>>334さんへ。私は、定正の乱はやはり、山内側に鎮圧されたと思いますよ。
(1).山内家と扇谷家は「20万と100騎」(大森教訓状)あるいは「鵬(大きい鳥)と鸚(オウム)」(定正状)ぐらいの戦力差がある。
禅秀の乱に勝利した関東管領山内家は反乱者の土地を没収し、それを武蔵・上野・相模の国人達に分配して主従関係を結び、国人達を味方に付けた。
一方、扇谷家は「天運と道潅の器量によ」り、「関東の諸将が扇谷家に心を寄せるようになった。」のに「その道潅を自らの手で失ったのは、月日が地に落ちたに等しい行為である。」
(「 」内は、扇谷三将(道潅・大森・三浦時高)の1人である、大森寄栖庵氏頼が明応元年〜2年(1492〜1493)の2月に定正に宛てて書いた「大森教訓状」からの引用です。)
(2).かつ扇谷家は、山内家家宰白井長尾氏(武蔵・上野・相模に分散)よりも勢力が小さい。その景春が失敗したのだから、定正が武相上を征服するのは到底難しい。
(3).定正は故意に上野・越後に攻め入っていない。
これは定正が山内家の主戦力である越後勢の介入を恐れたためと思われる。
ということは、いくら定正が武蔵鉢形周辺で勝っても、敵の主戦力にダメージを与えない限り目的を達成するのは非常に難しい。これは戦略の常道ですよね?
(4).明応三年(1493)8月26日には大森寄栖庵氏頼、9月23日には三浦時高と次々と重臣を失い戦力ががた落ちしているのにも関わらず、
定正は、早雲・氏親の外部勢力と手を組んでまでして山内家と戦う。これは無謀ではなかろうか?