信長の死によって運から見放された一益。
果たして一益は猛将だったのか?凡将だったのか?
2
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 10:42:55 ID:Afyy94Ub
関東に居たのって3ヶ月くらいなんだべ?
運がなかっただけで凡将じゃないだろ
大河の「秀吉」で一益の髪の毛が真っ白になって
清洲会議に出てきたのが印象に残っている
でも実際は出席すら出来てないんだよな
言っても上野一国くらいは死守できたんじゃないかね?
真田昌幸を含む上野の武将は一益を支持していたそうだし。
実は初めから本領長島へ帰る気まんまんだったとかな
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 11:06:43 ID:Afyy94Ub
清洲会議は単純に間に合わなかったみたいね。
会議は6月27日だけど一益が長島についたのは7月1日らしいし。
>>5 いや、支持はしてないだろ。
伊勢長島へ落ちていくのを邪魔せず、精々ちょっと便宜図ってやろうってくらい。
本気で滝川の手足となって北条やら上杉やらと戦い抜こうという輩はいないと思われ。
……一益も歳なんだから、もう休ませてくださいっ><
調べてみたら第二次神奈川じゃ積極的に戦っていたのは滝川直臣のみっつう関ヶ原の西軍状態だったみたいだな。
まぁ、そうゆう状態は関東の戦でよくあること。
上野から3日ちょいで伊勢か
すごい早さだな
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 22:50:16 ID:kWtrcZTk
てか柴田・明智・羽柴は方面軍の軍団長として早くから指揮とってたけど
滝川一益は何してたんだ?猛将ってわりにこれといって無いような気が。
早いうちからというのはよく分からんが、元々は北伊勢方面軍の軍団長やん。
志摩や南伊勢でも九鬼と一緒に船作り
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 23:08:56 ID:kWtrcZTk
北伊勢って長野氏、神戸氏、関氏に長島一向宗の事?
長野氏は信包、神戸氏は信孝が乗っ取っただけかと思ったが一益が何かやっていたのか。
永禄10年くらいから北伊勢侵攻に切り込んだのは滝川なんだけど。
>>13 それ九鬼は九鬼水軍の頭領だから分かるけど滝川は何で選ばれたんだろうな。
甲賀出身だから?
甲賀出身だから船作りってのは繋がりがないような。
桶狭間のあと尾張の知多半島?の水軍(海賊)を調略した経験を買われたんだろ?
九鬼が織田に仕えるようになったのが、滝川の仲介らしいよ。
船造りは九鬼の手伝だったんじゃないかな。
九基が六艘、滝川が一艘だし。
あ、でも作った場所は違ったっけ?
城攻めでは配下の忍者を使い調略しまくる。
野戦では猛将のごとく活躍。
鉄砲の名人。
温厚。
ってイメージがあるんだが
信忠大将に荒木の有岡城を攻めたときは、荒木が脱出した後、
滝川の調略で侍大将四人を寝返らせたのが最後の決め手になったらしいね。
調略は実際得意だったろう。
あと、相当不衛生な人と聞いたことがある。
服がいつも汚くて、関東入りしたあと、どこぞの大名だかその使者だかに会うとき
家臣が慌てて一張羅を洗濯したけど間に合わなくて乾いてなかったから
半裸で会ったとか。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 03:31:53 ID:hCsCwpU8
俺の持ってる名称言行録によると
一益、関東の管領として、厩橋に在りし時、諸将対面に来りければ、只今一つある衣服の垢付たるを洗ひたれば、
赤裸にて候程に、暫く待ち給はるべしと言ひ、其衣の乾くを待ちて出て、諸将に逢へり。
とある。たった一つしかなかった衣服を関東諸将に逢うために洗い、洗い終わって乾くまで待たせてから逢ったって事じゃないの?
これを不衛生な人ととるのかは当時の状況を知らないので分からないけど。
そうなのか、不確かな記憶を書いてゴメン。
しかし、外交用に適した衣服がひとつしかないのは
いかがなものかと思うんだ。
服ってやっぱ何着ももってたのかな
そもそも衣服って
何種類あるだろ?
大名で茶好きの彼の事だから
烏帽子や正装はするだろうし
合戦用の鎧ももちろんあるだろうし
普段着っていうのもあるだろうし
一つしかないってのは変だよね
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 19:23:01 ID:C6HEVmKy
1582年の武田討伐後に信濃の一部と上野を与えられて僅か3ヶ月で長島に帰っているし、関東諸将に会っていた頃は江戸時代の大名なんかとは事情が異なるんじゃないの。
洗うあいだ裸で待つって所から本当に一着だったんだろ。
ところで、読み方は「カズマス」でいいのそれとも「イチマス」なの?
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 20:50:24 ID:C6HEVmKy
一般的にはカズマスだけどイチマスの方が正しいかもしれないらしい。寛政重修諸家譜ではイチマスと読みがふってあるので。
石田三成をカズシゲと読む書物もあるとか。
一益を音読みするとイチヤク、イツエキだが訓読みのカズマスの方がしっくりくる。音訓混ざったイチマスはどうなんだろな。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 21:04:51 ID:gp5qZj8g
かずますって細身の髭が薄く、背の高い男で忍者を配下にして鉄砲得意
みたいなイメージがある
滝川一益目線で見ると羽柴秀吉って酷い奴だよな。
神流川の敗戦→長島へ撤退が敵前逃亡として罵ったそうじゃん。状況を考えろと。
前田利家・金森長近・不破勝光なんかが罵られるなら分かるけどね。
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/24(木) 22:13:56 ID:Sz7yXA5J
元六角家臣って説があるがどうなんだろうな。
六角〜信長に拾われた経緯がよく分からない。かなり初期から居て、その扱いは柴田らと並ぶ侍大将だし。ほとんど普代とかわんない。
秀吉と同じかそれ以上に活躍していたようだが。
勝家と組んで羽柴の野望を阻止しようとしたから好き
勝家が近北で負けてから数ヶ月耐えたのもかなり評価できる。
一益は、関東から逃げ帰って直ぐ病気に成っちゃったからなぁ
元気だったら、秀吉本隊以外は退けてたんじゃないかな?
織田四天王(柴田、丹羽、明智、滝川)は全員秀吉にやられたんだな。
信孝、信雄、信包もか。
滝川一益だけが負け組みじゃなく織田家の重要人物ほとんど負け組み。
34 :
風魔小太郎:2006/08/25(金) 05:51:58 ID:Y6zZOt6b
質問してよいか・・・?
織田四天王というのが成立したのは、江戸時代ではないのだな?
さあ知らないね。それが何か関係あるのかい?
鬼畜によって信長公の築いたすべてが剥ぎ取られたのは残念。
>>32 秀吉本隊以外?
秀吉本隊は倒せないと?w
飛び地になる上野を守るより
本領である伊勢を守った方がいいよな。
距離がありすぎて両方の維持は無理だろうし。
でも仮に信長が生きていたら滝川の敗戦と逃亡を許しただろうか。
生きてたら北条との戦闘がまず有り得んだろうよ。
それはそうだな
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 19:01:20 ID:FxdIll2s
仮に信長が本能寺から生還していたら北条のフライングは
十分討伐の理由になるな
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 19:25:10 ID:kIHNvQNi
>>41 むしろ俺が滝川一益で連想するのは本能寺後にもの凄い大軍で上野に攻め込んできた
北条の決断の速さだ。 信長が死んだのは確認したらしいけど、その後の織田家が
分裂するのか再結束するのかまだまだ不透明な状態でよくあんな思い切ったことが
できたなと感心する。 まして信長の生前は織田と同盟状態だったのに。
それなのに、なんで秀吉に対してはあんなに愚鈍だったのかというのも大きな謎だ。
一益は孤立してたから
勝算があったんでは
だがそれが仇となって秀吉にはめられるわけだ
>>42 不透明な状況なのに大胆な行動に出るというのは、
単純に良く考えていないだけという可能性もある。
秀吉への態度の考えなしさ加減から判断するに、
その可能性のほうが高いかと。
>>42 愚鈍といっていいのかな。
たしかに家を潰してしまうのは良くないが、
北条家のプライドやこれまでついてきた家臣たちの意見が
豊臣との一戦だったんじゃね。
本能寺の変の際もいい判断じゃね
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 02:33:46 ID:AUK91tyL
織田五軍団といっても羽柴や柴田や明智に比べると滝川はずいぶん小さいし
関東で結成されて日も浅いうえにもともと対北条戦の軍団じゃないしな。
せめて甲信地方も滝川に統帥権があって組織陣容もしっかりしてればそう易々と
負けることもなかったろうけどな。
本能寺前後の滝川に近い織田の勢力って
滝川一益 上野、信濃佐久群・小県郡
河尻秀隆 甲斐、信濃諏訪郡
森長可 信濃高井・水内・更科・埴科四郡
毛利長秀 信濃伊那郡
木曽義昌 木曽谷、信濃筑摩郡・安曇郡
穴山梅雪 甲斐の一部
って所か。一益を除けばほとんど信忠の直属部隊なんだよな。その信忠は二条城で討ち死に。
滝川と森と毛利は本領へ逃げ帰って、河尻と穴山はそれぞれ討ち死に。
木曽は徳川に降伏。無人の甲斐・信濃は徳川、上野は北条の手に・・・
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 09:34:56 ID:OafYTcNC
20年前に調理師免許を取った人
賞状を見てみろ
滝川一益って名前があるからwww
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 09:35:43 ID:OafYTcNC
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 19:21:17 ID:h7UK0iB6
なんだ死んでなかったのか
滝川一益は。それにしても随分長生きだな
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 01:14:33 ID:2HTeDHg/
三方ヶ原で滝川一益も右翼で出陣してたのってあんまり有名じゃないよね。
右翼・・酒井忠次、佐久間信盛、平手長政、滝川一益、および織田の援兵
左翼・・石川数正、小笠原長忠、松平家忠、本多忠勝など
予備隊・・徳川家康
左翼は武田方の山県、内藤、小幡を迎撃したものの、右翼は小山田隊の砂礫の投擲に浮き足立ち
続いての突撃に堪えきれず佐久間、滝川は退却。平手は討ち死に。酒井隊のみ奮戦して小山田隊と激戦を繰り広げるが
新たにやってきた馬場隊の為に劣勢に。
これを後年佐久間は相当罵られる訳だが、滝川の立場ってどうだったんだろね。
ある程度は信長の意向じゃなかった?
織田的には武田との前面戦争は避けたかった訳で
まぁ佐久間はもろもろの、理由の一つとして言われただけだし。
滝川はその失点以上の軍功上げてるしなぁ。
本来は軍監だしな。
あと滝川は一番最初に軍団というか、分遣隊と言うか、別動隊あたえられてるからなぁ。
>>52 それってソース何?
たまにそういいだす人がいるが、ソースを見たためしがないのだが。
ソースは徳間書店の「日本の戦史 三方原・長篠の役」桑田忠親・山岡壮八
凡例として、以下のような事が書いてある。
長篠の合戦で勝敗が決したのは設楽原であるが、長篠が浸透している為これを使用。
戦役については各資料にいろいろ食違いがあり、信書といわれているものにも誤りがある。東京大学の編年資料を始め、数十種の文献に比較検討を加え、更に実際の地理や口碑にもあたって見、
その上当時の兵略や戦術まで参考し、実際に近いというものを採用した。
・
・
とここまで書いてあり、55にこれを反論できるだけの材料を持ってるとも思えないがどうなの?
長篠は関係なかったなw 失礼・・
反論も何も、数十種の文献といわれても書くだけなら幾らでも書けるからね。
別に数十もいらない、一つ二つでいいが具体的な文献名を挙げなければソースにはならないよ。
ちなみに、信長公記には佐久間・平手・水野の名は上がっているが、
滝川の名はない。
ID:x9LM6hoL のいうソースを見た事ないとは参考にした文献の事か。
残念ながらそこまでは記載されていない。それを探すなら東京大学の資料から何から調べるしかないが、そこまでやる根性俺にはないな。
まあ「各資料にいろいろ食違いがあり、信書といわれているものにも誤りがある」これが正に信長公記の事かもしれんね。
文句があるなら帝国陸軍旧参謀本部へ言ってくれ
参考にした文献以外の何がソースなんだ?と思うが。
「日本の戦史 三方原・長篠の役」自体が文献として参考にされている訳で。
これを批判するなら読んでから批判しろよ?
名将言行録の参考にした文献なに?って聞かれてるようなもんで。
価値の無い資料なんて読みませんよ。
ID変えてまでご苦労さん。
>>63 妄想乙。
今起きたばかりだってのw
夏休みの宿題は終わってるのかい?
まあ、どんな文献を参考にしたかも分からないようでは、
価値があるかどうかも分からないとしか言いようがないとも思うけどね。
途中からわらた
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 17:33:29 ID:S9tykyFK
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 17:35:48 ID:53yynNrB
そんなにソースが好きなら刺身にでもかけてろ
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 17:50:36 ID:/LqUD3qE
余計な煽りはやめようぜ。三方原については佐久間との扱いの違いが確かに不自然ではあるな。
朝倉攻めのときは一緒に罵倒されてるのにもかかわらず。
林秀貞と立場が同じ柴田勝家は沙汰無しだし、それによってどうこうってのは難しい所だな。
立場同じか?
秀貞は信長付きだが勝家は信勝付きだがw
>71
確かに。それだけじゃちょっと無理があるか。
徳川視点の三河物語や武田視点の甲陽軍鑑ではどうなってるのか興味あるね。
>>59 よく読めば書いてあるよ。東照軍鑑の記載として以下のような事が書いてある。
武田軍が浜松を通過して通り抜けて行った際、徳川軍が追撃しようと打って出た時の話ね。
家康が渡辺半蔵に戦況をみて合戦すべきか、引くべきか判断を任せる。
渡辺は戦況不利なので引き上げよと指示を出すが、大久保忠世を始め先手の面々は自分で斥候すると撃って出てしまう。
敵は大群、勝ち目がないので至急連絡を取って引き上げよと先手の面々へ伝えるが、一部の将が聞き入れない。
渡辺半蔵が柴田康忠へ忠告した所、「敵は少勢、引くことはない」と答える。渡辺がその無思慮に立腹している所へ、このスレで渦中の滝川一益が駆け付ける。
「岐阜の者共に、出過ぎているから早くひきあげるようにといっているが、家康の軍勢が出ているというのに、加勢の身として先に引きあげるわけにはいかない、
それは家康軍次第だという。ここの軍勢は引きあげるのが当然」
滝川がそういうと、柴田康忠は「引きあげるなど、思いもよらぬこと」と回答。
ここで滝川が怒り、「もしこの合戦が終わって命があったら、その言葉、信長、家康に申し上げる」と言い残し、岐阜勢の方へ帰って行った。
この後、大久保と柴田が兎も角先へいって様子を伺い相談しようと敵陣の方へ駆け付けると、準備万端の武田軍が待っていましたとさって話。
元々は渡辺の戦略眼の話だけどちょい役で一益も登場してる。かなり適当に書いたから変な所あったらごめんm。
>>74 おお、ちゃんと文献名が挙がっているじゃあないか。
サンクス参考にします。
国朝大業広記にも書いてあるらしい。
甲州勢が我が物顔で城下を押し通り、これに怒った家康が「勝手に歩かせるな。一戦交えて甲州勢を討ち取ってやる」と命令を出した所、
佐久間・滝川が「信長公が武田との戦は強くお諌めせよと、くれぐれも私どもに命じました」と家康を城中へ留めていた。
甲州勢がやり放題の乱暴をして引き上げるのを見るに付け、屈強の勇士たちが「大将が出陣なさるはずが、臆病者の尾張勢が無理に止めてしまった。
こうなっては、せめて敵の引き上げ様をみてやろう」と命令を無視して駆け出していってしまう。
目付けの大久保忠佐は臆するよりましだと目をつむり、渡辺守綱は家康へ報告に行くが、家康はこの事に対して快く思われているのかと察して、自ら槍を引っさげて飛び出していく。
この後家康が佐久間・滝川を呼び、「あなたがたの諌めによって控えていようと思ったが、兵達が軍令をそむいて敵を追いかけていってしまった。こうなっては見殺しにするわけにはいかぬ。これから出陣だ」と全軍出陣を命じる。
そして先に飛び出していた者達が集まって甲州勢の引き上げ様を見物していたが、大久保忠佐が「こうして引く敵を見逃すのは残念じゃ。弓鉄砲をつるべ射ちにしたいが、弓鉄砲を持ったものがいない。せめて礫を投げつけよ」
と誰も彼も礫を投げ始め、それに甲州勢も取って返して礫の投げあいが始まる。とこの後は74のように続く感じ。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 12:55:49 ID:qoKV0Ast
その頃の徳川は姉川の合戦での活躍にかなり自信をつけていたらしいな。
兵力に劣っても兵が展開しにくい場所なら五分に戦えると勝機もあった。
ま結局信玄の策にはまっちゃうが。はなからの負け戦に適当に戦って引き上げた佐久間信盛と滝川一益はむしろ名将。
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 13:35:24 ID:n8wNZOHB
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 14:58:15 ID:lleY+NJx
>>77 姉川の徳川の活躍は過大に書かれてるらしいよ。
江戸時代に入ってからの
「弱い織田を徳川が助けたから天下が取れた」という流れにするための
捏造が多いらしい。
>>78 謝罪も何も、
>>75で感謝の意を表しているつもりですが?
ソースを求めて出してもらったのだから感謝するのは当たり前だからね。
謝罪
喧嘩してんの?
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 20:52:55 ID:n8wNZOHB
喧嘩でなくとも謝罪すべき場合はある
>>55はやや挑発的とも取れる語調だし
ソースを求めたところ文献名を挙げてもらった、
ならば、それに感謝するのは当たり前だが、
なんで「謝れ」って話になるんだ?
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 21:22:55 ID:n8wNZOHB
一つ上のレスも読まん奴にこれ以上言うことはないわ
バ ト ル は こ れ に て 終 了
さあ、滝川一益の話に戻ろう。
これでようやく滝川左近将監の話に戻るわけだな。
へえへえ・・・滝川不干ですぅ・・・。より
左近将監の方が力強いのう!!
義太夫はどんなもん?
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 22:02:03 ID:4SIfvuv4
益氏に限らず滝川家臣団の資料は乏しい。
一益ですら晩年は放浪の末餓死したと記載されてる文献あるくらいだ。
本能寺直前の領土は柴田、羽柴には劣るが明智とは肩を並べて、NO3って地位にいたのにな。
仮に一益が上野を死守していたとしたら。
甲斐はどうしようもないが、信濃は維持できた可能性高いよな。
だとしても賤ヶ岳の回避は難しいから結局、羽柴+上杉vs徳川+滝川みたいな構図になると。
だけど滝川と組むと北条が敵になる。結局滝川孤立してた予感・・('A`)
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 04:05:12 ID:j6GPGScW
信長の野望とかでもその手のシナリオないよな。
一益はゲーム上ではなから負け組。明智とか柴田はスポット当てられるのに、この差はなんだ。
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 09:45:13 ID:KnQf55/E
>>91 無理に決まってるだろw
上野を守っても何の意味もない
中央が荒らされる恐れがあるのに
甲斐が落ちた時点で、上野は何の意味もなくなる
誰も援軍くれんだろ
んで何で滝川が織田同盟国の徳川と組むんだよwww
主君は信孝になるだようよw
?
仮の話だよ。上野を死守していたとしたら、北条がいるから上野から一歩も動けないのは間違いない。賤ヶ岳の参戦はまず無理。
援軍って援軍が必要な時点でこの話は終わるから、それは考慮しない。あくまで独力で北条を止める必要があるから。
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 13:55:34 ID:KnQf55/E
>>95 北条をなめんなよ!
と氏政が申しております
無理です。上野死守は。
まあ無理なのは史実の通りだがなあ。上野死守は森が信濃、河尻が甲斐を死守している事が第一条件か。
信濃が維持できていれば上杉の牽制、越中・美濃との連携もできる。甲斐が維持できていれば北条を2方面から牽制できる。
ただ甲斐・信濃に関しては、徳川が裏で糸を引いていたって話もあるんだよな。
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 14:45:16 ID:KnQf55/E
信濃や上野は地元豪族が多すぎる
武田が滅亡しても全部駆逐できたわけじゃないし
地元豪族からすれば、信長が死んだって分かれば
織田<<北条となるのは必然でしょ
この時期の徳川は微妙な位置だったし裏でなにかしてるのはあったかもね
甲斐入国がスムーズすぎるし
森・川尻・滝川は運が悪すぎた
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 15:14:57 ID:j6GPGScW
上野は基本的に反北条だからそこまで不利じゃない。一旦織田についたのに北条に寝返っても立場弱いしな。
滝川は人質無条件解放など諸将との関係は終始良好だったと思われる。
>>77 その三方原の敗戦が、武田に挑んだとして徳川が一目置かれる戦になったという理屈が良くわからんよな。
信玄がタイミング良く死んでくれたからな。それが全て。
滝川は佐久間、丹羽なんかと同じで、戦歴はそこそこあるもののこれと言って武勇談が無くね?
スポットを浴びてる所は本能寺以降の没落くらい。
仮に忍者だとしたら、忍者を毛嫌いしている信長と良く上手くやっていけたもんだ。
伊賀甲賀出身は全部忍者なのか。
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 15:26:56 ID:+mSMk1oz
今日、一益の命日
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 15:27:36 ID:+mSMk1oz
今日、一益の命日
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 15:30:24 ID:+mSMk1oz
今日、一益の命日だから。
滝川につけられた大身の与力っているの?
明智の細川や筒井、柴田の前田や佐々みたいな。
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 17:51:08 ID:52dKk2gJ
与力というと真田昌幸、小幡信貞、内藤昌月、北条高広、道家正栄かな。
今日は織田家を守ろうとした勇者さまの命日か。
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 18:52:36 ID:6iycrna0
滝川一益 = ワルター・フォン・シェーンコップ
戦斧繋がりで……
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 23:05:41 ID:mV9wpuv2
>>112 そのまま武田じゃん。
使いこなせなかったんだろうな
なぜマイナスへと考えるの
そいつらが孤立無援に近い滝川と一緒に戦う理由がないって。
自家保全のために大勢力の織田に付いたんであって、
滝川にその後ろ盾がなくなれば見捨てるのが普通。
見捨ててないぞ。小幡、内藤、道家は神流川で戦っているし。真田もか?
北条高広は一益退去後に厩橋城で孤軍抵抗したし。
ごめん、言い方が悪かったかな。
たとえ神流川で勝ったとしても、甲斐・信濃は徳川と上杉の侵入で荒れてる状況だと思うので、
織田本国と連絡は難しく、結局滝川は孤立していると思う。
その状況下で大国の北条・上杉を相手に長期的に従ってくれる保障はないってこと。
まだ神流川の時点では、上野衆も情報の成否を判じかねてる頃だろうから、
滝川をあっさり裏切れなかったんじゃないかな?
それと、北条は微妙じゃない?
元厩橋城主だったから、領地回復いけると考えただけかも。
いや、邪推かもしれないけどさ。
邪推だね。
ごめん。
あの時点で北条はともかく上杉は大国なのか?
柴田の圧迫で瀕死な印象だが。
柴田どころか家督争いの内紛だけでも手一杯だよ。
神流川の戦いで北条軍5万5千(5万)の大軍相手ではどんな武将でもきついと思うけど
ましてや1万6000千の兵で健闘した・・・っていうのは駄目かな
それにしても上野から京都は遠いな・・・光秀討伐軍出すにも遠いし
佐久と上野与えられても微妙だったかも
左遷とまではいかないけど、当時の地方軍団長ってのは元々それほど地位が高くないらしいね。
あれだけ嫌がってたわけだし。
滝川一益も数寄者だからなぁ
珠光茄子のエピソードが一益の人と成りを表してるような気がする。
関東方面の方面軍団長って信忠じゃなかったっけ?
って言うか、一益に与えられた信長からの指示は。
「上野方面から越後上杉を攻めよ。」
なんだけどね。
>>129 それは晩年の話
国より珠光小茄子が欲しったと漏らした奴だと思われ
まあどのみち
天下に号令するような覇気ある人物ではなかったみたいだね。
統治の手腕はどうだったんだろ?
長島や上野って結構難しい領地だと思うけど、普通に統治できていたって事は
なかなかのもんじゃね。
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/11(水) 22:40:46 ID:00t8YaRM
一益は何か実力以上に評価されている気がする。
三方原の敗戦とか神流川の敗戦とか小牧長久手の敗戦とかが本当の実力じゃないか?
後は織田軍のおかげの武功ともとれる。
伊勢は無視ですか?つかそれだけで判断するなよ。
伊勢の切り取りに見せた実力はまぎれもなくホンモノ、それは疑いようが無い。
ただ神流川合戦に関して言えば、状況的な不利はともかくとして
戦術が拙過ぎるな、北条に誘き出されたのかどうかはしらんが、
あっさり川を渡らされて、上手く引く事もできなくなって、未曾有の大損害を出してる時点で
大将の器じゃない。誰かに使われる事で能力を発揮するタイプだね。
思うに、少ない兵で遊軍を務めるのがうまかったんだろう。
神流川合戦についても上野・信濃衆の多くは戦っていなかったとも言われてるし。
大将の器というよりも兵が多くなりすぎて目が届かなくなったんじゃないか。
総大将には向かないが、大将は務められると思う。
逆に言えばこれと言った華々しい戦果がほとんど無い。
伊勢攻略は武力じゃないし。
華々しいのがお好きなんですね。
調略とか、家臣の掌握とかは別として、戦術だけで言うなら
仙石秀久とよく似てる。
仙石秀久よりは大分マシだろ。
関東から東北に影響を及ぼした。
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/15(日) 19:48:58 ID:VYr/mhBJ
天目山の話があんまでてないね
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/15(日) 22:19:13 ID:4stjfbOq
小説では大活躍だよ。
滝川一益はゲームでも能力高いし
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/15(日) 22:21:16 ID:oQyzTH3+
有岡城攻めも大活躍だけどな。
146 :
一益くん:2006/10/15(日) 22:25:28 ID:ZyDGsP7D
城攻めはもちろんだが、関東東北諸大名とのやりとりも忘れないで下さい。
なんかやったか?
北条にボロボロにされたくらいしか知らん。
真田太平記で昌幸が「一益さんはとても紳士的でした…こっちが言う前から
僕らの気持を汲んでくれて…ありがとう…本当にありがとう…」
(信長死後)「でもそれとこれとは別なんで攻めました、一益もわかってくれるって」
みたいな話だったのでかわいそうな人という印象が強い
秀吉の下僕に成り下がった後も関東諸勢力への連絡の使者をやらされたりしたあたり、
関東勢への連絡口としてそれなりに期待されてたみたいだけど。
まあ、単に身近に関東に詳しいやつがいなかっただけかもしれんが。
それより、滝川の子孫がやけに真田と絡んでることの方が気になる。
>>150 真田は北信や上野への影響力がそこそこあるしな。
安定させるためになかよくしとこうと思ったんじゃまいか。
本能寺の変がなかったら真田も滝川につられて
もう少し出世できたかも。
>>148 でもそう言いながら、現実でやったのは、
自分から利根川渡って北条家の小城を奪い取ったところで、
北条の本隊に捕まり、ボコボコにされて逃げ帰っただけだからなぁ・・・。
結局自爆に過ぎんし、いかな情勢下だろうと自分から攻めてる以上美談にするにはイマイチ。
その戦と昌幸談を混ぜるな。
それなりに有能だったけど、運がなかったな
上野を経営する暇が無かった
運も無いけど、先見性も無いだろ。
あの上野からの敗走はいろんな意味で有り得ない。
どのみち外交手腕が拙過ぎるようでは遅かれ早かれ同じ運命だったろう。
( ´_ゝ`)
関東管領に叙せられたのは史実なの?
謙信の頃から既にカビの生えた官職だっただけに、
将軍職もへったくれもなくなった時期にあえて管領職を名乗る意味があるとも思えんけどわからん。
自動車免許みたいなもんでしょ。免許があれば車に乗って良いと国に認められる。
大義名分ってのは大事だよ。無視すれば障害が出る。
叙せられたって言うよりは勝手に名乗ったようなもんでしょ。
管領は世襲制だし将軍から任じられるものであって、朝廷から受けるものでもない。
信長は将軍に成る気は無かったようだし、義昭は追い出してる後だし、
上杉家も一応まだいるので、いきなり一益に管領職が行く理由がいまひとつ見えてこない。
161 :
友情リンク:2006/11/19(日) 14:44:40 ID:30J6jqo9
162 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 17:19:44 ID:I8ecW4+6
本能寺後に自分から南下して北条に挑んだというのが不可解としかいいようがないな。
数千の直属兵力だけでも率いて信濃から帰国を考えるだろ普通。
歴史ってわからん。
だが今のみる歴史を真実とするしかないのよね。
>>162 北条家だって、あの状況だと上杉や徳川の動向の方が遥かに気になるので、
とりあえず滝川と事を起こすのは本意じゃなかったはず。
実際、神流川のあとは双方に先んじられる形になってるし。
上野は手に入れたけど、総合的に見て上手く行ったと言えるかどうかは微妙なんだよな。
しかし誰かの陰謀にしてもこれで得する人間が誰かもよくわからん、
そもそもこの天正壬午の乱も含めた一連の流れは利害関係が目まぐるしく変わり過ぎて
いまいちわかりにくい。
強いて言えば・・・、真田昌幸かな。
その帰国を敵前逃亡として罵られる訳だがな。一戦も交えず敵に城を明け渡したら
もっと立場悪かったんじゃね。勝つしかなかった。
おいおい、想像で語るな。
敵前も何も北条家はあくまで同盟国で攻めて来たわけでもなければ、敵対を表明してきたわけでもない。
一方的に金窪城を攻めてきたのは一益なわけだが。
北条家も徳川や上杉に付け入られるのだけは避けたいから、出来る限り穏便に行くなら、
その方がよかった。・・・という政治的な駆け引きが一切抜け落ちてるのは擁護のしようが無い。
本当の敵の毛利とすら見事に和議を結んできた秀吉ほど見事にやれとは言わないが、
あまりにも手際が悪すぎる。アレ以上評価落ちる負け方なんてまず無い。
敵前逃亡でもまだマシなぐらいだが、この場合敵かどうかもまだはっきりしない相手に攻めかかった挙句の
古今未曾有の大損害と言う事を忘れてはいけない。
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 18:12:44 ID:uf5bGPsi
滝川が大人しくしていれば厩橋は安泰だったとでも言いたいのか?
ありえないな
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 18:29:46 ID:9hu9uDxE
征服したばかりの現地で組織を作ってる最中にあの状況に陥ったんだからどんな名将でもひとたまりもないだろうよ。
ハンニバルでも討ち死に必至。生きて戻れただけでも凄いんじゃないか滝川ちゃんは。
しかし真田ってなんで織田に素直に恭順してたのかね。
後の豊臣にも義理堅かったしな。
ひょっとしたら昌幸は武田家が嫌いだったのかな。
御屋形様がいなくなっちまったんだから
もはや義理立てする相手がいないじゃないか
X + 激しく一益 +
∠ ̄\∩
|/゚U゚|丿
〜(`二⊃
( ヽ/
ノ>ノ
UU
>>167 俺もそうは思わん、北条家が上野を欲してるのも事実だし、
いずれは衝突必至だろう、ただしあの時点でああいう形でぶつかる必要性があったかどうか?
と言う話になるとこれは全然話が変わる。
また、それなら厩橋で迎えるなり、自陣に引き擦り込んで戦うべきでは?
いきなり渡河して砦にもならない小城奪って何をしたかったのか?
寡兵で行って、北条領の撹乱をはかるのなら効果的だけど、一益自ら大軍勢で攻めてるし・・・わけわからん。
また、上杉や徳川はどうするつもりだったのか?
何も手筈が組めてないのにいきなり北条にだけ先制攻撃、これは戦略的に見て有効と言えるのか?
褒められる点が何一つ見当たらない。
>>168 出展も何も神流川の位置を見るだけでも十分説明になってる。
そんで位置関係見れば、合戦の舞台が北条領なのがすぐわかる。
何故か、個人HPとかでは「攻め込んできた北条勢を滝川一益が一度は退けたが〜」
と言うようなくだりになってるものが多いが、金窪城がいつのまに滝川の城だったのかと、
ここで滝川に攻められて一族皆殺しにされた斎藤家の立場はどうなるのかと。
だが他の場所で戦ったと言うのは記録は勿論、物語や軍記物ですら見た事が無い。
金窪城での戦いはまず間違いないんだろう。
・・・で、まぁその後は、氏邦・氏直の北条勢5万に対して
せっかくの2万の兵力でも川渡ってきてしまって、敵地のど真ん中に小城だけ奪っているような時点で
既に勝敗は決したも同然なわけだが・・・何がしたかったのか?
こればっかりはわからんが、残念ながら結果だけで判断するなら、
地図の確認だけで充分愚策と言えるに足る。
だから出典はなんなんだっつの。
勝者は自分を正当化したいもんだからね。
意味不明な行動はかなり疑わしい。
だから合戦現場の神流川と金窪城そのものをちょっとは調べろっての。
出典とか云々が必要なほど細かい事はまだ言ってないよ俺。
城に篭って何の解決になるのか。桶狭間で城に篭れって言うようなもんだ。
>>173 あぁあと勝者が歴史を改竄するのは激しく同意。
だけどこの合戦を軍記物やらに残してるのは全部徳川幕府であって、
そういう意味での勝者は徳川家であって北条じゃない。
この時期の徳川家は北条にとって敵で、滝川は秀吉に歯向かったという点で
味方側だ、擁護して美談にする理由がここから見えてくる。
だから何故か北条から倉賀野へ攻めた事になってるが、
実際の史跡を見れば、まず北条から攻めてるのに合戦の主戦場が北条領の金窪城という時点で
矛盾があることに気付く。
>>175 篭れば少なくともたった2日で蹴散らされるような事にはならないだろう。
中央には少なからず味方が、徳川や上杉も居る。
むしろ北条家側にこうなった滝川を無理に攻める理由が見えてこない。
天正壬午の乱を見ても明らか、無理攻めにして堅固な城を落としにかかるほど、
滝川にこだわる根拠は何?
孤立無援の滝川を落とすのにそんなに躊躇する理由はなに?
上からもう上杉景勝が牙をむいてきて、
下を見れば徳川家康が牙を剥いてきてるんだよ。
たった2日で一益を蹴散らした史実でさえそれで北条家は苦しまされる事になってる。
もっと状況を考えな。上杉は家督相続後の混乱から織田に壊滅寸前まで追い詰められてる。
他国に遠征軍も援軍もだせるわきゃ無い。
徳川が無人の甲斐・信濃より関東に目を向けると考えるのも不自然。甲斐の一揆には徳川が絡んでるって説もあるくらいで。
上杉景勝は実際、北信濃にまもなく現れていて、北条と和睦するまで立ちはだかってくれちゃったわけですが。
状況をを考える前に史実を考えるべきかと。
誰と誰の和睦の話?神流川の後に真田が北条の支配下に入ったんだから
そりゃ警戒して当然なんだが。
俺主語に上杉景勝って言ってるよね。
二度も三度も同じ事いいたかない。
ぶっちゃけ今やってる説明は蛇足、
>>176の時点で同じ事既に言ってる。
上杉が上野まで来るのは無理があると言っている。越後国境付近にいただけ。
徳川は関東に用は無い。甲斐、信濃が先。以上で話通じるかな?
なんで北条家だけ史実と違って信濃や甲斐をほっといてんの?
今は上野の話だろ。
滝川の視点だけで見れば上野だけかもしれんけど、
北条の視点は史実でも初めから上野だけじゃない。
氏規らも既に動いてるし。
なんで北条家は信濃や甲斐をほっておかなければならないの?
実際に本能事後は北条氏直、氏邦の5万6千が上野へ兵を向けたろ。
上野から考えて何がおかしい。甲斐をほっているなんて一言も書いてないが。
一言も書いてないなら当然甲斐も睨んでるわけだろう?徳川が睨みを利かせてるけど、
だったら北条家にはいつまでも上野に固執してられる余裕があるの?
ID:qtKUcU/mの話では篭城するって前提らしいが、孤立無援の厩橋を囲まれて何を待つのか。援軍なんて来ないぞ。
神流川で滝川陣営で積極的に戦ったのは直臣だけという話。滝川につく利益は0何だから、離反者がでるくらい想像できるだろ。
何を根拠に長期間篭れると見てるのか。
長期間?2週間もあれば十分。
この段階の北条方にそこまで上野だけで粘れる余裕は無い。
あったとしてもその場合甲斐や信濃は無条件で諦める必要が出てくる。
すまんが意味がわからん
2週間もあれば、上杉景勝が北信濃のかなり大部分を制圧にかかってきてしまっているので
それを諦める必要があるということ。甲斐に関してはもっと早いうちから徳川の手が及んでるので
実際、神流川合戦があった時点で既にやや手が遅れている。
それ以上粘られるとなれば、当然こちらも諦める必要が出てくる。
真田昌幸なんかはここで三者の間を飛び回り、巧みに生き延びてるわけで。
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 04:40:20 ID:UONEceZE
篭城して滝川になんの利益があるの?
一か八かの決戦の方が分があるのは明らかだな。
結果は結果だけど。
別に決戦は良い、だがその場所が愚か過ぎると言ってるの。
だが、北条側にも篭った奴を攻めてる事に利が無いなら
和睦は充分通じる相手だと思うが。っていうかこの乱で勝手に飛び込んで自滅した
滝川以外の全員と北条は和睦してる。
もともとこういう状況で無理押しするような家じゃない。
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 04:58:38 ID:UONEceZE
そんな事改めて説明されてもw
一益が釣られたのかどうか、とりあえず大敗したのは誰でも知ってるよ。
篭城してもしょうがないってはなし。
だから和睦できれば悠々と中央に帰れる、それがちょっと持ちこたえりゃ
北条から引き出せた算段は情勢から見てもそれなりに高いぞって事。
この時点の一益が何よりも優先すべき事。
それに関して何の策も見えない以上、愚策と言わざるを得ない。
やれるべき事をやらずに、突撃して玉砕して兵を無駄に殺した以上
この戦いに関してだけ言えば評価としては仙石秀久と大して変わらん。
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 05:14:50 ID:UONEceZE
敵前逃亡だけじゃなく、北条にただで城をあけわたす?
それは織田家の地位も捨てるって事かね。
信長が死んで行く末もわからないのに篭城して離間が多発して首をとられるのと、一か八かの決戦なら普通は後者だろ。
歴史を知ってる奴は前者を選ぶかも知れんが。
和睦って城を明け渡さなければ成立せんのか。
何のために5万の兵が侵攻してきてるのか少しは考えてみな。
上野を攻めに来たとはどこにも記述が無いが。
信濃に行くにも碓氷峠は抜けなきゃいかんのだぞ。
203 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 05:21:25 ID:UONEceZE
即レスかw
徳川や上杉と和睦するわけじゃないぞ。滝川のようなちっぽけな勢力に城を明け渡す以外になにがある。
それと5万の兵は一益在陣時は上野に侵攻してない、
上野から侵攻してきた滝川軍を蹴散らしただけだ。
勝手に捏造すんな。
>>203 真田とも和睦してますが、上田城は健在です。
北条氏直が6月16日に倉賀野へ出兵したのはなんの為?
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 05:29:22 ID:UONEceZE
そりゃ真田は北条に降ったからな。
208 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 05:37:06 ID:B0/kdvlu
君も充分即レスだと思うが
>>204 捏造というなら滝川が先に北条領を侵したという資料ぐらい示してくれよ。
>>206 やっと来たか、
>>176で既に触れてるんだが・・
ただ倉賀野を目指したとされるのは氏邦だ。
ググればわかるような事で随分レス喰ったが・・・。
普通はまず謎に思うのはそこよ、
ただそこで合戦を行ったと言う記録もまた曖昧なのよ、
倉賀野を目指す氏邦と言うのも中途半端だし、倉賀野の勢力は金窪城に攻め込んでも居る。
焼かれた金窪に比べると随分と差があるし、そもそも位置関係的におかしい。
結局戦いがハッキリとするのは金窪に陣してたまだ手薄の氏邦勢とぶつかる所から。
倉賀野は未だずっと先・・・というより川を渡った先だ。氏邦が目指していたと言うのは
どこで知りえたのか?勿論本人の書状など残っていない。
>>207 違う、そういうことじゃない。その先の話。
ハア?それじゃ滝川が先に手をだした訳じゃないだろ。
何が捏造なんだか。
>>209 神流合戦前に金窪城以外に双方で具体的に攻められた城はある?
213 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 05:51:02 ID:UONEceZE
その先って徳川に寝返った後?
上田城は無事だな。
>>212 話がずれてるよ。北条氏直が6月16日に倉賀野へ出兵したのは事実だろ。
滝川を釣る策かどうかなんて別の話。
事実だとする資料は何?
金窪城が攻められたのは金窪城跡見ればわかるけど、
倉賀野はどっちにしろ実際は攻められてないから、
資料があるとしたら「氏邦が倉賀野の方面へ向かった」とする資料があるかないか。
ちなみに倉賀野は氏邦の鉢形城から金窪城に向かっていくと丁度延長線上の方面にある。
北条五代記でも読め。こんなのも知らないで偉そうに語らないでくれ。
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 06:22:04 ID:UONEceZE
んで上田城の件は・・・・
ほいきた、北条五代記の作成年月は?
>>173と
>>176でなんか言ってなかった?
まったく長い時間かけた誘導だったもんだ。
俺様の考察を見ろよって事?北条領だから矛盾がある?だから捏造?
北条が迫れば兵を出すしかないだろ。何が誘導だ。
そうだなw
聞いてくれてアリガト。
だいたいそこを捏造する意味が無い。1614年に旧臣によって作成された物を疑う根拠が江戸時代だから〜かよ。
実際なんで一益はあそこまで強攻策取ったんだろうね。
確かに謎。
223 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 00:06:31 ID:OrIyVDyx
裏切りが出て寝首をかかれないためでしょ
224 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 00:28:54 ID:d1ohX7If
スレタイの負け組みというか・・
途中まで思い切り勝ち組だったじゃん
で、こういうタイプが勢いある時は一番、勝ち組とか拘るんだよね
で、時代の急速な変化には、とても反応できない・・
ま、凡将だったんだろうな。丹羽も同じだよ
凡将?
時代の急速な変化には、とても反応できない?誰の話だ?
ここは滝川一益スレだよ。
あと丹羽は名将。
>>222 強行はともかくなんであんなとこで戦ったのかは謎。
信長が死んで鬱になったのか。
>>223 その程度のことや隣国の兵の動き程度で、
あんな所に誘き出されたんだとしたらアホとしか言いようが無いが、
そうじゃないだろう、なんかあったんだと思われる。
>>224 いや、伊勢や対武田の手並みや信長の信頼度を考えても、どう考えても凡将ではないと思うぞ。
だからこそあの合戦は謎なわけで。
そこらの似非大将があの合戦と同じ事やって同じように北条に蹴散らされてたら、
猪武者扱いされて終了だろう。一益だったからこそ、下手な評価もしにくく、
謎なままなんだと思う。
227 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 01:08:52 ID:d1ohX7If
身の保身や、ソツなく・・と、言った所が
唯一の長所だったんだろ。
結局、自分のバックボーンがなくなった時点で
己の本来の力に気付いたんじゃない?
だから、周囲が理解に苦しむ暴挙に散る・・
NHKや郵便局が、国の後押しなく勢力を保てると思うか?
一益も、上から指示もらう分には頑張れたけど
結局、それが限界だったんだよ
228 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 03:03:23 ID:ScqwgUUp
柴田勝家、明智光秀、秀吉、あとの残りは信長の子供達で成る
軍団一司令官だから相当有能じゃないの?
武田を滅ぼし関東の軍団司令官任命なんてかなり信長の信頼厚いよ。
そして手持ちの軍勢が北条に比べたら多くないから北条に対する敗戦はやむをえない
ところがある。秀吉だって毛利と対戦したら同じような目にあっただろうし。
>>228 そう言う事を言ってるんではなく、
負け方が余りに悪すぎるから謎だというわけで。
あれじゃ北条より手勢多かろうが、自分の勢力だろうが勝てるとは到底思えない。
前半の、信長家臣時は有能だという点は同意
231 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 03:46:44 ID:d1ohX7If
だから
>>227で結論なんだよね
上の指示をソツなく出来る人物と
上に立って下に指示できる人物は
必ずしも同じではないからね。
ま、武将としては有能で、大名としては無能だったんだろうね
232 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 04:16:43 ID:OrIyVDyx
1582年って滝川一益は57歳。一から何か始めようってには年をとり過ぎていたんじゃないの。
神流川敗戦以降の転落人生も普通の人間なら100%の力出せなくて当然。秀吉だって信長の死に相当動揺した訳だし。主が死んで自分が変わりにって思いつくのは黒田官兵衛くらいだ。
ちなみに柴田勝家は60歳、丹羽長秀は47歳、羽柴秀吉は45歳、明智光秀は54歳。
北条氏政は44歳、上杉景勝は26歳、徳川家康は39歳、織田信長は48歳。
秀吉って史実の実績だけ見ると、とても動揺したようには見えないけどねw
234 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 05:02:39 ID:d1ohX7If
>>232 元就が飛翔し出した歳も、そんくらいだろ?
結局、それが有能な武将と無能な武将の分かれ目なんじゃない?
変化をピンチと捉えるかチャンスと捉えるか。
別に一益をワザと悪く言うつもりはないけどさ
結局、信長が生きてる時も柴田派閥に組して
本当に困難で嫌な仕事は全部、秀吉に押し付けて
あんまり自力や独立したスキルを磨かないままナーナーに生きてたんじゃない?
で、突然放り投げられてしまって成す術がなかった・・
今の旧財閥系の大会社で踏ん反り返ってる社長とか重役とかも
親会社からの天下りとかコネとか、無能な奴めちゃめちゃ多いよ
235 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 12:30:51 ID:wO42WYoq
佐竹とか里美とかはもっと少ない兵力で、北条を撃退している。
滝川が北条に負けたのは、彼らよりも弱かった、将才が無かったからに過ぎない。
織田家の後ろ盾が無きゃ何もできない男だった。
将才とやらがある佐竹、里美ならあの状況をどう打破したの?
本国伊勢から遠く離れた上野で任期3ヶ月目。甲斐、信濃の補給線は間も無く絶たれて援軍もなし。
与力は真田昌幸、小幡信貞、内藤昌月、北条高広、道家正栄ら同年に滅ぼしたばかりの武田旧臣。
信長横死は広まって反織田勢が勢い付いてる所。
237 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 13:20:40 ID:W/hEBEnJ
>>235 包囲されてしまえば脱出が至難になるし、補給のあてもない。
本拠地は遠く、人心を考えても後北条との野戦を選ぶのは致し方がないよ。
上野方面で幾度も軍事行動を起こしている後北条が有利なことは誰でも分かる。
あえて戦ったと考えるべきでしょう。
ひとまず勝てば時間の余裕が生まれるわけだし。
負けても暫く戦地周辺は混乱しているし、敵の行動を考えれば徹底追撃は考えにくい。
情報が錯綜する中での戦略としては至極まっとうだと思います。
事実、生きて本拠地まで辿り着いているのですから。
>>237 どうやって包囲すんだよ。
上野はそんなに小さかないし、滝川勢2万はそんなに少ない勢力じゃないぞ。
北条家があの状況で利根川渡って猪突猛進すんのか?
渡河中にぶったたかれてえらい目にあうし、渡っても厩橋までの間で
野戦に挑まれたら、逃げ場もなく、左右から攻められて戦線の維持は難しくなる。
しかもそこで何とか勝っても、北条家をそこまでひきつけられれば
一益は箕輪の方面に逃げやすいので、目的は果たしやすい。
そもそも普通は戦線を維持しつつ、デッドラインを把握して、警戒をしつつ衝突すべき戦場を考えるもの。
その上で野戦をするのはいいと思うし、その流れ上に金窪城のような城があれば奪っておくのもいいが、
わざわざ自分で渡河して奪うような城じゃないし、場所が悪すぎて戦略性皆無、ちょっとありえない。
>>人心を考えても後北条との野戦を選ぶのは致し方がないよ。
野戦が悪いんじゃなくてその戦略が拙過ぎる事を言ってるの。
>>ひとまず勝てば時間の余裕が生まれるわけだし。
川渡った先で東西南にも敵城がある敵地のど真ん中に切れ込んで
余裕が生まれるわけない、現にそこからたったの1日であそこまでの大敗北になったのは
他合戦でも類を見ない。北条軍5万は損害皆無で、上野の土豪が殺されたくらい。
>>負けても暫く戦地周辺は混乱しているし、敵の行動を考えれば徹底追撃は考えにくい。
そのとおり、だから無理な行動は謹んで戦線を見極めなければならない状況なのに、
猪突猛進した。何故なのかと。
>>238 大軍を編成するメリットは相手に対する示威行為に尽きる。
渡河しなかったら、相手も渡河せずに味方が次々と調略されるのを黙って見ているしかなくなるだろう。
実際には限られた時間の中でいろいろな戦略を考えていたと思うよ。
>>239 示威行為って誰に対して?
つーか何でこの渡河がそんなに支持できるのかわからん。
個人的に言わせて貰えば、この合戦が失策じゃないなら、失策といえるような合戦は思い浮かばない。
そのぐらいの大失策だし、損害数も戦国合戦上上位に入る。
さらには2万を超える同士の合戦ともなれば、双方の損害数も多いものが多くなるが、
この規模の合戦でこれほどまでに勝ち側に損害がない大敗北は恐らく戦国No1。
この事態を踏まえた上で言ってるのであれば、根拠がなければさすがに納得できない。
清洲で罵倒されたのも無理もないと思われるわけだが。
清洲で誰に罵倒されたんだっけ。
242 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 18:09:47 ID:Pc+43kez
そりゃ滝川側は直臣以外は適当に切り上げたって話だからな。ソースは忘れた。
君しばらくまえからおなじこと繰り返し書いてない?
243 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 18:49:53 ID:d1ohX7If
ま、無能ってことで結論だな
他にも丹羽は築城以外は凡将だし
明智は義昭と信長を会わせただけが功績で
佐久間は追放
織田家臣団って、結局、秀吉だけが頑張ってたんじゃない?
244 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 18:59:34 ID:xC8alqh2
そうだな
245 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 19:54:16 ID:W/hEBEnJ
だからこその黒幕説。
普通は瓦解するんだよな。
滝川が無能とか・・・信長の評価を基準にすれば考えられないが・・・。
247 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/03(日) 20:49:50 ID:UglhwUxg
妄想
>>241 ゴメン、これは秀吉が一益を出席させないとする説をそのまま引用したに過ぎないので、
根拠になるものはない。 ただこの説どおりに秀吉に罵倒されたとしても無理もないなというだけ。
この説は秀吉の陰謀説とそうでないという説の衝突もあるので確かに軽率だった、訂正する。
>>242 それ知らない、忘れたというがソースが是非知りたい。
わかってる情報だけでも、上野衆は一益退去後も北条に降るまで、
多少粘ってるし、厩橋城が落ちるのはさらに後になるわけだし。
>>243 無能かどうかは知らんけど、
取り立てて注目するほどの武将じゃないのは同意。
今川氏真だって事情はあるのに愚将と呼ばれてるわけで、
同じようなもん。
死者3000人を超える戦がどうしてこれだけマイナーなんだろう
しられたくないから。
>>250 秀吉は山崎合戦から始めて、光秀、勝家らと
立て続けに戦ってるわけだが、そのなかで一益とも戦ってる。
皆名将、凄い、凄いけど秀吉様には敵わなかった!
でもその凄い人に唯一勝った東照大権現様はもっと凄い!
ということ。
江戸の前の支配者の大勝利は逆に余り有名になられても困る。
それを裏切って潰して江戸に入ってきたのが権現様なんだから。
253 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/06(水) 22:46:22 ID:zP9+Ypqb
たとえ、名将と言われても数で劣っていたら普通は負けるのでは?
55000vs20000ならなおさら。篭城戦でも危ないのでは?
しかも一益に不利な点が多い。
負けたので名将、愚将と決めるのはできないのでは?
過去の功績を見れば一益は名将と呼べれるのではないかと愚考します。
それで良いと思うよ。別にこの合戦だけで決まる事ではないと思うし。
この合戦だけで見ると負け方が尋常じゃないのと、その動きが不可解すぎるから
謎だというだけで、一益が愚将かどうかと言う評価自体はこの合戦だけで判断すべきじゃない。
ただ彼が大将として行った合戦はこの合戦と、その後の秀長との合戦ぐらいしかなく、
後は誰かの補佐だったり遊撃軍的な存在だったっぽいのに加えて、出自もはっきりせず、
元々謎の武将だと言う点が、より評価を難しくはしてる。
255 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/07(木) 04:40:27 ID:Fjtox466
>>252 キミが徳川嫌いなのは良く分かったが被害妄想が激しすぎるぞ
256 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/07(木) 17:59:00 ID:pUeZcuCe
歴史群像の「異太閤記」を読んだが、本当に一益は鉄砲狂いだったのか?
久住さんは一益は本能寺後も活躍できると思っているんだな。
根拠はなかったが・・・
>>255 いや、むしろ家康は秀吉や信長より好きだぞ、あの腹黒さがいんだっつーの。
上のは単なる江戸時代の家康を神とする考え方の話。。
その視点として武田信玄が持ち上げられるのと一緒。
信長死後の話ばかりするからダメな話ばっかりになるわけで、
信長配下時はどうだったんだろ?
259 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/10(日) 19:36:46 ID:HSTF6smq
佐久間・林・丹羽以上、光秀・秀吉未満
260 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/10(日) 20:15:20 ID:zyz8Sn5M
佐久間は筆頭家臣だったはずだが?
林は佐久間の前の筆頭だしな。
多分能力のことを言いたいんだろうけど織田家臣時代は丹羽も佐久間も含めて
軍事能力は似たり寄ったりだと思うけどね
ただ負けたんじゃなくて,
雪崩を打ったように負けたんじゃしょうがない。
なんで関東の反北条勢力に呼び掛けなかったんだろうね
そんな余裕を北条がくれるとでも?
つうか数万の軍勢集めて兵站整えるには数日かかるし
北条支配地域の城下も村も街道も大騒ぎになるのに
目のまえまで全く気が付かずにボサッとしてたならそれこそ無能だろ
いや・・あいだに利根川があるんで、渡河する時に叩けば良いだけのこと。
それを警戒して見張るならともかく(せっかくそれ用の城もある)
トチ狂って自分から渡って行って小城取って、喜んでるところを、
北条本隊に叩かれて、川を渡ってきてしまっただけに逃げ帰る事も出来ず、
記録的な大損害を出した合戦です、コレは。
地図を見れば見るほど芸術的なまでの大敗北。
268 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 08:28:07 ID:xOBX8pXe
才能重視の織田信長に織田四天王の一人、および、「関東管領」に任命されながら、
どうして凡将という輩がいるのか理解に苦しむ。
あと、このスレに書き込んでいる人は
「進むも一益退くも一益」
という異名をご存知かな?
進むも滝川退くも滝川じゃなかったか?
270 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 13:03:50 ID:9IVR8y2Q
あくまでも誰かの下にいてこそ活躍できるタイプな気がする。
信長死後自分の判断で大局的な戦略を考えなきゃならなくなってからはグダグダ過ぎる。
小牧長久手では合戦では功績を上げても政略で負けてるあたり、戦術面に特化した能力の人なのかも。
北条相手に勝つほうが困難すぎるだろ。
つか緒戦は勝ってるし。
本国からも徳川からの援軍もなしに互角で戦うほうが無理。
戦力も北条のほうが上回っていたし。
なんとか徳川の増援を待ってれば信長死後の争いにも堂々と
参加できただろうに。
>>271 お前、ちょっと上の過去ログも読めんのか。
273 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 14:34:54 ID:xOBX8pXe
>>269
どっちも合ってます
ほかには
「先鋒は滝川(一益)殿も滝川(一益)」
というのもあります。
関東管領は眉唾だと思われ、
将軍家の古臭い権威が嫌いな信長が、
将軍追い出して久しいあの時期に、
今更将軍家の権威である関東管領を持ち出す意味がよくわからない。
統治に便利なら使って何か不思議な事が?
九州征伐の為に惟任、惟住に名跡を変えさせてるし。
退くは佐久間じゃなかった?
>>270 小牧長久手???
>>275 もうちょい律令制について学んだ方が良い
>>276 「退き佐久間」「進むも退くも滝川」(←自分はこう聞いていた)は両方実在する異名だよ
そういえば佐久間も滝川も信長に軍団を任されてからのミスが目立つな
上で誰かが言ってたけど戦術的な能力はかなりあるけど
戦略面になると落ち気味の武将なのかもね、二人とも
いや、一益の場合、一軍を任されても武田攻めなどは素晴らしいけど、
信長が死んだら人が変わったように戦術面でも精彩を欠いていると言う感じ。
賤ヶ岳でもまるで良い所ないし、神流川は残念ながら愚将の域。
よっぽどガックリ来たんだろ。
280 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 16:34:39 ID:9IVR8y2Q
>>276 小牧長久手のとき信雄方としてそれなりに活躍しなかったっけ?
最後は僚将の首を差し出して降伏するなど無様だが。
>>280 活躍したっけ?秀吉方だったような気もするけど・・
秀吉方じゃなかったら首無いな。
信雄配下の佐久間正勝(正栄)と戦い戦功を挙げる。
↓
蟹江城の留守将前田種利を寝返らせ、九鬼嘉隆と一緒に入城。
↓
大野城の山口重政を攻撃するも攻めきれず、逆に援軍にきた家康・信雄に包囲され降伏。
↓
前田種利の首で降伏を認められる。
↓
京都妙心寺にて落髪、仏門に入り、秀吉から越前大野へ捨扶持を与えられる。
小牧・長久手の滝川の動向。
・・・まぁ賤ヶ岳や神流川よりはだいぶマシ。
秀吉とくらべて無能まで行くと飛躍しすぎだろう。
ただトップとしての判断能力と家臣としての与えられた任務への遂行能力とが
別物で、秀吉は前者も兼ね備えた傑物だったという話し。もう一つ言えば
謀反というトップとしての判断を下した光秀も。信長も1に光秀、2に秀吉と
評価してたようだし、その点では信長の目は確か。トップとして光秀・秀吉>>勝家・丹羽・滝川
であって、滝川には運がさらになかったということだろう。擁護じゃないけど
信長ほど独断するトップの下にいたせいでその能力に欠けていたというか。欠けていても評価される状況。
ではその有能な光秀・秀吉ならあの状況をどう打破してくれる。
さっさと本領に帰ったとしても織田家の中で立場は弱いよ。つまりどうしようもない。
打破できるとは書いてないと思う
288 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 18:24:01 ID:pQNGHXm+
なら本能寺〜神流川の敗戦で能力の多寡をかたるなってなるな
289 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/10(水) 19:35:39 ID:NWkoGM7a
何で勝家は一益を待ってやらなかったのか…
見切り発車の清洲会議でコテンパンだし。
秀吉にも勝家にもコケにされた関東方面総司令、哀れなり。
有能無能関係なく、この点だけは本当にそう思うよ。
>>286 秀吉は完全に敵の毛利と見事に講和を結んで、戻ってきた。
一益は同盟相手の北条に勝手に突っ込んでボロボロにやられた。
はっきり言って器が違う。
秀吉なら普通に北条と巧く講和結んできただろう、
北条側も、上杉・徳川が蠢いてる中で、利根川渡って無理矢理上野を攻めるような無謀な事はできない、
実際、その後の徳川・上杉に対しても正面衝突は避けてるし、いくらでも講和の余地ある。
もともと同盟国だし。
だが情勢を見ても、先に攻めたのは一益、合戦場も紛れもなく北条領。
政治的な解決を一切無視した上に、戦略的な優位まで無視して、目の前の小城を奪って
喜んでるところを袋叩きにされて厩橋城に帰る事もできず壊走した。
むしろどこか一つでも褒められる点があるのか?と。
北条に上野を放棄しろと・・? それが秀吉ならできると?
それとも上野を北条に無血開城して本国に帰れと? 秀吉は高松城を毛利に渡したのか?
放棄も何も、いくら北条家の兵力が多いと言えども、
上杉も徳川も迫ってる状況で、そう簡単に上野を攻めて落とす事など出来ない。
そんな狭くないし、兵力も城数も少なくない。仮にも2万弱も居る訳で。
そんな時間的な余裕は無い、1週間ちょいで既に景勝は信濃に入ってきてるし、家康も旧武田領で蠢いている。
だが一益が勝手に突っ込んできてくれたおかげで「 2 日 」で終わったんだよこの合戦は。
しかもそれでも北条家はその後やや後手に回ってしまった、
その余裕のない情勢下な事+氏政はあくまで書状で敵対をしていないと言う大義名分も考えれば
上野の一部を譲る程度で十分講和できた可能性はある。
また上杉に対する牽制の意味でも、柴田勢力ともども北条は滝川と繋がっておく利点が大いにある。
というか大将だったら少なくとも可能性を模索するべき。
勝手に突っ込んできておいて責任転嫁も甚だしい。
北条が上野一部で講和したとして甲斐・信濃を平定後の見通しは?
それは情勢が動いてみないとわからない。
しかし史実と違ってくるのは、滝川・柴田辺りと北条が結んだままだと、
徳川家康としては史実ほど単純に敵対はできないだろう。
とはいえ見通しとしては、まず甲斐に先行している氏規をほったらかしにしておく訳にはいかないから、
若獅子での家康とのにらみ合いは結局あると思う。そこで一益が間に入れるなら、存在感も見せられるし、
史実より早く同盟を結べる可能性も上がる、また真田も上野が割と動きやすくなったからこそ
あれほど自在に大名間を飛びまわれたが、喉元に一益が突きつけられてたら、何も出来ない、
実際、神流川では普通に戦う羽目になってるし。そうすれば随分時間の省略になる。
真田が動けなければ、家康が上田城で負ける事も無くなる訳で、情勢は一気に景勝にとって苦しくなる。
上野が取れない代わりに、景勝を追い出して、甲斐・信濃を山分けに出来るかもしれない。
そこは情勢次第、未知数。
上野の一部に寄生してるにすぎない滝川に何の存在感?
大体一部ってどこを割譲する気よ。厩橋を出るのか?
甲斐信濃が落ち着けば完全に孤立するわけで、そこからまだ北条と同盟を維持できるという根拠は?
>>290 中国地方は毛利と和睦すれば安泰だけど、東国は北条に上杉、真田、旧武田家の残党がいたからねえ。
家康ですら全面的に信用できないし。
まあ、運がなかったといえばそれまで。
>>295 箕輪城も厩橋城も滝川家が治めてる記録があるし、
利根川付近の倉賀野一帯も滝川領だぞ、更には上杉の勢力もかなり押されてた時期だから、
利根川以北はほとんど滝川領になる。領土的には十分。
またここは長野業正が武田信玄と張り合ってた頃から、落としにくい土地。
ひとまず落ち着かせて中央に戻る事が先決、その後のことなど
その情勢にならないと予想など立てられる訳が無い。
少なくとも何も考えず突っ込んでボコボコにされるよりマシな方法はいくらでもあるってだけの事。
じゃあ逆に聞くが、一益は金窪取った後どうするつもりだったんだ?
四方八方北条領に囲まれてる上に、大軍勢が展開しやすい金窪原で
背後は利根川だから帰る事もできず、横は神流川だから中央に行くことも出来ず、
兵力差は2万対5万、斉藤家皆殺しにしてまで奪った金窪城は小城と言うか砦みたいなもので、
ほとんど防御力皆無、当然2万なんて兵力を収容できるはずも無い。
>>296 運以上に実力がない、運を語れるのはそこまでの過程で最善を尽くせた人物に言える事であって、
それが出来てない以上は、運以前の問題。
また上野と言う立地条件と、2万の兵力、上杉・徳川・柴田と言う外交条件。
頭の回る奴にとっては決して運の悪い情勢じゃない。
真田昌幸のように全く同じ場所でもっと最悪な情勢下で逆にのし上がった奴だっているんだから。
298 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/12(金) 00:00:58 ID:MB4XQaT4
>>じゃあ逆に聞くが、一益は金窪取った後どうするつもりだったんだ?
北条との戦を勝利の上で一先ず伊勢に撤退するつもりだったんだろ。
緒戦の勝利で士気もあがるし滝川(織田)軍侮りがたしと印象つけれる。
勝ち戦の交渉のほうが上手くいく。
具体的に聞いてるんだから具体的に答えて欲しい、
じゃあもう少しこっちも具体的に状況を言おうか。
金窪は利根川渡って更に北条領を進んだ所、
周囲には他の北条家の城は四方にある、ちょっと東には氏邦の鉢形城もある。
厩橋城は当たり前だけど利根川の向こうで、他の自分の城も全部向こう。
伊勢にここから帰るにはさらに利根川の支流神流川も渡らなければならない。
さらにその方面にある北条家の城から攻撃をされることも必然。
最初に厩橋から箕輪城方面に行ってれば、北条家は利根川を渡らないと滝川を追えないし、倉賀野辺りで
足止めされることに成り、現に箕輪に退いた一益を北条は深追いしてない。
で、大軍勢が来てるのは明白なの。
どうやって伊勢に帰るのよ。
300 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/12(金) 00:26:26 ID:MB4XQaT4
その大軍に勝つしかない。もともと無理な話しなのを忘れるなよ。
それを294のように持久戦で持ちこたえるのは無駄といっている。先が無いなら玉砕と何がちがう?
301 :
baisen ◆IpSLd1HMDY :2007/01/12(金) 00:30:56 ID:vYBxt0Ft
>>300 別に勝つしかないわけじゃないよ、箕輪に行けば退く事は普通に出来ます。
実際、史実でもあれだけ壊滅的な損害を受けながらも退けてる訳で。
だけどその前に外交努力も軍事的な工夫もなく
勝手に諦めて突っ込んで玉砕するのは、そこらの鉄砲玉ならいいけど、
仮にも2万の兵を率いる総大将として、愚の骨頂としか言いようがないと思う訳だが。
日本人はこういう滅びの美学みたいの好きなのかもしれんけど、
彼に従ってあんな所で戦う羽目になった上野の豪族らは迷惑だったろう。
そーいやさ、一益の長男の一忠って
結局どーなったの?
304 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/12(金) 05:40:15 ID:MB4XQaT4
>>だけどその前に外交努力も軍事的な工夫もなく
じゃあどうするれば良いのか教えて。
だいたい一戦も交えずに伊勢に帰ってもし本能寺がデマだったらどうするつもりなのか。
もしくは信長が生きていたら。
一戦も交えずおめおめ逃げ帰ってきましたー(^-^)ですむと思うなよ。
それは強弁にすぎるだろう。よくないなあ。それじゃいままでのも揚げ足とりにしか
みえなくなるよ。
306 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/12(金) 07:20:50 ID:z1Gwdtiu
>>304 信長が生きてたら北条もただじゃすまないよね?
同盟やぶって侵攻しましたー^Д^
じゃすまないわけだし
>>302に同意
>>303 小牧・長久手後に秀吉から追放処分を受けて、
その後ずっと浪人生活だったと思うけど、ずっとふらふらしてたのかねえ?
と思ってwikiをみたら、一忠は次男で滝川益重が長男になってたけど、
最近はそれが有力なのか?
鶴と雀を例えに出して、大名並になると神経が休まらないうらやましがらないでよ、と言うあたり限界があったんだろうな
能力というより精神的スタミナの
要するに大将の器じゃないって事だろう。
十分能力の問題。まぁ能力も無かった訳だが。
好き勝手言うな。本能寺以降はどうころんでも秀吉にはなれない。
別に秀吉にはならなくとも、もう少しまともな立ち回りは出来た。
少なくとも大将の器ではない。
まあ結果論だな。
313 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/13(土) 23:46:35 ID:n9tVxx8j
滝川一益、河尻秀隆、森長可、佐々成政、北条高広、穴山梅雪、姉小路頼綱、斉藤利三、織田信孝・・
本能寺がなければ好評価であったろう面子は本能寺以降で語ってやるな。
314 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/14(日) 00:46:58 ID:PtZ9B0/g
>>307 >と思ってwikiをみたら、一忠は次男で滝川益重が長男になってたけど、
>最近はそれが有力なのか?
名前に「一」の字がないし、異名も伝わってないから怪しい。
同名の甥(従兄弟かも)と混同した史書に釣られたんじゃないかな?
北条とか穴山とか好評価か?
>>312 これが結果論で済んじゃうなら総て結果論と言えてしまう。
>>313 同意、一益の擁護をしたいのならば、本能寺以降は語らないであげるのが正解。
詳しく調べれば調べるほど、惨めな事になる。
しかし、何故か武田攻めや伊勢攻めなどを語る人が居ない不思議なスレ。
遠回しに貶してるのかと邪推してしまう。
317 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/14(日) 16:20:51 ID:ZDy4SJ2M
武田攻めは腐った木を倒しただけだろ。強いて言えば木曽、穴山、小山田らの功績。
義太夫と益氏って別人だったのか。
>>317 それでも勝ちは勝ちだし、武田を腐らせたのにも功績はあるんだろうし。
負け戦を無理に賛美するより余程マシ。
武田攻めはどっちかっていうと信忠の功績じゃ……
どっちかって言わなくても信忠の功績だと思うけど、
いいじゃないか、滝川の功績も無い訳じゃないだろうし。
何かネタがあればいんだが、武田攻めでなんかあるだろうか。
信忠の積極案に反対してたしなぁ>滝川
しぶしぶ20幾つの若造にケツ叩かれながら仕事したからあんまり印象はよろしくない
仕事自体はきっかりこなしたけど
324 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/21(日) 22:24:09 ID:71wOj5ku
ということは本能寺後の旧武田領の一斉蜂起は信忠のせいかもしれんね。
>>324 あえて釣られるが、お館様と一緒に(ry
326 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/22(月) 21:36:46 ID:MwVMrT2K
滝川と関東の与力?だけで北条を倒せるわけないよね?
どうやって上杉や武田を退けた小田原城を攻略するつもりだったの?
絶対勝てないだろ
いやなにもそこまで全面衝突しようと思った訳じゃないだろうw
もっとも鉢形城周辺の支城に猪突猛進した訳だから結局無謀なんだが。
こないだ読んだ小説で小牧長久手のあと
秀吉に放逐されて餓死してたんだけど
wikiによるとそんなこと書いてないし
これはなにかマイナーな史書にある説なのかな?
小牧戦話にそんな噂がたったと書いてある。
>>313 津田信澄、阿閉某も追加
ちなみに梅雪は本能寺なくても朝倉景鏡か景健みたく始末されてたとおもうよ
>>328 確か徳永真一郎の小説「滝川一益」によると
小牧長久手の後に秀吉に捨扶持もらって茶の湯を楽しむ生活に入り、
茶会に秀吉も招いたと書いてあったな。
徳永の創作というよりそのように書いてある古書があったとか聞いたが。
誰か知ってる人居ない?
まぁ、一益ファンとしては餓死よりも穏やかに死を迎えたこっちを支持したい。
茶の湯できて良かったなあ。
333 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 20:12:08 ID:+DoOeqY5
茶の湯にはまるってのは貴族に対するコンプレックスの裏返しだと思うね。
とくに下級武士なんて出世するには知り合いを騙したり戦で人を殺したり正に屑だ。
334 :
項龍 ◆urdfmZmGvk :2007/02/21(水) 20:19:39 ID:5HhO54Zl
久しぶりの書き込みだな。
335 :
人間七七四年:2007/02/28(水) 21:04:52 ID:eS/zrDHL
>>331 まあ、秀吉は功臣を容赦なく粛清したりしているしなあ。
336 :
人間七七四年:2007/03/26(月) 13:28:00 ID:PIlgxEYz
凡将age
337 :
人間七七四年:2007/04/16(月) 12:48:07 ID:Y/34Y9K7
338 :
人間七七四年:2007/05/08(火) 19:00:13 ID:vkVy5rMX
滝川益重って、二人いるんだな。一益の子供と従兄弟。
339 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 19:17:07 ID:HcZES4BY
age
340 :
人間七七四年:2007/07/01(日) 23:02:42 ID:AJ/S1tx/
甲賀の出と聞くが、近江には滝川の姓は多いの?
341 :
TRICKSTER ◆CASVAL9Zfw :2007/07/04(水) 18:54:17 ID:TusIqETB
滝川についての関連書ないな・・・・
342 :
TRICKSTER ◆CASVAL9Zfw :2007/07/04(水) 23:15:30 ID:TusIqETB
343 :
人間七七四年:2007/07/04(水) 23:29:23 ID:9qrpmADt
多岐川華子が好きです。
344 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 17:34:09 ID:CcsWyq0A
見栄とか面子とかは大切
織田についた方が有利だと思ってもそう簡単にホイホイと乗り換えられるものでも無い
やっぱり大義名分とか名目とかはそれなりに必要なわけで
そういう時に「関東管領」ってのはいい口実になる
345 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 00:54:11 ID:u8g7P9iO
____
/__.))ノヽ
.|ミ.l _ ._ i.)
(^'ミ/.´・ .〈・ リ
.しi r、_) | 一益はワシが育てた
| `ニニ' /
ノ `ー―i´
346 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 05:12:40 ID:RGg5H5P6
阿部さん?
347 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 16:34:16 ID:cXl0rRuG
滝川アンナ
348 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 17:42:40 ID:TL+nmW6N
信長との出会いが不明だよなこの人。
六角を出奔した理由と、素浪人がどこで鉄砲達者になったのか、甲賀にいながら尾張の池田恒興との交際など
疑問だらけ。
349 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 18:59:00 ID:+CyEBX8p
針を売っていたところ、
声をかけられたんだろう。
350 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 02:05:39 ID:hQatSfC5
>>348 >六角を出奔した理由と、
>甲賀にいながら尾張の池田恒興との交際など
どの資料に書かれてるの?
恒興と一益は父系で従兄弟じゃなかったっけ。
352 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 22:46:06 ID:66nybMST
前まで三方ヶ原の織田方の援軍として佐久間信盛、平手汎秀、滝川一益の3人が
送られたと思っていたが
谷口克広氏の最近の著作(「信長と消えた家臣たち」)で援軍として送られたの
は滝川一益でなく水野信元であるとわかった
知らんかったわ
353 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 23:19:22 ID:30oKPiRD
それって信長公記に書いてあるままだ
354 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 23:33:52 ID:5sXE22Yc
つーか一益が三方ヶ原にいってたなんて間違ってるにしても初めて聞いたぞ。
355 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 00:24:50 ID:SxWtfedP
東照軍鑑には滝川一益が逸る徳川の臣を諌める逸話が載ってる。
志士清談という書物にも、1万の兵を白須賀に毛利秀頼、山中に滝川一益、吉田に稲葉一鉄を配置(いずれも浜松の少し西)して
武田が浜松城へ攻めて来た場合に挟み撃ちにしようとしたとある。
これが翻った理由はなんだろう?
356 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 00:50:02 ID:SxWtfedP
水野忠重以下、清久・籐七郎・新五郎・喜兵衛・右京が参戦してるようだけど
信元の名は無いな。
357 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 13:59:35 ID:i4J96hzC
>>355 姉川の件といい、稲葉一鉄の派遣とかありえないよな。
江戸時代に大名として残ったから、其れ絡みの創作じゃね?
358 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 14:11:31 ID:SxWtfedP
負け戦に捏造する意味は無いと思うが・・
359 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 14:17:38 ID:i4J96hzC
>>358 負け戦でも神君に与力した実績は、江戸時代には大きいと思われ。
360 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 14:33:19 ID:SxWtfedP
国朝大業広記に甲州勢が城下を荒らしている際、佐久間&滝川が家康を押し制し、徳川か中の者から「大将(家康)が出陣なさるはずなのに、臆病者の尾張勢が無理にお止めしてしまった」と陰口をたたかれる話がある。
三方原については、参加した尾張勢にプラスになる要素は無いよ。
361 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 15:04:40 ID:gU8Nnqu/
与力といってもダッシュで逃げてるからな。
討ち死にした平手とは大違い
362 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 15:44:22 ID:91Iwsd3n
滝川一益が三方ヶ原に参戦した説には前から疑問だった
対長島・本願寺勢力監視という重要な任に就いている一益をわずかな兵力の援軍
の大将として送るのかという疑問
しかし谷口克広氏の著作で少し氷解した
あと平手汎秀の無謀な戦い方について谷口氏は言及しているよ
『陳善録』によれば三方ヶ原の戦いの前に家康は織田方の援軍が宿泊する町屋の
宿に片一方から順に挨拶に行った
しかし事前に調べずに挨拶に行ったため、平手は後回しになってしまい、汎秀は
ヘソを曲げ、二階に三味線を持って小唄を歌い始め、家来に「明日先陣して討ち
死にするゆえ挨拶は無用と家康に言え」と大声で命じた
翌日、佐久間信盛や家康が止めるのも聞かず「家康が先に挨拶した者が大将、自
分はただの武士にすぎぬ」と言い残し駆け出して行った
まあこれが真相に近いと思うが
363 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 16:11:00 ID:SOvRHP10
他の人がここまで具体的に文献まで挙げてるのに、その谷口氏の説は書かないのか?
364 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 18:54:48 ID:SxWtfedP
>>362 >>あと平手汎秀の無謀な戦い方について谷口氏は言及しているよ
言及も何も、その話はほぼそのまま利家夜話という文献に載ってる。
自分の説のように言ってるとしたらとんだペテン師だな。
365 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 16:09:59 ID:2X90GoZV
そこまで言う必要ないだろ
せっかく、アガってたと思ったのにまた過疎っちゃう
366 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 16:24:49 ID:JgdFcoXk
三方原に参加したのは間違いないらしいな。
本戦に加わらず山中に待ち伏せしていたというのはしっくりくる。
367 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 18:09:42 ID:RvYP3l69
\((゜Å゜))/
。)Θ )
(((( > ̄ > ))))
雀になりたし!
368 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 01:10:56 ID:+u/YAoYI
>>367 晩年そうなれたじゃないかw
本懐だよな。
369 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 14:47:48 ID:I/TEsDtV
370 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 23:53:22 ID:lgBBGOKx
>>316 >しかし、何故か武田攻めや伊勢攻めなどを語る人が居ない不思議なスレ。
伊勢攻略はいまだに話題に上らないな。
あれも信長の指示や配属してもらった与力たちがいなけりゃ無理だったってか?
371 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 11:04:33 ID:+EbW0DFk
何か知ってるならおまいが書けば良いじゃないか
372 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 18:01:23 ID:y2FYmYCc
滝川と河尻がヒュージョンすると、滝川しり。
更には森が加わって、滝川しり森。
滝川尻盛りでございまする。
373 :
偽朝:2007/08/01(水) 20:46:20 ID:/b8bX3v8
滝川一益
合戦を重ねるたびに戦功を立てて、永禄12年(1569)、尾張蟹江城主となる。
織田家においては伊勢方面の攻略を担当。
信長の次男信雄とともに北畠氏討伐など。
天正2年(1574)には、伊勢長島の一向一揆を討伐、殲滅。
伊賀攻めにも功を上げ、北伊勢五郡を支配。蟹江城と兼ねて、長島城主にもなり、信長の重臣の座に加わる。
「先駆けは一益、殿(しんがり)も一益」とうたわれるほどの勇将であったという。
天正10年(1582)、武田攻めには先鋒として参加。
武田勝頼を天目山に破った功で、上州および信濃の二郡を与えられ、厩橋城(前橋)に移り関東管領を号す。
信長の五人の軍団長の一人にまで数えられる。
(
http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/itiran/itiran/takigawa.htm)
こんなによく働いたのに・・・
374 :
偽朝:2007/08/01(水) 20:47:51 ID:/b8bX3v8
375 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 23:19:07 ID:usqspst0
本能寺以降の秀吉とその親友だった利家以外の信長家臣団の末路は悲惨なものばかり。
376 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 23:47:30 ID:WkJwHk3G
だがそれがいい
377 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 04:56:33 ID:LGby9Mgn
>>373 シメが悪すぎたからな。
信長が死んだあとも、信濃と上野を維持できていて、何か秀吉なりと一戦あっただけで大部違ったと思う。
378 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 05:03:24 ID:Hro3y8kr
羽柴と決戦し敗北、国人一揆で死亡、病死、追放etc
バラエティ豊かな悲惨っぷりが萌えるのさ
379 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 14:02:47 ID:9h3B4ITY
一揆発生の責で切腹も追加してやってくれ。
どうでもいいが、こいつの名前の後ろにはピーヒャラピーヒャラを付けて
どうしても某ポンポコリンの曲になってしまう。
380 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 15:34:56 ID:R+rR9gKH
381 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 01:41:21 ID:D6jV5jVA
そういえば長篠合戦にも参加してるけど、それに関する具体的な話も聞かないな。
鉄砲三千挺の奉行に当たったのは前田利家・佐々成政・福富貞次・塙奈直政・野々村幸久だし。
囮になったのは佐久間信盛だし。
佐久間信盛・池田信輝・丹羽長秀・滝川一益は一緒に茶磨山に陣取っていたから
佐久間隊の指揮下で動いていたんだろか
382 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 01:54:30 ID:D6jV5jVA
塙奈直政→塙直政 orz
383 :
人間七七四年:2007/08/08(水) 20:43:58 ID:1w/0pO+j
>>352 信長から派遣されたのが佐久間・平手・水野の3人だったことは
谷口氏の著「目からウロコの戦国時代」「織田信長合戦全目録」
「信長の天下布武への道」にも書いてあるよ。
水野が戦わずして逃げ、一時は武田方に寝返ったのではないかと
見られたことも内2冊に書いてある。
一方滝川がこの場にいたとするのは「武徳大成記」という書物。
384 :
人間七七四年:2007/08/09(木) 10:50:35 ID:6TBV2I56
385 :
人間七七四年:2007/08/09(木) 20:15:01 ID:7HwL1xhm
同一人物です
386 :
人間七七四年:2007/08/09(木) 20:32:57 ID:PXX+7BRh
いや、だから信輝ってのは訛伝だってこと。
林通勝とか織田信行とかと同類。
387 :
人間七七四年:2007/08/09(木) 20:53:16 ID:7HwL1xhm
すまんかった
388 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 12:09:59 ID:pCyFOE3m
>>386 まあ林通勝なる人物は、林秀貞以外にもいるけどね。
389 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 15:12:11 ID:5pfunBSt
そういや武田討伐の天目山攻めの時に、織田方の先鋒「滝川儀太夫」「篠田平右衛門」が命令を下して〜云々の記述があるが
これは一益の事なんだろか
390 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 19:27:51 ID:YCS2BNKG
391 :
人間七七四年:2007/08/21(火) 08:20:52 ID:6YofpmJl
392 :
人間七七四年:2007/09/07(金) 14:01:13 ID:pdAkyRZz
知謀の人・滝川雄利は娘婿だって?
あぼーん
あぼーん
あぼーん
396 :
人間七七四年:2007/09/26(水) 20:38:49 ID:TzqV0ahw
伊勢攻略に起用されたのは、地縁があったから? それとも他の理由があった?
397 :
人間七七四年:2007/09/27(木) 02:12:56 ID:baSuUc06
滝川ルネッサンス
398 :
人間七七四年:2007/09/27(木) 03:16:52 ID:GIvRuTP8
何時からか糞スレ化してるな
399 :
人間七七四年:2007/09/27(木) 09:07:07 ID:3tMk3YxZ
歴史版にまで滝川高校が出てくるとは思わなかった
400 :
人間七七四年:2007/09/27(木) 09:35:58 ID:sdWLahWh
死者の人権より
生きてる殺人犯の人権か?
あぼーん
402 :
人間七七四年:2007/10/04(木) 23:56:19 ID:4wRblOP9
v
あぼーん
あぼーん
405 :
人間七七四年:2007/10/11(木) 16:50:22 ID:HzmBeWdw
負け組じゃない。運が悪かっただけだよ。
406 :
人間七七四年:2007/10/12(金) 06:03:01 ID:VuS7GzQu
そーだ!滝川ルネッサンスできなかっただけだ!
407 :
人間七七四年:2007/10/14(日) 00:02:13 ID:iaNOL81i
隠居した越前には地縁でもあったのだろうか?
408 :
人間七七四年:2007/10/14(日) 07:00:38 ID:FacoMqkr
勝家の最後が越前じゃなかった?
409 :
人間七七四年:2007/10/14(日) 14:45:46 ID:zklQU6Ft
>>408 むしろ「縁起でもねぇ」と思われるんじゃね?
410 :
人間七七四年:2007/10/17(水) 23:09:35 ID:BCrPQdLz
411 :
人間七七四年:2007/10/25(木) 15:33:51 ID:J3JlrG2L
結局、滝川の出自ってどうなんだろ。
少なくとも単なる浪人ではないよな。
使われ方が以上に信用されすぎてる。
池田の親戚という線も間違いではないかもな。
あるいは、伊勢によほどの地縁があったか。
412 :
人間七七四年:2007/10/25(木) 17:46:34 ID:V/yoNthF
前半生がよくわからないのは秀吉や光秀も一緒なんで抜擢されたことからどうこうは言えないかも知れんけど、
慶次が滝川家の出だとしたらかなり昔から尾張と縁があったんじゃないかなあ?
甲賀出身なのは間違いないはず
413 :
人間七七四年:2007/10/26(金) 10:28:32 ID:rQ5M+MnC
伊勢がらみの抜擢は初期織田家としては他を抜いてすごいよね。
思うにあのころ、いわゆる謀略・諜略に長けた、そこそこの身分の部下が一益以外にいなかったから、重宝して使ったんじゃないかなと思うが。
あぼーん
415 :
人間七七四年:2007/10/26(金) 17:12:02 ID:GyIffARu
諜略や補給が得意だったみたいね
416 :
人間七七四年:2007/10/26(金) 22:01:04 ID:wOqwDUft
417 :
人間七七四年:2007/11/13(火) 13:50:09 ID:SbqYkxVR
伊勢水軍か。
418 :
1:2007/11/15(木) 23:04:01 ID:Acf+2iYz
越前大野には彼の遺跡は無いのかな
義景のはあるのに。
419 :
人間七七四年:2007/11/16(金) 09:01:00 ID:5QLXOBGN
そもそも墓はどこにあるんだ?
420 :
人間七七四年:2007/11/18(日) 00:02:32 ID:txYxU8hN
お墓は信長様と一緒のところにあるらしいよ。
なんだっけ?妙心寺玉鳳院とかいうところ。
421 :
人間七七四年:2007/11/18(日) 13:41:00 ID:fqxispLS
>>420 高野山じゃなかったっけ? といっても、高野山の僧侶も誰も知らないらしい。
422 :
人間七七四年:2007/12/03(月) 16:10:30 ID:KTI2FE53
高野山には武将のお墓がたくさんあるんでしょうから。
423 :
人間七七四年:2007/12/03(月) 18:34:57 ID:iH1wE40x
働けよな、高野山w
424 :
人間七七四年:2007/12/04(火) 03:02:41 ID:KcfIPEi5
たまに焼かれたりとかちゃんと働いてるw
425 :
人間七七四年:2007/12/19(水) 15:29:50 ID:gXypFZhL
>>418 滝川一益等連署寺領安堵状というのが、宝慶寺にあるらしい、遺跡じゃないが
426 :
人間七七四年:2008/01/05(土) 17:02:47 ID:qQCxvMwY
信長が死ななけりゃどうなってたかな この人?
427 :
人間七七四年:2008/01/05(土) 18:35:38 ID:Jg1WheWF
関東管領
428 :
人間七七四年:2008/01/05(土) 22:44:05 ID:WhNm0rAU
>>426 まぁ信長死後の惨憺たる状況見る限り
別に大した事は無さそうだな・・・。
信長が死ななけりゃ北条だって攻めては来ないし・・・っていうか滝川が攻めなけりゃ
信長死んだって攻めてきたかどうか謎だが。
無難に上野治めて無難に死去って感じじゃね。
429 :
人間七七四年:2008/01/06(日) 02:12:44 ID:ClOL+Sm9
求心力維持の為に勝利が必要だったんだろ
一益も着任早々で人身掌握してないし
北条も表向き手出しはしないかもしれんが裏で策動はするだろ
上野衆も損得勘定で織田に味方してるだけで殉じてくれるわけはない
信長死亡確定情報がいきわたれば軍団瓦解は必至
「やっぱりついていっても大丈夫」的状況を生み出す為の手段
分が悪い賭けでも何もしないよりはまし
430 :
人間七七四年:2008/01/06(日) 06:40:32 ID:Gix5oWgz
>>429 もしももう少しまともな合戦模様ならその理屈もわかるんだが
はっきり言って戦国時代有数の愚策を取ってるのでコレはさすがに擁護できない。
あの状勢で荒川渡らなくてはいけない理由はいかなる理由であろうとも無い。
しかも渡っただけでなく「京へ行くにも無関係な場所にある」北条領へ無理矢理猪突猛進。
分が悪い賭けじゃ無くて、ただの愚策、あそこから勝てる見込みがあるとは到底思えない
それでも体を張ってくれた上野衆にどこまで失礼なのか。
431 :
人間七七四年:2008/01/06(日) 19:50:52 ID:ZDEh7q81
一益が一戦もせずに領地を北条に明け渡しても立場は変わらん。
孤立無縁で踏ん張ったら今川家の最後のように裏切りが続いて、一戦もできずに崩壊しただろうよ。
関東じゃ新参者だからな
432 :
人間七七四年:2008/01/06(日) 20:26:54 ID:umSSmEgF
つーか本能寺がなけりゃ、信長の方面軍司令官の中で最後まで生き残れたのは、この
一益くらいだったかもな。他の連中は代替わりのあとは追放なり閑職に回されるなりするだろうけど、
この人は信忠と非常に近いから次世代も大きな権限を保つ事が出来ただろう。
433 :
人間七七四年:2008/01/06(日) 21:14:03 ID:TuP2RX4+
本能寺がなくても他から裏切られた可能性があるし
434 :
人間七七四年:2008/01/06(日) 21:55:20 ID:tP5ygyts
神流川前の背景
1:柴田、羽柴、滝川自身も含める有力軍団が明智を討てる場所にいない。(当時の状況では秀吉さんが動くとは誰も思っていない)
2:近隣の織田軍団は撤退とぶち殺される。
3:北条が大軍を連れて国境線で不審。
4:関東諸侯の動揺
5:明智を放っておけば手をつけられなくなる可能性が高い。
435 :
人間七七四年:2008/01/06(日) 22:05:43 ID:tP5ygyts
続き
滝川からしたら明智を討つのが優先順位では一番
畿内には明智を討てるのは不在(多分こう考えるだろ)
自身が上野から離れれば攻めてくるのは必至。(既に威嚇あり)
更に確実に関東諸侯も裏切る。
しかしもし神流川で北条勢に大打撃を与えればある程度の兵力(半数程度を引き連れて帰国できる)で防戦、もしくは侵略自体を中止させる事も可能。関東諸侯もおそらく裏切る事はない。
以上の理由で戦ったのでは?
436 :
人間七七四年:2008/01/06(日) 22:21:38 ID:IkE//1vB
信長横死が広まれば北条は100%攻めてくるよ
437 :
人間七七四年:2008/01/06(日) 22:27:47 ID:umSSmEgF
むしろ信長横死を知ったのに攻めかからなかった毛利が異常。
438 :
人間七七四年:2008/01/07(月) 00:26:41 ID:fAIZ7oqH
>>435 そういう理由で合戦がしたければ、荒川を挟んで合戦すればよかったわけで、
だからこそこの地は先人たちも攻めあぐねたわけだし、その事は誰よりも北条家が良く知ってるわけで。
北条側はその時点で無理押ししてられるほど時間的余裕は無い。
(これだけあっさり勝った神流川合戦ですら時間的に無駄となり、その後の若獅子などへ影響してしまった)
なのに滝川軍はそういった地の利を時の利を完全に無視しわざわざ川を渡り
篭城もろくに出来ない数百人の守るどうでもいい小城一つ落としただけで後からやってきた北条の大軍に囲まれ、
ろくな反撃も出来ずに荒川を渡って帰ることも出来ず、神流川に追い詰められ大敗した。
これは擁護できないと思うわけだが。
>>437 上杉という共通の敵がいて名目は同盟国である北条家を利用せずに逆に攻める方がどうかしてる。
完全な敵を味方にした秀吉と比べるのも恥ずかしい。
特に北条家はそれまでの流れを見てもそこまで無理をしてくる相手ではない。
439 :
人間七七四年:2008/01/07(月) 05:22:42 ID:HareR7mu
なぜ北条が滝川を飛び越えて上杉を共同であたるなんて
非現実的な事が可能と思えるんだ?
440 :
人間七七四年:2008/01/07(月) 14:01:59 ID:BhLt2uzc
そもそも一益は関東の人間ではなく、土地勘もなく、地の利よりも勢いで勝負しなければならなかったんだろ。
関東諸侯をかき集めて兵力16000
その中でまともに戦ったのは滝川直属の兵のみ
そうなると勢いで追い散らすしかない。
まともに戦ったとしても勝てないし、援軍もこないから博打にでるしかない。
441 :
人間七七四年:2008/01/07(月) 22:42:20 ID:fAIZ7oqH
>>439 史実でその後まもなく上杉が信州へなだれ込んできてるの。
北条とすれば仇敵の上杉の勢力が高まるのはなんとしても抑えなくてはいけないのだが、
勢力拡大を狙った徳川家康ともぶつかる事になってしまい、北条は難しい状況になっていき、
結局信州を景勝に明け渡す事で、挟み撃ちになることを回避している。
神流川で時間を食わなければまた違った流れもあったかもしれない。
だが結局その部分も真田が掠め取ってさらに事態は混迷を極めていき、
結局、徳川と北条は講和する方向へと進んでいく。
滝川軍が何故か自領土に突っ込んできた事で
合戦そのものは1週間弱という奇跡的スピードで決着がついた史実でさえ
上記の乱戦模様になってしまってるわけで、
攻めてこなければちんたらと上野を攻めてる時間などあるわけ無い。
かと言って北条家はそこで意味も無く無謀な賭けをする家でも無い。
>>440 その博打の場所が悪い、
金窪原じゃ逃げる事も守る事も攻めることも出来ない、敵領のど真ん中の平原。
いっその事、鉢形城まで一気に攻め込むとでも言うなら同じ愚策でも清々しいし、
金窪城取って満足してそこから動かず氏直の本軍到着→大敗北への流れ。
何がしたかったのだろう?
土地勘がないというが、土地勘も無ければ必要も無いのにわざわざ敵領土で戦うからこういう事になるんだろう。
ありえない愚策。
442 :
人間七七四年:2008/01/07(月) 23:29:25 ID:BhLt2uzc
そもそも勘違いしてるみたいだが、北条勢が6月16日に倉賀野を襲って滝川が金窯で迎え討った筈だが…………………………そこで勝利してさあ撤退なんて状況でもないだろ。
それに第二次でも滝川が最初は迎え討ってるし
443 :
人間七七四年:2008/01/07(月) 23:37:54 ID:fAIZ7oqH
倉賀野と金窪の位置関係わかってて言ってる?
倉賀野を襲ったって言うのは何が論拠になってるの?
444 :
人間七七四年:2008/01/08(火) 01:31:06 ID:FbDPmQ8K
当時の地理を知ってて言ってる?
関東絵巻を読んでみな
445 :
人間七七四年:2008/01/08(火) 22:26:49 ID:U9S1oVGV
>>444 それは初耳、
合戦場そのものが今ある史跡とは違う場所って事?
詳しく聞いてみたいので是非ご教示願いたい。
関東絵巻がどう関係あるのか?
446 :
人間七七四年:2008/01/10(木) 23:40:53 ID:MS3E0TOx
>>442 神流川合戦自体が終始北条家の領土で行われた合戦なのに、
どうやって一益は先に攻め込まずに迎え撃つの?
447 :
人間七七四年:2008/01/11(金) 15:41:00 ID:XWVhF81A
一部だけをみずに全体の流れでみたほうが良いよ。
448 :
人間七七四年:2008/01/12(土) 19:47:36 ID:p2aGMOSI
>>446神流川合戦の時の背景と状況を考えてみよう
449 :
人間七七四年:2008/01/13(日) 01:53:05 ID:HslkGHEg
仮にも信長から関東を任された?人物が、あのタイミングで北条に攻め込まなければならない理由って何かあるの?
何らかの理由で北条に釣られた可能性は?
450 :
人間七七四年:2008/01/13(日) 03:09:15 ID:pbLuu68j
>>449 「京に戻るために北条領を通らなければならないので突撃した」
という説があるけど、この合戦で負けた後に倉賀野に戻り普通に帰京出来ているので、はっきり言って不自然。
と言う事で実際のところこれといった理由があるようには思えない、
しかし合戦で勝つための流れにしてはあまりに不自然な猪突猛進。
なので北条に釣られたというのはありえると思う、
特に戦中の北条氏邦はかなり怪しい動きをしているが、これといった記録は無い。
また周囲を見ると
上杉景勝はこの合戦のおかげで織田(滝川)から攻められる心配が無くなり逆に北条と和睦が出来、
真田昌幸は滝川一益に従い上野衆として混ざっていたがこの合戦のドサクサで独立を果たし、
徳川家康は北条家が上野で時間を食ってくれたので、甲斐や信濃を手に入れ、
秀吉は清洲会議で重臣だった滝川を一蹴する良い口実となった。
怪しい奴が多いから困る。
誰かに嵌められたというのは大いにありうる。
451 :
人間七七四年:2008/01/13(日) 10:05:10 ID:OaHKhx2O
>>449攻め込んだ訳ではなくて迎え撃っただろ。
>>445の言うとおり全体の流れを見て考えようぜ。
452 :
人間七七四年:2008/01/13(日) 10:07:27 ID:OaHKhx2O
あっ!誤爆した
>>447の言うとおりに全体を見て考えてみようぜ。
453 :
人間七七四年:2008/01/13(日) 11:41:51 ID:JXo7Hu+H
おまえが一番何も考えてないわけだが
454 :
人間七七四年:2008/01/15(火) 13:39:52 ID:Bj5Cxqw2
一益と鬼武蔵ってどういう関係だったの?
455 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 21:03:42 ID:B4UZfcn0
秀吉や勝家や光秀とかなら
なんとなくイメージ浮かぶんですけど
この人ってどういう人だったのかまるでイメージがわきません
一言で表すとどんな人物だったのですか?
456 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 21:55:51 ID:DlRN0wpr
攻めに強く、受けに弱いドSな滝川
457 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 23:44:58 ID:bEDnXBDO
>>456 そうか?
信孝と勝家挙兵時に秀吉の大軍は結局、一益が死守する長嶋城を落とせなかった
458 :
人間七七四年:2008/01/16(水) 23:49:17 ID:+n3SiRSp
攻めるも退くも滝川さん
459 :
滝川儀太夫ってどぉ? :2008/01/26(土) 18:34:37 ID:7n3zFkmn BE:1039237875-2BP(1)
>>450さんへ
氏邦は一益が箕輪城に入った(天正十年3月〜4月)頃から、大道寺政繁に対して城の普請を命じているなど、怪しい動きをしているよ。
信長死亡後に氏政が「今後も遠慮なく言ってくれ」と一益に宛てて書いているのも何か怪しいよね。
460 :
人間七七四年:2008/01/26(土) 19:57:50 ID:gqN2C7ds
461 :
人間七七四年:2008/01/26(土) 20:12:42 ID:BBfEQZC8
462 :
人間七七四年:2008/01/26(土) 23:09:48 ID:kXuzxKZI
>>459 氏邦は北武蔵の豪族に対してもあの前後で怪しい動きをしてるし、確か書状が残っていたはず。
今まさに埼玉で後北条の記録についてなんかやってるらしいので行きたいと思ってるとこ。
そもそも神流川合戦の緒戦でも、あんな中途半端な兵力で何をするつもりだったのか?謎は多い。
城の普請は知らなかったのでさらに怪しいなとは思うものの、もともとあそこは昔から
上杉との防衛線ラインだから念のため・・と考えると怪しい以上にはならないかなぁ・・というとこ。
ただ氏政の書状に関しては俺はある程度嘘ではないと思ってるよ、
氏政はもともと黄梅院の影響もあるのか、武田に執着が見られるし
上野より甲信の方に意識が向いてるように感じられる、現当主の氏直にとっても母の実家だし。
ただ上州に思い入れの強い氏邦が当主の思惑とは違った方向で策動したのではないかと思ってる。
彼は小田原の役直前でも怪しい動きを見せてるしね。
まぁそれが北条家の命運を分けてしまったのかもしれないが。
463 :
人間七七四年:2008/01/29(火) 00:21:01 ID:3XLHRZ27
スレの流れを断ち切ってしまって申し訳ないが、ちょっと質問させて。
信長の最大版図の地図を見てると、信長の勢力って武田を滅ぼしたことによって
それまで武田が押えてた上野に進出してるよね。 でも武田が押えてたのって
西上野だけだったじゃん? 上野の東半分って信長進出直前の時期って
どうなってたの? 上野南東部あたりに北条が進出してきてたってことはないの?
もしそうだったら当時織田と北条は仲が良かったのに織田が上野の北条領を
攻め取ったみたいでおかしくなるよね?
それと最も疑問なのは信長細大版図の地図によっては武蔵の北東部まで
織田の勢力が進出してるものが結構あるんだけど、これってどういうことなの?
確かに武蔵北東部は氏康の代には太田氏が割拠してたけど、少なくとも
武田滅亡の1582年までには武蔵は北条の完全支配下になってたんじゃないの?
464 :
人間七七四年:2008/01/29(火) 01:10:12 ID:/bjvXXsG
>>463 東上野も『膳城素肌攻め』があったように勝頼や真田昌幸らの攻勢によって
南東部以外はほぼ武田領になっていた。
北条は最初の謙信越山以来、御館の乱後の一時期を除けば神流川の戦いまで上野に領土を持たなかったはず。
南東部は由良氏、足利長尾氏、富岡氏の領土。三氏とも永禄九年以降、ほぼ北条方だが、独立性は高かった。
由良、長尾の当主は兄弟で行動をともにしており、富岡氏の勢力は非常に小さい。
天正八年の勝頼と佐竹の上野攻めの際に、佐竹は由良は半ばまでこちらの味方と言っている。
氏政も由良の態度があいまいなことを嘆くが、結局北条方に踏みとどまる。
由良、長尾は一益に出仕するが、神流川合戦には参加せず、北条に帰参した。
結局、北条は由良、長尾の当主を呼び出して小田原に拉致することで上野南東部に進出、
富岡氏もこれを受けて本格的に北条に臣従する。
岩槻太田氏が松山の辺りにまで勢力を持っていたのは昔の話で、
一時期謙信に任された以外は氏康のころにはもう北東部への影響力は薄かっただろう。
織田の勢力がそこまで進出しているのは成田氏長、上田朝直、深谷上杉氏憲が滝川に出仕しているから。
465 :
人間七七四年:2008/01/30(水) 00:39:58 ID:u8ijXgRP
滝川に出仕してたのに由良や長尾が神流川合戦に参加しなかったのってどこの文章が根拠になってるの?
466 :
人間七七四年:2008/01/30(水) 02:25:18 ID:bR91J0Dg
人質を返したのは史実かな?
467 :
人間七七四年:2008/01/30(水) 18:44:30 ID:yFDaiOJ+
>>465 『滝川一益事書』に由良、長尾…手切とある。
出仕した諸将もこれに書いてある。
468 :
人間七七四年:2008/01/30(水) 20:18:21 ID:/kbT5AM0
>>467 ありがとう、参考にします。
ただもしよろしければ手切れた具体的な時期が記載されているか教えて欲しい。
出仕した大名が書いてあるという程度では見た気がするけど、時期は気にしていなかったので。
それにしても神流川合戦前に敵となった由良氏を眼前に北条を攻めるという戦略が益々もって不可解だ。
469 :
人間七七四年:2008/01/31(木) 12:59:54 ID:wD3sjtSk
もう、小倉女は権力者の肉便器でその程度の女だったってことでいいじゃんW
470 :
人間七七四年:2008/02/01(金) 00:14:51 ID:qh+ecJ4Q
>>468 申し訳ない、当方原文を見ていないのでそこまで知りません。
自分でもそのうちあたってみるつもりでいるので
そのうち書くかもしれませんが確約は出来ません。
471 :
人間七七四年:2008/02/01(金) 01:00:42 ID:Oj4reiB8
>>470 いやこちらこそ無理言って申し訳ない、
俺も自分で調べてみる。
472 :
人間七七四年:2008/02/01(金) 05:48:37 ID:OW1C6rro
俺が一益だったら五年で天下取ってるね
北条は武力低いのしかいないから
最初の一ヶ月で徴兵して訓練して褒美やって攻め込む
473 :
人間七七四年:2008/02/01(金) 07:48:37 ID:mVamA8Yn
というか北条は即座に5万も動員できるほど軍事力あったんだな。
さらっと言うけどものすごい数だぜこれ。
兵数ほどあてにならんものはない
山科言継が姉川の戦いでの浅井朝倉を5万とか言ってるし
中国攻略中の秀吉勢が信長に援軍を頼んだのだって、浅野が毛利5万と報告したからだ
475 :
人間七七四年:2008/02/02(土) 01:31:11 ID:vPN71zxc
>>473 しかも率いていたのは当時若干二十歳の氏直。
間違いなく父よりも軍事能力に長けていたのではないかという片鱗が見える。
さすがは祖父に氏康と信玄を持つサラブレッド。
早死にせずにいたら関ヶ原などは面白くなったのに・・・という武将ではある。
>>474 兵力数はある程度疑ってかかった方が良いと言うのは同意。
ただその後の天正壬午の乱での徳川の記録でも確か北条軍5万だった気がするし、
上杉景勝との対峙でもそうなってた気がするので、
北条・滝川だけでなく上杉や徳川などの記録でもそうなってれば信憑性は高い方ではないかと思う。
476 :
人間七七四年:2008/02/06(水) 00:06:51 ID:srqlgvhY
森とか毛利とかは一応父祖以来の土地があったから帰った
でも一代でのしてきた一益さんにはそれが無かった
田舎に小さくても一戸建てがあればたとえ豪華でも借家は捨てれる
故郷に帰るあてがない場合は今の住まいを捨てられない
477 :
人間七七四年:2008/02/06(水) 07:56:19 ID:NVdpUz63
忍者なんだろう
甲賀の里に帰れよ
478 :
人間七七四年:2008/02/07(木) 00:59:42 ID:jS+mAhKX
>>477 その甲賀で問題おこして(殺人?)出奔して浪人していたって話だが
479 :
人間七七四年:2008/02/07(木) 05:52:02 ID:WKg9YL28
いったい何処の話だとw 素人小説レベルのくだらん妄想だろ
480 :
人間七七四年:2008/02/07(木) 16:01:07 ID:WbqMmJm5
池田恒興と従兄弟だから領主層に生まれていたことは間違いない。
481 :
人間七七四年:2008/02/08(金) 03:52:32 ID:ynMgaej+
482 :
滝川儀太夫ってどぉ?:2008/02/08(金) 16:23:49 ID:8yZt0OBb BE:237540724-2BP(1)
>>475さんへ
もし氏直が天才なら…
一益攻略は氏政・氏邦に任せ、
自身は、氏照とともに甲斐府中に進軍し「信玄の嫡孫である」と宣言すれば、
甲斐は手中にできたに違いない。(その後はどうなるかわからんが…)
それができなかったから、軍事面では「並」が良いところでしょう。
483 :
人間七七四年:2008/02/08(金) 16:25:03 ID:LDdonMTT
484 :
人間七七四年:2008/02/08(金) 17:08:36 ID:hSadAs7J
485 :
滝川儀太夫ってどぉ?:2008/02/08(金) 17:14:01 ID:8yZt0OBb BE:1039237875-2BP(1)
486 :
人間七七四年:2008/02/08(金) 17:20:36 ID:qgPzJhRT
天正九年の御馬揃の時、一益は出席してないよね?
何ででしょう?
誰か教えてクレパス。
487 :
人間七七四年:2008/02/08(金) 17:32:26 ID:hSadAs7J
>>485 長女の娘を嫡孫とする風習でもあったの?
488 :
滝川儀太夫ってどぉ?:2008/02/08(金) 17:54:39 ID:8yZt0OBb BE:445387853-2BP(1)
>>487さんへ
そうでもしないと武田旧臣が推載しようとしないでしょ?
489 :
人間七七四年:2008/02/08(金) 21:43:08 ID:9vZWBpDs
>>484 >間違いなく父よりも軍事能力に長けていたのではないかという片鱗
「天才」ってのは多分これをさしているんだと思うが、ちょっと厳しいんじゃないの?
あくまで「氏政よりも」って比較でしょ。もっとも、氏政が戦下手だったとは思えないけど。
氏綱や氏康に比べられて、氏政の軍事能力は低く見られる事が多いから仕方ないか。
当時の北条氏が関東圏の統一を第一目標としていたなら、甲信獲得よりも一益を叩いておくのはそこまで悪い選択じゃ無かったと思うけど。
派遣された地方が悪かったのかな、一益は。
直線距離なら近いのに実際は本領は遠いわ中央に戻るのにさえ時間はかかるわ・・・。
490 :
人間七七四年:2008/02/08(金) 21:53:40 ID:9vZWBpDs
491 :
人間七七四年:2008/02/09(土) 23:51:48 ID:bMuzrmHp
>>467はまったくの間違いでした。
由良の話も違うし、出仕した諸将の話も違う。申し訳ない。
松平義行氏所蔵文書六月二十二日某氏→某氏書状に
「由良長尾向此口手切働可成之由」あります。
しかしこの前に滝川が信濃に退いたという話からすると
これは由良長尾が滝川と手を切って追撃したということと考えられ、
神流川に参加したか否かはわかりません。
ただし、やはり参加はしていないのではないかと思います。
由良は北条に帰参するときに本領の安堵に加え上野女淵の領有を認められているので
ずっと北条の意に沿う様に行動していた可能性が高い。
『松平義行氏所某氏書状』『高橋一雄所蔵北条氏政書状』『滝川一益事書』
などからすると、信長の死を知った氏政は滝川に京都の様子を問うとともに
当方を疑わないでほしい、相談してくれれば協力すると伝えたが、滝川は謀と判断した。
滝川一益は頼む所がなくなって、氏政も心変わりをし、
滝川は不義を構えたとして氏直が倉賀野に取りかかり、次に金窪で戦ったとか。
『不義を構えた』については石川忠総留書に似た内容があるそうですが未確認。
また、滝川が金窪の辺りの村にそっちで戦うから書物等を持って
金鑚に逃げよと言ったことを伝える書状が残っています。
492 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 02:14:07 ID:LOQ23EzY
>>482 甲斐の件に関してはちょっと甘いのではなかろうか?
他の人なら細かく話すがあなたなら「佐竹」「津金衆」このヒントだけで大体わかるのではないかと、
なんか珍しく感情的なように思うのだがどうしたのだろうか?
>>483 資料検証ありがとう、その時期こそが知りたかった。
ただ俺はやっぱりその流れだから由良氏は滝川軍として神流川に参加したのではないかと思う。
兵力がどの程度かはわからないが、まず位置関係的に由良氏が北条側だったとしたら
滝川軍はまず由良を攻めるのではないだろうか、
そこで北条の援軍が川を渡ってきたらそこを叩くと言うのが常道だと思うし。
渡ってこなかったら合戦は序盤から優勢に進めていける。
また逆に由良氏が北条側だったのであれば滝川軍が渡河して留守になった上野で動きが無いのも妙。
そしてわざわざ調べてもらった重要な書状の時期、6/22。これは非常に重要。
神流川合戦の敗北が6/20、そして逸話で一益が上野の諸将に北条に従うよう伝えたらしいのが
倉賀野に逃げ込んだ翌日。由良氏手切とある書状は6/22、要するにその翌日になる。
もしも手切れがもっと前なら合戦として不自然だし、もっと後なら一人で頑張ってた事になってしまう。
その日付であれば滝川方にいたが帰順したという事で辻褄があってくる。
同じ時期に滝川方にいた上州和田氏なんかも北条に従ってるのでますます信憑性が高くなる。
ちなみに後半はほぼ同意なんだけど倉賀野で衝突はして無いのでは無いだろうか?
氏直が倉賀野を目指したかどうかは定かでは無いが、そうだったとしても
その途中の金窪でぶつかったと言うのでないと、一益は金窪合戦の前夜に現高崎城に入ってるらしいため、
奇妙な位置関係になってしまう。
493 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 05:29:17 ID:gd06JgzR
いちます
494 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 05:38:45 ID:3xrnDy5Y
滝リバーワン益
495 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 17:59:44 ID:Cqjyn/Aj
本能寺がなければ、信忠の補佐なんだから一番可能性があったのでは?
496 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 18:01:25 ID:QzQCgFeL
>>492 なら北条が西上野に追撃しているのもおかしいということになるでしょう。
和田城(高崎)は倉賀野の北です。
497 :
人間七七四年:2008/02/14(木) 08:47:12 ID:a+u7tknB
本能寺時における一益の失態は致し方ないと思うよ。彼の状況下で秀吉吉や勝家であったとしても、結果は大差ないと思う。
498 :
人間七七四年:2008/02/14(木) 23:33:14 ID:LyURYRjn
>>497 無理に北条攻めて袋叩きにされたりしなければあの状況より酷くなる事など考えにくい。
賤ヶ岳でも無理をしなかった勝家があの場面で無理に渡河するとは考えられん。
となれば、あの時期の北条家は上野に無理矢理攻め込んで奪い取るほどの時間的余裕は無いので
アレ以上の損害があったとは考えられない。
また同盟国の北条家とまともに外交もせずに突っ込んだ一益と、
戦争真っ最中の敵対国である毛利と和平を結んで一気に引き帰して来れた秀吉を
同列に並べるのはあまりにも失礼。
状勢を消極的に見ても、余程の猪武者じゃない限り一益と同じ結果にはならんよ。
499 :
人間七七四年:2008/02/14(木) 23:38:38 ID:qofZht8Q
猪武者ってのは仙石久秀のような人物のことを指す。
長宗我部親元のような人物の助言すら受け付けず敗北。事実かどうかは知らん。
それに引き替え滝川一益を諌めた人物は一人もいないのは何故だ。
500 :
人間七七四年:2008/02/15(金) 00:16:05 ID:lB8g7PEV
赴任して日も浅かったのと、柴田に付けられた府中三人衆みたいな
信長の直臣による目付が居なかったのが大きいのでは?
本来なら、北信の森長可辺りがその地位だったのかもしれないが
生憎、森もそれどころでは無かったし誰も一益に対してブレーキを
掛けられなっかたと考えるしか…多分、北条の調略もあったろうし。
501 :
人間七七四年:2008/02/16(土) 01:18:52 ID:UY130qFL
>>498 秀吉贔屓なのは分かるが、毛利との戦いはすでに決着寸前であり、城主清水宗治も
切腹してんのよ、一益の状況とはまるで違います。
あなたの考えじゃ、秀吉が対北条でも大返しして光秀討ったとでも言いたげにみえるよ。
502 :
人間七七四年:2008/02/16(土) 06:10:25 ID:KQXsJcgJ
だな。秀吉はあの時は端的に言って運がよかった。
関東が秀吉と同じ状況なら一益が、北陸が同じ状況なら勝家が、四国派遣軍の編成が
終わっていたら長秀が天下を取ったさ。それだけのことだ。
503 :
人間七七四年:2008/02/16(土) 13:33:21 ID:DziQxnF6
>>501 毛利が決着寸前なら、北条は既に決着済みとでも言うべき。あくまで同盟国なのだから。
また信州に既に動き始めている北条側の状況を無視しすぎ、
神流川合戦のような超短期決戦で終わった史実ですら上野に手を出してしまったがために
徳川・上杉に後れを取る結果になってしまったのに。
ただし秀吉が運がいいと言えるのはそこから、
たとえ関東で北条と和睦したところで光秀を討つのに間に合う事は無い
そこはまた別の問題だし何も言及して無い。
その流れになって一益が秀吉に排除されていったのなら初めて運が悪かったと言えるだろう。
だが史実の流れはそこに言及できるレベルに達して無い。
504 :
人間七七四年:2008/02/16(土) 15:43:01 ID:UY130qFL
>>503 言わんとしてる事が良く分からないけど、あなたは対毛利を合戦真っ最中って
自分でスレってんだから、まず自分の認識不足を認めなよ、また北条家とは同盟
国というが、家康との同盟とは全く違うよ。武田家健在中の一時協定みたいな物。
結局は秀吉が一益の代わりに上州厩橋にいても、打つ手無しって事でしょ。
505 :
人間七七四年:2008/02/16(土) 17:55:52 ID:lfr56C8V
滝川より前に本能寺の変を知っていた北条の情報力を褒めるしか無いんじゃないのか?
流石の秀吉でもやる気満々の北条相手に停戦して大返し出来たとは思えん。
無条件で上野割譲して西上するか、明智は諦めて篭城策が最善だったのかも
506 :
人間七七四年:2008/02/16(土) 18:07:33 ID:KQXsJcgJ
無条件での上野割譲なんてしたら、求心力がなくなって一軍を纏める主将として行動できなくなるし
援軍の当ても無いのに敵地のど真ん中で篭城なんぞしたら、配下がチリジリに逃げて結局滅ぶだけ。
勝敗はともかくも、あの時の状況では決戦以外に道は無いわな。
507 :
人間七七四年:2008/02/17(日) 00:12:33 ID:HZC+bOIf
>>498はっ?北条が五万六千の大軍で明らかに上野に侵入しようとしているのに外交と来ましたかw
信長の野望でもやってろwゆとり乙
508 :
人間七七四年:2008/02/17(日) 03:12:39 ID:19Uui91k
>>504 清水宗治の切腹は「和睦の条件」であって、「切腹している」っていうレスこそ変。
本能寺の変を知った時点で言えば、宗治は普通に篭ってる時期だし合戦真っ最中なのは言うまでも無い。
>>505 篭城は一つの策だと思う、期待すべきは援軍だけじゃない、
上杉・徳川・佐竹の動きが気になる北条家側はいつまでも上野に張り付いてられる状況じゃないし
そもそも氏康の頃から攻めあぐねていて、
今も織田家の司令官が2万近い兵力を持って居座っている上野と
完全にカオスと化してる甲信、一体どちらの方が楽に切り取れるか考えるまでも無いわけで。
>>506 上野に北条家の領土は無いので敵地のど真ん中ではない。
なのに突っ込んだおかげで敵地のど真ん中で篭城どころか野戦をするハメになっただけ。
決戦は構わないが場所ぐらい選べとしか言いようが無い。
あと援軍が無いから篭城しないとか甘えすぎ、状況の推移を冷静に見守るための篭城もありうる。
同じ時期に援軍無いのに篭城して徳川から領土を守った真田昌幸みたいなのもいるわけで。
>>507 >>505の話の続きになるが、本当に氏直が上野にむけて進軍したかはそもそも根拠が無い。
結果的に攻め込んできたから戦っただけで滝川軍と戦った場所は上野じゃなくて武蔵だし。
氏直はもともと西上野を抜けて甲信に出るため進軍していたが、
状勢の変化で迎撃に向かったと見る方がずっと自然。
その直後に実際氏直は信州に間を空けずに向かってるし、その時はいつもどおり
氏規、氏照らを先行させている。だが神流川合戦では誰も上野に先行してはいない
コレも今までの北条家としては不自然。
509 :
人間七七四年:2008/02/17(日) 06:10:41 ID:jxacW/wG
↑で結局何が言いたいの?
510 :
人間七七四年:2008/02/17(日) 10:20:24 ID:HjKJYPob
一益を北条領に向かわせた理由が知りたいんだろ。
実際、城に篭るなり甲信を経て濃尾方面に進撃するなら兎も角
北条と決戦する必要は無い訳だし。
511 :
滝川儀太夫ってどぉ?:2008/02/17(日) 12:10:26 ID:6HtgqHJX BE:1187700858-2BP(1)
>>462さんへ。レスどうもありがとう。
1.氏邦の鉢形城の普請についての史料を提示します。
それは『新編埼玉県史』資料編
もしくは『群馬県史』資料編7 中世2 編年に原文が掲載されております。
天正十年五月二十三日付 氏邦→大道寺政繁あて書状「安居文書」です。
内容は「…略…滝川は厩橋に在城しているから、様々な計略が考えられます。
そこもと(政繁)は、五日以内に(鉢形城の)大普請を始めようと思っているらしいが、
鉢形衆はそれに同意したの? あと、お花どうも有難う。恐々謹言」と言うものです。
氏邦の動きを調べるなら…
江口貢『実録 鉢形城主北条氏邦の生涯』という本があります。
これは氏邦が発給した文書を編年体に並べたとても見やすい資料です。
2.氏政の書状の件で1つ疑問があります。
花押
この時に使っている「花押」が、「天正九年以前の旧来のもの」をこの書状だけわざわざ使っています。そこも変だと思います。
氏政と一益の関係が始まったのは、天正八年三月九日〜十日、
氏政・氏照の使者と信長が京都本能寺で謁見したときからです。「信長公記・兼見卿記」。
あの「御縁相調え、関東八州御分国に参る由」の記事です。
この時、北条の奏者になったのは、松井有閑、佐久間信盛、一益の三人であった。(ただし信盛は、同年八月追放。)
結論
信長との親密関係を思い起こさせる「古い花押」をわざと持ちだして、一益の警戒心を解く策略なのではないか?と私は思っています。
3.私は「甲信争奪戦」に大変興味があるので、その前哨戦である「神流川の戦い」前後のネタがあったら、何でもいいので提供して下さいね!!
次に『群馬県史』資料編にも氏邦関係の書状がありますので、できたらそれもお奨めします。それから、お互い資料探しは大変でしょうが、励ましあって頑張りましょう。
以上、恐々謹言。如月拾日。
512 :
滝川儀太夫ってどぉ?:2008/02/17(日) 17:56:13 ID:6HtgqHJX BE:356310443-2BP(1)
>>490&
>>492さんへ。
感情的になってスマンね!!
きつく言ったつもりではないのだが…
文章だけだとそう見えるんだろうね。気をつけるよ!!
史的反論ね。
氏直は、自ら上野に向かいつつ、氏光・氏忠叔父たちを甲斐の郡内に進軍させた。
これは2つ理由があって、
1.第二次甲相同盟の時に、両人が武田の人質になって、
郡内もしくは甲府に長期間滞在していて地理に詳しかったし、
2.小山田氏は『小田原衆所領役帳』に北条氏の「他国衆」として登録されていたからと思われる。
だけど、郡内から甲府に進撃しようとした所、少数の家康側の土豪?に襲われてむざむざ退却してしまったのです。
(↑ここんところ「うろ覚え」)
地政的に甲斐の「府中」と「郡内」は一帯じゃないと、保有するのは難しいと思うんだ。
郡内だけを獲得するなら…
府中一帯も
513 :
人間七七四年:2008/02/17(日) 19:18:15 ID:PbqlX2aL
六月二十日天徳寺宝衍(了伯)の佐竹宛書状にも
(滝川が)和田の地まで出陣候所に鉢形の者ども出合候を押崩
とあるから位置的に上野倉賀野で戦ったのだろう。
松平義行氏所蔵某氏文書とは氏直であるか氏邦であるかは違えど(そして氏邦のほうが正しかっただろうが)
同時代の書状はどっちも倉賀野での初戦を伝えているのだからこれを疑うのは難しいと思う。
514 :
人間七七四年:2008/02/17(日) 22:48:24 ID:p54z7CZ1
515 :
人間七七四年:2008/02/17(日) 23:41:02 ID:jajGZGvi
>>513 神流川合戦の前日に和田城に逗留しているのは他の情報からもわかるし、特に矛盾も無いので事実だろう。
ただしその書状では「鉢形衆と出会い」としかなってない以上、その間の距離、時間、
もしくは合戦の場所は全くわからない・・・というより、倉賀野で戦ったのであれば迎え撃つという表現になるべきで、
出会うと言う言葉になってる事自体が行軍中にぶつかったと見るべきだろう。
そして実際、その日に金窪で鉢形衆とぶつかっていて
その後の金窪城では城主斉藤光透は討ち死にしているわけで。
それの事を端的に伝えているだけの可能性が高い。
北条軍が倉賀野方面に向けて進軍していたと言うのをそこで合戦があったと誤っている可能性もある、
書状なのでそれ以上は読み取れないが、結局倉賀野で合戦があったとする論拠には成りようが無い。
例えば城主の金井秀景は何をしていたのか?倉賀野を襲ったとする軍を率いていたのは誰か?
損害はどのくらいか、また何故そこから川を渡らねばならなかったのか。
緒戦の勝利を得るために金窪に無理矢理渡ったというのであれば無謀でありながらまだわからんでもないし、
氏邦辺りに何らかの策で嵌められた可能性も考えられる余地がある。
だが、緒戦の勝利を倉賀野で飾っているのに、これから相手の大軍勢がくるとわかっていながら
敵地のど真ん中まで誘い込まれたんだとすればこれはもう無謀を通り越してバカとしか言いようがなくなる。
516 :
人間七七四年:2008/02/17(日) 23:43:28 ID:LPZMjIKj
一益の意図がわかった上で馬鹿にするならいいが、結果だけ見て馬鹿にするのは違うだろ。
517 :
人間七七四年:2008/02/18(月) 01:31:21 ID:R9RO15AD
結果以外の何を見て意図を読み取るのか。
518 :
人間七七四年:2008/02/18(月) 02:11:12 ID:2uK7mq1s
>>515 >神流川合戦の前日に和田城に逗留しているのは他の情報
ったってこれ以外に良質な情報は無いよ。
申し訳ないが長文のわりに何一つ中身の無い文章で
そういう屁理屈の応酬には応じかねる。
そんな文章を書く暇があるならその分図書館にでも通ってみたらどうかな。
519 :
人間七七四年:2008/02/18(月) 02:55:34 ID:R9RO15AD
>>518 では率直に言おう、倉賀野で合戦を行ったとされる記録がない。
あったとするなら論拠をくれと言っている。
520 :
人間七七四年:2008/02/18(月) 05:06:56 ID:uTAMqZ+v
519
少なくとも一益はあなたより馬鹿ではない事は確実。
521 :
人間七七四年:2008/02/18(月) 18:09:19 ID:20XlLqvy
だから天徳寺、松平義行氏所蔵某氏書状だよ。
これ以上に信頼できる史料は十八日金窪での戦いを伝える氏邦感状くらいしかない。
>他の情報からもわかるし、特に矛盾も無いので事実だろう
なんて検討をする余地、材料はないわけ。
この史料二つが矛盾せず、同じことを指していると
考えられる記述があるんだからやはり疑うのは難しい。
天徳寺の書状についてだが『和田地迄出陣候所』とあるんだから
「鉢形衆と出会い」としかなってないわけではないし、
わざわざ迄と場所を指定しているのにのに場所がわからないわけでもない。
書状の字句を捉えて云々するなら、
同書状の記述との倉賀野での衝突との違和よりも
同書状との金窪での衝突の違和のほうがはるかに大きい。
わざわざ金窪まで行ったなら『和田地迄出陣候所』は無いよ。
それと比べたら倉賀野での衝突との字句の違和は無いも同じだ。
>そして実際、その日
『その日』ってどこから出てきたの。同書状にこの衝突が何日の話かは書いていない。
某氏書状の十六日に氏直が倉賀野表へ動き、滝左が掛合
というが倉賀野の方向へ動いただけで実際に掛合(両軍が正面衝突)したのが金窪だというなら、
十八日かなくほ・本庄之原
と場所をうつす必要は無い。
522 :
人間七七四年:2008/02/19(火) 01:22:11 ID:OYkuhVVM
森が北信から東濃に撤退するだけでも結構苦労してるわけで
さらに長距離の一益が撤退という手段を選ばなかった事はおかしくない
上野衆は織田の庇護目当てで従ってるわけで撤退と知れば即座に敵に回られても文句は言えない
そこから峠を越えて混乱していることが確実な甲信を突っ切る
美濃や尾張だって安定してるとは限らない、実際に小競り合いは多発してたし
北勢の自領が現在無事かどうかも不明、領主不在の土地が狙われても不思議は無い
帰国ルート困難すぎ
523 :
人間七七四年:2008/02/19(火) 07:08:16 ID:DlKn00C2
>>521 ちょっと時間が無いので簡潔に書くが
重要なポイントが抜けてる、一益が厩橋城を出立した日。
524 :
人間七七四年:2008/02/19(火) 19:16:59 ID:zPQSefp6
反論するならポイントではなくて史料の提示でなければならない。
一番良質な部類に属する史料が天徳寺、某氏書状とその他感状でこれらには
厩橋出立の日にちは記されていない。
これらと同じ部類に入る資料でしかも上述の二つを否定できるほどの史料があるならそれをしめせば良い。
これらに対し、石川忠総留書北条安芸守代々物語、紀氏滝川系図滝川一益事書、
反町大膳一代記、田口家伝抄などの後年の編纂物は信憑性が劣る。価値が無いわけではないけどね。
滝川一益事書では厩橋出立が17日、和田着陣が18日、19日の朝夕二度戦い厩橋に帰城、20日厩橋を出て松井田着となっている。
しかし、上述の氏邦感状では某氏書状と同じく18日の戦いを示しているし、
戦いが一日だったというのは軍記物の関八州古戦録でもそうなっているがこれは某氏書状とも
北条安芸守代々物語とも田口家伝抄とも異なる。
525 :
人間七七四年:2008/02/19(火) 20:03:38 ID:fmEZ+qyt
関東管領
526 :
人間七七四年:2008/02/22(金) 22:48:13 ID:Rd2QWAey
一益は信長横死を知って
@北条へ牽制のつもりが合戦になってしまった
A北条が先に攻めてきて仕方なく応戦した
B関東を捨てて帰ろうとした(真田らは途中で捨てる)
C関東に居座るつもりだった
さーどれなんだ
527 :
人間七七四年:2008/02/22(金) 22:51:44 ID:zZ8+obp2
牽制のつもりが先にせめてきたので捨てて居座るつもりだった?
528 :
人間七七四年:2008/02/23(土) 01:17:01 ID:rmPSGIdF
>>524 >>滝川一益事書では厩橋出立が17日、和田着陣が18日、
>>19日の朝夕二度戦い厩橋に帰城、20日厩橋を出て松井田着となっている。
19日に一日で合戦ってなってたっけ?
529 :
人間七七四年:2008/02/23(土) 11:51:37 ID:Q8mq32Sg
一番地味
530 :
人間七七四年:2008/02/23(土) 11:53:00 ID:Q8mq32Sg
そうそう最後どうやって死んだの?
いつも関東から伊勢に戻るあたりでシナリオからフェードアウトするからわからん
江戸期の大名の滝川さんとは何か関係があるのですか?
531 :
人間七七四年:2008/02/23(土) 12:55:05 ID:4EKXQYXD
>>530 晩年
秀吉と勝家が対立すると、一益は秀吉嫌いと織田氏擁護の立場から勝家に与して秀吉と戦う。
しかし天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで勝家が自害したため、秀吉に桑名城を攻撃されて降伏し、
北伊勢の所領を没収された。その後、近江南郡で5000石を与えられたというが定かではない(武家事紀)。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いには秀吉軍の一員として参陣し、蟹江城を守備したが、
6月から徳川家康や織田信雄の攻撃を受け、7月3日に開城して降伏した。これを恥じた一益は京都
妙心寺にて落髪、仏門に入る。
同年7月12日、秀吉から越前大野に3千石の捨扶持を与えられ、不遇な生涯を送ったという。しかし
大野にて自由気ままに飛ぶ鳥を羨ましがったという逸話も残っており、また前述の通り領土より茶器を
所望したという逸話もあり、意外にも穏やかな晩年だったのかもしれない。出家後は秀吉を茶会に
招いたという。
天正14年(1586年)9月9日、越前五分一で死去。享年62。
532 :
人間七七四年:2008/02/23(土) 14:28:16 ID:37+TCqor
領土欲ないのは他にもいるが、もったいないよね
533 :
人間七七四年:2008/02/24(日) 17:56:24 ID:1s7S0kV5
秀吉ての不仲な原因ってなに
534 :
人間七七四年:2008/02/24(日) 18:16:42 ID:NO0DwcAm
535 :
人間七七四年:2008/02/24(日) 18:20:03 ID:hVmkQPrh
不仲というか一益は初めから柴田付きだったし、本能寺後、利家みたいに形としても中立になれなかった事が晩年を決めてしまった。
536 :
人間七七四年:2008/02/24(日) 19:48:14 ID:ZG2aMfga
中立どころか柴田に思いっきり与してる。前田へたれ利家とは立場どころか
人間性が違うのさ。
537 :
人間七七四年:2008/02/25(月) 11:18:30 ID:hM269Z8R
柴田が出てきた時に反転する秀吉を追撃出来なかった事がねえ〜。
残存兵が少なすぎるのか残された秀吉側の将が優秀なのか
538 :
人間七七四年:2008/02/25(月) 22:14:03 ID:Ml4b9tGv
関東での事ならともかく、賤ヶ岳のあの状況で攻め返せってのはさすがに酷では・・・w
539 :
人間七七四年:2008/02/25(月) 22:17:01 ID:+bptbaCc
540 :
人間七七四年:2008/02/27(水) 13:10:08 ID:xyWE3ric
信長のお葬式に行って秀吉に追い返されるぐらいだし
本能寺後の政治的な対立からでしょ
541 :
人間七七四年:2008/03/04(火) 23:17:40 ID:dNH7Ycwv
追い返された理由ってなんなの
542 :
滝川儀太夫ってどぉ?:2008/03/12(水) 16:14:40 ID:dsPPvJ6V BE:1068930094-2BP(1)
亀レスでスマンが…神流川の戦いについて一言。
地形的に見ると、
金窪(埼玉県児玉郡上里町)は藤田領、つまり氏邦の領地。
本庄之原(埼玉県本庄市)は本庄氏の領地、つまり成田氏の領地。
土地をめぐる争いがあったんじゃなかろうか?
ちなみに深谷には氏照重臣筆頭狩野入道一庵がいたらしいね。
軍を率いていたのかは不明だが…
543 :
人間七七四年:2008/03/28(金) 15:29:36 ID:yok9fjaY
信長があと5年生きてれば関東の地盤固まったろうな。
544 :
人間七七四年:2008/03/28(金) 22:41:30 ID:8kosRjte
5年程度じゃ地盤安定は無理っぽい。
上杉景勝は殺されてそうだけどそこまでじゃないかな。
そこで本能寺が起こったとしても結果は余り変わらない気がする。
545 :
人間七七四年:2008/03/29(土) 23:53:39 ID:U0AtlZz8
いや5年はかなりでかいと思うが
正直1年でも十分関東東北を掌握できる
546 :
人間七七四年:2008/03/30(日) 01:25:38 ID:93pDXpCu
>>545 関東という土地の複雑さを考えるにちょっと難しいかな・・・と。
秀吉は関東を抑えるまでにあそこから8年かかった。
信長が秀吉以上のスピードで天下統一を進められるかどうか・・・にかかってると思う。
俺は無理だと思う。
547 :
人間七七四年:2008/03/30(日) 11:04:15 ID:AEHkIYZ3
八年って……………
秀吉はまず本能寺後の分裂した旧織田勢力を再統一する必要があったから八年かかった。
信長にはその必要はない。
そんなことも判らないか?
548 :
人間七七四年:2008/03/30(日) 12:20:49 ID:93pDXpCu
>>547 本当にそれだけで信長が秀吉よりも早く統一を進められるかどうか。
もう一度言うが俺は無理だと思う。
本能寺の変のような事が起こらずとも結局身内の反乱は起こりうる内部なわけで。
549 :
人間七七四年:2008/03/30(日) 18:38:35 ID:sqTC4kBu
関東が複雑な土地だから八年間攻めあぐねたと言う口振りでは誰も同意せんよ
550 :
人間七七四年:2008/03/31(月) 06:54:24 ID:VL4B3yy2
同意したくない人間は、何を言っても同意しない。
551 :
人間七七四年:2008/04/01(火) 02:35:06 ID:1gTLbVtG
滝川一益には秀吉における蜂須賀正勝・黒田官兵衛や
光秀における明智秀満・斎藤利三のようなブレーン的存在はいなかったのか?
552 :
人間七七四年:2008/04/01(火) 10:03:55 ID:EhdBSnJL
前田慶次郎のパパ
553 :
人間七七四年:2008/04/13(日) 23:25:04 ID:khf74w9A
あーあー 一益女学院
かーずまーす女学院ー
554 :
人間七七四年:2008/04/13(日) 23:44:27 ID:FbhQpLGr
そんなのあんの?
555 :
人間七七四年:2008/04/14(月) 00:20:35 ID:0hoXK+B5
信長は本能寺の変がなくても統一出来なかったと、たまに言われるが、実際にはそれはまずない。1582年の時点で信長の日の本統一は最終段階に入っていた。光秀以外に事を実行する武将も機会もなかろう。
信長は確かに足元をすくわれる可能性はあるが、それは統一後、近臣にたいした理由もなく殺されるとかね。
556 :
滝川儀太夫ってどぉ? :2008/04/15(火) 11:29:11 ID:vPVXqMvO BE:534465263-2BP(1)
>>486さんへ
馬揃えの件について返答します。
1.大きな理由は、信長が京周辺の諸将しか指名しなかったから。
敵と交戦中など任地を離れがたい諸将は最初から指名してないみたいだね。
例、秀吉・宇喜多など
天正九年1月23日付 信長→光秀(馬揃えの総合ディレクター)あて書状「三宝院文書」を見ると、
信長が指名した人物が書かれていますよ!!
他にも馬揃えを行う経緯も書かれていて面白いよ。長文だけどね。
この中で信長は同年正月15日に行った左義長祭り(どんと焼き)を準備した光秀を誉め称えていて、
謀反を起こすとは到底考えられないよ。
2.主なメンバー
(1).摂津国
高山長房(右近)、中川清秀・秀成父子、池田元助・輝政兄弟など
(2).河内国
三好康長(阿波にいるので用意は除くが、本人の希望があれば参加。結局不参加)など
(3).和泉国
メンバーは有名じゃないのでカット。
(4).大坂
丹羽長秀、蜂屋頼隆
(5).若狭国
守護武田元明、被官粟屋勝久など
(6).その他
細川藤孝父子三人(藤孝が辞退したら、忠興・興元兄弟だけでもよい。結局、忠興兄弟のみ参加)、畿内の直参衆、公家衆(近衛前久・吉田兼見など)、公方衆(旧幕臣)など、(他に小笠原貞慶も参加したらしい)
→信長は康長と藤孝をよほど尊重していたみたいだね。
信長の意中には「乗馬が得意な人」とか「政治的な意図」などあらかじめ条件が決まっていて、一益はそれに当てはまらなかったかもしれないね。
557 :
人間七七四年:2008/04/15(火) 14:20:14 ID:jwGrJFlp
鉢形を出て北上(倉賀野・金窪方面)した氏邦に対し、滝川は和田に進出。
16日に対岸に倉賀野城を見ながら神流川沿いに金窪城方面へ移動する氏邦に反応し、
滝川も対岸を神流川沿いに玉村へ移動。
18日に氏直本隊の接近を知ったか知らずかは不明ながら、多勢を頼りに利根川を渡河、
阻止を試みる氏邦勢と衝突し、勝利する。
そして追撃をかける所へ討って出て来た斉藤勢を一蹴にし、金窪城は焼失。
翌19日、更に氏邦勢を追ったつもりだったが、
既に到着していた氏直勢の本隊の前へと逆に誘い込まれ、先陣が包囲下に。
混乱の中で撤退を試みるものの行く手を後続の自軍と神流川に阻まれ、
結果4千人近くが討ち取られ、多数の負傷・逃亡兵を出した。
…って所じゃないんかね。
558 :
人間七七四年:2008/04/15(火) 22:36:55 ID:juFGXZaN
>>557 多分そんなところかと、氏邦の動きが結局謎なんだけど。
その流れで誘い出されたのであれば強引な渡河作戦もある程度辻褄が合ってくる。
559 :
人間七七四年:2008/04/17(木) 20:42:36 ID:oEr1cQEd
どう考えても茶会開催権と珠光小茄子より上州数十万石のほうがいいだろ魅力的だろ
俺にはわからーん!一生かかってもわからーん!!多分永久にわかりあえねー!!!
茶器なんていらねーよ、夏!
560 :
サイコメトリー:2008/04/17(木) 22:23:27 ID:QqwJiAzt
当時の名物茶器の価値感は現代に置き換える事は難しい。
561 :
人間七七四年:2008/04/18(金) 06:32:36 ID:Eruyv1G0
現代でも絵画やアンティークにはたびたび数億の値がついてる。
貧乏人には縁がない話だから知らなくてもしょうがないが
562 :
人間七七四年:2008/04/20(日) 10:38:22 ID:P/cBJB2i
>>561 性格の悪さが滲み出てるな
どんな親にどんな教育されたらこうなるのか知りたいよ
563 :
人間七七四年:2008/04/20(日) 11:12:54 ID:ombgkOnK
そういうID:P/cBJB2iは貧乏人の僻みが滲み出てるぞ
564 :
人間七七四年:2008/04/20(日) 15:13:28 ID:JmiIXrHO
っていうか
>>561だって自分に関係があるともいって無いだろう。
ある意味自虐的な意味も込めてるのでは?
565 :
人間七七四年:2008/04/21(月) 01:43:39 ID:sFOjA3Wa
滝川高校の先祖スレか?
好庸さんもみているかな
566 :
人間七七四年:2008/04/25(金) 10:46:50 ID:oMJw+DB1
1年以上経っても1スレ消費できないってどんだけ人気ないんだ
567 :
人間七七四年:2008/05/10(土) 16:22:46 ID:oxmIGnwL
本能寺なければ局面は大きく変わったよ
568 :
人間七七四年:2008/05/10(土) 16:46:33 ID:XcPHekpb
569 :
人間七七四年:2008/05/10(土) 17:05:53 ID:qq/t61op
本能寺がなかった場合、まぁとりあえず上杉の命運は尽きただろうな。
とはいえ滅亡させるには4〜5年はかかるだろうな
570 :
人間七七四年:2008/05/12(月) 15:51:22 ID:vIWm3dVW
そうか?
魚津城を落とした時点でほぼチェックメイトだと思うけど。
近隣に頼れる勢力があるでもなし、高松城を落とされた毛利みたく
和議交渉に入ってもおかしくはないと思うけど。
571 :
人間七七四年:2008/05/12(月) 19:35:05 ID:UVIEnk1O
勝家が来年上様出陣あると景勝に伝えているから藻って2年だな
新発田と森と勝家で終わるかも知れない程だ
一益の出番無いなかも
572 :
人間七七四年:2008/05/13(火) 09:47:02 ID:Otyep+JA
勝家も一益も何かするには年を取り過ぎてたろ。
秀吉、家康の若い世代が台頭するべくして台頭したんだよ
573 :
人間七七四年:2008/05/13(火) 23:17:21 ID:Y/Cg6Nli
4〜5年も持つわけがない。
海津城の北信方面、さらに沼田城の上野方面からも軍が進められたら、1年持つかすら怪しい。
574 :
人間七七四年:2008/05/13(火) 23:35:05 ID:Otyep+JA
織田がお家騒動で援軍無しの任期間もない滝川に
味方するメリット0だからな。
内部から崩れて武田の最後のようになって終了。
そうなる前にでかい戦を仕掛ける必要があった。それが神無川の合戦かもしれない。
575 :
人間七七四年:2008/05/14(水) 22:32:26 ID:tbA8ERxv
でもその武田の最後ってなんだかんだで結構時間かかったよね。
あれだけガタガタになったにもかかわらず、
結局滅亡までこぎつけるのに長篠の戦いから7年もかかってる。
しかもそれでも武田の残党は根強く存在していたわけで。
上杉も巧く服従させるならともかく滅亡させるとなるとなかなか時間はかかると思う。
576 :
人間七七四年:2008/05/16(金) 21:54:31 ID:Udtq3y3i
武田よりは畿内の安寧、具体的には本願寺との決着を優先したのが
最大の要因だろうな。>長篠の戦いから7年
後、個人的には北条との同盟も大きいと思う。
それ以前に甲信に上州まで領地化しようとすれば、
最悪対織田でまた越相同盟ができる恐れもある。
滅ぼすんじゃなく服属させるのでも同じだろう。
という理由による放置プレイじゃないかと思ってみたり。
577 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 03:07:06 ID:/RHLlhy4
ゲームの世界なら北条に降伏して仕えるって選択もあるんだろうが
現実ではどうだろう。
578 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 05:39:12 ID:hnmZv8zW
信長は毛利攻め
柴田は親不知と子不知に阻まれて間違いなく侵攻不能
滝川は対北条で背後を固めるのが精一杯でとても三國峠を越えて上田長尾本拠地を攻略するのは難しいだろ
川中島の森が誘引され高田〜春日山で包囲されるのがオチ
冬になれば織田軍は退却せんといかんし地の利を生かし越後軍は簡単に退路を遮断してくるよ。
上信越国立公園をナメたらアカンよ。
地形複雑な越後侵攻はかなり苦戦するね。
579 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 07:18:21 ID:wmAiAN12
そしたら越後からは他国に攻め込む事はなかったのかと
580 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 09:08:52 ID:LPClD50t
守るに易く攻めるに難しとか言う言葉もありますし その逆も
581 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 16:58:38 ID:1DlY4CIl
信長死後も佐々一人の圧迫で翻弄されていたのに笑わせますね
582 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 21:47:15 ID:uoLO5AMG
長篠の敗戦後、すぐに攻めなかったのは、長篠の一件で調略が大いに可能になったからだろう。
長篠の敗戦前と後じゃ、織田に下った方がいいかもという印象が全然違ったと思われ。
583 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 22:20:03 ID:mFzzknjf
>>577 別に降伏する必要なんかない、
完全に空白地帯になっていて大チャンスの甲斐や信濃に徳川や上杉の手が伸びてる状況なので
本来であれば北条家は滝川軍2万弱がいる上野を無理押ししてる場合じゃない。
無理に自分から攻めたりしなけりゃ和睦の道は十分にあったと思われ。
584 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 22:26:43 ID:wmAiAN12
>>583 北条的にはむしろ上野が一番欲しいだろう
585 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 22:42:08 ID:/RHLlhy4
俺もそう思う
586 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 22:54:30 ID:uoLO5AMG
甲斐と上野じゃ価値が違いすぎる。
上野はかねてから北条がほしがってる土地だし。
587 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 23:04:03 ID:mFzzknjf
>>584 欲しいとか欲しくないとか言う問題だけでなく、甲斐や信濃が空白地帯になっている事が重要。
逆にここで行動できないと上杉や徳川が急速に勢力を拡げてしまうピンチであるとも言える。
実際の流れを見ても神流川合戦が奇跡的なスピードで決着がついたものの
氏直は上野をいったん放置して信濃・甲斐方面へ向かっている。
しかしそれでも既に勢力を拡げていた景勝や家康の後手を踏む形になってしまい、
結局双方と講和してその条件として「上野切り取り次第」を約束させた上で
改めて上野を抑えに戻ってきたと言うのが史実の流れ。
滝川軍を短期間でほぼ損害も無く打ち破っているにもかかわらず甲斐や信濃の方を優先しているので
上野の優先度は実はかなり疑わしい。
もしも上野が一番欲しいのであれば、神流川で勝った時点で一気に抑えに行けばいいだけのことだし
そうしていれば真田の独立を許す事も無かった、ひいては滅亡の遠因を摘む事が出来ていたかもしれない。
588 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 23:17:06 ID:wmAiAN12
放置って言うか真田も味方になって上野を押さえたと判断して信濃、甲斐にも欲かいたんじゃない
徳川が好条件の空手形乱発で真田とかを寝返らせて信濃の情勢が悪化したうえ、
もともと上野の方が重要だったから後世から見たらもったいないと思うような講和条件を同意した
それに根本的に滝川が上野に頑張ってる状態だと信濃甲斐侵攻もままならないでしょう
降伏させるか無力化させないと
589 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 23:17:28 ID:uoLO5AMG
>>587 上野全域を抑えるより、甲信を優先したのは、あくまで上野から滝川を排除し、真田を臣従させたからだろう。
上野から滝川が消え、真田を従えることで一定のめどがついたからこそ、後回しにしただけの話。
優先度が低いわけではない。
590 :
人間七七四年:2008/05/21(水) 12:28:16 ID:5jPSHCt4
>>579 お前は新潟を視察した事ないだろ。
守るに易く攻めるに難い典型的な地形だぞ。
上野から大軍で越後に攻め入った関東管領上杉顕定も越後から退却に失敗して敗死してるしな。
わざわざ越山なんて言葉まであるほど関東出兵だって苦労してんだぞ。
親不知に高速道路を敷設したのだって超難儀で海に飛び出てるんだぜ。
駅なんて激細ホームだし。
越中出兵だってむちゃくちゃ大変だった。まずは親不知子不知って名前になった理由を検索して調べてみろ。
591 :
人間七七四年:2008/05/21(水) 22:32:18 ID:0PK6sxWB
別にそこで戦う訳じゃないだろ。
592 :
人間七七四年:2008/05/21(水) 22:53:34 ID:lIMjAw/x
>>588-589 合戦の一週間後にはもう徳川や上杉と対峙してるので
放置していったんじゃないとどう考えても間に合わないよ
まぁそれでも間に合わなかったんだが
真田昌幸などの上野の連中が降伏し始めるのはさらにもう少し後のことになる。
欲もなにも初めから甲信を攻める気だったとしか思えない行動。
そもそも神流川合戦自体が上野で起きた合戦じゃないし、武蔵で起きた合戦なわけで。
氏直が初めから上野を攻めようとしていたようには思えない。
そう主張するからには根拠が欲しいところ。
593 :
人間七七四年:2008/05/21(水) 22:56:53 ID:0PK6sxWB
根拠がない事を分かっていて底意地の悪い事を聞くなw
だが北条が上野を狙っていなかったより狙っていたの方が納得できる。
594 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 01:11:22 ID:wSbPqn9v
>>592 このスレで出たネタくらい踏まえてレスしてほしい。
先に北条の方が倉賀野方面に攻め込んでいる。
しかも北武蔵だって滝川に味方していたわけで
金窪は滝川の勢力圏に岬状に突き出していて、その南は滝川方の長井豊前守領。
そこに北条が入ってきたのは北条から攻めてきたに他ならない。
氏直が倉賀野を攻めた六月十六日に長井豊前守は金窪の西南の山奥に対して
自領の南の『半手者』が来ても決して入れるなと命じており北条の侵攻があったことがわかる。
(この地域は武田滅亡時に長井と藤田が交戦したところでもある)
それから信濃の佐久小県も滝川領で六月二十二日某氏書状の時点では
信濃に退いた滝川が再び関東に攻め込んでくるのではないかと噂されているのだから
信濃に攻め込んだのも滝川を追撃する意味合いだろう。
また、二十二日には真田領との境になる白井へ進出しており、別に放置してはいない。
氏直は七月十二日に海野へ進出し翌日真田らの出仕を受けている。
つまり真田が降ってくるまではまだ滝川領の範囲にとどまっている。
六月二十二日某氏書状の追加の書き込みによれば
七月下旬に「甲州へ打ち入る」という時には「関左(関東)の人々大方氏直に随身」している。
東上野の最大勢力の由良氏も既に北条方に復帰しており
七月十七日のこれから甲州へ攻め込むというときに
北条側の黒沢氏から援軍のため落ちあうおうと書状がきている。
595 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 01:31:23 ID:qRQYydVJ
6/16日にはまだ来てもいない氏直がどうやって倉賀野攻めるの?
596 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 01:58:27 ID:wSbPqn9v
>>595 ソースは?
こちらのソースはすでに出してあるからね。
597 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 02:00:56 ID:wSbPqn9v
それから武将個人がどう動いたかなんて本当のところは良くわからないのであって
はっきりと扱えるのは北条側の軍の動きってところだけだからね。
598 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 02:45:02 ID:qRQYydVJ
>>597 だから倉賀野の方で軍事行動を起こしたのは氏邦なんじゃねーの?
氏直の本軍5万がいきなり倉賀野にその時点で現れたら滝川軍成す術なしだろうに。
599 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 02:51:25 ID:QmfZE+ez
>>598 問題は実際にそこに居たのが氏直か氏邦かではなく
北条が動いたどうかでしょ
600 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 11:26:56 ID:j8zG9ysK
>>590 実際本能寺後越中の兵はそこを超えてて名立まで攻めこまれてますお
本能寺なくても春日山に一益の出番は無い
柴田佐々佐久間前田森新発田の四面包囲で終了だな
601 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 16:30:56 ID:b9PAwFgL
>>600 えっそうなの?名立までって初耳?
いま本とかないから調べられないからWIKIで簡単に見ただけだけど、
こんな感じしか書かれてない。。良かったら信長の名立の領主を服属させたとかの感状とか教えてください。
『信長軍の司令官−武将たちの出世競争』谷口克広 中公新書 中央公論社
『織田信長合戦全録−桶狭間から本能寺まで』谷口克広 中公新書 中央公論社
602 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 16:31:34 ID:b9PAwFgL
越中国魚津城と松倉城(富山県魚津市)を攻囲中に本能寺の変があって織田信長が横死する。
しかし勝家は上杉景勝の反撃に遭って越中国東部制圧に手間取り、京都に向かうことができなかった
603 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 17:15:20 ID:H4w8r/k4
越中を取りまとめていた魚津城の河田長親が病死したのが痛いね。
それでもその後の魚津城は粘りに粘り本能寺の変の翌日に落城でしょ。
信長死亡の報を受けてからすぐ上杉が魚津城を奪回してるし、須田満親が北信濃の一向宗や土豪を動かして川中島から森長可を追い出してるよな。
604 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 18:32:33 ID:j8zG9ysK
>>600 違う名立へ佐々が来たのは変の後
>603の言う上杉が魚津城奪回した後に再び佐々に奪い返された勢いで春日山への接近を許す訳
そこでの合戦の記録は無くその時の新発田宛ての佐々手紙が上杉文章に残ってる(この二人同族かも?)
602の言う景勝の反撃で柴田が手間取った話なんて聞いた事が無い
日本海側での反撃は一瞬だけ魚津城占拠した話と能登の一向宗蜂起させて利家追い詰めた事くらい。共に失敗
まあ一益スレなので尾張な
605 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 19:55:35 ID:H4w8r/k4
秀吉対柴田の戦いの頃だよね?
須田満親は魚津城や小出城を明け渡す条件で開城したのに佐々が和睦を反古にして越後にまで攻め入ったの?
和睦が欺かれたら魚津城から川中島へ須田満親は城代に移させたりせずに失脚しちゃうんじゃない?
それに親不知子不知のあたりの地図みてみたら川中島〜飯山城を森長可が押さえてる時期は上杉に糸魚川の背後を抑えられ孤立する危険性は低くなるけど
上杉が握ってるこの時期に佐々が名立まで進出するのは袋のネズミじゃないのか?
606 :
人間七七四年:2008/05/22(木) 23:45:38 ID:wSbPqn9v
>>598 上でもあげた天徳寺宝衍の書状だと鉢形衆となっているから
氏邦だった可能性もあるが、まあ
>>597のようにそういう経緯はわからないし、
この二つの史料を相対化して神流川の戦いについて語れるような余地は無いんだよね。
それにそもそもの問題は>599さんの言っているようなことで、
実際に両軍の将がどのように動いたかという検証困難なレベルの話には深入りは避けるつもり。
607 :
人間七七四年:2008/05/23(金) 00:42:25 ID:mcN4yf7S
魚津城攻めの和睦は謀略ですぜ
信じてしまった上杉軍は一人残らず死んだ
608 :
人間七七四年:2008/05/23(金) 01:17:41 ID:tSJcR7F/
氏邦は氏康の代から生涯をかけて上野で争い続けてるし
こいつが上野を欲しがるのは当然、彼が蠢動したのはほぼ間違いないだろう。
とはいえ独断で動けるだけの実績と権限を持っているわけだし、
秀吉の小田原攻めの時に沼田で動いたのも彼だし。
当主の思惑とは別で動いていた可能性が大いにある。
だが、当主、氏直にとって別に上野は特別な地でもなんでもない。
むしろ甲斐や信濃は祖父・武田信玄、所縁の地なのでこちらには執着していたようだが。
結局、何故か野戦で戦えた事で、氏直はあえて上野に攻めるまでもなく
短期に損害もなく勝負が決まってしまったと言えるが
もしも攻めてこなかった場合、最低でも2〜3ヶ月は上野を攻め落とせるとは思えない。
上野の城の数、攻めにくさ、兵数を考えればもっと遥かにかかってしまう可能性すらある。
関ヶ原で最上に苦戦した上杉などもそうだが、城攻めはそう簡単ではない。特に一国を攻めるとなればなおさら。
氏直がこの状況でそこまで無理をして上野を優先する理由があるようには思えない。
そして信州ではちょっと攻めあぐねたら仇敵の上杉軍ともさっさと講和してるし、
甲斐では家康と婚姻を結ぶまでに至っている。もともと北条家はこういう状況で無理な手を打つ家ではない。
滝川には講和の余地が十分すぎるほどあったように思う。
609 :
人間七七四年:2008/05/23(金) 02:09:19 ID:6sle+4tr
>>607 詐術の騙し討ち?マジ!?内容kwsk
悪逆だな佐々のイメージ相当悪くなった・・・
610 :
人間七七四年:2008/05/23(金) 03:26:14 ID:wpjEHeId
>>608 北条がどれだけ上野、そして関東統一にこだわってたかは今さら議論する余地は無いだろう
それと本能寺直後の北条×滝川が関ヶ原時の上杉×最上+伊達その他周辺東軍と比較は出来まい
勢力差があればそれだけ靡き易く一城一城潰していくわけじゃない
あと最後のほうの行で書いている事はつまりそれほど甲斐信濃には執着してなかったとも取れるが?
611 :
人間七七四年:2008/05/23(金) 05:47:43 ID:s7AjVo/t
佐々から新発田への手紙が上杉文書にあるんだ?良かったら文章内容教えてください。
でも佐々の進出に関してはにわかに信じがたいなぁ。新発田に発奮を促すために誇張宣伝したんでないのかな?
上杉が支援した一向宗や土豪に襲われた森長可は美濃金山城へ逃げたから信濃の川中島は上杉で北安曇郡はこの時期は家康か?
佐々が後方の糸魚川市あたりを取られたら袋のネズミで帰る事ができず佐々捕縛→越中まで危険になるし。
何より苦労して名立まで来たら春日山城は寸前で、指呼の距離の直江津港を占領布陣して春日山城と対峙したら港からの安定補給ができるようになるから完全に封じ込められるのに、もはや帰るとは思えないんだが。
糸魚川市あたりから帰るならわかるが危険と苦労を犯してまでワザワザ名立まで来る意味がわからない。
612 :
人間七七四年:2008/05/23(金) 05:50:11 ID:Y8BfWdyd
↑読みにくすぎるから、とりあえず要点を簡潔に書こうぜ。
613 :
人間七七四年:2008/05/23(金) 13:29:36 ID:/c2j1UEW
611を簡潔にまとめると
佐々の進出に関してはにわかに信じがたい、新発田に発奮を促すために誇張宣伝しただろ。
上杉が支援した森長可等々は美濃へ逃げたから信濃の上杉で北安曇郡はこの時期は徳川か?
佐々が後方の糸魚川あたりを取られたら袋のネズミで帰る事ができず佐々捕縛し越中まで危険になる。
何より苦労して名立まで来たら春日山城は寸前で、指呼の距離の直江津港を占領布陣して春日山城と対峙したら港からの安定補給ができるようになるから完全に封じ込められるのに、もはや帰るとは思えないんだが。
614 :
人間七七四年:2008/05/23(金) 15:28:23 ID:KZrMndTY
>>613 全然簡潔にまとまってねえーーーーーーー!!!!!!wwwww
615 :
人間七七四年:2008/05/23(金) 16:21:36 ID:mcN4yf7S
〉609
魚津城で上杉家臣が皆殺しにあった時に残された辞世の句がある
「何度生まれ変わっても必ず取る勝家が首」
少し違うかもしれんがこんな感じ
壮絶な自害を想像汁
616 :
人間七七四年:2008/05/24(土) 17:13:23 ID:v+OOOMzT
>>613 本能寺以降の佐々もそれを望んでいると思われるよ
景勝が出てくれば新発田に背後から春日山を突いて貰うと言うのが文章でも残ってまして
実際景勝の兵数は少なく挑発に乗る事がなかっただけかと。新発田が本当に動くかどうかは知りませんけど
変直前の魚津城騙まし討ちも景勝を怒り狂わせて誘き出す事にあると思う
しかし身内に死を覚悟させて人質にだし単騎で敵城内乗り込んで交渉する成政も凄いのだけども
死に急いでる様にも見えたりする
一益の領地が北陸方面軍と近い場所だったらなーーとつくづく思いますな
617 :
人間七七四年:2008/05/24(土) 19:17:06 ID:cIRnXPQ0
柴田の魚津城攻略と本能寺後の佐々単独攻略の話と
どちらの話をしてるのかよくわからんのだが・・・
どっちにしろ揚北衆の新発田が長躯し春日山まで進出するのは無理でしょう。本庄や中条あたりが味方になってくれれば可能かもしれませんが。
618 :
人間七七四年:2008/05/24(土) 20:00:38 ID:a5nH5l5o
佐々や柴田に人望が無かったのは後の歴史が示してる。
619 :
人間七七四年:2008/05/25(日) 00:25:55 ID:84P+t7SL
>>578 当時北条は織田というより天下人織田信長と同盟中
織田家から動員要請が来て滝川指揮下で関東諸将と呉越同舟の三国峠越え
中越から下越を完全に抑えられて上杉は立ち枯れるだけ
北条家がこれを拒んだり、不穏な動きを見せれば
徳川、川尻、滝川、関東諸将に包囲されて涙目になるだけ
増援部隊として北畠軍団もまだいるしな・・・
小田原で数年粘ろうとも他地域は根こそぎ持ってかれるだけ
620 :
人間七七四年:2008/05/25(日) 15:10:38 ID:PK5piqzn
後の秀吉への対応を見てると織田家に追従する気があったのか疑わしい
621 :
人間七七四年:2008/05/25(日) 15:30:13 ID:cgl7mVB9
まだまだ川尻とか動けないだろう。
信濃もそうだが、いまだ不穏な状況だよ。
本能寺で一気に爆発し川尻は殺されたし、森は木曾の謀反を恐れまくって一揆勢や豪族の追撃を受けながら悲惨な逃避行になったし。
ジリ貧にするにはまだまだ相当の時間がかかるよ。
どっちにみち信長は誰かの謀反で死ぬだろうし。手際よくて光秀単独説を信じがたいし。
622 :
人間七七四年:2008/05/25(日) 15:38:38 ID:PK5piqzn
甲府の一揆は徳川の扇動って話もあるべ。
いろいろ裏で利害関係が絡んでああなったんだろ。
623 :
人間七七四年:2008/05/25(日) 21:30:33 ID:a0znd4FQ
>>620 それ以前になんで上杉守るために北条が頑張らねばならんのかw
織田が潰してくれるってんなら喜んで援軍送るだろうよ。
624 :
人間七七四年:2008/05/26(月) 13:48:36 ID:AstcgFeo
川尻は信長の命令で旧武田家臣を弾圧してたから甲斐の領主らから恨まれていたから殺され方も酷かったな。
佐々は糸魚川を支配下に入れてなさそうだから春日山近くまで進軍したのは新発田に対するハッタリでしょう。
籠城してる新発田は佐々が春日山攻略してくれる事に期待して頑張って籠城してたと思いますが。
625 :
人間七七四年:2008/05/26(月) 17:12:53 ID:LT4ZDTLr
川尻って惨い戦後処理した話多いよな
しかもその全てが信長の命令ってw
>618 史料が証明しているのは真逆
626 :
人間七七四年:2008/05/27(火) 22:00:17 ID:7+G4qHXN
信長は想像以上にあっさり武田が滅びたから、余力があるに違いないって神経質になったんじゃないかね。
だから、必要以上に弾圧した気がする。
627 :
人間七七四年:2008/05/27(火) 22:53:00 ID:L64BJgDj
信長による武田遺臣虐殺って徳川によるデマですよ。
628 :
人間七七四年:2008/05/27(火) 23:11:49 ID:7+G4qHXN
弾圧と虐殺は違うぞ
629 :
人間七七四年:2008/05/29(木) 23:57:57 ID:+KrCqGjC
>>610 氏邦個人で言うのであれば、何よりも上野を優先するだろうが、
氏直の視点で言えば上杉との国境ラインという以外に執着する理由など無い。
そもそも北条家全体で言っても信玄存命の頃も、別に優先しているわけでもない。
逆に滝川と和睦して上野から上杉とぶつかってくれるのであれば
徳川だけが相手の状況で主不在の甲斐へ悠々と侵攻できる。
家康は本能寺直後は伊賀越えをしているので簡単には戻ってこれない。
北条側の視点で言えば滝川が味方である事は大いに意味がある。
だがそれを曲げてまで上野をゴリ押しする事をその状況で氏直が優先するだろうか?
長尾景春・太田道灌・長野業正・上杉謙信・北条氏康・武田信玄らの名将が
歴戦を繰り広げてきてもついには治めきる事のできなかった難攻不落の地
に2万の兵力で守っている織田家の名将・滝川一益を攻めることが、
主不在の地を攻めるより楽だとみなした事になってしまう、ちょっと考えられない。
氏直自身は混乱の始まった甲信へと普通に兵を向けたのだろう、
そこに氏邦が策を講じたと見るべきではなかろうかと。
630 :
人間七七四年:2008/05/30(金) 21:39:29 ID:OmokqZiQ
本能寺から河尻、森、滝川の落ちた順番を時系列にするとどんな感じ?
631 :
人間七七四年:2008/05/30(金) 22:29:00 ID:v281jQXG
つか滝川はよく逃げ帰れたな。
北信濃の森でさえ相当苦労して美濃金山城まで逃げてきたからな。
信濃・越後・甲斐・武蔵は落武者狩りの敵だらけだろ。
どういうルートで伊勢まで無事に逃げ帰れたんだよ…
632 :
人間七七四年:2008/05/30(金) 23:30:48 ID:2e8pBdGm
633 :
人間七七四年:2008/05/31(土) 00:33:18 ID:VjwaSriW
伊勢の心配もしながらの逃避行だったんだろうな。
誰かに占領されてるor反乱で滅茶苦茶、は十分考えられるし。
634 :
人間七七四年:2008/05/31(土) 00:35:51 ID:Mzpviq8R
635 :
人間七七四年:2008/05/31(土) 01:06:10 ID:zxd/U+WI
>>631 まず神流川から逃げられた事からして既に凄い。
完全な背水の陣に追い込まれた上での大損害だったわけだし。
信濃では落ち武者狩りもそうだけど、上杉景勝なんかは一益に相当恨みがあるだろうし。
家康はある程度信用できるかもしれんけど、確かによく逃げられたなという感じ。
636 :
人間七七四年:2008/05/31(土) 01:47:51 ID:n6M68zWe
武蔵・上野や信濃はもちろん、美濃も内乱起こったり残党蜂起したりで情勢不安定だったんだよな
創作ものでよくある一益=忍者説をどこか思い出させる見事な逃げっぷりだ
637 :
人間七七四年:2008/05/31(土) 01:55:41 ID:ReQq4/mO
一益さんの通り名は進むも退くも滝川だからな。
撤退も得意分野なんだよ。
638 :
人間七七四年:2008/05/31(土) 14:03:39 ID:kQv9Bq2j
家康の伊賀超えよりキツいな
佐々のアルプス超えと言い織田生え抜き家臣団はすごいな
武田本拠地にいる川尻は不幸だったな。
639 :
人間七七四年:2008/05/31(土) 17:00:04 ID:QQN9PjiS
そう考えると織田軍って平地不向きなイメージになってしまうよ
勝家も山岳戦が得意分野みたいだし
640 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 03:42:17 ID:7F0z+41V
例え北条との戦に勝っていたとしてもジリ貧の滝川に勝機は無いな。
たっきーの生存する可能性は河尻と森がすべてだったんじゃね?
まぁ背水の陣で5万の北条軍に勝てるんならなんでもできそうだがw
河越野戦は諸説あるが連合軍7万 vs 北条1万弱って話だべ。それでも北条が生き残った。
「一戦だけ」に勝利するのはありえない話じゃないんじゃね。
ただし後方が断たれた滝川に持久力は無い・・
河越合戦並の大勝利が望めるんならそれこそなんでもできるっしょw
実際に河越の後の北条家は急速に関東での勢力を拡げていったわけだし。
つーか持久力無いのだろか?上野と信濃でそれなりに大きな領土を有していたのであれば
余程の戦上手でも無い限りそう簡単に攻め落とせる奴はいないと思うぞ。
あくまで滝川の本領は伊勢だからな。関東は諸勢力の領土でしょ。
だから割と簡単に関東を捨てる事ができるし、人質を解放した滝川陣営じゃ関東諸将の裏切りも自由。
関東に根付いて3代目の北条氏康とはちょっと違うでしょ。
織田の軍団制は本家あってのものだからな。
そんな言い方じゃ付き合わされて神流川の露と消えた諸将が浮かばれんよ・・・。
人質を解放したのは高潔とか評されてるけど
そんなんだから負けたんじゃねの。
実のない戦にやる気せんだろ。
というか人質云々って信憑性どうなんだろうか?
神流川で大敗北を喫して、その後は上でも「逃げられた事自体凄い」なんて言われてる状況だし
人質どころじゃないような気がするが・・・。
信長死後、一気にやる気を失った人
やる気を出して伊勢まで逃げた。
ドラマとかじゃ、一気に白髪化して老け込んでることが多い。
実際そうだったとしてもおかしくないよね。
伊勢〜本能寺まで出番が無いからじゃね
人生50年の時代に1582年当時58歳だからな。
柴田は61歳、羽柴は45歳、丹羽は47歳、前田は43歳、佐々は46歳、徳川は39歳。
柴田・滝川はとっくに引退してる年齢じゃね?
戦国武将って基本的に生涯現役じゃね
>>654 んなわけねえ。
信長ですら晩年は、武将としてはほぼ引退してたし。
656 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/07(土) 02:10:53 ID:u9mNYjvB
信長が死んでなかったら一益の役割ってなんだったんだろう。
関東管領つってもどうせ信忠の補佐だろ?
その関東管領を名乗っていたというの自体かなり怪しい。
あまり関東行きに乗り気じゃなかったっぽい一益が野心を持って名乗ったというのは考えにくいし、
将軍家についての見識が深い信長が自ら将軍追放したあとで部下に管領を名乗らせるというのも
今ひとつ意義が感じられない。
出典は何だっけ?これ。
658 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/07(土) 03:28:57 ID:2iE19v4F
一応信忠に将軍職をあてがおうとしてたから一益を関東管領に任命してたとしてもおかしくない。
任命権があったかは知らんが……
659 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/07(土) 07:58:34 ID:UDPZo1MC
室町体制下の、上杉氏が世襲してきた関東管領職のことか、だな。
織田家の関東出張所を便宜的にそう称したのでは?
>>650 「巧名ヶ辻」では白髪、片目包帯、松葉杖というボロボロの姿。
んで池田恒興にブン殴られる。
660 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/07(土) 10:20:55 ID:u9mNYjvB
便宜的に名乗らせるにしても織田信忠や織田信雄ではなく滝川一益で良かったのか。
柴田・羽柴・惟任・惟住より上にならないか?
661 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/07(土) 12:56:36 ID:UDPZo1MC
関東管領は関東公方の補佐役。
関東公方自体が幕府に敵視され、放置され続けてきた。
幕府中央にとってはそう大層な地位ではなかったと思われる。
西国指向の信長も、そう考えたのでは。
662 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/07(土) 13:06:34 ID:2iE19v4F
さすがにそれは無いと思われ………つうか織田家中の席次では柴田、明智、滝川、羽柴の順だったんじゃね?
663 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/07(土) 13:13:36 ID:hgp+GdMK
小田原征伐のときに里見が公方さま再興のためとか言ってまわったために秀吉の怒りを買い上総を召し上げになったらしい。
信長は関東管領に魅力持つのかな。でも意外と支配がやりやすくなるなら使うかもな。
後の人が便宜的に関東管領と呼び習わしてるだけで
当時の実際の役職の関東管領に就任したわけでは無いだろう
>>662織田家老の席順って滝川明智は結構後ろの方なんだよ
666 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/07(土) 15:49:06 ID:u9mNYjvB
そのへんゲームとは違うからな。一時期の筆頭は林・佐久間だったし。
667 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 07:45:18 ID:u7W9Ilxh
滝川は尾瀬沼→会津もしくは赤城山を迂回して下野へ脱出し佐竹の助力で常陸から海路で伊勢に逃げたんじゃなかろうか。
旧武田領や上杉・北条領を通過するのは無理だろ…
不案内な地の海路なんて、潮の流れを知らない分余計に避けそうだし、
そのコースはもろに北条領の相模湾や伊豆半島周りを通ってるけど……
まさか、沖合いを航行したってことか?
669 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 08:58:32 ID:B1+ZYv0y
徳川家康にできた事を滝川一益ができない道理はないぞ。
金ばら撒けば良い
670 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 10:11:29 ID:lEZz6fE4
陸路であることは確かだろう。
小諸城を依田信蕃に占領され、抗議したら脅迫された、という話がある。
依田は家康の命で動いていたから、徳川領でも危険だったこともわかる。
671 :
人間七七四年:2008/06/10(火) 10:14:09 ID:34Ri3+8l
でもこの時点で滝川の首を取ったところで何の意味もなくないか?
穴山梅雪のように無用の首扱いされるだけでは。
672 :
人間七七四年:2008/06/10(火) 11:49:40 ID:eSCtX3LO
結局、お取り潰しか
673 :
人間七七四年:2008/06/10(火) 21:54:10 ID:rpK22Ls4
>>671 北条家 → 領土さえ取れれば確かに首はいらなそう、でも捕える意義はあるように思うので危険は危険。
上杉家 → 信長横死直前まで攻めていた相手なので、恨みもあるだろうし非常に危険。
また景勝がこの時点で既に秀吉との同盟を模索しているとすればいい土産にもなってしまう。
徳川家 → 謎、案外一益が逃げる手伝いをしたのかもしれんけど、そもそも信濃・甲斐が荒れてる
元凶である可能性もある。信用できるといえるかどうか。
上記3つの家がひしめきあってる最中なので逆に逃げる隙はあったかもしれんけど
危険には違いない。そんな感じではないかと。
穴山程度ならともかく滝川クラスの大名の首が意味が無いということはありえない。
674 :
人間七七四年:2008/06/11(水) 00:39:57 ID:WVU/txOh
武田遺臣に捕らえられたらなぶり殺しにあっただろうな。
675 :
人間七七四年:2008/06/11(水) 01:41:43 ID:eeFRanKf
敗残兵狩りにとっては、落ちている武将が織田家の誰かなんて関係ないんじゃないの?
676 :
人間七七四年:2008/06/11(水) 11:00:45 ID:rM37wTbN
後ろ盾のない敗残兵は殺して恩賞に預かる所だが、手を出したら大きな報復が
返ってくるかもしれない相手に手は出さないだろ。
677 :
人間七七四年:2008/06/11(水) 18:41:17 ID:nMSf9oQM
河尻のほうがかわいそう
678 :
人間七七四年:2008/06/11(水) 18:59:03 ID:hmsPI2K3
>>676 信長親子の死を完全に把握していたのは、三家のうちで徳川だけだな。
家康自身が急を告げる飛脚になったようなものだし。
甲信支配の邪魔になるなら、家康こそ一益を密殺したと思う…
679 :
人間七七四年:2008/06/11(水) 20:38:02 ID:WAa0CKJM
北条も完全に把握してたんじゃないの?
だから珍しく迅速な軍事作戦おこなったんじゃない?
680 :
人間七七四年:2008/06/11(水) 21:26:58 ID:Jke7apmB
>>679 まぁ氏政が一益に書状送ってる時点でほぼ完璧に把握してるだろうな。
ただ行動に出るまではさほど迅速と言うほどでもないと思う、決着が迅速だっただけかと。
上杉や徳川はもっと早くから行動してるし、その時点で兵を進めていないのであればむしろ遅いぐらい。
681 :
人間七七四年:2008/06/14(土) 16:14:43 ID:IfPEZdes
評価は高いようだが、本能寺以降はかわいそう
682 :
人間七七四年:2008/06/14(土) 16:17:13 ID:xYR/8ti/
信忠との近さから考えて、本能寺がなかった場合、いわゆる方面軍司令官の中で
最終的に一番出世したのはこの人だろうな。
683 :
人間七七四年:2008/06/14(土) 18:28:07 ID:jdpX77wa
関東管領だしな
684 :
人間七七四年:2008/06/14(土) 18:55:02 ID:WH3CPMji
問題は老齢か
戦前にもう少し時間的余裕があったら北条を懐柔するよりは
常陸や下野、磐城南部に勢力が当時あった佐竹義重と強い盟友関係を結ぶべきだ
ったな
危なくなったら少なくとも北条を牽制するぐらいのことはしてくれたはずだろう
685 :
人間七七四年:2008/06/14(土) 20:33:36 ID:5gZoi8we
北条氏直に信長の娘を嫁がせる話はどうなったんだろう?
北条側としては、織田政権の下で関東を支配したかったようだが、
滝川が来たことは、それを却下したと宣言したようなものだし、
数年以内には争うことになってたかな。
686 :
人間七七四年:2008/06/14(土) 21:20:34 ID:D6ExMClZ
>>682 でも一益自身は帰心矢の如し、だったのだよな。
茶の湯が大好きで、上野一国より茶器が欲しかった、とか。
とにかく茶の湯好きで、流行に遅れるのが嫌で東国下向を嫌ったという話も。
功績を上げたら幸い、理由をつけて役目を降りる→伊勢か京都に隠居しそう。
687 :
人間七七四年:2008/06/14(土) 23:11:07 ID:TxPbyUni
>>684 滝川にまず課されたことは上杉を潰す事。
であれば上杉と関係のある佐竹と結ぶ事は難しいのではないかと。
>>685 滝川に関東の中心部を明け渡せとなっていたらそれもありうるが
滝川の領土は上野・信濃の付近である事を考えると
信長はとりあえず滝川に対して上杉を含めた東国の抑えを任せた以上では無いように思う。
その後、織田と北条がどうつながっていたかはもう予想のしようも無い。
別に実質の支配をしていたところで、織田直属の大名が見張りにつく事はどちらにせよ必要だろうし、
北条側も織田と同盟を組んだ以上はその辺は心得てると思われる。
問題はどこまでが許容範囲で、織田がどこまで要求してくるかだな。
上野・下野は間違いなく諦めざるを得ないだろう。
688 :
人間七七四年:2008/06/15(日) 14:49:49 ID:hVImLT7w
>>687 佐竹義重の立場から考えた場合、
上杉景勝との交渉は希薄な関係じゃないかな?
御館の乱以降の上杉は関東から撤退しているわけですし。
それより武田勝頼との交渉の方が遥かに緊密な関係だったと思いますよ。
武田と佐竹の軍事行動は対北条策戦として連動していますし。
佐竹義重が織田信長の家臣に加わるという方策なら何とかなると思うけど、
名門佐竹家のプライドが許さないでしょうね。
689 :
人間七七四年:2008/06/15(日) 18:21:48 ID:mF2LFvVX
武田と佐竹。同じ源氏ですな。
690 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 03:19:26 ID:FlJuWxUB
>>688 滝川の話だから武田はもはや関係ない頃かと。
691 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 13:59:28 ID:CfLFaMLy
佐竹義重は家門とかに捕われずにもっと柔軟に対応するんじゃないか?
実際、秀吉には素早く臣従したわけだし
692 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 14:34:01 ID:EHh+5G/N
佐竹は伊達と北条に迫られて滅亡手前だったからな
693 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 15:07:47 ID:TGKTrFJZ
佐竹は合戦に敗れたわけでもなく
佐竹領は一寸も取られてないのに滅亡寸前はおかしい。
捏造歪曲するなよ…
694 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 15:13:29 ID:EHh+5G/N
滅亡寸前≠滅亡手前
人取り橋の撤退以降、北条が下野侵攻開始したりで
伊達に兵を向けれず、結果奥州の覇権は伊達が確立。
このまま外部巨大勢力の介入がなければ滅亡だろ。
望みは織田・豊臣軍だけ。
695 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 15:22:56 ID:htQFnRGs
>>693 > 佐竹は合戦に敗れたわけでもなく
> 佐竹領は一寸も取られてないのに滅亡寸前はおかしい。
それは結城や宇都宮、那須といった中間勢力がいたからに過ぎない。
沼尻の合戦後北関東でも北条の勢力が他を圧倒していたわけで、その結城、宇都宮、那須も
領内に北条に戦略拠点を築かれ滅亡か服属かの二択、と言う状況だった。
佐竹が存続できたのは完全に秀吉のおかげ。
696 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 17:29:10 ID:ssujtoUY
その不思議な論法を使うと真田はとっくに滅亡同然になるわけだがw
沼尻の合戦後北関東でも北条の勢力が他を圧倒していたわけで
←そんなの別に不思議なことでもなんでもない。それ以前のずっと昔から
栗橋城野田氏
関宿城簗田氏
菖蒲城金田氏
幸手城一色氏
岩槻城の太田氏
寿能城の潮田氏
と併合されてきているんだから、いまさら結城・宇都宮・那須が侵食されようが関係ねーしw
697 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 18:01:39 ID:GAIjkIDH
>>693 >佐竹は合戦に敗れたわけでもなく
>佐竹領は一寸も取られてないのに滅亡寸前はおかしい。
>捏造歪曲するなよ…
おまえの方こそ捏造歪曲するな
佐竹の本拠の常陸が奪われずにすんだのは味方の犠牲の結果
おまえみたいな奴がいると芦名・宇都宮・結城・簗田・野田・一色が哀れだ
698 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 18:16:06 ID:ssujtoUY
里見義弘が滅亡寸前になりながら
三船山の戦いで北条に勝った先例もあるしな。
699 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 20:03:31 ID:TGKTrFJZ
トロトロしてる象みたいな北条が佐竹領に迫るのにあと何十年かかるんだかw
伊達に至っては惣無事令下の火事場泥棒だろうが。
武力ではなく外交に力を割いての秀吉との政略のシフトが移ってたし双方の戦闘行為を禁止してるので佐竹も上杉も伊達に手を出さずに静観してただけ。
700 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 20:34:13 ID:htQFnRGs
701 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 21:14:06 ID:FlJuWxUB
摺上原合戦とか佐竹の敗北じゃなかったら何なのか。
会津から息子が追い出されても負けじゃないと言えば負けじゃないのか。
702 :
人間七七四年:2008/06/17(火) 23:33:37 ID:4gjUn84w
葦名の敗北だろ
佐竹が何したんだよ
703 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 00:09:17 ID:6Kw3OuE+
政宗ごときが佐竹と真っ向勝負して勝てると本気で思ってんのかワロタw
704 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 00:14:01 ID:Ia7wXzde
南は北条、北は伊達と兵力を割かなければならない佐竹。
当時の立場分かってるのか
705 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 00:17:17 ID:lnKRg9LR
まぁまぁ、伊達も佐竹も北条も所詮は引き立て役だからさ。
706 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 00:19:06 ID:WHj9IHp0
>>705 それなら武田や上杉も追加するべきですね。
707 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 02:05:43 ID:fu8mvJ6t
>>704 佐竹にとって2方面作戦なんて昔から
当たり前の常識ですが何か?
708 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 02:12:16 ID:vPBNNe9/
>>707 当たり前の常識だから問題ないって、頭おかしいのか君は?
709 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 02:26:54 ID:WHj9IHp0
多方面戦略なんてどの大名でも同じ。
織田や斎藤、浅井でもやっています。
例外
今川が三国同盟によって東部方面の安定化を図った。(対織田戦線)
徳川が清洲同盟によって西部方面の安定化を図った。(対今川戦線)
710 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 02:52:31 ID:fu8mvJ6t
711 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 13:43:46 ID:Ia7wXzde
北条が佐竹と組むメリット無いんだが。
それとも北条の軍門に下って伊達を攻めるって意味?
712 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 13:55:18 ID:6Kw3OuE+
んなこと言ったら越相同盟も謙信への一方的譲歩でメリットなかったけどな。
那須を巡って争ったとしたら佐竹が北条と伊達の横腹を突く絶好の位置で有利な交渉ができるしな。軍門に降るとかアホじゃね。
713 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 14:03:43 ID:6Kw3OuE+
里見すら潰せない北条なんて…秀吉が来たから佐竹は助かったって?北条は信長が死んだから助かっただけなのにw
伊達は秀吉が来てくれなかったら上杉と佐竹と最上にフルボッコだったんだが…つか母の義姫がまた頼むのかw
714 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 17:47:01 ID:ViaVWnVV
もし外部巨大勢力が現れなかったらて想定なら、対北条の旗頭の佐竹が生き延びる事は不可能
715 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 18:08:30 ID:fu8mvJ6t
対北条の旗頭だった上杉も生き延びてますが何か?
里見も健在ですが・・・
716 :
人間七七四年:2008/06/18(水) 18:39:28 ID:vPBNNe9/
717 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 00:41:16 ID:i/8tGCk5
>>713 里見は事実上屈服に近い和議を結ばされてる。
秀吉が来なかったら佐竹もそうなるだろうな。
718 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 00:51:18 ID:jl1pAiap
>>717 屈服に近い?んなことない。
里見の後継争いに北条は利用されただけ。
719 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 01:15:55 ID:i/8tGCk5
アレだけ領土が奪えれば北条からすりゃ十分、後継争いもクソも無いだろ。
720 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 02:44:31 ID:jl1pAiap
上総まで里見は復活してきてましたがw
721 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 03:18:34 ID:i/8tGCk5
いつの話してるんだ?上総まで復活も何も国府台合戦後も上杉・武田との同盟を使って
上総への影響力は1560年代も十分保ってたぞ。そうでなければむしろ北条家とぶつかれる国力があるわけ無い。
だが上杉の援護が期待できない1570年代中盤に入って一気に戦況が苦しくなって
北条氏照に関宿城を奪われた事で完全にギブアップ。
和睦に相成ったわけだがおかげで上総の多くの領土を諦めざるをえない結果になったわけだが。
722 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 08:15:42 ID:hmjeTMmn
ここはいつ佐竹スレになったんだ
723 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 15:53:42 ID:3UKJLdaL
あの頃の佐竹は長篠の後の武田のようなもの。
勝頼はしばらく信長に放置されていたが、本格的な侵攻が始まると
まともに抵抗もできずに崩れ去るのみ。
724 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 16:19:22 ID:pWdiiSXJ
>>722 一益の話題が無いので敵が城内まで乱入しております!
725 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 17:28:00 ID:jl1pAiap
北条なんて敵じゃないですね。基本的に撃退して危機的な状況なんて三船山前夜の時くらい。
里見義堯
義堯は北条氏綱の支援を受けて重臣正木時茂とともに
上総金谷城において挙兵して里見義豊を殺害し家督を奪った
義堯が家督を奪うやすぐさま北条氏を裏切った。
里見義弘
三船山合戦で北条を大破。失地の回復を成し遂げた。
義弘は生前、自身の死後は安房を義頼に与え上総を嫡男・梅王丸に与えることを約していた。
里見義頼
分割相続を義頼は不満に思い、義弘死後に北条氏政の妹・菊姫を妻にした義頼が氏政の支援を受けて
1580年までに安房より上総を制圧し、梅王丸を出家させ、里見氏の領国全てを継承することに成功した。
義頼夫人が死ぬと北条氏政との争いが再燃するが義頼はこれを撃退。このことで北条と敵対したのが
他の房総諸将と違い、小田原籠城側に回らず豊臣方に組する複線になり里見氏は存続することになる。
これは義堯が里見家督を奪う際に北条を悪用して用済みになったら北条を棄てる故事にならったものである。
里見義康
秀吉は里見領と北条領の境界裁定を実施、里見分国は
上総北東部は東金・土気酒井領
中央部は庁南武田領・中南部は万喜土岐領
を除いた地域。そして安房一国と確定されたのである。
秀吉は安房国・上総国および下総国の一部を安堵されたのである。
726 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 18:27:03 ID:3UKJLdaL
終始北条に対して戦い続けた里見と、今川・上杉・武田・佐竹をはじめとする関東諸将を
相手に戦い領土を広げてきた北条。
本能寺後あたりの北条は関ヶ原の頃の徳川と大差ない領土をもつ。
727 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 18:33:46 ID:K+lRvyJs
そろそろスレ違いが甚だしいので滝川ネタをひとつ。
天正九年御馬揃で滝川が出席していないような気がしますが何故?
丹羽や蜂屋までが出席しているのに。
728 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 19:55:34 ID:Qwwfifyi
武田攻めの準備
729 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 20:11:31 ID:h+zWeZH7
>>725 そんな弓矢の家も、「鷹狩に来た大御所を無視し続けた」ばかりにお取り潰し。
四代にわたる闘争は一体何だったのだろう…
>>727 長島一向一揆が健在なころだし、伊勢の押さえとして在国が必要だったのでは?
秀吉も出席して無いから、一益が特に軽視されてる訳ではないでしょう。
730 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 21:15:03 ID:u55nTHwk
上手な選択をしていたら何処まで行けた?
誰が家臣になってたかな?
731 :
人間七七四年:2008/06/19(木) 21:39:42 ID:K+lRvyJs
>>729 長島一向一揆を一度調べてみた方がいいよ。
732 :
人間七七四年:2008/06/20(金) 09:13:08 ID:pbpg5W+W
伊賀と言った方がいいんじゃね
733 :
人間七七四年:2008/06/22(日) 02:11:32 ID:OIByu99T
>>726 1587年(天正15年)8/9書状・氏照→葦名
「あなたの国とは三代に渡り仲良くしてきました。その縁で我々は佐竹とは敵対したくないのでなんとか佐竹との和睦を執りなしてくださいお願いします」
と再三に渡り佐竹の武威を恐れ和睦斡旋を必死に哀願する弱北条ごときw
734 :
人間七七四年:2008/06/22(日) 03:03:11 ID:smVeWtSS
その最強の佐竹は神流川のように4万5万で攻められたらどうするの?
735 :
人間七七四年:2008/06/22(日) 03:32:18 ID:pghs8S+x
>>734 対陣して北条の撤退時に得意の追い討ちで大破でしょ。
736 :
人間七七四年:2008/06/22(日) 04:02:28 ID:uj6d+/Oz
勝ち組が一つの事件で負け組に転落する・・・
だから人の世は面白いと思うwww
737 :
人間七七四年:2008/06/22(日) 09:45:49 ID:QJSEtGth
そんなこと言ったら何とでも言えるけどなw
客観視で当時の状況を考えて、北条+伊達の挟撃で佐竹が滅亡する
確率のが高い(豊臣などの巨大勢力の干渉がない事前提)。
小田原の陣に参陣が遅れた伊達は北条と組んでいたからっしょ?
738 :
人間七七四年:2008/06/22(日) 09:57:15 ID:grZHVCB5
で、いつまでこのスレ違いの話を続けるんだ?
739 :
人間七七四年:2008/06/22(日) 11:20:08 ID:OIByu99T
いえ上杉&佐竹&最上に伊達は滅ぼされるよ。
その後は上杉&佐竹&里見&真田と北条が相も変わらず局地戦を延々とダラダラ続けるだけ。
そのうち畿内を制圧した人間がどっちにしろやってきて北条死亡。
740 :
人間七七四年:2008/06/22(日) 18:15:00 ID:GdSJ7d5U
そんなことより滝川の茶の湯の腕について話をしようぜ。
741 :
人間七七四年:2008/06/22(日) 23:57:12 ID:Umi8Qhgw
>>740 滝川一益の茶席の席順は高いよね。
茶の腕はともかく序列は高かったかな。
織田信忠、武井夕庵、林秀貞、滝川一益、細川藤孝、明智光秀、
荒木村重、長谷川重成、羽柴秀吉、丹羽長秀、市橋長利、長谷川宗仁
742 :
人間七七四年:2008/06/24(火) 22:44:19 ID:WwVbXqQr
>>739 最上と上杉は戦争真っ最中、都合よく味方に入れるなよ。
743 :
人間七七四年:2008/06/25(水) 22:17:46 ID:OUK6p+kE
仮に神流川の合戦で大勝利していたらそれでも伊勢に帰ったのかな。
関東を荒すだけ荒して冬には帰っていく謙信を彷彿とさせる頼りなさになるが
744 :
人間七七四年:2008/06/26(木) 14:42:22 ID:nV30fSZC
赴任して2〜3ヶ月そこらだしな
信長あぼーんはともかく信忠までいなくなってるわけだし
もしあそこで大勝利を遂げていても周囲の状況を考えれば
745 :
人間七七四年:2008/06/26(木) 21:05:28 ID:IZ7O8Fof
結局何万石貰ったの?
746 :
人間七七四年:2008/06/28(土) 01:07:10 ID:sHqAByIx
いや勝ったら普通に統治するだろ。
北条の全軍に近い数を駆逐した事になるわけだから、もはや関東で恐れる相手は居なくなるし。
その上で悠々と凱旋はするだろうが、北条にはもはや追う力は無いだろう。
というより和睦を申し入れていると思われる。となれば、手放す理由が無い。
またあの情勢で北条軍を倒せたら北武蔵もかなりの領土を奪えるだろう
それ次第では上野・信濃の領土と合わせて100万石近い大領土に膨れ上がる可能性もある
問題だらけの上野・武蔵・信濃を統治できるかどうかはまた未知数だが。
その後の賤ヶ岳でも大きく勢力図が変わってくる事は間違いない。
・・・勝てればw
747 :
人間七七四年:2008/06/28(土) 13:18:02 ID:Ge6kJfaF
石川数正と滝川一益、むかし混同してた
748 :
人間七七四年:2008/06/28(土) 14:04:45 ID:agWYrW1m
勝ったら織田最強武将として讃えられたろうね。
それがあの凋落ぶり…
749 :
人間七七四年:2008/06/29(日) 21:43:17 ID:Tg8erJJX
滝川って柴田、羽柴、明智クラスの重臣なのに、後世の扱いが悪いよね
小説やドラマにしてもほとんど準脇役だし
750 :
人間七七四年:2008/06/29(日) 22:47:14 ID:3vz6TAql
滝川一益軍団
上野衆
小幡信貞・倉賀野淡路守・内藤大和守・由良国繁・長尾顕長・安中左近大夫
北条高広・真田昌幸・高山遠近守・木部宮内大輔・和田和泉守+?
武蔵衆
深谷左兵衛・成田氏長・上田政朝+?
信濃衆
?
俺の持ってる雑誌だとこんな感じに書かれてるけど、タッキーの直属って
居なかったのかね。
751 :
人間七七四年:2008/07/01(火) 00:53:03 ID:sSYlnXaj
>>750 ・一門衆
滝川三九郎一忠(一益子息)
滝川八郎一時(一益子息)
滝川儀太夫益重(一益甥)
津田秀政(一益娘婿、信長の又従兄弟)
秋山右近大夫
木全彦次郎(→滝川豊前守忠征)
源浄院主玄(→滝川三郎兵衛雄利)
・尾張衆
篠岡平右衛門(三方ヶ原で功名、一益から感状受ける)
岩田市右衛門
岩田平蔵(市右衛門実弟)
佐治新介
津田次右衛門
牧長藤
垣見半兵衛(池田恒興旧臣)
・伊勢衆
日置五左衛門
稲生五左衛門尉
南都久左衛門
古市九郎兵衛
高瓦摂津守(北畠旧臣)
・その他
本多正晴(旧本多忠勝家臣、神流川合戦で奮闘)
牧野伝蔵(三好康長旧臣、若江七人衆の一人)
富田喜太郎(三好康長旧臣、若江七人衆の一人)
752 :
人間七七四年:2008/07/01(火) 10:39:28 ID:k1t3iiOt
花の慶次じゃ、神流川の撤退戦で前田慶次郎が大道寺政繁と一騎打ちしてるが
一騎討ちの真偽は兎も角として慶次郎は参加してたのかな。
彼は家康とタメって話だからこの時39歳くらいか
753 :
人間七七四年:2008/07/01(火) 10:58:41 ID:C2sznjtX
前田家を追い出された利久が、慶次郎の血筋を頼りに、滝川に行ったのではないかという推測であって、史料はまったくない。
754 :
人間七七四年:2008/07/06(日) 15:24:01 ID:RWRnTE3j
しかし後の真田の健在ぶりを見る限り、神無川で滝川本軍以外が
真面目に戦ったとはいえなくね?
どういう感じで戦いが進んだのか知らんが
755 :
人間七七四年:2008/07/06(日) 17:13:59 ID:gG0ngre2
このスレで河尻秀隆ってどんな扱い?
756 :
人間七七四年:2008/07/06(日) 21:13:10 ID:LsB297Zg
>>754 神流川合戦には真田勢は参加していません
一益軍に同行した上野国衆は小幡、白倉、和田、高山、深谷、本庄、倉賀野、大
戸、長根です
戦いの概略は
六月十九日夜明けに北条氏邦が石山、保坂を先陣として武蔵野に着陣
一益軍6000も武上国境の神流川を渡河し武蔵国金窪原に着陣し、間もなく戦が始
まり、二時ばかりで北条勢が崩れ遁走し始めた
一益軍の上州の先方勢が追撃し北条側の石山、保坂を始め二百六十名を更に討っ
た
当日は酷暑日照りで疲労した一益勢は水辺で休息した
そこへ北条氏直3万が甲山に着陣、先方5000騎を松田、大道寺、福島らに指揮さ
せ金窪原へ向かわせた
一益は疲労困憊している上州勢を休ませ、自ら3000の本軍のみで対峙
地の利を知っている松田、大道寺、福島は一計を企み、わざと逃げ、一益軍が窪
地を乗り越えると同時に伏兵を放った
一益軍は奮戦したが、北条勢に氏邦の残兵も加わり多勢に無勢
一益譜代の篠岡平右衛門、津田治部右衛門は覚悟を決め、自らを犠牲に一益を逃
がした。一益側は二千七百六十余名討たれた
一益側の奮戦により夕方になると北条勢も追撃する力がなくなった
一益軍は倉賀野城から厩橋城へと退却した
757 :
人間七七四年:2008/07/07(月) 15:33:30 ID:zPqDAwhW
文頭に一がいっぱいあって箇条書きに見えた
758 :
人間七七四年:2008/07/08(火) 23:35:59 ID:J7dXz8Te
>>756 氏直の采配が若干20歳の大将とは思えんほどに鮮やかだな。
759 :
人間七七四年:2008/07/09(水) 00:09:27 ID:J3JzSeOE
数の暴力だろ
760 :
人間七七四年:2008/07/09(水) 03:28:14 ID:VUAyqzJB
うふふ
761 :
人間七七四年:2008/07/09(水) 13:25:31 ID:Ws6Dkeqy
氏直といえばまふう
762 :
人間七七四年:2008/07/09(水) 22:56:57 ID:VWMZfume
>>759 数百人規模の話であればともかく
滝川軍もアレだけの規模ともなればたとえ大軍を集めようとも普通そう簡単に潰せないし、
力押しにしてしまえば損害もとてつもなく大きくなってしまう。
だがこれだけ大規模な合戦になったにもかかわらず
これほどの短期間で目だった損害もなくカタをつけた合戦は他に思い浮かばない。
763 :
人間七七四年:2008/07/09(水) 23:15:33 ID:xzWjfXov
主君を失った状況、背後の補給路が崩壊、
任期間もない土地、他にも探せば要因がある
764 :
人間七七四年:2008/07/09(水) 23:39:15 ID:VWMZfume
そりゃどこの合戦だって負けるからには理由があるもんだ。
戦国時代にそんな言い訳、誰も聞いちゃくれんよ。
765 :
756:2008/07/11(金) 10:34:55 ID:YhNqO7qo
>>758 いえ、実際に采配をとっていたのは松田、大道寺、福島らで
氏直はかなり離れた本陣にいました
さすがに一益相手には戦い慣れして現地の地勢に詳しい彼等の采配でなければ無
理があるでしょう
766 :
人間七七四年:2008/07/12(土) 14:13:40 ID:1W9pbXJ7
>>73 甲陽軍鑑だと逆に徳川左翼から崩れ去り、それによって徳川全軍崩壊するも
徳川右翼はそれほど被害出さずに撤退
徳川左翼は勝頼らによって大きな被害を受けるってことになってる
767 :
人間七七四年:2008/07/13(日) 11:29:39 ID:Jdim/bNr
>>765 そりゃ現場で指揮していたのは彼らに決まってる。
だが彼らが勝手に合戦始めて、氏直はついてきただけってわけじゃあるまいし。
大道寺や松田のような重臣にしっかり先鋒を務めさせた上で、
彼ら自身に任せるところは任せて見事に結果が出ている。
これが大将の采配であって一番重要なこと。人選・別働隊の兵数共に非常に鮮やか。
もしもその本陣で氏直に代わる人が全て差配をとっていたというなら話は別だが。
768 :
人間七七四年:2008/07/14(月) 07:23:05 ID:u7Gn+SuD
氏邦かも知れないね
769 :
人間七七四年:2008/07/26(土) 15:14:54 ID:PmshDYJg
氏直じゃないかな
770 :
人間七七四年:2008/08/12(火) 03:57:27 ID:DILu1VCs
滝川一益の出地って甲賀らしいけど、甲賀五十三家のどれと繋がりがあるんだろな。
771 :
人間七七四年:2008/08/14(木) 02:18:50 ID:Ut1KZq0r
よーし
772 :
人間七七四年:2008/08/14(木) 13:10:11 ID:5T2j7M4M
滝川は関東に来てすぐに本能寺の変、神流川の戦いだから負けても仕方ない。
秀吉でも播磨に来て始めの内は、毛利相手に苦戦してる。
宇喜田取り込んでから有利になったけど。
773 :
人間七七四年:2008/08/15(金) 03:42:41 ID:5FRRvoaD
>>772 >秀吉でも播磨に来て初めの内は、毛利相手に苦戦してる。
それを言うなら別所相手に苦戦しているでは?
774 :
滝川儀太夫ってどお?:2008/08/20(水) 17:09:37 ID:VnilJ1n/
776 :
人間七七四年:2008/09/04(木) 15:11:27 ID:A3E5l2hX
どの時期だろ?
777 :
儀太夫ってどお?:2008/09/17(水) 10:11:12 ID:78Aw6xBg
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM&
>>776&皆さんへ。
実を申しますと…、私も判断しかねます。資料を提示しますので、臼井城スレのように皆さんの知恵を拝借したく、宜敷御願いします。
前提3つ。
(1).あの「播磨屋」さんによると、1581年に広照は信長に馬を献上したらしい。
(2).一益が厩橋に入城したのは、天正十年(1582)3月23日。
(3).文中の( )内は私の付け加えです。
1.天正十年(1582)四月五日付 一益→(広照の使者?)玄三宛書状(栃木 皆川文書)。
「前回の手紙で(私が)申し入れた細かな条件を、(広照殿は)とても喜んで(了解して)くれたそうですね。
重ねての(あなたからの)返書は、私の考えをよく理解しています。
しかるは山城守(広照)殿へ、周囲の情勢を探ること整然と行うように!!
(その報告にもしも)名代を遣わしたら、どんな理由であれ追い返します。(※つまり「広照自ら来い」と暗に命じている。)
この事について、いささかも粗略なきようにする、その心がけが肝要です。恐々謹言。
四月五日 一益(花押)
玄三(殿へ)
廻章(文章を帰します)」
2.同年同月同日付 一益→皆川広照宛書状(同文書)。
「重ねての返書、恐悦に存じます。(あなたが)周囲の情勢を探ったと聞きました。
(あなたの)座席を取ってあるのに、厩橋城に参り難いとの事ですが、(つべこべ言わずに)整然と登城することがもっともです。
猶、細かい事は使者が申し入れます。恐々謹言。
四月五日 一益(花押)
長沼山城守(皆川広照)殿
御返報」
3.結論。
(1).広照が「周囲の情勢を探る」(原文では御見廻)という事は、つまり「関東諸将の目付(役)である一益の手下となって周囲の情勢を探る」事を意味しているのではないのでしょうか?
(2).仮に広照が独立した大名ならば、一益は「広照自身が厩橋に登城して報告せよ!!」なんて言いませんよね?
4.追伸
>>751&
>>756さん。とても素晴らしいです。前者は家臣団編成について、後者は神流川の戦いについて、大変貴重なレスなので、後学のため参考にさせてもらいますね。恐々謹言。
778 :
人間七七四年:2008/09/19(金) 13:38:32 ID:aoj9GuOQ
関東管領って役職、江戸時代にもあったのか
779 :
人間七七四年:2008/09/27(土) 04:07:12 ID:D68452Mw
780 :
人間七七四年:2008/10/10(金) 14:50:24 ID:dqa1W/9V
関東郡代なら聞いた事があるが。
781 :
人間七七四年:2008/10/24(金) 14:59:35 ID:7SSzieig
伊奈備前とか。
782 :
人間七七四年:2008/11/05(水) 15:10:59 ID:hhOzWSHN
最後の関東管領なのか
783 :
人間七七四年:2008/11/18(火) 13:20:53 ID:rSEDC+ye
そう言う言い方をすればそうだね
784 :
人間七七四年:2008/11/18(火) 17:46:49 ID:vu+4blV7
上杉は関東管領家としての看板は、とりあえず下ろしてないんじゃね?
785 :
人間七七四年:2008/11/27(木) 14:43:56 ID:9x6LI7SM
米沢が?そうなの?
786 :
人間七七四年:2008/11/28(金) 13:17:16 ID:oOdyQTzC
領地より茶器という感覚がわからないなぁ
俺は芸術を理解しない俗物なのか
787 :
仙台藩百姓:2008/11/29(土) 11:32:04 ID:9yBV/9yM
>>785 室町幕府が消滅したのに関東管領など存在するわけないじゃんお┐ (´ω`) ┌
そもそも謙信も憲政も景勝を後継者に指名してないし
788 :
人間七七四年:2008/11/29(土) 14:01:18 ID:81GBkrSb
人取橋での惨敗者のファンがなぜこのスレに
789 :
人間七七四年:2008/11/29(土) 18:10:16 ID:U/a8W3nG
当時の茶の湯は最新の流行
和歌連歌等をやろうとすると古典の知識や教養が必須
知識や教養も必要ない
作法もまだまだ固まってない
敷居が低くて初心者でも安心な文化だった
790 :
人間七七四年:2008/11/29(土) 18:41:50 ID:R2iNwcDY
>>787 仙台藩(名字帯刀豪農)百姓さんこんにちは(´ω`)
791 :
人間七七四年:2008/11/29(土) 22:28:23 ID:EOVlBM6j
室町幕府の役職としての関東管領は山内上杉の家督と一体化してたらしいから
だったら謙信の次は景勝になるんじゃね?
室町幕府が無くなってるのに役職が残ってるとは考えがたいけど。
792 :
人間七七四年:2008/11/29(土) 23:45:20 ID:wLqXOJgT
のぶやぼで「本能寺の変」後の瓦解した織田家で
一益プレイするのが俺の醍醐味。
793 :
人間七七四年:2008/12/06(土) 13:44:22 ID:H5o5ydeT
関東を維持出来なかったのは仕方ないね。
794 :
人間七七四年:2008/12/08(月) 19:04:36 ID:MbQyu129
この人何気に、最後の関東管領?
795 :
人間七七四年:2008/12/08(月) 20:26:11 ID:MUNQqzUm
便宜上とか勝手に名乗ってるだけじゃなくて正式任官なの?
796 :
人間七七四年:2008/12/08(月) 21:25:50 ID:UtEfvwaK
そもそも「官職」ではなく、ただの「役職」
797 :
人間七七四年:2008/12/09(火) 22:48:53 ID:ZlWp4Bae
神流川は下野の佐野も滝川方で参戦してる。
他の下野国衆はどうか知らないが滝川来てから短期間の間でも関東諸将は滝川の元へ
来てるから影響力はかなり及んでいる。
逆に北条側の影響力は相対的に弱まっている
798 :
人間七七四年:2008/12/10(水) 00:05:05 ID:EF2j+Yfb
なんだかんだで2万近く動員できたわけだからな。
もう少し時間があればよかったのにな。
799 :
人間七七四年:2008/12/20(土) 10:40:55 ID:erMeJPTS
>>792 今やっとる
上杉は滅ぼした
北条は半壊
伊達が攻めて来たので天誅を加えている
800 :
人間七七四年:2009/01/05(月) 15:49:43 ID:3vyzkxwI
一益を関東管領に任じたのは信長?
801 :
人間七七四年:2009/01/09(金) 02:30:14 ID:18Igctxd
戦国史の江戸太田家プレイで、3ターン後に君主が上杉との合戦に連れてかれて戦死した俺を見習え
802 :
人間七七四年:2009/01/13(火) 19:28:01 ID:DSvBYujB
武田氏滅亡後の上野国に入った滝川一益は関東管領の機能を期待されたとも言われており、
研究者の中には一益が実際に関東管領に就任していたという者もいるが、
信憑性には疑問も多くはっきりしていない。
803 :
人間七七四年:2009/01/24(土) 14:59:11 ID:VOfLpdfs
もしかして通称とか名乗りとかなの?
804 :
人間七七四年:2009/01/29(木) 01:03:21 ID:sSgmHknI
公方のほうは喜連川が幕末まで続いてる
805 :
人間七七四年:2009/02/06(金) 14:27:05 ID:aXEHuXWq
公方だった足利家が続いているで。
806 :
人間七七四年:2009/02/17(火) 15:02:50 ID:VlZpSISR
かつて公方であった 足利家が幕末まで続いている ということ。
807 :
人間七七四年:2009/02/20(金) 22:42:15 ID:9crnX7U/
808 :
人間七七四年:2009/02/21(土) 17:24:43 ID:WWm8osAM
本能寺の後に上野で籠城し続けていたら
織田家の行く末も変わっていたんじゃないだろうか?
家康だって滝川から要請が来たら
同盟国なんだから嫌でも援軍を送らざるを得ないし
秀吉と勝家だって内輪もめしている暇がないから織田家として援軍を送るだろうしね
織田軍が進軍すれば、甲信だってもう一度織田に靡くだろうしさ
真田がその状況からこんな展開を見越してれば織田派として上杉とやり合ってそうな気がするぜ
そうなると北条上杉とガチバトルになってくから秀吉もそれどころじゃなくなりそうだ
809 :
人間七七四年:2009/02/23(月) 05:37:44 ID:bIPb+EXM
家族がいる所へ帰るしかないだよ
810 :
人間七七四年:2009/02/23(月) 20:18:47 ID:f5+BUhgL
籠城したら、食糧の補給路が無かったのかも知れない。関東の地侍は織田に反発していたのだろう。秀吉の小田原攻めの際、成田家が忍城で籠城できたのは坂東武者だった為。
811 :
人間七七四年:2009/02/24(火) 17:52:17 ID:gOi5L35F
>>810 滝川についた関東武将はまったく反発してなかったと思ったけれども……
812 :
人間七七四年:2009/02/24(火) 19:21:45 ID:vAtNKxMs
人質取ってたしな。神流川緒戦では奮戦して氏邦勢を撃退してたし。
まあでも北条との対陣が長引けばどうなるかわからないけど。上杉も上野方面
派兵してくるかもしれないし
813 :
人間七七四年:2009/02/25(水) 16:44:27 ID:ePKTlSpU
反発はしてないだろうが心酔しているわけでもない
損得勘定で織田についただけだろう
不利と見たら寝返っても不思議はない
小勢力が生き残るためには必要なことだ
814 :
人間七七四年:2009/02/25(水) 20:48:18 ID:fOfYz/l2
>>813 関東はずっとそんな感じだったからねえ。
公方、両上杉、北条、武田など、その時々で勢力が強い方については
離れを繰り返す。
815 :
人間七七四年:2009/02/25(水) 20:53:22 ID:viEsQuF1
関東諸将は織田に心酔はしてないが北条の事も内心嫌ってそうだな
滝川が退いてからも真田、厩橋北条、由良、長尾と離反が続いてるし。
北条は中間既得権層を排除しまくってるから、関東の旧権力に連なる
連中には嫌われまくってるし.
816 :
人間七七四年:2009/02/25(水) 22:45:06 ID:7b/YuK3w
817 :
人間七七四年:2009/02/26(木) 08:20:01 ID:Guv00nh7
北条の歴史は中間搾取を排除した機構を広める歴史だからな。
最終的に味方である限り中間搾取全肯定の信長に圧倒されたのは歴史の皮肉だが。
しかし歴史的には信長の方向性は秀吉によって修正され、家康によって北条的な仕組みが
近世的システムとして確立した。
これもまた歴史の皮肉だな。
818 :
人間七七四年:2009/03/03(火) 18:21:50 ID:UrlUEswH
>>815 北条の統治システム(と呼んでも差し支えないだろう)は、本質的に
国人や地侍といった存在を否定しているからな。
そりゃあ、既得権を持つ有力者層からは嫌われるのが必定。
システムで突っ走りすぎて、勢力拡大に時間がかかりすぎたのが
大きな意味での敗因だろうねえ。
819 :
人間七七四年:2009/03/13(金) 14:13:56 ID:poc0z7fh
諸豪族の理想は 公方や山内上杉あたりのぬるい統治だろうな。
820 :
人間七七四年:2009/03/23(月) 16:21:10 ID:GjIs81OD
領民にはいいんだろうがな 北条の統治。
821 :
人間七七四年:2009/03/31(火) 20:06:08 ID:HHbTvDLG
逆に、滝川一益の関東統治で、特徴的なものはあったのだろうか。
822 :
人間七七四年:2009/04/04(土) 23:59:22 ID:K0IghfMu
823 :
人間七七四年:2009/04/06(月) 06:07:31 ID:mZo7OgO8
まあ、統治に関しては伊勢でも、悪い話も良い話も聞かないから、
それこそ可も無く不可も無くって感じだったんだろうな。
824 :
人間七七四年:2009/04/07(火) 14:07:15 ID:xpaoVgBb
一益には新しい政策のようなものはなかったのでしょうね。
825 :
人間七七四年:2009/04/07(火) 20:34:57 ID:suKEviC7
>>823 一向衆の多い地では威嚇だけでは統治できないと思うからそれなりの善政を施いただろう
826 :
人間七七四年:2009/04/11(土) 21:21:20 ID:FMk86vyB
と言うよりは一益に与えられたのは領地の発展よりも反乱や敵対大名への抑えが目的だったのでは?
もしくは領地の立て直し辺りか
一益が治め始めた時点では荒れまくってたんじゃなかろうか?
827 :
人間七七四年:2009/04/21(火) 14:51:37 ID:Do/NlItY
伊勢はひどそうだよね。
828 :
人間七七四年:2009/04/26(日) 01:15:39 ID:chsITZeK
一益が京都妙心寺にて落髪した時期は、賤ヶ岳の戦いの後であり、
小牧・長久手の戦い後では無のでは?
なぜ時期が騙られているのだろう?
829 :
人間七七四年:2009/04/26(日) 20:01:36 ID:B7nRlOaJ
初期の段階では、佐久間信盛が筆頭家老格で、信盛が光秀や秀吉を指導する立場だった。
その後、信盛が落ちぶれて秀吉・光秀が方面軍で台頭してきた。
一益は、譜代ではないから、遊撃軍みたいな地味な立場だった。
その次の段階では、一益は関東管領で東国を束ねる立場。
後10年もすれば、かなりの勢力、権力を築いているはず。
本能寺の変が10年早ければ、秀吉だって権力基盤が固まっていなかった。
秀吉は運がよく、一益は運が悪かった。
830 :
人間七七四年:2009/04/27(月) 01:54:15 ID:j9RAjkHs
関東いくころはおじいちゃんだからね
831 :
人間七七四年:2009/04/29(水) 06:21:14 ID:kRAt4XwC
>>829 それは一益を過小評価しすぎだろう
一益は北伊勢攻略をほぼ単独で任せられ領地を封じられ、城主になったのも秀吉、光秀より早い
それに信包、信雄、信孝と一門衆が伊勢国人の後を継いでも事実上伊勢の統括を任せられている
832 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 14:49:50 ID:ry1oQsEV
実質、武田に引導を渡したのも一益
秀吉との決定的な差は内政面の実績か
833 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 15:53:07 ID:tl9E/XRJ
それと運
834 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 15:53:51 ID:NGAVX0Iz
つーか、運。、むしろ運。
835 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 16:22:05 ID:SotUACO3
そうですな
836 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 17:04:48 ID:UeO67qh9
というよりお茶文化に傾倒しすぎたせいで領地よりも茶器を優先してたのでは?
中期信長「けけけ。馬鹿が茶道にハマって領地を蹴って茶器を選んでやがるw安上がりだぜ。w」
後期信長「………ちょっとハマり過ぎじゃないか?悪い事したかな………」
終盤信長「あの〜ワシが悪かったから頼むから関東行ってくんないかな………」
837 :
人間七七四年:2009/05/03(日) 19:50:21 ID:2PKVj2qY
早い段階で北伊勢の、当時の織田家の武将のなかでは大きな5郡(?)の豊饒な地を与えられてる
838 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 11:47:51 ID:lJAyLhVb
内政の差なんて何を基準に?
信長存命時の配下武将は信長の施政方針に従いそれに反する政策は信長に否定排斥されるだろう
秀吉が信長存命時に独自方針で行った内政政策は無いに等しい
むしろ柴田や一益の北伊勢統治時には領内謀反がなかったのに対し
秀吉は領内で三木や別所の謀反が起き
その鎮圧に信忠や一益、明智、丹羽ら遊撃部隊の将や柴田から前田、佐々など与力衆の増援を受けねばならなくなった
839 :
人間七七四年:2009/05/06(水) 12:37:06 ID:58owxqkz
まぁ、敵国があんまり近くにいなかった伊勢と
最前線だった播磨を比べるのもちょっと酷だけどね
840 :
人間七七四年:2009/05/06(水) 17:11:12 ID:dbdoUSJA
京との間が比較的中立な播磨・摂津/占領したての信濃
隣国は講和間際の毛利/なぜかやる気出しちゃった北条
ここらは本人とは関係ない運要素かな。
もしも一益が北条とやらかさずに帰ろうとしても
間に信濃がある以上大返しは不可能と思うけどね。
841 :
人間七七四年:2009/05/07(木) 00:42:27 ID:xfYmfLNA
家康が上洛しておらず領地に在住していたなら、美濃尾張までの地域もある程度安定して
一益の大返しも可能だっただろうけど、その場合は本能寺自体が起こらなかった可能性が
高いんだよなあw
842 :
人間七七四年:2009/05/07(木) 18:25:09 ID:Sq3ZOXG9
その場合は家康の方が先に光秀を倒すんじゃねw
843 :
人間七七四年:2009/05/09(土) 21:28:56 ID:DRBpQ08e
>>834 秀吉は子供がいないのを武器にして信長の息子を養子にして、
中国方面軍の地位を信長におねだりしたとか。
一益より秀吉の方が政治力で上だね。
運じゃなく実力の差。
結局、農民出身で苦労してきた秀吉に対して、
一益は内部抗争に無縁で平和に過ごして来たつけがまわったというか。
844 :
人間七七四年:2009/05/09(土) 21:33:46 ID:DRBpQ08e
>>838 同意。
つーか越前も伊勢も一向一揆の最前線だったから、
むしろ内政は勝家や一益の方が秀吉より上かも。
845 :
人間七七四年:2009/05/09(土) 21:38:02 ID:DRBpQ08e
>>828 自己レスだけど、秀吉お得意の改竄な気がする。
小牧・長久手は池田、森、滝川に自分の失敗を全て押し付けてる感じ。
早々に死んだ織田家重臣は改竄にうってつけだし。
この辺が秀吉の天才的なところかも。
846 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 05:12:41 ID:scYV4oSr
秀吉は戦果とかを基地外のように誇張する卑怯者だからな
蟹江合戦も滝川が大チャンス作ってむざむざ逃した完全な秀吉の失態なのに
秀吉の言う事は全て疑ってかかった方がいい
847 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 05:19:51 ID:dS8AWdHz
外様大名宛の戦果の誇張はさほど珍しくないが確かに秀吉の場合は酷すぎるな
84年時点で氏政が自分に従ったとか妄言吐きまくってるし紀伊に手出ししてないのに
もう平定寸前のように偽ったり松ヶ島城や奥城、小幡城等の攻略とか嘘ばっか。
糞みたいな性根の持ち主だと思う
848 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 09:22:52 ID:bzuMOq56
>>846-847 なにこのあからさまな自演。各所でアンチ秀吉のキチガイ自演が湧いているけど、
これもそれっぽいな。
849 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 11:17:12 ID:wOCFE0AT
>>847 情報伝達網が発達していなかった当時は、それは普通だったみたい。
合戦で負けても勝利宣言をするのは常套手段であったし、
その戦い自体を無かったことにする場合もある。
(例:松川の戦い、手取川の戦い)
一益は小牧・長久手の戦いの後、2年もたたずに死んでしまったから、
つけこまれたのだと思う。
850 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 11:44:20 ID:wOCFE0AT
>>847 そもそも賤ヶ岳の頃から秀吉は性根が曲がってる。
柴田勝家がお家存続を訴えているのに対し、
秀吉は織田家簒奪の事しか考えていなかったのだから。
多分秀吉は、織田家重臣なんて全員嫌いなんだと思う。
恩人の堀や蒲生も北国にとばされてるし。
逆に外様の小早川、上杉、長宗我部、島津、伊達なんかには甘いというか、
むしろ好きって感じ。
相当嫌な思いをしてきたのだろうねww
851 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 16:24:53 ID:Kt6tdNsE
ようは秀吉は馬鹿で中身のない要領と運と表面だけの男 能力はいうまでもないが、人格的にも駄目
そういうなあなあの中身がない秀吉に象徴されるようななあなあで中身のない表面だけの政権だから
本人死んだだけでもろく崩れ去った
同じ織田家の柴田らと仲が悪いというのが本当なら実力のなさを見抜かれてたからだろうな
同じ低い身分出身の滝川はイジメにあってないし 氏政に嫌われたのも(ry
852 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 16:28:27 ID:NgnH5o/C
つーかここ滝川スレだし気分悪くなるからあんなゴミ武将の話はやめようぜ。
853 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 16:33:43 ID:bzuMOq56
854 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 17:25:26 ID:u/DRchCT
何を根拠に自演とかいっとんの?秀吉嫌いの人間なんかいくらでもいるんだろ
そういう決め付けしかできんから秀吉厨は嫌われるんだよ
855 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 18:08:58 ID:wOCFE0AT
>>851 能力も人格も出自も中身も駄目なのに日本統一って、凄くね?
俺にもその駄目な能力とやら授けて欲しい。
856 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 18:15:41 ID:wOCFE0AT
>>851 政権として見れば徳川政権の方が弱体かと。
豊臣恩顧の大名や地方大名に恨まれて、成立時ですら海外遠征なぞ全くできず、
外様や譜代の重箱の隅をつつくことに苦慮してたわけだし。
857 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 18:40:11 ID:xY0+6nQ8
表向きにはヘラヘラしててそれで皆だまされてついてくる奴が多いんだろ
織田は勝手に膨張していったが秀吉が果たしてきた役割なんて初期じゃほんのごく一部分
後期でも軍団長の一人としてのみ。そこで光秀が謀反起こして主殺しの汚名被ってくれたから
運よく大義名分を手に入れ皆を味方につけられ勝てた。後は物量に任せてゲーム作業的に統一すりゃいいだけ。
運と要領と表面のよさだけ。実質は中身も器量も容姿もないキモヲタだから側室抱えても
側室が秀吉に抱かれるのを必死で嫌がり子供ができなかった。
家康は海外遠征なんて愚行をする気がなかっただけじゃないの?
家康死んでも260年の太平の世が来たし弱体とは到底思えないが
858 :
人間七七四年:2009/05/10(日) 19:29:50 ID:vf5z9son
秀吉は馬鹿
859 :
856:2009/05/10(日) 20:06:15 ID:wOCFE0AT
ごめん。つまらないからこの話題止める。
860 :
人間七七四年:2009/05/22(金) 15:47:43 ID:9C2cYmzS
戦はうまいか。
861 :
人間七七四年:2009/05/22(金) 21:21:57 ID:k47+BgTm
ド下手。対中国、光秀、柴田、滝川、家康、信雄、紀州、九州、小田原とどこいっても醜態晒しまくってる
大軍で寡兵の敵に苦戦や負けを繰り返しまくるゴミ。
862 :
人間七七四年:2009/05/22(金) 21:26:25 ID:k47+BgTm
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・ 熊見川で毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で襲ってしばらく持ち堪えられる
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取る
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
863 :
人間七七四年:2009/05/23(土) 01:49:47 ID:teVn+NGP
>>860 滝川一益は 戦がうまいか、という話題ではないでしょうか。
864 :
人間七七四年:2009/05/24(日) 01:16:42 ID:MSImgPdC
うまいと思う。
つうか猿コンプレックスがでしゃばりなあなあ論述WWWWWWWWWWWW
865 :
人間七七四年:2009/05/27(水) 23:25:13 ID:eU1SmhgL
横レスに横レスで申し訳ないのですけど、
変な言葉使うの止めて貰えませんか?
毎回、折角の長文を書いて貰っても、カタカナのほとんどが罵詈雑言で、
それが目立ってしまい残念な感じです。
866 :
人間七七四年:2009/06/02(火) 13:10:27 ID:bX6nJBov
1571 常陸岩井合戦 北条vs佐竹・多賀谷 引き分け
1573 下野多功原合戦 北条vs佐竹 佐竹勝利
1576 常陸下妻合戦 北条vs佐竹・多賀谷 佐竹・多賀谷勝利
1578 常陸小川台合戦 北条vs佐竹・結城・宇都宮 引き分け
1581 下野佐野合戦 北条(氏邦)vs佐竹 佐竹勝利
1584 下野沼尻合戦 北条vs佐竹・宇都宮 引き分け
867 :
人間七七四年:2009/06/02(火) 15:59:28 ID:Lt3VpDdm
>>865 白丁には触れないで下さい
貴方に穢れが感染してしまいます故
868 :
人間七七四年:2009/06/02(火) 20:05:25 ID:JGSIFUGq
>>866 とりあえず1576年までは関東に上杉謙信がほぼ毎年来てたからそちらへ援軍出したりしてる上に
74年までは北武蔵羽生領や深谷領、下総関宿水海への攻撃が主でその後も76年までは房総の里見、
下野南部の榎本小山への攻撃が主で常陸方面への外征は小田など一部の部隊が行ってるだけだ。
下野進出や房総平定により関東の反北条勢力は佐竹を中心に一統し
危機感を持ってお互いに婚姻関係を結び合い反北条連合を形成(那須、宇都宮、結城も加わる)
しかも1578には鬼怒川対陣があるがその後越後派兵、勝頼との対戦と多方面戦力を強いられ
壬生、佐野、皆川も佐竹に寝返る
佐野合戦が81年というがこれも実際に対佐竹方面に行ってたのは一部分の部隊だけだろ?
沼尻は葦名、田村、二階堂、岩城、白川など南奥州連合諸将の連中もこぞって援軍に駆けつけ
佐竹方史料では8000丁もの鉄砲持ってたからそうそう手出しはできまい。
あの藤岡〜榎本〜小山〜新田〜館林のラインは湿地帯が多い関東の中でも特に沼地だし
まとまって抗戦されれば超えるのに苦労するだろ。
それから下妻合戦とか佐野合戦って関八州古戦録とか講談類がソースじゃなかったか?
佐野はもう81年以前に離反してるはずだが
869 :
人間七七四年:2009/06/12(金) 14:57:00 ID:IK2HgXQa
一益が関東に来たの何年だっけ?
870 :
人間七七四年:2009/06/12(金) 18:42:38 ID:CWNU5gZ4
天正10年
871 :
人間七七四年:2009/06/17(水) 21:47:36 ID:VcUtakHc
神流川の合戦の時、
・一益は小田原城北条氏政と鉢形城北条氏邦に信長の死を伝え弔い合戦のため上洛したい旨、使者を送った。
・「北条五代記」には氏邦に対して「厩橋城を受け取りに参れ」と挑発するような内容だったと書かれている。
って2通りの説があるけど、どっちが可能性高い?
872 :
人間七七四年:2009/06/18(木) 01:54:40 ID:M7XWHW+T
873 :
人間七七四年:2009/06/21(日) 14:41:49 ID:Fs/zo6CW
>厩橋城を受け取りに参れ
なんで織田家の人が、北条に厩橋城を渡そうと考えたんだろう?
一応、味方だったんだから、普通は支援よろしくとかじゃないのかなー。
874 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 07:35:50 ID:h6rK4wDj
オイオイそのまま受け取るなよwww
欲しかったら自分で取ってみやがれって挑発だよ
875 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 14:15:50 ID:szcWdtIJ
一益は純粋に明け渡しますという意味だったのを北条方が挑発と受け取ったんだったりして。
876 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 15:40:30 ID:eNVBxK4R
なんで明け渡す必要があるんだよw
877 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 21:56:06 ID:t6X7bobK
味方のはずの北条方が厩橋城を欲しがってるの、どうして一益にバレちゃったの?
878 :
人間七七四年:2009/06/25(木) 22:59:41 ID:WmcR1O/a
>>166 >何も北条家はあくまで同盟国で攻めて来たわけでもなければ、敵対を表明してきたわけでもない。
>一方的に金窪城を攻めてきたのは一益なわけだが。
遅レスだけど、
6月16日、北条氏直(4万3千)倉賀野表(群馬県高崎市)に進出。
本庄に本営を置き、富田、石神に布陣、(小田原-倉賀野130km:最低5日必要な距離)
6月18日 金窪城落城、北条氏邦(鉢形城城主)敗北
6月19日 北条氏直合流、一益敗走
どう考えても、これ北条の侵略戦争だろ!
879 :
人間七七四年:2009/06/25(木) 23:03:58 ID:WmcR1O/a
ちなみに厩橋城-金窪城の距離は、20km以下。
880 :
人間七七四年:2009/06/26(金) 01:14:11 ID:dMcfxStj
>>878 「侵略戦争」の意味を勉強しなおしてこい
881 :
人間七七四年:2009/06/26(金) 23:31:34 ID:d69LvBai
882 :
人間七七四年:2009/06/27(土) 11:51:58 ID:TH8qHx7C
北条氏直は、6月9日か10日には小田原を発っているんだね。
一益が本能寺の変を知ったのが9日くらいだから、
全く躊躇せず同盟破棄の裏切りを決断してることになる。
さすがは坂東武者。
っていうか、祖父の代から騙まし討ちと夜襲の家系だったかw
883 :
人間七七四年:2009/07/07(火) 14:54:19 ID:zBmfjz1V
随分速くて思い切りがいいね。
884 :
人間七七四年:2009/07/11(土) 19:46:13 ID:wWvJSh5Q
この人、どういうつもりで大徳寺の法事に行ったんだろうね?
885 :
人間七七四年:2009/07/11(土) 19:52:26 ID:bcrjMUzK
鳥羽城は無償なワケだし有力武将の1人としてだろバカ
886 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 00:02:53 ID:YSePJclW
9月11日、お市の方、妙心寺で信長の百箇日法要を営む。
9月12日、秀吉、大徳寺で信長の百箇日法要を営む。
10月3日、秀吉、従五位下左近衛権少将。
10月15日、秀吉、大徳寺で信長の葬儀を営む。
一益は勝家(主催の)の法要でなく秀吉の法要に出席したかったのかな?
本心は秀吉側につきたかったとか?
887 :
人間七七四年:2009/07/13(月) 22:38:36 ID:o5l1QBN7
一益が信雄と組んでいたら、四国勢の畿内上陸が実現したろうに。
888 :
人間七七四年:2009/07/15(水) 16:12:05 ID:sAQHUApH
889 :
人間七七四年:2009/07/15(水) 18:13:54 ID:YOevIKp2
>>888 その後も旧知の信雄でなく秀吉側についてるし、
特に恨みとか無かったんじゃないかなー。
890 :
人間七七四年:2009/07/15(水) 19:20:16 ID:mfhSQB+f
滝川しかり前田や佐々もそうだが
元同僚同士の争いだから厳然と敵味方に分けきれない所が
本能寺後の後継者争いの面白さ と言ってみる
仮に柴田が光秀を打ち、滝川が史実通り北条に負けていたら、後継者争いでは秀吉側についたかも知れんね
891 :
人間七七四年:2009/07/15(水) 22:47:53 ID:/a8DcADJ
いや一益はもう歳とりすぎ お茶しながらマッタリしたいんだよ
892 :
人間七七四年:2009/07/16(木) 11:43:11 ID:CO1E5Bc5
政治的センスは感じない
893 :
人間七七四年:2009/07/16(木) 22:42:07 ID:1Pk18fVM
ずっと伊勢でマターリしてたからね。 つ旦
894 :
人間七七四年:2009/07/16(木) 22:57:19 ID:EsgX0NeC
60歳で本拠の伊勢から遠い関東への赴任を命じられるって
今なら70過ぎの外務官にロシアや中国の全権大使を任せるようなもんか
信長は人使い荒いなあ そりゃ織田四天王の秀吉・勝家・光秀・一益 皆良い年になっても実の男子が居ない訳だ
子作りしてる暇も無かったのか、そうなるように信長が介入してたのかは分からんけど
895 :
人間七七四年:2009/07/17(金) 00:25:29 ID:8kztuuYR
>>894 信長も、この時代の国主レベルの生まれの人間としては、子作りが遅い。
あと明智や滝川は、若い頃は流浪で織田家に仕えてからもしばらくは
激戦が続くから、やっぱ自然と機会が少なかったんでは。
896 :
人間七七四年:2009/07/17(金) 08:14:42 ID:H3j+PGpQ
種無しばっかだったのか記録が無いだけで死産した子供が居たのか・・・
897 :
人間七七四年:2009/07/18(土) 19:43:54 ID:KsX5BZBN
一忠誕生時、28歳は遅いの?
光秀はそれなりに子福者なんだが・・・
柴田にも実子が落ち延びた説はあるけれど、これは伝承臭いかな。
899 :
人間七七四年:2009/07/21(火) 07:55:07 ID:nfYB30v9
>>897 当時だと20歳までに子供がいないと遅く感じられる。
>>898 柴田の子は旗本になってるだっけ?
901 :
人間七七四年:2009/07/22(水) 14:09:48 ID:V0xlV4g8
902 :
人間七七四年:2009/07/25(土) 08:28:07 ID:rjY6sq5f
903 :
人間七七四年:2009/07/28(火) 14:26:53 ID:MPGPfvX6
>>899 毛利元就は26才で長男生まれてるよ。
北条早雲は31才以降。
15、16で子作りは恵まれた上層階級だけとか推測してみる。
904 :
人間七七四年:2009/07/28(火) 14:42:27 ID:kB92eyzY
>>903 >15、16で子作りは恵まれた上層階級だけとか推測してみる。
全く関係ない
905 :
人間七七四年:2009/08/05(水) 19:17:20 ID:8x0Vumcr
津田秀政は織田の一族なのに、なんで一益の与力になったのかな?
906 :
人間七七四年:2009/08/06(木) 07:09:20 ID:afG0P3z6
>>905 松平で酒井本多大久保なんかの下についたのはいくらでもいるが
907 :
人間七七四年:2009/08/17(月) 15:40:50 ID:RHrN3u8y
家臣で居たということ?
908 :
人間七七四年:2009/08/20(木) 10:10:58 ID:V3VpaSv+
明日で三周年記念age
909 :
人間七七四年:2009/09/01(火) 15:37:07 ID:cCTQDX+F
同じ頃立ったスレ多いよね。
910 :
人間七七四年:2009/09/11(金) 15:17:54 ID:52RZ7+XQ
歴史を刻む
911 :
人間七七四年:2009/09/21(月) 16:02:17 ID:pEvZX7R2
運はなかったね。
912 :
人間七七四年:2009/10/02(金) 15:30:36 ID:9MeGXcbe
それはそうだ。
913 :
人間七七四年:2009/10/04(日) 00:00:50 ID:Zyevtu24
縁談断られたの誰だっけ?
914 :
人間七七四年:2009/10/08(木) 17:03:43 ID:F9jmCTAY
よく考えたら伊勢攻略って凄まじい功績だよな。
美濃攻略と違って総力戦で臨んだ訳でもないし、尾張と美濃を抑えたとはいえ伊勢も動員能力で言えば結構な数を揃える事が出来るし。
武田の信濃攻略と比べたら、凄さが際立っているな。
そもそも武田の信濃攻略事態が凄まじいと言えるだけにな。
915 :
人間七七四年:2009/10/09(金) 09:07:03 ID:1L4+2IGt
滝川は前線司令官だから、引く手数多だと思うよ
916 :
人間七七四年:2009/10/10(土) 14:24:30 ID:u4DaMlh5
逆恨みして屋敷に討ち入った武将なんだけど。
917 :
人間七七四年:2009/10/15(木) 21:08:48 ID:zEoBo/9Y
兵の将としては極めて優秀
将の将としては極めて凡庸
それが滝川一益
918 :
人間七七四年:2009/10/17(土) 00:14:56 ID:6ePfAfv8
海音寺さんの作品では『新太閤記』もそうですが、例えば、賤が嶽の戦い当時の秀吉の運の良さについて、
運のよいやつにはかなわないのである。高松城の攻囲以来、秀吉のつきようは尋常ではないのである。
と述べています。かなわなかったのが柴田勝家なのはみなさんよくご存じと思います。
(どう運が良かったのかは作品を読んで確認してください)
一方、『新太閤記』で不運な人物として引かれているのは滝川一益です。小牧・長久手の戦いの際、過去の汚名返上を企図した滝川一益でしたが、結果として失敗してしまいます。海音寺さんはそれを評して、
919 :
人間七七四年:2009/10/17(土) 00:15:37 ID:6ePfAfv8
老人雑話に、
「信長の時は天下の政道四人の手にあり。柴田、秀吉、滝川、丹羽なり。左近(滝川、左近将監に任ず)、武勇は無双の名ありて、度々関八州を引受けて合戦す。
関八州の者は滝川の名を聞いても畏れしほどなりし。末に至って散々の体なり」
とあるが、ぼくは運に見放されたのだと思う。蟹江城を手に入れて、長島城と清洲城の連絡を断ち切ろうとした戦略は、
滝川のすぐれた謀略を十分に証明している。ぼけてはいないのである。ただ、彼はそれまで浪人していたために、よい部下が少なくなっていて、
大野城の攻略に失敗したり、潮時が悪かったりしたために、万事皆うまく行かず、ついに手も足も出せなくなった。運命に見はなされていたといわざるを得ない。
と述べています。深刻ですね。運に見放された滝川一益のその後はよく分かっていないそうです。
920 :
人間七七四年:2009/10/18(日) 12:06:46 ID:1CDTY9bj
滝川一積は天正10年に生まれているんだね。
母も真田家かな?
921 :
人間七七四年:2009/10/19(月) 11:51:26 ID:Oi0FC2w6
出自不明w
922 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 16:37:48 ID:wuo0VfOk
これだった。元の文献は何だろう?
ttp://blogs.yahoo.co.jp/rowmoment_boy/7007454.html ○不破光治 (*〜1580)太郎左衛門・彦三・河内守。美濃、斎藤家元重臣。
稲葉・氏家・安藤と西美濃四人衆のひとりで、かつ越前府中三人衆のひとり、
10万石。次男・彦五郎は本能寺で討死。嫡男の嫁に瀧川一益長女に縁談を
申し込むが断られ、瀧川屋敷に討ち入った。次男・兼光は佐々成政の養子・
佐々成光。
▽不破勝光 (*不詳)彦三・直光・家光・全忠。不和光治の嫡男。府中
三人衆のひとり。老齢の父に代わり早くから部隊を率いる。越前府中で
3万3千石を領す。1582年信長の信州諏訪在陣の衆にみえる彦三は、
光治の後継・勝光。1582年越中富山城の攻防に軍功。越前龍門寺城主。
<津田秀政もしくは瀧川雄利あたりに縁談をとられたのでしょうか。>
923 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 21:46:02 ID:/YCO4JnL
そのブログ、いろんなサイトからコピペしているだけっぽいから、
元になっているサイトの人に聞かないと分からなそうだ。
924 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 01:07:51 ID:IJITKmmG
益重と益氏って同一人物ですか?
事績が被っている上に100歳越で生きてることになってるし・・・どうもよく素性がわからない。
親子二代の話とかがごちゃまぜになってたりしますか?
925 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 12:52:08 ID:TkVh6JkS
佐治新助とも同一人物なのか。
ますますわからんね。
926 :
人間七七四年:2009/10/28(水) 11:55:49 ID:7Y6WsWBR
峰城は滝川益重
亀山城は佐治新助=滝川益氏?
でよさそう。
先に峰城主とされたから身分は益重>佐治新助か。
すると遡って沼田城代は益重となり、滝川義太夫=益重?
佐治新助は、甲賀二十一家の佐治家ゆかりの人っぽい。
サントリーの演説家w佐治敬三の祖先だとか。
その線で行くと、
>佐治新助が任された亀山城は篭城半年にして落城したが、その奮闘を賞されて命は助けられた。
>その後の新助家は、尾張国稲沢の地で代々医者として続いてきたが
とあるから、滝川姓は捨てられている?
以上からいくと、峰城で奮戦し九州征伐に行ったのは滝川益重かな?
>事績が被っている上に100歳越
詳しくお願いします。
927 :
人間七七四年:2009/10/28(水) 12:05:07 ID:7Y6WsWBR
過去の質問まとめ。
Q.なぜ一益は金窪城を攻めたのか?
A.北条氏直が小田原から北上してきた為。
Q.一積の母は誰か?
A.不明
Q.一益長女と不破光治の破談、屋敷討ち入りは本当か?
A.元の文献が不明
Q.益重と益氏は同一人物か?
Q.津田秀政が一益の与力になったのは上野からか?
928 :
人間七七四年:2009/10/28(水) 13:05:35 ID:xphTWaRp
ID:7Y6WsWBRは北条スレ荒らしているキチガイか。
929 :
人間七七四年:2009/10/29(木) 01:45:21 ID:zdWW55jw
滝川益重1523年(大永3年) - 文禄元年(1592年))
滝川一益1525年(大永5年) - 天正14年(1586年))
滝川益氏1527年(大永7年) - 寛永12年(1635年))
930 :
人間七七四年:2009/10/31(土) 03:55:23 ID:ML3wqKyx
面白く拝見させてもらっております
このスレの主旨は、本能寺以降の話ですかな?
次スレが立つようでしたら
是非、それら関連スレの紹介などテンプレも
どなたかに願いしたく。
・・・はっはっは。では名無しに戻ります
931 :
人間七七四年:2009/10/31(土) 11:29:00 ID:MF3BCDJJ
>>929 100歳越えとかまず無いから、誰かと混同してるね。
>>930 滝川氏関連なら何でもOkのスレでは?
932 :
人間七七四年:2009/11/01(日) 09:07:44 ID:AFVwntFH
一時に関する文献ってなんかあります?
933 :
人間七七四年:2009/11/12(木) 15:46:25 ID:YDdTD4az
一勝から一が通字になったんだ。
934 :
人間七七四年:2009/11/21(土) 15:19:48 ID:t6oZsyvU
短い期間だね
935 :
人間七七四年:2009/11/28(土) 13:10:03 ID:iglMcpJc
中村一氏も通字が一だから同族の場合もっと古いかも。
936 :
人間七七四年:2010/01/02(土) 11:42:14 ID:pyx+zGrj
どうだろうね。
937 :
人間七七四年:2010/02/01(月) 21:40:15 ID:11ZcPF0S
益氏、益重、利益?とかは、一益にあやかっての名だよね。
すると兄弟でなく、甥か養子あたりが妥当かな?
938 :
人間七七四年:2010/03/28(日) 10:44:18 ID:wHN/EDSJ
先祖に益が付く人いないね
939 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 00:07:47 ID:kLydQDoX
良スレ
940 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 07:53:44 ID:oLBM1M7O
忍者
941 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 23:57:45 ID:L2W5AA6E
滝川一益は忍者かどうかだけど、
慶長以前は忍者=ゲリラがほぼ実情に即しているわけで、
甲賀、伊賀、根来に住んでいれば、ゲリラ戦術の理解度は高いはず。
密偵能力なんてのは一般民衆に溶け込めればいいわけで、ゲリラそのもの。
一益は忍者では無いと断言する方が難しいような。
逆に服部半蔵なんかはほとんど武士だけど、伊賀同心の頭だから忍者扱い。
区分けが難しい。
942 :
人間七七四年:2010/04/25(日) 16:18:18 ID:ny1cFs2H
>>886 一益が剃髪した妙心寺は、信長の百箇日法要が行われた寺だったんだね。
ところで妙心寺で剃髪したという話の出所(一次資料)はどれだろう?
丹羽氏の越前大野で蟄居とか、時期的に賤ヶ岳後だと思うんだけど、
武功夜話か武家事紀あたりかなぁ?
943 :
人間七七四年:2010/04/30(金) 04:17:48 ID:seP+ckzW
>>941 そんな事言い出したら、調略に関わったり、奇襲攻撃の事績がある奴は
全部忍者になってしまう。
あくまで「忍者」は物語の中での話だけ。
服部のも言わずもがな。
滝川に至っては、そんな事績もないし
伊賀・甲賀に関係したら全員忍者みたいな認識はおかしい
944 :
人間七七四年:2010/05/06(木) 21:03:47 ID:T+qSXE/a
ということは忍者は現実には江戸時代以降にしか存在しなかったという結論?
945 :
人間七七四年:2010/05/09(日) 18:29:32 ID:8aXO0AfH
俺はこの人の子孫だって言われた
まあ、冗談だと思うけどさ
946 :
人間七七四年:2010/05/26(水) 12:39:36 ID:RfsLSF2W
947 :
人間七七四年:2010/08/19(木) 08:15:15 ID:b9NiwO2w
良スレ
948 :
人間七七四年:2010/09/04(土) 09:44:29 ID:HRRRPuTB
保守
この人が大大名になる選択肢あったのかな?
949 :
人間七七四年:2010/09/04(土) 09:54:46 ID:B0/Vxs8I
・本能寺の変が起こらなかった
・本能寺の変後に物凄い勢いで情報を察知して物凄い勢いで関東まで戻って光秀を倒す
・勝家につかず秀吉につく
・秀吉にどうにかして勝つ
これぐらいじゃねーかな……
3番は丹羽と同じ末路を辿りそうだからお勧めはしない
950 :
人間七七四年:2010/09/04(土) 10:22:47 ID:HRRRPuTB
>>949 本能寺の変を選ばない選択肢が一益にあるのですか?
951 :
人間七七四年:2010/09/04(土) 11:16:22 ID:B0/Vxs8I
>>950 謀反が起こりませんようにって、仏に祈る…とか…?
952 :
人間七七四年:2010/09/04(土) 14:20:47 ID:P0Xr1KkS
>>948 つ 神流川の戦いをどうにかして勝ち、関東に地盤を築く
953 :
人間七七四年:2010/09/04(土) 15:16:58 ID:CyMKq1kO
光秀を出し抜いて一益が本能寺の変をおこす
954 :
人間七七四年:2010/09/04(土) 18:30:51 ID:HRRRPuTB
>>952 なにもしないと領国分解だったんだろうか?
955 :
人間七七四年:2010/09/04(土) 20:18:03 ID:9nnIEiCe
領国を北条から守りながら様子を窺う、または徳川と合流するとか
持久戦はやれば出来たかも知れんね 実際徳川に手紙を出してるんだっけ?
ただ「引き返して明智を打つ」をやるためには北条と一戦交えて和睦する必要がでてくる
それをやろうとした所はやっぱり一益も戦国武将だったんだろう
逆に大坂で手をこまねいていた丹羽はかなり軍人になっちゃってるな 信長が安心して近くに置いたのも分かる
956 :
人間七七四年:2010/09/04(土) 21:54:34 ID:HRRRPuTB
>>955 逆に上手くいっていれば秀吉位置に行けたのかな?
957 :
人間七七四年:2010/09/04(土) 23:36:45 ID:9nnIEiCe
神流川の戦いって戦国時代の関東で最大規模の野戦なんだっけ?
資料が少ないから詳しくは語れないけど、にわか仕立ての一益側が勝つのは相当困難だよね
運良く勝つか引き分けても、戦後処理をやってるうちに秀吉に先を越されそうだ
後知恵で見ると関東で領国を守っている間に天王山の戦いを迎えた時の方が一益にチャンスがありそう
958 :
人間七七四年:2010/09/05(日) 00:24:54 ID:IyGi96bA
神流川の戦いはどうすれば勝てたんだろうね?
信長信忠死亡が知れ渡っても、ほぼ外様状態だった関東諸侯が裏切らなかったってのが凄いよね
その状態で2万近い兵を動員できたんだし、戦力的に勝つのは不可能…じゃないと思う
実際、第一次合戦では勝ってるし、第二次で深追いせずにひたすら粘ってれば案外どうにかなったんじゃないかな
光秀の謀反は三日天下でした。って北条が知れば、北条は速攻で和睦出してくると思うんだよね
織田家に対して勝てないのがわかりきってる分、とにかく下手に出て友好関係を結ぼうとしてた背景もあるし
本能寺の変を知っても信長信忠の死亡が確実になるまでは、一益の上洛の応援までしてるんだぜ、あいつら
後はまぁ、それか圧倒してた第一次合戦で気合で氏直を討ち取るぐらいしかないかw
ただ、これは歴史を知ってる人間が言ってるだけだからな……
光秀が三日天下だったなんて関ヶ原の戦いの早期決着並に予想がつかない
一益が粘ろうとしないで短期決着に走ろうとするのも無理はないっていうか、普通というか……
粘って籠城しても普通は勝ち目ねぇって思うもんなぁ
959 :
人間七七四年:2010/09/05(日) 02:13:45 ID:hCQ55JbB
>>957 滝川家家記の滝川事書や戦後の第三者的な立場の者が書いた書状(北条滝川武田皆に敬称がふされている事から)
上野国衆勢は緒戦で北条先鋒氏邦勢に勝利し300余り討ち取る奮戦を見せている
元々上野の諸将は70年台前半よりずっと北条家に歯向かう者が多くまた滝川が去って後も
厩橋北条、真田、由良長尾と離反が続いてるため神流川での奮戦は至極自然である
本戦で氏直のとったわざとやられたふりをして陣地にひきよせ、これを叩く戦術が素晴らしいだけ。
実戦経験はまだ滝川に比べたら浅いだろうに戦術センスは流石武田の血を引くだけある
960 :
人間七七四年:2010/09/05(日) 02:48:30 ID:JDRh+tth
織田厨は滝川軍が寄せ厚めだったとか統治期間浅いから仕方ないとか妄想垂れ流して氏直を評価しようとしないから論外
滝川側史料の記録でも敗戦の言い訳的な記述は全くないしむしろ北条側の戦術を詳細にかいてる
ランチェスターの法則から2倍程度の兵力差(滝川事書の記述と若御子対陣の動員兵力などから推測)なら半分くらいの被害があっていいはずだが10分の一の被害で済んだ(史料より)のが氏直の采配
相手が滝川じゃなきゃ竜造寺みたいに戦死してただろーな
961 :
人間七七四年:2010/09/05(日) 02:57:32 ID:DHrlXwG1
氏直 統率83 献策を行った松田知略84 大道寺72 滝川 統率84 知略89
このくらいが妥当
962 :
人間七七四年:2010/09/05(日) 02:59:39 ID:DHrlXwG1
逆に氏康 綱成は過大
963 :
人間七七四年:2010/09/05(日) 09:58:32 ID:vHyLlK1h
なんでいきなり数字がでてくるのか
964 :
人間七七四年:2010/09/05(日) 10:27:27 ID:Gxi0bKLd
>>958 >信長信忠死亡が知れ渡っても、ほぼ外様状態だった関東諸侯が裏切らなかったってのが凄いよね
北条ですら京都周辺がどうなってるか確実に掴むのにだいぶ手間取ってるわけで
関東の小豪族が、実際に中央の情勢がどうなってるかを確認するには随分と時間を要した。
関ヶ原の時の東北勢みたいなもんで、よくわかんないまま属した連中がほとんどだろう
だから実際に事実が知れ渡った頃にはみんな北条に寝返ってる。
あと、一益が自ら本能寺の変を諸豪族に知らせて求心力を得たって話もあるけど
実際には「信長は討たれてないよ」って偽情報を国人に出した一益の手紙も残ってて
真相がよくわからんうちに戦がはじまっちゃったんで、
そのまま一益の下にいた連中は北条と一時的に戦ったまでだと思う
965 :
人間七七四年:2010/09/05(日) 11:07:48 ID:WiPEny0M
>>960 混戦での戦いならランチェスターどうりの損害になるだろうが
互いに陣形組んで戦う以上期待どうりの損害率になることはないぞ
966 :
人間七七四年:2010/09/05(日) 12:45:29 ID:pifJhXFn
触れるな危険
967 :
人間七七四年:2010/09/05(日) 13:54:09 ID:BViXLmSb
>>964 倉賀野とかはともかく真田も北条隆弘も由良も長尾も北条を裏切ってる上本能寺前も由良長尾以外敵対
上野はいわば反北条色の掃き溜めだろ
北条の徹底管理型統治嫌がって自治権認めた他勢力頼ってるから神流川でも奮戦して氏邦を倒した
>>965 陣形を崩したり敵を釣り出して包囲したりするのが戦術というもんだろ
普通に戦えば大損害のところを見事な用兵によって最小損害ですんだ
968 :
人間七七四年:2010/09/05(日) 17:12:43 ID:WiPEny0M
>>967 戦術とか用兵とか言い出したらますますランチェスターどうり
の損害率からは外れるぞ
969 :
人間七七四年:2010/09/05(日) 17:32:41 ID:eX2dvst6
資料が少ないのに詳しく語ろうとしなくて良いよ
ここまで誰も「北条は弱い」とか書いてないのに熱くなる事も無い
970 :
人間七七四年:2010/09/05(日) 20:30:12 ID:4QP9ivbW
>>969 史料はちゃんと残ってるしこんな詳細に合戦状況わかる合戦なかなかないだろ
とりあえず
>>959>>960くらい読め
軍記ではなく記録として残ってるのに詳しく語らないとか基地外だな
これが評価に値する合戦じゃないなら評価に値する合戦なんて存在しないな
>>968 意味不明
普通に戦ったら大損害受ける⇒偽退却釣り込み戦術で最小被害で済んだ
ちゃんと日本語くらい理解しろ
戦闘を有利に進めるのが戦術なのにランチェスター法則とおりに
被害なくて済んだ事評価しないとか基地外だな
971 :
人間七七四年:2010/09/05(日) 22:21:04 ID:Gxi0bKLd
滝川スレで北条の強さを熱く語り過ぎてる自分も場違いだと気付けよ
972 :
人間七七四年:2010/09/06(月) 11:46:19 ID:HcHzCwiu
>>680 そうだとしたら尚更この時の北条の軍事行動は早すぎないですか?
開戦決定からわずか9日〜12日?で4万を超える兵が実際の戦闘行動開始するってのは当時の常識からしたらどうなんだろう?
973 :
人間七七四年:2010/09/06(月) 11:55:30 ID:U0MnB53P
その手の「数万の軍勢が〜」ってのは大半が誇張込みだから
滝川サイドからしたら、「それだけの軍勢で攻められたので致し方なく撤退した」となるし
北条サイドからしたら、「滝川に臣従していた国人層がめっさいたのに、それだけの兵を急遽集めて打ち勝った」となるわけだし
実際に誇張抜きで数万規模の兵が戦った合戦なんて関ヶ原とか大阪の陣くらいじゃねーの?
974 :
人間七七四年:2010/09/06(月) 12:05:03 ID:sQMspaYk
滝川側史料の滝川一益事書読め。
滝川は1万8000の兵集めてこのうち10000の上野国衆の活躍が書かれてる
ちなみに北条4万は天正壬午の若御子対陣の兵数が2万だった事からも
小田原合戦時34000だった事から普通にありえない。
975 :
人間七七四年:2010/09/06(月) 12:15:57 ID:HcHzCwiu
じゃあ例えば1万でも1万5000でもいいけど
誇張抜きで当時1万超えたらかなりの大軍だよね?
976 :
人間七七四年:2010/09/06(月) 12:22:29 ID:AyzhmVIm
滝川側の動員は戦後の書状より上野衆(倉賀野や小幡等)が集まって
北条方と戦闘に及んだ旨が書かれまた滝川事書にも具体的兵数が書かれてるので
大軍を動員した戦いだったのは間違いない。
神流川合戦記などだと滝川軍34000という馬鹿でかい数字が使われてるくらいで、
この戦いがいかに大規模な物だったかを物語るものだろう。
977 :
人間七七四年:2010/09/06(月) 17:08:52 ID:IzfR8s27
>>972 北条の軍勢は明らかに過剰。織田方に領土削られまくっていた時期で
北関東はもちろん北武蔵の諸豪族や房相一和があるにも関わらず里見氏
ですら滝川一益と接触をとっていた。そんな時期に4万人もかき集めること
なんて不可能。
>>975 そりゃもちろん大軍。でも、当時の近畿地方では大軍を集められるような
時期になっていたのは確かだし、関東だって天正壬午の乱ではかなりの
大軍を集めていた。山崎の戦いでは秀吉軍4万vs光秀軍1.6万、賤ヶ岳の
戦いでは秀吉軍5万vs勝家軍3万。
978 :
人間七七四年:2010/09/06(月) 18:08:50 ID:U0MnB53P
山崎とか賤ヶ岳の実数もだいぶ誇張入ってると思うけどなあ
徳川とか豊臣とか政権取った側の史書は改竄多いし
敗者の資料は残らないし
979 :
人間七七四年:2010/09/06(月) 18:13:10 ID:MIr0pvBH
んな事言い出したらキリがない
すべての戦で兵数にけちつけなくちゃいけなくなる
980 :
人間七七四年:2010/09/06(月) 18:39:56 ID:KWlpTT00
兵数だけじゃなくまだ取ってないのにこの城攻め取ったとか
まだ出兵してないのに攻め込んで平定は間近であるとかよく書かれてるしな
そっちの方にもいちゃもんつけなくいけなくなる
一応一次資料類や信憑性おける記録類ならそれを反証する材料ない限り
信用すべきだろう
じゃないと歴史考察自体ができなくなり都合いい妄想ばかり通るようになる
981 :
人間七七四年:2010/09/07(火) 12:47:14 ID:gFM4u8dD
この人の子孫て活躍した人いる?
982 :
人間七七四年:
>>981 次男で嫡男の滝川一時は1万4000石の大名。長男滝川一忠の息子滝川一積は
一時の息子一乗がまだ幼少だったので、一時的に跡を継いだけど2000石の
旗本。一乗が長ずると家督を返却したけど、2000石から1000石を割って別家を
たてた。
んで、その滝川一積は真田太平記でよく出演シーンがあったように、真田家と
縁が深い。妻は真田昌幸の娘だし、大阪夏の陣のあと真田信繁の娘を養女に
迎えたりした。
なぜか大阪夏の陣から20年近くたってから、真田信繁の娘を養女にしたことを
とがめられて改易を食らったけど、その嫡男の一明は300石の旗本 or 御家人に
なったとのこと。