戦国ちょっといい話8

このエントリーをはてなブックマークに追加
1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話7
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1234946803/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話8
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1237446002/

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2|ω・`):2009/03/20(金) 03:57:07 ID:Il6oOezH
>>1
乙です
3人間七七四年:2009/03/20(金) 07:51:54 ID:PE24uKeb
>>1にそむけば さくざが おこる
4人間七七四年:2009/03/20(金) 10:13:22 ID:DVwsBvwI
5人間七七四年:2009/03/20(金) 11:48:50 ID:5Bt+TE8r
>>4
あれはアンチ最上用の隔離スレ
つか最近、最上が出るだけでイラネとかうぜえとか、
このスレに誘導するアンチがひたすらうっとうしいんだが
6人間七七四年:2009/03/20(金) 12:13:36 ID:o6+/yEzL
>>1


>>5
キチガイはスルーしましょうぜ

播州、三木城の戦での事。

黒田如水の家来、吉田六助と益田与助は、『今日は馬で来るように』と言われたものの、
馬が無い。

どうしたものかと如水に相談しに行くと、「敵から奪え」とのこと。

両人も「やっぱりそう言うことですかー。そうじゃないかと思ってたんだ。」と、納得。
二人とも騎馬の敵を討って、その馬に乗ってやってきたそうだ。

戦国の武士の常識、必要な物は現地調達。そんなお話。
7人間七七四年:2009/03/20(金) 12:44:41 ID:ZjcAObE+
最上いい話しある?
8人間七七四年:2009/03/20(金) 12:53:27 ID:5Bt+TE8r
>>7
おまえわざとやってるだろ?
まとめサイト見ろよ。
9人間七七四年:2009/03/20(金) 12:54:35 ID:70xuYuXy
ファン装ったアンチだろ
春だしスルーしとけ
10人間七七四年:2009/03/20(金) 14:24:46 ID:ZjcAObE+
何でだ?まとめを見て最上の逸話が気になったから聞いたんだけど

11人間七七四年:2009/03/20(金) 14:34:22 ID:Qgaq66fc
住民がこんなギスギスしてちゃいい話されても興醒めだな
12人間七七四年:2009/03/20(金) 14:37:25 ID:A4mBmnir
直家「そうそうみんな落ち着いて、まずは一杯どうぞ」
13人間七七四年:2009/03/20(金) 14:37:56 ID:GRGeFIcZ
ゆかりって言われるとゆかりん思い出すなー
顔般若の方な
14人間七七四年:2009/03/20(金) 14:57:46 ID:O4+/CkQo
久秀「わしが平蜘蛛で茶をたててしんぜよう」
15人間七七四年:2009/03/20(金) 15:01:14 ID:UFQGRECX
長繁「腹減ってるから気が立ってるんだろ。一緒に飯でもどうだい?」
16人間七七四年:2009/03/20(金) 15:11:57 ID:o6+/yEzL
豊太閤ちょっといい話。

小田原陣の時の事である。
長い対陣で、秀吉も暇だったのだろう。その日は諸将の陣屋を見物して回っていた。
そこで、徳川家康の家臣、大久保忠世の陣屋が特に立派なのを見て取った秀吉、
ツカツカと忠世の陣屋に入っていった。

突然の御成りに驚く忠世に、秀吉「飯を食わせろ」と言う。
陪臣の陣屋に、関白が御成りするだけでも大変な名誉である。さらに食事を取っていただくなどとは、
ちょっと想像もつかない栄誉であっただろう。

が、大久保忠世。そんな一筋縄の武者ではない。三河者なのだ。

「だが断る」

「お前のその態度が気に入らないから、飯なんて出せねえ。」
まあぶっちゃけると、こんな事を言った。

当然秀吉の左右の者達は色めきたつ。しかし秀吉、長束正家に
「弁当をもってこい」
と命じ、そして持ってこさせた弁当を、忠世の陣屋で食べた。

続きます
続き

そこに家康がやってきた。秀吉が忠世の陣屋に入ったと聞いて、嫌な予感がしたからだ。

案の定である。

ところが秀吉、家康に対し「陣屋を使わせてもらったぞ。この大久保忠世に褒美として、
加増してやるように。」と言い出した。これには忠世も含めて皆、ポカーンである。

そうして退出する時、秀吉は後ろから忠世の袖を引っ張って、
「どうだ?嬉しいであろう?」

と聞いてきた。これには忠世も
「今までは関白殿下に、どう盾をついてやろうかと考えておりましたが、
今後は殿下に、弓を引く事ができなくなってしまいました。」


後日、忠世は同僚の石川主馬に
「あの時は秀吉公を、心底かたじけなく思ってしまったよ。
秀吉という人は、確かに名誉な大将だ」

そのように語ったそうである。
17人間七七四年:2009/03/20(金) 15:22:32 ID:G/9PvYGa
三河武士の面倒臭さすら逆手にとるとはさすがラスボスだな
18人間七七四年:2009/03/20(金) 15:23:27 ID:UFQGRECX
>>16
上司のそのまた上司だからって決して媚びないとことか、
秀吉がまた率直な態度に感じ入っちゃうとことか、なんかいいね。

秀吉に降伏したときのデ新納さんを思い出しちゃったよ。
19人間七七四年:2009/03/20(金) 15:27:27 ID:zpeazzas
すいません、まとめサイトに乗せるとき、>>16
>続きます
>続き
は消して置いてください
20人間七七四年:2009/03/20(金) 15:44:58 ID:poCWa/P4
大して荒れるような反論レスでもなかったのに、
ちょっと反論しただけで噛みついてアンチ認定とか、
どんだけ原理主義者なんだよ
肯定的な意見や評価以外にも少しは耳を傾けろっつーの


>>16
全盛期のラスボスのオーラは本当に凄そうだな
21人間七七四年:2009/03/20(金) 15:50:56 ID:70xuYuXy
書き込んだ内容がいけないんだろ
「”まとめサイト見て気になったけど他に”最上のいい話ない?」って聞けよ
22人間七七四年:2009/03/20(金) 15:56:32 ID:5Bt+TE8r
ここ最近で最上関連で荒れていて、昨日も
最上いい話ない? っていうので荒れていたのに、
連続で書くなんてKY過ぎるよ。
23人間七七四年:2009/03/20(金) 16:05:16 ID:poCWa/P4
>>21
それは俺のことではないが、その前からちょくちょく荒れてたじゃん
最上のいい話ないとか聞いて回るのは叩かれて然るべきだけど
ちょっとでも都合の悪い話をするとすぐにアンチや伊達厨認定されたから
そういう最上ファン側の姿勢はどうなんだろうねってことさ

ずっと巻き添え規制されてて、書き込めなかったから
蒸し返すようなことを言ってしまったけど
24人間七七四年:2009/03/20(金) 16:10:46 ID:O4+/CkQo
>>16
重次「わしなら陣屋の周りに薪と藁を積み上げて置くが…」
25人間七七四年:2009/03/20(金) 16:16:14 ID:70xuYuXy
>>23
本気でファンならググるなり図書館行くなりするだろ
それでもわからなかった時だけ丁寧に聞け
アンチや厨認定された奴って少なからずそいつの書き込みに落ち度があるんだよ
26人間七七四年:2009/03/20(金) 16:38:44 ID:5Bt+TE8r
>>23
最上ファン側の落ち度みたいな言い方されるけど、
キチガイアンチ最上がへばりついて、なんでもすぐ最上厨のせいに
しようとしているんだぞ?
そういう最上ファンのせいにするから、キチガイがますます勢いづくんだよ。
27人間七七四年:2009/03/20(金) 16:42:35 ID:dIsQfA7Q
離間策に嵌って内紛起こしてるな。このスレ。
28人間七七四年:2009/03/20(金) 17:06:33 ID:poCWa/P4
>>25
最上のいい話がないか聞いて回ったのは俺じゃねーよ
アンチ認定されたのは俺に落ち度があるかららしいが、
前スレとかちゃんと見てみろよ
身の丈に合わない領土を得たことが
滅亡の原因という見方もできるみたいなこと言っただけで
いきなりアンチ認定だぞ

>>26
クズに付きまとわれて気の毒だとは思うけど、
クズが勢いづくから最上の批判的意見はダメなんておかしいよ
一見最もらしいことを言いながら、都合が良すぎないかい?
クズの荒らし行為と真っ当な批判を自分らで見分けようとすることもしないで、
自分らの肯定意見にしか耳を傾けないのは頂けないね
29人間七七四年:2009/03/20(金) 17:08:40 ID:70xuYuXy
>>28
お前に安価を出してるがお前だけとは言ってない
どうせ書き込まずスレ見てる奴も居るんだろうがお前らにも言ってるんだよ
>>28も最上とアンチがもめてるのを予め知ってるんならそういう事書かないほうがいいと思わないのか?
30人間七七四年:2009/03/20(金) 17:08:49 ID:QhZGR2iB
最上アンチはこのスレから最上ネタ追放出来て、おまけに専用スレまで立ててもらって大勝利なんだから少しは自重てこのスレ覗くなよ。
いつまでもギャーギャーお前らに騒がれると迷惑なんだよ。
31人間七七四年:2009/03/20(金) 17:33:00 ID:c+7aeQxE
32人間七七四年:2009/03/20(金) 17:52:31 ID:poCWa/P4
>>29
荒れてるのをいいことに、
批判レスは何でもかんでも荒らしと同一視したり、
アンチとしてひとくくりにする態度が問題だと言ってるんだよ
最上ネタは事実上の追放ということになってしまって、
それを残念に思う人は多数いるだろうけど、
お前さんの言葉を借りれば、荒らされたのは
それこそ荒らしだけじゃなく、最上ファンにも落ち度があるんじゃないかい?
33人間七七四年:2009/03/20(金) 17:53:05 ID:QnBFXSQc
今日の最上なスレはここですか?
34人間七七四年:2009/03/20(金) 17:54:33 ID:OC/KvKXg
荒らしに関する論争はこちらでお願いします
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1230354419/l50
35人間七七四年:2009/03/20(金) 18:12:21 ID:79Xk7VvD
>>32
やれやれ、荒らしを擁護し始めたら話はそこで終わりだなw
まあ空気も読めず議論吹っかけてくる時点で、貴方は元から荒らし同然だけどさ
36人間七七四年:2009/03/20(金) 18:18:57 ID:muTCYsHH
つうかさ、アンチな意見なんていらん。
真贋論争は専用スレでやれば良いと思う。
37人間七七四年:2009/03/20(金) 18:25:49 ID:3gm+icXm
>>16
北条滅亡後、関東移封に決められた徳川家。
ラスボス「本拠はどこに置くの?」
家康公「小田原城にと」
ラスボス「あ、それ駄目」
家康公「へっ?」
ラスボス「最重要地点の小田原は軍略家の家臣に守らせて、アンタは・・・」
家康公「アンタは・・・?」
ラスボス「江戸に入るがいいよ」
家康公「・・・江戸???」
家康公「で、では小田原は」
ラスボス「大久保七郎右衛門忠世に委ねるべし」
家康公「・・・」

君臣離反を謀る、人たらしのラスボスであった。
38人間七七四年:2009/03/20(金) 18:27:19 ID:wruVugxh
これもどれも転地人(減封的な意味で)がつまらないせいだな
39人間七七四年:2009/03/20(金) 18:32:23 ID:B/digq0d
>>38
主役どストライクじゃねえかww
40人間七七四年:2009/03/20(金) 20:14:46 ID:5MQ6YBVt
徳川頼宣の家老が、頼宣に獄舎の増設を提案した。
しかし頼宣は乗り気ではなかった。
「正しい政治を行えば
罪を犯す者も現れないのだから
そんなものは必要ない。私がこれから
正しい政治をすればいいのだ。」
だが、賞罰を正しくするのも政道だ、と
諭されたのでしぶしぶ了承したのであった。

そして、頼宣は獄舎が完成するやいなや、
自分が真っ先に獄舎に入ってしまった。
「罪人が出るのは私に責任があるから、
私が最初に獄舎に入ろう。」

その後、これ以降、罪を犯す者が出ないように、
頼宣は僧侶を呼んで獄舎の中で
17日間祈祷させたという。
41人間七七四年:2009/03/20(金) 20:28:35 ID:poCWa/P4
>>35
これで擁護に見えるなら文盲だな
悪意を持って貶めることを目的とする荒らしとそれ以外を
区別できずに、全てひっくるめて「アンチ」呼ばわりできるとは
大した単純脳だよ

少しでも批判や疑問を投げかけようものなら
荒らしを助長するという大義名分の下、
被害者面しながら、堂々と「批判的なことは言うな!」と

前スレの>>860あたりから読み直してみれば、
先に噛みついてきたのは最上ファンからなのが分かるというもの



勢い余って口汚く罵ってしまったが、
「鮭ネタイラネ」とかのレスがウザいというならともかく、
何でもかんでも攻撃しておいて、よくもまぁ…
42人間七七四年:2009/03/20(金) 20:48:30 ID:79Xk7VvD
>>41
あんたの主張なんか知ったこっちゃないんだ
とっくに終わった、それも前スレの状況を蒸し返してスレの空気を悪くして、
何してんのこのアホはと只呆れてんだよ
荒らしじゃ無いってんなら空気読めない間抜け野郎が
43人間七七四年:2009/03/20(金) 20:51:57 ID:A4Lh7ZYn
>>42
しかもその根拠が、自分がアンチ呼ばわりされたとか完全な私怨だもんな。
私怨で空気悪くしておいてオレは正しいとか、何言っているんだか。
44人間七七四年:2009/03/20(金) 20:54:37 ID:Qgaq66fc
島津家中興の祖と言われる島津忠良
彼は教育のためにいろは歌を作り家臣の教養向上に役立てたという
以下はその一部

理も法もたたぬ世ぜとてひやすき 心の駒の行くにまかすな
訳:道理が通らず法も守られぬ乱世であっても、自分ひとりは心を奮い起こして正義と人道を守り通せ。

善きあしき人の上にて身をみがけ 友はかがみとなるものぞかし
訳:自らを省みるのは難しいが、他人の善悪はよく解るので、友人を見て習い、悪いことは反省せよ。

つらしとて恨みかえすな我れ人に 報い報いてはてしなき世ぞ
訳:相手からの恨みを返しても連鎖するだけなので、恨みには徳を持って対処すべきである。

敵となる人こそはわが師匠ぞと おもいかえして身をもたしなめ
訳:自分にとっての敵を師と思えば、反面教師として手本が見えてくる。自重自戒せよ。

善にうつり過れるをば改めよ 義不義は生まれつかぬものなり
訳:善にうつり、過ちは改めよ。義不義は生まれつきのものではないので悪いと気づいたらすぐ改めよ。

いにしへの道を聞きても唱へても わが行にせずばかひなし
訳:いにしえの賢者の立派な教えや学問は口に唱えるだけで無く、実践実行する事が大事である。


現代人にも通ずるところがあるだろう
45人間七七四年:2009/03/20(金) 21:45:40 ID:w5OTU/Tt
まあ落ち着け最上厨を装った伊達厨に騙されるな
あいつらは鮭様の評判を落とそうと日夜頑張ってるから
46人間七七四年:2009/03/20(金) 21:56:04 ID:fpqJl/rg
売り言葉に買い言葉でだんだん相手を口汚く罵る事が目的になっているなw
住人の民度の低さが伺えると言うものだw
47人間七七四年:2009/03/20(金) 22:02:40 ID:HUXwgRVp
あー、最上VS伊達構図にしてスレを荒らしたい荒らしがいるわけか。












 ス レ 違 い だ か ら 
48人間七七四年:2009/03/20(金) 22:04:25 ID:CimPFu13
そう思うなら構いなさんなよ
喧嘩両成敗
49人間七七四年:2009/03/20(金) 22:06:12 ID:UR8kQH4g
まぁまぁ、ここまでにしておこうぜ?鮭様アンチやら鮭様厨やらの話は。ヤクルトでも飲んでゆっくりしようぜ



いい話したいのにストックがないという…orzすまん
50人間七七四年:2009/03/20(金) 22:07:28 ID:HUXwgRVp
>>44
よく綺麗に歌にまとめられるものだな。
51人間七七四年:2009/03/20(金) 22:21:02 ID:epFod2FL
スレ違いの話はみんなスルーして、まったり戦国の観光旅行の記録でも

家久(善)さん、京都で信長を見る。

天正四年四月、伊勢参拝の帰路京に寄った島津家久さん。そこで石山本願寺を攻撃後
京に凱旋した織田信長の軍を目撃した。その日記にこうある。

「織田信長が、大阪の陣を引いてきたのを、連歌師の里村紹巴さんの弟子、心前さんと一緒に見物する。

下京から上京に、騎馬の衆が列を連ねて相国寺の宿に入っていった。
その幟は九本。黄地に永楽銭の模様をつけたデザイン。
信長殿の前に母衣の衆が二十人。母衣の色はバラバラだった。
母衣は弓箭の覚え目出度い者にのみ許されるそうだ。

馬廻りの衆は百騎ほど。引き陣だというのにみんな鎧を着ている。
馬にも馬面、馬鎧しているものがあった。虎の皮を馬に着せてるものまでいた。
また、馬衣、尾袋をした馬が三頭いたが、これは信長殿の乗り換え馬なのだそうだ。

さて、その信長殿だが、皮の着物を着て、馬上で寝てた。

それにしても十七ヶ国の人数だと言う事だが、一体何万騎いるのか計り切れなかった。」

信長、変なところで居眠り乗馬を記録される。
52人間七七四年:2009/03/20(金) 22:22:38 ID:UFQGRECX
>>50
この調子で『いろは〜もせす』全部作ってるんだぜ。
これをおじいちゃんが孫を膝に乗せて読み聞かせてるところを
想像するとなんかほのぼのするよ。
53人間七七四年:2009/03/20(金) 22:30:25 ID:x5bkExVb
>>51
そのあと光秀に茶席に招待されて
「オレ田舎モンでそういう作法とか何にも知らんから湯だけくれ」

とか言っちゃう家久(善)は本当に落ち着いてるというかパネェ
54人間七七四年:2009/03/20(金) 22:30:57 ID:OHTFFuCz
>>44
メモ帳にコピーしました。
55人間七七四年:2009/03/20(金) 22:32:17 ID:70xuYuXy
>>53
一方カトキヨらは見よう見真似で頑張ったけどな
56人間七七四年:2009/03/20(金) 22:34:07 ID:c+7aeQxE
>>51
織田軍の偉容と、目を見張る家久さんが目に浮かぶようだなあ
想像するだに劇的なシーン
57人間七七四年:2009/03/20(金) 22:57:52 ID:HUXwgRVp
>>51
圧巻だったろうなぁ…。そして毛皮の着物か、どんな着心地か
気になるなw
58人間七七四年:2009/03/20(金) 23:03:54 ID:a+sDgfXr
>>50
家久(悪)も詠んで育ったのかなぁ…
59人間七七四年:2009/03/20(金) 23:03:58 ID:sKRauZ33
まさかの名人久太郎劇場

堀秀政は新参の家臣を抱える時、最初の三十日は朝夕の食事の相伴をさせて、
主従の親しみを作るようにし、その者がどんな言行をするかを見、
次の三十日ほどは他家への奏者をやらせ、家中の外の事を知らしめ、
それに付いての言行も見た。そうして初めて、知行を申し付けたそうだ。

残念ながら秀政の心にかなわず、仕官を果たせなかった者でも、金銀や衣服などを与え、
さらにその者が他家への出仕が決まれば、その主人にくれぐれもその者を頼むと
言ってよこした。こんな風だから多くの人が、秀政に心服していたと言う事である

流石は名人久太郎。


堀秀政は九州征伐の時、先陣をおおせつかった。そして緒戦にて、島津の兵
50人ほどを生け捕った。
秀政はその捕虜達に「助かりたいか?」と尋ねれば、助かりたいと言う。
「ならばわしの言う事をこの先の薩摩の衆に申し伝えてくれ。ならば召し放とう。」
島津の者達は、了解をした。

間もなく島津方の陣に、生け捕りにされていた者達全員が戻ってきた。
島津の陣のものは皆驚いたが、それ以上に驚いたのは彼らに託された、堀秀政からの伝言である。

「こんにちは!今回先鋒を勤めている久太郎です!ところで薩摩の皆さん?ボクははるばる
九州までやってきて、その旅でとても疲れているんだけど、来て早々あなたたちがあまりに簡単に
崩れるもんだから、その追撃のせいで、休んで疲れを取る暇が無いんだよね。
そこで悪いんだけど、この先の城では、せめて三日持ちこたえて!その間に人馬休めるからさ。
お願い!」

これには薩摩隼人たちも、肝を冷やしたとのことである。

流石は名人久太郎。


堀秀政はトイレを玄関に作ったそうだ。
何故なら、トイレには1日に必ず2,3回は行くものである。その度に自然と、
番所の者達の働き振りが見られるから、とのことである。

流石は名人久太郎。

60人間七七四年:2009/03/20(金) 23:42:29 ID:O4+/CkQo
>>55
市松「いろんなもんがはいって飲めたもんじゃありませんでしたw」
61人間七七四年:2009/03/21(土) 03:05:00 ID:l+ZSO388
>>59
「試用期間2ヶ月」のはしりだなw
玄関にトイレは何となくだが風水とか家相の人に怒られそう
62人間七七四年:2009/03/21(土) 11:17:32 ID:sDlvARwp
>>60
織部汁とか髭茶だな……
63人間七七四年:2009/03/21(土) 12:20:14 ID:JEiXzpry
島津日新斎のいろは歌は
当時の関白・近衛植家(近衛前久の親父)に添削頼んだら一首だけ
少し手直しして貰って、絶賛の跋文(あとがき)を書き残してもらったり
当時日本一の歌人とうたわれた花本宗養法師に一首ごとの評をもらったとか

法師さんは最初ふつーに読み始めたら「これは…」と思い直して
すぐ冠をつけ衣を着直してあらためて読んだと伝えられてる

確か歌留多があったはず。市販してんのかな?
64人間七七四年:2009/03/21(土) 12:39:47 ID:808qSxta
>>63
ググったが出てこないな
すごく欲しい
65人間七七四年:2009/03/21(土) 13:07:59 ID:6jNXv6gp
66人間七七四年:2009/03/21(土) 14:41:05 ID:Wb+3HHOp
>>65
紹介文を見る限り、それであってると思うよ。
義久のいろは歌も市販されるといいなぁ…。
67人間七七四年:2009/03/21(土) 15:28:24 ID:xxmp/qAD
徳川秀忠が兄弟の義直、頼宣、頼房と雑談したときの話。

秀忠「私はどうしてもやりたいことがあるが、未だにそれが出来ないんだ。」
頼房「それはいったいなんですか?」
秀忠「高い所で鼓を打ちたいんだ。きっと気持ちいいぞ。」
頼宣「そんなこと今からでもできるじゃないですか。」
秀忠「いや、私が鼓を打ったら城下の者が真似をするだろう。それが
広まって今度は日本中の者が高い所で鼓を打ち始めるに違いない。
だからやりたくてもやらないのさ。」

秀忠は鼓が好きだったが、将軍になってからは一度も打つことはなかったという。
68人間七七四年:2009/03/21(土) 15:54:22 ID:808qSxta
>>65
あ、それか
違うものだと思ってたスマソ
69人間七七四年:2009/03/21(土) 16:41:42 ID:DHiI28Xy
>>67
父親の影響が読み取れそうな逸話だなあ
70人間七七四年:2009/03/21(土) 16:44:23 ID:ZCTwT3fu
この頃は我慢値92ぐらいたまってたんだろうよ
71人間七七四年:2009/03/21(土) 16:51:02 ID:808qSxta
我慢値がたったの5だったあの子が……イイハナシダナー
72人間七七四年:2009/03/21(土) 17:18:20 ID:L61vVZ4h
沖田畷の戦いでのこと。

大将、龍造寺隆信を討ち取られた龍造寺軍は壊乱する。
しかしこの時、龍造寺方の江利口藤七兵衛という者、味方の首を獲って、島津方の者の
ふりをし、薩摩陣中に入り込んだ。

そして島津軍の大将、島津家久(善)の傍まで来ると、馬上にあった家久に襲い掛かり、
右足の股の部分を斬りつけた。

この時家久(善)、とっさに左の方に馬から飛び降りようとした。が、斬りつけられて反対の方向に
逃げたと思われては薩摩武士の名折れと考え直し、右の方に飛び降り、藤七兵衛を斬りつけた。

そのうち家久(善)の家来達も集まり、藤七兵衛は討ち果たされた、とのことである。

薩摩武士はとっさの判断ですら、臆病と見られてはいけないのだ。そんなお話。
73人間七七四年:2009/03/21(土) 17:48:52 ID:ZCTwT3fu
なんかもうあっちは「忠恒」と呼ばなきゃ(善)さんに失礼な気すらしてきた
74人間七七四年:2009/03/21(土) 17:51:46 ID:808qSxta
ライトとダークでいいんじゃね
厨恒より家久のほうがすぐ変換で出る
ただつねで登録するのも癪だし、ちゅうつねとか面倒だし
75人間七七四年:2009/03/21(土) 17:54:37 ID:808qSxta
ごめん漢字間違えてた
忠恒です
76人間七七四年:2009/03/21(土) 18:07:25 ID:JOmb+RoD
>>74
もうそれでいいよwww
77人間七七四年:2009/03/21(土) 18:11:29 ID:Zt817rR7
なんという光と闇の相克、これは間違いなく中二病
78人間七七四年:2009/03/21(土) 18:24:59 ID:Wb+3HHOp
ちゅうつねさんもお兄さんさえ健在だったら
ただの貴族趣味の三男坊で一生を大過なく終えただろうに…
つーか奥さんも妹夫婦も悲惨な目にあわなかったろうに。
79人間七七四年:2009/03/21(土) 18:28:16 ID:5NUM8wzM
忠恒「くっ・・・・静まれ・・・俺の邪鬼眼・・・」
80人間七七四年:2009/03/21(土) 19:18:02 ID:sDlvARwp
>>69
屋根葺衆、見参!



ヒャッハー
81人間七七四年:2009/03/21(土) 19:58:11 ID:Ea9acGot
>>80
onmss「高いところから鉄砲を撃ちたいんだ。きっと気持ちいいぞ」ってことですね
わかります
82人間七七四年:2009/03/21(土) 23:19:23 ID:T6VRMQPy
ある時、板倉重宗の所に、旗本の長老、大久保彦左衛門忠教と横田甚五郎尹松(ただとし)の両名が
招かれた事があった。

よりにもよって。

戦乱の世はもはや遠くに過ぎ去っていた。徳川家の旗本の中で、戦国乱世を体験した長老である
両名の貴重な話を聞き届けようと言う、すばらしい試みであった。

両名が激しく仲が悪いと言う点を除けば。

最初に若い木村九郎兵衛が「大久保殿はどのような手柄で、旗奉行に取り立てられたのですか?」と、
無邪気な事を聞いてきた。それに彦左衛門

「なあに、旗奉行なんて、どうって事のない甲州者でも勤められるような役でござるよ。」

横田「…」←甲州者で元旗奉行

 さ あ 盛 り 上 が っ て ま い り ま し た

さてそんなこんなで彦左衛門さん、いつものように一族自慢
「だいたい、わが大久保家ほど徳川家に忠誠を尽くした家は無い。
お家の敵になったものも一人もおりませぬぞ!」

それに今度は横田さん「ほほう?そう言うそなたは、権現様の御敵になられたではありませぬか?」

彦左激怒、何を言うか!それは一体どういうことだ!と問い詰めれば横田、
「法華宗は権現様がお嫌いになり、法度を仰せ付けた宗派でござろう。なのにその法華に
帰服されているそなたは権現様の敵ではないのか!?」
これに彦左驚くやら怒るやら、二人は止まらずヒートアップ

彦左「ふん、当代は高天神から逃げ出した卑怯な奴も、物頭になれるような嫌な世の中だ!」
横田「おう!皆様がた、高天神より逃げたと言うのはこのわしのことよ!
高天神より逃げたからこそ、徳川家において物頭にもさせていただいたのじゃ。
だいたいわしほど逃げっぷりの良い人間もおらぬだろうよ!」
「なんじゃと!?」「なにを!?」
双方、今にも取っ組み合いをしかねない空気。
ところがこの時亭主の板倉重宗、突然大笑い

「いやいや、聞いていたのとこんなに違うとは。実は大久保殿も横田殿も、もうすっかり年老いて
気力も弱り、ただ古い話を話して暮らしている。と、お聞きしたので、それならば私もそのお話を
お聞きしたいと思い、お呼びしたのです、

ところがいやはや、お二人のただいまの論争、若き者にも勝るものでございました。
あなた方がこのようにお元気なのは、実に今の公方様の宝と言うべきでしょう。
まったく、大慶とはこの事です。」

こう言われて二人も口論をやめ、その後は昔話などを、聞かれるままに話した、とのことである。
83人間七七四年:2009/03/21(土) 23:40:33 ID:rJigLIsy
>>82
重宗の父親も相当にめんどくさいからなぁ
84人間七七四年:2009/03/21(土) 23:56:53 ID:s5+jLW3E
何ていうか、さすが板倉家の人間って漢字
85人間七七四年:2009/03/22(日) 00:17:04 ID:vh+MX8VT
面倒くせえな三河武士
86人間七七四年:2009/03/22(日) 00:33:49 ID:8KAGPFEa
片方は甲州者だけどね
87人間七七四年:2009/03/22(日) 00:55:02 ID:c/YhEGWw
>>72
ひっそりとスルーされてるけど竜造寺四天王の一人目の人じゃないですか
88人間七七四年:2009/03/22(日) 03:56:26 ID:+wV8XA8/
秩父に日尾城という北条支配下の城があった
城主は諏訪部定勝
甲斐に近接していたが天嶮の要害秩父山渓のおかげで直接侵攻を受ける事は稀であった
か、敵の侵攻が全く無かった訳ではない
さて、城主の定勝は大の酒好き
敵の侵攻を防ぎ祝いの宴で大好きな酒を飲む事もしばしば
しかし定勝、決して下戸ではないのだが限界を超えると…
 寝 る
暴れるよりマシだと思った諸兄、それは甘い
敵もさるもの頃合いを見計らって戻ってくる
「そろそろ敵将は酔いつぶれておるはずじゃ、かかれー!」
こうなると城内はパニック

…にはならないのである

なぜならば定勝の妻がせっせと家臣に指示を出し、自ら馬に跨り迎撃に飛び出るから
遅ればせながら定勝も馳せ参じて「二日酔いで頭痛いから手加減抜きじゃ!」と駄目押し
日尾城の攻防戦は‘ 毎 回 ’こんな感じ
これは定勝が小田原城に出向いて留守の時も同じ

定勝も自分の酒癖は知っていたろうが…
「銃後を任せられる女性に出会えることは軍人としての幸福である」とはある昭和の軍人の言
任せ過ぎな気もするが

残念ながら小田原征伐時、諏訪部定勝は病死しており妻も落飾していた
この夫婦が健在なら小田原征伐時に逸話が生まれていたかもしれない
89人間七七四年:2009/03/22(日) 04:55:57 ID:kmHGVHiy
これはいい夫婦w
戦国の強い嫁というと小松殿が思い浮かぶが、
それ以外でもけっこう強い(少なくとも普通程度は
武働きできると思われる)人多いんだな。
前に黒装束で鎖鎌みたいなの持って夫の退却助けた
嫁の話あったが、あれも夫婦のラブラブぶりより
むしろ嫁普通に強えー!とびっくりした覚えがある。
90人間七七四年:2009/03/22(日) 04:56:58 ID:7wzd9Zsy
奥さんのいい世話の話
91人間七七四年:2009/03/22(日) 08:20:12 ID:J0bM90MY
奥さんの下のいい世話となっ!?
92人間七七四年:2009/03/22(日) 10:30:10 ID:yM8g0OyR
松永先生とか、勝寿院一人に6男2女生ませた森パパとか?
93人間七七四年:2009/03/22(日) 11:52:29 ID:D/uJZUiX
>>87
そして佐賀県小城市の市長さんのご先祖様じゃよ
94人間七七四年:2009/03/22(日) 13:19:24 ID:c/YhEGWw
>>88
銃後どころか前線任せてね?
95人間七七四年:2009/03/22(日) 16:28:37 ID:OR65w0gh
鳥居強衛門の息子

関ヶ原の決戦が終わって間もなくの事。
奥平信昌の部隊は京において、安国寺恵瓊の潜伏先を発見。これを捕縛すべく急襲した。
が、一歩遅く、恵瓊はすでに乗り物に乗って潜伏先を脱出していた。

恵瓊を追跡する奥平隊は、傍に2,3人の若党を引き連れた乗り物を発見、
「待て!安国寺だな!」

すると乗り物より、「もはやこれまで」の声、これに傍の若党刀を抜き、最初からの
打ち合わせにあったのだろう、中の安国寺を刺そうとした。その時、

奥平隊の鳥居庄右衛門、この若党に斬りかかった。
そう、この男、長篠の勇者、鳥居強衛門の一子である。

庄右衛門、若党と切り結ぶ、が、躓き、仰向けに転んだ。若党、ここで拝み打ちに撃って来る。
そこに庄右衛門の従者が庄右衛門の体の上に覆いかぶさり、自らが盾になって若党の攻撃を防いだ。

そして庄右衛門立ち上がり、見事この若党を討ち、安国寺を生け捕りにした。
庄右衛門の従者も怪我を負ったものの、無事であった。

この時の庄右衛門の働き、そして従者の忠義は無類のものであると称えられた。
ちなみにこの従者、そしてその子孫も長く、鳥居強衛門家に仕えた。との事である。
96人間七七四年:2009/03/22(日) 18:28:02 ID:yM8g0OyR
>>95
ググったら子孫が奥平分家の家老にまで上ってるんだな
>庄右衛門
名を恥ずかしめない子孫でよかったね強右衛門さん…
97人間七七四年:2009/03/22(日) 18:54:42 ID:xiw82/lK
今回のMVPは従者だろ
98人間七七四年:2009/03/22(日) 20:19:40 ID:o+jXiY0C
紛れもないMVPにも関わらず、名が残らなかった従者は気の毒だなw
99人間七七四年:2009/03/22(日) 21:51:18 ID:QR2X7MQX
1568年末、今川氏真が武田信玄に駿河を追われ、遠江に逃れた時のことである。
追撃する武田軍から氏真やその近習、女房衆を庇い奮戦する老武者の姿があった。
老武者は追いすがる武田軍に対し単独突撃を繰り返し、最後には壮絶な切腹を遂げたという。
その武者の名は、朝比奈泰能(没年1557年)という。

忠臣は一度くらいなら蘇るのだ。
100人間七七四年:2009/03/22(日) 22:50:44 ID:D/uJZUiX
>>99
スタンドバイ氏真、てゆーか、鬼?<幽霊的な意味で
101○北条 ×GIANT KILLING 1/3:2009/03/22(日) 23:23:28 ID:uAfQ9fY5
永禄12年(1569)1月、三ヶ国同盟は破綻し、武田と北条は駿河国薩?峠で対峙した。 
大北条は山県昌景をもってしても攻めあぐね、信玄は先鋒を真田信綱に代えた。

物見に出た真田昌幸は、悠然と薩?峠に陣取った北条の陣を見届け、次いで天を見て
うなずくと、自陣に戻り大将の兄・信綱を呼んだ。

「はて、前線で動きがあったか、それともお屋形様から何か指図でもあったか?」
緊急の場合に備え、諸将を集めて向かった信綱を出迎えたのは、
「やっ、兄者よう来て下された!ささ、まずは一杯!」昼間っから入ってる昌幸隊だった。

「こ、これは何かの謀事か?!大敵を前に酒宴とは心得ぬぞ!!」問いただす信綱に、
昌幸は笑って答えた。「まぁまぁ、『謀事は密をもって良しとす』、今に分かり申す。」

昌幸は近習に手配させ、全軍に酒や味噌汁を行き渡らせた。歌まで聞こえてきた頃、
兵たちに昌幸が呼びかけた。「みな、御大将のおかげで寒気も忘れたようじゃのう!」
(〃´Д`) ウィーッス、ゴチでーす!
昌幸は薩?峠を指差した。
「見よ!平地の汝らでさえ、酒でもないと温まれんのに、敵は峠の上におる!
あれでは手が縮こまり弓鉄砲も使えまい!今の我らの勢いで、一当たりしてみんか?」
(〃´∀`) ウィーッス!!
「よし。…ちょうど酒の肴も切れた。功名して敵の首を肴に、今度は祝いの宴せん!!」
(´∀`*)/(´∀`*)/(´∀`*)/オオォォォオ━━━!!!

折から昌幸の読み通り雪がチラついてきたが、酒と昌幸の檄で頭に血の上った真田隊は
物ともせず突き進んだ。
薩?峠の北条軍は、寒気をしのぐため将はふもとの民家に入っており、陣屋には
雑兵と旗があるばかり。 「陣屋に火をかけよ!兵糧・武具は望み次第に分捕れい!」

陣屋ごとに火を放つと、雑兵たちはもちろんアオリを食った将たちも我れ先に逃げ出し、
武田軍の大勝利に終わった。
102○北条 ×GIANT KILLING 2/3:2009/03/22(日) 23:24:27 ID:uAfQ9fY5
永禄12年(1569)10月、北条は武田の侵攻の前に、酒匂川の防衛線を破られた。
次に負ければ、小田原までは目と鼻の先である。 「だが、わしに考えがある。」

大道寺政繁の策により、小田原近郊の田島村にオトリ部隊を配置し、その周辺に
地雷火(氏康が驚いたという『鉄炮』の変形か)を埋め、武田軍がこれにかかった所を
オトリ部隊と近くの山に隠れた伏兵で挟み撃ちにする、という作戦が取られた。

「あわてふためく武田軍を狩り立ててやろうぞ!」 「「「 応!!! 」」」

田島村を見た真田昌幸は、10月だというのに、陽炎が立つのに不振を覚えた。
よく見れば、周囲の地面が掘り起こされ、地熱が異常になっている。
「さては北条め、何か仕掛けたな・・・・・・」

オトリ部隊の大将・大道寺政繁は、300ほどの兵がまっすぐ駆けてくるのを見た。
「よし、ワナにはまったぞ!地雷火に点火せよ!」
地面に火が放たれると、土砂を噴き上げつつ辺り一面、火の海と化した。

「小気味良いぐらいハマってくれたわ! 火が収まったら掛かれ、焼け残った者さえも
一人も生かして帰すな!!」 手を打って喜ぶ政繁の命により、300余全員を討ち取った。
「・・・・・・???」 しかし後続の部隊はなく、政繁は首をひねることになる。


一方、伏兵部隊の大将・松田憲秀は、政繁からの合図を今か今かと待ち構えていた。
そこへ森の陰から、不審な部隊が現れた。 「はて、味方には見慣れぬ旗じゃが?」

部隊から、若武者が一騎進み出て叫んだ。
「やあ、そこに居られるは、北条にその名も高き松田殿と見た!拙者は武田家中、
真田一徳斎(幸隆)が三男にござる!

このたび我ら、迂回して小田原に向かう事になり、すでに山県三郎兵衛・馬場美濃守が
向かっており申す。 ついては、足手まといになる先の戦の捕虜を、信玄が承知の上、
田島村にて解放いたしましたが、収容していただけましたかな?」
  _, ._
( ゚ Д゚)
茫然自失する松田隊に向けて、真田隊の一斉射撃が火を噴いた。残る部隊も大敗し、
北条は武田を、小田原での篭城でやっとやり過ごした。
103○北条 ×GIANT KILLING 3/3:2009/03/22(日) 23:25:27 ID:uAfQ9fY5
元亀元年(1570)、駿河を巡り武田と北条は、三たび争い、真田隊は2千人をもって
北条の大軍と向かい合った。

北条軍の副将・北条右衛門太夫は、これを見て笑った。
「武田め、この大軍にわずかな兵で向かうとは浅はか!かまわん、一気に潰せ!」
しかし、大将の松田憲秀は笑わず、これを厳重に制した。
「小をあなどるは、兵法の戒める所である。敵の動向を良く見て、機に応じて攻めよ。」

夜になると、真田昌幸が騎馬隊に松明300を持たせ、四方を走り回らせた。
騎馬隊は北条の陣に、ある程度近づくと一斉に松明を消し、姿が見えなくなった。

松田「これは夜討ちか?!油断するな!」 右衛門「応!!」
大将の命により真田隊を待ち構えた北条軍だったが、いくら待てども何もなく、
そのうち夜が明けた。不審に思い、火の消えた辺りを探索したが、何も見つからなかった。

翌日の夜に真田隊は、今度は松明500を持ってやって来た。
松田「今宵こそ来るぞ!急げ!」 右衛門「お、応!!」 すでに真田隊は間近い。
…と、思いきや、またも一斉に松明を消してどこかへ行ってしまった。

こうした事が一週間ほども続き、北条軍は緊張の余り寝不足する者が続出した。
右衛門「…来ませんなー……」 松田「……………」
8日目の夜は、とうとう松明も見えない。
「もう今宵は来ぬな…」 武装を解いて、前後不覚に眠る者まで現れた。

しかし昌幸は、まさにその時を待っていた。
物見から報告を受けた昌幸は、2千の兵を二手に分けると、北条軍を挟み撃ちにした。

不意を突かれた北条軍は動揺し、鎧を着ても兜が無い者、つないだままの馬に乗る者、
錯乱して腹を切る者と、大騒ぎとなり、さんざんな有様で小田原へ逃げて行った。
真田隊は一人の損失もなく、悠々と信玄の本陣へ引き上げた。

…で、長々と何が言いたいかっつーと、こんなチートでも息子の嫁には勝てんのですよ
>>89さん……
104人間七七四年:2009/03/22(日) 23:27:57 ID:3ZfEtnS8
チート過ぎんだろ…jk
105人間七七四年:2009/03/22(日) 23:38:54 ID:ayaCC/TJ
2番目が鬼謀としかいいようがない
106人間七七四年:2009/03/23(月) 00:28:32 ID:bbNPNWRV
>>102
地雷火ってのは導火線式地雷で、
氏康が驚いたのは↓みたいな、三眼銃とかの中国製の銅手銃かもね
ttp://www.youtube.com/watch?v=M2V41dmFi3Y
107人間七七四年:2009/03/23(月) 00:44:13 ID:G5XJXZ6e
>>99
泰能は桶狭間の時にも蘇ってるから、それは二回目だな
108人間七七四年:2009/03/23(月) 01:04:21 ID:ChdIJYXP
ラピュタかあんたはw>朝比奈
109人間七七四年:2009/03/23(月) 02:11:23 ID:pcHERqF3
>>101-103
北条フルボッコすぐるw
110人間七七四年:2009/03/23(月) 04:07:00 ID:D3O/83NB
そんなバケモノだから平成時代に彼の子孫が隠密奉行に抜擢されたんだろうなぁw
111人間七七四年:2009/03/23(月) 07:25:19 ID:VhG8xVKa
旧陸軍の某軍曹の前世か
112人間七七四年:2009/03/23(月) 09:07:44 ID:4B9quDCJ
>108 >110
「隠密奉行朝比奈は滅びぬ。何度でも蘇るサ!」
>111船坂アンデルセン扱いですか。
113人間七七四年:2009/03/23(月) 09:18:16 ID:4B9quDCJ
>>101-103まさに大物食いw

しかし北条方も川越夜戦とか、時をかけ油断・疲弊させて急襲する戦を仕掛けた経験があったろうに……


そしてこのチトー喜兵衛をモノともしない本多平さん家の娘……
114人間七七四年:2009/03/23(月) 13:09:24 ID:sYPxIxUm
小早川隆景は心配した。

毛利家の将来のことが、である。もっとぶっちゃけて言えば、子供が出来ないのだ、輝元に。
「このまま子が出来なければ、養子を取るしかない。」
目をつけている子はいる、弟、穂井田元清の子、宮松丸(後の秀元)である。
幼いながら既に聡明さを見せ、また元就の血を引き、血脈的にも問題ない。
「毛利家を託すのは、この子しかいない」

が、隆景の思うように行くのなら、世の中苦労しないのである。
最初の難関は、毛利輝元の北の方、であった。
この人は宍戸隆家の娘であるが、彼女の兄、宍戸元家には六人の男子がおり、
その五番目の子、吉内を、彼女はことのほかかわいがっていた。わが子のように。
そうして輝元にも「この子をいっそ私達の子供にしちゃいましょうよ」などと言っていた。

これを聞いた隆景、衝撃を受ける。「何を考えているんだあの女は!」

「そんな事もし輝元が承知したら、家中が大変なことになるのが分からないのか!?
こんな噂を聞いただけでも、先ず宍戸が勘違いをする。そしてそのようになってもならなくても、
家中は動揺する。ようやく秀吉と和議が済んで毛利家は今安定している状態ではあるが、
115人間七七四年:2009/03/23(月) 13:10:08 ID:sYPxIxUm
未だに天下の動静は、どう動くか分からない、薄氷を踏むような時期である。これでもし
家中の大勢力である宍戸を恨ませる様な事が起これば、大変な事態になるぞ!
だいたい毛利の血を引いていない人間を毛利宗家の跡取りにするなんて考え自体が!

…潰さねば!すばやく、そして穏便に!」

そこで隆景、北の方に仕える女官たちを集め、このように言った。

「北の方様は吉内殿を養子にしたい、などと考えられていると聞きました。
さて、もし養子となられれば、吉内殿は大阪に、人質として出さねばなりませぬ。

我ら先に、秀包を人質に出しましたが、それが伝えてくる上方の様子、万事につけて
難儀であり、その世間は鬼のような恐ろしさだそうです。

…北の方様は吉内殿を上方に送る事、承知なさいますか?」

これを聞いた北の方は、気を動転させた。吉内を取られる!しかも恐ろしい所に!
輝元に何とかならないのかと言っても、「叔父上の言う事は聞かなければならない。
叔父上がそうしなければならないと言うのなら、そうするしかない。」

そこで北の方も「では、吉内を養子にするのは止めましょう!この子が傍にいてさえくれればいい!」

このようにして隆景は、北の方や宍戸の恨みを買うこともなく、吉内を養子にさせる事を
あきらめさせた。隆景も心底ほっとした事であろう。

が、まだ隆景は知らなかった。毛利に、金吾の影が近づいている事を…。

隆景公、金吾の前に既に第一ラウンドをやっていたのだ、と言うお話。
116人間七七四年:2009/03/23(月) 18:32:13 ID:VtHmD1bh
民政も難しいが、殿中の政治も大変なんだよねえ
117人間七七四年:2009/03/23(月) 18:40:41 ID:LEt0QBx7
金吾もなあ……予定通りに関が原直後に参戦していれば
あそこまで世間に叩かれずに済んだのだろうか
118人間七七四年:2009/03/23(月) 18:50:24 ID:IkjzkpVo
>>114-115
北の方は本当に吉内を可愛がっていたようで
この隆景の策にまんまとハマった際、寺神社関係なく吉内の無事を願掛け
厳島神社の回廊には金の灯籠を寄付して祈ったとか
しかし飽きたのか、それともでかくなったら可愛くなかったのか、
その後吉内は北の方から格段の寵愛は受けることなくなってしまった

輝元と側室の間に秀就が生まれたからそっちを可愛がったのかもしれない
この側室ってのはアレな、アレ。散々出てるアレ
119人間七七四年:2009/03/23(月) 19:18:30 ID:x9u/Vj02
本多正純の屋敷で火事がおこった。だが、家臣たちのがんばりで消火されて
大事にならずに済んだので、正純は喜んで胸をホッと撫でおろ……さなかった。
喜ばないのを不思議に思った家臣が正純に理由を聞くと、正純はこう答えた。

「大事にならずに済んだのに嬉しくないのですか?」
「私はいつも自分の家臣を頼りにしているが、それはいざというときにこそ、
その命を投げうってほしいからだ。たかが屋敷のために大事な家臣たちに
何かあったらと思うと嬉しくない。」

そこは喜んでおけよ正純。
120人間七七四年:2009/03/23(月) 20:08:40 ID:VtHmD1bh
火の用心がなってねえ、これじゃ危急の際にどうなるのか
ということを正純なりに表現したんだな
121人間七七四年:2009/03/23(月) 20:30:24 ID:ltQ6ij3S
ツンデレだな…
122人間七七四年:2009/03/23(月) 20:33:31 ID:aDoh3T+7
■柳生五郎右衛門宗章「逆風の太刀」の逸話


 柳生五郎右衛門宗章は、柳生石舟斎の四男である。
(つまり、但馬守宗矩の兄で、兵庫助利厳の叔父)
彼もまた、石舟斎直々に新陰流の免許を受け、小早川秀秋に300石で仕えた。

 だがしかし、関が原の合戦の後、秀秋が急逝。
小早川家も断絶となり、これにより、浪人の身となってしまった宗章は
知己の米子藩中村家の家老、横田村詮のところへ身を寄せた。
村詮は宗章を快く迎え、中村家の剣術指南として推挙しようとした。

 だが、若年の藩主である中村一忠(中村一氏の息子)は
村詮と折り合いが悪く、遂には小姓に命じ、村詮を手打ちにしてしまった。
これを聞いた村詮の嫡男・主馬助は武門の意地を見せるべく、
一族郎党と共に居城・飯山城にて兵を挙げ、中村家と一戦交えることとした。

 さてその時、宗章はあくまで客分の身であった。
そのため主馬助は宗章に篭城前に退去を促したが、
宗章は義侠心を発揮し、このまま共に篭城することを選んだ。

 そして襲い来る中村勢を相手取り、横田勢は大いに奮戦。
その中で宗章は「山姥の槍」を振るい、大いに奮闘したという。
結果、中村勢だけでは手に負えぬと、近隣の領主・堀尾吉晴の手勢が加勢に出向く有様であった。

 しかし、所詮は多勢に無勢。
遂には飯山城も落城の時を迎え、その間際、主馬助は宗章に今までの加勢を謝すると共に、
貴方ほどの武勇の士が無駄死にすることは無いと、落城の混乱にまぎれて、脱出するように促した。
123人間七七四年:2009/03/23(月) 20:34:45 ID:aDoh3T+7
 だが、宗章は笑ってこれを拒否。
むしろ、良い死に場所を与えてくれたといい、主馬助に礼を述べると、幾振りもの刀を腰に挟み、
従者・森池五郎八と共に、押し寄せる中村家の軍勢へ突撃した。

 中村勢の只中で、宗章は習い覚えた新陰流「逆風の太刀」を振るい、
向かい来る諸兵を次々と切り捨て、手の刀が傷めばそれを捨て、
新たな刀を引き抜き…遂には18名もの相手を討ったという。

 そして、疲労極まったところで、主従共々、遂に討ち取られた。
宗章を討ったという中村家の家臣・藤井助兵衛は、このことを以って誇りとしたという。


 この宗章の大立ち回りと見事な最後は広く伝えられ、
柳生家の武名と新陰流の名声を大いに高めたといわれている。


 なお、横田家を滅ぼした中村一忠は、この6年後に病死。
嗣子も認められず、米子藩中村家は廃藩となり、横田家の名誉も回復されたという。



===============================

 悪い話スレで少しネタが上がってたので、
荒れてた話題に絡むけど、空気を読まずに投下してみた。

 五郎右衛門宗章は、他の柳生と比べるとマイナーかもしれないけど、
小早川秀秋の他、真田信之の重臣・鈴木忠重とも絡んだりして、
結構魅力的な人物だと思うんで、もっと知ってもらえると嬉しい。
124人間七七四年:2009/03/23(月) 21:05:42 ID:OkBmIWtV
柳生大強化、便乗して。
「柳生宗矩と沢庵和尚」

フィクションでは沢庵と懇意である剣豪は宮本武蔵だが、史実ではふたりの間の関係を
しめす史料や逸話はない。
実際に沢庵と親しかったのは、柳生宗矩である。

そのためか、沢庵はこの剣術指南役に、いろいろと言いづらいことも指摘した。

宗矩は無類の愛煙家であったが、沢庵はいい加減にタバコは遠ざけろという。
すると宗矩は、おもむろに数メートルにもわたる長さの煙管を作らせた。
そして襖ごしにひかえた小姓にタバコをつめさせながら、スパスパと吸う。
宗矩は言ってのけた。
「ほれ、タバコを遠ざけたぞ」

また宗矩は、息子の十兵衛があまりに奔放不羈なことに手を焼いた。
すると沢庵は
「オヤジがおかしいから息子だってぐれたくなるんだよ」と逆にしかりとばし、
宗矩を落ち込ませた。
「だいたいあんたねえ、自分の立場を利用して大名屋敷に押しかけて能を舞うの、やめろよ。
迷惑だろ、相手も準備とか接待とか大変なんだよ!」
とさらに沢庵は宗矩を叱る。当時の能は今でいうところの接待ゴルフやカラオケのような娯楽の一種で、
それを職務権限を利用して大名屋敷で開催させ、あまつさえ宗矩自ら舞うなど、
あまりに図々しいことであった。

こんな関係だが宗矩は沢庵を大事にし、紫衣事件では沢庵を懸命にかばい赦免に尽力、
徳川家光に沢庵を紹介したのも宗矩である。
柳生一族の墓所がある芳徳寺には、沢庵像があり死後も仲良く宗矩像と並んでいる。

それにしてもこの宗矩、ノリノリである。
125人間七七四年:2009/03/23(月) 21:19:07 ID:39LVfqMD
>>124
誰が・・・ま、いっか
126人間七七四年:2009/03/23(月) 21:57:42 ID:kMe2XJ0P
>>122-123
んな大規模のお家騒動やらかして、良くその当時に改易されなかったな・・・
127人間七七四年:2009/03/23(月) 22:04:31 ID:eZNIXmnG
最上にいい話しないの?
128人間七七四年:2009/03/23(月) 22:05:51 ID:S4AxVDVs
無限ループですね
わかります
129人間七七四年:2009/03/23(月) 22:17:31 ID:EuJfWWjP
>>126
1603年のこと。
130人間七七四年:2009/03/23(月) 22:22:17 ID:VtHmD1bh
柳生一族はおもしろいやつが多いな
しかし、
> 数メートルにもわたる長さの煙管
宗ノリどんだけ肺活量があったんだとw
131人間七七四年:2009/03/23(月) 22:54:40 ID:biAFirhM
政宗もだけど、人生エンジョイしてるなこいつらww

>>115
輝元「叔父上の言う事は聞かなければならない。
叔父上がそうしなければならないと言うのなら、そうするしかない。」

輝www元www
132人間七七四年:2009/03/23(月) 22:58:43 ID:0iJISMFD
豊臣政権期なら三十路超えてるんだからそろそろ自分の意見があってもいいよな
133人間七七四年:2009/03/23(月) 22:58:51 ID:a5big0au
祖父ちゃんや叔父にキッチリ躾をうけてるからなぁ
134人間七七四年:2009/03/23(月) 23:02:13 ID:PJJ8xTxj
首きり何とかっていう最強農民の話は本当かね?

信長を蹴飛ばしたとか、戦場でクワつかって数十の首をとったとか
135人間七七四年:2009/03/23(月) 23:03:09 ID:Rf/lJ3gj
ぐぐれ
136人間七七四年:2009/03/23(月) 23:15:51 ID:XadA70c9
>>122ー123
初見は真田太平記だったけど鈴木右近や滝川三九郎との絡みで印象深い人だったな。
食客でも恩に応えてってカッコイイね
137人間七七四年:2009/03/23(月) 23:45:50 ID:0iJISMFD
眉唾だし戦国かどうか微妙なところだが一つ話を

明治維新によって江戸幕府が倒されたが近代化が一気に進む訳ではなく
特に軍事面では装備を一気に更新するわけには行かなかったので
しばらくそのまま、あるいは改造したものを装備させていた
では改造銃は何時ごろまで使われていたのか?
実は日露戦争時まで使われていた
アメリカの専門家、ロバート・キンブローは
「私の見たのは1600年代の銘と日付のあるボルト仕掛けの小銃である。
この改造銃は近代の火薬を使っても爆発しなかった!
昔の日本の職人の技術は最高級の讃辞に値する」
反射炉もない古の匠の業が近代でも通用したといういい話
138人間七七四年:2009/03/24(火) 00:13:59 ID:YEh1RCVt
戦国の職人がもうちょっと本気を出してたら
洞窟の中でアイアンマンの一体くらい造ってたかしれん
139人間七七四年:2009/03/24(火) 00:46:39 ID:GJajZbkv
MARVEL1602にアイアンマンいなかったっけ?
140人間七七四年:2009/03/24(火) 02:19:04 ID:nISJYW8n
>>122
隆慶一郎がこの人主人公にした短編書いてたな。柳生一族関係の短編集めた作品集で読んだ覚えがある。
141人間七七四年:2009/03/24(火) 09:10:32 ID:QrXXlS/E
従来の本城・吉田郡山城が手狭になった毛利家は、新しく広島に築城することになった。
さっそく小早川隆景・二宮就辰が中心となり、縄張り案が出来上がった。
これを見た輝元は疑問を持った。
「・・・川の中州の真ん中とか、地形が低過ぎないか?防御が不安だ・・・」
山に囲まれた要害、吉田郡山城とは比べ物にはならないだろうが、大丈夫なのか?
「もっと山沿いにした方が良くないか?もう一度、叔父上に相談せよ。」

さて、隆景がこれに答えるに、
「城郭は国家の安否に関わるもので、計画の変更は一大事です。黒田官兵衛は軍事に
長けた人なので、彼に相談して、その上で決定すれば良いでしょう。」

間もなく、九州への使者として官兵衛が毛利領を通りかかったので、広島城の話をした。
官兵衛は広島の地形と隆景の話を聞いてピンときたが、言った。
「広島の要害は充分です。また、今さら計画を変えるのは、手間も費用もかかる事。
このままで何の差支えがありましょうや。」

この言葉によって、現在の広島城の地での築城が決定された。
しばらくして秀吉が九州攻めの際に安芸に立ち寄り、広島の縄張りを見て、笑った。
「おいおい、この地形では例の水攻めで落としてしまうぞ?」

苦笑しつつ内心大いに恥じた輝元は、隆景を責めた。
「やっぱりダメな地形じゃない?!なんでウソついたりするんですか!」
「毛利のためには、これで良いのです。」
隆景は、その言葉を待っていたかのように答えた。

「当家の領土は広大であり、余計なマネをすれば、たやすく秀吉の疑いを招きます。
しかし、城の立地が悪ければ、幾分か秀吉の心は晴れましょう。今日『良い城郭』とは、
秀吉にとって良い城郭であり、政治のための城が要害である必要はありません。

もし大事が起これば、どこなりとも領内のうちで要害の城に篭もればよろしい。
黒田官兵衛は秀吉の近臣であるので、あえて相談しました。
地形の悪さを知りつつ『これで良い』、と言ってくれた官兵衛の胸中をお察し下さい。」
142人間七七四年:2009/03/24(火) 09:57:42 ID:9mHuFXwp
TERUさんにとっては
小早川の叔父上はドラえもんみたいな存在だな
143人間七七四年:2009/03/24(火) 10:05:15 ID:qKcLJwC8
>>142
そのドラえもんは、人がいるところでは完璧な執事としてふるまうが、
人がいないところでは…
144人間七七四年:2009/03/24(火) 10:30:44 ID:yy62BbX2
>>143
お兄ちゃんやパパンに甘える、と

楽しい雪合戦スキー・毛利一家め
145人間七七四年:2009/03/24(火) 10:54:50 ID:qKcLJwC8
>>144
それもあるが、輝元が事あるごとに述懐している
毛利名物の一家総出での輝元かわいが…育成計画があったからなぁ。
146人間七七四年:2009/03/24(火) 10:59:08 ID:XYG4ocsD
>>137
イタリアがエチオピア侵攻時にマスケット装備してたって話だからありえない話ではないな
日露なら維新から50年程度しか経ってないし
…ただ1600年代なら戦国でなくとも200年以上前の骨董品だろ
改造したとはいえ良く暴発しなかったな
作った人も手入れしてた人もスゲェわ
147人間七七四年:2009/03/24(火) 11:34:28 ID:CZQWJDIs
>>140
「柳生非情剣」収録の「逆風の太刀」だな。
隆先生がいつもの調子で書いてるので、その波及効果で小早川秀秋も爽やかキャラに。
影武者とキャラ違い過ぎてワロタ。
148人間七七四年:2009/03/24(火) 11:40:15 ID:1IREY0qa
>>141
叔父上はラスボスの機嫌取りが上手いよな
149人間七七四年:2009/03/24(火) 14:15:22 ID:CWfLespB
>>114
 × 彼女の兄、宍戸元家
 ○ 彼女の兄、宍戸元秀
150人間七七四年:2009/03/24(火) 15:29:17 ID:0FDYG3Wk
伊達厨死ね
151人間七七四年:2009/03/24(火) 15:29:57 ID:0FDYG3Wk
上杉は消えろ
152人間七七四年:2009/03/24(火) 17:01:20 ID:SX+Os9U9
全盛期の秀吉仕置

天正十九年
葛西・大崎一揆の責により、伊達政宗に知行替が発表された
行き先は、当の一揆で荒廃し、作況三分の一となった旧葛西・大崎領

あの政宗のこと、当然こんな裁定になんか……手も足も出なかった

実は、同時に布告されたのが、九戸政実鎮圧の動員令
豊臣秀次、徳川家康、蒲生氏郷、浅野長吉、石田三成、大谷吉継ら
政権のスター軍団が続々と奥羽入り
しかも、奥羽全大名に北奥への出陣が命ぜられ、
領国には「留守居」と称する上方軍勢が展開していったのだ

こうして政宗、あっという間に累代の本領を取り上げられてしまった
しかも、葛西・大崎では
「また一揆が起きたら困るよね、壊しといてあげるね♪」
と、豊臣方による徹底的な城割りが実行されたあと
残された城も、ご丁寧に上方工法で普請しなおされていた

「( ●д゚)ポカーン…」
ヤンチャの代償はあまりにも大きかった
プライドをずたずたにされた政宗は
「チクショー!知行全部取り上げられて、秀吉にこき使われたほうがマシじゃあヽ(●Д´)ノ」
とかなんとか悔しがったが、どうにもならなかった

秀吉の手際がいい話
153人間七七四年:2009/03/24(火) 17:29:35 ID:L2HRW8ai
>>141>>152
この自分達よりも遥かに大きな力に対する捕らえ方の違いが知将とDQNの違いなんだろうなぁw
154人間七七四年:2009/03/24(火) 18:26:38 ID:kTkJUr7u
徳川家康が三河で独立したばかりの頃、家中の者達に、「女房を持つなら、木綿の機を
良く織る者にするのがいいぞ。」と言っていたそうだ。
「わしはお前達に、充分な扶持を与える事ができていない。戦があり一旦出陣すれば、
残された女房は、たちまち暮らしが立たなくなるだろう。
しかし木綿を織れば、それを売って暮らし向きを立てることが出来る。」
だから、わしに仕えるものは、そういう、手に職のある女を女房に迎えるべきだぞと、
そのように語っていたらしい。
まだ徳川家が、三河の国人に毛が会えた程度の勢力でしかなかった頃のお話である。
155人間七七四年:2009/03/24(火) 19:13:21 ID:LwGpMnbz
三河は日本の木綿栽培発祥の地であり、また一大産地でもあった
木綿が未だ広く普及していなかった当時において
この「三河木綿」が貴重な現金収入として家臣団のみならず
徳川家の重要な資金源の一つであったことは想像するに難くない



と固いレスをしてみるテスト( ´,_ノ` )y━・~~~~
156人間七七四年:2009/03/24(火) 19:19:32 ID:L2HRW8ai
何かと揉めるメンドクサイ三河者の名物が「木綿」とはなぁ
157人間七七四年:2009/03/24(火) 19:46:26 ID:tHz5HgwP
秀吉「木綿は丈夫で使い出もある。太閤も推薦するよ!」
158人間七七四年:2009/03/24(火) 20:04:59 ID:aP8jkbNK
ラスボスが例えられた物だもんな。木綿
159人間七七四年:2009/03/24(火) 20:19:19 ID:ZA5Y2V9h
>>155
そいや太閤立志伝でも尾張の針←→三河の綿花は鉄板の公益ルートだな。
小説なんかだと「三河は商売しにくい土地じゃ」とボヤくシーンもあるけど。
160人間七七四年:2009/03/24(火) 20:37:09 ID:B7/pkeJk
山岡の徳川家康にも伝通院が嫁入りの際に綿花を広めたとか言う描写があった気がする

が、水野領に綿花があったんなら松平領にも普通に綿花あるだろとか思って読んでた
161人間七七四年:2009/03/24(火) 20:49:35 ID:ZWBCuB4s
>>156
いくら三河武士だからって些細な事じゃ揉めんよ
162人間七七四年:2009/03/24(火) 21:19:22 ID:4GbnRsuv
山田有栄と黄金の鞘

山田有栄の父は耳川の功臣、山田有信である。
島津当家の忠恒とは年も近かったことから
彼は忠恒とも親しかったという。

重臣の子という毛並みの良さに、持ち前の風采のよさ、
更に近侍した人に影響されたのか和歌や茶道の教養も身に付けた彼は
質実剛健を旨とする薩摩隼人の中では少し浮いた存在であった。

さて、時が流れて関ヶ原の前夜。
上方での異変を聞きつけた薩摩の武士達は地元から続々と駆けつけた。
もちろん有栄も例外ではなく、地元から駆けつけたのだが周りの薩摩隼人たちは
彼の装備に仰天することになる。
なんとこの男、黄金で拵えたド派手な鞘に刀を納めていたのだ。

朝鮮出兵に庄内の乱、疲弊しきった薩摩から
手弁当で駆けつけた者の武装は非常に粗末なものばかり。
中には畑仕事を投げ出して野良着同然で駆けつけた者や
やむを得ず途中で武具を強奪してきた者、
鐙もない裸馬に乗ってきたものからすれば
「何やってんだこのボンボンは…」と思われるのも無理ないことであった。

やがて関ヶ原にて合戦が始まる。
有栄も大谷勢を撃破して勢いに乗る藤堂、筒井を相手に勇戦するが
ご存知の通り西軍は敗退し、島津義弘は決死の敵中突破を行うことになる。

敵中突破に成功した後の逃避行は苦難を極め食うや食わずやの行軍となった。
犬山に潜み、いよいよ食料が尽きかけた頃、有栄は
「心当たりがあります。暫くお待ちください」といって姿を消した。

「あの見栄っ張りのボンボン、何を考えてるのやら…」と皆が待つこと数刻、
有栄は米の袋を両手に帰ってきた。
「一体どうやって!?」と皆が驚きつつ尋ねると
有栄は特に誇るでもなく、自分の腰をポンポンと叩いた。
見れば自慢の黄金の鞘はなく、そこには粗末なボロキレでグルグル巻きにされた
刀があるのみだった。

有栄が成金趣味ではなく、
このような時のために日ごろの蓄えをなげうって大急ぎで
黄金の鞘を拵えたとみんなが知るのは薩摩に帰国して後のことであった。

このことに感銘を受けた諸将は「さすがは有信の子よ」と感心し、
薩摩では危急に備え、たとえ普段が貧しくとも備えを怠らないようになったという。

義弘の代の功臣忠臣を煙たがっていた節のある忠恒も有栄には気を許していたのか
「あいつなら大丈夫!」と
有栄に肥後との国境付近である出水で地頭を任せ
更に島原の乱では忠恒の名代として島津の総大将を任せている。

太平の世が訪れ、鹿児島で遊興三昧の忠恒(南のDQN)を見た有栄が
「ダメだこの人、俺がしっかりしなきゃ…」
と思ったかどうかは定かではないが、
肥後の細川を抑えるべく出水にて子弟の育成に尽力したとか。

以上、南のDQNに仕えて西のDQNににらみを利かせた人のお話でした。
(最初のタイトル出でオチ啼きもしますが^^;)
163人間七七四年:2009/03/24(火) 21:49:14 ID:IID6zaJG
ъウ「そうそう刀は奇抜と思われても、装飾にお金をかけるべきなんだよね」
164人間七七四年:2009/03/24(火) 22:10:23 ID:63q+iiPp
やまだ・・・ゆ、ゆうえい・・?
165人間七七四年:2009/03/24(火) 22:33:31 ID:4GbnRsuv
「ありひで」ですよ。
166人間七七四年:2009/03/24(火) 22:41:13 ID:iZrKOPD9
九戸政実の乱時の事である。

蒲生氏郷は九戸方の名生城を攻めに行く途中、伊達政宗の振る舞いを受けた。
この時政宗、氏郷を討ち取ろうと色々企んでいたらしい。

が、氏郷、この振る舞いに大勢引き連れてやってきた。
蒲生家中の剛勇の者として知られる侍だけでも、50人もいたそうだ。
氏郷はこれを座敷の中にまで入れたので、政宗も流石に手を出せなかったそうである。

さてこの戦において、氏郷と政宗は連合して、名生城を挟み撃ちにして攻めよ、という命令を
受けていた。
ところが氏郷、政宗に「あなたは見物しておくといい」と、言い捨て、
蒲生勢だけでこれを攻め、一気に落とした。

九戸の乱で最初に落とされた城が、この名生城であったそうである。
167人間七七四年:2009/03/24(火) 23:47:11 ID:yy62BbX2
>>145
嫡孫リンch...げふげふん「かわいがり」ですたか、なるほど。
168人間七七四年:2009/03/25(水) 00:25:59 ID:ub6gTDOh
鮭様の話を所望する
169人間七七四年:2009/03/25(水) 00:28:21 ID:lwzS3xAS
最上義光、検閲を嘆く。

最上と伊達がごたついていたころ。
義光は妹宛に手紙を出したが、途中で愚痴りだした。
「この手紙って伊達に入る前、検閲入るよな。
そうするとこう、義光的なテイストが抜けてつまらなくなるじゃん。
なんかそういうのって、……兄貴としてはこう……わかるだろ」

「この手紙さ〜、今大崎家からの使者が見ながら書いているから、
本音を書きにくいよね。
でもこれだけは強調しておく。オレはおまえを粗略にはしないから。
おまえの意見は大事にするからな!」

一応フォローしておくと、こんなキモイやりとりなのは義姫が
当時伊達家における最上家窓口で、兄と妹でかなり政治的なやりとりを
していたから。決してシスコンなわけではない、たぶん。
170人間七七四年:2009/03/25(水) 00:52:42 ID:dZSsjYhM
またきたよ
171人間七七四年:2009/03/25(水) 02:03:18 ID:E+y+bhQV
>>169
シスコンな義光は嫌いじゃないけど、40〜50歳くらいのオッサン、オバサンのやり取りと思うと…
172人間七七四年:2009/03/25(水) 02:05:03 ID:yztnWbrj
>>170
またきたな、お前みたいな過敏症が。
そんなに見たくなければ鮭と最上でNG登録しておけ。
それをしないなら、いちいち反応するな。
173人間七七四年:2009/03/25(水) 02:42:43 ID:Flc1T31M
普通に話書く分にはいいじゃん
174人間七七四年:2009/03/25(水) 03:49:35 ID:E+y+bhQV
いつからこのスレは最上ネタ禁止になったんだよ?
175人間七七四年:2009/03/25(水) 03:54:01 ID:6dx2YZbU
荒らしさんが勝手に脳内決定したんだろうよ
176人間七七四年:2009/03/25(水) 04:02:46 ID:9aRcWwz0
しかし、写真もビデオもない当時じゃ、18で別れた妹が40になった姿って想像できんかったろうな
出戻ってきてお互い見てビックリ、とかあったろうな
177人間七七四年:2009/03/25(水) 08:19:45 ID:SdoDP9GF
大阪冬の陣のときの事。
将軍秀忠は諸大名の陣を巡検していたが、有馬豊氏の陣において、物見台に登って
大阪城をうかがった。

これが大阪方からも見えており、有馬の陣に向けて一斉に鉄砲・火矢が飛んできた。
あわてて近習たちが「上様、危のうございます!すぐ降りて下され!」と呼びかけても、
秀忠は物見台を降りようとはしなかった。

近習も有馬家の人々も困っているところに水野勝成が通りかかり、話を聞くと、
秀忠に大声で呼びかけた。

「もしもーし!上様ー?!斥候と巡検は違いますよー?今日中に陣を全部回るなら、
一か所に時間とってもらっちゃ困ります!早く次へ行って下さーい!!」

勝成らしい、イヤミの混じった言い草である。
しかし、仕事に対しては超のつくマジメ人間の秀忠には、この言葉が効いた。
「む。」
すみやかに物見台を降りた秀忠は、勝成の言葉に従い、別の陣へ向かった。


確か前田利常にも、やっぱり大阪の陣で似たような話があったが、どちらにしろ
「物は言いよう」というお話。
178人間七七四年:2009/03/25(水) 09:06:03 ID:n9xQXAwL
>>177
ツアコン水野と困った客の秀忠みたいだw
多少の嫌味にも腹を立てたりしない秀忠って
父親ほどではないにせよ器がでかいと思う
179人間七七四年:2009/03/25(水) 11:11:54 ID:leMwIpK1
>>178
秀忠は戦下手って事を除けば優秀な2代目だからね
180人間七七四年:2009/03/25(水) 11:16:41 ID:LxJSClTc
一方景勝は巡視に来たら味方が逃げ出した。

大阪の陣って戦国の終わりなせいか色々話が残ってるな。
181人間七七四年:2009/03/25(水) 12:05:42 ID:QQtjeS2r
すごいスレが出来てるんだな
182人間七七四年:2009/03/25(水) 13:15:35 ID:LOr1DvKQ
鮭イラネ
183人間七七四年:2009/03/25(水) 13:29:52 ID:UXt/OLYM
秀忠、夏の陣のとき。
前方の前田家越前勢が明石全澄の奇襲を受け混乱し、
更に藤堂、井伊直孝勢が、真田、毛利勢の勢いに押され潰乱した家康本陣のカバーに回ったため、
前方がら空きとなった。
そこに的確な鉄砲射撃を加え、大野治房らが秀忠本陣まで攻め込んでしまった。

秀忠、自ら鑓を取りあわやの場面があった。

ベテラン加藤嘉明、黒田長政が左翼後方から防御に回り、事なきを得た。
この時の手柄を記すために、大阪夏の陣屏風絵を黒田長政は
克明に描かせたのかもしれない。
184人間七七四年:2009/03/25(水) 16:27:33 ID:c0ybzDml
秀忠も義詮も剛柔自在の有能な2代目なのに、
源頼家だけはDQNでアカンすな。まあ本当のところはようわからんが。
185人間七七四年:2009/03/25(水) 16:34:38 ID:pnZ2cPwv
平宗盛「剛柔自在…なんと聞こえのよい言われようか!!」
186人間七七四年:2009/03/25(水) 16:49:14 ID:2fMrjnj3
>>169
さすが兄妹が性的関係があったのでは?と言われてるだけあるな。
まーそうじゃなきゃ妻の実家を見捨てて伊達と和睦し、佐竹や大崎や葦名が裏切りを激怒した事情が理解できないしな。
大崎夫人の人生ってまじ可哀想過ぎる。せめてもの救いは、義光が家康に媚びた事が原因で相続を巡って子供達が死にまくる前に、世を儚んで早く死んで良かった。
187人間七七四年:2009/03/25(水) 17:25:09 ID:xUoTApP3
井伊直孝の家来、安藤重勝は、大阪の夏の陣で木村重成を討ち取る手柄を立てた。
そこで褒美として五百石を加増された。しかし勝重は

「敵の一軍の大将を討ち取ったのに、五百石では褒美が少なすぎる!」

と、これが不満で、井伊家を退転し父親のところに戻ってしまった。
「父上、井伊様は敵の大将を討ち取ってもこれしか加増を頂けないのです!
あまりにひどいと思いませんか?」

父上、怒ったの何の。勿論息子に対して、である。
「お前は何を言っているのだ。木村を討ち取った事、これは確かに冥加な事だ。
が、大将たる者が討ち取られる状況とは、既に敗軍となり、左右の士卒からも離れてしまった
場合の時である。そんなものを討ち取るのに、武辺が優れている必要が有ると思うか?

大体、若いお前が、そんな敵の大将から士卒が離れるような状況になるまで、
一体何をしていたのだ!?もしかしてお前…そう言う状況になるまで
サボっていたのではないだろうな!?
そこを考えれば、井伊様がお前にしていただいた加増は、近頃でも真に結構なものであろう!」

簡単に言えば「うぬぼれるな!」と、叱り飛ばした。そして重勝を井伊家に叩き返したとのことである。
木村重成を討ち取ったほどの勇者も、戦国たたき上げの親父様には弱いのだ。
188人間七七四年:2009/03/25(水) 18:04:30 ID:cSoq772E
>>186

98:人間七七四年 :2009/03/25(水) 16:58:31 ID:2fMrjnj3 [sage]
>>94
最上の記録は義光の父である中野義守から前はロクに残ってないし、何をやったかすらわからない。
中野氏すら最上の血が確実に入ってるか怪しい。
鬼切丸は源氏嫡流新田氏伝来のものであり、新田と最上は系図上でまったくつながらない。

最上に伝来した理由は完全に盗難品。

――――――――――――――――――――――――――――

お前が最上嫌いなのは分かったから、アンチスレでも立ててそっちでやれよ。
あちこちのスレでイチイチ粘着してるな。
189人間七七四年:2009/03/25(水) 18:04:41 ID:ekLZYAa5
>>187
親父様ではなく、叔父様では?
190人間七七四年:2009/03/25(水) 18:10:32 ID:LuffybI8
>>183
柳生宗矩の七人切りの逸話もここだな。
191人間七七四年:2009/03/25(水) 19:22:17 ID:wUWq1Obo
>>187
江戸時代の重臣石高見ると、やっぱり五百石なら御の字だよな
戦国期の価値観が変化してた過渡期だったのかな〜とか思ったり
192人間七七四年:2009/03/25(水) 20:33:24 ID:uJ9NA8ls
>>183で思い出した↓このスレの
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1170948109/

> 295 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2008/06/13(金) 20:59:45 ID:y6utodce
> >>287
> 嘉明は冬の陣江戸留守居で夏の陣は黒田といっしょに少勢で秀忠の下についてなかったっけ?
> ただこれネットで見た時「と、言われている」ってついてたんで確証はない話なのかな
> 逸話を見た限りでは
> 秀忠「うふふ捕まえてごらんなさーい」嘉明・長政「アハハ待てよー」してみたり
> 年甲斐もなくハッスルしようとする長政を嘉明が叱ったりなかなか楽しそうだが

気になってたんだけどこれってどんな逸話?
193人間七七四年:2009/03/25(水) 22:00:54 ID:iVA3RM0S
冷徹な印象が強い義光だが、家族を愛する面を示す逸話もある。
最上伊達両家の抗争を止めよう駕籠で乗り付けた義姫に、
幼い我が子が慕い戯れたのを見て号泣したという。

山形県民だけど鮭様凄いいい人だな何で悪者扱いされてるんだろ
194人間七七四年:2009/03/25(水) 22:10:54 ID:VB/RKokk
義光の娘さんは可哀想だったな。
婚姻前だったのに秀次に連座して処刑されてしまうとは…
奥さんはそれが元でショック死だし
195人間七七四年:2009/03/25(水) 22:15:29 ID:qoyAswfH
>>193
スレ的には君のような奴がいるから
世間的には独眼流政宗
196人間七七四年:2009/03/25(水) 22:22:24 ID:ub6gTDOh
黙れよ最上アンチまた最上のせいですか
197人間七七四年:2009/03/25(水) 22:37:41 ID:ub6gTDOh
そもそもさスレで禁止してるわけじゃないでしょ?
それなのにウザイと言うのどうよ?話し合って禁止にするなりしたら
198人間七七四年:2009/03/25(水) 22:38:38 ID:cAaoBafp
酷い自演だな。
199人間七七四年:2009/03/25(水) 22:39:20 ID:ViH02fnn
       *'``・* 。
       |     `*。
      ,。∩      *
     + (´・ω・`) *。+゜  皆まとめて規制になーれ
     `*。 ヽ、  つ *゜*
      `・+。*・' ゜⊃ +゜
      ☆   ∪~ 。*゜
      `・+。*・ ゜
200人間七七四年:2009/03/25(水) 22:43:37 ID:ZVGAHRfC
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1638.html

つらしとて恨みかえすな我れ人に 報い報いてはてしなき世ぞ
訳:相手からの恨みを返しても連鎖するだけなので、恨みには徳を持って対処すべきである。
201人間七七四年:2009/03/25(水) 22:43:54 ID:NEgaVaNd
徳川家康公、諌言と一番槍を語る

「主人の悪いところを諫言することは、戦場での一番槍の功名を立てるよりも立派な心掛けである。
なぜなら、敵と戦う場合には命を惜しんではいけないのだが、
しかし勝負は時の運。人を討つこともあれば、人に討たれることもある。
討ち死にしても名誉は子孫に残り、主人にも惜しまれることは、死んでも本望である。
もし幸いに敵を討ったときには子孫までの繁栄の礎になる。
このようなことから戦場の働きは、生きても死んでも損がないのである。
変わって、主人の悪いところを強く諫言することは、十中八九危ないものであろう。
なぜなら、その主人が無分別で悪を好んでいるのだから、
金言耳に逆らうのたとえのとおり、諫言する家臣を遠ざけ、そばに近づかないようにする。
そうしたときに、媚へつらう者が出て、主人の回りの愚か者と話し合い、諫言した家臣を不当に扱い讒言をする。
それを聞いた主人は讒言を信じてしまい、諫言する家臣を遠ざけた上、会うことすらしなくなる。
その時は、諫言をする家臣も不満を抱き、主人を見限り意見を止めて、
病気と称して、隠居を願い出るのは、十人いれば八、九人はそのようになるであろう。
しかし、主人の機嫌の悪いのも顧みず、忠義の道を守り、主人の悪事を止めなければ、
責任は自分にかかわってくるものだと考え、自らの保身を顧みず何度も諫言する家臣は、
ついに手討ちにあうか、押し込められるかになり一生を終え、
妻子までも迷惑させることは間違いないことである。
これを考えるなら、戦場の一番槍は、かえってやりやすいものである。」
202人間七七四年:2009/03/25(水) 23:01:51 ID:ub6gTDOh
冷静になったごめん
最上否定されたからつい
203人間七七四年:2009/03/25(水) 23:15:00 ID:ZVGAHRfC
>>201
聞いたことあると思ったらここにあった
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1286.html
まぁそっちのほうが詳しいからいいけど
でも下げようぜ
204人間七七四年:2009/03/25(水) 23:25:38 ID:2fMrjnj3
>>193
ヒント:冷酷で虐殺大好きな独裁者ほど子供が好きなのを強調する
>>194
駒姫と大崎夫人が親子だとする根拠はまったくない。
最上教徒が勝手に悲劇話をでっち上げてるだけ。
205人間七七四年:2009/03/25(水) 23:28:01 ID:HOp5RkNw
ちょっと言われるただけですぐファビョる鮭厨はこれだから困る
輝元や政宗なんて何か話が出る度にやれDQNだのやれ家臣の嫁を奪った……だのと罵られるのに
文句言わないんだから少しはそういったのを見習って自重しろ
206人間七七四年:2009/03/25(水) 23:37:12 ID:DmMu2Yny
おまいら馬鹿なの?
何度も何度も同じ荒らしに反応して
いい加減にしろよ新参じゃないんだから
207人間七七四年:2009/03/26(木) 00:01:04 ID:5/OOK28O
島津義弘 猛将の意外な一面

加治木で隠居生活を送っていた義弘。
悠々自適の生活を送ってはいたものの、
苦楽をともにした家臣の多くは世を去り、
また、残ったものも任地で多忙な日々を送っており
随分寂しい思いをしていた。

そんな折、鹿児島城下にこんな高札が立った。
「殿が御老年でお寂しいから、お茶を進上したい者はお願い申すように」
お殿様(義弘)が寂しがってるので茶飲み話の相手をしてあげてください、ということなのだが

城下町に高札を立てたことから瞬く間に薩摩大隈に話は広がり
各地から加治木の義弘を訪れるようになったという。

いい話かどうか微妙なのですが、勇猛果敢で知られた義弘が
寂しがっているというのは珍しい逸話だと思ったので書いてみました。
208人間七七四年:2009/03/26(木) 00:09:37 ID:Wy8QePMJ
見かねた周りの誰かが高札立てたんだとするといい話だよな。
義弘が自分で立ててたらガチでさびしすぎるw
209人間七七四年:2009/03/26(木) 00:17:39 ID:AAQIHcFf
後の泣いた赤鬼である
210人間七七四年:2009/03/26(木) 00:19:44 ID:FeOcHaKd
政宗なんか江戸でやりたい放題だったのに
211人間七七四年:2009/03/26(木) 00:29:12 ID:VauDdGM8
何処かの秋田のご隠居「木像つくって話しかけてれば解決だにゃん」

212人間七七四年:2009/03/26(木) 01:39:08 ID:Vy4vjxOf
>>167
SAMURAIジャパン田中まさお将大クンも松坂大輔ら年長の選手にボコボコかわいg.....

リアルネタですまん。
213人間七七四年:2009/03/26(木) 01:40:44 ID:0Z5Nrkpc
伊達と相馬は天文の大乱以降から険悪になり
江戸時代になってもあまり仲が宜しくなかったが
こんな逸話がある。


関ヶ原の戦いの直前に東軍に付いた伊達政宗が
中立の相馬領を通過して帰国しようとした時の事

長年伊達氏と抗争を続けている相馬氏
評定では「ここで政宗を討って積年の恨みを晴らすべきだ」
という声が高まった。

その評定の中に”水谷胤重”なる家臣がいた。
胤重の父は伊達氏との戦いで戦死しており
この時、胤重の胸中も複雑なものであった。

主君・相馬義胤も政宗を討つ方向性で評定をまとめようとした。
その時、沈黙を守っていた胤重が口を開いた。


胤重「方々のご意見よく分かります。私も父を伊達氏との戦いで失いました」
  「しかし、相馬氏は代々騙し討ちのような事はしてまいりませんでした。
   ここで怒りに任せて政宗殿を討つは不義であり、相馬の名を汚すことに
   なります。ここは政宗殿を無事に通過させるべきではありませんか」
  「政宗殿とは戦場で相見えるが武人としての姿勢ではございませんか」


この発言を聞いた家中は静まり返る。
徐に口をあけた義胤は「胤重の案に任せる」と胤重の意見を採用する。


それから数刻後、胤重は伊達家臣・原田宗資と会談。
政宗の領内通過に便宜を図った。


関ヶ原の戦い後、中立(西軍よりの中立)だった相馬氏は改易の憂き目にあうが
その時、政宗は徳川家康に便宜を図ったと言われている。

後年、義胤は政宗に相馬氏改易の折に便宜を図った理由を聞いた。

その時の政宗はこう答えた。


政宗「貴殿の家臣・水谷胤重の恩義に報いただけでございます」
214人間七七四年:2009/03/26(木) 01:53:36 ID:TsSiB3xA
>>213
恩義には恩義で応える・・・日本の良き伝統だね
215人間七七四年:2009/03/26(木) 02:30:45 ID:T1rFjJas
珍しくジェントルマンな政宗w

この逸話、相馬領内で一泊したという話もどっかで見た気がする。
ほぼ敵と言っていい土地で泊まるほど困ってたのかどうか。
物凄い千載一遇のチャンスだったと思うが、よく捨てたよな。
その行為が後にちゃんと報われて良かった。
216人間七七四年:2009/03/26(木) 02:31:05 ID:nOJO7jNi
皆病気だよね
217人間七七四年:2009/03/26(木) 02:35:25 ID:nOJO7jNi
元々パイプつながってたんじゃないの
218人間七七四年:2009/03/26(木) 02:38:36 ID:ieCZcaUw
IDチェックぐらいやってから自演しろ馬鹿
219人間七七四年:2009/03/26(木) 03:21:05 ID:VauDdGM8
皆大好き桶屋の息子と精神年齢三斎のお話だよー♪
===

あるとき正則が細川忠興に尋ねた。

「おぬしが利休のことを慕っていると聞くが、彼は武勇もなく何とも知らざる者である。利休のどこをそんなに慕うのであろうか。」

忠興は笑って

「利休は名誉ある者である。まぁ一度その茶を見てごらんなされ。」

と正則を利休の茶会に連れて行った。茶会が終わったあと正則は

「なるほど、おぬしが利休のことを慕うことはもっともなことだ。わしは今までいかなる強敵(*)に向かっても、ちぢけたることはなかった。しかしながら本日利休と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた。なんとも名誉なるものよ」

とすっかり利休の迫力に感服した体であった。

===
*)奥さんは"基本的には"敵ではないので敵に対して縮こまったわけではないらしいw
220人間七七四年:2009/03/26(木) 04:43:18 ID:nOJO7jNi
>>218
自演ってどれが?
どういう効果を狙って?
221人間七七四年:2009/03/26(木) 07:51:39 ID:loL1cj6Z
残念ながら戦国大名伊達氏の研究において小林清治氏が資料を元に、
その話が嘘で、史実では政宗は相馬領を家康からもらう気持ちだった為、相馬安堵にガッカリしたと書かれている。
小林氏は相馬領安堵は家康が伊達を牽制する為に生かしたと結論づけています。
結局、仙台藩の捏造です。
222人間七七四年:2009/03/26(木) 07:59:39 ID:loL1cj6Z
あぁ相馬が領内通過させた話はホント。
政宗が相馬安堵のために尽力した話が嘘。
こういう経緯から相馬義胤は伊達領を睨むような位置を向いたまま遺体を葬ってある。
毎回ガセ話を記録してきた新井白石もとんだヨタ話を仙台からつかまされて信じたものである。
223人間七七四年:2009/03/26(木) 08:20:46 ID:9dH0SqFf
やっぱり心変わりしちゃう所が市松だな
しかし客人をビビらせちゃっていいのか利休
224人間七七四年:2009/03/26(木) 08:44:12 ID:0ToiNu4F
「利休が秀吉から拝領した」と伝えられる甲冑からの推定では身長180cmはあったらしいからな
狭い茶室内では物理的にもかなりの存在感があったことだろう
225人間七七四年:2009/03/26(木) 09:29:21 ID:/1pNmG2p
>>221
とりあえず別スレでやれや
226人間七七四年:2009/03/26(木) 11:19:57 ID:C3A5c2Ta
>>162
山田有栄の話で付け加えて一つ

関ヶ原後に出水の三代目地頭として着任した彼は出水麓を整備し
トンネル掘削による灌漑用水で農業振興にも力を入れ産業開発に努めた。
出水は国境警備の為に精兵を揃える必要性があったため子弟の教育にも熱心であり
武人としても吏僚としても優秀で領民にも大変慕われたという。晩年は昌巌と号した。

少し話は逸れるが、1708年に薩摩藩第4代藩主の島津吉貴は薩州島津家の累代の墓を
全国各地から出水の地に集めた。1代から5代実久、6代義虎、7代忠辰と戦国の世を生きた人物の墓もある。
薩州島津家は忠良・貴久・義久が薩摩を統一するまで分家の最大のライバルであった。
戦国島津氏の人物事典「本藩人物誌」の末尾に「国賊伝」という一風変わった巻が収録されているが、
そこには薩州島津家の5代実久が国賊筆頭として名を連ねていたりする。

山田昌巌の墓はそんな薩州島津家の墓を見下ろすような形で少し高台にある。
島津氏のちょっと気を利かせたいい話?って自分で書いてても無理やりだなこれ
227人間七七四年:2009/03/26(木) 11:27:12 ID:oYCCnI4H
1586年5月のこと、秀吉は大阪城にイエズス会準管区長のコエリィオ、
書記のフロイスを招き、豪壮な城内の夥しい豪奢な部屋の数々、金箔の茶室を自ら案内し、
イエズス会士を驚嘆させている。が、その目的は信長と同じく己の威を彼らをして
西洋に伝えせしめること、及び銀の輸出、大砲、船舶の輸入、交易の仲介の依頼、
更には半島への侵攻も匂わせたのだった。
この時、コエリュオは十分な思慮も無く、唐入りの際には
ポルトガル所有の大型船の供与を約してしまった。
大いに気をよくした秀吉は、見返りに布教の許し、特許状をイエズス会に与えている。

その翌年の7月、九州征伐も事がなり秀吉は、ゆるゆる博多筥崎宮側の陣所に滞在し、
臣下となった諸将に各々知行の割り振りを行っていた。

そこに長崎よりイエズス会、コエリィオ、フロイスが乗るフスタ船がやって来た。
かねてより秀吉から大型のナウ船の来航を依頼されていたが、
博多湾が遠浅のために止む無く小型の快速船でやって来たのである。
みるみる近づいて来る南蛮の船に機嫌をよくした秀吉、早速自らこれに乗り込んだ。
小型であっても二本のマスト、船後方には人力による櫓でも漕ぐことの出来る実用的な船であり、
船首船尾には小型の大砲も備えていた。
穏やかな湾内をクルージングさせその快速ぶりに驚き、
また目を輝かせ隅から隅まで検分した秀吉にとっては、まさしく垂涎の西洋船であった。
ところが船尾にある櫓を漕ぐ人々を見て、秀吉は驚愕した。
鎖につながれ苦役に喘いでいるのは、紛れも無く日本人達である。
問いただせば「犯罪人でございます。」コエリィオは何くわぬ顔で応える。
不機嫌な顔を取り繕い、秀吉は船を後にした。

その模様を側でつぶさに見ていた、キリシタン大名小西行長、黒田孝高、高山右近、
秀吉の日頃の素振り、思念、行動を知っているだけに、各々不安でいっぱいになった。
必死でコエリィオに件の船を秀吉に譲渡するように説得した。
が、事の重大さを悟らぬ愚かなイエズス会士らは、
本国の許可無しでは出来ないの一点張りであった。
その9日後に、伴天連追放令が発せられた。
その中には、日本人奴隷売買に関する譴責が含まれていた。


ある意味、秀吉の選択は正しかったのである。


228人間七七四年:2009/03/26(木) 12:49:37 ID:9dH0SqFf
たまに外国人で日本のキリスト教排斥を批難してくる奴がいるがこういう事情は知らないんだろうな
何も無いのにいきなり迫害されるわけないやん
229人間七七四年:2009/03/26(木) 13:51:07 ID:WTyBMx+g
奴隷売り飛ばしたのは同じ日本人だろ
230人間七七四年:2009/03/26(木) 14:13:55 ID:TsSiB3xA
増田長盛がサン・フェリペ号が浦戸に漂着した時、乗組員から聞き出したのが、
乗組員「我らは、まず土地を征服する前に、
その国に宣教師を派遣して、キリスト教をもって人心を懐柔し、
後に国人の大半が帰依して、キリスト教の君主を希望するようになったらば、
信徒を煽って、軍隊を送るから、戦えば必ず勝ち、その国を征服することが出来る。」
とこの内容。
231人間七七四年:2009/03/26(木) 14:25:50 ID:oYCCnI4H
日本国内でも奴隷売買はやってたし、合戦に負けた領民、飢餓にひんし
口減らしで親から売り飛ばされて奴隷に、というのは中世の常識。
またポルトガル人だけでなく、カンボジア、中国人も、日本人奴隷を輸出していた。

が、イエズス会は口では教会の愛を唱えながら、これら商人の行為を日本以外の世界各地で
黙認、更には加担していたことは、日本の為政者からみれば統治に取って害悪、敵対的と
映ったはずである。

また、大村純忠が部分的にではあれイエズス会に長崎の権益を認め、
そこにイエズス会が貪欲に食らいついていたことも、排除すべきに充分な
マイナスポイントだったろう。
232人間七七四年:2009/03/26(木) 14:38:41 ID:56afP8sT
フロイスが九州で布教していたときの話。

仲間と連れ立って当地の領民の信仰になっているという洞窟を訪れた。

「ヒャッハッー! 邪教の神殿だーッ!」

「お、見ろよ。こんなところに仏像がありやがるぜー!」

「今じゃ薪の材料にしかならないってのによー!」

安置されていた仏像を叩き壊して薪にして燃やした。
このことは本国への報告書に誇らしく記載されている。

後年、秀吉に呼び出されてキリシタンが九州で神社仏閣を壊していることを咎められると

「わたしらは知らないっスよ信者の日本人が勝手にやっていることでしょー?」

としらばっくれた。
233人間七七四年:2009/03/26(木) 14:45:16 ID:fm+Nu1kJ
もっと簡単に、奴隷売買禁止しない日本が悪いんだお!
って態度が気に入らなくて禁止したと聞いてた
234人間七七四年:2009/03/26(木) 15:54:57 ID:wtkuWvAr
>>232
調子のいい話、かな
235人間七七四年:2009/03/26(木) 16:07:52 ID:VQU2ADP1
珍しくラスボスのいい話しに いきそうになった
236人間七七四年:2009/03/26(木) 16:08:25 ID:8g8GsA7f
仲間とはドン・フランシスコに違いない!
237人間七七四年:2009/03/26(木) 16:31:05 ID:9dH0SqFf
2度も離婚してる宗麟が洗礼受けてる辺り政治的だよなぁ
238人間七七四年:2009/03/26(木) 16:33:41 ID:qJuJ6KYy
みんなラスボス、ラスボスと言うけれど
うちの地元はラスボス万歳なんだぜ

火事で廃墟と化した有馬温泉の建て直しと
有馬温泉の宿坊の税を無税にしてくれたり
温泉施設を作ってくれたり(自分用だが)

奴隷連れ去りの件でもそうだけど
人たらしと言われるだけの天性の人徳は備わっているんだろうな
239人間七七四年:2009/03/26(木) 16:43:22 ID:bIoBfkME
いい方に出たときのラスボスは偉人ですよ、実際。

スケールがでかい分悪い方に転がると洒落にならんけど
240人間七七四年:2009/03/26(木) 17:14:14 ID:IdTaivhP
>>229
東洋の奴隷は階層
西洋の奴隷は消耗品


だから日本式の奴隷のつもりでヨーロッパに送り出されて悲惨な目にあうと

前にあった朝鮮の技術民が本国に帰りたくないのと逆のパターン
241人間七七四年:2009/03/26(木) 17:31:52 ID:1nl4ZHwP
そいや有馬近辺の小浜御坊にも秀次の側室になった娘が居たな。
242人間七七四年:2009/03/26(木) 17:43:47 ID:oYCCnI4H

イエズス会とのからみで大村純忠。

大村家は肥前の貧乏な小大名だった。
当時の痩せた土地は、一族、眷属で細分化され、
彼の家臣に分け与える土地に絶えず窮していた。
また親戚筋でもあると同時に敵でもあった後藤家、有馬家、
更に松浦、西郷家とも抗争と和解を目まぐるしく繰り返す日々であった。

そういう彼を象徴するのが1572年の「三城七騎籠」である。
大村純忠とは縁戚にあたる後藤貴明は、かねがね純忠の領地を狙い侵してきた。
予てよりの申し合わせで松浦氏、西郷氏と共に、
大村純忠の居城の三城に1500の兵で攻め寄せた。
この時不意をつかれた純忠には、中間子者、女子まで含めても80数名しか人数はおらず、
武者は七名のみという有様であった。
家臣の多くは、主君の命運はこれまで、と自宅に籠り参ずる者もいなかった。

孤立した絶望的戦闘であったが、城壁をよじ登る敵には、
女子に砂や熱湯を浴びせさせ、男どもには石礫、木材を投げさせた。
更に怯む敵兵を七人の家臣が巧みに城壁から鉄砲で狙撃し防戦に勤めた。
城の掘り割りの巧みさもあり、松浦方、覇気無く攻めあぐねてしまった。
様子をうかがっていた家臣の中からも、敵の包囲を突破し馳せ参じる者が出始めた。
そして家臣が続々と城内に集まってきた。

ついには攻城を諦めた松浦勢は引き上げてしまった。

「七人の侍」のいわば貧乏大名版である。

243人間七七四年:2009/03/26(木) 17:51:48 ID:R2UAZ0Xu
政宗と神田川

二代将軍秀忠の時代のある日、秀忠と政宗は囲碁をやっていた
秀忠は調子が良かったらしく、「ほれ、政宗にしてやろう(一眼にする、相手の石を殺すという意味)」
と浮かれ気味であった

政宗はハイハイと受け流してただ一言「いざ本郷より参ろうか」と呟いた
それを聞いた秀忠、先ほどの浮かれ気分も消えて一気に肝を冷やした
当時、本郷台地は江戸城付近まで目と鼻の先であり、それをさえぎる堀もなかった
本郷台地を駆け下りるだけで江戸城に攻めかかることができたのである

秀忠が「本郷は危険か」と聞くと政宗「いかにも危険でござる。それがしに普請をお命じください」
と自ら普請工事を買って出た
かくして政宗によるプロジェクトXが始まったのである

まず本郷台を分断するため、当時は神田台(神田山)と呼ばれた部分を川にまで掘り下げた
その時に大量に出た土砂は日比谷入江を埋め立てるために使われた
この日比谷入江を埋め立てたことで、江戸城近辺まで氾濫することもあった洪水を防ぐことに成功した
また人口増加の一途をたどっていた江戸の用地確保にもなった

かくして1625年、仙台藩の威信をかけた大工事は完了した
2つに分断された本郷台地の江戸城側は、家康付きの旗本(駿河衆)が家康没後に多くの屋敷を
かまえたため「駿河台」と言われるようになった
神田川は仙台藩が普請したため、江戸時代を通じて「仙台堀」と言われることになった

この工事により仙台藩の財政は疲弊したが、政宗の幕府に対する発言力は増し、
秀忠・家光の後見人として、また副将軍として扱われた

しかし政宗没後、今度は孫の綱宗に堀の拡張工事が命じられ、藩財政に大きなダメージを与えた
これが有名な伊達騒動のきっかけになったとも言われる
244人間七七四年:2009/03/26(木) 18:21:23 ID:SREcSBv2
秀吉が未だ匹夫であった頃の事。

尾張小松原の寺の僧侶に、一人の友がいた。
ある時馬鹿話をしている最中、秀吉はこの僧侶に、こんな事を言った

「将来俺が天下を取ったら、あんたを望みの地位につけてやるぞ!何がいい?」

「私は京の所司代になりたいね。何故かって?京の連中がそろいもそろって
横柄な奴らばかりで、気に入らないからさ!」
そう、笑ったそうだ。

後にこの僧、前田玄以と名乗り、その通り秀吉の下、京都所司代となる。


地味な印象の前田玄以にも、こんな伝説があったのだ、と言うお話。
245人間七七四年:2009/03/26(木) 18:30:48 ID:l2bwmiDQ
地味・・・?

女装という特技があるじゃないですか!
246人間七七四年:2009/03/26(木) 18:58:36 ID:Vy4vjxOf
>>245
上司はラスボス化、同僚はKYな干し柿ディスり野郎、倅はキリシタン……

波乱万丈すぎやせんかw
247人間七七四年:2009/03/26(木) 19:33:50 ID:VauDdGM8
せがれは女装した父親を見てキリシタンに救いを求めたくなったんだろw
248人間七七四年:2009/03/26(木) 19:39:56 ID:eYCp60Zy
>>242
七人以外全員内応してたんじゃ…と思ってしまうんだがw
249人間七七四年:2009/03/26(木) 19:52:29 ID:9dH0SqFf
たまにこういうことあるけどどういうことなの?
義弘の妻が守る加久藤城攻めた伊東も3000対60とかだったよな?
前線にそれしか詰めてないっておかしくね?
250人間七七四年:2009/03/27(金) 00:24:29 ID:NJkhmyWB
>>249
ちょっと考えてみた。
このうちのどれかだと思う。

1.外交関係の問題で兵を張り付けるわけにはいかなかった。
2.城の規模の問題で多数の駐屯が難しく、あまり多くの駐屯は不必要な外交的緊張を招くので避けられた。
3.実はただの特別小さな支城の奮戦。
4.中立だったベネルクス三国を「舗装」して通り道にしてマジノ線を迂回したようなことが起こった。
5.敵の数が誇張されている。
6.昨今の不況のあおりで知行が払えなかった。
7.急に兵士が来たので。

多分7
251人間七七四年:2009/03/27(金) 00:32:55 ID:34SJBAE6
加久藤城は義弘の釣り説があるらしい
にしたって援軍は300だが
勝ったけど
252人間七七四年:2009/03/27(金) 00:50:46 ID:rBlbF0H9
兵農分離が進んでないところだと
収穫の時期に兵が田んぼに行っちゃうこともあるらしいしね。
253人間七七四年:2009/03/27(金) 01:09:00 ID:jS6l8bKs
悪い話の方で行軍速度の話があったけど

かつての大名行列は宿場でも木賃に泊まり
戦での行軍と同じように各自が自炊して腰兵糧を作っていました。
ですが近頃では旅籠に泊まって飯を買うようになったいます。

という話を聞いた前田利常が「戦乱の世に旅籠はあるまいに」と言ったという話がある。
前田家ではその後も木賃に泊まり続けたので「前田家は武士の心がけを失っていない」と評判になった。
254人間七七四年:2009/03/27(金) 01:26:41 ID:WHi8au0P
幕府に警戒されないように鼻毛を伸ばしていたかと思えば、
治に居て乱を忘れず、「武士の心がけを失っていない」という評判を取るあたり
前田利常も一筋縄ではいかない人だな。
255人間七七四年:2009/03/27(金) 02:25:52 ID:FUhUMvIX
有馬豊氏の家臣に、岡本清三郎という者がいた。
彼は常に神仏に「どうか悪事災難に合いますよう」などと、願を懸けていた。
そんな男だけに、何か事あったとき、先駆けしなかったと言う事は無かったそうだ。

この頃有馬家中では、近習の山崎半兵衛、津田主馬が、二つの派閥を作り、
何かにつけて武勇を争っていた。
しかし清三郎が山崎半兵衛の派閥に属していたため、いつも半兵衛方が勝っていた。

ある時のこと、とある足軽が人を殺して、城下の町屋に立てこもると言う事件があった。
有馬家中の者達がその町屋を取り囲んだが、事態はそのまま膠着し、埒が明かない状況になった。

さてこの時、最初に駆けつけ、取り囲んだのは津田主馬派の侍達であった。
そしてどういうことか、いつも真っ先に駆けつける清三郎が現れない。
主馬派の者達は
「おいおい、いつも俺たちに勝ってるって自慢している、山崎半兵衛派の衆は
何を油断していたんだい?あと、あの岡本清三郎は、どこに引っ込んじゃったのかなー?」
などと、半兵衛派の者達をここぞとばかりに馬鹿にした。
これに主馬派の者達の外から取り囲まざるを得ない半兵衛派の面々、屈辱に震える。

実は清兵衛、この日、自分の知行地を見に行っていたのだ。
その帰り、城下に人が群がっている所に出会った。そう、立て籠もりの現場である。
見物していた町人から話を聞いた清三郎、その立て籠もっている町屋の戸口に、
ツカツカと近づき、いきなり大声で

「おいお前!このように取り囲まれているのだ、いつまで立て籠もっているつもりだ!?
わしは岡本清三郎である!ここを開けよ!」

すると足軽「なんと?岡本清三郎か!それは良き相手だ高名の機会!こちらこそ願う所!」
と、戸を開け「さあかかってこい!」清三郎町屋の中に踏み入って、この足軽の攻撃を
避け、いなし、子供のようにあしらう、たまりかねた足軽が外に飛び出した所を踏み倒し、
腰の三尺手ぬぐい(これは清三郎のトレードマークである)で小手を縛り上げ、この足軽を
主馬派の侍どもの前に引渡し、一言、

「おいおい、あんたらは自分達で、この程度の者も取り押さえられなかったのかい?」

そんな事を言って、自宅へ帰っていったそうだ。
256人間七七四年:2009/03/27(金) 03:10:14 ID:MUmR7Lu7
凄すぎわろた
257人間七七四年:2009/03/27(金) 03:22:41 ID:UsvJz0gQ
清三郎無双ですな
258人間七七四年:2009/03/27(金) 09:30:06 ID:FAM6w66J
つか、強い相手だからと戸を開けて挑む足軽もすげぇな・・・
259人間七七四年:2009/03/27(金) 15:43:55 ID:+Qn4iZzg
手ぬぐいってこの頃からあったんだんねえ。
260人間七七四年:2009/03/27(金) 15:50:47 ID:o4UCibJ8
下帯が進化して手ぬぐいになったとか
261人間七七四年:2009/03/27(金) 16:21:02 ID:3EF5RWc0
戸を開けたら死亡フラグて、なんてホラーゲームだよw
262人間七七四年:2009/03/27(金) 20:36:06 ID:iaf4mcQI
>>261
なんか手紙が届きそうだな。段階を踏んで……矢文?
263人間七七四年:2009/03/27(金) 20:57:30 ID:WaKPzTmw
花の様な秀頼様は、鬼の様な真田に助け出されて、鹿児島に落ち延びたんだよ!

という伝承は有名ですがこれには後日談がありまして。

薩摩に落ち延びた秀頼は、薩摩の谷川という集落に従者ともども匿われていた。
だが潜伏先でおとなしくしているのが性に合わないのか、
それとも大阪での生活が忘れられないのか、ちょくちょく町に出掛けては飲み食いしていた。

普通に飲み食いするだけならいいのだが、何せお坊ちゃん育ち。
市井の常識など知るはずもなく、支払いも済ませずに店を出て行ってしまう始末。
お店の人が呆気にとられていると、後から別の侍がやってきて
「すみません、今のお侍に悪気はないのです」とペコペコ謝る。
武士に頭を下げられては、お店の人もそれ以上追求することも出来なかったが
他の店でも同じような事が相次ぎ、
「言葉遣いや身形からして明らかに地元の人間ではない。あの侍は何者なんだ?」
「迷惑だ、取り締まってくれ!」
等等、役所に訴えが届くようになる。

まさか「あのお侍は豊臣秀頼君です」と正体を明かして
納得してもらうわけにも行かないので、役人も対応に苦慮していたところ
忠恒がこれを聞きつけた。
「太閤殿下の御子ともあれば城の外に出たことなどあるまい。
 飲食には金銭が必要なのを知らぬのも無理からぬことだ」
と苦笑し、
「被害を受けた町の者には金を出してやれ。
 あとこの件も他言無用と言い聞かせておいてくれよ。」
と役人に指示し、秀頼の無銭飲食の御代を肩代わりしてやった。

このことを指して、谷山では今でも無銭飲食のことを「谷山犬の喰逃げ」と言うそうな。


秀頼生存説の後日談なので、このお話の信憑性も推して知るべしですが
宇喜多秀家を匿ってあげたり(庇いきれなくなったときも除名嘆願している)、
徳川家を憚らず「ヒャッハー!真田サイコー!こんな奴ら見たことねーぜ!」と激賞した
忠恒の性格を考えれば、薩摩に落ち延びた秀頼にこの位はしてあげたかもしれません。

世間知らずな秀頼を庇ってあげた島津忠恒のちょっといい話でした。
264人間七七四年:2009/03/27(金) 21:09:15 ID:vkM6TvKh
    /: : /:: : : / : : : !:: : : : !: : !: : : ヽ:: : : : : ',
   /: : /: : : : |: : :|: : : : :|: : | ,: : : ',: : :ヽ : !
   |: : |: : : : : |: /  \: : /|:.: :: :ヽ: : :.|.: : : ト、:|
   |: : |: : : : /!jニニコ| :/ |:./iニニV: |.: : : | V
  < : _: : : / 〈fエ:エi |/  レ fエエ) |:./ヽ: : |
  <:: |. 小{              レ{: :.|ヽ:| 
   厶ヘ ハ キラーン  >     {ハ/ V
      \_!   ☆          !       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        ヽ     !ー―‐r   /     <  やあ、ぼくはきれいな忠恒
      ___,r| \  `ー―'  /        \
    /:/::::| \  ヽ _ ̄ ィ ´                ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  /::::::/::::::|  \   ´ ∧>、      
/:::::::::::/::::::::|    \  /  !\::`ー- 、 
265人間七七四年:2009/03/27(金) 21:54:47 ID:YuTUowhq
なになに?
266人間七七四年:2009/03/28(土) 00:07:56 ID:LPZxY3PZ
厨恒氏ね
267人間七七四年:2009/03/28(土) 01:22:38 ID:wB9Fsvzx
秀頼話がでたので、だしておこう

秀康たん、義弟を庇ってみないでもなく

結城秀康は関ヶ原後に越前に加増されたが、内心は苦々しく思っていた
愚弟は危うく家を滅ぼしかける失態をしたが、徳川家後継者となれた。
が、自分は本家後継者となれなかったばかりか、加越能の前田対策で越前に追いやられたからだ

ある時、家康公にぶちまけてみる
秀康「パパー、どーして僕じゃなく徳川を愚弟(秀忠)へ譲っちゃったの?」
家康公「それはね、秀ちゃんを太閤殿下の養子にしちゃったから、徳川を譲ることはできないんだよ」
秀康「じゃー、なんで僕を養子にしたんだよー!僕だってパパの子だじょー!」
家康公「太閤殿下が秀ちゃんを欲しいといったからだよ」
秀康「太閤殿下の望みで出したということは秀頼たんとは兄弟ってこと?」
家康公「うん。そうだね。秀頼とは兄弟だよ」

と、いうようなことがあったらしい

で、越前に戻った秀康は
「私は秀頼と兄弟なので、秀頼に危害を加えよういう者があれば上坂し、秀頼と共に戦って死んでやる」
と放言しまくる。

ところが、1607年に秀康死去
死に臨んで
「私の命があるうちは秀頼を殺させるかと思っていたが…
私の命が終わるなら秀頼の滅亡も遠くはないだろう」
と言って亡くなってしまった。

越前松平には徳川本家からつけられた家臣が腐るほどいて、これらのことも家康公に知られていたと思われる。

そういう訳で、家康公は大坂の陣の時に越前家(松平忠直)を疑っていたが、
合戦では越前勢が真っ先に攻め込んだのを見て、疑いを解いたそうな。

268人間七七四年:2009/03/28(土) 03:40:02 ID:k1deGArv
>>267
最近大河の葵 徳川三代の、秀康の死のシーンをみたばかりのなのでぐっときてしまった
269人間七七四年:2009/03/28(土) 04:58:21 ID:x/58NoJB
>>266
スクイズの誠みたいだな
270人間七七四年:2009/03/28(土) 11:52:14 ID:ZyGK96QD
>>82この横田って戸石崩れで死んだあの横田備中の孫だよな?
271人間七七四年:2009/03/28(土) 13:51:44 ID:a3M7yU0B
頑固な右近と秀吉


秀吉の伴天連追放令後、相次いで棄教する大名、
黒田孝高、長政親子、蒲生氏郷、大友義統、小早川秀包らであった。
信仰を棄てずとも、表向きには露にしなくなった小西行長のように、
大名らは秀吉には絶対逆らえない状況の中、高山右近だけは頑固だった。
棄教はおろか、表立っての信仰も何ら変えるつもりも無い旨を公言する始末。
心配した使者の増田長森、小西行長、そして利休までが
「もっと大人になれよ、もう止めましたってポースだけで良いんだから。」
と口を酸っぱくして忠告するも、右近は頑として聞き入れない。
これまで信長の摂津攻め以来の仲であり武将、茶人、西洋通の彼を高く評価していた秀吉も、
一度公式発表した手前特別扱いは出来ないし、右近の頑な態度に腹もたった。
明石の封地は召し上げ、追放とした。

その後、極貧の時期紆余曲折あるも、加賀の前田利家に高山右近は仕える事となる。
最初は500石、最後には2万石の高禄となった。

前田家の家臣として参加した小田原攻めの際、右近は優秀な前線指揮官ぶりを発揮。
数は少なくとも右近の兵士は皆キリシタンであり、誰の目にも明らかなように
旗指物にはくっきりと十字架が描かれていた。
胸には十字架のペンダントを飾りながら、川越、松山、鉢形、八王子城攻めに参加。
皆、取り憑かれたような凄まじい奮戦ぶりであった。

その勇猛なキリスト教徒部隊の働きは、当然秀吉の目にも入った。

が、まこと見事じゃな、というだけで苦笑する大人の秀吉であった。

後に秀吉の朝鮮侵攻のために名護屋での滞陣の折、前田家の家老として参陣した右近。

機嫌良く茶席に招いた秀吉の眼前、右近は礼を尽くしつつも全く無言であったという。
272人間七七四年:2009/03/28(土) 17:08:44 ID:Gyjyue58
まあどっちにしろ超潔癖症の右近さんじゃラスボスの部下は…
273人間七七四年:2009/03/28(土) 19:34:47 ID:DSunjfG4
>>267
そして忠直卿行状記
274人間七七四年:2009/03/28(土) 23:11:52 ID:gldBVRyV
関ヶ原の時の話である。

田中吉政の陣中に、田辺甚兵衛と言う者がいた。この時10歳。そう、子供である。
彼は父が早くに死んだため、田辺の惣領として、この幼さで合戦に出たのだ。
そして何と、田辺家の家来達と共に敵の首を獲り、褒美をいただいた。

後に黒田長政が田中吉政と四方山の話をしていた折、吉政からこの話が出て、
lこれにいたく感動した長政は、吉政に頼んで甚兵衛とその家来を呼び出してもらい、陣兵衛には
自ら杯を与え、また、家来たちにその時の状況を詳しく語らせた。

家来達が言うには、自分達が騎馬の敵を、馬より抱き落とした所を、甚兵衛が刀を抜いて
かかったのだと言う。
その時甚兵衛、わなわなと震えていたが、家来達がその姿を辱めたので、震えながらも
立ち寄りて、首を獲ったのだそうだ。

長政はこの話に、さらに大きく感じ入って、
「この子はますます勇士の兆しのある少年だ。震えずにかかるような者は、頭が空っぽなのだと
言っていい。また、辱められてかかるのは、義と言うものを知っているからだよ。」と、
そのように絶賛したそうである。

それにしてもこの時代、武士の家に生まれるとは、これほどまでに過酷で大変なのだ。そんなお話。
275人間七七四年:2009/03/29(日) 00:33:03 ID:yCFGe5t1
>>274ъウ「まったくもって。親族一同にどれだけ厳しく(ry」
276人間七七四年:2009/03/29(日) 00:36:36 ID:1xXkyLcN
如水軒「震えずにかかるような者は、
    頭が空っぽなのだと言っていい。全くよのう長政」
277無風 ◆MUFUdunS9. :2009/03/29(日) 00:38:44 ID:HED39QDp BE:2250490188-PLT(14484)
はいは〜い^^
vipカラキマスタ^^v無風ノミカタ♪


最上最高伊達正宗
  __________,,,iiiiii,,,      .゙゙゙゙!llllii,
  !!!!!!!!!!lllll!!!!!!!!!!!!llllll!!!!!!!!!!!!!!!!!!!″      .lllllll’     ,,,,,,
     .lllll!′   llllll              ゙llll゙   ._,,,,iiiiiiiiiiiii,,,、
     ,,llllll,,,,,,,,,iiii,,, llllll   .,,,iiii,,、   .liii,,,,,,,,,,,lllllilllli,,,iiill!!゙゙゙ ̄"゙゙!lllli,、
    ,illlll゙゙゙゙゙゙゙lllllll!! llllll  ,,,iiilll!!!!!″   ゙゙!!!!!!゙゙゙llllllllill!!゙°     .゙llllli、
   .,llllll゙   .illlll゙ .lllllliiiil!!!゙゙′            ,illllll!!゙゜        lllllli、
  .,,illll゙!!lliiii,,,,lllll!′.llllll゙″              ,,illllllll          llllll
 .,iil!l゙′ '゙llllllllll!゙  llllll|              ,iilll!゙゚llll|     ,,,,,,,,,  .llllll
 .゙°   .,,illllll°  .llllll      ,,ii    ,,,illllll゙ lllll   .,iiil!l゙゙゙゙゙゙!!llilllllll,_
    .,,,iillll!゙`   .llllll      llll   .lllllll゙゙!lii,,lllll   '!lli,,__,,,,iilll!!lllllliii,
  .,,,,iilll!!゙°    .lllllliiiiiiiiiiiiiiiiiiilllllii   '゙!!° ゙!llllllll    ゙゙゙゙゙!!!!゙゙゙゙゙’ ゙゙!!!l
  ll!!゙゙゙゜          ゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙°      ゙!!!゙
278人間七七四年:2009/03/29(日) 00:40:29 ID:qAXpwqF7
>>277
政宗じゃねえか?
279人間七七四年:2009/03/29(日) 01:27:17 ID:X2mgIeGo
触るな。
280人間七七四年:2009/03/29(日) 02:31:50 ID:pMYvY1AM
10才の初陣が関ヶ原って凄まじいな・・・
281人間七七四年:2009/03/29(日) 03:26:43 ID:8fmZzRBz
>>280
で、いきなり首ちょんぱだもんなあ。
凄えわ。
282人間七七四年:2009/03/29(日) 04:32:50 ID:+WIa1psr
鬼武蔵に次ぐ逸材だな
283人間七七四年:2009/03/29(日) 08:09:19 ID:H7vKacCA
>>280
秀忠21歳「…」
284人間七七四年:2009/03/29(日) 10:48:40 ID:X2mgIeGo
浅野長政「初陣は26歳はオールドルーキーですが何か?」
285人間七七四年:2009/03/29(日) 11:11:45 ID:2tISk9Dl
>>283
あなた真田チート一族とバカップル走りしてたから、ちょいと武勲には足りないよね

「おのれー安房守め〜!」
「ウフフ、捕まえてごらん?」
286人間七七四年:2009/03/29(日) 12:22:03 ID:huzbjcmo
鬼武蔵にはかなわない
鬼武蔵にはかなわない
287人間七七四年:2009/03/29(日) 12:55:08 ID:T4ChhoLG
なんか最近は新納さんが大人気だな。
288人間七七四年:2009/03/29(日) 13:51:10 ID:kg5Ou1DT
ロバート・デ・新納ってくらいだからな
289人間七七四年:2009/03/29(日) 13:57:19 ID:X2mgIeGo
晒し投げしろw
290人間七七四年:2009/03/29(日) 13:58:44 ID:X2mgIeGo
すまん、誤爆
291人間七七四年:2009/03/29(日) 13:59:08 ID:kR++HK9F
南国の四兄弟
義久「初陣は22歳です」
義弘「初陣は20歳です」
歳久「初陣は18歳です」
家久「初陣は15歳です」

ちなみに、上の3人は二歳づつ歳が離れてるので
同じ合戦で一緒に初陣を果たしたそうな。


292人間七七四年:2009/03/29(日) 14:29:50 ID:BBH496WM
>>291
へぇ、そうなんだ
293人間七七四年:2009/03/29(日) 21:11:52 ID:hV3sgwva
「小姓になった成瀬正武です。お仕えするにあたり、何に注意すれば良いでしょう?」
秀忠「マジメにやってくれればいいよ。」
正武「ははーっ!」 (よかった、優しそうな人だ!)
サドの神(勘違いするバカがまた一人・・・)


秀忠が13歳の時、学者を呼んで近習たちと講義を聴いていたが、なぜか殿中に
暴れ牛がなだれ込んできた。
衝立や障子が次々に倒され、大変な騒ぎとなり、近習たちも逃げ出した。
騒ぎが静まり、近習たちが広間に戻ると、秀忠が平然とした顔で、講義を聴いていた。
講義が終わると、立ち上がって近習たちをにらみつけ、自室へ去った。

江戸城で祝宴があった夜、泥酔して馬繋ぎの杭に斬りつけた侍がいた。
翌日、秀忠の決済により侍は罪状を公表された上で切腹となった。
「城中で刀を抜いたことを、罪とするのではない。
武士たる者が人と杭の区別もつかぬほど前後不覚になった事を、罪とするものである。」

池田光政が始めて秀忠と会見した時のこと。将軍は、初対面の少年に親しく声をかけた。
「うん、とりあえず座って座って!お国は雪国と聞くが、道中大丈夫だったかな?
まずは、用意があるゆえ、飯でも食って行きなされ。」
出されたのは一膳だけ、それもカブの汁に煮物、干し魚に大根おろしと膾だけだった。
のちに光政が倹約について語るとき、よくこの話を聞かせたという。

若侍A「こないだ神様がいるっていう池で鰻を取ったんだ。みんな『タタリがある』って
    怖がるんで俺だけ食ったけど、タタリどころか下半身がモリモリっスよ!」
若侍B「ハハッワロスw」

ガラッ 
「話は聞かせてもらった!」 翌日、若侍は磔にされた。

秀忠「民の手本たる侍が神を恐れぬようでは、『神に懸けて』誓う意味が無くなるわ!」
294人間七七四年:2009/03/29(日) 21:23:25 ID:9NtLc5Q6
うへえ、これはやりにくい・・・
295人間七七四年:2009/03/29(日) 21:36:50 ID:70UAn1eY
いちいち正論だから何もいえないしな。
秀忠は好きだけど、上司には持ちたくないぜ。
296人間七七四年:2009/03/29(日) 23:52:12 ID:753EVpmV
>>293
>出されたのは一膳だけ、それもカブの汁に煮物、干し魚に大根おろしと膾だけ

俺の夕飯よりちゃんとした飯だとか思った俺は
297人間七七四年:2009/03/29(日) 23:59:29 ID:REnuqVi7
>>296
足るを知る現代の侍か貧乏人のいずれかだろう
298人間七七四年:2009/03/30(月) 00:08:41 ID:pkJ8Nr/2
いるものよ喃…現代にも侍が…
299人間七七四年:2009/03/30(月) 00:42:02 ID:Ey/6Um3V
>>295
なまじっか頭いい人間は他人にも能力要求するしな…
300人間七七四年:2009/03/30(月) 02:07:55 ID:EBgu/PYQ
>>293
しかし殿中に暴れ牛ってどういう状態だよ…
301人間七七四年:2009/03/30(月) 02:24:47 ID:cVjViaCz
>>296
下手な一人暮らしの食卓よりかはずっとバラエティ豊かでしっかりしてるよな。
決して豪華ってわけじゃないが、一般家庭なら十分なもてなしだ。
302人間七七四年:2009/03/30(月) 03:29:12 ID:RBeNNV9L
>>293
暴れ牛が来ても近習が逃げても、講義を続けた学者に拍手!
303人間七七四年:2009/03/30(月) 03:35:28 ID:bNztWYmI
>>302
言われてみればそうだなw
304人間七七四年:2009/03/30(月) 04:09:08 ID:BCLyVQrM
矜持をもって勤めればいいだけなんだからキチガイだらけの他所の殿様よりやりやすいと思うがな
305人間七七四年:2009/03/30(月) 06:48:26 ID:ImIh41zb
ご飯にタデつけただけで、贅沢だって怒る人もいる時代だし、贅沢なメニューなんだろうけど、
将軍が出すにしては粗末ってことなんじゃない
306人間七七四年:2009/03/30(月) 07:40:21 ID:vSIFTaK3
家光は家康を尊敬というか崇拝していたというけど、
秀忠のほうが家康をきっちりトレースしてるよな。
質実剛健を地で行っていて好感が持てる。
307人間七七四年:2009/03/30(月) 10:38:38 ID:1LYZ3adL
スターリンの孫もスターリンを崇拝してるらしいけど
どこの世界でも孫は祖父を崇拝する傾向にあるんだろうか?
308人間七七四年:2009/03/30(月) 11:00:43 ID:n1mGxI0F
>>307
それは、自分の子供を育てるなかで失敗したことを孫には繰り返さなくなるからじゃないか?
だから孫に対する態度に余裕も出るから、孫からも自然と好かれるみたいな
309人間七七四年:2009/03/30(月) 11:02:22 ID:sjiwWzdv
武田信玄の家族割って有名武将何人いるんだろ
310人間七七四年:2009/03/30(月) 11:23:33 ID:Np34m3AD
>>309
ケータイ代かと思った
鬼日向に斬られてくる
311人間七七四年:2009/03/30(月) 12:14:40 ID:Ow2nInOc
信長だったら、一緒に釣りに行ったかも。
312人間七七四年:2009/03/30(月) 12:58:36 ID:y3f406HS
親(石舟斎)の二の舞にはなるまいと政治に進んだ宗矩と
爺さんのようになろうと剣一筋に進んだ兵庫助もそうだな。
家の復興のために直接頑張ったかどうかで分かれた感じか。
313人間七七四年:2009/03/30(月) 13:05:46 ID:YZ6uLYw2
>>309
ヤンマガ見た後だと余計ケータイ代に…w
314人間七七四年:2009/03/30(月) 13:17:41 ID:F0JAohfO
>>307
単純なところ、生存中は色々な意味で困った人であっても、
半世紀も経って孫の代にもなれば、悪いところは歴史となって風化し、
なんとなくいい部分が注目されるようになるってだけだと思われ。
315人間七七四年:2009/03/30(月) 15:14:13 ID:Ey/6Um3V
失敗には寛容だけど「絶対」ハメを外せない主君

失敗は三振で(命が)アウトだけどハメ外してもノリによっちゃOKな主君


キミならどっち?
316人間七七四年:2009/03/30(月) 15:48:51 ID:sjiwWzdv
この時代家族割り凄いのかなってセンゴクみたら思った
317人間七七四年:2009/03/30(月) 16:04:33 ID:A3kgTjOg
三好長慶の弟、三好実休。

彼は和泉久米田の戦いで戦死した。が、そこは名将実休、この戦いの前、自分達が敗北した場合
敵兵が押し寄せてくるのを知らせる手を打っておいたのだ。

実休、自分の元に出入りしていた染物屋を、あらかじめ屋根の上に上げておいた。
この染物屋、実休軍が敵の勢いにかなわないのを見ると、絶望のあまり屋根の上で切腹してしまった。
すると染物屋の体が屋根から転げ落ちてきたので、それを見た下の者たちは実休の軍の敗北を知り、
撤退を開始したのだとか。

戦国の世には、こんなピタゴラスイッチが存在したのだ。
318人間七七四年:2009/03/30(月) 18:19:15 ID:GM96QvhS
>>317
いい話? あ、準備のいい話か。
319人間七七四年:2009/03/30(月) 18:57:10 ID:YyoT+UA8
負けを知らせるために、わざわざ関係ない人を切腹させたのか。
それとも、戦に直接関係ないのにこれだけ義理堅い者がいるよという話なの?
物見1人で十分だと思うが。
320人間七七四年:2009/03/30(月) 23:23:14 ID:pkJ8Nr/2
夜叉掃部、ウソつかない

井伊直孝が始めて彦根に入った時、まず彼が命じたのは、倹約の徹底であった。
手始めとして家臣一同、絹の着用が禁止され、みな木綿の羽織を着るようになった。
「よし、これを城下にも徹底させよ。」

さっそく城の堀沿いに、派手な着物を禁ずる高札が立てられた。
しかし、もと石田三成の領地であった反抗心か、大都会・京に近い土地柄か、
城下の風紀はいっこうに改善されなかった。

「ならば、高札を次のように変えよ。」

直孝の命により、新しい高札が立てられた。
『 衣服を改めない者は、自分に泥を塗ることになる 』

「ケッ!恥をかくのを怖がって、男伊達が通るもんけぇ!」
なおも意地を張って、派手なナリで歩くかぶき者の元に、目付たちが駆けつけた。

「おっ、なんでぇなんでぇ!さぁ、捕まえるなら、さっさとやりな!」
目付たちは、かぶき者を捕らえなかった。

その代わり、桶いっぱいのドブの泥を、かぶき者の着物に塗りたくった。


以後、城下の者も、派手な着物を着て出歩くことは無くなった。
321人間七七四年:2009/03/31(火) 00:10:20 ID:dVjSmZZb
話の通じなさそうな後天的三河武士がここにも一人…
322人間七七四年:2009/03/31(火) 00:15:26 ID:6NTUmXKz
いやいや、有限実行というか、高札の内容に嘘偽り無しだな。
323人間七七四年:2009/03/31(火) 00:39:26 ID:802R0DaV
鬼作左「わしの名なら一言書いただけでおさまるけどなw井伊の小せがれはそこまでせんとry」
324人間七七四年:2009/03/31(火) 01:32:02 ID:7WqgOoQD
>>319
変わり者かもしれんが、染め物屋の忠義な話だろう
325人間七七四年:2009/03/31(火) 02:16:14 ID:OKORS9vk
>>323
作佐が叱るw
326人間七七四年:2009/03/31(火) 02:41:52 ID:anr7ttKI
ある時、徳川秀忠が、阿部備中守にこんな事を言ったそうだ

「例えば、ハマグリの貝殻の一片を持って、対になるもう一片を探し、
それが合わなかった時、怒って最初に持っていた貝殻まで捨ててしまう者がいる。
しかしこれは愚かな事だ。何故ならそれは、最初に持っていた貝殻の
せいではないのである。自分の不注意のせいなのだ。」

これは人の使い方を言っているのだろう。人を使って上手くいかなかった時、
担当した者に責任を負わせるのは愚かな事だ。本当の責任は、その仕事にどういう能力が必要かを
きちんと吟味せず、合わない事をするように命じた人間にある。そう、言いたいのであろう。

また、秀忠は、こんな事も言っている

「人というものは、自分が他人よりも劣っているという事を知って、諸事慎む。
結局はそういう事が大切なのだ。」

そんな、いかにも秀忠らしい言葉でした。
327人間七七四年:2009/03/31(火) 04:00:30 ID:jkZ79YFM
正純「流石、人使い上手いですねー」
328人間七七四年:2009/03/31(火) 07:56:14 ID:k5IvA88m
暗に「関ヶ原や大阪冬の陣でポカやらかしたのは俺一人の責任じゃない!」と言いたかったのかもなw
329人間七七四年:2009/03/31(火) 08:24:29 ID:UuhH0DGr
そんなに器の小さい話ではないでそ
330人間七七四年:2009/03/31(火) 08:27:12 ID:hWNUDJKt
むしろ関ヶ原や大坂の陣での己の不甲斐なさから、
自分は優れていないということを悟った台詞だろう。
331人間七七四年:2009/03/31(火) 08:59:57 ID:c1wGwmKC
父親が偉大すぎる
戦に劣等感
内政手腕はかなりのもの
自分が思っているより周りの評価は高い

とくれば、秀忠って毛利隆元兄ちゃんとよく
似ていなくはないよね
332人間七七四年:2009/03/31(火) 09:57:03 ID:dVjSmZZb
ああ、それで三歳やダミアンと仲よかったのか
333人間七七四年:2009/03/31(火) 11:53:39 ID:7WqgOoQD
>>326
後水尾天皇の子作りパワーに自らが及ばないことを知ってシットした、と。

いやまあ、ほんま優秀な二代目だとおもうけんどもさ
334人間七七四年:2009/03/31(火) 11:57:40 ID:Qw+czun/
秀忠の場合、地味とか得意分野が内政というのもあるけど、父親や息子に比べて当主としての在位期間が短いってのもあるんだろうな。
335人間七七四年:2009/03/31(火) 13:41:36 ID:YDeHY+Q0
>>334
家康と家光のつなぎポジションだしね
336人間七七四年:2009/03/31(火) 14:04:46 ID:9gJo0GDv
山名豊国と山中鹿之助

山陰指折りの謀将武田高信に城を追放された後、豊国は流浪の日々を送っていた。
但馬の惣領山名祐豊を頼ったこともあったが、それでもやはり流浪の日々であった。
後に一人の剛勇と出会う。尼子再興を夢見て毛利を倒さんとした山中鹿之助幸盛である。
豊国は鹿之助と結託し鳥取城に篭る高信を追放、謀殺した。
新しく鳥取城主になった豊国であったが、自らは二の丸に、鹿之助を本丸に据えたのである。
本来ならば因幡守護の豊国を本丸に、鹿之助を二の丸に据えるべきであった。

無能さに定評があるが人の良さなら戦国一かもしれない豊国であった。
337人間七七四年:2009/03/31(火) 14:27:27 ID:QIiZ0rm0
豊国「何かあったらあいつに責任取らせよう……」
なんてことはないだろうか?w
338人間七七四年:2009/03/31(火) 14:33:14 ID:ZQNc0x+O
       ____
     / 豊国 \
   /  _ノ  ヽ、_  \
  / o゚((●)) ((●))゚o \  もう追い出されるのはいやなんだお…
  |     (__人__)'    |
  \     `⌒´     /

       ____
     / 豊国  \
   /  _ノ  ヽ、_  \
  /  o゚⌒   ⌒゚o  \  でも城主やってるときっとまたなんか仕掛けられるお…
  |     (__人__)    |   
  \     ` ⌒´     /

       ____
     /⌒ 豊⌒\
   /( ●)  (●)\
  /::::::⌒(__人__)⌒::::: \   そうだ、あいつを本丸に入れればいいお!
  |     |r┬-|     |   
  \      `ー'´     /
339人間七七四年:2009/03/31(火) 14:50:01 ID:yQvQVYmo
中国地方はやる夫思考の産地。
340人間七七四年:2009/03/31(火) 15:06:03 ID:9U7fPLDu
>>333
単純な子作りパワーなら年増女に二男四女も生ませた秀忠の方が上だと思うw
さらに珠姫(秀忠次女)も生みまくってたから(母親遺伝ということもありうるが)
側室保有が可能な環境だったら早い段階で財政破綻した大名家が続出だっただろう

一回の徳川家の姫の輿入れで大名財政破綻するらしいし--;
341人間七七四年:2009/03/31(火) 15:20:48 ID:c1wGwmKC

     ___
   /  輝元  \
  /   ノ :::::: \ \      
/   (●)::::::(●) \  >>339   
|     u (__人__)u   |  そんな奴と一緒にするんじゃないんだお!   
\    u. ` ⌒´  u /     
/    u      u \
  

342人間七七四年:2009/03/31(火) 15:23:48 ID:wvYe8D7C
山名豊国と言えばこんな話が

大阪冬の陣の時の事、
茶臼山の家康は、いかにも教育好きの家康らしく、若い者達に老巧の考えを聞かせてやろうと、
老中に申しつけ老人を集め、若者との対談の会を催したことがあった。

家康はその模様を障子を隔てて聞いていると、上座の山名豊国が先ず、発言をした。

「この度の戦い、両御所様が仙波より出でて、備前島から大軍を持って一気に攻めかかれば、
大阪城は即座に落ちまする!」

と、そのように豊国流の大阪攻略戦術を述べたそうだ。

その後しばらくして家康、近習との四方山の話の中に

「えーっと、この間山名が言った戦略な、この中にまさか信じている人間はいないと思うが、
一応言っておくと、あれじゃどんな城でも落ちはせん。
山名の城攻めには、城の中に人間が籠っていると言う部分がすっぱり欠落しておる。」

そんな風に評したそうな。
343人間七七四年:2009/03/31(火) 15:27:11 ID:0r4fu+hH
>>339
直家、経久、元就「ちょっと、飯でも食わないか?」
344人間七七四年:2009/03/31(火) 15:38:46 ID:2No1+ehZ
>>339
義降「ちょっと遊びにおいで」
345人間七七四年:2009/03/31(火) 15:55:44 ID:l1UkbTCY
稀代の謀将たちとやる夫たちとアッー将が織り成す絢爛豪華な戦国絵巻、それが中国地方
346人間七七四年:2009/03/31(火) 16:46:23 ID:3WgrGG4c
         ___
       /   豊 \
      /   \ , , /\
    /    (●)  (●) \
     |       (__人__)   |    この度の戦い、両御所様が仙波より出でて
      \      ` ⌒ ´  ,/    備前島から大軍を持って一気に攻めかかれば、
.      /⌒〜" ̄, ̄ ̄〆⌒,ニつ     大阪城は即座に落ちまする!
      |  ,___゙___、rヾイソ⊃
     |            `l ̄
.      |          |




<クスクス・・・
            ___
       /豊     \
      /ノ  \   u. \ !?
    / (●)  (●)    \
    |   (__人__)    u.   |
     \ u.` ⌒´      /
    ノ           \
  /´               ヽ
 |    l              \
 ヽ    -一””””~~``’ー–、   -一”””’ー-、.
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))

               ヒソヒソ・・・>
         ____
       /     豊\!??
      /  u   ノ  \
    /      u (●)  \
    |         (__人__)|
     \    u   .` ⌒/
    ノ           \
  /´               ヽ
 |    l              \
 ヽ    -一””””~~``’ー–、   -一”””’ー-、.
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))
347人間七七四年:2009/03/31(火) 16:46:49 ID:gMDW/Aba
俺の中で山名豊国株が急上昇しているんだが
348人間七七四年:2009/03/31(火) 17:03:51 ID:2G2928nG
輝以上にやる夫が似合うじゃないかw
349人間七七四年:2009/03/31(火) 18:46:35 ID:j7Bz8b3a
>>342
悪い話じゃんw
350人間七七四年:2009/03/31(火) 19:08:37 ID:poKDZ+QL
       ____
     / 豊国  \
   /  _ノ  ヽ、_  \
  /  o゚⌒   ⌒゚o  \  両御所が一気に攻めてきたら城の中の人なんて我先に逃げ出すに決まってるお…
  |     (__人__)    |  自分ならそうするから提言したのに酷いお… 
  \     ` ⌒´     /
351人間七七四年:2009/03/31(火) 19:21:21 ID:DdoopimC
良いキャラだなw
352人間七七四年:2009/03/31(火) 20:21:39 ID:i/s1oygL
>若い者達に老巧の考えを聞かせてやろうと
家康がどんなつもりで豊国を呼んだのか興味あるな。
反面教師のつもりで呼んだのか、それとも単なる人選ミスなのか…
353人間七七四年:2009/03/31(火) 20:45:26 ID:AsJCECoN
大御所に目を付けられないように突拍子もないこと言ってるだけだったら凄いけどなー

まあ、無能だなんだと言われつつ家を残して居るんだから実はそれなりに能力あるんじゃね?
なんて思ってたのに結局伊達に齢を重ねてただけだった・・・と予想

豊国爺様なんかかわいいなw
354人間七七四年:2009/03/31(火) 20:47:59 ID:RomhuhFP
で、本物の伊達爺様は料理に力を入れてましたっと
355人間七七四年:2009/03/31(火) 21:15:13 ID:QtP7NNPj
>>352
少なくとも御伽衆だったから。

豊国爺様は79歳で天寿を全うしました。
三傑より長生き。長生きで知られる朝倉宗滴とおんなじぐらい生きてる。
実戦経験が少なそうな豊国だが実は関ヶ原の時に鬼作左の隊に寄合衆として従軍。
寄合衆の中には賎ヶ岳七本槍の平野長泰が居たという。
356人間七七四年:2009/03/31(火) 21:18:01 ID:9p4TCKPN
この時に信之殿が生きていれば・・・
357人間七七四年:2009/03/31(火) 21:53:53 ID:QtP7NNPj
山名豊国、第一次鳥取城攻めの感想
「ほぼイキかけました(予算負担的な意味で)」

織田方の武将に密会させようとしたら捕まってそれが原因で単身降伏だからなあ。
もし捕まってなかったら10万石ぐらいで大名やってたかも。
358人間七七四年:2009/03/31(火) 22:14:45 ID:2G2928nG
異方に心引くなよ豊国の 鉄の弓末に世はなりぬとも

いや、なんとなく
359人間七七四年:2009/03/31(火) 22:22:13 ID:izyupzgK
天正10年(1582)6月、備中高松城を水攻めにした秀吉軍は、高松城主・清水宗治の
切腹をもって包囲を解くことになった。

宗治の兄は病弱で、弟に家督を譲り、出家して月清と名乗っていたが、
その話を聞きつけて高松城にやって来た。
「弟を自害させて、わしが生き残っても仕方ない。三木城の別所長治殿も、弟がともに
死んだそうな。ここは、わしも一緒に腹を切ろう。」

宗治は、兄の申し出を断った。「私は無念の事あって切腹するのではない。
城主として、兵たちの命と引き換えに腹を切るのだ。兄者が死んでも何もならん。」
「ならば言わせてもらうがの、実は、わしは病弱でも何でもないわ。」
「?!兄者、何を・・・」

「まあ、聞け。わしは長男として家を継ぐべき身だったが、どうも乱世が肌に合わず、
弟のお前の方が器量に勝ると見たので、父上に頼んで家督を譲ったのじゃ。

ところが、それは裏目に出て、今やお前は、このような苦難に会うことになった。
もし普通に家督を継いでおれば、自害すべきは、わしなのだよ。
それを思えば、お前一人に腹を切らせるなど、どうして出来ようか・・・」

この言葉に宗治も納得し、兄弟二人で腹を切ることになった。
「それがし、ひとさし舞うゆえ、兄者は謡をお頼み申す。」
誓願寺の曲を舞い秀吉軍から喝采を浴びると、兄弟は辞世の句を残し堂々と腹を切った。

浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して  (宗治)

世の中に 惜まるる時 散りてこそ 花も花なれ 色も色なれ  (月清)


中国がやる夫マインドと聞いてカッとなって書いた 反省はしていない
360人間七七四年:2009/03/31(火) 22:35:39 ID:i/s1oygL
>>358
お、ベッキーさんの辞世の区ではないか。
361人間七七四年:2009/03/31(火) 22:49:27 ID:cDCUEcoD
誰か「やる夫が豊国になるようです」書かねえかなw
362人間七七四年:2009/03/31(火) 22:54:37 ID:KziZtx2Y
>>359
清水宗治の死に様はかっこいいね
363人間七七四年:2009/03/31(火) 23:16:34 ID:2G2928nG
清水の辞世の句がいいよな
364人間七七四年:2009/04/01(水) 03:46:58 ID:zT7c4qU+
土屋検校という人は、お伽衆として武田信玄や織田信長、北条氏政などの所に
出入りしていたと言う人であった。
その検校にとある甲州の人が、「信玄公が長生きすれば天下を取っていた」と、言った事があった。

これに検校、「私も昔はそう思っていましたが、今ではそう考えなくなりました。
それは、このようなお話を聞いたからです。

かつて佐野天徳寺殿が、信玄、謙信にお目見えした時、両人ともいかめしい挨拶で、
天徳寺殿は顔を上げて対面しようとしましたが、両大将の威が強すぎてそれが出来なかったそうです。

そののち天徳寺殿が、秀吉公にお目見えした折は、名を聞かれるとすぐに、やれ天徳寺
参られたかと、傍によってきて、『さても久しく会わなかったものだ。良く参られた。』などとおっしゃって
膝を叩き、事のほか御念の入ったお振る舞いで、天徳寺殿も、しみじみと、秀吉公を大切な方と
思われた、という事でした。

このような器量であってこそ、人も和し、天下もおのづから手に入るのでしょう。
信玄謙信とは、ものが違った。わたくしは、今はそう考えております。」

秀吉の「人たらし」を語ったお話。
365人間七七四年:2009/04/01(水) 05:22:39 ID:Tz98a21z
さすが秀吉、半端ない



秀吉は輝のことどう思ってたんだろう?
366人間七七四年:2009/04/01(水) 09:15:11 ID:gZuArW+X
>>364
輝「おじいさまと父上と吉川の叔父上と小早川の叔父上
  が長生きしてずっと輝元を後見してくれれば
  太閤殿下なんて目じゃないお!」
367人間七七四年:2009/04/01(水) 12:55:37 ID:ER7NginV
>>366
確かに目じゃねえw
368人間七七四年:2009/04/01(水) 13:10:39 ID:Tz98a21z
>>366
両川亡き後も、君にはまだ恵瓊と広家がいるじゃないかw

輝さんは大坂の陣では内藤元盛(佐野道可)を豊臣方に送り込んでるね。
保険の意味もあっただろうけど、豊臣家への想いも強かったのかな。
ただ佐野道可事件は、その後の証拠隠滅がひどすぎる。これは悪い話か・・・



秀吉の小早川隆景評はすごいね。過大評価じゃないかと思うほど。
天下を取るには勇気が足りない、というのも誉め言葉にすら思える。
事実、陪臣に大封を与え、後に大老・中納言に抜擢してるから、相当
人物を買ってたってことなんだろうけど・・・
369人間七七四年:2009/04/01(水) 13:14:38 ID:d9oIXYJ3
逆に天下を取れないからべた褒めして大封を与えたんじゃないだろうか
そして、自身ではなく家臣格が絶賛されて主家を飛び越えて大封を受けて主君や他の家老格の家がどう思うか
370人間七七四年:2009/04/01(水) 13:18:12 ID:D/RwfO6Y
それは秀志の大国主従関係を解体する策でしょ
織田家臣以外の成功例があると思えないが
371人間七七四年:2009/04/01(水) 15:14:49 ID:t4JDzat1
万千代「伯耆と茶なんぞ飲んでられっけえボケー」
372人間七七四年:2009/04/01(水) 15:48:27 ID:qvwymViy
>>370
秀吉のまいた種が花開いたのは関ヶ原と
なんという皮肉
373人間七七四年:2009/04/01(水) 16:34:47 ID:Tz98a21z
>>369-370
うん、それはそうだと思う。
でもそれだけでは2人も大老には抜擢しないとも思う。毛利は太閤検地も免除じゃなかったっけ。


主君は輝さんだから、むしろ我がことのように叔父上の出世を喜んだと思われw
元春あたりは生温かい目で弟を見てたかもしれないけど・・・
374人間七七四年:2009/04/01(水) 17:53:28 ID:pjWn4FYL
>>373
中国の鬼さんは文禄よずっと前に死んでね?
375人間七七四年:2009/04/01(水) 19:10:37 ID:Tz98a21z
>>374
そうそう。あ、言葉不足で書き方が悪かったかも、ごめんなさい。
大老就任までは存命してないけど陪臣の身で伊予一円を与えられたときは存命してたから、
隆景と自ら忌み嫌う秀吉が接近していく様子は見てるよね。そういう意味でした。
376人間七七四年:2009/04/01(水) 19:16:25 ID:RhwQBr+m
>>370
島津家の伊集院とか?
377人間七七四年:2009/04/01(水) 19:23:08 ID:S3NW40QX
徳川家の石川数正、龍造寺の鍋島直茂、伊達家の片倉景綱、上杉家の直江兼続か
378人間七七四年:2009/04/01(水) 19:25:56 ID:nWnFCZ/F
前スレで出た前田家の村井さんなんかも秀吉直々に叙任してるし。
379人間七七四年:2009/04/01(水) 19:35:10 ID:2VerzSoR
徳川の、諏訪の原城が武田軍の山県昌景の部隊に攻められ、合戦となった折のこと。
城主、松平康重は、山内冶太夫、進士清三郎、山崎惣左衛門の三人を、殿とした。

山内は矢の名人であり、その矢をもって敵を射払い退いた。が、終に矢種が切れ
そこに山県の軍勢が追い迫ってきた、その時、

進士清三郎、山内に自分の矢を投げ渡す。
山内、その矢を取って射放てば、武田方の志村金右衛門と言う者の胸板を貫き、
後ろの松の木まで貫通した。

結局、この日の合戦は物別れとなった。そして松平康重の元に、山県より使いが来た。
「敵ながらすばらしい弓矢の技であった。強弓精兵無双である。」との絶賛の言葉とともに、
志村を貫いた、あの矢を持ってきたのだ。

その矢には、進士清三郎の名が彫ってあった。そこで康重は進士を賞しようと呼べば、進士
「これは自分が渡した弓を山内が射た物でござる。」と答えた。
そこで山内を呼ぶと、山内も「これは進士の名が書いてある矢である以上、進士が射た物でござる。」
と言い出す。
双方譲らず、これに感じ入った康重は、双方に感状を与えたと言うことである。

そんな、罪の擦り付け合いならぬ、功を擦り付け合ったお話。
380人間七七四年:2009/04/01(水) 19:41:44 ID:EWqi+GKA
>>376
直江は秀吉の誘いを断ったけど、伊集院や石川は不幸な末路になったね
381人間七七四年:2009/04/01(水) 19:43:43 ID:3Vt49FWF
良い話だな〜(´∀`*)ホッコリ
382人間七七四年:2009/04/01(水) 21:28:37 ID:zW0rTqRA
伊集院もデ新納さんみたいに
ラスボスのお誘いを全力で断ってたら
評価も変わったかもな〜。
383人間七七四年:2009/04/01(水) 22:18:22 ID:ziYx9Ly1
>>379
めどい坂東武者や徳川家臣団なら納得のいいはなし

信長の前で同じことやったらみるみる機嫌が悪くなったりするんだよなw
御伽衆がオチつけてあげないとデンジャラース
>まとめスレにあったはず

384人間七七四年:2009/04/02(木) 13:28:35 ID:P5rN3m4d
>>370
立花宗茂を忘れてないかい
385人間七七四年:2009/04/02(木) 15:11:59 ID:5p/YPoDq
立花家と高橋家はソーリンから
「今まで良くやってくれたんで独立大名にしてやって下さい」と頼んだ形

ラスボスから「立花&高橋…いいなーホスィーなー」
くらいのアプローチはあったかもだが
386人間七七四年:2009/04/02(木) 15:39:13 ID:M8bkvCfJ
微妙なところは島津かな
秀吉に良くされた弟は朝鮮出兵の準備してるのに
兄が渡海の為の船出さなかったから船を借りる羽目に
関が原の一件もありこの時期仲の良かった兄弟関係は悪化してる
ただ決定的な対立は無かったし微妙
387人間七七四年:2009/04/02(木) 16:13:51 ID:wEYe7/rw
織田信長が浅井長政と木造にて対陣していたときの事。

長政の陣、俄かに慌しく、信長は物見に猪子兵助を、その後さらに金松弥五左衛門を送り出した。

間もなく猪子が、馬に泡を吐かせて大慌てで帰ってきた
「敵は撤退しております!」
間髪を入れず金松も帰って来た
「敵、わが軍に押し寄せてまいりますぞ!」そう言い捨て槍をあわせるため先陣に走っていった。

信長「どっちだよ!?」

結局、浅井は押し寄せたが、本格的な戦闘にはならずに浅井はすぐに引き上げた。

この後、信長は猪子、金松の二人を呼び「お前達はそれぞれ何を見てきたのだ?」と聞いた。
猪子は
「敵は、荷をつけた馬を遠くへと引きのけておりましたので、これは撤退であると見て取りました。」
この判断には信長も納得。しかし金松は

「私が見たのも猪子殿と全く一緒です。さりながら、われらと決戦をしたがっている浅井長政が
何もせず空しく引き上げるようなことをするでしょうか?あれは押し寄せて戦うための準備だと
推察いたしました。」

信長、これを大いに褒めたそうである。そんな、判断のいい話。
388人間七七四年:2009/04/02(木) 16:47:11 ID:wEYe7/rw
ソフトバンク規制されているので書きこめない…、
シベリア郵便局の方に感謝ウラー

そういえばYAHOOニュースのトップにこんなのが…
レーニンが無傷でコートに穴が開いたのか?
どうやったらこんな穴があくんだ?RPG-7ぶちこまれたのか?
それとも4月1日だから(ロシアンジョーク?
http://dailynews.yahoo.co.jp/photograph/pickup/
389人間七七四年:2009/04/02(木) 18:54:02 ID:o5YCZE66

1582年6月本能寺の変のおり。

高山右近は明智光秀の配下として中国攻め、
羽柴秀吉への援軍として居城の高槻を後にして西に向かっていた。
高槻からの急な知らせで信長の死を知った。
武将の直感から、これは光秀に先は無いと踏んだ。
が、高槻に置いてきた自分や家臣らの家族が質に取られることを気に病んだ。
あの荒木村重謀反の再現になるのではと。
しかし光秀の動きは鈍く、いっこうに高槻の城下を押さえる気配がない。
ますます光秀の知力の鈍りを右近は感じた。

そんな折り、光秀からの加勢の依頼状が届いた。
キリシタンである右近のことを考え、彼の師であるオルガンテーノ司祭の
手紙も添えられていた。
日本文では明智光秀への加勢を強く勧めるものであった。

同時にもう一通ポルトガル語の手紙があった。
司祭はイタリア人であったが、日本語,ポルトガル語も堪能であった。
そこには、京都での情勢、および光秀への加勢は義に反すると同時に政治的軍事的にも
破滅であることが記されていた。

光秀側にはポルトガル語を解するものはいなかったのである。

右近らしい幅広い情報収集のお話。
390人間七七四年:2009/04/02(木) 20:26:10 ID:2dxtJFfK
小早川の『日ノ本の国は西方は隆景に東方は家康に任せれば安泰』とか
立花の『東に本多忠勝あれば、西には立花宗茂あり』とか
ラスボスの人の褒め方って二人の人間を対にした形で褒めてるよね
あの人なりのリップサービスのポリシーでもあるのかしら。
391人間七七四年:2009/04/02(木) 20:34:38 ID:M8bkvCfJ
立花宗茂の人望

幼少時から頭角を現し道雪に見初められ父、紹運と奪い合い
九州征伐時、宗麟が優秀だからと大名として取り立てるよう秀吉に推挙。秀吉に鎮西一と評される
主家の旧敵の小早川隆景を義父、小早川秀包と義兄弟となる
小田原の陣に出陣、本多を引き合いに出され西国無双と評される
関が原の折、乗り合わせた旧敵島津義弘と友誼を結ぶ
知行やるから薩摩に一緒に来いと誘われる
領地に帰ると柳川城は攻められ落城したが義弘が援軍送ってきた
改易し城から去ろうとすると農民に「戦の手伝いするから行かないでくれ!」と嘆願される
浪人時、清正、利長から誘いを受ける
乞食同然になっても付いてくる家臣団
秀忠に召抱えられ大名に復帰、元の土地に戻る
幕府に重用され将軍と頻繁に随伴しているのを目撃されるようになる
天草一揆で出陣、武神再来と羨望の眼差しを向けられる

忠興
「なんでそんなに人望あんの?秘訣は?」
宗茂
「特にありません」
この後忠興も尊敬の念を強くしたとか

秀吉とは違った天然人たらし
392人間七七四年:2009/04/02(木) 20:36:31 ID:VrqMC8hi
基盤を持たない人間は配下の均衡の上で立つのは常套手段だからね
393人間七七四年:2009/04/02(木) 21:25:38 ID:EaGjw0Hp
>>387
偵察はそういう下手な自己解釈をいれず見たままの情報を伝えるのが大事なんじゃ…とも思う
信長的には「言われた事しかできないのか貴様!」と怒りそうだが
394(品の)悪いいい話 1/3:2009/04/02(木) 21:41:32 ID:cxu7Rm6Z
ある日、厠に篭もっていた加藤清正が大声で言った。
「誰かある!庄林隼人を呼べ!」

急いで重臣・庄林隼人がまかり出たが、清正はそのまま厠の中から命じた。

「お主を呼んだのは、他でもない。お主の中間に、出来助という者がいるはずだが、
あれは、非常に心がけが良い。

以前、わしがお主と外出した時、他の者が脚絆に足袋を着けて来たのに、出来助のみ
脛当て、鎖帷子を着けておった。

近ごろは少々平和になったとて、みな身辺の用心を怠っておるのに、感心であると
その時は思ったが、いつの間にか忘れていた。

今、ここで頑張っていたら、ふとその事を思い出したので、忘れぬうちに伝えておく。
さっそく出来助に褒美をやり、家中に手本と致せ。」


『清正の長雪隠』は当時有名だったが、たびたびこうした事があったという。
395(品の)悪いいい話 2/3:2009/04/02(木) 21:42:53 ID:cxu7Rm6Z
『親指武蔵』新納忠元は、生涯に18回、自身で槍を取っての一騎打ちを行なった。

とある一騎打ちの際、敵もさるもの、なかなか勝負がつかなかったが、
突然に思い立った忠元は叫んだ。

「あいや、待った!!」
「どうした、新納武蔵ともあろう者が臆したか!」

「いや、まさしくその臆することよ!このように激しき勝負の時、腹の据わらぬ者は
キ○タマが縮こまり、股まで引っ込むと聞いた。今、まさにこの時、己を試さん!!」

忠元は、いきなり自分の内股をまさぐり始めた。

「・・・ある。引っ込んでおらん!がはは、やはりワシは臆病者ではないわ!!」
「・・・・・・満足した?」
「おう、では再開するか!!」

これで勝負の流れを引き寄せたか、なおも打ち合った末、忠元は敵を突き伏せた。
396(品の)悪いいい話 3/3:2009/04/02(木) 21:43:54 ID:cxu7Rm6Z
賤ヶ岳七本槍のひとり平野長泰は、ツキがないのか地味な人柄ゆえか、
他の七本槍が大名にのし上がったのに引き換え、秀忠の旗本に留まっていた。

ある日、長泰は細川家に使者として向かった。
当主・忠興は、かつて秀吉のもとで共に馬を並べた男に、親しく声をかけた。

「長泰殿の武勇、日の本に隠れも無きこと、このオレはよーく知っておる。
それほどの武辺者が、今のような少ない禄で召し抱えられるとは残念至極!
さぞや不自由・ご不満がおありだろう。

・・・長泰、いやさ権平殿、どうだろう、わが家中に来てくれれば、今の倍の知行は
くれてやれるのだが・・・?」

長泰は無言で立ち上がり、縁側に出ると仁王立ちして、前をくつろげた。


ジョボ ジョボ ジョボ ジョボ ジョボ ジョボ ジョボ ジョボ ジョボ


「お手前の家中になっては、『 コ レ 』が、でき申さぬわい。」 (´∀`*)スッキリ
397人間七七四年:2009/04/02(木) 21:52:38 ID:xtGasogd
平野の話はなんかホッとするなー
聖人でも大人物でもない、生の人間って感じだ
398人間七七四年:2009/04/02(木) 21:58:20 ID:Ey6UwGgh
>>395の人の豊後侵攻時に戦ったとかその後>>391の人に仕えて朝鮮行ったとかうちのご先祖様意外に凄いかもしれん…
399人間七七四年:2009/04/02(木) 22:00:33 ID:MGE5lSlW
忠興の配下になるのが・・・ゲフンゲフン
400人間七七四年:2009/04/02(木) 22:13:34 ID:ip0lVo5p
九州の武蔵の方はまともだと思ってたんだがどうやら気のせいだったようだ。
401人間七七四年:2009/04/02(木) 22:14:11 ID:pnsiIxOx
たしかに忠興の配下になって立ち小便でもしようものなら・・・
402人間七七四年:2009/04/02(木) 22:15:51 ID:2dxtJFfK
関ヶ原から退却中の義弘に会ったときに
家臣から「今こそ父上の仇を!」と言われても
「いや、その事は太閤殿下のとりなしで水に流したのだ」と
却って助成を申し出たりとか。

宗茂さんは男前過ぎるな
403人間七七四年:2009/04/02(木) 22:25:56 ID:5p/YPoDq
>>400
あえて奇行をやって見せ敵の闘志を削いで勝ちを拾った
百戦錬磨のデ新納だからこそできる秘策




…と思いたい
404人間七七四年:2009/04/02(木) 22:26:27 ID:rzSlV/b7
天下無双の親不孝と呼ばれ、
身内を次々粛清していった島津家久(悪)だが
叔父の歳久には懐いていたそうな。

亡くなった際には妻にあの歌を贈ったとは思えないほどまっとうな歌を贈り
最も大事にしていた娘を日置に嫁がせ、加増まで行い
梅北一揆で日置は表面上反逆者の家になったにもかかわらず
藩主直系の一門に次ぐ地位で存続させるというとても家久(悪)とは思えない処置を行っている。

そして、幕末には日置の家臣から鹿児島でもっとも有名なあの人が……
405人間七七四年:2009/04/02(木) 22:29:14 ID:2dxtJFfK
デ新納さん、自分はしょっちゅう一騎打ちをやってるんだけど
若かりし日の義弘が一騎打ちをしたときには
勝って帰ってきたにもかかわらず
『あんたがそんなこと軽々しくやっちゃダメでしょ!』
と殴りかからんばかりの勢いで泣きながら叱ったそうな。

いずれは当主(義久)の片腕になる立場なんだから
自重しなさいってことだったのかな。
406人間七七四年:2009/04/02(木) 23:08:33 ID:DIafi7f9
>>391
それなんてエロゲの主人公?
407人間七七四年:2009/04/03(金) 00:04:00 ID:g/xc/rZc
秀吉に歳久殺せと命じられたとき、九州征伐時から溜まってた鬱憤が爆発して
明と通じて島津と明で秀吉挟撃しようとしたって話聞いたことあるな。2ちゃんでだけど

宗茂は家久(悪)とも親交があったみたいだな
生活力ないけど人に好かれる出来た人だったんだろう
嫌ってる武将を知らない
408人間七七四年:2009/04/03(金) 00:20:53 ID:aJIkn23/
>>407
宇喜多秀家とはあんまり仲良くなかったみたいだよ
朝鮮出兵で、蔚山城の加藤清正を助けに行く!と宗茂が名乗り出た時
秀家に「立花は小勢だから仮に全滅しても日本軍的には痛くないね」とか言われたらしい

ちなみに上の発言は「立斎旧聞記」ではちゃんと秀家の発言になってるそうだが
何故か小早川秀秋の発言として取り上げられる事もある
409人間七七四年:2009/04/03(金) 00:24:37 ID:HQHW9Rlr
秀秋朝鮮で活躍したのにそりゃねーわ
410人間七七四年:2009/04/03(金) 00:26:31 ID:lxF5cfWL
生活力はないけどジゴロは出来そうだなw
敵だった奴と瞬時に仲良くなれるってのは地味に凄い所だよな。
性格的に大河向けだと思うんだがなぁ。
411人間七七四年:2009/04/03(金) 00:40:50 ID:nJOH+422
>>410
戦歴的にNHK向けじゃない。
412人間七七四年:2009/04/03(金) 03:58:29 ID:yPLIWp7Z
>>411
民放だったらなおの事無理そうだな
413人間七七四年:2009/04/03(金) 04:06:39 ID:PKjR83yd
>>408
とはいえそれすら「秀家はまだ若いから仕方ないね」とさらりと流す大人な対応
・・・しかしこの時秀家26歳。戦場経験の少なさを若いと評したんだろうけど、もしかしたら遠回しに言い返しているのかもしれん

真面目な話、あの小早川に「立花の3000は他家の10000に値する」なんて言わせたのは凄いわな
414人間七七四年:2009/04/03(金) 09:29:12 ID:3IoLrvd+
又兵衛桜が見ごろの季節ですね

有名すぎる逸話ですが
石田三成捕縛、そして各大名とのやりとり
関ヶ原敗戦後、捕縛され、大津城の入り口で
さらし者にされていた石田三成公

(ケース1:黒田長政)
その前を黒田長政が通りかかりました
「勝敗は天運とはいえ無念でしたなあ」と下馬し羽織をかける

(ケース2:細川忠興)
その前を細川忠興が通りかかりました
声もかけず、目もくれず通り過ぎていきました

(ケース3:市松)
その前を福島正則が通りかかりました
「無益な戦乱をおこし、このようなありさまか
 これが五奉行として権勢を振るったなれのはてか」
と罵ると
「勝敗は天運、お前を生け捕れなかったのが残念だ」
と三成に罵り返された

(ケース4:藤堂高虎)
まとめサイトをご参照下さい

(ケース5:秀秋)
三成がさらされてる!とこそこそ見に行った金吾
忠興の制止を振り切り、城門から覗いた
すると、三成
「日本国中を見渡したとて、金吾ほどの卑怯者があろうものか!
 忘恩の徒がっ!内股膏薬めがっ!」
と罵り、金吾は赤面して立ち去った

415人間七七四年:2009/04/03(金) 10:23:08 ID:f5bhIlJ0
>>391
宗茂「秘訣は、いたずらに家臣を手打ちにしないことです」
416人間七七四年:2009/04/03(金) 10:29:32 ID:f5bhIlJ0
>>414
緒将の人柄が出て面白い。
417人間七七四年:2009/04/03(金) 10:32:40 ID:HhB1vjCi
>ケース2
柿.....。
418人間七七四年:2009/04/03(金) 11:17:35 ID:88ziT9ga
市松のこのなんとも言えない小物感、好きだわぁw
419人間七七四年:2009/04/03(金) 11:18:58 ID:+/zy4wSM
市松の小物っぷりがww
420人間七七四年:2009/04/03(金) 11:36:52 ID:SDY6PbGA
>>414
金吾よりぎゃふんENDにみえる市松模様(パターン)を如何にすべきか...
421人間七七四年:2009/04/03(金) 11:40:46 ID:phmSD/um
小早川秀秋ほどの豪将がこんな反応するはずがない!
後世の創作ですな。
422人間七七四年:2009/04/03(金) 11:44:34 ID:SDY6PbGA
>>395-396
「おおー、なんたる見事な逸物!」
「いつ斬られるかもしれぬ時に、なんと隆々と……」

ですね
423人間七七四年:2009/04/03(金) 12:06:35 ID:VPbFyAa2
市松さんはヤブヘビな話に事欠かない
424人間七七四年:2009/04/03(金) 12:13:14 ID:FiORsTvq
市松さんそういった意味では期待を裏切らないよな
425人間七七四年:2009/04/03(金) 12:17:59 ID:OUDk2USr
信頼と安定の市松クオリティ
426人間七七四年:2009/04/03(金) 12:28:28 ID:wUSRr8l1
七将襲撃の首謀者で、一番三成を忌み嫌ってたはずの黒田長政の偽善者ぶった行為がどうにも好きになれない
427人間七七四年:2009/04/03(金) 12:51:39 ID:Zk0A/CbP
勝敗は兵家の常
個人的感情と天下の仕置きは別
勝者が敗者に礼儀を尽くすのは当然
428人間七七四年:2009/04/03(金) 12:54:24 ID:GIuXHUj1
>>426
勝者の余裕って奴だろ
きっと羽織をかけながらニヤニヤしてたんだよ
429人間七七四年:2009/04/03(金) 13:48:30 ID:OUDk2USr
>>426
そこで勝ち誇って罵られたら官兵衛以来の家臣団にまたプギャーされるだろw
430人間七七四年:2009/04/03(金) 14:16:02 ID:HT+OdULE
>>396

      /忠興\  
    /ノ( _ノ  \
    | ⌒(( ●)(●)     人んちで気軽に立ち小便すんなーッ!!!!
    .|     (__人__) /⌒l
     |     ` ⌒´ノ |`'''|
    / ⌒ヽ     }  |  |              
   /  へ  \   }__/ /             /平野\
 / / |      ノ   ノ           / ○)) ((○\’, ・
( _ ノ    |      \´       _    (   (_人_)’∴ ),  ’シズガタケー!
       |       \_,, -‐ ''"   ̄ ゙̄''―---└'´ ̄`ヽ   て
       .|                  ______ ノ    (
       ヽ           _,, -‐ ''"  ノ       ヽ   r'" ̄
         \       , '´        し/.. >>@ | J
          \     (           /      |
            \    \         し-  '^`-J

こうなりそうなもんだと思ってしまったが
いくらあの時代でも余り家主に喜ばれる行動じゃ無いとは思う
431人間七七四年:2009/04/03(金) 14:42:00 ID:sTCdOOlV
秀秋のちょっと良い話って、何かないのかね?
ま・・・無いんだろうな・・・・
432人間七七四年:2009/04/03(金) 15:07:24 ID:9KDdcSc0
難しいねえ…。おねからはダメ人間扱いされてるしさ…
433人間七七四年:2009/04/03(金) 15:41:20 ID:vRdgECCb
岡山城の外堀を20日で完成させたりと、そこそこの技量は持っていた可能性を示す
逸話もあることにはあるが…
434人間七七四年:2009/04/03(金) 15:46:59 ID:3IoLrvd+
掘るのは得意な金吾
435人間七七四年:2009/04/03(金) 15:47:23 ID:sTCdOOlV
秀吉に怒られた蔚山城救援(だったっけ?)も話としては単なる蛮勇エピソードになってて、
オイシイとこは全部他の武将に持ってかれてるしなぁ・・・・
436人間七七四年:2009/04/03(金) 15:55:52 ID:6vwyKgVp
秀秋公には松囃子の話があるじゃん
437人間七七四年:2009/04/03(金) 15:57:46 ID:/OizTQUV
>>434
うまいなw
438人間七七四年:2009/04/03(金) 15:58:51 ID:1egCG9Ra
>>436
何ソレ?kwsk
439人間七七四年:2009/04/03(金) 16:05:50 ID:9WyWu7tV
>>414
細川忠興
「まぁ、この柿でも食って元気出せよ。な。」
440人間七七四年:2009/04/03(金) 16:13:48 ID:vRdgECCb
>>439
「干し柿は、痰の毒でござる。他のものを所望いたす」
441人間七七四年:2009/04/03(金) 16:15:17 ID:f5bhIlJ0
>>434
片倉重長「我が尻は政宗様専用でございますれば・・・」
442人間七七四年:2009/04/03(金) 16:18:15 ID:af5OgbIo
>>414
そいや鳥居元忠の息子の成次は関ヶ原のあとに一時期、
親の仇である三成の身柄を預かったそうだけどその時は
「小身ながらよくぞ頑張りましたな」とまっとうな待遇をしたらしいな。
443人間七七四年:2009/04/03(金) 16:30:25 ID:5GwI3JUW
>>414
親父殺されかける
偏愛してる嫁殺される
無礼極まりない接待

忠興よくキレなかったな
444人間七七四年:2009/04/03(金) 16:33:42 ID:mBfVgbRt
ちょっとでも喋ったら斬っちゃうのを避けられないと思って無視したと見る
445人間七七四年:2009/04/03(金) 16:45:56 ID:6vwyKgVp
>>438
秀秋が小早川家の名跡を継ぎ、名島城主となった頃のこと。

秀秋は遠い筑前に一人養子に出されたことと、秀次事件のこともあり、相当に気落ちしていたらしい。
年若い秀秋(当時13歳)が物憂げな様子で毎日を過ごしていることはすぐに領民に知れ渡った。
案じた博多の町人たちは秀秋の結婚祝いと称し、臨時の松囃子(本来年始に福を祝う芸事)を仕立て
秀秋の居城である名島城へ入って彼らの結婚を祝った。

祭り好き?の町人たちの気遣いが孤独な秀秋の心を慰めたというお話。

なお、この後、博多では松囃子は城内に入ることが許されることとなり、後に領主となった黒田家にもその風習は受け継がれた。
その伝統は明治になっても絶えず、今でも博多どんたくにその姿を残している。
446人間七七四年:2009/04/03(金) 17:58:44 ID:GPrQdOUk
太閤殿下の優しさ

師走のある日、秀吉は新年を迎える為に庭の松の木を切っている幼い顔立ちの庭師を見ていた。
少しして、若い庭師の手が不自然に震えている事に気付く。
震えがあまりに続くので気になったのか、秀吉は庭師に近付いて行く。その為か庭師は手に持っていたハサミを落としてしまう。

それを見た秀吉は「急に仕事に近付いて申し訳無い。さあ、お仕事を続けなされ」と
地面に落ちたハサミを拾って庭師に手渡した。その瞬間、庭師は「父の敵!」と叫んでハサミの刃を秀吉に向けて刺そうとした。
が、秀吉は素早い身のこなしで刃を避け、手刀でハサミを落とし、警護の侍に庭師の身柄を確保させた。

捕縛された庭師は涙を流しつつも
「秀吉公の庭の手入れをする職人として従ったのも、かつて戦で自分の父を殺した秀吉公へ仇討ちするつもりだったのに…」
と、秀吉の命を狙った理由をひとしきり話した後、大いに泣いたという。

それを聞いた秀吉は「そなたは親思いじゃのう…」と一言漏らし、庭師を放免した。
また、翌年も同じ庭師が植え込みの中に隠れているのが発見されたが
秀吉は「そなたに斬られてやりたいが、そうもいかぬでな」と言い、その男に酒と金を与え
「父を思うその気持ちは、一生持ち続けてくれ」と再び放免した。
やがて庭師は修験を重ね、豊臣家の安泰を願う一人となったという。
447人間七七四年:2009/04/03(金) 18:08:12 ID:GPrQdOUk
スマソ、「急に仕事→急に仕事中の所に」と変換しておいて欲しい
448人間七七四年:2009/04/03(金) 18:26:46 ID:/eNchTJ3
山崎二休 (1554-1631)
越前出身。日本名は守三。中国伝来医術を求めて琉球に移住、王の侍医となる。1609年の薩摩侵攻では
琉球士族として戦いに加わり、首里城を守備し、一度は島津勢を撃退する。
捕らえられて処刑されかけたが、尚寧王の嘆願で助命された。
-------------------------------------------------

彼は医術をこころえた人間で、医術の腕をみがくうちに、ふとある噂を耳にします。
「南海の琉球というところは中国と交流があり、すぐれた医術の妙法がある」
これを聞いていても立ってもいられなくなった守三は故郷の越前を去り、はるばる琉球へ向かいます。
彼は港町の那覇にしばらく居住していましたが、やがてその腕を買われて王府おかかえの医者として
取り立てられます。よほど居心地が良かったのでしょうか、彼はマナベさんという女性と結婚し、
そのまま琉球に居ついてしまいます。

1609年、琉球に激震が走ります。薩摩の島津軍が琉球を襲ってきたのです。この時、守三は首里城の
西のアザナ(物見台)【写真】を守り、攻めてきた島津軍の武将・法元二右衛門の兵たちを撃退、法元も
負傷させるという戦功をあげます(医者が人を傷つけるのもどうかと思いますが…国家存亡の緊急時には
そうも言ってられなかったのでしょう)。

しかし彼の奮戦もむなしく琉球は降伏、守三も捕らえられてしまいます。彼に傷を負わされた武将の法元は
守三を問い詰めます。「お前は日本人なのになぜ敵対したのだ」と。守三は答えます。「たしかに私は日本の
漢(おとこ)である。しかし琉球へ来て国王に仕え厚い恩恵を受けたのだ。たとえ処刑されても悔いはない」と。
そして彼がまさに処刑されようという時、尚寧王は島津軍の兵に私財の宝物を与えて買収し、守三は命を
助けられたのです。

目からウロコの琉球・沖縄史
がんばれ移住者山崎さん
ttp://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2005/09/post_b8d8.html
島津軍の琉球侵攻(3)
ttp://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/01/post-62d7.html
449人間七七四年:2009/04/03(金) 19:19:27 ID:4ZqeBalj
450人間七七四年:2009/04/03(金) 20:18:33 ID:LQYxQxdu
>>414
>>443
三成にキレなかった事もだけど、
空気読んで金吾を制止する忠興に驚いたw
451人間七七四年:2009/04/03(金) 20:39:09 ID:beQrgBJI
>>414
逸話だから嘘もあるんだろうけど
小早川は「裏切った」という見方があるからなんだろうけど
裏切られるような又は裏切られないような下準備を出来なかった自分の無能さはどうなんだろうかと思う
452人間七七四年:2009/04/03(金) 20:50:03 ID:g/xc/rZc
三成自身は総大将じゃないし
453人間七七四年:2009/04/03(金) 20:54:10 ID:LQYxQxdu
大谷吉継が三成の性格や人望を危ぶんで
「TERUさんや宇喜多のスイマーさんあたりを総大将にして
 お前さんは裏方に徹しなさい」
って忠告してくれたんだよね。
454人間七七四年:2009/04/03(金) 21:06:06 ID:tAIfdnOS
>>391
昨日のレスにあれなんだが・・・
>幼少時から頭角を現し道雪に見初められ父、紹運と奪い合い

奪い合いとかあからさまな嘘書くなよ
455人間七七四年:2009/04/03(金) 21:55:51 ID:rsiQGFxT
意味不明な一文だし
普通はスルーするだろ
456人間七七四年:2009/04/03(金) 22:09:19 ID:G8OOfONN
>>454
まあ、宗茂の婿入りは結構壮絶な逸話が有るし、
そう言う認識もアリかな。その逸話については
またいずれ時間が有る時に書きたいと思ってます。
貴方が知っているなら、お先にどうぞ。

>>391に類似の話として、
ある時、細川忠興は立花宗茂に尋ねた。
「貴殿の家中は殊の外結束が強いと伺いました。余程、家臣
の管理が行き届いておられるようですが、なにか秘訣が有る
のでしょうか?」
宗茂はしばし考えて、答えた
「秘訣という物はありませんが、わが家中には家臣を見張る
監査役を置いておりません。なぜなら私は寝屋で妻との睦言
も全て家臣に、仔細を洩らさず話します。私が秘密を持たぬ
ので、家臣も秘密は持ちません。皆がお互いを疑わないので
自然と結束が強くなるのでしょうな。」

秘密を持たぬ戦国大名…それをまっとう出来たのは、宗茂自身の
稀有な人望の成せる業であったのかもしれない。
457人間七七四年:2009/04/03(金) 22:19:54 ID:WbKyipFl
宗茂って完璧に書かれることが多くて、普通なら完璧すぎて愛着がでないんだけど、
本人が天然な人柄っぽいからつい惹かれてしまう。
能力も大事だけど、人柄も大事だなと上ででた嫌われ者の三成さんと見比べると
しみじみ感じるなw

>>456
まとめになかったっけ…?気のせいならごめん
458人間七七四年:2009/04/03(金) 22:19:55 ID:QU4jmRIX
459人間七七四年:2009/04/03(金) 22:39:47 ID:88ziT9ga
TERU「関が原じゃ酷い目にあったけど、やっぱり生きてこそだお」
460456:2009/04/03(金) 22:52:50 ID:G8OOfONN
ごめんなさい。まとめにありましたね。
前に書かれた方、お気を悪くされたら申し訳ございません。
461人間七七四年:2009/04/03(金) 23:16:21 ID:luwcxnEo
春だなぁ
462人間七七四年:2009/04/04(土) 00:06:26 ID:yCSOTxks
むしろこのくらいのことでその台詞を吐く方がいかがなものかと
463人間七七四年:2009/04/04(土) 00:07:36 ID:DLBgEgFn
そらギン千代とも仲が悪くなるよ
464人間七七四年:2009/04/04(土) 00:11:10 ID:md0416VU
道雪さん存命中からピロートーク筒抜けだったのかしら。
465人間七七四年:2009/04/04(土) 06:50:34 ID:Y8AcMiMM
>>414
ここに虎ノ助がいたらどうしただろうか?
といつも考えてしまう
466人間七七四年:2009/04/04(土) 07:35:33 ID:cBW9UUIA
>>465
市松と長政の中間くらいかな?
もしくは何も言わず立ち去るか?
唐入りん時の恨みつらみがあるから黙殺はしないかな?
467人間七七四年:2009/04/04(土) 08:16:23 ID:Y8AcMiMM
>>市と長政の中間
罵りながら羽織をかけてあげるんですね

なんというツンデレw
468人間七七四年:2009/04/04(土) 10:10:20 ID:jfj7LHGd
有名な逸話だが過去ログに載っていないようなので。

関ヶ原の合戦のおり、石田三成本陣が崩壊し、東軍が勝利を収めつつある戦場においてである。
満身創痍でふらふらと彷徨っている西軍の一人の武者が、長政の側を通りかかった。
長政の遠い親戚であり、西軍宇喜多秀家の重臣でもあった明石全澄である。
明石はキリスト教徒であったから、腹は切れず誰かに討たれるのを待っていたのかもしれない。
長政も父孝高に誘われて若年の頃はキリシタンの洗礼を受けたことがある。
その長政、大声で明石を呼び止めると、少し躊躇ったが家臣に幕をはらせて明石の周囲を囲い、保護、
密かに新たな知行地福岡まで誘い匿うこととなった。
福岡に帰ったものの家康のことは気になる、難癖付けられ折角の大封をふいにされたは、
と追い出そうとするが父如水に、大の男が臆するな、と叱られそのまま庇ってなんとか数年をやり過ごした。

明石全澄はこの不思議な縁で一命を救われ、後に大阪の役では城方としてキリスト教のために戦うこととなった。
そこでは直接矛を交えなかったが,徳川方として夏には長政も参陣している。
有名な合戦屏風絵図にも、大阪方大野張治房らのやや後方、旗指物に十字架を描いた部隊を描かせている。
あれが明石ではなかろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:The_Siege_of_Osaka_Castle.jpg

469人間七七四年:2009/04/04(土) 10:40:35 ID:ZQzJLP0T
>>467
この慮外者が!せいぜい暖かくしてこれ以上みっともない姿を晒さぬようにするがよいわ!と羽織を、かw
470人間七七四年:2009/04/04(土) 11:34:18 ID:7RIE2f+U
>>459
あなた中央の主戦場で大人しくしてたけど
九州わやにしてたじゃないですか……

まあ減封されても家を残したからよかった方か
471人間七七四年:2009/04/04(土) 14:08:40 ID:bNsp1PBr
加藤清正、薩摩の面々に感動したりびびったり

感動した話

朝鮮の陣中では厳しい寒さから凍死者や病人が続出していたが
なぜか島津の陣営だけは凍死者が出たという話を聞かなかった。
南国の人達だから真っ先に根を上げると思ったのに…

不思議に思った清正が軍議にこぎつけて陣中を覗いてみたところ
義弘をはじめ、大将も兵卒もみんなで陣の中央に置かれた
大囲炉裏を囲んで温まっていた。

驚いた清正がこっそり島津の下人に尋ねてみると
「うちの殿様は夜中3度ずつは各陣をお廻りになり、
 火気が乏しくなって居らぬかと自らお指図されるのです。
 特に寒さの厳しい夜は上下同様にお粥を頂かれ
 寒気を防ぐことは殿様も我々も変わることはございません。
 おかげさまで一人の病人も出さずに済んでおります。」
とのこと(先公遺徳)。

自分を特別扱いせず
一兵卒と常に共にある義弘に清正は非常に感動したとか。
472人間七七四年:2009/04/04(土) 14:10:33 ID:bNsp1PBr
びびった話

関ヶ原で西軍が敗北した、との報を受けて薩摩はおおわらわ。
(この時点では義弘はまだ生死不明の扱い)
九州方面の東軍への対応を迫られることになった。

肥後の加藤と対峙するになったのは鬼武蔵こと新納忠元だが
兵力不足は如何ともし難い。

そこで鬼武蔵さん、残された女子供の士気を高めるために数え歌を考えた。
数え歌と言っても忠良や義久の「いろは歌」のようなお行儀の良い歌ではない。
たとえばこんな感じ。

1番
 一つとや、肥後の加藤が来るならば、焔硝肴に団子会釈、
 それでも聞かずに来るならば、首に刀の引き出物。
 ※団子=鉛の団子=弾丸の意

10番
 十つとや、咎なき敵を法もなく、殺さば後の罪作り
 弱き加藤はそのままに、いざや仁愛加えおけ

最初は「肥後の加藤勢が攻めてきたら鉄砲に刀で出迎えてやれ」という挑発的な歌だったのだが
10番になる頃には「あいつら弱いんだから丁重に扱ってやれ」とおちょくるような内容になっている。

こんな感じの数え歌を10番まで作って地元の女子供に歌わせたもんだから士気は大いに上がり、
「薩摩に残っているのは女子供だけだろう」と侮っていた清正も考えを改めて出陣を考え直した。
これが功を奏して義弘帰還後の体制の立て直しの時間稼ぎになったとか。

和歌を歌いながら合戦したり、巧みな返歌で細川幽斎に褒められたりしている鬼武蔵だが、
彼の教養はこういうことにも活かされていた。
(口が悪いだけとか言わないように)
473人間七七四年:2009/04/04(土) 14:24:00 ID:Zes1NvrU
関が原で清正と対峙ってその時はもう家康や義弘でも爺さんなのに親指武蔵いくつだよ…
474人間七七四年:2009/04/04(土) 14:54:38 ID:bNsp1PBr
>>473
マジレスすると74歳。
朝倉宗滴並に生涯現役を地で行く人。
475人間七七四年:2009/04/04(土) 16:24:04 ID:2kVU+Uih
蒲生氏郷が常に言っていた事である。

軍勢を戦場において使う場合、ただ「懸かれ懸かれ!」と下知するだけでは、
兵もかかっていくものではない。

大将自身がその場に至って、「ここに来い!」と言えば、大将を見捨てる者は流石にいない。
大将が後方にいて、ただ士卒にかかれと言うだけでは、かかることは出来ない物だ。


ちなみに氏郷は新たに人を抱える時、その者に必ず、こんなことを言ったそうだ。

「わが家では銀の兜をかぶる侍が、いつも一番に乗り出して、他の者に先立って働いている。
この男を討ち取らせないように槍稼ぎをするのだぞ?」

銀の兜とは勿論、氏郷の有名な、鯰尾の銀兜の事である。
コレ→ttp://www.yoroi.co.jp/gazou/topics/2007/gamou/main2.jpg

そんな、いかにも氏郷らしい、大将の(?)心得。
476人間七七四年:2009/04/04(土) 16:55:34 ID:kcamU/sW
同じ鯰尾でも守銭奴の彼とは大違いですね。
477人間七七四年:2009/04/04(土) 17:54:33 ID:c5EP2rXJ
>>475
氏郷、かっこいいな。さすが、降将の人質なのに、信長が「ただ者ならぬ目をしている」と言って、
自分の娘の冬姫を与えて、義理の息子にしただけの事はあるな。信長も、見る目が有ったって事だな。

また、秀吉が恐れて、「奥州を抑えるには、彼でなくては」と、会津に大封を与えて、遠ざけただけのことはあるな。
秀吉も、氏郷がそれだけのすごい器量の持ち主だって事は、分かってたんだな。

しかしその兜は、重くて動きにくそうだな。ほんとにそんなものを被って戦えたのか?
478人間七七四年:2009/04/04(土) 18:12:01 ID:nyjNS644
>>475
利家「金箔張りてぇええええええええ!!!!!」
479代理:2009/04/04(土) 19:06:01 ID:HooAxe59
>>475


757 :いやあ名無しってほんとにいいもんですね :2009/04/04(土) 15:51:02 発信元:218.133.160.74
【依頼に関してのコメントなど】よろしくおねがいします
【板名】戦国時代
【スレ名】戦国ちょっといい話8
【スレのURL】http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1237483814/
【名前欄】
【メール欄】sage
【本文】↓
蒲生氏郷が常に言っていた事である。

軍勢を戦場において使う場合、ただ「懸かれ懸かれ!」と下知するだけでは、
兵もかかっていくものではない。

大将自身がその場に至って、「ここに来い!」と言えば、大将を見捨てる者は流石にいない。
大将が後方にいて、ただ士卒にかかれと言うだけでは、かかることは出来ない物だ。


ちなみに氏郷は新たに人を抱える時、その者に必ず、こんなことを言ったそうだ。

「わが家では銀の兜をかぶる侍が、いつも一番に乗り出して、他の者に先立って働いている。
この男を討ち取らせないように槍稼ぎをするのだぞ?」

銀の兜とは勿論、氏郷の有名な、鯰尾の銀兜の事である。
480人間七七四年:2009/04/04(土) 19:48:52 ID:3zucUYk4
鯰の他にも燕かぶってなかったっけ、蒲生さん。
動物好きなんかな。
481人間七七四年:2009/04/04(土) 20:14:06 ID:xGJZ1NGY
>>474

一栗放牛「生涯現役とはわしの事であろう?」
482人間七七四年:2009/04/04(土) 21:45:05 ID:caPvc1HF
>>478
とっしー
自重
483人間七七四年:2009/04/04(土) 22:06:19 ID:bNsp1PBr
>>481
誰かと思ってググッたら…
すげえな、その人。
484人間七七四年:2009/04/04(土) 22:58:13 ID:Ezyumcee
三好政勝だっけ? 大坂の陣で大坂方について80歳で戦死した武将って。
485人間七七四年:2009/04/04(土) 23:16:01 ID:bNsp1PBr
生涯現役とか戦国のご長寿と聞くと
朝倉宗滴とか北条幻庵とか真田信之あたりを思い浮かべるんだけど
まだまだすごい人たちがいるんだねぇ。
486人間七七四年:2009/04/04(土) 23:47:31 ID:kcamU/sW
>>477
兜の飾りは大抵、桐や和紙などの軽い素材。
まとめスレでも乗ってるけれど、
我らが忠興公も言っておられる。
丈夫な素材で重い兜かぶって武者働きが出来ないようでは本末転倒、と。
487人間七七四年:2009/04/04(土) 23:47:43 ID:Dh4HhssV
あと吉川家にもすげぇ爺さんいたよな。山名宗全とまともにやりあったそうだし
488人間七七四年:2009/04/04(土) 23:59:29 ID:3Te7vby3
立花道雪は74歳で陣没
島津義弘なんて84歳まで生きてる…
489人間七七四年:2009/04/05(日) 00:05:43 ID:ldk1B3EH
一栗放牛…
信長の野望じゃ、人員不足の東北だとけっこうお世話になるぜ。
490人間七七四年:2009/04/05(日) 00:05:58 ID:pzOsOo6d
>>487
kwsk
491人間七七四年:2009/04/05(日) 00:51:15 ID:+a2Txwah
>486
利長「軽くなけりゃオレの兜なんて維持不可能だろ〜?」
492人間七七四年:2009/04/05(日) 01:11:47 ID:/kXsDtAe
一栗放牛は丈夫で長持ちの見本だよな。
山名の垣屋続成も80近くで自刃だし。
493人間七七四年:2009/04/05(日) 01:23:31 ID:8lEtZVwb
tes
494人間七七四年:2009/04/05(日) 01:46:39 ID:cHvBpML7
昔は早死に、なんてのは実は誤解なんだよな。
乳幼児死亡率が平均寿命をひっぱっているだけであって、
信之兄ぃみたいな矍鑠とした人も結構いるんだよね。
江戸時代はご長寿さん現役役人を祝おうとしたけど、数が多すぎて断念したなんて
話があったほどでw 90超えても隠居しないスーパーじいさん役人もいたとか。
495人間七七四年:2009/04/05(日) 02:19:08 ID:hoqnN2RJ
しかし信之は子供らの寿命を過信していたのではないだろうか(´・ω・`)
496人間七七四年:2009/04/05(日) 03:28:54 ID:L/fdPqrO
元就も子供の寿命…というか隆元の寿命を過信してたかもしれん。
497人間七七四年:2009/04/05(日) 05:48:30 ID:DVBiuz0I
氏郷と宗茂は完璧超人だな
498人間七七四年:2009/04/05(日) 07:20:25 ID:OLZ6p7MI
>宗茂
種無しなのが唯一ぬにの欠点だった、あの時代ではそれは痛すぐる
499人間七七四年:2009/04/05(日) 07:23:56 ID:YQrDWa3V
滝川一益の家臣に、下津次郎右衛門と言う者がいた。
この人、武功を称えられた感状を、2枚も持っている勇者であった。
彼は滝川没落の後、松平忠明に仕えた。

ある時、この下津の所に客人が来て、感状とはどんなものか、是非見せてほしいと言った。
しかし津田は
「昔の感状なんて、役に立つもんじゃないよ。それにどこにやったか…
古いものをまとめてある所に、まぎれてると思うんだけど…。」

そこで津田の女房が古物入れの中から探し出してきて、客の前に出した。

客、下津が感状を、あまりに大切にする気配が無いので思い切ってこう尋ねた
「もしよかったら、この感状、1枚頂けませんか?」

すると下津、「いいよー」と、簡単にこれを与えてしまった。

感状を持ち帰った客は、この事を色々な所で話したため、たちまち世間に広まり、主君松平忠明は
「1,2枚の感状に拘らないとは、流石は下津次郎右衛門」と、感じ入り、二百石を加増したそうである。

才能と言うか自分への自信というか、そう言うものをもっている人は、今も昔も強いなあ。
そんな事を思ってしまうお話。
500人間七七四年:2009/04/05(日) 10:09:43 ID:MDzQTnmy
吉川家もなにげに長寿だな。
吉川 経基 93歳(1428〜1520)→応仁の乱で山名宗全と戦った人。82歳で家督を譲る
吉川 国経 89歳(1443〜1531)→毛利元就の舅
吉川 元経 63歳(1459〜1522)→親より先になくなったため、子供が家督を継ぐ

501人間七七四年:2009/04/05(日) 10:37:17 ID:OLZ6p7MI
63まで生きているのに元経が早死にに見えてしまう不思議w
502人間七七四年:2009/04/05(日) 11:21:35 ID:xHdKYiJx
>>499
何気に悪い話なんだよな〜
感状ってのは公文書だから無碍に扱う事は旧主への礼を失する事になる
忠節の道筋からすれば軽薄ととられかねない
感情が公文書であるが故に再仕官に際しては強みになるんだし
保管していた妻は間違いなく良妻
503人間七七四年:2009/04/05(日) 12:22:49 ID:G7oWEhV/
>>498
秀吉・秀長兄弟の最大の欠点ですよね
504人間七七四年:2009/04/05(日) 12:33:18 ID:TxOwsyww
戦国時代に興味のない人間にもその名は知られている武田信玄。
しかし、その弟、武田信繁について知っている人は今では残念ながら少数派だろう。
この弟、江戸時代には「まことの武将」として広く称えられていた本物の侍である。
日本が世界に誇れる文化「武士道」が思想哲学としても確立された江戸時代において、
武士たちに、本物の武士の心得として読み継がれてきた「武田信繁家訓」の作者でもある。
その武将としての行いは在世の時から、敵味方問わず賞賛されていたという。
永禄四年九月十日第四次川中島合戦で討死したときには、兄信玄はその遺体に抱きつき号泣し、
敵方の上杉謙信も「惜しい男を亡くした…」と残念がったという。

その他にも今に伝わる話として、
・豊臣秀長が兄秀吉に仕えるにあたって参考にしてのが信繁だと言われている。
・江戸時代の儒学者、室鳩巣に、聖賢(儒学、儒教の理想的な人物)として称えられている。
・その著書「武田信繁家訓」は現代でも現代訳が入手でき読み継がれている。
・在世時代に信濃統治に能力を発揮していたことから、信濃国人衆にも信頼されていたようである。
その証拠として信繁討死後には信濃国人衆の反乱が頻発するようになったという。
信濃でも認められていた話として、真田幸村の本名信繁は、武田信繁にあやかろうとつけたと言われている。
505人間七七四年:2009/04/05(日) 12:43:43 ID:EJFJcow2
>>504
信繁「テンキュー…いや、Thank You!」
506人間七七四年:2009/04/05(日) 12:53:21 ID:4oBo3PM0
>>484
三好政康(清海)の方じゃね?88歳まで現役負け

政勝は徳川の旗本なって90幾つまで生きた弟だったような
507人間七七四年:2009/04/05(日) 15:12:56 ID:OBmR8EO/
最高齢で出陣したのは、龍造寺家兼かな?
508人間七七四年:2009/04/05(日) 15:12:57 ID:HSFp1G+n
堺の鞘師、曽呂利新左衛門が、初めて秀吉に謁見した時の事。

秀吉が「お前の姓名は何と申すか?」と聞けば、「わたくしは曽呂利新左衛門でございます」と答える。
「ははぁ、又奇妙な姓もあるものだな。その曽呂利という姓には何か所以でもあるのか?」
と「別にございません。ただ、わたくしの拵えた鞘は堅いもので、刀が”そろり”と入るように
なっております。そこから『曽呂利」と呼ばれるようになりました。

と申し上げた

これに秀吉、面白い事を言うやつだ、又来るようにと言った。
そして後日、再び謁見したが、秀吉のほうでは曽呂利のことを忘れていたらしく
「お前の姓名は何と申すか?」と、初対面の時と同じ問いを発した。

これに新左衛門「わたくし、曽呂利曽呂利新左衛門新左衛門でございます。」と答えた。

秀吉は怪訝そうに、「何故に名前を重ねるか?」と問えば、新左衛門

「殿下は先日私の名を問われ、又今日も重ねて名を問われました。
そこで殿下の重ね問いの意に従いまして、同じく重ね言葉で答えたのでございます。」

秀吉、この答えを気に入り、彼をお伽衆に加えたのだとか。
509代理:2009/04/05(日) 15:14:22 ID:KLkxJ2mX
>>499


963 :いやあ名無しってほんとにいいもんですね :2009/04/05(日) 07:15:12 発信元:218.133.160.74
【依頼に関してのコメントなど】よろしくおねがいします
【板名】戦国時代
【スレ名】戦国ちょっといい話8
【スレのURL】http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1237483814/
【名前欄】
【メール欄】sage
【本文】↓
滝川一益の家臣に、下津次郎右衛門と言う者がいた。
この人、武功を称えられた感状を、2枚も持っている勇者であった。
彼は滝川没落の後、松平忠明に仕えた。

ある時、この下津の所に客人が来て、感状とはどんなものか、是非見せてほしいと言った。
しかし津田は
「昔の感状なんて、役に立つもんじゃないよ。それにどこにやったか…
古いものをまとめてある所に、まぎれてると思うんだけど…。」

そこで津田の女房が古物入れの中から探し出してきて、客の前に出した。

客、下津が感状を、あまりに大切にする気配が無いので思い切ってこう尋ねた
「もしよかったら、この感状、1枚頂けませんか?」

すると下津、「いいよー」と、簡単にこれを与えてしまった。

感状を持ち帰った客は、この事を色々な所で話したため、たちまち世間に広まり、主君松平忠明は
「1,2枚の感状に拘らないとは、流石は下津次郎右衛門」と、感じ入り、二百石を加増したそうである。

才能と言うか自分への自信というか、そう言うものをもっている人は、今も昔も強いなあ。
そんな事を思ってしまうお話。
510人間七七四年:2009/04/05(日) 16:24:21 ID:JEh6k7e9
このスレの無駄遣いは何の意味があるんだろう・・・


伊達さんちの鬼庭(茂庭)の家系も確か長寿だったよね。
良直が人取り橋で討ち死にしたの確か75かな?
それで200も首を取ったつーんだから、
この時代の老人は老人じゃねぇ・・・
511人間七七四年:2009/04/05(日) 16:26:29 ID:HSFp1G+n
>>510
いろんな所でマルチしてる荒し>509
スルー推奨
512人間七七四年:2009/04/05(日) 17:24:46 ID:L/fdPqrO
単に長生きしてるだけじゃないとこがすごいよな。
戦国時代なんて時代に生まれて戦場を往来して
高齢を全うしてるんだから。

金森長近なんて82歳で子供作ってるし。
513人間七七四年:2009/04/05(日) 18:36:40 ID:yP04JZhP
知恵伊豆こと松平信綱は子どものころから徳川家光と一緒だった。
ある日、十一歳の信綱こと長四郎と家光こと竹千代は仲良く遊んでいた。
竹千代は父・秀忠の寝所の軒端に雀の巣を見つけ、その中のひなを欲しがった。

竹千代「我はあのひなが欲しい。長四郎、取って参れ。」
長四郎「無理ですよ、あんな所まで届きっこありません。」
側近A「今の内に場所を覚えといて、親雀が眠った隙に
    屋根づたいに登れば取れるよ。大人は重すぎる
    けど、お前ならできるって。」
長四郎「しょうがないなぁ・・・。」

夜になって長四郎は寝所の上に登り、手を伸ばして取ろうとしたが・・・

長四郎「もうちょっと、もうちょ・・・うわ―――!!!」

ドシーン!

秀忠「む、何事!」

驚いた秀忠と妻の於江与が駆けつけると落っこちた長四郎がいた。

秀忠「こら長四郎。こんな所で何をしている。」
長四郎「ひ、昼間に見つけた雀のひなが欲しくて
     取ろうとしたら落ちてしまいました。」
秀忠「見え透いた嘘をつくな。黒幕は誰だ?」

しかし長四郎は自分の独断だと言い張るので秀忠は
嘘をつくとはけしからん、と怒り大きな袋に長四郎を
入れ、口を閉じて柱に掛けてしまった。於江与は竹千代の
仕業に違いないと思っていたのでこっそり食事をさせて、
また長四郎を袋に戻した。

次の日になっても長四郎は同じ答えを繰り返した。
さすがにこれ以上は可哀想だ、と於江与は思った。

於江与「もういいじゃないですか。許してあげましょうよ。」
秀忠「於江与がそう言うなら・・・。長四郎、もうこんなことはするなよ。」

こうして秀忠は於江与にめんじて長四郎を許し、袋から出したのであった。
その後、秀忠は於江与に

秀忠「長四郎が今の心を持ち続けてくれれば、
   将来、竹千代にとって一番の忠臣になってくれるだろう。」

と語ったので全てお見通しだったようである。

秀忠が信綱の忠心を試した話、かな?
514人間七七四年:2009/04/06(月) 04:08:05 ID:3qNOBVTK
この中だと渡辺幸庵(130歳)が最年長か?
生まれが天正10年(1582)だから他の武将と比べたら若造もいいとこだが。
515人間七七四年:2009/04/06(月) 04:13:55 ID:mZo7OgO8
朝鮮役のころ

日野備中守が朝鮮に使いとして行く時、黒田如水に銀百枚を借りた。

さて、日野が使いの役目を果たし帰国した後、如水の元を尋ねると、如水は近習の者に

「まえに人からもらった鯛があっただろ?それを三枚に捌いて、その骨を煮て
もてなすのだ。」と言った。

日野はこれを聞き、「なんという甚だしい吝嗇だ。」と、半ばあきれ、酒宴の後、
「お借りしたもの、この通りお返しします。」と、銀百枚を出した。

ところが如水「この銀、最初から返してもらおうと思っておりませんでした。
異国に渡られるという事で頼まれたから、あなたに送ったのですよ。」

と、決して受け取ろうとはしなかったとのことである。


しかし客に聞こえるように「鯛の骨を煮てもてなせ」などと言い、変なプレッシャーを
あらかじめかけておくあたり、演出の重要性もきちんとわかっているのが、
流石軍師、黒田如水と言うべきであろう。そんなお話。
516人間七七四年:2009/04/06(月) 10:02:59 ID:Oe/g1Imn
黒田長政は毎月1回、釈迦の像をかけた部屋、通称・釈迦の間で
家老や話相手、忠義に厚い者たち5、6人と異見会という会合を開いた。
この集まりにはルールがあった。

長政「この集まりでは日ごろ思っていることを正直に話せ。
どんな内容であっても怒ってはならないし、しこりを
残してはいけない。また、ここでの話は絶対に他言無用だ。」

こうしたルールがあったのでこの会は『腹立たずの会』とも呼ばれた。
家臣たちは、政治、家臣の処遇、家臣の処分の誤りなど長政に言いたい
ことをずけずけと言った。

家臣「殿のこれこれこういうところはよくありませんな。
   あれこれこうすべきです。」
長政「なにぃ?」
家臣「おや?もしかして怒っておいでですか?
   怒ってはいけない決まりのはずですが。」
長政「ま、まさか、これっぽっちも怒ってなどおらぬ。
   ははは…。(この野郎…(#^ω^)ピキピキ)」

こういう時、長政はさっと穏やかな顔になったという。

この会合では納得いくまで討論するのが普通だったので
長政はとても有益な会だと思っていた。そのためその遺言状の中に

「自分が死んだあとも異見会は続けるように。」

と言い残したという。
517人間七七四年:2009/04/06(月) 10:52:48 ID:1G3H8q6c
いい殿様だなぁ。
自分の言った事を守って怒らないのがいいね。

…どっかの家だったら手討ちにされかねないけどw
518人間七七四年:2009/04/06(月) 11:05:42 ID:Kd531TF9
家臣A「どこまで言ったら怒るか試そうぜ!」
家老「よし、任せろ!」
家臣B「兜の話でもしときますか!」
一同「wwww」

あそこの家臣団だとこういうことしそうでいやだな
519人間七七四年:2009/04/06(月) 11:27:51 ID:X2y2HAY1
今で言うブレインストーミングだな
520人間七七四年:2009/04/06(月) 12:55:24 ID:cy1g4CwJ
薫がいたような気がするが……
521人間七七四年:2009/04/06(月) 14:31:45 ID:PYF3AwjJ
>>516
これだけ寛容な長政に追放された又兵衛は何なんだww
522人間七七四年:2009/04/06(月) 14:51:36 ID:zb3HEyDd
>>516
家臣の言を聞いてちゃんと改善する、イイハナシダナー
>>521
我慢の限界だったんだろ、てか荒木説得の時に又兵衛の親?か叔父?
が小寺に付いたからクロカンに嫌われてなかったっけ
523人間七七四年:2009/04/06(月) 18:12:20 ID:P5EEyvtb
御石様

反逆者の汚名を着せられ、非業の死を遂げた島津晴蓑(歳久)。
殉死者は27名にも及び、兄龍伯を始め全薩摩が泣いた。
遺骸は龍伯が建立した心岳寺に眠っていたがある事件が起きる。

墓石が修繕しても修繕しても削られていくのである。
これは「歳久公の墓石を神水で清めて飲むと腹の病が治まる」という
迷信を信じた者たちの仕業だった。

驚くべきことに廃仏棄釈後の比較的近代でも行われていたとのこと。
安産の神様は腹病の神様でもあったようだ。
524人間七七四年:2009/04/06(月) 18:31:02 ID:2dYE6h7n
有名人の墓石削ってお守りにするとかいうのよく聞く話だ。
さすがに飲んじゃうのは珍しいかもしれないが。
525人間七七四年:2009/04/06(月) 18:39:57 ID:SwZcRwX2
毛利元就の墓に植えられていたハリイブキの木も
江戸時代頃にみんなが少しずつ削って持って行ってお守りとしていたらしい
それで今は枯れてしまっているとか
526人間七七四年:2009/04/06(月) 18:46:07 ID:IaDVn1ry
歳久は病身にあって自刃するための刀を握ることさえも出来なかっため、
路傍の石を使って死のうとし苦しんだと伝えられている。

その際、「男の自分がこのように苦しいのだから、女性のお産はさぞ苦しいはず。
死後はそのような女性の苦しいを救ってやりたい」

と遺言して安産の神になったので、墓石を削って飲むという信仰が
ご婦人を中心に広まったのだろう。
527人間七七四年:2009/04/06(月) 18:53:15 ID:AfjI5LYj
既出
528人間七七四年:2009/04/06(月) 19:04:40 ID:xnrZBqn+
>>519
高山右近「どれ儂からもブレインストーミングして進ぜよう」

ユンユンユン~

〜ヤハーウェは偉大なり〜
 〜ヤハーウェは偉大なり〜
  〜ヤハーウェは偉大なり〜

……それブレインウオッシュですから
529人間七七四年:2009/04/06(月) 23:08:12 ID:Kogrptq4
水原親憲の墓もおこりに効くと信じられて
薬として削られて飲まれてなかったっけ。
530人間七七四年:2009/04/06(月) 23:16:59 ID:zu59SZA0
近藤勇の墓は削られてはいないが、肩こりにきくとか。
沖田さんの墓石は女子にかなり削られたというが。
531人間七七四年:2009/04/06(月) 23:20:07 ID:7BBdQ2nO
↓の話と似た趣旨の話
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1578.html

徳川頼宣の側近・蘆川十休が遠山某を推挙した

十休「遠山は才覚のある男です 何をやらせても難なくこなすでしょう」
頼宣「……」

しかし、頼宣は十休を無視する 十休は話を聞いてほしいので
同じことを三回述べた すると頼宣は口を開いて

頼宣「お前以外の奴も皆遠山を褒めているよ だがな、全員が褒める人間と
   全員が悪く言う人間は十中八九あなどれない悪党なのだ
   考えてもみろ、釈迦や孔子のように後世にまで伝わる聖人でさえ
   誰かに悪く言われていたのだ 全員が褒める者とは忠義の欠片もなく、
   軽薄か媚びへつらいのうまい人間さ 褒める者とそしる者の両方がいる
   人間こそよいのだ だからこそ、全員が褒めるからよい人間だ、とか
   悪く言う者がいるから悪い人間だ、などと安直に考えてはいけないのだよ」

と、述べたという
532人間七七四年:2009/04/06(月) 23:57:15 ID:zb3HEyDd
極論過ぎだろwww
真面目に働いて人望もある人って思えないのか
533人間七七四年:2009/04/07(火) 00:00:03 ID:mZo7OgO8
>>532
真面目は真面目で「真面目すぎて面白みがない」とか言われるお
534人間七七四年:2009/04/07(火) 00:27:32 ID:7y+7ArOr
赤木しげるの墓も
535人間七七四年:2009/04/07(火) 00:31:19 ID:yqEqpMv9
>>532
そういう武士は「つまらぬ小物」っていわれるか、

なまじ殿様の覚えがめでたいと
出世基地外とかっていわれるんだよ、それはそれで……
536人間七七四年:2009/04/07(火) 01:10:44 ID:4nViTDVj
十人いれば横着な奴もいるわけで、
真面目な奴とはぶつかるからな。
今の日本はおとなしければ真面目だと言うけど、
当時は切腹覚悟の諌言が出来るような家臣こそ真面目だとしていたから、
そういう家臣なら敵もいただろうと思う。
537人間七七四年:2009/04/07(火) 01:17:40 ID:2aZBcyYB
>>531
>褒める者とそしる者の両方がいる

まさに三成だな。
538人間七七四年:2009/04/07(火) 01:39:35 ID:c2Du6YNr
富田長繁「まさに俺だな!ヒャッハー」
539人間七七四年:2009/04/07(火) 09:30:11 ID:wfJDBJLB
>>535
それだと褒めるものも貶すものもいるに該当するぜ?
540人間七七四年:2009/04/07(火) 09:59:16 ID:nh1AJUNf
肝心要の殿様に貶されてるんだから他のやつ皆に褒められてるのとイーブンだな
541人間七七四年:2009/04/07(火) 10:00:50 ID:I9ZDvO+Y
アンチが居るのは大事ってばーちゃんが言ってた
542人間七七四年:2009/04/07(火) 10:03:59 ID:DrLu/LDT
何?誰もが褒める武田信繁は信用ならぬとな?
543人間七七四年:2009/04/07(火) 11:57:53 ID:h+AT2u7g
武田信玄が「誰もが褒める人間は信用ならない」と言って信繁の方をみたら、
全く別の話になってしまうなw
544人間七七四年:2009/04/07(火) 12:05:36 ID:69ciyiLw
誰もが褒める人間はその腹黒さまで含めて有能なんじゃないかな?
後は主君の器量の問題。
545人間七七四年:2009/04/07(火) 12:15:55 ID:EizIKjBN
まあ晴信は信繁を使いこなす自信があって、信繁も晴信の下で
やっていく折り合いが付いていたってことだよな。
546人間七七四年:2009/04/07(火) 12:17:46 ID:SECE9dxC
度量の大きい君主ってなかなかいねーからな

李靖最後までつかいこなした李世民みたいな幸福な例は少ない
547人間七七四年:2009/04/07(火) 13:33:10 ID:ylEYWbov
蒲生氏郷や堀秀政なんかは「誰もが褒める」タイプだな
彼らも実は腹黒だったんだろうか
548人間七七四年:2009/04/07(火) 13:48:05 ID:NDnbZs0y
松永久秀「儂も才能を皆に褒められますなあ」
宇喜多直家「手際が良いとよく言われます」
549人間七七四年:2009/04/07(火) 13:55:45 ID:1XyWPqMK
>>548
あなた方が周りに居たら怖いんで褒めますよ、そりゃ。

おや、お茶の差し入れが…
550人間七七四年:2009/04/07(火) 13:59:41 ID:oLRX5F4H
>>547
鬼武蔵「蒲生、オマエなんか忠三郎やない!鈍三郎や!」
幽斎「近頃の若い者は和歌も学ばんと茶湯ばっかりで…」
551人間七七四年:2009/04/07(火) 16:10:06 ID:bnQYAlfl
その二人にほめられる奴なんて、いるのか?w
552人間七七四年:2009/04/07(火) 16:31:20 ID:wfJDBJLB
後者は三好長慶の教養については褒めてた
553人間七七四年:2009/04/07(火) 16:54:21 ID:PqGHohK+
褒めると言えばこんな話も


ある時、本多忠勝が北条家の士であった朝倉兼也と言う、有名な武勇の者を呼び、
彼の戦話を聞いたことがあった。

兼也が帰った後、忠勝が言うには

「あの男の言う事は、どうも信用できない。何故なら、彼は『一度も遅れを取った事がない』と
言っていたが、名将と言われるほどの人間でも、始めの頃は万事落ち度なく、と言う風には
行かないものだ。
ましてや兼也程度の侍では、良い事と悪い事が半々でも、世の人は過大にもてやはす物だ。
自分の武功に付いて、正しく素直に語らない者は、武士の意地を持っているとはいえないな。」

と、批判したそうである。
554人間七七四年:2009/04/07(火) 17:36:55 ID:8D0iG8Ik
忠勝の嫉妬か
555人間七七四年:2009/04/07(火) 17:43:21 ID:1XyWPqMK
森勝蔵「初戦から無双余裕でした」
556人間七七四年:2009/04/07(火) 18:11:11 ID:lMW4Dnvm
毛利輝元「ボックンも手際が良いと褒められるお」
557人間七七四年:2009/04/07(火) 19:07:29 ID:klSAXRsF
>>547
政宗「蒲生は俺の花押を偽装して陥れようとした卑怯者」
558人間七七四年:2009/04/07(火) 19:20:58 ID:XMjIDu6P
>>557
政宗さんは一揆を煽動したそうで、おやこんな時間に宅配便が…
559人間七七四年:2009/04/07(火) 20:43:47 ID:uAUvouU3
>>550
義弘「幽斎殿、うちの息子にも言ってやってくれませんか」
560人間七七四年:2009/04/07(火) 21:19:12 ID:huU0F5+T
幽斎「忠恒殿、和歌の道は…え?蹴鞠や酒と並んで大好物?

…義弘殿、極めて優秀なご子息をお持ちで、うらやましいですなぁ!」
561人間七七四年:2009/04/07(火) 22:41:39 ID:Wsnv3omh
既出だったらごめんなさい

[謙信と大猿]
謙信公初上洛の際のお話し。
謙信上洛の報に接した将軍,足利義輝は、武勇の聞こえ高い謙信(当時景虎)の人物を試そうと、狂暴な大猿を道端に繋ぎ謙信に襲い掛かるように仕向けた。謙信の反応を見て器量を確かめようとしたのだ。

だが謙信、事前に京に放っていた間者から義輝の策をすでに見抜いていた。
そこで豪傑、鬼小島弥太郎に一策をさずけ、僧に変装させ京に先行させた。

弥太郎は大猿を預かる檻の番人に金を渡し取り入り、大猿の檻に近づいた。餌を与えるふりをして大猿を力まかせに押さえ付け大褐して睨み据えた。大猿は泣き叫び弥太郎の前にひれふした。


いよいよ謙信上洛。
室町御所に向かう道筋に大猿は繋がれ、牙を剥き猛り狂っている。そこへ刀持ちの弥太郎達従者を引き連れ謙信が颯爽と現れた。

謙信は大猿には目もくれず、威風堂々通り過ぎた。
狂暴な大猿は弥太郎の一睨みに脅え平伏していたのだ。
後で真相を知った義輝は謙信の知謀と駆け引きに舌を巻いて絶賛したそうな。

ちなみにこの大猿は、長曽我部家から義輝へ献上された猿だそうです。
562人間七七四年:2009/04/07(火) 23:01:14 ID:3LtaMmzu
政宗にそっくりな話があったよーな
563人間七七四年:2009/04/07(火) 23:02:10 ID:PqGHohK+
多分元は、大田道灌の有名な逸話だなw
564人間七七四年:2009/04/07(火) 23:11:03 ID:NDnbZs0y
大猿かと思ったら実は七条さんが献上されていたでござる。
565人間七七四年:2009/04/07(火) 23:35:42 ID:yqEqpMv9
>>564ちーがーうーw
兼仲さんは狒狒退治した方なのー

ついでに三宝に乗せたバカでかい鏡餅(たしか一俵か二俵ある)を担いで
ひょいひょい歩いたという、よくわからん大力伝説が今も残ってる
566人間七七四年:2009/04/08(水) 00:25:49 ID:ACu78WIw
狒狒退治といえば薄田隼人だけど、兼仲もそうだったの?
567人間七七四年:2009/04/08(水) 00:28:35 ID:Yt9CPgbt
小島は猿こらしめたり
自分を噛んだ犬殺したり
動物からむ話ばっかりかよw
568人間七七四年:2009/04/08(水) 00:28:58 ID:lmv4mNiI
>>546
魏徴……
569人間七七四年:2009/04/08(水) 01:59:04 ID:5kOwujL7
朝鮮の役が起こり、上杉軍も渡海する事になった。
秀吉も一緒に朝鮮に渡ろうとしたのだが、重臣に止められて思いとどまった。
そこで、名護屋から出発しようとする上杉軍の勇姿を見て、秀吉は景勝に歌を詠みかけた。
「上杉や 景勝色の 門出かな」
景勝の名を歌に詠み入れ、杉と影を縁語に用い
勝利の色が見える上杉軍の門出であることだと言祝いだのだった。

すると景勝はすぐに答えて詠んだ。
「羽柴栄え 門出を祝う 家も秀吉」
先の歌にならって秀吉の名を詠み入れ、柴・門・家と縁語を用い
門出を見送っている秀吉の家運も栄えて大吉であると祝福したのだった。


また、ある年の春、秀吉は景勝に言った。
「国許には変わった言葉もあるだろう。なにかお国言葉を入れて歌を詠んでくれないか」
景勝はそれに答えて即座に歌を詠んだ。
「鶯よ 初音つんだぜ 聞くべいぞ その如月の 十六夜のころ」


文人としても有名な謙信や兼続の影に隠れがちだけど、
景勝の面目躍如なお話。
570人間七七四年:2009/04/08(水) 02:42:36 ID:0DG8gxO0
お世辞にも巧いとは言えないお粗末な出来だろソレ
571人間七七四年:2009/04/08(水) 02:50:56 ID:I53Te73z
歌と言えば
島津が琉球に出兵する時、それを聞いた細川幽斎は、島津義久に
こんな歌を詠んで送ったそうだ

『祝うとも よしひさしくも 荒波に しまづたいして ゆけや琉球』
572人間七七四年:2009/04/08(水) 03:00:23 ID:dQpTeqxR
>>566
阿波に狒狒退治伝説があるよ。
573人間七七四年:2009/04/08(水) 03:12:28 ID:M8QV63Q2
>>569
兼続は漢詩だけど、文殊堂で歌会を開くと安田能元や千坂兵部の子息など
在国の重臣が幾人か集まっているので、無骨なようで意外と文化的な素養は
高いのかもしれんね、上杉家中。

>>570
あまり上手な歌ではないかもだけど、その場でそういう気の利いた
歌を返せるってのは、なかなかのもんじゃないかな

574人間七七四年:2009/04/08(水) 04:15:55 ID:x7anRIdL
こういうのってノリとテンポみたいなとこあるよな。
575人間七七四年:2009/04/08(水) 07:40:06 ID:IEKTuopD
ぱっと返歌出来るかと問われたら俺は無理
576人間七七四年:2009/04/08(水) 09:06:37 ID:UGQPhrqb
歌といえば、いくさの最中に辞世の句とかよくまあ出来るもんだ
577人間七七四年:2009/04/08(水) 09:37:19 ID:Y4m3uHhW
>>574
アナウンサー大喜利の惨状を見て笑点メンバーの実力に気づくみたいなもんか
578人間七七四年:2009/04/08(水) 10:05:48 ID:CsTPjo4R
>>576
辞世の句は何か死にそうなことがある前に書いて準備しておくものだったと思う。
579人間七七四年:2009/04/08(水) 10:35:27 ID:0gBAm329
荒木村重の気概

細川藤孝はこれまで担いできた将軍義昭を見放し、織田信長の臣下となることを選んでいたが、
その手みやげが摂津荒木村重への調略であった。
1557年、その甲斐が成り荒木村重は重い腰を上げ信長の元に伺候することとなった。
しかし、荒木村重の本心は、信長が大嫌いであった。
出自の低さは互いに似たり寄ったりであったが、これまで村重が苦労して切り取ってきた摂津を、
一時の勢いとはいえ無造作に掴み盗られるような被害感を感じていた。
更に村重の心を不愉快にさせたのは、信長が派手にやらかしていた強引な茶道具の収集であった。
村重は、その蛮勇剛腕ぶりとは裏腹に、父の代から継承する数寄者としても高名であり、
その手前は野趣と風雅が混じりあった洗練されたものであり、
細川藤孝には見事な自作の茶杓を進呈し驚かせている。
また今井宗久、津田宗及らの堺の茶人、政商との付き合いも深かった。
そんな村重であったから、信長の権高な俄数寄者ぶりは蔑視ていたし、
彼が村重が所有する摂津釜などの数々の大名物を狙っていることもお見通しであった。

嫌々ながら信長の前にぬかずく村重であったが、意地でも名物の茶道具は持参しなかった。
当然一つや二つの献物があると踏んでいた信長は当てが外れてがっかり、
額に青筋を浮き上がらせながらの刺々しい口調となった。
のらりくらりとかわす村重の態度に腹を立てつつも、なんとか臣従を約する対面は終わりを迎えた。
しかし、怒りの収まらない信長、急に太刀を掴み抜いたので家来達は騒然となった。

そこで有名な餅の話になるのであるが、太刀に先端に突き刺した餅を村重に突きつけ、
これ褒美じゃから食えと腹立ち紛れに強要した。
手で掴み拝するものと思っていた信長や家来達を尻目に、村重は口でくわえて餅をぱくぱく食べてしまった。
さすがの信長もあきれ果て、村重、この男とても一筋縄ではいかぬ、と思うのであった。
580人間七七四年:2009/04/08(水) 11:15:19 ID:KspvpiEK
>>579
経験上、初対面でなにか気に障る相手ってのは、後々揉めたり、仲が上手くいかなかったりする率が高いと思う…
信長と村重もそうだったんだろう
直感て意外と当たる
581人間七七四年:2009/04/08(水) 11:23:10 ID:AEDZ+NRR
さすが自分から道糞と名乗るだけはある
582人間七七四年:2009/04/08(水) 11:23:36 ID:G/1qVhLe
実際は信長とは上手くいっていて秀吉と根本的に合わなかったようだが
餅に剣を刺すとそのまま食うって信長と村重両方の心底が読めない
583人間七七四年:2009/04/08(水) 11:37:50 ID:64UjjRxM
あるいみここで喉でも突いて、
手討にされてた方が荒木一族にとっては幸運だったかもな・・・
584人間七七四年:2009/04/08(水) 12:09:55 ID:x7rr0kZ2
>>580
そういえば、一目惚れカップルはほとんど別れないらしいな。
戦国とは関係ない話だけど。
585人間七七四年:2009/04/08(水) 12:15:50 ID:1ws5eGTk
>>584
光秀「上様に一目お会いした時に、己の主人はこの人だ!と直感しました」
5861557は……:2009/04/08(水) 12:21:59 ID:dQpTeqxR
>>579
お互い本音がどうだったかはわからんけどね

中川清秀や高山右近や、摂津の大名寄騎の動きもあって有岡城謀反の詳細もわかんねし……
587人間七七四年:2009/04/08(水) 13:48:14 ID:ZkFA2IsT
>>584
義昭「信長に一目会った時に、幕府中興の忠臣はこの者ぞ!と直感したぞ」
588人間七七四年:2009/04/08(水) 13:50:03 ID:Ju9Ah2F1
宇喜多直家殿は世評と違って大変誠実そうなお方でした!
589人間七七四年:2009/04/08(水) 13:57:25 ID:fZwrb3Ge
>>584
仕官にしても恋愛にしても、一目惚れは軽そうに見えて、
実は一番打算の入らない相手への好意だからな。
そういうことはあるだろうね。
義昭も光秀も、信長とはかなり計算的な付き合いのような・・・・
いろんな意味で京都が信長の鬼門だよね
590人間七七四年:2009/04/08(水) 15:10:29 ID:ZX4FOgp9
>>589
加納随天「そちらには、水山蹇がでておりまするゆえ」
591人間七七四年:2009/04/08(水) 16:28:23 ID:I53Te73z
>>584
> そういえば、一目惚れカップルはほとんど別れないらしいな。

佐竹義重「それは僕達の」
葦名盛隆「事かな?」
592人間七七四年:2009/04/08(水) 16:39:06 ID:dQpTeqxR
>591
鈴木大学「なんの!それがしと日根野織部正殿も……」    ・・・ポッ
593人間七七四年:2009/04/08(水) 17:40:10 ID:O9wz0I8B
既出かな?

山内一豊が封じられたばかりの土佐の領内を見廻っていた。
おりしも農繁期だったので、ある農民の牛が泥を蹴飛ばし、一豊殿の
裾に飛んできて汚してしまった。
従卒が「無礼者!」と牛を引いてた農民をしょっ引こうとしたら、一豊、
「すておけ。野良に泥はつきもの。領民が励んでいる証拠よ」と言って
スルーした。

このエピソードが元で、土佐で泥祭りなるものが行われるようになったとか。
594人間七七四年:2009/04/08(水) 18:00:32 ID:/xNGiGoI
>>592
陶隆房「それがしもお屋形様と無事添い遂げることができました^^」
595人間七七四年:2009/04/08(水) 18:54:48 ID:1cq5eGic
文化財クラッシャー伊達政宗さんですね
596人間七七四年:2009/04/08(水) 22:54:10 ID:ezv7jJyg
>>593
そして一領具足がここぞとばかりに
597人間七七四年:2009/04/08(水) 23:24:33 ID:I53Te73z
蒲生氏郷が徳川家康の屋敷に遊んだことがあった。

だが、家康、氏郷を接待するための指示を家臣にろくに出さずにくずくずしている。
目から鼻へ抜けるような秀才の氏郷には、これがどうにも不快であったようだ。
もっとテキパキしろよ!と。

ところが接待役の牧野半兵衛は、氏郷が「茶がほしい」と思った時には茶を持って来、
「菓子がほしい」と思った時には菓子を持って来る、と言った具合に、氏郷の意に沿わぬことは、
何も無かった。
氏郷はこれを不思議に思い、半兵衛に問いただすと、家康が持ってくるように命じたからだ、と言う。
しかし家康は指示などしていなかった。「いつそのように言われたのだ?」

「わたくしは殿に長く仕えておりますゆえ、殿の御意がどこにあるか、未形未声に、
見聞きできるようになりました。でありますから、殿が命じたと申したのです。」

これを聞いて氏郷、家康のほうに振り向いて

「あなたは要らぬことには鈍くさいが、要ることには賢き人ですな。」

と、言ったそうである。
598人間七七四年:2009/04/08(水) 23:32:58 ID:zJgmN9Gu
人遣い氏郷、上を知る
599人間七七四年:2009/04/08(水) 23:35:27 ID:zoQnAm/l
>>593
後のドロレスである
600人間七七四年:2009/04/08(水) 23:51:40 ID:zgJqwwMV
一方、鬼武蔵は主君の意を汲んで一向宗に突撃した。
601人間七七四年:2009/04/09(木) 00:20:00 ID:sZdkztle
主従関係のいい話だけど、組織論としちゃ悪い話だなあ
602人間七七四年:2009/04/09(木) 01:17:08 ID:iUOWs9pi
い話・悪い話とは一線を画すとは思うが、越中に勢力を張っていた
神保氏。

隣国の越後からは長尾(上杉)氏、加賀からは一向一揆等に
攻められてなんとなくヘタレな大名家のように思われるが、その中に
逸材と言われる人物が一人・・・

神保長誠(じんぼう ながのぶ)


戦国時代の始まりとも言われる「応仁の乱」のキーマンになった。

畠山政長に仕えていた折に畠山家で家督争いが勃発する。
長誠は政長の家督相続を支持し、政長が畠山家の家督を相続する。
その後、政長は管領職に就任し隆盛を極めるまでに至った。

しかし、家督相続を争った畠山義就が山名持豊(宗全)から再び擁立され
政長は管領職を罷免される。収まりの着かない政長は細川勝元を頼り
ついに京都上御霊社において挙兵。
足利将軍家や斯波氏の争い(武衛騒動)と関連して応仁の乱が勃発。

実は上御霊社での挙兵は長誠が強く勧めた節があり、この挙兵がなければ
応仁の乱まで発展しなかった可能性もある。

応仁の乱時、長誠は各地で奮戦し、扇谷上杉定正にその武勇を激賞されるなど
目覚しい活躍ぶりを見せた。
その後、長誠は越中へ戻り、倉垣荘など寺社本所領を押領して自身の勢力拡大
に努め、また政長の右腕として京へも足しげく通う日々であった。

1493年(明応2)に、細川政元などが10代将軍足利義材(義植)を廃立し
明応の政変が起る。主君政長はこの政変で自害。
長誠は中風を煩って越中に帰国中だったため難を免れるが、
この政変で長誠の部下越中衆の多くが政長に殉じた為大打撃を受ける。

廃立された義材(義植)が京都の幽閉先を脱して、長誠を頼ると
これを迎えて放生津の正光寺を将軍御所として改装し、義材は越中公方と呼ばれた。

これに怒った政元は越中へ長誠追討の軍勢を差し向ける。
しかし、長誠は細川政元派の畠山基家軍(畠山総州家)の越中侵攻をたびたび撃退し
軍事力を誇示する一方、被官鞍河某に数千貫の料足を持たせて京に送り、
義材の将軍復帰工作に尽力するなど和戦双方の手で義材の上洛を支援した。

しかし、義材何を勘違いしたのか政元と和睦交渉が進展したという勝手な認識を持ち
明応8年(1499年)に長誠の断りなく越前へ移り入京の準備を始める。
しかし政元に和睦意識はなく、義材は軍事行動で上洛を図るが失敗し、周防の大内義興を頼った。

いくら将軍とはいえこんな身勝手をされた場合普通は見捨てるところだが
このとき長誠は息子、慶宗に兵を率いさせ周防まで同行させている。
無事に義材が大内義興の元に着いたのも束の間1501年(文亀元年)病没。


少しは神保氏の見方が変わる・・・かも?
603人間七七四年:2009/04/09(木) 02:08:53 ID:CdxkrqP0
>>569
当時の方言の資料になりそうだ。
この時景勝が詠み込んだのってどこの方言なんだろう。
生まれ故郷の上田?それとも春日山辺り?もしくは会津か?
6042ch佐賀昔ばなし:2009/04/09(木) 10:39:27 ID:mFdBJUKw
昔々あるところに、一人の修験者がいました。
その修行ぶり、土地の殿様も関心するもので、修験者はたびたび殿様に招かれて
ご馳走などふるまわれていたそうです。

こうして五年経ったある日、修験者は殿様に申しました。
「これまでの殿様のご恩、浅くありませぬ。この上は、私は報恩のために『水定』して
当国の主に生まれ変わり、法を立てて治めましょう。」

『水定』とはお経を唱えながら海に漕ぎ出して帰らない、即身成仏の海上版です。

驚いた殿様は、しきりに修験者を止めましたが、とうとう修験者は
「われ国主に生まれ変わるならば、再びこの浜に流れ着き、草鞋片方のみ残るべし。」
と言い残し、人々の涙と合掌に見送られて、小舟で海に出てしまいました。

数日後、浜に修験者の遺体が流れ着きましたが、果たして修験者の言葉通り、
片足だけ草鞋を履いていたそうです。


数十年後、殿様のご長男、伊勢松さまが元服の日を迎えました。
伊勢松「父上、私はこれより何と名乗れば良いでしょう?」

(・・・あの修験者、勝茂(しょうも)と言ったか・・・・・・)
「 『 勝茂(かつしげ) 』 と名乗るがよい。」

その後、鍋島勝茂は関ヶ原では西軍として数々の城攻めに参加し、島原の乱では
抜け駆けの罪で閉門を命じられました。

が、不思議と肥前半国の国主の地位を保ったそうです。 (葉隠より)
605人間七七四年:2009/04/09(木) 11:32:23 ID:SFXn8MXP
>>603
秀吉が生きてるんだから会津は無いだろ。
上越か魚沼のどっちかだろ。
606人間七七四年:2009/04/09(木) 12:57:19 ID:pl8JQoDk
>>604
関ヶ原のときは、親父が家康に取り入ってるから。
軍勢こそ出せなかったけど、東海道筋の米を買い占めて家康に献上したとかなんとか。
607人間七七四年:2009/04/09(木) 14:27:59 ID:Jsye/YZ1
今でも郡山あたりでは「遊ぼうよ」を「遊ぶべい」って言う人もいるから、
「動詞+べい」だと会津かも?とか思ってしまう。

でも確かに時代的にあわないね。
…それにこれまた、中通りと会津若松の違いはあるが。
608人間七七四年:2009/04/09(木) 19:55:19 ID:qyMZJyfy
>>593
神田祭り(どろんこ祭り)と呼ばれているようだな。
ttp://wakamiya-kochi.com/index.php?topic=kanda
609人間七七四年:2009/04/09(木) 21:01:46 ID:a9jqosZU
荒木村重の家臣に、川原林越後守と言う者がいた。
彼は村重が有岡城に籠城した際、秀吉が説得のため城に訪れた時に、
「秀吉を抑留すべきです!」
と、進言した男であった。

有岡落城の後、流浪していたが、ある人が
「お主の有岡でのこと、秀吉は大いに感じ入っているそうだ。その上秀吉は今、数奇を好んで
茶道具などを集めている。お主は荒木が所有していた茶道具をいくつか所持しているとのこと、
それを携えて秀吉の元に行けば、恩賞にあずかれるのではないか?」

川原林、最初はそんな話を聞き流していたが、多くの人たちが「そうするべきだ」と
あまりに言うので、ついに秀吉にその旨を伝えた。

これを詳しく聞いた秀吉は怒った。「なんという不義の者か!有岡でワシを害しようとしたこと、
これは忠義から出たものである。が、村重の没落に殉じずのうのうと生き、あまつさえ先君の
茶道具を貢物にして命を繋ごうなどと、これ以上甚だしい無道があろうか!」

と、川原林に切腹を命じた。

やがて、川原林が切腹に望む日が来た。
その日、彼の元には友人達が集まり、色々な物語をして、切腹の予定の時刻を過ぎた。
親しい友人達はこれを心配し、
「普段のおぬしらしくも無い。速やかに腹を切り、潔さを見せるべきではないか?」
と諫言をする。

これに川原林笑って「色々な美物を整え、ご馳走を並べてもてなす振る舞いの席にも、
約束よりは刻限を過ぎていく事など、世の中にはよくある事です。
ましてやその先に何も無い死の時を、どうして急ぐことがありましょうか?
ここで少しでもあなた方と物語をして、名残を惜しむ事こそ、今生の思い出となるのです。」

そこに秀吉から人が使わされてきた。「まだ切腹をしていないと言うので、秀吉公は大変に
ご機嫌を悪くしている。早く切腹して、その知らせを持っていくように!」

川原林、この言葉に「それはまるで理解できない。
秀吉が私に知行や俸禄をくれると言うのなら、当然何事も、秀吉の機嫌に合わせるようにするさ。
が、切腹を命じられているというのに、秀吉の機嫌に会うようにして、私に一体、何の益があるのだ?
どれほど機嫌悪くされようが、殺される以上のことを、秀吉もする事は出来ないだろうよ。」

と、動ずる気配も無く、心静かに友たちと物語をし、やがて、心残りも多いがもはやこれまで也、と言って
腹を斬って死んだ、とのことである。

そんな、ある侍の死に様のお話。
610人間七七四年:2009/04/09(木) 21:03:49 ID:DlB/uZcG
帰参
恩賞

ラスボスへのNGワード
611人間七七四年:2009/04/09(木) 21:50:57 ID:pl8JQoDk
その図太さにあこがれる
612人間七七四年:2009/04/09(木) 22:14:58 ID:nt7rfq7o
他人の無責任な言動には耳を貸すなと言う教訓ですね
613人間七七四年:2009/04/09(木) 23:16:33 ID:BFnP6Rsp
戦国期の飄々とした武士道には憧れるな
自分がそんな風に生きられないだけに・・
614人間七七四年:2009/04/09(木) 23:31:41 ID:gwPgCuZ2
>>602
神保氏って面白いよね、長誠のせがれの慶宗の代で長尾にコテンパンにやられて、
一時再起不能なくらいにまで落ちぶれるけど、
そのあとの長職がまた勢力を一気に復興、椎名氏と越中の覇権を争うまでに復活。
でもその争いの調停に入った長尾の言うことを聞かないもんだから、またやられて。

まぁなんというか、戦国大名化できなかった守護代の典型例というかw俺は好きだけどねw
615人間七七四年:2009/04/09(木) 23:43:10 ID:qXyE66Fx
>>612
ほんとその通りだよ
616人間七七四年:2009/04/09(木) 23:57:38 ID:RqR0W666
>>613
それを感じる心があるってことは、
そういう生き方が出来るってことだよ
617人間七七四年:2009/04/10(金) 00:06:42 ID:5I1aV+m2
御本尊、荒木村重が茶人道糞として華々しく再デビューする前の
話かな。
618人間七七四年:2009/04/10(金) 01:10:53 ID:Na9P7oPD
朝鮮の役の時、小西行長は加藤清正に先駆けて朝鮮に渡海した。
行長が大嫌いだった清正は非常に悔しがった。

「あいつに先を越された上に尻を追いかけるような真似はできぬ。
俺は別の道を行くぞ。なぁに行長如きに武功が立てられるものか。」

と思っていたのだが、清正の予想を裏切り行長は活躍していた。
高をくくっていた清正はまたしても悔しむことになった。

「糞、薬屋の小倅め!あんなやつに負けてなるものか!」

焦った清正は急いで行軍しようとしたが馬が足りない。
しかし、馬船を待っていては行長に手柄を取られてしまう。
そこで近場の民家で馬を調達しようとしたが、見つからなかった。
清正は仕方なく牛を馬代わりにして行軍を開始、その光景を
見た者は誰もが清正たちを笑い者にしたのだった。

やがて行軍する清正たちの前に5、60人の日本兵が現れた。
彼らは10人の女性を拉致していた。洗濯させるのが目的というが
それだけで済むはずがない。清正は彼らの卑しさに憤慨した。

「馬鹿なことをしおって。軍に女がいないのは当然のことだ。
朝鮮までやって来てそんなことをすれば、我々は礼儀知らずだと
思われるだろうが。悔しいと思わないのか!さっさと軍に戻って、
女たちは加藤清正が解放したと行長に伝えるんだな。」

そして清正は女たちの髪に自分の名前を書いた札をつけ、
金を与えて解放した。

その後、解放された女たちの家の者がお礼にやって来た。
その中にかつて平戸の漁師だった徳五郎という男がいたので
清正は彼を雇って通訳にしたとのことである。
619人間七七四年:2009/04/10(金) 01:25:06 ID:HKz+enbN
>604
ふだらく渡りだっけか
それとはちと違うか
戦国末期まで西日本を中心にかなりあったみたいだね
厭世観から極楽浄土を夢見ての集団入水がさ
620人間七七四年:2009/04/10(金) 03:04:00 ID:oX1rm0Eg
>>618
「軍に女がいないのは当然のことだ。」
・・・とうことで若衆と や ら な い か
621人間七七四年:2009/04/10(金) 09:11:14 ID:4fwzdyX9
朝倉宗滴話記に、
「武者の雑談には軍功者の物語を信仰させ、それに耳を傾けさせることが肝心である。
ただし、若い時は、自然と自分から功者ぶるから、悪い評判を立てることが多い。」
とあるんだけど、一行目は正にこのスレのことだと思った。
やっぱり昔から語り継がれる話はためになる。
622人間七七四年:2009/04/10(金) 09:58:45 ID:0wq5yqFv
>>619
ふだらく渡りぽいよね
ただし正当派ふだらく渡りは出港地が和歌山のふだらく寺じゃないと
だめだったんじゃなかったかな。

運がいいというか悪いというか
鹿児島とか琉球あたりを漂流しているところを拾われて
そこのお寺の住職になった人もちらちらいるみたい。
通常は黒潮に乗って遭難コースだろうけど。

ところで鍋島勝茂ってちょっとwikipediaみてみたら
結構DQNだな・・・。5人目のDQN四天王?

>>618
>>620
加藤軍内のもやもやの処理方法が気になります。
加藤清正とアッーは縁遠そうだし。
623人間七七四年:2009/04/10(金) 11:02:37 ID:zUZaT/lg
>>622
勝茂はDQNというよりバカ殿だな。
人格者ではあるが、頭が非常にアレな人物。
624人間七七四年:2009/04/10(金) 11:14:16 ID:TwWGvdF4
>>622
清正が浅野幸長と一緒に梅毒貰って帰ってきたぐらいだから(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-204.html)ヤルことはヤッてたんじゃない?
625人間七七四年:2009/04/10(金) 12:04:25 ID:kFajLl8v
そういえば戦国末期〜江戸初期にかけて梅毒で死んだ武将って結構いるよね。
清正以外にも池田輝政とか結城秀康とか。
626人間七七四年:2009/04/10(金) 15:23:17 ID:zKrazbjh
どろんこ祭り
627人間七七四年:2009/04/10(金) 15:48:59 ID:k4fGND0y
日取りに付いて


南海坊天海は、
「だいたい天地開闢の時は、日によって吉兆なんて無かったわけで、
そう言うことだから日取りがどうのこうのなんて気にする事はない。
まあ、どうしても気になるって言うのなら暦でも見ればいい。」

と言い、松平伊豆守にいたっては

「吉日とか悪日なんて存在しないから、物事は思い立ったらすぐにした方がいい。
風雪の酷い日こそ悪日と呼ぶべきだな。」

と、言っていたそうだ。

戦国末期から太平世代の、クールな意見。
628人間七七四年:2009/04/10(金) 17:52:02 ID:WoMaWqvx
>>627
ある程度平和だから言えるって気もするな
武将本人がいくらそう思っていても、命がかかってれば下の人間は付いてこないかもしれないし
パフォーマンスで士気を上げたい気持ちもあったろうし
有名な所だと、桶狭間での信長の熱田神宮参拝とか

逆に長可さんなんかは蛇をどうこうしちゃったわけだけど
629人間七七四年:2009/04/10(金) 18:58:49 ID:/aBXP7Yy
統一期の官僚じゃ、日和がどうこう言ってられないって事情もありそうだ
知恵伊豆さんなんか、悩むより目の前の仕事やれ、と言わんばかりw
630人間七七四年:2009/04/10(金) 19:07:36 ID:4fwzdyX9
戦国時代より前の武士だけど・・・
朝倉敏景の場合、絶対に勝たねばならない戦に際しては吉日を選んだり、吉方位を考えて、
時を遅らせるべきではないとしてる。
吉日だからと大勢の敵に一騎で突っ込んだり、嵐の日に船を出しても、
それは誰がどう考えてもアホらしいだろう、という意味のことを言ってる。
逆に悪日だとしても、しっかりと情勢を把握して、虚実を見極め、
臨機応変に戦って、良い作戦を立てたなら必ず大勝を招くことができるとも言ってる。

まぁ、当たり前のことなんだけど、いざやるとなると難しい・・・
631人間七七四年:2009/04/10(金) 20:49:44 ID:TqM3HoOa
>>630
英林ならギリギリ戦国に含めてもいい気がする

自分が死んだ日が吉日になる人はいいこと言うなあ
632人間七七四年:2009/04/10(金) 21:32:26 ID:Na9P7oPD
武田信玄の家臣に庵原という男がいたが、彼は罪を犯したかどで国外追放となった。
信玄は誰であろうと庵原に会ってはいけないと厳命し、庵原の家を役人に囲ませた。
庵原と親しかった者ですら信玄の怒りを恐れて家を訪ねてこなかったが、関という者だけが
庵原を訪ねてきた。役人達は彼を止めるが、関は制止を振り払って入ろうとした。

「どうしてそこまでして庵原に会おうとするんだ?」
「それは言えません。」
「ふざけるな。御舘様の命令なんだぞ。お前達の仲は俺達もよく知っている。
事情を話せば見逃してやってもいいんだ。」
「いや、それではあなた方も罪に問われてしまう。あなた達のような
心の暖かい人に迷惑はかけられません。」

役人達としては理由を聞かないと中に入れるわけにはいかない。
だが関はどうしても話そうとせず、遂に静止を振り切って家の中に入ってしまった。
しかし、役人達は関を追わなかった。最後の別れくらいさせてやろうと思ったからだった。
ただ一人別れの挨拶に来た関を庵原は喜んで歓迎した。

「よく来てくれたな、関。」
「此度は大変なことになりました。荷造りを手伝って国境までお送りします。」
「そんなことをしたら御舘様に咎められる。止めるんだ。」
「気にしないでください。昔、私が同じような目にあったときにあなたが
優しくしてくださった恩返しですから。」

こうして関は庵原を国境まで送り届けたのだが、これを知った信玄は当然激怒し、
関を呼び出した。

「お前とお前を見過ごした役人達は厳罰に処す。覚悟しろ。」
「役人達に罪はありません。私は彼らの制止を振り切ったのです。」
「罪を犯した上に口答えをするのか!なぜそこまでして庵原に義理立てしたのだ。」
「庵原殿には大恩があったのでどうしても一人で行かせたくはなかったのです。
ですが、御命令を知りながら背いたのは事実ですからどうぞ私を裁いてください。」
「わしの命令より友情が大事なのか?」
「その質問は筋が通っていないと思います。庵原殿との友情と御舘様への忠誠は
関係ないからです。私はあなた様のために死ぬ覚悟があります。」
「…お前には負けたよ。わしの命に背いてまで義理を守ったことを賞して褒美をやろう。」

信玄は特別に関を赦し、褒美を与えた。後日、信玄は
「どんな理由があってもわしの命に従わない者は、身内であろうと処罰する。」
と布告して、赦すのは今回だけだ、と家臣達に釘を刺したのだった。
633人間七七四年:2009/04/10(金) 21:33:08 ID:/aBXP7Yy
豊臣秀吉が蔵する茶器の中に、筒井茶碗というものがあった
もとは筒井順慶が所有した大井戸で、秀吉がことに愛した逸品である

ある日、秀吉はいつものように筒井茶碗を持ってくるよう命じた
運んできた近習、緊張のせいか落としてしまった
無惨にも茶碗はぱかんと砕け散った。秀吉の目の前で
激怒する秀吉、真っ青になる近習、騒然とする客…
修羅場になりかけたところで、居合わせた細川幽斎が歌を詠んだ
「筒井づの五つにかけし井戸茶碗 咎をばわれがおひにけらしな」

伊勢物語に「筒井づの井筒にかけしまろがたけ 過ぎにけらしな妹みざるまに」
という歌があり、幽斎はそれに引っ掛けて洒落をかまし、近習をかばったのだ
秀吉は機嫌を直し、以降、碗の銘は「筒井筒」になったという
634人間七七四年:2009/04/10(金) 21:54:49 ID:LXzm+wtm
>>633
ナジーミヽ(・∀・)乂(・∀・)ノ

筒井筒か〜〜
635人間七七四年:2009/04/10(金) 23:02:47 ID:k4fGND0y
関ヶ原、伏見城攻防戦の時の事。

小早川秀秋の旗本、大島源次と言うものが、前線に派遣され、この最前線から城の堀端までの
距離を尋ねた。
前線部隊の村上三右衛門は「計って見た訳ではないが、だいたい十二間(約22メートル)くらいでしょう」
と答える。
これに大島、「あなた方の見識を疑うわけではありませんが、ここは正確を期すため、実際に測りに
出ようと思います。」

しかし前線と城の間には多くの兵が集まり、すさまじい銃撃戦を繰り広げていた。
とても距離を測るために人を出せるような状況ではない。
それを説明し、大島には帰るように言ったが、それでも大島は

「もし殿に距離を尋ねられて、『測ってきませんでした』と答えなければならないとは、
そんな恥ずかしく不快な事はありません。是非にも私を出してください!」

これに村上「我ら先手の前を、旗本からの軍使を出すなどとは、これはあるまじき事です!
いらぬことをするべきではない!」

それでも大島は諦めない。彼はこの時20歳。若い彼は、この役目を強く思いつめていたのだろう。
そこでついに村上も、「わかりました。測りましょう。」と、かぶとを脱いだ。
「ただし、私の言う通りにやってください。」

村上は竹を一間に切ると、それを陣地の端から堀端に向けて縦に置いた。その先端に今度は
大島が穴を開け印をつける。銃弾飛び交う中、彼らは急がず、攻撃の合間を見ながら、
それを繰り返した。
そしてついに、十一間半という距離を測りきった。

この、村上の最初の目算の正確さと、あくまで正しい距離を測ろうとした大島の勇気ある行動は、
戦陣において大きな話題となったそうである。

そんな、戦場のベテランと新人のお話。
636人間七七四年:2009/04/10(金) 23:04:10 ID:0CuzPLcC
>>632
>庵原
この字面を見ると武者震いがするのォ!
637人間七七四年:2009/04/10(金) 23:07:32 ID:rnkNdAZ8
加藤嘉明の家臣で河村という者がいた

河村はしばしば手柄をたてていたがある時気にいらないことがありとびだしてしまった

それから10数年たち間に入るものがいて加藤嘉明に帰参を求めた

すると加藤嘉明は帰参を認め、浪人の間の給与を全額支払うと言った

驚いた河村は

「10数年お使えもせず浪人をしていてどうして給与をいただけましょうか」

と言うと加藤嘉明は

「他家に仕えていたのならそういうこともいえよう、しかしお前は主人は俺しかいないと

心に決めずっと貧窮生活を営んできた、その心意気が嬉しい、もし受け取らなければ自分がお前の分を

横領したことになる」

それを聞いた河村は

「浪人したことはまことに軽率でした」

と謝り加藤嘉明の深い愛情に感謝して忠節を誓ったという
638人間七七四年:2009/04/10(金) 23:18:33 ID:W63LQMTJ
TERU「帰参を許す寛容の心こそ名将に必須な素質だお。」
639人間七七四年:2009/04/10(金) 23:24:19 ID:k4fGND0y
まあ残念ながら既出なんですけどね

加藤嘉明と河村権七・いい話
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-596.html
640人間七七四年:2009/04/10(金) 23:25:21 ID:juBgjotW
>>636
我もじゃ!
641人間七七四年:2009/04/10(金) 23:29:23 ID:Qeb600v8
>>637
つーかおまいさん悪い話スレでもやらかしてるじゃねーか
まとめで該当武将のカテゴリ見るか検索ぐらいしてから書こうな
642人間七七四年:2009/04/10(金) 23:32:05 ID:LXzm+wtm
>>638
目に余るとさすがに誅殺したけどね……

関ヶ原後に減封されて家臣を召し放ちにしてからも
浪人した旧臣たちに細々と援助していたのはいい逸話だぬ
輝元の人柄なのか、家族主義的な地縁血縁を大事にする毛利家らしさと言うべきか
643人間七七四年:2009/04/11(土) 00:12:38 ID:J4aA+U1z
>>635
なにげにカッコいい話だな
644人間七七四年:2009/04/11(土) 07:33:14 ID:2T0IdhLv
文章はコンパクトにまとめられてて読みやすいけどな
645人間七七四年:2009/04/11(土) 08:34:13 ID:jbP0P+Hs
>>635
もっと安全に測ること出来なかったんだろうか?
646人間七七四年:2009/04/11(土) 08:42:55 ID:lXSLm3MD
三角関数を教えてあげたい。
647人間七七四年:2009/04/11(土) 13:14:46 ID:6qRJfVoY
当時すでに三角関数的なものはあったんじゃない?
山の高さとかそれで推定してたような…
648人間七七四年:2009/04/11(土) 20:20:44 ID:B+wvy/PM
中年時代まで(現代の感覚から見たら)空気の読めない人だった大久保彦左衛門と藤堂高虎。
青年期から空気を読んでいた石田三成と直江兼続。
前者は老年期に若手から尊敬され後世に英雄となり、後者は「数年前」までは嫌われていた。
戦国に生まれた人は「KY」な方が人望を集める。ちょっといい小話でした。
私は前者が好き。大久保彦左衛門は崇高なる理念(志は低いが)を持ち忠義の人だし、藤堂高虎はバルカン武将で男らしい豪傑。
649人間七七四年:2009/04/11(土) 20:23:50 ID:B+wvy/PM
>649
大久保彦左衛門は「天下泰平」(これが「崇高なる理念」)を望んでいた。
ほかの武将たちは「天下統一」を狙う。
「天下泰平」(=平和で戦争が起きる危機がなく誰もが安心して暮らせる世の中)と「天下統一」(=天下・国土、政治的権限を手中に収める)は意味合いが違う。
650人間七七四年:2009/04/11(土) 20:46:33 ID:R2C0CK67
高虎は空気が読めるから仕えた家がつぶれる中を泳ぎきったんでないか?
反対に三成はもう少し空気が読めたらあんなことにならなかったと思う。
651人間七七四年:2009/04/11(土) 20:53:44 ID:/iiFGyCi

家康の夢。
北条早雲のネズミが二本の杉をかじり倒した夢は有名と思いますが家康の夢はあまり出ないので。

信長が武田勝頼を滅ぼし天下人の地位を確固たる物にした頃、家康はこのような夢を見た。
信長は楽しそうに鷹狩をしていた。家康は屈辱にも信長の刀持ちをさせられていた。力関係の隔たりが大きいといえ、同盟関係であるのにも関わらず。家康はハガミして屈辱に耐えていた。
そんな時巨大なトキ(土岐)が彼方より飛んで来てパクリと信長をくわえて飛び去ってしまった。

嫡子を殺されたり数々の無理難題を長年吹っかけてきた信長にたいする鬱屈した感情が見せた夢なのか?
または予知夢を見たのか...
652人間七七四年:2009/04/11(土) 20:59:24 ID:ca+3IYpo
>>651
これは面白いね。土岐かーw
653人間七七四年:2009/04/11(土) 21:05:14 ID:laDUS+En
 ま こ 鳥 一 わ な     ン",,,、'"   ミミ`   匁  iii'''  iiiiiハ jt,      近 死 信
 っ の.  羽 .た .ら   (ン` ":: ::''"  `ミ              -''、     い 期 .長
 と 生 と .  .し .ば   ヒメ  ヽ  r"""'''' """""'i       :::: ::  t"     !.は
 う .を し の .も    / /    | i__,,,,,,,,,,,,,,,,,,ノ|  |_|, ii, ii,  :::::  `、,,、       の
 し  .て       (  ソ | ti'| t、t?i?g◎?b?m|i|  iii|; ||~' -、 :: :: ヽ、ヽ
 た           )  |i i'|ii | ソ――-ー ''''''''t、t,,t:t ti-,?gi |i :| ヽソ
 い          ン,,   リ )リノ/、、,,,,,t  、、;;;;;;;;;;ニ=ー-、))ノ )    し
            (iii    ノ''z-モェテ''、'i ~i'';;rzニ'-''ニゝ'' フ"/y"  `'く
             リ  ::: ミi '~~~~::::ノ| ,i''''"'""''''''    :::メ, :::    ;; )
            `ソ ::: iii''t  ::::::::::::j,, " "     ::::::::ノ リノ ハ  `、,
             tii リ (/ );;; :::::::: 、、_,,,、:)、;;   :::::::::`'y  /  リ,,  j}リ
              )  (  リt" ::::: ,,,,;;'i、、;;"   "   (  i|}}! /'(  t、,
            /   ;;;; ソ;t   ii",;;ヨ<、:;;,,"'i!   、|i リ') i!}}i   ヽ;;,, ))
           ,/"   ノ/ ii|リ;;|!,, ii ´;;;;;;;;;;  ~'ji  ,,iijj}|ノ  亦,,, )ツ ツ (
           i|i|/|i  :::: 、|i|:::ヽ!!,iii "::(  ~'ー }} ii}|j、-''(ii   iiii ツ /   ''"、、,
           ヽ((i  ';;; iiii ):::::ヽ!!,, ;;;;;;;;  i}!i! ' ;;;;:::::`i  ノijj!} i}jjj, ::::、ヽ )
           、,,, ノ   i''"iリ:::::::::::ヽ!iiハii|ii!!|!i,r";;;;;;;;:::::::  j/   !!!ii||i  :::::: i (
            ,ゝ  ,,  / ヽi、:::::::::: """""";;;;  :::::::  /,, /"  ''::"  ::: |} ~'' 、
           (ii   iiiiソ ii  ) :::::::  ::::::::::   :::::::::  (|i  }}iiji、 iij、ハ  ヽ 、,)ヽ)
         ,r''"    iiii、  |リ  :::::::   :::::::   ::::::   :::::ヽ  ` ` !!!、\   )jj:~''- 、
       ,、-'  ;;、"-('   ヽ ミi   ::::::::  :::::  :::::::   :::::::::ノ/   )  、 ,, ノ" ::::::'' ~'
       (;;、- '" '"" i// iiiハi"    :::::  ::::: ;;;;;;   :::  ヽ、,,ノj ノ) ノr"i、((,,,,,,,、、
"""~~~ ''''''~       "  " `           ''''''''''' ー―  "''''''''''  '""""""
654人間七七四年:2009/04/11(土) 21:08:31 ID:XQQjiIzO
如水「寝た時にのみ、夢を見るのでは」
政宗「まだまだ素人」
655人間七七四年:2009/04/11(土) 21:17:49 ID:/iiFGyCi
家康の夢2
秀吉の晩年、朝鮮の役で豊臣政権は急速に求心力を失いつつあった。そんな時家康が見た夢。
あるとき狂暴な大猿が大阪城内で暴れ回り城内の人の多くが怪我をしたり散々な様子であった。大名でありながら一流の剣豪でもあった家康は侍臣から刀を受け取り、一刀の下に大猿を切り伏せた。猿の死体はみるまに人間の姿に変わった。その姿は太閤だったのだ。
どちらの夢の話しも天下人になってから広まった話しなので信憑性はかなり薄いが、江戸幕府の正当性を表す為に作られた話しだと思います。
656人間七七四年:2009/04/11(土) 21:21:34 ID:V+tLuVXn
悪いスレで小河内蔵允の家中のこと書いたので、ここでは彼が能臣であるエピソードを。

大阪の陣が終わったにも拘らず、黒田長政は江戸に留め置かれていた。
幕府にしてみれば、家康が死んだ直後であり、豊臣恩顧の大名でもある長政を警戒したのか、なんと長政が筑前に帰ったのは、豊家滅亡の5年後であった。

さて長政。久しぶりに筑前に帰って来れて気が緩んだのか、我侭な振る舞いが目立つようになった。
家老達も「ちょっと羽伸ばしすぎじゃね?」と思ったが、冬の陣以来江戸に留めおかれて気苦労が募っていた殿様を不憫に思ったか、誰も諫言しなかった。
そのうちに、江戸に参勤する時期が来たので、仕置家老である小河内蔵允に

「今度参勤する時に、将軍様を初めとして幕府のお歴々にプレゼント贈るから、栗山大膳と相談してリスト提出してね」

と、命じて10日ほどたったころにリスト提出を求めた所、内蔵允からはまだ出来ていないと言う返答。
これに長政は不快に思ったが、さらに20日ほど待って提出を求めた所、またしてもまだ出来ていないと言う返答に、遂にプッツン。

「お前家老の仕事を何だと心得取るんじゃコラ!!」

これに対し、 小河内蔵允の返答曰く

「いやぁ、私が選んだ物じゃあ幕府の皆さん喜びませんよ。ここは殿様が選んだ方がいいですよ」
「・・・・・・・・・舐めてんのか? お前は?」

長政、刀を抜きかねないほどの怒り様(そりゃ当たり前だ)
しかしここで小河内蔵允の本領発揮。

「恐れながら、当家の幕府への贈り物は、宝物ではなくて、殿様の行状を改めることにございます。
 幕府は殿を筑前にお帰しいたしましたが、それは江戸で隙を見せなかった殿に対して、国許ならば隙を見せるのではという狙いがありましょう。
 未だ幕府は、殿や加藤嘉明殿、福島正則殿に対する警戒を解いてはおりませぬ。
 ここは殿の行状を改め、領内の安定に注ぎ、幕府に対する忠誠を折に触れて現すことが肝要。進物は折を見て、時を見計らい、わざとらしくなく出せばよいかと」

この進言に、長政も思い当たる節があったのか、内蔵允の忠言を聞き、我侭な行動を謹んで領内安定に努めたとか。
657人間七七四年:2009/04/11(土) 21:25:54 ID:B+wvy/PM
>650
今とは感覚が逆だよ。
江戸時代なら「主君を変える」なんてできないし、「お家第一」の考えしか武士にはない。
戦国時代は謀反を起こしても(正論なら)悪く言われない。
江戸時代は少ししか「武士の自由度」がきかないのだ。
戦国時代は「おとなしくする」が空気が読めない事である。
658人間七七四年:2009/04/11(土) 21:38:46 ID:bvoU2X+E
バカ殿を演じきって家を残した織田信雄は空気読める奴
659人間七七四年:2009/04/11(土) 21:42:11 ID:NER/wsj9
演技としたら、三介殿も大したもんだ。
いや、演技力だけでなく忍耐力も。
660人間七七四年:2009/04/11(土) 22:20:55 ID:76cOFzox
>>648-649
空気読む力ってのは、事実上の(次の)天下人に公然と喧嘩を売る能力のことなんだね!

>657?ちょと文意がわからんよ…
661人間七七四年:2009/04/11(土) 22:34:18 ID:O67m7J4r
てか>>648-649からして現代人の評価の事を言いたいのか
同時代人の評価の事を言いたいのかわかりにくい
もう少し国語力つけてくれ

あと逸話スレなんだからもっと具体的な逸話で論証して
662人間七七四年:2009/04/11(土) 22:38:41 ID:azqUffJg
太閤殿下の機嫌取りに長ける能力と時勢を読む能力はまた別だからな
空気読む能力は両方を兼ね備えていた幽斎さんが最高
663人間七七四年:2009/04/11(土) 22:47:13 ID:NER/wsj9
主君をコロコロ変えてるのに嫌われないってのも
ある意味才能だよな。
664人間七七四年:2009/04/11(土) 23:13:32 ID:mMMrFHDj
藤堂高虎は、若い頃主君に反発したり、同僚と対立してたけど、
秀長に仕えて以降は、人間的に成熟してる。

>>662
幽斎は晩年は京で悠々自適の生活。
息子と関わりたくない気持ちがあったような・・・
665人間七七四年:2009/04/11(土) 23:33:39 ID:W6oMne5w
>>647
工房のころ数学で追試受けたオレに、この話が三角関数なのか教えて・・・


朝鮮の役のころの話。
朝鮮の平安川は大船も往来する、日本では見られないほどの大河だった。
その川幅も、ある者は七〜八町(760〜870m)、またある者は十二〜三町(13〜14km)
あると言い、定かではない。

ついに我らが黒田長政が立ち上がり、吉田六之助・又助親子に「見積もってこい」
と丸投げした。
六之助「いや・・・オレ達、こういう事には慣れてないッスから・・・」
長政「お前の隊に一人ぐらいは、得意なヤツいるんじゃね?」

翌朝、親子が隊士を引き連れ平安川に向かうと、向こう岸に朝鮮人が三人立っていた。
ここで又助がひらめいた。
「小柳権七!お前、背が高いだろう、あの連中がどこかへ行く前に、急いで土手を
突っ走れ!オレが指物を振ったら、そこで立ち止まってくれ!」

権七が土手沿いに走って行き、向こう岸の人と同じ大きさに見えるようになった時、
又助は指物を振った。
自分たちからそこまでの距離を測ると、八町五段(930m)あった。

報告を聞いた長政は、
「又助二十一歳、老巧の者にも劣らず!」と褒め称えた。
666人間七七四年:2009/04/11(土) 23:33:58 ID:9UEzyu/z
国境沿いの小豪族なんて戦ごとに所属が変わったりするからな
戦国大名といっても小中の豪族の連合体みたいなものだから
いちいち目くじら立ててたらそれこそ家臣団のほとんどから見放されかねない  
まぁ小山田信茂みたいなのはさすがに弁護できないが
667人間七七四年:2009/04/11(土) 23:49:42 ID:jbP0P+Hs
>>665
おれも三角関数は分からないが>>635読んで同じこと思いついた
身長は個人差があるから正確じゃないだろうがそれで十分だよな
668人間七七四年:2009/04/12(日) 00:15:49 ID:7whUc756
>>648-649
特に>649、これ、何か根拠のある話なの?
669人間七七四年:2009/04/12(日) 00:28:19 ID:VBaXH66I
 徳川家康の上杉景勝征伐に当たり、伊達政宗は一足早く大阪から領国に帰り、
7月24日には、かつて取り上げられた旧領、刈田郡白石城を攻め取った。
 そのころ、家康よりの書状が来る。上方で石田三成が挙兵した事。そして政宗に対し、
上方の事変が落着するまで、積極的な軍事勝郎は控え、大崎岩手澤の城に籠っていよ。
そう命じてきた。
 政宗に、北国でヘタに戦を仕掛けられ、変な負け方をしようものなら上方の状況にも影響が出る。
そう言う判断からであった。

 景勝征伐の総大将である家康からの命令である。政宗はその配下として活動している以上、
これを拒否は出来ない。しかし既に白石まで進出してしまっている。ここから岩手澤までは
三日の行程であり、上杉軍に後ろを付かれない為にも、誰かを押さえとして白石に置かねばならない。
しかも上杉軍が襲ってくれば全滅必至の、捨石である。

 政宗は片倉小十郎と相談し、一人の男を呼んだ。浜田冶部である。
片倉は浜田に状況を説明、そして政宗が言う

「言いにくい事だが、くどくどと言いまわしても仕方が無いのではっきりと言う。
今回お前に頼むのは、その命をくれ。それだけだ。」

 浜田はこれに「一つお聞きしたいのです、伊達家の中には多くの武功のものたちがおります。
その方々を差し置いて、何故私を呼ばれたのでしょうか?」

政宗と片倉はそろって「これを任せられるのはお主しかいない、そう意見が一致したのだ。」

 この言葉に、浜田も納得した。
「私は若輩者でございますが、若さに似合いの働きをいたしましょう。景勝が押し寄せてくれば
その軍勢に突撃して討ち死にするか、城内で切腹する事になるか、そのどちらかでしょうが、
そのような事、何より簡単な事でありますよ!」

 その潔い言葉に、政宗は動揺した
「打って出る事はならぬ。籠城し、持ちこたえろ。持ちこたえられなくなってから、その時切腹せよ。
いや…三日だ、三日持ちこたえろ。そうすれば援軍を派遣する。
愛宕八幡も御照覧あれ!浜田、お前を決して見殺しにはせぬ!」

 主君のこの言葉に浜田、恭しく一礼する。が、
「援軍などいりませぬ。そんな事をするくらいならこの役目、他の人に命じてほしく存じます。
だいたい、援軍など出されては、家康公の命令に背く事になります。
家康公の命を守るために私を置いていくのに、私を不憫に思い、救うためにその約定を違反するなど、
これは本末転倒でありましょう。

それに…援軍など下されては、殿が最初におっしゃった、”命をくれ”という言葉が、
嘘になりまする。」

 片倉はこれに
「そなたの言うとおりだ。我々はあずかり知らぬ。おぬしが勝手にこの城に残った。
…そう、させてもらうぞ。」と、和した。

浜田はそれを了とし、政宗から杯をいただいた。


 結果から言えば、白石に景勝は現れる事は無く、そのうちに関ヶ原の決戦も終わり、浜田も生き残った。
だが、浜田がこの時見せた覚悟は、伊達家において後々まで称えられた、とのことである。
そして浜田が確保しきった白石城は、戦後、正式に伊達領に復帰した。

こんな、政宗とその忠臣の関ヶ原。
670人間七七四年:2009/04/12(日) 01:14:08 ID:jJVkVnpm
山本周五郎かぁ
671人間七七四年:2009/04/12(日) 01:37:14 ID:nPtr08ba
>>657
アンカーくらいちゃんと打てよ。
別に難しい事じゃあるまいに。
672人間七七四年:2009/04/12(日) 01:39:20 ID:+OVdB9ck
以下にちゃんねるの使い方の講義は御遠慮下さい
673人間七七四年:2009/04/12(日) 02:01:58 ID:nPtr08ba
絶対そういう茶々を入れる奴がいると思ったw
674人間七七四年:2009/04/12(日) 04:34:20 ID:VWd9ll2p
茶々可愛いよ茶々
675人間七七四年:2009/04/12(日) 10:42:00 ID:vhRuxD05
武家の守護神として奉られている八幡様。
戦国時代の武士たちにも広く信仰されていたことは、
戦国武士たちの言行録からもよくわかる。
全国各地に八幡神社はあるが、いつから武道の神様になったのかと言うと、
後三年の役の年に源義家が、京都は岩清水八幡宮で元服して、八幡太郎と名乗ったのが縁だとされている。
ここから源氏の守り神、そして武家の守護神となった。
その流れで戦国武士たちから信仰を集めて現代まで続いている。
676人間七七四年:2009/04/12(日) 10:58:39 ID:V9+Jmui5
>>648-649,>>657>>657は同じ奴が書いてるみたいだが
これってどこがいい話なんだ?
677人間七七四年:2009/04/12(日) 11:10:41 ID:jTyRfcS6
食いつきがいい話
678人間七七四年:2009/04/12(日) 12:00:15 ID:wdrcrYzi
ある日、京都所司代の板倉勝重が家康の命で大久保忠隣を訪ねた。
そのとき忠隣はちょうど将棋をさしていた。
「どのような御用向きかは存じている。命を受けてからではこんなことも
できないだろうから、これを終えてからにしてほしい。」
忠隣の願いを勝重は了承し、対局が終わると所領没収の旨を伝えた。
罪状は徳川家に対する謀叛企てだという。これは本多政信父子との
政治的対立に起因するという。

忠隣失脚は都中に伝わり、ひと騒ぎ起こると噂になった。忠隣は噂を
鎮めるために武具全てを勝重に送り、一族郎党を退去させたので騒ぎ
は収まった。

その後、家康が没すると出家を決意して比叡山などの僧侶を配流先の
近江に呼び寄せた。そのとき忠隣は僧たちに話を聞かせている。
「私はこれまで人に隠さねばならないようなことをしたことはない。11歳
のころから家康公に仕えたが、仕事で他言したことはないし、重要な
仕事をしたときに内心省みて贔屓をしたことはない。わがまま、分け隔て、
悪口などもしなかった。ただ理を通してきたのだ。」
僧たちはこの話を人に伝えるとき、皆涙したという。

やがて政敵の本多正純が失脚した。将軍秀忠はかつて側近として自分を
支えてくれた恩からか、忠隣を復権させようとした。しかし忠隣はこの要請
を固辞し続けた。配流先の井伊直孝が出仕を薦めたとき、忠隣は自分が
出仕しない理由を語った。
「私に罪がなければこのような境遇になるはずがない。仮に申し開きが
あったとしても、家康公亡き今、復権したとあっては家康公の御判断が
間違っていたということになる。そして、それは秀忠様が御父君の間違い
を明らかにすることになってしまう。私は自分の無実の証明にために、
世間が家康公の御処置を疑い、秀忠様がご不幸になるようなことは
避けたいのだ。」

結局、その後も忠隣は復権することなく、75歳の生涯を閉じたのだった。
679人間七七四年:2009/04/12(日) 12:05:04 ID:G/U05NR4
長安の金丸事件の連座扱いだっけか。
哀れよのう…。
680人間七七四年:2009/04/12(日) 12:58:43 ID:SqSGPJRv
>>675

いきなりどうした、トリビアスレと間違えたとか?
681人間七七四年:2009/04/12(日) 13:23:57 ID:vTD7ald8
面倒臭い三河武士シリーズキター
682人間七七四年:2009/04/12(日) 14:02:12 ID:tfFpp4ID
気合の入った殉死者の話

山路後藤兵衛種清は幼少の頃から島津義弘の供を勤めあげた剛の者である。
単なる武辺者というだけでなく、義弘に対する忠誠も一方ならず
他の仲間達と『死ぬも生きるも殿とともに!』と誓い合っていた。

義弘85歳を迎えた頃、後藤兵衛の地元である帖佐にも義弘の体調に関してうわさが聞こえてきた。
主君の体調の回復が難しいと知った彼は、かねての誓いどおり
仲間とともに殉死の覚悟を固め、殉死の場所まで申し合わせた上で準備に入った。

生前に菩提寺から戒名をもらい、家族にも形見分けを行った。
主君の不幸を前提とした上での行動であり、
殉死自体がご法度になっていた頃であったから、もちろんこれら一連の行動は内密に行われた。

いよいよ義弘の逝去後、後藤兵衛は示し合わせた通りに殉死を決行することにした。
法を犯して殉死したとなれば、家禄は召し上げられ家族は路頭に迷うかも知れぬ。
せめて飢えて困ることはないようにと、家の畑を耕して種をまいておいた。
畑仕事が終わったところで親戚一同がやってきたので、急いで足を洗い、
座敷へ通して別れの杯を交わした。
いよいよ刻限も迫ってきたので、付き添いの者を連れて
仲間達と示し合わせておいた加治木の実窓寺へ向かった。

ここまで周到に準備しておいた後藤だが不運なことに
大雨に見舞われて回り道をすることになってしまった。
急いで仲間の元へ向かうが、向かう途中で仲間の家人と行き会い
仲間達は既に切腹して果てたことを知らされた。

このことを後藤はたいそう悔しがり、
『無念だ!俺はここで腹を切る!』
さらに道端の大石を指差して
『あの石に俺の戒名を刻み、墓石としてくれ。
 仲間や殿様に追いつく事が出来たら、
 あの石を3つに割ってお前達に知らせるから。』
とその場で切腹して果ててしまった。

遺族はその言いつけどおりに、大石に戒名を刻んで墓石とした。
後日、墓に詣でてみると果たして墓石は3つに割れていたという。

生前はもちろん死後も気合の入った忠誠振りを示した人の話。
683人間七七四年:2009/04/12(日) 18:56:21 ID:/zHeB52I
死ぬ気満々
684人間七七四年:2009/04/12(日) 19:43:28 ID:6RKl9Dc7
悪い話にあった岩間の逸話の別ver.

武田信玄の家臣に岩間なる男がいたが、この男だいの臆病者だった。
出陣となると「俺は人を殺したくないー!!!」などとギャアギャア喚くのである。
こんなやつだから岩間の上司は呆れ果てて、信玄に訴えた。

上司「あいつはダメダメです。あんなやつが戦場にいたら、他の兵にも
   影響がでます。放逐しましょう。」
信玄「そんなに臆病か、よしどれほど臆病者か試してみよう。」

そして戸石城攻めの時、嫌がる岩間を馬の鞍に縛り付けて敵勢に放り込んだ。
しかし馬は乗り手の心情を良く察する生き物、岩間の臆病さに触れ、早々に味方の陣まで引き上げた。

あまりの臆病っぷりに心底呆れた信玄だったが、このとき人使いのプロ信玄は一計を思いつく

戸石城攻めから数日後、信玄は岩間を密かに呼んだ

信玄「お前には今日から家中の隠し目付けを命じる。家臣たちに不審な点あらば、何事も包み隠さず報告せよ。
   もしも知りながら隠し、わしに報告しない事があったらお前は死罪だ。」

と、言い渡した。臆病者の岩間は死罪にされることを恐れ、
何事も信玄の耳に入れるようにしたため、目付けとして大いに役立ったという。
685人間七七四年:2009/04/12(日) 21:09:46 ID:VBaXH66I
>>675
八幡様で思い出したが、秀吉はその晩年、自分を「新八幡」だと言い出した。
古い八幡神に代わって、新しく武士の信仰を集める新八幡神こそ自分である、として、
実際に死後は自分を新八幡神として祀るようにと、指示も出していたらしい。

しかし秀吉の死後、八幡宮の抵抗もあったか、秀吉を新八幡とする勅許は出ず、
かわりに豊国大明神になった。

あやうく秀吉を祭神にすることになりかけた全国の八幡宮にとっては、ほっとした話。
686人間七七四年:2009/04/12(日) 21:21:28 ID:U0Sla5tO
本当にラスボスは迷惑な香具師だなぁ
下手したら豊臣家滅亡とともに全国の八幡宮全破却=文化財あぼーん
になってるところだったんだ・・・
687人間七七四年:2009/04/12(日) 21:28:03 ID:C5jGVSwv
685で思い出したが豊国廟に
「大明の日本、一世に豪を振い、太平の路を開くこと海よりも勝つ濶く、山よりも高し。」
と書いてあったがこれを見た朝鮮人の捕虜が激怒し筆で塗りつぶしちゃったそうだ
…いい話にはならないか
688人間七七四年:2009/04/12(日) 22:31:45 ID:n/DNa8Qo
短パンマン死ね
689人間七七四年:2009/04/12(日) 22:38:11 ID:zsJ79GmA
690人間七七四年:2009/04/12(日) 22:40:59 ID:ZUbfuThN
>>682かわいそうな山路メロスは仲間と示し合わせた刻限に間に合いませんでした。
でもセリヌンティウスへの義理は果たした……のだね
691人間七七四年:2009/04/12(日) 22:52:54 ID:ZUbfuThN
>>678-679
大久保忠隣って、(幕府開く前だっけ)徳川家中で家康の世継をどうするか議論になったとき
結城秀康を推す重臣続出の中でひとり秀忠を支持したんだよね。
小田原城の柱を張り替えて家康に叱られたりしたそうだけど。

大久保長安事件か……松平忠輝の運命も左右した徳川幕府創立期の大事件だったんよね
692人間七七四年:2009/04/13(月) 02:12:19 ID:eSBKZMCV
>>665
それ三角関数とは関係ないよ
693人間七七四年:2009/04/13(月) 02:56:01 ID:LwHmwlzh
>>675
八幡の由来は古代ユダヤ教のヤハウェなんて説もあるね。
ヤハウェ→ヤハウェン→ヤハン→「八幡」→ヤハタ
古代ユダヤの一支族の末裔といわれる秦氏により広まったそうな。
694人間七七四年:2009/04/13(月) 02:58:00 ID:LwHmwlzh
>>693
※書直し

>>675
八幡の由来は古代ユダヤ教のヤハウェなんて説もあるね。
ヤハウェ→ヤハウェン→ヤハン→「八幡」→ヤハタ、ハチマン
古代ユダヤの一支族の末裔といわれる秦氏により広まったそうな。

695人間七七四年:2009/04/13(月) 02:59:38 ID:LwHmwlzh
>>685
「我を崇めよ!」の元祖は信長だっけ?
そして秀吉が大明神となり家康は大権現となったとさ。
696人間七七四年:2009/04/13(月) 03:45:48 ID:qoP+6X7q
いや、武将の神格化というのは大して珍しいことではなく、
有名な所では、武田信玄は不動明王、上杉謙信は毘沙門天と、自身を生前に神格化している。

あと、信長が自分を拝ませたってアレは、個人的には、例によってフロイトのヨタ話だと考えた方が
いいと思うよ?だいたい「第六天魔王」ってのも、書状で「信玄が不動明王ならオレは
第六天魔王になりますよ!」って言っただけの、ちょっとしたジョークみたいなもんだし。

それから「八幡」と「ヤハウェ」を結びつけるのは言葉遊び以上の意味はないよw
だいたいユダヤの神は「言葉に出してはならない」のがユダヤ教だし。
あまつさえヤハウェってのは「現代ヘブライ語読み」ですからw
古代ユダヤ人なら最低でも、「アドナイ」って言わなきゃならない。

とまあ、そんなもんなんですわ。
697人間七七四年:2009/04/13(月) 04:12:55 ID:qoP+6X7q
あ、今気づいた>>696×フロイト○フロイス、ねw
眠い時に書き込むとだめだな色々w
698人間七七四年:2009/04/13(月) 06:48:43 ID:Uw+iTjyW
>>697
大丈夫だ、疲労による錯誤はフロイスの専門だ。
699人間七七四年:2009/04/13(月) 09:27:41 ID:VMY9WabQ
>>694
それは日ユ同祖論から出てきた話では?
日ユ同祖論関連は個人的にまったく信じてません。
八幡様は元々は海の神様だし、ユダヤ教、耶蘇教、イスラム教は砂漠のイメージでかなり違う気がする。
あと秦氏は稲荷様と関係が深かったんじゃないかな。
戦国武将たちの信仰も調べていくと面白いし、興味深いことがわかるかもしれないね
700人間七七四年:2009/04/13(月) 09:46:48 ID:qch+/Jxh
>>698
刀=抑圧されたヒャッハー
種子島銃=抑圧されたヒャッハー
槍=抑圧された(
701人間七七四年:2009/04/13(月) 09:50:41 ID:1NJgf0Tl
>>694
メガテンの話をまともに信じてはいかん
あれはフィクションだし解説はトンデモを平気で取り入れるから
メタトロンとかモムノフとは偽書の奴まで出てくるし

鳩って平和の象徴のように使われるけど日本の文化に照らし合わせると
武神たる八幡の使いだからむしろ戦争賛美だよな
702人間七七四年:2009/04/13(月) 10:13:23 ID:Rb4CYZyx
そうだね。人類皆兄弟だね。
703人間七七四年:2009/04/13(月) 10:56:30 ID:VMY9WabQ
>>701
武=戦争賛美とするのはおかしい。
文武そろってこそ平和に暮らせる。
704人間七七四年:2009/04/13(月) 11:40:17 ID:TaZ3Zw7k
>>693-694
ビリーバーだビリーバーだ!ヾ(´∀`*)ノキャッキャ
705人間七七四年:2009/04/13(月) 11:44:48 ID:Lus1Jl0e
何時から鳩が平和の象徴なのか知らないけど
昔の鳩の役目は伝書鳩だよね
大事な情報持ってくる鳩が八幡の使いとは的を得ている感じ
706人間七七四年:2009/04/13(月) 12:40:20 ID:C4u1pXu2
鳩について、日本の文化では復讐を考えている証しだのと
原爆の日の式典に難癖をつけたアメリカ人がいたのを思い出した。
707人間七七四年:2009/04/13(月) 15:25:47 ID:qoP+6X7q
長宗我部元親が、土佐において本山氏の長浜城を攻め取った折のこと。

この長浜城を取り返すため、本山方から多くの兵が出た。この時元親の勢は少なく、
衆寡敵せずたちまち敗北、長宗我部軍は壊乱した。
この時である、

長宗我部元親、この場に一人踏みとどまった。
向かってくる敵を二人まで突き倒し、後ろに回ってきたものは槍の石突でぶん殴った。
元親公、まさに無双状態だったわけだ。

これを見た長宗我部方の者ども、「大将を捨てて逃げることは出来ぬ!」と、元親とともに踏みとどまる。
この、長宗我部の意外な抵抗に浮き足立った本山勢は徐々に崩れ、長宗我部軍に逆に
追い討ちをされた。
圧倒的に不利であった長宗我部の、完勝に終わったのだ。

この戦いの事は「元親長浜の殿(しんがり)」と呼ばれ、長宗我部家において神話のように語られた、
とのことである。
708人間七七四年:2009/04/13(月) 15:30:30 ID:zjZKGqNL
なんという無双
709人間七七四年:2009/04/13(月) 16:48:08 ID:hDh/Tgbe
後の戦国無双である

無双には出てこないけどな
710人間七七四年:2009/04/13(月) 17:13:05 ID:vQ52x9T+
有名で無双な話まであるのに出ないなんて…
711人間七七四年:2009/04/13(月) 17:22:06 ID:UQHucTyj
しかもこの時の元親は22歳にして遅めの初陣で、戦の前に
槍の使い方を教えて貰っていたくらいだったからな。

”姫若子”は、「鳴かず飛ばず」の類の擬態だったのかも知れぬ。
712人間七七四年:2009/04/13(月) 17:45:40 ID:Im/mAkYH
BASARAには出てフジョシに人気だからおk
713人間七七四年:2009/04/13(月) 19:23:40 ID:oeiA5JTY
無双に元親出ていたと思うが
714人間七七四年:2009/04/13(月) 19:37:33 ID:g58TGMWu
三味線で戦うヤツだろw
初めて見たときは笑いが止まらなかった
715人間七七四年:2009/04/13(月) 19:49:37 ID:GoX5BVt+
それなんてバサラ
716人間七七四年:2009/04/13(月) 20:03:30 ID:1NJgf0Tl
長宗我部の子孫って明治天皇に無理矢理琵琶弾かされた人だっけ?
717人間七七四年:2009/04/13(月) 20:39:01 ID:45LIweZ/
長宗我部つながりで記憶が曖昧なんだけど


四国討伐の際に伊予の土豪かなんかで、壮絶な全滅した話なかったっけ?

金子だかなんか…

探しても出て来ない。
718人間七七四年:2009/04/13(月) 20:56:58 ID:l/CRcVss
野々市ヶ原の合戦か?
地元僧らが総出で助力したけど相手が相手だからなあ
概要だけ見ると良くある小勢の全滅にしか見えん
719人間七七四年:2009/04/13(月) 22:52:02 ID:Xvyctx0d
県立熊本高校の校章は、銀杏の葉をかたどった物であり、加藤清正が篭城の飢えを
しのぐために植樹した銀杏が並び、『銀杏城』と呼ばれる熊本城にちなんだものです。
でも、その熊本高校の校旗を支える柄が、あざやかな朱色であるワケを知っているのは
卒業生でも少ないのではないでしょうか?


古来、朱柄の槍は大武辺者のみに許される、名誉の武具であった。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1776.html
しかし関ヶ原の戦いが過ぎ、世が治まって来ると、かぶき者が伊達装束として
扱うようになった。
これを憂えた徳川家康は、朱柄の槍を持ち歩くことを禁じ、みずからの隠居所として
造っている駿府城の普請場でも目付に巡回させ、厳しく取り締まった。

目付衆が巡回を始めて四〜五日経ったある日、細川忠興の持ち場で、朱柄の槍を持ち
革袴を着けた侍が歩いていた。その風貌に目付も気後れして名を聞くに留めたところ、
「細川越中守家中、沢村大学介吉重と申す!」と堂々と名乗った。

その夜、目付衆は沢村の事を家康に報告したが、さすがと言うべきか、大御所は
彼を知っていた。
「その者は、若いころ才八と名乗っていた男だろう。昔、小牧から太閤が退き上げる時、
わしはその退き際を襲った。
その時の殿軍が細川軍だったが、わが軍に一番槍をつけたのが才八であった。
真っ先に進み出て、我らと槍を合わせし様、今もなお目の前にあるかのようじゃ・・・

つまりは沢村のごとき武辺者にこそ、朱槍を持たせるために、半端な者が持つことを
禁じたのだ。放っておけい。」


この沢村大学にちなんだのが、熊本高校の校旗の朱柄です。
ttp://www.kumamoto.bears.ed.jp/_2455/_2461.html
720人間七七四年:2009/04/13(月) 22:52:36 ID:Vw8KUc68
世に名高い茶入れ・九十九茄子
この茶器、戦火の中を渡り歩いた、乱世の宝物だった

九十九茄子が世にデビューしたのは、村田珠光に愛好されたことからだった
その後は人の手を渡り、越後の朝倉宗滴が買い取る
さらに、府中の小袖屋が買い受けたが、一向一揆による争乱が発生、
九十九茄子は京袋屋に疎開させられる
ところが、その京で天文法華の乱が勃発、九十九茄子は行方不明となってしまった
それをどこからか入手したのが、松永久秀
彼が二十年余りも秘蔵していたが、織田信長に臣従する際、献上される

受難はまだ終わらない
明智謀反の時、九十九茄子も本能寺にあり、信長とともに猛火に巻かれた
それを羽柴秀吉が焼け跡から発掘し、大坂城に蔵されることになる
と、今度は大坂の役で兵火に呑まれ、ついに破壊された

しかし、ばらばらになっても天下の名茶器は捨て置かれなかった
徳川家康が破片を集めさせ、塗師の藤重が修復した
明治になって三菱財閥の所有となり、
現在、ようやく静嘉堂文庫美術館に安住の地を得ている
721人間七七四年:2009/04/13(月) 23:02:25 ID:45LIweZ/
>718

ありがとう。

確かにありがちですね…

722人間七七四年:2009/04/13(月) 23:25:19 ID:A0fQv8B/
紀伊の大納言頼宣は茶道を好み、立花宗茂や細川忠興らと交流があった。
忠興晩年のころの話であるが、領国に帰ろうとする間際、
頼宣の家臣である渡辺直綱のもとを訪れてこう切り出した。

忠興「紀州家には虚堂智愚の墨蹟『不動斬』が秘蔵されていると聞いております。
.     かねてより拝見したいと思っていましたが、なかなか機会なく今日に至りました。
.     私も寄る年波には勝てず、帰国すれば、次に参府できるかわかりません。
.     よければ、天下の名物を見せていただけないでしょうか?」

直綱がその旨を主君頼宣に伝えると、「たやすいことです。早々に案内しましょう」との返事。
そこで日を改めて、忠興を招くこととなった。


長年の思いが果たせると
  ∧_∧
 ( ´∀`) ドキドキ
 ( ∪ ∪
 と__)__)    こんな感じで忠興が掛物を眺めると、そこには虚堂ではなく清拙の墨蹟が。


忠興はガッカリしながらも頼宣と話を交わし、しばらくして席を立った。
そして黒書院と白書院の廊下にさしかかったころ、渡辺直綱が杉戸のそばに控えていた。
驚く忠興に、直綱は虚堂の墨蹟を箱から出して、「頼宣さまからお言葉を預かっています」といった。

頼宣「老年の身ゆえもう来れないかもしれないので、虚堂の墨蹟を拝見したいとのことでしたが、
.     それはあまりに淋しく、さきほどはわざと掛物を披露しなかったのです。
.     今度、元気に遊びに来た折りにでもご覧いれたいと思います。
.     しかしながら、是非にとご所望であれば、書院にかけてゆっくりとお目にかけられるように準備させました」

忠興はこの言葉を聞くと、感激のあまり言葉がでなかった。
頼宣の心遣いにこたえて、虚堂の幅を押しいただき、見ないままに立ち去った。

その翌年、約束通り参府した忠興は、頼宣卿に招かれて心ゆくまで虚堂の墨蹟を拝見したという。
723人間七七四年:2009/04/14(火) 00:08:47 ID:VUUHsd2E
>>722
イイハナシダナー( ;∀;)
心の向かうままに観賞する三才様が目に浮かぶよ
しかし、前半生と性格がこうも変わるとなんだか狐につつまれたような気持ちになってしまう
724人間七七四年:2009/04/14(火) 00:16:01 ID:mpCxNyRs
幕臣の永井尚政は要職につくことになった。そこで彼は是非
アドバイスしてもらおうと井伊直孝をたずねた。

尚政
「というわけでいろいろ教えて下さい。」
直孝
「よい心掛けですな。よろしい私の経験からいくつかお話しましょう。
しかしこれはみだりに話すことは出来ないので、精進した上で
後日私の家に来て下さい。」

後日、尚政は麻上下の盛装で直孝をたずねた。直孝も同じ格好で
現れて尚政に会い、アドバイスした。

直孝
「貴殿は『油断大敵』という言葉をご存知か。」
尚政
「もちろん知っております。」
直孝
「ではこの言葉を忘れないように。」

直孝がアドバイスしたのはこれだけで、あとは酒を振る舞い、
厚くもてなして帰したのだった。
725人間七七四年:2009/04/14(火) 00:16:40 ID:yQAfK+ln
丸くなったなジジイ
726人間七七四年:2009/04/14(火) 01:25:52 ID:2Dadwwy9
な、なんか狐に
つつまれたような
気がする・・・。
     ∧_∧
     /   丶
    |` ´|
`<>○<>\= oノ
 /ハ\⊂二_丶
`/ ∧_∧丶  |
|(´∀`)|丶 | |丶
| \yノ |(  |ノ |
丶___ノと_ノ_ノ
727人間七七四年:2009/04/14(火) 02:02:24 ID:A+Sf5OAJ
>>718
いやまあ大したもんだろ
戦いに戦い抜いての全滅なんだし
728人間七七四年:2009/04/14(火) 08:59:13 ID:59EBr455
>>724
しかし、そんなこと言われてから酒をふるまわれても
酔っ払ったら「油断大敵!」といわれそうだし、
下手したら帰り道で襲われて「油断大敵!」とかやられそうで
落ち着かないような気がする。
729人間七七四年:2009/04/14(火) 09:16:16 ID:omK4o1xi
桜田門外で(ry
730人間七七四年:2009/04/14(火) 09:55:02 ID:rj5ZIGL9
>>719
ほよよよよよよよwwww

♪砂塵高まく燎原に 聖火点じて立つはこれ 託麻ヶ原の健男児

オレ藤崎台で旗持ちやったけどそんな話しらなんだwwww
731人間七七四年:2009/04/14(火) 09:57:07 ID:bAUVHP1I
>>726こやつめ、ハハハ w
>723

狐に摘まれるような希ガス
732人間七七四年:2009/04/14(火) 10:07:01 ID:bAUVHP1I
>>717
伊予の金子城だったら、猪が姫を長宗我部領まで逃がした逸話がまとめサイトにあるよ
733人間七七四年:2009/04/14(火) 12:48:41 ID:IH2NR/jh
>>723
つまりトリガーはガラシャだったんだよ!
734人間七七四年:2009/04/14(火) 19:20:43 ID:drNOKD2o
竹中重治がある時言うには

「侍たるもの、分の過ぎた馬を買うべきではないぞ。
分の過ぎた馬に乗れば、馬に乗って良き敵を見つけて飛び降りようとした時、あるいは
槍を合わせようと馬から降り立つ時、こんな時でも馬添えの人間がついてきていなければ、
その馬は人に盗られてしまうだろう。
又、「この馬を失うのは惜しい」と言う気持ちが出て戦うのをためらい、よい馬である故に
返って功名の機会を逃す事もある。

侍は、金十両で馬を購入しようと考えたなら、五両の馬を買うべきである。
それならば惜しげもなく飛び降り乗り放ちてるし、必要があって馬を捨てた時も、
余った五両で又馬を買うことが出来る。

馬に限らず、武士って言うのは普段から、こういう心がけがあってしかるべきなんだよ。」

そんな、竹中重治流、馬の買い方。
735人間七七四年:2009/04/14(火) 19:36:39 ID:KOQyMCAS
>>734
何処かの山内さん「嫁さんに買ってもらいました」
何処かの前田さん「牛でもいいじゃん」
736人間七七四年:2009/04/14(火) 19:58:54 ID:xWmFHBo7
>>735
山内ちよ「馬など買った覚えはないぞえ」
737人間七七四年:2009/04/14(火) 20:01:44 ID:uTTxgjbL
若い頃の徳川頼宣は父親に似て短気だった。ある時、些細なことで
怒った頼宣は脇差で近臣を殴り、額を傷つけた。これを聞いた家老の
安藤直次はすっ飛んで来て頼宣の膝を両手で押さえつけ、ついでに
つねりあげた。戦国乱世を生き延びた直次は屈強な戦士だったので、
つねられると非常に痛く、頼宣は動くこともできなかった。そして直次は
そのまま頼宣に説教した。

「聞けば家臣を殴ったとか。殿がご自身で手を下されるほどのことが
あったのならば、何故家老の私に仕置のほどを申し付けられなかった
のです。殿ご自身が手を下されるなどみっともないことです。
そんなことでは紀州50万石を守れるような大将の器とは言えませぬ。
此度のことはすべて反省なさい。もし反省なさらないようでしたら、私が
江戸に行って此度のことを申し上げ、頼宣様に切腹していただきますぞ!」

直次にこっぴどく叱られた頼宣は、自分が悪かった、と謝ったので直次は
やっと手を離した。直次があんまり強くつねったものだから、袴の小袖が
両方ともつまみ切れ、頼宣の両ももの頭には黒いあざができてしまった。

老年になった頼宣は行水する時このあざに湯をかけようとはしなかった。
近臣が、湯をかけるとお痛みになるのですか、と問うと

「いや、このあざは直次が私にかたみにくれたものなのだ。このあざなしには
紀州50万石を維持することはできなかっただろう。だから生涯このあざが
消えないように大事にして、ときどき眺めて反省するために湯をかけない
ようにしているのだ。」

と頼宣は答えたという。
738人間七七四年:2009/04/14(火) 20:03:20 ID:yUue795Q
俺のなかでの頼宣株がストップ高!!
739人間七七四年:2009/04/14(火) 20:16:45 ID:Y7lsqjrx
>>737
(T△T) ええ話や!
740人間七七四年:2009/04/14(火) 20:36:02 ID:ZV2xxgmJ
70近くにして一生残る痣をつけるとはさすが戦闘民族w
741人間七七四年:2009/04/14(火) 20:40:55 ID:TLrzZ5EO
イイ話だけど、老年になっても消えないほどのあざができるほど
大御所の息子をつねりあげた帯刀殿マジハンパねーっす。

それだけ決死の覚悟をした諫言だったんだなあ。
三河武士らしい逸話だ。
742人間七七四年:2009/04/14(火) 21:16:06 ID:w/rhIabP
>>737
最近、どこかで見たなあと思ったらまとめで見てた
まとめのほうは簡略なんだけどね

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-199.html
743人間七七四年:2009/04/14(火) 22:09:00 ID:joh7BsgP
>>735
何処かの劉さん「牛は馬の代用に最適だよね」
744人間七七四年:2009/04/14(火) 22:48:36 ID:p/Q/z/Z0
俺は二十年以上前にカスタネットで挟んだ痣があるんだが、
それよりも強い痣なんだな…
745人間七七四年:2009/04/14(火) 23:00:21 ID:vHoJRKN4
帰宅電車の中だが周囲の加齢臭が気にならないくらいこの話ホント大好きだよ…。
746人間七七四年:2009/04/14(火) 23:13:41 ID:drNOKD2o
長宗我部元親の家来に、田中新右衛門と言う、ひょうきんな男がいた。

この男無筆であり、ある時知り合いの僧に「”臆病”って字はどう書くの?」と尋ねた。
するとこの僧「”むねの病”と書いて、臆病と読むのじゃ。」と、説明する。
(臆の訓読みは「むね」)

これを聞いた田中、ポン!と手を叩き
「なるほど!そうであったか!
いやね、合戦において槍を取る時、気分が悪くなって、顔を真っ青にして嘔吐するような者がいるが、
これはその病を持病にしていて、合戦の前にそれが出るのですな。
いやはや、これは納得いたしました。」

そんな、「臆病」という病のお話。
747人間七七四年:2009/04/15(水) 00:50:48 ID:N7PIbVCe
細川忠興8歳の時、

忠興は淀城の合戦を、家臣長岡監物の肩に乗り、監物の鹿角の兜の角にしがみ付いて見物し、
岩成主税助が討ち死にするのを見たそうである。

少年忠興の、なにやらほほえましいお話。
748人間七七四年:2009/04/15(水) 04:33:55 ID:d8MGAtF4
徳川家の強さって命懸けて諫言出来る家臣がいるとこだな
749人間七七四年:2009/04/15(水) 10:17:55 ID:IusRqd4L
どんな形でも死を恐れない三河武士
750人間七七四年:2009/04/15(水) 11:05:39 ID:J8grlqPI
>>749
劣化した大坂の陣でも死ぬのが怖いでなく、むしろ突撃バカが大量発生してるし
751人間七七四年:2009/04/15(水) 11:28:38 ID:gDHyik7c
>>748
好物の瓜の畑を作れば、踏み荒らされてこんなものは殿様のすることじゃないと罵られ、
生簀で魚を蓄えておけば、勝手に全部食われて贅沢だと開き直られて、
しかも全部家康第一でやってることだから始末に悪いw
752人間七七四年:2009/04/15(水) 18:23:03 ID:Pu8Df6ey
>>748
それに引き換え豊臣家は・・・
753人間七七四年:2009/04/15(水) 19:09:20 ID:JGPnBOC5
>>752
⊃浅野長政
754人間七七四年:2009/04/15(水) 20:10:26 ID:N7PIbVCe
>>750
> 劣化した大坂の陣でも死ぬのが怖いでなく、むしろ突撃バカが大量発生してるし

そういえばこんな話が


大阪夏の陣の事である。

水野隼人正の部隊の松平助十郎は、皆の前でこのように宣言した

「今日の一番乗りは他の誰でもない、私だ!」

これには部隊の者たち、黙っていない。
「これはまた大きな事を言う。誰がお前ごときに一番を許すものか!」

これに助十郎、にやりと笑い
「各々方、よく聞いていただきたい。
今回、我が組において一番よい馬は、私の馬です。
そして私は吉之丞の所で馬術を学び、免許皆伝をいただいたほどの腕前。

一番の馬に乗った、一番の腕前の者が、一番乗りを志す以上、
一体誰が私より先にいけましょうか!」


その日、助十郎は言葉通り、見事敵陣へ一番乗りを果たし、そして華々しく討ち死にした、
とのことである。

そんな戦場の男伊達、のお話。
755人間七七四年:2009/04/15(水) 20:27:38 ID:d8MGAtF4
>>754
現代の感覚で行くと、なんでわざわざ危険な一番槍を・・・と考えるけれど、
こういう男が味方の士気を上げるんだろうな
カッコよすぎだ
756人間七七四年:2009/04/15(水) 20:42:07 ID:aXBLfT5P
>>724
井伊家と永井家は格別に親しい関係なのかね?
http://homepage3.nifty.com/ksatake/kakaku01.html#KAKU-9
757人間七七四年:2009/04/15(水) 22:18:02 ID:7Nxp/Tx8
>>748-749
逆に言えば、君主権が弱い、なめられているということだがな。
758人間七七四年:2009/04/15(水) 22:39:06 ID:CDZHZXUu
1576年 天王寺の戦いでのお話

天王寺の戦いとは、織田軍と本願寺・雑賀衆との間で行われました。

この時、明智光秀は絶体絶命のピンチになります。
光秀「天王寺砦包囲されちゃったよ、もうダメポ\(^0^)/ 。」
この時、砦に籠る明智勢は7000人、対する本願寺勢は15,000人で砦を包囲していました。

窮地に陥った光秀、信長に援軍を要請。
しかし、後詰めの兵力は3000人しか集まりませんでした。

だが信長、そんなことはお構いなしに光秀への後詰めを開始。
しかも、自ら先頭に立って敵に突撃。
天王寺砦の皆さん「( ゚Д゚ )ポカーン」
本願寺の皆さん「( ゚Д゚ )ポカーン」

総大将がそんな目立つことしてたら、当然敵から狙われます。
案の定、信長は鈴木孫市の狙撃に会い右太ももを負傷します。

そして、砦内の明智勢、これを見て奮起したのか、
光秀「ようこそ、殺し間へ」
本願寺勢へ反撃を開始します。
こうして、挟み撃ちが成功した織田軍は、雑賀衆率いる本願寺勢に勝つことができたのです。

信長が、命をかけて光秀を救出したように見えなくもない、戦国ちょっといい話。
759人間七七四年:2009/04/15(水) 22:41:22 ID:CmKuBJr4
そうなんだけど、メンタル的には駿河文化に染まっているはずの
家康本人(と随行者)とか、譜代としては後発組の東三河衆とか
久松松平とか松井松平とか遠江衆とか水野氏とかも、時代と共に
だんだん三河武士(というか西三河衆)のメンタルに感化されて
しまってしまっている気がする。

関東移封までの家康は確かに国人の長という権力構造だったん
だけど、それはそれとして家中の風通しの良さは家康好みでも
あったんだろう。
760人間七七四年:2009/04/15(水) 22:41:23 ID:gDHyik7c
>>757
家康の君主権は強いほうだよ。
少なくとも一揆体制を引きずっている伊達・上杉・武田・毛利・島津なんかよりはずっとね。
761人間七七四年:2009/04/15(水) 22:43:00 ID:N7PIbVCe
>>760
家康は意識して、家臣が主君に物を言いやすい環境を作っているよね。
この辺は戦国大名の中ではちょっと珍しい。
762人間七七四年:2009/04/15(水) 23:01:31 ID:DelLOsLE
黒田の長政さんも異見会開いてるから、
やっぱり名君の資質っていかに部下の言葉に耳を傾けられるかだよな。
763人間七七四年:2009/04/16(木) 00:21:38 ID:/26AGyVm
>>758
おお、なんかカッコイイ!

cool
764人間七七四年:2009/04/16(木) 00:36:28 ID:+qud6yJ9
>>747
むしろ「悪い話」・・・?

>>762
そこまでやっているのに
家臣には父親と比較されぼろくそ扱いの長政公が哀れでなりませんw
765人間七七四年:2009/04/16(木) 00:49:01 ID:8ZbaIS8F
>>764
そんな長政たんも、忠之と比較すれば問題なしw
766人間七七四年:2009/04/16(木) 01:04:12 ID:FOt7tlOD
信長の命により、秀吉が尼崎を攻めていたときのこと。
この時信長から秀吉に、阿閉萬五郎と言う勇者を付けた。

さて、尼崎城を攻めたおり、秀吉、驚いた。
当然この、阿閉萬五郎にである。

この阿閉、角の立物に猩々緋の羽織と言う派手な姿、杖をつき城の方をにらみつけ、
なんと大手の前に一人立っているのだ。

「あの男、何を考えているんだ!?」

明らかに織田方の、わけのわからぬ大男が、城のまん前で仁王立ちしているのだ。
当然城からは豪雨のように矢弾が降り注ぐ。が、阿閉、ピクリとも動かない。

しかし秀吉はそのままにしておくわけにはいかない。信長から直々につけられた男である。
変に殺してしまえば、信長は秀吉をどう思うか。

「ま、萬五郎殿!萬五郎殿!」

秀吉、矢弾の豪雨の中、田の畦にそって、四つんばいになって這い寄り、立っている阿閉の
膝の下に手をかけ

「ど、どういう事でござるか!とにかくここは危険でござろう、早々に引き返してくだされ!」
そんな風に泣きついた。

阿閉は杖を右手に持ち替え、「ははあ、危ないですか。それはご注意かたじけない。」

「で、ではわしの後をついてきてくだされ!」と、また四つんばいになって帰っていった。
その後を阿閉は、普通に歩いて帰っていった。


秀吉は後々まで、この時の阿閉萬五郎の胆力を、賛美していたと言うことである。
767人間七七四年:2009/04/16(木) 01:56:55 ID:eu9SIJ2y
>>766
そいつは何がしたかったんだw
768人間七七四年:2009/04/16(木) 02:05:47 ID:tuy2Wk1E
阿閉萬五郎「やっべ漏れそう……」
769人間七七四年:2009/04/16(木) 07:00:32 ID:VTeKyjXR
小栗家のちょっといい話。

家康家中に小栗又市忠政という勇士がいた。
又市、たびたび一番槍の手柄を立てるのを見て家康は言った。
「又、一番槍は又市か……」
そこで家康、ピン!とひらめいた。
「よし、その方、これから又市改め又一と名乗れ!」
それ以来、小栗家では又市を又一と改め代々名乗るのであった。
770人間七七四年:2009/04/16(木) 09:04:51 ID:v08yjwj0
>>750
>>752

そんな三河者を大坂の浪人衆は苦戦に追いこんだよね。
太平の世に浪人するような者こそ真のの戦闘バカだったかも。
771人間七七四年:2009/04/16(木) 11:01:22 ID:6+rDxgkH
腐っても天下の名城という前提を押さえないと、島原の一揆衆が大阪浪人並みの強さということになっちまうぞw
772人間七七四年:2009/04/16(木) 11:54:02 ID:sGj+iCmJ
>>770
後がない人間と、守りに入った人間の違いだろ
773人間七七四年:2009/04/16(木) 12:25:09 ID:NKP//6nh
>>771
一向宗徒の例をみるまでもなく、信じるものがある集団は強い
774人間七七四年:2009/04/16(木) 12:33:25 ID:/GxCoSMz
>>769
似たようなちょっといい話。

北条氏邦の配下に阿佐見伊賀守という武士がいた。
武田家と抗争中という時期、昼に夜に警戒をしていた。
とある払暁、北条方に奇襲をかけるべく武田家の軍勢が移動しているのを見つけた阿佐見はすぐさま氏邦に報告、
この報せのおかげで余裕を持って撃退することに成功した。
氏邦「よし、その方、これから浅見改め朝見と名乗れ!」
それ以来、阿佐見氏は朝見姓を名乗るのであった。
775人間七七四年:2009/04/16(木) 13:46:13 ID:9NRYJBL2
>>769>>774
竜造寺四天王の戸田賢兼は竜造寺隆信に武功を賞され百人分の働きに並ぶとして
百武姓を与えられた。
百武姓は百武賢兼が始祖になるわけなので、有名な百武彗星を発見した百武裕司さんとは
なにか関係あるのかな?
百武さんは海外では「名前の意味はhundred samurai」なんて紹介されたこともあるそうで
いかにも勇ましいかっこいい名前だよね。

それと比べると「長いから」という身も蓋もない理由で「原」に改姓させられた黒田家の
宝珠山さんの立場は……。
776人間七七四年:2009/04/16(木) 14:22:44 ID:gpPc9+qO
いい話と関係ないけど話題に出たから今さっき原の名前(原伊予)でぐぐったら
サザエさんの先祖は原伊予って考察してる過去スレがヒットしてふいた
777人間七七四年:2009/04/16(木) 18:55:45 ID:FOt7tlOD
大阪夏の陣の前哨戦、慶長二十年(1615)四月、大阪方、大野治房の部隊が
大和を攻めた時の事である。
当時、大和郡山城を守っていたのは筒井定慶であったが、守備兵が少なく、大阪方の軍に
かなわぬと、たちまち逃亡、郡山城は落城する。
この時大阪方は、各地に放火するなど多くの乱暴を働いた。

郡山に残った間宮光信は、周辺の諸将に救援を依頼した。「どなたも、早く駆けつけていただきたい!」
が、大阪方の威勢を恐れてか、緊急に駆けつけようとする者はいなかった。
間宮も風前の灯火と見えた、その時である。

猛然とした勢いで、一隊が駆けつけた!
よほど急いだのであろう、侍達は皆裸足。大将も甲冑すらつけていない。
しかし、その勢いのまま大阪方に突進した。

それは大和五条二見城主、松倉重政であった。

松倉ははかねてより、間宮と友人であった。彼は間宮の窮状を聞くや否や、
「友を置き捨てるのは侍の本意ではない!」と、準備もそこそこに出撃、夜を徹して駆け抜け、
間宮を救出に現れたのだ。

この、不意の攻撃に大阪方は大いに算を乱し、三十余名が首を討たれ、郡山から撤退したとの事である。


後のキリシタン弾圧などで、島原の乱の元凶の様に扱われ、後世の評判の悪い松倉重政。
が、このように、友のために命を懸けるほどの、情に熱い男でもあったのだ。

松倉が城主をしていた奈良県五條市では今も、彼を名君として称えている。
778人間七七四年:2009/04/16(木) 18:57:39 ID:BMIMkGWc
>>776
おはぎだかを沢山食って黒田の殿様に褒められたんだっけ?
779人間七七四年:2009/04/16(木) 19:09:49 ID:RN4dkPvi
>>776
ttp://mentai.2ch.net/history/kako/986/986955152.html

これか
ついには「黒田家重臣」というとこまで話が進んでいるな。
780人間七七四年:2009/04/16(木) 23:58:09 ID:yX2jbi+E
黒田長政が家老たちと話し合っていたところ、大坂での勤めを
終えた下野九兵衛が挨拶に来た。長政は自分の噂が気になって
九兵衛に尋ねた。

長政「私は大坂でどのように言われているのだ」
九兵衛「いえ、とくに殿の噂はありません…」
長政「ないこたぁないだろ」
九兵衛「実は…軽薄者ともっぱらの噂でして…」
長政「……」

長政は、心外な話だ、と不機嫌になった。すると近くにいた家老の
井上周防が発言した。

井上「実は私もそんなことだろうと思っておりました。しかし私は
   長いこと大坂や江戸には行ってなかったのでそんな噂を
   聞きませんでしたから申し上げないでいたのです。今後は
   殿にも気をつけていただかなくてはなりませんな」

こんなことを言われたものだから長政はますます不機嫌になった。

長政「私はやるべきことはやっている!こんなことを言われるのは
   理不尽だ!」
井上「殿は先方が在職中は親しくなされますが、代が代わると
   同じようにはなさらないではありませんか。そんなことだから
   軽薄者と噂されるのですよ」
長政「なんだと!」
井上「なにさ!」

二人は主張を譲ろうとせず、いがみ合いになってしまう。すると、
同席していた衣笠因幡が…

衣笠「(´;ω;`)ブワッ」
長政「ど、どうして泣くのだ因幡?!」
衣笠「周防が申すことは殿が言わせているのです。殿は家臣が
   異見することをお好みになるので我々は御為になると思った
   ことを遠慮なく申し上げるのです。こうした雰囲気ならば御家
   も安泰だと思うと嬉し涙が出てくるのです…」

すると長政は顔を穏やかにしてこう言ったという。

長政「私は周防の意見を取り下げさせようと思って議論したわけ
   ではないが、悪い噂などありえないと思い、よく考えないで
   いろいろ言ったことは誤りであった。今後もいままで通り、
   言いたいことは遠慮なく申せ」
781人間七七四年:2009/04/17(金) 00:00:35 ID:F3uHhYz+
龍造寺四天王っつったら
江里口信常成松信勝百武賢兼円城寺信胤木下昌直で
人よんで龍造寺五天王
782人間七七四年:2009/04/17(金) 00:02:46 ID:qxOh2Izg
>>780
長政の代わりにわしが泣いてやるよ・・・
783人間七七四年:2009/04/17(金) 00:04:01 ID:6dGOr0f0
>>780
腹立たずの会といい親父からの批評といいそろそろ長政に泣けてきた(つД`)
784人間七七四年:2009/04/17(金) 00:10:58 ID:EHNThEr6
しかしこれだけ同系統の逸話があると
黒田のテンプレなのか長政がニワトリ頭なのか、わからなくなるな
785人間七七四年:2009/04/17(金) 00:24:01 ID:eBGT+xD1
江戸時代に重んじられた儒教的には名君なんではないかな
逆のパターンは諫言をなす忠臣を手討ちにする、あのお約束があるわけで
786人間七七四年:2009/04/17(金) 00:35:39 ID:XbJhcd+M
多分根本の気質(突撃癖等)は死ぬまで変わらなかったんじゃなかろうか
ただ長政自身それを自覚して注意して行動してるし、家臣もうまくフォロー入れてると
787人間七七四年:2009/04/17(金) 02:42:21 ID:PpMV/8zr
>>786
でもって我慢の限界を超えたら粘着して刺客まで送っちゃう、と。 ほんま複雑な人柄だなあ
がんばって治世の名君を演じていた姿勢は頭が下がるけどさ
788人間七七四年:2009/04/17(金) 03:58:56 ID:RtTRKr70
>>775
賢さも兼ねる、て名だしめでたいよな百武さん

いい名前を付けてやるセンスがあったのにクマー隆信さんってば...
789人間七七四年:2009/04/17(金) 05:32:46 ID:ORpIz+E5
>>787
まぁ見方によっちゃ長政の事を大切に思い、かつ諫言を受け入れる度量もあるのがわかってるからあえてキツい事を言う連中に対して、後藤はガチで長政を軽んじて好き勝手するからキレた、と言えなくもないから難しい所だとは思う。
790人間七七四年:2009/04/17(金) 07:01:50 ID:95tLgIpJ
偉大な親父がいると子が犠牲になるのは良くあること
誰とは言わないが性格歪んじゃったり無口になったり自虐的になったり色々ある
791人間七七四年:2009/04/17(金) 07:06:03 ID:/GNCTi2v
>>790
>性格歪んじゃったり無口になったり自虐的になったり
ああ…いいサンプルが沢山いるな…
792人間七七四年:2009/04/17(金) 07:21:33 ID:OyR6bbLd
秀頼公もそれだな。太閤が長生きしてたらもう少しましな大将になってたかもしれない。
そのせいで何も逸話のない人間になってしまった。
まとめサイトで秀吉公はあれだけの逸話があるのに秀頼公はたったの3個しかない。
793人間七七四年:2009/04/17(金) 08:07:08 ID:TK5Y6w/b
>>790
TAKA元のことかーッ!!
794人間七七四年:2009/04/17(金) 08:24:20 ID:zPxTf8Ev
>>790
黒いほうの家久さんですよね、わかります。
795人間七七四年:2009/04/17(金) 09:12:12 ID:uCjn91Jf
ラスボスのブラックな逸話を反面教師として育ったから
逸話の少ない人生を選択したのかもしれない
796人間七七四年:2009/04/17(金) 10:17:27 ID:OC14IyZD
>>777
大野隊と聞くとモヒカンをイメージせずにはいられない俺がいる。
797人間七七四年:2009/04/17(金) 10:39:57 ID:yHRjs9Ww
>>788
明智光秀とかも「明るくて智恵者で(頭部が)光って秀でる」っていう素晴らしい名前だよな
798人間七七四年:2009/04/17(金) 10:58:51 ID:gyoKvckJ
>>790
景勝「・・・・」
799人間七七四年:2009/04/17(金) 11:25:53 ID:+M4yaywc
山内忠義

大阪の冬は寒かった。12月に和議も成りひとまずはやれやれです。
でも後片付けが大変、大阪城の西、船場方面の鰻谷橋の前のわが陣所、
各大名家の荷駄が入れ乱れてのてんやわんや、大忙しです。

橋を渡って、城から一人の武士がこちらにやって来ました。
よく見るとかって知ったる毛利勝永殿ではありませんか。
四国で別れて以来です。

毛利殿「いやあ、山内殿にはすっかりと世話になった上に、こっそり
大阪に入城致しまして、山内殿に大迷惑をおかけしました。そのお詫びに参りました。」
と、頭をかきかき、ばつの悪そうな顔。
和やかにお互いの息災を確かめあったのです。

私が「ところで毛利殿、家康様に会っていきませんか、
丁度今から私もご挨拶に伺うところだったのです、きっと懐かしがるでしょう。」
というと、
毛利殿、真顔になり「いやあ、それは止めておきましょう、武門のならいとはいえ、
関ヶ原で寛大なご処置を頂いた家康様には、ほんと会わせる顔が無いのです。」
といってすたこら去っていきました。

それが最後の分かれと成りました。
800人間七七四年:2009/04/17(金) 13:03:45 ID:OC14IyZD
>>799
アッー!!
801人間七七四年:2009/04/17(金) 13:36:36 ID:eSOspI3q
経緯と裏事情知らなきゃいい話なんだがな…
802人間七七四年:2009/04/17(金) 13:39:14 ID:RtTRKr70
>>797ときは今、雨が下しる
なんたるキンカンかー
803人間七七四年:2009/04/17(金) 13:45:33 ID:MC3q6x/Q
会津葦名家の金上盛備言う者が、使者として秀吉の下に派遣され、他の西国の使者とともに
目通りした事があった。

彼らが退出した後、秀吉の左右の者たちが言うには

「西国の使者は実に礼にかなっていたが、会津の使者の金上と言うのは、東国の者だからであろうか
無骨だ。」

そんな風に評した。これを聞いた秀吉は

「いや、そう言うことではなかろう。西国では使者に身分の低いものを遣わすので、自然、
腰も低いのだが、会津の使者はおそらく家が高位の者なので、人前でかがみ慣れていないだけで、
あれは無作法と言うわけではあるまいよ。」

そこで調べてみれば、実際に金上は蘆名の一族で、城も持つ高禄の者で、さらに正式な官位まで持つ、
葦名家の中でも非常に身分の高い者であったそうだ。

人々は秀吉の眼力に、大変に恐れ入ったと言う事である。
804人間七七四年:2009/04/17(金) 14:09:55 ID:JNPoMeRv
>>801
kwsk
805人間七七四年:2009/04/17(金) 15:58:52 ID:eSOspI3q
>>804
まんま>>800だがもう少しkwsk言うと
勝永を土佐で預かった時に忠義と勝永がデキてしまったと言われる
つまり実は忠義が元カレに復縁を頼んでるわけでして

勝永の土佐脱出の際も
「忠義様が心配なんで大阪について行きます」
と監視役をだまして逃げたという逸話がありまして…
806人間七七四年:2009/04/17(金) 17:19:02 ID:/9d1s8Uh
綱吉がカギ!

Wii 『朧村正』
公式サイト更新!
http://www.mmv.co.jp/special/game/wii/oboromuramasa/index.html

・お知らせ:「朧村正」の品薄について!
・概要、キャラクター、システム、スペシャル更新!
・発売記念アンケート実施中!
807人間七七四年:2009/04/17(金) 18:24:54 ID:JNPoMeRv
>>805
ああなるほど
それじゃ色々ときついものがあるね
ありがとう
808人間七七四年:2009/04/17(金) 19:23:00 ID:/aMQpQQF
http://mootoko.blog.shinobi.jp/Entry/2437/

スレチですまんが、おもいっきしふいた
809人間七七四年:2009/04/17(金) 19:25:07 ID:EHNThEr6
似たようなスレしょっちゅう立ってるだろ
810人間七七四年:2009/04/17(金) 20:18:07 ID:MreI7m8o
ある夜のことである。加藤清正は便所にいた。外には小姓が
数人ついていたが、これは清正が痔持ちで用を足すのに
時間がかかるからである。彼らが待っていると中からトントン
足踏みする音がしてきた。どうなされたのだ?と彼らが不思議に
思っていると、清正が中から話かけてきた。

「用を思い出した。庄林隼人を呼べ。」

隼人は風邪で寝ていたのだが、呼び出しとあっては行かねば
ならぬということで急いで参上した。

「お前の家来に茜染の袖なしの単羽織を着た二十歳くらいの
男がいるだろう。あれの名はなんと申すのか。」

「出来助のことですか。よく働く草履取りです。」

「その男だ。城下で芝居能があったときに出来助が小便を
しているのを見たが、鎖帷子や臑当をつけていて、平和に
なったというのに感心な心構えだと思い、誉めてやろうと
思ったのだが、のびのびになってしまった。今、便所で能の
足踏みをしていて思い出したので、もうのばしてはならんと
思い、そちを呼んだのだ。人間いつどうなるかわからぬものだ。
私かお前のどちらかが死ぬだけでこのことはうやむやになる。
そうなってはいけないと思ったので、お前を急いで呼んだのだ。
夜更けにご苦労。早く帰って出来助にこのことを知らせて、
相応に取り立てるのだ。ただし、高禄にして恨みを買わない
ように配慮しろ。」

そして清正は急なことで家のものが心配してるだろうからと、
熱い酒を隼人に振舞ってから帰した。帰った隼人はすぐに
出来助を呼び、清正の言葉を伝えたうえで六十石に取り立てた。
出来助はそれ以降もよく忠勤したということである。

出来助よかったねという話だが、風邪で寝てたのに急いで
参上させられた庄林はちょっと気の毒。
811人間七七四年:2009/04/17(金) 20:41:21 ID:RtTRKr70
>>810アンガト
だけどまとめサイト……にあるよ簡略版で
812人間七七四年:2009/04/17(金) 21:07:25 ID:UOeanyWH
じゃあ、清正の話を。

名古屋城を建築中のこと。
清正が城の石垣に使う石を運ばせていると、

「あ゛」

荷車から石のひとつがごろんと転がり落ちてしまった。
慌てて荷車に石を戻そうとしたが、重かったのか落ちた場所が悪かったのか、
どうにも荷車に戻せない。
石をそのままにしておけば「石も満足に運べんのか」という噂が立つかもしれない。
というか単にめんどくさか
そこで清正は、その場にいた人夫や村人に口止めを頼んだ。
村人達も石のことがばれたら不味いのは同じなので了承した。

暫くして役人がやって来た。で、さっそく石を見つけた。
役人は近くを通りがかった村人をとっつかまえて、
「なんだ、この石は!普請現場まで運ばなきゃならんものじゃないのか!?」
「……………」
村人は無言のまま、耳を指差して首をふった。
「なんじゃ、お前は耳が聞こえんのか。しゃあねえな、いって良し!」
役人は次にやって来た村人にも石のことを尋ねてみた。
「………………」
ところが今度の村人も、矢っ張り無言で耳を指差す。
「なんじゃ、お前もか!」
次の村人も
「…………………」
「なんじゃ、お前もか!」
「……………………」
「お前もか!」
「………………………」
「お前もry

こうして役人はついに石のことを誰からも聞きだせず、
石はそのまま放置となった。
この石は今でも放置されてて、「つんぼ石」と呼ばれている。

名古屋の子供が一度は聞かされるお話でした。
 
813人間七七四年:2009/04/17(金) 21:10:20 ID:95tLgIpJ
コントかよw
814人間七七四年:2009/04/17(金) 22:42:12 ID:zJZqvg3k
いや、役人も気付けよ…って突っ込むのも野暮ですか?w
815人間七七四年:2009/04/17(金) 23:57:27 ID:MreI7m8o
>>811
ないと思ってた…。じゃあもうひとつお話を。

前田利常は参勤交代で江戸に向かう途中、宿場で名物わらび餅を
食べた。これが絶品だったので利常は誰がつくったのか、と尋ねた。
すると七十歳の老婆がつくったのだと言う。利常は老婆を褒めた。

「このわらび餅は絶品であったぞ。そうだ、一緒に列に加わって途中
まで見物しようじゃないか。」

利常は長持の上に毛せんを敷いて、その上に老婆を乗せて出発した。
これを見た人々は「いったいどうしたのだろう?」と噂しあった。やがて、
江戸まで三日ほどのところに来ると、利常は老婆を下ろして銀二十枚を
褒美として与えた上に、駕籠に乗せて帰らせた。老婆は途中の宿場ごとに
利常からとてもよくしてもらった、と言い回った。結果、道中のいろいろな
店が「自分たちも頑張れば前田の殿様によくしてもらえる」と思い、仕事に
励んだため、その道を通るものは皆喜んだという。
816人間七七四年:2009/04/18(土) 00:06:26 ID:j68INBc9
素にしろ打算にしろ、こうゆう話好きだわ
817人間七七四年:2009/04/18(土) 03:59:11 ID:4gI34zEs
これは童話にしてもよい程のいい話
818人間七七四年:2009/04/18(土) 12:52:39 ID:5g75cHRa
風林火山といえば武田信玄というくらい有名だが、これは
一本の軍旗に書かれたわけではなく、それぞれの言葉が
別々の軍旗に書かれたそうだ。信玄はできあがった四本の
旗を馬場、高坂、内藤らに披露した。すると、馬場が

「私には学がありませんので旗の意味がわかりませぬ。
風は激しいものですが、いずれ弱々しくなるものでしょう?
ですから朝は激しいですが、夕暮れには弱々しく帰るという
意味になってしまい、軍旗に相応しいとは思えないのですが」

と言った。信玄は微笑んで馬場の発言を聞き、疑問に答えた。

「それはわしも気になっていた。そこでこの旗は先鋒に
持たせることにした。先鋒の力が弱くならぬうちに本軍が
後を追う。そうすれば二段撃ちで我が軍は風のように
進むことになる。どうだ、これで弱々しく帰るなんてこと
にはならぬだろう?がははは!」

馬場は信玄の答えに納得し、感心した。

「ううむ、二段撃ちで風の如くか…。さすが御舘だ。そういう
発想はなかった」

819人間七七四年:2009/04/18(土) 13:44:30 ID:53fFVnJU
>>803
金上さんといえば遠江守だっけ。官位を名乗るんだから葦名家中では重職だったろうなあ

ラスボスの眼力はいつも大したもの何だけど……
820人間七七四年:2009/04/18(土) 14:26:50 ID:j68INBc9
風:真田(身の振り方が速い)
林:馬場(静かに不死身)
火:山県(火の如く赤備え)
山:高坂(動かざる尻)
雷:勝頼(動きすぎ)
陰:内藤(言わずもがな)
821人間七七四年:2009/04/18(土) 14:41:24 ID:re5QXFaB
内藤さん…
822人間七七四年:2009/04/18(土) 15:43:20 ID:IXpNaHnN
>>815
利常ってかなりの天才肌な気がする
823人間七七四年:2009/04/18(土) 16:03:00 ID:r2yQH4pG
>>820
「山」・・・w
824人間七七四年:2009/04/18(土) 17:09:17 ID:53fFVnJU
>>820
まて、尻なら谷だろぅが
825人間七七四年:2009/04/18(土) 17:14:04 ID:rL+U23HR
伊予の高森城の家中に裏切り者が出て、長宗我部元親に内通した。
「約束の刻限に城に火をかける。それを合図に長宗我部軍は突入する。」

こう打ち合わせ、元親は軍に動員をかけた。
ところがこの動きは伊予の諸勢力に察知された。「元親が伊予を攻めようとしている。」
そこで各城において人改めが行われる。高森城でも厳しい詮議が行われ、ついに内通が
発覚した。

さて、長宗我部の軍はこれを知らず、善家山と言う場所に集結、高森城からの
合図を待った。
と、城から火の手が上がる。はかりごと成れり!長宗我部軍は城に押し寄せた。

―この時、城中から長宗我部軍に向かって首が放り投げられた。
内通者の首であった。

城内の火も消えた。元より長宗我部軍をおびき出すために、城内に薪を積んで
燃やしたものであった。

「罠か!」

長宗我部軍、そう悟ると壊乱、たちまちに逃げ出した。

この時長宗我部軍の殿をつとめたのは、十市備後というものであった。
城から打って出た敵の大軍にじりじりと引き下がり、切り通しの細道に
七人で踏みとどまって戦う。しかし七人ではどうにもならない、そこで十市たちは
逃げる味方に向かって

『返せ!返せ!』

と、あらん限りの大声で叫んだ。ところがこの時、

『返せ!』の声が山の洞に響き、山彦となった。
「「「「返せ!返せ!返せ!返せ!」」」」
あたかも、百人ほどが一斉に叫んでいるように聞こえた。

これに追撃の高森勢は、「さては竹林や物陰に、大勢兵を残しているな。」と考え、
追うのをやめ、引き上げて行ったそうである。

長宗我部勢、壊滅の危機を山彦に救われたお話。
826人間七七四年:2009/04/18(土) 17:15:11 ID:mVa2eVUG
各々方、谷は山の中に有るものに御座ります。
827人間七七四年:2009/04/18(土) 18:18:25 ID:bSyRGscj
>>815で息子の話も出たし、姉妹スレでのフルボッコを少しでも挽回させてくれ

天正3年(1575)、長篠の戦いでみずから武田勢と槍を合わせた前田利家は不覚を取り、
腿を槍で刺される大ケガを負い、地に倒れた。
当然、そこで敵の槍が止まるはずもなく、『槍の又左』も一巻の終わり・・・

と思われた時、不意に飛んできた別の槍が武田武士を抑え、利家の命を救った。
「殿、今じゃ!立たれよ!」
主君から片時も目を離さぬ前田の家老・村井豊後守長頼の助けだった。
これで体勢を立て直した利家は、武田武士の首を獲り、信長から褒美を授かった。

「私はごらんの通り、傷まで受けており、村井がおらねばあぶなかったでしょう。
これは私の功ではありません。褒美は村井に与えて下され。」利家は正直に語った。
信長は首を振って答えた。
「そのような忠義の勇士を召抱えて事に備える、これすなわちお前の功ではないか。」


10年後、長頼の子・勘十郎長次が、利家の近習として出仕することになった。
17歳と遊びたい盛りの勘十郎、ある日城下で遊び過ぎ、朝帰りして出仕に遅れた。

利家に呼ばれ、広間に平伏した勘十郎が恐る恐る顔を上げて見ると、待っていたのは
見た事もない赤い顔した主君の顔と、青い顔した父親の顔。そこへ利家の叱責が飛んだ。

「主君の叱る時は、ただかしこまって顔を上げぬものだ!顔を上げるのは、主君に
不満あって、果し合わんとして目を合わせようという事だぞ?!
よし、お前の考えは分かった、そこへ直れ!!



・・・と言いたい所だが、お前は村井が子ゆえ、特に許してやろう。
ああ、勘違いするな? 逆に言えば、どれほどワシらに叱られようとも不満があっても、
父親のように、ひたすら前田家に仕え続けねばならんという事だ。

その辺りをよーく考え、今後は分別せい!以上!!」

側で聞いていた長頼、情けなさと目から流れ落ちるもののあまり、
しばらく顔を上げられなかったという。
828人間七七四年:2009/04/18(土) 19:39:25 ID:IXpNaHnN
>>827
利家と村井長頼の関係ってステキやん
829人間七七四年:2009/04/18(土) 20:00:45 ID:iL67Dt5s
>逆に言えば、どれほどワシらに叱られようとも不満があっても、
父親のように、ひたすら前田家に仕え続けねばならんという事だ

これってさらに逆に言えば村井だけは何があっても雇い続けるってことだよな

犬(千代)の恩返し…
830人間七七四年:2009/04/18(土) 21:33:17 ID:pIsi9x5/
>>827
これが花慶の村井親子のモデルか!
831人間七七四年:2009/04/18(土) 22:05:01 ID:C4W1AZ+7
>>830
前田家と原哲夫なら、富田重政の髭剃りの話も北斗でネタに使ってたな。
832人間七七四年:2009/04/18(土) 22:10:18 ID:CjE82gJS
>>824
信玄なら、ウホッと山とは繋がりがある。
信玄は草木(臭き)が絶えぬから、という理由で厠を山と呼んでいた。
つまり
山といえば厠、厠といえばハッテンバ、ハッテンバといえば高坂と・・・(アッー!)
833人間七七四年:2009/04/18(土) 22:40:05 ID:53fFVnJU
>>827
信長の目利き(恩賞を出す名分)がいい話だな
834人間七七四年:2009/04/19(日) 00:33:44 ID:AU3TS5xe
板垣信形配下、荻原助四郎さんの将来の夢。

「えっとね、槍の高名も1回だけじゃさびしいよね。2回はしたいなあ。

あと、槍下の高名も2回、城への1番乗りも2回、馬上で組討するのも2回、
この、あわせて8回の功名をするまでは、命を大事にするよ。
これをやり遂げたら、殺されたって文句言わないなあ。」

当時の武士は、こんなふうな活躍を夢見ていたのだ。

835人間七七四年:2009/04/19(日) 01:42:09 ID:40bb7Ajb
>>825
十市さん忍法かスタンドを使ったという可能性はないのか。
836人間七七四年:2009/04/19(日) 03:54:59 ID:2alRbgEa
>>834
荻原さんのかわいい口調に吹いた
837人間七七四年:2009/04/19(日) 11:07:04 ID:HjrEQyPG
>>834
あれもしたいこれも欲しいと言いつつそれが手に入ったら何もいらないと

戦国武士がスイーツ(笑)脳とは知らなかった
838人間七七四年:2009/04/19(日) 12:48:57 ID:Ud3W80uD
最近のスイーツって剛毅なんだな
839人間七七四年:2009/04/19(日) 13:53:22 ID:bYFcNoqd
山名豊国の人の良さ
・対立した武将の息子を召抱える
・対立した一門と和解
・山中を本丸に自分を二の丸に据える
・大坂の陣で豊臣方だった従兄弟の子供を旗本にさせるよう取り成す
・徳川幕府の時代になっても足利幕府の古い恩義を忘れない

姓名判断によると真面目で人に恵まれるらしい
840人間七七四年:2009/04/19(日) 18:02:14 ID:AU3TS5xe
秀吉の四国征伐の時の、伊予、金子城攻防戦においての、薮内匠と、
毛利家家臣児玉三郎左衛門の槍働きは当時、世の人々に大いに喧伝されたものであった。

ある時、本多正信がこの児玉を招いて、その戦の模様を詳しく尋ねたことがあった。
しかし児玉、「申し訳ござらん。前後の次第を忘却してしまいました。」と、それだけを言い、
その時はそれで終わってしまった。

その後、正信が、こんな話を聞いた。

児玉が親しい人に、
『内匠と言う人は、世の人の良く知る勇者である。あの戦の模様を私が話せば、
当然、共に戦った内匠が語ったのと同じ内容になるだろうが、
もし、その語る内容に相違があれば、世の人々は色々に褒貶するであろう。

私はそれほど江戸に出てくる人間ではないし、”忘れた”と言っても、別に失うものはない。
それに、話の内容が異なって、内匠が悪し様に言われるような事態になるのは、
私の本意ではない。だからこそ語らないのだ。』

そんな風に言っていたというのだ。

これに正信は「人は誰も、我侭や独りよがりの心を多く持っている。自賛をし他人を貶め、
自分を立て人を退けるものだ。そう言った中、児玉の心がけは何と麗しいものか。」
と、感じ入ったそうである。

841人間七七四年:2009/04/19(日) 18:07:43 ID:5Z3JvluG
福島正則「武功を吹聴するのは下衆のすること。真の武士は>>840のようにありたいものだ」
842人間七七四年:2009/04/19(日) 18:10:47 ID:lEQ8amKL
清正公「まったくもって同意」
843人間七七四年:2009/04/19(日) 18:23:19 ID:u4cSLZk4
秀吉「お前らはわしの言いつけを良く守っているな」
844人間七七四年:2009/04/19(日) 19:50:08 ID:wH//T63r
三成「まあ全てお見通しだ。秀吉様にきっちり報告させていただきます。」
845人間七七四年:2009/04/19(日) 19:59:55 ID:XmSGoMce
いい話でも悪い話しでも、三河武士はなんだかメンドクサイ。
846人間七七四年:2009/04/19(日) 20:11:14 ID:K58lSJ7e
三河武士からメンドクサイ部分を取り除いたらただの武士だからな
847人間七七四年:2009/04/19(日) 20:15:19 ID:AI5mK0bb
板東武者も同様
848人間七七四年:2009/04/19(日) 21:41:32 ID:pQ7NrwkB
だがそんな三河武士が大好きだ!
849人間七七四年:2009/04/19(日) 21:54:50 ID:EjtZxIjU
>>839
乱世に生まれず治世に生まれていればいい殿様だったろうにな
850人間七七四年:2009/04/19(日) 22:01:35 ID:wH//T63r
三河武士って本当は骨のない奴なんだよ。
なぜって・・・身皮武士だからさ!
851人間七七四年:2009/04/19(日) 22:27:41 ID:iBZCxLU2
鬼武蔵先生、出番ですぞ。今宵の獲物は>>850でございます
852人間七七四年:2009/04/19(日) 23:13:00 ID:5Nxdm9Gx
骨皮道賢「誰かに呼ばれた気がするな」
853人間七七四年:2009/04/19(日) 23:31:04 ID:Fn3INLwK
>>852
おまえは身がないからアウト
854人間七七四年:2009/04/20(月) 00:48:42 ID:G/pIqLAE
小田原の役が終わり、家康が関東に入ったあとの話。
家康の家臣である大久保忠世は後北条氏の没落後、
小田原城主になったが、これは秀吉の勧めだという。
(ちなみに秀吉と忠世にはこんな逸話も
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1640.html
ある日、秀吉は忠世を招いてこう質問した。

「お前は徳川にとって重要な家臣だ。ゆえに家康殿に
勧めてお前を小田原城に据えたわけだ。わしはお前の
実力をとても高く評価しているのだよ。でだ、仮に豊臣と
徳川が争うようなことになったら、お前はどっちに味方
するのかな?」

この問いに対し、忠世はハッキリと自分の気持ちを伝えた。

「殿下には大変なご恩があると思っております。ですが
私は徳川譜代の家臣ゆえ、もしそのようなことになっても
義に従い、徳川のために戦います。そうなれば我らが
勝ちますから、殿下は関白の地位と天下の主導権を
失います。そして殿下のお命は私次第というわけです。」

忠世にキッパリと誘いを断られた秀吉は…

「ククク、なんとも血気盛んな御老体だ。まあ一杯飲め。」

と怒る様子もなく、笑って酒を勧めたという。
855人間七七四年:2009/04/20(月) 01:20:09 ID:VrrjK8fs
>>854
さすがだぜ三河武士は

>>849
兄さん(豊数)が死んだのが痛い。
これがなかったらここまで過小評価されなかったかも。
856人間七七四年:2009/04/20(月) 02:30:28 ID:2GRPpkiy
>>854
こういう逸話を見るたびに
ラスボスの最大のコンプレックスを三河武士は毎度毎度刺激してるよなーと思うぜ
譜代の家臣がいないってのが豊臣政権の痛いところだしなあ
857人間七七四年:2009/04/20(月) 02:35:14 ID:up8fU6at
鬼の目にも涙と戦国時代でも死亡フラグな話

本能寺の変後、金山城に撤退してきた長可が母に会うと、彼女はただただ、泣いていた。
彼女は夫である可成の死後、残った五人の息子を支えに生きてきたが、成利、長隆、長氏の3人が
本能寺で討ち死にしたと聞き何度も自害しようと思ったという。しかし、長可と忠政が帰ってくるのを信じて待っていた。

「この世は生者必滅、まして武家に産まれたのなら尚のこと、命を惜しみ恩賞に執着するのは家名を汚すだけでなく
子孫を滅ぼすことです。例え、女であっても武家の生まれならご存知のはずでしょう。
さぁ、泣くのは止めて、念仏を唱えてください。今は忠政の無事の帰還を、そしてこれからは父上と3人の供養のために」
と、長可は母を諌めた。

だが、母は「昔の聖人である孔子も子に先立たれた時は涙を流したと聞きます。天神様ですらそうです。
まして、この乱世の末に子を失うことがどれだけ悲しいことか。こうなる事が解っていればもっとあの子たちの顔を
よく見ていたし、暇乞いもしたというのに、信長公に召抱えられた嬉しさのあまり、特に何をするこもありませんでした。
それに最近、あの3人から同じような内容の手紙が届いたのです。

―母上へ、お元気ですか?最近、妙に母上の事が懐かしく感じます。
 実は、この夏の間に信長様は西へ向かわれるそうです。なので3人で暇を願い出て母上に会いに行こうと思っています。
 それではまた。―

あの子達にまた会いましょうと言える嬉しさ、今か今かと待っていた矢先に3人の討ち死にです・・・
3人の手紙を袖に入れてあの子達が恋しくなる度に読み返しているのです。」
と3人の手紙を長可に渡した。

その手紙を読んだ長可は咽び泣き
「早く奥へ入り、体を休めてください」と母を慰めた。
858人間七七四年:2009/04/20(月) 03:59:43 ID:5ZTWxW5B
男は例外なくマザコンだからな…
いい話じゃないかい
859人間七七四年:2009/04/20(月) 07:39:03 ID:/vyi8gbN
なんというテンプレ通りの死亡フラグ…
860人間七七四年:2009/04/20(月) 10:44:50 ID:JnT+FkDt
>>856
子飼いの七本槍でさえ、主家と運命を共にした人間がおらんからなぁ。
片桐さんは本当にギリギリまで頑張ってたし、他の人間も忠義の逸話は残ってはいるが。
861人間七七四年:2009/04/20(月) 10:45:50 ID:5ez8M7T/
>>856
逆じゃね?
こういう立派な家臣がいたから大御所は勝って、居なかったんから太閤は負けたんですよーっていう結果からこういう逸話作ってる希ガス
862人間七七四年:2009/04/20(月) 10:58:41 ID:6Oen499j
お前の希ガス便利だな
863人間七七四年:2009/04/20(月) 10:59:08 ID:5oyY2TK7
>854-856
ちょっぴり残念な倅は北条氏康ゆかりの柱を捨てて鈴木アッー大学の弓をコレクトしちゃうんだけどね

その忠隣も大久保長安事件で改易されてなお幕府と徳川家への忠誠を失わなかった、
面倒くさいというか、よっぽど神君や秀忠が好きだったのね。
864人間七七四年:2009/04/20(月) 16:32:14 ID:19wRXfir
竹中半兵衛さんより、逸話を読むときのご注意。


竹中半兵衛がある時こんな事を言ったそうだ。

「人は合戦の話を聞くときに、問うべき要の部分を聞かず、要らぬ事ばかり
多く尋ねる。そんな事ではその話を手本にして、功を立てることが出来ない。
また、聞かれているほうも、要らぬ事を強調しがちである。
これでは、良い物語であっても、役に立たない事が多くなるわけだ。

ここで誰々が手柄をなした功をなした、などという、一本槍の匹夫の手柄話だけを
聞いて終わってしまっては、人の習いになることは何もない。
その合戦、その状況がどうして起こりどう収束したのか、そう言う部分を心にとどめ
考えることこそ、肝要なのだ。」

人は派手な場面をピックアップしがちだが、そうではなく、全体の流れからものを見るべきなんだよ。
そんな、半兵衛さんのご意見でした。
865人間七七四年:2009/04/20(月) 16:40:44 ID:mD8pnFL0
正純「で、誰が戦場で恥をかきましたかな?」
866人間七七四年:2009/04/20(月) 19:41:13 ID:5oyY2TK7
>>864
「英雄なんて酒場にいけば幾らでもいる」
「そのかわり歯医者の治療台には一人もいない」
ですね。 by楊文歴(架空の人物)
867あっちでのワビも兼ねて:2009/04/20(月) 20:41:03 ID:/vyi8gbN
九州征伐時、豊臣軍は次々城を落とし順調に攻略していった
大友家家臣立花宗茂も島津軍に追い討ちを掛けるべく奮戦していたが
親交のあった和仁弾正とは豊臣方が来る前に和睦しておりその旨を秀吉に伝えた
が、秀吉は押しつぶしてしまえを言ってまったく聞こうとしない
快進撃を繰り返していたのでそんな小さな領主の事など気に掛けなかったのだろう
すると宗茂、それでは面目が立たないから自分を殺せと秀吉に言ってきた
これには秀吉も折れて和仁弾正の和睦を受け入れたという

義理堅い宗茂のいい話
868人間七七四年:2009/04/20(月) 20:45:08 ID:hg+SVoU8
ハイハイ宗茂宗茂
忠義で家潰すだけのことはあるわ
869人間七七四年:2009/04/20(月) 21:26:04 ID:2H7Or4Co
ちょっと考えても自分の命懸けるほどの話じゃないな
秀吉が上陸した時点で主家は大丈夫だろうし義理以外本人の利益になりそうにない
そこで命懸けちゃうのが宗茂なんだろう
870人間七七四年:2009/04/20(月) 21:50:23 ID:gTCXp2Zk
これは命懸けるところでしょ。
ここで、小領主だからといって義に違う行いをすれば、
高橋紹運、立花道雪から続く武名に傷がついて、
立花の名前が九州で信用されなくなるし、
ここで義を捨てて利を取っていたら、
後生には親父と義父の名前を汚した武将として通っていたと思う。
871人間七七四年:2009/04/20(月) 22:08:28 ID:hg+SVoU8
この時点で大名成り上がり確定だったっけ?
大友家臣なら九州に威を唱える必要も無いけど
一応秀吉に伝えてるからこの時点で義理は果たしてるともとれる
この時点で養子もいないから死んだら立花家滅亡の危機でもある
872人間七七四年:2009/04/20(月) 22:10:24 ID:1H8ui4Sg
>>857
親父より先に死んだ長兄涙目
873人間七七四年:2009/04/20(月) 22:29:19 ID:0S9kpiXa
>>867
でも結局肥後国人一揆で滅亡してしまう和仁一族・・・
874人間七七四年:2009/04/20(月) 22:51:43 ID:LbX9kwFp
>>873
しかも和仁家の田中城を攻め落としたのは小早川秀包と立花宗茂なんだよな・・・
宗茂は和仁一族の一人を、家老の小野和泉の義弟にすることでなんとか助命した
らしいけど。
875人間七七四年:2009/04/20(月) 23:06:04 ID:VNG6pmrs
宗茂は親父達の中の理想の武士ってのを押し付けられて教育された感じがする
それがいきすぎたせいか、自分よりも主や義理を重視するってのを通り越して
主や義理のために自分を犠牲にするってレベルになってるな
876人間七七四年:2009/04/20(月) 23:08:03 ID:hg+SVoU8
それでも助命するのかよ…
一歩誤れば自分にも咎が降るのに
877人間七七四年:2009/04/20(月) 23:27:18 ID:gTCXp2Zk
>>875
押し付け教育では立花宗茂のような名将にはならないだろ。
高橋紹運は武士の理想を口ではなくて実際に行動で示している。
本心で義を大切だと感じていないなら岩屋城での玉砕なんか選んでいない。
尊敬できる親父の背中をみたからこそ義に違うことをしなかったのだと思う。
というか、立花宗茂は押し付けられたからと言って従うタマじゃないだろ。
878人間七七四年:2009/04/20(月) 23:41:35 ID:hg+SVoU8
別に押し付け教育とは言ってなくね?
道雪、紹運共に忠義の士として恥じない武将だし存在自体が理想の押し付けにならなかった確証もない
親が偉大だと子が犠牲になるとこのスレでも誰か言ってたけど宗茂も何かリミッター外れてたかも知れない
まぁ美化しようと蔑もうと本人と話せ無い以上真相は藪の中だが
879人間七七四年:2009/04/20(月) 23:46:52 ID:x/qTBR5g
行き過ぎた品行方正が祟って改易食らうけど旧領復帰できたのもその性格のおかげなんだよな。
家臣は大変だったろうけど。
880人間七七四年:2009/04/20(月) 23:50:34 ID:9QfNGPQY
小田原城開城前後の頃の事である。
徳川家康は、双子山と言う所の、麓の平野部に陣を張っていた。

その夜、家康は一方に土を盛り、もう一方に鎧櫃を置き、その間に戸板を二枚わたしてその上で寝ていた。簡易ベットですね。
傍では大河原と言う、この時まだ15,6の小姓が控えていた。
彼もうつらうつらとしていたが、夜更けも過ぎた頃、にわかに騒ぐ音が聞こえた。

大河原、これに驚き立ち上がったが。その勢いで戸板にあたり、それを落としてしまった。
そう、その上に寝ていた家康、寝床からすべり落とされたわけです。

「い、一体どうしたのだ?何を慌てておるか!」突然ひどい起こされ方をした家康が聞くと、
大河原、「不審な物音がいたしまして…、ほら!、今も!」
その音を聞いて、家康

「お主はまだ若いから、わからぬのも仕方が無いが、陣中においては、夜中の騒ぎなど、これは良くある事なのだ。
敵が出てきたときは、鉄砲の音、弓のつるの音なども一緒に聞こえてくる。

さて、先ほどの音を聞くに、これは人の話す音であった。これは馬を取り押さえているか、
口論でもしているのであろう。まあどちらにせよ、気遣いするようなものではないよ。」

そう諭すと、また板をわたし直して、再びお休みになったそうだ。

そんな、ベテラン軍人と新兵、という感じのお話。
881人間七七四年:2009/04/21(火) 00:00:40 ID:z3+QzHRS
多少の事で起きてたら眠れないしなぁ
かといって重大な事態で起きれないと生き残れないし
882人間七七四年:2009/04/21(火) 00:21:10 ID:NJErpDN5
>>881
今回はたまたま誤報やうっかりで済んだけど、次にガチ夜襲がないとは限らない。
その時主君の叱責を恐れて若い家臣が報告できないようでは困るから、
たしなめたけど怒ったり罰したりはしなかったんだろうな。



……ベテランの三河武士どもは吉四六さん(九州だが)みたいに確信犯的なKYだから、
夜襲が来たら家康が万一泥酔や熟睡していようが愛妾とギシアンしてようが乱入して叩き起こしにくるだろうが..w
883人間七七四年:2009/04/21(火) 00:40:26 ID:qTsetVQO
家康優しいなw そんなハードな起こされ方したのに
近習ってのは主君の為に働くのもあるんだけど師弟みたいに色々教えなきゃならない
から大変だな
884人間七七四年:2009/04/21(火) 00:52:17 ID:PF87FioS
「確信犯的なKY」ウケタ!
家康公御自ら教えないと他のメンドクサイ三河武士に教育されてメンドクサイ三河武士に育っちゃうからね。
885人間七七四年:2009/04/21(火) 00:52:46 ID:6xZLjEtb
>>880
三方ケ原で地獄を乗り越えてきた男の面目躍如だね
886人間七七四年:2009/04/21(火) 04:17:47 ID:LIKgo3mL
>>883
未来の幹部候補生だからな
887人間七七四年:2009/04/21(火) 04:28:55 ID:p6Ng86WC
北条攻めの頃なら生きてる武将の中で、
戦陣で寝起きしたキャリアは家康、秀吉がだんとつじゃないかな。
一事が万事で、長年前線で培った経験が、百戦必勝という自信に
なってた二人じゃあるまいか。
888人間七七四年:2009/04/21(火) 06:04:01 ID:zcj8qaRX
>>887
冷静に考えたら北条攻め時の豊臣軍ってとんでもないな
実績・経験共に現役最高の城攻めの名手
実績・経験共に現役最高の野戦指揮官
こんなのがタッグ組んで大軍引き連れてる訳で
889人間七七四年:2009/04/21(火) 06:29:27 ID:wEJ5Lymp
>>887-888
西から腐れ禿鼠と神君に率いられた17万、北から上杉勢、真田勢、犬畜生、南からは九鬼水軍とおまけが
そんな軍団がわらわらと…

それに勝利できる武将がいたら知りたいものだ

朝鮮出兵をこの面子で行うことができてれば成功してたかもw
890人間七七四年:2009/04/21(火) 06:39:26 ID:7xBQMDXP
>>889
西国からも小早川景隆や黒田如水、長宗我部元親まで。
まさに戦国の最後を飾るにふさわしい面子ですな。
891人間七七四年:2009/04/21(火) 07:03:52 ID:c0KKApRr
景隆って誰だよ
892人間七七四年:2009/04/21(火) 07:06:02 ID:/0JzuXxu
能登畠山の温井(景隆)さんがいますぜ。
893人間七七四年:2009/04/21(火) 07:11:00 ID:7xBQMDXP
何でこんな打ち間違いをしたのだろうw;
隆景orz
894人間七七四年:2009/04/21(火) 07:22:01 ID:X1NTXyyx
・大途(主君、北条政権)のための総動員令。
・豊臣軍との決戦に備えた箱根城郭群。
・その構想を猛烈な火力と数多の兵の犠牲を問わぬ突撃によって打ち砕かれた山中城の戦い。

北条から見た小田原攻めも燃えまっせ。
895人間七七四年:2009/04/21(火) 10:02:41 ID:1+myXeDU
>>893
隆景「急いでいる時こそ、ゆっくり落ち着いて書きなさい」
896アミバ:2009/04/21(火) 13:18:17 ID:PtA2iBIz
>>868「宗茂!宗茂!どいつもこいつも宗茂!」
897人間七七四年:2009/04/21(火) 13:41:57 ID:5MhptG4e
小早川秀秋乙
898人間七七四年:2009/04/21(火) 13:58:29 ID:PK5NYGFB
丹羽長重「同じ返り咲き組みなのになぁ、宗茂ちゃんばかりずるいや」
899人間七七四年:2009/04/21(火) 14:04:16 ID:z3+QzHRS
同じ場所に返り咲きってのがデカイ
宗茂の弟も改易されたけど常陸で返り咲いてたはず
石高が偉い違うからあんまり話題にならないけど
900人間七七四年:2009/04/21(火) 14:11:42 ID:9eqA2oSq
そういや秀秋も返り咲き組か
901人間七七四年:2009/04/21(火) 17:31:12 ID:Kz1c1mZ+
>>896
よーし!次スレから
鬼武蔵には絶対敵わないけどちょっと悪い話と宗茂には絶対敵わないけどちょっといい話にしようぜ!
 
902人間七七四年:2009/04/21(火) 17:53:37 ID:/pU9HDTa
富田長繁「…」
903人間七七四年:2009/04/21(火) 17:55:34 ID:FMmcbbz9
スレチだけど今日・明日と熊本城で将棋の名人戦やってんだよね
戦ですよ、戦。城で戦。燃えるねー現代は城といえば観光名所だけど
やっぱ戦が似合う
もっと色々使って欲しいよね、眺めるだけってのは今ひとつ城がもったない

城のいい使い方だと思うの話れした
904人間七七四年:2009/04/21(火) 17:56:59 ID:aIjA6mFw
>>901

良いも悪いも太閤のスケールのでかさには適わない逸話スレ
これには森も立花も雲霞の如し
905人間七七四年:2009/04/21(火) 18:04:33 ID:GRJLWaTV
しかし実は俺みたいに
百万人に一人が名前を知ってるかどうかみたいなマイナー武将の逸話が楽しみで
このスレをブクマしてるようなやつが結構、いやかなりいる悪寒
鈴木大学みたいな武将を知れて嬉しいよ
このスレ見てなかったらきっと一生知らなかった
906人間七七四年:2009/04/21(火) 18:12:56 ID:3BXFgKJR
すっかりネタが出尽くして人の逸話にしゃしゃるだけになった森武蔵を
悪い話の代表みたいにされてもなあ…
907人間七七四年:2009/04/21(火) 18:37:55 ID:NJErpDN5
>>903
名人戦か忘れたが、別のお城の公園か会館でもやってたよな

ああ津山城で鐘を鳴らしたいなあ
908人間七七四年:2009/04/21(火) 19:05:04 ID:7xBQMDXP
将棋といえばこんな話が

大阪の陣の前、駿河においての事。
徳川家康が本仁房と双桂という、将棋の上手を呼び、自分の前で一局打たせたことがあった。
この対局に近臣たちも皆集まり、熱心に見物した。

さてこの勝負、本仁房が優位に進め、双桂を後一歩で詰める、という状況になった。
これに双桂、次の一手を、打たない。思案を続けている。

見物の者たちは、「どう見ても他に打つ手がない、双桂の負けなのに、何をあんなに考えているのか」
と、不思議に思い、家康も、あまりの思案の長さに、飽きた。

途中で席をはずし、風呂に入りに行った。
帰ってきたら、まだ思案していた。
さらに夜になり、食事を取りに行った。
戻ってくると、やっぱりまだ思案していた。

これに家康、「もう遅いから、今日は本多正信の屋敷に下がり、又明日にいたせよ」
と、中断させようとした所、双桂

「少々お待ちを!」

と、一手を指した。そしてそこから三十手で、ついに本仁房を逆に詰ませてしまった。
劇的な大逆転勝利であった。

家康はこれを大いに面白がり、
「見ているものが誰も、もう駄目だ、無駄な抵抗をと思ってっていたのに、
そこから三十手で逆転いたした。
将棋に限らず世の中の物の上手というのは、ゆえなく工夫をする訳ではないのだな」

そう、感心したとの事だ。
909人間七七四年:2009/04/21(火) 19:08:42 ID:edV8I4DB
>>908

カッコエ〜!
910人間七七四年:2009/04/21(火) 19:22:08 ID:KlpTa9KH
直家「そうそう。何事も工夫が大切さ。」
911人間七七四年:2009/04/21(火) 19:27:30 ID:jbJSyh9P
工夫する相手だからこそ、時々断食の日があっても付いていけるんだな。
912人間七七四年:2009/04/21(火) 19:28:29 ID:OWjDz51T
くふぅ…
913人間七七四年:2009/04/21(火) 19:49:58 ID:wEJ5Lymp
>>908
真田信繁「大坂の陣でもう駄目ぽから逆転勝利を狙ったけどやっぱり駄目ぽでしたorz」
914人間七七四年:2009/04/21(火) 20:08:38 ID:QXgfDDQ5
>>908
痺れるな。
まさに将棋を魅せた人だ。
915人間七七四年:2009/04/21(火) 20:10:59 ID:SSQX43Iz
>>908
家康の人生とかぶるな。
916人間七七四年:2009/04/21(火) 20:18:24 ID:z3+QzHRS
>>906
昨日のレスも読めんのか
917人間七七四年:2009/04/21(火) 20:46:28 ID:sp2+rKgT
>>913
毛利勝永「後の世に有名になっただけいいじゃないか」
918人間七七四年:2009/04/21(火) 20:53:41 ID:aIjA6mFw
>>913

明石全登「お互い頑張ったのにまともに名を覚えてもらえないとは
     口惜しいのう」
919人間七七四年:2009/04/21(火) 20:56:09 ID:sRilSvsl
>>908
この双桂っていうのは
将棋の初代名人、大橋宗桂のことかな?
920人間七七四年:2009/04/21(火) 21:06:16 ID:qDjwWvjO
>>918
えーっと…ゼントーさん…でしたっけ?
921人間七七四年:2009/04/21(火) 21:07:16 ID:7xBQMDXP
>>919
手持ちの本には双桂と書いてあったんだけど、おそらくそうでしょうね。
922人間七七四年:2009/04/21(火) 21:09:35 ID:glKCTPrM
>>908
ギャラリー的には一発逆転の鮮やかさばかりが際立って、
その前の敗北寸前まで追い詰められていたという点は忘れ去られるんだろうな
923人間七七四年:2009/04/21(火) 21:57:56 ID:/pU9HDTa
現代のルールでは時間切れで負けになるんじゃ?
924人間七七四年:2009/04/21(火) 22:39:35 ID:7xBQMDXP
>>923
近代以前は将棋に限らず、柔術も剣術も、大抵のものは時間無制限なんだよねー。
おおらかと言うか、時間の概念自体も大きく違ったんだろうね。
925人間七七四年:2009/04/21(火) 23:44:17 ID:EYD4EZhf
>>923
ええい、現代の本多正純め
926人間七七四年:2009/04/21(火) 23:55:30 ID:D4ENrDz5
>>922
むしろ大逆転勝利を際立たせるために誇張されていくんじゃないかな。>敗北寸前
927人間七七四年:2009/04/21(火) 23:57:57 ID:kXBEKX3M
蜂須賀家政は江戸に在勤している他の大名を訪ねるとき、
一緒に付き添った家来に「俺日暮れまでこちらにお邪魔するから
帰る時間までお前らはその辺で遊んでな。」
と言って小遣いを渡して自由時間を与えたそうな。また家政は
食後のデザートが大好きだったけれども、必ずその日の当直の
人数分、餅やあんを残し、それでも足りないと自分の分も残した
そうな。実に家来想いな殿様だ。
928人間七七四年:2009/04/22(水) 00:13:04 ID:qFkDF/2M
竹中半兵衛は若くして軍略の巧者と、世間で持て囃されていたそうだ。
柴田勝家や滝川一益と言った歴戦の面々は、どうにもこれが気に入らない。

半兵衛が中国の秀吉の使者として、信長への状況報告のため京に上った折
それを待ち構えた柴田たちが、「そなたに一献差し上げたい」と、無理に竹中を自分達のいる部屋に
連れ込んだ。

『竹中半兵衛、何ほどの事やあらん、軍略に付いて、やり込めてやろうぞ』
との魂胆であった。

さて、半兵衛に柴田が言う
「この度中国においての毛利家との対陣の様子、秀吉の考えなどを聞かせて頂きたい。」
しかし竹中
「私は秀吉殿の考えなど聞かされておりません。よって何事も申し上げることはありません。」

「では秀吉の考えはさて置いて、竹中殿、お主は中国戦線の状況をどのように考えるか、
それを語っていただきたい。」

これには半兵衛やむを得ず、毛利家の軍事能力、織田方の対処方針、双方の思惑などに付いて
彼の分析を語った。それから

「私はまだ信長様に秀吉の使いの趣を報告しておりませぬ。こちらを先に済ませてまいりますので、
失礼いたします。」と、出て行った。

半兵衛が行った後、その場にいた柴田、滝川、丹羽、佐久間と言った歴々は、
「竹中とは、聞いていた以上の男だ。彼の中国戦線に対する状況分析と展望には、
文句のつけようが無い。軍略の才能と言うのは、合戦の経験で測れるものではないのだな。」

そのように感嘆した、とのことである。
929人間七七四年:2009/04/22(水) 00:31:33 ID:lwaTBvI4
>>919
ついでに相手の本仁房は囲碁名人の本因坊算砂かな
930人間七七四年:2009/04/22(水) 01:42:17 ID:jE0PPotW
>>924
剣道も流派によっては今も時間無制限だよ
群馬の俺のじいちゃんは若い頃に剣道の試合で両者竹刀が折れたら
そのまま取っ組み合いになって五時間やって
そん時の怪我で右目失明してた
931人間七七四年:2009/04/22(水) 01:53:08 ID:f858W5qG
ちゅーか申し合わせて人気の無いところで斬り合わない限り
一対一の環境で10分も1時間も斬り合いするほうが実戦的じゃないと言えないか?
実際に3〜5分でケリつけなきゃ味方が加勢して有耶無耶になるわけで
932人間七七四年:2009/04/22(水) 01:56:27 ID:L3YV5mua
戦場ではそうかもしれんが江戸期の剣術はまた別だからね。
袋叩きにしたら「武士の風上にも置けぬわ!」って非難されそう。
933人間七七四年:2009/04/22(水) 03:06:21 ID:zMNEPAwK
立花宗茂が十歳のとき、父・鎮種は家中で重罪を犯した者を、
家臣の萩尾大学に命じて討たせた。萩尾はその者と街で行き
逢ったとき、すれ違いざまに後から一太刀で切り伏せた。
このことを家中の傍輩たちが「後から切るのはたやすい、手柄
とは言い難い」などと囁きあっているのを、宗茂が聞きつけて、
「突然行き逢ったのであれば、前後を問わず、その場で討ち止
めてこそ手柄だ。敵を討つのに容易なところを避けて、討ちにく
い方法で切りかかって、仕損じたら何とする。お前たちのような
者は、私が成長した後には、軍利の邪魔になるであろう」と言っ
たそうな。

よくいい人と言われる宗茂だが、非常に実戦的な思考の持ち主
だったことが伺える逸話
934人間七七四年:2009/04/22(水) 03:42:59 ID:IyIpUrgh
高位で、家名を残せる事がほぼ約束された者と
自らの武で家名を上げなければならない者との
考え方の相違のようにも思える。
935人間七七四年:2009/04/22(水) 05:09:58 ID:f858W5qG
>>932
江戸時代の剣術もそんなもんだよ
936人間七七四年:2009/04/22(水) 09:58:05 ID:5D4VdaU6
>>927
地味だけど、こう言う気配りが結構くるものあるね。
もしかしたら、父親から学び取ったのかもしれないね。
937人間七七四年:2009/04/22(水) 10:17:56 ID:FgurobbZ
いい話だけど地味過ぎて親戚のおっさん臭がする
938人間七七四年:2009/04/22(水) 11:04:39 ID:gD6Q1FBm
>>935
932氏は戦場での剣術と江戸時代に発展した道場での剣術の違いを言っているのだと思う。
939人間七七四年:2009/04/22(水) 11:14:48 ID:qq30wM4F
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%CF%B6%BC%EA
みたいな話もあるしな
940人間七七四年:2009/04/22(水) 12:51:22 ID:kbuDtk56
名家だとまた違うのかもしれないけどこの時代の殿様親戚のおっさんみたいなの多いよな
実際若い近侍は重臣の子だったりして親戚みたいなものだったり本当に血が繋がってたりするし
941人間七七四年:2009/04/22(水) 13:59:01 ID:CAylLNxI
俺の通っていた道場(20年以上前)は狭い道で襲われたらとか、
複数の敵に囲まれたらとか、正座している時に襲われたら〜みたいな練習。
戦争中の話も長く数時間正座して聞くのは当たり前、
小学生の俺たちに真剣を持たせ振らせるというはっちゃけぶり。
こんなんだから、普通の試合ではものすごく弱かった。

先生が病気で倒れて、息子さんに練習見てもらったんだけど、
ちゃんと普通の試合の仕方を教わったら、大会でありえない快進撃を続け、
団体戦でトロフィーもらって帰った。

戦と試合は違うのさ。
942人間七七四年:2009/04/22(水) 16:10:59 ID:IMIXY6iw
先生涙目だな
実践で通用する技術を!と張り切ってたのに空回り
943人間七七四年:2009/04/22(水) 16:19:25 ID:+MUNj1r8
むしろ、「先生のお陰で基本能力などは凄く上がってたけど、試合のコツだけ教わってないから試合は弱い」から
「息子さんから普通の試合の仕方をちょっと教わっただけでいきなり試合でも強くなった」様にも思えるが…
944人間七七四年:2009/04/22(水) 16:30:09 ID:CAylLNxI
スレチスマンカッタwww

んー基本能力も低かったと思うよ
試合では敵さんは竹刀を軽々と扱うけど、俺らは竹刀を真剣に見立て、相手を切り伏せる振りをしないと怒られてたからw
敵は竹刀をポンと当てるだけで良いのに、こっちは擦るような振りをしなきゃいけないし、
例にしても殺気を出すために相手を睨みつける方法までおそわっていたし、
俺らだけ格好の悪いかぶいた試合前の構えの方法やらされたし、
防具や袴もわざと目立つように変な色にさせられていたし、
敵が近づいたら組みふせる為に相手を転ばせないとものすごく長い説教されるし、
審判には怒られるし、会場はブーイングの嵐・・・・

興味の無い人特にスマンカッタwww
945人間七七四年:2009/04/22(水) 16:56:21 ID:pQac5Ps7
立花宗茂の悪い話
小早川秀秋のいい話
そしてなにより秀吉の面白い話を聞くのが楽しみである
946人間七七四年:2009/04/22(水) 18:47:07 ID:qFkDF/2M
小田原陣が始まった頃の事である。

小早川隆景の家臣に、川多八助、楢崎十兵衛という、大力無双と呼ばれた武士があった。
彼らも主人隆景に従い、小田原陣に従軍した。この時川多は巨大な旗指物、
楢崎は巨大な母衣を掛けて街道を徒歩で進み、沼津までやって来た。

この頃、秀吉も沼津に陣を張っており、遥かに両人の姿を見た秀吉

「さても大力なる者どもだ。彼らの名を聞いて参れ。」

と、近習を使わした。近習の者馬にて急ぎ彼らに追いつき、馬上より秀吉の命令を伝え
その姓名を問いただした。

所がこの二人、使者を無視し、さっさと過ぎ去ってしまった。そうして近習の者が何度言っても
相手にしないので、しかたがなく秀吉の元に戻りこの事を報告した。

これを聞いた秀吉、近習を大いに叱り付けた。

「お前はきっと、馬から下りずに彼らの名を聞いたのであろう!無礼至極の振る舞いではないか!
想像するに、彼らもそもそも騎馬の身分であろう。だが、あの大指物や大母衣を抱えては
馬が疲れることを恐れて、徒歩にて道を急いでいるに相違無い。

それなのにお前はそうとも考えず、あのような勇士に呼びかけるのに、事もあろうに
馬上から呼びかけたから、彼らは相手にせず行き過ぎたのだ。
もう一度取って返し、下馬して慇懃にその生命を問うて来い!」

そこで近習のもの、赤面しながらその場より取って返し、彼らに追いついて、秀吉に言われたように
下馬して慇懃にその姓名を尋ねたところ、案の定彼らも挨拶を返し、それぞれ自分の姓名を名乗り、
そして悠々とその場を去った、とのことである。」

秀吉武士の心を知る、のお話。
947人間七七四年:2009/04/22(水) 19:02:46 ID:V1L1gQmW
宗茂は典型的ないい話が殆どなんだよなぁ。理想の武士のテンプレみたいな。
忠臣名臣のテンプレのような親父も似たり寄ったりだけど。
おかげで現実味に欠けちゃってる感じはするよね。
江戸時代の人が考えた理想的な武士で、戦国時代から浮いてるような雰囲気。
悪い話を聞きたくなる気持ちは分かる気がする。

大根粥の逸話は面白かった。世間知らずな彼が見れて。
でも、この逸話も武人勘定をせずって感じで伝えられたんだろうなぁ。
948人間七七四年:2009/04/22(水) 19:04:03 ID:jc7EsaDW
じゃあ秀吉のちょっとした話でも。

秀吉の右筆が書き物をしていたのだが、醍醐の醍の字を忘れた。
「あれぇ?どんな字だったっけ。」と考えていると秀吉がやってきて
「なんじゃい、『だい』の字も知らんのか?『だい』はこう書く
のだ、かっかっか。」と笑いながら大の字を書いたという。

俳句を作ったときの話。秀吉は「奥山にもみじふみ分け鳴蛍」
という俳句を作った。そして俳匠が「蛍は鳴きませんがな。」
とツッコんだところ秀吉は「ふん、わしがその気になれば
蛍だろうが、鳴くに決まっている。」と豪語したという。

たしか俳句の話の続きはまとめにあったと思う。
949人間七七四年:2009/04/22(水) 19:22:08 ID:t+QQvpbg
>>948
醍醐を大五と当て字にしたんだよな
太閤5の攻略本欄外の戦国トリビアに書いてあった
950人間七七四年:2009/04/22(水) 19:24:52 ID:qq30wM4F
>>946
こういうポカって結構聞く気がする<馬から降りず
関が原でもあったよな
どっかの陣に戦闘に参加するように三成の使者が馬上から口上を垂れたら
激怒した武将に馬から引きづり下ろされてボコボコにされそうになった奴
上司の威光があるからいいんじゃないかとか思っちゃうんだろうか?

>>948
まとめにあった気がする
951人間七七四年:2009/04/22(水) 20:12:09 ID:vNCngTga
>>950
>どっかの陣に戦闘に参加するように三成の使者が馬上から口上を垂れたら
>激怒した武将に馬から引きづり下ろされてボコボコにされそうになった奴

島津の陣にお使いに行った八十島だっけ。
確か豊久が激昂して馬から引き摺り下ろしたはず。
その後、三成本人がお詫びに来たけど
『今日は各々が各々の意思で豊家の為に戦うのでござる。
 貴殿の指図は受けぬ!』
とやはり怒鳴り返されて結局三成自身もすごすご帰る破目になったとか。
952人間七七四年:2009/04/22(水) 21:33:20 ID:qq30wM4F
大友宗麟は一匹の大猿を飼っていた
この猿を座敷に置き、出仕して来た家臣にけしかけ
家臣の慌てふためく様を侍女と共に笑って楽しんでいた
家臣も宗麟の猿なのでどうしたものかと困っていた
さて、立花道雪も大友家臣として出仕し宗麟に頭を垂れた
止めときゃ良いのにいつものように猿をけしかける宗麟
猿が道雪の頭に飛びついたその時…!

ボ キ ッ !

猿が触れるより早く道雪は持っていた鉄扇で猿の頭を打ち砕いていた
猿は血反吐を吐いて倒れている

( ゚д゚)

想定外の事に驚く宗麟
道雪の顔を見てみた

(#゚Д゚)

怒りの表情で自分を睨み付けていた
この後道雪に
「人を弄べば得を失い、物を弄べば志を失う」
「畜生を飼って家臣を苦しめるのは孟子の言う獣を率いて人を食わせるような悪逆無道
こういう戯れは止めろ」
とかなんとかこっ酷く叱られ宗麟は恥じ入ったという
953人間七七四年:2009/04/22(水) 21:37:20 ID:qq30wM4F
宗茂が人間味ないってのはいい話ばかりっていうより
こういう泥臭い話が無いせいだと思う
親父達も忠臣名臣だけどまだ人間味が沸くし
宗茂は感情的になったりする話を聞かない

>>951
あー、島津か
名門だし怒るのも無理ないわ
954人間七七四年:2009/04/22(水) 21:40:15 ID:+MUNj1r8
道雪爺ちゃんも心労で早死にしてるよな。
あと20年生きていれば大友義統もなんとかなっていたであろう。
955人間七七四年:2009/04/22(水) 21:46:55 ID:CsKr5pMm
信之兄ちゃんも(ry
956人間七七四年:2009/04/22(水) 21:48:37 ID:L3YV5mua
耳川の大敗の後では道雪が奮闘したところで大差なかったと思うけどな
957人間七七四年:2009/04/22(水) 22:01:40 ID:+oeTjS+4
>>956
>>954は道雪が何歳まで生きたか知ったうえでのネタ書き込みだよ
958人間七七四年:2009/04/22(水) 22:11:41 ID:2ezkxwHt
「もう少し長生き」も半ば定番ネタと化してるよな。
959人間七七四年:2009/04/22(水) 22:19:05 ID:HM1GpRN8
>>946
人たらし心得
・相手の気持ちを的確に見通すこと
960人間七七四年:2009/04/22(水) 22:43:17 ID:0bg/8cYW
これは歴史マニアに有名な大阪の陣の話。
真田幸村の本陣突撃に一目散に逃げ出した徳川家康。
その時葵の旗が倒れてしまう。
槍奉行として本陣にいた大久保彦左衛門忠教。
葵の旗を必死に守り抜き、倒れてしまったが彼はすぐに立て直した。
真田幸村は程なく討ち取られた。
戦いの後の評定でこの件の検証が行われ、「現場証人」として大久保翁1人が頑固に主張した。
「葵の旗は立っていた!」
この時点で既に70代半ばの家康をもうならせた。
この時代の感覚では50代半ばにして、すでに老境になった大久保翁の男意気にリスペクト。
961人間七七四年:2009/04/22(水) 22:48:54 ID:0bg/8cYW
日光に住んでいる人から聞いた話。
東照宮の3匹のサル、「見ざる言わざる聞かざる」。
これにはモデルがいる。
聞かざるは石田三成。
わがままな彼は人の言う事に聞く耳を持たなかったから。
見ざるは直江兼続。
臆病な彼は怖い物や嫌な物を見たくなかったから。
そして言わざるは大久保彦左衛門忠教。
天下のご意見番として、相手の身分に関係なく歯に衣着せぬ発言をした。
しかし、自分の命取りとなる発言はしなかった。だから言わざる。
この3人は同い年の申年。大久保翁の意向でこの「サル」ができたと言われる。

962人間七七四年:2009/04/22(水) 22:51:32 ID:0bg/8cYW
>961
いい意味の申1匹と良くない意味の申2匹をあえて対比させたのだ。
人生の教訓でもある。
963人間七七四年:2009/04/22(水) 22:54:11 ID:fxS/dcoc
>>951
それ葵徳川三代にあったw
964人間七七四年:2009/04/22(水) 23:03:50 ID:FgurobbZ
青面金剛の使いを悪い意味に使ったのか?
それは…宗教的にどうなんだろう?


目の前の危機に動じず約束は守り戦は実戦的で主君への義理は自らが破滅しても必ず通しいい人過ぎて人間味が薄い…
宗茂メカ説を唱えてみる
965人間七七四年:2009/04/23(木) 00:04:53 ID:xmxvuywl
柳河を離れるときに「I'll be back.」と捨て台詞をかますわけか
…なんか違うだろw
966人間七七四年:2009/04/23(木) 00:24:46 ID:2a0eggb2
>>944
…その先生は太平の世の小学生にポン刀で人を切り殺す術を教えて、一体何がしたかったんだ?
967人間七七四年:2009/04/23(木) 00:31:25 ID:IL1kMhm1
>>966
家康公いわく
「太平の世に武道を嗜むのが真の武士である。」
油断大敵です。
968人間七七四年:2009/04/23(木) 00:35:01 ID:Z/KNEkgD
上杉謙信があるとき

「人の家来というものは、我が身をなげうち忠義を旨として主人の先途に立とうとする物であり、
これは仕官する者の常と言うものだ。
そうであれば、主人たるものも、その志に報いるために、普段から相応の俸禄を与え扶持すること、
これが私心無き恩賞という物である。

ところが昨今の諸将は、『家人という物は禄のために使われるもので、忠死をもって
これを償うのだ』などと考えている。

これは大間違いである。

そんな了見では士卒一和は出来ず、合戦に望んでも利運を得ることは出来ないものだ。」

と、このように言われたと言う。

つまり、「社員が給料に報いるため働く」、という発想は間違いである。
社員であるなら働こうと言う意欲は当然持っているわけで、経営者はその意欲に対して、
「社員に報いるために」給与を支払う、と言う発想であるべきなのだ。と言うことか。

そんな、上杉謙信公の恩賞論のお話。
969人間七七四年:2009/04/23(木) 00:36:30 ID:00abo37b
>>965
宗茂がシュワちゃんに脳内変換されたではないか
970人間七七四年:2009/04/23(木) 01:10:46 ID:+qSVq/QC
宗茂って別に人間味溢れてるだろ。ちょっと抜けてる感じの。
だいたいにして完璧人間なら離婚しねーっつの
971人間七七四年:2009/04/23(木) 01:22:27 ID:hpXmumdS
明治時代の話なんだけど戦国武将にも由来するお話

東郷平八郎が元帥に任じられた当初のこと。
鹿児島から、各地の史跡の碑銘に対する揮毫の依頼があった。

故郷の者からの依頼、ということなので快く引き受けたが
とある碑銘のところで、ピタリと筆が止んでしまった。

依頼をした村の者が横から伺ったところ、
『関白陣跡』の四文字を見てムッと難しい表情をしていた。
この4文字がまずいと悟った村の者が慌てて『新納忠元公記念碑』と改めて依頼したところ
快く筆を走らせたとの事。

時代が変わっても薩摩の人にとってはラスボスより親指武蔵さんの方が
尊敬されてたんだね。というお話。

ちなみに東郷元帥は西郷さんの推薦でイギリスに留学したが
留学中に西南戦争が起こり、帰国前に終結してしまった。

長州閥に「参加できなかったのが残念だったのではないか?」と揶揄されると
「いや、全く残念だ。かなうことならば自分もイギリスから駆けつけて西郷先生のお手伝いをしたかったものを」
と半ば本気で悔しがって周りのものを倉皇とさせたとか。
この辺は纏めサイトでも紹介されている
「オマエなんか義久様からGOサイン出ればいつでも殺ってやんよ」
発言を彷彿とさせます。
972人間七七四年:2009/04/23(木) 02:02:36 ID:Z/KNEkgD
980踏んだ方は、宣言した上でスレ立てお願いします。

↓スレタイ

戦国ちょっといい話9

↓テンプレ

戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話8
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1237483814/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話8
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1237446002/

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
973人間七七四年:2009/04/23(木) 07:39:32 ID:AtTws3Dz
見ざる・聞かざる・言わざる・犯さざる
の4猿だという話しもあったような
974人間七七四年:2009/04/23(木) 09:47:42 ID:pamrhUR5
>>966
もしかしたら天然理心流の道場もこんなんだったんかなw
ちなみに5時間練習時間あるとしたら、4時間くらいは正座で話を聞く、強くなるわけがない
「満洲に○○という猛将あり」と有名だったみたいでガリガリの大年寄りなのに妙な迫力があった
俺らには「人間を大切にする剣道を心をこめてくりかえそう」と説いていました
でも内容は>>967みたいな感じで、ネタじゃなくマジですw

スレチ本当にすまんです

>>971
それ、中学の時の英語の先生が授業の時によく話していたなぁ
その後長州閥と殴り合ったんだっけ?
975人間七七四年:2009/04/23(木) 11:14:11 ID:GOateFOI
>971
井伊の万千代さんといい、アミバ様より前に取り上げられる新納さんといい……(´Д`;)

野戦に強い大名んところの侍大将って気力だけで人を頃せるんじゃね?
んで全盛時のラスボスはそいつらの殺気を跳ね返すオーラがゴゴゴ・・・とかドドド・・・とか溢れてんの
976人間七七四年:2009/04/23(木) 16:51:56 ID:Z/KNEkgD
国の盗り方

織田信長の頃、淡路は矢部善七が支配していたが、秀吉の天下となり、この淡路を
当時まだ小身であった千石権兵衛に与える事になった、
が、千石、秀吉に尋ねる。

「私は小身なので兵を持ちません。これでどうやって、矢部の支配する淡路を制圧できるでしょうか?」

これに秀吉
「簡単な事じゃ。お前はかの地に行って地侍どもに、『手柄次第で恩賞を与える』と
言って回れ。そうすれば万事解決じゃ。」

それで権兵衛、淡路に渡り秀吉に言われたとおりにすると、かの地の地侍たちたちまち蜂起し
矢部の城を取り囲み、ほどなくして城を明け渡して退転、権兵衛は楽々と淡路一国を接収したとの
ことである。

そんな、いかにも秀吉らしい国の盗り方。
977人間七七四年:2009/04/23(木) 16:58:51 ID:UuNXsYPb
>>976
秀吉っていうか官兵衛の入れ知恵っぽいな
978人間七七四年:2009/04/23(木) 17:34:40 ID:RqtGPpMb
矢部善七って、ほんと逸話の中ではひどい扱いだな。
本能寺前は、信長の側近として天下の差配に関与して信頼された能吏だったのに。
979人間七七四年:2009/04/23(木) 19:20:18 ID:cW83eRdM
>>975
秀吉は組み伏せるというよりひらりマントでさらりと流す感じだなあ
980人間七七四年:2009/04/23(木) 20:30:07 ID:CuvD5g/e
>>963
そのとき歴史が動いたでも使われてたっけ映像
葵徳川三代では山口祐一郎が島津豊久やってたんだよな
2年後に利家とまつで佐々成政やったからそっちの印象強いけど。
義弘役の麿赤兒は強烈だったw 篤姫にも出てて懐かしかったわ

しかし三成は島津兵を見込んで再度自ら加勢を頼みに来たとはいえ、
その時にはもう島津も兵数1000以下の小勢だったろうし双方どーにもならんだろうな
玉砕覚悟で中央突破でもしてくれとでも言いに来たんだろうか。
981人間七七四年:2009/04/23(木) 20:35:20 ID:DdB092uE
そういえば高橋秀樹さんは
島津久光と島津斉彬の両方を大河でやってるね。
スレ違いでゴメン
982人間七七四年:2009/04/23(木) 20:36:43 ID:Z/KNEkgD
>>980
スレ立てお願いします

↓テンプレ
>>972
983人間七七四年:2009/04/23(木) 22:14:03 ID:Z/KNEkgD
反応ないみたいなんでスレ立てて見ます
984人間七七四年:2009/04/23(木) 22:16:51 ID:Z/KNEkgD
良かった、たてられましたー
↓次スレ

戦国ちょっといい話9
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1240492546/

ここ埋まったら移動してください。
985人間七七四年:2009/04/23(木) 22:27:28 ID:R1O2RqF6
埋めついでの話。

加賀前田家の家臣、富田重政は後に名人越後と呼ばれることになる中条流の達人である。
ある日、前田利常は重政を呼ぶと、いきなり真剣を抜いて「無刀取りと言うものがあるらしいが、どのようなものか見せてみよ」と無茶を言い出した。
すると重政は慌てず騒がず「これは秘伝につき余人に見せられませぬ。まず向こうの障子から覗く小姓をお下げください」と答えた。
言われて利常が障子の方を振り向いた瞬間、重政が素早く刀をもぎ取って「これが無刀取りでございます」と答えたとか。

……ちなみに、中条流の無刀取りは実は白刃取りでもなんでもなく「相手を押し倒し、組み敷いて腕をねじり上げて刀をもぎ取る」戦場の組打ちの技であったとか。
重政が空気を読まなかったら、利常は家臣に組み伏せられる恥ずかしい姿を小姓たちに見られていたかもしれないという、主君思いのいい部下を持った話。
986人間七七四年:2009/04/23(木) 23:03:00 ID:ZSgioEsW
>>984
乙!

>>985
確か石舟斎が家康に披露した無刀取りも懐に飛び込んで…とかだったような
987人間七七四年:2009/04/23(木) 23:03:38 ID:X+qg8lLx
無刀取りって刀持ってないときに如何するかってもんだし、刀取れればいいんだよな。
ちなみに柳生の無刀取りは「隙が出来た時に後の先で分捕る」
988人間七七四年:2009/04/23(木) 23:38:51 ID:cut8eRq4
無刀取りは真剣白刃取りとはまったく別物です。
というか真剣白刃取りは曲芸以外の何物でもないよな。
989人間七七四年:2009/04/23(木) 23:59:06 ID:IW7gS+ng
まあそんな事する暇があるなら避けて殴るわな
990人間七七四年:2009/04/24(金) 00:12:54 ID:EeCuzuBR
>>989
そもそも刀の軌道線上に入って刀を獲る意味がわかんないもんねw
991人間七七四年:2009/04/24(金) 00:24:38 ID:nnxap15P
意味はある、格好いいという非常に大きな意味が
992人間七七四年:2009/04/24(金) 00:26:15 ID:gx1OGd2y
埋め代わりに戦国化け物シリーズ
朝倉家臣、真柄十郎左衛門の大太刀「太郎太刀」

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20090414/CK2009041402000020.html
http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20090414/images/PK2009041402100102_size0.jpg

これはすごいw;
993人間七七四年:2009/04/24(金) 00:30:41 ID:Kl49qF6m
>>992
本当ならスゴイけど、ここまで極端にデカいと眉唾ものっぽく思えてくるな
994人間七七四年:2009/04/24(金) 00:31:31 ID:ET+gSi8o
実物はもっとでかいよ。
995人間七七四年:2009/04/24(金) 00:32:44 ID:xNbyA7mK
これは・・・
実際には太刀じゃなくて長巻だったのかな?
それでも長いが
996人間七七四年:2009/04/24(金) 00:42:12 ID:PANtYm9h
真柄十郎左衛門の刀はあまりにでか過ぎて向こう側が見えにくいため、
ところどころ窓を開けてあったと言うな。
。。。。すいません、古典落語のネタです。
997人間七七四年:2009/04/24(金) 08:06:56 ID:b2Va249y
関東武士の金棒とか丸太よかマシに思えるふしぎ!
998人間七七四年:2009/04/24(金) 09:13:41 ID:K86F4Fs+
>>997
三浦息子ヒャッハー
清水息子ヒャッハー
太田康資もみなヒャッハー!

佐竹義重や真壁氏幹も大概だけどな
999人間七七四年:2009/04/24(金) 10:30:27 ID:L3FB4e5T
姉川合戦図屏風だっけ?
大太刀担いでる絵があるけど使いづらくないのかな
1000人間七七四年:2009/04/24(金) 10:52:08 ID:IpQGE6eA
1000
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
 / | |iゝr;ァ--‐''"   〃/./  l  |         戦国時代(仮)@2ch掲示板
./  | | ',ヾ゙      / / /  /  l        http://hobby9.2ch.net/sengoku/