井伊直政と本多忠勝の待遇の違い検証スレ

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1人間七七四年
かたや伊勢の田舎大名、かたや譜代大名中最高の石高。
個人的には本多忠勝大好き人間だが少し誇張が過ぎる気もする。
それなので二人がどういう起因をもってこういった待遇の差になったのかを比較検証するスレッドだ。

本多忠勝                        井伊直政

相応の年齢                       他の徳川四天王より一回りも年下
活躍時期で評価は多少得をしている。           年少な分、起用される機会が多少少な目か      

細かな緒戦で粘り強く活躍                小牧長久手の戦いで池田恒興・森長可を討ち取る大活躍
関ヶ原の戦いでは島津勢を追撃中に落馬          秀吉の征夷大将軍補任の夢を打ち破る。
                            関ヶ原の戦いで家康に一泡吹かせた島津勢を追撃し、島津豊久を討ち取る。
                            家康軍の一応の面目を保つ。総括すると重要な戦で活躍。

真田昌幸・幸村の助命嘆願の際に
聞き届けてもらえないなら殿と一戦交えると言い出す。   体よく島津義弘の助命を嘆願し、西軍大名としては稀の減封無しの処分。
粘り強く説得し、両者は島流しに減刑。  

両者ともに謀略に秀でており、毛利輝元買収工作等で活躍。 両者ともに謀略に秀でており、毛利輝元買収工作等で活躍。

政治的手腕に劣る。後年は重用されだした         元々は一番買われていた政治的辣腕を振るい、石田光成領を見事に統治。
文治勢に押されて悲運の人生を送る。           関ヶ原の戦後処理や江戸幕府開幕当時の安定に貢献する。

子孫に恵まれてない。                  井伊直孝が大阪夏の陣・冬の陣共に活躍し、
                            35万石(関東近畿で水戸家を超える三位)に加増し、
                            家臣には異例中の異例の彦根城の天下普請が行われた。
                            朝鮮通信使から、徳川家臣中でもっとも恐るべき存在として畏怖された。

家臣に優しい。                     家臣に厳しく人斬り兵部と呼ばれた。
                            張飛は無知蒙昧なタイプとは違う分、本人としては
                            信賞必罰を重んじていると思い込んでいたのかも知れない。
2人間七七四年:2007/08/03(金) 00:52:08 ID:fRF2vsP+
秀吉が征夷大将軍をのぞんでいたとしても、結果はそれ以上の身分である
関白を授かったわけで、それが功績と果たして言えるのかどうかだな。
3人間七七四年:2007/08/03(金) 00:54:02 ID:B/G3q560
>>1
その二人は別に適材適所じゃね?

ちなみに関ヶ原で忠勝は落馬ですんだが直政は銃弾受けてるぜ
4人間七七四年:2007/08/03(金) 00:55:53 ID:v9v+VKG4
もっと読みやすくしてくれ。一応読んだけど。

結果から言うと、忠勝は爺さんの武断派なのに隠居しなかったから。
息子に後を譲っていたら若干変わったかも…。
5人間七七四年:2007/08/03(金) 01:43:50 ID:cUDAO7Ug
読みにくいの一言。
なんか書いてる事偏ってないかい?
6人間七七四年:2007/08/03(金) 01:48:48 ID:RzJxTplG
アッーだろアッー それ以外に何があるというのか
ヤスの野郎も結局ホモに溺れたんだよ…それが戦国の世の習いさ




いやマジレスそんだけネッチりと自分に手懐けてきた(むしろ洗脳?)
な奴を中枢に持って来た方が独裁政権作りには都合がいい
本多は真田との戦後処理での>>1みたく反抗的だし…こんなうるさ方は一番いらない

同時期に冷遇くらったメンツ見ても明らか
7人間七七四年:2007/08/03(金) 02:05:04 ID:tT4LnHQp
戦争しなくてすむようになったら軍縮するのと同じだべな。
本多はガチな軍人だった。煮られなかっただけまだマシ。
井伊は、戦争もできる政治家だった。
8人間七七四年:2007/08/03(金) 02:11:05 ID:EItoAQNy
改行を上手く使わないから井伊の文が本田の文に重なって読みにくいが
井伊って怖い人だったのかってのはわかった
9人間七七四年:2007/08/03(金) 03:16:22 ID:hKTUfZ8y
読みにくい。出直してこい
10人間七七四年:2007/08/03(金) 04:04:34 ID:pPZaR77m
>>1
>秀吉の征夷大将軍補任の夢を打ち破る。

いや、別になろうと思えば慣れたし


>関ヶ原の戦いで家康に一泡吹かせた島津勢を追撃し、島津豊久を討ち取る。

追撃命令出てないのに追撃して被害を出したのは賢いといえるのか?
この戦闘が原因で本人死んじゃうし


>文治勢に押されて悲運の人生を送る。

いや全然
楽隠居だろ。一度は老中なったし、本多家は豊かな土地に10万石。分家が5万石(10万石は普通に大きい)
11仙台藩百姓:2007/08/03(金) 06:53:06 ID:y2NI7F5m
忠勝てたいした兵預けられた事ないんじゃないお?
武勇にしてもとって付けたような伝説ばかりで
将としてどれほど実績挙げたのか疑問だお( ^ω^)
12人間七七四年:2007/08/03(金) 09:34:04 ID:QLwa0ScY
忠勝の子のことが略されている。
忠政 千姫の再婚相手
忠朝 大坂冬の陣では酒飲んでグーして陣に遅れる
   夏の陣で挽回しようと毛利勝永(兵力は倍)に突入、討死
13人間七七四年:2007/08/03(金) 10:16:07 ID:DvznRm/3
衆道こそが神
14人間七七四年:2007/08/03(金) 10:31:56 ID:QLwa0ScY
千姫の再婚相手は忠政の子の忠刻だった、お詫び
15人間七七四年:2007/08/03(金) 10:32:57 ID:X2CfYDfg
むしろ家康率いる徳川軍の強さの中核と言っていいくらいだと思うが>本多&榊原
家康みたいな大将が後ろで構えてる間に実際に部隊を動かすのは忠勝みたいな侍大将の仕事
16のぶひろ ◆XKx/pRmtQU :2007/08/03(金) 12:28:36 ID:xoK9UjXg
>いや、別になろうと思えば慣れたし
系図を偽造して、朝廷の周りで鉄砲打ち鳴らして軍事パレードでもやればなれるだろうな。
確かに関白は正一位だけど、当時主流の武家の棟梁は征夷大将軍 太政大臣というのが通例なんだがな。

>追撃命令出てないのに追撃して被害を出したのは賢いといえるのか? この戦闘が原因で本人死んじゃうし
追撃命令は出てたと思うよ。後で家康が追撃中止の命令を下すし。
しかも追撃中止を命じられたのは、本多が落馬し、井伊・松平が負傷した為だよ。
恐らく本多の馬が撃たれなかったとしたら彼も追撃を続けて負傷していたと思うよ。
島津義弘を執拗に追撃させたのは、島津義弘が東軍大名らと交流を深くしていたので
逃がしてしまったら減封は出来るかも知れないが改易が難しくなる点、
自領まで逃げられたら九州征伐時にかなり厄介な相手になると踏んだからじゃないかな。
それに義弘自身を討死させたら間違いなく島津氏に改易を食らわせられるしな。

>文治勢に押されて悲運の人生を送る。
誰かと間違えてないか?本多忠勝は老中になんかなってないよ。
徳川四天王の功績としては老中格位は当然なのでなっていてもおかしくないのに
なっていないからこそ不遇だといわれているのではないか?
因みに榊原康政は一応老中に任命されて拒絶している。(これも文治勢の本多正信の陰謀説あり)
17のぶひろ ◆XKx/pRmtQU :2007/08/03(金) 12:56:13 ID:xoK9UjXg
関ヶ原の戦いでの島津勢追撃軍は井伊直政・本多忠勝・松平忠吉だが
追撃軍の大将となっているのは井伊直政(本多忠勝より13歳年下)であり、
小牧長久手の戦いでは、羽黒の戦いで酒井忠次・榊原康政らが5000で先鋒を任されており、
本多忠勝は兵500で竜泉寺で殿軍を任されていた。
御旗山本陣では右翼に家康自身3300・左翼には井伊直政3000と織田信雄の兵が構えており
家康の考えとしては、関東移封の際の石高通りに酒井・榊原・本多を同格(一武将)と考え
井伊直政自体は大将格と考えていたのではないかと思われる。
(但し酒井・榊原・本多の中では本多忠勝が明らかに重用されており、武勲も頭一つ出ている。)
18人間七七四年:2007/08/03(金) 12:59:19 ID:43Zr1Rrr
井伊直政は稼動期間が短い。
榊原康政は関が原遅参の関係で加増辞退してるしついてない。
本多忠勝はもっと重用されていい。
19人間七七四年:2007/08/03(金) 14:28:09 ID:ZEZlpL5e
本多榊原は自前の軍隊を鍛え上げた
井伊は武田の落武者を採用して楽した
20人間七七四年:2007/08/03(金) 14:56:15 ID:T/K/t4JU
ムカリとスブタイみたいなもんだな
21人間七七四年:2007/08/03(金) 15:36:46 ID:pPZaR77m
>当時主流の武家の棟梁は征夷大将軍 太政大臣というのが通例なんだがな。

まず征夷大将軍は別に源氏でなければならないと言うことは無いです。
第一大塔宮は武士じゃないけど征夷大将軍になってるし。
そして当の武家征夷大将軍と言えば源→三代で終わる、足利→支配力弱くてグダグダ
征夷大将軍をブランド化したのは他でもない徳川15代将軍なんです。
当たり前ですが征夷大将軍と関白なら関白の方がなるのが難しく、偉いんです。
系図偽造なら徳川程度でもやって征夷大将軍なってるしね。


>追撃命令は出てたと思うよ。後で家康が追撃中止の命令を下すし。

「思うよ」という仮説でよくもまあそんなに論理を展開できますね。
それだけ妄想できるのに逸る軍勢を抑えるのに追撃中止命令を出したとは考える頭は無いのですか?
後半の島津論なんてもう、語るレベルに無いです。島津厨ですか?


>本多忠勝は老中になんかなってないよ。
1593〜1609年
22人間七七四年:2007/08/03(金) 16:03:13 ID:7DpIj3xM
一体どれほどのスレで、秀吉は将軍になりたくてもなれなかったと思い込んでる人を目にしてきだだろうか。
彼らは何度事実を教えてもそれを信じず、また場所を変え、次から次に湧いてくるのだ。
23人間七七四年:2007/08/03(金) 17:38:32 ID:QLwa0ScY
秀吉は性夷大将軍になったけどね。
24人間七七四年:2007/08/03(金) 17:47:34 ID:PMVfHlYK
林羅山のデマが四百年続いてるもんなー>秀吉征夷大将軍なれなかった説
25人間七七四年:2007/08/03(金) 17:50:20 ID:sQGTkDCf
どこで秀吉は征夷大将軍になれなかったと思い込んでるんだろう
いや、俺も小学生の頃はなんとなくそう思ってたけど、中学生以上で未だに秀吉は
仕方なく関白になったとか思ってる人はやばいね、頭にウジが湧いてる。
26人間七七四年:2007/08/03(金) 18:11:45 ID:ZEZlpL5e
と、清和源氏の血筋でない下賤の毛利厨がほざいとります
ああ、くやしいのうwwwwwwwああ、くやしいのうwwwwwww
27人間七七四年:2007/08/03(金) 18:59:41 ID:jRh31e71
井伊専用
28人間七七四年:2007/08/03(金) 20:57:25 ID:PMVfHlYK
社会の先生ですらその程度の認識だと思う>征夷大将軍なれなかった
あとは小説レベルでも鵜呑みにそのまま書いてたりしないか?
司馬遼太郎とかも
29人間七七四年:2007/08/03(金) 21:39:53 ID:fRF2vsP+
征夷大将軍になれないのなら、さらに身分が高く天皇でも命令をひっくり返せない
ほどの力をもつ関白になれるわけがない。臣下の身分で殿下の称号が得られるのは
関白のみじゃなかったっけ?
30人間七七四年:2007/08/03(金) 21:46:16 ID:eEeZhror
家光が幕府の職制を整えるまでの老中って別にそんなに偉くないよね
徳川家の評定衆ってことで幹部には違いないけど、権限自体はそんなにない
31人間七七四年:2007/08/03(金) 22:00:47 ID:qpdFynzz
スレタイも読めない厨房ばっかり
32人間七七四年:2007/08/03(金) 22:15:22 ID:B/G3q560
待遇の違い?
適材適所でFA
33人間七七四年:2007/08/03(金) 22:26:28 ID:D5Yt57Cz
つーかできもしないのに左右に分けて書く>>1の勇気に完敗!
34のぶひろ ◆XKx/pRmtQU :2007/08/04(土) 11:05:06 ID:qAwPc952
> まず征夷大将軍は別に源氏でなければならないと言うことは無いです。
そんなのは日本の常識でしょ。
系図改竄が必要と描いたのは木下氏のままでは明らかに水飲百姓の家系だからですよ。誇大妄想乙です。
系図改竄という言葉から源氏だけに限ると連想したんですね。
小学校の教諭並みの武家政権時代の征夷大将軍についての教鞭、わざわざありがとうございました。
関白の方がなるのは難しいというのはありえないです。
何故ならば水飲百姓秀吉程度でも近衛家に養子に入ればなれるしね。
それに秀吉自身も武家の棟梁になる気がない。或いは官位が高い方が偉いと感じているのならば
別に征夷大将軍になる必要はないでしょう。
ですが、関白の方が征夷大将軍より実質的に偉いとは言い切れませんよ。
それは天皇自体の伝統的権威が形骸化し、平安前期のように傀儡と化して権力を掌握することは出来ないからです。
具体的に征夷大将軍は令外官ですので、太政大臣と関白を比べれば明らかに関白の方が偉いとは言い切れるけどね。

>それだけ妄想できるのに逸る軍勢を抑えるのに追撃中止命令を出したとは考える頭は無いのですか?
家康が伊勢沿いに逃げていく島津軍を指を咥えてみていろというとでも?
追撃中止命令が出ている時点で家康自身が追撃を良しとしていたという実態が明白じゃないか。
それと島津義弘が西軍に与しておきながら減俸無しで後嗣に家督を相続を許すなんて特例措置だよ。

>1593〜1609年
明らかに大久保忠隣ですね。老中任官者の名前を知らないような人に論評する資格なんてないよ。
しかも本多忠勝ってw。韓信に相国でもやらせる気なのかww。
35のぶひろ ◆XKx/pRmtQU :2007/08/04(土) 11:14:59 ID:qAwPc952
因みに殿下という敬称は関白・摂政・太閤にも使うが
皇族や征夷大将軍にも使うよ。「頼朝殿下。」「太閤(秀吉)殿下。」とか
36人間七七四年:2007/08/04(土) 11:39:51 ID:3ZY51M9Q
>>34
>水飲百姓秀吉程度でも近衛家に養子に入ればなれるしね
その通り、秀吉がどんなに力をもっていても、五摂家の一員とならなければ関白に
なれなかった。
実力があれば源氏でなくともなれる征夷大将軍とはまったく異なる。

>追撃中止命令が出ている時点で家康自身が追撃を良しとしていたという実態が明白じゃないか
家康とは無関係に諸将が追撃を始めてしまったので、家康が追撃中止を指示した、
という解釈だって成り立ちますよ。
37のぶひろ ◆XKx/pRmtQU :2007/08/04(土) 11:49:08 ID:qAwPc952
因みに摂政は政治的最終決定権を保持しているが
関白はあくまでも最終意志決定権が天皇にある為
天皇の命令には服従しなければならないし、
太政官以下の役人の指揮権もない。
唯一権限があるのは上奏文書を天皇より先に閲覧出来るのみ。
道長が摂政には任官したが関白は固辞したのはこれが原因。
実際問題、有名無実の官ってこと。
38人間七七四年:2007/08/04(土) 12:04:18 ID:byKt5gyq
つ三職補任問題で朝廷は信長に対して関白、征夷大将軍、太政大臣のうち好きなのになっていいよと言っている。

以上をもってスレ違いの関白、征夷大将軍論議はやめておくれ。
39人間七七四年:2007/08/04(土) 12:04:41 ID:Nzw3bIS1
もはや直政も忠勝もどーでもよくなってるスレ
40人間七七四年:2007/08/04(土) 12:08:50 ID:ZKsOuds0
彦根にはひこにゃんが居る。
41人間七七四年:2007/08/04(土) 12:14:12 ID:Cpb9hDM3
>>1が率先してスレ違いの話してるんだから世話無いな
42のぶひろ ◆XKx/pRmtQU :2007/08/04(土) 12:17:09 ID:qAwPc952
論題が摩り替わってしまったので戻します。
直政と忠勝という傑出した武将について語りましょう。
43人間七七四年:2007/08/04(土) 12:44:09 ID:OhH+mg/A
>>42
征夷大将軍に殿下の敬称が許されていたなんて初耳だな。
ソースある?

常識的に身分上は征夷大将軍よりも上にある関白が征夷大将軍よりも
なるのがやさしいとは考えづらいな。
44人間七七四年:2007/08/04(土) 12:49:55 ID:Cpb9hDM3
辞書引けよ>殿下
45人間七七四年:2007/08/04(土) 12:50:48 ID:HED2FVpy
>>1
秀吉の征夷大将軍就任阻止のソース出してくれない。
46人間七七四年:2007/08/04(土) 12:58:17 ID:oAfO6Lug
>>40
うむ!
47人間七七四年:2007/08/04(土) 13:00:36 ID:HED2FVpy
彦根城
48人間七七四年:2007/08/04(土) 13:22:01 ID:ukw7iVDf
>>34
大久保は1614年の失脚まで老中というか年寄衆だろ
そもそもあの頃の老中とされる面々は年寄衆で老中任官なんてされてない
忠勝は1593年から1609年の隠居までの間年寄衆に列してはいた
49人間七七四年:2007/08/04(土) 13:39:21 ID:HED2FVpy
隠居は確か小刀で指を切ったから。
50人間七七四年:2007/08/04(土) 14:11:47 ID:vt0WA4AM
本多デリケートwwwwwwwww
51のぶひろ ◆XKx/pRmtQU :2007/08/04(土) 14:49:04 ID:qAwPc952
因みに、1610年 老中 大久保忠隣で検索すると上のヒットした二つで分かると思うんだが
1593〜秀忠付き老職=年寄衆、1610〜老中就任となっているんだが
正式な老中としての職は1610年からのもので、年寄衆を老中と呼ぶ所もあることはあるが
これは若年の秀忠の補佐役ということではないかな。
wikipediaでも大久保忠隣のページでは1610年就任と
老中のページでは1593年-1614年と分けてある。
52人間七七四年:2007/08/04(土) 18:45:32 ID:TGhPioM3
>>49
マジレスだがそれは隠居した後だろ。
隠居の原因は目を悪くしたらしい。
それが小指切っちゃう事に繋がる。
53のぶひろ ◆XKx/pRmtQU :2007/08/04(土) 19:10:04 ID:qAwPc952
で死んじゃうと
54人間七七四年:2007/08/04(土) 19:10:07 ID:F0GuJ0dm
将軍の権威も十分形骸化してるのはスルーか。
征夷大将軍が武家の棟梁とかモロ徳川史観で笑える。
55のぶひろ ◆XKx/pRmtQU :2007/08/04(土) 19:14:16 ID:qAwPc952
正直、天皇も将軍も関白も朝廷自体も形骸化しているからな。
そこで平民武家の織豊徳が台頭してきて武力で他者を淘汰して頂点に君臨する。
こういう所は全世界共通だな。まあみんな人間ってこった。
56人間七七四年:2007/08/04(土) 19:18:06 ID:JETdq7yK
つーかさ、庶民出であり、武士である秀吉が、将軍より関白になるほうが絶対に難しい
将軍にはなれなかったので仕方なく関白に、なんていう記述をよく見るけどそんなものじゃないだろ。
将軍であろうと関白であろうと、実力が無ければ諸大名が従わないのは変わらない。
足利義教や義輝あたりは暗殺されちゃってるわけだし。
秀吉が将軍であっても歴史は変わらなかったと思うよ。結局は滅ぼされてると思う。
57人間七七四年:2007/08/04(土) 19:26:51 ID:IyIc+XAZ
とりあえず「秀吉が将軍になりたかった」つう説の根拠を
58人間七七四年:2007/08/04(土) 19:28:49 ID:1JRjD9Fa
いい加減こっちでやれよ

何故秀吉は将軍にならずに関白になったのか? 2
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1160617713/
59人間七七四年:2007/08/04(土) 19:57:35 ID:F0GuJ0dm
秀吉が将軍になってたら
逆に家康が関白なってたかも知れん。
そして秀吉は関白になれなかった。なった神君はエライ!という通説が流れ、
>>1は嬉々として井伊は秀吉が関白になるのを防いだ!と言い出す。
そんな夏。
60人間七七四年:2007/08/04(土) 21:19:36 ID:0YAfhE5g
つか、征夷大将軍も関白も令外官だし
道長は関白と同じ内覧の権限をもってるじゃないかと小一時間
ついでに道長が天皇加冠の時に太政大臣であった為に、秀吉も後陽成天皇の元服に合わせて太政大臣になってるじゃんかと小二時間

天皇は後醍醐以後は傀儡に甘んじてるから事実上文官武官の頂点に立てるのが関白・秀吉で問題ない
大事なのは秀吉が軍事力を持った武家関白だってコト。頼朝が征夷大将軍を拡大解釈(そもそも幕府開く役割じゃない)したように
関白の権限もいくらでも拡大解釈できる。実際問題、名も実もある官ってこと

井伊スレも本多スレもあるのからこのスレの価値は>>1を生暖かく嘲笑うぐらいだな
61のぶひろ ◆XKx/pRmtQU :2007/08/04(土) 23:07:29 ID:qAwPc952
そうか、じゃあまず「道長は関白と同じ内覧の権限をもってるじゃないかと」発言に小一時間笑わせてもらおうか。
初歩的過ぎて説明も面倒くさいので、wikipediaから一部引用、添削あり。
公式な政府の最高機関である太政官(当時は左大臣)には摂政・関白は大臣兼任であったとしても関与出来ない決まりであった。
そこで、道長は自らの孫が天皇に即位して外祖父となるまでは摂政・関白には就かず、
太政官の事実上の首席である左大臣と関白に近い権限を持つ内覧を兼任することによって最高権力を行使しようとしたのである。
以上。

二つ目は、征夷大将軍に殿下と使うのか?関白は天皇の命令をくつがえせるという
夏厨ばりの発言に小二時間笑おうかな。
62人間七七四年:2007/08/04(土) 23:33:30 ID:0YAfhE5g
Wikiもどうかと思うし、それ答えになってないだろ
お前が関白の規定された権限を馬鹿にして、「だから道長はそんなショボい権限いらなかったのさ」というから
いや、その権限は道長も持ってたんだが?と言ってやったんだが
63人間七七四年:2007/08/04(土) 23:35:36 ID:ukw7iVDf
>>62
腹筋壊れるぞ
64人間七七四年:2007/08/04(土) 23:37:58 ID:ukw7iVDf
>>61だた
65人間七七四年:2007/08/04(土) 23:41:06 ID:OhH+mg/A
秀吉が将軍で家康が関白になったのなら、関白になれなかった
秀吉より家康が偉い、っていう徳川御用学者の主張も説得力ある
けどね。

たぶん当時の武家社会の中でも関白のほうが少なくとも身分上は
上ってことは理解されてたはずだから、こんな論説は一笑に付されていた
だろうけど、いかんせん徳川には実力があったから、無理を通せば道理が
ひっこんじゃったんだろうな。
66人間七七四年:2007/08/04(土) 23:45:38 ID:0YAfhE5g
>征夷大将軍に殿下と使うのか?関白は天皇の命令をくつがえせるという


どっから出てきたんだ?この妄想
67人間七七四年:2007/08/04(土) 23:57:46 ID:F0GuJ0dm
太政大臣には秀吉も家康もなってるね。
コテハンくんは知らないみたいだけど。
68人間七七四年:2007/08/05(日) 00:35:55 ID:1hfE8nTb
現在、コテハンくんは大好きなwikipediaで歴代太政大臣を確認中とみた
69人間七七四年:2007/08/05(日) 00:47:14 ID:cg/eRB3z
忠勝て色んな人に褒められてるよね、事実かはわからないけど

秀吉や信長、武田家から

井伊てそういう逸話ありますか?若いせいかもしれないけど

左衛門尉家と雅楽守家の扱いの違いと一緒でしょ

井伊>忠勝は
70のぶひろ ◆XKx/pRmtQU :2007/08/05(日) 03:49:05 ID:6883enar
豊臣秀吉が「自身以外で天下を治める者がいるとすれば、黒田如水か小早川隆景」と評したり
黒田如水からは「自分以上の切れ者。」と認められていた豊臣五大老の小早川隆景から
「直政は小身なれど、天下の政道相成るべき器量あり。」
({家康に謀反し}天下をとる気になって暴れれば天下も取れるだろう)と評されているくらいか。
因みに小牧長久手の戦いの時、井伊直政23歳、本多忠勝34歳、酒井忠次57歳。
(数え年での計算かどうかによって違う可能性あり)。
後は有名な所で「井伊の赤鬼」かな。文官要素も含めると「日本の袁崇煥」のようなものか。

但し、本多忠勝の武功もそれに劣らず「日本の張飛」や「東国無双」と評されたりしたが
本多忠勝は謀略にも長けた武将であり、小牧長久手の戦いで兵500余で秀吉本隊兵8万余と対峙した時に
「あれだけの勇士を殺すのは惜しい」といわれ見逃された点などから、信長の一言坂の戦いのみの「日本の張飛」とかいう適当な評価が不憫で成らない。
この一件からして全身これ胆なりと評すべき武将であるから、例えるならば「日本の趙雲」に等しいと思う。
張飛のような無知蒙昧で酒を飲みすぎて城を乗っ取られるなどといった粗暴な振る舞いが目立つ武将と一緒にして欲しくない。

二人は余りにも対比的な上、二人とも天才武将なんだからそれでいいのではないかと思う。
いわゆる6万石と立地条件の差などは、家康が軍功に政治的貢献を+していたとしたら納得できないものでもないと思う。

※因みに袁崇煥や趙雲等、人物に対して人物で評価するとすっぽり当てはまる人物は居ない。
 例えば本多忠勝は無傷や変わり者(忠勝は軽装、尉遅恭は鉄鞭使い)などの共通点から日本の尉遅恭とも例えることが出来るからだ。
71人間七七四年:2007/08/05(日) 12:17:04 ID:DMnLXQWR
とりあえず、落ち着け
72人間七七四年:2007/08/05(日) 13:01:57 ID:JdRaWqMX
日本の関羽の方がしっくりくる
73人間七七四年:2007/08/05(日) 13:22:02 ID:rl/74JiZ
信長は正史か演義かその中間の講談か
どれを知ってるのかな、正史なら他の将軍から数段劣る趙雲より
演義ほど馬鹿じゃない張飛のがよっぽどいい
いつ言ったか知らんが一言坂〜武田討伐だと忠勝もそれほどの威厳は無いし趙雲でもいいか??
74人間七七四年:2007/08/05(日) 14:21:37 ID:db1SExjh
>>70
>二人は余りにも対比的な上、二人とも天才武将なんだからそれでいいのではないかと思う

こう結論付けるのは、もっと議論がヒートアップして、
直政オタと忠勝オタが他スレ巻き込んで阿鼻叫喚の論争し始めた後だなw
75人間七七四年:2007/08/05(日) 15:41:03 ID:w2H66wNK
忠勝の最大の失策はやっぱ信繁助命かなぁw
76人間七七四年:2007/08/06(月) 01:56:38 ID:dJuPRYom
直政って小早川隆景に誉められてんのか、すごいな。
しかも直孝ってのがこれまたすごい。
大阪の夏の陣で、木村重成と長宗我部盛親に藤堂高虎隊がぶちのめされて
副将格の藤堂良勝や藤堂高刑か次々と討ち取られて、壊滅状態に陥ったときに
突如風塵の如く現れて、木村重成と長宗我部盛親を撃破し、討ち取って
大阪城内の山里丸に詰め寄り包囲し、豊臣秀頼・淀殿・大野治長を自害に追い込む。
その勲功第一の功績をもって、破格の17万石を増封され、譜代大名最高の家柄の基礎を確定させている。
家光の宿老となり(初代江戸幕府大老とも)、朝鮮通信使さえも畏怖させている。
77人間七七四年:2007/08/06(月) 02:05:26 ID:HZgoyQ6l
待遇の差はすなわちケツマンコの差
78人間七七四年:2007/08/06(月) 02:07:00 ID:581ctqt4
>>76
ちょwww藤堂勢の壊滅はまだ決戦前日wwwwww
79人間七七四年:2007/08/06(月) 03:30:19 ID:kifAEQb3
>>76
そして ひこにゃんの前では可愛らしい殿様
80人間七七四年:2007/08/06(月) 10:40:45 ID:P0qhOWq6
後詰無しの連戦で疲労した大坂方蹴散らしても正直別に大したことだとは思わない
81人間七七四年:2007/08/06(月) 11:25:51 ID:nGInOPYl
>>80
若江の木村勢は大して疲労してないぞ。
おまけに畷道を俯瞰する川の土手に鉄砲隊を配置し伏撃体制を採るといった
沖田畷と同じ状態。

これを井伊勢は鉄砲の一斉射撃の後に一気に突撃。
突撃した先手壱備の士大将が戦死するといった大打撃を受けるものの、突破に
成功して土手を占領。
これに井伊勢後続が続き、動揺する木村勢を殲滅。余勢を駆って藤堂勢を壊滅
寸前に陥れた長宗我部勢に横槍をいれ、これを壊滅させるという大戦果。

家康は綺麗な赤備を見て「ありゃ、だめだ」と言ったらしいが、実際は大したもの
だったという事。
82人間七七四年:2007/08/06(月) 11:49:37 ID:JiVU/XB9
大して疲労してないって井伊隊と戦う前に未明から八尾・若江間をうろうろして
明朝に藤堂隊と交戦してそれを打ち破った後だったろ>若江の木村隊と井伊隊の交戦
木村隊に疲れが有ったのは当然だと思うが
83人間七七四年:2007/08/06(月) 11:50:37 ID:dJuPRYom
>>78
本戦の前の三戦の前哨戦の内、最後の八尾・若江合戦で豊臣軍が
篭城に持ち込まざるを得なくなったということをいいたかったんだよね。
同日ながら道明寺・誉田の戦いでは真田に足止めをくらって豊臣を篭城に追い詰められずに
追撃中止を決定しているみたいだしね。

>>80
いわゆる、上記の八尾・若江の戦いでの長宗我部隊と木村隊と増田隊は連戦はしてないよ。
一個隊と戦ったというのを連戦としても、それではあまり疲弊とまではいかないからな。
ましてや藤堂隊だからなw。藤堂は正直、関ヶ原でも大谷隊に抵抗されているしな。
唯一の取り柄といえば、築城くらいかなw。

後日の天王寺・岡山の戦い(本戦)では、先の三戦で疲弊した兵がこぞって篭城しているわけだから
流石に大阪方の疲労はピークで戦力差もあるので討伐できた所ですごいとは思わないが。
84人間七七四年:2007/08/06(月) 11:59:23 ID:nGInOPYl
>>82
それをいうなら井伊勢も前日に京から出陣してる。移動距離は木村勢の方が短い
藤堂勢も先手の一部にすぎん。主力は長宗我部と交戦しているし

ぶっちゃけた話、あの大戦の連続が僅か三日の内に集中したと言うのが、異常。
85人間七七四年:2007/08/06(月) 12:24:18 ID:dJuPRYom
大阪夏の陣の論功行賞best2

1位 井伊直孝(17万石加増+天下普請+宿老)
(長宗我部隊と木村隊の二隊を壊滅に陥れる。
同日で道明寺・誉田の戦では追撃中止、八尾・若江の戦では敵軍壊滅に分かれたことで
徳川本軍12万が、大和路からの徳川軍3万5000より先に陣を築くことが出来た点と
道明寺・誉田の戦での豊臣方将兵も篭城で戦わなくてはいけない状況に追い込めたことが評価されたと推察)

2位 松平忠明(大阪藩主+宿老)
(大阪冬の陣で方面軍大将をつとめ上げた実績と
道明寺・誉田の戦いでは進軍を押しとめられる武将などがいる中で無難に活躍。)

番外編 松平忠直(茶器一つ)
(大阪冬の陣では兵力を大きく消耗し家康の叱咤をうける。
{因みに井伊直孝は真田にコテンパにやられたにも関わらず誉められている}
大阪夏の陣では真田隊の一隊を破り、大阪城に一番乗りをするも思ったような恩賞を貰えず。
恐らく家康は疲弊度と兵力差からして絶対誰かは成し遂げられるものなんだからと思っていたと推測する。)
86人間七七四年:2007/08/06(月) 23:10:12 ID:XjbwID90
つーか、井伊と本多のちがいって、能力がどうのという以前に
徳川家中の身分のちがいなんジャマイカ?
本多とか大久保なんかは、あくまでも松平家の家来なのに対し
井伊とか水野とかは松平と同列の国人衆なわけで、実際に織田に
ついたり今川についたりしてるわけだし。
もともとが松平勢の一員である本多や大久保よりも、自前の軍勢を
持ってる井伊や水野なんかの方が当然褒美の知行は多くもらえる
わけだな。
87人間七七四年:2007/08/06(月) 23:59:07 ID:kifAEQb3
直政は自前の軍隊なんて持ってなかったでしょ
でも身分というか家格はすごい。家康は男限定で貴種フェチだったんだろう
88人間七七四年:2007/08/07(火) 01:16:06 ID:VlfP1wJx
多分、井伊は家格が有力国人衆だからということで
家来より知行や褒美が多かったり、起用法も格別だったのだとは思うな。
直政は父の井伊直親が謀反の疑いで今川義元に殺された際に軍勢毎奪われたので
家康はそれを不憫に思って、甲斐討伐の際に得た武田家の遺臣を多数直政に配属して
自前の軍団を作ってやったのではないかと思う。これが後の「井伊の赤備え」である。
89人間七七四年:2007/08/07(火) 15:54:24 ID:VlfP1wJx
>>85
これに補足すると、木村重成が井伊直孝隊によって討ち取られた後、
長宗我部隊も壊滅に陥れられて、大阪城にまで逃げ落ちるも
その軍勢の勇猛さに敗北を悟り、決戦には参加せずに逃亡。
ぞの後、徳川方に捕らえられ白州に引き出された際に、
長宗我部盛親は「徳川方第一の戦功は八尾で大坂方を破った井伊直孝、
大坂方敗戦の因は八尾で敗れた長宗我部盛親」といったという。
90人間七七四年:2007/08/07(火) 16:36:17 ID:Cc/ERuPB
井伊谷三人衆は元々井伊に使えていたようだが直政の自前の軍隊というよりは
家康に帰参した豪族で、あとで家康が直政にあずけたようだね。
やっと元服していきなり土屋衆、山県衆を付けられたのには家中の不満も大きかったようだ。
特に山県旧臣の広瀬郷左衛門景房は武田との戦いの中で家康も名前を覚えていた勇将だったが、やはり直政に預けられた。
筆頭家老の木俣守勝も元々徳川の臣で直政に付けられた。
次席家老の長野業実も上野箕輪の長野業正の一族(子?)を自称しているが直政が上野で登用したのではなくて
元家康の小姓で姉川の戦いや北条攻めで活躍し、後に直政付きなった。
直政が自分で抜擢したのは赤備えを率いた西上州小幡信貞の旧臣、
上泉信綱の軍学を修めた軍師岡本半助で、若年ながら出世をして大坂の陣で活躍した。
91人間七七四年:2007/08/07(火) 17:34:54 ID:lzqdXvHb
>>90
そりゃ三河衆の下に付けたら、三河衆同士のいがみ合いになるうえに家康にも飛び火しかねん
そこで遠州出身で家康以外に後ろ盾が無い直政の下に付ければ、やっかみは直政一人に集中
する上に、甲州衆も自分達の部隊という気概も上がるだろう。

無論、中堅には木俣といった三河衆を置いて、コントロールしてるけど。
組織運営においては家康は天才としか言いようが無い
92人間七七四年:2007/08/07(火) 17:34:59 ID:XSARWgis
>>90
それに比べると、平八の家老たちは地味だな。
都築秀綱くらいしかワカンネ。
93人間七七四年:2007/08/07(火) 17:54:32 ID:LRhlkgR7
平八の命取りは真田の助命じゃないの。
94法名豊松 ◆Shnmi7S27Q :2007/08/07(火) 22:53:07 ID:VlfP1wJx
遠江国守 藤原共保(三国姓とも)出身で守護として赴任し
足利義氏(今川氏)の配下になってからは桶狭間の戦いの近年まで
井伊谷領主で引馬城主(浜松城主)、井伊谷城主を歴任という大豪族。
勿論自前の軍勢ももってはいた。本多家は自称源氏で一般武士。待遇の差が出るのは当然。
しかしながらその筋目が故に悲運の家柄でもあった。
1544年にの曾祖父の井伊直満、曾祖叔父の井伊直義が謀反の疑いで自害を命じられる。
1554年に叔父(父の弟)の井伊直宗が討死、1560年に養祖父の井伊直盛が討死、
1562年に実父の井伊直親が謀反の疑いで謀殺(この代で所領没収)、
1563年に高祖父の井伊直平が毒殺。しかも直親と直政は家臣が密かに匿って育てた子である。
この異様な系図を見ると分かるが、今川義元の代の僅か19年の間に親子三代が死亡、
井伊家後継者7名が死亡するという策謀だと断定せざるを得ない結果となる。
これは今川義元が、当時足利義氏が遠江を攻略する前の最大の守護大名であった
藤原共保の血を継ぐ、井伊家を断絶させようとした以外に想像もし得ない。

しかも、直政二歳の時に男系の血族が全て絶えてしまったのである。
軍勢は因みに直親が僅かな手勢で誘き寄せられて、朝比奈泰朝に討たれた跡に押収されている。
家康は多分、親戚が皆絶している中で自身を曲げることなく生きるその気概と
衆道嫌いの家康でも見染めたという生まれもっての超美系なルックスに惚れ、
将来自分が大物になったらこの男に一人前の軍勢を持たせてやろうと心に誓ったのだと思う。
井伊直政自身は祖父・父の温かみを知らないので、家康を父のように思い慕っていたのだと思う。

因みに俺はこの事情を知ってから今川義元が嫌いになった。桶狭間で討たれて当然だと思った。
そして井伊直政に同情して、悲劇のヒロイン・文武両道において活躍した希代の英雄として今も崇敬している。
95人間七七四年:2007/08/08(水) 01:53:45 ID:EZmC8l1U
>>94
苛烈なまでの振る舞いも幼少期と家康への恩ゆえと考えると
また印象もかわるな。
そういえば、井伊って徳川家臣団でもきっての名門だよな
96なおはる ◆cqvR7Qa3Og :2007/08/08(水) 02:14:43 ID:a3RQVeql
衆道のおかげで譜代大名中一位の待遇だとかいう本多厨がいるがそれは本多がただ単にブサイクなだけ。
いざという時に活躍しない本多なんて怪我しなかろうが用済みだよ。功績でも無論直政の方が遥か上をいっている。
しかも威張り散らせる戦といえば、あるかないかも定かではない一言坂の戦いだけ。

高天神城の戦い
家康の寝所に潜伏してきた武田軍の忍者を討ち取る。
井伊直政が間諜を用いて水の手を切って落城を早める。
当時井伊直政は18歳、本多忠勝は29歳であった為、
功績は当然だが忠勝の方が上である(首級22を挙げる)。

甲州・信濃併合
この際に井伊直政に武田遺臣を多数授けたことについて記述がある。
家康は最初に酒井忠次に授けようと思ったがとどまり、若輩の井伊直政に配属してやろうと
考え直し、忠次に命令しなおすと忠次は謙った態度で奇麗事を並べ平然を装う。
そこに榊原康政が来て忠次と話しだし、甲州兵を直政と自分で半分に分けることを主張し、
直政を若輩者と罵り、直政と会ったら刺し違えて死んでやると言い出し憤慨する。
忠次は反論し、「甲州兵は当初、殿が私に下さるというのを自分から直政に配属するよう譲ってやった」と虚言を吐き、
続けて「それを聞き分けずに康政がつまらぬ振る舞いに出れば、殿に断る前に康政の妻子一族を、残さず串刺しにしてくれようぞ」
と物凄い権幕で言い放ち、康政は飛び上がったといわれている。「武功実録」より引用

小牧長久手の戦い
長久手の戦い
この年に井伊直政は若干22歳の年齢で旗本先手役を任されることになる。
小牧長久手の戦いでは御旗山本陣を任され、燦然と山を駆け下りて
敵将の池田恒興・森長可を討ち取る(実質的な討伐は井伊隊で首級を挙げたのは家康隊)。
この戦いにおける功績が元で下の経緯となり、井伊の赤鬼と称せられることとなる。
<直政が赤旗、赤幟、朝日の光に輝きて山よりこなたに馳せおろし、
立ざま、横さま、かけ破る。敵終に打ち負けて、大将あまた討たれしかば、
士卒猶いふに及ばず。京家の者共、直政を赤鬼と名づけしは此の時よりの事なりけり>「藩翰譜」

長久手の戦い終了後の無き無き戦い
竜泉寺で本多忠勝は500の兵で秀吉自ら率いる8万の大軍と対峙した。
石田三成が秀吉に対して忠勝を討つ好機と進言したが、
秀吉は「あれだけの勇士を殺すのは惜しい」として聞き入れず
その胆力を評して、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、
西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」といったという。
本多忠勝が500の兵で、羽柴秀吉の8万の軍を受け止めて上のように評されたというのは全くの虚構。
そんなのが出来たらスパルタ軍以上です。学者間ではこの秀吉の評価は気分次第の過大評価との声が強い。
97なおはる ◆cqvR7Qa3Og :2007/08/08(水) 02:15:59 ID:a3RQVeql
小田原攻め
誘い橋の篠曲輪に夜襲を仕掛け、守備隊長である山角定勝と戦い、
敵兵四百ばかりをとり退却にかかり、敵の誘いに応じて深攻めをしなかった。
余り効果がなかったかも知れないが、小田原城に飛び込んで戦ったのは、
大名が連名する小田原征伐軍の中でも井伊直政隊一つだけだった。
三国志に例えれば「濡須江の甘寧程度」の功績に匹敵。

関ヶ原の戦い前半
松平忠吉に関ヶ原の戦いで一番槍を切らせる活躍。
本多忠勝も松平忠吉の後見役だが兵が少数だということを理由に参加せず。
徳川勢が戦の口火を切ったおかげで、徳川方の体裁を保った。

関ヶ原の戦い後半
松平忠吉隊と島津勢を執拗に追撃し、島津豊久・長寿院盛惇を討死させ、実質的な壊滅に陥れる。
本多忠勝は追撃途中で落馬し、追撃を断念する。
この関ヶ原での戦功で、松平忠吉は尾張清洲藩52万石(当時親藩大名一位)、
井伊直政は近江彦根藩18万石(譜代大名一位)に加増される。

関ヶ原の戦後処理
毛利輝元との講和に奔走し成立させる。
長宗我部盛親の兄の津野親忠の依頼を受け、家康への仲介を斡旋し成功。
しかし、長宗我部盛親が久武親直の讒言を聞き入れ、津野親忠を処断し、家康激怒。
井伊直政が浦戸城の受け取りを任され、浦戸一揆の鎮圧に貢献する。
島津義弘にも家康の家康への仲介を斡旋し成功。
因みに本多忠勝は休息中。
98人間七七四年:2007/08/08(水) 03:26:32 ID:b+Nm3R4K
井伊直盛は主家に準じる玉砕振りといい評価高いけど、直親は・・
99人間七七四年:2007/08/08(水) 11:46:22 ID:OijTA/j3
>>96
この手の書き込みにレスするのもなんだが家康が自身で一番の危機だったって語ってた伊賀越えが完全スルーのはわざとか?
それから関ヶ原では落馬した直後に馬乗り換えてるし、落馬の時期が島津追撃中だったかは定かではないぞ。

直政の方が待遇良かったのは政治力と出自と父親の件でFAだろ。
外交能力と政治力じゃ直政が完勝だろう。忠勝はにはその手の史料がほとんど無いらしいし。
忠勝も善政しいてたって話だが特筆すべもんでも無かったんだろう。
ただ、冷遇言われてるが忠勝の孫に千姫与えてるんだからその点では優遇って言ってもいいし。

同じ君主の下での武技の優劣などなんの意味も無いと思うが
戦場指揮官としては忠勝のほうが優秀だったと思うぞ。
突出した功績一つよりもコンスタントに活躍し続けるほうが大変だし評価されるべき。
終止前線に出すぎてそれが元で早死にしている直政はその点マイナス(まあ過労が死因の大半なんだろうが)
100なおはる ◆cqvR7Qa3Og :2007/08/08(水) 13:29:02 ID:a3RQVeql
>>99
伊賀越えは戦功ではないし、信長に付き従うのをやめるよう諫言したのは本多忠勝だが
伊賀越えを行うよう進言したのは服部半蔵。
因みに井伊直政は家康がこうすると決定した意思には生涯で一度たりとも逆らってはいない。
本多忠勝は真田親子の助命嘆願の際に「殿と一戦仕る」といったことと
徳川家康が織田信長に付き従うというのを諫言して思い留まらせたことの二回も逆らっている。

千姫の件は、榊原康政が関ヶ原に遅参し、
酒井忠次は松平信康の件で完全に出世街道を外れていたので左衛門尉家は以後大老を輩出できず。
譜代中二位の家柄である為、当然の功績である。(因みに井伊家に権勢高い家柄の妻がいないのは直政の遺言による)

そもそも稼動時期からして井伊直政が本多忠勝よりも13歳も年下であるので
因みに高天神城の戦いで井伊直政は18歳、本多忠勝は29歳、
小牧長久手の戦いでは井伊直政は22歳、本多忠勝は33歳で
本多忠勝とコンスタントな戦いでは、参戦した戦の数が圧倒的に少なくなる為、井伊直政に勝ち目は無い。(野球でいえば規定打席外)
しかも、家康の帰趨を左右する二つの大規模な戦である小牧長久手・関ヶ原の戦いでは圧倒的に突出した功績を残していてもはや比較にもならない。
関ヶ原の戦い後の、松平忠吉の尾張清洲藩52万石(当時親藩大名一位)、 井伊直政の近江彦根藩18万石(譜代大名一位)を始めとする
大幅な加増から見ても、コンスタントな戦いでは一々小さな褒美を与え、大規模な合戦ではそれに見合った加増をするといった
論功行賞の原理原則が利いての功績においての適切な序列が行われたのだと思われる。
101人間七七四年:2007/08/08(水) 19:30:44 ID:aEoCYG/5
>>100
>松平忠吉の尾張清洲藩52万石(当時親藩大名一位)

結城秀康は親藩大名にならないのかな?


そもそも松平忠吉の場合は家康の息子というだけで、働き以上の加増だと思う
秀康もそうだけど・・・
102人間七七四年:2007/08/09(木) 01:43:30 ID:P/w6TkwC
一応関ヶ原参戦者の中でという意味と後の徳川御三家という意味でね。
働き以上の加増というのは、当時増封できそうな家康の男系男子は
江戸城で留守居役を務めた武田(徳川)信吉と、
上杉景勝対策の留守居役の結城(松平)秀康と
関ヶ原で一番槍と敵将を討ち取って功を上げた松平忠吉がいるんだけど
正直前述の二者はあまり功績を挙げてないのに加増されてるよね。
それは、徳川秀忠が中仙道を進行中、真田親子に足止めされたおかげで
徳川秀忠自身と榊原康政・大久保忠隣・本多忠政などの重臣の大幅加増がなし得なくなったため、
しかたなく、家康にかなり邪険にされていたと有名な結城秀康などに大封を与えなければならなくなってしまったんだと思うよ。
現に結城秀康は、親藩中一番の石高に封じられたにも関わらず、将軍になれないどころか
徐々に嫌がらせのように幕府から石高を削り取られている点から見てもな。
103人間七七四年:2007/08/11(土) 23:30:01 ID:XNW6xvNT
性格悪くて家臣はみんな本多や榊原のところへ逃げたそうじゃないか これはどこまで本当だかわからんが…
しかも無能(1000人の島津に鉄砲喰らって死亡なんて情けなさすぎる 忠勝なんて無傷なのに)

枕営業成功してよかったね
104人間七七四年:2007/08/12(日) 12:36:59 ID:x2MQlBTW
1000人の島津想像した
105人間七七四年:2007/08/12(日) 13:30:56 ID:AFyr08wL
井伊直政の殉死者は0人でこの結果は井伊家クラスだとありえない
っと聞いたことがある
106人間七七四年:2007/08/13(月) 11:05:07 ID:VRrUXlUN
それより聞いてくれ、本多忠勝の肖像画を見ると奴はスタートレックに出てくる
クリンゴン人のような気がして仕方が無い。
107人間七七四年:2007/08/13(月) 21:34:31 ID:ONoUsOyy
答え:ケツマンコ
108人間七七四年:2007/08/13(月) 21:35:46 ID:yNstRzju
馬鹿そんなこというから井伊がバルカン人に思えてきたじゃないか
109人間七七四年:2007/08/13(月) 21:51:23 ID:wUm/8PUz
>>96見て思ったんだが
榊原の配下にも武田の遺臣は組み込まれてるよな
高白斎の倅とか
110人間七七四年:2007/08/14(火) 03:00:50 ID:leZiYF6M
朝日姫と大政所の世話役を務め上げた際にも丁寧な待遇をして秀吉自ら茶を立てて労う待遇をされたり
(因みに同様に世話役だった本多重次は二者を冷遇したので関東移封時は家康の命にて蟄居となる。)
石田三成が捕縛された際も戦前と同様の礼遇をしたり、上野国箕輪・近江佐和山でも名君として慕われている。
人間的に狂人化しているとはとても捉えられない所から、徳川家最強部隊として名高い赤備えを維持する為に
軍律が厳しく、信賞必罰を重んじたのではないかと思われている。(武田信玄は金山からの大量の報酬で維持)

家康に「英雄の武士」と評された広瀬将房は、井伊家臣として活躍を見せ、
蒲生氏郷に、蒲生家臣の武田二十四将の曽根昌世でさえ六千石の所を、
七千石で来てはくれないかといわれた際も拒否している。(井伊家臣として二千石で生涯を終える。)
長野業輝は、大枚を叩いて直政の追福のため、六波羅蜜寺に直政の彫像とそれを安置するための御影堂を寄進している。

逃亡した家臣の中で重臣といえば、井伊谷三人衆の近藤秀用ぐらい。
その他、旗本に戻してくれといったのは近藤も含め、木俣守勝(三河譜代)・鈴木重好(井伊谷三人衆の子)など譜代家臣であり
旧武田有力遺臣等からは殆どそういった声はない上に、何故か井伊直政が望んでいた新城築城(直政の遺言)が
早川幸豊の甲州流築城術で築城されていることや、その築城が甲州武士主導で行われていることが疑問である。

その上、直政家臣の主だった甲州武士が、直政の遺言の彦根築城後に養子申請せず断絶している例が多く見られる。
広瀬将房(養子が大阪の陣で討死、養子申請せず断絶)
三科形幸(嫡子死後、養子申請せず断絶)
孕石泰時(大阪の陣で討死、二代続くが養子申請せず断絶)
早川幸豊(死後、養子申請せず断絶)
長坂十左衛門(死後、養子申請せず断絶)
川手良則(養子が大阪の陣で討死、養子申請せず断絶。良則の妻が井伊直政の姉で再興)

甲州武士の中でも更なる有力武将の家柄にしては養子を取らないのは不思議である。
更に不思議なのは、その武将の多くが直政の遺言である彦根築城後に関与している点である。
それに幾らなんでも井伊直政死後に殉死者が一人もいないのは不思議すぎる。
恐らくこれらは、井伊直政が殉死を嫌っていたのではないかと思われる。
武田信玄が逝去した際も、馬場信房や山県昌景らが殉死しようとするのを高坂昌信が制止しており
子々孫々が絶えるまで井伊家に忠誠を尽くすのが甲州武士の彼らなりの直政に対する忠誠の尽くし方だったのかもしれない。
(徳川家へのご奉公第一につとめること、忠節一筋を心掛けよというのも直政の遺言)

井伊直政は功名はあるのに余り名が浸透していない武将であり
研究も資料等を多量に所有している井伊家のみしか行っていないので研究不十分で誤解されている点が多くあると思われる。
111なおはる ◆cqvR7Qa3Og :2007/08/14(火) 03:01:44 ID:leZiYF6M
榊原康政の家臣に駒井政直がいたり、家康の旗本にも甲州武士が居たりするが、
「武功実録」に書かれているのは主に甲州武士の中でも上記の中心武将の帰属についてである。
112なおはる ◆cqvR7Qa3Og :2007/08/14(火) 03:41:01 ID:leZiYF6M
102、110の投稿から名前が抜けてた。
113  |ω・`):2007/08/14(火) 04:56:28 ID:ndgwc3Na
アナルキモチヨス
114人間七七四年:2007/08/14(火) 12:54:19 ID:zcV0bqWq
駒井は充分に遺臣の中では中心武将だし
井伊の赤備というが赤備120騎持ちの浅利は本多忠勝配下につけられている
三枝みたいに家康旗本だったり寄親不明だったりする武田遺臣の中にも中心武将は多い
というか、部将に分けられた遺臣より旗本に吸収された遺臣の方が圧倒的に多い
井伊が優遇されてたことは間違いないが、言われているほどでもない
115なおはる ◆cqvR7Qa3Og :2007/08/14(火) 16:28:40 ID:leZiYF6M
浅利・駒井の功績等は直政付けの山県衆に比べれば論ずるに及ばない。
甲州武士の花形の、信玄の感状を三通以上受けている者が300騎中60騎『甲陽軍鑑』 と一番多く貰っている山県衆、所謂「本家赤備え」の帰属である。
「赤備え」は甲斐武田軍団の代名詞として敵軍に周知しており、「武功実録」に特筆されるようにこの帰属が最重要であったと思われる。
上記の「武功実録」に書かれている「甲州武士」とは山県衆のことを差しており
無論、浅利信種・駒井政武のように功績もなく、ただ雑兵を多数引き連れて居る者は論外である。
因みに上記で養子申請無く断絶と書いているのは全て山県衆である。(面倒なので下に三名を紹介)

武田譜代・浅利信種の子の浅利彦次郎は無能で
父が譜代として稼いだ220騎から100騎召し上げられて120騎に減らされている。
100騎の中に主要武将をいれられ、土屋昌次に引き継がれる。
(一応父が自部隊を赤備えに統一する。エセ赤備え隊自体は脆弱)
武田譜代・駒井政武の子の駒井政直も50騎を引き継ぐも大した功績無し。

直政付きの山県衆(甲州武士)

広瀬将房
緒戦で活躍し、徳川家に仕えた甲州武士の中でも一番の猛将である。
吉田城の門前まで敵兵を討ち散らして家康に名前を尋ねられる功をあげる。
甲州併合の際に家康直々の嘆願により仕官、赤備えの中でも別色の白幌はりの指物を許される。
蒲生氏郷に武田二十四将の曽根昌世を超える七千石での仕官を持ちかけられているが拒否している。
信玄より感状あり。
「井伊に白幌有り」、家康「英雄の武士」、信玄「軽薄なることなき勇士なり」と称せられる。

三科形幸
広瀬将房同様に緒戦で活躍を見せる。
広瀬将房と同様に家康の特認で別色の指物を用いることを許される。
信玄より感状あり。
「徳川家に井伊直政あり、また三科、広瀬など甲州武士あり」と称せられる。

孕石泰時
数々の戦で活躍、一番槍等の功を挙げる。
梅毒発病後も軍略家として貢献する。
信玄より感状あり。
信玄「秘蔵の家人」と評される。
116人間七七四年:2007/08/14(火) 17:14:42 ID:zcV0bqWq
赤備筆頭って山県だっけ?
いや甲州武士ならそうかもしれんが
赤備で最大規模は小幡じゃね
北条に持ってかれちゃどうにもならんか

で、信種死後のことを持ち出しておいて山県はどの代か指定なしかよ

武田遺臣で精強なのを与えられたのは直政への評価というよりも
基盤の弱いお気に入りの戦力を固めたった感じの優遇じゃないか
そう考えれば、待遇の違いはあるが、決して上下がある違いではない
あくまで適材適所で、直政が山県衆を巧く使えたことはまた別の話
117なおはる ◆cqvR7Qa3Og :2007/08/14(火) 23:53:11 ID:leZiYF6M
上野小幡氏は豪族だったけど小幡憲重の代に同じ従属下の長野氏と対立し
上杉家から離反して武田家に寝返った外様衆であって軍勢は体面上、上野先方衆の大将である。
この軍隊自体、飯富虎昌→山県昌景と引き継がれた武田家伝統の赤備えではなく、自前で名乗ったものである。
その上、飯富虎昌→山県昌景→井伊直政と引き継がれた本家赤備えの大将は、
それぞれ「甲山の猛虎」、「源四郎の赴くところ敵なし」、「井伊の赤鬼」と称せられることになり、当該家の四天王の一人でもあるが
小幡憲重・信貞親子も数多くの戦いに参戦している猛将ではあるも、実力としては山県衆の一般将兵に匹敵するかどうか程度である。
それに、感状を3通以上持っている者が山県隊300騎中に67騎、馬場隊220騎中に41騎あったと一位二位の順位を調査して明らかにしているが
500騎と圧倒的多数を誇る小幡信貞のエセ赤備えは名前すら挙がらないという結果に終わる。

家康の慧眼さには同意する。直政に赤備えを配属させて上手く使いこなせたり、三成の旧領を与えるも見事に統治したりと采配は的中しているからな。
118人間七七四年:2007/08/15(水) 03:02:29 ID:U3Q4DOAw
『甲陽軍鑑』を信用すると言うなら小幡憲重、信真の部隊は赤備えどころか武田家中で最大規模だが、
だからといって武田の主力が小幡であるわけでないように、赤備えの筆頭が小幡ともいえないだろうね。
でも赤備えって武田家伝統といえるようなもの?飯富がはじめたんじゃなかったっけ。
なら飯富も小幡も自前で名乗ったことでは変わらないんじゃないの。
それに小幡の辺は朱具足を作っていた甲冑師明珍派の根拠地で、井伊の赤備えの甲冑もここが作っていたようだから、
小幡が赤備えになるのも自然なことだろう。
信長公記の長篠の戦いの記述でも『赤武者』と書かれているのは『馬上の巧者』小幡だから対外的なネームブランドもあっただろう。
エセ赤備えは言い過ぎでは。
それに大将たる憲重・信真を一般将兵と比較するって発想も無茶苦茶だ。

ともかく、せっかくコテやるんだったら無闇に喧嘩売るような尊大な書き方はやめたほうがいいよ。
119人間七七四年:2007/08/15(水) 04:37:31 ID:Xe0jaQR9
個人の実力云々なら身体面で130cm代だったと言われている山県の方が余程…

だいたい、飯富虎昌→山県昌景で「伝統」て…自前で名乗ったならこの二人も大して変わらんし、上州の赤備えの小幡って言ったらけっこうに有名なんだし。
120横槍正志 ◆4iVARpdW46 :2007/08/16(木) 22:59:14 ID:/TT4htuY
部外者で申し訳ないんだが山県昌景は部隊を任されるまでに、
かなりの武功をあげており、その後にも校合雑記に股肱の大将と書かれるまでの武将。
個人の武功も部隊を率いての功績も明らかに比較しようもないくらい上だと思う。
そもそも武田譜代で武田四天王の一人にも数えられる山県昌景と
外様で武田二十四将にも数えられることの少ない小幡信貞を比較すること自体が杞憂だと思うのだが。
(資料によって異なるが、小幡信貞は武田二十四将には数えられることが殆どない。
武田譜代で武田四名臣の一人で遠戚とされる「鬼虎」と称される小幡昌盛、「鬼の子」と称される小幡虎盛は殆どで数えられている。)

それに井伊家臣の甲州武士、広瀬将房は武田二十四将に数えられることもある曽根昌世より高評価されていたというのも歴史的事実であり
小幡信貞の武田家臣時とその後の活躍と比べても、武田二十四将としのそれを超える評価である為、
広瀬・三科・孕石などと比べても三通以上を持つ将兵とは同格ないし同格以下であるが、
それ以下の感状を三通以上持たない将兵以下ではない。

小幡信貞に関しては、外様扱いで殆ど後北条・上野諸豪族との戦いに回されており、上洛を意図した際の行軍にしか起用されてない上、
甲陽軍鑑の中に「信用がない木曽義昌の代わりに織田との国境の木曽に小幡を入れたらどうか」と好評価を得ていたと書かれているが
これは今までの評価が準譜代である木曽義昌以下の扱いだったのがそれと同等の扱いになったことを意味する。
それと同時に小幡信貞は主要戦では三方ヶ原の戦いが主要戦では対織田・徳川に対する初陣である。

因みに三方ヶ原の戦いでは、山県昌景は別働隊の大将として5000の兵を任され奥三河に侵攻する。
柿本城、井平城を陥落させ、浜松城包囲を完成させて本隊に合流した後、徳川本陣に突撃して
三河物語では脱糞した家康に「山県という者、恐ろしき武将ぞ」といわしめる功績を残す。
信玄死後は馬場信房と共に勝頼を補佐するように後事と遺言を託され、長篠の戦いでは開戦に反対するも
最後は武田家の為に殉ずることを決心し、討ち死に覚悟の猛攻撃を仕掛け、壮絶な最期を遂げる。
殆どの名将が馬防柵より離れた地点で鉄砲にて討ち取られたが、山県昌景・土屋昌次だけは柵の近くまで猛攻をかけた後、討ち死にしたという。
この中で武田四天王を筆頭として沢山の勇将が討ち取られたが、信長公記では首級の最重要手柄の筆頭に挙げられている。

小幡信貞はそれ以後の経歴からして、長篠の戦いでは武田家の為に死ぬのを嫌い、武田家の親類衆同様に死亡寸前で退却したと思われる。
信貞に討ち死に覚悟で戦う気などさらさらなく、また信玄からもあまり評価はされていなかったので当然の結果ではある。
信長公記の長篠の戦い項で「赤武者」「馬上巧者」と書かれている部分では
「一番、山懸三郎兵衛」と書かれており、左翼に配置している「武田の副将」こと内藤昌豊などの主要軍を総括して、山県昌景の名前を用いている。
「五番に、馬場美濃守」と書かれており、同じく右翼に配置している真田兄弟・土屋昌次などの主要軍を総括して、馬場信房の名前を用いて代用している。
何故、山県・馬場両名が信玄直々に後事を託され、大将扱いされているかというと、なおひろがいった通り、山県衆と馬場衆がそれぞれ感状数一位・二位であることが関係している。
そして「三番に、西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。関東衆、馬上の攻め者にて、」という部分が問題の部分であるが
「赤武者」「馬上巧者」共に小幡信貞に対して論じた言葉ではなく、あくまでも"関東衆"に対して初めて評した言葉である。
ネームバリューがあったというよりも、ネームバリューが今までは無かったともいえる表記である。

小幡信貞個人については、他の有名武将は信玄の評価が異名となっているが、信玄からも特筆すべき評価はされていないため、異名はない。

「赤備え」自体の原義は、相備衆の中でも特に飯富虎昌の赤備え部隊が飛躍的な活躍をしていた為に、
それが武田騎馬軍団の代名詞となり、弟の山県(飯富)昌景に引き継がれたことによるので伝統化していたかといえばそうともいえる。
だが赤備えに軍装を一新すること自体は規制されていなく、その後塵を拝するように小幡と浅利が赤備えを名乗ったのも事実である。

最後に小幡信真の重臣だった岡本機菴の子の岡本半介宣就も井伊直政に召し上げられている。
121人間七七四年:2007/08/17(金) 07:56:59 ID:RZic4z5h
自演するくらいならコテ名乗るなよ…wせめて文体くらい変える努力はしてほしいものだ。
やっぱり駄目だったなこのスレはw
122横槍正志 ◆4iVARpdW46 :2007/08/17(金) 09:54:17 ID:Xrdj01EO
法名豊松ってコテが上にいるみたいだし名乗ったんだがコテなのったら自演なの?
功績を書き連ねたことで文体が似るのは当たり前のことじゃないの?
116、118なんかも書式が一緒だから自演だというつもりなの?
83、96みたいなのも文体が似ているけどこれも自演にするつもりなの?

大体スレタイから脱線してるから歴史的事実だけ書き連ねて山県の話はこれで終わりにしたかったんだけど。
123人間七七四年:2007/08/17(金) 11:01:26 ID:kHhQj/2e
長文垂れ流しの上に自演疑われたくらいでわざわざ出てきちゃうような奴はコテ向かないのでやめとけ。
124中山幸盛 ◆c1ZKiGzz62 :2007/08/17(金) 11:24:09 ID:VmTdIbQl
コテがいっぱいいるage
125人間七七四年:2007/08/18(土) 19:13:03 ID:+e181s1P
美青年 ひこにゃん アナル
126人間七七四年:2007/08/19(日) 16:10:16 ID:nm6he2gv
127人間七七四年:2007/08/19(日) 21:21:05 ID:z9IUrvES
直政速攻アボン。忠勝大活躍。
ttp://jp.youtube.com/watch?v=t4-YmH8c21U
128人間七七四年:2007/08/20(月) 21:16:42 ID:U1NNUfdo
>>127
さすがは拝金主義者のNHK。視聴率さえとれれば平気で史実さえ歪曲させる。
129人間七七四年:2007/08/20(月) 22:14:12 ID:HH82aGF4
>>128
見てみたが別におかしい所なんて無かったぞ
なんか変な所あったか?
130人間七七四年:2007/08/21(火) 09:42:05 ID:sWas0Jy4
>>128
直政がへたれで忠勝が勇猛だと視聴率が上がるのか?
131人間七七四年:2007/08/21(火) 18:43:08 ID:TBe40dlM
多分、井伊直政VS島津豊久がなくて、忠勝の落馬がなく、
松平忠吉と井伊直政が撃たれて引っ込んだところが捏造だと思っているのではないか?
正直いうとNHKの<その時歴史が動いた>は非歴史的で適当な部分がよくあるよ。気にしないでいいと思われ。
132人間七七四年:2007/08/21(火) 20:21:09 ID:7kIBl88s
>>131
そう思ったのかな128さんは

でも案外非歴史的でもないんでは
井伊直政VS島津豊久にしたって
資料によっては島津豊久を討ち取ったのは本多忠勝というのもあるらしいし

あと自分の記憶が正しければ忠勝落馬は島津追撃よりも前だったような
133人間七七四年:2007/08/21(火) 20:59:52 ID:2SjOv3Ux
井伊の部隊は、いわば電撃戦を先取りしてたのだろうか?
134人間七七四年:2007/08/21(火) 21:14:20 ID:1yORsHar
ひこにゃんが東京世田谷の豪徳寺にある井伊直孝の墓参りをしていた。
なめてんのか!
135人間七七四年:2007/08/22(水) 17:16:39 ID:N6gnlZqj
可愛い
136人間七七四年:2007/08/23(木) 14:41:51 ID:/neELOAT
いわゆる四天王家から老中がほとんどでないのは、むしろ当然
老中は実権はともかくとして、形式的には将軍の輔弼役に過ぎない
対して四天王家は、譜代の「家」として仕えた存在
だから、無役の時でも江戸城内での席次は高かった
137人間七七四年:2007/09/16(日) 21:58:38 ID:Y03i9UOq
 
138人間七七四年:2007/09/16(日) 23:13:44 ID:6rSMWlwR
ひこにゃん見たから井伊でいいよ。
本多の負け。
139人間七七四年:2007/09/17(月) 04:36:28 ID:tVYY3qUs
君たちは肉体関係を軽く見すぎてる傾向があるね、未経験者か???
今の価値観でしか見れないのなら歴史を愛する資格はないな
下級役人の娘でさえトップの寵愛を受ければ権力の中枢に上り詰める
そんな例なんて数え上げればきりがないだろう
140人間七七四年:2007/09/17(月) 04:41:25 ID:tVYY3qUs
関が原の怪我が元で死亡した事により
評価を下げるってのはおかしいね
ただ不運だっただけ
141人間七七四年:2007/09/17(月) 04:49:57 ID:tVYY3qUs
小田原を語るなら夜襲なんぞより支城攻略だな
今川も勝頼もぜんぜん出てきてない・・・

ってか君ら有名なのしか知識がないようだな
スレに載ってんのなんか中学生レベルじゃん
本多も島津しか出てないが軍監として豊臣方の大名に指示しており
福島正則に絶賛されたこと(中学生レベルの知識)すらでてない

もうね、ここまでのレスに何の意味があるのかと問いたいね
学問板の住人らしい議論を展開して欲しいものだ
142人間七七四年:2007/09/17(月) 07:39:35 ID:gHULcuNO
ここはカテゴリ「趣味」に属する板なので、学問板の住人に会いたければ該当カテゴリへどうぞ。
143人間七七四年:2007/09/17(月) 08:43:09 ID:372zKOVN
>>141
お前バカだろ。本多と井伊共に軍監なのにそこを取り上げても意味無いだろww
144人間七七四年:2007/09/17(月) 08:49:13 ID:372zKOVN
因みに関ヶ原軍監時は井伊・本多共に同一行動に近く
池田と福島が衝突した際も二人で諌めていたりするので比べようが無い。
大阪の陣の軍監についても井伊が生存してたら間違い無く軍艦で恐らく同一行動だろうが
死後の話なので比べようが無い。あくまで生前までの功績で語らないとifで語るのは無理があるから。
145人間七七四年:2007/09/17(月) 12:49:00 ID:xgNowxQq
>>143
あーあ馬鹿を晒しちまったこいつ
同じ軍監だから評価の差がでてることが問題なんだろ
知識以前の問題だわこりゃ、知能がね…
146人間七七四年:2007/09/17(月) 12:51:50 ID:xgNowxQq
なんていうか…
その中学生レベルの有名どころでつまずいてちゃってるわけだから
当然深い知識はないわな、納得できたよ
147人間七七四年:2007/09/17(月) 16:26:43 ID:k6tgGavq

すっかり勝ち誇っている>>141の日本語が意味不明な件について

148人間七七四年:2007/09/17(月) 19:42:14 ID:U4mLav3h
煽りだけで記述無し。
こんなんに乗せられてどうする。スルーせえよ。
149人間七七四年:2007/09/17(月) 22:12:16 ID:TZ9QmLGy
>>141
句読点の勉強から始めよう。
150人間七七四年:2007/09/19(水) 10:32:48 ID:H8CP5C94
ここで言い争っている人間知能低すぎ。
2ちゃんねるやっているのはこんなもんか
151人間七七四年:2007/09/19(水) 14:36:56 ID:2DSgVaiS
>>141=>>145=>>150
とてもわかりやすいですね。
152人間七七四年:2007/09/19(水) 23:39:01 ID:sR6iPza9
現代で男色の気持ち悪いヤツがきてたのか
残念
153人間七七四年:2007/09/20(木) 07:59:05 ID:+ombVfyK
だから中学生レベルの事しか書いていない事についてレスしたのだが
簡単に論破されたからってすぐ顔真っ赤になるんだな
あまりに知能レベルが低すぎてこれ以上ついていけない・・・

もう少し勉強してからレスしてくれ
154人間七七四年:2007/09/20(木) 09:44:15 ID:9hYkhJfs
>>153
どこで論破したつもりの?
思い上がってるお前がもう来なくていいよ。
155人間七七四年:2007/09/22(土) 04:24:56 ID:lmmFX9HB
>>153
厨房って論破って言葉好きだよねw
あ、怒った?w
156人間七七四年:2007/09/22(土) 05:33:53 ID:oXFY8W3R
>>153
その中学生、いや、それ以下の日本語をなんとかしてからお願いします。
157人間七七四年:2007/09/22(土) 07:23:52 ID:0Mill62f
そもそも戦国歴史談義に論破などあろうはずもない。
それは自己満オナニーに過ぎない。
158人間七七四年:2007/09/24(月) 00:18:42 ID:XncoRbc8
人気なら天と地の差があるだろうな
天と地ほどの差 じゃなくて天と地の差
159人間七七四年:2007/09/29(土) 09:32:27 ID:oslIDPp6
中学生は涙目で逃亡中保守
160人間七七四年:2007/09/29(土) 15:55:18 ID:1IvdtViT
>>141
まだ学校でhobby習ってないの?
161人間七七四年:2007/09/29(土) 23:10:59 ID:Geb8Vu5f
てゆうか、>>141って安部並の無知KYな恥さらしだな。
162人間七七四年:2007/09/30(日) 21:33:47 ID:WHASsR0C
本多=忠刻が千姫に男子を孕ましていたら、子孫代々ずっと姫路藩藩主だったと思う。
井伊=忠吉が長生きしたら御三家の付け家老のような微妙な陪臣になったのではないかと
163人間七七四年:2007/10/01(月) 17:24:56 ID:NkLhOYVv
相変わらずレベルの低いスレだな
勝手に妄想のみのレスだらけ・・・

あのさ、何か書くときは一つくらい例を出してみたらどうかな
勝手に井伊=忠吉が長生きしたら御三家の付け家老のようなとか妄想書かれても
また中学生かとしか思えない
明らかに当時の井伊直政の地位が分かってないよね

もう少し勉強してからこのスレにきたらどうだろう
いつ見ても全く議論する価値のない書き込みばかりでがっかりする
164人間七七四年:2007/10/04(木) 19:19:44 ID:LlCyHcgf
   *   *
 *   + うそです
  n ∧_∧ n
+ (ヨ(*´∀`)E)
  Y   Y  *
165人間七七四年:2007/10/05(金) 09:34:10 ID:GSPKBhkp
>>163
お前はまず句読点でも覚えなさい。
166人間七七四年:2007/10/05(金) 09:56:30 ID:gsZi4zxl
おう
167人間七七四年:2007/10/11(木) 09:51:58 ID:ugb5knrH
>>163が逃亡中w
168人間七七四年:2007/10/11(木) 18:09:01 ID:EIvQHA6U
逃亡中?
書き込む事すらないから書き込まなかっただけなのだが・・・

実際に誰も何もレスしてないしな

そんな事を言うなら井伊直政と本多忠勝の待遇の違いに
なるような根拠を何か一つでも出してみなよ
中学生レベル知識しかない君たちじゃ無理な話か
169人間七七四年:2007/10/12(金) 14:10:02 ID:/5NLvl5h
>待遇の違いになるような根拠を何か
>待遇の違いになるような根拠を何か
>待遇の違いになるような根拠を何か

www
170人間七七四年:2007/10/13(土) 15:46:22 ID:6jWCS38B
>>141のレスはこの場合正しい
いまだ関が原や小田原の比較すら出てないのはこのスレ住人の知識の欠如といえよう
その後の敵を誤り混乱に陥ってるさまが核心をつかれてしまったことのまずさを示す証拠だな

明らかに挑発的な文章に乗せられその
相手に無意味なレスを返し続けるというのは
まあ無能なお手本というとこだろうね

功績の違いを検証しようとしてるレスを取り違え、
与えられた立場のことだけしか考えられなかった>>142を見ると
思考の狭さ、思慮の浅さ、感情を抑制できない小人物であることが伺える
もちろんこんな人物が他の人物の評定など出来るわけもないよな
しかし>>168も同じ穴の狢、結局のところ意味のあるレスは書けていない
>>171を見事に引っ掛けたというくらいだな

まあスレ発展にはその方向性がよかっただろうが
煽りあいが続く割にはレスも伸びてないのでどうしようもないな

このスレの疑問解決は簡単に答えが出るんでだしてしまおう
徳川幕府の大老になってるのは土井・堀田・井伊・酒井の4氏だけ
これを検証すればすぐに分かるだろう

土井=隠し子
堀田=家光の男色相手
酒井=秀忠付・家光の師匠
直政=家康の寵童
直考=家康の隠し子(?)

要は功績・能力よりも信頼・血統を重んじたってことだ
だいたい徳川幕府を見れば分かるだろ
能力主義で取り立ててたのはごく一部、重要なのはお家柄と上への親密さだった

直政は徳川氏が江戸に転封になった時点から
たいした功績もなく家臣筆頭の石高であることすらも出てないようだね

アナル外交と批判する奴もいるかもしれないが
お前らだって仕事が出来る部下よりも自分と恋人関係にある人を信頼し重く用いるだろう
171人間七七四年:2007/10/13(土) 15:59:06 ID:6jWCS38B
あと忠勝の冷遇だが真田家の一件よりも
二代目に秀忠より秀康を支持したことが大きいだろう

上述の酒井雅楽頭家を見て分かるように秀忠の信頼を得ているものは厚遇されてる
これは榊原家にもいえるな
まあしかし冷遇といっても子孫は老中・側用人・若年寄・寺社奉行
と勤めているわけで別に悪かーないね

井伊は直孝が家康の子なら優遇されて当たり前
そうでなくてもアナルの効果が抜群なのは上述の堀田が示すとおり

ここまで>>170のレスがありながら読む価値のあるのは>>170とこのレスだけだ
君たちは価値のあるものを生産する能力が乏しいな
172人間七七四年:2007/10/13(土) 20:21:24 ID:fJ7cxXR0
>>170-171
またとんでもない馬鹿が現れたな
仮定の話を公然の事実みたいに話してるけど恥ずかしくないのかな・・・

あのさ架空の話は良いから事実に基づいた例を挙げてくれと前から言ってるのだけど
ここの住民は本当にレベルが低いね
相変わらず中学生以下だよ
あきれ果てるよ

議論の余地すらないレスばかり
学問というのはどんなものかから勉強してみたら
173人間七七四年:2007/10/13(土) 22:13:53 ID:hhh91BbU
このスレでは自己評価でまともと言える意見を書くときは、
句読点禁止なのか?
174人間七七四年:2007/10/14(日) 01:45:44 ID:82fUjhjq
確かにまともな評価をしている奴と、
妙に井伊を大した功なしと蔑み、本多を擁護している奴のどちらとも句読点はつけとらんな。
175人間七七四年:2007/10/14(日) 08:18:31 ID:PBs8eL00
家康は文官を必要としていた

以上
176人間七七四年:2007/10/14(日) 14:03:25 ID:CdlnM86e
ひこにゃんが最強だお
177人間七七四年:2007/10/14(日) 16:29:55 ID:wI5Cj3kJ
>>175
ネタはいいからまともに語ってくれ
178人間七七四年:2007/10/15(月) 00:28:02 ID:Ie1TZWos
家康はNiceケツ穴を必要としていた


以上
179人間七七四年:2007/12/17(月) 18:00:55 ID:M2qyA6vx
hjfjgfjgj




ktykytk




hjkghkkg




j,jhjhklkgh




urtutrtu



jjkfjfg




180人間七七四年:2007/12/21(金) 08:10:30 ID:iQeNLwTA
伊勢というと、「おてんとうさま」の代名詞で有名な天照大神の神社が有る所だろう。
港の代名詞の「津」も有る。
そっちの方の収入が分からないと比べられない。
ただ、どちらが田舎かといえば、彦根の方だよね。
181人間七七四年:2007/12/21(金) 10:10:02 ID:DE+/xaJb
津藩は藤堂家、伊勢は幕府の山田奉行
182人間七七四年:2007/12/21(金) 15:09:49 ID:iQeNLwTA
それ忠勝が亡くなってからの話だと思ってました。
183人間七七四年:2007/12/23(日) 15:30:18 ID:Gwv6uvy9
>>180お伊勢さんの親神さんが彦根のお隣りのお多賀さんです。
184人間七七四年:2007/12/23(日) 21:23:24 ID:sNwZDog2
彦根から転封のなかった井伊家と何度も転封した本多家の違いは大きい。
彦根城博物館では井伊家の宝物が収蔵されているのに対して、本多家に
は類するものがない。忠勝が治めた桑名の博物館はなぜか松平定信にこ
だわる。子孫が引っ越してきたからなんだけどね。
185人間七七四年:2007/12/29(土) 14:05:51 ID:lXzXiI1e
>>183
「伊勢に行くなら、多賀へも参れ、お伊勢・お多賀の子で、ござる」
歌にも、なっているのだけど、お伊勢さんの、お父さんが、お多賀さんだって、あまり知られていないんだよね。
当然、お参りの数も桁が、違う。
186駿河朝比奈氏:2007/12/29(土) 14:51:07 ID:aA1+A/C8
|ω・`)井伊さんパパ殺されて寺カワイソス
187人間七七四年:2007/12/30(日) 02:03:28 ID:DX80+1rQ
江戸初期段階では本多と井伊の待遇に差はあまりなかった気がする

本多忠勝→忠政→忠刻は、
上総大多喜10万石→伊勢桑名10万石→大和郡山15万石→姫路25万石

井伊直政→直孝→直澄
上野箕輪10万石→近江佐和山18万石→彦根20万石→25万石→30万石→35万石
188人間七七四年:2007/12/30(日) 13:15:19 ID:UgLWB8Tb
井伊は新参者だからなあ。
代々一族で仕えた本多と比較すれば外様みたいなものかもしれん。
189人間七七四年:2007/12/30(日) 22:45:09 ID:aQaNhE6U
石高だけ見りゃ少し開きはあるが
千姫の再婚先は本多家だったわけだし
待遇の差ってのは言うほどないのかもね
190人間七七四年:2007/12/31(月) 12:42:19 ID:onfRtgW0
関東入封の時点で12万石対10万石。
191人間七七四年:2008/01/05(土) 01:13:02 ID:5CAG0LFX
まぁ滋賀も姫路もDQNの産地だわな。
192人間七七四年:2008/01/05(土) 01:50:47 ID:NXU0DIxO
赤備えドキュメント「野望のルーツ」
193人間七七四年:2008/01/05(土) 09:50:37 ID:lHO4Eck/
本多は、大和郡山時代に忠政系と忠朝系がお家騒動を起こしたことや、末期養子が認められず、減封されたことが痛い。
これがためにあっという間に25万石が5万石になってしまった。

同様のことは、陸奥磐城平→出羽山形→信州高島の鳥居忠恒にも当てはまる
194人間七七四年:2008/01/07(月) 16:38:43 ID:21wHSMQF
まあ、忠刻本人と千姫の間に出来た子供が速攻で死んだのが一番痛かったな。
あれで家としての心象を相当悪くしたというか・・・
195人間七七四年:2008/01/07(月) 22:34:33 ID:TW6ADEmo
スレ違いかと思いますが

直政と忠勝では
どっちが肉体的には
強そうだったのでしょうか?
196人間七七四年:2008/01/08(火) 00:06:12 ID:armSyHIp
そういや千姫と忠刻って微妙に血が繋がってるよな。忠刻が信長と家康の曾孫で千姫が家康と市の孫。
稀に見る良い血統だな〜競馬の配合じゃないけど二人の子供が長生きしたらどうなったか実に興味深い
197人間七七四年:2008/01/08(火) 01:57:06 ID:WsYx1NJZ
>>195
毛並み、顔とおしりの締まりは直政
それ以外は忠勝
198人間七七四年:2008/01/08(火) 13:04:32 ID:onsXOnQx
大坂の役での子息の活躍
本多忠朝 冬の陣では酒の飲みすぎで陣遅れ 夏の陣で毛利勝永隊に突撃、討ち死
井伊直孝 夏の陣で木村重成を討ち取る 八尾若狭方面の勝利のきっかけに
井伊のほうが活躍
199人間七七四年:2008/01/09(水) 21:35:52 ID:XZSNiRFI
>>197
忠勝の方が
男らしくたくましい外見をしてたと考えて
よろしいですか?
200人間七七四年:2008/01/09(水) 21:45:59 ID:t7dnQfZD
酒の飲みすぎは越前黄門忠直じゃないのか?
201人間七七四年:2008/01/10(木) 04:20:41 ID:tkARRDTj
忠勝の息子のどっちかは確かに酒の飲みすぎで
それを大御所に注意されて、それを恥じて次回に特攻死
・・・そして酒の神様として崇められるにいたる
202人間七七四年:2008/01/15(火) 18:31:50 ID:6XxjQlZ7
忠勝は信長に気に入られた
203人間七七四年:2008/02/01(金) 10:18:33 ID:b65NZZrg
>>202
だからなんだ?
井伊直政は信長が死んだ年に元服したわけだが
204人間七七四年:2008/02/02(土) 14:49:04 ID:ygWeRgeW
>>203
202のレスに対して何が言いたいのかさっぱりわからんぞ
それに直政は元服は遅かったが信長が生きてる頃に初陣してる
長篠の戦いにだって出陣してるぞ
205人間七七四年:2008/02/03(日) 10:26:25 ID:XhFo+b3L
忠勝ってコレといった活躍ないよね。
名のある武将討ち取ったわけでもなし。
寡兵で大軍破ったわけでもなし。
過大評価されすぎなんだよ。まだ真田信繁の方が活躍しとるわ。
206人間七七四年:2008/02/03(日) 21:13:05 ID:URNnb9E4
とりあえず、山県と内藤は本多隊に討たれてる(改正後三河風土記)。内藤の方はちと怪しいが。
島津豊久を討ったって話もあるけど(関原合戦進退秘訣)、
俺は井伊隊が討ったって説の方を採るかな。
大軍を寡兵で〜なら小牧・長久手での秀吉本隊への足止め。
過程は諸説あるけどあれは戦略的にかなり価値のある行動。詳しくは小牧・長久手スレで読め。
指揮官としても八万クラスの大軍の現場指揮をこなして福島に賞賛されてる(寛政重修諸家譜)。

真田信繁こそ何かやった?大坂の役で奮戦虚しく敗死って事くらいしか語るべき事は無いと思うんだけど。
まさか、大坂の役で家康は死んだなんて言いださないよね?
207人間七七四年:2008/02/03(日) 23:46:35 ID:Qgsl90NR
>206
>大坂の役で奮戦
で十分じゃね?
208人間七七四年:2008/02/04(月) 00:12:52 ID:/DL40HgF
>>207
一人の武人としての評価としてはそれで十分かもしれんが、それだけをもって
忠勝やら歴戦の武将達より上云々抜かすのは失礼って事。所詮一発屋は一発屋。その一発も不発弾だし。
209人間七七四年:2008/02/05(火) 01:59:18 ID:zt2aEwd7
真田信繁と比較したんじゃ、それこそ小早川秀秋の方が余程活躍してるって話w
朝鮮と関ヶ原で二回。特に関ヶ原は歴史に残る働きだし
210人間七七四年:2008/02/05(火) 06:03:23 ID:3okhc1p5
>>206 >>208 >>209
>真田信繁こそ何かやった?大坂の役で奮戦虚しく敗死って事くらいしか語るべき事は無いと思うんだけど。
足った二回の戦で、後世に名を残した。数じゃ無く質の問題。
最後の散り際の潔さが、日本人受けするの。
211人間七七四年:2008/02/05(火) 08:36:28 ID:fysdxtUV
>>210
ボクー、もうちょっとROMっていようか
212人間七七四年:2008/02/05(火) 10:08:42 ID:GqErpWoV
>>206山県やったのは、前田の鉄砲隊でしょ
213人間七七四年:2008/02/05(火) 10:36:47 ID:lmBVk0wE
>>209わかりやすくゆとり風に言えば
「あんだけの数で押し潰せば必勝ッスねwよかったッスね金吾サンw」
ってなもんだ
214人間七七四年:2008/02/05(火) 11:25:00 ID:3PBR8+yw
>>212
そっちの説もあるが、位置関係的に前田がやったって説の方が弱い。
新城市もたしか本多隊の説を採ってた。
215人間七七四年:2008/02/05(火) 17:26:24 ID:r4lEMN+q
>>210
これは酷い・・・
同じ真田ファンに告げ口してやれば
幸村ファンがこれ以上恥をかかないようにと抹殺されるレベル
216人間七七四年:2008/02/05(火) 20:44:05 ID:oPrtrr7n
真田は真田丸以外も伊達勢をボコったりしてなかったっけ?
別に伊達が弱いとかいうわけじゃなくてあの伊達勢に勝ったんだから認めてあげてもいいんじゃないの?
217人間七七四年:2008/02/06(水) 09:01:13 ID:wahHK1Sz
真田の話なんかどうでもいい。
218人間七七四年:2008/02/06(水) 11:48:16 ID:mldslLdJ
山県殺したのなんか実際誰だかわかってない。
首持ち帰ったわけでもないしな。
豊久といい忠勝厨はずうずうしい。
219人間七七四年:2008/02/06(水) 16:42:17 ID:fTJvRONF
>>218
資料や講談になってる話を持ち出しただけでずうずうしいって何だよw
流石に真柄直隆を一騎打ちの末に討ち取ったとか言い出したらアレだがw
220人間七七四年:2008/02/24(日) 10:51:04 ID:t+nEEFSs
武田の精鋭赤備えを率いていた山縣を誰が討ち取ったかは気になる。
前田じゃヤダ。
221人間七七四年:2008/04/03(木) 01:41:43 ID:M2klFDq2
今日のその時歴史が動いた〜徳川四天王から学べ〜
の糞さは、最高に糞だった。
ゲストがあれでは徳川四天王の質を落としかねない。


鳴かぬなら鳴かなくて良くね?ホトトギス


と、ゆとりが言ってた(その時のゲストの新社会人)
222人間七七四年:2008/04/04(金) 08:11:09 ID:nWDCf1Tt
お前はすっかりテレビに踊らされてるよな
223人間七七四年:2008/04/05(土) 00:21:50 ID:R6iwKT/m
>>222
どこが踊らされてるんだ。
224人間七七四年:2008/04/06(日) 12:33:33 ID:0q+XPteW
>>223
煽りバカはほっとけ
225人間七七四年:2008/04/06(日) 19:07:02 ID:F8cN3ABa
見なかったよ。どんだけ糞だったのか知りたい。
226人間七七四年:2008/04/22(火) 14:07:38 ID:acAE6Uqa
井伊直該は大老にされ、本多忠良は本多平八郎の嫡流ということで5万石ながらも逆に10万石の格式が許され、後年には老中にされた。
227人間七七四年:2008/04/28(月) 14:25:19 ID:IwByShcN
どっちも嫌いだがひこにゃんは好き
228人間七七四年:2008/04/28(月) 15:50:22 ID:tvPZxEXA
これはアメリカのゲームです。1度やってみてください。
これは、たった3分でできるゲームです。試してみてください。 驚く結果をご覧いただけます。
このゲームを考えた本人は、メールを読んでからたった10分で願い事が
かなったそうです。このゲームは、おもしろく、かつ、あっと驚く結果を 貴方にもたらすでしょう。
約束してください。絶対に先を読まず、1行ずつ進む事。 たった3分ですから、ためす価値ありです。
まず、ペンと、紙をご用意下さい。 先を読むと、願い事が叶わなくなります。
@まず、1番から、11番まで、縦に数字を書いてください。
A1番と2番の横に好きな3〜7の数字をそれぞれお書き下さい。
B3番と7番の横に知っている人の名前をお書き下さい。(必ず、興味の
ある性別名前を書く事。男なら女の人、女なら男の人、ゲイなら同姓の名
前をかく)
必ず、1行ずつ進んでください。先を読むと、なにもかもなくなります。
C4,5,6番の横それぞれに、自分の知っている人の名前をお書き下さ
い。これは、家族の人でも知り合いや、友人、誰でも結構です。
まだ、先を見てはいけませんよ!!
D8、9、10、11番の横に、歌のタイトルをお書き下さい。
E最後にお願い事をして下さい。さて、ゲームの解説です。
1)このゲームの事を、2番に書いた数字の人に伝えて下さい。
2)3番に書いた人は貴方の愛する人です。
3)7番に書いた人は、好きだけれど叶わぬ恋の相手です。
4)4番に書いた人は、貴方がとても大切に思う人です。
5)5番に書いた人は、貴方の事をとても良く理解してくれる相手です。
6)6番に書いた人は、貴方に幸運をもたらしてくれる人です。
7)8番に書いた歌は、3番に書いた人を表す歌。
8)9番に書いた歌は、7番に書いた人を表す歌。
9)10番に書いた歌は、貴方の心の中を表す歌。
10)そして、11番に書いた歌は、貴方の人生を表す歌です。
この書き込みを読んでから、1時間以内に10個の掲示板にこの書き込みをコピーして貼って下さい。
そうすれば、あなたの願い事は叶うでしょう。もし、貼らなければ、願い事を逆のことが起こるでしょう。とても奇妙ですが当たってませんか?

229人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 08:46:42 ID:x2wYQSYc
本多は徳があるが、井伊は私欲を肥やすのみで徳がない
230人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 14:23:45 ID:vg144wZZ
井伊直該は大老、本多忠良は側用人として家宣、家継政権を支え、江戸末期も井伊直弼は大老として、本多忠民は老中首座として幕政を担ったのであり
231人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 19:08:54 ID:SMmM0dfF
忠勝は林羅山に「お主と天神様(菅公)では、どっちがより学者なのだ?」と聞いたという…
皮肉でもなんでもなく、本当に疑問に思ったらしい。
羅山が帷幕に加わってからだから、結構歳食ってからの話だ。

三河武士の中でも、特に真っ直ぐに育ったんだなあ、と。
家臣間の暗闘が気になる信長や秀吉としては、こういうタイプが欲しかったんだろう。
232人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/06(金) 05:24:11 ID:AXtpwtz3
小牧長久手は榊原康政がプレッシャーかけた池田を要領よく手柄掠め取った井伊。
井伊部隊が格段に強くなるのは、元武田家将兵達の部隊を取り込んでから。
他力本願で出世街道邁進した井伊。
己の実力で地位を確立した本多、榊原。
233人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 01:21:01 ID:G/RACTQq
メチャ、スレ違いでスマンが,ひこにゃんの兜の脇立は平八の
物じゃね?
234人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 07:18:14 ID:u7W9Ilxh
関東移封の時からして
高崎もらった井伊と大多喜もらった本多じゃ井伊の方が抜群にいいよな。
235人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 07:51:48 ID:CJ0zgxJW
>>234
要地として見れば格段の差だね。

上総大多喜は安房の里見の抑えだけど、高崎はどこに対応してるんだろう?
真田?
236人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 10:43:06 ID:/COnWO6Y
>>233
バリバリ、井伊藩主のみ許させる天衝金脇立
237人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 10:44:29 ID:/COnWO6Y
>>235
井伊は北陸・中山道に対応
本多はいざと言う場合、渡海して東海道の敵主力と決戦
238人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/09(月) 00:54:14 ID:F3CRYY6k
この板に来て,金箔押天衝を鹿角脇立と間違えちゃいかんだろp,
乱髪天衝脇立と間違えるのなら未だしもw

鉄板常駐が103系と205系を間違えるくらいハズイよ(*v.v)
239人間七七四年:2008/07/02(水) 18:51:15 ID:YmoWklx9
東海道対策ならば本多は小田原におくべきじゃないか。
箕輪の井伊掃部頭は越後や信濃対策であり
240人間七七四年:2008/07/02(水) 20:36:32 ID:kVaQL27b
>>239
小田原は大久保
石高は少ないが、武川衆や八王子の長安なんかは寄騎色が強い
それに一族衆の力が強いから、忍耐のいる篭城には適している

忠勝は安房の備えというが、実際は江戸湾渡って家康本隊と連携
して東海道での主力決戦の一翼を担うかと
241人間七七四年:2008/09/03(水) 11:20:19 ID:u3DouXqf
関連スレ
★☆井伊直政・直孝総合スレ☆★
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164953961/
242銅バエ ◆7yYWfU0kcc :2009/01/27(火) 18:33:48 ID:upYJAhfR
うちの母方の曾祖母・高祖母の実家が揃って近藤家です
井伊直政さんのことはすごく悪し様に言っています。
アレ(井伊さんのこと)は三河武士なんて言えるか!それこそ美濃尾張(身の終わり)じゃわい!てな感じで。
地図記号の「井」マークを見ただけで脊髄反射しているようです。
しかし「丼」は好きなようです、この間の法事の際に帰りに天丼をご馳走になりました、
現当主の殿に
243いわん:2009/01/29(木) 04:51:31 ID:vfKxO+3R
こんちは!

リアル忠だりーッス。
近江商人Eビジネス。
244人間七七四年:2009/05/13(水) 16:04:02 ID:JY9rXi7A
蜻蛉切りの錆にしてくれるわ!!
245 ◆LeD1MMOS.k :2009/05/13(水) 19:55:21 ID:lsASTjNI
榊原康政も晩年はあまり活躍の場を与えられなかったよね。
四天王というけど、それぞれ扱いはかなり違うね。
246人間七七四年:2009/05/13(水) 20:07:14 ID:1OGT/xRs
         ,、          _
      / l          ヽヽ
      ,′|          ヘ ヽ
      l  l           l ヘ
      |  l           l. l
      | ヘ              l  |
      ヘ  ヽ         /  j
      ヽ  \ , -┬┬、/.  /
       \   7   ヽ ヽ_∨
         ヽ  l   .  二 --`ゝ    殿!
          /ゝ' _.. '-'´ ・   ・ ヽヽ  忠勝より、拙者にまかせるにゃん
         j−'´ |  =   _人  ~ l 〉
        / ̄ ̄l         ノ´
         / ̄ ̄~|      _.. ィ‐┐ ←井伊直政
        ゝ──'>ー<二○'´i ̄
           `ー┐      l
            _」      つ
           ゝ───…  ̄
         /
      ⌒ヽ/
247人間七七四年:2009/05/14(木) 13:04:58 ID:pMMSnyEC
大多喜町、大河ドラマ誘致へ
五十数戦無傷、本多忠勝の軍功と忠節

 大多喜町は地域おこしを目指し、NHK大河ドラマの誘致に乗り出す。
地元にゆかりのある戦国武将の本多忠勝、忠朝親子を題材に
徳川家康に仕え五十数戦無傷と言われる忠勝の軍功や忠節、
座礁船乗組員の救助やもてなしに尽力した忠朝の人類愛を伝えたい考え。

http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/local_kiji.php?i=nesp1242180650
248人間七七四年:2009/06/06(土) 18:17:07 ID:/Y1gNlEU
美濃尾張(身の終わり) ワラタw
249人間七七四年:2009/09/12(土) 16:13:20 ID:H7PhXZou
本多平八は、武人じゃよ。

 司令官の能力よりよりも、連隊長の能力を期待されたポジションにいたんじゃないのかな。

井伊直政は、司令官やね。

  
250人間七七四年:2009/09/12(土) 18:53:00 ID:fp+v2Bsm
ポジションは一緒だろ。別々の時代で抜き出してんなら知らんがね
251人間七七四年
とりあえずオシッコ飲んで落ち着け!