【三法師】清洲会議を語る【天正十年】

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1人間七七四年
参加者に滝川一益がいないとか、格がない池田恒興が参加してるとか、
丹羽長秀は何故秀吉を支持したとか、三法師擁立は誰の策とか、
賤ヶ岳の戦いの前哨戦とか色々な要素がありますが、多面的に語りましょう。


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2人間七七四年:2007/10/17(水) 23:07:09 ID:BCrPQdLz
信雄や信孝の参加が許されなかった?って時点で、どうもアレなような。。。
3人間七七四年:2007/10/17(水) 23:13:18 ID:YSlQjJse
丹羽長秀の馬鹿さ加減が際立つ会議
4人間七七四年:2007/10/18(木) 01:16:32 ID:niU+YWTv
>>3
長秀は後に悔いて自害してるなw
5Y ◆VqSh5C7CR6 :2007/10/18(木) 01:38:33 ID:JIpzBbvE
まあ病死説もあるけどな。秀吉の策略がプンプンする会議なのは確か。
6人間七七四年:2007/10/18(木) 09:17:00 ID:/k5i9PDh
>>3
窓際だったのに宿老として参加できてヒャッホイじゃねえの?
7人間七七四年:2007/10/18(木) 12:20:12 ID:if9/6yw5
>>6
窓際どころか、本能寺直前の時点では実務官僚として前途悠々だったぞ>丹羽

織田家内で既に武将の時代は過ぎ去り始めていた。秀吉も勝家も(勿論光秀も)中国と関東の
目処が付いた時点で暫時権力兵力を削がれていくことになっただろう。巨大な領土と兵力を持つ者は
織田家にとって脅威にこそなれ、もはや必要がなくなるからだ。

織田の天下がある程度確定すれば、権力を持つのは側近官僚のグループと、丹羽の様に築城や
城下町の整備など、平和な時代のインフラを構築できる能力を持った者たちですよ。
8人間七七四年:2007/10/18(木) 15:25:53 ID:niU+YWTv
しかし、>>1にも書かれているが池田の参加をよく柴田が認めたな。
織田一族の、信雄・信孝・信包・長益は蚊帳の外だし。
9人間七七四年:2007/10/18(木) 15:47:50 ID:KW2NhLNv
お前らバカか
丹羽が後に秀吉恨んで死んだってのは完全に後世の創作だぞ
10人間七七四年:2007/10/18(木) 15:52:20 ID:if9/6yw5
ソース出して言えよ
11人間七七四年:2007/10/18(木) 17:00:24 ID:/k5i9PDh
>>10
それは話が逆でしょう
逆に一次史料にあるという証拠が出せたら間違いだと言えるけど
貴方の言ってるのは悪魔の証明だよ

12人間七七四年:2007/10/18(木) 17:58:12 ID:KW2NhLNv
そもそも勝家が織田家を守るためにうんぬんというところから大嘘
信孝かついで、足利幕府でいう管領的立場を狙ったのは明白だろww 勝家にも己の保身と野望が無いといえば嘘になるだろうしな
そもそも担いだのが信孝というのが… 信孝でいいなら信雄でもいいという話になって争いの火種が増えるだけ、信孝が信雄に比べて能力が高いというわけでもない

信忠死んだ時点で織田家オワタ
13人間七七四年:2007/10/18(木) 18:03:06 ID:niU+YWTv
長秀切腹のソースは「藩翰譜」(江戸中期)、「名将言行録」(江戸末期)だったりしてなw
14人間七七四年:2007/10/18(木) 22:24:43 ID:if9/6yw5
>>12
> そもそも三成が豊臣家を守るためにうんぬんというところから大嘘
> 秀頼かついで、足利幕府でいう管領的立場を狙ったのは明白だろww 三成にも己の保身と野望が無いといえば嘘になるだろうしな
> そもそも担いだのが秀頼というのが… 秀頼でいいなら秀次でもいいという話になって争いの火種が増えるだけ、秀頼が秀次に比べて能力が高いというわけでもない
>
> 秀長死んだ時点で豊臣家オワタ

特に違和感は無いな。
15岐阜中納言:2007/10/18(木) 23:27:50 ID:d916+reV
秀吉に対して平伏しているのか、秀信に対して平伏しておりますのか曖昧であった
16Y ◆VqSh5C7CR6 :2007/10/19(金) 00:19:18 ID:JtkbK2pw
>>12
あそこで信忠が死んだのは痛いな。仮に生きていれば天下は取れただろうという可能性が高いだけに。
尤も、いきなり謀略の塊みたいな光秀に謀叛起こされりゃ、頭良いヤツは策を二重三重に張り巡らしているって考えるのもわかるけどね。
17人間七七四年:2007/10/19(金) 00:39:42 ID:QW1HnANE
>>8 
あくまで三法師付ってことで秀吉の味方という気は 
さらさら無かったから柴田も認めたんじゃねーの? 
で、三法師付だから本人の意志関係なく自然と秀吉方に 
なっちゃっただけで。実際、池田は柴田攻めの時、 
適当に理由つけて?従軍してないしさ。 
 
それに清洲会議以降、秀吉って池田懐柔に何か必死じゃん。 
輝政を養子にしたり養徳院にまでごますってる感じの 
書簡を送っているしさ。通説どおり最初から秀吉方ならここまでするもんかなと。 

ただ、漠然とだから根拠を求められると困るけど 
俺は池田が本当に清洲会議の場にいたのかすら 
正直疑問に思ってる部分もあるよ。
18人間七七四年:2007/10/19(金) 08:04:15 ID:aSl5KDoo
>>8
身内が外されたのは家督の当事者だからじゃないかな?
舎弟はともかく信雄と信孝は家督を相続してもおかしくない立場だったから。
19人間七七四年:2007/10/19(金) 08:29:10 ID:zYOwWmAn
他の大名家では当主と後継者がいきなり死んだ時どうやってたのかね
20たられば君:2007/10/19(金) 12:44:57 ID:0BJ3YMWU
>>19
死だけでなく似た状況を含めると、

諸分家入り乱れての後継合戦(南部氏)
重臣が傀儡の次男坊を立てる(能登畠山氏)
舎弟たちが雌伏して草の根でお家再興を頑張る(秋月氏)
舎弟たちが幼い当主をたてて盛り立てる(毛利氏・筒井氏ほか多数)
曾孫を引っ張り出して隠居が長生きする(龍造寺氏)
21人間七七四年:2007/10/19(金) 13:21:35 ID:nMW1B5wC
池田が入ってるのそんなに変かな?
出世はかなり遅かったけど荒木の後釜として摂津一職支配しているんだから
別格の5人(羽柴・明智・柴田・滝川・信忠)以外では一番身上が上
かつ明智討滅にも加わってる

この人抜いたらじゃあ誰がかわりに入るべきなのか教えて欲しい
22人間七七四年:2007/10/19(金) 17:26:19 ID:AN5HH2lk
ニワちゃんかわいいよニワちゃん
23人間七七四年:2007/10/19(金) 18:33:18 ID:ZUsMVMP7
>>21
とりあえず滝川一益じゃね?
24人間七七四年:2007/10/20(土) 01:10:53 ID:pXZC2+KZ
滝川はまだ帰ってきてないから
25人間七七四年:2007/10/20(土) 09:27:37 ID:lTUQjVtz
間に合っていたとしても上野失ってたら伊勢半国
池田より格下扱いされそうだ
丹羽よりは上だけど
26人間七七四年:2007/10/20(土) 10:58:01 ID:Hh15c+V1
上野を支配下に治めてまだ3ヶ月弱、関東・甲信の基盤もまだ脆弱な上
自軍2万に対して北条軍五万、信長・信忠親子の突然の死によって家中大混乱、
ついでに関東も大混乱と一益にとってマイナス要素だらけの状況で上野死守なんて信長でも無理だろうけどな
27人間七七四年:2007/10/20(土) 11:08:32 ID:dE3PCjJ/
それでも信長なら、信長なら…
自軍は1万だろ しかもそれで突っ込んで負けたんだ
それなら守りに徹してたら相手の兵糧は勝手に尽きるし、勝手に引き上げてくれるだろう
28人間七七四年:2007/10/20(土) 12:41:00 ID:7fA3Pnbs
>>27
信長ならそもそもそんな火りな状況で戦わない。軍を出さない。
29人間七七四年:2007/10/20(土) 12:43:38 ID:7fA3Pnbs
>>28
火りってなんだよ、「不利」ねw

信長はとくだん戦闘戦争がうまいわけじゃ無い。そんなものより状況を有利に持っていく政治戦略が抜群に上手いから
天下取り直前までいけた。
30人間七七四年:2007/10/20(土) 17:36:10 ID:cM1co62R
まあ史実の信長を考えれば信長ならなんとか出きるかもしれないと言うのはあるな
劣勢の兵力であっても突っ込んで勝ってしまうという戦歴の持ち主だし。
31人間七七四年:2007/10/20(土) 19:08:52 ID:tr3SjUJc
>>19 
信長の死の二年後、当主とその世継ぎが死んだ例がある。
池田恒興&元助親子なんだけど。小牧長久手の戦いのとき両方とも戦死。
驚くべきことに、年齢も信長・信忠のときと同じ。親49歳、嫡子26歳で。
しかも元助には信忠とまったく同じように2人の息子がいたのに、秀吉は
あっさりと弟の輝政を後継者として認めている。
32Y ◆VqSh5C7CR6 :2007/10/20(土) 23:50:11 ID:KESV9DDc
森長可も26歳で死んで、後を弟の忠政が継いでるよな?


池田元助の具体的な戦歴わかる人いる?1580年の摂津花隈城攻めを父親との共闘と、
1581年の由良城攻めの羽柴秀吉との共闘、そんで小牧長久手くらいしか知らないんだが。
33人間七七四年:2007/10/21(日) 02:05:40 ID:lxZVDQrS
>>28
だろうな、つーか別に信長じゃなくても、多少なりとも外交の心得のある奴なら
あの状勢で普通北条との和睦・・・というか、別に北条家はまだ敵対してないし、同盟国だし、上手く味方にするだろう。

北条から見てもいくら総合的な力では北条の方が上とは言え、上野のあの地がいかに攻めにくい場所かは
先代の氏康から争ってる北条家が一番良くわかってるわけで、無理押しするとは考えられない。
まして、信州を奪いに行ってる最中で、上杉・徳川とぶつかる事が必至な情勢、
無駄な争いは避けたいはず、普通に和睦できただろう。
34人間七七四年:2007/10/21(日) 05:04:43 ID:I85Vc/tZ
柴田も滝川が戻ってくるまで、待てば良かったのに。
会議を開く時点では、滝川は生死不明の状態だったのかな?
35人間七七四年:2007/10/21(日) 12:50:21 ID:Yjhy35VW
>32 
元助はよく恒興にくっついてたらしいから 
年相応になってから以降は恒興が行ったあたりは 
一緒にいたんじゃね?確か松永攻めあたりが初陣で 
荒木攻めあたりの時や武田攻めにも行ってたらしい。 
 
あと摂津攻略時は恒興隊とは別に信長から直に兵を 
与えられているからかなり優秀だったんじゃないかな。 
 
関係ねーが天正8年あたりになると実質元助が池田家を 
継いでいたんじゃないかという話もある。 
この頃の恒興は病になっていてどうやら出家ないし 
隠居に近い感じだったらしい。確かに武田攻めの時も 
恒興はなぜか留守番だったみたいだからね。
36人間七七四年:2007/10/21(日) 18:17:39 ID:/umZ7Hl4
>>34
滝川は結果的に柴田についたけど
柴田派ってわけでもなかったんじゃないの
37人間七七四年:2007/10/21(日) 21:16:04 ID:NN4tQK8r
秀吉主催の信長葬儀に参加しようとしていたしね、
ところが秀吉は拒絶、滝川なんていらねみたいな態度。
秀吉が滝川を敵陣営に追いやったような感があるが実際はどうだっただろ?
実際に戦争が起こってからは滝川に随分苦戦する羽目になるけど。
38小林健悟 ◆J0KKAAAa3U :2007/10/21(日) 23:36:04 ID:EWNlz4po
本能寺の変から数年で織田の重臣がいっきに死んだり引退したりしてるよね
39人間七七四年:2007/10/21(日) 23:51:06 ID:/umZ7Hl4
あの辺は幹部連中総入れ替えで面白いよね
40人間七七四年:2007/10/22(月) 14:02:54 ID:2TpoOwMN
全員いい年だったから、代替わりするのが本来だったんだろうけどな。
幹部連中皆、嫡子がぱっとしないか、そもそもいないかだから。
変なところで共通項作りやがって。
41人間七七四年:2007/10/22(月) 22:33:00 ID:+R4hbjuE
勝家は信孝を立てて秀吉と争ったと一般にはされてるが、
その確証はないらしい。
42人間七七四年:2007/10/24(水) 02:15:57 ID:oKk/FIlI
>>40
>幹部連中皆、嫡子がぱっとしないか、そもそもいないかだから。

御家大事の時代に、後継者がいないって普通ありえないよな。
死後に遺領を収公するには、もってこいだとは思うが。

>>41
日独伊三国同盟みたいに、バラバラに戦ってたという感じか。
秀吉に各個撃破されてるし。
43人間七七四年:2007/10/25(木) 00:21:15 ID:afir6u0o
加久耕三氏が著書で言ってたことを思い出したんだけど、
信長によって取り立てられた秀吉はじめ、丹羽池田前田らと信長には
「同世代の共通価値観」みたいなものがあったんじゃないかと言ってたな。
(重臣の柴田・佐久間、
 もっと後に取り立てられた上に他国者の滝川・明智は例外)
あったら面白い的なネタでしかないけど、
この面子の名前を見てると、ひょっとすると……と思ってしまう。
44人間七七四年:2007/10/25(木) 00:46:27 ID:kMyMPPLg
勝家に「お市の方」を再嫁させたのは信孝だよね?
時系列的に見て、秀吉&信雄に対抗するための策と見て良いかな??
45人間七七四年:2007/10/25(木) 01:39:23 ID:V/yoNthF
勝家から堀秀政に宛てた手紙で縁辺の儀は羽柴と申し合わせたとおりにしたと書いているから
お市再嫁も清洲会議の決定と見る方が自然じゃないかと
46人間七七四年:2007/10/26(金) 15:39:24 ID:wOqwDUft
>>45
ということは、再嫁の件は秀吉も納得して決められたことか。
勝家を暴走させない為の鎖かな?
47Y ◆VqSh5C7CR6 :2007/11/04(日) 02:16:42 ID:LL3QE8Gi
>>35
詳しい情報サンクス

そう考えると池田って織田政権が長期続けば組織の中枢にいたと思うな。
池田は信忠よりの人間で人脈的にも申し分ないだろうし。
48人間七七四年:2007/11/04(日) 14:03:54 ID:0OQi5X4C
>>47
信長・信忠が死なず織田政権が続けば、政権の中枢に参画するのは池田、森、蒲生、堀、あたりかな?
丹羽あたりも文官仕事が出来るから生き残るかも。
柴田や羽柴と言った方面軍司令官は、徐々に権限を剥奪されるか佐久間のように追放されるかになるだろうね。
49人間七七四年:2007/11/04(日) 21:42:19 ID:fWaDnDwh
>>48
でも秀勝が居る限り、秀吉はそんな事ないんじゃない?
50人間七七四年:2007/11/04(日) 21:48:40 ID:NeAVG4Jb
前田みたいに地方でそこそこの領地貰って終わりになるだけじゃね
51人間七七四年:2007/11/04(日) 23:33:32 ID:0OQi5X4C
秀勝がいるからこそ、秀吉はより一層追放しやすいだろ。
信雄や信孝を養子として送り込んだ北畠や神戸がどうなったかを考えればすぐわかること。
52人間七七四年:2007/11/04(日) 23:57:32 ID:fWaDnDwh
あっ、そっか。
俺、馬鹿丸出しだvv
53人間七七四年:2007/11/05(月) 01:03:06 ID:7fSRwgmT
でもそうやって譜代を追放しまくった政権に未来なんかあるかね。
組織の結束に血縁は重要だけど、血縁ほど組織を分裂させやすい要素も無い。

そういうときに間に入るのが譜代なわけだが池田、森、蒲生、堀辺りで務まるとは思えない。
実績的にも微妙すぎる。
54人間七七四年:2007/11/05(月) 02:17:46 ID:dDhUvnbb
>>53
信長がそう言う事を考えるような人間なら、譜代もいい所の佐久間や林を追放なんてしないでしょ。
軍司令官の中で生き残りそうなのは信忠付きの滝川と信孝についてる丹羽、くらいじゃ無いかな?
55人間七七四年:2007/11/06(火) 23:49:15 ID:8+gzGkj8
>>54
佐久間と林だけで、全ての譜代に当てはめると言うのはいささか暴論じゃないか?
折檻状にあるように本当に無能だったのかもしれないし、
別の視点で見れば佐久間や林は信長以前からの織田家の譜代で、
他家を見ても関係が深すぎる譜代は逆に都合の悪い点がある事は多い、
その点で秀吉や光秀らとは存在の意味が全然違う。

なのに一緒くたに考えるのは違和感を感じる。
56人間七七四年:2007/11/09(金) 00:53:45 ID:NIfIKy0L
まあ徳川にしてもいくつか譜代を取り潰しているが
政権に未来が無いとはならなかったしな
57人間七七四年:2007/11/09(金) 02:53:17 ID:gWUO8k+o
というか佐久間やらって信秀パパの時代に力関係から被官化しただけで譜代でもなんでもないんじゃないのか?
58人間七七四年:2007/11/09(金) 19:43:46 ID:SknslSrt
それを言ったら徳川の井伊とかもそうなっちゃうし
59人間七七四年:2007/11/11(日) 02:40:03 ID:6l9fPh8u
>>57
逆だよ、譜代ってのは本来の文字通り言うなら「代々の家臣」だから
佐久間や林こそ譜代であって、秀吉や明智や滝川は本来譜代とは言わない。

そういう意味でも彼らと秀吉らの存在の意味は違うな。
60人間七七四年:2007/11/13(火) 01:24:39 ID:RDztNfuf
織田家の家臣である勝家は織田家中でのトップを狙った

信長個人の家臣だった秀吉は織田家を越えてトップを狙った
61人間七七四年:2007/11/14(水) 06:31:44 ID:WUX0FD78
清洲会議の時点で、秀吉は天下人になろうと思ってたのかな?
62人間七七四年:2007/11/14(水) 07:40:47 ID:XzwSNZ97
思ってたと思う。
これ以後の行動に迷いが見られない。
63人間七七四年:2007/11/19(月) 00:04:25 ID:fgGnes3D
もし滝川が中国方面にいて羽柴が上野にいたらどうだったろうか。
滝川は毛利に攻めかかり羽柴は北条と友好関係を保ったまま
兵力を温存して撤退したのかな。
64人間七七四年:2007/11/19(月) 00:24:00 ID:wClfJ8/N
>>63
まぁIFだから断定は出来ないけど多分ね、
北条があの時点で無理に上野と衝突するのはリスク高すぎるし。
むこうから攻めてこなければ直接ぶつかる必要性のある組み合わせじゃない。
65人間七七四年:2007/11/19(月) 02:18:59 ID:aTegSNxi
信長の死が伝われば、上野の国人達は浮き足立つだろうな。
滝川君みたいに、秀吉が人質を返すとは思わんがw
66人間七七四年:2007/11/20(火) 13:19:57 ID:mBxeE7iy
待っても内部崩壊必至
攻めても勝ち目は極薄
引こうにも退路も危険

67人間七七四年:2007/11/20(火) 20:37:21 ID:u6gOY5YH
会議後の方向性として、信長の全国統一事業を続けることは決められたのかな?
本能寺前より随分勢力図は変わってるけど。
68人間七七四年:2007/11/20(火) 21:31:48 ID:HL60ueF4
織田家としての統一行動は想像できんな
徳川家康の甲信占領も相当動き速い
みんな抜け目ないからね
69人間七七四年:2007/11/20(火) 22:43:07 ID:Gip2bckv
>>66
北条・上杉共に甲信にも兵を出しはじめているので、
座して内部崩壊を待つほど時間的余裕は無い。
篭られたら上野は簡単には落ちない地だし。
さらに徳川も混ざってくるのでどこも上野と争っている余裕は無い。
はっきり言って毛利といきなり和解して引き上げてくる事の方がよほど難しいように思う。
北条も徳川もいちおう同盟国だし。

そんな秀吉なら状勢の利を逆手にとって有利に運ぶくらいはやってのけると思う、
真田昌幸が実際にやってるし。
70人間七七四年:2007/11/20(火) 22:50:43 ID:u5ag0SXO
徳川や北条などが甲信上に進軍して占領した時に織田家から抗議しなかった
のでつか?
71人間七七四年:2007/11/20(火) 22:52:01 ID:6DHPsrAW
真田昌幸は「豊臣勢力」と言う大勢力をバックにしての身の処し方だ。
いくら秀吉でもバックが無ければあの情勢をどうにかするのは難しい。
72人間七七四年:2007/11/20(火) 23:15:13 ID:Gip2bckv
>>71
秀吉の勢力を盾にしたのは最後だよ。

織田に臣従した後は最初は滝川、次は北条、その次は徳川、そして上杉を経て、豊臣を頼る流れ。
上杉と繋がるまでは秀吉と接点なんか無いし。
73人間七七四年:2007/11/21(水) 01:26:24 ID:R3sIdKEi
>>70
それ不思議だね。
清洲同盟が有効なら、保護占領でも文句言えると思うが。
74人間七七四年:2007/11/21(水) 01:49:08 ID:JvuiJ+m8
>>73
既に織田家に、家康や北条に文句を言えるような実力はないだろ。
まだまだ戦国時代な訳ですよ。
75人間七七四年:2007/11/21(水) 12:46:38 ID:mb/YoUDM
織田家としてなら抗議できただろうけど
その織田家が分裂した状態で代表者もはっきりせず、家内で主導権を握るためには徳川に抗議するより味方にしたい意向が働いたんじゃない?
甲信の国主も死んじゃったしね
76岐阜中納言秀信:2007/11/21(水) 13:13:48 ID:TBdpR2Mj
織田家は誰が相続するかで揉めていて家康の甲斐・信濃平定に抗議する余裕はなかったし、秀吉も勝家も信雄もいざというときは家康を味方にしたいと思っていただろうから見てみぬふりしたんじゃないかな
77人間七七四年:2007/11/22(木) 00:04:45 ID:B4tfilZw
しかも混乱状態で上杉まで乱入してるもんだから、
「侵略に来たのではなく宿敵上杉を蹴散らしに来た」と言われてしまえば
それもウソじゃないし。

居座られてしまったらもう出て行かせる実力の無いとこがいくら吠えても無駄無駄。
78人間七七四年:2007/11/22(木) 09:03:02 ID:3V2oz1u8
毛利が宇喜田や南条を攻めなかったのは次は秀吉になると見越したから?
79人間七七四年:2007/11/22(木) 09:20:07 ID:IN+QfgcR
80人間七七四年:2007/11/27(火) 12:38:00 ID:A9M780cI
>>78
約定など紙くず同然の乱世だが、毛利も攻める余力は無かったんじゃないか?
長年の織田家との抗争で、ジリジリ押されたし。
81人間七七四年:2007/11/30(金) 12:08:24 ID:+fWC2W9U
佐久間・林が飛ばされてなければ面白かった
譜代といえる家臣を信長がガンガン追放したのが
結果的に織田家衰退につながったと思ふ
82人間七七四年:2007/12/01(土) 11:07:46 ID:tlqyiyu4
佐久間・林を何で追放したんだろうな。
信忠軍団形成の為とかいう説もあったけど。
83人間七七四年:2007/12/01(土) 12:02:02 ID:QWohcxFh
光秀にハメられた説から信忠の力を強化した説まであるけど…
84人間七七四年:2007/12/01(土) 14:07:19 ID:ZhZ1ECRh
秀吉は毛利の抑えに宇喜多を残して帰ってるから
毛利もそう簡単には動けなかったのは確かだね
毛利の本音がどこにあったかはわからないが
その後も秀吉に協力し続けたからこそ
毛利から五大老を二人も出すことが出来た
85人間七七四年:2007/12/03(月) 20:01:04 ID:Xmt+k0NZ
何で恒興が参加してかわからない。
86人間七七四年:2007/12/03(月) 20:30:40 ID:4h7DrS+4
普通に大身だし参加した方が秀吉が都合が良かったから
87人間七七四年:2007/12/04(火) 18:41:56 ID:6GiOqnZi
家康も参加しようと途中まで行ったらしい。
88人間七七四年:2007/12/05(水) 14:04:21 ID:uC7FEYOL
およびでない
89人間七七四年:2007/12/05(水) 15:56:55 ID:rzS4dhSX
>>87
「利家とまつ」だと途中まで行ったが結果を聞いて馬鹿らしくなって帰った
とか言ってたな。ソースは何処なんだ。
90人間七七四年:2007/12/05(水) 17:41:56 ID:2NT7l6ec
>>89
多分伊賀越えの後信長の弔い合戦に出陣したけど天王山の結果を知って引き返したって話を脚色しただけかと。
91人間七七四年:2007/12/05(水) 20:00:34 ID:rzS4dhSX
>>90
だよな。フツーに考えて同盟者が出るっていうのもな・・・
信長死後の家康の強かさが好き。
92人間七七四年:2007/12/28(金) 20:49:59 ID:M9HHGjPv
強かさってやっぱ大事だよな
93人間七七四年:2008/01/27(日) 17:15:20 ID:a37XKOii
>>81
同意。
数合わせの丹羽や池田なんかの影響力を低下できたろうから、
織田家の行く末もまた変わったと思われる。
94 ◆QqQquqqauQ :2008/01/27(日) 21:20:46 ID:VrQuwyqG
林や佐久間が追放されてなかったら、たぶん本能寺の変は起こらない。
95人間七七四年:2008/01/27(日) 21:23:46 ID:M3bYa1b2
殺してしまえ、が仇になったか
96人間七七四年:2008/02/06(水) 10:27:18 ID:gwTK4+5M
遺領分配の件ですが、信長・信忠の旧領を分割し過ぎではないかな?

尾張→織田信雄
美濃→織田信孝(東美濃は争乱中)
伊勢・伊賀→織田信雄・織田信孝・織田信包・滝川一益

近江
 湖北三郡→柴田勝家(坂田郡は全域ではない)
 湖西二郡→丹羽長秀
 湖東・湖南は空白地(堀・蒲生・山岡など)のようです。

 近江坂田郡の一部&燃え落ちた安土城&→三法師

その他の遺領分配。
山城→羽柴秀吉
摂津→池田恒興・中川清秀・高山重友
和泉→蜂屋頼隆
河内→羽柴秀吉
大和→筒井順継

丹波→羽柴秀勝

柴田・羽柴・丹羽・池田は亡き主の所領を分割し、
自身の所領に組み込んで権力闘争に突き進んでいるように見える。


97小林健悟 ◆J0KKAAAa3U :2008/02/11(月) 21:54:37 ID:K5pSj+CA
早いモン勝ちになったら・・・

いや誰も早いモン勝ちで盗ろうとはしないだろうね。

やっぱり話し合いで獲りたいだろうね。
98人間七七四年:2008/03/01(土) 23:03:48 ID:W1UR1AiX
>>96
素人な質問で申し訳ないんだけど、東美濃の争乱についてkwsk
遠山氏のこと?
99人間七七四年:2008/03/02(日) 02:01:44 ID:gyM9mSpl
>>96
織田家の直轄地が殆どゼロだなw
100人間七七四年:2008/03/02(日) 02:08:27 ID:VR+SfBvD
丹羽が悪い
101人間七七四年:2008/03/02(日) 14:45:11 ID:WANDRIWR
東美濃の争乱の主役は森氏
102人間七七四年:2008/03/03(月) 14:48:53 ID:Nisgk/6C
>>99
殆どは織田家直轄領の「代官」として支配する、って建前だったような。
103人間七七四年:2008/03/03(月) 22:53:29 ID:xzOqbQxq
>>102
自家に組み入れたわけじゃないんだな、一応は。
104人間七七四年:2008/03/08(土) 16:31:07 ID:Me1oMP+C
春秋末期の晋みたいだな。あれは3つに分裂してそれっきりだったが。
105人間七七四年:2008/03/24(月) 08:16:04 ID:aAv0t6eY
新発見の書状と「明智軍記」
新規収蔵資料を公開
=安土城考古博物館 今年度分=

http://www.bcap.co.jp/s-hochi/n080324.html#6
106人間七七四年:2008/04/13(日) 09:46:54 ID:rzOWZXip
>>98
亀レスでスマソ。
しかも返レス。

101さんの仰る通りです。
森長可vs東美濃衆(木曾義昌も離反行動)


107人間七七四年:2008/04/13(日) 16:26:57 ID:cEcf8nSu
森長可が北信に転封
変わりに乱丸が領主になる
この時森軍の主力も北信に

新家臣団を整備する前に本能寺で乱丸死亡
一種の空白地帯になる
分捕り合戦開始

清洲会議で美濃は信孝領と決まったが
信孝に東濃を裁く実力がない
秀吉も勝家も中央で睨み合いの最中で兵を出す余裕は無い

最終勝者は帰還した森長可
108人間七七四年:2008/04/18(金) 10:07:21 ID:RQTpNUJB
96(106)です。
余談
遠山氏はこの東濃争乱で没落。
しかし関ヶ原合戦で遠山氏は東軍として参加。
西軍派を打倒した功績により東濃の地に返り咲いています。


109人間七七四年:2008/05/22(木) 17:20:35 ID:5gNUDGrT
丹羽は秀吉の真意を見抜けなかったのだろうが、池田はどうだったんだろ?
織田家よりも我が身大事で、協力したんだろうか?
110人間七七四年:2008/05/22(木) 17:24:23 ID:AN6bJM68
>>109
池田はこの時期はもう、秀吉の共犯みたいなものだし。
111人間七七四年:2008/05/26(月) 02:05:21 ID:RUfdQqK2
丹羽は共犯ではないの?
本当に秀吉にやられた、などと後悔するほど馬鹿だったのか?
112人間七七四年:2008/05/26(月) 12:31:23 ID:+mOSCsdB
>>111
何が起こったか全部知っている、後世の人間の立場からなら何とでも言えるわな。
113人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 01:56:05 ID:8u0yB+8r
>>81
その二人は三方ヶ原の戦いで平手汎秀(平手政秀の子)を見殺しにした件で信長から目の敵にされてたからな
家康にも汎秀を返せといい当惑させてるし
114人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 06:56:20 ID:LbhOmj6o
林関係ねー
115人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 17:50:36 ID:8lmdFPKv
いや関係あるぞ
116人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 21:57:25 ID:LbhOmj6o
あったか
117人間七七四年:2008/06/09(月) 03:04:30 ID:Hj/x9iH8
いや、なかった
118人間七七四年:2008/06/09(月) 03:23:22 ID:NQWU7TnL
三方ヶ原の戦いの援軍は滝川、佐久間、平手、林の4将
119人間七七四年:2008/06/09(月) 09:22:10 ID:KYDeYbcR
>>118
滝川はいなかったような? いるって書いてる資料って何?
120人間七七四年:2008/06/09(月) 12:03:13 ID:EvFMIrAa
>>118
wikiにはそれに水野が加わる
センゴクなら佐久間盛政も加わってたっけ
121三方ケ原?:2008/06/09(月) 12:45:24 ID:F6eS57C4
スレタイとは関係ないけど、川中島で何度も死闘演じて来てる武田と上杉に
織田や徳川がまともに当たって勝てる気はあまりせんよ。
浅井あたりまだ友軍として味方にいればまだしもさ。
122人間七七四年:2008/06/10(火) 14:39:00 ID:eSCtX3LO
織田秀信の生涯短すぎる
123人間七七四年:2008/06/10(火) 17:31:45 ID:TKfBcaTU
領国が美濃じゃね…どちらについても真っ先に狙われる
信孝のときもだけど岐阜は脆い印象が強い
124人間七七四年:2008/06/11(水) 11:39:23 ID:dL0B7UxP
長らく織田の城だったし、寄せ手もある程度構造は
把握してただろうからなあ。
関ヶ原のときには、旧城主の池田輝政もいたし。
125人間七七四年:2008/06/11(水) 18:05:51 ID:nMSf9oQM
秀吉は急ぎすぎだ。結果成功したが家康ならどうしてたか
126人間七七四年:2008/06/12(木) 19:58:17 ID:k5iw5+jJ
行動の早さこそ秀吉の武器だからな
127人間七七四年:2008/06/12(木) 23:15:26 ID:ogzvB5/t
すばやく動かないと秀吉が主導権をとることは無理だからね。
128人間七七四年:2008/06/14(土) 13:20:31 ID:wFVTJN8l
秀吉は信長の仇を鮮やかに討ったが、それでも秀吉自身ではなく織田の嫡流?を
押し立てるという形でライバル達を抑えなきゃならなかったんだよな。
天下取りの手始めにはさ。

三法師の生涯の頂点がこの清洲会議で秀吉に抱かれて登場したあたりって気がする。
129人間七七四年:2008/06/14(土) 13:37:34 ID:xYR/8ti/
>>128
> 三法師の生涯の頂点がこの清洲会議で秀吉に抱かれて登場したあたり

その次が関ヶ原の前哨戦でフルボッコにされながら、平然と感状を書いてたあたりか。
130人間七七四年:2008/06/14(土) 15:48:21 ID:jidcYIXD
本能寺の変から
わずか一年で織田家乗っ取り完了
秀吉嫌いな人も多いだろうけどこの時代の秀吉は冴えまくってると思うがどうか
131人間七七四年:2008/06/14(土) 16:14:28 ID:xYR/8ti/
まあ本能寺秀吉陰謀説を言いたくなるのもわからんでもないくらいの冴えと運だよね。
132人間七七四年:2008/06/17(火) 11:02:42 ID:d3JbuVwM
信長はあの世でどんな風に思ってただろうか…。
133人間七七四年:2008/06/21(土) 15:04:11 ID:TYueCrcR
>>132
怒り狂うけどそのうちケロッとしそうなイメージ
知らんけど
134人間七七四年:2008/06/21(土) 15:31:56 ID:XaVSc/e7
>>132
「秀吉!お主を見ていると我子達が不憫でならぬ そろそろこっちへ来い」
と信長の声が聞こえた
「上様許してくだされ〜」と何回も叫んだが 信長に衣服を掴まれ引き摺られていった


太閤秀吉が目を覚ました時 布団から数メートル離れた床の上だったという
135人間七七四年:2008/06/22(日) 19:31:56 ID:rLOYDZcC
そりゃ幼い我が子が心配だわ、秀吉も。
136人間七七四年:2008/07/02(水) 03:54:40 ID:9xMeYvov
普通にあの世で散々な目にあってるんじゃないかw
家康は信長と組んで一緒に秀吉いじめてそうだな
137人間七七四年:2008/07/25(金) 00:43:18 ID:yOPJX69/
一益が会議に間に合ってたらどうだろう?
甲斐で河尻が死なずに帰還出来てたら、とかも。
138人間七七四年:2008/07/25(金) 14:05:44 ID:nr6KQZgm
NHK大河ドラマ『おんな太閤記』を見た感想だけど(っていうか史実度外視で)
勝家は雪国の越前から、冬でも軍事行動が可能な近江の一部を手に入れて清洲
会議ではそこそこ実益あったような感じだったが、なんで拠点を近江に移さな
かったの?ドラマでは、お市の方様が浅井領に拠点を移すのは勘弁って感じで
勝家が越前に帰ったけど実際そんな事は有り得ないよね?

もっとも近江も雪は多いよね。今でも滋賀と岐阜の境界辺り(関ヶ原辺り)で
新幹線が往生してる。
139人間七七四年:2008/07/25(金) 14:26:18 ID:v5dv92iE
>>138
清洲会議から賤ヶ岳までどれだけ間が空いてると思っているんだよ?
あんな短期間に本拠地移動なんて、信長でも出来んわ。
140人間七七四年:2008/07/25(金) 16:39:23 ID:nr6KQZgm
>>139
お前さ宝寺城って知ってる?
山川出版の年表ばっかり見ずに、俺みたいに大河ドラマ見ろ大河ドラマ。
大河ドラマしか見ない俺の方が歴史に詳しいなんて悲しすぎるだろ。
141人間七七四年:2008/07/25(金) 16:44:10 ID:v5dv92iE
>>140
お前は外で遊んでろ
142人間七七四年:2008/07/25(金) 22:39:00 ID:sUfUaGFM
>>136
わっはっは。
狸が猿いじめてるようでおもろいな〜、それ。
でも、猿は狸をうらんでるだろうし、低レベルのケンカ
みたいでマジおもろい。

家康はライバルの子を抹殺しただけだけど、秀吉は
主君の奥さんと子だから、秀吉のほうが少しエグいかな。
信長は兄弟とか叔父だからもっとエグいか。
143人間七七四年:2008/07/25(金) 23:50:43 ID:hfWfV7k0
>>139
本拠地を移したら賤ヶ岳が起こらなかったとか考えられないのかよ
お前こそ年表ばっか見て引きこもってないで外に出て世の中を見ろ
144人間七七四年:2008/07/26(土) 00:03:09 ID:4raNBEUR
>>143
お前さあ、リアルに馬鹿なの?
145人間七七四年:2008/07/26(土) 02:37:08 ID:cwZm6HdX
>>144
リアル馬鹿はお前だろ
たとえ天変地異が起きても必ずその時賤ヶ岳合戦が起きたって年表通りに主張してんだからな
146人間七七四年:2008/07/26(土) 02:47:09 ID:4raNBEUR
>>145
いやさあ、勝家が城を移ったらそれだけで「本拠地」も移ると思ってねえ?
147人間七七四年:2008/07/26(土) 05:26:06 ID:cwZm6HdX
>>146
誰も勝家が城を移ったらとか言ってないし書いてねぇ
お前の妄想には付き合いきれねえわ
148人間七七四年:2008/07/26(土) 05:31:11 ID:hcCkzCE0
猿マンセーな飛び地に移転なんかしたら詰みじゃん
149人間七七四年:2008/07/26(土) 05:35:13 ID:hcCkzCE0
八方塞がりの懲罰的転封
150人間七七四年:2008/07/26(土) 08:22:39 ID:cwZm6HdX
誰も飛び地(長浜)に拠点を移したらとは言ってないのに
夏休みだねー
151人間七七四年:2008/07/26(土) 12:52:44 ID:4raNBEUR
>>150
つ 鏡
152人間七七四年:2008/07/27(日) 01:27:07 ID:zdkNC+Zz
移動コマンド使えば解決なゲーム脳かwwww
153人間七七四年:2008/07/27(日) 02:33:01 ID:vpCMWcvp
言っとくけど俺をあまりナメないほうがいいよ
vipでコテハンやってるしこのスレ潰すくらいの影響力は持ってるから
くだらないことで刺激して後悔しないようにね
154人間七七四年:2008/07/27(日) 03:06:03 ID:zkwOWYx1
清洲会議について詳しく記述した本とかない?
155人間七七四年:2008/07/27(日) 21:53:50 ID:oymprgs6
面白いから潰してくれw
156人間七七四年:2008/08/14(木) 02:20:37 ID:emsTI8zY
本拠地を長浜に移したら・・・
冬の間北陸とは断絶状態、小兵力で秀吉の大軍を相手にしなければならない、
秀吉は勝家さえ倒せばあとはバラバラだから全力で近江を攻めればいいだけ。

または丹羽細川辺りに敦賀に攻めこませて北陸と近江を分断させるとか。
157人間七七四年:2008/10/13(月) 21:25:52 ID:m7lyFlhv
>>1
>三法師擁立は誰の策とか、

誰の奇策なんだろうか?
158人間七七四年:2008/10/13(月) 22:26:15 ID:HMI+eIaA
宝寺城に秀吉が拠点を移したのは確かだろう
真田幸村が秀頼に天王山に本陣を移すよう進言した時にもそう言っている
159人間七七四年:2009/01/17(土) 16:51:28 ID:s9cyRCOf
当時から、清洲会議って名前で言われたの?
160人間七七四年:2009/01/18(日) 12:00:19 ID:PeeTiv7c
信包や有楽斎の存在感が皆無なのは何でだろ?
161人間七七四年:2009/01/18(日) 15:00:01 ID:IIVbzOSB
>>159
小山会議とかと一緒で後世につけられた名前。
162人間七七四年:2009/03/06(金) 03:39:58 ID:Q6F5VMCJ
いつ頃に名称が定着したんだろうか?
163人間七七四年:2009/03/06(金) 11:37:12 ID:LixUx5z3
江戸時代だろ。
164人間七七四年:2009/03/07(土) 20:29:20 ID:dPc7J/s4
三法師擁立は信雄・信孝の対立激化を危惧した会議出席者によってスムーズに決定されたというのが最近の研究結果。


会議での秀吉と勝家の対立とかってのは角川太閤記の創作。
165人間七七四年:2009/03/16(月) 01:23:09 ID:H1MqowVS
>>164
それだと秀吉と勝家の対立が説明できない
166人間七七四年:2009/03/17(火) 16:53:31 ID:NMQn00QU
信雄と信孝の代理戦争ってのはどうだろう? 両者が煽ったとか。
167人間七七四年:2009/03/17(火) 16:59:31 ID:x3tThznR
>>165
清洲会議で秀吉が勝家と対立したとかやりこめたというのは武功夜話の創作
168人間七七四年:2009/03/17(火) 17:46:35 ID:I/Plt60P
秀吉が会議をリードしたのは所領配分をみればわかる
169人間七七四年:2009/03/17(火) 18:02:47 ID:x3tThznR
光秀を討ったんだから所領配分で有利なのは当たり前。

信長の後継者擁立争いでの対立は創作。
170人間七七四年:2009/03/17(火) 18:12:32 ID:foxQa9wg
四家老の人選が微妙過ぎ
171人間七七四年:2009/03/17(火) 18:16:34 ID:yHPeyMJi
池田は家老ではない
172人間七七四年:2009/03/17(火) 18:25:00 ID:I/Plt60P
でも有利すぎだろ
京都を含む山城が秀吉の取り分
173人間七七四年:2009/03/17(火) 18:31:37 ID:9XeES7km
会議出席の選考基準って尾張時代からの古参ってところか
174奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/03/17(火) 23:20:25 ID:LTVgOwCR
滝川が敗戦を理由に出席しないとかセレモニーすぎる。
175人間七七四年:2009/03/17(火) 23:49:07 ID:/qJr0wEJ
>>165それは秀吉が織田家諸将に対して私的に誼を通じて味方につけていったからじゃないかな?
それと同じように家康が秀吉死後に豊臣恩顧の武将に誼を通じて味方につける工作をして、結果豊臣家を滅ぼしたのは因果応報な感じもするな。

賤ヶ岳の前田、関ヶ原の小早川を見ると家康様ちょっと狙いすぎだな。
176人間七七四年:2009/03/17(火) 23:59:18 ID:a2zgfNo6
>165
秀信を安土城に移したいけど、信孝が岐阜城から出そうとしない

だったら秀信が成人するまで、信雄が当主ってことで、と秀吉、長秀、恒興が決めてしまう

その結果として秀吉と勝家は対立した訳だ。
177人間七七四年:2009/03/18(水) 01:41:56 ID:PuQ5v0pl
チヨス
178人間七七四年:2009/04/02(木) 14:14:23 ID:gem7825C
>>174
誰か形式的でも誘ったのかな?
179人間七七四年:2009/04/02(木) 15:12:08 ID:L+kh2KrW
滝川は処罰されてもおかしくないほどの失態を犯したから
新当主を決める場に出席することはふさわしくない
180人間七七四年:2009/04/02(木) 15:43:10 ID:X4RfUite
池田よりはマシだと思うがな
181人間七七四年:2009/04/02(木) 15:54:25 ID:YCKQVbch
北条が強すぎるだけだろ

滝川は上洛したがってたが北条がいてはそれが不可能だから一戦とげるのは普通な流れだ
つーか伊勢に帰ったら会議終わってただけだろ
182人間七七四年:2009/04/02(木) 16:05:04 ID:f6kwya+l
滝川と池田が同席すると重臣のバランスが崩れるんだよな。
何せ二人は父方の従兄弟同士らしいから。
滝川が失態をおかしてその席に池田が座るのは
名分上とても自然な流れだったように思える。
183人間七七四年:2009/04/02(木) 16:05:41 ID:YCKQVbch
滝川は失態なんてしてない。秀吉に無理やりこじつけられただけ。
秀吉みたいなゴミ武将が関東に派遣されてたら氏直の天才的采配で戦死してただろーな
184人間七七四年:2009/04/02(木) 16:10:05 ID:QDXvWw74
秀吉は卑怯だからな

人格的にも能力的にも三傑どころか普通の地方大名の器ですらないだろ
185人間七七四年:2009/04/02(木) 16:17:37 ID:cGcqBUuG
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。
まあ織田家にいなかったら埋もれてたのは確実だな
186人間七七四年:2009/04/02(木) 16:21:40 ID:L+kh2KrW
その過小評価はどうだろうか?
信長の人材登用政策もさすがだが、秀吉も信長の天下布武に大きく貢献した
軍司令官は多くいるが、秀吉が相手した毛利が最も兵力が多かったし
187人間七七四年:2009/04/02(木) 16:30:48 ID:d0E43ey/
毛利は79年以降南条や宇喜多に足止め喰らわされてたしそもそも家中統制力が弱い原始的国人連合だからな
調略がうまくいったのもその毛利内で外様中の外様といえる
しかも秀吉は一夜城だの水攻めだのおお返しだの大げさな逸話が天下人になったことで過剰に伝わっただけの事だろう
あんなのは中身のないパフォーマンスみたいなもん。
おお返しなんて結局予めの準備あってやっとなせるわざだし
水攻めも時間や費用やらがやたらかかる上に紀伊太田や忍城、竹ヶ鼻城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
城の普請に関しても敵の眼前にすばやく拠点築くなんて特に珍しくもない
どこの大名でもやってる
貢献したといっても織田家中で考えるとごく一部分
織田が当主の能力や運、状況に恵まれたから拡張した要素の方が遥かに大きい
188人間七七四年:2009/04/02(木) 16:34:46 ID:DIqYPHQR
秀吉ははっきり言って過大どうこうのレベルじゃないな

下手したら凡将。よくて普通の良将。奥州で言えば石川昭光、二階堂盛義レベル
189人間七七四年:2009/04/02(木) 17:23:16 ID:LHENoD4h
同意。ゴミみたいな武将だと思う。
190人間七七四年:2009/04/02(木) 17:46:03 ID:L+kh2KrW
毛利の戦線を播磨摂津から備中伯耆に押し戻しただけでも立派だと思うけどね
信長の能力こそ過大評価で、秀吉や光秀や勝家に支えられた面も大きいと思われ
水攻めは毛利の援軍と城方を遮断する意味の方が大きいだろう
191人間七七四年:2009/04/02(木) 17:48:07 ID:gem7825C
秀吉が大苦戦した中国戦線【対毛利・両川】2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1226671606/

清洲会議自体の話題に戻らないか?
192 ◆LeD1MMOS.k :2009/04/02(木) 18:42:53 ID:57SVUfi9
佐久間信盛が生きていたら、勝家の味方をしただろうなー。
193人間七七四年:2009/04/02(木) 18:46:00 ID:X4RfUite
どっちにしろ政治的に死んでる
194人間七七四年:2009/04/02(木) 22:28:28 ID:8f2DZBBm
秀吉なんざ石田三成と同等かそれ以下
195人間七七四年:2009/04/02(木) 23:12:29 ID:T0/VDw/x
光成のが遥かに上だろうな
196人間七七四年:2009/04/02(木) 23:20:44 ID:XMO2GO7I
秀吉を異様にこき下ろす書き込みをする人ってやっぱりあっち系の人かな。
197 ◆LeD1MMOS.k :2009/04/03(金) 00:32:23 ID:ulB0QWHS
>>193
いやいや、そうじゃなくて、重臣のままだったらって
意味だよ、もちろん。
198弥太郎 ◆nKVPGhWYdI :2009/04/03(金) 02:57:29 ID:mLZRmQAn
佐久間が健在ならそもそも本能寺が起こらない
199人間七七四年:2009/04/03(金) 11:13:24 ID:gigBUJoa
秀吉アンチさんID変えてまで乙です
200人間七七四年:2009/04/03(金) 21:42:28 ID:0qk6Et/3
秀吉は贔屓目に見ようが批判的に見ようが、有能な事だけは間違いないだろ
そのやり方とか考え方、方針が気にいらないとか思うのは勝手だけどさ
201人間七七四年:2009/04/03(金) 23:10:23 ID:Rr5Y/0WG
はぁ?
徳川家臣団でいえばせいぜい柴田康忠、保科正直レベルだろw
大久保兄弟や家康の支援受けつつも佐久を自力統一した松平康国には完敗だろ
葦名執政金上の方が有能かもしれんな
織田が当主の有能さや運、状況に恵まれたから家臣に過大なスポット当たってるだけ
実際有能な子飼登用なんて珍しくもなんともない。領地がどんどんふえればそいつらにやる知行も雪だるま式に増える。
大体有能な人材なんてどこにでも転がってるだろ。ある地域一辺倒に固まってるなんて妄想でしかないから。
はっきりいって運と口先だけの男。そういうなあなあ政権だから当人死んだらすぐ崩れた。
202人間七七四年:2009/04/03(金) 23:16:08 ID:Fo06XLsI
なんせできもしない朝鮮出兵などする馬鹿だからな
国内での平定戦も戦うたびに醜態さらしまくってるし。
ゴミだと思う。
203人間七七四年:2009/04/03(金) 23:35:49 ID:DoMqHFLp
なんで秀吉はここまで過大評価になってしまったんだろう。
ごくわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城や紀伊太田城、忍城も瞬殺できない雑魚なのに。
こんな糞武将歴史から抹殺した方がいいと思う
204人間七七四年:2009/04/03(金) 23:41:07 ID:DgC/7V25
日本の恥だよな
205人間七七四年:2009/04/03(金) 23:57:36 ID:Rr5Y/0WG
秀吉が凄いとか言ってる奴は歴史理解する知能もてんただの馬鹿
206人間七七四年:2009/04/04(土) 00:23:05 ID:rHwxsNdu
朝日新聞のアク禁が解除されてから急にガラが悪くなったな。
207人間七七四年:2009/04/04(土) 00:55:55 ID:Xg455IZH
そんな馬鹿で糞武将な秀吉の軍門に下った諸大名は、そうなると糞以下の存在だな。
208人間七七四年:2009/04/04(土) 05:56:51 ID:smHxW6JA
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
209人間七七四年:2009/04/04(土) 06:20:28 ID:5asENzYL
秀吉はパフォーマンスだけで中身のない馬鹿

そういう中身のない政権だと言う事が秀吉死後の豊臣没落ぶりで見事露呈した。
210人間七七四年:2009/04/04(土) 06:24:33 ID:Sn5zeaI8
氏政は信長にはしたがったが秀吉には従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたんだろうな
長年の経験と勘で本能的に理解できたんだろう
211人間七七四年:2009/04/04(土) 06:29:22 ID:rDu1rFac
秀吉の実力って石川昭光、白川義親レベルだろ
212人間七七四年:2009/04/04(土) 13:24:03 ID:je6UAMVI
スレタイを確認するんだ
213人間七七四年:2009/04/04(土) 19:25:37 ID:sX4QtMIu
ひどい自演というか工作員というか
214人間七七四年:2009/04/04(土) 20:28:46 ID:YssIzaWf
秀吉って捏造や嘘ばかりする卑怯男
215人間七七四年:2009/04/04(土) 21:24:54 ID:+nI9ImHf
馬鹿織田厨の特徴

・基地外。資料もろくに示さず自分の妄想を一方的に語る
・低脳無知なくせにすぐ揚げ足をとる上に自分は平気で知ってる内容でも嘘をつく
・論破されてもまた日にちがたつと同じ内容繰り返す
・自演ファンネル総動員して基地外論理を展開する
・織田家の地理的条件や周辺状況、運を無視して実績などと言う馬鹿な物差しで強さを決めようとする
・大軍率いる恵まれた状況で戦ってた事を『大軍率いる能力がある』と都合よく置き換える
・好きな武将;信長、秀吉、前田、丹羽、毛利、信忠、立花
・嫌いな武将:武田、上杉、伊達、直江、柴田、滝川、石田三成
216人間七七四年:2009/04/04(土) 21:31:17 ID:2OhsIK3M
>>214
具体例挙げてみて。興味あるから。
217人間七七四年:2009/04/04(土) 21:42:02 ID:mqa5wTqZ
83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり
84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり
紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり
尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶
秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。
218人間七七四年:2009/04/04(土) 22:13:50 ID:JdiZ6mXf
秀吉の実力が3傑にふさわしいと本気で思ってる奴ってはっきり言って頭おかしいと思う
219人間七七四年:2009/04/04(土) 23:16:22 ID:80LN0PJI
つーか語る価値もない。秀吉厨は論理的思考に欠けた馬鹿
220人間七七四年:2009/04/05(日) 00:16:19 ID:pBdc0ztr
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉
221人間七七四年:2009/04/05(日) 00:20:42 ID:lWR5WEfX
そんな秀吉の軍門に下った理由を論理的思考で語る人間が誰もいない悲しさ。
222人間七七四年:2009/04/05(日) 01:20:49 ID:6OnGEnbz
結果として人を支配した人間はみな優秀なのであれば、
麻原彰晃もヒトラーも優秀な人間ってことになってしまうんだよな。
223人間七七四年:2009/04/05(日) 09:33:23 ID:qaCIQQXA
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
224人間七七四年:2009/04/05(日) 09:37:59 ID:qaCIQQXA
そういう優位な状況は秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。

長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ
225人間七七四年:2009/04/05(日) 12:23:11 ID:0fkplSiK
よく秀吉は城攻めの達人とか人たらしの名人とか言われるがこれも間違い。
>>131にみられるようにどこの大名でも漁夫の利を狙うような芸当はやってるし
城攻めに関しても鮮やかと言われるのは対中国戦くらいだろう。しかも水攻めといい兵糧攻めといい
時間や金ばかり無駄に浪費した下策でこんなもんは織田家が経済的に圧倒的なものをもってるから
なせる芸当。少数しか兵のいない忍城や竹ヶ鼻城、紀州の城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる。
226人間七七四年:2009/04/05(日) 12:33:34 ID:lWR5WEfX
>225
>時間や金ばかり無駄に浪費した下策

では何をすれば上策なんだ?
227人間七七四年:2009/04/05(日) 12:39:50 ID:3uNQEI7j
便壺に忍んでうんこしてるとこをズブっと、これ最上策
228人間七七四年:2009/04/05(日) 14:48:56 ID:3XZ4AdnH
どんだけ大軍でも大勢力でも負け続けたり、勢力が拡張できない大名はたくさんいたんだがな。
そりゃ確かに毛利や信長みたいに、少数で大軍を打ち破って拡大してきた奴はすごいよ。
しかし相手より大軍を擁してしっかり勝ちきる戦をしつづける奴も、十分大したものなんだよ。
229人間七七四年:2009/04/05(日) 15:06:08 ID:e+oU9yEL
信長は津島湊や知多南郡の木綿の生産地を掌握し、尾張でもダントツの経済力を
有していた信秀の子に生まれた。

信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らとガチで
ぶつかり合い長尾も介入してくる 状況で信濃を取った点や
北条との抗争で駿河を取った事、距離的にさほど
攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め、東美濃も侵略した事
など見るにやはり軍略はピカイチだろう。負けがかなり少ないのも大きい。
上田原も板垣の敵陣のど真ん中での首実験が原因だし逆にその状況から反撃して
何人も討ち取っている。

信長は大軍で弱体化した小勢力に何回も負ける
斉藤、本願寺、伊勢長島一向一揆。姉川でも大軍で寡兵の浅井に
痛打を加えられず。 大良河原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、
屈服した志賀の陣、800の敵に数万の兵で一門を10人殺された伊勢長島第3次。
戦は大した事ない。その分調略や政略でカバーしてる。
版図拡張と言っても山間部出身で周りも強国、国も貧困で京への距離もある武田や
関東出兵や武田との対戦を余儀なくされ国内も反乱やら蘆名の介入やらで
大変、武田以上に京まで遠く雪による制約も大きく関東、信濃、奥州、北陸
多方面戦略を展開してた上杉とは条件が違いすぎる

織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。北伊勢含めばもっと上がる。
幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。
尾張は石高的にかなり条件の良い国
京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。
京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば
思い立ったら上洛できる位置。 西は木曽・揖斐川の大河に守られ
東と結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに
領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく
武田の本拠地も遠い。
周りの大名も今川義元は運良く戦死 跡継ぎの氏真は暗愚
松平家は独立 同盟で後方の安全を確保
斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名
六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた
三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ
織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者
織田と本格的に戦う前に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅
足利義昭も信長の所に来た
230弥太郎 ◆nKVPGhWYdI :2009/04/05(日) 17:48:22 ID:RqGGoDK2
秀吉の無能ぶりは平民から関白になった人物を挙げてからよそでやってくれ
231人間七七四年:2009/04/05(日) 18:04:48 ID:3XZ4AdnH
>>229
秀吉個人の能力の話ですらスレ違い気味なのに、お前は一体何の話をしているんだ?
232人間七七四年:2009/04/05(日) 18:21:04 ID:mb/ax9A9
はいはい、誘導誘導

糞猿秀吉を三傑からはずすべきだ
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1179571458/

帰ってくんなよ
233人間七七四年:2009/04/06(月) 06:43:57 ID:+B1DHeyh
>>222
ヒトラーも麻原も優秀ですが何か?
234人間七七四年:2009/04/06(月) 06:49:20 ID:mZo7OgO8
>>233
君の優秀の基準は、おかしい。
235人間七七四年:2009/04/06(月) 08:47:43 ID:sPzF8Akn
ゆとりちゃんなんだろ。
あいつら日本語が不自由だし。
236人間七七四年:2009/04/11(土) 03:05:47 ID:XlimGy37
>>230
足軽から総理大臣になった奴なら。
237奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/04/18(土) 07:25:40 ID:Wf7vdC1p
千円?
238人間七七四年:2009/06/22(月) 21:35:35 ID:y0Jm4Q3d
信包が後見すれば良かったのに。
239人間七七四年:2009/06/22(月) 21:44:52 ID:075kJZKM
>>230
筵売りから皇帝になった人なら
240人間七七四年:2009/06/22(月) 22:03:55 ID:syaAJab2
あげ
241人間七七四年:2009/08/08(土) 11:38:06 ID:qsHFd1pW
亀レス

>>187
>おお返しなんて結局予めの準備あってやっとなせるわざだし


あらかじめっていつ兵糧用意した?
まさか本能寺の変のまえ?
242人間七七四年:2009/08/08(土) 14:05:17 ID:u+H7oBi0
>>241
光秀が何のために出陣することになったか、よーく考えてみよう。
243人間七七四年:2009/08/08(土) 18:34:56 ID:qsHFd1pW
>>242
毛利と交戦中の秀吉救援?
244人間七七四年:2009/08/09(日) 22:14:11 ID:NlTMtKLB
>>243
その救援軍の派遣のためには何が必要かな?
245人間七七四年:2009/08/09(日) 23:21:57 ID:QkGf6xcG
>>244
兵糧?
246人間七七四年:2009/08/12(水) 00:50:50 ID:6d7hXCAs
よくその兵糧が、大返しの途上の道々に人数分用意してあったな
あらかじめ早馬でも送っといたか?
247人間七七四年:2009/08/12(水) 09:43:47 ID:/iPMQklQ
そりゃあ信長自身が大軍を率いて向かう予定だったからな。兵糧の準備も万全だ。
248人間七七四年:2009/08/12(水) 10:15:40 ID:6d7hXCAs
>>247
その大軍てどこに用意してあったんだ?
本能寺には百人ぐらいしかいなかったんだろ?
信忠だって…
249人間七七四年:2009/08/12(水) 17:50:27 ID:xhUvd0mP
光秀が行く予定だった
250人間七七四年:2009/08/12(水) 20:31:25 ID:C+SK6NOK
ああなるほど
251人間七七四年:2009/08/12(水) 23:29:19 ID:eOANZgJ6
言いたいことはまとめて言えよ。チャットじゃないんだから。
252人間七七四年:2009/08/12(水) 23:45:16 ID:C+SK6NOK
俺は248じゃないからただの相槌だぞ
253人間七七四年:2009/08/14(金) 04:19:34 ID:ts4kDRwr
254人間七七四年:2009/08/16(日) 20:23:15 ID:IAQgQRBX
秀信が岐阜城に籠城したのって、あの局面で上策だと思うか?
255人間七七四年:2009/08/16(日) 20:35:49 ID:eRWqWtY6
関ヶ原スレの誤爆?
256人間七七四年:2009/08/16(日) 22:59:35 ID:NevEpvOf
秀吉は兵力が沢山あり、金が沢山あるから強いだけと、言ってる人がいるけど、
戦争ってのは、そこら辺も含めて戦争なわけで、やっぱ秀吉は偉大だと思います。

戦国時代後半は、もう戦の準備がうまい人が勝つ時代。
257人間七七四年:2009/08/17(月) 10:44:17 ID:vAxVDjDC
逆に言えば、戦の準備が上手かっただけ、強かっただけ、とも言える。
秀吉にはそこから先の、統治、安定の役割も求められていたのに、そのあたりはからっきしだった。
258人間七七四年:2009/08/17(月) 14:29:36 ID:VHV5GTIg
結局は小荷駄・兵站の問題
259人間七七四年:2009/08/17(月) 14:31:44 ID:VHV5GTIg
そして大義名分
260人間七七四年:2009/08/18(火) 18:15:24 ID:U5W+M8/R
>>259
それは大きいと思う。


しかし山崎の戦いは野戦だったよな?
261人間七七四年:2009/08/19(水) 20:43:52 ID:6z3FkvCx
秀吉が体験した野戦って、どんなのがあったっけ?
桶狭間とか姉川か?
262人間七七四年:2009/08/22(土) 23:38:26 ID:LmhgK6MP
>>261
織田軍上洛戦や朝倉進攻作戦なんかでも野戦はあったと思う。
263人間七七四年:2009/08/23(日) 15:54:45 ID:uOoIsDkd
(大将ではなく配下としてだが)野戦経験の数の差が出たか。
264人間七七四年:2009/08/25(火) 13:44:01 ID:y7OSZT/7
光秀天王山に登っちゃったんだって?
265人間七七四年:2009/08/29(土) 15:00:21 ID:UMfo2kgq
テレビでやってたな
266名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 16:53:32 ID:dMK4pD6E
だな
267人間七七四年:2009/08/30(日) 23:15:19 ID:u9elPCnf
なんにせよ戦国板のアンチってのは種類問わずカスだな
268奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/08/31(月) 06:04:10 ID:2TVqsQMJ
激しく尿意。
269人間七七四年:2009/08/31(月) 19:59:44 ID:duJIzDkK
>>268
ワロタ
270人間七七四年:2009/09/09(水) 22:20:25 ID:3o4vq+al
Wiki見て三法師の子孫も生きてるみたいで嬉しかった。
271人間七七四年:2009/09/10(木) 02:52:35 ID:mcTPnbxJ
まあその三法師は、親の因果で野垂れ死にするんですけどね。
272関連スレ:2009/12/06(日) 20:43:26 ID:vkzCXNU/
【尾張】池田恒利・恒興・元助・輝政らを語る
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1260099716/
273人間七七四年:2010/05/28(金) 00:01:19 ID:5+0hzks5
谷口克広センセの卒論テーマが清洲会議だったらしいね
274人間七七四年:2010/08/05(木) 17:01:32 ID:TJyq2Hgw

く  き  だ
れ て れ         _,,..-─.、.._
│    か      ,.‐´ミミ 彡シ'" ヽ
っ          r      __    レヽ
           / へ↓| レ´    | ア|        /      /
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       i、\    ト   人入  /  │   i、
        i、 \  │\/ヽ_/\/|  │   ヽ
        ヽ   ヽ .│    | |   │ /     \
        │   ヽ│    |│   │/
        .│    │   ゝゝ   \

織田信成が織田信長の子孫って本当?【3代目】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/skate/1277120346/701-800
275人間七七四年:2010/11/05(金) 08:29:50 ID:W2hBSyKa
秀信の弟・秀則も信孝に引き取られてたのかな?
276人間七七四年:2010/11/06(土) 11:30:27 ID:dh+UtNfH
三法師ってキヨスク会議の後ってまったく出てこないよね読み物なんかだと。
野垂れ死にしたってマジっすか?
277人間七七四年:2010/11/06(土) 11:32:40 ID:6Dfm35oK
>>276
関ヶ原の時岐阜城には誰がいたと思ってるんだ?
278人間七七四年:2010/11/06(土) 12:19:04 ID:dh+UtNfH
>>277
まさか三法師君がおわしたんですか?
…勉強してきまつ。
279人間七七四年:2010/11/08(月) 01:06:56 ID:t+Q7H1Wx
家臣が止めるのに
「俺は信長の孫だぜ、戦うに決まってんじゃん」ってことで開戦

覚悟を決めた家臣が出陣を促すと
「俺は信長の孫だぜ、カッコイイ鎧を選ばせろよ」ってことで出遅れ

あっさり敗北で高野山で謹慎、のはずが
「お前の祖父さんは非道いことしたよね」ってことで受け入れてもらえず
280人間七七四年:2010/11/08(月) 01:17:49 ID:xkOMCjHD
>>279
> あっさり敗北で高野山で謹慎、のはずが
> 「お前の祖父さんは非道いことしたよね」ってことで受け入れてもらえず

その後本気で流浪し家臣団や親類集からも見放されたらしく、本当に野垂れ死に。
281人間七七四年:2011/02/20(日) 09:09:32.89 ID:dOj/i6z0
あげておこう
282人間七七四年:2011/02/22(火) 01:15:59.15 ID:IDJgWofi
本能寺直前の信長体制の中での序列ってのはどんなものだったんでしょう。
@信長A信忠B家康C信雄D勝家E光秀F秀吉G信孝H一益…
ざっとこんな序列だったんではないかと推測。浅学なものでツッコミ所満載かもしれませんが。
独立大名の家康も「ほぼ信長配下」ということで、ランキングに加えてみました。
283人間七七四年:2011/02/22(火) 01:30:12.35 ID:cGtbfQVS
>>282
石高順で並べ直してみよう。
284人間七七四年:2011/02/22(火) 01:43:13.39 ID:mzsiaKZS
>>282
末期織田体制において権力で言えば柴田や秀吉なんてろくに持っていない。
前線指揮官なんて権力中枢から外された人間のやること

信長が生きていた頃は

信長-菅屋長頼(近習筆頭)-明智光秀(畿内軍総括)>>>>>>その他

このくらいだと考えたほうがいい。
のちの歴史から遡らないほうがいいよ。
285人間七七四年:2011/02/22(火) 01:48:19.61 ID:vNUD8jeU
信忠ェ〜
286人間七七四年:2011/02/22(火) 07:37:19.54 ID:7d7nujMd
信長と菅家の間に信忠?
287人間七七四年:2011/02/22(火) 08:20:40.09 ID:iFXazUnr
三谷幸喜「KIYOSU」楽しみだ
288人間七七四年:2011/02/22(火) 09:49:03.98 ID:cGtbfQVS
>>287
幻冬舎から小説を出すんだな。
289人間七七四年:2011/02/22(火) 10:25:16.94 ID:IDJgWofi
>>284
ご指摘をいただきウィキで菅屋長頼を調べてみました。
名前すら知らない人物だったのですが本能寺さえ無ければ「越前府中を与えられる」
予定だったとのことで、かなり重職にあった人物だったんですね。
しかし織田家当主だった信忠や独立大名の家康を凌ぐほどの実質的権威というと
これは相当なものですよね。
現在は知名度すらかなり低い状況ですが、信長側近団の織田体制内での発言権は
相当に高かったんですね。
290人間七七四年:2011/02/22(火) 11:31:51.39 ID:7d7nujMd
光秀を恨みながら死んだんだろうなー
291人間七七四年:2011/02/22(火) 13:59:24.04 ID:QUoufZ3H
本能寺直前くらいの織田政権を序列で言うとこんな感じかな

             織田信長━━┓
               ┃   織田信忠(嫡男)━━━┓
               ┃      ┃       織田家一門衆
               ┃    美濃以東の軍団
               ┃       (森、滝川など)
  ┏━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┓
徳川家康       菅屋長頼          明智光秀
(配下大名筆頭)   (近習衆筆頭)       (畿内軍統括)
               ┃              ┃
            近習・奉行衆         柴田、羽柴など
             (行政官)           (軍事)
292人間七七四年:2011/02/22(火) 15:13:47.56 ID:7d7nujMd
光秀って柴田より上だったんだ意外
293人間七七四年:2011/02/22(火) 15:26:04.41 ID:mzsiaKZS
>>292
そりゃあど真ん中の中央軍任されている将軍と、もはや政権の直接的驚異でもなんでもない
辺境の敵相手にドンパチやらされてる将軍のどっちが信任されてるかなんて言うまでもないだろ。
294人間七七四年:2011/02/22(火) 16:58:02.16 ID:TowwCmEK
うーん・・・よく分からんが、そもそも発言力(の差)なんて
信長が居なくならないと(=居なくなって初めて)顕在化する性質のモノじゃないか?とも思ったりする
それまでは信長が強すぎて、各々が他の家臣との序列の高低を確認し合う機会が無いような気もするんだけど・・・

つうか・・・発言力って何?w
295人間七七四年:2011/02/22(火) 18:28:09.32 ID:7d7nujMd
発言力なんて上の人間によって変わるだろ
296人間七七四年:2011/02/22(火) 19:48:31.12 ID:8HEvC9az
そのあたりが面白いというか、不思議というか・・
そもそも本能寺の時、信長が数十、信忠が数百程度の兵を引き連れてただけ
信長本隊というか直卒の兵ってどれくらいのものだったんだろうと思ったりもする
あれだけ兵力握ってた佐久間をあっさり追放出来るっていうことは、
信長軍団全兵力がつまりは信長直卒ということなんだろうけど
当たり前っちゃ当たり前だけど、パワーバランス的には不思議な感じも受ける
実際に本能寺の変が起こっているのを知っているだけにね
297人間七七四年:2011/02/22(火) 19:50:47.81 ID:mzsiaKZS
>>296
佐久間は自分の兵や領地と引き離され、反乱できない状況にした上で折檻状→即追放
298人間七七四年:2011/02/22(火) 20:31:32.51 ID:7d7nujMd
反乱されたらヤバイから考えるわな
299人間七七四年:2011/02/22(火) 21:53:57.54 ID:vjyPNhln
>>293
織田家重臣で特定の戦線を任されてないなんて、閑職扱いじゃね。
実際羽柴の要請で、加勢させられてるし。
明智軍を温存できるほど、織田軍には充分余力があったってことなんだが。
300人間七七四年:2011/02/22(火) 21:57:12.22 ID:vjyPNhln
>>291
四国政策の転換で、羽柴に完敗したのだから、
明智光秀 < 羽柴秀吉だろ。織田家中の序列は。


301人間七七四年:2011/02/22(火) 22:02:04.27 ID:mzsiaKZS
>>300
四国政策の転換が明智の敗北なんて、後世の想像でしか無いぞ?
それに対して光秀がどう関わったか、あるいは関わらなかったかなんてことは一切記録にない。
ましてや秀吉との関わりなんて。

小説的想像で考えるのは止めようや。
302人間七七四年:2011/02/22(火) 22:24:33.68 ID:vjyPNhln
>>301
その記録って一体何?
具体名出してみ。
303人間七七四年:2011/02/22(火) 22:27:39.69 ID:7d7nujMd
横槍だけど「記録にない記録」って何だw
304人間七七四年:2011/02/22(火) 22:36:54.55 ID:mzsiaKZS
>>302
記録に無いって言ってるのに記録を求められても困るがなw
305人間七七四年:2011/02/22(火) 23:14:19.38 ID:02LVVuGa
>>301
明智が織田家の指揮系統に置いて柴田や羽柴の上位にいたという根拠はない
つうか逆に言うと誰がそういうことを主張してるの?
谷口克広氏は信長の直轄軍として
・津田信澄や菅屋長頼を代表とする側近衆
・西美濃衆
・近江衆
・越前衆
・池田元助を筆頭とする摂津衆
・明智光秀率いる畿内方面軍
・丹羽長秀を筆頭とする若狭衆
・蜂屋頼隆を筆頭とする和泉衆
それらに並行する形で柴田や羽柴、滝川らの方面軍司令官がいたという論説だけど
306人間七七四年:2011/02/22(火) 23:15:18.69 ID:02LVVuGa
上のレスの宛先は>>301じゃなくて>>291
307人間七七四年:2011/02/23(水) 11:13:56.40 ID:QCW6C//5
>>304
記録にないってしかと実見したのだそうだから、その記録とやらの名称を尋ねてるわけなんだが。
苦しい言い訳に失笑。
308人間七七四年:2011/02/23(水) 11:57:32.84 ID:vdPdQ0B1
>>305
「指揮系統」ではなく「序列」な?
普通に考えて中央の一番重要なところの軍隊任されている人間が一番ランクが上でしょ?

>>307
君の言っていることはまるで訳がわからない。
309人間七七四年:2011/02/23(水) 12:07:25.28 ID:QCW6C//5
>>284
子会社の社長(方面軍司令官)と本社社長(信長)の室長とどっちだ偉いかなんて、比べること自体ナンセンス。
専務・常務扱い執行役の子会社の社長が社長側近に気を使うのは当たり前。
だが身代も実力も子会社社長の方が遥かに上。
だから信長消滅後側近連中は無力化し、秀吉の家臣に成り下がり。
側近連中は権力中枢にいたといっても、単に方面軍と信長の連絡役にすぎず。
多少私見を申し述べるくらいのことはできたがな。
方面軍司令はそれを恐れていたわけだ。
信長に自身の悪口を吹き込まれたのではたまらんからな。
310人間七七四年:2011/02/23(水) 12:10:01.75 ID:QCW6C//5
>>308
では日本語が拙い外国人が通う日本語学校で、一緒に初歩の日本語から勉強したまえ。
311人間七七四年:2011/02/23(水) 12:24:29.78 ID:/QqntYp1
存在しないことの証明って「悪魔の証明」って言うんだっけ?
312人間七七四年:2011/02/23(水) 12:38:40.47 ID:QCW6C//5
実見した記録とやらは厳然と存在してるんだがな。
その名称は何だと聞いてるんだが。
恥の上塗り。
313人間七七四年:2011/02/23(水) 13:24:22.15 ID:ziyw2Sdl
桐野の本だったかな。
秀吉が中四国でコチャコチャやって信長がそれを採用して
光秀大弱りというんだったか。
ただそれを光秀の負けとか秀吉に光秀に対するなんかの腹のうちが
あったというのはどうなんだろう。
だとしたら光秀は信長じゃなく秀吉にウラミ持ちそうな
もんだしまあ丸ごとやっつけてやれということにはなったんだが。
秀吉がそこまで考えて大返しまで仕組んでいたというのは
小説でありそだな。
314人間七七四年:2011/02/23(水) 15:08:14.96 ID:1Ayxh4NY
>>312
だからお前は何を求めてるの?
「無い」ということを証明しろとしか見えないんだけど。
それをやるなら先ずお前が、それに反証できる「史料」を提示するのが筋だろ。

日本語を勉強したほうがいいのはお前の方だそ?
315人間七七四年:2011/02/23(水) 19:03:14.79 ID:OfXqSk7S
>>308
別に「序列」でも構わないんだが、織田家において明智の序列が
柴田や羽柴のそれより明確に上だったという根拠がない
当時の武家社会で序列の高低は
官位が上もしくは昇叙が早かったり、同席した際の席次が高かったり、
連署する際の順番が上だったりと様々な点から類推できるものだが、
明智が他の方面軍司令官に対しはっきりと優遇されてたというのは自分は知らない
中央といっても京は村井貞勝が庶政を一手に引き受けてるし、
物流の中心堺や戦略的要地である大坂は光秀の管轄外で
実際に明智の影響が及んだのは意外に小さいわけで、
その一点だけで「一番ランクが上」つうのは微妙
畿内の領地で言ったら羽柴や滝川も持ってたしね
まあ君が考えてるほど普通じゃないとは言えると思う
316人間七七四年:2011/02/23(水) 19:43:07.17 ID:2nniHNQL
>>314
四国政策に関する光秀の関与が一切記録にない。とある。>>301>>304で確認しとけ。
記録が載ってる史料がないのではない。
つまり実在しない史料を見て記録にないと確認したわけか。
つまり単なるホラ話にすぎないということだ。
見苦しい言い訳をだらだら続ける藤田達生信者の愚行。
317人間七七四年:2011/02/23(水) 19:48:29.96 ID:vdPdQ0B1
>>316
だからそれに対する反論はお前が本能寺前後の四国政策における光秀の関与を表す
史料を提示すればそれで済むっての。

無いならお前は難癖を付けてるだけだ。黙ってろ。
318人間七七四年:2011/02/23(水) 19:54:00.02 ID:2nniHNQL
>>315
光秀は近畿管領という要職にいた織田家重臣。
つまり畿内大名を傘下に置いてたわけだ。
が、配下与力は光秀の家臣ではなく、信長直轄。
だから信長の意向一つで、彼らを光秀から切り離し、勢力の減退可能。
荒木の謀反の時に、信長は実際に実行。
そこが足利将軍家や秀吉とは違う信長の優秀さ。

信長の晩年、最もお気に入りだったのは、最重要戦線を任されていた羽柴秀吉。
光秀は明らかに秀吉に風下にいた。
だから備中戦線に派遣させられたわけだ。
以前秀吉が柴田が指揮する北陸戦線に派遣させたのと同じ理屈。
319人間七七四年:2011/02/23(水) 20:00:09.18 ID:2nniHNQL
>>317
自己の私見の根拠をつつかれると、それには一切答えず、相手に的外れな質問して言い逃れる毎度のパターン。
もう見飽きた。
史料実際に見たんなら、その名称明示するくらい簡単だろ。
それさえできんのだから、何を言わんかだ。
小一レベルの見え透いた法螺話。
320人間七七四年:2011/02/24(木) 04:12:46.23 ID:r8ik/6DO
>>318
それはどうだろう。
派遣させられるのが常に指揮下に入る下っ端とは限らない。
光秀の中国戦線派遣も、信長の応援前の様子見、で逆に
後見的なものだったかもとはよく言われる。
秀吉の北陸派遣も勝手に帰ってきちゃったが
叱られはすれ打ち首みたいに咎められてはいない。
他のカキコみても表面的な事象からおかしな解釈を
してるようなのが多いからもう少しいろんな本読んだほうがいいと思うよ。
321人間七七四年:2011/02/27(日) 02:20:26.71 ID:GtTpC/gB
悪人秀吉。
だから悪人家康に乗っ取られる因果応報。
家康は毛利・島津を始末しなかったため後年手痛いしっぺ返しの因果応報。
322人間七七四年:2011/02/27(日) 02:26:51.64 ID:lsp26II3
秀吉が野望を持たなければ、
信孝が三法師元服まで織田家陣代を務めることになったのかな?
323人間七七四年:2011/02/27(日) 02:32:52.84 ID:GtTpC/gB
兵の掌握さえできないカリスマ性皆無の信孝では天下は荷が重い。
重臣も信孝を軽んじて、織田家内紛で分裂。
324人間七七四年:2011/02/27(日) 12:34:13.24 ID:XY0z5IGD
江(少女)が実は清州会議に参加していて
秀吉の三法師擁立を防げなかったことを後悔していたらしいね

今やってる大河によると…
325人間七七四年:2011/02/27(日) 21:37:09.72 ID:galgXo8C
いろいろ考えたが清洲会議ってこうすればよかったんじゃね。

秀吉「お世継ぎは三法師さまじゃ(キリッ」
丹羽・池田「羽柴殿を支持します!」

勝家「……たしかにそれが筋じゃと気が付きましたわ。では其れがしも信孝さまを説得するわい」

勝家・丹羽・池田「では我らで力を合わせて簒奪者がでぬよう三法師さまを盛り立ていこうぞ!」

秀吉「え!?いや、そうですな……。みなさん分かっていただけてなにより。はは……(´・ω・`)」
326人間七七四年:2011/02/27(日) 23:02:50.88 ID:3Bm3Jvq3
>>325
実際にそんな感じだったらしいぞ。秀吉と勝家の対立は清洲会議の後、信孝信雄が
国境線紛争はじめてから
327人間七七四年:2011/02/27(日) 23:59:36.43 ID:NdByuCd2
秀吉が播磨、秀長が但馬、秀勝が丹波
山城と河内は羽柴家の誰の領地になったんだ?
秀吉?
328人間七七四年:2011/02/28(月) 00:10:40.30 ID:fD8e403q
>>326
信長の葬儀を誰が仕切るかで揉めたのは、それより後だったか。
329人間七七四年:2011/02/28(月) 00:43:44.30 ID:bah6K9wq
>>324
もう江は爆発すればいいのに
330人間七七四年:2011/02/28(月) 08:50:00.30 ID:jX6gG0mC
丹羽長秀は清須会議で、秀吉の事を「おん大将!」と呼んでいました
331人間七七四年:2011/02/28(月) 19:09:57.13 ID:0YZ21wcC
信忠生存でも家臣団&体制所属大名の統制は難しかったという意見も根強くある
ましてや信雄・信孝では信長の巨大遺産を継承するのはハナから不可能
清州会議が開かれた段階で、織田体制の終了を確信していた人達は体制内部でも
かなりいたんじゃないか
332人間七七四年:2011/02/28(月) 19:24:45.63 ID:jig6iY0r
強いものが天下を取る、というシンプルな発想にのっとって
秀吉が、じゃぁオレも、と思うのはいかにも普通。
織田家というか信長には悪いと思ったろうがもういない人だしね。
この会議自体が相当に不穏だし別に秀吉に天下取りの意思があった
としてもそんなにおかしくはないと思うけど
どうもそういう風に考えると陰謀論みたいに扱われて不思議だ。
333人間七七四年:2011/02/28(月) 21:14:55.39 ID:c9OhqmTp
考えすぎ
334人間七七四年:2011/03/01(火) 07:43:27.71 ID:smO8fzNI
信忠まで横死したのは当時の織田家にとって致命打だった
彼が生きていれば織田家があそこまで没落することは無かったと思う
でも彼が天下一統できた器かとなると微妙な気がする
信長死後の体制維持のため、主旨は違うが清州会議のようなものを開いて
家臣団や同盟傘下大名の結束維持を訴える必要性に迫られたと思われる
335人間七七四年:2011/03/01(火) 09:58:23.21 ID:HASNlBHz
         -‐―- 、
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   i.::::::::::::」:::」:::」::」」i l
    ∞ / (●  (● ∞
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   ‖八    З ./ |l 
   ‖ |ヽ\_ /ソ
336人間七七四年:2011/03/01(火) 10:19:05.85 ID:smO8fzNI
>>335
ワロタ
お嬢ちゃんにも伯父さんの巨大遺産の相続権あったっけw
藁にもすがるというという言葉があるが、お江ちゃんにすがってもなぁ
337人間七七四年:2011/03/02(水) 00:06:13.15 ID:8T98J5JN
>>336
現行法では死亡者に子供もしくは孫がいる場合は姪に相続権は発生しない
338人間七七四年:2011/03/02(水) 02:09:20.36 ID:lWLH0Zeb
つーか妹がいるのにその娘に相続なんかありえねーしw
339人間七七四年:2011/03/03(木) 00:32:54.27 ID:aKNpL9FN
>>331
信忠は織田家の家督を継いだ、正式な信長の後継者。
他家に養子に出された信雄や信孝とは訳が違う。
数々の軍歴も積んで、家中における存在感は抜群。
信忠が明智の乱を切り抜けていたなら、
織田家中は何の問題も無く、信忠の下に再統合される。
信忠に逆らうことは、イコール明智光秀になることと同義。
そんな奴に誰も同調しない。
340人間七七四年:2011/03/03(木) 00:42:37.44 ID:WYTgS3Jv
>>339
信長の傀儡のような信忠は威令をもって自己主張したりするタイプではないので、
織田親戚と家臣らが三好三人衆や松永久秀みたいになり
三好義継のような状態になるだろうね。
341人間七七四年:2011/03/03(木) 01:02:51.82 ID:aKNpL9FN
>>340
信長が消えれば傀儡ではなくなるな。
それに幼児の三法師でさえ秀吉が利用せざるを得ないほどの権威を持っていたのだから、
堂々たる青年男子の父信忠には、織田家中の誰も逆らえない。
342人間七七四年:2011/03/03(木) 01:05:44.20 ID:4SO40kY3
>>341
ただ織田領国は信長在世中ですら離脱、分裂傾向が進行していたから、
信忠が生き残ったとしてもそのような傾向を押さえて統一を保てたか、ということは甚だ疑問だな。
343人間七七四年:2011/03/03(木) 01:33:37.17 ID:aKNpL9FN
>>342
離脱分裂云々は、一部の例外を全体にすりかえる詭弁。
そんな史実は無い。

それに秀吉の織田家簒奪の手段が、織田家の権威を借りた主家への忠義立てだった事を鑑みても、
信忠が健在なら彼への忠誠こそが織田家臣にとって絶対正義となる。
信忠に逆らえば、孤立して光秀のように袋叩きにあって抹殺されるだけ。
344人間七七四年:2011/03/03(木) 01:43:06.89 ID:ca37D9gq
>>342
同意。柴田のように織田家第一と考える武将ばかりならともかく、光秀や信長・信忠横死後の
秀吉のように「あわよくばオレが!」と考える輩が他にもいる可能性がある
信忠健在であれば秀吉も内心の野心は隠して忠勤に励んだ可能性は大
しかしあまりに華々しい父親と比較すると、カリスマ性の面で信忠の手腕はあまりに未知数
(数年の織田家当主歴、武田征伐等の実績をふまえても)
信長不在の状況の中では仮に信忠健在でも、一つ二つのほころびから織田権力に
大きなゆらぎが生じる可能性は大だったと思う
345人間七七四年:2011/03/03(木) 01:47:29.20 ID:4UO7I0/e
初代の偉大な頭首が満を持して時代に譲っても
案外2〜3代でつぶれてしまうというのはそれこそ
歴史がいろんな角度から証明してる。
信長のカリスマ性を強調すればするほど逆に
それを受け継ぐ2代目はそのギャップが明確になる。
まんま信長の業績をそのまま信忠が受け継ぐというのも
仮定でしかないと思うしそんなに確定事項のように
考えるのもどうかとは思う。
信長が認めた跡継ぎというのを過大解釈してはいけないだろうし
なにか自分の判断でミスしたら逆に信長とは違うというのが
強調されるというマイナスもある。
結論として不明と言うしかないし少なくとも
信忠幕府が出きてたなんてのはさすがに妄想的だろう。
346人間七七四年:2011/03/03(木) 01:48:40.79 ID:3VFXOQ9R
>>343
そんなゲームみたいに上手くはいかんよ。
ただでさえ織田家のシステムは家臣に巨大な権限と領土を与えて、半独立と言って良い状況に
なっているんだから。
そこからほんのちょっと踏み出せば、逆らう逆らわないみたいな二者択一じゃなく、
既成事実の積み上げで実質独立と変わらない状況にも持っていけるわけだし。

そういう従っているんだか従っていないんだかみたいな連中を取りまとめることが
信忠に出来たとは到底思えん。
347人間七七四年:2011/03/03(木) 01:53:23.41 ID:WYTgS3Jv
せいぜいうまくいったとしても勝頼以下。
そもそも家臣らの発言力が増大するし
言うことをきかないから秀吉から播磨を召し上げとか
柴田から越前召し上げとかやろうとしたら
逆に信忠が破滅するだけ。
そもそも信忠が指揮した甲斐信濃が家康に取られて権威丸つぶれ。
348人間七七四年:2011/03/03(木) 01:55:28.70 ID:Gdym+D7P
本能寺の時点で織田の兵力っていわゆる5軍団以外に信長と信忠直属の兵力ってどの位あったの?
まさか織田のほとんどの戦力が各方面軍に割り当てられてたわけじゃないんでしょう?
349人間七七四年:2011/03/03(木) 01:56:14.44 ID:aKNpL9FN
>>344
自演(笑)

ま、それはそれとして、
織田の戦力はもはや圧倒的で、残存しているどの敵も織田の天下を覆すのは不可能。
明智の乱の再発防止のため、信忠はより警戒を強化し、自己の近衛師団を整備するであろうから、
もう二度と本能寺の変のような不測の事態は発生しない。
よって訳の分からないほころびなんぞ発生しない。

信長亡き後、織田家臣にとって信忠は主君以外の何者でもなく、
唯一天下に邪心を抱いていた秀吉も、明智討ちの戦功を独占できないのだから、手も足も出ない。
仮に秀吉が史実と同様明智討ちに絶大なる貢献をし、それに増長して主家を簒奪しようとしても、
信忠健在なら織田家中の誰も秀吉に与しない。

350人間七七四年:2011/03/03(木) 02:01:01.57 ID:3VFXOQ9R
>>349
だからその織田宗家が絶対的な君主権を未だ確立していなかったんだって。
信長が絶対君主だみたいなこと信じているのなら、それを理解出来ないだろうけど。
織田家権力ってのは仕組みとして古く分権傾向が強かったんだよ。
351人間七七四年:2011/03/03(木) 02:13:40.40 ID:aKNpL9FN
>>345
懲りずに自演の愚(失笑)

そもそも信長はとっくの昔に家督を信忠に譲っているのだから、
信長の業績をそのまま信忠が受け継ぐのに何の問題もない。
確定事項だ。

信忠が何かの判断ミスを犯すという仮説こそ、仮定でしかない。



>>346
これも自演(爆笑)

織田の臣下で半独立とは単なる脳内妄想。
半独立なら、佐久間・林・安藤らの一斉放逐は不可能。
他の家臣らも致し方ないという傍観の構図。
つまり織田家には簡単に家臣の封土を取り上げ、身一つで放り出せる絶対権力があったわけだ。

既成事実積み上げとか実質独立とか、信長信忠の消滅下でしか有り得ない話。
勝家らが幼児の三法師にさえ逆らえなかったのに、信忠に敵対できる訳がないのは、小学生でも分かる話。

ま、書き込んでる当人が幼稚園児なら致し方ないがな。
352人間七七四年:2011/03/03(木) 02:18:25.40 ID:aKNpL9FN
>>350
分権ってそりゃ足利将軍と守護大名の関係。
織田家とは無関係。
なんなら、分権を証明できる分かりやすい事例挙げてくれよ。
353人間七七四年:2011/03/03(木) 02:23:37.31 ID:aKNpL9FN
>>347
信忠生存なら、織田家が真っ二つに割れた内紛など起きないのだから、
家康はドサクサ紛れの甲斐信濃併呑などできない。

354人間七七四年:2011/03/03(木) 02:26:02.89 ID:3VFXOQ9R
>>352
それこそ織田家の機構は室町幕府の守護大名と殆ど変わらないんだが?
君が足利体制が分権的というならイコールで織田体制も分権的になるわけだ。

分権がどういう事かといえば、織田体制は領主の裁量が極端に大きく、
軍の基礎になる軍役さえもその領主の宰領の中に含まれていた。
検地によって支配地域の生産量を把握し、それを元に軍役の数字をはじき出し
配下領主をすら仕組みとして組織の中に取り込んだ北条、武田などの東国大名と比べて
非常におくれている。鎌倉時代から変わっていないと言ってもいいくらいだ。

こういっても君ははなから理解する気もないだろうけど、織田体制というのは
あくまで過渡的な形態でしか無く、新時代に対応していたとはとても言えないものだったんだよ。
355人間七七四年:2011/03/03(木) 02:34:09.38 ID:aKNpL9FN
>>352
足利将軍はたびたび有力守護大名の突き上げや圧力を受け、政策に多大なる影響を受けていた。
細川頼之罷免など枚挙に暇がない。
が、織田家では信長が絶対権力を有し、家臣らはただ命令に従う道具でしかない。
信長の命令に異を唱えるなど有り得ない。何故なら己が首が飛ぶからだ。

ま、こっちにも無知な部分があるかもしれないので、
織田家臣が信長に圧力加えて、政策を変更させた事例があるなら教えてくれないか。
356人間七七四年:2011/03/03(木) 02:37:48.01 ID:aKNpL9FN
>>355内の>>352>>354に訂正
ま、文脈から分かるだろうが、幼稚園児だったら理解できない可能性もあるので念のため
357人間七七四年:2011/03/03(木) 02:46:14.78 ID:ca37D9gq
>>351
まあ後の秀吉の活躍を知ってるから妄想も湧くわけで、ご意見の通り信忠トップで
盤石の織田権力を確立していた可能性も大かもね
家康なんかは外様だけど同盟(配下)大名として奉公してくれただろうし、上杉・毛利ら
を早めの屈服させることで秀吉以下家中内の団結も高まったかもしれん
ただ信長在世時と比べると、権力運営の不安定感が増すのは否めないと思う
358人間七七四年:2011/03/03(木) 02:56:33.09 ID:aKNpL9FN
>>354
織田体制の領主の裁量って、領主として領土内を統治しているだけなのだから、そんなの当然。
素晴らしい大ボケだ。

本社から派遣された子会社の社長が、自社にて経営を裁量するのと全く同じ。
が、その子会社社長の人事権は本社(織田家)の社長(信長)にある。

何かにつけて国人と合議しなければ組織維持が困難だった武田、毛利らと織田家とは、
根本的に組織構造が違うのだがな、

そもそも検地で軍役の数字を算出している事自体旧態依然の軍制なんだがな。
織田は銭で雇った傭兵軍団だから、銭さえあれば幾らでも兵を補充増派可能。
銭が必要だから商業振興のため、関所廃止や楽市楽座を断行したんだが、
小学生でも知ってる知識さえないとはな。

ま、もし幼稚園児なのなら仕方ないがな。
359人間七七四年:2011/03/03(木) 11:18:03.37 ID:/aIB2IyN
>>358
>織田は銭で雇った傭兵軍団

両国経営の話は御意としても、
「兵農分離」に関しては根拠が無い妄想と各所で言われてますな。


【一領具足】戦国時代の兵農分離【郷士】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1267337010/
次々と通説を打ち砕く鈴木真哉・藤本正行について 4
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1286968038/
360人間七七四年:2011/03/03(木) 13:00:46.66 ID:4SO40kY3
>>358
未だに兵農分離とか傭兵軍団とか、そんなファンタジーを信じているのか…。

なんというか、まあ、お大事にな。
361人間七七四年:2011/03/03(木) 13:54:38.55 ID:WYTgS3Jv
いつもの精神病信長厨キチガイだから無視しとけ。
362人間七七四年:2011/03/03(木) 19:29:29.80 ID:bt1/PLHQ
>>兵農分離とか傭兵軍団
ワロタw
コーエー本と歴史群像ネタを盲信とか頭が弱そうw
363人間七七四年:2011/03/03(木) 19:36:54.02 ID:TknSark/
未だに兵農分離とかトンチンカンなことを言うのは信長アンチの仕業だろ
騙されるな
364人間七七四年:2011/03/03(木) 19:57:39.31 ID:6boBWy0O
>>359-363
また脳内妄想で放言ですか
懲りない御方だ
しかも自演で
365人間七七四年:2011/03/03(木) 20:26:12.79 ID:4UO7I0/e
家督を譲られてた、と簡単に言うけどそれもゲーム的な
データ処理じゃないのかな。
信長生存時はそりゃ信長と同じような意味合いを持つ
家督自体の価値だろうがその信長がいなくなった時に
存命中と同じような権威とか権力維持の機構として
成立するかは検討しないといけないのじゃないかな。
366人間七七四年:2011/03/03(木) 20:38:05.01 ID:4UO7I0/e
続き。
355で信長が絶対権力を有しと言ってるけど
そんな恐怖政治的な権力の家督をもらったって
信長がいなくなった時点で逆に危険ですらあるでしょう。
そういう意味も含めて信忠のみの織田体制はそんなに
信長同様ではないだろうし未知数であるし
そのまま信長個人のカリスマ性や体制まで継承すると言うのが
どうもゲーム的な発想に思えるんだ。
気に障ったら悪いが。

秀忠だって単に家康から譲られた家督をそのまま継承して
はいオシマイではないことを自覚して各家臣の家を訪ねたり
次代の自分の家臣たちとの個人的信頼関係を築き上げようとしていた。
そういうのはやはり大事で重要でしょう。
信長の強大な存在を認めるならば同じように
信忠が各家臣たちとどのような信頼関係にあったか
各家臣が信長をどう考えていたかとかこういう視点が大事でしょう。

そして逆らったらクビが飛ぶ、なんて状態の織田家がどのぐらいの
ものだったかをよく吟味する必要があるのではないかな。
そうしないと単に分権とか足利とか比較してもやはり空論であって
ゲーム数値的データ的な感覚で考えすぎてるような気がする。

長文ごめん自演じゃないよ。
367人間七七四年:2011/03/03(木) 21:08:38.54 ID:WYTgS3Jv
砂上の権力だからいつ崩壊してもおかしくなかったからな。
信長死亡→権力者争いの内紛なんて案の定って感じでしょ。
絶対権力者って例えば大友が二階崩れの変で父が殺された宗麟とか
大内義興の跡を継いだ義隆が陶のクーデターで殺されたりとか、
信虎は追放、為景も引退に追い込まれたりしてるわけで
結局は絶対多数の総意により行き詰まり君主権みたいなものは必ず後退する。
六角義賢の跡を継いだ義治も家臣団により権力制限を受けたし、
斎藤道三も家臣団に担がれた義龍によるクーデターで死んだ。
信玄や謙信は国人家臣団との合意を以て国を運営してたし、秀吉の五大老も同じようなもんでしょ。
信忠だけは信長のカリスマを継承できるわけが無い。
368人間七七四年:2011/03/04(金) 01:02:49.25 ID:/U66PSvu
美濃岐阜を経営してて、手持ちの軍団を持ってるんだから
例え各方面軍が叛旗を翻してもそう簡単には消えないと思うぞ、信忠は
369人間七七四年:2011/03/04(金) 01:15:05.97 ID:DaM4afsh
なんで滅びるか滅ぼすかの二択でしか考えられないかな?
例えば方面軍の連中が反旗なんか翻さなくても実質的に織田家中枢のコントロールから外れれば、
それは織田政権の崩壊になるんだよ。
海千山千の連中が簡単に討伐の大義名分になるような動きを見せるわけ無いだろ。
表面的におとなしく見せて実利を取り、相手の骨の髄までしゃぶるに決まってる。
370人間七七四年:2011/03/04(金) 04:44:27.84 ID:/U66PSvu
だからその海千山千の連中の権力基盤が何かっていうと
分かり易く軍事力なんだよ。軍事力があるから、それを背景に発言力が生まれる
だから自分の直轄の兵力を持ってれば、簡単には織田家中枢から外れない
371人間七七四年:2011/03/04(金) 04:46:37.95 ID:/U66PSvu
滅びるか滅ぼすか二択で考えてないのは>>369だろ
叛旗や消えるは権力闘争にも使える言葉だし、美濃岐阜を経営とも発言したぞ、俺は
勝手に軍事的な意味だととってかかってるのは、自分の意見を押し通すことしか考えてない証拠じゃないの?
372人間七七四年:2011/03/04(金) 05:49:51.90 ID:8c48sjiT
過大評価しちゃいけない。
信長が佐久間や安藤を追放してやっと尾張や美濃の半国支配だし
それから2年も経ずに信忠死んでんじゃん。
373人間七七四年:2011/03/04(金) 07:33:16.21 ID:Iy6t4H2N
上記で議論されてるように史実と異なり、信忠生存で織田権力がどうなったか?という
話は興味がつきない
信忠横死の場合のように一気に体制崩壊という事態は無かったように思うが
光秀征伐→家臣団・従属大名掌握→敵対大名征伐→天下統一とスムーズに進んだかどうか
織田政権が畿内地区掌握勢力として、統一事業が足踏み状態になるという可能性もあったんだはないか
信忠が父親ほど天下統一に執着心を持たなかったというケースも考えられると思う
374人間七七四年:2011/03/04(金) 15:01:25.44 ID:b79+mtSi
岐阜や安土の信長直属軍がどのくらいかわからんが
秀吉軍とならそんなにかわらんのじゃないか。
秀吉が光秀討って摂津あたりも吸収したら
織田家最大の家臣ということになってやっぱり同じような
ことになってたかもね。
375人間七七四年:2011/03/04(金) 18:52:37.96 ID:Setoizrs
信忠の織田家全権掌握
秀吉の織田家簒奪
家康の甲斐信濃収奪

どれも簡単ではないよ、当たり前だけど
おまけに毛利、上杉、長曾可部等が息を噴き返す可能性も少なくないし、
距離的な意味からも秀吉、家康、一益らが信長在命中と同じ位置立場に留まるかは怪しいな

とにかく光秀は日本史ひいては世界史を変えた男だよw
376人間七七四年:2011/03/04(金) 20:40:32.42 ID:4ZWqzVIq
世界史は変えてないだろw
377人間七七四年:2011/03/04(金) 23:51:43.12 ID:L1cZSNUP
朝鮮史
378人間七七四年:2011/03/05(土) 00:21:06.28 ID:5G9nrhNn
捏造ニダ
379人間七七四年:2011/03/05(土) 00:37:55.35 ID:e5x0wFKr
>>374
史実通り秀吉が行動したら詰むのは秀吉でしょ
史実でも反秀吉で柴田・滝川や信雄・徳川で結束して
それを切り崩して秀吉は勝っていったのに
信忠生きてたら、反秀吉に一本の芯が生まれてしまう
信忠が無能であっても、信忠を傀儡にして利を得るのは柴田や徳川で
秀吉は第二の佐久間や第二の明智になる算段の方が高いわ

信忠は戦争大好きっ子だから信長の路線を継続させるとして
信忠じゃ天下とれないよルートを考えるなら
秀吉、柴田、信忠(滝川)の三すくみ、あるいは徳川入れて四竦みで
gdgdになって瓦解する方が現実味あると思う
380人間七七四年:2011/03/05(土) 01:32:45.57 ID:24dIqM1r
そもそも丹羽が協力してくれないと秀吉が天下取るの無理。
381人間七七四年:2011/03/05(土) 01:39:15.92 ID:/w5bRdoR
まあ秀吉軍の大半は結局、織田家からの与力だからな。
秀吉だけじゃ、秀長と合わせてもせいぜい播磨と但馬半国程度の勢力。
宇喜多を入れてそれに備前か。
382人間七七四年:2011/03/05(土) 04:23:38.57 ID:hq/GZUDy
その播磨が西国では豊後と並んで大国なわけだが。
そのまま摂津や河内も押さえられたら
戦と調略職人秀吉を抑えるのはまず無理だな。
383人間七七四年:2011/03/05(土) 05:49:00.53 ID:JVJCaRUV
尾張美濃近江も相当な大国だけどな
まあ秀吉が本気で信忠に歯向かうなら壮絶な跡目決戦にはなると思うが
384人間七七四年:2011/03/05(土) 06:43:28.36 ID:/JfN4q6l
毛利が秀吉を全力支援するだろうし
上杉とにらめっこの柴田が動けない冬季に秀吉が信忠をフルボッコだろうね。
現場叩き上げの秀吉に信忠が勝てる可能性などまったく無い。
何事も信長が決定を下してきたので信忠を軍略で支えられるような側近もいない。
いざ戦えば秀吉の調略で切り崩されるのが落ち。
関ヶ原での家康による西軍大量内応は秀吉の調略を学んだに過ぎん。
385人間七七四年:2011/03/05(土) 06:53:05.13 ID:5G9nrhNn
実際は尾張美濃系の武将切り崩されて羽柴勢崩壊だろうな
386人間七七四年:2011/03/05(土) 07:04:43.94 ID:/JfN4q6l
家康には甲斐信濃を切り取られて
信忠の前に出された川尻の首にお漏らしする信忠…
伊勢の弟まで信忠打倒に動くだろうね。
387人間七七四年:2011/03/05(土) 07:08:07.12 ID:SkqIlK6J
毛利は積極参加なんてリスクのでかい事しないだろ
388人間七七四年:2011/03/05(土) 08:17:56.34 ID:5BwrCrW+
>>384
信忠いるのに毛利が秀吉を全力支援するのか?
信忠と戦う秀吉を背後から襲うんじゃないの?
信忠と組んで
389人間七七四年:2011/03/05(土) 08:20:55.21 ID:vQZqae+9
毛利はどちらかにある程度差がつくまでは動きそうにもないよな
390仙台藩百姓:2011/03/05(土) 08:32:05.47 ID:2vSdV/M5
信長と信忠が同時に死んで主従関係が曖昧になったから秀吉が台頭して来たわけで
信忠が生存していたら秀吉は独立するのすら困難だお( ^ω^)
大義名分が何もないもの( ^ω^)
史実通りに明智を討てたなら家中での地位は固まるから
信忠の権力を少しずつ削って傀儡化できればいい方だお( ^ω^)
391人間七七四年:2011/03/05(土) 09:23:45.30 ID:EXdUszRm
毛利と上杉は程度の差はあれ、死に体だろ

まあそもそも三法師の擁立自体無いのに信孝でも担ぐのか?
392人間七七四年:2011/03/05(土) 11:42:06.44 ID:BrnMApBY
60手ぐらい進んだ将棋で100手目を予想するようなもんだな
それも棋力不明の対局者の
判断材料が多過ぎるw
393人間七七四年:2011/03/05(土) 13:33:04.91 ID:/JfN4q6l
秀頼が家康に滅ぼされた同様に
信忠も秀吉に滅ぼされるな。
天下は実力ある者の持ち回りだからね。
将軍足利義昭様と信忠では正当性がまるで違う。
信忠が家康を威圧して強制的に甲斐信濃を返還させて川尻の一族や森を任地に戻し、
北条を威圧して滝川を上野に帰還させることができたら威信が保たれるがまず不可能。
凋落した信忠より実力ある家臣に人望が集まる。
それは>>367を読めば理解できること。
そもそも信忠は>>372のように地盤が弱い。
だいたい岐阜城なんてバカみたいに簡単に落城してる歴代城主を不幸にさせる城だし。
394人間七七四年:2011/03/05(土) 13:52:35.53 ID:AF5ozlA/
>>393
他家に養子に出された信雄や信孝でさえ表面的に立てていた秀吉が、
どうやって信忠を滅ぼせるのか、教えてくれないか。

象は空を飛べるという類の妄想を書き込むのは勝手だが、
説得力のある根拠を提示しないと寝小便の垂れ流しと同じ。

ここは一つ、シュミレーション頼むよ。
395人間七七四年:2011/03/05(土) 14:08:46.60 ID:/JfN4q6l
義隆を表面的に立ててた陶や内藤
陶を表面的に立ててた元就
信虎を表面的に立ててた武田家臣
古河公方を表面的に立ててた北条
義昭を表面的に立てて信長
秀頼を表面的に立ててた家康
が何をしたか理解できないの?
396人間七七四年:2011/03/05(土) 14:11:23.35 ID:/w5bRdoR
>>395
それ全部個々の状況が違うし、無理矢理一緒にされても困る。

まあ一つ共通項を認めるとすれば、それらは全て実質上の君主権を(大内はちょっと違うが)
失っていた、って事だな。
397人間七七四年:2011/03/05(土) 14:30:13.63 ID:AF5ozlA/
>>395
秀吉にとって信忠は表面的に臣従を装うのが可能な相手ではなく、絶対服従の主君。
ましてや信忠が難を逃れていたなら、明智討伐の中心は信忠であり、秀吉ではない。

秀吉は明智討ちの最大の功労者だったから、以後の政局を己の有利に展開できたわけで、
信忠が生きてれば、どう足掻いても秀吉の出る幕は無い。
398人間七七四年:2011/03/05(土) 14:34:43.50 ID:JxvJNYUD
まあ秀吉に出来るとすれば中国西部を有して、室町時代の山名みたいな勢力に
なることくらいだっただろうな。
399人間七七四年:2011/03/05(土) 22:06:29.66 ID:e5x0wFKr
本能寺変後のゴタゴタで寄騎を家臣化できるなら、それが一番だよな
わざわざ中央権力の争いに足をつっこんで疲労するより、足場固めて
外から幕府に影響力を与えられる力を持った方が賢い
400人間七七四年:2011/03/05(土) 22:36:56.76 ID:ku3RtBFY
1982年の武田征伐完了以降は信長はどこを主敵にしていたのかな?
中国地方 担当 秀吉 対象 毛利 状況 この時点で最も長期間対峙していた相手、徐々に織田が侵食しているもののやや苦戦か
北陸地方 担当 勝家・利家 対象 上杉 状況 越後本国侵攻寸前、勢い的には最も強かったと思われる。豪雪地帯なので雪との戦い?
四国地方 担当 長秀・信孝 対象 長宗我部 状況 侵攻計画最終段階 外交的手順が整えば侵攻していたか? 渡海戦というのがネック
関東地方 担当 一益 対象 北条 状況 とりあえずは同盟関係だ、しかし旧武田領を完全に安定させたあと圧力を強めていくと思われる。
やはり長期間対峙していた毛利をもっとも主力の敵としていたのかな?信長自身が援軍に向かおうとしていたのもそこだし
そうするとそれの担当をさせていた秀吉は、方面軍団長としてはすでにNO1に座にあった?と考えられる
401人間七七四年:2011/03/05(土) 22:37:25.85 ID:5BwrCrW+
秀吉は下手にあがいて潰す口実を与えるような馬鹿なマネしないだろ
402人間七七四年:2011/03/05(土) 22:54:42.88 ID:5ZNQcwVW
>>400
上杉は新発田が国内で謀反し、上野から滝川が迫っており王手。
景勝も観念して、「全国を敵にして滅ぶのは武門の誉れ」と佐竹に手紙出してるよ。
403人間七七四年:2011/03/05(土) 23:05:38.76 ID:ku3RtBFY
>>402
そっか!滝川一益は対北条というよりも中越地方からの対上杉後方侵略という意味合いのほうが大きかったんだね。
本能寺がなければ信長は毛利攻めに参加する予定だったようだけど。これって秀吉の立場からすれば
「よっしゃ!お館さまが参陣されれば鬼に金棒!やはり最大の敵・毛利のところには殿みずから出陣なされる!
その主敵の先鋒につけたのはわしじゃから、わしのことを買ってくださっておるのじゃな!」という感じなのか、はたまた
「あー・・・お館さまの手を煩わせるはめになってしまった・・・北陸は柴田殿一人で切り取っているというのに・・・
出世争いに一歩後退じゃな・・・・」という感じなのか?
404人間七七四年:2011/03/05(土) 23:22:37.22 ID:PbfmlcGm
信忠が逃げのびても柴田がちゃんと従うとは限らないぞ。
かつては信長にも弓引いた男だからな。
信長を助けられずにただ逃げただけの信忠に天下人の器量無しとして
信孝と組んで信忠に対して謀反する可能性も十二分にある。
405人間七七四年:2011/03/05(土) 23:25:14.47 ID:JxvJNYUD
信長の有名な柴田勝家宛の「いついかなる時もオレを尊崇しろ」って言うのは、
つまりそんな事を書状に書かなきゃならないほど、柴田が信長を軽んじてたってことだ。
少なくとも信長からはそう見えたのだろうな。
406人間七七四年:2011/03/05(土) 23:29:00.56 ID:PbfmlcGm
時代劇では柴田を信長に忠義を尽くす人として書く傾向があるけど
過去の謀反を完全に無視してんだよな。
柴田にも秀吉同様天下簒奪の野望はあったはず。
407人間七七四年:2011/03/05(土) 23:57:08.52 ID:e5x0wFKr
>>400
そこで柴田に利家並べる必要がないし
四国方面に丹羽を含めるならちゃんと信澄も並べるべきだと思う
織田家の親族筆頭なのに信澄はスルーされること大杉

滝川を対上杉に入れるなら信忠の甲斐信濃ひっくるめて対上杉になっちゃうだろ。森も侵攻してるし
信長は自分が西で信忠は東って考えていただろうよ
その為に信忠と滝川をずっと組ませていたんだろうし
だから羽柴、柴田、信忠でグダるっつー話よ
408人間七七四年:2011/03/06(日) 05:20:38.04 ID:p/HO42PU
柴田は信長に対して謀反したが、織田家に対して謀反したことはない
409人間七七四年:2011/03/06(日) 06:15:05.45 ID:I/Ul7/cg
織田信忠軍→信濃甲斐でフルボッコされる。
織田信雄軍→明智討伐に向かうも伊賀の国人衆の謀反を危惧し伊勢へ逃亡。
織田信孝軍→集結した兵の逃亡が相次ぎ瓦解。

信忠を含めて信長の息子達の才覚と力量では
柴田勝家軍団と羽柴秀吉軍団を統御できるとは思えない。
410人間七七四年:2011/03/06(日) 07:04:51.84 ID:kF9EPZJu
結局、信長と言う権威が生きていて後ろ盾になってる条件があって始めて軍隊として機能してたに過ぎないんだよね。
信長が死んだとわかるや軍隊が瞬く間に動揺し離散するようじゃ乱世における将の将たる器なんてとても持ってないよね。
信忠の軍事力は旧武田領でほとんど壊滅してるから
結局は秀吉が信孝軍を合流させて明智を打ち破り
明智の丹波亀山や近江坂本を奪い取りながら安土にやってくるだろうね。
信忠は甲斐信濃を奪った家康に臆して返せと命じることもできず恐怖することになる。
さらに主君顔して命令でもした日には柴田も上杉と対峙や豪雪のためを口実に信忠支援には来ないだろう。
なんせ信忠配下に秀吉や柴田を討てるような力量ある将もいないので彼らにとって信忠ごときは驚異にも感じないし
信忠に対抗するために都合の良い後継者を立てて大義名分にすれば済むこと。
411人間七七四年:2011/03/06(日) 10:44:23.02 ID:KrnTYxaD
>信忠の軍事力は旧武田領でほとんど壊滅してるから

え?森、斉藤、団、河尻などの美濃尾張は日本から沈没した?
412人間七七四年:2011/03/06(日) 11:42:29.71 ID:lbR8N6Pz
>>408
信長の弟信行(名前について諸説あるが無視)を擁して信長に謀反するのと、
信孝を擁して信忠に謀反するのとではあまり変わり無いだろ。
413人間七七四年:2011/03/06(日) 12:00:50.19 ID:e5AcZvow
信孝を柴田が担ぐと秀吉の担ぐ神輿が無くなっちゃわないか?

信忠派のその他大勢になるか、柴田の旗下に入るか、別に信雄担ぐか
414人間七七四年:2011/03/06(日) 12:28:57.25 ID:kF9EPZJu
秀吉も信長の子を養子にしてるだろ…
415人間七七四年:2011/03/06(日) 12:54:33.83 ID:8deqUBj6
信長の子の中でも秀勝は一段落ちるからなー
担いでも御輿として信雄信孝の対抗馬とするのは難しいでしょ
ましてや信忠の相手なんて無理じゃね
416人間七七四年:2011/03/06(日) 13:20:12.26 ID:525D/YI4
担げる神輿ではあるだろうが
なんつうか、長男健在の上、次男三男健在であるにも関わらず養子を担ぐって
これ以上となきいじきたなさを感じるよな
417人間七七四年:2011/03/06(日) 13:21:45.30 ID:yTphIJTt
秀勝は用済みになったから、病死ということにして秀吉が暗殺したんでしょ。
418人間七七四年:2011/03/06(日) 20:44:59.15 ID:VMFEekzq
信孝と信雄が力を合わすことを知らんアホだったことがすべての運命を決したんだろ?
秀吉は二人の対立を煽り立てて織田家の力を削っていった。
昔から繰り返されてきた主家乗っ取りのパターンじゃん。
勝家と一益はアホ兄弟に義理立てしてしまったのが失敗だった。
丹羽や前田や池田は歯がゆかっただろうな。
419人間七七四年:2011/03/07(月) 01:21:18.73 ID:KtQUIM7q
>>418
信忠が健在なら毛利3兄弟みたく結束して親父亡きあとの難局を乗り切る、てケースも
ありえたかも
信忠が家督で信雄・信孝がその両輪となり、柴田・滝川・その他らが補佐する形になれば
織田天下は完成継続できたかもしれん
もっともその逆で源頼朝−義経とか足利尊氏−直義とかみたいに、兄弟内紛して
家中がグチャグチャという可能性も大いに考えられるわけだが
その場合は史実通り、羽柴が台頭してくるだろうな
420人間七七四年:2011/03/07(月) 01:34:07.01 ID:oeP9V41v
頼朝―義経じゃ格が違い過ぎて、実際大した内紛にはならなかったし
尊氏は直義(鎌倉派)と高師直(京都派)のバランスそのものが政治命題だったんだから
兄弟内紛でガタガタの例に用いるのは違う気がする
421人間七七四年:2011/03/07(月) 03:04:26.55 ID:8wXhm24i
信孝の母は坂氏だから異母である時点で協調体制は無理だな。
しかも四国遠征軍が瓦解したとは言え、
光秀追討で中国大返しした秀吉に担がれて総大将として光秀打倒に貢献したであろうことは確実。
信忠と信雄の母は不明だが対立関係にはなるだろうね。
絶対に柴田の風下には立ちたくない秀吉は完全に操り人形にしてた信長の四男秀勝もいるし。
織田政権が内紛に突入するのは間違いない。
422人間七七四年:2011/03/07(月) 10:59:53.08 ID:wAsk4rDZ
信忠と信孝の仲は良好だったとか言われてなかった?
むしろ信忠と信雄の仲の方が微妙とどこかで聞いた記憶があるんだが
423人間七七四年:2011/03/07(月) 14:35:27.89 ID:hO7rkUTh
信雄はどこをどうひっくり返しても無能という評価しか出てこない。
しかし有楽斎と並んでちゃっかり家名を残してるのはコイツなんだよな。。。
424人間七七四年:2011/03/07(月) 15:26:38.75 ID:PswEvpXb
>>479
毛利三兄弟+五龍はガチでむちゃくちゃ仲が悪かったよ。
隆元が死んで良かったと言えるほどの険悪さで事実上シカト隆元はぶられ状態。
425人間七七四年:2011/03/08(火) 06:50:50.06 ID:3eTUYLnw
へ〜、それは知らなかった。意外だわ
実際の元就逝去後の毛利家は「3本の矢」とは程遠い状況だったてことね
よくそれで家中統一が計れたな。織田権力より規模は小さいが、毛利家は戦国後期の
中国地方の統治者なのに
小早川隆景が優れた人物だったのが救いだったのか。織田家には彼に該当する人物が
いなかったのが不運
426人間七七四年:2011/03/08(火) 07:21:17.65 ID:vKyYqJPp
元就がわざわざ三子教訓状を出さなければならないほどに
兄弟仲が険悪だったからね…それもまったく効果が無かったけど。
427人間七七四年:2011/03/08(火) 11:03:54.69 ID:DY233kST
と、アンチ毛利がアホなミスリードを。

三子教訓状程度の親から兄弟仲良くしろって教訓はどこの家にもあるっつーの。
あの程度で済んだんだから時代的には各家の利害問題でちょっとギスギスしてたくらいだ。

いいか?本当に仲が悪けば兄弟同士で戦い合うんだよこの時代。
信雄と信孝みたいにな!「w
428人間七七四年:2011/03/08(火) 12:17:44.95 ID:3eTUYLnw
信雄は無理として、信孝がもう少し家臣団内部の空気が読めれば良かったのでは
例えば秀吉に先んじて甥の三法師を推戴して、自らが執政役となるとかね
他家に養子に出た自分の家督相続を軍団長&国持ち大名クラスはもろ手を挙げて
支持するわけが無い、という自覚を持つべきだった
自ら信長信忠直系の三法師を家督と推す度量が信孝にあれば、清州会議以降の
織田権力の凋落は無かったと思う
429人間七七四年:2011/03/08(火) 13:40:32.00 ID:vKyYqJPp
>>427
へぇ。他家でも三子教訓状みたいな書状があるなんて初耳だなw
だいたい隆元本人が弟たちがシカトするとか元就にチクってるわけだが。
元就も「隆景にはわしも怒っている。兄弟仲よく協力しなきゃならないのに困ったやつらだ。元春についてはもう諦めろ」とまで言ってるのも知らんのかね?
430人間七七四年:2011/03/08(火) 14:45:17.06 ID:e0152L/A
宇喜多忠家「マジで殺されるから兄上と喧嘩なんかできねーよ」
431人間七七四年:2011/03/08(火) 15:07:40.40 ID:quKQHfX6
>>430
宇喜多直家「そんなことはないぞ。さ、茶でもどうだ?」
432人間七七四年:2011/03/08(火) 17:53:38.44 ID:glgdCG1u
..__
│宇┃
│喜┃  ●
│多┃◆山◆
│直┃(   .)
│家┣(   つ◇.
  ̄ ̄      ;∵ パラパラ
        旦旦旦
    __
    ┃備│
  ●┃前│
◆岡◆ ̄
(・∀・;)∫ < >>430殿、粗茶ですが。ささ、かけつけ三杯
( つ旦旦旦 
433人間七七四年:2011/03/09(水) 04:26:42.28 ID:H91nlb40
弟が暗殺を警戒してたとか直家の話は後世のウソくせぇよな。
普通は出奔するか逆に兄を暗殺するだろ。
緊張を続けてたら精神狂うわ。
434人間七七四年:2011/03/09(水) 17:11:30.94 ID:v5G0hY8s
秀吉や家康の謀略で佐久間や林のような失脚狙いの調略があるな。
北陸から動けなかった本能寺後の怠慢を詰られ昔、父の信長に謀反した罪を持ち出され大身家臣の柴田を粛清し
信忠側近を取り立てるような動きになって信忠破滅。
権力闘争するアホ家臣団に惑わされ信雄や信孝同様に自滅。
435人間七七四年:2011/03/09(水) 21:02:41.06 ID:wSgSZheA
光秀討って鼻高々になった秀吉が、家康からの失脚狙いの調略される可能性もあるな

しょっちゅう家臣粛清してるやつならいざ知らず
そうでもない信忠でそういう話をするなら何でもありだよな
436人間七七四年:2011/03/10(木) 01:00:02.25 ID:09KX0lgs
膨張させた当主の跡を継ぐのは難しいよ。
当主側近や大身家臣や功臣達の扱いは特に厄介。
ほとんどがこの統御に失敗し代替わりで家臣への分権による君主権の後退が避けられない。
そして前当主派家臣が冷遇され現当主側近が重席に引き立てられるのも当たり前。
家康に対して岡崎派に担ぎ上げられた信康なんてのもあるし、
家康から秀忠になり本多正純が失脚したり、
越相同盟推進した氏康が倒れた後に氏政のことが一時的にわからなくなったが
少ししたら記憶が戻ったが少しして死んで甲相同盟が復活したのも怪しい流れ。
信玄と義信なんてのもあるし。
なかなか二代続けて優秀な当主は登場しない。
437人間七七四年:2011/03/10(木) 04:40:59.20 ID:Z1ZCdtlU
なぜ信忠だけは大丈夫だと言い張れるのか謎だよな・・・
それより信忠の首が発見されなかったことが不思議だわ。
438人間七七四年:2011/03/10(木) 09:45:21.89 ID:7rM+/xqM
>>437

場所は違えど信長と同じ様な死に方だし、信長の首が見つかっていないのなら信忠の首が見つからないのも不思議ではないと思う。
とはいえ後に信忠が控えてた信長と違って、信忠の首を捜す時間は充分にありそうだよね。
というわけで、信忠の介錯をした後に、鎌田新介が首を持ち出し密かに葬って、「縁の下に隠した」と嘘をついたと妄想してみるw

逃げたかったのなら戦闘が始まる前にさっさと逃げればいいのに、わざわざ居残って信忠の死を見届けてから逃げた鎌田新介が理解不能だったもので。ついw
439人間七七四年:2011/03/10(木) 18:47:16.68 ID:H5Uf8AU+
本能寺も二条城も今考えられているような重囲ではなかったのでは。
けっこういろんな人が出入りしてるし。昔の戦争ってわりとゆるゆるだったんじゃあ。

本能寺にも阿弥陀寺の上人が駆けつけて、裏道から入って信長の遺体を運びだして埋葬したんでしょ。
440人間七七四年:2011/03/10(木) 20:51:00.46 ID:GAMhQvrc
細かいが二条御所または御新造だな。
二条城では義昭のヤツか家康の造ったのになってしまう。
441人間七七四年:2011/03/11(金) 12:01:30.48 ID:rZ6FcHzc
消火関係の技術とか未発達だから
初期消火に失敗したら基本は破壊消火
一旦本格的に燃え出したら延焼しそうなもの破壊&撤去
後は燃え尽きるのを待つしかない

本能寺や二条御所クラスなら身元判別できないくらい焼けてもおかしくない
身体的特徴が分からない首だけならなおさら

現代だったら歯の治療記録とかで可能かもしれんけど
442人間七七四年:2011/03/12(土) 06:41:21.87 ID:o0dXO+So
つーか、逃げずに信長の息子として討ち死することを選んだ時点で
首を渡す気なんてさらさらないだろ
もしそんな死んだ後に首を晒してもOKな思考してたら
どんな惨めな姿でバットエンド迎える可能性があっても逃げるだろ
443人間七七四年:2011/03/12(土) 13:43:37.00 ID:gIzLl8bI
無知で捲土重来と言う言葉を知らなかった…
444人間七七四年:2011/03/14(月) 09:06:40.47 ID:F62eB0TS
>>443
上から目線で申し訳ないが、捲土重来ぐらいは知らないとさすがに恥ずかしいよ。

俺は、通ってた学校が黒板の両脇にそれを掲げられてたから、10代のうちに知ってたけどね。

445人間七七四年:2011/03/14(月) 12:30:57.81 ID:MwIy0UNc
あまり使わない四時熟語だから、知らなくても恥かかないんじゃね?
446人間七七四年:2011/03/14(月) 15:31:09.22 ID:cbFVkhDn
信忠がとっとと京を脱出してれば秀吉の天下は絶対100%なかったし、
三法師も秀信なんてダッサイ名前付けられずに済んだのに。
長じて、もう少しマトモな為政者になってたかも。
447人間七七四年:2011/03/14(月) 15:52:35.09 ID:qfJiSJsh
日本語が不自由な織田厨ワロタ
信忠が捲土重来と言う言葉の通りに
いったん退却してから
戦力を糾合して光秀を討てば良かったって意味だろwww
448人間七七四年:2011/03/14(月) 21:28:44.60 ID:R202R2dP
>>443は、信忠が無知で捲土重来という言葉を知らなかった・・・
という、まあ言わばギャグ的な意味でのレスなんじゃないのか
449人間七七四年:2011/03/14(月) 21:40:09.47 ID:Ye7x0jVU
そういう意味か!!
一体誰が何処で捲土重来って言葉使っていたんだ?と疑問に思っていたがようやく納得出来たよ。
450人間七七四年:2011/03/14(月) 23:55:10.72 ID:F62eB0TS
中途半端なボケで恐縮すけど、どなたか僕にも突っ込んで下さい…(;_;)
451人間七七四年:2011/03/15(火) 01:27:06.84 ID:/izIRasm
>>446
信忠生きてりゃ妾腹の三法師が嫡流継ぐなんてこと自体が起こらないっての
452人間七七四年:2011/03/16(水) 08:30:21.59 ID:lY+VDH2Z
>>451
三法師以外に信長直系の孫がいるのか?
そもそも清洲会議にて三法師の織田家相続への異論は年齢だけだろ
453人間七七四年:2011/03/16(水) 08:48:06.68 ID:iTuo6c5J
信忠生きてればちゃんと正室迎えて、それが生んだ子が後継者だろって話だろ
信忠は25なのにまだ正室とってないんだぞ
だから政治的意図があったんではないかっても言われてるじゃんか
454人間七七四年:2011/03/16(水) 09:09:57.20 ID:lG4vdcEB
三法師も出自の悪さから織田家継承の正当性は薄かったと言われているね。
信雄や信孝より上だとは必ずしも認識されておらず、それも清須体制の
不安定さに繋がっていた、という。
455人間七七四年:2011/03/16(水) 09:35:18.34 ID:lY+VDH2Z
信忠はいい齢なのに正室がいなかったってことは、存命してても正室迎える保証はないな
たとえ正室迎えても男子が生まれる保証もないし
三法師の生母の出自は信雄や信孝の生母と比べて別段劣ってはいないな
年齢を別にすれば、他家に出された信雄や信孝より三法師が織田宗家を継承するのは至極妥当
そもそも清洲体制は秀吉の主家簒奪の手段なのだから不安定なのは当たり前
456人間七七四年:2011/03/16(水) 09:44:30.88 ID:6TLO33RC
>>455
君が何故そんなに熱心に三法師の正統性を今現在になって主張しているのか知らないが、
少なくとも当時の資料を見るかぎり、三法師は妾腹ということで年齢を別にしても
当初は後継候補にすら入っていない。完全なダークホースだった。
三法師は信忠が生前に、自分の嫡男だと認めていなかったからだ。

きちんと当時の資料を見れば、三法師の織田家継承に、年齢以外の面でも相当無理があると
思われていたことくらいわかると思うが。
457人間七七四年:2011/03/16(水) 09:48:20.70 ID:lY+VDH2Z
>>447
信忠が討死してなかったら、間違いなく秀吉の天下はなかったな
秀吉が清洲会議で主導権取れた主因は、主君の仇討ちと信忠不在だからな
畿内諸将や丹羽や信孝信雄は、信忠の下で明智討伐軍として糾合される
これだけでも明智軍を上回るはず
時間が経てば続々方面軍が信忠軍に加わって、数で明智軍を圧倒
楽な戦だ
見事亡父の仇を討った信忠の権威は、史実の秀吉の如く急上昇
誰も逆らえない
458人間七七四年:2011/03/16(水) 09:50:04.95 ID:lY+VDH2Z
信忠が三法師を嫡男だと認めていなかった物的証拠は?
459人間七七四年:2011/03/16(水) 10:05:00.90 ID:6TLO33RC
>>458
そもそも正妻の子でないことが第一。
当時は母方のポジションも重大な要素。正妻の子でない以上それは嫡男にはならない。
そして三法師が嫡男でなかった事は幼名を見てもわかる。
信忠自身の「奇妙丸」でもなく信長の「吉法師」でもなく、「三法師」

信忠自身も妾腹であり、確かに将来的に、三法師が嫡男と認められた「可能性」はあった。
だがそれは、信忠が信長からそうされたように、信忠が三法師を後継者認定する必要があった。

それが行われていない以上、三法師の織田家継承の正当性は、信雄や信孝以上で
あったわけではない。
460人間七七四年:2011/03/16(水) 11:38:20.97 ID:BtrpUgIo
前田玄以が適当な事を言ってたのでなければの話だけど。

岐阜から清洲に移すように指示されたのも、形見に脇差を与えられたのも三法師で、三法師の弟の吉丸はスルーされてるんだな。
嫡男とそうじゃない子の違いなんじゃないだろうか。
461人間七七四年:2011/03/16(水) 12:17:28.60 ID:lY+VDH2Z
>>459
信忠の幼名が父信長と違うが織田宗家の家督を継げたのだから、三法師という幼名は関係ないな
それに信忠自身妾腹の子なのに宗家の後継者なのだから、三法師もまた然りだな

三法師が長じてよほどの阿呆でもない限り、彼が宗家を継ぐのは道理
当然天下を担う家の当主としての英才教育や帝王学も施されるので、史実のような失態を演じることはない

信長が信雄や信孝を他家に出したのは後々家督争いの禍根を排除しておくため
よって信忠と信雄や信孝の間には主君と家臣という格段の差があり、
どう間違っても信雄や信孝が三法師を押しのけて宗家を継ぐのは不可能

こんなの誰でも知ってる史実で、要するに当時の資料云々はでまかせだと判明
462人間七七四年:2011/03/16(水) 13:08:14.78 ID:PRriECQ4
織田信広なんか織田信秀の長男なのに妾腹だったんで家督スルーだったが
463人間七七四年:2011/03/16(水) 13:14:44.26 ID:lY+VDH2Z
信忠に正妻いないし
それに秀信には武人より平時の文官の素養が求められる
二代将軍秀忠のように
464名無し募集中。。。:2011/03/16(水) 13:16:31.53 ID:8u7vpAf0
でも信雄と信孝は他家の養子になっており、
遺言もなく織田家当主になるのは道理からしておかしい

やっぱり直系の血筋こそ重要だと思う
現に柴田も信孝も滝川も三法師当主に異議を唱えて秀吉と戦ったわけじゃない
465名無し募集中。。。:2011/03/16(水) 13:17:49.47 ID:8u7vpAf0
妾腹の子だと言うが信雄と信孝も妾腹の子だ
しかも他家の養子
466人間七七四年:2011/03/16(水) 13:42:17.00 ID:lY+VDH2Z
>>428
それは歴史の結末を知る我々だから言える話
秀吉の着想自体が奇想天外だったのであり、信雄を意識していた信孝にそれを求めるのは酷
467人間七七四年:2011/03/16(水) 13:46:29.12 ID:77ei1Sxd
>>461
信忠の弟達が野心を持って家督争いしただけで
三法師が家督を継ぐ方が道理だから
秀吉に丹羽や池田が同調したのは間違いないよな
468人間七七四年:2011/03/16(水) 18:49:59.02 ID:M6+91Pag
少なくとも変が起きるまでは三法師は跡継ぎなんて思われてなかったろうし
それは確定でいいんじゃないかな。
問題はまったく想定外の状態になってしまったわけで
三法師も年齢や立場の問題も有るし弟たちも養子に出てる以上は
そんなに明解に織田家家督を名乗れる立場でもない。
このあたりは問題ないわな。

弟たちの野心だけどこれは見方を変えれば
秀吉の野心に気づいた信孝が織田家というか三法師を
守ろうとしたという言い方もできないか。

信雄はその秀吉と組もうとしてるし三法師は利用されるだけの存在。
これでは会議で決まったからといって三法師を手放すわけにはいかない。
秀吉視点だと、信孝謀反、みたいになるけど信孝や勝家からみれば
秀吉の恩知らずの悪行ということにもなる。

実力世界だから秀吉の野心を悪とか決定はできないけど
信孝のことを野心から家督争いして殺された自業自得の息子、
と言う評価に決定してしまうのはちとかわいそうな意味合いもあるかな。
469人間七七四年:2011/03/17(木) 04:04:49.40 ID:qOYVxIRA
>>460
今、自分が死ぬって時に、それまで嫡子認定してなくても他が居ないので
一番上の息子を後継者に認めるのは歴史を見てもよくあることで
死に際に三法師に形見分けしたからって、生前からずっと三法師が嫡子だった事にはならないんだが
三法師と吉丸、どっちも後継者じゃない場合、どっちかが継がなきゃならない場合優先されるのは長男の方だろ

470人間七七四年:2011/03/17(木) 09:13:00.24 ID:jxRsDMl7
>>468
確かに信長死後の秀吉の所業は悪人そのもの。
だが個人の悪行でも天下の視点から見れば善行だった。

反秀吉勢力が織田家の勝ち組になっていれば、豊臣の全国政権のような中央集権体制の確立はまず無理。
勝家は自ら天下人となる気は無く、せいぜい織田家の執権止まりで、信孝も天下を支える能力もカリスマもない。
とっくに賞味期限切れの足利義昭をまた引っ張り出すという愚行さえやりかねず、
織田家の天下統一は不徹底で中途半端に終わる。

なんのことはない。昔の不安定だった足利幕府への逆コースだ。
だから秀吉の所業は悪逆非道で、勝家ら反秀吉一派は明らかに正義の徒ではあったが、
天下の静謐という観点で見れば、秀吉の悪行は正しかった。

つまり個人の薄汚い野心からの悪徳悪行も、天下や時代の意に沿えば賞賛される栄光へと天下するわけだな。
これは秀吉死後の徳川家康の悪行にも言える事。

471人間七七四年:2011/03/17(木) 13:52:35.69 ID:yxjOLHnF
ふつうに嫡孫の三法師が後継だろうな
歴史的にみて例外的なのが幕末の徳川家で
国際的に多事多難なので幼君では乗り切れないと15代将軍が徳川慶喜になったくらいだろ。
472人間七七四年:2011/03/17(木) 16:46:50.20 ID:93TblFEw
正室の子である弟が妾腹の兄差し置いて家督継いだのなんかそれこそ信長がそうじゃねーか
473人間七七四年:2011/03/17(木) 16:56:19.64 ID:nYWxa9si
>>470
なんだよな。結局勝てばなんとかにはなってしまう。
ただ、秀吉も家康も静謐という意味で見事な統一をしたから
称えられるけど、これが天下を私物化してさらにその後の混乱を
招いてたらボロクソだったろう。

注意しないといけないのは、信長が天下統一してたとして
それが秀吉家康みたいなものだったかは別問題ということ。
信長は後の2人から逆算して考えられやすいけど全部
タラレバなんだよね。

だから、明智、秀吉はそれを避けるために謀反をした
みたいに言うとちょっと小説になっちゃうか。


474名無し名人:2011/03/18(金) 22:04:28.77 ID:5wl4uZzB
柴田は自分が信孝を推せば、秀吉は秀勝を推してくると想定していたんじゃないか
それが三法師を推してきたもんだからまったくの想定の範囲外でテンパってしまったんだろう
丹羽も三法師に賛成しちゃったし、
嫡孫で織田家に籍があるという道理も通っているから柴田も異論を唱えにくい
475人間七七四年:2011/03/19(土) 14:34:12.25 ID:fwiqUSmK
>>113
一人だけレベル低いレス
476人間七七四年:2011/03/22(火) 17:42:00.41 ID:t8SCxO4+
勝家と秀吉が個人的に仲悪かったとか完全に創作だよね?
477人間七七四年:2011/03/23(水) 00:01:29.37 ID:yc5moiww
唐突な質問になるけど、なんでお市は親子くらい年齢が離れてる
ヒゲもじゃの勝家と結婚しようなんて考えたのかな?
アンチ秀吉で対抗できる勢力に輿入れする腹積もりなら
徳川家康に保護を求めてもよかったんじゃない?
478人間七七四年:2011/03/23(水) 00:36:58.39 ID:jRtC6JAw
清洲会議当時、家康はすでに天正壬午の乱の真っ最中で動けない
479人間七七四年:2011/03/23(水) 00:42:41.80 ID:yc5moiww
天正壬午の乱というと現代では天敵扱いの真田と徳川が
手を組んで北条と一戦交えたレアな戦ですね。
この乱の存在を初めて知ったのは戦国無双で甲斐姫を
プレーしてたときという・・・
480人間七七四年:2011/03/27(日) 10:57:12.97 ID:ygx9HBJR
清州会議は秀吉の完全勝利と言うけれど、
当主三法師の身柄は信孝がいる岐阜城に置かれたんでしょ
大河ドラマでも放送してたけど

つまり三法師は柴田側にあったわけだ
柴田が三法師の名義で森や蒲生や池田に命令書を出しまくっとけば良かったのに
やっぱりはかりごと多きは勝ち 少なきは負けだな
481人間七七四年:2011/03/27(日) 11:19:04.22 ID:rr95PNX2
>>436
偉大な父とそれを支えた功臣は
若き当主とその側近にとっては邪魔な存在でしかないから権力闘争が始まるからね。
龍造寺政家・大内義統・島津忠恒
大内義隆・尼子義久・毛利輝元
六角義賢・朝倉義景・斎藤龍興・今川氏真
武田勝頼・上杉景勝・佐竹義宣・葦名義隆など
ほとんどの大名家が偉大な父の死を契機に最盛期を終わらせ不安定になり致命的な事態になってるからね。
信忠とてその運命から逃れられるわけがない。
482人間七七四年:2011/03/27(日) 11:29:10.75 ID:1VpqS5H/
>>480
実際問題、秀吉と勝家の対立が深刻化し清洲体制が崩壊すると、
秀吉、丹羽長秀、池田恒興は三法師擁立を諦め織田信雄を織田家家督に据える。

どうも三法師擁立は、柴田側の政治的勝利だった可能性がある。
483人間七七四年:2011/03/27(日) 22:31:19.65 ID:zRPMpKVd
勝家にも野心は少なからずあったはず。
484人間七七四年:2011/03/28(月) 01:13:21.54 ID:lu0ENEPv
しょっぼいなー
485人間七七四年:2011/03/28(月) 12:50:49.40 ID:uhq0JwTu
>>481>>483
まぁ秀頼の補佐をした大老筆頭の家康みたいに
秀忠の補佐をした柴田が下克上しただろうね。
なんせ柴田は信勝を奉じて信長に謀反したこともある男だからね。
信勝の息子の津田信澄は光秀の娘と婚姻しており
柴田・光秀・信澄ラインを疑った信孝と丹羽長秀によって信澄は殺されてるからね。
486人間七七四年:2011/03/28(月) 13:29:22.01 ID:ProGKghV
幼少だった信澄って勝家に養育されてんだよな。
初陣は越前一向一揆掃討作戦だっけ
信澄って武将として優秀で信長からも高く評価されて家中からも人望あったから殺されたのは残念だよな。
487人間七七四年:2011/03/28(月) 13:33:05.71 ID:+gVqz/RQ
【瀧川】滝川一益ら滝川氏を語る【忍者】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1301249331/

招待されないけど、押しかけてきてやったw
488人間七七四年:2011/03/29(火) 07:42:11.52 ID:qQUOoXUD
津田信澄はおそらく信忠より優秀。
しかも柴田の後見を受けて丹波侵攻では光秀から
軍略を学んだというし第一線級の将才になる素質はあった。
489人間七七四年:2011/03/29(火) 19:45:41.16 ID:GhVIbKkR
清洲会議の時には死んでる2人の優劣をこのスレで語っても仕方あるまい
490人間七七四年:2011/03/30(水) 14:35:13.98 ID:L1pE/E7a
信澄をブチ殺した以上
丹羽にしてみれば秀吉を応援しないと
あとから柴田からの報復が怖いよな…清洲会議で秀吉に賛意を示したと
491人間七七四年:2011/03/31(木) 05:32:19.97 ID:NGa6HSNE
まあ信澄が生き残って信長の跡を継いでいたら
幼少の頃から養育して我が子同然と言われた
織田家中No.1の勝家の専横も統制して織田家を守りきれたかも知れんね。
492人間七七四年:2011/03/31(木) 07:33:58.02 ID:V981NOdA
>>491
親族として当主を補佐する立場にはなったかもしれないけど跡を継ぐは
飛躍しすぎじゃね?少なくとも信澄より席次が上であったであろう信包の
名前も会議では出てないし。本能寺の変で信雄も信孝も死んでたってのなら
分からなくもないけど。
493人間七七四年:2011/03/31(木) 09:05:05.72 ID:NGa6HSNE
織田を存続拡大させるだけの実力があるものが継ぐなら誰も文句は言わないだろ。
信澄にはその力量があったのは謀反した弟の子でありながら
信長が高く評価し異常に厚遇しているのをみても明らか。
しかも光秀の娘との婚姻を命じてるのは朝廷と信澄の関係を強化しようとしてる信長の戦略
494人間七七四年:2011/03/31(木) 09:12:23.92 ID:XaM+mHWG
ろくに自己勢力持たない信澄が実力だけで家督が取れるかよアホが。
仮に実力と野望があったら何年も合従連衡の内戦する羽目になって、そのあいだに
織田勢力圏は自滅するっつーの。

最低限勝家秀吉程度の自己勢力と配下与力を持った上で言え。
495人間七七四年:2011/03/31(木) 11:35:07.79 ID:91hMD7zZ
信長からレールを敷かれて
その上を走ってただけでおんぶに抱っこの信忠よか
信澄の方がマシなのは同意

蘭奢待切り取りの奉行やったり
近江高島郡を知行をもらって独自軍を編成してたし
柴田や明智との共同戦線やっており
「一段の逸物」「甚だ勇敢だが残酷」と『多聞院日記』や『耶蘇年報』記されているって言うし。
信長の子ではないので実力でちゃんと世間に評価されてる。
496人間七七四年:2011/03/31(木) 13:59:51.69 ID:+gIKB7xI
織田信勝(信行/勘十郎)と津田信澄
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300721441/
497人間七七四年:2011/03/31(木) 20:31:05.02 ID:DX/hw+cV
娘婿なのに光秀に声も掛けられず
長秀、信孝に襲撃されてぶっ殺される程度のやつになに期待してるの
498人間七七四年:2011/04/01(金) 07:08:29.30 ID:cff6j7Qq
そもそも声がかけられたか
かけられてないかは永遠の謎だろ…
信澄の妻子はうまく藤堂高虎の元に逃げのびたんだしさ。
光秀は自爆覚悟で自分の娘婿とその配下としての柴田に天下を握って欲しかったかもな
499人間七七四年:2011/04/01(金) 21:54:50.61 ID:J847qC0y
声掛けられていようがいまいが、光秀謀反の段階であの位置で何もせずは駄目じゃね?

加担して長秀・信孝をぶっ殺すか、光秀討ち取るしかねーよな
500人間七七四年:2011/04/01(金) 21:56:44.98 ID:62UdVtGC
所詮その程度の器だったってことだ
501人間七七四年:2011/04/02(土) 07:04:46.97 ID:0T35hA8g
信澄は別スレあるんだからそっちで やらないか?
502人間七七四年:2011/04/02(土) 09:36:35.01 ID:wSL0n9++
信忠も所詮その程度の器だったってことだ
503人間七七四年:2011/04/02(土) 11:47:49.43 ID:YkZfkhI8
>>502
その理論だと信忠は信長と同じく光秀に殺されたわけで
つまり信長と同程度の器ってことだな

信孝に殺されるようなやつとは格が違うな
504人間七七四年:2011/04/02(土) 22:51:53.37 ID:14AnnL1Z
>>498
>声がかけられたか
どうしてこういう議論になるのかわからない。
光秀が謀反を重臣たちに打ち明けたのが事件前日の夜。
重臣たちすら知らないことを外部の人間と連絡できるわけがあるまい。
505人間七七四年:2011/04/03(日) 11:22:43.93 ID:9gUms4wk
>>504
つうかチャンスが巡ってきたら信長暗殺すると
かねがね打ち明けられてたかもしれんじゃん。
信澄にとっては父の仇討ちなんだから。
506人間七七四年:2011/04/03(日) 13:11:42.70 ID:GDC4yaWt
>>505
>父の仇討ち
こんな意識が信澄にあったかが疑わしい。
信長はたしかに父の仇だが、子である自分は殺さずに
取り立ててくれている。
馬揃えでは信孝と並ぶ地位であることもわかる。
>かねがね打ち明けられてた
こうして失敗したのが松永、荒木なのでは?
つまり事前に謀反が信長の耳に届いている。
そんなことを聞かされた者のなかに信長に密告する者がいたら
光秀は即刻誅伐だぞ。
情報が漏れることを考慮しているのか?
507人間七七四年:2011/04/03(日) 13:35:04.55 ID:9gUms4wk
>>506
お前は両親が殺されても平気な情が薄い人間なだけ。
そもそも直接謀反の約束して回るわけないじゃんw
和歌に隠語を入れたりにおわせるだけで証拠なんて提供するかよ
松永は失敗じゃなくて謙信が死ぬとは思ってなかったから。
荒木に至っては領民が上司の池田勝正を追放するわ、本願寺内通の嫌疑はかけられれるわ、領民は荒木を担ぐわで荒木の意志なんて存在しない。
だから最後は家族まで捨てて領民達から脱走しただけ。
508人間七七四年:2011/04/03(日) 16:28:36.00 ID:ixtndbGt
うーん、
懲りずに二度も謀叛起こそうとした挙げ句に誅される実父と、そんな甥に目をかけて厚遇した伯父とどっちに恩を感じるかねえ。
しかも暗殺時に十代くらいならともかく、二歳とかそこらなんだから顔も覚えちゃいないだろうし。
509人間七七四年:2011/04/03(日) 17:06:42.90 ID:HUrvupoW
知らされててあのざまは無いだろ

光秀に協力するでもなし
周りから見れば光秀に組してると思われて当然なのに逃亡する気配もないしな
510人間七七四年:2011/04/03(日) 17:43:35.85 ID:EspPTfbp
信長公記自体が信長を正当化してるとしか思えないけどな。
信勝に限らず清洲城主織田信友や岩倉城主織田信賢なんかも明らかに信長側による工作・罠・挑発などで挙兵させてるだろ。
兵力も信長側を常に寡少に書いてる。
511人間七七四年:2011/04/03(日) 17:53:50.95 ID:2szB8rpD
そりゃあ信長公記は信長の「公式発表集」みたいなもんだからな。
プロパガンダ大本営発表よ
512人間七七四年:2011/04/04(月) 22:59:42.60 ID:KWl5R241
信長公記は明らかに捏造してるね。
だいたい斉藤道三と信長の圧倒的戦力による挟撃を恐れず
信勝を擁立しようと挙兵する織田信友とかありえない展開だしなw
513人間七七四年:2011/04/05(火) 03:17:07.21 ID:q/XsxHjJ
斉藤道三なんか約束していてもどちらにつくかわからん
チャンスとみたんだろう
514人間七七四年:2011/04/05(火) 06:53:01.48 ID:GqC8k9EV
普通に娘婿に付くだろ。
515人間七七四年:2011/04/05(火) 08:04:25.36 ID:q/XsxHjJ
日本三大会議
 清州会議
 小山評定
 小田原評定
516人間七七四年:2011/04/05(火) 18:54:27.63 ID:MqrXb1SU
世界三大会議

ウィーン会議
ポツダム会議
パリ講和会議
517人間七七四年:2011/04/07(木) 00:47:31.80 ID:RNZ33Rlg
>>507
松永は謙信が死ぬ前に自爆してるんだが。
荒木の謀反は本人の意思以外の何物でもないだろ。正気か。
518人間七七四年:2011/04/07(木) 06:49:48.33 ID:lfF/6jPE
>>517
事態推移の経緯を知らない中途半端な浅い知識乙
519人間七七四年:2011/04/07(木) 09:06:23.16 ID:tdvSAXkz
↑どっちも言ってること変よ
520人間七七四年:2011/04/07(木) 11:33:08.47 ID:RNZ33Rlg
>>518
リアルとバーチャルの区別がつかない御方に事態推移の経緯を語られてもな
521人間七七四年:2011/04/07(木) 11:40:20.30 ID:QnKwuO+v
スレタイと無関係な話は自重しなされ。
522人間七七四年:2011/04/07(木) 20:43:40.05 ID:kQqE3Kgo
丹羽長秀はちょっと可哀想だな。
120万石まで知行地増えたものの息子は繰り返し難癖つけられても関ヶ原では西軍側で頑張って戦後知行地没収。

織田家の先輩格は結局目の上のコブだったか
523人間七七四年:2011/04/07(木) 23:35:50.22 ID:T/HRos8S
>>517
備後国の鞆にいた足利義昭の求めに応じて
上洛戦を開始した謙信の能登侵攻に呼応してるわけだが。
524人間七七四年:2011/04/08(金) 06:50:55.60 ID:w09XBXLG
>>523
チョン並みのウリナラ史観のコーエー教科書を史実だと洗脳されてる織田厨にマジレスしても無駄。
525人間七七四年:2011/04/08(金) 10:55:12.59 ID:+Ad8uNzC
>>522
言っている意味が判らん
丹羽長秀本人は秀吉と組んで大きく加増されて万々歳だろ
息子の事も
長重が秀吉に冷遇されたのは確かだが知行地没収したのは家康であり秀吉とは関係ない
526人間七七四年:2011/04/08(金) 11:18:45.66 ID:WTLYu8Ac
>>525
えっ?秀吉による越前加賀召上は無視?

さすがだなw
527人間七七四年:2011/04/08(金) 11:41:05.50 ID:Nvd91EvH
>>525
関ヶ原に至るまでにすでに5万石程度に削封されてる
西軍についたから戦後大名格奪われ徳川の旗本
528人間七七四年:2011/04/09(土) 00:14:43.43 ID:R3ULCC8k
信長の家来ではあった
織田家の家臣ではなかった
529人間七七四年:2011/04/09(土) 00:58:14.65 ID:HLEolBKd
まあ現実問題としてそういう、信長とはつながっていても「織田家」には
リンクしていない勢力がわんさか居たのが信長権力の構造的問題。
530人間七七四年:2011/04/09(土) 01:23:56.45 ID:whVqce2N
たまたま織田がそうなっちゃったけど
実権を持つ前当主と相続後の現当主がそろって死んじゃったわけで

三方ヶ原で信玄勝頼とか大阪で家康秀忠討ち死にが発生すれば
勢力減は避けられなかっただろう
531人間七七四年:2011/04/09(土) 02:47:18.97 ID:C6LA8873
>>522の文章が支離滅裂であるのは確かだな
532人間七七四年:2011/04/09(土) 02:55:42.27 ID:sAHyZ3dB
>>528
良い意味でも悪い意味でも信長がカリスマ過ぎた
例えば前田利家は死ぬまで信長を尊敬していたし、信長の為に死ねと言われれば
喜んで命を投げ出したろうけど、そんな彼も織田家没落に際しては何もしていない

>>530
徳川で言えば家康、秀忠だけではなく土井利勝等の高級官僚も多数死んだのだから
どうしてもガタガタになる
533人間七七四年:2011/04/09(土) 06:23:57.35 ID:UyETQ/N8
ただ単に内政や組織整備をまったくしてない信長が原因
自分に降伏した現地の国人に安堵を与えてを戦に動員しまくり
派遣された現地司令官の与力として与えており
現地軍政司令官は自らのカリスマ性に頼る指揮に依存していたために大幅裁量権が与えられた丸投げ方式なために
信長への恐怖や謀反心が募るにつれて現地司令官への依存と斡旋と保護を求めるようになる。
信長の旧体制ぶりは言わば
信長が将軍であり、柴田らが守護であり、その下の現地有力国人や豪族が守護代になり戦に駆り立てていただけ。
ロクに内政も統治体制も整備せずに戦争マニアやってた信長死後に守護がそれぞれ管領となったりと各地で群雄割拠化する下克上化したのも当たり前。
534人間七七四年:2011/04/09(土) 07:35:14.40 ID:Tug5M9ir
↑ 必死の釣りが露骨過ぎて、逆に哀れさを誘う
535人間七七四年:2011/04/09(土) 07:41:18.26 ID:UyETQ/N8
>>534
ならば信長による各地への
具体例付きでの内政や整備について御教示願おう。
536人間七七四年:2011/04/09(土) 07:54:08.39 ID:Tug5M9ir
リアルとバーチャルの区別がつかない夢遊病者は、まず精神科で診察してもらおうな。
妄想の羅列では論外。
537人間七七四年:2011/04/09(土) 08:06:31.04 ID:UyETQ/N8
で、信長による各地の内政や整備の具体例は?
538人間七七四年:2011/04/09(土) 08:12:59.02 ID:Tug5M9ir
小学生どころか誰でも知ってる有名な施策知らんのか。
呆れたわ。
学校行ってないのがもろバレだ。
539人間七七四年:2011/04/09(土) 08:19:11.97 ID:UyETQ/N8
>>538
チョンには日本語が通じないようだわ
540人間七七四年:2011/04/09(土) 08:32:36.38 ID:Tug5M9ir
無知を誤魔化すなら、もっとマシな文を考えたらどうだ
541人間七七四年:2011/04/09(土) 13:49:43.28 ID:sAHyZ3dB
>>533
信長は勢力拡大を主眼にしていたので内政や組織整備にまで
手がまわらんかったのは仕方ないと言えば仕方ないけどね。
ワンマンで自分一人であらゆる事を担っていたので幾ら有能でも
限界はある。
ただもう少し足元を固める方にも意識は向けるべきだったとは思う。
本能寺前は一揆や謀反などの色々ひずみが表面化していたし。
542人間七七四年:2011/04/09(土) 13:59:27.70 ID:Tug5M9ir
内政や組織整備が未整備なら、あれほどの大版図を得られる訳もなかろう。
本能寺の変は過去の一揆や謀反とは関連ないし、当時何一つひずみなんて表面化していない。
あるなら具体例出してくれないとな。
543人間七七四年:2011/04/09(土) 14:07:19.33 ID:JgS3alM7
またスレタイと無関係な雑談やってるし
544人間七七四年:2011/04/09(土) 18:04:40.36 ID:5rS4qw2X
秀吉厨お得意のセリフ

秀吉厨「信長の家来ではあったが、織田家の家臣ではなかった。」
545人間七七四年:2011/04/09(土) 18:34:44.83 ID:sAHyZ3dB
晩年近くの信長は家臣によく謀反起されている。
546人間七七四年:2011/04/09(土) 18:45:19.72 ID:HLEolBKd
秀吉は誰がなんと言おうと「織田家」の家臣だが、信長や信忠の場合同盟者や服属大名に、
後に秀吉や家康がやったような、公的に臣従させる手続きをやらないまま死んだので、
そのへん信長の支配体制には曖昧な部分が非常に大きかったのは確かだな。

「事実上」「現実的には」という言葉が異常に多いのが信長の体制の特徴。
547人間七七四年:2011/04/09(土) 19:19:21.61 ID:YyGSPfl4
Tug5M9ir←こいつ具体例なにひとつ出せないアホ
やっぱ織田厨ってキチガイだわ
548人間七七四年:2011/04/10(日) 08:42:30.61 ID:qBPAFGT9
そいつ明智光秀スレで
無知な知識をひけらかして
見事に捕捉されて墓穴掘ってたぞw
549人間七七四年:2011/04/10(日) 19:22:04.78 ID:tZsZvh8x
信長にすれば天下統一が見えた時点で
下手に公的なお墨付き与えて後で面倒なことになるより
全て片付いた後にそっくり全部刷新しようって気じゃなかったかな
550人間七七四年:2011/04/10(日) 19:44:16.65 ID:HSQpv5Zj
>>549
四方八方へ挑発してまわり、人々を殺戮に煽り追いたててたのが信長
なんら戦略も統治機構や政策も考えていない。
551人間七七四年:2011/04/10(日) 21:30:11.97 ID:dl7dbx7K
もう思いっきりスレ違いだが、安土城発掘などの研究成果から、安土城が露骨に
天皇の行幸を意識して作られた城だ、ということが解ってきている。

よって信長は、後に秀吉が天皇の聚楽行幸でやったのと同じように、天皇の安土行幸の際
配下の諸大名をそれに従わせ、「天皇を補佐する信長・信忠親子に忠誠を誓う」という
と言う形で誓詞を出させ従属化させるプランだった、というのが今の信長研究では、ほぼ
定説になっているな。
552人間七七四年:2011/04/11(月) 06:50:28.48 ID:n3cI+vCI
自分に従わないやつはぜんぶ敵であり攻め滅ぼす。
日本の神々への祭祀王でもある天皇も天主から見下げようとする傲慢さで
近江安土城へ動座させて拉致って脅迫するような
まるで自分が神にでもなったかのような無道な暴虐は許されない。
もはや信長は自らを統御し自制することもできないキチガイDQNだった。
553人間七七四年:2011/11/19(土) 02:18:24.36 ID:ffSCaV24
本能寺の変当時から清洲会議に至る過程での、織田家直属軍・勢力の状況、
全容が、どうもつかめない。
554人間七七四年:2011/11/19(土) 02:52:37.39 ID:itTbODvY
清洲会議

連肢

織田三法師
織田茶筅信雄
織田三七信孝

織田家幹部会委員

羽柴筑前守秀吉
柴田修理亮勝家
丹羽五郎左衛門長秀
池田勝入恒興

委員外の出席者
555人間七七四年:2011/11/19(土) 06:52:43.69 ID:oMymUpjF
なんか重役会議というよりは柴田勝家が秀吉を呼び出して
どういうことになってんねん!と詰問した感じじゃねーかって気がする
秀吉は光秀を討った後、勝手に政権活動してたんじゃねーかなあ
それに怒ったお市さまが織田家代表として勝家をうごかして秀吉を呼び出した・・・
清洲会議が秀吉の勝ちで終わった後、お市さまが勝家に嫁いだのは
自分が言いだしっぺだったからケジメをつけたんだろうな 中立を保つのは卑怯と
思ったのか・・・・
556人間七七四年:2011/11/19(土) 22:08:11.98 ID:itTbODvY
あろうことか清洲会議の席上、惟住長秀と池田恒興が羽柴に対して「おん大将!」と叫んで突如臣従を誓ったために、柴田勝家は、男泣きに泣いて会議の敗北を悟り、長浜六万石を得たのみで北之庄に引き上げたのである。
557人間七七四年:2011/11/20(日) 11:45:51.35 ID:+n/HE+5X
清洲会議の勝者は柴田勝家側だわな。
三法師の身柄も自分たちの方に確保しているし、勝家とお市の結婚で織田家内部における正当性も
勝家のほうがはるかに強固なことも示した。当時の秀吉の政治力ではこの追認しか出来なかった。

秀吉はこの政治的敗北を覆すため、清洲会議後、会議において決まっていた新規築城の停止を
破り山崎城を建設するなど畿内を固めつつ柴田側に挑発を行い、自由にならない三法師に変わり、
与党の丹羽長秀、池田勝入斎らと一方的に三法師の織田家家督を廃し信雄を新家督として擁立した。
これは秀吉による清須体制へのクーデターといえる。

清須体制は秀吉が克服すべき軛であって、後世秀吉が宣伝したような、秀吉の政治的勝利では全くない。
558人間七七四年:2011/11/20(日) 13:29:58.52 ID:HM0XAixz
ニヤニヤ
559人間七七四年:2011/11/21(月) 01:02:33.86 ID:vAbJg1j3
勝家と長秀の関係ってどうだったんだろ?
勝家はてっきり長秀は自分の味方をしてくれるものと思ってた節がある。
それが秀吉の味方をしたものだから目論見が大きく外れたと。
560人間七七四年:2011/11/21(月) 01:34:00.32 ID:Hj2WyAlx
端的な話秀吉の側が提示した条件のほうが良かったから秀吉に付いた、ってだけのことでしょ>長秀
そういう損得勘定の部分で、正当性の強かった勝家のほうは、その分守るべきものが多く
過大な条件提示が出来なかった。
561人間七七四年:2011/11/21(月) 03:11:54.01 ID:0KxhmIGn
557さんのクーデター規定に同意。
清洲会議から両陣営の武力対立に至る過程での重大結節点は信長葬儀だが、これは、
秀吉が、三法師、信雄、信孝を差し置いて、秀吉の養子(信長の子)の秀勝を立てて
一方的に強行している。
通例言われるように、もし、清洲会議で秀吉派が支配的になったのなら、この信長葬儀の位置は不明瞭になる。
ただ、清洲会議で、勝家派が勝利したという557さんと評価とは少し違う。
清洲会議は、四家老が織田家(織田一門、直属勢力)に対抗して「天下の政道」の実質を獲得することが眼目で、この課題で四家老の利害はほぼ一致していた。
秀吉は、噂に出ていた養子秀勝の織田家党首候補を自ら取り下げ(これは、不明瞭なところもあるが、この可能性が高い)、柴田勢がのどから手の出るほど欲しい近江への進出拠点長浜城を譲り、お市の方と勝家を結び付けている。
秀吉は、勝家に妥協しながら、京畿の重要地域を手中にした。
勝家は、長浜獲得、お市の方獲得で、これまで他の重臣と比べて欠けていた近江の居城と(勝家の正妻の死後?)弱まった織田一門との姻戚関係の双方を獲得して、この結果に満足したはずである。
また、信孝は、三法師を(信雄のもとではなく)自分の下に置くことで、これも満足な
結果であった(このとき、信孝と信雄とは軍事衝突の直前まで行っている)。これは、信雄ではなく、信孝が当主後見として、実質、織田家当主になった意味を持つ。
秀吉は、勝家、信孝に、こうしたことを与えながら、京畿の主要地域を手にしている。
秀吉は、結局、京畿の経済力と、朝廷との関係を抑えて、この力を基に、信長葬儀で
みずから清洲体制に亀裂を持ち込み、勝家―信孝派に喧嘩を売って、これを倒した。
朝廷に対しては、清洲会議では、信孝、勝家なども代官を出すことになっていたが、余裕がなく秀吉にまかせている。最初から対立があったら、こんなことはしない。
清洲会議で秀吉の下心があったかもしれないが、実際、秀吉が、勝家―信孝に対する
クーデターを決断するのは、京畿の経済的掌握が進み、朝廷対策が進み、他方、
信孝、勝家は(これは、本能寺の変の余波などで)地元領地掌握に精力をとられている
という両者の差が開いたためであったと考えられる。
勝家、信孝にとっては、予期しない対立に突然引き込まれた形である。
562人間七七四年:2011/11/23(水) 00:16:13.04 ID:iR9Ux/A6
信秀葬儀から始まる辺は谷口本の影響かな。
要は秀吉の意思がいつからあったかということだろうけど
清須会議で自分が「全て勝ち」みたいになるとさすがに自分が謀反人
みたいになってしまう。
だから市を嫁に取らせたり譲っていい部分はかなり譲ってるんだろう。
結果的にはそれが「負け」みたいには見えるが。
そしていったん権六が田舎に引っ込めばあとは二人を懐柔して
うまいこといろいろ考えたんだろな。
信孝は言われるほどバカ殿じゃなくて逆に一番最初に
秀吉の腹黒さに気づいた賢い子じゃなかったんだろか。
邪魔ものだから消されたというか。
秀吉から見たら「織田家の家督争いを押さえた大忠臣」に
なるのが理想なんだがまさにアホ殿信雄という絶好の存在がいた。
これが織田家と信孝最大の不幸だったとは思ってる。
563人間七七四年:2011/11/23(水) 01:54:45.37 ID:xH549lC5
つーか秀吉は信孝の美濃と信雄の尾張の国境紛争につけこんだわけで。
564人間七七四年:2011/11/23(水) 03:25:13.89 ID:E4Fbebsp
この対立をめぐって、秀吉がすごいと思うことがあります。秀吉(陣営)
は、信孝と信雄の対立(信雄の信孝へのねたみを含めて)を利用して、信
長葬儀の際に、信雄を喪主に担ぐことで、最も安全確実に、両者(織田家)
を分断し、信雄を引き入れることが可能でした。しかし、三法師、信孝、
信雄を実質上叩き出して信長葬儀を行うことで、この三者にかかわりなく
織田家中の最重要儀式を撮り行う力を秀吉は周囲にアピールしました。そ
の後に、このとき叩き出した信雄を「当主」にするといって(清州会議の
合意からすれば「非合法」ですが)陣営に引き入れています。こうして、
秀吉は、信雄に、織田家当主の権威をあたえることなしに、三法師―信孝
政権に対する自己の正当化のため、信雄をかざりとして使い切ることに成
功しました。
565人間七七四年:2011/11/23(水) 08:13:51.14 ID:35DGlZF/
ここまでの流れまったく読まずにレスするけど
ウィキペディアのノートに、柴田勝家が信孝を推したという話は資料性に乏しいみたいな話があったんだけど
これって実際のとこどうなの?
後々の結果論ではなく、「清州会議」で勝家が信孝を推したってのは事実なんでしょうか?
566人間七七四年:2011/11/23(水) 08:49:53.65 ID:D3OI4V0P
>>563
もちろんそうだがつけこんだということはそこに
秀吉の意思はあるわけでしょう。
だから結局なんだかんだ火のないところに煙を立てて
ちょっかいかけたとは思うのだよね。
実際に二人の息子が仲が悪かったらそれを諌めるのが忠臣
だわなぁ、つけこんでどうするって。

秀吉史観だとアホ息子二人だから代わりに自分が働いた
ちゃんと織田の血は残ってる、記録もそう、となるんだが
結局信雄に関白譲ったり臣下としての態度はとってない。
信雄がアホなのはそうだろうがならば信孝とか信秀に
臣下の礼をとればいいんだが。

>>565
太閤記によれば、なんだがこれ自体秀吉の立場だもんねぇ。
すぐ後に勝家はお手紙出すがこれは結構真面目に織田家のこと
考えてる。
多門院日記もいろいろ記しているがどういう情報ルートだったのかね。
伝聞だとしたら秀吉が普通に噂流したんじゃないかやっぱり。
勝家としたら家督が誰でも織田家が安泰ならいい。
だから信孝押しても多数決で秀信ならそれはそれでいいよ
というとこだったんじゃないか。
会議の時点で秀吉の「お腹真っ黒」まではさすがに疑ってなかったんでしょ。
567人間七七四年:2011/11/23(水) 09:03:40.68 ID:tKkFmjut
山崎の合戦のときに、秀吉は「信孝使えねー、俺が乗っ取っちゃおう」と考えたと思う。
568人間七七四年:2011/11/24(木) 01:00:51.99 ID:qaqouAax
>>565
清洲会議の時点では信孝と勝家はまだ接近していないとも考えられるんだよな。
だから三法師家督相続もすんなり決まったと。
569人間七七四年:2011/11/25(金) 00:24:01.43 ID:Yd9TZPo1
乗っ取るのはいいんだが、自分が新謀反人にならないようにする
というのは並大抵じゃないわな。家康もだが。
570人間七七四年:2011/12/03(土) 15:56:22.82 ID:CPKe2CHD
 清州会議で織田家当主となった三法師の「後見人」がだれであるのか、
良く分からない。

 たとえば、次のような解説もよく目にしたことがある。
 「(清洲会談
で………引)三法師を織田家の継承者とし、秀吉がその後見役を務める―
―その決定は事実上、織田政権を秀吉に譲渡した瞬間であったと言える」
(『新・歴史群像シリーズH本能寺の変』(学習研究社)P137)

 しかし、これまで見てきた解説書など(初心者向けの文庫本なども含め
て)では、「後見人」について、上の「秀吉」ほか、「信孝」「信孝と信
雄」「堀秀政」と四通りがあった。
 清洲会議が、三法師を当主にして秀
吉が実権を握ろうとしたのならば、誰が幼少の三法師の後見人になるのか
が、最重大事の一つになる。ところが、この後見人について、見た範囲で
も、「秀吉」「信孝」「信孝と信雄」「堀秀政」と4通りの記述がある。
そして、いずれも、論争的に、それぞれの説を主張しているのではなく、
ごく当たり前の如く、説明もなしに、「○○が後見になった」と書いてあ
るだけである。これほど重大問題が、なんの説明もなしに、これほど解説
がバラバラであるなら、一体、清洲会議の解説全般がどれほど信用できる
のか、どれほどのことが確かめられているのか。
 この中で、「堀秀政」
については、『多聞院日記』に出典が求められる。ただ、秀政にしても
「守り役」となっていて、これを後見として良いのかどうか疑問はある。

 このほかについては、出典がなんであるのか、清洲会議の合意としての
直接の資料・根拠があるのか、その後の事例からの逆算なのか、これほど
重大なことなのに、具体的な根拠がつかめない。
 実は、都立図書館のレ
ファレンスに問い合わせたとき、この質問も加えたことがある。各項目に
ついて、史料の指示と内容説明まで含む非常に丁寧な回答をいただいたが、
この件については、『多聞院日記』と『川角太閤記』の指摘があったくら
いだった。

 この「後見人」について、知識のある方に是非、教授をお願いしたい。
571人間七七四年:2011/12/03(土) 16:13:39.16 ID:6Qy60Fkc
清洲会議議事録みたいなものが残っていないものか
572人間七七四年:2011/12/03(土) 17:32:25.71 ID:IErKNr1k
>>565
天正記、甫庵太閤記両方に載ってないですからね。
柴田が信孝を推してるっていうのが出始めたのが江戸時代に成立した川角太閤記だった気がします。
573人間七七四年:2011/12/03(土) 18:15:04.81 ID:bWOOvJAN
>>572
川角太閤記なら
わりと信憑性高いじゃん。
574人間七七四年:2011/12/03(土) 18:23:53.91 ID:YnBFzLBC
>>573
あくまでわりと、程度しかない。

実際問題、信孝と信雄が濃尾の国境問題で対立した時、勝家は中立の立場で和解を進めている。
この時期勝家自身は三法師の下の織田家中の立場として動いていたということだろう。

むしろ信孝と対立した信雄が秀吉と結びついたことにより、信孝は勝家の方に行った、ということであろう。

また三法師については、秀吉たちが最終的にこれを廃嫡して信雄を織田家家督に据えているところからも、
その家督が秀吉の望んだものだったとは言いがたく、いわんや「後見人」などとは、構成の創作の産物
以外の何者でもなかろう。
575人間七七四年:2011/12/03(土) 20:24:58.52 ID:IErKNr1k
>>573
川角太閤記も別に何か違った話をしてるわけではないのですよ
ただ、本来清洲会議の後に行われた対立が、川角では清洲会議に行われた対立のように書かれているだけですね。

>>574
そうそう、信雄が家督相続したというソースはあるんですか?
仮に三法師が廃嫡されていて、もう織田家当主でもなんでもなかったのなら、
大名として取り立てる必要も、高位に列する必要はないわけですが
576人間七七四年:2011/12/03(土) 20:40:43.97 ID:YnBFzLBC
>>575
天正11年の秀吉書状
「(信雄は)御家督に居られ候」
577人間七七四年:2011/12/03(土) 22:18:11.44 ID:nBMC5+Xp
>>576
せめて陣代かと思ってた
578人間七七四年:2011/12/06(火) 21:29:14.16 ID:5NRTRBym
>>575
天正10年11月1日付秀吉書状で、家康に対し信雄擁立を通達し、同意を求めているとのこと
579人間七七四年:2011/12/07(水) 18:30:13.62 ID:rcDhd5oh
576さん、578さん指摘の通りと思います。
ただし、小牧の戦いに際しては、秀吉はどのように言っているのか? 以前、このときは、また三法師当主を言いだした史料を見たような気がするのですが、今、見つけられずすみません。
小牧の戦い終了直後、12月に、三法師を、安土城から丹羽長秀の坂本城に移しましたが、これは、三法師からも、安土の「天下人」としての最後の装いをはぎ取るものと思いました。
580人間七七四年:2011/12/16(金) 17:56:32.11 ID:NkDlqg/k
天下人?って誰かが決めるものなのか?
581人間七七四年:2011/12/17(土) 15:43:41.06 ID:unXplhB/
>>580
誰かが認識する物です。
582人間七七四年:2012/03/09(金) 18:27:53.10 ID:6mcwQVVP
谷口さんの清洲同盟本を読むと、清洲会議は秀吉ペースで進んだと書かれてるな。
583人間七七四年:2012/03/09(金) 19:51:05.90 ID:WLFaGlIn
秀吉ペースというか、三法師秀信を当主にすることに誰も反対しなかった。
概ね>>325みたいな展開でトントン拍子に決まっている。

講談だとさも信孝を勝家が擁立したことになってるが、両者に繋がりなんぞあるわけなく、
むしろ山崎を軸にしたいんなら秀吉が信孝擁立してもおかしくないくらいの接点のなさ
584人間七七四年:2012/03/10(土) 01:27:42.71 ID:gSzvonGD
秀吉の本音としては秀吉の養子であり信長の子でもある秀勝を推したかっただろう。
585人間七七四年:2012/03/10(土) 02:21:14.15 ID:YZ7km0zb
三方師を抱っこする秀吉
586人間七七四年:2012/03/10(土) 02:24:08.82 ID:SXHCuWTR
つーか誰からも受け入れられる案は、誰が考えたって三法師擁立しかなかった、って話なわけだしな。
587人間七七四年:2012/03/10(土) 12:15:27.92 ID:ZHp1AGGD
三法師を岐阜で拉致ってる信孝が悪いよな
本来、堀が安土で後継のはずなんだから。
長浜を持つ柴田にしても
安土なら悪くないはず
588人間七七四年:2012/03/10(土) 12:20:33.57 ID:ZHp1AGGD
>>578
対立する信孝でなく信雄を支持するように言ったのか、
三法師を廃嫡して信雄を家督継承者にすることの同意要求なのかどっち?
589人間七七四年:2012/03/11(日) 16:59:48.63 ID:VIypvNjM
そうじゃないんだよ。三法師が家督するが、信雄には後見人、織田家の執権のような役回りだと秀吉が頼んだんだよ
590人間七七四年:2012/03/11(日) 17:39:19.62 ID:il6/SbLq
実質信雄の家督代行に近いけど
591人間七七四年:2012/03/11(日) 18:24:09.30 ID:ADO3/QG/
信孝や信雄が家督代行を実際にしていた事を示す一次史料ってあんの?
592人間七七四年:2012/03/12(月) 15:24:41.06 ID:tUVzGuqw
実際に代行なんてしてないだろ。
593人間七七四年:2012/03/12(月) 18:50:31.63 ID:Iv85F6EC
幼児の三法師に不覚人の信雄をつけたことで織田家を骨抜きにし、実は羽柴が得る
594荒らされたので住人が集まるまで宣伝します:2012/03/12(月) 20:32:14.36 ID:Rr+emi9G
小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など

【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10
595人間七七四年:2012/03/12(月) 21:05:32.73 ID:ic1acPCM
信孝自刃のあとになんで
三法師か信雄ではなく、
池田親子が美濃領国を与えられたんかねぇ。
596人間七七四年:2012/03/12(月) 21:30:29.26 ID:Iv85F6EC
そこしか空きがない。
597人間七七四年:2012/03/14(水) 20:34:20.86 ID:XQur0jE3
岐阜が織田氏から失われた時点で
実質、織田宗家滅亡。
598人間七七四年:2012/03/16(金) 01:11:31.11 ID:rSsIwHav
>>590
実質代行が信雄である意味がわからないのだが。
清洲会議後、信雄軍と信孝軍は一触触発だった。
その中で、四家老が三法師を岐阜城に連れて行ったことは、信雄に対する
信孝の圧倒的優位を意味している。
岐阜城で、織田家家督候補にもなった信孝が織田家当主の三法師をつかん
でいる。この時点で、政権の所在は岐阜城にしかない。実質信孝政権と言
ってもいい。
たしかに、信孝の支配は美濃に限られているが、これは、後に、秀吉が信
雄を担いで一時期、信雄を当主に仕立てた時も、信雄の支配が尾張にしか
及んでいなかったことと変わりない。
秀吉は、勝家や信孝が秀吉にまかせたことを良いことに朝廷を握り、京畿
の経済力を手中にして、一方的に信孝、勝家を攻撃し打倒した。

>>597
同意。
>>596
同意だが、秀吉からすると、恒興を美濃に移動させて畿内を完全掌握する
ことができた。ただ、恒興にしても、美濃は縁が深いので喜んで応じたの
ではないか。
567さんが言う通り、尾張、美濃、安土と言う織田家の直轄領をこの時
点で公然と崩したことで、織田家(この時点では信雄)への秀吉の優位が
決定づけられた。



599人間七七四年:2012/03/16(金) 06:45:47.44 ID:LWQamIkT
清洲会議に織田家が排除され参加させてもらえず
権臣だけで重要な信長死後体制が決められる時点で
完全に専横されて織田家に主体性や指導性は奪われたから
清洲会議の時点で織田は当主権が奪われて傀儡政権にされ下克上された。
600人間七七四年:2012/03/16(金) 07:13:05.49 ID:DrlOd9He
その後織田信孝がやりたい放題している時点で・・・
まあすぐ秀吉と信雄に負けて死んだけど
601人間七七四年:2012/03/16(金) 20:25:08.65 ID:xXSXLbkU
織田専横家臣団によって
信孝に美濃を加増してやっただけ。
信孝には柴田や羽柴や丹羽らに対する指揮権は無い。
602人間七七四年:2012/03/16(金) 22:34:11.36 ID:DrlOd9He
肝心の当主秀信が信孝の居城である岐阜城にいる。
羽柴丹羽がシカトしているだけで信孝には指揮権がある。
つか柴田は一貫して信孝に従っているんだがw
603人間七七四年:2012/03/16(金) 22:43:29.35 ID:RK9esR7O
柴田が信孝に従っていたとするソースは?
604人間七七四年:2012/03/16(金) 23:11:25.21 ID:DrlOd9He
え、わざわざ出す必要ある?
賤ヶ岳でも見計らったように同時挙兵していて、
しかも当の秀吉が「勝家、信孝らと決戦する」と書状で明記。

それ以前にも信孝が岐阜に三法師をかくまって実権握っているさなかに
秀吉に対して行状を批判したりしている。
秀吉と別サイドで動いていて、かつ織田準一門となった勝家が
当主を擁していた信孝に従っていたのは明らかだろ。
605人間七七四年:2012/03/16(金) 23:15:51.57 ID:imVRfvQk
アスペルガーだが>>603ってどんな人?
その名の通り、アスペルガー症候群に見られる、頑固・執拗・妄想の激しい人物です。
武田信玄を信奉していて信玄なら天下を取れたと信じ込んでいます。一方で織田信長が大嫌い、徹底的にこき下ろしています。
ちょっとでも武田を叩いたり信長を持ち上げたりする書き込みは絶対に許さないのがだがの信条。
だがは織田厨という人物を目の敵にしています。織田厨は一人しかおらず、武田を叩いたり信長を持ち上げるのは 全て一人の織田厨によるもの と信じ込んでいます。
もちろんあなたも武田を叩いたり信長を持ち上げたりする書き込みをすれば、だがから織田厨の認定を授けてもらえます。
こんなにたくさんの書き込み、一人で書き込むなんて物理的に無理だし、互いに異なる意見をかわしあっているのに同一人物による書き込みとするのは辻褄が合わないのでは…?そんな常識はだがには通用しません。全部織田厨の自演だそうです。
一応社会人のようです。
忙しい合間をぬって織田厨叩きの活動を続けています。大変な執念の持ち主です。


アスペルガーだがはどこに現れるの?
巨大掲示板2chの織田信長、武田信玄に関連するスレに出没します。
板は問いません。主な出没板は戦国板・歴史ゲーム板・日本史板ですが、他にも世界史板や歴史難民板、漫画板など あらゆる板の織田武田関連の話題のあるスレに出没します。
そしてそれらのスレでの都合の悪い書き込みは全て一人の織田厨によるものと思い込んでいます。


アスペルガーだがの書き込みの特徴は?
織田厨と見られる書き込みに対して、全てに反論レスします。律儀にレスアンカー付きで。
例え何ヶ月も前の書き込みであろうと、掘り起こしてレスします。亀レスなどまったく気にしません。
口調はいつも上から目線。とても偉そうな態度で書き込みます。
だがの名前の由来は、「〜だが。」で終わる自己顕示欲の激しい文章を書くことが多いから。
暴言雑言当たり前です。モラルやマナーというものは持ち合わせていません。
強迫性障害と見られ、 レスしなかったら負け と考えています。
まともな議論の時でも、苦しくなると揚げ足取りや知能障害を起こして有耶無耶にしようとします。
別の話題の時でも、「信長はもっと負けてるけどな」などと無理矢理信長の話題に逸らそうとします。そして信長の話になればお決まりの織田厨認定が待っています。
苦しくなると無理な要求を突きつけて自論を正当化しようとするのもだがの常套手段。「武田が負けたって?具体的に武田が負けたと書かれている資料を出せ」etc.


アスペルガーだがはどこに住んでるの?
神奈川県
でも地元の北条は嫌い。


アスペルガーだが まとめWIKI
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/
606人間七七四年:2012/03/17(土) 09:26:37.82 ID:m9dkG3Ap
607人間七七四年:2012/03/17(土) 16:36:28.71 ID:LqTkClFB
>>604
>>信孝が岐阜に三法師をかくまって
約定違反の逆賊になったアホ孝さんw
おかげで堀さんまで敵に回すアホ
608人間七七四年:2012/03/17(土) 17:22:53.60 ID:7G3Cva+Q
>>607
秀吉が作った「通説」ですね
609人間七七四年:2012/03/18(日) 19:46:43.41 ID:ApI8EWqt
>>608
そう主張する根拠は?
どの学者がそう指摘してんの?
610人間七七四年:2012/03/18(日) 20:43:03.29 ID:lBH2oZOF
>>608
607が根拠あるとするならば、信孝が「違反」した「約定」の存在が史
料で裏付けられなければならない。「約定」が何であって、信孝が、それ
をどのように「違反」したのか。それを示す史料をいままで見たことがな
いので、示していただければ有難い。

611人間七七四年:2012/03/18(日) 22:43:25.05 ID:71r8N0y1
>>606
柴田は元から織田家の家臣。
よって謀反したという史料がない限り、柴田は織田家に従っていたと判断するしかない。
賎ヶ岳の戦いでは三法師・織田信雄、ともに敵側だからね。
残りは信孝しかいないわけ。

>>609
秀吉がそう言ってるからだよ。
秀吉以外にそう言ってる奴がいるというのなら史料を提示してくれ。
612人間七七四年:2012/03/19(月) 00:38:57.07 ID:pnGb7PPE
秀吉が信長葬儀を執り行った時点で、三法師、信雄、信孝、勝家は葬儀
不参加。
秀吉は養子の秀勝を喪主に葬儀を行っている(この喪主=秀勝は、史料的
に完全に証明できるかどうか、少し不安もあるが、三法師、信孝、信雄の
いずれかを喪主にしていないことは間違いない)。
謀反と言うなら、三法師、信孝、信雄とともに葬儀に参加しなかった勝家
と、織田一門の中心、および四家老の一人を除外して葬儀を強行した秀吉
と、どちらが謀反度合いが強いか明らか。
ここで秀吉によって決定的にされた亀裂が元で、軍事衝突→賤ヶ岳合戦に
進んでゆく。
その間、秀吉は(三家老は)根拠なく信雄を当主(党首貢献?)にすると
いいだし、ここでも「違反」を強行している。
信孝は、この急進展の意味を理解できず、家臣間(勝家と秀吉)の軋轢と
勘違いし、両者の和解を勧めるという見当違いのことをやっている。美濃
の足元の統治に精力を取られていた信孝としては、仕方ない誤解とも言え
るかもしれない。
613人間七七四年:2012/03/19(月) 01:18:08.72 ID:UMJnlblh
幼少の織田信吉ら信長の息子たちが参加していたという史料もあるね。
織田に対する謀叛というより、信孝体制に対する反発という見方の方が正しいようにも思う。
信雄の当主擁立は信孝のもとにいる秀信を取り返すことができなかったから新しい当主を擁立したといったところか。

信孝の例にもあるように、派閥対立を主家の織田家がこうと決められなかった、抑えられなかったことが最大の原因
614人間七七四年:2012/03/19(月) 07:54:47.60 ID:8+ztl7JK
話の流れがよくわからないのだが…

清須会議に参加した武将は、柴田、羽柴、丹羽、池田の四人。
議題は「織田家の家督相続」と「欠国の分配」
この時点で信雄・信孝兄弟は「名代」をめぐり対立していた。(『金井文書』『多聞院日記』)
会議の結果、織田家の家督は信忠の長男三法師に決まり、後見人として信雄・信孝の叔父、
安土にて三法師の博役を務めるのは堀秀政と決まる。
会議に参加した四人の武将は「宿老」として「天下の政道を行う」ことになり、京都の行政も四人の宿老から
それぞれ奉行を出して行う事がきまる。(『天正記』『丹羽家譜』ほか)

この認識で合ってる?
615人間七七四年:2012/03/19(月) 08:27:21.61 ID:E27nUpQz
それであってるよ。
616人間七七四年:2012/03/19(月) 09:05:54.72 ID:lnThLuYK
>>614
かなり正確と思いますが、一つ分からないのは、信雄・信孝が後見人になったことを示す史料。わかればよろしく。
617人間七七四年:2012/03/19(月) 09:27:33.90 ID:C7DZ/66j
つまり本来、堀の補佐で織田当主として、安土城にいて、
柴田や秀吉に京の政治を委任しないと約定違反になる三法師を岐阜に拉致って返さない信孝が謀反状態。
秀吉はその信孝の謀反に対抗して京都に近い地に築城開始し京を専横。
さらに信長の葬儀を執行して謀反人集団に対抗。
もちろん信孝なんぞに従うつもりは毛頭無い秀吉。
柴田はその謀反状態を咎めないで事実上の容認。
秀吉が傀儡三法師を手元から離さ無いで専横するつもりだなと!と反発すると柴田と秀吉の仲裁をして自分を正当化しようとするバカな信孝。
信孝や柴田らの清州会議順守違反に怒り、
つか大義名分が手に入る。
木造氏の傀儡政権信雄を三法師の後見役にするから認めるように家康に書状を出して同意を求めた。
そして三法師の補佐するはずだった堀らも信孝に反感を持ち、
秀吉を長浜城攻略などで支援したと。

最初から三法師を当主にし傀儡政権にするつもりで織田一族を排除した清州会議の決定に
信孝や柴田らが無視したことが破綻原因だな。
そこで秀吉が京を支配して対抗。
618人間七七四年:2012/03/19(月) 11:31:03.86 ID:E27nUpQz
>>616
たしか柴田勝家の堀秀政宛書状にそういったことが書かれていたはず
619人間七七四年:2012/03/19(月) 12:48:40.70 ID:NkpOGWmp

清洲城は下津守護所(下津城)の別格(離れ屋敷)にすぎなかった。
織田家内紛で下津城焼失で移ったにすぎない。
国衙領(斯波領)はあくまでも中島郡が中心。
620人間七七四年:2012/03/21(水) 21:50:14.31 ID:wGRQ2Bcu
あの兄弟の仲が良くて、どちらかがどちらかを立てれば秀吉の天下はなかったってことだね。
621人間七七四年:2012/03/22(木) 13:55:43.10 ID:o/Zja0W8

国庁、国衙領だった中島郡下津。尾張国織田一族の原点地。すべてはここから
始まる。http://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E6%B4%A5
622人間七七四年:2012/03/22(木) 13:56:55.27 ID:p7jL0yk3
岐阜城をなぜ信孝が継ぐことになったんだ?
信忠の城なのだから三法師が継げばよいではないか
つか、信忠の跡継ぎは三法師で良いが信長の跡継ぎは信雄でも良いのではないか?
623人間七七四年:2012/03/22(木) 15:43:56.19 ID:vvWFguTO
>>622
織田家当主の座を信雄と信孝が争ったため、清須会議では
信忠の子と決まった。
一般には柴田勝家が信孝を推薦したといわれるが誤りらしい。
当主に決まった三法師は安土に入った。
信雄が尾張、信孝が美濃と決まったのも清須会議の結果。
624人間七七四年:2012/03/22(木) 17:00:55.51 ID:cT/fYZk3
思ったより若いんだよね 信雄と信孝は 
ハタチそこそこじゃどうにもなんねーわ しかも状況がわからずモロに秀吉と
対立しちゃうし ぜんぜんだめ いい子いい子にして地味に力をつけ、
ある日いきなり秀吉ぶっ殺してぜんぶひっくり返すべきだった
625人間七七四年:2012/03/22(木) 17:56:13.94 ID:p7jL0yk3
>>623
うん、だからなぜそう決まったんだろうねってことよ
626人間七七四年:2012/03/22(木) 18:17:36.67 ID:Ea5Q1tID
>>625
幼児で政治的に、誰にとっても一番都合が良かったからだよ。
627人間七七四年:2012/03/22(木) 18:23:11.42 ID:VGt0UNDJ
>>624
秀忠「せやな」
628人間七七四年:2012/03/23(金) 06:11:09.91 ID:3ykb0bGF
そもそも清洲会議の発端は信雄と信孝の対立問題にあるから
この2人じゃなければ早い話誰でもよかった。
ただこの2人が納得するくらい血筋を優先できる人間ということで
嫡男信忠の遺児である三法師秀信にあっさり決まった。
629人間七七四年:2012/03/23(金) 07:56:15.57 ID:OmZIb4ft
信孝が文句言えるほど偉いのか?
信雄でいいやん
630人間七七四年:2012/03/23(金) 08:05:14.45 ID:6PRJcB10
明智討ちに参加したから増長したんだらう
631人間七七四年:2012/03/27(火) 06:20:41.59 ID:HK84Gk0t
本能寺前でも信孝は参戦経験も多かったから、信雄とは兄弟の差でしか劣っているところはないと思っている節はあったのかもな。
信忠生前はそれでも問題なかったけど、信忠死んで一気に野心を露わにしだした感
632人間七七四年:2012/03/28(水) 21:40:11.46 ID:KLwPe3WW
信孝に文句言わせずに信雄に継がせば良かったんだ
633人間七七四年:2012/03/28(水) 22:02:32.72 ID:av9QMjtZ
信孝は弔い合戦に参加
信雄・信孝は兄弟とはいえ同い年
これが話をややこしくしたんだろうな。
634人間七七四年:2012/03/29(木) 14:05:29.49 ID:vdO0DCvx
清洲会議では信雄・信孝兄弟の対立を収めるために、
二人を三法師の後見人と決め、旧信忠領の美濃・尾張を分け合った事が、
逆に信孝の自信につながった、という事かも。
635人間七七四年:2012/04/01(日) 14:25:49.85 ID:oSEv2uDc
幼君を傀儡として擁立して
実力ある者が専横しようとするのは
古来からよくある事例。
織田は1500年代前半に相次いだ下克上ブームも
とっくに終わったはずなのに
まぬけにも光秀・秀吉とダブルで起こされた稀有な事例
636人間七七四年:2012/04/01(日) 17:03:23.56 ID:aMX+n6E+
信長公ってほんとにチンピラ社長だったんだろうな
ブラック企業もいいとこだよ 信長公死んで社員みんなホッとしてる
637人間七七四年:2012/04/03(火) 21:33:20.82 ID:Aa27p+Ak
ほっとしたわりには随分長続きしてるね、戦国に適応できずに滅んだカス武田とは大違い
638人間七七四年:2012/04/19(木) 18:41:29.05 ID:McY9FLgr
信雄が織田姓に戻る時期はいったいいつからなのか。
一次史料を見る限り、本能寺の変前後から
ずっと信雄と署名してるだけで
織田に復姓した証拠は見られない。
信孝には織田に復姓した書状がある。

その後、羽柴侍従となってるために
織田に復姓したのは
秀吉に改易させられて
出家した後に織田に復姓したと見るべきだろう。
639人間七七四年:2012/04/20(金) 00:15:24.17 ID:DwTYt4wN
きたは゛たけさま はんけ゛きをくらった
640人間七七四年:2012/04/20(金) 07:56:46.14 ID:BXZkLLfQ
>>638
常識的に考えれば、賤ヶ岳の前の「織田家家督」に就任した段階で、織田姓に戻っていたと考えるべきだろう。
641人間七七四年:2012/04/21(土) 14:18:01.47 ID:PKko6Dz2
>>640
お前の願望妄想など聞いてはいない。

ちなみに信孝は天正10年8/26の木曽宛書状で
織田三七郎信
と署名して復姓しているのが確認できる。
しかし信雄は一切、復姓した証拠がない。
秀吉に祭り上げられただけで
北畠から織田への復姓は許されなかったと見るべき。
642人間七七四年:2012/04/21(土) 14:28:56.97 ID:Nb7gD3Mg
>>640
だがに正論は通じない。
643人間七七四年:2012/04/21(土) 16:09:54.39 ID:0TMKCiw/
復姓したかしてないかなんてどうでもいいな。
ただえさえ野心ありありの信孝と違って信雄なんて忘れ去られていた、
本人もガンスルーしてたというやる気のなさだし
644人間七七四年:2012/04/21(土) 17:47:04.73 ID:PKko6Dz2
そもそも信孝を降伏させて三法師を秀吉が人質に取ってから
三法師2歳が一次史料からいっさい行方不明になる。
突然史料上に現れるのが天正16年4月で9歳の時。
はたして7歳も成長した三法師が信忠の息子と同一人物だと
自信をもって答えられる者などおらず誰もわからないだろう。

丹波亀山城を与えられた秀吉の養子だった信長の息子の秀勝も小牧長久手の戦いまでは確認できるが
その後行方不明どころか、いつのまにか丹波亀山城主が秀勝(木下秀勝)にすり替わってる。
それが判明するのが天正13年10月に浅井江(お市の娘)と婚姻した事実から別人だとわかる。
645人間七七四年:2012/04/21(土) 18:15:30.44 ID:PKko6Dz2
信孝が織田に復姓した事実が
秀吉の逆上となり破滅したのであろう。
それゆえ信雄は織田に復姓する勇気がなかった。
646人間七七四年:2012/04/22(日) 00:34:13.89 ID:gDm0Q3AN
たしかに秀信ってなぜか関が原で織田を簒奪した豊臣の味方になる謎行動をとっていたり、
織田旧臣に対する影響力も一切ないどころか、付き合いがまるでない。
それどころか関が原後に織田信雄などから助命活動すらしてもらえず野垂れ死んでんだよな。
宇喜多秀家すら島津に匿われて、家康にバレたあとに
死罪を免除されて遠島送りで済んだんだから
織田家が秀信をあれほど冷酷に扱うのは
明らかに秀信が三法師とは別人なのを知っていたからだろうね。
647人間七七四年:2012/04/22(日) 11:25:45.59 ID:NMUkDfhr
織田秀信は羽柴一門なんだから当然だろ。

そもそも秀信除いて関ヶ原での織田家はほとんどが西軍より。
いたかどうかもわからん信長息子の信高信貞達を除いたら
東軍についた織田家一門は信長弟の有楽だけ。

秀信の助命嘆願なんて無理に決まってる。
自分たちも西軍について処罰されてんのに「秀信公はお助けください」なんて通ると思ってんのが凄い。
その前に高野山追放されて完全に行方不明状態なのにな。
648人間七七四年:2012/04/22(日) 17:50:52.91 ID:O4xO0oin
東軍についた信長弟に織田信照とかいるの知らんの?有楽や彼らが助命嘆願すればいいじゃん。
西軍についた信包は丹後攻めしても信長の血縁だからと不問にされてるから、
本当に織田嫡流なら秀信だって不問にされてもいいはず。
1万7000石の隠居料の身分の信雄は戦力にすら数えられず
結局旗幟を鮮明にしてないのに不問だったし。
ちなみに天正11年生まれの信雄の子も三法師と名づけられていて
北畠信雄にしてみたら、信忠の子の三法師は邪魔な存在でしかなく、
北畠家による織田家簒奪の目的からしたら
秀吉と共同して信忠の子の三法師を亡き者にしていたとしてもおかしくない。
649人間七七四年:2012/04/22(日) 18:17:11.81 ID:NMUkDfhr
織田信照なんてそれこそもう完全に徳川家臣化しているだろ。
そもそも助命嘆願って何言ってんだ、助命はもうされとるw
むしろ織田秀信なんて秀吉の一門衆だし家康に毅然と反抗している時点で殺されてもおかしくない存在。

>>ちなみに天正11年生まれの信雄の子も三法師と名づけられていて

秀雄だろ、ただ幼名なんていくらでも被るからアテにならんぞw

ましてや織田秀信なんて幼名の「三法師」の時点で織田信長や信忠から後継者扱いされてないのが見え見え。
たまたま両方死んで遺児として残っていたから織田家当主に擁立されただけで別に正嫡でもなんでもない、

三法師を消すんなら替え玉なんて用意する必要ないだろ。赤の他人の替え玉に実権握られたらどうすんのよwww
650人間七七四年:2012/04/22(日) 20:03:27.14 ID:Yo/JTKGt
三法師だとなんで後継者じゃないって分かるの
竹千代じゃあるまいに
651人間七七四年:2012/04/22(日) 22:12:53.96 ID:NMUkDfhr
三法師は母親すらわかっていないし、
信忠は正室取ってないから三法師は側室の子で嫡男ではなく庶子。

幼名の件だけでは確かに断定はできんかもしれんな
652人間七七四年:2012/04/23(月) 00:16:17.76 ID:ARlQrs44
三法師救出の話にまで行くと、物語じみては来るが、本能寺の変の際に、
1、信忠が前田玄以に三法師を逃すよう命じて二条御所から退去させた
2、信忠が前田玄以に、岐阜城の三法師を清洲城に移すよう命じて二条御
所から退去させた
―――という二つの話がある。
このどちらの話も疑問符がついてしまうが、この二つの話が流れたという
ことになると、さらに大きい疑問符が付いてしまう。

1については、玄以に幼児を連れて送り出せるような状況なら、何で自分
が逃げなかったのか(城塞化されていた二条御所から外に送り出すのは、
荒波に幼児を放り出すようなもので、そうしたとすると、二条御所がかな
り落城間近のときになる。こんなときに、外に幼児を送り出せるのか、ま
たは送り出す気になれるのか)

2については、いきなり明智の大軍に取り囲まれた信忠にとって、岐阜が
どうか、清洲がどうかなど判断する余地があったのか、この謀反に加担し
ている勢力がどこにあるかもわからず、どこがどうなっているかなど判断
つかない状況だったのではないのか。なんで、岐阜より清洲と断定できる
のか。そして、こんな危険な状況なら、幼児を場外に出して移動させるこ
とが危険でもある。信忠が、こんな判断をして玄以に命じたという実感が
もてない。

1,2について
もし、2であれば、三法師が岐阜城にいたことを多くの家臣が知っていた
ことになる。1の話など出てくるだろうか(玄以が逃亡を正当化するため
としても、すぐに底が割れる)
もし、1であれば、2の話が生まれる意味があったのか

・・・と疑問だらけですが、これは単なる物語的考察です。
653人間七七四年:2012/04/23(月) 03:37:44.87 ID:bVyJISD1
毛利元就と隆元が二人同時に戦死したら輝元(幼児)に家督が上手く継承されるかっていうとどうだろう?
654人間七七四年:2012/04/23(月) 15:34:25.04 ID:yl1WRirA
隆元が死んだ時期に元就も死んでたら完全に信雄信孝の二の舞
655人間七七四年:2012/04/23(月) 16:18:14.77 ID:FwW7Zx7Y
森さん家と池田さん家は弟が継いだけど大名と家臣じゃ違うわな
656人間七七四年:2012/04/23(月) 19:37:40.97 ID:TKhSmHUo
>>645
だれが秀吉になるの?
657人間七七四年:2012/04/23(月) 22:03:20.48 ID:LKVHV/4G
秀吉になれそうなのって誰だろうなあ、立場だけで言えば宍戸隆家?福原貞俊?
658人間七七四年:2012/04/24(火) 17:16:13.53 ID:JzeOWWcp
暗黒寺衛刑
659人間七七四年:2012/04/24(火) 23:59:02.72 ID:eVeqQ2D0
織田とは別の形になってたんじゃないか?
吉川と小早川の争いが勃発して勝った方が輝元を傀儡として扱う。
660人間七七四年:2012/04/27(金) 12:57:19.16 ID:f4KVRrml
史実でも実質傀儡のような…
661人間七七四年:2012/04/29(日) 11:33:41.28 ID:LSPk58VA
信忠が生きてたら秀信はきっと有能な武将になっていたはず、
性格体格は祖父譲りだったしね。名前すら違かったと思う。

662人間七七四年:2012/04/29(日) 11:49:29.09 ID:+yD8Cyu/
信忠が生きてたら相当戦下手になっただろうな
父や祖父の影響で
663人間七七四年:2012/04/29(日) 12:19:05.24 ID:H0pNOXih
勝頼は父以上の戦上手だよな
664人間七七四年:2012/04/29(日) 13:57:14.28 ID:StQeR/ev
五十歩百歩じゃね。
両方ともあまり褒められたもんじゃない
665人間七七四年:2012/05/23(水) 19:22:46.39 ID:uOFjeZwl
清州会議の出席者を4人としたドラマは「利家とまつ」ともうひとつ(忘れた)
666人間七七四年:2012/05/27(日) 20:58:44.78 ID:qiO9ryYh
池田が出席出来て滝川不可の理由が分からん
667人間七七四年:2012/05/27(日) 23:45:14.37 ID:jgpHnDOa
間に合わなかったから
668人間七七四年:2012/06/01(金) 20:04:21.70 ID:NMpBRnpQ
>>666
動員兵力=発言権
打とすれば
池田>滝川
だけどな
669人間七七四年:2012/06/02(土) 10:06:28.09 ID:m//KTPZc
上野信濃加増後は伊勢の領地は召し上げ?
670人間七七四年:2012/06/02(土) 11:38:15.38 ID:TD8TcuQG
召し上げでない
671人間七七四年:2012/06/27(水) 21:15:42.45 ID:OPFP9iCY
【三谷幸喜】清須会議【2013年秋公開予定】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/cinema/1340745015/

【映画】三谷幸喜、最新作で天下取り宣言!自身初の歴史小説「清須会議」が映画化決定
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1340741267/

三谷幸喜の新作映画「清洲会議」が楽しみすぎでおしっこもらすわ!!!
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1340767051/
672人間七七四年:2012/07/02(月) 18:39:27.07 ID:YgN/SOUI
配役予想

秀吉・・・小日向
柴田勝家・・・中尾彬
丹羽・・・市村正親
信孝・・・要淳
信雄・・・梶原善
お市の方・・・吉瀬美智子
前田利家・・・唐沢敏明
滝川・・・生瀬
信長(回想)・・・渡辺謙
673人間七七四年:2012/07/02(月) 22:16:13.05 ID:ROFSLE7u
清洲会議関連ドラマで見たくない場面

1、柴田勝家が近江に出てきて光秀がすでに倒れていたことを知って「サ
ルに先を越されたか」と悔しがる場面
2、清洲会議後、三法師を抱いて出てくる秀吉に拝礼する形になって勝家
がくやしがる場面

理由。どちらもありえない。あまりにつくりものめいている。
(自分は勝家ファンではない)
勝家が近江に出てきたとき、明智がすでに滅んでいて喜ばないはずはない。
会議後も、秀吉は、信孝を立てて、三法師を岐阜城で改めて引き渡している。
三法師を抱いて、他の家臣に拝礼させた形にするなど、どこから考えても
ありえない。

秀吉が信孝、勝家に牙をむき出すのはその後である。
674人間七七四年:2012/07/03(火) 04:55:24.88 ID:cENsvTv3
というか、清洲会議は柴田勝家の政治的勝利だしなあ
675人間七七四年:2012/07/03(火) 08:00:46.97 ID:M1NbhNaK
>>674
どこがだよw
秀吉と同心した池田や丹羽に徒党を組まれて
興福寺の日記にも概ね秀吉の思うがままに進んだとか
書かれてんのにwww
676人間七七四年:2012/07/03(火) 15:46:22.75 ID:nW8pUNQL
勝家の勝利だとは思わないが、674さんの見解には興味がある。
というのは、清洲会議は、勝家にとって満足行く結果だからだ。
勝家は、他の重臣、秀吉、長秀、光秀と比べて、
1,織田権力の中枢である近江・琵琶湖周辺に代を持たない。
2,(以前はいたとしても)この時点で織田一門との有力な姻戚関係が
ない(秀吉=養子、長秀=妻および子息の嫁、光秀=娘を信澄に嫁がす)。
の二つで差を付けられていた。清洲会議(あるいはその前後)で秀吉か
ら長浜を譲られ、お市との婚姻を勧められて、この差がなくなった。
無論、秀吉は、その見返りに、京畿の広大な領地を得ている。
たしかに675さん指摘のように、『多聞院日記』に秀吉の思うがまま
という記述がある。これは、全体を読めば、三法師のことではなく、獲
得した領地の大きさを意味していることと推測される。
三法師は、この後、秀吉が、岐阜城であたらめて信孝に渡している。信
孝が実質当主(当主後見)で、信雄に差を付けたもので、勝家にとって
も問題ない結論のはずである。
清洲会議の政治的勝利を敢えていえば、織田家に対して4家老が(信雄、
信孝の対立に乗ずるなどして)「天下の政道」を握ったことである。
677人間七七四年:2012/07/03(火) 17:25:11.98 ID:2GRMDF3a
清洲会議は全員が妥協し合ったシャンシャン会議だった、というのがよく解るな
678人間七七四年:2012/07/05(木) 10:42:30.04 ID:Y2e09dZt
長浜は冬季になればいつでも奪回できると踏んでいる秀吉の遠謀でしょ。
市の再婚の話がいつ出た話だったのかそもそも不明で
清洲会議で提案されたとも思えない。
安土城の再興がなるまで堀が補佐して三法師が岐阜にいただけで
別に信孝は当主後見でもなければ、
信雄と差をつけていたわけでもない。
むしろ信雄と信孝が仲違いしていたために後見役に両者はなれなかった。
むしろ後見してんのは堀。
そんで堀は光秀を討った織田重臣組の秀吉・池田・丹羽ら寄り。
信雄も秀吉を父と思うように恭しく接していた。
そのため美濃・尾張の国境を信雄有利に決しようとしていた。
それに対して信孝が三法師を拉致って安土に帰さなかっただけ。
そして柴田もそれに同意して秀吉らと対抗してる構図。
清洲会議での秀吉の思うがままの裁定がこのような結果を導いた。
679人間七七四年:2012/07/05(木) 10:47:54.46 ID:Y2e09dZt
そもそも清洲会議においてキリシタンの記録に清洲会議前夜において
秀吉に父の如く仕えたとまで書かれた信雄は
尾張・伊賀・南伊勢など100万石以上継承し(織田三河領はのちに家康が信雄を支持する見返りに譲渡したっぽい)
信孝は美濃ですら50万石以下だったんじゃなかったか。
しかも美濃東部は信長が与えた団の領土を横領して、
しかもそれを認めた秀吉に通じてる森領。
680人間七七四年:2012/07/05(木) 18:12:17.51 ID:vnfVH4eh
池田丹羽が秀吉についた時点で勝負は決しているともいえる。
いくら勝家でも味方がバラバラでは戦えん
681人間七七四年:2012/07/07(土) 17:09:37.43 ID:pPMzIIJI
どう考えたって勝家大敗北だろ。。
682人間七七四年:2012/07/07(土) 21:29:02.19 ID:9ZxdZy6U
三法師って、もし信忠と武田の松姫の婚姻が成立して嫡男が生まれた場合、織田信広みたいに嫡流から
外れたのかな?
683人間七七四年:2012/07/07(土) 21:42:41.91 ID:+khD908Q
そもそも信忠から嫡男認定されてない>三法師
なので厳密には彼は織田家の嫡流ではない。
684人間七七四年:2012/07/08(日) 09:48:49.88 ID:It6oRido
小沢派(勝家)に対抗して徒党をくんで野田(秀吉)を担いだような感じか
685人間七七四年:2012/07/08(日) 12:16:11.98 ID:bzO8oOiH
>>682
正室の子供で無いからただの長男。但し現時点での後継者候補ではある。

今後信忠に男子が生まれなかったりしたら嫡子として扱われると思う。
686人間七七四年:2012/07/08(日) 19:45:18.54 ID:ga78vRnd
そもそも6/14の美濃の佐藤宛の家康書状には
若君様がいるので奉って供をして上洛し
逆臣の明智を討ち果たす覚悟。
今日14日に愛知郡鳴海へ出馬し、
其の地の日根野や金森と相談すると書いていて
すでに安土天守で臣下の礼を取り
信長を上様と呼び織田家臣となっていた家康も
秀信を織田家の後継者と見ていたのがわかり、
秀吉同様に織田家臣一般には
信孝や信雄を排除して
傀儡幼君を擁立することに
織田家臣団の中に
暗黙の合意があったのがわかる。
この幼君を後継にするとする織田家臣の合意は、
15日に光秀が討ち取られたのを徳川が知った以前の話であり
明らかに光秀が生存していた時点から一円的な同意があったように思える。
さて、いつ形成されたのだろうか。
信長親子生前から光秀と秀吉と家康は若君擁立の打ち合わせをしていたのだろうか。

本能寺後の7/11に清洲会議の結果を無視して
私的に徒党を組んだ
秀吉→幽斎・忠興への血判起請文と同日で
秀吉独断で丹後国安堵書状も出してるんだよな。
丹波でも明智の城の2つを知行するとか書いてるし。
その文中で織田の名なんて一文字も出てこず、
畿内を支配する秀吉が新たに持ち出した「公儀」を前面に押し立ててる。
8/8秀吉書状だと、どうも忠興も摂津三嶋で秀吉と折衝してたようだし。
忠興も信長個人への気持ちは別として、
明らかに織田家を見限って秀吉についていってるんだよな。
687人間七七四年:2012/07/08(日) 19:57:02.30 ID:sowdps6P
織田家の機構なんて信長有喜で作られてるからなあ。
信長いなくなりゃそりゃその時の実力者に頼らざるを得なくなる
688人間七七四年:2012/07/08(日) 19:58:32.52 ID:sowdps6P
変な変換ミスした

×信長有喜
◯信長ありき
689人間七七四年:2012/07/09(月) 08:54:13.75 ID:q/JpRxNM
そもそも3歳の秀信はともかくとして信雄や信孝には他に直臣がいる。
彼らが家督を継げば先代の家臣なんて邪魔以外の何物でもないからな。
排除されるくらいなら秀信を新たに据えた方が恩を売れると考えるのは普通。
690人間七七四年:2012/07/09(月) 10:19:36.85 ID:0ChIZEmr
>>689
相当重要なポイントをついた意見です。
このことを念頭に置かないで論じている説があまりに多い。
戦国時代、親子の相克が多い理由の一つも、当主世代交代にまつわる家臣間の利害関係が重大です(警鐘の仕方によって、先代家臣の家中での位置が大きく異なることなど)
691人間七七四年:2012/07/10(火) 23:15:42.33 ID:hpKBgpwu
いや、そもそも清洲会議前の時点で
信雄が秀吉を父信長に接するような態度で接していた。
この時点ですでに秀吉が圧倒的勢力だったからであろう。
692人間七七四年:2012/07/11(水) 10:59:30.47 ID:5KgSfudk
山崎の戦いはかなり大きい
信長信忠を討ち取られて混乱状態にあった織田をまとめたのは秀吉
織田家の求心力低下にかなり繋がってる。
693人間七七四年:2012/07/12(木) 13:30:24.87 ID:iy3oEqB/
山崎の戦いに参加した池田と丹羽まで秀吉と徒党を組んで
織田家宿老柴田を圧迫してる時点で織田家は積み。
本願寺降伏の大功を持つ織田家No2佐久間信盛が生きていたら
秀吉らに下克上させられるようなことはなかった。
694人間七七四年:2012/07/13(金) 00:50:02.34 ID:WdVYETLN
ねーよw
695人間七七四年:2012/07/27(金) 14:41:29.83 ID:R5KQP1Hs
>>689
ああ、なるほど。確かにそうだ。
696人間七七四年:2012/08/08(水) 12:31:20.83 ID:3YNZAJIg
>>689
秀吉が三法師を廃絶して信雄を織田家当主に据えたが
信雄の政治も秀吉の息がかかったヤツらが専断してて
信雄がぶっ殺してるんだが。
当主の側近と言えど、派閥があるわけで
そう単純じゃないよ。
697人間七七四年:2012/08/08(水) 12:36:16.70 ID:Mds0W+dQ
>>696
単純じゃないからめんどくさいってことだよ
698人間七七四年:2012/08/08(水) 20:59:00.77 ID:vemOuC8Z
信雄の当主期間なんてわかってるだけでも相当短い
明らかに柴田信孝潰すためだけの当主
699人間七七四年:2012/08/29(水) 18:37:37.28 ID:0TCECNCU
1
700人間七七四年:2012/08/30(木) 19:01:35.98 ID:+siJbegV
>>309
ヨタ本社の部長>デンソ、車体、紡織などの副本部長
701人間七七四年:2012/10/26(金) 01:57:46.30 ID:0WH9szHH
映画やるらしい
702人間七七四年:2012/10/27(土) 08:24:52.57 ID:+k19t5A5
信盛は柴田より地位は上で、家臣団を擁護代表して信長に意見できる立場を持っていたからな。
信盛が生きていたら清洲会議において織田家臣団の支持を秀吉は得られなかっただろう。
時に耳が痛い諫言をする者を遠ざけ、甘言を
703三谷幸喜映画配役決定:2012/11/02(金) 12:59:17.63 ID:tWsJBOmZ
柴田勝家:役所広司
秀吉:大泉洋
丹波長秀:小日向文世
池田恒興:佐藤浩市
信長:篠井英介
信忠:中村勘九郎、
信雄:妻夫木聡、
お市:鈴木京香
浅野忠信:前田利家、
寺島進:黒田官兵衛、
阿南健治:滝川一益
浅野和之:明智光秀
織田三十郎信包:伊勢谷友介
織田信孝:坂東巳之助
松姫:剛力彩芽
堀秀政:松山ケンイチ
前田玄以:でんでん
森蘭丸:染谷将太
寧:中谷美紀
忍びの者:天海祐希
更科六兵衛:西田敏行
704人間七七四年:2012/11/05(月) 14:19:55.73 ID:TGF7uYYw
三法師と秀信が見当たらないが
705人間七七四年:2012/11/20(火) 14:34:39.57 ID:voeilQ3I
age
706人間七七四年:2012/11/22(木) 20:31:29.33 ID:6GGvLf3w
戦国時代でいちばん好きなイベント
707人間七七四年:2012/12/30(日) 11:06:27.32 ID:JaAbQRKw
尾張国内、織田一族が築城した城(初期段階は平城が多い)

尾張国府領(斯波領)中島郡下津守護所を中心として尾張国織田家の平城は
築城され散らばって行く。
尾張国守護斯波氏が築城した城は下津城と離れ屋敷だった清州城のみ。
織田一族が築城した城、大赤見城、岩倉城、勝幡城、楽田城、犬山城、小田井城
野府城、古渡城、

信長が築城した尾張国内の城は小牧城。
708人間七七四年:2013/01/17(木) 15:50:41.62 ID:nrUlEfqJ
>>703
ノッブとツッネは逆やろうな
709人間七七四年:2013/02/05(火) 10:05:36.31 ID:SU49TLFx
尾張国の中心が清州に移されたのは1478年〜1610年の間132年間。公的な手続き等はなかった。
律令制国が置かれた奈良時代(645年)〜安土桃山時代までの約1000年に
尾張国の行政府(国府)が置かれていたのは中島郡(現・稲沢市)であった。
710人間七七四年:2013/08/06(火) NY:AN:NY.AN ID:ifvEInBh
そろそろ映画だっけ?
711人間七七四年:2013/09/20(金) 23:12:04.40 ID:+82+EMN3
三谷幸喜の映画の原作小説を読んだんだけど、
恒興は、これまでのイメージと違うキャラだから、
佐藤浩市でいいんではないかと思った。

信長もこれまでのキャラと違うから篠井さんで

あと、鈴木京香はお市さまには老け過ぎでは…
原作のお市だと鈴木京香でぴったりな感じなんだけど。
712人間七七四年:2013/09/20(金) 23:14:06.40 ID:+82+EMN3
もう一つ、三法師が松姫の子になってるのが一番の違和感。

柴田、丹羽、秀吉はだいたいこれまでのメディアで作られてきた
イメージ通り…

織田信雄が馬鹿は馬鹿でもかわいい。
天地人の俳優さんはこっちのほうがはまり役だろう。
713人間七七四年:2013/09/20(金) 23:19:08.37 ID:+82+EMN3
ほか、信包が長益と合体したみたいなキャラになってた。

前田玄以が面白い。
前田利家が常識人気取りでなんかむかつく。
714人間七七四年:2013/09/29(日) 03:28:10.43 ID:m+BWbtnV
堀秀政がマツケン?堀ってイケメンじゃなかった?
715人間七七四年:2013/10/24(木) 07:28:45.81 ID:a6qTpvAb
清洲会議の前にイノシシ狩りやったって話は本当ですか?
716人間七七四年:2013/10/24(木) 13:12:22.84 ID:0N6lBi1p
清洲城に集まった人は
柴田勝家
羽柴秀吉
丹羽長秀
池田勝入
三法師
717人間七七四年:2013/10/24(木) 15:42:26.60 ID:fKzb1Wqx
記録によると次男三男もいたことになってたり。
718人間七七四年:2013/10/29(火) 21:37:37.93 ID:ZItib54y
>>712
松姫が家臣らの手引きで何処かで信忠と密会して
そして生れたのが三法師・・・ってのは
(マジのこの説を信じた馬鹿が、一時この板にも結構居たw)

後世の創作与太話&自称三法師の末裔がニセ古文書を捏造して
ネットまでも利用して広めたガセなのだが、
三谷は単に面白そうなので採用・活用したのか
目立ちそうなネタでもあるので活用したのか
ワケわからんけどな
719人間七七四年:2013/10/31(木) 20:34:26.30 ID:yfB/cB7y
創作に考証求めるとか…
720人間七七四年:2013/11/04(月) 20:29:47.83 ID:hWOWYSj1
     /)  /) まいど!
    /  ⌒  ヽ⌒ヽ  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    | ●。 ● |从ノ<三谷幸喜監督が有楽町マリオンの
   (〇 o  〇 ) :;;| |吹き抜けスペースで行われた映画
   /─(任)─;;' ノ  |『清須会議』のイベントに出席したな
   ( ( ))))    /   \______________
 /ヽ'/ ̄\ ,, ヘ
 |;;;;: ├: 千 :┤  ::;;|
 |::: ├: 億 :┤   :::|
 \( ,\_/(、、、/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
http://ameblo.jp/timemaster2009/entry-11669102073.html
721人間七七四年:2013/11/10(日) 00:56:27.10 ID:wEsxg78Q
ゴウリキの演技下手さが抜きん出ていた
722人間七七四年:2013/11/10(日) 01:35:59.18 ID:3tpZzD++
あらすじでは丹羽が柴田の仲間扱いされてるが
丹羽って柴田と犬猿の仲で終始秀吉陣営だったよな……
723人間七七四年:2013/11/10(日) 17:31:18.10 ID:ONygioAX
そもそも清州会議は特に対立のないシャンシャン会議だった
724人間七七四年:2013/11/11(月) 01:49:11.55 ID:fMWrtc+R
>>723
同意。

清洲会議が勝家と秀吉の攻防で、幼少の三法師を織田家当主にしたことで、
秀吉の天下がなった(あるいは、三法師の幼少を利用して秀吉が天下を取っ
た)というのは、秀吉死後の川角太閤記にはじまる創作にすぎない。
清洲会議は、信長・信忠死後の織田家と四家老との、いわば政治戦の産物で、
信勝と信孝の対立を利用して、四家老が「天下の政道」を掌握することを既
成事実化した会議だった。
柴田勝家は、この時点で、明智光秀を含む他の織田家重臣(光秀、秀吉、長
秀)と比べて、琵琶湖周辺に城をもたず、織田家との血縁をもたない点で後
れを取っていたが、秀吉が長浜を譲り、お市との婚姻をあっせんすることで、
勝家の遅れは解消した。
また、秀吉は、自ら、養子の秀勝を次期党首候補から辞退させたという。
この時点で、織田家に対する四宿老の結束は万全であり、他方、織田家は、
このとき、信雄と信孝が軍事衝突寸前になっていて、四家老の主導権をあっ
さりゆるした。
秀吉が、その後、京畿の経済を握り、朝廷を掌握し、他方、勝家、信孝が地
元の統治に困難を残す中で、秀吉が、一方的に分断を図り、信孝、勝家を攻
撃し打倒した。
この対立は、清洲会議後のことである。
しかし、清洲会議のときから対立があり、しかも、勝家が、清洲会議決定に
対して反対派であったように描くことで、あたかも、信孝・勝家が、三法師・
秀吉に対して謀反を起こしたような話になった。白が黒になった。

秀吉は、三法師の幼少を利用して天下を取った、と当たり前のように言わ
れる。
しかし、秀吉は、一体、どこで三法師を利用したのか?
清洲会議から、秀吉が三法師を手中にする12月までの半年間、織田家当主
三法師は、当主候補にもなった(つまり当主の資格がある)信孝の岐阜城に
あった。
家臣の秀吉が手の出せないところである。
秀吉が、三法師を手中にしたときは、すでに、秀吉陣営(正確には、信雄・
秀吉陣営)と、信孝・勝家陣営とは軍事衝突に入っていて、三法師の位置な
どない。秀吉は、三法師を楯にして勝家勢の軍事攻勢を防ごうなどとはして
いないし、勝家勢も、相手側に三法師がいるから攻撃を手控えるなどしてい
るわけではない。
三法師は、秀吉の天下取りに、何の役にも立っていない(信長葬儀の際も位
置はない)。

秀吉が三法師を利用して天下を取ったというお話は、秀吉による、実質織田
政権であった三法師―信孝への露骨な謀反を覆い隠し、秀吉が清洲会議の際
に頓知で天下を取ったように描き出す秀吉礼賛ものの筋書きにすぎない。

是非、川角太閤記そのものを読んでほしい。
清洲会議前段の状況説明がいかにでたらめかよく分かる(それどころか、川
角太閤記では、そもそも岐阜会議といっている)。こんな状況認識の著作が、
会議の内容をこまごまと報告できると考えられるかどうか、推測は難しくな
い。
725人間七七四年:2013/11/11(月) 14:04:23.02 ID:AX2kxTHe
利家が勝家を慕ってたというのも違うよな。
利家が勝家の与力として傍にいたのは勝家を見張りためだったから。
信長に謀反した前科のある勝家の見張り役として信長が信頼してた
利家を勝家の与力として付けた。
726人間七七四年:2013/11/11(月) 16:06:59.61 ID:gInIzHlJ
完全に妄想の世界だな
ご苦労さん
727人間七七四年:2013/11/11(月) 17:31:08.31 ID:0DqFSfFV
妄想五十年
728人間七七四年:2013/11/11(月) 18:17:55.60 ID:ue/hom/1
菅沼遼太いわく
729人間七七四年:2013/11/12(火) 13:20:46.06 ID:vBiGV8vx
「信孝様・三助様御両人、御名代御あらそい成され候について」(金井文書)
「伊勢ノ御本所と三七殿と存分究まざる間、諸軍勢今に散らず」(多聞院日記六月二十九日条)
会議前から兄弟の仲は悪かったみたいだ
730人間七七四年:2013/11/12(火) 23:24:50.93 ID:AUKhZmN+
>>721
ゴーリキよりも犬千代が観てて辛かったわ…
浅野忠信ってあんなに大根だったっけ

ゴーリキは最後の表情でちょっと見直した
731人間七七四年:2013/11/16(土) 19:51:59.57 ID:QIj3QFyj
他の中心人物3人に比べて大泉洋の演技の未熟さが際立っていて辛かった。主役があれでは萎えるしかも顔の肉付きも良過ぎでどうしても秀吉に見えず苦笑。こいつの出来の悪さが作品全体に影響したから結果三谷作品の中では残念ながら駄作の部類
732人間七七四年:2013/11/16(土) 21:12:30.32 ID:WKe0r+Lr
浅野忠信???

なんの役柄だった??
733人間七七四年:2013/11/18(月) 09:31:17.50 ID:U+kYyjUi
>>732
犬千代
734人間七七四年:2013/11/18(月) 13:57:41.43 ID:UXdKAc78
>>724
ちょいと反論あり
確かに秀吉が織田家当主・三法師の権威を乱用して、天下を取ったわけではない

しかし自己意識が明確にある信雄や信孝が織田家当主になったら、
織田家当主の権威を使って、秀吉の天下取りを邪魔しただろう
三法師は幼少で、自己意識がない
織田家当主が「休眠」状態だったから、秀吉は天下が取れたんだよ
735人間七七四年:2013/11/18(月) 14:10:41.02 ID:UXdKAc78
明智の家臣に、柴田一族の柴田勝全がいたという
明智滅亡後は堀秀政の家来になったようだが

誰も言わないけど、柴田一族の中から「謀叛人」が出たことで、
勝家の発言力が大幅に落ちたんじゃないか?
一族連座で、本来なら隠居謹慎処分でもおかしくはない
736人間七七四年:2013/11/18(月) 15:29:19.04 ID:LN1TBW28
勝家意外にはまり役だったな

しかし小説よんでないやつは秀吉や勝家の胸のうちまではわからんやろうな
彼女とみにいったが理解できず寝てたわ
737人間七七四年:2013/11/18(月) 22:26:35.47 ID:PTDr9EBK
賤ヶ岳前夜の双方のお手紙攻勢でどちら側も言及してないからあんまり関係ないとおもうが
738人間七七四年:2013/11/18(月) 22:50:33.31 ID:VI6zt8Oc
>>737コメントは、735コメントについてですね?
私も737さんに同感です。
739人間七七四年:2013/11/20(水) 01:14:32.17 ID:NyMv9Yin
勝家に簒奪の野望が全くなかったとは言い切れないだろ。
秀吉に奪われるくらいならいっそ儂が…と思っても不思議じゃない。
740人間七七四年:2013/11/20(水) 13:16:17.70 ID:k5/WS6nu
勝家は信行も推してたし、才覚>血筋の考えが元々あったんだろう
でも丹羽・池田は、信行を推さずに、うつけ者の信長を推した 血縁を重視していた

だから丹羽・池田が信孝を推すことはありえなかった
まあ嫡流や兄を差し置いて、他家の養子に行った弟を当主にするなんて、
保守的な思考の持ち主には付いていけまいww
741人間七七四年:2013/11/20(水) 19:06:16.94 ID:P6o+9l13
信包や蜂屋とかマイナーな奴も結構出てきてたな>映画
742人間七七四年:2013/11/21(木) 01:49:17.75 ID:y0zZULp0
>>740
何より柴田と丹羽、池田は派閥が違うというか元から仲が悪かったからな
そこを秀吉に上手く利用された
743人間七七四年:2013/11/22(金) 06:21:25.23 ID:20PsjIhU
>>742
つか柴田は「家老・重臣」層で、丹羽や池田は「近習・出頭人」の側面がつよいからな。
そもそも家臣としての種類が違う
で、奉行上がりの出頭人出身の秀吉と丹羽池田は基本利害を一緒にしている
744人間七七四年:2013/11/22(金) 09:16:23.58 ID:h4zLeTVa
前田とか丹羽が国人領主層ってのは
わなるが柴田に先祖伝来の土地って
どれくらいあったのかな?

世継でもないやつに付家老として
永久出向ってあんなイメージ良くないが
745人間七七四年:2013/11/22(金) 10:29:48.18 ID:6+p5uYwu
【三谷幸喜】清須会議 4 【泡ふかせておやり】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/cinema/1384613335/

一応、映画板のスレ貼っておくよ
746人間七七四年:2013/11/23(土) 00:15:01.30 ID:o2Mx28Us
川越

井原

山内

塚原

内村
747人間七七四年:2013/11/23(土) 12:28:58.46 ID:37fYDBPG
>>743
堀や長谷川なども秀吉に味方してるけど、こいつらも「近習・出頭人」の性格が強いもんな。
一方、柴田勝家は謀叛のこともあって、実力を買われた助っ人幹部という立ち位置で、
追放された林や佐久間、謀叛起こした明智荒木なんかもこれに近い。

イマイチ所属がわからんのが滝川
織田信忠をはじめ織田一門を補佐しまくっていたのになぜか近習組(羽柴丹羽池田など)と対立してる。
信忠つきは池田森をはじめ斎藤や稲葉など羽柴に味方しまくってるんだが、なぜか滝川だけあぶれてる・・・
748人間七七四年:2013/11/23(土) 17:12:39.21 ID:Mtq8JsDI
>>747
単純に明智成敗に参加してその功績で大きな利益を得たい勢力と参加できずにたまたま地理的に有利だっただけででかい顔するな勢で別れてるじゃん
749人間七七四年:2013/11/23(土) 18:41:54.05 ID:2avRzqld
>>747
でも滝川は秀吉に味方しようとしてただろ
秀吉が冷淡だったから勝家に味方したが
750人間七七四年:2013/11/23(土) 20:01:16.35 ID:UcE1Us7k
つか滝川の場合、伊勢の利権で織田信雄と対立状態にあったわけで。
信雄と秀吉が一体化している以上、柴田につかざるをえない。
751人間七七四年:2013/11/24(日) 08:13:41.54 ID:HqmUeeza
横浜

竹島

徳州

大竹

渋谷
752名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/27(水) 19:06:42.81 ID:0Vh3uiyf
清洲会議というか佐々成政の動きが好きなんだよね
上杉軍の反撃で身動き取れず
柴田についたけど600人しか援軍出さず
前田利家の寝返り、上杉景勝の圧迫で
娘を人質に出し頭丸めて降伏
小牧・長久手の戦いが発生すると秀吉方につく姿勢をみせかけて
織田信雄方につき、末森城を攻撃
秀吉と信雄・家康との間で和議が成立すると
厳冬の飛騨山脈を自ら越えて浜松へと踏破し家康に再挙を促すが失敗
織田信雄や滝川一益からも冷たい返事
これで死罪は確定と思いきや
秀吉の御伽衆になって羽柴の名字までもらって(秀吉は良くあげてるけど成政は・・)
九州征伐で活躍し肥後一国を与えられて
ありえない状況にもっていきながら一揆鎮圧に失敗して切腹
なんだこれw
成政面白すぎる
753人間七七四年:2013/11/29(金) 09:48:55.23 ID:HaohFvEb
秋津

鶴見

福岡

仙台

入曽
754人間七七四年:2013/11/29(金) 14:46:50.54 ID:gfA+e/HW
成政の芸はなかなか教養が感じられるな
755人間七七四年:2013/11/29(金) 21:02:01.39 ID:QRLHtZV3
子孫とバイトで一緒だったことがある。
756人間七七四年:2013/11/29(金) 21:16:20.82 ID:SP2NrxuW
映画すげーおもしろかったwwww
757人間七七四年:2013/11/30(土) 10:57:19.30 ID:O6v4519D
佐々淳行は子孫らしいな
758人間七七四年:2013/12/05(木) 18:33:51.93 ID:OpPQp7Ov
傍系だったか。
759人間七七四年:2013/12/10(火) 20:33:18.08 ID:l+csE1SI
柴田と丹羽って仲悪かったの?
映画だと親友のようにかかれてるが…
760人間七七四年:2013/12/10(火) 20:37:02.22 ID:AKfMkHfp
>>759
品高津家はどちらかと言えば「織田家」の重臣で、丹羽長秀は「信長」の近習だったから
利害関係がかなり違う
761人間七七四年:2013/12/11(水) 00:05:42.08 ID:7ST3EvfI
つか、長秀は便利の良い格下で家老でも何でもないだろ?
762人間七七四年:2013/12/11(水) 18:06:32.11 ID:lirchUTB
利害関係と人間のウマがあうとかはまた
違うしねぇ。
763人間七七四年:2013/12/17(火) 19:44:25.21 ID:zJ2nQ2F5
長秀が勝家に対して強い対抗意識を持ってた可能性はあるね。
信長が若い頃は同じような地位だったのに本能寺直前には
かなりの差が付いてたし。
その対抗意識を秀吉にうまく利用された感じ。
764人間七七四年:2013/12/17(火) 19:49:43.44 ID:mXtSiP9L
対抗意識とかあったのかよ
765人間七七四年:2013/12/17(火) 19:51:44.35 ID:97uKCu0v
だから家臣としての種類が違うっつーの。
そもそも丹羽長秀のほうが信長には近いんだから、その意味では長秀のほうが立場は上だったとも言える。
766人間七七四年:2013/12/17(火) 21:22:09.71 ID:P3XDNRi7
柴田勝家って完全に佐久間信盛の後追いコースだからね
信長への謀叛歴があるし実力は認めていても栄達を認めているわけではない
それが証拠に勝家は加賀を攻める時に信長から援軍を貰うことができず
自前の軍だけで攻め取って一門格の柴田義宣が戦死してる。
これだけ活躍したのに信長による佐久間の折檻状では「なんとか天下の面目を保った」と記載され明らかに秀吉光秀より一段下の評価。


お世辞にも筆頭家老だの重用されていただの厚遇とは思えないくらいの扱いで、
せいぜい役に立たなくなったらお払い箱の助っ人幹部レベル。
事実本能寺が発生すると明智は柴田と共謀していたなんて噂がまことしやかに流れているくらいだしな。
767人間七七四年:2013/12/17(火) 22:22:08.36 ID:kFdGW8Kh
佐久間信盛折檻状内では、織田厨が仕切りに持ち上げマンセーする丹羽や信忠なんて名前すら上がってないし
蜂谷とか滝川とか、池田より活躍してそうな連中も名前もあがってもないけどな。
ただ代表的な者で、その頃信長から目だって見えた連中を適当に並べただけではないかと。
768人間七七四年:2013/12/18(水) 05:12:58.91 ID:pggQ23+j
活躍したかどうかではなく信長がどう評価するかの話をしているんだが何言ってんだこいつ。日本語理解できてるか?
後世史観で見る奴は立場と功績をごっちゃにして語りだすから困る。
池田が挙がっている時点で察することもできないのかね。
769人間七七四年:2013/12/18(水) 05:25:30.60 ID:pggQ23+j
>>768
飛鳥尽きて良弓蔵められ、狡兎死して走狗烹らるってヤツだね
信長に対する反乱もそうだけど、それ以上に致命的なのが柴田勝家は次期織田家一門と全く接点がないことだよ。
織田家臣では滝川明智丹羽秀吉あたりが、信長の息子達(信忠、信雄、信孝、秀勝)と協力して敵を倒したりしているのに
柴田勝家がやったことと言えば反乱起こして殺された信行の遺児を養育しただけ。

一方で丹羽長秀は織田信忠、織田信雄、織田信孝の3人と従軍経験があり、自分も織田家から娘を迎え入れている。
織田家臣多しといえどもここまで織田と関係を密にしている家臣はそうはいない。
信長が天下統一したら、年齢的にも次代は信忠政権になるんだから、丹羽は織田政権の中核に食い込んでいただろうね。
そういう意味では丹羽の方が立場が上とする>>765の意見は一理ある。勝家は基盤がないから失敗したら佐久間みたいにポイだろう。
770人間七七四年:2013/12/18(水) 05:28:16.68 ID:pggQ23+j
安価ミス >>768>>760
771人間七七四年:2013/12/18(水) 23:24:00.64 ID:GXO7zkjG
本能寺の変の時点で、柴田勝家は、769さんの指摘通り、主要家臣中では、織田一門と縁が薄く
その上、織田政権中枢の琵琶湖周辺に城がない。
若狭―琵琶湖―淀川―大阪湾は、海運が中心の当時、琵琶湖の位置は、今実感するより大きい。
丹羽長秀は、琵琶湖に大きい権限をもたされていたようだ。
長秀は方面軍司令官ではないが、琵琶湖の管轄や、親子二代織田一門と結びつく破格の扱いもある。
ただ、信長は、秀吉、長秀、光秀等の重臣を(もしかすると信澄も)遠方に配置換えし、周囲を
一門や若手近習で固める構想をもっていたようだ。
これは信長死後のことになるが、清洲会議で、勝家勢は、琵琶湖周辺の長浜城を手にし、
(秀吉のあっせんで)お市と婚姻し、他の重臣への引け目を表向きでも解消した。
772人間七七四年:2013/12/19(木) 10:51:39.06 ID:kgPxIvwf
銃撃

新大阪

横浜湖

貧米

六本木
773人間七七四年:2013/12/19(木) 10:53:30.86 ID:1mthm64W
そうなると勝家は清州会議においてもあまり仕切れる立場じゃなかったって事になるね。
終始秀吉や長秀が仕切っていたという事になる。
あの映画は完全に嘘だらけだね。
774人間七七四年:2013/12/19(木) 21:12:07.31 ID:+Btxt4I5
勝家が織田家内部で本当に大きな影響力を持っていたのなら賤ヶ岳があんなにワンサイドゲームになるはずないんだよね。
しかも前田や金森といった織田譜代の連中の背信すら行われている。
信雄家康と戦った小牧は8ヶ月近くも継戦状態だったし、
勝家は功績こそ打ち立てているが織田家での地位はそこまで高くなかったと見える。
ましてや、信長妹を娶っていない清洲会議の主導権はお察しだっただろう。

秀吉丹羽池田は信長近習畑の出身だし、全員が織田家ひいては信長と密接な関係を持っている。
(秀吉は養子が信長の息子。丹羽は親子2代の正室が織田出身。池田は小田井殿繋がりで信長と異父母兄弟)
清洲会議の参加人数はやや怪しいところがあるけど、通説通り羽柴丹羽池田柴田の4人で行われたとするなら、勝家はほとんど関与できたかどうか怪しい。
775人間七七四年:2013/12/20(金) 02:42:36.42 ID:MzKiyx90
賤ヶ岳の合戦はワンサイドゲームとは到底言えないだろう。
勝豊や稲葉や信雄が早々秀吉に篭絡され、佐々が対上杉で越中から動けなかったにもかかわらず
秀吉と兄弟の契りを結んでたほど関係が濃密な中川が防衛戦で殺されてるし
柴田勝政や佐久間盛政が寡兵で撤退中を背後から秀吉が大軍で強襲したら逆に反撃され、撃退されるほど。
結局あれだけの規格外の兵力比がありながら前田や不破や金森らが兵を引くまで一進一退だったし
776人間七七四年:2013/12/20(金) 02:48:01.54 ID:k4qOstO2
そもそも勝家の軍は軍閥化がされてない、織田家旧来の寄騎関係にすぎない
後進軍隊だったからその弱点がモロに出ただけ。
明智や羽柴は軍閥化が終了してたし、早くから陣立書や、直轄支配化、直接命令型の統治形態や軍隊が持てたけど
勝家は家康の信濃支配みたいな、弱い頼子寄親に頼った軍隊だっただけ。
777人間七七四年:2013/12/20(金) 02:51:47.61 ID:yHcX7I9f
勝家は、賤ヶ岳合戦で寡兵にもかかわらず秀吉方が構築した超絶堅固な塹壕陣地に向けて
猪突猛進で突撃して、しかも寡兵で相手を押しまくってたんだよな。
もうちょい、冷静に策を練れる武将が柴田方にいたら圧勝してたかもしれん。
778人間七七四年:2013/12/20(金) 03:01:38.65 ID:8TdFw1yg
細川も光秀も筒井も秀吉もみんな軍閥化してるが、それを90年代は織田軍は各戦線に分かれて軍団制を布いたとか
デタラメ妄想でマンセーしてただけ。
信長が在京せずに京を遠隔支配している手法も三好長慶が考案した手法だしね。
長慶は村落や都市共同体など将軍や幕府機構などの権威を必要としない新興自治と国人のコミュニティーを持つ地域に独自の支配機構を構築し始め
その成長促進と商業収益を政権基盤として芥川城に在城していた。
信長って長慶などの猿真似はするんだけど、形だけパクってるだけで魂の部分を理解してないから新興自治と国人のコミュニティーを潰して
京を遠隔支配すべく安土城に居城した。そして光秀の謀反であっさり近江が光秀に組み込まれた。
そもそも前田や金森は信長直臣で家老柴田を監視する役目で付けられてるのであり もともと柴田の配下ではない。柴田に付与された与力は同僚じゃない。
信長直参の母衣衆出身者は超エリートで信長の指揮命令系統で動くのであり家老の柴田の命令なんて受け付けない。信長が柴田と相談するように命じてるから
柴田との会議で越前経営に同席するのであって柴田が彼らを家臣扱いすることは信長を軽視してることになる。
柴田・佐々・前田らはそれぞれに軍閥化したとするべきで賤ヶ岳の戦いではその弱点が見事に顕れた。
一方の光秀や秀吉は軍閥化に成功しており信長の仇討ちをスローガンに
摂津にいた池田恒興・高山・中川ら都市国家(都市軍閥)を同陣に誘い光秀軍閥を打ち破り指導力を確立した。
(賤ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀について中川氏年譜は秀吉と中川が天正8年6/5に兄弟の契りをしてる書状がある)
779人間七七四年:2013/12/20(金) 08:26:51.00 ID:5VQ9hkG9
長々と書いてる割には相変わらず要領を得ていない書き込みだな
要は柴田の影響力がないから同僚は付き従うことがなかったとする>>774と似たような書き込みだし
そもそも光秀は最終的に細川筒井に見捨てられ、火事場泥棒と若狭武田や阿閉あたりしか味方貰ってないやんけ
結局秀吉を叩きたいだけだろ菅沼君
780人間七七四年:2013/12/20(金) 10:18:16.66 ID:yHcX7I9f
秀吉には織田主殺しの光秀を討伐する格好の大義名分があったが、光秀は謀反人であり主殺しを行った逆賊であったからな。
781人間七七四年:2013/12/20(金) 23:30:59.96 ID:tZx+qC9F
それを選んだのは光秀だし当たり前のことを書かれても
782人間七七四年:2013/12/21(土) 13:43:28.84 ID:26rfYAR1
まあ勝家はお市を嫁にして、羽柴・丹羽・池田と同じ織田家血縁につながったし満足じゃね?
783人間七七四年:2013/12/23(月) 06:36:26.89 ID:pewUT/mN
大宮

幸福

横浜湖

奈良

目黒
784人間七七四年:2013/12/26(木) 14:06:22.89 ID:Jzd0SmCB
>>782
当時の勝家の立場を考えると、「市様と結婚させてやる。長浜もやる。」
なんて言われたら秀吉に譲歩してしまうのも仕方ないかぁ・・
785人間七七四年:2014/01/27(月) 19:10:24.77 ID:HuF4Pc98
このスレでの佐久間厨がかなりレアすぎるから観察対象になったで。
786人間七七四年:2014/01/27(月) 19:22:37.00 ID:HuF4Pc98
771 :人間七七四年:2013/12/18(水) 23:24:00.64 ID:GXO7zkjG
本能寺の変の時点で、柴田勝家は、769さんの指摘通り、主要家臣中では、織田一門と縁が薄く
その上、織田政権中枢の琵琶湖周辺に城がない。
若狭―琵琶湖―淀川―大阪湾は、海運が中心の当時、琵琶湖の位置は、今実感するより大きい。
丹羽長秀は、琵琶湖に大きい権限をもたされていたようだ。
長秀は方面軍司令官ではないが、琵琶湖の管轄や、親子二代織田一門と結びつく破格の扱いもある。
ただ、信長は、秀吉、長秀、光秀等の重臣を(もしかすると信澄も)遠方に配置換えし、周囲を
一門や若手近習で固める構想をもっていたようだ。
これは信長死後のことになるが、清洲会議で、勝家勢は、琵琶湖周辺の長浜城を手にし、
(秀吉のあっせんで)お市と婚姻し、他の重臣への引け目を表向きでも解消した。


織田政権中枢の琵琶湖周辺に城がない。
織田政権中枢の琵琶湖周辺に城がない。
織田政権中枢の琵琶湖周辺に城がない。
787人間七七四年:2014/01/27(月) 19:29:02.43 ID:HuF4Pc98
信長に志賀郡を与えられた明智光秀の麾下となり、志賀郡の一職支配を任せられ琵琶湖の水運・漁業を統轄するなど、かなり独立した権限を持っていた。
朽木元綱らと共に、高島郡の信長蔵入地の代官も務めていた。

いつから丹羽が明智の権限を移譲されてんだよw
788787:2014/01/27(月) 19:32:25.70 ID:HuF4Pc98
追記 いつから丹羽長秀が猪飼昇貞になったんだよw
789人間七七四年:2014/01/28(火) 21:13:05.61 ID:C0g/Ov7X
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790人間七七四年:2014/02/01(土) 23:49:12.13 ID:qy9Oni8M
>>782>>784
立場的に信長の義弟になるからな
越前との隣接地かつ京への足場になる長浜領なら文句ないだろう
旧浅井領でもあり、浅井家当主の未亡人を正妻にすれば統治もし易い
飛び地なんか要らねーだろうし、他に獲得できそうな隣接地も無さそう
勝家的にもほぼ満点に近い内容だったのかもな
791人間七七四年:2014/02/02(日) 03:24:35.47 ID:fwG+DOW8
勝豊に渡す事が条件な時点で全く無意味な領土獲得
792人間七七四年:2014/02/02(日) 18:32:29.70 ID:LAuZof1L
>>791
「結果を知る者の後知恵」で物語をつくることが常套手段の講談ものを読み過ぎでは?
793人間七七四年:2014/02/03(月) 09:14:48.80 ID:28gnyhBS
>>791みたいな結果論だけの評論家気取りってどこにでもいるよな
794人間七七四年:2014/02/04(火) 04:15:19.63 ID:LB3tNLN8
>>791
そもそも、勝豊に渡すことが条件と、どの史料にあるのか?
というより、そもそも清洲会議の内容について、断片の史料しかない。
やたらに詳しい編集ものの川角太閤記は、清洲会議を岐阜会議と言ったり、
参集する秀吉や信孝の動きの記述がでたらめで、その程度の知識の者が
なぜ、会議の内容をあれだけ細かく書けたのか、考えればすぐ分かる。

しかし、それ以上に、勝家の北陸と信孝の美濃が、本能寺の変の「後遺症」で
統治の困難を抱えているさなか、幸運も加えて、京畿を中心に、そうした制約
のない秀吉が、宝寺城に5万と言われる兵を集め(宝寺城を見せつけて秀吉の力
を誇示するために違いない)、それをいっきに長浜に進めて(信雄を警護すると
いう口実で)囲んだのだから、勝豊であろうが誰であろうが、大概の者なら、降
伏か落城は避けられなかった。
795人間七七四年:2014/02/04(火) 22:12:29.83 ID:fxIVchmV
天正11年1/17秀吉→小早川や
兼見卿記12/21条で江州長浜柴田伊州(勝豊)、羽柴与一味、然間羽筑同可濃州へ下向
濃州稲葉良道、氏家直道、羽筑ニ一味云々と書いてて
勝豊は簡単に秀吉に篭絡されてるのがわかるから実際勝家からすれば全くといっていいほど
清洲会議での長浜領獲得が役に立たなかったのは間違いない。

清洲会議の結果については多聞院日記7/7条でも大旨ハ羽柴かままの様也と書いてるし
796人間七七四年:2014/02/06(木) 10:31:03.20 ID:P1ItJZgi
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797人間七七四年:2014/02/14(金) 18:29:22.94 ID:+m3yJoDe
勝家自身が長浜に入って統治してれば結果は変わってたかも知れないね。
せっかく長浜が手に入ったのに他の者に任せる辺り、長浜の重要性を
勝家が本当に解ってたのかどうか疑問だね。
所詮は脳筋武将ということか。
798人間七七四年:2014/02/14(金) 19:03:50.00 ID:+m3yJoDe
なぜ勝家が自ら長浜に入らず越前に留まったのかを考えると、対秀吉より
対上杉を優先した可能性が考えられる。
信長亡き今、上杉をただちに攻める意味はあまり無かったが手取川で上杉に
屈辱を味わった勝家は何としても上杉を潰したい気持ちが強かったはず。
そのために長浜を拠点に畿内で秀吉に対抗するよりも越前で再び上杉に
攻め込む準備をする事を選んでしまった可能性がある。
それが結局、秀吉を利する事に繋がってしまって更に上杉と秀吉の間に
同盟が成立して勝家はますます不利になった。
799人間七七四年:2014/02/14(金) 20:42:39.52 ID:0Jb25LTJ
越前が本領なんだから長浜なんかにいるわけねーだろ。
冬期に本領から断絶された長浜にいたら、
本領から軍事動員できねーんだからアホだろ。
800人間七七四年:2014/02/14(金) 20:43:52.41 ID:4j8rqlZP
秀吉の元本拠地で、岐阜と連携できる最前線の長浜を任せるってのはむしろ勝豊の才覚を評価してないと任せないだろうと思うがなぁ
801人間七七四年:2014/02/15(土) 16:44:33.55 ID:n1ZkTvXn
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802人間七七四年:2014/02/15(土) 16:46:52.58 ID:n1ZkTvXn
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803人間七七四年:2014/02/15(土) 17:31:35.76 ID:5d/cXIA/
>>798 >>799
同意。
そもそも、本能寺の変の時点やその直後、北陸は、上杉と対峙し、また、
信長勢による殺りくに恨みをもつ一向衆や、強力な畠山残党があり、統治
の困難を抱えていた。
美濃の信孝も、東美濃騒乱をはじめ、やはり、統治の難しさを抱えている。
それに対して、京畿を抑えて秀吉は、この困難が桁違いに小さかった。
秀吉が、信孝・勝家に攻勢をかけることができた条件の一つがここにある。
勝家は、本能寺の変の後、18日に近江に出てきたときも、主要与力を残して
いるし、賤ヶ岳のときも佐々などを残している。
北陸のこの状況を考慮に入れないで勝家の行動を語ることはできない。
804人間七七四年:2014/02/15(土) 22:54:08.32 ID:f5/F3rF1
>>803
丹波だって明智旧領だし、毛利との和睦も国境線画定が不安定
一向衆の残党なら河内や紀伊にもいる
統治の難しさは秀吉にもある 秀吉の手腕が優れていたからだ
805人間七七四年:2014/02/15(土) 23:16:07.96 ID:QorhEa7h
毛利との和睦は既に本能寺の変の時に成ってて
後は備中での宇喜多領と毛利との国境線画定作業が残ってただけだし
攻め取った丹波には秀勝?だったかを置いて、直轄領化があっさり実行できたのに対し
勝家の方は織田家時代の軍閥化がされてない、織田家旧来の寄騎関係にすぎない
後進軍隊だったからその弱点がモロに出ただけでしょ。
明智や羽柴は軍閥化が終了してたし、早くから陣立書や、直轄支配化、直接命令型の統治形態や軍隊が持てたけど
勝家は家康の信濃支配みたいな、弱い頼子寄親に頼った軍隊だっただけ。
前田や金森は信長直臣で家老柴田を監視する役目で付けられてるのであり もともと柴田の配下ではない。柴田に付与された与力は同僚じゃない。
信長直参の母衣衆出身者は超エリートで信長の指揮命令系統で動くのであり家老の柴田の命令なんて受け付けない。信長が柴田と相談するように命じてるから
柴田との会議で越前経営に同席するのであって柴田が彼らを家臣扱いすることは信長を軽視してることになる。
柴田・佐々・前田らはそれぞれに軍閥化したとするべきで賤ヶ岳の戦いではその弱点が見事に顕れた。
一方の光秀や秀吉は軍閥化に成功しており信長の仇討ちをスローガンに
摂津にいた池田恒興・高山・中川ら都市国家(都市軍閥)を同陣に誘い光秀軍閥を打ち破り指導力を確立した。
(賤ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀について中川氏年譜は秀吉と中川が天正8年6/5に兄弟の契りをしてる書状がある)
806人間七七四年:2014/02/15(土) 23:17:08.82 ID:ThTNPuWj
天正11年1/17秀吉→小早川や
兼見卿記12/21条で江州長浜柴田伊州(勝豊)、羽柴与一味、然間羽筑同可濃州へ下向
濃州稲葉良道、氏家直道、羽筑ニ一味云々と書いてて
勝豊は簡単に秀吉に篭絡されてるのがわかるから実際勝家からすれば全くといっていいほど
清洲会議での長浜領獲得が役に立たなかったのは間違いない。

清洲会議の結果については多聞院日記7/7条でも大旨ハ羽柴かままの様也と書いてるし
807人間七七四年:2014/02/16(日) 00:57:42.26 ID:R2/2Twf2
柴田は上杉と交戦が続いてたのに対し秀吉は一応国境画定作業が残ってるとはいえ、
三か国毛利が割譲した上での和議が成立し、宇喜多とも本能寺前から一体化が進められ、もはや親藩的存在だったし
その差でしょ。そもそも単純に国力で見ても、かなりの開きがあるし。
柴田・信孝側からは美濃衆や勝豊などがボロボロ寝返ってるが
秀吉からは寝返りが皆無だし信雄領からも寝返りがなかったことから見ても
信雄よりも信孝領は遥かに不安定な状態だっただろうし。
808人間七七四年:2014/02/17(月) 01:11:23.45 ID:wU4M9YdB
秀吉の畿内統治だって決して楽じゃないだろ。
特に当時の大坂なんか一向宗の本拠地だったんだぞ。
当時の大阪人にとって秀吉は名古屋からの侵略者以外の何者でもないんだし。
809人間七七四年:2014/02/17(月) 08:25:42.54 ID:kS1rJ23y
というか、吉川が柴田と組んでるから、
毛利がどう転ぶかわからんかったからね。
柴田を倒したあとは毛利も秀吉強すぎるって認識して天秤かけなくなったが。
810人間七七四年:2014/02/17(月) 09:12:24.56 ID:vkvjCaOJ
摂津統治は何事もなくうまくいってるし
石山本願寺は退去した後
ちなみに池田や高山、中川でもちゃんと何事もなく統治してる。
後、吉川が柴田と組んでたなんてソースはないし
実際毛利と秀吉は本能寺の変時点で和睦してるしその後は一切衝突には至っていない(杉若無心書状でわかる)
811人間七七四年:2014/02/17(月) 09:16:42.60 ID:dATqg64D
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で秀吉と兄弟の契りを結んでた中川が殺され前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと
812人間七七四年:2014/02/17(月) 09:17:46.25 ID:IfHteOBx
勝豊や稲葉や信雄が早々秀吉に篭絡され、佐々が対上杉で越中から動けなかったにもかかわらず
秀吉と兄弟の契りを結んでたほど関係が濃密な中川が防衛戦で殺されてるし
柴田勝政や佐久間盛政が寡兵で撤退中を背後から秀吉が大軍で強襲したら逆に反撃され、撃退されるほど。
結局あれだけの規格外の兵力比がありながら前田や不破や金森らが兵を引くまで一進一退だったし
そもそも勝家の軍は軍閥化がされてない、織田家旧来の寄騎関係にすぎない
後進軍隊だったからその弱点がモロに出ただけ。
明智や羽柴は軍閥化が終了してたし、早くから陣立書や、直轄支配化、直接命令型の統治形態や軍隊が持てたけど
勝家は家康の信濃支配みたいな、弱い頼子寄親に頼った軍隊だっただけ。
勝家は、賤ヶ岳合戦で寡兵にもかかわらず秀吉方が構築した超絶堅固な塹壕陣地に向けて
猪突猛進で突撃して、しかも寡兵で相手を押しまくってたんだよな。
もうちょい、冷静に策を練れる武将が柴田方にいたら圧勝してたかもしれん。
813人間七七四年:2014/02/17(月) 09:22:50.02 ID:IX4ddELT
神奈川県 秦野市 鶴巻温泉 めっちゃいいよなー
神奈川県 秦野市 鶴巻 にあって 東海大学 にも近い
あそこチョーいきたい マジで マジマジ
ダチがその近くの 第3みどりハイツ ってとこに住んでてさ
チョー羨ましかったっす ワラ
年取ったら 神奈川県 秦野市 鶴巻温泉 が近くにある 鶴巻 に住むのが 老後の夢 さ
814人間七七四年:2014/02/17(月) 09:26:26.43 ID:dATqg64D
毛利は本能寺後即効で両川が人質出して三か国を秀吉に渡すことが決められてて
秀吉方は6/6時点で「西国表之儀存分之まま」と書いてるくらい、毛利は秀吉一色だったし
親藩の宇喜多も南条もいるし心配は皆無でしょ。
つか対柴田の時でも、中国方面に兵残してる気配は皆無だし
815人間七七四年:2014/02/17(月) 10:09:02.45 ID:VlERT0sH
毛利は秀吉の口述詐欺にはまって
6/6小早川書状では本能寺の変では信澄・光秀・柴田の調儀で信長を殺したと書いてて
勝家の事を主殺しをした謀反人とみなして敵視してたのがわかる。
816人間七七四年:2014/02/17(月) 11:32:12.52 ID:DhUh0B4Y
吉川元春が柴田に書状を出している事実は黙殺かwwwさすがキチガイ在日織田チョンw
817人間七七四年:2014/02/17(月) 12:12:40.88 ID:xZ5/+iYC
吉川なんて毛利家中でろくに影響力ないだろ。
当の輝元が秀吉を攻める気配すらろくに見せてないから、秀吉は安心して対柴田に全力で望めたし
中国方面軍の留守居を宇喜多南条に任せるだけで十分だっただけ。
大体吉川も意見なんて対織田戦の時の播磨戦線の強行姿勢や早期での出陣意見だって却下されて
小早川のヘタレ退却&本土防衛路線で毛利は次々に後手後手に回った経緯もあったしね
818人間七七四年:2014/02/17(月) 13:00:45.36 ID:c0wEd/wx
毛利は寝返った南条や宇喜多に苦戦したり蹴散らされまくる程雑魚だったし
秀吉としても全く気にする必要はないだろ。
辛川合戦や加茂崩れなんて領内の兵総動員しても、秀吉からの支援0の単体18万石程度の宇喜多に蹴散らされまくったりしてるし
819人間七七四年:2014/02/17(月) 21:51:57.33 ID:4POQjxP4
ちと違う話だが
濃姫が生きてたとしたらどうして清洲会議には
いなかったのだろう。
織田家や自分のこと、何より美濃領がどうなるかというのは
心配だったろうに。発言権もあったんじゃないのかな。
各太閤記にはまったくでてこないもんね。
820人間七七四年:2014/02/18(火) 22:33:23.09 ID:eoA1Lk1F
美濃攻略後用済になったから
とっくに消されてんじゃない
821人間七七四年:2014/02/21(金) 00:51:27.54 ID:0rGilN74
>>810
そうでもない
毛利との国境をどこで定めるかで紛糾している
秀吉が宇喜多に警戒を命じてなかったか?
822人間七七四年:2014/02/21(金) 01:12:07.77 ID:OW9Pxveq
紛糾なんて全くしてない。
杉若無心書状  西国表之儀存分之まま、両川人質定ふに相定、三か国相渡、去6日に至姫路
と書いてて西国表は秀吉の思うままになって、両川は三か国割譲と人質提出が決定されたと書いてるし
毛利との和睦は既に本能寺の変の時に成ってて
後は備中での秀吉親藩の宇喜多領と毛利との国境線画定作業が残ってただけ。
毛利は秀吉の口述詐欺にはまって
6/6小早川書状では本能寺の変では信澄・光秀・柴田の調儀で信長を殺したと書いてて
勝家の事を主殺しをした謀反人とみなして敵視してたのがわかる。
823人間七七四年:2014/02/21(金) 15:29:27.88 ID:f8wTjjQH
ハイハイまた事実えを捻じ曲げて歪曲するアンチ秀吉のゴミ織田朝鮮人の荒らしかwww

本願寺が朝廷の和議に応じた後に信長が天正8年8月に出された佐久間親子弾劾状には
明智が丹波、柴田が加賀をそれぞれ一カ国平定したことを挙げているが
秀吉の場合は数カ国比類ないと信長が述べていて天才秀吉が別格扱いの実績を叩きだしてる。
その攻略スピードの速さと言い異常すぎる。毛利に苦戦とかギャグかよwww

毛利は国人合議の一揆連合から脱皮出来なかったから石高に応じた軍備と兵役の賦課のできない
織田旧体制のままの武辺道重視の柴田に天正11年4月賤ヶ岳の戦いで圧勝した改革派秀吉に対して、
安国寺が天正11年12/15に毛利の一方的譲歩で和睦決断するように、
輝元、元春、隆景に問題を先送りして正月に休んだりしようとしてる場合じゃないと、
強く決断を促す時に、高機動の秀吉軍は10日か15日で罷り出れるが、
輝元、元春、隆景らは中途までうち出すのすらも50日や30日はかかると書いて動員の遅さを挙げてる。
ドン臭い動員ではもはや秀吉には勝てないし、これでは秀吉に一方的に押し込まれるはずだと安国寺は喝破していた。

ところで安国寺はなかなか先が読める人間で天正12年正月11日の書状でも秀吉を褒めまくっている。
(秀吉は信雄に年賀の礼に来るように命令し信雄が拒否し秀吉と険悪な状況になっていた)
安国寺はさかんに秀吉と毛利の領地の堺について大きく譲歩してでもはやく和睦締結するように主張してる。
近年において信長がいた時も羽柴羽柴と騒がれ戦をすれば羽柴、城を攻めるも秀吉と盛んに評判になっていたが
いまでは日本を手の内にしており名人であり明日の不慮も考えられないと書いている。
これにより毛利と秀吉の正式な和睦が成立し、3月に入り秀吉は安心して家康信雄と激突する選択ができた。

いくら秀吉を貶そうとも耶蘇会の1584年の年報にも はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。
824人間七七四年:2014/02/21(金) 15:53:06.93 ID:f8wTjjQH
>>宇喜多領と毛利との国境線画定作業が残ってただけ


宇喜多との国境が画定したのは家康を屈服させた後の話だアホw

天正13年1/17如水・正勝書状において、
やっと宇喜多と毛利の国境交渉が終わり、
雑賀や四国征伐の予定が毛利に告げられてる。
また如水らは12/26に決まっていた秀次と輝元娘の祝言の話を聞いたのか秀吉が満足度しているとも書いている。
他にも伊予と土佐を毛利に渡すことを秀吉が仰せ出し、
秀吉が長曾我部の懇望を許さない意思も伝えている。
825人間七七四年:2014/02/21(金) 16:06:15.33 ID:pjYNyuDg
杉若無心書状  西国表之儀存分之まま、両川人質定ふに相定、三か国相渡、去6日に至姫路
と書いてて西国表は秀吉の思うままになって、両川は三か国割譲と人質提出が決定されたと書いてるし
毛利との和睦は既に本能寺の変の時に成ってて
後は備中での秀吉親藩の宇喜多領と毛利との国境線画定作業が残ってただけ。
毛利は秀吉の口述詐欺にはまって
6/6小早川書状では本能寺の変では信澄・光秀・柴田の調儀で信長を殺したと書いてて
勝家の事を主殺しをした謀反人とみなして敵視してたのがわかる。


黒田如水も蜂須賀も秀吉と同陣して楽田に来てる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
826人間七七四年:2014/02/21(金) 16:07:30.78 ID:QdoOUaii
>>宇喜多と毛利の境目の確定作業やってる蜂須賀や黒田らは必要ないって言ってるんだが。
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
>>長政に尾張に来るようにではなく備前衆に早く羽柴陣営に来るようにいっている。
完全に屁理屈だね。備前衆=中国方面にいた秀吉軍なんだからどうみても黒田や蜂須賀の事だろボケ。
とりあえずお前は馬鹿だから谷口央氏の「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」でも読んで一から勉強しなおすべきだね。
>>宇喜多と毛利の国境問題が片付いていない
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>父の如水に交渉を早く進めて宇喜多軍が来るように言ってるのだろう。
そんな事どこにもかかれてねーよクズ。
>>長政を派遣した如水がいるであろう播磨の地にて如水宛に播磨宍栗郡一職を与えている。
播磨の地に如水がいる根拠が微塵も書かれてないんだが。
>>陣立書なんて秀次の陣に如水がいたりと丹羽長秀の陣に如水がいたりと
はぁ?それのどこが間違いなんだよアホ。
>>どこまで事実が反映されているかわからん怪しいものだわ。
お前の大好きな三鬼氏が何より陣立書を当時の一揆的秩序しかなかった軍を上下関係に基づいた公儀の軍にした
画期的な物だったと誰より書いててるって何回もコピペ垂れ流してるのに矛盾した事をいうなよクズ野郎
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
827人間七七四年:2014/02/21(金) 16:08:32.08 ID:pjYNyuDg
>>どこにも如水が尾張にきていた証拠は無いな。
陣立書に書いてる。
また、3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
>>備前衆は宇喜多軍のこと
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状
そもそも如水の給地が播磨限定だったかわからんし、毛利との国境付近で折衝してたんなら
備前衆=備前にいた衆=備前で国境折衝に当たってた蜂須賀黒田や宇喜多など全体指して使った、で問題ないだろ。

>>陣立書なんて当時、13歳の丹羽長重が東の構え責任者で西の構えが丹羽長秀
そんなんどこに書いてる?後、それが嘘だという根拠は?
陣立書は軍勢数は一次資料と大きく乖離があるが、メンバーに関しては史実通りだろ。
池田親子や森らや木下兄弟なんて戦死後登場しなくなるし
6/12秀吉→高木 
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
4/8の秀吉から長秀宛で長重が陣取りした場所について書いているし、
4/12松井→千宛でも、
五郎左御息御出陣と書かれ、
長重だけが出陣しているのであり、
越前で検地やってた長秀が出陣するのは8/19の興福寺の話に出てきたところだろ。
しかも佐々の動きに対応して早くも9/8には利家に長秀を帰すと書いていて、
事実、10/5の利家→直江宛で、9/28には尾張から長秀が帰国したことに触れてる。
長秀が尾張にいたのはわずか一ヶ月と一週間だけ。
なのに長秀が陣立書に黒田を始め大勢の大名を従えて西の備えを指揮してるとかありえんわ。
たった一点の誤りを持って史料の全てが嘘になるわけではないわけで。
特に丹羽とか、そこそこの地位があり、かつ秀吉と同陣していない連中は、秀吉と書状でやり取りして
戦況伝えたり伝令送ったりしてるわけで、秀吉は津田・富田・八重羽など伊勢の諸将や岐阜の秀勝や因幡の亀井や、尾張の小砦にいた一柳や
北国の前田や丹羽や中国の毛利や上杉などとは連絡取り合ってるのに
如水とは音沙汰なしというのは黒田と秀吉が同陣していないのならありえないだろ。
現に黒田と一緒に行動してる蜂須賀も、出兵してきてるのがわかるし
828人間七七四年:2014/02/21(金) 16:10:23.90 ID:QdoOUaii
>>何で黒田らが備前方面の国境折衝していたから備前衆なんだよ?
>>黒田が備前にいたなんてどこにも書いてないだろ。
その前に黒田がずっと中国方面で折衝してたなんて事がどこにも書いていないんだが。
毛利との国境画定作業折衝なら、当然、毛利との国境に近い備前方面にいるのは当たり前だろタコ

>>隆景の御状への返事として人質として尾張で従軍している秀包が無事にやってることを取り次いでいるだけで
>>濃州岐阜至令納馬候も蜂須賀の動きではなく秀吉の動きじゃねぇかよ。

従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
などと、秀吉方の動きをリアルタイムに伝えており、また安国寺や林が只今参陣したなどと、秀吉陣営への毛利方の到着を
近い時間で伝えている。蜂須賀が岸和田や中国口にいたのなら、
一々秀吉の動きやその周辺の様子を秀吉が蜂須賀に知らせる→蜂須賀が毛利に知らせる
などと無駄な作業が増えるだけだし、そんな事やってる様子も全くない。
只今到着した、などとは絶対に書かない。

>>秀包の母の乃美大方が輝元に早く帰って来るように嘆願して心配しまくっとる
はぁ?そんな文書どこにあるんだよ。妄想乙

>>隆景は蜂須賀に取り次いで戦況を聞いてるだけだし。
ソースなし。
>>備前衆は仙谷や小西らに率いられ讃岐の十河城へ長曾我部対策で渡海してしまう
だから備前の衆=秀吉軍のうち、3月上旬時点で中国方面に残ってた連中を総括的に括ってるだけだと言ってるんだが?
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
だが、宇喜多軍が岸和田に入ったなどとは一言も書いてないわけだが。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

と書いてるから、秀吉が以前に派遣した軍勢の内の黒田や蜂須賀らが楽田に呼び寄せられてるのが明確なんだが。
829人間七七四年:2014/02/21(金) 16:10:49.61 ID:Y1/NLjhQ
>>何で黒田らが備前方面の国境折衝していたから備前衆なんだよ?
>>黒田が備前にいたなんてどこにも書いてないだろ。
その前に黒田がずっと中国方面で折衝してたなんて事がどこにも書いていないんだが。
毛利との国境画定作業折衝なら、当然、毛利との国境に近い備前方面にいるのは当たり前だろタコ

>>隆景の御状への返事として人質として尾張で従軍している秀包が無事にやってることを取り次いでいるだけで
>>濃州岐阜至令納馬候も蜂須賀の動きではなく秀吉の動きじゃねぇかよ。

従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
などと、秀吉方の動きをリアルタイムに伝えており、また安国寺や林が只今参陣したなどと、秀吉陣営への毛利方の到着を
近い時間で伝えている。蜂須賀が岸和田や中国口にいたのなら、
一々秀吉の動きやその周辺の様子を秀吉が蜂須賀に知らせる→蜂須賀が毛利に知らせる
などと無駄な作業が増えるだけだし、そんな事やってる様子も全くない。
只今到着した、などとは絶対に書かない。

>>秀包の母の乃美大方が輝元に早く帰って来るように嘆願して心配しまくっとる
はぁ?そんな文書どこにあるんだよ。妄想乙

>>隆景は蜂須賀に取り次いで戦況を聞いてるだけだし。
ソースなし。
>>備前衆は仙谷や小西らに率いられ讃岐の十河城へ長曾我部対策で渡海してしまう
だから備前の衆=秀吉軍のうち、3月上旬時点で中国方面に残ってた連中を総括的に括ってるだけだと言ってるんだが?
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
だが、宇喜多軍が岸和田に入ったなどとは一言も書いてないわけだが。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

と書いてるから、秀吉が以前に派遣した軍勢の内の黒田や蜂須賀らが楽田に呼び寄せられてるのが明確なんだが。
830人間七七四年:2014/02/21(金) 16:59:45.23 ID:sYo4jJJy
>>蜂須賀が当表之儀ってのは毛利との国境折衝を存分に秀吉から任された
そんな事どこにも書いてねーよクズ
つか安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよチンカスゴミ野郎
6/12秀吉→高木  人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀  当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、

>>お前は至大坂納馬と書いてあれば、ぜんぶ蜂須賀がいたことに曲解できる便利な
何がいいたいのかわからん。俺がいつそんな事いったのか日本語で頼む。
>>如水が仙石や小西に指揮されて渡海するハメになる
そんな事言ってない。4/8秀吉→丹羽だと備前衆壱万計相越候条と書いてるが
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
備前衆のうち、五六千を黒田蜂須賀が率いて尾張に出兵(最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事)
残りは四国に6月に出兵したといってるだけ。

>>リアルタイムに書いてるから蜂須賀や如水がい
そりゃ普通に考えれば当たり前だろ。
安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよ

従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
などと、秀吉方の動きをリアルタイムに伝えてる
秀吉陣営への毛利方の到着を近い時間で伝えている。蜂須賀が岸和田や中国口にいたのなら、
一々秀吉の動きやその周辺の様子を秀吉が蜂須賀に知らせる→蜂須賀が毛利に知らせる
などと無駄な作業が増えるだけだし、そんな事やってる様子も全くない。
只今到着した、などとは絶対に書かない。
831人間七七四年:2014/02/21(金) 17:01:15.20 ID:fL3/rtj2
7/6秀吉→秀長 其方は池尻(美濃)に在候、境目の城城へ人を遣、追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…


その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

なんで池尻の秀長に尽いていってる者にたいして陣を固くして守れと書いてる命令文書が
各地にいる者に対して、などといきなりの文脈に入れ替わるんだw
秀長は池尻にいたのに
そっから遠い所にいる連中らに対しての命令をなぜ秀長にw
直接秀吉がそいつらに伝えた方が早いじゃんw

>>宇喜多と毛利の境目の確定作業やってる蜂須賀や黒田らは必要ないって言ってるんだが。
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
>>長政に尾張に来るようにではなく備前衆に早く羽柴陣営に来るようにいっている。
完全に屁理屈だね。備前衆=中国方面にいた秀吉軍なんだからどうみても黒田や蜂須賀の事だろボケ。
とりあえずお前は馬鹿だから谷口央氏の「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」でも読んで一から勉強しなおすべきだね。
>>宇喜多と毛利の国境問題が片付いていない
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>父の如水に交渉を早く進めて宇喜多軍が来るように言ってるのだろう。
そんな事どこにもかかれてねーよクズ。
>>長政を派遣した如水がいるであろう播磨の地にて如水宛に播磨宍栗郡一職を与えている。
播磨の地に如水がいる根拠が微塵も書かれてないんだが。
>>陣立書なんて秀次の陣に如水がいたりと丹羽長秀の陣に如水がいたりと
はぁ?それのどこが間違いなんだよアホ。
>>どこまで事実が反映されているかわからん怪しいものだわ。
お前の大好きな三鬼氏が何より陣立書を当時の一揆的秩序しかなかった軍を上下関係に基づいた公儀の軍にした
画期的な物だったと誰より書いててるって何回もコピペ垂れ流してるのに矛盾した事をいうなよクズ野郎
意図的に「被」を抜いて
池尻にいる秀長の陣(其方其陣)にいる者に対して陣を固く申し付けられるよう
委細を森三右衛門尉の口上に申し含んで遣り候
と書いてるのを
播磨之人数や木村らが播磨にいてそのまま守らせたとか曲解してんじゃねーよクズ
832人間七七四年:2014/02/21(金) 17:02:21.63 ID:fL3/rtj2
>>どこにも如水が尾張にきていた証拠は無いな。
陣立書に書いてる。 また、3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
>>備前衆は宇喜多軍のこと
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状
>>毛利と国境交渉を続けていた如水なら播磨衆
如水の給地が播磨限定だったかわからんし、毛利との国境付近で折衝してたんなら
備前衆=備前にいた衆=備前で国境折衝に当たってた蜂須賀黒田や宇喜多など全体指して使った、で問題ないだろ。
>>陣立書なんて当時、13歳の丹羽長重が東の構え責任者で西の構えが丹羽長秀
そんなんどこに書いてる?後、それが嘘だという根拠は?
陣立書は軍勢数は一次資料と大きく乖離があるが、メンバーに関しては史実通りだろ。
池田親子や森らや木下兄弟なんて戦死後登場しなくなるし
>>備前衆は仙谷や小西らに率いられ讃岐の十河城へ長曾我部対策で渡海してしまう
だから備前の衆=秀吉軍のうち、3月上旬時点で中国方面に残ってた連中を総括的に括ってるだけだと言ってるんだが?
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
だが、宇喜多軍が岸和田に入ったなどとは一言も書いてないわけだが。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
と書いてるから、秀吉が以前に派遣した軍勢の内の黒田や蜂須賀らが楽田に呼び寄せられてるのが明確なんだが。
>>蜂須賀が当表之儀ってのは毛利との国境折衝を存分に秀吉から任された
そんな事どこにも書いてねーよクズ
つか安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよチンカスゴミ野郎
6/12秀吉→高木  人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀  当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
>>宇喜多と毛利の境目の確定作業やってる蜂須賀や黒田らは必要ないって言ってるんだが。
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
>>長政に尾張に来るようにではなく備前衆に早く羽柴陣営に来るようにいっている。
完全に屁理屈だね。備前衆=中国方面にいた秀吉軍なんだからどうみても黒田や蜂須賀の事だろボケ。
とりあえずお前は馬鹿だから谷口央氏の「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」でも読んで一から勉強しなおすべきだね。
833人間七七四年:2014/02/21(金) 17:03:51.12 ID:H5OEVQfb
>>宇喜多と毛利の国境問題が片付いていない
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>父の如水に交渉を早く進めて宇喜多軍が来るように言ってるのだろう。
そんな事どこにもかかれてねーよクズ。
>>長政を派遣した如水がいるであろう播磨の地にて如水宛に播磨宍栗郡一職を与えている。
播磨の地に如水がいる根拠が微塵も書かれてないんだが。
>>陣立書なんて秀次の陣に如水がいたりと丹羽長秀の陣に如水がいたりと
はぁ?それのどこが間違いなんだよアホ。
>>どこまで事実が反映されているかわからん怪しいものだわ。
お前の大好きな三鬼氏が何より陣立書を当時の一揆的秩序しかなかった軍を上下関係に基づいた公儀の軍にした
画期的な物だったと誰より書いててるって何回もコピペ垂れ流してるのに矛盾した事をいうなよクズ野郎
黒田如水も蜂須賀も秀吉と同陣して楽田に来てる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。 三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある。秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる。伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、
堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。 堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。 信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
834人間七七四年:2014/02/21(金) 17:06:41.20 ID:QdoOUaii
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
5/5蜂須賀正勝書状 従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
6/12秀吉→高木 
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、

7/6秀吉→秀長 其方は池尻(美濃)に在候、境目の城城へ人を遣、追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。
>>越前衆のことなど5行に分けて各地の状況を秀長に報告してるだろ
その書状の要旨
滝川が退城するのにつき、7月15日の軍事行動を8月まで延期する
越前衆は8月に動く
秀吉は養生した上で10日くらいにこの地を罷り立つ
秀吉がまかり越し次第其方をも人数をも8月まで甘させる
我々が罷り越さない間はその方は池尻にいて境目の城城に人を遣り
追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

どっからどう読んでも秀長に対する命令文書として播磨の人数を固く申しつけよと
書いてるだけなんだがw
>>お前は播磨と備前を混同してた
混同してねーよクズ 播磨から出兵しようが備前で長期間にわたって領土国分折衝交渉に当たってたら
備前之衆
備前之衆=宇喜多軍なんて決まりねーよアホ。
大体黒田だって、備前に給地があったかもしれんだろうがw
>>備前衆を率いる黒田軍と岸和田に派遣された黒田軍と言う謎の黒田軍団って言う矛盾しまくり
だから備前の衆=秀吉軍のうち、3月上旬時点で中国方面に残ってた連中を総括的に括ってるだけだと言ってるんだが?
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
だが、宇喜多軍が岸和田に入ったなどとは一言も書いてないわけだが。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

と書いてるから、秀吉が以前に派遣した軍勢の内の黒田や蜂須賀らが楽田に呼び寄せられてるのが明確なんだが。
>>蜂須賀が当表之儀ってのは毛利との国境折衝を存分に秀吉から任された
そんな事どこにも書いてねーよクズ
つか安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよチンカスゴミ野郎
6/12秀吉→高木  人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀  当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
835人間七七四年:2014/02/21(金) 17:08:42.30 ID:QdoOUaii
陣立書に書かれてる武将名があてにならんとかそんな妄想書いてる学者はいないし
三鬼清一郎氏も陣立書は当時として公儀性を与える画期的な物だったと評価してる
たった一点の誤りを持って史料の全てが嘘になるわけではないわけで。
特に丹羽とか、そこそこの地位があり、かつ秀吉と同陣していない連中は、秀吉と書状でやり取りして
戦況伝えたり伝令送ったりしてるわけで、秀吉は津田・富田・八重羽など伊勢の諸将や岐阜の秀勝や因幡の亀井や、尾張の小砦にいた一柳や
北国の前田や丹羽や中国の毛利や上杉などとは連絡取り合ってるのに
如水とは音沙汰なしというのは黒田と秀吉が同陣していないのならありえないだろ。
現に黒田と一緒に行動してる蜂須賀も、出兵してきてるのがわかるし
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けた。西口留守居を為し、備前・美作・因幡の人数は一人も動かさず
留守居にして置いておく。紀州事は種種様々な懇望があり岸和田城に中村一氏3000ばかりであるが、蜂須賀正勝・前野長康・赤松則房・明石則実・生駒親正
黒田孝高六七千を加勢にして、丈夫に残し置き申す。大坂には2000ばかり留守居を置く。
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
5/5蜂須賀正勝書状 従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言

備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状
6/12秀吉→高木
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
7/27秀吉→蜂須賀正勝・黒田孝高・生駒親正・前野長康
尚々各令陣取明日可被越候、己上、態申遣上、依我々此地へ相越候之間、定敵相動儀在之間敷候、然者明日可申聞子細候之間、馬乗
ニ三騎宛ニテ曾根へ可相越候、梯期面候、恐々謹言
愛知県史資料編だと3/11秀吉→蜂須賀・黒田の最後の節で
其元之人数壱人も無用にて候者、となってるが、その後に八郎家中之者共ニ可申聞候、自然鉄砲放なとは
よひこし可申候間
と続いているので、無用にて候者ではなく無用にて候由がただしいだろう。
兵庫県史資料編中世9でも長久手町史資料編諸収の文書でも候由と書かれてて
文脈的にもこっちが正しいのがわかる。
なぜならその文書の前段部分では其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示しているからな。
836人間七七四年:2014/02/21(金) 17:10:48.13 ID:Y1/NLjhQ
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状
>>宇喜多と毛利の境目の確定作業やってる蜂須賀や黒田らは必要ないって言ってるんだが。
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
>>長政に尾張に来るようにではなく備前衆に早く羽柴陣営に来るようにいっている。
完全に屁理屈だね。備前衆=中国方面にいた秀吉軍なんだからどうみても黒田や蜂須賀の事だろボケ。
とりあえずお前は馬鹿だから谷口央氏の「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」でも読んで一から勉強しなおすべきだね。
>>宇喜多と毛利の国境問題が片付いていない
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>父の如水に交渉を早く進めて宇喜多軍が来るように言ってるのだろう。
そんな事どこにもかかれてねーよクズ。
>>長政を派遣した如水がいるであろう播磨の地にて如水宛に播磨宍栗郡一職を与えている。
播磨の地に如水がいる根拠が微塵も書かれてないんだが。
>>陣立書なんて秀次の陣に如水がいたりと丹羽長秀の陣に如水がいたりと
はぁ?それのどこが間違いなんだよアホ。
>>どこまで事実が反映されているかわからん怪しいものだわ。
お前の大好きな三鬼氏が何より陣立書を当時の一揆的秩序しかなかった軍を上下関係に基づいた公儀の軍にした
画期的な物だったと誰より書いててるって何回もコピペ垂れ流してるのに矛盾した事をいうなよクズ野郎
>>どこにも如水が尾張にきていた証拠は無いな。
陣立書に書いてる。 また、3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
>>備前衆は宇喜多軍のこと
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状
>>毛利と国境交渉を続けていた如水なら播磨衆
そもそも如水の給地が播磨限定だったかわからんし、毛利との国境付近で折衝してたんなら
備前衆=備前にいた衆=備前で国境折衝に当たってた蜂須賀黒田や宇喜多など全体指して使った、で問題ないだろ。
>>陣立書なんて当時、13歳の丹羽長重が東の構え責任者で西の構えが丹羽長秀
そんなんどこに書いてる?後、それが嘘だという根拠は?
陣立書は軍勢数は一次資料と大きく乖離があるが、メンバーに関しては史実通りだろ。
池田親子や森らや木下兄弟なんて戦死後登場しなくなるし
837人間七七四年:2014/02/21(金) 17:37:56.04 ID:H5OEVQfb
>>何で黒田らが備前方面の国境折衝していたから備前衆なんだ?黒田が備前にいたなんてどこにも書いてない
その前に黒田がずっと中国方面で折衝してたなんて事がどこにも書いていないんだが。
毛利との国境画定作業折衝なら、当然、毛利との国境に近い備前方面にいるのは当たり前だろタコ

>>隆景の御状への返事として人質として尾張で従軍している秀包が無事にやってることを取り次いでいるだけで
>>濃州岐阜至令納馬候も蜂須賀の動きではなく秀吉の動きじゃねぇかよ。

従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
などと、秀吉方の動きをリアルタイムに伝えており、また安国寺や林が只今参陣したなどと、秀吉陣営への毛利方の到着を
近い時間で伝えている。蜂須賀が岸和田や中国口にいたのなら、
一々秀吉の動きやその周辺の様子を秀吉が蜂須賀に知らせる→蜂須賀が毛利に知らせる
などと無駄な作業が増えるだけだし、そんな事やってる様子も全くない。
只今到着した、などとは絶対に書かない。

>>秀包の母の乃美大方が輝元に早く帰って来るように嘆願して心配しまくっとる
はぁ?そんな文書どこにあるんだよ。妄想乙
>>隆景は蜂須賀に取り次いで戦況を聞いてるだけ
ソースなし。
>>備前衆は仙谷や小西らに率いられ讃岐の十河城へ長曾我部対策で渡海してしまう
だから備前の衆=秀吉軍のうち、3月上旬時点で中国方面に残ってた連中を総括的に括ってるだけだと言ってるんだが?
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
だが、宇喜多軍が岸和田に入ったなどとは一言も書いてないわけだが。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

と書いてるから、秀吉が以前に派遣した軍勢の内の黒田や蜂須賀らが楽田に呼び寄せられてるのが明確なんだが。

>>蜂須賀が当表之儀ってのは毛利との国境折衝を存分に秀吉から任された
そんな事どこにも書いてねーよクズ
つか安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよチンカスゴミ野郎
6/12秀吉→高木  人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀  当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
838人間七七四年:2014/02/21(金) 17:40:37.72 ID:H5OEVQfb
>>お前は至大坂納馬と書いてあれば、ぜんぶ蜂須賀がいたことに曲解できる便利な
何がいいたいのかわからん。俺がいつそんな事いったのか日本語で頼む。
>>如水が仙石や小西に指揮されて渡海するハメになる
そんな事言ってない。4/8秀吉→丹羽だと備前衆壱万計相越候条と書いてるが
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
備前衆のうち、五六千を黒田蜂須賀が率いて尾張に出兵(最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事)
残りは四国に6月に出兵したといってるだけ。

>>リアルタイムに書いてるから蜂須賀や如水がい
そりゃ普通に考えれば当たり前だろ。
安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよ

従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
などと、秀吉方の動きをリアルタイムに伝えてる
秀吉陣営への毛利方の到着を近い時間で伝えている。蜂須賀が岸和田や中国口にいたのなら、
一々秀吉の動きやその周辺の様子を秀吉が蜂須賀に知らせる→蜂須賀が毛利に知らせる
などと無駄な作業が増えるだけだし、そんな事やってる様子も全くない。
只今到着した、などとは絶対に書かない。
>>陣立書なんて秀次の陣に如水がいたり丹羽長秀の陣に如水がいたり
それはどの陣立書の事だ?
また、陣立書が作成された時期が同一ではないんだし、別の場所にいるのは当然だと思うが?
>>13歳の丹羽長重が東の構え責任者

どこにも丹羽長重が東の構え責任者なんてかかれてない。
おそらく浅野家文書Bの陣立書の事を言ってるんだろうが、丹羽長重は中五の大将とかかれてるだけであって
この陣立書では、一番下に書かれた者が総責任者になるといった構成ではかかれてない。
>>西の構えが丹羽長秀とか明らかにおかしいだろw
それはその陣立書の事だ?
>>4/8の秀吉から長秀宛で長重が陣取りした場所について
五郎左衛門尉殿陣取、可然山を要害ニ申付居陣候、普請以下万端被入精

陣立書に書かれてる武将名があてにならんとかそんな妄想書いてる学者はいないし
三鬼清一郎氏も陣立書は当時として公儀性を与える画期的な物だったと評価してる
たった一点の誤りを持って史料の全てが嘘になるわけではないわけで。
特に丹羽とか、そこそこの地位があり、かつ秀吉と同陣していない連中は、秀吉と書状でやり取りして
戦況伝えたり伝令送ったりしてるわけで、秀吉は津田・富田・八重羽など伊勢の諸将や岐阜の秀勝や因幡の亀井や、尾張の小砦にいた一柳や
北国の前田や丹羽や中国の毛利や上杉などとは連絡取り合ってるのに
如水とは音沙汰なしというのは黒田と秀吉が同陣していないのならありえないだろ。
現に黒田と一緒に行動してる蜂須賀も、出兵してきてるのがわかるし
839人間七七四年:2014/02/21(金) 17:41:40.98 ID:H5OEVQfb
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けた。西口留守居を為し、備前・美作・因幡の人数は一人も動かさず
留守居にして置いておく。紀州事は種種様々な懇望があり岸和田城に中村一氏3000ばかりであるが、蜂須賀正勝・前野長康・赤松則房・明石則実・生駒親正
黒田孝高六七千を加勢にして、丈夫に残し置き申す。大坂には2000ばかり留守居を置く。
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
5/5蜂須賀正勝書状
従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
6/12秀吉→高木
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
7/27秀吉→蜂須賀正勝・黒田孝高・生駒親正・前野長康
尚々各令陣取明日可被越候、己上、態申遣上、依我々此地へ相越候之間、定敵相動儀在之間敷候、然者明日可申聞子細候之間、馬乗
ニ三騎宛ニテ曾根へ可相越候、梯期面候、恐々謹言
>>蜂須賀が当表之儀って書いてて毛利との国境折衝を存分に秀吉から任されたと書いてるんだから、
いつのこと書いてるか知らんけど、蜂須賀の天正12年の史料は下記の通り
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けた。西口留守居を為し、備前・美作・因幡の人数は一人も動かさず
留守居にして置いておく。紀州事は種種様々な懇望があり岸和田城に中村一氏3000ばかりであるが、蜂須賀正勝・前野長康・赤松則房・明石則実・生駒親正
黒田孝高六七千を加勢にして、丈夫に残し置き申す。大坂には2000ばかり留守居を置く。
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
5/5蜂須賀正勝書状
従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
6/12秀吉→高木
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
7/27秀吉→蜂須賀正勝・黒田孝高・生駒親正・前野長康
尚々各令陣取明日可被越候、己上、態申遣上、依我々此地へ相越候之間、定敵相動儀在之間敷候、然者明日可申聞子細候之間、馬乗
ニ三騎宛ニテ曾根へ可相越候、梯期面候、恐々謹言
840人間七七四年:2014/02/21(金) 17:44:05.67 ID:QdoOUaii
>>リアルタイムに書いてるから蜂須賀や如水がい
そりゃ普通に考えれば当たり前だ。 安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよ
従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
などと、秀吉方の動きをリアルタイムに伝えてる
秀吉陣営への毛利方の到着を近い時間で伝えている。蜂須賀が岸和田や中国口にいたのなら、
一々秀吉の動きやその周辺の様子を秀吉が蜂須賀に知らせる→蜂須賀が毛利に知らせる
などと無駄な作業が増えるだけだし、そんな事やってる様子も全くない。
只今到着した、などとは絶対に書かない。
>>いちいち秀吉は正勝や如水に指示の書状を出さない

指示は出さなくても報告は出さないのはおかしい。
特に丹羽とか、そこそこの地位があり、かつ秀吉と同陣していない連中は、秀吉と書状でやり取りして
戦況伝えたり伝令送ったりしてるわけで、秀吉は津田・富田・八重羽など伊勢の諸将や岐阜の秀勝や因幡の亀井や、尾張の小砦にいた一柳や
北国の前田や丹羽や中国の毛利や上杉などとは連絡取り合ってるのに
如水とは音沙汰なしというのは黒田と秀吉が同陣していないのならありえないだろ。
現に黒田と一緒に行動してる蜂須賀も、出兵してきてるのがわかるし
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状
7/6秀吉→秀長 其方は池尻(美濃)に在候、境目の城城へ人を遣、追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

滝川が退城するのにつき、7月15日の軍事行動を8月まで延期する
越前衆は8月に動く
秀吉は養生した上で10日くらいにこの地を罷り立つ
秀吉がまかり越し次第其方をも人数をも8月まで甘させる
我々が罷り越さない間はその方は池尻にいて境目の城城に人を遣り
追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

どっからどう読んでも秀長に対する命令文書として播磨の人数を固く申しつけよと
書いてるだけなんだがw
841人間七七四年:2014/02/21(金) 18:31:53.69 ID:PrcCO0O7
其方=お前
其方其陣=お前のその陣
其方にそれぞれの武将達なんて意味はないし
其陣にそれぞれの場所なんて意味もない。
>>箇条書きされている項において全く違う項に出てくる
前項から続いているんだから秀長の陣にいる者たちに対して命令しただけだろ。
その書状の要旨は 滝川が退城するのにつき、7月15日の軍事行動を8月まで延期する
越前衆は8月に動く
秀吉は養生した上で10日くらいにこの地を罷り立つ
秀吉がまかり越し次第其方をも人数をも8月まで甘させる
我々が罷り越さない間はその方は池尻にいて境目の城城に人を遣り
追々可有注進候、取分東美濃無心本候条 尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。
だから秀吉の8月の出兵計画を中心に詳しく述べただけだから
前項からの続きで秀吉が罷り越さない内はお前が池尻にいて境目の城に兵をいれ注進しろ。
東美濃が心もとないので尾藤まで念をいれて申し付けられよ。
その続きで木村や毛介らお前の陣にいる者に対して陣を固くして守れといってるだけ。
陣後とは陣の後ろの部分だから、領国内の後方部分ではなく「陣」の背後を固めろといってるだけ。
それぞれの武将達がそれぞれの場所なら各事とか各之陣とか書かれてる。
現に羽柴方の他の文書では「各」などがよく使われてて其方其陣なんて使われてない
池尻の秀長の陣の後ろ(背後)を固くしろって命じてるだけで
領内の後方部分を防備しろなんてトンデモ解釈どうやってもできねーよクズ
陣後が陣の後ろではなく、領国の後方部分なんてトンデモ解釈どこに載ってんだよクズ
広辞苑より 陣後  陣屋のうしろ。また陣列のうしろ。
領内の後方部分なんてトンデモ解釈誰が書いてんだよwww
3/13秀吉→丹羽長秀
秀長を近江の守山に置き、伊勢への心当陣取せ候 秀勝を近江草津に置き丹波一国の軍勢を召し連れて陣取らせた
細川忠興を近江瀬田に陣取らせた。
加藤作内・木村隼人・堀尾茂介、これ等茂甲賀のまん中に陣取せ候

どうみても木村や堀尾らは出兵してて領内後方防備など命じられてないんだがw
842人間七七四年:2014/02/21(金) 18:35:20.49 ID:PrcCO0O7
其方って言葉を広辞苑や古文書の辞書など3種類の辞書で引いたが
それぞれの者なんて意味は全く出てこなかった。
文書類で其方をお前ではなくそれぞれの者なんて意味で使う用法あるのか?
あるなら文書の原文を書いて欲しいんだが。
>>別本黒田家譜が長政を岸和田に派遣して如水は行かなかったとしている事には根拠
そもそも別本黒田家譜を後世の編纂史料であって一次資料じゃねーよクズ
>>隆景の奉公人やってた鵜飼元辰→中島元行宛4/1付書状において備中表河切に罷成って報告
それも別本黒田家譜がソースだろアホ。
>>3/21の如水書状に出てくる隆景との国境交渉の話
そんな文書ない。
>>岸和田での対応は急ぎであり、
根拠なし。
>>如水らは動けないから当然に長政が行く
如水らが動けない理由はなし。3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けたと書いてて、西国方面の事は片付いて
家康領国へ領内の兵力総動員して攻めかかる準備してただけ。
>>秀吉による岸和田での戦功の7/18の感状は長政宛だ。
根拠不明。
>>岸和田では3/18や3/22で触れているように敵の攻撃が頻発
3/18や3/22の文書にそんな内容書かれた物はねーよ捏造乙
>>どう考えても如水らは岸和田に行って無い
はぁ?馬鹿かお前。
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けた。西口留守居を為し、備前・美作・因幡の人数は一人も動かさず
留守居にして置いておく。紀州事は種種様々な懇望があり岸和田城に中村一氏3000ばかりであるが、蜂須賀正勝・前野長康・赤松則房・明石則実・生駒親正
黒田孝高六七千を加勢にして、丈夫に残し置き申す。大坂には2000ばかり留守居を置く。
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
>>備前衆が如水たちじゃない
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状
>>3/13での秀吉の長秀への報告で実際は隆景と交渉してて無理だよね。長政を動かすしかないよね。
そんな事どこにも書いてねーよクズ
>>近江は銃後というべき安全圏
アホか。近江なんて美濃と目と鼻の先の距離の上に
其の文書は最後の段に14・15日くらいで世の中の物狂いを酒の酔いを醒ます如く
決着つけてやると書かれてて伊勢方面や美濃方面の出兵に対して眼前の甲賀や近江に出兵させただけだろうがw
>>それぞれがあちこちに陣を構えて其方其陣後方を固く守っている
其方=お前
其方其陣=お前のその陣
其方にそれぞれの武将達なんて意味はないし
其陣にそれぞれの場所なんて意味もない。
843人間七七四年:2014/02/21(金) 18:35:25.38 ID:QdoOUaii
>>箇条書きされている項において全く違う項に出てくる
前項から続いているんだから秀長の陣にいる者たちに対して命令しただけだろ。

その書状の要旨は 滝川が退城するのにつき、7月15日の軍事行動を8月まで延期する
越前衆は8月に動く 秀吉は養生した上で10日くらいにこの地を罷り立つ
秀吉がまかり越し次第其方をも人数をも8月まで甘させる
我々が罷り越さない間はその方は池尻にいて境目の城城に人を遣り
追々可有注進候、取分東美濃無心本候条 尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は陣後を固くして申しつけよ。
だから秀吉の8月の出兵計画を中心に詳しく述べただけだから
前項からの続きで秀吉が罷り越さない内はお前が池尻にいて境目の城に兵をいれ注進しろ。
東美濃が心もとないので尾藤まで念をいれて申し付けられよ。
その続きで木村や毛介らお前の陣にいる者に対して陣を固くして守れといってるだけ。
陣後とは陣の後ろの部分だから、領国内の後方部分ではなく「陣」の背後を固めろといってるだけ。
それぞれの武将達がそれぞれの場所なら各事とか各之陣とか書かれてる。
現に羽柴方の他の文書では「各」などがよく使われてて其方其陣なんて使われてない
844人間七七四年:2014/02/21(金) 18:36:26.97 ID:H5OEVQfb
>>7/6の秀吉が秀長に報告しているのはもはや伊勢攻めの話じゃなくて、
7/6秀吉→秀長 其方は池尻(美濃)に在候、境目の城城へ人を遣、追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。
滝川が退城するのにつき、7月15日の軍事行動を8月まで延期する
越前衆は8月に動く
秀吉は養生した上で10日くらいにこの地を罷り立つ
秀吉がまかり越し次第其方をも人数をも8月まで甘させる
我々が罷り越さない間はその方は池尻にいて境目の城城に人を遣り
追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。
どっからどう読んでも秀長に対する命令文書として播磨の人数を固く申しつけよと
書いてるだけなんだがw
>>6/10に竹鼻城を奪い取った時点で養生を兼ねて戦線を整理し大坂に帰って休戦状態
アホかお前。
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと考えられ
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
と秀吉が大垣に居座って、眼前の距離にある蟹江で信雄と家康領国を分断できる大チャンスに対して
長久手合戦でわずか自軍の7分の1の兵力の徳川や信雄に1万人殺された秀吉はビビリまくって
大坂にヘタレ敗走しただけだろ。滝川の力投むなしく蟹江も前田も下市場も奪回されるアホっぷりだし
休戦どころか、滝川が力闘してたのをむざむざ見殺しにして大坂まで大敗走したのが秀吉。
845人間七七四年:2014/02/21(金) 18:38:49.98 ID:2sXBDJmT
>>次に本格始動するのは8/11に大坂を秀吉が出撃した時
6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
>>全く内容が違う話で比較するのはおかしいだろ。
何がいいたいのかわからん。
>>秀吉が大坂に帰ってきて8/2辺りでは有馬温泉で養生したりしてマッタリ生活
単に雑魚の信雄や家康に自軍が圧倒的に有利な状況や兵力差でも馬鹿みたいに部下を殺されたために
ビビリまくって温泉で養生するなど仮病使って
滝川が作った大チャンスを無駄にして家康や信雄から逃げ回って決戦を避けて
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
>>ほとんど中国にいた
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している

3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けた。西口留守居を為し、備前・美作・因幡の人数は一人も動かさず
留守居にして置いておく。紀州事は種種様々な懇望があり岸和田城に中村一氏3000ばかりであるが、蜂須賀正勝・前野長康・赤松則房・明石則実・生駒親正
黒田孝高六七千を加勢にして、丈夫に残し置き申す。大坂には2000ばかり留守居を置く。
846人間七七四年:2014/02/21(金) 18:42:18.17 ID:2sXBDJmT
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
5/5蜂須賀正勝書状
従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
6/12秀吉→高木
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
7/27秀吉→蜂須賀正勝・黒田孝高・生駒親正・前野長康
尚々各令陣取明日可被越候、己上、態申遣上、依我々此地へ相越候之間、定敵相動儀在之間敷候、然者明日可申聞子細候之間、馬乗
ニ三騎宛ニテ曾根へ可相越候、梯期面候、恐々謹言
7/6秀吉→秀長 其方は池尻(美濃)に在候、境目の城城へ人を遣、追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。
滝川が退城するのにつき、7月15日の軍事行動を8月まで延期する 越前衆は8月に動く
秀吉は養生した上で10日くらいにこの地を罷り立つ 秀吉がまかり越し次第其方をも人数をも8月まで甘させる
我々が罷り越さない間はその方は池尻にいて境目の城城に人を遣り 追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり… 播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。
どっからどう読んでも秀長に対する命令文書として播磨の人数を固く申しつけよと
書いてるだけなんだがw
陣立書よりも黒田家譜のほうが信憑性あるなんて誰が書いてるのか詳しく知りたいもんだね
東大史料編纂所HPでも大日本史料の綱文でもスルーされまくってる偽文書を
陣立書の武将記述よりも信頼できるように語るとか相当馬鹿だな
秀吉は伊勢から北尾張に陣替する際、留守居を除く全軍を北尾張に結集させてる
4/7秀吉→八重羽・富田・津川   陣立書一、3/28秀長→長秀書状 4/8秀吉→一柳や4/10筒井順慶書状
3/22渡辺清忠書状などでわかる。勿論甲賀方面の一柳らも一緒に尾張に行軍してる。
つか、そもそも瀬田や甲賀みたいな中途半端なところに軍置いたままにしておいて何の意味があるのかと。
長久手合戦の陣立書や3/11秀吉→木下判物3/13秀吉→丹羽3/17羽柴秀吉人数書立
3/19毛利輝元→大多和副宗衛尉、3/20秀吉→池田3/22渡辺清忠→元行3/26秀吉→黒田長政
3/29秀長→秀吉4/8秀吉→丹羽、同日秀吉→毛利4/10筒井書状4/11秀吉→木曽、長船、富岡
同日あて先不明書状、4/12秀吉→富田八重羽津田などみても秀吉は総軍あげてほとんどの武将引き連れて
13万以上の圧倒的大軍でわずか16000〜7000の信雄・家康連合軍に戦い挑んでるのに
戦力集中させてないとかアホすぎてワロタw
847人間七七四年:2014/02/21(金) 18:43:07.79 ID:2sXBDJmT
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
848人間七七四年:2014/02/21(金) 18:44:06.96 ID:QdoOUaii
3/20秀吉→池田恒興
伊勢に松ヶ島一城に滝川雄利が篭もっているのを2万で取り巻かせている
神戸城には滝川一益3000を置いている
峰城を拵え浅野弥太夫・岡本両人に1600〜1700で留守居に残し置く
其の他五畿内・江州・越州・西国之人数を江州にてそろえ、天気次第、
明日21日に筑前も濃州池尻に著陣する
3/22渡辺清忠→元行
秀包様は築州と同心なされ、境津を今月13日に出られた。委細は先勢広繁様の仰る事。
秀吉は今月10日に馬を出し伊勢に陣を向け、伊勢では先陣の秀次・秀長・滝川が2万4〜5千で討ち入り三介殿は
長島一城に篭もった。これもすぐに落ちるだろう。
家康は尾張に陣取ったのでこれを討ち果たすとして秀吉が10万で美濃に陣替えした。
849人間七七四年:2014/02/21(金) 19:03:03.98 ID:2sXBDJmT
>>秀吉は虫気の病にかかって苦しんでたから大坂城へ帰る方針
秀吉が病を患ったとか仮病だろ。しかも秀吉が病気とか書いてるのは7月になって秀吉が大坂にヘタレ敗走した後だから。
病気だから退却ではなく、ビビリまくって退却した後に仮病使って休んでただけだわ。
秀吉は来月15日前後に出兵計画木曽などに書いてて、この時点では何の病気も患っていなかったのがわかる。
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと考えられるし、秀吉がビビリまくって
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
と秀吉が大垣に居座って、眼前の距離にある蟹江で信雄と家康領国を分断できる大チャンスに対して
長久手合戦でわずか自軍の7分の1の兵力の徳川や信雄に1万人殺された秀吉はビビリまくって
大坂にヘタレ敗走しただけだろ。滝川の力投むなしく蟹江も前田も下市場も奪回されるアホっぷりだし
休戦どころか、滝川が力闘してたのをむざむざ見殺しにして大坂まで大敗走したのが秀吉。
>>小和田先生すら如水は国境交渉していて、岸和田には長政が行ったから感状は長政宛だった
ですらって何だよ(笑)小和田はどうでしょうもない軍記や家譜をネタに醜態晒してるだけだろうが。つうか三鬼の陣立書評価があてにならんとか
このときだけ都合いい論理持ち出してんじゃねぇよクズ
黒田孝高は確実に来てるし小牧長久手の戦いの構造の論文でもそう結論付けられてる。
>>小和田は秀次の敗北の時に如水はいなかったと結論
そんなトンデモ学者の妄想持ち出して何がいいたんだよアホ
>>秀吉は竹鼻城落城をもって尾張での戦勝
家康や信雄を2万以上の大軍で動けない状態にして逃げ回ったあげく、尾張の隅っこにある雑魚城一城落としたのをそんな自慢げに語られても。
>>岸和田への仕置きも兼ねて一旦、大坂へ納馬したかった
岸和田への仕置きなんて戦後にすればいいだけだろうが。
秀吉は>>369-370のように一貫して家康総攻撃と家康撃滅を志向しており、滝川の行動は大チャンスとしかいいようがねーよアホ。
家康が蟹江や前田を攻撃して出てくれば眼前の大垣から東ルートと西ルート経由で即座に蟹江に後詰すれば家康や信雄は背後が絶たれて全滅するのは目に見えてるからな。
>>6/21の中村一氏の書状にも触れられ
6/21中村一氏書状和泉に秀吉が近日出馬するとは書かれてるが戦後処理など理由の事は全く触れられていない。
秀吉は出兵中でも領土宛がいとか戦後処理やりまくってる。 わざわざ大坂に戻る必要性は0
>>滝川は5/24の秀吉→滝川書状で桑名如意たるへく候〜追々可承候〜切々御飛脚本望候 桑名はあなたの意にしていい
桑名はお前の意のままにしていいとは書いてるけど蟹江を調略を乗っ取るなど、尾張を切り取り次第とか手柄次第とか全く書いてないし
滝川の家臣でもない九鬼が滝川に従軍してるし秀吉の出兵計画は一貫して徳川領内への侵攻、
秀吉の意思がなかったら九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
850人間七七四年:2014/02/21(金) 19:04:52.91 ID:2sXBDJmT
>>陣替えするならおいおい承る
曲解乙 其元相替儀候者追々可承候→そこもと(そこで)相替儀候者→変わった事があったら
承する→聞き入れる、うけたまわる
被入念候て切切御飛脚本望候→念を入れて飛脚を持って知らせるのが望みである。
単に滝川にそこらへんで変わった事があったら知らせよと書いてるだけ。
>>秀吉は滝川に委任して放置している
これのどこが放置なんだよアホ
桑名をお前の望むようにしていいとは書いてるが切り取り次第とか好きに行動しろとか委任なんて全くしてねーよクズ
>>滝川がほとんど連絡してこないから連絡くらいしろ
そんな事どこにも書いていない。
>>滝川が秀吉に連絡してくることはなく
秀吉は蟹江から眼前の大垣にいたのに滝川の行動を知らないわけがねーだろクズw
>>秀勝が石川家清ルートで桑名表の情報を仕入れ
それが何で滝川が報告していない事の証明になるんだよアホ。
そもそも秀勝は秀吉陣から離れた美濃にいたんだし秀吉の情報ルートとは関係ねーよクズ
>>滝川の失敗のせいで神戸、浜田への防備増強の手当をする手間
滝川が失敗したのは目前で大チャンスを作って家康を討伐する機会を見事に失った秀吉のヘタレ退却じゃん。
>>滝川は信雄の長島と清州の家康の連絡を断つなどと無謀
無謀どころか大チャンスじゃん。蟹江や前田に秀吉が大軍で東西から後詰をすれば家康は逃げ道がなくなって殲滅されるのは目に見えてるし
それが無理でも大垣から眼前にある蟹江で2万くらい兵出せば余裕で蟹江の防衛と徳川方への大打撃は可能。
しかも今なら小牧山周辺の徳川方砦は徳川方が蟹江や前田を攻撃したことにより手薄ですっかすかな状態だから
そちらを攻めて落してもいいしな。滝川の行動により情勢が大変化する機会が生まれたが秀吉の馬鹿な退却で全てが無に喫したのが現実
>>秀吉は6/4の佐竹への書状で作戦計画を述べていて蟹江中割入りなんて全く計画に無い。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
851人間七七四年:2014/02/21(金) 19:06:51.49 ID:H5OEVQfb
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
>>両城を落とし、竹鼻城を取巻き木曽川を放水し水攻め
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
>>これで尾張の東三郡と西二郡を手に入れた
お前頭大丈夫か?西尾張の小城三城てを家康らを動けない状態にしてこれ見よがしに火事場ドロしただけで
小牧山やその周辺ライン、清洲やその周辺ラインの情勢は全く変わってないんだが。
尾張北部や西部の城すら攻略できてないのに東三郡西二郡手に入れたとかハッタリをそのまま事実として書いて恥ずかしくないか?
852人間七七四年:2014/02/22(土) 05:20:22.16 ID:xEpEDcmk
>>敵は残り二郡
もしそれが本当なら家康は小牧山や蟹江合戦どころじゃねぇwww今すぐ三河に退却降伏だわw
>>木曽川の洪水で長島と清州も水浸しになり
それが本当ならもう早々に長島も清洲も孤立して援軍後詰も不可能。
秋になってはるばる大軍で苅田や放火やりまくって信雄に挑発や示威行動やりまくってるのは全く無駄な作業
(つうか秀吉の話だと尾張の過半が水浸しになるみたいなトンデモ話だから、両軍とも尾張への居住や行軍など不可能で合戦自体が成り立たないw)
>>侍どころか百姓も餓死に追い込まれた
その餓死に追い込まれた百姓や侍を1人でもあげてみろよアホ。清洲でも長島でも全く人が餓死したり洪水浴びてる様子はないんだがw

>>秀吉は6/8に墨俣で茶会を開き勝利の美酒に酔っている

東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし

秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
853人間七七四年:2014/02/22(土) 05:21:20.73 ID:xEpEDcmk
尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止 3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉

秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
854人間七七四年:2014/02/22(土) 05:24:43.13 ID:xEpEDcmk
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
>>清州が空いたので、止む無く家康が入る
つまり小牧山やその周辺の砦はガラ空きでスッカスかだったにもかかわらず
秀吉は留守居部隊2万以上の軍勢に侵攻させる事もなく、楽田からヘタレ敗走したって事だなw
>>タイミングで6/16に蟹江城を滝川が調略で手に入れる
竹鼻落城で尾張への侵攻や伊勢への侵攻に展望が見えたのなら滝川の行動が大チャンスとしかいいようがねーよ。
つか谷口央氏はじめ、滝川の行動を単独行動なんて書いてる馬鹿な学者はいねーよ。
>>同日の秀吉書状では近日納馬候って書いている
滝川が折角大チャンス作ったんだから納馬を半月でも遅らせればいいだけだろ。
短期決戦なら1週間もあれば余裕で済むし、楽田留守居部隊に小牧山やその周辺の砦を襲わせ
秀吉軍は、美濃の秀勝軍と合流して東西から家康は包みこむように蟹江に後詰すれば家康は確実に殲滅されてただろうからな
何せ秀吉と信雄家康じゃ兵力が隔絶してるから、いくらでも戦略や戦術の幅はあるわけで。
>>本願寺も6/18に蒲生宛に尾州表〜属御勝手の段と書いて秀吉の勝利を祝
下間が尾州の儀増増ご勝手とか書いてるけど実際は全くご勝手になってないんだが。
尾張の隅っこにある三城を、家康を大軍で小牧山に張り付かせてこれ見よがしにドロボウしただけじゃん。
>>秀吉は6/27夜に大坂へ帰っている
家康や信雄にビビリまくってヘタレ敗走しただけじゃん。
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
855人間七七四年:2014/02/22(土) 09:04:46.48 ID:SaMXAp9D
そろそろスレタイに戻ってよいか?
856人間七七四年:2014/02/23(日) 21:23:39.72 ID:7TO7ieCZ
むしろ今すぐスレタイに戻してくれ
857人間七七四年:2014/02/24(月) 22:00:26.56 ID:hx+iv0gE
最新の清須会議に関する認識

・重臣同士の対立も無いシャンシャン会議だった
・三法師の擁立は清須会議以前からの既定路線
・お市の方の柴田勝家との結婚は、秀吉も協力しており、お市の方がそれを感謝している書状も残っている
・清須会議において徳川家康の甲斐信濃討ち入りも公認され、織田政権全体でそれを後援している
・柴田勝家と羽柴秀吉の対立は、あくまで清須会議以降の情勢の変化(信孝と信雄の対立)のため
858人間七七四年:2014/02/24(月) 22:04:37.34 ID:BnuIewM5
誰の新説?
859人間七七四年:2014/02/24(月) 22:07:49.31 ID:OCB/eq6/
>>858
史学の世界だと大体こんなかんじだろ。
860人間七七四年:2014/02/24(月) 22:45:25.23 ID:BnuIewM5
>>859
事実の羅列はいいけど
最初の二つはあまり聞かないなぁ。
861人間七七四年:2014/03/02(日) 10:54:06.27 ID:q/aTwSO/
信忠後見人だった信包など織田一族を排除しておいて円満会議なわけが無いな。
それに秀吉や秀長が自分で切り取った播磨以西だけでなく、
山城や丹波や大和や河内の一部などむちゃくちゃ広大な旧織田領地を獲得してるし。
さすがに坂本など近江の一部の要求は取り下げて、
自分の息がかかっている丹羽に譲ったようだが。
柴田なんて自分で切り取った領地以外は長浜だけ。
織田一族を排除しての重臣たちの露骨な領地奪い合いが生まれていて、これで対立してないわけが無い。
しかも清洲会議が終わってまもなく丹後の細川と秀吉は血判同盟を取り交わして備えているのは、
清洲会議で対立した為に旧織田重臣間で徒党を組んで全面戦争に備えていた証拠。
862人間七七四年:2014/03/02(日) 13:10:41.99 ID:fau/GyEP
>>清須会議において徳川家康の甲斐信濃討ち入りも公認され、織田政権全体でそれを後援している

これの一次史料は?
そもそも北条との甲斐信濃争奪戦で、
家康が不利になった時に、もうすぐ織田軍の援軍が来るって、
家康がデタラメ吐いてただけだろ。
だいたい家康は信孝と戦うこtになった信雄に対して
お願いされる立場になり自分が有利な立場になったら信雄に
織田に組み込まれていた高橋荘などの旧三河領をよこせって要求するほど強欲だぞ。
863人間七七四年:2014/03/02(日) 14:26:28.03 ID:0jX0QFDT
家康は秀吉の攻勢に劣勢になると、
もうすぐ北条が来るってデタラメ吐いてるし。
家康の言うことは味方の離反を防ぐ為の虚勢張りでしか無い。
864人間七七四年:2014/03/02(日) 15:55:17.37 ID:54DTe7yI
全く劣勢になってない。
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が城主の中川が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
>>信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下
伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
>>戦略目標は達成
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
865人間七七四年:2014/03/02(日) 15:57:57.29 ID:54DTe7yI
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
866人間七七四年:2014/03/02(日) 15:58:41.98 ID:zbY8DczF
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる

尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
867人間七七四年:2014/03/02(日) 16:03:45.48 ID:zbY8DczF
秀吉が困った状況を隠すためにハッタリパフォーマンスするのはいつもの事。
例えば小牧長久手合戦で1万人殺され諸城の攻防でも長久保・浜田・戸木・松ノ木・二重掘・蟹江・前田・下市場・東駒野など
負けまくり奪回されまくってたが、下記のようにハッタリと捏造でもみ消してる。
パフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり
苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ

むしろそれは兵糧や物資に困ってて早期に決着つける必要があったため
相手の戦意喪失を狙ったものとみるべき。
むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、
金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし
20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。
豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし
兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで
秀吉ははっきりいって何もやってない。
そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。

あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、
兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。
逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし
小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。
868人間七七四年:2014/03/02(日) 16:04:27.53 ID:zbY8DczF
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
全く圧倒されてないしヤバくなってない。
むしろ秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>信雄への援軍すら出せずに見捨て
小牧山城やその周辺拠点には秀吉方の兵力2万以上いたから、秋時点で8000程度しかいなかった信雄・家康勢ではどうしようもない(家忠日記や当代記で
8月時点で家康はただでさえ少ない兵力の半分を領国に帰してるのがわかる)
しかもそんなわずかな兵力にもかかわらず6月には前田・下市場7月には蟹江・浜田を奪回し11月に長久保城を奪回してるのが信雄。
雑魚の信雄でも秀吉よりは遥かに戦上手だったのがわかる。
>>秀吉から懇望があったからとか
織田信雄の書状によれば間逆で秀吉が懇望してきたが断ったといってる
また9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
  信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などとデタラメをいつもの如くデッチあげているが、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
等と、なぜか9月時点での懇望を断ったのに11月では容認という明らかにデッチ上げの内容を書き連ねてる。
池上裕子氏も、小牧長久手の講和は、秀吉の懇望によって行われたと書いてる。
秀吉の戦果報告は以下のようにデッチ上げがほとんどなので、人質と書いてるのは例の如く秀吉のハッタリ誇大喧伝と見るべき。
>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
869人間七七四年:2014/03/02(日) 16:05:24.38 ID:zbY8DczF
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
870人間七七四年:2014/03/02(日) 16:06:02.48 ID:YmUYAayN
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で
抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく11/13秀吉→伊木、
池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている。そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっているこの時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
家康はおろか織田家で最も無能な信雄相手に135000で挑みかかって1万人ぶち殺され
戸木城・松ノ木城・河波城・東駒野城・二重掘砦では散々敗戦し
浜田城・長久保城・蟹江城・前田城・下市場城は秀吉方陣地のほど近くなのに見事に奪回されるアホっぷり。
雑魚すぎて涙が出てくるわw
結局会戦早々から三重臣、池田・森、尾張毛利氏はじめ離反の嵐だった信雄方に対して1年つかって自力では尾張半国すら切り取れないとかw
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
>>秀吉に呼応する上杉の南下と秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
圧倒的大軍がありながら他勢力頼みなのが秀吉。自力では規格外の大軍がありながら雑魚国力の信雄・家康相手に勝てないのがわかる
871人間七七四年:2014/03/02(日) 16:17:51.42 ID:YmUYAayN
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう
同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
872人間七七四年:2014/03/02(日) 16:29:03.86 ID:EOBYdZqI
また変なのが沸いて出た
873人間七七四年:2014/03/02(日) 16:32:39.94 ID:bTL1i1SV
対して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。

最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
874人間七七四年:2014/03/02(日) 16:34:17.96 ID:5a/RUvUU
>>秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこない
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>無駄な対陣しても仕方ないので付け城を小牧に三箇所申し付け
4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってたのにこのタイミングで普請とか妄想乙
いかにこの書状が秀吉の垂れ流したハッタリ誇大喧伝ばかり載ってるかわかる文章だなw
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」

>>軍を移動させ加賀野井城を落とし、奥城では信長舎弟の信照を捕虜にして落城させ
加賀野井城なんて尾張の隅っこにある300程度しか城兵がいない雑魚城。


小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
875人間七七四年:2014/03/02(日) 17:16:45.47 ID:fau/GyEP
またアンチ秀吉のキチガイ織田チョンが暴れているのかよ。
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

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876人間七七四年:2014/03/02(日) 17:17:50.43 ID:fau/GyEP
アンチ秀吉の織田チョンは相変わらずバカだねw
天正15年正月時点で、
本多重次は岡崎城代で、
酒井忠次が吉田城代なんだけどwww
天正17年6/22時点ではまだ重次は岡崎城代を続けているのがわかる。
その後は不明になる為、失脚したと言われており、
天正17年末から小田原征伐準備が始まり、
天正18年3/21の時点で徳川方の城は次々と秀吉に接収されていき、
京衆先罷下、三?遠?駿城々請取妻子以下迄押出候、
〜省略〜久能城二家康之御一類御入候、是モ押出ト申口二候
などと徳川一族も追い出されている状況下で、
4/2には秀吉が吉川広家に岡崎城を受けとるように命じている為、
秀吉と重次がトラブって失脚したとされてる。
その為に関東移封では蟄居となってる。
そもそも関東移封する前の徳川家臣の石高は重次だけでなく全員が全く不明なのも知らないで、
他の家臣と石高比較してる辺り、
ガチで無知なんだなwww

酒井、石川、本多からも人質を取って、
家康を従属させた秀吉は、
家康の同盟相手だった雑賀衆、高野山、長宗我部、佐々を討ち従えた。
しかも佐々を討った際に、
秀吉は家康に佐々の本領安堵してやる代わりに、
お前はさらに人質を出せや!と言われる始末。
従属したくせになかなか上洛して挨拶に来ない家康を、
秀吉は表裏と捉え始め、
上洛しないなら、さらなる人質提出を要求。
怖いので上洛したくない家康は家臣を集めた大会議をして家臣らに人質を出すよう説得。
そして秀吉も美濃での緊張を高めて、
家康を圧迫しまくる。
家康は家臣説得に失敗し、
これを契機に徳川を見限った石川が豊臣へ逃亡。
続いて小笠原も秀吉に寝返り、高遠の保科を攻め始める始末。
ついに進退極まった家康は、秀吉の信雄に懇望し、
秀吉と婚姻して縁戚になったら上洛しますと土下座。
しかしやっぱり殺される恐怖から上洛を躊躇する。
秀吉は天皇即位式には義弟家康を出席させようとしていた為に、
天皇のため、自分の母を、義弟家康の上洛中だけ限定の人質に出すことにして朝廷の面目をたてた。
877人間七七四年:2014/03/02(日) 17:20:26.89 ID:fau/GyEP
柴田滅亡後、丹羽長秀は123万石の大名になったが、
秀吉が天正11年9月に大坂城をとりあえずの完成になるや、
臣従の証として大坂登城の招きがあった。
丹羽長秀はそれに応じなかったので、
秀吉から上洛延引し在国していることを咎めれた。
そこで村上義明が秀吉へ弁明の使者として派遣され、
秀吉の怒りを解いている。
秀吉は臣従の証として上洛を要求して威圧しており、
天正12年戦役で家康から人質を取り臣従させたとは言え、
臣従の証として家康の上洛を要求していた。
自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており、
何とか誤魔化していたが、それも限界がきて秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込まれるだけだった。
佐々を攻略した秀吉は、佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付け、
家康は家臣を浜松に集め人質提出の相談所をし、
秀吉も東美濃の軍備を強化し圧力をかけた。
それでも重臣が人質提出を拒否し、
家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走った。
と言うのも秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたからで、
丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に、
家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖でいっぱいだっただろう。
続いて小笠原も家康を見限り、
これを受けて秀吉は1/28には出陣準備を始めるが、
家康が再度、言い訳をしたので2/8に出陣を赦免している。
そして2/26に家康は北条に釈明に駿河へ行き、
どうしても死にたくない家康は、
命欲しさに上洛するから、殺されない保証として婚姻して縁戚になり、
上洛している最中だけ秀吉の母を預かる条件で、
上洛することを承諾するという、
命欲しさの家康は武将としては最悪な生き汚さを発揮。
ひたすら家康は死にたくないので、上洛を先延ばしし、
戦を背景に問い詰められると、言い訳をして表裏して誤魔化していた日本一恥ずかしい武将。
信雄もあからさまに家康を見限っていた程のビビり。
878人間七七四年:2014/03/02(日) 17:21:44.57 ID:fau/GyEP
そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを、
(秀吉の妹が質と書かれている書状は存在しない)
命欲しさの家康が懇望していただけで、
賛成している者は徳川家臣団には無く、
明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされてるだけなのに、
秀吉の妹は人質になっていたと連呼して馬鹿じゃないかwww
天正14年5/25の秀吉書状には、
家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
などと書いていて戦を回避する為に家康が懇望していたのが分かるし、
実際、5/28の祝言日にも、
酒井忠次や本多忠勝や榊原康政が、
そっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した為に、
謀反を恐れた家康は、
いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れて、
信雄の面目が失われ、秀吉立腹となってる。
ビビった家康は何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み、
6/9にやろうと決めるが家中内和睦をまとめるのに難航し、
6/6にやっと本多忠勝が清洲の信雄の元に、
徳川家臣団の女房たちを人質に送り込んだおかげで、
秀吉の妹が三河へ移動できる状態になるものの、
9日には祝言が挙げられずに10日にズレる。
しかし11日にズレる程に徳川内は混乱し、
11日やっと秀吉の妹がやってくるほど、
徳川正室問題は揉めていて、
秀吉にしてみれば徳川家中が混乱した方が良いわけで、
秀吉の思惑通りに妹が徳川家臣団の大反対を押し切り、
徳川正室に入り込むことになり、
7月に家康が真田攻めしようとしても、
妹の旦那に対して秀吉が、真田攻めを止めさせたら従う他無くなってしまうまでに影響力を行使出来るようになった。
879人間七七四年:2014/03/02(日) 17:24:21.38 ID:fau/GyEP
小田原奥羽征伐のために、
源姓徳川長丸が秀吉の人質として上洛してきた。
すると秀吉は長丸に初めて官位官職を与えるよう推薦し、
天正18年12/29に従四位下侍従豊臣姓羽柴秀忠にしてあげました。
奥羽から帰ってきて家康は初めて羽柴秀忠になっていたことを知ったのだ。
羽柴秀康に続いて秀忠も秀吉一門にされてしまい、家康は徳川家で極端に孤立した。
そしてのちに秀忠は千姫を秀頼に嫁がせることを強行した。
だから家康は生前のうちに秀頼を滅ぼすことを急いだ。
幕府はこの家康が人質に秀康と秀忠を出した挙句に奴隷のように従軍させられた奥羽から戻ってきたら源徳川長丸が、
豊臣羽柴秀忠に豹変していて、
家康が京洛での徳川家ですっかり孤立していた事件を屈辱に思い、
天正15年8/8に従五位下になったとか、
秀の字は聚楽第行幸ですでにもらっているなどと、
歴史捏造しまくったのであった。
よほど屈辱だったのだろう。

家康のビビりっぷりは半端ねぇんだよな。
ガチで自分の命が惜しくて仕方が無い。
最強命乞い大名。
上洛する前もそうとう怖くて、
北条相手に上洛したら騙されて殺されるかもと泣きついたらしく、
家康が上洛中に北条は領内大動員をかけて、
北条側は「当方之興亡此時候間」とか、
「万一於京都表裏之扱有之者」とか、
「万一西表有相違之筋目」
などと秀吉相手に大決戦する構えをとってる。
上野も最前線の真田戦線での開戦に向けて、
部隊移動が開始され、
出遅れないように11/10までに利根川端まで15歳から70歳までは無足の者まで残らず動員して打ち出て来いとまで命じてる。
どんだけ北条に対して家康は脅威を訴えたんやwww
北条は家康に万が一のことがあったらと全力動員開始してたのに、
家康から北条へ、11/15付けで俺、東国の惣無事令の取次ぎの職を秀吉から任命してもらったんだー。
だから佐竹や宇都宮や結城や那須を攻めないように誓って秀吉にちゃんと返事しろよ!って言われた北条は茫然自失して騙されたと感じただろうね。
家康はホント、恐怖で被害妄想を膨らまして大袈裟に誇張する精神的病人。
だけど強いやつがいないと威張る威張る。秀吉死んだら、いままでへいこらしてた態度を豹変。
もうね、近衛の娘を秀吉が養女にしてたから、
秀頼の姉なんだが、天皇に嫁いでた。
しかし、そんな天皇にも居丈高に振舞い、
天皇の妻の弟を殺して、
大坂20万人を大虐殺した挙句に、無法状態にして、
それぞれの大名が近隣の村々から労働者を、領国へ大量の拉致連れ去り、
女子供達も大量拉致しての人売り商売を容認し、
摂津国を中心に家族離反大会大逆無道の限りを尽くして強欲を満たしたのが家康。
秀吉にビビらされた遺恨をこうやって、晴らしてストレス解消粛清をして反権力の俺ってカコイイとか勘違いしてるわけ。
完全に筋違いの意趣返しで罪のない人々を弾圧。
こりゃ小心者特有の心理状況でさ、ポルポト派か毛沢東レベルの傲慢権力者。
とても為政者とは思えん基地外。 信長と家康は関西の人々にとって仇だよホント。
880人間七七四年:2014/03/02(日) 17:28:20.37 ID:fau/GyEP
本多隆成氏ですら定本徳川家康の中で、
天正12年12/12には秀吉への人質(養子ともいう)として、
第二子於義伊(のちの結城秀康)が浜松を発つ
などと書いているのになwww
家康が人質なんて出してない!なんてキチガイ主張してんのは在日織田チョンだけwww

清華家の家格を持つ北畠氏のまま、
関ヶ原の戦いの西軍首謀者だった輝元への懲罰でも強制出家が強要されていて、
結局のところ家臣らを通して必死な命乞い嘆願が行なわれて、
責任を取っての名誉を守る自刃を回避する武士の風上にもおけぬヘタレに対する恥辱的な死一等免除の慈悲であり、
武人としての生命を絶たれたと言っても良い死ぬのが怖い愚主を内外に知らしめる処置なのである。

北畠信雄の清華家の家格を上回るために秀吉は藤原氏の養子にならないといけなかったくらいだからね。
実際、北畠氏の家格は征夷大将軍と並ぶ鎮守府大将軍として地方政権を樹立できる資格も余裕で持ってるからね。
そりゃあ北畠の名前にすがってれば高貴な殿上人としてどんな大罪であろうと
死一等免除の遠罪レベルにしてもらえるんだから信雄だって織田なんてクソに戻りたくはないだろうよ。

天正12年戦役で信雄家康が秀吉に負けたから鎮守府大将軍として政権を立てられ無かったが、
秀吉に勝ってたら朝廷から任じられ北畠政権が樹立できただろうね。
実際は信雄と家康が一方的にフルボッコされ、家康は清洲、信雄は長島で、蛇に睨まれた蛙のように恐怖で固まってただけ。
家康らから人質を取る約束も成立し信雄と家康が土下座したので、 講和してやり11/21に近江坂本を発して帰京するや、
11/22日には東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任じて武功を讃えた。

いよいよ諸大夫成の一番下の立場でしかない三成が、
公家成の島津らはともかく、
清華成の殿上人を差し押いて、
家康打倒の首謀者に成り得る可能性は皆無だな。
どう考えても輝元が首謀者としか考えられない。

そのための摂関成だし。
関白職は豊臣、近衛、二条、九条、一条、鷹司の六摂家持ち回り制になっていて、
関ヶ原後に関白になった者のうち最低年齢が九条忠栄23歳であり、
これは年齢を言いわけに就任を遅らせる工作が通用口する
関白就任最低年齢を規定したことになり、
秀頼が23歳になるまでに家康は秀頼を殺す必要が生まれていることを意味する。
官位で言えば関ヶ原から半年後の9歳で従二位権大納言になるなど超絶な早さで昇進するなど、
朝廷が強力に秀頼をバックアップ。
なぜなら皇后が秀吉猶子になった近衛前久の娘であり、
後陽成天皇にとっては秀頼が義弟になるからである。
881人間七七四年:2014/03/02(日) 17:31:04.13 ID:fau/GyEP
はいはい在日織田チョン嘘吐き乙w

秀吉が家康に負けたから幕府が開けず、
必死に朝廷工作して官位をあげたとか曲解もいいとこw
実際、秀吉が家康と戦っていた時は、
無位無官の平民羽柴秀吉と、
近衛中将経験者2人(信雄と家康)と戦っていた。
そして平民秀吉が家康らを圧倒したから、
朝廷は急いで秀吉を取り込もうと、
天正12年10/2に従五位下の叙爵少将の叙任の勅使を急遽派遣してんだよw
そして朝廷は同日には早くも秀吉の参内権の是非まで諮り、
11月までには参内権を許可するなど、
急いで秀吉の参内を促していたが、
有職故実の儀礼知識が無い素人秀吉は参内を逡巡し、
初参内は13年3/10の時まで待たされた。
秀吉が必死に官位官職を上げて家康らの上に行こうと働きかけていたら、
すぐ得意がって参内するはずだろがw
そもそもお前はこの時点での秀吉が無位無官なのすら知らなかったのがモロバレw
同じ文脈でお前は関ヶ原を語り、
官位官職が一番上だった家康に従わないヤツが悪いとか吐いてるが、
無位無官の平民秀吉が官位官職を持つ家康や信雄を逆に従わさせてるわけだがwww完全に矛盾www

天正12年4/10には家康が協力して秀吉に当たるなら信雄上洛成功の時は大坂返還と共に
信長が加賀を本願寺に返還すると約束していた御判に任せて本願寺に与えると出来もしないカラ約束。
(天正8年7/17に信長が和睦の時に加賀返還の神載起請文を出していたが、約束をシカトしていた)
4/23に北伊勢一揆が勃発するや秀吉の使者の鵜飼八蔵が本願寺を詰問し、
顕如はまったく知らないことなので、北伊勢坊主衆中へ御書を使わす約束をしてる。
また秀吉陣所へも馬樽3荷と使者を送ってる。顕如も戦況を冷静に観察し、劣勢の家康に組みしないことを宣言。
信雄と家康が土下座したので、 講和してやり11/21に近江坂本を発して帰京するや、
22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任じて武功を讃えた。
12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質として浜松を出発させた。
20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる。



天正13年1/3に顕如が秀吉に使者を送った時は秀吉と人質秀康、誠仁親王にも挨拶してるな。
家康と徳川家臣から人質を取った秀吉は親家康だった紀伊和泉雑賀&長宗我部征伐のため出馬し
4/2には景勝に同じく親徳川の佐々成政討伐のため出馬を約束し、
4/3には紀伊雑賀にいた秀吉の陣所に顕如と教如が陣中見舞いし、
4/10には秀吉がついに高野山真言宗総本山金剛峯寺に到着し、
4/14に紀伊和泉平定と四国征伐宣言を小早川隆景に通知。
4/17には信雄と秀康も雑賀陣に到着。22日に秀吉が大坂へ凱旋しに出立。
4/25に信雄が四国出陣準備を命令。
5/4秀吉が摂津中島渡辺の地を顕如に与えて、顕如の大坂移転と近江末寺門徒による伽藍造営を始め、
本願寺の再興がなされたのであった。そして秀吉の卓越した戦略で家康はあっという間に完全孤立してしまった。
信長があれほど苦戦しまくった紀伊惣国一揆をいとも簡単に制圧してみせたのである。さすが天才である。

信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、正親町天皇が譲位の思召を伝えると
すぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく、
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に正三位に任じてもらい、7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。
882人間七七四年:2014/03/02(日) 17:32:48.90 ID:fau/GyEP
秀吉はむちゃくちゃ早く急いで信雄の官位官職を上げまくってんだよな。
朝廷で自分の補佐が出来る立場に信雄を引き上げたかったんだろうな。
関ヶ原でも家康と同格、いや出家して前が付くだけ先輩風吹かせたのは信雄だけだったし。
信長なんて武田勝頼が官位官職につけないように朝廷を脅迫して嫌がらせしてたのに、
天正3年信長が右近衛大将になった際に、従五位下左近衛中将になったっきり昇進出来なかった信雄を
いきなり、 秀吉は正三位権大納言にしてあげたのを皮切りに、
一年を経ずして従二位かよ! しかもその年のうちに正二位内大臣か。 前例自体がない異例の大出世だろ。
よく朝廷が許可してくれたなあ。 秀吉はどんだけ信雄を厚遇しまくってんだよ。
秀吉は子供を半ば諦め、信雄に跡を継がせようとしてたのかも知れんな。
秀吉は信雄を自分の後継者にする為に、官位官職をガンガン上げた。
さらに甲斐信濃駿河遠江三河の超加増をしようとしたほど。
極上のバカ信雄はそれを拒否したので、平凡な秀次を取り立てることになった。

信雄と信孝が対立して何も決めれない無能揃いだったから秀吉が動くのは仕方ないだろ。
信長の百日供養からして、やったのは秀吉と市だけだからなー。
葬儀は誰もやらなかったから秀吉が朝廷から供養のために
故信長の従一位昇格を引き出してから秀吉だけがやったが誰も出席しなかったから無駄になった。
秀吉は信長の後妻の小倉氏の娘の鍋の生活を援助していたりと
亡くなった主君の妻も保護している家臣の鏡のような働きをしているのは褒めてもいい。
ちなみに天正11年6/1の信長1周忌の法会をやったのは秀吉ただ一人。
これに出席後に、秀吉は今までの拠点だった山崎城から、大坂新城へ移転している。
信雄の官位官職をアホみたいな速さで急速に引き上げて自分に次ぐ立場にまで登らせて後援したのも秀吉。
それなのに、なんら感謝せず増長し、家康家臣団が一生懸命、不満も言わず関東転封の作業をしている最中に、
転封なんてするわけねーだろ!本気にすんな無視!とか言って、関白秀吉を挑発したから逆鱗に触れたわけで
完全に信雄が悪いし、その代わり、秀信をちゃんと取り立てて、織田家を継続させてるし、
信雄への怒りも、秀吉は一ヶ月も経たずにすぐ水に流して許しているほど甘い。
秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だったし、 彼らを関が原後に改易したのは家康であり、
大坂陣の時も、巻き添え滅亡にならない限界ギリギリまで家康に抵抗して大坂城にいたのも信雄や有楽斎なんだけどw
むしろ三方が原や長篠の御恩があるはずの家康の方が故信長に対してひどくないかね?
信長はロクに家臣に援助もせずに家臣自らの武辺と才覚で、俺の要求を一刻も早く達成しろって
パワハラ恫喝と改易脅迫で精神圧迫していただけで 信長自身は、鷹狩り、茶道具や武具の没収コレクション、
鹿狩り、相撲遊び、衆道、女装しての女踊り、乗馬パレードや競馬観戦、幸若舞、豪華な食材取り寄せ
など遊びほうけていただけじゃん。だから信長死んだら細川忠興くらいしか信長の死を悼んでないし、
清洲会議の池田や丹羽や勝家ら信長遺領分配もみんな自己努力と自力救済による当然の権利だと思ってるでしょ。
だけど、家康は武田家の攻撃で存亡の危機に至り、信長からの援軍や織田との安保同盟を背景にしなければ、
つなぎとめていられたかも怪しいよね。 水野みたいに、家康なんていつでも改易できたにも関わらず、
信長は家康に駿河まで加増してくれたしね。
883人間七七四年:2014/03/02(日) 17:39:03.07 ID:5a/RUvUU
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。

家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな


>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
884人間七七四年:2014/03/02(日) 17:40:01.02 ID:YmUYAayN
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw

>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え

石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎

>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康
885人間七七四年:2014/03/02(日) 17:40:36.21 ID:5a/RUvUU
>>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつもの妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

>>家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず
ソースなし。
石川なんて天正12年春時点で篭絡されつつあたのが三河物語でわかるし木曽も前年春にあっさり裏切ってる。
真田に関しては対北条の同盟要請の結果、天正壬午の際の空手形の恩賞が不履行に終わって徳川から上杉に離反しただけ。
小笠原は石川が小笠原が石川の人質連れて逃げたのと、徳川の対真田の連敗や、上杉景勝の川中島侵攻による圧力で北部への拡張が滞って
寝返っただけ。
>>秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり
どこにそんな事書いてるんだよアホ
>>石川は意見統一出来ない家康を見限って逃
意見なら既に統一しているが石川がただ1人秀吉に篭絡されてて小笠原らの人質連れて逃げただけ。
>>2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
会戦になったら100%徳川が勝つから、滅亡確定なのは秀吉の方だな。
何せ史実でさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
886人間七七四年:2014/03/02(日) 17:41:13.84 ID:YmUYAayN
>>自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり
>>実力で負けた
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

>>自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり
>>実力で負けた
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
887人間七七四年:2014/03/02(日) 17:42:05.09 ID:5a/RUvUU
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)

さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
888人間七七四年:2014/03/02(日) 17:42:43.44 ID:YmUYAayN
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏信包といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、最も外様であろう池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力や采配能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
889人間七七四年:2014/03/02(日) 17:43:27.51 ID:C7nLDABq
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
890人間七七四年:2014/03/02(日) 17:44:25.53 ID:5iZJ5gSJ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。

それで敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
891人間七七四年:2014/03/02(日) 17:45:39.76 ID:5iZJ5gSJ
>>一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる必死な政略的宣伝工作
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
>>徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を奪われて空手形の発行をする始末
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために
>>在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
会戦当初から徳政連発と貧国のために窮困状態
小牧長久手の戦いの時はむしろ大方の兵力は北条の変心と上杉の信濃出兵のため残されており
さらに夏には少ない兵力の半分を返している家忠日記当代記
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと
>>八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って友軍の離反を繋ぎ止めてるが、
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
>>20万人が戦った関が原の戦いですら旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を
>>8000人としているわけだし。
全く違う戦いあげて根拠にするとか意味不明
ただ逃散兵が多かっただけだろ
>>一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。
>>顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。
顕如日記は秀吉の過小歪曲フィルターがかかった捏造情報があとからもとらされただけ
>>家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。
>>三河渥美郡にある常光寺の日記4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
織田徳川羽柴の書状にも見られないような局地戦と家康も無視している状況あげられて三河
が崩壊とか馬鹿ですか? むしろこの戦いでも攻略失敗なんだから秀吉の負け
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして 圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々 これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
892人間七七四年:2014/03/02(日) 17:46:07.81 ID:YmUYAayN
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
893人間七七四年:2014/03/02(日) 17:46:48.23 ID:YmUYAayN
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言

本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
894人間七七四年:2014/03/02(日) 17:47:49.57 ID:tsj8cMJX
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告している
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
>>家康の過大戦果宣伝
そんな事実ねーよクズ。別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな。
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
895人間七七四年:2014/03/02(日) 17:48:39.41 ID:YmUYAayN
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。

敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
896人間七七四年:2014/03/02(日) 17:50:16.41 ID:f2pO+d3H
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
897人間七七四年:2014/03/02(日) 17:50:58.50 ID:f2pO+d3H
・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
898人間七七四年:2014/03/02(日) 17:52:03.42 ID:f2pO+d3H
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
899人間七七四年:2014/03/02(日) 17:52:47.76 ID:huF4xVlL
>>秀吉が従属した家康が裏切らないように徳川政権超重要人物から人質を取

だから家康は従属なんてしてないし人質なんて出してない。
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
900人間七七四年:2014/03/02(日) 17:53:28.81 ID:huF4xVlL
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
本多重次は3000貫程度の雑魚でしょ。
901人間七七四年:2014/03/02(日) 17:54:31.22 ID:f2pO+d3H
>>秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込

表裏も糞も、最初から単に停戦和睦して養子を出しただけなのを、秀吉が勝手に人質だの臣従だの勘違いして家康にいちゃもんつけてただけじゃん。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

>>自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており何とか誤魔化していたが

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。

>>背後を気にする必要もなく、
>>安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
>>征伐されたくない家康
どこにそんな事が書いてあるんだよアホ。
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw

>>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつものお前の妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
902人間七七四年:2014/03/02(日) 17:55:14.37 ID:f2pO+d3H
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>秀吉は臣従の証として上洛を要求して威圧しており天正12年戦役で家康から人質を取り臣従させた

家康は臣従なんてしてねーよボケ。
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
903人間七七四年:2014/03/02(日) 17:55:53.61 ID:YmUYAayN
>>臣従の証として家康の上洛を要求
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな


翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付
そんな事全くやってない。
>>家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走
石川は天正12年の長久手合戦の頃から秀吉に篭絡されかかってたし、別に家中をまとめられないから逃げたとか関係ない。
秀吉のお得意のヘタレ土下座が功を奏して、大した相手でもないのに石川は過大評価してただけ。
>>秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたから
>>丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖
丹羽みたいな雑魚と、家康や信雄は全く違うからその比較は根拠にならない。

史実で秀吉は家康はおろかザコの信雄に負けまくったから会戦になったり100%負けるのは秀吉だろ。
何せ小牧長久手合戦時は北条の変身の風聞や上杉の川中島侵攻で家康はわずか8000程度しかつれてこれなかったにもかかわらずあの圧勝ppるいだったからね。
秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>信雄は秀吉は佐々も潰すけど、お前どうすんの?って家康へ最後通牒を叩き
そんな事全くやってない。信雄は家康に秀吉は秀康を全く人質としては扱ってないよ。
だから秀吉にもっと人質出して臣従してしたら?と、家康にビビリまくった秀吉の必死の土下座要請に応じて、取り成しをやってただけ。
秀吉の家康討伐の際(天正14年初頭)にも秀吉は信雄に取り成しやってもらって母や妹まで送って必死に戦い避けてるし。
>>さらなる人質を出して秀吉の騎下に服しない場合は、討伐する
そんな事信雄の文書に書いてねーよクズ。
904人間七七四年:2014/03/02(日) 17:56:51.59 ID:YmUYAayN
>>家康はビビッた
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。

秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
905人間七七四年:2014/03/02(日) 17:57:27.72 ID:zbY8DczF
>>秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなった
家康は秀吉の威圧行動と対真田の敗戦や上杉景勝の川中島侵攻や天正13年夏の領内大地震や木曽小笠原石川水野真田の離反とそれに伴う領国機密露見
といった、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
>>家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談
何それ指導力って(笑)北条が真田の領土問題で援軍をよこさなかったため
北条からの加勢を得る事や北条との結束を強化する意味で浜松会談や真田との戦いに挑んだだけじゃん
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
906人間七七四年:2014/03/02(日) 17:58:12.88 ID:zbY8DczF
>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え

石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康。
>>天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は自分の母を三河に遣わし
妄想乙。家康が怖くて母や妹を差し出したのを、晴れの舞台を演出するためとか曲解乙。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
907人間七七四年:2014/03/02(日) 17:59:15.76 ID:f2pO+d3H
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
>>秀吉の妹が徳川家の正室になることを命欲しさの家康が懇望
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>賛成している者は徳川家臣団には
ソースは?
>>明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされ
ソースなし。
しかも>>そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを命欲しさの家康が懇望
これと見事なまでに矛盾したアホ乙
>>天正14年5/25の秀吉書状には家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
秀吉は天正12年の時の和睦停戦の時にも信雄が人質を差し出して種種懇望して来たが許さなかったとか
信雄が人質を差し出して種種懇望してきたから許してやったとか
嘘ばかりデッチあげてるし(9月時点で許さなかった和睦条件を、11月に許してやる理由が全くない。)

>>戦を回避する為に家康が懇望
ソースなし。妄想乙。秀吉が直前まで出兵計画を立ててたがいざ其の時期になると
信雄に土下座して和睦の仲介やってもらった上に母や妹を差し出して土下座してきたから
家康がしょうがねぇなやれやれと思って仕方なく応じてやっただけ。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
908人間七七四年:2014/03/02(日) 18:00:39.87 ID:YmUYAayN
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。

>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
909人間七七四年:2014/03/02(日) 18:01:35.29 ID:YmUYAayN
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
>>あまりにも見事かつ完璧に秀吉に敗北した事を意味した。
家康に土下座和睦して後ろの心配をなくした上に上杉や毛利や宇喜多や木曽らの力に頼りまくって
雑魚イジメした事の何が敗北なんだよアホ
>>紀伊惣国一揆を従属させた秀吉は彼らの船を総動員してすぐさま四国に攻め寄せ圧倒
これも信雄や家康が怖くてビビリまくって、和睦した隙に、少しでも敵領土を削って味方を強大にするために雑魚イジメしてただけじゃん。
>>秀吉が天才と呼ばれる所以は高野山を速攻で制圧
当時の秀吉の領土は畿内一円に、毛利・上杉・宇喜多・木曽・信雄。
高野山なんて10万石いくかいかないかわからん雑魚なんていじめて何が凄いんだよタコ
>>第二陣として出陣してきた信雄と秀康らの軍が雑賀に着陣してきた時にはすでに平定してしまっていた程の巧者
はぁ?秀吉軍畿内総結集すれば15万くらいいくだろ。
5000もいくか怪しい高野山なんて、馬鹿でも叩き潰せるわwこんな指揮采配能力と全く関係ない雑魚イジメで
将の資質や戦のうまさなんてとわれねーよクズ。
910人間七七四年:2014/03/02(日) 18:02:09.77 ID:zbY8DczF
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
911人間七七四年:2014/03/02(日) 18:04:32.69 ID:zbY8DczF
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
>>朝日姫は天正14年の話で、それ以前に佐々や長宗我部や紀州衆ら家康の同盟者は
>>秀吉に潰されまくってたのに、秀吉にビビって家康は見捨ててるから
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
912人間七七四年:2014/03/02(日) 18:05:03.94 ID:zbY8DczF
>>家康の味方だった信濃衆も秀吉側に離反して

木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。
当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
913人間七七四年:2014/03/02(日) 18:05:39.53 ID:1B+caQgL
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
914人間七七四年:2014/03/02(日) 19:25:52.61 ID:54DTe7yI
>>秀吉の妹が徳川家の正室になることを命欲しさの家康が懇望
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>賛成している者は徳川家臣団には
ソースは?
>>明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされ
ソースなし。
しかも>>そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを命欲しさの家康が懇望
これと見事なまでに矛盾したアホ乙
>>天正14年5/25の秀吉書状には家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
秀吉は天正12年の時の和睦停戦の時にも信雄が人質を差し出して種種懇望して来たが許さなかったとか
信雄が人質を差し出して種種懇望してきたから許してやったとか
嘘ばかりデッチあげてるし(9月時点で許さなかった和睦条件を、11月に許してやる理由が全くない。)

>>戦を回避する為に家康が懇望
ソースなし。妄想乙。秀吉が直前まで出兵計画を立ててたがいざ其の時期になると
信雄に土下座して和睦の仲介やってもらった上に母や妹を差し出して土下座してきたから
家康がしょうがねぇなやれやれと思って仕方なく応じてやっただけ。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。

家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
915人間七七四年:2014/03/02(日) 19:26:44.35 ID:54DTe7yI
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙

>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
916人間七七四年:2014/03/02(日) 19:27:27.30 ID:54DTe7yI
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。

秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
917人間七七四年:2014/03/02(日) 19:28:43.75 ID:54DTe7yI
毎回垂れ流される秀吉厨の同じ妄想集

>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
918人間七七四年:2014/03/02(日) 19:29:34.05 ID:54DTe7yI
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
919人間七七四年:2014/03/02(日) 19:30:17.72 ID:YmUYAayN
>>秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
信雄も家康も全く追い詰められてもなければ屈服もしてねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
920人間七七四年:2014/03/02(日) 19:30:50.85 ID:54DTe7yI
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
全く圧倒されてないしヤバくなってない。
むしろ秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>信雄への援軍すら出せずに見捨て
小牧山城やその周辺拠点には秀吉方の兵力2万以上いたから、秋時点で8000程度しかいなかった信雄・家康勢ではどうしようもない(家忠日記や当代記で
8月時点で家康はただでさえ少ない兵力の半分を領国に帰してるのがわかる)
しかもそんなわずかな兵力にもかかわらず6月には前田・下市場7月には蟹江・浜田を奪回し11月に長久保城を奪回してるのが信雄。
雑魚の信雄でも秀吉よりは遥かに戦上手だったのがわかる。
>>秀吉から懇望があったからとか
織田信雄の書状によれば間逆で秀吉が懇望してきたが断ったといってる
また9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
  信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などとデタラメをいつもの如くデッチあげているが、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
等と、なぜか9月時点での懇望を断ったのに11月では容認という明らかにデッチ上げの内容を書き連ねてる。
池上裕子氏も、小牧長久手の講和は、秀吉の懇望によって行われたと書いてる。
秀吉の戦果報告は以下のようにデッチ上げがほとんどなので、人質と書いてるのは例の如く秀吉のハッタリ誇大喧伝と見るべき。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ
921人間七七四年:2014/03/02(日) 19:31:50.94 ID:54DTe7yI
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
922人間七七四年
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉