被葬者は穂積親王?-高松塚古墳
極彩色壁画で知られる高松塚古墳の被葬者論については天武天皇の皇子で
大宝律令の作成に携わった刑部親王(?〜705年)説があるが、悲恋物語で有名な
穂積親王(?〜715年)の説も浮かび上がっている。高松塚古墳や東アジアの古墳壁画
について考えるシンポジウム(京都橘女子大主催)がさる10月31日、京都市内で開かれた
が、発掘から30年以上にわたって論争が続いている高松塚古墳の被葬者について、
同大の門脇禎二名誉教授(日本古代史)は、穂積親王を候補とする見解を発表した。
同じ天武天皇の皇子で大宝律令の作成に携わった刑部親王(?〜705年)を挙げる
王仲殊・中国社会科学院考古研究所教授らも出席して意見を交換。論争の行方が
注目される。
天武天皇の皇子は10人で、門脇氏は母親の身分などを通じて明確な序列があったことを
強調。考古学的に検討された古墳の築造順に当てはめ、束明神古墳=草壁皇子、
マルコ山古墳=弓削皇子、キトラ古墳=長皇子、高松塚古墳=穂積親王とする見解を
示した。
穂積親王は5番目の皇子で、蘇我氏の血を引く母親のもとに誕生。兄の妻で異母妹の
但馬皇女と若いころに恋愛し、悲恋の主人公として有名。万葉集に恋歌が収録されて
いる。
(後略)
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※引用元配信記事:
http://www.nara-shimbun.com/n_arc/041104/arc041104a.shtml ※奈良新聞 -Nice Nara-(
http://www.nara-shimbun.com/ )2004/11/04配信