1 :
人間七七四年:
三七丸こと信孝について語るスレッド
2 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 18:17:48 ID:7kS0K9pM
糞スレ立てんな蛆虫死ね
3 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 19:11:38 ID:KfzLJUJj
4 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 19:53:28 ID:seTIc0qw
織田信雄を語るの353で信孝スレを立てて欲しいと希望した者です。
1さん、ありがとうございました。
とりあえず辞世の句を「昔より主を内海の野間なれば、報いを待てや羽柴筑前」
これが一番一般的なようです
兄弟スレおめでとう御座候。
6 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 21:01:44 ID:BVBVUOiT
寄騎に恵まれてない印象が強いよね
家臣で有名なのといえば小島兵部と岡本良勝くらい?
あっちでも書いたけど、関盛信は寄騎だったかな。
8 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 21:25:41 ID:CkWH15xb
>>4 潔さの欠片も感じられない句だよな。
だがそれがいい。
9 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 22:29:42 ID:seTIc0qw
ちなみに、切腹した際自らの腸を引きずり出し掛け軸に投げつけたと
いわれてるが、生物学上無理らしい。
10 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 22:30:15 ID:7kS0K9pM
糞スレ立てさせんな蛆虫死ね
11 :
2,10:2007/05/27(日) 22:31:34 ID:seTIc0qw
お前が死ね
ここは信孝について語るスレだ。分かったらくんな。
12 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 22:40:36 ID:seTIc0qw
清洲会議の事がつくづく惜しまれる。
柴田勝家も反論せんか。
だいたい3歳の子に何ができると言うのだ
13 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 22:44:14 ID:EUaYeyMR
>>12 推薦した秀吉以下、全員思っていたことだろう
14 :
13:2007/05/27(日) 22:54:11 ID:seTIc0qw
もしあそこで柴田勝家が秀吉を押し切り、信孝を家督にすえていたら
どうなっただろうか。
そもそも織田秀信と織田信孝、どちらが上なのか。
15 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 00:40:02 ID:Ed0uBmyz
星芒 長澤奏子著
信孝や信孝の娘を題材にした小説
16 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 01:50:24 ID:LhgKTokn
17 :
16:2007/05/28(月) 03:13:15 ID:IxFhITOZ
マジ、
信長は子に変な幼名をつける。
個人的にそれで子供達が傷ついたりして、そのせいで
子供が信忠信孝除きみんな小粒なんじゃないか、と
思っている。
18 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 09:38:33 ID:p2xRFlnL
清洲会議は意図的に一益はずされてるしな
池田はどう見ても重臣とは言えんし、長秀も若狭国主では勝家や秀吉より一歩下
がる
会議自体が秀吉の策謀臭い
勝家が光秀を先に討てば何の問題なく信孝が家督を得ただろうけど
でも不思議なのはなぜ本能寺の変時に信忠は幼い幼児の三法師をわざわざ京都に
連れていったんだろう?
しかも大軍の重囲下にありながら、信益に連れて逃げたと言われるが、そんなに
容易く光秀は逃したのか?
19 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 10:29:34 ID:wIuGPAuk
三法師脱出は創作だから、まじめに考えるだけ無駄だよ。
20 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 10:30:50 ID:wIuGPAuk
本能寺発生時に、三法師は岐阜城にいて、その後変を聞いて清洲に避難。
こっちが史実だから。
21 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 10:43:50 ID:p2xRFlnL
じゃ信益は独りで逃げたの?後継者の甥っ子見捨てて
ヒデェ奴じゃ
でもこういう奴じゃないと家名残せないのか
正直に生きるとロクなことがないと言うことだよ
信孝くん
22 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 11:07:50 ID:wIuGPAuk
23 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 11:27:06 ID:p2xRFlnL
スマソ
24 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 12:46:28 ID:LhgKTokn
>>17 ありがとー。
奇妙とか茶筅とかは知ってたけど、スゴイねw
あと、信孝って筒井や三好に養子入りする予定もあったぽいね。
25 :
24:2007/05/28(月) 13:05:16 ID:IxFhITOZ
そういうのから、本能寺の変信孝黒幕説も
でてくる。俺は全く信じんが
26 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 16:49:14 ID:l85Cfsxi
三好笑岩への養子は四国攻めの大義名分を得るためでしょ
それに倣ったのが秀吉
27 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 17:00:04 ID:wIuGPAuk
28 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 17:57:53 ID:lBFOkEVX
>>15 >信孝や信孝の娘を題材にした小説
メチャクチャ読みたいなそれ。信孝の娘には名前ついてた?
29 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 19:44:29 ID:8Rl5KhDK
>>21 信忠に腹を切らせて自分はトンズラこいた織田有楽斎よりマシ。
30 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 20:06:47 ID:p2xRFlnL
>>15 これって自費出版ですか?
アマゾンや紀伊国屋の検索で出てこないが
31 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 21:56:16 ID:9FPpW0rX
信長が子供につけた名前とついでに生年と本能寺の変の時の年齢
? 信正(1554−1647)庶子といわれる。僧になり94歳で亡くなる。本能寺の歳は29歳。
長男信忠(1557−1582)幼名奇妙丸。本能寺の変の時26歳。詳しくは信忠スレを。
次男信雄(1558−1630)幼名茶筅丸。本能寺の変の時25歳。詳しくは信雄スレを。
三男信孝(1558−1583)幼名三七郎。本能寺の変の時25歳。詳しくはこのスレを。
四男秀勝(1568−1585)幼名於次。本能寺の変の時15歳。羽柴秀吉の養子となる。
五男勝長(1568−1582)幼名御坊丸。本能寺の変の時15歳。信忠と共に討ち死に。
六男信秀(1571−1596)幼名大洞。本能寺の変の時12歳。僧になったと言われる。
七男信高(1576−1602)幼名小洞。本能寺の変の時7歳。織田信成は子孫になる。
八男信吉(1573−1615)幼名酌。本能寺の変の時10歳。なぜか八男になっている。
九男信貞(1574−1624)幼名人。本能寺の変の時9歳。なぜか九男になっている。
十男信好( ?−1609)幼名良好。本能寺の変の時はまだ幼少であった、という。
十一男長次( ?−1600)幼名縁。本能寺の変の時はまだ幼少。全く不明の人物。
32 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 02:19:39 ID:qTB/VOkw
信孝の家臣で幸田彦右衛門は忘れないで欲しいな。
人質に出されていた母親の話なんか、これぞ武士の女だもんなあ。
33 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 09:12:24 ID:RVuA9YuR
幸田孝之だね、美濃で稲葉一鉄と戦い討死にしてる
34 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 11:12:03 ID:fbbg0gbd
>>29 いや、その織田有楽斎が長益の事なんだけど。
>>21は長益のことを間違って信益と書いてはいるがな。
35 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 16:26:07 ID:msITwJQ7
織田信孝辞世の句
「川角太閤記」「昔より主を内海の浦なれば報いを待てや羽柴筑前」
「氏郷記」他 「昔より主を内海の浦なれば尾張を待てや羽柴筑前」
「坂役叢話」 「昔より主を内海の野間なれば報いを待てや羽柴筑前」
まあ似たような感じだが、一般的には「坂役叢話」のが多用されてる
36 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 17:17:26 ID:iOtOe8N8
本能寺の変前の信孝は自前の兵力だとどれくらい持っていたのかな
5000ぐらい?
37 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 18:59:43 ID:msITwJQ7
山崎の合戦では4000だったと思う
38 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 19:21:26 ID:9zrd5UVB
それは総動員数じゃないよな。
たぶんだけど。
39 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 20:03:04 ID:zkkgTcxm
>>34 信忠に腹を切らせて自分はトンズラこいた織田有楽斎より(信孝のほうが)マシ。
ってことだろう。
40 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 20:07:27 ID:msITwJQ7
総動員なら1万2000だった気がする
41 :
人間七七四年:2007/05/30(水) 00:32:58 ID:hhsCrxtq
一万云々といっても、自分の所領以外の伊勢や伊賀やらのも集めてるから、
総動員とは違うんじゃないかな。
実際、信孝の本能寺の変の時の所領は伊勢二郡(鈴鹿・河曲?)のはず。
5万石ずつとしても、せいぜい10万石。3000〜4000がいいとこじゃないかな。
神戸、国府、峰、鹿伏兎らの国人ぐらいだし、組下にいたの。
42 :
人間七七四年:2007/05/30(水) 01:36:06 ID:TSIJF+p/
43 :
28:2007/05/30(水) 13:02:13 ID:sV2+6nPG
>>42 サンクス。別スレで教えてもらった次女の方だったのね。
秀吉に殺された長女かと思ってた。
44 :
人間七七四年:2007/05/30(水) 13:43:28 ID:3a+FzHvE
実は信孝には信茂、信豊という息子もいる。
いくつかの文書に見える。
45 :
人間七七四年:2007/05/30(水) 15:02:48 ID:FD9qmyLu
信正は実在の人物なんだ
ちょっと驚き
ところで本能寺の変時、信孝が決起して信澄を討った時点で摂津国主の池田恒興
に恐らく連絡したと思われる(というより恒興自身が信孝のもとにはせ参じるの
が筋と思うが)
恒興が動かなかったのは信孝を見捨て状況の変異の様子見?
それとも既にこの時点で秀吉の息がかかっていたと見るべきだろうか?
清洲会議では秀吉により重臣格に抜擢されてるし、怪しいが
46 :
人間七七四年:2007/05/30(水) 15:28:44 ID:9Pc5PQ33
47 :
人間七七四年:2007/05/30(水) 21:42:56 ID:FD9qmyLu
一応、調べていたら天正六年六月二十七日の神吉城攻めでは足軽に混じって城に
乗り込んだというから指揮官としてはわからんが、武勇に関してはある方らしい
まあ城攻めの総指揮は兄の信忠が取っていたけど弟の無茶ぶりには手を焼いただ
ろう
その後、京都所司代村井貞勝のもとで事務方としての経験も積んだようだ
太閤記などに記されているようなそんな愚息でもなさそうだ
しかし元亀元年に養父神戸具盛と不和になり翌年神戸家家臣を粛清するのだが、
元亀元年と言えば、信孝はまだ十二歳
不和ってほんとかな
48 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 00:27:07 ID:jNZVJx9m
実際は信孝付きの織田家臣と具盛や神戸家中が対立したってあたりかな。
粛清も信孝主導というより信長の意を受けた家臣が行ったんだろう。
49 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 01:20:17 ID:/m0IS6iG
もちろんそうだと思う
ということは四国遠征に成功し三好家の家督を継いだら
三好家も後々粛清されることになったのかな
50 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 02:03:07 ID:FHvSGncF
そのあたりは北畠家でも行われたし、小早川もやっているな。
51 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 02:24:23 ID:KHi9RF1L
このスレ伸びてるな スレ立て依頼者として嬉しく思うよ
あと話しぶったぎってしまうが、信長が信孝と
会話している記録って残ってる?
個人的な興味なのて分からなければスルーしてください
52 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 08:06:10 ID:/m0IS6iG
天正8年に病身の村井貞勝を補佐するため信孝は在京し禁裏との交渉などしてい
たらしく、7月には本願寺から教如が退去する誓詞を交わすため、信長を京に迎
えているので、その際に仕事上の話を交わすのは当然と思うが、自らの身上など
プライベートの事は信長を畏れて言えないだろうね
53 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 08:18:39 ID:Fkelf/dg
プライベートでの信長って、そんなに怖いイメージないなあ。
信忠を叱責した書状やいわゆる¨ご勘気¨は公的なものだし、
信勝以外の卑属には手を掛けていない。
ねねへの宥め状などは兄が妹をお守りするような繊細さがある。
一門の中で身分が信包より下なのに信長に四国を任されようとしていたのだから
信長からの期待は大きく気に入られていたのではないかな。
54 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 14:46:11 ID:2QFnHEhA
52殿、53殿。個人的な興味に答えていただき感謝する。
どんな大名でも子に教育するような話は残っているのに、信長にはそれがない
ような気がする。
信長の目には息子たちがどう移っていたのか気になる。
まあ親馬鹿な信長だからなw 雷を落としたのは信雄の伊賀攻めの時と
信忠が能を舞いすぎたときぐらいか
55 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 20:59:58 ID:Se627/t/
信忠に関しては残ってるとオモ>信長
叱→「馬が欲しい時に金を与え、金が欲しい時に馬を与えるようじゃなきゃいかん」
誉→「俺が行く前に武田平らげたもんだから、俺は甲斐に観光にいったようなもんさ〜」
どっちも本人の前では言ってないが
56 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 21:16:24 ID:O2guJPlS
本能寺の動機は長宗我部攻めを阻止するためというのが
近年有力なようだ。
さらに四国攻めは信孝が信長に強く求めて決まったともいう。
だとすれば信孝はその行為のために自身と父の命を失った
ことになる。
57 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 21:29:13 ID:KP9ijYlF
本能寺の変後に、近衛前久が明智に加担したので信孝が成敗するとの噂が流れたそうな。
>>56 明智の家老、斎藤利三は長宗我部と縁者だからね。
外交の取次も明智がやってたし、秀吉が三好に肩入れしたのも理由になるか。
58 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 21:56:14 ID:TZJHISiy
>>55 >叱→「馬が欲しい時に金を与え、金が欲しい時に馬を与えるようじゃなきゃいかん」
こんなことやってるから本能寺の変がおこったんじゃないかとふと思った
59 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 23:17:10 ID:FHvSGncF
長宗我部攻撃は、べつに誰かしらに進められたからというものでもないけどね。
普通に考えれば、長宗我部のこれまでの行動をみれば討伐するしかない。
秀吉が三好に肩入れしたとか、長宗我部を守るためにというのなら、どうして
明智はそれ以前に、長宗我部の反織田の行動を止めようとしなかったのか。
かつては敵対していたが、降服してからは従順に仕えている三好。
同盟は結んだがロクに役に立ったことがなく、逆に他で忙しくて四国に関わって
いられなかった時期に、四国の親織田勢力を攻撃するような長宗我部。
どちらを選ぶかとなったら、個人的な性格の問題ではないだろうよ。
60 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 23:22:13 ID:F/CEPUkk
どっちかというと武田攻めじゃないかなぁ。
光秀は恩賞に殆どありつけなかったからね。
武田攻めに関しては、「信長が到着する前に信忠が武田をオ滅ぼした! 信忠はさすが信長の後継者!」と
いわれているけど、途中で信長が家臣に信忠が無茶な進軍をしないように書状を出している割には
信長の進軍速度は遅い。
丁度信忠が武田を滅ぼした時点で武田の国境に足を踏み入れるタイミングは、信忠に功を立てさせるために
信長が武田領入りを引き伸ばした結果とも取れないだろうか。
なら、信忠に全て任せば良いじゃないかと思うかもしれないが、信忠の身を案じるなら、必ず後詰はしなければならなかった。
「武田崩れ」は、もちろん信忠の軍が強かったことが一番の原因だけど、このうえ更に後詰が来るという絶望感から起こったこと。
信長の後詰がなかったら武田戦は長引いた可能性が充分ある。
その意味では、武田領に入らなかったとしても、信長軍にもそれなりの功があったといえる。
けれど、徳川などの外様を除き、武田領は全て信忠の息の掛かった武将に割り振られた。
信忠への実質的な相続を急いでいた信長にとっては、武田攻めは、武田を滅ぼしたとともに
家臣団に対する、「今後、信忠につかないものは、活躍の機会を与えられない。」というメッセージも持っていたかもしれない。
信長的には「だから今ここで代替わりの誓約も結んどけ」という意図だったんだろうけど、明智の返事は「NO」だったと。
信長の変な行軍・戦場での行動って、親バカフィルターを通して見ると納得が行くことがあって面白い。
信忠に総大将を任せて自分は近場で鷹狩していたこととかも、「暢気に隠居」というよりは「はじめてのおつかいを見守る親」の方が
真実に近そうな気がする。
大軍を指揮するのは非常に難しいようで、家康なんかは、大軍を有機的に指揮できないまま一生を終えている。
19の若造が5万も6万もの大軍を常に有機的に動かすことができたことは、ちょっと信じがたい出来事だ。
よくよく考えると、少年の内からこれほどの大軍を動かした人物って、日本史上で信忠しか居ないんだな。
まぁ、信長としても心配だろうから、万が一劣勢になった時には、何時でも指揮を代われるように近場にいたんじゃないかな。
で、いかにも「心配で後ろに詰めてます」って様子で居たら、信忠が家臣に侮られるかもしれないので、鷹狩してたと。
諸大名には「信長ついにボケたか!?」と思われて、第二次信長包囲網に繋がったと。
61 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 02:12:00 ID:ZeOIVlzD
>>54 自分は信長はそんな子供に過保護な人間じゃないと思うし、思いたくないな
自らも信行との争いで家中を二分した痛い想い出があるし
結局、信忠には河尻秀隆を付けて指揮官として養成していった
18歳の信忠単独で行った岩村城攻めは次第点
信長がその時の信忠と同年齢のときは信忠のような大軍を指揮していなかった
恐らく、信孝にも長秀を付けて指揮官として修行させるつもりだったのだろう
勇猛さでは神吉城攻めで見せていたし、天正8年期に京で吏僚としての経験を積
んでいたから、これから旗頭としての教育を施す予定だったのだろう
四国平定後は惟住日向守、惟住という西国の名を貰った光秀、長秀とともに九州
平定に向かったことだろう(何の根拠もないよ、単なる個人的推測なだけ)
62 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 08:22:34 ID:K75FsZK/
>>59 信長と長宗我部氏の関係は次のように変化している。
1.四国は元親の切り取り次第
2.土佐と阿波半国のみを認める
3.讃岐を信孝に、阿波を三好康長に与え、残りは未定。
2までは斉藤利三や光秀も容認できたろう。使者を送って
説得を試みている。
だが3では長宗我部氏の存在そのものが否定され、織田方の
軍勢によって滅亡必至。それで利三が激怒し光秀をたきつけて
謀反を起こさせたというのが近年有力な説。
2から3への変化は信孝が信長に求めてそうなったという。
従って3にならなければ本能寺は起こらず信長も信孝も
生きられただろう。
この説が正しければ信孝は自分で自分の首を絞めてしまった
ことになる。
63 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 10:15:27 ID:6JfsrX4p
長宗我部の縁者である利三が光秀を炊きつけて本能寺の変になった、というのは
一応つじつまは合うがそれを支持する文献的な根拠なんかが皆無なのが痛いな
64 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 21:31:19 ID:49htB9J3
そりゃあ史料的根拠なんてないよ。
ここ1,2年で鈴木、藤本、桐野、谷口らによって
黒幕説が否定され、そして消去法的に残ったのが
長宗我部救援。
桐野はそれだけでなく野望説も同時に主張してる。
鈴木、藤本は「検討に値する」という言い方だが。
谷口の新刊では光秀の年齢を一般に言われてる55ではなく
67とし、このところ武功のない自分が佐久間や林のように
追放され、明智家が路頭に迷うことを恐れたというのも
理由に挙げている。
65 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 21:42:13 ID:ER9yI8M3
>>62 まず1.だが、これはあくまで対三好をにらんだ同盟。かつ「織田領、親織田勢力でも
切り取り自由」なんて約束はない。しかし長宗我部は三好が信長と戦っていた時期は
ロクに戦わず(当時土佐国内で戦っていた長宗我部にそこまでの余裕がなかったとは
言えるが)、三好が信長に従うようになって両者の同盟の存在意義が揺らいだ時期に
なってから、何故か織田勢力化した三好を攻撃。
しかしこの時期の信長は本願寺、毛利を敵に回して四国の情勢に強く介入することが
できなかった。やむを得ず臣従勢力が攻撃されるのを座視することになる。
(当然、信長は長宗我部に対して不快な思いを抱いただろう)
で、本願寺・毛利戦線に目途がついてから四国問題を取り上げることになる。
2.を見れば判るが、信長は当初は長宗我部の領土を認めようとした。実際に
当時の長宗我部の領土はこんなもの。あと讃岐を少々か。
つまり信長はこれまでの行いは不問にすると言ったわけだ。信長にしてみれば
譲歩ではある。その上で、信長に服従する意志があるのなら讃岐で切り取った
部分は三好に返却しろといった。信長にだって、従属する三好を保護する義務が
あるのだから、このあたりは退けない要求だったろう。
しかし長宗我部はけった。
その結果、長宗我部討伐が決定され、3.となった。
明智にしてみれば納得ができないような決定でもないし、信孝がどうこうする
以前の問題として、長宗我部の対応をみれば2.から3.への移行は当然といえる。
この決定を明智が不服としたというのなら光秀はそうとうのバカだし、ここまで
行き着く前に長宗我部を外交で抑えられなかった明智の不手際となる。それを
恨んだというのなら単なる逆恨みだそりゃ。
君の説は時空列をごちゃまぜにして背景を完全に無視しているよ。
66 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 21:46:55 ID:md5tO0b0
信長が認めていたのは一条家を戴いた長宗我部氏の支配体制で、
一条氏が元親に追放されてからは関係が拗れてるとか。
67 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 22:29:46 ID:lGJBdL84
>>65 ってか長宗我部って四国征伐時のときも秀吉側の降伏勧告を蹴ってなかったか?
もしそれが本当だとしたら、案外元親はプライド高いがゆえにあまり才能なかったのかもねw
もちろん、それなりにはあったと思うが、少なくとも信ヤボ革新のような、
総合能力で全武将中第6位なんてのは有り得ないだろうなw
68 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 22:51:26 ID:MgujSOSn
長曽我部って北条以上に無茶してるんだな
何でなの?
69 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 22:56:54 ID:BMVwLbV0
>>68 既得権の範囲が実力以上に広がってしまった事と、その既得権を持った家臣や盟下の諸侍を
押さえつけられるほどの独裁権力がなかった(無理に押さえつけようとすると元親自身が追放される)から。
70 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 23:26:51 ID:C8b+RBWC
【神戸】信孝公【当主】
永禄11年2月、信長が北伊勢に侵攻した際に、神戸城を本拠とした関一族の神戸友盛は信長に抵抗したが
支えきれずに信長の3男三七丸を養子にするという条件で降伏した。
当時三七丸は11歳、幸田彦右衛門が傳役として、その他、岡本太郎右衛門、坂仙斎、三宅権右衛門、
坂口縫殿助、山下三右衛門、末松吉左衛門、立木、河村以下の侍が添えられ、後に友盛の娘と婚約した。
また関一族の関氏・峯氏・国府氏・鹿伏兎氏らが与力となった。
しかし、男子がなかった友盛は以前から関盛信の子勝蔵(盛吉)を養子すると約束していたが
これが反故になってしまったので友盛、盛信ともに三七丸のことを快く思わず、粗略に扱った。
元亀2年正月、友盛夫妻が、年始の挨拶のため近江日野の蒲生家を訪れたとき
信長はこれを捕らえ沢城に隠居させ蒲生家に預けた。
この時、領地を検地し、神戸家の侍の所領を削り、尾張から来た侍に与えた。
そしてこれに抵抗する神戸具盛の孫、高岡城主山路弾正を高田孫右衛門に命じて誅殺して
神戸家の侍の粛清が行われ、その他120人の侍が追放された。引続き神戸家に仕えた者は480人。
これらを神戸480人衆と称したという。
山路の跡の高岡城には、信孝の異父兄小島兵部少輔が入れ置かれた。
元亀3年春頃、兄信忠・信雄と一緒に元服し、神戸三七信孝と号した。加冠の役は柴田勝家が務めたという。
神戸家当主として、神戸家の家臣だけでなく関一族をも摩下に置いた信孝だが
関家の当主関盛信は信孝に好意を持たず、とかくこれを軽んずる傾向があったという。
天正元年春、ついに盛信は信長の勘気を蒙り、蒲生賢秀に身柄を預けられた。これによって、関領の新城以下は信孝の領分とされた。
71 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 23:58:15 ID:ER9yI8M3
>>69 大名権力と下部豪族の軋轢というのはよく言われるが、例えば長宗我部と同じ
豪族レベル出身で典型的な豪族連合政権といわれた毛利氏は五カ国割譲講和を
成功?させている。吉川など反対派もいたが、その主張はあくまで割譲領土を
低く抑えるべしというもので、講和自体には反対はしていない。
まあ毛利氏の場合は、直接戦って戦力・国力差を豪族たちも承知していた、また
戦った末に力及ばず負けを認めたという点で、長宗我部とは異なるが。
戦いもせずに軍門に降るというのでは、そりゃあ影響は異なるだろう。
それでも、元親の外交は、織田に限らずかなり不信が多いシロモノだが。
「当人は負けを承知していたが、下からの突き上げで止む無く―」
とも言いづらいんだよね彼の場合。
72 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 00:04:34 ID:D5HBEjqs
元親記に元親公斎藤殿の事明智と相談
という記述があるぞ
誰も気づいてないが俺は発見した
73 :
人間七七四年:2007/06/03(日) 23:20:36 ID:CHlYlcq+
74 :
人間七七四年:2007/06/03(日) 23:34:19 ID:temp7VVD
今まで割と活気があったが、信長の息子のスレは基本的に過疎だよ
75 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 00:07:36 ID:016/7RUd
いや、詳細な続報がないとレスのしようがないわけで。
76 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 01:35:33 ID:X1HKc2Gw
高野春秋に信孝が紀伊高野攻めの総大将として活躍している様が描かれているんだが
本当はどうなんだろ?
77 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 05:00:43 ID:zAra4I66
本能寺の変で割を食ったのは、死者以外では、やっぱ信孝だよなあ。
讃岐一国はガチ。んで、三好康長が五年ぐらいで死ぬだろうから、
阿波もゲットで二カ国の太守。
伊予と土佐に分封されるだろう諸将も信孝の寄騎大名になるだろうから、
南海道の主になれただろうに・・・。
78 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 10:11:46 ID:iq4+XRr6
>>72 元親紀はどの位信頼できる資料なの?
明智軍記や武功夜話みたいなことはないよね?
79 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 11:56:29 ID:zAra4I66
>>78 元親記がのっている戦国史料叢書(四国史料集)をちょうど借りてる。
元親記は寛永8年(1631)に長宗我部旧臣が、元親の33回忌を記念して書いたとある。
ってことで、元親の人物像について誉・褒が誇大な部分があるが、良質な史料とあるよ。
80 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 13:52:25 ID:DnjI/aj4
>>72 元親のことは褒めすぎだが、まあ良質な資料と言えるだろう
体験者が書いたものだし
81 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 14:27:26 ID:DnjI/aj4
織田信長の子で言えば、信忠と信孝どっちが上だ?
どちらも戦死?だが
82 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 16:55:42 ID:txyeuyN3
圧倒的に信忠でしょ。
あの年齢で、あそこまで大規模な軍団を動かして武田を滅ぼした武将は
同年代に皆無だし、何より嫡男としてそのような教育を受けている。
信孝は一武将としての勇猛さは認められているし、嫡男教育などからは
遠い所で養育されたにもかかわらず、頭角を表してきたので、
改めて教育を施されている途中だったとは思う。
信雄は……駄目だろうな。
駄目すぎて秀吉にお目こぼししてもらった感じ。
信房(勝長)が、意外にも北条などの資料に、良き武将として残っているし、
武田方から頼られている書状もあるので、やはり二条城で死んだのが惜しまれる。
83 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 17:37:16 ID:UK5blOk8
生来の資質はどっちが上かわからないけどね。
改めて見ると信長の息子たちはダメ息子ばかりってイメージがあるけどそうでもないな。
84 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 18:00:39 ID:Ey/gN7Cn
窮地に陥ったときの垣間見えるのは資質と言えないか?
二条城で見事戦士した信忠
流言に惑わされて信澄を殺した信孝
資質的にも偉大な兄には適いそうに無いです・・・
85 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 18:10:17 ID:UK5blOk8
信澄が本当に明智と繋がっていたのかもしれんけどね。
まあ信忠のほうが上な可能性が高いとは思うが。
86 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 21:20:19 ID:DnjI/aj4
>>82よく分かった。詳しい説明感謝する
あとまた聞くが、そこそこ優秀な信忠、信孝の間の信雄はなぜ無能だったのだろうか?
信長の教育が悪かったのか
伊賀攻めの時叱りすぎて信雄が傷ついたとかは…無理やりだがないかな?
87 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 21:22:10 ID:Ey/gN7Cn
信雄が商人気質の生駒衆に育てられたからという話はあるな
88 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 23:28:01 ID:FMYNBszl
案外天下統一後に商業へ信雄を進出させて商業をも牛耳るつもりだった・・・・・ってことはないかw
89 :
人間七七四年:2007/06/05(火) 00:22:53 ID:kAdMbngz
90 :
人間七七四年:2007/06/05(火) 00:30:13 ID:yFjZT+V2
辞世のセンスのなさに失笑。
プライドばっか高い駄目男だったんだろうなこいつ。
91 :
人間七七四年:2007/06/05(火) 02:41:22 ID:aWfwJFQh
創作くらいも見抜けない馬鹿ってまだいたんだねwww
92 :
人間七七四年:2007/06/05(火) 03:01:21 ID:9d9+5vYe
自分は、辞世の句にここまで恨みを込められる信孝像が好きだけどなあw
93 :
人間七七四年:2007/06/05(火) 07:54:56 ID:RCDhyow+
後年の創作だしな、創作した頃にはそういう信孝像ができてたのかもな。
94 :
人間七七四年:2007/06/05(火) 13:15:44 ID:IQKDAQEy
>>93 創作というのはどこからきてるんだ? 同時代の複数資料に見られるのに
95 :
仙台藩百姓:2007/06/05(火) 15:03:48 ID:SxRrsYP5
確かに、語呂だけ合わせたような安直で珍妙な句だお
教養のある人間が作ったとはとても思えないお
こんな失笑ものの句を遺したのは不可解だお(;^ω^)
創作によるものか、信孝がアホだったのか
今となっては分からんけど
96 :
人間七七四年:2007/06/05(火) 18:12:02 ID:CkV9Uv+P
仙台なんとかとかいう奴
いろんなスレで見かけるけどなんか刺々しいな
ほんと何様?
97 :
人間七七四年:2007/06/05(火) 20:01:19 ID:1FYWXCDf
98 :
人間七七四年:2007/06/05(火) 22:56:40 ID:IQKDAQEy
ネタでやってるんだから楽しんであげなよ。
100 :
人間七七四年:2007/06/05(火) 23:33:28 ID:IQKDAQEy
100なら桐野神先生が信孝を主人公にした小説を書いてくれる
101 :
人間七七四年:2007/06/05(火) 23:39:46 ID:suH/9NjF
>95
そりゃあ冷めた目で見れば不可解に感じても仕方ないかも。
当の本人と同じ立場になってみるか、拠って考えてみないとな、
102 :
人間七七四年:2007/06/06(水) 01:56:59 ID:syLifqUo
上手い下手はあるとはおもうが、
文字通り怨念以外篭ってないようなこの歌については
いちいち文芸批評を言う気は起きないな。
103 :
仙台藩百姓:2007/06/06(水) 01:58:46 ID:VcnDk5bo
そうは言われても
どう見ても下手っぴな句だお(;^ω^)
漏れが見た歴史上の人物の句では
豊玉先生の句と信孝の辞世がトップ張れる下手くそ加減だお
豊玉先生の方は愛嬌があって下手でも良い句ではあるが
信孝のは面白くもなんともないお(;^ω^)
104 :
人間七七四年:2007/06/06(水) 02:44:30 ID:gtN77NH1
>>103うるさいぞ
俺達とは置かれた立場も環境も違うんだから、俺達が評価 するものじゃないだろ、
分かったら消えろ百姓
105 :
人間七七四年:2007/06/06(水) 08:25:18 ID:YRa7cKkt
>>100 ちょw
新シリーズ書く前に既存のシリーズを書き上げてくれw
106 :
人間七七四年:2007/06/06(水) 11:14:37 ID:+1fKCHJu
信澄討伐について
『勢州軍記』では
光秀謀反により信孝、長秀、信澄は大坂城に入り、信孝、長秀は本丸、信澄は二
の丸を守っていたが、“信澄”の重臣朽木と匂坂が本丸の“長秀”に“信澄が謀
反を起こそうとしていることを告げ”、信孝、長秀が信澄を討ったことになって
いる
信孝が信澄に疑心を抱いて討ったというのはやはり秀吉サイドの反秀吉の信孝の
評をおとしめるために流布した作り話では?
107 :
人間七七四年:2007/06/06(水) 12:08:29 ID:gIv8gIly
権力争いだけじゃなく辞世の句でも秀吉に負けてるな
108 :
人間七七四年:2007/06/06(水) 13:19:54 ID:gtN77NH1
>>106 他の資料にも信澄討伐は見られないからなあ
しかし、じゃあ信澄はどうなったんだろ?
109 :
仙台藩百姓:2007/06/06(水) 13:59:12 ID:VcnDk5bo
同じ娘婿の細川や筒井も本能寺の変は寝耳に水であったし
まして織田一族の信澄が共謀していたとは考え難いお
第一、諸説あるものの
これと言って信澄自身がおかしな行動とった様子はないお
信孝は勝手な疑惑で長秀と謀り信澄を殺害し
罪人として首を晒しておきながら
自分は勝家と組んで信雄・秀吉に喧嘩吹っ掛けて
負けたら恨み言を言う
最低な奴だお( ´ω`)
110 :
人間七七四年:2007/06/06(水) 14:10:33 ID:+1fKCHJu
>>108 信澄自身、謀反すれば、桐野氏の『反太閤記』じゃないが、織田家の頭領に飛躍
できるチャンスがあったのも確か
密告した信澄重臣が真実を語っているのかはあの時点ではわからなかったと思う
しかし長秀と信孝にとってもし早急に対処せず、放置したら、こちらが討たれる
のは明白
例え信澄に叛意がなかったとしてもあの時点での長秀、信孝の判断を攻めること
はできないだろうと思いますね
111 :
人間七七四年:2007/06/06(水) 14:20:02 ID:+1fKCHJu
『勢州軍記』はなかなか面白いですね
信孝が安土城建城の際にも事務方で有能な働きを見せていたことも書かれている
112 :
人間七七四年:2007/06/06(水) 15:45:12 ID:gtN77NH1
>>109 上読めよ
信孝が津田信澄を殺したという格たる証拠はない
歴史を一方的に見て、片方を批判する奴は戦国板にいらん。
分かったら消えろ百姓
113 :
人間七七四年:2007/06/06(水) 22:55:50 ID:syLifqUo
俺が見る中では、トップクラスに怨念バリバリの句なんでかなり好きなんだけどね。
114 :
人間七七四年:2007/06/06(水) 23:32:24 ID:AklNqRQM
>>112 バカは構うなよ。君にもバカが伝染するぞ。
115 :
仙台藩百姓:2007/06/07(木) 03:09:05 ID:HlXt60zU
そんな検討違いのレス読めと言われても困るお(;^ω^)
多聞院英俊の記録では
三七殿、丹羽五郎左、鉢屋の沙汰により七兵衛殿自害
とあるお
津田宗及の記録では
三七殿、五郎左衛門、七兵衛の首を堺にて晒す
とあるお
耶蘇会報の記録では
三七殿が安全を計るために七兵衛殿を討たんと考え
五郎左衛門と協議し七兵衛殿を追い詰め自害、又は殺害
とあるお
佐久間信栄の記録では
長秀が信孝を大坂に招き入れ信澄を殺す
とあるお
細川家の記録では
信澄のいる千貫櫓に信孝と長秀が攻撃を加え信澄は切腹する
とあるお
本願寺の記録では
三七殿、五郎左、七兵衛殿を生害す
とあるお
太閤記では
長秀の元に信澄配下の朽木、吉武の密告があり
信孝と協議して信澄を攻撃し自害させた
とあるお
信孝以外が信澄を殺したと言う記録があるなら
新説提唱の為に世に出すべきだお( ^ω^)
116 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 03:14:36 ID:JJBla47o
百姓に論破されるスレ住民ワロスw
117 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 03:15:04 ID:nd9O+Sci
>>115 なるほど、複数資料に見られるのか。
俺も言い過ぎた。たかが百姓と侮り批評したことこそ我が身の過ちなり
しかし辞世の句についてのお前の意見は許されることではない
118 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 03:22:14 ID:nd9O+Sci
>>115 お前それだけの資料を出せるってなかなかの知識人だな
という事でこの件は俺が誤る。
信孝についての知識も人並み程度なのに
百姓を批判したことを詫びる。許せ
ただお前の信孝の辞世の句についての意見は許されることではない
119 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 06:27:13 ID:uVi7qqdV
武士偉そうだなw
120 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 13:47:29 ID:nd9O+Sci
百姓はなかなかの逸物
121 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 14:03:25 ID:e4ulDDKu
朽木って裏切ってばっかりだな。
122 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 16:05:58 ID:Rf6OL0MR
>>121 朽木氏の南北朝から幕末の家系図を見ると皆長寿で驚く
123 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 16:52:56 ID:rroP4O+u
史板で信孝の家系の考察が出ていて、ちょっとその関係に驚いた。
124 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 17:03:32 ID:nd9O+Sci
125 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 17:21:00 ID:rroP4O+u
126 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 18:09:20 ID:nd9O+Sci
>>125 ありがと
なかなかレベルの高い話してるな
127 :
仙台藩百姓:2007/06/08(金) 11:45:40 ID:CWHihkL/
(;^ω^)
128 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 13:02:02 ID:QhFMZFzm
出た〜っ
自宅警備員乙
129 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 13:56:35 ID:8p8taF5f
偽者だろ
毛利武田スレで見たのとID違う
130 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 19:56:21 ID:Qt15miQD
131 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 22:08:28 ID:xYwwATrp
132 :
人間七七四年:2007/06/09(土) 19:00:44 ID:AfwNJzNT
>>44にも書いたが、信孝には信茂、信豊という子が見える、
当時の文書に残っているそうだが詳しい事知っている人おらんか
133 :
仙台藩百姓:2007/06/09(土) 20:43:24 ID:3hnLZ469
記録が残ってないのに知るわけないお( ^ω^)
だいたい当時ていつだお
日本史板のスレが激しくくだらん流れに陥ってるな。
┌縁者─岡本秀成
│ ┌岡本良勝(?)───岡本良勝(?)
│ │
岡本氏─┴─女 信長
│ ├───信孝
├──信孝生母
│ ├───小嶋少輔
坂氏 ┌小嶋氏
┌───縁者───┘
│┌─────────── 女
││ ┌─川口宗定┴─川口宗吉
││ 大橋定広─┴─大橋定安──大橋重長
└┴───┐ │
│┏━←養女━━━━━┓│
小嶋信房ー┴┻─女 ┌───くらの方(他の側室の子供かも知れないが)
├──┴─信長
織田信秀
あっちに貼ってあったのを余分な線を抜いて作り直してみた。
136 :
人間七七四年:2007/06/09(土) 21:11:09 ID:AfwNJzNT
>>133 また百姓現れたか、津田信澄の件では負けたがこれは譲れん
織田信孝の曾孫信章は松平光長に仕えたことが知られている、
ならば信孝の子から血縁関係を見出さねばならぬ。
ここからは俺の意見だから間違いかも知れんが、江戸時代旗本となった織田家の
子孫には織田信孝の子信豊から出た、と称するものが多々ある、
この信豊は信孝と小妻氏との間に生まれたとされる、出自がここまで現れているなら
信豊が実在していたと考えてもいいだろう。
少なくとも信孝に娘がいたことは事実なのである、天下を取った秀吉に謀反し滅ぼされた信孝の子
信豊が一時身を潜めていて、徳川の天下になってからまた現れたと俺は考える
分かったら消えろ百姓
一番上の行はいらんぞそれ。
138 :
人間七七四年:2007/06/09(土) 21:18:41 ID:iZ+L4CMs
139 :
仙台藩百姓:2007/06/09(土) 22:07:07 ID:3hnLZ469
漏れは真面目に言ったつもりなんだけど(;^ω^)
それはそうと
その信章と信孝を結ぶ線が不明確である事が問題なんだお
信孝生存時の信茂信豊を示す文書でも発見されれば
確証が取れるのだおうけど
それと、普通に考えたら娘を人質に出すと言う事は
その時点では男子がいなかったと言う事だおね
こういう場合、男子(世子)を人質に出す方が一般的であるし
うまいこと言うね。
人質については、男児がいたとしても側室の子だった場合なら無理はないけど。
なにより信茂という人は織田じゃなく神戸でしか引っ掛かってこない。
141 :
人間七七四年:2007/06/09(土) 22:44:31 ID:FYIJJa48
信孝の母親と信孝の息子は秀吉に磔にされなかったっけ。
142 :
人間七七四年:2007/06/09(土) 22:46:50 ID:3JKqpZIe
生母を「なまはは」と読んだオレはきっと疲れてる。
144 :
ソユーズ:2007/06/10(日) 00:01:43 ID:IUO7O3Mi
継母→ままはは
の流れから「なまはは」と読んだと推測しましたw
145 :
宇喜多直家信者:2007/06/10(日) 00:21:17 ID:nmPnQpqi
>>139 百姓の希望にこたえて系図を出す、これは旗本織田家に共通しているから
間違いではないだろう
神戸信孝−信茂−友信=信章−長経−(以下歴代)
百姓が信茂の存在を愚かにも信じられないというので、資料を出す。
神戸信茂は信孝死後宮崎城主の小幡播磨守に仕えた事が文書に見える、が小幡氏が没落
したため神原村に土着したと見える(小幡播磨守嶋八郎書状)。
信茂の子知信−信章は実在の人物であることに間違いないのであるが一応資料を出す。
信章は大瀁新田を開発したので知られる。
あと136に書いた信豊の子孫は川上家と名乗っている。あと旗本織田家も信豊から出た
とするものが多々ある。
上に書いたように信茂の子孫は高田藩士となり、新田開発を行ったことが知られる。
百姓もこれで反論できないであろう。これ読んで分かったら消えろ百姓。
これが旗本織田家に見られる共通した系図である。詳細を記すと、
織田信豊
146 :
宇喜多直家信者:2007/06/10(日) 00:22:55 ID:nmPnQpqi
>>145 ハンドルネームを替えるの忘れてた。
あと一番下のやつはミス、長文なので読みにくいかもしれんが許せ、
おまいらだいすき。
148 :
宇喜多直家信者:2007/06/10(日) 00:45:38 ID:nmPnQpqi
百姓も自分の非を認めて消えたか、ただ消えるなら
>>117、
>>118の俺のように
誤ってから消えるのが筋というものだが、
謝ってから。
150 :
宇喜多直家信者:2007/06/10(日) 01:00:40 ID:nmPnQpqi
151 :
人間七七四年:2007/06/10(日) 01:09:05 ID:SaqZ85K8
百姓にそこまで求めるのは酷というもの
いや、トリップ付けたら大スター路線応援するよ。
153 :
宇喜多直家信者:2007/06/10(日) 01:20:18 ID:nmPnQpqi
百姓が消えたので少し寂しい俺…
154 :
宇喜多直家信者:2007/06/10(日) 02:15:30 ID:nmPnQpqi
織田信孝の母は坂氏である
155 :
仙台藩百姓:2007/06/10(日) 03:01:15 ID:6ofGAFoo
だからさ
それでは信孝と信茂の関係が立証されないのだお
あくまで信茂や信章らが自称しているだけで
信孝側の記録として
信茂や信豊という男子がいたという事を示すものが
現時点では見つかっていないのだお( ^ω^)
156 :
宇喜多直家信者:2007/06/10(日) 03:17:36 ID:nmPnQpqi
>>155 百姓め、あいかわらず言いがかりをつけるな
小幡播磨守が嶋八郎宛に書いた文書に「神戸肥後(信茂)神原に住」と書いてある
と俺がいったが、その後に「天下取り信長公しかし孫肥後浪人とは、己を悔やみ」
みたいな(ちょっと違うかも知れんが)ことが書いてある。
これでいいだろ。分かったら自分の非を詫びて消えろ百姓
157 :
宇喜多直家信者:2007/06/10(日) 03:46:27 ID:nmPnQpqi
>>156このことは織田家について検証した本に書いてあった、
その本は図書館で読んでいたが、なぜか今はない、
ほかにもなんかの信豊、信茂資料があったのだが忘れた、
誰かこの本知らんか、タイトルは織田家一族の〜忘れた、
もう7、8年前になるんで、ただ信忠子の秀則とか、信長の有名じゃない
子たちとか織田家傍系について詳しく書かれていた。
158 :
仙台藩百姓:2007/06/10(日) 05:10:52 ID:6ofGAFoo
だからそれでは血縁を示す事にはならないと言っているのだお
全て自己申告によるものであって
自称の域を出る事はないお( ^ω^)
というか嶋八郎て何者?
159 :
人間七七四年:2007/06/10(日) 08:13:18 ID:pLOh2LMB
嶋八郎は何者か分からん
詳しく忘れたが帰農した人物
160 :
人間七七四年:2007/06/10(日) 08:23:22 ID:pLOh2LMB
小和田先生だったような気もするし違う人立ったかも試練
ただこれらの資料だけを見ても信豊信茂の存在が確かであるのは
さすがに百姓であれども信じるであろう。
ちなみに高田藩士となった信茂の系統には系図が残っている
俺ならこれだけの資料が残っているなら2人の存在を信じるが、百姓がこれだけ言っても信じんなら仕方ない。
百姓に俺の意見を押し付けることはできんが、俺としては出来る限りの事言ったと思う
161 :
宇喜多直家信者:2007/06/10(日) 14:51:50 ID:nmPnQpqi
ということでまた辞世の句についてでも語るか
162 :
仙台藩百姓:2007/06/10(日) 15:39:00 ID:6ofGAFoo
存在を信じないとは言ってないお( ^ω^)
信孝と信茂信豊の血縁が不明確であると言ってるだけだお
小幡氏との関連と言うのは初めて知ったけど
なかなか興味深い話しだお( ^ω^)
もしかしたら諱に何か隠されてる気がするお
163 :
宇喜多直家信者:2007/06/10(日) 18:48:19 ID:nmPnQpqi
>>162 と言うことでこの件は解決した、
百姓も一部同調したのでついに許す。ただまた言いがかりつけてきたら反論するが、
164 :
人間七七四年:2007/06/10(日) 20:19:55 ID:h9Elewfr
コテは一人で充分。名無しに戻って。
165 :
人間七七四年:2007/06/10(日) 21:26:55 ID:pLOh2LMB
>>164 分かった
ただ、また百姓がいいがかりつけてきたら名乗るぞ
ふむう。
167 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 02:02:47 ID:RQ5mpD3t
坂役叢話って大坂の陣を題材にした軍記物だよね
信孝自刃と豊臣氏滅亡が同じ5月だったので
徳川家康がこの辞世を引き合いに出して
大坂征討をおこしたとあるのが実に興味深い
168 :
宇喜多直家信者:2007/06/11(月) 02:14:34 ID:vFRXuLvq
>>167 坂役叢話ねえ…
俺はあんまり詳しくないがこの書物に書かれている信孝辞世の句は
「昔より主を内海の野間なれば 報いを待てや羽柴筑前」だな、
>>35にも書いたが信孝の辞世の句は諸説あるが、この坂役叢話のが最も
一般的とされるのは、家康がこの句を持ち上げて大義名分を示したためだろう。
ただ俺は氏郷記の「昔より主を内海の浦なれば 尾張を待てや羽柴筑前」の方が好きだ。
しかしこの句をあげる人は見たことない。
あとこの辞世の句の話すると必ず百姓が現れるのはなぜか
169 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 02:15:43 ID:vFRXuLvq
170 :
仙台藩百姓:2007/06/11(月) 12:40:20 ID:pkqxo99+
先生質問です( ^ω^)ノ
・主を内海の野間なれば
・主を内海の浦なれば
・尾張を待てや羽柴筑前
↑
この辺りの意味がいまいち分からないですお(;^ω^)
171 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 13:28:51 ID:J24iM7Xx
源義朝 の件だよ
172 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 14:09:18 ID:mYhheC18
だけど、信孝ってカワイソス〜
生まれたときから報告が遅れて?実質の次男が三男に。
本能寺がなかったら、三好家の養子になって 名実ともに 信孝>信雄
になったのに・・・
173 :
宇喜多直家信者:2007/06/11(月) 14:53:11 ID:vFRXuLvq
>>170 百姓には自分で調べようという気がないのか、
「主を内海の野間なれば」 これは今一般的とされている句で「坂役叢話」に
収められている。野間は平治の乱で平家に敗れ落ち延びた源義朝が途中、
恩賞目当ての長田忠致・景致父子にに入浴中暗殺された場所(尾張国野間)。
信孝は秀吉を、主を私利により討った長田父子とかけているのである。
なかなかしゃれた句だと思わんか?
どうでもいいが戦国期家康に仕え、長久手の戦いでは池田恒興を討ち取った
永井直勝はこの長田父子の末商になる。
174 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 14:57:05 ID:OReryrBm
175 :
宇喜多直家信者:2007/06/11(月) 15:08:32 ID:vFRXuLvq
>>170 「主を内海の浦なれば 尾張を待てや羽柴筑前」
これは諸説ある信孝の辞世の句の中で俺が一番好きなやつだ。
出典は「氏郷記」「勢州軍記」、尾張を終わりとかけているのは一目瞭然。
ただこれは改ざんされたものであろう。
百姓が質問するので答えた、三七郎信孝の辞世の句についてであった。
176 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 15:08:38 ID:sheYXT56
裏切りでなければな。
昔より主を内海の浦なれば尾張を待てや羽柴筑前
↓
昔より主を討つ身の占れば終わりを待てや羽柴筑前
ただこの歌、「昔は長田今は山城」と対にしないとわかりにくいよね。
177 :
仙台藩百姓:2007/06/11(月) 16:33:19 ID:pkqxo99+
質問の仕方が悪かったお(;^ω^)
含まれている意味ではなく歌自体の意味の事だお
「主を内海の浦なれば」
主はアルジ=主君の意味だおね
内海の浦=地名だおね
内海は海岸沿いだから内海の浦
「主」「を」「内海の浦」「なれば」?
を?なれば?
何か文体が変な気が…
漏れも和歌の嗜みはないので意味解らんお(;^ω^)
178 :
仙台藩百姓:2007/06/11(月) 16:40:42 ID:pkqxo99+
つまり何が言いたいかと言うと
「主をうつみのうらなれば」
が正しいのではないかと思うのだお(平仮名と言う事)
「主を討つ身の占なれば」が表の意味
討つ身の占なればに内海の浦をかけた歌なのではないかお
179 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 16:43:58 ID:sheYXT56
180 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 16:53:06 ID:sheYXT56
ただ追記しておくと。
「のま」は「野辺」に通じて、転じて「生を終える場所」と
読み取ることは可能なんだよね。
181 :
仙台藩百姓:2007/06/11(月) 17:18:06 ID:pkqxo99+
「尾張を待てや羽柴筑前」
は全く意味不明だお
秀吉が尾張を待つ
尾張が動くわけもなし( ;^ω^)
前の句の内海云々となにかかかっているのかお?
秀吉が移動している描写があるとか?
それとも尾張は尾張国以外の意味があるのかお?
長田親子処刑したのが尾張守とか言う奴だったとか
それとも長田が頼朝に尾張をくれる事を約束されて
それを待っていたが殺された事から
秀吉も尾張を待ってろと言う事かお?
でもとっくに分取られてるしそれでは滑稽すぎるおね
>>181 いや、単純に尾張と終わりをかけた創作だろ
百姓もまともな意見を言うようになったな
喜ばしい事である
確かに「浦なれば」は「占れば」ともとれるが・・・
俺も和歌の知識がないので正直分からん・・・
百姓を批判しながらこれではなあ…
百姓すまぬ、お前の質問には答えられなかった。
和歌の知識があるやついないか?
184 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 18:06:22 ID:sheYXT56
占れば、じゃなくて「卜れば」と書けば良かったかな。
ニュアンス的には「多分バチがあたるよ」くらいな感じ。
尾張を待てや、は確かに無理があるね。
言葉がいかにも現代寄りくさいし、上の句と比較して下手すぎる。
これを辞世の余裕の無さと見るか創作と見るかは知らない。
186 :
仙台藩百姓:2007/06/11(月) 18:51:04 ID:pkqxo99+
>>宇喜多、sheYXT56
意味的にはそんな感じだと思うけど
形がおかしいと思うのだお
「昔より主を内海の浦なれば 尾張(報い)を待てや羽柴筑前」
このまま読むと意味わからん
「内海」の単語は故事を指しているのだから
「昔より」と付くのも蛇足に感じるお
だが
「昔より主をうつみのうらなれば おわり(報い)を待てや羽柴筑前」
と平仮名で表せば形としても自然だし
意味の捉え方も変わってくる
漢字を当てるならsheYXT56の言うように
「昔より主を討つ身の卜なれば 終わり(報い)を待てや羽柴筑前」
とすべきであると思うお
そうすれば
「古来より主殺しの末路は決まっている、報いを待っていろ秀吉」
と言う歌に無理なくなるお
そしてその中にさりげなく故事を引っ掛けた
巧妙な句になると思うお
つまり表の意味と含まれた意味が
逆になってしまっているように思えてならない
漏れが陳腐さを感じた理由はそこなんだお
おわりを待てやの方は
尾張と終わりを引っ掛けてもさして意味がない
その手は桑名の焼き蛤じゃあるまいし
全体の雰囲気からして
辞世で無意味な言葉遊びするとは思えないお
報いを待てやの方が前の句から見ても合っているお
もっとも、あくまで素人の感覚だから
詳しい人に聞かないとよう分からんけどね( ´ω`)
187 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 19:06:26 ID:sheYXT56
蒸し返しすまん。
尾張はともかく内海という地名まで出てくるこの句だが、
考えてみると秀吉も信孝もこの頃尾張にはいないし、二人とも内海には関係が薄い。
188 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 19:14:43 ID:Lt+ccwNI
189 :
宇喜多直家信者:2007/06/11(月) 20:12:18 ID:vFRXuLvq
>>186 今度ばかりは俺も百姓の意見にプライドを捨てて賛同する、
確かに織田信孝辞世の句にはいろいろな解釈があるが、俺の知る限り
>>186の
百姓の意見が正しいと思う、
ということで俺は百姓に謝る、すまぬ。
>>188 真偽はともかく切腹したときに臓器をつかみ出し投げたというのは信孝のほかには
丹羽長秀ぐらいか?
全く関係ないが真田十勇士の三好青海入道は大阪落城のさい、自分の首を自分で
切り落としたというが、果たしてそんなことが可能であろうか?
190 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 20:24:53 ID:VF5fz5TB
ここもコテがのさばるだけのスレになった
内容読んで書き込んだらどうだ。
192 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 22:02:25 ID:2jPqvkeG
結局、だから、この信孝の辞世の句はどう結論する訳?
193 :
宇喜多直家信者:2007/06/11(月) 22:11:36 ID:vFRXuLvq
まとめるとそうなるね。
195 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 22:18:26 ID:vFRXuLvq
質問に答えたので名無しに戻るか
196 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 22:31:37 ID:2jPqvkeG
いや・・・
だから、信孝の人格をこの句から推し量ってみて、結局どう結論するの?
あくまで句から見る人物像として、
・・・と言う意味だったんだよ、
色々な方面から信孝と言う人物像をつめていくんかと勝手にに思ってた〜ごめんね。
句の作者が本人であろうとなかろうと。
激情が先に立つ性格であることは間違いないよね。
198 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 22:45:57 ID:NnIcxEtS
筑前煮がほんとに筑前発祥だか由来だか非常に疑わしいと思うんだよね
だってただの煮ものじゃん
199 :
宇喜多直家信者:2007/06/11(月) 23:51:24 ID:vFRXuLvq
>>196 関係ないが信孝が信雄を馬鹿にした句を読んでるよな、
詳しくは忘れたが、あの伊勢長島の大虐殺も見てるし、信長譲りの面も
あったかもしれぬ、
「三七郎ッ、そちは山岡景隆らを従え、近江より攻め入れよ」
ある小説の信長・信孝父子の会話
200 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 03:01:00 ID:Ns7rwnIs
>>189 柴田勝家や前田利家にもそういう逸話があったような
201 :
宇喜多直家信者:2007/06/12(火) 05:27:31 ID:ZAisVUtu
信長の子への信頼度は、
信忠>信孝>秀勝>勝長>信雄>信秀>信好>信貞>信高>長次であったことに
疑問の予知なし。
今気づいたがのぶたかが2人いるなw、生年とかは
>>31見てくれ
202 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 12:59:05 ID:m0Kjvqjg
>>201 疑問ありまくりなんだが…
信頼度というのは武将としての信頼度か?
それなら武将として兵を有していた信忠・信孝・信雄・勝長
を比べるならともかく(秀勝を含めるべきかどうかは分からん)
信秀以下元服していない少年達の武将としての信頼度を計るなんて無理なのに
どういった根拠でお前さんは優劣をつけてるんだ?
武将に対する信頼度でも秀勝と勝長は共に武将としての経験は浅く、
あえて優劣をつけるとしたら一応武田征伐に参陣した経験がある勝長の方が上のような
気がするな。
なんで秀勝>勝長なんだ?秀勝の方が自身の手元に置いていた時間が長いからか?
203 :
宇喜多直家信者:2007/06/12(火) 14:40:03 ID:ZAisVUtu
>>202 年齢、
秀勝勝長信雄は正直良く分からん、それ以外は年齢
204 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 14:58:05 ID:ZAisVUtu
勝長ってかなりの若さで戦場に立ってるな、
信長のお気に入りだったのか、
205 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 15:12:42 ID:rSC9FvPZ
信正は評価外?
206 :
宇喜多直家信者:2007/06/12(火) 15:20:50 ID:ZAisVUtu
信正は評価しようがないだろ
僧になり94歳で死んだと言うことしか知らん
207 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 15:32:18 ID:m0Kjvqjg
>>203 年齢だけで信頼度に優劣をつけるのはいまいち説得力に欠けるよ
愛情度に多少の差はあっただろうけど信秀以下には信頼とかいう段階ではないと思うのだが?
>>204 武田家で過ごした時の知己や土地勘・情報などが役に立つかもしれない事と、
以前別のスレで誰かが言っていた事だが、
武田家で過ごした勝長が武田征伐に参加することで完全に武田家から脱して
織田家の人間に戻ったことを家中内外に示す為かもしれないね
勝長スレでは信長のお気に入りだという人が結構いるようだね↓
・武田家から返還されてすぐに重要な城である犬山城を与えられた
・信雄、信孝と違って織田姓・津田姓を許されていた
・勝長帰還時に信長の喜び、かわいがりようが信長公記に詳細に記されている
・濃姫の実子かもしれないという人もいる
208 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 15:36:27 ID:m0Kjvqjg
>>205 信正はその存在自体が疑問視されていて当時の資料には一切記されていない
209 :
宇喜多直家信者:2007/06/12(火) 16:17:52 ID:ZAisVUtu
>>207 そうだな、年齢を重ねても信雄みたいなのもいるし、若くても石川虎竹丸みたいなのも
いる。年齢で評価したのは間違いであった、すまぬ
210 :
宇喜多直家信者:2007/06/12(火) 16:25:38 ID:ZAisVUtu
>>208 織田信正
父は織田信長、母は原田直政の妹とされる。正室に織田信広の娘をもらっていたようだ。
尾張国古渡城主となっている微証が見える。
ただ戦国の世といえども父の兄の娘をもらうのには違和感がある気もするな、
しかし実在の人物というのは間違いないであろう。
このスレにも関係があるが、織田信孝と共に行動していたらしく、信孝切腹の際には
責任を問われたが許され、京都見性寺において僧になったと伝わる。
側室に村井貞運の娘ももらってる。
211 :
仙台藩百姓:2007/06/12(火) 17:45:50 ID:UthWNkku
信長の中では
信忠>信雄>信孝
の順番が絶対的なものであったと思うお( ^ω^)
信長は兄弟の順番をはっきりと区別していたお
信忠は別格として
信長の信雄と信孝に対する扱いを見ると
同い年ながら明らかに差がつけられているお
信孝を特別信頼や優遇をしようとしてたとは思えないお
212 :
項龍 ◆Sw15bzOP8. :2007/06/12(火) 17:50:37 ID:3hik4W3R
そういえば実は信孝が先に生まれたけど母が卑賤の者だったから3男にされた
ってのは既出?
213 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 17:56:36 ID:Jd5cSuU0
信孝の前に子供でもない信包や信澄が入ったりするしな。
214 :
宇喜多直家信者:2007/06/12(火) 17:58:47 ID:ZAisVUtu
>>211 百姓の言うことももっともであるが、信孝って次男か三男かよく
分からんからなあ…、まあ一門で見ると信忠>信包>信雄>信孝になってるし。
>>212 一説にある、どちらにしろ年はほとんど離れてない
215 :
項龍 ◆Sw15bzOP8. :2007/06/12(火) 17:59:35 ID:3hik4W3R
確か20日ぐらいの差だっけ?
216 :
宇喜多直家信者:2007/06/12(火) 18:01:17 ID:ZAisVUtu
>>214 ミスった、信忠>信雄>信包>信孝であった
この位は京都御馬揃えでのもの
217 :
宇喜多直家信者:2007/06/12(火) 18:03:58 ID:ZAisVUtu
>>215 信孝が3月7日に生まれたので、信長が三七郎と名づけたとも言われるが…
詳細は知らん、
218 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 18:23:47 ID:q1CqWydN
>>212 信雄側の史料ではそうなってるな。
信雄側ではない資料では、卑賤の者とは書かれてない。
上の方に出てた系図からしても卑賤の者じゃないな。
20日くらいの差というのも、信雄側の史料。
そうではない史料では、そこまで離れているようには読み取れない。
信孝は4月4日生まれ説もある。
3〜4月あたりが誕生日なのは大体分かるから、
信雄もそのくらいの生まれなんだろうな。
信雄の生母の妊娠期間、計算が合わないよな。
219 :
宇喜多直家信者:2007/06/12(火) 18:47:02 ID:ZAisVUtu
人は十月十日で生まれてくる
220 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 18:54:25 ID:q1CqWydN
信雄生母の前の夫死亡 弘治2年9月
通常四十九日過ぎてから側室になる
信忠誕生 弘治3年だけど、8月以降の出産じゃないとおかしい
信雄誕生 永禄元年5月以降じゃないと計算が合わない
222 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 08:42:19 ID:ZRRT4x/7
>>220 弘治2年9月から四十九日がすんで側室になっても
1ヶ月は妊娠してないのを確かめるため(生理を確認するため)
閨には呼ばれない。
最初に閨に呼ばれるのは弘治2年12月くらいになる。
最短で妊娠しても、信忠が生まれるのは弘治3年9月。
産後1ヶ月は床上げしないから、最初に同衾するのが
超安産でだったとしても弘治3年10月。
当時は会陰切開などなくて産道の治りが悪いと
3ヶ月くらい性交渉なんて出来ない事もある。
仮に10月に閨のおつとめが出来てそこで妊娠しても
信雄誕生は永禄元年閏6月以降だろう(永禄元年は6月のあとに閏6月がある)。
信忠が嫡男だから、信長の胤とはっきりしてたはずだから
妊娠していないのを第三者に確認されてるのが普通だよな。
信孝の誕生日として伝わるのは、3〜4月だから、信雄もそのくらいだというなら
信忠の生母が信雄の生母とは違うのか、前の夫が弘治2年9月に死んだって言うのが
間違ってるかのどちらかじゃね?
223 :
宇喜多直家信者:2007/06/13(水) 14:28:35 ID:yliJtMH5
224 :
宇喜多直家信者:2007/06/13(水) 15:15:04 ID:yliJtMH5
結局、良く分からんぞ
まあどっちにしろ信長の見る目でいうと、信雄の方が位も高いが、
225 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 15:25:58 ID:yjH/VQ3t
信孝のが才能はあったのは間違いない。
信雄は本能寺の変で親父が死んだ時、ぱにくって安土城燃やした説が
あるくらいじゃから。信長。。。ドンマイ。。。
226 :
宇喜多直家信者:2007/06/13(水) 15:29:19 ID:yliJtMH5
227 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 15:38:38 ID:yjH/VQ3t
デマやろけど、流れるほどにアカン武将だった。
普通そんなデマ流れないだろ
228 :
宇喜多直家信者:2007/06/13(水) 17:47:55 ID:yliJtMH5
>>227 確かに信雄が暗愚であったのは本人には悪いが全く疑うことの出来ない事実であろう。
長久手の戦いで勝手に講和したり、伊賀攻めで大敗したり、その他
229 :
虎之助:2007/06/13(水) 17:53:31 ID:yjH/VQ3t
うんうん。信孝を切腹まで追い詰めてから秀吉に利用されてること
に気付くからねぇ・・。
小牧長久手の講和はほんとにひどい。
230 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 18:13:07 ID:fdIhIu0e
>>222 信雄が信忠と同腹じゃなかったら、
信孝よりもあとに生まれて二男扱いされたのは
嫡男と同腹だからって話しと矛盾するんだが。
231 :
宇喜多直家信者:2007/06/13(水) 18:20:15 ID:yliJtMH5
もう分からん。誰か小和田先生にでも聞きに行け、
週末国内2番目の蔵書量を誇る図書館行って調べてくる
232 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 18:25:04 ID:zVV8Uvv4
信雄の母についての記述なあ。
三介と三七を混同しているように見えるのは俺だけかなあ。
233 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 18:36:41 ID:fdIhIu0e
ザッと調べただけなんだけど、信忠の生母候補に
久庵慶珠って崇福寺文書に名前が出てくる人物が挙ってるんだな。
同腹ではない可能性があるという事か。
そうなると、信雄>信孝はこの順番に生まれてきたか、
清洲で生まれた信雄の方が、熱田で生まれた信孝よりも報告が早く
披露されるのも早かったからそうなったのかってことか。
234 :
宇喜多直家信者:2007/06/13(水) 18:41:27 ID:yliJtMH5
信長が絶倫すぎるゆえ混乱を招く、
信雄信孝だけじゃなく信秀信高信吉の順も変だしなあ…
235 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 18:49:23 ID:fdIhIu0e
>>234 だよなぁ。
信雄、信孝は数日の差と言われているからまだ分かるが
信高は天正4年生まれなのに、天正元年生まれの信吉や
天正2年生まれの信貞よりも席次が上なんだよな。
おまけに、信吉と信高って同腹だと言われてるんだろ?
同腹で数年も差があるのに、席次が覆るなんておかしいだろう。
幼名からすると、信秀と同腹の方がしっくりくるな。
236 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 18:49:44 ID:zVV8Uvv4
いみなが同じ読みなのは問題ないよ
237 :
宇喜多直家信者:2007/06/13(水) 19:00:16 ID:yliJtMH5
俺が
>>31に書いてるが、信秀(大洞)信高(小洞)はセットになってる
同腹に疑いないと思うんだが…史実では違う
238 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 19:16:10 ID:fdIhIu0e
>>237 おぉ、
>>31は見やすいな。
確か、信吉と長次が同腹って説もあるんだろ?
お鍋と直接関係が確認できるのは信吉だけとも言うし
史実とされている、信吉信高同腹説は疑問だが、
信高の家系は、途中で信雄系から養子迎えつつも
今でも続いているので、何か門外不出の文献でもあるのかなぁ?
239 :
宇喜多直家信者:2007/06/13(水) 19:47:54 ID:yliJtMH5
生年と母親について(一般的な説)
長男信忠1557年生まれ、母には異説あるが井駒家宗の娘か。
次男信雄1558年生まれ、母は井駒家宗の娘。
三男信孝1558年3月7日生まれか?、母は坂氏といわれる。
四男秀勝1568年生まれ、母不明。
五男勝長1568年生まれ、どうでもいいが15歳で死んだとされるのに子供がいるとはどうしたことか。
六男信秀1571年生まれ、母は不明だが相当な身分の者あったと思われる。濃姫の子かもしれん。
七男信高1576年生まれ、母はお鍋の方。兄信秀とセットの幼名(小洞)。
八男信吉1573年生まれ、母はお鍋の方。幼名の酌はお鍋の方となぞらえたとも。
九男信貞1574年生まれ、母は土方雄久の娘とされるが、青山氏とも伝わる。
十男信好 生年不明、母も不明。
十一男長次 生年不明、母も不明。
母が不明なのは秀勝、勝長、信秀、信好、長次だが、ほかにも疑わしいのが多い。
信秀の母が相当な身分のもの、と書いたのは、信秀が侍従の冠位を授けられているから。
ただ俺は幼名から見るに信秀、信高は同腹に思える(つまり井駒氏)。
240 :
宇喜多直家信者:2007/06/13(水) 19:55:14 ID:yliJtMH5
>>239 詳しく知りたい人は史板のほういったらいいと思うぞ、
なかなかレベルの高い話してる、
241 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 20:01:27 ID:fdIhIu0e
>>239 >15歳で死んだとされるのに子供がいるとはどうしたことか
当時は12歳くらいで結婚するのも普通だから
別におかしくはないんじゃね?
>信秀、信高は同腹に思える(つまり井駒氏)
生駒?
生駒は1566年に死んでるだろ?
おまけに、信秀の所に濃姫の子供かもとか書いてて、
それはどういう事よ。
242 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 20:06:46 ID:yliJtMH5
>>241 すまん、井駒氏じゃなくお鍋の方であった
正しくは、信秀信高は同腹に思える(つまりお鍋の方)であった。すまぬ。
信秀の母はお鍋の方かもしれん、と書こうとして間違えた、すまん。
243 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 20:22:07 ID:fdIhIu0e
お鍋の前夫との子供の年齢と信秀はかぶるんじゃなかったか?
となると、信秀信高がセットで別の身分ある女性の子供。
信吉はお鍋と同居しているのが分かってるから鍋の子供だろうし
長次が幼名から見て鍋の子供かと言われているから
信吉と長次がセットの方がすっきりする。
そうすれば、鍋腹といわれているのに何故か席次が入れ替わっているという
不可思議な理由も理解できる。
鍋よりも身分の高い女性の子供なので、信高が信吉らより
優先されたと考えればいいだけだからな。
>>243 全くその通りですな。うまくまとめてくれました。
ただ信吉と長次はほとんど資料には名を残してないんだよなあ・・・
今こそ百姓の意見を聞きたいんだが・・・
245 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 02:44:30 ID:fiTv0AJZ
百姓イラね
誰かこれらの疑問を一気に解決する百姓以外の勇者はおらんか
247 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 09:59:20 ID:rvzeaItA
信秀が身分ある女性の子供というのは冠位からしてそうかなと思うし、
何より、信長の実父の名前をもらっている事からも、
何か有力な理由がある子供だった気はする。
勝長と伝わる、やはり生母の分からない子供にしても、
織田復帰後の署名は信房だから、信房という名前をもらっていたんだろう。
なのに、その子供の名前を信雄が勝良としている事からしても、
その名を与えた信雄からすると、都合の悪い出自だったのかもとも思える。
信孝の出自にしても、上に載ってた系図を見ると悪くないのに、悪いとされてきたし、
生母の分かっていない子供や、生母だとされている人物はいるが曖昧な子供は
信雄との絡みで考えてみた方がいいのかもしれないと思う。
信雄と同母とされてきた信忠も、調べてみるとどうも別の生母の可能性があるようだし。
信忠と信雄が同母で都合がいいのは、信雄の方だからな。
248 :
宇喜多直家信者:2007/06/14(木) 17:28:16 ID:vI+EjIFL
>>247 自分の父の名を子に付けるのは河野氏ぐらいだしなあ…
信秀がそれほどの身分の子になるなら、セットにされてる信高も同じになるわけか、
勝長もやけに信長に厚遇されてるし、疑問が多すぎるな
249 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 01:32:23 ID:pe+4o4OR
とりあえず宇喜多直家信者はチラ裏に下書きしてからレスしろ
間違いが目立ち過ぎ
250 :
宇喜多直家信者:2007/06/15(金) 01:49:49 ID:1j+SlnNc
251 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 01:54:17 ID:pe+4o4OR
なにこの粘着厨、きもすぎ
信澄しかり勝長しかり、津田性を名乗るやつが多いな。
津田信澄 「貴族織田と称せん事を憚って津田と名乗り」信長公記
1564年信澄元服して津田を称す。越前一向一揆、荒木攻め、槙尾寺焼討ち、
伊賀平定戦などに従軍する、1582年四国攻めのため住吉に着陣していたが、 家康接待のため大坂に戻っていたところ、本能寺の変が勃発。 明智光秀の女婿だったため信孝や丹羽長秀らに疑いをかけられ襲殺された。
253 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 16:51:25 ID:gvYk5k0L
勝長は残っている書状などからも、織田源三郎信房だったようだけどな。
津田源三郎勝長っていうのは、どうしてそういう事にされたんだろうな?
>>253 武田の養子に入ったから
正式には信房でいいと思う
255 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 17:04:21 ID:gvYk5k0L
>>254 織田源三郎信房になったのは、織田に戻ってきてからだよ?
言い方が悪かった
勝長は武田勝頼の養子になり勝をもらい勝長と名乗った
織田家に戻ってからは信房と名乗っていると信長公記にも書かれている、
なお信長公記には勝長(御坊)が元服する様子も書かれている、
257 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 17:41:44 ID:gvYk5k0L
>>256 信長公記には信房を名乗ってるとは書かれてないよ。
禁制や書状から分かったんだよ。
それも、花押が一致するのが分かって勝長=信房だと分かった。
織田源三郎信房なのは分かったが、死亡後なぜ津田源三郎勝長という名前に
勝手に書き換えられてしまったのかという事が不思議だってこと。
寛政譜にも勝長で載っているが、それ以前に信雄は信房の子供に勝良という
名前を与えている。
その時点で、信房は勝長という名前に戻されていたと考えられる。
一体どうしてなんだろう?という疑問。
258 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 17:43:54 ID:gvYk5k0L
ちょっと言葉足らずだな。
犬山城主だった時に禁制を出していて、それが信房名で
それが勝長だというのは分かっていた。
また武田討伐時の、武田方からの助命嘆願の書状の返事に
花押が一致する信房があって、その経緯の関係で
織田源三郎信房が分かったということ。
259 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 17:44:19 ID:JuiYVIui
そこまでは分からん・・・
260 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 17:51:32 ID:JuiYVIui
酷い意見だと思うが、津田だから勝長じゃないのか、
羽柴秀勝しかり、 織田一族のままならそのまま信房と名乗ったかもしれぬ、 酷い意見だとは思うが・・・
261 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 17:58:14 ID:gvYk5k0L
いや、ひどい意見とかは思わない。
ただ、死ぬ直前まで織田源三郎信房だったものが
死んだら津田源三郎勝長になってしまった理由が
よくわからないと思ってな。
262 :
宇喜多八丈島主膳(280石):2007/06/15(金) 19:40:21 ID:1j+SlnNc
勝長の名乗り、御坊丸、津田源三郎、織田源三郎信房、法名林庭宗松、
勝長が織田家で元服した後から書状などを見る限り、みな織田源三郎信房に
なっている。織田家に返ってからは信房で通したようである。
しかし子には勝の一字(勝良)を信雄が与えてる…、
ただ勝良には加賀前田家に600石で仕えたという(諸士)記述ぐらいしか見つからん。
あと、今気づいたが津田源三郎とはあるが津田源三郎勝長(あるいは信房)と
書かれてる記述が見当たらんのだが…、誰か知らないか?
263 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 19:54:42 ID:gvYk5k0L
ないと思う。
津田源三郎、または単に勝長。
だからそれを合わせて津田源三郎勝長と
後世の人間がいっているだけだ。
織田源三郎信房の名前なんて、
信長の子供を調べていれば知っているかも知れないが
普通はちょっと歴史に詳しくても、知らないだろうな。
信房を知っていても、禁制は知っているが、
書状ついては、知らない人間の方が多いだろう。
264 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 22:48:59 ID:GlPMrSkQ
一つ疑問なんだが信長の六男信秀はいつ頃元服したの?
本能寺の時は数え年12だから元服は父の死後の可能性が高そうだけど、そうすると秀吉が力を持った時期に信秀を名乗ったことになるな。
宗家の秀信が秀吉の秀を上にもってきたり、蒲生氏郷(賦秀)みたいに秀吉を憚って改名したのもいるのに、信秀という秀が下につく名前を名乗るってのは変な気がする。
なんで三七のスレで御坊の話題なんだよwww
信忠のとこでやれっつうの
庶子総合スレがあってもいいかもな。
267 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 01:12:18 ID:0xkRsqEr
辞世の句や出生に関してはもういい
華々しい活躍について語ろうじゃないか
とりあえず神吉城攻めの武勇から始めようよ
268 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 06:13:08 ID:aCHbX2IW
信孝は光秀や信澄と組んで、秀吉・信雄を討つべきだったな。
269 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 07:55:40 ID:7XIFc4z6
そんな先見の明はありえないんだぜ
270 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 09:21:51 ID:aCHbX2IW
光秀が「この度の謀反は信孝様を織田家の当主とするためです」とか言ってそそのかしたら、乗ってこないかなぁ。
271 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 09:29:08 ID:aCHbX2IW
アホの信雄なら乗ってきそうだな。
光秀が信雄を安土城に迎え入れて、家督を相続させたら、秀吉も勝家も手が出せんだろw
272 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 09:46:52 ID:z5EjXHhZ
三法師が本能寺の変で死んだら(といっても三法師が京都にいたかどうか確証は
ないが)
家康が信雄を織田家の家督を取るよう推挙するかも知れん
勝家は裏がないから信雄より有能な信孝を立てるのは目に見えている
その時、秀吉はどっちに付くか、それとも養子の勝長を立て独立するか
すると光秀が信澄を立てたりしたりしてw
273 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 09:55:06 ID:L+pzCCRr
秀勝でしょ
274 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 14:56:16 ID:8gSJGzu3
>>247 信秀の生母については、一説では稲葉氏ではないかといわれている。
(稲葉一鉄の縁者?)
それに信秀と信高の幼名が、大洞と小洞でどちらも実際に岐阜にある
地名らしい。生母は岐阜出身ではないか。と考えられる。
岐阜出身者だったら、稲葉氏でもおかしくない。身分が高いかどうかは
わからないが・・・
>>257 >>261 勝長は法名にしても変だし、信雄側が信忠と無理に同腹にしたのも意図的
にやったとしたら、勝長が織田家の正当な後継者であることを隠すためか
とも思われる。どうしても判明しない生母や、死後の扱いが変だと考える
と勝長が濃姫の実子である可能性もあるかなと。
それが都合悪かったのは信雄側なのかなと。
これまでの通説では、濃姫には実子がなかったといわれているけど、
御台出産記事や女の子が生まれている家系図もあるというし、信長の子供
はなんせ生母不詳の子が多いし、男子ならまだしも女子となれば、生母が
はっきりわかっている方が少ないので、可能性としてはないとは言えない。
275 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 00:11:15 ID:ldpELKVA
ここは信孝スレ。
他で相手にされないからといって濃姫や勝長はスレ違いで迷惑だ。
よそでやってくれ。
276 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 15:03:56 ID:KgBqFC5P
277 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 22:36:07 ID:ttVOocI3
>>275 濃姫、勝長が信孝と全く関連性がないわけがないし
他のスレでも閑話休息的に多少脇道にそれることはよくある
お前さんは様々な視点から考察するということを否定するのかね?
もう少し話題が膨らむと思ったんだがなあ。
279 :
人間七七四年:2007/06/20(水) 00:13:40 ID:0/t2cZiE
280 :
人間七七四年:2007/06/20(水) 02:37:35 ID:j/g0nPTL
信孝スレも信雄スレで信孝の話ばっかりだったからできたのに・・・。
281 :
人間七七四年:2007/06/21(木) 18:06:29 ID:+QfVmbfn
しかし、この辞世は大好きだ。
282 :
人間七七四年:2007/06/21(木) 19:57:31 ID:PDadXZ9X
平安とかの時代だったら信孝は間違いなく怨霊扱いされたろうな。
283 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 02:04:33 ID:YK9vMhIc
まあ、恨みがそのまま残ったらまだしも、恨みの対象の秀吉の豊臣家は
見るも無残に報いを受けたんだから、怨念も浄化されたことであろう。
284 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 10:27:24 ID:oxdwpTsY
要は力量に合わせて信孝が北畠家の養子になって
信雄が神戸家の養子になっていれば、うまくいったかも
でも出生の序列は変えられないのか
285 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 20:12:00 ID:Nj1OBdEq
北畠は名門なんで
織田家内で信忠に次ぐ信雄を出すのは最低限の礼儀
286 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 20:27:48 ID:H6Khe69F
北畠は木造らの補佐があったし長野は分部の補佐があったけど神戸は反目してたからな
蒲生と懇意にしておけば関もなびいたかもしれんが…
287 :
人間七七四年:2007/06/22(金) 23:29:28 ID:CNdfUi0K
だから、遠い血縁があった信孝を養子に出したんだろうな。
288 :
人間七七四年:2007/06/23(土) 09:15:08 ID:/fpQj6lw
母親の坂氏と神戸氏支族の坂氏が遠縁とする証拠はどこにあるのかな?
289 :
人間七七四年:2007/06/23(土) 19:10:42 ID:QioRwISC
>>288 そんなこといったら昔のどんな血縁も証明できないんだぜ
290 :
宇喜多直家信者:2007/06/24(日) 19:51:24 ID:FgrnJ3d0
3兄弟信忠信雄信孝の位
『信長公記』巻十四「御連枝の御衆」参照
「中将信忠卿、馬乗八十騎、美濃衆・尾張衆。北畠中将信雄、馬乗三十騎、伊勢衆。
織田上野守信兼、馬乗十騎。同三七信孝、馬乗十騎…」
織田信兼は織田信行の4男、つまり信孝は父の弟の子より位が低かったのだ。
信忠信雄には明らかに差をつけられている。
『信長公記』同じく巻十四
「中将信忠へ、作正宗。北畠中将信雄へ、作北野藤四郎。織田三七信孝公へ、
作しのぎ藤四郎。何れも御名物代過分の由候なり」
安土城において3兄弟に信長から脇差が与えられたときの記録。やはり兄弟で
差があるのが分かる。ちなみにこの時(上の騎位も同じだが)信忠25歳、信雄24歳、
信孝24歳で、年齢にはほとんど差がない。
291 :
宇喜多直家信者:2007/06/24(日) 19:52:50 ID:FgrnJ3d0
>>290 失礼、信兼より位が低いのではなく同じであった、すまぬ、
のぶかねは信長の弟なわけで。
甥は信澄やん。
293 :
人間七七四年:2007/06/24(日) 21:08:17 ID:ty2phnS4
>>290 この信兼は信長弟の上野介信包のこと。「上野守」は上野介、「信兼」は信包の誤記。
だいたい織田信兼は信孝に仕えていたのに主君より上位に来るはずがない。
294 :
人間七七四年:2007/06/24(日) 21:17:48 ID:ty2phnS4
訂正。織田信包の「信兼」は誤記というより異字表記だった。
295 :
宇喜多直家信者:2007/06/24(日) 21:43:11 ID:FgrnJ3d0
>>293 確かにそうだ、その点不思議には思ったのだが良く考えぬまま原文のまま
書いてしまった、お詫びのしようもない、ミス繰り返しすまんかった。
296 :
人間七七四年:2007/06/25(月) 15:23:04 ID:o46noR1O
>>287 信孝生母の坂氏は伊勢鹿伏兎氏庶流の坂氏と言われているんじゃなかったか?
297 :
人間七七四年:2007/06/25(月) 22:03:49 ID:dCvtVv+i
>>296 そうだよ。坂氏も鹿伏兎氏も神戸氏も関氏を宗家とする庶流。
信孝の家老だった岡本良勝の家から坂氏に嫁いだ女性がいて、
それが坂氏の母親だといわれている。
岡本氏も尾張で土着していた有力豪族で織田家とは代々諍いの多かった
関係だったから、信孝は岡本家と織田家との掛け橋でもあったんだろう。
信雄みたいに織田家の有力家臣を伴っての養子入りではなかったけど、
信孝が縁者であったことから、敵に警戒させずに信孝の身内で固めた側近を
つけて入り込み、頃合いをみて一気に乗っ取りを図ったんだと思う。
298 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 06:25:40 ID:8/LLpQKC
関氏の中の坂氏から信孝の母が出ていたのであれば
神戸友盛や関盛信が信孝を疎んじたのが頷けない。
ちなみに加太定長の舎弟蔵人定住、縫殿介が坂氏を称した。
永録12年の信長の第3次伊勢侵攻に関盛信、盛重、加太定長、坂定住らは路地を塞ぎに出て抵抗した。
その後、一族の神戸友盛が信長の三男信孝を養子に迎えて和睦した結果、関一族は信長の傘下に入ることとなった。
このとき、定長も関氏とともに織田軍と講和している。
元亀元年6月に浅井長政が兵を起こすと、定長嫡子定心は鹿伏兎城を弟定義と叔父坂定住に託して江州に赴き加勢。
同28日姉川の合戦において佐々成政の軍と激戦し、さらに酒井忠次、小笠原長忠の軍と格闘して遂に討死した。
長島一揆が起こると関、加太両家はこれに通じたため信長は一揆平定後に両家を処罰した。
関盛信は日野に幽閉、所領を神戸信孝に与え、また加太定義は加太一族中で唯一長島一揆に加担しなかったとして
鹿伏兎城を安堵、所領は鹿伏兎郷のみに削られた。
なお嫡流の定心の子四郎、六郎兄弟は長島一揆に参加して氏家ト全を討ち取るも共に戦死。
とまあ、嫡流も庶家も織田家に敵対している。信孝の母の実家が坂氏とはとても思えない。
信孝の母は寛政譜等の系図には坂氏の女とあるが、一豊公御武功記には二宮一楽斎が織田三七信孝母方の祖父とある。
なのでこの一楽斎の男が坂氏を称したのか、又はもう1人の女が(別の)坂氏に嫁いだと思われる。
299 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 07:28:21 ID:8/LLpQKC
>>293 織田信包は信孝には仕えていない。信孝と同じく連枝衆の一員。
主に信忠の下で連戦しており、越前一揆討伐戦では信雄と組んだり
伊賀攻めにおいては信雄の指揮下に入っている。
浮田信者もそうだが誤りが目立つな。
300 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 07:51:37 ID:8/LLpQKC
と、人のことを言っていたら自身も誤っていた。
>>298 >なのでこの一楽斎の男が坂氏を称したのか、又はもう1人の女が(別の)坂氏に嫁いだと思われる。
信孝の母方の祖父が二宮一楽斎と言ってるのだから、男なわけないよね。
301 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 08:30:06 ID:xxoK8I24
>>298 岡本氏と組んで早々に庶流の坂氏は一門を裏切って織田家にくだっていたからだよ。
だから坂氏はそのための恭順の証としての人質代わりの側室となったのだと思う。
坂氏は一門ではあるけど、初代か2代目程度の家柄だし、一門内では出世を
見込めないから、織田に寝返ったんだろ。
一門を裏切り、織田家サイドのものとして神戸家に乗り込んできたのだから
信孝や側近の坂氏の縁者たちへの風当たりが強かったのは当たり前だ。
特に本家の関氏にしてみれば、庶家の神戸家の台頭も苦々しく思っていたところに
そこに送り込まれたのが信長の傀儡みたいな嫡養子なんだから、
素直に受け入れるわけがない。
302 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 15:27:31 ID:MEEpsfpz
>>298 >疎んじたのが頷けない
信孝が養子入りする前、関盛信の一子(名前忘れた)が、
神戸具盛に養子入りするはずだった。それが流れたせいで恨んでたはず。
303 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 19:39:09 ID:OJ/+2Xmz
>>301 ちゃんと
>>298を読んだか?加太庶流の坂氏は加太、関ともに六角に通じ反織田でなんだが
また早々と織田に下ったとあるが、時間軸がズレてないか?尾張統一過程にいる信長が伊勢に手を出せるとも?
>>302 それは勢州軍記に書いてあることだよね、知ってるよ。
しかし関、神戸だけならまだしも関一門が反織田で坂氏も積極的に合力してる。
姓が同じだけで同族、遠縁と安易に判断しているので一考察してみたわけだが…
304 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 19:53:08 ID:OJ/+2Xmz
とりあえず
>>301には「岡本氏と組んで早々に庶流の坂氏は一門を裏切って織田家にくだっていたから」を証明してほしい
坂定住、縫殿介しか名前が知れてないのに誰が信長に下ったかその文献を教えて欲しいものだ
話は変わるが岡本良勝は熱田神宮の神官、宮司でない。これは熱田神宮の文庫を訪れれば知れる
305 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 20:11:24 ID:xxoK8I24
>>303 よく読んだよ。
坂氏は一家だけじゃない。
家系図を見る限り2家あったな。それ以外もあったかもしれん。
兄弟、親子だって敵味方にわかれる時代だから、
親族が反織田だからってなんだ?
織田家の家臣だって元は敵方で嫡男や娘を人質に差し出して投降して
のちに織田家で重用されているものがたくさんいるじゃん。
信長の側室が公になってきたのは道三死後。国譲状をもらって
美濃の後継者としての資格を得てからだ。尾張統一を見据えて外にも目を
向けた時期と一致する。その時期から人質代わりの側室が増えたことに
なんの不思議もない。生駒も政治がらみの人質兼側室だしな。
坂氏と姻戚関係にある岡本氏を介して織田家への従属を約束する代わりに
坂氏が娘を差し出したんだろ。岡本氏が寝返りをすすめたのか、
あるいは坂氏の方から岡本氏経由で寝返りを申し出たのかはしらんが。
それに鹿伏兎家庶流の坂氏の家系図にも載っている坂口縫殿助が
信孝が神戸家に入った時守役に一緒についてきてる。
もちろん生母の一族だからだろ。
守役や側近は生母の実家を重用する慣習があるから、そう考えるのが自然。
逆にここまで信孝氏生母は鹿伏兎庶流の坂氏一族の女性だと思われる根拠があるのに、
別の坂氏とは一体どこの坂氏?
306 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 21:20:52 ID:OJ/+2Xmz
それほど根拠があるならなぜ勢州軍記にその記載がないのかな?
307 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 21:57:36 ID:xxoK8I24
伊勢軍記には信孝の守役に岡本良勝、坂仙斎、坂口縫殿介〜って書いてあるじゃん。
坂口縫殿介と坂仙斎を同一人物とする坂家家系図も見たことあるし、
兄弟とする家系図も見たことがある。
つまり、どっちにしても鹿伏兎家庶流の坂氏ということだ。
君の言うように坂氏が反信長なら、なぜ信孝の側近に一族のものがいるのかな?
それより君の主張する信孝生母の坂氏はどこの坂氏なの?
308 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 22:17:32 ID:xxoK8I24
>>298 二宮一楽斎って一説には千代の祖父といわれる人物じゃなかったか?
ということは、信孝とは従兄妹どうしになるってことだろ?
そのわりには信孝と千代や一豊との接点がなくねぇ?
去年の大河だったら、従兄の信孝のために千代が暗躍しそうだけどな。
309 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 23:37:10 ID:jeVzIUWL
310 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 23:50:12 ID:W3MAnyEm
>>309 弟の信包と信行の子の信兼の区別がついてないんじゃないの?
311 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 23:51:09 ID:OJ/+2Xmz
>>301の説は結果論ありきの君の妄想でしかないよ
坂縫殿介と坂口縫殿介が同一人物とは強引なこじつけだし
関一族の坂氏がまだ尾張を今川に侵食されていた織田家に仕えるなんて何か確証はあるの?
それから坂仙斎は北畠家の侍医だった説もあるな
神戸氏の末裔である勢州軍記の作者が記載していない以上、坂氏との関係は不明だし推量の域を出ない
家系図の話は初耳、どこに行けば見れるのか教えて欲しいものだ
別の坂氏についてはまた文献が見つかったら報告するわ
312 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 23:55:24 ID:OJ/+2Xmz
それから読解力が足りないみたいだからあえて言っておくけど
>>306は勢州軍記になぜ信孝の母は加太庶流坂氏という記載がないのか、ということ
313 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 02:33:15 ID:W2Yh/H36
>>310 ごめん、確かに区別がついてなかった
話の流れから新八郎信兼が出てくるとは思わなかった
ところでこの信兼は信孝に仕え信孝に殉じたとあるけど、兄を殺されてるのによく仕える気になったよな
で、仕えたのはいつ頃からなんだろ?知っている人がいたら教えてください
314 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 06:54:21 ID:BJ6b5qvD
>>311 往生際が悪いね。
坂氏の家系図なんてちょっと足をのばせばいくらでも収集できますが?
坂氏の家系図に坂口縫殿介が載ってるんだから、
伊勢軍記にいちいちどこそこの坂氏なんて書く必要はないだろ?
逆にいちいち誰のこともどこどこ庶流の○○氏なんていちいち書いてある
史料あったっけ?
ぜひ教えてください。
そんなに親切な一次史料があったら家系図や他の史料とを検証せずに特定できて楽だ。
ところで君のいう坂氏はどこの出身の坂氏だと聞いているんだけどね?
まったく織田家とのかかわりをもたないような坂氏であれば逆にどういうルートで
信長の側室になったのか知りたいもんだ。
当時の信長がどこまで勢力拡大していたのかがわかって参考になる。
そこの坂氏を側室にしていたということは、その坂氏を支配下においていた
ということだからな。
それに岡本良勝の家で生まれたという信孝だから、
坂氏は岡本家の縁者でなきゃおかしいよな?
岡本氏関連の新たな発見もできるから興味深いよ。
315 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 10:58:01 ID:AeRmGb6D
>>311 >>坂縫殿介と坂口縫殿介が同一人物とは強引なこじつけだし
坂定住の弟がさらに分家して坂口氏を名乗ったとなんかの文献で
読んだことがある。自分は
>>314さんのように家系図では確認して
ないけど、その家系図を元にした検証だったのかもしれない。
坂口という地域が伊勢周辺にあるのでそのあたり
に土地をもらって住み、苗字も坂口としたらしい。
>>坂仙斎は北畠家の侍医だった説
代々関一門とは直前に戦をして敵対関係にあった北畠家の侍医が神戸家の
新当主の側近にいたとしたら、それこそ反信長の鹿伏兎氏庶流の坂氏が
信長にくだっていてもおかしくはないと思うが?
逆も然りだな。敵対関係にある神戸一門から北畠家が侍医を迎えたのだから。
>>神戸氏の末裔である勢州軍記の作者が記載していない以上
でも、
>>311さんがどこの坂氏と思っているのか不明だが、別の坂氏で
あったとしても同様に勢州軍記には書いてないということになる。
神戸家主体に書いたものだから同族の坂氏のことはあえてどこの出自で
と書かなかったとも解釈できないか?
逆にそれこそ毛利庶流の安芸坂氏などなら書いたと思うよ。
坂氏というだけではなく、「坂○○息女」とか信孝生母の出自がわかる表記で。
316 :
人間七七四年:2007/07/02(月) 10:23:05 ID:+8cN2TqL
ほほう、信孝は信雄よりも生母の出自はいいではないですか?
当時の生駒家なんてしょせん半農半士の土豪の家でしたからね。
だけど次男と三男ゆえに養子先の家柄で歴然と差をつけられていたという
ことなんでしょうかね。神戸家と北畠家では家格が全然違いますからな。
信孝が信長死後本当は次男だったといいだしたのが怪しいと
思っているのですが、そのへんどうなんでしょう?
同じ側室であった生駒に気を使う必用もないし、清洲で生まれなかったので
届けが遅くなったって言っても、
熱田なら清洲までちんたら行っても半日あれば着きますからね。
317 :
人間七七四年:2007/07/02(月) 10:40:17 ID:vpNlJn5B
熱田での接待用の伽係で、正式な側室じゃなかったんじゃね?
子供が男子だったから、側室になったって感じだろ。
318 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 00:08:06 ID:qeLyCnSB
だけど、人質として送り込まれたなら普通に正式な側室でも
良かったんではないかな。なんで伽係だったんだろ。
そっちの方が不自然な感じするがな。
319 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 00:24:27 ID:1b52iFLT
送り込まれてなかったからじゃないか?
だって、清洲城の奥にいた訳じゃないみたいだからな。
人質じゃなく、あくまで熱田に信長が来たときの
接待用の伽係だったと考えればいいんじゃね?
320 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 01:20:57 ID:qeLyCnSB
坂氏が岡本家と相談してかどうかはわからないが、信長に恭順の証として
娘を差し出したとされているんだよな。
だとすると、伽係として差し出されたとは思えないんだがな。
それだと人質にはならない気がするしな。
321 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 07:44:55 ID:1b52iFLT
奥にいない人間が、人質とはいわないんじゃないの?
身柄を押さえてない人質は、戦国期には考えにくい。
322 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 07:46:21 ID:1b52iFLT
人質を出さなくてはならない程、
不信感を持たれていた訳ではなかったのかも知れないしな。
信長を喜ばせる為の、伽係程度ですむ話しだったのかも知れん。
323 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 08:06:03 ID:U656fk6c
岡本家で信孝が生まれた、というのは勢州軍記に書いてあるんだけど、
勢州軍記は当然ながら信孝>>>信雄という視点で書かれているんだ。
信孝が兄に逆らって、織田家の家督を狙ったとされてしまったので、
本当は信孝が兄だったんだ、ということにして正嫡性を強めようとしたんじゃ、
っていう可能性はないかい?
庶子だから重きをおかれない存在であったのは確かだろうけど、それなら信雄も
同じ立場。信雄が贔屓される理由はない。
生まれたのはやはり信雄、信孝だったからその順で兄弟になった
というだけでは?
岡本家で生まれたというのもどうだろ?
通い婚の時代でもあるまいし、そんなのありえない話じゃないか?
夜伽女ならややこしいことになるから出産すらさせなかったか、
出産しても実子と公認しなかった可能性のほうが高いように思うんだけど。
本当に信長のお種かどうか怪しいじゃん。
324 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 09:27:01 ID:1b52iFLT
ところが、信雄側の史料にも同じく熱田で生まれたと出てくる。
その史料は、信孝を呼びすてにして、信雄を信雄卿と書いている、
信雄の家臣の更に家臣辺りの書いた文献だが。
325 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 09:32:14 ID:1b52iFLT
それから、そっちの文献にも信孝の方が先の生まれだと書いてある。
余吾庄合戦覚書
「爰ニ濃州岐阜ノ城主織田信孝ト申スハ、故信長公ノ次男ニテ渡ラセ給ヒシカトモ、
故有テ三男ニソ立給ケル。
其所以如何ト尋ヌルニ、故三位信忠卿ハ、信長公ノ妾腹ニ生レサセ給ヘト、
御台所ノ御腹ニ御子ナカリシ故ニ、御養子ト成給ヒ、御世嗣ニ定リ給ヘリ。
御実母ハ生駒氏ノ女ナリ。
其後、永禄元年同月二十余日隔テヽ、若宮二人誕生シ給ヘリ。
是三七信孝。
次ハ中将信雄卿也。
然レハ、信雄卿ハ三男タルヘキヲ、信忠卿ノ同母タル故ヲ以テ、人皆是ヲ尊敬シテ、
早速信長公ヘ披露ニ及ケル。
故ニ次男ニ定リ給ヒ、人(ママ。又カ)信孝之母ハ、人々サノミ賞翫セス。
遅ク申上ケルニ依テ、三男トコソハ定マリ給ヒケル。
信孝ノ母ハ、坂氏ノ女ニシテ、熱田ノ神司岡本カ家ニテソ生レ給ヒケル。 」
326 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 12:05:44 ID:U656fk6c
信孝に関するソースが「勢州軍記」だったら当然そうなるな?
「勢州軍記」は1638年編纂とされているが「余吾庄合戦覚書」は
もっと後の編纂じゃなかったか?
327 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 13:32:17 ID:/P6Z2QEW
母親の実家で産むのがそんなにおかしいか?
信雄より軽んじられたのは後ろ盾となるべき一族の勢力が弱かったからだろう。
328 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 14:03:53 ID:U656fk6c
戦国時代なら通い婚の風習は廃れ、母方の実家に通ったり、出産、という
ことは一般的にもうなかったから。
清洲に側室をもつようになっていたのだから、坂氏の出自に関係なく側室なら
清洲に囲われて然るべきなんじゃなかなと思った。
それに生駒家は信雄が誕生した頃は武士といっても
馬借として成功した商家みたいな家だし、
財をなしたといっても織田家のもつ財力、経済基盤に比べたらたいしたことない。
後ろ盾といえるほど織田家で重用されるはずもないし、実際されてなかったしな。
329 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 14:11:10 ID:YMjhdzOD
坂氏が熱田社の関係だったら、当然尾張の大族千秋氏との関係もあると考えていいよな。
千秋氏は源頼朝の生母の出身として武家の崇敬を受けた家柄。
坂氏単体としてはともかく、坂氏が所属する共同体というか連合というかで考えると、
後ろ盾が弱いとはいえないと思うが。
330 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 20:38:07 ID:qeLyCnSB
なんか偽書武功夜話では、信長は生駒屋敷に通っていたことになっているが、
実際は生駒は清洲の奥で側室になっているし、案外信長が熱をあげていたのが
坂氏だったりしてな。
坂氏は別に出目も生駒よりはずっといいし、それに人質じゃなく、伽係だと
したら、信長が熱田に通っていたのかも知れないな。
坂氏の出目なら側室にするのにも充分だと思えるが、信孝が生まれたのが
岡本家の屋敷というところが正式な側室でなかった可能性があるな。
331 :
人間七七四年:2007/07/03(火) 21:08:37 ID:QgHdhz3N
人質にする程ヤバい関係が、熱田と信長の間でなかったから、
坂氏を人質として側室にする必要がなくて、
信長が熱田にきた時に接待するための伽係だったと考えれるんじゃね?
要人が訪れた時に、伽係を出すのはあの時代は普通だし。
伽係も、不特定多数の人間に対して伽させる訳じゃなく、
大抵は決まった相手だけの伽係だからな。
熱田を押さえたのは、信秀の時代だろうし、
信長の時代には良好な関係だったんだろうな。
信長が、最初に出した制札が熱田に対してだろ?
敵対関係にあったら、最初の制札発布に選ばないだろうからな。
332 :
人間七七四年:2007/07/04(水) 08:35:09 ID:2pyNQyrG
坂氏が側室になったのはどちらかというと、岡本良勝の都合のような気がする。
岡本氏は津島衆の一家で、同じ津島衆の小橋家と織田家は過去においても
姻戚を結んで懐柔策をとっているし、そのあたりの事情じゃないだろうか?
信孝側近に坂氏一族も配置されてはいるけど、筆頭家老は岡本良勝で
信孝自刃直前まで行動を伴にしているから、良勝が生母の実父か、叔父、兄、
あたりだったのではないかとも言われているし、岡本家から坂氏の養女になって
側室にあがったのかもしれない。
尾張平定でも、津島衆が活躍していて、桶狭間の戦いでは
主に勝幡衆・津島衆といった家臣団を引き連れ合戦に挑んだといわれている。
初期の信長にとって祖父の代から築いた津島は重要な基盤であったから
岡本氏とも坂氏を介在に主従関係をより強固にしていったのではないかともとれる。
信孝生母の出自がどうであれ、信孝の後見に岡本良勝がいたことは事実であって
そちらに注目すべきじゃないかな。信孝の後見は生駒家に見劣りするような家では
なかったということだ。
333 :
人間七七四年:2007/07/04(水) 13:29:21 ID:Lwa6O/x1
岡本良勝は天文13年(1544)生まれだから生母の実父はありえない。
従兄弟じゃないかな。
334 :
人間七七四年:2007/07/05(木) 19:50:00 ID:qG+A49kb
岡本良勝が熱田の宮司だったといのは間違いだ。
岡本良勝は熱田出身ではないし、熱田社の宮司になったのは
岡本家の分家を継いだ息子。
宗家の岡本重政は関ヶ原で西軍につき自刃。
庶子の兄が苗字を関藤氏に変え熱田社宮司になったとする家系図が残っている。
なので熱田神官の岡本良勝、その岡本良勝の家で信孝が誕生したという話
は後年岡本氏の子孫が熱田社の宮司をしていたことから創られた
話だということになる。信孝はたぶん清洲で生まれたのだと思うよ。
335 :
人間七七四年:2007/07/07(土) 11:17:24 ID:5r4Nd+IS
>>334 勢州軍記の信孝出生のあたりの箇所は信憑性が薄いというわけだな。
信孝を兄にしたくて、強引につくった創作話という可能性はやはり
捨てきれないな。
336 :
人間七七四年:2007/07/07(土) 11:22:20 ID:OMH+Njbw
>>335 だけど、信孝が事実上の兄で、岡本家の屋敷で生まれたため報告が遅れた
ので三男にさせられた〜
というエピが載っているのは勢州軍記だけではないけどな。
337 :
人間七七四年:2007/07/07(土) 16:30:56 ID:EdEs+w5q
338 :
人間七七四年:2007/07/07(土) 18:54:01 ID:OMH+Njbw
例えば、「津嶋大橋記」
信孝誕生之事。元来二男也云云。信長御臺、斎藤山城入道道三息女之腹無若君也。
信忠妾腹也。弘治三丁巳年誕生給。是御臺御養子也。二男信雄、生駒半左衛門妹也。
永禄元戊午年誕生。三男信孝、坂息女腹也。信雄、同年月誕生日數少、信孝先也云云。
雖然、信孝母儀、在熱田神司岡本宿所也。後日、岡本参清須城、言上之故為三男也。
岡本太郎右衛門、彼神司之子也。
339 :
人間七七四年:2007/07/07(土) 20:16:03 ID:5omzuKPN
>>325も
>>338も岡本良勝(太郎右衛門)が熱田の神司だとは書いてないな。
>>338によれば、神司だったのは良勝の父親で、清須に報告に行ったのも父親だ。
340 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 10:11:04 ID:CpJP06fw
>>338 オリジナルのソースは「勢州軍記」じゃないか?
「余吾庄合戦覚書」と同様類似してる。
地誌だけど「金鱗九十九之塵」にも書いてあるけど
これは編纂が天保の頃だし明らかに勢州軍記の抜粋みたいだ。
不思議なのはきちんと生年月日を示していないということ。
信雄もなぜか不詳。
細々と当時のエピが書くぐらいなら二人の生年月日を
数字できっちり書けばすむことなのに。
341 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 12:27:26 ID:pqq+/7VQ
勢州軍記が元ネタと考える事もできるが、
逸話として残っているものがあって、
その逸話を勢州軍記や津島大橋記が
それぞれ引いたと考える事もできる。
342 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 18:14:03 ID:gGiGjyYQ
>>340 成立年代が後世なら、生年すあら怪しくなるね。
343 :
人間七七四年:2007/07/09(月) 08:06:47 ID:P6ybMyjk
正室の子と誕生が近い場合は正室の子が兄とされることは江戸期まであったそうだけど
側室同士の子供が生母のからみで兄弟の順序を変えられることはない。
344 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 19:26:06 ID:IXo9ZIQv
やっぱ、信孝が三男になったんは単に報告の遅れでないかな。
母親がらみで二男が三男になんてありえないし。
信雄生母の生駒だってそんなに優遇されていたわけでなし。
実質、家柄だって信孝の母親の方がいいんだし。
345 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 21:42:49 ID:UPXtBy5t
織田家に限らず大名家は嫡子以外の男子はどうでもよかったからな。
正室腹であっても次男以下は嫡子の家来として養育していったわけだし。
側室腹でしかない信雄と信孝がどっちが先に生まれようと、誰が生母だろうと
織田家的にはどうでもいい問題だったと思う。
しかもその頃なら濃姫も20才そこそこでまだまだ子供を生む可能性もあったわけで、
奇妙だって庶子扱いの頃だろうし、弟達のことなんてさらにどうでもいい問題だったはず。
だから実際信孝が早く生まれていても、何らかの理由で報告が遅れた、あるいは認知が
遅れたから三男になったというのもいかにもありえそうな話だ。
346 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 22:48:09 ID:D1H5M0F5
話を戻すようで悪いが
「昔より主をうつみのうらなれば おわり(報い)を待てや羽柴筑前」
↑この「主」って誰のことだ?
信長のことかね?
347 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 22:53:41 ID:150k5JcX
>>346 誰なんだろうね。信長かな。秀吉の主っつったら信長、信忠、秀信くらい?
348 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 22:56:10 ID:D1H5M0F5
「昔より主をうつみのうらなれば おわり(報い)を待てや羽柴筑前」
この「主」が信長のことを指すなら
秀吉は本能寺の変の関係者ってことか?
349 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 23:06:52 ID:DgruMvUl
主→主筋→織田家一門→信孝くらいの解釈でいいんじゃないかな。
350 :
人間七七四年:2007/07/11(水) 07:52:57 ID:/2TjZcO9
この辞世の句といわれているものが、本当に信孝作かどうかも怪しいといわれている。
なんのひねりもない幼稚な句だから、江戸期の創作ではないかという意見もある。
一般的な見解は「主」は「主筋」という意味となっている。
でも実際は信孝は信雄に切腹の命令を出されているので、秀吉が織田家に
叛いているのではないし、なぜ信雄への恨みはないのか?という素朴な疑問もある。
そもそも織田宗家である三法師への逆心というのが信孝切腹の理由だから、
「主」に叛いている信孝がそんな句を残す立場でもなかったと思うが。
351 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 21:32:01 ID:P8doPyRd
建前からいけばそうかもしれないが、切腹の命令を出したのも信雄の後ろに秀吉の意向があるのはミエミエじゃん。
三法師への逆心というが、そもそも三法師を保護していた信孝を攻めて(当然三法師を攻めて)降伏させ、彼から
三法師を取り上げたのも秀吉だし。
352 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 22:09:51 ID:job9lbN4
一番悪いのは秀吉!
浪人の身分から取り立ててもらった恩を忘れて、
主君の息子を切腹に追い込んで、三法師が子供だったのをいいことに
さんざんやりたい放題。
おまけに天下統一してからも、自分の気に入らない奴は切腹させるは、磔にするわ・・
秀吉死後に家康が、豊臣一家を滅亡させたのはほんとすかっとするね。
こいつが織田家に所属する人間でなかったらここまで思わなかっただろうけど、
なんかホント嫌なやつだな。
353 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 22:17:35 ID:QDtbr+br
そうはいっても、信孝自身も織田家の家督を狙っていたからな。
それがだめなら一門筆頭になって織田宗家乗っ取りを企んでいたのはみえみえ。
秀吉にはめられた印象が強いが、墓穴を掘ったのは信孝。
信雄との絆を強め、兄弟で三法師を後見していれば織田宗家があんなに早く
滅びる事はなかったと思う。
10歳にも満たない三法師に仕えることは、2人のプライドが許さなかっただろうな。
355 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 22:26:46 ID:QDtbr+br
まぁ平伏して仕えるというより、三法師を傀儡にして政治の実権を握りたかった
とは思うよ。秀吉にそのポジションを取られちゃったんだけど。
そして三法師に自分の姫を娶らせいずれ宗家乗っ取りとかな。
自分達だってそうやって他家を乗っ取ったわけだから、恐らくやっただろう。
信孝には勝家という名将がついていたのに、なんであんなことしちまったのかな。
356 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 01:05:12 ID:Pj/F7B4m
結局ただの権力争いだから、どっちが悪いとかそういう話じゃないんだよな
357 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 07:42:55 ID:xkvvIR8f
秀吉なんかに乗っ取られるなら、織田家宗家としては同じ織田一族に乗っ取っられた
方が良かったかもな。
だから勝家も信孝をのせて、対秀吉として争ったんだろう。もともとこの二人は仲悪
かったからね。
358 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 09:25:03 ID:606dmku9
勝家は勝家で家臣として織田家内で筆頭になり、権力を掌握する野心を持ったろうし
結局武士の忠義だなんだは江戸期の幕藩体制が整った後の話で、
戦国期は己の家のため、出世のためにあれこれ動いていた時代なんだよ。
そういう視点からみると、確かにどっちが悪いとかいう問題じゃなくて
秀吉が実力行使で台頭したのも当たり前だし、
実力のない宗家が滅んでいったのも自然淘汰で当たり前なのかもしれない。
359 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 09:53:39 ID:Pj/F7B4m
誰が継いでも織田家を維持できたとは思えんしな
信包なんかはその辺りのこと冷静に受け止められたから秀吉支持したんだろ
実際なんだかんだであれだけ凋落しておきながら存続はできたんだし
360 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 10:28:30 ID:Elt7nP11
>>353 信孝には兄弟の中で唯一父の弔い合戦に加わったという
実績がある。
主導権は秀吉に奪われてしまったが。
弟ではあるが信雄なんかよりよっぽど織田家を継ぐ資格は
あったと思う。
361 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 11:05:22 ID:evI1NJrl
>>360 家督相続においては合戦の実績よりも血の正嫡性優先。
嫡男の子である三法師の方が信長の庶子の息子よりも正嫡性が強いよ。
家督はすでに信忠に譲られていたのは周知の事実だしな。
ただ信孝が正室腹であったら嫡子の認定がなく、まだ幼かった
三法師と比較した場合、正嫡性の強い信孝を推す家臣が多くいたとは思えるけど。
三法師が正室腹の子ではなく、庶子扱いだったあたりで当初諸侯が難色を示した
とも思えるからな。
意外と思われるけど、正室の子は家をあげて祝福され、家の慶事として扱われたけど
側室の子は当主が個人的にお祝いをする程度で、特に公に公表されることもなかった。
嫡子と庶子では扱いが違うんだ。三法師の存在すら諸侯が知らなかった可能性もあるし
信孝が嫡子であったら、三法師よりも信孝に織田家の家督が譲られる可能性は
高かったと思う。
362 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 13:00:30 ID:DUtA4eop
だが柴田勝家は信孝が父の復讐戦に加わった
(それだけではないが)ことで織田家の跡目に
信孝を推している。
それが明智を破った秀吉の思わぬ三法師擁立論に
池田、丹羽も賛成して押し切られている。
ただ本当に信孝に決まったら信雄が黙っていなかった
だろうから争いが起きたろうな。
これを思えば信忠が父と共に死んだことでもう織田家の
天下はなくなったということだな。
363 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 13:11:57 ID:whpNZivx
先代に実績と才能を認められた腹違いで他家を継いでいた弟と、家督継承者の
認められてもいないまだ乳幼児な庶子。
正当性云々といっても困るよな。特に戦国時代は、正嫡であっても指導力を
発揮できない未成年では忌避されることがあった(それが継承争いに繋がる)し。
364 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 14:11:47 ID:DUtA4eop
信孝が総大将の四国攻めの軍勢は信長の死が伝わると、
あらかたが逃亡してしまった。
これを単純に信孝の統率力不足というのはあまりに
表面しか見ない議論。
「彼の兵は各地から集まった人々であったから、反乱を
知るとたちまち大半の兵は彼を見捨てた」(イエズス会の
文書より)。
つまり1万4千の軍のほとんどは2郡しか領していない
信孝の兵ではなく、兄信雄をはじめとした各国からの応援の
兵であったのである。これでは信長が死に、四国での新たな
所領や恩賞目当てであった兵が逃亡するのも無理はない。
365 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 15:41:51 ID:evI1NJrl
>>362 秀吉に押し切られているのではなく、その時秀吉にお市を娶ることを斡旋され
織田家一門での有利な立場を保証されたので、三法師擁立に賛同したんだよ。
あくまで反対の姿勢を貫く事も可能だったのに、態度を豹変したのはなぜか?
信孝を主君と仰げばあっさり引き下がることもなかったはずだ。
ちなみに勝家は家臣に宛てた手紙にお市を娶る経緯について書いている。
清洲においてお市をもらうように秀吉にすすめられたと。
勝家にしてみれば主君と仰ぐのは信孝であっても、三法師であっても、
自分を重用し、柴田家が繁栄すればよいこと。
お市を娶り、信長と義兄弟になることで織田家内で有利なポジション
につけるとふんだんだろう。
嫡子優先は鎌倉時代からの武家の慣習だし、信忠の死後男子がいたら
庶子であろうと、優先順位は嫡男の弟よりも高いし、たとえ幼少だとしても
家督を継ぐことには不自然さはない。問題になるのはむしろ守役や後見人の選定だ。
信雄、信孝は庶子であり、しかも他家を継いでいる織田家一門の扱いにすぎなかった
のだから、柴田が本気で信孝を後継者に推挙していたかは疑問だな。
ところで家督を相続していた嫡男が急死した場合、子供が幼少の庶子しかおらず、
庶子である嫡男の弟が家督を継いだ、という例は戦国期にあるのだろうか?
そういうケースで家督相続争いがおきた例は記憶にないが。
366 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 15:58:30 ID:cZuQx0A+
>>363 そう
だから後ろ盾の力が物を言う
結局世襲制が一番シンプルだから受け入れられてるってだけで
そこにもやっぱり歪みがあることは誰もが気づいてるんだよ
だからその歪みが表面化したときは、結局力のある人間が後を継ぐことになる
367 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 16:46:59 ID:cIRHaWXr
でもさ、間違って信孝が織田家を継いでたりしたら勝頼の二の舞だったかもね。
本能寺時点で信孝は神戸家の当主で、勝長の方がまだ織田家後継者の資格がありそう。
元々資格の認められていなかった後継者、統制の効かない家老たち、四面楚歌・・・
周囲の外敵も、雑賀や北条は油断ならないし、上杉、毛利も息吹き返してくるし、
同盟者のはずの家康は(間接的にせよ)信忠付き筆頭だった河尻ぶっ殺して
織田領だった甲斐、信濃を侵略(穴山の死もかなりあやしい)。
なんか勝頼の状況にダブって見えるんだが。
よく考えたら、こんな内部のゴタゴタ抱えて、不安定な立場で打ち克っていった
秀吉ってやっぱりバケモノだな。
368 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 22:54:00 ID:a2kpE/a+
きゃつ親父の草履取りだった分際で
369 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 06:02:28 ID:Fod+syFo
>>365 確かにある本には「勝家は信孝を立てて争ったとされている
がその確証はないらしい」とある。
だが信孝、勝家、滝川一益の3人がその後トリオを結成して秀吉に
対抗してるのを見るとまんざら間違いではなかろうと思う。
第一三法師擁立など秀吉の奇策なんだから、対する勝家も
誰かを推していたと見ていいのでは。
370 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 06:20:19 ID:Fod+syFo
>>367 勝長は二条御所で長兄の信忠と共に死んだはずだが・・・
371 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 09:01:29 ID:k33HS7u1
>>369 >>信孝、勝家、滝川一益の3人がその後トリオを結成して秀吉に対抗
その後、というのがポイントじゃないかな。
家督相続の段階では秀吉が年配者で古参の勝家をたてて、お市との婚姻により
「織田家家臣団は信長義兄弟の柴田様が筆頭でございます」というポーズを
みせたので勝家も納得したんだと思うんだ。
信孝を推挙したのも目的は秀吉を退け織田家家臣団の筆頭を狙っての事。
結果が一緒なら家臣団の不和を生んでまで信孝を推す必用はないと判断したと思う。
三法師を相続人にしてしまえば、後は秀吉の想定通りにことがすすめるわけで、
さっそく信長葬儀のあたりからあからさまに秀吉の野心が見え見えになってきてる。
一族の反対を押し切っての秀吉メインの信長の葬儀。
喪主は信長の息子とはいえ秀勝。でも実質は秀吉。
すでに秀吉は織田家一族の庇護や有力家臣の取り込みに精をだしている。
そういう姿を見て危機感を覚えてのトリオ結成だったと思うんだ。
だからトリオを結成したのは、結果的に利害関係の一致した者たちが
集まっただけで、秀吉の露骨な野心が見えてこなければトリオは結成されずに
実力行使にでることもなかったと思う。
もともとが反秀吉の連中だったとは思うけどね。
372 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 17:58:54 ID:762wVGEG
いや、書き方悪かったけど、つまり本能寺起きる前までは
勝長のほうが継承権あるのでは、ってこと。
だっていくら一門集ったって信孝は神戸家の養子、つまり他所のうちの跡取り。
秀勝、信雄、ついでに信長の弟だけど連枝衆格の信包しかり。
織田家の子は信忠(とその孫の三法師)と勝長くらいでしょ。
二条城で死んでなけりゃ、勝長が織田家継いだと思うんだけど、どうかな。
373 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 18:17:49 ID:wkOOcgBN
信房だって津田姓なわけで。厳密に「織田」は信忠一人だろ
374 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 18:29:34 ID:dL1/Aq+f
信秀も忘れないで。
勝長とさほど年の変わらない信秀が候補に上がらなかった点を見ると、勝長が生きていても、後継者は
三法師で決まりだったと思う。
信秀は、稲葉氏が生母として有力で、母の身分も高く、小田原攻めでは6番隊の大将を勤めるほどの器。
もう普通に考えたら、三法師以外ありえないというほど、三法師は織田家中で認められていたんじゃね?
三法師は塩野氏の子って説もあるんだけど、状況証拠的は森長可の妹の可能性が高いんだよね?
後継者問題に敏感だった信長は、三法師の外戚が森氏なら、三法師を後継と定めていないなら
三法師の外戚であるという理由で、長可を出世させないだろう。(後継争いを避けるため)
もしも、三法師の外戚が森氏だったとしたら、もうすでに織田家の中枢に近い範囲では、三法師が後継に
決定していた可能性のほうが高いと思う。
375 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 18:38:44 ID:HMZADC/z
>>373 津田というのは後年そう書かれているんで、
当時は織田の源三郎と書状では書かれているから
織田源三郎信房が、勝長の織田復帰後の名前みたいだ。
376 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 19:33:22 ID:uEgEi/IC
>>375 後継者は三法師に決まっていたっていうのはどうかな。信忠の正室がいなかったから
もし本能寺が起きなかったら、信忠がその後他の大名家辺りから正室を娶って、
男の子が生まれればその子が正式な織田家の跡取りとなったろうね。
だから、三法師の母親が信忠の正室でなかったので、三法師は正式な跡取り
として認められていたとは思えないんだよ。
しかし、信忠が正室を娶る前に死んだんで、側室の子供だった三法師が秀吉に
担ぎこまれてしまったということだと思う。
あと、織田の名乗りを許されていた勝長(信房)も信忠とともに討ち死にしている
からね。勝長と年が近いと言われている信秀だってまだ元服前だったしね。
377 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 20:50:52 ID:k33HS7u1
これは自分の臆測だけど、秀吉は養嗣子である秀勝をゆくゆくは
織田宗家の座につかせようと思っていたんじゃないかなと思ってるんだ。
その目論見が顕著にでてるのが、信長葬儀の時に秀勝に喪主をさせていること。
喪主は後継者がするのが通例だ。
本来なら後継者に決まった三法師がすべきこと。
織田宗家当主の喪主を養子とはいえ羽柴家の嫡子ができるわけもない。
それをやらせたということには大きな意味があると思う。
事実上の後継者を秀吉と印象付けたと解釈されているが、本来なら
喪主を務めた秀勝が後継者という印象をもたれかねないと思うし、
そういう意図もあっての事じゃないかなと思う。
三法師が幼少の頃に反対勢力を排除あるいは臣従させてしまえば、
秀勝を織田姓に復帰させ織田家を相続させることも可能だったろう。
だから最大の反対者と想定される勝家に三法師相続を認めさせるために
お市を斡旋したり、長浜城や所領を勝家にゆずったりと譲歩
しまくったんじゃないかと思う。
378 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 06:00:23 ID:EpLdoV3y
>>372 勝長の方に継承権があるっても、本能寺が起きなければ
信忠の後はその嫡男が継ぐ、つまり本能寺が起きないという
想定なんだから意味がないかと。
379 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 07:53:54 ID:BDBNaRMu
>>378 たぶんそういう意味じゃなくて、本能寺の前までの織田宗家の家督相続権利の順の
ことを言っているのではないかと思う。
嫡男信忠の次は、織田姓の勝長に家督を継ぐ権利がある、
だからもし勝長が生きていたら三法師ではなく勝長の方が相続する権利が
強かったんじゃないか、てことが言いたいんじゃない?
でも庶子とはいえ信忠に男子がいたから、権利は弟より信忠の息子の方が
権利が強かったと思う。庶子ってそもそもが嫡子のスペアなんだし、
嫡子がいなければ庶子が家督を継いできたわけで。
家督相続権は親→直系男子(嫡庶長幼)が基本ラインだから
三法師がいたらやはりそっちに家督がいくのは自然じゃない?
嫡男とはいえまだ家督を相続していなかったら弟にいったかもしれないけど。
380 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 07:57:29 ID:RgtYk00h
勝長が継ぐなんて一番現実味が薄いと思うし
継承権自体も、単にどっか養子先を探してて一時的に津田(織田って手紙だけじゃなかったか?)を名乗らせてた可能性が高い
本能寺起こらなかったら二、三年後には武田勝長にでもなってそうだ
381 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 08:05:13 ID:qDsG+5/D
>>380 >織田って手紙だけじゃなかったか?
当時の一次史料では、「津田」と記載されているものが
一つもないんだよ。
「織田」ならある。
死後「津田」とされるようになったようだ。
信房は、天正9年11月に武田から帰って来たのではなく、
実際はもう半年くらい早かったと考えられる史料があり、
最近では天正9年の早い時期に戻って来たとする説もある。
戻って来た後、武田との交渉役をやっていたらしい。
その時は既に、織田信房と考えられる署名になっている。
382 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 09:28:38 ID:BDBNaRMu
他家に養子にだせば織田家の家督相続から外れるけど、他家にださずに
一門扱いをして家を残す場合はあえて津田を名乗らせ、
立場をわきまえさせようとしたんじゃないか?
織田姓のまま庶家として家系を残している場合もあるけど、
いったんは津田姓を名乗っていたりしているし。
津田家は織田家の本家筋ではあるみたいだけど、家督相続でごちゃごちゃしないように
姓で一線を引いていたイメージがある。
勝長もいったんは遠山家の養子になっていたし、本能寺の変がなければ
どこぞの家に乗っ取り目的の婿養子にだされていた可能性が高い。
勝長の息子の勝良は津田姓で前田家に600石で召抱えられてるし。
383 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 09:34:45 ID:sLZBSMg4
政略で継承した他家の家督なんか、すぐ放棄できる。
信孝も神戸を捨てて三好を継ぐ手はずだったと聞くし、
機会があればすぐ復姓すれば済むだけのこと。
384 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 10:11:25 ID:BDBNaRMu
>>383 でも他家の姓を継ぎ、本家に後継者もいたなら
他家のくせに織田の本家の家督を狙うわけにはいかないよね?
実力行使にでるにしてもそんな理不尽なことに賛同する家臣もいない。
そのあたりの抑止力にはなると思う。
385 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 14:32:50 ID:Zj3KQW+Z
>>379 信忠の子供も庶子なのが問題といえば問題。
勝長が嫡流扱いなのかどうかはおいて、仮にそうだと仮定すると、すでに成人した
嫡流の弟と未成年の庶子では正当性の優劣は逆転しかねない。
それと戦国時代では、なによりもまず当主には指導力が求められる。嫡流であっても
家を守る指導力が期待できない場合は外されることもあった。
例としては今川家。氏範の死後、明白な嫡男がいるにも関わらず、子供であることを
理由に一族の男鹿光範が当主代行を担うことになった。(今では、代行ではなく当主
だったのではないかという説もある)
386 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 15:24:21 ID:BDBNaRMu
>>385 名前が全然違うよw
小鹿範満の場合は子孫に嫡流を継ぐことが許されない期間限定一代限りの
仮の当主を遂行することを許されただけでしょ。
しかも内戦が長く続いたので幕府が介入してその条件をのまされて
期限がきても約束を守らないからあっさり成敗されているし
範満がいかに正嫡性のない当主だったかを証明している。
範満は父の代から今川家の家督を争っているし、自身も虎視眈々と今川家の家督を
狙っていたから、先代が亡くなったのを境に家臣をけしかけ、
お家乗っ取りを図ったというのがことの真相でしょう。
けして幼少の嫡男がどうのこうのではなく、初めから乗っ取る気でいたという
あたりで、指導力がどうのこうのというのは関係なかったと思うよ。
387 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 16:08:03 ID:NVbUeLzX
どうでもいいけど時世の句のセンスいいよな
388 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 17:26:04 ID:jiWnz71l
むしろ暗愚よりは置物の方がよい
指導力がありすぎると今度は自分達の利権を脅かされる
ってのが戦国の常識じゃないか?
信長なんて仕えにくい当主だったから、単純にアクの強いというかガツガツしてる信雄や信孝はさけて
一息つきてーぐらいの気持ちでみんな三法師を選んだのに、一人権力猿がいた
389 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 00:11:29 ID:hUxmd9gG
>>388 下の人間の立場よってかわるね。
豪族レベルなら、基本的には自分の利権を守ってくれるのがいい君主。戦に強くて
領地を守り、かつ利益をもたらしてくれるのなら多少の人格の難なんて気にしない。
信長がそうだし、信玄や謙信も同じ。継承に関して指導力や年齢が求められるのは
それ故。
ただこれは、大名の君主権がそれほと強くなかった時期の話。戦争に勝つためには
結局は君主権の強化が必然の道で、その過程で利益がぶつかる勢力化の大勢力を
どのように臣従化させていくかで部下とはぶつかるようになる。まあ大勢力になる
ような家は、大抵はこの被官化を抵抗少なく進めた結果だが。
390 :
TRICKSTER ◆CASVAL9Zfw :2007/07/18(水) 00:28:59 ID:5ACqUgNd
391 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 02:10:47 ID:EZdUe8xa
しかし結局君主権なんて日本じゃ成立しなかった皮肉
392 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 04:58:06 ID:ZpuCoHDd
>>384 信孝の場合は本能寺の変後「織田三七郎」という
表記が日記などに登場するので、三好氏との養子
を解消して織田姓に復したと思われる。
そのわけは三好苗字では織田家の家督を狙うのに
都合が悪いから。
もちろんこれは嫡男たる信忠の死によって可能になった
ことだろう。信忠が生きてれば織田姓復帰などできない。
ちなみに信雄も本能寺後は北畠でなく「織田信雄」
と呼ばれることが多い。こちらは養子関係を解消した
とかではなく、ただなんとなくに思えるが。
393 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 06:41:20 ID:2Xg3Sgj5
信孝の三好家への養子の話は書状からの臆測じゃなかったっけ?
正式に養子縁組はしてないはずだと思ったけど。
394 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 14:05:13 ID:2Xg3Sgj5
信長がああいう亡くなり方をしたら、家臣たちの頭をよぎるのは
「誰の下につくのが一番賢いか、出世できるか」だったと思うんだよね。
戦国時代だもの信長への忠義心や息子たちや孫への忠義心よりも優先されたと思う。
そうなると、トップクラスのほとんどの重臣たちは信雄、信孝よりも三法師を
主君と仰いだほうがやりやすいと判断したんじゃないかな?
本来嫡男ではなかった三法師には手ごわい側近衆もつけられていなかったろうし、
正室がらみのしがらみもない。
信雄や信孝にはすでに幼少期からの側近がいて、そのものたちが優先的に
重用されるのは目に見えているから、外様の家臣たちは思うように出世
できないかもしれない。
そう考えると三法師擁立は信長直臣たちにとって都合のいい人選だし、
秀吉をはじめ諸侯にとっても、勝家にとっても悪い話じゃなかったと思うんだけど。
395 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 14:35:59 ID:flqOJ5fn
>>393 神戸の次の、筒井の方は正式に決まってたんだっけ?
396 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 15:20:30 ID:GxSdqBKP
筒井信孝・・・
397 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 02:38:59 ID:s03ef44b
>>393 天正10年5月に信長が信孝に与えたいわゆる「四国分国令」に
次の1節がある。
万端山城守に対し君臣・父母の思いをなし、馳走すべきの事、
忠節たるべく候云々
つまり山城守(三好康長)を父とも主君とも思い仕えよと
命じている。
また「宇野主水日記」にも三七郎殿、阿州三好山城守養子として
ご渡海ありとあり、信孝の三好氏養子入りは間違いない。
本能寺の変により幻となったが信孝による四国征伐が行われ
信孝が讃岐を領していた場合それは「三好信孝」としての
ものだったことは間違いない。
ただ四国渡海前に彼が「神戸信孝」か「三好信孝」のどっち
だったのかは微妙なところだが。
398 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 06:57:36 ID:iwPeAF5Y
だから読めば読むほどまだ養子になっていないとわかるじゃん。
そういう予定だろうな、という臆測が成り立つ手紙であって
三好信孝であったことを証明するものではない。
第一三好家のほうの史料にも信孝を正式に養子にしたとされる
史料は何も残ってない。
豊臣秀次のことは康長が秀吉に取りこまれる際に一時養子にしたことはあるようだがな。
399 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 08:08:27 ID:/iU2urqS
正式にとか、三好側の史料がないなんて
そんなのは屁理屈だろう。
この「四国分国令」を書いたのは天下人たる信長なんだよ?
ただの一大名ではない。
信長がそう言ってる以上、その配下である三好康長がそれを
拒めるはずはない。
研究者の書いたものにも「信孝の三好養子入りは間違いない」とか
「信長は信孝に三好氏の名跡を継がそうとした」などと書かれている。
関連書籍も読んでないようだから紹介しておく。
谷口克広「信長軍の司令官」(中公新書)
桐野作人「だれが信長を殺したのか」(PHP新書)
百歩譲って正式に養子にはなってなかったとしても
その予定だったとは断言できる。
400 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 08:24:51 ID:iwPeAF5Y
>>399 俺のレスよく読んでるのかよ?
俺は養子云々の話はあくまで予定であって実際にはなっていかったと言ってるん
ですけどね?
養子にという申出があったとしても信長が亡くなる時は
正式には養子縁組はしていなかったんだから。
それとも養子縁組をしていたという三好家もしくは織田家の史料でも
あるのか?
「継がそうとした」と「継がした」は同じ意味か?
信孝が「三好信孝」と署名した手紙でも残っているのか?
養子になった後神戸家を継いだのは誰なんだ?
それに三好家への養子の話があったことを誰も否定してないがな?
>>そういう予定だろうな、という臆測が成り立つ手紙であって
>>三好信孝であったことを証明するものではない。
桐野氏だって、谷口氏だってそういう臆測のもとに自論を述べているだけで
当時信孝がすでに三好家に養子に入って「三好信孝」になっていたと
断言していたか?
401 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 11:49:34 ID:lcrmGp/N
>>399 >>400 信孝は三好家と養子縁組する予定だった。しかし信長が本能寺で
敗れたためその話はなくなった!でいいじゃん。
402 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 11:58:26 ID:iwPeAF5Y
>>401 だからそういうつもりなんだが?
俺は
>>399が推薦する本も、信長の朱印状も「宇野主水日記」も
イエズス会宣教師に語ったという信孝の発言の記録や、
宣教師からみた信長親子の様子なんかもとっくに読んでるので
養子の予定があったなんていう話はとっくに知ってるんだがな。
だが養子にはなったという事実はない。
どの史料をみてもそれは明らかだし、養子になったと断言している
研究者は知っている限りでは誰もいない。
403 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 04:57:09 ID:vnutGU+0
一応同母とされてる信忠・信雄と違って
信雄・信孝は同年、しかも真偽は定かでないが
信孝の方が先に生まれていたのに母の関係で3男にされて
しまったといううらみがあるからな。
多分信孝は信雄を兄などとは思っていなかっただろう。
しかも自分は今度四国攻めの総大将に任命されたのに
信雄は以前伊賀攻めに失敗して父から譴責されてる始末。
こんな2人では手を組んで秀吉に対抗するなんて不可能
だったろうなあ。まずあるのは相手を潰すこと。
ただし実際の歴史通り信孝は信雄を潰すなんて考えて
いなかったろう。相手にもしてないって感じ。
404 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 07:48:24 ID:SoFNmkdy
信雄は理由はどうあれ兄である以上生まれながらに
織田家では信孝より優位な立場にある。
北畠家と神戸家では家格の差もかなりあるし、養子に入る時に
信雄は織田家の家臣や親族が側近でつけられているが
信孝には生母一族や乳母の夫などで、織田家内の有力家臣などはいない。
だからこそことさら信孝が頑張ったとか、ライバル意識を持っていたという
通説が生まれたけど、本当はそこまであからさまに兄弟間に差をつけたら
お互いをライバル視するなんていう関係は生まれないと思うよ。
信孝もあきらめるでしょ。逆立ちしてもかなわないと。
三好康長の養子になったところで三好家の庶家にすぎないわけだしね。
405 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 12:18:26 ID:55FEgtQb
>信孝の方が先に生まれていたのに母の関係で3男にされて
そういう事実はない。
側室同士の子供が母親がらみで、兄弟の順番をかえられるなんてことは
ない。
406 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 13:06:01 ID:4ACPbK1W
皇室じゃ、近年になるまで側室の出自で兄弟の順番を変えた例は複数確認できるから
当時の事がはっきり分からない以上、武家の事とは言え、ないと言い切るのもどうかと思う。
だが、自分は、実際の生まれた日時はどうであれ、報告の順番だと思う。
生母の出自は、関係なかったとも思う。
生駒と坂じゃ、大差ないしな。
信忠が仮に生駒腹でも、信雄信孝が生まれた頃は、
まだ正室の養子にもなっていないだろうし、嫡男でもなかっただろうから
嫡男の生母だから信雄が二男になったというのも、眉唾だと思う。
407 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 13:57:45 ID:wh3PkL6u
信雄って平家でいうと宗盛のポジションか。
早世した信忠が重盛で。
じゃぁ信孝はさしずめ知盛あたり?
408 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 15:29:52 ID:TGdV7s65
知盛に失礼な希ガス
409 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 23:00:07 ID:h/rrrP2c
信孝優秀伝説って具体的になんかあるの?
戦場では側近の働きが大きかったと思うんだけど。
あとキリシタンに友好的だったから、宣教師の評判はすこぶるよかった。
そのへんの史料の影響もあって優秀伝説が生まれたのだと思う。
それと信雄愚将伝説もあるから、よけい。
本当に優秀ならあんな無様な最期にはなってないさ。
しょせん偉大な父親の指導とバックアップがあってこその戦歴だったってこと。
411 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 01:29:41 ID:ExvskDUg
>>409 じゃあ、武田勝頼も無様な最後を遂げたから、戦場の活躍は側近と先代以来の
宿将の活躍と偉大な父親のバックアップによる戦績だったということでよろし?
412 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 08:36:09 ID:qcS0XvID
>>409 その理屈でいうと、信長も無様な最後を遂げたんで、これまでの戦や政治の
活躍は、優秀な家臣団と先代の父親の遺産による功績だったって事になるよな。
413 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 09:10:07 ID:miDxI2yV
>>411-
>>412 一人でそう思ってれば?
その程度のオツムでよく歴史検証に参加してるねw
414 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 09:21:03 ID:IEDlIKqN
具体的な反証を示さず、書き込んだ人間への中傷を始めるのは、普通世間一般では「敗北宣言」とみなされます。
特に「歴史検証」なんてする場所ではね。
415 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 11:21:30 ID:vPvNQkqg
要は自分の主張の矛盾点・問題点を指摘された409が逆ギレしてるわけか。
具体的な指摘には、具体的な反論で返さなきゃな。
416 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 21:53:39 ID:DwHo8VF1
勝頼と比べるのはおかしい罠。
彼は信玄死後も充分な実績があったわけだし。
信孝と似たような人生の二世って誰かいる?
417 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 22:11:59 ID:qcS0XvID
それに
>しょせん偉大な父親の指導とバックアップがあってこその戦歴だったってこと。
なら、信雄も信孝と同じぐらい戦での実績を挙げてないといけないことになるが。
418 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 23:04:20 ID:DwHo8VF1
ノブヲちゃんは伊賀攻めで大敗したりと
父親の庇護下のときでも評判悪くて
もともとが無能扱いだから比較対象にならないと思う。
まあ、後の天下人相手では誰だってダメなんじゃない?
勝家だって滅んだんだしさ。
かといって有能とも思わないけど。
419 :
人間七七四年:2007/07/23(月) 07:33:21 ID:S4R6V0w+
>>417 誰もが認める信孝の実戦での実績とは例えば何?
420 :
人間七七四年:2007/07/23(月) 22:09:11 ID:NZW6xdil
少々苦しいが
信孝は四国攻めの総大将に任命されている。
実際は本能寺の変のため幻となったが。
これは父信長が信孝の資質を認めたからこその
任命であって、伊賀攻めに失敗して父から譴責されている
信雄とは大いに異なる。
421 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 00:30:19 ID:4gvAHLAl
副将が丹羽・蜂屋・信澄な時点で疑問視がつく
信忠旗下の斉藤・森・団に比べれば、手堅い人選
422 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 01:31:45 ID:JLlxO0yB
信雄も大粗相の2年後には総大将で伊賀攻めで成果をあげ、勝利を
おさめているから、信雄と差のつく戦歴かどうかは微妙。
ところで信孝は本能寺の変後まっさきに津田信澄を討ち取っているが
信澄はまったくの冤罪説が有力なのだが、いいのか?
いくら混乱のドサクサとはいえ、罪もない身内を殺しちまって。
そういう軽率なことろが自滅を招いたといういう見かたもできるが。
織田家中において重きを置かれる信澄が、邪魔だったのかな…
まあ、「疑わしきは罰せず」の現在とは違い、「疑わしきは誅す」時代だしな。
信孝が本心から信澄謀反を信じていたとは思い難いが…
424 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 05:17:04 ID:XoRTywtV
現代では、かつて信長に謀反した信勝(通称・信行)の子で
あることと、光秀の娘婿であることを疑われて
「明智の一味」とされたということになってるが
前者は皆忘れてたかもな。
信長自身それを許して(?)重用してたわけだし。
馬揃えでも当の信孝より上位。
同じ光秀の娘婿の細川忠興のように、早く
妻を離縁するなどして、明智との絶縁を明らかに
しておけば、殺されずにすんだろうが。
425 :
人間七七四年:2007/07/25(水) 23:47:11 ID:27+3l7IS
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427 :
古典式レス:2007/07/29(日) 21:48:38 ID:N5wK705z
428 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 18:00:43 ID:0jEcp9e/
で、結局それなりに有能なのか?
429 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 15:21:16 ID:f7iqcbGO
信雄以上信忠未満なのは確定
430 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 18:14:34 ID:IVtQFkrZ
有能か、っていう問いは難しくないか
能力があっても判断力がない奴はいる
三成とか勝頼とか光秀とか正則とか
431 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 18:36:39 ID:z72X88Pn
福島はちょっと微妙なところだが前3人は敗者といえども
自分の力で名を残しているから
信孝とは同列には語れないと思うんだが。
432 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 12:27:30 ID:WIp6YCcF
福島?ただのコネ大名だろw
実績は猪武者程度の武功のみ
433 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 20:12:54 ID:pd2xFO11
福島は頭弱い感が否めん。
434 :
人間七七四年:2007/08/13(月) 11:25:50 ID:36A3sCOr
別に弱くねぇだろ
435 :
人間七七四年:2007/08/18(土) 04:19:07 ID:lB5+zhFx
ところで信孝の墓とか安養院って行ったことあります?
私は年に一度行くのですが、お聞かせください。
436 :
人間七七四年:2007/08/19(日) 05:03:50 ID:Op3Uikww
ないです。ごめん。
437 :
人間七七四年:2007/08/20(月) 13:55:49 ID:k8rQWGv0
中伊勢では長野家や関家に比べ格下の神戸家の養子にされた信孝カワイソス
国司の北畠家の養子となった信雄では格では歴然
信孝のふつふつと湧き出るどうしようもない怒りが解るような気がする
438 :
人間七七四年:2007/08/21(火) 14:46:04 ID:AnmzkNmb
でも、その後、三好家を継ぐ予定だったよね。
その三好家も家格低い方だけど・・・
439 :
人間七七四年:2007/08/24(金) 17:46:02 ID:G7LwB+PI
細川忠興はいいね。
ガラシャも萌え〜
440 :
人間七七四年:2007/08/24(金) 18:33:12 ID:alQBmH9u
>>438 でも三好家を継ぐって事は、四国から畿内のかなり大きい範囲を信孝が支配する事になってた、って事じゃ無いかね?
441 :
人間七七四年:2007/08/24(金) 18:48:53 ID:hEnBQqqv
ということは三好家も北畠家、神戸家同様、乗っとり後粛清か?
乗っ取り粛清とはいえ、しっかり分家で血統が残るように心配りしているところがかわいい。
443 :
人間七七四年:2007/08/27(月) 14:43:56 ID:u/xN0JAJ
テスト
444 :
人間七七四年:2007/08/28(火) 12:48:05 ID:/7sDi9/7
ふーん
445 :
人間七七四年:2007/08/28(火) 21:57:06 ID:57wN8pPH
三好康長の養子の件は拡大解釈しすぎかも。
だってその頃すでに秀次が康長の養子になってるんだぜ?
これに関しては確定。秀次の「三次秀次」の署名も残っている。
三好宗家でもない康長の格なら秀次を養子に迎える程度がお似合い。
信孝ではつりあいがとれなさすぎ。
信長は「君臣・父母の思いをなし馳走すべき」と書いてあるだけだから
そのぐらい康長を敬ってたてなさい、というだけだったと思うよ。
家臣の秀吉が康長をすでに取り込んでいるのだから、さらに信孝を
神戸家から引き抜き、庶流のぱっとしない三好家の養子にする必要性は
まったく感じられない。
446 :
人間七七四年:2007/08/30(木) 21:11:59 ID:ptHtcLhw
>>445 秀次は状況によってたらい回しだったから、上意があれば問題ないだろう。
447 :
人間七七四年:2007/08/30(木) 22:10:05 ID:izznF8xK
>>445 >だってその頃すでに秀次が康長の養子になってるんだぜ?
>これに関しては確定。秀次の「三次秀次」の署名も残っている。
確定してないよ。
あくまで一部の人が言っているだけ。
三好康長周辺(家臣など)の動きを見ても、
この当時に秀次を養子にしていたとは思えないよ。
448 :
人間七七四年:2007/08/30(木) 22:11:20 ID:izznF8xK
>>447 スマソ。
「年代が確定してないよ」
ということね。
このスレの人ならすでに知ってると思うが、
とりあえず、信孝が三好康長の養子となる件の参考資料。
他には、元親記、信長から信孝宛ての書状(康長を父、家臣とも思え)など。
『宇野主水日記』の天正十年六月一日条
「…三七郎殿、阿州三好山城守養子としてご渡海」
450 :
人間七七四年:2007/08/31(金) 02:33:08 ID:pxsp9lGb
織田政権が確立したら、信孝は四国を領有したのかね?
451 :
人間七七四年:2007/08/31(金) 16:13:06 ID:jj/QXdci
452 :
人間七七四年:2007/08/31(金) 18:07:17 ID:B8qr/M/i
後の豊臣秀次が三好氏の養子になった時期を本能寺の変
の後とするのは谷口克広、桐野作人。
秀次は「次兵衛」という名で秀吉の部将、宮部継潤の養子
だったが、「惟任謀反記」に、変の直後に秀次がその名で
登場しているためだという。
信孝と秀次が2人同時に養子になってるのより
その方が自然と思われる。
454 :
人間七七四年:2007/09/01(土) 10:01:10 ID:TR4/MRps
天正十年六月一日の時点で三七郎は三好家の養子にもなってないし、
渡航などもしてない。
455 :
人間七七四年:2007/09/01(土) 12:23:27 ID:hMxiXNBh
谷口氏や桐野氏の話なら信憑性は高いな
456 :
人間七七四年:2007/09/01(土) 12:57:21 ID:8D14gKda
きゃつオヤジの草履取りだった分際でw
457 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 17:04:43 ID:YVLJsWIG
>>454 『宇野主水日記』を書いたやつってなんでそんなでたらめ書いてるの?
458 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 19:50:08 ID:cV+tdk+F
>>457 『宇野主水日記』が誤りで、
>>454が正しい、という根拠は?
「…三七郎殿、阿州三好山城守養子としてご渡海」
という信長の方針を伝聞情報として日記に書いたんでしょ。
そもそも、秀次が三好康長の養子になった時期の件だが、元ネタは、
「天正十一年」と崩し字で日付が書いてある部分を
「天正七年」と(無理やり)解釈することによって、
秀次の三好家への入嗣時期を通説より早めて、
織田権力における秀吉の権勢を過大評価する、
ていう論文じゃなかったけ?
見た感じ「天正十一年」とも「天正七年」とも読めるが、
天正七年の情勢を考えたらありえない書状だと思ったけどね。
459 :
人間七七四年:2007/09/07(金) 07:01:30 ID:pWSaUPeN
>>458 >>『宇野主水日記』が誤りで、
>>454が正しい、という根拠は?
現に天正十年六月一日に信孝が渡航してないから
三好信孝を名乗った事ないから
460 :
人間七七四年:2007/09/07(金) 08:53:34 ID:tlqZ1/wr
>>458 天正10年6月1日に、実際に渡ったって文章なの?
それとも、渡ることに決まったって文章なの?
前後の文章がないから、判断できないんだが?
461 :
458:2007/09/08(土) 01:02:13 ID:KJ0iLJZ1
>>459 だから、「信長の方針」と書いたのですが。
そもそも戸籍の無い時代に三好氏になったかどうかなんてわからないと思いますが。
462 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 08:35:05 ID:t5lUPu4P
方針、というのは「養子になった」というのとは違うだろ?
その後四国の情勢によっては養子の話が反故になった可能性も充分ある。
現に本能寺の変で信孝は即織田姓に復帰し、三好の養子になどなってはいない。
方針=確定などではない。
463 :
458:2007/09/08(土) 08:54:06 ID:BjPyH342
>>462 「養子になった」、「養子になる予定だった」
の違いがそんなに重要かな?
織田権力としては、信孝が三好氏の地盤を基に四国政策を進める予定だった、
と考えれば、どちらでも同じことだと思いますよ。
ここでの論点は「織田権力の四国政策に秀次が関わっていた(?)」
という説に対する反論として、信孝の位置付けを考えているんじゃない?
464 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 09:03:51 ID:t5lUPu4P
全然意味が違うだろ?
三好の養子になったのと、予定だった、そういう方針だったというのじゃ。
違う事を違うんだと主張するのは当然のこと。
ここのスレの主旨は「三七丸こと信孝について語るスレッド 」
なんだから、信孝についての検証ならなにを書き込んでもよいはず。
自分勝手にスレの主旨まで変えるな。
465 :
458:2007/09/08(土) 09:30:12 ID:BjPyH342
>>464 何を以て「養子になった/ならなかった」と決定するの?
466 :
458:2007/09/08(土) 09:40:35 ID:BjPyH342
本能寺の変情報が届く前の信孝書状などが見つからない限り、
信孝が三好を名乗ったかどうかなんて、証明できないのでは?
467 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 09:44:48 ID:t5lUPu4P
>>465 どこの史料にも養子になったことを示すものはなく、全て予定なり
方針なりということしか解釈できないからだよ。
信長の手紙にも「君主・父母の思いをなし馳走すべし」だから
養子になっていたことを証明するものじゃない。もし養子になっていたら
「君主・父母なのだから馳走するように」となるだろ?親子になってるんだから。
468 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 09:49:07 ID:t5lUPu4P
>>466 じゃあ、明らかに信孝が養子になっていたと証明できるのか?
469 :
458:2007/09/08(土) 10:15:20 ID:BjPyH342
単なる日本語解釈の問題になってきたが、
>>467 実父が養子に出す息子に対して、養父(母)を「父母の思いをなし」
というのは普通のことでは?
>>468 >>466で「信孝が三好を名乗ったかどうか」と書いたのは、
「養子になった/ならなかった」のどちらも証明できない、
という意味なんですが・・・
470 :
458:2007/09/08(土) 10:21:27 ID:BjPyH342
>>467 さらに言えば、「君主の思いをなし」と言ったら、
三好家の一員になれ、と言っているように思えますが。
471 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 10:27:03 ID:t5lUPu4P
>>469-470 それはその時点で信孝が養子になっていない、という前提での話だから
俺と同じ意見ということだろ?養子にはなっていない、そういう予定、方針を
裏付ける史料でしかないと認めてるわけだな。
ゆえに君も史料からはその時点では養子になっていない、という意見に
賛同してくれたわけだ。
ありがとう。
なっていないという史料しかないのに、なっていたということに固執する理由はない。
そこまで拡大解釈するなら歴史検証なんて妄想だらけの無双状態になってしまう。
現存する史料において、信孝が養子になったと示す史料がない以上
なった、ならないの論争は無意味なだけ。
現状では信孝は三好家の養子になる予定だったらしい、という解釈で問題なし。
472 :
458:2007/09/08(土) 10:41:17 ID:BjPyH342
473 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 12:55:37 ID:HuNWAKt/
474 :
458:2007/09/08(土) 12:57:58 ID:BjPyH342
>>473 まあまあ。仲良くいきましょう。
正直言えば「なっていないという史料しかない」
というのにはひっかかりますが。
475 :
人間七七四年:2007/09/09(日) 10:54:10 ID:QPkflPJZ
476 :
人間七七四年:2007/09/09(日) 14:41:16 ID:exI0Slv+
自己中心的な考え方だな
477 :
人間七七四年:2007/09/09(日) 20:50:14 ID:DWaAi2yj
秀吉の天下取りに貢献した男だな
…いや、死んだから評判いいけどさ やった内容は信雄と大して変わらんしな
478 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 06:53:58 ID:Qu5QV8MH
信雄以下だろうが。
親父が死んだら一年たたずしてぶっ潰されて、織田家に壊滅的なダメージを
あたえやがった。三法師が誰を恨んだといったら、信孝だろ?
あいつがしっかり後見人をしてくれれば宗家は盛り返したかもしれないのにな。
479 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 17:48:07 ID:mJNlBdlN
>>478 つまりこういうことか
> 大野以下だろうが。
> 親父が死んだら一年たたずしてぶっ潰されて、豊臣家に壊滅的なダメージを
> あたえやがった。秀頼が誰を恨んだといったら、三成だろ?
> あいつがしっかり後見人をしてくれれば豊臣家は盛り返したかもしれないのにな。
480 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 10:54:07 ID:KqDcYTes
三成には協力者が多数いて、関ヶ原を戦うだけの人脈も強かった。
しかし信孝は・・・
三成には負け戦とわかっていても最後まで味方がいた。
しかし信孝は・・・
三成は秀頼を除外して豊臣を乗っ取ろうとは思っていなかったろう。
しかし信孝は・・・
481 :
人間七七四年:2007/09/23(日) 15:38:33 ID:H6229EqU
信孝が三好の養子になったかどうからは、神戸家の当主交代が
いつか、ということがはっきりすればわかるはず。
信孝が三好家にいってしまったら、当然息子が神戸家を継いだだろうから
いつ家督相続が行われたかを調べればいいと思うのだが、そんな
記録はないのかな?
神戸家の家系図をみるとどういうわけか信孝で断絶になっている。
つまり信孝は三好家の養子にもなっておらず、織田姓にも復帰してないのでは?
としか思えないのだが、そのあたり神戸家について詳しい人教えてくれ。
482 :
人間七七四年:2007/09/24(月) 18:57:04 ID:cbtzkeTl
>>481 利用価値が無くなったから、神戸家が断絶しても問題なかったのでは?
483 :
人間七七四年:2007/09/25(火) 09:35:27 ID:9+fjCdP5
う〜ん、でも代々続いてきた家をあっさり断絶させるような
無責任な真似も出来ないと思うな。
昔からの神戸家の家臣たちの反感や国人たちの反感をかうし。
息子がいたら息子に神戸の家督を譲ればいいだけのことなんだが。
どうせそっちは名目上の当主にすぎないわけだし。
姫はいたことが伝わっているけど、息子はどうだったんだろう?
484 :
人間七七四年:2007/09/28(金) 18:50:51 ID:xLdKLnCw
息子がいたとは伝わってないが、側室に生ませた庶子がいたかもしれない。
信孝たあんなことになったから密かに落ち延びで表にでることなく
一生を終えたんだろうな。
伊勢のどこかに信孝の子孫がいるという話を聞いたことがある。
姫の末裔なのか、若君の末裔かはわからん。
神戸家を継ぎながら織田姓に復帰することは出来るんじゃないかと思う。
大抵の戦国大名は苗字を変えても所領をそのまま統治してるし。
だが神戸家の家督を継承しながら、三好家の嫡養子になることはできんだろう。
そのあたりから三好家への養子の話はあくまで予定にすぎない話だったと
思ってるがな。
485 :
人間七七四年:2007/09/29(土) 18:43:32 ID:Yg1yD2Jy
信孝>>>信雄だとずっと思っていたけど、ここをロムって
信孝≧信雄程度だと感じた。
結局母親の出自も同じようなもんみたいだし、
次男>三男の違いしかないんだろうな。
486 :
人間七七四年:2007/09/30(日) 11:29:25 ID:OFVAAbSG
信孝が信雄より評価が上な理由って早死にしたからだろ
もし死ななかったら信雄と同レベルに扱われただろうな
487 :
人間七七四年:2007/09/30(日) 17:28:37 ID:ZmbCxapO
>>486 んなこと、死んでしまった以上解る物か。生きると言う事は可能性の塊だからな。
488 :
人間七七四年:2007/09/30(日) 17:38:34 ID:0MgpA430
>>484 最初の方のレスに、信孝以降は
>>神戸信孝−信茂−友信=信章−長経−(以下歴代)
とある。
でも神戸家を継いだわけではないらしいがな。
男子を人質にださずにいたあたりで、信茂の存在はかなり怪しいと思う。
後年有名人の自称子孫を名乗る連中も多かったから(先祖は平家の落ち武者と同じ)
その類じゃないかな。
自称子孫というのは非常に多く、それを証明するために偽手紙をつくる
職人までいたらしいから。家系図ほど怪しいものはないというしな。
489 :
人間七七四年:2007/10/01(月) 16:07:35 ID:Fjdfz/5o
娘婿や養子ならわかるが
490 :
人間七七四年:2007/10/04(木) 00:06:24 ID:er3ZO8k+
信孝の最大のミスは信澄を殺した事
他の織田一族に不信感や恐怖を与えたのは間違いない
勝家と組んだのも間違い、過去に信長に謀反したわけで光秀と同じ穴の狢だからね
これじゃ織田家を蔑ろにする秀吉に憤っている織田一族や重臣すらも味方に引き込むことが出来ない
491 :
人間七七四年:2007/10/04(木) 04:58:33 ID:QFgf68rC
偽の手紙といえばお宝鑑定団に山本勘助への手紙として出されたのが
思いっきり江戸時代製作の偽物だと鑑定されてたな
492 :
人間七七四年:2007/10/04(木) 06:31:15 ID:4iDiaRjS
勝家の方が秀吉より織田家に対しては愚直なほど忠臣だろ
対上杉のための加賀出兵での敵前逃亡、信長の許しを得ないでの宇喜多氏に対す
る本領安堵や毛利との和平の絡む領土交渉など秀吉の方の越権行為は目にあまる
ものがある
たとえ信孝が勝家と結ばぬとも織田家をないがしろにして天下取りを目指す秀吉
にとって信孝は目の上のコブ
いずれは秀吉に謀殺されただろう
493 :
人間七七四年:2007/10/04(木) 19:21:15 ID:bkLlJNFt
>>491 しょげかえっていたな、依頼人のおばちゃん。
>>492 信孝が大人しく信雄のように従えばそれなりに元主筋ということで
優遇したと思うよ。秀吉にとって目の上のコブにもならさ。
信長の有力家臣が早々に秀吉についたわけだから織田家なんて眼中なかったろう。
494 :
関連スレ:2007/10/17(水) 23:11:32 ID:BCrPQdLz
495 :
人間七七四年:2007/11/02(金) 10:26:07 ID:PLTnYxFk
落城させないage
496 :
人間七七四年:2007/11/10(土) 20:03:22 ID:xfEy247L
信孝の家臣に織田新八郎(信兼)って人がいるが、
この御仁は本能寺後に誅殺された信澄の弟(信勝の子)。
その織田新八郎は、信孝に殉じて亡くなったらしい。。。
497 :
人間七七四年:2007/11/11(日) 09:52:06 ID:8FCkIJdD
天正10年(1582)
信孝の長宗我部征伐・三好家への養子入りが決まる。
養父・神戸友盛が幽閉を解かれ、伊勢沢城に入る。
本能寺の変。
信孝が美濃岐阜城主となる。
信孝の異父兄・小島兵部少輔が神戸城主となる。
天正11年(1583)
信孝自害。
織田信雄家臣・林与五郎が神戸城を攻め開城させる。
林十蔵(与五郎の子)が信孝の未亡人(友盛の養女?)と結婚し、神戸姓を名乗る。
林与五郎が神戸正武と名乗り、神戸城主となる。
天正12年(1584)
羽柴秀吉方が神戸城を攻める。
神戸正武・十蔵父子は美濃加賀野井城へ逃れ籠城・戦死。
神戸友盛は織田信包を頼り、伊勢津へ逃れる。
年不詳
神戸政房(高島勝政(友盛の従兄弟)の子)が友盛の嗣子となる。
慶長5年(1600)、神戸友盛が伊勢津で死去。
498 :
人間七七四年:2007/11/11(日) 20:32:01 ID:f8EEyttk
499 :
人間七七四年:2007/11/13(火) 20:16:20 ID:O+C5scpH
何故、信雄は信孝を切腹させた?
信孝を切腹させれば、自分が三法師成人までの陣代、或いは織田家後継者の
地位を得ると本気で思ってたのかね。
500 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 01:46:25 ID:sgK99RPy
そりゃそうだろ。
501 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 06:08:30 ID:WUX0FD78
502 :
人間七七四年:2007/11/24(土) 12:42:22 ID:F4A8cKM3
北畠粛清時も生かしたように信雄と妻の雪姫は仲が良かったらしいが
信孝と妻の神戸家の娘はあまり仲良くなかったのかな?
秀吉に母妻子が人質になっていたにも関わらずあっさり挙兵しているし
503 :
人間七七四年:2007/12/03(月) 05:57:04 ID:5pYwt+wG
504 :
人間七七四年:2007/12/23(日) 12:42:15 ID:ftj9k76Z
保守age
505 :
人間七七四年:2008/01/05(土) 23:59:50 ID:sMthZ6ST
もし信孝が筒井家の養嗣子になったら順慶は後々出奔させるよう追い詰める?
信澄はそのパターンで城主なったし
信孝が大和国主になった方が順慶よりマシになったと思うが
ただ信雄が嫉妬するだろうけど
506 :
人間七七四年:2008/01/09(水) 18:05:33 ID:NFEcs07O
信孝が大和を支配していたなら本能寺の変が起きても兵が四散せず、独力で光秀
を討ったかもしれんな
507 :
人間七七四年:2008/01/19(土) 22:31:25 ID:JIdJdU1K
馬揃えの時、信忠>信雄>信包>信孝だったていうけど
それって家格じゃないの?
織田家当主>国司北畠家当主>長野家当主>神戸家当主
こんなカンジで
508 :
人間七七四年:2008/01/20(日) 09:46:53 ID:6c6FiL/2
信長も信孝の資質を認め、もう少し出世させようと筒井順慶の猶子にしようとし
た形跡はあるが、大和国主は原田直政の討死、松永久秀の謀反など縁起が悪いの
で信長が思いとどまったのではないかと桐野作人氏が推察してるね
信孝の四国遠征に際し、信孝の所領は北伊勢、河曲・鈴鹿の二郡しかなかったた
め、その二郡の15歳から60歳に至る名主・百姓を動員、それでも足りず占領後の
恩賞目当ての牢人衆を召し抱え、伊賀・甲賀・雑賀からの他国衆も集めたらしい
これじゃ本能寺の変勃発で兵が四散したのは頷ける
恐らく四国遠征では阿波・讃岐の三好の兵頼みだったのだろう
509 :
人間七七四年:2008/01/31(木) 12:55:53 ID:wD3sjtSk
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510 :
人間七七四年:2008/02/11(月) 13:50:13 ID:a7RHsGPC
誰か信茂系の信章以降の系図がわかりませんか?
あと信豊とその子孫など…
511 :
人間七七四年:2008/02/11(月) 13:53:00 ID:Eq0jcycQ
この人神戸家での逸話が残ってるよね
512 :
人間七七四年:2008/02/11(月) 15:38:48 ID:+w66kKNV
513 :
人間七七四年:2008/02/11(月) 16:02:34 ID:ramajtpf
信長の命令で一族騙まし討ちにしたヤツじゃなくて?
514 :
人間七七四年:2008/02/11(月) 16:38:40 ID:Eq0jcycQ
信雄と勘違い
515 :
人間七七四年:2008/03/09(日) 20:11:07 ID:GNQRr9kV
age
516 :
人間七七四年:2008/03/10(月) 00:00:53 ID:cgbqO2MM
信長公記の神吉城攻めの記述に「神戸三七足軽と先を争ひ・・」とある
信孝は何を焦っていた?
そこまでして戦功が欲しかったのかね?
517 :
人間七七四年:2008/03/10(月) 18:06:52 ID:ykgqz02S
信忠との仲はどうだったんだろう?
518 :
人間七七四年:2008/03/11(火) 00:01:20 ID:hoQafcFB
仲が悪いと書かれた文書は出てないだろ
519 :
人間七七四年:2008/03/11(火) 09:50:37 ID:68Tv2E0i
仲がいいとか悪いとかいう以前に、主従だし。
520 :
人間七七四年:2008/03/11(火) 12:18:19 ID:tNf7opJO
主従はわかってるが兄弟としての親密さとか信頼感とか
521 :
人間七七四年:2008/03/11(火) 12:24:44 ID:/TpPHjQL
別に悪くはないだろ?
本能寺までは、信雄とだって別に悪くないと思うぞ。
信雄は能をやるからってことで、
信忠と信孝の両方を招いたりしているしな。
3人の仲が悪かったら、プライベートな能のために
一堂に会するような事しないだろ。
信雄と信孝に関しては本能寺前と本能寺後で
わけて考える必要はあると思う。
522 :
人間七七四年:2008/03/15(土) 08:51:54 ID:21yy1W4B
>>516 血の気が多かったか、母親が身分が低いから何か本人の
中であったのかも?
523 :
人間七七四年:2008/03/15(土) 19:08:51 ID:ioOXeWwS
つーか、信忠だって戦で突出して「お前は一平卒じゃねえんだぞ!」って信長にしかられてるじゃん。
むしろ叱ってはいるものの信長は、息子達を煽っていた節があるが。
524 :
人間七七四年:2008/04/10(木) 16:04:07 ID:dHH6iehR
>>523 信長自身、信忠や信孝の歳には自ら陣頭に立って戦っていた
無論、信長がその歳の時は信忠のように総大将は勿論、信孝のような一軍の将に
匹敵する兵力を率いたことはないと思うが
信長が一軍の将に見合う兵力を率いたのは桶狭間の合戦の時の2000を率いた時が
初めて
それを考えると信忠は勿論、信孝も若年ながらよくやった方だと評価すべきでは
525 :
人間七七四年:2008/04/15(火) 01:16:15 ID:CA4t8AHG
坂氏は可哀想だな
526 :
人間七七四年:2008/04/15(火) 01:20:22 ID:a3r4Ty20
筑前に人質に出された信孝の娘は憐れだ。
527 :
人間七七四年:2008/04/16(水) 00:10:04 ID:xn0Xcbh4
信孝の異父兄が小嶋少輔で、小嶋信房の縁者って説があるんだろ?
信長の生母が小嶋信房息女だと書かれてる史料もあるし、
信長生母の関係で側室になったのって、信雄の母親じゃなく信孝の母親の可能性もあるんじゃないか?
>>523 信雄に対する「勘当宣言」もポーズだしな。
>>521 秀吉と勝家と同じだな、個人の仲の良さと政治的な良好関係は違うと。
529 :
人間七七四年:2008/04/22(火) 07:40:04 ID:EGEKpO41
信孝は明智本隊を総崩れにした輝かしい実績をもつ
連中の一人
中川、丹羽、高山、池田、加藤、信孝
の力のおかげで光秀を倒すことができたのだ
530 :
人間七七四年:2008/04/26(土) 07:52:59 ID:cOcFxGC9
信長が信孝の立場にいたら、本能寺の変後、どう行動したろうか?
531 :
人間七七四年:2008/04/26(土) 16:10:17 ID:4WzDLg6j
まず葬儀で位牌に香を投げつけるとして・・・・
532 :
人間七七四年:2008/04/26(土) 17:33:20 ID:p243yAYu
次に偽りの病気装って弟信雄をお見舞いに来させ抹殺
533 :
人間七七四年:2008/04/26(土) 17:57:24 ID:pSRedAKf
秀吉の到着なんてまたずに、各地に激を飛ばすと同時に全軍で京を攻撃に出陣しただろ
534 :
人間七七四年:2008/04/27(日) 12:33:15 ID:zeA1qR2J
『父よなぜ死んだ』と叫びながら、単騎で駆け出す。
535 :
人間七七四年:2008/05/02(金) 04:01:38 ID:Nwt/xDLb
>>17 すんごい遅レスですが、当時は幼児の間に病気などで死んでしまう事が多かったので
元服前の幼名については、わざと変な名前をつけて悪霊が寄り付かないように、みたいな風習があったそうですよ。
(要は、「うんこ丸」みたいな名前なら、悪霊も憑りついたり、興味を持たないだろう、と)
信長がそれゆえ変な名前をつけたかどうかはわからないですけどね。
536 :
人間七七四年:2008/05/02(金) 08:20:53 ID:Ynec6o+l
信長の子供って、結婚してから随分長い事生まれてないけど、
普通は3年くらい子供できなきゃ、側室を妻の側から勧めるのが普通だし
本当は何人か生まれていて、夭逝したので、変な名前を付けるようになったのかもな。
夭逝した子供って、記録に残さないから。
537 :
人間七七四年:2008/05/04(日) 05:33:37 ID:70XlGXGg
>>530 秀吉が少しでも不遜な態度を見せたら、見せしめの意味も込めて、
一刀のもとに切り捨てていた。
538 :
人間七七四年:2008/05/04(日) 07:49:57 ID:Z630LwBv
「信孝」の読みは「のぶのり」と読むらしいけど、詳細知ってる人いますか?
539 :
人間七七四年:2008/05/04(日) 07:59:31 ID:j/hfHmQt
初めて聞いたな。
540 :
人間七七四年:2008/05/11(日) 18:18:45 ID:1QCplj7e
信孝と信雄の対立って、表面的には清洲会議の後、美濃を領した信孝と尾張を領した信雄の
国境線をどこにするか、って言う争いが発端なのな。
541 :
人間七七四年:2008/05/24(土) 10:56:10 ID:K2URaVxn
信孝にすれば“何もしなかった”信雄がなんで尾張を得るんだという感じだろう
な
542 :
人間七七四年:2008/05/26(月) 09:19:03 ID:w9ga6aHd
兄弟不仲だったというよりも、国境問題から不仲になったのかな?
543 :
人間七七四年:2008/05/26(月) 10:17:08 ID:+mOSCsdB
>>542 個人と個人ではなく、家と家の関係になると、肉親でもややこしくなるからねえ。
544 :
人間七七四年:2008/05/26(月) 13:45:14 ID:YeV2E+qp
実力はともかく、格式から言うと伊勢国司家を継いだ信雄の方が上だが
545 :
人間七七四年:2008/06/13(金) 14:49:32 ID:csRHpbbC
さつまあげ
546 :
人間七七四年:2008/06/13(金) 16:40:11 ID:K7NoujGf
織田信孝が切腹した野間岬の夕焼けを見てきたよ。
547 :
人間七七四年:2008/06/13(金) 20:15:15 ID:csRHpbbC
首洗い池に小便すると一物が張れ上がるから短小くんにはお勧め
548 :
人間七七四年:2008/06/13(金) 20:20:59 ID:03jtlPyU
その腫れ上がったナニのまま女とやれる訳じゃないじゃん
549 :
人間七七四年:2008/07/20(日) 00:06:40 ID:bscCtoA0
age
550 :
人間七七四年:2008/09/27(土) 04:01:34 ID:D68452Mw
結局、信孝の血は後世に残ってないのかな?
551 :
人間七七四年:2008/10/29(水) 22:26:41 ID:TaPsi+Cp
age
552 :
人間七七四年:2008/10/30(木) 07:25:53 ID:/S++FiD9
>>550残ってるみたい
辞世の句が講談でも、三七様もっと評価して欲しいな。
このスレ寂しいね…
553 :
人間七七四年:2008/10/30(木) 11:14:41 ID:91RvCOW5
最近は方面軍司令官の一人だったと認識されてるのね>信孝
将来的には信忠の元で織田軍全体を把握する存在になったかもね。
554 :
人間七七四年:2008/10/31(金) 13:48:29 ID:PayfnYFJ
江戸時代の大名の子孫って現代でもどうして代を重ねるに連れすごくなっていくのでしょうか?
555 :
人間七七四年:2008/11/02(日) 18:34:27 ID:TmZiQtgU
556 :
人間七七四年:2008/11/02(日) 23:20:10 ID:HtCsnIyY
>>555 そこまで言える反証ぐらい語れよ
谷口氏以外にも信孝が方面軍司令官であることを唱える人は多いがな
っていうか、じゃないと断言する人間見たことないな
557 :
人間七七四年:2008/11/03(月) 06:08:17 ID:a67MK2rY
伊賀方面軍司令官を信雄と考えた上で、四国方面軍司令官を信孝と考えるなら理解できる。
明智を司令官(だった)というなら信雄も司令官(だった)と言うべきかと。
信孝だけを柴田・羽柴・滝川ら家臣層と同列に語るのも疑問。
信忠を司令官と呼ばない理由や信忠・滝川間の指揮関係が不明確ということです。
558 :
人間七七四年:2008/11/04(火) 02:56:17 ID:fToxz73+
>>555 以前はよく、三七は名目上の大将で、実質は丹羽長秀が主将だ
と言われることが多かったけど、当時の長秀の知行や、それ以前の
経歴、四国に関して、実質的な権益の確約が長秀にない(信孝には
讃岐が予定されてたらしい)、丹羽氏の記録にも長秀の扱いは
蜂屋や津田と同じ「副将」とされているなどから、最近はやはり
三七信孝が四国方面の大将だったと見られているようです。
信忠の軍は濃尾系の家臣を中心に編成されているけど、ゆくゆくは
家督を継ぐ立場なわけだし、とくに司令官と見る必要もないんじゃないの?
559 :
人間七七四年:2008/11/04(火) 06:35:47 ID:tp1HIKOh
>>558 それも谷口説ですよね。
司令官に「実質的な権益の確約」という例が他の司令官(柴田や羽柴)に無かったので証拠にはならないのでは?
滝川や河尻も信忠の副将だったと言えるのでは?
伊賀攻めのとき滝川と丹羽は信雄の「副将」だったのでは?
560 :
人間七七四年:2008/11/04(火) 08:29:04 ID:Hi3ADGkC
伊賀攻めのような一戦限りの総大将と長期戦前提の方面軍クラスの旗頭では同一視できないな
あと信忠の場合、既に信長の代わりに何度も総大将経験あるから武田攻めで他将に指揮を任せることはなかったでしょ
そもそも遊撃部隊の指揮官である一益はその時限りの与力に過ぎないし
方面軍説なら谷口氏以外にも桐野作人氏とか多くの人が言ってると思うけどね
561 :
人間七七四年:2008/11/04(火) 10:32:06 ID:RkIdrCbs
信忠は濃尾をもらうと同時に織田の家督を譲られていたような
562 :
人間七七四年:2008/11/06(木) 00:02:32 ID:sWNUv6yQ
織田家の継承者=信忠
これだけは間違いない。
家督相続で色々あった信長だから信孝も信雄も親族家臣の一人
として据えるのは間違いない事で。
563 :
人間七七四年:2008/11/06(木) 02:59:33 ID:srT9prCT
ちなみに信孝は紀伊攻めで総大将を務めておるぞよ
564 :
人間七七四年:2008/11/06(木) 06:22:12 ID:adk3s+8d
>>560 >伊賀攻めのような一戦限り
これは議論が分かれるところ
>そもそも遊撃部隊の指揮官である一益はその時限りの与力に過ぎない
これも谷口説に過ぎないですが
565 :
人間七七四年:2008/11/06(木) 23:46:15 ID:srT9prCT
伊賀攻めにしても高野山攻めにしても武田攻めにしても子息に経験を積ませようとした親心だろうな
でも信雄は愚鈍だから銃後に置いて信忠は東へ信孝は西へといふのが信長の構想だったかも
566 :
人間七七四年:2008/11/07(金) 00:28:05 ID:bOfIu6TA
どうだろう?
四国ってその気になれば畿内からスグだから
信孝がヘマしたらスグ駆けつけられるようにって感じがするし
信澄と長秀と横を固めた所をみると、その構想は四国遠征が成功して初めて考慮していいレベルじゃないか
567 :
人間七七四年:2008/11/07(金) 03:07:57 ID:pBycuk3+
とりなきしま、だからヘマはしない讃岐と阿波は確実に征圧できる
568 :
人間七七四年:2008/11/07(金) 05:20:03 ID:pBycuk3+
だいたい一万ちょっとの兵力で四国征圧は無理な話で
あれは三好の救援と讃岐阿波の地固めに過ぎないと思ふ
降伏すれば土佐一国は安堵したんじゃないのかなぁ
569 :
人間七七四年:2008/11/07(金) 13:40:06 ID:Lk52QiKY
570 :
人間七七四年:2008/11/07(金) 13:48:25 ID:Lk52QiKY
すまん
信忠は別格だろ
既に神吉城攻めや松永久秀討伐では総大将を勤めている
571 :
人間七七四年:2008/11/07(金) 15:47:20 ID:pBycuk3+
天正9年から10年まで3つ並べただけだよ
わざわざググッたの?ご苦労さん
572 :
人間七七四年:2008/11/08(土) 00:48:46 ID:B0sxNJg8
信長の弟子
573 :
人間七七四年:2008/11/12(水) 03:14:17 ID:+JTB21yR
>>568 どうだろ。たしかにあの一軍だけで四国を制圧するには少ないけど、三好の兵力もあるし。
同時に中国地方に自分と明智のいわば織田家の本隊を投入してるけど、
あれは毛利にトドメさすだけじゃなくて中国からも四国に侵入するつもりだったんじゃないの。
信長がすぐそこの中国にいるってだけでも蝙蝠には脅威になってるし
その上で格では羽柴や明智なんかより上の自分の息子を現場の大将にもってきたと。しかも津田までつけて。
こりゃ蝙蝠さん詰んじゃってないかい。
ただの地固めだったら実績もあって単独で指揮できる兵力も多い明智使った方が成功率高いでしょ。
羽柴の後詰なんぞ丹羽、蜂屋その他の混成兵力でも充分なわけで。
わざわざ信孝に大将を任せたのは一気に四国を制圧して、
同時に息子(と期待の甥の津田に)に危なげなく実績つませるためじゃないの。
574 :
人間七七四年:2008/11/12(水) 05:58:52 ID:88aNA34P
信孝の旗頭就任は信孝自身が前々から志願していたからだったらしい
神宮文庫所蔵文書には
『三七様連々お望み候四国へ・・・』
とあるね
575 :
人間七七四年:2008/12/15(月) 01:51:10 ID:2I8FfoRW
司馬さんは、信忠、信雄は平凡、暗愚だが、
信長の子たちの中で信孝だけは親譲りの気性の激しさを持っていて信長の血が濃かった。
みたいな書き方してたな。必ずしもそうとは思わんが、
秀吉に詰め腹きらされてなけりゃあ良い意味でどうなってたんだろうということは考えないでもない。
576 :
人間七七四年:2008/12/15(月) 12:12:27 ID:FqMzBUFY
>>573 先に四国征伐してから中国平定だよ
信長も淡路まで進出すると書いてるしね
577 :
人間七七四年:2008/12/27(土) 10:31:00 ID:M3mJUXNj
>>575 実際は信忠>>>>>>>>>>信孝>>信雄だと思うぞ
578 :
人間七七四年:2009/01/14(水) 15:18:32 ID:IDT4mZyB
ここはまだ新年明けてないんですね。
579 :
人間七七四年:2009/02/01(日) 04:42:05 ID:t0fVmiOG
負けないぞぉ
580 :
人間七七四年:2009/03/07(土) 02:40:55 ID:sOToYaBi
☆誕生日おめでとう☆
581 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 11:02:51 ID:Q7uOJEbO
大儀であった (^-^)
582 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 12:01:35 ID:8WTW4lbu
辞世の句の「内海の野間なれば」ってこの人、知多半島が好きだったの?
583 :
人間七七四年:2009/03/14(土) 12:02:12 ID:0Gv6NXt3
584 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 06:57:02 ID:KNlXFxJL
「昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」でしたな。
信孝が切腹した野間御坊は昔にも「主殺し」が有った場所なんです。
平治の乱で敗れ脱出を図った源義朝は、ここ野間御坊で長田忠致・景致父子に浴場で騙まし討ちにされて殺されます。
下手人の長田父子は後に覇権を握った源頼朝に散々こき使われた挙句、「約束どおり美濃尾張(身の終わり)をくれてやろう」と刑死。
信孝はこの故事を踏まえ、「いずれお前にも天罰が下るぞ!」と秀吉を呪ったんですな。
585 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 12:41:30 ID:GEDno885
とはいえ信孝が滅ぶ原因を作ったのは、他ならぬ信孝自身な訳だが。
586 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 02:50:05 ID:19wRXfir
どう考えても秀吉だろ。
587 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 15:36:02 ID:ZCbs4Z0Q
588 :
人間七七四年:2009/04/20(月) 23:00:35 ID:uSZicd/r
三法師を安土に移すという織田家中の取り決めに従わず、
三法師を岐阜城から出さなかった信孝に対して、
秀吉・長秀・恒興の三人は、
三法師が成長するまでは信雄を当主代理とする手段で大義名分を得て、
信孝を攻めた訳で。
信孝が素直に三法師を出していれば運命は違っていたかも…。
589 :
人間七七四年:2009/04/25(土) 10:05:15 ID:NUPL/spj
>>588 それはないでしょ
秀吉が織田家から支配権を奪い取るには信孝の存在自体がネック
例え信孝が三法師を渡したところで秀吉は新たに信孝排斥の次の策を練ってくるでしょう
590 :
人間七七四年:2009/05/07(木) 04:46:11 ID:IE4yawoF
本能寺にある信孝様のお手紙字がとっても綺麗。何て書いてるか読めないけど
591 :
人間七七四年:2009/05/13(水) 09:15:23 ID:tgfak6Ww
■ おすすめ2ちゃんねる 開発中。。。 by FOX ★
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
【一号】仮面ライダー強さ議論スレ15【ディケイド】 [特撮!]
だれだよここ見てる奴w
592 :
人間七七四年:2009/06/12(金) 13:10:41 ID:huF/EsL8
三法師の名前をつかって信孝排斥しようとするだろ。
593 :
人間七七四年:2009/07/25(土) 09:35:59 ID:edHUGr8X
秀吉が三法師の影で実権を掌握しようとするのがあまりにもミエミエで
さぞかし勝家、一益、信孝が苛立っただろうことは見て取れる
秀吉もそれを見越しての挑発だからな
594 :
人間七七四年:2009/09/04(金) 19:40:03 ID:s1v3FLz2
このボンクラ息子も今川氏真のように秀吉の前で蹴鞠でも蹴ってれば名将って言われたのに…
595 :
人間七七四年:2009/09/04(金) 22:37:55 ID:X6HLofqd
596 :
人間七七四年:2009/09/05(土) 08:33:37 ID:kSrXLpZH
じゃあ織田のぶおのほうが名将だな
597 :
人間七七四年:2009/09/27(日) 05:14:42 ID:ey/avBXy
598 :
人間七七四年:2009/10/05(月) 06:17:15 ID:SGJ9KnLs
本能寺後の信孝が主人公の
『織田戦国志』尾山晴紀著
はなかなか面白いね
599 :
人間七七四年:2009/12/07(月) 18:34:32 ID:06GQaX7a
600 :
人間七七四年:2009/12/13(日) 02:44:51 ID:qKgkG9co
素直に三法師を出したとして、切腹が改易になった程度では。
改易されて何年か経って一万石で大名復活、御伽衆ってところじゃね?
で、徳川時代になって二から五万石、ないし交代寄合だろう。
601 :
人間七七四年:2010/02/01(月) 02:44:43 ID:hqNhps6y
>>599 簡単に要約すると
信孝がかつて「何かあったならば、信澄を頼れ」と信長に言われたことを守り
信澄を討たず、軍師に迎え光秀や秀吉らを葬り、織田家の支配を再確立する
ってとこか
602 :
人間七七四年:2010/02/04(木) 14:04:26 ID:9BbdsU99
603 :
人間七七四年:2010/02/11(木) 01:57:44 ID:STGi7jCF
>>536 昔は子供に大層な幼名をつけると妬んだ悪霊が憑いて夭折するから
わざとへんてこな幼名をつけて悪霊が見向きもしないようにしようとした習慣があったらしいよ
>>541 信孝が率いていた軍勢のほとんどは信雄が伊勢衆から出して援軍派遣された他国衆だよ。
信孝自信が率てた直属兵(北伊勢衆)は少ない。
山城・丹波なんかの他国衆と信雄領の兵士。
だから変の時にみんな逃げちゃった。
あと、信雄も勝家と同じく道中で引き返すハメになってるけど、
一応、軍は京へ向けて出してる。甲賀辺りで国人衆の反乱があって断念してるけど。
604 :
人間七七四年:2010/04/06(火) 13:10:18 ID:CcsynSTj
アッ神戸〜
605 :
人間七七四年:2010/04/09(金) 00:35:41 ID:2SjSmAcE
神戸んしてよ
606 :
人間七七四年:2010/04/14(水) 17:44:43 ID:a/EyZwoP
クローンで現代によみがえった?
【織田孝一】
織田 孝一(おだ こういち、1959年 - )は、日本のフリージャーナリスト、コピーライター。
旧丹波柏原藩織田家(旧子爵家)の当主。本名は織田信孝という。
祖父は織田信大。父は織田信和(長男)。学歴は学習院大学法学部卒業。学位は法学士(学習院大学)。
織田信長の子信雄の五男高長の直系の子孫(ただし、曽祖父織田信親は養子)。
1981年3月学習院大学法学部を卒業後、広告プロダクションに就職し、コピーライターとなる。
1989年に独立し、フリーとなる。主に経済雑誌に記事を書いている。
田部井昌子著『現代に生きる戦国武将の智恵』(出版文化社、2000年)の出版に際し、
対談に応じ、織田家の歴史などを語っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E5%AD%9D%E4%B8%80
607 :
人間七七四年:2010/04/15(木) 00:40:13 ID:aC5JzOKW
四国遠征軍の参戦武将は思いつくところ
旗頭:織田信孝(伊勢国河曲・鈴鹿郡主、神戸城主)
副将:丹羽長秀(若狭国主、佐和山城主)
武将:三好康長、蜂屋頼隆、津田信澄、矢部家定、木津甚五郎(山城国相楽郡主)、庄村久三(丹波国上山城主)
三好存保(讃岐国十河城主)、篠原自遁(阿波国木津城主)、新開道善(阿波国牛岐城主)
水軍衆:鈴木重秀、真鍋貞成(和泉国海賊衆)、真鍋同芥右衛門(和泉国海賊衆)
他に誰かいます?
608 :
人間七七四年:2010/04/15(木) 11:38:11 ID:LKqIpijy
伊勢衆の関盛信や国府佐渡守とか
あと丹羽蜂屋津田は副将格で同列じゃね
三好康長は当事者兼先鋒扱いかね。
609 :
607:2010/04/16(金) 00:05:53 ID:PTNSivTz
>>608 関盛信は遠征軍内にあったという説と亀山城で留守居していた説があるので外しました
国府盛種?は信孝の直臣だと思ったので・・
610 :
人間七七四年:2010/06/07(月) 14:48:12 ID:Xc+G3178
>>607 こうして見ると名目上の大将として信孝・丹羽・蜂屋らの名前があるけど
彼らの直属兵ってのは実際大した事なくて
実情は、旧三好勢や、和泉・丹波・山城・伊勢(信雄の支配下の国人)らの寄せ集め衆でしかないんだよね。
本能寺の変後に、信孝の兵がほとんど逃げちゃった事で
人望がないとか、統率力に欠けたなんて言われるけど
長宗我部にやられてジリ貧だった三好勢や、
土橋氏にあっという間に勢力挽回された雑賀鈴木氏なんかは当てにならないし、
和泉・山城・丹波なんかから動員された連中は光秀に付いたんだろうし
他の軍団長クラス(勝家や秀吉ら)と四国遠征軍を同列に見るのはおかしな話なんだよね。
611 :
人間七七四年:2010/06/09(水) 05:55:29 ID:OZ3ciyeH
信雄の子孫が信孝(孝一)を名づけられたのはどういう縁だろう...。
612 :
人間七七四年:2010/06/11(金) 20:23:03 ID:bVy0w2Sb
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|. ,' // 近代に4代不明なら、おまえはワシの末裔じゃないだろう
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. ゙, ゙'ー ‐` l |
゙、''゙ ,,、二''‐ ノ l、
''''''''7'ヽ ''' / /`〉`゙T''''''''''
l ` 、,,,,、- ' " / /.| | 織田信成が織田信長の子孫って本当?【2代目】
. | | .l i / ./ | |
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1271421161/ | | | l / ./ .| |
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| | | ', / / l .l
∧∧
( ,,) 『やっぱり・・・・。』
/ |
〜(__)
613 :
人間七七四年:2010/10/15(金) 16:14:42 ID:bxtAMYhe
仮想物で信孝と津田信澄が秀吉倒して天下統一して大坂城作って将軍就任とか、
電波極まりないのを見たが・・・。
むごい、これはむごい。
614 :
人間七七四年:2010/11/07(日) 10:21:04 ID:gMCQgqK1
615 :
人間七七四年:2010/11/07(日) 13:42:21 ID:xQhW0aLV
仮想物ならいいんじゃね?
信長が本能寺脱出して云々なんてのもあるんだし。
616 :
人間七七四年:2010/11/08(月) 21:32:30 ID:68Rn5pnK
仮想物のなかでは出来はよかったと思うが
617 :
人間七七四年:2010/11/16(火) 17:33:10 ID:VmptQmCd
信雄に負けるな
エールage
618 :
人間七七四年:2010/11/16(火) 18:02:34 ID:T+qm7vQ0
実母坂氏を見殺しにしても敢然と挙兵に及んだ織田中将信孝をお解放しか
619 :
人間七七四年:2010/12/20(月) 22:08:46 ID:D1oOQde2
>>613 どこがむごいのかさっぱり分からん
むしろ史実の方がむごい
620 :
人間七七四年:2010/12/20(月) 22:10:57 ID:D1oOQde2
>>602 曽祖父が分からんなんていくらでもあるが
621 :
人間七七四年:2010/12/20(月) 22:12:32 ID:D1oOQde2
>>588 安土は焼け野原だっつの。
それは秀吉の陰謀。
だいたい取り決めに従わないんだったらまず書状を送ってそう言うべきだろう。
主君の叔父に対して家臣がいきなり挙兵するとか…
622 :
人間七七四年:2010/12/20(月) 22:48:49 ID:HMX4SBBc
>621
取り決めなんだから事前に散々やり取りしているはずのこと。
それを守らなかったのだから、非がありまくりなのは信孝のほう。
623 :
人間七七四年:2011/02/19(土) 16:39:30 ID:BaGZdkDC
>>618 逆に言えばなんでそこまでして何度も秀吉に反抗してるのかわからん。
勝家や一益と組んで対抗しても太刀打ちできる相手じゃないって事は、
一度目の挙兵で思い知ってるはずだろうに。
624 :
人間七七四年:2011/02/20(日) 02:09:16.44 ID:TJHUlRdE
人質まで取られてるなら大人しくして静観できなかったのかね。
どうせ信雄と秀吉なんていずれは不和になっただろうし、
そうすりゃ反撃する隙はあっただろ。もちろん徳川家康の力を借りるのは必要だと思うけど。
625 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 12:17:53.66 ID:N5AErmcZ
この人、信雄よりマシってだけで大将としての器量は無かったんだろうな。
気位だけは高くて、あとは性急な性格っぽい。
本能寺の変後に信澄を殺したり、秀吉の挑発に引っかかって挙兵したり最悪な結果ばかり。
626 :
人間七七四年:2011/03/12(土) 11:19:29.07 ID:IkSGffvG
本能寺の変がなければ父信長の薫陶を受けて、
30過ぎに大化けしていたかもしれない。
627 :
人間七七四年:2011/03/20(日) 15:22:22.16 ID:8J5p+lcr
>>625 信澄の殺害は信孝の意というよりは丹羽長秀の助言だと思うね
信孝は神吉城攻めで足軽に混じって城に乗り込むなど武勇はあるが
大将としての思慮が足らないのは確かだ
だから信長は浪人、農民徴集兵の烏合の衆とはいえ四国遠征軍として一軍の将の経験させようとした
そしてそのアドバイザーとして実戦経験豊富な丹羽を付けた
もともと信長は信孝を大和国主にしようとしたが
大和国主だった原田直政の討死、松永久秀の謀反など不吉な事が起こるため避けて
讃岐国主にするべく四国遠征軍の長に信孝を据えた
628 :
人間七七四年:2011/03/21(月) 14:08:20.27 ID:4QCPOji3
津田信澄って結構有能な将だったから殺すよりも自陣営に引き込んだ方が後々の為に良かった気がするんだけどね。
まぁ彼は光秀の婿なんで、信孝長秀も彼が明智方につくのを恐れて、先制攻撃しかけて殺したんだろうけど。
元々から信澄は信孝長秀とは馬が合わなかったのかね?
629 :
人間七七四年:2011/03/21(月) 19:33:04.55 ID:KfbMgIdb
信澄が有能?
初耳だな
小説かなんか見て思い違いしてない?
信忠に対しては勿論、信孝に対してもそんなに功績で上回ってると思えない
藤堂高虎は信澄が無能だから見切りつけて羽柴秀長にくら替え仕官したと思ったが
630 :
人間七七四年:2011/03/21(月) 21:00:50.28 ID:4QCPOji3
そうなのか。
信勝の子にかかわらず信長に重用されてるから有能な将だと思っていたが。
あと、藤堂高虎は信澄の遺児(昌澄)を後々まで色々と世話したりしてるから、
高虎も豊臣秀長ほどではないにしても津田信澄にも思い入れあるのかなと思ってたんだけど。
631 :
人間七七四年:2011/03/21(月) 22:18:21.47 ID:aa+YH4EW
>>629 「一段の逸物」という評価もあるし、信長の親族の中ではかなり序列が高いなど、少なくとも当時の評価は
高かったとみていいと思うんだけど。
632 :
人間七七四年:2011/03/22(火) 00:19:17.59 ID:B92HFMen
信澄が与えられた大溝城は、結構重要な位置じゃないか?
若狭の丹羽と接してるし。
633 :
人間七七四年:2011/03/22(火) 00:31:14.97 ID:B92HFMen
634 :
人間七七四年:2011/03/22(火) 11:29:54.15 ID:RB/FhPkT
>>632 大溝城主であることは確かだが、城主に見合う活躍をしたかというと疑問符がつく
地理的に対松永久秀、対本願寺、第二次伊賀攻めなど出兵召集されてもいいものだが従軍した形跡がない
むしろ信長弟の岸和田城主織田信張の方が地味だが活躍している
親織田に転身した鈴木重秀を支援して重秀の雑賀庄統一を成功させ
本能寺の変後、四国遠征軍の水軍として従軍していた鈴木重秀が
長宗我部の支援を受けた反鈴木派の雑賀衆土橋らの侵攻から逃げてきた時岸和田城へ迎入れ守った
635 :
人間七七四年:2011/03/23(水) 08:23:28.66 ID:I+d60SXQ
基本的に、もうひとつ上の一門衆だったのかもしれないよ。
636 :
人間七七四年:2011/03/23(水) 08:36:36.25 ID:xAXyd76I
信行の息子が信長に尽くしているってのが大事だったのかも知れないね
信澄の方も自分の立場を理解して一門衆の筆頭としての立場で動いていたなら
本人が武将としては平凡であっても、織田家にとっては代え難い歯車だったんじゃないか
637 :
人間七七四年:2011/05/06(金) 16:01:54.40 ID:wNExOLB4
信孝も信澄も若くして死んでるからどの程度だったかってのはなかなかなあ。
638 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 20:20:13.42 ID:zzsOm6xd
2人とも信長が横死しなかったら大きく化けた可能性はあったんだろうけどな。
639 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 20:27:45.05 ID:xcnnbldE
ウリ達のワグネス息してない
640 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 20:29:47.45 ID:xcnnbldE
ごばくゆえご容赦願いたい
641 :
人間七七四年:2011/10/27(木) 01:20:38.01 ID:U/RLRX/c
信澄殺しage
642 :
人間七七四年:2011/11/29(火) 22:07:09.89 ID:sqFEOQz/
信孝には養家系の後見人いないの?
信忠には斉藤利治
信夫には木造具政
がいるけど
643 :
人間七七四年:2011/12/06(火) 18:04:11.50 ID:5eiGSh1H
┌縁者─岡本秀成
│ ┌岡本良勝(?)───岡本良勝(?)
│ │
岡本氏─┴────女 信長
│ ├───信孝
├───信孝生母
│ ├───小嶋少輔
坂氏 ┌小嶋氏
┌───縁者───┘ │
│┌───────────女
││ ┌─川口宗定┴─川口宗吉
││ 大橋定広─┴─大橋定安──大橋重長
└┴───┐ │
│┏━←養女━━━━┓ │
小嶋信房ー┴┻─女 ┌───くらの方(他の側室の子供かも知れないが)
├──┴─信長
織田信秀
一応岡本氏が後見だな。
644 :
人間七七四年:2012/03/11(日) 07:19:58.59 ID:Y3wsJVmL
神戸氏には居ないのかねやっぱり
645 :
人間七七四年:2012/03/11(日) 07:34:15.69 ID:9shf1ETg
長尾種常
646 :
人間七七四年:2012/03/11(日) 09:40:14.07 ID:zPY3Bw6d
647 :
人間七七四年:2012/03/17(土) 20:17:53.87 ID:9yQlzXDq
報いを待てなかった羽柴筑前。
ただいま外出中。
648 :
人間七七四年:2012/03/18(日) 13:55:38.93 ID:dn78M9Bn
ただいまァ
信孝死んでるね。
649 :
人間七七四年:2012/04/21(土) 15:44:19.41 ID:/e2YvoTk
信孝復姓後、神戸家の名籍は誰も継がなかったの?
650 :
人間七七四年:2012/04/21(土) 16:05:54.99 ID:0TMKCiw/
神戸具盛が生きてる
651 :
人間七七四年:2012/04/28(土) 16:12:01.65 ID:PcaOJIvd
『勢州軍記』の神戸良政は?
652 :
人間七七四年:2012/06/03(日) 00:22:45.23 ID:4OmaneKu
慶長5年(1600年)に具盛が安濃津で客死して、神戸家は絶家と
なった。
第4代神戸具盛の曾孫で、蒲生氏に仕えていた高島政房が神戸姓
を名乗り神戸家を復興し、子の良政が紀州徳川家に仕えて『勢
州軍記』等を著した。
653 :
人間七七四年:2012/06/03(日) 02:52:10.07 ID:HI/GMwWu
>>646 信忠と信孝の関係って実際どうだったんだろう?
654 :
人間七七四年:2012/06/11(月) 08:59:35.07 ID:fvxs281x
明治25年(1892年)11月24日付の「読売新聞」に、大阪府の平民が宮内大臣に系図などを添えて、信孝の嫡流、10世の子孫と称し、名乗りでたという記事を掲載している。
このほか岐阜に神戸氏を名乗る子孫があり、廣瀬氏などの分家を輩出しているという。
655 :
人間七七四年:2012/06/13(水) 20:50:58.83 ID:vQpNanRp
>>653 嫡男と他家へ養子なら特に対立すつことは
ないだろうと思う
656 :
人間七七四年:2012/07/14(土) 19:39:15.87 ID:GPYyYitK
「三七信孝もまた、将軍(信長)の御息男にして、智勇人に越えたり」(『天正記』)
「御覚え御利発の有様、残る所御座なく候」(『川角太閤記』)
657 :
人間七七四年:2012/07/18(水) 00:03:27.48 ID:5sa5EnK0
頭がよかったゆえのコンプレックス
信雄とは対照的なイメージ
658 :
人間七七四年:2012/09/25(火) 20:42:47.55 ID:6p1OAB9L
信孝の印「一剣平天下」が捺されてる書状を展示してる博物館ないかなぁ。
659 :
人間七七四年:2012/12/03(月) 01:01:00.46 ID:QgwQt2sf
頭は悪くないんだろうけど、自信過剰で野心家で人望が無いイメージがあるな。
信澄を明智方と思い込んで殺したり、近衛前久にも同じような事しようとしたりと短慮な面もある。
あと秀吉みたいな怪物にマジで対抗してしまったのが運の尽き。
660 :
人間七七四年:2012/12/21(金) 15:52:29.49 ID:kyDiEvld
織田信雄と比較すると気性の激しさが際立ってるよね
小牧の時以外は一貫して空気なままだった信雄とかなり異なる
武田勝頼に近いな
661 :
人間七七四年:2012/12/22(土) 00:27:07.03 ID:yLbUWFHf
勝頼って別に気性激しくないんじゃね
662 :
人間七七四年:2012/12/29(土) 12:10:01.37 ID:MFzEoV2x
一度目の挙兵失敗で大人しくしてれば信長の子だし、秀吉も切腹させる事はなかったと思うんだけどな。
さすがに美濃には置いておけないだろうけど、小大名で生きながらえたかもしれない。
663 :
人間七七四年:2013/04/05(金) 14:31:18.94 ID:9iQmYUFR
age
664 :
人間七七四年:2013/04/05(金) 18:14:00.19 ID:4vGVC7+y
切腹させたのは信雄だよ
665 :
人間七七四年:2013/05/03(金) 23:21:41.48 ID:PdIBjcc3
秀吉は信雄すら殺さなかったしな。
666 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 01:00:13.30 ID:Qxsv7eun
殺さなかったも糞も直接対決で大敗してるから殺せるわけがない
667 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 04:21:04.27 ID:P63Om3q2
犠牲者が多いだけで大敗ではない
そもそも大久保によると羽柴軍は10万以上だからな
5万人くらい消えてもまだ羽柴軍が優勢
668 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 07:33:50.87 ID:cztiZSu1
天正12年の秀吉と家康・信雄との戦役は
秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もって
ひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように
依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
秀吉に呼応する上杉の南下と
秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
秀吉と敵対する愚を犯した家康は最低最悪の戦略的大失敗を
犯しただけじゃんよ。
アンチ豊臣政権のキチガイ在日の捏造歪曲コピペ爆撃の必死さは買うけどよwwwwww
669 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 09:24:58.48 ID:Qxsv7eun
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
670 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 09:26:10.27 ID:Qxsv7eun
>>徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を奪われていき
>>空手形の発行をする始末だからねぇ。
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために
>>在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
会戦当初から徳政連発と貧国のために窮困状態
小牧長久手の戦いの時はむしろ大方の兵力は北条の変心と上杉の信濃出兵のため残されており
さらに夏には少ない兵力の半分を返している家忠日記当代記
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと
>>八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
>>友軍の離反を繋ぎ止めてるが、
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
218 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/23(土) 11:14:22.58
>>20万人が戦った関が原の戦いですら
>>旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を
>>8000人としているわけだし。
全く違う戦いあげて根拠にするとか意味不明
ただ逃散兵が多かっただけだろ
>>一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。
>>顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。
顕如日記は秀吉の過小歪曲フィルターがかかった捏造情報があとからもとらされただけ
>>家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。
>>三河渥美郡にある常光寺の日記
>>4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
織田徳川羽柴の書状にも見られないような局地戦と家康も無視している状況あげられて三河
が崩壊とか馬鹿ですか?
むしろこの戦いでも攻略失敗なんだから秀吉の負け
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
671 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 09:28:30.98 ID:ZGRnni1M
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めた三月の攻防だけだしな
不意打ち的に尾張上陸ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
672 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 09:36:47.34 ID:Qxsv7eun
>>秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もってひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
>>毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度兵力で柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
135000の大軍相手にわずか1万7千そこそこで優勢になるわけねーだろボケw
>>秀吉に呼応する上杉の南下と秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
圧倒的大軍がありながら他勢力頼みなのが秀吉。自力では規格外の大軍がありながら雑魚国力の信雄・家康相手に勝てないのがわかる
>>無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
673 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 09:39:50.69 ID:Qxsv7eun
秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)
まで2か月も経ってるな。大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない。戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意の
ハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
3月26日⇒佐竹 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明 秀吉⇒大御ちさま 加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元 小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他) 周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
674 :
人間七七四年:2013/05/04(土) 09:40:27.47 ID:Qxsv7eun
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね で、11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認?????? 明らかにデタラメ
>>信雄も家康も手も足も出ないほど追い詰められていた事実は動かない
当初去就が不明だった池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け 二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出なかったのが秀吉
675 :
人間七七四年:2013/09/15(日) 01:05:18.75 ID:IUNo1C5O
バカテスの木下秀吉について語りましょう。
676 :
人間七七四年:2013/09/23(月) 06:55:32.03 ID:boh32KSo
677 :
人間七七四年:2013/09/23(月) 09:07:38.76 ID:5kaNRLsN
678 :
人間七七四年:2013/09/23(月) 11:53:55.87 ID:jabZ1Y7w
だがだから無駄。特定ワードをNG入れとけ
679 :
人間七七四年:2013/12/23(月) 20:14:08.62 ID:7Jx4vbig
年末帰ったら関の地蔵(首塚)と神戸城址行ってみるわ
このスレ見てたら行きたくなった
680 :
人間七七四年:2014/03/12(水) 14:51:33.47 ID:tVEbL2+3
681 :
人間七七四年:2014/03/12(水) 15:05:30.11 ID:bG3fSb+t
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人間七七四年:
三七様御謀反