【武田完勝☆】三増峠の戦い【北条涙目wwww】

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1人間七七四年
武田完勝ですがそれが何か?
2人間七七四年:2007/11/04(日) 09:12:50 ID:fpD70y5F
麻っ生
3人間七七四年:2007/11/04(日) 09:42:16 ID:yLneJk+0
>>1の野郎、反論を心待ちにしてケツマンひくつかせてやがるぜ
4人間七七四年:2007/11/04(日) 10:05:08 ID:fpD70y5F
理由頼む
5人間七七四年:2007/11/04(日) 13:48:36 ID:hiIXzpC8
モーホーだから
6人間七七四年:2007/11/04(日) 23:06:10 ID:RMT3IxAS
逃げ切ったという点では武田の勝ち。

ま、幹部級の死者を出した時点で完勝はねぇよ。
7人間七七四年:2007/11/05(月) 22:59:19 ID:/qFcytLX
まあ、氏康、綱成の無敗ゴールデンコンビなら大勝していただろうな。
8人間七七四年:2007/11/05(月) 23:17:21 ID:4nXA4gug
この後なんで同盟したの?
9人間七七四年:2007/11/05(月) 23:54:37 ID:FtJv86LZ
いちいち個別スレまで立てるようなことでは無い思う。
10人間七七四年:2007/11/06(火) 01:03:59 ID:ujPGQbFR
>>8
西
11人間七七四年:2007/11/06(火) 19:12:12 ID:Ra2ikvta
>>9
武田はともかく引き篭もり北条は人気ないしな。織田、上杉、武田、伊達辺りじゃないと伸びないだろうな
12人間七七四年:2007/11/06(火) 22:03:51 ID:Vx54Vf3s
北条は地味で「華」がともかく無いからな。
ま、そこが良いんだけどね。
13北条幻庵ってどお?:2007/11/20(火) 16:16:33 ID:njHasSBN
1.信玄の評価すべき点2つ。
(1).謙信は、10万で小田原を包囲したが…
信玄は、機動戦で滝山・鉢形城を釘付けにし…
わすが2万で、小田原までたどり着いたこと。

(2).北条に初めての総動員令を出させた事(2回目は猿の小田原戦役ね!!)

2.北条の評価すべき点
正規軍2万+(1.の(2).で前述した)寄せ集め2万で…
信玄包囲網をあっというまに作り上げるまでの家臣統制は見事!!
信玄は首実検をせずにとっとと甲斐に帰国した。

もともと駿河が目的だしね!!
14北条幻庵ってどお?:2007/11/20(火) 17:12:41 ID:njHasSBN
↓わからん人はここをつついて頂戴
三増峠の戦いと武田信玄の相模原行軍…小田原攻め
http://www.rekishi.sagami.in/mimasu.html

相模原の歴史シリーズHP
 相模原市などの歴史
 古代・中世・近代に渡り相模原に関係する歴史をご紹介

15人間七七四年:2007/11/20(火) 17:37:36 ID:kBO/2JXX
感心して読み進めていたら最後で吹いた。


おいおい、ソースがウィキとか個人サイトとかそれでいいのか?w
16北条幻庵ってどお?:2007/11/20(火) 17:54:54 ID:njHasSBN
>>15さんへ
わたしが書いてもいいんだが…長くなるからね。
だいたい合っているし…
17人間七七四年:2007/11/21(水) 13:06:57 ID:ZykEs96m
あってるってならそれに見合う持論を展開してもらわなきゃ困る
18人間七七四年:2007/11/21(水) 14:31:08 ID:ZsXhR+ji
まあ北条なんて武dくぁと比べると弱っちいから、帰国中の行軍部隊狙っても惨敗食らわせられるありさま
身の程知らずな事しなきゃ痛い目見ないで済んだのにね
19人間七七四年:2007/11/21(水) 14:41:03 ID:nJhui/N7
続きは釣り堀でどうぞ
20北条幻庵ってどお?:2007/11/27(火) 16:15:38 ID:WFyGQYzX
>>17さんへ
3ヶ月ぐらいかかってしまうけど…それでもいい?
21人間七七四年:2007/11/27(火) 16:26:21 ID:btMXEQ77
北条、毛利、長宗我部・・地元では実力者なんだが全国区では今一地味で目立たない

伊達、島津・・実力があり知名度もそこそこあるんだが中央から叩かれまくり

今川、朝倉、大内、三好、大友・・噛ませ犬的な存在

斉藤、宇喜多、佐竹・・結構、楽なポジション

上杉、武田・・実力もあり中央にも進出

織田、豊臣、徳川・・全国区メジャー
22人間七七四年:2007/11/30(金) 00:53:14 ID:EFNbidKA
>>20
OKだ
23人間七七四年:2007/11/30(金) 01:22:24 ID:tZy0HdcY
この人ホントに資料持ってくるからちょっと期待w
24人間七七四年:2007/12/04(火) 07:08:49 ID:DdgsLy8p
三増峠の戦い自体より、同時期の政局での武田完勝、北条涙目っぷりが面白い。
25人間七七四年:2007/12/06(木) 14:17:36 ID:sH7nw2er
信玄の一人相撲
26人間七七四年:2007/12/06(木) 17:15:26 ID:bIPstjgh
謙信も同時期の外交では信玄には敵わないまでもまあまあうまいことやっている。
27人間七七四年:2008/01/26(土) 00:52:42 ID:3LTh/uDG
北条幻庵ってどお?さん  そろそろまとまったでしょう。
            ここで発表して下さい。
28北条幻庵ってどお? :2008/01/26(土) 16:40:47 ID:7n3zFkmn BE:415696027-2BP(1)
みんなスマソ!!
今川義元敗死(永禄三年5月19日)〜信玄の箕輪城攻略(永禄九年9月29日)までを…
只今、調査中!! もう3ヶ月欲しいのだが…、もしくは連載という形でもイイ?

なんせ謙信愛好家に捕まり、成田氏の調査リポートで1〜2ヶ月かかったんでねェ。
↓ココね!!
【毘】上杉家を語る 九【義】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1190692932/

返答レス下さい!! 恐々謹言。正月廿六日。

29北条幻庵ってどお?:2008/02/08(金) 16:09:38 ID:8yZt0OBb BE:801697493-2BP(1)
只今、「義信幽閉」(永禄八年9月)から「本庄繁長謀反」(永禄十一年3月13日)まで調査中。

3つ疑問が生じたのですが…
知っていたら何でもいいのでレス下さい。

1.美濃岩村城主遠山氏と同苗木城主遠山氏が弘治三年(1555)9月から信玄に属していた論文があるらしいのだが…
著者は、高田徹さん、三宅唯美さん、横山住男さんです。

2.今川氏真の時代、武田信虎が謀反を起こしたとか。このことについて。

3.越相同盟スレにも書いたのだが…
「北条が沼田へ行った」との情報元なのですが…
これは「永禄十一年十二月二十四日の本庄→北条氏照宛て文書。」のことなのでしょうか?
これについて何か知っていたら、何でもいいので是非、教えてください。


30北条幻庵ってどお?:2008/02/08(金) 17:52:06 ID:8yZt0OBb BE:178155432-2BP(1)
訂正
×横山住男→○横山住雄
31三増峠ってどお?:2008/02/25(月) 14:58:03 ID:vM00hUav BE:475081128-2BP(1)
只今、「信玄の第一次駿河侵攻」(永禄十一年12月6日)から「薩垂峠の戦い」(永禄十一年4月24日)まで調査中。

やっと、第一幕「なぜ信玄は駿河を攻めたのか?」 の執筆に取り掛かる。
32三増峠ってどお?:2008/03/12(水) 16:59:33 ID:dsPPvJ6V BE:801698639-2BP(1)
第一幕「なぜ信玄は駿河を攻めたのか?」 の8/10ぐらい完成!!
あと氏真側からの見解と2ちゃんに掲載するショートver.のみ

第二幕第一場「信玄の第一次駿河侵攻・興津川の対陣」(永禄十一年12月6日から永禄十二年4月24日まで)の草案執筆中。
第二幕第二場「信玄の第二次駿河侵攻・大宮城陥落」の調査中。
33人間七七四年:2008/03/15(土) 03:27:23 ID:XXnjCmjJ
待ってます。
34人間七七四年:2008/03/23(日) 21:33:21 ID:m7zI+sUu
正直京に近い西側の領土を抑えられてしかも信玄の西進に軍勢貸すとか従属とまではいかないけどかなりイニシアチブとられてる気が・・・
まぁ北条に天下統一の意思はないしあの時点で織田と武田をぶつければ漁夫れるってのもあっただろうけど
35人間七七四年:2008/03/25(火) 00:42:26 ID:GWNVAOJo
>>34
単純に関東以外興味なかったんだろう。
逆に関東での上杉戦とかでは兵を借りてる訳だし。

少しでも北条家が京で名を上げる意志があるなら、北条家など名乗らずに
由緒正しい伊勢家を名乗っていた方がはるかに有利だったはず。

それをわざわざ捨ててある意味簒奪者と言っても過言ではない執権北条氏を名乗ってまで
関東を支配した存在にこだわってた訳だから京がどうだろうと別にどうでもよかったんじゃないか
36三増峠ってどお?:2008/04/03(木) 11:04:54 ID:1eFs5Gk5 BE:356310162-2BP(1)
ロングヴァージョンは2chのアップローダーに上げて置きました。
↓ここのHPにある
http://www-2ch.net:8080/up/
DL 三増峠ってどお?.txt ってファイルを検索してみてください。

二チャンネル掲載。ショートver.
第一幕第一場「なぜ信玄は駿河に攻め入ったのか?」
「戦争を理解するには、まずそれを生んだ政治の状態を考えなければならない」
(クラウゼヴィッツ『戦争論』第一編第一章)
という訳で、長くなりますが…

三増峠の戦い(永禄十二年(1569年)10月6日)は、
信玄の第一次武蔵・相模侵攻(以下、武相侵攻と略する。
永禄十二年8月24日から10月7日まで)の中での一合戦に過ぎず、
その武相侵攻は同じく信玄vs.北条(永禄十一年12月6日から元亀二年12月27日まで)の一作戦に過ぎない。
なぜ信玄vs.北条が起こったのか?というと、
駿河の支配権をめぐる争いである。
では、なぜ信玄は駿河に攻め入ったのか? 理由は3つ。

1.「力の均衡」.バランス・オヴ・パワー(Balance of power)が崩れ、武田家にとって三国同盟維持の意味がなくなった。
甲相駿三国同盟締結時(天文二十三年、1554年)と
信玄の箕輪城攻略・西上野占領(永禄十年(1567)を比べると…

(1).永禄三年の「義元討死」と「家康独立」による今川家の勢力衰退。氏真本人曰く「三州錯乱」「遠州惣劇」など。
(2).永禄四年、謙信の関東管領職就任により上杉家の動員兵力が増加した事。しかし、永禄九年の軍事的失策により、関東の勢力圏は沼田・羽生周辺のみとなる。
(3).永禄七年、竹中半兵衛クーデターと永禄八年、信長の東美濃進出による斉藤家の勢力後退。さらに永禄十年、信長、竜興を逐い美濃を制圧。斎藤家滅亡。
(4).と同時に信長の勢力圏が、尾張から美濃、北伊勢に拡大した。

つまり、今川の勢力圏が縮小した事。
信玄、謙信、北条は確実に勢力圏を広げている事。
信長の勢力圏が急激に拡大し、信玄と境を接するようになった事がわかる。

2.北進政策一筋から多方面政策への「転換」(ランヴェルズメン、Renversment)
「第4次川中島の戦い」で謙信の実力を嫌というほど味合わさせた信玄は、
以降、西上野(永禄四年11月から同十年5月まで)、飛騨(永禄七年6月)と、
謙信の友好国かつ越後攻めに比べて抵抗が少なく、
より簡単に勢力圏に組み込むことが出来る地域にも侵略の火の手を上げていく。
両国とも永禄十年には、一応、信玄の勢力下に入るメドがついた。
そこで、越後・美濃・駿河・遠江・相模・武蔵の中から次の侵略国を見つけなければならない。
そこで信玄は大勢力の信長、北条とは争わず、自分の勢力圏よりも小さい謙信、氏真に目標を定めたのである。

3.義信と勝頼…「今川重視」→「信長重視」へ
(1).「義信幽閉」(永禄八年(1565)10月)と「勝頼祝言」(同年11月13日)
幽閉の原因は、1〜2で見てきた外交政策の転換を巡る対立か?
信玄は動揺する家中を一つにまとめるために一族・譜代・他国衆(国人)から起請文を取ったり、
守護の特権の一つである彼らに対する「軍事指揮権」を使って、
若き自分が全否定した父信虎と同じく家中統制を強化しなければならず、
そのためには早急に新たな侵略目標を定めなければならなかったのである。
家督相続直後、諏訪氏攻略の兵を上げたように…

(2).「義信死」(永禄十年10月19日)と「信勝誕生&信忠と松姫の婚約」(同年11月)「義信室の駿河帰国」(同年11月または12月)
義信の死は自動的に勝頼が跡継ぎに決まった事を意味する。
加えて信勝誕生と信忠婚姻により信玄と信長がさらに絆を深めたのに対し、
氏真にとっては武田との主要なパイプが一本切れ最も有力なシンパを失う結果になる。
義信室の駿河帰国によって甲駿関係は、
人質を介するより安全な「同盟」→ただの起請文を交わす「盟約」に転じ、
今川家も「侵略候補国」に定められたのである。
その後、信玄は信長の仲介・斡旋により、永禄十一年2月16日、家康と駿遠分割協定を結び、この時点で信長は京へ、信玄は駿河へ進攻する密約が成立したのである。
37人間七七四年:2008/04/03(木) 22:30:49 ID:OVyGjCNg
>>35
御館の乱でも動きが鈍重だしな
うまくいけば能登飛騨まで北条の力が及んだのに
38人間七七四年:2008/04/04(金) 10:36:43 ID:qdmd46jX
田舎大名同士の不毛な争い
39人間七七四年:2008/04/04(金) 10:50:12 ID:ejc88bPC
武田方も一門衆の将とか討取られているし言われるほど完勝だったのか疑問
荷駄を放棄せざるを得ないほどだったので、帰った武田兵が飢えと寒さで自国領で略奪するほどの逃げっぷりだったし
40人間七七四年:2008/04/04(金) 11:04:11 ID:GO3oKJqT
領土は取れなかったけど手痛いダメージ与えたら勝ちなのか
そ〜か
んでは川中島は上杉勝利でよろしいか?
41人間七七四年:2008/04/05(土) 00:17:44 ID:SiSGCaxB
>>40
言われてみればそうだ
42人間七七四年:2008/04/05(土) 01:28:03 ID:7gmKA8jJ
>>40
その川中島で領土を守ったのが武田でダメージを与えたのが上杉、だからこそ勝敗がわからんけど
これを三増峠に当てはめると領土を守ったのもダメージを与えたのも北条にならないか?
43人間七七四年:2008/04/05(土) 12:34:44 ID:PfT8Nq+5
>>40
もともとあれは領土狙いじゃないだろ。
小田原焼いて3日でさっさと引き上げてるし。
それを追跡してきた部隊を追っ払ったまでで。
44人間七七四年:2008/04/05(土) 17:57:40 ID:7gmKA8jJ
>>43
追っ払えてるのか?何とか逃げられただけでは?
45人間七七四年:2008/04/05(土) 18:11:46 ID:sO92Bl9W
勝ち負けの評価はともかく、武田の狙いが「小田原焼」くことにあったっていうのはいくらなんでも……だわw
46人間七七四年:2008/04/05(土) 22:33:06 ID:PfT8Nq+5
>>44
武田方の軍記だけでなく北条方の軍記でも最後は武田に追っ払われたというのは
共通してるし、北条方の書状でも後半武田が押しなだれてきたというのはあるから
普通に最初は北条が殿相手に押したけど後半は武田が後詰を出して逆襲して追い払ったんじゃね?
2万対6千か7千なんだから順当な結果だろ。
>>45
小田原焼く事で北条に対するけん制にはなったし、越相同盟があてにならない事を示せて
外交的不信感を植え付ける事にも成功したし、武田と結んだ反北条勢力に対するいい宣伝にもなった。
大局的に武田は十分目的を達してるよ。
47人間七七四年:2008/04/06(日) 00:49:47 ID:H5cra64b
>>46
北条五代記の作成時期を考えてみればわかる事では無いかと・・・。

いずれにせよ北条方の被害が全く不明だし、追っ払ったってのは何か記録でもない限り無理があるのでは無いかと。
合戦場から北条方が退いた記録もないが、武田軍は甲斐に退いてる訳で。
48人間七七四年:2008/04/06(日) 01:31:44 ID:fL1yiaf/
>>47
北条遺臣の三浦がわざわざ武田有利に書かなきゃいけない理由はないと思うけどね。
実際軍鑑に比べれば北条の被害はえらく少なく書いてあるし。
勝ったんなら最後負けた描写入れる必要はないし「負けたのはこれだけ」とか言う必要もない。

そりゃこの戦いは小田原焼いて甲斐に帰る途中で追跡してきた北条勢を武田が迎撃した戦いなんだから当然。
勝っても負けても甲斐に戻るよ。
49人間七七四年:2008/04/06(日) 01:52:16 ID:fL1yiaf/
>>47
あと一応信玄自身はこの戦いが終わった後に
遠山や諏訪大祝相手に
「帰国途中で追跡してきた6、7千の北条勢を三増峠で迎撃して2千人ほど
討ち取って勝利した。」と書状で書いてるよ。
無論2千討ち取ったとか誇張は入ってるだろうけど。
北条方も勝ったといってるけどね。
50人間七七四年:2008/04/06(日) 05:09:42 ID:H5cra64b
>>48
甲陽軍鑑もわざわざ勝頼やその当時の武田軍を貶す必要は無いよね。

>>49のその書状の信じるとすると
氏邦も三増峠に参加してすら居ない氏規も討ち取られた事になってしまうんだが。
後の狭山藩主は別人ですか?神流川合戦で戦ってたのは誰ですか?
51人間七七四年:2008/04/06(日) 09:54:01 ID:fL1yiaf/
>>50
甲陽軍鑑は武田が滅んだ原因を勝頼に帰しているから。
三増峠の段階で三浦が北条をわざと貶める必要はないよ。
実際被害をかなり過小にしてるし。

だから誇張はされてるといってる。
それは北条も同じ。本当に北条の書状にあるように武田勢を宗の者まで含めて
数多討ち取り手負いの者数知れずという状況なら甲斐に帰還した後で
駿河侵攻を行って次々に各拠点を制圧してるのはおかしいでしょ。

まあ返レスが出来るのは結構後になる事をいっておく。
52人間七七四年:2008/04/06(日) 18:59:04 ID:H5cra64b
被害を過小というけど、何を基準に過小と言ってるの?そもそも被害などはっきりしてないのに。
北条五代記も甲陽軍鑑と同じ、北条が滅んだのは氏康以降の代に原因があるというもの。
有名な汁かけの話もこの講談から来てる訳で。
三増峠合戦時の当主は氏政で、この合戦の大将は氏照、氏政は後詰め。

書状について言えば兵数の誇張と討ち取った大将名の捏造では意味が全然違う。
兵数だけであるならば当時はそう正確に数えられるもんでもないし
そこそこ多く討ち取ったのであれば多めにいうのも充分ありうることだろう。

だが討ち取った大将を合戦後まで間違えるなどというのはありえないし、
参加してない大将名まで捏造してる書状では信憑性という点でまったく信用できない。
それに比べて氏照の書状はあくまで数多く討ち取った〜という程度のものだしその数まで言及してない
実際に武田の後詰めは討ち取られてるわけだし。
53人間七七四年:2008/04/06(日) 18:59:41 ID:H5cra64b
↑後詰じゃなくて殿だ。
54人間七七四年:2008/04/07(月) 09:11:07 ID:Gln6YEOS
武田親類衆で、西上野の統括者だった浅利監物すら討取られているしね、武田側
55人間七七四年:2008/04/12(土) 00:28:42 ID:n9o76ZAD
>>52
おいおい。三増峠の時は氏康は生きてるし
氏政と一緒に小田原で指揮を執ってる。
さらにいうなら氏政を貶めるなら武田が勝ったのはこの時だけとか
いう必要もないでしょ。
他にも小田原から追撃して千人近く討ち取って最後に武田の反撃で30人くらい
三増峠で討ち取られただけというのはどうみても北条の戦果を誇張して
最終的に負けた事実を過小化してるとしか思えないでしょ。
実際に小田原からの追撃は間に合ってないんだから。

それは結局北条側が戦果を誇張している事も認めるわけだね。
北条自体が最後は敵が押しなだれてきたといってるだろうに。

だから武田にしても勝利してるといえるだけの下地があり
北条側にも最後を除けば勝ってるといえるような下地があった。
ただそれだけの事だろう。どちらも戦果を誇張してるだけの話。
最初は北条が追跡してきて殿に打撃を与えたけど後半は武田が後詰をだして
逆襲し北条側に押しなだれて追っ払っただけの話だろう。
実際に北条自身が敵が押しなだれてきたといってるわけだし。
なぜこの程度の話がここまでこじれるのか不思議だ。
56人間七七四年:2008/04/12(土) 00:30:31 ID:n9o76ZAD
>>54
というかその割には武田軍元気だな。再開した駿河攻めとかでさくさく領土得てるな。
軍鑑では浅利は鉄砲に撃たれて死んだ事になってて部隊も曽根が指揮を引き継いでるけど。
57人間七七四年:2008/04/12(土) 02:20:05 ID:bhJFmefT
>>55
書状や講談の数字で話を拡げても意味無いと思うが。

そしてその部分以外に武田方が勝利したと言える下地などない、
だが北条方はそれ以外にも武田方の撤退と殿軍の戦死というはっきりした結果が存在する。

最後の一行だけ同意だ。
58人間七七四年:2008/04/12(土) 10:35:41 ID:n9o76ZAD
>>57
だから武田はもともと小田原焼いて甲斐に帰る途中で
追跡されたのと戦ったのだから
勝っても負けても甲斐に戻るのは当たり前だといってる。

北条遺臣が残した軍記でさえ、しかも賞賛する北条氏康が生きていて指揮も執ってる
戦いでさえ最後には被害を過小化してでも負けた事を記さねばならなかった事が
雄弁に語っていると思うがね。

そしてさらには信玄側にも勝利したという書状が残っているのは信玄側にも勝ったと
主張できる下地があったという事だろう。
北条五代記も北条記もそんな流れだろ。
帰る途中の武田軍に対して最初は押したけど最後は追っ払われたって。
その勝ってた部分だけ取り上げて最終的に追っ払われた所を書かなければ勝利を印象づけられる。
もともとこの北条側の書状は上杉に対して虚勢を張った書状で、
相模において武田が働いた、とは書いてるけど小田原焼かれた事ははっきり書いてないんだから。
押しなだれてきた、と書いて追っ払われた事を書かないのも全然不思議じゃない。
北条側にしてみれば上杉に対する外交文書で武田に負けた事を記す必要はないんだから。
59人間七七四年:2008/04/12(土) 16:29:21 ID:bhJFmefT
>>58
だから武田が勝利したとできるような論拠は
氏規殺したとか、数字も滅茶苦茶な書状と講談だけって事。

信用しろという方が無理。
60人間七七四年:2008/04/12(土) 17:10:18 ID:n9o76ZAD
>>59
北条が勝利したとできるような論拠は
明らかに戦果を誇張し、不利な所は書かないもしくはあいまいにしてる
書状だけって事でしょ。
こっちだけを信用しろというほうが無理だよ。

武田にも北条にも勝利したという書状があり、どちらも誇張してるなら
双方に勝ったといえる下地があったと考えるのが自然。
そして北条側書状でも最後は押しなだれてきたといってて
遺臣がまとめた北条びいきの書物でも最後は追い払われたとあるのだから
最後は武田が追っ払ったと見るのが自然だろう。
2万対6、7千の戦いなら順当な結果だし追っ払われても別に北条の恥じゃないだろう。
61人間七七四年:2008/04/12(土) 19:01:22 ID:Uqesj/Lg
>遺臣がまとめた北条びいきの書物
これって氏政がぐずぐずしていて出陣が遅れたため
合戦に間に合わず負けたっていう話じゃ
典型的な
>北条五代記も甲陽軍鑑と同じ、北条が滅んだのは氏康以降の代に原因があるというもの。
これの一例なんじゃ
しかも北条五代記は軍鑑の影響大だし
62人間七七四年:2008/04/12(土) 21:16:02 ID:bhJFmefT
>>60
浅利信種の死のどこに誇張があるの?
実は死んでなかったの?それは初耳。

信玄が書状で討ち取ったと主張してる氏邦や氏規は立派に生きてたけどね。
63人間七七四年:2008/04/13(日) 11:13:23 ID:ueKLjEkr
>>61
その割には北条5代記には小田原焼かれた事は書いてないし
小田原勢が引き上げる武田勢を追撃して千余討ち取ったとか
実際の北条の書状にすらない事を書いたりしてるし
その後で勝ちに乗じて追撃して三増峠で反撃されて30人くらい討ち取られただけとしたりしてる。
どうみたって氏康がかかわった北条側の戦果を誇張と捏造して
北条側の失態を過小化してるようにしか見えないでしょ。

>>62
浅利は死んでるよ。そりゃね。だから前半は北条が押したんだろうといってる。
んで後半は北条側が敵が押しなだれてきたといってるように武田勢が逆襲したんだろうと
言ってる。

もっとも北条が書状で述べてるほどの被害が出たにしては武田軍はその後も
駿河攻防戦とかでさくさく領土拡大して元気だけどね。誇張入ってるだろ。
足軽を際限なく討ち取って負傷者は数知れずで宗の者数多討ち取りなんて。
64人間七七四年:2008/04/13(日) 11:32:31 ID:ueKLjEkr
それから例によって返レスはかなり遅くなるのでよろしく。
65人間七七四年:2008/04/13(日) 20:00:59 ID:GUxqnqp2
三増峠の戦いってのは、他で例えれば信長の金ヶ崎退陣みたいなもの。

戦術的に言えば、武田の勝利と言えるものではある。殿に被害は出ても、軍はまっとう
させて敵勢力圏からの撤退に成功したのだから。

戦略レベルでいったら、三増峠を含めた、この時の武田による北条領遠征自体が失敗、
敗北になる。目的が達成できてないんだもの。駿河の兵力を手薄にするなんてのは、後世
勝利を喧伝するためにでっちあげられたシロモノ。

小牧長久手なんかもそうだが、戦術レベルの一局面の勝利をやたらと持ち上げることに
よって戦争全体の敗北を隠そう誤魔化そうとするのはいい加減やめたほうがいいよね。
はっきりいって、前世紀の日米戦争を太平洋・真珠湾の戦いなんて名づけて誤魔化そう
とするようなもんだ。
66人間七七四年:2008/04/13(日) 22:30:24 ID:PNN51m4U
>>63
だから武田方の勝利といえる根拠は講談と信憑性の低い書状だけだねと何度も言ってるわけだが。

北条方はその信憑性の薄い書状や講談を評価から省いても浅利を討ち取ったという史実は残る。
あとまぁ内藤の率いる小荷駄隊かな、まぁこれはいい。
とにかく武田の勝利を主張するなら客観性のある根拠を持ってきてもらわないと主張になってない。
とりあえずまずは損害すら不明なのに敗北した家というのを俺は今まで聞いた事がない。

>>65
金ヶ崎の合戦は朝倉方の兵数的にもこの合戦より遥かに多いし
北条・武田の国境線付近の三増と違って金ヶ崎は完全に敵地に潜り込んだ状況。
そこを潜り抜けた織田軍は凄いがそれでもこの合戦を織田の勝利とは呼べない。
67人間七七四年:2008/04/15(火) 12:07:17 ID:aIlv3Yyg
負けてても勝利と言い張るのが当時だからなぁ
素直に負けた、と認めるのは稀だろ
68三増峠ってどぉ? :2008/04/15(火) 12:41:34 ID:vPVXqMvO BE:445388235-2BP(1)
第二幕「信玄の駿河侵攻・興津川の対陣・伊豆侵攻」(永禄十一年12月6日から永禄十二年7月まで)の草案執筆中。
69人間七七四年:2008/04/15(火) 13:40:09 ID:/05wkQz4
あんまり信玄汚してやるなよ
山梨県民にとっては唯一の観光資源なんだからさ
70人間七七四年:2008/04/15(火) 19:05:21 ID:RLWzceg5
部隊長討ち取ったから俺達の勝ちってまるで川中島の上杉と同じ負け惜しみだな
あきらかに戦略でも戦術でも武田の勝ちだろ
71人間七七四年:2008/04/15(火) 19:11:49 ID:RLWzceg5
深沢城の綱成が矢文にびびって逃げ帰ったんだからそうとう痛い目にあったんだろうよw
72_:2008/04/15(火) 20:01:45 ID:DjVDnMRn
これに関してはサッカーでいうところの

武田軍がアウェーで点を取って引き分けたくらいの感じじゃない?
この戦いそのものは武田軍が優勢で終了したって感じで。
ただし点も取られてので、必ずしも勝利ではないと…

北条がホームで点取られてドローという感じ。ただし
73人間七七四年:2008/04/15(火) 20:13:36 ID:RLWzceg5
敵を城から誘き出し野戦で決戦
三方ヶ原に備えての軍事演習だったんだよ
あるいは謙信の川中島をより完璧にした作戦っぽい
川中島では謙信は最後は挟撃されてボロボロで越後に逃げ帰るが
信玄はほぼ無傷で帰還 しかも戦略目的も見事達成
まあ上洛を見越して背後で悪さしないように北条をしめといたんだろう
74人間七七四年:2008/04/15(火) 20:17:58 ID:/05wkQz4
ほんと必死だな?
そこまで武田勝利にしたい理由は何?
75人間七七四年:2008/04/15(火) 20:19:38 ID:SaYEz10I
しかし川中島はよく何度も両者譲らず激突したよね。
信長・秀吉・家康は偉大だが、信玄・謙信の粘りも見習いたい。
76人間七七四年:2008/04/15(火) 20:26:39 ID:/05wkQz4
>>75
いやいや
どっちかでもゆずってればお互い無駄な時間を過ごさずに歴史も変わってたかもよ
小事に囚われて広い天下が見えなくなった二人の視野の狭さなんて見習わなくてよし
77人間七七四年:2008/04/15(火) 22:31:59 ID:juFGXZaN
>>72
優勢だったという証拠が全く無いから勝利が疑わしいんじゃないの?
優勢だったなら殿が討ち取られてるのも変な話だし。
78人間七七四年:2008/04/15(火) 23:22:55 ID:LkDM7Oqv
戦場での結果は精精痛み分けか、兵力比考えると北条がかなり善戦したってとこじゃ
戦術で考えると北条は主力が遅れて包囲に失敗という不備があったため、
大勝出来る可能性があったのに、痛み分けという結果にしてしまった

戦略的に考えると、北条は無事に武田を領外に追い出すことに成功
武田は大きな被害も出さずに、北条の牽制を行うことに成功

政略的に考えると、北条は上杉との外交が形だけであることを露呈
武田は相越同盟に楔を入れることに成功、多少駿河の守備兵力を関東に戻すことに成功
79人間七七四年:2008/04/15(火) 23:38:00 ID:juFGXZaN
>>78
三増峠合戦という局地戦では北条側の勝利だと思うが、
小田原攻めという戦略で言うなら武田の狙いが上手く行ったと言えると思う。

だがこのスレが三増峠合戦のみを銘打っているので小田原攻めの考察は蛇足だと思う。
80人間七七四年:2008/04/16(水) 05:17:01 ID:BYEop9cg
痛み分けや北条優勢なら、氏康本陣は荻野で小田原へ引返さないだろうよ。

痛み分けなら、そのような緊迫した状況や敵が近くにいる以上、氏照・氏邦隊に合流するだろし。
北条優勢でも、氏康本陣は氏照・氏邦隊と合流するだろうよ。追撃して武田に大ダメージにの可能性があるから。

結局、氏康が引返したってことは、攻め手である北条が武田にダメージを与える目標に失敗して、
守り手である武田がうまく逃げて撤退戦が成功の証。
81人間七七四年:2008/04/16(水) 05:40:26 ID:yaH7g6VE
>>76
小事っていうが、負けると家臣達の知行も失われるぞ?
自分の命だってなくなる。
8281:2008/04/16(水) 05:49:03 ID:yaH7g6VE
スレ違いだなw
83人間七七四年:2008/04/16(水) 06:08:56 ID:76gQanqp
>>81
川中島知らんのか?
どんだけ無駄が多いか
8483:2008/04/16(水) 06:39:43 ID:BYEop9cg
甲斐にとって 、海(駿河・越後)田園(信濃)はどうしても必要だっただろうよ。
川中島は甲斐にとって宿命だろうよ。
侵略方向をたとえ変更しても、川中島と似た状況にでくわすだろうよ。
85人間七七四年:2008/04/16(水) 09:40:24 ID:BYEop9cg
>>79
確かに小田原攻めと三増峠合戦をセットに考えないといけない。
関東〜小田原   攻め手、武田  守り手 北条
         北条の関東の城に打撃を与えて武田の一定の成果。

三増峠合戦    攻め手、北条  守り手 武田 
         武田にとっては被害を最小限にして甲府へ戻りたい。これが目標。
         北条にとっては武田軍に打撃を加える決定的なチャンス。
         戦況は北条の圧倒的有利(氏康本隊の合流を含め)
結果的に信玄が不利な状況から返り討ちにして逃げ切った。目標達成。
関東遠征全体をみて、完全に北条は武田に負けたといえるでしょう。
86人間七七四年:2008/04/16(水) 09:57:49 ID:hoGAJPBB
>>83
無駄と言われてもなあ。
謙信は天下取りたかったわけじゃなかろうし。
武田もそんなものを誰かが取るなんて夢にも思わなかっただろうよ。
信長が一気に天下に近づいたのも半分は誰もが想定しなかった幸運によるものだしね。
だいたい君の父親は大企業のトップや総理大臣なのか。
そうじゃなきゃ小事にとらわれている小物ということにある。
87人間七七四年:2008/04/16(水) 10:54:23 ID:I63j4yp+
むしろ浅利勢らが捨て石になった隙に本隊は逃げた、という話になるんじゃないの?
荷駄や物資放棄して自領内で略奪するほどという状況は異様
88人間七七四年:2008/04/16(水) 12:02:47 ID:e0yKIJ7a
>>87
>荷駄や物資放棄して自領内で略奪するほどという状況は異様
よく聞くけどこのソースは?
89人間七七四年:2008/04/16(水) 22:16:30 ID:5tNnrKHV
>>85
返り討ちにした証拠が一切無い。

>>87
あぁ・・・そういえば
確か甲斐への逃走途中で兵が諏訪神社の一部を壊して暖をとっていたが
何も言えなかったとかあったな、なんだったか・・・。
90人間七七四年:2008/04/17(木) 12:47:05 ID:SQnfPtvW
>>89
甲斐への帰還途中で諏訪神社を壊すってどんなルートで撤退だよw
お前嘘言うならもっとましな嘘いえよww
91人間七七四年:2008/04/18(金) 02:48:51 ID:qSco5g6s
>>90
信玄のことを知りたければ諏訪信仰ぐらい勉強しなさい、恥ずかしい。
92人間七七四年:2008/04/18(金) 03:24:03 ID:H520p1Lq
>>91
あのな、ルートの指摘してるのに信玄のこと知りたければとか
まったく見当違いなこといってんなよ
日本語分からないなら恥さらすだけだからレスすんなよw
93人間七七四年:2008/04/18(金) 20:44:04 ID:KcJIuwV/
甲斐にも諏訪神社くらいあるよ。諏訪大社と勘違いしてない?
94人間七七四年:2008/04/19(土) 00:37:16 ID:hvUn56Ij
>>65
んなわけないだろ。
この時の武田の目的は北条へのけん制、越相同盟への楔、反北条勢力への宣伝と
いった事柄。ちゃんとレス見てる?それらはちゃんと達成してるだろ。

>>66
客観的な証拠といわれてもね。北条自身が追しなだれてきたといってるのに。
つか実際の所北条方の書状でも浅利討ち取ったとかいってなかっただろ。
本来なら具体名挙げて大いに喧伝しそうなもんだが。
軍鑑では浅利は流れ弾で死んでるけど案外これは正鵠を得てるんじゃないのか。
しかも曽根がその後指揮を引き継いで戦い抜いてるし。
乱戦の中でその討ち取った相手さえ把握してないような戦死を客観的な証拠とかいわれてもな。

>>69>>74
お前時々思うんだが相手を一人だと思ってないか?
RLWzceg5と俺は別人だから。煽りばっかいってないで多少は中身ある事書け。
95人間七七四年:2008/04/19(土) 00:38:18 ID:hvUn56Ij
あげちまった。悪い。
96人間七七四年:2008/04/19(土) 01:41:48 ID:RgYR6xYt
このスレまだあったのね
メガ豚も草葉の陰で喜んでいる事でしょう
97人間七七四年:2008/04/19(土) 02:13:01 ID:2pBkpQfC
>>94
浅利は死んでるし、津久井郡は北条領のまま武田軍は撤退した
客観的な戦果であることは疑い無いように思うが。

そして武田軍は結局、損害は出たが滝山城で籠城戦を続けていた上に
外様の津久井衆を率いていた氏照が倍以上の兵力を壊滅させられるはずも無く、
甲斐に逃げる事は出来た。北条側の損害は不明。

上記の戦果を見ても普通に北条は勝利側・防衛成功側なので無理に虚勢を張る必要がない。
浅利の事までいちいち書く必要性がない。
そもそも「三増峠合戦」なんて大袈裟なものとすら捉えてはいないのではなかろうか。
小田原戦の中の単なる、衝突の一つ。

それに比べて武田側は結局敗北したからこそ捏造を重ねた書状を書いて
負けてない事を主張する必要があったために、氏規・氏邦殺したなどというどうしようもない嘘を書いてるわけで。
討ち取った武将の名前を捏造するとか戦果の誇張のレベルじゃない、が、そこに信玄の必死さが見えてしまうわけで。
98人間七七四年:2008/04/19(土) 02:26:52 ID:hlTOBI5c
そう考えると北条側の書状は内容的には
もう少しで武田に大打撃を与えられたのに逃げられてしまって悔しいみたいな感じだから
自分たちが勝ったこと前提の書状ってことか?
またそんなことを前提に出来るってことは広く宣伝しなくても北条の勝利だって周りには
思われていたってことになるのか?
99人間七七四年:2008/04/19(土) 02:40:11 ID:2pBkpQfC
>>98
さぁ?周りの考えなど論拠なしにはどうとも言えない。

ただ北条側はそう考えていたのではなかろうか、ということ。
今のところはっきりしている事を比較しても、北条側が負けを意識する要素は全く無い。
100人間七七四年:2008/04/19(土) 04:29:03 ID:RPHyohuA
>>99
君は凄いね
101人間七七四年:2008/04/19(土) 10:31:37 ID:hvUn56Ij
>>97
だから津久井郡なんかそもそも武田は狙ってなかっただろ。
武田が帰る途中で追跡してきた北条勢と戦ったのが三増峠。
それで客観的な戦果なんていわれてもな。
なんで三増峠が北条の防衛戦になってるんだ?追跡戦だろ。
実際虚勢はりまくりだろ。北条が書状で述べてるだけの被害がでたとするなら
その後の武田軍の行動が元気すぎるし、宗の者だって多数も討ち取られてないだろ。
捏造したのは北条も同じ。というか浅利以外に宗の者討ち取ってないのに
その具体名挙げてないのはどうなんだ。

敗北したから捏造を重ねてるなんていうのはそっちの主観だろう。
前半で浅利が討ち死にしたら後半で追い返しても関係ないと?
北条自身が敵が押しなだれてきたといってるのに。
外部に戦果を見せる上で誇張をするのはよくある話だろ。
つーか諏訪大社にあてた信玄の書状ではこの勝利は神のおかげです、とかいって
喜んでるけど。
102人間七七四年:2008/04/19(土) 12:37:58 ID:meAgq8Nm
軍鑑の上田原の品で
当時の慣習だと先に戦場から引き上げた方が負けとされるってあるから・・・
103人間七七四年:2008/04/19(土) 13:00:06 ID:2pBkpQfC
>>101
>>前半で浅利が討ち死にしたら後半で追い返しても関係ないと?

北条勢は三増峠から撤退してない。追い返したというのは何を根拠に述べてるのか?
押しなだれてきたってのはそのまま逃げたって事でしょ?
それを追う事が出来なかったら負けだと主張したいの?被害もはっきりしてないのに。

それじゃ長谷堂合戦で直江が勝ちと言うようなもん。
関ヶ原で島津が徳川に勝ったというようなもん。

上記二つも直江や島津が勝ったと思えるんなら俺はもう何も言わない。
104人間七七四年:2008/04/19(土) 13:54:50 ID:hvUn56Ij
>>103
三増峠は北条勢が甲斐に引き上げる武田勢を追跡しておこった戦いだろう。
軍鑑では最初から北条勢が待ち伏せしてそれを武田が突破したように書いてあるが
信玄の書状でも北条の書状でも、北条が後方から追跡して武田勢に挑んだように
書いてある。これは北条5代記でも北条記でも同じだけど。
この状況では武田は追跡してくる北条勢を追い返して甲斐に引き上げればいい。
北条の書状では当方に押しなだれてきたとあるのだから、追跡している北条のほうに
押しなだれているのだから、逃げたという意味じゃなくて武田が逆襲して押したという事だろう。
実際北条遺臣の残した北条5代記でも北条記でもそんな流れだろ。
後方から武田勢を追跡して最初は押したけど最後は逆襲されて追い立てられたと。
そして武田勢は深追いせずに(もともと帰るつもりだったのだし)そのまま帰ったと。
氏康達は間に合わなかったと。(これは氏康書状とも符号。)

上記2つとは状況が違うのでなんともいえん。
105人間七七四年:2008/04/19(土) 14:17:57 ID:2pBkpQfC
>>104
>>押しなだれているのだから、逃げたという意味じゃなくて武田が逆襲して押したという事だろう。

ここに根拠が無いから、説得力がない。
講談の解説をされても困るし、北条五代記がどういうものなのかは過去レスにあっただろ。
106人間七七四年:2008/04/19(土) 14:23:53 ID:hvUn56Ij
>>105
だから根拠あるって。
北条の書状も信玄の書状も北条側が武田を後方から追跡して戦ったように書いてある。
それで「押しなだれてきた」といってるのだから武田が逃げたんじゃなくて
北条側のほうに押しなだれてるっていう事だろう。
むしろそっちのそのまま逃げたというほうが説得力ない。進行方向逆だろう。
北条5代記がこの戦いにおいて本来の史実にもない北条側が追撃して千余討ち取りを捏造し
武田の逆襲による被害を30人にしてるという事も過去レスに書いたでしょ。
それでも最終的に追い払われた事をかかざるをえなかったと。
107人間七七四年:2008/04/19(土) 14:51:46 ID:2pBkpQfC
>>106
小田原から甲斐に向かって進んでいる武田軍に滝山城から向かった氏照が三増峠でぶつかっているのに
後ろから追ったというのは位置関係的に意味不明なんだが。

北条の書状のどの部分で追撃したなんて書いてあった?
氏照の書状であれば自身の滝山籠城戦の話とごっちゃになっててわかりにくかった気はするが。
108人間七七四年:2008/04/19(土) 15:02:28 ID:hvUn56Ij
>>107
氏照書状では相模で武田が働いた(小田原焼かれた事はかかず)、
と書いてその後で津久井に向かって退散した事を書いてたろ。そこで戦ったと。
氏康書状では退く武田勢を攻撃するために三増山まで進んだけど敵がすばやく
去ってしまい、自分達は遅れたと書いてる。
信玄の書状では帰国の時北条勢6、7千の人数が慕ってきた(追跡してきたの言い回し)
ので一戦に及んだと書いてる。
いずれも甲斐に向かう武田勢を北条勢が後方から追っている事をあらわしていると思うが。
109人間七七四年:2008/04/19(土) 15:08:05 ID:2pBkpQfC
>>108
滝山城ってどこにあるのかわかってて言ってるの?
110人間七七四年:2008/04/19(土) 15:43:45 ID:hvUn56Ij
三増峠の北だな。滝山城は。
三増峠を通って移動中の武田勢を氏照勢が南下して捕捉、
後方より攻撃って所だろ。
111人間七七四年:2008/04/19(土) 16:28:01 ID:2pBkpQfC
>>110
←甲斐

          ■滝山
■津久井

   氏照軍
   ↓
   三増峠      相模川
   ↑
   武田軍

■小田原

大雑把な位置関係だがどう考えても氏照軍は前方にいると思うんだが。
また三増峠は現在でもあまり広い場所ではなく、また相模川もあるため、
2万はいたであろう武田軍を後ろから衝くために迂回できる場所があったとも思えない。
112人間七七四年:2008/04/20(日) 09:54:30 ID:Xg3epNcM
規制中につき代行レスを依頼中
>>111
どの時点で北条勢が接近したかによるよ。
武田勢がすでに三増峠を移動中でしっぽを見せている時に北条勢が到着して
後備から襲い掛かったならおかしくない。
つーかでないと後方にあるはずの殿軍の浅利が戦って死んでいる事が説明がつかん。

それから返レスは例によってかなり遅くなるのでよろしく。
113人間七七四年:2008/04/20(日) 14:47:57 ID:JmiIXrHO
>>112
左右に山があって相模川もある場所なので、
数百人レベルの小競り合いならともかくこの規模の衝突であるならば
津久井の方から向かう時点でお互いの存在はわかってしまうと思われる。

ここまで見ておいて初めて氏照の書状を考えてみる必要が出てくる
彼の書状を見てみると敵兵を崩し云々やら荷駄隊やら言ってるのは5日から6日朝にかけてであって
三増峠合戦自体10月6日のはずなので、武田の本隊はまだ到着していないはず。講談等にも出てきた様子がない。
書状でも先衆と言ってるので、武田軍・北条軍どちらも本隊ではなく先行させている部隊同士の事だと思われる。
この状況では寡兵の氏照軍ではこれ以上の深追いは出来るはずもなく、
ここで挟撃するために小田原からの本軍を待つ事になったと考えるべきではなかろうか。

さてその次に武田軍が山に陣を張ったとある、この時点で場面が切り替わっている。
というより時間軸的にも10月6日なのでここからが初めて世間で言う三増峠合戦の話になるのだろう、
武田側は氏照・氏邦の兵力よりまだまだ上で更に山に陣を張ったとあれば攻めることはもう出来ない。
ただ武田側もここで停滞してしまうと小田原の本軍が来てしまうため速く動く必要が出てくる。

そこで書状では武田軍の兵がこちらへ押しなだれてきたとある、これこそが殿軍の浅利信種隊であろう。
その後の合戦の経過はわからないが、浅利信種は戦死し、武田隊は甲斐へ撤退した。

これが普通に考えられる状況ではなかろうか?
114人間七七四年:2008/04/23(水) 11:00:48 ID:X2xD+2Qu
浅利監物のような親族衆・地方支配任された大物が殿軍勤めるものなの?
戸石崩れの横田備中のように、下っ端とはいえないが撃たれても中枢には響かない程度の武将が勤める役じゃないこれって?
115人間七七四年:2008/04/26(土) 15:50:10 ID:qjVOcr4z
>>113
そう解釈するのは難しいな。

氏照書状で北条側の記述が輝いているのは足軽やら荷駄やら宗の者やら討ち取ったという
前半部分。そして後半敵が押しなだれてきた時のコメントは「こちらに落ち度はない。」だけ。
もし後半のおしなだれてきた時の戦いを浅利が死んだ戦いとし、北条の勝利とするなら
ここにこそ意気揚々とした記述があってしかるべきだろう。
北条側の軍記である北条記では浅利は前哨戦で討ち死にした事が述べられている。
氏照書状の記述の面から見て北条にとって優位といえた場面は前半と見るべきだろう。

そして北条5代記でも北条記でも共通しているのは前半に北条勢は武田勢を後方から襲い
前半は被害を与えたが深追いするうちに後半、山上にいた武田勢の反撃によって追い払われたという事。
この流れは氏照書状における前半襲いかかり後半山の上の敵が押しなだれてきたという流れと符合を見せる。

また北条勢は武田と滝山で戦い消耗した氏照勢が主力であり、体制を立て直し兵を集めるにも時間がかかったと
思われる。武田勢にしても背後で氏照勢が蠢動していようとも退路を確保する為には先に進む事を
優先するだろう。そして背後からくる北条勢に対して浅利が殿軍を勤めた。

状況の流れとしては、@武田勢、三増峠から甲斐へ帰ろうとする。氏照勢、この情報をつかみやや時間をかけて6、7千の兵を集める。
A氏照勢、三増峠に到着。既に移動中の武田勢の後方から襲いかかる。氏照勢の先衆が武田勢殿軍の浅利隊を攻撃。
B氏照書状にあるように、北条勢は優位に戦闘を進め、武田殿軍損害を受ける。浅利はここで討ち死に。
Cこの間に武田軍主力は峠道を越えて山上にたどり着き体勢を整える。
D武田勢主力による逆襲。北条勢のほうに押しなだれる。北条勢は武田主力の約3分の一、
さらに浅利隊との戦いでも疲弊しており勝てるわけもなく追い払われる。氏照もそれほど無理はしなかったと思われる。
(あるいは落ち度はない、といっているから武田勢が迫ってきた時点で無理せずさっさと退いたのか?)
E武田勢はもともと帰還中であり、まだ到着していない氏康勢への警戒もあって甲斐への帰還を優先し、
氏照勢が退いた後さっさと兵をまとめて甲斐への帰路を急ぐ。北条記にも敵は深追いしてこなかったとある。

こんな所だと思うが。
116人間七七四年:2008/04/26(土) 15:56:33 ID:qjVOcr4z
>>114
殿軍は重要な役目だよ。
長谷堂では直江が殿軍を勤めたとされるし、
伊勢長島では織田家の一の長である林が殿軍を勤めている。
後背からくる北条勢を抑えるのはこの作戦において重要だし。
117人間七七四年:2008/04/26(土) 17:32:00 ID:5hg9k5xQ
>>115
まず@やや時間をかけての意味もわからんし、何を根拠にしているのかもわからん。
Aに関しては前にも書いたが地理的に無理がある。
三増峠をお互いに普通に行軍してれば正面からぶつかる他ない。
左右に山と川もあるため簡単に迂回できる場所でもないしまた迂回したと言う記録もない、
移動中だろうがなんだろうが迂回もせずに正面にいる2万の相手の後方を突くことなどできようはずもない
また挟み撃ちを狙っている北条軍がそれを行う意味もない、
別に講談にもこの時点で後ろから襲ったなどという記述は存在しない。

そしてB、Cで決定的な矛盾がある。
Cでこの時点で山上へ・・・とあるがあなたが根拠にしている甲陽軍鑑や北条記などでも、
浅利が討ち取られる描写より前に、信玄が山上にいると言う描写が存在する。
つまり浅利が討ち取られる前に武田勢が山上に陣を張ったと言うのは書状だけでなく講談でも設定されている。
この時点で氏照書状の初めで優勢に進めている状況で浅利が討ち取られたはずはない事が確定する。

後は前レスと同様。小田原本軍を待つ氏照軍に対し浅利隊が殿軍として進軍
浅利信種はここで戦死、しかし時間は稼げたのであろう、武田軍はそのまま撤退、
氏康・氏政がまだ来ない氏照も深追いはできず合戦は終了。
信玄に逃げられて残念と書状でもあるとおり、氏照にとってはここで殿軍を討っても名誉とは思わなかったのだろう。
甲陽軍鑑だけその深追いはできず終了の部分に尾ひれをつけて勝ちにしているがその記録が一切ない。
118人間七七四年:2008/04/26(土) 23:22:31 ID:qjVOcr4z
>>117
そっちのほうが根拠不明でわけわからん。
@に関しては書いてあるとおり、氏照勢の兵力と消耗の度合いから。
氏照勢は滝山で武田と戦い消耗した後、6、7千もいるわけがない。
周囲の兵力を集めてそれだけの兵力にするには時間がかかる。

Aに関しては上に書いたとおり。氏照達はある程度の兵力を集めなければそもそも
戦いにならないため、兵力を集める時間が必要だった。甲斐に戻るために直進して
急行している武田勢のほうが三増峠に入るのは早いだろう。
挟み撃ちを狙いたくてもその前提である兵力の集結に氏照は手間取っただろう。

講談では甲陽軍鑑は北条が前に布陣するが、北条5代記や北条記では後方から北条が
追跡する形だが。

その割にはそちらが浅利を討ち取った時と設定している後半戦で全然描写がなく、
前半では意気揚々と戦果を書いているのは不自然に過ぎる。宗の者数多討ち取ったと
言っているのも前半だ。実際は浅利くらいしか討ち取ってないし名前もあげてないが。
北条がそうしたと誇張できるだけの下地があったのはこの場面と考えるべきだろう。

小田原本軍を待ち前面に展開するという氏照勢に対して浅利だけぶつけてそれよりはるかに多い
信玄本隊はどうやってどこから逃げられる。無理があるな。
殿軍討ち取って名誉じゃないから詳細書かないというなら、そちらが言う所の先衆同士のぶつかりあいである前半あれだけ意気揚々と書き、
敵が押しなだれてきたというそちらの言う所の殿軍討ち取った後半では口を閉ざしているのは不自然に過ぎる。

それから武田の勝ちとしているのは甲陽軍鑑だけではなく、北条5代記も北条記もそう。
甲陽軍鑑と北条側の軍記では武田の勝ち方はまるで違う。
甲陽軍鑑では深追いできず終了に尾ひれをつけたわけではなく、山上の北条勢を突破して撃破している。
仮に前にいる北条勢に対して3倍の武田勢が押しなだれたとし、突破されているならそれこそ北条側としては突き崩されている
状況だとしかいいようがないと思うが。
119人間七七四年:2008/04/27(日) 00:12:12 ID:bCFJthOx
>>118
まずあなたの>>115のレスに対してB、Cで決定的に矛盾があるとした部分を答えてもらえないだろうか?

甲陽軍鑑で有名なシーンに大石遠江を山上から見て信玄が戦いぶりを賞賛したという逸話があって、
この人物こそ後の忠臣蔵で有名な大石内蔵助の祖先であると言うものなんだが、
この逸話が入るのは浅利を討ち取る前。
まぁこの逸話自体は眉唾だが有名で武田軍が山上にいることがわかりやすいので引用する。
しかしこの部分を取るならば

>>B氏照書状にあるように、北条勢は優位に戦闘を進め、武田殿軍損害を受ける。浅利はここで討ち死に。
>>Cこの間に武田軍主力は峠道を越えて山上にたどり着き体勢を整える。

この展開では矛盾が生じる。その反論が無い。
120人間七七四年:2008/04/27(日) 00:35:21 ID:1o4HXMJK
>>119
わざわざアゲる意味がわからないがまあいい。

そっちがいうようにその手の逸話は眉唾ものが多い。
ただまあ甲陽軍鑑、北条5代記、北条記、でいづれも山の上にあるとしているのは考慮すべきか。
正直いうと主力が山の上にあったのを確認し忘れていた。
氏照書状でいうなら5日夜に津久井筋でまず敵の人数を除いたとある。そして6日朝には敵に襲い掛かったとある。
いづれも武田軍の後方から襲いかかったのでなければおかしい動きだが。前方なら主力からの反撃がある。
北条5代記でも北条記でも共通するのは後方から武田勢に攻撃し、勢いに乗ってそのまま進軍する北条勢が
山に伏せられていた武田勢から反撃され追い散らされている事。
これなら書状と符合してもおかしな所はないな。
121人間七七四年:2008/04/27(日) 03:49:08 ID:bCFJthOx
上げた理由は特にない、気に障ったら許してほしい。

>>120
了解、武田軍が山上にいたことに疑いがないのであれば、
いずれによ序盤の戦闘の後に山上に陣を張っていることが明確になっているため、
ここは疑う余地がなく、その前の記述は本戦とは別であろうと思われる。
講談をもう少し見ていくと荷駄隊等が兵を連れて先行している記述もあるのでそれが相手かもしれない。
どちらも先行した部隊同士の合戦であれば別に後方から戦ったかどうかも問題ではない。
その後、殿軍との合戦になった上で浅利が討ち取られたと言うことだろう、そこももう議論の余地はない。

さて、具体的になってきたのでもうちょっと詰めてみたい。
北条記はそもそも北条五代記なども参考にされてる部分が多い上に
成立年不明で類書まで存在する正直信憑性においては五代記や甲陽軍鑑より酷いと思うが、
とりあえずそれらの元になっている甲陽軍鑑の記述から見れば(北条五代記には甲陽軍鑑を参考にした跡がある)
その山に伏せられていた山県らが北条勢を蹴散らしたとある。

だが逆にこの山県が通ったとされる志田峠に参陣していたらしい
内藤氏の家臣、小川某が戦功抜群として北条家から加増を受けている事がわかっている。
この内藤氏は三増峠に近い所領をもっているため、信憑性は高く、
書状で戦果を捏造するのはどこでもありうることだが
実際に金や領地が動いている家臣の褒美にまで捏造を加えることはなかなかできないだろう。

反面、伏兵を使い、蹴散らしたはずの信玄からそれを評価された書状・感状・褒美などはなく、
北条側の損害も全く不明。
そもそもこの伏兵云々のくだり自体が講談以外に出てこないので評価のしようがないのが現状。
122人間七七四年:2008/04/27(日) 11:53:13 ID:1o4HXMJK
>>121
いや、勝手に議論の余地なしとしないでほしい。
信玄本隊が山の上にいたという事と前半戦が三増峠と関係ないというのは
まるで別の問題だ。
甲陽軍鑑、北条5代記、北条記、でいづれも武田が前半において苦戦したのは
描かれている。氏照書状の前半部分をそれと考えればすっきりする話だ。
北条側があれだけ意気揚々と書いている部分がまるで関係ないなど普通はない。
そして後半において戦果で口をつぐんでいるのもそちらの言うとおりなら不可思議にすぎる。
先行した部隊同士かどうかも怪しい。というかあなたは>>118であげたこちらの言葉に
ほとんど答えていないではないか。こちらには答えさせておいて。

北条5代記は甲陽軍鑑を参照した形跡が確かにある。第4回川中島について触れた所だ。
しかし三増峠での描き方は甲陽軍鑑とはまるで異なる。戦いの経過も位置取りも。
北条記も甲陽軍鑑とは違う書き方だ。一部に参照した後があるからといってすべてが元にされているとは
考えにくいだろう。

何度もいうが甲陽軍鑑と北条側の軍記では武田の勝ち方は異なる。
というより山県は軍鑑では敵の後方に迂回して山上に上って北条に襲い掛かるが
北条側の軍記では山にいて、迫ってきた北条勢を攻撃して追い払っている。

最終的に追い払われようともそれまでの戦いで奮闘した家臣に対して褒賞を出すのはおかしくない。
というより北条としてはこの戦いを自分達の勝ちだとして主張したかったはずだし。
川中島で前半有利に進めながらも後半川中島から撤収した謙信も家臣達に感状を出し褒賞している。

それでも敵が押しなだれてきたという他ならぬ氏照のコメントと前半あれだけ意気揚々と書きながら
後半口をつぐんでいるという不可思議な事実がある。武田が勝利を主張している事実も。
武田にしてみればこの戦いはあくまでも追い払えばよかったので深くも追撃しなかったし
北条側も前半の疲労から無理をせずに引いたのだろう。なにせ5日の夜から6日の朝、そして日中と
戦い続けて疲労がないはずもなく、そこを3倍の敵に押しなだれてこられては引くの当然。
それから信玄のほうも古屋氏に対して感状を出していたはずでは。

まずそちらは>>118でこちらが聞いていることの質問にまず答えてほしい。

それから返レスは例によってかなりおそくなるのでよろしく。
123人間七七四年:2008/04/27(日) 22:37:30 ID:bCFJthOx
>>122
いや悪いが、下の要素だけははっきりしてくれないと他の話に付き合う気になれない。
まるで別の問題でもなんでもない。

氏照書状(簡易)
5日 @荷駄隊相手に勝利したらしい
6日 A朝そのまま先行してた足軽らを倒したらしい。
   B武田軍山上へ
   C兵が押しなだれてきたとする記述。
   D信玄に逃げられて残念

・三種の講談全てに武田軍が山上にいることが描かれている。
・そしてその後に浅利が討ち取られる場面が出てくる。

                ↓

「そのため三増峠合戦はB以降の話であることは間違いない。」
「Aの時点で浅利を討ち取ることは不可能である。」

これはまず客観的に考えて当然の流れだよね?
これを覆すなり同意するなりしてくれないと、他の話をされても矛盾を抱えたままなので意味がわからない。
124人間七七四年:2008/05/01(木) 23:23:58 ID:Crex7nb1
一説によると浅利を撃ち取ったのは綱成指揮下の玉縄衆か小机衆の鉄砲隊だったらしいね。
125人間七七四年:2008/05/02(金) 08:11:52 ID:My34Q5e3
北条涙目やなw
126人間七七四年:2008/05/03(土) 00:39:00 ID:nandsITX
>>123
いちいちなぜにあげるのか本当に不思議なんだけど。

>>118でこちらが事実を挙げているのだからそっちもこちらに答えさせた以上
答えるべきだろう。

ならこちらも事実をあげてみようか。
@三増峠の戦いは武田北条の軍記ではすべからく前半と後半があった事になっている。
前半北条優勢、後半武田逆襲して北条撤退。これも共通した流れ。
A武田の軍鑑では小荷駄は内藤に引率されて後方から進軍。浅利は殿を務める。
B軍鑑では三増峠で戦った北条勢の周囲は切所であったとされている。
これは氏照文書前半の小荷駄を崩し足軽倒して宗の者を多数倒した所が切所であったというのに一致する。

この時点でそちらのいうように前半の戦いを切り離して考える事は困難。

C浅利の死亡が戦闘終盤であるとは武田北条の軍記双方共にしていない。
軍鑑では中盤、北条記にいたっては前哨戦で死んだとはっきり言っている。
いずれも武田の逆襲前。ちなみに軍鑑では浅利は鉄砲で死に、曽根が指揮を引き継いで戦い抜いてる。
Dそして氏照書状では後半山にいた武田が押しなだれてきたという事に対して、前半あれだけ意気揚々と書いていた氏照文書が
口をつぐんで「こっちに落ち度はない」だけ。
Eそもそもこの氏照の書状は上杉に虚勢を張った書状で小田原焼かれた事は隠している。

これらの事から見てもそちらの言うように終盤に武田の殿だけが突っ込んできてそれを討ち取ったけど
名誉じゃないから書かなかった、というのは無理がある事がわかる。それならその書状前半で意気揚々と
戦果を書いているのはなんなんだという事になる。宗の者を多数討ち取ったといっているのも前半。多数も討ち取ってないけど。

そして>>118でも書いたけど、そっちの論では氏照勢は小田原勢と挟撃する為に武田の前面に展開しているんだろう?
それで殿の浅利だけぶつけてその他の武田軍主力はどこをどうやって逃げたんだ。無理だろう。
仮に前面に北条勢が展開していたとして、3倍以上の武田勢が押しなだれて突破したというなら
それは北条が突き崩されている状況だとしかいいようがないだろうと聞いている。
ここら辺はどうなのよ。
127人間七七四年:2008/05/03(土) 00:56:42 ID:jWRe1Auy
あんたは根拠挙げて論理的な見解述べてるけど、絡んで来てる奴は根拠無い妄言連ねてるだけで言ってるレベルが低すぎる。
かなり知能が低いことは明白だし、どう見てもバカが事実に関係無く単に武田が負けたと言いたいだけ。
いつまでも絡む意味無いと思うが。
128人間七七四年:2008/05/03(土) 04:53:15 ID:aY4S/pKx
>>126
とりあえずまた上げてしまったことは本当に申し訳ない専ブラが何かおかしかったらしい。

さて一つ一つ答えていこうと思う
@に関しては講談で前半は北条軍が優勢、後半は武田軍が優勢という流れになっている。これは文字通り。
ただし前半で優勢という部分が氏照書状における前半の部分と一致する根拠は一切無い。
逆に氏照書状でははっきりとその優勢だった「後に」武田軍が山上に陣を張ったという描写が存在する以上、
北条記でも甲陽軍鑑でも浅利を討ち取ったときには武田軍が「既に」山上にいるという描写とはっきり矛盾する。
前レス・前々レスから俺はこの一点を問い続けている。
Bは山上にいる武田側の一部(殿軍)が三増峠側に居る氏照軍に襲い掛かってきたのであれば切所で矛盾は無い。
Cは@と同様、前半で優勢という部分が氏照書状における前半の部分と一致する根拠は一切無い。
Dはそのまま、信玄に逃げられた以上、
他の連番はあえて言及する必要性があるようには思えない。

>>殿の浅利だけぶつけてその他の武田軍主力はどこをどうやって逃げたんだ。無理だろう。
一本道の三増峠をずっと通っていたのであれば中央突破以外不可能だが、
武田軍は途中で山に陣を張ったのだから、殿軍が一方から三増に向かって下山して氏照にぶつかり、
もう一方の本軍は山の反対側から志田峠の方面に抜ければ問題ない。

実際に講談ではその後、志田峠に別働隊がいて・・・という展開になっていくが、
これはまぁ講談以外に論拠が無いのではっきりしてるとは言いがたい。
しかしあなたの疑問自体はそもそも講談の中で語られていることであるとも言える。

押しなだれてきたのは浅利の殿軍であろう。
そして武田軍は志田峠方面に撤退したが浅利は討ち取られて死亡。
129人間七七四年:2008/05/03(土) 08:10:02 ID:Y8uxaxEk
その後の展開を見てみれば駿河は武田に奪われ
氏康が死んで人質差し出してまで同盟結んでもらい
なおかつ武田上洛に援軍をよこすんだから
北条がいかに涙目だったかわかる 
130人間七七四年:2008/05/03(土) 11:05:05 ID:nandsITX
>>128
いや、あるだろ。浅利が死んだのも小荷駄が危なくなったのも
戦闘開始以後武田逆襲前。他ならぬ氏照の書状に小荷駄を崩して宗の者を多数〜と
あるのだからそれでぴったり一致するだろう。
ぶっちゃけた話、峠道を移動しながら戦っているんだから山と山を移動してるなんて
普通にあるだろう。氏照勢先衆が戦っている間も山にいたっておかしくない。
その突っ込んだのが一部でしかないという根拠がまるでない。山上にいる敵が押しなだれてきた
といっているのだからその山上の主力が突っ込んできたと考えるのが自然。
むしろそっちの言っている前半が一致しない、後半は浅利が突っ込んできただけ、というのが
そもそも一切根拠がない。前半部分を北条優勢場面と捉えれば押しなだれてきたのが武田の逆襲となり
すっきりするのに。北条が口をつぐんでいる事実と武田が勝利を主張してる事実とあわせて。
信玄に逃げられた以上、だけですませないでほしい。信玄逃がして悔しい、とわざわざ後に書いてるくせに
浅利隊相手に戦い勝利した戦果は述べないとかありえない。勝ったならば。
勝ったなら意気揚々と前半部分のようにいかに敵を崩したかを書き連ね、その上で信玄を逃がしてしまったと
書くべきだろう。いきなりここで口をつぐんでいる事の不自然さが残りすぎる。

一部隊でなく武田軍主力が本道ではなく、志田峠のほうに迂回して抜けるのか?凄くシュールな光景だな。
というかそれは軍鑑における山県勢の背面迂回コースじゃないか。
2万近い武田主力が北条の背面に回ったなら北条にすれば全軍崩壊の危機だぞ。武田はその状況でも北条に何も
しないのか?ありえないだろう。

だからその押しなだれたのが浅利だけという根拠が一切ない。志田に本軍が進んだという根拠も。
131人間七七四年:2008/05/03(土) 18:32:11 ID:2ioy1rR0
>>130
>>戦闘開始以後武田逆襲前。他ならぬ氏照の書状に小荷駄を崩して宗の者を多数〜と
あるのだからそれでぴったり一致するだろう。

北条記でも甲陽軍鑑でもこれらの流れが一日以上経っている描写は無いが
氏照の書状では押しなだれて〜とやらのくだりの前日からの事項であることがわかる。
そこも一致していない。

>>ぶっちゃけた話、峠道を移動しながら戦っているんだから山と山を移動してるなんて

ずっと山を移動していたのであれば書状の中であえて「山に陣を張った」というような事を書く意味が無い。

>>山上にいる敵が押しなだれてきた
>>といっているのだからその山上の主力が突っ込んできたと考えるのが自然。

いや書状で山に陣を張るときに敵の人数がこちらの方へ来たとか言ってたはず、
と言うことは主力は山に陣を張ったままじゃないとありえない描写だろう。

というか山に陣を張り始めたのに、終わらないうちに全軍こっちに流れてきたんじゃ
なんのために山に登りかけたのか意味わからん。

>>前半部分を北条優勢場面と捉えれば押しなだれてきたのが武田の逆襲となり
>>すっきりするのに。北条が口をつぐんでいる事実と武田が勝利を主張してる事実とあわせて。
>>信玄に逃げられた以上、だけですませないでほしい

武田側はその部分で勝利を主張などしていない、あなたが甲陽軍鑑の内容から主張してるだけでしょう。
武田の勝利の主張は2000人と氏邦・氏規を討ち取ったぜ俺の勝ちだぜっていう
もう考察のしようがないあの信玄の書状でしょ。

>>信玄逃がして悔しい、とわざわざ後に書いてるくせに
>>浅利隊相手に戦い勝利した戦果は述べないとかありえない。勝ったならば。
>>勝ったなら意気揚々と前半部分のようにいかに敵を崩したかを書き連ね、その上で信玄を逃がしてしまったと
>>書くべきだろう。いきなりここで口をつぐんでいる事の不自然さが残りすぎる。

浅利隊相手に勝利したと言っても所詮は殿軍、信玄を逃してしまったことの方が口惜しかったと言うことだろう。
そもそもその言い方であれば前半部分で浅利を討ち取ったと言うことに触れないのもおかしいと言うことになるだろう
最初から氏照の書状では人物の内容にはあまり触れていない。それが不自然だと主張したところで
そんなものは書き手の自由だろう。

志田峠は講談の内容以外に出てこないからあまり考察しても意味無いが
ここを抜けても三増峠に出るだけで信玄が甲斐の方へ逃げていて氏照が追っている状況でもなければ
後ろはつけない。甲陽軍鑑の作者はその状況を想定したのだろう、
実際には書状でもわかるように氏照がそこまで深追いしたようには思えないのだが。

またこの道は現在の宮ヶ瀬ダムの方へ抜ける道で整備される前だとしても
三増峠とさほど変わらない道に思える、まぁ山上に陣を張った時点で津久井の方へもいけるわけだし。
正面突破しなきゃいけないわけではない。
132人間七七四年:2008/05/03(土) 18:36:25 ID:6TVnTJ1Z
武田の壮大な釣りの伏せにまんまとかかり北条涙目
133人間七七四年:2008/05/03(土) 19:19:25 ID:nandsITX
>>131
書状では前日からの事項であっても、講談にした時に流れが簡略化されたと
見ればいいだけの話。むしろ明らかに小荷駄を破り、足軽も崩されて宗の者も討ち取ったという
武田・北条の軍記双方が主張する事項が起きているのにそれを丸無視する姿勢が理解できない。

山を移動してたけどある地点で立ち止まって体勢を整え反撃に転じただけだろう。
何もおかしくはないだろう。

本陣が司令部として山に座し、残りの部隊が攻勢に転じるのは戦闘の形として普通の事だろう。
つーかそっちの主張してる浅利だけ突出して武田軍撤退なら山に陣をしいてる場合じゃないだろう。
浅利突出させてさっさと逃げないといけない。陣を構えている時点でそっちの主張とずれが生じている。

その部分で、とかいう以前に武田が勝利を主張してる事実に述べたまで。
考察のしようがないとなぜいえる。書状に誇張が入るなんてよくある話で
実際北条自身がこの書状で宗の者を多数討ち取ったとか小田原やかれたのを隠したりとかして
誇張してるだろうといっている。双方に勝利を主張できる下地があったと考えれば自然な話。

めちゃくちゃ矛盾してるぞ。そっちの主張では前半の記述部分は双方の先発隊同士による小規模なものなんだろう?
それは意気揚々と書いて、後半に殿軍を討ち取り浅利も倒したのにその事は名誉じゃないから書かなくて、
その理由が書き手の勝手?ありえないだろう。
浅利を討ち取ったかどうかなんて軍記によれば鉄砲なんだし、そもそも北条が認識していたのかという問題もある。
だが氏照は書状の前半部分ではっきりと宗の者を多数討ち取ったと述べている。
無論誇張が入っているが北条にもそう誇張できるだけの下地があったと考えられる部分だ。
先発隊同士の小規模なぶつかり合いじゃこんな事ありえない。

北条が前面に展開していて三増峠に陣している状況なら、志田峠から抜けられたら背面につかれる事になる。
そっちのいう展開なら前面に浅利がつき、後方には2万に近い武田主力がつく事になる。
全軍壊走したっておかしくない包囲殲滅の危機だぞ、これは。
なんでいきなり回り込んでも何もしないで帰るんだよ。
なんかそっちの主張を検証すると武田が大勝でないとおかしい状況になるんだが。
俺はほどほどに追っ払ってさっさと帰った程度にとらえているのだが。

2万近い大軍を本道を進ませずに前面に敵を控えたまま離脱するとかまずありえない。
軍鑑では武田はわざわざ部隊を複数にわけ複数のルートから進撃させている。
大軍勢の移動にはそれだけの手間がかかる。志田峠一本でいけるものではなかろう。
第一そっちの言い分だとこの戦いが三増峠で行われたという事自体が覆る事になるだろう。
志田峠で武田本軍が移動したなんていう根拠は一切ない。
134人間七七四年:2008/05/04(日) 00:23:36 ID:twpwYDGf
>>書状では前日からの事項であっても、講談にした時に流れが簡略化されたと 見ればいいだけの話

135人間七七四年:2008/05/04(日) 01:06:43 ID:twpwYDGf
>>書状では前日からの事項であっても、講談にした時に流れが簡略化されたと 見ればいいだけの話。

書状の方で簡略化されたものとして、講談でその部分を引き伸ばしたというのであればわかるが、
講談の方で作者が勝手に簡略したと言うのであれば、それはただの創作ではないか。
書状で前日であると書かれていることを無視する理由になるはずがない。

>>むしろ明らかに小荷駄を破り、足軽も崩されて宗の者も討ち取ったという
>>武田・北条の軍記双方が主張する事項が起きているのにそれを丸無視する姿勢が理解できない。

それが前日に起こったというだけのこと、書状でそう書いてあるのだから。
荷駄を破ったことも講談では一致してないぞ。

甲陽軍鑑でも荷駄が重要だ〜云々と内藤を信玄がなだめている場面が出てくるのが合戦の前日で
氏照書状の前日の場面の勝利と時間的には一致する、まぁ甲陽軍鑑で氏照の活躍など書くわけないので
一致するのはここまでだが、そもそもその翌日の戦いで
浅利が討ち取られる場面はあるが荷駄隊が崩される場面は出てこない

にもかかわらず信玄が荷駄隊を気にしている場面が唐突に出てきているのは
よく考えてみれば奇妙ではある。

>>山を移動してたけどある地点で立ち止まって体勢を整え反撃に転じただけだろう。
>>何もおかしくはないだろう。

講談では途中で山に登った事が書かれてるじゃないか。
甲陽軍鑑では馬場らが攻撃部隊を務めて、2番手に勝頼その殿軍を浅利がつとめていて
残りのものらは夜のうちに山上へと向かったことが書かれている。
しつこいようだがこの辺の編成は講談だから信用してないがね。

だが書状でも山についたことは書かれている、講談・書状に書かれている場面なのであれば
やはり信憑性は格段に上がる。

>>北条が前面に展開していて三増峠に陣している状況なら、志田峠から抜けられたら背面につかれる事になる。
>>そっちのいう展開なら前面に浅利がつき、後方には2万に近い武田主力がつく事になる。

位置関係がよくわからない。志田峠からどこを抜けて三増峠にいる氏照の背面をつくのだろうか?
前のレスでも書いたが、氏照らが撤退する武田本軍を深追いするならば起こりうるが
それ以外には位置的に奇妙すぎる、
北にある滝山や津久井方面から南下して三増峠に向かった氏照の後ろを
三増峠よりずっと南にある志田峠を抜けてどうやって後ろをつくのか。

まぁこれは講談の山県らにもそのまま言えることだが。
136人間七七四年:2008/05/04(日) 08:07:47 ID:Qu5zAPK6
浅利浅利うるせーやつだな

小田原焼かれ 駿河奪われ 涙目なのは北条だろうが
137人間七七四年:2008/05/04(日) 13:11:24 ID:Thxhlcp7
>>135
創作じゃないだろう。
実際書状に書いてある事項と軍記に記された事項が一致しているのだから。
北条の軍記は北条遺臣として参戦者もしくは口伝を聞き、それを参考にしてまとめあげたが
その過程で日付に混同が起きたか、もしくは簡略化されたか。
どっちにしろ内容が一致しているのに日付だけでつついてそれを全部無視する方が異常だろう。

だから、前日に北条は優勢で押したけど次の日に武田に逆襲されただけの話だろう。
なぜここでこじれる。
軍鑑では内藤はよい小荷駄をえりすぐって進撃に専念させていたはずだ。
戦闘において小荷駄の運搬が苦しくなったという傍証にはなるだろう。
前日の氏照の活躍を軍鑑が〜というなら、そもそもそんなものは北条側の軍記にも
書かれていないではないか。

だから峠道を移動しながら戦っているのだから複数の山を移動しているはずだろう。
山を移動し峠道に下って移動し、また先に進んだ所に山があっただけの話だろう。
峠道なんだからひとつしか山や隆起がないわけじゃないだろう。

山県隊は志田沢上の山を伝って沼へ向かいにろねを目指したとされる。
このにろねが韮尾根なら三増峠に陣している氏照勢の後方に回り込める。
文字通り絶好の体勢で後方につける形になるな。山県5千どころか2万の武田主力にこれをやられたら
悲惨な事になるはずだが。
138人間七七四年:2008/05/05(月) 03:38:01 ID:YXq+MZ0l
>>137
>>その過程で日付に混同が起きたか、もしくは簡略化されたか。
では当時の本人の書状を優先すべきだろう、物語を基本に考察する意味など全くない。

>>どっちにしろ内容が一致しているのに日付だけでつついてそれを全部無視する方が異常だろう。

書状で言うように小荷駄隊やらを打ち破ったんだろうが、それ以上のことは書いていない。
全部無視などはじめからしていない、書状に書いてあるとおり荷駄隊や兵を討ち取ったというところだろう
ついでに言うと一致していると言うが講談で荷駄隊らを討ち取った描写ってどれにあったっけ?
少し忘れてしまった。

>>だから、前日に北条は優勢で押したけど次の日に武田に逆襲されただけの話だろう。

逆襲されたとする講談までの間が足りない、
前日の北条優勢だった部分で荷駄隊やらは倒したのだろう(氏照書状のみ)
武田軍は山に陣を張り(氏照書状・甲陽軍鑑・北条五代記・北条記は既に陣を張っていたような描写)
その一部が襲い掛かってきた、(氏照書状・甲陽軍鑑)甲陽軍鑑ではそれが馬場や浅利らなわけだが
その戦いで浅利や浦野などが死んだのであろうということ。
(軍鑑・五代記・直後の武田側の編成・新編会津風土記)

この後に山県らが志田峠を抜けて北条軍を破ったと言う流れになる(甲陽軍鑑)
でもこれはやはり位置的に不自然と思ったのか北条記などでは、
追ってきた氏照らが待ち伏せされていると言うような記述になっている。(五代記・北条記)
いずれにせよ氏照らは半原の方へ撤退したらしい(甲陽軍鑑・五代記・北条記)

ちなみに山県らのくだり以降が講談以外にあるのか俺は知らない。
ついでに甲陽軍鑑と五代記などで設定戦場も状況も全然違うのに、
最後は甲陽軍鑑に揃えて半原に逃げたことになっているあたりやはり不自然さが残る。
単に甲陽軍鑑を参考にした可能性が高いように見える。

>>だから峠道を移動しながら戦っているのだから複数の山を移動しているはずだろう。
>>山を移動し峠道に下って移動し、また先に進んだ所に山があっただけの話だろう。
>>峠道なんだからひとつしか山や隆起がないわけじゃないだろう。

降りて上ったなどという事はどの講談にも書状にも記録にも残ってない。

書状にまず記述があり、講談でも山にあがった描写があって、
客観的に考えてもまずは通りやすい道を進んでいって
前方の氏照軍を察知したことで避けるように初めて山に布陣するという事に不自然な点はない。
そしてその前の行軍中に登って降りてを繰り返していたような描写はない。

>>文字通り絶好の体勢で後方につける形になるな。山県5千どころか2万の武田主力にこれをやられたら
>>悲惨な事になるはずだが。

この辺のくだりは上でも言ったが甲陽軍鑑にしか出てこない。
その甲陽軍鑑ですら、山県らが峰伝いに登っているのを北条軍がはっきりと見ている描写がなんと存在する。
しかし、北条軍が舐めてかかっていたため(笑)撤退中なのだと放置したと言っている。
なんともはや考えられない非常識な状況だが、それでも北条軍が油断したからこそ
ありえる状況だと言う事を記載しているあたり、軍鑑はやはり他の講談より設定は重視しているのかも、とも言える

まぁどっちにしろこの状況でその見えた相手が信玄の本軍そのものだったら後ろに回られるまで放置とか
確実にありえない・・・っていうか山県ら5000でも普通ありえない。
講談ならではの活劇と言う感じで場面はカッコよさげなので、小説の作者として実力あるなとは思うが。
139人間七七四年:2008/05/05(月) 06:01:36 ID:LlocksCD
自分に都合が悪くなるとなんでも講談だから〜か
いいかげん飽きた
140人間七七四年:2008/05/05(月) 10:26:43 ID:W/L+d3jn
>>138
当時の本人の書状をもとに考察するなら前半は意気揚々と書いてるけど
後半武田勢が押しなだれてきた、という所には口をつぐんでいて、武田が勝利を
主張していて、そもそも氏照の書状は上杉に虚勢を張った書状だという事実が残るだけなんだが。

荷駄隊については内藤がよい小荷駄をえりすぐって進撃させている事が軍鑑にある。小荷駄の進撃が苦しくなった傍証にはなるだろう。
というかそちらは小荷駄の事は主張するが、宗の者の事は主張しないのか。
そちらは後半に浅利達が突貫して死んだと主張してるくせに、後半の氏照がその事には一切触れないどころか
口をつぐみ、さらには前半の記述で宗の者を討ち取ったと主張しているのが矛盾しているだろうが。

だから、その部分に関しては悪いが無理があると述べているだろう。>>133の時点ですでに。
まず浅利の部隊だけが突貫したなんていう根拠は一切ない。軍鑑でも5代記でも浅利だけが突貫したなんて
記述は一切ないぞ。武田側の編成って何を元にしている。
そちらの主張どおり浅利の部隊だけ突貫させて本隊が逃げたというなら山の上に陣を敷いている場合じゃないだろうと
言っている。むしろ本陣が山に座し他の部隊が攻勢に出ていると考えれば普通の戦闘行動としておかしくない。
まずはこれに答えてみてくれ。

山県の背面迂回がルート上は無理でない事は後半に記した。韮尾根から三増峠の後方に回り込めば可能だ。
位置的に不自然とかいう問題ではなく、北条側に伝承されていた三増峠のあらましがそうだっただけの事だろう。
俺は北条勢が後方から追跡してきたのを武田が追っ払ったという考えなのでね。

氏照が半原に逃げたという点で敵味方の記述が一致している所は興味深い符合だと思うがね。
そっちは戦場も状況も違うといいながらこの点だけは符合しているのが参考にしてるだけとかおかしいだろう。
山県らの攻勢は軍鑑の背面迂回ルートならともかく、氏照の書状には武田が押しなだれてきたとあるのだから
北条記・北条5代記には一致している。これは無視できまい。

三増峠近辺は山や隆起がいくつも存在している地点だ。ここを敵を警戒しながら進んでいけば自然に
上り下りを繰り返す事になるはずだが。そして敵を察知して敵との戦闘を決意し手ごろな山に陣を構えるというのも。

軍鑑では山県勢の機動を見て逃げようと勘違いしていた北条勢は前面の武田勢に向かって攻勢に出るはずだが。
綱成も小田原に向けて好機だと急使を走らせるはずだが。
油断ではなく、前面の武田勢本隊への攻撃を優先しただけという感じだが。
いっとくが韮尾根から三増峠に回りこむまでは途中に介在する山がカモフラージュの役目を果たす。
途中までは見えたかもだが韮尾根に達した時点で氏照勢には山県勢の動きは見えなくなるはずだが。
そこから山際を回りこんで機動すれば三増峠の後背に余裕で到達できるが。

何度もいうがそっちの言うとおり志田峠に武田本隊が進んだという根拠は一切ない。
浅利のような宗の者が終盤に討ち取られたという根拠も一切ない。
そっちの言うとおり浅利だけ突貫させて本隊が逃げたなら山に陣を敷いている場合じゃない。
そっちの言うとおり前半が先発隊だけ進ませた小規模な戦いなら小荷駄が崩されたり宗の者が死んだりするのは
おかしい。
>>133からのこれらの疑問にまずは答えてもらえないか?
141人間七七四年:2008/05/06(火) 17:12:41 ID:lPsL6A73
>>140の者だが、GW明けは予定が立て込むので次にレスが出来るのは
相当後だと思われる。返レスあったら書いといて。
142人間七七四年:2008/05/06(火) 23:42:39 ID:fYHMed+l
>>140
>>書状について
押しなだれてきたというのは武田軍が攻めてきたという事以上の何物をも示していない。
この氏照の書状が上杉家に対するものである以上、場面の違う先衆同士の戦いで勝利を主張するまでは良いが
その後の結果を語る部分でまで勝利を主張してしまった場合、兵を出さなかった上杉家を容認してしまうことになる。
そして信玄に逃げられてしまったという事に対しても、その事において北条家には落ち度がなく、
上杉家が兵を出さなかったためということにしなければ氏照の外交官としての責務は果たせない。
ただ書状に関する考え方はそこがスタートでいい。
信玄の書状がその中で信憑性に著しくかけるほどに矛盾があるゆえ除外されるというだけで、
講談はあくまで参考資料の域を出ない。

>>宗の者の事は主張しないのか。
これだけでは特定のしようがないゆえ、そのままでは言葉以上の意味はなく無理にこじつけるつもりもない。
浦野氏など、この合戦で死んでいる人物は浅利信種だけというわけでもないわけだし。

>>だから、その部分に関しては悪いが無理があると述べているだろう。>>133の時点ですでに。
>>まず浅利の部隊だけが突貫したなんていう根拠は一切ない。軍鑑でも5代記でも浅利だけが突貫したなんて
>>記述は一切ないぞ。武田側の編成って何を元にしている。
誤解があるようだが浅利隊だけが突撃したとは思っていないし、一言も言っていない。
過去レスを見たがあなたの>>118で初めて「浅利隊だけ」と言いはじめ、以後そのまま話を続けているようだが、
あくまで書状における「押しなだれてきた」という攻撃部隊の中で殿軍を務めて、戦死したのだろうというだけ。

編成については甲陽軍鑑になるが
山県・小幡らが志田峠へ、馬場・勝頼・浅利らが攻撃に参加。
残る部隊は山上へ布陣という流れになっている。だから

>>むしろ本陣が山に座し他の部隊が攻勢に出ていると考えれば普通の戦闘行動としておかしくない。
これに対して否定する意味もなければ問題もない。
その攻勢に出た部隊の一人が浅利隊であり、その時に戦死したのだろうということ。

>>北条記・北条5代記には一致している。これは無視できまい。
この講談は氏康世代の賛美が強すぎて全く参考にならない。
例えばこの合戦で言えばまず日数からして大きく誤記がある。
信玄が甲斐を出てから4〜5日でこの三増峠合戦までの話につなげているが、
その前に信玄は滝山や鉢形を攻めているのでこんなに短いはずはない。
しかし作者にとっては氏康が三増峠に遅れた理由をもっともらしくすることの方が重要であって氏照らの活躍などまるで眼中にないのだ。

そもそも汁かけの話やら麦の話やら悪意に満ちてる講談なので、参考にすらしにくい。北条贔屓といってもそれは氏康の活躍まで。
それこそ氏照自身が書状で勝利を主張している部分は完全無視しているのに
氏康に関しては武田軍を1000人討ち取ったなどといっている、
追撃できるなら本戦に遅れるなよ!と突っ込みたくなる。
まぁ甲陽軍鑑でも跡部らの評価は酷いし、氏政や勝頼の世代は直接、徳川家康に関係のある世代ゆえに
時代背景柄仕方ないことではあるのだが。ここは今回一番わかってもらわなくては困る部分。

>>三増峠近辺は山や隆起がいくつも存在している地点だ。ここを敵を警戒しながら進んでいけば自然に
>>上り下りを繰り返す事になるはずだが。そして敵を察知して敵との戦闘を決意し手ごろな山に陣を構えるというのも。
別にそれで良い、その手ごろな山に陣を張ったというのが
書状にも講談にも記されている時点で十分すぎる。

@先衆やら荷駄隊やらを倒したらしい。
A山上に陣を張ったらしい        
B攻撃隊の中にいた浅利信種が戦死したらしい

書状では@、Aの順番でBははっきりしないが
講談ではA、Bの順番になっているので矛盾しない。

>>何度もいうがそっちの言うとおり志田峠に武田本隊が進んだという根拠は一切ない。
山の上に陣を張ったのであれば津久井筋に逃げるなり志田峠を抜けるなり
いくらでも撤退できる一つの例以外のものではない。
143人間七七四年:2008/05/11(日) 12:43:03 ID:yLgUbRl/
>>142
上杉家を容認する事になんか全然ならんと思うが。
そんなに上杉家を非難したいなら小田原焼かれた事をしっかり書けばいい。
本拠を焼かれるなんて北条にしてみれば上杉のせいにするには格好の材料だ。
後の部分でも「勝ったなら」意気揚々と勝利を述べて主張して後一歩だったのに
信玄を取り逃がしてしまった、お前が助けなかったからだ。といえばいいだけの話。
後半のあんたいわく浅利だけ突貫したのを撃破した部分の詳細を書かない理由にはならない。
信玄も北条も戦果を誇張している。ただそれだけの話。双方が勝利を主張しているのは
双方が勝利を主張できる下地があったと見るのが自然。北条が後半で口をつぐんでいるならなおさら。

宗の者を討ち取ったという大きな戦果を書状前半、しかもあんたいわく小競り合いでは
意気揚々と書きながら後半のあんたいわく浅利を討ち取ったところでは一切書かないのが
おかしいといっているんだよ。

あんたは確かに突貫してきたのは浅利だけといっている。
>>113のレスをあげてみれば
>>そこで書状では武田軍の兵がこちらへ押しなだれてきたとある、これこそが殿軍の浅利信種隊であろう。
>>その後の合戦の経過はわからないが、浅利信種は戦死し、武田隊は甲斐へ撤退した。
こういっているのにいきなりこちらに責任を押し付けるような言い方はずるい。
攻撃部隊の中で殿なんて言い方もあなたは>>113では一切使っていない。
>>117でもそうだ。あんたは氏照勢に対し浅利は殿軍としてそのまま進軍とはっきり言っている。
他の部隊の事なんか一切触れてなかったのに今になっていきなり主張を変えるのはひどい。

氏康賛美があるからこそ、この戦いではわざわざ史実にすらない追撃して千余り討ち取りを主張した。
そして氏照達の活躍を書かないならその被害を過小化したり、敗走したことを仕方がなかったと
書く理由なんかない。この北条記でも氏照達がちゃんと前哨戦では浅利を討ち取っている事を記し
北条勢として活躍した事を述べているのに、参考にすらしないとか一方的に切って捨てる姿勢には
賛同できない。

だから、もともと移動を繰り返している時点で山を移動し続ける事になる。
だったらその二つの場面において違う山にいてもおかしくないというか自然だ。

いきなり攻撃隊の中に浅利がいて死んだ事にしないでほしい。
上であげたがあんたは最初に浅利だけ進軍したという風に言っている。
そして浅利が時間を稼いでいる間に本隊は逃げたと。
それなのになんなんだこの書き方は。
どっちにしろ浅利が武田逆襲の時に死んでいるなんていうのは軍記でも書状ですら
確認できないんだよ。書状で宗の者を討ち取ったといっているのは何度もいうが前半だ。

だからその理屈ではこの戦いが三増峠の戦いだという事自体が覆るといっている。
武田も北条側もこの戦いが三増峠で行われたという点では一致しているというのに。
後、>>140の行末の他の3つの質問には答えてもらっていないよ。まずそこに答えてもらいたい。

一週間後にまた来るからよろしく。
144人間七七四年:2008/05/11(日) 12:49:23 ID:yLgUbRl/
>>143に追記しておく。
>>142ではあなたがスルーしている武田勢本隊が志田峠に移動したなら
三増峠にて武田軍の前方に位置する北条勢の後背に回りこめる、
これをやられたら北条勢が悲惨な事になるという事実をどう思っているのか。
これにも答えてほしい。
145人間七七四年:2008/05/11(日) 21:11:06 ID:+l4dIlSE
>>144
目の前の本体が山に向かっていったら追いかけるんじゃね?
146人間七七四年:2008/05/12(月) 02:31:30 ID:AGUZR+pX
>>143
>>そんなに上杉家を非難したいなら小田原焼かれた事をしっかり書けばいい。

この書状は滝山で篭城していた氏照の書状であって
小田原の状況はまだはっきりとはわからない。

>>意気揚々と勝利を述べて主張して後一歩だったのに
>>信玄を取り逃がしてしまった、お前が助けなかったからだ。といえばいいだけの話。

言ってるじゃないか、書状でそうはっきりと。

さて浅利隊だけが突貫したと勘違いさせたのであれば訂正する。
ただ論点がずれるのは嫌なのと甲陽軍鑑の引用が多いので馬場らの話をわざわざしたくないと言うのはある。
誤解をさせたのであれば改めて言う、浅利隊だけがと主張したつもりもないし主張する意味もない。

>>どっちにしろ浅利が武田逆襲の時に死んでいるなんていうのは軍記でも書状ですら
>>確認できないんだよ。書状で宗の者を討ち取ったといっているのは何度もいうが前半だ。

書状では浅利の事自体が記載されていないので当たり前、もちろん宗の者というのが浅利だとする論拠もない。
五代記では浅利の事自体記載が微妙。北条記は突っ込みどころが多すぎて参考にしようがないが
武田に逆襲される前の項で浅利らの項が出ると言う流れは同じだ・・・・が
北条家が襲った事になっていてこれは書状と大きく矛盾する。ルートも矛盾する
時間も矛盾する。位置も適当。はっきり言って北条記は矛盾が多すぎて考察に値しない。

甲陽軍鑑では馬場や勝頼が攻撃するのと同じ場面で浅利が討たれる描写があって
その前日に馬場らと浅利らが同じ部隊である事が示されている。
書状でももちろんそれと矛盾する記述などない、むしろその宗の者が浅利であるとする論拠こそない。

そこをふまえて>>140 行末三行に関して言えば
・浅利がいつ死んだかなど最初からわからない。だが前日に死んでいるとすると矛盾する場面はある。
・浅利だけ突貫したなどとは考えていないので、誤解させたのであれば謝罪する。
・宗の者と言う言葉が具体的に浅利を示す論拠を教えてほしい。

>>だから、もともと移動を繰り返している時点で山を移動し続ける事になる。
>>だったらその二つの場面において違う山にいてもおかしくないというか自然だ。

その山に陣を張ったというのが
書状にも講談にも記されている時点で十分すぎる。 違う場面であるとする根拠がない。
「山に陣を張った後に攻撃部隊が北条軍へと攻撃」という流れが全く同じである以上分けて考える理由がない。

@先衆やら荷駄隊やらを倒したらしい。
A山上に陣を張ったらしい        
B攻撃隊の中にいた浅利信種が戦死したらしい

書状では@、Aの順番でBははっきりしないが
講談ではA、Bの順番になっているので矛盾しない。

また甲陽軍鑑で山県らが志田峠に向かうのを氏照が見て「逃げている」と勘違いした理由に
それまで弱い相手と戦っていたからだと言うようなくだりがある。これは@を示しているとも言える。
少なくとも本戦前に北条家が優勢に合戦していたらしき事があって、
その時点では当然、浅利は亡くなっていない事が示されているということ。
147人間七七四年:2008/05/17(土) 15:55:02 ID:Wp8HnyZQ
>>146
まずひとつずつ行こうか。
氏照達が氏康達との挟撃を狙っていたのなら当然小田原方面における情報は
持っていたはずだし、武田軍の帰還コースを知って追跡している事からも
小田原方面での行動をまるで知らない事はまずありえない。

二つ目の段だが、あなたは意図的にニュアンスを混同させようとしているのだろうか?と
疑わざるを得ない。あなたは書状後半で北条側が戦果を一切書かずに口をつぐんで
いる事に関して上杉を非難するためといっている。それに対しこちらは勝ったなら戦果をしっかり書いて
その上で後一歩だったのに信玄を逃がしてしまった、お前のせいだと書けばいいと書いた。
勝ったならちゃんと戦果を書いてこそ後一歩だった事をしっかり伝えられるのにそれで口をつぐんでいる事の
不自然さがここで浮き彫りになる。実際前半ではしっかり戦果を意気揚々と書いているのだから。

こちらも論点がずれるのは好みではない。というか私がこの浅利についてあなたの解釈に過去レスを引用してまで
述べているのはあなたの主張が変質しているように思えてならないからだ。
あなたと随分ここで議論をしてきたがあなたは明らかにこれまでは浅利隊の行動を本隊を逃がす為の時間稼ぎ、殿とし
攻撃隊という表現をしていない。過去レスをあげてみようか。
>>後は前レスと同様。小田原本軍を待つ氏照軍に対し浅利隊が殿軍として進軍
>>浅利信種はここで戦死、しかし時間は稼げたのであろう、武田軍はそのまま撤退
これが>>117のレスだ。
>>押しなだれてきたのは浅利の殿軍であろう。
>>そして武田軍は志田峠方面に撤退したが浅利は討ち取られて死亡
これが>>128のレス。両方とも明らかに浅利を殿のための捨て駒のようにあなたが表現している事がわかる。
これが変質するのは>>133でこちらが
>>本陣が司令部として山に座し、残りの部隊が攻勢に転じるのは戦闘の形として普通の事だろう。
>>つーかそっちの主張してる浅利だけ突出して武田軍撤退なら山に陣をしいてる場合じゃないだろう。
>>浅利突出させてさっさと逃げないといけない。陣を構えている時点でそっちの主張とずれが生じている
と述べた後だ。その後の>>135のレスであなたはこの問題を一回スルーしてる。
そして>>140においてこちらが武田軍が志田峠から三増峠の後背につける事を説明し
本陣が山の上に座し攻撃してるなら普通の戦闘行動としておかしくない、これに答えてくれとたずねた後で
>>142においていきなり攻撃隊という言葉が出てきて、攻撃隊の中での殿軍という非常に奇妙な言葉を使っている。
これはどうみてもあなたのレスが変質してるようにしか思えない。
こちらがあなたのレスを今のところまで見て非常に奇妙に思うのは、>>146のレスぶりから見ると浅利だけでなく馬場とかもいると
考えているみたいだが、そういった武田軍のかなりの部隊が北条軍を前面から圧迫し、武田本軍が志田峠を抜けていき
三増峠の後方につけてしまえば文字通り北条は殲滅されるとしか思えない状況なのだが。
さらに本陣が山に座して攻撃隊だしているというのと、部隊をぶつけてその間に本隊が志田峠を抜けて逃げるというのは
矛盾してるし、志田峠からわざわざ後背につける好機を逃すのも不自然。
正直あなたの主張してる情景が矛盾しててうまく想像できないのだが。
まずこれらの矛盾に答えてほしい。
(続く)
148人間七七四年:2008/05/17(土) 15:56:24 ID:Wp8HnyZQ
>>147続き)
前半に宗の者を倒したという表現があり、後半にそういった表現がなく、そして武田の宗の者が死んでいるなら
順当に考えれば前半に死んだとなるはずだろう。
いきなり考察に値せずとされてもこまるのだが。北条が後方から襲いかかる流れが不自然だとなぜいえる。
君もそこまで軍鑑信者というわけでもあるまい。書状では前半で普通に北条先衆が襲いかかり、さらには宗の者を討ち取ったと
言っているのだから全然矛盾しない。北条が一切口をつぐんでいる後半部分に無理やり当てはめようとするから
矛盾になるだけ。浅利が後半に死んだという根拠自体が一切書状にはない。
前半にしっかり宗の者を討ち取ったといっているのだから素直にそれを見ればいいだけだろう。
書状でそれと矛盾する記述が一切ないというが、書状には武田軍の編成について一切述べていないではないか。
肯定する根拠が一切ないよ。むしろ何故前半に宗の者を討ち取ったとしっかり言っているのに
後半に一切記述がないのに浅利が死んだ事にするのかね。講談でも書状でも一切ないよそんなの。

全然十分ではないよ。あなたは自分に都合が悪いと講談にも書状にもなくても浅利が後半に死んだとするくせに
その言い方は不可思議で仕方ないよ。だから日付が異なっていて武田軍が移動を続けている記述があるのだから
必然的に山と山を移動する事になるだけではないか。
先衆と戦うのと山の上からの攻撃は一日後だという事を考えれば移動してると考えるのが自然。
そして三増峠はあちこちに山や隆起が存在してる地点だとも述べた。ここを戦いながら移動すれば必然的に
上り下りを繰り返す事になる。無理やり混同させようというのが無理ありすぎる。

全然@を示してはいないよ。その事に一切触れていないんだから。
軍鑑ではそんな事をいってないでしょ。無理に切り離そうとするから無理がでる。
前半でしっかり宗の者が死んでいて後半に死んだ根拠が一切ないのなら状況証拠として
浅利の死は前半で十分だろう。

とりあえず>>147にあげたあなたの論旨の矛盾点の説明を求めたい。
149人間七七四年:2008/05/18(日) 02:15:03 ID:lGATO3ch
>>148
>>小田原方面での行動をまるで知らない事はまずありえない。

「小田原の状況はまだはっきりとはわからない。 」
としか書いていない、まるで知らないなどとは一言も言ってない。
あなたが「書状に小田原の事を書いていないのはおかしい」と言うからその反論として
少なくとも自分で見ていない事を書状に書いていないのは何も不思議ではないと言っている。

結局、浅利だけが云々の部分も今回のようにその場で訂正しなかったから誤解が生まれただけのように思う。
上記の事も訂正せずに適当に「とりあえず当事者じゃないんだから書状に書かなくても不思議はない」
だけで済ませていたとしたら、あなたは俺が「氏照は小田原の事を”全く”知らないもの」と認識していると
誤解を続けて議論を進める事になる。
2chのレスでこちらの言いたい事が全て伝わるわけもない。
主張する事以外でいい加減長文が拡がるのは本意じゃないのでここらで一回話を整理したいんだが。

とりあえず
俺も言いたいことは多いがあえてここは一つの主張に絞る
わかっているだろうが、書状における時間経過についてのみだ。
あなたもとりあえずどの部分が主張したいのか一つに絞ってもらえないだろうか?
そうでないと上記のような誤解が誤解を生んでいくだけで全く議論の意味がない。
150人間七七四年:2008/05/18(日) 02:21:15 ID:lGATO3ch
ぶしつけな要望なのはわかっている。だが

>>あなたのレスが変質してるようにしか思えない。

これは俺もあなたに何度も感じてしまった事だ、
パッと見てもとりあえずレス100番台辺りのレスからは相当変わってしまっている
・・・がこれはお互いに誤解が存在するからそうなのだろう。

だからこそ一度整理していかないと意味のない長文が続くだけになると思っての提案。
とりあえず返答が欲しい。受け入れていただけないのであれば改めてレスを返す。
151人間七七四年:2008/05/18(日) 11:41:46 ID:1GU3XSct
>>149>>150
レスをどうもありがとう。
こちらも整理したほうがいいという考えに賛同はできる。
ただそちらのいう書状の時間経過やこちらが一つの主張に絞るとは
どういう感じでレスをする事になるんだろうか?
一応こちらは一つの主張に絞って進めてきたつもりなんだが。
こちらの考えは基本的に後方から追跡してきた北条勢に対し武田が逆襲して追っ払った小勝or中勝の
認識。あなたが主張している前面に北条勢が展開し、浅利隊だか馬場隊だかをぶつけて
その間に本軍が志田峠から逃げるという案だと逆に武田本軍が北条勢の後方に回りこめてしまうため
大勝になってしまうはずではないか、といったような事を主張している。他にもいろいろあるが。
多分誤解したというのはここら辺だろう。

とりあえずそちらのいうお互いが一つの主張に絞った議論というのがどんな形式になるのかわからない。
相互混乱してしまわないだろうか。他の主張はどうなってしまうのだろうか。
どんな感じになるのかとりあえず示してもらいたい。
一週間後にまた来ると思うのでそちらの示したやり方を見てから検討したい。
152人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 05:18:37 ID:hvTWL+0K
俺、三増の住人だけど畑仕事なんかしてるといまだに骨出てくるよ・・・・。土質のせいか四百年経っても溶けないんだよね・・・・。ホントに参る。
153人間七七四年:2008/06/09(月) 18:48:24 ID:6NzDVzX/
武具は出てこないのか?
154人間七七四年:2008/06/10(火) 09:42:27 ID:7BobjJB/
鎧ってあまり出ないみたいだよ。
たいていが戦場荒らしに盗られているw
155人間七七四年:2008/06/10(火) 21:56:36 ID:rpK22Ls4
この合戦以外でも基本的に北条・武田との国境ラインだから戦の堪えない場所だったろうしね。
156三増峠ってどお? :2008/07/09(水) 13:10:49 ID:K8qkUsoa
お久しぶりです。第二幕の「第一次駿河侵攻」が仲々完成できないので取りあえず3つに分けようと思います。
第二幕第一場「第一次薩垂峠の戦い」→これだけ掲載。
第二幕第二場「第二次薩垂峠の戦い」→以降は、次回へ。
第二幕第三場「駿河・伊豆侵攻」
「三増峠の戦い」第二幕「第一次駿河侵攻」
(永禄十一年(1568)12月6日から永禄十二年(1569)4月24日まで)
1.リード
(1).第一次薩垂峠の戦い。
信玄の目的…駿遠支配⇒失敗。
信玄の目標…氏真(の身体確保orクビ)⇒失敗。
信玄の重心…今川家臣・被官(の忠誠心)⇒成功・失敗半々。
(2).第二次薩垂峠の戦い(興津川の対陣)。
信玄の目的…駿河支配⇒失敗。
信玄の目標…北条軍を駿河から駆逐⇒失敗。
信玄の重心…北条・今川同盟の打破⇒家康もこれに加わったため大失敗。
結論。第一次駿河侵攻で
得をしたのは…○北条・家康。
損をしたのは…●氏真・信玄。
結果
北条は信玄が(軍事)占領した以外の駿河(の形式的な支配権)を獲得。
家康は、遠江の大半を獲得。氏真は国土を失い、信玄は静岡市一帯・北遠江を獲得。
2.本文
(1).第一次薩垂山の戦い(永禄十一年(1568)12月12日)。○信玄vs.●氏真。
@直前までの両軍の動き。
信玄率いる武田軍は、12月6日甲府を出発し、富士川沿いの駿州往還道を南下して駿河に侵入、
一部の兵は富士信忠・信通父子が拠る大宮城(富士宮市)を攻め(12月9日、第一次富士城攻防戦。武田軍敗退)、
主力軍は北松野(富士川町)から現、県道76号線を通って、薩垂峠・八幡平に陣する今川軍(後述します)を右手に見つつ、
同月12日、東海道の宿場町由比に達した。

対する氏真は、15000を率いて駿府の今川館を出発し、
庵原安房守率いる1500は薩垂峠に、
岡部忠兵衛(のちの武田水軍の大将となる土屋貞綱)・小倉勝久(掛川開城後、家康に仕える)を、その北の八幡平に、氏真自身は興津の清見寺に本陣を置き、主力軍を薩垂峠と清見寺の間に配置した。
A氏真の戦略。
武田軍が東海道(由比〜興津)を行軍中、縦長の陣形になった所を…
氏真本隊が、興津にて武田軍先陣を拘束、
薩垂山(由比〜興津の間にある山)の庵原隊が、武田軍中央を攻撃して分断し、
八幡平の岡部・小倉隊が、武田軍の後方(つまり駿河往還)を襲って連絡路を発ち信玄を駿河に封じ込める
(さらに北条の援軍を要請し、謙信には甲信を突いてもらう)という、壮大かつ積極的なものだったと思われる。
B経過
しかし信玄は、北条軍が到着する前に事を済まそうと、今川一門の瀬名信輝、駿河衆の重臣で庵原城主朝比奈信置、
同じく駿東郡の領主葛山氏元、信玄の弟で氏真に仕えていた武田信友(信虎の十一男。駿河で誕生)などをあらかじめ内応させていた。
彼らは武田軍が薩垂山に近づいた12日、手はず通りに(清水と静岡の間にある)瀬名へ退いてしまったのである。

この「裏崩れ」のため氏真は作戦を変更し、本格的な戦闘を交えずに残兵を率いて今川館へ帰陣するが、
信玄が前もって今川館の詰城である賎機山(しずはたやま、浅間山とも言う。静岡市街北方にある山)城を攻め落していたらしく、
13日未明、駿河を捨てて15日遠江掛川城に逃げ込んだ。この時よほど慌てていたのか、氏真室(氏康娘)が腰を使えずに、はだしで夫に付き従った。
13日正午、駿府に入った武田軍は、氏真をいぶりだすために今川館に火をかけた。
将軍家から拝領した先祖伝来の家宝、蓄えた金銀財宝や兵糧、今川領統治に必要な公文書の一部が、全て燃えた。
火は瞬く間に駿府市街に広がり、とみに応仁の乱以降、
一流の文化人(連歌師宗長)・公家(歌道や有職故実の大家、冷泉為和・為益父子は今川家の食客になっていた)・商人が盛んに往来して、山口の大内文化・一乗谷の朝倉文化と並び称されるほど大繁栄し、栄華を誇った「今川の首府」は灰燼に帰した。
(駿府は江戸時代前期になるまで完全に再興できなかったらしい。)

捕捉説明
なぜ氏真は掛川城に逃げたのか?理由は3つ。
1.あらかじめ氏真が、掛川城に兵糧・鉄砲・玉薬・矢などを3〜5年分蓄えるよう命じていた。
2.掛川城主朝比奈氏は代々遠江衆の重臣であり、かつ現城主泰朝の父泰能の正妻は中御門宣秀娘で、寿桂尼の姪。義元の従姉妹に当たる人物であった。(ひょっとしたら、泰朝の母は中御門氏?)
3.泰能は、かつて大原崇斎とともに三河支配を任せられるほど義元から信頼されており、かつ泰朝は永禄六年(1563)の遠州惣劇でも一貫して氏真に味方していた。
次回「第二次薩垂峠の戦い」へ続く。
157三増峠ってどお?:2008/07/09(水) 13:32:48 ID:K8qkUsoa
>>38さんへ。決して田舎大名の戦いではありません。理由1つ。
外交
薩垂山の戦線の膠着化(興津川の対陣)は、劇的に武田・北条両者の外交活動を活発化させた。
両者は、近隣の戦国大名達を味方に引き入れよう試みた結果、
西は将軍義昭から東は伊達輝宗まで巻き込まれた。
(ここまで大規模な外交戦は、秀吉の天下統一戦、関ヶ原、大坂の陣くらい)
彼らは、両者と遣り取りしつつ薩垂山の戦況をかたずを呑んで見守っていた。(だから書状がたくさんある。)三増峠もこの戦役の継続性であるから決して田舎大名の戦いではありません。

具体的には
(1).信玄は反北条の関東諸将、簗田・里見・太田三楽斎父子・佐竹・茂木などに(北条の)背後を突いてくれと頼みつつ、
信長・義昭に甲越和与を持ちかけ、
家康には掛川城を攻略して欲しい。と催促する。

(2).北条は、永禄八〜九年の義昭による甲相越三国和与を了承する形式で(だから細川藤孝に越相和与の報告をしている)、
実交渉では氏真が開拓した駿越交渉ルートを使って、信玄の背後を突いて欲しいと謙信に頼み、
かつ佐竹を牽制するため伊達と組む。しかし里見との和睦交渉は失敗。

ついでに
(3).謙信は、北条との和睦交渉の話を進めつつ、将軍家・信長の申し入れ(甲越和与)を受けるか否か迷っていた。かつ本庄繁長の処遇を巡って、葦名・伊達の東北二大大名と意見交換。
158人間七七四年:2008/07/09(水) 19:06:10 ID:h4o5mBMU
>>ここまで大規模な外交戦は、秀吉の天下統一戦、関ヶ原、大坂の陣くらい

そうでもないよ。
例えば長尾景虎の関東出陣は芦品、関東全体、武田、本願寺、越中、幕府を動かしている。

でも今川の壮大な外交戦略は確かにすごいね。
159人間七七四年:2008/07/09(水) 23:43:07 ID:N7Gd+u3R
武田もすごい。
それまで北条と同盟者だったのに関東の反北条勢力を糾合し
徳川・織田・足利まで動かして戦略を構築している。
160三増峠ってどお?:2008/07/17(木) 17:14:30 ID:/+u/Q/1g
>>158-159さんへ。長文で読みずらいのに、レスありがとうございます。
>>158さんへ。
@景虎の第二次越山(永禄三年〜四年)は、準備に約10年費やしてますよね。
書き忘れたけど…、謙信は三木もしくは姉小路とも書状の遣り取りをしていたらしく、
「最近、越中金山が不審の動きをしている」と注進してるいるよ。
永禄十二年2月27日付 三木良頼・姉小路自綱父子→謙信宛書状「上杉家文書」より
Aあと、北条は江戸氏を動かして、義重の不審な動きの真意を探っています。

>>159さんへ。
簗田を通して足利藤政を鎌倉に帰還させるという名目で、反北条を糾合させたらしいね。

「第二次薩垂峠の戦い」もしくは、三増峠関連の書状をとことん解読するまで、楽しみにしててくださいね。恐々謹言
161人間七七四年:2008/07/18(金) 00:19:16 ID:ARhJNfx0
>>160
長文でも面白ければ大歓迎です。
あなたの書くことはいつもためになります。
三増峠を軸にした北条やその周辺の動きは
今個人的に興味がある課題のひとつなので楽しいです。
162人間七七四年:2008/07/19(土) 18:11:57 ID:RGIwAcDK
中央の軍事介入の証明がない為、“田舎大名の戦いである”の反論になってない

>外交
蛇足を中略
>彼らは、両者と遣り取りしつつ薩垂山の戦況をかたずを呑んで見守っていた。
要約すると、そろばん弾きながら田舎大名の戦いを見守った

>具体的には
>(1).信玄は反北条の関東諸将、簗田・里見・太田三楽斎父子・佐竹・茂木などに(北条の)背後を突いてくれと頼みつつ、
田舎大名が田舎大名に頼み
>信長・義昭に甲越和与を持ちかけ、
>家康には掛川城を攻略して欲しい。と催促する。
田舎大名が政権中枢に調停を持ち掛け、田舎大名を煽っただけ

>(2).北条は、永禄八〜九年の義昭による甲相越三国和与を了承する形式で(だから細川藤孝に越相和与の報告をしている)、
>実交渉では氏真が開拓した駿越交渉ルートを使って、信玄の背後を突いて欲しいと謙信に頼み、
>かつ佐竹を牽制するため伊達と組む。しかし里見との和睦交渉は失敗。
田舎大名が田舎大名と交渉

>(3).謙信は、北条との和睦交渉の話を進めつつ、将軍家・信長の申し入れ(甲越和与)を受けるか否か迷っていた。
田舎大名同士で争うのはおやめなさい
>かつ本庄繁長の処遇を巡って、葦名・伊達の東北二大大名と意見交換。
東北の田舎大名と意見交換

戦国時代の本質は田舎大名の私戦なんだから無理に反論することないのに
163人間七七四年:2008/07/19(土) 18:26:02 ID:t0hiK5uV
>>162
なんか無理に田舎大名田舎大名と言い過ぎでしょ。
信玄は中央に外交活動を行った結果、中央勢力もこれに対して干渉している。
そしてその規模からみればこれは非常に巨大な勢力間の錯綜が見られる舞台だ。
そもそも君は>>38で不毛な争いと言っていたがこれだけ巨大な場面で行われた戦いが
不毛であるはずがないだろう。お互いの勢力の存亡をかけた意義ある戦いだ。

>(3).謙信は、北条との和睦交渉の話を進めつつ、将軍家・信長の申し入れ(甲越和与)を受けるか否か迷っていた。
>田舎大名同士で争うのはおやめなさい
第一これ何?将軍家・信長の申し入れは信玄から働きかけた結果なんだけど。
無理に中央とやらを高く見過ぎだろ。

あと君の理屈でいうなら織田の京都侵攻までの戦いも西国の厳島や耳川の大戦も
その他ほぼすべての大名の戦いが不毛な戦いなわけ?
こういった各地方の戦いの影響が中央も含めた日本の戦国時代を形どった事を考えると
君の理屈は暴論だろう。
164人間七七四年:2008/07/19(土) 19:23:28 ID:t0hiK5uV
>>162
ID:RGIwAcDK
連休中は家を空けるからなんかあったら書いといて。
165人間七七四年:2008/07/19(土) 23:53:02 ID:TpCZ1vtu
室町幕府自体風前の灯になってる上に、
各地で中央をはるかに凌ぐ軍事力を持った大名が多数居るこの時代で京なんぞ本質的には飾りに過ぎない。

>>162が言ってる理屈は要するに戦国時代の公家と同じ、それも本当に京に居る公家じゃなくて
地方に逃げた公家崩れが地方で実力を持ってる大名に虚勢張ってるのと同じ。

実際は田舎大名などと言う言葉に定義はないので、
>>38のレスは「僕の理屈は正しいんだよバーカバーカ」って言ってるのと同じ、
こんなもん反論もクソも無いのにわざわざ史料つきで説明してくれてるんだから感謝すべき。
166三増峠ってどお?:2008/07/30(水) 09:59:27 ID:YIlUBULl
>>162さんへ。
返礼傷み入る。私は集めた資料の中から、面白く、かつ疑問をなるべく解答しようというスタンスで書いています。

外交は「間接的アプローチ」の一貫であるし、(byリデル・ハート)
かつ(外交は戦争の)一貫である事。(byクラウゼヴィッツ)という考え方なのですが…
あなたは違うのでしょうか?
私というか…、大抵の人はそうですよね?
それを否定したら、話が先に進まないよ。
というわけで、あなたが思う「外交」とは何か?述べてくださいね。

>>162さんへ。プレッシャー掛け過ぎです。でも期待を裏切らないようにしますよ。
>>165さんへ。フォロー、サンクス。(多分いつもの人?)
>>150-151さんへ。割り込み失礼つかまつる。調べて分かった事を箇条書きにします。

1.北条は、古河公方重臣豊前山城守が討死している。
氏康・氏政父子それぞれが豊前山城守の後室に宛てた書状があるから確実。
だから、氏照勢(豊前山城守などの栗橋衆)と浅利勢(浦野民部右(左)衛門尉などの箕輪衆)は、相当のダメージを負ったのでは?
永禄十二年12月5日付 氏康→豊前山城守後室宛書状。
永禄十二年12月21日付 豊前山城守後室宛北条家朱印状。
どちらも「神奈川県立文化資料館所蔵豊前氏古文書」
写真も載ってるよ。ココ見てね↓
神奈川県立文化資料館のHP。
http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/02/02/19/publication/xhuzo-guide/shuzo-guide2.html

2.みんながもめてる「新太郎・助五郎已下之兇徒二千余人」についての解釈だけど…
「已下=以下」について『新明解漢和辞典』で調べたら、昔は「それ(ここでは氏邦・氏規)を含まない数字」という意味もあった。
だから素直に訳せば「(氏邦・氏規本人を含まない)氏邦勢・氏規勢二千余人」となるのではないか?

以上、恐々謹言。
167三増峠ってどお?:2008/07/30(水) 10:03:36 ID:YIlUBULl
168三増峠ってどお?:2008/07/30(水) 15:23:20 ID:YIlUBULl
スミマセン。>>166の訂正その2。
×>>162さんへ。プレッシャー掛け過ぎです。でも期待を裏切らないようにしますよ。

>>161さんへ。プレッシャー掛け過ぎです。でも期待を裏切らないようにしますよ。
169人間七七四年:2008/07/31(木) 00:16:00 ID:ckUiN0O7
名スレの予感・・・
170人間七七四年:2008/08/01(金) 20:00:25 ID:mAypRZQ/
今は亡きメガ豚君が立てたスレ
171人間七七四年:2008/08/06(水) 12:42:04 ID:sWKo/48z
北条ヲタ涙目やなぁw
172人間七七四年:2008/08/09(土) 17:19:00 ID:21m/pCwi
氏康本人が現場(主戦場)に到着してからの合戦だったら
武田もかなり損害でたと思う。
173人間七七四年:2008/08/09(土) 17:26:50 ID:5jt9BYVK
北条氏康がもっと早く小田原から討って出てたら
家康よろしく粉砕されて糞漏らす間もなくそのままご臨終です
174人間七七四年:2008/08/12(火) 18:09:17 ID:ATqpXmfS
>>173
正解
175人間七七四年:2008/08/14(木) 08:36:50 ID:mUhsY0eA
挟撃されて武田は全滅だろうね
176人間七七四年:2008/08/14(木) 08:51:55 ID:RB0GX4pq
北条氏康は名将だが
野戦よりも篭城戦に強い印象がある。

「負けないイクサ」「ドローでOK」ってのは日本人ウケしないんだろうな。
177人間七七四年:2008/08/14(木) 12:44:50 ID:qLboyfkt
>>175
どうした?涙目だぞ?w
178人間七七四年:2008/09/16(火) 01:12:03 ID:++6d7P9n
保守。
179長尾忠景ってどお?:2008/09/17(水) 10:26:58 ID:78Aw6xBg
>>334さんへ。私は、定正の乱はやはり、山内側に鎮圧されたと思いますよ。

(1).山内家と扇谷家は「20万と100騎」(大森教訓状)あるいは「鵬(大きい鳥)と鸚(オウム)」(定正状)ぐらいの戦力差がある。
禅秀の乱に勝利した関東管領山内家は反乱者の土地を没収し、それを武蔵・上野・相模の国人達に分配して主従関係を結び、国人達を味方に付けた。

一方、扇谷家は「天運と道潅の器量によ」り、「関東の諸将が扇谷家に心を寄せるようになった。」のに「その道潅を自らの手で失ったのは、月日が地に落ちたに等しい行為である。」

(「 」内は、扇谷三将(道潅・大森・三浦時高)の1人である、大森寄栖庵氏頼が明応元年〜2年(1492〜1493)の2月に定正に宛てて書いた「大森教訓状」からの引用です。)

(2).かつ扇谷家は、山内家家宰白井長尾氏(武蔵・上野・相模に分散)よりも勢力が小さい。その景春が失敗したのだから、定正が武相上を征服するのは到底難しい。

(3).定正は故意に上野・越後に攻め入っていない。
これは定正が山内家の主戦力である越後勢の介入を恐れたためと思われる。
ということは、いくら定正が武蔵鉢形周辺で勝っても、敵の主戦力にダメージを与えない限り目的を達成するのは非常に難しい。これは戦略の常道ですよね?

(4).明応三年(1493)8月26日には大森寄栖庵氏頼、9月23日には三浦時高と次々と重臣を失い戦力ががた落ちしているのにも関わらず、
定正は、早雲・氏親の外部勢力と手を組んでまでして山内家と戦う。これは無謀ではなかろうか?
180長尾忠景ってどお?:2008/09/17(水) 10:53:00 ID:78Aw6xBg
みんなスマン!!
>>179は間違って書いてしまいました。一応、削除以来板に出しました。
>>161さんへ。
第二幕第二場の「第二次薩垂峠の戦い(興津川の対陣)」。永禄十二年(1569)1月26日〜4月24日。
は、8割完成しました。あとは、「年表の推敲」と「北条と里見の政治的(外交・戦争)関係」を調査するのみです。
遅くなってスミマセン。恐々謹言。
181人間七七四年:2008/09/17(水) 12:50:49 ID:zlrFvN6U
削除理由は削除ガイドラインから
削除人さんは消しゴムじゃありません
そんな理由で一々消せるとでも?

sengoku:戦国時代[レス削除]
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1150003335/112

112:長尾忠景ってどお? 08/09/17 10:40 HOST:KD125054189174.ppp-bb.dion.ne.jp<8080><3128><8000><1080> [@nifty.com]
削除対象アドレス: http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1194134285/179n-
削除理由・詳細・その他: スレッドを間違えて、レスを書いたため
182人間七七四年:2008/09/17(水) 13:54:58 ID:y6EN15lL
>>181
あんたなんでそんなにイライラしてるのw
183人間七七四年:2008/10/04(土) 15:08:32 ID:Cfn4FnJr
三増における両軍の相対的な位置関係がいまいち理解できない。

1.  凸

三増峠

北条 北条 北条
   
   VS
   
武田 武田 武田

〜〜中津川〜〜

  半原山  なのかそれとも、

2.  凸

  三増峠

武田 武田 武田
   
   VS

北条 北条 北条

〜〜中津川〜〜

  半原山  なのだろうか。

Wikiを読む限りでは開戦時の状況は1と理解していたんだけど、このスレを読み進めるに
つれ、2の布陣だったのかなと疑問に思った訳でありまして。
誰か戦況の推移と整合した両軍の布陣状況を教えてくれ。
184183:2008/10/04(土) 15:32:51 ID:Cfn4FnJr
書き忘れたけど甲陽軍艦の記述からだと
>>183の1の後に、

    凸

  三増峠

武田 武田 武田

〜〜中津川〜〜

   北条  
北条 半原山 北条 

と北条は部隊を峠に位置する陣屋?から一旦移動させ(武田と真正面から当たるのを避けた?)、その後>>183の2のように布陣し合戦に至ると読めるんだが、この認識も間違ってる? 
185183:2008/10/04(土) 17:30:02 ID:Cfn4FnJr
武田侵攻軍を挟撃するまたとないチャンスだったのに・・・

滝山から南下してきた氏照・氏邦勢が津久井城守備隊と連携を保って三増峠付近の山に
陣取れば、地形的には北条勢が大変有利であり、小田原本隊も追撃するとなれば、武田勢に
とっては前門の虎後門の狼であり、北条としては武田を包囲殲滅することも夢ではなかったの
ではないかと。

ところが、史実は武田を挟撃するどころか逆に、北条が手痛いしっぺ返しを食らってしまったと。
これは何故なのかと考えると、どうしても北条側の戦術的な機動がまずかったとしか考えられな
かった。(氏照・氏邦・綱成・関東衆がうまく連携出来ず、各個突撃してしまい逆襲にあったのかと)

そこまで考えて、さてそもそも三増合戦における両者の布陣はどうだったのか。
戦況の推移と両軍の各部隊行動はどうだったのか。
さらに遡って、合戦場に至る迄の各北条勢の進軍速度・経路はどうだったのか。
186人間七七四年:2008/10/04(土) 18:07:35 ID:W1PrXL7V
>>183から>>185
とりあえず当時の北条方の書状や軍記を見ると
これは一貫して氏照達が武田を後方から追跡した形になっている。

以下その点について簡略した概要
氏康書状
三増山まで武田を追っかけたけど一日の遅れで間に合わなかったよ!
氏照書状
武田は相模から津久井のほうに退散してったのでそこの切所で戦ったよ!
前半は敵の小荷駄とか宗の者とか倒したけど後半山の上にいた武田勢が押し雪崩れてきたよ!
北条5代記
小田原から引いた武田を追撃したら信玄が三増の所に人数おいてたので
知らずに突っ込んだ北条勢は反撃くらって追い払われちゃったよ!
北条記
小田原から引いた武田を追ってきたら三増峠を信玄が人数を置いて固めてて、
それを攻撃したら信玄が山の上に隠していた山県とか内藤が両側から不意に攻撃してきたので
敗走させられちゃったよ!

そして信玄の書状でも
小田原焼いて帰る途中で6、7千の北条勢が追跡してきたから三増峠で一戦して
追い払ったよ!

とあるから普通に帰国途中の武田を北条が追跡して起こった戦いだと思う。



187人間七七四年:2008/10/05(日) 00:45:58 ID:wlNJADyO
>>185
>武田勢にとっては前門の虎後門の狼であり ×
武田勢にとっては前門のヌコ後門の羊 ○
188人間七七四年:2008/10/05(日) 01:29:15 ID:F0qg8FfB
そこまで弱くないだろ
浅利とか死んでるし
189人間七七四年:2008/10/05(日) 01:34:04 ID:F0qg8FfB
包囲する側と包囲される側では包囲する側が有利なように思えるけど、
無線が実用化されるまでは伝令ではタイムラグがありすぎて部隊間の統率が取れず、
包囲されている内線側に各個撃破されることも多い
190人間七七四年:2008/10/05(日) 09:22:37 ID:B5PMKTsh
>>188
前線の指揮官が流れ弾で死ぬことなんてよくあることだろ
191人間七七四年:2008/10/05(日) 12:59:07 ID:gzUhbCUU
>>185
参考になるかも

81 名前: ◆dJMAP/7XmM [age] 投稿日:2006/12/08(金) 02:20:06 ID:oc1adxOh
三増峠の戦いです。最近、この付近の解像度が上がったので作ってみました。三増峠の戦いはわかっていないことが多いらしく、
個人的な妄想を含めて、つくりました。志田山塊と半原台地、中津川の織りなす渓谷など地形の高低を妄想としてお楽しみ下さい。
ttp://virtual.haru.gs/up/src/uho0934.kmz
1569年8月24日、信玄甲府を出発。北上して碓氷峠から上野に入る。
9月10日、鉢形城を包囲。軽く攻めた後に、牽制しつつ、松山、川越を経て滝山へ向かう。
9月20日、小山田勢が岩殿山城を出発。当時の街道筋(古甲州街道)であった上野原−浅間峠−檜原城−戸倉城のルートを通らず
9月26日に小仏峠から武蔵に侵入。廿里にて滝山勢を破る(廿里の戦い)。滝山城を攻撃。
9月27日、信玄本隊も滝山城に到着、攻撃する。
9月28日早朝、滝山城から撤退。横山−杉山峠−相原−みぞ−当麻−座間と進軍する。
9月29日、相模川を渡河。厚木、妻田、金田などに着陣する。
9月30日、前川、国府津、酒匂まで進軍する。
10月1日、小田原城包囲。信玄は東海道を西進して風祭に本陣を置く。
10月4日、兵糧の不足を考慮して小田原城から撤退。
10月6日、田村、大神に着陣。これを聞いた氏康は武田勢が三増峠越えで撤退すると予想。氏照、氏邦、綱成らを三増宿に布陣させ、
挟撃するために自身は氏政と共に小田原城を出陣。
10月7日、信玄、内藤昌豊を小荷駄奉行に任じ、小荷駄が戦闘に巻き込まれるのを防ぐため妻田−金田−中依知−箕輪−三増の道をとらす。
本隊は妻田から荻野へと進軍。本隊が三増峠越えではなく荻野−平山−田代−真名倉へと抜けると予想した北条勢は
三増から半原台地の上に陣を移す(打越峠−海底−志田峠の道が使われるようになるのは江戸時代中期以降である)。
平山坂を下り、中津川を渡河した武田勢は、田代城、細野城を落とすものの、台地の上に布陣する北条勢を避けて田代から桶尻へと登る。
信玄は、ます小幡重貞率いる1200を中峠越えで先発させ、長竹で津久井勢を牽制させる。続いて山県昌景率いる5000を中峠越えさせるが、
長竹には進軍させず韮尾根に遊軍として配置する。さらに諸将を3隊にわけ、志田峠、中峠、三増峠越えで甲斐に撤退するふりをして、志田山塊を登り始める。
これを見た北条勢は、武田勢には戦意がないと見て取り、半原から進軍、中津川を渡河して台地に登り武田勢を追撃にかかる。
予定通り武田勢は軍をかえして桶尻に布陣。戦闘に突入する。武田方の浅利信種が戦死するなど北条勢有利で戦闘は展開するが、
山県昌景が韮尾根から志田峠を越えて下志田へとまわり、北条勢を後背から衝くと北条勢はたちまち乱れ武田方の勝利に終わる。
このとき、志田沢、深堀沢、栗沢の沢筋が深くえぐれており、逃走がままならず多数の死者を出したとされる。
氏康親子は荻原まで出陣していたが、味方の敗報を聞くと小田原へと引き上げた。
武田勢は長竹、三ヶ木へと進軍。道志川を渡河して反畑で首実検をおこない死者を弔った。
192人間七七四年:2008/10/05(日) 13:15:51 ID:gzUhbCUU
>>191
Google Earthで古城・古戦場めぐりスレより
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152111314/81
193人間七七四年:2008/10/26(日) 01:49:59 ID:BeObvf/N
保守。
194人間七七四年:2008/11/04(火) 22:35:33 ID:9LIRBHYl
>>191-192
195三増峠ってどお?:2008/11/05(水) 11:07:08 ID:AOXlis5T
>>161さん&皆様へ。大変長らくお待たせしましたが、出来ました。
「第二次薩垂峠の戦い(興津川の対陣)」。
永禄十二年(1569)1月26日〜4月24日。○氏政vs.●信玄
北条の勝因3つ。
@早期に介入して信玄のお家芸である機動力を封じ、先制主導権を取らせなかった。
A連絡路を断って補給を脅かすと同時に謙信と組んだ事で、信玄を悩まし、将兵を不安に陥れた事。
B一方、北条軍は補給に悩まされなかった。
その理由は今川の援軍で来ている事、かつ太平洋(駿河湾)の制海権を握っていたから、掛川までも自由に移動できた。(信玄、水軍の重要性に痛感する。)

1.この戦いの珍しい特徴2つ。
(1).第三国(今川領)での長陣&外交戦。
当主同士が本拠を離れて第三者(今川)の領地内で約3カ月間対陣した(弘治元年(1555)7月〜閏10月の第二次川中島に匹敵する)非常にまれな戦いで、
地勢的要因により直接アプローチよりも互いの後方を撹乱する活発な外交戦が展開し(詳細は>>157)、書状の数が優に50点以上確認できる。

※地勢的要因とは? 
北条軍は薩垂山に陣地を築いて兵を配置した。確かに(平野の)興津にいる武田軍は見下ろせるのだが、
いざ決戦となると一旦、細い山道を下りて平地(興津、つまり敵の目の前)で再集結してからでないと戦えず、準備に時間がかかる。
一方、武田軍は興津に集結していて、速やかに出陣する事は可能だが、敵の陣地を潰すには、莫大な時間・人・金・物を浪費しなければならない。
ましてや補給不足だから、横山城で北条軍の西上を防ぐのが精一杯。

(2).信玄、最大のピンチ!!
敵(氏真・北条)がそろって「信玄敗北」と書く一方で…
信玄が信長に弱音を吐いている点も珍しい。
「信長の外には味方がおらず、少しでも信玄を粗略に扱うならば、信玄滅亡疑い無き候」(古今消息集)
結論1
(1).川中島の戦い+(2).上田原・砥石崩れ以上に信玄は窮地に陥ったのである。

2.なぜ北条は信玄に敵対し今川に味方したのか?理由は3つ。
(1).早雲以来、当主同士が通婚しているだけでなく、今川一門・重臣とも血縁関係あり。
当主…北川殿=今川義忠、北条氏康=氏親娘、早河殿=今川氏真

一門・重臣
@早雲=今川重臣葛山氏の娘、早雲三男氏広は葛山氏の養子。
早雲娘=今川重臣の三浦氏員。駿越同盟の交渉人となる三浦氏満の母
(「今川仮名目録」第37条によると三浦氏満は朝比奈又太郎(泰能?)と並び、今川家中No.2の地位にあった。)
A氏綱娘=葛山氏元、氏綱娘=今川一門の掘越六郎(氏延)。(あと綱成も追加。)

(2).領地拡大。
この機に北条は、甲相駿三国同盟成立(1554年)で放棄した早雲本貫の地である駿河駿東郡・富士郡の回復を狙っていた。いや、それどころか駿河全土を奪おうと考え、氏直を氏真の養子にした。

(3).西上野の土地争い?
信玄と北条は…西上野の多胡郡・緑野郡、(現在の群馬県多野郡鬼石町・同郡吉井町・藤岡市一帯)の所有争いをしていたらしい。
この地は憲政→氏康→景虎(永禄3〜4年)→後北条と所有を転々とし、永禄九年(1566)3月10日の義秋の越相和与に抗議する形で、
信玄は永禄十年正月〜4月頃ここを占領したが、北条が信玄に譲歩することで一時的に解決したらしい。(以降、勝頼死まで武田領。)
永禄十年1月28日付、輝虎→義重宛書状写(編年文書)に出てくる「南甲手切有」(北条と武田が手切れした)はこの出来事を指すらしい。
ちなみにこの土地は、永禄十二年8月26日付 氏政→由良成繁父子宛書状写(集古文書)に出てくる「烏川南藤田以北」を差す。
(つまり、氏政は由良父子にこの地を与える空手形を振ったのである。)
196三増峠ってどお?:2008/11/05(水) 11:11:17 ID:AOXlis5T
続き
3.直前の動き
(1).北条側の動き(永禄十一年(1568)12月12日〜十二年(1569)1月26日まで)
12月12日、北条は直ちに援軍を差し向けた。それも当主氏政自らが出陣し、かつ豆相・武蔵(氏邦・成田)・下総(原・栗橋衆)の兵まで動員するという本格的なものである。
(ただし氏照&滝山衆は関宿攻め。氏康は本城または鉢形城?)
氏政は(謙信・里見の攻撃に備えて)本陣を沼津に置き、
諸軍勢は(武田に内通した葛山領の)駿東郡、(武田に抵抗する)富士郡など富士川以東を瞬く間に抑え、
幻庵の長男氏信が率いる先陣は、武田軍より一日遅れて、13日蒲原城(庵原郡蒲原町)に入った。
信玄は同城を攻撃せずに駿府占領・氏真の身体確保を優先させたため、同城は未だ今川の手中にあった。
さらに先陣の一部はそのまま興津に進み、武田軍と交戦して、404人討ち捕らえたという(13日)。
その後、氏邦が駿河に出陣して興津の対岸にある薩垂山に陣を敷き(23日)、24日には城普請の材料を吉原(富士市吉原)の土豪矢部将監に命じた。

a.薩垂山の陣場・陣城について
薩垂山の陣場は、未完成ながらも南北3.5kmの広い空間に築かれた山城で、幅20〜30m、長さ500mの北条系城郭の空堀があり、眼下に興津(の武田軍)を見渡せる場所であった。

b.北条の戦略
@政略的には謙信・里見と同盟し、駿河・関宿攻略に集中する。
・具体的には未だ武田に抵抗する大宮城ー蒲原城ー薩垂山という防衛ラインを(短期間に)築いて信玄の退路を断ち、
機動戦が得意な信玄を駿河に封じ込める、と同時に氏真同様、謙信に働きかけて信濃を突くもの。
(永禄十一年12月19日付、氏照書状「志賀槙太郎氏所蔵文書」から始まり信玄が帰国する前後の4月27日まで平均すると、
129日÷18通=7.166日、つまり約1週間に1度のペースで、北条(&由良)は謙信に対してしきりに「信州出張」を求めている。)
・里見とは「駿河を仲介に共に甲斐に攻めよう」と持ちかけるも、条件が合わず、まもなく破談。

Aさらに18日には、(陸軍は)諸足軽衆筆頭の大藤式部丞・(水軍は)伊豆衆筆頭の清水康英の子新七郎、
(検使に評定衆の)布施康能からなる300の援軍を海路で掛川に送り、氏真の籠城をできる限り長引かせる。
(大藤隊は、北条軍の特殊部隊、コマンドーやチンデットのような少数精鋭と考えて下さい。
他に第一次国府台合戦(1538)、海老ケ島の戦い(1556)、景虎越山(1560〜61)、三方ヶ原の戦い(1572)などで活躍している。)

(2).武田軍の動き
信玄は当初、掛川攻撃まで考えていたが、北条軍の早期介入&連絡路遮断により、駿府の西の宇津峠越えを断念した。
この作戦計画放棄により西駿河や北駿河(安倍金山)の一帯は未だ氏真の支配下にあり、
かつすでに遠江に侵入していた秋山隊が徳川軍と衝突、信玄が家康に遠江を明け渡す事で解決し、家康に掛川城攻撃を要請した。

1月27日、氏政本隊が工事中の薩垂山に出張る(合計45000)と、信玄はようやく重い腰を上げ全軍18000を率いて、氏真同様に興津清見寺に本陣を置き、
先陣の武田信豊が興津川の河原に布陣。興津川を挟んで、東北の薩垂山に氏政、西南の興津に武田軍が対峙した。
197三増峠ってどお?:2008/11/05(水) 11:20:09 ID:AOXlis5T
4.経過
(1).1月27日〜2月1日まで。
信玄の動き
1月27日、武田の全軍が興津に移動すると、
安倍衆の海野宗定(安倍元真の娘婿)らが駿府のすぐ北の津渡野(つどの)までゲリラ戦を展開し、
武田方の今川旧臣ら10余人を討ち取り、氏真家臣伊丹康直に「駿府を奪回できるこの機会を逃してはならない」と報告する。

※安倍衆…安倍金山周辺の土豪達。氏真に味方して武田と戦っていた。
現、静岡市北部にある梅ヶ島・井川・大河内・湯ノ森など。
戦国時代の金山採掘は、農民が強制徴用されて御代官の家来にビシバシ叩かれる時代劇のイメージと違い、専門的な職人衆が掘っていた。
かつ彼らは有名な寄親に被官として取り立てられ、様々な特権や高条件の待遇を得ていたようだ。
安倍衆の寄親は最後まで氏真に従って信玄と戦った三浦一族だったらしい。

これに対し信玄は、3000の兵(山県隊?)をさいて安倍衆討伐に向かわせる。信玄は彼らに対し和戦併用策をもって臨む。

2月1日、連絡路確保のため、穴山・葛山1000は富士城を攻撃するが失敗。第二次富士城攻防戦。
ここは駿州往還道、身延道(だいたい現在の国道52号線と考えて下さい)沿いにある城下町なので、
甲斐に帰るもしくは補給上どうしても確保しなければならない。

(2).2月2日〜2月25日まで。
@信玄の動き
富士城攻撃の失敗でますます本国から補給困難になり、身延道の西を通る山道を切り開き、かろうじて補給が届くも、兵は難儀している状態。
北条軍の西上を防ぐため、横山城を修築した。横山城(静岡市清水区谷津2丁目字城山)は、国道52号線(駿州往還・身延道)と興津川沿いの台地に築かれた。
目的は甲斐⇔駿河ルートを抑え、かつ興津川を挟んで対岸の薩垂山にいる北条軍の西上を抑えるためである。

A信玄と家康、さらに不仲に…
この頃、信玄は家康と交わした「氏真・氏康父子と勝手に和睦してはならない」という誓詞を破って、安倍衆との人質交換を行ったため家康は「信玄不信」をさらに深めた。(でも信長の手前、断交はしないが…)

(3).2月26日〜4月24日まで。
@直接アプローチ
2月26日、氏邦勢は興津河原に伏兵し、武田小荷駄隊20余人討ち取る。
2月28日、氏邦勢・玉縄衆、薩垂山中に伏兵していた武田軍の大将、本郷八郎右(左)衛門(箕輪衆。上杉憲政の一族で、信玄の使者である長延寺実了の弟または甥。)を始め10余人を討ち取る。
3月13日夜、23時〜0時頃、信玄は氏邦・大道寺資親(政繁の父)・左翼の先頭の番所の3カ所を同時に奇襲するも敗北する。

A家康の3つの疑心。
a.秋山事件 b.安倍衆との人質交換 c.「信玄は敗北」し自分も遠江を失うのでは?→その前に遠江だけは確保したい。
だから、家康も3月8日から、信玄に内緒で氏真・北条と和睦交渉を行うようになった。(でも信玄には、ばれていたようだ。)

B越相和融成立。
3月14日、越相和融半ばまとまる。
この前後の信玄・北条+関東・謙信の情勢については「越相同盟について」スレにて書く予定です。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192090470/l50

C信玄、戦略を転換。
3月23日、信玄、信長に再度、甲越和与の仲介を頼む。(この書状にあの「信玄滅亡疑い無き候」が出てくる。)
この頃の信玄の書状を一括すると、小田原侵攻(つまり三増峠)が具体的になる。
(ここで、ようやく三増峠の戦いの信玄の目的・目標・重心が分かる。)
a.謙信信州出張に自ら備えるため雪解け前に一旦帰国し、仕切り直す。
b.越相同盟成立させなくするためには、(かつ駿河を支配するためには、在駿河北条軍の守備を手薄にしなければならないからこそ)、武蔵・小田原に向かって深く侵攻すべき。
c.そのためには反北条の諸将の支援がどうしても必要だから、もっと親交すべき。(親交を深める一番の方法は、武蔵・小田原侵攻しかない。)

D信玄、帰国準備。
4月19日、信玄は駿河代官兼横山城主穴山信君、久能山城主板垣信頼に細かな城中掟書を書いて与える。
「城の守りを厳重に。敵が攻めてきたら絶対城外で戦ってはならない。」など
久能山城(静岡市根古屋)は天然の要害、北に静岡市と南と西に太平洋を見渡せる場所にあった。
横山城は前述。

E信玄敗北。
4月24日午前3〜5時頃、信玄敗退。氏政追撃して数百人討ち取るという。ルートは、興津→国道52号線(身延道)の西側を走る県道374号線→高根山の山道→県道195号線→樽峠→山梨県富沢町徳間らしい。
198三増峠ってどお?:2008/11/05(水) 12:05:11 ID:AOXlis5T
>>195-197の長文編は…
http://www7.uploader.jp/home/k1361/
にある
No.1 k1361_uljp00001.pdfというファイルをクリックしてみて下さい。
以上、長文でスミマセンでした。恐々謹言。
199人間七七四年:2008/11/05(水) 12:21:52 ID:POC5dteM
>>195-198
乙。

…よく読むと矛盾点があるような。
謙信の動向とか。
200三増峠ってどお?:2008/11/05(水) 17:51:22 ID:AOXlis5T
>>199さんへ。返レス有難う。
>謙信の動向とか。
謙信も含めて、信玄・里見+佐竹ら関東諸将、越相和与交渉については、
次回「越相同盟について」スレにて、まとめて書く予定です。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192090470/l50
>>161さんも、特に北条の動きが知りたそうなので…、チェックしてみてください。恐々謹言。
201人間七七四年:2008/11/05(水) 18:03:02 ID:CjkVYNBe
つまり三増峠の戦いの敗因は氏政が遅れたことでも何でもなく
最初から氏康自身の采配のミスによるものだったんだね?
それを後から、当時の体調が思わしくなかった、息子のミスだって

もしかして氏康って実際は相当、無能だったの?
202人間七七四年:2008/11/07(金) 20:55:47 ID:FX8C+lOB
>>198
すみません、ファイルがないみたいです
203人間七七四年:2008/11/08(土) 01:08:35 ID:JVghmrsL
三増峠を信玄の勝利って、金ヶ崎を信長の勝利と言ってるのと同じようなもんだね。
204人間七七四年:2008/11/08(土) 01:26:52 ID:yaGP1BEM
本拠地焼かれてそれはないだろ 蹂躙されまくってるじゃん
しかも小田原まで出向いてやったのにろくに決戦も挑んでこないヘタレ具合
205人間七七四年:2008/11/08(土) 01:36:22 ID:JVghmrsL
小田原城包囲と三増峠は別。
206人間七七四年:2008/11/08(土) 02:06:28 ID:yaGP1BEM
深沢城では三増でボコられた綱成が信玄公に脅され逃げ出す始末
どんだけ恐ろしい目にあったことやら トラウマになってたんだろうね
まあそんなみじめな綱成も信玄公に武勇を褒められて涙ぐんで感謝したんだから
戦国ちょっといい話だ
207人間七七四年:2008/11/08(土) 05:21:13 ID:JVghmrsL
その深沢も元々武田が占領してたのを落とされて必死こいて取り返そうとしたもの。
208人間七七四年:2008/11/08(土) 05:40:09 ID:yaGP1BEM
必死こいて屈辱同盟した上杉にはなんの援助もしてもらえず
結局駿河はめでたく武田家が獲得 一方北条は戦でボコられ涙目
何も得るものなく恥を上塗りし武田家に和を請う始末 
209人間七七四年:2008/11/08(土) 06:41:03 ID:JVghmrsL
ところが興国寺城だけは最後まで落とせてないんだよな。
2度も攻めて失敗とかw
因みに北条が本気で守りに行ったのはこの興国寺と蒲原だけ。
やっとこさ蒲原落とした程度で北条に勝ったといえるのかなー?
210人間七七四年:2008/11/08(土) 06:49:47 ID:z0E0NI0F
三増でボコられ小田原焼かれ駿河奪われやっとこさ興国寺城恵んでもらって
涙目で武田家と再同盟 もともと涙目の北条には勝ち目はなかったねー残念ー
211人間七七四年:2008/11/08(土) 07:03:26 ID:JVghmrsL
北条領は1_も奪えず援軍に着た北条軍に手も足も出せずせっかく落とした駿府以下まとめて放棄して逃げ帰ったり
せいぜい追撃を撃退した程度で、
「あと少しで信玄を討ち取れるところだったんだが惜しかった」
くらいにしか北条側に思われてない三増峠(笑)ごときで一体武田のどの辺が北条に勝ったんかねえ?
212人間七七四年:2008/11/08(土) 07:04:45 ID:z0E0NI0F
勝った!勝った!と高らかに勝利宣言しながら駿河から逃げ出す北条サイコー
213人間七七四年:2008/11/08(土) 07:06:25 ID:JVghmrsL
勝った!勝った!と高らかに勝利宣言しながらこのスレから逃げ出すID:z0E0NI0F=ID:yaGP1BEMサイコー
214人間七七四年:2008/11/08(土) 07:07:21 ID:z0E0NI0F
どの面下げて上杉と同盟したんだろうねー
笑えるねー そんで都合が悪くなるとまた武田家に頭下げに来たんだよねー
笑えるよねー
215人間七七四年:2008/11/08(土) 07:09:55 ID:JVghmrsL
どの面下げて甲斐へ逃げ帰ったんだろうねえ。
緒戦で大勝して調子に乗って徳川にまで手を出したあの勢いはどこへ?
十分勝ちはよしとせず、五分勝ちこそ最良の勝利、って誰の言葉だっけ?
216人間七七四年:2008/11/08(土) 07:10:40 ID:z0E0NI0F
北条が本気を出せば駿河はおろか越後も伺えたよねー
最強だね 小田原城
217人間七七四年:2008/11/08(土) 07:17:56 ID:JVghmrsL
ID:z0E0NI0Fは小田原が氏康の時代から総構えだったと思ってそうだな。
218人間七七四年:2008/11/08(土) 07:19:03 ID:z0E0NI0F
小田原城が本気を出せば篭城パワーで天下も取れただろうねー
さすが土下座外交のホウジョー
219人間七七四年:2008/11/08(土) 07:21:14 ID:JVghmrsL
もはや脊髄反射で支離滅裂なレスしか出来なくなってきたようだな。
220人間七七四年:2008/11/08(土) 07:23:28 ID:z0E0NI0F
おやおや北条得意の勝利宣言ですかー?
とっとと小田原に篭城してたほうが身のためですよー
篭城しか取り柄のないヒキコモリ北条は
221人間七七四年:2008/11/08(土) 15:52:31 ID:zDiMkRPP
なんだこりゃ
222人間七七四年:2008/11/08(土) 16:12:03 ID:zDiMkRPP
>>209
蒲原で守ってた北条一門全滅してるし、
それが攻略された事で駿府は陥落。
駿河の中枢は武田の手に落ちる。
興国寺の時は3日しか攻めてないし
もともと駿河の外れ。
比較にならないと思うが。
つか深沢は綱成が必死に抵抗したんだから評価しなよ。
223人間七七四年:2008/11/09(日) 00:45:12 ID:N4jqSr6g
>>211
>>北条領は1_も奪えず
第一回駿河攻めなら駿河を一か月で攻略した後で北条が来たんだから仕方なくね?
それ以後なら武田の別動隊が北条領の武蔵御岳城を攻略してたんじゃね?

三増峠もその氏照書状は謙信相手の外交誇張入ってるし、
信玄が綱成相手に出した深沢書状では「三増峠の北条勢は前代未聞の見苦しい敗軍であり、
諸軍の嘲りの的だった。」という参戦してたらしい綱成に言ってるくらいだし
古河公方の重臣とか死んでるし、結構やばかったんじゃね?
224人間七七四年:2008/11/10(月) 23:11:12 ID:8D693y2b
>>207
確かにそうじゃが、それをいうなら北条も綱成開城後に
必死で取り返そうとし3月末まで戦っていたはずじゃ。
そして結局奪還できずに深沢は武田の手に帰し、駿河の攻防は決着するわけじゃ。
武田もそうじゃが北条も十分深沢にこだわっていたといえるのう。
225人間七七四年:2008/11/12(水) 11:43:18 ID:ogdGFgOR
おいおいいつまで北条オタは見苦しい態度ばかりとってんの?
それとも本気で、武田側の資料が信憑性が無いとでも言いたいわけ?
北条側の資料の方が捏造だらけだと言うのは今や歴史家や学者などの
間でも有名だというのに、いまだに甲陽軍艦批判から頭が離れられない
んだねえw
今まで軍艦に信憑性が無いと言われてきたもんだから、逆に勝手に北条側の
資料を鵜呑みにしてきたんだろうけど、事実を知ってショッキングになってる
気持ちも理解出来るよ、てゆうか笑えるw
226人間七七四年:2008/11/12(水) 11:48:09 ID:ogdGFgOR
北条が武田に勝った事実はどこを探してもありませんww

・信玄の誘導作戦によって駿河から兵を撤収せざるをえなくなる
・外交戦略で信玄にボロ負け、謙信の援軍は無し、北関東の敵に
 さらに脅かされる事にw
・三増峠で先鋒隊は壊滅w
227人間七七四年:2008/11/12(水) 12:12:42 ID:Hv85+yHD
三増峠の戦いって聞いたことある。武田軍が北条軍に圧勝した戦いでしょ?

北条って、ずっと武田と同盟結んでたから
上杉にも対抗できたし、武田にも滅ぼされなかったんだよね

でも、刺しで勝負したら上杉にも武田にも負けてるとこ見ると
本当は格下の大名だったのかも知れないね
228人間七七四年:2008/11/12(水) 16:04:43 ID:7FMMq9dr
なんだこのキチガイは。
229甲斐の老鶴 ◆TSURUWK/W2 :2008/11/12(水) 22:40:24 ID:xM92vwib
御旗盾無御照覧あれ
230人間七七四年:2008/11/13(木) 04:20:10 ID:4TFhMMv5
甲斐犬かわいいよね!
231人間七七四年:2008/11/13(木) 21:42:10 ID:4DOFvBYR
よくわからんけど戦術も戦略も武田の勝利なの?
それとも戦闘では負けたけど戦略は北条の勝ち?
232甲斐の老鶴 ◆TSURUWK/W2 :2008/11/13(木) 22:19:07 ID:okZc2u3g
>>230
キャンキャン
233人間七七四年:2008/11/14(金) 17:51:35 ID:HcSV3NtO
北条って、そもそも
戦だけなら里見や佐竹すらの豪族大名にも負けてない?
元から弱かっただけなんじゃ?
234人間七七四年:2008/11/14(金) 18:15:55 ID:nsMqKGWv
武田って、そもそも
戦だけなら村上や長野すらの豪族大名にも負けてない?
元から弱かっただけなんじゃ?
235人間七七四年:2008/11/14(金) 19:48:55 ID:pRMaT4NC
信玄て第一次駿河侵攻で氏康どころか氏政に負けたんだよな…。
236人間七七四年:2008/11/15(土) 00:08:42 ID:3/Wd8M92
>>234
長野には負けてない。これははっきり言える。
>>235
第一次駿河でもその後も戦略を描いたのは氏康。
駿河を最終的に取ったのは信玄。
237人間七七四年:2008/11/15(土) 00:52:21 ID:ajLAlSvO
現場で陣を張ったり補給路を押さえたりしたのは氏政でしょ。
苦し紛れに穴山と葛山に城攻めさせてるけどこれも失敗。
非の打ち所のない氏政の完全な勝利だと思う。
238人間七七四年:2008/11/15(土) 01:18:17 ID:3/Wd8M92
>>237
苦し紛れにというが一部隊千名あまりだしな。
これで城をとろうというものだろうかと。
つーか結局引いたのは今川残党ゲリラや謙信への対処が必要だったからだし。
239人間七七四年:2008/11/15(土) 01:53:02 ID:ajLAlSvO
>>238
そりゃいつ本隊が襲ってくるか分からん状態で大軍は裂けんだろ。
落とした城の大半を放棄して退却とあっては惨敗もいいところだろう。
240人間七七四年:2008/11/15(土) 03:48:41 ID:BPPlks9I
城落として退却したならそれは戦略的退却って奴で惨敗とは言わないよ、普通の人は(笑)
241人間七七四年:2008/11/15(土) 03:58:35 ID:5jVUGlnl
放棄していった城ほとんど今川側や北条側に取り返されてるんだけど。
242人間七七四年:2008/11/15(土) 06:07:46 ID:fU+hF4Zu
>>234
村上>里見+佐竹
243人間七七四年:2008/11/15(土) 07:03:03 ID:3/Wd8M92
>>239
だからそれは戦略状況からの引き上げであって
その戦略状況を作ったのは氏政じゃなくて氏康なわけ。
そんでその後も戦略は氏康が主導し続けるわけで。
244人間七七四年:2008/11/15(土) 17:50:06 ID:5jVUGlnl
折角落とした城打ち捨てて撤退しておいて単なる引き上げとか、大本営発表かとw
6度も長野攻略失敗しといて負けてないとか、どんだけ(ry
245人間七七四年:2008/11/15(土) 19:40:48 ID:uaiM/cHK
>>244
まあその理屈でいうと金ヶ崎も負けになるんだが。
第一次は信玄の戦略的負けである事は認めるが。

長野に信玄が負けたというのは江戸時代以降の講談にしかない。
信玄はそれまで上杉謙信との戦いで1561年9月の第四回川中島まで北信濃の
攻略に集中してる。
実際信玄が西上野を攻め始めるのは1561年11月以降だが、この時には
長野業政は死んでいる。
そして1561年11月以降の戦いでは信玄は長野の味方である西上野の勢力を次々に攻略し
1565年には長野の箕輪城を孤立させる事に成功。1566年には総攻撃で攻略してる。
246人間七七四年:2008/11/15(土) 22:52:44 ID:n51YjXvd
>>242
里見は最盛期には50万石か60万石ぐらいはあったと思うんだが

>>245
戦術的にも結構ボロボロじゃないか第一次駿河に関しては、
兵力差と置かれた状況考えれば善戦していると言っていいと思うけど
247人間七七四年:2008/11/16(日) 01:51:04 ID:caO1Rz0o
ていうか北条は武田方の領土に攻め込んで、一体いくつの城を落としたことあるの?
248人間七七四年:2008/11/16(日) 02:30:23 ID:Yt5IKSb8
駿河に押し寄せた4万5千の北条勢。
今川をひと月で崩壊させたものの国力に劣る武田は1万8千。
武田は前面を北条の大軍に圧迫され、後方では今川残党蠢動。
さらには信濃に迫る上杉の脅威、不穏な動きを見せる徳川。
窮地に陥った信玄は一旦駿河からの撤退を決意する。
興津と久能山に穴山と板垣を残し、道なき道を進み甲斐を目指す信玄。
その胸中には駿河奪還のための秘策が既にあった。
駿河から北条の兵力を引き揚げさせ、関東の反北条勢力を活性化し、
上杉と北条の仲を寸断する妙手。
北条の本拠小田原襲撃。
関東の覇王北条氏康の待ち受ける小田原への侵攻。
大国北条領最奥への短期間での往還作戦。
それは一歩間違えれば壊滅を意味していた―――
次回「小田原侵攻作戦」

ってな感じか。
249人間七七四年:2008/11/16(日) 02:40:47 ID:EjhKz1l5
TV番組かよw

しかしこの苦しい状況から逆転し
大国北条を追い込み駿河を奪還して再同盟締結。
信玄の知略軍略が光るねえ〜。
250人間七七四年:2008/11/16(日) 06:14:50 ID:ZCHw04m/
北条は武田に盾突いて、
何一つ得をしていないな。
東京大空襲された大日本帝国みたいに首府まで焼き打ちされてる。
しかも武田は日米戦争みたいな明らかな物量差のある相手じゃないし。
これで信玄に並ぶとか戦国一の名君なんて笑わせる。
251人間七七四年:2008/11/16(日) 09:22:52 ID:UMeSmQVj
所詮氏康が死んで代替わりのゴタゴタ時期に掠めとっただけだからな。
運が良かったね武田は。
252人間七七四年:2008/11/16(日) 10:15:02 ID:caO1Rz0o
ま、史実とは一切関係なしに100%適当に反論しました感丸出しだな。

三増峠なんか氏康モロ健在だったし
結局、北条って親子揃って武田に侵略された大名ってだけ
253人間七七四年:2008/11/16(日) 10:44:54 ID:xzTR18Si
>>252
分かった分かった
信玄最強!
信玄完璧!
神だね信玄は
そして信玄を崇拝する人は素晴らしい
な?そう言えば君は満足なんだろ?
分かったからあっち行け

↓シッシッ ヾ(`ε´ )
http://speedo.ula.cc/test/r.so/gimpo.2ch.net/sengoku/1177336438/1-?guid=ON
254人間七七四年:2008/11/16(日) 10:58:18 ID:QqrvlbhJ
後北条の方が凄いよ。
義元信玄謙信信長秀吉とかアザトース倒したし。
宇宙大将軍北条氏康。
255人間七七四年:2008/11/16(日) 14:13:16 ID:+M1p5ZAG
アザトース倒したら全宇宙最強じゃんw
256人間七七四年:2008/11/16(日) 14:21:43 ID:+MonadsZ
>>253
横からだが
史実に即した書き込みまでその扱いかね。
煽りでしか書けない君の惨めさに同情する。
257人間七七四年:2008/11/16(日) 23:34:00 ID:fZImGcIV
>>253
こいつ小学生だろ
いい年こいてこんな馬鹿いないよ
258人間七七四年:2008/11/17(月) 22:45:36 ID:8WYipsWQ
>>256
三増峠を武田の大勝利と思ってる書き込みのどこが史実に即した書き込みなのか。
259人間七七四年:2008/11/17(月) 23:01:42 ID:RxocOwUo
実際に武田が北条相手に大勝してるから史実に即してるだけじゃんw

これが川越夜襲とか生山合戦とかなら講談扱いされてもいいけど
三増峠の戦いまで講談扱いしないで欲しい
260人間七七四年:2008/11/17(月) 23:06:28 ID:8WYipsWQ
大勝利と書いてるのは甲陽軍艦だけ。北条側は信玄を取り逃がした程度にしか書いてない。

第一大勝利とするなら具体的にどのような戦略的損害を北条に与えたというんだ?
261人間七七四年:2008/11/17(月) 23:48:55 ID:FJQvbOk2
>>260
軍鑑だけじゃないよ。残念ながら。
信玄が籠城する北条綱成に深沢で送った書状では
>>223の言うとおり「三増峠の北条勢は前代未聞の見苦しい敗軍だった」と
参戦していた綱成に言って恫喝している。
事実じゃなきゃこんな事書かないし、第一北条勢は古河公方の重臣が戦死している。
262人間七七四年:2008/11/17(月) 23:50:00 ID:FJQvbOk2
>>261の補足として
信玄自身も2千人余り討取って大勝利を得た、この勝利は神のおかげと書状を書いている。
263人間七七四年:2008/11/18(火) 00:24:15 ID:gYYzXec/
敵対する相手に送った降伏を促す書状の内容を鵜呑みにする奴があるか。
264人間七七四年:2008/11/18(火) 00:40:38 ID:MvuwsnYT
>>263
でもよ、綱成は三増峠に参戦してるんだぜ?
その戦いに参戦してる相手に大勝してもいないのに>>261みたいな事書いたら
「ぷっw何ふかしこいてやがんだw必死だなw」ってなるだけで意味ないぜ。
信玄がわざわざ参戦してた綱成に送ってる書状なんだから信じていいんじゃねえの?
265人間七七四年:2008/11/18(火) 00:52:24 ID:gYYzXec/
>>264
綱成本人がどの辺にいたか分からんが、氏政本隊は結局参戦せずに途中で引き返してる。
戦闘に直接は参加してなかった可能性が高い。
それに深沢城矢文は普通に「ぷっw何ふかしこいてやがんだw必死だなw」って反応されてるけど?
開城を決意したのは金堀衆を使って城を崩しにかかったからだし。
関八州は天が信玄に与えたものとか、駿河に攻め込んだのは氏真が謙信と結託しようとしてたからとか、
内容滅茶苦茶。
266人間七七四年:2008/11/18(火) 01:03:28 ID:MvuwsnYT
>>265
軍記じゃ綱成は氏照勢に参入してたはずだぜ。
そういうことじゃなくてよ、信玄がわざわざ参戦してる相手に
ふかしこいてもしょうがねえだろ、って事よ。
「駿河をはじめとして関八州は信玄に従うのが天命だろう、
氏康ごときのたくらみでなんで留める事ができるものか」ってのは恫喝としての文だと思うぜ。
「俺達が勝ちまくるのは俺達が武勇や軍略に格別に優れてるからじゃなくて
天命ってもんだぜ。」っていう文章もあるしな。
あと氏真が謙信と結託してたのは事実だぜ。
氏真は対武田を想定して共同戦線を張る約束もしてるし、三国同盟の内情も暴露してるぜ。
267人間七七四年:2008/11/18(火) 01:36:34 ID:U2dX+VfH
そもそも>>260で言われてる氏照の書状自体が
小田原焼かれた事隠してたり、北条優位の前半は得意げに書いてるけど
武田勢が山の上から押し寄せてきたというくだりから
急に口をつぐんじゃってるからな。
どう見ても謙信相手に虚勢を張って都合の悪い所を隠ぺいしてると見るのが妥当。
268人間七七四年:2008/11/18(火) 17:20:19 ID:hda4ACia
やっぱり北条負けてたんだね
なんで北条って大名も厨も、こんなに見苦しい捏造すんのかね?
269人間七七四年:2008/11/18(火) 23:59:49 ID:+3xg7sBq
実際のところ公正な記述なんてない。双方都合のいいように書いてる。
ただ、甲陽軍鑑の武田びいきな記述が有名になって武田の大勝のようなイメージが広まったが、
詳細は不明ながら両上杉や古河公方を弱体化させたのは確実な川越と違い、
戦略的に北条に大きなダメージを与えたとは言えない。
ただ信長の金ヶ崎同様信玄の窮地を無事に脱した撤退戦だったと言えるだけ。
270人間七七四年:2008/11/19(水) 00:09:22 ID:c44qQbug
>>269
なんか強引じゃないか?
戦略的にはこれで小田原焼き打ちからの
越相同盟への楔と反北条連合への宣伝が完全なものになった。
この二つの因子によって北条の戦略は崩れ信玄が駿河を獲得する。
その意味でこの三増峠の戦いは十分に戦略的意味を持つ。
第一戦略的かどうかじゃなくても「前代未聞の見苦しい敗軍」だなんて
参戦してた将が言われてしまうような状態は、十分大勝利だと言えると思うが。
金ヶ崎はその後につながる戦略的因子を残さなかったし相手に打撃を与えてもいないが
信玄は戦略的因子を残し、相手に打撃を与えて追い払ってるんだから違うだろ。
271人間七七四年:2008/11/19(水) 00:09:39 ID:S/A3G7DL
信長は朝倉の本拠にまで攻め込んでないだろ 戦略的にも失敗
しかも味方のはずの浅井に裏切られるという踏んだりけったりな有様
272人間七七四年:2008/11/19(水) 01:25:37 ID:8a7nYALq
>>270
所詮恫喝な上結局無視された矢文の内容なんて話半分に見るべき。
実際は痛み分けと言われてるところ、誇大に事実をすり替えてることもありえる。
何も相手を脅すのに本当のことを言う必要もないし。
273人間七七四年:2008/11/19(水) 01:34:46 ID:c44qQbug
>>272
痛み分け、っていうのが定説化されてるわけじゃないんだが。
だからそれなら参戦してた綱成にわざわざ三増峠での北条勢の敗北の様を
示す意味がないと言ってる。
痛み分けなら恫喝のネタにならんだろ。まして相手は参戦者なんだから。
なんでこれで話し半分にみなきゃならんのやら。
普通に北条が大敗しててその様を示して恫喝のネタに使ったけど
豪気な綱成がそれを跳ねのけただけだろ。
結局その一月後には開城するけど。
274人間七七四年:2008/11/19(水) 01:38:44 ID:8a7nYALq
「また三増峠みたいに無様に負けてえのか?おぉコラァ!」
「え?あれはいいとこ引き分けだったはずだけど?」
「ハァ???何言ってんだ俺の勝ちだよ勘違いしてんじゃねえよボケェ!!wwwww」
「うーん、言われてみたらそんな気がしてきた…」

みたいなことを狙ったんだろ。
ま、結果的に失敗したわけだけど。
275人間七七四年:2008/11/19(水) 01:41:12 ID:c44qQbug
>>274
都合よく考えすぎだろ。
君の中の綱成は記憶障害者か何かなのか?
「前代未聞の見苦しい敗軍で諸軍の嘲りの的だったよな」なんて
事実無根で言われて信じ込むようなやつなのか?
そして信玄がそれを期待するような人物なのだと。
戦国武将をなめすぎだろ。
276人間七七四年:2008/11/19(水) 01:42:14 ID:8a7nYALq
「関東は全部この信玄のもんだと天命で決まっとるんじゃあ!!」とか
「援軍呼びたきゃ呼べ一大決戦も受けてやるわ!!」とか
とかくでかい事ばかり書いてある内容なんぞにどこが信憑性あるのやら。
277人間七七四年:2008/11/19(水) 01:46:18 ID:8a7nYALq
>>275
状況考えろ。冷静に外交やってる時の文書じゃねえぞ。
殺し合い罵り合いの戦場の矢文が貴重にも残っていた。
大抵はこんなもんざけんなボケと破り捨てられる。
278人間七七四年:2008/11/19(水) 01:46:21 ID:zYku9zxn
使者ではなく矢文で送っている点から城内の動揺を誘う策だったとか
279人間七七四年:2008/11/19(水) 01:47:32 ID:c44qQbug
>>276
前半のは恫喝だし、援軍よびたきゃ呼べよ、決戦しようっていうのは別に
でかい事でもないと思うが。
第一、三増峠だけでなく、蒲原に立てこもっていた北条一門皆殺しにした事や
駿府で岡部を説得して開城させた事や、薩睡砦が自落した事や、
花沢城を攻略して守将が他国者だから解放したこととか
堅実な戦果もしっかり書いてあるんだけど。

280人間七七四年:2008/11/19(水) 01:50:09 ID:c44qQbug
>>277
実際しっかり残ってるんだから仕方ない。
書式も北条綱成に対する敬意をこめた文章だしな。
その書状の中で信玄は北条綱成とその部下たちを
北条家随一の衆と呼びたたえている。
綱成もうれしかったろうよ。
281人間七七四年:2008/11/19(水) 01:54:50 ID:zYku9zxn
やっぱ河越夜戦での活躍があったからか他国まで綱成および玉縄衆の勇名は響いていたのか
川中島での援軍の効果か、単なるリップサービスか
282人間七七四年:2008/11/19(水) 02:03:16 ID:8a7nYALq
>>279
さすがに嘘ばっかりと言う訳にはいかんだろう。
都合のいい成果だけは具体的に伝えるのは氏照の時でも指摘してなかったっけ?
>>280
その辺も使い分けだな。こき下ろすだけじゃ反発されるので持ち上げもしておくと。
あくまで記録文書じゃなくて降伏勧告だからな。
>>281
綱成の武勇を認めていたのは間違いないね。忘れていった旗を家宝として後世まで大事にしてたくらいだし。
だからこそ矢文にしてはやたら手の込んだ長い文章にしたのでは。
283人間七七四年:2008/11/19(水) 02:08:00 ID:c44qQbug
>>282
言ってることめちゃくちゃ。
三増峠についてもしっかり具体的に書いてる。
つーか参戦者に対して嘘をつくってどうするんだよ、ばからしい。
小田原焼き打ち、三増峠、蒲原から薩睡、駿府、花沢、といった深沢城攻防戦に
いたるまでの武田の戦果を羅列してその一環で三増峠が出てきてるんだから
うそばっかりとかいう問題じゃないだろう。
言ってることおかしすぎるだろ、君。
284人間七七四年:2008/11/19(水) 02:14:02 ID:zYku9zxn
綱成に関しては本当に参戦していたのかという疑問も残るけどな
285人間七七四年:2008/11/19(水) 02:27:04 ID:S/A3G7DL
小田原に援軍頼んでもどうせ送ってくれねーし もうだめぽって観念したんだろ
散々負けてそんな余裕ないこと知ってたんだな
286人間七七四年:2008/11/19(水) 03:01:51 ID:2L7+TLCk
三増峠の戦いを局地戦と見ても>>283の言ってることの方が具体的で説得力を感じた
それが駿河を睨んでの戦略的観点から見れば、尚更>>283の言ってることの方が頷ける

北条負けてないって言ってる人って「ただ負けてない負けてない騒ぐだけで」
全然、具体的じゃないんだよな
なんか、ただの感情論に走ってるような印象を受ける
287人間七七四年:2008/11/19(水) 03:21:50 ID:U0GWntd8
三増峠についての具体的な記述って何?
具体的に書かれていればもう少し矢文も資料として引用されるはずだが
288人間七七四年:2008/11/19(水) 03:35:12 ID:Qoy+7099
>>286
正解
289人間七七四年:2008/11/19(水) 05:33:36 ID:zatcpUmR
しかし小田原包囲は戦略的には失敗だろう。
2万も軍勢率いて放火しただけてw
むしろ謙信に続いて信玄ですら落とせなかったと小田原城に箔が付いただけと思うが。
甲陽軍艦ですら不要な合戦だったと書いてるくらいだし。
290人間七七四年:2008/11/19(水) 05:52:43 ID:21cpKiTd
小田原を陥落させて、北条の大領を一気に奪取できるならともかく、
本能寺の時の織田・明智みたいに周辺勢力を肥らせるだけだから、
焼き打ちで首府壊滅させれば示威行為としては充分成功じゃないかね?
291人間七七四年:2008/11/19(水) 06:55:18 ID:JZoBo1M4
信玄も小田原城の規模や北条の動員力くらい把握してたと思うんだけど、
それでも本気で小田原城を攻略できると思ってたのかな?
そうでないとしたらなんで敵領深く侵入するような危険を冒したのか理解できない。
292人間七七四年:2008/11/19(水) 07:19:57 ID:5s49Reg4
>>289
小田原焼き打ちで越相同盟にも楔を打ち込み
関東の反北条勢力へのいい宣伝にもなって活性化に成功、
さらには駿河の北条勢の呼び戻しも成功。
大成功だと思うけど。
>>291
途中の鉢形も滝山も攻略しないでさっさと進んでるから
小田原攻略する気はなかっただろう。上記の理由が主だろう。
293人間七七四年:2008/11/19(水) 07:28:18 ID:JZoBo1M4
>>292
たったそれだけのために一歩間違えれば武田軍が壊滅するような作戦行動を
起こしたというのは下策としかいいようがないんじゃないの?
正直、信玄も冷や汗ものだっただろう。
294人間七七四年:2008/11/19(水) 09:18:05 ID:q1PW/+4m
城攻めこそ下策だからさっさと城からおびき出して野戦でボコる
これ武田の兵法 常識ね
295人間七七四年:2008/11/19(水) 09:25:18 ID:JZoBo1M4
でも肝心の北条本隊は城から引きずり出せず、ようやく城から出たと思ったら
野戦でボコるどころか先回りした北条支城軍との間に挟撃体制をつくられるという
戦略的には北条に手玉に取られまくりでしかないように見えるが。
296人間七七四年:2008/11/19(水) 09:32:15 ID:q1PW/+4m
挟撃体制w そんな体制とってみてもまともな挟撃もできなかったのが北条だろ
おまけに別に野戦で叩かなくても戦略目標を達したならあとは帰国するだけだし
297人間七七四年:2008/11/19(水) 09:35:56 ID:q1PW/+4m
挟撃というなら川中島の戦いとかそこらへんのレベルの高いものを出してくれないと
かすりもしないうちから挟撃できていたとか言われても行軍遅くて戦意が乏しいドン亀が
追いつけるわけでもなし 息子達がボコられるのを確認してすごすご城に引き返る北条親子
がみじめだわ
298人間七七四年:2008/11/19(水) 11:52:12 ID:KIRvmr0u
武田:駿河丸取り☆
北条:越相同盟とその破綻という迷走ぶりで小田原を焼かれた上、三郎を上杉に取られたただけ
299人間七七四年:2008/11/19(水) 13:01:57 ID:9fzaCYHt
>>295は、昨日までバカ晒しながら必死に否定のための否定してた北条厨だろ
言ってるレベルの低さから見てこんなバカそういういないだろうし
こいつコテにすりゃアボーン出来るのに、電波飛ばしに必死になる暇あるなら少しは他人の迷惑考えろよ
300人間七七四年:2008/11/19(水) 15:54:44 ID:PVgSugRf
何でこんなに荒れてるの?
武田がすきなのは勝手だけどこんなことで必死に他人をけなすというのは情けないことだぞ。
301人間七七四年:2008/11/19(水) 17:33:22 ID:o3aaMt4C
なんでここって痛い厨しかいないの?w
302人間七七四年:2008/11/19(水) 17:39:27 ID:clfasWRC
>>297
は?
レベルが高いのかあれ
講談にしてもキツツキとかレベル低いぞ
高地に布陣する敵に奇襲かけて、逃げたとこを挟撃とか、作り話にしてもヒド過ぎだぞ
303人間七七四年:2008/11/19(水) 18:27:04 ID:zatcpUmR
北条にしてみれば謙信に続いて信玄も小田原攻め失敗で堅城ぶりをアピール♪
結局悔し紛れに放火しただけw
被害にしては最小限の上々の篭城戦だったぞ。
それとも放火って2万人も動員しないと出来ない凄いことなの?
304人間七七四年:2008/11/19(水) 18:32:35 ID:g3zPLqZi
「放火しただけw」って、さすが北条様は民思いだなwwwwww
城が無事なら城下町が焼け野原になっても「堅城ぶりをアピール♪」で大喜び。
すげぇな。
305人間七七四年:2008/11/19(水) 18:46:52 ID:zatcpUmR
188 名前:人間七七四年 投稿日:2008/10/05(日) 01:29:15 ID:F0qg8FfB
そこまで弱くないだろ
浅利とか死んでるし

190 名前:人間七七四年 投稿日:2008/10/05(日) 09:22:37 ID:B5PMKTsh
>>188
前線の指揮官が流れ弾で死ぬことなんてよくあることだろ

さすが武田様は兵士思いwwwwww
そりゃ三増峠は大勝利だわ。武将は単なる消耗品だもんね。
306人間七七四年:2008/11/19(水) 19:08:40 ID:Nv7j8SDg
一月前のレスww
さすが北条ヲタ。
アザトースをも狩った北条が最強!!
火星守
307人間七七四年:2008/11/19(水) 19:18:31 ID:2L7+TLCk
やっぱ、ここも同じ展開だな
北条厨は煽ったり、話ごまかしてるばっかりで
自分らの低レベルな荒らし合戦で逃げるのが精一杯の様子
全然、正論言えてないし、言い返せてもいない。
北条厨は知識も何もない、ただのゲーム脳の集まりだな
308人間七七四年:2008/11/19(水) 19:32:53 ID:FjvEArt1
ゲーム脳w
直上で煽ったり話ごまかしてる武田厨の姿が見えないのかね。
何事も都合のいいようにしか解釈できない武田厨の武田脳には畏れ入るね。
309人間七七四年:2008/11/19(水) 20:06:43 ID:TJKqCs1z
武田がどこで話をごまかしているか説明してけれ
310人間七七四年:2008/11/19(水) 20:16:59 ID:clfasWRC
まず武田厨は学術論文に引用する事がタブーとされている虚妄多き甲陽軍鑑を元にクッチャベルのを止めてくれたまえ
311人間七七四年:2008/11/19(水) 20:34:56 ID:2L7+TLCk
北条厨は
スレと無関係な言い訳とか相手の出した具体論に乗っかることしかしてない
自分ら、この時の史料によると、とか、この時期の両勢力の動きは、とか
何も出さないし意見もしないでで
自分らの北条は勝った勝ったばっかりで
これじゃ逃げてるのと変わらないわ。ゲーム脳だからそんなことも気付かないのか?
312人間七七四年:2008/11/19(水) 20:41:22 ID:clfasWRC
>>311
まず涙を拭いたらどうだ?
鼻もかんだほうがよかろう
313人間七七四年:2008/11/19(水) 20:50:42 ID:9fzaCYHt
自己紹介か?
分かってるなら引っ込んでろよ
北条厨って痛すぎる
こんなのしかいないの?
これがレベル?
314人間七七四年:2008/11/19(水) 20:53:47 ID:clfasWRC
>>313
尻も拭いたほうがよかろう
315人間七七四年:2008/11/19(水) 22:35:37 ID:ybteBSyp
君らはなんて無神経なんだ。
北条厨は、頑張った賞が欲しくてたまらないんだよ。
振り向いてほしいんだよ。
気を利かせてあげなよ。


316人間七七四年:2008/11/19(水) 23:17:58 ID:FUFFykga
上杉との同盟に楔をうったというが、
人質も交換して実際越相同盟が機能しだすのは1570年からじゃ・・・?
317人間七七四年:2008/11/19(水) 23:33:38 ID:nTxbmvmQ
>>293
戦略状況をひっくり返し一国を手に入れる作戦が下作とか凄いね、君。
ここで成立させた戦略状況こそが駿河奪取、そして越相同盟の崩壊につながるのに。
>>295
もともと北条主力はあちこちに分散してたからな。
駿河にいた北条勢を引き戻すのもこの作戦の目的の一つ。
実際信玄がここまで踏み込んできたのは氏康には想定外だったろう。
ま、信玄も小田原焼くのが目的だから本隊出てこなくてもよかったんだけどな。
実際信玄は3日間小田原を焼いたあとさっさと帰国に向かっている。
目的は達してたわけで。
>>303
三日間小田原を焼かれまくってさっさと引かれ追撃も撃退されてそりゃない。
大国北条の本拠まっただ中に踏み込むなんて事を
2万でやってのけ小田原も焼いて無事帰国なんて
すごいと思うけど。
>>305
北条も古河公方の重臣が戦死してるんだけどな。
>>310
このスレの武田派は軍鑑だけを基にしてるのは少ないと思うが。
深沢書状に信玄書状、氏照書状、その他いろいろ。
てか軍鑑自体がもう結構前から見直されて資料として活用されてきてるのを
知らないのだろうか。
318人間七七四年:2008/11/19(水) 23:42:27 ID:TJKqCs1z
軍艦が学術論文でタブーなんて言ってたら、
平山優氏の近年の著しい活躍なんかどうなんだよw
319人間七七四年:2008/11/19(水) 23:49:56 ID:FUFFykga
ただ軍鑑の三増峠の部分がどこまで信用できるかは微妙だが

とは言っても他に良質な史料があるわけでもないが、一次資料からじゃ
お互い損害こうむりあって、武田は撤退に成功、
北条は主力を取り逃すものの撤退させるのに成功という結果ぐらいしかわからないし
320人間七七四年:2008/11/19(水) 23:56:09 ID:nTxbmvmQ
>>316
小田原侵攻から三増峠前後の北条の書状を見ると
北条は武田が小田原に侵攻してきたのを見て
上杉に出兵を要請しまくっている。
だが結局上杉は動かず北条は小田原を焼かれ、三増峠でも撃破される。
これを受け北条は加勢がなかった事を上杉に批難し
勝手に越中を攻めてろよ、的な嫌味を書状で述べたりしてる。
北条と上杉の同盟が絵にかいたモチだった事が明白に示されてしまった。
さらには1570年に氏康の譲歩によって上杉に対する三郎の人質提出と
上野および武蔵北部の提供がされた後も、謙信は下野を攻めたり越中を攻めたりで
武田と本格的に戦う事はついになかった。
やがて駿河が武田に攻略され、氏康が病に倒れると氏政達はとたんに武田との再同盟を模索するようになる。
執着していた氏康を除けば両家の信頼関係はぼろぼろだったとみていい。
321人間七七四年:2008/11/20(木) 00:07:32 ID:aSn6hU1u
>>319
武田は信玄書状でも深沢書状でも大勝を主張してるけどな。
特に参戦してた綱成に向けて大勝を述べて恫喝してるのは興味深い。
軍鑑だけでなく北条方の軍記も描写は全く異なりながらも
三増峠で北条が武田に敗れたことが一致してるのも興味深い。
322人間七七四年:2008/11/20(木) 00:08:00 ID:8Y7U0TdW
でもそれって三増峠は関係なくないか、それ以前も一向に謙信は武田へ攻撃しなかったのだし
もともと同盟結ぶのに無理があったとしか思えん
この合戦の直後ぐらいに上野に出兵して信玄を警戒させたぐらいしかしていないし
323人間七七四年:2008/11/20(木) 00:09:13 ID:8Y7U0TdW
>>321
そりゃ単に北条方の軍記が軍鑑参考にしているからじゃね
軍配で謙信の攻撃を受け止めるという記述は軍鑑と北条五代記ぐらいなんじゃ
324人間七七四年:2008/11/20(木) 00:11:08 ID:RdYQXdJC
そんなことより>>287に答えてくれよ。
325人間七七四年:2008/11/20(木) 00:15:33 ID:8Y7U0TdW
史料における具体的記述は
ttp://homepage3.nifty.com/yogokun/mimasetouge.htm
↑が詳しいんじゃね
ここの管理人は北条の側の史料は信用しないけど武田側の史料は信用するって感じで
公平ではなく結論ありきって感じも多少はあるけど、纏められている史料は有用
326人間七七四年:2008/11/20(木) 00:17:45 ID:aSn6hU1u
>>322
関係大ありだろ。
氏康はできると思って越相同盟を企画したが
信玄の小田原侵攻から三増峠の動きによって結局無理だった事が
明白に示されてしまった。
ここまで無理な事がはっきり示されたのも珍しい。
>>323
北条5代記は軍配で太刀を止められるわけないだろ、って意見だし
参考にしたという割には全然三増峠の描写が違うんだが。
>>324
面倒なやつだな。
該当部分を書いてあげるからちょっと待ってな。
327人間七七四年:2008/11/20(木) 00:29:13 ID:aSn6hU1u
深沢書状における三増峠の該当部分要約
「我々武田勢が小田原において働いてる間、北条勢は一向に出てこなかった。
やがて焼き打ちを済ませて本国に引き返す時、北条は氏照・氏邦を送り込んできたので
三増峠において大方討取ってやった。この時の北条勢は前代未聞の見苦しい敗軍であり
諸軍の嘲りの的であった。さらなる加勢があるだろうと備えていたが氏政は
味方の北条勢が敗北している間中ずっと追いかけてこなかったので、
こちらは寄り道をしないで帰陣した。」
328人間七七四年:2008/11/20(木) 00:37:32 ID:RdYQXdJC
おいおい、別に具体的でもなんでもないだろ。
焼き討ちのことも触れてるけど焼き討ちの規模も詳しくは書いてないね。
なんか焼き討ちの規模が分かる資料ある?
329人間七七四年:2008/11/20(木) 00:42:38 ID:aSn6hU1u
>>328
具体的だろ。これだけ書いてるのになにが不満なのか。
一応深沢書状では蓮池まで焼いたといってるな。
蓮池まで踏み込まれて焼かれてるって事は周辺の侍屋敷は丸焼けっぽいが。
文字通り城だけ残ってる状態だな。
330人間七七四年:2008/11/20(木) 00:49:13 ID:aSn6hU1u
後、信玄が三増峠後に出した書状では
氏政の館をはじめとしてことごとく放火したとも言っている。
331人間七七四年:2008/11/20(木) 00:50:29 ID:8Y7U0TdW
信玄書状は誇張が入ってるだろうけど
氏政の方も書状で小田原が焼かれたと書いているから、多少の焼き討ちがあったことは確実
332人間七七四年:2008/11/20(木) 00:57:45 ID:8Y7U0TdW
>>326
何故って、それ以前の駿河出兵でも武蔵出兵でも上杉役に立ってないし、何で三増峠だけ取上げるのか
結局上杉はかろうじて三増峠の後に関東に出兵して信玄を警戒させて、信長に仲介頼ませるぐらいでさ
333人間七七四年:2008/11/20(木) 01:01:32 ID:2FFj4ME7
武田方は、史料やソースを提示して、当時の状況や戦況推移をしてるにも関わらず
北条方は、何一つ自分たちの反論根拠となる史料もソースも提示しない
いつも、武田方には質問質問で、自分たちは一向に具体的な根拠を述べる気配も見えない
で、話題を濁したり、摩り替えたり、煽り合戦に持ち込もうとしたり、これはさすがに酷すぎる

明らかにフルボッコだな。
ここまで一方的になったら
三増峠の戦いで武田が北条に大勝したのは事実と認めざる負えないよ。
334人間七七四年:2008/11/20(木) 01:06:43 ID:aSn6hU1u
>>332
北条は預かり知らぬことではあったが
信玄が第一次駿河侵攻の後で甲斐に戻った後
甲越和与を成立させているからな。
将軍や管領職の権威をフル活用していた謙信にしてみれば将軍を通じて行われた
この和与は拒否しがたかったのか、それとも北条にいっぱい食わせるためにあえて乗ったのか。
北条にしてみれば上杉は駿河や武蔵では動いてくれないが、それは局地戦だからで
ここぞという時には動いてくれるだろう、という期待があっただろう。
そして本拠小田原に信玄がなだれ込んできて北条が何度も救援要請しても無視。
小田原が焼き打ちされ三増峠で敗れても知らん顔。
本拠が襲撃されても助けてもらえないというのは明確な信用不信だと思うが。
氏康を除いて北条家臣や氏政に与えた衝撃は大きかっただろう。
335人間七七四年:2008/11/20(木) 01:11:04 ID:RdYQXdJC
>>333
低脳な煽りだな。今更氏照書状、深沢矢文、軍艦、五代記その他に目新しい資料でもあんのかね?
この辺の資料に誇張捏造入ってるから議論…にも満たない言い争いになってる。
深沢に前代未聞の云々以外になんか書いてあったかと聞いてみたらこれだよ。

ま、とりあえず言っておくと、


 お 前 が 史 料 出 し て 批 判 し て み ろ

336人間七七四年:2008/11/20(木) 01:18:10 ID:2FFj4ME7
そんな逃げ口上はいい。

早く武田方の説明に対して
おまえも、その史料を基に自分の意見を主張してみろ

下らん煽りや話のすり替えなんか、傍から見てると一目瞭然なんだ
いい加減、逃げずにまともな議論をしろ
出来ないなら、どう見ても、武田方の方が知識は豊富だし正しい姿勢で議論をしている
すなわち、武田方の主張の方が正しく聞こえる。
337人間七七四年:2008/11/20(木) 01:31:19 ID:RdYQXdJC
>>336
スレの途中から見てると、お前の煽りの方がよっぽど汚らしいんだけどね。
北条側も史料を元に意見してるのに明らかに無視して北条側を批判してる。
お前自身は何も意見を出さず、ただ煽り入れてるだけ。
338人間七七四年:2008/11/20(木) 01:34:20 ID:aSn6hU1u
>>335
その中に信玄書状や氏康が三増峠で戦死した古河公方の重臣の奥さんに
お悔やみを述べてる書状なども追加してくれ。
>>333ではないが、議論にも満たない言い争いとはひどい言い草だ。
武田派は深沢書状の状況や記述から見て三増峠に参戦していた綱成に
述べている事でもあり信用性があると述べたり、
周辺状況などにも説明をしている。
>>333ではないがそろそろ北条方からも見解や説明が欲しいところだ。
読めるのはおそらく明日以降だろうが、期待している。
339人間七七四年:2008/11/20(木) 05:49:06 ID:fxMxtbst
どっちも上杉頼みじゃないか
上杉が裏切って動かなかったから上杉の呼応を前提にした配置分けしてた北条に不利な転回になっただけで、逆に上杉が動いていたなら
○上杉が関東に兵を送ってたなら、武田は北条上杉に挟撃ちにされる
○上杉が信濃に兵を動かしたら、武田は多大な犠牲を覚悟で北条の追撃を受けながら急いで帰国しなければならない

不義理者の謙信との不確かな盟をあてにした北条も北条だが、武田の命運を謙信の腹一つに預けて二万の軍勢かき集めて遠征する信玄も信玄だな
340人間七七四年:2008/11/20(木) 07:15:56 ID:J7/9T76A
この頃の謙信は
こっちの義理を立てればあっちの義理が立たないという感じだ

北条への義理(越相同盟)ばかり優先すると、武田と結んだ簗田&里見ら関東諸侯に悪い
そして何より、日本海交易で友好関係にあった能登が乱れてる
謙信にとって北陸方面の安定を願う、越後国内の商人たちは大事
更に朝廷(商売上のお得意様)から命じられた甲越和与も無視できない

かと言って武田ばかり優先すると、北条や今川に悪い
ので、一応上野あたりには出兵し、信玄を駿河から甲斐に戻らせたり
利根川を挟んで長対陣に持ち込んだりはしてる

なんとなく三増峠関係なく、上杉〜北条間は不信感が濃かったように思える
上杉的には、北条が同盟条件を履行しないとか、西上野を共同で攻める計画も氏政が嫌がったり
北条的には、謙信が北陸に執着し過ぎてたり、佐野方面に向かってしまったり
341人間七七四年:2008/11/20(木) 07:28:06 ID:47hs2ZU5
迫撃戦かあ。
寡兵でありながら、砥石崩れで武田に大ダメージを与えた村上義清。
有利な情勢であったにもかかわらず、たいした戦果を挙げられなかった北条氏康。
村上義清>北条氏康は真理なのかなあ?

342人間七七四年:2008/11/20(木) 08:38:23 ID:RdYQXdJC
どっちも上杉の動向を探りながら牽制しあってた感じだな。
それであえて氏康も篭城策で時間稼ぎを選んだのかな。
この間必死に上杉に出兵依頼を送ってた氏照がずっといらついていたと。
343人間七七四年:2008/11/20(木) 09:45:24 ID:fxMxtbst
つまり上杉をあてにしてた北条は戦略が外れて小田原の一部を焼かれ、一方武田は上杉が気になって早めに決戦に挑みたかったが北条にスカされて撤退、その際いくらかの被害を被る
ただ上杉があてにならない事を知った北条は編成を見直さなくてはならなくなり、どうしても駿河は手薄に成らざるを得なくなった
そこに武田は付け込んで駿河を得るも、それと引き換えに嫡男と重臣を失う
双方痛み分け
よって引き分け
武田完勝?それは無い
344仙台藩百姓:2008/11/20(木) 11:31:27 ID:N1+VpyLr
義信らの反抗は北条とは関係ないお( ^ω^)
対北条戦略は完勝と言っていいぐらい上手くいったおね( ^ω^)
345人間七七四年:2008/11/20(木) 11:42:11 ID:fxMxtbst
>>344
いいえ引き分けです
これね、決定した事ですから(`ω´)v
346人間七七四年:2008/11/20(木) 12:34:36 ID:cutQiQ6p
北条はレイプされただけ。実質引き分けです。
347人間七七四年:2008/11/20(木) 12:53:42 ID:eLACOyxU
>>334
上杉は上洛のため北進したかったから、
さっさと関東の情勢から切り抜けたかったんだろうね。
348人間七七四年:2008/11/20(木) 14:59:38 ID:fxMxtbst
>>347
んんにゃ
あの女は病で倒れる前にしっかり関東征伐する気満々だった
あの女としては北条はいずれ倒さねばならない相手
一時的に手を盟を結んだからといって共に武田を倒そうとは思えない仮想敵国
間違っても上杉領に攻めてこようとは思わない武田を潰して北条が台頭するよりも、大人しくていい子の武田を生かして北条に釘をうっておこうとしたのだろう
どうせ武田北条は決着つくわけねーし、お互い消耗するだけならやらしときゃいいわって
349人間七七四年:2008/11/20(木) 16:41:08 ID:QUIOQ3HQ
深沢矢文のどこに三増峠に綱成が参加していた記述があるんだ?
兄弟が参加したことしか書いていないようだが
350人間七七四年:2008/11/20(木) 19:10:27 ID:2FFj4ME7
あれだけ言われたにも関わらず
結局ID:RdYQXdJCは、何も自分からは具体的に根拠を基に話してはいなんだな・・

思うけど、こーいう知識のない人間は
北条に関わらず、ある特定の大名の擁護しない方がいいよ

傍から見てて、その擁護されてる大名がものすごく弱く不利な印象に映る
知らないなら最初から、シャシャリ出ない方が良い
351人間七七四年:2008/11/20(木) 21:40:53 ID:nStrSJE/
>>339
信玄はあらかじめ謙信を抑える為に甲越和与を結んでいたからな。
謙信にしてみれば越相同盟を結んだ時点で佐竹をはじめとする関東衆に
かなり白い目でみられていたからな。
最も謙信にしてみれば越相同盟で関宿の現状維持を北条との条件にした事は
関東衆のためでもあったはずだが。
いづれにせよ、謙信がこれ以上北条に肩入れする事は関東衆のさらなる信用低下を
生んでしまう。越中で領土の拡大に励めることでもあるし、そっちに集中することにしたんだろ。
>>343
おいおい。仙台藩の人にも言われてるが
義信事件は北条とは無関係。
しかも三増峠は北条方も十分被害うけてるだろ。
>>346
レイプされて引き分けというのがわからない。
>>349
誰も深沢矢文にあるとはいってないと思うが。
三増峠の該当部分は>>327
ただ北条記・軍鑑・北条五代記のすべてが綱成が参戦してた事を記しているな。
352人間七七四年:2008/11/20(木) 22:22:57 ID:0surI2ba
わざわざ荒れる方向に持って行こうとする>>350の神経が理解できない。
353人間七七四年:2008/11/20(木) 23:10:47 ID:V4/0qM96
ってことは一次史料にはやっぱ綱成の参戦は無いのか・・・
となると>>270あたりの意見は前提が間違っているのか。
354人間七七四年:2008/11/20(木) 23:18:55 ID:nStrSJE/
>>353
>>270はもともと戦略的意味を残してる事を述べているし
第一、武田遺臣、北条遺臣の記した2次資料すべてが綱成参戦を肯定してるのに
何を間違ってるというのか。
355人間七七四年:2008/11/20(木) 23:28:12 ID:ImQ0vnS9
北条厨フルボッコww
356人間七七四年:2008/11/20(木) 23:28:27 ID:V4/0qM96
逆に言えば二次資料にしか無いという事では
その上、軍鑑は北条五代記に影響を受けているし、北条記は成立年代不明で信憑性が怪しいものだし。
何を間違っているって具体的には273
357人間七七四年:2008/11/20(木) 23:31:14 ID:nStrSJE/
>>356
全然影響を受けていないんだが。
5代記では軍鑑と全然三増峠の書き方が違うし、
第一5代記では軍鑑の太刀を軍配でとめられるわけないだろ、っていってるんだから
むしろ否定だろ。
>>273を間違えている根拠なんか何もないはずだが?
358人間七七四年:2008/11/20(木) 23:38:55 ID:V4/0qM96
>>357
>第一5代記では軍鑑の太刀を軍配でとめられるわけないだろ、っていってるんだから
明らかに軍鑑を読んだことがあるって証明じゃないか?
影響を受けているからってすべて同じに書くわけでもないだろうに、それじゃ盗作じゃないか。

>>273は綱成が参戦していることが前提
でも1569年の信玄書状でもこの時の矢文でも他の一次史料でも、綱成の参戦には一言も触れていない。
まあ氏照氏邦なんかと同格というわけでは無いので省略という可能性も考えられなくも無いが、
それにしても綱成が参戦していたなら矢文でそのことに触れるのが普通だと思うが。
359人間七七四年:2008/11/20(木) 23:48:11 ID:nStrSJE/
>>358
そんな事をいうなら影響を受けた所をあげられるわけで?
すべて、どころか全く違うんだよ。この二つの2次資料における
三増峠の書き方は。

仕方あるまい。書状でいちいち一武将の名前すべてをあげるわけもない。
軍鑑は武田遺臣の中枢にいたものの口述筆記を原本としている可能性が高く、
5代記は北条遺臣の三浦が記している。
さらに北条記にいたるまで綱成参戦を記している。
ないよりはあるとみる根拠のほうが明白だな。
そもそも武田の戦果を記した一環で三増峠が出てくるのだし。
360人間七七四年:2008/11/20(木) 23:58:46 ID:+a7SmRCa
参戦はしてたけど氏康氏政隊の方にいて信玄攻撃部隊にはいなかったとか。
361人間七七四年:2008/11/20(木) 23:59:46 ID:2FFj4ME7
>>352
荒らすのは片方が知識がないからだろ?
質問ばかりのスタンスで自分からは何も具体的な根拠も意見も言わない人間と
真面目に根拠やソース、意見を繰り広げる人では
議論としてフェアじゃない
両方、知識も根拠もあれば、スレは荒れないよ
荒れるのは片方が無知なときだけ
362人間七七四年:2008/11/21(金) 00:04:45 ID:G3Qkjh0X
もういいから黙ってろ
363人間七七四年:2008/11/21(金) 01:47:43 ID:3aH+ejI+
北条綱成に関しては考えたこと無かったが、確かに参加しているかどうかは疑問が残る。
上の人も言っているように矢文では三増峠で敗れたのは氏照氏邦の名しか載っていない、
何故ってなるな、信玄書状でも破ったのは氏康の子供たちとなっている。
またこの時期の綱成は深沢城か玉縄城にいたとして、そこからどうやって氏照らに合流したのか、
深沢城からでは氏政の本隊に合流しているだろうし、玉縄城にいたとしたら、
どうやって武田を追い抜いて氏照らと合流できたのか、
武田が鎌倉行くって噂を流したのが事実なら出撃なんて出来るはずない気もする。
それでなくても、武田が北上するまでは城から出撃なんて危険すぎるし、
wikiによると最近発見された史料によると参加していたとなっているが、一体なんだろ?
364人間七七四年:2008/11/21(金) 02:27:22 ID:3aH+ejI+
上のほうで
>越相同盟にも楔を打ち込み
>関東の反北条勢力へのいい宣伝にもなって活性化に成功、
>さらには駿河の北条勢の呼び戻しも成功。
などとあるが、具体的には何のことだろう。

まず越相同盟だけど、1569年の最初から北条は上杉に参戦を呼びかけているが上杉は動いていない、
別に三増峠の時に限らず頻繁に書状を送って参戦を促している、
三増峠との関連性を見つけるのは困難、むしろ三増峠後の方が越中問題が片付いたことにより
関東へ出兵することになり武田の動きを阻害することになっている。
駿河攻めの最中に岩村田へと動くこと、
また深沢矢文によるなら上杉が兵を出さなかったので戦いは無かったが
前年に上杉のため武田が川中島に出陣したことを言っている、
故に三増峠の戦いによって楔を打ち込んだということには根拠が無いと思う。
相越同盟が成り立たないのは両者の利害関係の対立などと、
武田による越中や義昭信長の外交の成果と考えるのが自然だと思う。

関東の反北条勢力への宣伝だが、これは効果があったのか無かったのか、
一応三増峠に限らず戦果は書き並べて送っているようだが、
これを受けて何らかの行動を起こした勢力はあったのだろうか、
里見などによる相模襲撃は三増峠の結果というには時期がずれていて、
これはむしろ駿河の大半を領有したことのほうが影響あったのではと思う。

駿河の北条勢呼び戻しに成功だが、この戦いの結果配置が変わった武将はいたのだろうか、
またもし関東方面を警戒させるための9月からの遠征だったとしたら、
三増峠後2週間ほどして武蔵を攻めているので結局不十分だったということでは。
また9月前にも武蔵を攻めているし、1570年になってからも上野や武蔵を攻めているので、
三増峠だけを特別視するのはおかしいのではないかと思う。
どちらかといえばこれは1571年の徳川に対して行った威力偵察みたいなものだったのでは、
本拠を焼き討ちして即逃げ出すという点では藤沢降伏後の小笠原焼き討ちがより近いけど。

故に>>320のレスは一部だけを抜き出して三増峠の影響を過大に見せようと
ミスリードを誘うような印象操作を行っているように見える。
365仙台藩百姓:2008/11/21(金) 12:35:42 ID:3xQ9bSB1
小田原まで侵入したと言う事実が重要だお( ^ω^)
数的に特別勝っていたわけでもない武田が本拠地まで押し寄せたのは
北条が劣勢に立たされていた何よりの証拠だおね( ^ω^)
今となっては戦の詳細など知りようがないが、これらは駿河争奪戦の一環であり
結果、北条は敗れて再同盟という言わば
「駿河は貰うけど今まで通り仲良くやろうぜ」的な武田にとってはこの上なく都合よく
北条にとっては屈辱的な結末だったのは間違いないお( ^ω^)
366三増峠ってどお?:2008/11/21(金) 15:22:14 ID:G0SrTKHO
>>201-仙台藩百姓さんへ。面白く読ませてもらいました。

>>201さんへ。「氏康病気説」について、少し誤解されているようなので…
次回「氏康は信玄に暗殺された」スレで、語ります。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1179748341/l50
なので、>>199さん、謙信の動向は次々回となります。スミマセン。

>>202さんへ。遅れました。スミマセンがもう一度トライしてみてね。
http://www7.uploader.jp/home/k1361/の
ファイル名「No.3 k1361_uljp00003.pdf」をクリックして下さい。
@画面が変わるので、パスワード「1」(半角英数字の1)を入力してみてね。
Aまた画面が変わったら「ダウンロード」をクリックしてみてね。
これで、PDFが見れるはずです。
ダメなら連絡ください。
みなさん風邪に気をつけて!! 恐々謹言。
367人間七七四年:2008/11/21(金) 15:26:31 ID:sqkLhmyD
北条としては上杉との同盟強化が狙いだろう。
単独で武田を破るより北条・上杉連合軍という名目で破ることで確固たるものにしたかった。
要するにこっちで武田を引き付けておくから半分手柄やるよってこと。
それを恐れていたから武田も早々に切り上げたわけだし。
結局上杉は浅井長政にはならなかったわけだが。
もし参戦していたら武田は金ヶ崎の信長のように無事に撤退できていただろうか興味深いところではある。
368202:2008/11/21(金) 16:03:30 ID:jC6dku4b
>>366
いただきました。ありがとう。
369三増峠ってどお?:2008/11/21(金) 16:04:47 ID:G0SrTKHO
>>367さんへ。もしくはミスター金ヶ崎へ。多分あなたのレスはよく拝見していますよ。
>もし(謙信が)参戦していたら武田は金ヶ崎の信長のように無事に撤退できていただろうか興味深いところではある。
甲越和与が8月に成立していたそうだから、
謙信は越山せずに越中に向かった(8月6日)のではないだろうか?
そして信玄は関東へ(8月27日)。

>単独で武田を破るより北条・上杉連合軍という名目で破ることで確固たるものにしたかった。
これは、北条と謙信では意見が分かれていたらしいんだ。
@北条の戦略は書状を見る限りでは、
謙信が越後→信濃へ。
北条(氏政・氏照?)が武蔵or相模or駿河→甲斐と別々に侵攻を企図してようだよ。
A謙信の戦略は、北条+佐竹ら関東衆全員が沼田(厩橋)で越後勢と集結して、(8月15日に)信濃に侵入するものだったようだ。
謙信は、氏政を「表裏の人」をみなして、心から信頼せず、
一方氏政は、よほど謙信と同陣するのが嫌だったみたいだね。



370人間七七四年:2008/11/21(金) 16:20:51 ID:jC6dku4b
>謙信の戦略は、北条+佐竹ら関東衆全員が沼田(厩橋)で越後勢と集結して、(8月15日に)信濃に侵入するものだったようだ。

謙信らしい壮大な構想ですが、相変わらず絵に描いたもちみたいだなあ。
この通りだとしたら北条と関東衆との領土抗争を終焉させた自負が謙信にはあったのでしょうけれど、
関東衆は北条に対する疑心暗鬼があって「こんな境界線が永続的に続くわけないじゃなーい」と言いたかったんでしょうかねー。
北条も氏康は越相同盟の継続に積極性を感じますが、氏政は消極的な印象を受けます。
371三増峠ってどお?:2008/11/21(金) 16:36:28 ID:G0SrTKHO
ID:jC6dku4bさんへ。何でも何時でもいいので、読み終わったら遠慮なくレス宜敷ね!!
>謙信らしい壮大な構想
これは謙信の基本的な戦略だよね。関東を平定してから、越中ルートで上洛。
景虎越山(1560〜1561)とまったく変わらないねぇ。恐々謹言。
372人間七七四年:2008/11/21(金) 19:11:56 ID:/Us/NDpV
>>365
非常にシンプルで分り易い結論だな。
確かに自分たちより寡兵に
本国まで攻め込まれて、国まで取られて
挙句は追撃戦でも返り討ちにあって被害甚大
だからこそ、屈辱的とも取れる武田との再同盟を選ばざる終えなくなったんだろーな
言うなれば、同盟というよりも降伏に近い停戦とも捉えられるな
373人間七七四年:2008/11/21(金) 19:20:54 ID:m62Cr7o3
途中経過は北条不利でも、最終的に武田は織田と組んだ北条に滅ぼされてるんだよね?
(´・_・`;)
374人間七七四年:2008/11/21(金) 19:34:15 ID:48O4gju/
そんな苦しい事を言わなければ自尊心を保てないのか、北条鮮の人民は
375人間七七四年:2008/11/21(金) 20:02:34 ID:m62Cr7o3
>>374
でも実際武田は北条に滅ぼされてるんだよね?
(´・_・`;)
376人間七七四年:2008/11/21(金) 20:29:34 ID:48O4gju/
「北条に」じゃないよ。
それをいうなら北条は、太田に滅ぼされたということが出来る。
足軽に滅ぼされたともね。
377人間七七四年:2008/11/21(金) 21:53:46 ID:CHIoAVpk
なんで武田ヲタっていちいち煽り口調で瑣末なことでも揚げ足とって
なんでも言い返さなきゃ気が済まない連中ばっかなんだろうね。
そのくせ自分はまともに議論してるつもりになってるw
こんなスレタイからして糞スレ丸出しの糞スレでも全力投球で必死w
そりゃどこ行っても嫌われるわwww
378人間七七四年:2008/11/21(金) 22:12:38 ID:sxHHFuKR
>>364
いちいちもっともな意見だとは思う
武田も確かにこの一連の遠征で得たものはほとんど無いような感じだが
でも北条はもっと得たものが無いと思う

>>365
煽りではないが規模の割に北条は本拠地まで攻められることが多い気がする
この点は畿内の大名と似ている、本拠地攻められたり焼かれたりしても
余力を十分に残していて反撃などする点でも
他にも美濃の斉藤氏なども何度か本拠地を攻められたりしているが
ほとんど影響を受けていないのか威信を大きく落としたということも無い
これは平野部の特徴なのか

>>369
1570年ぐらいに北条に対して一緒に武田を攻めようと書状で促しているな
379人間七七四年:2008/11/21(金) 23:31:02 ID:3+RmeAPy
>>364
ミスリードとは失礼な話だ。
こちらのレスをあまり受け取れてないという印象だが。
>>365もいうように北条の本拠に攻め込み焼き打ちしたという事実が非常に大きい。
そりゃ前から北条は上杉に要請はしてる。だが本拠を襲撃されても助けてもらえないとなれば
その信頼関係は絶望的と思わざるを得ないだろう。この北条の上杉に対する不信をうえつけるのに
成功したのが第一の成功。

そもそも書状で喧伝できるだけの成果をつくりあげたのは十分な話だと思うが。
>>373
途中経過っていうか同盟結びなおして代も変わった後で起きた御館が原因で決裂したのに
それでいうことなのだろうか。

>>377
詰まらん事に必死になってあちこちで嫌われまくってるのは織田厨だけどな。
嫌ってる嫌ってると吹くのも武田をさんざん叩いて逆襲された織田厨だし。
380人間七七四年:2008/11/21(金) 23:49:37 ID:48O4gju/
北条様は領民に優しい近代的な善政大名
織田様は何をやっても計算のうちである天才大名

いい加減こんな考えは捨てたほうがいいな
381人間七七四年:2008/11/23(日) 00:37:12 ID:lsHOC3nt
かといって武田様が領民に優しい善政大名でも何をやっても計算のうちの天才大名であるわけでもないけどな。
382人間七七四年:2008/11/23(日) 01:29:16 ID:7V/pkRZw
誰もそんな事いってないだろw
どっちの厨か知らんが武田厨は天才なんて言葉に執着しないw
383人間七七四年:2008/11/24(月) 04:33:39 ID:ONykb/Et
まあ北条厨の知能の低さは評判通りであって今に始まった事じゃないけどな
384人間七七四年:2008/11/26(水) 17:13:03 ID:PU/gv5zz
北条厨の頑張りって馬鹿丸出しだから見てて痛い。
反論なんてもちろん出来なくて、ただ必死で否定のための否定を繰り返してるだけだもんな。
385人間七七四年:2008/11/28(金) 07:33:57 ID:gj5XbCeU
なにをこそこそぼやいてるんだ。
386三増峠ってどお?:2008/12/01(月) 11:45:43 ID:O+RWa1Yh
>>201さんへ。
1.三増峠で氏康が無能だったかどうかはわからないが…、
第二次国府台の戦い(1564)の後から氏康は、内政・外交に専念し、氏政に前線指揮を任せてるから、
三増峠でも前線指揮はとっていないのではないだろうか?
もし、とっていても五年のブランクがあるから勘が鈍っていたのではないなかぁ?

2.氏康病気説について
これは「氏康は信玄に暗殺された」スレで、語ります。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1179748341/l50

みなさんへ
作家の工藤章興氏によると、現在の11月24日(私はもっと遅いと思うのですが…)が、
旧暦の10月6日に当たるそうです。天気に興味ある人は、津久井あたりを調べてみれば、
なぜ武田軍が甲斐上野原の諏訪大社を焼いたのか? わかると思います。
では次回「謙信の動向」にて、恐々謹言。
387人間七七四年:2008/12/01(月) 22:36:51 ID:BE+ndpL4
期待してます。
388人間七七四年:2008/12/01(月) 23:01:19 ID:W7x/n5XV
広島の俺にしてみりゃ
おまいらみんな雑魚なんだけどなww

まあどっちでもいいやw
389人間七七四年:2008/12/02(火) 20:16:56 ID:DYHi+M89
広島?
ああ、国人盟主のまま豊臣時代を迎えた原始的な大名ですね。
後北条どころか若年の信玄程度のヌルい統制にすら至らなかった。
390人間七七四年:2008/12/05(金) 01:43:31 ID:k6ACtbcf
広島って臭そう
391人間七七四年:2008/12/07(日) 01:08:43 ID:yFaUDXhg
ほうとうと葡萄くらいしか売りがない山梨ごときが何言ってるんだかw
392人間七七四年:2008/12/07(日) 10:36:00 ID:TQt2UHiV
山梨相手に必死になる広島w
現代でも戦国時代でも最下層w
393人間七七四年:2008/12/07(日) 17:01:22 ID:yFaUDXhg
神の領域…東京・神奈川という現首都圏二大都市の元を築き上げた北条
大都会の領域…大阪の繁栄の基礎を築いた本願寺
都会の領域…名古屋の英雄織田
(超えられない都会の壁)
地方都市の領域…中国地方の中核都市広島を栄えさせた毛利
地方都市の領域…東北地方の中核都市宮城を栄えさせた伊達
地方都市の領域…北九州を繁栄させた大内・大友
(ド田舎の壁)
新潟(笑)上杉
山梨(笑)武田
394人間七七四年:2008/12/07(日) 17:51:32 ID:O5b0mAmz
名古屋は別に信長が発展させたわけでもないような。
江戸時代の影響のが強いだろ。
信長が自ら作った安土は今別に都会じゃないし。
395人間七七四年:2008/12/29(月) 17:39:32 ID:9g4/UV6s
安土って今はどうなんだろ?
396三増峠ってどお?:2009/01/05(月) 14:51:14 ID:FrrmrG7x
みなさん、明けましておめでとう。本年も宜敷お願いします。
「謙信の動向」取りまとめ中ですが…

>>393さんへ。
神奈川の繁栄は、横浜港の開港じゃないの?
すると、幕府と諸外国になる。
397人間七七四年:2009/01/05(月) 17:12:06 ID:cQzYTRbO
>>395

マムシ注意!! の看板が立っているよ。
398人間七七四年:2009/02/01(日) 03:53:38 ID:URtpIQC0
保守
399人間七七四年:2009/02/04(水) 12:15:47 ID:ibSi68A9
現在は
信長の野望で過大過小されている武田上杉三傑専用
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1232872856/
で三増峠の話になっている
400人間七七四年:2009/02/04(水) 14:17:49 ID:38Ogh1fg
>>399
横から割って入る必要のないただの喧嘩状態だなw
401人間七七四年:2009/02/05(木) 23:47:02 ID:kEsIyV8Z
>>399
まるで成長していない・・・(AAry

いや本当にコピペでもしているんじゃないかと思うぐらいここと同じ主張の繰り返しだ
402人間七七四年:2009/02/06(金) 21:28:52 ID:SVGTsl9Y
確かにリンク先何度も見たようなレスの応酬。

新たな話題として政治的な側面からで、
武田は遠征からの帰国直後の10月12日に出した軍役定書が複数残っている。
その中で鉄砲を特に用意するように、(中略)村から出すものは適当なものではなく
有徳の者武勇のある者を不足無く用意すること
帰国直後にこのような行いをしたということから、
少なくとも楽勝ではなかった・現状では北条相手に不安を覚えた、
あるいは被害が多かったという結論へと繋がるのではないだろうか。
403人間七七四年:2009/02/06(金) 22:00:09 ID:sis7CIuH
上洛戦も控えてるしな 武器の補充もしないとならんだろう
いいがかりにもほどがあるな 
404人間七七四年:2009/02/06(金) 23:47:55 ID:SVGTsl9Y
1569年の段階で上洛戦を考えるはずもないし、武器の補充なら武器の補充だけ定めれば良かっただけじゃ。
405人間七七四年:2009/02/07(土) 00:56:24 ID:tST2RwtJ
>>402
その理屈だと北条も信玄襲来で総動員令に近いもの出してるから
北条は全壊に近い打撃をどこかで武田相手に受けてたんだろうか?
武田としては越相同盟の楔も打ち込んだし、牽制もした事だし、
小田原焼き討ちで宣伝材料も得た事だし、で
いよいよ強敵北条相手の駿河攻めに全力傾注って事で
戦力の増強と再編成を図ったんじゃないかね。
実際これ以後駿河は武田に順調に攻略されていくし。
406人間七七四年:2009/02/07(土) 09:15:43 ID:ZxASccGl
鉄砲重視するなんて当然だしね
三増で北条をフルボッコした戦果に満足してさらに装備を充実させただけだろう
407人間七七四年:2009/02/07(土) 12:53:26 ID:hOYERJbb
しかし北条厨もしつこいな
どうみても負けてるのに証拠はないとかいいがかりと屁理屈ばかり
戦の本当の細かい状況までは参加してなきゃわからんが
その後の展開やら状況を見てみれば北条が本拠を焼かれ駿河を奪われ
氏康が死んだ途端に再同盟を打診してくるあたりボコボコじゃねーか
なさけないにもほどがある
408人間七七四年:2009/02/07(土) 16:02:29 ID:6lx6mQ06
久々に伸びてる
>>402
>>405
武田と同様北条も合戦直後の10月11日に軍役を
駿河西部大半が武田の手に落ちた1569年末には、人足改に小田原城など各城の普請を行っている
更には武田は後に棟別改したりとどっちの家もともに軍事力強化に務めている
お互いの家にとって負担の多い戦争だったんだろうと思う
しかも得た物は武田は駿河の大半手に入れたが北条は何も得ていない。
409人間七七四年:2009/02/18(水) 03:01:17 ID:nGv/ajkg
マジで言わせてもらうと
北条をビビらせたのは、三増峠や小田原放火でもなく、
廿里合戦だね。
北条は小山田信茂隊の急襲に驚愕してしまい、敗北した。
それ以降、北条は後手にまわってしまったね。
小田原放火や三増峠も
前哨戦である廿里合戦の勝利によってもたらされた。
さすが武田家最強、小山田信茂。
廿里合戦を提示しないから、北条厨が騒ぐんのだろう。



410人間七七四年:2009/02/18(水) 03:17:56 ID:4NuO2QpQ
>>407
負けたっつーことより、戦後の影響は三増峠の勝敗より
上杉が北条に援軍送らなかった事実の方が大きいからな。
411人間七七四年:2009/02/19(木) 17:32:59 ID:CgAUKwn2
小田原急襲の一手で劣勢の駿河情勢を一気に立て直した手腕は、
戦略家としての信玄の真骨頂と言えるな。

俺的に氏照氏邦は好きだから、この戦はあんま好きではないんだが
412人間七七四年:2009/02/19(木) 21:26:59 ID:DAcIfyQd
あれで上杉が北条方で参戦してたらどうなってたかわからんけどな。
結果オーライってことでいい具合に終わったが、
信玄かなり危ない橋渡ってたな。
413人間七七四年:2009/02/19(木) 23:06:23 ID:UMxG5lus
なんで上杉が参戦するの?
武田と上杉はそんなに仲悪くないよ。
武田の駿河攻略・小田原攻めは、
上杉にとっても都合がいいんだから。
414人間七七四年:2009/02/19(木) 23:25:01 ID:+Nj0AfvD
>>413
謙信が義将で同盟国の北条の為に動いてれば武田は終わってたけどね
謙信が義将じゃなかったから信玄は助かったんだよね?
415人間七七四年:2009/02/20(金) 00:29:31 ID:a+/38exg
>>414
そういう安易に型に当てはめようとするものの見方を続けると
何ら本質を見抜けなくなるから改めたほうがいいよ。
416人間七七四年:2009/02/20(金) 01:04:43 ID:aevTJJbr
北条は何を失敗したんだろ?
鉢形・滝山〜三増峠ではそれなりの兵数をかき集める事ができたわけだから、
勝機は結構あったでしょ。
やっぱり、小田原で武田をもう少し足止めさせれば、
かなり状況は変わってたんだろうなあ。

417人間七七四年:2009/02/20(金) 01:21:43 ID:C3EclHDB
そもそも上杉が始めから同盟の申し出を蹴っていれば
北条も野戦策を選んだはず。
窮鼠と化した北条に武田も迂闊に手を出せなくなり、結果的に駿河攻略は不可能に…あれ?
418人間七七四年:2009/02/20(金) 08:45:55 ID:a4BOZOy2
どっちみち北条はボコられるだけだな
419人間七七四年:2009/02/20(金) 17:16:36 ID:C3EclHDB
そもそも小田原攻撃〜三増峠はボコられたわけではないのだが。
420人間七七四年:2009/02/20(金) 22:24:24 ID:9ddUvUGj
ヒキコモリだからな 北条鮮は
421人間七七四年:2009/02/20(金) 22:44:03 ID:u62KYnri
>>399
浦野と豊前の所領など一部の人のレスに関しては参考になったな。
422人間七七四年:2009/02/21(土) 08:08:44 ID:ECbjEtyL
三増でボコられたショックで病死する氏康ワラw
423人間七七四年:2009/02/21(土) 08:16:03 ID:GFmkOuMf
あっちのスレ以上に頭のおかしいのが湧いてるみたいだなこのスレ。
424人間七七四年:2009/02/21(土) 08:17:25 ID:ECbjEtyL
笑わせんな お前ら北条厨の基地外っぷりを棚に上げてよくいうぜ
425人間七七四年:2009/02/21(土) 11:39:11 ID:fPwofEA9
>>423
頭おかしいってどんな人?
あんまそういう認定はよくないと思うが。
426人間七七四年:2009/02/21(土) 18:04:48 ID:1XDgZRA0
君の真上にいるよ〜
しょーもない煽りを繰り返してるだけのおかしいのが
427人間七七四年:2009/02/22(日) 00:35:00 ID:d/GoaRCM
氏照が津久井で待ち構えていた、ってなっているけど、
実際は違うんじゃないかな。
兵をかき集めるのに時間がかかって、
急いで迎撃しにいったけど、武田すぐそこまで来ていた。
挟劇地点をもっと南にしたかったんだ。
ドタバタしたのは武田じゃなく、氏照のほうかもね。


428人間七七四年:2009/03/09(月) 23:13:23 ID:dBwLzMNE
保守
429人間七七四年:2009/03/26(木) 10:11:46 ID:aQjHBEZ6
保守
430人間七七四年:2009/04/19(日) 12:21:14 ID:LNMIUpyj
保守
431人間七七四年:2009/04/19(日) 17:56:45 ID:Is1TY9vG
小田原からの追撃部隊のなかに氏康っていたの?
氏政が引き返すときに小田原の父になんて報告しよう・・・って凹むシーンの
小説を読んだ記憶がある。氏康は留守番じゃなくて?

実際は?
432人間七七四年:2009/04/19(日) 20:33:10 ID:13RcBE9i
軍記物では氏康は参加していることに、
一次史料上は参加の確認も留守番の確認も出来ない、
深沢矢文では『氏政』がと記されていて氏康の名は出ていない。
実際は氏政は追撃部隊を率いていた可能性が高いが、氏康は留守番の可能性のほうがやや高いぐらいかと、思う。
433人間七七四年:2009/05/03(日) 02:44:13 ID:+MsO3p/9
氏照本陣を突いたのが真田昌輝って話どっかで聞いたな
数少ない昌輝の逸話か?
434人間七七四年:2009/06/06(土) 15:24:44 ID:0ZoX/WS4
ここまで冷静に見てくると、確固としてるのは
武田の殿の幹部が討ち取られたってことと
武田側の氏邦や氏規、他2000人も討ち取ったとかいう滅茶苦茶な報告記録があるってことだな
戦術的には北条側の負けといえるような妥当性は無いと判断するしかない
435人間七七四年:2009/06/06(土) 15:32:48 ID:yzHfXk5Q
>>434
北条方も氏康・氏政・古賀公方と親しげに話をするような
豊前山城が死んでるし
北条側の遺臣のこした本でも負けを認めてるという事実があるだけだが。
なんかめちゃくちゃ。
436人間七七四年:2009/06/09(火) 19:30:46 ID:HMsR+BCM
     大 爆 笑 ア ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ 

北条や本願寺が東京大阪の基礎を作り上げたってギャグですか?(笑)
江戸という過疎地に家康が基礎を築いたのが史実ですが何か?
本願寺時代の大坂市はただの宗教地帯ですが何か?
437人間七七四年:2009/07/09(木) 00:00:07 ID:vyrnkcKQ
武田信玄
戦国時代の戦国大名。日本史上、有数の暴君。
あと少しで信濃統一を果たすところまでいくが上杉に阻まれる
同盟や和睦をやぶるなど謀略を尽くして領土を拡大し、奪った領土からの略奪により家臣や国内をまとめあげた。
しかし、国境を接する弱小豪族をすべて倒したあたりから領土拡大に急ブレーキがかかる。
このような相手国からの略奪によって家臣や国内の領民の不満を封じこむやり方は、領土拡大のペースが落ちると家臣や国内の不満を生むこととなった。
息子である勝頼は家臣や領民の不満を封じるため、無理な拡大路線を強いられることとなった。
また、信玄の度重なる外交に関する不義により武田家の他国への信用性はゼロに等しいこともあった。
その結果、勝頼は、他国との連携作戦もできずにやがて孤立していくこととなる。
結局、勝頼は父親の残した大きな負債を払拭することができなかった。
そして、武田家は一回の合戦で戦闘力を失い、たった一ヶ月で滅亡した。
織田信長が倒した戦国大名の中では武田家はもっとも労を要しない相手だった。

       ,、r‐''''''''''''''''ー 、
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    l;゙、',.::l;;;i  / / / r   ヽ. ///l,    
    l;;;;`‐;;;;;ヽ   . './'ー'''ー‐' ',  l;;;,,    
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ  ,r";;二二二,ヽ, !;;;;:'   
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン"  ̄二´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l  '';;;;;;;;;;;;;;'         ,イ l'''  l `
:.:.:.:| ','、  '''''''''   , ‐---,ェr'".l.|  |  |
:.:.:.:|  ゙、゙、       `''''''''"",ノ l l  .|  |
:.:.:.:.|  ヽヽ     `'---‐'" .//  !  |

武田信玄(基準値)
統率68 武勇56 知略82 政治72

毛利元就(適正値)
統率98 武勇72 知略115 政治89

徳川家康(適正値)
統率102 武勇88 知略100 政治115

豊臣秀吉(適正値)
統率105 武勇65 知略110 政治120

織田信長(適正値)
統率120 武勇105 知略105 政治105

北条氏康(適正値)
統率95 武勇82 知略89 政治110

上杉謙信(適正値)
統率92 武勇99 知略68 政治95

信玄が信長よりスタートに恵まれない  → だがのウソ
信虎は甲斐を統一し、信玄は労せずそれを丸ごと承継。
一方、信秀は尾張統一に失敗し、今川の戦いにも敗北。家督相続をめぐる争いもあり、信秀の領土で信長が承継したのは名護屋城とその近辺だけ

信玄は信長とちがって、同格とばかり戦って領土を広げた → だがの妄想
一国にまとまらない信濃の豪族という格下との戦いに勝利して領土を広げただけ。同格の上杉やと北条との戦いでは領土拡大の
スピードは目に見える勢いで低下。上杉の謙信の出奔事件の合間をぬった和睦を反古にしての領土拡大や、氏康の病気をねらって
領土を拡大するものの、両国の間の第三国のわずかな領土の領有を得たにすぎない。、結局、上杉や北条といった同格の相手の領土は奪うことができなかった。
438人間七七四年:2009/07/09(木) 00:07:31 ID:fD4rsKRR
>>437
どこが暴君だってんだ。
普通に同格相手に勢力を拡大してる。嘘をつくなよ。
>>家臣や国内の不満を生むこととなり息子の勝頼は拡大路線をつらなけらばいけないこととなる
ソースよろしく。でてこないだろうけど。
>>度重なる外交への不義により武田家への他国の信用性はゼロに等しく、勝頼は父親の残した大きな負債を払拭することが
>>結局できなかった
これもソースよろしく。普通に勝頼は関東諸侯やら上杉やらと結んでる。
信玄死亡時は北条が同盟国。長篠と御館を押し付けるのはおかしすぎ。
>>一回の合戦で戦闘力を失い、たった一ヶ月で滅亡した。
武田滅亡は長篠の7年後だが、7年が1か月か。すごいすごい。
長篠直後で勝頼が援軍に行けない状態でも岩村城を5か月かけても落とせなかったくせに。
武田が崩壊したのは長篠と御館で北条や徳川との多方面作戦での疲弊。
その間たくさん戦ってる。
>>信長が倒した戦国大名の中では武田家はもっとも労を要しない相手だった。
随分苦労してるがな。

画像が畠山じゃねえか。

その基準なら信長さまは統率40代きりそうだな。
知略はぼろぼろだな。

>>信玄が武田よりスタートに恵まれない

そもそもこの文章がおかしいと思わんのか。
信長と書きたかったんだろうが実際恵まれてないんだが。

だから笠原上杉、長尾上杉、北条、織田徳川、上田原後の信濃連合
十分戦ってる。

いい加減妄想はやめとけ。
とりあえず根拠となる資料を出して立証してもらおうか

>>信虎は甲斐を統一し、信玄は労せずそれを丸ごと承継。
毎年餓死者が続出する貧国甲斐と信虎を追放した事で国人統制の問題もあった。
>>一方、信秀は尾張統一に失敗し、今川の戦いにも敗北。信秀の領土で信長が承継したのは名護屋城とその近辺だけ
はいはいうそうそ。
信秀はもとから尾張で最強の実力者。弾正忠家の実力は20万石以上。それに加えて津島熱田の経済力を有してる。
信長は普通に継承してる。信長がそむかれたのはその素行から。

上杉からは5年で西上野20万石とってるし、北条からは2年で駿河15万石とってるが。
>>謙信の出奔事件の合間をぬった和睦を反古にしての領土拡大や
その後で第4回川中島で撃退も成功。西上野も攻略してる。
>>氏康の病気をねらって
氏康が病気になるのは武田が駿河の大部分を手に入れたあとだといってんだろ。低脳が。
>>両国の間の第三国のわずかな領土の領有を得たにすぎない。、結局、上杉や北条といった同格の相手の領土は奪うことができず。
北条は駿河の継承権を譲り受けてる。西上野は上杉の領土。
普通に北信濃・西上野・駿河と50万石を軽く超える領土を得てるんだが。
とりあえず資料だしてくれや。お前の妄想の。

あ、なんとなくだけど、これからお前の要領で
信長さまの紹介文書いてあげるから。
439人間七七四年:2009/07/09(木) 00:08:20 ID:fD4rsKRR
>>437の要領で信長の評価
織田信長

日本史上、有数のキチガイである戦国大名。
同格の斎藤義龍にとても勝てず、幼君にも何度も負けてるすさまじい戦下手。
ただ桶狭間で敵先陣と間違えて本陣突っ込んだり、手も足もでない斎藤義龍が早死にし
信玄謙信がちょうどいいタイミングで死に、畿内に勢力の真空が生まれていたという
非常な幸運に恵まれてはいた。しかし素行が悪すぎた為、家臣や味方に生涯裏切られ
最後は息子ともども重臣にころされ、織田家は完全に崩壊した。
信長死後誰も織田家を守ろうとせずみんなで自分の勢力拡大に走った面からも
いかに慕われていなかったかがわかる。
戦国でもっとも短期で崩壊した大名であろう。

武田信玄(基準値)
統率68 武勇56 知略82 政治72
これを基準とした場合の信長の能力地
織田信長
統率40 武勇50 知略52 政治45

信秀の領土で信長が承継したのは名護屋城とその近辺だけ→キチガイ織田厨のウソ
信秀はもともと尾張最強の実力を有しており、晩年には三河と美濃の領域は失ったが
尾張国内の力は顕在。信長は普通にこれを継承しており、後で素行の悪さでそむかれた。
実際継承時は弟も林も柴田も佐久間も平手もおじも従っており、名古屋周辺だけなんて
ありえない事がわかる。

信長は信玄より戦が強い→キチガイ織田厨のウソ
実際信長は生涯において格下相手に負けまくっている。
その敗戦数は数十に達する。根っからの戦下手。

秀吉・家康の天下は信長のおかげ→キチガイ織田厨の大ウソ
信長死後、織田家は完全に崩壊しており、秀吉はその旧織田家の勢力争いを勝ち抜き、
さらに多くの大名を倒して天下を統一した
秀吉は織田の一族でも何でもなく、もちろん信長から禅譲などしてもらっていない。
秀吉の天下は彼の実力によるもの。家康に至ってはなにをかいわんや。
440人間七七四年:2009/07/09(木) 00:39:49 ID:MyLptjk+
煽りに煽りで返さないように
441人間七七四年:2009/07/09(木) 07:06:11 ID:4xcqJXEa
>>439
いつ三増峠の戦いに信長が参戦したんだ?
442人間七七四年:2009/07/09(木) 09:00:23 ID:5BMIFQP/
コピペの元文章は武田厨が書いた代物だけど
キチガイ信長厨の長文コピペとセットで貼り付けてるのは当の信長厨だよ
443人間七七四年:2009/07/11(土) 13:17:25 ID:AnpIvL1l
武田厨本人だろ
武田勝頼が織田信長、徳川家康に勝つ方法・2や桶狭間の合戦の真実について その2
武田信玄こそが世界最強(880)
でのfD4rsKRRの発言を抽出すればわかる

キチガイ信長厨の長文コピペとセットで貼り付けてるのが当の武田厨という可能性は
同時間帯にレスがあることから、何らかの方法でID変えていない限り別人だろうが
444人間七七四年:2009/07/15(水) 12:49:11 ID:MHix7k/Q
>>439
お見事w
445人間七七四年:2009/09/29(火) 00:51:38 ID:YtS73MsU
何故かここでも信長厨との戦い
446人間七七四年:2009/11/29(日) 12:58:09 ID:APhR47zj
こっちも再燃してくれよ
447人間七七四年:2009/12/09(水) 19:55:19 ID:Ets3c00S
うむw
448人間七七四年:2009/12/09(水) 22:29:06 ID:mpY/biIa
まあ北条は三船山で負けてたり合戦ポカはけっこうあるわな
449人間七七四年:2009/12/09(水) 23:39:38 ID:LYucVFFU
戦術を戦略でカバーするのが北条なんだから勘弁しろよ
450人間七七四年:2009/12/11(金) 12:51:37 ID:gXmeFEu6
三船山は戦略レベルの大敗だろ
451人間七七四年:2009/12/12(土) 19:03:01 ID:5iw2GMFR
だがは三増峠を大勝利にしたいために豊前山城守を持ち上げるのに必死
452人間七七四年:2009/12/12(土) 20:47:59 ID:liJUO6GD
駿河併呑して北条蛆康憤死させるくらい小さい勝利だ
453人間七七四年:2009/12/14(月) 01:09:17 ID:YpsE0G5v
豊前山城は当時において関係書類が大量に残る重要人物ではある
454人間七七四年:2009/12/14(月) 02:43:03 ID:m8dyu4Ow
残ってる書状の内容から見て重要人物とはとても思えんが・・・。
455人間七七四年:2009/12/14(月) 04:26:18 ID:YpsE0G5v
少なくとも古河公方の重臣として古河公方・北条宗方の家から信任され
折衝役として関係文書を多くのこし
医者としても活躍し北条家の人間を氏康に至るまで診察したり薬を与えたりしてる人間
死んだ後も手厚い内容
456人間七七四年:2009/12/14(月) 15:40:52 ID:9UXrmfsU
少なくとも武将として参陣している以上
本陣の中心で過保護な扱い受けていたということはない。
457人間七七四年:2009/12/14(月) 18:31:00 ID:YpsE0G5v
武将として参陣してたとしても立場的に本陣付きで居る事は十分考えられるし
もともと医者や折衝役として活動してることが多い人だしな
武将として参陣しているという根拠は資料なしだし
458人間七七四年:2009/12/14(月) 18:57:49 ID:k3dw/7f8
考えられんな。医療専門の非戦闘員としての参陣なら
頭髪剃った軽装の僧体でそれと分かる風体で参加する。
そしてそういう人間は臆病者のなる仕事として軽んじられた。
あくまで「医療行為もできる武将」としての参陣が見るのが妥当だろう。
無論本陣近くにいた可能性もあるがそうでない可能性もある。そこは「正確には分からない」が正解。
459人間七七四年:2009/12/14(月) 19:04:13 ID:YpsE0G5v
>>458
>そしてそういう人間は臆病者のなる仕事として軽んじられた
別にそんな事はないな
医師のマナセ道三とかすごい尊敬されてるしな
460人間七七四年:2009/12/14(月) 19:09:47 ID:k3dw/7f8
曲直瀬は軍医専属じゃないだろう。
それに尊敬されるのはどちらかと言えば内科。
豊前も内科治療の記録が残ってて内科の方の人間だしな。
461人間七七四年:2009/12/14(月) 19:33:08 ID:YpsE0G5v
>>460
豊前が医師として尊敬される人間だって認めてるじゃないか
実際北条家からも医師として尊敬されてるが
462人間七七四年:2009/12/14(月) 19:44:49 ID:k3dw/7f8
だから内科だろ。尊敬される内科の武将が
身分の低い外科の連中と一緒になって専門外の外科医療に専属に就く訳ないだろう。
463人間七七四年:2009/12/14(月) 19:53:50 ID:YpsE0G5v
>>462
当時の医者は内科外科のそこまで厳密な区分もない
しかも北条家当主まで診察してるような医者が戦場で先陣切って闘うとか
それこそありえんだろ
464人間七七四年:2009/12/14(月) 20:03:46 ID:k3dw/7f8
鎌倉時代にはすでに軍陣専門外科医の金創医が生まれてたんだがな。
別に先陣切ってたとかも言ってないが。正確な場所は分からないとすでに言ったはずだが。
465人間七七四年:2009/12/14(月) 20:11:08 ID:k3dw/7f8
それにいくら医療が得意とはいえ曲がりなりにも古河公方に仕えた武将である以上、
武功の一つも挙げておきたいという気持ちもなかったとは言えんしな。
466人間七七四年:2009/12/14(月) 20:14:32 ID:YpsE0G5v
>>464
三国時代のカダとかは外科も内科も兼任してる

北条家当主に信任されてる古河公方の重臣にして医者が
戦場においてどこにいるのが自然かというと、先陣でないなら
本陣か後陣になりそうだが
467人間七七四年:2009/12/14(月) 20:16:20 ID:YpsE0G5v
>>465
それこそ憶測の域を出てない
古河公方の重臣として長年にわたって折衝と医者を任務にして過ごしてきたのに
いい年をしてわざわざ前にでるとかそれこそありえない
468人間七七四年:2009/12/14(月) 21:04:59 ID:k3dw/7f8
三国時代の中国など何の関係もないだろうw戦国時代からさらに1000年以上も前の話じゃんか。
現に戦場に出て討ち死にしてるんだからしょうがない。
そんなに大事な人物なら戦場に連れて来なけりゃいい話で。
469人間七七四年:2009/12/15(火) 18:32:42 ID:XsiSl442
>>468
近代医学になるまでは結構兼用あるけどな

古河公方の重臣だからな
権威づけにはなる
死なせたくないから本陣か後陣においとくのが妥当だろ
470人間七七四年:2009/12/15(火) 20:07:44 ID:A4W61vWg
兼用なんて現代でも町医者クラスなら普通にある。
場所は死傷者続出の戦場だぞ。半端な兼用医者など衛生兵の中心に置くわけなかろうが。
武田との合戦、援軍の交渉相手は上杉という状況下で
古河公方の折衝役などをわざわざ側に置いておく必要性は感じられんな。
471人間七七四年:2009/12/15(火) 20:21:38 ID:XsiSl442
>>470
権威づけにはなるし実際に戦死してるんだから仕方ない。
古河公方の重臣にして北条当主からも信頼される医師にして折衝役を
本陣近くにおいて守らず、先陣で使い捨てにする必要性の方が感じられんな。
472人間七七四年:2009/12/15(火) 20:38:05 ID:A4W61vWg
だから死なせたくなかったら最初から戦場に連れてこなければいい話。
軍師参謀とかでもない人間をわざわざ連れてきて過保護な扱いするなど
無駄な手間がかかるし不公平で他の家臣から不満が出るだけだ。
473人間七七四年:2009/12/15(火) 20:44:22 ID:XsiSl442
>>472
権威づけにはなると言ってる。
なんでスルーすんのかね。
本陣おいとくだけなんだから過保護でも何でもない。
古河公方の重臣にして折衝役にして北条当主さえ診察する医師なんだから。
マナセ道三だって戦場に参陣してる。
474人間七七四年:2009/12/15(火) 23:31:08 ID:A4W61vWg
わざわざ戦場で権威もへったくれもないと思うが。
まあ本陣にいても後陣にいてもいいと思うが。
先陣しか戦闘しないわけでもあるまいし。
曲直瀬も確かに戦場で診療してるな。合戦中に病気になった元就の診療だが。
475人間七七四年:2009/12/16(水) 00:24:30 ID:zj86NO0R
信玄も戦場に侍医がついていったと思う。
名前はなんだったかな。
476人間七七四年:2009/12/16(水) 00:34:47 ID:tLLHAWva
板坂法印や御宿監物友綱か。
477人間七七四年:2009/12/16(水) 00:37:52 ID:zj86NO0R
>>476
おおっ!!それだ。
ありがとうこれでスッキリした気持ちで眠れる。
478人間七七四年:2010/03/15(月) 23:16:03 ID:4eKGLE3S
>>36
2年前だけに無かった…
479人間七七四年:2010/06/15(火) 19:45:02 ID:HUZRNoFZ
      >一'''==‐ュ、,,_     ,、='' ̄::::::::::::::: ゙̄'''ヽ、
     /  . : : : : : : : : : : \  /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
    /   : : : : : : ,,,_: : : : : : ヾ/:::::_,_、:::::::>‐-、:::::::::::::::::::::::::::::
   ム≠ー'" ̄~'''ー_\: : : : : /::::/~ヾ,}::::j|  。 }::::::::::::::::::::::::
   j|           ヽ:: : :l::::/|_ ゚ ,.>ー、ゞー≠ ̄ヽ::::::::::::::
   l、_   イ__,,,_.._、_   |l: : |::/ ヾ≦ヘ,_ノヽ      \:::::
  l}=、 `チC ̄`ヽ   |: : |Y     l|         ヽ
  {  lト {!    ,}   |: :|ノ〆    l|       ー-  |
  ゙t,,_.j  くミ、二,,ノ   7_/| /      l|       ー-  |
   | ノ           ゙" 'l / r   」{,        ヽ  |
  | ゝ,‐           l,  ヘ_ _,,>ー=、_   /
   ∧ =ー--、        ∧   `Σ,,、-‐─゙ゝ=´    /
 ・  ヽ ヾ≧  ′       ヘ   ===一       ノ
 ・     ヘ´     /    | ∧            
 ・      ゝー┬イ'''"     |_ \≧≡=ニー   ノ   、
 ・       |、′  /´     ]、 ̄  _ニ=、     ,,..
 ・     /ヽ_/>'"      〃/」,,廴 /  ヽ \-‐ニ´
     /   「 ヘ    ≦〆 /   /_ο     _z
           \  /  /    {二=ー '"´
             /         \、_..,、_
480人間七七四年:2010/06/29(火) 22:55:52 ID:I/cUF32g
三増峠の戦いは、駿河併合戦略とセットで考えないと、
必要性及び重要性が理解できないよ。
481人間七七四年:2010/07/22(木) 20:59:30 ID:71TtBFUi
四万も動員しながら二万の武田にフルボッコされた北条
482人間七七四年:2010/09/29(水) 08:28:33 ID:cMHEiSh/
氏康って情けないw
483人間七七四年:2010/09/29(水) 11:35:59 ID:mS3bfA8r
そこに氏康はいなかったけど
484人間七七四年:2010/09/29(水) 11:53:46 ID:cMHEiSh/
でも氏康の責任w
485人間七七四年:2010/09/29(水) 14:31:07 ID:AWadvkL8
>>481
甲陽軍鑑では北条勢は六千らしいけどね
単純にその兵力差が出たのだろう
486人間七七四年:2010/09/30(木) 20:40:26 ID:d5Vd9hB1
武田にとってこの戦いって勝ったからよかったものの一歩間違えたら山岳地帯で挟撃されるという
最悪の事態になってたよね。
対村上戦や川中島を経て戦上手になってた時期の信玄にしてはかなり不味い戦い方じゃない?
487仙台藩百姓:2010/09/30(木) 23:26:47 ID:0RyOG85E
そんな事言ったらそんな状況で逆に返り討ちにされた北条の立場がないお( ^ω^)
488人間七七四年:2010/09/30(木) 23:33:18 ID:njaEJV3w
>>486
だから不味い戦とか不要な戦とか軍鑑で言われているんじゃ。
489人間七七四年:2010/09/30(木) 23:50:35 ID:d5Vd9hB1
>>487
もちろん実力が伯仲した両勢力故に勝負はその時にならないと解らない。
でも通信手段の貧弱なあの時代に本城と支城の軍で敵を挟撃しようという作戦自体は
非常に有効でありかなり高水準の連携能力があったのは間違いない。
490人間七七四年:2010/10/01(金) 06:43:22 ID:o4JcjQCv
基本的に信玄は相手より多い兵を動員し、相手より有利な状況を作ってからはじめて合戦に及ぶ様にしているから三増峠は異質だよな。

まあ、その基本戦略は信玄最大の長所(賭け事をしない)にして最大の短所(時間掛け過ぎ)なわけだが。
491人間七七四年:2010/10/01(金) 12:43:31 ID:fNyEEwbv
信玄って、上田原の戦い&砥石崩れだけじゃなく、生涯で4回は敗北してるよね

他の二回は、
第一次川中島合戦
先鋒が上杉軍に敗北し荒砥城も奪われる。

小田原城攻め
包囲を解き、撤退をしたため、攻城戦の目的を達成できていない。
492人間七七四年:2010/10/01(金) 12:46:06 ID:l3ZEV04T
本気で小田原落とす気だったのか信玄は?
493人間七七四年:2010/10/01(金) 14:05:35 ID:9Cd3IHGk
494人間七七四年:2010/10/02(土) 00:47:31 ID:VWRss+n2
細かい敗北を見れば4回なんてもんじゃないし
その辺はどこの大名もいっしょの話だが
495人間七七四年:2010/10/02(土) 10:35:37 ID:u/fmZlj0
謙信が来るときは出撃しないのになんで信玄の時は行ったのか
信玄をなめてたのか
496人間七七四年:2010/10/02(土) 13:56:47 ID:EjvD+ILL
>>490>>495
信玄が撤退中だったからでしょ。所謂追撃戦
でも結局、信玄は荷駄を捨てて身軽にしたため北条本隊に追いつかれず、
待ち構える別働隊(氏照)を撃破
氏照軍は急遽募集した兵が多いために烏合の衆だったらしい(氏照の弁明)
497人間七七四年:2010/10/02(土) 14:40:57 ID:/idoEyzT
>>496
急遽兵を募集したから負けた?w
つまり北条軍は弱小ってことじゃねーか
言い訳が女々しいな北条は

北条は兵もザコなら将も無能
氏政がバカだったから追い付けなかったんだよ
498人間七七四年:2010/10/02(土) 15:41:49 ID:DMOc7zVi
武田信玄は過大評価されすぎ!!
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1285913440/
499人間七七四年:2010/10/03(日) 01:11:48 ID:rLYrKM7G
信玄は荷駄まで捨てて必死で逃げたのが逆に功を奏した感じか
氏照は六千ほど(甲陽軍鑑)でしかも烏合の衆。氏政到着前に単独で戦闘開始
武田側は最初のうちこそ苦戦したみたいだが(上野方面司令官:浅利信種の戦死)、
山県の活躍で勝利。北条側は準備不足だったな
500人間七七四年:2010/10/03(日) 01:14:11 ID:ok4GF2Vm
>>495
謙信の最初の遠征でも出撃していたし、それ以後の謙信の遠征時も基本的には出撃している、
そして戦闘はともかく戦争にはほぼ毎回勝っている。
501人間七七四年:2010/10/08(金) 20:44:04 ID:S9R1JtKt
3000人討ち取られた北条哀れw
502人間七七四年:2010/10/12(火) 14:22:46 ID:8ZcQxtuY
>>485 >>499
氏照達を6千7千としてるのは信玄書状であって軍鑑じゃない
503人間七七四年:2010/10/12(火) 18:23:17 ID:0okvLfG+
北条厨は都合のいいところだけ引用するからなぁ〜w
504人間七七四年:2010/10/12(火) 21:23:42 ID:2X4S3vdB
幾ら敵が多くても、峠を抑え追撃中の氏康が迫ったりと北条方圧倒的有利な状況だったのに
それを覆した信玄が凄かったと言う事だ
505人間七七四年:2010/10/12(火) 21:32:19 ID:j9FpEiQq
>>502
書状が正しいのであろう。
損害については武田側2,000(諏訪家文書、信玄書状。但し甲陽軍鑑では3,269)、
北条側1,000(北条五代記)のようだね
損害は別にしても、とりあえず北条勢の追撃は撃退したのであろう
506人間七七四年:2010/10/12(火) 21:33:52 ID:pvEDc3Sd
謙信だったら北条に挟撃されて川中島クラスの損害だしてたな
まあ北条にそんな甲斐性はないがw
507人間七七四年:2010/10/12(火) 22:18:36 ID:+7SwPQy6
>>505
細かいことではあるが
損害武田側2千、北条側千、と書くと
まるで武田側が2千の損害を受けて
北条側の損害が千に見える
実際は武田側が北条側に2千から三千の損害を与えているので
ここは損害ではなく戦果、と書いて
武田側戦果2千、北条側戦果千、と書くのが正しかろう
もっとも、北条側の戦果千、というのは
北条5代記にある、北条氏康本隊が武田勢を追撃して与えたとされる戦果で
一次資料では確認が取れないので、真か偽かは謎ではあるが
508人間七七四年:2010/10/13(水) 00:13:56 ID:ixVWXYg2
>>507
氏康本隊は氏照の敗北を聞いてその時点で引き返したから武田軍とは一切交戦してないってのが
一応、今までの通説だったよね。
509人間七七四年:2010/10/13(水) 00:30:35 ID:XLNTa7WG
>>508
そう
一次資料の氏康書状を見ても「敵がすばやく去ってしまい、我が旗本は一日の遅れで間に合わなかった」
とあるので、氏康本隊が戦闘に参加してないのは明らか
武田側の信玄が書いた深沢矢文でも「氏照達を撃破した後で、しばらく氏政達の本隊を待っていたが来なかったので我々は甲斐に帰った」
とあるので、一次資料では敵味方双方で氏康氏政本隊が到着しなかったのは共通してる
ただし、北条5代記には小田原から包囲を解いて移動する途中の武田勢を氏康達が追撃して千人討ち取ったというのがあり、
武田勢がその後で三増峠で北条勢を撃破する事になっている
北条5代記は北条遺臣が残した書物であり、氏康を称える傾向が強いから、
その氏康が武田相手に戦果がなかったというのが嫌で創作したのか
ただ、それでも最後に三増峠において武田勢に敗北した事は、北条5代記でもしっかり認められている
510人間七七四年:2010/10/13(水) 01:35:02 ID:yhNwr2Cq
北条方は武田の重臣、浅利を討ってるのが大きな戦果だな
氏照は「勝った」という書状さえ出しているようだ。最終的に撃退されているはずだが。
まあ、「勝利」と「敗北」の定義が難しいけど、追撃戦で追撃される側(武田)が
どの程度の被害に抑えて敵を撃退すれば「勝利」なのか・・・
俺的には追撃戦で「勝利」とか「敗北」って無いんじゃないかなって思う
無論、双方相手の大将を討ち取れればそれは「勝利」と言えなくもないが。
511人間七七四年:2010/10/13(水) 01:46:35 ID:ixVWXYg2
まあ確かに、武田としては「逃げるのに成功した」のに対して北条から見れば「捕まえるのに失敗した」ともいえるしね。
そうなると峠での戦術面では武田が勝ったけど北条の包囲を脱しようとしている武田軍の行動方針自体は
少なくとも作戦行動に成功した軍隊が行うようなものではないな。
512人間七七四年:2010/10/13(水) 01:47:55 ID:2jwXGfUD
流れ弾って怖いねぇ〜 まあ武田の将は命を惜しまず勇戦するのが常だから

勝った勝ったってあんたそれ前代未聞の見苦しい敗軍の将勝利宣言綱成くんかよ
513人間七七四年:2010/10/13(水) 01:52:45 ID:XLNTa7WG
なぜかwikiとかでは「氏照が勝ったという書状を残している」とか書かれているが
あれは原文を正しく見れば、氏照達が三増峠の戦闘では勝ったなんて
一言も言ってない事がわかるんだけどな
514人間七七四年:2010/10/13(水) 02:08:27 ID:XLNTa7WG
>>510
氏照がこの三増峠の戦いについて述べた書状を
正しく読んでみれば、氏照は三増峠の戦いにおいては勝ったとは一言も言ってない
氏照が「度々勝利を得」と書いてるのは、武田勢が小田原を包囲する前に
氏照の城である滝山城を攻撃した時の事を言ってるのだとわかる
ただこの氏照の主張も、武田勢が滝山の二の丸まで攻め込んで追い詰めたが、
小田原を攻める予定だから止めはささずに先を急いだ、とされてる事や
武田の小山田が「我々は小田原を狙って進軍中だが、これまで通り道の鉢形や御岳を攻撃してやった。次に向かう滝山も放火は必然だ。」と書状に書いてるから
氏照達がそんな大規模な勝利を挙げたとは考えにくい
もともとこの氏照書状は上杉に対して弱みを見せない為に、誇張や強がりが随所に見られる
515人間七七四年:2010/10/13(水) 02:24:57 ID:H/s/4U19
それ読んで謙信はどう思ってたんだろうね 北条さんはんぱねーっす!ってwktk
するほどお人よしでもないし北条の嘘吐きめがって嘲笑してたのかフーン状態だったのか
勝負の勘をなげうってでも小田原は攻めさせんぞって息巻いてたのに結局篭城でしょ
北条のいいわけばっかでアホらしかったろうね謙信 なんでこんな奴らのために信濃に攻め込まなきゃ
ならねーの?って
例えるならお舘の乱で景勝支援に方針変えた勝頼の気分
516人間七七四年:2010/10/13(水) 10:33:25 ID:NgMp/Xik
敵に回すと面倒くさい
味方にすると役立たず
それが北条
517人間七七四年:2010/10/13(水) 12:46:23 ID:ixVWXYg2
>>516
氏康も謙信に対してそれと全く同じ印象だったろうな。
518人間七七四年:2010/10/13(水) 14:22:45 ID:yhNwr2Cq
氏照の山吉孫次郎宛書状および河田重親宛書状では、
1.滝山城で度々勝利、手負いの敵は数知れず
2.敵は津久井に退散。小荷駄隊をことごとく切り落とした。
3.氏政はまだ到着しないが、敵に取り掛かり、宗の者も多数討ち取った
4.敵がこちらになだれてきたが、当方烏合の衆のことにて信玄を討ち漏らした
という内容。
無論、言葉通りの戦ではなかったろうけどね

坂本徳一氏は、この戦いのを逃れた武田側が津久井あたりで傷の手当てをした後、
家臣の不満がくすぶっていた兆候について指摘(信玄が兵たちの規律違反をとがめなかった)
小林計一氏、磯貝正義氏は、武田は堂々と勝利だとは言えないとしている。
519人間七七四年:2010/10/13(水) 15:39:53 ID:VUbE0/hu
数年ぶりに三増合戦まつり行ってみようかな?
520人間七七四年:2010/10/13(水) 19:14:22 ID:3snSXsQP
>>518
柴辻・平山・丸山氏はこの戦いを普通に武田の勝利としてる

信玄自身が三増峠の勝利を深沢で北条への恫喝に使ってることや
10年くらいたった後でも、この戦いを武田側は大勝利としてる書状があるから
武田にとっては勝利という認識が明確だったんだろう
521人間七七四年:2010/10/13(水) 23:58:36 ID:yhNwr2Cq
工藤章興氏は、領土を奪われることなく武田軍を退却させたのだから、
戦略的に見て北条の勝利としている。
人により見方はまちまちだね。追撃戦を判定するのが難しいからか、
あるいは史料不足によるものか。
522人間七七四年:2010/10/14(木) 00:53:24 ID:qzOotYb3
工藤氏が?
そんなこと書いてたか?
もともと武田の狙いは領土ではなかったし、北条の勝利といわれると疑問
523人間七七四年:2010/10/14(木) 07:06:27 ID:pZcEglsW
小田原包囲の目的が北条領という説は初めて聞いたな
駿河争奪戦の牽制が定説だと思ってた
524人間七七四年:2010/10/14(木) 07:43:12 ID:Aj61EGWU
あれ駿河攻略のための牽制でしょ
わざわざ滝山も鉢形も攻略せずに小田原向かっていき、
小田原を3日焼き討ちしたらさっさと帰路についてるし
どうみても北条領狙いとは…
525人間七七四年:2010/10/14(木) 09:37:35 ID:tPLfL0yf
北条は駿河一国失ったから普通に負けだw
526人間七七四年:2010/10/14(木) 11:07:46 ID:Phn42oor
>>525
>北条は駿河一国失ったから普通に負けだw

それ以前に北条が駿河一国掌握してた時期など一度もないだろう。
527人間七七四年:2010/10/14(木) 15:43:25 ID:+mi/qT2m
勝手に今川領駿河がまるまる北条に転がり込んできたんだから
第一次駿河侵攻は北条の大勝利だな。
528人間七七四年:2010/10/14(木) 17:31:19 ID:tPLfL0yf
駿河争奪戦に負けた北条ってことで 涙目大敗だな
529人間七七四年:2010/10/14(木) 17:43:20 ID:Be9VnYzf
戦略でも戦術でも見事に完敗やん 北条
前代未聞の見苦しい大敗
530人間七七四年:2010/10/14(木) 18:28:24 ID:8yeqBjK7
まぁ北条は信玄にメンツを潰され
コケにされてるのは事実
だからこそ謙信に土下座外交して氏康はメンツを取り戻そうとしたら
謙信からもコケにされて外交的大敗北のまま脳卒中で憤死寸前。
後遺症でボケ老人になり邪魔なんで氏政に暗殺されるw
531人間七七四年:2010/10/14(木) 18:57:17 ID:+mi/qT2m
元々駿河など北条領でないし奪う気もないし今川への義理で戦ってたんだからプラマイゼロ。
単に氏真がヘッポコだったってだけ。
532人間七七四年:2010/10/14(木) 19:35:28 ID:thTTYZCy
また北条厨の前代未聞の見苦しい言い訳か
533人間七七四年:2010/10/14(木) 20:22:56 ID:Phn42oor
まあ北条にとってメインの戦場は飽くまで関東だからね。 
普通に考えれば関東と駿河の両面作戦なんてやらないほうが効率的なはず。
ところが武田が勝頼の代になっても北条ってけっこう駿河で武田と交戦してるんだよね。
いくら氏康の娘が今川に嫁いでたからって氏康死後10年経っても北条が駿河を攻める理由が解らないな。
534人間七七四年:2010/10/14(木) 21:00:28 ID:Z0013OkP
計画性がない北条は行き当たりばったりのクルクルパーだから仕方がない。
535人間七七四年:2010/10/14(木) 21:34:52 ID:cJI3WeZo
氏康が病に倒れた途端、信玄は駿河に侵攻。
でも駿河を完全には奪えず、最終的には甲相同盟締結時に駿河の北条領
と上野の武田領を交換したんだよ
そもそも信玄の駿河侵攻は凄く危険なもので、平山優氏によれば

「信玄が滅亡の危機を乗り切り、かろうじて生き残れたのは・・・
大国間の思惑や齟齬に助けられた、幸運によるものといわざるを得ない。
それはまったくの偶然によるものだった」

としている。つまり北条上杉間が上手く連携できなかったことが幸いし、
自身の危機を乗り切れただけでなく、甲相同盟復活により駿河を完全に手中に
出来たということ。
536人間七七四年:2010/10/14(木) 22:01:28 ID:XqlFiEOr
そんなとってつけたような連携を思いつきでやるあたりさすが有言実行大名ルーピー北条さんだな
537人間七七四年:2010/10/14(木) 22:22:21 ID:Phn42oor
謙信は戦バカだし北条も場当たり的だし信玄も没落瓦解の今川を徳川と挟撃してるくせに
えらい手間取ってるわで東国の有力三大名って案外ダメなところが多いな。
538人間七七四年:2010/10/14(木) 22:36:47 ID:kkP6G82p
いえいえダメダメで前代未聞のアホは北条鮮だけですよ
539人間七七四年:2010/10/14(木) 23:05:55 ID:8yeqBjK7
>>537
基地害政宗厨乙
540人間七七四年:2010/10/14(木) 23:13:13 ID:Phn42oor
やっぱりなんか最近、氏康叩きがブーム化してない?
お前らあれだろ、全ての面において高水準にバランスが取れてて欠点の無い氏康に
嫉妬してるんだろう? 絶対そうだろう?
541人間七七四年:2010/10/15(金) 00:04:55 ID:nDxTCcqE
高水準・・・笑うトコですか?
542人間七七四年:2010/10/15(金) 00:06:12 ID:iSQPKTWs
>>531
わざわざ氏真と氏直を養子縁組させて
駿河の継承権をとってるくせに
駿河に執着してないとかいうなよ
深沢や蒲原などに一門の有力武将を配してがちがちに守りかためてたんだしさ
>>535
奪えてるぞ
氏康存命中から駿河の大半は既に武田のものだ
適当な事を言うな
氏康が病に倒れる前から信玄は小田原を攻めるわ、三増で撃破するわ、
その後速攻で駿河をせめて駿府をはじめとする中枢部を確保
さらに進撃を続けて深沢にいたるまでの駿河のほぼすべてを手中にしてる
北条は関東諸侯との戦いに加えて武田を敵に回して苦しくなり
そんな中で氏政はちっとも動かない謙信に不信を抱き、
氏康は反対に譲歩を重ねて上杉との同盟に執着していた
結局氏康が死んだ途端に武田との同盟に北条が動き出すのは、
こういった空気を代表したものだったんだろう

というか、武田が足利などを使って謙信との和睦を結び
さらには関東諸侯と組んで北条包囲網つくりあげたんだが
お前の願望で卑小化するのはやめとけ

つか平山氏の結論でも結局「信玄がこの危機を乗り切れたのは、少ないチャンスをものにするために、
彼が的確に行動したことによる。そこに名将といわれる信玄の真価を見ることができる。」といった感じで
賞賛してるだろうが。

543人間七七四年:2010/10/15(金) 00:28:33 ID:KdmE+2M8
ならば尚更最初の駿河侵攻は棚ぼた駿河ゲットで北条大勝利ですな。
後で武田に奪われたと言ってもプラマイゼロという事実は変わらず。
544人間七七四年:2010/10/15(金) 00:34:22 ID:iSQPKTWs
>>543
ノリノリで取りにいって
駿河の継承権譲り受けて
一門や有力武将をいそいそと配置して
鉄壁の守りにしたのに、武田に結局ひっくり返されて
一門や有力武将や戦力を多く失ってるのに
そりゃないぜ
545人間七七四年:2010/10/15(金) 00:39:50 ID:KdmE+2M8
戦後の収穫で言うならむしろ謙信の関東諸侯からの信頼を失墜させたのは大きいぞ。
あのおかげで関宿城をあっさり陥落できた。
546人間七七四年:2010/10/15(金) 00:43:54 ID:iSQPKTWs
>>545
まあ、それはあるかもな
ただ、それって氏康が狙っていたものかは疑問だよな
氏康はその死に至るまで越相同盟に執着していた形跡が目立ち、
あのまま越相同盟堅持の方向で行ってたら関宿攻略はできなかったろ
北条厨としては、氏康が最後に「謙信とは手を切り、信玄と結べ」と遺言したという話を
どううけとっているんだ?
これを真実とみるかフィクションと見るかでだいぶ違うだろ
547人間七七四年:2010/10/15(金) 00:54:08 ID:IGxsvWRR
人生の最後でボロ負けして終わってく氏康って…
548人間七七四年:2010/10/15(金) 00:54:28 ID:5kYRLoQI
三増峠は武田が荷物捨てて必死で逃げた結果、準備不足の氏照軍を
撃破できただけで、平山氏の言う通り、信玄にとっては薄氷を踏む
ような退却劇でしょ
549人間七七四年:2010/10/15(金) 00:58:22 ID:IGxsvWRR
本当これほどの戦いを見事に成功させる信玄公の凄みを感じる
一方の氏康はまるでボケ老人のよう
550人間七七四年:2010/10/15(金) 00:58:24 ID:iSQPKTWs
>>548
別に全部捨てたわけでもないぞ
わざわざ内藤が荷駄奉行やって
荷駄を守りながら進軍してる
良い荷駄をえりすぐったってな話な

てか平山氏は三増峠の戦いに関しては普通に武田の勝利として評価してるが
勝手に曲解すんなってーの
551人間七七四年:2010/10/15(金) 01:07:11 ID:5kYRLoQI
信玄は三方原では家康を城から誘い出して得意の野戦に持ち込み勝利
なのに三増峠では氏康本隊に追いつかれないよう、必死で逃げてるでしょ
得意の野戦に持ち込めばいいのに、それをせずに荷物捨てて身軽にして
必死で逃げ、挙句兵士たちが神社を壊したりするのも咎めず・・・
とにかく氏康本隊との決戦を避け、逃げることに徹しているのがわかる

兵力で劣るからかもしれないが(信玄は大体、兵力で劣る戦いをしない)
552人間七七四年:2010/10/15(金) 01:12:24 ID:NxJcXsEb
城に篭ってた奴が偉そうにw 家康を少しは見習え
553人間七七四年:2010/10/15(金) 01:13:47 ID:iSQPKTWs
>>551
なんで挟撃される危険おかしてたたかわにゃならんの
深沢書状によれば
武田勢は氏照達を撃破した後で、しばらく氏康氏政本隊が来るのを待ち構えていたが
結局こないので帰還したとある
(氏康の書状でも一日の遅れで間に合わなかったとあるので、武田もさすがに一日は待ってられなかったんだろう。)
余分な荷駄をはずして良い荷駄を集めたのは、山岳での戦闘をしながらの帰還戦闘なんだから
当たり前。戦闘しながら進むのに余計な荷物は邪魔なだけ
武田勢が余分な荷駄をはずしたのは三増峠の戦いに入る直前
554人間七七四年:2010/10/15(金) 07:14:39 ID:HEHtChoL
ってかさ、敵が待ち構えててまもなく戦闘になるって分かってるんならあらかじめ
荷駄を後ろに置いといて荷駄隊を全部戦闘部隊にして勝った後で荷駄を回収して行けばいいんじゃね?
555人間七七四年:2010/10/15(金) 07:48:29 ID:3/kp2s3k
氏康本隊の到着がいつになるかわかんなかったし、
移動しながらの戦闘になることがわかってたから
荷駄を全部捨てたりなんかしたら
長引いたときに悲惨なことになる
556人間七七四年:2010/10/15(金) 07:53:15 ID:R5V0u/d7
>>554
氏康本隊の到着がいつになるかわかんかった武田にとって
荷駄を全部後ろにおいておくなんてしたら、
最悪の場合、後ろから到着した氏康本隊に奪われたり
回収できなくなる可能性があるから
そんなことできなかいだろ
557人間七七四年:2010/10/15(金) 09:06:36 ID:HEHtChoL
武田もきわどい作戦行動するな。
壮年期の信玄にしては北条への牽制のためだけにずいぶん大きいリスクを冒してるのが解せんですな。
558人間七七四年:2010/10/15(金) 09:16:13 ID:Oy+GHkpS
敵の懐に飛び込んで殴りこみかけて返り討ちにして帰ってくなんて危険すぎる
確かに晩年になってものすごく強くなってる 最強だ
559人間七七四年:2010/10/15(金) 09:28:42 ID:n8ynXf2i
ある意味謙信と似てきてるw といっても影虎時代かな
560人間七七四年:2010/10/15(金) 10:18:54 ID:kaew0wd+
晩年の氏康は完全にボケ老人害悪でしかない
10年早く死んでりゃ氏政がもっと上手くやった
561人間七七四年:2010/10/15(金) 11:44:02 ID:5kYRLoQI
逃げる信玄 追う氏康

「氏康の不戦勝」とするのが妥当かな
562人間七七四年:2010/10/15(金) 14:39:43 ID:DEO1O8iw
氏照、氏邦ってまじで無能だよな…
563人間七七四年:2010/10/15(金) 15:53:33 ID:byVfdMCs
武蔵方面軍が弱かった訳じゃない
ただ武田軍が強すぎたんだ

これで氏照等を馬鹿にするのは駄目だろ
564人間七七四年:2010/10/15(金) 15:58:56 ID:Qb+RSTHo
一応フォロー入れるなら北条家は武田の関東遠征直前の大水害の影響でまともに戦えるような状況じゃ無かったかもしれないってところか。
565人間七七四年:2010/10/15(金) 17:40:38 ID:EQQ19pOj
>>564
ソースは?まさかまた北条厨得意の「根拠はあるある詐欺」で
ソース無し発言を繰り返す気?
566人間七七四年:2010/10/15(金) 20:07:09 ID:5kYRLoQI
>>563
氏照は烏合の衆を使って武田重臣を倒しただけでも十分頑張ったと思うぞ
567人間七七四年:2010/10/15(金) 20:08:46 ID:fGy884NN
三千人撃ち殺されて居城もボコボコにされてお疲れさんだな
568人間七七四年:2010/10/15(金) 21:03:39 ID:5kYRLoQI
>>567
「ボコボコ」とは抽象的なw
結果、落とせてないし、そもそも滝山城が存在しなかった説まであるほど、
全てがあいまいな戦い
569人間七七四年:2010/10/15(金) 21:43:33 ID:HEHtChoL
北条が目指すのは飽くまで関東であって武田なぞどうでもよかった。
ただ粘着信玄が武蔵や相模を攻め取る力も無いくせに攻めて来るからちょっとビビらせてやろうぜってことで
発生したのが三増峠の戦い。
結果として局地戦では武田が勝ったものの得るものは何も無く自軍を危険にさらしただけに終わり、
北条も多少の痛手は受けたが北条家全体から見れば軽微と言っていい程度の損害で
この敗戦で北条家が揺らぐようなことは全く無かった。
別の例で言えば川中島の戦いで上杉が徒労に終わる戦を仕掛け武田がその相手をしてやったのと同じようなもの。
570人間七七四年:2010/10/15(金) 21:45:10 ID:fGy884NN
典型的な負け犬だな 北条はw
571人間七七四年:2010/10/15(金) 22:27:26 ID:7G3lOfRl
>>568
具体的には2の丸まで踏み込まれ、
三増峠には寄せ集めで挑まざるを得なくなるくらい被害を受けた、て事じゃね

滝山城が存在しなかったとしたら
氏照さんはどこの城にいて、武田に攻められたのはどこの城だったんですかね
なんというか、あなたのレス見てると悲しくなってくる
>>569
その割には駿河継承権まで譲り受けて
一門や有力武将配置して守り固めてたよな
蒲原で武田軍の攻撃を受けながら玉砕して果てた北条一門衆や、深沢で奮戦してた綱成のことは
なぜかなかったことにされてるのかな
572人間七七四年:2010/10/15(金) 22:28:17 ID:HEHtChoL
>>570
なんかさっきから下手糞な釣り続けてるよね。
がんばってね。
573人間七七四年:2010/10/15(金) 22:30:03 ID:7G3lOfRl
>>561
武田が待ってたけどこなかったよな、氏康
574人間七七四年:2010/10/15(金) 23:06:01 ID:g4Caz8pg
ビビッて城に篭ってたからね 息子達が三増峠で殺されかけてても見捨てて逃げ帰ってるし
575人間七七四年:2010/10/15(金) 23:41:21 ID:RSfre04N
氏康弱すぎ
信玄>義元>氏康
576人間七七四年:2010/10/15(金) 23:48:30 ID:YslOv8RY
綱成のが弱いだろ
講談しかソースないしw
577人間七七四年:2010/10/16(土) 00:00:15 ID:r7u36IPo
>>573
待つんだったら、荷物捨てる必要ない

>>574
氏康が城から出てきたのに、信玄は何で逃げたのか、そこが知りたい
578人間七七四年:2010/10/16(土) 00:01:46 ID:ZfHGeAkd
河越が有名になったから他が空気なんだよ

武蔵攻略の拠点である河越城を任されるくらいだ、信頼はあると言う事
579人間七七四年:2010/10/16(土) 00:10:02 ID:ZfHGeAkd
>>577
駿河進攻を予定してたのに、その前に大きな合戦はしないでしょ

北条うぜーな、って感じで始まった訳だし
580人間七七四年:2010/10/16(土) 00:20:10 ID:nhQWICG0
>>578
河越野戦自体が講談話で実際には存在してません。
よって綱成が籠城してた話もデタラメ
581人間七七四年:2010/10/16(土) 00:21:31 ID:5RZVcp4e
滝山城について工藤章興氏は、むしろ武田側がダメージが大きかったと
甲陽軍鑑の記述(勝頼や信豊の討死を危惧し撤退)を基に指摘。
その後小田原も攻めてるが、3日で退却したのは、何もせずにただ退却
するより、まだ戦力があるぞと見せかければ追撃を受けずに済むと考えた
のかもしれない。

武田軍は実際にはダメージが大きいから氏康・氏政本隊との決戦を避けて、
荷駄を捨ててまで逃亡に専念したと考えると納得いく。
582人間七七四年:2010/10/16(土) 00:51:31 ID:n8ZRGMAB
だから城に篭ってる時点で決戦さけまくってたのはどこのどいつだよと
583人間七七四年:2010/10/16(土) 01:02:19 ID:5RZVcp4e
>>580
歴代古案にも記載されている合戦が存在しないはずが無い
綱成籠城も太田資武書状で記載されている。(幻庵と綱成籠城時に扇谷共輩の
軍が押し寄せ云々・・・)

>>582
氏康は無茶をしないタイプ。信玄の小田原攻めが貧弱だったので勝機あり
と踏んだのだろう。それに真正面から決戦するほどイノシシでも無い。
信玄は三方が原のように反転して決戦すればいいのに、しなかったでしょ?
584人間七七四年:2010/10/16(土) 01:08:12 ID:KRwSRkFD
しっかし北条厨はどこまでも醜態晒すね 本当w
585人間七七四年:2010/10/16(土) 01:52:52 ID:nhQWICG0
>>583
その書状のどこに川越野戦を証明できる部分があるんだね?ないよねw
586人間七七四年:2010/10/16(土) 01:54:31 ID:9flrgw/I
>>582
ロシア帝国もソ連も決戦を避けることでナポレオンやドイツ軍を退けた。
どんな手を使おうが守備側は守り切れば勝ちであり、攻撃側は攻め落とせなければ負け。
三増峠で局地的に武田が勝ったとはいえ戦略的には武田の負けであり北条の勝ちなのは明白。
587人間七七四年:2010/10/16(土) 01:59:45 ID:IQdkzL8O
戦略で負けまくってるのは北条
駿河失い 謙信との同盟も機能せず 関東に包囲網しかれる
588人間七七四年:2010/10/16(土) 02:19:33 ID:5RZVcp4e
>>585
どっちの書状のことかわからんが、

歴代古案では憲政らが河越城を取り囲んだこと、氏康が河越近辺に布陣したこと、
憲政の馬廻り等を討ち取ったことなど含め、諸々書いてる

太田資武書状ではさっき書いたことや、氏康が出陣したこと、合戦となって
官領方(扇谷)が敗北したことなど含め、諸々書いてる
589人間七七四年:2010/10/16(土) 03:11:54 ID:UWIaWRut
とりあえず書状と年月日を転載してくれないと信用できない。
590人間七七四年:2010/10/16(土) 03:40:34 ID:5RZVcp4e
歴代古案は氏康から簗田政信へ宛てた書状 天文12年4月
※一般に言われている天文15年より前な理由は不明

太田資武の書状は太田資正から資武へ語られた内容を、資武から資宗への
書状で書いている。11月13日(年は不明)
591人間七七四年:2010/10/16(土) 04:57:28 ID:UWIaWRut
年数が違う時点で
ぜんぜん関係ないじゃんw
やっぱり北条厨ってデタラメばっかだな。
592人間七七四年:2010/10/16(土) 08:00:35 ID:9gckmY2K
>>577
だから荷物全部捨てたわけじゃなくて
良い荷駄をえりすぐって進んだって話なのに何いってんだ?

>>581
最近工藤氏あげてるが、あの人そんなこといってたか?
著作は何?
てか二の丸まで攻め込まれ、さらには三増峠のときに寄せ集めで烏合の衆状態の軍勢を
揃えざるをえなくなってる時点で氏照勢の被害が知れるだろ

>>583
てか、野戦にでてこいよ
城に引きこもって武田が帰ったら追撃はじめただけ
てか三方ヶ原と違って挟撃の危険があったから
各個撃破しただけ
そんで氏照達を撃破した後で氏康本隊まってたけど
こなかったから帰ったってしっかり深沢矢文にあるだろ
氏康は一日の遅れで間に合わなかったとあるように
一日も待ってられんだろ
>>586
もともと狙いは駿河だからな
この後スパスパ駿河を攻略されてる北条がそれをいっちゃ世話ない
593人間七七四年:2010/10/16(土) 10:10:42 ID:oeVel16j
むしろ廿里での横地監物の大敗が効いていたのでは?
あれで順当に横地監物が勝っていれば氏那攻めてる武田勢を牽制出来たかもしれないのに
小山田勢に牽制されて氏照は動くことが出来ずに座して攻められるのを待つだけとなったのだから

>>565
1569年8月の綱重の書状だか願文のことだろうな
黒田氏だかの論文にあったと思う
最もその論文の中じゃ三増峠では武田が勝っているとしているので
ここで北条家を押している人間にとっては微妙な内容かもしれんな
594人間七七四年:2010/10/16(土) 12:06:48 ID:nhQWICG0
綱成が川越城主と決まったのは天文15年4月の川越野戦の勝利からだが
攻城自体は天文14年9月だと言うから防衛のために綱成がその前後に川越城へ入ったとしても
天文12年4月に綱成がすでに川越城にいて川越野戦があったと言うのは明らかにおかしい。
人物配置に矛盾があり、年がまったく合ってないが月だけは合わせている偽文書っぽさが実に香ばしい。
595人間七七四年:2010/10/16(土) 14:01:31 ID:5RZVcp4e
>>592
>だから荷物全部捨てたわけじゃなくて
意味不明。全部捨てたとは書いてないのに。荷物少なくなれば身軽になって早く逃げれると考えるのが自然

>著作は何
歴史街道

>てか二の丸まで攻め込まれ
だったら落とせよって話

>一日も待ってられんだろ
待ってられるだろw

>もともと狙いは駿河だからな
だったら最初から駿河狙えばいいだろ。あるいは関東で領土も得た上で
駿河も獲得してもいいはずだろ

>>594
>人物配置に矛盾があり、年がまったく合ってないが月だけは合わせている偽文書っぽさが実に香ばしい。
ニセ文書作る時に日付間違えるほうが不自然。リアリティを追求するだろ。
単なる書き間違いの可能性のほうが高い
596人間七七四年:2010/10/16(土) 14:23:58 ID:nhQWICG0
当事者が書いたなら年を間違わない。
しかも相手に読ませるものを間違えるなどみっともないを越えて、
年を間違えるなどは褒美恩賞で詐欺をやろうとしてると疑心暗鬼するような悪質さだ。
後世に別人が書いたから事実誤認して年を間違えてる。
別人も当時揃えた史料内でリアリティを追求したつもり。
現代はいろいろな史料を突き合わせてチェックできるからミスがチェックできるだけの話。
そもそも日付自体もデタラメな可能性もある。
597人間七七四年:2010/10/16(土) 15:36:30 ID:h7d9u2DO
北条のデタラメ捏造マンセー
毎回、都合が悪い書状発給の年を隠蔽して記入する悪辣な歪曲を繰り返す。
河越や生野山や臼井城など根拠が薄い話を事実化しようとコピペ爆撃を繰り返すキチガイ。
謙信のwikiはマシな方だ。
そもそも謙信のwikiにまで生野山の戦いで上杉が北条に負けたとか
書いてるところに北条厨の悪質さが出てるわ。
さらにネット検索するとかなりヒットするが
いずれも書状内容を一切書かないまま
生野山の戦いで上杉負けを既定事実にしてしまおうとする気満々だよな。

永禄4年の生野山の戦いの証拠はこれ。

年代がまったく矛盾する永禄ニ年とおかしなことになってるのは
写本だから書き間違えたのだと苦しい論理のシロモノ
(河越野戦など北条側の証拠に年代がおかしいのが多発している)
しかも感状に書かれてるのはたった一人討ち取りであり謙信がいたかもわからない。
しかも上杉にも武田にもそんな大事件が起きた証拠を示す一次史料はないし。
直後の松山城攻防戦で北条敗走してるw

昨廿七日、武州生山
越後衆追崩、敵一人討捕
忠節候、向後弥至走廻者
急度可及恩賞者也、仍
如件

永禄二年
十一月廿八日 氏政 判
仁杉 六郎 殿

戦闘翌日には早くも感状を出してるのは不自然過ぎだろ。
(年が合ってないが戦闘日だけは生野山の戦いがあったとされる日付に合わせてある)
永禄2年に氏政に家督を譲って引退していた氏康が永禄3年謙信の小田原攻めに伴い復帰した氏康が
再度引退したのは永禄9年頃なのに感状を出してるのが氏康でなく氏政とか怪しい文書だねそれ。
(永禄2年なら氏康は隠居してるから氏政が感状出してても矛盾しないから永禄4年に年を変えるのは無理がある)

明らかに偽文書っぽいねそれ。
年がまったく違うのは当事者が出したものではなく
後世に別人が事実誤認したまま偽文書を書いたからだろ。
598人間七七四年:2010/10/16(土) 20:10:57 ID:5RZVcp4e
>>596
>当事者が書いたなら年を間違わない
「絶対」間違わないと?人間のすることなのに。

>>597
生野山の戦いの感状って複数あるんでしょ
なんで全部否定しないの?否定しやすい一通だけ選んだの?
599人間七七四年:2010/10/16(土) 20:59:41 ID:p+mhZ3Dr
その原文が手元にないから自信ないが書状は日付は書いても年数は普通書かないぞ、
天文12年との比定が間違っているだけという可能性もあるぞ。

永禄3年から永禄9年辺りでも普通に氏政の文書はあるはずだが。

>写本だから書き間違えたのだと苦しい論理のシロモノ
でもこれって学者の意見じゃ。
600人間七七四年:2010/10/16(土) 21:09:37 ID:p+mhZ3Dr
>>592
荷物全部捨てたわけじゃないかもしれないが、
撤退時に自分の領地の寺社を焼くぐらい困窮している状態にまでなっていることを
考えると余裕があったようには思えないが。

>>593
武田氏研究の7号?だったかな。
この論文だと武田側は本当は北条領奥深くまで侵攻し焼き払う予定だったが、
大洪水の影響であまり平野部への焼き打ちがあまり行えず中途半端な成果に終わってしまった、
と書いていたな。
601人間七七四年:2010/10/16(土) 22:01:09 ID:5RZVcp4e
そもそも生野山とか河越とか、スレ違いだね
論点ずらしに引っかかっちまったようだw
602人間七七四年:2010/10/17(日) 01:04:10 ID:RazlPL4C
河越野戦は存在してない
>>歴代古案にも記載されている合戦が存在しないはずが無い



最強の基地害アンチ上杉厨の特徴
上杉勝利の書状はすべて偽文書だが上杉敗北は全て本物の文書だとする。


松川の戦いは架空話だから偽文書と主張するアンチ上杉厨
歴代古案には慶長六年三月頃伊達政宗が福島表に出陣したと
上杉勝利の松川の戦いのことが記載されている。



手取川合戦は架空話だから偽文書と主張するアンチ上杉厨
歴代古案には手取川合戦を記載した良質な謙信の書状が収録されている。
上杉勝利の手取川の戦いのことが記載されている。
603人間七七四年:2010/10/17(日) 05:31:04 ID:8RczBLju
>>598
他の書状?生野山の戦いを立証できるような内容のものなんて他にないですよ。
そんなものがあるなら書状の内容と日付をここに転載してみてくださいよ。
>>599
年数は書かれている。
なぜ書かれてないかもと言うのか理由を聞かせて頂きたい。
永禄3年と書かれた同型式文の感状を氏政が出していると主張するなら転記してもらいたい。
604人間七七四年:2010/10/17(日) 08:49:10 ID:lXV13i4R
>>600
人の寺社心配するより自分の居城焼き討ちされてるほうを心配したほうがいいよ
605人間七七四年:2010/10/17(日) 13:18:06 ID:8RczBLju
>>594
黒田基樹も江戸時代成立の軍記物により「河越野戦」として喧伝されている戦いについては
同合戦そのものに関する良質な史料は極めて少ないと語っているし
当時の川越城は玉縄北条綱成ではなく宿老大道寺盛昌が城代をしていたとしてるから
天正12年にすでに綱成が河越城にいたとするのは明らかに事実誤認して偽文書を作成してしまったと断言できる。
北条厨は武田文書は偽文書ばかりと喚くくせに北条の文書は偽文書がないとか主張する気か?
606人間七七四年:2010/10/17(日) 14:03:47 ID:6dtd6qLs
>>603
謙信公御年譜では生野山の戦いで謙信が野戦で唯一敗北したと記載されてるらしいよ

>>604
寺社を壊したのも北条の居城を焼き討ちしたのも武田。ヒドイよね

>>605
>天正12年にすでに綱成が河越城にいたとするのは明らかに事実誤認して偽文書を作成してしまったと断言できる。
天正12年といえば河越の戦いから38年後のことだが、それがどうしたの?
607人間七七四年:2010/10/17(日) 16:29:44 ID:RazlPL4C
>>606
リンク先に>>攻城自体は天文14年9月だと言うから
って書かれてる。
揚げ足行為なんざ北条厨ってのは性格も悪いな。

>>謙信公御年譜では生野山の戦いで謙信が野戦で唯一敗北したと記載されてるらしいよ

性格の悪い北条厨のあるある詐欺「〜らしいよ」発言には聞き飽きた。
ちゃんと内容を明確に転載しろ。

話はそれからだ。
608人間七七四年:2010/10/18(月) 00:14:33 ID:ttNirZN8
「みんなで決める武将能力」というサイトを見つけました。
ttp://cocoro.boy.jp/sengoku/index.html

<主だった武将を抜粋し、総合ポイントで順位付け>

北条氏康 253p(戦闘78政治93知力82)
小早川隆景 249p(戦闘73政治86知力90)
織田信長 245p(戦闘75政治85知力85)
武田信玄 238p(戦闘79政治80知力79)
三好長慶 233p(戦闘67政治84知力82)
豊臣秀吉 232p(戦闘75政治80知力77)
今川義元 231p(戦闘74政治80知力77)
斎藤道三 228p(戦闘66政治76知力86)
伊達政宗 228p(戦闘71政治81知力76)
毛利元就 227p(戦闘73政治77知力92)
徳川家康 226p(戦闘74政治78知力74)
上杉謙信 226p(戦闘92政治64知力70)
島津義弘 224p(戦闘90政治63知力71)
長宗我部元親 218p(戦闘74政治72知力72)
609人間七七四年:2010/10/18(月) 01:03:24 ID:ttNirZN8
黒田基樹氏が曰く
永禄三年頃から謙信が関東出陣。時を同じくして関東で飢饉
永禄十年頃まで謙信はたびたび関東出陣。飢饉は収まらず、永禄四、五年には
 連続して徳政令
永禄九年、謙信は下総小金城・臼井城の攻略失敗。関東国衆なだれを打って北条方へ
 飢饉は止まず
永禄十年には下野から謙信撤退。この年の秋頃から飢饉が回復状態に
永禄十一年には謙信の関東出陣が無くなる。飢饉回復

謙信=飢饉だな
610人間七七四年:2010/10/18(月) 01:18:09 ID:CIa3QPtg
謙信=蝗害
611人間七七四年:2010/10/18(月) 02:10:53 ID:ttNirZN8
>>607
アンチの書き込みってヒドイな
氏康書状の年の間違いはそれを根拠に「捏造ニダ!」と言っていながら、
自分の書き込みの年の間違いには「察しろニダ!」と逆ギレ
氏康も天国で「俺の書状は今年の書状なんだから、察しろよ」って思ってるだろうな
612人間七七四年:2010/10/18(月) 02:30:50 ID:+iyXtvMr
>>609
飢饉に関しては越後や甲斐ではたしかに飢饉が起きていたが
それを根拠として、関東でも飢饉が起きていたと決め付けるやり方は
明らかに間違っている。
甲信越の山野に守られている関東平野とは気象条件がまったく違う。
異論があるなら北条領での天候についての史料ソースの提出を求める。

3/20には関越衆が臼井之地、実城堀一重にまで追い込んでいたが
同じ頃に3/10付けの将軍義秋の御内書と大覚寺門跡義俊の副状が輝虎の元に届き
相越和談して上洛するように要請があったから
臼井攻めしてる諸将に使いを出して撤退指令を出し3/25に完全撤退。

北条厨は下記の感状の存在を以って臼井城での北条勝利の根拠としているようだが
(生野山の書状同様いつものように討ち取り人数を
完全隠蔽した上で・・・ちなみに伊達厨も松川の戦いにおいて同様の行為をやっている)

北条方の蔭山新四郎は4/12付けで
「今度於臼井之城、褐粉骨走廻、殊蒙傷、敵一人討捕候、高名之至、感悦候」と感状を貰っている。

北条厨は以前にも下記の歴代古案の上杉史料は偽書で信用できないと決め付けているが

上杉方では総社長尾顕景から下平右近允が4/20付けで
「今度臼井之地、被為攻候時分、最前ニ責入之由、無比類候、負傷之段、粉骨無是非候」
として感状が与えられている(歴代古案四)

両者の史料を比較してみる限り勝敗の判断はまったくできない。

>>611
単なる誤記に対して下劣かつ卑しい揚げ足取りを諭してもらったのに
感謝どころか開き直りって逆切れとは北条厨は恥知らずのようだな。
613人間七七四年:2010/10/18(月) 05:11:18 ID:ruruw4wG
永禄4年を永禄2年と偽書状を作る際にミスった生野山の感状では
戦いがあった翌日に慌ただしく感状を出してることになってるのは
明らかに当時を知らないやつが信憑性を出そうとして日付をもっともらしくしようと「昨廿七日」なんて書いてるんだろうね。
一方、臼井城での戦いが終わったのは3月25日であり、
感状が発給されたのは半月以上経って落ち着いてきた4月12日。
明らかに生野山の発給スピードは北条のやり方から逸脱してておかしい。
やはり偽書状とみて間違いないなー。
614人間七七四年:2010/10/18(月) 16:57:50 ID:ttNirZN8
>>612
飢饉の話も臼井の話も、まるで北条厨が勝手に捏造したように書いてるが、
あくまで黒田氏の説をそのまま書いただけ(「早雲と北条一族」)
北条厨の捏造と決め付けたり、
>それを根拠として、関東でも飢饉が起きていたと決め付けるやり方
と、勝手に根拠を決め付けたり。。。論拠の捏造はやめてくれ
615人間七七四年:2010/10/18(月) 17:02:47 ID:mUwloqtK
>>614
論拠としてここに書き込んだからには
説明責任が生じている。
できないなら最初から書くなよアホ厨房が。
616人間七七四年:2010/10/18(月) 18:06:55 ID:uKlDcPd3
Subが説明責任を語ってるwww
617人間七七四年:2010/10/18(月) 19:19:38 ID:ruruw4wG
北条厨のヤツずっと歴代古案の上杉書状は偽文書だと主張してたくせに
歴代古案にあるから川越野戦はあったと主張しだして自爆したなw
しかも黒田も川越野戦は軍記に頼っているようなシロモノで大した根拠が存在しないって書いてるのになw
マジ馬鹿過ぎてワロタw
618人間七七四年:2010/10/19(火) 02:12:51 ID:tOX9rOrq
あとはこっちでやれよ・・・三増峠の話にもどってくれ。


きめぇ伊達厨&北条厨
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1287387181/l50
619人間七七四年:2010/10/19(火) 04:06:21 ID:kcN3AbyK
>>618
北条厨は厄介払いか・・・
そもそもアンチが生野山とか河越とか、スレ違いネタ出してきたんだがw
620人間七七四年:2010/10/20(水) 18:39:28 ID:s4famsvl
>>595
お前が言い出したんじゃん
荷物えりすぐったのは戦闘の直前だともいってるだろ
明らかにお前の趣旨と違うだろ

娯楽読本じゃねーか

もともと小田原を蹂躙するのが狙いなのに
わざわざ時間つぶす意味合いもないだろ
狙いは駿河だから、深入りする必要もないしな

待ってられんだろ
なんで帰り道で北条がしかけてきた戦なのに
そこまで悠長にまつ必要があるんだよ

北条をけん制し、関東諸侯への宣伝なんだから
北条領をわざわざ取る意味合いがないだろ
少しは流れを把握してから書き込めよ
適当なことばっかいってないで
621人間七七四年:2010/10/21(木) 18:40:06 ID:IqWH41qG
北条のことは良く分からないが一部のアンチ北条派が酷いということは理解できた。
まあだからといって北条派が正しいとは限らないけど。
622人間七七四年:2010/12/29(水) 19:58:49 ID:8BG/Bz7u
氏政wwwwwww

決戦の地に遅刻かwww
623人間七七四年:2011/01/20(木) 22:23:22 ID:FimsKuOE
>>581
勝頼や信豊が暴れん坊なのは平常運転です
それに後詰のない城なんて無理攻めしないで牽制しときゃいいだけ
出てこりゃ夜戦で粉砕する
624人間七七四年:2011/02/19(土) 14:56:03 ID:BrL3TNOe
小田原フルボッコされたのに涙目で勝利宣言してたら駿河まで失いましたw
625人間七七四年:2011/05/15(日) 10:27:07.65 ID:uMK85IHK
名将同士の戦いだね
626人間七七四年:2011/05/18(水) 10:11:10.72 ID:N2/lrZ1U
氏照?氏邦?
627人間七七四年:2011/07/14(木) 01:31:52.57 ID:aZHhqALC
武田も駿河を得てもむしろ投資しただけ損だったからなあ
628人間七七四年:2011/07/14(木) 01:36:09.99 ID:aZHhqALC
結果だけ見れば戦死者もかなりだったみたいだし
武田勝ってもいいことなかったね
629人間七七四年:2011/07/15(金) 10:19:10.32 ID:oc7vWgGf
あとになっての損得勘定と勝利が結びつかないって空しい
630人間七七四年:2011/07/16(土) 12:01:59.25 ID:XsKIIlH1
うん。投資的意味合いからすれば武田大損だったもんな。
631人間七七四年:2011/07/17(日) 21:11:22.16 ID:YiLzGlmo
>>627
なんで損?
立派な勝利だったろ
てかその理屈は全部丸ごと無駄だった織田を皮肉ってるわけ?
>>628
北条のほうがしんでるし、武田は普通に大勝利
>>629
織田とかまさにそれだよな
>>630
ぼろもうけだろ
駿河丸取で北条とも再同盟
632人間七七四年:2011/07/17(日) 21:12:51.37 ID:olYbGGqf
>>631
確か駿河にかけた分、取れなかったと思った
統治にすごい苦労しているし
633人間七七四年:2011/07/17(日) 21:48:03.94 ID:YiLzGlmo
>>631
取れなかった?
何をいってるんだ?
普通に駿河を完全制圧してるぞ
統治も苦労した形跡はみあたらんが
何をいってるんだ?
634人間七七四年:2011/07/17(日) 21:48:58.75 ID:YiLzGlmo
>>633>>632

「かけた分」って言葉自体も謎だし、何をいってるのかよくわからん
635人間七七四年:2011/07/17(日) 22:08:27.56 ID:olYbGGqf
>>633
徳川はおろか今川ほどのあともないじゃないかwww
636人間七七四年:2011/07/17(日) 22:16:15.90 ID:YiLzGlmo
>>635
あともない、って痕跡の事か?
それなら武田があちこちに築いた城もあるし、
行政を行った書状とかもあるぞ
何がいいたいのか正直意味不明すぎ
637人間七七四年:2011/07/17(日) 22:17:28.83 ID:olYbGGqf
書状があるだけじゃ統治が上手く行った証拠にはならんよ
638人間七七四年:2011/07/17(日) 22:18:46.90 ID:XptP0TGD
推測するに『駿河取得にかけた支出分の収益が取れなかった』かなぁ〜?

どんだけかかったのかどれだけ取れたのか是非数値で表してほしいものだが。

統治に関しては北条と最同盟後も一揆が起きてそれの鎮圧に軍を出しているのはあるが、
また甲斐信濃並の税制を敷くようになるのは勝頼時代になってからという論文もあるが、
別に苦労ってほどの苦労とは言えないと思う、駿河完全統治が1571年なんだから、
それを信玄の寿命までの僅かな期間で甲斐信濃並にしてたらそっちの方が凄いってw

まあ統治のシステム的には当時としては進んでいた今川領だったから治めやすくはあったかもしれんが。
あとは駿府が今川時代の繁栄取り戻すのは江戸時代の家康の時とかいう評ぐらいか?
639人間七七四年:2011/07/17(日) 22:20:56.10 ID:YiLzGlmo
>>637
うまく言ってない証拠のほうがないだろ
さっきから一体何をもとにして語ってるんだ?
640人間七七四年:2011/07/17(日) 22:29:18.90 ID:olYbGGqf
上手く行ったんで6〜7年で駿河統治が終りですか
そりゃ、すごいわwwww
641人間七七四年:2011/07/17(日) 22:30:45.54 ID:XptP0TGD
自分のソースは
一揆は1572年の誰か宛の感状、駿河の蒲原辺りの一揆を鎮圧して云々という内容。

税制は確か戦武の目次前の付録みたいに付いている小論文、4巻か5巻だったと思う。
642人間七七四年:2011/07/17(日) 22:31:19.08 ID:olYbGGqf
うんうん長くて7年のね
643人間七七四年:2011/07/17(日) 22:36:21.92 ID:YiLzGlmo
>>640 >>642
1582年で一旦武田滅亡したんだから仕方なかろ
それで統治がうまくいったかどうかを決めるのはおかしかろ

てかその言い方だと
織田なんか数ヶ月で手放した統治領土なんかざらにあるし
一年もたなかったところや、
5年以下で手放したところもある
織田のは普通に一揆続発で国ごと火祭りになって手放さざるを得なくなってる状態だけどな
644人間七七四年:2011/07/17(日) 22:37:30.99 ID:YiLzGlmo
>>641
よければ1572年の何月かをおせーて
書状番号でもいい
後はこっちでも見れる
645人間七七四年:2011/07/17(日) 22:47:05.98 ID:XptP0TGD
織田は領地の拡大速度に人手が追いついていってない感じだ。
もっとも急激に領土拡大した家はみんなそんな感じで、
重要なとこだけ確保して他は在地勢力に丸投げ、
在地勢力をそのまま取り込むって感じ多い。

>>644
何月かさえ覚えていない、正直1572年かも自信が無いが・・・
ただその感状は多分3巻であったはず、
ちゃんと感状の中身まで読まないと分からないから、
上の情報だけで調べるのは大変だろうと思う。
一月ぐらい待ってくれれば調べてくるが。
でも今図書館閉まるの早いんだよな・・・
646人間七七四年:2011/07/17(日) 22:48:54.15 ID:YiLzGlmo
>>642
てか11年か12年だろ?
少なくとも1569年や1570年や1571年には駿河における行政文書が無数にあるぞ
647人間七七四年:2011/07/17(日) 22:52:08.03 ID:YiLzGlmo
>>645
お疲れさん
俺も最近はリアル忙しくて
色々大変だわ
いくつもの資料を全部あたるとかかなり大変
できれば手がかりが欲しかったが・・・まあ仕方ない
648人間七七四年:2011/07/19(火) 12:42:55.73 ID:TCILkDSn
>>646
結局無くしてすっからかんだね
649人間七七四年:2011/07/19(火) 19:21:13.92 ID:+Z6T/mcm
まさに織田の事だよな
文字通り完全崩壊
暴虐さと杜撰な政治で後世に恨みと悪評ばらまいて無駄の極み
650人間七七四年:2011/07/20(水) 12:13:04.14 ID:UlOBmdCQ
末裔の残り方からいえば…
651人間七七四年:2011/07/20(水) 19:45:13.88 ID:40nVJMwe
織田の孫とか爺さんの悪行のせいで寺にも庇護してもらえずに
野垂れ死にしちゃったよな
業の深い爺さんのせいでかわいそうすぎる
652人間七七四年:2011/07/21(木) 00:06:46.81 ID:ny7/GHwZ
織田は大名として三家、四家残れたけんじゃなかったっけ?
家臣に裏切られまくって、山の中に追い立てられて自害も悲惨だお…
653人間七七四年:2011/07/21(木) 01:01:09.07 ID:bRWX6MDV
大名として一家だけそれも一万石だか三万石だか
武田は高家をはじめ複数が旗本として残ってる
654人間七七四年:2011/07/21(木) 01:59:51.88 ID:ny7/GHwZ
華族としては?
655人間七七四年:2011/07/21(木) 21:22:28.38 ID:81QfhpC/
華族なんて江戸末に残ってた藩主なら軒並みなってるし
結局WW2敗戦で消滅
てかそんな後の事を言うんだったら現在にまで生きてる武田家当主は
会社の創設して代表取締役になってるよ
つかここまで来るともう比較対象としてもわけわかめ
656人間七七四年:2011/07/22(金) 01:19:44.68 ID:VOzOULx4
武田は華族にはいない
657人間七七四年:2011/07/22(金) 05:05:28.89 ID:288qBU5v
それいったら織田は現在の会社創設者でもなければ社長でもない
なんだってこんな数百年以上たった後の事で比べあわねばならんのか
658人間七七四年:2011/07/22(金) 12:14:01.72 ID:+NdK/BV0
大名としては有楽系と信雄系の二つが残ったはずじゃ
あと旗本としていくつか
659人間七七四年:2011/07/23(土) 06:55:00.61 ID:MqD9fFtC
途中でおとり潰しにあってるのもいくつかあったろ
660人間七七四年:2011/07/25(月) 12:50:40.58 ID:bSPieA0N
残っているのも複数あるでしょ
661人間七七四年:2011/07/29(金) 20:48:21.36 ID:vvAqM9+Y
>>647
戦武1881
山梨県史だと番号は分からない
1572年5月16日原市川から小栗彦三郎宛の朱印状、
感状では無かった。

去る2月5日油野口(芝川町)において不慮の一戦のみぎり云々〜
でその時真っ先に帰参してくれたので褒美に知行として富士川のどっか与えるという内容。
閉館時間が迫っていたので日数と軽く内容確認したのみ、つか昔は貸出可だったのに・・・

日付と場所から北条との再同盟後もごたごたが続いていたと見るのが自然、
駿河の動乱時に、一揆組んで離反武田に不服従といった地域があった模様。
662人間七七四年:2011/08/04(木) 23:56:50.73 ID:NJRxCcqX
>>660
それいったら武田も残っているのは複数あるな
663人間七七四年:2011/08/05(金) 00:24:26.94 ID:Tr5IZGRf
>>661
確認してみたが、その内容ちと違くないか
俺が原文読んで見たのを訳して見れば
「去る2月5日に油野口で不慮の一戦があった時、先勢を押立て、一戦の上、敵を敗軍させ、
手負い数多仕る手柄の事、粉骨比類なきものである。」
どう見ても戦闘で先陣となって奮闘し、その活躍に対する褒章としか見えないぞ
その後に「殊に早々帰参神妙候」とあるが、これは「殊に」を「なお、その上、加えて」の意味で訳して
「加えて、早々と帰参したのは神妙である」とあるから、それ以前から武田に早期に帰参していて
「不慮の一戦」のときに奮闘した、ってだけじゃないのか

まあ、この「不慮一戦」の相手が一揆かどうかはわからんな
武田北条再同盟が1571年12月末
一応この時は駿河の9割以上が武田に属していたとはいえ、
興国寺城近辺だけは浮かび小島のような感じで武田領の中で北条勢が残っていたから
これの引渡しがいつだったのかにもよるだろう
そしてこの書状が出された1572年5月近辺をあたってみると、少し面白い傾向がわかったので
次レスでまとめてみる
664人間七七四年:2011/08/05(金) 00:58:25.34 ID:Tr5IZGRf
>>661
あんたが出した1572年5月の書状だが、
その時期の武田の書状では富士大宮関連のものがやたらとでてくる
富士大宮に関してはあんたは知っているだろうが、
駿河における一大武装宗教勢力だな
武田は駿河制圧においてその富士大宮を制圧し、武装解除に成功しているが
それをさらに進めて富士大宮関連の中身の具体的掌握を進めていったのが
この時期だったであろう事が近辺の書状から伺える
富士大宮関連の賽銭の流れの一元化してる事、
富士大宮関連の所領整理を行っている事、
富士一族以外の富士大宮関連の神職を大量に一人一人具体的に名指しで任命してる事、
富士一族の総領達に対しても軍役を課したり、神職を具体的に任命したり、無用の祭礼を行う事を禁じたり、
富士一族の総領と嫡男が住む場所を定めたり、
富士大宮関連に対する武田の掌握度が非常に深いところまで行っている事が伺える
どうもこのあんたがあげた2月5日の「不慮一戦」とは富士大宮が内部まで深く掌握されていく過程で
それに対する抵抗の一環として起こったもののように思える
それを裏付けるものとして、あんたがとりあげた書状の日付である5月16日には
同日付で武田家が富士大宮関連の神職を大量に一人一人名指しで任命している事、
さらにここから10日ほどさかのぼった5月5日付けの書状では、「敵が富士大宮に籠城したみぎりに、武田側の使節の往還に配慮した事」
でもって武田が褒章の土地を与えている書状が存在している

これらの事から考えるに、1571年末に武田は北条との再同盟が成立して駿河支配が安定して以降、
一大宗教勢力である富士大宮の完全掌握に乗りだし、それについて富士大宮側が抵抗を起こし、
その一環として2月5日の戦闘(内容から察するにおそらく野戦)が起きたのではなかろうか
戦闘は書状にもあるように武田側の勝利で終わり、野戦で敗北した富士大宮側は大宮で籠城するものの、
書状にもあるように武田側に帰参する者達や味方する者達が大量にでていた事から抵抗を断念し、
そのまま使節による交渉で降伏し、そのまま武田の富士大宮完全掌握が進められた、
という流れなのではなかろうか
665人間七七四年:2011/08/05(金) 05:32:04.16 ID:zGqS4elJ
>>664
それを普通は戦国時代的な意味での一揆と呼ぶんじゃないのか?

とはいえそれが630辺りの言う統治の凄い苦労に値するかと言うとかなり疑問符が付くなw
666人間七七四年:2011/08/05(金) 23:23:25.67 ID:hEoylKUp
>>665
武田としては北条という敵がいなくなって
心置きなく富士大宮完全掌握に乗り出したって事であって
5月には戦後処理や富士大宮完全掌握達成と思われる書状が大量に出てる事を考えれば
富士大宮の抵抗は2月から4月の3ヶ月程で、それも結局使節の交渉で決着してるようだから
それ程の血は流れてないようだな
これで統治に凄い苦労とか言われると無理ありすぎというしかない
667人間七七四年:2011/08/06(土) 00:41:55.30 ID:tidTvBUU
武田は宗教勢力の懐柔が巧みだからな
ただ保護するだけではなく、細かい金の流れに口出せるほど内部まで掌握する。
諏訪を統治する際に培ったものだろう。
668人間七七四年:2011/08/06(土) 05:11:45.78 ID:iB8Ixkp2
武田がというより今川時代の段階でほぼ無力化されていたからの方が大きいんじゃね

武田の統治で苦労というと佐久の方が当てはまりそう
武田の場合あれの方が一揆に苦労した例じゃね
669人間七七四年:2011/08/06(土) 18:33:22.50 ID:OeL7EmRp
>>668
今川時代には全然無力化されてないぞ
でないと武田が侵攻してきた時に富士大宮がその軍事力をフルに活用して
抵抗した事が説明つかなくなるし、
武田が内部にまで介入して完全掌握してる事も説明がつかなくなる

佐久もそれ程一揆なんて起きたか?って感じだけどな
670人間七七四年:2011/08/06(土) 20:32:07.86 ID:Pu11Jbgz
無力化されていたからその程度で済んだってことだろ。
671人間七七四年:2011/08/06(土) 20:32:57.46 ID:PtSfbfz5
それまでの労力との引き合いかな
672人間七七四年:2011/08/07(日) 02:15:09.40 ID:yUPbLFKa
>>670
だから無力化されてたら抵抗されてる理由がないっての
武田の業績否定したいのはわかったから
今川時代に無力化されてたとかいうなら根拠示せや
とてもそんな兆候ないと思うが
>>671
何がいいたいのかわかりくい
673人間七七四年:2011/08/07(日) 03:50:13.20 ID:e9gi0dpc
今川領は今川仮名目録にあるように基本的に寺社豪族の特権認めずが基本方針だから、
この今川の業績肯定派の人達(?)の言っていることはそれほどおかしくはない、と感じるが。

もっとも三河一向一揆のような例もあるし、氏真時代の遠江の乱もある、
弱体化はさせていたにしても完全な無力化はしていないだろうな、
ただ畿内や北陸に比べれば統治のしやすさは基本的に遥かにましな状況だっただろう。

ただ富士大宮は今川武田北条間の境目に位置していため独自性を保っていた、
という部分が大きいから、上記とはまた別な気もする。

武田が直接統治に入ったのも境目ではなくなったのだからある意味当然、
戦国時代ではよくあることだし、そういった直接支配を嫌い反抗するのもよくあることだ。

確か富士大宮と駿東郡支配に関する論文があったはずだが、何だったかな?
674人間七七四年:2011/08/07(日) 23:46:27.23 ID:HqNkr3v2
>>673
武田氏研究30号じゃね
675人間七七四年:2011/08/14(日) 19:04:29.34 ID:dGhKfJhg
>>673
>ただ富士大宮は今川武田北条間の境目に位置していため独自性を保っていた、
>という部分が大きいから、上記とはまた別な気もする。
そんなことあったか?

今川時代の段階で既に政権側に組み込まれたいたはずじゃ。
武田における恵林寺のように、富士大宮は代々今川氏と関係が深く、
葛山から代官交代したりとか氏真時代にもあったはず、誰が役の負担するとかも口出ししていたはず。

反抗した理由も武田が完全支配を目指したと言うのもあるかもしれないが、
単純に今川との関係が深かったためじゃ。
676人間七七四年:2011/08/14(日) 20:21:02.44 ID:zbnFv+YS
どっちにしろ無力化されてたってのはなさそうだな
677人間七七四年:2011/08/14(日) 21:09:09.05 ID:LDEs5HMu
そりゃそうだ
第一刀狩されていたはずの地域で武器持って反乱一揆騒動が起こったりするんだ
弱体化であれば理解できるが無力化というのは不可能に近いはず
678人間七七四年:2011/08/14(日) 21:15:42.17 ID:ShiRuC79
どれくらい弱体化していたものか
弱体化できても後にきたのにかっさわれちゃったからなあ
679人間七七四年:2011/08/14(日) 21:56:40.95 ID:LDEs5HMu
座して食らうは徳川家康じゃないけど
前領主がちゃんと仕事していた所は治めやすいだろうな
逆に前領主が豪族放置していて大名権力が全く及んでいないところは
統治するにしても完全に一から始めていかないといけないから統治は難しいだろな

まあ前領主の方がいいって理由でごねられる場合もあるが
680人間七七四年:2011/08/14(日) 21:58:29.90 ID:ShiRuC79
旧武田領は、武田がいいってゴネた形跡あるのか?
681人間七七四年:2011/08/14(日) 22:08:59.04 ID:LDEs5HMu
>>680
多分ない

反織田の一揆が起きたのは本能寺後だから
勝ち組?につこうとしたとか単なる落ち武者狩りの類だと思うし
682人間七七四年:2011/08/15(月) 02:38:36.56 ID:cKLcqLs2
>>681
多分で答えるのはどうかと思うが

信長生存時に既に信濃では8千人規模もの大規模一揆が起きてる
これは信玄時代はおろか、勝頼時代にすら無かったほどの大規模一揆
さらには甲斐衆の暴発は、暴政をしたとして後世にまで恨まれている織田の支配層に対して行われたものだから
落ち武者狩りというのはありえない
勝ち組につこう、というのも甲斐衆は河尻をはじめとした織田支配層を殺した後で
帰属をどこにも決めずにしばらく過ごしているから、これまた勝ち組とかいうのもありえない

単純に織田の政治が嫌で嫌われたか、武田の政治を懐かしんだか、どっちかだろう
683人間七七四年:2011/08/15(月) 02:40:14.83 ID:cKLcqLs2
>>678
弱体化されていた前提で話をするのはおかしくね?
今川時代に特に弱体化していた形跡は無いぞ

ま、その理屈なら織田は全部丸ごと無駄ってことでFA
684人間七七四年:2011/08/15(月) 09:58:02.47 ID:QD9sMbqC
>>682
>勝ち組につこう、というのも甲斐衆は河尻をはじめとした織田支配層を殺した後で
>帰属をどこにも決めずにしばらく過ごしているから
これは前後の時系列と書状から考えて北条の影響と謀略による可能性が高い、
また徳川の謀略という可能性は低い。
685人間七七四年:2011/08/15(月) 13:31:25.20 ID:jZ4p+iQP
>信長生存時に既に信濃では8千人規模もの大規模一揆が起きてる
これ日付考えると織田の実際の政治が嫌で嫌われたは時間的に無理そう
まだ政治なんて始まってもいない状態
織田の戦後処理が嫌われたか上杉の扇動か
織田家の政治というものに対する風聞でも聞いていて恐れたか
そんなところだだろう

また武田の政治を懐かしんだも無さそ
そもそも武田領となってわずか数年でそんな慕われるようなことになるか?
無論例外はあるだろうがその例外に当たるような実績残しているような資料は見当たらない

信濃全体で見ても武田を復興させるような動きも担ぎあげるような
動きも(穴山が生きていたりしたらとか後の徳川は別として)無かったし
それどころか旧領復帰目指して小笠原などの武田統治以前の勢力が頑張る始末だし
686人間七七四年:2011/08/15(月) 19:26:04.21 ID:njVP/+wP
>>684
にわかに信じがたい話だな
そこまで北条の手が伸びていたなら、甲斐衆が結局大軍の北条ではなく、
徳川を選んだ理由もわけわかめになる
>>685
政治が始まってすぐに不満続出、ってのもありそうだけどな

数年って、信濃は武田が20数年間にわたって統治した領土だぞ
明らかに武田の影響が強い地帯

そりゃもともと武田のお膝元は甲斐だからな
担ぎ上げるような一族も特に無しの状態だからな
687人間七七四年:2011/08/15(月) 21:38:30.30 ID:vWGLLm/A
>>686
記憶に頼るが、
確か河尻が殺された日かその前日には北条は甲斐を制圧しろと武田旧臣へ命令した書状があったはず、
そして甲斐の大村だか大野だかもその頃には北条に通じて反乱、北条を甲斐に引き入れようとする、
ところが北条主力は上野へ、甲斐へは一部の支隊のみ派遣、
その北条の別働隊が郡内を制圧している間に、徳川勢というか穴山勢がその大村だかを討ち取り
国中を鎮圧することに成功。
結果郡内は北条、それ以外は徳川と言う色分けになる。
>甲斐衆は河尻をはじめとした織田支配層を殺した後で帰属をどこにも決めずに
>しばらく過ごしていた
とは言えない、甲斐国衆もだが北条徳川も行動決断は非常に速い。

森の方の北信濃は上杉の北信濃豪族に対する安堵状が6月14日の段階で出されているため、
この時点で周りは敵だらけで孤立していたと言っていい。
そして18日ぐらいには敵対国人衆を打ち破って美濃へ。

どちらの場合でも周りは既に次の支配者への帰属を決めていて、
織田家への敵対を決めていたので、
681の
>勝ち組につこうとしたとか単なる落ち武者狩りの類
というのは的を射ている発言だと思う。


後段の信長生存時の八千の一揆の件だが、それって信長公記での話だと思うが、
あれは確か武田滅亡後、北信濃が森領となって、
森が統治のため海津城に向かったらその段階で既に一揆が発生していただから、
これは685の
>織田の戦後処理が嫌われたか上杉の扇動か
>織田家の政治というものに対する風聞でも聞いていて恐れたか
と考える方が自然。

>武田領となってわずか数年
これは本人でないから違うかもしれないが
多分一揆の発生した地域が御館の乱の時に領土に組み込んだ地域と判断しているからだと思う、
というかそう考えないと数年というのはおかしい、
確か一揆に囲まれたのは飯山城とかだったはずなので武田の統治はまだ数年、
むしろ上杉の影響の方が強いはず。
688人間七七四年:2011/08/16(火) 05:55:29.91 ID:mOs7L6Y0
>>687
うろ覚えで語られても困るが、
そうなると徳川が武田旧臣を派遣して甲斐衆懐柔をはかって行動している事が
おかしくなる
そっちの言い分なら甲斐を武力制圧した事になる
しかし甲斐衆と家康の間にそれ程の戦闘はろくに起こっていないはず

的を得てないだろ
徳川は6月15日に光秀討伐の報告が届くまで尾張方面に向けて侵攻中
河尻が死亡するのは6月18日
その状況に至るまでに北条が甲斐を制圧してたら、
河尻死亡後に家康が武田旧家臣を使って甲斐衆の懐柔を進めているのがおかしくなる

一揆蜂起は森が海津に入った後だぞ(4月5日以降)
既に仁科が死亡(3月2日)して信濃が制圧されてから一ヶ月近くたってる事からして
普通に占領行政で嫌われたっぽいがな
上杉の謀略とか言う根拠は特に無いだろ
そんで、一揆勢が最初に包囲したのは飯山だったが、一揆勢が根拠地にしていたのは大倉
ここは現在の長野県豊野町の辺り、一揆勢が進出した長沼も長野市の領域、と
明らかに武田の影響が強い地域だぞ
この辺りは香坂が北信濃一帯を統括して統治して上杉などに相対した領域
689人間七七四年:2011/08/16(火) 14:57:37.20 ID:z5e6sKuC
>>687
北条が渡辺に甲斐制圧命じたのは6月15日
大村の行動もその頃とされている
徳川方が大野砦を落としたのは18日ごろ

>これは685の
以下
日付考えると織田勢主力が帰ったことや恵林寺が焼かれたこと
旧武田領で農民による武田狩りが行われていたこととかの影響もあるんじゃ


>>688
時系列でみると
徳川は最初は岡部を穴山領に派遣しそこから甲斐衆を懐柔更に依田派遣
郡内は北条に穴山領はそのまま徳川に付き
国中では徳川北条が入り乱れるという状態に
そして河尻は本多を殺すのが14日

その後18日に河尻が殺害され
同日頃の大野砦合戦の徳川の勝利
また北条主力は16日に上野出陣その結果郡内除く甲斐中心部は徳川に付く
という流れ

甲斐衆の取りこみも計ったのは当然だが
北条徳川の代理戦ともいえる大野砦の戦いの結果と
北条勢の主力が北上した影響は大きいと思う

ただ当時甲斐での最大勢力である穴山勢が徳川に付いていたので
北条主力が甲斐に来なければ最終的には徳川という流れになった可能性も高いが

仁科が死亡したのは3月2日だけど
信濃全体で見れば軍事面に限っても信濃平定はで見ればもう少しかかっていないか
4月の段階で信濃が制圧されてから一ヶ月近くたってると言えそうな地域は
南信濃ぐらいでしかなくその地域は安定しているし

あと犀川以北は基本上杉じゃ?
それに大倉は逃げ込んで立てこもった場所じゃ
飯山囲んでいて長沼に進出してきたということは一揆勢の中心部は
長沼より北で飯山近辺と考える方が妥当では
690人間七七四年:2011/08/16(火) 17:14:52.25 ID:+xDQsrS1
つか織田の占領行政が嫌われたのが理由なら武田領全土で一揆が起きてるはずじゃね
691人間七七四年:2011/08/16(火) 17:59:35.85 ID:3XSCl4BM
>>690
武田領において織田が占領行政行って支配したのは甲斐と信濃
駿河は徳川のものになってる
その甲斐と信濃で両方とも国中反織田で一揆がおきてる事を考えれば
どう見ても占領行政で嫌われてるだろ
家康が占領した駿河じゃそんな事なかったんだし
692人間七七四年:2011/08/16(火) 18:19:58.93 ID:3XSCl4BM
>>689
6月15日までは徳川は尾張まで進軍しており、軍を返して浜松に戻ったのも21日、つまり河尻が死んだ後
北条の滝川の相手をしていて、決着がつくのは19日以降、つまり河尻が死んだ後
どちらの主力も別方向に展開しており、北条主力が滝川の相手に向かったのがおかしいなら、徳川なんかもっと駄目になってしまう
国中が徳川北条で入り乱れる、という状況ではまだこの時は無かったはず
実際に徳川・北条の両方の主力が甲斐に入った後も、家康の進出範囲は韮崎までで
武田家侍衆があらかた家康についたのは北条との和睦後だったと軍鑑にもある
そりゃ家康が武田旧家臣を派遣して懐柔したんだから、結構味方ついたのもいたろうけどな

それから、織田勢の信濃侵攻では武田は内部崩壊していて
織田勢はろくに抵抗無いまま進軍してる状態だから、それをいうのはおかしくないか?

信濃の飯山周辺を覗くほとんどの部分は
既に信玄の1568年侵攻のときに名実共に武田にあらかた属してる
逃げ込んだのではなくて拠点にしたのが大倉
実際にそこには一揆衆の家族である女子供がいて、織田勢に虐殺されてる
そこを拠点にして長沼に進出したと考えるのが自然
一揆勢は飯山を囲んだ、という記述があって、その後で一揆勢が長沼に進出した、という記述があって
織田勢による大倉の虐殺が起こった後で、飯山の包囲がとけたとされている
つまり、飯山包囲と長沼進出は同時進行で起きている事項だろう
てか、これから見るに8千人規模どころじゃないな
長沼に進出したのが8千人、大倉で殺された大量の女子供、その間に飯山を包囲し続けていた一揆勢、
これらを総計すれば軽く1万数千、という明らかに一国の領主レベルの大軍が集結した大一揆だわ
これだけの一揆を不満で集めるなんて織田の統治はさすがだな
693人間七七四年:2011/08/16(火) 21:02:43.06 ID:Z7m6WOYm
>>689
それだと穴山が生きていれば武田再興なったかもな、
確か甲斐の一郡与えられているから甲斐の4分の1支配してるということだし、
それと駿河の一部がある。
甲斐を上手くまとめれば徳川北条から簡単には手を出されない程度の勢力になれる。

>>690
そりゃそうだな。
でも実際には信越国境のみか、でも上杉の影響を理由にするのは弱いと思う、
沼田では一揆なんて起きていないのだから。
694人間七七四年:2011/08/16(火) 23:19:17.49 ID:Qql3F1B+
>>691 >>692
野良犬だがよ、8千人って数はどこから出たんだ?妄想かw?
695人間七七四年:2011/08/17(水) 03:31:26.80 ID:phieRYYN
>>694
信長公記の記述
信長万歳の厨でもなぜか信長厨御用達の資料に書いてあるこの記述をスルー、ってか大抵しらない
なんでかしらないが
696人間七七四年:2011/08/17(水) 13:38:19.73 ID:olC5L2h8
旧領復帰や新領獲得のためみんな動いているんだから
織田の統治や武田の統治がどうであったろうと結果は差ほど変わらんだろ
武田統治以前の状態を目指す小笠原や山浦のような連中も多いし
だからといって武田の統治が駄目だったとは言い切れんだろうし

あと徳川領で一揆が無いのは家康が生きているからだろjk
697人間七七四年:2011/08/17(水) 16:33:59.40 ID:ym7nTXcr
織田の統治が占領行政が嫌われたするなら甲斐信濃駿河上野で一揆が起きたのは
奥信濃のみなので本当に嫌われていたのか?ってなるし
本能寺後織田の統治が嫌われていたとするなら何で甲斐信濃の一部のみで一揆が起きたのかってなるし
一揆が起きて織田家臣を殺そうとしたことで嫌われていたとするなら
武田滅亡時武田領民が率先して勝頼や武田滅亡後に武田家臣を狩り出そうとしていたことから
武田も同様に武田の統治は嫌われていたととするのが論理的
織田の統治のみを悪いとするとどうしても論理破綻する

結局武田滅亡も本能寺後の混乱も恩賞目当ての落ち武者狩りや勝ち組につこうとする行動
混乱に乗じて勢力拡大を図っただけとするのが無難
織田武田の統治は領民には同程度に嫌われているか好かれているか程度でしかないだろう
698人間七七四年:2011/08/17(水) 19:52:29.53 ID:KfSdimAw
峠の話は何処行った?
699人間七七四年:2011/08/17(水) 22:12:37.12 ID:3Nk46khy
>>697
奥信濃のみも何も、1万数千規模なんて武田統治時代を通して存在しなかった大一揆だぞ
これでどっちもどっちにもちこむのは無理だろ
勝頼政権末期は外交失敗で多方面作戦によってあちこち敵に回した結果として
領民負担が多かったから不満が蓄積されていた
しかし、勝頼死亡後には徳川時代においても政治において信玄の遺風が残されるように運動されている
信長万歳の信長公記の記述では「(1582年の織田侵攻時点での)武田領国の民衆は早く織田領になりたいと思っていた」と
書いてあって、まるで織田軍を解放軍みたいに書いてるが
実際はすぐさま1万数千規模もの大一揆が起きてるのは異常
それでなくても、河尻をはじめとする織田系代官の所業は織田の暴政として後世に語りつがれている
てか、織田領国では信長が死ぬ前から離反や反乱続出なんだから
そんなに珍しい事でもなく、織田の政治が持っていた本質的な欠陥だったと考えたほうがいいだろ
700人間七七四年:2011/08/17(水) 22:14:39.93 ID:3Nk46khy
>>696
だから信長生きてる時点で1万数千規模もの大一揆がですねry
徳川生きてるから一揆無かったというなら、信長は生きてる時から信濃で武田時代には無かった程の大一揆が起きてるわけよ
そんで死亡後には国ごと離反
701人間七七四年:2011/08/18(木) 02:06:43.89 ID:AjCVJ6ed
横からだが
自分が思うに1万数千規模もの大一揆ってほとんどの人間がまともに取り合っていないんじゃないか?

あと多分あなたの意見反論になってると思われないぞ
質問に答えず別の部分で答えているから
くだ研風に言うとごくまれな反例をとりあげるってやつか?
702人間七七四年:2011/08/18(木) 10:32:50.64 ID:vaghOS/F
一応公記とかに記されていないだけで他の地域でも一揆はあったという可能性はあるかもしれんぞ
703人間七七四年:2011/08/19(金) 01:00:47.87 ID:/TjC1r1E
>>702
信長や織田家が直接関わっていないような上野や駿河ではあったかもしれないが、
甲斐信濃に関しては一通り記してあるんじゃないだろうか。

>>701
織田の占領行政がまずいなら何で奥信濃のみなのか
に対する反論が、
大規模な一揆は武田時代は無かった
じゃなー、何言っているんだこいつとしか思われ無い気がする。
この場合の反論は>>702みたいな意見や
甲斐南信濃は領主層が軒並み寝返っているからと実際に織田の大軍を見ているから一揆起こす気になれなかっただけで
実際には不満だらけであり〜みたいな論調で進めてその上で8000の一揆の話を絡めるべきだと思う。
まあこの仮説が正しいかどうかは別だがな。

>>699
織田領国で離反反乱多いと言っても織田家の領土と拡大速度が他と違うから頻度が多く見えるだけで
他の大名も似たり寄ったり。
あと
>勝頼政権末期は外交失敗で多方面作戦によってあちこち敵に回した結果として
>領民負担が多かったから不満が蓄積されていた
これだと武田の統治が進んでいなかった奥信濃のみで一揆が起きたことから
武田領全体では織田に対してさほど不満は無く、
武田による統治の被害をあまり受けていない地域でのみ織田への反感があったと話を展開することも可能になる。
704人間七七四年:2011/08/19(金) 15:08:45.98 ID:ulGXCiFC
滅亡による混乱、大名が死んだことによる占領行政の崩壊ってことで考えればよくあるような話って気もするが。
今川滅亡時に駿河遠江で一揆が起きて武田徳川に従わなかったが、
それだって今川時代には起きなかった一揆であり武田徳川の統治の酷さの証明である、
というかとそうじゃないだろうし。
705人間七七四年:2011/08/19(金) 15:10:58.81 ID:ddFhrBtw
川尻のブチころされかたは悪政の結果だろうな
逆さに埋められるってw
706人間七七四年:2011/08/19(金) 18:34:14.61 ID:IKcPHhUg
>>701
まともに取り合ってないって、認めたくないだけだろ?
信長公記にある記述を基にすれば
どうやったって1万は超えることになるぞ
長沼進出した一揆だけで8千、大倉に立てこもって殺された一揆の連中が最低でも千数百、
さらには飯山をこの間ずっと包囲していた一揆勢、これらを合計すればどうやったって
1万数千規模になるのにどうして認められないのか謎すぎる
707人間七七四年:2011/08/19(金) 18:39:36.04 ID:IKcPHhUg
>>703
なにいってんだ、こいつ、じゃないだろ
実際にこれだけの一揆がおこってるのにどうして影響を無視すんのかね
織田勢主力が信濃南や甲斐に在中してる状態じゃ一揆がおこしにくかっただけかもな

他の大名も似たり寄ったりとはどうしても思えないが
織田領国の離反・反乱の多さはどうみたって普通の有名大名を圧倒的に上回ってるだろ
奥信濃、ってか川中島周辺地域でも一揆は活動してるだろ
ここら辺は武田が統治して10数年以上になる十分武田の影響が強い地域だぞ
>>704
それで信長生存時でさえ1万数千規模の一揆がおき、さらには信長死亡後には国ごと離反
これで織田領国が無謬とかありえんから
てか、他の領国でも信長は生涯にわたって離反されまくりだろうに
708人間七七四年:2011/08/20(土) 12:33:17.39 ID:nZgxwhAe
だがはだがか
人のフォローに対して罵倒で返す辺りぶれない男だ
709人間七七四年:2011/08/20(土) 14:55:52.21 ID:x5UmI3b5
>これだと武田の統治が進んでいなかった奥信濃のみで一揆が起きたことから
それだと沼田などの北上野や東上野などではどうして起きていないとなる。

>織田勢主力が信濃南や甲斐に在中してる状態じゃ一揆がおこしにくかっただけかもな
その理屈だと織田勢主力が帰国してから起こせばいいとなる。
というか飯山の一揆も織田勢が帰国してからか帰国しだしてからの出来ごとでは。
710人間七七四年:2011/08/21(日) 17:17:35.75 ID:heZhiXbW
>>709
>その理屈だと織田勢主力が帰国してから起こせばいいとなる。
だから本能寺後に一揆を起こしたと言えそうでもあるけど、
あれは北条上杉の暗躍もあったし、大名とその後継者及びそれを支える近臣がほぼ消滅、
これだとたとえどんな善政しいていても一揆は起きただろうし、
でも上野では一揆は起きていなかったし。

川尻個人が嫌われていたぐらいなら成り立つか?
711人間七七四年:2011/08/22(月) 23:54:07.37 ID:MUjo1Xja
>>709
前半と後半で別人に突っ込んでるんだな?
とりあえず後半の俺宛だけに返答するが
織田勢が駐屯してるだろ
森も河尻も織田の威をかさにきてる
てか、現にたった2ヶ月たらずで国ごと離反だろうに
>>710
織田が善政しいてたっていいたいのか?
無理ありすぎだろ
後世に織田の暴政としてそしられ、河尻は酷い殺され方して
北条上杉の暗躍って織田がしっかり政治してりゃあそこまで酷い暴発にはならんだろ
てか、適当統治で国ごと暴発されて織田の代官が逃亡したり殺されたりしてるのは
信長生前からおきてる事態なのに、しかも織田の暴政としてそしられてるのに
無理やり善政にする理由がないとおもうが
712人間七七四年:2011/08/25(木) 12:12:53.89 ID:QLC6EpDq
織田の暴政に対する国人達の感情を把握していた家康と
信長にビビって婚姻関係を結びたくて必死で余裕がない北条
これが甲斐・信濃の領国化に有用だっただろうね。
713あぼーん:あぼーん
あぼーん
714あぼーん:あぼーん
あぼーん
715あぼーん:あぼーん
あぼーん
716あぼーん:あぼーん
あぼーん
717あぼーん:あぼーん
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718あぼーん:あぼーん
あぼーん
719人間七七四年:2011/08/26(金) 11:50:12.75 ID:3LITU3Qz
復旧したか?
720人間七七四年:2011/08/26(金) 13:09:21.16 ID:BIZV8G5E
コピペ荒らし基地外のせいで次々とスレが荒廃していく・・・ガチ気持ち悪いわ。
721人間七七四年:2011/08/27(土) 11:25:51.82 ID:nqKWi841
なんなんだこのバカ
722あぼーん:あぼーん
あぼーん
723あぼーん:あぼーん
あぼーん
724あぼーん:あぼーん
あぼーん
725人間七七四年:2011/10/13(木) 19:45:13.80 ID:CVzC0qUP
いま、ブロック紙だけど神奈川新聞で
「〜新説 三増合戦 愛川町郷土資料館企画展から〜」ってな特集やってるぞ
昨日が一回目
726人間七七四年:2011/11/04(金) 04:56:07.37 ID:7wqaycFy
北条氏康・氏政・氏照・氏邦が大バカ親子であることが確定した戦いだったね

北条厨が悔しくて悔しくて隠蔽したい戦いだね
727人間七七四年:2011/11/04(金) 17:26:51.23 ID:HfO80c1F
もうすっかり北条厨も大人しくなったな 完全な負け戦をいつまでも勝った勝ったと捏造するのも疲れるんだろう
728あぼーん:あぼーん
あぼーん
729人間七七四年:2011/11/08(火) 18:53:34.85 ID:/mcd1vpP
深沢城にて北条綱成「勝った勝った勝ったぞー!」と言いながら小田原に帰ったとさ。
730人間七七四年:2011/11/08(火) 19:17:58.69 ID:p8ryZBb2
捏造北条にふさわしい武将だな綱成
731人間七七四年:2011/11/08(火) 19:53:13.88 ID:kDNYHZIb
まあ綱成が活躍した
川越野戦からして捏造説が強いからね。
732人間七七四年:2011/11/10(木) 11:12:13.54 ID:0H81N0o2
軍記ブームで捏造豪傑が生産されたからね。
綱成とか伊達の成実とか毛利の元春とか
妄想武勇伝しか無い。
733人間七七四年:2011/11/11(金) 14:30:55.89 ID:E4HhrZzT
ぼくのかんがえた
さいきょうごうけつぶしょう
734人間七七四年:2011/11/11(金) 16:52:03.65 ID:T4oag/0w
そしてなんと言っても北越軍記の謙信がやはり最大の虚飾ですね
735人間七七四年:2011/11/11(金) 19:15:29.88 ID:5jcif8qC
他の厨が軍記内容と史実の見分けもつかず
ごっちゃにして書き込みしてるが、
誰も戦国板で北越軍記なんて持ち出して書き込みしてるヤツはいないだろアンチ乙w
736人間七七四年:2011/11/12(土) 08:00:34.42 ID:kqjNZxtH
むしろ北越軍記なんて
現代語訳活字出版さえしてない。
手に入れること自体が高難度だし
737人間七七四年:2011/11/12(土) 09:28:57.55 ID:UlkJu/Sz
甲陽軍鑑のパクリばかりだしな
738人間七七四年:2011/11/12(土) 09:40:26.36 ID:3J18j1Bg
パクリといえば北条
739人間七七四年:2011/11/12(土) 09:48:43.77 ID:UlkJu/Sz
そして養祖父を惨殺して家名を簒奪した長尾上杉

武田が一番キチンとしている
740人間七七四年:2011/11/12(土) 10:17:38.85 ID:3J18j1Bg
北条の乱波は捕らえしだい打首にせよ
741人間七七四年:2011/11/13(日) 11:50:34.99 ID:DqbNRCs/
織田厨うぜえ
742人間七七四年:2011/11/23(水) 21:30:56.22 ID:8oXj2SNd
喧嘩相手を捜しているのか?武勇伝でも聞き出したいのか?‥一体どのような主旨で漢を募集するのかね?

中・高生の頃、単なる不良として地域に名を残しても現在は建設作業員やトラックの運転手など世の中に数知れないが…(爆)

俺の場合、腕っ節の強さと明晰な頭脳&度胸&仲間達等関わる人達総てに対する優しさが評価され、若い頃は組関係の大物から焼肉屋で深夜まで接待されてスカウトされた経験も数多い。(爆)

それはそれとして方向が違っても成功出来たであろう自信は在るが、現在のリーマン生活で良かったと思うぜ。だって学卒だし、年収は2000万は貰えてるし…

決して、威張れるような額じゃないが…フーガとエルグランドを所有して生活にも困っていないょ!(爆)


743人間七七四年:2011/11/27(日) 16:06:07.86 ID:BNpgbaTf
織田厨の離間工作バレバレw
744人間七七四年:2011/11/28(月) 22:55:04.24 ID:yx0za9oC
織田厨哀れだな
745人間七七四年:2011/12/01(木) 15:16:57.12 ID:geMZdhtj
永禄年間ってすごい大旱魃・長雨・大洪水・疫病・大飢饉報告が
越後・上野・甲斐・常陸で災害記録として残ってるけど
伊豆・相模・武蔵・下総などでは一件も記録ないんだよね。
そのくせ災害国から逃亡する民ってのもいない。
北条って北朝鮮みたいに情報統制国家だったんだろうな怖いわ。
多くの識者がこれをもって北条領も飢饉だったから氏康が徳政令出したとか言ってるけど
なんで災害記録がまったく無い北条領も飢饉だったと捏造するのか。
北条領では失政の人災でその責任を取らされて氏康が隠居に追い込まれ
徳政令を出さないなら力づくで自力救済の叛旗を挙げるぞ!
という状況まで庶民が追い込まれたとしか考えられない。
746人間七七四年:2011/12/01(木) 15:19:27.31 ID:wnWgge6K
747人間七七四年:2011/12/01(木) 16:00:47.39 ID:p4+vI2rP
わざわざこんな過疎スレで頑張らなくてもいいのにだがさん
748人間七七四年:2011/12/01(木) 23:42:53.43 ID:5rNSHeiO
必死のマッチポンプを見守るスレ
749人間七七四年:2011/12/02(金) 08:38:20.85 ID:KYq0FT2Q
織田厨涙目憤死
750人間七七四年:2012/03/19(月) 06:37:18.64 ID:2Jwhwtxv
どうでもいい
751人間七七四年:2012/05/12(土) 17:59:52.34 ID:RCUO9sKM
北条軍は扇谷上杉軍の籠る深大寺城をパスして河越城を直接攻撃したとか。
http://saikatsutramway.sakura.ne.jp/saikatsu_tramway/furumaki.html
752人間七七四年:2012/05/12(土) 18:08:42.34 ID:qkJ6QdTH
マルチ乙
753人間七七四年:2012/07/10(火) 20:26:39.73 ID:+p5QdsAp
北条に勝っても、上杉に勝っても、徳川に勝っても
どこよりも早く滅亡した哀れで惨めな乞食武田であった
754人間七七四年:2012/07/11(水) 10:44:35.22 ID:EVr5BNDw
織田厨発狂w
755人間七七四年:2012/07/11(水) 12:14:47.15 ID:dNTqyQyJ
上杉は辛勝
北条は城攻め行って果たせてないから負け
徳川は土地奪ったけど取り戻されたから惜敗

だろ?
甲陽軍鑑の公式記録はご都合主義すぎる
756人間七七四年:2012/07/11(水) 12:26:36.90 ID:7fkrom9a
北条は甲陽軍鑑頼りの武田の属国ですがなにか?
757人間七七四年:2013/06/09(日) 19:48:33.82 ID:3zv3bFTb
小田原にピンポンダッシュみたいな悪戯をした信玄餅はなんで、
三増方面から帰路についたんだろ?
なんで箱根裏街道とか足柄街道とかじゃないんだろう?
758人間七七四年:2013/06/16(日) 11:13:54.24 ID:Z6t52dU7
おい誰かしてくれよ。
信玄さんが三増方面からかいった理由。
759人間七七四年:2013/06/16(日) 14:02:39.34 ID:ZDE6jUZz
ピンポンダッシュで城下町を放火した武田軍をおっかけて
裸足で逃げてく愉快な北条さん みんなが笑ってる謙信も笑ってる
ふーふふふっふー 今日もいい天気♪
760人間七七四年:2013/06/16(日) 14:36:57.91 ID:Z6t52dU7
おいお前面白いかえ歌だな。
いいぞ。
ついでに信玄さんが三増方面を帰路に選んだ理由も教えろ。
761人間七七四年:2013/06/24(月) 00:36:02.60 ID:UbYFj4dG
北から来たから帰るのは北の方が良かったんじゃね?
元気な箱根の支城などで頑張られると北条本隊に追いつかれて厄介。
762人間七七四年:2013/06/27(木) 08:24:07.65 ID:ZHVepmf8
北条や織田や徳川の嘘宣伝は悪質レベルだからな。
763人間七七四年:2013/08/12(月) NY:AN:NY.AN ID:HWuYF3wc
test
764人間七七四年:2013/12/23(月) 17:57:38.46 ID:tIyWlVLb
【伊豆長浜城(静岡県沼津市)】
戦国時代の後北条氏の水軍根拠点、沼津市内浦湾に面する長浜城。
http://century660.sakura.ne.jp/castle/nagahamajyoh_model.html
765人間七七四年:2014/01/02(木) 17:59:17.29 ID:oMVbQGg3
3年以上前のにレスするのもあほっぽいが
>>597
>>613
感状なんて翌日どころか当日に出る物だってあるぞ。
766人間七七四年:2014/01/09(木) 21:59:04.46 ID:C7COd56G
足柄、箱根は山があるだろ!武具とか兵糧とか背負って山越えするのは大変なんだよ。
三増なら大きな山越えをしなくていいから楽ちん。

それと足柄、箱根は駿河に通じているが、三増なら直接甲斐に帰れる。
767人間七七四年:2014/01/12(日) 19:15:53.38 ID:iW5LUr4U
わざわざ三増から迂回して帰陣したのは、北条を城から出す誘いだったのかも。たとえば三方が原の戦いのような。
768人間七七四年:2014/01/12(日) 23:38:58.33 ID:1HIv6aBk
最初から北条なんて潰す気はなかったよね 生意気だから少し痛めつけてやろうくらいの牽制
769人間七七四年:2014/01/12(日) 23:51:32.68 ID:sZYEfqqI
でも一次史料からだと武田が痛めつけられて逃げ帰ったことしか分からないんだよ
770人間七七四年:2014/01/12(日) 23:56:55.60 ID:1HIv6aBk
小田原焼かれて滝山城ボコボコにされてそれはないなw
771人間七七四年:2014/01/13(月) 00:47:28.18 ID:o5d4OLam
北条を本気で潰す気なら上洛戦なんてしないからな
アホの北条厨には理解できないだろうけど
772人間七七四年:2014/01/13(月) 03:52:22.25 ID:jBGP1rW+
完膚なきまでに叩きのめされたから豊穣と和睦したんだよ
氏照も上杉に報告してるしな
773人間七七四年:2014/01/13(月) 07:35:02.97 ID:1umJBMXo
一次史料からは北条が負けたことしか解からない
北条側、豊前山城の戦死は氏康の書状から確認できるが、浅利信種の戦死は軍記がソース

信玄書状では「北条勢2000余を討ち取った」と勝利宣言以外の何物でもないが
氏照の書状は「前半は優勢だったが後半は・・・でも、それはあんた(上杉)が援軍を出してくれなかったせいだ。北条は悪くない」
という愚痴とも言い訳ともつかぬもの。勝利宣言とは程遠い
774人間七七四年:2014/01/13(月) 10:08:42.17 ID:coVnNXhG
信玄が今度は鎌倉と小田原と江戸を見学するコースでの、
第二次小田原城襲撃ツアーをチラつかせたら、
速攻で土下座したのが北条じゃんw
775人間七七四年:2014/01/13(月) 11:34:41.55 ID:Dk5ire5u
豊前山城守が『三増峠』で討ち死にした根拠って何?
776人間七七四年:2014/01/13(月) 12:47:15.23 ID:1umJBMXo
ソース豊前氏古文書
北条氏康から戦死した豊前山城守の未亡人に宛てた書状が現存している
777人間七七四年:2014/01/13(月) 13:36:14.95 ID:5IuAT4pu
>>776
いやそれは討ち死にしたのがわかるのであって
いつどこで戦死したのかはわからないはず

しかもあの書状、日付はあっても年が書いていない
778人間七七四年:2014/01/13(月) 13:47:49.98 ID:1umJBMXo
北条厨の屁理屈に付き合う気はないから
文句があるなら神奈川県立公文書館にどうぞ

主な収蔵資料(中世) - 神奈川県ホームページ
ttp://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f1040/p10481.html

9 北条氏康書状 永禄12年(1569)ID:2200800603 (豊前氏古文書)
豊前山城守の後室が永禄12年10月6日の三増峠の合戦で戦死した夫の遺品(梅の絵)を氏康に寄贈したことに対する礼状です。
女性宛の書状であるため、仮名書きとなっています。

10 北条家朱印状 永禄12年(1569)ID:2200800604 (豊前氏古文書)
豊前山城守が三増峠の合戦で戦死したため、北条氏政が夫の恩給地を未亡人となった夫人に安堵したものです。
女性宛のものであるため、朱印状のような公式文書にも仮名書きを使用しています。
779人間七七四年:2014/01/13(月) 13:59:23.56 ID:8y7RQHGo
武田厨は武田擁護のためなら一次史料をネジ曲げ
軍記物・講談を掻き集め、自治体の郷土史研究レベルを絶対視するからな…
780人間七七四年:2014/01/13(月) 14:08:49.69 ID:5IuAT4pu
>>778
だからそれに書いていないから聞いているというのにw
781人間七七四年:2014/01/13(月) 14:09:19.77 ID:MSrAf5iP
織田厨発狂
782人間七七四年:2014/01/13(月) 23:52:18.55 ID:H+1vFGpe
武田はうすい峠から南下して北条領になだれ込んだんだよね。信玄が出張っても北条が出てこないから、
いけいけどんどんと進んで小田原に到着したんだ。でも信玄は小田原城を見て愕然。こんなところ攻めら
れないよ〜と難攻不落の小田原城を目の当たりにして涙目。気を晴らすために、小田原城下を焼いて帰
って行ったとさ。
783人間七七四年:2014/01/14(火) 08:48:31.24 ID:SpNToWD2
なんだ北条ボロ負けじゃん
784人間七七四年:2014/01/14(火) 14:06:08.43 ID:QxEic5Vz
自領の民草を一切守らず、
焼き討ち略奪されまくって荒らされてるのを黙殺。
自分らは城内で引きこもりして、
はやく敵が退去するように祈る北条…
こんな領主は最悪だよな。
戦争は敵地でやるもんだわ。
税や金利や質をとって搾取するくせに、
民に自力救済を要求するクソ大名北条。
785人間七七四年:2014/01/14(火) 22:29:26.00 ID:D78Hyk3r
無辜の民草を焼き払う残虐な侵略者武田信玄って事か
寺領にも重税かけて退屈候なんていわれる始末w
786人間七七四年:2014/01/14(火) 22:37:39.90 ID:0jBlc8vz
でもさあ、焼き討ち略奪するような信玄は逆に恨まれなかったのかね?
787人間七七四年:2014/01/15(水) 08:06:53.38 ID:u/HddF32
敵地での焼き討ちは無辜の民草を守れぬ統治者の無力をアピール
788人間七七四年:2014/01/15(水) 08:49:44.87 ID:qO11OOpv
家康でさえ打って出たのに氏康は城でガクブルしてたんだよなぁ
出てこいよ? 武田と野戦なんて勝てる見込みないもんなぁ北条じゃ
789人間七七四年:2014/01/15(水) 18:07:17.85 ID:TPombuGQ
謙信にも焼き討ち略奪され、
里見にも海路から上陸焼き討ちされる
馬鹿当主北条は、
神奈川県民から嫌われてる。
790人間七七四年:2014/01/15(水) 21:44:01.81 ID:Uieh1vUA
氏康は歳だからな〜。
息子の氏政は小田原から出撃したよ。結局追いつかなかったけど。
791人間七七四年:2014/01/15(水) 22:13:19.90 ID:qO11OOpv
>>786
普段年貢とられるだけとられてんのに自分たちを守らない領主なんて許せるわけ無いだろ
他国を攻めまくって自国領民の安全守るのが名将だ
792人間七七四年:2014/01/16(木) 23:06:03.86 ID:vxfgF0fr
>>791
でも氏康の時代、氏政の時代には領国を拡大できたんだから、領民からは嫌われていなかったんじゃ?
793人間七七四年:2014/01/17(金) 13:21:22.91 ID:FrJIkJLb
その理屈だと氏康より領土を拡大した謙信・信玄・元就あたりは氏康より遥かに民に慕われてた事になるし、
領土を失った小田天庵は民に嫌われてた事にるなw
794人間七七四年:2014/01/17(金) 21:32:57.57 ID:Dnk41i0V
小田氏治は何度負けてもへこたれず謙信相手でも野戦を挑んだ見上げた漢
民草も応援したくなるというもの
城に引き篭もってガクブルってた氏康とは雲泥の差
795人間七七四年:2014/01/17(金) 21:52:32.64 ID:X8+R/hVt
まあ武田は織田相手に単独で当たれず周囲煽って見方につけても中々攻めようとしなかった腰抜けヘタレ根性無しだけどな
796人間七七四年:2014/01/17(金) 21:57:28.21 ID:Dnk41i0V
そんなヘタレ相手でも城に引き篭もってガクブルってた北条氏康
797人間七七四年:2014/01/17(金) 22:58:06.04 ID:BMe4xyCW
城に引きこもって、兵たちを守った氏康さんは慕われていたんじゃあないのかい?
798人間七七四年:2014/01/18(土) 07:17:56.60 ID:QPJMX0K7
城に引きこもってガクブルってたが故の三増峠の挟撃失敗
2000余の兵を無為に死なせた北条氏康
799人間七七四年:2014/01/18(土) 08:58:53.75 ID:YU7kZWST
795

織田が勢力拡大できたのは武田の後ろ盾あればこそだろ
800人間七七四年:2014/01/18(土) 16:03:11.31 ID:QOvNLpHX
>>798
居城を囲んだ敵の撤退に追いつけないとか有り得んからな

出撃しようとする氏政を「そんなことしたら俺の身を護る兵がいなくなっちゃうだろ!」
とか言って引き止めたんだろうなガクブル氏康はw
801人間七七四年:2014/01/18(土) 20:31:38.73 ID:IIrX9VLJ
武田が今川を攻められたのも織田のおかげ
失敗したがなw
802人間七七四年:2014/01/18(土) 21:28:16.68 ID:qMRb0UBo
桶狭間でまぐれ勝ち 徳川にビビって今川本国まで攻め込めない織田
徳川倒したとしても武田&今川に勝てるわけがない織田 
803人間七七四年:2014/01/18(土) 22:41:01.88 ID:IIrX9VLJ
まあ実際今川当主を葬ったわけですがw
たかだか先兵を打ち破ったぐらいでたらればを繰り返して勝っただのという武田とは違うにですよw
804人間七七四年:2014/01/18(土) 23:01:00.80 ID:7V9vpLsk
武田も勢力拡大できたのも、織田の後ろ盾があればこそ。信濃とか今川とか。。。。
805人間七七四年:2014/01/18(土) 23:23:12.01 ID:3HpUkeQc
なにこの不自然な流れ
806人間七七四年:2014/01/18(土) 23:53:08.03 ID:hF3dZYwQ
痛いところを突かれると織田武田厨の争いを演じてレスを押し流そうとする
北条厨のいつもの手さw
807人間七七四年:2014/01/19(日) 01:57:12.96 ID:zQkdArfH
北条の乱波は捕らえしだい打首にせよ
808人間七七四年:2014/01/19(日) 08:59:26.60 ID:NJWQGq0j
今川が衰退したのは遠江総劇による遠江国人の大反乱のせいで、
信長なんて全く関係ないからなあ。
809人間七七四年:2014/01/19(日) 10:54:59.02 ID:1oRBC+KJ
菅沼遼太の理屈ではな
810人間七七四年:2014/01/19(日) 16:12:31.75 ID:88Mqtx4O
織田厨は、信長が大軍率いて最初に上洛できたのも
信玄のおかげというのは無視するんだな
811人間七七四年:2014/01/19(日) 16:23:02.18 ID:1oRBC+KJ
確かに信玄がバカだから上洛できたというのはあるなw
812人間七七四年:2014/01/19(日) 18:12:59.98 ID:ZJIrX6hK
まあもっとバカなのは信玄の駿河攻めに協力したから、後にやっかいな目に合う
信長自身だけどな
813人間七七四年:2014/01/19(日) 20:24:27.96 ID:N/7db2dP
だな 裏切られたニダーとか泣きわめいて発狂してたからw
814人間七七四年:2014/01/19(日) 23:57:12.84 ID:Pwzi6P1j
厄介なめ?
どこがw
結果観れば織田領に一歩たりともあしをふみいれられなかったのにw
815人間七七四年:2014/01/20(月) 10:19:30.41 ID:QWLKWu5u
えっ?織田領の東美濃を侵食しまくってましたがw
その基盤があったから勝頼による明智城攻略が簡単に成功したわけだし。
816人間七七四年:2014/01/20(月) 23:24:35.90 ID:GpwQR1FD
あ、流れ的に震源の話だと思ったけど違うんだな
勝頼の時代は知らん
817人間七七四年:2014/01/21(火) 11:42:32.79 ID:09yxCjHy
>>816
岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
818人間七七四年:2014/01/21(火) 12:04:17.05 ID:8EOH+sJ9
ありゃ自発的寝返り
信玄の軍が来た証拠もない
819人間七七四年:2014/01/21(火) 12:19:31.43 ID:iIEhLHeg
>>818
自発的寝返りだとする根拠は?
820人間七七四年:2014/01/21(火) 14:15:23.95 ID:mF0GM0OT
そんなもん無い。ただの屁理屈。
821人間七七四年:2014/01/21(火) 23:29:02.29 ID:8EOH+sJ9
戦国大名武田氏の権力構造
822人間七七四年:2014/01/22(水) 19:38:13.87 ID:VvbYEpdc
丸馬出の武田の城、諏訪原城の城ラマ。
http://mirai660.net/castle/suwaharajyoh_model.html
823人間七七四年:2014/02/04(火) 21:34:42.74 ID:/eycyrZb
そういえば、信長の子供を勝頼が生け捕ったって聞いたけど、本当なのか?名前がたしか勝長とかいうやつ。勝頼すごいやんけ。
824人間七七四年:2014/02/04(火) 22:18:05.76 ID:c3rYAqjm
岩村城主として遠山家の養子として送られていた幼児を
遠山家が武田についたときに甲斐に送られたって話
しかも信玄時代の話だ
825人間七七四年:2014/02/05(水) 22:20:52.81 ID:UtESraqC
もう織田に見切りつけてたんだろうねw
826人間七七四年:2014/02/07(金) 23:39:07.85 ID:vWZ/NofO
信玄の小田原対陣が長引けば、小田原城兵と北条の救援部隊によって挟み撃ちになったな。そうすれば北条圧倒的有利〜
827人間七七四年:2014/02/08(土) 01:15:54.05 ID:1bPgM+E4
そうならなかったのは氏康が城に引きこもってガクブルってたせいだな
北条圧倒的へタレ〜
828人間七七四年:2014/02/08(土) 01:20:57.12 ID:1bPgM+E4
800 :人間七七四年:2014/01/18(土) 16:03:11.31 ID:QOvNLpHX
>>798
居城を囲んだ敵の撤退に追いつけないとか有り得んからな

出撃しようとする氏政を「そんなことしたら俺の身を護る兵がいなくなっちゃうだろ!」
とか言って引き止めたんだろうなガクブル氏康はw
829人間七七四年:2014/02/08(土) 14:35:31.86 ID:6to/Ixj5
ウィキとか本当にひどいよ 挟撃しようとしてた!もし成功してたらウリ達は勝っていたニダ!とか

本当 くたばれや北条 
830人間七七四年:2014/02/09(日) 02:33:06.31 ID:GqG+LLfv
まあ武田が相当ヤバイ橋を渡ったのは事実。高坂も諌言してるしな
相手が北条のようなへタレでなければ武田軍は壊滅してもおかしくなかった
831人間七七四年:2014/02/09(日) 05:53:54.71 ID:7Ve5Syq9
高坂さんは勝ちまくるのが嫌いだからなぁ あんま真に受けないほうがいいよw
832人間七七四年:2014/02/09(日) 06:57:46.32 ID:GqG+LLfv
なるほど
勝ちがまくるのが嫌いな高坂さんに諌言されるほど武田の圧勝だった訳だ
当に北条圧倒的へタレ〜w
833人間七七四年:2014/02/09(日) 07:11:23.00 ID:7Ve5Syq9
ワロタw
834人間七七四年:2014/02/09(日) 10:02:12.90 ID:SfWxybBl
信玄が次は岩槻や江戸経由で第二次小田原ツアーを表明したら、
氏康ショックで信玄と同盟しろって発狂して死んだからな。
835人間七七四年:2014/02/09(日) 10:25:19.22 ID:QDK/sTJ+
妄想もここまで来ると立派だ
836人間七七四年:2014/02/09(日) 21:15:44.44 ID:uc2eKePH
でも信玄の小田原ツアーで得たものはなかったんじゃねーか?それとも駿河でも取れたのかね?
837人間七七四年:2014/02/09(日) 21:59:38.14 ID:b8OIeYw1
北条が得たものはなにかあるか?w
838人間七七四年:2014/02/09(日) 22:25:34.51 ID:Y/WTpOhc
越相同盟崩壊と甲相同盟再成立と
信玄の思惑通りになったじゃん。
839人間七七四年:2014/02/09(日) 22:28:05.91 ID:b8OIeYw1
無様だな… ア北条w なにがしたかったんだ
840人間七七四年:2014/02/10(月) 13:56:44.41 ID:nivabtRm
>>834
たしか岩槻ってのは勘違いで
書状に書いていたのは鎌倉と小田原と江戸だったはず。
841人間七七四年:2014/02/10(月) 22:29:13.47 ID:8eVJoA0e
佐竹と里見と合流するつもりだったようだし、
江戸より岩槻の方が合流はし易かっただろうけどね。
842人間七七四年:2014/02/11(火) 18:06:46.54 ID:fRfAR0nD
北条が泣いて土下座するまでとことんいじめるつもりだったんだな
さすが信玄公 鬼やわw
843人間七七四年:2014/02/11(火) 20:59:39.67 ID:uiYMF5RG
まあ義昭によって越後と甲斐は和睦状態だったって言うし、
いくら北条が謙信に泣きついて喚こうが無駄なんだよな。

だいたい氏政の子を謙信に送る約束を反故にしといて、
もう同盟なってるんだからって謙信に泣きつく時点で、
は?まだ条件闘争中なのに何言ってんだ北条死ねやレベルの違背だからな。
844人間七七四年:2014/02/12(水) 22:19:59.74 ID:G3UxmIKB
信玄包囲網
今川を木端微塵にし、北条には脅しをかけて同盟し、包囲網はあっちゅう間に瓦解。
845人間七七四年:2014/02/13(木) 20:29:50.04 ID:/YWxlWuc
信玄が小田原に来た道筋ってわかる?たしか碓井峠から登場したかと思うが。で、問題です。なぜ信玄は三増峠から登場しなかったのでしょうか?
846人間七七四年:2014/02/14(金) 08:01:42.74 ID:p1TPDtdt
八王子などを襲って氏照とかを重臣層を恐怖に陥れながらゆっくり関東を南下して、
謙信と同盟しても無駄だ!俺と同盟しないとヤバイぞってじわじわ小田原に近付いていく強迫南下だからだろ。
847人間七七四年:2014/02/14(金) 08:43:55.95 ID:f/LjlR7p
そもそも甲府→三増峠間には大軍が一度に通過できるような街道がない
帰路なら部隊を小分けにして間道を通れば良いが、往路でそれは各個撃破の良い的
848人間七七四年:2014/03/22(土) 20:38:30.97 ID:0D5Wcx9N
【高根城(静岡県浜松市)】
http://mirai660.net/castle/takanejyoh_model.html
849人間七七四年:2014/09/06(土) 08:08:11.79 ID:TNwDDPbi
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850人間七七四年:2014/09/11(木) 14:40:41.14 ID:/leY95Gy
基本的に北条一族は戦下手だよな。
川越の野戦くらいだろう。番狂わせで勝てたのは
851人間七七四年:2014/09/12(金) 03:27:07.67 ID:GzIZfM59
勝っても支配域の拡がらない対戦相手とかやんなっちゃうね
852人間七七四年:2014/09/12(金) 22:45:05.11 ID:DKngZmHP
この戦いが北条勝利とか言ってる馬鹿がいるぐらい
この板のレベルは著しく低下してしまったからな
北条が武田に勝てるわけねーし、三国同盟も
その後の再同盟も北条が土下座してきたから
信玄が渋々受けてやってる史実を考えれば
北条は武田の格下だと分かるもんだけどな
西上作戦時には援軍まで出してるってのに
853人間七七四年:2014/09/13(土) 05:27:57.47 ID:Z6+LryY7
武田が遠江の城を落としまくる勝ち戦の最中に
人知れず壊滅した北条の援軍・・・
854人間七七四年:2014/09/13(土) 09:41:57.29 ID:9Q/8DZ9i
無理な勝ち戦しも金欠して金に釣られて同盟くずして滅亡してれば世話ないお┐(´∀`)┌
855人間七七四年:2014/09/13(土) 14:35:06.39 ID:LhZab+Zb
>>852
人質に弟二人出してるんだっけ もう完全属国ですわ
856人間七七四年:2015/02/14(土) 10:41:40.20 ID:Q92xYokh
>>853
まあ武田の属国として北条としては死ぬ気で頑張ったんだろうな
あるいは糞弱かったかのどっちかw
857人間七七四年
惰弱な北条軍は武田では常に捨て駒として運用される
先方衆の百歩先で戦わされ、逃げると背後から容赦なく矢を射掛けられ、壊滅するまで酷使される運命