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人間七七四年:
氏康柱 〜英雄が残した刀傷〜
北条氏の拠点、小田原城内には「氏康柱」と呼ばれる柱があった。
後北条氏三代目当主の北条氏康が、謀反を企てた家臣を手討ちに
した。書院の間で切り捨てたため、勢い余って柱に刀が食い込んで
しまった。氏康の家臣達は柱を取り替えず、柱傷に蓋をして大切に
保存し、機会のある事に衆目に披露して、逆心の無い様に戒めていた。
時が移り、後北条氏は滅び関東には徳川家康が入封してきた。小田原
城は家康の家臣、大久保忠隣の居城となった。「氏康柱」の話を聞き
つけた家康は、上洛の途中で小田原城に立ち寄り、柱を見たいと忠隣
に所望した。だが忠隣は「その柱は書院があまりにも古くなっていた
ので、建て替えた時に捨ててしまいました。氏康の柱より、武勇に優
れると評判の鈴木大学の弓が玄関にありますので、ご覧下さい。」
と答えた。たちまち家康は不機嫌になり、忠隣を叱った。
「北条氏康と言えば早雲、氏綱と言う英傑の後を継ぎ関東八州に覇を
唱えた者である。若き頃は河越にて、八千の兵にて八万の上杉軍を
破ったと謂われる天下の傑物ぞ。その氏康が斬り付けた刀傷の残る柱
を若き武士達が見れば、武道の励みになる。それを古びたと言って捨
てるとは何事か!鈴木大学の弓など見たくも無いわ!」
忠隣は、ただ平謝りするのみであった。
後年、忠隣は本多正信の計略により失脚する。氏康に学べなかった者の
悲劇だったのかもしれない…