2009/08/05(水) 09:45:05 ID:f9vKUlvZ
そうなんだ、じゃああの有名な安土の絵図は信憑性がないいんですねえ。
江戸時代に作られたのに家康の名前が出てくるのが凄いですね。
135人間七七四年:2009/08/05(水) 22:20:25 ID:hYSleFW1
>134
築城から100年後に作られたと言う事だから、作られた時には往時の事を知っていた人は存命していないだろう。
有名な人の名前を適当に配置しているだけだと思う。

ちなみに、大河ドラマなどでは、前田利家と、秀吉はご近所付き合いするような仲だったりして描かれていたりするが、その様な記録は残っていないらしいし、利家に関しては当時に大手道のあのような場所に屋敷が構えられるような地位だったかもあやしいらしい。
後付けのフィクションだと思っていた方がいい様だ。

ttp://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ke05/ke05_00421/index.html
136人間七七四年:2009/08/06(木) 09:31:15 ID:kk9MsUza
そりゃそうだ、利家は本能寺の変の時の立場は勝家の与力だと言われている。
家康と秀吉の対決の時に勝家のもとを離れて秀吉にくみした。
137人間七七四年:2009/08/06(木) 15:43:38 ID:kk9MsUza
>>136 家康と秀吉の対決の時に
勝家と秀吉の対決でした
138人間七七四年:2009/08/06(木) 19:12:53 ID:afG0P3z6
安土城は、旗本や近習はともかく、重臣団を城下に集合させるような城には思えないんだよなー。
139人間七七四年:2009/08/07(金) 00:18:33 ID:NRcSiDrI
>>138
あれは、天皇を呼ぶ際に、重臣を警護とその威容をみせつけるために作った屋敷だよ
近習以外で、安土に住んでいたという記録は正史ではないからな
140人間七七四年:2009/08/07(金) 06:40:12 ID:cbKw6rdv
中央の通路の両側に向かい合わせに建物を配置する、という形式は、石馬寺や桑実寺など、この付近の寺のそれと同じ。比定はでたらめだが、現摠見寺の伝家康邸跡が天正十年に安土に招かれた際の家康の宿泊場所、大宝坊である可能性はある。
141人間七七四年:2009/08/07(金) 11:58:10 ID:9XpgdGWU
安土城は信長の、きわめて個人的な城であると考えたほうがいいようだな。
あえて言うなら隠居城か。
142人間七七四年:2009/08/09(日) 08:27:00 ID:23iMZQ1T
誰であれ、重臣は相当の身代だから、生活の周囲にも多くの家臣が必要になる。大手道沿いの屋敷は、現代の水準ならば大きいが、それらの家臣も含めて日常的に住めるか、と考えるとスペース的にやや疑問がある。
また、最上段の伝武井夕庵邸以外には井戸がなく、水利も悪そうだ。邸宿泊可能な迎賓館と考えるべきではないだろうか。
143人間七七四年:2009/08/09(日) 16:43:13 ID:ReJ17wj3
安土城の大手道は言われているように防御を考えてないとはいえない
石段に使われている石の大きさ、長さ、高さなどがばらばらで、簡単に
登っていくことはできないし、傾斜が急なのでころべば大事故になる。
熊本城のそれよりはるかに防御機能が高いといえる。
144人間七七四年:2009/08/09(日) 16:47:55 ID:NlTMtKLB
何故突然熊本城の名が。

つーか武器、戦術の発達、および朝鮮役、関ヶ原の大規模戦争の経験を元に作られた
熊本城のほうが、それらを知らない時期に作られた安土城より防御能力が高いのは当然だぞ?
145人間七七四年:2009/08/09(日) 23:57:51 ID:yRc3DubQ
熊本城のどこかの登場ルートの石段に限定した比較のたとえだと思うが・・・
俺は熊本城は行ったことが無いので、さっぱり通じないが。
146人間七七四年:2009/08/10(月) 00:30:53 ID:iSl9/2zy
安土城は正直、規模から言っても縄張りから言っても、とてもまともに籠城を想定して作った
城には思えないけどね。さらに言うと政庁ですらない。

アレは信長流の夢の国と言うか、マイケルジャクソンのネバーランドのような、そういう一種の
理想郷を作ったんじゃないかとも思える。
147人間七七四年:2009/08/10(月) 03:19:03 ID:/H5FETvD
うん、当面のライバルである武田氏も滅ぼしたし財政的にも余裕があるし
他の誰にも真似できないものを作りたかっただけで特に難しい事は考えてなかったと思う。
まだ天下一統もすませてなかったわけだし。
政庁とか言うけど当時は場所に限定されず信長が居ればそこが政庁になったわけだし。
148人間七七四年:2009/08/10(月) 05:15:11 ID:/iODRpu1
↑もっと勉強してね。
149人間七七四年:2009/08/10(月) 09:58:43 ID:HqgZjmrl
↑なにを?
間違えがあれば具体的に書き込んで下さい。
150人間七七四年:2009/08/10(月) 11:00:00 ID:/iODRpu1
築城の時系列をちゃんと確認してね。
151人間七七四年:2009/08/10(月) 13:15:28 ID:l2cpJeZ4
安土城に限らず、もともと信長には籠城して戦う、という発想がなかったと思う。
岐阜城が、経歴の中ではもっとも堅固に見える城だけれど、見かけ倒しで、防御力ということでは大したことがないのは、関ヶ原直前に東軍によって難なく攻略されてしまったことを見ても分かる。
安土城は、現在の姿からだけ考えてもダメ。内湖が干拓されて地続きになったため、地形が全く当時とは異なっている。
西方面からはほとんど防御を考えていないが、東側からの脅威に対しては、観音寺山から北東方面、能登川まで延びる山稜を防御に使えるので、かなり戦える。ただし、兵力をかなり集めることが出来るというのが前提。
152人間七七四年:2009/08/10(月) 16:01:06 ID:HqgZjmrl
あのご時世に信長以上に兵力を集められる大名は無かっただろうから安心ですね。
信長は傲慢になってたのか防御が甘くなってた。だから本能寺でもやられたのではないの?
153人間七七四年:2009/08/10(月) 18:48:32 ID:HqgZjmrl
1575年 長篠の戦い
1576年 安土城築城開始
1579年 安土城完成
154人間七七四年:2009/08/10(月) 19:17:50 ID:/iODRpu1
1580年 武田家滅亡
155人間七七四年:2009/08/10(月) 19:36:05 ID:A08hiUSV
>>154
↑もっと勉強してね。
156人間七七四年:2009/08/12(水) 00:20:34 ID:89zdVedT
    ∩___∩   /)
    | ノ      ヽ  ( i )))
   /  ●   ● | / /
   |    ( _●_)  |ノ /   この人天才
  彡、   |∪|    ,/
  /__  ヽノ   /´
 (___)     /
157人間七七四年:2009/08/13(木) 20:40:47 ID:zSqNvcUX
安土城は後詰の城であって、前線の城とは防御の考え方が違うと思う。
158人間七七四年:2009/08/13(木) 21:51:49 ID:8EUgV5rv
後詰にしても規模が小さくないかな?
むしろ合戦と言うものを想定していない城のような。
159人間七七四年:2009/08/13(木) 23:36:28 ID:BWZs7pr6
もはや、対抗する勢力をはるかにしのぐ軍勢を持っていて、天下統一に今一歩という段階で、「居城を攻められるような状況には無い。攻めてくるような敵は居ない。」と考えていたとしてもおかしくは無い。
160人間七七四年:2009/08/14(金) 01:14:04 ID:ryO+9Vpc
>>159
1576年~1577年は信長にとってそれほど楽な状況じゃない。
そもそも安土は対上杉用の城とも言われている。

1575年6月 ☆長篠の戦い
1575年8月 ☆柴田勝家、越前平定。(北陸方面軍の誕生)

1576年2月 ★上杉謙信、本願寺顕如と講和、武田勝頼と和睦。信長との同盟を破棄。(第二次信長包囲網)
1576年2月 ★毛利輝元、足利義昭を保護。以降、信長と敵対。
1576年7月 ★第一次木津川口海戦で毛利家勝利。
1576年9月 ★上杉謙信、越中を平定。
1576年11月 ★上杉謙信、加賀・能登に進攻。
1577年9月 ★能登・七尾城陥落。柴田勝家、手取川の戦いで敗北。

1578年3月 ☆謙信死亡
1578年11月 ☆第一次木津川口海戦で毛利家敗北。
161人間七七四年:2009/08/14(金) 02:41:41 ID:/Er+7Lu1
しかしそれにしちゃ安土城の縄張りには、戦国期の城が持つ、目的のための攻撃性
見たいなものが感じられないんだよなあ。
目的意識が散漫と言うか。
162人間七七四年:2009/08/14(金) 08:52:27 ID:42kJPSv1
>160
対上杉用と言っても、上洛する時琵琶湖の東あたりを通過する必要があるから、と安土城をなぜその地に築いたかと言う理由のひとつとして考えられている程度の話じゃなかったかな。
上杉と安土で事を構えるつもりがあったかは別の話では?

その他色々と書いてくれてるけど、安土からは程遠い場所での話なのであまり意味が無いのではないか。
各軍勢がそれぞれの方面で相手を攻略すると考えていたとすれば、安土まで戦火が及ぶと考えていなかったと言う事も否定できないのでは無いかという事。
運もてつだってはいるが実際そうなっている。
163人間七七四年:2009/08/14(金) 09:55:36 ID:ryO+9Vpc
>>161
単純に信長は防衛センス無いだけじゃない?
164人間七七四年:2009/08/14(金) 23:29:38 ID:42kJPSv1
逃げるのは得意だった
165人間七七四年:2009/08/15(土) 03:21:21 ID:l9UxAZq4
安土城に縄張りなど必要ない。
まわりには柴田や佐久間の領地があり(飛び地)、
対一向一揆・六角戦で使用された城がいっぱいあり、
勿論、観音寺城も健在である。
安土城とは「清涼殿付き館、山城風味」である。
絶対に敵に攻め込まれることのない、分国の中心部にある城の防備とはそんな物である。
例、一乗谷館、大内館、大友館、躑躅ヶ崎館





                     


                     てね。
166人間七七四年:2009/08/15(土) 07:10:25 ID:hjUxRvFl
信長が室町的センスの持ち主だったって事をあらわしてるわけか。
167人間七七四年:2009/08/16(日) 13:55:35 ID:WItThX2a
>>165
一乗谷城、要害山城
信長の本拠地移転回数
168人間七七四年:2009/08/16(日) 20:29:24 ID:CKobpPae
一乗谷館の一乗谷城。躑躅ヶ崎館の要害山城、大内館の鴻之嶺城。

三好長慶
堺館→越水城→芥川城→飯盛山城
織田信長
那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城

二人とも、常に分国の中心に中心にと居城を移動させている。
開明的!

領国の端っこに居城があり、ついに動かさなかった小田原城。
本当に小田原城に自身があったんだな。
169人間七七四年:2009/08/17(月) 02:40:29 ID:X7rd6Uz9
>>168
サンクス。多分信長は本拠地死守をしないと思った。

そして安土城の防御がイマイチと仮定すると、その理由は、

1、安土城は攻めるための城であり、城内でなく城下に兵を収納する後詰の城であった。
  もし安土城が包囲された場合は、その前に美濃や尾張に単身逃亡する予定であり、
  真面目に篭城する気は無かった。

2、信長は安土城の防備にかなり自信があった。しかし信長は長期攻城戦に関して部下任せ
  かつ独創的な性格の為、柴田や羽柴より築城能力が著しく劣っていた。

のどちらかだと思う。個人的にはたぶん2の方かなw
170人間七七四年:2009/08/17(月) 09:56:09 ID:vAxVDjDC
まあ前線に無い城が攻撃のためのもの、ってのは無理がある。

結局、「山城」というものの持つ自然の防衛力に信を置くあたりが、良くも悪くも信長の
世代的限界かと。
171人間七七四年:2009/08/17(月) 10:06:39 ID:2H4mVqst
安土山の地に城を作ることに決めたのは果たして本当に信長か?
丹羽長秀かも、知れない。
場所の選定は信長がして、縄張りは長秀が行ったというのが一般的だが、
長秀の縄張りに南面門4つという独創的な構造を付け足した。
ひょっとすると佐和山城を詳しく調べると長秀の思考回路、縄張りの仕方が
解るかも知れない。
172人間七七四年:2009/08/17(月) 13:45:47 ID:n7jXGE+o
安土城の復元はしてほしいよな。
ただ安土には出来なさそうだから他の所でも良いけど。
天主だけじゃなくて堀や石垣も含めて。
ただ天主の形がまだ明確には分かって無いんだよな。
173人間七七四年:2009/08/17(月) 14:08:47 ID:vAxVDjDC
>>172
ちょんまげワールド伊勢 伊勢・安土桃山文化村
http://www.kankomie.or.jp/imgdir/ins/3104_0.jpg
174人間七七四年:2009/08/17(月) 15:27:45 ID:t1/BhM+8
>>173
>>172ですがその復元安土城も見てみたいですね。
175人間七七四年:2009/08/18(火) 14:46:26 ID:D1QJNjvh
>>160
そう言えば安土築城当時は信長にとって少々きつい時期だったかもしれないが
秀吉も周りが敵味方入り乱れている時期に大坂の築城にかかってた。
176人間七七四年:2009/08/18(火) 23:20:17 ID:tME0Xr+L
防御力で山城を選ぶなら観音寺城を使い回してるよ。
というか天守閣とかいう軍事的欠陥矢倉の設置とか、
信長の発想はかなり先進的であり、
その後の城は全部、安土城や坂本城のコピーって言われてるんだけど。
177人間七七四年:2009/08/18(火) 23:36:26 ID:W8t/5irl
先進的なら平城にしているよ。天主に関してはその発生は安土からかなりさかのぼれると言う説もあるな。
178人間七七四年:2009/08/19(水) 00:43:41 ID:rdBOLZso
>>177
境目の城に天守の起源をみることができる
鎌なんとか城
179人間七七四年:2009/08/19(水) 01:04:15 ID:8gWs13Hw
安土城で城らしい部分は、主郭部くらいかな。
そこに至るまでは、どちらかというと城下町の様。
全体の調査がされていないので何とも言えないけど、近世城郭の様な門をいくつも通過しないと主郭部にたどり着かない様な構造じゃないので城の裾部が総構えの最外郭部と同様の機能を果たし、その内部は(
もちろん関連施設や配下の屋敷等だけだとは思うが)城下町的。
主郭部だけ城として造られた様に見え、そういう意味ではかなり小規模。
やはり、信長の居館の要素が強く、城という見方をして、近世城郭等と比較するのは間違った見方だと思う。
180人間七七四年:2009/08/19(水) 10:36:13 ID:eUELUMS5
滋賀県も予算付けるなら、安土城・小谷城を再建すればいいんだよ
大して金かからんだろう?
181人間七七四年:2009/08/19(水) 13:46:30 ID:hvdEpXjS
>>169 独創的な性格の為、柴田や羽柴より築城能力が著しく劣っていた。
北の庄城は信長が縄張りを張ったんじゃなかったけ??

安土が近世城郭の祖と言われるのは縄張りではなく、城下町という事じゃない?
高い天主閣を建てその地域のシンボル的なものを作ったということじゃないかな。
182人間七七四年:2009/08/19(水) 14:05:54 ID:7EKOmvwT
>>180
全くもって同意
観光にも役立つし、歴史への興味もわくし、全ていいことづくめなんだけどね
183人間七七四年:2009/08/19(水) 15:13:47 ID:K0ClfJUi
しかし仮に安土城の屏風図が出てきたらまた建て直さないと駄目だろ
だからやらんのよ
184人間七七四年:2009/08/19(水) 23:38:34 ID:8gWs13Hw
>180

安土城は建物再建は事実上不可能だし、小谷城復元しても地味すぎてたいして人は呼べない。

まぁ、滋賀県には彦根城があるからな。
整備をするんだったら彦根城をやった方が、費用対効果が高いのではないかな。
今でも石垣の積み直し&補完や、樹木の整理を少しずつ進めている様だけど。
あれだけ残っているんだから、まだまだやりがいはある。
185人間七七四年:2009/08/20(木) 01:48:03 ID:MF6b4lHI
現在でいう天守閣は安土が最初でしょ。
他にも安土城は総石垣の郭に高層の天守や櫓を建て並べ、
後に豊臣秀吉を通じてその体裁が普及し近世城郭へ反映されてるとか。(こp)

そもそも江戸城も姫路城も大阪城も平山城であって、平城じゃないし。

しかしよく考えれば天守閣は山が正解なのかも。
平城や平山城じゃただの的だけど、山頂にあれば簡単には砲撃が届かない訳だし。
186人間七七四年:2009/08/20(木) 02:06:55 ID:MF6b4lHI
あと建築学的には日本の城郭建築はある一時期に多様な形で現れ、
幕府の方針により突如として終わってしまった為、
最終的な形態は一つに絞られていないとか。

>>179
安土城の縄張りは平野部を含めたもっと大きい範囲の可能性が高いらしいね。
山城部分が主郭部に過ぎないのであれば、収容人員は膨大になるね。
187人間七七四年:2009/08/20(木) 02:23:50 ID:MF6b4lHI
補足

山城の中には、火縄銃などに対応するためにむしろ従来より発展した例もある。
たとえば西国においては、放射状竪堀の導入が盛んになった。また従来の木柵ではなく、
平山城や平城の建築様式を取り入れ、狭間を持つ土塀で囲まれた、さながらトーチカの
ような鉄壁の要塞と化した山城もある(鷹取城など)。
188人間七七四年:2009/08/20(木) 02:26:42 ID:wmHE739K
安土城を擁護したい姿勢が強すぎて、論旨がわけわからなくなってる。
189人間七七四年:2009/08/20(木) 23:48:32 ID:em0YftCv
>185-187
残念だけど何が言いたいのかまたく分らないよ。
江戸城と姫路城が平城じゃないのが何だと言うのか?
言っていることに脈絡も無く、良く分からない。
山城が好きなのかな?

天守(閣)は安土城が最初と言うのも間違いだよ。もっと前から天守は有った。
大規模な天守という意味では安土城が初めかもしれないけどね。

山上で規模の拡大、近代化して行き、幕末まで残った山城は鷹取城の他にもいくつかあるけど別に山城が優れていると判断したからじゃなく、たまたま移転しなかったとか、財政的に移転できなかったとかじゃないかな。
徳川の世になって戦が無くなってからは山城はその意味が無くなってとも言えると思う。
天守は権威のシンボルだったわけだから、高い山の上にあっても、下界からは良く見えない。
平山城の場合、有る程度の規模の天守があれば、城下や街道からも良く見えるし、自然地形を活かした縄張りで防御もやりやすいと言うメリットもある。
平城はのメリットは、地形にとらわれずに、好きな場所に築ける事。
多くは、大きな川の近くに築いて防御の一部にとりいてていたが、堀を多重に巡らすことで、防御する平城は平時の利便性と防御を両立させた、土木技術の発展した近代化の賜物。

どちらかといえば見ごたえのある平山城が個人的には好きだな。
190人間七七四年:2009/08/20(木) 23:53:00 ID:jEhfTekP
安土城はまともに防戦するような城でもないし、軍隊を集結させるような城でもないし、
政庁として統治の中心になるような城ですらない。
そんな事は信長自身が百も承知だっただろう。
191人間七七四年:2009/08/22(土) 03:01:35 ID:1uvijEgZ
平城を作る、山城を作るというのはやはり築城時点、入城時点の状況による、かも。
三好長慶は細川晴元政権の元では平城の越水城が居城。独立して周りが敵だらけになると
芥川城、飯盛山城と二つ続けて山城を居城にしている。
大阪府北部近辺での主な山城は、芥川城、飯盛山城、信貴山城。
主な平城は、伊丹城、池田城、高槻城、茨木城、三宅城、中島城、
堀城、くら橋城、柴島城、江口城、榎並城、私部城、三箇城、
若江城、高屋城、淀城。
圧倒的に平城が多い。
でも長慶は山城が居城。
ということは?
山城は遠くまで見わたせられるから敵が来てもすぐわかる。
安心。
長慶も信長も臆病者???

192人間七七四年:2009/08/24(月) 02:04:13 ID:N5zBL9s3
岐阜城とか山の上にあって遠目には立派
193人間七七四年:2009/08/24(月) 06:28:58 ID:x9s/M/W9
稲葉山山頂の岐阜城は、歩いて登ると40分ぐらいかかり、体力維持のトレーニングには向いている。信長が安土に移ったのは、稲葉山に登るのがつらくなったからではないか、と俺は睨んでいる。
安土山なら、稲葉山よりずっと低いから弱り始めた脚にもやさしい。羽柴秀次が八幡山に城を移したのは、体力に自信があったからだろう。
194人間七七四年:2009/08/24(月) 21:12:59 ID:hSZt3QPZ
岐阜城は初めて見たときは、「おお!すごい」と思ったものだが、何度目かには「う~ん。やっぱり遠いな。」と思うようになった。
今はあれしかないし、結構ぎらぎらしているから、目立つんだけど、さほど大きく無いし、高い山の上なので、往時どれだけ威厳を示せていたかと考えてしまう。
安土山を選んだ理由の一つは、、岐阜城の「遠い(高い)→小さく見える」をもっと威厳をもたせるために「近く(低く)、→大きく見える」としたかったんじゃないか。
天主が大型化したのもより、威厳を持たせたかったからだと思うが、それを実現させる財源を持っていたのがすごいところ。
195人間七七四年:2009/08/24(月) 21:16:20 ID:bC54t4Xa
>>188
>>189
ああごめん。すべては>>170へのコメント。

信長の山城はそれまでの山城とは一線を隔すること。
特に石垣、多聞櫓、天守閣というよく見られる組み合わせは、安土城に端を発すること。
城の最終形が平城と思っているのならば実はそうとは言えないこと。
信長が山城を好んでいたとして、次の山城はもっと進化していた可能性があること。

これが言いたく、ついでに現在でいう天守閣、つまり大規模な天守閣は安土が初であることを言いたかった。
196人間七七四年:2009/08/25(火) 01:53:41 ID:uuYytYXo
信長が本能寺で倒れなかったと仮定して、安土城の次にもし築城したら、また山城を造り、その山城はもっと進化した山城になっただろうと言いたいのか?
それは、どうだろうか。
俺は、もう次は造らなかったと思うな。
安土を都のごとく整備し続けていたと思う。
朝廷を凌駕するほどの力をつけてしまえば京に行く必要は全くないし、そんな姿を目指していたんじゃないかな。
そうなれば、次の場所に移転する必要は全くない。
安土城が進化し続けるだけだ。

>特に石垣、多聞櫓、天守閣というよく見られる組み合わせは、安土城に端を発すること。

その考えが、安土城(信長)を擁護していると言われるじゃないのか。
川の支流が集まり、大きな川になるように、新しく出てきた技術は次の物に引き継がれていくんだよ。
石垣だって、それ以前からあり、観音寺山城は安土城のよい」参考になったと思うし、多聞櫓も多聞城が先駆け。
大型天主は初めかもしれないけど、従来あった物が、大きくなっただけでむしろそれを可能にした技術が育っていた事実から、安土城の大きさに及ばないまでも近い大きさの天守があった可能性も考えられる。
悪い言い方をすれば寄せ集め。
しかし、技術はいつの時代も常に取り入れられ育っていくものなので、たまたまそれらが誇張されて紹介されたりするので注目されるだけで、それらが一緒にあること自体は特別なことじゃない。
どちらかといえば、主郭部の虎口が枡形状の構造になっている事が、安土城の特徴と言われている。
197人間七七四年:2009/08/25(火) 06:46:28 ID:4Kblal2E
今週の世界・ふしぎ発見は安土城特集だな。
198人間七七四年:2009/08/25(火) 07:43:52 ID:3kC28QGX
リイド社の『COMIC 乱』で下天の城連載中
199人間七七四年:2009/08/25(火) 14:36:02 ID:tlzlPgSK
可能性をほのめかす程度だろけどもし不思議発見が吹き抜けを大々的に説明したりしたら
一般層にも吹き抜け説が広がる可能性はあるね
紹介される外観CGはやっぱり内藤案かな
200人間七七四年:2009/08/25(火) 19:55:29 ID:4vbiPVqd
確かに。
201人間七七四年:2009/08/26(水) 21:18:45 ID:o2k05ILQ
佐藤先生とかその分野の専門家にも出てきて欲しいよな
でも あくまで不思議発見だからそこまでしないか
202人間七七四年:2009/08/26(水) 21:34:02 ID:Gq5IwuXz
安土城を築城する物語の映画が公開されるらしいね
203人間七七四年:2009/08/27(木) 02:25:36 ID:+5K+rjuy
>>202
火天の城でしょ?
西田敏行さんも出るし良作の臭いが…
久々にポップコーンでもつまみながら見てくるか
204人間七七四年:2009/08/27(木) 20:19:24 ID:9BKpnVyk
>>191
見晴らしだけでなく防御力主体(効率?)で考えれば山城でしょう。(例:佐和山城)
平城は政務を考えたいわゆるハイブリッドかと。
>>194
信長は麓の館より山頂の館によく居て、武井夕庵が苦労した様子が、
山科日記に書いてある。
結局、信長は自分の趣味と部下の苦労を秤にかけたのかなw
205人間七七四年:2009/08/27(木) 20:25:26 ID:18y5Gpto
山城は峰に取り付かれたら終わり。
特に鉄砲の発展した当時では大量の火力の援護があれば
比較的簡単に郭をのっとられる。

この時代既に、広い堀を持った平城のほうが防衛にも有利。
206人間七七四年:2009/08/28(金) 00:57:14 ID:MDhR6+Sd
火天に便乗した安土関係の本が出るのを期待してたが、今のところこれだけか

名城物語 1 信長の城
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/R0446411
207人間七七四年:2009/08/28(金) 10:49:42 ID:UoroepmV
昨日の歴史の番組(白虎と青龍のやつ)で信長は光秀に殺されなくても
他の重臣か生活習慣病で死んでいたという説を言っていたな。
6回謀反にあったと説明していたがその中には浅井や松永とかも入っていた。
208人間七七四年:2009/08/28(金) 19:45:54 ID:d/Uot0ht
とりあえず録画予約完了>世界・ふしぎ発見
209人間七七四年:2009/08/29(土) 20:37:12 ID:AVtXaz8Z
放送もうすぐか
210人間七七四年:2009/08/29(土) 21:00:38 ID:BhB/dwaT
放送あげ
211人間七七四年:2009/08/29(土) 21:43:51 ID:lpjPXzxg
212人間七七四年:2009/08/29(土) 21:50:32 ID:pTr9KFd3
舞台、舞台って、篠山の息子って馬鹿?

典型的な、映画やドラマ、小説や漫画で歴史を勉強した気になっている輩だね。
213人間七七四年:2009/08/29(土) 21:53:03 ID:Lz8SJLJa
前半にレポーターの胸の谷間が見えた点のみよかった
214人間七七四年:2009/08/29(土) 23:00:02 ID:l5HLMaPY
>212
芸No人のクイズ回答は、放送作家が書いた台本どおりにやりとりしてるだけ。
どんなボケでも座ってるだけでできる仕事。
糞テレビに向かって怒るだけ無駄。

タレントはどうでもいいが映画は面白そうだった。
215人間七七四年:2009/08/30(日) 00:22:13 ID:DjDE3ARN
安土城の小説

下天の城(宮上案)

異形の城(内藤案)

天下城(西ヶ谷、佐藤案?)
216人間七七四年:2009/08/30(日) 02:28:54 ID:6ZSeZaHw
信長の好物が鮒寿司だったとかw
燒味噌とかw


火天の城も肝心の城ほったらかして
色んなドラマでごまかすし。
なんだかなー?
217名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 18:35:26 ID:IPGMo1QB
岡部以俊が娘に変更されてるのが残念
以俊が宣教師のもとに西洋建築の構造について学びに行ったり、
天主の構造の件で父と喧嘩する場面とか楽しみにしてたのに・・・
218人間七七四年:2009/09/02(水) 13:23:29 ID:tXIK14jK
不思議発見では吹き抜けがあったとか、天皇を行幸させる予定だったとか
そんな話はなかったの?内藤案?
219人間七七四年:2009/09/04(金) 06:38:00 ID:7wagFj2a
吹き抜けの話しは少し出たよ
220名無しの歴史好き:2009/09/04(金) 11:43:20 ID:fXZBR/Oh
そういや小学生の頃、一人城のプラモデル作りに励んだなぁ。岐阜城結構かっこいい
221人間七七四年:2009/09/04(金) 23:46:00 ID:mwpuuXAm
「安土へ行って、村井専司を訪ねたが登城中で留守だったので、しばらく待っていたが帰宅しない。それで自分が登城し、天主の近辺でしばらく待っていたところ、信長が普請場より帰城してきた。(以下略)」
これは「信長の親衛隊」(谷口克広著 中公新書)に引用された吉田兼和の日記。天正4年(1574)三月四日のことで、この年の一月に安土城建設が始まり、二月に信長が安土へ移ったばかりの頃。
このときすでに、天主と呼ばれる建物が安土には存在したことが確認できる。あの有名な大天守は、このときまだやっと整地が始まったばかりで、影も形もない。当然、別の建物である。
ただ、この文、現代語訳なので、原文で「天主」の言葉が使われているかは、確認の必要がある。
222人間七七四年:2009/09/05(土) 12:57:36 ID:1y/YzoSB
安土城を再建することって可能かな?
熊本城の本丸御殿とかも作ったわけだし
不可能ではないよね
やろとしたらテーマパーク的要素が強くなってしまうかもだけど
オール木造で再現できたら財源以上の収益あげることだって十分可能だとおもうんだけどね
223人間七七四年:2009/09/05(土) 13:04:49 ID:SX7BEDRc
>>222
熊本城は記録が残っているが、安土はまともな記録がないので「復元」は不可能。
224人間七七四年:2009/09/05(土) 17:28:30 ID:nJJ1SK5f
っていうか法的に無理。
出来てもあんな田舎じゃ儲からないでしょ。
225人間七七四年:2009/09/05(土) 18:33:58 ID:X7+lmdx0
私有地
226人間七七四年:2009/09/05(土) 18:37:54 ID:SX7BEDRc
>>224
だな。城下町まで含めて作り上げるならともかく、天主だけあってもほとんど意味がない。
227人間七七四年:2009/09/05(土) 18:46:51 ID:X7+lmdx0
私有地
228人間七七四年:2009/09/05(土) 21:32:17 ID:ckJay8Pd
このさい田舎とかは関係ない
東京ディズニーランドも千葉の田舎だった
やるなら当然城下町も含めてがベストだけど
この再本丸だけでもとりあえず良い
だだし店主の内部はちゃんと信長の居住空間も完璧に再現すること
安土城は日本でただ一つ君主の居住スペースを持つ天主を持つ城なんだからさ
当然豪華な障壁画とかもありで

229人間七七四年:2009/09/06(日) 18:39:32 ID:Mh10kwT2
推定復元は要らない。
たとえ屏風が発見されても推定でしかない。
今現代、唯一可能性があるのは天主指図と発見された
屏風の外観が一致することという奇跡。
230人間七七四年:2009/09/06(日) 19:42:25 ID:oBRJEOOP
「火天の城」スレで書いたんだけど、この映画の安土城って他の城(姫路城とか)みたく
天主土台石垣上面と店主最下層床面の寸法が同じじゃなくて、一回りデカい石垣の上に
天主の建物のっけてんだよね。最新考証じゃこうなのか?
231人間七七四年:2009/09/06(日) 20:34:18 ID:3fXFzubt
↑無知。
232人間七七四年:2009/09/06(日) 21:01:53 ID:OwbgZcjH
233人間七七四年:2009/09/07(月) 19:25:37 ID:2SPqXfDP
232の画像が見れないから残念なんだよなぁ
もう一回載せてくれぃ
234人間七七四年:2009/09/07(月) 20:43:09 ID:IfZevSgF
お袋方の祖父の墓参りついでに10年振りに登ってきた

昔はなかった麓の虎口に感激したが石垣の上からコンクリで斜面作るとか舐めてるのかと
これで特別史跡を謳うのだから少しあきれる

しかし大手道はすごかったわ
小さな頃登ったときは秀吉の屋敷のあたりで左折した気がしたが、こんな大きな道だったとはね

お陰で足の筋がパンパンだぜ
235人間七七四年:2009/09/07(月) 21:52:42 ID:DtLAc4BQ
戦国期の山城だから木を全部切っちゃえばいいのに。
236人間七七四年:2009/09/08(火) 01:29:11 ID:WvReh90q
>>233
URLを右クリックでコピー

URLバーにペースト
237人間七七四年:2009/09/08(火) 10:58:32 ID:HXqH+wMU
>>236
それが 画像がありません で見えないのよ
238人間七七四年:2009/09/08(火) 13:12:28 ID:yFlrdq2S
>>232見てみたいけど、他に見れるとこ無いの?<<最新
239人間七七四年:2009/09/08(火) 19:31:35 ID:NAw8zB/g
佐藤案だよ。
信長が廊下でジョギング出来るようにと
健康嗜好の現代的な解釈。
240人間七七四年:2009/09/09(水) 01:14:32 ID:vIaxWF0G
>>238
最新

成瀬案
http://www.free-style.biz/book/img/cgsengokunobunagasenki.jpg

佐藤案
http://home.hiroshima-u.ac.jp/miurayu/index.html
http://deagostini.jp/azc/
___________________________
少し前

西ヶ谷案
http://www.free-style.biz/book/img/nihonnosiro.jpg


宮上案
http://larla.img.jugem.jp/20060403_62656.jpg
http://www.free-style.biz/book/img/sengokunosiro2.jpg
__________________________
その前

内藤案
http://www5f.biglobe.ne.jp/~sans-culotte/20050105a.jpg
_________________________
もっと前

岡田案
http://www.free-style.biz/book/img/rekisidokuhon200808.jpg
241人間七七四年:2009/09/09(水) 01:18:48 ID:+a8FbIu6
>>240
> 成瀬案
> http://www.free-style.biz/book/img/cgsengokunobunagasenki.jpg

こういっちゃ何かもしれないが、近世初期の5~10万石程度の大名の居城程度だな。
242人間七七四年:2009/09/09(水) 02:32:29 ID:9iD4tY2x
安土城の価値はやっぱ
天守では無く天主があったとこだろ
守備のための単なるやぐらでしかない天守ではなく
信長の宮殿といえる天主
これがあった城は安土城だけ
243人間七七四年:2009/09/09(水) 03:20:07 ID:SsWmRsdc
「天主」が宮殿かって言えば、それもまた違うような。

宮殿にしては狭苦し過ぎる。
244人間七七四年:2009/09/09(水) 10:15:07 ID:CpPuIUkO
>>241
どこが??
20万国の高知城よりも立派に見えるが、、、
245人間七七四年:2009/09/09(水) 20:38:36 ID:6oGVMO3w
>243
それは、後の近世城郭の本丸御殿や御所等との比較だろう。
当時の城郭としてはそれほど狭くもないのではないのかな。
それに、天主は御殿の一部で二の丸にもそれなりの建物が有ったと思われるし、御殿として造られていたとすれば、広さ自体は関係ないのでは。
246人間七七四年:2009/09/10(木) 00:46:03 ID:xUQMxRjA
天主の最上階で住んでたんでしょ。
で、吹き抜けでしょ。
三段論法でわかるでしょ。どうして、吹き抜けにしていたのかはw
わからない人って文系?
247人間七七四年:2009/09/10(木) 02:04:36 ID:mcTPnbxJ
>>246
お前は前田スレから出てくるな
248人間七七四年:2009/09/10(木) 02:38:21 ID:cDlAZigV
ちょ・・・二の丸の石垣が低すぎなんじゃ・・・
測量データに基づいてるんかいな?
ttp://home.hiroshima-u.ac.jp/miurayu/images/azuchi-m.jpg
249人間七七四年:2009/09/10(木) 08:01:50 ID:TXNqWoNI
>>246
はっ?
何言ってんの?
全然わからないな。
まさか、最上階の部屋が狭いから天主が信長の御殿じゃないと言いたいわけ?
吹き抜けがあったから、居住スペースが狭いよと言いたいわけ?
頭かたすぎなんじゃない。
250人間七七四年:2009/09/10(木) 16:19:27 ID:eVyrv4HL
>>248
二の丸なんて写ってないじゃん、天主の外観だけじゃん
251人間七七四年:2009/09/10(木) 22:09:51 ID:TXNqWoNI
>>250
左下の切欠き状に欠落している部分が二の丸の部分を除いた表現になっている。


          /
         /
        /
       /
      ------    ←この部分が二の丸の高さ
             /
            /
           /
          /
252人間七七四年:2009/09/11(金) 00:55:25 ID:hiJ8kEos
>>251
佐藤氏案を除くどの復元案や滋賀県の報告書でも本丸地表から天主台までの、
二の丸と本丸取付台はほぼ同じ高さなんだけどね
253人間七七四年:2009/09/11(金) 15:23:21 ID:q0GpclJ9
>>251>>252
むむむ、よくわからん、、、
254人間七七四年:2009/09/11(金) 19:38:37 ID:0d3hyz+b
255人間七七四年:2009/09/11(金) 19:52:21 ID:0d3hyz+b
>>254は >>253宛て
256人間七七四年:2009/09/12(土) 10:44:46 ID:mrIwYDwZ
>>253
おまえ、安土城の縄張り全然知らないだろう。
257人間七七四年:2009/09/12(土) 13:59:16 ID:rwIqHJcy
253ですが
つまり天主台最上部と二の丸の高低差が5,6メートルのはずだけどそれ以上に高く感じるってこと?
それなら逆に天主台が高すぎと書けば良いのでは、、、

>>ちょ・・・二の丸の石垣が低すぎなんじゃ・・・
これじゃあ、二の丸を支える石垣、もしくは二の丸からあがる石垣と捉えられても仕方ないかと、、、
無知ですまん
258人間七七四年:2009/09/12(土) 23:42:30 ID:mrIwYDwZ
>それなら逆に天主台が高すぎと書けば良いのでは

それは無い。
見た感じでは天主台の縦横比はそんなにおかしくない。

更に言えば佐藤案が天主台の高さを何尺と推定しているかは具体的には知らないが、この図は南面から見た図だが実際の東西方向の寸法との縦横比からみて、内藤案の44.50尺と佐藤案もほぼ同じくらいと思う。
この寸法からして、おかしいのは天主台の高さじゃなくて二の丸の高さ。
ちなみに>>252が指摘している様に、実際は二の丸と天主取り付け台の高さはほぼ同じなんだけど、>>248の貼った画像を良く見ると右下にある横線(天主取り付け台を示す線)と、左下の二の丸高さを示す線と明らかに高低差があり、実際と合っていない。
259人間七七四年:2009/09/15(火) 18:20:24 ID:tZCJDUnt
260人間七七四年:2009/09/16(水) 12:15:42 ID:/gUtzC1F
火天の城見てきた
最後に信長が天主から見下ろすシーンは最上階かな
どう見ても4間あったな
261人間七七四年:2009/09/16(水) 17:30:46 ID:bqQuEfY+
262人間七七四年:2009/09/16(水) 18:00:55 ID:/gUtzC1F
仕方のない話だけれど中井家、池上家ともに明らかに後世の影響を受けた様な
天主だな
263人間七七四年:2009/09/16(水) 19:39:48 ID:gsyr2Gt2
なぜ安土に城を作ったの?よく、京都と岐阜の真ん中だからって言われるけど、新しい城が出来ると、岐阜はただの分国になるんだろ?もっと京に近い草津とか、それこそなぜ大坂に城を作らなかったのかな。敵を牽制するのにも良いと思うけど
264人間七七四年:2009/09/16(水) 19:49:08 ID:CbcOPe67
>>263
当時の信長の領国だと、京や大阪だと西に寄りすぎる。
安土だと真ん中くらいで便利。
265人間七七四年:2009/09/16(水) 20:45:47 ID:w1gzyw6Y
天下平定した後で大阪に作る予定だったのでは?
266人間七七四年:2009/09/16(水) 22:34:50 ID:zzFZDIYO
>263
たぶん信長が天下を平定した後は、信長中心に世の中が動くと考えていたんだろう。
そうなれば、京なんて関係ない。
安土が世の中の中心。

なぜ、草津じゃなくて安土かと言うのは明確じゃないけど、俺は西の湖があったからだと思っている。
安土山は琵琶湖には直接面していなく、現在の西の湖の半島になっていた。
西の湖の入口は狭く、防備上のメリットを感じたのかもしれない。
267人間七七四年:2009/09/16(水) 23:23:31 ID:gsyr2Gt2
↑ 安土で一から町づくり するのに意義があったんかな。地理的なものはよく解らないけど、町も大きく広がせられる地形だったんかな
268人間七七四年:2009/09/17(木) 01:27:32 ID:rqRo20h1
>>267
> 町も大きく広がせられる地形だったんかな
ぜんぜん。城も町もせまっくるしい。

安土城は織田政権の中心と言うより、ある種の隠居城だと考えたほうがいいと思うぞ。
269人間七七四年:2009/09/17(木) 01:56:29 ID:Osnwsa3g
やっぱり大坂だろ毛利と四国平らげた後は。
270人間七七四年:2009/09/17(木) 02:11:22 ID:rqRo20h1
信長が天下取った後の政庁の所在地は伏見だと思う。

ちなみに良く誤解されるが、豊臣政権の中心地も伏見だった。
大阪は豊臣家の私的な城にしか過ぎない。
271人間七七四年:2009/09/17(木) 07:03:46 ID:CTJtny1O
安土城は信長がお墓として建てたんだと思う。
雨漏りしないようにわざわざ瓦を使ったことも、天主台の礎石が中心部だけないのも、そこから壺のかけらが出てきたこともすんなり説明できる。
272人間七七四年:2009/09/17(木) 09:01:13 ID:KnDnmfTY
台所は本丸の北に有るが、湯殿(蒸し風呂?)はどこにあったのだろうか
水の運搬を考えると台所郭や八角平の近辺だろうか?
本丸御殿の北側の軒下に台所郭方面に流れる構造の枡や排水溝が集中してるのも気になるが
273人間七七四年:2009/09/17(木) 14:29:30 ID:7+Xkplum
>>26
安土築城時すでに信忠に家督譲渡してるしな。
信忠の直臣団が漸次強化されていくのと反対に
信長が前線に出張るケースは減っていくから
政権の中心からは少しずつ離れている感じだね。
所司代を置き、複数回検地を行っているように
信長が最も統治に力を入れたのは京都(山城)だろうから
本命は洛中だと個人的には思うんだけど。
勿論大坂、伏見あたりでも問題は無いね。

274人間七七四年:2009/09/17(木) 14:30:21 ID:7+Xkplum
あ、273は>>268宛てね
275人間七七四年:2009/09/17(木) 20:01:30 ID:Osnwsa3g
信長は日本平定の後は大陸に進出して北京に政庁を置く予定だったんだよ。
276人間七七四年:2009/09/18(金) 00:13:38 ID:weT9hwPk
おまいらは、観音寺山城のことをお忘れか
言いたいことわかるなwww
277人間七七四年:2009/09/18(金) 09:10:41 ID:4qS0+zt0
観音寺城を取られたら、「終了~っ!!(カンカンカンカン!!)」ってか?
278人間七七四年:2009/09/18(金) 09:42:51 ID:7MSGc1Q/
安土築城以降史料に現れなくなるから語りようが無いだけだと思うけど。

まぁ、おそらく廃城になったんだろうね。規模はそれなりにデカイけど
格別堅城だったわけでもないみたいだし。
もし敵が高位の観音寺山に陣取れば安土は殆どアウトでしょ。
結局信長は安土に軍事的防御力を求めていなかったって事かね。
279人間七七四年:2009/09/18(金) 10:02:57 ID:oOrLvrNr
篭城する気が無かったのと、戦ならもっと戦いやすい所へ行くのでは?
280人間七七四年:2009/09/18(金) 11:04:08 ID:6LKn8LwB
安土城って、秀吉でいう山崎城的なものか、聚楽第的なものか、どうなんだろう? 天皇を迎え入れる御殿が本当にあったとすれば、聚楽第かな… 単なる天主を見せるための城って感じがする。
281人間七七四年:2009/09/18(金) 12:11:28 ID:dCsn+FGw
湖のそばのリゾートに作った別荘
282人間七七四年:2009/09/18(金) 16:57:06 ID:nYMbKEhl
なぜ、家康は大阪城を再築して安土城を再築しなかったのか?
283人間七七四年:2009/09/18(金) 19:19:05 ID:7ghB+xC2
織田恩顧の家臣は秀吉が全滅させてしまったし、立地的にも使い勝手が悪いからだろ。
284人間七七四年:2009/09/18(金) 19:35:34 ID:oOrLvrNr
安土の城下は廃れているでしょう。その点大坂は商業の町として
使えるからじゃないの。
285人間七七四年:2009/09/18(金) 20:17:15 ID:es8c3Iy4
>>282
ヒント
岐阜城→加納城
清洲城→名古屋城
286人間七七四年:2009/09/18(金) 22:10:57 ID:s0p3Taom
石山本願寺以来の堅城で、西国にいる豊臣恩顧の武将に睨みを利かせる立地だから。
287人間七七四年:2009/09/18(金) 23:47:31 ID:dCsn+FGw
安土なんて海に面して無いし、琵琶湖の湖水流通を考えても
いい港があるわけじゃないからその中心にすらなれない。

どう考えても政治にも経済でも、中心地とするには不適格。
288人間七七四年:2009/09/19(土) 09:46:03 ID:1SXiEJEW
信長の墓所になっていたからだよ。
289人間七七四年:2009/09/19(土) 10:04:29 ID:eT5KDyBR
>>282
秀次の近江八幡築城に伴い安土城の残存建築と城下はもろとも移動したから安土城は不用になっただろ
290人間七七四年:2009/09/19(土) 12:41:52 ID:9YHcOYaZ
今の近江の中心は、安土や近江八幡や彦根のある湖東から、大津などの湖南に移っちゃったな。
291人間七七四年:2009/09/19(土) 15:28:10 ID:KAQSIoUH
>>262
あのデザインはないわw
余りにも安易すぎるだろ
292人間七七四年:2009/09/20(日) 21:28:59 ID:kfTAvPUx
>>287
その条件だったら京都や鎌倉も駄目じゃん。
あと北京、洛陽、ロンドン、パリ、マドリード、ベルリン、、
293人間七七四年:2009/09/20(日) 22:45:36 ID:YAGREETr
>>292
時代的なものもあるだろ

少なくともあの時代で安土は無いわな。
294人間七七四年:2009/09/20(日) 23:41:47 ID:6Ltliozs
一番天下を下知ることができたのは、稲葉山城でまちがいない
これに異論はないはずでござる
295人間七七四年:2009/09/21(月) 00:04:09 ID:iqKN01d3
本丸付近に長谷川屋敷いうものがあるけど、どういう人?敷地もデカくて優遇されてる気がするが…
296人間七七四年:2009/09/21(月) 00:26:30 ID:I3MMsRUj
>>293
意味わからんけど信長の目標が大陸なら、九州で指揮するだろうし、
朝廷と共存するなら京都周辺で安土も悪くないし、
安定志向ならば家康みたいに地盤強固な岐阜、清洲に帰るだろうし。
権力者は別に経済に縛られずに動けるでしょ。

個人的にはむしろ京都・大阪は無いと思う。
京都だったらもっと早く移れたわけだし、秀吉と違って京風は全く信長の趣味じゃ無いと思う。
大阪だって安土から十分支配できるわけで、出向いてまで支配強化する土地でもない。
現に秀吉も大阪に出向いてないし。
297人間七七四年:2009/09/21(月) 14:36:25 ID:I3MMsRUj
長谷川竹
298人間七七四年:2009/09/22(火) 03:48:12 ID:9Gwc5zcs
内藤案と西ヶ谷案のかっこよさは群を抜いてるな
299人間七七四年:2009/09/22(火) 08:04:03 ID:oDl7jj0Q
↑無知
300人間七七四年:2009/09/22(火) 12:45:17 ID:G2xW/oYf
>>296
大阪の支配権で石山本願寺と10年も争ったのに?

>>299
アホですか?
301人間七七四年:2009/09/22(火) 13:11:03 ID:oDl7jj0Q
ミーハー耶漏は内藤や西ヶ谷にコロッと騙される。 
302人間七七四年:2009/09/22(火) 18:47:53 ID:W7+gXWnh
>>300
10年前に欲しがったからって、10年後も重要とは限らない。
それに本願寺が退去した後、大阪に築城・移転の気配が無い。
信長の移転スピードはいつも恐ろしく早いのに、それが無いという事は、
かなり望み薄い。
303人間七七四年:2009/09/22(火) 19:07:03 ID:OzBSevjd
>>298
けばけばしい色彩の兵頭与一郎案も中々かっこいいぞ
304人間七七四年:2009/09/22(火) 19:55:54 ID:CssLX3Nx
内藤案と西ヶ谷案のプラモが出たら確実に買うな。
宮上、成瀬はいらね。
童友社以外で頼むわ、出来たらタミヤかバンダイで。
305人間七七四年:2009/09/22(火) 20:04:33 ID:CssLX3Nx
>>302
毛利・九州平定後大阪に安土よりでかい天主を立てる計画があったそうだ。
どちらにしても安土は首都と考えていなかったのが事実のようだ。
まー大阪や京都より安土の方がロマンがあるといえばそうだが。
306人間七七四年:2009/09/22(火) 20:50:55 ID:Zp1oxYBc
信長が安土城主だった時、信忠は岐阜城主だったの?後々、信忠に大阪城を作らせた気がするな。安土城はやっぱり信長の隠居城かな。
307人間七七四年:2009/09/22(火) 21:46:11 ID:oDl7jj0Q
>>305
夢精ですか?
308人間七七四年:2009/09/22(火) 22:49:48 ID:hCUd6KkM
>302
天守の大きさでしか考えられないのか?
拠点毎に家臣をおいて拡大した領地を支配するのは当たり前の事なので、天守が大きいからと言って信長が入るとは限らない。
柴田勝家の北の庄城は安土を上回る9層天守だった。
309人間七七四年:2009/09/22(火) 23:01:41 ID:4Ly0YAR7
>>308
それ本当かなあ?
どっかに指図とかあるの??
310人間七七四年:2009/09/22(火) 23:09:47 ID:CRgYT/2k
>>296
どれもこれも安土でなければならない理由になってない。
311人間七七四年:2009/09/22(火) 23:10:47 ID:LaVTY+UL
信長の志向として次に攻める相手の近くに本拠地を構えたがる習性があるから
いずれは安土→大阪→名護屋→ソウル→北京→イスタンブールと遷都したであろう事は想像に難くないよ。
312人間七七四年:2009/09/22(火) 23:27:24 ID:hCUd6KkM
>>310
ちょっとググればいくらでも出てきそうだが・・・・
とりあえず現地案内板に書いてある。

ttp://imagepot.net/view/125362951304.jpg
313人間七七四年:2009/09/22(火) 23:29:33 ID:hCUd6KkM
urlをプラウザにコピペしないと見れない様だ。
314人間七七四年:2009/09/23(水) 09:09:42 ID:3GZ3cOV5
西ヶ谷案は八間の本柱を5~7層用の通し柱として使ってるだろ
あれは天主よりも高い足場を造って上から落とし込まないと、当時の技術じゃ運びあげるのは不可能じゃないか?
315人間七七四年:2009/09/23(水) 14:14:50 ID:azIei7Ul
信長ファンの7割は内藤案であって欲しいと願っているのが現実
西ヶ谷は内藤案に同意しておきながら宮上案に寝返ったので信長ファンから嫌われ
建築案も首を傾げる内容も多い
最近じゃ何処の書籍も相手にされていない
316人間七七四年:2009/09/23(水) 15:46:16 ID:dBR9xyWK
>>311
×信長の志向として次に攻める相手の近くに本拠地を構えたがる習性

○勢力圏の中心近く
317人間七七四年:2009/09/23(水) 22:17:32 ID:Pbs2t0h9
↑清洲城→小牧山城→岐阜攻め。 小牧山城→岐阜城→浅井朝倉攻め
318人間七七四年:2009/09/23(水) 22:52:19 ID:+Ro43n3f
安土城より隣にある観音寺山城の方が凄い!
319人間七七四年:2009/09/24(木) 00:26:28 ID:VsuE9faL
>>308
柴田勝家の北の庄城は安土を上回る9層天守だった。

かなり信憑性にかけるよね。とうじ光秀の坂本城が4重じゃなかったけ??
北の庄は天正3年て事は安土とほぼ同時期だけど、天守の設計、棟上が安土よりも後なら
安土を上回るものを設計したとは考え難い。これは秀吉政権における他大名の天守と同じ事。
仮に安土よりも構想が先にあったのなら信長はそれを上回るものを作ったのではないだろうか。

もしくは9重があまりにも不安定、もしくは格好悪かったので5層にしたか、、、
320人間七七四年:2009/09/24(木) 01:14:01 ID:mHSBkFRD
琵琶湖の周辺には、織田系の城が四つあった。北から時計回りに長浜(秀吉)安土(信長)坂本(光秀)大溝(津田信澄)。
向かい合う二つ、安土と大溝、長浜と坂本を直線で結ぶとこの二つの線は直角に交わる。つまりこれら四つの城は、ほば完全なひし形の頂点にそれぞれ位置する。
しかも安土山からは、ほかの3つの城すべてを直接目視できる。琵琶湖の周辺には安土山より高い山もあり、安土から琵琶湖周辺のすべてが見渡せるわけではなく、これは決して偶然ではない。
これは10年前に亡くなられた元京都大学教授、足利健亮氏の指摘した事実。
321人間七七四年:2009/09/24(木) 01:43:10 ID:NyZI2V58
>>320
それは知っているが、それでなにがいいたい?
322人間七七四年:2009/09/24(木) 06:07:14 ID:1DBDtzI5
>>308
秀吉サイドの誇張だよ。見事に騙されたね。
323人間七七四年:2009/09/24(木) 08:02:10 ID:K2pSn0ts
>>320
逆に言えば安土にはその程度の機能しか無いって事だ。
324人間七七四年:2009/09/24(木) 23:09:01 ID:mFW+46dU
>>319
>>322

べつに信憑性はどうでもいい。
九層じゃ無かったと否定する事実もない。
天守が大きいから信長が居城をそこに移す計画だったという限定的な考えがおかしいと言いたいだけだ。
325人間七七四年:2009/09/25(金) 00:06:22 ID:TxgeMC/o
北の庄城って、居酒屋的な機能面に優れていたと聞く
よろこんで部隊が国境に出没し、めったやたらには侵入できなかったらしい
ほっけ爆弾とか飛び道具も満載していたらしい
326人間七七四年:2009/09/25(金) 00:29:13 ID:qMWARZVA
>>320
当時の琵琶湖水運の重要性がわかるね。
琵琶湖を制するものは京を制す?
327人間七七四年:2009/09/25(金) 15:54:56 ID:VA8YIWct
北の庄城は九層じゃなくて九重だと思う
安土城の重が少ないのは天主が山頂にあり、風雨の影響も考えてのことではないかと
328人間七七四年:2009/09/25(金) 22:17:30 ID:TeS87rAw
秀吉の手紙では9重 当時は層と重の区別がはっきりしてなかった。
ただ秀吉は北の庄の天主に登ったわけではないのでパッと見で9重あったんじゃない?
もしくは破風が多く9重に見えたか、、、
329人間七七四年:2009/09/25(金) 23:30:21 ID:ijqtoSMQ
>>326
美濃を制する者は天下を制すだろw
330人間七七四年:2009/09/25(金) 23:55:30 ID:T489/zDC
>>329
それ司馬遼太郎の創作
331人間七七四年:2009/09/26(土) 02:55:48 ID:jJ8Qwy2I
京を制する者天下を制すだろw
当時の琵琶湖は商業地と発展していたけど
京に比べて旧勢力が少なかったから信長が楽市楽座で
完全掌握したんだよ
332人間七七四年:2009/09/26(土) 05:25:50 ID:UQSLVsBJ
>>328
だから、秀吉の誇張だって言ってるじゃん。
家臣の勝家が主君より大きな天守を建てる訳ないだろう。
赤ん坊だって判る論理だよ。

自分かこれから建てる大阪城天守が、信長のそれを上回る規模であることを
正当化する為の喧伝。

333人間七七四年:2009/09/26(土) 06:29:29 ID:SBIA1Fdo
大内義興 周防
細川京兆家 摂津・丹波
三好 阿波
織田 尾張・美濃
東から伸張してきた織田にとっては京と美濃との連絡路として
近江が重要だっただけの話だと思うけどね。
334人間七七四年:2009/09/26(土) 06:51:50 ID:UQSLVsBJ
近江は、織田(津田)氏発祥の縁の地。
335人間七七四年:2009/09/26(土) 07:29:58 ID:Ism/j8y0
>>332
言い切るんだったら根拠となる事実を示そうね。
336人間七七四年:2009/09/26(土) 08:09:52 ID:UQSLVsBJ
>>335
安土を上回る規模の天守が、信長の生前に建てられよう筈がないことは赤ん坊だって判る論理だよ。
また、信長の死後、一年足らずで建てられたとも考えられない。
 
337人間七七四年:2009/09/26(土) 08:43:46 ID:Ism/j8y0
だから君のなかの理屈を聞いているんじゃなくて、断定するんだったら根拠を示そう。
根拠がないんだったら、あらゆる可能性が有るのだから、他人の意見を封じ込める様な言い回しはやめよう。
338人間七七四年:2009/09/26(土) 09:01:57 ID:UQSLVsBJ
だったら、君こそ秀吉の書簡以外にそれを裏付ける史料を提示してくれたまえ。
客観的に考え、何時ごろ「九層」の天守が計画され建てられたというのかな?
339人間七七四年:2009/09/26(土) 09:31:17 ID:gKTVgodM
>>338
書状のような「記録」すらない君の推測だけの説とj比べられてもねえ…
340人間七七四年:2009/09/26(土) 09:42:35 ID:UQSLVsBJ
嘘や誇張が常套の史料に振り回される愚かさよ。



阿ー免。
341人間七七四年:2009/09/26(土) 10:28:19 ID:4yLXVXdf
秀吉の大坂城や伏見城は五重だけど、
蒲生氏郷の会津城は七重じゃなかったか?
342人間七七四年:2009/09/26(土) 10:40:47 ID:MNI3I/+c
>>332自分かこれから建てる大阪城天守が、信長のそれを上回る規模であることを
正当化する為の喧伝。

秀吉の大坂城は5層15間 信長の安土城は5層15間半 どの点で上回っているのでしょうか。

343人間七七四年:2009/09/26(土) 11:36:05 ID:8YcklIwU
天主はなんでその後作られなくなり、
天守になったのかな?
344人間七七四年:2009/09/26(土) 11:43:36 ID:UQSLVsBJ
>>342
秀吉の大坂城天守は、内部七重~九重(付矢倉を含め?)と考えられる。
345人間七七四年:2009/09/26(土) 17:21:36 ID:sTHlKJWd
残念だが九層という記録と慶長年間に描かれた想像図くらいじゃ復元は難しいな

慶長越前国絵図
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org186751.jpg
346人間七七四年:2009/09/26(土) 17:33:47 ID:sTHlKJWd
慶長越前国絵図は慶長年間に描かれたものだが、
高欄が安土や駿府のように複数あるのは興味深いな
たんなる想像なら白亜五層で層塔型のありふれた天守でもよさそうだが
347人間七七四年:2009/09/26(土) 18:16:09 ID:UQSLVsBJ
張り出しなんか見るに、もろ福井城の天守じゃん。
おそらく勝家の時代を想定し、より古風に描かれたんだろうね。
348人間七七四年:2009/09/26(土) 20:24:59 ID:4jfPzmjb
「火天の城」で採用されなかった案を秀吉(勝家)が気に入って、
二重(石倉と望楼部にそれぞれ一重)加え、九重の大坂(北ノ庄)城を建てたというのはどうだらう?
349人間七七四年:2009/09/26(土) 20:54:08 ID:4jfPzmjb
秀吉は丹「羽+柴」田の名前から解るように、常に重鎮・勝家へのライバル心をバネに、出世街道を突き進んできた男。
信長亡き後、滅ぼした勝家の北ノ庄(九重)天守に対抗して、大坂城(九重)を建てようとしたんジャマイカ?
つまり豊臣大坂城の直接的なライバルは、(単体では安土城より高かった)柴田北ノ庄城。両方とも同じ平城だからひたすら高さで勝負w
天守のデザインは、ねねの顔を立てて、ねね好みの(高台寺)蒔絵と長浜名物黒壁(スクエア)で仕上げて、ねねの内助の功に報いたとw
350人間七七四年:2009/09/26(土) 23:46:08 ID:Ism/j8y0
>>338
別に、「証拠」を示せなんて言って無いよ。
「事実」が無いのかと言っている。
研究者の間ではそう考えられている。というたぐいのやつも事実の内だよ。
それが無いに断定的な言い方をして他人を封じ込めるような書き方は良くないと言っているだけだ。

今朝は時間が無かったので、そのことだけを書き込んだけど、俺は違う考えを持っている。
君は目線が低いと思うな。
たとえ柴田勝家が入っている城とはいえ、対信長勢力にとっては信長の城だよ。
北の庄の地は、対上杉を考えた上で重要な地。
天守の戦略的価値に気がついていた信長だったら、自勢力を対外的に示すために巨大な天守を建てさせるくらいのことはやったんじゃないかと思う。
北の庄城の場合、その立地から平城だったはずだけど、安土城の様に巨大な天守台が無かった可能性もある。
安土の場合2m程度下に地山の岩盤があるが、北の庄は河川の近くで岩盤の上に建っていたとは思えない。
その場合天守台が低かった可能性もあり、その分上物を高く築かないとその大きさを示すことができない。
結果として高層の天守が必要となった可能性も考えられる。
信長にとっては、柴田に預けた自分の城だという感覚だったかもしれない。
天下統一を考える人間が、家臣だから自分より大きいのは駄目だなんて小さいことを考えていたとは思えない。
351人間七七四年:2009/09/27(日) 02:34:04 ID:/aJAjXQl
織田家にとって越前は特別な地だしね
352人間七七四年:2009/09/27(日) 07:17:44 ID:3n8vBilZ
>研究者の間ではそう考えられている。というたぐいのやつも事実の内だよ。

それで騙される奴が如何に多いことか。
権威を鵜呑みにせず、ちゃんと自分で調べて考えなきゃね。 
353人間七七四年:2009/09/27(日) 07:59:55 ID:zbXMSbc/
天主指図って結局なんなんだろな?
354人間七七四年:2009/09/27(日) 08:11:39 ID:zbXMSbc/
天守指図だった
安土城の指図である可能性はどれくらいあるんだろ
資料(安土城の)としてどれくらいの価値として扱われてるんだろうか?
355人間七七四年:2009/09/27(日) 10:20:22 ID:j6P0yJ24
単なる練習用だろ。価値なんてゼロじゃないの。
356人間七七四年:2009/09/27(日) 12:17:48 ID:VDuqmgwH
株式会社ウッディジョーの安土城
ttp://thumbnail.image.rakuten.co.jp/s/?@0_mall/fromhands/cabinet/woodyjoe/azuchi-3.jpg
いくら想像とはいえ、二層目北側の破風を伴う寄せ棟の部分は松本城大天守や金閣のような振り棟にするのが現実的ではないのだろうか・・・
このままだと軒が出過ぎだろ
357人間七七四年:2009/09/27(日) 12:46:23 ID:IOfTGb6p
天守指図が偽書だとなると、(天守指図を元に某N先生が復元した天主台の上で捏造された)宮上案を始め、他の復元案も成り立たなくなる罠w
解るかな~?解らねぇだろうな!w
兵頭案と西ヶ谷案は、発掘結果を一切無視して独自の天主台を捏造しているから、(「天守指図」以前の復元案同様)天守指図の真偽とは無関係。
よって天守指図が偽書だとしても、この2案だけに成立する可能性は残されているがなw
358人間七七四年:2009/09/27(日) 12:53:20 ID:VDuqmgwH
そこで渋谷五郎氏案が登場!
359人間七七四年:2009/09/27(日) 21:59:44 ID:3n8vBilZ
>天守指図を元に某N先生が復元した天主台の上で捏造された

意味不明。
360人間七七四年:2009/09/27(日) 22:27:31 ID:RFY4+Wm+
俺も初めは分らなかった。
そのまま読むと、N教授が遺構の天主台を天守指図と同じになるように、崩れて無くなっている部分を復元した。
その天主台に合わせて復元されている、他の人の復元案も、実は指図に知らないうちに合わせてあったことになるので、指図の平面を使っていることになる。
と言いたいのではないかな?
361人間七七四年:2009/09/27(日) 22:42:12 ID:MXm5CFBn
宮上案と兵頭案は内藤氏が測量したデータを使ってるだけで内藤氏が復元した天主台とは別物。
で、内藤案の天主台は現存している鉛直部分の天主台石垣を測量し、それをベースに、天守指図にあわせるために崩壊箇所に扇勾配を付けている。

362人間七七四年:2009/09/27(日) 22:59:15 ID:MXm5CFBn
補足

宮上、兵頭、西ヶ谷、佐藤案の天主台石垣はいずれも鉛直だから、それらに天守指図の一層目を乗せてもはみ出す
したがって、内藤氏による現存箇所の測量データを除いて、天主台上部の復元箇所と天主台の平面規模は内藤案とは関係ない
363人間七七四年:2009/09/27(日) 23:13:00 ID:RFY4+Wm+
>>362
鉛直って??
天主台角部の直線部分の事を言っているのかな?
鉛直とは、重力の方向って意味だよ。
つまり水平に対し、直角方向。
364人間七七四年:2009/09/27(日) 23:25:36 ID:MXm5CFBn
言い方がおかしかったか・・・

宮上氏と兵頭氏が参考にしてるのは内藤氏の扇勾配を除いた現存石垣の直線部分だけってこと
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org193368.jpg
365人間七七四年:2009/09/27(日) 23:50:57 ID:3n8vBilZ
何れにせよ確かなのは、>>357は阿呆だってことだな。
366人間七七四年:2009/09/28(月) 08:15:13 ID:v9Pc7DMg
367人間七七四年:2009/09/28(月) 14:06:33 ID:uYkVyQM7
>>356
なにその伊勢戦国村
368人間七七四年:2009/09/29(火) 00:06:20 ID:FphOpbhp
そもそも、安土に信長在城時、城内にどのくらいの数の兵をいれていたのかな?
あと、安土城近辺も合わせて、どのくらいの兵数だったのか知りたい。
369人間七七四年:2009/09/29(火) 12:28:04 ID:WAGyI3rE
吹き抜け説の橋には「かうらん(高欄)かど(角)、ぎぼうし(擬宝珠)」と書かれていることから、
橋の真ん中に書かれてる4本の柱を(擬宝珠ではなく)上階への通し柱にして、
望楼部の荷重を地階(宝塔両脇)から立ち上がった2本の大通柱に繋げて負担させれば、
後期望楼型である姫路城天守とほぼ同じ構造となり、何の問題もなく成立する。

下の階の梁を繋げるための臍穴を開けなくて済むため、安土城の大通柱に姫路城ほどの太さは必要なし。
370人間七七四年:2009/09/29(火) 23:19:40 ID:0hQSnU2J
話をもどしてすまんが、秀吉の内部9重というのは誰情報なんだよ。
ついでに、北の庄の9重は秀吉情報だけど、秀吉の兵が実際に天守に登ったことはないのだから
秀吉のデマかもしくは外観9層だろ。内部9重という事はない。
371人間七七四年:2009/09/29(火) 23:46:25 ID:vkDa5aWO
待て、望楼型で外観9層となると内部は15階ほどか?
372人間七七四年:2009/09/29(火) 23:53:47 ID:KwGLS+q4
秀吉の兵が登らなくても脱出した茶々たちは知ってるだろう。
内部九重の可能性がないとはいえない。
373人間七七四年:2009/09/29(火) 23:53:55 ID:vkDa5aWO
>>370
>秀吉の内部9重というのは誰情報なんだよ。

大友宗麟 「橋敷以上九ツ」

フロイス 「第八階まで」

吉川経安 「大天守ハ八重ニテ候」

374人間七七四年:2009/09/29(火) 23:58:16 ID:vkDa5aWO
ああ、北ノ庄の話だったな
大坂城と北ノ庄がごっちゃになってたわ


↓は大坂城天守の話

大友宗麟 「橋敷以上九ツ」

フロイス 「第八階まで」

吉川経安 「大天守ハ八重ニテ候」
375人間七七四年:2009/09/30(水) 00:14:27 ID:zcchQP0E
なんだ、だれも、安土城の信長在城時の兵力知らないのか
376人間七七四年:2009/09/30(水) 00:25:40 ID:RD5mvXw6
兵というのは戦の前に徴集するものだろ?
織田軍団10万が常に城内に待機してるわけではない
377人間七七四年:2009/09/30(水) 00:33:05 ID:OCBB9Ev5
大体信長は安土の城下町の整備の時点で、ようやく旗本を城下に集合させようとした、
程度の軍制だ。

ろくに軍勢なんか抱えちゃいないよ。
378人間七七四年:2009/09/30(水) 02:47:39 ID:IeRfcoMQ
てか当時安土に大軍なんて必要ないし。
軍団長の居城が東西南北に置いてあるじゃん。
まあ、その一人に裏切られたけど。
379人間七七四年:2009/09/30(水) 07:10:56 ID:PS7g44kL
彦根城は大津城の移築だっていうのは有名だけど、その大津城は坂本城の移築だって言いのはデフォ?
本能寺の変の後、明智坂本城は焼失(残念!)。次に坂本城城主となって丹羽長秀が、天守台の上に明智坂本城をそっくりそのまま再建。
その後、坂本城(5層)は大津城(4層)、彦根城(3層)と、移築のたびに1層ずつだるま落としにされていったw
つまり、われわれが彦根城として知るあの可愛いひこにゃん天守は、フロイスが「信長の安土城について壮麗な城」と記した坂本城の再建上層部なのである!
380人間七七四年:2009/09/30(水) 07:20:33 ID:pS66wySD
↑アホ
381人間七七四年:2009/09/30(水) 07:24:31 ID:CsNe/DS9
安土城関連のお土産ってどこの店が一番オススメですか?
382人間七七四年:2009/09/30(水) 13:18:01 ID:k7qVJEJK
考古博物館で書籍大人買いがお奨め
383人間七七四年:2009/09/30(水) 13:57:53 ID:e87bILYH
【安土城考古学博物館】
まけずの鍔複製品,織田信長御守り,手拭い,天下布武腕時計,
甲冑シリーズ,銀ネックレス,クリスタル,各種資料本
ttp://www.biwa.ne.jp/~azuchi/

【信長の館】
安土城・城下ミニ屏風,安土城扇子,安土城扇,
タオル,天主クリアファイル,信長もなか,安土羊羹

【総見寺&城跡入口】
交通安全のシール,交通安全の数珠,天下布武・家内安全の護摩札

【安土城郭資料館】
財布(4マンくらい注文後一ヶ月かかる)


このあたり各店あまり重複してないところだろうか
後、各所に微妙に違ったりするテレカとか栞とかTシャツとか
384人間七七四年:2009/09/30(水) 15:27:00 ID:36CXpn3s
万博にだした実物大6、7階模型は今どこにいけば観れるの?
安土にいけばあるのかな?
385人間七七四年:2009/09/30(水) 17:01:11 ID:G7/36YnO
>>379
彦根城天守を解体修理した際の部材の改築時の痕跡から推定復元された
大津城天守の復元図や復元イラストを見たことないだろ?
386人間七七四年:2009/09/30(水) 19:41:27 ID:5zYdthy+
天守を住居としたのは信長だけなの? なんか、嬉しがりだったような気がするなw
387人間七七四年:2009/09/30(水) 20:11:01 ID:NOPxIlk9
>>384
「信長の館」でググってみそ
388人間七七四年:2009/09/30(水) 21:00:23 ID:T2b5sCzL
372 :人間七七四年:2009/09/29(火) 23:53:47 ID:KwGLS+q4
秀吉の兵が登らなくても脱出した茶々たちは知ってるだろう。
内部九重の可能性がないとはいえない。

秀吉の手紙は北の庄を落とす前に出したものじゃなかったけ??


389人間七七四年:2009/09/30(水) 23:21:01 ID:pS66wySD
5月15日付ですよ。
390人間七七四年:2009/10/01(木) 00:02:57 ID:gwnL3tBx
梅雨時か
391人間七七四年:2009/10/01(木) 00:11:25 ID:GhPRTCU9
北庄城の着工は天正3年(1575)。
その後、天正5年(1577)に秀吉は勝家の下で上杉謙信と戦うため北陸に出兵している。
仮にこのとき天守が完成していたなら秀吉自身が登っている可能性すらある。


392人間七七四年:2009/10/01(木) 07:23:03 ID:+AHDwgZq
>>379
その説いいなw 内容の真偽はともかく。
>>385
kwsk
393(3・8・5):2009/10/02(金) 19:55:27 ID:4D0izgNb
>>392
収録書籍


●大津城天守推定復元図

天守再現―名城のシンボルを読む
(別冊歴史読本 (26))
P64




●大津城天守推定復元イラスト

名城の天守総覧―目で見る天守の構成と実像
(歴史群像シリーズデラックス版 5)
P118
394人間七七四年:2009/10/03(土) 19:45:37 ID:3l3Ug78K
歴史読本・歴史群像=東スポ
395人間七七四年:2009/10/03(土) 19:57:03 ID:ZHGm1Ebj
いやはや歴史読本に掲載されてる市教育委員会の報告書まで東スポ扱いとは恐れ入った
396人間七七四年:2009/10/04(日) 20:30:40 ID:8MqluVFw
安土城考古学博物館で販売されてるまけずの鍔複製品の大きさは何センチくらいですか?
詳しい方、教えてくださいませ。
397人間七七四年:2009/10/04(日) 20:40:42 ID:EyOoYpMF
>>396
安土城考古学博物館に電話して聞けばいい。
398人間七七四年:2009/10/04(日) 23:15:41 ID:w5NimzDs
>>396
まけずの鍔
サイズ 直径 約7,5cm
ttp://www.biwa.ne.jp/~azuchi/tuba.htm
399人間七七四年:2009/10/05(月) 18:28:38 ID:MOim+DXM
>>398様。
396です。誠にありがとうございます。
400人間七七四年:2009/10/05(月) 19:48:16 ID:jKuddeA1
たまには築城総奉行の五郎佐の話題もしてあげてください。
401人間七七四年:2009/10/08(木) 23:32:08 ID:I1WHys3N
丹羽家に安土城の史料は残ってないのかな。
402人間七七四年:2009/10/09(金) 00:10:53 ID:PZhShIJm
>>362
個人的には内藤案でいいと思うけど
大目に見て西ヶ谷案だ
お前ら信長を甘く見すぎ
世界で最初に戦艦を考えて男だよ
しょぼい安土城じゃ秀吉らが真似しないだろ
しかも信長は天主で彼らは天守
403人間七七四年:2009/10/09(金) 19:51:30 ID:FFTCXfha
安土城は自質的には城というより宮殿かな?
大手門からの直線回路とか,天守が住居とか
どっちかというと秀吉の聚楽台みたいな位置づけじゃない?
天皇むかえる御所風の建物まであったんでしょ?
404人間七七四年:2009/10/09(金) 19:55:12 ID:WN0eMudG
聚楽台は宮殿と言う以上に政庁ですよ。
聚楽をぶっ壊したせいで豊臣家の政治の中心が伏見に移った。
405人間七七四年:2009/10/09(金) 19:59:41 ID:UZYSMtoQ
>>402
釣れますかw
406人間七七四年:2009/10/10(土) 00:50:30 ID:etHJmVnx
>>402
殿主、殿守、天主、天守・・・
407人間七七四年:2009/10/10(土) 08:15:13 ID:edNl+Bpk
昨日安土城をブーツにスカートで登っていった歴女さん、良いもの拝ませていただきましたm(_ _)m
408人間七七四年:2009/10/10(土) 18:47:10 ID:8WWKzj3q
安土城って石垣しか残ってないってマジ!? 羽柴秀吉邸は復元されてないの?
409人間七七四年:2009/10/10(土) 18:51:48 ID:c0DjJi8q
大手門跡の左右の石垣上に土塀(模擬?)を復元する計画はあったようだが、
たぶん中止になったようだな
410人間七七四年:2009/10/10(土) 20:35:07 ID:v+MrYAha
>>408
あれで金取られるんだよな

貴重な遺構なのに、色々複雑なのが絡んで発掘整備が進められないのは悲しい事だ
411人間七七四年:2009/10/13(火) 00:14:38 ID:FK6IzvLN
うむ
412人間七七四年:2009/10/13(火) 06:55:34 ID:p64pntff
文化庁(国)指定の特別史跡↓だから、建物の復元は指図や古写真がないと無理らすぃ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%8F%B2%E8%B7%A1

同じく特別史跡の一乗谷朝倉氏遺跡(福井県)は戦国の町並みが復元されてて良かった。戦国時代にタイムスリップしたようだった。
学芸員が狩野永徳の洛中洛外図から復元したと言ってたが、安土城下もあんな感じだったのかな?
413人間七七四年:2009/10/13(火) 09:43:35 ID:f7grgG5H
俺は建造物の復元はしなくてもいいと思ってるけどね
発掘調査をしっかりやった上で整備して欲しい
いまは行けなくなっている八角平とか搦手とか
414人間七七四年:2009/10/13(火) 13:27:18 ID:m9mUGHGL
安土城の王妃の部屋って本当にあったの?
415人間七七四年:2009/10/14(水) 00:10:43 ID:JszIVfuS
何かまた名城シリーズとか週刊で1号目に安土城でてるな
416人間七七四年:2009/10/14(水) 07:18:56 ID:V5e7poMk
歴史業者にとって安土城は最高の飯のタネだからなw
417人間七七四年:2009/10/14(水) 18:49:31 ID:YuqArzIR
ちょっと質問なんですが、安土城の天守を本能寺後に焼いたのは結局誰説が一番有力なんですかね?
参考資料があればお願いします。

自分で調べた限りでは(ウィキペディアでも編集したんですが)
兼見卿記によると出火下のは6月15日で、山崎の合戦が13日。
説の1つである「明智秀満放火説」の当事者・秀満は13日の時点で山崎で敗れて坂本城に入ってる。
物理的に不可能だろう。
「織田信雄放火説」は、本能寺の変に際して信雄は伊勢から甲賀まで出陣しているが
手兵が少なかった(信孝の四国遠征軍に信雄の伊勢衆も多数動員されていた)ので
途中で伊勢に引き返している。安土に入ったのは明智勢が山崎で大敗した後。
「明智の残党をあぶりだすため~」というのが理由なら、何故天守だけ焼いたのか?
天守を焼いた動機がわからない。(宣教師は愚かな人物だったので・・・と書いてるが、そこまで無差別な馬鹿じゃないだろう)

となると、明智勢が山崎で出陣していた空白期間を狙った土民襲撃放火説が有力なのでしょうか?
418人間七七四年:2009/10/14(水) 19:22:21 ID:GdOiooOk
まあそうでしょうな。民衆暴動で焼け落ちたと考えるのが今のところ妥当な感じ。
419人間七七四年:2009/10/14(水) 20:32:02 ID:k9KTjSPq
>>418
???
なんで民衆暴動が?
動機が分からない。
それに、時期が時期だけに門は閉ざして入城出来る人は限られていたはず。
そんな状態でなんでその案が妥当なの?
420人間七七四年:2009/10/14(水) 20:46:46 ID:k9KTjSPq
新しい本が出るらしいい。
これまでの物と内容のダブりが有りそうだけどちょっと気になる。

http://www.sunrise-pub.co.jp/isbn978-4-88325-393-7/
421人間七七四年:2009/10/14(水) 20:53:02 ID:GdOiooOk
>>419
甲斐などの占領地だけでなく、本拠地と言うべき美濃でも尾張でも信長の死が知られると同時に、
大規模な暴動が起こってる。良くも悪くも信長の支配と言うのはそれだけ、下への圧力が強かったと
言う事だ。
だいたい安土城はもともと、防衛に適した城じゃないし、城を守る兵の中にも蜂起した土民と
共謀した連中も多かっただろう。この先どうなるかわからないなら、金目のもの略奪して逃げるのが
一番利口だからな。
422人間七七四年:2009/10/14(水) 21:27:13 ID:ykafLK78
安土城にいた親族は蒲生の日野の城に避難したというから城は
手薄になっていたんじゃないのかな。
423人間七七四年:2009/10/14(水) 21:31:28 ID:k9KTjSPq
>>421
なるほど。と一瞬納得してしまいそうだけど、ひとつ疑問が残る。
火の手が上がったのは主郭部だけでその他はしばらくの間、城として使われていたと言う事になっている。
略奪だけだったら火をつける必要は無いと思おうが、暴動での精神状態で火を放つような事になったとしたら、火の手を見た他の人も他の場所で火を放つ可能性が考えられるのに、そうなっていない。
偶然といえばそれまでだけど理由としては極めて弱いと思うのは俺だけ?
文献等が残ってないので仕方がないのかもしれないけど、これについてはどのように考えられているの?
424人間七七四年:2009/10/14(水) 21:39:22 ID:GdOiooOk
>>423
略奪の際不慮の火災が起こるのは古今東西普通の事でしょ?
425人間七七四年:2009/10/14(水) 22:18:18 ID:k9KTjSPq
>>424
つまり、偶然ということね。
主郭部では偶然火災になって、他の所では火災にならかかった。
426人間七七四年:2009/10/14(水) 23:01:21 ID:YuqArzIR
あるいは、ほとんどの兵は蒲生勢と共に日野城へ脱出しているので
空城同然だったと思うが、僅かに残っていた守備兵が天守に籠城していたので
火を放たれた、という可能性もなきにしもあらず・・・?
でも、そうだとしたら生き延びた守備兵とかが何らかの伝聞を伝えているだろうから
やっぱり城には誰もいなくて、蒲生勢が引き上げた後に土民突入→偶然の放火(出火)なのかな。

留守居役だった連中は蒲生領へ逃げたか
京都方面へ合流しようとして明智勢に討たれたのがほとんどだからね・・・
安土に残り続けて防戦したって記録はなかったと思うし
427人間七七四年:2009/10/14(水) 23:24:09 ID:k9KTjSPq
>>426

>空城同然だった

それって事実?
知らなかったよ。
織田家が滅亡しらならともかく、まだ後を継ぐ子や孫がいる状態で本拠を空にするとは思いもしなかった。
日野城の方がかくまうのに都合が良かったとしても、留守居役として城を空にするのってどうなんだろうか・・・
安土で戦いになって城が焼失するくらいだったら、いったん城を明け渡し、後で取り返すという算段だったんだろうか。
428人間七七四年:2009/10/14(水) 23:31:35 ID:1BjzgBkz
秀満退去後、残された明智勢が自焼没落したと考えるが妥当。
429人間七七四年:2009/10/14(水) 23:45:21 ID:KBgXyXFJ
>>423
総見寺も、仁王門を残して跡はすべてやけてしまったぞ
これをいえば、安土城にいったやつにはわかるよな
どういうことか
430人間七七四年:2009/10/14(水) 23:48:09 ID:1BjzgBkz
摠見寺が焼けたのは幕末。
431人間七七四年:2009/10/15(木) 00:57:00 ID:UAK//k4r
>>427
安土城っていわば信長(織田家)のシンボルみたいなもんじゃん?
京都で信長・信忠が襲撃された、となれば
その生死に関わらず、真っ先に攻められる目標になるだろうし
近畿圏はほとんど明智方に属してる中で孤立した状態になる。
なので、信雄の勢力圏(伊勢)に近い蒲生領へみんな逃げた。
(一部、気概のある連中は京を目指したが、明智軍と戦って散った記録がある)
だからろくな抗城戦の記録もなく、安土城は明智軍に接収されてる。
(だから城内のお宝を光秀が家臣に分け与えたという話があるわけで)

本拠だからこそ、守るのに適さないと放棄したんでしょう。
光秀が信長を狙った理由の1つであるように近畿周辺の信長軍団は空白地帯になってたわけだし。
432人間七七四年:2009/10/15(木) 01:01:17 ID:UAK//k4r
>>428
それなら天守だけ焼くなんて中途半端な事はしないで
城全体を破却・焼却していくか、放置して逃げると思う。
明智勢はあっちこっちに守備兵分散してたから
そんな余裕なかったと思うし
山崎の合戦(13日)で主力が敗退した後に、わざわざ安土に戻って放火(出火は15日)なんかするだろうか?
433人間七七四年:2009/10/15(木) 01:21:37 ID:ovFJy1FO
>>420
久しぶりに期待できそうな安土城の本ですね
安土城ばかりじゃなくて岐阜城の専門書も出ないかな
434人間七七四年:2009/10/15(木) 09:36:10 ID:em5Pt1rU
>>432
秀満が出陣する際、若干の守備兵を安土城に残したであろうから、
そいつらが放火したんじゃないかという意味で書いたんだが。
435人間七七四年:2009/10/15(木) 10:09:17 ID:XvHI+Ucq
残念ながら、もうこれ以上安土城の謎は解明されないだろうね
436人間七七四年:2009/10/15(木) 12:30:38 ID:7KAc21ie
>>426 蒲生が日野に退避した後にも、木村一族が安土城に残って明智勢と戦って討ち死にしたと聞いている。
木村一族はもともと安土付近の豪族で、その縁で信長に仕えた。地元だったから逃げる場所がなかったらしい。
437人間七七四年:2009/10/15(木) 12:37:08 ID:hxb0K0LM
安土天主は本当に炎上したのか?
安土本丸は後世の城に比べて縄張りが狭いのは百も承知なはず。
仮に天主が炎上なら延焼は免れないはず。偶然にして主要郭だけ燃えたのはあまりにも話が出来すぎ。

何らかの混乱で部分的に燃えた、煙があがった等はあるだろうが、後々に三法師が入城するにあたって
危ないから取り壊した、または移築したというのが妥当な考えではないだろうか。

兼見も宣教師も安土炎上を話しで聞いただけだろ。
比叡山も焼き討ちという伝承の割には実際に燃えた形跡はほとんどなかったというのが最近の調査結果。
438人間七七四年:2009/10/15(木) 12:51:28 ID:hqyuj7r3
実証のない感想だけならどうとでも言える
439人間七七四年:2009/10/15(木) 16:35:26 ID:FHtKVR65
>>437
主郭部全域に激しい火災の痕跡や高熱で変形した遺物等が残ってるだろ
440人間七七四年:2009/10/15(木) 16:54:32 ID:UAK//k4r
>>434
だとしたら、そういう記録が残ってしかるべきだし
何故、「天守だけ?」という疑問は残るよね。

>>436
確か木村一族は「城を打って出て戦死」したと「木村家譜」にあったはず。篭城はしてなかったと思う。
俺の記憶間違いだったらスマンが
当然、城を出て戦ったのなら天守に火を放つ意味もない。
仮に信長方の守備兵が残っていたなら、なおのこと息子らがいるのに
勝手に織田家のシンボルたる天守に火を放つなんて事しないと思う。
仮に誰かが火を放ったなら、(混乱による失火とかでないなら)織田家を恨んでる側の犯行でしょ。
でも明智勢がそれをやる余裕はなかったと思うんだよね
441人間七七四年:2009/10/15(木) 19:15:15 ID:4bXlzNes
そこで六角父子の仕業説ですよ!
442人間七七四年:2009/10/15(木) 23:30:11 ID:fwTy3Oqy
>>440
燃えたのは天主だけではなく主郭部一帯。

主郭部一帯が火災にあったのは発掘調査の結果から明らか。
>439が述べている通り。
天主は火災の為倒壊したと考えられており、天主台の上部が崩れているのはそのため。
天主台は北側の崩壊が激しく、天主が北側に崩れたと考えられている。

上記の事から、俺は天主は主北寄りの部分から燃え広がったと考えている。
一般的に火災の火元が一番激しく燃える事を考えると、天主は北側が火元である可能性が有るんじゃないだろうか?
安土城天主は主郭部にある建物と渡り廊下の様な物で物理的につながっていたと考えられている。
北側付近で接続していた施設で考えられるのは台所。
台所と言えば日常的に火を扱っており、火元となる可能背が低くはない。
避難する際、火の後始末をせずに退去してしまい、何かのきっかけにより近くにあった物が燃え始め火が広がって、天主が炎上。
そして天主から他の建物へ燃え広がったのではないだろうか。

焼失した時期を考えると人為的放火説が有力だとは思うが、どれも決定打に泣け説得力が今一。
であれば、その他の説も考慮してみるのも一考。
443人間七七四年:2009/10/15(木) 23:31:13 ID:em5Pt1rU
火放つだけなのにそんな時間的余裕いるかよ。
444人間七七四年:2009/10/16(金) 00:51:56 ID:O55ylmIT
>>442
主郭部の調査

二ノ丸東溜まりでは建物の礎石上に焼け残った柱の部材や建ったまま焼け残った壁が発見され、炎上の様子を生々しく伝えるとともに、
城内の建物についての貴重な情報を提供しています。また炎上の跡が発見されたのはこの主郭部の中だけです。


ttp://www.pref.shiga.jp/edu/sogo/kakuka/ma16/aduchijo/index.html
ttp://www.geocities.jp/nobunaga9999castle/index.html
445人間七七四年:2009/10/16(金) 00:54:02 ID:Ycd+tmh7
>>443
何に対してのレス?
442で書いているのは放火じゃなくて失火説。

親族が日野城に避難したらな当然下女たちもどこかに避難している。
その際あわてて避難しただろうから火の始末がおろそかになってしまった可能性が有り、その火がもとで火災になったと言っている。

放火したとは言っていないよ。
446人間七七四年:2009/10/16(金) 01:10:14 ID:GP2bvNT3
なんで光秀入城前に焼けたことになってるの?
447人間七七四年:2009/10/16(金) 01:17:52 ID:Ycd+tmh7
>>444
なるほど、台所は主郭部に含まないのか。

しかし、発掘調査報告書によると、台所は本丸取り付け台からの崩落石、崩落土の堆積が著しく人力で掘削可能な場所が限られて・・・と書いてあり、一部分しか調査がされていないらしい。
炎にさらされたかどうかは明記していないので良く分からないが、おそらくなかったのだろう。
だとしたら、台所火元説は早くも消滅かな。
448人間七七四年:2009/10/16(金) 01:22:37 ID:GP2bvNT3
そもそも6月3日の賢秀らの退城時の火の不始末が
6月14日の秀満退城後に天主に燃え移るとか考えてる時点でおかしいだろ。
449人間七七四年:2009/10/16(金) 01:24:06 ID:O55ylmIT
台所も含め山頂の曲輪一帯が主郭部
450人間七七四年:2009/10/16(金) 01:34:39 ID:Ycd+tmh7
>>448
人がいなくなったら直ちに火災になるっていうのもおかしいだろう。

火災とい言うのは小さな火種が、風とかにあおられたりして起きたりするもの。
下女たちが退去した後に誰かが入って戸を開けっ放しで出て行き風にあおられるような状態になったのかもしれない。
または、退去した後に入った部外者が利用したのが不始末になったのかもしれない。
どんな状況にしろ火種が日常的にあって、火元になりうるのは台所。
きちんと始末をしないと火災になると言うのはそれほど不自然なことじゃないと思うが。
451人間七七四年:2009/10/16(金) 11:34:20 ID:hb/mnYSB
部外者が入ってきてわざわざ台所使うの?
乞食じゃあるまいしw
452人間七七四年:2009/10/16(金) 14:39:13 ID:lfThVbzo
夜や、暗い場所を見るとき、この時代明かりはどうしましたか?

ばかばかしい事を疑問に思っている人間が居るなあ。1名だけ。
453人間七七四年:2009/10/16(金) 19:59:25 ID:Nb5Lfkqg
http://www.sunrise-pub.co.jp/isbn978-4-88325-393-7/
この本の発売日明日だが、発売日に出るのか?
アマゾンかセブンアンドワイで買おうとしたが検索に出てこないな・・・
454人間七七四年:2009/10/16(金) 20:03:31 ID:g1RGTiJT
>>444
井沢元彦先生くるのか、、、話を伺ってみたいな。
確か内藤案支持してたはず。
455人間七七四年:2009/10/16(金) 21:06:56 ID:JypkumIy
普通に蒲生らの退去後に明智勢が入っているんだから
山崎の合戦に出る前に種火になるものを残しておいて
それが2日後に発火してもおかしくないよね。
または雪崩れ込んだ土民でも、信雄の家臣が出した火の不始末かもしれない。

ただ、意図的に城を焼く目的で放火したのなら
もっとやり方があるだろうし、原因は不明だけど失火の可能性が高いんじゃないかなーとは思ってきた
456人間七七四年:2009/10/16(金) 21:43:24 ID:g1RGTiJT
しかし、土民が入り込んだのなら当時三国無双の大城郭に電気もない時代に入り込んだら
相当怖かっただろうな。暗いし広いしビビッただろう。
457人間七七四年:2009/10/17(土) 01:38:50 ID:pgxm5fPq
実際に信長が住んでいたんだから、後世の天守と違って
日光が良く入る構造にはなってただろう。
458人間七七四年:2009/10/17(土) 11:02:45 ID:gZMkizii
今の日本見てると信長は本当に天才だったと思う
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1201411052/
459人間七七四年:2009/10/17(土) 13:48:46 ID:wVsKbYVV
池上の天主指図が本物だとしたらかなり窓は少なかったと思われる。
窓際はともかく内部の部屋は真っ暗だっただろう。
460人間七七四年:2009/10/17(土) 15:58:42 ID:8Jp+Pplv
福知山城天守の指図も似たような物だが、わざわざ高層の天主に住みたいとは思わないな。夏は暑くて、窓も少ないから臭そうだわ。
縁側があって庭に出られる御殿のほうがいい。ていうか、天主は対面の場で信長は普段は二の丸御殿に住んでいたんじゃないのかね。
備中松山城天守も居住性が豊富で興味深い。
461人間七七四年:2009/10/17(土) 17:27:37 ID:C8dO+yTO
畳が敷けるようになっているんだっけ?>松山城
462人間七七四年:2009/10/17(土) 17:28:39 ID:C8dO+yTO
伊予松山城の方ね
463人間七七四年:2009/10/18(日) 11:06:13 ID:b5UD8wFX
ちょっと調べたら、本能寺の時に撤退した蒲生勢とは別に
やっぱり木村次郎左衛門やら佐久間家勝やら
それなりに名のある連中が安土の守備に残されたようだ。

ただ、ほとんどの安土に残った人物が「その後、消息不明」となっており
死んだか逃げたかしたと思われる。(多分前者かな)

だから、最後にそういった連中が天守に追い詰められて
自ら火を放ったか、明智勢との抗戦の中で火が放たれたという可能性も・・・と思ったけど
火が出たのは山崎の合戦以後だから、やはり守備要員として残った織田勢の仕業って可能性はないようだ
464人間七七四年:2009/10/21(水) 07:15:41 ID:/W0c4ZkV
安土城が残ってたら世界遺産登録は確実と思われ。

(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
465人間七七四年:2009/10/21(水) 14:32:12 ID:16+ulZD6
安土桃山期の城郭がそのまま残ってればそれだけで世界遺産だし国宝だっつーの。
466人間七七四年:2009/10/22(木) 01:20:28 ID:WGb4pXg1
彦根城は桃山期の天守、縄張り、大名庭園まで完備してるが
世界遺産暫定リストどまり
欧米の感覚ではデカくなければダメらしい
467人間七七四年:2009/10/22(木) 01:55:03 ID:SoLP1Dw/
それは日本人でも同じだろ。姫路城なら合格だろ。
468人間七七四年:2009/10/22(木) 11:44:01 ID:/n5BCZnb
狩野永徳の障壁画で埋め尽くされてたんだもんな…

いくら祖母(土田御前)や父の正室(帰蝶)に焼いて立ち退くよう言われていたとはいえ、
信雄が火を放ってしまった理由が解らん。暗愚にだって永徳画の素晴らしさは解るだろ。
(ライバル・信孝に取られるくらいなら)燃やしてしまえホトトギス…という気持ちにでもなったんかな?
469人間七七四年:2009/10/23(金) 01:38:39 ID:3VUX5bnA
まあ、秀吉か家康に壊されるだろうがな。
470人間七七四年:2009/10/23(金) 02:51:21 ID:IJITKmmG
>>468
土田御前や帰蝶が燃やせって言ったっていうソース何?
前にも散々書いたけど、信長の女房衆を逃がしたのは蒲生賢秀だし
変当時は信雄は伊勢だよ?
明智勢壊滅後に安土に入った時なら、何故燃やせって土田御前や帰蝶が言うのか理解できない。
471人間七七四年:2009/10/23(金) 03:02:45 ID:YPabc/3b
>>468
何所の小説に感化されたんだお前は
472人間七七四年:2009/10/23(金) 06:26:32 ID:+NVZUuuC
ネタにマジレス…(悪)w
473人間七七四年:2009/10/23(金) 12:29:16 ID:K5d3TdFI
信雄じゃなく賢秀に燃やせって言っている。
474人間七七四年:2009/10/23(金) 12:49:57 ID:YPabc/3b
はいはいそーすそーす
475人間七七四年:2009/10/23(金) 15:26:05 ID:iK99Tn/C
濃姫こと帰蝶御前と信長の仲は悪く、従兄の明智光秀をそそのかして、信長を本能寺に襲わせた。濃姫は、山崎の戦いでの光秀の敗北、光春の安土退去後も安土に留まっていたが、進駐してきた織田信雄が天守もろとも焼き殺した。
信長殺害の黒幕が濃姫であったことは当時広く知られていたので、信雄のこの行為は高く評価された。以上は八切止夫氏の説。
476人間七七四年:2009/10/23(金) 16:10:29 ID:K5d3TdFI
>>474
『信長公記』も読んだことないのか。

「御上﨟衆仰せられ様、とても安土打捨てのかせられ候間、
御天主にこれある金銀・太刀・刀を取り、火を懸け、罷退き候へと仰せられ候処、
蒲生右兵太輔希代無欲の存分あり。」
477人間七七四年:2009/10/25(日) 15:14:28 ID:WMHcuYTN
昨日一昨日、大阪からバイクで彦根城、安土城みてきたが、
石垣だけの安土城>>>>>>>彦根城だな。
信長という偉人とたかが井伊家の格の違いがはっきりわかる。

安土城の圧倒的でかさと頂上からの眺めは最高。
478人間七七四年:2009/10/25(日) 15:56:54 ID:oICP9TT8
> 安土城の圧倒的でかさ

…は?
479人間七七四年:2009/10/25(日) 18:09:59 ID:H9JdLZQa
城のでかさから言えば
隣の観音寺城>>>安土城
もっとも佐々木家は足利将軍を保護し仮幕府を開いていたのだから
別に不思議ではないけど
480人間七七四年:2009/10/26(月) 07:49:16 ID:yb1j+Yxz
>>477
格の違いも何も…
戦国末期の軍閥トップの居城の山城と、後世の幕府の出城で平山城だからコンセプトが違うだろ

>>478の指す観音寺城や小谷城と比べるなら判るが…中井の均さんが泣くよ大阪府民さん
481人間七七四年:2009/10/26(月) 20:05:20 ID:/n4hOFDr
割と楽しみにしてたあのサイトが今週は更新されてないな、、、
著者がインフルエンザにでもかかったか?
482人間七七四年:2009/10/30(金) 01:31:12 ID:O9cOHz/r


【もし堀北真希が足利将軍だったら】
1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 13:06:03 ID:4eQuzdZe
天下は揺るぎなく治まっていたな

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164945963/


【もしも綾瀬はるかに将軍宣下がくだったら】
1 :幸松:2009/06/09(火) 13:23:13 ID:pDEWwAmF
以下の家訓を残し、子々孫々まで将軍家に忠節を誓います。
大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず


http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1244521393/



【もしも新垣結衣に将軍宣下がくだったら 】
1 :外様大名:2009/10/26(月) 13:16:20 ID:Wuwho10l
当家としては、どうすればいいであろうか?

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1256530580/


483人間七七四年:2009/11/04(水) 22:02:32 ID:VM7aDqo3
大手前広場の便所を別所に移転して、広場の景観を整備する計画は実行されてる?
地元民の方がいたら報告お願いします。
484人間七七四年:2009/11/04(水) 23:42:17 ID:rNEZhXRx
あそこの便所はくせえ
485人間七七四年:2009/11/10(火) 10:13:57 ID:vxQ/RTR6
天守初重の面積は安土の17×20でも名古屋にはかなわないの??
486人間七七四年:2009/11/12(木) 06:28:34 ID:Bgo/ulTG
総見寺の裏門現存してんだから最移築するか同じ物を復元しろや
487人間七七四年:2009/11/13(金) 00:12:37 ID:oOZAMKoX
総見寺の仁王門だけ消失から、免れたのはなぜ?全山燃えたのではないのか??(;゚ω゚)
488人間七七四年:2009/11/13(金) 04:55:53 ID:qwZp2Kuu
裏門も現存してる言ってるはしから・・・
489人間七七四年:2009/11/13(金) 05:55:58 ID:Uk29FcIf
>>486
総見寺に金がない
安土町も金がない
滋賀県も金がない
文化庁は金出さない
民主党は金出させない
END
490大天守閣大天守閣大天守閣:2009/11/16(月) 12:25:36 ID:VR5SluDD
491人間七七四年:2009/11/17(火) 14:36:57 ID:3yPh9Zjb
総見寺三重塔、仁王門、浄厳院本堂は信長建立が確定してるんだし
事実上安土城下町の遺構として異常に貴重
豊臣大坂城や家康江戸城の遺構なんて皆無なんだし
492人間七七四年:2009/11/19(木) 20:21:32 ID:kssw2pkA
>>城のでかさから言えば
>>隣の観音寺城>>>安土城

観音寺城て確かに山はでかいが実質有効な縄張り(敷地)ってどれくらいあったのでしょうか
ほとんど山肌と坂道で郭自体は小さかったのではないかと勝手に想像してしまいます

となりの城よりも小さなものを作るとは少し考え難いんですよね、、、
493人間七七四年:2009/11/19(木) 20:54:29 ID:48cCzp0k
観音寺城は曲輪数1000以上を誇る日本最大級の中世山城です。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/87/Kannonjij26.jpg/800px-Kannonjij26.jpg
494人間七七四年:2009/11/19(木) 21:49:13 ID:VJr8uiHQ
広いのは、観音正寺がある所だけぐらいだろ。でもあの辺は、後から削って広くなったぽい。本丸は寺のまだ奥だしな。
495人間七七四年:2009/11/20(金) 14:46:43 ID:wJGX7S1O
本当に当時からこんなに大規模だったのか?
てか信長があっという間に落としたんだっけ?
496人間七七四年:2009/11/20(金) 15:32:12 ID:WctrLfP8
>>495
信長か家臣や寄騎の城が瞬く間に籠絡させて来たんで
六角親子が慌てて逃げたんで無血開城だったらしい
497人間七七四年:2009/11/20(金) 20:09:48 ID:wJGX7S1O
そうなのか、安土も観音寺も攻められたらもろかったんだな、、、
498人間七七四年:2009/11/22(日) 06:17:40 ID:i5F0lK3q
>>491 西本願寺に残されている日本最古の能舞台は、天正八年だったかの銘があり、安土城の遺構である可能性があるそうだ。
安土城能舞台は、摠見寺内にあり、火災を免れている。安土城が失われて不要になった舞台が、その後移築された可能性は大いにある。
499人間七七四年:2009/11/24(火) 00:44:55 ID:ZJoTAp5/
総研児は秀頼が盛り土をして庫里とか建てたから信長時代の脳舞台の位地を特定するのは難しいな。
参道に面した掛け造りという説もあるが。
500人間七七四年:2009/11/24(火) 15:05:18 ID:mpINyi4b
>>498
古代古墳を何でもかんでも邪馬台国と結びつけるのと同じ感覚だな
501人間七七四年:2009/11/24(火) 15:10:49 ID:CLm1VZSI
観音寺城はまだ全体の1%未満しか発掘が進んでいないし
滋賀県の貧弱な発掘体制では全貌が明らかになるのは100年以上かかるらしい
502人間七七四年:2009/11/24(火) 20:24:38 ID:DQGD9KNX
>>501
特アに関わりのあることなら大金はたくのにね、あそこの知事は



それはともかく正直観音寺はデカすぎて100年でも足りないだろ…
藤本・中井両氏が生きてるうちにどこまで掘れるかな
503人間七七四年:2009/11/25(水) 08:48:47 ID:FMtt5fR1
>>500 安土城能舞台が、摠見寺境内にあったことは確実だから、燃えていない。江戸末期に焼失する以前の摠見寺の様子は「近江名所図絵」で知ることが出来るが、すでに能舞台はない。
不要になったからといって薪にしてしまったはずがない。一方で、西本願寺ができたのは1591年だから、天正8年の銘がある建物は、当初から本願寺のものとして建てられたのはない。安土城のものである可能性は高い。
ただ、能舞台には、裏に楽屋などが必要。摠見寺の敷地はそれほど広くないから、うまく納まるか。あったとすれば、敷地のいちばん西側、三重塔の北側だろう。一部は敷地外に張り出す懸け造りだったかもしれない。
504人間七七四年:2009/11/25(水) 22:21:21 ID:dtAe3YNx
面白い発想だ
505人間七七四年:2009/11/25(水) 23:12:31 ID:xlxJDe4X
特アとか言い出す奴はそれだけで文章を読む気すらなくなる。
506人間七七四年:2009/11/26(木) 17:54:01 ID:ei01mz4U
特ア人乙!
507人間七七四年:2009/11/27(金) 00:40:49 ID:0FaD/4Hz
安土の信長の館、気をつけないと危ないよね
どうしてあんな通路作ったのかな?(´・ω・‘)
508人間七七四年:2009/12/14(月) 21:53:45 ID:PR1EhOoJ
発掘再開してくれ
天主周辺とか中途半端すぎる
ttp://www1.ezbbs.net/01/sample5/img/1260795098_1.jpg
509人間七七四年:2009/12/17(木) 11:30:35 ID:r/IltBsS
火天の城の最後にちょろっとだけたいまつや提灯でライトアップされた安土城
の絵があったけど、どこかの天守であんなイベントしてくれないかな、、、
510人間七七四年:2009/12/20(日) 00:12:06 ID:FHPGbFke
桜の季節に高知城では大手門から二ノ丸まで提灯、本丸、天守はライトアップしてる。
511人間七七四年:2009/12/22(火) 11:02:30 ID:3fU7E6Xj
各地でその様なイベントをじゃんじゃんやるべきだよな。
これからは物を売る時代ではなくて観光に力を入れるべきだ。
高知城行きてぇぇ。
512人間七七四年:2009/12/22(火) 16:45:42 ID:L/gjHej0
安土城の中に、塀や石垣等、防御施設があるのは信長らしくないと思うのだが…
513人間七七四年:2009/12/22(火) 17:32:11 ID:odffZZgW
そんなもの城じゃないだろ。
514人間七七四年:2009/12/25(金) 16:08:11 ID:TtScnEBK
そもそも>>512は「信長らしさ」を完全に勘違いしている。
本能寺にすら高度な防御構造が作られていたというのに。
515人間七七四年:2009/12/26(土) 06:49:57 ID:Axm/0TqT
あの時代に城郭寺院なんて珍しくないんじゃ?
516人間七七四年:2009/12/27(日) 00:12:19 ID:rIxVSDp2
信長らしさを勝手に思い込んでいるのは確かだ。
517人間七七四年:2009/12/27(日) 09:40:18 ID:+2Ze2w5r
有料になってからは初めて行ったけど発券所入り口がなんてセコい作り
信長ならあんなことしてたら怒りそうだなあ
518人間七七四年:2009/12/27(日) 09:56:45 ID:qTUo5v3G
そこで殺してしまえホトトギスだ。桶狭間の精神で中央突破しよう。
519人間七七四年:2009/12/27(日) 13:07:10 ID:PdhyHqMF
住職の交代をまつしかなさそうだな
京都の総見院から派遣されてくるんだっけか?
520奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/27(日) 16:23:15 ID:kWdc/pyV
>桶狭間の精神

古戦場公園前の病院を思い出した。
521人間七七四年:2009/12/27(日) 18:34:22 ID:FyG7LwBG
>>517
有料課金はオレのアイデアだよ by信長
522人間七七四年:2009/12/28(月) 11:03:19 ID:B/LiPn4y
歴史は繰り返すってことか!
523人間七七四年:2009/12/29(火) 02:06:01 ID:V7a8BgEO
信長は歓迎のお遊びでしただけでしょ
524人間七七四年:2009/12/29(火) 02:44:01 ID:vSjj8t1P
いや。かなりシビアに金とってる>信長
525人間七七四年:2009/12/29(火) 20:58:43 ID:LTQayNkV
>>520
その史跡は、江戸時代に大名行列の大名の見物用に作られたやつだけどねw
526人間七七四年:2009/12/30(水) 09:55:07 ID:OcFU306I
ウチの会社のトップは突拍子もない発想力で社員を困らせる。
忘年会場に映像機材を持って行け、宴会芸を楽しくするために何か考えろ、面白くなかったら分かっとるだろうなっ!
パワハラに近いと思うような言動があるけど、カリスマというか何と言うかノーと言わせない不思議な力がある。
ま、離職率も高いけどね。何か信長もこんな感じだったのかなぁと思う。信長の家臣も色々困った事あったんだろうなぁ・・・
527奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/01/01(金) 03:59:28 ID:j/SKmZfD
>>525
うん。オレも豊明は否定してるほうだ。
528人間七七四年:2010/01/02(土) 00:35:38 ID:l/ulGr1J
ずいぶん昔、曽祖父から聞いた話し。
義元公の首級を挙げた場所が緑区の公園付近で、豊明市にある古戦場跡は江戸時代に大小名やお侍さん、旅行中の人で史跡巡り場所として賑わったんだとか
しかし一号線を整備中に刀の鞘?の破片、槍の鋭利な部分が出土した為にここでも戦いがあったかもしれない、と言っていました。
ま、当時90歳くらいの老人が言っていた事なので信憑性はないけどね。俺は豊明市の説ですね。
529人間七七四年:2010/01/02(土) 12:19:12 ID:IPo1QmZf
城跡とか館跡みたいに不動産と違い
その手の動産はいくらでも移動させられるんだし、
たまたまそこで捨てられたかもしれないのだから
その場所から出土したからといって、
その場所の意味まで特定できないのでは?
そもそも古戦場として明確に特定されているところから
その手の出土物ってあるもんなのか。
530人間七七四年:2010/01/19(火) 10:35:48 ID:ASgLjUDK
松山に行ったらかなり遠くからでも櫓や三層天守が見えたね
同じくらいの高さに五層七重の天主があればさぞかし目立っただろうねえ
531人間七七四年:2010/01/26(火) 14:20:17 ID:hbxIX+eh
姫路城は新幹線降りた瞬間、はるかかなたにあるのに大迫力で見えるぞ
532人間七七四年:2010/02/04(木) 21:00:12 ID:bkrliW7L
八角平はまだ立入禁止?搦手道の方とか見たいんだが。
533人間七七四年:2010/02/05(金) 20:16:49 ID:1e7/antH
安土城の構造

中は迷路
4階に宝物殿(ただし宝物は3つしかない)
5階に踊り場(能を舞える、ここを通らないと天守閣にいけない)
7階に城主(時々魔方陣が用意されている)
534人間七七四年:2010/02/11(木) 00:38:08 ID:QW6Ef/+A
これだけ人が集まって何年もかかって話し合って設計図を書き始める奴もいない。ここは手淫場か。
535人間七七四年:2010/02/11(木) 00:38:17 ID:QW6Ef/+A
これだけ人が集まって何年もかかって話し合って設計図を書き始める奴もいない。ここは手淫場か。
536人間七七四年:2010/02/11(木) 02:56:38 ID:4au4cY7E
>>534
こんな場所に自説を公開するからにはネタバレや著作権放棄する覚悟がないとなぁ
537人間七七四年:2010/02/12(金) 06:34:07 ID:Y3nyOTeA
来年の大河ドラマ原作
安土城の描写がかなりあるけど
お市様とお江が馬に乗って百々橋口道を登って仁王門のとこまで
行くというかなりテクニックが要求されることやってる
538人間七七四年:2010/02/12(金) 12:48:17 ID:5cG6iWWV
テスト
539人間七七四年:2010/02/13(土) 17:19:08 ID:y/bbJRtf
安土城天主炎上の放火犯に関する新説が出たよ。

「本能寺の変~四二七年目の真実~」明智憲三郎

結論:徳川家康が派遣した伊賀者(服部半蔵)が家康の命により放火した。
540人間七七四年:2010/02/13(土) 17:33:50 ID:RdL1O8Lr
この前安土城逝ったら狼やらヘビやらいっぱいいてびくーりしますた
541人間七七四年:2010/02/13(土) 19:58:14 ID:GRlooN5z
>>539
何の必然性があって家康が安土に火を放たなければならなかったと?
そんな余裕なかったと思うが・・・
542人間七七四年:2010/02/14(日) 00:40:37 ID:sC/9SCNz
妄想とか作り話の類は新説とは言えない。
裏付けがそのレベルに達していない。
543人間七七四年:2010/02/24(水) 21:53:06 ID:IDLwzUqF
安土城とその周辺って観光時間の目安どのぐらい?
半日ぐらい?
544人間七七四年:2010/02/25(木) 16:44:46 ID:s4bD+m/k
朝一番で浄厳院行ってセミナリヨ跡見て、
お山登ってから信長の館とかある文芸の郷じっくり回って、間に昼食とって、
相撲櫓眺めながら城郭資料館入る。
で1日潰れる。

他にも水郷廻りとか、観音寺城跡とか、寺やら神社やら
信長絡み以外まで回るんなら家族で回るとか年配なら2~3日は欲しい
545人間七七四年:2010/02/27(土) 19:59:03 ID:yWc11ukt
小牧山頂上付近の石垣確認 階段状、壁のように連続

織田信長が小牧市の小牧山に築いた小牧山城の石垣が、頂上付近を囲むように配置されていたことが
同市教委の調査で分かった。市教委が23日、発表した。

5年前の試掘で上下2層の石垣が見つかり「土の城」との定説を覆したが、今回の調査であらためて確認された。
27日午前10時半から現地説明会を予定している。

調査は、試掘で出土した石垣付近など頂上の周辺4カ所で実施。3カ所から信長築城時の
永禄期(1558~70年)の物と推定される石垣が出てきた。

いずれも中腹から切り出したとみられるチャートという岩石で造られ、最も長い部分で長さ10メートル。
1段目が1~1・3メートル、2段目が1・8~2メートルの高さに積み上げられた階段状の石垣で、頂上を囲む“壁”のように連続している。
担当者は「清須から移った信長が本格的な居城として位置付けていたのではないか」と話している。

現地説明会の問い合わせは、小牧市教委文化振興課=電0568(76)1189=へ。

(神谷浩一郎)

中日新聞 2010年2月24日
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100224/CK2010022402000030.html
546人間七七四年:2010/02/28(日) 04:07:36 ID:HJg2HvZF
さっき若い伊賀者が安土城燃やしてた
547人間七七四年:2010/03/05(金) 02:27:43 ID:WxpLb3DG
548人間七七四年:2010/03/05(金) 03:47:30 ID:vZUR1baG
>>545
信長築城時ってのはかなり怪しいと思うんだがなあ>石垣
549人間七七四年:2010/03/05(金) 14:56:09 ID:63gS5H7O
小牧・長久手の戦い時の家康の改築だろうか?
根石の積み方が未熟な感じで、岐阜城居館の石壁に先行する土留程度の石垣のようにも見受けられるが・・・
550人間七七四年:2010/03/05(金) 16:17:31 ID:YnYSOkPu
547の4つの案は具体的にどこがどう違うのですか??
551人間七七四年:2010/03/05(金) 18:02:40 ID:Hi3ax6zv
>>550
見りゃわかるだろアホですか?
それと4つじゃなく3つだ
552人間七七四年:2010/03/05(金) 21:50:49 ID:YnYSOkPu
そんなに偉そうに語るんであれば、きちんと説明してくれれば親切なんだけどな。
553人間七七四年:2010/03/06(土) 00:26:43 ID:jLUY1fWS
554人間七七四年:2010/03/06(土) 00:44:35 ID:jLUY1fWS
555人間七七四年:2010/03/06(土) 02:08:13 ID:a/ByngDw
>>552
吹き抜けがあるかないかの違い
現在は内藤案と宮上案と2極化している

設計図らしきものを立体化した内藤案が吹き抜けがあって信者が多い
しかし当時の資料に吹き抜けがあったという記事がまるでない

佐藤案は最近の発掘調査を元に作ったけど、内藤案+宮上案という感じで
うまくまとめた感じ

西ヶ谷案は宣教師のスケッチを元に復元、信長らしい復元案だけど、この人物は優柔不断で信長信者から嫌われている

あと有名な宮上案だが火天の城にもモデルにされ、地味で信長信者からもっとも安土城らしくない復元図とレッテルを貼られている

どれも説得力がないので有力な復元案とは言えない

こんな感じ
556人間七七四年:2010/03/06(土) 02:30:33 ID:jLUY1fWS
>>555
>佐藤案は最近の発掘調査を元に作ったけど、内藤案+宮上案という感じで
>うまくまとめた感じ

佐藤案は問題点だらけだと思うが・・・

天主台昇り石段の改変。
天主台昇り石段脇の蔀石垣を独自の解釈で撤去。
各重のやたら広い廊下。
恣意的な構造の小屋裏の段。
四間四方の最上階など・・・
557人間七七四年:2010/03/06(土) 03:12:12 ID:idtBQgp/
安土城に関しては天守指図支持者である明〇香 〇也さんのサイト『安土〇〇〇案』がお薦めです。
サイトの掲示板の議論も参考になると思います。後、掲示板には森 俊弘さんもよく書き込んでましたよ。
558人間七七四年:2010/03/06(土) 12:31:26 ID:FcqABMTP
>>547
その案を合体させたらみんなの憧れの安土城になるね
安土山を湖の中で孤立させ
両脇に小さな大阪城風味の天守閣を作り
竜王町あたりに御所の移転
安土役場あたりにコロシアムを作れば完璧

そんな漏れはゲームのやりすぎだw
559人間七七四年:2010/03/06(土) 15:25:18 ID:AoY4Lhrc
>>558
ゲーム板に池
560人間七七四年:2010/03/06(土) 15:55:45 ID:fKgKC2Ku
561人間七七四年:2010/03/06(土) 20:46:37 ID:58fzXUIu
562人間七七四年:2010/03/06(土) 21:34:51 ID:HWRz37ln
>>560
いいね
563人間七七四年:2010/03/06(土) 22:01:53 ID:58fzXUIu
つか、佐藤案で評価できるのは中央の掘っ立て柱だけ。
佐藤案をマンセーしてる輩は何を根拠にマンセーしてるのかと。
564人間七七四年:2010/03/07(日) 12:30:08 ID:JfKQPoTY
他も根拠としては同等で五十歩百歩と言うようなことでメディアの露出度、見た目の良さ、等でどれがいいかと言われたら程度のことなのではないかと思っているが。
天主指図が確かなものであると裏付けが出てくればまた大きな動きあると思おうが・・・

俺としては、
内藤案は下層周りの屋根の造りに無理があり見た目が醜い。
宮上案は多角形天主台の上に無理やり矩形の石垣を捏造しているところがちょっと受け入れがたい。
佐藤案は石倉入口あたりの改変が許せない。

という感じ。
565人間七七四年:2010/03/07(日) 13:43:33 ID:aHxWa1vS
佐藤案は建物としていくらなんでも不細工すぎる
http://home.hiroshima-u.ac.jp/miurayu/cg/azutitenshuse.jpg
566人間七七四年:2010/03/07(日) 16:03:38 ID:nQUGnzpK
人それぞれだな
漏れは内藤案以外うけつけない
567人間七七四年:2010/03/07(日) 17:42:34 ID:aHxWa1vS
しかし安土城は土台となる天守台が不細工だから、そこにいっぱいの建物にしようとすると、
どうしてもブサイクで不自然な城になる。

もしかすると天守台よりも、面積的に縮小した建物じゃなかったのかな、とも思う。
天守の常識からは外れるが。
568人間七七四年:2010/03/07(日) 17:49:33 ID:Moqtjpa3
掲示板の利用がないため閉鎖中です。管理者までお問い合わせ下さい。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/miurayu/yybbs/yybbs.cgi

佐藤氏が頻繁に三浦研究室関連の情報を書き込む。

掲示板の閲覧者が佐藤氏に安土城天主についての質問を書き込む。

佐藤氏は書き込みを華麗にスルー。

数日後に掲示板の利用がないためと閉鎖する。


これって普通に矛盾してるしおかしくないか?

569人間七七四年:2010/03/07(日) 18:21:30 ID:2fIbKJ8L
>>567
あの時代は不細工な天守や楼閣が人気あったんじゃないだろうか?
高虎の宇和島城天守、 岡山城天守、 福知山城天守、 聚楽第天守、 幅三間の庇が張り出す多角形の大坂城天守、 西本願寺飛雲閣など
だが、恣意的な佐藤案だけはあり得ないと思う。
570人間七七四年:2010/03/07(日) 18:30:58 ID:2fIbKJ8L
不細工な建築が人気だったというより、アンチシンメトリーな建築が流行していたという意味
571人間七七四年:2010/03/07(日) 18:38:59 ID:aHxWa1vS
>>570
アンチシンメトリーにもほどがある、と思う。
内藤案にしても西ヶ谷案、佐藤案にしても、見るからに自重で崩壊しそうなんだもの。
ちょっと大きな台風とか来たら、とても耐えられそうにない。
いくら戦国時代だからと言って、建築士がそういうものを設計するのか、という疑問がどうしてもある。
572人間七七四年:2010/03/07(日) 21:42:27 ID:o0tAVm1z
別に不細工では無いな。
江戸時代くらいからのデザインがきちっとしすぎているだけで。
573人間七七四年:2010/03/07(日) 23:49:44 ID:AL9e2CdZ
安土城は上杉の上洛に備えて立てられた戦略上の要衝
574人間七七四年:2010/03/08(月) 02:07:58 ID:UlDUpGVL
>>566
内藤氏や横手氏とは別の解釈で天守指図からの天主の模型化を検討中
スケールは1/200か1/150の予定
めんどくさくなって途中で投げ出すかもしれんが

しっかし、指図平面をそのまま重ねて見ると、八角の段は吹き抜け内にすっぽ抜けそうだな
575人間七七四年:2010/03/08(月) 02:41:44 ID:uukionwK
江戸時代の人に、天主に吹き抜けがあったなんて想像、発想が出てくるとは思えんのだが
576人間七七四年:2010/03/08(月) 09:29:17 ID:j9Fc5dZU
内藤氏の空想だろ。教会のような空間を宣教師からきっと聞いているはずだと。
577人間七七四年:2010/03/08(月) 12:32:55 ID:yr2A9QxZ
>>571
あの時代、火事や台風で何度も城が壊れてますせ
近畿地方は比較的天災が少ない地域
だから都があったんだよ
578人間七七四年:2010/03/08(月) 12:48:01 ID:Qt0f1O1W
>>565佐藤案は建物としていくらなんでも不細工すぎる

CGで見ると格好良いよ。
極端な望楼型で初めてみた時はちょっとひいたけどね。

>>567
あの時代は不細工な天守や楼閣が人気あったんじゃないだろうか?

俺もそう思う。不細工というのは何が美形かが確立されて初めて意識されるんだから。
当時は個性を意識していて、時代がすすむと個性よりも建築の効率とかが重視されたんじゃないかな。
579人間七七四年:2010/03/08(月) 13:20:39 ID:T0lEwqUw
そういうのを不細工と言うなよとは思うが。
580人間七七四年:2010/03/08(月) 14:34:52 ID:vJeNK8hV
佐藤案がかっこいいか不細工かは問題ではない。
佐藤案は強引な部屋割りと発掘調査内容を無視した天主台の捏造が問題なんだよ。
佐藤氏の考証内容は戦前の土屋氏、古川氏以前のレベルで、知識が無い人を対象にビジュアル面だけで売ってるだけの物。
581人間七七四年:2010/03/09(火) 18:55:45 ID:KFeMIux5
伊勢歴史村の安土城は誰の案に近いんだ?
582人間七七四年:2010/03/09(火) 18:57:30 ID:KFeMIux5
連投

もし天主指図が本物で吹き抜けがあったとしたら吹き抜けの部分に 穴 とか記入してそうじゃない?
本来は真ん中に柱が二本ある変な作りの大広間だったんじゃない?
583人間七七四年:2010/03/09(火) 19:53:10 ID:zOKaXHpp
佐藤案=ろくろ首

旨い。
山田君、座布団10枚。

http://castles.noblog.net/blog/f/10959005.html 
584人間七七四年:2010/03/10(水) 11:49:15 ID:H375Vuw/
この人↑↑黒い大坂天主の壁紙販売しているのにレポート?の中では
安土も大坂も白い天主だったて語るんだね
585人間七七四年:2010/03/10(水) 12:14:43 ID:3W7heOj6
>>583
こいつのはただの陰謀論じゃん。何の評価にも値しない。
586人間七七四年:2010/03/10(水) 21:08:40 ID:ZIjR0w7z
>>581,582

安土桃山文化村
>宮上案(ただし文化村の復元建築の壁は白色)

天守指図の吹き抜け
>ぜひそうした記述をして欲しかった。
 格式のある部屋(?)は部屋名が記入されているから、
 大広間であったら部屋名が記入されてたかも。
587人間七七四年:2010/03/12(金) 22:25:19 ID:QZLElWJG
人それぞれだが、俺は内藤案が好きだ。吹き抜けっていう夢があっていい。
588人間七七四年:2010/03/13(土) 12:05:54 ID:UKJ9sASB
俺も。吹き抜け案を呼んだ時ものすごく興奮した事をいまでも覚えているよ。
589人間七七四年:2010/03/15(月) 08:46:24 ID:/eFGNEjF
町議選、合併反対派勝ったね
590人間七七四年:2010/03/15(月) 19:48:55 ID:4fFmrr40
安土町の町名存続工作がある。
安土は織田信長ゆかりの地であり歴史的にも有名な地名である。
しかし、能登川や五個荘と比べて経済的基盤が弱く、対等合併では
安土の名を残すのが難しかった。
そこで安土町は住民を上げて組織票を大量に獲得し、
「安土市」を名称案1位にのし上げた事が判明。
高島市のように全住民が安土の名称を望んでいると
見せかけようとしたのである。
591人間七七四年:2010/03/15(月) 20:14:00 ID:elO571lv
「安土」残さない方がアホやろ。
592人間七七四年:2010/03/15(月) 23:33:21 ID:tcbamFUl
なぜ近江八幡市安土町という地域名として残すことが成立しない?
593人間七七四年:2010/03/16(火) 00:05:59 ID:6rRRyKeu
えっ、地域名としては残るよ
594人間七七四年:2010/03/16(火) 02:21:57 ID:O1oku6FB
ttp://www.azuchi-study.com/images/1902-zentai-2.gif

埋立された今でさえこの程度なんだから、信長の時代安土山の麓まで湖水が来ていたことを
考えると、安土の城下町としての発展性は非常に薄いな。
595人間七七四年:2010/03/16(火) 12:38:55 ID:JqZ0+jvL
まあ、広さとしてはこんなもんなんじゃないの?
平安京だって5㎞×6㎞くらいなもんでしょ?
観音寺山とみま作山の間の盆地の方が発展性がありそうだけど。
596人間七七四年:2010/03/16(火) 15:47:13 ID:fWP9Alyk
発展するとしたら八幡方面じゃないのかな。
597人間七七四年:2010/03/17(水) 00:38:19 ID:ySj/ny3S
>>549
3年しかなくて秀吉が近江八幡に移したのにアホですか?
598人間七七四年:2010/03/17(水) 03:32:57 ID:tdMpleFB
>>597
アンカーミスで>596に言っているのかな。地勢的に八幡方面に行くのは自然だが。
お前は安土周辺の地理を知らないな。秀次が近江八幡に入って安土から移したが
それだけ八幡周辺は使いやすい事だろう。可能性だけを言っただけ。それだけに
信長が生きていたなら安土の東方面に伸びやすいこと。お前は安土城下の西は
段差があって城下に出来ない地域があるのを知らない大馬鹿野郎だよ。
599人間七七四年:2010/03/17(水) 10:25:33 ID:mSCGyiFi
>>598
信長が生きていたら安土は津並みに都会になってたと思うぞ
今は国の条例で埋め立てを強化している農産地
600600:2010/03/17(水) 19:38:10 ID:3N/YECxn
601人間七七四年:2010/03/17(水) 19:45:26 ID:tdMpleFB
兵頭説ですね。
602人間七七四年:2010/03/17(水) 21:19:43 ID:3N/YECxn
正解!
603人間七七四年:2010/03/18(木) 08:36:22 ID:JaELIv4G
上層部は普段は吹き抜け部分にスッポリおさまっていて
潜望鏡のように出てくるんだぜ
604人間七七四年:2010/03/18(木) 17:06:39 ID:RJvqq4YA
昔描いた同人マンガの鉄甲船でそのネタやったわ
605人間七七四年:2010/03/19(金) 09:01:42 ID:4RUg1Bky
安土には城がなくてかわいそす
結局三重に安土城できたしwww

今回の騒動でさらに恥さらし増大中です・・・ね
606人間七七四年:2010/03/19(金) 21:21:03 ID:OwXf8nmt
恥さらしはお前。

天守の事を城だと認識しているだろう。
それって女、子供のレベルじゃん。
おっと、それじゃ女性に失礼かな。
607人間七七四年:2010/03/19(金) 21:56:21 ID:wi9ykssw
天守は城じゃないのか。知らなかった。
608人間七七四年:2010/03/20(土) 00:38:09 ID:S2+j1dUE
初めて城プラモを買って悲しい思いをした小学生の夏・・・・・・
確かに城=天主だけというのは悲しい
609人間七七四年:2010/03/20(土) 00:58:39 ID:bl/b74IJ
>>607
天守は城の設備で有るけど城そのものではないな。
安土に城がないって言っていること自体おかしい。
安土には立派に城(跡)はあるし、しかも、国の特別史跡に指定されている。
特別史跡って言うのは、そこいらにある史跡とはわけが違う。
仏像等の物や建物で言うところの国宝と同等なのが、特別史跡。

篠山城の様に天守が無かった城も存在していた。
城とは、堀や郭等で構成された土地その物に塀や櫓などの建物を組み合わせた要塞の事だ。
610人間七七四年:2010/03/20(土) 01:40:17 ID:GopwGXGs
ついでに言うと戦国初期くらいまでは、町でも村でも平原でも、軍勢の集結する空間そのものを城と呼ぶ場合もあった。
611人間七七四年:2010/03/21(日) 00:19:34 ID:1RlUKi69
江戸時代だったら、城=建物じゃね?
612人間七七四年:2010/03/21(日) 00:38:10 ID:DqW+kASP
>>611
は?
どうしてそうなるの?
もう少しその理由を詳しく言ってくれないと同意できない。
613人間七七四年:2010/03/21(日) 01:33:31 ID:BI837eX/
江戸期になると一国一城令により「城=政庁」と言う観念も広がったが、
それでも一般的に城を指す場合は、堀や城壁などで囲まれ、複数の曲輪によって構成された
空間を指した。
614人間七七四年:2010/03/21(日) 05:52:09 ID:uGO+YpBF
信長は安土に都を移し
大阪や博多を軍事要塞都市にする予定だったそうな
きたるべきイスパニアとの戦争を予想して
615人間七七四年:2010/03/21(日) 15:08:33 ID:C2zkNQVt
安土新刊
ttp://ec3.images-amazon.com/images/I/6102x-NAb5L._SS500_.jpg
解説文読んだが、相変わらずでたらめすぎて苛々してくる本だった
616人間七七四年:2010/03/21(日) 21:01:23 ID:2z7Afl/C
>>606
天守じゃないよ
三重に安土城のテーマパークあるよ?

606は共産党家決定
617人間七七四年:2010/03/22(月) 01:41:55 ID:CeIAHwx2
>>616
お前日本語理解できてないだろう。

それに、三重にあるのは、安土城のテーマパークじゃない。
時代劇風のテーマパークに安土城天主風の建物があるにすぎない。
618人間七七四年:2010/03/22(月) 16:51:49 ID:3At/S9s+
双方ねじ曲がっているぞよ
619人間七七四年:2010/03/30(火) 04:41:00 ID:vBfHbj8Y
妄想の暴走も息切れかな?


http://castles.noblog.net/
620人間七七四年:2010/03/30(火) 16:54:56 ID:DYjMjsxd
天主の画像(全景)を作成中だから執筆時間が無いんだろ
621人間七七四年:2010/03/30(火) 21:45:27 ID:lx3383aJ
はやく核心(安土天主全景)に近づいて欲しいんだけど
それで連載が終わったら終わったで淋しいものがあるな。
622人間七七四年:2010/04/10(土) 02:18:21 ID:01Ggesd3
そういえば穴蔵中央の穴の説明がまだだったな
623人間七七四年:2010/04/10(土) 15:30:02 ID:s7tzdtpx
5階八角堂は「天人御影向之図」「天井長てんにんあまたあり」とあるからして、平等院鳳凰堂のような感じではなかったか、と思われ。

http://www.geocities.jp/saitohmoto/hobby/music/nishikie/nishikie8.html
図2a図2b
624人間七七四年:2010/04/10(土) 23:08:42 ID:rgdcsTKh
安土城に落ちてる瓦って価値あるの?
625人間七七四年:2010/04/10(土) 23:11:49 ID:01Ggesd3
ビョウブログ閉鎖
滋賀県は安土山図屏風の捜索は打ち切ったのだろうか
たとえ残骸でも倉庫の中で見つかって櫓や土塀の様式でも判明したら大成果なんだが
626人間七七四年:2010/04/10(土) 23:17:08 ID:w/WWkeOB
確かにそうだ
627人間七七四年:2010/04/14(水) 00:18:21 ID:pKuCSvyj
今更さがすのか
628人間七七四年:2010/04/14(水) 06:07:40 ID:Ol9CozL0
安土山図屏風が発見され、天主の実像が判明して困る人でもいるのかね?
629人間七七四年:2010/04/14(水) 11:12:05 ID:nqPitrgM
>>628
アホか。見つからない物に何時までも金をかけていられる過去のご時世。
630人間七七四年:2010/04/21(水) 10:58:04 ID:4PA+wUX6
安土城を本格的に調査するためにはどうしたら良いのですか?
631人間七七四年:2010/04/21(水) 12:36:29 ID:TripmS1R
安土城址を国有地にするしかないだろ
632人間七七四年:2010/04/25(日) 18:35:19 ID:1/x2IVI3
633人間七七四年:2010/05/23(日) 21:57:27 ID:jc1XgWD9
<安土城跡>観光客の憩いの場に ガイダンス施設完成

滋賀県近江八幡市安土町にある国の特別史跡安土城跡の入り口に20日、
観光客らがくつろぎ、安土城跡や関連施設を紹介するガイダンス施設が完成し、記念式典が行われた。

冨士谷英正市長らがテープカット。オルガン奏者の城奈緒美さんとソプラノの山本哲子さんが
ポルタティーフオルガンでいにしえの西洋音楽を響かせ、多くの利用を呼び掛けた。

施設は鉄骨モルタル造りの平屋で広さ127平方メートル。総工費5430万円。
20年にわたる安土城跡の発掘調査の様子や信長の館、セミナリヨ跡など安土城関連施設が
簡単に分かるビデオセットやパネルを展示。椅子やテーブル、多目的トイレも設置した。
午前8時半~午後5時15分まで利用できる。

5月21日14時4分配信 毎日新聞 【斎藤和夫】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100521-00000020-maiall-soci
634人間七七四年:2010/05/23(日) 22:01:22 ID:FIKom5sv
いらんもん造って
635人間七七四年:2010/05/23(日) 22:50:14 ID:ka0MOjAe
まだあの辺り発掘してるときは、あまり観光地化しないからねと言ってなかったっけ
636人間七七四年:2010/05/23(日) 23:00:00 ID:OY7L8Vge
合併のバーターか、地主の承諾か
637人間七七四年:2010/05/24(月) 00:14:24 ID:WFTT4k3b
どのあたりに造ったんだ。
写真では良くわからん。
638人間七七四年:2010/05/24(月) 00:24:59 ID:AapGjNt0
>>637
大手口から県道二号線に出る丁度間の山裾
639人間七七四年:2010/05/24(月) 01:03:06 ID:WFTT4k3b
>>638
ありがとう。
だいたい思っていた位置だった。
640人間七七四年:2010/05/24(月) 08:55:19 ID:nxE3wak3
重厚な外観の休憩所とトイレを移設で安土城観光快適に

 特別史跡安土城跡(近江八幡市安土町下豊浦)の「安土城跡ガイダンス施設」が完成し、近く供用が始まる。
 安土城跡正面付近にあったトイレと休憩所が建設から30年近く経過しているため老朽化し、正面の史跡整備などが終了したことに伴う景観上の問題などから、東側に移設した。旧施設の解体に伴って、トイレ部分はすでに利用できるようになっている。
 施設は、木造瓦葺き平屋建てで、延べ床面積は約120平方メートル。トイレ部分約68平方メートル、展示・学習スペースを兼ねた休憩所部分約52平方メートル。屋外軒下には自転車が10台程度置ける駐輪スペースもある。
県有地に、旧安土町が宝くじ助成金などを活用し、約5000万円で建設した。
 荘厳な屋根に板張りの外観、トイレ側には化粧石垣があり、安土城跡や周辺の景観に馴染んでいる。
 扉や窓がなく、寒風や雨が吹き込んでいた旧休憩所に比べ、新施設ははるかに快適になった。
団体客の集合場所、周辺観光の中継施設としての利用も図れることから、地元では安土観光ヘの効果を期待する。
641人間七七四年:2010/05/24(月) 08:58:24 ID:nxE3wak3
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100521-00000020-maiall-soci.view-000
↑この写真の右端、トイレの前に腰位の高さの穴太積みの石垣がある。

それが一番の見所かもw
642人間七七四年:2010/05/24(月) 19:53:56 ID:Z90x134B
デザインが近代的な感じがする
もうすこす室町時代風にしてほしかった
大棟上に鳥衾瓦が無いから物足りない
入口の庇を瓦ではなく板庇にした方が雰囲気出そうだが
643人間七七四年:2010/05/25(火) 07:01:07 ID:o4VISMg3
>>642
禿同!

ガイダンス施設=越前朝倉一乗谷の復元民家(黄壁&白木柱)+安土城出土瓦(銀鼠&大ぶりな軒丸瓦)

炎天下、博物館から歩く人にとっては、登城前の一休みに格好の休息所だろう。
岐阜公園の総合案内所は室町時代の武家殿舎そのもの。軒下の舟肘木が泣かせる。庭まである。
http://nagaragawa.main.jp/archives/2010/03/post_161.php
644人間七七四年:2010/05/27(木) 20:59:41 ID:1Bs3ySO9
某氏の天主復元イラスト作成中の告知からもうすぐ半年になる
完成はまだかのう・・・
645人間七七四年:2010/05/27(木) 21:26:02 ID:ihMxgPFo
>>641
化粧石垣みたいだよ。我が家にも欲しいが…
http://azch.exblog.jp/12690013/
>>644
あの妄想ブログに森俊弘案が紹介されていたが、森案はこのスレ的にはスルーなのか?
646人間七七四年:2010/05/27(木) 21:51:50 ID:1Bs3ySO9
別にスルーはしていない
森案は、あれはあれで良いと思うし、木版画の解釈も西ヶ谷氏より優れていると思う
ただ、一箇所気になるのは、一層目から三層目までの三重に及ぶ重箱櫓の構造に不安定な印象を受ける
647人間七七四年:2010/05/27(木) 22:06:52 ID:1Bs3ySO9
唐突に江戸城研究の大家 平井聖案
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org918663.jpg
648人間七七四年:2010/05/28(金) 01:34:59 ID:x4Ymwrdt
かなり良い感じの意匠だけど、信長らしい派手さが無いのが今の時代の解釈に有っていないような気がする。

それにしても森の中に天守がぽつんと有る様子がまるで娯楽時代劇の悪役の本拠って感じが・・・
649人間七七四年:2010/05/29(土) 00:16:08 ID:n/5/Po7/
>>646

『城郭史研究』の25号で一層目の平面を再検討しとる。
650人間七七四年:2010/05/29(土) 19:28:32 ID:djwaJuT9
>>648
そもそも「信長が派手好き」って言うのに根拠が無いような
651人間七七四年:2010/05/29(土) 22:12:22 ID:fC2Fw4bA
>>650

そんな事は無いんじゃないか。

俺はそれほど信長フェチじゃないので詳しくはないが、信長公記に記された安土城天守の様子にしても、南蛮風マントをまとっていたと言う事にしても、従来の武将には見られない。
権威を世に知らしめる戦略だったとしても、目立つ行為をしていたのは事実じゃないか。
後に続く秀吉が信長の影響を受けているのも間違い無いだろう。
652人間七七四年:2010/05/30(日) 07:34:49 ID:tRdd03uI
>>649
恥の上塗り。宮上説≒佐藤説>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>森説
653人間七七四年:2010/05/30(日) 18:15:27 ID:w38GwXcT
どーいうとこが恥なの?、具体的に。
654人間七七四年:2010/05/30(日) 20:25:41 ID:0imT5nEy
>>653
放置推奨
655人間七七四年:2010/05/30(日) 20:36:12 ID:PcJtfI4S
本人?!
656人間七七四年:2010/05/30(日) 22:20:45 ID:0imT5nEy
宮上説と佐藤説を同列に理解してる時点で知識の程が(以下省略
657人間七七四年:2010/05/31(月) 12:21:50 ID:wjeljcAo
西ヶ谷恭弘氏主宰の日本城郭史学会にて、第一級資料である安土日記から完璧なる安土城天主復原案を上梓された森俊弘氏
http://homepage3.nifty.com/okayama-chiho/chiho/0001.htm

代表の西ヶ谷恭弘氏を初め、彼らは今日、城郭史研究のみならず、戦国史・近世史・地方史・建築史の分野で第一人者として学界をリードする立場にある。 評論・作家活動を通じ、活躍中の方々も多い。
658人間七七四年:2010/06/01(火) 09:21:47 ID:ImayeqW/
「あずち信長まつり」あるの?
659人間七七四年:2010/06/01(火) 20:36:00 ID:FUHrgOzH
搦手とか八角の方へも行けるといいのになぁ
660人間七七四年:2010/06/01(火) 22:28:18 ID:Ea5JURrH
西ヶ谷恭弘なんて、もう過去の人物だろ。
661人間七七四年:2010/06/01(火) 22:49:29 ID:SwPUZ8Fk
>>659
十分行けるだろ。
662人間七七四年:2010/06/02(水) 02:12:22 ID:a1eSPG+z
夏は雑草だらけでヤバいだろ、あの雑草は人が入りにくくするためにわざと放置してんのかな。
昔の方が整備されてた
663人間七七四年:2010/06/02(水) 05:56:26 ID:oVJxDTr1
そうだね。でも冬は縦横無尽に回れるよ。冬まで我慢だ。
664人間七七四年:2010/06/02(水) 06:55:04 ID:CLQc5Kuz
立ち入り禁止区域だろ。
こういうマナーの悪いのがいるから迷惑する。
665人間七七四年:2010/06/02(水) 07:08:21 ID:s/qriwxV
城郭史研究なんて会費払えば誰でも会員になれる同人誌じゃん!
師弟ともども墨俣コンクリート天守並の復興案で学界をリードとか超嘲えるんですけどw
666人間七七四年:2010/06/02(水) 14:11:30 ID:9ru91IuB
駿府にあるんだっけ?浅間神社?
あれが安土城を模してるって本当っぽいけどどうなのかな?
667人間七七四年:2010/06/02(水) 19:14:06 ID:nBM25eL7
久能山東照宮は大坂城を連想する
668人間七七四年:2010/06/02(水) 21:04:56 ID:MPRSWSuq
安土城って、信長がつくった城だから話題になるの?
669人間七七四年:2010/06/02(水) 21:23:15 ID:pBm+AQMY
違うよ。
信長が造った城は他にもあるからね。
670人間七七四年:2010/06/03(木) 05:08:29 ID:7WlCbxVc
『安土城復元案』を運営してる明日香 淳也さんの『天守指図』を使った復元案って、このスレ的にはどういう評価ですか?
671人間七七四年:2010/06/03(木) 07:25:27 ID:2dza1EA6
>>668
同じ天守閣でも、安土城と駿府城=住居、大坂城やその他=倉庫。

倉庫ならどんなに豪華でも話題は外観だけど、住居となると間取りが重要になってくるから、人はいろいろな夢や想像を膨らませることが出来る。誰でも理想の家の間取りや外観を考えるのは大好き。たとえば宝くじに当たって別荘を建てるとしよう。
海辺に建てて、リビングやお風呂から富士山が見れて、庭でバーベキューができて、北米風の外観で、地下室にビリヤード場を作って、離れに茶室を作って、障壁画は東山魁夷に描かせて、庭は重森三玲に作らせて、なんて考え出すともう止まらなくなるw

しかも高層天守閣建築の始原であり、戦国の覇者・織田信長の建てた城で、見た人は一様に「生前の思い出」「その有り様は言葉で表現できない」「唐様を御学び」なんて大げさに記録してあるから、ますます好奇心を掻き立てられる。
だからこの430年間、常に話題であり続けているのさ。
672人間七七四年:2010/06/03(木) 20:36:21 ID:9JcmvoGS
早々に燃えてしまったし、家主は殺されてしまうし、400年後に見つかった設計図らしきものには
吹き抜けがあったという定説が付くし、まあ話題にならない方がおかしいわな。
新しく天守が建つとどこでも話題になったが、普通の大名でこれだけなら派手好きな信長が建てた
豪華壮麗(らしい)な天主はどんなものだったのかと庶民の期待を駆り立てたんじゃないかね。
673人間七七四年:2010/06/03(木) 21:14:10 ID:RXAFqURf
安土城の規模がどうとか、縄張りがどうとかじゃなくて、
安土城=天主な訳ですね?

674人間七七四年:2010/06/03(木) 21:59:10 ID:EiiHj8uX
大天守が安土行が初だったり、どんな姿だったか謎となっているので、注目が行きやすいが、決して 「安土城=天主」ということはない。
675人間七七四年:2010/06/03(木) 22:00:06 ID:EiiHj8uX
ミスった
安土行→安土城

わざわざかんでも判るか・・・
676人間七七四年:2010/06/04(金) 05:48:03 ID:mPpc6B5i
天守指図肯定派・・・内藤昌、明日香淳也、横手聡
677人間七七四年:2010/06/04(金) 06:09:48 ID:Sx9f1vQB
>>673
安土城は他の城と比べて特異な点が多すぎる。だから憶測が憶測を呼び、話題に事欠かないんだと思われ・・・

①突然変異的な高層化
松永久秀の信貴山城や義昭の旧二条城にも天守閣があったことが判っているが、それらは御三階櫓と思われる。
しかし、安土城はそこからいきなり5層7階という望楼型大天守に突然変異を遂げている。
②天守閣での居住
天守閣は、通常時はシンボル、戦時は物見櫓、城主最期の場所。
平和な江戸時代になると不吉な場所として城主は完成時と来客時くらいしか登閣しないのに、信長は家族と共に天守閣に居住していた。
③天皇専用の本丸御殿
柱間7尺2寸の本丸御殿は天皇専用の行幸御殿と思われるが、その天皇とは正親町天皇なのか、皇位簒奪後の自分の血が入った(誠仁親王の五男と信忠の長女との間に生まれる赤ちゃん)天皇なのか(外曽祖父としての信長?)。
あるいは天皇常住の地として安土に遷都させるつもりだったのか、その場合、安土城と平安京の位置付けをどう整合させるつもりだったのかが不明。
④低い防御性
安土城は城であって城でない構造である。
大手道は天主台間近まで直行し、西口(百々橋口)からの道は、家臣団屋敷地より高い位置で大手道に接続している。
防御性は低いどころか、ないに等しく、事実、本能寺の変後、明智軍は簡単に入城している。
678人間七七四年:2010/06/04(金) 10:32:50 ID:SLOJcwnU
明智が簡単に入城できたのは、城主が死亡して、家臣も逃亡したあとだからだろ。
防御性関係ないわ。
679人間七七四年:2010/06/04(金) 14:50:06 ID:4GGkL+Pn
>>667
4.の項目は、畿内を制圧してるから戦闘を前提にしてないんじゃないの?
もっとも詰城に観音寺城を置いていた…とかね。

単体の城ならともかく、当時無数に点在した支城や、後の徳川政権下の城閣群やらを考えれば、
城そのものの強固さはそこまで必要なかったんじゃね、と邪推したり。
680人間七七四年:2010/06/04(金) 17:51:21 ID:pXe4KVjz
>>677
信長は安土に遷都させるつもりだったんだよ!そうすれば、3.と4.の謎は解決する。根拠は、宣教師の記述。
「(天主閣より)はるかに入念かつ華美に造られていた」「(信長は)安土の町を壮麗たらしめること以外に余念がなかった」
安土城が天皇の御所(別荘)となれば、さすがの上杉謙信も攻められなくなるし、京都御所同様、防御性は不要となる。
遷都後の京都は観光都市として開放。フロイスが「日本では都の名所旧跡の物見遊山が盛んである」と記している。
本丸御殿が天皇の座所なら、手狭な安土山ゆえ信長の御殿は上に上に重ねざるを得なくなり、1.と2.の謎も解決する。

天下布武(公家=藤原に代わって武家=もののふ=物部が天下を治める)だから、藤原(公家)政権の本拠地=平安京から
天皇を武家の都・安土城に移して、最終的に藤原政権(天皇の妃は藤原氏から出す慣例→藤原氏が天皇を傀儡化)を名実共に潰そうとしていたんじゃね?

信長の出自は古代豪族の忌部氏で、越前・劔神社の神官。
587年の物部VS蘇我の神仏争いでは、大和朝廷の祭祀を担当していた忌部氏と中臣(後の藤原)氏は一致団結して廃仏派の物部氏を支えたが、崇仏派の蘇我氏に破れ、乙巳の変で天下を取った中臣(藤原)氏にも裏切られた。
忌部氏は朝廷の祭祀職を完全に剥奪されて奈良の中央政界から落ちぶれ、律令体制下でこの世の春を謳歌する藤原(中臣)政権から散々冷や飯を食わされてきた。藤原道長の有名な「この世をばわが世とぞ思ふ・・・」
藤原(近衛、一条、二条、鷹司、九条)に対する「この恨み、晴らさでおくべきか!」を、戦国武将として大復活した忌部信長は天下布武の安土城で果たそうとしたと思われ。
681人間七七四年:2010/06/04(金) 18:55:37 ID:SLOJcwnU
ないわw
こじつけにもほどがある
682人間七七四年:2010/06/04(金) 22:27:29 ID:NFUEbzSE
安土城は史上初の天下人の城という点で他の城とは一線を画する。
安土城以前は、平時は使われなかったり単なる住まいとする様な使い方だったりと築かれる場所によって使われ方が多少異なるけど、共通しているのは敵の攻撃に対して立てこもって防御をするための設備。
しかし、安土城は権威を示すための仕掛けとしての設備として築かれたという点でコンセプトが全く異なる。

安土城の様な城が生まれた背景には、信長が真の天下人として、全国を統一する半ばに有ったことが大きい。
対抗勢力があったり、同盟してはいるものの何時裏切るかわからないような不安定な武将達に対し、天下人としての権威を示しす必要があり他を圧倒する力を示す必要があったものと思われる。
そのための要素として、
(1)巨大な天主
 巨大な天主は権威を示すために必要なシンボルだったため、それまではあまり例が無かった瓦屋根を使い、更に金箔を使用するなど外装は今までにはない程の装飾で覆う必要があった。(専用瓦を造ったという点では初)
 また、単なるハリボテでは意味がないため、内部も豪華にする必要があったと推察。
 天を貫く巨大な天主を自分の象徴とするために、内部に居住する必要があったものと思われる。
(2)石垣を多用し新しさを強調
 観音寺山城は初めて城郭全域に石垣を使用した城ではあるが、安土城でも全域にわたり石垣を採用し高さという点では観音寺山城を圧倒。石垣を更に高く積み上げることで権威をより一層引き立てる要素としている。
 安土城の高石垣は石垣の歴史としては初期の部類に当たると思われるが、高いところでは10m程度の高さがある。
(3)広くて直線的な大手道
 安土城の威容を来訪者に効果的に見せつける仕掛けとして大手道をこれまでにないほど広く確保している且、直線的に配置。
 (と言われたりしているが、小牧山城も直線的という点では同じなのでどうなのか。尚、当時は大手道と言う名称はまだ存在して無い。)
(4)本丸の御殿
 本丸の礎石の並びが御所の清涼殿と同じ事から天皇を行幸させようとうという思惑があったと言われている。
 天皇を住まわせるには狭すぎるため、平時は本丸御殿的な使い方ではなかったかと思うが・・・
(5)虎口
 安土城の伝鉄門虎口は枡形の初期形態と言われていており防御機能の進化もみられる。来訪者に、ここから先は特別な空間だと思わせるために出来た仕組みではないかと思われる。

今、安土以降の城を知っている自分達には、それほどのことではないと思うかもしれないが、当時はそれこそ大変な城だったと思われる。
以降の城は安土城を見た結果に出来たわけだからね。
安土城は天主だけじゃない。
天守は一つの要素に過ぎない。
683人間七七四年:2010/06/04(金) 22:38:56 ID:mPpc6B5i
天主には風呂屋や湯殿がないから
天主=表、伝二の丸跡=奥
でしょうかね?
684人間七七四年:2010/06/04(金) 23:37:06 ID:NFUEbzSE
おそらくそんな使われ方をしていたと思う。
普段は現在信長の廟所がある辺りにあったと思われる建物で凄していたんじゃないかと。
どこかにあったと言われている信長の庭園も主郭部の中ではその辺りしか考えられないし。
685人間七七四年:2010/06/05(土) 03:01:58 ID:K8jfQicf
湯殿が有った場所は井戸から比較的近い本丸取り付け台あたじゃないだろか。
帯曲輪の露地のような通路から入る伝長谷川邸が山里っぽい雰囲気があるから信長の庭園はこの場所に有ってもおかしくなさそうだが。
686人間七七四年:2010/06/05(土) 06:12:09 ID:fUf/j8BU
今は母屋に内風呂を作るのが当たり前だけど、昔は風呂は母屋から離れた場所に作っていたんジャマイカ?
しかも湯船に浸かるのは太閤秀吉が広めた習慣であって、同時は妙心寺の明智風呂のように蒸し風呂が主流だったらしいYO!
場所の候補としては、裏向きの台所曲輪、煙硝蔵あたりが怪しいと思う。

フロイスが記した庭園は、信長廟がある二の丸御殿の西にあったんじゃないだろうか?
竜安寺の石庭のように西方浄土思想とも合致する。庭の石組みが残ってないからなんとも言えんが…
687人間七七四年:2010/06/06(日) 05:41:15 ID:vsISUHCS
>>676
藤岡通夫 井沢元彦 平井良直
688人間七七四年:2010/06/06(日) 06:14:01 ID:FW0pZk0U
観音寺山詰め城説は、下街道封鎖で一巻の終わりになる悪寒・・・
689人間七七四年:2010/06/07(月) 00:14:53 ID:RHAeXpPr
age
690人間七七四年:2010/06/22(火) 22:33:15 ID:hqB7aO8N
1
691人間七七四年:2010/06/22(火) 22:38:46 ID:hqB7aO8N
http://castles.noblog.net/


一体、何時になったら復元図(イラスト)が公開されるのかな。
妄想を膨らませすぎて収集が付かなくなったのかな?

これまでの妄想の数々を見るに、相当に複雑怪奇な様態になりそうだが。
692人間七七四年:2010/06/23(水) 16:45:14 ID:fkqgHJEi
平面規模と天主台の高さは発表済みだが、立面図を起こすための
各層の高さの調整に手間取ってるんじゃないだろか?
日記や公記の柱本数の記載をスルーしてないことを願いたいが・・・
693人間七七四年:2010/06/24(木) 07:50:32 ID:IdN/gKye
世界一受けたい授業エコスペシャルで日本史リフォーマー河合敦が問題に出していたが、
安土城内で汚水浄化槽の遺構が検出されているとか。どこらへんだろうか?台所曲郭下あたりかな?
694人間七七四年:2010/06/24(木) 17:15:32 ID:RprdpF2N
戦国時代の城に汚水浄化槽なんて有ったのか?
糞尿なら厠の壷に溜めてから城外に捨てていたと思うが。

本丸御殿北側の本丸取付台直下から、1間×3間で深さ3尺ほどの
貯水槽のような何らかの施設なら発見されているが、今はもう調査が済んで埋め戻されているはず。
695人間七七四年:2010/06/25(金) 13:31:10 ID:updkFr7g
>>693-964 これだろ?
http://www.ntv.co.jp/sekaju/onair/100605/04.html

Q.織田信長の安土城にあったエコシステムとは?

A.正解は…排水をリサイクルする浄化システム
安土城の近くに水溜を作って排水が流れ込むようにして、下には杉の葉や竹の枝を敷いておきます。
すると、泥や不純なものがそこへ吸い付きます。上澄みの比較的きれいな部分を洗濯物などに使用していたようです。
696人間七七四年:2010/06/25(金) 23:28:52 ID:W4TLoxZk
Q:安土城にあった...
A:安土城の近くに...

問題そのものに間違いがあるね。
出題した先生にとってはと城外でも近くなら安土城なのか
697人間七七四年:2010/06/26(土) 07:05:55 ID:O954cu/J
日本史をリフォームしちゃってるなw
あえて補足して考えるなら「天主か本丸の近くに」ジャマイカ?
698人間七七四年:2010/06/26(土) 08:44:17 ID:1cIWsdoI
城=天守って認識なんだろ
699人間七七四年:2010/06/27(日) 11:25:17 ID:tDCmWngI
何時までやってますか?
700人間七七四年:2010/06/27(日) 11:29:52 ID:WvyC4e52
信長って安土城をどうしたかったんだろう?

博覧会のパビリオン?
701人間七七四年:2010/06/27(日) 12:02:57 ID:EtqXN1hS
見物料うめえwww
702人間七七四年:2010/06/27(日) 21:56:56 ID:4nWpHbKE
>>700
天下人の権力を示す象徴にしたかったんだろ
他に何かあるのか?
703人間七七四年:2010/06/29(火) 19:45:38 ID:dwFAssh/
今回のお城ブログはよく言いたい事がわからなかったので
誰か解り易く説明してください
704人間七七四年:2010/06/29(火) 22:25:31 ID:ZkOlndZd
信長が慈照寺を岐阜城に模すことで、足利文化の継承者であることを周囲に示そうとしていたってことじゃね?
それが後に、豊公大坂城の山里と天守の配置になんとなく受け継がれたってことじゃないだろか
705人間七七四年:2010/07/01(木) 18:52:37 ID:sJ5Yqb6s
天井眉とお歯黒も真似てたのかね?
706人間七七四年:2010/07/02(金) 20:27:17 ID:Z1VpH2va
707人間七七四年:2010/07/05(月) 21:34:35 ID:+mnycINw
「信長の風呂」見つかる 京都市・二条殿御池城で遺構

織田信長が安土桃山時代に、京都に造営した二条殿御池城(二条屋敷)の風呂の遺構が
京都市中京区の発掘現場で見つかり、市埋蔵文化財研究所が28日、発表した。
風呂は信長自身も利用した可能性があり、同研究所は二条屋敷の姿を探る貴重な資料としている。

見つかった風呂遺構は東西約7メートル、南北約6メートルの規模で、大型の竈(かまど)2基と井戸、
土間が確認された。そのうち竈1基の周囲には風呂屋形(やかた)(浴室建物)を支えたとみられる約10個の礎石があった。
竈に鉄製の桶(おけ)を置き、そのうえに簀(す)の子をしいて、湯をわかして、蒸し風呂にしたらしい。

二条屋敷は、信長が住まいとして現在の京都市中心部に1576年に造営。池と泉の庭園が
有名だった二条家の邸宅を利用してつくられたとされ、約120メートル四方の規模を誇った。
平成14年の発掘調査では庭園遺構の一部が確認された。

今回の風呂遺構は、二条屋敷の中では南側、庭園に接するとみられる位置で確認された。
同研究所では竈が大きなことなどから、屋敷内の浴室施設の遺構と断定した。
同研究所は「信長も利用したかもしれないが、庭を望み、客人をもてなすために建てられた可能性がある」としている。

同研究所では出土した資料などを5月1日から同16日まで京都市考古資料館(上京区)で展示する。入場無料。


(2010年4月29日 09:10)
http://www.sankei-kansai.com/2010/04/29/20100429-023380.php
708人間七七四年:2010/07/06(火) 10:53:16 ID:imthK7FY
古いネタを書き込むなよ。
709人間七七四年:2010/07/06(火) 16:56:42 ID:3RR+ZAhz
織田の貴種を重んじる家康は、織田長益を安土藩五万石(十万石格)に封じる予定であった
710人間七七四年:2010/07/07(水) 20:40:47 ID:WG9M+mr5
>>708
確かにこのスレで語られる安土城は古いネタだな
じゃあ削除依頼出してきな
711人間七七四年:2010/07/09(金) 14:13:43 ID:dG1wLkm8




  織田信成が織田信長の子孫って本当?【3代目】
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1277120346/

  織田信成が織田信長の子孫って本当?【3代目】
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1277120346/

  織田信成が織田信長の子孫って本当?【3代目】
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1277120346/




712人間七七四年:2010/07/15(木) 18:14:36 ID:4yzLqv/L
例のトンでもサイトは、長いこと更新されないようだが・・・・・
713人間七七四年:2010/07/15(木) 23:25:07 ID:oDDGucDg
安土城跡って、女一人でもいける??危ない?
714人間七七四年:2010/07/15(木) 23:35:28 ID:73TwL0Eu
全然大丈夫だと思うよ
715人間七七四年:2010/07/16(金) 08:41:17 ID:YiYWEy/M
近所ですが見かけますよ、女性の一人登城。
観音寺城址でさえたまにいるくらいで・・・
716人間七七四年:2010/07/18(日) 08:09:32 ID:Tjz4rAdQ
>>712
妄想の大暴走>>691は相変わらずだよw
717人間七七四年:2010/07/18(日) 09:56:21 ID:Z5xF+P5f
私は女性ですが小谷城祉に一人で行けますか?
718人間七七四年:2010/07/18(日) 12:39:17 ID:bks0mI3x
あなたが若くて美人なら100%強姦されます
719人間七七四年:2010/07/18(日) 23:39:00 ID:HUYikIJ/
男女を問わず、一人歩きしたい奴は、
マーシャルアーツでも習え。
自力救済はともかく、自己防衛は生き物の基本。
720人間七七四年:2010/07/20(火) 09:26:53 ID:yL1q2S0q
>>716
岐阜城江戸城ドンジョンよりも安土城の復元イラストはどうなったのだろう・・・
本丸御殿の後方に天主が聳える俯瞰イラストを作成中と言っていたが・・・

その他に家康と高虎の大坂城西ノ丸天守を考察するという話も楽しみにしていたのだが
721人間七七四年:2010/07/24(土) 13:59:47 ID:2NLQNx3/
明日香淳也氏とプラ大工氏の安土城復元案はどうなんでしょうかね?(明日香淳也氏の方は未完成のようですが)
722人間七七四年:2010/07/24(土) 14:13:30 ID:XB7yLstu
↑どう思うかは人それぞれ。
723人間七七四年:2010/07/24(土) 14:45:05 ID:2NLQNx3/
>>722
申し訳ありません。明日香淳也氏の『天守指図』肯定論及び安土城天守の聖堂模範説などの信憑性やプラ大工氏の安土城天守の外観や内部の平面構造の復元の信憑性などについてこのスレの皆さんがどう論評するのか知りたかっただけです。
724人間七七四年:2010/07/24(土) 15:04:00 ID:XB7yLstu
個人の復元案を2Chで批評すると信者や関係者らの罵り合いになるのが分かってるからな
725人間七七四年:2010/07/24(土) 15:31:17 ID:H9EukOQH
>>717
野生の熊がでますんで。
釘バットなどヒャッハー重武装して行くように!

もう遅いか・・迷わず成仏してくれ。
726人間七七四年:2010/07/26(月) 16:52:28 ID:spklMA0Z
妄想の大暴走の天主外見まだぁ~??
727人間七七四年:2010/07/26(月) 19:23:51 ID:p1cKuaWG
ん、しかし、まあ、今回の考察は個人的には楽しめたな。
信長が邸を見せるのを躊躇してたなんて知らなかったわ。

てか、三階から渡り廊下があったりとか、本当だったらすごいな。
それだったら安土にも同じ様なものがあったのかもしれん。

いつの間にか 山里丸 に進化したんだろうけど
邸て書いて何て読むの?

てか、岐阜城で試したものに、宣教師達の意見とか他の国の見聞を聞いて
それに負けない様に作り上げたのが安土城だったんだろうな。
728人間七七四年:2010/07/26(月) 19:43:35 ID:suTiny3/
屏風図は一向に見つかる気配はないの?
大坂城は見つかったというのに…
729人間七七四年:2010/07/27(火) 06:51:53 ID:pjMpfXVJ
糞屏風と一緒にするな。
730人間七七四年:2010/07/27(火) 09:36:12 ID:7BAg1tmM
全山総石垣積みの巨大城郭がたった3年で完成したトリックは、やはり移築だろうな。

移築のおかげで、土木工事に集中できた。頑丈な石積み工事が終わった後は、
総見寺は丸々、伝前田邸の主殿、江雲寺御殿も、みんな移築&移築&移築…
安土での新築は天主と本丸と二の丸御殿くらいのもんだったんではないか?

屋敷地を分譲された家臣団は自分の屋敷を建てるだけで桶だし、
武井夕庵だけは信長に屋敷も建ててもらっているがw
731人間七七四年:2010/07/27(火) 09:45:30 ID:LypYJoKI
>>730
普請開始が天正4年1月中旬で、完成記念の馬駆けが天正9年の元旦だから5年かかっている
732人間七七四年:2010/07/27(火) 09:59:32 ID:VmS4xL1r
もうそろそろ”伝○○邸”やめてほしいんだけどなぁ
あり得ない屋敷配置だし素人はホントにそうだったと思ってる
733人間七七四年:2010/07/27(火) 12:17:05 ID:EzA8YWCI
伝○○とか付けるんなら、まだ未発掘の所も全部発掘してから命名するべきだよね
734人間七七四年:2010/07/27(火) 13:12:26 ID:s6oBZP3+
伝○○邸としたほうが場所が特定しやすくていいんじゃないのかな。
今更別の名前を使うとなると名づけが難しい。
735人間七七四年:2010/07/27(火) 13:53:53 ID:oNT6RDo8
別に『い』邸とか『ろ』邸でもいいじゃん
伝○○邸だと変な先入観が入るから
736人間七七四年:2010/07/27(火) 14:20:48 ID:VmS4xL1r
八角平を菅屋邸、伝三の丸を名坂邸っていうレベルのものだし
737人間七七四年:2010/07/27(火) 17:15:55 ID:QXJU+KpC
羽柴邸、前田邸、家康邸の3屋敷地とも緊急招集時で50人くらいしか置けない大きさで、通常時は10人程度だったと推察する。

特定の家臣が住んでいた屋敷地というより、信長に召集された遠方からの来訪者と側近のための宿舎といった感じだ。
いろいろな陳情に来たり、領地を安堵して貰いに来たり…
とにかく室町幕府が滅びてしまった今、名実共に天下人となった信長の下を訪れる来訪者は後を絶たなかったろう。

映画ゴッドファーザーの冒頭シーンを思い浮かべれば、安土での信長への陳情のイメージが湧く。面会時間は5分くらいか?
娘を強姦したチンピラを殺して欲しい、息子の兵役を免除して欲しい、靴の中の小石を始末して欲しい・・・etc
もちろん信長が直接会うのは大名以上で、中小名は安土常住の家臣たちが対応していたろうが…
738人間七七四年:2010/07/27(火) 20:27:21 ID:DDbrJt3P
徳川家康が安土を訪れた際の宿泊場所が「大宝坊」。この大宝坊がどこにあったかは分らないが、大手道に面した御殿の一つがそれであった可能性はある。
739人間七七四年:2010/07/27(火) 20:41:08 ID:oNT6RDo8
当時の家臣らの記録から誰がどこの邸だったか調べる事はできないの?
740人間七七四年:2010/07/28(水) 23:45:54 ID:nApKwByj
安土の「伝〇〇邸」から当時の家臣の政治的ポジションを考察する、なんてアホなことを
本気でやってる人間とかいるからなあ。頭大丈夫かと言いたい。


>>739
そんなものがあったら安土研究はもっと進んでる。
741人間七七四年:2010/08/11(水) 22:43:59 ID:afXQAGJc
『よみがえる真説安土城』が楽オクに出品されてるね

http://auction.item.rakuten.co.jp/11037262/a/10000317
742人間七七四年:2010/08/11(水) 23:31:09 ID:DWwi5fzu
12000円とかw
743人間七七四年:2010/08/12(木) 13:02:47 ID:uUPwywU0
確かに高いように思うかも知れないけど
ヤフオクにはないし、アマゾン見たって写真はアップしてないからどんな状態か分らないし
怖くて手を出せないしね
楽オクの方はいかにも綺麗みたいだし、妥当な価格かと
744人間七七四年:2010/08/12(木) 18:43:06 ID:/vrvFpwp
これ持ってるけどそんな高く売れるのか
745人間七七四年:2010/08/18(水) 02:16:07 ID:CyWZ6yRF
続編を期待してたのに、三冊で終わってがっかりしたわ。
熊本や大阪城とか出して欲しかったが、この
シリーズ売れなかったのかね?
746人間七七四年:2010/08/21(土) 00:55:56 ID:U5BTnMmK
江戸城だけ買わなかった。
747人間七七四年:2010/08/23(月) 16:46:04 ID:48d5vVjE
先日、ガキのころからの夢だった安土城跡へはじめていってみた。
石垣のみの遺構だったが、自分の足で登城してみて感動した。
在りし日の建築物を想像しながら天主台まで行ってみて
改めて思ったが、天主閣がないのはやはり残念だった。
ないものを想像するのもロマンだとも思った。
748人間七七四年:2010/08/24(火) 09:36:46 ID:Icxt4xHb
天主台だけでも復元してくれたらいいのに
749人間七七四年:2010/08/26(木) 08:54:01 ID:65bNIL+I
よみがえる真説安土城
今度は9000円に下げられて出品してるね
http://auction.item.rakuten.co.jp/11037262/a/10000340
750人間七七四年:2010/08/26(木) 09:21:23 ID:XwxJu1WS
安土城の古書を所望なら以下で検索すると沢山ヒットする
滋賀県立安土城郭研究所の測量図や、内藤教授の国華も出てくる

ttp://www.kosho.or.jp/servlet/top
751人間七七四年:2010/09/06(月) 02:47:19 ID:I+Vzrow1
安土城のイラストまだかな
752人間七七四年:2010/09/06(月) 19:51:16 ID:5YpEBS/k
>>740
漏れは、あの屋敷地比定は歴史的事実を反映してると思っている。

もちろん信長存命中ではなく、また明智・柴田の名前がないことから、【小牧長久手の戦い~小田原攻め】のいずれかの時期、秀吉と家康と利家が、廃墟となった安土城跡で天下の情勢について密談を重ねていたんジャマイカ? その名残りがあの屋敷地比定だという見解だ。
753人間七七四年:2010/09/06(月) 20:14:13 ID:yrEeFKsh
信忠、信澄、乱丸の屋敷も書いてあるよ。
754人間七七四年:2010/09/06(月) 23:51:01 ID:teMqk2G+
夏休みの「地元の歴史」の宿題手伝ってもらってもいいですか?
なぜ安土山に城を築いたのですか? 壮麗な天主があっても、すぐ近くに天主よりも高い観音寺山があれば、パッとしないというか、間抜けな感じがするんですけど、どうでしょうか?
ド素人では計り知れない意味を教えて下さい。
755人間七七四年:2010/09/06(月) 23:54:24 ID:MLjRR1uR
「畿内の高速道路」琵琶湖の中央に位置しているから
756人間七七四年:2010/09/07(火) 00:10:20 ID:5LwLhJm0
>>755
やはり地理だけの問題だったんですか。
ありがとうございます。
757人間七七四年:2010/09/07(火) 09:23:38 ID:Z95a+jC1
段々畑みたいな縄張りは西明寺とソックリだった。
安土城は、城というより寺という感じだ。
さしづめ、天主は本堂&庫裏w
758人間七七四年:2010/09/07(火) 21:43:19 ID:mFmTOD6Y
>>756
現在の用に周りが畑ではなく、当時安土山は琵琶湖に突き出した半島だった。
天下人の城として、麓をと通行する人々に良く見える必要があった。、
そういう意味では繖山では高すぎなのは明白で、安土山の高さがちょうど良いと考えたのだと思われる。
おそらく最盛期の安土城の存在感は、繖山の存在などまったく気にならないほどのだったのではないだろうか。
そもそも、山と城を比べること自体がちょと変だと思うが・・・
759人間七七四年:2010/09/08(水) 00:45:45 ID:+gfuvcEc
>>758
>>756です、ありがとうございます。
なるほど~。街道の位置から考えると繖山は全く気にならないですね。
あと、城内に寺を建てたのはのはなぜでしょうか? よく信長は神になろうとした等言われてますが、神なら神社を建てるべきじゃないでしょうか?
760人間七七四年:2010/09/08(水) 07:59:18 ID:3aNmpR1w
「本地垂迹説」でググって味噌。
日本独自の神仏習合によれば、仏(寺)>神(社)。

例:天照大神の本地仏は大日如来、東照大権現の本地仏は薬師如来…etc

よって、信長が(日本の)神になろうとすれば、仏になっとくのが手っ取り早い。
神社ではなく寺院を移築、各地から仏像の名作・傑作(広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像や興福寺の阿修羅像みたいな?)を徴集してきて、その頭上に仏壇を作って盆山という石を置いたのがその意図を示している。

摠見寺本堂来迎壁イメージ
┯┯┯┯
│ .○. │←仏壇(○盆山)紫座布団&金糸
┝┿┿┥
|§♀§|←仏像
┝┿┿┥←須弥壇
┷┷┷┷
761人間七七四年:2010/09/08(水) 08:50:42 ID:64pOXNpT
>〉755 岐阜と京都を行き来する時、このあたりが中間点になる。安土城建設以前、信長はすぐ近くの常楽寺(地名)を宿泊地にしたことが何度もある。
762人間七七四年:2010/09/08(水) 23:09:03 ID:Pq0mLSEy
そう言えば、摠見寺本堂の復元プロジェクトはどうなったんだろう?

江戸時代に摠見寺が幕府に提出した図面を見ると、本堂は裳腰屋根付きの5間仏堂の寄席棟屋根らしい。
禅宗様仏堂の屋根は入母屋が一般的なのに、寄棟となると珍しく、その例もかなり限られてくる。

東大寺戒壇院(奈良)一番下
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/toudaiji.htm
善福院釈迦堂(和歌山)
http://www010.upp.so-net.ne.jp/teiryu/Wk05.html
建長寺仏殿(鎌倉)
http://www010.upp.so-net.ne.jp/teiryu/Kn01.html
763人間七七四年:2010/09/09(木) 19:21:43 ID:ILAh4vPx
764人間七七四年:2010/09/09(木) 20:45:55 ID:lHwY6Dgf
>>763
上総介ヲ宿ス??って、なんじゃこりゃ?!まるで出来損ないの金閣じゃん…orz
審査員は何考えてこんなドイヒーな案を選んだんだろう???
って優香、白木の大きな模型以外、マトモな案がひとつもないじゃん!!
765人間七七四年:2010/09/09(木) 21:17:27 ID:ILAh4vPx
まあ一層目の強烈な振棟が個性的で面白いが、
二層は二間四方で窓が無い暗室だったとものの本で読んだが・・・
766人間七七四年:2010/09/09(木) 21:27:30 ID:L82odT6F
>>762
摠見寺本堂の発掘調査によると、縁側の束石は本堂北側にしか残っておらず、四方に落ち縁が回っていなかった可能性もあるそうだ。

現に領内の貴賎に盆山参拝を義務付けていることから、信長誕生日には相当な人出が予想され、四方落ち縁で床板を張る構造であれば、いちいち履物を脱ぎ履きしなければならず、時間的にもスペース的にも現実的ではない。
やはり床は土足のまま入れる石畳敷きと考えるのが現実的だろう。
本堂焼失後、ワープ(超光)寺の山門のように、他の禅宗寺院の石畳として再利用されたとみることもできよう。火災の熱でボロボロになって使い物にならなくなったかもしれんw

とすると建長寺・仏殿のように、集めてきた仏像が入りきらずに、岡部又右衛門以言・以俊父子が本堂からハミ出す形で、造り付けた脇壇の束石かも知れないYO!
767人間七七四年:2010/09/09(木) 23:25:14 ID:TB6w/s37
>766
確かに、近江名所絵図や総見寺伽藍配置図だと
本堂には落縁はなさそうですね。
768人間七七四年:2010/09/10(金) 07:25:34 ID:YcFzu2Z9
>>763
これは予想以上に酷いな…ゆとり教育の弊害か。。。御住職がお気の毒すぎるorz

こういう「原寸大での」復元作業は、やはりプロの宮大工に任せるべき。
信長の館「原寸大」復元天主を施工し、内藤教授の一番弟子にして現代の名工、亀山義比古氏に依頼するのが最適な判断だろう。
http://e-kameyama.jp/topics/index.php

学生コンペはその蛇足として、幼稚園児同様、内外装の「ぬり絵」ごっこをやらせればよい。
建築復元まで素人に丸投げすると、天主同様、こういう非現実的な【脳内→紙上/イラストCG→模型復元】が、現実の復元案として平然とまかり通ってしまふ。
769人間七七四年:2010/09/10(金) 10:18:29 ID:shKvYnSE
『安土城復元案』の明日香淳也氏に頼むべきでは?
770人間七七四年:2010/09/10(金) 12:53:53 ID:ra2G5QVf
>>766
ワープ寺にワロタw
771人間七七四年:2010/09/10(金) 15:11:48 ID:d8CLKRWD
>766
やはり縁側は無さそうですね
ttp://blog-imgs-29-origin.fc2.com/a/s/a/asalab/20080331011433.jpg
縁側がある建物と無い建物は区別して描かれている
772人間七七四年:2010/09/10(金) 16:14:49 ID:g7BBMQcm
>>771
個人的にはこの手の本堂に2階があるのは疑問なんだが
773人間七七四年:2010/09/10(金) 18:18:06 ID:IE7GcBKb
裳階と二階建の違い
http://www010.upp.so-net.ne.jp/teiryu/syaji18.html

摠見寺本堂は二階建ではなく、裳階だと思われ。
774人間七七四年:2010/09/10(金) 18:22:35 ID:/yYebNUe
>>772
自分も二層案には反対です
総見寺伽藍配置図から外様を復元すると、
おそらくこのような感じで、暗い屋根裏に盆山を安置していたのではないかと
ttp://www.eonet.ne.jp/~kotonara/2006.01.80.jpg
775人間七七四年:2010/09/13(月) 16:06:58 ID:2KFTL3sF
テs
776人間七七四年:2010/09/13(月) 17:25:24 ID:kWNHI+30
ほれ、777を取りな
↓↓↓↓
777人間七七四年:2010/09/13(月) 17:32:49 ID:JSronLgT
今日の安土は雨
778人間七七四年:2010/09/13(月) 21:31:13 ID:cx0t8luM
本日信長の館で大河ロケ
安土城跡でロケやったかは不明
779人間七七四年:2010/09/15(水) 20:14:14 ID:bKR+WuO4
安土城 謎の「吹き抜け」 熱田の巨大山車応用?

水野名誉教授(岐阜高専)が論文 宮大工の業績に着目


大山楽車が描かれた「尾張名所図会」を持つ水野さん
ttp://www.yomiuri.co.jp/photo/20100901-329902-1-L.jpg


 「織田信長の居城、安土城にあったとされる吹き抜け構造は、
名古屋・熱田の巨大山車(だし)の技術を応用したのではないか」。岐阜高専(岐阜県本巣市)の水野耕嗣名誉教授(68)(日本建築史)が、
信長が重用した宮大工の業績に着目して、吹き抜け建築の可能性を論文にまとめ、富山市で10日に開かれる日本建築学会大会で発表する。
長らく謎とされている城内の構造について、一石を投じる研究として注目を集めそうだ。

(中村和男)


安土城を巡っては1940年の調査で、土台が変形八角形だったことが判明。その後、加賀藩の大工棟梁を務めた池上家から、
史料「天守指図(さしず)」が発見され、土台の形が一致することから、安土城の設計図と推測されている。

天守指図では、地上6階、地下1階で、4階までの中央部分が吹き抜け構造(推定約15メートル)になっている。しかし、
当時の技術では不可能と専門家が指摘。天守指図そのものの真偽を問う論争が今も続いている。

祭りの山車についても詳しい水野さんは、安土城を建造した棟梁の岡部又右衛門が尾張・熱田の宮大工であったことに着目。
当時の津島天王祭大山(津島市)や熱田大山楽車(だんじり)の巨大山車の工法を取り入れたのではないかと推測した。
江戸末期の「尾張名所図会」によると、熱田大山は幅3メートル、長さ4メートルの台車の四隅に柱を立て、高さ24メートル。
多くの人に引き回されても壊れない頑丈さを備えていた。

これまで、安土城と山車を関連づけて考察する研究者はいなかったといい、水野さんは「比類なき城の建造を命じられた又右衛門が、
熱田大山の工法を応用したのではないか」と語った。

城郭に詳しい熊本大の北野隆名誉教授(日本建築史)は「近世の城の天守は安土城から始まった。吹き抜け構造は何かの
ヒントから生まれたと考えられるが、巨大山車の技術を応用したという推論は非常に興味深い」と話している。

(2010年9月8日 読売新聞)

http://chubu.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyo100908_1.htm
780人間七七四年:2010/09/16(木) 19:04:10 ID:1O0t5RL1
姫路城は天守としては珍しく二本の通し柱を持っている。あの柱の周囲をぶち抜いたら吹き抜けになるんだろうか。
781人間七七四年:2010/09/16(木) 19:16:20 ID:drTVfcwN
よく建築学的に無理とか当時の技術ではとか言うけど、高層出雲大社はあったのがほぼ証明されかけてるし、
名古屋城宝暦の大修理とか現代人では考えもつかないことを昔の人はやってるんだから、吹き抜けだって否定はできないよね。
指図だって江戸中期にどういう想像であんな吹き抜けを考え付くのか、
782人間七七四年:2010/09/16(木) 20:18:45 ID:IZjUjmGP
大洲城にも吹き抜けはありますからね
783人間七七四年:2010/09/16(木) 20:28:38 ID:vIr14ptp
>>780
櫻井案だと、あの二本の通し柱の周囲の床板をぶち抜いた吹き抜けにしている
そして内藤案とは違い、吹き抜け内部を梁と柱でがっちり補強されている
784人間七七四年:2010/09/17(金) 10:02:42 ID:YpgkhYCr
785人間七七四年:2010/09/20(月) 12:15:01 ID:YjT5eg0b
初めて行ったけどあの階段地獄はキツかった
いくら基礎体力が違うと言っても当時の人も辛かったのかな?
786人間七七四年:2010/09/20(月) 12:20:04 ID:mAEDSKF3
>>785
すぐ目の前の観音寺城の方が、もっときつかった
787人間七七四年:2010/09/20(月) 23:56:00 ID:YjT5eg0b
夏場、汗だくになりがら失敗したーと思いながら
信長や六角も登城してたりしてね
安土城や観音寺城の林を伐採してくれないかね
ふもとから見たら山だもの
伐採した後のふもとから見る石垣は格別だと思うんだけどね
788人間七七四年:2010/09/22(水) 03:55:06 ID:Duuvl6J1
>>751
ホント、なんだかんだ言って横道に反れてばっかりだね。
一体、何時になったら発表されるのやら。

察するに、やはり妄想を広げすぎて収集が付かなくなってるんじゃないかな。
備後福山城似の秀頼の天守は兎も角、あの安土城天主じゃぁ後代の天守と余りにもかけ離れた姿になりそうだもの。
福知山城天守や高虎の宇和島城天守は規模が小さいからこそアシンメトリーにも趣があるけど、
安土城天主ほどの規模ともなると、醜悪以外の何ものでもないと思われる。
789人間七七四年:2010/09/22(水) 06:23:51 ID:mAs2cYC5
790人間七七四年:2010/09/22(水) 20:05:13 ID:pfLdU70F
>>788
>安土城天主ほどの規模ともなると、醜悪以外の何ものでもないと思われる。
モンサンミシェルのようなアシンメトリーを狙っていたんじゃないかな

>>789
天主復元の基礎は内藤氏、宮上氏らが既に行っているから
各階高さのバランス調整はさほど時間かからないはず
高さ方向の1間を6.5尺にするか7尺にするかで結果は違ってくるだろうけど
791人間七七四年:2010/09/23(木) 23:05:37 ID:u9V0skMi
一般的に吹き抜け構造が定着してきちゃった気がするけど
フロイスや信長公記に書かれていないのに
安土城に行くと伝○○って本気で信じて話しいる観光客を見ると
宣伝が上手い方が広がるんだなと思ったね
792人間七七四年:2010/09/23(木) 23:25:02 ID:AMf7Cbtk
伝○○は一応総見寺にあった江戸時代に描かれた絵図がべーすだからな・・・
事実か否かはべつにして、伝だから
793人間七七四年:2010/09/24(金) 00:09:31 ID:ST8VoJHT
どこだか忘れたけど、吹き抜けって言葉、概念が当時は無かったなんて書いてあるの見たことあるけど、どうなんだろうね。
794人間七七四年:2010/09/24(金) 00:16:21 ID:ST8VoJHT
だから書きようがなかったってこともありえる。
795人間七七四年:2010/09/24(金) 00:47:58 ID:uklKwNDZ
江戸時代には、2階建て民家でも、入り口から入ったら土間があって奥の方にかまどがあったりして、屋根までの空間があった。
この手の建物が安土桃山時代にあったかどうかの事実は知らないが、あったとしても吹き抜けとは言わないと思う。
寺院等でも外観2層で中は1つの空間という建物もあったと思う。

そういう意味では複数階を貫く空間があったとしても、さほど珍しくも無いようにも考えられる。

民家の土間を吹き抜けとは言わないし、寺院の空間も吹き抜けとは言わない。
言わないという事は、吹き抜けと言う言葉自体が近世に出来た言葉なんじゃないだろうか?

吹き抜けという言葉自体は、空間の広さを表現する言葉で、たとえば、煙突や西洋の塔等で下から上まで風が通り抜ける空間を表現する言葉から転じて出来たとか。
もしそうなら、信長の時代には無くて当然ではないかと。
796人間七七四年:2010/09/24(金) 02:19:10 ID:ST8VoJHT
あと、フロイスが吹き抜けのことを書いてないのも、西洋じゃ教会などの建物は当たり前に屋根まで大きな空間があるわけだから、
それが日本の巨大な教会のような天主にあっても驚かないだろうし、他の豪華さ壮麗さは書いても自分にとってて当たり前のことは書かなくても不思議じゃないと思う。
まさに西洋のそれよりも凄いとも書いているし。
797人間七七四年:2010/09/24(金) 02:41:22 ID:17F6o5m2
宣教師は安土城天主のことを廓で囲まれた大堂と表現していた
天主内部が協会の礼拝堂に似ていたということだろうか?


>美しき石段を上がると、まず廓をもって取りかこまれた大堂似達する。

>この廓の外部は絵をもって装飾せられ、遠くこれを望むと目を眩ますほどである

『イエズス会日本年報』

安土城再見 兵頭与一郎著 P67


798人間七七四年:2010/09/24(金) 02:44:07 ID:17F6o5m2
×大堂似達する。

○大堂に達する。
799人間七七四年:2010/09/24(金) 09:16:00 ID:CSup7L1Z
五重塔でも外観五層だが中に階が無いから
800人間七七四年:2010/09/24(金) 15:50:29 ID:eBu8h2ju
>美しき石段を上がると、まず廓をもって取りかこまれた大堂似達する。

これって天主のことだったの?
本丸か二の丸の御殿のことかと思ってたよ
801人間七七四年:2010/09/24(金) 16:08:36 ID:Ur9XexZk
ああ・・・
『まず』とあるから、
まず、天主よりも先に御殿に到達するという意味か
802人間七七四年:2010/09/24(金) 19:54:23 ID:UDcGYLSJ
その後の天主に吹き抜けがないのを思うと
やっぱり安土天主にもなかった気がするが・・
秀吉みたいな派手好きは影響されて吹き抜け天主を
建てるでしょ
803人間七七四年:2010/09/24(金) 19:59:47 ID:o47PlbgD
>>802
大洲城にある
804人間七七四年:2010/09/24(金) 22:05:02 ID:dJJapgLU
数奇屋だが水戸の好文亭にも小規模な吹き抜けが有った気がする
これも数奇屋だが小松城三階櫓

天守か御殿かは不明だが駿府城には吹き抜けの間が有った
805人間七七四年:2010/09/24(金) 22:09:20 ID:dJJapgLU
好文亭の吹き抜けっぽいのはこれw
ttp://www.pref.ibaraki.jp/hakase/info/32/images/elevator03.jpg
806人間七七四年:2010/09/24(金) 23:22:30 ID:uklKwNDZ
>>802
秀吉は、信長の良いところのまねを合理的に取り入れた。
安土城以前は巨大な天守は無かった。
大天守は見る者を圧倒する力の象徴だったはず。
そういう意味では中はどうなっていようと関係ない。
誰にも見せなければ、内部の装飾に労力をかける必要はないので外部を形成する骨格だけの天守になった。


一方信長は、安土城天守に意味を持たせた。
安土城は、史上初の天下人の天守として造られた。
そして天守は信長自身を表す象徴だった。
そのため信長自身が内部に居住する必要があったし、訪れた人に見せる必要があったので外観だけではなく内部も豪華な装飾で飾り立てた。
吹き抜けの空間があったとしたら、それなりの考えがあって意味を持たせた空間だったに違いない。
信長なりの哲学と戦略があってこそ実現した天守だったので、以降の天守は外観だけまねた天守となり、内部を見せなかったのでそれで十分だった。
807人間七七四年:2010/09/24(金) 23:38:07 ID:uklKwNDZ
訂正

秀吉は、信長の良いところのまねを合理的に取り入れた。
           ↓
秀吉は、信長の良いところを合理的に取り入れた。



安土城は、史上初の天下人の天守として造られた。
           ↓
安土城は、史上初の天下人の城として造られた。



信長なりの哲学と戦略があってこそ実現した天守だったので、以降の天守は外観だけまねた天守となり、内部を見せなかったのでそれで十分だった。
           ↓
信長なりの哲学と戦略があってこそ実現した天守だった。
しかし、以降の天守は権威の象徴として外観だけ取り入れた天守となり、内部を見せなかったのでそれで十分だった。
808人間七七四年:2010/09/25(土) 16:02:20 ID:hteSTLi0
>>802
道灌。
八角の段も、信長を超えようと余念がなかった秀吉はもちろんのこと、
後世の天守閣には八角形の意匠は一切見られないことから、やはり天守指図は後世の捏造と思われ。
809人間七七四年:2010/09/25(土) 18:30:30 ID:9i0Gvi7c
超えようとするなら全く同じものは作らないんじゃないのか
810人間七七四年:2010/09/25(土) 19:36:09 ID:9i0Gvi7c
てか、天主指図が発見されて八角の段が解ったんじゃなく、それ以前よりそういう記述とか江戸期に描かれた絵図にもあるじゃない。

天主指図の初重の不等辺八角形も、江戸期には石垣も崩れ瓦礫で埋まった中でどう実測して描いたのか説明できない。
昭和の発掘の実測、推定復元とほぼ同じだったし、指図が発見されたのはそれより後。
811人間七七四年:2010/09/25(土) 20:07:18 ID:+u4T6aUz
信長のセンスと秀吉のセンス、合理性が異なるのは当然。

天守の意匠なんて、八角の段があるか無いかなんて関係ない。
秀吉には意味がなかっただろうと思われるし、造りにくく意匠をバランス良くまとめるのも難しい八角の段はまねをする必要もなかったというだけだと思うが。
812人間七七四年:2010/09/25(土) 22:49:40 ID:gojT80PJ
秀吉なら全層八角の建物を建てるくらいの事をしないかな?



813人間七七四年:2010/09/26(日) 05:48:53 ID:rZz//id0
>>810
石倉は実際より西側に一間広く描かれており、それ故に、石垣の復元にあたり不自然な傾斜
(上部が垂直)にしなければ初層(一階)が収まらないのは、むしろそのような誤りを起こす様な状況下で
(資料を基に)
指図が制作されたことを物語っているんじゃないかな。

作られた
814人間七七四年:2010/09/26(日) 06:43:20 ID:/n9maULx
だいたい江戸時代には石垣が崩壊して計測不能だったってのは
史料の裏付けがあるわけでもなくまったく根拠がない。
「天守指図」が江戸時代には作成できないことを強調するための
修辞的言説が一人歩きしたに過ぎないと思う。石垣の崩壊は
近世中期でもいい訳だ。灌木が茂るなんてのはあっという間
だしな。

>>813のいうとおり、指図はある程度石垣が崩壊した状態で
計測された平面データを元に書き起こされたというのが
最も説得性が高いんじゃないかなあ。

逆説的にいえば、現状と異なる部分は崩壊が早くに
起こっていた箇所で、その他の部分は近世の天主台の
状況、つまり今以上に創建時の状況を知ることができる
貴重な史料ということになるかも知らん。
815人間七七四年:2010/09/26(日) 07:01:40 ID:rZz//id0
そもそも、安土城には三法師の入城にあたり修復(再建)の計画があった訳で、
その際に天主台の(簡単な)計測(一部が崩壊し、瓦礫に埋もれた状態で)が行われた
可能性だってあるんじゃないかな。
816人間七七四年:2010/09/26(日) 10:11:51 ID:ceu1Lzp6
たしか秀吉が、信長の収集した品々を回収させたと何かに書いてあったのを読んだことがある。
その際、瓦礫や土砂がある程度取り除かれたはずなので、天主台が埋もれていたという話はちょっと眉つば物ではないかと思おうが。

>>814
天端部が崩れたのは間違いなく天主火災の時だろう。
石垣の崩壊は北側が一番大きい。
そのため天主が火災により北側へ倒壊したと考えられてる。
安土城天主は姫路城と同じ位の大きさ。
上にのっている何十トンもの重量物が崩れてくれば石垣もただでは済まない。
後に崩れた石も有るかも知れないが、天端付近が崩れたと言うよりは上部が崩れた事で不安定になった部分が崩れた程度であろう。
817人間七七四年:2010/09/26(日) 10:27:29 ID:IAgjxce4
昭和15年の発掘時には石蔵内部は当時の焼土とか焼瓦など瓦礫がそのまま堆積してたんじゃなかったっけ
818人間七七四年:2010/09/26(日) 11:02:01 ID:ceu1Lzp6
昭和15年の状況を写した写真とかはないのだろうか?

あくまでもある程度であるとは思う。
その後に堆積した土砂もあるだろうから、昭和15年の時の土砂がどの様な構成だったかが明らかになれば、天主消失以後の状況が想定可能なんだろうけど、そのような記録は無いんだろうね。

しか、安土の博物館を見ても出土物の展示が少ないと思わないか?
逆に考えれば昭和15年の時には大したものは出なかったとも想定出来るが、そうなると秀吉が回収させたときに整理されどこか別の処で処分された可能性があるのではないだろうか。
819人間七七四年:2010/09/26(日) 12:23:49 ID:7pFJtVLl
博物館の展示物は少ないけど
安土城1999って本には結構載ってるよ
補修用の瓦在庫品や天主から落ちて真っ赤に焼けた無数の瓦の写真とかね
出土物に対して権利関係でもあるんか?って勘ぐってしまう
500円多く払えば寺の中に入れて金箔瓦とかちょっとだけ見れるよね
お茶と菓子付きで
820人間七七四年:2010/09/26(日) 17:51:38 ID:eAmbyFH1
>>818
戦前の発掘前の実測図では天主台の外周は約10角形くらいで
大雑把に描かれ、地階に入る石段は埋まっている。
天主台と伝二の丸のそばの4間×5間の櫓台は南側の半分が完全に崩れ落ちている。

伝二の丸の石垣は比較的良好に残っていた。秀吉が修復したのかもしれないが。
821814:2010/09/26(日) 19:51:23 ID:/n9maULx
>>817

昭和17年に出た『滋賀県史蹟調査報告』によると、
同15年に行われた調査時には、石蔵内の周囲には
「栗石・土砂」が堆積し、内部には「焼土・瓦礫・
腐葉土」が「尺余」、30センチあまり堆積していた
とあります。天正10年の倒壊したまんまで、こんな
状況であるはずないと思うのですが。

また、同書には大正時代の時点で天主礎石の存在が
知られていたとありますし、当時でも全く様子が
分からなかった訳ではないようです。
822人間七七四年:2010/09/26(日) 20:15:03 ID:IAgjxce4
当時のままといっても、のちに主郭部以外のどこの屋敷か三法師も入城してるし秀吉も廟を建ててるから
ある程度の整備はしただろうけど、主郭部の焼土などを完全に取り除いたわけじゃないから堆積してるわけで、礎石などもすべてが完全に確認できただろうか、
石垣が崩れ、天主台石段も埋まってたというし。
823人間七七四年:2010/09/26(日) 21:25:31 ID:ceu1Lzp6
腐葉土を含め堆積物が30cmという程度では、腐葉土が堆積する以前は礎石は見えていた可能性が高い。
少なくても知りたいと思えばちょっと表面を掘るだけで場所が確認できる状態。
場所によっては厚みが20cmくらいある石もあるから一部露出している礎石から他の礎石の位置を推定する事も可能な状態だったと思われる。
824人間七七四年:2010/09/27(月) 01:00:55 ID:hbypExxB
石垣は天主と二の丸以外は昭和の積み直しでしょ
それほど放置されていたのにあの寺は何をやっていたんだ?
825人間七七四年:2010/09/27(月) 01:16:05 ID:2ZqjMOtK
寺は寺でしょう。
秀吉、家康の時代には単なる信長廟所だし、大した力は無かったはず。
明治以降は一度は国有化されているし、城郭を何とかしようなんて寺には必要もないことだ。
826人間七七四年:2010/09/27(月) 01:16:51 ID:24k/AhPr
もし指図が江戸時代中頃に創られたものだったらその池上さんて人すごいな。
その後の天守しか知らないのに、どう想像して吹き抜け、宝塔なんか考え付いたんだろ。
その発想力がすごすぎる。
827人間七七四年:2010/09/27(月) 01:18:49 ID:n5fvpAf6
>>826
寺院建築、特に大仏殿を参考にしたんじゃない
828人間七七四年:2010/09/27(月) 01:38:53 ID:24k/AhPr
なぜに大仏殿を参考にするの。
829人間七七四年:2010/09/27(月) 01:55:28 ID:24k/AhPr
参考にするなら信長が参考にしたっていう方が自然だと思うけど。
830人間七七四年:2010/09/27(月) 02:16:07 ID:n5fvpAf6
>>828
一般に入れる巨大建築だから
831人間七七四年:2010/09/27(月) 03:05:56 ID:vNXuTrJI
江戸時代に描かれた安土城天主といえばこれを忘れてはならん
ttp://www.free-style.biz/book/img/rekisidokuhon200808.jpg
832人間七七四年:2010/09/27(月) 06:24:47 ID:NRvz/JKy
まがりにも右平は大工の倅だからね。
833814:2010/09/27(月) 06:25:33 ID:UsluRkKd
>>826

御意。復元研究者の偉大な先駆者だな。

○「吹き抜け」は「信長公記」の平面規模と、文中で
 示された部屋の面積とのギャップからの必然的な
 空きスペースの処理。
○「宝塔」は、「信長公記」の、地階に「金灯籠」を
 「をかせられ」との記述からの推測。そもそも
 あの「指図」のイカみたいな描写の物体を、宝塔と
 してしまった内藤説が間違いを拡大している。

だから、発想の根源はすべて「信長公記」にある。
834人間七七四年:2010/09/27(月) 08:45:40 ID:F364+RPY
吹き抜けにしても、八角の段にしても、
後世建てられた他の天守にその例が全く見られない以上、
「そんなものはなかった」というしかない。
835人間七七四年:2010/09/27(月) 10:00:48 ID:AuwZiAzV
みなさん自分に都合のいい解釈ばかりでおもしろいな。
専門家でも議論があるんだからしょうがないけどね。
事実は小説より奇なりだからな。
836人間七七四年:2010/09/27(月) 12:53:20 ID:oxVT1yZW
たとい狩野永徳の屏風が見つかったとしても、内部構造は永遠の謎。

残っているのは崩れた天主台のみ。

こうして安土城は男のロマンであり続けるのさ・・・
837人間七七四年:2010/09/27(月) 12:55:39 ID:n5fvpAf6
まぁ絵図がある駿府城が安土城に勝とも劣らない数の復元案があるからね
838人間七七四年:2010/09/27(月) 21:47:59 ID:2ZqjMOtK
>>834
短絡的だね~。
そうなると、障壁画等で飾り立てた豪華絢爛な内部や人が住める様になっていたと言うような構造も無かったって事になるね。
839人間七七四年:2010/09/27(月) 22:58:29 ID:24k/AhPr
今の考え方ではこんなの造れるわけないとか、あり得ないとか、信じられないとか言うけど
昔の人の方が現代人では考えもつかないようなことをやり、造ってきた。
現代人の方が保守的な考え方しかできなくなってるんじゃないかな。
まあ、吹き抜けがあったかどうかは別の話だけど、
840人間七七四年:2010/09/28(火) 07:22:37 ID:qWJP5x04
>>838
駿府城は極彩色の障壁画で満たされた御殿造り(居住可能)だったはずでゎ?
841人間七七四年:2010/09/28(火) 09:02:29 ID:5W3/WZY4
>>840
駿府城天守にそういう記述はない『当代記』
安土城天守にはある『日本史』『安土日記』
842人間七七四年:2010/09/28(火) 14:44:40 ID:1nL2XP5L
つ岐阜城
つ大坂城
843人間七七四年:2010/09/28(火) 15:03:29 ID:Vx4xQGVM
大坂城は二階に展望と茶の湯を楽しめる座敷が有ったらしいが、
基本的には宝物庫として使われた庫だろ
844人間七七四年:2010/09/28(火) 15:47:20 ID:BRZNLind
そもそも、信長が天主に住んでたって確実な記録はあるの?
地下にしかトイレがないんじゃ、夜中催した時どうするんだろう?
小姓たちがお丸持って右往左往してたんじゃ、天主の中は臭って仕方ないだろうなw
845人間七七四年:2010/09/28(火) 18:09:14 ID:0zme2YPc
高知城の本丸御殿の厠は下に桶が置いてあって
毎回、取り替えてたらしい。
そんなもんじゃね?
846人間七七四年:2010/09/28(火) 22:35:06 ID:l8jGkkJC
殿様の大便は和式便所の下に桶が置いてあって、出したものの状態を調べる係の者がいたらしい。
どこの藩でも大体は同じような事をして健康状態を管理していた様だ。
信長の時代でもやっていたのではないかな。
847人間七七四年:2010/09/29(水) 01:30:19 ID:UUP8XY7Y
天主は対面とか見せびらかす為の座敷で
実際は下の御殿住まいだろね。
まあ気が向けば寝食もしただろうけど

848人間七七四年:2010/09/29(水) 12:21:09 ID:X/ejpNI5
詳しくは知らんが宣教師の記録に信長は天主に住んだとあるのか?

もしくは、岐阜城では山嶺の御殿でなく山頂の御殿に住んだ、とあるから
山頂の御殿=天主という考え方が発展したんだろうか。
849人間七七四年:2010/09/29(水) 21:41:43 ID:ly/MwqGw
こんなのがあったぞ

ttp://ci.nii.ac.jp/naid/110007073056
850人間七七四年:2010/09/29(水) 22:32:16 ID:vOb0sH6G
文学部の学生が、畑違いの建築に手を出すとどこに落ちていくか?という見本
851人間七七四年:2010/09/29(水) 23:32:36 ID:jAvGw/2S
>>849
佐藤大規氏って、
ネット安土城復元界隈で有名なTm(Yahoo!掲示板ではazuchiナントカってID)や森俊弘氏にかなり嫌われてだけど、昔、三浦研究室のサイトにあった掲示板でなんかあったんだっけ?
852人間七七四年:2010/09/30(木) 00:12:28 ID:UgnvweYm
駿府城の復元図みたいに石倉上1、2階が御殿造りだったとかな。
記録には無いが吹き抜けの記録も無い。
やり放題だよ安土城はw
853人間七七四年:2010/09/30(木) 07:24:14 ID:7plf6tCL
854人間七七四年:2010/09/30(木) 08:23:34 ID:Nz4iWiif
>>657
マイナーリーグだよね。
855人間七七四年:2010/09/30(木) 15:10:26 ID:A8ZNpZgy
天主跡や本丸跡等に、土に埋まるように落ちていた瓦の破片は当時の瓦?
856人間七七四年:2010/09/30(木) 20:42:44 ID:bGOCXGTA
この城の発掘状況はどうなった?
何年か前に行った時から進展あったのかな?

天主指図だの模型だの屏風絵だの博物館で見てきたっけ。懐かしい。
857人間七七四年:2010/09/30(木) 21:08:57 ID:bNhy/5px
発掘はもう終わった。主郭部、大手道とか立ち入れるとこ以外は草ぼうぼうで前よりひどくなった感じがする。
858人間七七四年:2010/09/30(木) 21:11:00 ID:Nz4iWiif
正に坊主丸儲けだね。
859人間七七四年:2010/09/30(木) 21:44:49 ID:bNhy/5px
天主の北とか台所付近なんか発掘調査から十数年ほどたってるけどホントにやったのかって思うわ。
立ち入り禁止でも、せめて調査時の状態を維持していてほしいわな。
860人間七七四年:2010/09/30(木) 22:11:36 ID:LTF8DBVp
台所は一部を掘っただけだ。
いわゆるトレンチ調査ってやつ。
天主台の北は何もやってないんじゃないかな。
崩れた石がそのまま残っているはず。
それとも北って台所に降りていく伝本丸虎口付近のことか?


ttp://uploader.sakura.ne.jp/src/up17823.gif
861人間七七四年:2010/09/30(木) 22:20:21 ID:p75HkW1T
俺の本だと場所は書いてないが発掘して現地説明会したら
また埋めなおしましたと書いてある
何がやりたいんだか・・
862人間七七四年:2010/09/30(木) 22:49:33 ID:bNhy/5px
天主北面、西面の石垣崩壊場所はやってないなってのはわかるけど何故あそこをやらなかったんだろ、あそこは色々ありそうだけど。
安土城跡整備事業状況とかいう図に年度ごとに色分けされて塗られてたから、もっとちゃんとやったのかと思ったわ。
あと、北虎口とか伝三の丸あたりも立ち入れた頃はちゃんと整備されてたのにな。
863人間七七四年:2010/09/30(木) 23:45:39 ID:LTF8DBVp
>>861
確かに、台所跡はかまど跡あたりがもう少し広い範囲で発掘されていた写真が確かあったと思う。
しかし、現状の台所をみても、本丸取付台側の高石垣に向かって、地面が盛り上がっていて土砂が取り除かれていない状況にあるようなので、やはり一部だけしか調査していないだろう。

>>862
俺はその頃の安土城は見たことがないが、ちゃんと整備してあったと言っても木が大分残っていたんじゃないか?
写真で見ても部分的な発掘だけの様だし。
ttp://uploader.sakura.ne.jp/src/up17835.gif

三の丸の入口は東側に細いスロープがあるだけなので、ちょっと一般人が出入りするのはふさわしくないと思うので、封鎖されてしまっているのは仕方がないと思う。
整備後の安土城はその他の山城よりは多くの人が訪れると思われるので今より立ち入り範囲を広げるとなると石垣の整備をしたりして安全の配慮が必要なんだと覆う。

山麓や、大手道等と比べたら、山頂付近の発掘は、トレンチ調査じゃないのか。
本丸までの経路と天主台上部は樹木も取り除いているけど、その他の部分は地表面は草を取り除くと共に薄皮を剥く様に腐葉土を取り除いて、基本的には木は取り除いていないんじゃないか。
トレンチは基本埋め戻しだし。
864人間七七四年:2010/10/01(金) 02:14:13 ID:CfDog+Zi
結局、寺が山を持ってるってことが問題なんだろうな
865人間七七四年:2010/10/01(金) 18:31:10 ID:CasEIJiT
金やって寺から所有権を奪えば良い
866人間七七四年:2010/10/01(金) 20:46:09 ID:4CyBJE61
二の丸に行く途中だったかな、マムシ注意って看板が林の中にあったな
ルートを外れて入るなって脅し何だか、マジなのか分からんけど
867人間七七四年:2010/10/02(土) 09:59:48 ID:ZKgkySSY
>>864
結果的にはそう言わざるを得ないところはあるな。
寺がやっているのかは分からないけど東側でも、灌木の伐採をして、必要以上に増えないようにしている気配がある。
しかし、寺がやれるのは予算的にもその程度のことしかできないだろう。
滋賀県が所有していればもう少し整備が進んでいると思う。
東虎口から入った東側一帯の手付かず状態の石垣を見ると、天端の石が半分くらいまでずれて今にも落ちそうな感じとのころもある。
このまま放置しておけば少しづつ崩壊が進んでしまいそう。
保存のためにも県とかの管理下に置かれた方がいいとおもう。
868人間七七四年:2010/10/03(日) 00:10:15 ID:UdH4DGX+
寺の住職がはりきって数珠だかのお土産を力説して売ってる姿を
見たけど、複雑だった・・
向こうも生活があるだろうけど・・
869人間七七四年:2010/10/03(日) 01:32:49 ID:UERGcHwN
ここの住人は寺の関係者を聖人や仙人と勘違いしている人が多いようだな。

普通の寺は檀家があって、法事などで檀家から頂いた御布施や保育園等を経営して得たお金で生計を立てているって知っているのか?

今は永代供養の希望者を募集しているようだが、総見時は檀家が無かったんだし、商売してたって違和感を感じる方がおかしいと思うが。
870人間七七四年:2010/10/03(日) 02:18:14 ID:HsoBo4kJ
>>869
そんなこと誰でも知ってることじゃないのかい。
ていうか、別に今までそういう流れでもないと思うけど、868以外は。
安土城の整備は寺じゃ無理だってこと言ってるんだよ、それだけ。
871人間七七四年:2010/10/03(日) 09:38:43 ID:UERGcHwN
そんなことは分かっているよ。
ただ、869の様な書き込みが時々あるから、書いてみただけ
872人間七七四年:2010/10/04(月) 06:56:10 ID:6MrhNATN
あの住職、本堂再建に自分のライフワークを見出したようだね…
873人間七七四年:2010/10/05(火) 02:55:36 ID:AZ/xtSog
本丸周辺の発掘再開を希望する
http://pc.gban.jp/img/23399.jpg
874人間七七四年:2010/10/05(火) 21:35:40 ID:dQAk8FsY
>>873
赤線は君がひいたのかな?
北虎口左の四角の囲みは一見櫓台に見えるが他の面と同じ高さで櫓台では無いと思われる。
四角の左側石垣ラインがちょっとずれているけど、崩れて天端部が無くなってしまっているためだ。
崩れて無ければ四角の上辺ラインが続く感じになるはず。
875反日外国人を叩き出しましょう。:2010/10/06(水) 01:22:40 ID:T19SWdpz
尖閣デモ動画です。尖閣デモは放送(報道規制のため)されません。

きちんと参加者にも取材までしているすばらしい動画。
それにしても、予想以上に大勢の人が集まっている。

http://www.youtube.com/watch?v=N-JUoA8CMgc

韓流タレントは空港まで追っかけて捏造報道するくせにwwwww

10 10 1『支那の尖閣侵略糾弾』渋谷~表参道デモ、参加者2670名!
http://www.youtube.com/watch?v=bj41KQdrcus

動画壮観です
http://www.youtube.com/watch?v=hzsJ94jeJ1Q
http://www.youtube.com/watch?v=zrrYUDqrjbk#t=3m00s
http://www.youtube.com/watch?v=0ozDEpTV2Uk
http://www.youtube.com/watch?v=sqwYpD58_iA
http://www.youtube.com/watch?v=heGIi_n5g2c
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12305050
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12310081
http://www.youtube.com/watch?v=t8UOtw4lm4k
http://www.youtube.com/watch?v=JBbA8own-HM
876人間七七四年:2010/10/06(水) 16:18:11 ID:zEdTV9q7
>>874
赤線は妄想でひいたものです。
西北側の天端は崩壊していますが、
航空写真には西南側に石列を確認できるので櫓台だと思っていました。
例の箇所が他の面と同じ高なのは知っています。(宮上案では一段高いですが)
877人間七七四年:2010/10/07(木) 18:19:51 ID:nM2pK4re
>>874
スキャンしてみました
西南側に櫓の基礎らしき石列を確認写真はこの写真です
ttp://pc.gban.jp/img/23455.jpg
878人間七七四年:2010/10/08(金) 02:51:48 ID:OiMAGZoj
>>877
このアングルは初めて見た。
今じゃ植物に覆われて良く分からない輪郭がはっきりわかるね。
石垣なんかまるで積み直したようにきれいなのが気になる。
石列と言っている石の内、右側の方にある石は、天主台の崩落で転げ落ちて来た石じゃないかなと思われる。
写真をちょっとお借りして書き込むと青矢印の石。

この周辺で良く分からないのが、ここまできれいにしておいて、なぜかまだ邪魔な土を取り除いていないと思われる場所があること。
写真、赤でかこんだ部分と黄色のかこみ部付近。
他の写真でもそうなのだが、赤のかこみ部は下にある石段の石が続いて本丸取付台の高さまで無ければいけないのになぜだか石段らしき石が見えない。
崩れてどこかに行ってしまったという可能性もゼロでは無いと思うが、他の部分がきれいに残っている中でこの部分だけ無いのはちょっと不自然。
崩れたのではないとすると、元々石段は無くて、もうひとつ踊り場状の平坦スペースがあったのではないかと考えられる。
その場合、その平坦部がどのくらいの範囲まであったのかが知りたくなる。
一時、黄緑矢印部で石段左壁面を構成する石垣が終わっているので水色斜線部のあたりに下からの通路が左折れして石段があったのでは無いかと考えていた。
けど、この写真を見る限りでは黄緑矢印部分で石垣が終わっているのは、裏込め石の状況からみてもっと上方向に石垣が続いていた様に思えるので、黄緑矢印部から上の部分は石が無くなってしまってい様に考えられる。
赤のかこみ部が土砂を取り除ききっているのであれば、踊り場があったかもというのは考えすぎで、素直に石段が続いていたのかもしれない。
俺的にはこの辺りは謎の構造。

ttp://uploader.sakura.ne.jp/src/up18420.jpg
発掘調査結果の正式なコメントが知りたいと思っている。
879人間七七四年:2010/10/08(金) 06:32:56 ID:OiMAGZoj
http://uploader.sakura.ne.jp/src/up18453.jpg

画像アップがうまくいってない様なので
880人間七七四年:2010/10/08(金) 17:28:02 ID:OIIledwz
>>878
見れなかった
どうやら流れてしまったようです

>もうひとつ踊り場状の平坦スペースがあったのではないかと考えられる。


かっての石段は天主台から流れてきた土砂で埋没してるのかもしれません
秋田裕穀氏の話だと、現在の切石の石段の下に瓦が埋もれているので、
いまの石段は秀吉時代か江戸時代に作られたものかもしれません
ソース:創元社(織田信長と安土城)


二手に分かれる通路を勝手に妄想してみました
ttp://pc.gban.jp/img/23481.jpg
これいじょうは妄想するしかなさそうなので発掘再開を期待したいところです・・・
881人間七七四年:2010/10/08(金) 21:15:10 ID:OiMAGZoj
>>880
>どうやら流れてしまったようです

879を見てください。

>現在の切石の石段の下に瓦が埋もれているので

そんなことどうやってわかったのでしょうか?
発掘調査時に石段をどかしてみたのでしょうか。
と言う事は今の石段は積み直し。
平成の発掘調査時のことなんですかね。
調査報告書を全部みたわけではないのですが、そんなことも書いてあったんでしょうかね。気がつきませんでした。

しかしちょっと解せないのは、仮に信長時代より後に石段を積み直したとして、なぜ最上部のみ今の様な状態なんでしょうかね。
積み直しをするという事はだれかが通路として利用する目的があったという事になりますがから、最上部のみ石段があいまいな状態にはならないと思うのです。
それから、天主台が崩れた石もすぐそばにあることから、その後の整備があったとはちょっと思えない状況ですね。
瓦がどんな状況で埋まっていたかわかりませんが、石段の下に小石を詰めたのと同じような使い方をして割れたり不良だった瓦を詰め石代わりにしたという事は無いんですかね。
城の普請にはそうとう量の石を必要としたはずです。
瓦だって石の代わりくらいになりそうですし、不良や割れた瓦を処分するとしても、城外に運び出すと大変ですから手近な所に埋めたりした可能性も考えられ、ただ埋めるよりも、詰め石の代わりにした方が合理的だったとも思えます。

秋田と言う人がどれだけの事を考えてそのような事を述べているのかは知りませんが、個人的には詳細な説明を聞くまでは鵜呑みに出来ないですね。
882人間七七四年:2010/10/08(金) 22:05:41 ID:OiMAGZoj
>>880

ttp://pc.gban.jp/img/23481.jpg

画像のアップ先が死んでるのか開けないよ
883人間七七四年:2010/10/09(土) 09:49:39 ID:Pjs9SsD+
戦後になって大分石垣などの積み直しをしてるらしい
からな、安土城。その石段の検出もそうした過程の
ことじゃなかったかな。

当時は今みたいに石垣の測量までしなかったから、
いわば適当。また天端まで積んでいないのは原状が
分からなかったことからの判断では。
この修繕は、、天主台の多角形のコーナーすら
積み直しで生じたとの石工の話(これそのものは
事実とはいえないが)が出るくらい徹底的なもの
だったようだ。

当然近世を通じての崩落は無視できないし、現代の
積み直しもあるとすれば、だから現状の石垣と地表の
状態をもって議論するのは少々危うい部分があるんでは
ないかと思う。
884人間七七四年:2010/10/09(土) 18:23:16 ID:4+ViV9qc
素人が議論するのに危ういも無いとともうが・・・
明治以降の整備は多少の類推は含まれると思うが基本的には元状回復だと思うので、現在の復元と大差はないだろう。

>>880の書き込みの中の鈴木と言う人が言っている秀吉、家康の時代に作られたと言っている事とは大分事情が異なる。
石段の下に瓦があった事が後世の変更だと言っているので、元状回復の整備と言うよりは作りなおしたという意味合いに取れる。

信長以降の整備と言えば、秀吉のパフォーマンスが目的の廟所としての整備と、三法師が入場した際の整備が考えられるが、後者に関しては、本丸周辺は聖地としての扱ったとされていることからいわゆる主格部は行なわれていなかったのではないかと考えられる。
その後すぐに近江八幡城の築城により廃城となってしまうので、廃城以降は安土山に整備を行なうような理由はみあたら無いと思う。
また石段の場所が城の裏手になっているという事もわざわざ整備するには理由が見つけにくい。

俺個人としては、現状は往時とさほど変わらないのではないかと考えている。
理由は2つあって、
場所的に整備する理由が見当たらないこと。
これは、搦め手側等から上がってきた場合などでも、信長廟に向かうには、伝台所の北の主格外周路から本丸側に入った方が自然であり、天主脇に何か目的となる施設がない限り利用しない経路だから。
もうひとつは、踊り場に敷石をしていること。
敷石をしているのは、天主入り口とここだけ。
敷石をしているのには特別な理由があったと思われる。
例えば、伝台所から天主や信長廟がある伝二の丸への行き来に利用された経路と言う理由。
信長の食事を運ぶ人たちの足元を気遣い、通路が屋根で覆われた等の特別な設えも可能性としては視野に入れて、通行に配慮した構造となっていたのではないかと想像出来る。

勝手な妄想ではあるが敷石が他の場所では見当たらないと言う事は何らかの理由があったと思うし、後世の整備では敷石をする理由が思い当たらない。
885883:2010/10/09(土) 19:17:21 ID:Pjs9SsD+
>>884
>素人が議論するのに危ういも無いとともうが・・・

それを言っちゃあおしまいですわな(笑)。
886人間七七四年:2010/10/10(日) 01:13:43 ID:5WZR2VfS
>>885
>石垣と地表の状態をもって議論するのは少々危うい部分があるんではないかと思う。

こっちの方がおしまいじゃないの。
これを言ったらこのスレの半分以上は否定されてしまうよ。

何しろ普通の一般人は今の現地や本の情報しかもっていないのだから。
その上であれこれ意見を交わす場所はここぐらいしかないのだから。
887883:2010/10/10(日) 06:45:42 ID:zylGZj0m
>これを言ったらこのスレの半分以上は否定されてしまうよ。

そうかなあ、このスレは結構高度な議論になってるよ。
「素人」「普通の一般人」ってリミッターをわざわざ
設定して、書き込みや議論を貶める必要もないと思うけど。

「貶める」という表現が気に障ったらスマン。
888人間七七四年:2010/10/10(日) 07:43:39 ID:eMqNooMG
安土山は上から見ると男根の形をしている。
しかも左曲り。ということは、安土城は右曲がりのダンディー!
男根の形をしていること(子孫繁栄の象徴)が安土を選んだ理由ではないだろうか?

ちなみに冠位束帯の冠も男根をかたどっている。
ちょんまげを入れる立った部分がチンコ、帽子の部分がタマタマ。
そう考えると勃起した男根を被ってる昔の偉人って滑稽だよねw

889人間七七四年:2010/10/10(日) 10:48:41 ID:5WZR2VfS
>>887

おもしろいな。
捉え方は人それぞれだが、俺は玄人らしき書き込みは見たことがない。
もっとも、玄人が書き込むとしたら若手の研究員とかで差し障りのない程度の内容だと思うので判別は出来ないと思うけど。
やっぱり素人がほとんどだと思うよ。
もっともらしい事を書いていれば玄人に見られるのなら俺も玄人になっちゃうかも。(冗談です。笑)

>>「素人」「普通の一般人」ってリミッターをわざわざ設定して書き込みや議論を貶める

??なんのことだか・・・
現地の見た目だけで議論するのは危険と言って議論を慎重に行えと言わんばかりの書き込みとは相反すると思うが。
890人間七七四年:2010/10/15(金) 15:22:41 ID:H2+3h7Vt
まあまあ、そう熱くならずに。私も素人なので自由に発言させて下さい。
あのサイトで見たのですが、家康が建立した浅間神社は本当に安土天主を連想させると思いませんか?

891人間七七四年:2010/10/15(金) 21:57:10 ID:lCbcFwLR
思いません。
892人間七七四年:2010/10/16(土) 01:45:17 ID:hJAi//BW
赤いからそう思うのかな。
千鳥破風が付いている等、望楼型天守っぽいが安土城天主を連想すると言う事はなかったな。

まぁ、安土城天主自体は寺社仏閣の意匠を取り入れていた事は間違いないと思うけどね。
そういう意味では似ていた可能性は否定できない。
893人間七七四年:2010/10/16(土) 14:08:42 ID:vjonMHzQ
うん。赤いところ、千鳥破風があるところ、一層目と二層目の極端な逓減率から
もし、リアルに安土城を連想すればあんな感じになるのではないかと思いました。
家康も安土城を生で見ていたわけだし。
894人間七七四年:2010/10/17(日) 10:23:54 ID:DGvSq95c
895人間七七四年:2010/10/20(水) 12:16:03 ID:6Ksdu2AO
>>691
天主上層部のイラストがついに公開されたね。。。orz
896人間七七四年:2010/10/20(水) 19:00:43 ID:VTo/2gp+
おや?新解釈?
安土町で見た模型とか、今までので決定ではないのか!?
897人間七七四年:2010/10/21(木) 08:46:44 ID:JT1aWieZ
ついに妄想の大暴走の外観イラスト公開!↓

ttp://castles.noblog.net/blog/f/11102381.html

上層部でこんな神々しい造りなら、掛造りや空中廊下を備えた下層部はどんな奇怪な構造になるやら見当もつかない!w
898人間七七四年:2010/10/21(木) 21:25:19 ID:AVWh+XBL
と言うか、これだけ独自性が強いもの出されるとどう評価して良いかわからないですね。

個人的には内藤案の方が好みではあります。
899人間七七四年:2010/10/21(木) 22:12:11 ID:oziplvmI
最上階の位置関係から北側が正面にも見える・・・

雰囲気は飛雲閣、福知山城、旧宇和島城に近いかな
900人間七七四年:2010/10/21(木) 23:38:03 ID:JT1aWieZ
北西、二の丸から見た上層部だね。
天主閣というより、瓦と壁を貼り合わせた悪趣味なバラックに見える。
内藤案がまともに思えてきた…
901人間七七四年:2010/10/21(木) 23:51:07 ID:xgES7TMK
築城された時期とか考えて、信長の後を継いだ秀吉の大坂城が一番安土城に似ていると思うのですが、やっぱ違いますかね…
902人間七七四年:2010/10/22(金) 21:21:58 ID:hqXZF/kN
似てる似てないと言うのはどの程度の事を言っているの?

大坂の陣図を基に復元案がいくつか出されているが、夏と冬で異なる意匠なわけだが

似ているってどの程度の事?

信長公記との整合は?
903人間七七四年:2010/10/22(金) 21:26:50 ID:JG1sg6MA
大型天主の出来だしたばかりの時期でそんなにバリエーションも多くなかった、という仮設と
織田家の後継者として全国に号令をかけたいという秀吉の心情を推測して、
「似ていると思う」という発言になったんじゃないの?
資料を照らし合わせてどうのこうのという発言ではないでしょう、恐らく。
904人間七七四年:2010/10/25(月) 07:46:21 ID:04ZnTWCN
結論、城は安土に始まり、安土で終わる。

(安土城解明の手掛かりになるものはないか?と)他の城にいろいろ手を出したりするんだけど、
結局、また安土に戻ってくるんだよなぁ~
905人間七七四年:2010/10/25(月) 19:50:24 ID:Blgqt/x1
伏見城ですらマムシ注意と出る
906人間七七四年:2010/10/30(土) 21:16:50 ID:K9dj9/K2
907あづっち:2010/11/02(火) 09:23:54 ID:eO+nntSR
お題:安土城 

整いました!

安土城と掛けまして、こってりラーメンと解きます。その心は?

どちらも「天下一品」です。あづっちです!
908人間七七四年:2010/11/03(水) 21:02:00 ID:miX8I4js
安土城のどこが天下一品なの?
909人間七七四年:2010/11/04(木) 15:12:26 ID:Iv1yY271
このへん↓
castles.noblog.net/blog/f/11105255.html
910人間七七四年:2010/11/06(土) 12:07:28 ID:UZXDqstJ
駿府城の紹介のところに
「黒色の塗料である「黒ちゃん」を塗り込んだ銅板張りであり当時の超高級材料を惜しげもなくつぎ込んだ 荘厳華麗、贅を極めた大建造物であった。」
と書かれていましたが、漆塗りよりも銅板張りの方が高級なのですか?
911人間七七四年:2010/11/10(水) 20:22:12 ID:qUBDJ392
知らんけど一般的な漆よりも精製技術がいる銅板が手に入りにくかった
可能性もあるし、ただ単に執筆者の思い込みかも知れないし

駿府城も明治まであったのに資料が少ないって点で天下をほぼ治めた
信長の安土城同様ミステリアスではあるよね
912人間七七四年:2010/11/10(水) 20:29:13 ID:JlVHYsve
>>911
1635年に焼失していますが
913人間七七四年:2010/11/13(土) 13:59:44 ID:KqIqyEg1
↑天守がでしょ、城郭自体は明治まであったし。
914人間七七四年:2010/11/13(土) 14:23:17 ID:eob3X/ie
>>913
それ以降の資料なら、それなりにあると思ったけど
915人間七七四年:2010/11/13(土) 17:33:25 ID:ax0CtzaT
>>913
あれ?近江八幡城築城に伴い廃城となったはずでは?
916人間七七四年:2010/11/13(土) 18:57:04 ID:eob3X/ie
駿府城の話なんだが
917人間七七四年:2010/11/14(日) 21:51:02 ID:xrWxqo7Y
駿府城行ったら天主だか本丸だか資料不足で分からないって
何かの案内板に書いてあって、家康の城で明治まであったのにって
不思議な感覚になった事があったな
918人間七七四年:2010/11/19(金) 22:00:23 ID:840MEmG6
安土城も大坂城も三浦のは立板張りだよね。
最近だした寛永江戸城も立板張りなのかな?
919人間七七四年:2010/11/19(金) 22:12:45 ID:l4Ej42hX
あれは銅板張り
920人間七七四年:2010/11/20(土) 02:51:23 ID:b7/OhU1u
横方向に銅板を張ったか立て方向に張ったのか知りたいんですけど。
今、江戸城のブラモ作ってるんで。
細く切った銅テープを貼って、プライマー塗って、
艶消しクリアブラックを塗って質感を出してみようかとw
921人間七七四年:2010/11/20(土) 08:42:11 ID:y5Ti6vLN
ローマで安土城描いた屏風みつかれば、復元できるのになあ
922人間七七四年:2010/11/20(土) 09:56:40 ID:hSfiXl7T
いや、後々の屏風絵とか見ても、復元は難しいと思うよ。
だいたい天主をアップで描いた屏風絵なんて後世のものでもないし、天主が描いていても実物に忠実なのかどうかって正直妖しいでしょ。
金とかふんだんに使っていたから宣教師も含めて皆すごく綺麗と誉めた、程度なんじゃないの?

屏風絵が忠実というのはどこからの情報なのかもしわかったら教えて下さい。
923人間七七四年:2010/11/20(土) 10:48:46 ID:76UKFl8K
>>920
復元図だと横方向が基本だが格子型と煉瓦積み型の2説種がある
924人間七七四年:2010/11/20(土) 10:53:22 ID:s72J+jJA
屏風絵が出てきても穴蔵の高さが分からないので無理やり復元する事になり史跡保護の観点から復元の許可は下りない。
925人間七七四年:2010/11/20(土) 18:14:37 ID:mM0AKXkl
>>920
平井案、金澤案だと横貼
西ヶ谷案、佐藤案は知らん
926人間七七四年:2010/11/24(水) 22:30:31 ID:E8DueN6C
安土城
927人間七七四年:2010/11/26(金) 04:18:50 ID:/HEuDE/R
京都御所での清涼殿の役割をだれか教えてください
928人間七七四年:2010/11/26(金) 07:55:20 ID:7bYsCqek
常御所(夏の生活&公務の場)。冬の生活の場は灼熱殿という。
清涼殿と灼熱殿がセットになっていたのが、首都が平城京から平安京に移ってから灼熱殿が廃れて清涼殿だけになった。
929人間七七四年:2010/11/27(土) 11:58:57 ID:IlKRojLn
と言う事は清涼殿=天皇の常駐場所と思っても間違いないのですかね。
安土城の清涼殿と同じ?礎石からすると、そこに天皇を意識した可能性はやはり捨てきらないですよね。
930人間七七四年:2010/12/02(木) 20:41:43 ID:KwAXIpOE
931人間七七四年:2010/12/03(金) 22:51:47 ID:A4YZMNsc
板東三津五郎の日本の城ミステリー2時間スペシャルで安土城やってる
932人間七七四年:2010/12/07(火) 20:47:21 ID:9kS5haeZ
どんな内容だったか教えて~
933人間七七四年:2010/12/09(木) 21:14:22 ID:plh3avhk
>>930
安土城が富士山と大山の中間っていうのは知っていたけど、
安土城が物部神社と船通山と同緯度とか、岐阜城と石鎚山、白山と金剛山を結んだライン上とかっていうのは、
どんな意味があるんだろう???
934人間七七四年:2010/12/09(木) 21:31:37 ID:98RZd+LS
意味なんてない。
単なる偶然。
後付けで見つけた事を意味ありげに言っているだけ。

正確な地図も無い時代に、正確に位置を特定する事は困難。
そもそも、CADを使わないと分からないような事が天正の時代に出来るはずが無い。
935人間七七四年:2010/12/10(金) 07:35:13 ID:NNRaBu5C
>>933-934
「信長 スサノオ」でググって味噌!

①物部神社の主祭神の宇摩志麻遅命はスサノオの孫。古代軍事支族として大王を支えた物部はもののふ(武士)とも読める。

②船通山はスサノオがヤマタノオロチを退治した伝説の山で、その尻尾から取り出した天叢雲(あまのむらくも)剣は、
 三種の神器の一つとなり、ヤマトタケル東征の際「草薙の剣」として大活躍し、熱田神宮に祀られている。

③織田木瓜紋は信長が崇敬した尾張・津島神社の神紋で、そこの主祭神はスサノオ。

よって、信長は自分をスサノオの生まれ変わりと思い込み、スサノオを再生復活することで、皇位簒奪を正当化するために
安土城を建てたのかも!?
936人間七七四年:2010/12/10(金) 09:44:14 ID:QRgazcMS
こじつけもいいところだな。
くだらない。
937人間七七四年:2010/12/11(土) 08:09:06 ID:UhOINLq1
>>934
天守閣だけでなく、小天守、櫓、城門の位置にまで、すべて意味がある↓ってさ。

江戸城と大坂城
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007134333

徳川御三家、御家門の居城、東照宮
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007134331

天守台だけ築いて天守閣を建てなかった城(仙台青葉城、甲府城や明石城)の理由、
現在、独立式天守→複合式天守→連結式天守→連立式天守 と説明されている天守の発展過程が、根底から覆る悪寒!
938人間七七四年:2010/12/11(土) 09:24:40 ID:CKSBGLjg
こんなのある城を中心に四方八方に線引いて、たまたま同一線上に並んだ山や神社列挙してるだけだろw
アホくさ
939人間七七四年:2010/12/11(土) 10:44:02 ID:TdeDjDEV
>>937
全部同じ人じゃん。
暇すぎるんだな。
940人間七七四年:2010/12/11(土) 11:48:49 ID:CKSBGLjg
そもそも信長六居城といっても小牧と安土以外は信長が新たに選地したわけじゃないからな。
941人間七七四年:2010/12/11(土) 12:48:10 ID:g7wT0Kkc
今から行きたいが家からどれくらいかかりますか?
942人間七七四年:2010/12/11(土) 13:29:16 ID:Fxm4/v2S
>>937
城や神社の配置に意味があるというのは内藤昌氏や宮元健次氏も言ってましたね
943人間七七四年:2010/12/11(土) 14:28:48 ID:TdeDjDEV
どんな事を言っているのかは知らないが、風水とかの近隣周辺との関係ならありうるが、遥かかなたの見えない物に対して、幾何学的に直線を結ぶと関係がある等と言うのは単なるこじ付けでしかないだろう。
それでも関係があると言うのなら、どの様にして位置関係を調べ、特定したのかの方法を具体的に示すとか、文献等の具体的証拠を示していない限りどんなに有名な学者の言葉であろうと単なるお遊びと同じだと思うな。
944人間七七四年:2010/12/11(土) 17:57:50 ID:FjxT7Uwb
こんなん見つけたけど・・・

日本は古墳時代からすでに統一国家だった!

大和朝廷の神々の日本設計図
http://plaza.rakuten.co.jp/susano00kuni/diary/201010130006/

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康
http://plaza.rakuten.co.jp/susano00kuni/diary/201010150002/
945人間七七四年:2010/12/11(土) 20:20:14 ID:TdeDjDEV
>>944
リンク先の人は可哀そうな人だな。
自分が見つけた位置関係が事実だと確信している。
単なる偶然やこじ付けは、たとえそれが実際の位置関係であったとしても、歴史的、学問的な事実ではない。
それらを歴史的事実にするには、裏付けとなる文献等から導き出されなければ誰も認めてくれない。
だから学界から黙殺されていると言う事に気が付いてない。
946人間七七四年:2010/12/12(日) 08:56:14 ID:l+knMN3l
>>944
ガリレオみたいな人だなw
「それでも地球は丸い!」w
947人間七七四年:2010/12/12(日) 09:18:23 ID:hP+KPWA2
何故、その山と神社を線で結ばなければならないのか、さっぱりわからないw
948人間七七四年:2010/12/12(日) 12:26:06 ID:cYpC6Yep
レイ・ラインが関係してるとか?
イギリスの古代遺跡もほぼ同線上にある。
949人間七七四年:2010/12/12(日) 20:45:10 ID:H7NSa9VS
そのうちだれかが持ち出すと思ってたよ。
>英レイライン

英国のレイラインは良く分からないのでノーコメント
しかし、日本の物の多くは、単なる二番煎じ

日本には山岳信仰に代表する、八百万の神が存在する。
どこに線を引いても何かしらに当たる、きわめて聖地が多い国柄。
そんな日本で線引をすれば無数の線が引けてしまうのは当然で、線を引く事自体意味が無い。

意図的に配置を行った神社や祠等もあるかも知れないが、せいぜい100km程度の範囲内で例えば春分や秋分の時に富士山が見える方向にそろっていると言うのが限界だろう。
950人間七七四年:2010/12/13(月) 16:42:12 ID:OwO7LO7M
>>927-929
織田氏の発祥の地、越前織田(おた)荘の剣神社↓の祭神は剣大明神(スサノオの別名)。
http://www.tutuji.com/tsurugi/yuisyo.htm
信長が尾張における氏神と仰いだ津島神社(牛頭天王社)↓の祭神も建速須佐之男命。
http://www1.clovernet.ne.jp/m_hotta/index.html

安土城の場合、天守ではなく「天主」と書く。「主」から点を取れば「天王」。そして「(牛頭)天王=スサノオ」。

「天主」閣(7階建て)>御幸御殿(平屋) の上下関係はまさに 「天王」信長>(正親町)天皇 を天下に宣言することでもあっただろう。

よって、信長が安土城を築く際、「天王」スサノオの神威(かむい)を強く意識し、織田家による皇位簒奪を計画していたのはほぼ確実。

皇位簒奪~ウィキペディアより~、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E4%BD%8D%E7%B0%92%E5%A5%AA#.E7.B9.94.E7.94.B0.E4.BF.A1.E9.95.B7
951人間七七四年:2010/12/13(月) 17:22:53 ID:5FtTW3bW
ていうか、安土城の行幸御殿って、
聚楽第や二条城に建てられた行幸御殿とおなじで、
仮設建築だったんじゃないのかね?
952人間七七四年:2010/12/13(月) 17:25:46 ID:4t69Aacl
>「主」から点を取れば「天王」

こういうところが、こじつけなんだよな。
953人間七七四年:2010/12/14(火) 08:12:33 ID:6Iv1es7E
>>951
仮設御殿だろうと、平屋の御殿が天主閣の高さを超えることはないだろうw

>>952
さらに、天王の「天」から「一」を取れば「大王」。大和朝廷の初代「大王」=ニギハヤヒ(スサノオの息子)

よって、スサノオのシンボルマークである木瓜紋の採用と併せて、
安土城「天主」=天王スサノオ(父)+大王ニギハヤヒ(子) となり、
スサノオ父子の復活を宣言することで、アマテラス系の朝廷からの皇位簒奪を図ったのはほぼ確実。

摠見寺で自らの神格化を図ったり、朝廷が与えた右大臣を辞任してしまったり、
三官(太政大臣・関白・征夷大将軍)推認にまるで興味を示さなかったことからも裏付けられる。
954人間七七四年:2010/12/14(火) 10:17:14 ID:DHSaEVs6
点を取ればとか、一を取ればとか結論ありきの言葉遊びだな。
そもそも「安土城の場合、天守ではなく「天主」と書く。」という主張自体が根拠薄弱で、
「殿守」「殿主」と表記している史料もある。
また安土城以外でも「天主」表記は使われている。
955人間七七四年:2010/12/16(木) 17:53:29 ID:W3iC07E8
ぁづちじょぅ
956人間七七四年:2010/12/16(木) 19:48:35 ID:6Q0fgTXL
本当に信長が正当性?を主張して皇位簒奪をたくらんでいたのなら
とっくの昔に皇居を焼き討ちしていたんじゃないの
なんで漢字の中でこっそりアピールしてるんだよ
957人間七七四年:2010/12/16(木) 21:44:37 ID:NyJ3ro6R
文字に意味を持たせるのなら、それを見た時に含まれる意味を見た人が読み取れなければ意味が無い。
信長は名前等の意味を考え命名していた実績があるし、点を取る等と言う姑息な事は絶対やらないしやる必要もないだろう。

朝廷からの官位を受けなかったのは単に政治的判断。
官位を受けると言う事は、組織の一部になると言う事なので、行動の自由に制限が加わるのを嫌っただけ。
そもそも肩書に意味が無い事は室町幕府を滅ぼした信長自身が一番よく知っている。
958人間七七四年:2010/12/17(金) 06:49:29 ID:t57rtMJm
西ヶ谷恭弘氏主宰の日本城郭史学会にて、第一級資料である安土日記から完璧なる安土城天主復原案を上梓された森俊弘氏
http://homepage3.nifty.com/okayama-chiho/chiho/0001.htm
959人間七七四年:2010/12/17(金) 10:10:21 ID:x9qBCVv0
安土城に天主あり、天主無し
960人間七七四年:2010/12/18(土) 18:30:16 ID:lQ0UyzRu
「あずち」で変換できづ。
961人間七七四年:2010/12/20(月) 09:18:14 ID:mgdaRZJc
復元安土城のCG(凄い!!)
http://blog.goo.ne.jp/tsuchiya-sho/m/201005
962人間七七四年:2010/12/21(火) 15:00:09 ID:MoojAEXU
安土城天主菱形説
http://pc.gban.jp/?p=25369.jpg
963人間七七四年:2010/12/25(土) 15:14:20 ID:w43Ch0cK
信長革命 「安土幕府」の衝撃
http://ec2.images-amazon.com/images/I/51maAJug7aL._SS500_.jpg
964人間七七四年:2010/12/27(月) 14:03:40 ID:3WvBQTs2
國學院大學デジタルミュージアム 柴田常恵氏資料写真の
安土城の項目に水堀らしき写真がありますが、水堀でOK?
965人間七七四年:2010/12/27(月) 20:58:14 ID:5x+jZWLp
>>964
これのこと?
ttp://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/largeImage.do;jsessionid=BD7D706036480F1002EBBF1220EA1C36?data_id=19496&class_name=col_fsj&mDataId=46241&pageNo=0

OK

少し位置が違うけど、たぶんこの辺りからのアングルでは?
ttp://uploader.sakura.ne.jp/src/up23618.gif

今でも残っている場所の写真んだと思うよ。
石垣はだいぶ減ったけどね。
966人間七七四年:2010/12/28(火) 09:28:26 ID:Zboru6sd
>>965さん
ありがとうございます。
まさしくその写真です。 勉強になりました。
967人間七七四年:2010/12/30(木) 03:25:22 ID:s2Vq3iYG
安土山周辺が完全に埋め立てられる前の様子が↓でわかる。
現在はほとんど水がなくなってしまい湿地帯の様になってかろうじて姿をとどめている下街道北側の堀もこのころは堀らしさが残っている。

http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M86-A-6&photono=113
968人間七七四年:2010/12/30(木) 16:15:56 ID:vRd8tnDK
安土城行ってきた。観音寺城とセットで。
969人間七七四年:2011/01/01(土) 14:48:10 ID:Fjf/fELd
いいね。安土で年越ししたかったけど天気がやばかったな。
970人間七七四年:2011/01/04(火) 18:08:22 ID:OPBwV+6d
2011年大河ドラマ「江」~おんなたちの戦国~

内藤案のようですNe(1:45)
http://gyao.yahoo.co.jp/player/00397/v10012/v0991200000000542025/?list_id=1035647
971人間七七四年:2011/01/05(水) 11:36:03 ID:HPenCp6/
素朴な質問。
信長は安土本丸に行くのに、徒歩だったのですか。
それとも 馬 駕籠 ?
972人間七七四年:2011/01/05(水) 15:02:29 ID:BEAquvCI
本丸近くに厩舎があったことが記録に残っているからたぶん馬だろうね。
安土殿(濃姫)や土田御前は駕籠だったろうが。
973人間七七四年:2011/01/05(水) 18:27:17 ID:HPenCp6/
>>972さん ありがとうございます。
南蛮渡来のマントをひるがえし、颯爽と駆け上る信長公の姿が
あったわけですね。
又一つ知識が増えました。  ありがとうございます。
974人間七七四年:2011/01/06(木) 06:50:28 ID:LV10y7Ry
>南蛮渡来のマントをひるがえし、颯爽と駆け上る信長公の姿

これか!
http://www.free-style.biz/book/img/cgsengokunobunagasenki.jpg
975人間七七四年:2011/01/10(月) 07:11:07 ID:52pQnCGQ

幻の「安土城」再現 ~その内部構造の謎を解く~
http://www.youtube.com/watch?v=ezXhA79G73w

信長の夢「安土城発掘」
http://www.youtube.com/watch?v=4TSOWY3Arvg
http://www.youtube.com/watch?v=en-VyieGHtk
976人間七七四年:2011/01/10(月) 12:52:05 ID:TX/Ox6FM

幻の城「安土城」と城下町-CGで再現-
http://www.youtube.com/watch?v=Jc3gvdhjy94

【参考】金閣寺-黄金再生に挑んだ男達-
http://www.youtube.com/watch?v=Km8kO_vv-is
977人間七七四年:2011/01/14(金) 06:46:54 ID:8xVDARYn
天才建築家・岡部又衛門の安土桃山城・築城を映画化した「勝てんの城」
http://www.youtube.com/watch?v=sL_fPkgvaO0

織田信長の安土桃山城(宮上茂隆案)
http://www.ise-bunkamura.co.jp/

安土桃山城(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%9F%8E
978977:2011/01/14(金) 06:49:19 ID:8xVDARYn
訂正「火点の城」
979人間七七四年:2011/01/14(金) 11:57:37 ID:gqvdiOW2
>>967
しかし見れば見るほど発展性のない地形だな。
なんでこんな袋小路みたいなところに信長は城を作ったんだか。

>>973
> 南蛮渡来のマントをひるがえし、颯爽と駆け上る信長公の姿が

ねーよw 小説に毒されすぎ。
980人間七七四年:2011/01/14(金) 16:39:38 ID:7n6qUFVC
安土は、あくまで天下統一までの城だろう。
毛利・長曾加部を平定し終えたら、摂津石山(大坂)に築城するつもりだったんジャマイカ?

ちなみに「火天の城」の原作では、信長から「次は摂津石山に築城する。安土よりさらに意を尽くせ」と命じられた岡部又右衛門が
四重櫓+(八角)三重塔の望楼=外観7重(内部9階)天主の外観イラストを見せられる場面がある。

平山城(安土城)が、
三重櫓+二重(多宝)塔の望楼=外観5層(内部7階)天主であることから、高さで勝負の平城(大坂城)への応用だろう>>349-350

もし三重望楼の2・3階が安土城と同じ意匠(八角+四角)、1階が黄金の茶室(賓客応接室)なら納得する。

信長大坂城を見たかったキモス。
981人間七七四年