【第四巻】信長の正室濃姫・まむしの娘の謎

このエントリーをはてなブックマークに追加
596日本@名無史さん
>>572
信秀の娘が小嶋信房の養女として大橋重長に嫁いでいる。
これは信秀と大橋氏の抗争の和睦のためだとされていて、
その後大橋氏は信秀に従うようになるので、関係は深かったと考えられる。
その大橋氏の記録で、信秀正室が小嶋信房息女なのだが、
なぜ、信秀の娘が嫁ぐ時、小嶋信房の養女としてなのか疑問だったが、
正室が小嶋信房息女なら、別におかしくはないと、改めて思った。

実は、織田信孝の異父兄とされる小嶋少輔という人物がいて、信孝の神戸氏粛正時に
山路氏に変わって高岡城主になっている。
この人物は小嶋信房の縁者と考えられている。

家康の祖母は大橋氏の二男の川口氏に嫁いでいるが、川口氏より前の松平清康と婚姻したとき、
取り持ったのが岡本善七秀成といわれている。
また、この岡本秀成は、信孝の生まれた家である熱田の岡本氏の関係者だが、大橋氏の縁者ともいわれている。
ちなみに、岡本良勝は信孝の母方の大叔父だという説があるな。
家康の祖母が川口氏との間に生んだ川口宗吉は、小嶋信房の娘と婚姻している。

かなり大橋氏、小嶋氏、岡本氏辺りと織田氏は、かなり密接な関係があると思える。
信孝も、その関係で母親が信長の側室になったのかもな。
597日本@名無史さん:2007/06/07(木) 13:20:44
>>596
なるほど。密接な関係があるのは信雄生母の生駒よりも、信孝生母の
坂氏の関係の岡本家なわけだ。
だとすると、やはり生駒の縁者である戸田氏が信長生母であるというのは
でたらめだということになるな。
だけど、小嶋信房息女が信長生母かもと思えるけど、でも一方で
佐々木六角高頼息女説もあるんだよね。
一体どっちがほんとなんだろ。
598日本@名無史さん:2007/06/07(木) 14:00:17
>>597
>佐々木六角高頼息女説
「美濃国諸旧記」の記載だから、江戸中期の記録なので、
大橋氏に残ってる記録の方が確かだと、自分は思うがな。

>>596を書いてて思ったんだが、家系図的には


     ┌岡本良勝(?)ーーー岡本良勝(?)
     │
岡本氏ーー┴ー女    信長
      │     │
      │     ├ーーー信孝
      │     │
      ├ーーー信孝生母
      │     │
      │     ├ーーー小嶋少輔
      │     │
      坂氏    小嶋氏

           大橋重長
            │
     ┏━←養女━┓│
     ┃     ┃│
小嶋信房ー┻ー女  ┌くらの方(他の側室の子供かも知れないが)
       │  │
       ├ーー┴ー信長
       │
     織田信秀

こんな感じなのかな?(ずれてたらすまん)
岡本良勝が祖母の兄弟なのか、甥辺りなのか分からんが。
599日本@名無史さん:2007/06/07(木) 14:24:53
信長の父親の信秀の縁談ということは、祖父信定の時代の政略的なことが絡んでくると思う。
織田信定はまだ清洲三奉行の一人にすぎなかったものの、勢力を拡大し
津島の港を手中に収めてる。ここを基盤に信定系織田家は発展していくんだけど、
そう考えると信定の代で津島に土着していた津島衆といわれた尾張津島四家七党との
関係はとても重要だったと思うんだ。
岡本家も大橋家も四家の一つだし信定・信秀の代では津島を支配する
上では津島衆と婚姻関係を結んで姻戚関係になり、基盤を固めることが必須だったのでは
ないかと考えられる。

逆にその当時の土田氏と織田家が婚姻関係を必用とされるほどの関係だったかは
疑問。土田氏が織田家に降った証に土田御前が信秀の側室になったのは事実で、
それがどういうわけか正室というふうに伝わったでのはないかな?
600日本@名無史さん:2007/06/07(木) 14:31:40
つまり坂氏の出自や信孝の後見人たちの出自はまったく問題ないわけだな。
むしろ生駒家の方が当時は格下のようだ。
601日本@名無史さん:2007/06/07(木) 14:39:43
しかし、信秀時代の土田氏は、生駒氏の関係から犬山城の信康、信清親子についてたんじゃないか?
そうすると、信秀ではなく信康の方に側室を出してた方が自然に思うんだが?
信康正室の出自は不明だったと思うが、こっちが土田氏ならまだ分かるんだが。
602日本@名無史さん:2007/06/07(木) 15:26:36
そもそも土田氏と生駒氏の関係もあいまいだし、怪しいよ。
小折と美濃の遠距離で、なぜ土田氏から養子を迎えたというのも不自然だし。
生駒の最初の旦那の土田弥平次もどこの土田氏だか詳細は不明だし。
姻戚関係にありながら後年の生駒家に土田氏と名乗る武将はまったく
見当たらないというのも変な話だ。
603日本@名無史さん:2007/06/07(木) 15:41:43
土田弥平次は明智の家臣で土田城の城主の二男といわれているな。
604日本@名無史さん:2007/06/07(木) 15:50:21
土田御前の実家の土田氏は出自が2説なかった?
605日本@名無史さん:2007/06/07(木) 15:50:55
>>602
>小折と美濃の遠距離で
別に遠距離じゃないと思うが。
美濃と言っても、土田城があったのは可児市土田。
犬山の近くだぞ。
606日本@名無史さん:2007/06/07(木) 15:53:19
>>604
>土田氏は出自が2説なかった?
小折の土田(どた)氏と清洲の土田(つちだ)氏

でも、ここまでくると、信忠生母、徳姫生母、永姫生母、土田御前、生駒直勝と
生駒絡みの捏造か?ってことばかりで、一体どうなんだって感じだな。
607日本@名無史さん:2007/06/07(木) 16:35:02
ホント捏造もここまでとは凄いね。
戸田氏が信秀正室であるのも嘘なら、その子信長の正室に生駒がなったって
のも嘘だし、信忠生母も嘘だし、信長の隠し子を養子にもらったのも嘘。
ここまで嘘だと、さすがに徳姫生母も嘘かと思えてくる。どう考えても
徳姫と生駒のつながりもないし、なのになぜか永姫生母の件や金沢の久昌寺
の件は無視。
徹底的に信長とのみ深い縁があるかのように装っただけか。
608日本@名無史さん:2007/06/07(木) 16:45:34
家系を強引に源氏や平氏にしちゃった寛政期の武家のこととは
ちょっと問題の質が違うよね?

信長とそこまで深い縁をもちたがるというのはむしと現代人の発想のような
気がしてならない。家系図製作が本業だった武功創作者。
やりやがったな?と思うのは俺だけ??
609日本@名無史さん:2007/06/07(木) 16:51:06
秀吉の与力で、どっぷり秀吉方と思われていたのに、
関ヶ原で息子を東軍につかせ、親父は西軍につくも出陣しない生駒家だぞ。
秀吉方じゃないと、徳川にアピールするために、信長との関係を強調しまくったんだろ。
信忠や、信孝の家系が残っていたら出来なかったかも知れないが、
幸い生き延びたのが、生駒筋の信雄だしな。

武功創作者といわれている人物だけなし得る事じゃないよ。
610日本@名無史さん:2007/06/07(木) 17:10:17
だけど、それが問題なのはろくに調べもせずに、生駒文書や
武功夜話だけを見てそれを史実かのように宣伝した一部の
歴史家やマスコミでしょう。
それも全く他は史料がないならわかるけど、「津島大橋記」
とかで信長の生母ははっきりと小嶋信房息女だと書かれているし。
信長正室の件も信忠生母の件も、他の史料を照らし合わせてみれば
生駒関係の文書はおかしいと気づくはず。それがなかったのは
捏造と知ってて宣伝した確信犯か、あるいは歴史家の勉強不足。
611日本@名無史さん:2007/06/07(木) 17:19:07
>>609
信長との関係を強調するために・・
というが、信長の次男信雄は生駒氏が生母だし、信長との関係といっても
それだけで十分じゃないか?
なぜそれ以外で捏造する必要がある?
全く酷い話だよな。
612日本@名無史さん:2007/06/07(木) 17:37:38
俺は久昌寺に腹が立つ。
あの怪しげな久昌寺縁起や名前忘れたけどもう一つのさらに怪しい
史料はなんだ?武功の吉乃に関する箇所はこの寺の史料がソース
じゃないかと思ってるんだ。
613日本@名無史さん:2007/06/07(木) 17:37:42
>>610
津嶋大橋記の記述については、歴史読本に出典付きで載ったくらいだから
実際にある文献なんだろうが、どこに保存されているとか、
書籍化されているのかも分からないな。
一度読んでみたいのだが、どこで読めるか教えて欲しい。
614日本@名無史さん:2007/06/07(木) 17:39:58
生駒家どころか織田家にも土田と名の付く家臣がいないよな?
正室の実家なら誰かしら嫁ぎ先にも一族のもんがいるだろうに。
615日本@名無史さん:2007/06/07(木) 18:30:05
信忠の子の三法師の生母は武田の松姫だという怪文書が
以前に2ちゃんで話題になったけど、
(あの文書を肯定する動きがあったのは驚きだったが)
あれには信忠の母は吉乃と記述があったらしい。

捏造が捏造を生む例のひとつだな。
616日本@名無史さん:2007/06/07(木) 18:33:26
 ┌縁者ー岡本秀成
 │  ┌岡本良勝(?)ーーー岡本良勝(?)
 │  │
岡本氏ー┴ー女    信長
      │     │
      │     ├ーーー信孝
      │     │
      ├ーーー信孝生母
      │     │
      │     ├ーーー小嶋少輔
      │     │
      坂氏  ┌ー小嶋氏
┌ーーーー縁者ーーー┘
│┌ーーーーーーーーーーーーーー女
││              │
││      ┌ー川口宗定ーー川口宗吉
││      │
││ 大橋定広 ー┴ー大橋定安ーー大橋重長
└┴ーーー┐           │
     │┏━←養女━━━━━┓│
     │┃         ┃│
小嶋信房ー┴┻ー女  ┌ーーーくらの方(他の側室の子供かも知れないが)
        │  │
        ├ーー┴ー信長
        │
      織田信秀
617日本@名無史さん:2007/06/07(木) 19:59:09
>>613
「津嶋大橋記」ですが、昌平坂学問所旧蔵本ということで国立公文書館で
見れるようですよ。
618日本@名無史さん:2007/06/07(木) 20:10:16
坂氏が北伊勢の豪族関氏一族の庶流の一つだが、どこで岡本家と接点ができて
坂氏に岡本家から嫁をだすことになったのかな?岡本家が信孝生母の母方実家
という説が正しいのであればだけど。

「勢州軍記」によると、信孝が神戸家に養子に行った時に同行したのが、
幸田彦右衛門(乳母の夫)、岡本良勝(生母の母方親族)、坂仙斎(生母親族)
坂口縫殿介(坂仙斎と同一人物という説あり)、河村氏(津島七党の一家の河村氏か?
)、それ以外の三宅氏、山下氏は不明だけど、織田家の有力家臣でないことは
確かだ。

岡本氏は信孝の家老としてぎりぎり最後まで行動を伴にしているし、
事実上生母の実家みたいだ。
信孝生母は岡本良勝の息女で坂氏の養女になってから信長の側室になったのかもよ?
619日本@名無史さん:2007/06/07(木) 20:34:05
>>628
自論なんだけど、坂氏が本家から離反しようとしていて、
その仲介役が岡本家だったんじゃないかな?
本格的に織田家にくだった証に側室に差し出したのが信孝を生んだ坂氏だったんじゃ
ないかなと。
620日本@名無史さん:2007/06/07(木) 20:57:56
>>617
ありがとう
621日本@名無史さん:2007/06/08(金) 03:34:24
【織田信長は悪人扱いされすぎ】
あの時代の坊主(主に一揆)って武装して大名に媚を売り平気でレイプやら殺人 略奪を繰り返した
わけで!むしろ罪もない平和な外国に侵略して国を戦争カオス状態にし3万から10万人を鼻そぎし虐殺し内戦を引き起こた
秀吉のが悪人
ブッシュ並みの悪人だ!
俺は最近の秀吉がまるで善人みたいに描かれているのが気に食わん!
秀吉の大河うざい!
後徳川家康も凄い悪人だ!250年も部落身分固定して何十万人も苦しめたり日本の歴史の中で一番重い刑罰を市民に科した悪人
大体信長はこの2人程悪人ではない
ただ戦争でほかの大名より多く
の悪い僧を殺しただけなのだ
622日本@名無史さん:2007/06/08(金) 05:23:03
あのさぁ、嘘だと確定したわけじゃなく 
あくまで推測だろ? 
状況がそうだからといってなんでもかんでも 
確定させるというのは危険じゃないのかな。 
 
それになんでそんなに親の敵のごとく 
武功ばかりを叩くわけ?結局自分たちが 
釣られていただけだろ?
623日本@名無史さん:2007/06/08(金) 06:12:06
じゃあ、武功が正しいことを言っているという根拠を示しな。
信長生母が生駒文書にある戸田氏でなく、別人という資料は
複数の文献にあるしな。
信忠生母だって生駒でなく別人だということははっきりしている。
生駒が信長正室になったってのも、そうはっきりと書かれている
文献をまず出せよ。ないだろ?
ここまで証拠がそろってて、まだほざくのかよ。
何が単なる推測〜だよ。はっきりとソースがあるからいってんじゃないか。
624日本@名無史さん:2007/06/08(金) 07:42:16
歴史の検証なんて臆測でしか成り立たない。
一次史料ですらばらつきがある。

あらゆる可能性を考えたり、違った角度からの検証が叩かれる理由はない。

基本的にここのスレは「武功夜話は偽書」という前提で話が進めているので
それが不愉快なら「武功夜話は偽書ではない」という前提で信長や
その周辺のことを語るスレをたてればいいと思う。
625日本@名無史さん:2007/06/08(金) 08:01:28
相変わらずな言い訳ぶりに萎え
626日本@名無史さん:2007/06/08(金) 08:04:42
>>621 >>むしろ罪もない平和な外国に侵略して国を戦争カオス状態にし
3万から10万人を鼻そぎし虐殺し内戦を引き起こた

これも歴史的には珍しいことでもなんでもない。
大陸でもヨーロッパでも繰り返されてきたこと。
現に日本も大陸からの侵略をされかかっている。
秀吉があの時代には珍しく大陸的な発想の持ち主だったというわけだな。
627日本@名無史さん:2007/06/08(金) 08:33:35
>>623
戸田氏じゃなく、土田氏だよ。
小折の土田氏だと「どた」と読むから変換間違えたのか、
勘違いだろうけど、気をつけてな。

武功が偽書かどうかはともかくとして、
当時の信憑性のおける史料を検証するのは大切だな。
言継卿記やその他の公家の日記などの一次史料や、
古くから重要な資料として保存されてきた資料は、
やはり、歴史の保管には重要だと思う。
津島大橋記も、干城録も、来歴を調べると、
調査対象としては、有力な物だな。
いろいろ範囲を広げて、信長関連を調べていくと
複合的に公証できるだろうな。
628日本@名無史さん:2007/06/08(金) 08:42:04
土田氏を信長生母と明記しているのはどの史料なの?
生駒家からの視点でしか残されていない史料だけを鵜呑みにするのは危険。
肝心の土田家ではどういうことになってうのかな?
629日本@名無史さん:2007/06/08(金) 09:01:21
>>623,624
偽書は結構。自分も偽書だと思ってる。
ただ資料に自分の都合のいいこと書いてあったからこれが正しいんだな!
みたいなノリはどうかと思うぞ。
単純に「そういう可能性もありうると示唆する文献がある」程度のこと。
自分の知らなかった話や、自分は今まで暖めてきた説を披露したい気持ちはわからなくもないが
ちょっとのぼせすぎ。
冷静になって考えてみろ。ここは2ch。いくらお前らが「この説は捏造でこれが正しい」って
叫んだところで結局井の中の蛙。
説を唱える事。説の内容がどうこうってわけではなく、
井の中の蛙である状況を把握せずにあたかもここが学会であるかのように
誇らしげな態度がかなり痛い。
いくつなんだか知らんけど、文献解読できるほどの年齢だから二十歳はこえてるだろうし
いい加減ちょっと逆上せ上がらずにできないか?
ここのノリは同人サイトかと思うほどちょっと異様だぞ。
630日本@名無史さん:2007/06/08(金) 09:22:22
生駒家や信雄系統が関わってない史料では知らないな。
だから、昔から土田御前の出身は諸説あるんだし、
武功夜話で小折土田氏だって事になったが、未だに根強く清洲土田氏説も
残っているんだから、はっきりしないのは確かなんだろう。
美濃国諸旧記に信長生母が佐々木六角高頼息女とあったから、
信長は庶子で信勝(信行)が嫡子なので後継者争いが起きたと言う説もあったくらいだ。
おまけに、当時の織田家に近しい大橋氏の記録で、小嶋氏となっていれば、
また違う候補が出てきた事になるしな。
小嶋氏は、傍流が残っているので、その辺から調べられないかと思うが。
小嶋氏が信長生母で産後すぐ亡くなって、土田氏が継室に入って信勝を生んだ
なんて事も考えられるが、後年の信長のお袋様の人質へなんて持ち出し方を見ても、
それは考えにくいしな。

土田氏が、織田家の家臣として取り立てられていないのも不審だが、
小嶋氏の方も聞かないしなぁ?
小嶋少輔は城主にされているが、信孝関連だろうし。
生駒氏は秀吉の家臣扱いだし、織田家としては信雄の側近につけたくらいしかないし。
だが、信長が岐阜にいた頃は、小嶋氏の住んでいた薮田に住んでいたといわれているし
全く繋がりがない訳じゃないだよな。
631日本@名無史さん:2007/06/08(金) 09:27:00
>>629
まぁ、どちらも冷静に。
いろんな史料を検証できるんだからいいじゃまいか。
信秀正室と信長生母が同一人物とも限らないし、
可能性は低いが久庵慶珠が生駒かも知れないし。
同じ文献を検証するにしても、噛み付くだけじゃなく
別視点での見解を示してくれるとありがたい。
632日本@名無史さん:2007/06/08(金) 09:33:33
>>629 
>>冷静になって考えてみろ。ここは2ch。いくらお前らが「この説は捏造でこれが正しい」って
叫んだところで結局井の中の蛙。


書いてる本人がそれで満足ならいいじゃないか?
大きなお世話だ。
自分こそこんな2チャンの書き込みぐらいのことを大げさに考えて
のぼせすぎw
633日本@名無史さん:2007/06/08(金) 09:42:08
>>630
信長、信行の後継者争いがおきたのは二人とも正室の子、
つまり先妻と後妻の子同士だったため、というのが可能性が高いような気がする。
信秀が亡くなって、後妻の権限が強くなったので信行擁立派が、
生母の実家がらみの側近もいたろうし、強気にでたとか?

信長は2才から嫡子として扱われたから側近は生母の実家のものが
入っていないかもしれないが(恐らくいただろうけど補佐程度だと思う)、
信行の場合は側近に生母の実家関係者が中心的な役割でいたと思うんだけど、
そのあたりで推測できる人物はいないか?
634日本@名無史さん:2007/06/08(金) 09:49:00
>>ただ資料に自分の都合のいいこと書いてあったからこれが正しいんだな!

誰も正しいなんて主張してないがな。
ただ、生駒とは別の複数の史料に信長生母やその他の内容に、
生駒文書とは違うことが書かれているから、生駒文書の信憑性が
疑われているってことだろ?
しかも検証していくと、生駒文書以外の他の史料の方がそれなりの
根拠があると考えられるんだから、仕方ないだろ。
635日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:06:12
>>633
だとすると、信長と信行の同腹説は違うことになるな。
信秀が正室をもらったのは二人だと思われていたが、実は三人正室を
娶ったかもしれないってことかな。
最初の正室が織田大和守で、次が小嶋氏?もしくは佐々木氏?三回目が
戸田氏?ってことになるのかな?
636日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:07:43
>>633
でもそれだと、荒木村重の謀反の時に、信長がお袋様を人質に差し出すって
交渉したのと合わないんだよ。
その交渉をした時点で、お袋様が生きていなくてはならない。
信長自身がお袋様と言っているから、それは生母の事になるしな。
継母をお袋様とは呼ばないからな。
637日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:18:11
「信長公記」のやつだな。
でも荒木の謀反でなんで信長がへりくだって自分の生母を人質に
だすんだ?とすごく不思議なんだけど。
勝敗は明らかで、げんに本人逃亡、妻子処刑という結果に終わってる。
秀吉が家康に生母を人質にしたけど、ああいう力関係とは
全然違うわけで、荒木の謀反も謎が多いけど、
御袋様を人質にという箇所も不可解だ。
638日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:26:18
>>637
それを実際に言ったかどうかは別としてだな、
荒木の謀反時には側近だった太田牛一が、
創作するにせよ、継母をお袋様とは書かないってことさ。
639日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:28:44
かきわすれた。

だから、荒木謀反時には、土田御前(という名前だったとは限らないが)は
信長の実母という認識が周囲にあったということ。
また、生母が離縁されて、継室が土田氏だったとしても、織田家を離れて実家に戻った女性を
織田家のために人質にはしないという事だな。
640日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:34:47
>>638
ということは、やはり信長生母は小嶋氏?か佐々木氏?かは
わからないけど、荒木謀反事件の時は生きていたということだよね。
でも大名家では代々、母方の実家の一族が側近として仕えるのが
普通だったなら、信長の側近に母方の一族がいないとおかしいけど、
確かにそう考えると信長の周りに母親の一族らしい人がみあたらないのが
とても気になるな。
あと、荒木の謀反になんで信長生母が人質に?というのも意味がわからない。
ホントに信長がそういったのなら、荒木一族と信長生母と何かつながりがあるのかな。
641日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:47:21
単純に、信長は荒木が好きだっただけかも知れないが、
何しろ、明智光秀の娘を荒木の嫡男の嫁に斡旋しているしな。
642日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:59:39
この時代の御袋様という呼称はどちらかというと子供を産んだ側室に対して
つかわないか?正室なら御方様や大方様とか。正室の母なら御母堂様とか。
牛一の立場で信長生母、つまり先代の正室を御袋様と称するのは違和感あるけど。
643日本@名無史さん:2007/06/08(金) 11:04:10
>>641
信長は優秀な人は取り立てて使う人だったから。
荒木の謀反にしても本気にしてなかったのかも知れないな。
説得に際して、自分の母親を人質にだそうとまでしたなら、荒木を
よほど信じていたんだろう。
松永久秀も許されているし、信長ってホントお人好しだったのかも。
なんか荒木謀反は誰かにハメられたのかも知れないな。
644日本@名無史さん:2007/06/08(金) 11:15:56
戦国期は主君の鞍替えは当たり前だし、気に入らなければ
別の大名のところにいけばいいわけだ。
謀反という言葉はそれこそ光秀みたいにある日突然主君を殺して
乗っ取りを図ることをいうわけで、荒木の場合はなんか違うような気がするな。
妻子をすてて逃亡したなんていう武士として最低のことをしておきながら
市民権を得てその後も生き延びてるあたりからしても。
645日本@名無史さん:2007/06/08(金) 11:18:14
>>642 確かに武家では正室のことは実母であっても御方様と呼んでいたらしいし、
側室である淀殿はどんなに権力を掌握しても諸侯から御袋様と呼ばれていたね。
646日本@名無史さん:2007/06/08(金) 11:50:20
確かに信長の立場なら御袋様なのかも知れないが、
牛一の立場なら、御袋様という表現はおかしい。
だとすると信長生母は信秀の正室ではなかったのか?
でもそれならなぜ信長は生まれてから2歳の時に早々と
嫡男としての教育を受けたのか?
信長が信秀の最初の男子誕生ではなかった筈だし。
信広という兄がいた筈。
だけど、こんなに有名になって一時は天下人として君臨していた
信長の生母が誰かわからないなんて・・・ちょっとな。
しかも正室だと言われているけど、もしかしたら違うのかも知れないし。
本当に織田家の女性は謎だらけだな。
647日本@名無史さん:2007/06/08(金) 12:51:33
信長の生母がどこの誰かというのは、いまだはっきりしないけど、
でもこの人ちょっと変だなって思うところはある。
まず、信秀死後に早々に信行派に加担して、信長を討とうとしている。
というか信行一味に加わっている。
いくら2歳のときに信長を手元から離されたて愛情を注いでいる時間がなかった
からといっても、織田家を継ぐ嫡男としての教育を受けているのである。
息子が立派に成長する姿を影ながら見守っていくのが普通ではないのか。
なのに自分の息子ふたりをあえて対立させている。というかそういう行動をとっている。
また、信長死後だが織田家の親族が誰も秀吉主催の葬儀に出席しないのに、
なぜかお鍋や他の信好生母や秀勝生母と一緒に出席している。
一説では信長の妹お市も信長と同腹ではないかという話だが、
それならなおさら、お市が秀吉主催の葬儀に出ないのに、信長生母が出席
したのかという疑問もある。その辺りちょっと解せない。
648日本@名無史さん:2007/06/08(金) 13:01:15
葬儀に出た信長母という女性は、信行の助命嘆願を申し出ているから信行の生母
であることは間違いないんじゃないかな。
それと最終的に信包のもとに身を寄せたから信包の生母であった可能性も高いと思う。
お市はちょっと判断しかねるな。
信包のもとに親子で身を寄せていたからあるいは信行・信包・お市は同腹なのかも
しれないけど…?

信長に関しては5分5分。
政宗生母や家光生母の例もあるので、実母であっても家臣や実家の兼ね合いから
我が子の廃嫡を望む場合もあったと思う。
信秀もばりばりの政略結婚だったろうから、離婚再婚を繰り返していたとしても
おかしくないし、信長がわずか2歳で家督を譲られたというのも、後室に
男子が生まれた場合を見越しての信秀の策かもしれない。
649日本@名無史さん:2007/06/08(金) 13:40:49
可児と言えばぷらっとホーム
650日本@名無史さん:2007/06/08(金) 15:21:27
信長公記の荒木村重の逆心の時の「御袋様」は、
解釈の仕方はいろいろあるが、村重が信長に対して
村重生母を人質に差し出したという解釈の方が、
普通だと思うのだが。

現在信秀の没年は天文21年が有力だと思うが
信勝が稲生の戦を起こすのはそれから4年後だし、
死後早々って訳でもないと思うが。
信秀と信勝が同じ城に住んでいたから、
正室も信勝と一緒に住んでいて
死後も引き続き一緒に住んでいただけで、
積極的に謀反を焚き付けた証拠もない。
651日本@名無史さん:2007/06/08(金) 16:05:27
稲生の戦いは、信秀の死後というより道三の死後じゃないかな。
信秀死後に道三と信長の会見があって、その後道三が援軍を出したり
信長に全面的に協力するようになったから、信行派も手が出せなかった。
道三の死後、信長に協力する勢力がいなくなってから、謀反をおこした
のではないかな。
652日本@名無史さん:2007/06/08(金) 16:11:33
それはもちろんそうだろう。
ただ、信秀死後、道三との会見まで1年以上ある訳だし
そうなると、信長死後早々に信秀正室も加担して
謀反を起こしたかといわれると、違う気がする。
林美作などの方が、正室を利用した感じはあるがな。
653日本@名無史さん:2007/06/08(金) 16:12:35
>>652
>正室を利用した ×
信秀正室と同居しているのを利用した ○
654日本@名無史さん:2007/06/08(金) 16:41:35
>>650
荒木謀反事件の御袋様を人質に差し出す〜のは信長側でなくて
荒木側だったってことだよね。でもそれがなぜ信長側が人質に
母親を出すって解釈されているのだろう。
一般的な解釈はどちらになっているの?
655日本@名無史さん:2007/06/08(金) 17:24:57
>>654
おそらく、どちらも解釈されていると思う。
気になって、手元にある信長公記の訳本を見たら、
信長側も、荒木側もあった。
荒木側が差し出したとしている訳本の方が、最近の物だ。
個人的には、「安土日記」に信長生母が中川清秀に荒木から離れた事の褒美に
槍を下げ渡していると書かれている事から、荒木と何か関係があったと推測しているが、
「信長公記」の記載はどちらにも解釈できるようにも思う。

「十月廿一日 荒木摂津守、逆心企つるの由、方々より言上候。不実におぼしめされ、
何篇の不足候や、存分を申し上げ候はゞ、仰せ付けらるべき趣にて、宮内卿法印、
惟任日向守、万見仙千代を以て仰せ遣はさるるのところに、少しも野心御座なきの通り、
申し上げ候。御祝着され、御人質として、御袋様差し上げられ、別儀なく候はゞ、出仕候へと、
御諚候と雖も、謀反をかまへ候の間、不参候。」
656日本@名無史さん:2007/06/08(金) 18:35:57
「逆臣の噂がたっているが、人質として荒木のお袋さんをよこすことに
差し障りがないようなら信用してやるので、出仕せよ〜」

と解釈できるのだが。

どう解釈しても信長が実母を差し出すという流れには読めない。
状況から信長が家臣の荒木に人質を差し出すわけもないしな。
657日本@名無史さん:2007/06/08(金) 19:01:48
>>少しも野心御座なきの通り、申し上げ候。御祝着され

少しも荒木に野心がないことを(信長に)申し上げた。
(信長は)大変お喜びになり・・・

となるから、確かに荒木の母親を人質に〜という話の流れでないと不自然だ。

何で信長生母人質説が否定されずにあるのかが不思議だ。
謙譲語の使い方からして解釈が二通りになるはずがない。
658日本@名無史さん:2007/06/08(金) 20:01:57
時々思うんだけど、少し昔の、ネットがこれほど普及してなくて、
出版されていたり、直接原文を国会図書館なりに見に行くしかなかった頃の
古文書解釈って、絶対今の自分たちよりも古文書に近しく接している年代の
はずなのに、解釈がどう考えても間違ってるよなって思う物多くないか?
確かに、多面的にいろいろな文献を見る機会は今の方があるから、
おかしいだろうと思う目も肥えているのかも知れないが、
それ以上に、自分以外にはあまりその文献は見る者いないだろうなんて思って
自分の論説に都合のいいように解釈してるんじゃね?って、思う事ないか?
659日本@名無史さん:2007/06/08(金) 21:08:58
「御袋様」という言葉一つでここまで検証が広がるここのスレの住人は
すごいかも・・・
660日本@名無史さん:2007/06/08(金) 21:55:53
つかここでの内容そのまま誰か論文で出せないのかね?
一昔前の間違った捏造説さえも恥ずかしげもなく出していた史家もいるし、
それに比べればここは検証がきちんとしていて、真実を突き止めたんだから
誰か論文書いて現在はびこっている生駒厨を黙らせるようなものを仕上げて欲しい。
661日本@名無史さん:2007/06/08(金) 21:56:34
>>632
それはチラシの裏に書いてろって言われるもんだな。
662日本@名無史さん:2007/06/08(金) 21:57:25
自分達の都合いい方向に進むように 
解釈するんだからそりゃいろいろと広がるべな。 
検証とは実に便利な言葉だべよ
663日本@名無史さん:2007/06/08(金) 22:00:46
>660 
はいはい真実真実w
664日本@名無史さん:2007/06/08(金) 22:02:58
>>662
それでは>>662の解釈を教えて欲しい。
まったく違う解釈があっても然るべきだと思ってるよ。
感情的にならずに納得のいく根拠を述べ、理論的な見解で頼む。
665日本@名無史さん:2007/06/08(金) 22:35:31
妙な煽りを書き込んでる暇があるんだったら、史料でも色々とあさって
ここの流れとは違う解釈でも書き込んでくれればいいのにね。
666日本@名無史さん:2007/06/08(金) 22:51:47
>>665
662みたいな批判を冷静に受け止めないで、
聞き飽きたような逆切れをするのは
いつも同じ奴だろうな。
こう言うのに限って、解釈なんでして無いのだろう。
667日本@名無史さん:2007/06/08(金) 23:14:33
>>662
都合のいい方向へ解釈というが、生駒厨といわれる人だって
自分の都合のいいように解釈してるんじゃないか。自分はあまり
厨〜とか言いたくないけど。
しかも史実に基づいていない根拠のない妄想や解釈をしている人を
未だに見かけるけど。
〜だった。〜に違いない。ってここの住人が決め付けていると言うけど
逆に決め付けている一方的な断定は生駒厨と言われる人の方だと思うけど。
ここでの検証が生駒を否定するものだからといって、荒らしに来るし。
反論するだけの根拠や資料を出してと言われても出さないし。
668日本@名無史さん:2007/06/08(金) 23:41:04
>>666
そういうレスも飽きた
669日本@名無史さん:2007/06/08(金) 23:46:29
勝てば官軍的なもの言いは如何なものかと… 
正直生駒を否定されていることに対しての 
反論は見受けられないのだが… 
それに生駒が最愛の女性だったと 
力説している人もいないのだが… 
 
いい加減批判する人=生駒厨という見方ぐらいは 
改めるべきだろうし生駒厨でなくても 
濃や信長好きでもここの流れなどがおかしいと 
思う人ぐらいは普通にいるだろう。 
 
そして定説だの真実だの決定だのと 
断定的な書き方は反発をくらいやすい傾向に 
あることも理解すべきだろう。
670日本@名無史さん:2007/06/09(土) 00:14:20
生駒で思い出したけど、読売新聞の連載小説は「小督」が主人公なんだけど
例の吉乃が死んだ時信長が寺のある方を眺めては涙したってエピが出てきたよw
秀吉が信長に仕えるきっかけは生駒ってのも。
おそらくこの物語の中の濃姫は早死にしてるんだろうな。
671日本@名無史さん:2007/06/09(土) 00:28:23
>そして定説だの真実だの決定だのと 
>断定的な書き方は反発をくらいやすい傾向に 
>あることも理解すべきだろう。

釣るためにわざと書いてるのかもね。
毎回すぐ釣れてこのパターンになってるし。
672日本@名無史さん:2007/06/09(土) 03:05:48
利用価値の無い者は信長なら殺すだろ
信長クォリティーだからな
673日本@名無史さん:2007/06/09(土) 03:22:58
利用価値のない者を、信長が殺したなんて話は聞いた事ないな…
674日本@名無史さん:2007/06/09(土) 06:25:10
>>672
実際に、信長が殺したとされる利用価値のない者って一体誰のこと?
信長は特に理由のない殺しはしてないと思うが・・・
根拠は?
675日本@名無史さん:2007/06/09(土) 06:37:20
>>671 
要するにここは釣り堀なんだねw 
なら戦国板でやれば?
676日本@名無史さん:2007/06/09(土) 06:49:52
>>660
論文って誰でも出せるの?
677日本@名無史さん:2007/06/09(土) 07:22:15
>>669
断定的な物言いになっても、文献上そうと受け取れるのだから
しょうがないんじゃないかな?
生駒が信長最愛の妻であり、正室になったというものだって
単なる自分の希望を形にした捏造にすぎなかったのに、断定してたじゃん。
ここの意見はきちんと当時の文献を考察して、その上で断定している。
それの一体何が悪いの?

>>676
まずは歴史読本みたいな雑誌に投稿してみるとか・・・?
私は文才ないし、ちょっと無理そうだけどorz
678日本@名無史さん:2007/06/09(土) 07:57:17
>>669
真実があきらかになるのがそんなにいやなの?
生駒継室になり信長最愛だったっていうのも、何か根拠のある史料や文献など
があるならともかく、いくら武功の話を真実だったって言ったって、実際には
信長の行動にそれが表れていないからね。考察を普通にしていくと、どうしても
生駒関係の話は捏造という結論しか出ないよ。

>>677
歴史読本って、専門家が自分の研究なりを出す本ではないの?
全くの素人でも出せるのかな?
ここでの検証に出ている話でも、すでにどこかで発表されている説もある
と思うのですが。前に発表されていた説でもいいのでしょうか?
679日本@名無史さん:2007/06/09(土) 08:01:51
>>677,678
別に>>669は生駒が信長最愛だとは言ってないし、
そもそも生駒が信長最愛という説に反論する事自体を否定してもいない。
680日本@名無史さん:2007/06/09(土) 08:02:44
とりあえず、これまでのここでの検証のまとめサイト作ったほうが
早くね
681日本@名無史さん:2007/06/09(土) 08:22:24
この辺に投稿すればいいんじゃないか

財団法人史学会
ttp://wwwsoc.nii.ac.jp/hsj/
投稿規定
ttp://wwwsoc.nii.ac.jp/hsj/
682日本@名無史さん:2007/06/09(土) 08:40:16
歴史読本の「霊界通信」で濃姫を呼び出して真相を聞いて欲しい。
(まだあったっけ?このコーナーw)
683日本@名無史さん:2007/06/09(土) 08:52:40
もし聞くなら あと、勝長の母親が誰かも聞いてくれ〜
684日本@名無史さん:2007/06/09(土) 09:13:41
>>682 
以前そのコーナーで信長を呼び出した時に 
お濃のことも聞いていたけど 
殺したとの返事だったよw 
理由は邪魔になったとかではなく 
口うるさいだが生意気だかだったと思う。 
子供は一度妊娠しだが落馬で流産したそうだ。
685日本@名無史さん:2007/06/09(土) 09:32:02
>>684
それ、いつ頃のこと?
686日本@名無史さん:2007/06/09(土) 09:47:24
>>684
ホントかなあ〜
じゃあなんでどの史料にも記録がないんだ?
信長が濃姫を殺したのがホントなら、後世あんなに暴君扱いされている
のに、家康が築山殿を処刑した件と同様にもっと話が広まっててもいい
けどなあ〜
実際にはそんな話が全く逸話や江戸時代の創作にも出てこないし。
687日本@名無史さん:2007/06/09(土) 10:01:48
つか、霊界通信なんて武功よりも真偽を語る価値のないものかと・・・
688日本@名無史さん:2007/06/09(土) 10:02:59
>>686
いや。。。あの。。。w
そのコーナーは単なるお遊びコーナーだってわかってます?w
子供向けの歴史の本で、偉人が質問に答えてるのと同じだよ?w
689日本@名無史さん:2007/06/09(土) 10:04:36
生駒氏って、土田弥平次の後家といわれているんだよな?
土田氏は明智の家臣なので、土田弥平次後家が正しければ
信清絡みの人質という生駒家繋がりよりも、
明智城が落城して離散した明智の女性が、濃姫の元に身を寄せたりして
その関係でついてきた、明智の女性に仕える侍女辺りだったんじゃないか?
土田城も、明智城が落ちた頃に落城して、結構戦死者出しているし、
土田家の妻女が、明智の侍女になるのはおかしくないだろうし。
久庵慶珠がその明智の女性とかで、濃姫繋がりで側室にあがり、
懐妊したので閨の御務めの代理を、後家の生駒氏が務めたとか。
もし信忠が、明智の女性が生母だったら、岐阜を支配するのに
この上なく都合がいい、おまけに濃姫の養子ともなれば最強。
そして、光秀謀反で、明智の血筋だという者がいなくなったとか。
690日本@名無史さん:2007/06/09(土) 10:07:54
お遊びコーナーだったらわざわざこのスレに書くなよ。
なんだよ。さっきから、アンチ信長だかなんだか知らないが
根拠のないこと書くなよ。
そんなに信長の評判を下げたいのかよ。
691日本@名無史さん:2007/06/09(土) 10:29:55
>>690
そういう必死さが痛いって言われてるんだよw
あんたみたいな「ネタをネタとして笑えない」人間が
このスレでまともに考察している人間の足引っ張ってるのわからないの?
批判は全て生駒厨?
批判してる人間があれこれ言ってるのは濃姫の問題でも信長の問題でもなく
あんた自身のことだよ。いい加減気づけ。


お遊びコーナーの話題にしてもただの雑談のネタ話。
真面目に受け取る方が頭おかしい。
空気読めないってよく言われないか?
692日本@名無史さん:2007/06/09(土) 11:39:52
荒らしうざい〜
693日本@名無史さん:2007/06/09(土) 11:44:09
どうでもいいけど、本当かどうかわからないネタ話を
面白おかしく載せているような「歴史読本」にここでの
考察を投稿する意味あるのか?
694日本@名無史さん:2007/06/09(土) 11:48:01
>>693
歴史読本なんて捏造ネタばっかりだし、まともな史家は相手にしてないよ。
まともな知識ある歴史好きも、みんな捏造だと思っているしね。
2chとかウィキとかの方がよっぽど信頼できるし、考察も真実を突き止めたし。
これからはネットの時代ってことなのかな?やっぱりw
695日本@名無史さん:2007/06/09(土) 11:55:00
やっぱりここでの検証のまとめサイトがあるといいなあ。
前スレも見れない人もいると思うし。
696日本@名無史さん:2007/06/09(土) 12:01:38
>>695
そうだねぇ。
いちいち生駒厨のアンチがうざいし、ここらでいっぱつ黙らせるほどの
検証まとめがあるといいかもw
697日本@名無史さん:2007/06/09(土) 12:06:25
696>>
賛成!!
698日本@名無史さん:2007/06/09(土) 12:09:24
それにしても、アンチも必死なんだな〜
こんなに絡んでくるのはここでの考察が真実をつきとめたからだろな。

やはりどこかで論文などを発表した方がいいかもな。

699日本@名無史さん:2007/06/09(土) 12:16:52
武功夜話の元史料公開はどうなったんだ?
700日本@名無史さん:2007/06/09(土) 12:33:21
>>699
誰か観にいった人いる?
701日本@名無史さん:2007/06/09(土) 16:15:14
>>689
明智家つながりで〜というのは考えられなくもない。
生駒氏は一般的に言われているように生駒宗家の娘ってのは確定なのかな?
確か「津島大橋記」では、信雄生母を生駒半左衛門の妹とかかれてるけど
これって生駒宗家の娘とイコールでいいの?
土田弥平次の後家というのは正しいのかな?

はっきりいって、武功に書いていることも生駒文書も信用できないから
信雄生母に関しても別ルートでの検証が必要になると思う。
702日本@名無史さん:2007/06/09(土) 18:07:52
土田弥平次の妻が生駒家宗の娘という逸話は江南市には古くからあるようなんだ。
2人が暮らした屋敷跡が、土田城の近くの具体的な場所として逸話に残っていたりする。
しかし、後家になって信長の側室になったという話しは、その逸話の中にはない。
つまり、江南市の逸話に詳しかった、武功夜話創作者といわれている某氏が
信雄の生母が生駒氏という話しとくっつけて作ったんじゃないかと思っている。
だから、別人の可能性は高いんだよな。
そうなると、土田弥平次の戦死時期と、側室にあがった時期の考察は無意味になる。
久庵慶珠が信忠の生母だろうとは思うが、それが生駒ではないとは言い切れないという事にもなる。
久昌寺の寺名改称のいきさつから、久庵慶珠は関係ないとは思うが、
久昌寺の逸話そのものが、武功夜話を受けての後年の創作で、実際は大して何も伝わっていなければ
久昌寺に伝わる没年も、信雄喪主も捏造されたものかも知れない。
スレの最初の方に出ていたように、もしも久昌寺の墓が武功夜話以降に突然出来たものならば
位牌だってそれに合わせて作っているはずで、何の証拠にもならない。
だが、明智縁者ならともかく、生駒縁者を崇福寺で位牌所を設置するのもおかしい。
結局、生駒や信雄が絡まない文献や、武功夜話以降に出てきた文献をのぞいて、
考察し直す必要はあると思う。
703日本@名無史さん:2007/06/09(土) 18:30:21
すまん、ちょっと間違えた。

>>土田弥平次の妻が生駒家宗の娘という逸話は江南市には古くからあるようなんだ。 ×
土田弥平次の妻が生駒家の娘という逸話は江南市には古くからあるようなんだ。 ○

生駒家の女性だったという逸話だけで、生駒家宗の娘とまでは残っていなかった。
704日本@名無史さん:2007/06/09(土) 18:57:54
>>702
信雄生母にしては、生駒の法名に院殿号がついてないのは変だなと
思っていたんだが、久昌寺の話がでっちあげなら、納得がいくね。
やはり久昌寺に葬られている墓の主は、信雄生母とは別人だと思うね。

信忠生母だと推測される久庵慶珠は院殿号がつけられているのだろうか。
崇福寺には記録にはどう記されているのだろう。
705日本@名無史さん:2007/06/09(土) 20:15:47
>>704
久昌寺に葬られているかどうかは別として、信雄生母は生駒氏ではある。
久昌寺は生駒家の菩提寺ではあるから、葬られてもおかしくはないが
それが久庵桂昌かどうかは微妙。
寺名改称のいきさつだって、信雄生母が亡くなった時に改称したなんて
あり得ないんだよな。
なぜなら、その当時の信長は、尾張一国を支配したかしないかまだまだ微妙な時期で
とても改称するほどの人物ではないので、改称したとしたらもっとあとのはず。
仮に、その頃改称したのだとしたら、別の理由だと思う。
しかし、永姫が金沢久昌寺を作った頃までには改称しているはず。

ただし、久庵慶珠が信雄生母とは思えないんだよな。
信雄の家系が残っているから、もし久庵慶珠が生母なら、
織田家に認められた位牌所なので、こちらを優先して守るはずなんだ。
そう考えると、やはり信雄と信忠は別腹の可能性が高いと思う。
706日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:00:43
濃姫が史料にほとんど現れないからって、頂点とするのはどうかっていうけど、
それなら他の側室たちは信長生前そんなに史料に残されてた?
(武功は別として)ほとんどないじゃない?
濃姫スレの目的は濃姫の正室としての立場の検証としてのスレなのだし、
それを含めて他の側室たちのことも議論にしたいわけで、しかも未だに
信長参考本などには、濃姫は離縁もしくは死亡していて、生駒が正室だった
なんてあきらかに事実と違う情報が載っていることがおかしいということで
検証してるのだし。
別に自分は濃姫を頂点としてというより、濃姫をメインとして他の側室たち
のことも語る分にはいいと思うよ。
しかし、「帰蝶」の名が武功にしかかかれてないならやはり信憑性が問題
だと自分も思う。他の史料には本当に濃姫の嫁ぐ前の名前は「帰蝶」と
記入されている文献は他にはないの?
707日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:01:56
すると勝長が濃姫の実子であったとしても、信忠嫡男というのは                                   
確定だったわけだな。                                         
もっとも生駒御前は亡くなり、当時の生駒氏には政治的な力は皆無だったし、
まさに借腹そのものだったから、養子にして嫡男にしても                                     
濃姫も感情的に問題はなかったろうけど。                             
                                                 
ずっと疑問に思っていたのだけど、信忠と松姫が婚約して約6年後に                    
婚約破棄になっている。年が若かったということで松姫の輿入れを                     
先延ばしし、織田家お預かりの状態で甲斐にいたそうだけど、信長は自分の                
姫を10才なるかならないかで嫁がせたりしているし、なぜ松姫の輿入れが              
そんなに長い間据え置かれたの?                               
夫婦としての実態はなくても、松姫を織田家に迎えて正式に婚姻し、
ある程度の年齢になってから夫婦として生活するということは                       
できなかったのかな?(秀頼と千姫みたいに)
そのぐら強い絆がないとかなり不安定だったのでは?と思うんだけど。  
信玄に何か含みがあって松姫の輿入れの時期を遅らせたかったとか?                   
                                                        
織田家にしてみても大切な嫡男の嫁取りがそんな宙ぶらりんのままで                  
よく何も文句を言わなかったな?と不思議なんだけど。                         
708日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:02:41
生駒家に残っているのは、逸話も含めて                                     
信雄関連は意外とある。                                
それこそ、生駒の氏神が信雄の守護神だとか                       
久昌寺って菩提寺に信雄を通して650貫の                           
知行を与えられているとか、                                 
生駒女の喪主は茶筅(信雄)だったとか。
当時のリアルタイムに、表に出てきている史料で 
はっきりと信忠生母が生駒女と書かれているものは
自分は知らないな。                                  
                                                    
武功は昭和以降の編纂という説もあるから                  
リアルタイムじゃない史料には、信忠の生母は信雄と同じと                   
書かれているものもあるし(それこそ前スレで出ていた文献とか)、                  
それを元にしていれば、通常信忠の生母も生駒女だと思うのが普通。                     
                                                
反対に、武功の信憑性を疑うようになったから、本当に信忠の生母も                   
生駒女なのか?という疑問をここの住人が持ったって事で、                    
それまでは、誰もそんな事を疑った事も無かったんじゃないかな?             
疑って調べてみたら、意外にリアルタイムでの記述が無かった……
ってことだと思う。                                             
709日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:03:23
信康自刃は一説には浜松派と岡崎派に二分されつつあった徳川家の内紛が
ことの発端で、信康を盾に反家康の動きが見られたためという。
内紛で足元が揺らいでいる時は織田からも武田からも攻め込まれる
絶好の機会になりかねないので、家康の独断で徳川を守るために
信康と築山殿を始末し、事態を収拾したという話。
実際はこの二人にはなんの罪もなかったような気がするけど、
岡崎派の象徴である二人を処分したために最小限の被害で
すんだのかもしれない。
徳姫の信長への12か条のチクリの手紙とかは後世の創作のようで、
家康の治世になってから、正室と我が子を死に追いやった罪を信長に責任転換
したのではないかな。                  

そう考えると徳姫も気の毒だが、信康死後家康に恨まれる事なく                     
あたたかく実家に送り出してもらったことも納得いく。                        
姫は信康の忘れ形見として家康に託したのかも。                            
謀反人として処罰された信康の姫を織田家に連れ帰るのも                         
姫たちに肩身の狭い思いをさえると考慮してのことかもな。                           
710日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:04:05
濃姫一人の意向ではなく、織田家内の反秀吉派の総意ということだろうね。
全面に信長の正室が立てばさすがの秀吉も何もいえなかったはず。
秀吉も対面を取り繕うためにお鍋の方を見方に引き入れたんだろうけどさ。
(息子を取り立てるとかなんとか甘いこと言ったんだろうな)                   
総見院でのお鍋の方の墓を見ると、なんか織田家内でのお鍋の方の立場を
象徴してる感じがする。(実際は墓石とは関係ないことかもしれないけど)
                                                       
これは個人的な憶測だけど、濃姫はそんなに秀吉に敵対心を持ったとは
思えない。あの時代の女性だから、織田家存続のためにどうすればいいか?
もう秀吉にすがるしかないのではないか?と素直に思ったと思う。
三法師を当主にすえ、秀吉が裏で実権をとるのはわかっていても、                  
織田家が嫡流の流れで残っていくならいいと思ったのではないかな?
でも野心がでてきた信雄や信孝、柴田勝家やお市とのからみで                   
関係が悪化していったのは事実だと思う。
                                            
もし秀吉との関係が良好なら秀吉が濃姫を崇めていろいろ心付けとか                 
してそうだもの。生活を全部面倒みたり、立派な庵を建ててあげるとかして、
そのことをさらに大げさに史料に残させて、織田家を最後まで主君と仰いだと                      
いう秀吉像を演出してそうだ。                                        
711日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:05:43
遅ればせながらルイス・フロイスの日本史の抜粋読んだんだけどさ
岐阜城での生活について                                              
「彼は内部においては、婦人及び姫君、息子達によってのみ仕えられていた」
ってとこなんだけど、息子達は信忠13才と信雄12才なのね。それぞれ一人なのかな?
原文に詳しい人が居たら教えて欲しい                                      
                                                               
1569年なんで、徳姫はもう徳川に嫁に行ってるし、信孝も神戸に養子に行ってるのね
だから、信雄と信忠だけが息子として登場しているだけで、側室の坂氏とも一緒に暮らしていたのか
濃姫だけ内部(特に奥まったところという意味のよう)で暮らしていて
坂氏は城の何処か別のところに部屋をもらっていたのか、どっちなんだろう
濃姫だけと暮らしていたのなら、信雄も濃姫が面倒を見ていたってことなのかな?
姫君も一人だけとすると、ここに出てくる姫君が家系図に残ってる濃姫の生んだ姫なのかな?
誰も内部に入れなかったらしいんだけど、侍女とか小姓とかは入れたって読んで良いのかな?
                                                                   
私生活は純粋に家族だけなんだとしたら、激しく現代的だな・・・・・・。
                                                                
原文でも一人だったとしても、単にフロイスが出会った人のことだけを書いているのかもしれないし
断定できることはあまり無さそうだけど、それでも興味深いよね   
712日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:06:34
だから、墓一つとっても織田家正室の扱いを受けてないからわかるんです。    
あなたのいうことだと、歴史考証はまったく意味をなさないことになるますね?
当時は子供を敵の家に10歳満たないのに嫁にだしたり、人質に差し出したりが
当たり前の時代ということはおわかりでしょ?
そういう価値観であった時代に、現代人の恋愛感覚や親子の情愛を
おし通そうとする考えの方がよほど不自然だ。                       
                                  
お家騒動になるのは、パターンが決まっていて、代表的なのは
長いこと正室の子供ができなくて、側室にできた子供を嫡男にしようとしたら、              
ひょっこり正室に男子が生まれた場合。                          
当然正室の子供が有利なので、そっちを嫡男に据えようとすると、                
すでに嫡男扱いだった側室の子供の取り巻きが反対して、
家臣団が真っ二つに別れるパターン。
寵愛の深さが原因なのではなく、正室の子供の正統性が強いことからおこる                    
ためのお家騒動です。そのへんも思い違いをしているようですね。                   
                                        
そもそも生駒が信長の寵愛を受けていたというのは「武功夜話」にのみ
記載されていること。その武功夜話が時代考証も、事実関係も、年代的なことも               
めちゃくちゃな偽書だということをご存知ないのでしょうか?                    
武功以外で生駒が史実に登場することもなく、信長のもとを去ったのは                 
亡くなる直前ではないこともわかっているのですから、位置付けとしては                   
大勢いた奥の側室の一人であるといっても過言ではないと思います。                   
713日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:07:25
信高実子説が無いの根拠をもちっと詳しく教えて欲しい・・・・・・。
高齢だからはなしね。数えの42なんて余裕で子供生めるし。当時でも生んでる人居るし。
ホント近江地誌が出てきてから、イタイ妄想ばっかりして自分がヤダ。
でも、濃姫については、重要な人なのにもかかわらず残ってなさすぎなので
当然残ってるはずのものがないことに作為性を感じてしまって、地誌の方が正しいような気がしてしまう。
近江の人間は乱世慣れしていて、表面では権力者にへつらいつつもしっかり記録は残すカンジ。
だから一般的な史書より近江地誌の方が個人的な感覚としては信頼できる。(根拠になってないけど)
とすると、信房が信長と濃姫の子じゃないかと。それは、後の厚遇を考えても無茶な想像とは言えない気がする。
でもこの子の母は記録されて居ない。つまり、濃姫の子は記録に残らないか、残せない可能性がある。

信房が濃姫実子で、信忠が養子だったら、遠山夫人に養子くれって言われた時は最大のチャンスなんだよね。
信忠はまだ元服していないので、お坊は駄目だけど奇妙なら養子に出せるよと答えれば、何もかも丸く収まる。
これで家督争いも無い。信長が10年ほど余分に頑張らないといけなくなるだけで。
でも養子に出されたのはお坊だった。濃姫の子は記録に残らないとすると、信忠も濃姫の子かと、思えるようになる。
(手塩にかけて育てた養子は実子と何ら変りません信忠が嫡男ですといったやり取りがあった可能性も否定できないけど)
信長は1573年頃から急に子沢山になっている。これは信長が権力を握った時期と重なるようで、そうでもない。
私には1572年の信房が人質に取られる事態を招いた手駒不足を反省して子作りに励んだように取れる。

で、信秀(1570年誕生)と信高(1576年誕生)なんだが、この人たちは幼名からして同母兄弟だろう。
また、この二人は、信雄信孝を除くと、残った信長の子息では別格扱い。
誰か別の側室が居た可能性も確かにあると思う。その側室の一族が生き残っていたら、徳川を憚って
家系図に載せないだろうから(土方氏もそうだね)、単に実家の都合で解からないだけかもしれないけども。
ただ側室の子とすると、序列の謎が上手く解けない。また信長の父である信秀の名が、側室の子に与えられるとは思えない。
714日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:09:28
正式に養子にする=嫡男になるとは限らないので
嫡男候補筆頭になったと考えればよいのだと思う。
また、一人だけ正室の養子にしておけば、信長に何かあったとき
信雄、信孝を巻き込んでの跡目争いも起きにくいと考えることができる。
だから、個人的には生後すぐではなく、2〜3歳での養子ではないかと
推測している。
長男だから優先的という訳ではないのは、信長が次男(三男説もあるが)
であった事を見ても分かる。
優先度は正室長男>正室の長男以下>側室の庶子であったわけで
厳密には庶子しかいなければ、跡目争いが起きる危険性は高くなる。

>信忠嫡男決定後に濃姫の実子が産まれても廃嫡してまで
>濃姫の子にこだわらなかったのではと思うけど。
濃姫の実子にこだわったなどとは書いていない。
7年待ったけれど、無事育つ子供は持てなかったという中で
側室を持ったのだとすれば、半ば正室の子供を諦めて側室を持ったと
考える方が普通ではないだろうか?という事。
また道三の威光が無くなった正室の立場の補強の為にも、
養子にした可能性もあると書いたつもり。
美濃攻略の為にも、濃姫にいてもらった方が信長にはよいが、
当時の織田家にとって同盟関係により都合の良い他家の女性を正室に
という声が家臣から出ないとは限らない。
正室濃姫の実家である斎藤家は、道三の死で敵対関係になっているからだ。
だからその辺りの思惑もあったかもしれないというのは、自分の推測。
715日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:09:42
濃姫が信忠を養子に迎えたのは生後間もなくではない可能性も大いにある
わけですね。勝長が濃姫の実子であるという説もあるようですが、
勝長が生まれたと推定される時、信忠は恐らく11〜12才ということなので             
その時点で濃姫が信忠を養子に迎えていなかったら、織田家嫡男は
勝長という認識になったと思うんです。                      
濃姫も早々に勝長を養子に迎える必用はなく、それこそいよいよ
子供をあきらめるような年になってからでも構わないわけで、                
そう考えると勝長が濃姫の実子であると考えるのはやはり不自然な                   
点が多いように思います。                     
伊達家でも10年近くたって生まれた正室の男子を側室の産んだ長男を       
退け当主になっていますし、(それまでは側室の長男を嫡男扱いで厳しく養育した
ということですが)やはり勝長は濃姫の実子ではないだろうと思っています。
ただし姫を産んだ可能性は捨てきれないですね。             
成菩提院の御台様平産の記述があるので。                 
716日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:10:44
武功夜話は信用できないため史料としての価値を認めていないので、
信忠の生母が生駒御前だとはっきり明記されている、信憑性の高い史料は
ないですか?という意味と思われ                     
                               
基本的に武功夜話によって生駒御前が信忠の生母という認識が定着したけど
他の側室が産んだ可能性もある。生駒御前は信雄と五徳がいたし、生駒家が
いろいろ画策して生駒御前の名を後世に残したが、信忠生母が        
信忠一人しか子供を産まず、すぐに亡くなったような状況だったら、
名前、出自もはっきりせずそのため「嫡子信忠卿モ亦妾人ノ腹也」と
表記されたのかもしれないし。                  
                                       
717日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:11:44
生駒の墓の横に柱がたってて、戒名と『吉乃の墓』と書いてある。
『吉乃の墓』とある時点で、断定材料は武功夜話だとわかるし、
そうなると墓の信憑性も怪しいなと思ってるよ。
生駒家に類という女性がいたのは事実だとしても、
はたしてその女性が信長の側室になったのか、どうかは
推測の域をでていないと思う。                           
側室になったのは生駒家のまったく別の女性だった可能性もある。
そもそもあの墓は後年建立されたものだしね。                       
                                                     
それと信雄が喪主になったというけど、生駒が亡くなった当時は
まだ8歳。喪主をつとめたのは本当か?と疑問だった。
だいたい久昌寺って『久昌寺縁記』で「吉乃を失った信長殿は、
小牧山城の望楼に登り、はるか西方、小折新野葬地に向かい、
涙して佇む日が多かった」なんて伝えているところからして
怪しい寺。                                           
718日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:12:45
大大名だった頃は安土殿が側に居て                                    
実の母の墓に手をつけるような状況じゃなかったんじゃない?                    
フロイスの本だと、信雄と信忠って、ごっちゃに育ってるみたいだったから               
生駒女の死後、生駒女の子供達は濃姫が後見してたんだろうと思ってた。                     
まあ、実際に面倒を見るのは乳母だろうけど。                                   
御料地があるはずなのに更に知行与えているし、以外に信雄と濃姫は親子らしい関係だったのかも?
                                                                  
前スレで、国中往還認可状が本物なら永禄3年9月に奥を下がっていると考えている人が居たけど
そんな早い時期から奥を下がって居たんだとしたら、生駒氏のこと、母親って実感はなかった 
かもしれないね。                                                         
乳飲み子置いて奥を下がったとしたら、産後の肥立ちが悪くて一時帰郷のつもりが
病が癒えずそのまま奥を下がってしまったとかなのかな。                       
って、推論に推論を重ねるとどんどん事実から遠ざかっていきそうだけど。
                                                       
墓に全く手を加えていないなら、あまりにも早い別離の為に、                 
お腹様としての敬意は払いつつも、親子の情のとなるとピンとこなかったというのも               
ありえなくは無い気がするね。                                  
719日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:13:52
実子にとっても生駒がその程度の存在だったとしたら                        
信長にとったらさらにそれ以下の存在価値の女性だったということになる。             
                                                         
類は弥平次と結婚し、後家になってから                     
出家して39歳で亡くなって葬られ、それがあの墓。                    
信雄の生母は武功の話とはまったく関係ない生駒家の女性で                     
信長の側室としてあがり、何らかの理由で                            
側室を下がることになったあとに誰かと再婚したので、                    
生駒家に墓がないのでは?                                      
                                                    
生駒家に伝わる家伝書の類でそのへんがごちゃごちゃになっている                      
可能性もあるんじゃないかな?                                
                                                   
久昌寺縁記が信長に関することが捏造なんだから、寄進されたとか、
信雄が喪主だとかいう箇所も捏造ではないとは言い切れない。                  
720日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:14:43
久昌寺の生駒の墓は後年配置換えされてああいう並びになった。                             
その際墓石も建立しなおしたということだ。
いくら信長側室だったとはいえ歴代当主の並びにあるというのは本来ありえない配置。          
生駒を生駒家当主なみの配置にしちゃうあたりが久昌寺の計算高いところだな。
                                                            
生駒を商業化しているのは生駒家ではないんだよ。 
生駒家の子孫にしてみれば武功のような偽書のせいで
史実と異なる生駒像を語られるのも、先祖に対する侮辱さ。                  
721日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:15:29
この時代で大名夫妻がともに祭りを楽しむことが珍しいことで               
なければ単なるレジャーだったんだと思うけど。                           
異例のことなら、何かしら意味のあることだったのかもしれないな。
御簾中という表現は貴人の妻に対する呼称だから間違いなく                    
この時点では濃姫を指すと思う。同じ年に濃姫の依頼と思われる                    
道三の肖像画が常在寺にあるから。                               
                                                    
御台やこの御簾中という呼称を側室にも用いたのだろうと                      
ここのスレでも主張している人がいるけど、このような                              
記録を作成している人物は当時ではかなり教養が高いはずなので               
そんな適当な表記はしないよ。                              
722日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:16:28
                                                     
                                                     
小見の方が明智光継の姫なら、祖父は美濃守護だった土岐成頼だし、
土岐家とのつながりは義龍よりも小見の方の産んだ濃姫の実弟たちのほうが
強かったと思うが、なぜに美濃国の旧土岐派の連中は
それこそまぎれもなく土岐の血をひく弟達を手にかけた義龍を                        
支持したんだ?                                                  
                                                     
それと濃姫は美濃国守護の土岐家の血を引く母に持っていたので、
濃姫の子が美濃国の国主になった場合、道三の譲り渡し状により
信長が治めるよりも、より正統性があり、そういう理由もあって
信長があっさり信忠に美濃国を譲ったのでは?とも考えている。
実権はどうせ信長が握っているのだから、美濃を安泰に治める
ことが先決だったのではないかな。                               
                                                
                                                          
723日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:17:09
>>545 信忠の生母を示す当時の史料が存在しないということは、後だし
じゃんけんで言ったもの勝ち。生駒氏なら信長の次男、長女を翌年に
立て続けに産んでいるので誰の目にも不自然ではない。そこで
後年生駒家が半信半疑ながら主張をしだしたということは充分考えられる。
それなら生駒氏が徳姫出産後信長の寵愛もなくなり、奥を下がり、出家し、
ひっそりこの世を去ったのも納得いく。

>>693 Wikiより抜粋
実際に織田信長に「征夷大将軍拝命」の勧めの勅使が来ていることもあり
(これは源氏でよいなら平氏でも、とも理解できる。
もちろん、源氏、平氏より貴種の藤原氏も同様。)、現実的には源氏でなければ
将軍になれないというのは根拠がない。
また、頼朝以降に限っても、摂家将軍や皇族将軍の例があり、
現実に清和源氏に限られていない。

秀吉は征夷大将軍になれなかったのではなく、それより地位の高い
関白になれたので構わなかったのではということだ。

源氏云々が本当で、仮に勝長の子が濃姫の子であっても、女系の場合はどうかな?
血は引いているが正統性は欠けると思う。
皇室、武家は伝統的に男系を重んじているので、そのことで
勝長が信忠より正統性があるとは判断されないだろう。
724日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:18:01
言継卿記を読んでも斎藤氏の名前は出て来ないからね。
一色義龍で出てくるから、パッと流し読みしたら、斎藤家周辺の話とは思わない。

言継卿記の壷事件が注目され始めたのは、武功以降だから、
武功で吉乃が正室扱いになったというのが定説になってしまったあと。
それ以前から注目されていれば、誰も濃姫ではないとは疑わなかっただろう。
定説を覆すのは、学閥などが絡んで、難しい。                      
武功夜話は偽書で、まともな論文の引用にはされないが       
未だに、側室関連は                      
武功夜話の記述にそった説で終始しているから
言継卿記の信長本妻を濃姫だと                     
認定するには、その武功夜話にそった信長の奥関連を
最初から潰さなくてはならなくなる。                      
725日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:19:17
>>724
>>95
俺もそう思うな。
勝手にイメージを膨らませて一族みんなが信長に詰め寄っていると思ってたけど、
実際は信長ぬきのところでそのぐらいの勢いで盛り上がっていただけかも。
意外とあっさりと騒動はおさまったのかもしれん。

ところで正月暇だったので例の「御台平産」の件を検証してみた。
信長は上洛後すぐに岐阜にもどっている。その後永禄12年1月5日に
三好3人衆が義昭の居所の本圀寺を襲撃したので、知らせを受けて
再度京都にむかったんだ。それからけっこう長く京都に滞在し
義昭のために二条城を普請したり、ルイス・フロイスと会見してる。

最初の上洛は上洛戦というくらいだから戦闘中でもあるのに臨月近い妊婦である
御台を連れていくというのはどう考えても不自然なんだよね。
でもその出産の話が事実なら御台と子供は岐阜に戻り、
御台は一度戻った信長と再度京都に随行したのではないかな?
10月に出産したから、2度目の上洛の時は心身ともに回復してるから
御台を慰安旅行がてら連れ出しても不思議じゃない。
今度は戦が目的ではなく、義昭警護と京都の治安維持がメインだから
御台を随行していてもなんら問題がないと思う。
永禄12年の2月29日の「公方様御台様〜」が信長御台であることはほぼ間違いないだ
ろうしね。
調べたところによると当時の大名の奥や側室達の楽しみは四季折々の者詣や
遊山、湯治、花見、茶会だったそうだ。思っていたより外にでてレジャーを
楽しんでいたようだし、なんといっても京都は女性の憧れの地であったらしい。
御台が夫の上洛に便乗して京見物をしたがったとしても不思議じゃないんだ。
726日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:20:30
>>725
自分も、その事は考えたなぁ。                 
だが、上洛戦の時はゆっくり京に進軍してるんだが、           
正月は3日で雪の中を駆け通して驚かせる程のスピードだったらしい。       
戦の時に同道しているなら、無防備に供を付けて戻すより、          
信長の本陣と一緒に行動する方が安全だと思う。
正月も、あとから呼び寄せたでもいいが、そっちの方が考えにくい気もする。
御台の寝所に近付かせないようにというのも、赤ん坊がいたからと考えた方が
自然じゃないかと思うのだが?                      
生後随分経って、岐阜に連れ帰ったから誰の子供か不明であったとする方が、
記録に残ってない辻褄は合う。                   
もちろん、信忠との兼ね合いで、生母を曖昧にしておいたと考えた場合だが。
                                     
727日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:21:45





                                                                

                                                                



                                                             

                                                                



                                                                

                                                              
                                                                




                                                              

                                                                

濃姫と明智光秀がいとこだと最近知った。ほんとびっくり
728日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:23:24
分限帳の安土殿は、他の女性の記載方法などから見て
安土城の「女主」であるというのは確定だと思う。
そして、それはお鍋ではない事も間違っていないと思う。
「女主」が誰かという事になると、濃姫と確定ではないが、
言継卿記の壷事件を精査すれば、斎藤家親族の女性が
正室であった事は間違いない。
                                                                                                         
斎藤家で、濃姫以外に信長の正室になった女性は知られていない。
馬場殿は、濃姫が生きているから、叔母姪の間で正室側室なんて駄目だから
信長にはやらんと言われているくらいだからな。
                                                      
もっとも、信憑性の高い文献ではないので、馬場殿の存在自体「?」だが。
                                                                
永禄11年の上洛以降、信長の動向は公家衆の日記や記録に出てくるが、
側室に上がった公家の娘の話みたいなのも出てくるのに、
正室が変わったとか亡くなったという記述はないから、
おそらく正室が変わっていないと考えるのが妥当。
                                                      
そう考えると、壷事件は永禄12年だから、
「女主」が濃姫の可能性が高いとなる。
                                                        
そんなところだろう。 
                                                         
武功夜話で吉乃が正室になったなどという、おかしな説が出てきたせいで
濃姫がその時点で死んでいたとされたのが、
それ以降の文献に出てくる御台が誰か分からないとされた一番の理由だし
吉乃死後、秀吉絡みで有名だったお鍋が正室代わりだったなんてことになったのだろう。
729日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:23:53
信忠の養子の時期は7才以降だと思う。
当時の乳幼児の高い死亡率から子供は7才ぐらいまで神様の預かり物
という認識だったので、乳児の頃養子にすることはしないと思う。
7才過ぎたあたりで早い子は元服を迎えたりしたので、
峠を越え、無事に成長をしたことを見届けたあたりで
養子にしたと思う。
正室の子でなければ嫡男になれなかったわけではないし、
養子にしたのは美濃支配のため信忠に正嫡性をつけたかったからだと思う。
730日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:24:17
実際、武功夜話で吉乃が正室になったとされる以前に、
信長御台と書かれている文献群が、広く知られていたら、
特に言継卿記の壷事件などが、有名であったら、
御台が誰か分からないなんて事にはならなかったんだろうか?
                                                
それでも、武功夜話で吉乃が正室になったって事になって、
濃姫と思われていたが、濃姫ではなかったとされていたんだろうか?
それとも、吉乃が正室代わりで、濃姫は別居させられていた
岐阜に信長が入ったら、吉乃も死んでるし、岐阜にいる斎藤一族達の
親戚の力で復権したみたいに言われてたとか?
                                                           
そういえば、壷事件が知られ始めて、武功がまだ真実を書いていると
思われていた頃に、そんな説を言っていた人がいた様な……。
あれは誰だったかな?
                                                         
自分としては、何故「武功夜話が真実を書いている」という事になったのか
という事の方が、興味があるんだけどね。
普通に史学部出身程度のリーマンである自分でも、読んだ瞬間に
「戦国期の常識も知らんのに、戦国期の文献を創作するなんてチャレンジャーだな」と
思ったものだがな。 
731日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:25:10
>>711 遅ればせながらルイス・フロイスの日本史の抜粋読んだんだけどさ
岐阜城での生活について                                              
「彼は内部においては、婦人及び姫君、息子達によってのみ仕えられていた」
ってとこなんだけど、息子達は信忠13才と信雄12才なのね。それぞれ一人なのかな?
原文に詳しい人が居たら教えて欲しい



その部分訳本によって微妙に違っていて、原点で調べてみたいなとは思っていたんだ4.
確か東京の国会図書館にはポルトガル語版があったはずです。
私自身はスペイン語は多少わかるけど、ポルトガル語は勉強してないので解読には自信なし。
同じロマンス語系なので何となくはわかるかも知れないけど、正確には無理。
誰か解読お願いします。確か1568年の記事だったと思う。
732日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:25:32
お鍋の方も諸説あるんだけど、こういう説もあるよ。
小倉左近大夫良親の息女で、本能寺の変後に実家の小倉に帰って親元にいたそうだ。
「近江輿地志略」「淡海温故録」参照。
ちなみに小倉賢治の室で切腹後どうのこうのは後年の創作話と考えた方がいい。
小倉家出身だったので、小倉なべ、と名乗っていたのだろう。

本能寺の変の時お鍋の長子である信高は大垣城主の氏家氏のもとで養育されていたこと、
安土城内の信長の親、妻妾、子供たちは蒲生家の保護のもと近くの日野城に
避難しているのに、お鍋が日野城に避難せずに実家にいたことから、           
お鍋は安土城の奥で公認されていた側室ではなかったのではないかと考えられる。
坂氏同様に城内におかれず、安土城下もしくは、居館を与えられていたのではないだろうか。
ただ実家のある小倉は滋賀県で安土とは遠いので緊急時の避難先にはちょっとリスクが
高いので不自然さは残るが、とりあえず日野城に避難して落ち着いてから
実家に逃れたとすれば不思議はない。

お鍋は濃姫たちと行動を伴にした様子はなく、信雄に庇護されていた痕跡もない。
秀吉の取立てによってお鍋が表舞台にでてきた経緯から、
正室の息のかかっていないことから、信長の男子をもうけた側室を                            
秀吉が利用したのだろう。                     
                                        
お鍋が正室格といわれてきたのは崇福寺への書状が根拠だったんだ。
あたかも正室クラスのがだす命令書だし、家臣の丹羽にもあのような指令を出せる
立場なのは安土城内でも相当権力のある女性であるはず→お鍋は正室格、
となっていただけ。                        
もしお鍋の書状でないと判明したら、たんなる側室以外の何ものでも
なかったことになる。                              
733日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:26:43
おぉ!
すごい検証がされてるんだね。
お鍋ではない、としたら濃姫なのか土田御前のどっちか、あるいは
それ以外の信長に関わる女性なのかが気になるな。
もしお鍋が一緒に日野城に逃れたとしたら正室を差し置いてそんな
命令書をだしたり、勝手に位牌所を設置したことが解せなかった。
お鍋が正室と行動をともにしていないなら、今度は安土城内にいなかった
ことになって、お鍋が信長の寵愛を受けていた、ということと矛盾が生じる。
でもこの書状をお鍋が書いたものでないならそのへんの疑問が解消されるよ。
一文字だけの解読だけなんだから、この消息の検証は簡単といえば
簡単なことなんだけど……
734日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:27:48
それで質問ですが、以前のスレの視点から見たら
類(吉乃)の性格はどうなってくるんでしょう。
秀吉とY談したりする、某ブログに書いてあるような
お下品な性格なの?
735日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:28:57
>>734

武功には確かにそういう記述がある。

某ブログというと、多分あそこというのは分かるが
あそこは小説ネタとして武功に出てくる「キャラ」としての
吉乃を利用するのは面白いと書いていた。
「類」の事は分からないとも書いていたな。


実際には、某ブログで書いているように「類」の事は分からない。

736日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:29:58
Y談とかのネタ元は武功夜話だからまったく信憑性がない。
性格に関する記述は資料等には皆無なので、憶測だけだけど、
当時の側室制度の常識だと、側室を管理していたのは正室だから、
濃姫が類の人柄や器量を認めて、信長の側におくことを許可しない限り
類は側室にはなれなかったはず。そう考えると類は濃姫が認めるだけの
女性であったろうから、家臣と軽口をたたくような品格のない女性とは
思えない。

類の実家の生駒家は信長の実母の土田氏と親戚関係にあり、血筋的にも
卑しい出自ではないし、一度武家に嫁いでいるのでそれなりの教養や
所作なども身に付いていたろう。

また信長の寵愛をかさにきて、実家の重用などを願い出ているふしもないし
(実際生駒家は信長の時代は武家としてなんの活躍もしていない)、
どういう事情かわからないけど亡くなる前に出家するなど、
子供を産んだ後には信長の側を離れているようなので、野心などもない女性
だったようだ。

武功夜話のような女性像は到底思い浮かばないが、かといって悪い印象も
思い浮かばない。出すぎたところのない、控えめな性格だったから
濃姫も類の子を養子にすることに抵抗がなかったのかなとも思う。
737日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:32:27
信忠と信雄が清洲で生まれたと、寛政重修諸家譜に出てる。
五徳は出てないな。

「寛政重修諸家譜」て信用できる史料なの?
738日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:34:18

















もうちょっとレベル高い話しろよ
739日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:36:08
>>737
信用できるかどうかは、分からんとしか言いようがない。
織田家が出した史料によって織田家の箇所が記載されている
徳川幕府が編纂した家系図だからね。
当時の織田家では信忠と信雄は清洲で生まれたと言っているのであって、
武功夜話みたいに生駒屋敷で生まれたとは言っていないということだけが
はっきりしているという事だろうな。
でも、信雄はともかく、信忠は嫡男だから、
秀吉だの使用人だのと気軽に猥談出来るような環境で生まれているとは
思えないけどね。
生駒家が、「信長様以外の男は近づけさせていません!!」って
言い張ったとしても、そんなの信用されるとは思えないんだし、
だったら嫡男なんかになれるとは思えない。
が、正室の養子になって嫡男になってるんだから、
他の男が近付かなかったって、第三者も分かってたってことだろ。
740日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:37:13
生駒氏を城の奥に閉じ込めて完全に正室の管理下におかない限り、
いくら生駒氏が信長の子供だと言い張っても周囲を納得させられないよね。
そう考えると武功夜話の生駒屋敷の出来事はすべて空想、夢想、虚言だな。
741日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:38:14
ところで生駒家と信長の接触はある程度あったのは本当だったの?
馬借で財をなした生駒家の援助やいろんな情報をもらったのでは?という
話もあるけど。

政略結婚の典型だった濃姫との結婚生活は意外とうまくいってたみたいだね。
TVなどのイメージにあるような気が強くしっかりものの濃姫ではなく、
でしゃばらず、逆らわず、内気で大人しい女性だったような気がするんだよね。
だから壷事件でいつも逆らわない濃姫が「私も死にます」と訴えたら
すぐに信長がおれたんじゃないかな?普段大人しい濃姫だけに本気だと
思わせるだけの迫力があったんだと思う。その後すぐに信長は濃姫の実母に
挨拶に行ってるし、斉藤家の長老である濃姫の実母に謝罪をして、
斉藤家に対し壷事件のことを詫びたことにしたのでは?と想像してる。
742日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:46:12
信長が毎夜城外に出歩いてるため
濃姫が信長に何故毎夜出歩くのか問い合わせたら
美濃に信長に内応する家臣があり、
その家臣からの合図の烽火を確認するために
烽火が良く見えるところに行っていると答えたところ、
濃姫は道三にそのことを知らせて
信長の口から名が出たその家臣は処罰されたという。

たぶん毎夜の外出は生駒の方の元に出向いていて
そのことに対する言い訳を濃姫が鵜呑みにしてしまった。
濃姫は愚かだったのでは・・・
743日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:49:42
帰蝶=お鍋説というのをどこかで読んだことがある。
帰蝶の幼少名が鍋だっとらしいんだけど、誰か聞いたことない?
ただそうなると、お鍋の産んだ子は帰蝶の子ということになるけど、
嫡男は生駒の子だから、そのへんが矛盾していて違うだろうと思った。
あの時代後から生まれても正妻の子の方が家督相続の権利は強かったはずだから。
信長も次男だけど、正妻の子ということで嫡男になっている。
744日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:50:55
お鍋の方こと小倉の本名も不明であくまで高畠氏女でしかないのに
お鍋の方だから本名もお鍋という見方自体が短絡的すぎだったわけで
一度リセットして考える必要があるのは確か

【しかし、歴史学者や研究者はそういうのをなぜか嫌がる傾向に
あるから研究があまり進まないのもまた現実

そんなはずはない、あり得ない、誤って伝わっているだけでしょと
そこで終わらせてしまったら、史学の発展もそこで終わる】

ちなみに信長はお鍋のことを鍋ではなく「小倉」と呼んでいたらしい。
この時代の慣例どおり、縁のあるにちなんでだと思われる。
745日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:54:22
ここではどうして勘九郎って名前になったか疑問説出まくりなんだが
個人的にこの名に何の疑問もない。道三の名と一緒だから。

元服した時、信雄や信孝と一緒だったと逸話が残っているけれど
ホントは一足先に美濃平定を祝って名をつけたんじゃないかと
疑いたくなる名前だと思わない?

濃姫の養子で信雄より一つ年上の嫡子が信雄と一緒に元服するのは相当不自然だし
信長が元服時点で信忠の器量疑ってて、この元服で見極め云々なんて俗説は
あいた口が塞がらないし

つか、個人的に一番疑ってんのは、信雄と信忠が同腹って説かな
徳姫が10月生まれって伝わってるところを見ると、ホントは記録残せたのに
故意に誕生日についての記録を消している可能性も捨てきれない

信雄3月生まれ説が濃厚なんで、よっぽど頑張らないと前年に信忠生まれないし
生まれ月がばれると同腹じゃないと解ってしまうのかもww
そう穿って見ると、誕生日は伝わってないのに3月7日生まれの信孝より後に生まれました
って逸話がやたら有名なのが、自分の誕生日を実際より遅く見せたい小細工に思えてくる

まー信忠と同腹ってことにしたら何が得なのか解らんのでいい加減な話なんだが
746日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:55:59
妄想で申し訳ないんだが、もしも信忠が生駒吉乃の子でないとすれば
一番可能性が高いのが帰蝶の実子だったって説じゃないかと思う
ここまで側室なしで推移してきたのに、信忠の後ぽこぽこと二人も庶子が
登場していることからも、個人的に割と良く出来た妄想じゃないかと思うんだが
嫁さんが孕むと浮気する旦那は多いんで

信忠と信房が同腹なら信房を養子に出す気持ちも
信房を信忠の与力にする気持ちも解らんでもないし

信忠の与力にしたのは、近くに置いて家臣団の対立に巻き込まれないように
する為だけだったかも知れないし、まーもー今となったら何もかも解らんのだけど
747日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:58:37
ふむ、なるほど。
確かに信忠がお濃の養子だったことを裏付けると言われている史料勢州軍記でも
「彼ノ信長公ノ之御台斎藤山城入道ノ之息女ノ腹ニ無若君也、
嫡子信忠卿モ亦妾人ノ腹也、弘治三年丁巳誕生、是御台ノ之御養子也、
次男信雄生駒ノ息女之腹也、永禄元年戊午誕生云々」だから
信忠も生駒腹だったとは断定できないかもね。

ってことは信忠の実母は誰?妾とは書いてあるけどもしかして濃姫とか?
748日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:59:46
>>746
最近の研究では西村勘九郎は道三の父で長井新九郎規秀以降を斎藤道三ではないかという話になってるようだが。
道三二代説が正しいかわからないが、この説の通りだとすると戦国大名斎藤氏の実質的な祖は西村勘九郎になる。
また信忠は濃姫の養子になっているわけなので、系譜上西村勘九郎は外曽祖父になる。
後に美濃を任せていることから見ても、信長の意図は信忠を織田の後継者であるとともに
斎藤家の後継者的な立場に据えようとしたのかもしれない。ところで生駒家と信長の接触はある程度あったのは本当だったの?
馬借で財をなした生駒家の援助やいろんな情報をもらったのでは?という
話もあるけど。

政略結婚の典型だった濃姫との結婚生活は意外とうまくいってたみたいだね。
TVなどのイメージにあるような気が強くしっかりものの濃姫ではなく、
でしゃばらず、逆らわず、内気で大人しい女性だったような気がするんだよね。
だから壷事件でいつも逆らわない濃姫が「私も死にます」と訴えたら
すぐに信長がおれたんじゃないかな?普段大人しい濃姫だけに本気だと
思わせるだけの迫力があったんだと思う。その後すぐに信長は濃姫の実母に
挨拶に行ってるし、斉藤家の長老である濃姫の実母に謝罪をして、
斉藤家に対し壷事件のことを詫びたことにしたのでは?と想像してる。
749日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:02:48
好意的にとっても元亀三年前後の一年程度に「三郎」と名乗った可能性があ
るかもしれないというレベル。信忠が「三郎」と名乗ったとする資料が無いわけではない。
例えば群書類従本織田系図では信忠は永禄十一年に元服し「三郎」と称した
とある。
ただし、元亀二年付けの信忠の書状(崇福寺文書)の署名は未だ「奇妙」で
あるし、天正元年の書状(小川文書)では既に「管九郎信重」であり、どう信忠が「三郎」と名乗ったとする資料が無いわけではない。
例えば群書類従本織田系図では信忠は永禄十一年に元服し「三郎」と称した
とある。
ただし、元亀二年付けの信忠の書状(崇福寺文書)の署名は未だ「奇妙」で
あるし、天正元年の書状(小川文書)では既に「管九郎信重」であり、どう
好意的にとっても元亀三年前後の一年程度に「三郎」と名乗った可能性があ信忠が「三郎」と名乗ったとする資料が無いわけではない。
例えば群書類従本織田系図では信忠は永禄十一年に元服し「三郎」と称した
とある。
ただし、元亀二年付けの信忠の書状(崇福寺文書)の署名は未だ「奇妙」で信忠が「三郎」と名乗ったとする資料が無いわけではない。
例えば群書類従本織田系図では信忠は永禄十一年に元服し「三郎」と称した
とある。
ただし、元亀二年付けの信忠の書状(崇福寺文書)の署名は未だ「奇妙」で
あるし、天正元年の書状(小川文書)では既に「管九郎信重」であり、どう
好意的にとっても元亀三年前後の一年程度に「三郎」と名乗った可能性があ
るかもしれないというレベル。
あるし、天正元年の書状(小川文書)では既に「管九郎信重」であり、どう
好意的にとっても元亀三年前後の一年程度に「三郎」と名乗った可能性があ
るかもしれないというレベル。
るかもしれないというレベル。
好意的にとっても元亀三年前後の一年程度に「三郎」と名乗った可能性があ
るかもしれないというレベル。
ただし、元亀二年付けの信忠の書状(崇福寺文書)の署名は未だ「奇妙」で
あるし、天正元年の書状(小川文書)では既に「管九郎信重」であり、どう
好意的にとっても元亀三年前後の一年程度に「三郎」と名乗った可能性があ
るかもしれないというレベル。
750日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:05:06
幕府の公的な記録では、信忠も信雄も清洲城で生まれてる。
つまり生駒御前は清洲城で側室になっていたと考えるのが妥当で、
清洲城の産屋で出産だったと思われる。
つまり、生まれた瞬間から、家中には広く知られた事になる。
反して、信孝は熱田で生まれた事になっている。
熱田から清洲まで報告が遅れた経緯はよく分からないが、
後日に熱田の神司の岡本という人物が報告に行っている。
生まれたのも岡本という人の宿所に関係あったらしい。
熱田は、津島と並んで、父信秀の時代から織田家の収入源だから
信長も重視していたと思われ、熱田神宮の関係のところで
信孝が生まれたとしたら、信長的にはそう大きく扱いに差があったとも
思いにくいのだがな。

結局後世残った織田の家系が信雄の家系って言うのが大きい気がする。
751日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:06:55
なにこれ、コピペ荒らし?
752日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:07:08
勝長を養子にほしいという叔母の申し出を信長は何度も断ったのに、
承諾したのは御家安泰のためもあったということか?

もし勝長がお濃の子なら織田家の後継ぎにできなくても
いずれ美濃を与えるつもりだったかもな。
753日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:08:37
>>752
岩村のように国境周辺地域は双方の国と通じることが特例として
許されていたらしいから、織田側の所領として岩村をがっちりと
引き止めておくには、そこに嫁いでいた叔母の頼みを引き受けざる
おえなかったという見方もできるかも?

叔母にしても遠山家に仕えていた家臣も家を断絶させたくはなかっただろうし
ぬかりない信玄のことだからそこをついて養子をやるから武田側に付けと
裏でつなぎをとっていたかもしれないし。
もし、そんなことを叔母が信長にチラつかせたとしたら、
信玄との直接対決は避けまくっていた信長はやらざる負えないだろうよ。
たとえそれが正妻腹の息子であっても持ち駒がそれしかないなら、
断腸の思いで決断するだろ。

信長が信玄に命や東濃を差し出す覚悟ができていたなら話は別だけどな。
754日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:08:50
>>751
前々スレ辺りのログのコピペだね。
なにがしたいんだろう?
755日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:10:25
そういや武田には信勝がいたからね。
信勝の母は信長の養女だけど苗木遠山家の娘でもあったから
岩村を引き継ぐ大義名分は十分成り立つわけで、信玄ならいい機会と
ばかりにねじこませるぐらいは考えても不思議ではないね。
ただこれは信玄が義信亡き後の跡目についてどう思っていたかによるが。
756日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:12:12
>>753

やはり政治的な駆け引きがあっての養子というわけだな。
あの当時の養子や縁談では当然だけど。

養子になったからには正式に岩村にいた信長の伯母の子として相続人になった
と思うんだけど、その後武田から奪還されて戻ってきて、立場はどうなったんだろう?
伯母夫婦は信長に処刑されたけど養子縁組を簡単に解消できるもんなのかね。
757日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:14:08
信長って男と女どっちが好きだったんだろ・・・
なんか女は子供をつくるためだけ、って感じがするんだが。

>>756
処刑されたのは叔母夫婦だけじゃないしな。
叔母が秋山と結婚する為の交渉役だった織田掃部助も粛正されてる。
信長はかなり怒ってたんだろ。
で、戻ってきたあと、すぐ犬山城主、信忠与力、安土での対面
その時の豪勢なお祝い品と続く訳だ。
名前も織田源三郎信房、または津田源三郎信房に改めてる。
まぁ、岩村城自体も、既に奪還して森乱丸が城主になってるし。
相続だとかって問題以前の状態だからな。
758日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:15:49
>>757
どっちも好きだったのかもな。
ただ、確実に衆道の相手と言われているのは利家だけだから
乱丸のように、荒小姓だったらしいのに、衆道の相手なんて
江戸期に創作されちゃったから、そのイメージが大きいよね。

側室は後家も多いし、子供作る為の道具って感じはするけど。
後家だったら、既に子供を生んでて産めるの証明されてるし
そういうところにも信長の合理性が出ているのかもしれない。
759日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:17:25
武功夜話って、地元の逸話や伝承や系図に詳しくて、大久地古事記って偽書の
制作も疑われている津田応助が作って、所有者である吉田龍雲が清書したって
話をよく聞くよね。
元の原書自体は、朝鮮戦役の辺りくらいだけで、その他の信長と関わるような
辺りの話は、津田応助が地元に伝わる逸話とかを取り入れて作ったって。
土田弥平次なんかも、江南市に伝わってる逸話を利用したと考えると
結構納得いくんだけど。
でも、津田応助って江南市では地元に貢献した立派な人物って評価だけど、
生きてた当時って、古物の転売してたんでしょ?
特に、吉田家に売ってたらしいね。
自分の家にあった古物を津田応助に売ったら、いつの間にか吉田家に
代々伝わるものとして吉田家で見せられたなんて話も聞くし。
津田応助は死んじゃってるけど、吉田龍雲は生きてるんだし、その辺弁明はないのかね?
760日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:18:51
>>751
まとめサイト用に過去ログをアップしてくれてると、好意的に解釈しておこう
761日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:19:16
古代史には近親相姦の間柄を匂わす伝承や事件も多いけど
時代が進んで畜生道としてそれを禁忌する風潮ができているし、
当時の常識やぶりの信長とはいえ、男女間の肉体関係で
そこまで外すかな?という感じはある。私感だけどね。

>出し惜しみしていたとも考えられる
歴史上の人物といっても生身の人だから、
その感情について想像することも大切だけど、
愛憎思慕は憶測に偏るので、過剰の想像しないようにしてる。
女の器量や度量性格、政略上のタイミング、相手側との折衝など
嫁ぐ時期の遅い早いの事情は色々と見つかると思うけど。

>>759
武功夜話については、中身はともかくw
その発見から発表の経路、出版戦略とかに興味が沸く。
面白そうな話なので色々聞かせて下さい。
養子になったからには正式に岩村にいた信長の伯母の子として相続人になった
と思うんだけど、その後武田から奪還されて戻ってきて、立場はどうなったんだろう?
伯母夫婦は信長に処刑されたけど養子縁組を簡単に解消できるもんなのかね。
762日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:20:25
なるほど、信忠と信雄が同腹なら「次男信雄モ生駒ノ息女之腹也、」ってなりそうだよな。
ところで勢州軍記っていつ頃成立で著者は誰なんだっけ?
「勢州軍記」は神戸良政が書いたもので、基本は伊勢の戦国史だね。
寛永15年(1638)に「勢州軍記」の抄録の「兵乱之記」を書いてるから
「勢州軍記」そのものの成立はそれ以前。
17〜18歳くらいから、蒲生氏郷に仕えた父親の政房の記録をまとめる形で
「勢州軍記」を書き始めたと言われているから、1609年生まれだから
1626〜1627年にかけて書き始め、その後伊勢に戻ってから更に
伊勢の人に聞き取りながら加筆したと言われている。
まぁ、神戸氏なので、信孝の事がよく出てくる文献ではあるけど、
だからと言って、信忠や信雄を貶めたりしているような記述は
特にはないと思うけど、これは私見なので信雄贔屓の人から見たら
どのように見えるかはちょっと不明。
信長死後40年位してから書き始めたものではあるけど、信長公記の
成立直後くらいだから、信長公記にあまり影響されてないように
自分には思えるかな。
生駒が信忠の母親なら「嫡子信忠卿モ亦妾人ノ腹也」と書かずに、
信雄同様に「駒ノ息女之腹也」と書いてあるはず。
お濃が信忠を養子にしたのは23歳の時だから、彼女の子であっても不思議はないけど
「妾ノ腹」と書かれるのはもっと不自然だな。
嫡男になるほどの実母なら、生駒よりも身分が高いと推測されるんだけど、
それなら生母についてきちんとした資料が残っていてもよさそうなものだ。
考えれば考えるほど謎。
普通、偽文書を歴史捏造目的ではなく、各家の記念的顕彰作品として作る場合
作者は専門家が見ればすぐに偽文書だと分かるようにしておくものという。
武功夜話などは、専門家からすると、このパターンに当てはまるらしい。
「門外不出」
「当本貸出しの儀平に断るべし」
などの一文は、常套句である(武功夜話にもしっかりこの一文がある)。
だが、
濃姫が中心とは言えないまでも、当事者になった事件は
永禄12年の壷事件だろうな。
763日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:24:09
>>759
武功夜話に関しては、実際に読んでみたら分かる事だけど、
信長と生駒屋敷が絡んで出てくる辺りは本当にめちゃくちゃ。
吉乃の夫が弘治2年に亡くなったと書いてあるのに、
同じ人間が、吉乃は濃姫が嫁ぐ前の天文20年頃には信忠を身籠っていたとか
弘治元年の正月に信忠が生まれたので祝いに踊り興行を生駒屋敷でやったとか
証言していたりする。
信忠の生年は弘治3年というのはほぼ間違いないので、まずそこからして違う。
もちろん、濃姫の輿入れは弘治以降って事にしたいらしい記述。
墨俣の一夜城に関する記述がおかしいというのはよく言われるけど、それは説明
しやすい箇所だからピックアップされているだけで、そこだけじゃなく
桶狭間の戦いの記述とかもおかしい。
最近じゃ、桶狭間は正面衝突のガチンコで、上洛戦じゃなく鳴海城などの
救援に今川が出てきたと分かってきているから分かる事だけど、
小六が村人に化けて画策してたり、まぁ、所謂昔から講談なんかで書かれている
奇襲戦を更に色付けしてある感じ。
あと、信長は、財力的には最近では熱田湊や津島湊をおさえていて豊かだったと
考えられているけれど、お金がなくて生駒に援助してもらってる事になってる。
ちなみに、昭和以降の市町村合併による合成地名が出てきたり、戦国期に実際に
生きていた人間だったら知っている筈の、当時の河の流れが、後世変わってしまった後の
河の流れで記述されていたりもする。
他には、閏月のあった年の記述など、閏月があったのを知らない状態で書いたのか
閏月が無視されていたりする。
戦国期、特に織田を専門にしている史学者などは、はなから相手にもしてないし
偽文書と言われている。
発表された頃、本当だとお墨付きを与えたのは、織田を専門にしていなかった
小和田氏とかだね。
あと、遠藤周作などの小説家とマスコミ。
結局、ある程度信憑性を有していると考えられているのは、織田とは関係のない
朝鮮戦役の記述の辺りだけというのが最近の見解。
764日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:25:41
>>759
普通、偽文書を歴史捏造目的ではなく、各家の記念的顕彰作品として作る場合
作者は専門家が見ればすぐに偽文書だと分かるようにしておくものという。
武功夜話などは、専門家からすると、このパターンに当てはまるらしい。
「門外不出」
「当本貸出しの儀平に断るべし」
などの一文は、常套句である(武功夜話にもしっかりこの一文がある)。
だが、
>自分の家にあった古物を津田応助に売ったら、いつの間にか吉田家に
>代々伝わるものとして吉田家で見せられたなんて話も聞くし。
というのが、本当の事だとすると、吉田龍雲という人は
自己顕示欲と名誉欲が強いと思われる。
しかしながら、元の持ち主に誇ったりする程度に粗忽者とも言える。
武功夜話の中身がそういうパターンに当てはまると気がつかないまま、
津田応助死後に本物だというふれこみで出版してしまったと考えられるのではないか?
765日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:27:35
信長ならまだ日本が安定しきってないことがわかってただろう。
秀吉は所詮成金で他の大名から尊敬されてないんじゃないかな。
石田光成とかは忠臣中の忠臣だけど本当に豊臣を立て直そうとしたのは彼だけじゃないかな??
やっぱ尾張の小国から上洛するに至った信長を尊敬、あるいは目標にしていた大名はたくさんいたんじゃないか?
信長の成り上がりを知らない大名は先代の大名に「信長に注意しろ」とか言われてたんじゃない?
推測だけど。彼なら絶対的な統率力が生まれたと思うのは俺だけか??
まぁ参勤交代みたいな制度は必要だけど。アレはホントにすごい合理的な制度だと思った。
ポルトガルとあのままずっと交易を続けてたら南米みたいに植民地にされた可能性があったと思うんだな。
だから鎖国のオランダと清だけ交易するって言うのは成功じゃないかな?欧米のこともなんとなくわかるし。
その辺を信長が理解していれば信長の政権も上手く行ったと思う。
外国を攻めるのはもっと内政が安定して金がダブついてから。
オランダと相談して攻めるとか彼は外交が上手いからね。
失敗しないように策を張り巡らせていたと思う。
766日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:29:14
騎馬軍団スレを立て倒している1は
IPを晒して
この板から追い出すべきだと思います
本当にもううんざり
騎馬軍団スレを立て倒している1は
IPを晒して
この板から追い出すべきだと思います
本当にもううんざり
騎馬軍団スレを立て倒している1は
IPを晒して
この板から追い出すべきだと思います
本当にもううんざり
騎馬軍団スレを立て倒している1は
IPを晒して
この板から追い出すべきだと思います
本当にもううんざり
騎馬軍団スレを立て倒している1は
IPを晒して
この板から追い出すべきだと思います
本当にもううんざり
騎馬軍団スレを立て倒している1は
IPを晒して
この板から追い出すべきだと思います
本当にもううんざり
騎馬軍団スレを立て倒している1は
IPを晒して
この板から追い出すべきだと思います
本当にもううんざり
騎馬軍団スレを立て倒している1は
IPを晒して
この板から追い出すべきだと思います
本当にもううんざり
767日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:31:45
信長の遺体は、変時にこっそり忍び込んだ信長と親しかった
阿弥陀寺の清玉上人が持ち帰って埋葬したと伝えられている。
おそらく首だけだろうが。
これは、秀吉が法要を行う際に、阿弥陀寺に最初に頼んでいる事、
遺骨の差し出しを命じている事からも信憑性が高いと言われている。
ただ、清玉上人が秀吉の織田家乗っ取りをもくろんでいるような行動に
不審を抱き断った為、秀吉は致し方なく総見院を建て木造を火葬にした。
そして、その後秀吉は、阿弥陀寺の財産など没収して不遇な扱いをしたり、
阿弥陀寺を無理矢理移転させてもいる。
そのとき、遺骨も掘り返して移転したのか、そのままに移転したのかは不明。
だが、おそらく、現在の阿弥陀寺に遺骨はないと思われる。

ちなみに、信長の墓や霊廟は、もちろん遺骨の埋葬されていない墓だが、
確認できるだけでも各地に10箇所くらいある。
一番有名なのが、秀吉の建てた総見院。
768日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:33:14
幕府の公的な記録では、信忠も信雄も清洲城で生まれてる
光秀軍に包囲され、第清玉上人が火のかけられた本能寺に忍び込んで、
信長の遺体をみつけ、首だけでも持ち去るのは現実問題として不可能だと思う。
本能寺の変を聞いて駆けつけたというけど、その前に光秀がくまなく
探させているわけだしね。
味方の放った火が遺体を炭の様に燃えさせ、誰が誰だか識別不可能になったと
考えるのが妥当だろう。 にはそう大きく扱いに差があったとも
思いにくいのだがな「¥
結局後世残った織田の家系が信雄の家系って言うのが大きい気がする。
清玉上人が信長の遺体を火葬して持ち去った説もあるけど、生の人間を
骨になるまで焼くには相当な時間がかかって、その間に光秀に
見つかってるはずで、この説も信憑性がない。
つまり生駒御前は清洲城で側室になっていたと考えるのが妥当で、
清洲城の産屋で出産だったと思われる。
つまり、生まれた瞬間から、家中には広く知られた事になる。
反して、信孝は熱田で生まれた事になっている。
熱田から清洲まで報告が遅れた経緯はよく分からないが、
後日に熱田の神司の岡本という人物が報告に行っている。
生まれたのも岡本という人の宿所に関係あったらしい。
熱田は、津島と並んで、父信秀の時代から織田家の収入源だから
信長も重視していたと思われ、熱田神宮の関係のところで
信孝が生まれたとしたら、信長的
769日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:34:27
武功夜話って、ひとくくりにされているけど、何種類かの文献の寄せ集めな訳よ
そのなかで、どうやら朝鮮の役の辺りは、信憑性があると言われている。
どうも、いわゆる江戸期に作られたという原本はその辺だけだったんじゃないかと
推測される訳だ。
だから、それ以外の信憑性のない辺りは、それこそ昭和年間に捏造されたものと
考えられる。
実際、普通は、昭和以降の地名だとか、後世の自然現象で変わってしまった
地形を元にした記述だとか、吉乃がらみで言えば、弘治2年に夫が亡くなった
なんて書いているにも関わらず、天文20年や弘治元年正月に信忠生んでたり
濃姫の輿入れが弘治2年だったりするような、他の資料と付き合わせて
明らかにおかしな記述がある時点で、アウトな訳。
で、武功に信憑性を見いだしたい人間は、その寄せ集めの文献の中でも
朝鮮の役を持ちだしてきて、信憑性があるから、武功夜話全体も
信憑性があるのだという論調。
反対に、武功夜話全てを否定する人間は、アウトな記述があるから
寄せ集め文献の中でも、アウトな記述がないものも含めて偽書という
そういう状況な訳よ。
で、専門家の検証を受けていない時点では、専門家としては何も言えませんよ
というのが、学者達の意見という感じかな。
770日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:35:40
>765 
日本語で桶というか意味不明
771日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:36:00
勝長が濃姫の子であることに不自然さはないんだけど、なぜ濃姫の子で
あるという記録がないのでしょう?

濃姫の実子であっては不都合な理由があったとしたらそれはなんなのか?
で悩みます。

側室腹の嫡男信忠と正室腹の勝長とで家督争いがおこることを避けたかったため?
ぐらいしか理由が思い浮かばないのです。
772日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:37:28
今目に見える形の信憑性のある文献からは
それくらいしか思いつかないよなぁ

これは完全に推理で妄想だから、読み飛ばしてくれればいいのだが
勝長が永禄11年に生まれたんだとしたら、信忠はかぞえで13歳くらいか?
12年わが子同然に育てた子供がいたら、実子が生まれても
相続争いを考えれば理性的に行動できるともいえる。
信長自身が信勝と相続争いで骨肉の争いをしているのを濃姫は
目の当たりにしているわけだ。
そして、その二人の生母である土田御前の苦悩だって
同じ女として濃姫は見ているに違いない。
信忠と勝長に二人にさせたいとは思わないだろう。
まして、こういう場合これほど歳が離れていれば
粛清されるのは弟のほうである可能性が高い。
だから、親戚にお預けという形で離したとしても不思議ではない。

>>770
同意
意味わからん
773日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:39:40
信忠の母方が生駒氏だとするとその割には冷遇に近い扱いをされている気がする。
織田家時代の生駒氏って秀吉の与力扱いしかされてないけど、
濃姫の養子になってるとは言え、嫡子の生母の家にしてはずいぶんな扱いだ。

あと勝長が濃姫の実子って話が出てるけど、だからといって嫡子の
競争相手をわざわざ作るような真似をするかな?
それこそ信忠と信雄、信孝を明確に差をつけてきた信長の考えと
真っ向から矛盾すると思うんだが。
774日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:40:23
自分も寛政重修諸家譜の信忠の生母の記載はでっち上げだとは思わないな
ただ、勝長の生母に関しては、巧妙に削除したんじゃないかとは思う
秀勝の生母なんかは、不明だが、その足跡はある程度分かっている
書状なども残っていた筈。
冬姫の生母と同母らしいというのも分かってきている。
しかし、勝長みたいに信長生存時に元服した人間の生母が、
全く分からないというのもおかしい。
ただし、寛政重修諸家譜が編纂され始めた19世紀に削除されたんじゃなく
信雄が生きていた時代に削除されたんじゃないかと……。
だから後年子孫が、寛政重修諸家譜の為の資料を出す時には不明に
なっていたんじゃないかと思う。
それこそ、勝長の子供が生きていたから、仮に生母が濃姫なら
隠さなくちゃいけないと、信雄が思ってもおかしくはない。
775日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:41:16
信忠は信長の子なんで秀吉の場合は参考にならないかと
近いのは伊達家かな
政宗の側室の生んだ第一子は、分家になってる
でも秀宗は正室の養子にはなってないから単純に比較は出来ないよね

というか、正室がまだ23才なのに養子をとっているのが異例な気がする
養子にするまでも無く、側室にしか子供が出来なかったら
側室の子を側室の子のまま世継ぎにすることが多いし
側室の子が継いだら、濃姫が尊重されないかもしれないこと気にして養子という流れなら
もう数年、濃姫が30超えてもう子作りは無理と諦めがつくまで待つんじゃないかと
美濃が欲しいだけで濃姫についてはどうでも良いっつんなら別だけど……
後は濃姫本人が諦めていて養子でも良いから早く子供が欲しいと思っていたとか

信房について、もし濃姫の実子で、だから養子の信忠は美濃支配に留めて
織田を継ぐのは源三郎信房というプランがあったとしたら
信忠は即効で信房を殺したと思うんだよね
与力だから、戦でちょっと危険な所を任せて、うっかり指揮を取り間違えたように見せかければ
簡単に殺せる
殺したところで誰も信忠を罰することが出来ない
信房が居なくなってしまったら、信忠しか織田を継ぐ人が居ないからね
「源三郎」が、いずれ織田の跡取りにいう意味なら、戦国の常識に従うと同母の兄弟でも殺すし
信長も伊達に弟に謀反起こされた訳じゃないから
信忠が嫡男というのが揺るがないことが内外に明白なのでなければ
信房を信忠の与力にはしないと思う

源三郎については、後で周囲に誤解招くかと反省したんじゃないかと思うけど
だから半年後、信忠に「天下の儀も御与奪」とわざわざ言ったのかも

つーことで、信房が濃姫の子なら、信忠も濃姫の子と、セットで考えてる
逆に言うと、信忠が濃姫の実子でないなら、信房も違うと思う
776日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:42:37
信忠に関してはやはり側室腹と考えるのが自然だと思う。
それも>>653のような流れであればなんら不思議はない。
濃姫の認めた人柄の女性を側室に差し出し、自分の代わりに
子供を産んでもらったというだけの側室。
立て続けに子供を3人も産んだから寵愛が深かったという
誤解を与えたけど、逆に年子3人ということは、褥の数は最小3回でも可能。
妊娠中は褥をすることもなかったろうから、信長との関係は
側室と当主のそれを超えるものはなかったと思う。
第3子出産後はぱったり子供が産まれてないのが寵愛がその程度であった
証拠。

勝長は実子である可能性は大いにあるけど、信長が目の黒いうちは
嫡男を退けてまで勝長をという考えはなかったと思う。
その気持ちがあれば養子にだしたりはしないはず。

嫡男として育てておきながら当主の怒りをかい、廃嫡されるというケースは
あるので(細川家、ガラシャの長男は廃嫡)、家督争いのためというのではなく、
信忠に嫡男としてあるまじき粗相があったら廃嫡して、勝信が嫡男に
ということはありえるだろう。

いろいろ考察すると、濃姫は世間が思うほど影の薄い正室ではなく、織田家に根を
はって、正室として実権を握っていたというのが本当のところではないかと思う。
それには信長の理解あってのことだから、夫婦関係は良好だったんだろうとも
思える。信長が道三のかたきをとってくれた、濃姫のおかげで念願の美濃を手に入れた、
というお互いの利害関係も一致していたしね。
777日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:44:17
>>775
伊達家の場合は秀宗を豊臣家に人質に出したものの、
徳川の時代になるから徳川に人質として送っていた忠宗に跡を継がせるという
政治的な意味もあるから濃姫の事例とは微妙に違うな。

そもそも勝長は本当に濃姫の子だったのか?
濃姫が若いうち信忠を養子にしたということはもしかすると夫婦間が不仲で
早くから関係がなかった=子供は望めないということだったのかもしれない。
また渋々とはいえ、正室腹の長子を外様の最前線に送るってのも考えにくい。
また織田(津田)姓のままだったといっても帰国してからまだ半年、
いずれは他家に養子に行く予定、もしくは信長としてはその腹づもりだったが
養子に行く前に本能寺の変が起きてしまっただけというのも考えられる。
何より源三郎≒三郎説は根拠としては弱いし、勝長が濃姫の子というのも何の根拠も無い話。

仮に勝長が濃姫の子として、信忠という壮年で器量も優れた長男がいるのに末子を無理に
立てるようなまねをすれば信長の目が黒いうちならともかく、死後に内紛が起きる危険もある。
次男以下を他家に送り出した信長がわざわざそんな愚を犯すかな。
また濃姫、ひいては美濃衆に対する配慮という話も出てるが信忠は濃姫の養子だし、
美濃衆の多くは信忠配下になっているわけだから彼らからしてみれば順当に信忠が
後継になったほうが政権中枢参画できるんだから、信忠後継のほうが望ましい話だろう。
778日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:45:16
俗に濃姫と呼ばれる織田信長正室(斎藤道三の娘)についての
史料は少なく、消息ましてや個人的資質についてはほとんどわからない。
とりあえず信長の正室についてのことだと思われる史料を挙げておきます。


「さて、平手中務才覚にて、織田三郎信長を斎藤道三婿に取り結び、
 道三が息女尾州へ呼び取り候ひき」(改訂信長公記・新人物往来社)

 この道三息女の名前は信長公記には載ってません。『美濃国諸旧記』という
江戸時代に書かれた史料では、「天文十八年二月廿四日、尾州古渡の城主
織田上総介信長に嫁す。帰蝶の方といふ。又鷺山殿ともいふ。」となってます。

それから公家の山科言継が美濃に下向したときに見聞した事件として、
彼の日記『言継卿記』の永禄12年7月27日の記録に、
 「故一色義龍後家壷可為所持、可被出之由信長連連被申、一乱之刻被失云々、
  尚於責乞者可自害云々、然者信長本妻兄弟女子十六人可為自害、國衆大なる衆十七人、
  女子之男以上卅余人可切腹由也、仍中分失弗に治定、今日無事に成了、」
というのがあります。簡単に説明すると信長が故・一色(斎藤)義龍の未亡人所有の壷を
欲しがったが、未亡人は無くしたといいこれ以上責められたら自害すると言った。
これに対して信長の本妻とその兄弟や主だった国人衆などが、
(未亡人が自害するようなことになれば)自分たちも自害・切腹するといって、
信長に反抗、結局信長が無くしたという未亡人の言い分を認めて無事解決、
という事件です。
ここでいう信長本妻はどう考えても信長の正室で斎藤家に深い関係のある女性なので、
俗にいう濃姫のことかと思われます。彼女の性格がわかるような史料はこれぐらいしか
知りません。
779日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:47:04
それは当時の当人達にしか分からないんじゃないかな?
ただ、信長は御台を連れていろんなところへ行ってるし、意外と仲は良かったのかもしれん。
濃姫にとって吉乃の事は、普通に正室から見た側室、子供を産む為の使用人と思ってたかもな。
吉乃は、武功夜話でこそ生駒屋敷にいて信長の最愛の人だけど、幕府の公式な家譜では
清洲城で信忠も信雄も生んでるし、真っ当に清洲の奥で側室の務めを果たしてただろうさ。
信忠は正室の養子で、斉藤家美濃衆にがっちり囲まれて育ってる事からしても、
別にそれほどどうという事もなかったのかも。
信長が生駒家の女を側室にした事自体、犬山城と生駒家の分断の為だろうしな。
もし、吉乃が最愛の人だったとしても、早くに亡くなってるし、濃姫が安土殿で
正室としての立場を全うし続けたんだったら、吉乃の実子である信雄が600貫文も
知行を与えてる事からして、尊重されてただろうし、特に気にしてなかったんじゃないか?
吉乃が側室だった期間より、いなかった期間の方が濃姫の人生の中では長いんだし。
780日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:47:34
何が何でも史実に昇格させたい人々かぁ。
じゃぁ、反対に史実昇格(?)に反対する人の目的は?

通常、最近発見されたような文献や史跡や資料があれば
これまでよく分かっていなかったというだけの人物の場合
経歴として反映される。
全く違う経歴が史実として、資料等があって流布している
場合は、書き換えるか否かはもっと議論されるとは思うが。
全く違う経歴の史実はなく、単純に分かっていなかった場合
ある程度信憑性が高いものが出て来たら、こうなってしかるべきだろ?

結局のところ、別段大きく文献に残る程特殊な事件が起きなかった
女性などは資料が残る事は少ないという事実を踏まえれば
ごく普通に夫婦でいたんだろうと考えるのが、これまでの
女性史としてのありようなんじゃないの?
信長の御台だとか、疑問の残る武功夜話の吉乃の箇所とか
そういうものを大きく考えるから、濃姫が資料として
残っているものが少ないという事を、ことさら重大に
考え過ぎなんじゃないの?
781日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:48:50
しかし、>>758はかなり読解力がないか
史実を知らないのだろうか?

徳姫永禄2年誕生は史実だ
生駒女永禄9年没も史実だと思われる
短期間で死んでなんかいないんだけどな?
それを指摘しているのに>>756を読めというのは
意味分からん。

短期間で死んだと思われている理由も>>542には
書いておいたんだが、細かく言わなくては分からなかったのだろうか?

武功夜話では
吉乃は徳姫産褥後病に臥せっていた。
小牧御殿が完成したので、吉乃に座敷を与えるから来いと言った。
信長は吉乃の病を知らなかった。
吉乃は信長の計らいで輿で小牧にきた。
翌年ほぼ寝たきりのまま小牧で亡くなった。
となっている。

詳しい年代記述は亡くなった年だけなので、武功の情報を鵜呑みにすると
産褥後の病を知らなかった期間なんて、長くて数ヶ月だろという風に思われている
そのため、徳姫出産後すぐに亡くなったかのように言われているが、
じつは7年も経ってから亡くなってる。
すぐに亡くなった訳じゃないというのはそういう意味だ。
782日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:50:25
生駒家の家系図でも「吉乃」なる女性は存在せず該当すると思われる女性は「類」。
信忠、信雄、五徳は清洲城内で産まれた記されているので、生駒屋敷に類がいて
信長がせっせと通ったこととも矛盾する。
濃姫公認の側室として清洲にあがり、奥で側室奉公をしていたという事実を歪曲
しているのは確か。
武功夜話の年代的な矛盾も甚だしく自分で調べてみるといいよ。
呆れるほどだから。
信長の寵愛が深かったという証拠となるのは武功夜話に書かれていることだけが
根拠。
一般史料からわかることは、類はその他大勢の側室となんら変わりない扱いを
受けていた。それどころか、生前出家していたことがわかっているので
五徳を産んでから信長のもとを去っているんだよ。
寵愛が深かったらそんなこと信長が許さないし、する必要もないでしょ?

年子で3人産むということは、さほど信長と交渉回数がなかったということの
裏返しでもある。何を根拠に信長の寵愛が深かったと信じられるのかな?
783日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:51:49
一度、みんな平明な思考で検証をしなおしたほうが良いと思う。

ここの人たちは自分の好きな人物に肩入れしすぎの感がある。
また、憶測が多いのも難点・・・妄想と紙一重の危険性があるぞ。
784日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:53:34
匿名掲示板で叩かれたところで痛くもありませんから。
主張したいことは主張するだけです。

これはあまりに自己中心的な態度ではないですか?
自分は痛くもなくとも、当事者以外に貴方の煽り発言を不快に思っていた人は
たくさんいるし指摘されてもなお挑発するような書き込みを続けている態度には
自分も憤りを感じました。
他人に迷惑をかけないという前提でご自分の主張をしてください。
それから傍からみていると、 「信忠の母は生駒氏では無い」という主張に
固執している人たちと同じレベルで「信忠の母は生駒氏である」と
感情的に固執しているようにしか見えません。
生駒が信忠の生母でなないと主張する人の中には、
可能性の一つとして、生駒が生母ではないということも考えられる、
という意見もありましたが、
そのこともまっこう否定できるだけの確実な史料をお持ちならともかく、
そうではないのでしょ?信忠の生母の記載のない史料もあるのですから。
なんでそこまで双方が信忠の生母にこだわっているのか理解できませんけどね。
しょせん生駒は側室でしかないし、史実の表舞台には濃姫以上に出てこない人物
だから。

とにかく荒らし行為だと他人が感じるような書き込みはルール違反だと思いますよ。
785日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:55:30
上の西洋社会の人食いで思い出しました。
大昔、第二外国語のフランス語でペローのシンデレラを習ったとき、
以下のような後日談がついておりました。
シンデレラの姑の女王は実は人食い女で、王子様の遠征中、
シンデレラの子供(要するに自分の孫)たちを食べようとする。
しかし家来が同情して、女王を騙して鹿の肉を与えていたが、
それがばれてしまい、今にもシンデレラと子供たちが
女王に食べられそうになったとき、
王子様が帰ってきて、女王は蛇やら蟲やらなめくじで
いっぱいの穴に落ちてくわれちゃう、という話。
「子供にロベールソース(どういうソースか不明)をかけて」とか、
蛇にお后が食われるとき「骨がぎしぎし」したり、
シンデレラ本編より後日談の方が猟奇的でかなり面白いのですが、
不思議と日本のどの本にも出てこない。ペローの原作はフランス語
忘れて二度と解読不能(泣)。
786日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:56:45
土岐成頼─┬政房
       ├頼定(明智)
       ├頼尚(明智)┐
       └元頼─頼連│
┌──────────┘
├明智光継┬光綱──────光秀
│      │  │┌妻木広忠  │└┐
│      │  │└妻木範熈─熙子..│
│      │┌妹            .│
│      │└武田義統       ...│
│      │  │           . │
│      │┌姉           . │
│      │└足利義昭       ...│
│      │               │
│      ├光信(山岸)─────千草
│      ├景行(遠山)(光安?)─秀満
│      ├光忠(小里)
│      ├頼房(原)
│      ├光廉(三宅)
│      └小見の方
│         ├──帰蝶
│       斎藤道三 │
│             織田信長
└土岐頼明─定明
         ├───定政
  菅沼定広─娘
787日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:56:45
>775 
信忠が勝長を殺すという発想になぜなるのかが 
いまいちわけわからんなぁ… 
信忠も勝長もお互いの立場は理解していただろう 
他スレだったかで誰かも言っていたが 
いずれは信玄でいう信繁みたいな存在に 
なるよう見込んでいただけじゃないのか?
788日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:57:44
土岐成頼─┬政房
       ├頼定(明智)
       ├頼尚(明智)┐
       └元頼─頼連│
┌──────────┘
│       朝倉孝景
│         ├──────義景
│武田元信┬広徳院
│      │        ┌足利義昭
│      ├        └姉
│      ├元光┬信親  ├─元明
│           ├信豊┬義統
│           └信高├信方
│               └お牧の方
│         ┌─────┘
│         │喜多村保光─伏屋姫(光秀室)─喜多村弥平兵衛
│         │┌妻木広忠
│         │└妻木範熈─熙子
│         │         ├娘(秀満室)
│         │         ├娘(光忠室)
│         │         ├玉子(細川忠興室)
│         │         ├娘(津田信澄室)
│         │         ├光慶
│         │         ├定頼(筒井)
│         │         │
│         ├──────光秀
789日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:58:31
├明智光継┬光綱
│      ├光信(山岸)───千草(光秀室)─光重
│      ├景行(遠山)(光安?)─秀満
│      ├光忠(小里)
│      ├頼房(原)
│      ├光廉(三宅)
│      └小見の方(道三室)─帰蝶(信長室)

└土岐頼明─定明
         ├───定政
  菅沼定広─娘
790日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:59:56
>>783
でも歴史検証にとって一番大事なのは当時の信憑性の高い資料の検証。
それに即して当時の風習、慣習、時代背景を視野に入れた憶測で肉付け
していくわけです。根拠のない妄想は危険だけど、資料を根拠に憶測をして、いろんな角度から
意見を言い合うことは大切な事だと思う。

吉乃マンセーが叩かれるのは、武功夜話や早わかり信長辞典みたいな、
ものしか目を通さず、他の資料と照らし合わせればいろんな矛盾が
すぐにわかるのに(年表と比べただけだって矛盾だらけ)、
それもせずに鵜呑みにしてるから。

濃姫に関しては、信長御台という記述の残る資料を集めてもたいした量は
ないけど、そこからみえてくる濃姫像はけして信長に冷遇されていた
という事実はないということ。

ということは夫婦の営みもあってもおかしくはないので、
濃姫に子供が生まれても不思議ではなく、
「近江國輿地志略」の「曾織田信長と御台所倶に当院に止宿す。不図平産あり。」
の記述を根拠に、勝長が濃姫の実子では?とたどりつくわけです。

好きな人物だからと肩入れをしてそう結論づけるようなことはしません。
少なくとも私はそうです。
791日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:01:52
信長の生母について話を戻したいけど・・・
信長の生母は土田御前でないかもという話が出てきた。
しかし、信長の生母でしかも信秀の正室でもあるのに
なぜ名前が残らなかったのだろう。
しかも信長生母は、信長の死後、
なぜか織田一族主催の葬儀には出席せず、
秀吉主催の葬儀に出席していると
どこかのスレで見たが、これって信長生母としては
おかしくないか?

あと信長生母 = 土田御前 ではないとして、
信長と同腹だった兄弟は土田御前が生んだのではないことになるし、
この土田御前って人は別に信秀の子供を生んでることになる。
だとすると、なぜそっちの方が記録に残らずに
土田御前=信長生母 という記録だけが残ったのだろう?

ややこしくてごめん。
792日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:03:03
秀吉主催の葬儀に出たのって、信長の生母らしい土田御前と
信長にものすごく寵愛されてたらしい側室のお鍋だっけ。
単なる信長の父親の側室だった女性や、数多くいた信長の側室の一人が出席するより
生母や寵妾が出席する方が葬儀の格が上がって主催者は嬉しいのかも。
793日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:03:32
>784 
このスレのどこに君らの推測に 
異議ありと唱え続けている人がいる? 
生駒こそが生母だと訴え続けている人がいる? 
794日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:03:52
田氏の検証もどっかで読んだことあるけど、土田氏のことは謎だらけなんだ。
信長祖父の信正の時代はまだまだ地方の豪族の庶流の一つにすぎなくて
織田家内でもぱっとしない頃。ただ津島に目を付け経済力で基盤を固める
基礎固めのため信秀の正室をその方面からもらった可能性がある。
津島に土着していた土豪集団(津島七党等)と争いが絶えなかったというし、
政略結婚によって津島の反織田勢力を支配下においていったのではないかと推測できる。
土田氏と婚姻関係を結ぶよりも、直接的な利益につながることから
その線を押している専門家もいたよ。
土田氏とは婚姻関係を結ぶほどの必要性がない関係じゃないかって。

信長生母で正室だというのに、土田氏一族が織田家で重用されていた記録は全然ないし、
当時の婚姻制度だと正室の実家の家臣が婚姻の時に付き従って、嫁ぎ先でもそこそこ
重用されていくもんだから、そのへんは確かに変ではあるけど。

ちなみに信孝生母の坂氏は津島七党の一つ岡本家が母方実家筋にあたるそうで、
坂氏が信長の側室になったのも、政略的な意味合いからじゃないかと思ってる。
信孝の筆頭家老が岡本良勝で、信孝は良勝の屋敷で誕生したということだし、
関氏一党であった鹿伏兎氏の庶流坂氏が、早々に関氏に見切りをつけ、
織田家にくだり、人質として信長に信孝生母を差し出した、という説を
密かに信じてる。坂氏の身分が低いっていうけど、馬借侍の生駒家に
とやかくいわれる家柄じゃないよ。
795日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:04:30
>>793
バロン
796日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:05:09
明らかにスレ違いの話とは思うがある作家(だったと思った)の
信長の本に、信長の兄弟信広、信治、信興、秀孝、さらに叔父
信次らも信長が暗殺したなんてことが書かれてた。
一般には彼らは伊勢長島や浅井朝倉との戦いなどで戦死したという
ことになってるがこの本ではそのことが公記に書かれてないこと
が一つの根拠になっている。
確かに記載はないようだが、自分が読んだ信長公記現代語訳では
戦死した者の内、叔父信次は出奔していたのを信長が再び守山
城主に据えたという記事の続きにそのことが書いてあった。
そう言われれば信広、信治などについては記載があってしかるべき
とは思うが。
自分としては信長が信勝(通称信行)以外の兄弟をここまで殺し
つくしたなどとは信じたくないが・・・
まあ所詮作家の書いたものなんだが。
797日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:05:27
信長は、側室は子供を産ませるために必要と考えていただろうから
後家で子供を産んだ経験がある女性は、条件にかなっている。
家康も、天下を掌握するまでは、後家を側室にして子供を産ませているし。
持ち駒としての子供が必要な時代には、そういう風潮があったのかもしれないな。
また、経産婦なら、婚姻した事もなく側室に上がった女性よりも
子供を確実に産める可能性が高いし、だから史実に残りやすいという構図かもしれない。
処女のまま側室に上がって、子供を産んでいない女性などがいても、
歴史には残らないからな。
また、生駒もお鍋も、秀吉といくらか関わりがある。
生駒家そのものが秀吉の与力で譜代だし、関ヶ原で家康側に「も」ついて生き延びてる。
お鍋も秀吉の法要に出席して、信長の後継者という権威付けに貢献している。
秀吉が天下を取ったから、その2人が目立っていると考えると、
スタートラインをフラットにしてみたら、信長の側室としては、
それほど飛び抜けていた訳でもないのかもしれない。
複数の子供を産んでいる側室が、他にいたとしても、特定されていないから残っていないしな。
もし本当に、お鍋が信長の奥で力があったら、信雄が知行を与えていただろう。
秀吉の庇護下に入ったのは、織田家から捨て置かれていたからだ。
信雄の分限帳を見れば、織田家で重きを置かれて当然の女性には知行を与えているからな。
798日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:06:38
どのレスがバロン氏なのか言ってもらいものだな
799日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:06:46

戦国時代の特色として嫡男であっても当主である父親の意向で
廃嫡の可能性がいくらでもあったということ。
斉藤家だってそのことを恐れた嫡男が先手を打って道三を亡きものにした。
伊達家や織田家のごたごたも次男であっても嫡男になれる可能性は当然あった
ということの証明。
家光の時のごたごたまでは戦国感覚でその可能性もあったので、家臣も真っ二つに
わかれたけど、家康の鶴の一声で長男優先が定着した。
でも正室の子ということが前提。
正室に男子がいない時に限り側室の産んだ男子を養子にして嫡男としていった。

濃姫が早々に側室腹の子を養子にしたのは不思議なことだが、戦国時代は当主は
明日の命もわからない時代だったので、嫡男問題は先延ばしできない事態になって
いたのかもしれない。嫁いでから7年たっていたし、道三も亡くなっていたし、
家臣からの圧力もあって濃姫としても仕方がなかったのだろうと思う。



>>796
山岡荘八?
800日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:08:40
>>797

>織田家から捨て置かれていたからだ

というより、最高権力者である秀吉になびいたんじゃないか?
織田家についてもお鍋も子供達も厚遇はしてもらえないだろうからさ。
そのあたりにもしかしたら正室への対抗意識があったのかもしれないけど。
801日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:10:35
学者や研究者が取り合わないのはなんで?
別に研究者みんながみんな濃姫の早世を主張していたわけでは無いのだから
こういう文献があって御台として尊重されてたようです、と
発表する学者がいても良いように思うのだけれど。

やはり妻妾のことなどでは著作のメインにならないとか、
戦国女性史分野が軽いものと見られているとか?
岡田氏もあれから進んだ著作を出して無いよね。
802日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:11:19
近江國輿地志はともかくとして、
言継卿記や近衛前久第門外町人中宛日乗朝山等連署奉書や
今井宗久の書状などは、別に無視されていた訳じゃないよ
ただ、元々戦国期の妻妾の事を突っ込んで研究している人は
在野の人に多かった訳だから、武功夜話信奉者に多くが流れた後
武功夜話に都合の悪い記述は、それをいかに濃姫ではない事に見せるかに
そういう人達は腐心してきたと言っても過言ではないと思う。
一番呆れたのは、言継卿記の信長本妻は、吉乃死後斎藤家からもう一度
正室を娶ったのだと主張した人がいたこと。
もしそういう事実があれば、それこそ文献に残る筈だというのに
そういう事は無視だからね。
さすがに、吉乃の辺りの矛盾点を、多くの人が認識しだした昨今では
声だかに主張する人はいなくなったけど、歴史読本など読んでみると
いまだに吉乃正妻説を、常識の事のように書いている在野史家が多い
安土殿にしても、養華院殿要津妙玄大姉にしても、濃姫と確定できないと
主張する程度で、じゃぁ、安土殿、養華院殿要津妙玄大姉、そして種々の文献に出てくる
御台や北の方や本妻という記述の女性に、誰が当てはまるのかという事には
そういう人達は誰も答えられない訳だ。
養華院と、興雲院の墓が総見院に建っていて、体裁が違うというのに、
どっちもお鍋の墓だと主張する人とか、氏郷記に出てくる御台もお鍋だと
主張する人とかいる訳で、織田信雄分限帳の安土殿だって、お鍋に違いないと
言う人達を何人見た事か。
その頃には、高台院の侍女になって知行を与えられてた事は無視ですかと
思ったものだ。
とにかく、吉乃の正妻説を真実にしたい人達にしてみれば、濃姫が生きてて
信長と普通に夫婦であった事は認められない事で、それを声高に主張する
論調だけが世に広まっていってたって感じなんだよね、ここ20年近く
803日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:13:05
>>801
やっぱり調べ辛いのは確かだよ。
「近江國輿地志」にしても「養華院」にしてもどちらとも解釈できるから。
可能性は十分あっても、これといった決めてがないから。
「書いてないからそうかもしれない」は史学では通じないから

>>802
せっかくの良スレなのに、なんで執拗に「武功派」を叩きたがるの?
はっきり言って、斎藤氏を調べたいのか、叩きがしたいのか真意が見えない。
そんな「斎藤氏叩き」の主張は見たこと無い。
論文等があるなら教えて欲しい。郷土研究史の類も見るようにしているが、
出会った事が無い。もちろん「武功推進派」の江南郷土史研究会のヤツもね
804日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:14:50
しょうがないよ。
濃姫だけじゃなく、あの時代の女性が大抵そうだったんだから。
史実に残ってるのは数奇な運命だったお市みたいなタイプか
歴史の表舞台で身体を張らないといけなかった高台院みたいなタイプか
為政者にとって都合のいいお鍋みたいなタイプだった訳だから。
吉乃だって、残ってる残ってるって言っても、あの偽書の武功夜話だけだぞ
それに、織田家は女性についての記録を信秀以前から残さない慣習があったと
織田家では言っているくらいだし、土田御前だって、本当に生駒と縁戚なのか
それとも全然違うのかすら、本当のところよく分かっていない。
805日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:16:08
研究者は何とも言えないが学者が取り合わないのは
学閥もしくは教授間の相関関係が影響しているから。
戦国といえばあの人という彼が武功にお墨付きを与えてしまい
それについて撤回をしてなければむやみなことはできない。
学会で偽書という見解が出ているにも関わらず、信長妻妾に関しては
未だ武功よりな見解なのはそのため。
806日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:19:28
前から言われてる事だけど、大徳寺総見院の墓石群は大きく2グループに
分けられる。信雄のグループと興雲院(鍋)のグループ。
信雄のグループが
信雄、秀雄(信雄の長男)、信雄の娘とその夫(佐々長朝)。
広くとれば、同腹の兄・信忠と姉・見星院(徳)もこのグループ。
興雲院(鍋)のグループは
興雲院(鍋)、子の信高、信吉、娘の江声院。信高の子・高重と信吉の子・
良甫とその妹と娘。
その他として、信長、その両親と妹一人に秀勝とその侍女。
あとは名古屋山三郎とよくわからん井上さん。そして養華院。
こうなると信雄の母があってもいいけど、生駒氏とすると、慶長まで生きて
いないはずだし。
なら、何故「信長公御寵妾」としたか。斎藤氏そ存在をもみ消したいなら、
墓石を造らなければいいだけ。ここが難しくところ。
本当は墓石の位置関係を考慮したかったがコピー記事が見あたらん。
807日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:20:33
自分が他スレで書きこんだ覚えのある内容が 
ここでコピペされまくっていて萎える(´・ω・`) 
お前は俺かよろしくで勝手になりすますなよ
808日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:27:22
ヤフや濃姫サイトBBSで三条夫人を擁護する人のレスは酷いな
気持ちはわかるが、もう少し文章表現を考えられないのかな…
勝頼までか山梨県民まで非難しているしさ、正直引いた。
菩提寺だって、墓が荒れたのは根本的に住職や檀家の責任なのだから
関係ない山梨県民(と一つに括るのは問題なんだが)にまで責任転化する
なんて筋違い。まっ、判官贔屓もホドホドにって感じだな。

このスレにはそういう人がいなくて良かったよ。
809日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:28:31
ヤフーでは信忠のまわりが斎藤縁者や美濃衆でがっちりと固められ
生駒関係者はいたの?状態だったのを知ってか知らずか
美濃攻略中の信長にとって濃姫は不要な存在になったから返したとまで
思い込んでいたご様子です。
810日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:29:59
由孝の父由成の墓誌には、「・・・祖妣斎藤山城守女先考諱由之号出羽守・・・」
とあって、由孝の曾祖母は斎藤道三の娘であると書いています。
ただ、「寛政重修諸家譜」には池田由之の母は伊勢兵庫頭某女とあり、
倉敷市にも「池田元助の室は伊勢兵庫頭貞良の女、斎藤山城守竜興の外孫女
由之を生み卒す。一説に斎藤義興の女とするは誤なり」とあります。
これについては一応次のような関係になるのかと理解しています。
斎藤道三というと日本歴史上でも有名人ですが、その子女になるともう名前すら
判らないのです。

斎藤道三┬義龍
      ├濃
      └女
        ||─由之─由成┬由孝…
        ||         └熊子(大石内蔵助の母)
池田恒興┬元助(之助)
      └輝政

http://www.kct.ne.jp/~kshimizu/saito.htm
811日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:31:38
お鍋といえば、他板のスレに書いてあったことですが
信長元服時におとなを務め、徳川時代は酒井家の家老を
務めた家では「濃姫の本名はお鍋」という話が頑なに信じられ
語り継がれているって末裔さんのブログに書いてあるそうですよ。
元服時におとなを務めたような家なら、もちろん濃姫の顔を
知っているでしょうから、側室のお鍋と混合するなんてことは
まずないと思うので、興味深い話な反面謎は深まるばかりです
812日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:32:38
>>811
まぁ、当時の女性の本名が伝わる方が不思議なんで、今じゃ吉乃で通ってる信忠、信雄、五徳の母親だって、
前野家には「類」ってのが伝わってるし、本名らしいからなぁ。
濃姫の本名が「鍋」でも驚きはしないよ。
別に、側室の「お鍋の方」とたまたま同じ名前だってあり得るだろうしね。
信長は実際に「お濃」と呼んでたらしいし、混同したりはしなかっただろうし。
ただ、濃姫とか帰蝶とかって方が華やかではあるよね。
813日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:33:21
>>807
何なんだろうね、このコピペ荒らしは
814日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:34:53
津田(織田)源三郎勝長の別名は織田信房
織田に戻ってきて元服した時にもらった名前らしいのだが
この房という字は総にもなるそうだ(by広辞苑)
そして女房という言葉でもわかるとおり、常に傍らにいる人とか
置く人という意味を持ち、總とも書く。

こじつけだが、房(総)を上総介の総、源三郎の三郎を三郎信長の
三郎に当てはまるという解釈もできなくはないかなと。
そうなると、信長が生存時に元服した息子達の中で彼だけは
父親の名前を二つも貰ったことになるから、信長公記中にある
返還時の信長の彼に対する厚遇ぶりやかわいがりぶりを加味して
考えると、人質生活への労いもあるだろうが、子煩悩とはいえ
信長にしては少し異常さも感じるね。
(特に織田の膝元でもある尾張犬山に城を即与えたこと)

牛一も嫡男信忠でさえ、さしてあまり書いていないのに勝長の部分は
詳細に書き残しているのも引っかかるなと。書いた当時は高齢だったはず
なのだが、詳細に覚えているということはそれだけ安土での親子対面や
信長の行動が印象深かったのだろうとも考えられる。

そこまで信長が喜び、また厚遇し、戻ってきたばかりにも関わらず
尾張に城を与えることや信忠の与力に付けることを重臣達も意見した
節がないということは、少なからず信雄以上信忠以下もしくは信忠と同等の
立場だったのだろうから、母親も最低限お鍋以上の権限を持っていたような
女性、すなわち御台ということになるだろう?
815日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:35:42
自分が書いた覚えのあるものと、
書いた覚えのない物がくっついている。
dat落ちしてるものを書いてるんだろうが、
せめていつくらいのログかも、書いてくれればいいのにな。
816日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:36:17
>>814
「酒井家 濃姫」で検索したら、その末裔かもしれない人のブログが
ほんとにあっさり当たりましたがw

>自分の先祖が○○家で酒井家の三番家老・・・だったらしい。
定かではないが。(←本人さんのつぶやき)

>織田家の家臣でもあったらしい。織田家には○○という家臣がいるそうだから。
適当です。(←本人さんのつぶやき)

濃姫の名のことも>残ってる言葉、という書きこみですね。

でも、比較的「・・・らしい」調のライトな文体で文献等の引きも無いので
574氏の元ネタとは異なるのかも。
817日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:37:07
>>814
でも、それだったら、そんなに大切な息子を
なんで、あんな最前線の城に置いていたのかわからんな。
調略が絡んでいたとはいえ・・・
818日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:39:05
岩村城は、一応、美濃だからじゃないかな?
東濃は、武田の影響力も大きいけど、斉藤家の影響力も大きいからな。
ただ、信長は坊丸を岩村城に養子にやる事に関して、最初は絶対拒否って姿勢だったらしい。
でも、叔母の願いでもあるし、信忠との兼ね合いもあって、離しておきたかったのかも知れない。
信長自身が、跡目争いで苦労しているからね。
そのかわり、武田に人質として渡された時の信長の激怒は、尋常ではなかったという逸話がある。
実際、叔母でさえ磔にされているくらいだしな。

あと、これは個人的な推測だけど、御台出産の記事は上洛戦の最中に成菩提院で、
予想外にあった事らしいので、あまり多くの家臣には知られていなかったのかも知れない。
御台はそれほど人前に出てきていなかっただろうし、打ち掛け着るタイプの小袖なら
少々お腹が大きくても誤摩化せたのかも知れない。
何らかの理由があって、無事に出産するまではあまりおおっぴらにしたくなくて、
上洛時に一緒に連れて行って京都で極秘に出産の予定だったのかも。
実際、出産後しばらくは床上げも出来ない筈だから、出産したのが本当なら
御台はしばらく京にとどまっていた筈だ。
そう考えると、明けて2月に、京で御台の寝所に誰も寄せ付けるなと命令した理由も
その辺りにあると思えなくはない気がする。
実際に、身二つになっていれば、乳母がついているから御台が授乳する事はない訳で、
信長が「御台に子供が生まれた」と言わなければ周囲にはよくわからない訳だから。
そして、その頃信忠は既に12〜13歳で、嫡男として内外に広まっている訳だから、
無用な争いは避けたかったのかなとも思う。

推測だけどね。
819日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:40:37
疑問なんだけど、永禄11年って、信長の濃姫が結婚してから19年後だよね?
それまで子供出来てなかったのに、夫婦関係があったのかな?
信長が後家を側室にしているのって、子供を産んだ実績のある女性だからっていう
説があるでしょ?
戦国大名なんて、子供いっぱい作らなくちゃいけないし。
生駒の方を愛妾にしたのも、生駒の方が後家で出産経験があるからだよね?
(信忠以前に生駒の方には男子が生まれてるって聞いたけど、この辺よく知らないから
間違ってたら訂正よろしく)
で、信長の子供かどうかはっきり分からなくて庶子扱いの原田直政の妹の子供が
天文23年に生まれてるよね。
生駒の方が愛妾になったのは弘治2年くらいって言われてるでしょ?
武功夜話の記述だから信用は出来ないかも知れないけど、3人年子で生んでるってことは
生駒の方は孕みやすい体質だったとすると、愛妾になって意外とすぐに孕んだと考えられるし、
弘治2年って言うのはあながち間違ってない気もするんだよね。
坂氏の娘も弘治4年に信孝生んでるし、その辺りで愛妾や側室を持ったって推測が出来るよね。
そうすると、どっちにしても、本格的に子づくり始めるの遅くない?
普通、嫁して3年とかいうけど、それよりはゆっくり目だよね。
原田直政の妹は、信長の子かどうか分からないとか言ってるくらいだから、ご愛妾じゃ
なかったのかも知れないよね(いわゆるつまみ食い?お互いに)。
勝長なんかは、その時代の武将としては、別に珍しくない程度の若年で子供作ってるけど
信長はなんで若いうちに子供あまり作ってないんだろ?
(そういえば、信忠も、あまり若いうちに子供作ってないなぁ)
濃姫との間に出来た子供って、永禄11年が最初なのかな?
意外と、若いうちは何度か流産して、熟年になってから無事に出産する女性もいるし、
そういうのが何度かあって、子づくりが遅れたとかなのかな?
いくらなんでも、全然子供出来なかったら、閨房の事って意味の夫婦関係なくなりそうじゃない?
820日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:40:52
わざわざアンカーまで修正してコピペしてるのは意味があるのかw
821日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:42:07
大名の正室の役割、位置付けって、やはり特殊なもの。
特に戦国期までは完全に政治の道具で、家と家との和睦の道具だった。
敵同士だけど、婚姻関係を結ぶ事で和睦し、親族関係になることで
味方同士になったわけ。
両家にとって家の存続のメリットが発生するメリットがある縁組であったはず。

例えば織田家にとっても、当時の斉藤家にとっても、濃姫が信長に嫁ぐことで
緊張関係から一変して和睦し、斉藤家は織田家に援軍を送る間柄になれた。

仮に濃姫が何らかの事情でいなくなり、正室のポストが空いたからといって、
吉乃の正室にするメリットは織田家にとってまるでない。
正室がポストが空いたなら、和平を結びたい家から子女を正室として
新たに迎えられる絶好の機会だから当然そうしたはずなんだよね。

いくら嫡男を産んだからといって正室にするということは当時の慣習から
考えられない。織田家との釣合いからいっても家来筋なら
やはり側室どまりというのが妥当だと思う。

家康はそういう意味で旭没後は正室をもらう必用がなくなったから晩年は
正室不在のままだったのだと思う。

どんなに当主の愛情があっても、それとこれとは別問題なんだよ。

正室に子供がいなくても、側室が産んだ子供を養子にすれば
生後すぐに側室から離され正室が実子として育てるし、それが武家の慣わしだったから
子供がいるいないも関係ないんだよね。

こういった当時の武家社会の常識を考えても、濃姫亡き後は正室吉乃が正室に
なったとか、正室なみの扱いだったとか、ましてや濃姫がいるのに
事実上の正室のような立場だったなどということは絶対あり得ない。
822日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:43:16
Wikiの織田信忠を読む限り信忠生母が生駒という線は完全に消されてる。
すでに生母は「久庵慶珠」と編集されてるしなw
偽書武功や久昌寺の胡散臭さから、信忠の生母である久庵慶珠を
モデルに勝手に久庵桂昌という女性を作り上げたんじゃないかとさえ
思えてきた。
だいたい生駒が3人の子供を産んだのなんのというのは前田文書と
久昌寺の伝承でしか確認されてないんだろ?
823日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:44:54
実は信忠は戦争孤児で、とある戦の折に信長に拾われて、
当時なかなか子宝に恵まれなかったお濃に、面倒を見させた、
織田家とも斉藤家とも縁のない、童子だったのではなかろうか。

信長もお濃も、この童子・奇妙丸を実の子供のように慈しみ大切に育てた。
そして、時機を見て、お濃の養子として信忠を織田家に迎い入れ、
信長はこの一切血の繋がりのない子に、惜しげもなく家督を譲り、美濃尾張を与えた。

生みの親より育ての親というではないか。ロマンがあるじゃないか。

この少々安っぽい妄想ドラマ(?)が、仮に、仮に、事実だとすると、
本能寺の変における明智光秀の戦略と織田信忠の最期について、
ワシはある程度、納得のいく答えが出る。
824日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:47:36
吉乃って最愛の女性といわれていたわりに、しょぼい戒名しかもらえなかったのね。
吉乃の墓の方を眺めて夜な夜な泣いていたという信長の話っていったい・・・

と、つつけばつつくほどボロがでてくる「武功夜話」

しょせんTBSの「水戸黄門」なみのレベルなのね
825日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:48:36
そろそろ我々も512KB規制を視野に入れてみませんか
826日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:51:38
最初から読んだ。非常に面白いね。
信長と濃姫は意外や意外、穏やかな夫婦だったのかもな。
普通に子供もいて、側室にやきもちやいたり、信長がなだめたりしたのか?
なんて想像できる雰囲気を感じる。
なんかそう考えたらお市と浅井長政はどこか冷めた夫婦だったのかも。
夫を裏切って兄に窮地を教えちゃったし、落城した時も旦那の元に
残らなかったもんな。典型的な政略結婚で、しっかり実家のために
仕事をしてきて帰ってきましたよ、という感じさえする。
827日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:52:21
このスレの住人の方はレベル高いですね。変な方もいませんし。
では、総見院の墓所ですが初めからああいう位置にあったかどうか疑問がある。
それは雍州府誌に信長母つまり花屋寿永尼の墓があったとあるのですが現在
見当たらないからである。信吉他同じ基壇上にある子女の墓石は後から建立した
ものと考えられるからである。つまりお鍋の方の墓石の下には遺骨があるかどうか
疑問である。反対に養華院の墓には遺骨は入ってると思われます。

828日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:53:44
ここの内容、
全部Yahoo掲示板の書き込みまんまじゃないですか、、、
あそこで語られた事を、
ここでさも自分の意見のようにしてる人恥ずかしくないんですか?
ちゃんと一言「ここで見た事なんだけど」
って断ってから書くならまだいいけど
何で人の調べた事を自分の手柄のように扱うの?
829日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:54:30
信高実子説が無いの根拠をもちっと詳しく教えて欲しい・・・・・・。
高齢だからはなしね。数えの42なんて余裕で子供生めるし。当時でも生んでる人居るし。
ホント近江地誌が出てきてから、イタイ妄想ばっかりして自分がヤダ。
でも、濃姫については、重要な人なのにもかかわらず残ってなさすぎなので
当然残ってるはずのものがないことに作為性を感じてしまって、地誌の方が正しいような気がしてしまう。
近江の人間は乱世慣れしていて、表面では権力者にへつらいつつもしっかり記録は残すカンジ。
だから一般的な史書より近江地誌の方が個人的な感覚としては信頼できる。(根拠になってないけど)
とすると、信房が信長と濃姫の子じゃないかと。それは、後の厚遇を考えても無茶な想像とは言えない気がする。
でもこの子の母は記録されて居ない。つまり、濃姫の子は記録に残らないか、残せない可能性がある。

信房が濃姫実子で、信忠が養子だったら、遠山夫人に養子くれって言われた時は最大のチャンスなんだよね。
信忠はまだ元服していないので、お坊は駄目だけど奇妙なら養子に出せるよと答えれば、何もかも丸く収まる。
これで家督争いも無い。信長が10年ほど余分に頑張らないといけなくなるだけで。
でも養子に出されたのはお坊だった。濃姫の子は記録に残らないとすると、信忠も濃姫の子かと、思えるようになる。
(手塩にかけて育てた養子は実子と何ら変りません信忠が嫡男ですといったやり取りがあった可能性も否定できないけど)
信長は1573年頃から急に子沢山になっている。これは信長が権力を握った時期と重なるようで、そうでもない。
私には1572年の信房が人質に取られる事態を招いた手駒不足を反省して子作りに励んだように取れる。

で、信秀(1570年誕生)と信高(1576年誕生)なんだが、この人たちは幼名からして同母兄弟だろう。
また、この二人は、信雄信孝を除くと、残った信長の子息では別格扱い。
誰か別の側室が居た可能性も確かにあると思う。その側室の一族が生き残っていたら、徳川を憚って
家系図に載せないだろうから(土方氏もそうだね)、単に実家の都合で解からないだけかもしれないけども。
ただ側室の子とすると、序列の謎が上手く解けない。また信長の父である信秀の名が、側室の子に与えられるとは思えない。
830日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:55:44
源氏物語で源氏が出家するという妻を泣いて止めて、それでも出家されてしまって
悲嘆にくれた・・・なんていう記述があったけど、本来出家って現世での永遠の
別れというぐらい意味のあることだよね。二度と男女の契りもかわせないわけだし。

吉乃が前夫のために出家したというのは考えられない。
そんなに殊勝な気持ちがあれば夫の死後何年のたたないうちに、
あっさり信長の側室にならないはず。

産後の肥立ちが悪くて寝込んでいて、早死にしたというのは
信憑性がありそうだから、本格的に尼寺にこもっていたというのも考えられない。

病気になって、側室稼業を引退し、治る見込みもないことを悟って
ひっそり病床から出家をしたんじゃないかな?
仏にすがるほど孤独だったのかとも思うけど。

なんにせよ、生駒家の女性が信長の側室になっていたというのは
事実なわけだから、正しい足跡は知りたいものです。
831日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:57:17
生駒と信長よりも、濃姫と生駒、のストーリー展開のほうが
ドラマティックで一般受けするよ。
生駒との話はふくらましようがないじゃん。
信長の心の拠り所というには、同時期側室もいたし、
あっさり信長の元を去ってしまうし、ちょっと説得力もない。
信長との接点がせいぜい7,8年でしょ?
濃姫だと信長が14才の頃からの話も盛り込めるし、
斎藤家がらみの話も引っ張れるから、
脚本的においしい。
最後はお決まりの本能寺の変でのなぎなたの応戦でともに亡くなる、
で瞬間視聴率もぐっとあがる、というのは製作側も捨てられないだろう。
そうなると信長と濃姫が仲の良い夫婦で、いつも濃姫の膝枕してなきゃ
面白みも半減。
832日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:59:07
>>831
生駒は生駒、濃姫は濃姫で、きちんと正妻、側室の位置付けで
描かれていれば両者がドラマの華をそえることはできる。
どっちかをいかすために、どちらかの立場を陥れるしかないというのは
問題。そうしなくてはドラマがおもしろくならないのかな。

833日本@名無史さん:2007/06/10(日) 00:00:04
もし信長生前中に濃姫が亡くなったら織田家の菩提寺だった万松寺
あたりに葬られてるはずだな。あれば過去帳などに記載もあるはず。
道三の譲り渡し状から、道三が亡くなるまでは濃姫が
生きていて、信長が婿殿だったわけだから、
それ以降どうなったかだな。
離縁されても帰るところはないし、小見の方のところか、
斎藤か明智の縁者でも頼って身を寄せたのだろうか?
でも譲り渡し状の効力がなくなってしまうので、離縁はありえないか。
834日本@名無史さん
秀吉はお市と3姉妹全員側室にしたかったろうにw
冗談はさておき、かつての天皇家では自分が産んだ皇子に自分の実妹を
入内させて世継ぎを一族でかためたするのはよくあることだったよね。
古代の天皇家では異腹の姉妹を妻にしているケースはよくあったし、
その子供同士の婚姻もあった。
血族結婚は流産や夭折してしまうことが多く、
不具者のまま長生きする事ないということでそういった
血族婚のデメリットよりも、血縁を濃くすることで保証される
一族の繁栄を優先していたようだ。
夭折せずに成長できた場合は優性遺伝で優秀な逸材がでてくることもある
メリットもあったようだし。聖徳太子なんかがその最たる例なのかな。

戦国期になると大名クラスでは婚姻制度が他家との政略結婚がメインだし、
側室も政略的な意味合いであがってくるケースが多いから
濃い近親婚は意図的にしなかったようだね。
むしろ閉鎖的な地域の庶民あたりはかなり濃い近親婚を
していたようだね。戦後までそういった地域は一部にあったようだよ。