戦国ちょっといい話4

このエントリーをはてなブックマークに追加
1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話(三スレ目)
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1225294776/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話(三スレ目)
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1226423103/

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2008/12/02(火) 23:24:40 ID:pTMjxlUY
1殿乙に候!
早いな〜もう新スレ
3人間七七四年:2008/12/02(火) 23:29:52 ID:6XtV198e
>>1大儀であった
いい話スレを建てたそなたには
まもなく常識人カルテットがお褒めの言葉をつかわすであろう
4人間七七四年:2008/12/02(火) 23:30:34 ID:Vbw0xvhJ
乙です!
5人間七七四年:2008/12/03(水) 02:08:44 ID:A+luX4co
乙です
6人間七七四年:2008/12/03(水) 02:38:36 ID:knLMPzCc
>>1>>1、おーつ!
7人間七七四年:2008/12/03(水) 10:12:01 ID:Eiex24TY
宗麟「>>1乙」
久秀「>>1乙」
謙信「>>1乙」
秀吉「>>1乙」
8人間七七四年:2008/12/03(水) 10:14:15 ID:hblRdKGn
>>7
ついに四天王の上の人々が姿を現しはじめたかw
9人間七七四年:2008/12/03(水) 10:57:20 ID:ZqdS7MrS
家康「>>1乙」
元就「>>1乙」
義光「>>1乙」
義久「>>1乙」
10人間七七四年:2008/12/03(水) 13:53:35 ID:tP31AB+K
>>7
お前らは 斜 め 上 の四天王じゃねーかw
11人間七七四年:2008/12/03(水) 15:14:05 ID:hblRdKGn
前スレ埋まったな

1000 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/03(水) 15:12:22 ID:+JX+yfdd
1000なら秀吉復活


これは…
12人間七七四年:2008/12/03(水) 15:22:54 ID:twjm/WxJ
前スレの

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/03(水) 12:50:05 ID:hblRdKGn
軽くいい話

徳川家康が駿府の城にいたある夏、天にわかに曇り、激しい雷雨となった。
この雷が鳴り響く中、家康はお伽衆たちと広間にいたが、かれらにこう尋ねた

「地震などは家を頑丈に作ったりと、まだ用心のしようもあるだろうが、
雷だけはどう用心しても、何処に落ちるかわからないのだから難を避ける事は難しい。
何か雷を避ける方法はあるか?」

お伽衆たちは頭を悩ませたが、結局皆、上様のおっしゃるとおり、雷だけは用心の方法ありません。
と、答えた。

ところが家康は「いや、雷にも用心の方法はある。」

それはいかに?と問われれば

「雷が鳴っているときは、広い屋敷でも狭い小屋でも構わん、親子兄弟、それぞればらばらの場所に
いることだ。そうすれば、一家が全滅する事はない。

雷に当たって、個人が死ぬのは、それはその本人の運命とあきらめるしかないだろう。
だが、一家が一つところに固まって、そのたった一人に運命に合わせて全滅しては、愚かとしか
言い様が無いではないか。

避けられぬ物への用心は、こうするのだ。」



これは戦国乱世の知恵だなあ、と思ったお話。

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/03(水) 13:29:16 ID:02IHTHpJ
内ヶ島「…」



ワロタwwwwwwww
13人間七七四年:2008/12/03(水) 15:31:02 ID:hblRdKGn
>>12はまとめサイトの「帰雲城物語・悪い話」を参照されると良いですよ
(何故かURLを入れると弾かれる)
14人間七七四年:2008/12/03(水) 15:47:35 ID:jDlSpuK3
知らなければそもそも笑わないだろう
15人間七七四年:2008/12/03(水) 15:56:40 ID:twjm/WxJ
>>14
多分>>13は内ヶ島氏を知らない人でも分かるように笑い所を解説してくれようとしてるんじゃないだろうか
16人間七七四年:2008/12/03(水) 16:03:08 ID:Eiex24TY
実際、家康の言うように家族をばらばらにして家名を残したのが真田か。雷様は家康だけどw
17人間七七四年:2008/12/03(水) 21:22:07 ID:A9uqexgX
新スレ一発目は、あのお方の話からどうぞ

市松様がみてる

福島正則の家臣、野田忠助の知行所は毎年のように水害に見舞われ、収入がなかった。
ついに首が回らなくなった忠助は、奉公叶いがたしと正則に暇を申し出た。

正則「おまえはできた男で、今まで泣き言など言ったことがなかった。知行所が悪いので
   あれば、替地をやろう。それでも暇を取ると申すか。」
忠助「誠に有難きお言葉…その様にしていただければ、いかようにも働きまする。」

正則は約束通り替地を与えたばかりか、今までの損益分まで与えたので、忠助は
今まで以上の働きをするようになった。

           |
       \  __  /
       _ (m) _ピコーン
          |ミ|
        /  `´  \
        (・∀ ・) ナルホド

同じく正則の家臣、日下部山三郎がある日、正則に申し出た。「それがしの知行所は
悪地で御役目を勤めることができませぬ。他の知行所に替えていただきたい。」(・∀ ・)

正則「山三郎には過分の土地を与えてある。ワガママの上に嘘は許せぬ、腹を切れ!」
山三郎「 Σ(´Д` ) 」 山三郎は切腹させられた。(福島太夫殿御事)

市松だってちゃんと見てるので、ナメてはいけない。
18人間七七四年:2008/12/03(水) 21:32:39 ID:HP75gIAF
市松タソはやればできる子
ただ、自信がなかっただけだよ><
19人間七七四年:2008/12/03(水) 22:05:53 ID:bJtcmOm+
>>17
桶屋なんだから、その桶で水をすくいだしてやればよかったのに…
20人間七七四年:2008/12/03(水) 22:30:02 ID:2VRp/D9L
鬼の副隊長、土方は福島の戦いを真似た
21人間七七四年:2008/12/03(水) 22:55:22 ID:socJ+6sU
鬼の副隊長だと全然違う人に聞こえるな
22人間七七四年:2008/12/03(水) 22:56:35 ID:0h+nsy0M
>>17
替え地の前に、毎年水害に悩まされる知行所の治水に
殿自ら乗り出すのが先なのでは・・・
23人間七七四年:2008/12/04(木) 00:35:01 ID:QXKHsuQZ
ある時、徳川家康が駿府で鷹狩りをしていると、道端で老婆が、一人の
幼い子供の手を引いて泣いているのが目に留まった。

「何を泣いているのか?」

と、尋ねると、この老婆、昨夜、誤って火を出し家を焼いてしまい、代官から火の不始末の罰として
村を追い出され、しかし年老いた私と幼い孫が一人の身、どこにも行くあても無く、途方にくれて
泣いておりました。と言う。

それを聞いた家康は、その老婆を代官所まで連れて行き、代官に向かって行った

「誰も、家を焼きたくて焼く者はいないのだ。
失火をした者が在地を追放されるのであれば、この家康も、過去に2度ほど自分の城で
火を出したことがある。このわしは一体、どこに行けばいいのだ?」

これには代官も、返す言葉も無かった。
そして焼けた老婆の家は、家康の「わしの目に留まったのだ、不憫である」と、元のように
建て直された、と言う。
24人間七七四年:2008/12/04(木) 00:35:56 ID:RGfEhF/1
弱い奴にはとことん強いそれが市松クオリティ
25人間七七四年:2008/12/04(木) 01:49:10 ID:E5ZEgzQJ
フードラム市松
26人間七七四年:2008/12/04(木) 02:43:25 ID:RymwvhGS
権現様のお話は本人が儒学奨励したせいもあるのか、訓話
めいたものが多いね。

しかし17世紀後半には、『失火者斬罪令』という失火でも
死刑になる法律が出来ている、という…。
27人間七七四年:2008/12/04(木) 04:03:20 ID:THys019L
木造家屋→延焼→大火
だからな。火消しがろくな消火も出来ない時代、当時の人がガクブルするのもわかる
28人間七七四年:2008/12/04(木) 04:15:01 ID:QXKHsuQZ
>>26
江戸も17世紀後半には名実ともに世界的巨大都市になって、
家屋が密集しすぎて火災がものすごい被害をもたらす物になってしまったからねえ。

この逸話も実際どうだったか、っていうより、後世の人たちがそういう火事取締りの厳しさに対して、
それへの反発を、幕府が絶対に反論できない、権現様の名前を出して行った、って事かも
しれんね。


火災の話といえば、例の、家康は鯛の天ぷらにあたって死んだ、って話も、
振袖火事(明暦の大火)のあと、江戸城内では火災対策のため、油を使う天ぷら料理が
禁止されたんだけど、なかなかそれが守られなかったので、
「権現様が天ぷらで死んだからだ!よって江戸城内で天ぷらをする物は徳川家への不忠者である!」
ってことにして徹底させたのが、後世に伝わった話らしいね。

偉い人は死んでも色々利用されるものでw
29人間七七四年:2008/12/04(木) 10:17:01 ID:C7RodcAc
天ぷらっつったら練り物だよね
30人間七七四年:2008/12/04(木) 10:55:40 ID:fGchM8ig
それでも揚げることには変わりない
31人間七七四年:2008/12/04(木) 12:24:25 ID:zWAASBGJ
天ぷらで最大は石川五右衛門?
32人間七七四年:2008/12/04(木) 12:32:13 ID:IpJNzjql
コロモつけてないから天麩羅じゃないだろ。
33人間七七四年:2008/12/04(木) 12:37:33 ID:i+R04d+R
え、マッパで揚げられたの?<五右衛門
34人間七七四年:2008/12/04(木) 13:00:22 ID:f4zW1RLY
おまいら五右衛門の天ぷら(orからあげ)のどこが「いい話」なんだw
35人間七七四年:2008/12/04(木) 13:02:29 ID:u5Sib0nC
釜茹でじゃなかった?
油で揚げられたの?
36人間七七四年:2008/12/04(木) 13:26:53 ID:LNnYNoeR
油を満たした釜で茹でられたと聞いたことがある。
釜風呂のなかで初めは自分の子供を高く掲げ、最後に沈めて一気に殺したとか。

子供も一緒にかまゆでというのが、ある程度それらしい話なのか、
全くの作り話なのかは知らない。
37人間七七四年:2008/12/04(木) 13:48:15 ID:r0yBIeIW
熱さをしのぐ為に自分の子供を足の下に敷いていたという逸話もあるね。

以上スレ違いでした。
38人間七七四年:2008/12/04(木) 13:48:53 ID:MMA/wgCX
>>33
>>36
自分の足の下において少しでも長く生きようとしたという説もあるがw
39人間七七四年:2008/12/04(木) 14:19:49 ID:3DEfxpV9
苦しませたくないから殺したんじゃないの
40人間七七四年:2008/12/04(木) 18:18:16 ID:bieWfEFI
いい話しだな〜
41人間七七四年:2008/12/04(木) 18:35:03 ID:LNnYNoeR
普通の親なら、子供の苦しみを考えてだろうな
42人間七七四年:2008/12/04(木) 19:30:12 ID:32aF5jqd
なんか昔話に似たようなのなかったっけ
母親(と名乗る女)が2人現れて
役人が、どっちが本物か判断するために子供の腕を両側から引っ張らせるやつ
役人は結局手を離した方が本物と判断したんだよな、子供の苦しむ行為をやめたとかいう理由で

当時俺は子供だったがこの話には納得できなかったな
43人間七七四年:2008/12/04(木) 19:33:56 ID:LNnYNoeR
大岡越前の裁きとしての話があるね。
たしか、それ以前からある話が元になってたと思う。
44人間七七四年:2008/12/04(木) 19:35:05 ID:SzfkaDud
母親じゃないほうはなんで他人の子供をほしがったのだろう
労働力?
45人間七七四年:2008/12/04(木) 19:35:44 ID:QXKHsuQZ
釜茹でと言うと秀吉が自分の下女の…


いやいやいや、これは悪い話のほうだ。しかもしゃれにならないくらいの。
46人間七七四年:2008/12/04(木) 20:11:36 ID:O1AcoRlV
本多作左衛門「ええい!釜茹でなどけしからん!!」
47人間七七四年:2008/12/04(木) 20:46:06 ID:LE0fT3wn
>>43
ダビデ王だったっけ?
中国の包公でもありそうな話だなあ。
48人間七七四年:2008/12/04(木) 22:20:36 ID:07zFtZ9C
確か大岡越前じゃなくって、家康の何とかって家臣のお話を、大岡に講談の為、書換えた
とか聞いたけど (何かの本で読んだ)
誰だったっけなぁ・・・京都奉行所だったような気がしたけど
49人間七七四年:2008/12/04(木) 22:28:34 ID:cCP+Hu9o
>>48
京都所司代の板倉親子のこと。
「三方一両損」なんかは、実は板倉さんの話らしい。
50人間七七四年:2008/12/04(木) 22:45:39 ID:VO+DUbuY
>>49
> >>48
> 京都所司代の板倉親子のこと。
> 「三方一両損」なんかは、実は板倉さんの話らしい。

ただ、板倉だとオチの
「へへっ多かぁ(大岡)食わねぇ」
「たった一膳(越前)」
が使えないからな。
変更になったのも仕方がない。
51人間七七四年:2008/12/04(木) 23:02:47 ID:UccPT7Wp
京の人々の間である噂が流れた。
「 このたび将軍になった家康が、連歌の会を開いた。
 家康の発句が『 この春は 何故に鳴かぬか 鶯め 』という乱暴なもので、
 政宗の返句も『 御定に背かば 首ぶつ斬らん 』なんてヒドイものだった 」

この話はたちまち西国に広まり、みな東国武士の教養の程度を笑った。
噂はやがて東国にも伝わり、当の政宗の耳にも入った。

「まったく笑える話だ!連歌の会なんて太閤の生前からあったのにな。
東国の者は、将軍親子(家康・秀忠?)、最上のオジキ、秋田実季が型にはまった
いい歌を詠んでたぜ。どこからそんなウソが出てきたんだ?

古歌にも 『 植えて見よ 花の育たぬ 里もなし 』
ってのがあるのに、日ごろ教養を鼻にかけてる京童は知らんらしいな。」

噂は西国から消えた。政宗はその後、『雪』の題で歌を詠んだ。


ささずとて 誰かは越えむ あふ坂の 関の戸うづむ 夜半のしら雪

(閉ざさずとも、誰が逢坂の関を越えようか。夜も降り積もり、門戸を埋めても止まぬ
 美しき白雪ゆえに。)


後水尾天皇はこれを激賞し、自ら選んだ『集外歌仙』(新・三十六歌仙)に政宗を選んだ。
(奥羽永慶軍記)

田舎者・厨二≠無学・野蛮
52人間七七四年:2008/12/04(木) 23:06:22 ID:7xoHyZ3w
この春は 何故に鳴かぬか 鶯め 御定に背かば 首ぶつ斬らん

これもなんか好きだなあ
会えて武張る滑稽さが良い
さすが京童
53人間七七四年:2008/12/04(木) 23:16:12 ID:78PWIz5U
無学じゃないよね。野蛮かどうかはともかく。
54人間七七四年:2008/12/04(木) 23:28:26 ID:cCP+Hu9o
集外三十六歌仙ってググったら幽斎さんや木下長嘯子と一緒に挙げられてるんだな

今川氏真とか三好長慶も入ってるのがアレだけど
55人間七七四年:2008/12/04(木) 23:35:23 ID:gckYf5oP
氏真は歌も武芸も蹴鞠も得意なんだぞ!
馬鹿にすんな!

戦国大名としての才覚はアレかもしれんけど。
56人間七七四年:2008/12/04(木) 23:42:38 ID:78PWIz5U
三好長慶のどこがアレなんだよw
57人間七七四年:2008/12/05(金) 00:03:36 ID:/696RECD
北条氏康 中々にきよめぬ庭はちりもなしかぜにまかする山の下庵
北条氏政 守れ猶君にひかれてすみよしのまつのちとせもよろづ代の春
武田信玄 立ちならぶかひこそなけれやまざくら松に千とせの色はならはで
今川氏真 よし野川瀬々のしら浪岩越えてこずゑにかかる五月雨の雲
伊達政宗 ささずとて誰かは越えむあふ坂の関の戸うづむ夜半のしら雪
58人間七七四年:2008/12/05(金) 00:06:22 ID:1SjCmvPJ
>>46
あんた、大政所焼き殺そうとしたじゃないか。
59人間七七四年:2008/12/05(金) 00:28:13 ID:VIuzrDC4
>>58
武田が処刑で使っていた釜茹で用の釜を家康が手に入れて使おうとしたとき、
こんなものを使うような統治しか出来ないやつこそが糞野郎、とかいって釜を叩き割った >作左
60人間七七四年:2008/12/05(金) 00:35:19 ID:9z8w7vdu
>>47
ダビデじゃなくて息子の方じゃないか?
61人間七七四年:2008/12/05(金) 02:42:06 ID:/696RECD
>>46
大河では前半大活躍の鬼さまではございませぬか
62人間七七四年:2008/12/05(金) 11:14:30 ID:yE32A9xV
垣見家純またの名を一直
豊後富来2万石の三成派の文官小大名である
この人、例によって軍監だったゆえに武断派に評判がよろしくなく
泗川城築城時には鉄砲狭間の位置のことで今はすでに
最愛の嫡男を失いもはや何の情熱も持てず全てに投げやりになっていた
かつての四国の覇者に突っ込みをいれられたのがおそらく人生で
唯一名前が残っているであろうシーンなぐらいであまり優秀なイメージがない
最期も大垣城内で首を相良や秋月に寝返りの手土産にされるというさえないものだった

しかしこの男、家臣思いの人物だったようで家中の評判は結構よかったのだ
西軍が敗れ大垣で同僚に殺される前夜に豊後の家臣へ
「こちらは負けた。私はこのまま豊家の恩に報いるためにここで戦死するつもりだが
部下を巻き込んで無駄死にさせてはならない。富来城は抵抗せずに開城するように」と書状を送っている
届いたころには当然彼はこの世にはいなかったわけだが
それを知った上で富来城居残り組は黒田勢相手に奮戦し
開城するまで10日間必死の抵抗を続ける
開城後城代家老垣見理右衛門はその能力を買われ攻めての将である
黒田如水に「お前は欲しいからうちに来い」と言われるが拒否
生涯を主君家純の菩提を弔うことに費やしたという

評判が芳しくないマイナー武将でも
いいところもあったというお話
63人間七七四年:2008/12/05(金) 12:54:05 ID:Qf3qrkCO
>>60
ソロモン王だとなんで教えてあげないんだ。
64人間七七四年:2008/12/05(金) 15:44:31 ID:wKEAWBhZ
>>62
関ヶ原の九州戦線は勢力が錯綜していて、なんのかんので如水は苦労しているよねw
65人間七七四年:2008/12/05(金) 20:03:39 ID:h4sFkDte
マイナー小大名も面白いもんだな
66人間七七四年:2008/12/05(金) 20:09:32 ID:wKEAWBhZ
前スレにあった、結城秀康の初陣の話で思い出した、紀伊家初代、徳川頼宣の初陣のお話

1615年4月、大阪の陣の群議の席で、当時14歳の頼宣が泣いていた。
松平正綱が、どうしたのかと聞くと、

「先日の交戦の折、先陣を望んだのに許可していただけず、人に聞こえるような働きが
出来なかった。それが悔しくて泣いているのです。」

正綱は、そんなに落ち込まないでください。あなたはまだ若い、先陣の機会も
この先も何度かあるでしょう、と、慰めるが

頼宣、涙を拭いて正綱をにらみ
「何を言われるか!この、14歳の私は、今しか無いではありませんか!」
と言った。

これを聞いた家康は、「頼宣殿、今の言葉が槍だ」と、褒めたという。




家康の息子って、やっぱり似てるなw
67人間七七四年:2008/12/05(金) 20:21:33 ID:uj7Q4LOq
>>66
初陣に恵まれたのは信康と忠吉と秀忠ぐらいか

秀忠は徳川主力を温存するという前代未聞のすばらしい武勲を立てたし、
忠吉は抜け駆け一番槍の功績に恵まれた

流石は神君のご子息だけあるなぁ
68人間七七四年:2008/12/05(金) 20:24:35 ID:h4sFkDte
お前皮肉がきついぞ
69人間七七四年:2008/12/05(金) 21:05:33 ID:GWLUnSRh
たまにはラスボスさんのいい話

賤ヶ岳合戦の際、余呉湖の西岸で
佐久間盛政と秀吉軍との間で激闘が繰り広げられていた
佐久間側では死者4000。
秀吉側でも、これに匹敵する戦死者が出たという。
この合戦の凄まじさを表すものに
この余呉湖の鮒は死者の血を飲んだために腹ヒレが紅くなり
その血染めの水が川を渡り琵琶湖まで届いて、紅さし鮎が生まれた
と言う話がある。

秀吉はこの戦の決着に決着がつくと、賤ヶ岳山頂から
死傷者で溢れる湖畔まで降りてきた
初夏の日差しが降り注ぎ、負傷者は喘ぎ苦しんでいた
秀吉は
「なんて苦しそうなんだ、何とかしてやりたいものじゃが…」
と思うが、どうにもそんな手立てはない。
そんな秀吉の眼に周りの山々から、この合戦を見物していた
多くの老若男女の姿が映った。
すると秀吉は、黒鍬の者たちに
「あやつらの笠をもらってまいれ、褒美を取らせると言ってな」
と命ずる
笠を集めた秀吉は
「さぞ暑いであろう、ほれ、もう少しの辛抱じゃ」
そう言って、敵味方かまわず自らかけてやったという
70人間七七四年:2008/12/05(金) 21:20:52 ID:xUIPMrJn
>>69
>「なんて苦しそうなんだ、何とかしてやりたいものじゃが…」

くそ、ミスリードだったか!
普通にいい話で終わるとは。
71人間七七四年:2008/12/05(金) 21:22:29 ID:h4sFkDte
俺も介錯を期待してた
72人間七七四年:2008/12/05(金) 21:24:46 ID:6gaCsFIT
対象人物が秀吉だからわからんでもないが、いい話スレでそういう期待すんなw
73人間七七四年:2008/12/05(金) 21:43:39 ID:1R0wOM8x
笠を被ってた老若男女への褒美って……金なんだろうな。多分
74大人の名無しさん:2008/12/05(金) 22:07:11 ID:N11RNSQ2
>>69
イイハナシナノカナー
75人間七七四年:2008/12/05(金) 22:47:55 ID:hvvDDg4V
笠の中には今しがた見物していた者達の首が・・・となっていても驚かない。
76人間七七四年:2008/12/05(金) 23:07:36 ID:KwMfgUJZ
まだラスボス化する前だから。
77人間七七四年:2008/12/05(金) 23:12:15 ID:yeXSdo+V
北条攻めあたりから黒くなるよな
78人間七七四年:2008/12/05(金) 23:22:37 ID:5FLh5Dtx
織田家中の争いの頃は冴えまくってたんだけどね
79人間七七四年:2008/12/05(金) 23:31:13 ID:5WMcZsSx
ちょっと(腕っ節の)いい話?

最上家嫡男・義光は小さい頃から大柄で、小学校低学年のころには
中学生に見られるほどだった。
力も強く、16歳で家臣六七人がかりでも持ち上げられない、
200キロ近くある石をかるがると持ち上げたという。

そんなマッチョな少年義光は、16歳の時には蔵王温泉で数十人で襲撃してきた
山賊に立ち向かった!
「若殿、あぶないからやめて!」
「うるさい、オレがやる、とうっ」
「ギャアア!!」
こうして義光は、頭領どもをまっぷたつに斬り捨て返り討ちにした。
今でいうなら、修学旅行先で強盗をやっつけたようなもんだろか。
でもなんで大名が山賊に襲われるのよ? まあ最上家はこのころ
凋落していたからありかもしれんけど。

だが義光は満足しなかった。寝食を惜しんでまで武勇を磨き上げた彼だが、
悶々と悩んでいた。
「オレは強くなりてえ! 上杉謙信とかつえぇ男は、日本を旅して
強い奴に会いに行ったっていうぜ!」
そしてとうとうある夜、書き置きを残し出奔した。
翌朝手紙を見て両親も家臣もビックリ。
「とうちゃん、かあちゃん、ごめん、オレは強くなって戻ってくる!」
「よ、よしあきーー!」
「若様がーーーー!!」
こうして義光は、強い奴を求めて日本中をさすらう旅人になったのである。

以上義光高校時代のアドベンチャー。
盗賊に襲われ若殿が出奔する困った大名家…。
盗賊退治までは有名だが、出奔については
信憑性はほぼゼロ、『羽源記』という義光タンファンブックみたいな軍記にあるおはなし。
ちなみに彼が持ち上げた石は「義光公の力石」として蔵王温泉に現存する。
転がしただけという説も。たぶんこっちのほうが真実に近いだろう。

江戸時代の義光は、元気いっぱいでやんちゃなイメージがあったらしい。
上杉家の記録にも「義光は怪力無双」と書いてあったりする。
80人間七七四年:2008/12/06(土) 00:21:33 ID:LoW96ab4
RPGでいえば秀吉は世の中に絶望して敵陣営に入る奴

四天王は政宗は最初に闘ってフラグたつ
細川は嫁を仲間にできたら改心する
残り二人は最期まで自分の道を貫き通す
市松はテリーみたいな役所
装備や部下だけほしがられる
加藤さんはドランゴ

松永さんはガリ並に裏切る
81人間七七四年:2008/12/06(土) 00:29:21 ID:H4BX0uyG
>>79
最上義守「もどってこなくていいよw」

冗談はさておき、父親の湯治に付き合ってとか言う話じゃなかったっけ?
孝行息子だったんだな、鮭様
82人間七七四年:2008/12/06(土) 00:30:22 ID:Sp1UksBM
秀吉も韓国面に堕ちたか
83人間七七四年:2008/12/06(土) 01:59:35 ID:Bioxn/+w
信長がラスボスで
直家が黒幕ですね
84人間七七四年:2008/12/06(土) 02:01:16 ID:Z+fLvkY0
悪い話スレ的には、信長はFF6で例えるならガストラ程度w
85人間七七四年:2008/12/06(土) 02:06:40 ID:LH9GISrf
京都所司代として有名な板倉勝重の、役人としての心構えについて

家康が将軍職を辞して駿府へ隠退していた頃のお話

この時、家康は彦坂九兵衛なる者を駿府の町奉行に任命しようとした
ところが九兵衛は、とても自分には出来る仕事では無いとこれを断ろうとする
なので家康は、近日中に伊賀守(板倉勝重)が来るから一度相談して考えてみろと九兵衛に言った

やがて勝重が駿府へやってきたので、九兵衛は勝重の元を訪れ意見を聞いた
勝重は、九兵衛に役人たる者が守るべき事を説いてやった

「役人が守るべき事はただ一つしかない。それは賄賂を受けない事、これだけだ
お前が奉行となり、民に無実の罪が無いようにするならば、まず自分の欲を無くすことが大事なのだ
役人が無欲でさえあれば、民の言葉が嘘か誠かは火を見るように解るものだ」

「この私も、以前ある者から百両もの金を送られたことがある
無論私はそれを受け取りはしなかったが、それでもその者の罪を隠してやろうと思ってしまった。と九兵衛に打ち明けた」

九兵衛は勝重の言葉に感服し、駿府町奉行を拝命して優れた治績を上げたという

「奉行職で一番重要な事は、町人の賄賂を受け取らぬ事」これが勝重の口癖だった
一方で町人達には「お前達よ。何か訴訟の際には、まず奉行に物を贈るが良いぞ
そうすれば、たとえ奉行がその物を返してこようとも、自然に贔屓してしまうからな」と語り大笑していた言う



86人間七七四年:2008/12/06(土) 16:55:19 ID:nhLGCYwi
>>85
板倉勝重がはじめて駿府奉行になるときの、妻とのやり取りも面白いよね。
同時代的にあれだけ清廉潔白なイメージを残した人物も珍しい。
そう言う意味でも、「徳川殿は人持ち」ですなあ。
87人間七七四年:2008/12/06(土) 18:14:25 ID:nhLGCYwi
ある時、加藤清正が、家臣を「奉公構」したことがあった。
「奉公構」とは、自分の家で不都合のあった家臣が、他家へ奉公することを禁ずる措置である。
この家臣はこれに困り果て、面識のあった細川忠興に泣きついた。
「どうか、清正様に掛け合って、奉公構を解除していただけないでしょうか!」

名の有る大名として、仲裁を頼まれれば嫌とは言えない。
しかし相手は加藤清正。体でかいし無駄に武闘派だし、怒らせるとどんな事をしてくるかわからない。

「そうだ、用心棒を連れて行こう!」

友達で、武勇に優れた武将として有名な、谷衛友もさそって、清正のところに行った。



忠興「そう言うわけで、どうか彼の奉公構を解いてはいただけないか?」
谷衛友「拙者からもお願いする」

しかし清正、
「なんだそんなことか!あのような馬鹿者の事など放って置け!」

と、けんもほろろ。大名二人からの願いだと言うのに、一顧だにしない、酷い態度である。


これに怒ったのが
谷衛友。つかつかと清正の前に行くと、サッ、と、膝に手を置き脇差に手をかけた!
なんとそれだけの事で、大男である清正の体の動きが完全に封じられた!

「肥後守ィ、俺を誰だと思って言ってるんだゴラァ!?」

谷衛友の目は、本気だ。


慌てて清正
「さ、三斎、谷を何とかしろ!」
「では、我らの願い、聞いてくださるか?」
「と、とにかく先に、谷をわしから引き離せ!」

これで、清正の家臣の奉公構は、どうにか解除されたとか。
忠興公、強い奴のところには、もっと強いやつを連れて行く。見事な人選で大成功の巻き。
88人間七七四年:2008/12/06(土) 19:27:55 ID:xbvT4GQN
>>86
お前、俺のやる事に口出すなよ?と妻に納得させたのに、その後すぐ妻が着物が曲がってますよと言ったら怒った話だっけ
そんな人だから奉行として成功したのかな

89人間七七四年:2008/12/06(土) 19:53:49 ID:BD2nc67o
>>87
巨人の谷の嫁なら、並みの男であれば押さえ込めるな w
90人間七七四年:2008/12/06(土) 20:02:19 ID:nhLGCYwi
>>88
そう。身内の者が自分のやることに口を出すようになったら、それは不正が付け込む
第一歩だから、って。

まあ、現代でも凄い見識ですな。
91人間七七四年:2008/12/06(土) 20:30:39 ID:Bioxn/+w
母里太兵衛の(かわ)いい話

黒田家随一の猛将で酒豪と有名な、母里但馬友信
「背が高くガッチリした体、剛強で力強く、顎髭が濃い、勇猛さは人をしのぐ」
と『黒田家臣博』にある。
そしてこの男、非常に強情で一度言った事を決して曲げない頑固な男だった

江戸城の天下普請に駆り出された帰りに、駿府で供廻りの者が
 「やっぱ富士山すげーなぁ。天下一高いだけあるよな」
と感嘆していたところに一人
 「何を言う」
と割り言ってきた男がいた。
太兵衛である
 「俺の鷹取城の後ろに聳える福智山のほうがずっとでっかいもんね」
と高らかに主張する。
 「お前は何を言っているんだ」
と周りは言うが今度は
 「じゃあ俺、自分の首をかけるぜ」
とまで言い出した
福知山の標高は901mこれに対し富士山はご存じのとおり3776m
誰が見ても富士山のほうが断然高い
また太兵衛のあれが始まったと周囲は呆れ
 「あーはいはい、福智山のほうが高いよな」
と皆が折れた
そして太兵衛は一度言った事を絶 対 に 曲 げ な い
生涯ずっと福智山のほうが高いと言い続けた。
92大人の名無しさん:2008/12/06(土) 21:58:39 ID:JCE+0BYT
ただの駄々っ子じゃねぇかw
93人間七七四年:2008/12/06(土) 22:01:27 ID:hAVwTGHR
ただの意地っ張りじゃねぇかw
94人間七七四年:2008/12/07(日) 01:09:30 ID:y3CGnua6
他人事だから(かわ)いい話と笑えるが
こういうのが上司だったら悲惨だぞw
95人間七七四年:2008/12/07(日) 01:58:00 ID:g7HM4QgP
父親がクロカンで部下にこんなのや後藤又兵衛みたいなのがごろごろしてた黒田長政

確かにかわいそうだなw
96人間七七四年:2008/12/07(日) 03:00:53 ID:8ofcghO7
>>87
忠興と谷さんはそうとう仲が良かったのか
忠興が武功をあげた家臣に恩賞として具足をあげた時についてた頬あてが
谷さんの顔を模していて(忠興が特注で作ったとかなんとか)
「あれの武運にあやかれ」とかやってるんだよね
忠興のダディが谷さん歌の師匠だったらしいけど
(だから田辺攻めの時は谷さんは空砲撃ってた
戦後は忠興のダディのとりなしのおかげで所領安堵。明治に無事に子爵になった)

秀吉に説教して秀吉が数日後に酒持って謝りに来たこともあるらしい
97人間七七四年:2008/12/07(日) 03:08:19 ID:4bqjrifH
福島正則の部下に農民達が生活が苦しいと抗議しにきた。
正則はその抗議をよくきき和解の証しとし酒宴に招待した。
その酒宴で抗議にきた農民達は全員撃ち取られた。
理由は部下に恥をかかせたからからである。
それを聞いた部下は殿は部下思いだなーっと涙した。っという部下思いの正則のお話し。
98人間七七四年:2008/12/07(日) 03:12:47 ID:g7HM4QgP
>>97
関ヶ原直後でも恥かいて切腹した部下のために徳川家臣のくびを要求した逸話があるよね

良くも悪くも部下思いといえば部下思い
99人間七七四年:2008/12/07(日) 08:20:43 ID:Q94ZVguK
そんなにも部下思いなのに上司にしたくないこの不思議w
100人間七七四年:2008/12/07(日) 08:30:47 ID:SqsNceUu
>>97
これでいい話なのかよw
101人間七七四年:2008/12/07(日) 08:35:16 ID:WEBcZuCH
加藤清正は、自分の藩の事は細かいところまで全部、自分ひとりでやってしまっていたので、
藩士にろくな人材が育たず、加藤家が取り潰された時「あそこの藩士は役に立たない」と、再就職に
とても苦労したらしい。

福島政則は、藩政も軍事もほとんど家臣に丸投げだったので、彼の家臣は行政にも軍政にも
長けた者達が多く、福島家が取り潰された時、その家臣は各藩から引く手数多だったそうだ。

世の中何が幸いになるかわからんものです。
102人間七七四年:2008/12/07(日) 09:01:22 ID:MnMNxPpx
確実に言える事は苦労した分だけ報われるって事だな
現代でもそうあるべきなんだけどな
103大人の名無しさん:2008/12/07(日) 09:19:10 ID:dbxgWRwC
>>101
現代に通ずるものがあるね
>>102
本当に苦労は確実に報われるものだと思ってるのかね?
104人間七七四年:2008/12/07(日) 09:22:13 ID:HAwWFYP+
チャンスを拾えるか 否かと書いたらどうだろ
105人間七七四年:2008/12/07(日) 09:52:48 ID:WEBcZuCH
つーか>>97

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-414.html
↑この話だな(小文字に変換してね)
106人間七七四年:2008/12/07(日) 10:50:58 ID:qoGXckat
>>91の高取城を建てた時のこと。
高取山は国境の要地で、隣国は黒田の仮想敵国細川領。
(その仮想敵ぶりは端城の配置を見るとわかるので見たことない人は
一度検索してみてくれ。あれは噴く)
そこに城を築いて家老の母里太兵衛(但馬)に守らせることになり、
家中の士を大動員して出向いた長政一行。縄張は長政自ら行う。
しかし太兵衛がもっと石垣高く!だの相変わらず好きなことを言って
なかなか決まらない。
長政も慣れたもので、あーあまたかよと怒りもせずあしらっていたが、
ついに「但馬はわかってねーな。長いこと籠城する用の城じゃないから
そんなに堅固にしなくていいんだよ」と終了宣言を出した。
すると太兵衛の顔色が変わった。

「城を預けるって言うからいざという時はここが墓になるくらいのつもりで
いたのに、籠城しないってことは、敵が来たら明け渡すための城ですか!
敵を見て逃げたがるような奴を探してやらせればいい!俺は嫌ですから!」
(敵を見て逃げ候城には、此但馬は居るまじく候。
御家廣き事に候へば、敵を見て、逃げたくと存ずる者も之あるべく候。
左様の者を召置かれ然るべく候。某はいやにて候)

言い捨てると、そのまま自分の木屋に引き籠ってしまう。
長政は憤慨し、同じ年寄りで若いころは太兵衛の兄分だった栗山備後に訴えた。
「今の見た!?まあ聞け備後、あれはな、敵が来たらむしろこっちから押して
前線はこの城より先になるだろ、そしたら太兵衛は最前線で先手の右備にして
働かせて、この城には年取って遠征はつらいけどしっかりしてる奴を入れ直すに
決まってる!そういう意味で言ったのにあの態度!嫌だっつうならいいよもう!」
そこで栗山は長政をなだめてこう言うと但馬が立て篭もる木屋に向かった。
「怒るのはよくわかります。でもほら、いつものこと、いつものことですからね!
私が呼んできますから縄張は今日中に終わらせちゃいましょう。
バカの言うことは本気にしない、ね!」
そして、殿はこういう意味で言ったんだってよ、お前はいい年して我儘ばっかり
言うんじゃないと母里を叱りつける。
すると母里はけろりとして
「なんだ、そういう意味なら腹立たん。
ややこしい言い方しなくてもはっきり言えばいいのに変な奴だな」
(なぞだての様にいはずとも、思ふ様に打さらしいひたき事なり。いな曲の男なり)
と、木屋を出て栗山に先立ってとっとこ長政に近づくと
「敵を見て逃げろって言われたのかと思って腹が立ったけど、さっき備後に
聞いたような意味なら承ります。
石垣を高く塀を長くしたがったのは、できるだけ長い間敵を受け止めて大勢を
討取るのが忠節で、死んでしまっては決して御奉公にならないと思ったからです。
(石垣を高く立て、塀を永く望み候事、三日を五日、五日を七日なりとも
攻崩されず。百人殺すべき敵を、二百も討取り、大敵を此城にて請留め、
日數を送らせ候こそ、忠節たるべけれ。何方にても死し候へば、御奉公とは、
曾て存ぜず候。)
臆病で言ったんじゃないですからね!」
すると長政も母里の神妙な覚悟を褒め、二人は機嫌よく縄張を済ませた。

母里が自分の考えをはばかることなく申し上げると、長政公も殊勝に頼もしく
思われて、涙ぐまれたということです。
いやー非常によい話ですね。よかったよかった。


…ところでこの出典の古郷物語の作者、いつもフォローがわざとらしいの
どうにかならんのか。絶対変な話書いてる時の方が筆運び快調だろこいつ。
母里太兵衛の言動が趣深いと思ったので一部は引用してみた。
107人間七七四年:2008/12/07(日) 10:55:49 ID:WEBcZuCH
>>106
逆に、わざとらしくフォローさえ入れておけば、何書いても良かったと考える事もできるなw
108人間七七四年:2008/12/07(日) 11:59:47 ID:WEBcZuCH
朝鮮出兵の最中の事


肥前名護屋において、渡海した日本軍に厭戦気分が広がっている、と言う話を聞いた秀吉は、
徳川家康、前田利家、蒲生氏郷、浅野長政らを軍議の席に呼び、

「異国退治がこれほど手間取っているのは、日本軍の面々が朝鮮在陣に退屈し、
皆が帰国の事ばかりを考えているからだ、と聞く。このような事では戦果は期待できないので、
今回はわし自身が、前田利家、蒲生氏郷を伴い渡海する事とした。

日本の事は徳川殿に任せれば心配はない
わしが渡海し、朝鮮はおろか明国まで全て平らげて見せようぞ!」

こう、広言した。前田も蒲生も同意したが、家康は不機嫌さをあらわにして反対した

「この家康、不詳の身ながら、若年のころからひとかどの武将と言われた者でござる。その私が
一人残って留守番とは納得いかぬ!この事、絶対に承服できません!」

すると末席にいた浅野長政が進み出て

「そう!徳川殿のおっしゃるとおり!拙者もまるで納得できませぬ。

ああ、徳川殿?ご立腹なさる事はありません。今の秀吉公には、狐が取り付かれているので
以前の秀吉公とは別の人物に成り下がっております。ですので、気になさらないように。」

これに怒り狂った秀吉、おのれ弾正、狐が憑いたとは何事だ!?片膝を立て刀を抜かんばかりの勢いで
長政に迫る。しかし長正は怯まず

「そもそも朝鮮や明国が、日本に対してどのような罪を犯して、このような事になったと言うのですか!?
あなたが良くない事を思い立たれたがために、日本の諸軍勢は海を渡り朝鮮に在陣し、兵糧その他
全てに、莫大な負担を強いられている。それだけではありません、日本国中の産業も安定せず、
前線、銃後、貴賎の別を問わず、人々は悲嘆に暮れている!その事をご存じないか!?

だいたい利家殿、氏郷殿が渡海すれば、北日本はがら空きになりますぞ!そこを一揆や
諸外国に狙われたらいかがします?徳川殿一人がそれを支えようとしても、人がいなければ
どうなる物でもない。徳川殿もそんな無理な責任を負いたくなく、一緒に渡海したいと言うのは
もっともな事です。朝鮮や明を盗ろうとして、逆に日本の防衛の手薄を聞いた外国に日本を盗られては、
笑い事にもならないではないですか!

秀吉公はこんな事もわからない浅はかな武将ではなかった!よって、狐が憑いていると申したのだ!」

秀吉は「主人に向かってよくもそのような事を!」と刀を抜き斬り殺そうとしたが、前田利家と蒲生氏郷が
後ろから必死に抱き止め「長政は後で我々が処分します、どうかここは!」と懇願する、
しかし秀吉は引き下がらない。
長政も、秀吉をにらみつけ動こうとしない。

この時

「長政殿」

すっくと、家康が立ち上がった。
「殿下は本陣にお帰りである。我らはお見送りの準備をするため、先に下がらせていただこう。」

緊迫していた空気が、ふっと変わった。浅野長政も立ち上がり、家康とともにその場を下がった。


この後ほどなく、秀吉の渡海は沙汰止みとなった。
浅野長政に処分が下される事も、また、無かった。
109人間七七四年:2008/12/07(日) 12:04:28 ID:U/H1FwlJ
浅野さんカッコいい…
110人間七七四年:2008/12/07(日) 12:13:21 ID:bgYOYlvI
すげえ
これってどこに伝わってた話かな

実話だったら、この時期の秀吉なんてスーパーDQN2なのに、よく腹の据わったことを言ったもんだ
111人間七七四年:2008/12/07(日) 12:29:42 ID:WEBcZuCH
>>110
これの元ネタは岩淵夜話だけど、渡海すると言った秀吉に浅野長政が諫言したのは
実際にあった話らしい。

あと秀吉は朝鮮役の最中に「ついでにルソン(フィリピン)も攻めに行こう」って言い出して、
浅野が「馬鹿かあんたは!」って大喧嘩した、ってのもあったらしいw

当のルソンの総督府ではこの噂のせいで、緊急の防衛命令が出てたりする。
112人間七七四年:2008/12/07(日) 12:43:57 ID:E/tcH+xm
>>110
カッコイイ。浅野さんこと本物の漢だ!
113人間七七四年:2008/12/07(日) 12:51:16 ID:U/H1FwlJ
>>111
やり合ったの一度だけじゃ無いんだな。

ねねの義理の弟とはいえよく死ななかったな。
114人間七七四年:2008/12/07(日) 12:58:34 ID:bgYOYlvI
>>111
へえ、実話っぽいのか
浅野長政の評価が急上昇したよ
元々秀吉が小身のころから身近なところにいたから、他の武将に比べて遠慮が無かったのかな
115人間七七四年:2008/12/07(日) 12:59:12 ID:os0Elh1p
>>113
何十年もいっしょにいるからギリギリのラインが分かってたんじゃないか?
116人間七七四年:2008/12/07(日) 13:06:18 ID:ckFCQmwU
魔王に対する勇者様が現れた
117人間七七四年:2008/12/07(日) 13:12:07 ID:PCEKYydp
トンヌラ浅野
118人間七七四年:2008/12/07(日) 13:34:15 ID:g7HM4QgP
>>111
朝鮮攻めのついでにルソンってw

長政がおこった理由は
1)朝鮮攻略戦争の内情を理解しろや、この猿
2)地図見て物言え、この猿
119人間七七四年:2008/12/07(日) 14:16:54 ID:/bxk1+zR
>>114
ひょっとして秀長死後では一番の古株か?
120人間七七四年:2008/12/07(日) 14:23:01 ID:PCEKYydp
前田のとっしーは結構古株なイメージだったけど
やっぱ違う?
121人間七七四年:2008/12/07(日) 14:34:22 ID:tuZK+wXj
とっしーは部下じゃなかったからなぁ。
122人間七七四年:2008/12/07(日) 14:35:55 ID:q06gTg33
>>119
まだ古い家臣ってなると、蜂須賀正勝かな。
浅野長政は近江浅井攻めが初陣。ただ、正勝は
1585年に阿波一国を息子に貰ってからは、政権
から遠ざかってるので、この時期では一番古株
かな。あとは前田利家くらいかな…
123人間七七四年:2008/12/07(日) 14:57:56 ID:/bxk1+zR
>>122
正勝は秀長より前に死んでなかったか?
124人間七七四年:2008/12/07(日) 15:11:18 ID:WEBcZuCH
いわゆる、秀吉早々の頃からの、古参側近層だと


蜂須賀正勝:天正14年5月22日(1586年7月8日) 病死

豊臣秀長:天正19年1月22日(1591年2月15日) 病死

前野長康:文禄4年8月19日(1595年9月22日) 秀次を弁護し連座、切腹


長政より古いのはこの辺だね。
125122:2008/12/07(日) 15:14:39 ID:q06gTg33
>>123
確かそう。正勝が1586年、秀長が1591年にそれぞれ病没。
秀吉に仕え始めた順が、正勝≠秀長>長政>利家
…だったかな。正勝は桶狭間前後、秀長は1562年頃と言われ
てるけど、正確ではないかも。
>>122は、この時期の一番古株=長政って意味です。ややこしい
書き方しました。申し訳ない。
126人間七七四年:2008/12/07(日) 15:14:40 ID:MpajFlrJ
蜂須賀は1585あたりで死んでた思う

勇者  浅野長政
魔法使い  小早川隆景
127人間七七四年:2008/12/07(日) 15:43:11 ID:8ofcghO7
権兵衛は?仙石の。
似たような立場の神子田や尾藤が秀にぶっ殺されてるのに
秀吉に仕える→紀伊で清姫の大鐘ゲット→重かったから途中で捨てる
→讃岐貰う→九州失態→追放→家康のとりなしで帰参
→名護屋城、伏見城築城で秀吉に褒められる→五衛門逮捕→
秀忠のもとで真田昌幸のところに人質にいこうとする→秀忠の遅参を家康に弁解してやる→
→秀忠にめちゃくちゃ重用される
だからこの時期現役ぶりばり
128人間七七四年:2008/12/07(日) 16:15:32 ID:6aO6pBGX
くっせー
129人間七七四年:2008/12/07(日) 18:17:26 ID:EU9D+PvD
>>126
隆景は30歳まで童貞貫いたのか・・・






あるあrねーよw
130人間七七四年:2008/12/07(日) 18:19:05 ID:bLzQwKu5
子ども居ないから、ありえないはなしじゃないw
131人間七七四年:2008/12/07(日) 19:45:53 ID:MpajFlrJ
魔法使い死ぬまで毛利は安泰だったじゃないか
それに引き替え吉川は魔法使いの名声を捨てたから幕末まで…
132人間七七四年:2008/12/07(日) 19:59:10 ID:+C+y8NHF
魔法使いになるか
顔が不自由な嫁か

さあキミならどっち?
133人間七七四年:2008/12/07(日) 20:02:28 ID:WEBcZuCH
      ____
     /⌒_輝_⌒\
   /( ●)  (●)\
  /::::::⌒(__人__)⌒::::: \
  |     |r┬-|     | 家臣の美人の嫁さんかっさらうお!
  \      `ー'´    /
  ノ           \
134人間七七四年:2008/12/07(日) 20:26:27 ID:+C+y8NHF
おまえに聞いてねえwwてゆーか叔父さん見習えwww
135人間七七四年:2008/12/07(日) 20:40:41 ID:sUy+0kFe
TERUwww
136人間七七四年:2008/12/07(日) 21:49:02 ID:OJoD+YDW
ちょwテル自重www
137人間七七四年:2008/12/07(日) 22:19:13 ID:XeHxWbhn
>>133吹いたwwwwww
138人間七七四年:2008/12/07(日) 22:32:32 ID:fdHBQWh/
山名豊国と側室の連携プレイ
因幡入りした豊国は土豪との和睦を図るため長高連の娘を側室として娶った。
ある日自邸に賊が侵入、それを退治せんと奮闘するも人数面で劣る豊国。
そこに扉の影から側室が現れた!機転を利かしその辺にあった服を投げつけて
賊は戦闘不能になり退散したという。
139人間七七四年:2008/12/07(日) 22:37:03 ID:JcXpV6A0
140人間七七四年:2008/12/07(日) 22:43:41 ID:bgYOYlvI
賊って、やっぱり物取りじゃなくて暗殺かな
141人間七七四年:2008/12/07(日) 23:02:14 ID:8ofcghO7
長氏や遊佐宇治って独立大名じゃ聞かない名前なのに
やたらあちこちの大名の家老級にいるよな
142人間七七四年:2008/12/07(日) 23:22:37 ID:U/H1FwlJ
>>138
あれ?そのまま怯んだ賊を豊国が突き殺したって話じゃ無かったか。
143人間七七四年:2008/12/08(月) 06:22:12 ID:AjAyyCpZ
>>141
長は長谷部の末裔で全国にばら撒かれてるからなぁ
それなりに広がってる
能登長氏は加賀で33000石もらうほどの大身

144人間七七四年:2008/12/08(月) 06:48:16 ID:0j58gAi+
>>141
遊佐氏は畠山氏の被官で家老みたいなもんだから、畠山が分家するたびにそれとともに広がったんじゃないの?
145人間七七四年:2008/12/08(月) 10:02:36 ID:OgQuAX78
このスレのせいでテルが凡将から色物好色家にみえてきたww
146人間七七四年:2008/12/08(月) 11:08:39 ID:0nPj5bkz
>>144
そしてもれなく主君を害するのですね。わかります。
147人間七七四年:2008/12/08(月) 15:01:49 ID:AjAyyCpZ
>>144
>>146
遊佐の忠誠心は能登も河内も関係ないw

二本松にも遊佐氏はあったのかな
148人間七七四年:2008/12/08(月) 15:48:44 ID:glL7ylBo
>>138 餅をつまらせて苦しそうにしてたら豊国に
「おまいはとっても餅が好きなんだな」と
冷やかされた側室さんと同一?
149人間七七四年:2008/12/08(月) 18:48:41 ID:IIGpUyu2
魚津城の人魂


越中の魚津城を、佐々成政が攻めた折の事

城の者達は必死に防戦したが、攻め手に比べ城方は数少なく、次第に劣勢となり、
ついに明日は落城、討ち死にだ、と言う状況になった。

城の者達はみな、それぞれに今生の別れを交し合った。女子供たちは嘆き悲しみ、
その哀れさは言葉にならないほどだったという。

そんな中、日没を迎えた。その時である

城内から、多数の光の玉が現れた。

それはたちまち、天へと飛び出していった。寄せ手の者達はそれを見て、
「おお、見ろ。あんなに人魂が出る。城ではきっと死に支度をしておるぞ」と、さざめいた。

ところが

この人魂を見たためか、翌朝、佐々成政は、降伏、開城とひきかえに、城方一同の助命
を認めた。死を覚悟していた魚津城の者達は、皆喜んでこれに従った。

するとその夜、昨夜の人魂がまた、何処からとも無く現れ、今度は魚津城の城中に
戻っていった。

この事は、数千人もの人々が実際に見たと言う。
戦国時代の不思議なお話。
150人間七七四年:2008/12/08(月) 19:15:54 ID:MmUOn6Jt
いつの魚津城攻めかな?
例の、「名札つけて全員自決」戦じゃないのかね?
151人間七七四年:2008/12/08(月) 22:25:04 ID:B6zjKh55
>>143長や長谷部系統は山名家臣に結構多いですよ(特に伯耆)
但馬の長氏は派遣されて一揆を鎮圧した際に土着したそうで
あとは波多野の傍流、千葉氏(垣屋とか)、但馬に残った日下部氏(朝倉の親戚)とか

>>148
その通り
152人間七七四年:2008/12/08(月) 22:38:25 ID:B6zjKh55
山名豊国の家臣登用
山名豊国は失態かあるいは天性のものなのか家臣に見放された人生が多かった
豊国は若かりし日に自らを追った武田高信を謀殺した過去があった
しかし時は流れてかつて自らを追った高信の子供を登用した

「本人に非があっても子供に非はない」もしかしたらそう思ったかもしれない豊国であった
153人間七七四年:2008/12/08(月) 23:41:30 ID:IIGpUyu2
>>152
豊国さんは逸話を読めば読むほど、大物なのか小物なのかさっぱりわからなくなるねw
154人間七七四年:2008/12/08(月) 23:46:11 ID:kEUfGrfI
はぁ
155人間七七四年:2008/12/09(火) 00:31:29 ID:+q1VwdkT
>>150
上杉との越中魚津城攻めの時は城兵助命という条件で開城したのに
佐々らは魚津城兵を虐殺して怨恨バリバリな句を残されてなかったっけ。
何回生まれ変わってでも柴田の首は必ず取る!とかいう(北陸司令官は勝家)

そして賤ヶ岳の辺りでは今でも柴田軍の首無しの武者集団がさまよっていて
出会ったら「私は柴田様の家臣です!」って言わないと死ぬって怪談がある。
156人間七七四年:2008/12/09(火) 10:05:31 ID:xDDT8x00
いい話というか、すさまじい話。ちょいグロ注意


細川の血達磨

細川忠興の時代、ある牢人の兄弟が仕官を求めてきた。
「われら、事に及んで他人の出来ない事をして、お役に立って見せましょう。」
そう、きっぱりと答える二人を頼もしく思い、それぞれ召抱えた。

ある時江戸に大火事があり、細川屋敷にまで延焼した。

幸い、屋敷にあった大事な道具類は皆、避難させたが、どうした失態か、細川家に秘蔵された
達磨の掛け軸が、屋敷の中に置き忘れられていた。
忠興はこれを大変惜しんでいたが、ここでかの兄弟が、「御殿はまだ焼けておりませぬ。
この間に我らが取ってまいりましょう。」と言った。

忠興は喜んだが、しかしこれを心配もし、「まだ火が回っていなければ達磨の掛け軸を取って来い。
もし、もう火が回っていれば、かまわないから早々に戻って来い。」と言って、彼らを送り出した。

兄弟が御殿に駆けつけると、まさに今、火が燃え移らんとしていたところだったが、
「今ならまだ間に合う」
と、もうもうたる煙の中を入っていった。達磨の掛け軸は、無事に床の間にかかっていた。
急いで外し、羽織に包み、それを持って脱出しようとした、
が、一足遅く火が回り、兄弟はもはやなすすべなく、焼け死んだ。


火が静まる。
焼け跡から、彼ら兄弟の死骸も見つかった。それは、驚くべき物だった。


兄弟は、先ず、兄が弟に手をかけて首を討ち、喉を切り開いて内臓を引き出し、その体の中に
羽織でよく包んだ掛け軸を押し込んだ。

さらに兄は自分の腹を十文字にかっ斬り、弟の遺骸を自分の腹の中に押し込み、抱きかかえるようにして
死んでいた。


掛け軸を取り出してみると、よく羽織に包んであったためえには血糊の一滴もついてはいなかったが、
上下左右の隅が、少しずつ血に染まっていた。

忠興はこれに深く感銘を受け、血のしみた掛け軸をわざと修復せず、兄弟それぞれが
裃をつけこの掛け軸を守るさまを新たに描かせ、あわせて三幅一対の掛け軸とした。

この絵はいつともなく「細川の血達磨」と呼ばれるようになり、今も大切に秘蔵されていると言う。
157人間七七四年:2008/12/09(火) 10:32:47 ID:a/USKNXc
腹ん中に遺骸って入る物なのか
158人間七七四年:2008/12/09(火) 11:10:17 ID:VsnycZyG
モツかきだしちゃうと人体驚くほどしぼむと思うよ…
159人間七七四年:2008/12/09(火) 12:28:29 ID:gWMO3YE5
乱丸だったら尻穴にかくしただろうな
160人間七七四年:2008/12/09(火) 12:52:51 ID:hxwAf/xJ
村越三十郎たんのいい話「これにて五千石」

秀吉から領内の神社に社領として一万石与えるよう命令された家康公
ところが、千石しか与えなかった

その申し開きの使者に選ばれたのが村越三十郎たん
秀吉の前で家康公の向上を述べようとしたが、ド忘れしてしまった

そこで諸肌を脱いで戦傷だらけの体を見せつけながら
「これにて五千石」と叫んだ

同席してた諸将はあっけにとられたが、秀吉は
「見事な申し開きじゃ」と褒めたそうな

さて、その後の村越三十郎たんは関ヶ原の後に加増されて一万石になったそうです
161人間七七四年:2008/12/09(火) 13:20:04 ID:usPPogpT
こういう話すごい好きだわ。花の慶次のだがそれがいい的な
162人間七七四年:2008/12/09(火) 13:20:46 ID:vFJ0cVId
>>160
意味わからんwww
それのドコが申し開きになってるんだろ?
163人間七七四年:2008/12/09(火) 13:22:45 ID:xDDT8x00
>>162
「俺がこれだけの働きをして五千石なのに、何の働きもない神社に1万石はおかしいだろ」って事かと。
164人間七七四年:2008/12/09(火) 13:22:53 ID:1o0rq8It
>>161は秀吉。>>162は諸将。
165人間七七四年:2008/12/09(火) 14:06:29 ID:VsnycZyG
>>164
蒲生氏郷あたりはこいつ…ホスィ…と思ってそうだw
166人間七七四年:2008/12/09(火) 15:05:19 ID:uMvzBM5I
>>160
言葉の意味はよく分からんが、とにかく凄い自信だ
167人間七七四年:2008/12/09(火) 15:07:08 ID:xDDT8x00
>>165
訴訟マニアの爺様すら欲しがったからなあ>氏郷
そんな人材マニアの作った癖のありすぎる家臣団のせいで、子供が偉い目に。
168人間七七四年:2008/12/09(火) 16:04:11 ID:IAWpU/IR
>>160
大いに笑わせてもらった
良いキャラだ
169人間七七四年:2008/12/09(火) 17:27:12 ID:eK8cSXwT
井伊直政なら尻穴みせるとこだなwww
170人間七七四年:2008/12/09(火) 18:19:58 ID:efnD2NbD
>>169の元に赤備えが突撃したようです
171人間七七四年:2008/12/09(火) 19:54:07 ID:IAWpU/IR
やっぱり実力+尻の力かな、直政の出世は。

いずれにせよ、新参の癖に家来のトップになっちまったから、譜代は良い気分しないだろうなあ。
大久保彦左衛門が三河物語で「新参」が出世したと批判してたと思うけど、
具体的な例の一つは井伊家かな?
172人間七七四年:2008/12/09(火) 20:01:45 ID:lQTOxBOp
赤備えの心構え

大阪冬の陣の後、出入りの医師があいさつを兼ねて井伊家の新当主・直孝の往診に訪れた。

直孝の居間に医師が入ると、床が畳一枚どころか竹のスノコで出来ており、すきま風が
入りまくっていた。

「これでは不養生に過ぎます。大身の方々は床板を二重にして、その間にワラや干し飯を
詰めて乾湿を防ぎ、また倉庫として活用しておりますよ。」
と医師が進言すると直孝は、

「わが井伊家は、事あれば先陣を勤める家柄だ。戦は風邪の治るのを待ってはくれぬ。
もしこれしきの寒さで死ぬようならば、もっと頑健な者が代わって当主になった方が将軍家の
御為になる。」と聞かなかった。

医師は帰り際に庭を見たが、広い庭は何の植木もなく、ただ雑草が生い茂るばかりだった。

数寄のかけらもない庭にわずかに平らな石を一畳ほど敷き詰めてあったが、それも直孝が
行水をする際に泥はねを防ぐためのものだと言う。医師は驚きを通り越し、呆れて帰った。
173人間七七四年:2008/12/09(火) 21:18:18 ID:hxwAf/xJ
>>172
井伊直政の長男「病弱で悪かったなw」
174人間七七四年:2008/12/09(火) 21:21:16 ID:bF3GPl4d
>>173
確かに直継へのイヤミのような気もww

でも直孝は嫡男押しのけて当主に選ばれた人だから
これぐらいしないと家中が認めてくれなかったのかもね
175人間七七四年:2008/12/09(火) 21:45:57 ID:0xwbUJYb
家康の旗本が同僚を斬って、本多忠勝の屋敷に逃げこんだ
家康これを聞いて、自身が本多の屋敷にかちこんで「今、逃げ込んだ奴を出せ」

忠勝が出てきて後で何とかしますから、外聞もあるしとりあえず帰ってくださいと言ったが
グダグダ言わんと早く出せ、出さんと帰らんと言って、門の前に座り込む

仕方なく、忠勝はそいつを捕えて首を差し出したという
176人間七七四年:2008/12/09(火) 21:48:34 ID:TGJxBka7
>>175
続きはあるの?
それだけだと別にいい話でも無いと思うし、かといって悪い話でもないと思うんだが…
177人間七七四年:2008/12/09(火) 21:58:47 ID:0xwbUJYb
>>175
いちおう、これで仕舞だが注釈で
こんな対応、忠勝らしくない酒井忠利ならありそうだと
なにげに双方へ失礼なこと言ってる

筋を通すならかなりあれなことする家康ろいう感じで
178人間七七四年:2008/12/09(火) 22:10:16 ID:a2twaNIv
>>156
それアッー!な話にされて、歌舞伎の演目とかになったよね。
なんとボーイズラブ小説にまでなっていたりするw
179人間七七四年:2008/12/09(火) 22:23:50 ID:efnD2NbD
俺の脳内だと北斗の拳のカサンドラの門番兄弟かハーン兄弟で再生される
180人間七七四年:2008/12/09(火) 23:17:40 ID:U/FGy2Xg
朝鮮出兵で浅野長政は心配で夜も眠れなかった。まだ若い我が子が朝鮮に出兵するのだ。

長政はたまらず清正の屋敷に駆け込んだ。
驚いた清正は兎に角話しを聞いた。

長「まだ若い幸長は血気盛んだ。敵陣に真っ先に突入して死んでしまうだろう」
清「若いならそれくらいの方がよろしいでしょう」
長「異国で日本のような戦が出来ようか?勝手が違うと私は思うのだ」
おろおろするのを見かねた清正は
「なら私が親となり朝鮮では幸長殿の面倒をみましょう」
っと幸長の義父となる事を長政に告げた。
幸長は喜んで屋敷に帰り幸長にその事を伝えた。
其を聞いた幸長も「憧れの加藤様と一緒に戦える」と喜んだ。
翌日二人は揃って清正邸に赴いた。
長「いいか幸長、これよりお前の父は清正殿だ。
知っての通り清正殿は天下に名を知られた武士だ。
お前も清正殿を見習い清正殿のようになれ」
幸「よろしくお願いします、父上」
清「私は子が居ないからいきなり子が出来たようでこれは嬉しいものだな」

その後、朝鮮出兵中二人は泥水啜って戦い抜いた。
幸長は清正を本当の親父のように思い「清正殿に成りたい」と清正を目指した。

帰国した幸長は大いに成長していた。
清正の下で激戦を潜り抜けてきた幸長は立派な将に成長していた。
長政が家康に靡いても幸長は家康の天下を認めながらも豊臣家に尽くした。
幸長にとっては家を盛り上げてくれた恩は豊臣家にあれど一度は謀反人と罰せられた豊家に思い入れようはあまりない。
しかし彼は武士としての忠を貫いて行動したのである。
それは清正から学んだ忠義の姿勢である。

いつの間にか清正と幸長は豊臣家の二大重鎮となっていた。彼は清正と並び称される事が誇りだった。

しかし義父である清正死後、後を追うように幸長も死んでしまう。
この二本の柱が折れてしまった事により豊臣家は暴発し滅びる。


↓死因
清正「お主、童貞だな」
幸長「どどど童貞ちゃうわ」
清正「まぁまぁ一緒に街にでもくりだそうや。フヒヒヒヒ」
幸長「ごくりっ…」

181あるサイトからの逸話:2008/12/09(火) 23:24:56 ID:iZswHUdh
「死力には全力を以て」

秀吉が四国平定を成したしばらく後、四国では一揆が各地で起こっておりそれに頭を悩まされていた。

そこで秀吉は一揆の鎮定を浅野長政に命じた。すると長政は
「一揆と雖も身命を賭して起こり立った者ども。攻め方に威光なくばどうして易く鎮められよう。
軍勢を集結させて武威を誇示し、威風堂々彼の地へ向かわば、その威光だけで一揆を挫く事となろう。」
といい、秀吉はこれに感心しある程度大規模な行軍を許可した。

許しを得た長政が大坂表で堂々と兵備を整えると、この噂は四国に広まり
長政とその軍勢が四国に上陸すると一揆は続々と降伏し、ついに一戦も交えず一揆の鎮定に成功したという。
182人間七七四年:2008/12/09(火) 23:30:07 ID:Hz/6TrZ2
>>180
wwwwww
183人間七七四年:2008/12/09(火) 23:35:58 ID:UfP3ii/P
>>180
狸「ゲヒヒw」
184人間七七四年:2008/12/10(水) 00:22:43 ID:YthbmIW+
>>180
おいwwwいい話だなと思ってたのに最後wwwww
185人間七七四年:2008/12/10(水) 01:18:29 ID:whZ26dVb
>>180
ナニやってきたw
186人間七七四年:2008/12/10(水) 01:23:52 ID:2t2w+su4
結城秀康「おれ漏れも!…あれ、アンタ行かないの?」

池田輝政「いや、オレのアレでプロに迷惑かけらんないし」
187人間七七四年:2008/12/10(水) 01:27:07 ID:0wHfy889
輝元「そこで家臣の妻とやれば、病気とか無縁なわけですよ!」
政宗「ですよねー」
188人間七七四年:2008/12/10(水) 02:11:39 ID:QDhoCLso
>>186
天下のイチモツ・・・ゴクリ
189人間七七四年:2008/12/10(水) 03:04:06 ID:OiIi2q8D
利家「股の槍左はまだ枯れてはおらぬ、若造どもに遅れは取らぬぞ!」
190人間七七四年:2008/12/10(水) 11:28:02 ID:Eq7hk4Sg
>>180
市松「なんでオレを柱に数えんのだ!」
191人間七七四年:2008/12/10(水) 11:29:15 ID:7GEpsFME
細川忠興『お前等自分の妻の気持ち考えろよ』

吉川元春『かわいい娘でたてる奴の気持ちがわからん』

192人間七七四年:2008/12/10(水) 11:37:36 ID:N/xKEkzY
>>191
それだとガラシャもブスみたいじゃないかww
193人間七七四年:2008/12/10(水) 14:35:36 ID:auAT8ru3
家久(当時「忠恒」)「不細工な嫁でもびょーきもらわなかったオレ様が一番の勝者だぜ!!!」

義弘+島津家家老一同「・・・そりゃわしらが夜遊びに以降とした若殿を柱にくくりつけ(ry」
194人間七七四年:2008/12/10(水) 20:46:16 ID:5oTps0ou
清正「」
195人間七七四年:2008/12/10(水) 21:09:59 ID:zeTBILKr
茶坊主の肝試し


豊臣秀頼が大阪を治めていた頃のお話

ある時、大阪に多くの獄門首が出た。
秀頼の家臣、伊藤丹後守は若い者達を試そうと思い、
「誰か、あの獄門場に行って来ようという勇気のあるものはおらぬか?」
と言うと、その場にいた、12歳になる茶坊主が、

「そんなもの簡単です。腰刀をいただけるなら私が行きましょう。」と、自信満々に言うので、
行かせて見た。

少年は獄門場におもむき、証拠として首ごとに飯を口に押し込んでいった。
するとそのうちの一つの首がなんと、飯をむしゃむしゃと食い始めた!
が、少年はそれに驚かず、スルーして他の首に飯を詰め始た。すると飯を食い終わった首が
話しかけた

「もっと食わせろ」

片腹痛く思った少年は、「おお、食わしてやるぞ!」と、腰刀で眉間を抜き打ちした。


帰ってきた少年に、伊藤丹後守がニヤニヤしながら「何かなかったか?」と聞いてきたので
これこれこう言うことがありました、と答えると、丹後守は仰天した。
実は彼は、獄門場におもむいたものを驚かせようと、あらかじめ人をやって、首のふりを
させていたのである。
ところがこの男、驚かせるどころか額を切りつけられ怪我をし、又世間の笑いものにもなり、
もう散々であったとか。


この少年、安芸の刀鍛冶、冬広の子であったそうだ。
大阪の陣の後冬広は彼を探したが、どこにもいなかった。
勇敢な子だったから、きっと戦に出て討ち死にしたのだろう。そう、伝わる。
196人間七七四年:2008/12/10(水) 21:21:20 ID:HV9/7rYO
忠興「食わせろというなら口の中にくれてやるべきだろう、気が利かないな」
197人間七七四年:2008/12/10(水) 21:32:03 ID:cDcJmAb2
信康「196同!!」
198人間七七四年:2008/12/10(水) 21:51:27 ID:LVYbPeNY
生きてて良かったな、生首

>>196
さすがだわ
199人間七七四年:2008/12/10(水) 22:19:35 ID:5oTps0ou
加藤清正の人使いの秘訣とは?
飯田直景は加藤家御取り潰しとなった際京都に隠棲する。
そんな飯田直景に幕府から使者がきた。
清正はどんな人物だったかという問いに重臣で幼なじみの飯田直景はこう答えた。
「なんと言っても人使いが上手いのだ。
正直な話し、何度も加藤家を出奔してやろうかと思ったよ。
しかしそういう事を思っていると清正はふっと現れて色んな事を誉めちぎってくれるんだよ。
そうするとやっぱり頑張ってみようとか思っちゃったり…ね……。
結局辞めるに辞めれなくなっちゃってここまできちゃったわけよ。
見事俺は清正に騙され続けたって訳よ(苦笑)あいつの家臣はみんなそうだよ」

秀吉御得意の人心把握の心得はしっかり清正に受け継がれていたというお話し
200人間七七四年:2008/12/10(水) 22:24:12 ID:zeTBILKr
根拠はないが清正の褒め方はえらくくどそうだ。
201人間七七四年:2008/12/10(水) 22:44:10 ID:uaFFfUoC
>>195
獄門首が出るってどういうこと?物の怪の類が出たということ?それとも
単に処刑を連発したということ?
202人間七七四年:2008/12/10(水) 22:46:55 ID:zeTBILKr
>>201
> 単に処刑を連発したということ?
そういうこと。で、獄門場にさらされた首がたくさん出た。よって、「獄門首が出た」と言う。
203人間七七四年:2008/12/10(水) 23:17:17 ID:uaFFfUoC
>>202
分かった。ありがとう。
204人間七七四年:2008/12/11(木) 00:45:54 ID:+3rP7+To
石川五右衛門のように一味や家族丸ごと…って感じだったのかな。
205人間七七四年:2008/12/11(木) 01:02:28 ID:mJ9DCCTI
承応のころ、備前から東国へ向かう商船が嵐に会い、はるか南まで流された。

船は八丈島で修理と補給を受けたが、そこへ身なりはボロだが人品卑しからぬ老人が
やって来て、船員に岡山のことを詳しく聞きたがった。

「お城の北の林に私が建…いや、お伊勢様の分社があったが、それは今もあるかね?」

「へえ、確かにありやすが、あの辺りは今じゃ林どころか、池田候のご家来衆のお屋敷が
ビッシリと軒を連ねておりやすよ?」

「……戦国の世ならば国境ぞいに砦を築き、そちらに分けて家臣を置くゆえ、あんな林を
切り開いてまで城下に屋敷町を造る余裕はない……

…そうか…天下は収まり、世は平和になったのだな……良かった…本当によかった……」

(名将言行録)
206人間七七四年:2008/12/11(木) 11:24:51 ID:Tnx4Fmur
泳いで参った…(;ω;)
207人間七七四年:2008/12/11(木) 12:01:50 ID:OuhLynZQ
>>205
直家さんところの愚息の話ですな
208人間七七四年:2008/12/11(木) 13:53:38 ID:Fm/OkYee
>>205
秀家「良い話だなー」
209人間七七四年:2008/12/11(木) 17:38:00 ID:EL1PXXbo
秀家的に徳川の天下で良かったのかね?
210人間七七四年:2008/12/11(木) 17:41:19 ID:HIajrCIQ
いまさら復権の目もないし、安定して平和な社会が実現されたのなら、
それはそれであの戦乱の時代を戦った人間としては、納得のいくものになるんじゃないかな?

ちょっと違うかもしれないが、太平洋戦争を戦った旧日本軍の人が、戦後社会を肯定するような感じで。
211人間七七四年:2008/12/11(木) 18:23:37 ID:EL1PXXbo
随分とさっぱりしたな。
長年の流刑生活で毒気を抜かれたか?
朝鮮征伐〜関ヶ原ではもっとギラギラしてたよな。
212人間七七四年:2008/12/11(木) 18:30:13 ID:HIajrCIQ
宇喜多秀家はギラギラというより、正直なまっすぐ君って印象が強いなあ。良くも悪くも。
関ヶ原のあと命助けられたのも、根本的には「いい奴だから」って理由だし。
213人間七七四年:2008/12/11(木) 18:41:36 ID:xRDRaWPe
>>207
愚息とは失敬な!
214人間七七四年:2008/12/11(木) 20:40:35 ID:HdjJDUyy
江戸にいた家康の下に伏見城が陥落したとの報が来た時
本多忠勝や全阿弥らと鶴鍋を煮ていたが、

西の方を向き、ハラハラと涙を流し始めた

忠勝らは次の間に下がり、忠勝は殿中にいるべきではないと
そのまま宿へと戻った
215人間七七四年:2008/12/11(木) 20:55:13 ID:xY9UUKjy
鳥居さん;;;
216人間七七四年:2008/12/11(木) 21:08:45 ID:HIajrCIQ
置いて行った者も、置かれていった者も、みんな納得した上での
捨石だけど、それだけに胸に迫るよね。・゚・(ノД`)・゚・。


ちなみにこの伏見篭城戦でやはり討ち死にした、「家忠日記」で有名な松平家忠 。
彼の息子(次男)も、実は再建された伏見城で没した(病死)。
217人間七七四年:2008/12/11(木) 23:34:41 ID:TeyFZcv3
>>205
中納言様ーーーーーーッ
218人間七七四年:2008/12/12(金) 00:17:28 ID:68zAl6CJ
鳥居さんは泣ける…。この話で大好きになった
219人間七七四年:2008/12/12(金) 11:13:11 ID:YfTckMNK
鳥居さんはここが死に場所と定め、潔く首を敵兵にくれてやった
内藤さんは命ある限り戦うべしと主張し、矢尽き刀折れるまで戦い死んだ

めんどくさい三河武士にも色々な人がいた
220人間七七四年:2008/12/12(金) 13:36:28 ID:bLO+MiFo
結城秀康が越前の国主だった頃

結城秀康はふんだんに家臣を抱えていることで有名で、当時七十五万石の領主でありながら、
そのうち六十八万石分も知行として与えており、みな、

「秀康様はどうやってお暮らしになっているのだろう?」

と、疑問に思っていた。

さて、彼の城下福井は当時、佐渡から産出された金を江戸に運ぶルートになっていた。
この輸送隊が福井城下に来ると、その頭が藩の家老に「御用はありませんか?」と聞きに来た。
家老も心得たもので、「これだけ必要です」と言うと、その言っただけの金額を、輸送されている
金から分けて置いて行った。

このように、秀康は家臣への知行以外については、幕府からの手厚い援助があったのだと、
伝わっている。
221人間七七四年:2008/12/12(金) 14:06:06 ID:lFKw2mZ0
さすが制外の家
222人間七七四年:2008/12/12(金) 14:14:47 ID:uMveWKWn
我が父、秀康は将軍の兄なるぞ
223人間七七四年:2008/12/12(金) 17:15:51 ID:eDveHKsX
秀康公は若死にしてるから逸話が少ないな。
224人間七七四年:2008/12/12(金) 21:17:15 ID:3T3vfN/J
島津義久は自室の襖や屏風に古今和漢の人物の肖像や逸話を書かせていた。

ただし、書かれた人物は普通の人々ではなかった。 前漢の王莽。 唐の安禄山。
蘇我入鹿。 藤原信頼。 いずれも国を傾け、家を滅ぼした大悪人ばかりだった。

義弘「普通は聖人の肖像等を飾るものでは?何故こんな恐ろしか者どもを飾るので?」

義久「善行などは実は人のマネをすればすぐ出来る。しかし、悪行は無意識に出来心で
    やってしまうものよ。だからこうして、昔の大悪事を常に目に触れるようにして、
    逆にこのようにせぬよう心がけておれば、自然と善行を積める人間になるのでは

    …と思ってな。」

家臣皆、感心せざるは無かったという。 (太平将士美談)



20年後

島津亀寿「お父様、なんでウチの主人の肖像なんか飾ってるんですの?」
義久「・・・・・・(怒)」
225人間七七四年:2008/12/12(金) 21:18:59 ID:bLO+MiFo
>>224
いいオチだ。わらたw
226人間七七四年:2008/12/12(金) 21:20:24 ID:so8F1SwD
>>224
20年後
・・・ため息・・・
227人間七七四年:2008/12/12(金) 21:44:36 ID:EneAQlng
良い話というか、腹の底から「なるほど」と思う話だ。
228人間七七四年:2008/12/12(金) 22:32:13 ID:bLO+MiFo
大久保忠隣の次男で、家康や徳川秀忠からの信任も厚かった、石川忠総の家臣に、
神田九兵衛と言う男がいた。

大阪の陣でも活躍し、「破れ船七人衆」の一人として称えられたほどの勇者であったが、
この男とにかく学がなく、読み書きも出来ず、すべてのことに荒っぽい男だった。

ある年の大晦日の事。この神田九兵衛が何を思ったか、城内で同僚達に

「俺は年賀の発句を作った」

と、大いに自慢している。「明日これでご褒美を頂くのだ!」

あまりに珍しい事なので、同僚達は、その発句を是非聞かせて欲しいと言ったが、
「いやいや、明日、殿の御前で話す。」と、断った。

その深夜、神田は自分の館を出て広間に行き、そこの柱に発句を張り付け、家老達が来るのを
見かけると呼び止めて、
「年賀の発句を作りましたので、殿へよろしく取り成してください!」と言った。

家老達がどれどれ、と見てみると、そこには下手なひらがなで

『ことしは うまのとし めでたいな』

と、大きく書いてあった。彼らは大笑いしたかったが、凶暴な事で有名な神田を怒らせては
何をするか解らないと、ぐっと笑いをこらえ、「め、めでたい句だな、殿に申し上げておこう。」と
忠総の元に行き、笑いながらそれを伝えた。

だが、それを聞いた聞いた忠総は、「めでたい、よい発句ではないか。」と言い、
正月のお目見えの折、神田をほめ、褒美として小袖を与えた。
神田は面目を施した。
229人間七七四年:2008/12/12(金) 22:36:06 ID:EneAQlng
おお良い話だ
なんかじんわりと心にしみる
主人からすると、一生懸命な可愛い子分ってかんじだったんだろうなあ
230人間七七四年:2008/12/12(金) 23:29:18 ID:8g9+xRQ2
文才あるなしは知らないけど
忠勝さんの辞世の句も
文才のなさそうな感じがあってかなり味があると思った
231人間七七四年:2008/12/12(金) 23:30:27 ID:MgHeV3tW
政宗「つるのめに あながあいてる おれんじゃない」
家康「………………」
232人間七七四年:2008/12/12(金) 23:32:37 ID:EneAQlng
>>230
検索した。これのことかな?
死にともな まだ死にともな死にともな 御恩を受けし君を思えば
233人間七七四年:2008/12/12(金) 23:34:09 ID:8g9+xRQ2
そうそう、それそれ
234人間七七四年:2008/12/12(金) 23:35:30 ID:EneAQlng
これ、下の句を詠む前に言切れてたら、末代までの恥だったな
235人間七七四年:2008/12/12(金) 23:37:36 ID:qE5jr+L9
確かにwww
死にたくない×3だもんなwww
ダメギじゃないんだから。


まあ、前もって作ってあったんだろうけどねw
236【^^】:2008/12/13(土) 12:09:18 ID:vjvy8fES
福島正則の良い話し

大の酒好きで知られる福島正則は関東の酒はマズイと言い、大阪で家臣が吟味してから取り寄せるのを常としていた。
ある時、暴風雨で酒を積んだ船が八丈島に流された。
すると40代程の背の高い痩せた色黒男が現れて図々しくも「その酒、少しくれ!」と言う。
福島家士は腹立ち紛れに「貴様は流人だな!何故ここに流された?」と問うた。
男は、「情けなくも宇喜多中納言秀家のなれ果てだ」と自嘲した。
家士は驚き平伏して「貴方様が…どうぞ酒は差し上げます」と一樽に干物を添えて差し出した。

さて暴風雨収まり江戸に着いた家士は直ちに一樽足りない事情を目付けに報告した。
目付けから報告を聞いた正則、「すぐにそやつを連れてまいれ!」と言う。短気な正則の事、主人の酒を勝手な事をしたと誰もが切腹だと思ったが意外にも上機嫌で家士を側近く呼び寄せ、
「天晴れ!でかしたぞ。指図受ける前にお前の思案で良くぞ機転を利かしてくれた。中納言に正則はケチな野郎と思われずにすんだ。また、暴風雨で一樽は波にさらわれたと言っても済むことだが正直によう申した」
と褒めたたえ褒美をとらせた。
237人間七七四年:2008/12/13(土) 12:17:19 ID:66vzqfb+
この話は、今は身を落とした流人に対して、かつてはらったであろう敬意を忘れない福島家来の心根がいいね
238人間七七四年:2008/12/13(土) 12:18:40 ID:RXLfZPcG
なんで既出過ぎる話しを誇らしげに書きこむかね
239人間七七四年:2008/12/13(土) 12:21:22 ID:66vzqfb+
そういう言い方しなくてもいいだろ
スルーすれば言いだけだし
240人間七七四年:2008/12/13(土) 12:22:31 ID:21IibokD
政宗「ちっ、悪い話スレなら馬鹿にしてやるのにw」
鬼武蔵「まったくだ、斬り捨ててやるんだがなw」
市松「命拾いしやがったな、くくく」
241人間七七四年:2008/12/13(土) 12:28:09 ID:bgq6DYcz
4回くらい見た。
242人間七七四年:2008/12/13(土) 12:34:37 ID:gv59S3D/
細川『お前等の逸話は人格疑われるのばっかだからってひがむな』
243人間七七四年:2008/12/13(土) 12:42:54 ID:bTX4a7B5
家久 「島津に暗君なし」
244【^^】:2008/12/13(土) 12:47:17 ID:vjvy8fES
>>238
別に誇ってないよ?
病気かお前w
言っておくけど学者や歴史家でもあるまいし戦国板に来る歴史好きの知識レベルなんて皆大差ないっしょ。
リアルで生きてた訳じゃないから現代人の知識は100パーセント、本やメディアだから皆同レベル。
逆にお前がそのくらい知ってるって誇ってるよなw
良い話し自体、皆殆どは大体一度は聞いたり見たりした話しっしょw本なんかで仕入れた知識に間違いないから。
それを承知で皆出してるんだろ?知識人ぶるなよなカスww
245人間七七四年:2008/12/13(土) 12:47:38 ID:Bj8oeJWh
亀寿「お父様、なんでウチの主人の肖像なんか飾ってるんですの?」
246人間七七四年:2008/12/13(土) 12:50:46 ID:1zj+/gfW
>>236

こうゆう、いい話は何回書き込んでくれてもOKだと思うよ。読んで気持ちよくなる話は大歓迎。
書き手によって表現が変わるから新鮮だしね。
247人間七七四年:2008/12/13(土) 12:53:06 ID:vjvy8fES
>>238
この話しは俺がさっき読んだ本に載ってた話しをイイ話しだと思って転用したんだからどっかで見た人たくさんいて当然だw
それともお前タイムマシーンで色々見てるから俺のが詳しいって誇りたいのか?ww
248人間七七四年:2008/12/13(土) 13:01:52 ID:Bj8oeJWh
既出どうこうで騒いだ>>238も問題だが
粘着して挑発する>>247にも問題があるぞ
とりあえず権現様に説教されてきなさい
249人間七七四年:2008/12/13(土) 13:05:51 ID:21IibokD
権現様「まとめブログというものがあってな。>>1を見てはどうかな」
毛利元就「スレの空気を尊重するのも大事ですぞ」
最上義光「あなたの知識と文才にはスレ民も異論はないのでな」
毛利家久(まともなほう)「ののしりあっても何の解決もせんぞ」
250人間七七四年:2008/12/13(土) 13:15:27 ID:m09NLPpZ
毛利家久って誰なんだろうと思ってみる
251人間七七四年:2008/12/13(土) 13:23:32 ID:zVLS400H
>>236
確かに既出だが、まとめサイトに載ってるのと微妙にニュアンスが違って
おもしろかった。おまえに悪気があってした訳じゃないだろうから気にするな。
252人間七七四年:2008/12/13(土) 13:36:08 ID:66vzqfb+
正直なところ有名すぎて、むしろこのスレでは初出かと思ってた
253人間七七四年:2008/12/13(土) 13:41:01 ID:igyG50rS
大阪の陣、真田丸の攻防戦の折の事

池田忠雄の軍は鉄の盾三枚を足軽六人で持ってその物陰から鉄砲、大筒を撃ち
奮戦した。しかしそこに大野治房の兵が石火矢を撃ちこんで来た為、盾が打ち倒され、
六人の足軽は盾を捨てて陣屋に逃げ込んだ。

大阪城内より豊臣方の一人が櫓に上がり「今盾を捨てて逃げたのは、旗の家紋を見るに
池田家のご一族と見た!そこの盾を取り返さねば末代までの恥となるぞ!」
と、大声で叫び、これに城方はどっと笑った。

池田忠雄は屈辱に耐えかね「誰かあの盾を取りに行くものはおらぬのか!」と叫んだ。
その言葉が終わる前に、池田の陣屋より、黒糸威の鎧と兜を着た、仁王のできそこないのような
大男が、一人で歩いて出て行った。そして城の近くまで行くと

「ただいま盾を取りに行くものは、大した身分ではないが池田忠雄が家臣、川田八助と申す!
幼少より山や川で狩りをして暮らし、頭はあまりよくない!が、これがおびき寄せて殺すための
はかりごとである事くらいは解る!

しかしこのような時に、はかりごとで死ぬのも勇士の道と聞く!これより盾を取り返させていただく!」

こう口上し、盾に走りよってその鉄の塊り三枚を、軽々と持ち抱え、城の方を睨み付けながら
下がり始めた。これには池田方のみならず、豊臣方からもやんやの喝采が起こった。

そこに、大野治房の家臣、小畑源右衛門という鉄砲の名手が八助にしっかりと標準をつけ、撃ち放った。
鉄砲は八助の鎧の背の上部に見事に命中した!

戦場は一瞬の静寂、が、八助は「かすっただけでござる」と、何事もなかったかのように盾を持って
本陣へと帰った。

これに敵味方かかわらず、川田八助を称えぬ者はいなかったと言う。
254人間七七四年:2008/12/13(土) 13:45:08 ID:66vzqfb+
かっちょええええ
255人間七七四年:2008/12/13(土) 13:46:18 ID:uUxvWZUl
かっこいいじゃないの
256人間七七四年:2008/12/13(土) 14:22:49 ID:G5IwJC1i
小田原の役でのこと
あるとき秀吉が本陣で能を催していた。軍勢はその前を通るとき、いずれも下馬して通った。
しかし宇喜多秀家の家来、花房職之は下馬もせず、冑も脱がずに通ってゆこうとした。
それを見た番人たちが咎めたところ、職之は大声で、
「戦場で能を催して遊ぶような大将に下馬する必要があろうか」
と言い捨て、秀吉の方へ向かって唾を吐いて通った。
秀吉がこれを聞き激怒して秀家を呼び、花房職之を縛り首にせよと命じた。
秀家がかしこまって座をたち一町ばかり行った時、秀吉は考えなおして、秀家を呼び戻し、
「一時の怒りで縛り首といったが、剛気の士をそうもなるまい。切腹申しつけよ(切腹は武士の名誉刑)」
と言った。また秀家がかしこまって座をたち一、二町行ったころ考えなおして呼び戻し、
「今天下で自分に向かってこのような大言を言う者はまずいない。
あっぱれ大剛の武士である。このような武士を殺すのは惜しい。
命を助け加増してつかうがよい」
と言った。
257人間七七四年:2008/12/13(土) 14:40:59 ID:54BG2who
優柔不断な秀吉だな、無能を隠すために能を催してるわけか
258人間七七四年:2008/12/13(土) 14:51:21 ID:jOye65o4
秀吉の本音→名君装い→信長の真似となるわけですね
259人間七七四年:2008/12/13(土) 15:37:31 ID:MrDedBGP
一方、時と場所同じくして秀吉に悪態ついた山上宗二は(ry
260人間七七四年:2008/12/13(土) 18:11:23 ID:jICOjDFy
助兵衛の話か
261人間七七四年:2008/12/13(土) 19:46:18 ID:MJMR4iS9
立花宗茂が幼少の頃の話。

宗茂が城下町を歩いていると、突然騒ぎが起きた。
若い武士二人が口論となり、ついに真剣を抜いて決闘
となった。周りの町人たちはあわてて逃げ出した。
だがその様子を見ていた宗茂は、その場に立って笑顔
で見守っていた。宗茂の近習は驚いて駆け寄った。
「若!そばにいては危のうございます。早く逃げてく
だされ!」
だが幼い宗茂は笑って答えた、
「あの二人は父の家来だ。皆が逃げ回れば大騒ぎになり、
二人は処罰されるだろう。父の息子の私がここで笑って
見守っていれば、ただの喧嘩として大事にはならないで
あろう。あの二人は父の大事な家来であるから、私は
ここで見守っているよ。」と二人を見守り続けた。
宗茂の言葉を聞いた二人はすぐに刀を鞘に納め、和解した。

周囲の者は宗茂を「さすがは鎮種(高橋紹運)の子、大将
の器である。」と賞賛を惜しまなかった。
262人間七七四年:2008/12/13(土) 21:08:51 ID:4UfaXeJx
宗茂ってカミナリ様に厳しく育てられたせいか
こういう肝の座った話か「お殿様」な逸話ばっかりだよな
マジ惚れるわ!宗茂になら掘られてもいいな
263人間七七四年:2008/12/13(土) 21:14:30 ID:ul67/mhG
ウィヒ!
264人間七七四年:2008/12/14(日) 11:00:50 ID:j0qR8vFQ
>>262
宗茂「おk」
265人間七七四年:2008/12/14(日) 13:23:51 ID:fZhnXa43
雪下が恐ろしい顔で睨んでいます。
266人間七七四年:2008/12/14(日) 14:05:16 ID:MixeolR9
おかげで家臣にいがぐりを押し付けられても黙ってるしかなかったです。
267小田原提灯(一):2008/12/14(日) 16:44:21 ID:z4nHQZyE
みなさんの家に提灯はありますか?え?みやげ物がホコリかぶってる?そうですか・・・

佐竹氏との戦に向かう北条家臣・山下民部は猛りに猛っていた。家老・松田憲秀の甥で、
謙信に「岩舟山に赤鬼の棲むと言いけるは、一体彼がことなるべし」とまで賞賛された、
松田康郷の騎馬隊に選ばれたからだ。

この抜擢に答えるべく、民部は旗指物を家中の勇者が良く使っている『提灯』にした。
それも、目立つように六個の提灯を連ねたものを。 「いざ、これにて功名せん!」

そんな民部を見て声をかけて来た男がいた。『地黄八幡』玉縄衆を代表する古兵、
その旗指物『七つ提灯』を関八州に知られる武辺隠れ無き老武者、三好孫太郎だった。

孫太郎「やあ。キミの旗指物には何か由来があるのかい?」
民部「別に何も・・・ただ、オレの心意気を示したかっただけです。」
−さすがに「あなたたちのマネです」とは言えない−

孫太郎「大道寺駿河守殿を知ってるかい?」家老の身で自ら先陣を切り、軍を鼓舞する
大武辺者・大道寺政繁は若者の憧れである。知らぬはずが無い。

「あの方の馬印は、『九つ提灯』だ。あれはね、大道寺殿が若い頃、敵将・本間近江守を
大格闘の末、討ち取る時に本間当人から武勇を称えられ、その勧めに従って造ったものさ。

オレは、天文15年の上杉との戦に初陣した。その時、一番槍の功名を立てて、氏康公に
感状をいただいた。感激したオレは、記念として旗指物に一つ提灯を差した。
以来、元亀2年に房州の海賊19人を討ち取るまで七度の手柄を立て、七つ提灯を差している。
268小田原提灯(二):2008/12/14(日) 16:45:10 ID:z4nHQZyE
さて、大道寺殿の提灯には、かつての強敵(とも)の想いが詰まっている。オレの提灯には、
自分自身の誇りが詰まっている。キミの提灯には、何が詰まっているんだい?
・・・出撃の時間だ、オッサンの長話につき合わせてゴメンな。」

それきり、山下民部と三好孫太郎が会うことは無かった。
合戦が始まると、佐竹の侍から

「我こそは、大石八郎!北条の衆、我と思わん者あれば、組んで勝負せん!」
と名乗る者が現れて、長刀を風車のごとく振り回し、北条の侍を寄せ付けなかった。

誰も近づけぬ鬼のような武者目がけて、突進する者が現れた。 山下民部だった。
馬ごと大石にブチ当たった民部は、馬から転げ落ちながらこの強兵を引きずりこみ、

(キミの提灯には・・・

大石を組み伏せ、太刀で斬りつけた。

・・・何が詰まっているんだい?)

「・・・・・・・・」

見事に大石の首を挙げた民部は、自分の旗指物を外すと提灯を五つ引きちぎって捨てた。
一つだけになった提灯を差し直すと、再び馬にまたがり駆け出した。(北条五代記)

今じゃシケたみやげ物の提灯に、男の見栄と誇りが詰まってた、そんな時代のお話。
269人間七七四年:2008/12/14(日) 17:10:21 ID:fZhnXa43
うぉぉ!かっこいい!!!
270人間七七四年:2008/12/14(日) 17:23:13 ID:Mp6Kc09U
すげー。もののふのいい話だ。
271人間七七四年:2008/12/14(日) 17:23:43 ID:Jc3FpcNi
かっけぇ
272人間七七四年:2008/12/14(日) 18:04:40 ID:Y/dBG+Tu
ちょっと押し入れにしまってあるチョウチンにハタキかけてくるわ
273人間七七四年:2008/12/14(日) 20:33:27 ID:zBTHen9H
1度目の手柄って事で5つ捨てたんだな…いい心意気だ
274人間七七四年:2008/12/14(日) 20:38:18 ID:TS3map/x
逸話もいいし投降者の文才にも感服いたした。
これぞこのスレの醍醐味!
275人間七七四年:2008/12/14(日) 22:08:31 ID:Mp6Kc09U
北条氏康の頃のお話

北条家では毎月二回、寄合衆による民事裁判が開廷していた。
さて、ある時の事、上野の国の、吉村の百姓が、棒で頭をぶち破られたと、同じ村に住む女を
訴えてきた。

「私もこの女も独身者ですが、最近になって夜な夜な通う間柄になりました。
ところがこの女が他の男と付き合い始め、私を嫌って泥棒呼ばわりし、そのため村の者達が
飛び出してきて、私はこのように棒で頭を割られてしまったのです。しかし、私は絶対に
泥棒ではありません。そのため、無実を訴えに参ったのです!」

奉行が女に尋ねると
「私はこんな男に会った事もありません。こやつは、夜中に家の戸を破って入ってこようとしたので、
泥棒に間違いありません。」

奉行たちはどちらが本当の事を言っているのか解らず、両人に尋ねた

「二人とも、何か証拠になるようなものはないのか?」

すると女は、恥ずかしそうに
「私は三年前に夫と死に別れました。その年に、理由の解らない腫れ物が体に出来ました。
こっそり医者に見てもらうと、『これは開茸』という、女にだけできる腫れ物だ』と言われました。
治療していますがいまだ治らず、恥ずかしく情けないので、こんな体で男と付き合うとは
思いも寄りません」

しかし男はすぐに言った
「この女腫れ物はありますが、普段の寝起きなど普通にしております!」

その言葉を聞くと女、
「腫れ物など私の体には無い!わざとうそを言ったのだ!」
と、勝ち誇って大笑いをした。

これには男、顔色を変え返答も出来ず、そこで奉行によって縄をかけられた。

女の(気転の)いい話
276人間七七四年:2008/12/14(日) 22:28:00 ID:TqgfBViM
大河「風林火山」の一話でまんまのエピがあったね。
これが元ネタだったのか。
277人間七七四年:2008/12/14(日) 23:52:51 ID:zBTHen9H
奉行仕事取られて涙目w
278人間七七四年:2008/12/14(日) 23:55:59 ID:asAP3qYE
ミツが思い切りよく着物をまくりあげて
みんなで見るシーンだなwなつかしい
279人間七七四年:2008/12/14(日) 23:59:40 ID:mdJ9wlZu
某八戸の美人市議と自称後援会長の絵で脳内変換されたw
280人間七七四年:2008/12/15(月) 01:37:12 ID:6W7u6Gb3
風林にはたしか
>>267-268の本間近江守も
チョコチョコ脇役で出てきてた。
わかる人だけわかる
小ネタエピソード満載の大河だったよな。
281人間七七四年:2008/12/15(月) 06:28:45 ID:IJdnnzDX
龍造寺隆信初期の重臣であった小河信安。彼の生涯は神代勝利との戦いの生涯であった。
ある日、神代勝利が城で酒宴を催しているとの情報を聞きつけた信安は、城内に忍び込んで宿敵を暗殺してやろうと考えた。
しかし、家来に発見されてしまい、「殿様!不審者がいますぞ!」と騒がれてしまう。
勝利は「こんな事するのは小川しかおるまい。これ、ちと一緒に酒でも飲もうぞ」と信安を呼び寄せた。
信安もたいしたもので悠然と宿敵の前に現れ酒を飲み交わしたという。
282人間七七四年:2008/12/15(月) 11:26:44 ID:QtoAI5XB
>>281
松永久秀「わしの茶は誰も一緒に飲んでくれんのになぁ」
283人間七七四年:2008/12/15(月) 11:33:47 ID:UJoWGjBx
宇喜多直家「わしもせっかく吉川さんや小早川さんを誘ったのに、何で来てくれないんだろ?」
284人間七七四年:2008/12/15(月) 11:48:17 ID:OlZQxGYI
>>281
北条早雲「一緒に鷹狩りしない?」
285人間七七四年:2008/12/15(月) 12:05:12 ID:UJoWGjBx
織田信長「ところでボクは今明日をも知れぬ病気なんだけど、よかったら丸腰でお見舞いに来ないかい?」
286人間七七四年:2008/12/15(月) 12:08:26 ID:oQGaR5ES
こ、ここは本当にいい話スレなのか?!
287人間七七四年:2008/12/15(月) 12:28:46 ID:HD/xfRGk
最上義光「白鳥さんに後事を…」
288人間七七四年:2008/12/15(月) 13:09:46 ID:if1bGWcn
長曽我部元親『明日祭ひらくんだけど是非君もおいでよ』
289人間七七四年:2008/12/15(月) 13:16:16 ID:mzgGDjdu
酷い流れだな
290人間七七四年:2008/12/15(月) 15:09:43 ID:V3EAevdn
>289弟よ、酷いとか言わずに病に伏せているこの兄政宗を見舞ってはくれぬか?
291人間七七四年:2008/12/15(月) 15:25:12 ID:8yOTVCa6
ここに暗殺集団がいると聞いて
292人間七七四年:2008/12/15(月) 15:45:09 ID:LyVmlpOl
斎藤義龍「インフルエンザかな?見舞いが欲しいなぁ」
293人間七七四年:2008/12/15(月) 16:16:26 ID:ipRKF62C
鬼武蔵様「ワシが見舞いに行ってやろうか?」
294人間七七四年:2008/12/15(月) 16:41:07 ID:U19jJZFM
井伊直孝「風邪引くような奴は家督を譲ったほうが良いぞ」
295人間七七四年:2008/12/15(月) 16:42:52 ID:G/d+3TSw
つ【面会謝絶】だしとけ
296人間七七四年:2008/12/15(月) 17:51:14 ID:ipknvn3G
内ヶ島氏理「みんな僕の城においでよ!」
297人間七七四年:2008/12/15(月) 18:00:19 ID:UJoWGjBx
この一連の流れが何処まで理解できるかで、自分の戦国知識が計れるな。
ちょっとした戦国検定みたいだw
298人間七七四年:2008/12/15(月) 18:59:20 ID:lzNuapD5
悪い話スレに戻れw
299人間七七四年:2008/12/15(月) 19:13:52 ID:PlD1Jkl8
山内一豊「リストラされて困ってる人は僕が面接してあげるよ!」


300人間七七四年:2008/12/15(月) 19:17:58 ID:OoGCeBvd
>>290
政宗、母の心づくしの料理をはよ食べりゃれ
301人間七七四年:2008/12/15(月) 19:44:19 ID:UJoWGjBx
流れを変えようw 投下


元亀二年(1571)、武田信玄は徳川家康を、吉田城に追い詰めた。
このとき武田家の一騎は勇敢にも城門まで迫り、応戦に出てきた徳川方の剛の者を
討ち取った。この様子を楼門の上から見ていた家康は、彼に声をかけた

「お主の名はなんと申す!?」

敵将に名を聞かれた、これはこの時代、大変な名誉である。彼は胸を張って答えた

「山県同心、広瀬郷左衛門でござる!」


時は流れる。
天正十年(1582)、武田が滅び、信長もまた滅び、甲州入りを果たした家康は、郷左衛門を
探し、呼び出した。

「久しぶりだな、広瀬郷左衛門。武田への忠誠は、尽くしすぎるほど尽くしたであろう。
今度は、わしに仕えてはくれぬか?」

郷左衛門は、家康が10年以上も自分の事を覚えていてくれた事に感激した。

「この力、及ぶ限り。」

広瀬郷左衛門。この後井伊直政付きとなり、早川幸豊ら甲州武士とともに、赤備えを作り上げる。
302人間七七四年:2008/12/15(月) 20:05:28 ID:MuP0LX7P
井伊話ってオチっすか!
303人間七七四年:2008/12/15(月) 20:15:26 ID:4iHG6Kng
正則「うわ(笑)」
304人間七七四年:2008/12/15(月) 20:23:42 ID:if1bGWcn
福島『見事じゃ!!是非我が宴にきてくれ』
305人間七七四年:2008/12/15(月) 20:32:43 ID:QtoAI5XB
>>301
そちにはわしが自ら茶をたてて進ぜよう。つ旦
306人間七七四年:2008/12/15(月) 20:37:08 ID:UJoWGjBx
>>305
     イタダキマス 
      ∧_∧  
     (´・ω・`)
      /つ旦o
      し---J


   ウッ!?
   :∧_∧: 
  :(;゙゚'ω゚'):
  :/ つとl:  
  :しー-J : 
   (__()、;.o:。
307人間七七四年:2008/12/15(月) 20:45:09 ID:WXi011mS
濃茶だ濃茶w
308人間七七四年:2008/12/15(月) 20:46:41 ID:asWxBfr0
残念。膿茶でした。
309人間七七四年:2008/12/15(月) 20:58:33 ID:t4UVPlWr
>>301
いい話だ
こんなことされたら誰だって惚れるわ
310人間七七四年:2008/12/15(月) 23:00:37 ID:IJdnnzDX
家康が義の人って言うのは間違ってないと思うな。肉親に極端に冷たいってのはあるけど
太閤死語の行動だって、動かなきゃ自分の死後、徳川が滅ぼされてたかもしれんし
311人間七七四年:2008/12/16(火) 07:38:55 ID:t7bJjp4d
司馬遼太郎によると 秀吉は 人たらしの天才って言うけど 家康もすげーな
312人間七七四年:2008/12/16(火) 09:10:48 ID:QivOEMy9
ただ一度恨むと絶対忘れない
313人間七七四年:2008/12/16(火) 09:24:48 ID:JUYfPi+b
>>312
恩義も絶対に忘れないのが家康公のよいところだ

314人間七七四年:2008/12/16(火) 10:59:31 ID:641152WF
今川家に対する恩義は軽く捨てたけどな。
315人間七七四年:2008/12/16(火) 11:11:48 ID:5vm7YeOp
あれは恩と言っていいんだろうか
316人間七七四年:2008/12/16(火) 11:28:27 ID:mpGCSvpQ
秀吉は手練手管を尽くす
家康は義理堅い律義者で通す
イメージ的にはこんな感じ
317人間七七四年:2008/12/16(火) 11:48:18 ID:uHUJbZb6
つーか、この時代の「名将」の絶対条件として、記憶力のよさってのがあるよね。
良いことでも悪い事でも、一度見たら忘れない、一度聞いたら忘れないって言う、
あ、それで思い出した、これも家康だけど


家康が関東に入った頃だったかな?徳川家において最大の領地を貰ったのは井伊直政。
だが、彼は元からの譜代ではないため、家中の嫉妬を買っていた。

それを知った家康は、家中の者が皆大広間に集まった折、直政を側に呼んで、「上着を脱いでくれ」
と言った。

有名な話だが、井伊直政の体は戦場で受けた傷だらけである。徳川家の者達も改めてその、
隙間も無いほどに傷ついた上半身に感嘆した。

家康は、その傷のうち一つを指差し言った、「これは、○○の合戦で受けたものであったな」
「はい」

さらに声を重ねた「こちらの傷は○○での戦、こっちは○○の合戦の折の物…」
なんと家康は、直政の傷一つ一つについて説明を始めたのだ。

殿はこんな事まで覚えておいでになるのか。
直政は最初これにあっけにとられ、そして、家中の者達の前にもかかわらず、泣いた。
徳川家中の者達も、家康の説明する戦の記憶とともに、又、泣いた。
家康の説明もいつしか、涙声になっていた。
それは徳川家の戦いの歴史、そのものであったのだ。


全ての傷を説明し終わると、家康は皆に向かって言った

「わしの知る限り我が家中に、これだけの数の戦で体を傷つけるほど働き、又、手柄を立てた者は
直政の他おらぬ。よって、わしは直政に、最も大きい封土を任せた。それを、理解して欲しい。」


これ以降、井伊直政を妬む声は家中より無くなったと言う。
318人間七七四年:2008/12/16(火) 11:49:41 ID:ofmc59y2
家康って勝者だから都合のいい話しか残っていないのではないか?
逆に豊臣家は敗者だから三成、秀吉は悪い話が多い。
319人間七七四年:2008/12/16(火) 11:59:15 ID:uHUJbZb6
太閤記とかを見ても解るけど、秀吉はむしろ江戸期を通じて持ち上げられてた方だよ。
江戸期になって特に民間で一世を風靡した、「下克上史観」最大のヒーローが秀吉だった。
さらに明智光秀も、庶民のヒーローの一人だったんだよね。
で、そのあおりを受けて、信長は恐ろしく不人気だった。

まあ、信長の低評価は、死んで早々に秀吉あたりが
「信長はね〜、猜疑心が強くてあれじゃ天下取れ無いと思ってました」
なんて、結構ボロクソに言ってたりするので、そのあおりを受けた部分もあるのだろうけどw
320人間七七四年:2008/12/16(火) 12:08:24 ID:5TDX3ctj
>>317
本田忠勝「では、ワシも脱いでみようかのう」
321人間七七四年:2008/12/16(火) 12:08:31 ID:rWbqCgz+
>>317
「この傷はわしが夜伽の際に…」
とか無かったんだろうか
322320:2008/12/16(火) 12:11:10 ID:5TDX3ctj
>>320
本多忠勝「本田が間違っておるのう・・・。これではパーフェクトクローザーと同じ苗字で無いか!」
323人間七七四年:2008/12/16(火) 12:13:01 ID:9wBZdeu9
このスレと鬼武蔵のお陰で人生変わったわ
本当にありがとう
彼女がリストカットするって悩んでる奴に手首切り落とせとグッドアドバイスができた
324人間七七四年:2008/12/16(火) 12:14:36 ID:AxMWyutT
>>320
家康の論理でいくと傷を負ってない忠勝は徳川家に貢献してないってことになるなw
あっ、だから井伊と仲悪かったのか
325人間七七四年:2008/12/16(火) 12:30:22 ID:yeLrS/df
>>317
三国志の周泰の逸話を元にしてるのかね。
326人間七七四年:2008/12/16(火) 12:36:22 ID:J8XrLaMO
>>324
どう解釈したらそうなるんだ?
一番の禄をもらうにふさわしい槍働きと尻働きをしたというのを
傷を見せながら家臣に説明したということだろ
327人間七七四年:2008/12/16(火) 13:03:18 ID:JsZ8pz0T
関ヶ原前後のお話し

豊臣秀頼の七手組は当初、八手組あった。現在文献などで確認できる七人の大将はそれぞれ有名で名の通った武将だが八番目の将を知る者は少ない。
彼の名は結城上野守高康。
結城秀康の側が産んだ四男である。(詳細な文献がないため生没年などは不明。)
小田原で初陣を遂げ手勢16騎と共に首級167を取る縦横無尽の活躍を秀吉から認められ、のちの八手組の大将に抜擢された。

さて関ヶ原…
彼は大阪で秀頼を守る七手組とは別に家康の北伐に従軍した彼は東軍の一部隊(1400人と伝わる)を率いていて小早川と大谷に挟まれる形で小早川勢の右斜め前方に陣を張っていた。
家康の恫喝で西軍を裏切った小早川が猛烈な勢いで山を駆け降りた時に当然結城高康軍も大谷軍に襲い掛かった。大将高康を残して…

何と高康は落馬し、勢いの止まらない小早川軍のヒヅメに踏み荒らされていたのだ。高康は命を取り留めるも明日をも知れぬ重体。関ヶ原の数日後、息を引き取る前の遺言は自分を記録から抹殺してくれとの事だった。
秀康も大変恥ずかしく思い息子の記録を徹底的に廃除し、幕府もこれを徹底的に守ったという。
なんとも格好悪い話し。
328人間七七四年:2008/12/16(火) 13:08:22 ID:uHUJbZb6
八手なのに七手組

五人なのに龍造寺四天王


つーかこれは悪い話のほうだなw
329人間七七四年:2008/12/16(火) 14:44:44 ID:JUYfPi+b
>>327
しかし、小田原初陣というのは豊臣家に養子に出された当時の年齢・状態を考えるとありえんw

>>325
徳川○○将というのも光武帝(もしくは仏教説話)にあやかってのことだそうだから、
その手の逸話は知ってただろうと思う

>>328
七手組の将の一人は、剥げ鼠がどうしてもほしいといったからという理由で譲った元徳川家臣で、
大坂の陣の際に捕らえて城に帰さず、豊臣滅亡後も大名として存続させたという神君ならではの配慮という話を思い出した

ここら辺が、数正系石川家と扱いが違ってて面白い
330人間七七四年:2008/12/16(火) 16:51:19 ID:lCe0/vwB
>>318
勝者に都合のいい歴史ねぇ・・・・そういうこともあるけど階級闘争史観の影響もいなめない考え方だな。
勝者って時代によって変わってくるから。
勝者に都合の良い歴史しか残らないというのなら、
明治維新以降は徳川家には都合の悪い評価が主流になっているとするべきだし。
331人間七七四年:2008/12/16(火) 17:16:35 ID:vrMdibK1
>>330
「勝者の記録」は何もしなくても残るが「敗者の記録」は残そうとしない限り大部分が散逸するんだよ
特に勝者にとって都合の悪い記録ってのは完全な形で残る事はまず無い
だからたとえ後世評価が変わったとしてもなかなか資料が出てこない事が多い
極稀に記録が秘匿してあったりすることもあるけど、まず見つからない

・・・つっても日本は結構残ってる方だけどな。下した相手の遺産をことごとく破壊するって手法とらないからな
332人間七七四年:2008/12/16(火) 17:20:26 ID:uHUJbZb6
よく「神君史観」とか言う人がいるけど、家康を神聖視するのって、実は当の幕府にとっては
痛し痒しなんだよね。支配される側から「家康公はこうだったのにお前達は何だ!」って言われて
しまうから。

神君史観を支配のためのツールって考えるのは、実は一面でしかなくて、被支配者が、
体制側を批判するためのツールであったこともまた真実なのよ。
支配する側が絶対に批判や否定のできない物だからね、家康は。

だから実は体制の側に、家康の失敗や不始末を記録した物が残っていたりする。
「家康公でさえ失敗する事があったんだから、我々も大丈夫だ」ってね。

そう言う意味で歴史とは、勝者の、敗者のと分けると、解釈を間違えると思う。
むしろその時その時の社会の「都合」で描かれるのが歴史、って考えの方がいいと思うよ?
333人間七七四年:2008/12/16(火) 17:47:16 ID:57UQE5j0
>>329
青木一重だっけ?

334人間七七四年:2008/12/16(火) 21:25:29 ID:j/xWP112
上手な瀬踏み

関ヶ原の合戦の際、黒田・藤堂・生駒・田中吉政ら東軍諸将が、西軍の織田秀信
がいる岐阜城を攻撃した。

ところが前日の大雨で、城の手前にある郷戸の川は増水し、東軍諸将は足止めを
食った。

吉政は水練が得意な中間を呼び、
「郷戸の瀬踏みをして渡れそうな浅瀬を見つけて参れ。」と命じた。
中間は東軍が注目するなか川に飛び込んだが、増水のせいか今にも溺れそうな様
子だった。

中間は川から這い上がると、
「殿様。浅瀬を見つけましたぞ!」と吉政に報告した。
「マジで?さっきの貴様の瀬踏みを見ていたが、メチャクチャ深そうではないか
。なぜ、浅いと言えるのだ?」と吉政が中間に問うと、
「もし川が浅いのがバレバレの泳ぎをすれば、東軍の他の諸将が先を争って川を
渡るでしょう。それ故、わざと川が深いと思わせる泳ぎをしたのです。
先を越されないよう急いで浅瀬をお渡り下さい。」と言った。

果たして、田中隊は素早く郷戸の浅瀬を渡り、岐阜城一番乗りの手柄を挙げるこ
とが出来た。

かの水練上手の中間はこの瀬踏みの功により、『郷戸三郎左衛門』と名を与えら
れ侍に取り立てられたと言う。
(常山紀談)
335人間七七四年:2008/12/16(火) 21:28:27 ID:j/xWP112
鳥居元忠の具足

鳥居元忠は伏見城の合戦で雑賀孫市重次に討ち取られた。

孫市は後に水戸徳川家に仕官したが、元忠を討ち取った際に元忠が着用していた
具足を元忠の子・鳥居忠政に返したいと人づてに伝えた。

忠政は大いに喜んで、
「その具足は父の形見。是非とも見てみたい」と言ったので、孫市自ら忠政のも
とに具足を持参した。

忠政は孫市を大いにもてなし、
「まるで亡き父と対面したようだ。」と涙を流して元忠の具足を押し頂いた。

翌日、忠政から孫市のもとに使者が来て、
「昨日の孫市殿の好意には感謝いたす。孫市殿にお返しがしたいが、私にとって
父の形見の具足に勝る品はありません。
古くて申し訳ないけど、昨日頂いた具足を孫市殿に差し上げたいのです。
『雑賀孫市がかの鳥居元忠を討ち取った』という武名を子孫に伝えて下さい。」
と言ったので、孫市は改めて忠政から鳥居元忠の具足を頂いた。

そして、忠政は死ぬまで毎年欠かさず水戸に贈り物を届けた。

そのやりとりを知った水戸公は、鳥居の使者が来る際には道を掃き清め、孫市自
らに使者を接待させて忠政の真心に応えたと言う。

ちなみに、孫市の武名を惜しんだ水戸公は、子のない孫市の養子に自分の息子・
重義を入れ、雑賀孫市の武名は鳥居元忠の具足と共に子孫に伝えられることとな
った。
(常山紀談)


336人間七七四年:2008/12/16(火) 21:34:56 ID:uHUJbZb6
>>334
偏見なのは重々承知の上で、いかにも田中吉政の所の逸話だと思ってしまったw
337人間七七四年:2008/12/16(火) 23:45:25 ID:JUYfPi+b
>>335
いい話だけど、忠政って伏見守備部隊を裏切った連中の処罰を求めるなどの一面もあったような…
まぁ、裏切ったのと攻め込んだのでは同じ父親の仇でも違うだろうけど

鳥居元忠の最後に関係する逸話は好きだなぁ、武士の心意気というか…
うーん、うまく言葉で表現できません、すいません…
338人間七七四年:2008/12/16(火) 23:46:44 ID:FXv91n7z
俺も元忠は好きだ

裏切ったっていうと、甲賀衆だっけ
339人間七七四年:2008/12/17(水) 00:04:48 ID:tM0cdIv1
鳥居は確か幼馴染だっけか。家康の。
340人間七七四年:2008/12/17(水) 00:06:47 ID:KdmrAmus
>>338
そう。司馬の関ヶ原しか読んでないけど、それによると妻子を人質にとって裏切らせた
341人間七七四年:2008/12/17(水) 00:12:57 ID:Pv7ERzlu
>>339
少年の頃家康に、屋敷の縁から蹴り落とされたんだよね、たしか。>元忠
342人間七七四年:2008/12/17(水) 00:22:09 ID:SWxcgxqg
>>341
それで文句を国の親父(松平家の国家老格:江戸時代風にいうと)に手紙で伝えると
竹千代様は主君だ!といってしかられたという話だったかな

その気になれば岡崎城を横領できる立場というのに筋目を通す立派な爺さんだなと思った
343人間七七四年:2008/12/17(水) 00:29:33 ID:Pv7ERzlu
>>342
鳥居忠吉だね。
広忠が死んでからは実質この人の力で、三河松平党は纏められてたようなものなのに、
その権力を私的に使ったような所が一切ない。

戦国時代には本当に珍しいタイプの、りっぱな人だよなー。
344人間七七四年:2008/12/17(水) 00:29:44 ID:N0e4m/t7
>>342
元忠の親父って松平家が将来独立する時のために金とか武器とか貯めてた人だよね?
あの逸話は「徳川家康」で見てなかなか感動したなぁ。
345人間七七四年:2008/12/17(水) 00:52:56 ID:GOhR11sl
あの爺さん、元忠の父親だったのか
三河武士って、本当に泣かせるな…
346人間七七四年:2008/12/17(水) 01:34:07 ID:khH/TYvC
>>342-343
そりゃそうだ、当時の岡崎は今川家が掌握していたんだから。岡崎松平の所領を
横領しようとするなら、それは今川に手を出すという事。

忠誠でしなかったんじゃない、武力で敵わないからしなかったんだよ。それだけ。

三河武士の忠誠なんて、江戸時代になってから自分の家を箔付けして他家と格差を
造りたいがためにでっちあげた先祖顕彰のシロモノでしかない。
347人間七七四年:2008/12/17(水) 01:57:32 ID:qPVHDHdQ
力の論理だけ信じて団結力など意に介さない組織が天下を取れるだろうか?
会社なり組織で働いたことのある人間ならわかりそうなことだが…
348人間七七四年:2008/12/17(水) 02:26:24 ID:gJdoH74/
敵対的TOBがまかり通る昨今に>>347は夢みすぎだろ
領国運営も企業運営も結局ただの資本の差だよ
349人間七七四年:2008/12/17(水) 02:29:44 ID:nD8ccZ92
しかし毛利元就幼少時の井上一族みたいなのもいたわけで
やはり忠臣ではなかろうか
350人間七七四年:2008/12/17(水) 03:00:42 ID:GOhR11sl
忠臣が存在したことは間違いないだろうね。
多分、数代かけて命運を共にしてたら、共同体意識が生じるんじゃないかな。

一向一揆のときも破門の威しに屈して一揆方として働いたけど、
家康の危機を見かねて、家康のために闘って死んだ人がいたよね。
この世で命を投げ出すだけじゃなく、宗教的には死後の幸福すら捨てているわけだから、
心底からの忠義だと思う。
351人間七七四年:2008/12/17(水) 03:11:40 ID:cmA7ZGqc
>>348
働いてて人間関係とか感じない?
ニュース的に世の中の風潮を論じるのはいいけど、
アンタは普段、人間の好き嫌いを離れて、
市場の原理とかそういうものだけで行動してるの?
352人間七七四年:2008/12/17(水) 03:44:13 ID:J2oRRa8R
そもそも敵対的TOBは外圧であって、組織内部の人間関係を否定するもんじゃぁないわな
>>348はそれすら理解できていない水準
353人間七七四年:2008/12/17(水) 16:42:37 ID:yjG1eimr
>>350
夏目さんだっけ?
354大人の名無しさん:2008/12/17(水) 18:02:38 ID:fgKPvBgk
棗は三方が原でしょ
355人間七七四年:2008/12/17(水) 18:17:05 ID:SWxcgxqg
>>353
蜂屋じゃなかった?
家康に槍をつけようとしたけど「主君にそんなことできないと」といって後退
別の徳川方の武将が引き止めようとすると「お前なんぞしったことか」みたいなことを言って一突きで処理

で、後に家康が危なくなったときに身を挺してかばったとか…

24.5年ぐらい昔に読んだ児童向けの徳川家康の伝記をうろ覚えしているだけなので所々間違ってるかもしれん
356人間七七四年:2008/12/17(水) 19:29:09 ID:/rs1i+Zz
逃げた人と、身を投げ出した人は、別人だったと思う
357人間七七四年:2008/12/17(水) 20:14:00 ID:Pv7ERzlu
北条と佐竹が、下野において争った折の事

北条方の武士、岡部権太夫は首を一つとって陣へと帰ってきたが、何かおかしい。
よくよく身の回りを見ると、なんと自分の指物がなくなっている。

「しまった!落としてきたか!」

そう悟ると、「ゴメン、ちょっと行って来る。」
北条家の者達が唖然とする間もあればこそ。彼は首を引っさげたまま、再び
佐竹の陣へ向かって馬を駆けた。

敵陣近くまで来ると、岡部は大音声を上げた

「わしは下総の住人、岡部権太夫と申す!今日の戦において敵と組討し、首を一つ取ったが、
そのおり我が指物を落としてしまった。

この首はまだ、実験に入れてはおらぬ。出来ることならこの首と我が指物を、取り替えて
いただきたい!我が指物は猪の紋である!」

すると佐竹側から一騎が進み出てきた。手に、指物を持っている。

「戦場で拾い申した!これの事でござるか!?」

「おお!いかにも!」

そこで、指物と首を交換し、互いに分かれて自陣へと帰っていった。
このことは両陣において、ゆかしき振る舞いであると、評判になった。
358人間七七四年:2008/12/17(水) 20:30:57 ID:Igwh8dyc
>>357
こういうの好きだなぁ
敵味方とはいえどお互いに敬意を払ってる感じが

上杉憲政と北条氏康の戦いで、負けて落ち延びる上杉方の難波田弾正(?)が、
追っ手に対して和歌を歌って、その心に感じ入った追っ手が追撃を止めた話とか、そういうの
359人間七七四年:2008/12/17(水) 21:08:27 ID:KsUiq929
互いに信頼感があるんだな。俺だったら指物持って帰るとき
後ろから撃たれそうで怖い。
360人間七七四年:2008/12/17(水) 21:18:26 ID:cmA7ZGqc
>>359
それを覚悟の上、自分の手柄になる首級を返すという気持ちを見せたからこそ、
佐竹側も気持ちで応えたのだろう。
361人間七七四年:2008/12/17(水) 21:20:42 ID:jHJ4Odue
武士道だな
362人間七七四年:2008/12/17(水) 21:22:02 ID:7N5GHXU7
>>267-268と言い、関東にはまだ鎌倉武士の心意気が残ってたんだな…
363人間七七四年:2008/12/17(水) 21:51:14 ID:v5T2fIZh
これが中央に近くなると後ろから鉄砲で狙撃して「犬とも言え、畜生とも言え」になるわけですね、わかります
364人間七七四年:2008/12/17(水) 22:27:07 ID:N0e4m/t7
でもあの言葉は響きよくて好き。
365これ思い出した:2008/12/17(水) 22:43:10 ID:N0e4m/t7
武者は犬とも言え、畜生とも言え、勝つことが本にて候!
レッドおじいちゃん!朝倉宗滴!!

武田信玄ですら手が出せぬ!上州の黄班!
イエローおじいちゃん!長野業正!!

国家の基本は禄寿応隠!五代に渡って主家を支える!
グリーンおじいちゃん!北条幻庵!!

藩士の教育は任せとけ!島津氏中興の祖!
ホワイトおじいちゃん!島津日新斎!!

鞍替え、流言、お手の物!二大勢力を共倒れさせる!
ブラックおじいちゃん!毛利元就!!

人の命は地球の未来!燃えるおじいちゃん魂!
戦国戦隊GG5!!
366人間七七四年:2008/12/17(水) 22:47:10 ID:Pv7ERzlu
>>365
高齢化社会もこれなら安心だ。
いや、この人たちの場合は安心しちゃいかんのかw
367人間七七四年:2008/12/17(水) 22:50:58 ID:W5L7u4EU
尼子経久、龍造寺家兼も仲間に入れてやってw
368人間七七四年:2008/12/17(水) 23:03:54 ID:Pv7ERzlu
おおっと、私を忘れちゃいけないよ!紅一点、合言葉は「歸( とつぐ)」
駿遠三は私が統べる!ピンクおばあちゃん!寿桂尼!!
369人間七七四年:2008/12/17(水) 23:36:53 ID:cmA7ZGqc
>>363
喩えがズレてる
370人間七七四年:2008/12/18(木) 03:28:03 ID:9oPLYKsn
>>365
アレを見てる人がこのスレにいたのか・・・
371人間七七四年:2008/12/18(木) 05:37:30 ID:MFFS2aXV
>>365
> 武者は犬とも言え、畜生とも言え、勝つことが本にて候!
> レッドおじいちゃん!朝倉宗滴!!

↓これの元ネタですね。わかります。朝倉宗滴もメジャーになったよなぁ。

Command and Conquer Red Alert 3 日本キャンペーンPV
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4730682

2分ジャストあたりからその台詞が出てくる。
もっとも、beast or dog が日本語に再翻訳されるときに「鬼畜」と翻訳され
ててちょっと萎え。
まぁ俺もこの板に出入りしてなかったら元ネタが朝倉宗滴だとは知らない
ままだったろうけど。

ちなみになんの動画かよくわからんて人は先にこっちを見てね。

外人が想像したとてつもない日本が出てくるゲーム
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4933188
372人間七七四年:2008/12/18(木) 10:05:13 ID:pzR6Zbmo
竹中半兵衛のちょっと良い話 〜智将半兵衛その人〜

智将として名高い竹中半兵衛。もちろん戦国の当時
でも、その評判は高かった。特に半兵衛の陣立ては
素晴らしく、他の武将の陣立てにも積極的に助言した。
だがあまりに口を出しすぎるので、半兵衛の助言を疎
ましく思う者も居た。
ある時、「今日こそ半兵衛に口出しさせるか!」と
息巻く武将がいた。そこに訪れた半兵衛、陣立てを
見るなりこう言った。
「なんとも素晴らしい陣立てですね。感服いたした。」
と、その武将を褒め称えた。半兵衛に褒められて悪い気
はしない。すっかり和気あいあいとなった頃、半兵衛は
言った。「ここを少し変えて見ましょう。もっと良い
陣形になりますよ。」と言った。気を良くしていた武将
は言われるまま、陣立てを変えてしまった。後になって
その武将は「しまった、半兵衛にしてやられたわ。」
と笑いながらぼやいた。
373人間七七四年:2008/12/18(木) 10:15:41 ID:wDLizqC2
>>370
俺も小説選びの参考にさせてもらってる
374人間七七四年:2008/12/18(木) 10:22:57 ID:pzR6Zbmo
竹中半兵衛のちょっと良い話 〜武人半兵衛その人〜

半兵衛は時折、手足をぶらぶらさせる癖があった。
秀吉や他の武将、果ては客人の面前でも、その癖
を直そうとはしなかった。
ある時、その癖を見咎めた武将が「無礼であろう!」
と怒った。だが半兵衛は平然と答えた。
「これはいつ敵に襲われても、すぐに身動きが出来る
様に備えているのです。もしその時、手足が痺れて動作
が遅れれば、大事となりますから。」
わずか十六人の手勢で、稲葉山城を落とした武人の言葉
に「さすがは半兵衛殿。武士とはかくあるべし。」
と、怒った武将もこれに納得した。
375人間七七四年:2008/12/18(木) 10:32:40 ID:6BbDgdTh
>>372・374
半兵衛様カッコいいです。
そういえば逸話あんまり出てなかったね。有名だからかな。
376人間七七四年:2008/12/18(木) 12:05:01 ID:wDLizqC2
いやいや元ネタこっちだろ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4947770
377人間七七四年:2008/12/18(木) 12:49:05 ID:6iZoeZag
>>372
いかに人をうまく使うかという現代でも役に立ちそうな話だな。
プライドの高い人に有効だし覚えておこう。
378人間七七四年:2008/12/18(木) 12:57:57 ID:DX1ig76S
やる相手を間違えると

きいたふうな口を利くなー!!

だけどなw
379人間七七四年:2008/12/18(木) 20:33:35 ID:d26opDn8
おじいちゃん魂で思い出した。北条幻庵の逸話

あるとき幻庵が、町人の徳斎と言う者と碁を打ったことがあった。
徳斎は、有名な北条家の長老との対局ということで最初は緊張し、礼儀正しくしていたが、
やがて二番三番と進むうちに夢中になってしまい、ついつい対局中に地下の言葉で
ぶつぶつ言い出した。

幻庵がよい手を打ったとき
「そこに打ったか!この小僧(碁石の事)は、何処につながっている小僧だ?」
と言いながら考え込んだ

それを聞いた幻庵
「どこの小僧かということですが、私は伊勢宗瑞(北条早雲)のせがれです。」

それを聞いて徳斎、にわかに我に返り、恥ずかしさのあまりそのまま座を立って逃げ帰ってしまったとか。
380人間七七四年:2008/12/18(木) 20:35:39 ID:2goK0b+Z
なんかほんわかしたいい話だなw
381人間七七四年:2008/12/18(木) 20:39:04 ID:F8P1Do6p
幻庵も冗談のつもりで返答したんじゃないのかw
382人間七七四年:2008/12/18(木) 20:48:17 ID:R6GKLySi
幻庵「あ…。」
383人間七七四年:2008/12/18(木) 21:08:39 ID:4cmtxt19
>>363
上方武士を貶めて関東武者を持ち上げるのはやめてください。
関東武者を称えるだけでいい。
朝倉宗滴の「武者は犬とも言え、畜生とも言え、勝つことが本にて候」は、
今回のエピソードのような場合に後ろから狙撃することを正当化するものでもないし、
一騎で駆けつけた敵を後ろから狙撃するような真似をすれば、相手の士気を上げるだけで上策ではありません。
それに上方、西国にもいくらでも義の武将はいます。
384人間七七四年:2008/12/18(木) 21:08:57 ID:aZthn7NA
朝倉武士の最期  いい?悪い? とにかく壮絶な話

天正元年8月、小谷城救出に近江に出張った朝倉軍であったが、敗色が濃くなり越前へと
退却を始めた。しかし、国境の刀根坂で織田軍に追いつかれ、激戦の末、精鋭はほとんど
討ち取られてしまった。その時のこと。

信長が首実検を行っていると、一人の名の有りそうな武将が引き出されてきた。
前年、朝倉方から寝返った前波吉継に名を尋ねると、初代孝景からの譜代の家柄で府中の
奉行人を務める印牧氏の一族、印牧弥六佐衛門でございます、と答えが返ってきた。
前田、佐々といった若手猛将の部隊と戦っているうちに疲れ果て、動けなくなったところを
捕らえられたという。

信長「印牧の名は聞いたことがある。死を免じよう。縄を解いてやれ。」

印牧「ありがたきお言葉。しかしおのれは朝倉譜代の家臣。特に義景様に目をかけられ奉行
   まで任命された身。すぐに殺していただきたい。」

前波「何を言う。信長様がお許し下さるのだ。本領も安堵されよう。ただ畏まってありがたき
   幸せと申し上げよ。」

この言葉にかちんときた弥六佐衛門、大目玉を向いて前波を睨みつけると、
印牧「貴殿こそ何を言う!前波家こそ朝倉の筆頭重臣ではないか!
   お主が一番義景様のご恩を受けていると言ってもよい。
   それが一度勘気を蒙っただけで、敵に寝返るとは人の道に反しておる!
   さあ、即刻この首を刎ねよ!武士の最期を見せよう!」

最早、何を言おうと聞かないだろうと川原に引き出して斬ろうとすると、

印牧「待て待て、武士を殺すには仕来たりがあろう。腹を切るから脇差しを請いたい。」

意気に思った者が脇差しを渡すと、腹を見事に十文字にかき切って、腸をつかみ出した。

印牧「さ・さあ・・早く・・・」

催促されて、太刀持ちが素早く首を落としたが、その場にいる者皆この最期に感嘆したという。

一方、前波吉継はその後越前守護に任命され、一時栄華を欲しいままにしたが、まもなく失明。
同じ寝返り組の富田長繁に襲われ討死にした。刀根坂の戦いからわずか五ヶ月後のことである。
385人間七七四年:2008/12/18(木) 22:12:50 ID:FAKGNnh0
>>384
ホロリとする話じゃあないな。
でも、いい話に入るんだろうなぁ。しかし壮絶やな。
386人間七七四年:2008/12/18(木) 22:17:35 ID:d26opDn8
>>383
そう思うなら上方の武士の義のエピソードを黙って書くのがこのスレのマナー。
387人間七七四年:2008/12/18(木) 22:43:38 ID:wXzh1c5t
>>357

武田と北条の戦いでも似たようなエピソードなかったっけ?
武田方のある武将が若い武者を生け捕ったが
彼は自分の旗指物を無くした事に気がつき
敵陣まで行ってその若者の身柄と引き換えに
旗指物を返してもらったとか何とかそんな話し
388人間七七四年:2008/12/19(金) 00:11:25 ID:BEZ0P6ve
花入れと金づち

武野紹鴎はあるとき古道具屋の店先に伊賀焼の両耳のついた花入れを見つけた。
紹鴎はその花入れが欲しかったが、急用の途中なのでそのまま行き過ぎた。

紹鴎は翌日古道具屋に買いに行ってみたが、すでに千利休がその花入れを買って
しまっていた。

ある日、千利休よりその花入れを用いた茶会を開くと誘われた。
茶室に入ると例の花入れが床の間に飾られていた。
なんと、両耳であったはずの花入れの片耳を欠いてあるではないか。

紹鴎は心の内で大きく頷き、茶が終わってから利休にこう言った。
「自分もこの花入れを見たとき片耳を欠いて使えば面白いと思いました。
もし、今日利休殿が両耳のまま花入れを使用されていれば、片耳を叩き割ってし
まおう考えていました。
ほらこの通り。」と懐中から小さな金づちを出して見せた。

利休と紹鴎は互いの審美眼の確かさを再認識したという。
389人間七七四年:2008/12/19(金) 00:14:28 ID:BEZ0P6ve
光秀と福の神

せっかく拾った大黒様を捨てた光秀は(悪い話スレ:大黒様のスペックの項参照
されたし)、細川藤孝に仕官できた。
しかし、禄はたった80石でさらに給田は石ころだらけの痩せ地であった。
あまりの薄給に家族も養えないと困った光秀は、藤孝の重臣の米田求政に「せめ
て良田に取り替えてくれ。」と何度も嘆願したが、求政は冷たく拒否した。
光秀は激怒して、
「こんな家はワシの方から願い下げじゃ!」と細川家を致仕して再度浪人となっ
た。

時は流れ天正7年。
光秀は織田家の重臣・丹波国主にまで出世し、細川家と縁組することとなった。

縁組後に光秀が細川家に招待された際、
「米田殿に会いたい。」と言ったが若き日の光秀をいじめた米田は対面を嫌がっ
た。

光秀は、
「米田殿、ワシは全く気にしていない。もしあの時に米田殿が領地交換の願いを
聞いて下さっていれば、ワシは今も細川家の一家臣であったろう。
米田殿が領地交換を撥ね付けたおかげで、今日のワシがあるのじゃ。
今にして思えば今日のワシがあるのは米田殿のお蔭。米田殿こそがワシの『福の
神』であったわい。」
それを聞いた米田は、ホッとしたという。
(名将言行録)

390人間七七四年:2008/12/19(金) 00:39:55 ID:4gOWRL0e
>>388
この時代って焼き物を割ったりするのが当たり前だったのか?
今までそういう下品な真似をするのはゲヒ殿だけかと思ってたわ
391人間七七四年:2008/12/19(金) 09:28:48 ID:65HnDdNN
>>389
米田殿、それはみっちゃんの皮肉だと何故気がつかないw
392人間七七四年:2008/12/19(金) 13:14:10 ID:8dLZaOzL
もともとありふれたものに手を加えて価値を高める(竹を切ってきて茶杓を作ったり、花入れの耳を取ったり)のが利休や紹鴎。
もともと珍重されてるものを真っ二つにしちゃうのがゲヒ殿。
393人間七七四年:2008/12/19(金) 16:23:30 ID:Ph9u1/Xx
より良いものにするために余計なものを取り除くのはわかるけど国宝真っ二つは意味が判らないなしな
394人間七七四年:2008/12/19(金) 16:34:10 ID:uv01VBAh
>>393
完全な物をあえて壊したいと言う欲望の芸術的表現。って事なんだろうなあ。
395人間七七四年:2008/12/19(金) 16:54:24 ID:sLeM17na
古織殿の審美眼を通して見ると、上半分がげしょげしょ、下半分がぬぱぬぱでバランスが悪く見えたんだろ
396人間七七四年:2008/12/19(金) 19:16:21 ID:1a9DymPA
司馬遼太郎は短編でゲヒ殿の事を扱った際
登場人物に「順調な人生を歩んできたから不完全なものにあこがれている」と言わせてたな
それはそれでどうなんだと思うが
397人間七七四年:2008/12/19(金) 19:24:19 ID:hKNsI1Lu
ゲヒ殿=古田織部?
なんで?
398人間七七四年:2008/12/19(金) 19:32:50 ID:z/JXmyfu
>>397
モーニングで連載してるへうげものって漫画から。
へうげものの主人公が古田織部で、秀吉が持ってた茶杓を自分の作ったものとすり替えて、
「ゲヒヒヒヒ、それがしのつくった茶杓も良いものでござるよ」とか言ってたのが元ネタ。
399人間七七四年:2008/12/19(金) 19:40:06 ID:hKNsI1Lu
なるほど、ありがとう
400出世の白餅(一):2008/12/19(金) 21:46:17 ID:cg67r90c
「亭主を呼べぇ!!」
三河吉田の旅籠亭主・彦兵衛が、大声で呼ぶ客の部屋へ向かうと、薄汚い若侍の前に
たくさんの餅が広がっていた。

給仕に当った女中に聞くと、侍は好物だからと餅を山ほど注文したがその餅の出し方が
気に入らぬと言って、皿をひっくり返したのだと言う。

若侍「客に出すのに、雑な山盛りにして出すとは何だ?普通ならば、漆塗りの盆に丁寧に
   積み上げて、持って来るものだろう?!最初から出し直せ!!」

十八から店を預かり二十年目の彦兵衛、慣れたもので皿に三つほど餅を乗せ直すと、

「それは失礼致しました。しかしこの餅の盛付けは、三河ではお武家様のための盛付けで、
『城持ち』と『白い餅』を掛けて、山のように大きい城の城主になれるように、との私どもの
せめてもの心遣いでございます。どうかお納めください。」

と言って若侍に勧めた。
「そうか、そんな謂われが・・・それは済まなんだ。では、喜んでいただこう。」

以外にも若侍はあっさり納得して、餅をガツガツと食い始めた。その様子に長年のカンから
ピンと来た彦兵衛は若侍に話しかけた。
「ところでお侍さん、   ・・・金が無いんでしょう?事情だけでも話してみませんかね?」

顔を青くして餅をむさぼる手を止めた若侍は、少ししてポツリポツリと語り出した。
401出世の白餅(二):2008/12/19(金) 21:47:03 ID:cg67r90c
若侍の名は、与右衛門。 近江の出だが、浅井家の滅亡で職を失い、旧浅井家臣の間を
フラフラしていたが長続きせず、いっそ浅井家に勝った織田家か徳川家に仕官しようと
美濃・三河まで出てきたが、うまく行かず路銀が尽きてしまった。

どうせ死ぬなら、好物を満足行くまで食って・・・と考えてこの旅籠に入ったのだそうな。

「お前様、近江と言えば私の生国。他人事とは思えませんよ!」ホロリ…

などと騒ぎを聞きつけてやって来た自分の女房まで言い出すので、仏心のわいた彦兵衛、
タダ食いを許してやった上に、

「こういう時は、思い切って一から出直すのが良いものです。親御さんも心配しておられる
でしょう。一度、故郷に帰って親孝行されてはいかがです?」
と、助言まで与えてやった。

するとこの若侍・与右衛門、
「承知した。ついては、路銀を五分ばかりお借りしたい。必ず、出世してお返しいたす。」
などと再び調子に乗り出した。

人の良い彦兵衛もこの言葉にはあきれ果てたが、要望の倍の路銀をくれてやった。
「このご恩は必ず・・・必ずっ・・・・・・!!」相変わらず台詞は立派に、与右衛門は去った。

女中「これで良かったんですかねえ・・・」
彦兵衛「なに、こんな世の中だ。当てにしないで待てばいいのさ」
402出世の白餅(三):2008/12/19(金) 21:47:46 ID:cg67r90c
「何だ、あいつら・・・」その日、三河吉田の町は凍りついた。

やって来た大名行列の侍たちが、あまりにも異様な面体の者ばかりだったからだ。
顔中、刀傷が這っている者。指が欠けた者。鉄砲の撃ち過ぎで顔半面にヤケド跡がある者。
いかなる闘争を潜り抜けたか、独眼・隻腕の者までいる。

面体も荒々しい侍たちが一斉に頭をさげると、行列の真ん中の籠から、大男が現れた。
この男も、身なりこそ絹の羽織に黄金造りの太刀と重そうな皮袋とたいそう立派だが、
顔中に傷跡が残り、右手の薬指・小指が半分しか無い。この男が大名だろうか。

大名とおぼしき大男は、まっすぐにあの彦兵衛の旅籠に向かった。
彦兵衛「こ、こんな七十過ぎた老いぼれの店に何の御用で・・・」
大名は金子がギッシリ入った皮袋を彦兵衛に渡すと、深々と頭を下げ、口を開いた。

「藤堂和泉守与右衛門高虎、彦兵衛殿の言葉に従い、郷里に帰って武者修行に励み、
縁あって故・大和大納言秀長公に拾われ、中国地方を東奔西走し、山崎・賤ヶ岳で戦い、
四国で命を拾い、九州を駆け抜け、大納言家の消滅後に独立して朝鮮へ渡って転戦し、
関ヶ原で大谷隊の鉄砲に指を飛ばされ、功により、伊予半国の大名となり、恩を返すべく
参勤交代の途上、吉田に立ち寄りました。遅参の段、御免なれ!!」

「あ・・・あの餅好きの与右衛門さんかね?!」
「いかにも。彦兵衛殿のご恩を忘れず、今日まで励んで参りました。おお、そうだ。
旗、挙げい!!」

紺地に白い丸を三つ描いた旗印が高々とひるがえった。
「白丸が三つ・・・あっ、ウ、ウチの餅じゃないか!!」
「さよう。彦兵衛殿に教わりし『白餅』の志を忘れぬよう、当家の旗印と致しました。」

高虎はその後も出世し、伊賀一国と伊勢八郡32万石の太守となり、寛永七年死去した。
高虎の遺命により、藤堂藩は参勤交代の際、三河吉田で宿泊するのが慣例となった。
403人間七七四年:2008/12/19(金) 21:53:32 ID:uv01VBAh
もう与右衛の名前が出た段階でゾクゾク来てしまったオレは高虎好き。
404人間七七四年:2008/12/19(金) 21:57:45 ID:z/JXmyfu
近江の与右衛門でピンときたが泣いた。
いいはなしだなー
405人間七七四年:2008/12/19(金) 22:01:14 ID:z/JXmyfu
てか調べたら浪曲ネタなんだねこれ。
他にも良いのありそうだわ。
406人間七七四年:2008/12/19(金) 22:08:31 ID:v8CQ8MBr
うおおおお感動したわ
いい話だなぁ
407人間七七四年:2008/12/19(金) 23:01:43 ID:4csAoe9I
久しぶりに 素直な いい話だなー( ;∀;)

しかし藤堂高虎は指を詰めていたのかw
なにげに勉強になりました
408人間七七四年:2008/12/19(金) 23:15:17 ID:uv01VBAh
>>407
足の指も何本かなかったはず。あと体中びっちり傷だらけだったそうで。
409人間七七四年:2008/12/19(金) 23:32:12 ID:v+RnQd9O
いいなぁ。昔の恩を忘れずってところが。藤堂殿は義理堅いんだな。
秀吉のも似たような話があるね。若いときに世話になった松下嘉兵衛
が落ちぶれているところを拾って大名にしてあげた話。
410人間七七四年:2008/12/19(金) 23:38:37 ID:uv01VBAh
>>409
松下嘉兵衛は落ちぶれたわけではなく、桶狭間後、今川家が没落しだすと
すぐに家康に乗り換えて、その配下についたそうです。

で、秀吉に仕えるようになったのも、俗説のように天下を取った後ではなく、長篠の頃に
家康から譲ってもらった模様。
411人間七七四年:2008/12/20(土) 01:37:54 ID:3oLCNHoX
>>402
天保十年に津藩家老が参勤交代の帰路に吉田宿に寄って
「吉例の通り餅を(殿様に)差し上げ、供の者にも出してもらった。
すこぶる佳き品。
この餅は高山様(高虎)が召し上がりになられて以来、連綿(と続いている)」
と書き残している。
高虎の死後も恩返しは続いていた模様。
412人間七七四年:2008/12/20(土) 02:00:39 ID:s65gCyUp
感動した!ありがとさん
高虎のイメージ変わったよ
413人間七七四年:2008/12/20(土) 04:06:32 ID:kuS8qCpK
お腹減ってきた・・・こんな時間にスレ覗くんじゃなかったw
414人間七七四年:2008/12/20(土) 15:37:27 ID:3IIvCHTz
今NHKで藤堂の白餅の話やってるね
415人間七七四年:2008/12/20(土) 16:31:56 ID:N+4RJg9E
浪曲の戦国ものって、メジャーなのは藤堂の白餅と、太閤記くらいなのね。
416人間七七四年:2008/12/20(土) 16:37:55 ID:GpaOE1Gt
一の美学

細川政元の家臣、薬師寺元長の甥が薬師寺家を相続し、摂津守護代となった。

この武将は「一の字」を無類に好み、薬師寺与一元一と名乗った。

与一は永正一年に主君・細川政元に謀反するも失敗し、自ら建立した一元寺にて
一文字に腹をかき切り、己の美学を全うした。

与一の最期の言葉は、
「皆々様がご存知の如く、我は一文字好みにて名も与一、名乗りも元一、この寺
も一元寺と名付けたり。されば腹をも一文字に切るべし。」

(細川両家記)

417人間七七四年:2008/12/20(土) 16:39:16 ID:ax0FLUBI
仕えて二番手以下の立場にあるのを潔しとせず一なる立場を目指して謀反したのだな
418人間七七四年:2008/12/20(土) 16:44:19 ID:N+4RJg9E
>>416
薬師寺さんに限らず、政元の家臣団はめちゃめちゃ個性的で面白いよね。
419人間七七四年:2008/12/20(土) 16:48:29 ID:a9kBK4Ya
いつの時代も人材マニアはいるのかw
420人間七七四年:2008/12/20(土) 18:03:05 ID:58xsIlZl
>>418
政元も十分に個性的だがw
421人間七七四年:2008/12/20(土) 18:05:33 ID:N+4RJg9E
>>420
確かに。つーか政元に比べたら、信長や謙信もキャラが薄いなw
逸話的には悪い話系のほうが多いが。
422416:2008/12/20(土) 19:02:21 ID:GpaOE1Gt
与一の辞世の句
「地獄には よき我が主(若衆)のあるやとて 
   今日おもひたつ 旅衣かな」

死ぬときまで政元の男色を揶揄しとるなwww
423人間七七四年:2008/12/20(土) 19:12:24 ID:N+4RJg9E
>>422
「あんたが子供作らないからー!」って気持ちもあったんでしょうなw
424人間七七四年:2008/12/20(土) 20:12:45 ID:N+4RJg9E
秀吉の小田原征伐の時のお話

北条方に、鈴木大学と言う弓の名手がいた。毎日豊臣方の陣に向かって矢を放っていたが、
一矢の無駄もなかったという。

その鈴木大学だが、矢の名人であるのに、何故かその指物には『槍』と一文字、書かれていた。
それが気になったのが、援軍に入っていた大田氏房の家臣、春日左衛門である。
わざわざ鈴木のところに聞きに来た。

「おぬしは弓の名人だというのに、何故指物に、『弓』ではなく、『槍』と書いているのだ?」

「…別にいいでしょ、そんなこと」

「…槍にも、自信があるのか?」

「ええ、まあ。」

「そ、それはどれほどの自信なのだ!?北条家の旗本で一の槍と言う事か!?
それとも関東で一の槍だということか!?」

「関東じゃ計ったことないから、旗本一…、多分…」

そう聞いて春日左衛門、喜んだ

「そうかそうか!家中一ならいたしかたない。よいか、関東一の槍はこの春日左衛門である。
いやしくもこのわしを差し置いて、関東一などと名乗らぬように!わかったか!」

と、機嫌よく帰っていった。

鈴木大学は「変なオッサンだな」と思いながら、また今日も槍の指物をつけて、矢を射るのであった。
425人間七七四年:2008/12/20(土) 20:27:14 ID:a9kBK4Ya
この後家康に弓を折られるわけねw
426人間七七四年:2008/12/20(土) 20:48:29 ID:c5TiiyDU
踏んだり蹴ったりだなwww
427人間七七四年:2008/12/20(土) 23:00:22 ID:MZbka/vq
結局鈴木大学は小田原開城後はどうなったん?
428人間七七四年:2008/12/20(土) 23:05:35 ID:N+4RJg9E
>>427
小田原役の最中に銃撃を受けて戦死
429人間七七四年:2008/12/20(土) 23:38:52 ID:4XQ58GxZ
弓の名手が鉄砲で討ち取られるか…
勇者も時代には勝てないんだな
430人間七七四年:2008/12/21(日) 00:06:47 ID:X4OVLPN/
鈴木大学って名前は悪い話スレでも出ててどんな人物なのか気になってたんだが
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1228253046/306
やっぱり名前の知れた名人だったんだね
431人間七七四年:2008/12/21(日) 00:50:48 ID:/AiBsR7Z
つまり大久保忠隣は新し物好きのミーハーだった…?
432人間七七四年:2008/12/21(日) 12:41:00 ID:SEN342Yb
ようやく鈴木大学が何者か分かったけど
討ち死にしたあげく遺品の弓まで折られるなんて・・・(´;ω;`)ブワッ
433人間七七四年:2008/12/21(日) 14:33:45 ID:HJ84/qNw
慶長十八年正月、池田輝政が死んだ。

輝政の遺骸を棺に納める日、池田家老臣、伴玄札は次の間において、腹に脇差を付き立て
割腹を図ろうとした。城内にいた人々がそれに気がつき、慌てて押しとどめ、当時19歳の若き主君、
池田利隆に告げた。

利隆は直ちに駆けつけ、玄札に問いただした。「これはどういうことか!?」

「私は先君のご厚恩を被りました。それゆえ、お供つかまらんといたしましたが
見付けられ押し止められ、悔しい限り…
殿、どうかお許しを!願わくば先君のお供をさせてくださいませ!」

それを聞いた利隆は、静かに語り始めた

「玄札よ、先代に信用され、重用されていたお前が今、命を捨てて先代の後を追えば、
玄札は後継である利隆が劣った君主であるので見捨てて死んだのだ、そう噂されるだろう。
そうなれば、先代以来の家臣で私に心服してくれる者は、きっと一人もいなくなる。」

利隆はいつしか、涙を流していた。

「この利隆を孤独にする事が、忠であり義であると思うのならかまわぬ、強いてはとめぬ。
早く死ぬがいい。

早く死んで、私を一人にし、先代に奉公つかまつれ!!」

それを聞いて玄札はしばらく黙っていたが、やがて利隆の方を振り向き、

「侍たるものがいったん刀を腹に付きたてた以上、ここで止めるべきではありません。
ですが、ただ今かたじけないお言葉を頂戴いたしました。

伴玄札、恥を忍んで生きながらえ、若殿にご奉公いたします。」

そう言って、平伏した。


玄札をはじめ老臣たちの補佐を得た池田利隆は、藩を良く治め、名君と称えられたという。
434人間七七四年:2008/12/21(日) 15:33:13 ID:FwiWxF20
>>432
忠隣たんが氏康の柱を捨てなければ、きっと賞賛されてた…と思う

>>433
3年しか藩主やってないけどなw




435人間七七四年:2008/12/21(日) 18:37:58 ID:QHCltXMA
>>433
この殉死禁止の論理で主君個人への忠義から邦家への忠義になっていくんだな
436人間七七四年:2008/12/21(日) 18:41:22 ID:HJ84/qNw
>>434
33歳まで生きてるから、3年って事はないですw

>>435
そういうことだね。近世武士道の萌芽。
437人間七七四年:2008/12/21(日) 19:30:13 ID:KapZki7d
>>436
Wikipedia見たけど、3年らしいですよw

池田輝政が亡くなったのが1613年、利隆が亡くなったのが1616年。
数えで33歳で亡くなったのですね。
438人間七七四年:2008/12/21(日) 20:35:28 ID:HJ84/qNw
>>437
ありゃま、そうだったんだ。
439人間七七四年:2008/12/21(日) 22:03:15 ID:/7xvC7hp
二人の息子

本多忠勝は正室との間に忠政、忠朝の二人の息子を儲けた。

家康の関東移封にともない、忠勝は上総国大多喜10万石に封じられた。

さて、関ヶ原の戦い後、家康が忠勝に加増してやろうと話を持ちかけると、
「今の石高で十分です。私に加増は結構です」と固辞する。
それでも十分功績はあったのだからと、家康はちょっと考えて次のようにした。

忠勝には、伊勢国桑名10万石を与える。
それとは別に、次男忠朝に上総国大多喜5万石を与える。

どうも忠勝は次男忠朝の方が可愛くて、何とか独立した大名にさせようと工作したらしい。

臨終の際、忠勝は家老に遺言書を預けた。その内容は、

「桑名10万石の相続は幕命により相続。
 その他、武具、馬具、茶道具など一切の物は長男忠政に譲る。
 た・だ・し、
 自分は他に黄金一万五千両を蓄えているが、こ・れ・は、次男忠朝に与える」

これを聞いた忠政は激怒して、「長男が全て相続するに決まってるだろーが!」
と忠朝に黄金を与えなかった。

一方、忠朝は「兄貴のほうが大身だし、何かとお金が必要になるだろうからいらない」
と言って催促をしなかった。

弟の態度を家老から聞いた忠政はひどく恥じ入って、今度は黄金を忠朝に渡そうとする、
忠朝は頑として受け付けない、でどちらも譲らない。
そこで本多一門の者が間に入り、黄金は二人で半分ずつ分けることで話が付いた。

しかし、忠朝は「急用があったらその時渡してもらえればいいです」と兄の蔵に黄金を
置いたまま、とうとう一度も手に取ることもなく、大坂夏の陣で戦死した。

まあ、三人とも立派だったんだよな。
440人間七七四年:2008/12/21(日) 22:07:05 ID:COwJP05Y
>>439
感動した
441人間七七四年:2008/12/21(日) 22:07:29 ID:HJ84/qNw
>>439
イイハナシダナー

遺産相続って頭でわかっていても、いざとなると納得しがたいものが出ちゃうんだよねえ。
それで親戚と顔も合わせなくなったり(;´Д`)
442人間七七四年:2008/12/21(日) 22:08:55 ID:dLqAkb9N
名君:「全部俺のもんだ!!」→いけないと気付く

DQN:「全部俺の(ry」→「けっけっけあいつ文なしだwwざまぁww」
443人間七七四年:2008/12/21(日) 22:30:05 ID:FwiWxF20
>>439
長男相続の筋目は大切ということで忠政を立ててはいたが
家康も忠朝の方が武将として立派だったような事を言ってるよな…

444人間七七四年:2008/12/21(日) 22:31:07 ID:uMkz/k9/
井伊直政の殉死者0も、直政が嫌われていた訳じゃないという事ですね。
445人間七七四年:2008/12/21(日) 22:50:57 ID:7DP1rZEr
>>442
秀忠「今までよくやってくれたね。豊後で10万石あげるよ。」

古今伝授の人の次男「ははーっ!有難き幸せ!」


長男「( ゚д゚)、ペッ ダメダメ!アイツ、10万石の働きなんてしてないッスよ」

というわけで、谷田部細川藩は1万石で始まった。


こうですか?
446人間七七四年:2008/12/21(日) 22:54:24 ID:HJ84/qNw
>>445
あの方は兄弟が全員敵だったから…
447人間七七四年:2008/12/21(日) 23:13:17 ID:Qj1DsIJE
3歳さんですね、分かります。
448人間七七四年:2008/12/22(月) 02:57:59 ID:Pjwfo1It
クリスマスなので心温まる有名な話をば…

将軍暗殺事件や三好義継後見として共同歩調を共にとっていた松永弾正少弼久秀と三好三人衆。
しかしすぐに畿内の派遣を巡り反目していくようになり畿内各地で戦闘を繰り広げていた。

ところが主家にあたる三好家を牛耳る三人衆に軍事力でかなうはずも無く、これに対して弾正は劣勢を強いられていた。


とある堺…

弾正「このままではマズイ…。何とか軍勢を立て直さなければ我が方は押し込まれ不利になってしまう…。」

三人衆「弾・正・滅・殺!」

弾正「何とか隙をつくる事が出来れば…」

三人衆「弾・正・滅・殺!」

そこに殴りこんできたのは境の商人と宣教師。
宣教師は弾正に向かい
「なんであんたらはクリスチャンの部下抱えてるのわざわざにクリスマスまで戦うのDEATHcar?アンリケ(結城忠正)とかダリオ(高山友照)とか可哀想ジャン!」

それを聞いた松永弾正「m9(・∀・)ソレダ!!」

同じくキリシタン武士を多く抱える三好三人衆へ「クリスマスだからちょっとだけ休戦しませんか?」とレター攻撃。

長逸「なんなの?バカなの?死ぬの?」
政康「いやでもしかしだな」
友通「会議じゃ会議。タイムタイム」

という会話があったかは定かではないが三好方は休戦に応じ、ここにめでたく日本初のクリスマス休戦が締結されましたとさ。
449人間七七四年:2008/12/22(月) 03:01:48 ID:IvBtJkC9
> 「なんであんたらはクリスチャンの部下抱えてるのわざわざにクリスマスまで戦うのDEATHcar?

吹いたw
つーか死の車ってw
450人間七七四年:2008/12/22(月) 07:04:31 ID:BEj/7U0j
地元信貴山では善政を行い子作りハウツー本を書いたり結構いい人なんだよな

大和の坊主にキリシタン弾圧してくれって言われて、坊さんと宣教師で討論させて悪くなかったら別に弾圧しなくてよくね?とか言い出したり信長と似たような合理的思考の人間だったんだろうなと思った


重臣の結城山城がこの論争の監査役をやったあと感銘受けて洗礼受けても普通に用ていたしな
451人間七七四年:2008/12/22(月) 12:23:38 ID:abbA/w/b
子作りハウツー本って陣中でも常に女を侍らせろとかそんな内容か?
452人間七七四年:2008/12/22(月) 13:37:09 ID:eJpxbem8
>>451
◎以下の場合は、行為に及んではいけません

・女性がその気になってない時、女性がその気なのに、こちらからしなかった後。
・自分自身が十分な状態になってない時。あらぬ所を突いて、女性の負担になります。
・女性のアノ日。
・深酔いしている時。感覚が鈍くなり、出るのが遅く、女性の迷惑になります。

女性がその気になってからしましょう。今後のためにも、強引にしてはいけません。
女性を満足させるのに、男性のサイズは関係ないありません。
まず雰囲気作り、そして適切な場所への刺激によって導くことができます。

◎攻撃のタイミング
・女性の顔全体が赤くなるのが、その気になった証拠です。機を逃さず、あてがいましょう。
・女性が鼻をすすったら、先端をわずかに進めます。
・息遣いが荒くなってきたら、ゆっくり出し入れしましょう。
・十分に濡れてあふれてきたら、左右にこすりつけるようにして刺激します。
・女性が足を絡み付けるようになったら、優しく奥まで突きます。
 優しく、ときに激しく、また左右に突くことで、お互いが満足できます。

…と松永先生はおっしゃっておられます。
453人間七七四年:2008/12/22(月) 13:40:03 ID:IvBtJkC9
>>452
今始めて松永先生を尊敬した
454人間七七四年:2008/12/22(月) 13:46:47 ID:VEymVnzX
ふ〜ん
肝心の初陣の機会のつかみ方が書いてなきゃ、意味無いじゃん
455人間七七四年:2008/12/22(月) 13:49:06 ID:NMCWqPyt
松永先生は優しいんだな。
456人間七七四年:2008/12/22(月) 14:02:33 ID:Yk91O/OX
ドラマ化決定
457人間七七四年:2008/12/22(月) 14:03:22 ID:cAi7+S2V
他にも梅毒の怪しげな回避方とかも載ってたような。
458人間七七四年:2008/12/22(月) 14:20:33 ID:IvBtJkC9
>>454
松永先生「わしは美男子ゆえ女のほうから寄ってくるので、そういった事には疎いのじゃ。すまぬのう。」
459人間七七四年:2008/12/22(月) 14:50:03 ID:mcOhX/nJ
エロゲ化決定
460人間七七四年:2008/12/22(月) 15:35:55 ID:XqxLz6B1
戦国春絵巻
〜平蜘蛛の糸〜
461人間七七四年:2008/12/22(月) 16:09:47 ID:Oob8mgqR
一瞬スレ間違ったかと思ったわw
462人間七七四年:2008/12/22(月) 16:12:51 ID:6U4Yam0H
「松永弾正をエロゲの主人公にしよう」スレはこちらですか?
463人間七七四年:2008/12/22(月) 16:37:14 ID:2Jf0cwJh
とりあえず、今日から松永師匠と呼ばせてもらいます
464人間七七四年:2008/12/22(月) 17:32:38 ID:AwTXApzx
松永さんは主君の弟が湯治に出てるときわざわざお見舞いに行って「葦毛の馬に乗ってると土地の神様に祟られるかもしれないから気をつけて」と労わりの言葉をなげかけちゃう位いい人
465人間七七四年:2008/12/22(月) 17:50:50 ID:cMGR8vCx
松永さんって2ちゃんだと人気者だけど
才能があってイケメンでギラギラした生き方の時点で
同時代に生きてたら確実に2ちゃんで叩かれてるよな。
466人間七七四年:2008/12/22(月) 17:58:20 ID:FFmptGAr
>>452
松永先生かっけぇ!!!w 
467人間七七四年:2008/12/22(月) 18:04:22 ID:IvBtJkC9
>>465
でも意外と、身近にいた大和出身の武将からは評価されているね>松永先生

「うちの殿に松永久秀や明智光秀ほどの決断力があれば!」
                         by嶋左近
468人間七七四年:2008/12/22(月) 18:56:53 ID:PbbngATF
筒井さんの日和見力が発揮されてるのは島さん的には山崎の時だけじゃ無かったようです。
469人間七七四年:2008/12/22(月) 21:56:02 ID:VZibS976
それ、最近じゃ違った見解になってるよ
470人間七七四年:2008/12/22(月) 22:03:51 ID:MprPnWW/
>>457
文禄・慶長の出陣の時に、それをしっていれば…


>>180
>>186
のかたがたが申しておりますw

>>464
でも松永さんの人徳で無視されて死んじゃったw
471人間七七四年:2008/12/22(月) 23:00:50 ID:M3Hn68U3
馬鹿な子ほど可愛い

吉川元春と妻(新庄局)から息子に宛てた手紙

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
武士は身だしなみをきちんとすることが大切だ。
お前は気に入らないと思うが言っておく。
今の流行を追いかけることは、武士の家に生まれたお前にはふさわしくないことだ。

額をとにかく剃りなさい。
そのうえで鬢をつければ立派に見える。

それをせずに、商人か乞食坊主か恵比須舞いのような格好をしているのは理解できない。
親から見て、こうすれば良いと思うことは、たとえお前が気に入らなくても、
親孝行だと思って直してもらいたい。

お前は盃を目の高さ、鼻の高さまで上げて戴いていた。
なるほどこれはちょっと見には粋に見えるがよろしくない。
偉い人から戴いた盃は目の上まで捧げて鄭重に戴くように。

また、他人から敬礼を受けるときも目礼ではいけない。
少し身を前にかがめて敬礼しなさい。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

この息子はかぶいているばかりでなく、わがままな性格でもあった。
他家に養子に出ていたが、領地が少ないと不満を漏らし、もっと広い領地を持つ家の
養子に鞍替えしようとした。しかし、毛利本家から待ったがかかったためむくれてしまう。


再び元春夫妻の連名の手紙
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
決して本家を恨んではならぬ。
もし、これが承知できなければ
毛利・小早川・吉川三家に対し敵心ある者の
生まれ変わりであると看做す。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

自重してくれと息子に頭を下げて頼んだ。

この息子、三男経言は人質として秀吉のもとへ送られたが、元春は(可愛かったのだろう)
後に頼んで返してもらい手元に置いた。兄が夭折したため、彼が吉川家を継ぐことになる。

彼こそ関ヶ原でいろいろ苦労した、その後も何かと苦労した吉川広家である。
472人間七七四年:2008/12/22(月) 23:05:24 ID:IvBtJkC9
>>471
つーか、毛利家文書の藩主の書状とか見ると、毛利の跡継ぎは代々ろくでなしばかりに見えるから困るw

親が子に色々言って心配するのはいつも一緒だねえ。
473人間七七四年:2008/12/22(月) 23:14:50 ID:XqxLz6B1
あの広家さんも昔はやんちゃだったのかw
474人間七七四年:2008/12/22(月) 23:23:10 ID:oh9EqWT/
>>472
不思議だよな。
実際の業績とか見ると、それなりの人が多いのにw
475人間七七四年:2008/12/22(月) 23:37:29 ID:MprPnWW/
毛利隆元「こんな家に生まれたくなかった…というよりあんな親父と弟達ry」
476人間七七四年:2008/12/22(月) 23:41:21 ID:IvBtJkC9
>>475
でも隆元が死んだ時、小早川隆景なんて、殆ど錯乱したんだよね。「毛利家はもうおしまいだ」って。

物凄いグチグチ言うし、陰口や嫌味も叩くけど、本音の所では信頼し尊敬しあっているのが
毛利家の家風って感じがする。
477人間七七四年:2008/12/22(月) 23:42:03 ID:cMGR8vCx
>>472
「あの」輝元も秀就に対して手紙で諭してるしね。
ある意味毛利家の伝統ですな。
478人間七七四年:2008/12/22(月) 23:50:32 ID:5bYHOul9
>>476
安国寺恵瓊「拙僧のこともも少し信頼していただければ」
479人間七七四年:2008/12/22(月) 23:53:34 ID:IvBtJkC9
>>478
小早川隆景の場合、恵瓊に関しては、
輝元や広家に「あいつは亡国の臣になるから重用しないように」
って言ってたって逸話が残ってるね。

まあ正直後世の創作くさいが。
480人間七七四年:2008/12/23(火) 00:01:53 ID:k43xPVKZ
いつの話か知らんがかなり重用してね
481人間七七四年:2008/12/23(火) 00:03:12 ID:pehd7E15
さすがに元就なんかと比べると劣るけど、
輝元も全くの馬鹿って訳じゃないよな。
やっぱり関ヶ原前後での大ポカが評価を決めてるのかな。
482人間七七四年:2008/12/23(火) 00:12:32 ID:Q9vXw7xF
>>480
確か設定としては隆景が死ぬ間際。
恵瓊の言葉に乗せられるなよって警告。
483人間七七四年:2008/12/23(火) 00:23:26 ID:atfTI7kG
徳川家康の背中に大きな瘍が出来て死にかけたときの事である。
医者にもどうにも出来ず、徳川家康本人も諦めてしまい生きる気力も消え失せていた。
そんなとき、灸の名人という者が訪ねてきたのだか、
徳川家康は投げやりになって、治療を受けようとしない。
それを聞き、鬼作左こと本多作左衛門がかけつけた。
「自分は幾多の戦で受けた傷で満身創痍。
歳も六十を越えた老身です。
だから恩顧ある徳川家におればこそ、人に立てられもしますが、
他の家中にいけば誰も相手にしてくれないでしょう。
殿のために苦労してきたからこそ今の地位が得られたのです。
もし殿が死んでしまえば、自分は見捨てられたようなもの。
それならば、いっそのこと、殿が死ぬまえに腹を切る。」
と言った。
これを聞いた徳川家康は考えを改めて灸をすえたところ、
瘍はつぶれて、すんでのところで命拾いしたという。
484人間七七四年:2008/12/23(火) 00:27:51 ID:Q4FgYx3e
>>483
家康が駄目人間モードになったら鬼作左登場してryてのはお約束であり様式美だなw
485人間七七四年:2008/12/23(火) 00:46:28 ID:OdS4V/cN
>>483
これは既出かな?
まとめの11月11日に出てる
486人間七七四年:2008/12/23(火) 00:59:33 ID:Y9cJnLX0
既出にもほどがある
487483:2008/12/23(火) 02:03:28 ID:atfTI7kG
申し訳ない。
以後気をつけます。

武田信繁が残した良い話
「過失を犯さないようにせねばならぬ。
もし過失を犯したならば、その後はとくに注意して、
けして二度と過失を繰り返してならない。
論語にも、過失ある時はすみやかに改めよ。
恐れて躊躇する必要はない。とある。
過ちは皆にありがちなことで、やむを得ないが、
過ちを知って改めないのは、真の過ちであるという言葉もある。」
488人間七七四年:2008/12/23(火) 03:00:40 ID:BjjHW7WY
>>487
逸話に結び付けてただでは転ばぬあたり、お主もひとかどの者よw
489人間七七四年:2008/12/23(火) 05:11:48 ID:KLT30YcP
>>465
イケメンでエロだから福山雅治扱いで崇拝されるやもしれん
490人間七七四年:2008/12/23(火) 17:37:44 ID:YYQ+Y1er
>>487
忠興、ゴーン「2回までなら許すよ。その次は・・・」
491人間七七四年:2008/12/23(火) 19:36:12 ID:Zvktpf0d
>>472
親が子供にする小言や説教が絶えないのは古今東西身分問わず一緒ってことだ

492人間七七四年:2008/12/23(火) 21:01:03 ID:yMYKzxYP
加藤清正は、家臣の失敗を二度目までは許したが、三度目は
切腹を申しつけたと。

でも信長なら1度目でも手討ちだったろうね。


493人間七七四年:2008/12/23(火) 21:12:04 ID:z6VBwSOK
>>492
時代遅れの物凄い偏見だな。
494人間七七四年:2008/12/23(火) 21:14:43 ID:Q9vXw7xF
まあ信長の我慢する、しないは、時期とタイミングによるw
495人間七七四年:2008/12/23(火) 21:15:18 ID:LWJTKB4i
信長って実際はけっこう失敗許してないか
佐久間信盛の折檻状や秀吉の柴田援軍無断撤退に対する仕置き
なんか見るに失敗してもそれを挽回すればよしってスタンスに感じるが
496人間七七四年:2008/12/23(火) 21:41:10 ID:Q9vXw7xF
>>495
うん。信長はむしろ人使いに関しては気が長い。ただ、後年と言うか、晩年のほうは
相当短期になっているのも確か。
497人間七七四年:2008/12/23(火) 21:49:48 ID:k43xPVKZ
使えない奴はあっさり切るだけでしょ
佐久間とか林は人材が集まってきたんで適当に理由つけておっぱらっただけじゃね
498人間七七四年:2008/12/23(火) 21:54:11 ID:O45JibaE
信長は怒りっぽいけど、メリットある時に怒るようにしているような、
ある程度の抑制を感じる。
そこがDQNとの分かれ道か。
499人間七七四年:2008/12/23(火) 21:58:18 ID:ejR/8B0O
それなりに筋は通ってるからね
500人間七七四年:2008/12/23(火) 22:16:56 ID:mopF56Ks
でも、気まぐれ
部下にとっては、それが一番キツイ
付き合い方が解らんのだから
501人間七七四年:2008/12/23(火) 22:20:00 ID:xd541bKO
林はともかく、佐久間は相当有能だったから、晩年は判断力にも陰りが見えていたな。
いくら邪魔になったからといって、いきなり追放じゃ家臣が不安を感じるのも当然。
502人間七七四年:2008/12/23(火) 23:01:10 ID:yMYKzxYP
佐久間親子を追放したのは、信長が長年希求していた
石山本願寺を一晩で焼失させてしまったからだろう。
日本中の金銀財宝がそこにあったとか。建物にも執着してたらしい。

その他諸々は、とってつけたもの。

二条城での普請で工事人足を、安土城内で西瓜の後始末をさぼった
茶坊主を、各々かっとなって手打ちにしたとか。
いずれもフロイスが目撃してたんじゃなかったかな。
503人間七七四年:2008/12/23(火) 23:15:54 ID:0REz8yXr
永禄年間、信長の美濃攻めのころ。

池田恒興と佐々成政が共同で斎藤龍興の重臣、稲葉又右衛門(一鉄の兄?)を討ち取った。
このため、信長に稲葉の首を持って戦功を報告する時、

恒興「成政が一人で討ち取りました。オレが見てたから間違いないです。」(`・ω・´) シャキーン
成政「いいえ、恒興殿が一人で討ち取りました。まったく見事でした。」(`・ω・´) シャキーン
と互いに譲り合って聞かず、ラチが開かなかった。

美しい話だが、第六天魔王にそんな美談が通じるはずもなく、未だ譲り合う二人をよそに
信長の機嫌はハタから見て怖いくらい悪くなっていった。

その時、鴻蔵主という空気を読んだ発言の達人である在家僧がやって来た。
信長の機嫌を見て即座に空気を悟った鴻蔵主、

「あー、この首は池田殿が取った訳でも佐々殿が取った訳でもないッスね。
だからどっちの言い分も正しいんスよ。」と言った。

「どちらが取った首でもないと言うなら、いったい誰が取ったのだ?」
と信長がツッコむと鴻蔵主は、
「そうッスねー。きっと瓜みたく自然に取れたんじゃないスか?」と返した。

一同ドッと笑い、信長の機嫌も直ったという。(続武者物語)

秀吉の曽呂利さんとか、御伽衆スゲーという話。
504人間七七四年:2008/12/23(火) 23:22:12 ID:GgJZTX35
池田恒興と佐々成政の話自体は既出だが、オチが違うなw
笑い話になってるwおもしろい。
505人間七七四年:2008/12/23(火) 23:29:20 ID:O45JibaE
この手のとんちって、おもしろいけど一歩間違えると死かと思うと…
命がけのボケツッコミかあ。
506人間七七四年:2008/12/23(火) 23:33:33 ID:yMYKzxYP
信長の不思議な魅力の一つは、いつもは冷静沈着、合理的、近代的。

それでいて瞬時に気分が変転し、傍目に顔色をありありと
その怒気を見て取れるほど、自我の脆弱というかナイーブな面が
あったらしいところじゃまいか。

家康ほど面の皮が厚くなかったのかな。
507人間七七四年:2008/12/23(火) 23:53:58 ID:Q9vXw7xF
>>506
> いつもは冷静沈着、合理的、近代的。

いやぶっちゃけるとそうでもない。我慢するところは死ぬほど我慢するけど、どちらかと言うと
感情と勢いで突っ走っちゃう傾向がある。

冷静沈着、合理的、近代的、って形容詞は、武田信玄のほうがふさわしい。
もう怜悧にもほどがあるもん。
508人間七七四年:2008/12/24(水) 00:08:32 ID:dA5cDPrE
とくにあのラブレターとかですね。わかります
509人間七七四年:2008/12/24(水) 00:12:03 ID:6GX+Hv5M
あの恋文はいつも冷静な信玄様が、
尻ひとつに翻弄されるおかしみがあっていいよね!
510人間七七四年:2008/12/24(水) 00:13:35 ID:7WjCDAFJ
対する伊達の恋文は生々しくて嫌だw
511人間七七四年:2008/12/24(水) 00:21:40 ID:gfYm+luW
>>508-509

そういえばあの恋文実は、春日弾正宛じゃ無いらしいね。
春日弾正の名前は後から書き加えられた形跡があるとか。
512人間七七四年:2008/12/24(水) 00:23:18 ID:6GX+Hv5M
>>510
政宗「でも片倉ジュニアへのほっぺにチュウ事件はかわいいだろ!?」
513人間七七四年:2008/12/24(水) 00:36:55 ID:7WjCDAFJ
>>512

「公、すなわち御座へ着せられ、重綱手を御引き寄せ、頬へ御口をつけなされ、
そのほうに御先鋒仰せ付けられず候て、誰に仰せ付けられるべきやと、御意ありて御感涙あそばれしなり。」
片倉代々記

「重綱公を御引き寄せなされ、頬へ御喰いつきなされ、その身に先鋒仰せ付けられずは、
誰に仰せ付けられ候や御諚にて、御落涙なされ候」
老翁聞書

マジ自重してくだせぇw
514人間七七四年:2008/12/24(水) 00:50:50 ID:gfYm+luW
この時代の「おどけた行為」の一つとして、「突然キスする」っていうのは
確かにあったらしい。無論男同士の。

あと、江戸時代に「オランダじゃ衆道は死刑になるそうだ。野蛮だねえ。」
なんて書かれたものが残ってたりするな。
515人間七七四年:2008/12/24(水) 01:21:24 ID:IQOXKOBN
イスラム国ではホモ行為を行った奴は生き埋めにされて殺されるらしいね。
516人間七七四年:2008/12/24(水) 01:23:47 ID:Tsj7L0uB
>>511
mjk それは弾正本人が「これ俺宛ってことにしとこう」ってかきかえたのか
別の人が「信玄攻なら小姓受弾正が相手だろjk」ってことでかきかえたのかどっちなんだ

>>513
>頬へ御喰いつきなされ
この表現にエロスを感じる。これで男同士でなければ
517人間七七四年:2008/12/24(水) 01:30:39 ID:gfYm+luW
>>515
近代以前はイスラームも同性愛に寛容だったんだけどね。
インドにムガル帝国を打ち立てたバーブルは、無論イスラム教徒なんだけど、
自分の自伝で、若い頃の少年との恋愛を赤裸々に書いてたりするw
518人間七七四年:2008/12/24(水) 02:11:02 ID:cyn7CGeB
紹運と筑紫の押しかけ姫

岩屋城に一人の武者が姫君を連れてやって来た。彼は筑紫広門の家臣、筑紫六左衛門と言う。
岩屋城主の高橋紹運は二人を書院へ通した。姫君は用件を話そうしたが、顔を真っ赤にして涙を流してたので代わりに六左衛門が紹運に用件を話した。
用件を聞いた紹運は「嫁にしてくれ」と言う姫にあきれ、当惑した。さらに言葉を失った紹運に対し六左衛門は「もし姫をめとらなかったら姫を殺し、自分も切腹する」と言ってきた。
二人を死なせたく無いと思った紹運は自ら姫の手をとり奥の間へ導いた。紹運は姫を統増の嫁にしようとした。そして天正14年2月姫は統増に輿入れした。
519人間七七四年:2008/12/24(水) 02:25:34 ID:RvO6fSkb
>>518
よくわからんのだが、それっていい話なの?
人質の押付けでしょ?
520人間七七四年:2008/12/24(水) 02:47:09 ID:c75DgwUj
>>518
島津から離反して以来、筑紫広門は朝鮮出兵・大津城合戦と、
立花兄弟と終始行動をともにしてるな。
広門の娘は、三池藩の種次の母親。
521人間七七四年:2008/12/24(水) 02:52:15 ID:cyn7CGeB
スマン、詳しく書くとその時紹運は宝満城を筑紫広門に奪われていて、筑紫広門の和睦は城を取り返すチャンスだった。筑紫広門は宗麟が秀吉に島津征伐をたのんだため秀吉側に着くチャンスであった。両者にとって(都合の)いい話
522人間七七四年:2008/12/24(水) 09:07:47 ID:jVXYMSvS
>>514
学生時代泥酔してそれやったらボディにいいのを食らった記憶がある

ライトに照らされたもんじゃ焼きが七色に輝いてきれいだったぜw
523人間七七四年:2008/12/24(水) 14:48:35 ID:18XEt6fK
美濃斎藤氏最後の当主斎藤龍興

稲葉山城を落とされて長島へ逃亡その後本圀寺で足利義昭を襲撃して返り討ちなったりと
大名時代とは打って変わって精力的に信長に抵抗するが刀禰坂の戦いで
かつての臣氏家卜全の子にたたっ切られて死亡(26歳)

一説によると死んでなかったという
彼は脱出し名前を変えて越中へ
現在の富山市のあたりで原野の開墾事業に従事
「仏様は見てるから」「お経の力でたくさん米とれるようになるから」などと
その辺の人たちを励ましながらいつの間にか開墾チームのリーダーのようになる
天正8年ごろにその事業もかたがつき元龍興は一帯を経力と名づけた
また鶴に導かれて地面を掘ってみると温泉がわいたのでここを整備した(霊鶴源泉)
その後彼は出家し興国寺の住職となり中興の祖となり寛永9年に87歳で亡くなったという
世はすでに徳川家光の時代であった
524人間七七四年:2008/12/24(水) 18:57:20 ID:EhQ7Ma4m
九右ェ門伝説ですなぁ。

これが事実なら龍興の評価はうなぎ登りなのにw
525人間七七四年:2008/12/24(水) 19:01:00 ID:mcD1Tz5r
龍興かは兎も角、その元となる人は居た訳だ・・・夢のある話だな
526人間七七四年:2008/12/25(木) 00:23:55 ID:PyeGt8Rf
政宗の国風六首

政宗が朝鮮出兵のおり、幼い頃からの近臣であった原田宗時が対馬で病没した
友とも言える宗時の死に、政宗は和歌六首を贈った

夏衣 きつつなれにし みなれども 別るる秋の 程ぞ物うき
虫の音も 涙催す 夕ま暮 淋しき床の 起臥はうし
哀れげに 思うにつれぬ 世の習い 馴れにし夢の 別れをぞする
みるからに 猶哀れそう 筆の跡 今より後の 形見ならまし
誰とても ついには行かん 道なれど 先立つ人の 身ぞ哀れなる
吹き払う 嵐にもろき 萩の花 誰しも今や 猶まさるらん

上から順に頭の一文字を取ると「なむあみだぶ」となる
DQNと言われまくっている政宗であるが、こんなセンチな面もあるのだ


以下余談
原田家は跡継ぎがおらず、桑折家からの養子・宗資を迎えることで名跡を残した
その原田宗資と茂庭綱元・香の前の娘おつた(一説には政宗の落胤)の子が
伊達騒動で有名な原田甲斐である

おつたが本当に政宗の娘であるならば、原田甲斐は
原田宗時の義理の孫であり、
茂庭綱元の義理の孫であり、
なおかつ政宗の孫という、かなりややこしい血筋となる
527人間七七四年:2008/12/25(木) 00:24:26 ID:PyeGt8Rf
ageてしまった、スマン
528人間七七四年:2008/12/25(木) 02:28:04 ID:Sg2gcPng
とりあえず文化面みると忠興の友人ってのは
納得だな政宗って。
詩詠むなら基本繊細なとこもないとな。
529人間七七四年:2008/12/25(木) 09:01:56 ID:ftu1L1kT
縦読みを初めてやったのは政宗なわけね
530人間七七四年:2008/12/25(木) 10:03:01 ID:4TPuW3CY
いや、「とがなくてしす」がw
531人間七七四年:2008/12/25(木) 10:38:10 ID:AtMicU9M
>>529
つ 「かきつばた」
532人間七七四年:2008/12/25(木) 10:55:48 ID:pp5VOldH
関ヶ原の戦いにて、黒田隊、細川隊が石田隊に追い散らされているときのこと。黒田長政が細川忠興の姿を認めると寄っていき、
「さっきお主が敵中に馬を乗り入れて攻め掛けた働き、よく見届けた。戦後に内府(家康)にご報告いたす
。だから黒田隊の働きもぜひ、ご報告していただきたい」と、忠興に呼びかけた。
忠興は、この自軍が劣勢のときでも自身の功名のことを考えている長政に( ゚д゚ )となり、やや不興ぎみに
「われらの働きは、それほどのことでもない。そして貴殿の働きも未だ見ていない」
と答えたところ、忠興の小姓が空気を読んで
「私は甲斐守(長政)殿の働きを見ました。あそこに見えます小さな森で敵味方が入り混じり、
競り合いになりましたところ、真っ先に馬を乗り入れて敵を追い崩した武者が甲斐守様でありました」
と言った。すると長政は
「おう、よくぞ見届けた。そのことに間違いない」と言ったので、忠興は
「われらの小姓が見届けたことを、必ずや内府に申し上げようぞ」
と答えたので、長政は満足げに戦場に戻った。
533人間七七四年:2008/12/25(木) 11:03:19 ID:5EqTqUTu
いつ忠興がブチ切れるのかとおもって読み進めたが…
534人間七七四年:2008/12/25(木) 11:29:41 ID:yBdzdEfE
なんかほのぼのしてていい話だな
535人間七七四年:2008/12/25(木) 11:51:42 ID:xaBqsVWK
悪い話でお馴染みの宇喜多直家のいい話。

毛利と同盟して織田と戦っていた宇喜多家ですが、
いろいろあって毛利と手を切り、織田に寝返ることになりました。
しかしここで直家を悩ませたのが、毛利に人質として預けている
重臣・戸川秀安の次男・孫六。
毛利と手を切り、織田につけば、当然人質の孫六は殺されてしまいます。
若いころから苦楽を共にした秀安の息子を見殺しにすることに
直家は思い悩みます。

そんな直家の胸中を察した秀安は
「人質として預けたときから、息子の命はないものと思っています。
今は御家の一大事。孫六ごときの命と代えられるものではありません」
と、息子を見殺しにして織田につくことを進言しました。
この秀安の忠誠に直家をはじめ家臣一同が感激しますが、
それでも直家は今までの秀安の功績や共に過ごしてきた日々を思えば
簡単に孫六を見捨てることに踏ん切りがつきません。


と、そこで直家は一計を案じます。

当時、毛利の外交僧・安国寺恵瓊は京と毛利領を往復していましたが、
なんとそのとき、タイミングがいいのか悪いのか
恵瓊は途中にある宇喜多領をノコノコ通りかかっていたのです。

「これだ!!!!!(`・ω・´)」

すかさず直家は恵瓊の元に使者を送り、
「これはちょうどいい。恵瓊殿、殿が大事な用があるので来てほしいそうです」
と、恵瓊を岡山城へ招きました。

直家に招かれるということは、後に元春・隆景も避けた死亡フラグ。
しかし毛利の外交を担当している恵瓊が、同盟国の国主に招かれて行かないわけにはいきません。
不安を覚えながらも直家の元に向かった恵瓊は、案の定、岡山城につくなり監禁。

直家は毛利に、
「ふはははは!今後、宇喜多は毛利から離れて織田につくことを宣言する!!
でもその前に、お前んとこに預けてる戸川秀安の次男・孫六を返せ!!
もしこの要求を断るというのなら、安国寺恵瓊の命はないものと思うがいい!!」
と、人質交換という名の脅迫を始めたのでした。

しかし毛利側としては重臣・安国寺恵瓊を人質に取られ、どんな無茶な要求を
されるのかと思えば、家臣の息子、それも嫡男ではなく次男と交換と言われ( ゜д゜)ポカーン
そんな要求でいいのならと、さっさと孫六と恵瓊を交換したのでした。


父親である戸川秀安も「気にせず見殺しにしてくれ」と言った孫六のため
ここまでのことをやってのける直家の、家臣思いのいい話。


536人間七七四年:2008/12/25(木) 11:59:25 ID:va97smkv
直家・・・( ´・ω・`)
537人間七七四年:2008/12/25(木) 12:01:54 ID:yBdzdEfE
ええ話や 敵には容赦ないけど家臣には優しいのがさすがだよね
538人間七七四年:2008/12/25(木) 12:09:46 ID:HuslWt8+
逆にいえば恵瓊も毛利に大事にされてるよねw
539人間七七四年:2008/12/25(木) 12:10:28 ID:4qyVNh2F
>>529
つ http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1158488972/322

>>535
分かっていても引っかかったえけいバロスw
540人間七七四年:2008/12/25(木) 12:45:45 ID:AKmUJEBS
直家も家臣団とは三河武士並に厚い関係だから癒されるな
541人間七七四年:2008/12/25(木) 12:54:41 ID:n6rC2iXQ
実にいい話だ
語り口もすばらしい
542人間七七四年:2008/12/25(木) 12:55:05 ID:QqMtdFNk
我觉得,在那场大战中,活着的、死了的、成功的、失败的都是英雄
因为他们为了自己的理想,赌上性命,参与到时代的变动中,有这种
魄力的都是英雄。
543人間七七四年:2008/12/25(木) 12:55:54 ID:QqMtdFNk
接上“动”改成“革”
544人間七七四年:2008/12/25(木) 12:56:23 ID:n0El7Z/U
>>536
いい話だ…

>>540
泳ぎの達者な愚息の代にお家騒動起こして衰退しなければなぁ…
545人間七七四年:2008/12/25(木) 13:35:24 ID:Yo5iCx80
>>535
あぁ、秀家公もこれほどの器量があれば家臣をうまくまとめられたのにな。
滅亡もなかったかもしれない。
546人間七七四年:2008/12/25(木) 14:33:16 ID:OZlQWBB0
>>540
弟者には信頼されてなかったけどなw
547人間七七四年:2008/12/25(木) 15:32:29 ID:cpCcOmjp
>>538
そりゃあ織田家との外交の取次ぎ役である恵瓊を
たかが家臣の次男坊との交換を断って失うわけにもいかんでしょ。
548人間七七四年:2008/12/25(木) 21:06:39 ID:n0El7Z/U
>>546
忠家はいつでも身をもって兄の盾になるために鎖帷子を着込んでいたのに一メセタ

549人間七七四年:2008/12/25(木) 23:34:39 ID:5HyVTvfD
直家「これで使い易い鉄砲玉が増えたぜ・・・」

としか思えないのは俺の性格がねじ曲がってるからでしょうか?
550人間七七四年:2008/12/25(木) 23:55:13 ID:D3mnPNhI
基督教の聖なる日ということで蒲生氏郷の話

若年より儒仏両道に歌道、茶道を学び、どの道においても、
才能を発揮してまわりの者たちにいたく感心されていた氏郷。
誉められればやる気も湧くのだろう、儒道や歌道、茶の湯にばかり心を入れて、
日々を過ごしていた。
そんなある日、弓矢の修練に打ち込む侍、斉藤内蔵之助と会ったところ、
「役にも立たない事に一所懸命になってどうする?
武士の本分である武芸兵法に心を入れて打ち込むべきだ。」
と言い、その後も会うたびに同じことを意見してくる。
だが、まだ若かった氏郷。それを耳にもとめずに日々を過ごしていた。
日は流れて、氏郷が織田信長の観音寺城攻めに参加していたところ武士がひとり駆けつけてきた。
それは例の斉藤内蔵之助で氏郷に言う。
「今日の先手は伊賀衆らしいが、俺がみたところ、軍のかけ方、足軽の使い方がよくない。
おそらく伊賀衆は準備不足か連戦の疲れで態勢が整っていないのだろうから、
敵に攻められたなら敗れるのは間違いない。
だから、其の方の軍勢を西の山の竹藪に隠し、先手の伊賀衆が崩れたならば、
伊賀衆を追いかける敵の軍勢が過ぎたところに割って入れば勝利を得ることが出来るだろう。
そうしてから伊賀衆に、今朝から戦いつづけてお疲れでしょう。我らが入れ替わるので後はまかせてくだされ。
と断りをいれてからシンガリをやったならばそれこそ高名というものだ。」
と教えてきたので、氏郷はその教えどおりに軍を動かしたところ、内蔵之助の言ったとうりになった。
そして氏郷は三十人もの首を打ち取り、信長に大いに感心されて国俊の腰の物を拝領した。
それからの氏郷は斉藤内蔵之助が言うように武士の本分に一所懸命打ち込み、
天下に名を轟かしていくことになるのである。
551人間七七四年:2008/12/26(金) 00:15:03 ID:LOvSktzn
>>550
儒道や歌道、茶道が役に立たないわけじゃなくて、
儒道や歌道、茶道の精神性の上に武士の本分が加わったからこそ、
非凡な武将になったのだろう。
文武両道が大事だ。
552人間七七四年:2008/12/26(金) 00:28:38 ID:oyBugiBv
としみったんの武骨さ、マジ好きだ
光秀の家臣はこういう奴多い気がするw
553人間七七四年:2008/12/26(金) 02:28:05 ID:BX7UAicw
今気付いた。
このスレは、ちょっといい話じゃなくて
すごくいい話が多い(´・ω・`)
554人間七七四年:2008/12/26(金) 03:18:44 ID:mOSC2CUv
>516
もとは「源助」だけだったのが、

源助なら春日だろ常考 ということで

「春日」が書き加えられたという次第らしい。
555人間七七四年:2008/12/26(金) 17:26:54 ID:/Uy8gUCI
伊賀衆というのは,筒井順慶のことかいな?
556人間七七四年:2008/12/26(金) 17:36:25 ID:lJYaR6I2
>>555
単純に伊賀の国人衆の事では?筒井順慶は大和だし。

つーか、観音寺城攻めって信長の上洛戦時の話だと思うが、この時は
六角は戦わずに城を放棄しているので、まあ、この逸話は六角戦全体の中でのエピソードと
考えたほうがいいのかな?
557人間七七四年:2008/12/26(金) 22:46:18 ID:1Uk+kjDn
九度山に蟄居謹慎を命ぜられた昌幸・信繁に対して上田藩藩主真田信之が生活援助を行っていたのは有名
だが、真田家上田藩として大々的に援助をするのはやはり気まずかった
‘やっぱり真田は…’と叛意を疑われかねないからだ
やむを得ないので信之は藩とは別に個人的に支援も行った
そう、自分達家族の生活費を削って九度山に送ったのである
この倹約生活を支えたのが正室の小松
女中の数を減らして自らも家事をこなし、子供達の学問・武術も指南したと言われる
援助物資の手配も彼女が主導していたそうな
後年、松代に移るにあたり信之は20〜30万両とも言われる莫大な蓄財を持ち出している
埋蔵金説もあるが藩全体に倹約生活が浸透していたからともされている

おまけ
信吉「母上、お腹減った」
小松「我が儘言ってんじゃねーぞ(#`Д´)ゴルァ」
信吉「うわぁぁぁん」

信政「母上、ここ解らない」
小松「昨日教えたのに同じ箇所聞いてんじゃねーぞ(#`Д´)ゴルァ」
信政「うわぁぁぁん」

信重「もう腕が痛いよ〜」
小松「それでも平八郎忠勝の孫か!私の子か!あと素振り100回だ(#`Д´)ゴルァ」
信重「うわぁぁぁん」

信之「小松、あまり厳しすぎても…」
小松「貴様も京都に愛人つくってんじゃねー、小遣い減らすぞ(#`Д´)ゴルァ」
信之「(´・ω・`)ゴメンナサイ」
558人間七七四年:2008/12/26(金) 23:12:51 ID:zFsa/+ya
スパルタすぐるw
559人間七七四年:2008/12/26(金) 23:17:34 ID:NsWRkzQQ
>>557吹いたwww
560人間七七四年:2008/12/26(金) 23:20:31 ID:0ItkL0TT
婚姻の時の勇ましさはどこへ行った信之w
561人間七七四年:2008/12/26(金) 23:23:54 ID:lzHnsw8U
あの時勇気を使い果たしてしまったのかもしれない
562人間七七四年:2008/12/26(金) 23:26:03 ID:3p69vWWS
政宗、細川の九曜紋を強奪するの巻

政宗(●∀゚)「お、おめえんとこの家紋、cooooolじゃね?ちょっと見せなよ」
忠興(;゚Д゚)「ちょっ袴引っ張んないでよ。見せたげるからさぁ」
政宗(●∀゚)「いいじゃん、coolじゃん。ちょっとおいらに貸しなよ」
忠興Σ(゚Д゚;)「勘弁してよ。君んち竹に雀っていう立派な家紋があるじゃん。いらないでしょ」
政宗(●Д゚)「あれ元々上杉んとこのだしなぁ・・・。成実が縦三引両のほう使えってうるせぇんだよ」

忠興( ゚Д゚)ハッ「あっ、あそこにも九曜紋あるじゃん!あの人からもらいなさいよ」
政宗(●听)ペッ「相馬じゃねえか!あんな奴から家紋もらうほど落ちぶれちゃいねえんだよ!」
忠興(´-`).。oO(うちならいいのかよ・・・)


上のようなやり取りがあったのかは知らないが、政宗が九曜紋を忠興から所望したのは事実らしい
文禄の役の際、忠興のピンチを助けたとかなんとかで弱みに付け込んだ末の顛末であろうと推測される

同じDQN四天王の忠興すらも強奪の対象にしてしまう政宗、まるでスネオにたかるジャイアンである
以上、仲の良い(?)お話
563人間七七四年:2008/12/26(金) 23:32:44 ID:lJYaR6I2
> 忠興(´-`).。oO(うちならいいのかよ・・・)

ここで大笑いしてしまったw
564人間七七四年:2008/12/26(金) 23:36:46 ID:YnruqFNo
やっぱりというかなんというか、ガキっぽよな政宗
そして細川の九曜紋は良くて相馬はだめってそんなに細川好きか
細川が三管領の1つだっていう名門だから?
相手がそれなりに構ってくれる忠興だからか?

そして、なんだかんだで(このスレでは)つるんでる(ように見える)忠興は
付き合いが良いというか大人というか、単にウマがあっただけなのか・・・
565人間七七四年:2008/12/27(土) 00:02:50 ID:Kipu66Xe
>政宗(●Д゚)「あれ元々上杉んとこのだしなぁ・・・。

竹に雀紋も越後守護上杉からの貰い物だが
九曜紋だと更に長尾家とかぶっちゃうが
竹に雀&九曜と両方かぶるのは政宗的に良いのか?
566人間七七四年:2008/12/27(土) 00:05:05 ID:wb5MTOG7
忠興さんはガラシャタンが絡まないと福島よりDQN度が下になってしまうお人。
567人間七七四年:2008/12/27(土) 00:10:37 ID:FkPlUXh9
年末年始、忘年会や新年会など、宴会の多い時期ですね。
それでは、戦国時代の大名は、どんな宴会をしていたのでしょうか?

明応の政変で失脚した前将軍、足利義稙が、明応九年(1500)大内義興を頼って山口へと亡命してきた時、
義興は大歓迎をし、丁重にもてなしました。
どれほど喜んだか、義稙を屋敷に迎えた際の、歓迎の宴会でのメニューから見てみましょう。


初献
きそく(串物)、雑煮五種

二献
刺身、鯉子付、ひしくいの皮煎り、えび船盛り

三献
ちじみ鮑、鯉のいりもの、たこ

供御(お勧め料理)
鯉の焼き物、塩引、せわた、鮒なます

供御
塩、かどのもの(数の子)、干鯛、子うるか

二御台
鳥の焼き物、鮭の焼き物、刺身鯛、御汁

三御台
大かまぼこ、雁の皮煎り、貝あわび、御湯、たこ味噌焼き

四御台
こごり、しろうお、雁の焼き物、御汁、くらげ、ほや

五御台
鮒焼ひたし、御汁いるか、ふと煮

御菓子
まつき、けづり栗、昆布、みかん、ところ(山芋の一種)、あめ、串柿、くるみ、のり
まだ続きます

四献
小かまぼこ、鮒丸いりめ入、サザエ盛りこぼし、

五献
つのまた、三方せん、御添え物鵠(コウノトリ)生鳥

六献
刺身鱸、ひしお煎、あわび

七献
とっさか、まんじゅう、御添え物がざめ(わたりがに)甲盛

八献
小串さし鯛、はらか(鱒)の煎物、かせ(紫ウニ)

九献
ゆでにし、鶴煎物、かどの子(数の子)

十献
大根、蒸し麦、御添え物羽しきうずら
まだ終わらない
568人間七七四年:2008/12/27(土) 00:11:10 ID:FkPlUXh9
十一献
刺身ぶり、鮎の煎物、はまぐり

十二献
いわたけ、うんせんかり、御添え物かき

十三献
つべた、やまぶき煎、くるくる(鰤のはらわた)

十四献
鳥の足、海老羹、御添え物ふりこ

十五献
さしくらげ、エイの煎り物、まて

十六献
はる、羽ようかん、御添え物ほや

十七献
小串さし雁、雪魚の煎り物、からすみ

十八献
刺身こち、海苔からみ、いいだこ

十九献
こがし海老、つまかさね、羽ふしあえ

廿献
ほろす、寸金羹、御添え物こごり煮鮒

廿一献
刺身はまち、鴨の煎り物、はらこ

廿二献
さわらのせんばん焼き、あかほご(カサゴ)煎り物、たちばな焼

廿三献
い貝、ぶりの煎物、けづり塩引

廿四献
もみさざえ、つぐみ煎物

廿五献
刺身名吉(ぼら)、ほっけ煎物、しとと焼


やっとおわった(;´Д`)

これで一回の宴会分。大内義興が義稙をどれだけ重要視したか伝わってくるでしょう。
人間関係の基本は食事だとはよく言ったものです。
皆さんも年末年始の宴会、パーティなどでの暴飲暴食、気をつけましょうね。
569人間七七四年:2008/12/27(土) 00:11:43 ID:n225EvTA
竹に雀はないが、九曜は政宗忠興の友好関係っぽ
とてもプライベート臭を感じるのはこのスレのせいか
570人間七七四年:2008/12/27(土) 00:13:37 ID:n225EvTA
>568
こんな時間に腹の減るものをw
571人間七七四年:2008/12/27(土) 00:14:51 ID:wb5MTOG7
>>567-568
こんなに喰わせたら将軍が死んでしまうw
572人間七七四年:2008/12/27(土) 00:18:36 ID:jUTt7A6i
つ 本膳料理は手を着けるのはちょっとだけ 後は全部おみやげとして持って帰る

沖縄の宮廷料理とか
ケコーン式の引き出物で鯛や赤飯を持ってかえるのはこの風習の名残
573人間七七四年:2008/12/27(土) 00:18:48 ID:Kipu66Xe
一品一口分づつ出たとしても食い切れないだろ…。
574人間七七四年:2008/12/27(土) 00:23:06 ID:iGvMrfu1
年柄年中DQNの森、島津と比べると気持ちのいいDQN達だな
575人間七七四年:2008/12/27(土) 01:49:29 ID:bO8kXAO2
鬼武蔵関連の話で
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-780.html
の裏話、悪い話をひとつ

このときの進軍について、実は軍令で前進は禁止されていたようだがもちろんそこは鬼武蔵、当然軍令は無視
そこで信長から

森勝三(長可)、・梶原平八郎各不及談合、先々へ陣取之由
候、わかき者共候之間、此時盡粉骨名をも取、又我々へ
訴訟之たね等も可仕と存事にて可有之候、聊爾動無用之
由、度々申聞候、猶以可申遣候間、
何も令介杓、能々申聞候て、其動専一候
※約 森長可と梶原景久がそなたに相談もなしに前進した件だが
若い者たちであるから、この時に粉骨をつくして功名を上げ、又それを私に訴えるためだろう。
粗忽な行動をせぬよう度々申し聞かせたが、なお申しておく。
彼らの面倒をみてよくよく言い聞かせること、それが専一だ。

という書状が河尻秀隆に届いていたそうだ
その後、信長から手紙で絞られたとか
576人間七七四年:2008/12/27(土) 01:50:07 ID:bO8kXAO2
ところが当然鬼武蔵、そんなことはへのツッパリにもならずまた前進
さすがの信長も自分が来るまで待っておけという命令だったはずが
それを聞かない鬼武蔵にちょっとキレたらしく
再び河尻秀隆に書状で

一、森勝三(長可)、・梶原平八郎如言上、自此方も申聞候、
猶以同篇之由曲事候、先程も如申聞、わかきものにて
規模たてを仕、訴訟之種ニもと存事にて可有之候、
是も我々いまた無進発故候、城介堅申付候ハぬ事
沙汰之限候、如此之段も信長発足候者、不可及異
儀候、右如申其内只今陣取能々取堅、あとあと仕
置以下相急候て、可相待候、

※ 一、森長可と梶原景久の件は
そなたから言上のあった通りこちらからも、申し聞かせた。
しかしなおもって彼らが直らないのはけしからぬことだ。
先日も申し聞かせたように、あれら若い者たちで
功名を上げてそれを私に訴えるためにしているのだろう。
これというのも、私がいまだ進発していないからだ。
城之介(信忠)には厳命しているが、それがいつもの命令の限りだ。
このような一件も、私が出て行けば異論に及ぶことはないのだ。
右に申した様に、今は陣を張り、よくよく陣地を取り堅め
後に仕置きなどを急ぐことにし、私の行くのを待っておくことだ。

と宛てている
それでも、処罰されるどころかその後に功績が認められ
信濃を与えられるのだから信長の森家への寵愛ぶりがうかがえる

ソース ttp://www.geocities.jp/ukikimaru/ran/nagayosi1.html
577人間七七四年:2008/12/27(土) 01:58:35 ID:5UQbKB+f
鬼武蔵はさておき、信長の悪い話になってる気もする
578人間七七四年:2008/12/27(土) 02:19:06 ID:GKMyDxOt
>>567
基本魚介類なんだな。
つーか「御汁いるか」ってあの海のイルカ?イルカの吸い物なんて食ってたのか。
この頃からエイとかカニとかクラゲも食ってたんだな。ちょっと参考になった。
鶴はごちそうだったらしいけど、どんな味するのかなー。一度食べてみたい。
579人間七七四年:2008/12/27(土) 02:24:37 ID:wb5MTOG7
>>576
若干25歳にして川中島20万石だからなw

これを寵愛と呼ばずして何とする。
580人間七七四年:2008/12/27(土) 02:40:04 ID:bO8kXAO2
>>579
一応は対上杉の最前線だから実は信長も鬼柴田より
ノブ「それでも武蔵なら武蔵ならきっとなんとかしてくれる・・」
とか思ってたのかも
まあ、実際は一揆とかでgdgdだったみたいだけど
581人間七七四年:2008/12/27(土) 04:37:10 ID:10KCYVNY
>>557
本家当主が苦労してるのに、九度山の弟はナニしてたw
582人間七七四年:2008/12/27(土) 09:41:47 ID:Xc8TAYGB
真田紐の販売
583人間七七四年:2008/12/27(土) 10:38:22 ID:P8ld3lhv
ギシギシアンアン
584人間七七四年:2008/12/27(土) 11:26:58 ID:rkuc4IJf
弟と父のために身を粉にして、屈辱にも耐え、
嫁によるパワハラにも耐えてきたのに…
兄は空気で弟スーパーヒーロー、歴史評価というのは残酷なものよのう…

でもそんな兄貴が好きだw
585人間七七四年:2008/12/27(土) 11:55:44 ID:KYsVSV7c
>>584
弟君も兄上を敬愛していたはずたw
586人間七七四年:2008/12/27(土) 12:22:43 ID:kcJQIK6s
×敬愛
○たかり
587人間七七四年:2008/12/27(土) 14:31:36 ID:iGvMrfu1
兄は高給官僚、弟は夢見がちなプー太郎
親父はリアルニート…
588人間七七四年:2008/12/27(土) 14:32:56 ID:FkPlUXh9
そして妻は…
589人間七七四年:2008/12/27(土) 16:04:43 ID:KYsVSV7c
妻・・・
590人間七七四年:2008/12/27(土) 16:17:37 ID:tnLfcFo/
「兄貴www銀行残高0なんスけど・・・ちゃんと振り込んでおいてくださいよwww
 ボケ老人の介護俺に押し付けて大名になったんスからこんくらいしても当然ッスよねwww
 マジ頼んまスよwww尊敬してんスからwww」
591人間七七四年:2008/12/27(土) 16:21:48 ID:jUTt7A6i
このすれ「いい話」スレのはずだよな・・・(w
592人間七七四年:2008/12/27(土) 16:27:30 ID:kcJQIK6s
いい(人が苦労する)話
593人間七七四年:2008/12/27(土) 17:28:39 ID:nqD8OoWL
成り上がりものの心意気

豊臣秀吉が鎌倉を視察がてら観光したときのこと。
白旗の宮を訪ね、源頼朝の木像に向かいこう言ったという。

「小身から天下を平定し四海を手中にしたのは貴方とこのわしだ。
しかし貴方は多田満仲の御後胤で、
皇系を出ること遠くなく、源頼義、源義家は東国の守護であり、
諸人はみなその馴染みが深い。
その上、源為義、源義朝は関東を管領したから、
貴方が流人となっても、諸人は慕い尊ぶ。
だから兵をあげるや、関東はみな従い、天下統一は手間がかからなかったことだろう。
わしは、元々は卑賤の出で、氏も系図もない男だ。
だからこのように天下を平定したことは、貴方より、わしの功が優れている。
と、わしはこんなことも言ってはみるが、
しかし貴方とわしは天下の友達じゃ」

と木像の肩を叩いたという。
594人間七七四年:2008/12/27(土) 17:32:57 ID:6FosQ33E
>>593
へうげものにあったな
ソースがある話だったんだ
595593:2008/12/27(土) 17:41:56 ID:nqD8OoWL
>>594
漫画にも出てたんだね。
オレは実家にあった社会思想社という出版社が出してる「豊臣秀吉」の中の言行録で知った逸話。
一次資料から出たなどの確実なソースは不明。
596人間七七四年:2008/12/27(土) 17:54:32 ID:jv3qXlqK
>>584
こんな境遇じゃなかったら
兄者ももう少し長生きできたんだろうにね・・・
597人間七七四年:2008/12/27(土) 18:12:05 ID:toTaWoQs
>>595
>社会思想社
怪しいことこの上ない社名だなw

>>596
父 −10歳
弟 −10歳
嫁 −10歳
少なくともこの3人がいなければあと30年は生きられたはずだなw
598人間七七四年:2008/12/27(土) 18:32:54 ID:kcJQIK6s
30年プラスしたら徳本先生を超えるぞw
599人間七七四年:2008/12/27(土) 18:54:15 ID:xeD89ck1
どっちかというと息子と孫の方が寿命削った感じがするけどな
600人間七七四年:2008/12/27(土) 19:17:46 ID:u59zPmx/
なら息子と孫の分も入れてあと20年プラスかw
601人間七七四年:2008/12/27(土) 20:50:42 ID:gQPRa9TY
むしろ息子に振り分けろよw
602人間七七四年:2008/12/27(土) 21:01:05 ID:usfES8RX
>>601
一応、次男の信政は60過ぎまで生きてます
家督を譲られてすぐに亡くなりましたが当時とすれば充分に長生きです
三代藩主の幸道は信政の60間際の子
何故か幕府へ届け出がされていなかったそうでお家騒動が混乱した一因とも言われてます
603人間七七四年:2008/12/27(土) 21:04:35 ID:Kipu66Xe
なんか忍たまにいたなー。
父親がいつまでも元気で長生きで現役なので
息子が家督譲ってもらえなくてジジイになっても若様といわれてる殿様。
604人間七七四年:2008/12/27(土) 21:12:54 ID:n225EvTA
忍たまたまにみるとおもろいな。
605人間七七四年:2008/12/27(土) 21:54:57 ID:5KrrEOIb
続・王義之分割事件
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html の続き
ちょっと長くなります。失礼


1747年江戸城にて、熊本藩主・細川宗孝が旗本・板倉勝該に斬殺されるという事件が起きた

犯行動機はなんと人違い
上野安中藩主・板倉勝清と家紋が似ていたため起きた間違いらしい
(細川の家紋は九曜紋、板倉の家紋は九曜巴紋)

勝該は日頃から素行が悪かったらしく、本家筋にあたる勝清が自らを廃するのでないかと
勝手に思い込んだ勝該が、これを逆恨みして刃傷に及んだものだった

間違いで殺された細川宗孝はたまらない
なにせ宗孝には子供がおらず、その上殿中での刃傷沙汰は原則喧嘩両成敗であるため、
このままでは熊本藩は改易必至だったためである

そのとき、その場に居合わせた仙台藩主・伊達宗村は気転を利かせて
「まだ、息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」
と細川家臣に命じた

細川家臣は急ぎ宗孝の遺体を熊本藩邸に運び、弟の細川重賢を末期養子として幕府に届け出た
養子願いは無事幕府に承認され、熊本藩細川家は改易を逃れたのである
また、本来部屋住みの身で藩主になる目が薄い細川重賢だが、藩主になった途端に才覚を発揮して
当時困窮のきわみだったといわれる藩の財政を立て直し「肥後の鳳凰」と呼ばれるほどの名君となった


ここからやっと王義之の続き

細川家は感謝し、政宗と忠興が半々に分割して持ち帰った王義之の書の残り半分を伊達家に送った
実に155年ぶりの再会であった
また、王義之のみならず幕末の戊辰の役で賊軍となった伊達家の降伏を官軍に仲介したのも細川家である

子孫が常識人でよかったですね、というお話
606人間七七四年:2008/12/27(土) 22:10:01 ID:Gs3olX4p
子孫が常識人で良かったね、の前に内容自体そもそもいい話w

伊達と細川って、政宗と忠興の後になってもそんなやり取りあったんだな
幕末でも関係あるとは
607人間七七四年:2008/12/27(土) 22:16:18 ID:FkPlUXh9
>>605
いい話だわー

>>606
戦国時代や徳川初期に結んだ関係が、幕末にまで影響を与えたと言えば
島津と近衛家とか毛利と越前松平家とか、実はけっこうあるよね。
608人間七七四年:2008/12/27(土) 22:39:24 ID:ZW/kaqPk
王義之の書といえば中国の一見優等生DQNこと唐太宗李世民が、
王義之の子孫から蘭亭序の原本だまし取った挙げ句に
その原本を自分の墓に一緒に埋葬しちゃったことでも有名だよね。

DQNと不思議な縁で結ばれてるのだろうかw
609人間七七四年:2008/12/27(土) 22:50:11 ID:lrU6IPGz
>>605
殿中での刀傷沙汰は喧嘩両成敗と言うが、
先に手を出した方しか処分されてないことがほとんどなんだよね。
だから、忠臣蔵で有名な吉良上野介がおとがめ無しなのも、
実は先例通りの処分だったりする。

加害者  豊島刑部少輔明重(目付)
被害者  井上主計頭正就(老中 横須賀城主60000石)
 豊島家〜嫡子主膳正継重切腹、豊島家断絶
 井上家〜お咎めなし

加害者  稲葉石見守正休(若年寄 下館城主12000石)
被害者  堀田筑前守正俊(大老 山形城主110000石)
 稲葉家〜断絶
 堀田家〜お咎めなし

加害者  浅野内匠頭長矩(勅使院使御馳走役 赤穂城主53000石)
被害者  吉良上野介義央(旗本 高家肝煎 4200石)
 浅野家〜断絶
 吉良家〜お咎めなし

加害者  水野隼人正忠恒(松本城主70000石)
被害者  毛利主水正師就(長門長府藩主50000石)
 水野家〜改易、家名存続
 毛利家〜お咎めなし

加害者  板倉修理勝該(旗本 7000石) 
被害者  細川越中守宗孝(熊本藩主 540000石)
 板倉家〜断絶
 細川家〜お咎めなし

加害者  佐野善左衛門政言(旗本 新番組番衆 500石) 
被害者  田沼山城守意知(意次の嫡子 若年寄 役料5000俵)
 佐野家〜断絶
 田沼家〜お咎めなし
610人間七七四年:2008/12/27(土) 23:20:11 ID:cZKpVEUn
元禄事件で綱吉は「襲撃に対して吉良は刀を抜いたかどうか」を確認した上で、
浅野の切腹と吉良のお咎めなしという裁定を下している。
片手落ちの裁断、なんてのが講談のでっちあげだということ。

さすがに喧嘩・私闘沙汰と殺人はちゃんと分けるわな。
611人間七七四年:2008/12/27(土) 23:23:56 ID:LAq2v38b
喧嘩両成敗の前に江戸城で刀抜く事自体が幕府に対する謀反扱いだろ
612人間七七四年:2008/12/27(土) 23:30:32 ID:FkPlUXh9
ただ、>>609の例の中で、浅野の件だけが「未遂」で終わってるのね。
他はみんな被害者は殺されている。
未遂で済んだ事件の量刑として、お家断絶は行き過ぎだ、っていう不満が
赤穂浪士事件につながる訳だ。
613人間七七四年:2008/12/27(土) 23:38:09 ID:wb5MTOG7
不満が有るなら綱吉か吉保を切ればいいのに
614人間七七四年:2008/12/27(土) 23:44:19 ID:FkPlUXh9
>>613
幕府に手を出したら、赤穂浪士の行動は筋が通らないのよ。
あれは、不当量刑のバランスを取るための行為だから。

簡単に言えば当時の人間の意識では

・殿中で抜刀+傷害 = 当人切腹+領地転封 or 削減(家自体は存続)

このくらいがバランスの取れた量刑なわけなのですよ。
だが、実際には

・殿中で抜刀+傷害 < 当人切腹+「御家断絶」

こうされた。これに対して量刑のバランスを取るために

・殿中で抜刀+「致死」 = 当人切腹+「御家断絶」

こうしたってこと。

これは室町から戦国時代にはごく一般的な意識で、家同士の紛争があった場合
双方の「被害」を同じにするため、被害が少ないと見られた家からわざわざ「解死人」と呼ばれる、
事件と全く関係のない第三者が差し出されて切腹、なんて事までやった。

こう言う意識がまだギリギリ生きていたのが、綱吉の時代なのですよ。
615人間七七四年:2008/12/27(土) 23:54:00 ID:wb5MTOG7
屁理屈だなぁ。

量刑の不満を討ち入りで釣り合いを取るのが正当だなんて言い分まかり通るかよw
616人間七七四年:2008/12/28(日) 00:00:37 ID:xv/zPGOg
>>615
でも、浅野家再興が完全に断念されてから襲撃、と言う流れからいっても、
そう言う意識で、あの討ち入りがあったと考えたほうが自然だと思うよ。
そして当時の侍から町人まで、あの襲撃を「義挙」と称えたのは、「法のバランスを取った」と
広く受け止められたため。だと考えます。
617人間七七四年:2008/12/28(日) 00:03:24 ID:meHTHWy1
でも まかり通ってしまったって訳で

618人間七七四年:2008/12/28(日) 00:17:48 ID:6Qn4DNBH
津本陽なんかは、赤穂浪士は、綱吉の時代に至ってなを戦国武士の気質を持っていたと絶賛している。
津本陽いわく「戦国武士は義理の死はせねど情の死はする」
領地をくれたなどの義理には死なないが、心底男として惚れた主のためなら死をいとわない。
逆に言えば、気に入らない奴をやっつけるためなら命もいらない!という気風だと言っているね。
619人間七七四年:2008/12/28(日) 00:24:49 ID:Qoev2pa3
どうも講談臭くて好かん、忠臣蔵は。
鬼武蔵みたいなのならともかくジジイをよってたかって斬りに行っただけだもの。

イイハナシダナー(棒)
620人間七七四年:2008/12/28(日) 00:27:07 ID:xv/zPGOg
>>618
正直津本陽は「室町時代」をあんまり知らないから、戦国時代の評価も斜め上になっているきらいがある。
室町期の紛争とその裁判を調べれば、赤穂浪士のアレは義理とか情とか以前に、日本の古い法慣習である
罪罰同等の意識から生まれたものだと理解できると思うよ。
621人間七七四年:2008/12/28(日) 00:31:50 ID:wUbUX7ME
>>612
水野事件も生き残ってるよ。
まあそのおかげでお家断絶にはならなかったみたいだけど(´・ω・`)
622人間七七四年:2008/12/28(日) 00:31:55 ID:xA6DUWLH
>>607
青森なんか、いまだに仲悪いんだろ?
津軽と南部で
623人間七七四年:2008/12/28(日) 00:42:01 ID:2nHQP2mW
会津と長州ですね分かります。
624人間七七四年:2008/12/28(日) 00:45:29 ID:wxTPom9w
流れ流れて現代。
長州(山口?)「百年ちかく前のことなのでそろそろ水に流しませんか」
会津「まだ百年しか経ってません」

っていう話があったって聞いたことあるけど、これ本当なのかね。
625人間七七四年:2008/12/28(日) 00:47:37 ID:xv/zPGOg
>>623
それは幕末でw

戦国時代の事で嫌われたと言えば、四国では土佐が、他の三県の住民からは忌み嫌われたらしい。
まあ侵略者(しかも失敗した)だからしょうがないけど。

そういえば細川と黒田も酷かったらしいねw
626人間七七四年:2008/12/28(日) 00:49:44 ID:Qoev2pa3
浅野長政と伊達政宗の仲の悪さはガチ。
朝鮮出兵で補給担当の浅野長政が伊達隊にだけ補給しなかったり。

おかげで浅野家と伊達家は平成6年まで絶交状態でしたとさ
627人間七七四年:2008/12/28(日) 00:53:42 ID:PyE75KIO
>>616
当時の庶民に受けたのは「法のバランスを取った」ではないような…
徳川綱吉の治世にウンザリしていたから判官びいきも手伝って
幕府の裁定に実力行使で抗議した討ち入りに喝采を送っただけの事だと思う。
628人間七七四年:2008/12/28(日) 00:57:48 ID:67dbIF5k
>>624
被害者の感覚ってそういうもんなんじゃない?
何年経ったから水に流すとかそういう話じゃない、みたいな
629人間七七四年:2008/12/28(日) 00:57:49 ID:xv/zPGOg
>>624
> 長州(山口?)「百年ちかく前のことなのでそろそろ水に流しませんか」
> 会津「まだ百年しか経ってません」
>
> っていう話があったって聞いたことあるけど、これ本当なのかね。

長州は萩出身の俺が来ましたよ。

高校の時市の方で「そろそろ和解しようか」って会津若松のほうに働きかけてた時、
会津若松の高校の生徒会からウチの高校に

「戊辰戦争についてどう考えているか」

ってアンケートがやってきて、途方に暮れたのはいい思い出。

「会津若松の旅館に泊まったとき、萩の人間だとわかると追い出された」
「会津若松の人と文通していたら、住所で萩の人間だとわかって親に止めさせられた」
なんて話も伝わってました。

あと、萩の人間にとって危険(笑)なのは、会津若松市だけで、福島県でも会津若松以外は
普通に接してもらえる。と言う事も伝わっていましたよw

ずいぶん昔の話だけど、今はどうなっているんだろ?
630人間七七四年:2008/12/28(日) 01:00:39 ID:6Qn4DNBH
>>620
確かにそうゆう側面もあるだろうね。
でもさぁ、四十七士すべてが法的な妥当性を考えた上での行動だとは思えないな。
講談的な話になるけど堀江安兵衛みたいな激情家がいなければ、
幕府の裁定に歯向かうような真似は実行まで行かないと思うんだよね。
そして激情家だけでは成功しない事を、
大石内蔵之助を担ぎ上げたことで成功したと個人的には思うんだけど、
ロマンチックすぎかな?
631人間七七四年:2008/12/28(日) 01:13:32 ID:wxTPom9w
>>629
会津は「会津藩」だもんなあ<福島
というか現代会津の徹底ぶりがすごすぎるw
会津の立場からすれば「和解を持ち出すなら、こちらからが筋のはず」とかもあるのかもね。
幕末の流れから考えると、今の下北(斗南藩)のあたりも長州嫌いなはずだけど、どうなんだろ。

戦国いい話から逸れたので、それに関する話題というか疑問でも。
先祖のおかげで家同士仲が良い、遺恨があって国(藩)ごと仲悪い、家同士仲悪いは出てきたけど
国(藩)ごと仲良い、友好的っていうのは、支配者である大名の改易とかお家断絶とかのせいで
あんまりなかったんだろうか。
トルコが日本好き、とかああいう感じの。
632人間七七四年:2008/12/28(日) 01:26:26 ID:ZZD55PmX
一方現代では小西行長を祖先にもつ俳優が加藤虎之助と名乗っていたのであった。
633人間七七四年:2008/12/28(日) 01:33:37 ID:PyE75KIO
>>632
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E8%99%8E%E3%83%8E%E4%BB%8B
ホントだw
まあ何を名乗ろうが個人の自由なわけだけど
よりにもよって宿敵加藤虎之助を名乗るのはな…
先祖の禍根なんて子孫にとっては知ったことか!なんだろうけど、
俺がもしも先祖が小西行長だと知ったらそれを誇りに思って芸名を小西にするよ。
634人間七七四年:2008/12/28(日) 01:58:06 ID:CizWmuDW
長篠の戦いの数年後、遠江国高天神城を家康が攻めた時のお話

城主岡部丹後守長教以下僅か数百名の将兵達はよく持ちこたえていたが、武田勝頼からの援軍は来ずいよいよ落城の時が迫っていた。
そしてある夜、長教から家康へ1通の書状が届いた。

その内容は「最期に城兵の見えるところで、幸若太夫の舞を演じてもらえないか」というものだった。
家康はこれを承諾し、陣中にいた幸若舞の名手に舞を演じさせた。

それから数日後、長教以下全将兵は城を打って出、全員壮絶な討ち死にを遂げたと言う。(落穂集)
635人間七七四年:2008/12/28(日) 02:01:46 ID:xv/zPGOg
>>634
これは確か長教が、攻め手の徳川方に幸若舞の名手がいるって事を知っての上で頼んできたんだよね。
与三太夫だったっけ?
636人間七七四年:2008/12/28(日) 02:17:31 ID:2nHQP2mW
この城将岡部は桶狭間で討たれた義元の首を信長から取り戻した
武勇伝を持つ人でもあるんだな。
637人間七七四年:2008/12/28(日) 02:20:11 ID:K49GdaWf
鳴海城=義元の首
の話だっけ?
638人間七七四年:2008/12/28(日) 03:55:45 ID:TUZTmUZW
>>625
その土佐(高知県)の中でも長浜地方=今の高知市周辺、高知中部
安芸郡=安芸や室戸、高知県東部
幡多郡=中村(四万十)や土佐清水や高知県西部

と、いまでも微妙に気風が違うのな。特に幡多は一条御所様つって長宗我部の旧主が居たから・・・

幕末も山内家以来の上士と、長宗我部やそれ以前からの郷士でえらい壁があったりしてこれはまだ分かるんだが
639人間七七四年:2008/12/28(日) 09:55:59 ID:ZxDvoxgP
>>631
逆に負けたはずが人がよすぎるのが庄内藩。
西郷隆盛が寛大な処置をしてくれたので神社まで建てる。
西南戦争でも西郷側に加勢した。
しかもなぜか庄内藩は幕末はハッスルして、官軍を東北で唯一フルボッコにし、
秋田を涙目にさせている。藤沢周平の海坂藩のモデルだが、あいつらつえーぞw



まあでもその、会津に縁のある人間から言わせてくれ。
会津は明治の間中、要職から閉め出しくらったり、
タダで土木工事に従事させられたり、戊辰戦争以外でもいろいろいやな目にあっている。
山田風太郎の明治ものでも読んでみてくれ。まあ会津も長岡あたりで
外道行為しているからえらそうに言えたもんじゃないが。

あとうちの若松市内高校が萩市と友好交流していたなあ。
市内でも薩長どうこういうのは今じゃ結構笑いものだ。
高校時代の先生も司馬遼太郎の薩長もの愛読者だったし。
まあひとそれぞれだ。
640おんな風林火山(会津擁護風)1/3:2008/12/28(日) 11:04:19 ID:MbNrSfYe
天正10年(1582)2月、武田勝頼の従兄である穴山梅雪(信君)が信長に黄金二千枚を贈り、
織田家に通じた。一門筆頭の裏切りにより国人衆が次々に離反。勝頼の弟・仁科盛信らの
奮戦も空しく、同年3月、織田信忠の軍勢の前に甲斐武田宗家は滅んだ。

これに先立ち、盛信は信忠の婚約者でもあった妹・松を、関東に脱出させた。
勝頼の娘・貞、盛信の娘・小督、小山田信茂の娘・香具を連れた松は、八王子に逃れる事に
成功。この地で兄たちの討死の報を聞くこととなる。

その後、松は奇妙な話を聞いた。武田を滅ぼした織田信忠だが、婚約を解消した松を未だ
求め、嫡子・三法師の生まれた今も正室の座を空けていると言うのだ。

「そこまで、この私を愛して下さるのなら・・・」松はわずかな供を連れて尾張まで行ったが、
そこで彼女が聞いたのは、本能寺の変で信忠が二条城に散ったという知らせだった。

八王子に戻った彼女は、出家して寺子屋や機織りで生計を立て、兄たちの遺児三人を
立派に育て、貞は鎌倉公方の子孫・宮原義久へ、香具は磐城平藩主・内藤忠興へ、
自分を慕って出家した小督の他は、しかるべき家に嫁がせている。

尼となった松の法号は『信松院』という。『信』の字は信玄からか、それとも信忠からか。

いっぽう、裏切った穴山家に見返りなどなかった。
一門筆頭でありながら真っ先に裏切り、長篠でもいち早く離脱した梅雪は「卑怯者」と
陰口を叩かれ、あげく本能寺の変後、家康を疑い別行動をとった結果、土民に討たれた。

追い討ちをかけるように嫡男・信治も早世し、穴山家は断絶。梅雪には信玄の次女が
嫁いでいたが、夫と息子に先立たれた彼女もまた出家。『見性院』と名乗り、家康の保護を
受け、のちに江戸城は田安門内・比丘尼屋敷に住まうことになる。

こうして亡国の姫君たちは、世をはばかり、細々と生きて行った。
641おんな風林火山(会津擁護風)2/3:2008/12/28(日) 11:05:34 ID:MbNrSfYe
南無氷川大明神
(中略)
ここにそれがし卑しき身として、太守の御想い者となり、御胤を宿して当四五月のころ
臨月たり。しかれども御台嫉妬の御心深く、営中に居ることを得ず。
今、信松禅尼のいたわりによって、身をこのほとりに忍ぶ。
(中略)
それがし胎内の御胤、男子にして安産守護したまい二人とも生を全うし、御運を開くことを
得、大願成就なさしめたまわば、心願のこと必ず違い奉るまじく候なり。

この哀しい誓願を立てた女性、お静は「大姥局」と呼ばれる徳川秀忠の乳母だった女性の
侍女だったが、それが縁で秀忠の目に止まって寵愛を受け、懐妊したと言われる。

だが、秀忠の正室・お江与はこれを許さなかった。秀忠は一生、正式な側室を持てなかった
ほどである。江戸城を追われることになったお静は、かつての上司・大姥局に泣きつき、
大姥局は同じ比丘尼屋敷に住む縁で、見性院を頼った。

見性院は八王子に住む妹・信松院にお静の保護を依頼。上記の誓願文は信松院とお静が
見性院の知行地である武蔵大牧村を訪れた時に奉納したと思われる。願いが届いたか、
慶長16年(1611)5月、お静は無事男子を出産。『幸松』と名づけられた。

しかし、やがてこれはお江与の知るところとなり、見性院のもとへ詰問の使者が訪れた。
秀忠が公的に幸松を認知していないのを良いことに、「素性の分からぬ子を預かるな」
というのである。 「そうですねえ…」 この難クセに、見性院は答えた。

「いかにも左様なり。さりながら、預りたる訳にてはなく、我ら子供にせよとの事にて
ふつともらい切たるなり。つつがなく成人の後は武田の名字に為し、我らに賜りし少しの
知行も譲り、跡をも弔われんとの心組みなり。たとえ御台所より如何なる難事申さるるとも
一度見性院が子になしたる人の事なれば、離さん事は思いも寄らざる!」

信玄の娘、戦国武将の妻の威に打たれた使者は、顔を真っ青にして引き上げた。
642おんな風林火山(会津擁護風)3/3:2008/12/28(日) 11:06:29 ID:MbNrSfYe
元和2年(1616)4月、信松院が幸松の行く末を案じつつ、死去した。享年56歳であった。
その魂は、信忠のもとへ行けたであろうか。

妹に先立たれた見性院は、いよいよ幸松の身を案じた。世情不安の折、姉・淀殿の説得に
当っていたお江与も、大阪の陣が終わった今となっては手空きとなっているはず。
あの詰問以来、何も行ってこないがそれだけに実力行使に出る恐れもある。

見性院は身を切る思いで、今日まで育てた幸松をしかるべき者に預けることに決めた。
自分への敬意を忘れず、御台所を敵に回す気骨を持ち、養子を受け入れてくれる者に。

『槍弾正』保科正俊の孫、保科正光は武田因縁の地・高遠2万5千石の大名で、実子がなく
盆暮れに見性院へのあいさつを未だ欠かさぬという、この話にうってつけの男だった。

翌元和3年早春に話を聞いた正光は、
「誠に恐れ多きこと。ならばせめて内々にても、上意をたまわれば謹んで承りまする。」

と言い、実際に秋にはどのように幕閣を動かしたか、秀忠のお墨付と幸松の養育費として
5千石をもぎ取っていたから、『表裏比興の者』 信州侍のしたたかさはあなどれない。
こうして11月、幸松は保科家に引き取られ、お江与の手の届かぬ信州高遠へと旅立った。

「父上、勝頼殿、盛信殿、松…私は…武田は勝ったのです…将軍御台所との女いくさに…」

折々の便りで幸松の成長を見届けた見性院は元和8年5月、波乱の生涯を閉じた。

生みの母と育ての母二人、三人の母の愛を受けし幸松こそ、幕藩体制の完成者、
会津松平家始祖・保科正之である。彼は家光より松平姓を授かったが、養父母の
恩義の大なるをもって、その一生を保科姓で通した。 (千載之松)

さいたま市緑区大牧・清泰寺。かつての自身の知行地に信玄の娘の墓所はあり、
毎年5月、旧会津藩士の子孫が、今も厳粛に彼女たちの法要を行っている。
643人間七七四年:2008/12/28(日) 11:33:06 ID:FL487Q0X
いい話だけど長い
644人間七七四年:2008/12/28(日) 11:44:40 ID:joXbTheT
いい話だ。
信玄の娘たちは皆波乱万丈の生涯だね。
その中では景勝に嫁いだ菊姫が一番安定してたかな。人質生活は長いが…。
645人間七七四年:2008/12/28(日) 11:45:51 ID:qCjVwgRK
こんぐらいで長いとか言うなよ。
どんだけ活字読みなれてないんだよだよ。
646人間七七四年:2008/12/28(日) 11:46:33 ID:92ouJF0D
横書きだと読みづらいってのはあるかもね
647人間七七四年:2008/12/28(日) 12:01:18 ID:xqSVRLMC
長いけどいい話だ
648人間七七四年:2008/12/28(日) 12:08:08 ID:Qoev2pa3
いい話は長くてもイインダヨ
649人間七七四年:2008/12/28(日) 12:38:28 ID:O4FZVo/f
薩摩の人間だが会津絡みのイザコザ話はdと聞いたことが無いな
宝暦治水での岐阜との繋がりは幼少の頃に教わる
公民館なんかの神棚に薩摩義士の木牌なんかがそこかしこに置いてあった
650人間七七四年:2008/12/28(日) 12:55:41 ID:Za75Dqjn
>>640-642
大 河 ド ラ マ 化 決 定
ていうか10年位前から会津と高遠でNHKに呼びかけてるが
未だ実現に至らず。宮下親子の力で何とかならんかな。
651人間七七四年:2008/12/28(日) 13:21:09 ID:xqSVRLMC
甲州武士は旗本の大勢力。信濃武士も譜代大名での一勢力
いい所に目を付けたのかもね
652人間七七四年:2008/12/28(日) 13:45:09 ID:P2mZPcuF
>>649
西南戦争で攻めたんでとりあえず仇は雪いだ扱いになったという話を聞いたことがあるな。

まぁそれ以前に抗争してた年数も違うから恨みの度合いも違うんだろうけど
653人間七七四年:2008/12/28(日) 14:59:13 ID:yAhOZsng
松姫の物語は、昔大映がドラマ化してたな。
主題歌が洋楽の日本語カバーだった。

お江与は怖い女で通ってるが、茶々とどっちが恐ろしいだろうか。
654人間七七四年:2008/12/28(日) 15:13:34 ID:xv/zPGOg
>>653
茶々は怖いって話は、講談の類以外では伝わらないね。
どうも実態としては、どちらかと言えばおとなしい、まわりに流されるタイプの女性だったようで。
655人間七七四年:2008/12/28(日) 15:27:55 ID:m7/IHqh4
>>644
一応景勝は最初は菊姫を人質に出さずに甥を出してるから
人質生活してた期間より越後で結婚生活してた期間のほうがだいぶ長い、
最後も夫と弟が傍にいる状態で亡くなってるし他の姉妹よりかなりマシ…。
656人間七七四年:2008/12/28(日) 15:33:12 ID:z5VTXpja
>>154
義姫「私もね」
小松殿「私も」
甲斐姫「私も〜」
市松の嫁「私もよ」
657人間七七四年:2008/12/28(日) 15:35:52 ID:/nAIdePD
>>656
あんたらが言うなw
658人間七七四年:2008/12/28(日) 16:10:49 ID:MyyPcZhH
お江与って、別の秀忠落胤を灸をすえて殺したという風聞があったな…

そう考えると浄高院が一番まともなのかw
659人間七七四年:2008/12/28(日) 16:16:33 ID:N+T39Fya
「おんな風林火山」の松姫は鈴木保奈美だったな。
見性院は岡田奈々w
660人間七七四年:2008/12/28(日) 16:35:03 ID:+Sg/7Pwo
>>655
その弟も、信玄の息子のなかでは、唯一天寿を全う出来た人なんだよね。
661人間七七四年:2008/12/28(日) 20:23:09 ID:qDq8PQwh
>>614
ちょいまて。元禄事件の被害者は吉良で、加害者は浅野だろ。
そして討ち入りというのは、加害者側が被害者側をさらに襲撃したというシロモノだ。
幕府の裁定に異論があるのなら幕府に対して行うべきで、なんで事件被害者をさらに
痛めつけなければならんのか。そんな理屈、室町にだってないよ。

大石たちの言い分は、ボスがタマとろうとして果せなかったら厳罰をくらった、
腹の虫が収まらないからボスがとりそこねた相手をヤったる、というもので、
完全にヤクザの理屈だ。
662人間七七四年:2008/12/28(日) 20:31:58 ID:8wcxw8gy
>>661
>元禄事件の被害者は吉良で、加害者は浅野だろ。
元のレスでもそう書いているように見えるが…?
ていうか、どの解釈が妥当とかはともかくあんた一連のレスちゃんと読んでるか?
663人間七七四年:2008/12/28(日) 22:53:25 ID:LTpbX4Vf
いつまでも蒸し返すなよ。日本史板でやれ。
664人間七七四年:2008/12/28(日) 23:28:20 ID:xv/zPGOg
今敦盛

永禄七年正月、北条氏康、氏政親子と里見義弘の、鵠台合戦でのこと。

この戦は北条方の大勝となり、敗走する里見方への追撃戦が行われた。
北条の武将、松井康吉は軍に先立ち駆けていると、戦場に踏みとどまり矢を射掛けている
里見の武将を発見した。

「なんとけなげな、天晴れな大将よ!」

康吉は彼に挑戦をすると、その武将も受け、馬上で組討になったが康吉のほうが強く、組み敷いて
馬から落とした。そうして首を取ろうとその武将の顔を見ると、

それは、まだ幼さの残る、花の様な美少年であった。

康吉は戸惑い、どうにかこの少年を助けたいと思ったが、既に味方の大軍が追いつき
雑兵たちも首を取ろうと群がってきたため、しかたなくこの少年の首を落とした。

この少年は里見の一族で、この歳15になる、長九郎弘次という者だと言う事が、後でわかった。

戦の後、康吉は空しさに包まれた。
「朝には紅の美しい顔立ちをしていても、夕には白骨と化してしまうのか。」

世の無常を感じた康吉は、そのまま帰国せず寺に入り、「浮世」と名を改め、ただひたすらに
弘次少年の成仏を祈る生活に入った。

人々はこの話を聞き、「源平の時代に熊谷直実が平敦盛を討って、世をはかなみ武士を捨て
仏門に入った話は聞いたことがあるが、今の世にもこのようなことがあるのだな。」

と、涙したと言う事だ。
665蓮如の「お文」:2008/12/29(月) 00:01:16 ID:yw+i+xaq
>>664
>朝には紅の美しい顔立ちをしていても、夕には白骨と化してしまう

一向門徒かと思った。
666人間七七四年:2008/12/29(月) 00:37:40 ID:wEkevAin
白骨の章だっけ。そういえばうちももし戦国であれば一向門徒として
一揆に加わっていたかもしれないな。
667人間七七四年:2008/12/29(月) 00:50:27 ID:vjEu8BUT
さすが>>666だな
668人間七七四年:2008/12/29(月) 08:16:14 ID:vXHMkLtl
>>639 会津って長岡で何やったの?
長岡出身者ですがググっても分かりません、教えて下さい(もしかして酷いことしたの?)
669人間七七四年:2008/12/29(月) 08:21:32 ID:uKstFnf7
>>668
長岡だったかはうろ覚えなんだけど、進軍先(地元含む)では
撤退時に焼き払ったりかなり恨まれることをやってます。
山田風太郎の明治ものだと、会津、薩長、会津の被害者と
三つどもえになっていたりする。
670人間七七四年:2008/12/29(月) 13:13:15 ID:Xv/k9UTM
>>655
一番ズ太そうなのは見性院な気がするけどな
671人間七七四年:2008/12/30(火) 13:12:59 ID:2rAdctml
有名かもしれないけどまとめブログになかったので
本多忠勝のかわいい話。

その勇猛は天下無双と称えられた平八郎忠勝だが、文武両道とはいかず
無学文盲に近かった(by海音寺潮五郎)
あるとき家康に召抱えられた林大学頭羅山に尋ねていわく、

忠勝「林さんて学者なんだよね」
羅山「左様でございますが」
忠勝「それじゃあ、林さんと天神さまとどっちが頭いいの?」
羅山「(苦笑)」
忠勝「なんだよお!」

忠勝「…って尋ねたら、笑うだけで教えてくれないんですよ。実際どっちなんですか?」
家康「(苦笑)」
忠勝「なんだよおお!!」

天神さま(菅原道真;言わずと知れた学問の 神 様 )と大学頭をひと括りにカテゴライズする
素敵な思考の持ち主でありました。
実話なら羅山も家康も馬鹿にして笑ったんじゃなくて、微笑ましく思ったんだろうけどね。
672人間七七四年:2008/12/30(火) 13:51:24 ID:DHDLdsKy
死にともな まだ死にともな 死にともな 御恩を受けし 君を思えば
673人間七七四年:2008/12/30(火) 13:55:53 ID:07pu3Pg/
忠勝は勉強嫌いなのか。
674人間七七四年:2008/12/30(火) 14:09:24 ID:StVgZ8h1
>>671の話読んでのイメージは、勉強嫌いっていうよりも
勉強できる人=すげーっていう尊敬をもってそうな気がするな
そうじゃなきゃ神様のことを引き合いには出さないだろうし

学者=頭良い=頭が良いと言ったら天神→どっちすごいの?
っていう、武人っぽい「どっち強いの?」的な比較が頭の中に出来てそうだ
675人間七七四年:2008/12/30(火) 15:45:18 ID:xyM0GA8r
>>672の忠勝の辞世を見ると同じ武骨な武人でも柴田勝家は随分教養があったんだなと思う。

勝家の辞世いいよね。
676人間七七四年:2008/12/30(火) 15:54:26 ID:EsmT+6M8
辞世の句は三七郎様のがガチw
677人間七七四年:2008/12/30(火) 17:03:45 ID:07pu3Pg/
三河武士の中で一番教養あるのたれかな。
678人間七七四年:2008/12/30(火) 17:07:00 ID:cWX7dV9T
>>676
源義朝の最後にかけとるしな

>>671
内政手腕は立派にあるんだがなw
まぁ、文字を書けるのと人間を使いこなす器量は別ともいえるが…
679人間七七四年:2008/12/30(火) 17:19:35 ID:w0un0+8w
>>677
前に「怪傑大久保彦左衛門」って新書で読んだけど
三河物語で有名な大久保彦左衛門なんかは書く文章自体
こなれてるっつーか漢籍とかも読んでる感じがするらしい
母親が京の公家の娘だから子供のころから教養もあっただろうとのこと
なんと本人直筆「源氏物語絵巻写本」が残ってるとか
たしか勝海舟の蔵書(ちょっと前に鎌倉期の写本とかってニュースに
なってたけど勝海舟って源氏物語好きだったのかね)
見た人によると「下手だけど気骨が感じられる絵」だとか
……どんな源氏だよw
俺は前にジャンプでやってた世紀末リーダー伝たけしみたいなのを
想像してしまったんだがw
680人間七七四年:2008/12/30(火) 17:27:50 ID:/eVAnowW
忠勝テラKAWAEEEEEEEE
681人間七七四年:2008/12/30(火) 19:12:04 ID:b2RNYgii
>>679
源氏物語の例えに児童買春で捕まったしまぶーを引き合いに出すとは・・・
気骨の感じられるレスだな!
682人間七七四年:2008/12/30(火) 19:23:28 ID:93I83VN6
今、テレ朝でオカルト特集してるな。家康がUMAがでたとの報告を
受けると、そんもんほっとけと言って、無視したらしいな。
信長なら絶対、捕まえさせて自ら検分したのに。常識人はつまらん。

683人間七七四年:2008/12/30(火) 19:29:55 ID:KCI60VLd
忠勝かわいいいいいいいいいいwwww
684人間七七四年:2008/12/30(火) 20:37:21 ID:lawy2KRU
>>677
板倉勝重
685人間七七四年:2008/12/30(火) 22:23:14 ID:W7Kf2nLi
>>682
その番組は見てなかったが、肉人の話かな
686人間七七四年:2008/12/30(火) 22:45:18 ID:vQ9uwAzW
>>685
マンガで読んだことあるなーと思って読み直したら確かに家康が駿府の城にいた頃ってあった
そんなこと言ったんだ
ある意味一番正しい対処みたいな気がする
687人間七七四年:2008/12/31(水) 00:28:14 ID:9kx5Muhy
駿府にいたころというと、肉人の話だなw
「食えば長寿によかったのに」云々というけど、そこで
「わけわかんないし、捨てちまえ」という反応するあたり家康らしい気もする
688人間七七四年:2008/12/31(水) 00:36:31 ID:TofpZGwC
>>687
昔、災害、例えば地震がが起こった時、江戸以前はその原因を、「○○の祟りだ」
「○○の霊が怒っている」みたいな感じに、結構なインテリでもそう想像しているんだけど、

江戸期になると大地震が起こった後、町人の日記とかですら、「地下水のくみ上げすぎが原因じゃないか?」
なんて風に書き残すほど、自然に対する意識が物凄い変化した、って話を思い出した。

単純に学問の普及もあるんだけど、時代の創始者の家康の、こういうキャラクターも一因なのかもねw
689人間七七四年:2008/12/31(水) 05:03:45 ID:hdnF34KC
いい話というか弱小大名の生きる術を

上野国に由良成繁という戦国大名が居た
元は(新田)金山城主の若松氏の家臣であったが、
若松氏を討ち果たし、城を占領して下剋上でのし上がった戦国大名である
しかし周りには上杉氏やら古河足利氏、
一たび西を向けば武田氏で南には北条氏と
周囲を強敵に囲まれて大変苦しい状況だった
そこで成繁は上杉氏に従い、領土を維持していたが
謙信は関東の諸大名がしきりに越山を求めているのに
中々これに応じようとはしない
例え了解して遥々三国峠を越えて越山してもとっとと帰ってしまう
次第に関東の諸大名・豪族は上杉謙信に失望してゆき、
また由良成繁もこの中に漏れなかった
やがて成繁は上杉謙信を見限って北条氏に属すようになった
それに大激怒したのが当の裏切られた上杉謙信
成繁の治める金山(かなやま)城は重要な要衝で、
当の謙信も成繁のことを信頼していたため、
本当に成繁が北条方に寝返ったのか、何度も佐竹に情報の正誤を
確認する書状を送っている

しかし上杉を見限ってよいよ北条に味方した成繁ですが、
もしも上杉謙信が再び関東に越山して真っ先に狙われるのは自分
以前自分と同じように上杉を見限って北条に属したすぐ近くの佐野氏も、
居城の唐沢山城を謙信に攻撃されて幾度と無く窮地に陥っています
なんとか謙信の目を自分以外に向ける方向はないか…
成繁はしきりに思案します
そしてしばらく経った後、関東に激震が走ります
長年敵対してきたあの上杉謙信と北条氏康が手を結んだのというのだからさあ大変
勿論この同盟の締結に手を尽くしたのは成繁
「敵として狙われるなら、味方になればいいじゃない」
の如くこの同盟の締結のために東西奔走し巧みな外交手腕で見事実現に至らせることができます

その後由良氏は周囲を強敵に囲まれながらも御家をなんとか存続
御家は明治維新まで士族としてちゃんと続いていったんだそうな

※ちなみに三男の渡瀬繁詮は三好秀次に仕えて遠江横須賀3万石を領している
しかし秀次切腹事件に連座して繁詮も切腹
その後を継いだのは有馬豊氏でした
ちなみにその豊氏は後に筑後久留米21万石など破格の出世をしています
もし連座して切腹していなければ繁詮がこの領地を…?なんて…、ね
690人間七七四年:2008/12/31(水) 05:21:37 ID:yZIjTRuZ
>>689
若松じゃなくて岩松じゃない?
691人間七七四年:2008/12/31(水) 06:54:12 ID:UO4CwAo7
このスレとはちょっと違うけれど。
九州新幹線が、福岡側からではなく、鹿児島側から開通したのを鹿児島県の人は、
薩摩が優先されて当たり前だという意識があったとの事。ある程度年を召した
方達の言葉ですが、今でも明治維新の功を得て当然という意識を持っている世代は
いる様ですよ。
692人間七七四年:2008/12/31(水) 10:54:41 ID:bljm6nlr
だって小里貞利がいたし当たり前と言えば当たり前
そこらへん政治力が左右するんだから誰が見ても明らかだろ
寧ろオッサンどもは開通遅すぎって文句言ってるぞ
未だに博多まで全線開通してねえし
693人間七七四年:2008/12/31(水) 11:12:33 ID:TQBf9bAF
鉄道はよそに繋がってこそ意味がある。
鹿児島から八代の菜の花畑に繋がっていてもな〜
694人間七七四年:2008/12/31(水) 13:21:37 ID:U0osLOdS
しかし「関東管領なのに」関東支配を目論む北条氏と越相同盟したせいで、
関東の国人や反北条方の大名にめっさ疑われて勢威を落とした謙信。

挙げ句に、北条から養子という名の人質に入れた三郎を妙に気に入って景虎名乗らせるは、
自分の死後は甥っ子景勝と三郎景虎が内乱おっ始めて上杉家ガタガタ。北陸を織田に切り取られるは。


>>689うぉ、さいご有馬記念に繋がったぞ w
マツリダゴッホ…゙ゴッホはいずこにおはす!?…コネーー!!('A`)ーー
695人間七七四年:2008/12/31(水) 13:23:53 ID:L7FTPCw1
そこなんだよね。通常の考え方なら、博多の方から繋ぐでしょ。
政治家の力関係というのが実際の理由かもしれないけれど、鹿児島の人は
薩摩の方から建設して当たり前という意識を持っている人が結構いた。
佐賀だって功があったというと、本気で怒ってたし。
696人間七七四年:2008/12/31(水) 13:50:06 ID:RQ7Xvods
佐賀は勝ち馬に乗っただけって話も
697人間七七四年:2008/12/31(水) 13:55:17 ID:TQBf9bAF
佐賀が功績あるなら大垣も
698人間七七四年:2008/12/31(水) 14:44:59 ID:XxEnIJSf
今年も今日で終わりだし、紅白じゃないけどオールスター(?)ってことで

ラスボスの眼力

あるとき、伏見城で五大老の会合があった。
殿中とて全員、控えの間に太刀を置いて行ったが、それを見た秀吉が言った。

「よし、どれが誰の太刀か、当ててやろう。」
見事に全ての刀の持ち主を的中させてみせた。

前田玄以「ひょえー!太閤さまは超能力でもお持ちなのですか!?」
秀吉「なに、タネを明かせばカンタンな推理じゃよ。

八郎(泳ぐ人)は大身の生まれで感性鋭く、ゼイタクかつ美麗なものを好む。
されば、あの黄金造りの太刀こそ彼のものであろう。

長い太刀は、謙信譲りの馬上太刀を使い、広い刃の間合いが必要な景勝のもの。

又左(利家)の事は若い頃から知っている。ケ…倹約家で、
自ら軍の先頭に立って戦う男よ。ならばあの、血で滑らぬよう
古ぼけた皮で巻いたものがそうであろう。

無駄にハデハデしい(原文:異様の数奇ぐるひせし…)刀は、意外性を喜ぶ
輝元のものに他ならぬ。

三河武士は質実剛健を貴び、余計な装いなど思いもよらん。
残った刀、あのそっけない黒塗りの鞘だけの拵えは徳川殿のもので間違いない。

まあ、出世したければこのくらいの洞察力は備えなければならんよ?」


テルの刀が見たくても、よい子は「毛利輝元 競馬」でググっちゃダメなんだぜ
699人間七七四年:2008/12/31(水) 14:51:02 ID:8DBN5U12
700人間七七四年:2008/12/31(水) 14:53:47 ID:kRXtesh5
>>698
なんだあの太刀wてるもとwww

秀吉はなんだかんだいってさすがの眼力だなあ。
これでラスボスでさえなければry
701人間七七四年:2008/12/31(水) 15:11:35 ID:mGXX1NVv
輝元センスが痛いww
忠興みならえw
702人間七七四年:2008/12/31(水) 15:24:01 ID:Emzv7ZTc
ぼくのかんがえたさいきょうのかたな みたいだw
派手好きの秀吉にも呆れられるってどんだけw
703人間七七四年:2008/12/31(水) 15:28:09 ID:TQBf9bAF
特徴

宇喜多 贅沢
上杉  大きい
前田  ケチ
毛利  ハデ
徳川  ドケチ
704人間七七四年:2008/12/31(水) 15:31:47 ID:8DBN5U12
豊臣 ハゲ
705人間七七四年:2008/12/31(水) 15:35:26 ID:VuCrqxRa
>>703
前田と徳川は逆じゃね?
家康は確かにケチだけど必要な時、必要な所にはちゃんと金を使ってる。
それに比べて利家はry…
706人間七七四年:2008/12/31(水) 15:41:47 ID:U0osLOdS
>>698
その眼力で秀次をもうちょっとだけでも信じてやれなかったのか、、、

この辺のミスマッチでキッチュな所も太閤さんの魅力なんだろうけど(´Д`;)
707人間七七四年:2008/12/31(水) 15:55:59 ID:SI43DSvR
>>703

実は…
前田玄以「ひょえー!太閤さまは超能力でもお持ちなのですか!?」
秀吉「なに、タネを明かせばカンタンな推理じゃよ。
あらかじめ、教えてもらっておいたからなw」

晩年の腐れはげ鼠らしく、こうだと思ってたんだがw
708人間七七四年:2008/12/31(水) 16:04:11 ID:RQ7Xvods
>>707
その可能性は否定できないがそんな小細工してまでやるほどのことなのかという疑問も
709人間七七四年:2008/12/31(水) 16:14:50 ID:SI43DSvR
>>698
はげ鼠の刀の鑑定の話がでたので、DQN武蔵の弟の刀剣話でも…

信長公が小姓たちに刀を見せて、刀の模様の数を当てた者に褒美をくれてやるとのたまった。
皆が思い思いの数を答えていく中、正解者は出ない。
信長公は、誰も答えられんのかと、ちょっと不機嫌になる。
蘭丸は黙ったまま。

マジで切れる五秒前の信長公が黙っている理由を尋ねると、刀を持って待機している間に数を数えて知っているからだと言う。
その正直さに感心した信長公は、その刀を蘭丸にくれてやった。

710人間七七四年:2008/12/31(水) 16:21:16 ID:qkEJ3BVe
きっと母方の遺伝子を濃く受け継いだ子供だったんだろうな、蘭丸。
711人間七七四年:2008/12/31(水) 17:30:12 ID:m6NLi7+t
本能寺の変が起こった際に信濃の諸将から預かった人質を軍の最前列に立たせて盾代わりにして「俺達に手を出したらどうなるかわかってるな?ああーん?」とかやって美濃まで撤退したお兄さんとは違う人種のようだ……
712人間七七四年:2008/12/31(水) 17:52:15 ID:iFijh86s
思えばDQN武蔵たちがハッチャケ過ぎたせいで河尻も逆様に埋葬されちまったんだろうな〜
713人間七七四年:2008/12/31(水) 21:10:32 ID:U0osLOdS
>>712これにインスパイアされた横溝が岡山ローカルネタで描いたのが、賢明なる読者ご推察通りの助清である
714人間七七四年:2008/12/31(水) 21:58:43 ID:wm64eFeX
>>703
景勝の特徴はなんなんw
715人間七七四年:2008/12/31(水) 22:04:18 ID:kRXtesh5
>>703
本人小柄なのに長い刀は邪魔にならないのかなw>景勝
まあ刀の元の持ち主の謙信もどちらかと言えば小柄だけど。
716人間七七四年:2008/12/31(水) 22:29:02 ID:eNiVK7/0
馬上太刀だって言ってるから
馬上で使う長い太刀を普段も持ち歩いてるってことだよな。
まあ一軍の大将が持つ太刀としては実用、
前線で普通に振り回す用には不向きな刀ってことでは?

鍔が無い、普通に使うには刀身が長い刀は上杉の刀の特徴だと聞いたが。
謙信・景勝は愛刀家だが所蔵品を見る限り華やかな作りの刀は好むが
派手派手しいのは好みじゃないっぽい。
717人間七七四年:2008/12/31(水) 23:00:14 ID:eNiVK7/0
ついでに思い出した上杉の長い刀の話が。


佐竹義重が元服した際、謙信はこれを祝って
「この刀は私が隠居するときには杖代わりにでもと思っていたが
私の武略を継ぐのは貴方しかいないと思ったので是非受け取ってほしい」
と、愛蔵の備前三郎国宗を贈った。
その後義重が隠居した折、この刀は息子義宣に譲ったのだが


義重「………その脇差………」
義宣「あ、アレ長すぎて使いにくいんで短く切っちゃいました!
これでとっても使いやすい刀になりましたよ!」
義重「ぎゃー何してるかこの馬鹿息子ーっ!
あああせっかくの備前国宗がぁあぁ!!
……これで刀の魂は失われてしまった……」
という話があったそうな。


持ち歩くにはやっぱ使いづらいらしい。
義宣と景勝は親しい関係だったらしいが短く切られた謙信の刀を
景勝がどう思っていたのかは知らない。
718人間七七四年:2008/12/31(水) 23:05:25 ID:U0osLOdS
>>717本当は大事に飾って残して欲しかったんだね。倅に譲るとき、由来を語ってなかったんだろうか?

たしかに戦場往来の太刀と普段使いの定寸の打刀じゃ、やっぱり大太刀が重くて不便なんだろうけどなぁ。

…てか、まとめサイトにあったような気ガス
719人間七七四年:2008/12/31(水) 23:08:06 ID:eNiVK7/0
あ、既出だったか?
見掛けた記憶が無かったんで書いたがかぶってたらスマン。
720人間七七四年:2008/12/31(水) 23:16:35 ID:EHqas3Uq
これだね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9.html

2007年!ほんとにこのスレ初期のころに書かれているなー。
そりゃあ見かけたことがなくてもしかたないw
721人間七七四年:2008/12/31(水) 23:39:42 ID:kRXtesh5
エントリーナンバー9w本当に初期に出てたんだね。
このスレも長寿になってきたね。
722人間七七四年:2009/01/01(木) 00:30:35 ID:QGmDuU5g
>>719どんまい。武田典厩も「人間、過失はあるもの」と(r <武田信繁遺訓でこっちも既出だわw

>>720-721小豆長光アガトウ
723人間七七四年:2009/01/01(木) 00:41:15 ID:3KanX9Tn
>>717
そういえば織田信長も今川義元から分捕った刀を短くして大切にしたそうな
724人間七七四年:2009/01/01(木) 00:52:06 ID:p4WPm5sj
天下人の手をめぐりにめぐった宗三左文字のことですか?
725人間七七四年:2009/01/01(木) 12:06:50 ID:ZUt55xCf
黒田長政が宇都宮鎮房を中津城で謀殺した時の太刀、
福岡市博物館に展示してあった。

普通の小ぶりな太刀だった。
長政はこれを終世愛用していたとか。
726人間七七四年:2009/01/01(木) 12:17:28 ID:3KanX9Tn
>>725
そう、それです

確か、三好何とか→信虎→義元→信長→思い出せない→秀頼→家康だった気が
727人間七七四年:2009/01/01(木) 15:35:25 ID:oNzfzWK+
>>726
三好政長(宗三)
武田信虎
今川義元
織田信長
豊臣秀吉
徳川家康

改めて見ると凄まじい面子
天下の妖刀だと思う
728人間七七四年:2009/01/01(木) 19:14:23 ID:QmmgLQvF
初夢

ある年、北条早雲は不思議な初夢を見た。
一匹のネズミが杉の木にかじりつき、二本目をかじり倒すと虎に変身する、という夢だった。

早雲「なんという吉夢!今年から当家は大躍進する事、疑いないわ!!」

家臣「はて、そんな夢がなぜ当家の開運につながるので?」

早雲「フッフッフ、教えてやろう。実はワシはネズミ年の生まれじゃ。つまりネズミが杉二本を
   倒すとは、このワシが扇谷・山内の両上『杉』を倒し、関東の王になる、という事よ!
   これが吉夢でなくてなんであろう!!」

早雲の話を伝え聞いた家臣・領民は奮起して、打倒上杉に力を振るうことになる。

また、早雲は虎を開運の霊獣として、自分の印章に虎を描いた、いわゆる『虎印判』を
使うようになり、以来この印が北条五代の当主の印となった。 (北条記)

最近じゃ早雲さんは幕府官僚で、関東下向は幕命って説もありますが、逸話は逸話として。
みなさんの初夢が早雲のようにビッグかつ正夢でありますように・・・
729人間七七四年:2009/01/01(木) 19:32:33 ID:75dBz+oJ
まあ、深谷上杉なんてのもいたんですけどねw
730人間七七四年:2009/01/01(木) 19:33:15 ID:pJzMMxzR
>>671
林羅山って23歳で家康に召抱えられていてこのときとても若いんだよな
忠勝とは親子くらいの年の差なのを考えるととってもかわいいな。
731人間七七四年:2009/01/01(木) 20:32:27 ID:obqaIR0A
名将言行録から人間慌てると何を言うかわからん話。

1.蜂須賀家政家臣
蜂須賀家政の家臣何某は病気になって休みをとっていた。
病気とはいえたまには運動せんと…とでも思ったか、ある日家の近くをゆっくり
歩きまわったりしていたところ、そこにちょうど家政の駕籠が通りかかった。
何某が頭を下げていると家政が駕籠から降りてきて、
「お前病気って話だったけどなんの病気?」
何某ははっとして、これは俺が出歩いてるのを見て、
こいつ仮病で休みやがってと思われてるんじゃないか!?
えーと…えーと外出してても問題なさそうな病気…
「つ、つんぼです!」
ヤッチマッター!
そんなわけねえ!そんなわけねえー!
しかし家政はこれを聞いて「よく養生しろよ」とだけ言って帰ってしまった。
何某がこの失態を責められるのではと家で恐れおののいていると、
家政から漢方薬と見舞いの言葉が送られてきた
「顔色も悪いし痩せこけてるからこりゃ肝臓かなと思って聞いてみただけだ」
ほっとした何某はやがて快癒して出仕もできるようになった。
これはとっさに嘘の病名を言ったことを気に病んで治るのが
遅くなってはいかんという家政の心遣いだったという。
家政は常々人に「武士は情あるを以て好しとす」と語っていたそうな。
732人間七七四年:2009/01/01(木) 20:32:59 ID:obqaIR0A
2.黒田如水家臣
聚楽第に諸大名が伺候していた当時、黒田家では賭博はご法度だった。
ところがお分かりと思うが禁じられていてもやる奴はやるということで
黒田家の家臣桂菊右衛門はその夜博打で大勝ちして、羽織に包んだ戦利品
片手にほくほくと朝帰りの家路を辿っていた。
ところがはっと気が付く、ありゃこの道は大殿が仕事に出る時に通る道では
なかったか。
鉢合わせになったりしたら嫌だなあ…そう思いながら進んでいると、
悪い予感は当たるもので、角を曲がった所でばったり如水と会ってしまった!
ここで何某慌てたのなんのって、思わずこう叫んだ
「それがしっ、博打の帰りではございません!」
ヤッチマッター!
如水はその場ではなにも聞かなかったように通り過ぎたが、桂は後悔した。
あんなことを言ったらそりゃあバレるに決まってる。俺はもう切腹だ。
家でふさぎこんでいると事情を知った朋輩も、そりゃお前切腹だよと
沈痛な表情で見舞いに訪れる。
もちろん明日の命も知れぬとあっては金どころではなく、戦利品の包みは
その辺に放置され中身も確かめないままであったが、
当の如水はそれを聞いて大笑いし「よしよし勝ったか、まあ勝ったところで
打ち止めにしておけ、いいことの後は悪いことがあるぞ。
今朝みたいなアホなことを言い出すのも法度を恐れるあまりのこと、
そんなに大事と思うなら今度からどんな法度も破らぬようにすることだ。
今回は許すがその内身代を擦り切らせたなんて話を聞いたら今度こそ
罰を与えるぞ。
とにかく博打に限らず無駄遣いしたりして擦り切らないように気をつけろ」
如水はこの調子で世知に長けて、落ち度があっても厳罰に処すことはなく
相手に非を悟らせ機会を与えたので非常に仕えやすかったそうだ。


殿様っていうのはフォローも上手じゃなきゃいけないんですね。
733人間七七四年:2009/01/01(木) 21:16:45 ID:QGmDuU5g
>>731-732いい殿様だなー

家臣の狼狽振りはさながら、浮気がバレてテンパったた武田信玄の如くですな。
焦っておホモ達に送った詫び状が後世に残されてしまうくらいアッー


徳川家康も三方ヶ原でその武田軍に鎧袖一触にされたとき、作戦を看破された上あまりの実力差に絶望したか
「もうダメッス、自分、討ち死にするッス」と何度も泣きわめいて、家臣に散々罵られたり叱咤激励されながら
まん丸に(馬上に伏せて背を丸めた様子か、装束を変えて裸みたいなみすぼらしい姿になってた?)なって浜松に逃げ戻ったと。
734人間七七四年:2009/01/01(木) 21:49:37 ID:T1rJgfHG
家政いい人過ぎるw
735人間七七四年:2009/01/01(木) 23:11:37 ID:KSZ4CMuh
>>728
なんだ両上杉を倒したら寅年寅月生まれのあの人が
湧いて出てくるから気を付けろという予知夢かと思ったのに。
736人間七七四年:2009/01/01(木) 23:54:40 ID:oxcACgSi
>>735
!!
737人間七七四年:2009/01/01(木) 23:57:39 ID:p4WPm5sj
そういう解釈もあるな気付かんかった
738人間七七四年:2009/01/02(金) 00:35:55 ID:CvsKKCVx
>>734
政宗は家政の事を阿波の古狸と言ってたな。
739人間七七四年:2009/01/02(金) 01:16:20 ID:k1NiOHWC
>>735
鼠が虎じゃなくて猿に変身してたら完全に悪い予知夢だな
740人間七七四年:2009/01/02(金) 03:15:52 ID:G1XD6MOF
>>728 「虎だ!お前は虎になるのだ!!」
幕府のひみつ訓練所「東国支配の穴」で特訓を受けた
覆面浪人・伊勢新九郎盛時さんが早雲仮面に変身して堀越公方をやっつけたんですよね。


>735-737おぉぅ; そいつは皮肉が利いてるなあ
741人間七七四年:2009/01/02(金) 03:24:16 ID:uF2H2/Qg
如水すてきすぐる。
742人間七七四年:2009/01/02(金) 11:40:11 ID:oTsJtmtY
>>734
足利義栄系統の平島公方は冷遇しまくりだったがなーw
食客扱いだが下級藩士並みの禄しか与えなかったとか。
まあ徳川が喜連川氏を保護してたから当然っちゃ当然だが。
743人間七七四年:2009/01/02(金) 16:00:03 ID:H5CJ74No
喜連川は参勤交代は免除だし(だから最初は江戸に屋敷持ってなかった)
年賀挨拶の際などでの江戸城での席次が将軍、御三家の次だった時もあったくらいだからな
744人間七七四年:2009/01/02(金) 17:52:57 ID:BCc1SRwm
自分を殺そうとした主君の子孫を迎えに行って養育して幕末まで
抱えてたっていう黒田は…ちょっと人がよすぎる気もするな
745人間七七四年:2009/01/02(金) 18:07:28 ID:OI+KgOFr
>>744
敵対してた人間の子供を取り込む、って行為は意外と多いよ。
毛利も尼子宗家を家臣に取り込んだし、信長も足利義昭の子供取り込んだし。

戦国時代は決して実力主義だけの世界ではなく、正当性や外聞にきちんと気を使わないと
社会的な評価を受けられなかった、って事の、一つの表れだね。
746人間七七四年:2009/01/02(金) 18:18:43 ID:mC2AX7Ac
>>745
黒田は家臣に小寺からの寄騎とか降って来た小寺の元家臣が
ゴロゴロいるはずだから効果ありそう
元家老とかになると黒田と元は同格だもんね扱いにくそう
747人間七七四年:2009/01/02(金) 18:38:49 ID:HDuR0p09
浦上宗景は何の為に保護したんだろうw

妹の婚姻を台無しにした赤松政秀討伐の時に共闘した縁だろうか。
748人間七七四年:2009/01/02(金) 18:44:22 ID:8MiTf49t
黒田長政が、大阪城に入って奮戦する因縁の元家臣後藤基次を評し、
1500ほどの兵を扱わせるならば彼ほど巧みな将は無し、と。
749人間七七四年:2009/01/02(金) 19:02:08 ID:TpAtqacp
>>567 568
その宴会フルコースを再現したら数十万円レベルか?
750人間七七四年:2009/01/02(金) 19:40:33 ID:OgZqZywc
>>748
遠回しに1500ほどの武将程度だといっているw
751人間七七四年:2009/01/02(金) 19:51:08 ID:HDuR0p09
微妙に褒めてないよな。
752人間七七四年:2009/01/02(金) 20:05:38 ID:U3qRL2Vf
せいぜい1部隊の指揮官程度の器のやつが大阪城では主力扱いされてるんだから笑っちゃうぜ
って感じ?
753人間七七四年:2009/01/02(金) 20:08:32 ID:LUYxFXM7
後藤基次の方では
「黒田長政は勇猛な武将ですから、黒田と戦になったらこっちに突進してくる
騎馬武者に鉄砲撃ちまくって五人も倒せばその中に総大将が入ってますよ
この戦法オススメ☆」と
イヤー実に爽やかなエール交換ですな
754人間七七四年:2009/01/02(金) 20:24:16 ID:OgZqZywc
実に爽やかな旧主従関係だw
755人間七七四年:2009/01/02(金) 20:40:29 ID:OI+KgOFr
>>749
一人分?
おそらく材料集めるだけで、100万円規模にはなるんじゃないかな?
756人間七七四年:2009/01/02(金) 22:48:58 ID:8MiTf49t
黒田長政、関ヶ原にて先陣5000で攻めるも
島左近の1500にまるで歯が立たない。
逆に押しまくられ兵は浮足立つ。
困った末、50人の鉄砲隊を迂回させて島左近を狙撃し、
運よく命中させたんだ。

この時の隊長、後藤じゃなかったけ?
757人間七七四年:2009/01/02(金) 23:36:36 ID:zAUbCoxn
>>756
いや菅六之助。
朱具足を許されるくらいの勇者で虎退治もしてるせいか
どうも後藤又兵衛と混同されやすいねこの人は。
758人間七七四年:2009/01/03(土) 01:38:36 ID:g6dycifK
普通の店なら原価の3〜4倍
店構え、料理の手間暇、従業員の質で
どれだけ原価率を下げられるかと言うことになるので
実際にいくらかというのは算出が難しいな
759人間七七四年:2009/01/03(土) 02:11:59 ID:T+fqw0SS
戦国時代も終わり、最後の戦争となった島原の乱後、乱の舞台となった天草は幕府直轄領となり、
鈴木重成という旗本が代官となった。彼は隠田を作っていた百姓が死罪を言い渡されたときに
女だけは助けてよ!と嘆願書を書いたり、旗本でありながら大阪の陣の戦没者のために
慰霊碑を建てたりと人徳ある人物として知られていた。天草では禅宗の名僧である兄を呼び寄せ禅を広めたり
米以外の殖産物を植える。乱の犠牲者の首塚を作る。乱により無人となった廃村に近隣から移民を集めるなど
様々な手段を講じて天草の復興をはかった。しかし乱の傷跡は大きく相変わらず天草は貧しい土地だった。
そこで鈴木は幕府に年貢半分にしてよとお願いする。しかし幕府はそんな事ダメ!と拒否られたために
あっそ。それじゃ切腹しちゃうよと幕府に抗議の手紙を書き庭先で切腹して果てた。
これに慌てた幕府は検知をやり直し天草の石高を実質半減した。
鈴木の切腹を知った領民は皆涙し、重成を祭った鈴木神社が作られた。
760人間七七四年:2009/01/03(土) 02:32:11 ID:xvbWv0NR
時代は下るものの、仙台伊達と熊本細川
心温まるお話

延享4(1747)年8月15日
江戸城にてトイレに行こうとした5代藩主細川宗孝(31)が人違いで大広間のそばで斬られる
(犯人が目標としていた板倉さん(九曜巴)と細川の家紋(九曜紋)が似てた)
宗孝は即死
宗孝に後継者はおらず殿中で斬ったり斬られたりは喧嘩両成敗で双方改易が定法
しかも大身外様熊本藩では弁解ができない

そこにたまたまいたのが仙台藩主伊達宗村
宗孝のそばに駆け寄ると、事態にパニック状態の細川家臣に向かって、
「まだ息があるようだ。早く屋敷へ運んで手当を」と命じた
細川家の者はそれを受けすでに死亡している宗孝をまだ瀕死状態のふりをさせ運び、
藩邸に戻ると弟重賢を末期養子として届け、
翌日「手当てのかいもなく死にました」と幕府に報告

幕府側も翌日には「人違いですた、てへ♪」という状態を把握しており、
細川家は無事に存続したということじゃ・・・めでたしめでたし

細川宗孝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%AD%9D
761人間七七四年:2009/01/03(土) 02:38:41 ID:gz5kZwUS
762人間七七四年:2009/01/03(土) 10:59:33 ID:ZaxjalTg
>>759悲しいけどいい話ね。聞き分けの悪い主君、上司に優秀な部下が切腹して諌言か……


元々、天草は松倉親子が無茶な(ぶっちゃけ虚偽の)表高を届け出てたせいで領民大迷惑だったもんね
切支丹関係なしでも一揆くらい起こるわ、という
763人間七七四年:2009/01/03(土) 12:34:24 ID:LdJJ7leq
さらにルソン(フィリピン)へ出兵する予定だった。
764人間七七四年:2009/01/03(土) 16:19:28 ID:pCwaVxZQ
武田信玄の家臣に、美濃出身の多田満頼と言う武将がいた。
合戦に臨むこと二十九度、身に二十七の創を負い、感状を受けること二十九度という
紛れもない勇者であった。

信玄が上田方面に侵攻し、一帯の砦を次々と落とした際、満頼に虚空蔵山の守備を命じた。
ところがこの虚空蔵山に、夜な夜な火車鬼と言う妖怪が現れ、兵たちを悩ませ戸惑わせると言う
事態が起こった。
ある夜、満頼が見張っていると、この火車鬼が現れた。そこで満頼はすばやく抜刀しこの妖怪に
斬り付けると、悲鳴を上げたちまち闇に消え、それ以来火車鬼は姿を現さなくなった。

一説にはこの「火車鬼」とは、戦乱に乗じてその地域一帯で火付け強盗を働いていた夜盗の
頭目であった、とも言う。
ともかく、この武勇談とともに、多田満頼の名は天下に響き渡った。


さて、永禄六年(1563)、満頼は病死し、その後を子の久蔵が継いだ。
この久蔵もまた、父の名を辱めぬ勇者として高名を成したが、天正三年(1575)五月、
長篠の合戦の折、奮戦むなしく敵に生け捕られてしまった。
その折の姿が裸に緋緞子の下帯と言う異様なものであったため、それを見た信長は
「おぬしは何者か?」と尋ねた。
彼は傲然と胸を張り、「美濃国の住人、多田久蔵なり」と答えた。

信長は手をたたいてこれを喜び

「お主が火車鬼退治の多田満頼の息子か!よいか、縄目を受けたのは決して恥ではない。
悪源太義平の例もあるではないか。また、美濃の者と言えば我が織田家の身内も同然である。
これより後は、わしに奉公するがよい。」

そう言って近習の長谷川秀一に縄を解かせた。
すると久蔵は近くにあった槍を奪い取り、たちまち周りにいた4,5人を突き殺したが、取り押さえられ、
長谷川によって首を取られた。

差し出された首を見た信長はしかし、彼の死を深く惜しんだという。


親子二代、天下に名をはせた勇者の物語。
765人間七七四年:2009/01/03(土) 16:57:43 ID:7AU7f1pY
関ヶ原合戦の折、大功を立てた黒田長政は徳川家康に手を取られ感謝されたという。
それを聞いた父如水が長政にかけた言葉「その時そなたの左手はどうしておったのじゃ」
長政はこの言葉に色めいたという。もし、父の発言が家康の耳に入ればどうなることか。家康は黒田家にどのような印象を持つことか。自分はただ家康の握手に応じただけに過ぎぬのに。
そう、長政はただ握手に応じただけである。が、如水の発言を聞けば長政がさも野心を持たぬ忠義者であるかのような印象を受けるのではないか。
「黒田に逆臣たりえるのは如水のみ」
秀吉に警戒され続けた如水が黒田家保全の為に徳川、世間にそう宣伝してみせた生涯最後の計であった。
766人間七七四年:2009/01/03(土) 17:04:04 ID:7AU7f1pY
妄想でスマン。この話がどこから出てきたかも徳川家の耳に入ったかも知らんがこういう解釈もありだろ?
767人間七七四年:2009/01/03(土) 17:14:46 ID:ogmJfAWw
激しく既出
768人間七七四年:2009/01/03(土) 17:15:37 ID:grqbHLkV
如水が余計なことしたらかえって疑われそう
769人間七七四年:2009/01/03(土) 17:46:10 ID:JtLJqG1F
>>764
信長ってガチムチ好きだから
良い待遇で召し抱えてくれそうなのに・・・
プライドの問題か

それよりも何で裸だったんだよw
770人間七七四年:2009/01/03(土) 18:32:37 ID:4I1FtkiC
>>769
戦意を挫くために、捕虜の鎧、軍服を剥ぐのは常套だが?
771人間七七四年:2009/01/03(土) 21:01:29 ID:TGeWBlgN
そこでほいほい信長に臣従しちゃったら値打ちが下がるな。
772人間七七四年:2009/01/03(土) 21:26:40 ID:pCwaVxZQ
今やらき☆すたで有名な鷲宮神社。
今年もたくさんの参拝客が詰め掛けているようですね。

ところでこの鷲宮神社、室町から戦国時代は、鎌倉、古河公方の祈願所となるなど
関東諸侯の尊崇を集め、また、この神社は鷲宮城とも呼ばれ、独立した諸侯として忍の成田氏などと同盟し、
上杉謙信の軍と闘うなど活発に活動しておりました。

さて、そんな鷲宮神社に残る戦国時代の文章で、日本史上大変に貴重なものがあります。
それは小田原北条氏五代当主・北条氏直からの、鷲宮神社へのお礼状

「そちらで取れた鮭や鯉を送っていただき、ありがとうございました。」

そう、これこそこの時代、古利根川まで鮭が遡上していた証拠であり、日本の気候変動を
考察する上での重要な記録なのです。


ちなみのこの鷲宮神社、社格の高さを表すものとしては、徳川家康が関東に入った際、
ここの社領として、四百石を寄贈しており、これは家康領内においては大國魂神社の五百石に次ぐ、
2番目の規模でした。

鷲宮神社に参拝する皆さん、らき☆すたもいいですが、こんな歴史にも少し、心を傾けてみるもの
いかがでしょうか?
773人間七七四年:2009/01/03(土) 21:30:42 ID:F6rWKOJX
ほう、鮭とな?
774人間七七四年:2009/01/03(土) 21:34:36 ID:Lb0dpe2I
>>773
鮭に食いつくなよw
775人間七七四年:2009/01/03(土) 22:15:48 ID:XWaPjpyy
ある日、小田原城で鉄砲の訓練が行われ、当時まだ新九郎と名乗った北条氏康も見学した。

パアアアアアアアァァァァァン!!!!!!!!!!!!!!!!
氏康「 Σ(;゚Д゚) 」ビクッ 家臣「 ( ´,_ゝ`)プッ 」

氏康「・・・臆病を笑われた・・・欝だ氏のう・・・」ハラデモキルカ
家臣「わーっ!若様ー!! ほ、ホラ、名馬もカンが鋭いって言いますし・・・」

氏綱「よう。鉄砲にビックリして、ビビリになったんだって?やーいやーい、弱虫ー」
氏康「ち、父上まで!( ;ω;)ウウッ 」
氏綱「冗談はさておき、臆病で何がいけないんだ?」
氏康「?(´・ω・`) 何事にも動じない人間が勇者ではないのですか?」

氏綱「そんなヤツ、何事にもニブいだけで、勇者とはいわねーよ。たいてい危険にもニブい。
   一度勝ったからって敵を侮って、真っ先にワナに掛かって死ぬもんだ。
   昔からそうやって滅亡した家は多い。『勝って兜の緒を締めよ』ってのはその事さ。

   だから、おまえはもっと臆病になりなさい。ただし、その『怖いもの』にどうやったら
   勝てるか、知恵を振り絞って考えなさい。・・・いいね?」

20年後 武蔵国河越

上杉憲政「朝定殿、北条の臆病者め、『講和すれば、今まで奪った領土は全て返す』と
      言ってきおった。我らの勝ちも近いな!(そうなればこやつも用済みよ・・・)」

上杉朝定「さようですな。ならば、明日攻めかかるとして、今宵は鋭気を養うべく、酒宴でも
      開きますか。(せいぜい今のうちに楽しんでおけ・・・)」

「報告!両上杉軍、我らの偽りの講和要請に油断し、今夜は酒宴を開くもよう!」
「・・・上杉には臆病者の何たるかを教えてくれる父も家臣も、おらぬと見える。哀れなことよ」
「?」
「なに、昔を思い出してな。・・・手筈通り今夜、夜討ちを行う。全軍に目印の紙羽織を着せよ。
白い服を着ておらぬ者は全て敵だ、殺せ。首は打ち捨てにせよ。ひたすらに突け、斬れ。
前に後ろに回り、一箇所に留まるな。敵は油断しておる、さらにかき乱してやるのだ!!」

八千の北条軍は、数万の上杉軍に勝利した。氏康自身10数人を斬り手傷を負ったと言われ、
関東ではこの『臆病者』にちなみ、戦傷のことを『氏康傷』と呼んだ。 (関八州古戦録)

氏綱の遺言五箇条に「勝って喜んでるだけじゃダメだよー」って書いてるんで、妄想。
・・・てか、これじゃ創作の域だな。反省はしている。
776人間七七四年:2009/01/03(土) 22:16:35 ID:HYpPB+k9
>773=鮭様

鷲宮神社は桜が綺麗だよなぁ…
777人間七七四年:2009/01/03(土) 22:17:17 ID:pCwaVxZQ
>>775
ヤバイ。氏綱も氏康も惚れる。
778人間七七四年:2009/01/03(土) 22:26:50 ID:Lb0dpe2I
>>775
>氏康「・・・臆病を笑われた・・・欝だ氏のう・・・」ハラデモキルカ
ニコ動にある某信長の野望プレイ動画に登場する銀ってキャラが頭に浮かんでフイタw
779人間七七四年:2009/01/03(土) 22:29:14 ID:HYpPB+k9
>>775
氏康…!いい話だな
780人間七七四年:2009/01/03(土) 22:31:16 ID:TkmuVmK+
>>772
やっぱり近所にある神社にある神社が一番身近に歴史を感じさせる物じゃなかろうか。
こういう話はいいなぁ。

>>778
はいはい。特産物、特産物。それに銀じゃなくて銅。
781人間七七四年:2009/01/04(日) 01:01:05 ID:gXQZO9YE
上泉信綱の人質救出劇

永禄年中、上泉信綱が上洛途中に強盗が子供を人質にして家に立てこもっている所に出会う。
そこで信綱は僧侶に頭を剃ってもらい、僧衣を借りた。
そして握り飯を二つ持ち、家に近付き腹のへった子供に握り飯を一つ投込んだ。
信綱はさらにもう一つ強盗に投げ与えた。
強盗が手を伸ばした瞬間家の中に入り強盗の手押さえ子供を救出した。
信綱が僧衣を僧に返す時、僧は「掛け子」を形見にと差し出した、信綱はこの掛け子を秘蔵した。

ちなみに映画「七人の侍」にこの話を元にした場面がある。
782人間七七四年:2009/01/04(日) 01:11:37 ID:6fp9tinN
783バロン曽志崎:2009/01/04(日) 03:01:17 ID:gGqYPWD2
藤堂高虎の家来・桑名吉成の甥に善兵衛という者がいた。
大坂の陣では真田信繁の部隊にいて、真田丸では褌姿で下知していた。
諸人があまりにも注意するので、しかたなく兜だけを着ける事にした。
784人間七七四年:2009/01/04(日) 03:24:53 ID:XVdAqA46
兜だけはらめぇえ


昔学校の近くで手拭いかぶったマッパのオッサンがでたの
思い出した。
785人間七七四年:2009/01/04(日) 06:34:11 ID:Mkh9BYHf
最上義光、人生を語る

―義光公は無道に報いず、将兵を我が子のように愛すると評判ですが。
「まあそうだね、武士っていうのはさあ、結局扇みたいなものなのよ。
要が大将、骨が物頭、総勢は紙ね、わかる?
どれが欠けても駄目ってことだね。だからさ、そうするのが当然なの」

―知仁勇を備え、寛大で柔軟だけど邪悪ではない性格だそうですね。
「やめろよ、照れるだろ。侍道に背かないようにしていただけだよ」
(※義光が書状でよく使っていた言葉は「侍道」。いまでいう武士道
と道義ではなく「常識的に考えて」みたいな意味)

―戦国という時代を振り返ってみていかがですか。
「そうねえ、この時代には神社や寺をぶちこわしたり、主君の恩義を無視したり、
親不孝だったりしたりね。あと贅沢三昧で金がなくなったら、税金重くしてって
いう。そういうDQNがいて滅びたりしたよね。
DQNっていうのは結局DQNだし、それをしかりつけない家臣もだめなのよ」

―ご自身はそういうことはなかったのですか?
「そりゃオレだって若い頃は天童や白鳥と戦ったりね、バカやって領民に
苦労かけちゃったからね。上杉との合戦では戦死者一杯だしたし、
そういうのは今になってみればすごく恥ずかしいよ」

―成功の秘訣は?
「どうだろうね。まあ神仏に助けられて、こうやって領地をおさめられている
わけだからね。そうはいってももう年だからさ、あとは死ぬしかないわけだよ。
さみしいよね、本音言うとさ。
で、もうここいらで恩返ししよっかな、って思うのね」

―恩返しとは?
「戦いで占領した土地からは、軍の給料とする以外はあと三年は年貢とらないよ。
その浮いたお金で寺社仏閣の整備、修復をしてくれればいいからさ」

―気前がいいですね。今日はありがとうございました。何か一言どうぞ。
「みんな、妹や家族は大事にしろよ!」

(※『最上記』、『奥羽永慶軍記』、『羽源記』、義光書状
などにある義光の発言や評価をまとめてみました)
786既出なら御免:2009/01/04(日) 08:11:03 ID:DkMfgPLi
関が原合戦のとき、
福島正則の配下であった可児才蔵ともう一人の若武者は主君正則に他部隊への使者を頼まれた。

竹束(鉄砲や矢を防ぐ置き盾のようなもの)の外を通ると危険だが早くつく。
反面、内を通ると安全だが遅い。血気にはやる若武者は外を通ったが、
一方、武勇で知られる可児才蔵は意外にも安全を期し内を通った。
もちろん若武者は早く現場に到着し、才蔵はそれに遅れた。
二人が合流したとき、反省したのは若武者だった。
若武者「才蔵殿は正しかった。外は敵の矢、鉄砲がすさまじく、己は運良く命拾いをしたに過ぎない」
これを受けて才蔵
「本当は自分も、早くたどり着く外を通りたかったが、
途中で撃ち殺されれば使者の役目を果たせなかっただろう。それでは軍律違反になるので控えた。
だが、もはや使者の用は終ったので、今は撃ち殺されても別に差し支えはない」
と言い、若武者が帰りは竹束の内を通ったのに対し、才蔵は悠々と竹束の外を通って帰った。
(武者物語より)
787人間七七四年:2009/01/04(日) 10:02:44 ID:itaHPh5C
久々に鮭様キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!
788人間七七四年:2009/01/04(日) 10:09:23 ID:hFKkG3KQ
才蔵らしくないと思ったら落ちに笑った
789人間七七四年:2009/01/04(日) 10:22:51 ID:wwQuQyK4
>>784
裸にネクタイみたいなものか。
ある意味正装w
790人間七七四年:2009/01/04(日) 11:37:19 ID:Nzuh8kUR
笹の才蔵、その晩年

ある日、才蔵のもとに若者たちが集まって語った。

若者「若いころ腕に覚えがあった人も、年とったらたいしたことないッスよね。
   気持ちは若くても、身体がついていかないッスよ。」
才蔵「まあ、人によりけりだな。」

若者「えー?!腕自慢だって年とれば足腰が弱くなって、若いのについて行けないじゃん!」
才蔵「・・・それも人によるわい。」

若者たちは年寄りの冷や水と笑ったが、はたして関ヶ原で混戦になると、福島隊は馬を下りて
徒歩で戦ったが、馬での移動に慣れた若者たちは、むしろ才蔵に後れをとった。日ごろから
どこへ行くにも槍を持ち、歩いて移動した才蔵は平気な顔で走り回り、17の首を挙げた。

才蔵は常々、愛宕権現を信仰し、「オレは権現の縁日に死ぬ。」と言っていたが、実際に
縁日の日に甲冑をまとい、床机に腰掛けて死んだ。遺言により、広島の矢賀という所の
坂道の脇へ「尾州羽栗郡可児才蔵吉長」とだけ刻んだ石塔を立てて葬られた。

心ある武士がこの矢賀を通る時は、馬を下りて才蔵の墓の前で手を合わせ、才蔵に習い
馬を引いたまま徒歩で往来するようになった。 (武辺咄聞書より)
791人間七七四年:2009/01/04(日) 17:34:35 ID:96V3CWkE
こっちは普通に才蔵らしい話だw
792人間七七四年:2009/01/04(日) 17:41:33 ID:UuipDDzt
>>785
さすが鮭様だw
どうせ今年の大河ドラマでまた噛ませ犬役をさせられるんだろうけど…
793人間七七四年:2009/01/04(日) 17:51:59 ID:xxLqoi8m
臆病野州とかもだが馬鹿にした連中を見返す爺様の話は大好きだ
794人間七七四年:2009/01/04(日) 19:24:33 ID:HkIrpf2e
>>789まさに武士の正装w
「失敬な!士道のたしなみとして、褌に兜は身に付けておるわ!!」ドコノBBCコントディスカー
795人間七七四年:2009/01/04(日) 19:28:24 ID:HkIrpf2e
>>775ただ我、向かう所を見よ! だっけ。
10倍の敵に奇襲する決死隊の陣頭に立つ氏康いくさ人すぐる。

厳密には年代(20年後?)は合わないけどね……
796人間七七四年:2009/01/04(日) 20:21:16 ID:+xI16PLc
大河ドラマ開始記念・上杉景勝と結城秀康のお話

関が原後、徳川の覇権が確立した頃の事
江戸城に出仕した上杉景勝。広間に座っていると、そこに結城秀康がやってきた。

関が原の折直接対峙した二人ではあるが、互いに尊敬しあっている
間柄である。
そうはいっても、秀康はいまや天下人の息子であり、景勝は敗軍の将である。
景勝は座を立って秀康に

景勝「…」
秀康「?」

兼続「秀康様、殿は『秀康殿、どうぞ上座にお座りください』と申しております。」
秀康「いやいや、景勝殿の方が先に着座なされていたのだ。どうぞそのまま。」

景勝「…」
兼続「『ここは江戸城でござる。身分も同じ中納言であれば、家康公のご子息である
   秀康殿が上座にあられるのが当然』と、申しております。」

秀康「何を言われるか。同じ中納言とは言っても任官されたのは景勝殿の方が先でござる。
   後輩は先輩を立てねばなりませぬ。それに私は今は結城家の者。結城家と言えば、
   世が世なら関東管領たる上杉家に従わねばならぬ家。ささ、お気になさらずどうぞご着座を。」

景勝「…」
兼続「『かたじけない思いやり、痛み入る』と申しております」

このようにして景勝は江戸城内において恥をかくことなく、徳川の世になっても、上杉家の
体面を保った。景勝のことを尊敬している秀康も、その事がとても嬉しかった。
そして秀康はいつも思うのだ。直江兼続の翻訳は、本当に正しいのか?と。
797人間七七四年:2009/01/04(日) 20:34:01 ID:CX9MnI11
>>796
実は戦国時代のいっこくどうだった直江兼続w
798人間七七四年:2009/01/04(日) 20:35:19 ID:5VfqAVxT
殿いつ景勝やめいw
799人間七七四年:2009/01/04(日) 20:40:30 ID:UuipDDzt
>>797
この場合いっこくどうは景勝なんじゃないか?w
800人間七七四年:2009/01/04(日) 21:14:56 ID:HkIrpf2e
>>796


オチに焙じ茶吹いた
801人間七七四年:2009/01/04(日) 21:22:54 ID:wwQuQyK4
寡黙とは言われるが本当にそこまで喋らない人だったのかw
802人間七七四年:2009/01/04(日) 21:55:19 ID:+xI16PLc
>>792
こんな記事がw

最上義光、悪役やめて NHK「天地人」に山形やきもき
http://www.asahi.com/culture/update/0103/TKY200901030041.html
803人間七七四年:2009/01/04(日) 22:06:06 ID:eNMUcf/K
>>796
いくら何でも創作だろうが、落ちにワロタw
804人間七七四年:2009/01/04(日) 22:37:03 ID:UuipDDzt
>>802
やっぱり地元の人達は鮭様の扱いを心配してるのかw
805人間七七四年:2009/01/04(日) 22:42:46 ID:gXQZO9YE
>>802
大丈夫だ。鮭様はこのスレでは善人だ。
806人間七七四年:2009/01/04(日) 23:58:13 ID:HkIrpf2e
>>804-805
善人というか「戦国常識人」枠らしいな。<ログから

教養や知謀が尋常じゃなく優れているが、シスコンと鮭ウマー以外の欠点はさほどない。
なおかつ大名家当主として優秀なわけで敵にしてみれば悪賢い人にも見えるわな。
807人間七七四年:2009/01/05(月) 00:17:55 ID:6Ia5JAOA
あの大河ドラマの脚本家なら良くて最上義光出番なし。
悪くて、少ない出番ながらもクズな悪役として描写した挙句、
何故か直江兼続に一騎打ちで討ち取られる超展開くらいは平気ですると思う。
808人間七七四年:2009/01/05(月) 00:53:30 ID:qxv4owyd
演出で死んでないのに殺しちゃダメだろうw
809人間七七四年:2009/01/05(月) 00:59:54 ID:Li/KRO/Y
死んだ最上に取りすがってなく妹を見た阿部ケンシロウが、
鼓動が甦る秘孔を突いて復活させるから、問題ない
810人間七七四年:2009/01/05(月) 01:22:07 ID:pEwLsi2B
>>807
それは屑すぎるな、それほどの脚本で...
811人間七七四年:2009/01/05(月) 01:48:50 ID:S726T8jt
初鹿野昌次 武田家臣。

武田家の伝令役「百足隊」に属す。
百足隊は読んで字の如く、旗に大きく「ムカデ」をあしらった軍旗を使用していたのだが
彼はその中でも目立つ為に、旗を白一色の無地にし、旗のすみっこに小さくムカデを描いた旗を用いた。

バレて信玄に怒られた。
812人間七七四年:2009/01/05(月) 01:55:48 ID:YyFAI448
>>811
信玄「何故軍法を侵してまでそのような旗をしておる」
初鹿野「ちっちゃく書いてるから別に軍法に背いてないし、
皆と同じ旗だったら俺の手柄がまぎれちゃうと思ったから」
信玄爆笑

って、俺の知っている本には書いてあるぜ。
813人間七七四年:2009/01/05(月) 01:59:36 ID:YyFAI448
俺のやつまとめに載ってたわw
814人間七七四年:2009/01/05(月) 02:13:13 ID:SSNrI/i2
>>794
同じような話があるぜ

大坂夏の陣で、雑賀の山口兄弟は大坂方に付いた。
弟は甲冑をまといまさに武士として戦に臨まんとするが、
兄は兜に褌一丁という有様。
弟は「兄者、さすがにそれは無いだろう。それではそこいらの雑兵と変わらぬでは無いか」と咎めると
兄は「首一丁になれば首から下に何をつけていようが変わらぬでは無いか」と笑い飛ばしたとか何とか。
815人間七七四年:2009/01/05(月) 02:26:25 ID:Li/KRO/Y
誰か西洋人の記録だったと思うが、
「素っ裸でのど輪だけつければ武装したことになって、その姿で闘う」とか書いてあった記憶がある。
兜をはめているのなら、それよりはましってところか。
816人間七七四年:2009/01/05(月) 02:26:49 ID:Hbjv6y5x
>>808
初回を観たが、それくらいのレベルの超展開は有るかも知れんという予感はあったな。
まだ初回なのに、だ。

開始五分で跪かずに秀吉と立ち話する三成を見て(しかも腕組みしてるし)、もう今年の大河に何も
期待しないことに決めました。
秋頃にココや鮭様関連スレは祭りかも・・・

ちょっとすれ違いですね、すいません。
817人間七七四年:2009/01/05(月) 02:57:10 ID:dXhxYxMQ
ガイシュツかね?長曾我部元親

元親は若かりしころは姫若子とよばれており、家臣の中には将来を悲観する者も沢山いた。
しかし、そんな元親も初陣を飾ることになったが、ある日、元親が家来に訪ねた。

元親「戦において大将とはどうあるべきなのだ?」
家来「多くありすぎますが、まず大将という者は安易に引かず、無理に攻めず、
    その場で構えているものでございます。」
元親「なるほど、そういうものか。」

そして初陣、元親率いる長曾我部の軍勢は相手の本山方に圧倒され、徐々に後退気味になっていく、
が、その中で一人、元親はその場から一歩も引くことも無く、家来を叱咤して指揮を執っていた。
そんな元親の姿に引っ張られて長曾我部軍は次第に盛り返し、ついに本山軍を打ち破った。

家来「見事にございました。」
元親「お前に言われたことをやったまでのことよ。」
818人間七七四年:2009/01/05(月) 03:06:56 ID:dXhxYxMQ
一応続き

前述の如く本山軍を破って戦も終わり、戦後処理を始めようかという時のこと、
突如として元親が主張する。

元親「このまま相手方の城に攻め込むべし。」

これを聞いた家臣たちは城攻めの困難さをとくとくと主張し、口々に無謀だと言うが

元親「我に考えあり、ついて来い。」

と結局、しぶしぶ従うことに。やはり姫若子じゃ、戦のことなぞ何も分からぬ、
口々にそういった不満を口にするが、いざ城に着いて驚愕、城はもぬけの殻であった。

家来「こ、これは一体!?」
元親「何、本山の軍勢が撤退するのを見ていたが、城と逆の方へと逃げていった、
    だから城には本山方はいないと踏んだだけのことよ。」

これ以来、家臣一同、元親に感服し、姫若子と呼ぶものは居なくなったという。
819人間七七四年:2009/01/05(月) 06:14:59 ID:mQpUE+fu
>>806
伯父・・・最上殿は甥っ子(妹の息子)に
もう少し優しくしてあげるべきだと思います

領地をプレゼントするとか
820人間七七四年:2009/01/05(月) 06:23:57 ID:T4cegbSX
だって甥っ子のが領地はるかに大きいんだもんw
821人間七七四年:2009/01/05(月) 09:30:02 ID:zIRvtIPO
義光「政宗、お前『甥っ子にもっと優しく』って言ってたよな、だから、
   俺甥っ子に莫大な領地と奥州きっての名家の格をあげることにした。

   お 前 の 弟 に お 前 の 領 地 を な 」

まさに戦国。
822人間七七四年:2009/01/05(月) 09:36:26 ID:UJZ2SvB5
ちょwww

それ いい話じゃねぇぇぇぇぇぇぇぇ
823人間七七四年:2009/01/05(月) 09:52:18 ID:pEwLsi2B
>>819
大事な合戦に遅参しちゃ危ないお

お酒の飲みすぎで前後不覚になるのも危ないお。

無闇やたらに撫で切りしちゃだめですお。

大人なんだから、そろそろ一揆を扇動するだの陰謀癖はこらえんしゃい。
終いに減封されたり加増の話をフイにされるんだお。

将軍家に連なる娘婿にあれこれ吹き込んだり、とにかく陰謀癖はやめんしゃい…

白石城を乗っ取った癖に山形への援軍は日和ったり、ほんまに勘弁してつかぁさい。俺、涙目だから!
824人間七七四年:2009/01/05(月) 13:52:50 ID:SAK0zwyE
>>823
ついでにもう一つ
自分が軍勢を動かすのが下手だからって、それお誤魔化すために、
押し込まれている前方の味方を後ろから撃つのはやめなさい。
825人間七七四年:2009/01/05(月) 18:44:29 ID:/GsAxnJC
あれはひどいよな
そのエピソードを知ったとき、伊達家をつぶせって思った
826人間七七四年:2009/01/05(月) 18:47:00 ID:qxv4owyd
義姫「そろそろ喧嘩はお止めなさい。」
827人間七七四年:2009/01/05(月) 19:07:38 ID:MX19/1QK
やれやれ、まーた沸いてきた。
828人間七七四年:2009/01/05(月) 19:08:06 ID:ilAkNXDE
>>825
神保隊の話?
あの話、伊達ひどいもそうなんだが
それやってなんで伊達が潰されないの?とそっちのが気になった
829人間七七四年:2009/01/05(月) 19:12:05 ID:9OcRZZf7
殲滅してしまえば訴えられることもない
当事者の証言さえなければ何とでも言いぬけられる
830人間七七四年:2009/01/05(月) 19:41:50 ID:MX19/1QK
つーかあれって結局、事件の経緯の詳細はわかってないだろ。
より悪辣にも、やむをえない事情があったということもどちらでも言えるし。
講談本の記述をこれが真実みたいに語るやつも出てくるw

どっちにしろ今の感覚や江戸期以降の武士道を基に考えちゃうとアレだ。
当時は今以上にやったもん勝ちの生き残ったもん勝ちなんじゃねーの。
武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候。
831人間七七四年:2009/01/05(月) 19:42:04 ID:/GsAxnJC
wikipediaによると、馬上32騎、雑兵293人が全滅だと…
7000石でこの人数って、本当に一兵残らず(控えめに見ても9割方は)殺されてるんだろうな
832人間七七四年:2009/01/05(月) 19:45:03 ID:E2Myb5Q7
まあ、どんな状況にあっても、包囲殲滅でもないかぎり
これほどの被害は出ないだろうけどねぇ。
よっぽどの攻撃だったとは思う。
833人間七七四年:2009/01/05(月) 21:21:33 ID:9knEEgsP
>>821
外道ベイビーじゃねえかw
834人間七七四年:2009/01/05(月) 22:02:09 ID:Y6y++8aM
ってか自軍を混乱させない為に敗残兵を追い払うなんてのは良くある事じゃねぇの?
関が原の島津もんな事やってただろ
さすがに全滅はどうかと思うが…
835人間七七四年:2009/01/05(月) 22:09:08 ID:cmz3xQsh
>>834
当時の記録によれば、神保は敗残すらしていない。
むしろ神保は戦果をあげてウマー状態だったが、伊達はなし。
で、むしゃくしゃして(ry
836大坂夏の陣だと:2009/01/05(月) 22:09:23 ID:pEwLsi2B
>>830
政宗の娘婿・松平忠輝勢(越後長岡藩)も、徳川の直参旗本と郎党を切り捨てて戦後に罰されてるんだよな。

たしか大坂へ向かう道中の事件だから合戦は始まってなくても「行軍中」。そこに、急使とか格別の理由も断りも入れてない他家のモンが、軍勢に割り込んだり(騎乗のままだった?)追い越そうとしたら抜け駆け同然だろ。切り捨てられても文句言えないんじゃないの…

豊臣を潰しても恩賞も出せない他家への手前、徳川一門だからこそ強引に罰されたような気がする。
あとは忠輝が赤ん坊の時から家康に嫌われていたっていう、そのせい??家康がそこまで依怙の沙汰に及ぶのは珍しいから疑問なんだが。
837人間七七四年:2009/01/05(月) 22:11:08 ID:Y6y++8aM
>>835
…なるほど
軍事行動としては意味不明だな
さすがDQNと言うべきか
838人間七七四年:2009/01/05(月) 22:42:35 ID:2yk0bT16
ちょっと空気を和ますための、戦国時代のお笑いを少々

・ある人が自分の小姓を「かすなぎ、かすなぎ」と呼んで使っていた。
 客が「かすなぎとは一体なんですか?」と尋ねると、
 「よく聞いてくれた。あの小姓に名をどう書くのかと尋ねたら、春長と書くのだが、
 春は『春日』のかす、長は『長刀』のなぎだと聞いた。よってかすなぎと言うのだ。」

・ある人が飼い犬の名前を「二十四」とつけた。
 理由を尋ねたら

 「しろく候えば。」

・ある家の息子が、百人一首を本に向かって滔々と読んでいた。
 そこでその親が「もう少し静かに読め。そういうものは返り点の習いが難しい。」


醒睡笑より
839人間七七四年:2009/01/05(月) 22:47:17 ID:JrKah9ni
「滔々」からエロスを感じたので切腹します
840人間七七四年:2009/01/05(月) 22:50:36 ID:U1EHxyGV
>>838
もうその時代に九九あったのか!>しろく候えば

三つ目はイマイチ落ちがわからんのだけど
親が良く知らないのに利いた風な小言を言ったでok?
841人間七七四年:2009/01/05(月) 22:54:30 ID:cmz3xQsh
>>840
和歌に返り点はないだろjk…じゃね?
842人間七七四年:2009/01/05(月) 22:55:56 ID:2yk0bT16
>>840
百人一首は和歌だから、返り点なんて無いわけでw
843人間七七四年:2009/01/05(月) 23:20:49 ID:U1EHxyGV
>>841-842
センキュウ。
844秀吉の夢:2009/01/06(火) 01:22:29 ID:xWx/VJDV
秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗り知行が百石だった頃、
同僚達と将来の夢について語りあう事があった。

同僚達は「一国一城の主になりたい」「天下に知られる大将になりたい」と大きな夢を語るところ、
秀吉は「わしは今の倍の二百石もらえるようになりたい」と言う。
同僚達は「つまらん奴だ」と馬鹿にしたが、秀吉はこう反論した。

「お前達の夢は大きいが、ただの空頼みに過ぎん。
 わしの夢は励めば必ず叶う、手の届く夢だ」

秀吉は小さな夢を着実に叶えていき、ついに天下を取ることになる。
845人間七七四年:2009/01/06(火) 01:51:40 ID:MQfIA86X
何つーか秀吉の出世ぶりは本当…、言葉も出ないわw
すげーよ。ラスボスだけど。
846人間七七四年:2009/01/06(火) 02:01:00 ID:QZQxJoMk
若い頃の秀吉の話と聞くと、説得力があるなあ
847大きなことはできまへん:2009/01/06(火) 02:30:25 ID:Pa/nmuLs
>>844
これは、西川きよし師匠が天下を取る日も近いな。


小さなことからコツコツと……
848人間七七四年:2009/01/06(火) 03:00:40 ID:UCIt6yzD
大記録を打ち立てて次の目標を聞かれたスポーツ選手のようだ。
「次の目標は101勝です。」みたいな。
849人間七七四年:2009/01/06(火) 03:52:18 ID:bL5wLya3
一方若き日の毛利元就は夢を大きく持った
850人間七七四年:2009/01/06(火) 09:17:30 ID:HLsvxuKZ
しかし日本統一したら「朝鮮占領して明にまで攻め入る」という狂人の夢想としか思えん道に走った秀吉
やっぱ初心を忘れたらいかんね
851人間七七四年:2009/01/06(火) 09:31:58 ID:FSS/sZi0
>>850
日本が統一できたんだから朝鮮くらい手が届く
2国を落とせた自分なら明も手が届くはず

本人的には初心だと思う
852人間七七四年:2009/01/06(火) 11:00:37 ID:RDoRIAzc
秀吉は自分自身に酔ってる所がある気がする。
853人間七七四年:2009/01/06(火) 12:55:38 ID:eJwug9YJ
つーか、秀吉は明どころか、本気でインドまで占領する気でいた。
854人間七七四年:2009/01/06(火) 13:16:12 ID:7CnLwGNA
ラスボスだからな、世界征服願望は必須
855人間七七四年:2009/01/06(火) 14:05:20 ID:b0dITtGL
>>814
山口兄弟の兄は兵内、弟は兵吉というそうだ。
雑賀鉢兜に赤褌だけで出陣しようとしたら、弟が
『兄者、それでは雑兵同然では無いか』と突っ込むと
兵内は高笑いして
『だからこそ、兜だけは外して居らんだろう?』と。
ちなみにこの伊達男な兄弟の上司は、夜討ちの大将こと塙団右衛門。

まとめサイトでは見かけなかった気がするので、松永久秀の話を

1577年(天正五年)8月、上杉謙信上洛の噂を聞きつけた松永霜台こと久秀は
本願寺包囲網の一角だった自陣を勝手に引き払い居城信貴山城へ退却、叛旗を
翻した。

だが、頼みの綱だった謙信は留守の間隙を突いた北条氏政の上野出兵を聞き撤退してしまう。
自慢の多聞櫓がある多聞山城は前回謀叛で没収されており、久秀の城はこの信貴山城だけ。
同年十月三日、織田信忠の軍が城を取り囲むなか
久秀は顕如に援軍要請を行うが、この使者が夜道で迷い佐久間信盛軍に捕縛される。

これを知った信盛は部下百余兵を率いて信貴山城に接近、『援軍第一陣到着!!』と偽って門を開けさせる。
忽ちのうちに、城の中を席巻し二の丸まで占領してしまい、同時に使者としていた
部下の森某が旧主の筒井順慶と通じて叛乱を起こす。
もはや、一代の梟雄・松永久秀の命運も風前の灯火となってしまった。

天守閣から城の有様を見据える弾正の傍らで、部下の者が葛城山の上空に煌く箒星を指差して言った。
『あの箒星は先月二十九日から光の尾を引いております。京童達はあの星を
 "弾正星"だの"松永星"だのと名づけ、松永弾正殿滅亡の天意だと噂しておりましたが
 残念ながらその凶星の示す通りとなってしまいました。』と呟いた。

それを聞いた久秀は哄笑し、夜空を見上げて嘯いた。
『何を言い出すかと思えば、莫迦者め。
 彗星が現れたのは天文自然の理に従ったからだ。
 俺如きの事など、いちいち天帝(天地創造神)が知っているものか…。
 天帝の眼から見れば、信長も将軍も天皇も塵芥同然さ。
 誰が死のうが誰が滅びようが、彗星の運行は毛筋ほども変わりはせん。』

梟雄・松永久秀が壮絶な爆死を遂げたのは十月十日の事だった。

そんな松永久秀の、(ものわかりが)いい話。
856人間七七四年:2009/01/06(火) 14:20:21 ID:jn+T8BSo
ハイパーリアリストだなw

UFOとかUMAとかで騒いでいる現代人よりよほど先進的だぜww
857人間七七四年:2009/01/06(火) 16:05:37 ID:FSS/sZi0
信長が最後の叛乱まで久秀に妙に甘かった理由が分かる気がするなw
858人間七七四年:2009/01/06(火) 17:09:32 ID:mtdssHbB
>>855
塙団右衛門は団右衛門で朝鮮の役で無茶してるんだよな・・・

ふんどし祭り
859人間七七四年:2009/01/06(火) 18:45:04 ID:mxet0GAv
>>855
現代人的な考え方だな
860人間七七四年:2009/01/06(火) 19:53:47 ID:yIIHPGGU
この時代、彗星の実体って解明されてたか?
861人間七七四年:2009/01/06(火) 19:59:38 ID:LGTKsD7v
実体が解明されていたかどうかなんて関係ない。
天文現象に過ぎず、吉凶を表すものではないという見方が出来ていたということが重要。
862人間七七四年:2009/01/06(火) 20:10:07 ID:eJwug9YJ
近江、六角氏の家臣に、越後守高安という侍がいた。

この高安、永禄十一年(1568)、六角氏が滅亡すると牢人となり、伊勢において
蒲生氏郷が建設した城下町、松坂に移住し、治郎右衛門を名乗り、町人となった。

高安は慶長十五年(1610)に没し、その長子、高俊が後を継いだが、この男、遊興に
うつつを抜かし、たちまち家産が傾く有様であった。
夫を見かねたその妻、殊宝は、家を何とか建て直そうと、8人の子育てをしながら
質、酒、味噌、茶、煙草などの商いをはじめた。

やがてその商いは軌道に乗り、高俊が早くに没し、彼女が寡婦となった頃には、
さらに規模を大きくし、独立した商店を構えるまでになった。
彼女はその商店の屋号を、義父の官名から、『越後屋』と名付けた。

これこそ近世日本最大の豪商、三井越後屋、誕生の瞬間であった。
863人間七七四年:2009/01/06(火) 20:15:27 ID:vIwKL0SV
松永久秀は、茶人として有名。
彼ゆかりの撫肩が市立美術館に展示されていた。

綺麗だがちっぽけ、彼ゆかり故の名品だそうな。
864人間七七四年:2009/01/06(火) 20:48:07 ID:P6BX2VPM
>>862
越後屋カッケー
今や越後屋といえば悪徳商人の代名詞だもんな
不本意かもしれんが、それだけ名が通ってたってことなんだろうな
865人間七七四年:2009/01/06(火) 21:11:55 ID:kr9PUD1W
>>860
実体ってのが何を意味するのかわからんが
後年中国に渡ったイエズス会の宣教師が彗星の軌道を含む天体観測の知識を披露して
儒教の学者等の信頼を得たって事がある
866人間七七四年:2009/01/06(火) 21:16:08 ID:on/qv7pN
ってことは、中国でも軌道等の観測や予測はされていたということかな
867人間七七四年:2009/01/06(火) 21:26:08 ID:rbFP+gGA
ヨーロッパですらしてたのに中国でしてない方が違和感あるような
868人間七七四年:2009/01/06(火) 21:56:42 ID:cjWtfug8
>>865
古代から中国で天文学は発達していたが、
モンゴルに占領されたことで当時世界最先端であったアラビアの天文学が流入し飛躍的に観測技術が発展した
ヨーロッパもアラビアの天体観測を学び発展させてきた経緯がある
星の名前にアラビア語由来のものが多いのはそのためだそうだ
869人間七七四年:2009/01/06(火) 23:28:56 ID:Pa/nmuLs
アストロ能登
870人間七七四年:2009/01/06(火) 23:30:20 ID:bnrutrBq
アルデバランとかアルタイルとかアルゴルとかアルばっかりだしな
871人間七七四年:2009/01/07(水) 02:26:28 ID:phBPROs8
やっぱり中納言殿は無口だった。今度は上杉景勝の話を

1614年(慶長十九年)11月、大坂冬の陣での事。
大坂城の東北部にあたる鴫野で徳川方の上杉景勝軍と大坂方が激突、上杉軍が
大和川の堤を確保したが、上士下士ともひどく疲弊した。

徳川家康は他家の軍と交替するよう使者を出したが、要領を得ない。

上杉景勝>>…―(#;・`ω・´)―…。
上杉景勝家臣>>それ大将が軍陣にある時、君命でも受けられぬ場合がある。
       早朝より奮闘努力し勝ち得た地を、どうして他人に譲れようか!!

と、上杉景勝の家臣が言上するばかり。家康は再度使者を出した。

派遣された使番は上杉軍の陣に至り、棚外から口上を述べるが返事が無い。
上杉景勝は謙信よろしく青竹を杖にして大坂城を睨みつけ、額には青筋。
その左右には馬廻り三百人が勢揃いしていたが、口を真一文字に結んでおり
咳一つとして無い。ただ、陣営には旗差し物が風にはためく音だけが響いているばかりだった。

上杉景勝>>…―(#;・`ω・´)―…。
上杉家家臣>>…―(´・ω・`)ω・`)・`)―…。

あまりの不気味さに使番はその場を立ち去り、家康に言上する。
『こちらが何を申しても、云でも無ければ寸でもない。
  米沢の家中はまことに無礼者揃いにござる。』

徳川家康は報告を受けたとたん、感動の面持ちで膝を打った。
『それこそ、不識庵(上杉謙信)以来、受け継がれた軍法であろう。
                お前は、良いものを目にした。』

上杉家中では『士卒は法制を守り、戦場では無駄口を利くな。ただ、旌旗・狼煙・金鼓・貝の役に従うべし』
とされ、戦場での沈黙が美徳であると謙信以来の祖法として尊ばれたが、景勝の場合はそれに極端だった。

上杉軍が行進する時は例え戦闘中でなくても誰も喋ることがなく、足音だけしか聞こえなかったという。

戦国最後の固茹で卵、毘沙門天の後継者たる上杉景勝の(覚悟と度胸が)いい話。
872人間七七四年:2009/01/07(水) 02:31:55 ID:XEfdLCy8
>戦国最後の固茹で卵

この表現好きだなww
873人間七七四年:2009/01/07(水) 08:27:28 ID:+FHQLlrv
ハードボイルド=痩せ我慢だな
874人間七七四年:2009/01/07(水) 08:57:55 ID:cfZ7awNS
ほんと、器だけは途方も無くでかいよなあ、景勝。
875人間七七四年:2009/01/07(水) 09:19:50 ID:amf9lQNE
>>874
嫁さんの実家は諏訪四郎ちゃんの代でいろいろあって身代を潰してしまったからね…

天才とか名君とされた偉人の次代は難しいよ。普通なら堅実な二代目と評して貰えるレベルでも、先代と比較されて盆暗扱いされてしまう。

「無口キャラ」属性や「意地っ張りクール」なリアクションは、上杉家中を引き締めるに必要な演出だったんじゃね?
876人間七七四年:2009/01/07(水) 09:23:27 ID:OPc1roIT
景勝は反抗的にも見える態度とっても「さすがだな!」と逆に賞賛されるパターンが多い気がする
877人間七七四年:2009/01/07(水) 09:30:33 ID:m4cyXPUt
つか、景勝が喋ってるエピソードってあるのか?
878人間七七四年:2009/01/07(水) 09:31:50 ID:QLv7RBnw
今川氏真「親父の負の遺産のせいなのになんで自分が・・・・・・」
879人間七七四年:2009/01/07(水) 09:42:47 ID:BDsy/XZQ
武田勝頼「同上だけに同情します」

880人間七七四年:2009/01/07(水) 10:20:17 ID:i5H8dubF
上杉景勝が渡河をしている最中、彼の乗る小舟が人が多く急流で沈みそうになった。

数人の家臣が無言で河に飛び込み、急流に呑み込まれていった。
船は無事に河を渡った。

似た話が、オスマン皇帝のルーマニア遠征時にもあった。
881人間七七四年:2009/01/07(水) 10:42:28 ID:08p57GXN
まとめスレになかったっけ?

それにちょっと違うな。
景勝が竹杖で不満を表して、家臣が一斉にダイブってのが笑うポイント。
882人間七七四年:2009/01/07(水) 11:56:22 ID:Hq+551D/
>>844
毛利元就とは正反対だな。

毛利元就がまだ松寿丸と名乗っていた頃に厳島神社へ参拝に行った時、その側近に「何を願った」と質問した。
側近は「松寿丸様が安芸一国を支配できますように」と答えた。
それに対して元就は「何故天下統一を願わなかったのだ?天下の主になると祈願して、ようやく安芸一国といった所だ。
それなのに、最初から安芸一国しか目指さなかったのでは、安芸一国すら取ることはできまい」と答えたという。
そんな元就であったが、遺言では天下を目指すなと言い残している。輝元の器量を心配したのであろうか。
883人間七七四年:2009/01/07(水) 11:57:13 ID:8uD1yk55
上杉と小船はもはや定番w
884人間七七四年:2009/01/07(水) 12:27:16 ID:7qhtMa6p
確か景勝と船の話は景勝は怒って杖を振ったんじゃなくて
虫かなんかが飛んできてそれを払ったら
家臣たちが「御屋形様がお怒りだ!」と勘違いして
泳げない奴もみんな我先にと一人残らず川に飛び込んだんじゃなかったっけ?


大阪冬の陣でも景勝が陣を見回りに来たらだらけてた兵が
「御屋形様に見つかったら怒られる!」と

弾や矢の飛び交う防護柵の中に慌てて逃げ隠れて
周囲からは「上杉の兵は鉄砲より景勝の怒りを怖がる」と呆れられたとか。
885人間七七四年:2009/01/07(水) 12:28:54 ID:QRDaB/C+
元就なんてじじいになってようやく一花さかせたから天下なんかとても望めんよね
886人間七七四年:2009/01/07(水) 12:40:02 ID:94P8mLcT
根はいい人なのに顔がいかついのと無口なのが災いし、部下が必要以上にビビるってのが景勝エピの肝
887人間七七四年:2009/01/07(水) 13:16:10 ID:SDTr4753
でもそれが景勝クオリティ
888人間七七四年:2009/01/07(水) 13:44:09 ID:jNqKqWfu
しゃべらない信長
889人間七七四年:2009/01/07(水) 14:16:59 ID:m4cyXPUt
これだけいろいろエピソードがあっても、ただの一度も喋ってないのか・・・w
すごいぜ景勝は。
890人間七七四年:2009/01/07(水) 14:29:58 ID:VAuIooEp
しゃべらなかったり 結婚しなかったり
変人の宝庫だな 長尾は
891人間七七四年:2009/01/07(水) 14:31:04 ID:RjmdodJg
よし、影勝がしゃべった話!

大谷吉継が検地で上杉の面々と一緒に行動してたとき。
大谷の部下の不手際だかなんだかで、その土地で一揆がおこってしまった。
おさめるにも人員不足でやばい状態になった大谷、仕方ないので上杉に援軍を求めた所、
快くOKしてくれた上杉軍、無事に一揆をおさめる事ができた。

しかしこんな他人の尻拭いみたいな仕事、普通は嫌がる物だが協力をおしまない上杉の態度に
関心した大谷、影勝にその事を聞いてみた。すると影勝の一言。

「上杉の“義”なれば……」

その潔い答えにまたも感じ入ってしまう大谷でしたとさ。
892人間七七四年:2009/01/07(水) 14:32:28 ID:RjmdodJg
あ、景勝の字変換ミスってたスマン。
893人間七七四年:2009/01/07(水) 14:33:07 ID:amf9lQNE
>>855
子作りガイドブックといい、土壇場まで冷静で明敏な松永弾正がかわゆく思えてきた。
もしかして、やせ我慢して強がってたのかしら?
894人間七七四年:2009/01/07(水) 14:43:29 ID:m4cyXPUt
>>891
おぉ、サンクス
何だ、ちゃんと喋るときは喋るんじゃないかw
しかも異様にカッコイイ! (゚∀゚)
895人間七七四年:2009/01/07(水) 14:51:12 ID:94P8mLcT
>>891
その台詞は、ゴリラーマンで言うところの「痛いよ、香織ちゃん」みたいなもんだなw
896人間七七四年:2009/01/07(水) 14:57:43 ID:KpfhGdrz
無口だからたまに言う一言が重い→本人もうかつな事は言えないと自覚する→ますます無口に
以下ループ
897人間七七四年:2009/01/07(水) 15:52:04 ID:7cxILCkm
大和の大名、筒井順昭は天文十九年(1550)の夏の頃より病に伏せがちとなり、
南都林小路の外館において養生していた。
七月七日の七夕祭り、順昭は山田道安・慈明寺順國、福須美順弘、飯田頼直らの一族と、
島左近、松倉右近、森好之の三老を密かに呼び寄せ、こう語った。

「我が命もこのままでは、来年の夏まで持たないであろう。わが子藤勝(後の順慶)はまだ幼く、
わしが死ねば、松永らがこれ幸いと攻め滅ぼしに来るのは必定である。そうさせないための方法を
一つ、考えた

奈良角振町の鷹隼の祠近くに、黙阿弥という盲目の者がいる。彼は顔立ちや声色、
年の頃もわしによく似ておる。
もし、わしが死ねば、これを秘密にし、密かにこの地に葬れ。そして黙阿弥に事情を申し含め、
わしの床に入れ置き、お前達も以前と変わらず給仕せよ。
そのようにして三年間、喪を隠し通せ。そして藤勝を守り立てて、筒井の家を永く残して欲しい。
これがわしの遺言じゃ。」

翌二十年六月二十日の辰の刻、順昭は没した。享年二十八歳であった。

一族と家老たちは、順昭の遺言通りにその翌夜、遺骸を外館の奥に人知れず埋葬し、
それから黙阿弥を密かに呼び寄せた。そして彼に事情を話し、順昭の身代わりとして
南都林小路外館に置き、一族の4人と家老3人が、依然と変わらず仕えた。
この事は、この7人と近習の4、5人の他は知る者もなく、筒井家の家中の者たちも、そして
敵方も、順昭は病身ながらいまだ存命であると信じ、筒井領は敵に攻め込まれることなく
平穏な時をすごした。
この間に筒井家の首脳部は体制を整え、1年たった天文二十一年(1552)六月、順昭の死を公表した。
大和の諸氏は、大いに驚いたという。

黙阿弥は多額の金銀や衣服を与えられ、角振町に帰された。黙阿弥は元の盲目法師となった。


これより、物事に成功してまた昔の状態に戻ることを、「元の黙阿弥」と呼ぶ様になった。
898人間七七四年:2009/01/07(水) 16:29:08 ID:JW2u+UF8
途中まで口封じのために殺される話かと思った
899人間七七四年:2009/01/07(水) 16:46:35 ID:AcKTwicX
>>898
このスレだから、んな事はない、と信じてた(ドキドキしながら)
900人間七七四年:2009/01/07(水) 18:03:39 ID:xaY/22g2
>>898
別パターンとして、『一年間筒井家の殿様やってれば知られたくない軍事秘密も
知っているはず。木阿弥は殺した方が良いだろう。』と重臣達が決めてあわや
風前の灯火、となったところで順昭未亡人が『それではあまりにも不憫だから…』と
恩情を掛けてやり、ある日の夜に木阿弥に琵琶を一本渡して京の町へと逃がしてやった、
結果として木阿弥は筒井家総領からただの琵琶法師になり、『元の木阿弥』になった、
というのもある。
天正軍記にも『嗣子(順慶)長ズルニ及ンデ、木阿弥、又モトノ市人トナリヌ』と表記があるそうな

では、筒井順慶繋がりで例の『洞ヶ峠』の話を

筒井順慶と言えば洞ヶ峠、洞ヶ峠といえば日和見、日和見といえば小早川秀秋とAID(ryという位
慣用句として成立してしまう逸話であるが、実際のところ筒井順慶は
洞ヶ峠で山崎合戦の帰趨を見守っていたというのは偽りである。

1582年(天正十年)6月、信長を本能寺に襲い煉獄へと葬り去った明智光秀は
直ちに朝廷へ奏上を行い、6月4日に征夷大将軍職を拝命。
直ぐ様に畿内の諸大名達へ帰属を呼び掛けるが、寄って来たのは武田元明やら
京極高次やら阿閉貞征・後藤定豊とか旧世代ばかりが集り、
女婿の細川忠興、寄騎大名であり大和での勢力伸展の後楯となった
筒井順慶といった期待の大物からは支援を受けられずにいた。

細川藤孝は織田信長追悼の意味も篭めて剃髪、幽斎と号して光秀と敵対するが
順慶の態度は煮え切らない。最初は光秀に従うと見えたが秀吉が大返しで戻って来ていると
聞いた瞬間、篭城を決意。

筒井順慶>>こりゃ、どっちが勝つか判らないね。日和見日和見。(=ヮ=,,)~゜

居城の大和郡山城に兵糧を運び込んだのが6月9日。秀吉急展開の報を聞いた光秀は、軍勢を率いて
洞ヶ峠まで筒井順慶を 迎えに行く が、順慶は篭城を決め込み出てこない。

結局光秀は山崎天王山で敗北し、帰趨が決定的になった順慶は秀吉に使者を出し、帰順を申し出た。

日和見を決め込んだのは間違い無いが、この手の表裏比興は戦国の常、なのに
なぜ順慶だけ悪い様に言われるのか?

実は、『増補筒井家記』という順慶の子孫が書いた本が原因。これを書いた子孫は
『俺達のスーパーヒーロー筒井順慶が篭城で日和見しただなんて後世に聞こえが悪い、
ならば山崎の合戦、乗るか反るかの天王山で順慶が活躍したことにしよう!!』と
勝手に御先祖様の行動を捏造してしまったらしい。その結果が今日の慣用句な有様だ。

そんな、筒井順慶の末裔が良かれと思ってやった気遣いと、筒井順慶には良い(迷惑な)話。
901人間七七四年:2009/01/07(水) 18:04:56 ID:tzpcoh1q
>>890
悪い話なら、「洞が峠を決め込む」の逸話やな。
もっとも、洞が峠にいたのは順慶じゃなくて光秀やけど。
902人間七七四年:2009/01/07(水) 18:09:02 ID:tzpcoh1q
>>900
スマンかぶった。
ちなみに順慶の日和見ぶりは興福寺の僧侶の日記(多聞院日記)に記載されている。
明智に援軍送ったり引っこめたり、明智の使者を追い返したり呼び戻したり…
903人間七七四年:2009/01/07(水) 19:06:14 ID:aVnDLVYC
関ヶ原ではそういう中途半端な事でお茶を濁した大名は改易になってるな。
増田長盛や佐竹義宣など。
904人間七七四年:2009/01/07(水) 19:08:18 ID:Ci2a+bBX
>>902
筒井順慶の日和見力は向背常無き乱世の定めだからまだしも、倅もだめぽだったような・・

そういや大和や紀伊など近畿南方は寺社勢力と百姓(農民限定じゃなくて民草の意)がやたら強くて
武家・中央政権の統制もなかなか難しかったらしいね。
信長に京を追い出された将軍義昭がへろっと逃げ込んでいたりするし <毛利氏に保護される前
905人間七七四年:2009/01/07(水) 20:14:12 ID:jwGTLcVL
>>899
括弧内も含めて、同じく
906人間七七四年:2009/01/07(水) 23:21:31 ID:wtKaN+SI
景勝は三船敏郎みたいな男だったのかなぁ
907人間七七四年:2009/01/07(水) 23:33:59 ID:FwIbAZai
そんな景勝も若い頃は柴田、佐々や鬼武蔵に領地がレイプされてた時は
佐竹義重に「もはやこれまで…自害もやむなし」みたいな書状を送ってたんですけどねw
908人間七七四年:2009/01/07(水) 23:35:18 ID:YwUBOUv/
そんなも何もいかにもな文章だ
909人間七七四年:2009/01/07(水) 23:50:25 ID:7qhtMa6p
自害も止むなしとはいってないぞ。
「60余州相手に越後一国で戦うのは武門の家に生まれたものとして果報なこと、
それで死んでも名誉を残し、もし万死に一生を得るなら古今無双の英雄となるでしょう。
こちらのことは心配しないでください」
というあくまで決戦して滅亡する意志を書いた手紙だ。

まあまとめサイトにあるんですけどね。
910人間七七四年:2009/01/07(水) 23:59:10 ID:FwIbAZai
うろ覚えだったが本物の書状は書いてある事まで違った。

男前だな。
911人間七七四年:2009/01/07(水) 23:59:57 ID:amf9lQNE
>>909
当方に迎撃の用意あり!だね。

関ヶ原でも本能寺直前も、武門の意地をとおして(直接決戦こそなかったが)兎に角、家を保ったのは上杉景勝よくやった方だしょ。ただ運がよかっただけかもしらんが....
912人間七七四年:2009/01/08(木) 01:49:29 ID:M+B0CfDJ
>>855
松永久秀の合理性をあらわす逸話にこんなのもある
山城だったか大和だったかの寺院へ宛てた手紙に
「寺院に落雷があって焼けちゃったそうだね。天罰だとか気に病んでるそうだけど
これは自然現象のうちだから気にしないでいいよ。 早く寺院を直してね。」

とまあ合理主義者に多い都合のいい話
913人間七七四年:2009/01/08(木) 02:52:35 ID:qWjFgjPM
松永さんは信心深い人々の心を把握するのが上手かったという印象を受けるね。
合理主義者なのだろうけれど、それで神秘主義者と対立する事もなく
きちんと相手の立場を考慮した上で、より良い結果を導き出そうとしているような。
毛利元就が人柱の代わりに石碑を埋めたエピソードを思い出した。
914人間七七四年:2009/01/08(木) 03:03:25 ID:2PkHpOct
>>668-669
「峠」にちょとだけ出てくる与板藩だな。今は長岡市だけど。
会津藩の脱走兵が軍費出せと、七千両強奪してったってやつ。
のみならず、付近の家々から鍋茶碗や坊主の袈裟まで、あらゆる物を略奪。
さらに、江戸藩邸組が苦労して回船してきた新式銃を新潟港で騙して強奪。
さらにさらに、長岡城奪還戦前のゲリラ戦で与板のあちこちに放火。
ついには藩の陣屋にも火が着いて、焼け落ちる建物の中で家老は腹かっさばいたとか。

そんなんでも、小学校の修学旅行は会津若松だったりします w
915人間七七四年:2009/01/08(木) 04:17:14 ID:qWjFgjPM
毛利元就と側室にまつわるエピソード。

愛する正室を亡くしてしまい、愛妻家だった元就も
とうとう側室を持たざるをえない破目に陥った。

早速のように近隣の豪族から様々な申し入れがあり
中でも最近になってから毛利に服属したばかりの某(三吉さんかしら?)は
何としても一族の娘を側室に迎えて欲しい、と願っていたのだが
生憎と年頃の娘がおらず、唯一それらしいのは幼い童女であった。

それでも器量は良いのだし、一応は会うだけ会ってもらおうと思った父親。
元就を舟遊びに誘い、娘と二人きりにさせたのだが
娘はもじもじと落ち着かず、元就が話しかけても上の空。
ついには堪えきれなくなったのか、船から飛び降りて着物を水浸しにしてしまった。

娘を助ける為に船へと抱き上げてやった元就の衣服まで濡らしてしまい
これでは、とても側室になど迎えてもらえぬと落胆した父親だったが
意外にも元就の反応は好印象。「明日にでも使いを出そう」と娘を受け入れた。
やれめでたや、これで御家安泰と喜びながらも一同不思議に思い、訳を訊いてみると……

「そなたらは彼の娘が子供であり、まだ女にはなっておらぬという。
 だが、娘は俺と対面している間も、終始恥じらっていた。それは尿を我慢していたからよ。
 子供であれば、気にせず厠へと飛んで行ったであろう。彼の娘は、立派に女である」
「そして娘は辛抱が出来なくなり、このまま垂れ流すよりはと考えて、船から水へと飛び込んだのだ。
 これは咄嗟の機転から生まれた行動であり、娘に才智が備わっている証左である」
「何よりも心を打たれたのは、船に救い上げた際、娘は俺に抱きついていたのだが
 恥じらうだけでなく、相手の着物を濡らしてしまった事を気にかけてもいた。あれは気立ての良い娘だ」
と、元就は至極冷静に答えてみせたという。
916人間七七四年:2009/01/08(木) 04:19:47 ID:qWjFgjPM
このエピソードには二通りの解釈があり
真実娘は「立派に女で」「才智を秘めた」「気立ての良い娘」であり
周りが気がつかなかったそれを、元就が見抜いてみせたというパターン。
そして、娘は本当に何も分かっていない童女だったのだけれど
毛利の今後を考えた場合、この豪族との結束を強める必要があった事から
何でもない行動にも理由を当てはめてみせた元就の
当意即妙の才(咄嗟の機転、という奴ですね)を褒めるパターンがあります。
917人間七七四年:2009/01/08(木) 05:32:02 ID:FY4ZdEUD
元就が真性のロリコンだったというパターンはないのですか?
918人間七七四年:2009/01/08(木) 05:48:32 ID:uZ8UWAjJ
一方元春は不美人の嫁を貰った


なんてオチはともかく
頭の良さとかより相手を気遣い思いやる優しさの方が大事っていうのはいい話だね
919人間七七四年:2009/01/08(木) 11:23:56 ID:WTBqBO+5
真性ロリなら正室が「老衰」で亡くなるまで他に目もくれず一途ってこともないだろうからね
920人間七七四年:2009/01/08(木) 12:06:44 ID:PyZW+Zan
>>919
真性ロリではないが、ロリもいけるくらいストライクゾーンが広い御仁なのかもしれない。
921人間七七四年:2009/01/08(木) 12:16:43 ID:NjmjtgSR
真性ロリか否かって、いい話で終わらせてやんないのかよw
922人間七七四年:2009/01/08(木) 12:41:09 ID:v17jbSvb
元就「人間、ヤる気でやれば齢70でも子作りできる。なんとかなるもんだね」
923人間七七四年:2009/01/08(木) 12:45:26 ID:mccTmwMN
家康「ちょw70とかさすがに引くわw 65で子作りなら余裕だけど」
924人間七七四年:2009/01/08(木) 12:58:58 ID:VDTBdVdj
蓮如「俺なんか80でも余裕だぜ」
925人間七七四年:2009/01/08(木) 13:02:40 ID:18Oq0Kgr
金森長近「ですよねー」
926人間七七四年:2009/01/08(木) 13:03:37 ID:xIWgKY7k
宗茂「私なんか種無しです」
927人間七七四年:2009/01/08(木) 13:39:00 ID:+hejdMUi
なにやら太閤殿下がムッとされてます
928人間七七四年:2009/01/08(木) 13:51:03 ID:OEu2IcEE
弟君がションボリしてます
929人間七七四年:2009/01/08(木) 14:50:41 ID:JMDsTEtG
家久@DQN「それがしなど39歳スタートで63であの世に逝くまでギシギシやりまくったもんねー」
930人間七七四年:2009/01/08(木) 14:57:50 ID:v8AWFiJj
何やら子種の件で太閤殿下がムッとされている様なので
戦国一の絶倫法主様こと本願寺第八代門跡・蓮如のお話を

1457年(長禄元年)7月、実父である七代法主・存如の逝去を受け
浄土真宗の法主となった蓮如、実は凄まじい絶倫で知られる人物でもあった。

二十八歳で最初の結婚して八十五歳で亡くなる迄に五度の結婚をし、儲けた子女は
実に十三男十四女。計にして二十七人もの子宝を得られた。最後の子供が生まれた時、
蓮如実に 八 十 四 歳   。゚+.(゚∀゚#)。+.゚ ←太閤殿下 

本願寺蓮如>>いや、親鸞上人も妻持ち子持ちだし、そういう教義だしー?(・ω・,,)~゜

さらに、これらの子供達は皆、その時に蓮如が正妻としていた夫人だけから
生まれて来たというから恐ろしい。そう、彼には側室や愛人が居なかったのだ。

願いましては。
最初の妻・如了が四男三女、次の妻はその如了の妹・蓮祐は三男七女、
三番目の妻・如勝は一女、四人目の妻は一男一女、最後の妻・蓮能は五男ニ女。

姉妹丼が一個あり、三番目の妻・如勝は蓮祐の子供達を養育していた召女だったが
情が移って恋愛結婚。凄まじい艶福家振りである。

というのも、蓮如の母親というのが身分の卑賤ゆえに存如の正妻になれず、
存如が正妻を迎えるに当たり、蓮如が六歳の時に蓮如の肖像画を書かせて
それを形見に寺から去ってしまった為。
蓮如は正妻でない側女の悲哀を良く知っている。だから、みんな正妻にして子供を儲けたのだった。

こんな戦乱の世に恋愛結婚、如勝は倖せだった様だが三十一歳で死去。
蓮如は長文の手紙を信徒に送り、悲嘆の思いを綴っている。

愛深き故に妻を愛し続けた結果、妻を失い続けた生涯。
そんな本願寺蓮如上人の、いい(角度に屈折した愛の)話。
931人間七七四年:2009/01/08(木) 16:06:17 ID:8tSD5XNz
はじめ二人の妻は政所執事伊勢氏の一族出身だったから、
蓮如って幕府方面にパイプを持ってたんだよね、たしか
932人間七七四年:2009/01/08(木) 17:17:38 ID:qWjFgjPM
元就さんは女性を容姿や年齢だけで判断しない人だったのだと思いますよー。


南部家の御家騒動にまつわるエピソード。

「三日月の 円くなるまで 南部領」と謳われるまでに領土を拡大させた南部晴政。
そんな彼には長らく男子が産まれなかった為
一族の石川高信の子、信直を自分の娘と結婚させ
いずれは信直に家督を譲ろうと考えていた。

ところが諦めていた晴政に、男子の晴継が産まれてしまったものだから、はや一大事。
娘の夫よりも、実の息子に家督を継がせたいと考えてしまう人の情。
次第に晴政と信直の間には、亀裂が入り始めていた。

その一つとして、晴政には先見の明があり
中央で天下人として君臨していた織田信長に対し、率先して使者を送り誼を通じていたのだが
(お隣の安東愛季が頻繁に信長と接触を取っていた事から、それに対抗する為とも考えられます)
信直が勝手に信長へと自分を売り込み、さも自らが南部家の総領であるかのように振舞って
晴政を蔑ろにして怒らせたというエピソード。
(後の家督相続の際に、無言の圧力として活用された信直の鉄砲部隊
 その大量の鉄砲は、信長経由で入手したのだという説まであったりします)

決定的な不和を示すものとしては、信直の実父、石川高信の死後に
津軽地方を大浦為信に奪われてしまった際
(一説には為信が石川城に奇襲をかけ、高信を自害させたとも)
信直は当然のように父の旧領を奪還すべく、出兵を要請。
しかし晴政はかねてから
「南部の隆盛は石川高信と九戸政実の尽力によるもの」
との風評を気に入っていなかった為、むしろ気味が良いとばかりに
石川領奪還の兵を出し渋り、信直の怒りを買ってしまったというエピソードもある。

そういった様々な因縁を経て、晴政と信直の親子は
表向きは互いに一定の礼儀を保ちながらも
水面下では身命を賭けた争いを行う事となったのだった。
933人間七七四年:2009/01/08(木) 17:19:01 ID:qWjFgjPM
まずは晴政の方が一枚上手だったというエピソード。

ある日、鉄砲の修練に余念がない信直の許へと、晴政が従者を伴い見物にやってきた。
ところが結果は芳しくなく、信直が放つ銃弾は的を外れてばかり。
帰り際、主君が難しげな顔をしているのを気にする従者に対し
「信直ともあろう者が、日々を修練に費やしながら、あの程度の腕前であるはずがなかろう。
 あれは私を油断させ、あわよくば寝首をかいてやろうとの腹積もりに相違ない。
 貴様らも、ゆめゆめ警戒を怠るな」
と晴政は言い放ち、それを耳にした信直、以降は当てつけのように
様々な者達の前で的を射貫いて鉄砲の腕前を見せつけ
晴政の見解が正しかった事を、無言のうちに証明してみせたという。

続いては信直の方が一枚上手だったというエピソード。

ある日、お寺を参拝中の信直の一団に刺客が襲い掛かった。
相手も手練の者達なれど、信直達の腕前が上を行き、見事に撃退。
刺客の長と思しき騎乗の者は、これはいかんと慌てて馬首を翻すも
それを見咎めた信直、自ら鉄砲で射殺して、逃げようとした不届き者を落馬させた。
乗り手を失った馬はといえば、そのまま駆けていく。
その馬が三戸城の方角へと向かっている事に気がついた信直
「見よ! 馬も親父殿の許へと逃げていくわ!」
と指差して、一同大笑いしたという。
934人間七七四年:2009/01/08(木) 17:20:08 ID:qWjFgjPM
この場合、表向きの「親父殿」とは「逃げた馬の親父殿」なのでしょうが
信直にとっての「親父殿」とは、三戸城に君臨する南部晴政その人であったのかも知れません。
935人間七七四年:2009/01/08(木) 17:27:19 ID:xIWgKY7k
これはいい話なのか?
936人間七七四年:2009/01/08(木) 17:29:56 ID:zx7zh/8V
これがいい話なのかどうかはともかくw 何のかんのでお家騒動は戦国の華だねえ。
937人間七七四年:2009/01/08(木) 18:21:29 ID:v17jbSvb
>>933
まあお互い油断も隙もない、見事な戦国武将だよな。
なまじの身内が一番の敵、敵の敵は味方に引き込んで利用もするけどやっぱり敵……

やがて晴政の嫡子晴継はなんかぽっくり、更に九戸政実兄弟の話まで絡んで、
南部宗家相続はぐっちゃんぐっちゃんに。ラスボスさまの奥州仕置まで揉めてたっけ
938人間七七四年:2009/01/08(木) 18:30:42 ID:NjmjtgSR
そんな南部の、現代の当主が今日亡くなったんだぜ・・・
時期を見計らったように出てきた話がお家騒動で
思わず今の時代になっても相続とか大変そうだよなと思った
939人間七七四年:2009/01/08(木) 19:09:22 ID:zx7zh/8V
武田信玄が、まだ晴信と名乗っていたころのこと。
彼は海ノ口城を攻めていたが、和議ということとなり、晴信はその使者として
側に仕えていた千曲姫という女性を送り出した。

だがこのとき、海ノ口城の前面にある湖は、その前より降り続いた雨により大変増水しており、
千曲姫が使いを果たした帰り、船が転覆、姫はそのまま行方不明となった。

やがて講和がなり、武田軍は帰国の途に着いた。
するとその帰路の途中、晴信の目の前に突然、千曲姫が現れた

「これは本当の講和ではありません、用心なさいませ…!」

そう言うと、姫はたちまち姿を消してしまった。

このことがあったので、晴信は海ノ口城の情勢を注意しながら進み、
やがて怪しい動きが見えるとその裏をかき、見事に大勝利を得た。
帰国した晴信は千曲姫の墓を建て、厚く弔ったという。
そして海ノ口の近くを流れる川を、姫の功績をたたえて「千曲川」と名付けた。

今に残る、千曲川の伝説。
940人間七七四年:2009/01/08(木) 22:43:38 ID:SV2dK3Me
>>930
一応ちゃんと坊主らしい逸話もあげとく
蓮如が、二回りも年上の怪僧・一休とダチだった事は、知られているような、いないような。

ある大商人が、見事な馬の絵を手に入れた。絵の価値をもっと高めようと思ったこの男、
書道家としても知られた一休に、画賛を依頼した。戻って来た絵にはただ一言、

『 馬じゃげな 』 と書かれていた。
「ちょw ヒドスwww」あまりの事に商人が抗議すると一休、「じゃあアイツに何とかしてもらえ。」
と蓮如を紹介された。 絵を見せられた蓮如、微笑むと、

『 そうじゃげな 』 と付け足した。商人、もはや言葉もなく帰って行った。

またある日、一休が蓮如を訪ねると、蓮如は布教行脚に出かけて留守だった。
それならと一休、蓮如の書斎にあった阿弥陀仏の立像を枕に、昼寝を始めてしまった。

そこへ蓮如が帰って来て、一休を起こして言うに、
「おいオッサン、わしの商売道具にナニしとる?」 一休もこれには苦笑いするしかなかった。

寛正2年(1461)、蓮如は大谷御坊で宗祖・親鸞の二百回忌を盛大に営んだ。
大勢の門徒が厳粛に式が執り行う中、フラリと一休が現れた。一休、親鸞の肖像を見て、
「 襟巻きの あったかそうな 黒坊主 」と叫んだ。

門徒が皆、カチンときて堂内がざわめくと、一休は丁寧に手を合わせ深々と頭を下げ、
「 こいつが法は 天下一なり! 」と続けた。

さすが一休・・・と感嘆の波が広がり、ざわめきはいっぺんに静まった。


『 分け登る ふもとの道は 多けれど 同じ高嶺の 月をこそ見れ 』 一休宗純
941人間七七四年:2009/01/08(木) 22:59:02 ID:gQTT6qPT
馬じゃげなそうじゃげなの絵見てえwww
942人間七七四年:2009/01/08(木) 23:03:52 ID:bS4R0Ieg
一休ロックすぎるww
943人間七七四年:2009/01/08(木) 23:11:03 ID:2QoRyks/
> ある大商人

即座に桔梗屋さんを思い出した俺オサーン
944人間七七四年:2009/01/08(木) 23:11:26 ID:v17jbSvb
>>941-942
落語の茶金(はてな)じゃないけど、その賛書ごと残っていれば今頃すげー価値だよな。

...オプーンザプライス!!


一休さんがパンクでアナーキーなことは知っていたが、蓮如w
945人間七七四年:2009/01/08(木) 23:21:07 ID:ewmPKYq1
>>835
随分な言いがかりだが公式な記録は敗走した神保隊に巻き込まれるのを防ぐ為という伊達家の主張が認められてる。
伊達が大名で神保が旗本だから云々という意見もあるが公式にそういう最低が下った以上それなりの根拠があったんだろう。
俺は逆に神保隊が戦果をあげてたなんて記録の方を聞いた事がないが
ましてそれに嫉妬した政宗が八つ当たりで味方撃ちをしたなんて事実があったのなら
果たしてそこまでして家康や秀忠が政宗を不問にするだろうか?
7千石とはいえ仮にも旗本直参の子飼いの家臣が殺されたんだぞ。
946人間七七四年:2009/01/08(木) 23:25:26 ID:wN1jAw2z
>「おいオッサン、わしの商売道具にナニしとる?」 

ちょwwなんすかこの893の常套句wwwww
947人間七七四年:2009/01/08(木) 23:25:53 ID:xLrp3XMM
>>945
あー、
補足しておくと、神保だけではなく首をもちかえっていた浪人も伊達勢に射殺されている。

公式=事実とはかぎらんだろう。
島津の日記には
「アイツ非常識すぎて笑いものになったよ、マジありえねーw」
と思いっきり嘲笑する記述がある。
そこまで笑いものになるには何かしら理由があるとみるほうが妥当だろう。

あと政宗に対する処分は不思議といつも甘いんだよ。
忠輝、遣欧使節の件などなど。あれだけ潰すとなると大変だと思ったのか、
そのあたりの配慮はなぞだけどw

それに政宗ならやりかねん、と思ってしまうんだよなあ、結局w
948人間七七四年:2009/01/08(木) 23:28:18 ID:zx7zh/8V
まあ、神保隊関連の話はは必ず荒れるので、逸話を書き込まないのなら
ここじゃなく伊達系のスレでやろうや。
949人間七七四年:2009/01/08(木) 23:29:51 ID:ewmPKYq1
>>947
つーか島津は大坂の役に参加してないよね?
つまり実際に見聞きした訳ではなく合戦後に又聞きしたのを書き残したに過ぎない訳だ。
それをいかにも信用できる史料だというのは無理がないかい?
950人間七七四年:2009/01/08(木) 23:32:49 ID:Vb61S7BV
事の真贋なんざどうでもいいんだよ
政宗をDQNにしたほうが面白い、ただそんだけ
951人間七七四年:2009/01/08(木) 23:34:39 ID:xLrp3XMM
>>949
真贋論争はヤボだな…というかじゃあなんでおまえさんは、
あの政宗wの言い訳を正しいと主張できるんだ?
根拠あるのか?

もうヤボだからやめる。政宗スレででもやれ。
952人間七七四年:2009/01/08(木) 23:42:43 ID:XrpW/87m
>>947
島津は単に嫉妬したんじゃねえの?
「そこまで笑いものになる」とは言っても笑ってるのは島津だけだし
953949:2009/01/08(木) 23:45:35 ID:PDyFEht7
>>951
第一に公式の裁定が政宗の主張を認めている事。
第二に伊達隊は後藤又兵衛を討ち取る戦果を挙げており
戦果を上げられずに八つ当たりで云々と言うのは根拠に乏しい。
根拠云々で言うなら逆に何の理由もなく突然味方を撃ったなんて主張の方が荒唐無稽で根拠がない。
以上が政宗側の擁護をする理由。

歴史的にも諸説乱れて定説のない事件なので
俺もこれ以上は止める。
954人間七七四年:2009/01/08(木) 23:47:52 ID:NjmjtgSR
馬じゃげなーの話で一休さん(と蓮如)かっけーと思ってググってみたら
もっと面白かった

自分の木造作らせといて、それに自分の髪やら髭やら植えたりとか、
困った時に開けろよって弟子に渡した手紙(の中身)とか
こういうエピソードを上手く使いながら当時の文化とか説明できたら
歴史の話に興味もつヤツももっとふえるだろうになー
955人間七七四年:2009/01/09(金) 00:37:54 ID:kL8FEZ9a
>>930
つやつやだな、法主 w
956人間七七四年:2009/01/09(金) 00:41:38 ID:nWPevR71
伊達家と大坂の役で思い出したのでいい話を一つ。

大阪夏の陣で後藤基次(又兵衛)を討ち取るなどの武勲をあげ鬼の小十郎として有名を馳せた片倉重綱。
父の初代小十郎片倉景綱は伊達政宗の忠臣として知られ、かつて秀吉が5万石で召抱えようとしたのを固辞した伊達家の重臣である。
さてこの息子の二代目小十郎こと重綱は美貌としても知られ主君である政宗とも個人的に極めて(性的に)親しい関係にあり、
その(性的な)親密さを窺わせる政宗の手紙が現存している事はこのスレの諸兄ならご存知だと思う。

しかしこの(性的な)君臣関係に嫉妬を燃やす男がいた。
関ヶ原の裏切り豚野郎こと小早川秀秋である。
秀秋はあの手この手で重綱に言い寄るがそこは伊達家の重臣片倉家の嫡男である。
重綱の政宗への(性的な)忠誠心はいささかも揺るぐ事はなかった。
それでもなお重綱へのストーキング行為を続けた秀秋だったが遂にその思いは実らないまま21歳の若さで急死するのである。

以上、いい(男の)話でした。
ちなみに小早川秀秋の急死の原因は愛する重綱へのストーカー行為を知った政宗が
配下の忍(黒脛巾組)を動かし密かに暗殺した・・・かどうかは定かではない。
957人間七七四年:2009/01/09(金) 07:31:44 ID:uf3/V9hb
一休から蓮如へのお手紙
「あれこれ、あれこれ、あれこれ〜〜とかくこの世は忙しい」
(あれもしなければこれもしなければ〜〜とやることがあってとかくこの世は忙しいね)
蓮如から一休へのお返事
「ねてくて、ねてくて、ねてくて〜〜そして棺桶」
(忙しい世の中で寝て喰って〜〜してたら死んで棺桶ですよ)

見たいな話がぐぐったら出てきた
958人間七七四年:2009/01/09(金) 08:05:10 ID:3oeq7VbY
>>957
つまり、一休さんが
「今の世の中、あれもしたい、これもしたいと欲望を満たす事に忙しくて、これで本当に
悟りなんて開けるんかいな?」とすごく遠まわしに問いかけてるのに対し、
蓮如は
「そうは言っても、人間いつの時代も腹が減ったら食い、眠くなったら寝る。人の営みが
変わらん以上、今まで通り悟って行くでしょう。」と、これまた遠まわしに返してる。

一向宗が阿弥陀如来をどう見てるか分かってるはずなのに、阿弥陀像をわざと枕にしたのと
同じで、要するに、一休さんが問答を仕掛けたのに対し蓮如が見事に答えてる。

蓮如がただの子作り坊主ではなく、一休さんとも問答が成立する高僧だった証。
959人間七七四年:2009/01/09(金) 09:03:28 ID:55E6od5j
ハイレベルすぎて、付いていけないぜw
960人間七七四年:2009/01/09(金) 10:24:09 ID:197cB4Wj
そんな一休さんの臨終の言葉は「死にとうない」だったりする

詩集【狂雲集】は恋人への愛の賛歌だったりもする
961人間七七四年:2009/01/09(金) 10:44:30 ID:6cP5eHRF
>>960
マジっすかw
962人間七七四年:2009/01/09(金) 11:09:52 ID:r0gU3SXu
>>960
一休さんが弟子連れて鰻屋の前を通った時、いい匂いがしたので「旨そうだな」と一言。
寺に帰った後弟子が「仏に仕える身で鰻が旨そうとは不謹慎じゃないんですか?」と質問。
一休「なんじゃ。お前はまだ鰻のことを考えていたのか。わしは鰻屋の前に捨ててきたわい。」

案外悟りってこういうことなのかもしれん。
963人間七七四年:2009/01/09(金) 11:38:34 ID:qo+xZuC2
>>962
高僧になっても「IQの高い屁理屈坊主」という一休さん頓知噺のノリそのままだな……

ディベートなんかはやたら強いんだけどね、こういう人。
964人間七七四年:2009/01/09(金) 11:49:38 ID:d/RhsbSy
真田幸隆への手紙

村上義清との戦いで所領を失った幸隆は箕輪城主の長野業正を頼り暫く滞在してた。
山本勘助の紹介により武田信玄の元へ仕えることになった幸隆は一計を案じる。
彼は病を患ったと言って出仕を止めた。
これを聞いた業正は使者を遣わし、さらに馬までも与えた。
幸隆は驚いたがいつも通りに使者をもてなし、その夜の内に箕輪から出ていった。
下仁田にさしかかったころ、続いて来る馬の背には家具が積まれ、その後には妻や家僕がやってくる。
これはと不審に思い聞いてみたところ、幸隆の出立後に業正の老臣がやってきて、これを我らの追い及ばない所で幸隆殿に渡されよと、一通の手紙を手渡した。
手紙を開けてみるとこう書かれていた。
「甲斐に武田信玄あり、まだ若いがまたとない弓取りである。しかし、箕輪にこの業正がいる限りは、碓氷川を越えて馬に草飼わせようと思ってもらっては困るぞ・・・」
幸隆はこれを読んで恥ずかしく思い、こんなことなら腹を割って話し合うべきだったと幸隆は立ちすくんだ。

いい(じいさんからの手紙)の話
965人間七七四年:2009/01/09(金) 11:57:36 ID:qo+xZuC2
>>964イイハナシダナー
長野業正がかっこよすぎる……全て見通していて、餞別がわり?の馬までやって。
気概溢れる手紙の文面といい、武人の鑑だな。
966人間七七四年:2009/01/09(金) 11:58:10 ID:+98uVmim
一休さんって、良く考えたら足利義満の北山文化から足利義政の応仁の乱、
室町幕府の栄枯盛衰を見てる貴重な人なんだなあって思ったり。

さて、流れをぶった切って井伊直政のお話でも。

井伊直政と言えば『人斬り兵部』と綽名され井伊の赤備えの武勲と共に
家康への苛烈な迄の忠勲で知られる人物であるが、最晩年の頃には
随分と性格が丸くなったそうである。

というのも、1600年(慶長五年)10月の関ヶ原の合戦で薩摩隼人の面目躍如、
『島津の前退き』と謳われた壮絶な敵陣突破の際、真っ向からそれに立ち向かい
捨て肝を決め込んだ決死の鉄砲隊に撃たれ、銃創を受けた予後が悪く
体調が悪くなった所為であろう。

ある日の事、書院で領土統治に関する資料に目を通していた時の事、
不意な友人の来訪があり、直政は書院を留守にする。

そして、彼が帰った後に書院へと戻って来たのだが…直政は、其処にあるべき
ものが無いことに気付いた。
書状に目を通しながら食べようと思っていた茶請けの菓子が無くなっているのだ。

当然ながら、直政の近習達は皆揃って顔面蒼白。直政と言えば奥さんには頭が上がらないが
家臣のMissには途轍も無く厳しい人物だ。失態を責められ直政に斬り殺された家臣は数知れず、
その苛烈過ぎる性分は『人斬り兵部』と恐れられたほどだったのだから。

だが、直政は菓子が無いのに気付くとフムと頷き、書院の中を一瞥。…床の間の柱に小さな孔が
あるのを発見すると、その傍らに寄って穴を覗き込み、こう呟いたのだった。

井伊直政>>…―さても小憎たらしい子鼠共め。せっかく儂が後で食おうと思っていた菓子を、
      先に喰ってしまいおってからに…―全く、仕様の無い者共だな? (・ヮ≦,,)゛

近習達が胸を撫で下ろしたのは言うまでも無い。
家康への忠勤一筋に生き、天下泰平となった江戸幕府でも筆頭株の重鎮となった
井伊家の基礎を築きあげた井伊直政は1602年(慶長七年)2月、享年四十二で世を去った。
二十二で元服を迎えて丁度二十年であった。

そんな井伊直政の、いい(感じに性格が丸くなった)話。

967人間七七四年:2009/01/09(金) 12:39:50 ID:X6OtJiIx
いい話の幅が広くなったな
968人間七七四年:2009/01/09(金) 12:42:16 ID:Z68yCiyN
>>964に便乗して、真田幸隆と長野業正のお話、「その後」


永禄四年(1561)、名将、長野業正も七十一歳。
老齢からの体の衰えは隠しようもなく、体調を崩し、人に会うことも少なくなり、屋敷に籠もりがちの
日々を送るようになっていた。

そんなある日、業正が家人に突然このようなことを言い出した。
「そろそろ客があるだろうから、迎える用意をしておくように。」

不思議に思いながらもその準備をしていると、程なく、その頃、羽尾に引退した真田幸隆が
旧恩のお礼の言上にと、業正の元を訪れた。

真田幸隆殿がいらっしゃいました。そう聞くと業正は「そうだろうと思っていた」と、手を打って喜んだ。
そして幸隆と二人で語り合った。

「幸隆殿、貴公が箕輪にいた頃、誰もその言を用いることがなく、ついに武田家の謀臣となり、
信濃もとうとう切り取られてしまった。この上野も、いずれそうなるであろう。
私ももう、七十を過ぎた。同じ切り取られるなら、どこの誰とも知れぬものより、気心のわかる
貴公に渡すことが、憂いの中の喜びというものだ…。

さて幸隆殿、ここに吾妻郡に続いた地に、利根郡という地がある。

私の養女の夫で、沼田上野介景康という者がここを治めておる。色に溺れるような、
思慮のない男ではないのだが、最近、金子美濃守の姪とかいう、素性の知れぬ女に産ませた子を
平八郎景義と名乗らせ寵愛し、嫡子景久をないがしろにし、廃嫡せんとする気配が見受けられる。
これでは沼田の家も、長くあるまいよ。

私が盗ってやろうと思っていたのだが…、もう、寿命も尽きるようだ。
かと言って、わが子の力ではまだまだ及ばぬ。
よってこの沼田、貴公に進上しよう。ははは、まあ疑いなさらぬことだ。」

幸隆は形を正して座を降り、業正に深々と頭を下げた。

「拙者、これより沼田において方便を駆使し、必ず奪い取って見せましょう。」

そう言って、箕輪を後にした。

後、この沼田は幸隆の子、昌幸が攻略するのだが、これは業正の教えに従った幸隆が、
十分に布石を打っていたからこそ出来たのだ、ということである。
969人間七七四年:2009/01/09(金) 12:50:47 ID:qo+xZuC2
>>968
沼田万鬼斎の話か。なんか沼田側視点で小説になっていたのを読んだっけな。

昌幸が大北条、そして徳川と敵対しても沼田領にこだわったのは、
そういう父祖以来の縁で治めた地だったから、かもね。
970人間七七四年:2009/01/09(金) 12:54:57 ID:6tufPhhD
>>966
実は本気でネズミを怨んでた直政の無念の魂が豪徳寺の猫に宿って直孝を救ったんですね
971人間七七四年:2009/01/09(金) 13:43:18 ID:GcBMGzcq
江戸時代の高僧も最後の言葉が死にとうないだったらしいな
弟子が高僧の最期がこれじゃまずいだろうと思って聞き直してもほんまに、ほんまにと言うばかりだったそうだw
坊さんってそういうもんなのかなぁ
972人間七七四年:2009/01/09(金) 14:01:09 ID:f8WuQhos
一休さんが弟子たちに
「困ったら読め」って残した書の内容が
「まあ、何とかなるだろ」だったって話を思い出した
973人間七七四年:2009/01/09(金) 17:00:09 ID:0rZWf7TP
蓮如聖人の一向宗の開祖のお言葉
> 「念仏を唱えれば、極楽往生するだって?さあ・・・どうだろうか・・・よくわからんな。
>  先生の法然聖人がそう言ってたから、私はそう信じているだけだ。
>  それがウソでもそんなの関係ない。真偽を確かめる能力は私には無いからね。
>  例え法然聖人に騙されていても別に悔いはないね。」

>  「大体私のような人間は死んだら真っ先に地獄へ堕ちる大馬鹿者である。
>  そんなこと百も承知さ、しかしなあ、そんな救いようのない私ですら、
>  阿弥陀仏の慈悲は救って下さるのだと、法然上人が仰っているのだ。
>  だからそれを信じているだけですが、何か?」

http://ryotaroneko.ti-da.net/e2132946.html
974人間七七四年:2009/01/09(金) 17:03:16 ID:0rZWf7TP
あと仏教関連だと一休さんの友人の侍のこういう話が伝わってる

ある侍が死の床につき,親類縁者が集まって最期を看取ろうとしているとき
なんと天からお釈迦様がやってこられて侍の魂を連れて行こうとした。
それを見ていた一同は驚きただ拝むばかりであったが、等の侍は何を
思ったか突然起き上がり、弓矢を持ってこさせると
「俺はまだ死んじゃいねぇ!死んでもいないのにしゃしゃりでてくるばかりか、
縁者一同を迷わすとは不届き千万!」
となんとお釈迦様を射た。
人間、死ぬ最期の瞬間までその時その時を一生懸命生きればいいという逸話(多分)
ちなみにそのお釈迦様は実はタヌキが化けたものだったというフォローがついてるけど。

ちなみにこの侍というのが「一休さ〜ん!」でおなじみの新右ヱ門さんだったりする。

「悟りなば 坊主になるな 魚食へ 地獄に堕ちて 鬼と闘え」
(悟りを開きたければ形にこだわって坊主になるよりも,むしろ堂々と自分の正しいと
思う事をしなさい。それで不都合が起こればそのときはそのとき。(個人的解釈))
という句を一休さんに送ったこともあるとか。
禅はかくあるべし?


ここまでくるとスレ違いですね。ごめんなさい。
975人間七七四年:2009/01/09(金) 17:07:28 ID:VGP8p7aV
いや、良い話じゃないですか。
976人間七七四年:2009/01/09(金) 17:18:49 ID:ugZNJ5n4
>>974

一休どの〜
977人間七七四年:2009/01/09(金) 17:22:48 ID:f8WuQhos
武蔵(格闘家)が子孫なんだっけ?
978人間七七四年:2009/01/09(金) 17:32:41 ID:qo+xZuC2
>>974これは…!!
やっぱり蜷川新右衛門さんですたか。

黒色槍騎兵の人が「フランダースの犬」BGMに乗って現れたお釈迦様に矢を射かける様を幻視したわw


……室町幕府の寺社奉行だったんよなー。
お寺も神社も戦国期よりもっと威張っていた時代、
マジ威厳や教養ある人でないと務まらないよ。
979人間七七四年:2009/01/09(金) 17:42:37 ID:TRIpl9YK
>>976
これ!新右衛門!
980人間七七四年:2009/01/09(金) 18:14:41 ID:6cP5eHRF
無学な漏れに教えてください…新右ヱ門さんって実在した人なんですか…。
981人間七七四年:2009/01/09(金) 18:30:37 ID:ciqCYYCB
新右衛門のイメージで考えるとあごが割れててあんな感じの人だけど
蜷川智蘊でぐぐったらびっくりだよ
982人間七七四年:2009/01/09(金) 18:31:44 ID:Z68yCiyN
>>980
水戸黄門の助さん格さんみたいに。、「実在のモデルがいる」って事ですわ。
983人間七七四年:2009/01/09(金) 18:36:08 ID:6ZoWDA/B
蛭川新右ヱ門は実在の人物だよ。代々新右ヱ門を名乗ってる一族。
アニメみたいに寺社奉行じゃないけどね。
984人間七七四年:2009/01/09(金) 18:48:18 ID:6cP5eHRF
みなさん、ありがとうございます。
ググりました。架空の人物と思いこんでましたが、実在のモデルの方がいたとは…一休さんを見なおそうかなw
985人間七七四年:2009/01/09(金) 19:43:28 ID:Z68yCiyN
つーかそろそろ新スレですね。立ててきます。
986人間七七四年:2009/01/09(金) 19:47:07 ID:Z68yCiyN
立てられなかった…orz
どなたかお願いします。

↓スレタイ

戦国ちょっといい話5

↓テンプレ

戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話4
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1228227497/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話5
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1231113276/

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
987人間七七四年:2009/01/09(金) 19:47:56 ID:6cP5eHRF
>>986
みなさんのカキコが好きなので私が建てますね。
988人間七七四年:2009/01/09(金) 19:49:17 ID:6cP5eHRF
989人間七七四年:2009/01/09(金) 19:50:10 ID:Z68yCiyN
>>988
ありがとうございますー。
990人間七七四年:2009/01/09(金) 19:56:31 ID:Z68yCiyN
戦国ちょっといい話5
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1231498134/

戦国ちょっといい話5
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1231498077/

見事にかぶってる…。
上のほうが宣言してから立ててもらったので、次スレにして、
下のは次スレが埋まるまで残ったら再利用しますか?
991人間七七四年:2009/01/09(金) 21:34:39 ID:2ooVwg0R
そういや格闘家の武蔵がシンエモンさんの子孫じゃなかった?
992人間七七四年:2009/01/09(金) 21:45:25 ID:RFs6k1qF
993人間七七四年:2009/01/09(金) 21:50:59 ID:elpnJgLB
>>973
戦後の日本で活動してたある神父で似たような台詞があったのを思い出した
>>940の最後にある一休の歌は以外に的を射てるのかもしれないな
994人間七七四年:2009/01/09(金) 23:33:30 ID:Mww8Zzxk
>>964

今川・北条・上杉・徳川・織田と錚々たるメンバーを
纏めて亘りあった信玄が業正が生きている間は無理って絶望した程だからね
信玄が10年長生きしたらと言う話しは良く持ち上がるが
業正が10年早く亡くなっていたらと言うのもまた面白そうだ
それほどの武将だね
995人間七七四年:2009/01/09(金) 23:37:52 ID:f8WuQhos
息子の業盛はかわいそうだ、遺言に
「降伏するな、闘って死ね」
って書かれてたそうな
これを守った業盛も偉いよ
996人間七七四年:2009/01/09(金) 23:43:25 ID:r0gU3SXu
>>995
>>968が本当だとすると何がしたかったのかよくわからなくなる。
息子の花道でも用意したつもりなのか・・・
997人間七七四年:2009/01/09(金) 23:47:31 ID:Z68yCiyN
>>996
「他の地を攻め取るにはまだ器量が足りない。
だが父祖の地は守りぬけ」

ってことじゃないかね?
998人間七七四年:2009/01/09(金) 23:51:04 ID:f8WuQhos
一回は遺言通り撃退できてるんだけど、
その後に2万ほどの大軍に攻められてる
こんな大軍追い返すには才能だけじゃなく
経験も必要だったんじゃないかな…
16歳で死んだのが惜しいよ
999人間七七四年:2009/01/09(金) 23:53:24 ID:f8WuQhos
違う、19歳だ
1000人間七七四年:2009/01/09(金) 23:53:38 ID:V4TGH2cb
鮭食べたい
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
 / | |iゝr;ァ--‐''"   〃/./  l  |         戦国時代(仮)@2ch掲示板
./  | | ',ヾ゙      / / /  /  l        http://hobby9.2ch.net/sengoku/