サディズム・マゾヒズムの心の仕組みについて知りたい。
サディズム・マゾヒズムという造語は19世紀ドイツの精神医学者クラフト・エービングによる。
それまで実態としてそれらの性向は一般的に認知されていなかった。
SMはいまや市民的に受け入れられる状態にまでなっているが、
ある者がSである、Mである、ということの仕組みはあまり問題にされない。
時によっては病的と思える嗜好にいたっているものもある。
SM板でも雑談・サロン板でもなく、学問板にこのスレが立っている事を念頭に、
SMの構造について考えがすすめばいいと思う。
【前スレ】『【なぜ】サディズム・マゾヒズムの心理 』
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1077631933/ ※この板はIDがでないので、複数のレス書き込みを行う時は
コテをつけた方がわかりやすいです。
2 :
咀嚼途上者:2006/08/06(日) 15:00:37
前スレでの流れ。
おおよそ、マゾヒズム・サディズム傾向が乳幼児期における親との関係に
起因するのではないか。ということ。
心理学では当然のことかもしれないが、まだ消化不足の感がする。
3 :
咀嚼途上者:2006/08/06(日) 15:18:38
前スレにおいて、
「心理学のプロ」氏がサディスト・マゾヒストに関しての
「入り口」と「出口」に関して興味深い見方を提出してくれた。
だが 「入り口」と「出口」の間に関しては、
まだそれほどの認識が得られているとは思えない。
「入り口」についての部分を、次のレスで引用しておく。
(ある者が攻撃的になり、ある者が迎合的になるというなら
その分かれ目は何か?) という質問に対してのレスだ。
4 :
咀嚼途上者:2006/08/06(日) 15:19:13
740 名前:心理学のプロ[age] 投稿日:2006/07/21(金) 16:40:07
おそらく放任がSになる。つまり無意識が肥大化したケース
そして、過保護がMになる。過保護とは憎しみが偽装されたものだからだ
過保護では、パーソナリティが吸い取られる
しかも、過保護には、たいていやや脅迫的な父親の存在があるだろう。
どちらかの親が脅迫的で、どちらかの親が過保護ならまじでパーソナリティは
吸い取られるだろうね。矛盾した二重拘束の連発だ。
よって、Sは愛を知らず、Mは偽の愛しか知らない
SはMに愛を求めるがMは偽の愛しか知らないので
SとMの関係は終わらない。
741 名前:心理学のプロ[age] 投稿日:2006/07/21(金) 16:53:17
過保護がどうしてパーソナリティを吸い取られることになるのか。
過保護とは憎しみである。そしていつも誰のためだとか
言って、自分を正当化し、憎しみを偽装し、子供を利用する。
子供に期待をかけたりする。過保護の母親の相手、つまり
父親はたいてい、やや行動的な劣等感を抱えた不機嫌な父親である場合が多い
そうなると、かなり危険な状態になる。父親と母親がコンビで(意識できないが)
攻撃を繰り返すことになる。それが真実の愛で、おまえのためだと、親は言う。
子供はうすうす違うとわかりながら、それを信じなければ生きていけないし
それほど両親が暴力的でもないので、つい信じてしまう
Mは偽装された愛しか知らないので、いつも不安である。
よって、偽装された愛を求めがちだ。真実の愛からは逃げる。
考えてもみたまえ、(Mの)あなたの近くに感情豊かな人間が近づくと
あなたは、憎しみが芽生えたり逃げたりしたくなったことが
あるだろう? 同じだよ。質の差ではない、程度の差である
5 :
咀嚼途上者:2006/08/06(日) 15:23:05
「出口」に関しては彼(というかユング派)カウンセリング系の
「自己開示」「対立」「自己実現」
といった概念が処方として用意されているようだが。
ここの部分に関しては、
もしこのスレにも「プロ」氏が参加してくれるのであれば
本人が語ってくれるだろう。
7 :
咀嚼途上者:2006/08/07(月) 09:30:34
サーシャ・ナクト「マゾヒズム」(同朋社)にM男性の分析レポートがある。
ベルトランは上流階級の長男である。
父親の仕事を継いで社会的地位は高く、ある企業のトップでもある。
マゾヒストである。
父親「頑固で厳しく、横暴で権威的な人であった」
母親「夫の前では影の薄いおどおどした、抑制された女」
彼は父親を畏れ、同時に憎んでもいる。
企業内でのふるまいは、厳しく頑固で、権威的、怒鳴り散らす、
といった父親のふるまい(ベルトラン自身を苦しめたふるまい)を真似ていた。
だが内心では、自分がそうした「残酷」なふるまいをすると、すぐ後悔の情に襲われた。
8 :
咀嚼途上者:2006/08/07(月) 09:31:28
彼の幼少期の思い出。
一歳から三歳の間に重篤な病い。
「父は心配していつも彼の上にしゃがみこんで、彼を情愛と優しい配慮で包んだ」
「彼が治ると、父は…(略)…よそよそしく冷淡になり、厳しく乱暴にさえなった」
「彼の治癒と妹の出生とが一致し、それがなおいっそう両親を彼から遠ざける効果を発揮した」
「この時期、彼が思い出す幸福な瞬間は、ときどき病気になったときのことだけだった。
病気になる、ただそれだけで自分のそばに両親を、ことに父を一時的に引き寄せることができた」
「両親の埋葬に立ち会い、自分がただ一人だけいる姿を自分自身が戦慄をもって見守るという幻想」
ナクトの分析。
(1) 遺棄と両親の愛の喪失に対する苦悶
↓
(2) 両親のなおざりが原因となった失意の後、両親に対して感じた攻撃性。それは
両親の死をも思うまでの攻撃性だった。
↓
(3) 苦悶の再現、しかし今度は両親に対する憎しみに対する罰としてだった。
9 :
咀嚼途上者:2006/08/07(月) 09:32:33
ナクトの分析をそのままに単純に受け止めれば
(2)の状態に留まるとサディスト
(3)の段階にすすむとマゾヒスト
ということになりそうだ。
「単純に」 という意味は、
ベルトランのマゾ妄想は実践無しの妄想のみに留まり、
現実の性生活は妻との、互いに不満な
「快感を伴わね」射精のみ。妻側も「不感症」。
(素人考えだが、父親への固着の強さからみて本来は「同性愛傾向」が強かったのが
原因かも知れない)
彼は「色情性マゾヒスト」ではなく「精神的マゾヒスト」だ、ナクトは分類している。
隠れマゾの特徴
(本人も意識していません。というより無意識のことなので意識できません。
誰しも少しはあるでしょうが、まさか大人が無条件の承認の欲求が
あるなどとは、いえませんし、認めないでしょう)
異質な人は、程度の差だと考えてください。
隠れマゾは欠乏動機に基づいて行動している人です。
動機には、成長動機と欠乏動機があります。欠乏つまり、他人からの
評価を異常に求めている人です。(これが重要ですが
そのことを本人が意識していないことが重要)
欠乏動機といっても、人によっては、攻撃的に求めたり
内向的になったりするので、ここでは内向的になった人を
取り上げていきます。
マゾというのは現実認識能力に問題があるのですから
理由のわからない挫折というのは、マゾの正体です。
精神科に通院している人なら、マゾでしょうし。(愛を求める認識されない叫びが
うつ病ですね。本人は認めないでしょうが)といっても、ここでの愛は
えいこひいきのような優劣の願望です。ちやほやされたい願望ですね。
あるいは、学校をやめてしまう、おとなしい人、普通っぽく見える人は
隠れマゾでしょうし。過度にまじめなのも、その心理の根底に
欠乏動機があるからです。なぜなにゆえまじめなのか?無口なのか?
本人が意識していないのであれば、そいつはマゾです。
こちらの外見が射程圏内であれば、●●●できますね。簡単に
もっとも簡単な素人といったところでしょうか。
なぜなにゆえ、無口なのか?なぜなにゆえ、過度にまじめなのか?
なぜなにゆえ、恥かしがりやなのか? なぜなにゆえ???
たいていは、重要な他者の言うことから分離できていない証拠です。
たいていは親ですね。誰しも重要な他者からの意見なら、考え方を
少しは変えるでしょう。マスコミがいい例です。あほな芸能人が
言っても、まあそうなのかなと考え方を変えるでしょう?
重要な他者になることが相手を真の意味で操作する上で重要なのです
たいてい隠された動機があるものです。
性の動機にも、自分の価値を向上させるためだったり
欠乏している基本的な欲求を満たそうという目的だったり
そのものが動機だったり。
よって、異質な行動には(元気が無いとか無気力とか)
必ず隠された動機があります。
動機は最終的には、生と死のように愛(プラス要素)か
不安や恐怖(マイナス要素)にいきつきます。
ここで自己執着の状態を説明したいと思います
隠れマゾの特徴として、自己執着が強いというのがあります。
外界の世界にあまり興味が持てず、新しい物事に
つらさを感じる人々ですね。
簡単な話、自分が嫌いな人々です。親との関係から
本来の自分には価値がないと思い込んでいる人たちです。
自分を偽ることでなぜか幸福になれると思っている、おそろしく
かわいそうな思考が根になる人たちです。
日本の文化では、自分の意思が嫌悪される傾向がまだあるので
この隠れマゾが多い理由がわかるでしょう。
隠れマゾを所有したいのであれば
日々の生活から気おつけることですね。
日々、自分の感情を重要視し、自己執着、つまり自己否定するのを
完全にやめることを心がけ(努力ではなく考え方)その上で
自然な感情を大切にし、自分の自然な意見を積み上げていくことです。
外界の、つまり芸能人とかスポーツとかにも最低限興味を持つべきです。
なぜなら、共同体を離れて、どうやって幸福があるのでしょうか?
共同体を離れるのも自由意志ですが、それが逃避という自己を守る
防衛行動なら、逃げでしかないでしょう。オタクが気持ち悪がられるのは
アニメに集中しているためではありません。異常な集中の裏に逃避があるから
なぜかわからないが気持ち悪がられるのでしょう。
自己執着をやめれば、つまりあなたの重要な他者への憎しみに気がつき
その憎しみが自分に向けられており、自分を憎み、自分が従属していたこと
そのために、自由な感情を表現する他人を憎み、連続性が積み重ねができなかったこと
外界に興味がもてなかったこと。本当の自分は許されない存在だと思ったこと。
これは、あなたを支配するために仕組まれたわなです。
無意識がある程度読み取れるようになれば
あなたは、隠れマゾを所有する資格があるといえるでしょう。
つまり、マゾ判別法とは、自分の心理を知ることです。
そうすれば、自然とわかりますよ。では、よりよい人生を。
あなたの中の防衛・あなたの中の投影・あなたの中の重要な他者に
対する隠された感情・・・それがわかった日には
そして、真に動機に気がついたときには(親は子供のためではなく
良い意味でも悪い意味でも自分のために生んだと悟ったとき)
自由主義の自由主義たるものに気付くのでしょう。
そのとき、内向的なネガティブな連中にいつわりの優劣をあたえることこそ
SMのSだと気付くのでしょうね。
GOOD BY TO BE
強さとは何なのか
それは、自分を知り相手を知ることである。
自分を知れば、相手を知れるのだ。
強さとは素直さのことだ。自分が弱いと素直さに、ひねくれの要素が出てくる。
つまりもらえなかったとき、耐えられないので、ひねくれて言うのだ。
強さとは素直さのことであるが、強い人になるということは
強さと弱さ、素直さとひねくれをよく理解することだ。
隠された動機を読んでみよう。
心理学のプロからキミたち凡人へ送るメッセージ
動機の問題集
うち、昔、族やってて、レディースのチーム作って
10人ぐらいで流してたりしてたんやで、けっこうすごいやろ?
(動機、ついに大きな愛情欲求の欠乏動機が満たされることができず
挫折し、非行に走った。非行に走った理由は、世間から認められたいためだ
自分の自尊心のために。そこで暴力などを織り交ぜた、法律違反という
インパクト大の行動で、認めてもらおうと思った。母親固着の願望が満たされなかった。
すごいやろ?)
20 :
さ:2006/08/07(月) 17:18:36
咀嚼途上者さんスレッド立ててくださってありがとう。
「プロ」お帰りなさい。
で、Mとは何かと、一覧にしてみると
M=うつ
M=精神障害
M=無気力
M=人間嫌い、自分も嫌い
M=ひねくれもの
M=やたらとまじめ
M=不必要におとなしい
M=ちやほやされたいけどしらんぷりしちゃう
M=看護婦
M=高学歴(必然的に)
M=マザコン
等々・・・・・
結論ぽくなってしまいますが、
M=日本人の大半
ってことでしょうか。
分かりやすく言うと、
幼少期の身近な人間(母親等)の愛情が足りなかった子供が、自己肯定できず、
結果的に、自分も人をマトモに愛せない状態、ということですね。
違ってたらつっこんでください。
21 :
さ:2006/08/07(月) 17:19:20
それで、私的な質問になって申し訳ありませんが、教えてください。
前のスレッドに書き込みをしたのです。もう一度書きます。
私はSMサイトで知り合った男性とメール交換をしています。
彼はSで私はMです。
ただ、私はお遊び気分でメールを始めました。ある意味ロールプレイングゲームのようなものです。実際会ったことはありません。
彼は、(ハード鞭打、ハード緊縛、のみ)の趣向の方で、実際の経験も豊富な様子です。
メールを交換していくうちに彼は返信メールが遅かったり、文章が少なかったり
はたまた、賛辞の言葉が少なかったりすると怒るようになりました。
すぐにメールを送れ!と。
「メールが来ないと怖い」、「もう死にそうだ」というへんてこメッセージが山のように着ます。少し病的なほどです。脅迫神経症みたいです。
彼には何か得体の知れない、執着心があるんです。その原因が分からない。
少なくとも、自己価値の低い人であることは間違いないです。
Mを所有するここと、メールを送ることに異様にこだわります。
仕方なく私は毎日せっせと長文メールを送信しています。
内容もこ難しいことが多く、返信に非常に時間がかかります。
そういった意味では、私の24時間は既に彼に支配されつつあります。
22 :
さ:2006/08/07(月) 17:20:05
ただこの彼はメールに支配されているという意味ではSではなくてMですよね。
これも隠れマゾというものでしょうか?
彼には「生命システムの構造」について探求することをライフワークにしているらしいです。哲学も好きです。
彼は私に提案しました。
「一緒に生命の意味や、哲学を勉強しよう」と。
しかし、それは私には重過ぎるんです。何といっても最初は火遊び気分でしたから。
逃げたい…。
でも彼は、聞かれもしないのに、本名やら、勤め先やらを私に教えました。
私はここで逃げたら、最強に残酷な人間です。彼の精神はおそらく壊れてしまうでしょう。
彼にはまだ会ったこともないんですよ。
もし、会うことになったら、きっと
唾液を交換し、膣を突き上げられ、思考をコピーし、ハード鞭打…・・絶対嫌です。
それだけは避けたい。会いたくないわけじゃないけれど、彼の精神を安寧にしたいのです。
ただ鞭打たれるだけでなく。
私は彼を救いたいです。彼を自分探しの旅に連れて行きたい。
強迫神経症を治したい。
でも彼は、とても頭がいいんです。知識レベルも私よりかなり高い。
なので下手に対応すると、怒って逃げてしまうそうです。
その上、年も50代なので、頑固だと思います。私は30代です。
彼を救うにはどうしたらいいでしょう?
このままだと、私のほうが逃げてしまいそうだ。
23 :
さ:2006/08/07(月) 17:27:38
彼は真っ直ぐなもの、純粋なものをこよなく愛する、と言っています。
(自己執着があんなに強いのに)
24 :
さ:2006/08/07(月) 17:29:18
また、もうひとつの考え方としては
私は彼にメールで釣られているだけなのかもしれません。
単に口説かれているのを、真面目に考えすぎているとしたら、自分が悲しい。けどすっきりもする。
25 :
没個性化されたレス↓:2006/08/07(月) 17:45:59
↑
昨日の快活CLUBでの待ち合わせはどうしたんでしょうか?
26 :
さ:2006/08/07(月) 17:50:36
それはなに?>快活
聞いたことないです。
>さ
君が待っているのは「プロ」氏の答えだろうが、2つだけ言っておきたい。
(正直いえば俺も興味はある。だから板看板のローカルルールを持ち出す気はない)
(1) 彼自身がいないのにどうやって彼のカウンセリングをしろというのか。
「プロ」氏にプログラムだけ教わって君自身がカウンセリングの代行でもするつもりか。
ことわっておくが、俺が例としてあげたナクトの患者でも、
彼が親の話をほんの少し話すようになるだけで数ヶ月かかっている。
それもナクトのような手経験豊富で辛抱強い分析者相手に様々なかけひきをしたあげくだ。
(2) 苦悩者がもっとも嫌うのは「救ってあげる」などという高みからの「あげる」発想だ。
そんなスタンスでいる限り、君が彼を「救う」ことなど100%できないだろう。
せいぜいできることは彼に一時的な「性的快楽」を供給することだけだ。
結局、きみは彼を「救ってあげる」ことで自分に価値を見いだしたいだけなのではないか?
そして失敗したとき君は、さらに自分の価値を否定することになる。
自分を救えない者にどうやって他者を救えるというのか。
まず自分を救った方がいい。
俺は今日はもうレスできないので返答はいらない。考えてみるだけでいい。
>>20 不思議なのは、愛された人間しか(自己執着の少ない親のもとで育った
人しか)人を愛せないという事実。自分を軽蔑している人間には
本当に難しいということ。自分が無いのにどうやって他人があるのか
という難問になる。
>>22 でも彼は、聞かれもしないのに、本名やら、勤め先やらを私に教えました。
私はここで逃げたら、最強に残酷な人間です。彼の精神はおそらく壊れてしまうでしょう。
↑残酷なのは、勝手に自分をさらけ出して、先に酔った方が勝ちのような
感じで、執着してくる男のほうだろ。執着は憎しみだよ。憎しみを誰かで晴らそうと
しているんだろ(w
救うには、ほおって置くことだよ。命がけだよ。とても無理。
粘着されて依存されて敵意をむき出しにされて、執着されるだけ。
だって男の言うとおりに動かないのだから(動けば神経症にされる)
その男は子供なんだよ。自分が大人なのに子供だということをかくして
認められたい、さらに大人として扱ってもらいたい、そんな願望が見える。
29 :
さ:2006/08/08(火) 09:47:24
>>27 わたくしは心理学は全く分かりません。ですので、カウンセリングはしません。
川に飛び込むだけです。
川の流れを観察するには、川の流れに身を任せなければいけません。
外で見ていてもわかりません。
考えるんじゃない、感じるんだ、と言ったのは、どこの誰でしたっけ?忘れてしまった。
地球上の雄の肉便器となり、思考をコピーするという野望は、物理的な理由により、既に捨てました。
もし流れに身を任せたとして、
勝てば完全な止揚、負ければ精神を取り殺されるでしょう。
一番賢い選択は「プロ」の言ったとおり、逃げることですね。
しかし、どうしたらいいのか。
私の好奇心が、そして私の中の「過剰すぎる安全」から逃れたいという思いが、
私を彼のもとに、引き寄せるんです。
小さいとき、ストーブの上のヤカンを触ったら熱かった。
でもまた触ってみたい、火傷する可能性があるにもかかわらず。
意味なんてどうでもいい、そのとき体に感じた熱い感覚をもう一度感じたいのです。
彼は私のゲームの中ではボスキャラです。
かなり手強い。
たまねぎの皮ように幾重にも偽装された、記憶、知識、が張り巡らされています。
私は戦わねばならない。たまねぎを剥かねばなりません。
きっと彼が好きなんだと思います。
30 :
さ:2006/08/08(火) 09:49:38
>>28 おやさしい方。
私は、逃げようとしました。
あなたが「にげろ」とおっしゃったので、私の心は救われました。
ネットの上からですが、あなたとホメオスタシスを同調させてください(気分だけです)。
ありがとう。
しかし、これからどうやったらいいものか・・・。困った。
31 :
さ:2006/08/08(火) 14:03:43
今、ふと思ったのですが、未来のヒトは
食事をしたり、挨拶をしたりするのと同じように
セックスをしているかもしれません。乱交です。
猿人類のボノボみたいにです。
このスレのことをいろいろ考えていたら、なぜかそういう考えが浮かびました。
日本は滅びないと思う。
実験。 心理学板のローカルルール
【心理学板は、個人的な悩みの相談をする板ではありません。
精神疾患に関するご相談は → メンタルヘルス板、各種医療機関へ
人生の悩みを語りたい方は → 人生相談板、各種専門機関へ】
しかし離れることは難しい。
それが益あるものでない時ですらそうだから
いや益あるものでない時ほどそうであるから
離れてみて安心を得るべきだと思う。
(こう考える時、私は得てして離れることに不安を感じている。
それ即ち見えない依存であると考える。)』
だが忠告も助言も無意味だ。欲しているは命令だろう。
それによって、自己と向き合うつらさから一時的に解除されるから。
溺れているものに川の観察なんかできやしない。
むしろ自分を滅ぼす可能性の方に惹かれているのかもしれないな。
>>33 冒頭脱落部 補足
ある苦悩者が自分自身に向けて放った言葉。
『しがみつき続けることは以外と簡単だ。
いつもM(特に女)と話すときに感じる言葉の通じなさ。
だが今回その事について考えてみることで多少得る所があった。
自我は意識(認識)の中で社会性を獲得するパイプだ。
自己は、感情(喜怒哀楽)・決断(意志)・嫉妬(執着)など、
理の働かない部分だ。人は決断する時、最終的には理ではなく自己が決意する。
自我は、自己から離れて自己を見るもう一人の自分だ。
そして、超自我はその全体を審判する自分の中の他者だ。
言葉は自我の中にある。超自我は言葉そのものだ。
したがって、自分の中の審判者(超自我)は言葉によって可変だろう。
言葉は、おそろしく重要だ。
Mに対する言葉の通じなさは、その言葉が自我・超自我に向けて発せられた時、特に強くなる。
自我がゆがんでいるか、未発達なのか。いずれにしても理の部分が素通りされ、
直接自己を揺さぶる部分(非難・命令)だけが甘受される。
あるいはそう解釈しなおされてしまう。このため通じていない感触にむなしさを覚える。
この通じない感を感じる女がプロ言うところの「隠れM」なのか。
ま、この部分は一般論にはならない…
通じない感はそれこそ俺の「自己」だけが感じる個人的ないらだち・感触だから。
>>8におけるナクトの分析は時間系列になっている。
したがって、素直に受け取ればこうなる。
サディズムはマゾヒズムより、よりいっそう幼児的である、と。
人類史を幼児の発達が再現しているとすれば、
サディストはより、原始的である、と言い換えることもできる。
だが、原始的とはなんだ。
これらの概念(段階説)が肉食・狩猟民族の中から生まれてきたことは、
念頭に置いておくべきか。
37 :
心理学初心者:2006/08/08(火) 22:20:47
まぁマゾヒズムよりもサディズムのほうが重症だと思いますけどね。
>>37 より幼児的である、ということは
より根元的であるということでもあるからね。
サディズムのベクトルが直線的だとすれば、
マゾヒズムはそのベクトルがねじれて自分に向けられたものになる。
というのが、今まで考えてきた心理学的な解釈の咀嚼になる。
裏表の関係ではない。一段、屈折が付け加わっている。
複合度が高い。だから、皆は興味をもち、さかんに分析する。
だが、より単純な攻撃性は、何に由来するのか。
なぜ幼児が親への攻撃性を獲得するのか。
次の課題。
むろん「プロ」氏の提案した
「過保護」「放任」は依然として
キーワードたりうる。
42 :
さ:2006/08/09(水) 07:06:01
一日思索に思索を重ねた結果、
私の好きなおっさんを救う方法を心理学的、SM的観点から考察するのは限界があることがわかりました。
認知科学、若しくは脳機能科学を少し学んでみようかと思います。
もっと掘り下げていくと物理学的観点からも考察しないといけなくなるでしょう。
そして最終的には「生命の意味」を考えざるを得ない・・・・・。
そう思うと、あのおっさんは私にとって崇高な存在だ。
互いに止揚しあうことができるかどうか。
戦わねばいけない。
「プロ」
私に知識を与えてくれてありがとう。
そして、さようなら。
>>42 確かによく考えたようだね。
サディズムを考えようとすると、当然そうなる。
それ以外にも動物行動学。さらには、心理学とは仲の悪い社会学。
そして、階級の問題にまで踏み込むことになるかもしれない。
俺も以前少し独学で囓ったが、当時の印象では残念ながら、
認知科学も脳機能科学もまだ、ほとんど端緒についたばかりという印象だった。
たとえば「痛み」。 「P物質」の存在が判ってる程度で、
ほとんどブラックボックスのままで、痛みを客観的に測定するこさえいまだにできない有様。
(今は多少進展しているかもしれないがね)
なんにしても、君が真剣だということは判った。前よりは好感を抱いた。
何か認識に発展があれば、時々もどってきて報告してくれればありがたい。
スコシ 息抜き
それにしてもいいとこは全部「プロ」がもってくな
さぞかしモテるんだろうな彼w
一人遊びは楽しいかい?
46 :
も:2006/08/09(水) 13:36:32
では質問です。
咀嚼途上者さんはどうしてサディスト、マゾヒストの心の仕組みをしりたいのですか?
なにゆえ?
47 :
↑:2006/08/09(水) 13:38:34
強迫神経症 乙。
48 :
没個性化されたレス↓:2006/08/09(水) 13:42:21
…なるほど、少しきついかと思って緩めるとこうなる訳か。
勉強になったよ。
>>.46 残念ながら前スレがdat落ちしてしまったので判らないかもしれないが、
元々俺がこのスレに来たのは
「母親への憎しみ」とサディズムとがッ関係してるんではないかという
「個人的」な思いを解きたかったからだ。
そこまでいう必要はないかもしれないが、俺はなぜか7歳以前の記憶がない。
しかしそのことを知りたいと思ってるわけではない。
一種の自己防衛なんだろうから。
だから俺は性別とサディズム・マゾヒズムの関係に拘っている。
だが、残念だが「プロ」氏の体系では、その問題はあまり重要ではないようだ。
何度か前スレで質問しているが、適度にスルーされたり、
軽くいなされたり。
元々、ユングの体系が、フロイトの
なんでも性の問題に還元する考え方への不服に始まっているらしい。
(詳しくはわからないが…)
だから、
自分なりにナクトを読み続けながら、考えていこうと思っている。
これが「個人的な動機」だな。しかし、
SMというのは単一の因子に還元できないような気もしてきている。
特に、サディズムの問題になると、そうじゃないか、と。
ま、誰も刺激になるような言葉を付けてくれるものが現れなければ、
再び、本に沈潜して、時々ここで独り言を書くことになるのかな…
2ちゃんはつぎの瞬間何がおきるか予測不可能な世界だから、先のなりゆきなど判らない。
ところで「も」ってなんだね?w
51 :
も:2006/08/09(水) 14:38:17
なんだ、それじゃあ話は簡単やん。
咀嚼途上者=マゾ
だから「プロ」言うことよく読めばいいよ。
彼の話はあんたの言ってることの数段上のレベルの話だから。
SかMかなんて考えんでよろしい。
ただ、救われるには死ぬ気でやらないとね。
あんたは象徴的な死を受け入れることはできるのか?
前途多難だね・・・・・。
52 :
も:2006/08/09(水) 14:40:48
幼い時の記憶を呼び戻さずに救われるのは無理でしょう。
それとも、別に救われたいわけじゃないの?
じゃあ、なんでこんなとこにいるんだ?
意味不明。
53 :
も:2006/08/09(水) 14:44:40
おまえは、あのおっさんと同じだよ。
ちなみに年はいくつだ?
若い方がなんとかなるかもね。
価値観について考えたい。たいていの人は、価値観に合わないものに
悪に近いようなイメージを押し付けて正当化している
(というか、このプロセス自体意識していないでやっていることが大半)
本当に悪だといいが、悪ではない場合も多い。
ところが、困ったことに、この価値観を自分で作ることが困難な人がいる。
信じがたいことに、価値観を自分で作ることはだめなことに近いのでは?
などという意識されない価値観を持っている人がいる。
自分に対する憎しみを抑圧している場合がある。これが自己執着
我執と呼ばれる人。〜するべきなどが多い。その実弱い。
この隠された本来の自然な自分に対する憎しみに気付いていない人が多い。
だから、幸せでもないのに幸せそうに振舞ったり
嫉妬から元気でもないのに元気にしたり(やがて病理を誘発しそうだ)
この価値観こそ、両親(重要な他者)などからもらったメッセージだ。
だから、両親が隠された幼児だとすると、そうなる。
子供は大人を操作したいだろうし、わがままを言って困らせたりする。
しかし、大人が子供に対して同じようなことをやると、子供はどうして
いいかわからず、萎縮してしまう。よって価値観に重大な欠陥回路が
できあがり、その後の人生でつまづく可能性が高い。
最近で言えば、学校中退かな。コミュニケーションが取れない
新入社員なんてのもそうだろう。どんな言い訳を言おうとも
自分を開示したい欲求は誰でもある。隠れマゾ発見〜!?
幼児的な人は、自分にとって都合の良い人が、誠実な人と一緒にいることを
望まない。誠実な人から離れるように願っているし、そう操作したいだろう。
自分にかまってもらうために、相手に自分を憎むことを、相手に価値がないことを
思うことを願うだろう。
世間一般的に良い親と呼ばれている親が、信じられないことに
このようなことを無意識でやっているのだ。真に受けた子供は
立派に生まれながらもコミュニケーションで致命的な間違いを犯す
可能性が高い。
彼らは、信じられないことに、感情豊かな人間が近づくと憎悪するのだ
隠された憎しみが表面化する。その対象は本来親なのだが
親へのこの感情は封印されているので、他人へ向けられる
他人の中に本来あったはずの自分を見出し、激怒するのだ。
また、その封印された価値観がくずれそうになるため
感情豊かな人に余計に悪のイメージを押し付けて嫌悪する
精神的な成長がストップしてしまう。
マゾは、自分から口説けない。自分が無いのだから。
だから、依存と敵意を持っている。この種類の人たちは
欠乏動機で動いている。欠乏動機とは基本的な欲求が満たされておらず
欠乏を生めるために、行動するということだ。
だから、何浪もしているような人は疑わねばならない。
基本的な愛情欲求のためにがんばっているのか?と
本来学部など例外を除いてどの学校でも良いはずだ。
今回はレスの順番がよかった。…
合わせて読めば、了解が可能だ。
ただし…… ま……いい ……心配は無意味だな
58 :
さ:2006/08/09(水) 19:42:50
マゾも「プロ」が言っているのは典型的な症例で、軽症でしょう。
自覚すれば自己治癒能力で、素敵な自分にめぐり会えるかもしれません。
しかし、幾重にも偽装された価値観を持った隠れマゾは救いようがないです。
一見、よい人
一見、高学歴
一見、良妻賢母
一見、まじめな人
一見、サディスト
一見、医者とか(あああ)
ほんとうのサディストはこのスレッドに書き込みなんてしないよ。>そしゃく
彼らはあまりにも、もうほんとにあまりに巧妙な手口を使うために、マゾだと認識できないことがあります。
でも実際は、満たされない。虚脱感を感じているが、一生それをひた隠して生命を終わらせます。
まあ、それでいいならそれでいいさ、と思うのですが、
たちが悪いMがいます。
それはMおんなです。
Mおとこは淘汰されるので、生きてても死んでもどっちでもいいです。
Mおんなは肉便器になっているだけならいいのですが、子供を生んだりするからいけすかない。
悪い遺伝子を残します。
男を見る目が無いので、悪い男の思考をばんばんコピーしまくり。やりまくり。
子供にも悪い思考を入れまくり。
ああ、これじゃあ日本の将来はどうなってしまうのでしょう。
私にはどうでもいいけどね。
私はカンがいいから。男みる目あるし。おっさんはダメにんげんだけど。
Mおんなというものは、生得的に持っている女の勘の良さを、失ってしまった生物なんです。
男はもともと勘が悪いからね、せいぜい勉強でもして、理屈こねまわしてください。
59 :
さ:2006/08/09(水) 19:56:36
おっさんは私に「愛している」と連呼するが、いったい何を愛しているのかさっぱりわかりません。
会ったこともないのに、よくそれだけ愛せるもんだ。
もう既にS性は失われ、単なるマザコン粘着オヤジに成り下がってるし。
でも逃げ足は速そうだ。社会的立場もあるから執着しなさそうだ。よかったよかった。
それなのに好きなのは、やっぱり男見る目ないかな。
60 :
さ:2006/08/09(水) 22:46:46
なにゆえに、わたくしを愛してくださったのですか?
とメールで質問してみました。
明日答えが返ってくるでしょう。
「ちょっと執着型の性格で。」
なーんて言うわけないので、返信が楽しみです。
下手に頭がいいので、思わぬ返事が返ってくる可能性があります。
61 :
没個性化されたレス↓:2006/08/12(土) 05:56:42
はじまてた
>>61 俺は元・SM板の住人だ。そのスレも知っている。
俺の中ではSMの「階層性」の問題に当たる。
だが今は、ここで手一杯だ。
学ばなければならないこと、咀嚼しなければならないこと、
咀嚼した上で、自分なりの違和感を大事に「自己否定」せず育てて、
自分自身の考えを自立させること(数ヶ月〜数年の射程で考えている)。
ナクトの本の「女性マゾヒズム」の章にとりかかっている。
ユングの「心理学的類型」という論文がのった本((世界の名著)もいま手元にある。
きわめて読書スピードの遅い俺にとっては
(ひとつひとつの文章に引っかかって考えてしまう)
すでに充分な量だ。
悪いがこのスレだけに集中したい。対話相手がいなくなれば、
2ch外の掲示板に移動して続けるつもりだ。
マゾヒストの自己評価が低いのはわかる。
しかしサディストの自己評価が低いというのは、
直感的には理解しにくい。むしろ一見自尊心が高く見える。
より幼児性が強いため、自己評価 というもの自体が存在しないのか。
あるいは、自己と自我の分離が不十分で、いわゆる「即自」しか存在しないのか。
サドには、自己評価が低いサドと自己実現型のサドがいると思う。
しかし、マゾには、心理的成長に失敗した人が多いと思う。
なんだか混乱してきたから、まとめるよ
結局は、欲求があるという事実こそすべて。誰しも腹がいっぱいなら
おとなしい人でさえ、これ以上食べろといわれれば激怒するだろう。
腹が減りすぎれば、おとなしい人でさえ他人を食い殺すだろう
隠された欲求を見抜けるとき、あなたに利益が転がり込むかもね
たとえば、不機嫌というのは、自己承認の欲求と敵意が混在している。
言い過ぎかもしれないが、この掲示板に書きこめるのが
ちゃんとした数学や電気の理論にもとづいているのなら
人には、幼児的な自己中心性(自己充足) か 自己実現的な自己中心性
マスローで言えば、欠乏動機 か 成長動機 しかない。
あらゆる基準は自己なのである。だから、自己評価は低いか普通しかない。
高いというのは無い。高すぎるのは低いの裏返しである。
68 :
没個性化されたレス↓:2006/08/13(日) 11:35:36
閉鎖的な家で、子供の頃から「お前のせいでこうなったああなった、、」と
本来親の責任の範囲のことまで全責任背負わされ続けた私は、
親から離れても、自然に「支配的な人間」とぴたっと相性が合い
いつの間にか「都合のいいおきにいり」にされるようになった。
私としてみても、何か人についていく方が楽で、自分から引っ張っていくのが出来ない。
相手が主 自分が従 と言うような感じに自然になってしまうんですけど、
これってマゾですか?マゾからの抜け出し方はないですか?
69 :
没個性化されたレス↓:2006/08/13(日) 15:51:20
>>68 親のやり方が正しかった間違っていなかったと思っている限りはそこから抜け出す道はない。
精神的に痛めつけられて苦しいのに
どこか痛めつけられてる自分が好き
セックスでは特にそう
親は過保護
こんな自分が変わりたいと感じた
親の矛盾に気付き、価値観を形成すれば変われる?
それとも快感を感じている時点で
抜け出せないのだろうか
71 :
心理学初心者:2006/08/14(月) 07:23:21
子供を呑み込もうとする親とネグレクトについて
72 :
没個性化されたレス↓:2006/08/14(月) 17:44:54
最終的にはSもMも繋がってそう
73 :
心理学初心者:2006/08/14(月) 23:14:44
精神分析の手法(心理療法)によって解決するならまぁそれでいい。
プロ氏がいくらでも説明してくれるだろう。
ただ、精神分析の手法だけでは解決しないケースも多々あるが、これは
どういうことなのか?
マスコミは恐いね。
>>71 最近の、ごうけん君と自分の娘を殺害したとされるすずか容疑者だったっけ?
あの事件の報道も、ついに本当のことを言わなかったような気がする。
学生時代のいじめが原因だったといっていたが、むしろ結果と助長が
答えだと思う。
育児放棄の原因なんて簡単で、育児どころか、まだまだ自分が
注目されていたい幼児だったから、育児放棄したんだと思うよ。
子供に何かするのが損だという価値観があったと思う。
幼児が幼児を育てるとしたら殺すだろうね。ごく自然なこと。
いつまでたっても幼児的な欲求が満たされないのは、生まれつきの運命なのか?
親が子供だったからか?学校で自然と矯正されるどころか悪化したのか
その辺が原因だと思うよ。
なんせ、何度もいうように、無意識のことはわからないから。本人では。
よく下心(したごころ)なんてのがそうだよね。
心の下で支えている本当の心。
ある人に、まじめだという印象を持ったとき
それは、自分にとって都合が良い人間だという場合がほとんどである。
つまり、いいたいのは自分にすらわからないように
自分にうそをつけるというこの事実である
しかし、では何が何に嘘をついたのか?
自己は意識と無意識の中心にあり、意識の中心に自我がある。
自我(意識)が邪魔な感情を、都合の良いという非人間的で
卑怯な感情を無意識に抑圧し隠してるということ。
だから、自己は無意識に抑圧されたものを探せない。
自己が触れないようにこの自我が行ったものだろう。
このようなことがおおすぎると、とても自己主張なんてできない。
宿題を忘れた学生のようだ。無意識でいつまでも答えを探すことになる
自分が隠したということを知るまでは。
これにより、自我と自己は別人だということがわかる。
ジキルとハイド氏は極端すぎるが、わかると思われる。
実際に善良なまじめな学生が親を殺害してしまう事件もわかるだろう。
事実別人になっているのである。自分でわからなければ、別人と言っても
いいだろうと思う。
78 :
没個性化されたレス↓:2006/08/15(火) 20:39:49
仮面性格の話か?
79 :
没個性化されたレス↓:2006/08/15(火) 21:04:37
サディズムは、結局「虐げられる相手の心理」を想像して喜ぶわけで、
(そうでない場合は単に暴力を振るうのがスポーツ的(?)に楽しんでいるだ
けで、ちょっと意味が違ってくる)…ということは、相手の心理が理解でき
る心情を有しているはずである、と。
つまり、「相手の痛みが自分の心理のように想像できる」心性を持って
いなくては(心理的)サディストにはなれない。ということは、この人たちは
結局、マゾヒズムが理解できる人たち、ということになるのかなと。
>>76 自我とは別に自己を設定するのはおかしい。
両者の関係、両者の定義はどうなっているの?
83 :
さ:2006/08/16(水) 11:58:39
今、実家に帰ってます。
私事ですが、父が入院してました。母は子供たちには知らせなかったのです。
人はみんな年をとってしまうのですね。
そんな当たり前すぎる感覚すらも、今までの私の人生の中で、実際の質感を持って感じたことはありませんでした。
昔の自分の部屋の本棚にはたくさんの本がまだ残されていました。
赤茶けた紙の匂いを吸い込むと、懐かしさに胸が苦しくなります。
その中で一冊の本を見つけました。20年ほど前に出版された本です。
『「やさしさ」と「冷たさ」の心理』
加藤諦三って人が書いたらしい。
「プロ」が言ってることと似たような事が書いてある本です。
どうりで「プロ」の言う事に共感したわけだ。
中学の時、初めてその本を読んで激しい嫌悪感を感じました。
得体のしれない憎悪、とでも言いましょうか。
「加藤諦三って胡散臭いオヤジだ!」と思ってました。
84 :
さ:2006/08/16(水) 11:59:47
でもそうじゃなかった。
そのときに、本当に私が憎んでいるものが何か知ってもよかったのです。
実はうすうすは感じていました。
ただ気がつかないふりをしたのです。
正直に言いましょう。
私は摂食障害で、援交女で、不倫女で、看護婦ではないが、マゾです。
私は子供を生めるのでしょうか。子供を愛することができるのかどうか。
今も、50歳のSのおっさんとはメールを続けています。
実は、おっさんはメール交換で私に「生きる意味」を教えてくれました。
そして私は「自己治癒能力」に拠って、絶望から立ち直ることができました。
自称SはMより性質が悪いでしょう。
人を壊すことはできるが、自分を壊されるのには耐えられないのです。
彼はちやほやされたいし、すがりたいし、「死ぬのが怖い」と言う。
そりゃあ怖いでしょう。自分が生きている意味を確かな質感を持って感じられないのですから。
彼の精神を安寧にしたい。
彼は私に「愛している、愛している」と言うけれどそれは嘘だということを、
私に気がつかせてくれたのは彼なのです。
85 :
さ:2006/08/16(水) 12:08:45
彼はめっちゃ下手なCGで書いた絵や、そこそこ上手な自作の曲をメールで送ってきます。
「賞賛してほしい」とは言わないのです。
賞賛するように、仕向けるんです。
メールだけですら、その圧迫感、束縛感を体で感じてしまう。
今度会う事になると思います。
彼は「キスしたい。」と言いました。
彼とキスしたら、私は泣くと思います。
>>35 >自己は、感情(喜怒哀楽)・決断(意志)・嫉妬(執着)など、
>理の働かない部分だ。人は決断する時、最終的には理ではなく自己が決意する。
この「自己」はエスと同じと考えていいのですか?
>自我は、自己から離れて自己を見るもう一人の自分だ。
それとも自我は自己の一部ですか?
それとも私の精神の全体を全人格と呼ぶとすれば
全人格=超自我+自我+自己
ですか?
それから
>自我は意識(認識)の中で社会性を獲得するパイプだ。
>自己は、感情(喜怒哀楽)・決断(意志)・嫉妬(執着)など、
>理の働かない部分だ。人は決断する時、最終的には理ではなく自己が決意する。
自我が意識して自己が決意するのですか?モノを考えているのは自我ですか自己ですか?
自我と自己はどちらも人格としての一貫性を持っているのですか?
両者は連絡を取り合っているのですか?
>自我が意識して自己が決意するのですか?モノを考えているのは自我ですか自己ですか?
ものを考えているのは「自我」
ものを感じて情動的反応を引き起こす領域(「心」かな?)が「自己」
という理解でとりあえず俺はプロ氏の発言を読むことにしている。
微妙に違うかもしれないが、大きくはずれてもいないだろう、と思っている。
どちらかというと心理学体質ではなく思想体質の俺なりに考え直せば、
「自我」というのは『自分が「個」であるという自覚』の領域になる。
それは他者や外界に対して、孤立した存在としての「個」として自分が存在している、
ということの目覚め。
幼児の時には、親や重要な他者と自分が直接結びついていて、
自分が「個体」として、存在していることは意識の中では自覚されてない。
だから、「自我」が芽生えると、我々は不安や孤独感に襲われる。
これを救うのは言葉との接触だ。(読書や友人との語り合い)
自我では「言葉」は重要だ。
「自己」にとっては言葉はその意味ではなく背後のニュアンスや感情によって
受け止められる。
「自我」はその意味や、内容を検討したり考えたりする。
「超自我」は、自分の中に取り込まれた「禁止命令」(倫理)だ。
この「超自我」との葛藤から、一時的に解放されるのがSMかもしれない…
女は一般的にいって、「自我」が男に比べて弱い。
なぜなら女は「受胎」によってもう一度、「前自我」とでもいうべき
心理領域に戻ることが生理的に前提されているから。
フロイトやユングやアドラーそれぞれ名称や考え方は違う
とりあえず本人が意識できないのだから、無意識があるだろうということ
意識できるものは意思にあるということだろうということ
自己は当然、意識と無意識の間のあたりにあるだろうということ。
これがいわゆる自分。
さ、さんへ。
マスローで言えば、あまりにも悲しいことだが
ある欲求が満たされていないから、それを欲しがりすぎるのだろうとのこと。
承認が現代のキーワードかも。承認はなかなかいえない
異性をほめることすらなかなか勇気がなくてできないという人が多いからね。
いいたくないが、所詮めしを苦ってくそがでるように
愛情や倒錯なども、たんなる機械的な機能だと思われる。
あいまいになってのぼせあがって、わからなくなるということは
複数の何かがひそんでいるからだと思われる
恋愛・愛情・好き・不機嫌・甘えなども、複数の欲求が
意識・無意識・防衛などにかかり分かれていることがわかる。
もっとも、複雑な過程や工程を得ているのが、愛情だろう。
しかし、解いていけば・・・。
人が考える愛情などないということがわかる。人は残酷で自己中心的でしかないのだろう。
94 :
没個性化されたレス↓:2006/08/17(木) 01:06:44
95 :
没個性化されたレス↓:2006/08/17(木) 01:08:57
>>87 >たぶん「プロ氏」のいう自己は、上記のURLの中では「前意識」というところに
>対応しそうだが…。
無意識には何が対応するの?
エスに対応するモノはないの?
96 :
86:2006/08/17(木) 01:10:40
97 :
さ:2006/08/17(木) 08:46:02
>>92 そうですね。
自分が自己中心的である、と真に悟ったときに、
人は心が開放され、自分に執着しなくなるのでしょう。
いつも目にする景色がこんなにも美しかった、と言う事に今まで気がつきませんでした。
私にこんなに優しくしてくれる人がすぐそばにいる事にも気づこうとしませんでした。
ほんの些細な日常がこんなに喜びに溢れていることを教えてくれたのが彼なのです。彼は気づいていませんが。
「愛している」と口に出すと虚しくなるのは、もう既に愛が存在し、世の中を覆っている事に気がつかないからなのでしょう。
有る物を、無いと思うのは悲しい事です。
>人が考える愛情などないということがわかる
そのとおりですね。でも私はもう少しロマンチックに考えたいですよ。糞だなんて・・・。
>>97 いいすぎかもしれませんが、基本的にはそのように考えたほうが
その人のためです。もちろん口に出すときは包んで話すべきですが
エスと自己の関係とかめんどくさいです。
アドラーのように特にわけてないこともあるのですから。
そんなんわかってもどうかと思いますよ。
意識できることと意識できないこと
善良な人は、意識できないことで悩むのです。不安を覚えるのです。
>>97 その愛してると口に出したことが、自分が愛されたいとの気持ちだからですよ
さ、さんは嘘をつきましたね。
マゾというのは、選択をしてこなかった人なんだろう。どんなに学歴があろうとも
どんなに努力しているように見えて。それが逃避のための努力なのだろう。
人に見せるための。
自分の意思で不安を乗り越え、選択したとき、そこに偽りや見栄がないとき
自己が姿を表す。意識と無意識、建前と本音、表と裏と相談する。
尊敬があれば軽蔑があるのは当然なのに。どちらか一方を許さないのは幼児的なのだろう。
老人がいれば、若者がいる。老人が生理的に嫌悪されるのは当然ではないか。
マゾの正体は、自分を放棄した人なんだと思う。
それどころか、本人は本当のところでは、自分を放棄したどころか
正しいことをしたと思っているのかもしれない。
つまり、従属を正しいことだと思っているのだろうね。
やっぱり、支配的な親しか原因はないと思うよ。
それも、無意識を読み取ることを禁止した親。
無意識を否定しなければならないのなら、どうやって自己が出現するのか。
つまり、子供は自己否定が正しいと思い込む。こうしてひそかに
敗北レールがスタートするのだろうか・・・・。
>>95 無意識は無意識に対応する。エスも無意識の中にある。
それより、今までの話の中ではでてこなかったエスを持ち出してきて
こだわるのは、なにか理由があるのだろうか?
101 :
86:2006/08/17(木) 18:15:01
>>100 私は人格は「自我」と「エス」という二層構造と考えるのが分かりやすいと思っています。
人格の中に「自己」があるというあなたの説明がよく分かりません。
まず、一般的に「自己」という言葉は自分自身を指す言葉です。
ですから「自己」という言葉で自分の人格の中の何かを指すのであれば、それは
自分自身を指すものでなければならないでしょう。
そうでなくても少なくとも自分自身の中心になるものであるべきでしょう。
自分を意識し世界を意識し理解し思考する中心を指す言葉であるべきです。
私はだいたいこの意味で「自我」という言葉を使っていますが、これを自我と呼べば
これ以外に「自己」と呼べるような部分は私の中にはどこにもないと思われます。
しかし、あなたは意識と無意識の間に自己があるとおっしゃる。私にはその「自己」が
何者であるのかどういう働きをするものなのか、何故それを自分自身だと呼んでいるのか
納得がいきません。だから、納得するためにいろいろと質問しています。
私の知っている自我やエスとの関係が分かれば理解の助けになるのではないかと
思って自我やエスとの関係を聞いているのです。
102 :
さ:2006/08/17(木) 18:41:02
>>99 ああ、ごめんなさい。誤解です。「愛している」と言ったのは彼のほうなのです。主語が抜けていました。
『彼が、「愛している」言うと、私は虚しくなる』のです。まぎらわしくてすみません。
愛など無いということは既に知っています。
じゃあなぜ、彼の元をはなれないのか?
理由は二つあります。
ひとつは彼が私にとって「特別な存在」だからです。
知り合うきっかけは某SMサイトの掲示板でした。わたしは「絶望したいです」と書いた文章をそこに載せました。
そうすると彼からメールが届いて、定期的にメール交換することになったのです。
彼のメールは酷いものでした。「私はお前にとって絶対的な存在だ」、「生きている価値があるのか?」「自分を捨てろ」等々言いたい放題なのです。
その上、毎日メールの返事を書かせます。遊び半分で始めたメールですが、私は恐怖で毎日泣きながら返事を書いていました。
生きることの意味、を考えると、必然的に内省するようになります。過去の自分を考え、今の自分を考えました。
彼にはメールで自分の今までの生き方を洗いざらい話しました。
ある日、様々な思考で頭の中がパンクしそうになってしまって、もうだめだ、病院とか行った方がいいかもしれない、と思ったとき、
私の脳の「自己治癒能力」によって、心が開放されたのです。
103 :
さ:2006/08/17(木) 18:41:57
そのとき、私は彼を必要としていないし、愛してもいないのだ、と気がついたのです。その段階で彼とはさっさと別れればよかったのかもしれません。
彼も言っていました。
「自分が愛した女は、必ず逃げていく。だから鞭で打ちたくなるのだ。」と。
しかし、考えてもみてください。私の毒をくらって傷ついた彼をどうして捨てることができましょう。
依存心が強く、さみしがりやで、ちやほやされたい彼は、私が去るとまた新しい女を探すでしょう。でも決して彼の心は救われないのです。
いろいろ考えた結果、私は彼の精神を安寧に導くことによって、二人の関係を止揚しようと思ったのです。
それによって、お互いにかけがえのない存在になるのではないかと。
もうひとつの理由は、純粋に彼の心の中をのぞいてみたい、と思ったからです。
彼は不思議な人なのです。もしかして、彼は自分が傷つくのを知っていて私を救ってくれたのではないかとさえ思うのです。それは考えすぎかもしれませんが。
彼の心に入り、私という人間が、彼にとって「特別な存在」になるようにしたいのです。
セックスやSMでなく、もっと大きい意味で、私の存在を彼に知らしめたいのです。それが私の目的です。
104 :
さ:2006/08/17(木) 18:45:20
ここまで書いていて、ふと恐ろしい新しい考えが浮かびました。
もしかして彼は
他我を育てて自我を注入する、
タイプの人間かもしれないです。
もしそうだとすると、まんまと彼に載せられているということになります。そして彼はこの世のものとは思えないくらい残酷です。
確かに巧妙なのです。巧妙すぎて真意がわからない。私は既に神経症に近いかもしれません。
ここでの自我、と他我の定義ですが私はなんとなく使ってます。
105 :
さ:2006/08/17(木) 18:51:52
実は今、私の心はむきだしの状態です。極端に言葉に弱くなっています。
すぐに恐怖のスイッチが入ってしまう・・・。
正しいことと間違ったことを正当に判断している、という自信がないのです。
私は嘘つきなのでしょうか。私はマゾなのでしょうか。マゾは救われないのか。
子供を生みたいです。その資格が欲しい。
怖いです。
>>101 すまない。 コテを挿れ忘れてた。
>>100 を書いたのは「プロ」氏ではない。「咀嚼途上者」だ。
なぜならその前の問い
>>95が 「咀嚼途上者」に向けられたものに思ったからだ。
>>101 の問いは「プロ」氏に向けられたものだろう。
107 :
心理学初心者:2006/08/17(木) 19:52:43
性的サディズムとは異性の親に対する復讐である
と思ってみるテスト
108 :
没個性化されたレス↓:2006/08/18(金) 00:58:40
必ずSとMのどちらかに別れるの?
どちらの要素も持ってる気がする
>>107 そのテストは俺も何度も繰り返しているテスト。
だが、思ってみるテストから、言いきってみるテストにはすすめない。
それだけでは、サディズムの諸様相全体を掬うには足りない気がするからだ。
もう数本、掬うための網を増やすか、
その網の目をもっと細かくして検証してみるか。「攻撃性」の他に「支配欲」も掬ってみたい。
「初学者」氏が、思ってみるテストから、言いきるテストにすすめないのは
俺とは違うひっかかりがあるのだろうか?
>>108 幼児期の親との関係から、まず、「攻撃性」が芽生え、
さらに、その次の幼児段階で、その攻撃性が、
くるりと矢の先を曲げて、自分自身に向かってくる。
したがって、Mには「屈折した攻撃性」が内在している。
矢が途中からぐるりと曲がって、矢の先が自分に向かった状態。
Sの矢の先も、何かのきっかけで、ぐにゃりと曲がる潜在的可能性はいつでもある。
裏と表ではなく、またSという種族とMという種族が別々に存在している訳でもなく。
一本の矢が(親との関係で発生する)、まっすぐなままか、途中から曲がるか。
というのが、ここまでの認識。
むろん、思索をすすめていけば、異なる認識に変わる可能性もあるが。
この攻撃性、
またはある対象を無害化し取り込もうとする間接的な攻撃性。
そのモデルは、体内の免疫の仕組み(侵入した異物へ攻撃)にあるのかもしれない。
と、言ってみるテスト。
112 :
素人:2006/08/18(金) 22:33:57
前のスレに書いた事があるのですが、
まず、子どもは生まれてからしばらく全面的に母親の保護の下に生きていきますが、
このときの母子の関係は保護と被保護の関係ですが、同時に、支配被支配、支配と従属、命令と服従の
関係でもあり、また、しつけも含めて苛める苛められるの関係です。
人間が生まれて初めて持つ人間関係が苛める虐められるの関係なのですから、人間は出発点から
マゾ的だという事になると思います。
これが性倒錯としてのマゾの根っこにあるのは間違いないのではないでしょうか。
ただ、これがどのように性倒錯としてのマゾに繋がっていくのかはなかなか難しいものがあると思いますが。
一つ考えられるのは、子供が男である場合、この苛める苛められるの関係の中での
母親からの働きかけは、女である母親が男である息子に働きかける訳ですから
エロス的な色彩を帯びる可能性があるという事です。
苛める苛められるに性的な意味合いが含まれれば性倒錯としてのマゾに
近づいたという事になるのではないでしょうか。
>>112 前スレの[754]氏ですね。
Dat落ちしてしまってるので、こちらに持ってきておきます。
754 名前:没個性化されたレス↓[] 投稿日:2006/07/22(土) 13:55:46
>>728 >たとえば母親への憎悪や嫌悪感がサディズムと関係してないのか、というような事だ。
関係あると思いますね。特に男の場合は。
まず、男の子は生まれてからしばらく全面的に母親の保護の下に生きていきますが、
このときの母子の関係は保護と被保護の関係ですが、支配被支配、支配と従属、命令と服従の
関係でもあり、また、しつけも含めて苛める苛められるの関係でもあります。
このとき、母親からの働きかけは、女である母親が男である息子に働きかける訳ですから
エロス的な色彩が含まる可能性が高いです。
母子関係が、エロス的な色彩を含んだ支配被支配、苛める苛められるの関係であるという条件が
男性のマゾヒズムの根本にはあると思います。
この主客が転倒した形がサディズムですから、サディズムの対象は母親である可能性が高いと思います。
前スレではこのあとしばらくして、「petty_chou」という人物が次のような発言をしている。
930 名前:petty_chou[] 投稿日:2006/07/29(土) 13:16:39
>>920 マザコンは心の奥で気がついているのです。自分の母親が自分を愛していない事を。
だから多分、マザコンは心のどこかで母親を憎んでいるのです。
自分を母親の従属物にしてしまった母親を憎んでいるのです。
931 名前:petty_chou[sage] 投稿日:2006/07/29(土) 13:25:19
母親からの愛情がこの世界のリアリティーの基盤だと思います。
人は、母親からの愛情が現実のものであるという所を出発点として
「自分の現実感(リアリティー)」=「現実の世界」を築いていくのだと思います。
だから、母親から愛されなかった子どもも母親から愛されたと思い込んでいます。
そしてその思い込みに嘘が含まれているので、母親から愛されなかった子どもは
うまく現実感をもてない、あるいはうまく現実の世界を築く事ができないのだと思います。
「素人」氏のいう、
母親への全面依存が、男子の性的マゾヒズムの根元。
そこからサディズムへの転化を「petty_chou」氏が言った
「多分、マザコンは心のどこかで母親を憎んでいるのです。
自分を母親の従属物にしてしまった母親を憎んでいるのです。」
と併せれば SM発生のもうひとつの見方になりうる。
もっと展開して、
“先にサディズム(攻撃性)が発生し、それが父親との対立によって内向し(抑圧され)
自罰願望が芽生えて、マゾヒズムに転化する”
というフロイト系統の(ナクトの事だが)考え方と、うまく対立してくれれば、
(順番がまったく逆になっているからすでに異なる見方ではあるが)、
考えを深める、いい契機になるのだが。
116 :
さ:2006/08/19(土) 10:37:59
私事ですが、おっさんに逃げられました。
もっとおっさんと話をしてから言おうと思っていたのに、私の心の弱さによって
そして自分の心の重荷を下ろしたいばっかりに、「愛してないよ」と言ってしまいました。
彼は怒ってしまいました。
何度も何度も言葉の応戦を続けた結果、彼は「お前なんか、捨ててやる」とのこと。
今、言うべきじゃないのは解ってたのに・・・。私は弱い人間です。
彼の「自己治癒能力」はいかほどのものでしょう。
人は精神的に追い詰められたとき、自己治癒能力によって脳の修復が行われると言う。
そしてすっきりしちゃうのです。
彼には、物理的衝撃がまだ足りないのです。彼の魂は救われるのかどうか私にはわかりません。
ただ、何かをうすうす感づいている優しい彼の魂はきっと救われると信じています。
やさしい人なのです。
117 :
さ:2006/08/19(土) 10:47:40
ええと、ここを読んでいる悩める人々に、何の根拠もない提案をしてみたいと思います。
学術的に、サドとマゾを研究したい方はそのまま学問をお続けください。
悩める子羊たちは、いろいろ考えていらっしゃる。すばらしいことです。
その思索の一助として、一度物理的な刺激を脳に与えてみるのもいいかもしれません。
たとえば・・・
ドクタートマベチ?(ぜんぜん知らん人ですが)に脳を洗ってもらうとかね。
幼い時のことを思い出し、それが自分にとってどんな意味があったのかを思い出すのです。
内省に内省を重ねまくる、のです。
自分を取り戻すには触媒が必要なのです。一人じゃ難しいかもしれません。
118 :
さ:2006/08/19(土) 10:48:27
なにか他に物理的衝撃を与える方法をご存知の方は教えてください。
>>118 脳の一部を除去する。
(嘗て実際に行われ、いまでも再犯をくりかえす犯罪者の更正法として
実験国家アメリカでは実現可能性を持っている)
>>109 に関してすこし自己解決した部分がある。
攻撃と支配 ではなく
攻撃→支配 ならなんの問題もなく繋がる。
(並列ではなく直列、つまり時間的順序がある)
攻撃した相手を逃さないために支配する。そして利用する。
まったく権力の小型コピーそのものだ。
8月初旬に報道された 大阪の村本卓也の連続監禁(殺人、または無責任放置死)事件。
村本はサディストだ。
(SMを安全なゲームにすりかえて楽しむ市民主義SM主義者は認めないだろうが)
マザコン起源説も自分なりにもぐもぐしてみる。
母親からの支配を「快」とし、常にそこに戻りたいM
母親からの支配が、偽愛 単なる母親のエゴに基づいていた時
母親への憎しみに転化してS
たとえば父親との関係が濃厚で、その濃密さがさまざまな「規制」に基づいていた場合、
その関係が戻りたい場所になってしまえば、女M (男親と女児)
いづれにしても、幼児期への固着。
その時に母親の過保護という名の支配をうけたのか、
父親の放任によって、「倫理・道徳」といった禁止を受けず、
「超自我」が未発達のままなのか。(超自我まったく存在しないことだってありうる)
幼児期への固着自体は別に異常でない。
そこに性的興奮がからんできて、サディズム・マゾヒズムが成立する。
そうでない場合は単に
マゾヒスト的性格
サディスト的性格 という「分類」が行われるだけになる。
123 :
心理学初心者:2006/08/20(日) 21:06:45
>>咀嚼途上者
精神分析では、幼児期への固着っていうのが定説なのかな?
幼児期への固着は時に精神疾患へと繋がる場合がある。BPDや摂食障害、
ODやリストカット、犯罪行為としてはストーカーや強姦といったものだ。
外傷性精神障害の中でこの辺は関連がありそうだ。ただ、ストーカー犯罪
者の中でBPDの人は5%くらいって誰かが言ってたな。幼児期への固着
から抜け出せていないBPDの人々にも私は目を向けている。
124 :
没個性化されたレス↓:2006/08/20(日) 21:27:39
僕は、募集に来ました。
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>>123 心理学初心者氏
申し訳ないが、俺も門外漢だ。定説かどうかは知らない。
(フロイトは「精神分析入門」を随分昔に読んだ記憶がある程度)
(元々思想畑だから他には、吉本隆明「心的現象論・序説」、フーコー「性の歴史」くらい)
今は、サーシャ・ナクトの「マゾヒズム」とプロ氏の「過保護・放任」という卓見に触発されて
幼児期の固着の重要性を認識した、というところか。
あなたのいうBPDもググってみるまで「境界性人格障害」のことだとは知らなかった。
http://www.kineyafudousan.co.jp/nikogaoka/kokoro/6/a_5.htm とても興味深い。 以前にもレスの中に書いた記憶があるが、
プロ氏は、入り口と出口について語ったが、
入り口から出口までの間の通路にはあまり触れない。
心理学初心者の射程の取り方(視線の方向)に賛同する。
だが、ナクトすらまだ読了しおえていないのに、マスローやアドラーなど、
サイトの説明だけでは不明な点も多く、それぞれ一冊ぐらいは読まないと、
プロ氏に質問を重ねることすらままならない状態で、困ったもんだ。w
心理学初心者はポイントをうまく捕まえる人なので、
考察レスを密かに期待している。
(ある程度レス数もすすんだから、ゆっくり考えてもDAT落ちはしなさそうだし)
ラストの段落一行目 心理学初心者に「氏」を付け忘れた。失礼。
とはいえ、今のところ、
ただひとり「総合」に向かっている「プロ」氏以外の我々には
互いに乱反射するような
「断片的な考察」が精一杯のような気もする。
現段階ではそれで充分だと思う。
パズルのピースをまず提示すること。
特にサディズムは「プロ」氏も一瞬、混乱していたくらいやっかいだ。
むろん、マゾヒズムに関しても性差の問題等が通路に残されている。
128 :
さ:2006/08/21(月) 04:42:25
えーと、あなたがここに書き込みをする理由をもう一回ききたいです。
正直に答えましょう。>そしゃく
129 :
さ:2006/08/21(月) 05:15:14
理性と対立するように見える言葉として感性(直感)があります。
それは一見止揚できなさそうに見えます。
直感は本質です。
理性ひとつを取って考えてみると、いつもそれは本質から外れていくように見えます。
しかし、理性の総和が直感を生み出すことも正しいのです。
そこで二つは止揚できます。
なにが言いたいかといいますと、いろんなことを多元的に考えるのはいいことやね、ということです。
でもわたしは既にあなたの望みを知っています。
フロイトも、アドラーも、マスローも読んだことないよ。
130 :
さ:2006/08/21(月) 05:44:13
ああ、またからんじゃった。ごめんなさい。心臓が痛い。
131 :
さ:2006/08/21(月) 05:59:33
ごめんなさい。書いてあること忘れてください。
132 :
心理学初心者:2006/08/21(月) 19:09:14
まぁ入口はあっても出口はないのさ
133 :
没個性化されたレス↓:2006/08/21(月) 19:10:57
>>132 入り口さえ開いてれば、あとは入るも自由、入り口からでていくのも自由。
ってとこかね。
コテ取り替えたいね、まったく。「咀嚼」は君の方が上だわw
あまり関係ないが、
「理」は極北に「言葉だけの凝集世界」をもっている。
かりにそれを「世界観」とよぼう。
世界観の獲得で育まれるのは直感力ではなく「洞察力」だ。
136 :
没個性化されたレス↓:2006/08/22(火) 09:54:11
137 :
心理学初心者:2006/08/22(火) 21:16:47
性的サディズムといえば少年Aがそうだったね。
>>101 いえ、自己は自分のことですが、自分ではありません。
ここが重要です。意識が自分かと言われれば、それも違います。
自我も規範意識も自分ではありません。トータルして
コンプレックスも、防衛機制もトータルして初めて
自分といえるのではないのでしょうか。
自己は魂のようなもので、自己を感じると安心するという特徴があります。
そもそも、自己は意識と無意識の間にあるとされ、葛藤に決断を下すとき
自己を扱うので、自己が実現されるとなるわけです。
個性化。対立物の結合。どのみち、不安に立ち向かわなければ
悪性の依存性となり苦しめられるわけです。
今回は依存性について考えてみたいと思います。
依存性と自立と言われますが、自立の裏には依存があります。
よく親子関係で適切に依存させられたからこそ、自立できるというのが
あります。ところが、良い親なのですが典型的な日本の親とか
それ以上に変に厳しい親だと、子供は依存できずに、それどころか
自己を放棄してしまいます。無意識の大半に悪い感情を押し込み
それがあがってこないようにしています。その反動形式が
過剰なまじめさなのです。これは現代では相当に危険な行為だと思います。
そして、他人の評価に頼りすぎるようになります。
通常この依存性は隠されます。自分の中から。
自己を憎んでいることから生じる依存性がわからないまま、大半の人は
すごしていると思います。
つまり、受身・依存性からは、自己の安定などありえないと
わかっていたほうがいいと思います。親鳥を待つヒナ鳥のような願いを
隠して、自分がふがいない、情けないと親鳥を待ってはいませんか?
マゾはいつかsmをやめるかもしれませんが、ほかの者が
必要になるでしょう。マゾはこのようなことでは
永久に満足できないのです。人はいつか慣れますから
この依存心に気付き、あるいは達成による快楽動機がないと
難しいと思います。マゾはいつまでたってもマゾであり
さらなる深みにはまっていく可能性すらはらんでいると思います。
困ったのはサディストです。
さ、さん。親になることで注意することはそんなにないと思います。
子供が自己を放棄していないかどうか(特に中学から〜)
(この自己を放棄したかどうかがわからない親は、俗に言う神経症の親)
(むしろ、自己を放棄した子供に良いこと言ったりする。表面意識で)
つまり、外界とのかかわりを
不安や規範(義務意識)から興味を持っていないかどうか気にするだけです。
外界とのかかわりは長年続くわけですから、不安などでは到底持ちません。
親はただ、子供を必要としない親が、子供の動機を探れると悟ることです。
あとは、必要最低限のお金ですかね。
自分=個 とすればもうすこし風通しのいいところにでられそうな気もするのだが。
ナクト(フロイトも)自己ではなく「主体」という言葉で自我と使い分けてるようだ。
>>137 酒鬼薔薇には当時ひどく興味を持った。
高山文彦の「少年A 14歳の肖像」
女性ライターがまとめたらしい「少年A この子を生んで」を当時買って読んだ。
今はどうなってるかと思って「酒鬼薔薇」でググって見ると、
革マル系の 少年A冤罪説が絡んできてけっこうややこしくなってるようだ。
彼の場合、性的サディストと呼べるかどうか、微妙だと思う。
ひとつは年齢的に思春期であったこと。(この時期jは誰でも大なり小なり気違いだ)
高山文彦を信用するなら、
祖母の死をきっかけに「命の所在」を確かめようとして始めた動物解剖と
初の精通が「偶然」重なってしまって、殺害行為が性的興奮に強く結びついてしまい、
そんな自分を自己嫌悪しながら、もがいていた。という構図になる。
膨大な精神鑑定書があり(冤罪派からのいちゃもん多数あり)
それも読めない状況で、簡単に考察できる対象ではないと思われ。
少年Aは、なんにせよ何かに支配されてしまったことは確かでしょう。
劣等コンプレックスに支配されれば、周りは敵、と過剰に
攻撃的になったりします。これはコンプレックスに
無意識から支配されている証拠です。
両親が原因だけでなく、運悪く、マッチングしてしまうと
おかしな防衛が起こり無意識で複雑になり固まったりすると思います
化け物の誕生ですね。心理の中に生まれる瞬間です。
逆に意識の中に善が規範が生まれることもあるでしょう。
無意識に善は存在しないのです
145 :
心理学初心者:2006/08/23(水) 19:47:57
SMに限らず、親から受け継いだ遺伝子と胎内記憶、乳幼児期の親子関係で
精神疾患にかかりやすいかそうでないか決まってくるのだろう。小学校入学
前から神経症発症する人もいれば、青年期後期になって発症する場合もある。
サディズムは復讐、マゾヒズムは服従である。
146 :
心理学初心者:2006/08/23(水) 19:59:20
私は、自分を憎み親(特に母親)を憎んでいます。そして恋に落ちると、
その人のことしか考えられなくなり、執着します。過剰に真面目です。
だから、自分と一緒にいるのは堅苦しいと思うでしょう。
でもそれは自分が頑張っているということを認めてもらいたいという欲求、
すなわち承認欲求を転移した相手に求めているのです。そして、「自分は母親
の子供だから」と、無条件の愛を求めます。神経症的な恋愛となるのです。
基本的には軽度のマゾだけど、転化してサドになることもできます。
前の最後の一行だが、これである程度は説明できるとは思うが、それ以外の
精神分析学によらない研究については不明である。
ココマデヨンダ(ノ゚Д゚)心理学初心者氏 ツイニ言イキッタカ…
サーシャ・ナクト「マゾヒズム」 第一章 色情的マゾヒズム p68〜69
『小児は彼に配慮を与える者すべてを愛する。
それはある時期、みながかれに与える配慮は、
色情的満足のみなもとであり、愛の証明だからである。
しかし
小児は同じ者たちを、その者たちが、
彼に対しこの役割をもう満たさなくなるや否や「憎み」はじめる。
色情的満足の剥奪――この場合前性器的な(つまり口、肛門期)
は、なによりもまず、サディズム的衝動を始動し、解放する。
この憎しみは攻撃行動に直接あらわされ、児戯などに参加したとき、
反応を引き起こす結果になろう。(略)
虐待(児戯でのいじめ行動)は色情化される。
というのは、この虐待が、小児にとって欠如していた色情的満足に、以後
とってかわるからである。』
()の中は引用者(咀嚼)。
※「攻撃衝動」の発生を解説した部分で、「復讐としてのサディズム」そのものとはいえないが、
「憎しみ」というキーワードがあるので引用してみた。
150 :
心理学初心者:2006/08/25(金) 21:37:49
復讐ってことは、「憎しみ」っていう感情が含まれているわけだが
151 :
68:2006/08/26(土) 00:05:11
>>138 自我と自己の関係がよく分かりません。
自我は「私は今2ちゃんねるに書き込みをしている。」などと意識している主体だと
私は考えていますが、自己はこのとき何をやっているのでしょうか?
152 :
86:2006/08/26(土) 00:06:15
154 :
没個性化されたレス↓:2006/08/26(土) 10:50:12
サディズムは行動化であるから、復讐という行動化で言葉を対応させたほう
が都合が良い。
行動化には「憎しみ」を持っている。感情レベルですね。
誰に対して憎しみを抱いているかは、親か、少年時代の交友関係の中にある
んじゃないの?
155 :
心理学初心者:2006/08/26(土) 10:54:12
幼児期の頃に性行為を見たとか
乳児期(口唇期)における母親との性的未分化(母子一体状態)からの
強制的な分離はどんな平凡な家庭でもおこりうる。
下の子の誕生(年子――酒鬼薔薇は年子の弟をふくめて2人の弟がいる)
母親の体調による早めの離乳。 母親の仕事による見捨てられ感。
劇的なできごとを想定する必要はない。
それらは子供の近親相姦願望(具体的な生殖的性交願望ではない。母親との一体感への願望)
が充分に満たされれば、成長過程で解消される。
その解消以前に、何らかの理由で、母子一体感が中断された時に、
幼児は恨めしく感じ、満たされない愛情のストレスから、攻撃衝動をもつ。
児戯でのイジメ行為を行う子供は、そのストレスが強いのではないか。
この無意識の憎しみは基本的には母親に向かっているはずである。
それが、
女一般への復讐としての性的サディズムに転化するには、
なんらかの回路がもうひとつあるはずだ。
たんなるイジメを性的サディズムと区別するためには、
社会的サディズム(軍隊や学校や企業におけるイジメや、アメリカ兵のイラク囚人虐待)という
新概念が必要かもしれないな。
その時、大きな役割を果たすのは
超自我のありかただと思うが、今はまだ考えがかたまらない。
159 :
心理学初心者:2006/08/26(土) 16:42:13
転移性攻撃ってやつだね。
160 :
没個性化されたレス↓:2006/08/26(土) 17:29:24
助けてください。幼い頃忙しい母親がかまってくれなかった見捨てられ感から、ある男性が毎晩私に母親役を要求してくるので精神的にも苦痛です。鬱の持病がある相手だけに怖いです。どう思う?
161 :
没個性化されたレス↓:2006/08/26(土) 17:37:09
どっから、そんな情報を仕入れてるのか
別れた友だちは別れた友だち、母親は母親なんじゃないのかなぁ
すくなくとも、精通 生理以降ある程度たった年齢(十代後半〜)以前の者に
倒錯としての性的サディズムやマゾヒズムという言葉を当てはめることには疑問がある。
実際に少年Aの精神鑑定者は、彼に性的サディズムの診断を下しているわけだが、
ひどく違和感を感じる。 あまりにも安易な用語の当てはめではないか。
>>159 その言葉は知らない。もしよければ解説してくれないか。
ちなみに「母子未分化」という言葉は既出の「少年A 14歳の肖像」で知った。
引用しておく。
『児童心理学の言う、「母子未分化」あるいは「母子一体」の時期は、
子供が子宮に宿り体外に生まれ出てから以後も2,3歳まで続く。
幼子はへその緒でつながっていた母胎のやすらかな記憶から、なかなか離れられないでいる。
母親と自分が別個の存在だということさえわからない。
そんな時期に無理やり母親から引きはがされたり、きびしく撥ねつけられたりすれば、
幼子のこころは深く傷つき、雨の降りしきる無人の街路に
たったひとりで放り出されたようになってしまう。
ちがいに気がつきはじめるのは、2,3歳ごろからで、そこではじめて自己と他者の対決を経験する。
(略) 子供は母親の言いつけを守らなくなる。母親はそのたびに叱りつける。
母親はそのとき子供にとって魔女のような恐ろしい存在である、
と同時に、自分がどこで遊んでいてもちゃんと見守ってくれている、絶対的に信頼を置く存在でもある。
少年Aの場合、魔女としての存在のほうが極端に勝っていた。』 前掲書p133
これに対する母親の言い分。(『「少年A」この子を生んで…』)
『人一倍、子供のことについては気をつけているつもりでした。
次男のPTAの役員とかもしていましたし、Aのことではよく学校から呼び出され、
お詫びなどをしに走り回り、学校の先生とも話す機会が多かったと思います。
(略) 私はむしろ、息子に構いすぎ甘かったために、あの子をあんなに
したのかもしれないと、今は思っています。』 (p31〜32)
高山によれば、
Aは「母親にしかられるたび祖母の部屋に逃げ込んで抱いて」貰っていたらしい。
絶対的に無条件に受け入れてくれる存在として唯一、祖母がいた。
そして、この祖母が死んだあと
Aがなめくじをはじめとして動物の解剖をはじめた。
確か宮崎の時も、絶対的な愛情を注いでくれる祖父(か祖母)の死が、
ひとつの引き金になっていたように記憶している。
自分を無条件に愛してくれる存在を失ったことで、自分の生に価値を失う。
自分の生に価値を見いだせなければ 他者の生も同様に価値を感じなくなる。
166 :
没個性化されたレス↓:2006/08/26(土) 18:58:30
私は、どちらかというと
青年期以降の発達が好きな人間なんで、レスしてみるけど。
20歳すぎたら、基本的には、自分の行動を親の責任にはできない気がする。
親が間違ってると思ったら、子ども側から働きかければいいんだし。
健康な人間の話をしているわけではない。
倒錯者の話をしている。
168 :
没個性化されたレス↓:2006/08/26(土) 19:03:36
18歳までは、認知的にも情緒的にも身体的にも
大いに発達する可能性があるため、環境などの影響も大きい。
しかし、ある程度まで発達すると、
そういうハンデみたいなものが、かなりなくなるから、
あとは努力しだいと考える。
正常な発達が行われず、一部が幼児期に固着した者を倒錯者という。
170 :
没個性化されたレス↓:2006/08/26(土) 19:08:42
児童心理学はともかく、
それを精神分析まで応用するのは、
なんだか変わりうるものも、変わりえないと
捉えてしまいがちなような。
それは出口の話で、
今は入口の話をしている。
172 :
没個性化されたレス↓:2006/08/26(土) 19:11:46
ま、少年であれば、親の責任はあるのは当たり前だけど。
ちなみに責任うんぬんの道義的な判断はまったく別の話だ。
いまはただ、倒錯の理由を考えているだけだ。
174 :
没個性化されたレス↓:2006/08/26(土) 19:18:39
よくわからん話だが、親と子は意外に縁があるぞってこと?
いままでのレスを全部読んだのか?
このスレでは、質問に答える義務などない。
考えを述べ合うだけのことだ。
ノ
176 :
没個性化されたレス↓:2006/08/26(土) 19:26:24
すまん、よくよく考えてみたら、
咀嚼途上者さんじゃなく、その前のレスに反応してる気がする。
おじゃましないで、帰ることにします。
,,.r'' ゛~~` ''ッ,, ) )
、 ゛ ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, ヾ. ,.、 / /
ミ ミ゛,へ.__, ,_ノヽ i. .| |l l ,´
ミ ミ, ( ・) {・フ 〉 ミ. _-、i::| |ニニii '
、,,,,ツi: ミ,`~´ ヽ~〈 .ミ /,‐ヽヽ`、||
、シ`` i: ,ゞ 'n.inヽ. .ミ ( .〉〉/
シ // ミ` l.l ヽ"、 / ノ
ミ/ シ 彡 ,=こ二=.{ ミ,, ,r'´ ,,、'゛
ミi. / / ' ! w、`~^' vwv '、 ミ 〃 .ミ
.ミ / i: / `^^ \ ." 〃 ミ バカでも正直だからよし
:i; .i: w !! ミ!: ミ \\( ⌒ヽ
:i; / i: !! .ミ キ , ⌒`、_ ) )
:il .i: ! w! ミ .:i. (_ ( _,ノ ) ,
:il ! i: ! ,〃゛ キ ゞ、 __, ノ ,
.:il ! /~~````` " '''' = ‐- 、ミ _,,,,_ミ, il ` ー ´
:il ´ ―  ̄ - ,,. -‐‐-、、 ヽ. ヾ、 ゞ、 ` 〃
ゝ、wx.mn.!!++ナ'~ ヾ~ヽ、 ヽ、 ,, ~^^}´
彡 〃 〃 }} /〉.〉〉〉i''" 〃
彡、 {{ 〃,__!////l | 〃
X,, 》. ≪.__`‐'.' '´,Uwwvw'、...,,,___
^^^^ !wニこ)こ)二)`) (_,,,..- 、...二⊃_).)
「母子未分化」にこだわっているのは、
「素人」氏の考えがあるからだ。
乳児と母親との関係を絶対的支配・被支配ととらえ、
その中にマゾヒズムの根を置く。
それに、対置させてみたかった。
俺はやはり、サディズム(ここでは攻撃性)を先と考え、
それが自己に向かう段階を得てマゾヒズムに転化する、とした方が考えやすい。
攻撃性
_____\
/
自己に向かった攻撃性(マゾヒズム)
______
/_)
\
………それにしてもひどいAAだな……
マゾヒズムのAA、 誰か達人、つくってもらえないもんだろうか…w
>>160 どういう要求をしてくるの?
おっぱい吸わせてとかだっこしてとかそんな事?
>>143 「少年A この子を生んで」
この本には母親の言い訳と自己弁護しか載っていなかったと言う記憶しかないなあ・・・。
当時、最低な母親だと思ったなあ。
>>165 Aも宮崎も間違った「現実(=妄想)」を自分の中に築いていたのではないでしょうか。
「現実(=妄想)」と書いたのは、当人にとっては「現実」だが、他者からそれを見れば
とんでもない「妄想」であるという意味を表すためです。
人は誰でもこの現実世界に生きていきながら、「現実の世界とはこういう世界なのだ。」という
自分なりの説明を作り上げていきます。彼らだってそういう説明を作っていた筈です。
そういう説明に従って生きていた筈です。ここでその説明を「現実」と「」付きで呼ぶ事にします。
彼らも「現実」を持っていた。ただその「現実」が説明が普通の人が持つような「現実」とは
違っていた。それは、育ち方に多分問題があったから。
問題のある環境に育てば、その問題の影響を受けてその人が築く「現実」は人とは違ったものに
なるだろうという事は予想できます。そして、Aや宮崎も普通の人とはかなり違った「現実」を
持ってしまった。
そして、祖父祖母の存在は、この場合、普通とは違う「現実」を築いてしまったこの人達が
実際の現実にぶつかって齟齬を起こす(この場合は犯罪を犯したわけですが・・・)その時期を
遅らせるのに役立っていたのではないかと思っています。
何故だかは分かりませんが、祖父祖母がいたために、普通とは違う「現実」を持っていても
なんとかボロを出さずにやってイケていた・・・・それが、祖父祖母がいなくなって破綻してしまった・・・
そんな感じではないかと(根拠はないのですが)私は思っています。
>>182 ×>彼らも「現実」を持っていた。ただその「現実」が説明が普通の人が
↓
○>彼らも「現実」を持っていた。ただその「現実」が普通の人が
184 :
没個性化されたレス↓:2006/08/27(日) 12:17:28
外傷性転移とは、加害者に向けられるべき攻撃が、加害者以外の他者に
攻撃が向けられることである。転移性攻撃とは、(通常はこのような意味
で使われる)加害者である親に向けられる攻撃が、加害者以外の他者(特に
恋人対象者に対して)に攻撃が向けられることである。
1997年の少年Aも1989年の少年Aも、いや、少年非行のほとんどが、
外傷性転移、あるいは転移性攻撃でなりたっている。少年非行は親に対する
復讐である。自分を愛してくれなかった、自分を認めてくれなかった、
自分の存在を否定されたことへの復讐であるが、それが家庭内暴力や
ひきこもり、非行、人格障害や神経症、性嗜好異常などの原因となりうる。
185 :
心理学初心者:2006/08/27(日) 12:39:13
>>184も心理学初心者です。
酒鬼薔薇が動物虐待は親(特に母親)に対する復讐が動物に転移されたもの
である。動物虐待後に射精するということから、攻撃することによって性的
興奮を覚えていたことから性的サディズムと診断したのだろう。少年犯罪
ゆえに公開されることはないが、性的サディズムはおろか、動物虐待もなか
ったとする免罪派もいる。実際のところはわからないから確かに何ともいえ
ない。
宮崎は解離聖家族の中で、愛着を持っていた祖父が亡くなった後に、(
それまでにも病的な強迫収集は認められているだろうが、本格的な)強迫収集
(ビデオ)が始まったといわれる。母子関係に亀裂があり、甘えを欲求する
ことができないために防衛手段として強迫収集という手段が取られたのだろう。
(それは幼少の頃に母親とビデオを一緒に見たことからビデオの強迫収集が
出現したのかもしれない)。小学校から続いていた被害関係妄想(手の障害
が原因の一つだろう)は高校に入学して強迫収集が始まるのと入れ替わる
ように被害関係妄想は抱くことは激減したという。
186 :
心理学初心者:2006/08/27(日) 12:43:12
虐待やいじめなどを受けた経験がなく、性的サディズムや性的サディズム
になるとすれば、胎内時に問題があると考えるのが自然ではある。
そして忘れてはならないのは、親の記憶も子供が受け継いでいるということだ。
>>182 petty_chou氏 お久しぶり。
俺のとらえ方とはまた違う見方だが、「自分の頭」で考える人の意見は面白い。
勝手に前スレの発言をこちらにコピペしたりしたが、気を悪くせず
また考えを述べてくれればありがたい。(同意・不同意は別だがw)
(ところで、答えなくて結構だが、「petty_chou」って何だ?)
>>184 丁寧でわかりやすい用語の説明、感謝する。
少年Aがなぜ直接母親を殺さず(捕まったあと先に殺しておけばよかった、と言ったそうだが)
なぜ、小さな少女を襲ったり、無垢な少年を殺したりしたのか。
それ以前にも、いじめを受けていた幼稚園時代に、
いじめとは何の関係もない女の子の首を絞めたこともあるという。
外傷性転移はなぜ、起きると考えられているのだろうか?
Aの場合は、母親への憎しみが自覚されず、母親への愛着も半ばしていたのではないか。
と想像するが。 (母親から与えられた「我が闘争」をバイブル化したり)
失礼、またリロードせず
>>184までだけを見て、レスしてしまった。
続きがあるならどうぞ。
189 :
心理学初心者:2006/08/27(日) 13:39:44
すまんが、また夜来る。でかけないといけない。
では少し続ける。
>>186 すくなくとも攻撃衝動は、
昔より現在の家族が置かれている社会環境の方が発生しやすいと考える。
攻撃性の芽生えから、
性的サディズムへの転化に「虐待やいじめ」過程がはたして必須なのだろうか。
むろん、そこから「復讐」への転化を説明する意図は理解できるし、
実の所サディズムに「復讐」の言葉を与えることに、
俺の心はかなりの共感を禁じ得なかったわけだが、、、
直感ではなく言葉の集積による「洞察」または「理路」が欲しい。
母親との「母子一体」の不全。
そのとき介入してくるはずの父親の不在。
つまり「プロ」氏いわくの「放任」から「攻撃性」(そして俺個人の考えでは超自我の不在)
への道筋はある程度見えてきたような気がする。
そこから「復讐」への道筋に「虐待」があれば確かにわかりやすい。
が、実際のSが皆そのような体験者とは見受けられない。
そこを逆に遡って「胎内」へいく、というのはひとつの可能性ではあると思う。
だが胎内で植え付けられる攻撃衝動。。。すこし考えにくいのだが…。
生存の価値観の低下が植え付けられるような気もするし。
それがどう性的サディズムと結びつくのか。 続きが楽しみだが、俺も今日はここで落ちだ。ノ
追加 親の記憶が子に受け継がれるというのは何かの研究で実証されているのだろうか?
192 :
没個性化されたレス↓:2006/08/27(日) 18:57:36
●外傷性転移について●
親からの虐待のような被害体験をすると、加害者である親ではなく、
他人に攻撃することによって被害体験を克服しようとすることがあります。
直接親に反抗できない(親は権力者で力もある)からクラスメイトや赤の
他人に攻撃するのである。攻撃をすると返り討ちに合うことがわかっている
とこのような現象が起き易いと思います。無差別殺人の心理で外傷性転移
という言葉が良く使われますし、いじめの心理にも使われます。
193 :
没個性化されたレス↓:2006/08/27(日) 23:20:40
虐待及び乳幼児期から児童期にかけて、相当惨めな思いをして生きな
ければならなかった時代があるというのは性的SMを生む要因の一つに
なるだろう。あるいは乳幼児期にsexを見た体験などの環境要因があげ
られるでしょう。
乳幼児期はナルシズムの段階にあるといわれる。親やその代理がその
ナルシズムの段階を世話する、つまり無条件の愛を与えることによって、
母子一体感を得られるようになり、信頼関係が生まれるようになる。
しかし、この母子一体感が充分に得られないまま成長すると、以前述べた
ように神経症や人格障害、性嗜好異常、DV、家庭内暴力、非行といった
問題を抱えることがあるように思えます。もちろんその心の傷をすぐ昇華で
きる機会があれば、そのような事態にならなくて済むということもありえま
すので、母子一体感が得られなかった人全てが精神的な問題を抱えるわけで
はありません。
194 :
心理学初心者:2006/08/27(日) 23:37:46
実証はされていない。その可能性も視野に入れておこうかなと思っただけ
で、どの程度研究が進んでいるのかもまったくわからない。遺伝学・生物学
・医学には無知なので...。
母子一体感の欠如によって様々な悲劇が生まれる。これ以降はまた明日
話すことにしよう。
>>194 了解。 「可能性」で結構。 聞きたいと思う。
196 :
心理学初心者:2006/08/28(月) 21:30:21
親の遺伝子をある程度引き継ぐということを考えると、記憶遺伝子が
子供にそのまま子供に作られていく可能性はある。胎内時に両親不和であった
りするのも問題かもしれないし、母親が自己愛的な理由で子供を産むのか、
それとも自分も自分の子供も愛して生まれてくるのか、授乳時に嫌嫌飲ませる
のかとか、そういった部分を探っていきたいと思う。
記憶遺伝子という言葉ははじめて聞いた。 母子一体感の欠如による悲劇。
あるいはあなたがこだわる「乳幼児期にsexを見た体験」、そのあたりも聞きたいものだ。
以前「インナーマスター」のhpのURLを貼ったことがあるが、
そのHPの別のページに面白い話が紹介されている。
http://homepage3.nifty.com/t-next/yakata-c/KIMAGURE/kf.html 要するに、理想のSと結婚したのに、結婚したらそのS男性がSM行為に関心を失った。
という話だ。 恋人関係になったら男がSでなくなったという話も多いと書いてある。
つまりS側は「愛」によって「復讐」動機が昇華されてしまった、ということだろう。
Mの方は「愛」では昇華されないので、悶々と不満を訴えるというわけだ。
「心理学初心者」の英断によって言明された「Sは復讐」の射程は
入口のみならず出口にも届いてるようだ。
もうひとつ。
「初心者」氏は、最初のテストから「異性の親に対する」という部分を削った。
これによって、憎しみの対象の幅が広がった。
いじめた姉妹(近所の子)でもいいし、抑圧的な女教師でもいい。
もっと後年になっての「ふられた相手」「冷たくされた相手」でもサディズムの動機になる。
むろん対象が憎しみの対象が性的虐待者ならその疵は格段に深いことになる。
疵の深さ、受けた時期に関して限定がとれ解釈可能性の幅は広がった。
さらに胎児期にまで広がるのだろうか。
口唇期の前に「へその緒」期・・・
これはもう「母子未分化」どころではない。
胎児は母親の一部であり、
胎児にとって母親は心的には全部分に近い気がする。
追加
>>154 で心理学初心者氏は「復讐という行動化」と言っている。
>>145 「サディズムは復讐.マゾヒズムは服従である」 における「復讐」を
初心者氏は「動詞」としてつかい、俺は「動機」と受け取っていてそこにすれ違いがある。
しかし俺としては今しばらく
その誤解(曲解)の方(復讐=動機)で「S=復讐」を考えさせてもらう。了承されたい。
202 :
心理学初心者:2006/09/03(日) 02:55:56
母子一体感の欠如から(性的)サディズムという方向へ向かう場合もあるし、
「親に対する復讐」として非行少年となる場合がある。まぁ最悪の場合、
いわゆる「少年A」のような自分物が世間を震撼させるような事件を起こす。
1988年の東京綾瀬で起きたコンクリート詰め殺人(少年犯罪版では最も最悪
な殺人事件として知られている)など含め、母親に対する復讐心が少年の中で
攻撃を転移させた形で犯罪を犯すことがある。
事件の概要を知るだけでも勇気がいるくらい残虐な事件であった。
主犯は懲役20年で、共犯者の少年Cは出所後に再犯している。
親子関係が荒廃した中で育った子供が自分の感情を抑圧するなどの防衛機制
を取り、それが過剰なレベルに達すると神経症などになり、防衛機制が
働かなくなると非行という行動化に出る。神経症者や人格障害などによる
犯罪(内在化と行動化の混合型犯罪)もあるが、なぜそのように別れるのか
(内在化だけの人、行動化だけの人、混合型の人)はっきりしたことはわか
っていない。
防衛規制→防衛機制
しかし人格障害というのはあまりにも漠然としているなぁ。
サディズム・マゾヒズムも人格障害としてとらえていく方向なのだろうか?
205 :
没個性化されたレス↓:2006/09/03(日) 22:46:02
犯罪学の分類とは関係ないと思う。
不快感情を内在化するということはストレスが無意識層に溜まり、不快感情
を行動化するということは非行となり、混合型はその両方となる。
人格障害の中でも、サディズム・マゾヒズムに関連が特にあるのがBPD
とNPDである。この二つの人格障害どちらか持ってる人が、サド・マゾ
であるということもそう珍しいことでもないのです。人格形成期において、
母子一体感の欠如や過剰な保護によって(というにはあまりに単純すぎるが
)人格障害とサド・マゾは発生源が似たようなところから発生しているとい
うこともあって興味深い。尾崎豊(BPD)や三島由紀夫(NPD)がそう
であったようだ。
サディズム・マゾヒズムは性格の問題ではないので人格障害圏には含まれ
ない。DSMでは病的なもの(つまり性的SMのために社会的不利や生活上の
困難が発生するなど)は性嗜好異常として捉えられている。
サディズムが復讐、マゾヒズムが服従
なるほど。服従には必ず憎しみがともないます。そしてその憎しみは
相手へ向かわず、自分へ向かいます。(弱い人間が多いから)
人は服従を抑圧し、隠蔽します。そこで他人の中に生き生きとしたものを
発見すると、自分が何をしたのか、思い出すため不安に駆られます。
そして、他人にあくのレッテルを貼るのです。
こういう人は極度の依存性・劣等感に苦しむことになります。
従属が原因でもあるにもかかわらず、それは抑圧され奥深くにあるわけですから
そこまで意識へ持ってくることは不可能でしょう。いつも影に襲われる
不安に襲われる結果になります。そこでその根源的な不安を解消するために
次々に依存物を求めて・・・それが職業だろうがギャンブルだろうが人間関係だろうが
失敗を繰り返すわけです・・・。この手の人は憎しみを持ちますから、弱い人を見つけると
憎しみを晴らそうとします。
服従により憎しみが、憎しみにより復讐が。
これがサドマゾ一体論ですかね。
その後たくさんの自己卑下が登場してくるでしょう。
自分を自分でだめだと言い、自分を哀れんだりするのです。
自己憐憫は、大変危険な場合があります。自分を自分で哀れむことも
トキに必要でしょうが、それが何かを隠すための自己憐憫(れんびん)だという
こともあるのです。
この支配と服従から目をそらすための、自分への哀れみだということもあるのです。
本質から目をそらすための。だから偽の罪悪感などもそうです。
自分はだめな存在だから・・・で終わってしまうのです。本来責任を
引き受けるとは、なんらかの失敗をとりあえず認め、変革していくはずです。
それが途中でとまってしまうのです。この偽の自己憐憫・自己卑下・偽の罪悪感が登場し。
愛情を語るとき・・・道徳を語るとき・・・正義を語るとき
子供のためを語るとき・・・相手に恩を着せるとき・・・
その裏に憎しみの隠れていることがなんと多いことか。
[心理学のプロ]氏のことばは、不安定なM女の「自己」にはよく届くのだろうな、と思う。
安定したSの「自我」には届かないだろう、とも思う。
ところで殺し屋イチって知ってる?
マルキ・ド・サドは確かに小説の中に幾多の殺人を描いている。
だが、実際に殺人を犯したことはない。
いうなれば、それらは「象徴的な夢想」だ。
象徴的な夢想と実際に殺人を犯すことの間には断層があり、それらは別の構造が存在する。
酒鬼薔薇には バモイドオキ神と唯論我
コンクリート殺人には 「集団性」 (かつての連合赤軍リンチ「総括死」もそうだ)
実際にサディストだったのは村本だけだろう。(そしてあれはおそらく事故死(過失致死)だ)
やっぱり、サドはどうしようもないと思う。
いや、サドの方が世の中やっていけるが
不良からは何の利益も得られないように、サドからは利益のような
ものは期待できないだろう。まさに救いようのないやからなのでどうでもいいかな。
せいぜいMが支配の利益をひそかに提供するぐらいかな。
ふむ…。
S女はどうだろうか?
俺はSM板で職業S女と話したくらいしか接点がないが
そのS女は(客の男性にはS、とある女性にはMという複合S女さんだったが)
「スジ」も心得てて、さっぱりした性格で、なかなか好感がもてたんだが…。
(ただ、ひたすら行動的で、考える前に行動するというタイプだったな。
M女の時は苦痛系なのに病的な匂いがしない不思議なタイプでもあったな)
皆さんのお話について行けるほどの知識はないのですが、今までのレスを拝見していたら
幼い頃に(5歳〜9歳)私を虐めていた同い年の女の子に、サディズムを感じました。
彼女の家は母子家庭で、父親からの(子供としてはある意味当然の)愛情の欠如を私に激しく訴えながら、
平行して私を虐め続けていました。
そして、私を虐めるようになってからはピタリと止んだ行動の中に
「外傷性転移」のような行動があります。
彼女は幼稚園児の頃、決まって女の子と喧嘩を起こし
相手の頭を床に打ちつけるなど過剰な暴力を振るっていました。
今にして思えば、彼女の母親は家庭環境故に常に忙しく、気の荒い方だったように思います。
ここでは、異性の親による影響の、異性に対するサディズム・マゾヒズムを取り上げられていますが
環境によっては同性へ向けたサディズム・マゾヒズムも存在しうるのでしょうか?
(SMの起源が純粋な愛情ではないことは理解しましたので、同性愛などの要素は除外します)
>>216 門外漢が答えるべき質問ではないと思って黙っていたが、
スレストになってしまっているので,
あくまでも「門外漢の素人考え」であることを大前提に言ってみる事にする。
まず、少女が親への欲求不満から、「自分より弱くて攻撃しやすい」女児をいじめたとして、
それをただちに同性愛的サディズムとはいえないんじゃないだろうか?
なによりもまず、「性的サディズム」は「生殖的性器性愛」年齢を超えても
肛門期(授乳が終わったあとの時期)に性的嗜好が固着したままになっている状態、
とするオーソドックスなフロイト解釈を考えれば、
年齢的に(移行が遅れるものもいるだろうという個人差も考えれば)、
少年少女に性的サディスト・性的マゾヒストというレッテル貼りをすべきじゃないと思う。
生殖的性愛からの逸脱として性的倒錯のサディズム・マゾヒズムを考えれば
すくなくとも、普通の「性器的」生殖性愛より「性器結合」に拘らないぶん
同性「も」対象にしやすいのではないだろうか?
(マゾヒズムの命名者)クラフト=エビングは、
「マゾヒズムは男性における女性的性欲の病的増強を示す」と言っているそうだ。(S・ナクト)
したがって(あなたは同性愛の要素を省くと前提しているが)
同性愛者間での(特に男子同性愛の場合)SM行為は
異性愛者間より多いことも予想される。
サディズムが「母親への復讐」の外傷性転移であるなら、
女性が女性を対象にすることもおおいにありうる。
問題は、女性が男性を対象にするS女性の場合がうまく説明できない点だ。
「外傷性転移」とは便利な「用語」だが
【なぜ】は、欲求不満を覚えている。
いま少し考えをもぐもぐさせて欲しい。あなたにも考えがあるなら聞きたい。
なにより、一度S女性の意見を聞いてみたいものだ。
219 :
没個性化されたレス↓:2006/09/12(火) 17:07:14
この人の心理は不思議だ。理解できません。誰か説明して下さい。
↓
僕の夢は「花咲く前のつぼみのような少女」を娘にした父子家庭を築くことです。
最愛の妻とは数年前に死別し、後に残してくれた一粒種の娘。
今ではすっかり主婦気取りで家事一切を取り仕切るようになり、僕が朝寝していると「もーパパったらいつまで寝ているの朝ごはん冷めちゃうぞ。」なんて起してくれる。
「パパったらあたしがいなきゃなんにもできないんだからあ」と皿洗いをする後姿を眺めながら「だんだん死んだ母さんに似てきたな」と感慨にふけりつつコーヒーを啜る休日の朝。
というのが僕の理想の生活です。娘は渡さん!誰にもわたさ〜ん!!
というわけでまずは可愛い娘を産んでくれて10年後にぽっくり逝ってくれる女性募集。
サーシャ・ナクトは、
攻撃性が直接自分に向かった場合は「うつ病」であって
マゾヒズムではない、と区別している。
(攻撃性)
S 自分 _____\ 対象
/
うつ 自分 /_____ 自分自身、または重要な他者
\
M 自分 ______ エディプスコンプレックス
/___)
\
この先端の矢は、それぞれの「無意識への傷」の深さによって、堅さの度合いが違ってくるだろう。
ゴムのように柔らかく向きが変わりやすい状態のものから、鉄のように硬直している状態のものまで。
そこで、サディズムにはもうひとつのかたちがありうる事に思い至った。
SU 自分 ______ エディプスコンプレックス
_)
(__\ 対象
/
このSUがS女のサディズムではないか (と、とりあえず考えてみるテスト)
221 :
没個性化されたレス↓:2006/09/13(水) 14:11:18
私の彼はおそらくサディズムです。
●いじめっ子気質
●グロ画像好き(死体など)
●他人に甘えない、弱みを見せない
●他人にはすぐカッとなる
●両親にはかなり放置されて育った様子
ところが、私には非常に優しく、(優しくしようと心がけているそう)、紳士的。
セックスの時には多少S気が出るが、とてもSとは思えないほど優しさを感じる。
反対に、私はおそらくマゾヒストなので。
彼は、少年期〜現在まで、母親を含めた家族の愛情を求めたが、得られていなかったよう。
私と付き合って、初めて愛情を感じたと本人も言っていて、感情の起伏も減り、
理性で考え行動するようになった。
サディズムというのは治るものなんでしょうか?
判断いただけたら幸いです。
222 :
没個性化されたレス↓:2006/09/13(水) 19:08:37
この人の心理は不思議です。理解できません。咀嚼途上者様。説明して下さい。
↓
僕の夢は「花咲く前のつぼみのような少女」を娘にした父子家庭を築くことです。
最愛の妻とは数年前に死別し、後に残してくれた一粒種の娘。
今ではすっかり主婦気取りで家事一切を取り仕切るようになり、僕が朝寝していると「もーパパったらいつまで寝ているの朝ごはん冷めちゃうぞ。」なんて起してくれる。
「パパったらあたしがいなきゃなんにもできないんだからあ」と皿洗いをする後姿を眺めながら「だんだん死んだ母さんに似てきたな」と感慨にふけりつつコーヒーを啜る休日の朝。
というのが僕の理想の生活です。娘は渡さん!誰にもわたさ〜ん!!
というわけでまずは可愛い娘を産んでくれて10年後にぽっくり逝ってくれる女性募集。
223 :
没個性化されたレス↓:2006/09/13(水) 19:09:52
↑
ただのロリコン
224 :
心理学初心者:2006/09/13(水) 22:59:11
サディズムは治療例自体少ない。治療を行っても改善しない場合もあるし、
改善する場合もある。どちらともいえない。
225 :
心理学初心者:2006/09/13(水) 23:12:20
>>215に対する答え(簡易)
その女の子は、父親がいない寂しさを「行動化」することによって内面
の問題を周囲(大人)に気付いてもらいたかったんだと思う。また、周囲
の人には父親がいるという嫉妬から攻撃を加速させたとも考えられる。
普通攻撃する相手というのは「弱者」に向けられることが多い。
この女の子の場合、転移性攻撃という防衛機制を使わず、同性である女の子
を攻撃したのは、その女の子にもわかってもらいたいという欲求が
あったからだと思う。つまり虐めている相手との同一化である。
>>222 それが俺の正体だといいたいのか。 全く違う。
(本気で聞いてるのならスレ違い。
>>223を支持。)
>>224 「カウンセリング」では「治療」できないとしても。
>>198で述べたように愛を実感することで復讐心が柔いで
S気が抜ける、または減少するということはあり得るのでは?
というか
>>212の彼は性的サディストという状態ではないような…
グロ画像(死体映像)好きというのは別の分類があった気がする…
サディズム的「性格」とすれば人格障害という方にはいるのでは?
227 :
没個性化されたレス↓:2006/09/14(木) 17:13:38
>>226 僕の心理ではありません。僕のネット仲間の心理です。
彼はその趣味のために職を失いました。
こちらが説得しても駄目だったんです。
どうすれば良いのですか?
228 :
心理学初心者:2006/09/14(木) 23:04:06
>>途上者
当然有り得る。
酒鬼薔薇は動物虐待後にマスターベーションを行っていたらしいので、
性的サディズムの診断が下されたんだと思う。攻撃することで性的興奮
を得てマスターベーションをするなら、性的サディズムの診断が下されても
おかしくはない。
>>228 初心者氏
申し訳ない。アンカーまちがい。
>>212ではなく
>>221 の彼 のこと。
「SEXの時には多少S気がでる」程度は
恒常的な性的サディズムとは違うような気がする。
酒鬼薔薇に対する判定は、DSMに基づくものだろうか?
DSM-W の性的サディズムと、
自己敗北型云々に名称が変わったという性的マゾヒズムの定義をもしご存じなら
教えてもらえないだろうか?
ググって捜してるんだが、なかなか見つけられない。
「マゾヒズムの発明」(ジョン・k・ノイズ)にマゾヒズムの一部は載っているのだが。
「侮辱され、殴られ、縛られ、あるいはその他の手段で苦痛を与えられる
(シミュレートされたのではない現実の)行為」
>>227 俺みたいな門外漢の素人に聞かず、
妄想関連の専門家がいる掲示板なりHPなりを捜して相談してくれ。
231 :
221:2006/09/15(金) 23:29:17
>>226 >>229 ありがとうございます。
私も、確かに性的にはあまりサディズムは感じません。
が、私に放尿や排便をすることは要求します。
それを触ったりもします。それ以上のことはしませんが。
その時は、興奮を覚えるようです。
これも、一種の性的サディズムでしょうか?
また、性的サディズムとそうではないサディズムとはどういった違いが
あるのか、分かる方がいればお願いします。
233 :
えす:2006/09/16(土) 15:04:12
一口に「エム」と言っても、やっぱり何種類かある。
かなり大雑把に分けると二つ。性行為に関して言えば、「こんないやらしい事をしてしまっている私を見て!!」(嬉しそう)な感じと、「こんないやらしい事をしてしまっている私はいけない娘です。ごめんなさい!!」(悲しそう)な感じか。
社会に向けた性格的にも、前者は外向的・後者は内向的に感じる。
人はペルソナを着けて生活してるけど、SM的性行為に及ぶ上で、仮面を取り去りたい、解放したい派or上から二重に被ってさらに演じ、陶酔したい派って感じか?
まぁ、どんな「M」も自分に酔ってる訳だが。
>えす氏 言われてみればなるほどと思う。
下世話にいえばM「女」は 『淫乱系』と『忍従系』に大別できる、ってことか
一種のコロンブスの卵だな。
多少学問板「風味」にアレンジしてみると
外向型 | 刺激欲求 | 動機ー社会的・日常的常識からの解放
─────────────────────────────
内向型 | 自罰欲求 | 動機ー「違反」への罰をうけることの陶酔
って感じか。
非常に面白いし、実態にも即してる気がする。連想も色々広がるが、
今このスレッドはあまり掘り下げて語られることの少ないサディズムについて
少し掘り下げができそうな流れなんで、内向型・外向型は、
もう一度マゾヒズムの掘り下げ(「心理学初心者」氏のいう「マゾヒズムは服従」)に
流れが移行する時までとっておきたい、というのが「個人的」な思い。
えす氏は、サディストについてもなにか分類可能だろうか
えす氏自身のサディズムが何に由来すると考えるか、でもいいのだが。。
>>231 221氏 前半部分について、素人考えを言わせてもらう。
「死体写真」への興味、尿・便への興味 はサディズムというより
「フェティシズム」の範疇に入るような気がする。
生命のない「物体」に対する性的興味。
たとえば、サディストは「相手の自我」を打つ、とドゥルーズは言っている。
肉体とともに相手の内面への支配欲求。
とすれば自我が消失して物体となった死体に対する興味は、
物体に対する性的興味であって、サディズムとは別だと思う。
酒鬼薔薇も、動物の死体の手足を切ったり、被害者少年の首を切断したあと天井裏に隠し持ち
さらにその口を耳元まで切り開いたりしている。
その執拗さは、サディズムというより、フェティシズムに近い気がする。
酒鬼薔薇は
「ネクロフィリア(死体愛好症)」 破壊衝動。
変形的なフェティシズム 「物体」としての死体のみならず
「死」という観念自体へのフェティシズム といった要素が複合している。
したがって対象は、動物、女の子、男子といったぐあいに相手を選ばない。
237 :
没個性化されたレス↓:2006/09/17(日) 06:36:10
女子高生のパンティに対して異常な興味を持つフェティシズム。
女性恐怖症と関係あるのかな?
238 :
えす:2006/09/17(日) 08:45:44
>>235>>236 少年Aについて咀嚼氏に同意。
俺自身が「S」なので、冷静にサディストを分析するのは、ちょっと難しい。でもちょっとしてみる。
プロ氏の言葉を借りれば、相手に求めるモノは本来自分に欲しいモノとの事。
Sは相手を支配したい訳だが、支配の形は何も痛みや恐怖だけではないやね。
俺自身がそうなんだが、相手の心(自己?)を少しずつ剥がしてって、普段自分でも気付いて無い所まで曝け出させる。そうして、戸惑ってる相手を全面的に認める。こんな「S」の支配の形もあるって事。(プロ氏や、「さ」さんのメールの相手にも多少同じ匂いを感じるのは俺の勘違い?)
様は、王様(暴君)タイプと牧師タイプとでも言おうか。
前者は行為そのものや形式にこだわり、後者は内面や精神的繋がりにこだわる。相手にとって、普段の生活ではありえない様な特別な存在になりたいのは共通。
まぁ、どっちも自分勝手な訳だが。
239 :
えす:2006/09/17(日) 12:07:08
あ〜…さらに、「S」と「M」両方(男女問わず)で分けられるのが、性行為に対して[清らかで聖なるモノ]という固定イメージと[汚らわしくて醜いモノ]という固定イメージ。
普通の人達でもどちらかだろうけど、SM愛好者はこの思いが格段に強い。
「見て見てM」と「エセ牧師S」は前者。「ごめんなさいM」と「オラオラ暴君S」は後者。
さらにさらに…誤解や批判を覚悟であえて書くけど、こと日本人女性で「S」はいない!!(外人は知らない やった事も話し合った事も無いから)結局は「S」の気持ちが理解(想像)できる「M」でしか無い。というのが俺なりの結論。
240 :
没個性化されたレス↓:2006/09/17(日) 12:23:32
>>239 悪いけどちょっとキモい。
トロい兄を見てると言葉でいじめたくなる私はサド?
241 :
没個性化されたレス↓:2006/09/17(日) 12:33:11
あなたも頭が痛くないでしょうか?東海大学の犯罪行為です。
東海大学は社会主義者、松前重義という一度は、日本を裏切り、公職追放された人間により作られました。
警察が内部の人間を逮捕しても、絶対にほめないといけません。
そうしないと、東海大学の思う壺です。皇室制度を崩壊に導くような行為は許されません。
フリーの百科事典wikipediaより抜粋いたします。
東海大学の人物一覧
●電波で嫌がらせしてきた 後藤亘 - FM東京代表取締役会長 東京MXテレビ代表取締役社長
高山誠賢(高山義友希)-六代目山口組二代目弘道会舎弟頭補佐淡海一家総長
●薬物と関係のある岩崎正之 - 医学部
週刊新潮 2006年8月17・24日夏季特大号
東海大学卒の「覚醒剤逮捕」三田佳子の次男が頼る「睡眠剤」(本名の姓が、石黒なので絶対に差別することのないように御間違いなく)
次に東海大学と全日本空輸の関係を調べて見てください!東海大学がパイロット養成コースを作り出してます。誰かとめてください。お願いです、危ないです。
日本航空株式会社が、電波で墜落させられたと思われる日航機墜落事件で責任取らされた人が、可愛そうです。
●全日本空輸株式会社 wikipedia フリーの百科事典より抜粋。
戦後設立された日本ヘリコプター輸送株式会社と極東航空株式会社の合併により誕生。なお、日本ヘリコプター輸送は論客に政財界をやり込める者が揃っていたことから“日本屁理屈ター”、
極東航空は営業が思わしくなく出資者に苦労をかけたことから“極道航空”と揶揄されていた。つぎにご紹介するのが、
●浅井学園大学の事件 wikipeidaより 浅井学園と東海大学の関係を調べて見てください。
2005年11月に文部科学省からの私学補助金不正受給疑惑が持ち上がり、社会問題化している。事件の経緯は「浅井学園」補助金疑惑(読売新聞)参照のこと。
2006年6月16日報道によれば、前理事長らによる乱脈経営事件により定着したイメージを改善するため、大学名を北翔大学と改称することが決定している。
東海大学の広告塔だった原辰徳さんと、山下泰弘さんと宮崎兄弟の剣道の記録は、本当の記録なのでしょうか?ソ連のドーピング技術を、使ってきたのじゃないでしょうか?
柏陽高等学校出身の翔が覚せい剤取締法違反で3度逮捕。これもも関係あります。
関係ない話題に申し訳ありませんでした。
>>240 別にキモくはない。
反論するなら脊髄反射でなく、きちんと反論したらどうか。
サドというより 単に短気なだけでは?
243 :
没個性化されたレス↓:2006/09/17(日) 13:14:03
>>239 最後の部分だけレスしておく。その前の部分はすこし考えたい。
S女性に関してドゥルーズが似たようなことを言っている。
「父権的・家長的な主題がサディズムにあって支配的なことは確かである。
サド小説のヒロインたちの行動の総体、彼女たちがともに味わう快楽、彼女たちが思い描く企画は、
男性のそれを模倣しており、男性の視線と主宰権とを要求し、男性に捧げられているのだ。」
もちろん母権的なSというのはあり得ると思うのだが。。
ドゥルーズはマゾッホの小説に現れる「毛皮のビーナス」に関しても、
それはマゾヒストが契約という方法で育てた「マゾヒストの内部」なのだ、とも言っている。
マゾッホは実際、妻ワンダを自分の理想の「拷問者」に育てたのであって、
女性サディスチンにはまったく興味を示さなかったそうだ。
だがドゥルーズの分析はマゾッホ、マルキ・ド・サドのテキスト分析を通して
一般論を引き出しているため、かなり偏っている、という気がする。
だからこそS女性の考えを聞きたいのだが。
自分を分析するというのはなかなかキツい作業だからな…
グレートマザーだっけ。全てを飲み込む支配的な母親。
ああいうイメージは女のサディズムに繋がる気がするけど、
母性の変形だとすると愛情なのかな。
よく分からないけど、父親(男)のSとは違うのかもね。
えす氏が
>>239で言ってる
似非牧師S 性交にたいする「肯定的イメージ」
オラオラ暴君S 「否定的イメージ」
というのは親と関係がありそうなんだが…
S女性のブログをいくつか見て回った。
職業S女が多く、一種の自己実現として女王としてグレードを高めたい、
といった類のキャリアウーマン日記という印象のブログが多かったが、
一人、職業S女ではないがSキャリアのある女性が
ブログに強烈なサディズム妄想を掲載していた。
http://finishing.blog23.fc2.com/blog-date-200604.html マルキ・ド・サドやヤプー、マゾッホの中に登場する拷問者たちにも似た
「妄想」だが、女性の手でここまで率直にかかれた「妄想」ははじめて読んだ。
特に興味深かったのは、システムの構築にずいぶん力が入れられていること。
感情的でなく、論理的であること。
それらはドゥルーズがサディストの特性としてあげている
「論証性」「法ではなく制度重視」といった特徴と合致している。
この「残虐な妄想」の背後に 彼女の「復讐」を想定することは全く不自然ではない。
「Sは復讐」 は、かなり根本を突き刺していると改めて思う。
(妄想の内容は強烈だが、彼女自身はスジを心得たまっとうな社会性をもつ人物だと、
日記の他の部分を見て判断できることも付け加えておく。
ただ日本女性には珍しいタイプで、米国女性的という印象も)
アマゾネス的であろうと王様的であろうと、支配者としての性差は
「制度」志向という特徴の下位にあるような印象をもった。
(もちろんもっと微細に見れば、細かい差異もあるだろうが)
「サディズムは復讐」の観点からは、あとまわしにしてもかまわないのかもしれない。
もともと、フロイト派的にはサディズム固着期は肛門期(離乳〜3才くらい)とされてるようだから、
性差もまだ未分化である可能性はある。
ただ女性の場合、性交の形態が必然的に「受け」であるから、
そのあたりについて悩むようではある。(いくつかのS女性ブログから受けた印象)
としても、、マゾヒズムにおける男女差ほどの段差ではないかもしれない。
(断言するほど確信はない。 言ってみるテストの段階)
249 :
心理学初心者:2006/09/23(土) 22:17:13
●性的マゾヒズム●
A.少なくとも六ヶ月間にわたり、虐められる、打たれる、縛られる、または
それ以外の苦痛を受ける行為(現実のもので、擬似的なものではない)に
関する、強烈な性的に興奮する空想、性的衝動、または行動が反復する。
B.その空想、性的衝動、または行動が、臨床的に著しい苦痛、または社会的、
職業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。
250 :
心理学初心者:2006/09/23(土) 22:22:20
●性的サディズム●
A.少なくとも六ヶ月間にわたり、犠牲者に心理的または身体的苦痛(虐めを
含む)を与えて自分を性的に興奮させるという行為 (現実のもので、擬
似的なものではない)に 関する、強烈な性的に興奮する空想、性的衝動、
または行動が反復する。
B.その人が性的衝動を行動に移している、またはその性的衝動や空想のため
に、著しい苦痛または対人関係上の困難が生じている。
なるほど・・・。
>>初学者氏 感謝 (二日前、図書館に取り寄せを頼んだが時間がかかると言われた。来たら自分でも確認してみるよ)
「犠牲者」か・・。
252 :
没個性化されたレス↓:2006/09/26(火) 14:10:07
図書館に来た本は「DMS-W-TR診断基準」そのもではなかった…。
『カプラン 臨床精神医学ハンドブック』(DMS-W-TR診断基準による診療の手引)
「性嗜好異常」は露出症・フェティシズム・窃触症(痴漢)・小児性愛・性的マゾヒズム・性的サディズム・
服装倒錯フェチシズム・窃視症・特定不能の性嗜好異常(スカトロとかネクロフィリアとか)がまとめて
15行でかたづけられている。 (ちなみに次の項の「肥満」には3ページ費やしているw)
『性的嗜好異常』 「性的な衝動、空想、行動がふつうでない・逸脱している・奇妙である」を特徴とする「障害」
(男に多い)
○原因は不明
(1)脳波・ホルモン異常などの「生物学的素因」が、小児期虐待などの心理的因子で強化される「可能性」。
(2)精神分析理論ー性心理学的発達の一段階に固着した結果。
(または、去勢不安を払いのける努力のあらわれ)
(3)学習理論ー小児期の性的興奮と関連して、それが条件づけられたため。
○様態
・ 強迫的な行動が多く、逸脱行動に「浸る」ことを繰り返す。
・ 衝動を抑えられない
・ 緊張、不安、抑鬱状態にあるとき、逸脱行動の増加
・ 一時的に行動をやめても、長時間にわたってそれをやめることができない
・ 行動後、強い罪悪感
○治療 「ある程度の成果をおさめるにすぎない」が
洞察志向的精神療法・ 行動療法・ 薬物療法を、単独、あるいは組み合わせて行う。
以上。
(学習理論というのに興味をもった)
そして、「よくみられる性嗜好異常の表」というのがのせられている
「性嗜好異常の表」
(まず、スレの中ででてきた「露出・フェティシズム」)
露出症 (定義):公衆の面前に性器をさらす(女性にはまれ)
(概説):女性にショックを与えることを望み、女性の反応を見て、患者は陰茎が問題ないのを確認する。
フェティシズム (定義):無生物(靴・毛髪・服など)に対し性的に興奮する
(概説):ほとんどが男性例。行動のあとで罪悪感をだくことが多い。
(マゾヒズム、サディズム)
性的マゾヒズム (定義):身体的ないし精神的に虐待されること、
あるいは恥をかかされることに由来する性的快楽(道徳マゾヒズム)
(概説):性に関する罪悪感への防衛として、制裁が内にむかう。
性的サディズム (定義):他者を精神的ないし身体的に害することで性的興奮を得る。
(概説):男性に多い。サド侯爵の名に由来し、レイプに発展することもある。
(治療) マゾヒズム:洞察志向的精神療法、集団療法。
サディズム: 〃 、嫌悪条件づけ法。
(それにしても、サディズムに対する概説の中身のなさは、異様ですらある…)
他になんかないかと思って見てみた。
「攻撃性:力強い、目的志向的な行為。言葉だけのことも行動を伴うこともある。
憤怒、怒り、敵意の感情の運動面での対応物。
神経学的欠損・側頭葉疾患・衝動制御障害・躁病・統合失調症、でみられる。」
人格障害においては、「境界性」「自己愛性」の他に
「その他の人格障害」 に
「加虐性人格障害:残忍または品位をおとしめるような振る舞いが対人関係が支配する。
両親の虐待に起因することが多い」
「自己敗北性人格障害:自らの生活から悪い結果を導こうとし、助力や良い結果を拒絶する。
よい結果が得られると不愉快となる。この特徴は他の人格障害において
ひんぱんに見いだされるが、単独での診断はまれであろう」
(DSM分類は「本質論」の放棄にもとづいて、現象・症候を選別羅列しただけの実用マニュアルだ。
しかし、これがアメリカの健康保険の基本として、社会的にはもっとも影響をもっている、とある)
>>248関連
攻撃も支配も男性の特質とは限らない。権勢欲の強い女もいるだろう。
ただこれにセックスが絡むと、女性の攻撃はその場面ではペニスへの受動となる。
能動的に、攻撃的に受け入れる、としても。
女性がサディズムの場面でサディストであることを貫こうとすれば、
受ける性器・受けて宿す臓器―「膣・子宮」を潜在的に、象徴的に放棄することが前提となる。
(SM空間での)「脱子宮性」とでも呼ぶべきそれは
男性Sにはない女性Sの特質だろう。 女性の「性欲」(不足を満たす)を搾取として成り立たせるとしても、
それもまた、男性Sにはない女性Sに特有の操作。
サディズムの性差を問わないとすれば、そういった脱子宮性が前提となる。
グレートマザーの象徴的子殺し(または潜在的な男殺しの欲望)
それは母性から、子産みしない母権への移行だ。
すこし心理学から離れすぎか…?
個と個の直接的な身体の接触のかたちは「性」か「暴力」
このふたつの以外にはない。
スポーツの接触は定められたルールの中での暴力
医師の触診も薄められた暴力(医師によっては性的な触診もあるだろうがそれは患者にとっては暴力)
握手やハグは同性同士であっても性。(要は脱性化の濃度差)
いま断片を撒いているのは様態論・症候であり、発生論ではない。
男SにとってのMとの性交は性処理「肉便器」という観念下で
Sアイデンティティを保ったまま行うことができる。
女Sは疑似性器(ペニバン)でなら可能だが、自分自身の膣を使うと
Sアイデンティティが危機にさらされる。
したがってS女は性交忌避によって、己の解剖学的性を棚上げしなければならない。
えす氏の「えせ牧師型」というのはむしろ
「教師型」といったほうがいいように思う。
ドゥルーズがサディストに関していくつかの独特な徴候をあげている。
論証性
制度志向
理想主義
超自我の突出
そして自分の自我は不在にし、
マゾヒストの自我を痛めつける。
サディズム 超自我
マゾヒズム 自我
心理学がサディズムを忌避するのは
この超自我に、「共同体特有の文化・時代的に変化する規範」が投影されるため、
純心理学的に解くことがむづかしいからではないか?
特に共有の道徳律をもたないこの日本においてはなおさらだ。
偽りの愛への潜在的怒り、潜在的反抗・復讐としてのサディズムは
日本的サディズムなのかもしれない。
反論期待age
266 :
えす:2006/10/03(火) 00:19:26
どーも、きもい俺です(ちょっと凹んだよ…)
勝手なイメージかもしれないけど、海外のSMは楽しむ為とゆうのが前提にあると思う。
日本的なSMはちょっと違うよね。笑いながらSMなんて、日本じゃちょっとありえない。
咀嚼氏は反論を期待してるみたいだが、俺は上の書き込みを非常に興味深く読ませてもらった。特に自我と超自我。
倦怠期のカップルが刺激を求めてする様な温いSMじゃなければ、やはり日本的なSMはまず、設定ありきだと思う。
どんな事をするにせよ、まずは「生まれながらの強者」と「生まれながらの奴隷」を『演じる』そこから始まると。
この場合、愛されない憎悪等に加えて、人は平等なんかじゃないとゆう憎悪もあるのかな?
「きもい」だの「きめぇ」だの言う香具師は単なる「おこちゃま」だよ。
今日、「きもい」と言われて学校で首つり自殺した小学生の女の子のニュースを見た。
「小学生」レベルなんだよ、そういうことを言う奴は。まじめに相手するほどの思索的価値はない。
たしかに、聖書の十戒のような「有無を言わせぬ強い禁止」=道徳が存在しないこの国では
つねに道徳は「輸入」された「大衆への同調圧力」装置(エコロジーなんてのはその典型)でしかない。
「平等」も輸入された(それも低質化された)キリスト教的「洋服」。
そういったものを押しつけられている事へのいらだちが、
SM空間を「カタルシス」の場にしている面は強いと思う。
(関係ないがこの国でもっとも強い思想は実は「自然的ニヒリズム」だと思ってる)
かって「さ」氏がプロ氏があげた「受動的マゾ」の徴候に、
「日本の女はみなマゾになってしまう」ということを言っていたが、
猿山のボスの牡猿とその順位列に属する雌猿の体系は、
日本的M女の秩序感覚につながる気もする。(これも自然的ニヒリズムの一種)
「マゾヒズムの発明」の最終章を読むかぎり
いま欧米のSMは、様々な「SMのステレオタイプ」を取りそろえて
「いろんなアイデンティティを売るスーパーマーケット」になりつつあるという。
それらはまさに「ファッション」であり
「マゾ的役割が本質的なものではなく、アイデンティティの消費者に開かれたひとつの選択肢」となり
『役割はひっくりかえしてもかまわない』し『われわれの無意識の深層にあるSM傾向』とも無関係な
『身体の意外な部分を用いて―身体のエロス化―得られる新たな快感の可能性の発明』をしている、
と言うことになる。 (『』部分はM・フーコーの孫引き)
自前の文化より輸入文化をありがたがる若い世代によって
そういうライトなSMはこの国でも広がるだろうし、実際そうなりつつある。
笑いながらのSM、にね・・・
俺も最近よくボンデージのサンプルを見ているのだが、
機械(なんというのかしらないが自動的にバイブが前後に律動する機械)
を使ったS抜きのMシーンを見かける。そこでのSの役割は
たんに自縛できないMに換わって拘束してやり、
彼(彼女)たちを「見る」だけだ。
「見る」というのもSにとって重要な特性だ。
(これがなにを意味するのかは現在、考え中)
「演じる」「仮面」に支えられたSM空間。から
それぞれの空想の種類に応じて注文をこなす「スーパーマーケット」としてのSM
それを準備しているのは「安全」な民主義SMだ。
だが、深刻なマゾヒズムも、深刻なサディズムが消えたわけではない。
「SM板」にはむしろそういう「病的」と呼びたくなるタイプが多い。
逆にふつうの女神スレで、あっけからんと自縛したり、自分の胸に蝋燭を垂らしたりしてしている
「ファッショナブルなM性」を見かける。
苦痛も快感のアイテムのひとつにすぎない、という感覚。
だめだ…どんどん心理学から離れていく…(つまり「個」の問題が縮小していく)
発生(なぜSとなったのか)から様態(どのようなSなのか)への過程を貫く「なにか」を見つけないと、
「マゾヒズムの発明」で言われてる「断片」だけしか残らない。
なんとか「超自我」をてこにしてサディズムを掘り下げ、
「原因」をさぐることが重要だし、考えてはいるんだが…
母親を殺して解体し、肉をホットプレートで焼いたという事件があった。
母親(あるいは父親)への憎しみが、
一般的な女へのサディズムへ転化する仕組みがないとそうなるのかもしれない。
初学者氏に教わった言葉を使えば
「外傷性転移」 の仕組み。
ドゥルーズが指摘した、
「サディストの超自我肥大」を考えれば、
父親との関係にカギがあるのかもしれないと素人なりに考える。
攻撃性と「支配」を結びつける「権力」への欲望が、
性と結びつくその仕組み。
(父親像からそれを学ぶのか?)
(つまり、権力・権威である父親が、憎しみの対象である母親を性的に支配している姿から?)
現実の母親殺しを回避する「換気扇」としてのサディズム(SMプレイ)
271 :
没個性化されたレス↓:2006/10/10(火) 02:08:18
そーなってただけだろ。家族主義嫌だ。
母 →子
父 →子
(あるいは重要な他者) という直接的な心への影響
母
↑↓ →子
父
(あるいは重要な他者) という間接的な心への影響
一番重要な母と子の関係は胎児〜乳児期に強い影響を与え、
次に父親(あるいは重要な他者)との関係が幼児期に強い影響を与える。
というのが、今まで理解してきた心の形成だが、
母と父(あるいは重要な他者)相互の関係(あり方)が
子供へ与える影響については、あまり考えてなかった。
性的サディズムと性的マゾヒズムにとってはこれらもかなり重要な意味をもつと思える。
273 :
心理学初心者:2006/10/12(木) 11:00:57
精神分析によると性倒錯は、母親あるいは父親に対する愛情の代替物である
といえるかもしれない。
274 :
心理学初心者:2006/10/12(木) 11:05:07
男性がサディズム傾向、女性がマゾヒズム傾向にあるのはそれなりの
理由があるのだろう。女性が「白馬の王子様」願望を抱くのもそれな
りの理由がある。
275 :
没個性化されたレス↓:2006/10/12(木) 11:59:28
どんな理由?
俺も聞きたい。それと
>>273 も、もうすこし詳しく聞きたい。
277 :
没個性化されたレス↓:2006/10/12(木) 14:12:49
ぅあみ
>>273 >精神分析によると性倒錯は、母親あるいは父親に対する愛情の代替物である
>といえるかもしれない。
その根拠が知りたいのですが・・・。
279 :
没個性化されたレス↓:2006/10/15(日) 20:15:58
これらを説明するには時間がかかる罠
280 :
没個性化されたレス↓:2006/10/15(日) 20:46:08
男の子に生まれても女の子に生まれても、母親(あるいは女性)が世話をする
ことのほうが、男性よりも多いでしょう。男の子の場合は、愛着の対象である
母親(すなわち将来恋人になる人の原型)が絶えず世話をしてくれる、あやし
てくれる。だから幼少の頃から母子関係が発達していきやすい。その中で、
エディプスコンプレックスが発生していく。
ところが、女の子の場合は、父親よりも母親と一緒にいることが多い。
父親との一体感を築くことが女の子の場合は男の子の場合に比べて難しい
環境にあるというのがある。つまり、女の子が父親との一体感の欠如により
「幻想」を持つことがあるのではないか?
実際には「白馬の王子様」などいない。しかし彼女達はその幻想を追い求
める。幼児期に父親に抱いていた感情を抑圧し、それが将来恋人の中にその
感情を求めようとする(無意識層で完璧な父親を求めている)。
プロ氏が以前言っていたことと重複になるが、「ない」ものを、「ある」
と思い込んでいるのである。
主に乳幼児期の親子関係から境界性人格障害などの人格障害や恋愛依存症、
様々な神経症(特に摂食障害や強迫性障害)や性倒錯に繋がることを私は
精神科医に話している。
281 :
没個性化されたレス↓:2006/10/15(日) 21:05:30
その幻想から、フェティシズムを生んだりサディズムを生んだり、マゾヒズム
を生んだり、小児性愛を生んだりするわけである。幻想を満たすための代替物
としてこれらがある。
精神障害及び性倒錯になる者、犯罪者になる者、その両方になる者、そのど
ちらにもならない者、がいるがそれらの違いがどうして生まれるのかは説明
することはできない。
282 :
没個性化されたレス↓:2006/10/15(日) 21:16:44
また今度な。
(初学者氏でいいのかな?)
>男性がサディズム傾向、女性がマゾヒズム傾向にあるのはそれなりの
>理由があるのだろう
というのは
「女の子が父親との一体感の欠如により」「幻想」を持つこと。
この父親の欠如を埋める「幻想」として、女性は
以前少し紹介した「インナーマスター」(内なるご主人様)を求める傾向が強くなる。
ということだろうか?
男性のサディズム傾向はどうなるんだろう。
母親との関係が強いためにエディプスコンプレックスが発生しやすいので
攻撃性が強くなる、ということだろうか?
その場合には攻撃性は異性の母親ではなく同性の父親に向けられるような気がするんだが。
父親との一体感が女性より強いとすれば、なぜそれが異性への攻撃性につながるのか。
それがよくわからない。。
>性倒錯は、母親あるいは父親に対する愛情の代替物である
どの部分がその説説明なのか、ちょっと判らないのだが。。
「ないもの」(白馬の王子様)を「ある」と思いこむ、という部分だろうか?
そのままでは「性倒錯(マゾヒズム)」(苦痛、屈辱への嗜好)と
直にはつながらない気がするんだが。 (完璧な父親への服従欲求?)
また(時間があるとき)頼む。 ぜひ。
284 :
えす:2006/10/15(日) 23:04:57
SMに限って、簡単に言うと
男は父親(もしくはそれ以上の)になって支配したい。
女は父親(もしくはそれ以上の)に支配されたい。
男女共に幼少期、そして今も足りない愛の代わりに。(幼少期に描いた憧れや、膨らませ過ぎた理想への依存から抜け出せない?)
って事かな?
もしそれで合ってるなら、今でも愛が欲しいと思い続けてる者と、もう愛は自分には手に入らないと思っている者とでは
嗜好や深刻度、依存性なんかも変わってくるんだろーね。当然。
なるほど。 (もしくはそれ以上の) か・・・ それだとストンと腑に落ちる。
愛を求め続ける者と愛を諦めている者。
それは王様と似非牧師(教師)。内向型と外向型というのに関係するんだろうか。
それとも、いわゆる鬼畜とか真性とかいう「度合い」の方かね。。
286 :
心理学初心者:2006/10/16(月) 05:39:30
ナルシズムの段階から抜け出せていないともいえる。
Mの人は、普通年上の人を好むことが多く、Sの人は年下の人を好む傾向が
あると思う。15歳年上とかそういうのは、その人を求めているというよりも、
異性の親の像を恋人に転移させているといえる。
彼らは、現実の従よな部分を否認しているが、自分の生を肯定している人は、
精神疾患や病的な状態に陥ることはないが、そうでない人は(宅間や酒鬼薔薇)
葛藤が生じるために、何らかの精神障害を発症する可能性がある。
男性サディズムは、幼少の頃に母親からの拒絶や父親に刃向かえない家庭環境
など攻撃性や愛情希求願望が抑圧された結果ともいえるのではいか?
>>286 最初の一行以外 小躍りしたくなるほど腑に落ちた。多謝。
人は服従と戦わなければ、ならない
服従は、自分の責任から解放されるとみせかけ、その実自分そのものの
放棄に他ならない。
現代の服従とは、意識されない服従である。
信じるというのは、疑うということが許可されて始めて存在する。
現代に疑えないものがあるとすれば、それは何なのか
そのひとつに親がある。現在問題となっているのは、我執の親のことである
我執の親といえば、〜するべき、〜であるべき、という雰囲気が強かったり
子供に威圧的に接したりする親だ。どうして我執の親が問題となるのか。
せっかく、この自由で物質的にも豊かな日本に生まれて
決まりきった生活なんて・・・というだろうが
残念なことに、そこには、トリックがあるのだ。
創造性がない場合、自由は人にとって、しがみつく権威なき世界
苦痛でしかない。創造性を破壊するものとして、親の存在がある
自己の責任を親になすりつけるのか?と思われるだろうが
真の責任とは真の原因と対策を考えることである。
ここで問題にしたい服従について・・・
あることを盲信しており、そのことすら考えない場合
ほかの事にも、影響はでないだろうか? 出るに決まっているが。
そして、そんなことがあるとすればそれは、何なのか?
今、さまざまな人格障害の時代といわれている
その根本的な原因は、歴史の転換点ということがある
権威主義から自由主義へとの移行という問題点の本質とは何なのか。
自己憎悪・自己蔑視・自己卑下の 正体
これらの日本人には割と問題にならない言葉には、二種類ある。
それは、本当の自己卑下と偽の自己卑下である。
服従の文化では、人を価値のないもの、自分自身を憎ませることにより
権威に服従させていた。しかし、そこから生じる、自分の想像性破壊による
憎しみは、他の国へ向けられた。自分が権威に服従している限り
自分は間違っていないのだ。だから、ユダヤ人虐殺や数々の戦争の
犠牲が出た。自ら特攻していくものや。
たいてい親への憎しみを意識できていない。
相手の存在を認められる人間とは、自分を認めている人間である
これは、能力なのだ。自分を認めている人間は、忘我である。
自然なのだ。まるで、魂が抜け出てその集中しているものと同一化し
楽しさを獲得するようなものである。いつも義務感から生きている
人間とは、魂にまるで鎖でもかけられているかのようだ。
この鎖こそ、従属の証拠である。
何をすればいいのか、みんなどんな基準で選んでいるのか?
間違ったことはしていないのに、正しいことだけ教えたのに
要するに、従属させていたということだ。
我執の親というのは、従属させられていたことを知らない親なのだろう。
我執の親は、子供を自分の心の葛藤を解決する手段として利用する。
それどころか、そのことを子供のためと錯覚させる。このことは
よく言われる欺瞞性というものとなる。子供は、良い親の言葉を疑わない。
憎しみを親へ向けず、自分へ向ける。我執の親の葛藤のために
自分の評価を低くする。低くする以外ない。
これから、あらゆる創造性欠如の根源となる、自己軽蔑について語りたい
自分の評価が低いと思い、常に強迫的にあせっているものは
何かで自分を支えなければ、まともに生きられない。
あせって、強迫的に学歴や金を求める。しかし、この自己評価が低いのは
親がつけたものである。親にその必要性があったのだ。
親が自分に価値がないと思い、本来の感じ方を表現せず
あるべき姿を子供に押し付ける。子供がそれに順応するということは
子供もまた、本来の感じ方を表現せず、あるべき感じ方を親と共有する
こうして、規範意識が増大化する。この規範意識は過剰な規範意識であり
規範だからこそ、正しい。正しいから疑わない。実は、自分に価値がないという
思いから逃走するために、作り上げた規範なのだ。
本来の自分を偽っているといっても、偽った自分も本来の自分なのである。
要するにこれが、神経症だとかノイローゼだとか言われる状態である。
こんなめちゃくちゃな価値観が存在するのだ。よって決まりきった行動しか
できなくなる。まるで、何かの周りをぐるぐる回っているような生き方である
これが、親の呪縛なのである。
自分に価値がないからと、強迫的に名声を得たが、自信はないままだという
人が多い。自信とは自分なのではないのだろうか。
自分を否定し、自分とは違う自分になろうとして(なったとしてもそれも
自分なのに)永遠と葛藤を抱えることになる。
葛藤とは、本によれば、意識と無意識の葛藤らしい。
この幼少期に作られた仕組みは、不安を大量生産する。
自分に価値がないのだから、他人の評価が気になりすぎている
本当は一番にやらなければならないのは、この自己評価が低い、その
正体を探ることである。人のいのちが二つもないのに
たいした違いで自己評価が低いのは、親の評価である。
権威主義の構造を理解してもらえただろうか。
物事を細かくみていないひとは、憎しみでいっぱいの人だという。
その憎しみを抑圧しているのだから、不安となり意識に到達する
嫉妬が多い。それを回避するために、性的倒錯に走るのだろうか
自分が楽しんでいればいいのに。
自分を一番に尊重するばいいだけなのに。その次に金だろう。
人を操作するには、意外な方法がある。
それが自分が価値がないという思いを元にした、献身や
気難しい父親の威圧感だったら?
自分を取り戻す過程をほかに求めても・・・。
人を操作するには、その操作する人間が自分に価値がないと
思っていれば、都合がいい。自分に価値がないと思っている人間が
他人のために献身的にといいつつ、他人にしがみつき、他人で
自分の価値を補おうとしていたりする。
そうして、搾取の関係を正当化する。親の正体を理解することが
心理的自立ということにほかならない。
ナルシズムというのは、自分の存在を認める能力
そのことから、生じる他人を認める能力が育たなかった人なのだろう
それどころか、葛藤のためにそうなのかもしれない
葛藤を解決するためにテレビを見ている人は、人を見ていない。
葛藤を解決するために見ているのだから、人が誰でも番組構成さえよければ
いいという感じ方になる。
大人になれない大人とは、心理学的に言えば、まだ親につけられた
評価から逃げられない人である。そのような鎖でつながれた人の多くが
何も知らないまま親になり、また少しだけ子どもを利用するだろう
彼らは利用していないという、しかし、その自己評価の異常な低さに
疑問を抱いていないのなら、また何かを手にしていないからだと
考えるようでは、これは大人ではないのだ。
我執の親のこどもは、いつもおびえている
自分のために怒られていても、それを確信できないのだ
我執の親の子供は、好きなものがない
彼らに聞いてみるといい、彼らがそれを好きだといった瞬間
まともな人が聞けば、それが好きでないことの証明にしかならない
かといって、きらいなわけでもない。ではなんなのか
葛藤を解決するためにその番組なり何かをやっていただけなのだ
愛する能力がないというのは、葛藤で相手のことを考えられないのだ
だから、考えているふりになってしまう。自分を尊重していないものが
どうやって相手を尊重できるのだろうか。
外国へいったことがないものが、どうやって外国へいったことがあると
説明するつもりなのか。また、そのことを信じ込ませようとしていたら
ちょうどいい。
サディズムとマゾヒズムの「素質」の形成が、初学者の言葉でかなり明瞭になった処だ。
そして、考えていたのは、それに続く「思春期」の問題だ。
性がすべてとなる時期。 そして、ちょうどその時期が反抗期ともなる。
この時期に「素質」は性と出逢い、性的嗜好の「開花」をもたらす。
思春期の問題は、そのまま、親に与えられた規範意識や価値観への反抗を
本当は含んでいたはずだ。
プロ氏に、あまり性の問題に興味がないようだが、
反抗期の問題。反抗期の不在の問題。あるいは反抗期のやり直しの問題。
ということには関心があるのではないか?
そしてその時期が性的開花の時期と重なるとすれば?
さらにその時にセクシュアリティ(性的特質)とジェンダー(性的役割)の問題もつよく意識される。
反抗期に失敗することがマゾヒズムと関連するような「勘」が生まれたのだが。
(服従、という態度の形成)
>>300 すまん。終わったと思っていた。無視して続けてくれ。
最近、草薙君のドラマを見始めた。自閉症の主人公の物語。
草薙君は、他人のことを考えられない。
他人のことをしてあげられることは、できる。他人のことも何でも
指示されればできる。しかし、これは、ほとんど全部表面的な
物に過ぎない。
もっぱら、自発性だとかいうのは、自分に対する自分のスタンスだということ
が推測される。
自分を自分で理解する能力がなければ、相手のこともわからない。
自分に確かな自尊心がなければ、相手の自尊心も認めてあげられない
究極のところ、他人のことは、ほとんどわからない
ならば、自分の中にないものをどうして理解できるのか。
だから、自分のための努力ができる人が、もっともすばらしい人間ということになる
これは、日本人がもっとも苦手にすることではないのだろうか。
初カキコです。
自分は過保護な親の下で育ったACなんだけどプロ氏の言葉ほんと勉強になります。
自分のいままでの根底が覆されます。
質問とか特に無いんですけどこれからも陰で学ばせてもらいます。
>>215>>216で書き込んだ者です。
丁寧なご説明をありがとうございました。
返信が遅れてしまい、申し訳なく思っております。
咀嚼途上者さんと心理学初心者さんのご意見を伺って、彼女の中にサディズムが
潜んでいると断定するのは、私の行き過ぎた解釈であると理解できました。
ありがとうございました。
306 :
305:2006/10/20(金) 21:52:40
また、咀嚼途上者さんの「勘」にも深く共感しました。
そもそも、反抗期に失敗するというよりも、反抗期という
選択肢すら存在していない気がします。
今まで未熟な母親の支配下に置かれていた子供が
服従以外の方法で己の立場を確立することなど可能なのでしょうか…?
無知な質問で申し訳ございません。
>>306 「反抗期という選択肢すら存在していない気がします。」 どういうことだろうか?
親によって自分の価値を低く感じるようにされ続けた子供は、
反抗ということすら許されない(それを思いつくことさえできない)ということだろうか?
反抗期は、親の価値観(正邪は関係ない)に生理的反撥を感じて、
(おそらく、性的な自立によって、自分が「個」であることを生理的に知らされるからではないか)
幼稚だろうが、世間知らずだろうが関係なく親に逆らうことで
(具体的な喧嘩でなくても精神的な反感でもよい)
精神的に個として自立する、大事な過程だと思う。
それは生理的に人間に組み込まれている過程だと、思いこんでいたが。
反抗期がなく育てば(よい子のまま育てば)、
自我は自立の過程を失うことになるのではないか。
自立しないまま性的興味のみがすべてとなる思春期が、マゾヒズムと結びつくのは、
その手の情報(雑誌・映画などのステレオタイプ)に出会う契機があれば、
ある意味、自然だということになる。
しかし、反抗期がない、という事を経験的には想像できないので
できれば説明してほしい。
>>305 プロ氏の登場は前スレの後半からだが、
その前スレがHTML化されているのを最近知ったので貼っておく。
【なぜ?】サディズム・マゾヒズムの心理
http://makimo.to/2ch/academy4_psycho/1077/1077631933.html [心理学のプロ]氏の登場は 730 から。
[心理学初心者]氏のコテ登場は 828 から
[petty_chou]氏は 930 から
[さ]氏は 978 から
[素人]氏についてはこのスレ113
[えす]氏は不明
[咀嚼]は 698, 706で参加。 「咀嚼」を名乗るまでは
メル欄に(sage X)の半コテだったので
html上では名前が青色になっている。
今、めざまし土曜日を見ていた。
児童のいじめ問題で、最近の子供は、他人と違うことをすることを恐れる。
個性とは、他人と違うことを言ったりすることを認め合うこと
などと言っていた。
↑
いつだって、なんだってそうだが、これはうそだと思う。
こんなことを言っていると、精神まで二極化すると思う。
個性とは、単に自分は自分のままでは、だめだと漠然と思っている
ことをやめることだと思う。意味のない自己軽蔑をやめることだと思う。
この自己否定がいつ生まれたかといえば、幼少の頃だと思う。
これは、日本だけでなく、どこでもあると思う。
つまり、合理的に相手の存在を認める能力というのがないのだと思う。
それは、もっぱら、自分のうちにあるものであり
自分の中で育てていくものだと思われる。それがない親というのに
育てられたのだろう。それがないというのは、自己を否定する考え
それは、日本で言えば、服従と関係があるのだと思う。日本は
巧妙に権威主義的だと思う。気づいていようが気づいていまいが
服従しているものに他人を認める能力はない。なぜなら
自分を認められないものがどうして他人を認められるのか?
(自分と他人などたいして違いがない。年収が倍だろうが自分で
生きる価値ほど大切なものはないはずだから)
他人評価を気にしすぎている状態、自己不在こそ真の孤独となると思う
これは、ナルシシストの一種と言われている。つまり、自分の存在を
認めていない(心理的病気)ので、他人も認められず
秩序・規範を重視し、それがわからなくなると不安になる。
過剰な適応は、過小な適応より
悪いと思う。この過小な適応は、不良少年などに見られる。
栄養不足のような状態。憎しみをあたりにまきちらす。だが、人間は
思ったより飢餓に強い。そして、過剰適応こそ恐ろしい病理だと思う。
過剰適応者には、何の倫理もない。過剰適応者と一般人の区別はつきにくい
(今なら秩序がくずれているので、わかるが)
過剰適応者は必ずMになると思われる。過剰適応者には最初から自信がない。
自分がない。よって常に劣等感を持つことになる。
常軌を逸した行動の裏には劣等感がある。劣等感を無限に増殖させる
要因のひとつに、自己不在がある。もっと言えば、自己不在の状態では
規範がしっかりしていれば、問題ないが、規範が消えれば不安に襲われる
規範を乱すものにあくのレッテルを貼る。
自我(価値観)意識ー自己ー無意識(自己を否定しているのだから規範にたよるしかない)
↑でもわかるように、自己を否定すると無意識から意識へのぼってきずらくなるので
決まりきった行動、我執の親となる。我執とは〜べき、〜するべき。
現代社会は、自由主義なので、規範よりも自己が尊重される。
しかし、人々は自由から逃走する。自己を否定しているのだから
この種類の自己否定の歴史は、そのまま服従の歴史の裏返しである。
不安な貧乏な時代には、人々は権威主義者たちに理由もなく服従していた
服従には、自己の創造性を破壊する作用がある。自分には価値がないから
そうなんだと人々は思い込んだ。たいていは、権威主義者のつまり
権力者の都合の良いようにそうしたのだが(よく考えればそのとおり)
これが日本の親に見られる。子どもに適当な理由をつけて
親というものを維持しようとする。あるいは献身を装い
相手をコントロールする。相手を無自覚でコントロールする人間は
自己を否定している人間である。おまえのためだといいつつ
実は、自己否定の不安からくる、秩序を守る行為だったりする。
間違ったことはしないが、なぜか一緒にいると威圧感を受けるという人が
いないだろうか?それは無言の規範を押し付けようとしているのである
宇宙へ旅行に行ったら、誰でも楽しいと思う。
楽しさは、義務で学習するよりも、ずっと効率が良い。
残念なことに本当に集中しているとは、楽しさなのだと思う。
しかし、宇宙ではなく地球・・・それも日本だとあるいは日本人だと
さらに自分だという理由で、どうして無気力になるのだろうか
それは、自己不在からくる、他人にみせるための努力以外は無価値だと
思う傾向と、そのことから生じる自己嫌悪だと思われる。
自分はたいしたことないと思うと、それと同時に自分と同じような
他の人他の物もたいしたことないと思ってしまう。
それは、同時にほとんどのことに興味を失うということである
以上のことから、過保護と過干渉の真実
甘やかしすぎたのかな?正しいことしか言わなかったのに!
間違ったことは言ってなかったのに!
とよくあることばの正体がわかる。これは、なんと自分の憎しみを
癒すために、子どもを利用したという意味なのである。信じられないかもしれないが。
それでいて、自分には責任がないという、めちゃくちゃな意味なのである。
当然、親は搾取したとは意識していない。
なぜかというと、上記をまとめるとわかってくれると思うが
●自己不在(自己を軽蔑している)から来る自分への不安を回避するために
子供を利用しなればならない。なぜなら、自己不在から来る人間の行動の
大半は利己主義である。自己不在者は必ずそうなる。そうしないわけにはいかない。
不機嫌な親、献身的な親の行動の影に、自己軽蔑があったのなら?
その証拠は、応援しているかだ。他人を応援しているかどうか見てみよう。
それは、宇宙旅行の説明でわかると思う。
他人を応援できないのはなぜか?答えは出ていると思う。
自由主義に関してたったひとつのセオリーは、優先順位の一位に自分を
二位にお金を置くことだと思う。そして自分とは自分の欲求のことなのである。
それが解決できるかということではなく、自分を尊重できないなら
自分の欲求を尊重できないなら他人のも尊重できないということを
知っているだけでも。
●間違ったことは言っていないのに
●正しいことしか言ってなかったのに
↑これは、単に自分の自己を覆い隠し、規範で子供に接したということで
子供との心の交流はほとんどなかったということになる。
そして、自由主義がじぶんん意見を主張しなければならないのなら
これほどのハンディもなかなかない。正当化された過剰な規範は
病気である。過剰な規範というのが、自己からの逃走のための手段だったとしたら。
相手にも 「 服従 」を要求していると思いませんか?
このような人と付き合うとなると、自分の感じ方を放棄しなければならない。
彼らが何を言おうとも、彼らはそのことをいっているわけではなく
この服従から、自己放棄から来る葛藤を解決したいだけなのだ
自尊心を癒したいだけなのである。
●間違ったことは言っていないのに
●正しいことしか言ってなかったのに
これらは、虐待した。わざわざ、今の世の中で生きていけないようにしたという
証拠でしかない。
不機嫌な親になぜいつも、威圧感で接してきたのか聞ける勇気があるだろうか。
聞かないほうがいいのだろう。そこには、長い歴史と従属の文化と自由主義への
転換点の混乱というものがある。そして、誰もそのことを教えてくれない
それは、まるでライブドア事件のように。堀江さんの口車に乗った人は
もちろん、短期利ざやを狙った個人も大損したわけだ。親であろうとも
盲信してはならないのだろう。
過保護や過干渉のとき、問題となるのは、
ああしたから、こうしたから、ああすれば、こうすれば、
という判断基準は間違いで、過剰適応と同じように、過保護・過干渉というのは
基本的に、自分には価値がない(無意識化では、親の親に対する服従)
というのを前提としていたのなら、それは子供で自分の価値を補おうと
してしまうのだろう。だから、何でもやってあげたり、それはいけない
という二人の自作自演が始まる。自信のない人ほど、他人に自分の子供にすら
憎悪している。不幸で、他人もまた自分を恥じていない限り彼らは
文句を言うだろう
だから、規範に頼るしかない人が、うまくいかないと
さらに、規範に頼るというか、過剰な適応になってしまう。
自分が規範に従っているから、正しいと思う。
そして、他人を憎む。
親は自分が何をしたか気づけない。
こうして、おかしなゲームがスタートする。
TBSやテレビ朝日などを見ていると、フジテレビでさえも
権威主義者は許さないというメッセージがあるのだろうか。
このような時代だから、SMぐらいならいいのかもしれない。
しかし、異常な行動には憎しみが根底にある
劣等感にも。こんな豊かな日本で?と言われているが
そこには、自己放棄した人たちが自由から逃走しようとして
苦しんでいる。この自由主義をやめるか、自由(自分に因る)になるか
しか、救われない。
もし、今が自由主義なら、親には相当の問題がある
親そのものに問題があるのではなく、親の自己評価の低さに問題があると思う。
それは、年老いた親に言うべきではないと思う。
そして、それから来る圧力が、子供を服従させるのだろう。自己を放棄させるのだろう。
自分を受け入れる、自分を取り戻すためには、脳の回路を変えなければならない。
だから、脳の回路が変われば、今の自分が疑問で仕方がなくなるはずだ
憎しみを意識し、欺瞞性に気づき、自分を取り戻したとき
外からその欺瞞性に気づくだろう。だから神経症的なサド・マゾ
あるいは、自信のない人が救われるには、このことからはじめなければならないと
思う。
苦痛にも、種類があると思う。
自己改革のための苦痛というのは苦痛でありながらそれは
爽快へと結びつくので、良い苦痛ということになる。
良い苦痛なんだと意識できれば・・・。
間違ってもSMの苦痛では人は救われない
逆にいえば、異質な行動で救われようとしている人は救われない
他人に憎しみをぶつけてみても。
322 :
305:2006/10/21(土) 08:15:38
>>307 稚拙な意見になってしまいますが…。
過保護な母親に服従してきた子供にとって、母親から自立することは
母親から見捨てられる危機感に酷似しているように思えます。
普通ならばそれは自然に起こることなのですが、
服従によってでしか愛を感じられないようになっている子供は
自ら危険(反抗により親の保護を失う可能性)を犯すようなことはしません。
つまり、反抗期を許されないのではなく、反抗期という発想に至らない。
(若しくは反抗することに恐怖を覚える)
良い子でありつづけた子供がいくら自分の中の引き出しを探ったところで
「反抗期」には鍵が掛けられているので、素通りしてしまいます。
私自身反抗期というものを経験しておりませんので、
引き出しの中身が何であるのか、未だに理解できません。
幼い頃から「個」を殺してきた子供にとって「個」は未知の状態であり、
自分には無いものなので他人の「個」(反抗期による親との分離)も理解できないのでしょう。
存在していないのと同じです。
そうすると必然的に、他人のイメージが曖昧になります。
なので自分のイメージが曖昧であることにも疑問を持たず、
環境に順応し、自立の機会を見失います。
>>322 のレスを「稚拙な意見」と言われると俺の立つ瀬が…w
親からの愛を服従によってしか感じられない、というのは、
悪く言い換えれば 子供なりの計算、というか経験則によって覚えた処世、とか
そういう言い方をするとすこし違うのだろうか?
親の言うことを聞くことによって
母子未分化を継続したい(過保護な親による突き放しが不充分なため)
乳幼児状態が潜在的に続きっぱなしになる、ということなのだろうか。
(乳幼児期には人間は他人の世話を受けないと生きていられない。
それを従属とか服従ととることが正しいのか、疑問があるのだが)
授乳期(口唇期、つまり母親との接触が唇に集まる)や
肛門期(便の始末による肛門への接触)
といった母親(あるいは世話をする他者)との接触に
性的快感の源泉がある時期と違って、
体そのものが変化して(生理・精通)
自分の体自身に関心が移り、そのことによって親と自分が分化する(個となる)
時期に、同時に精神的にも個となる契機が訪れるはずだ、と思っているのだけど。
(男根期は正直言うとその存在が普遍的かどうか、最近疑問に思いだした)
その時期に、反抗(精神的自立=自分が親とは別の個であることを攻撃的に自覚する)
せず、性的な個だけが自立するという状態なら、常に精神は誰かに預けたまま
その誰かに性を委ね、性的マゾヒズムが醸造される、というのは確かにわかりやすいんだけど。。
その場合、性的イリュージョンの対象は母親代理としての女だろうか、
母親から自分を引き離してくれる強い新たな支配者としてのサディスト男なのだろうか。
または、自分の中で無意識に憎んでいる、自分の中の母親を罰しているのだろうか。
教えてクレクレ君で悪いが、これだけしっかりレスできる人だと、聞いてみたくなった。
324 :
305:2006/10/21(土) 13:00:10
>>323 私の知識は全てが独学で、このスレと自らの経験を基にしたものなので…
偏ったものであることを前提にお聞き頂けると幸いです。
私が先ほど「親への服従」と言った行動は、乳幼児期に親から受ける世話などの延長の類ではなく
親に与えられた「良い子」という、親が子供に抱く理想への、脅迫的な憧れと、恐怖であり、
その「型」の中に自ら収まることで愛されようとする行動です。
個を抑制され続けてきた子供は、親に与えられた「己の在り方」(親が理想とする良い子)を盲信し、
それ以外の己(自由・本来は個であるべき己)を否定してしまう為に、
「型」に嵌らない己は愛されないものであると信じ込みます。
それは無意識の親の支配であり、子供は「良い子」という外郭で自らを形成するようになるので
その分、中身は空洞の、意志薄弱な主体性のない人間が出来上がります。
そうするとその子供は、常に「己を定義してくれる存在」がなければ
自らの方向性を見失うのと同時に、自らの存在価値(良い子)をも失うことになるのでしょう。
(この時期に反抗期に目覚めなければ、子供は親から自立することが困難になる)
325 :
305:2006/10/21(土) 13:01:56
>>323 そこで問題になるのが、
親によって与えられた理想の己(型)と、曖昧なイメージでしかない(或いは封印された)己(個)との間に存在する、埋まらない溝です。
理想の己(=親・他者が望み、愛する己の姿)に近づこうとすればするほど
結果として己を偽ることになり、思春期を迎えた子供は葛藤を迎えることになります。
(そもそも「自分」が無いのに、偽りの自分が存在し続ける)
これらの葛藤を和らげてくれるのが、新たな支配者の登場ではないでしょうか。
326 :
305:2006/10/21(土) 13:04:14
>>323 初めから「個」を殺し親の理想(という脅迫)に支配されるのと、
自ら「個」を捨てた上で新たな支配者に服従するのでは、その意味合いが全く違うような気がします。
新たな支配者というのは、子供の中で長年培われた「良い子」を破壊し、埋もれていた「個」をも破壊した上で、
子供が最も恐れる自由を奪い、不安から解放します。
また、未熟な母親を目の当たりにしてきた子供にとっては、接点が母親より少ない分
「白馬の王子様」としての要素(親・支配者としての完璧さ)を多く含む男性(父親に抱く幻想)の方が、支配者としての条件を満たしているのではないでしょうか。
ただマゾヒズムが性的倒錯である限り、男性はその対象に女性を求める場合が殆どなので、
母親に不足していたものを補完するために女性を選ぶのではないかと思います。
(私は女性ですので、申し訳ありませんが漠然として推測でしかありません)
また、己の内にある母親を罰する行為というのも、新鮮な意見で興味深いです。
母親が落とした影響を新たな支配者が罰し、矯正(調教?)することは即ち
母親からの一時的な分離を促す行為でもあるような気がします。
327 :
305:2006/10/21(土) 13:06:29
>>323 また、このような葛藤を抱えながら肉体的な性の目覚めを迎えてしまったら
愛し方を知らない(愛されたことのない)子供が他者を認め、愛せるはずがありません。
未だ未熟な子供は愛されることを望みます。それが歪んだ形で現れたものが、マゾヒズムの開花なのだと私は考えます。
マゾヒズムの根底に自己否定と無価値感が存在するのであれば、
肉体的にも精神的にも最も直接的なかたちでマゾヒストを「求める」サディストの「支配」は、
母親にいつか見捨てられるかもしれない(自立しなければならない)というマゾヒストの不安を拭い、
愛として錯覚させ、倒錯した性癖を植え付けるのに十分なのではないでしょうか。
>>324-327 読んだ。 とても興味深かった。
なにより、よく整った文章と理解力に、アカデミーで論文を書く訓練をしたものと
そういう経験のない俺との差をつくづく感じている最中だ。(かといって別段引け目はないのだがw)
個々のレスに関して感想がある。今は少し時間がない。
できれば今後も継続的な参加を期待してる。 あなた以上に俺の方が独学なのだが。
負けられないな。
今までのことをぐっと理解するためには、脳細胞で考えるのが良いと思う。
誰でも、秩序があれば、それをすることができる。
誰でも命令されれば、命令の通りに他人と話せるだろう。命令する人を
信頼・尊敬していれば、さらに従える。なんにせよ職業に従属している人が
典型だと思う。あのよく切れる包丁の人は、普段は無口だったりする。
もし、秩序がなければ、何に頼れるんだろうか?それが経験則
つまり、脳細胞の状態だと思われる。あることをして、あることから
離れるという過程には、おそらく交感神経・副交感神経のような
感じで何かがあり、脳細胞が発達していくのだと思われる
だから、ナルシズムというのは、脳細胞が発達していない状態だといえる
親に他人を認める能力がないというのは、このことなのではないのだろうか
自分が恥をかかないよう、いつも考えている親。
自然に誰からも教えられない状態では、精神さえも親を引き継ぐ
これは、親の性格を引く継ぐというより親の精神の発達具合を引き継ぐという
ことなのだろう。
命令されて自分で考えずにやっている人
自発的に創造的にそれをやっている人
結果が同じでも、この両者に違いがあるとすれば?
それは、自己の問題にかかわってくると思う。日本の問題点として
いまだに この 自我ー意識●自己●無意識 のうち自己が疎外され
無意識から意識へ上ってくる何かを阻害する傾向になる。
しかし、それは科学的に言えば、あからかに心理的成長を
さまたげることが、よしとされている。つまり、自分の成長を阻害することが
よしとされているのは、服従の文化に関係してくる。
よって、規範に執着するようになる。ひきこもりなども基本的には
この規範が問題となる。内面が成長していないから、人付き合いの意味が
わからないのだろう。彼らにとっては表面上しか接することはできないので
人付き合いが苦労になる。ストレスになる。そこに探検家のような
好奇心はない。あるのは、悲しいことに幼児的な自己保身だけである
そこに正義のレッテルが貼られる。真理的成長がない。
過保護・過干渉・我執の親というのは、恐ろしい
彼らは、子供が心理的に成長するのをやめさせるために、ああいう
行動にでるのだ。同じように子供のためと言いつつ
一方は押し出すことを、一方はしがみつくことを目的としていたら
そして、この二つのことを判断するのは、意外に簡単である
親が本当の意味で、自己評価が高いかどうか見るだけでいい
自己評価が不当に低いとは、親が親から精神的に自立できていない証拠である
いつも不機嫌な親は、賞賛されることを求めている。親もそれを
わかっていない。子供は自分の性だと自分を憎む。こうして
欺瞞性のまわりをぐるぐる回る関係ができあがる
欺瞞性の正体は、服従による意識されない自己憎悪だと思われる。
ようするに、この欺瞞性を暴くような精神的成長を許さないということである
子が順応するということは、自分の感じ方を放棄してしまうということである
行為を持っている相手の前ではノーマルで
それ以外の人間の前ではドSというのはどういうことですか
行為×
好意○
自分が並々ならぬ好意を抱いている人間に対しては
精神的肉体的に痛めつける事に非常に性的興奮を感じるのに
そうでない人間に対しては普通に優しくできるし
普通の恋愛のような付き合い方で満足できる人間はサディスト?
何度も繰り返される言葉に注意すべきです。
執拗に繰り返されると「そうなのかなぁ」と思ってしまう。
もっともらしい理論には「そうかもしれない。」と感じてしまう。
でも、そうじゃないよ!そうじゃないんだ、ということに気づくことが大事です。
悩める人々はプロのいう事に注意しましょう。
「聞くな」とは言わない。ほどほどにしとけってことです。
私は全部は読んでいないけどね。
彼の過去に向かう時間にも注意しましょう。
過去には何にも実態がないので。そうでしょ?>プロ
それから咀嚼はどうしてサドとマゾの心理について知りたいの?
どうして?前も聞いたと思うけど。
336 :
さ:2006/10/23(月) 14:52:30
小さい掲示板の言葉に踊らされるほど人の頭は小さくないのです。そうでしょ?
ごぶさたしてました。
SMのおっさんに会ったよ!すばらしい人でした。
337 :
305:2006/10/23(月) 17:20:22
>>326の補足です。
マゾヒズムの女性が支配者の対象に男性のサディズムを求める理由に、
母親(大抵の場合は初めての他人である、女性)が、
象徴的ファルス(男根)を持たないことが推測されます。
というのも、母親には男根がないと認識した時、自立の過程にある女児は
母親に対して失望するそうです。
(母親と己は性において同等である事実)
その失望は、男児と己を比べた際に感じる劣等感から来るものであり、
女児は結果的に父親への愛情(憧憬)を強めることになります。
(自分にはないものが、男性・父親にはある)
これは「エレクトラ・コンプレックス」という現象ですが、これが男性のマゾヒズムである場合
「エディプス・コンプレックス」の作用(母親への愛情・性欲)が
そのまま受け継がれるのではないでしょうか。
(消化不良な感が拭えないのですけど…)
338 :
305:2006/10/23(月) 17:37:28
>>328 私の構造を解剖しているようなものなので、
心理学的に筋が通っているのか非常に不安なのですが…。
このスレには得るものがたくさんあるので、
暫く、ここで学ばせてください。
プロさんのレスには、もう言葉もありません。
薄々感づいていたものが改めて言葉になり、説明されると
とても感慨深いです。
ここで、異常行動の原因となる劣等感について考えてみたい。
この種類の劣等感には、よく考えると意味がわからないものが多い。
顔が少し大きいとか、ありとあらゆる理由を見つけて
「 自分がだめだ 」ということを正当化したがる
一見すると、退行的な防衛となりそうだが、この退行的な防衛は
どのようなことが原因で起こってくるのか。
これは、自己不在から起こってくるのだと思われる。
この自己不在が起こる原因として、やはり服従がある。
自分でものを考えられなくなる。心理的成長とはもっぱら
脳細胞が複雑に枝分かれしていくことじゃないだろうか
秩序がくずれ、心理的未成熟さが表面化した。大多数の日本人は
ナルシズムを克服してはいなかった。これは、親から認められることにより
克服できる。つまり親が当然として自尊心があり子供も自尊の感情を
持つのだろう。これはあいまいなものでなく、脳細胞にかかわるため
これが、心理的土台となるのではないのだろうか
この集中力は、人生に対するスタンスとなり現れる
彼らは、自分をその対象物と同一化して考えられる傾向が強いため
実によく見ているのだ。目元に力を入れたり、考えているふりを
しているわけではなく、これこそ、誠実な関心・善悪別とした集中力
なのではないのだろうか。
何かの本に、どっぷりそれに使ったからこそ(集中力)
それから離れることができると書いてあった
これも脳細胞ができあがり、興味が薄れていくのだろうか
あるいは、形が変わっていくのだろう
変化しない親子の関係とは、永遠なる母体固着を意味する
近親相姦を意味する。
逆に憎しみに人はしがみつくのだという。
この憎しみの根源を、意識されない服従に求めることができる。
彼らは、嫉妬が自己不在から来る他人不在だと気がつかない。
もっぱら正義というのは、人間交流にあるのではなく、自分の中にあるのでは
ないのだろうか。(今の時代ではそうだろう)
心理的に、脳細胞的に言えば、秩序を守るという行動にはほとんど
脳細胞の発達はない。子供の創造性を殺すとは、規範意識で縛るということである
過剰な規範こそ、意識されない服従である。そこには、憎しみがある。
憎しみがあるからこその、自己に対する成長が妨げられる
苦しみ中に不安の中に嫉妬の中に恐怖の中に
ある種類の良いものを見つけなければならない。運動の苦しさは
楽しさへと結びつくものだろう。このようなトリックに気がつかなければ
コントロールできない。不安の中にも良い不安がある。期待から来る不安など。
これらを亡き者にしようとすることが心理的成長および内面の放棄になる
そして、他人の中にそれを見つけて攻撃せずにはいられない
自己不在とは、無意識への抑圧が強すぎる。これは権威主義に多く
規範を重視する傾向がある場合に多い。自分には価値がないのだから
当然他人にもないのだ。
心理学のプロさんの内容は加藤諦三さんと根底にある思想が似ている気がするな
>>342 似るのはしょうがないと思います。セオリーですから。
フロイト・ユング・マスロー・ロロ・メイ・加藤・アルノ・フロム
ありとあらゆる本を読みあさり、自由主義における
根源的な劣等感は、自己を放棄してしまうことによるものであると
わかりました。自分に対する空虚感というのは、そのまま放棄した抑圧した
空虚感であり、それは秩序の崩壊かあるいは、他人を通して
刺激されると思います。ところが、これはコミュニケーションにより
埋められると思いますが、自由から逃走した人にとっては
つまり、自分の判断をすることができない(脳細胞)人にとっては
異質なものに魅力を感じるということです。
自由主義では、もっぱらコミュニケーションも相対化されており
まるで株式市場のような状態だと思います。なんにせよ
欠乏動機では、生きていけないでしょう。達成動機で進むためには
ナルシズムの克服が必要だと思います。
Mに未来はない。これが私の持論です。
たとえば、他の本と組み合わせると、より理解が深まると思います。
どっかの文化大臣のほんと加藤さんの本で
他人の考えを先取りし、あるべき答えを出そうとする
自分で考え、自分の答えを出す
これは、たいていの場合は、答えは同じになりますが
この二通りの人は、まるで別物だとわかるはずです。
ある一方は秩序に従属し、脳細胞が未発達のまま
ある一方は自発的に考え、脳細胞が成長しています
死の欲動とマゾヒズムについて
このスレで触れられたことはあるでしょうか?
>>345 「一次的マゾヒズム」の問題には触れていない。
その段階にはない、と思ってるから。
あなたに何か考えがあるのなら、言ってくれてかまわない。
(だからといって誰かが何か反応するかどうかは保証の限りにあらず)
347 :
305:2006/10/23(月) 23:17:00
>>346 >>365で質問したのは私です。
「一次的マゾヒズム」というのですね。
私は心理学についてド素人ですので、この問題に関して論じられるような知識はございません。
学ぶにしても、どこから手を着ければよいのか見当もつきません。
ですが、少しでも理解したいのです。
構造を知りたい。
もしお手数でなければ、一次的マゾヒズムを学ぶためのキーワードを
いくつか教えていただけませんでしょうか。
お願いいたします。
>>332-334 それぞれ別人か? 言ってることがまるで反対だが?
>>332 に関しては 「サディズムは復讐」 がヒントにならないか?
>>334 [並々ならぬ好意」 と [普通の恋愛] との違いは何だ?
単にサディズム衝動を覚える相手 と 恋愛の対象になる相手が違うというだけなら
これも「サディズムは復讐」がヒントになるはずだと思う。
>>さ氏 「認知科学、若しくは脳機能科学を少し学んでみようかと思います。
もっと掘り下げていくと物理学的観点からも考察しないといけなくなるでしょう。
そして最終的には「生命の意味」を考えざるを得ない・・・・・。」 頑張ってくれ。
プロ氏の主旋律は本人も言ってるとおり常に同じだ。
「自己評価の低さ」と「親の我執」
この基本的なメロディを様々な変奏曲としていろんな音色や楽器で奏でている。
「すべては自己」といっていた部分に、今回は
社会の有りようとの関係が加わり、「総合」の幅が拡張された。
(フロムは「政治論」としてはたいしたものではないが、サディズム・マゾヒズムとの関連を
そういえば言っていたな、と思いだした。捜してみるか)
「思春期」を持ち出したのは、
吉本隆明の「家族のゆくえ」を読んでいて、ふと思いついたからだ。
「自分の中の母親が打たれる」は ドゥルーズの「マゾッホとサド」にあった
「男性Mは自分の中の父親をむち打つ」 を母親に置き換えただけだ。
>>350 は ただの酔っぱらいの発作だ 通り過ぎてくれ
352 :
305:2006/10/25(水) 07:40:28
>>352 何か思うところがあったら、自由に書いて欲しい。
どんなことが人の考えを触発したり、進めたりするかわからないから、
遠慮無く書いて欲しい。 俺はしばらく休憩する。
反論も自由に遠慮無く。というか、反論して欲しい。
まじめな反論は、同意より役に立つ。
それは自分の考えの輪郭をよりはっきりさせる。対立で次の段階にすすむ。弁証法だ。
ただし、攻撃はだめだ。攻撃は感情が入ってる。
感情的な対立は、無意味な消耗しか産まない。勝ち負けを競う党派主義しか産まない。
ただ「ほんとうの事」を知りたいだけなのだ。
このスレはそういうことが判ってる人たちが多い気がする。(勝手にそう思ってるだけだが)
ある程度の段階に来ると、考えはなかなか進まなくなる。それは当然だ。
だが、行き止まりではない。 時間はかかるが、考えなければならないことは
まだいっぱいある。 充電が必要だ。
アドラーの一説の、劣等感のあるものが遠回りをして優越感を
得ようとするというのが、少し前までわからなかった。
アドラーは、これを下手なトリックと言っていた。しかし
なぜかは、書いていなかった。
しかし、今ではこの「 恐ろしさ 」を知っているし、理解している。
つまり、劣等感のあるものが(通常の劣等感ではない。後詳)劣等感を
抱えたまま、それを維持したまま、優越感を得ようとするから、遠回りに
なるのだ。
これは、今後日本最大のテーマになると思われる
「 擬似成長 」だと思う。問題は擬似成長が起こる原因と対策だろう。
擬似(擬似)成長とは何か?うその成長であり、見せ掛けの成長のこと。
言葉で考えず、神経で考えてみればわかる。
理解すれば、おそらく神経が発達していくのだろう。
ところが、この擬似成長の場合、ほとんど神経が発達しないのだ
考えてみて欲しい、命令されいやいや持ってきた、自分で持ってきた
この二つの結果は同じだが、その神経はどうだろうか?
擬似成長とは見せかけの成長なので、擬似成長を多用してきた人は
嫉妬深い。他人が自由にしていると我慢できない。劣等感が強すぎて
誰も応援していないなど。いまだに自分にこだわっている状態
擬似成長が起こる原因としては、やはり親が重要だと思う
良い親なら、子供は疑わない。ところが良い親の良い親をしている
理由は何であろうか?
特殊な従属が起こる。それはニーチェが言う、道徳は服従を正当化するために
作られたというものを想像させる。
創造的ではないというのは、自分のことがわからないということだと思う。
他人はなぜああなのか?と考えるとき、そこに擬似成長が見え隠れする
神経で見た場合
ー と −− はどちらが良いだろうか?できるならば
発展しているほうが良いと思わないだろうか?
もし、愛と憎しみが結局のところ、建設的か破壊的か(退行的か)
ということになれば、もっぱら自分の精神の成長が愛する能力だということになる。
ここに、興味が義務を超えるというのがある。いやいやより本人の好きなものの方が
力を発揮するということだと思う。そして、これは自分に対する当たり前の
自尊心があり始めて、人生に責任をもてるということでもある
異常行動の裏に、擬似成長をしている親がいなかっただろうか。
これは、意識されない服従であり、秩序がないとやっていけないのだ
秩序がくずれた現在、擬似成長がありありと表面化している
「 遠回りして優越感を得ようとするのは、成長せず、自分の
イメージだけを形作るという、基地外じみた行為である
ここには、人間には一切価値がなく、その付属物に価値があるという
優劣・権威主義の傾向が見え隠れする。しかし、それは
科学的に言えば、幼児のままの精神状態といえる。人々は自由から逃走
している 」
我執の親が不機嫌なのはなぜか?
子供はそれを見て、心理的成長をやめてしまうかもしれない。
我執の親が不機嫌なのはただ単に極論、自分が成長することが
できていないからである。それに正義の仮面や道徳の仮面がつけられる
正当化される。こうして、実はまじめな人間が幼稚園児で
その幼稚園児が嫌う人間的な人たちが、立派な人ということになる。
我執の親が怒っているのは、他人が自分と同じように
自分には価値がないと思っていないからである。
機械人間には、心がないから他人の心もわからない。
彼らが心を取り戻すことは望めない。
彼らに必要なのは、自分の欲求を尊重するということだからである
彼らはまた、自分の欲求を罪悪視し、他人をその分だけ憎むのだろう。
それは、ただ単に偶像に服従しているだけであり、他人もそれを
強要しているだけだと気づくまでは。
ただ単に服従しているだけなのに、それを正当化するために
他人にもそれを強要する。そのときそれに、正義や道徳がつけられる。
要するにただ単に服従して自分の感情を放棄しろとのことだろう
親がいかに恐ろしいか。虐待する親 だけに注目が集まる中
隠された虐待については知られていない。
自分に価値がないと思って身構えて緊張している不機嫌な親や
献身的で犠牲的な母親というのは、実は親から卒業できていない
秩序がないとやっていけない人たちなのである。見てみるがいい
近所づきあいもまともにできない人ばかり。彼らには何も好きなことがないのだから
ただ、自己喪失による苦しみを癒すために、他人不幸を探すか
自分の葛藤を癒すために、何かしているだけだろう。その証拠に
ものごとを細かくみれない。それは好きでないからだろう。
だから、当然、子供も好きじゃない。
少なくとも、大きな理由もないのに、自分が自分で自分を嫌いだという人間には
精神に問題があり、彼らが口から、何かでまかせを言おうが
年がら年中嫉妬しているし、彼らには他人を蹴落とすことしか頭にないし
誰かから認めてもらうための努力しかしないし、何も好きなことがないし
子供も嫌いなのだろう
彼らの口から出てくることは、それが好きではないという証拠にしかならない
かといって、嫌いというわけでもない。では、何なのか???
それは、自分の葛藤を解決するために(擬似成長)必要だということに
過ぎない。彼らの人生の中身は形でしかない。
建設的か(創造的か) あるいは 破壊的か?(退行的か?)
思えば、何のために退行的になる必要があるのか?
それが、自分に価値がないと思っている親の言うことを聞いて
親が自尊心を回復させるためだというのならば、笑いごとでしかない。
そんな笑い事を真に受けてしまったら?
その笑い事に、服従するということは、そのことを悪いとはおかしいとは
思わないことである。かといって常識的に正しいとはいえない
だから、心理的成長は止まる。馬鹿な親は自己放棄している子供を
良い子供だという。いかに気が狂ってるか。その良い子供がカルト宗教に
入ったり、いじめで自殺すると、他人の責任にする。自分に心がなかったからだとは
認めない。それを見て、マスコミの上層部は笑っているのだろう。
「 知らないわけがないのだから 」
うつ病の基本的な原因は、擬似成長にある。だからこそ、がんばれと
言われると、うつ病の人は辛くなる。また、自分を殺して自分でない自分を・・・と
なるからである。嫉妬をやめるには、自分を知らなければならない。
これは、ただ単に自分のままでいいということである。これを探そうとしても
無理である。マスコミは恐ろしい。上層部はすべて知っているのだろう。池田大作・分鮮明・・・。
池田大作や分鮮明の悪い部分はどこへ行ったのだろうか?
擬似成長 完結
365 :
さ:2006/10/27(金) 23:58:37
こんばんは
ひとつ質問なんだけど、プロは何かの実験のためにここに発言をしてるの?
それともごく普通に自分の考えを述べるために書き込みしてるだけ?
どっちなんだろう。
>>365 すいません。実験と自分の考えと、自分の考えのまとめの両方です。
すいませんね。他人のこと考えないで。
しかし、基本的な心理問題は、心理的成長がかぎになっているので
ナルシズムやそれを維持するための擬似成長こそが
サディズム・マゾに関連してくると思います。
367 :
没個性化されたレス↓:2006/10/30(月) 18:32:34
368 :
さ:2006/10/30(月) 20:08:29
べつに謝らなくても・・・。せめてるわけじゃなし。
じゃあ、もうひとつしつもん。
プロの意見に誰も反論しないのになぜ、同じことを繰り返して書き込みをするの?
だれか反論したほうがよいのかなあ?
だったら反論するけど?
反論の内容はまだ決まってないけどね・・・。
369 :
没個性化されたレス↓:2006/10/30(月) 22:17:45
>>368 理論として一応形が整っていることでも、
感覚的に理解し難いことであったら
同じ主張であっても、何度も書いて理解を深めるということはよくあることだと思う。
根本的な原因をてことして、そこから端を発する諸問題に焦点を当てている場合にも
同じことを繰り返し書き込みしているように見えると思う。
それより、反論の内容が決まっていないのに反論しようとする心情に疑問を感じる。
370 :
えす:2006/10/30(月) 22:58:18
>>369 まぁまぁ
ここの皆がプロ氏の書き込みを興味深く読んでると思うけど、
プロ氏の書き込みがSMにおける心理的な事柄全てを表しているとは、誰も思って無いと思うよ。プロ氏本人も含めて。
結局は統計であり、個人に対しては参考。得た知識を飲み込んで、消化して、またここに書き込む。
その方が建設的だね。
ちなみに俺も最近、反抗期の問題ばっかり考えてる。
反抗期が思った以上に成功してしまった人←→反抗期に失敗してしまった人
かなり決定的な事実に、服従というものが精神の成長を妨げる
ということがあると思う。服従と言えば大げさだが
これは、自分の感じ方を放棄すると言うことだと思う
いつの間にか巧妙に放棄してしまっている人がいないだろうか?
趣味がない・好きな番組がない・好きなことがないというのは
このことが原因による、精神のどこか一部分の未発達によることが
原因ではないだろうか。偽の劣等感・偽の自己憐憫・偽の罪悪感
というのは、この約束を守ることでしかない。精神を成長させて
あなたのうそを見抜けるようにはなりませんからと。
いつも、自分が失敗しないか身構えている人は、特に理由がないのなら
親との関係が終わってないとも言えるし、それは同時に精神のある部分が
ほとんど未発達だともいえる。そして、周りと比べて当然
精神的な成長は差がついているので、自分に対する劣等感は本物だろう。
なにせ、理由をつけて精神の成長を怠ってしまったのだから。
弱いものを犠牲にしなければならない、意外な人たちが
この自己放棄に深くかかわっていると思われる。
さっきの、親との関係が終わっていないことを知らない
自分に価値がないと思い込んでいる人は、他人を利用せざるを得ない
強い劣等感を持っている人は、実は悪人だと思う。不良のグループに
入ることは、非行に走るとの宣言であるならば、強すぎる劣等感は
自分以外のすべての人間の不幸を望む、幼児の怒りの復讐の宣言だと思われる。
つまり、この自分に価値がないと思っていることは、実はうそで
これは単にあのとき約束した、ひそかに密約した、精神の成長を
しないということの理由付けでしかないのではないのだろうか。
これは、服従の文化を正当化する日本の権威主義に原因があると思われる
ジャイアンツのはら監督が、昔、本か何かで
自分を愛せないものは、他人を愛せないと 言っていたそうだ。
しかし、本当によく考えると当然ではないのだろうか?
どんなに金を持っている人だろうが、プロスポーツ選手だろうが
それほどの圧倒的な差はなく、あくまでも細かい差しかない
共通しているのは人間の本質的な弱さだけである。
誰でも誰かに指導されたならば、それに成ることができると思う。
自分の存在を認められない人は、まさにそれが理由で
他人を憎むだろう。他人を無価値にする。これは恐ろしいことではないのだろうか。
無価値なものには興味がない。こうして、世の中の相互性から逸脱する。
逸脱しておきながら、さらにまた、逸脱したいとしか思えない
自分を無価値にして何かで挽回しようとする行動に出る。
自分に価値をおけばよかったのだろう。ならば、自分に価値が置けなかったのは
なぜか?そこに家族の問題がある。何かが受け継がれれたのか?
過保護・過干渉が、自分に価値がないと思っている親が、自分の価値を
補おうと子供にしがみつくことだとするのならば・・・。
いつも不機嫌で、口数の少ない親。怒るときは凶暴に怒る親
かといって、悪い親でもない。働き者だ。責任感もある。
しかし、幸せそうではない。この親の心理状態はどうなっているのか。
自分には価値がなく、強迫的に努力して、周りから認められようと
しているさまが思い浮かぶ。そして、不機嫌なのだろう。
それを、他人の、子供のせいにする。別のことで怒る
子供は自分が悪いと思うだろう
ある子供は、自分の考え方・感じ方を放棄し
この、父親の表面上の言葉のみを信じるようになるかもしれない
いや、信じてはいないと思う。だから、不信感が募る。いつかこの
不信感の理由も考えずに、この不信感を理由に別のけんかがおきるだろうか。
アルコール中毒の親を持った子供が、また恋人にひどい男を選んでしまう
傾向があると言う。考えれば、当然かもしれない。彼女の脳みそのある部分は
発達しておらず、理解できないし、それ以外の人との付き合い方を
知らないのかもしれない。
最終的にまとめると、おかしなことに気がつく
身動きが取れなくなる、矛盾に直面してしまう。
自称良い親は、子供に自由にさせてやったと思い込んでいるが
実際には、精神の成長をやめさせて、それでいて、幸せになってほしいと
思っているのだ。自称良い親を疑わなくなった子供はどうなるのだろうか
フロムは、愛とは情熱的な応援、つまり精神の成長を応援することだと
言った。正しさを問うならばそうだと思う。しかし、現実には応援しながら
相手の不幸を願う人がずいぶんいることになる。応援したふりをしながら
相手の不幸を心の奥底で願ってしまう人とはどのような人か。
服従は受け継がれていくのかもしれない。
その正体を見破るには、どうして欺瞞性を見抜かなければならないのかもしれない。
もっぱら、正義も悪も道徳も楽しさも物事に関する関心も自分の中に
あるのだから。
フロムの著作、自由からの逃走・・・
自由から逃走するとは、自分に頼ることからの逃走なのかもしれない。
精神的成長、精神的な戦いには、苦痛が辛さが付きまとう
しかし、これはトリックであり、この種類の苦痛は実は良い苦痛だと言える
それが幸せにつながるのだから。これを放棄するためには回避するためには
ひたすら自分の感じ方を放棄しなければならない。その行き着く先は
ロボットなのではないのだろうか。つまり死と同じである。
逆に言えば、完ぺき主義者は死と同じかも知れない。
それは、誰からも嫌われない、馬鹿にされたくないという気持ちにあらわれる
過剰な適応はすなわち、自己の放棄であり、精神的な死を意味する。
自分の意見自分の欲求を当然のように尊重してこなかったものは
嫉妬の鬼になるしかない。
人のどこかある部分の精神の成長がどの程度か見てみればいい
そこに劣等感の根源がある。誰でもパソコンを買ったばかりでは
パソコンが下手だというのはあるだろう。
何もしなかったら、ある日パソコンがうまくなるわけでもないし
野球をやってもパソコンがうまくなるわけではない。
パソコンがうまくならなければならないのに、なぜかほかの事で
それをなんとかしようとしていないだろうか。
そして、そのようなことは、防衛される。意識の上から限りなく
排除される。そしてそのような人は、ほかの人が同じように
そうであっても、その人がそうだと気づけない。
人を見抜けない。欺瞞性を共有している状態とはそうだと思う。
本当に気づけない。気づいてしまう対象を憎む。
だから、欺瞞性を隠している親が、どうして良い親を演じているか
わかるだろうか。そのような親は、なんと言おうと
意識の上から限りなく排除されているので、無意識的に子供を犠牲にする。
現在問題となっているのは、ナルシズムだと思われる。
ナルシズムというのは、世間の意味は間違いで、自分へのとらわれを
やめられない状態、自分への表面的なことに固執する。
これは、権威主義的な親のもとで作られる。ナルシストの本当の意味は
自分を好きになれないことである。正確に言えば、心理的な病気だと思う。
だから、このナルシズムを克服しない限り、他人のナルシズムに
正確には気づけないのだろう。自分が無意識へ抑圧したものが多すぎるのだろう。
強い劣等感から出た、行動が、より強い劣等感を生んでしまうと言うのがある。
それは、●が劣等感の原因なのに●を完全に回避して
ほかの事で劣等感を埋めようとするからではないのだろうか。
結局、パソコンは下手なままで。このパソコンを違うものに置き換えてみる必要がある。
結果、この努力は●に結びつかず、さらにこの●に結びつかない努力には
楽しさがなく、ストレスを抱えてしまう。
あまりにもばかげた話で、現在の日本人に最大の問題は
自分を尊重できない病だと言える。それが●なのではないのだろうか。
その●を他の何かで変えようとしても、誰も認めてくれないので
(むしろ嫉妬される)●は放置される。
自由主義において問題となるのは、権威主義における
自分を尊重しない考えなのではないのだろうか。
フロムが自由からの逃走と言ったのは、この権威主義的傾向
に固執することで、自分の不安から逃れることなのだろう。
固執し、逃げるというのは、具体的には抑圧すると言うことである。
抑圧されたものは投影されることもあるので、あたかも共産主義の
陣営は、共産主義以外の陣営を悪魔のようにたとえ、攻撃しようとしていた。
共産陣営だけではなく、自由主義側も共産主義や権威主義も恐れた
現に共産的ではなかったが?宗教の権威主義制にも恐れた。
自分ひとりで歩いているとき、自分を支えられなく、自分を支えてくれそうな
何かを探していないだろうか。ナルシズムの克服は一生の問題となる。
それゆえ、幼少期にナルシズムを終えた人とは、差がつく。この差は
気づかれないゆえ、大きなものとなる。他人を理解する能力がないものは
(ナルシスト)他人をだますことさえできない。
情報量と対人関係
スポーツ情報番組が4つあるとする。この4つすべてを見ようとするのが
完ぺき主義と言われる人格障害だが、そこに自己のなさ、自分のなさが
ある。自分のある人はどうやら、出ている人で選んでいる傾向がある
当然全部は見ない。
情報量が少なければ、ナルシズムでも、対人関係に苦労しない。
情報量が多ければ、ナルシズム状態では、何もかも嫌になるかもしれない。
どうしても、情報化社会、「 選択社会 」には、自分が必要だろう。
ナルシスト最大の特徴として、他人に見せるための努力があげられる。
ナルシズムが克服されていないと言うサインであり
本人の意識からは当然、排除されている。
自分に自信がないというのなら、それは自分の欲求を罪悪に思っている
ということであり、それは同時に他人にも自信がないようになれと
思っていることと同じである。自分の欲求を罪悪視すると同時に
他人をも罪悪視してしまう。
自分に自信がないのなら、あなたを服従させるために無意識に
行動していた重要人物がいるはずである。そのおかげで
あなたは、自分を持つことができなかった。
そう考えると、人間関係のすべてがひっくり返らないだろうか?
これこそが、権威主義から自由主義への転換なのかもしれない
創造性がないのは、努力が足りないからではなく、自分を取り戻していないからである
自分を取り戻せば、出て行かざるを得ない。そこに利益があるのだから。
>>101 86氏へ
いろいろ考えるためと、あるスレッドに集中するためここを休んでいるが、
ここを読んで考えることや、自分なりの勉強を止めているわけではない。
そんな中で↓を見つけた。
http://charm.at.webry.info/200608/article_6.html より引用
(トップページ
http://charm.at.webry.info/)
「 ユング派の精神療法でも自我の強化や成長は重視されますが、
フロイトの説く自我がエスや超自我を適度に調整するという
『自我の特権的地位』に対しては批判的であり、
『無意識のイメージや物語に注意を向けて、
無意識からのメッセージを現実生活に活用する』という
特殊な精神療法の治療機序を持っています。
ユングは『自己(セルフ)』という元型を考えて、それを
無意識と意識の両方を合わせた精神内界全体の中心に位置するもの
と定義しましたが、この自己が、
意識と無意識の力動を統合して自己実現的な本来の人生を生きようとする
原動力になるといいます。」
「自我(エゴ)と自己(セルフ)の最大の違いとは、
現実的な自分の立場からの判断や知覚を最優先して
それ以外の精神内界のイメージや感情を否定する機能が『自我(エゴ)』であり、
外的現実性以外の内的現実性も受け容れて
精神内界のイメージや情緒の意味を読み取ろうとするのが『自己(セルフ)』であるという事です。
意識領域の中心にある自我(エゴ)は、
無意識領域から侵入してくる強烈なイメージ(元型)や圧倒的な欲望を否定して抑圧しようとしますが、
意識と無意識の中心にある自己(セルフ)は、
無意識から生起してくるイメージ(元型)の持つ意味を解釈し、
圧倒的な欲望を現実世界に合わせた形で充足させようとします。
実際の事例で考えると、
職場や学校に過剰適応して周囲の期待や願望に応え続けている人は『強い自我』を持っていますが、
無意識と意識を統合調整する『自己』のバランスを欠いていますので、
精神的ストレスを受けやすくなり、
消化器潰瘍や頭痛などの心身症やアレキシシミア(失感情言語症)を発症するリスクが高くなります。」
これでだいたい合ってるかな?プロ氏。
自我と自己(セルフ)の使い分けは
君の言説を理解しようとする上で、ひとつの大きなネックになっていた。
だから前スレで俺は執拗に問うたし、今スレでも86氏が同じ処で引っかかっていた。
だから確認しておきたいのだ。
今、語られていることは、「反抗期・思春期」とも奥で連動していると思って
興味深く読んでいる。 (以上、恒例の横レス)
あんまり分けるのは好きじゃない。現にアドラーは分けなかった。
>>384 それで大丈夫だと思いますよ。ただ
無意識→自己→(言語ゾーン)意識→自我 の流れなので物事は。
電柱を見た瞬間、最初は無意識的に見ているはずです。その後、自己を通り
言語化され、電柱が理解される。
どうやら、無意識に近いところに防衛機制があり(なぜなら
防衛機制は意識できないから)抑圧とかしているわけです。
これも、心理的神経的、自己保存性があるからでしょう。
防衛機制は、人間のためにあるわけではなく、この自己保存性から
きているのだと思います。巨大な抑圧は、その人の行き方を決めてしまう。
劣等感があれば、劣等感を回避する生活をするかもしれません。
ここですごいことをいおうと思うのですが
自己は、つまり無意識ー自己ー意識ー自我において
自己とは、自分ではありません。
職場や学校に過剰適応して周囲の期待や願望に応え続けている人は『強い自我』を持っていますが
↑
これは、少し違うかも。強い自我というよりも、おかしな自我だと思われる。
過剰な自我は、自己を隠すための言い訳に過ぎない
だから、過剰適応者はみんなから嫌われる。規則にしたがうのはいいが
その規則を作り出している理由が、もし自分を隠すためだったら。
>>387 以前も言った気がするが、
個としての「自分」は
統一体として 外界から相対的に独立している。
それと、自分の内部の一部分にすぎない「自己」が
ちがうのは、あたりまえだと思うのだが。
心理学用語を離れて一般的に言えば、
自分は まさに「分かたれた」「自」 つまり、自然・他者から区別された個としてある。
自己は 「己れ」「自身」 自然・他者関係無しの、己れ自身。 つまり「即自」
この「即自」「対自」という言葉は大変便利なんだが、
どういうわけか、全く定着していない。日本人気質というやつか
本来「エネルギー」なんていう「概念」などより、よほど易しい概念なんだが
哀しいことだ。
自我というのはその「対自的」心領域だ。
己をすこし離れたところから対象化している心の部分。
即自的な心領域=自己や、無意識部分から
「言葉」や「認識」によって離れた部分。 したがって「理・認知」の部分だ。
この理的認知は、「外界」と「内部」の2つを対象とする。
俺は 「頭」 とおおざっぱにイメージしている。
したがって自己は 「心」 とすればすっきりするのだが、
ややこしいことに、ユングは 「元型」 という概念を使うため、
すっきりと「心」といいにくくなる。 これがすべての「元凶」だ。
心理学には様々な派閥があり、精神分析(精神医学)にも様々な派閥があり、
それらによってすこしづつ、同じ言葉が違う意味で使われていたりするらしい。
しかし、まぁいい。 「プロ」氏がその言葉を使いたいのだから、
こちらは読んで、自分で変換して理解するしか方法がない。
超自我は、いうなれば監視塔だ。
自分や自己という刑務所の中につき立って下界(自我・自己)を監視している。
「プロ」氏はそれを自我の中の「規範意識」として取り扱っているが、
俺のイメージでは、超自我はそれ自体独立した存在として、
上記のように塔とか、検問所、と見た方が良いと思っている。
そして、超自我の中には「規範」以外に「禁止」「美意識」なども含まれている。
Sが「超自我」のみ というドゥルーズの言い分はこのイメージの方が
はるかにわかりやすくなる。
そして、Mは、この監視塔の役割をSに、預けて、自分の「自我」「自己」を
むち打たせる(むち打たれる)というイメージも、
超自我をくっきり、自我から切り離して考えるイメージの方がわかりやすい。
この超自我を形作るのが、親の禁止・命令・学童期に植え付けられる世間的価値観、
本やメディア、友人間との関係などからくる、選択的価値観などになる。
当然、社会的規範意識もこの中に含まれている。
(以上は、門外漢の独学による咀嚼的解釈であり、なんら学問的裏付けはない。
すべては「文学的」「哲学的」「思想的」想像力と解釈に依っている。
これははっきり言っておかないと、誤解されるので、念を押しておく。)
ついでに直接SMには関係ないが、俺の「文学的」「思想的」「哲学的」想像をもうすこし言う。
人間の心はもともと分裂している。
その根本にあるのは、母胎のなかで自己形成するという「胎生生物」の宿命だ。
(この「自己」は一般的な意味。心=情的部分の時は「」にくくって使う。
ややこしくてすまんが、「プロ」氏のいう「自己」とも違う。単純に「頭と心」の心だと思って欲しい)
出産によって母親の環界の外にでてへその緒を切られた時から、
「個」がはじまる。
だが、胎内にいた時、母親から直接受け取っていた「心」の部分はその時、
すっぽり「穴」があいたまま「空洞」部分として、「個」の心的領域に残る)
つまり自分自身の内部(皮膚によって外界から隔てられた内部)に、独立した時間が
流れ初めて、自分の心が成立するが、胎内にいた時、常に母親と胎盤で
物理的・生理的に繋がって、完全なる「個」としては独立しきれていない状態の時に
母親から受け取っていた心(あるいは共有していた心)部分は、
「もうひとつの心部分」として残存する。
(母親との心の直接的つながりは、ホルモン物質の変化その他を介してなのか、
あるいは、直接侵入なのかは、自分でもまだ、よく考えが詰まっていない)
この空洞部分がそのまますっぽり「自我」となるかどうかもまだ考えきれていないが、
とにかく、「ふたつの心」がひとりの「個」の中に存在することだけは間違いない。
そして、それをひとつの時間の流れとなる部分がその人間の「心意識」だ。 と考えている。
( くれぐれも言っておく。これらはなんらアカデミックな根拠があって言っているわけではない。
似たような学問的言説があるのかもしれないが、いまのところ完全に俺の独創だ。)
今日はすこし時間があったのでカキコした。
SMとは関係ないが、一度どこかで吐き出したかったことのひとつなので。
結局さまざまな本をまとめると、ただ単に金よりも
自分の欲求を尊重すればいいというだけだったのだろう。
エネルギー?は、内から外へ行く。
それを自分をだめだという考えで、止める。そこでエネルギーが戻る
SMも遊びならいいが、マゾ的サド的な人は、遠回りして
心的エネルギーを発散しようとする。エネルギー交錯により憎しみと
劣等感が生まれる。
そのエネルギー?とは、
心的欲求 とか 衝動 願望 性的衝動
に近いのだろうかね。
死の衝動と生の衝動のうち、
「生の衝動」にイメージが近いように思える。
両方を含んでいるのかもしれないが。
(「死の衝動」を破壊衝動と言い換えれば)
遠回りはマゾに限定されるのではないか、と思う。
サドはむしろ、近道をしようとして、暴力に頼るのではないか。
おもしろい。
反抗期と「近道」をしようとする「急ぎ」は何か関係ありそうだ。
そしてサディズムとも。
反対に「遠回り」と反抗期の不在(遅延=遠回り)が
マゾヒズムと関係するのか。
思春期にサディズム・マゾヒズムの素質が
嗜好になっていくのも、遠回りと近道と 考える事もできる。
劣等感の元になるのは
「価値観」だから、
むしろ、劣等感のありかたが、
SとMの志向を分ける可能性もある。
あと、気になるというか、解きたいことのひとつ。
S男の硬さ と M男の 柔さ
S女の普通さ と M女のもつ棘
ま、感覚的な言い方だけど。
間違った価値観を持つことにより、自我を正当化してしまう。
よって自己の成長がない。これは精神のある部分の成長がないという
ことだから、劣等感が強い人の、劣等感は気のせいではなく
精神のある部分の神経が本当に、成長しておらず
本当に劣等なのだと思う。そして、それはまず土台と成る自分を
受け入れない限り、成長しない。成長を拒否したまま、表面だけを
整えようとするのが、擬似成長だと思う。
神経は実際の神経なんだな。
社会のありよう プラス
心身相関にまで考えを拡充してるというのは判ってるけど、
実際に劣等(未発達)であることと、劣等感自体は
違うだろ、と思うけどね。論理自体は判るけど。
神経の「疑似成長」というのもありえるのかね。
神経は未発達のみかな。
つまり、神経の回路が、
通常と異なる繋がり方をする、というような可能性だが。
(実際にそのようなことがあり得るのかどうかは知らないが)
いすれにしろ、そこまで行くと
実際に検査機器によって
物理的に確認できる可能性がでてくるわけだし。
おそらく、情緒やある部分の思考力が未発達と言うことなので
本当に劣等感の正体はそこだと思う。そして、それに
妄想じみた理由がつけられる。解決不可能な外見などの理由がつけられ
正当化される。ありとあらゆる理由がつけられて、ある部分の
たとえば、自分を出すのを拒否する。そうなってくると物事のとらえかた
他人の気持ちもそれに準じてしか見れない。そうやっていよいよ劣等になる。
→(心理エネルギー)
→無意識→自己→意識→自我
葛藤がある状態→無意識→自己←意識 自我
葛藤がある状態を自分に対する憎しみがある状態でもいいと思う。
自我が変化せず、強化される。自己執着とは、自分を憎んでいる状態だが
これは表向きで、裏では、このような仕組みが働いていると思われる。
だから、自己表現できるわけがない。自己は牢獄に入ったかのような
状態になっている。心は胸には無く、脳みそにあるので
あらゆるものが神経だと思う。神経のある箇所が劣等なのだから
劣等感は本物だと思われる。妄想的な劣等感は、時として
成長しないようにしていることが原因だと思われる。
ここで世の中の問題の一部が、はっきりとわかる。
自己執着しながら自己表現できるわけがないのだから
ノイローゼになっても仕方がないと言える
つまり、抑圧を正当化しすぎる親と自由主義はマッチしていない。
ノイローゼはいつか挫折する。それは何らかの変化が起こったとき
規則や秩序がある場合はいいが。進学などで・・・。
抑圧を正当化する親が、子供に幸せになって欲しいと思っている。
すでにこの親がノイローゼだとわかると思われる。
抑圧者は自分が怒りやすい性格だと信じきっている場合がある。
抑圧者は自分がめんどくさがりな性格だと信じきっている場合がある。
性格というのも、元をたどれば細かい神経なのだから
急には変えられないし、変えたふりも通用しないとわかる。
これが通用するのはどのような人間か?また、どのような人が
その傾向が強いのか?考えると面白いかもしれないが・・・。
●友達がいないところを見られるのが嫌だった●
擬似成長者の最初の挫折が学生生活だと思われる。
上記の●で囲んだ言葉は、相当問題をうかがわせる言葉である。
擬似成長をしすぎたものは、本来の成長をしていないので
ある年齢になると本当に一部分の脳みその神経が劣等であり
精神的差やそれに基づく、記憶や楽しみや興味の差が激しく
友達を獲得できない。これは、自分を理解できないことに由来する。
抑圧は成長と共に解消されてゆくが、強すぎると解消されない。
逆に増える場合もある。友人は友人に関心を持てないと手に入らない。
自己執着者は上記の図のように自己で矢印が交錯しているので
葛藤の分だけ、世の中に興味が持てない。
自分に自信がないということを、抑圧している者の行動は
どこかおかしい。そのような人は抑圧を意識していないのだから
さらに投影も意識していないのだから、自分に価値がないという考えがあって
いかにも立派な人だと思われるだろうが、これは、他人を自分の葛藤を
解決する道具としてしまう。悲しいことだ。
だから、自分に自信のないことを抑圧した親は、過干渉・過保護にならざるを
得ない。これは何をしたとか何をやったとかの問題ではない。
自分の情緒などを罪悪視した親は、人間嫌いにならざるを得ない
現代の人間嫌いは、特に大きな理由がない限り、自分が嫌いだからなのである。
自分を嫌ったものは、それがそのまま理由となり、自分と同じ他人を
嫌いになる。子供は、親が自分自身を嫌っていることを無意識に見抜き
こどもは、親のまねをしてしまったのだろうか。
→無意識→自己←意識 自我
葛藤のある状態。たいていは葛藤を乗り越えて、自分の価値観である
自我が変化していくのだが、原因不明の葛藤に人は悩まされている。
そのもっとも大きなものが、自己軽視・自己疎外・自己憎悪だと思う。
意識の上で、自己を抑えすぎると、無意識から来るエネルギー(影)
と交錯してしまい、自己に負担をかける。そしてこれから来る葛藤は
本来、どちらが良いのか?考えることができない。これが幼少期の
刻印とよばれるものであり、親の欺瞞性を共有すると言うこと。
この葛藤は、違うことで解決されようとしてしまう。
この葛藤から生じる、不安・憎しみが強迫的行動になる。
親を取るか?自由(自分)を取るか?
これはそのまま、心的エネルギーの流れを正常にするか
異常にするかということになる。
ああ、あのうつむいた男は、まじめにやっているが
彼は、他人のためにしているわけではないのだ。
この葛藤から来る不安を解消しようとしているのだ。
だから、報われない。周りの人も彼に興味がない。
周りの人は、無意識で理解しているのだろう。彼が小さな人間であることを。
彼は小さなままである。金を得ても。神経は成長していないのだから。
この葛藤を正当化する生き方とは、破滅を肯定するようなものだから。
411 :
えす:2006/11/09(木) 10:24:33
なら俺は、破滅を肯定した上で葛藤しよう
→無意識→自己→意識→自我→
→無意識→自己←意識 自我
上記と下記が絶対ではなく、分量の差だと考えてください。
無数の相互性の中で人は生きています。ところが根本に葛藤を抱えていると
入り口が狭く、そこで精神の成長が遅れます。この遅れによる差が出始めると
挫折します。当たり前ですね。対人関係を自分のものだと思っていないと
やってはいけないでしょうから。この葛藤は意識されていない場合
誰か弱い人を犠牲にしてしまいます。これは意識していないと言うことが
同時に、他人を犠牲にしてしまう、しがみついてしまう理由です。
ですから、本人が何を言おうと、自分の葛藤を意識できていないのだったら
誰かに犠牲になってもらっているということです。この犠牲ほどばからしいことは
ないと思います。なぜなら、ナルシズムを維持するために他人を利用している
ということだからです。だから不機嫌な父親はそうなのです。
(これは、日常生活で意識することは不可能。だ・か・ら三つ子の魂
100までと言われている)
ナルシズムを克服するためには、自分の抑圧に気がつかなければならない
抑圧を意識するとは、正直になることである。それにより創造性が
復活する。これは何も変なことを書いているのではなく
実際にそうだと思う。ナルシズムを維持するために懸命に働いている人が
たくさんいる。彼らはいつもうらみや嫉妬で満ち溢れている。
彼らの精神は、子供である。だから基地外じみた妄想をやめられない。
自分のその幼稚なナルシズムから出た、正義や道徳ほど気持ちの悪いものはない。
単に嫉妬の正当化である。彼らは形で何もかも判断する。
彼らはいまだに服従している。そして報われない。動物園のおりを
正当化することで一体彼らはなにをしようとしているのだろうか。
ナルシズムの維持である。甘えを意識できれば、その気持ち悪さがわかる。
自分が正義だと思い、悪にみたてている何かを憎んでいるとき
それは、自分のナルシズムが原因だと気づくべきだ
ナルシズムとは、自己へのしがみつきである。
これをどう克服できるかは、わからないが
親がナルシズムを克服している人物なら、子供も自然に克服できると
思われるが。ナルシズムを克服するためには、自分を引き受けなければならない。
なんと難しいことか。人とあって楽しい人と辛い人の違いは
ナルシズムの克服である。他人に合わせてもいい。だが、恐怖や不安から
他人に合わせてはいけない。見捨てられる恐怖から他人に合わせてはいけない
それを正当化してはいけない。
ある日突然、やったこともないオセロがうまくなることはない
数学の先生でも、英語ができるかどうかは、関係ない
ある日突然、ナルシズムを克服できるわけではない。
そして、間違った方法で克服しようとしている悲しい姿がある。
自分を憎むことをやめることで、自分は自分でいいのだと理解することである
そして、しばらくは、自信のない・・・つまり自分のない状態をがまんすることである
なんと悲しいことか。親から引き受けられるのは財産だけではなかった
もっと大きなものがあったのだ。
対人関係における問題は、
自然とナルシズムを克服している人間も、ナルシズムを克服できていない
人間のことがわからないということである。
ナルシズムに苦しみ、それを克服した人のほうがずっと強くなれる。
417 :
心理学初心者:2006/11/10(金) 11:42:36
早い話が、性倒錯を起こす人は親への執着から抜け出せていないってことかい?
418 :
心理学初心者:2006/11/10(金) 11:53:34
最近仕事が半端なくきつくて辞めたくなった。俺は身を粉にして働いている
というのに馬鹿らしくなってね。仕事に対する依存も少々ある。
メサイヤコンプレックスみたいなのがあって、ネットで人の相談に乗って
自分自身の問題を解決しようとするようなことがある昔から。
自分自身を演じ続けてきた自分。いつまでこんな暮らしが続くのだろうと
思いつつ、精神科に再び通おうとするが今だ予約もしていない。
自分自身の問題はある程度知ってるけれど、それ以上踏み込めないっての
がある。
極端な自己卑下がなぜ生まれたのかは大よそ理解できる。なぜ神経症になり
やすい性格になったのかもね。犯罪や精神疾患に興味を持ったのも自分自身
の問題だからこそなのだ。自分を愛することができないから、決して他人に
愛情を注ぐことができない(というより最終的には自分から破壊してしまう。
性倒錯を起こす人というより、性倒錯により何かを
沈めようとする人は、抑圧の強い人ということになる。
抑圧といっても、退行的な抑圧(自分の感情を抑えた上に、無意識へ
抑圧するなど。無意識へ送り込むということは、意識されておらず
不安を発生させる)
退行的な行動や精神には、依存と憎悪がたまる。もちろんこれらは
抑圧されている。親への執着から抜け出せていないと言うよりは
親との関係で気づきあげてしまった、抑圧のパターン
無意識へと抑圧するパターンがまだ、続いていると言うことだと思う。
このパターンはしゃれではすまされないし、仕事や年収のように
甘いものでもない。人生を放棄しているのだから。
問いたい。ナルシズム克服者の利益とは
よく考えることだ
421 :
心理学初心者:2006/11/11(土) 00:46:37
では言い換えよう。
自己不全感が性倒錯への道を開くことがある。永遠に埋まらない何かを、その
代理として性倒錯が生まれる可能性がある。
性倒錯者は幻想を現実のものにしようと倒錯を始めるが、それが幻想である
ことに気付いていない。親あるいは重要な人物との関係が修復されないまま
成長するとサド・マゾや服装倒錯など起こすことがある。
そしてプロ氏のいうように、抑圧するパターンが続いているというわけである。
「失われた感情を求める」ことは患者にとってとても辛いことであり、
治療には相当な勇気がいるのだろう。
>>421 親との関係が修復されないまま、というのはどうだろうか。
親との関係は修復されることはないと思われる。
親との関係で発達しなかった神経。発達を拒否された神経。
話は変わるが
コンプレックスを、ユングは、感情に彩られた(いろどられた)
心理複合体としている。ある中学生カップルを見ると嫉妬してしまう
というのは、コンプレックスと言える。コンプレックスは
悪いコンプレックスばかりだが
良い感情にいろどられた心理複合体も当然あるはずである。
会話が続かないと言う人は、これが少ないのかもしれない
性倒錯そのものが、悪いわけではない。その形だけからは
何もわからない。劣等感から生じる性倒錯が問題だと考える。
そして、この種類の劣等感は、偽の劣等感と呼ばれる。
つまり、自分自身で何が劣等か気がつかず、ほかのものに転化してしまい
作り上げた劣等感だから。本ではここで終わりである。
しかし、きわめて健康な人たちが、妄想のような劣等感を
持つわけがないと思われる。やはり、何かが劣等であるからこそ
このような強迫的に追い詰められるのだと思われる
それを、私はある部分が本当に劣等なのだと思う。
精神のある部分が本当に未発達だと思われる。
その証拠に、人間的な感情豊かな人を避けてしまう傾向にある。
やはり、自分の感じ方で生きてこれなかったことが原因だと思われる。
楽しいことが何もない。
何らかの理由で、いまだに子供のように周囲に認められたがっている。
そして、絶望している。
劣等感の正体
必要以上に食べる人・必要以上に責任を背負いたがる人・必要以上に
劣等感の強い人は、やはり異常だと言わざるを得ない
これらの根源はどこにあるのだろうか。それは、ある部分の神経を
発達させないこと(服従)を美徳としたことに問題があるのではないのだろうか。
人は本当に服従すると、ある人の内面を考えることをやめて
さらに同時に自分の内面を考えることをやめてしまう。
自分自身を無価値だと思っていると、原因を問わず、ナルシズムだと言える
これは、幼児的であり、嫉妬のかたまりであり、新しいことが始められない
フロイトで言えば、子供のままなのだろう
あらゆるものが、投影されている。
ユングは、抑圧したものは、投影されると説いた。
たとえば、自分に価値がないということを抑圧してしまうと
他人をも無価値にしてしまう。それは当然ではないのだろうか
顔がでかいことをやだなと思っている人が必ずしも
他人の顔がでかいことが嫌ではない。そいつが幸せになると怒るかもしれないが
あえて弱点を抱えた同士のほうがいいと思う場合もある。
しかし、抑圧すると投影されるので、彼は相手を憎む。自分を憎んでいるように。
外界の何もかもが投影・外化されている。無意識のものを意識へあげる
ということは、のろいからの脱却なのかもしれない。
● 同一化というのは、最大の集中力だと言える。
山にのぼり、その風景を見たとき、いやぁ〜、景色は大変すばらしく
これがこうであれがああ見えたよ・・・と言うことができる。誰でも。
ところが、これが山からの風景ではなく、自分のことになると
どうだろうか?説明できるだろうか。
これがある本で、親の権力欲に服従したこどもの内面は分裂すると
解説されていた現象である。具体的には、本来の自分には価値を
持つ必要は無く、ある精神の成長を止めてしまい、表面上のものに
固執すると言うこと。
そうなれば、自分を軽蔑する。自分の感覚を軽蔑する。
そうならば、説明できるわけがない。
こうして、自分が分裂してしまう。同一化できない。
そして、自分が分裂した状態では、ナルシズムの状態では
外界と同一化できない。
ナルシズムを克服していないことを正当化した親は、必ず子供にしがみつく
子供は、同一化の能力を奪われる。
岸田という人の本に、親の欺瞞性が書いてある。
親の欺瞞性とは、葛藤の正当化・服従の正当化・心理的成長拒否の正当化
とも言える。動機というのは、行動の直接の原因という意味だが
このような無意識に葛藤を抱えてしまっている親が、正義を語ろうが
道徳を語ろうが、知らず知らずのうちに、葛藤から来る不安や嫉妬憎しみ
を解消するための行動になってしまう。
自己執着とは、言ってみれば、いつも自分が・・・何者かに
増大化された他者に見捨てられないかどうか気にしている状態
● 自己執着こそナルシズムの状態と言える
ナルシズムを克服しない限り、無意識→自己←の流れを変えられず
無意識→自己→意識→自我→ となりにくい。
ナルシストは、実は自分の今までいた環境こそ、安全ではなかった。
恐怖があった。抑圧を強要されたと知らなければならないと思う。
マスローの欲求階段説というのは、ナルシズムを克服しないと実現しずらい。
昔の結婚を考えてみると、それは規則的であり、決まりであった傾向が強い。
今の結婚を考えてみると、それは自己的である場合が多い。
この違いを精神の神経で考えてみると、昔が、精神の成長が必要なかったのに
対して、今の結婚は、精神の成長がないと、その欲求は起こらないと言える
成長というのは、言ってみれば、あることに興味を持っていたが、あることに
それほど興味が無くなる状態と言える。
葛藤を抱えたままだと、そのこと自体に興味があるわけではなく
葛藤を解決するために使ってしまう。
ある本に、ある日突然誰かを好きになれるわけではないと書いてあった。
これこそ、ものごとにある日突然、自己執着者が関心を持てるわけではない
という意味に取れる
自由に対する誤解
自由とは仕事をしないことでもなく、怠けることでもなく
努力すれば、誰もが成功者になれる世の中の仕組みでもない
自由というのは、自分に由れる主義だと言える。
自分の感じ方・自分の行動を自分で決めていいということで
これを抑圧している人は、他人が自由にしていると嫉妬してしまう。
相手が自由だからという理由で、いろいろ言い訳をつけて攻撃しかねない
フロムは、劣等感の根源を、偽の自己で生きることと解説した。
偽の自己とは、自己を封じたまま、自我に頼る生き方ではないのだろうか。
事実、心理の仕組みとして劣等なのだから、劣等感があっても不思議ではない。
どうして、劣等感を持つような生き方をしてしまうのか?
ある人はどうして自信を持つ生き方をしているのか?
この平和な日本ならもっと自信を持つ人が多くてもいいのではないか?
すべては、親がそうしてきたように、自分に価値が無いと思うことから始まる
これは、抑圧される。そこで極力自分を出す場面を避けるようになる。
これは、相当危険な行為だと言える。
ある日家に帰り、ふと、唯一自分を出せる、自分ひとりしかいない部屋に行き
ほっとしてしまう。そんなことが多いはずである。
もし、自分を出す場面を避けるために生きているとしたら
その人の考えは誰が考えたっておかしいはずである
そんなおかしい人の行動を親が見抜けないのはなぜか?
親もまたそのようなことを異常だとは思っていない証拠である
このようなことを、欺瞞性を共有していると言う。
この抑圧で恐ろしいのは、人間嫌いになってしまうということなのかもしれない。
だから、自分にも世の中にも興味が無い。
この自分を出さないための努力は、とどのつまり、生物すべてへの憎悪につながる
何もかも破壊しなければならないという気持ちになって当然ではないのだろうか。
自分を出さないための努力というのは、強迫的な勉強であったり
他人の批判になるかもしれない。これをロロ・メイは
動物園のおりの正当化と言っている。
気にしすぎの子供に、気にしすぎるのは良くないと言う親の
恐ろしさを考えたい。
欺瞞性というのは、他人を通じて暴かれる。
他人と会うのがいやと言う人は、何か理由をつけているかもしれないが
他人がかがみとなり、自分の何かが刺激されるからではないのだろうか
別に嫌なら嫌でいいのだが、もしその本当の理由を抑圧し
何か別の理由をつけていたら、危険の兆候と言える。
原因はともかく、自分の欲求を罪悪視し、自分から逃げることを
第一目標とした自殺的な人生を送っている人は
他人を許すことなど決してできないだろう
自分から逃走したことを意識していない人は
他人にも自分から逃げるように勧める結果となる
そうにもかかわらず、自分は本気で他人に幸福になってほしいと思っていると言う
演技をしている。その演技に自分で気がつかない
非行に走る子供たちは、非行に走ることで
憎しみを晴らし、自分を取り戻したかったのだろう
では、非行に走ることもできなかった人のその後の人生はどうなるだろうか
このような自由主義において、他人を見たとき、気が狂いそうに
なるのではないのだろうか。
左翼テロリストが、右翼テロリストが
たいそうな理想を掲げるとき、それは、自分たちのナルシズム性の
維持だということには気がつかない
ある人が、たいそうな目標をかかげるとき、それは、自分のナルシズム性の
維持だということには気がつかない
抑圧を意識できると、それと同時に痛みや苦痛を引き受けることになる
なぜなら、今までその抑圧と投影のおかげで正常な精神状態を
保てていたのだから、抑圧に気がつくと意識すると
それは辛さ・苦しみ・胸の痛み・不安がじかに発生することになる
しかし、逆にそれが正常だと言える。
子供は、自分の思い通りにならない状況が続くと
悪魔じみた妄想を抱く
まるでこの世界をコントロールしたいがのごとく
自分の悪すべてを相手に投影し、殺害すれば平和になると思い込んでいる
ただ単に、自分の幼児性を維持したい、正当化したいために
そうなれば、なぜ自由でなければならないのか、理解できると思われる。
権威主義的な性格構造をもった人たちは、歴史の大罪の罰を
受けざるを得ない。そして自由主義者を憎む。
彼らにとっては、自由主義者が犯罪者に思える。
しかし、凶悪な犯罪を犯すもののすべてが、ナルシズムを抱えているものである。
440 :
没個性化されたレス↓:2006/11/12(日) 13:41:54
親や重要な人物との亀裂を修復できるのは家族療法とかじゃないの?
まぁそりゃあ個人差あるから実際にはそれで修復出来るとは限らないし、
まぁ修復することのほうが困難だと思います。
だから心理療法とかがいいかもしれませんし、それでも駄目ならなんか
なんでもいいからやるしかないよな。本人がそのことで苦しんでいて
治療を受けたいと考えるならね。
>>440 いや家族療法が何かわからないが、修復は不可能だと思われる。
もともと、修復しようなどと考える親子は、無意識に相当な
問題を抱えており、年老いた両親を変える意味は無いと思われる。
結局は、心理的な負債を抱えた子供がどうするかが問題となる。
修復は形でしかできないと思う。表面上しか。
よく、目撃ドキュンという番組があったけど、そこで
不良だった子供が結婚式などで泣いていたが、それは関係が修復
したというよりは、単に許したに過ぎないと思われる。
どうしても、関係は修復されない。あくまで親から分離できたという
ことでしか解決できないと思われる。
心理療法はもっぱら自分を取り戻すことに重点を置くべきだと思いますが
医者自体が、人格障害の本質を理解しているとは思えません。
最近いじめの報道が多いと思いますが
自由主義社会では、監視社会にしなければならないと思います。
前に国債の価格変動について知ったので説明したいと思います。
額面100円の国債で、利子が1%だとします。満期までは利子だけ
もらえるもので、途中で売ることもできるものです。
ところが、この国債を持っていて、利子が2%もらえる国債が
出てきたとします。(金利は変動する)
すると、額面100円で1% こっちは100円で 2%の利子がもらえます。
すると、この1%の国債を途中で売ろうとすると、利子を2%引き上げる
つまり、計算はめんどくさいのでしませんが、この1%の利子の国債は
額面の値段を下げて売らなければならないのです。それじゃないと
売れないわけです。
というように、自由主義になった分、利子たる監視強化・罰則強化などを
しなければ、つじつまが合わなくなるわけです
たとえがおかしいですが、そうだと思いませんか?
権威主義から自由主義へと転換していくところに利益があるわけです。
完全に自由主義が理解されると、もはや自由主義からの利益はないでしょう。
権威主義的構造と自由主義を意識・無意識で表すと以下のようになると
思います。
無意識に権威主義 意識に権威主義(憎しみは国外へと向けられる)
無意識に権威主義 意識に自由主義(憎しみは自分か他人へ向けられる国外含む)
無意識に自由主義 意識に自由主義(憎しみは発生しない)
上記の憎しみとは、葛藤から来る不安によるものです。
最初の権威主義が憎しみを生むのは、人間性否定による
本能によるものだと思います。必ずあります。
444 :
MOT:2006/11/13(月) 10:26:16
質問なんだけど、俺って自分がサドとマゾのどっちなのか知りたいんだ
1からこのスレ何度も読み返したけど、むずかしく全然わからない
俺はガキの頃の思いでがよく思い出せなくて
小学5年と6年の時の担任だった優しい男の先生に出会うまでの記憶が
ほとんどない。残ってるのは嫌な想い出ばっかりで、
4歳くらいの時母親に冷たくされてショック受けた想い出が強烈に残ってる
もともと母親は気性が激しくて、イライラしてる時はためらいなく皮肉を言ってくる
親父は尊敬できる人で、無口な人だけど家族のために働く背中を見て、
俺は親父のそばにいると安心した。親父はあったかい人だ
気がついたら、俺は女が苦手になってた
女をなぜか信用できない
こんなんじゃいけないなと思って、
我慢して女とも付き合ったりした
何年もそんな事を続けたけど、なんだか我慢してただけって感じでだめだった
男友達には、なぜか抵抗がなくて心を開けるし相手も同じに接してくれる
みんな俺のことをいい奴だと言う
俺は男友達や同僚たちの面倒を見てやりたくなったり世話をやいたりするのが好きだ
付き合う女も同じだけど、なんだかどこか心の中でひっかかるものがある
それが何なのかわからない
これは俺の思い出せない子供の頃の記憶と関係あるのか?
おれはサドとマゾどっちなんだろう
>>444 おそらく、マゾだと思います。どちらかと言えば、マゾ傾向の人が
多いはずです。
結局、あらゆる生活習慣と葛藤から生じてしまう物事の捉え方のズレが
理由無き適応障害の原因ではないかと思います。
俺は男友達や同僚たちの面倒を見てやりたくなったり世話をやいたりするのが好きだ
付き合う女も同じだけど、なんだかどこか心の中でひっかかるものがある
それが何なのかわからない
>>444 これは一応メサイアコンプレックスとか言われるものですね。
自分が世話を焼いてもらいたいから、周りのみんなに
過剰に世話をしてしまう。だから、どうしても押し付けがましく
なってしまうということがないですか?
これの問題点は、相手を見ていないと言うことです。
→自己← の葛藤を解決するための世話ですから。
それが強すぎると問題が生じると思います。ほどほどならぜんぜん問題ないですが。
>>444潜在的には「同性愛」傾向がある気がする。
同性間との親和感(=父親への親和感)が強いから
男同士のものの見方で女性とも接するから
女性への親和感が得られないのではないかな、と。
(ど素人の考えだけどな)
SかMかはたいして問題じゃないような。。。
所有されて育った子供は、所有されることしかうまくできない
所有した親は所有していないと言う。自由にさせてやったという
しかし、所有されて育った親の自由にさせてやったは、妄言に等しい
その親が自信がないのを抑圧し、高慢に振舞っていたのなら
所有せざるを得ない、何をどうこうしたから・・・問題ないというのは
うそである。一生懸命家族のために仕事をしたと言うが
それが、自分の幼児的な葛藤を満足させるためだったとしたら。
子供は表面上問題がないように思えるが、所有しか知らない
はっきり言えば、素直ではない人間は、相手を所有する傾向が
それだけ強くなる。もちろん、素直に見せかけていることは無駄である
この見せ掛けに固執するのはなぜだろうか。
たいていの人はみせかけている行動を取っていることに気がつかない
素直に見せかけている人
素直な人
素直に見せかけていることに自分で気づいていない人
結果的にこれらの人はたいして変わりないように見えるが・・・。
一番下人の苦しみ・病理は気づかれない
451 :
MOT:2006/11/13(月) 21:06:34
>>咀嚼途上者
>>心理学のプロ
二人とも、教えてくれてありがとう
じつは俺は自分じゃサドなんじゃないかと思っていた
あと同性愛の素質は、何度か考えた事があるんだけど
どう転んでも同性愛はむりそうだ
いつも豪快で明るい人間をふるまってるけど、
俺は結構臆病な性格をしてて、保守的な行動とることがおおい
だから友達は同僚にそういう面を見られると意外そうな顔をよくされる
メサイアコンプレックスっていうのか
たまにだけど、親しい奴が寂しそうにしてるのを見ると
物凄くどうにかしてやりたいっていう気持ちになる
それも俺の気持ちの裏返しってことになるんかな?
自分のことを寂しがりやだとは思ってたけど、やっぱりそうだったのかな
みせかけるっていうのは、よくやるよ
もうほとんど常習で、やるのが当たり前になってる
なんでやるのかっていうのはよくわからないけど、自覚してる
というか意識してやることのほうがおおい
たぶん本当の自分を見られたくないのかもしれないと自分じゃ思ってる
たいがい、初対面の人にはものすごく礼儀正しく紳士な人間をふるまって、
仲良くなっていくにつれて少しずつ本性をばらしていくって感じだ
人に心を許すっていうか信用するのにものすごい時間がかかるよ
でも、一度心を許すと依存したくなる気持ちが出てくる
452 :
MOT:2006/11/13(月) 21:23:38
サドだと思ってたのは、
人のことをからかったりするのが好きで、
よくからかってたりしたからなんだ
俺、体がでかくて身長184センチ体重78キロのうえに
顔立ちがいつも怒ってるように見えるらしくて
おまけに声もでかくて(ちょい耳が悪い)低いから
初対面の人は俺に威圧感を感じるみたいで、
それで紳士ぶって知り合って、でも仲良くなったら
隙を見て不真面目な事すると、そいつらは
「え!?意外」みたいな顔するんだけど、それが楽しくて何度もやった
そうやって、楽しみながら少しずつ本性をバラしていくのがいつものやり方だね
まだ知り合って間もない時だと、やっぱり演技してる面が強いから
疲れてて余裕がない時は地がでちゃうね
急な変貌ぶりに驚かれる事もあるよ
こんなかんじで人をからかってたり、
仕事できねえ奴をいじったりしてたからサドなのかと思ってた
母親への復讐心 って意味じゃサド気はあるのだろう。
(同性愛ってのは「性的に」という意味ではなく「精神的に」という意味だ)
ただ、単に軽くいじめたりからかったりして相手の反応を愉しむのと
実際に性行為の領域においても、
異性を嗜虐の対象として扱うこと との違いをはっきりさせたい、というのも
このスレで、求めている答えのひとつだ。
さらに、性的サディズムと、社会サディズム、そして病的サディズムの間には
差異があるのか、あるいはないのか、
きちんと構造的に知りたいというモチーフもある。
プロ氏がどんどん、拡大していってるように、
サディズム・マゾヒズムの問題は奥が深い。
問題は意識されない憎しみにある
いじめにも、2種類あると思われる。
相手を見ているいじめと相手を見ていないいじめ。
相手を見ていないいじめとは、自分の中の意識されない憎しみを
吐き出している。相手を見ているいじめとは、いじめではない。
457 :
MOT:2006/11/13(月) 23:25:33
あ、精神的な同性愛っていうことか
確かに、男友達へのほうが愛があると思うよ
というか女への愛がよくわからないだけかな
性行為は、女を抱くときは、いつも愛情確認のためにするって感じだよ
自分を受け入れて欲しい!とか、そんな思いがある
だから女が拒むとものすごくショックを受ける
女も体調が悪いから断って当然なんだけど、俺は拒絶された気持ちになって
内心かなり落ち込む
強引に力ずくで襲うってことは絶対やらないな
嫌われるのが怖いから
いじめは、相手を見るっていうのがどんなことなのかわからない
からかう相手はたいがい頭の回転がとろそうな、でも憎めない奴ばっかだね
どっちかっていうと誰にも相手にされてなくて寂しそうにしてる奴
そういう奴みてると、ついかまってしまう
458 :
没個性化されたレス↓:2006/11/14(火) 00:15:59
メサイヤコンプレックス=異様に世話を焼くのが好きな人
親(特に母親)との親子関係が根本としてあり、現在社会適応という面、
とくに対人関係における発達が遅延状態にある。
父親の役を演じているような感じがする。
459 :
心理学初心者:2006/11/14(火) 00:24:05
メサイヤコンプレックスは、自分自身の問題を否認したものを他人に
投影させ、彼らの問題を解決させることによって自分自身の問題も
解決したかのように思うことである。
私はその代表的な例で、よく相談サイトとかいって解決しようと
するけれど、私自身の問題は当然解決されないままである。
修復は無理なのか。「生まれ変わっても親子でありたい」みたいなの
は現実にはないのかなぁ。
460 :
心理学初心者:2006/11/14(火) 00:28:57
サディズムがどこへ向かうのかという問題がある。
性的なもの(性的サディズム)、食欲(過食症)、OD、リストカット、
刑法犯犯罪など様々な方向へ向けられる。
人はどうやってナルシズムを克服していくのだろうか
ナルシズム維持には犠牲者が出る
ナルシズム肯定にも犠牲者が出る
ナルシズム克服にも犠牲者が出るのだろうか
462 :
没個性化されたレス↓:2006/11/14(火) 11:38:21
463 :
心理学初心者:2006/11/14(火) 16:39:12
さて、我々が誕生した時には、母親がいます。そしてほとんど例外なく
父親がいます。生まれたばかり子供は親や看護師などの専門家たちがあやす
ことによって乳幼児の精神は発達していくしていくものです。身体についても
、母親のおっぱいやミルクを授乳することによって「自分が愛されている」
ということを実感して成長していくといわれています(つまり仮説)。
名古屋大学の教授かなんかが、子供に飲ませるときの親たちの感情や態度
が子供の精神発達に影響を及ぼすのではないかという研究を行っていると
聞いた事があります。つまり、嫌嫌飲ませるのと、自然にあげるのとでは、
子供に与える影響が違ってくる(まぁそれはもっともらしい主張だと思う)
というわけです。
464 :
心理学初心者:2006/11/14(火) 17:25:15
文章がおかしいですね。そこの部分だけスルーして読んでください。
●ナルシズム●
そしてこの乳幼児期の段階を私はナルシズムの段階といっています。
エーリッヒ・フロムの言う「母親からの愛は無条件である」という
言葉は特にそうなのですが、このナルシズムの時期にある程度の愛情
が注がれないと、後に心理的問題や障害を抱えることになることもあ
ります。その中の一つとして性的マゾヒズム・性的サディズムも含ま
れます。
性的SMだけの人の場合は、あまり精神症状というものがないので、
精神科を受診するキッカケというのは中々あるものではありません。
彼ら彼女らは、その性的SMを意識上は良いと思っているからです。
でも性的SMには、少なからず、劣等感や虐待やいじめや親子関係
で亀裂が生じているということなどがあります。だから彼ら彼女らが
無意識層に抑圧している感情を引き出せば自分自身の問題に気付き、
しばらくは辛い現実を見ることになるでしょう。
465 :
心理学初心者:2006/11/14(火) 18:06:14
このようなことから
●執着(愛憎)がそのまま大人になっても無意識層で抱き続けている
ことが、精神病、人格障害、神経症、非行に将来なる可能性を高める
のではないかと思われる●
もちろん、心的外傷を受けた人すべてが精神的な問題や障害を
抱えるわけではない。ただ、そういう人たちはそういうものを克服
できる機会が与えられていたということが多いと思われる。
多少の外傷なら、うまく昇華できればとかね。
我々の人生の出発点である親。その親に拒絶されたり非難されたり
してどうやってまともに生きていけるだろうか。心的外傷となって
抑圧して精神疾患を患うか、行動化して犯罪者になるほかないだろう。
●異性の親が恋愛対象の原型になる●
ということはよくいわれます。それは、親に対する執着があるため
に親と同一化するために親に似た人を好きになることがあります。
健全な恋愛とは、親への執着がなく、同年代の人を自分自身を愛する
ように相手も同じように愛することである。
境界例の人は、よく年上(それも極端に)の人を好きになることが
あります。年上のほうが見捨てられる可能性が低いということもあり
ますが、何よりも「親」と被せることができるので、再び「幻想」の
中へ入り込むことができるから、年上のほうが都合がいいのです。
だから自分に優しくしてくれるなら年齢なんて関係ないと言う人も
いるのです。あくまで「親」の代わりになればよいのですから。
恋愛依存症(共依存、回避依存、ロマンス依存、セックス依存)
というものがありますが、これも親との関連、よくインナーチャイルド
といったりしますが、子供に精神的な問題がある場合、その親も神経症
的な親だったりするのです。
悩んでいる人を見ると救済者願望にとりつかれる共依存者、ロマンスの
においをかぎつけると急激にのめりこむロマンス依存者、愛が深まれば
深まるほど圧迫感から逃げだしたくなる回避依存者、セックスを求めて
不特定多数と関係を持つセックス依存者。
467 :
没個性化されたレス↓:2006/11/14(火) 23:31:17
ちょっとスレ違いだけど
謙遜とマゾの関係が気になる
ブログとか見てると謙虚な言葉の行間に傲慢さがにじみでてたりするけど
そういう正規の謙虚ルートから外れたときに感じるブレって何なんだろう
その謙虚な態度の動機が問題だと思います。
謙虚なんだから・・・となるわけです。
自我の肥大化を正当化すると、自分は間違っているなどとは決して
思いませんから。自我の肥大化による謙虚さというのは、
自己を抑えているわけで、その葛藤から来る不安や怒りかが上乗せ
されるわけです。ですから自我の肥大化となり、自分は間違っている
などとは夢にも思わず、上乗せされた分だけ攻撃的になるわけです
一般的に考えられているような愛は存在しない。
もしも、愛の定義があるのなら、それは自分に勝つということ
でしかない。
自分に勝つということは、自分にできることをすることだけじゃない。
自分の影を意識し、折り合いをつけなければならない
影を他人に投げかけてそれを壊せば、自分を保っていられる
他人の中の何かを破壊すれば、自分を保てるのなら、それはナルシズムの
維持のための大義名分に過ぎない
自己限定すれば、自分を落ち着かせることができる
しかし、この自己限定にたどり着くには、一生懸命しなければならない
多少の良い苦痛を引き受け続けて初めて自己限定できる
大金持ちだろうが、総理大臣だろうが、エリートだろうが
医者だろうが、自己を裏切ることはできない
彼らが一番自分が真に努力していたかを知っている
もし、他人に優越するための努力なら、間違った努力と言うことになる
影は自分の中にある
ナルシストは自分が卑怯者だということにも気づけない
フェミニストが気持ち悪がられるのは、大義名分の裏に隠された
幼稚な思考から来る憎しみが見え隠れしているからだろう。
言葉ではわからない。言葉では表現できないが
そんなことを感じ取っているから、賞賛されないのだろう。
自分の葛藤を静めようとすることから、出たものはコミュニケーションではない
だから、ズレがでる。そのズレは、曇りなき人間には通用しない。
欺瞞性は暴かれる。粉飾決算のあばかれる
自己執着は、単に心理的な自己を憎悪しているに過ぎない。
だから、自己執着者は自分を気にしていながらも、自分を気遣うことはできない
これを心理的牢獄という。
相手からほめられるのも、相手からけなされるのも嫌いなのは
自己執着しているからである。その分量が強いほど、外界との
相互性を切り離してしまう。
相手からほめられた、まさにそのとき、瞬間的に自己を確認し
いいや、違うという発想になって帰ってくる
人生の傍観者とは、自己執着者のことである
自己執着を抑圧すると、他人が自己執着者ではないという理由で
他人を憎む。それを正当化する理論が山ほど出てくる。
他人のあらを探してばかりな人は、自分の自己を放棄したからだと
気づかず、他人の中にある他人の自己を批判している
誰かのために生きると言うとき、自己を放棄して他人にしがみついているだけ
ということがよくある。
欺瞞性を持つものは頼むから死んで欲しい。
欺瞞性ほど汚いものは無い
ナルシズムほど気持ちの悪いものは無い
ある人の本である、昔の。甘えこそ大罪だと。
甘えの正当化ほど見苦しく、気持ち悪いものはない。
甘えの正当化というのは、自分の幼児的な葛藤から来る不安や怒りや嫉妬
を何とかして欲しいということに過ぎない
その甘えに正義や道徳が作られていく。
それが教育と呼ばれている。
己の欺瞞性を抑圧したものは、他人を欺瞞にしてしまう。
こうして、正と負がひっくり返される。
それにさらに大義名分がつく。こうして意識から排除される。
最初の葛藤がある。
それが服従である。服従は疑問を挟み込まない。
対立をもたらさない。
信用には疑問がなければなりたたない。
カルト宗教が絶対服従を標榜しているのなら、精神的な殺人である。
彼らは服従によって放棄した自己を、他人の中に見つけるだろう。
そして、それを破壊したくてしょうがなくなるだろう。
暴力団に入ると言うことは、これから反社会的な行為をするという
宣言でもある。ならば、服従はこれから、服従していないものを
破壊する、服従させるまで、という宣言である。
自分に価値が無いと思っていて、それを正当化し
それに大義名分をつけた親は、子供を服従させるだろう
子供も同じように価値が無いと思っていても疑問が挟み込まれない
人生の傍観者には容赦する必要は無い。悪魔に魂を売るとは
服従することである
自分のナルシズムが、妄想を作り出し
妄想は他人へ映し出される
自分のナルシズムを満たすためにその人を天使に仕立て上げる
同じようにある人へは自分のナルシズムを満たすために
悪に仕立て上げる
477 :
没個性化されたレス↓:2006/11/15(水) 09:04:46
>>468 なるほどです
一膜ラップしただけで攻撃性がまる見えなのか
誰もが、スヌーピーのような、チャーリー・ブラウンのような、ルーシー・
ヴァンペルトのような、ペパーミントのような一面を持っています。
プロ氏は以前、ドラゴンボールで出てくるキャラクターを使って人間心理
を分析していました。
自己執着している人は間違いなく自分を憎み、そして誰かを憎んでいます。
自意識過剰であり、自分が傷ついているのです。しかし本人はそのことに
全く気付いていないのです。カウンセリングで、「理由はわからないけれど
苦しい」と訴える人がいますが、そういう人たちは無意識の中で傷ついた記憶
が現実との葛藤を引き起こしているために、理由もなく苦しんでいるように
感じているのです。
昨日ふと思い付きで心理学板に寄って、
とっつきやすそうだったこのスレをROMってた者です。
用語とかまだ理解出来ない事は山積みだけど、
自己評価が低いナルシズムは
アイデンティティ・クライシスとほぼ同じって認識でいいのですか?
それともアイデンティティ・クライシスが自己評価を低くさせるのですかね?
サディズムやマゾヒズムが生まれるのは、情緒的精神発達が幼少から
少年時代で途絶え、現実(重要な人物との分離)に適応するために
起こることがあると考えられるのではないか。
だから彼ら彼女らは対人関係において相当限られた特定の人々
としか交流がないか、まったく交流がないかということが少なくない
と思われる。
マゾヒストの場合は、分別のある人よりも自分に刺激を与えてくれる
人を好んだり(無意識に)、サディストの場合は自分が支配できる人
を無意識に選んでいたりするものである(特に恋愛関係において)。
そのほうが自分にとって都合がいいからです。
>>458 教えてくれてありがとう
俺には正直、心理学はごちゃごちゃしててあまりよくわからなかった
どうもここ読んで、人間の心には色々な仕組みがあるんだなあとだけわかったよ
書いてあるの読んでて心当たりのある事もいくつかあるし、
知り合いにもそんなタイプの奴がいるなあと思う部分もあったけど
まあごちゃごちゃ考えるのは性に合わないから
俺は自分の直感で感じたことに従うよ
どうせマゾでもサドでも全部俺だしな
482 :
305:2006/11/15(水) 19:10:30
個人的な質問ですみません。
先日、小さい頃から親しくしている友人の家族と
久し振りに会ったら、
私が、様々な記憶を失っていることを知りました。
例えば、親に理不尽な叱られ方をしたとか、
親を否定する記憶が一切ありません。
他にも、精神的ショックを受けた事柄を忘れているようなのです。
ナルシシズムを克服するには、そういった記憶をすべて
思い出さなければならないのでしょうか。
>>482 ナルシシズム克服というのは、とてつもなく困難だと思う
ある人は財産としてそれを自然と克服していると思うし
ある人は流れで克服していると思われる
ナルシシズムというのは、言ってみれば自己執着のこと。
無意識→自己→意識→自我→ 外界(望ましい)
無意識→自己←意識 自我 外界(ナルシシズム)(過剰適応)
無意識→自己→意識→自我← 外界(過小適応)
執着するとはしがみつくような感じだが、実際には、それを
憎んでいる。憎んでいるということすら意識できない
もっと言えば、自己を憎むと同時に他人の自己をまでも憎んでしまうことが
ナルシズム。自分を受け入れるしかない。受け入れるというのは
自己主張すること。どうしてもそれができない
つい、周りに意識しないで合わせてしまうなどをやめることだと思う
そして、自分が好きなことを広げていくことだと思われるが
たとえば、ある本に自己実現した人の特徴として
〜にもかかわらず・・・だと書いてあった。
どうしてもわからなかった。
最近わかった。単に自己が好きなのだと。彼らは自己を増徴させるために
自己を探している。他人の自己を認められる。
彼らは自己が好きなので、他人の自己を認められる
人間好きというのはこういうことだとわかった。
彼らは、外見が悪いにもかかわらず・・・。
さて、普通の「性的SM」についても、少し、書いておきたい。
別にSMに限らず、倒錯的な性的快感は、
たんなる物理的刺激に「心理的装飾」がくわわるために、
単なる性行為以上の快感があり、そのため、ハマってしまうのではないか、
ということだ。
その「性的幻想」を与えるのは、サブカルチャーである、というのが
「マゾヒズムの発明」でジョン・K・ノイズが主張していたことだ。
この性的SMの「性的幻想」が消失すれば、
つまり「心理的装飾」が減少すれば、必然的に、それらは
単なる性行為にすぎなくなる。
「痛み」もまた心理的装飾によって、いくらでも感じ方が代わってくる。
あるM男性のブログに、嫉妬と悲しみのあまり、
「一本鞭」の痛みもまったく感じずに泣き通していた話があった。
「痛みの装飾」というのは「痛み」について書かれた
ブルーバックスにもでてきた言葉だ。
経験的にも、怒りのあまり、喧嘩中に足指の爪が剥がれたことすら
気がつかなかったことがある。
一般的には性的な刺激と結びつけられないことでも
これに「心理的装飾」が加われば、性的快感化する。
これがフーコーが言っていた(
>>267)
[ 身体の意外な部分を用いて―身体のエロス化―得られる
新たな快感の可能性の発明] の仕組みだと思う。
こういう 基本的なことも
このスレで 言われておくべき だと思うので、今更ながら書いておく。
苦痛 トランス状態 快感
妄想・性的倒錯・異常行動・浅はかな考え・くせ
葛藤から来る不安などの負の感情をなんとかしようとするために
作り出されたもの
たとえば、「愛」ですら「心理的装飾」に含めて考えている。
レイプで勃起する、という事自体が不思議でたまらない、と
吉本は言っていた。
風俗じゃ勃たない、という男性もいる。
その中に、倒錯的な「装飾」もある、ということ。
こういった「装飾」は意識的につくれるものではない。
当然、親との関係の中で、無意識が受け入れるものと
まったく受け付けないものがあるだろう。
>>488 「その中に」→「そのようないろんな心理的装飾の中に」
無意識が受けいれる、という言い方がおかしければ
自己と言い換えてもいい。
>>486 苦痛を受け入れる、という段階に心理的装飾がある。
トランス状態、脳内麻薬物質の放出、快感というのは、その後の仕組み。
「苦痛 トランス状態 快感」というのは、そうだろうと思う。
>>487 「妄想」は「心理的装飾」のなかのひとつ。
したがって、妄想と性的倒錯は横並びの並列ではなく
構造的な関係にある、と考える。
>>492追加。
あぁ、この心理的装飾はあくまで「性的」倒錯に対するもので、
君のように、一般論の範疇で、性的倒錯を並列的に扱うこととは違うね。
そこは、混同してはいけなかった。
あくまで、病的サディズム・マゾヒズム と そうでないSMとの境界があるやいなや
というモチーフでの、考え方として、「心理的装飾」をいった。
すこし、君が並列的に並べたことと、ズレがあった。 訂正はしないが。
トラウマ 忘却 葛藤 妄想 心理的装飾 異常行動
495 :
305:2006/11/16(木) 23:46:00
>>心理学のプロさん
レスありがとうございます。
無意識の思考回路を正すのは、確かに
とても難しそうです。
ですが、それでも、私が成長するのなら…。
牢獄から脱出できるのなら。
好きなもの、とは、自己を自ら肯定し
己自身のための努力をすることですよね?
「〜にもかかわらず」
突き刺さる言葉です。
欠点すらも愛さなければならないのですね。
>>495 逆だと思います。欠点を彼らは好きではありません。
なのに、〜にもかかわらずとなるのは
やはり、何か別の力を分けてくれるものがあるのでしょう
それが自己実現だと思います
自己実現とは単に自己に執着するのをやめることだと思います。
本当に自分が自分のままで自分の好きなことがあれば
その分だけ自分の嫉妬が消えるはずです
形でものごとを決めない、ということが自己成長を促すと思います
まぁ依存症みたいなもんだな。
>>494 そう、そしてさらに
異常行動→残像→心理的装飾の拡充→異常行動………
というスパイラルが反復される。
500 :
305:2006/11/17(金) 12:57:56
>>496 >>497 欠点以上に好きなものがあれば良いのですね。
理解出来ました。
ありがとうございます。
あと、質問ばかりで申し訳無いのですが…
形にとらわれない、というのはどういうことでしょう。
強迫的な目標・理想を目指さないことですか?
>>500 単に他人に嫌われるために言ったのかどうかはっきりさせて
それだったらなるべく少なくするとかじゃないの
強迫的になるのは、劣等感が強いかららしい
そして、劣等感が強い理由として、自己否定などがある。
自己否定はほとんど無意味。嘘の自己否定だから
自己が行なったことを否定するならいいかもしれないが
自己そのものを否定している人がいる
自己否定というと、自分を否定することだと思いがちだが
自己そのものを否定するということと考えると
自己否定の無意味さがわかる
たいていの人は、責任を考えず、自己そのものを否定して
なりたたせようとしている。これは責任放棄に過ぎない
責任を引き受けると損だと思い込んでいる
事実は逆なのに。
自己否定の文化では、自己表現ができるわけがない
水の中で生きられないのと同じように
腹が減っているのに、物を食べないことでそれを克服しようとしているように
無意識ー自己ー意識ー自我ー外界
物事を形で決めてしまうのはなぜか?
私たちは、パソコンを買うときは、形で見ていませんよね?
形も内容も見ているはずです。
なのに、人間の・・・ある部分になるとどうして形で見てしまうのか?
そこに服従と呼ばれるものがあると思います。
自己否定すると自我を疑わなくなる。
まさに物を人間とみて、人間を物と見るのはなぜか?
そこに服従がある。幼少期に誰かの真似をしてしまい
そのパターンを続けているのが自己執着者。
彼らが遠まわしな言い方しかできないのはなぜか?
自己を確認して自己否定・自己憎悪・自己逃避してから
回答が帰ってくるからである。一瞬自分の自己を確認している
そして、あのような言い方になるのである
自分の自己はだめなので・・・。彼らは自己が出てくる機会を避ける
ある人は自己がでてくる機会を望む
これほどの二極かはない。
そのような生活態度では、決まりきった行動しかしない。
そして、努力がすべて復讐的になる。
彼らは自己に価値が無いと思い、自己を否定し続けるために努力する
結果、優劣で人間関係を気づこうとする。彼らが意識していまいと
この努力は強迫的になる。たいてい意識できない。防衛機制は
つまり抑圧などは無意識に近いところにあり気がつかない
ひねくれたもの、高慢なもの、内向的なもの、演技性のものは
自己を否定したロボットに過ぎない
自己がなければなにがあるのだろうか?そこには従属しか残されていない
思い出して欲しい、誰かに従属していたとき安心していたことを
自己執着のセックスは、当然のことながら、法律には触れないが
すべて強姦である、すべて性欲である。すべて己の幼児性を
維持するための糧とするための、搾取的なものである
そして、この強姦を正当化したのが、淫行条例である
権威主義者は、自分たちを清いと思っているだろうが
彼らは強姦しかできない。
自己を否定し、憎んでいる自己執着者が
相手の自己を尊重することは無い
だから、彼らの努力は自己を否定する努力なのである
そして、自己を尊重している人を憎む。人間的な人の自己を憎む。
彼らなりの正義や道徳を
つけて。凶悪犯罪者の多くが自己執着者にもかかわらず
ある人は相手に天使のレッテルを貼る
単に相手を拘束しているだけである
相手をおりに閉じ込めただけなのに
そのことに気がつかない
幼児性とはこういうことである
それでいて天使でなかったのなら、相手とその天使を連れて行ったものを
憎む
これでは甘えが殺人より恐ろしいと呼ばれても当然である
自己否定者・自己放棄者・自己憎悪者は原因はいろいろあり
本人も意識できずに、かわいそうだと思うが
悪魔と同じなのである
自己否定者・自己執着・・・つまり服従・退行を
正当化したものは、嫉妬深くなる
自己が成長していないのだから、嫉妬のレベルは子供のままだといえる
過剰な競争意識はそこにある。彼らは自然に協力してやっていくことが
楽しいとは思えない
人間関係がストレスになる人は、自分を隠すことに終始努力している
まだ、親との関係を続けているともいえるが、これは
巧妙な意識されないうえに正当化された虐待の証拠でもある。
基本的な精神のストレスは、自己実現できないことによる
ストレスである。しかし、自分を隠しておいて自己表現などは
できない。そこでマニュアルや規則に従おうとする
しかし、一見して同じように物事に取り組んでいる人たちに見えるが
そこには、恐ろしいまでの違いがある。まるで逆の目的で取り組んでいる
ことになる。
こう考えると自信がある・ないというのも、気のせいではなく
自己の成長にかかわっているともいえる
自己執着者は次々と自己の成長の機会を失う
自信が無い人は、原因はともかく、ずるがしこい生き方をしてきた証拠
なのである。自信がありすぎる人も、自信がないことを隠しているに
過ぎない。双方自信がある人を憎んでいる
そして、この自信が無いことを何かで正当化している人は
巧妙な虐待により自分を正当化することに熱心になってしまう
子供は規則でしか生きられないようになる
昔と違い、この選択社会が彼らには重荷になる。
彼らはあらゆる利益を取れない。子供がわめくように
道徳や正義に違反するとして利益者を憎む。
結局、人格障害とは、自己否定が自己の未熟さを
カバーするような形で出てきた、彼らなりの規則に過ぎない
覆い隠す正当化された演技でしかない
それが献身性を装っていても、彼らのこころのなかは犯罪者と
同じである。当然罪人には罰が下る。自然と下される
最近のいじめ報道は、まさにいじめの本質を隠すために
報道しているとしか思えない
いじめられる側の特徴として、自己放棄者があげられる
彼らは理不尽な関係でしか、相手と関係が気づけない
そして、いじめられることを望んでいる
復讐と立場逆転の契約が同時になされているが
>>461 人間はナルチシズムを克服する事はできないでしょう。
人間は誰であっても、ナルチシズムを克服することはないでしょう。
そして多分、ナルチシズムを克服した人間は今までにも一人もいないでしょう。
そもそも人間の自我は、ナルチシズムを基盤にしているのではないかと思いますが。
ナルチシズムは妄想であるけれどもそれがなければ自我が存続できないような
そんなモノではないでしょうか。
>>514 そうかもしれない。克服は良く考えると不可能かもしれない
自分を投げ出し、何かに執着ではなくて集中しているときしか
だめなのかもしれない。何かに執着が依存で
集中が同一化なのかもしれない
間違っていた。克服なんてあるわけがなかった
ある日飯を食わなくてもいいようになることはできない。
それと同じようにナルシシズムも克服できないのかもしれない
う〜ん…w
どうもナルシズムの話が見えない。w
ttp://yukitachi.cool.ne.jp/column/c008tottemo.html 『ちょっと「ナルシシズム」の意味について、整理してみましょう。
1.「自己愛」として、自分自身を大切にすること
2.「自尊心(プライド)」の代わりとしての使い方
3.神経症的心理としての「ナルシシズム」
4.精神分析や心理学で使われる発達段階としての「自己性愛」
結局、この4つの使い方が混在しているので、ややこしくなっているのでしょうね。』
心理学初心者氏が、4、の意味で云ったのはわかる。
プロ氏 514氏同士は話が通じてるようだが(305氏も)
おたくらのいってるのは 「1〜4」 のどれなんだ?
混在したまま、同じ言葉を使い分けてるように見えるのだが。。。
(ま、ムリに答えてもらわなくてもいいがね。。)
>>517 要するに自己執着から外界へと興味を移せない状態のことです。
隠された虐待・欺瞞性の共有・服従・牢獄・真の孤独・というのも同じ意味だと思います
よく、ネガティブな人は、もっと外へ興味を寄せるべきだとか
言われますが、ネガティブな人は自分への・・・もっと正確に言えば
自己への執着をやめることができないのだと思います。
自己への執着とは、自己への憎しみです。
人は憎しみの対象から離れることは難しい
しかし、愛着というのは、離れることが容易だと言われています。
ここに親との不健康な関係を理由にあげている人もいます。
自分を憎みすぎている状態がナルシシズムだと思います。
そして、それは何の意味もないことだとよく考えればわかるはずです
>>517 要するに自己愛ならば、離れることができますが
自己執着からは離れられません。
ナルシストというのは、自分を憎んでいます。
世間一般のナルシシズムの意味は間違いです。
よく、ナルシストは傷つきやすいと言われていますが
自己執着しているから傷つきやすく素直になれないといわれています
そして、その通りだと思います
>.>517 にあげたURLでは、
3の神経症的心理としてのナルシズムを以下のように説明している。
だいたい「プロ」氏の使ってる意味と同じに見える。 それでいいだろうか。
※
「ナルシシズム」の原因は、「抑圧」から発生する「無意識の葛藤」です。
「無意識の葛藤」があると、絶えず不安に悩まされます。
その不安のために、自分自身の存在に自信が持てません。
自信がないと、自分がなにをしたいのか、なにが欲しいのか、
なにが自分にとって価値があるのか、
判断することができません。心はいつも空虚なままです。
必然的に、自分自身の価値基準をまわりの人に求めるようになります。
まわりの人が価値あると認めるようなものが、自分にとっても価値あるものだ、
と思いこむわけですね。
そして、まわりの人の尊敬や賞賛を得るような自分自身になることが、
一番大切だと感じるようになります。
これが「ナルシシストの価値基準」です。
[言い換えれば、まわりの人の目を通して見た自分自身の姿にほかなりません。
つまり、まわりの人の目という「鏡」に映った自分の姿になるわけです。
その姿は、周囲の人の尊敬や称賛を得るという目的のためだけに存在します。
だからこそ、ナルシシストにとって一番価値あるものであり、「愛する対象」なのです。
ttp://yukitachi.cool.ne.jp/column/c008tottemo.html からの引用。 続き。
※
「ナルシシズム」の原因としての「無意識的な葛藤」というのは、
自己否定や自己嫌悪の「抑圧」です。
「ナルシシズム」の場合は、その自己否定や自己嫌悪をより強く「抑圧」するために、
「反動形成」が行われます。つまり、自分自身を「過大評価」するわけですね。
もちろん、「反動形成としての過大評価」なので、不自然な形で「強迫的」になって現れます。
いつでも「自分は特別な存在である」と思い続ける必要があるわけです。
そうしていないと、不安になってしまうからです。
この「自分は特別な存在である」というときの「自分」は、現実の自分ではありません。
「鏡に映った自分の姿」のことです。
では、現実の自分はどこでしょう。
それが、自己否定や自己嫌悪の対象となっている自分のことなのです。
「自分は特別な存在である」と思い続けるためには、
まわりの人が自分を特別扱いし続けてくれることが必要になります。
「ナルシシスト」の一番困るところは、このように、
自分の「神経症的思いこみ」のために、まわりの人を巻き込むところです。
これほど、迷惑なことはありません。
「ナルシシスト」にとって、まわりの人は、
自分に尊敬や賞賛を与えるためだけに存在しているようなものです。
世の中のすべては、自分を中心に回っています。
自分を特別扱いしないような人間は、間違っていると感じています。
※
ま、直るもんなら直って欲しいタイプではあるな。w
※
「ナルシシスト」は、まわりの人の尊敬や称賛を受けるためなら、
多少卑劣なことでも平気でします。
そもそも、まわりの人は、自分を尊敬したり賞賛したりするためだけの存在なので、
それをしない人は、その存在さえ、認めようとはしないのです。
※
以前「心理学初心者」氏がちらっとふれていた「自己愛性格障害」(
>>205-206)
を思い出したが。
最近、誤字脱字は放置してるんだが、これは誤解を招くので訂正しとく。
「自己愛性格 傷害」ではなく「自己愛性 人格傷害」だ。
…傷害 → 障害 …
525 :
えす:2006/11/20(月) 17:11:34
一度「私」というフィルターを通してから「あなた」を見る
&
一度「あなた」というフィルターを通してから「私」を見る
これってエスエムじゃん
526 :
305:2006/11/20(月) 19:03:45
ナルシシズムを克服するのは、無理なようですね。
(私がナルシシズムと言っているのは自己執着)
確かに、息をするのと同じような感覚です。
『あなたのフィルターを通してわたしを見る』
混乱してきました…。
527 :
514:2006/11/20(月) 19:37:37
完全なナルチシズムというのは、自分は全知全能であってこの世界にあまねく遍在している
(=世界と一体化している)状態だと思うのですが、どうでしょうか。
自分が神であり、全知全能で、世界と一体となっている状態、すなわち「私=世界」の状態
ではないでしょうか。
そして、人間は人生の始めにそういう状態にいたと想像されます。
生まれたばかり、あるいは生まれる前の人間は、当然ながら自分の知らない事が在る事を知らず、
自分のできない事が在ることを知らず、世界の中に自分以外の存在があることも知らず、すべてが
自分でありそれが世界のすべてである状態・・・全知全能にして世界そのものである状態・・・
そういう状態にいたと考えられます。
人間は始め、主観的に全知全能で「私=世界」である世界にいました。
しかし、実際には何も出来ないし何も知らない(無知無能)状態で自力で生きていく事もできません。
ですから、人間が初めに抱く全知全能感は妄想です。
人間は人生の初めに全知全能妄想を抱くのです。この全知全能妄想を抱いている時代が
1次的ナルチシズムの時代とでも呼べる時代だと考えます。
そのうち、運動・感覚器官が発達するにつれ、現実の存在を知るようになります。
世界のすべてが自分と一体となっていた筈なのに、その一部が次々と離反していき自分ならざるものが
現われてきます。そして、知能が発達してくるに従って、自分の外部に「現実」という或るまとまった意味を
もつ構造が形づくられて行きます。
その間、全知全能妄想は裏切られ続け、失意と憎しみのうちに、だんだんと現実を思い知らされて行くのです。
しかし、全知全能妄想はなくなる訳ではなく、その後も、自我の基盤の一部として生き続けるのではないかと
想像します。そして、この全知全能妄想がナルチシズムの正体ではないかと思っています。
528 :
514:2006/11/20(月) 19:40:32
>>527 の文は
>>517 を受けて、自分なりに思う事を書いてみました。
全体の流れからは浮いてしまっているかもしれませんがご容赦ください。
防衛機制も関係していると思う
心理的ショックを受けすぎないため意外にも
自己同一性を保つような性質があると思う
曇りなき眼で、物事を見定めればのろいは解けるという
これは、もののけ姫で誰かが言ってたことだが
呪いとはなんだろうか。
曇りなき眼とは、自己執着から脱出できたものの見方だと思う
呪いというのは、嫉妬心だとか幼児的なことから来るものだと思う
自分を保つためにどれだけの人を悪人にして、馬鹿にしてきたことか
呪いから開放されると言うことは、嫉妬から憎しみから開放されるという
ことだと思われる。嫉妬をやめるには、嫉妬を意識しないことではなく
嫉妬しないように自分が自分でいいという考えが必要なのだと思った
たたら場における対立に憎しみが、無意識にあり
意識には、人里はなれた隠れた村で暮らすアシタカ
無意識からの使いとして、たたり神が接近してくる
アシタカは、村を守るために・・・つまりは、自分の自我を守るために
たたり神を倒すが、憎しみを受けてしまう。
無意識から来た心理エネルギーを抑圧しきれなかった意識は
自己を通しその解決を図った
見事無意識の憎しみは消え、自己は実現される
心理学用語ではないが、
「即自」と「対自」
という概念の重要性を、何度でも言っておきたい。
「即自」とは、自分であることそのものでしかないこと。
自己と自我の分離がなく、「理」のない状態。
「対自」とは、自分を対象化して距離を作れる、
いうなれば、自分から離れた自分が存在する状態。
自己と自我の分離ができている状態。
意識が即自的ある限り、その者は考えることができず、
「行動」することしかできない。
「考える」ことは、「思う」ことや「悩む」こととは全くちがう。
3の意味におけるナルシズムでは
私は「あなた」のフィルターではなく
「あなた方」のフィルターを通している。
「あなた」と別の「あなた」の間の区別はついていない。
ただ、のべたらに「あなた方」という観衆がいるだけではないだろうか。
つまり、
私だけがいる世界ではなく、
個々の他者の区別がない
「世界」と「私」だけがある。
乳児の世界は違うと思う。
そこには絶対的な「母親」がいる。
母親だけが世界だが、その母親は「あなた方」ではなく
まちがいなく「あなた」だ。
以前、「素人」氏が、乳児期の母親との関係を、
絶対的支配と被支配の関係としてマゾヒズムの原像をそこに求めた時、
俺は、「母子未分化」という言葉で、違和を述べた。
その延長で言うなら、
乳児の「わたし」と母親の「あなた」の関係は
「わたし=あなた」という、まさに人生で一度きりしかおこらない状態にある。
すくなくとも胎・乳児である「わたし」にとって、
「あなた(母親)」は、絶対的に「わたし」をつつみこんでいる。
物理的に「わたし」は「あなた」がいなければ、死んでしまうのだから。
仮にその「あなた」が人間でなく狼であったとしても、
「あなた」がいることによって、「わたし」は生存することができる。
これは、ま、3ではなく、4(発達段階での自己性愛)のナルシズムだけど。
むりやり、これを自己執着にむすびつけてみれば、
胎・乳児期に、絶対的な「あなた」に十分つつまれなかったことで、
「あなた」の不足を、「わたし自身」で補ったために、
その後の、肛門期での離脱が、ゆがんでしまった、とも考えられる。
(言っておくがこれらは、完全に門外漢の、素人的な論理と思ってもらいたい)
この
余分な「わたし」
をむち打たれ、あるいは否定されることで
本来の「わたし」の部分だけに戻りたいのが
マゾヒズムかもしれない。
だが それが「ニセの自分」で
どれが「本来の自分」jか、
幼児の段階で無意識につくられた「わたし」を
明確に分けることはむずかしいため、
まるごと自分を放棄して、服従に任せて
「わたし」全部を「あなた」に所有してもらいたい、というのが
「心理的SM」 かもしれない。
これは、プレイとしての性的SMというフィルターを通すことがあっても、
即、プレイとしてのSMと、同一ではない。
主従SM と 虐待系SMとの違い。
あるいは主従関係願望と苦痛願望との濃度差。
(久しぶりに連投規制にひっかかった)
「復讐」としてのサディズムとは
「あなた」への復讐。
とすれば、そこにあったのは、余分な
「あなた」をむち打ちたいのだろう。
541 :
514:2006/11/23(木) 18:20:04
>>534 >乳児の世界は違うと思う。
>そこには絶対的な「母親」がいる。
>母親だけが世界だが、その母親は「あなた方」ではなく
>まちがいなく「あなた」だ。
母親との世界以前に、まず1次的ナルチシズムの状態があるのではないでしょうか。
次第に現実を知り、全知全能の妄想の世界が崩れた後に登場するのが母親との世界だと思います。
このときの乳幼児の世界は、全能の母親と無能な私の2人だけの世界だというのは
その通りだと思いますが。
ナルシシズムだと個性が無いと私は思う。
個性と見せかけの違いは、現実と妄想ぐらいの差があると思う
個性とは、ある対象に対しての感じ方の違いに過ぎない。
見せかけの個性とはナルシシズムであり、自分の葛藤を反映しているに
過ぎない。
個性とは極めて、細かいものであると思う。
あることが好きな人は、ずいぶん細かいところまで見ているな
というが、そういうことだと思う。
見せ掛けナルシシズム的な好きというのは、自分の葛藤からくる
負の感情を抑えるために用意されたいけにえに過ぎない
自己開示が苦手な人やネガティブ志向の人は自己執着者なのか?
そうだと思います。
それ以外の理由があるでしょうか?
生まれ持った性格みたいなものはないの?
あるとは思いますが、それは元から異常ではない限り
細かい違いしかないはずです
精神に大きな差があるのは、元からの性格と
思われている点が原因ではないのかと思います
元々ある自分と、現実にある自分との乖離度が大きければ大きいほど重症
とはよくいうが?
もともとある自分は自分だと思います
現実ではない自分が大きくなるとそれだけ元の自分はないがしろにされます
では、なぜもとの自分がないがしろにされるのかが非常に重要な
点ですね
元の自分をないがしろにしてしまい、妄想の自分が大きくなるのは
劣等感からです。この種類の劣等感が偽の劣等感と言われる物です
たいていの人が偽の劣等感を抱えています
偽の劣等感とは、服従・見せかけの自己・欺瞞性の共有・偽の自己・自己執着
擬似成長・・・言葉は違えど、このような形で起こります。
これはたいていは、両親との関係などで、自分(自己)を
憎むことから始まります。
自己を憎めば規範に従うしかなく、極度の依存性を併発します。
決まりきった行動しかしなくなり、異常な自分だけの決まりを作ります。
自閉症のドラマをみているでしょうか?他人の気持ちがわからない
というふうに見えますが、それは言ってみれば、自分の気持ちがわからない
ということです。他人を動かすことも、他人の気持ちを感じることも
どうやら、人間には、できないようです。つまり
他人の気持ちをわかる能力というのは、もっぱら自分の能力に
かかわってくるということです。
偽の自己などは、単に自分を抑えるための決まりに過ぎないということです。
偽の罪悪感というのを説明します。
偽の罪悪感は、退行の肯定や成長の不安・正当化などにより
起こります。自分が罪悪感を感じているとき、それは何かを裏切るような
感じではありませんか?本当の罪悪感とは、過ちを建設的な努力へ
向けることです。つまり、嘘の罪悪感に変化はありません。
ただ、自分を自分で悲しんでいるだけです。つまり自分を守っているに
過ぎないということです。
心理的防衛機制には、自己保存性があると思います。
これが決まりきった行動を取らせてしまうのだと思います。
それを打ち破るには、苦痛や痛みを引き受けなければならないと思います
勇気のある人間とは心の痛みを自分から排除する人間でしょうか?
心の痛みを直視してこそ、勇気ではないのでしょうか。
そして、それでこそ、正常と異常がわかるのです。
ここで、自分というものは、何であるのか心理学的に説明します
● ひとつの空間にボールがひとつあったとします
そして、いろんな人にボールで実験してもらったとします
ある人はボールを投げたりするでしょう。ある人はボールのうえに
座るとします。これが個性であり心理的な自分です。
このように個性というものは、対象物を通した細かい違いでしかないのです。
では、ある人がボールに触らないとしたら、ボールで異常な
遊びをしたとしたらどうでしょうか?彼の心理にはなにが
それを邪魔しているのでしょうか。
ボールを映画にしてもいいです。ある人は寝ていないのに
映画の内容を、作者を覚えていません。記憶力が悪いのでしょうか?
そうでなければ、心理的になにが問題となるのか
これこそ、自己執着がなせるわざです。彼は映画を見ている最中でも
自分の自己を抑えていた。自分を気にしていた
フロイトは幼児の体験をその後も繰り返すといいますがその通りだと思います
これこそ、心理的な負債なのです
個性やアイデンティティは、ある対象物を通した細かい違いでしか
ないのです。そしてその対象物の変化とともに自分の中にも変化が起きます
相互性です。
相互性を切り離してしまうのは、自己を抑えるからです
つまり周りの規範に従いすぎたとき、その個性は消失する
変化しないわけです。
結果、同じような結果でもまったく違うんだなとわかるはずです。
自分を憎むことからすべては始まる
彼は絶えず自己放棄を自ら行なっていく
だから、疑いもしない
自己憎悪に立ち向かった人と自己憎悪を肯定している人の
違いは歴然です。すんでいる世界が違います。
ある人がいつまでたっても、パソコンがうまくならない
としたならば、なにが原因なのだろうか
いたって健康な人が。
このパソコンを人付き合いでも何でも置き換えてみて欲しい
さあ、なぜか。
パソコンを嫌っているのと同時に、そういう自分が嫌で憎んでいるってこと
か?
知能指数は普通なのに学校の成績はまったく駄目っていう人もいるよな。
そういう人も自己執着が関係してるんだろうな。あるいは学習障害かなにか
か。
まぁパソコンのことよりも自分自身のことが気になっているんだろうな。
本人が意識しているかどうか知らないがな。
犯罪者は、確かに自己執着者だな。
神経症〜人格障害〜精神病者もそうだろう。
極端な劣等感や被害感などが幼少の頃からそのまま昇華されることなく、
成人へと向かった場合に精神的な問題を抱えやすくなるのかな。
サディズムは復讐と私は言うが、その復讐というのは自分に対しても親や
重要な人物に対しての復讐である。自分に対する復讐というと変な言い方
かもしれないが、自分自身が憎いからできることなんじゃないかなと思い
はじめた。少なくとも、異常犯罪者(強姦殺人犯など)は自分を憎んでいる。
性的サド・マゾでも同様ではないか。自分を憎んでいるからできる行為
だと思う。
そして彼らはまた、自己の過小評価が見られる。自分のことを正当に
評価していない人たちである。それは自己執着によって正当な評価が
できなくなっているからである。
いや、自己憎悪とともに、他人の自己をも憎んでしまっている
そして、それを何かで正当化してしまう
その正当化ができなくなったときに、つまり見せかけられなくなったときに
おかしくなるのではないのだろうか
●自己正当化●
人間は、自分に都合のいいように解釈するクセがあるようです。
例えば、野球でボールが取れなった理由(言い訳)を他のもののせいにした
り、試験で思ったほど点数が取れなかったときの理由をテレビ番組のせいに
したりと、人は自分にとって不快なことが起きた時に、現実を否認するため
に自分に嘘を付くことがあります。これを自己正当化といいますね。
プロ氏はよく劣等感の話をしますが、私はその劣等感について思うことが
あります。幼少の頃から児童期にかけて、極端な劣等感や絶望感を抱えてい
た人が自己正当化するために(プロ氏のいう)「偽の自己」を繰り出す
(分裂機制)ことによって防衛しようとすることがある。
例えば、「自分なんか生まれてこなければ良かった」みたいなことをずっと
自己の中に留めておくと苦しいので、そういう自分とは別に偽の自分を作り
だすことによってひとまず危機を回避しようとする(極端な場合は解離性同
一性障害になるかもしれない)。
しかし偽の自分と元の自分とが乖離したままの状態でも苦しい状態に陥る。
自己を偽ろうとする行為によって自己は傷つき、元の自分を見つめながら
現実にある自分を受容しなければならないという葛藤が生み出され、
おかしくなるのではないか。
●劣等感・絶望感●
性倒錯、とりわけ性的サディズムと性的マゾヒズムの両者に認められるの
は劣等感であり、自己の過小評価である。性的サディズムは虚勢を張る行為
そのものが、自己を過小評価しているといえるし、性的マゾヒズムについて
は説明するまでもありません。
サディズムもマゾヒズムも自由ではありません。身を相手に委ねています。
服従したほうが快感となるか、転化して攻撃したほうが快感となるかは、
心的外傷後の経過によるだろう。攻撃することで快感を覚えればサディズム
の方向へ流れていくだろうし、服従(劣等感・絶望感)を快感とするなら
マゾヒズムへと流れるのだろう。
自尊心の低下や劣等感、絶望感そのままに甘んじる(服従する)ことで
マゾヒズムの形成、それらに対する復讐することでサディズムの形成が
なされるのではないか?
自分そのものではなく
自分の一部を憎んでいるのだろうと思う。
憎んでいるのは、あるいは、それを判定しているのは
ひとつは、親に愛されなかった自分であり、
もうひとつは超自我、つまり自分の中に刷り込まれた倫理感ではないか
>>541 一次的ナルシズムというものが何を指すのか。
ググッてもサイトによって説明が異なる。
自分の体に関する興味、
あるいは自体愛(オートエロティシズム)と呼ばれるものは、
自己保存のために必要なものではないのだろうか。
母親との世界をどこまで遡るべきか、胎児まで遡って考えなければならないと思う。
出産で外界に投げ出される時、ほ乳類としての人間はまだ未完成なままだ。
(生物学的にはあと10ヶ月、ほんとうは胎内にいなければならないのだが、
あまりに胎児が大きくなりすぎると出産が困難になるので、途中で生むのだという説もある)
ということは、受胎して、細胞分裂を繰り返し、魚類から両生類となり、上陸し(この時つわりがおこる)
は虫類となり、、という、いわゆる系統発生を個体で繰り返しながら、
「類」としてほ乳類ー人類になっていく過程で、ようやく、出産前三ヶ月ほどで心理を備えた人間となる、
と読んだ本にあった。
ナルシズムは類としての自分が、個としての自分になるための心理的通過儀礼にも思える。
攻撃性というのは、その個体の自己保存意識に基づくともいえるかもしれない。
(その場合は、社会性の未熟が前提となる→集団の利益が自分の利益と合致しない)
服従も、弱い個体の自己保存に基づく無意識の戦略であれば、一定の合理性をもつ。
(それが、ドゥルーズやノイズ(「マゾヒズムの発見」の著者)の見方のように思える)
問題は、自己放棄、自己破壊までも含めた服従なのだろうか。
それでは、サディズムにはなんの問題もないのだろうか。
象徴的な母親殺しには。
俺は依然として、頑固に、
サディズムとマゾヒズムを裏表と見なさない観点を保持している。
565 :
541:2006/11/30(木) 19:54:49
>>563 >「類」としてほ乳類ー人類になっていく過程で、ようやく、出産前三ヶ月ほどで心理を備えた人間となる、
>と読んだ本にあった。
その時期以降のことになると思いますが、その頃の自己は現在の私達のように限定された
自己ではないでしょう。 私たちの自己は自分以外にいろんな人間がいて自分の外に世界があって
その世界を自分の自由にできないことを知っています。しかし、母親の胎内で心を持った初めの頃の自己は
何からも限定されていない自己です。「自己」という言葉を使うのはおかしいかもしれません。
まだ、自己と世界の区別もない状態でしょうから。
自分以外の世界があることを知らず、自分が限定された存在であることも知らず、すべてが一体と
なってそこにある。そして、自分に知らない事がある事を知らず、自分にできないことがある事を知らず、
主観的には全知全能の「自己=世界=すべて」・・・
そんな状態が「一次的ナルチシズム」の状態だと思っています。神のイメージですね。
>>565 つまり完全なる 「独」 という状態がある。ということだろうか。
類から個へ移りゆく生誕の過程の中で、
完全に、母親という「これからの世界のすべて」を胎児が認識する前に
完全なる「独」の状態を胎児、または(フロイトの言い方では)新生児の状態の時に持つ、と。
それは興味深い「仮定」だと思う。
ただ
「誕生を記憶する子どもたち」(デビッド・チェンバレン著、春秋社)という本を読むと
新生児の時にはもう母親がすべての状態になっている、という事が説得的に書かれている。
(そこでの催眠状態の回想がすべて正確とは思えない事を差し引いても)
したがって、そういう第一次ナルシズム状態というのは、胎内の羊水の中で体験されるのだろう。
(そういう仮定を信ずるならば、だが)
その上で、その完全なる「独」 (541氏の言う「神」)の状態が、誕生後にどういう影響をもつのか、
そのあたりは、どう考えているのだろうか?
俺は常々不思議だった。
なぜ、一個の卵子と精子の結合が、原始的な生から
大急ぎで数億年の進化を再現しながら、「個」としての俺、私になっていくのか。
類と個の間に完全なる独の時間を想定すれば、
文学的にいえば 、人が人になる前に羊水の中で神である時期があるとすれば、
それは大きなヒントになる。
そして、そんな状態が実際にある、と仮定すれば、
その独期は、親の状態から受ける超自我とは別に、
自己に対する根本的な監視、あるいは矯正ベクトルとして、
誕生仮定自体の中から「生の基本(正常)」という概念を導きだせる可能性もでてくる。
(当然、倒錯という概念も、単なる統計的平均値などからではなく導ける可能性も)
>>567 下から2列目修正。 誕生仮定→誕生の過程
サディズムもマゾヒズムも共通することは、自己執着者で自己も他者も憎ん
でいるのではないか?
母親殺しなど男性サディズムに特徴的なのは、母親のイメージへの過度の愛着
がありながら、母親イメージに対する敵意を持っているということである
(敵対的依存)。もちろん本人はそんなことは意識している人はあまりいな
いだろう。
敵意から母親殺しをしないための防衛機制として、母親以外の人物を殺害、
特に恋人や交際相手を殺害、それに伴う自殺、反社会的行動、自傷行為
(依存症や中毒など含む)や精神疾患などがある。
当然その中にも性的サディズムや性的マゾヒズムも対象に含まれる。
またこのサドマゾ問題にも「エディプスコンプレックス」が関係している。
自己評価というのは、本当に自己が自己を評価しているのだろうか、
第一次的には、まず、親の評価が反映するだろう。
その時に、母親(母親代理)の評価と 父親の評価は別々に与えられるだろう。
それが、性的な対象の分別の始まりではないか。
二次的には、親から離れた時、特に学童期に与えられる教師や同級生たちの評価。
三次的には、反抗期と重なる時期に覚える種々の評価。(家族・近隣と離れた処で出会う他者)
四次的には、非直接的な関係の他者、つまり文化(本・映画・ドラマ・漫画・ネット)などで覚える
(普通は)通俗的なモラルがかなり重要になるだろう。
その後も、常に、他者からの評価が、自己の評価を決定的に左右するだろう。
自分で自分を評価することなど本当にしているのだろうか。
常に自分の内部に流入する他者と、本来の自己とが葛藤し続けているのではないか。
その時、常に、母親の評価が第一なら、母親への執着は、
ただちに評価を与える基準である母親への憎しみへと転化する可能性をいつでも持つだろう。
それは、そのまま、二次的・三次的……自己評価の基準対象への憎しみにも転ずるだろう。
したがって、人生曲線のどの時期に固着するかが、問題になる。
それにしても、
憎むとは何か。 執着とは何か。
571 :
えす:2006/12/01(金) 09:22:03
憎しみねぇ…何かのきっかけになれたらうれしいので書いてみる。
上でプロ氏が「いきなり物を食べないで生きるのは無理」的な事を書いていたけど、SM嗜好者にはそれに近い事が起きてると思う。
すべてのサド・マゾに当てはまる訳ではないと思うけど、【種の保存・繁栄】って重要な本能が欠けてる者が多いから。
SMの場合、行為の最終的な目的が射精→受精じゃあない事が言えると思うから。
人によっては、究極のSM行為=相手に一度も触れずに終わるSEXって答えるヤツもいるしね(これはエセ牧師タイプに多いかな)
俺だって、ステレオタイプじゃないSMが厳密にSEXって言えるのか!?って聞かれたら分からなくなっちゃうし。
【本能を超えた行為】
ちょっと興味深い…
蛇足だけど、俺は租借氏の文も考え方も超好感!応援してます!!マイペースでファイ
>えす氏 たぶん俺が「SM的現場」を念頭において考えているからだろうと思う。
あるいは心理学的にではなく「文学的」に考えているからわかりやすいのだろう。
しかし、それも「今のところ」だ。
まだリアルな現場から遠ざかるように言葉を独立させ、極北に向かうだけの蓄積がないから。
なによりの応援は、自分の頭でそれぞれのテーマについて考えてくれることだと思う。
本能を越えた行為 というのはSMに限らず倒錯と呼ばれる嗜好全体にいえる。
だが、本能とは何か。
「痛みとは何か」という個人的な関心から、最近、脳生理学関係の本もあらためて読み始めている。
(ま、ブルーバックスレベルだがw)
ポール・マクリーンというアメリカの学者に寄れば
人の脳は、おおざっぱにいえば、3つの層からなっているという。
一番上にあるのが(つまり一番あとから発達するのが)人間になって発達した新しい脳(新皮質)
その下に、ほ乳類の脳 ( 人と区別するため「旧ほ乳類脳」と言う場合も)
一番奥にあるのが、は虫類の脳。 (脳幹と呼ばれる部分(脊髄の上にある「延髄→橋→中脳」)と
大脳基底核(尾状核とレンズ核)からなる)
(いいサイトがあったので載せておく。
http://charm.at.webry.info/200506/article_5.html )
…偶然見つけた訳だが、このサイトに書いてあることは面白い。
もっとも古い層である爬虫類の脳は、
呼吸・血圧・体温など自律神経系の、基本的な生命維持に関係しているのだが、
「爬虫類に特徴的な自分のテリトリー(縄張り)の防衛意識などを発達させる。
種の保存というよりは、自己保全の目的のために機能する脳の部位」とある。
^^^^^^^^^^^^^^^^ ^^^^^^^^^
爬虫類の脳の上にあるほ乳類(旧ほ乳類)の脳は(海馬・扁桃体などの“大脳辺縁系”)
「…快・不快の刺激と結びついた本能的情動・感情、
……危険・脅威から逃避する反応
外敵を攻撃する…原始的な防衛本能を司り……
「本能的に遂行される“種の保存の目的=生殖活動”を司る」部位である。
さらに
「自己の遺伝子を継承するための情動的評価に基づく社会的活動や集団行動、
……無力な子の育児や保護を行う母性的な欲動・本能の源泉でもある」
↑
まさに、ここ(大脳辺縁系=ほ乳類の脳)がサド・マゾ
(あるいは倒錯者)は変調してる、とえす氏はいうわけだ。
しかもこの部位は「攻撃」「逃避」の部位でもある。
もうひとつ、面白いのは、
「種の保存」より前にまず「自己保全」の脳がある、ということ。
541氏のいうとおり、「爬虫類の脳」の段階で、
母性との関わりの前に「自己」(心理学的意味ではない)が発達するというわけだ。
とても興味深い。
憎しみそれ自体は、
防御本能、つまり、自分の縄張りを荒らすものへの情動だろう。
自己執着はどうだろうか。 自己保存本能にもとづく爬虫類的感覚なのだろうか。
逆に、憎まないとはどういうことか。 自己に執着しないとはどういうことか、
と考えてみるのも手かもしれない。
実は両者共に、異性になりたいっていう欲求があるんじゃないか?
S女 →男性化願望
M男 →女性化願望
判る。
S男→女性化願望
M女→男性化願望
判らない。
Sは難しいが、Mは所有されることを望んでいるのかも知れない
良く所有されることを。Mが文句を言っているのは
悪く所有されたからだと思われる
所有の反対として自由がある。
自由とは自分に由るということで、抑圧が意識された状態
抑圧が無い状態、つまり自分を受け入れた状態。自分が自分の
ままでよいという状態。偽の罪悪感を抱いていない状態
つまり、彼らの正体を見抜いた状態とも言える
それは、同時に自分の正体をも見抜くことになる
自由主義とは、欺瞞の解体である。
Mの願望は、ほんとうは被所有というより
「帰属」欲求の変形なんじゃないだろうか。
自由であること、個にされることの畏れからくる帰属欲求。
それが、方向を失った現代日本で、
なんの理想ももてずただ個で放り出される畏れから
「プレイSM」ではなく
「主従」SMが蔓延し始めたような気も、最近してきた。
>>579 ラス し始めたような気も→し始めた原因のような気も
承認欲求でもいい。
服従することで「主(あるじ)」とやらに
「奴隷」として承認されたい、そして従として主に帰属したい。
そこに居場所を求める。(しかも性的快楽つきで)
だからハマるのではないかな、と。
服従には色々な意味がある。
その権力の構造に組することで、自分もその権力を得ようとする
約束も無意識に含まれる
服従の重大な問題点として、自分の行動の責任が自分にあるとは
思わなくなることだとある本に書いてあった。
自己の責任を背負えないから苦しいのだと思われる。
SMは、幻想上の権力構造を作り出し、自分を収めることができる
安全な空間を作り出しているのではないのだろうか
心理学用語の自己に対する責任は、本来良いものなのに
いかさまというか、苦しみのトリックに気がつかず
この自己からの逃走を、自由からの逃走とフロムは言っている
>>579 帰属は違うと思う。もともとSM的な性格の人は、帰属したことが
ないのではないのかと思う。帰属するところが偽者なら
それは、所有されていると変わらないと思う。
所有というのは、自分であってはならないということ
所有をする人は、自分を受け入れなかった人
所有を必要とする人も同じ
これがSMではないのだろうか
もともとは、思考のせまい、権力構造にしがみつくことから始まる
そこには、根本的な原因として、自分には価値が無いという思いがある
自分というよりも、自己に価値が無い。親の教育や文化的な要素から
自己に価値が無いと思わせてしまうのは、服従が歴史的に行なわれており
当たり前のことになっているからではないのだろうか
ロロメイは、服従の代償として、想像力の欠如というのをあげている
見せかけの性格というのは、そうだろうと思う。
本人が見せかけていることも忘れている性格の一面がある。
それは、自己に価値が無いという思い、自己憎悪から作られる
見せかけの性格。これは、感動しているように見せかけていたり
怒っているように見せかけたり、真剣に考えているように見せかける。
本人がそれに気づいていない。この見せかけこそ、服従の主たる原因
自己に価値が無いという考え方から生じる。自己とは自分の考え方
感じ方だと思われる。この自己疎外は、抑圧から生
じることもある
自己をひたすら抑える。自己がでそうな場面を避ける
「 自己憎悪の中の人生は不可能だ 」 ある中古で5000円もする
本に書いてあった。まさにその通りだと思う
自己憎悪と戦うということは、服従との戦いであり
正常を正常と見る、異常を異常と見る基本的能力を取り戻すということであり
それにより、想像力が戻るということだと思う。実際に間違いなくそうだと
思う。他人の気持ちはわからない。自分の共感能力にかかっている
勇気とは、苦しみや痛みや不安を感じないようにすることではなく
それに向かっていくことだと思われる。ところが自己憎悪者にはこれが
できない。社会的責任をいくらでも取れる人が、自己の責任は
取れないという例が山ほどある
対立物の結合が自己実現だとユングが書いていた
ある建設的な苦しみと幸福は、ほとんど二つが必ず必要だと思われる。
これを邪魔するのが、自己憎悪。つまり従属的な文化や教育だと思う。
現在、自由主義なので、これほど逆行したことは、その他にはない
精神の二極化が、経済の二極化でごまかされているのではないのだろうか。
経済のその責任を負わせてはいないだろうか。
生と死がなければ、苦しみと楽しみ、不幸と幸福がなければ
自分というものは、自己というものは、存在しないのではないのだろうか。
心に葛藤があったかないかは、すぐにわかる
バランスが悪いということで、露呈される
それを神経症的競争と書いてあった本もある。
あることを相対的に順序だって説明できる
自分の人生を説明できるということは、結果自身があるということになる。
説明できない人は自己を憎悪していた期間、無意味な期間があったということだろう。
この人生の説明は、ある対象に映し出すことによって露呈される。
女性に映し出したとき、つまりもっとも高い欲の対象にその人を
映し出したとき、その人の正体がわかってしまう。
その人が、まじめという理由で、自分が牢獄から、原因はともかく
牢獄を正当化したことが、露呈されてしまう
>SMは、幻想上の権力構造を作り出し、自分を収めることができる
>安全な空間を作り出している
これはまったく異存がない。
疑似的な支配構造の模倣だと思う。だから「ごっこ」だと俺は言った。
安全な空間のことを 今は閉鎖してしまった「インナーマスター」サイトの
サイトマスターは「地下室」と名付けていた。
(もちろん実際の地下室ではなく、精神的な地下室だ)
帰属願望については少し言葉が足りなかったかもしれない。
マズローが言う意味での単純な意味での社会的欲求(所属欲求)なら、
学級・クラブ活動・サークル・会社・チームetc…
マゾだろうがサドだろうが形式的には所属してる者が多い。
だが、それを本当の帰属と思えない状況がある。
それは今の日本の学校制度や企業のありかたがそうさせる場合が多いのだろう。
そういう意味で精神的な帰属欲求が満たされていない(欠乏)状態に置かれ、
「擬似的な」精神的帰属を、主従SMに求めるのではないか。
「所有」は、法的概念であり、では「占有」は、「共有」は、と、なる。
法的に権利主体とみなされている「人間」を所有することはできない。
雇用や扶助ならできるが。
したがって集団に本来帰属することで得られる社会的な欲求が
変形して「個人=主人」と「奴隷」というかつての奴隷制度の模倣空間をつくって
所属の安心を得ようとするのだろう。
これが、若い世代に広まっているということは、
まさに日本の政治理念の退行と、軌を一にしている。
自由な個人と個人の、性的志向としてのSM
(あるいは心理学的倒錯)としての加虐・被虐の
「プレイSM」とは微妙に異なる。
以前えす氏が言っていた
2種のSとMにそれは対応させることができるだろう。
外交型Mと内向型M 似非牧師Sー暴君S
むろん実際の場面ではそれは、似たような行為をする訳だし、
組み合わせも変わるだろうが、全体としては
「主従関係重視型」と
「行為重視型」に分けられるだろう。
帰属願望はとうぜん前者のMの欲求となる。
(蛇足)
俺が「自己評価」をしているのは本当に自分か、と言った時、
すでに「プロ」氏が「自己不在」ということを言っているではないかと
感じた者のいるかもしれないが、
俺は俺なりに別のルートから峰をのぼってそこに辿り着いた。
同じ山を登っていても、違うルートからきて、
おなじ岩に手がかかることはある。
すでに先行者がその岩をつかんでさらに上へ昇っていようと、
あとからその岩に手をかけていけないわけでもない。
なにかいいわけをしてるように聞こえるかもしれないが、そういうつもりではない。
(言い訳するなら「自己不在」のあたりを読み落としていたことだなw)
他の発言者も気にせずに、自分のルートから昇ってきたのなら
同じ内容について「既出」など気にせず語ればよいのだ、と言いたかった。
(すまん、また、ちょっと酒が入ってるw 大きなお世話だなこれはw)
母子一体化に対する、第一次ナルシズムの問題は、
脳生理学や、胎児、胎盤の仕組みから眺めなおしてみると、
また、面白い見方ができる。
が、今は「プロ」氏の交響曲を聞く時間だ。 そのうちに、だな。
私達が誕生した時には、母親が存在する(余程のことがない限りは父親
もいるわけだが)。私達は確実に親の影響を受けているだろう。遺伝学的
にも心理学的にもね。乳幼児期のナルシズムの段階ではまず第一に生理的
欲求があるし、安全欲求があるし、愛情欲求がある。
「母親からの愛は無条件でなければならない」と言ったのはフロムであ
るが、まさにそうなのである。親(特に母親)が愛を与えることによって
安心感が生まれるようになる。これが自己肯定へと繋がっていく。
それから幼稚園や学校で他者と関って、愛情欲求などが満たされると、
最終的には自己実現欲求から自己超越欲求へと向かうことができる。
自分が愛されているのならありのままの自分を表現ができるようになるだ
ろう。
しかし、親からの拒絶や他人からの拒絶、自分自身が持っている障害
(たとえば、身体的障害や発達障害あるいはその近縁のもの)から、
自己否定感を生み出すことがあるだろう。その自己否定が全ての始まり
である。服従は自己否定から始まる。
自己否定から心理的防衛を図るとどうしても二次元の世界に行かなければ
ならない。自己否定という現実から逃れるためにどうしても二次元世界へ入
ることになるのだ。二次元の世界は空想の世界であり、幻想の世界である。
誰もが多かれ少なかれ二次元の世界を体験している。ただ、普通は日常的に
二次元の世界にいるわけではないだろう。
その二次元の世界からマゾヒズムの方向に向かう人もいるし、サディズム
の方向に向かう人もいるし、両方という人もいる。サディズムを社会生活
全般で発揮している人もいれば、性関係のみサディズムを発揮する人も
いる。一次元と二次元との葛藤が進めば進むほど深刻な精神障害あるいは
反社会性やサディズムなどを生み出す要因となりうる。
自己否定をするようになると、自己欺瞞が発生する。惨めな自分から、
身を守るためにもう一人作り出そうとする。そしてそれが「自己」だと
認識するようになるが、自己欺瞞ゆえに葛藤が生じ、葛藤に耐えようと
するとマゾヒズム傾向となり、葛藤を爆発させようとするとサディズム
傾向となる。
こんな人はいないだろうか?
仕事はよくできるし、人間としても決して悪くない。ただ、社交性に
欠けていたり、寡黙だったり「自己表現」が出来ない人がいる。
それは前述でも少し触れたが、自分が愛されていれば(つまり自己受容
できていれば)、自己表現や自己開示が容易にできるようになるが、
自己否定している人や他者否定(表裏一体である)している人は、
簡単には自己表現や自己開示しようとはしない。だから自己紹介が苦手
である。自己表現、自己開示するということは、自分の外傷体験までさら
け出すかのように感じてしまうし(本人は意識していない)、曖昧な自己
を表現しようとすることになるから、苦手なのである。
●男性マゾヒズム●
基本的な構造は一緒であるように思われる。母子一体感の欠如がしばしば
認められる。男性マゾヒストは母親と一つになりたいと思っているが、
それが叶わなかった。苦しい状態に対して服従する、苦しい自分、
惨めな自分を快楽とするために(性的な)マゾヒストとなることがある。
苦しい状態や惨めな自分を受け入れて、苦痛を快楽とする方向へと進んで
いく。
また、肉体の性は男性であるが、母親希求願望があり、女性になりたい
と思っている女性的男性がいる。恋人である女性と母親が重なって見える
ことがある。母親に似たような人を好きになる。女性に対して憧れのよう
な気持ちで接している。だからマゾヒストというのは同年代かそれ以上の
年齢の人と付き合うことがほとんどで、年下でもダビンチが描いたような
象徴的母親のような人を求める。幼少の頃の母親息子関係を持とうとする。
そして、正真正銘の女性を目の前にして、自分が男であるということを
自覚して、その現実から逃れるためにマゾヒズムが生まれる。肉体的には
男性だが、精神的に女性(つまり女性的男性)な人は、性に関する心理的
葛藤が起き、女性になりたいという気持ちを抑圧するためにマゾヒストに
なることによって防衛しようとするのではないか。
596 :
えす:2006/12/04(月) 13:51:49
>>585 プロ氏の心理学的知識が豊富なのは誰もが認める事だけど、SMに対する知識や興味、偏見の無さはどれ程なのでしょうか?
微妙に曖昧なので、俺の意見を言わせて頂くと
SM愛好者は良い意味でも、悪い意味でも『自分(達)の異常性』を認識してると思うのですが。
と言うか、分かってないと意味が無い訳で。それこそ『笑いながらのSM』になってしまう…
あと、これは全くの主観で余計な事なんですが(まちがってたら本当に失礼になります ごめんなさい!!)プロ氏の中にも何かに対する強い使命感と憎しみを感じるのですが…
>>595 かなり峰を昇ったんだな、と。 特に後段の
「正真正銘の女性を目の前にして、自分が男であるということを
自覚して、その現実から逃れるためにマゾヒズムが生まれる。」
これは新鮮な見方に感じた。
母親との一体感を求めるなら、性的服従以外の精神的服従だけでいいわけだが
(実際、多くの男性Mにはその傾向が認められるわけだが)
「実際の女性を目の前にして」女性化願望が性的に顕在化する。。。
それは、異様なまでの「女性崇拝」姿勢をとるM男性の態度を
理路的にはかなりうまく説明できるように思える。
>>596 [プロ」氏、というより心理学自体が
フロイトを「脱性化」して、社会と個の関係に焦点を合わせているように思う。
…だが、まぁ「プロ」氏への質問だからこれは横レスだな。失礼。
>>596 私が言いたいのは、SMを意識している人じゃなくて、隠されたSM愛好者です。
隠された売春婦です。隠された強姦です。その裏づけに隠された虐待が
あると思います。物事に誠実な関心が持てない。これは心の葛藤ゆえです。
>>596 憎しみはあります。なぜなら、みんな大嘘つきだからです。
日本人が世界有数の恥ずかしがりやということは、世界有数の
嫉妬深さということと、同じです。これは、どんなにつくろっても
無駄です。だまされたうらみはあります。
自己憎悪の中の人生が不可能なら、自己憎悪を教えた親やそれを
放置している教師などは、基本的に無意識の確信犯でしょう。
そういう人が、他人の幸せを思うことは不可能です。
自己憎悪者が他人の幸福を願うとき、それは表面的なものです。
自己憎悪者に共感能力などほとんどありません。
自己憎悪と従属は、一心同体です。服従と自己憎悪は同時に起こり
自己憎悪は当然のことながら、抑圧され、それは他人へ向けられます。
これが、カルト的な原理です。憎しみが外部へ向けられます。
抑圧されたものは、投影されます。だからこそ、相手が自由だからという
理由で、相手を憎んでしまうのです。そのような者の人生は悲劇的だと
思いませんか?思えば犯罪者というのは健康な体を持っている人が
多いはずです。では、犯罪も犯せない自己憎悪者はどのように
みじめな生活を送っていることか。
基本的に恥ずかしいとは、みせかけが保てなくなったときに
生じるものだと思います。つまり、より恥ずかしがりやというのは
一見すると従順を装ってはいますが、単に自己憎悪しているに
過ぎない、そのため、その分自我が拡大していると思います
だからこそ、その分、見せ掛けが保てなくなったときに、より恥ずかしがるのだと
思います。
これで、羞恥心のトリックがわかったはずです。
SMの要素の羞恥心を生じさせるとは、見せ掛けを崩す行為だからです。
見せ掛けが崩れ、それに安心感を得るのは、本来の自分が出たからでしょう。
このように倒錯を必要としすぎる人は、その分見せ掛けが強いと言えます
だから、SM嬢がよく雑誌などで言うように、エリートが多いという
理由も当然と言えます。
サーシャ・ナクト(フロイト派)はマゾヒズムを分類して、
色情化されたマゾヒズムと精神的マゾヒズムに分けた。
プロ氏は、終始精神的マゾヒズムを取り上げている。というのが俺の認識だ。
>初心者氏
男性Mが女性化を潜在的に願望しているとすれば、
女性Sは男性化を潜在的に願望している。
とすると、たとえば、SもMも根は同じとすれば(そこに俺は組みしないが仮定として)
女性の場合特に、男性化願望の有無が、SとMを分けるのではないか?
>>咀嚼途上者
男性MもSも無意識に女性化願望がある。
女性MもSも無意識に女性化願望がある。
多かれ少なかれあるだろう。まったくなくなるというのことはないのだろう。
そういう場合には同性愛の方向へ向かうことがある。
ここからがポイントである。
ユング風に言えば、アニマ・アニムスになると思う。
男性は自分の中にある女性性を排除している。
その排除した女性性を相手の女性に投影してしまう。
そして、この排除した女性性(男性自身が勝手に決めているだけだが)
を取り戻すということを試みる。
こうして、現実のありのままの姿を認められない状態が起こることになる。
アニマ・アニムスは言ってみれば、自分が排除した男性性なり女性性。
この部分をどうやって補完していくかが、自分を取り戻すことにつながる
葛藤を解消するための方法としてサディズム、マゾヒズムがある。
男性Sも男性Mも無意識的な強固な女性願望が認められるだろうが、
女性願望化は女性と一つになりたいと思う半面、憎しみがある。
そして、この憎しみから来る苦しみに耐えられないので快楽の方向へと
向かうことになる。その方法としてサディズムがあり、マゾヒズムがある。
サディズムは憎しみから来る復讐であり、マゾヒズムは憎しみから来る
服従である。
加虐・被虐で性的に興奮する(オルガスムに達する)のは、無意識の中
にある感情(憎しみ・怒り・孤独)を一時的に開放させるような働きがある
からである。もちろんS役とM役は自分にとって重要な人物と似たような
人物である。
Mは自分の格好を見て恥ずかしいと思う半面、自分の本当の姿を見ている。
「これが自分の姿なのか」と思いながらね。それをご主人様(重要な人物
の代理)に見てもらっているから快感を得るわけである。
女性Mが男性Sに縄で縛られて興奮するのは、女性が自分自身を憎んで
おり、罰せられたいと感じていて、そんな自分を罰してくれる、服従する
ことで、自己憎悪から来る全て悪感情を拭い去ってくれるように感じるか
らである。
男性Sが女性Mに拘束したりして興奮するのは、男性が自分自身を
憎んでいて、それを転化することにより本当に憎むべき相手ではなく恋人
に対してその憎しみなどの悪感情を晴らすために性的にサディズムになる
わけである。
何がサディズムとマゾヒズムを分けるのだろうか?
>>605 なんか違うようなところがある気がするが・・・。
サドとマゾを分けるのは、心理的な不安を解決するのに
どちらの方向へ向けるかで決まると思います。
つまり、自分がだめだから・・・となるか、あるいは他人の責任にして
他人を攻撃することにより解決を図るかだと思います
>>603 すまんが、
「女性MもSも無意識に女性化願望がある。」
これは「男性化願望」の タイプミスだろうか?
というのは、俺は前スレで言ったような気がするが、
基本的には、男子も女子も、幼児期は皆「女性」であると考えている。
そして、男性はじょじょに男性になっていく、と思っている。
(これは男性脳 女性脳の差違を知った現在でも変わらない)
したがって、女性化願望というのは、本来男性にしかないものだと考える。
女性マゾヒズムという概念がフロイト派にはある。
本来女性は基本的にマゾヒストである、という概念だ。
「マゾヒズムの発明」によれば、この概念は
フェミニスト系の精神分析学者によって政治的な批判を受け
現在、まったく取り上げられないらしい。
しかし、ある程度の説得性をもっている、と俺は考えている。
そこで、
>>603 の3行目がタイプミスではないとすると、
ある程度、賛意をしめす部分がある。
女性Sの男性化願望は変わらないが。
アニマ・アニムスはしたがって片方しか認められない。
女性の中の男性性は、擬似的にしか得られないと考える。
これは、生存の本質からいって、そうなる。
ユングの概念は、性の本質ではなく、どちらかというと、
ジェンダーに近い文化概念にすぎないと、思えてならない。
男性は 女性の分化したものと考える。
単細胞からの進化を考えればごく当然の話だろう。
生命連鎖を行う主体が女性性だ。
したがってそれは、自然性となる。
男性は分離した女性だ。 大本は女性性だと考える。
>>566 >「誕生を記憶する子どもたち」(デビッド・チェンバレン著、春秋社)という本を読むと
>新生児の時にはもう母親がすべての状態になっている、という事が説得的に書かれている。
そんなに早い時期から「母親がすべて」の状態になっているのですか?
それでは「1次的ナルチシズム」の仮定は無理があるかな。
もし、「1次的ナルチシズム」の仮定が許されるなら、まずその状態(=全知全能の世界)があって
現実を多少なりとも知って、自分の無能無力に気がつき、不安になり、今度はその全知全能性を
母親に投影して、母親と一体になる事によって、全知全能の母親の一部として全知全能性を
取り戻そうとする・・・そうして、母親に全面的に依存している状態が「母親がすべて」の状態
と言えないだろうか・・・。
>>609 子宮内での一次的ナルシズム(類から自己への転換)は
興味深い仮定だと思う。
ただ、最近知ったとこだが、完全なる母子一体化に関しては
保留がいるように思う。
胎児と母親では白血球(リンパ球)など、免疫システムで敵対的な関係にある。
そこで、胎盤は、母親から胎児を守るシステムとして、
母親の血液との直接接触を防ぐバリアーを胎盤の上に持つ。
(「トロホプラスト(絨毛膜))
トロホプラストは、「母親の免疫機構からの攻撃」を防ぐために
遮断抗体を出すなど複数の免疫抑制システムを持っている。
甚だしいときには、免疫抑制因子(ISF)なる免疫抑制タンパクを出し、
母親の免疫機能を弱めることまでする。
(妊婦の免疫能力が低下するのは、こういった胎盤システムのせいだという)
へその緒を通して母親と繋がって、異物として母親の体内にいて、
完全に母親(母体)に依存していても、すでに、
胎児は、母親と別の「個」として、完全なる母子一体化状態ではない
個の生命時間を獲得している。
これは当然、心理に大きな影響を与えるに決まっている。
そういった意味で、胎内で、類として進化し旧ほ乳類から
大脳皮質の異様な発達した「ヒト」、そして「わたし」になる過程で
一次的ナルシズムは当然あってしかるべきだと考えられる。
まぁ要するにですね...(こういうことなんですよ)。
基本的に男性も女性もサディスト・マゾヒストになる過程というのは
非常に良く似ている。どちらにしても、このような人々の幼少期は、恵ま
れない環境(精神的な意味で)が少なからず存在するということは周知の
事実である。
「サディズムは復讐、マゾヒズムは復讐」と私は言ったが、これは「復讐
という快楽を覚えるか、服従という快楽を覚えるか」がキーワードになる。
駄目な自分、惨めな自分を憎しみながらも好きになろうとすると、マゾヒ
ズム方向に行きやすい。駄目な自分、惨めな自分を憎んで憎んでいると
サディズムの方向へ行きやすい。
>>610 >子宮内での一次的ナルシズム(類から自己への転換)は
>興味深い仮定だと思う。
一次的ナルチシズムの状態がいつ頃始まるのか、また、
いつ頃まで続くのか(子宮内にいる間だけなのかそれとも生後もしばらくはその状態なのか)
については、実は私もよく分かりません。
それから、細かい事はよく分かりませんが・・・
生物学的に母子一体である、あるいは生命的に母子一体であるという事と
精神的あるいは心理的に母子一体であるという事は必ずしも一致しないのではないかと思います。
精神的に母子一体であるというのは赤ちゃんが母親と一体だと思い込んでいるもしくは感じている
という事ではないかという気がします。
訂正(酔ってる俺)「サディズムは復讐、マゾヒズムは服従」
自己感情を否認しようとするが認めざるを得ない状態からマゾヒズム、
自己感情を否認して投影攻撃する状態からサディズム。
異性願望化が認められる。女性SMは強い男性願望があるし、男性SMは
強い女性願望がある。「異性の親からの拒絶」からこのような願望が
生まれるかもしれない。より一層「一つになりたい」欲求は増すことだろ
う。男性であれば、女性性を抑圧する変わりに、マゾヒズムやサディズム
が必要となるかもしれないし、女性であれば、男性性を抑圧する変わりに
マゾヒズムやサディズムが必要となるかもしれない。
女性マゾヒズムの問題について触れてみる。
生命連鎖(つまり単細胞の発生から始まって現在までの生命の進化)を担うのは
女性だ。
男性というのは、そこに精子というものを与えて個体の「多様性」を担保するだけだ。
実際に、分裂細胞から始まる次の世代の個体を体内に宿し、外界に分娩するのは女性だ。
したがって、生命にとって本質的な性は女性であり、
男性は多様性という環境適応のための生命時間の戦略を担っているだけだ。
当然、基本的に、生命体は(少なくとも単細胞の分裂だけではなくなり雌雄分化した時から)
女性がその本質だ。
若いときにはその実感はないかもしれないが、齢をとれば
自分がどんどん生命の連鎖からははずれた「その他」である悲哀を男は知る。
(つまり、いつまでもスケベな男だけが元気なわけだw)
女性は本来受け入れる性だ。
自然を受け入れ、体内で作られる卵子に精子を受け入れ
発生した次の生命を、自分の(男性には存在しない)臓器に受け入れ、
内部に宿した新生命から要請される免疫低下を受け入れ、
出産という苦痛を受け入れる。
ナクトの本によれば、
「破瓜」の痛みに始まって「出産」の痛みまで、
女性の性のサイクルは苦痛と常に不可分であるという事を
20〜30年代の女性学者は指摘しているという。
その痛みと仲良くつきあう方法が、痛みの快感化である。
それが「女性的マゾヒズム」の根拠としてあげられている。
(もちろん当時のヨーロッパ社会の文化的風潮も関係して、
女性は受け入れる、受動的な性であるという「付け足し」も
あるだろうが)
そこでフロイトはマゾヒズムを
女性にとってはなんら病的ではない状態(むしろ当然の状態)とし、
もっぱら、男性マゾヒズム(女性化を望む男性)をもっぱら取り上げていた。
(以上が、俺の読んだナクトや、「マゾヒズムの発明」などから
理解した「女性マゾヒズム」問題だ。
社会的差別だとするフェミニストの党派的批判など一文の価値もない)
したがって、
女性である、ということはすなわちマゾヒストである。
という考え方は今でもなりたちうる、と考える。
このスレでの流れ(特に近々の初心者氏の考え方)に
対置させてみるなら、
(批判する意図はない。それぞれのルートで「自分の考え」をすすめればいいのだ)
マゾヒストは皆 女性性であり、
サディストは皆 男性性である。 とは言えるかもしれない。
女性は宿し分娩した後
育てる性でもある。
この育てる、という部分から
社会的男性性が生じる可能性はある。
それは、攻撃性と、関係するかもしれない。
女性性が守る性であるなら、
男性性は環境・自然への対応として攻撃性を含む、
対他関係をつくる性かもしれない。
(女性の対他関係は、必ず、赤ん坊を潜在的に基本としている。
たとえば、女性のおしゃべりは、とにかく内容はなんでもいい。
子供に「文法」を教えるためのものだ、と俺は考えてるw)
女性マゾヒズムに問題が生じるとすれば、
それは、「子産み」の拒否にまで繋がる、
親から植え付けられた自己否定性の部分だけだ。
S女性の男性化願望はわかりやすい。
父親への復讐。
同時に、自分が男になって母親を父親から守りたい
という願望も含まれているかもしれない。
そこで、父親を罰したい願望が転化して、
男性へ向けられ、サディズムとなる。
だが、同じ事を男性Sに求めることはできないはずだ。
もともと男性であるのだから。
そして、サディズムの対象が母親代理としての女性だからだ。
その場合、たとえば、対象が男性であれば、
その男性は象徴として女性化された男性であるか、
父親代理としての男性であるかどちらか、ということに理路上はなる。
女性マゾヒズムはもっと複雑になる。
自然的マゾヒズムと、親由来による自己否定性のマゾヒズム。
さらに、それに対応する「被虐系」と「主従系(服従系)」ということになる。
この場合、打たれるのは、自分の中の母親であるか、
否定された自我を、父親に罰せられる願望であるのか、
それらによって、いくつかのタイプに分けられる事になる。
一見ややこしくなっているようだが、
別にそんなことはない。
心理学的には潜在的マゾヒズムに主に照明があてられているが、
俺はさらに、顕在化しているサディズム・マゾヒズムの襞にも、
もうすこし詳しく光りを当てたいだけのことだ。
素質→潜在化→顕在化→実践
各段階に分けて、スレッドでの認識・洞察が丁寧に、
あるいは、細分化していってるだけのことだろう。
ナルシズムも、
マゾヒズムのナルシズムと
サディズムのナルシズムでは、当てる光の角度を変えなければ
細部は照らし出せないと考えている。
まだ、これからだ。
さらに、社会環境(文化的環境)による影響として「超自我」の問題がある。
サディズム・マゾヒズムは相当広がりのある主題なのだ。
621 :
えす:2006/12/08(金) 09:51:08
段々細分化されてきましたね おもしろい。
S女もM女も、結局は『自分(女性)より強い男性(父性)に〜』って前提があって成り立つのかな?
単に主従的関係と言っても、行為中は一時的なシュミレーションな訳で、
その場合『下克上』の快感もありうると。
自分の性別を受け入れるか否定するかでサドorマゾ分かれるんだろうけど…やっぱりどこか壊れてるんだ。
SMはどう考えても、新たな生命や家族ってモノに繋がらないから。
個人的には
自己性否定×叱ってくれる相手=内向M×暴君S
自己性肯定×認めてくれる相手=外向M×牧師S
の組み合わせが多く感じる。
うぅ〜ん…女性の意見ももっと集めたいな…
女性、特に自分が行為者として即時的な状態にいるM女は
抽象的な規定には、反撥する。
それは、以前、言っていたように、
女性は、自己が強く自我が弱いからだと思う。
自我は子育ての役に立たない。 母子一体化のジャマになる。
ひょっとしたら、偽愛の母は、自己より自我が強いのかもしれない。
潜在的MやS女ならともかく、真っ最中の女性の意見はあまり
期待できないように思う。(俺はいくにんかに聞いたが、むしろ不快感を表明されたよw)
残念だが、自分たちでセオリーを言葉の極北へもっていくしかないように思う。
えす氏が有望な人材を発掘してくれば別だがw
かなり頭のいい女性でも、ここでの言葉や考察はもはや、
抽象的な戯れ言に取られるようだ。
ただ、「プロ」氏の否定のことばだけは よく響く。
特に、内向的なM女(潜在的な軽M女)によくとどくようで、
それはそれで、また興味深いことに思える。
本能は、脳幹(呼吸・体温)やからすこしその先(神経の経路として)、
視床、視床下部(性欲・食欲)や大脳周縁系といったあたりに相当しそうだ。
人間において特殊に発達した大脳、特に前頭葉が、本能を抑制するんだろう。
(とにかく、にわか勉強だから、あまり正確とはいいがたいがw)
おそらく本能の壊れ(離れ)は言語野と関係がありそうに思える。
言葉(文化)が、本能を壊すんではないだろうか。
>621えす氏
「自分より男性が強い」という前提が
S女にもM女にもある、というのは、たいへん面白い指摘だ。
たしかに
だからこそ復讐が成り立つ。自分より弱い相手に復讐もくそもないな。
考えてみれば。 簡単にたたきつぶせるからなw
性別の受け入れか、否定か というのも面白い。
男女脳の分化は、さっき言った本能の脳の段階で起きるらしい。
視床下部の神経核の相違や、脳梁の太さの違い。
この分化した女脳を否定しようとしてS女
より、強化しようとして M女 なのかもしれない。
ただ、M女は昨日も書いた通り、複雑だ。
女であることの強化がMなのか、
女である自分を罰したいのがMなのか。
それが、内向Mと外向Mの違いかもしれない。
あと、残るは、男Sのどこに異性化願望があるか。ってことか。
ま、「初心者」とはかなり異なる道筋を辿っているわけだが。
こちらのルートも有望に思える。
(もともと女S・男Mに関して初心者氏に異存はなかったし)
女は扁桃体の「好き・嫌い」感情がどんな理性的な女でも最終的に勝つ。
中立的では、子育ての負担に耐えるのが難しいからだろう。
徹底的に好き感情が強くないと、
自我・自己を制限される子育ては苦痛になるだろう。
子育てが楽しい、は、子をとにかく好きでないと無理だ。
(つまり無条件だ)
女は自分に関心が強く
男は外界に関心が強い。
これも、子育てと関係する。
自分と自分の分身である子供に感心がもてなければ
やはり子育ての苦に耐えられない。
対して男は、
いったん精子を放り込んでしまえば、
あとは、何もすることがないw
外界の脅威から、メスと子供を守るために
外界をよく観察し(関心をもち) 分析し
対応を練る能力を発達させるくらいしか役に立たないw
いいかえれば、理の自我を発達させるのが男の本文だ。
S男ほどS女は相手を理解しようとはしないものだ。
.>624 追記
こういう言葉に、感情的でなく反論できるS女がいれば、尊敬する。
626 :
えす:2006/12/08(金) 14:05:16
男Sの場合、異性化願望とゆうよりは転化な気がする。
そもそもサディストは、多かれ少なかれ相手の感情を差し測って行為を行うでしょ?
(SMのSはサービスのSって言われてもしょうがない気がする;)
つまり、自分ではなく相手の中に在る異性を取り込む形か?(自分の性を否定してるからそれでまぎらわす!?)
「言語が本能を壊す」…またおもしろいキーワードが…
俺的に解釈すると「常識が本能を壊す」って事かな、と。
すべての異常性欲は常識を逸脱する事に快感を感じると思うけど、
その常識の最たるモノ、生命のシステムの根源である「種の保存・増殖・多様性」を否定する事に無意識で快感を感じちまうのか!?
(人間…ここまでキチまったか…?)
あと、上で書き忘れてしまったのですが…プロ氏、立ち入った事を聞いてしまってすいませんでした…
スレとは関係無さ過ぎでした。気分を害してなければ良いのですが…
627 :
汀子:2006/12/08(金) 15:15:53
M女です。
サディズム・マゾヒズムについて深く考察したサイトを探して
ここに辿り着きました。
SMサイトやピンク2ちゃんねるに辟易して分析に興味が沸いたのです。
咀嚼途上者さんや、心理学のプロさん、「さ」さんの書き込みを
読んで文字通り咀嚼しているところです。
アナログ人間なので、ノートにまとめながら、深く考えた上で意見を
書かせていただきます。
心理学については素人です。
628 :
汀子:2006/12/08(金) 15:36:00
軽く自己紹介をさせてもらいます。
私がM性に気付いたのは小児期で、4歳の時には
はっきりと被虐欲求を持っていた記憶があります。
それが先天的な物なのかどうかはわかりません。
ずっと内面世界に加虐者(インナーマスター?)がいて
何かの拍子に軽い解離状態になり、日常生活は上の空で
被虐の空想に耽ります。
小児期は加虐者は女性で思春期から男性に変わりました。
今は「幼児が男性に折檻されている」というシチュエーション
にこだわるようになり、私の中にS性の男性が登場して、
画像の幼い女の子に自分自身を投影して、終わりの無い
責め苦を受けています。
幼い女の子は苦痛と恥辱と同時にS性の男性に恋心を
抱いています。憎しみから、学習性無力感に変化し、
ついに底なしの愛情と受け取るというパターンです。
被虐待児症候群の中で虐待を愛情と勘違いする、
あるいは日常化して学習性無力感に陥る、という
響きに性的興奮を覚えます。
実際に私は長期の虐待、いじめ経験があり(性的ではありませんが)、
長く精神科通院しています。建前は「PTSDを克服する!」
ですが、本音は「学習性無力感のぬるま湯から出たくない」
です。
629 :
汀子:2006/12/08(金) 16:22:11
「さ」さんの書き込みを読んでいて、共感するところが多いです。
私はSM出会い系サイトではなく、2ちゃんねるで偶然S性の男の子と
仲良くなりました。私も彼も現在28歳で彼は童貞です。
一度彼と会いましたが、彼は指一本触れてきませんでした。
それ以来会って無いのですが、「SMプレイをしよう、やめよう」の
やりとりが延々と続いています。彼は「女にコンプレックスを持って
いるから征服したい」のだそうです。
私は一度彼に別れを告げました。「私はあなたを支える力が無い」
という理由です。その気持ちは今も同じです。
彼は、SMをすれば満たされると思ってるようですが、私はそうは
思いません。むしろ愛情飢餓が増すのではなかろうかと思います。
また彼からメールが来るようになり、拒否できずにいます。
ろくに私を知りもしないのに「愛してる愛してる」と気持ち悪いです。
そういう幼稚さが私には恐怖です。
リアルでS性の男性と関わるのは、危険ですよね。
男か、いらん
632 :
汀子:2006/12/08(金) 20:11:29
?
荒らしですか?
もうちょっとで全部読み終わります。
633 :
汀子:2006/12/08(金) 20:52:03
やっと読み終わりました。
私はMなので、Mとしての主観でしか語れませんが
自分がMなのは「退行願望」や「怠け心」があるからだと
思ってきました。
手の自由を奪われるという事は、自分の手を使う「仕事」を放棄する事。
足の自由を奪われるという事は、自分で歩き行き先を「決める」事を放棄する事。
目を塞がれるという事は、情報を入手し、「判断」する事を放棄する事。
口を塞がれるという事は、発言し「責任を持つ」事を放棄する事。
服従するという事は、「意思を持つ」事を放棄する事。
究極は赤ん坊と同じですね。
自分を憎む事は、弱いまま流れに従う上で一番楽です。
「自分さえ我慢すれば」と、親に殴られても学校でいじめられても
奇麗事で合理化して無抵抗できましたが、それは「学習性無力感」
という、怠け者のための甘美な檻に好んで籠もっているだけだったようです。
634 :
汀子:2006/12/08(金) 20:58:30
>>630 荒らしにマジレスしてみます。
SMに限らず、性倒錯傾向があって、それを自覚して
心理学板に流れてくるような人なら、常識かもしれないけど
母子一体感から抜けてない幼児性を持ったまま、
即物的に愛情飢餓感を満たそうとしても、更に飢えるだけです。
素人でも、断言します。
偽者の愛しか知らなくて、とりあえずの簡単な愛を手に入れる
事は、食べれば食べるほどお腹が減る仕組みになってます。
愛情飢餓感は存在しない
636 :
汀子:2006/12/08(金) 21:59:13
すみません、専門用語については、よく知らないので・・・・
「慢性的な不全感」とでも言いますか、そういう風に広い意味で
取って下さい。
と、マジレスしてしまう寂しい夜。
人は人を馬鹿にすることはできない
人が人を馬鹿にするとき、たいていは自分のそのような部分を
完全に拒否しているに過ぎない
そのような人に人を馬鹿にする能力はない
そのような人は自分を馬鹿にしているだけに過ぎない
では、そのような人の意見を真に受ける人も同様に本来の自分を
馬鹿にしている
人は人をほめることはできない
人が人をほめるとき、たいていは自分のそのような感じ方を
尊重しているに過ぎない
そのような人に人をほめる能力はない
そのような人は自分を受け入れている
では、そのような人の意見を受けられる人も同様に本来の自分を
受け入れている
汀子氏のカキコ 2箇所 興味を引かれた。
1小児期は加虐者は女性 思春期から男性に
2、私の中にS性の男性が登場
画像の幼い女の子に自分自身を投影、終わりの無い責め苦
この場合、深層では 女性=母親
男性=父親 と考えられるだろうか?
もし誰も信用できなくなったらどうなるんだろうね。
思春期から被虐妄想の相手が男性に変わったのは
虐待経験 イジメ体験と 関わりがあるのだろうか。
自分の中に登場するS性男性にも同時に自分を投影し、
無力な幼女である自分自身を責めることに興奮を覚える場合、
複雑になるが、責める男性と責められる女性
両性的になっているのだろうか。
個人の妄想の中で両性的になることは可能だろう。
自我=男性 または女性
自己=女性 または男性
あるいは超自我 を性化する (本来超自我は無性)
643 :
汀子:2006/12/09(土) 00:11:47
>>639 そうです。最初の母親との蜜月期は妄想の中に生まれた
加虐者は母親、父親に殴られたりするようになったころ、
慈父のようなおじいさんが加虐者の女性から私を救うシナリオ
の時期が少しあり、やがて若い男性に変わりました。
最初は憎しみだけがあり、憎しみと愛情の分離した時期があり、
思春期から憎しみと愛情が融合しました。
それは父親と分離できて無い事と多いに関係あると思います。
そのように、両性化の可能性を考えれば、
男性化 女性化 の二者択一に対して
幅を想定できることになる。
体内でのホルモン分泌の異常による
脳の男性化不足が同性愛者をうむ
という説明を 性同一障害に関して受け入れるとすれば、
ここでいう男性化願望 女性化願望は
脳の性的分化は、無意識の領域から
意識の領域の間にあると規定される意味での「自己」は
当然、自己の物理的性別を基礎にしている。
それを異性化願望へ導くのは、自我か超自我ということになる。
常に人間の中には、複数の心的領域がある。
(胎内での母親との関係でそれは作られる)
それを、自我と自己と分けようと、別の名前で言おうと、
複数あることだけは間違いない。
したがって、両性化は脳内では可能だ。
二つの心的領域を、性で区別すれば
男性的類型と女性的類型ということにもなるのだろうが、
それよりは、自我と自己の間に性的不一致(あるいは混在)が
起きるとしたほうが、俺には混乱なく受け入れやすい。
645 :
汀子:2006/12/09(土) 00:16:44
ざっと読んだだけですが、上の方で厳しい父親と
過保護な母親の家庭でマゾヒズムが生じやすいとありました。
うちは、まさにそんな環境でした。
父親と母親に対する憎しみを封印するために、
ひたすら自分を憎む道を辿りました。
そう考えると平凡なM女だな、と思っています。
>>640 >>643 すまん。
相変わらずリロードしないで投下する癖がなおらないw
今日はレスを停止する。w
647 :
汀子:2006/12/09(土) 00:25:41
被虐待時症候群でググると、「この子は虐待されて仕方ないと感じる時がある」
という感想を持った、という関係者の人の事が書いてあるのを見つけました。
被虐待児は、虐待を誘発するような、虐待の再演をする事があるそうです。
私の場合、再演、再演の繰り返しでした。
学校でも職場でも、とにかくいじめられてばかりでした。
これはマゾヒズムと関係あるんじゃないか、と思いました。
母親は「自分でいじめられるように仕向けているようだ」と私に言った事があります。
そんなつもりはありませんでしたが、今考えると、誘発していたのかもしれません。
648 :
汀子:2006/12/09(土) 00:27:21
「被虐待児症候群」の間違いです。
と、書いたがひとつだけ訂正しておきたい
>>622 大脳周縁系→大脳辺縁系
他にも誤字、脱字多数だが、意味は通じるだろうから
いちいり訂正しない。
トリップ
どうして誰もトリップ付けないんですか?
●男性の場合●
幼少の頃から児童期にかけて、たいていは母親によって安全欲求や愛情
欲求、生理的欲求が満たされるようになる。生後は身体的な分離はできて
いても、精神的な分離はできていない。精神的に分離するためには、
親子関係が重要なキーワードとなる。
●親子関係●
よく過保護や過干渉、放任が人間の人格形成に悪影響を与えると言われる。
神経症的な人は、その親も神経症的な人であることがある。
誰でも自由でありたいと思っている。だから過度に干渉していては、
敵意を抱くだろうし、場合によって青年期半ばに入っても分離ができな
くなる場合もある。それは親に執着しているからである。
母親あるいはその代理となる者に強い愛着(無意識に欲求するほど)を
持っていて、かつその者に敵意を抱いている。敵対的依存状態から
転移されて復讐するならばサディズムへと向かうだろうし、服従するなら
マゾヒズムへと向かうだろう。
●攻撃的サディズム●
古今東西老若男女問わず、凶悪犯罪を起こしている。私はその中でも、
少年非行と異常犯罪について考察していたのである。彼らはどのようにし
て殺人犯となっていったのか私は興味があった。
非行とは復讐行動化である。少年非行とは親に対する復讐である。
親殺しのような場合には、親に対する復讐だと言っても納得しやすい。
ところが親ではなく親以外の人に怒りを放つことがあるわけである。
少年非行では、家庭内暴力と一緒に存在することが多い。
では、犯罪者分析からSMを分析することにする。
意識としての心的時間はひとつしかない。
ひとつの意識心的時間に
複数の心的領域が関わってひとつの流れを作っている。
したがって、同時的な両性愛概念は
はやはり無理がありそうだ。
混在は当然ありえる。しかし、
時間によってくるくる変わる、という形だろう。
男性化願望・女性化願望といっても、
それもまた意識を形作る心的領域の一部にすぎない。
結局は性的対象が異性であるか、同性であるかという
脳的体質と、心理的(ナルシズム的)な、後天的な、
異性化願望は、とうぜん、区別しなければならない。
転化
相手の性をとりこむ。
M女性の心理・喜びを「想像」するという事だろうか。
想像する段階では、「相手の気持ちになる」ことで
自分の位置を確認する。
それは、たしかに異性化願望とはちがう。
常識を逸脱することで得られる快感「も」ある。
…また、リロード忘れだ。
>初心者氏 すまない。
犯罪者分析とSMは、たとえばサドの思想といったものを考えると
やはりSMは避けて通れないテーマだろう、と思う。
●凶悪犯罪者の性格タイプ●
主に3つある。
一、行動化性格型非行
二、神経症性格型非行
三、混合型非行
に分けることができる。一はコンクリ犯の主犯のようなタイプだ。学校
でもどこでも問題児で警察の世話になることもよくある。補導歴がある。
彼らは簡単に感情を爆発する。だからすぐに喧嘩になる。非行を良いこと
であり、それが自分の生きる道とさえ思っている。集団で事件を起こすこと
もしばしば認められる。
二は岡山金属バット母親殺害事件のようなタイプである。感情抑圧型と言
ってもよい。人間は自分自身の感情を抑圧するには限界があり、限界を超
えると爆発する(いきなり型と世間で言われたようなもの)。一見は優等
生であったり、大人しく真面目な少年が、突如殺人犯などで逮捕されると
いうのがこのあたりである。
三は酒鬼薔薇や宅間守のようなタイプである。非行歴があったり、凶悪
犯罪を犯すような前兆があったりと感情をすぐ暴力行動に結びついて
しまう一方で、感情を抑圧しながら怒りのエネルギーを溜め込んでしまう。
それが最終的に一般人に向けられることがある。
凶悪犯罪者は自己執着者である。つまり、親などの重要な人物を憎んでいる
のと同時に自分自身も憎んでいる。親に攻撃することはあっても(家庭内
暴力)、殺人にはめったに至らない。
苦しみを逃れるために復讐をして快楽とするのか(責任転嫁)、苦しみを
快楽とするようにするのか(自己卑下)非常に気になるところである。
どちらにしてもSはMになりえるしMはSになりえる。
心理学を突き詰めると、自己とのかかわりあいになると思う。
例えるなら、神から与えられた運命・宿命をどれだけ全うできるかだと
思われる。人はさまざまな境遇で生まれてくる
平等ではない。単純な優劣で自分を決めてしまえば、どうしても
嫉妬と憎悪の鬼になるしかない。他人と比べない生き方こそ
真の自分を引き受けた生き方ということになると思う。
自分の欲求、自分の意思、自分の劣等な部分をいつか
引き受けないと、その人は嫉妬の鬼になるしかない。
自分が宇宙へ行ったと仮定すれば、興味あるものがたくさんあり
夢中になるはずである。なぜ、地球ではだめなのか
なぜ、日本ではだめなのか、なぜ自分の周りの出来事に興味がないのか
自分自身を憎悪するのをやめない限りそれはわからない。
自分自身を憎悪することさえやめれば、それと戦えば、道は開く
>>658 自分を憎悪するのがやめられないのは
自分を憎悪している部分に愛着があるから
憎悪をやめさせようとさせられると
大慌てで逃げ出してしまう
あたかも自分を憎悪する事を望んでいるかの
ように振舞ってしまう
結局何が欲しいのかわからないのです。
多分何も欲しくありません。
変化が怖いだけの話かもしれません。
>>659 自己憎悪することで親の保護をもらっていると
無意識に自己憎悪することで問題を解決してしまうとか・・。
単に自分との付き合い方を考えることだと思います
小さなことでもいいと思います。部屋を片付けるとか
自分らしく工夫するとか。個性は細かいところでしか違いは出ない。
それが僕なりの心理学に対する考え方です
私は大学で少し心理学を齧っただけだけど、心理学は最終的には精神医学
や哲学など多岐分野からの考察も必要になってくると思われる。
フロイトとユングは心理学で登場する最も代表的な人物であるということ
くらいは知っている。まぁその程度なんだけどね。
自己憎悪の自分に依存しているということではないか?人格形成期に
誤った(歪んだ)考え方を身につけてしまい、現在自己否定・自己憎悪
の中で生きているという人もいる。認知システムが歪んでいるということ
を理解したとしても実際の行動に結びつくには相当な勇気が必要になる。
「生き方を変える」ということは即ち、それまでの自分の考え方を否定して、
過ちを認めることになり、「親から分離する自立する」ということでもある
からである。
過酷な作業である。
凶悪犯罪者の多くは、親(あるいはその代理である)との間に亀裂が生じて
いる。なぜ「殺人」を実行することができるのかと考えた私は、人生で
最も愛されるべき人に愛されなかったことから始まるということが一つ
考えられた。
サディズムを生み出すには憎悪が必要であり、いわゆる「敵対的依存」
が必要である。サディストは重要な人物に対して愛着があり、かつ憎しみ
もある。その強度が強ければ強いほどサディズムが強度なものになる。
アンビバレントな感情が交錯すると、精神的に不安定になりやすい。
だからサディストやマゾヒストの中には神経症〜パーソナリティ疾患が
認められることもあるのである。
ある少年が少年時代に父親との暴力を繰り返した後に、青年になって
男子学生を滅多刺しにするような事件があったが、そのような攻撃性は
父親との葛藤か被害者の彼に転移したものであると考えられる。
>>660 >>661 お二方の言う通りです。
私は多趣味を演じて無趣味です。
個性的なフリをして「個」がありあせん。
何もありません。
本当に過酷な作業です。
マゾヒズムと結びつきやすいのが、境界性人格障害(衝動型・境界型)、
摂食障害(過食・拒食)、強迫性障害(強迫観念・強迫行為)などである。
サディズムも実は似たような疾患に罹りやすいが、反社会性人格障害や
行為障害などとの関連がある。
分離ー個体化という作業が出来た人はアイデンティティを形成し自己実現
していくのですが、それが出来なかった人はアイデンティティを形成する
ことができず、「重要な人物の中で生きている」ようなものになる。
子供は自分を愛することができない。なぜならまだ親と共にいるからである。
子供は自分を愛しているのではなく、重要な人物に愛されている自分を
愛しているのである。つまり無条件の愛を必要としている愛では、
自分を愛しているとはいえないのである。
>>664 分離一個体化は、小児期に済ませるものですよね。
それができないまま、歳取った私はどうすりゃいいんでしょう?
「個」が欲しい!いや、「個」が無い方が楽でいいかな?
tp://aja.mirai1.com/index.html
スパイ攻撃云々を除くと限りなく私と似た思考を呈した人の
サイトを見つけました。
このひとの防衛のやり方は、まるっきり私と同じです。
>514氏 一次的ナルシズムについて、ずっと考えてたが、
もし、それを徹底的に自分・自己存在そのものに沈潜する状態、と置き換えれば、
それは、大変、大事な状態だと思う。
それは、SM要因とは関係なく、むしろ、
徹底的な自己沈潜した状態は、脱却の可能性を示すように思う。
ものを考える、感じる以前の状態を想定して一次的ナルシズムというなら、
「徹底的な自己への沈潜」はそれとは少し違うかもしれないが、
母子関係以前の状態の残存、あるいは回帰、として
「世界と可能な限り遮断して、自分の内部に沈潜すること」は
ものを考える上でもたいへん大事な状態だし、
うわついた考えを払拭する際にもその状態のあるなしはかなり影響する。
なかなかその状態になることはむづかしいが、
その状態で得られる考えは、揺るぐことがない。
サド・マゾと関わるナルシズムは、
異性に向かう性愛対象が自分に向かう状態
という意味のナルシズムに限定した方がいいように思う。
668 :
えす:2006/12/15(金) 14:59:45
捕手・イン・ザ・ライ
>668 大ジョブじゃないすか?
この板で3ヶ月くらいレスなしでも落ちてないとこ見かけたし。
(基準は知らないけど)w
●マゾヒズムとサディズム●
マゾヒストやその傾向にある人は、表面上はマゾヒズムであるが内面的に
は、自己に対してサディズムの傾向がある。自己に対してサディズムになれ
るからこそ服従することが可能となる。場合によっては自傷もできるのだ
(その代表的な例がマゾヒズム的境界例)。
攻撃性がどこへ向けられるのかというのが重要なところである。
マゾヒズムの場合には、自己受容したいという気持ちがあるが、それができ
ずにマゾヒズムになることによって自己受容しようとする。
サディズムの場合には、自己受容したいという気持ちがあったが、それを
諦めて様々な感情が「怒り」へと転化することで自己受容しようとする。
極端なことを言うことになるかもしれないが、殺人という行為によって
自己受容が出来るという人もいる(本人が自覚しているということはほと
んどない)。快楽殺人もそういうことが言えるかもしれない。
「悪」をアイデンティティとするヤクザはそれによって自己受容しようと
している。
人間はいつでも生理的欲求と心理(精神)的欲求がある。
性欲、食欲、安全欲といったものである。これらが不安定なままで、
自己実現やアイデンティティを形成することができるだろうか?
分裂した、統合に失敗している自分を
取り戻すために、それを拒否して外部から何かを得て
その統合の失敗からくる不安を回避しようとしてみても
憎しみは永遠に続く
権威主義から自由主義へと移行するとき
権威主義的な父親、自己憎悪・我執の両親を心理的には
殺さなければならない。正体を見破った上で。
それは、宗教的に言えば、神を殺すことで
服従を拒否すると言うこと
人類は数千年かけて、その掲げた目標とは別に
無意識的に強く自由を求めて戦った
数億の犠牲に自由が約束される
そして、地球から離れることになるかもしれない。今世紀は自立の年
おそらく、科学技術も高度経済成長を上回ると思われる
それが暮らしの豊かさにつながらないかもしれないが
青い地球は、母なる惑星かもしれないが
依存と敵意は表裏一体であり、地球を憎む
やがて、地球は人類を保護するために存在していないと知る
人は宗教に頼り、神をあがめ保護を求める。あまりの自然の厳しさに。
そして、自立のときが来たのかもしれない
日本と言う国は形だけになるかもしれない
自由以外のために戦う理由はない、ということを考えると
自民党はこそこそしながら、ゆっくりと国という概念を放棄すると思われる
隠れ権威主義者たちは、また自分でどうしていいかわからないため
(自分の片割れである影を取り戻しておらず、想像力が無いため)
権威主義の力を自民党に望むが、自民党はそれをすでに捨てている
どのような政党であろうと自由以外に戦う理由はない
「国」というのも実際には観念にすぎず、現実には存在しない。
動物や植物には「国」は見えないだろう。
人間が自分の群れを拡大しいった地域的なテリトリー意識の境界にすぎない。
したがって、それらもまた、心理の内にある。
自我でも、自己でもないとすれば、それは超自我の中にあるということになろう。
SMは階層を私人が幻想化した性的ゲームでもある。
階層もまた基本的には幻想のうちにある。
国家という幻想が、相互の認知のもとに拡大、拡散して、
たとえば欧州連合のようになっていくのは、
情報・交通の進歩による必然的な流れになる。
反動・揺り戻し・取り残されなどはあるだろうが、
その流れを逆行させるのは、すべての科学的発達を停止する他なく、
いうなれば、不可避の流れとなっている。
権威主義は、国家という制度・幻想によって、
階層的・個人的益を蒙る支配層なるものの防御線として幻想化される。
だが、国家の形がどうかわろうと、性の問題や、
個の問題は、それらとは異なる(相互に深く関わるが)領域にある。
SMが面白いのは、夫婦という制度同様、
支配・被支配の共同観念(幻想)を、性の中に超自我を通じて
取り込んでいるからだろう。
>>670 「マゾヒズム的境界例」とはどういうものを指すのだろう。
たとえば、摂食障害を、自分の肉体・生理への虐待としてとらえる
というようなことだろうか。
大体そんな感じである。境界例者が他の疾患と併発しているということが
少なくない。うつ病や摂食障害、依存症(薬物含む)などがあげられる。
マゾヒズムは「服従」ではあるが、自分自身に対する復讐でもある。
強い劣等感が怒りに転化されて自己を傷つける(仮の自己受容)。
サディズムは「復讐」であり、自分自身と周囲に対する復讐である。
サディズムとマゾヒズムは表裏一体のものである。だから自殺と殺人(
殺人者精神病)には因果関係があると考えられる。
●●
心的世界は主に3つあると考えてよいでしょう。
一次元を現実、二次元を空想、三次元を妄想としましょう。
かつて人類は、宇宙は完全なものであると考えられていました。そのため
にガリレオがクレーターを発見したときには都合のよい解釈によって事実は
曲げられてしまいました。つまりガリレオ以外に人々は三次元の世界にいた
のです。妄想的社会の中にいたのです。
人間は不完全であるし、自然でさえも不完全なものである。不完全だから
人間は何かを求めようとする。それが宗教思想だったり恋人だったりする。
人間の心が二次元や三次元の世界に侵入してしまうのは、防衛機制があるた
めであるといえばそれまでである。
学校の窓ガラスを金属バットで叩き割る。するとそこらじゅうに無数のガラ
スの破片が飛散っている。バラバラになったガラスの破片を見ると、まるで
人間一人一人の姿のように見えた。そしてその一つ一つを拾って集めていく
とある形になった。それが人間がひざまずいている姿だった。
日本人はマゾヒスト。国家という権威に対して服従しまくってる。
服従から卒業して自由を手に入れる。しかしまた服従がやってくる。
人間の歴史は復讐の歴史である。
時間性を空間性と錯覚してはいけない。
裏表ではなく、連続性があるのだ。
なんらかの理由(常に複数)で自殺したいと思っている者が
それを実行できずにいて、
死刑によって他者に殺してもらうために、殺人を犯すとすれば、
自己否定が裏返ったのではなく、
自己否定感情によって、他者の生存も重要と感じない感性が、
「関係性」に向かったと考えた方がよい。
そこには、変転の契機がある。
そして「順番」というものがある。
どちらが先か。 言い換えれば、どちらが本質的なのか。
まだ、うまくそこに理路を導き出すことができないでいるが、
どうやら、マゾヒズムを本質(順番として先)と考えるものが、
空間的な表裏ととらえたがる傾向があるようだ。
これは、これでまた面白い疑問だ。
フロイトが、サディズムを先として、第2次マゾヒズム
後年、マゾヒズムを本質と考えて、第1次マゾヒズムとした。
順序は、それほど、ことの理解にとって重要だ、ということなのだ。
もうひとつ、「対置」させておきたくなった。
個の領域 個と個の関係の領域 共有(共同性)の領域
フロイトは「関係の領域」である性(家族・父母)の重要性を
思想の世界に強くうち立てた。
そして、超自我を、共同性の領域が、性(父母)を通じて、
個の領域に侵入することを、発見した。
脱性化した心理学は、
性(個と個と関係の領域)
内なる共同性領域(超自我)を外に追い出し、
社会(共同性)の中に性(個と個の領域)をかってに埋め込んでしまい
個の領域だけを、孤立させて社会性と対峙させる理解の仕方を
とるようになってしまった。
そのため、性の問題をうまくあつかうことができないでいる。
というのが俺の見方だ。
皆が幸せを求めている。つまりは、自由になりたいんだ。
●自殺と殺人●
殺人をサディズム、マゾヒズムを自殺として考えてみよう。どちらにし
ても自己感情がマイナスであるということに変わりはない。日本で起きる
殺人などの凶悪犯罪は加害者と被害者との間に何らかの関係(親、兄弟、
友人、上司、恋人etc)があることがほとんどである。
自殺願望や自殺念慮を持ちながら犯罪を犯す場合がある。このような人
を私は犯罪者神経症と呼んでいる(福島章の「殺人者精神病」という言葉
は適さないとの考えから犯罪者神経症と呼ぶことにする)。
服従というマゾヒズムは自己への復讐であるから自傷や自殺へと結びつく。
復讐というサディズムは自己、他者両方に対しての復讐であるから傷害や
殺人だけでなく、自傷や自殺とも結びつく。だから一般的にはマゾヒズム
よりもサディズムのほうが「治療」するには苦労するだろうということが
わかる。攻撃性が自分自身に向いている人と、自分と他者に向いている人
とでは後者のほうが治療や矯正していく場合に困難が生じやすいだろう。
犯罪者も自殺者も自己執着が認められる。どちらにしても、最初には
マゾヒズムが存在する。それが前提条件にあって、そこから復讐へと
向かうか服従へと向かうかである。
●少年非行とは親に対する復讐である●
コンクリート詰め殺人の主犯Aのような「少年A」タイプもいる(行動化
性格者)し、酒鬼薔薇のような「少年A」タイプもいる(神経症性格者)。
どちらにしても自己不快感情を持っている。また、自己感情を言語化する
能力が乏しいことが多い。行動化性格者は「悪」をアイデンティティとする。
だからその世界で少年院から出所すると箔がつくとか言われるのはそのため
である。こういったタイプが薬物の使用が認められるのも反社会的であるが
ゆえであるし、自己不全感を解消したり快楽を得るために使用する。
犯罪は自己破壊行為である。それをわかった上で(意識しているかどうかは
別だが)薬物の使用や売買などする。そういった類の人々がヤミ金とか振り
込め詐欺とかするようになる(だから暴力団らと関係がある)。
一見はサディズムだが、自己に対してサディズムでもあるからマゾヒズム
とも関係している。そしてそのサディズムを生むのは重要な人物との関係が
非常に大きいものになる。自己破壊願望は彼らの意識上には見られないが、
彼らの非行によって自己破壊願望が存在することが明らかである。それは
そのような感情を抑圧しているからである。
酒鬼薔薇のようなタイプは自己破壊願望や自殺願望を意識している。
神経症的なので普段は大人しくて自己開示するということは滅多にない。
神経症性格タイプの犯罪はいきなり型と進行型に分かれるが、酒鬼薔薇
は進行型であった。
殺人者神経症であることが多い。一般的に言われる悪事は悪いことである
とわかっているが、行為化せざるを得なかった人たちである。
本来の自分を憎んだものは、それと同時に他人の本来の自分をも
憎んでいることを知らない
なんにでも優越しようとしてしまう
そうなると、分裂した自分を維持するために相手に道徳だとか
正義だとかおまえのためだとか、言うことになる
この分裂だとか、統合失調症について、話したい
●旧分裂病 統合失調症の本質●
分裂病患者は、何が分裂しているのか?
そして、統合失調症に名前が変わったが統合失調症とは
何の統合が失調なのか?
対立物の結合が、自己実現だとユングは言った。
対立するものが結合できないのが、旧分裂病、統合失調症の本質。
優越感と劣等感というものの結合をすることにより、自己実現できる
自己実現とは、自分になれるということ。
ユングの生まれた時代には、さまざまな強制があった。厳しい宗教の存在など。
事実を探る一部の人を困らせた。
問題はどうして、優越感と劣等感に分裂してしまったのかということになる
それは権力による。権力者を無条件に疑わず、従わなければならなかった。
そういう文化は今も少しある。だが権力という枠組みはあまりにも
そこが浅く、範囲がせまい間違った考え方。人はみな変わらない。
人は違うといっても、自分がそうなりえた可能性がある違いしかない。
権威者に服従することにより、自分も権力構造の中に入る
そこでは、権力が重視される。優劣を示さなければならなくなる。
自分に価値がないと思うことは、同時に価値のある自分が作られる
それは表面上に過ぎない権力の獲得である。
自分に価値がない、外側から何か獲得していないと。
浅い考えではないのだろうか。これが劣等感の正体である
自己憎悪とは、異常な権力構造から逃れることを拒否していることになる
だからこそ、自己憎悪=服従となる
この権力構造からはみ出ている人が、幸福になると必死に否定する
憎む。
自己実現=自分になる とは 権力と人間性の結合
●自由の定義●
自由の定義とは、物事をあるがままに見てもいいということだと思う
それを拒否するのがフロムの言う、自由からの逃走だと思う
他人の性格を勝手に決めて、それと違ったときショックではないだろうか
どうして、人をあるがままに見れないのか
それは、自分があるがままではないから
どうしても、何かを決め付けなければ、自分が精神的に安定できない、
不安を回避したいということ。深層には、やはり服従が横たわっていると
思われる。人間最初の葛藤がこの内部志向性と外部志向性といわれている。
そこで、外部志向性とはもちろん、服従と支配の権力構造なのだが
それは、時代の役割をひそかに終わろうとしている。それにしがみつくことが
原因はともかく、結果としてしがみつくことをしている人たちが
自由から逃走しているといわれている
その人が必要だったと思うとき
単にだめな自分をなんとか、みつくろえる ということはないだろうか?
690 :
えす:2006/12/17(日) 14:33:40
なんか最近、行き過ぎとまでは言わないけど…俺的に少し論点がズレてきてる気がする。
過程をスッ飛ばして良いのかな?
行き着く先はここなのか?
SMも確かに超個人的なモノだけど、相手がいない時点でそれはSMじゃあないと思う。
それはただのサディズム、ないしはマゾヒズムでは?
俺は、一人のサディストと一人のマゾヒストが重なり、反応した時に生まれる『何か』が知りたい。
俺じゃあ一人一人のパターンなんて、育ってきた環境も何もかもが違うのに、型にはめて理解なんてできないから。
そこに救いなんて無いと、プロ氏に言われちゃうかな〜
SMって…なんだ!?
発生(素質の形成)→目覚め→実践(あるいは性的幻想の定着・固定)→反復→エスカレート→出口(?)
↑
これにそれぞれの段階 胎・乳・幼・少・反抗期・青年期・大人期が対応する。
そして、それぞれの段階に応じた考察・洞察をしている。
すくなくとも俺はね。w
共同性の問題は、権力の問題(支配・被支配 あるいは主と従)として、
個人間にも擬制的に再現される、というのがSMを個人でなく、
社会構造との比較で見た場合の俺の仮説だ。
そして実際に、
相手の意志を無視しても成り立つ「飼い(買い)」を成す階層(グループ)もある。
さらにそれを小規模に組織化しようとするGor(ゴル)という思想もある。
必ずしも、市民的なSMだけをサディズム・マゾヒズムの問題として限定的に
考察するだけではない。そのあたりはそれぞれの参加者の自由でいいと思っている。
俺の見るところ、すでに言ったように
心理学は性に関して精神分析より、対応力が弱い。
つまり、掘り下げが一定以上できないように見える。
しかし、アドラーの「権力への意志」説でもSMは説明できるはずなのだ。
あるいは、そういう視点もありうる、という提示はできるだろう。
それは、そういう論者があらわれるのを待つしかない。
もちろんいつものように、俺が中途半端な知見でそれをやるかもしれないw
ただし、それは、あくまでもそういう見方もありうる、という提示の意味を超えないが。
ま、俺的にはいすに座って咀嚼に勤めてる状態から
多少気分を変えるために
慣れた政治性の話につきあって、背筋をいっぺん伸ばしてみただけにすぎない。
個領域をそのままいくら伸ばしても、共同性に直接いきつくことはない。
そのへんは、心理学から伸ばしていっても無理なのは見えてるが、
それも、またよし。だ。 自由に想いや考えを語ることが一番だ。
Sは相手の反応がなければ、成立しない。
つまり、「関係性」がなければ成立しない。
Mは、自己沈潜(ナルシズム)に向かって、
関係を「受け止める」側になる。
Sは対象との関係を求める。
対象の反応を見ることによって喜びを得る。
自身の肉体的快感は二次的なものだ。
Mは、与えられた関係の中で、自己に沈潜する。
行き着くところは自身の肉感と幻想領域での陶酔だ。
ここでも、SとMは方向が違うことがはっきりわかる。
SとMはすれ違っている。
性的SMは、いうなれば、
サディズム・マゾヒズムの一時的な解放を
快感という形で発散させる。
快感は、肉体ではなく脳で感じる。
痛みと同様に。
痛みは、自我や自己や超自我を吹き払うための手段だ。
なぜ、そのようなことを求めるのか、
あるいは、求めるようになったのか。
それが、発生論としての母子関係だ。
ここでも、時間軸が大事だ。
動機としての復讐は、実践過程の中で、
復讐対象であるべき相手が、
今度は、自分の復讐をどこまで受け入れるか、
という事にポイントが移動していく。
このことは、最近メルをやりとりしているS&M女性の
メルを読んでハッとして、考え込んだところだった。
「Sも母を求めている気がする。
これだけしてもついてきてくれるのか、ここまでしても自分を見捨てないのか、
試しているような節も感じられます。
奴隷を抱きしめながら、抱きしめ返されているような。そんな感じがする。
その衝動が母への不服や不満から来ているかどうかは私には解りませんが」
(スレへ掲載許可は得ている)
復讐の対象であるM女性の中に、
現実で得られなかった受け入れを求めている、ということだ。
動機としての復讐だけではなく、
復讐の解消をも求めて(性的SMが行われる)という解釈は
俺にとっては新鮮だった。
性的快楽は人類共通のものだろう。性的不能は病気となる。
性的なものに結びつけば性的サディズムとか性的マゾヒズムという具合に
なるだろう。復讐心がどこへ向かうのか。自分自身、恋人、友人、親、教師、
上司、部下、先輩、後輩、不特定多数の人に攻撃が向けられるだろう。
マゾヒズムもサディズムも自己憎悪から来る自己執着と同居している。
サディズム・マゾヒズムの差は自己憎悪と他者憎悪がどの程度の割合である
かである(精神的に不安定な人は性的関係において交替する)。自己憎悪
のほうが強ければ、自分自身に向かうし、他者憎悪のほうが強ければ他人
に攻撃性が向けられる。性役割においてサディスト・マゾヒスト両方の
役割ができるということはそれだけ精神的に不安定であることを意味する。
「いい子」でありたいために、その場その場で人格を作り上げるような人
です。だから自分というものがない。
サディズムは自己感情の行動化である。「わかって欲しい」気持ちから
サディスティックな行動を取る。アドラーは、「子供が悪事をして親の関心
を自分に向けさせる心理」を指摘したが、サディスティックな行動にはその
ような背景が見えることもある。非行というのは精神病理学的に見ると、
重症の範囲に入る。単に精神病理学的な問題を持っていて、さらに
犯罪病理学的な問題(すなわち行動化)を持っている人を矯正していくこと
は非常に困難である。
劣等感から自己憎悪が生まれる。自分なんか生まれてこなければ良かった
みたいな感じである。そういった感情を受け入れてくれない、話をする
こともできない、社会や親に対して怒りを覚えてサディズムを覚えていく。
それが自分自身に向かったり、他者に向かったり当然個人差がある。
近代以後の権力の戦術のひとつは、視ること、
すなわち「監視」だ。
現象学は、本質への洞察を時間軸で解明することを放棄し、
とにかく現在の表面を視ることに、戦略変更した。
それがそのまま心理学にもつながっている。
そして、思想・哲学は、常に権力に影響する。
Sという疑似権力もまた、その戦術をとり、
視ることによる支配を行う。
己を視られることは、被支配の欲望となる。
親の支配はどうか。
放置と過保護とプロ氏は言った。
放置は、視られる事への欲求を昂め、
過保護は、視られる事への嫌悪を昂めるのか。
結局、過保護も過干渉も放置も
子供を見ておらず、自分の葛藤だけで精一杯だと言えます
そこで本来自己実現の努力をすべきところなんですが
それが、死ぬほど苦手なんですね、そういう人は。
だから、相手のため・・・と言ってしまう
社会的責任の取れる人が自己責任は取れないということがよくあると
思います。物事をあるがままに見れないのは、分裂による憎しみのため
相手のためと言いますが、相手のためにできることも多くあります
しかし、人間は、結局自分との付き合いが他人にも延長される
経済的利益 精神的利益 身体的利益 の取り方は別
分裂した状態を維持するには、優劣をつけること
分裂した状態を統合するには、人間性を取り戻すこと
この最初の葛藤に折り合いをつけることが、非常に重要
人間性を取り戻さなければ、他人の人間性もわからない
楽しめない。趣味がない。好きなものがない。となる。
優劣を目指さなければ、劣等として扱われる
金がない状態が多い。
>698 すこし観点が違う。
>697は 過干渉・放置「する側」ではなく、
「される側」が受ける精神状態について書いた。
放置によって受ける子供の心理と
過干渉によって受ける子供の心理は、
「一次的」には異なってくるはずだ。
適正な関係、という概念をもちこんで初めて
それらは共に子供をゆがめる、という単一的な視点になる。
放置・過干渉 それ自体を眺めれば、
影響の仕方はそれぞれ異なる色合いがあるはずだ。
それが、サディズムとマゾヒズムを分岐させる、という視点がなければ
のっぺらぼうな自己否定しか見えてこない。
(1)他者の視線を、己の視線と同化させて、おのれを見る。
(当然そんなことはできないから、それらは幻想性の中にある)
(2)己の視線を強要する。つまり相手に(1)を求める。
これらは、裏表ではない、時間的経緯の後先になる。
(2)は(1)がなければ成立しないからだ。
異は唱えているが別に議論をふっかけているわけでも、
立場的対立を求めているわけでもない。
単に対置しているだけだ。
プロ氏はそのへんは心得ている、と勝手に思っている。
(ただ、他の者に誤解されたくないので付け加えておく)
脳幹〜大脳辺縁系 欲と情動
大脳新皮質 理性・分析・解釈・想像 つまり言葉。
言葉を覚えなかったアベロンの野生児(狼に育てられた)は
人間的な性欲を発動することなく死んだそうだ。
以前 うつについてのナクトの解釈を図示した。
S 攻撃→他者 M 攻撃→他者 うつ 攻撃→自己
自己
うつにしろ分裂(統合失調)にしろ病態としては
他者のとりつくシマがないという印象を受ける。
他者との関係性が内部で希薄(喪失)になっていたり、
妄想に置き換えられていたりするからだろう。
これは、自分の内部の他者の場所「超自我」の中の他者性が
すべて自分に置き換えられてしまった状態とも理解できそうな気がする。
したがって自己完結した内部世界ができあがり、とりつくシマがなくなる。
これは超自我発達の時期(エディプス期)が大脳新皮質の発達時期と
パラレルな状態にあることと関係している気がする。
Mもまた最終的には自己を責めるのであるが、
間に他者が介在する(妄想においても)ため関係性は残されている。
自虐(ナルチシズム)になると、この関係性が減少する。
したがってナルシズムはMより鬱に構造的には近い、といってみるテストが成り立つ。
Sは他者との関係性の中でしか成立しない。
攻撃性は基本的には自己防衛であり、したがって
自己でない外部(他者)が認識されなければ意味をなさないからだ。
土台のないところに家はたたない
土台のないところに家をたてても、どうしようもないとは誰でもわかる
いずれ崩れるのは誰でもわかる
自信が本当にある人は、その対象に対して誠実に興味をもてた結果といえる
自信が本当にある人にとっては、自信がない状態 自信が余計にある状態
というのは、少ないと思われる。
欲求不満に対する補償行為である。
test
失礼。 専プラの不調か Dat落ち表示されたのでテストした。
考えは進行している。 まだ、まとまりがつかないだけだ。
万が一dat落ちすれば、必ず3を立てる。 以上w
... , _,,,::r''^`ヽ、
,i' _,,ニ-ー'"s ,べヽ.へ.
,i' ,、,r''" _,,ィ i ト、`.り ,人ヽ
,i' ,,r<ゝ`''ー''" /,l ,!,!ss゙lリ,ィ'^ヾi゙
,i' _,,-'' s`sー-_,,,ンン,ノ/レ' | ゙lい
,i' 、,,, ,,,,ニ-;フ' zニ彡 ,,ノ`ーラ-=フン'ノ | ゙リ
!〃,ィ,;ツ'' -ニZ彡ン 三三ミ`ー ..|, 、、s/
彳〃;; ,;ッ''「T7"~ ''"f'}}}l;i`'': ,r;'ニミトゝヾsッ'
.|:::...;i' ィ'" | l!' 'ー`=' i .i'}}}゙)ゞ,i'ss;"
|::::;! i':| ss!ヽ{ l `ー´‐' ,i's,リ
l,:::|;;|;;i゙!、`ヽ`:、 _.゙ ,l〃ノ
゙いs::|:|;l`:、_,r、 `ー '゙ . |_リ'
`ヽ! ゙い,::!| `、 `く===ア /
siiい:゙| ヽ、 `二´ / 心狸ガクトってオバカさん
i ハsノ .| `ー,,_ / がそろっているのね
| 、 ゙''ー、_ ,,..'"
/ ゙i. ,- `''''"|
/.へ\ `'i'´ ...|へ____
/__,..‐-\\ハ ''/-‐....,,..\_
/-- ̄ヽヽヽ\\ ~ヽ / /// \
/ ヽヽヽ \\ ヽ/ /// . \
// ヽヽヽ\\ .
ふむ。 わざわざ上位のスレにそれぞれ違ったAAでマルチごくろうなこったw
711 :
通りすがり:2007/01/11(木) 07:26:21
自分がSかMかわかる方法ってありますか?
「SM診断」でググれば種々のサイトがある。
それぞれに並んでいる質問項目を見ていると、
それぞれのサイトマスターのSM観が伺えて興味深い。
(断片)
対他関係というものを、個の内部から見れば、
他者の心像が内部に形成されることを意味する。
この心像に対してのサディスティックなファンターが
S行為へのSのモチーフとなる。
具体的な行為の場面では、心像は
物理的な他者へ与える物理的な行為と
物理的な他者から受ける具体的な行為となる。
ここで たとえば命令 および 命令実行といった
直接物理的に肉体が関与する前段階でも、
個の内部にある心像は、具体的な他者からの具体的な命令という形で
「関係」による変容を蒙る。
痛みは個体のイマージュの内部時間を一時的に切断する具体的な関与である。
Sはしかし、この時にもあくまで相手の心像への内部時間は切断されず継続されている。
ここが決定的にMと違う。
(断片1−2)
フェチシズムは他者の心像がより内部化して奥へ潜りこみ
具体的なモノが他者の心像の代理となる。
他者が存在せず、したがって間主観性も生じないため
自己完結した心像の継続が内部で持続し続ける。
(断片2)
Sを「攻撃欲求」として考えるよりは「支配欲求」として考える方が、
より包括的だろう。
あるいは攻撃も「フィクションとしての攻撃」として考えた方が。
(断片2ー2)
支配欲求は ひとつは自己の自由(恣意性)の現実的な拡大
もうひとつは えす氏がいっていたように 「特別な存在になりたい」ということ。
このふたつはイコールではないが、サディズムの内部で繋がっている。
(断片2ー3)
攻撃ということになれば扁桃体といった大脳辺縁系(動物脳)だが
支配といことになれば大脳新皮質の部分になる。
それぞれを支配しているのは別のホルモン系だが、
相互を結びつけるホルモン系も存在する。
716 :
初心者:2007/01/14(日) 10:52:14
私達は物質的には、衣食住が必要ですが、精神的にはかなり多くのものが
必要だと思います。
男の子として生まれた場合、女の子として生まれた場合とでは受ける影響
が基本的に違います。男の子でも女の子でも母親と一緒にいる機会は多く、
父親と一緒に居る機会は母親と比べれば一般的には少ないはずです。
男性が現実主義だといわれるのは、異性である母親と接する機会が多く、
母子関係が発達しやすいため、現実を見つめるやすいのではないでしょうか。
女性が理想主義といわれるのは、異性である父親と接する機会が少なく、
父子関係が発達していないために、どうしてもナルシズム解釈しやすい脳
ができてしまうのではないか。
そこに女性が精神疾患にかかりやすい理由が一つあると思った。
現実を否認してナルシズム解釈により性倒錯など生まれるのではと思った。
717 :
初心者:2007/01/14(日) 11:02:11
とにかく安心感が必要なのです。安全欲求や承認欲求が満たされると自我欲求
から自己実現へと課題を克服していくものです。
安全欲求が満たされないということは足が地についていない状態であり、その
苦痛から逃れるための手段としてSとM(及び性倒錯全般)がある。
安全欲求が満たされないという現実を否認して、あるいは劣等感のある自分
や惨めな自分を否認してそれらを性関係の中に求めようとする代償行為であ
る(投影)。SもMも投影同一化している。
718 :
初心者:2007/01/14(日) 11:23:19
私達には二つの自己があり、それを統合することがすなわち自己実現だと
いいます。二つの自己を発達させることができれば良いのですが、本物の
自己と偽りの自己との間に大きな溝があるとその人の精神世界に重大な
影響を及ぼします。本物の自分は幼少の頃のままで、偽りの自己だけが
発達してしまうようなことはよくあります。
そういった人に多いのは、青年期になっても自分がないためにアイデンティティ
が欠如が見られたり、色々なものに物色したり執着したりするようになる。
二つの自己が解離しているが、本物の自己(抑圧されて無意識層にある)
が自己否定しているためにMになったり自傷ができるわけである。
Sは自己否定と他者否定に対する復讐である。SとMはしばしば表裏一体である。
>>716 俺は女=現実主義(サル山的秩序志向)
男=理想主義(はぐれ猿的精神主義)
と思っている。
ただ
>>716 で使われている現実主義 理想主義は
「男女間の愛に対する態度」を言っているのだろう。
男の子は異性である母親との母子一体の時期があるから
女性というものを具体的に心得ている「はず」だという思いこみがあるようだが
そんなことはない。
むしろ無条件の受け入れ=愛というものを理想化する傾向が育まれやすい。
それが、現実の女性と接したときに裏切られ、
●忿りの感情からSへ
●母という理想を「女神化」して崇拝するMへ
となるのではないだろうか。
「ナルシズム解釈」ってなんですか?
精神疾患は女性だけではなく男性も多い。
ひとつは時代のせいではないだろうか。
>>717 昨日も津波でNHKが大はしゃぎして安全欲求を脅かす過剰報道を繰り返していた。
ほとんど権力の御用報道と化している現在のNHKは(つまり権力は)
つねに大衆の安全欲求への不安をそそりたてることで自分たちの存在意義を強調する。
そのくせ、個々の生理欲求に対しては、それが不満・暴動にならないかのみを心配し
具体的な対応は冷淡だ。
マズローはほんとに心理学か、最近疑わしく思い始めた。
個体の内部の深みではなく、
個々の共通項の浅瀬を便利に分類しただけではないのだろうか。
たしかに使い勝手のいい分類だし、生理欲求から社会的承認にいたる
道筋は、それぞれ脳幹から大脳へと対応してあてはめることができる。
そこでは自己実現は大脳新皮質に根拠をもつ欲求ということになる。
マズローの時代が、「ヒューマニズム」の時代でもあったとこは
念頭にいれておいていいだろう。
(人間という概念は歴史的には最近のものだ、というフーコーの指摘も)
>>718 「偽りの自己」について もっと説明してもらえませんか?
721 :
M♀:2007/01/15(月) 09:45:11
わたしも偽りの自己について知りたいです。
(断片3)
>>719に関連して。
Sは対象との「関係」において存在する。
したがって自分の内部にあるS的ファンタジーと
具体的な存在である他者との齟齬は「関係」の中で
(1)相手を自分のファンタジー像に近づけるよう操作する。
(2)自分の内部の相手心像を関係の中で修正する。
(1)の要素が強ければ君主型(暴君型)
(2)の要素が強ければ相互型(牧師型)
Mのファンタジーは内側に向けられているから
具体的な他者の心像よりインナーマスターに傾斜する。
説得や教育ではなく契約に傾くのも、
内部のインナーマスターファンタジーに合わなければそこで終了するからだ。
プレイとしてのSM(つまり痛みの快感化を重視するプレイ系)なら
Sを教育することもありうるだろう。
言葉による説得ではなく反応による説得によって。
むろんそれは教育という目的意識ではなく「合わない」という無言の意思表示なのだが、
結果として、関係性のSにとって、ファンタジーの改変を迫られることになる。
これはサディズム的性格やマゾヒズム的性格の話ではなくSMプレイそのものの話だ。
サービスのS 満足のM
それは 関係の中で心像を修正していくS 内部の心像が固定されているM を表す。
したがってこの心像に対する感じ方 考え方が変われば どんでんがくるという構造だ。
偽りの自己とは 仮面のことだろうか。
世間(親)に向けた仮面。
724 :
えす:2007/01/16(火) 13:07:04
>>722 すごく分かりやすいです!!
全く同感…Sは臆病ですからねぇ…
>>724 性的場面において常に相手の反応を伺う
という意味では たしかにSは「臆病」という言い方をしてもいいのかもしれない。
そしてMはあんがい頑固だ。 思いこみの固定化が強いから。
それを崩すのもまたSの愉しみでもあり、同時に苦労であるのかもw
(断片3−2)
Sの超自我 という時、その一見固定化しているように見えるかもしれない「倫理」は
しかし、あくまで対他的なものである。なぜならそれは言葉で構成されているからだ。
対してMは超自我が薄い。
したがって、Mは自我・自己と対他性が直接結合して「宗教的」になりやすい。
(断片3=3)
ドゥルーズがそういう意味でいったかどうかは知らないが
Mが転化した「偽S」は、心像を固定化したまま行為だけがS的になることだろう。
その場合、相手心像への修正が放棄されていれば、行為のみが過激になる。
Sが転化した「偽M」はもっとわかりやすい。
相手(自分を支配するもの・自分を攻撃するもの)を関係のなかで
あくまで具体的な他者として心像修正を行うから、
絶対的な固定化した偶像として相手を尊崇するということにはならない。
つまり どSなどと云っている者は 実際には精神的な幼児であるか、
転化したマゾヒズム(偽S)にすぎない。 内部構造としてとらえるとそうなる。
○度合いというものは発生に起源がある。
資質の形成はフロイトを参考(たたき台)とすべきだろう。
この点において、親の放任・過干渉は、
たとえば幼児虐待とともに重要な位置をしめるだろう。
しかし、それだけでは開花しないことを看過すべきではない。
その時、反抗期のありかたはその不在も含めて、考察を深める余地がある。
特に反抗期の不在は仮面性を増進させる。
それはどこをゆがめるのだろうか。自我か自己か無意識か。
○最近 鬱とSMは関係が深い、と思うようになってきた。
鬱は反抗期の不全と関係ありそうな直感があるがまだはっきりしない。
(メモ)
(断片4)
鬱には他者が消える構造がある。
自分と固定された自己心像が、過去を常に反復して現在を彩り、
そのため、現在認識が失せて同時に未来への想起が過去の反復としてしか顕れない。
この「固定」はMのインナーマスターが、かろうじて残している他者性が縮小し
否定的なインナーセルフイメージが肥大するのではないか。
インナーマッスルでマスターベーション(`・ω・´)!
731 :
↑:2007/01/20(土) 01:24:52
典型的な 概念障害w
メ欄・・・(`・ω・´)
733 :
↑:2007/01/20(土) 13:56:44
上塗り
フロイトの発達段階に対するとらえ方として
同性愛期(肛門期)までを親との関係と捉え、
フロイトのいう男根期以降を
異性への目覚めととらえる考え方を見かけた。
敷衍してみると、性器期を母親から、
一般女性へ関心が移行する時期として捉えられる。
この移行はもしかすると、年齢的な一時現象としてではなく
つねにそういった場面で内在的に繰り返される反復現象である可能性もある。
つまり、転化はある時期に完成するのではなく、
その度ごとに(あるいは時として)
内在的な葛藤を通過する構造をもっているかもしれないのだ。
その場合、いかに母親から異性を切り離すという無意識の通路を
正常であればすみやかに通過できるはずのものが、
固着が強いと毎回、一種の葛藤をもつ可能性がある。
それを切り離す手段として、固着対象となる親(親代理)に対してはできない攻撃性を
対象異性に行うことで切り離しをする(S)
性的対象としてではなく崇拝対象として性的場面に向かう(M)
といった構造も考えられる。
この視点のメリットは「復讐」に拘る必要がなくなることだ。(むろんそれも含めてだが)
この考え方だと、以前メルで聞いた
「相手がどこまで自分の行為を受け入れるか」を計るというSの心理も
母親からの(父親)からの離脱へ向かう行為として理解しうる。
具体的な性行動としてのSMでなくても
3才あたり以後の男根期以後であれば、
離脱行為としてのSM素質形成はどこの時期でもよい。
ただ多くの場合、親からの精神的自立(性的自立)を迎える
反抗期にそういったことが顕在化する可能性が高い。というだけになる。
それはいわば、個別分析の領域に属する。
ふむ。面白い人が登場した。
偶然だが数日前に買った「脳と心の地形図」を昨夜読んでいて
興味を惹かれた部分がある。
「言語野が活発になるのは生後一年半ぐらいからである。
…言語野が発達するのとほぼ同じ時期、髄鞘(ずいしょう)形成は前頭葉前部にまで進んでいる。
(この時期ころから) 自意識が芽生えはじめるので、
鏡を見ても知らない子が映っているとは思わなくなる。
顔に色粉を塗って鏡を見せると、鏡のなかの顔ではなく、自分の顔をぬぐうようになる。
自意識とは、ものごとを判断し、実行する存在が自分のなかにいる ということだ。
――だからたいての人は、「私」は頭のなかにあると感じている。」
(「脳と心の地形図」リタ・カーター P35)
紹介のURL前半に対応しているだろう。(鏡像)
主体性の部分は面白く読んだ。
ラカンというのはたしかフロイト系統と承知している。(読んだことはない)
SMにおいても鏡はよく使われる。
Sは元々、見ることにおいて支配し、Mは見られることに置いて被支配に身を置く。
その時、SはMに鏡に映った自分のみじめな姿を見せることで、
MにMであることのセルフイメージを刻ませようと企む。
そしてそれを「言葉」にして言わせることに喜びを感じる。
Mはそのことに抵抗を感じ葛藤しながら、Sに従うことで、Mとしての自分を作る。
ということになるのだろうか。
なかなか面白い。
記号論者氏自身のサディズム・マゾヒズムに対する解釈・思考も聞きたいものだ。
ちなみに俺がSは関係性なんだと思うようになったのは
フッサールの間主観性と、
以前紹介したメル相手の
「どこまで自分を受け入れるのかをつねに試している」
を重ね合わせて考えた末だ。
URL後段の主体性、従属 についてはまたゆっくり考えさせてもらう。
俺は鈍いので反芻しながら、ゆっくり進む。
ついでに 聞きたいのだが、
紹介URLでは 親の問題は一切登場しないが、
エディプスコンプレックスの問題はラカンではどう扱われているのだろうか?
保守
関係性でも自己否定でも
それのみを取り上げて深化をはかろうとすればSMとは離れてしまうわけだ。
ウツとSMは関係がある。
それを自己否定のみで切れば、ウツ構造しか出てこない。
親からの切断のみで切れば、精神的自立の問題しかでてこない。
服従や復讐が現象的なのか本質的なのか、
SMはいろんな刃物で切れる。
ユングのアニマ・アニムスで切ることも可能だし、アドラーの「権力への意志」で切ることもできる。
心身問題はもう心脳問題に絞られてきている。
無意識も意識も本能もその発生場所は特定されている。
それは単なる発生場所にすぎない。
そこからちぎれた原生的疎外としての心的領域は依然として存在する。
痛みと快感の関係は脳的にはホルモン物質の関係や、
感受し、発火する脳の経路の問題としても説明可能性を持つ。
しかし、痛みについては実は、言われているほど多くのことが明らかになっているわけではない。
単に「心理的装飾」が大きな作用を果たしていることが現象的に認められているだけだ。
なんにせよ、少し身辺が忙しい。整理には時間がかかりそうだ。
SMは25時間目
SMは25時間目
失礼。またDAT落ち表示で繋がらなかったので。
専プラが悪いのが俺のPCが悪いのか…
愛の原型は母の子に対する愛 か 子の親に対する愛 か のどちらかだ。
これが 性の自立をきっかけに 他の異性(同性)に向かうわけだが、
この時点で 親子愛から他の異性(同性)への転化のどこかに齟齬があれば倒錯と
なる。 (失礼、睡眠不足で手が滑って途中で投下されてしまった)
能動的なこちらからの愛は 子からの母(あるいは母親代理)への愛 をどう他者に転化するか、
これがが性の嗜癖を決めるだろう。
この時、潜在的な母子関係が、倒錯やねじれを生み出す。
<仮説>
男性M : 母から子への愛 転化 異性を母代理 崇拝
男性S : 子から母への愛 転化 異性を母代理 離脱不十分→離脱への強硬 あるいは復讐
愛とは 女性の場合 「相手を性的に受け入れる準備」が整った状態を指す。
子供が母親に悪戯をしかけながら、母親の顔色をうかがう。
子供が悪戯をしたあと、親の顔色をうかがう。
子供の親への愛のひとつの形。
752 :
没個性化されたレス↓:2007/03/11(日) 12:47:20
めっちゃ素人の私の理解なんですが
Mは自己否定的な精神構造の人に素質がある
でおK?
(1)その自己否定はどこからくるのか。
(2)自己否定はどこで性的マゾヒズムとなるのか。
(3)それは男と女で違うのか。
(1)親の偽愛による と「心理学のプロ」は答える。
(2)自己処罰だけでは鬱にしかならない。特定の他者に処罰してもらうこと。
そしてそれを快感に変えることで昇華すること。 そう俺は考え中。
(3)違う と俺は思っている。
しかし現象学以後の心理学はもっぱら社会と個の対応をメインに据えているで、
そこには回答しないようだ。
ついでに言うと 女Mは常に自己否定的なわけではなく、
むしろふだんはワガママな女が多い というのが俺の経験則だ。
755 :
えす:2007/03/14(水) 15:33:16
>>754 俺的統計でもその通りww
普段と逆になる事に意味があるんだろうな。
素直になりたいのに、素直になれないんでしょうな。
>755 権威や理論に屈服させられるのではなく、
現実の拘束や痛みによって、ようやく屈服させられること。
そうでなければ納得できない。
その場合性的快感は報償にすぎなくなる。
だが、人は性欲につき動かされつづける。(性欲の減退も含めてそう言える)
ここが、表層的な心理学だけでは、SMを解けず
フロイトの深みにまで降りていかなければならない理由だ。
そして、フロイトは、徹底的だ。
ユングは空想的だ。
実はユングのアニマ・アニムスでもSMの説明はできる。だが、それは遊びにしかならない。
市民的なSMとは別に、金銭を仲立ちにしたサディズムというものも存在する。
この場合、相手はMである必要がない。
それが念頭にあるから、単なるSM心理学(単なる駆け引きごっこという意味での心理学)では
解ききれないと感じる。
そこには、親との関係とともに、社会構造というものも関与してくる。
通俗的なSM小説でもそこの部分は一種の要になっている。
サドもマゾッホも貧乏人ではなかった。 大阪で女性を放置死させた村本も。
そこを考えると、「親への復讐」という解釈はリアリティがある。
だが、市民的なSMの範囲にその解釈がぴったりくるかというと、やはり「離脱」程度が多い。
その幅を指すキーワードが見つかれば、もう一段、理路は進むのだが。
Mが目指す完全なる受動性。 痛みはその象徴にすぎない。
758 :
えす:2007/03/18(日) 10:06:09
Sはもちろん、Mも結局は自分のためだしなぁ…
一時的で変則的な共依存なのかもなぁ…
コンプレックスをすごく抱えたエスって厄介ですよね。
Mの場合、特に共依存になる傾向が強い。
プレイは一種の一時的な癒し。
一時的で根本的ではないから繰り返しを求める。
しかし実は、それはあらゆる「性」でも同じこと。
*最近の市民SMでの問題は、
「主従」概念をプレイ中(木戸氏のいう「地下室」)だけでなく
日常性にまで拡げようとする単純な傾向。
(あくまで日常性の外の「25時間目」であること。
それを認識できないため種々の矛盾が発生する)
S側が鬱病になったケースもある。
Sは、相手のバランスを崩したい。
Mは、自分のバランスを崩されたい。
Sの 優越感志向と支配願望との間の距離
Mの 劣等感志向 と 無我願望
プライドの高いMがいるが、そもそもMのプライドとは自尊心とは別のものか?
権威主義的なプライドだから形にこだわるのか。
その本音は自己評価が低い。しかし、いやだからこそ恐ろしいまでの怒りを隠している。
764 :
没個性化されたレス↓:2007/03/29(木) 02:39:24
どちらでもないのが精神的には安定しているように思うが
どちらかに偏ると何かしらの異常性が見受けられる
外交的Mと内向的M
それに対応するのが似非牧師と暴君という点が
いまいち腑に落ちない
外交的Mとは? 内向的Mとは?
実際に、現場ではそんなに明瞭に別れていないのでは?
>>似非牧師志願者-咀嚼途上者
そうです。その通りです。君の心的現実においては。
ここは自己愛性パーソナリィティ障害者が集まるスレでつか?
>763 その怒りは 何にあるいは 誰に対するものだろうか?
>768
まず自己のプライドを傷つける者。
おそらく、その底には母親に対する怒りが隠されている。
>一口に「エム」と言っても、やっぱり何種類かある。
>かなり大雑把に分けると二つ。性行為に関して言えば、
>「こんないやらしい事をしてしまっている私を見て!!」(嬉しそう)な感じと、
>「こんないやらしい事をしてしまっている私はいけない娘です。ごめんなさい!!」(悲しそう)な感じか。
>社会に向けた性格的にも、前者は外向的・後者は内向的に感じる。
>人はペルソナを着けて生活してるけど、SM的性行為に及ぶ上で、
>仮面を取り去りたい、解放したい派or上から二重に被ってさらに演じ、陶酔したい派って感じか?
えす氏の指摘された
「外向的」なM−牧師型 「内向的」なM−暴君型 が多いという点について
「内向的」なM−牧師型もあるような気もしているのだが・・・。
つまり「内向的」なMに対して一枚一枚剥いでいって支配する、というプロセス。
しかし、そのパターンについて、いまひとつ確信を持てない。
順を追って訊きたい。
>764も似非牧師志願者氏なのだろうか?
この文は主語がわからないのだが。
>765 えす氏が答えるべきだろうが、俺には
えす氏がそういう対応関係を言っていた記憶がない。
えす氏が、M(女)に2つの傾向があることを洞察したのを読んで
えす氏に Sも分類が可能か と訊ね、
彼が考えて分類してみせてくれた。 という流れだったように思う。
(つまり、別々に考察してみせてくれた。という気がしている)
その際、内向Mや外向M と それぞれのSが対応するという部分があったかどうか記憶がない。
確かにそういう組み合わせの方が相性がいいような気もしないではないが、
出会い方はいろいろあるだろうから、そういう組み合わせのものだけが
SMプレイをするわけでもないのは当然だろうと思う。
さらに言えば、それらは分類箱に分けて入れるというより、
外向型←ーーーーー→内向型
という幅の範囲 というか 座標というか、そういうものではないだろうか。
(このへんは えす氏自身に答えて貰ったほうがいいんだろうね)
いずれにせよ、何も物差しがないよりは、そういう座標はあった方が、
現場的にも理解が深まるような気がするのだが。
771 :
没個性化されたレス↓:2007/03/30(金) 19:36:27
アリの巣コロリってあるじゃん。
蟻の行列にポンと置くと、一瞬ビックリして列が乱れる。
邪魔だなと言わんばかりに迂回する列が出来る。
そのうち好奇心旺盛な一匹がアリの巣コロリに入る。
そいつをマネして何匹も入る。
毒とも知らずにツブツブを運び出す。
一匹が一粒づつ。
いつのまにか行列はアリの巣コロリが折り返し地点になる。
黄色い粒と黒い蟻が作り出す模様は綺麗で見てて楽しい。
一匹が一粒づつ、丁寧にせっせと毒の粒を運ぶ。
せっせと、せっせと、せっせと、せっせと。
蟻さんって働き者だなと思う。
俺も頑張らなきゃなと思う。
次の日、あれほど沢山いて俺を困らせた蟻が一匹もいない。
ほんとにいない。
探してもいない。
泣きたくなった。
このレスを見た人は4日後にあなたの大切な人がいなくなるでしょう・・・・
それが嫌ならこのレスを5つの板にコピペしてください。
信じるか信じないかはあなた次第です。
772 :
没個性化されたレス↓:2007/03/30(金) 20:05:08
>764
は私ではない。
>その際、内向Mや外向M と それぞれのSが対応するという部分があったかどうか記憶がない。
>確かにそういう組み合わせの方が相性がいいような気もしないではないが、
>出会い方はいろいろあるだろうから、そういう組み合わせのものだけが
>SMプレイをするわけでもないのは当然だろうと思う。
>さらに言えば、それらは分類箱に分けて入れるというより、
>外向型←ーーーーー→内向型
>という幅の範囲 というか 座標というか、そういうものではないだろうか。
>いずれにせよ、何も物差しがないよりは、そういう座標はあった方が、
>現場的にも理解が深まるような気がするのだが。
そう。その座標の意味について考えたいと思っている。
内向的と外交的が一人のMの中で、局面において使い分けられていると感じている。
つまり統合失調症気味のM。この際の対応が難しいと感じている。
ある局面では外向的であり、また別の局面では内向的。現場的には、そう感じるケースがある。
そこで、暴君型と牧師型の使い分けに苦慮している。
すこしづつ見えてくるような気もする。
内向的なM(つまり自分のM性に対する罪障感を残している)女性を
すこしづつ説得(誘導)していわゆるSM行為へ向かわせ、
やがて、その女性が自分のM性を認めて、
外向的な(己のM性を自認し浸る)ところへもっていく、
というのが通常の過程(あるいは理想的な過程)だとすると
それらが、そのような直線上の過程ではなく、交互に(あるいは不規則に)顕れる
といううことだろうか?
局面によって現れ方が違うというのは、それぞれプレイの質が違う
(たとえば、羞恥系 と 苦痛系 あるいはそれぞれの中でも種類は色々あると思うが)
場面で反応が変わってくるのか、
同じプレイなのに、日によって反応が違うということなのか、
そのへんをもうすこし具体的に説明してもらえると、考えも整理しやすいと思われるのだが
どうだろう。
>内向的なM(つまり自分のM性に対する罪障感を残している)女性を
>すこしづつ説得(誘導)していわゆるSM行為へ向かわせ、
>やがて、その女性が自分のM性を認めて、
>外向的な(己のM性を自認し浸る)ところへもっていく、
>というのが通常の過程(あるいは理想的な過程)だとすると
>それらが、そのような直線上の過程ではなく、交互に(あるいは不規則に)顕れる
>といううことだろうか?
まず、このプロセスで考えれば、Mがプライド型の場合
内向的から外向的への移行点において強固なプライドを打ち破らねばならない。
その場合に似非牧師型では、打ち破れないもどかしさを感じる。
今井氏の「プライド型」では「命令には絶対服従させねばならない」と述べている。
http://www.bekkoame.ne.jp/i/ha-na/imai/sm33/mmmm/mmmm5.htm つまり租借途上者氏の理想的プロセスに従えば、
外向的に移行する時点で最終的にすべて
Sは暴君型になってしまうが、その点はそんなに
776 :
えす:2007/03/31(土) 11:02:16
お呼びですか?
俺が答えられる事なんてないのかもしれないけど…
いまいち何を聞きたいかが分かりづらいんだけど、咀嚼氏はほとんど、
俺の言いたかった事は分かってくれてると思う。
個人的には咀嚼氏と俺は、考え方が似てるのかな?と思ったり。
もちろんね、SにもMにも色んな部分があるとは思います。
ましてや個人レベルで見たら、人の中身なんてもうグッチャグチャでしょう。
それをこの場で話しやすくするために、強引に分類してみただけでして…
自分と照らし合わせて、引っ掛かる事でもないですよ。
全体を語る上で、役に立てばいいな、と。
もちろん、もっと突き詰めて掘り下げる事も出来るでしょうけど。
777 :
えす:2007/03/31(土) 11:13:01
>>775は、誘導尋問系と強引な取り調べの違いを言ってるのかな?
俺が思うに、どっちも導く(導きたい)場所は一緒。
相手や状況によって2つを使い分ける刑事もいるだろうし、
誰が相手でもいつものやり方で落とす自信がある刑事もいるだろうね。
俺的には、やり方がどうかよりも導く場所が気になるところ。
導く場所と導びかれたい場所の一致が、相性なんじゃないのかな、と思ったり。
えす氏。すこし理解がすすみました。サンクス。
>775で引かれたURLサイトはなかなか面白い。
M女性を4タイプに分けている。
「根無し草型」 自由選択が重荷である。
「プライド型」 自尊心が重荷である。
「自己嫌悪型」 \
「冒険・欲求型」― 文字通り
サイトマスターはこれを横に並べ
←M性が強い 性的興味が強い→
根無し草型 プライド型 自己嫌悪型 冒険・欲求型
としている。
上の設定を
←心理的M 性的M→
としても同じ濃淡が得られるだろう。
当然これらは一種の座標としての目安に過ぎず、
自己嫌悪と自由の重荷が混じり合うこともあれば、
プライドが高くて性的興味は強い場合もあれば弱い場合もあるだろう。
プライドが偽のプライド、自己嫌悪を抑圧した偽装の場合もあるだろう。
だが、こういう事を手がかりにして「地図」をつくり
自分のいる場所を確認したり、相手の居場所を確認したりする手助けにはなる。
結局、ひとつは、このような表層の地図をつくること。
それとは別に、なぜそのような地形ができているかを地層的に考えていくこと。
(なぜ、そこは盛り上がって山となっているのか、なぜ、ここに川ができたのか)
サディズム・マゾヒズムについて考えることは 地層形成について考えること。
SMについて考えることは、地図をつくること。
その座標として、東西にあたる内向型ー外向型 や、
東西南北にあたる 根無しープライドー自己嫌悪ー冒険・欲求型を設定することは有意味だ。
ただし、その方位磁石にどの程度有効性があるのかは常に現場検証が必要だろう。
男性Mと女性Mはどの程度隣接しているのか、あるいは被っているのか。
こういう事は即時的な実践者より、すこし離れてみている人間の方が見えやすいかもしれない。
そして、男性Sと女性Sについても。
個々の問題は、その道に小石が多いとか、舗装されてるとか地道であるとか
全体の見通し図の場合、一次的な問題ではない。
(重要でないとは言わない。まだ、俯瞰図ができてない以上、
それらは勾配や折れ方といった形で地図の一部をなすことになる)
とりあえず、色んな方位磁石を試してみる段階なんだろう。
正しい磁石は生き残り、狂った磁石は自然に淘汰されていく。
自分で判定する必要などない。まずは、方位磁石を作ることが先決だ。ということだろうな。
とりあえず、
プライド
/ | \
自己嫌悪 | 性的冒険・欲求
\ | /
根無し草
(拘束・服従による安心・承認)
(プライドを崩される安心・開放感)
てなとこかな。
西は鬱。 東は好奇心的躁。
北と南は 動機。
()の中は報償。
肉体の層と精神の層
当然だがマゾヒズムもサディズムも性(肉体)の関与がなければ
たんなる鬱、抑制障害にしかならない。
これは、M女が、M女である時に他の男に対する態度を見れば、
それが、一般的な礼節を捨象してもいいのだという態度に顕著に現れている。
肉体としてのMの層にあるから、M女はSと称する男に対しては、
ある閾値で、非礼な切り捨てをしても良いという態度を示す。
肉体の層としての座標に>781の配置を換える必要がある。
<心理的南北>
プライド
|
|
<肉体的性の東西> 罪障感――――――好奇心・欲求
|
|
自己嫌悪
心理的東西、
肉体的南北 がまだ欠けているのかもしれない。
こうしてみると、まことに見事に心理的南北に関してだけ
心理学のプロ氏が述べていたことがよくわかる。
784 :
乙!:2007/04/30(月) 12:12:25
●服従か反逆か●
愛とはなにか。
かつてえす氏が
サディストは「相手にとって特別な存在になりたい」と言った。(
>>238)
これが愛なのだろうか?
愛の原型を母子に求めるなら「母→子」「子→母」という2種類の愛が存在する。
「母」が子にとって特別な存在であることは先験的である。
「なりたい」というレベルではない。
子が母にとって特別な存在である、というのは果たして先験的だろうか。
それは「母が子を受け入れる度合い」に応じて、というしかない。
愛が先験的ではない他者(ここでは非母子という意味)同士の関係においては
愛は「母子状態」への回帰を希求する心理運動なのか。
愛は感情か?性欲は感情か?サディズムは愛の片輪なのか。
>>208で心理学のプロが書いている様な、
自己憐憫に隠したがっているもの、服従とは何かを、もっと詳しく知りたいのですが、
どなたか理解できている方がいらっしゃったら教えていただきたいです。
人それぞれで違ってくるのか、それとも根底は同じなのか。
787 :
没個性化されたレス↓:2007/05/10(木) 18:06:25
俺は自分よりも随分年下の女が
小さい子供に話しかける保母さんみたいなしゃべり方をしてくれると勃起する。
マゾなのかな?
788 :
没個性化されたレス↓:2007/05/10(木) 19:50:48
SはMも兼ね備えてるけど、MはSになれないと思う。
S(大人)M(子供)タイプと分けてもよいのではないか。
性的嗜好でSMでわけた場合、S中心だと相手を殺しかねない
だから、基本はM中心。Mが喜ぶように痛みつけるSが奴隷ともいえかねない
相手の喜ぶポイント いじめるポイントを把握してなくてはならない
Mはそれに素直に反応するだけだから、Mが多いわけ。
Sの方が思いやりがあると思う。男性の方が優しいともいえるのか?
本気だしたら、女性なんてイチコロに殺せてしまうわけだから。
女性の方がMが多いのは、相手に全価値観を預けたいから。
関係ないけれど、エステなど他人に自分の体を触られるのは
Sにとっては屈辱ではないか?支配されることは避けたい。
SMというのは相手があってのこと。
最近一番多いのが、人を使ったオナニスト。
これは人間関係 友人関係 男女関係 セックス 全般に考えて
相手のことを配慮していないオナニストのナルシストが跋扈している。
そういう人はプライドが高いので、たいていSと答えるだろう。
けれど、本当のSというのはちょっと違うと思うな。
支配してながら喜ばせてやりたいと思う。
精神異常とSを一緒にしないでほしいと思う。
S=攻撃的という定説はどうもしっくりいかない。表面だけで判断するなってこと。
789 :
没個性化されたレス↓:2007/05/13(日) 05:15:54
>>786 自己憐憫が隠そうとしているものは あの文脈(>207-208)では
自分に対する無条件の愛ではなく、
単に従属させるための偽愛で拘束する親への憎悪
という風に読める。
>服従とは何か
これも、心理学のプロ氏の文脈では、
精神的な自立を放棄して、表面的に良い子を演じることで
苦しい、悩ましい葛藤から逃れること
という風に読める。
>>788 >SはMも兼ね備えてるけど、MはSになれないと思う。
相手の像を自分の中に形成するためにM理解が必要という意味では
その通り。
Sは関係性。Mは内向性。
>基本はM中心。
「市民的SM」(文化としてのSM)プレイでは、そうだろうね。
ただし、それはきちんとそのへんを心得てるSの場合だけだ。
女子高生コンクリート詰め殺人事件を考えればわかると思う。
>Sの方が思いやりがあると思う。
そんなSばかりではないがねw
たまたま、良いSと巡り会ったのだろうね。
以下まとめて。
文化的SMの範疇でいうなら、異存はない。
本当のSと人を使ったオナニストとの差は、経験値と幼稚さの程度。
サディズムの定義は加虐性愛 そこに攻撃本能(扁桃体)がどう関わるか。
男性Sの場合には、能動的(働きかけ)がないと実践的には成立しないことは否めまい?
受け身の奉仕プレイのみを求める場合もあるだろうが。
793 :
没個性化されたレス↓:2007/05/15(火) 08:58:18
>>792 自分でもそう思うよ。
家族6人の中で俺が一番馬鹿にされてる存在だった。
父親は兄をひいきして、母親は弟をひいきした。祖母は特に俺を馬鹿にした。
子供の頃、自分にとってお姉さん的存在の女性を求めていた。
794 :
793:2007/05/15(火) 09:01:25
20歳ぐらいまでは、自分にとってお姉さん的存在の女性を、年上または同じ年の女性に対して求めていた。
しかし、30歳ぐらいの時、酒の席で20歳ぐらいの女が俺に対して「保母さんが小さな子供に対して話しかけるような」しゃべり方をして来たら急に勃起した。
795 :
793:2007/05/15(火) 09:03:30
それ以来俺は自分よりも随分年下の女が「●●君。いい子だから言う事聞いてね。」なんてしゃべり方をする度に興奮するようになってしまった。
咀嚼途上者さん。俺はマゾですよね?
>>795 Mってよりマザコン。理想の母親を求めてる。
「いじめられたい」と「守られたい」は違うんでは。
797 :
没個性化されたレス↓:2007/05/15(火) 19:45:49
会津若松の事件をサディズム・マゾヒズムで論じよ
>>795 クラフト=エービング〜フロイトまでの「マゾヒズム」には
「肉体的苦痛」を色情的快感として感じる、という線引きがあった。
これに精神的マゾヒズムが加わったもので、ややこしくなったw
精神的苦痛(としての屈辱)に色情的な(性的な)快感を得、
その妄想以外では昂奮しないというなら、精神的マゾの素質はあるだろう。
しかし、きびしく「マゾヒズム」を定義したいのなら
そこに「自己否定」が必要になる。
その自己否定を他者に求めるならマゾヒズム なのだろうな。。
(自分で自分を否定すれば「鬱」だ)
自己否定を他者に求めるなら マゾヒズム→精神的マゾヒズム
801 :
没個性化されたレス↓:2007/05/16(水) 21:03:59
802 :
自分のペースを崩されたい:2007/05/19(土) 16:12:42
自分はMだと自覚中
ドSを喜ばせることは出来るのですか
命令されるとキュンとなる…
あげます
804 :
793:2007/05/29(火) 18:52:13
>>798 レスが遅れてすみません。
俺はいつも「俺は駄目だ・・・・。」と思ってますよ。
だから欝ですか?
>>804 前のレスを読むと、自分で自分を責めていると言うより
近親者の判定を受け入れて自己規定しているだけのようにも見える。
若い女性に否定されることで、近親から受けた否定的評価を
若い性的な対象からの否定に置き換えて、逆に預けてしまう事で
楽になろうとしているようにも見えるな。
何度も繰り返し言うが、俺は心理学徒でもなんでもない。
だから俺の「解釈」はあくまで文学的解釈だがね。
先日TVを見ていたら、北海道大学で社会心理学を教えている
山岸という学者が面白い実験の話をしていた。
●与えられた現金を全体に供出すると、供出された現金が2倍になり、
倍になった供出金を供出者数で等分割りした金額が戻ってくる。
●供出金が少なければ、戻ってきた金額分との差額だけ儲かる。
その代わり、全体の供出金も少なくなって、全体としての利益は少なくなる。
という実験で
日本人はアメリカ人とくらべて、供出金が少なく、
個人の差額益に走る率が高かったそうだ。
集団主義と言われる日本人だが、結果は、決してそうはなっていない。
しかし、供出金がもっとも少なかった者には配当しない
という「罰則」を設けると、日本人の供出金はとたんに増えたそうだ。
日本人社会は、相互監視と罰則によって集団主義を成り立たせている社会だ、
と山岸という教授は解説していた。
監視と罰則。 これもまたSM「関係」の大きな要素だ。
こういった社会心理学的解釈を縦軸にもってきた方が
より立体的なSM認識に近づく気がする。
個人心理学で、超自我となづけられた領域を、
個人の外の社会からの圧力として外化させてしまい、
それとSMとの関係を探る方向。
808 :
没個性化されたレス↓:2007/06/01(金) 06:11:24
>>805 思春期に母親から性的嫌がらせを受けた。
だが、家庭で苛めの対象になってる俺は何も言えなかった。
母親は、俺以外の家族がいないところで俺に性的な嫌がらせをしてきた。
母親ぐらいの年齢の女を見ると吐き気がした。
>>808 正規のカウンセリングでは半端な分析は慎むことになってるそうだ
だが、ここは無責任な匿名掲示板であり、さらにいえば相談板でもない。
つまり、こういうことだろうか?
近親相姦への怖れから、齢下女性へ傾斜する。
その場合、きついことを言われると昂奮するというのはなぜだろうか。
甘い性的な誘惑は、母親を思い起こさせて嫌悪感しか催さないが、
きつい言葉なら、トラウマを思い起こさないということだろうか
810 :
没個性化されたレス↓:2007/06/02(土) 05:33:48
>>809 齢下女性から、きつい言葉でも優しい言葉でもどちらでもいい。
年上の女性が小さい子供に話しかけるようなしゃべり方をされると興奮します。
とにかく母親ぐらいの年齢の女に対して吐き気がしました。
随分年下の女ならばトラウマを起こさないと言う感じですね。
/⌒丶 /⌒\
/´ ヽ /、 ヽ
| / | / / |
. | .|_lヽlヽ, | ,/ . |
| | ´Д`ヽ/ ノ ,| たまらん
. | | | 丿 アホが同じ話を
ノヽ` ノヽ ` / 何べんも繰り返している
/ ,/ソ \ / 本人は気付いていない
( ,/ `´ |
\ イ ´ |
\ ヽ \ 八 ノ
ヽ ` ー ´人` /
\ / ´,、ヽノ
ノ⌒ / |
/ ノ_
| ノ ヽ 丿 \
/⌒l |. / \
/ l,丿 , っ . \
| / ´ /⌒`l \
丿 / , ./ ヽ ヽ |
/ |, | / )\ ヽ
ヽ ノ ヽ__,/ . ( _\_ |
(_)__)|___,/ (__)_)_)ヽ、__/
>>810 君がマゾであるのか、成熟した女性への恐怖症なのか、
俺には興味はない。 俺はカウンセラーでもないし、専門家でもない。
ただ、なぜ自分をマゾと認定されたいのか。(そう、見えた)
そこに少しばかり好奇心がある。
いずれにせよ、性癖というのは実はさほど固定的ではない。
フロイトの洞察によれば性的履歴の中の一時期への固着はあるだろうが、
その一点から時間的に(つまり年齢的に)遠ざかり、
なおかつ、自分の中に新たな時間が降り積もっていけば、変容する可能性はある。
ただし、>811が言うように、過去の一点(トラウマ)への定同的な繰り返しの中へ
執着的に戻って現在へたどり着けないなら(脳の内部で過去のみを生きるのなら)
それは鬱状態の徴候だとも言えるのだろうな。
(もう一度言っておく。俺は素人だ。そして、いつまでもつきあう気はない。
君自身の性癖なのだから、自分で考えるべきだろう。 ここの皆がそうしてるように。)
813 :
没個性化されたレス↓:2007/06/03(日) 05:46:28
814 :
没個性化されたレス↓:2007/06/06(水) 18:12:32
プレイとしてのSMには全く興味がないけど、自分の分解再構築作業中なんで
ココと前スレを自分の経験と照らしながら読んでみてイロイロ参考になったよ。
気付かされたこともあったし。
そのむかし、家庭教師派遣業の会社のCMで、
「MOTHER」から「M」を取ったら「OTHER」他人です。というのがあったけど
そういう意図があったのか本質を貫いてるねwまあ世界と対峙するためにMを
取らなきゃならないのは母からじゃなくて自分からなんだけどさ。
>>815 了解。
少なくとも幼少時の親から受けた影響は自分の一部だから、
それを「否定」するのではなく 「分解再構築」するのは
人生的にはいい方向だと思う。
くれぐれも自己否定に陥らないことを祈る。
親由来の自己嫌悪があれば、それは親のせいにしてしまった方がいい。
(実際そうだから)
実際に母親を殺してしまった事件があったが、
あれは、実際には自己否定の延長であり、あるいは親から愛情を
受け取れなかった故の冷血化だと俺は考える。
(追記)
大事なことは、即自的に「俺はダメだ」と思うのではなく
そんな自分をも対象化して「ダメな俺」ってなにか、
さらにはそのまま自分を棚にあげて、「ダメ」とはなにか自体を問題にする。
そういった「分解再構築」が大事だと俺も思う。
苦痛もあるし、時間もかかるが。多少のカタルシスや喜びがないこともない。ゆっくりやるこった。
(ひとつ疑問があるのだが、前スレはまだどこかで見れるのだろうか?
ニクちゃんでは見れなくなったような気がしてたのだが、、、)
ーーーーー本題 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
男性Mと女性Sには、性的転化願望が潜んでいるのではないだろうか。
全的な異性化ではなく、部分的な異性化願望という意味だが。
そして、その部分的な異性化をおこなう場面として
「SM」という公認された概念が、現在の日本には用意されているから
そこを使う。
M男性にとっての痛みは、女性の出産や破瓜の痛みへ近づくことではないのだろうか。
先日TVをみていたら、女性監督の河瀬直美が
「出産の痛みはまったく覚えてなくて、セックス以上のエクスタシーを感じた」と言っていた。
これが、M男性の無意識で目指されているのではないだろうか。
S女性は、SM場面において膣性交は忌避する。
しかし中には男性Mからの舐め奉仕は許容するものもいる。
クリトリスは男性の「亀頭」と対応する器官だから、S女性の部分的男性化願望に抵触しない。
それらの、異性化願望が、なにに由来するのかについて、
フロイトの見方が正しいのか、あるいはユングのいうアニマ・アニムスが正しいのか。
それは発生論の問題だが、
SMという装置が用意されているというのは、幼児の状態にとって先験的ではない。
したがって、サディズム・マゾヒズムというのは、発生論だけでは不十分だ。
そして、性 に重きをおきすぎるというフロイトへの反撥から「脱性化」して
現象学・社会と個の関係にのみ分析を限定した心理学でも不十分だ。
>>816 >くれぐれも自己否定に陥らないことを祈る。
おれにとって問題の基点はそこだったんだよね。苛立つ自分を自分らしいと受け容れて、
イヤな思いをした事を何百回、何千回と再現して望んで自傷するような格好になっていた
ということ。明らかに根源的な欲求から外れてるのに何の為に?と。等々
まあ自分語りがしたいわけではないし、論も証拠(自分)も立ってるわけではないので、
追々流れに合わせて語り合いましょう。まあ完全に乗り遅れた感もあるから先については
なんともいえないけど。
820 :
没個性化されたレス↓:2007/06/10(日) 04:00:13
自分には英雄主義的なところがあると思う。
この英雄主義が、メサイア・コンプレックスという名のマゾヒズムだと最近知った。
なぜ、自分にメサイア・コンプレックスが生まれたのか?
まあ、ここが自分を自分で理解する「肝」だなとは思う。
しかし、それをはずすと、たとえマゾから逃れても、
自分に価値はなくなるような気がする。
マゾヒズムという価値(笑)。
英雄主義な自分を見渡してみて、どこにもストレスを感じていないなら、根っからの
英雄主義な人なのかもしれない。
どっかで生きにくさ、矛盾を矛盾のまま置いておけない、またそれによって押しつぶ
されるように感じるストレスが生じているなら、マゾの英雄主義と言うことでしょう。
ねじれ、ひねくれ自己制圧を取り去って、おもむくままの感情を風通しのいいところ
にさらしておけるようになれば、進むべき道、生まれた時の万能感の中でこうありたいと
思った自分と人生が見えてくるんじゃないか、と思うことにしています。
とりあえず。
>>817 >ニクちゃんでは見れなくなったような気がしてたのだが
そこ行って マゾヒズムの心理 で検索、出てきたタイトルをクリックすれば
見れるよ。あるいはじぶんちのホストによって蹴られる場合があるのかもしん
ないけど。
824 :
没個性化されたレス↓:2007/06/19(火) 16:54:55
親の過干渉・過保護がサディズム・マゾヒズムの根本にあるのかな?
【英雄】 @艱難辛苦→A打ち克つ→B大衆の称賛(支持)
@の部分だけ(あるいはAまで)がマゾヒズムと関連しそうだが。
Bの代わりに得るのが性的(精神的性も含めて)快感という部分が
決定的に違う。
826 :
英雄主義的な男:2007/06/23(土) 03:14:04
>825
サンクス。そうか。Bの「大衆の支持」こそファザーシップの源泉だと思う。
そのファザーシップを機能させている状態が、自分にとって健康な状態。
そのBが「性的快感」というものではない。
しかし、「大衆の支持」に「(精神的)快感」を求めていないとは言えない。
そこが、メサイア・コンプレックスと英雄主義の違いかも知れないが・・・。
827 :
没個性化されたレス↓:2007/06/23(土) 03:38:36
質問ですが、幼少の頃からなんでもないことで家族に責められつづけ悪者扱いされ、気づけば責められるのが当然のようになってしまったのですけれども
そういうのはマゾにつながってしまうのでしょうか
家から逃げ出すわけにも行かず、家族の好き放題になってしまっていたのですが
はっきり言おう。
俺は、飲み会や雑談の場で「あいつはMだ。こいつはSだ」と抜かす輩が心底ムカツク。
いつ自分がその勝手な決め付けネタのターゲットにされるかと思うだけで腹が立つ。
こういった話題で盛り上がる連中というのは、平気で他人を扱き下ろして喜ぶ連中だ。
本当に気に喰わない。そして怒りを覚える。
829 :
没個性化されたレス↓:2007/06/23(土) 14:58:11
俺はマゾなんだけど両親は普通に優しい。父親に至っては面白いし話もあう。
18になった今でも親とは仲良くしてるし…これはどういうことだろう。
俺自身はかなりヲタだけど社交的で明るい性格と思ってる。
高校時代はクラスの連中みんな俺がマゾって知ってたし、女子はふざけて叩いたり蹴ったりしてきた。
そうやって痛めつけられて嬉しかったからやっぱりマゾなんだと思う。
それどころか最近じゃ微妙に女装癖まで出てくる始末
でも何故こんなんになったのかわからない。
何かトラウマがあるわけでもないし。
強いて言えば小5の時にパソコン買ってエロサイトめぐりしてたくらいか。
>>829 マゾが痛められつけて喜ぶんだったら今すぐオマエをぶん殴りに言ってやろう。
しかし、きっとオマエは喜ばない。
マゾヒストは自分の描いたストーリーに沿わないことには憤慨する。
あくまで自分で決めたストーリーにこだわる。それがマゾヒストの特徴。
832 :
没個性化されたレス↓:2007/06/23(土) 18:32:17
>>832 ひとつの画一的な仮説
親の愛を奪うおとおと=弱者へのあこがれと愛情の混乱。おとおととの同一化=M
親のセックスを見た記憶が有る?親がセックスしたからおとおとが出来たって知った
のは何歳くらい?カウンセラーとかじゃなくてヨコシマな興味から聞いておりますあしからず。
>>824 あると考える。
SMの根本とは思わないが、
サディズム・マゾヒズムと呼ばれる性的イリュージョンの持ち主になる
「素質」が形成されやすいと思う。
過保護も過干渉も、孤独な空想に逃げざるを得なくなるからだ。
フロイト流のエディプスコンプレックスは日本人にはあてはまりにくい。
去勢願望というのは、割礼習慣のあるユダヤ人ならではの発想な気がする。
日本人の場合は、過保護や過干渉の方が要因としては強いのではないか。
ここの理路が腑に落ちる形でつながればよいのだが、
これはこのスレッドでずっと思索中の課題だ。
835 :
没個性化されたレス↓:2007/06/25(月) 21:50:47
小2の頃初めて親のセックスを見た。母親のすすり泣くような声を聞いてトラウマ化
二十歳になってもその記憶が片隅にあってセックスをする際自分も同じような声を
あげてる事に対して自己嫌悪になる
だからかわからないけど異性に対しても同姓に対しても攻めるの大好き、相手の
反応見て満足してる(not sex)。
これも親からの影響に関係あるのかな?
>835
なぜトラウマ化したのだろう?
なぜ子供は親のセックスを想像したくないのだろう?
(実際俺も想像したくない)
母親の動物性にショックを受けるのだろうか?
母親が父親と自分(子供)を忘れて
自分自身没頭してることに不安、または嫉妬を覚えるのだろうか?
すすり泣きに対する嫌悪感はどこから起きたのだろう?
(答えを知っていて反問しているのではない。)
男性化願望があるよう読めるのだが
それは母親の「女性性」に対する嫌悪(または反発)からだろうか?
>>835 >小2の頃初めて
その後何度も見たの?怖い物見たさ的な表層意識に突き動かされて目を背けるよりは
潜んで様子を伺っていた?喘ぐ自分への嫌悪に、無意識に母親の模倣していた自分を
見る思いがあった?ヨコシマですんません。
>>836 喘ぐ段階というのはやはり自分自身の快楽に没頭(ある種の退行)してるのかね?
理性的で、冷静で、そして強い(泣かない)。
子供は親に対してそういうイメージを持っているだろう。
>>835は親のセックスを見てしまったことで、そういった強固な母親像を壊してしまった。
だからトラウマになったんじゃないか?
839 :
没個性化されたレス↓:2007/06/26(火) 00:53:47
>>836-838 ありがとう。あなた方のレス読んでたら何か見えてきた気がした。
トラウマの理由はまさに
>>838 両親のセックスはその日から敏感になってしまったのかすぐ気づくようになって
何度か見た。
男性化願望は確かにあるし、セックスの時自分が攻めてなきゃ気がすまない。
最中も時々何故か正気に戻って自分の喘ぎを聞きたくない聞かれたくないって
一瞬本気で思う。だから快楽に没頭してるのかよくわかんない状態
自称Sだし実際周りからも言われてたから今更気にすることないかなって思ってた
けど、女なのにいまだに母親と性に関わる話をまともにしたくない(母親は振ってくる)
って事は結局自分のダメージ回避のためなのかも。で、悪循環してまたいじめちゃうのかな…
>>837 自己への没頭とM性とはつながりがあると思っている。
Sは自己の快楽に没頭はしない。
男Sならプレイ中勃起すらしないことも珍しくないと聞いた事がある。
女Sが濡れるかどうかは知らないが。
快楽への没頭が退行だとは思わないが、女性のマゾヒズムは正常である
というフロイトの暗示(娘のアンナ・フロイトは女性は皆Mだと展開した)
に関して、今回の会話からすこしヒントが得られた気がする。
女性マゾヒズムを、女性の性と痛みはセットである(破瓜〜出産)として
マゾヒズムをそれへの準備、または対抗策とみるサーシャ・ナクトの解釈も
捨てがたいが。
>>840 全く説明しなかったけど、快楽への没頭を退行としたのは、女性はsexを通じて脳を退行
させていきオルガズムに至って真っ白=真っさら=生誕のときの精神のコピーを卵子に
乗せてそれが腹の子の精神の核となる。これはつまり地球で最初に交尾したメスの真っさらの
精神のコピーでもあるわけだけど、その精神の核と共に腹の中で生物の進化を歩んで
赤ん坊となるのではないか、という個人的な仮説があるから。受精時のsexの満足度と子
の人格に関連があるのか等。学術的な裏づけの無い直感論の一部を書き表してみたかった
だけなんであしからず。
ところせ、おれもSのままでいては女は性行為による満足は得られずじまいなんではないかと
思うんだけど実際の所どうなんだろう?
>>841 おもしろい仮説だとは思うが、
卵子が子宮内膜に着床する時期と
懐妊の瞬間では時間的にかなりずれがある。
性交中に卵子が偶然着床して懐妊するというは相当レアケースだろう。
詩的イメージとしてはなかなか美しいと思うのだが。
受精時の満足度と子供の性別の確率との関係についての
仮説は聞いたことがある。
(膣内のアルカリ濃度が変化して精子の選別が行われる)
女性Sはプレイ中に性交はしない、というのが一般的なはずだ。
クリトリスに対する奉仕を求めるというのはあるだろうが、
M男性やS女性のブログを読んでいると
膣性交にまでいたるケースは今のところ見たことがない。
これは 女性Sと男性Sとは違う、という俺の仮説の根拠のひとつだ。
女性Sと男性Mには異性化願望が潜在的にある、というのが俺の仮説だ。
それぞれの異性化願望は違う経路を辿ってそうなる、と思われるが。
Mに関しては男女ともに「自分からズレ続ける願望」がある。
男性Mの場合は、受動性から女性化願望が芽生えるのか、
フロイトの言うように、エディプスコンプレックスから同性愛的な傾向が芽生えるのか、
考えどころだが。
女性Sの場合は、たとえばレズビアンなら
はなから男役であるだろうし(レズといってもいわゆるネコは一時的だ)
性的にはヘテロであっても
S女には、自分の性に対する否定が潜んでいる。
(すくなくともSMの場面においては)
その異性化願望がなぜあるのかということの根拠に
母親の性交を見たトラウマというのは、
ひとつのケースとして俺には納得しやすい。
ドゥルーズが「女Sは男性Sの代理」に過ぎない、というのは
あくまでマルキ・ド・サドの小説に現れるS女 という限定がつくが、
二次的な観察にすぎないと思う。
同性をイジめたいというのは男性化願望が潜在しているからだ。
(その奥には、無意識の母親否定、嫌悪、があるのではないか、というのが俺の仮説)
>>842 空想の世界の話をくどくど説明するのもどうかと思うが誤解があるようなので一応説明しておくと、
卵子に乗った精神の核と共に精子を受け入れ受精し外の世界に生まれ出るかどうかの決定に関わる。
あくまでもコピーの元でしかないので、必ず生まれ出ると言うわけではなく受精しないとなればその場で
消えてしまうイメージ。
何故このような仮説に思い至るかと言えば、深い性的満足を得て腹の息で喘ぐ(細かいこと言うとその
最中に薄目を開けてキスを求めるしぐさ=授乳の代用行為か、とか)女性と、いわゆるオンギャアという
赤ちゃん独特の無心の泣き声の、発散することによって充足しつつ求めている感じに共通性を感ずると
いうことと、心身ともに子が自分のコピーであると言う来歴、意識が、境界を無きものとし、母性愛=共依存、
分離不安=宿命的なMの種をまくこととなっているのではないかと思えるからである。
>>844 母親の性交は有る意味許容範囲なので記憶に残ってトラウマ化し、父親の性交はその範囲を超えているので
表層ではあまり意識されずに深層で男性化願望を後押ししているのかな?本人の考えを聞いてみたいとこだ。
イク=逝く
女性のエクスタシーに対する反応をみると怖がってるみたいだよね?
エクスタシーとは臨死体験なのかな?だとしたら何の為なんだろう・・・
怖いものが欲しい与えたいってムチとロウソクがなくてもSMそのものだよね。
臨生か臨死か。
臨生=臨死なのか。
一度真剣に死のうと思ったことがある。新品のカッターナイフを首の脈打つ所
に押し当てて・・・振り下ろせば死ねる。結局怖くて死ねなかったけど、あのときぼくは
「生まれなかった」のだろうか。決断と躊躇はそのたびに臨生の記憶を呼び起こすのか。
居心地のいい胎内からの排出が「追い立てられ決断を迫られたた経験」なら、生まれる
とはそもそもそれ自体苦痛な経験なのだろうか。
日常において、促し、促される関係との関連性。
ところで「心理学のプロ」は哲板「自分を見つめていく」の1や2なんかで語ってる「K」(あるいは
その語り合いの相手の「T」も)と同一人物なんだろうか?
いまはメチャメチャなスレになっちゃってるけど。
>>847 哲学板をざっとスクロールしたがわからなかった。
そのタイトルは自己完結的な彼らしいタイトルだと思うがw
849 :
没個性化されたレス↓:2007/07/04(水) 05:11:05
850 :
没個性化されたレス↓:2007/07/05(木) 18:46:12
851 :
没個性化されたレス↓:2007/07/07(土) 08:07:14
エクスタシーと過呼吸は似てるよな。
852 :
没個性化されたレス↓:2007/07/07(土) 10:59:04
5月27日から北米での劇場公開した今敏監督のアニメ映画『パプリカ』の好調が
続いている。6月最終週の興行で公開から6週間目を迎えた『パプリカ』は、先週
から公開劇場数を6つ減らし31館での興行となった。
しかし、米国の映画興行情報サイトのBOX OFFICE MOJOによれば、週末の興
収ランキングで依然35位につけている。この結果『パプリカ』の累積興収は、約57
万5000ドル(約7000万円)まで達した。
この結果、『パプリカ』の興収記録は、同じ今敏監督の『東京ゴットファザーズ』の
4倍以上、『パーフェクトブルー』の5倍以上である。この数字は作品が2006年のベ
ネチア国際映画祭のコンペティション公式出品であったことに加えて、今監督への
世界的な評価の高まりも反映していると思われる。
またこれまでの累計興収で、『AKIRA』や『攻殻機動隊』、『スチームボーイ』といっ
た日本の大作劇場アニメの興収記録を上回る歴代14位に浮上した。これより上位に
は『ポケットモンスター』などの児童・学童向けのアニメとジブリ作品と『イノセンス』、
『カウボーイビバップ 天国の扉』、『メトロポリス』の3作品のみとなっている。
今週以降は公開から既に1ヶ月半以上経っていることもあり今後は興収の大きな
伸びはないが、着実に数字を積み重ねそうである。
興収5000万円突破は2005年の『ハウルの動く城』以来のものとなり、『パプリカ』は、
日本のアニメが最も苦手とする北米の劇場公開の市場で価値ある実績を残したと
言えるだろう。
『パプリカ』公式サイト
http://www.sonypictures.jp/movies/paprika/site/home.html ソース(日本アニメの北米歴代興収トップ20)
http://animeanime.jp/news/archives/2007/07/akira74.html
854 :
没個性化されたレス↓:2007/07/11(水) 19:07:23
サディストというより、生きた人間とは関係が結べなかったのではないか。
856 :
没個性化されたレス↓:2007/07/20(金) 23:52:21
>>855 それよりも故人となった英雄を好む者の心理を知りたい。
>>239 自分では『エセ牧師S』と『ごめんなさいM』の両方持ってると思うんだけど、Sの気持ちが分かるMなのかな。
性的なモノに対して、相手には汚いモノじゃないって言い聞かせるし、実際汚いなんて思わないんだけど、自分が性的な事をするのには罪悪感がある。
こんな風に性的なモノに対してのイメージが、自分と相手だと違う人っている?
遅レスな上に、場違いな質問だったらスマソ
858 :
えす:2007/07/22(日) 13:25:56
>>857 俺が書いた前のレス、今読むとちょっと断定的過ぎると思いました。反省。
考え方の根っこは変わってないんだけどね。
で、質問の件ですが…全然おかしくないと思いますよ。
自分に無いモノを求める、自分が潜在的に抑えてるモノを出せる人を求める、それはSMに限らず、
ある程度深い関係になれる人間同士なら普通によくある事だと。
これはただの予想だけど、あなたは相手に
「汚なくないよ、キレイでいい事なんだよ」
って言う形を取る事でバランスをとっているのかな?
半分は自分に言っているような感じで。
本当は自分が、誰かにそう言ってもらいたいのかもしれない。
でもそれは、全然悪い事だとは俺は思わないです。
『自分の代替としての相手』
言葉にすると冷たく感じるけど、そうやって自分を知って、認めていければ。
>えす氏
その「自分の代替としての相手」に
>847で名無し氏が書いている
「促し、促される関係」が加えてみるとSM関係の萌芽、なのだろうか?
一応、現時点での俺の理解では、Mは自己を責める「自分」の部分をSに預ける。
という風になってる。
女Mは最後の地点で自己完結的。
男Sは最後の地点で他者完結的。 ではないのかな、と。
男Mには、
女王崇拝的な側面を持つもの(母子一体を目指す側面)が表にでているタイプと
女王を利用して(言い方は悪いが
)罰せられることで自己解放を遂げる(自分イメージから自分がずれることで
固定化されそうな自分イメージを解放する)方に力点が置かれてるタイプがいる気がしてる。
861 :
えす:2007/07/23(月) 12:24:30
>>859 大体そんな感じかと。
そのMの分類は、俺も似た感覚がある。
許されたいか、否定されたいか。
ただ全部が一時的なんだよな、SMって。
まれに強い依存に陥る場合もあるけど、それは病的になる。
結局、苦しんでる過程がSMなんだと思う。
だから
>>857には、SかMかって部分には答えなかった。
自分の苦しみは自分で理解しなきゃ意味無いし、気付いたら見える事が個人個人であるはずだから。
通過儀礼としての親殺し。
それが忘れられないから繰り返す。
それが出来なかったから求め続ける。
同じ童話を、何度も何度も読み返す様に。
それはとても自分勝手で、だから止められないんだろうね。
862 :
没個性化されたレス↓:2007/07/25(水) 04:56:32
もう一度、書き直しておく。
(言い方を細かくするだけで、 内容は
今まで考えてきた事の繰り返しだがw)
自己(自我)を自己(超自我)が責め立てれば鬱。
この自己を責める自己(超自我)の部分を、
他者(S)に代行させるのがMにとってのSM。
(この時、相手に対する信頼関係を重視するなら、最終的には赦しが希求される。
えす氏のいう暴君型が相手ならば、罰せられること自体が求められる。
相手が暴君型の場合、その暴君は親由来の超自我というより
親を通して刷り込まれた社会的規範としての超自我という側面が強い)
この赦しも罰も性的関係の中で行われるので、
当然、一時的な解放となる。
そのため、この一時的な解放を常時求めるなら
「飼われ」の中で性的関係を日常化する欲望が生まれる。
(その中では疑似「社会の性化」として
露出や見知らぬ他者の介入へと発展する)
これは、まだ仮説にすぎないが、
許され希求型の超自我(規範)は親との個別的な特殊性が強く
罰希求型の超自我は親そのものから刷り込まれた超自我の社会性が強い。
フロイトは超自我を父親由来に限定しているが、
これは個々によって違うのではないだろうか。
父親が家庭との接触が少なければ、禁止を与えるのは母親の方が多いだろう。
(フロイトの被治療者は裕福な白人家庭の男性が多く、
当時のヨーロッパ富裕改装では十分に父権が強かったために
フロイトは父親の影響をまのあたりにすることが多かったのだろう)
Mの超自我に与えた影響に父親由来が強いのか、母親由来が多いのか
そういったことがMのタイプに影響を与えるのではないだろうか。
さらに、Mの性別によって、父母いずれの影響が強いのかによって
求めるSのタイプも変わってくるだろうし、もちろん、
その(超自我の)内容によっても求めるタイプは違うだろう。
Sにとって、罰すべき(加虐すべき)超自我もまた、それぞれによって異なる。
しかし重要なのは、これらがあくまでも
「性的関係」の中で行われる行為 だという事だ。
そして、Sにとって大事なのは、
加虐行為を通してMの超自我と自我を変容させる欲求であって
自分を加虐するタイプが重要なMとは違って、
相手のタイプの選別はおおざっぱですませられる。
なぜなら、
MにとってSMは自己の内部の問題であり、
Sにとっては関係の問題であって、
デフォルトの相手自我そのものよりも、
それを 「変容」させることの方が重要だから。
>864 はもっと丁寧に、
男Mと母 男Mと父 女Mと母 女Mと父
でそれぞれに考察すべきだが、今日は集中力が切れたw
時間もないので、いずれまた機会があれば。
(次にレスを書く機会がある時、
必ずその事について書けるとは限らないので あしからずw)
867 :
没個性化されたレス↓:2007/07/26(木) 22:13:24
868 :
没個性化されたレス↓:2007/07/30(月) 15:31:06
男でソフトSM両方持ってる。
相手の理想はいわゆる「大人の女性」かな。
学生時代好きになった女性はいつも手の届かない教師や講師であり、
21歳の時14歳年上でも俺は好きになれた。言葉に凄くやさしさを感じた
からだ。年下はいくらかわいくても好きになれなかった。
オーダーメイドでセーラー服や黒と白のメイド服を買って部屋で着てオナニー
することもある。ビデオでは、完全に脱がされて裸でプレイしているよりも
完全に脱がさないで胸を出して胸の上のラインまで上げるのが良い。
女性の性器は関心があまりなく、胸が命である。巨乳好き。
オナニーするときはたいてい胸を見ながらする。
ビデオで男Mを見るのは気持ち悪くて見れない。S女とM女が一番良いが、
S男とM女でも良い。女教師や看護師その他OLなどが、両手縛られて
どんどん縛られていくとマジ興奮しまくる。「こんないやらしい格好
して、男を挑発して、もっといやらしい格好させてやるよ」
一方で、女王様に縛られたい、犯されたい、という気持ちはあるものの、
ペットになりたいとは思わない。「お許しください」って言ってみたい。
まぁソフトの範囲内ならどうにでもしてくださいみたいな。
そんなステータスですが、分析可能ですか?
甘えん坊のめんどくさがりのフェチ野郎でしかないんじゃ
蟹
セックスの延長ではなくその精神性からSMを求め、体験してしまった場合の
S・或いはMを、真性と呼ぶのでしょうか。
ここでは、内向型、外交型とMの座標を設けていますが
真性と、プレイとしての(快楽のみの?)SMの違いとは何ですか?
>871 より考えを進められないかと仮に座標を出してみたのは俺個人で
このスレ全体のコンセンサスというわけではない。
俺の現在の思索レベルでは真性という弁別はでてこない。
せいぜい各座標のどの位置にあるかという程度の分析でお茶を濁してるだけだ。
いいかえれば軽度から重度という幅は設定できるかもしれないが
真性という断層を見いだすことはできない。
フロイトが鬱について、たんなる落ち込みとの違いを
「自我の縮小」と断じたような洞察がまだ得られてないだけかもしれないが。
プレイとしてのSM を俺の使ってる「市民主義的SM」というふうに置き換えれば
その違いは、単に、社会的に認められる範囲でのSM、
風俗の一種として、あるいは性の「形のひとつ」として
「社会に公認」される方向でルールを設ける志向があるかないかの差にすぎない。
(これは市民主義SMが「真性」ではないという意味とはまったく違う)
もし、真性というもののイメージをはっきりさせてくれれば
俺に限らず、それについて考えることができるかもしれない。
>>872 ご回答有難うございます。
成る程…確かに、どこからが真性、というように境界線を引くのは
難しい行為かもしれません。
私の中でも明確なイメージはまだ描けていないのですが、敢えて言うのなら
真性とは、SMなしには生きて行けない
(願望が強く、SMをしなければ日常生活に支障がある(Mの不安定さ・ある種の自傷癖))
(発散しなければ犯罪に繋がる可能性がある(Sの攻撃性))
というイメージです。
或いは、罪悪感を持ちながらもやらざるを得ない欲求に従っている場合。
しかしこれが快楽に転化し罪悪感が和らぐか否かは、パートナー次第のようにも思えます。
>>873 それをSM依存(中毒)と捉えると、どこか違うのだろうか?
SM関係ではなく SM「行為」そのものへの依存が強度だということだろうか。
では、逆に、真性ではないプレイとしてのSMはどんなイメージだろう。
依存に陥ってない、
「味付け」として行う性行為のバリエーションで済むということだろうか。
あるいは、病的にではなく、
適度に「楽しんでる」範囲なら真性ではないのだろうか。
酒をたしなむのとアル中の違いのような。
それならDSMのサディズム・マゾヒズム
>>249-250でいいんではないだろうか
(真性の定義)
だが
>>873氏はMの不安定さをわかっているようなので
ほんとうはもうすこし違う事を示したいようにも感じる。
Mの不安定さ(特に女性)は重要。
Sの犯罪性も微妙な問題。
876 :
紅:2007/08/02(木) 19:42:29
>>875 SMでは、Sとの関係性を重要視するMが多いでしょう。
しかしか真性かどうかを判断する際に重要な材料は、
SM行為そのものに対する依存性ではないかと感じています。
肉体への刺激による思考の停止・遮断においてでしか精神の解放を味わえない、
安息を得られない構造、
また、それらを手段にSに受け入れて貰おうと(支配されようと)する思考
に着目しています。
つまりSM行為が、目的ではなく、常に手段として存在しているということ。
(プレイ=楽しむSMなら、それ自体が目的では?)
そうなると
>>249>>250で良いように思えるのですが、
咀嚼途上者さんの仰るようにいまいちピンときません。
主のいいつけに首を横に振らず、且つ自らの悦びとして取り込めることが真性であるということなのか、
はたまたその貪欲さを示す尺度なのか…。
素直に、SMに捕らわれた、病的な欲求を真性と定めれば良いのでしょうか。
すこし「関係性」という時の内容が違うような気がする。
Sが計る関係性は、距離の計測、そして相手の受け入れ度の確認・入り込み。
つまり、関係性を通して、「最終的には」他者完結的だ。
対して
Mの関係性という時、それは儀式的だ。
服従の心構えだとか、奴隷としての出来・不出来といった形式にとらわれる。
直接Sの心性を計るのではなく、意図を推し量るだけだ。
それらは「自分の」服従への判定だ。
最終的には距離ゼロの「自己完結」が、自我消失が、快感、解放とともに目指される。
おれにはむしろ「楽しむSM」の方が実はよくわからない。
DSMはよく考えられていて「現象」として(症候)として
どんなヘボ精神科医でも診断が下せるという目的で作られている。
意図的に「現象」をしか述べず、
いかなる心理にも精神分析にも触れないようにわざとしている。
なぜ、真性というレッテルにこだわるのだろうか。
SM板で見かけた「どS」「鬼畜」なるものは
ただのバカか偽Sにしか見えなかったのだがw
SM行為が手段として存在しているというのは
セックスが愛の確認のために存在している、という言い方と同じように
一種の純粋主義のようにも思える。
別にそれが悪いとは思わないが、
サディズム・マゾヒズムの本質を考えようとすると
性の側面を過小にすると、単なる鬱しか残らないような気がする。
(実は、鬱回避としてのSMというのはかなりあると思ってはいるが。)
>すこし「関係性」という時の内容が 違うような
\_俺とは
<覚え書き>
刷り込まれた【超自我】が強すぎる場合
「命令」や「服従」「しかたない状況」といった
自分の性へ没頭するための言い訳としてマゾ的空想・プレイを必要とするタイプ。
これはいわゆる「いい子」「優等生」に多いのではないか。
その場合でも、【超自我】が崩されるわけではない。
自我を否定されることで、
超自我に従えない自分を犠牲者に擬するか、
命令への服従という形式で、性の没頭への扉が開かれる。
保存された【超自我】は、Sの時にはMの自我を崩すために使われる。
これが、SM混在の仕組みではないだろうか。
>これが、SM混在の仕組みではないだろうか。
↓
これが「同一人物の中に」
S性」とM性が混在しているようにみえる時の仕組みではないだろうか。
882 :
没個性化されたレス↓:2007/08/14(火) 06:16:27
>>881 あなたの中にはS性とM性は混在してるの?
服従願望の奥にあるのは 自己放棄願望。
自己放棄願望の奥にあるのは 超自我の抑圧。
この超自我「から」の抑圧は現実の抑圧とは異なる。
与えられた所与によるすり込みが超自我の形成を行う。
現実の、というより「関係」から行われる抑圧は
関係の変化によって、取り払われるが
刷り込まれて「自分」の一部を占める超自我からの抑圧は
やっかいだ。
>882 前スレで心理学のプロ氏に「自立しているのか」と問うた者と
同一人物だろうか?
とすれば、けっこう息長くこのスレにつきあってるな、と感心するw
自己放棄 は 自分の肉体を「商品」化する願望をも生む。
今のSMは資本主義と無縁ではない。
Sに己を商品化する願望は生まれないだろう。
売り主としての優越感?
だが、封建的な所有者であることへの願望のほうが強いのではないだろうか。
そこでは、商品化へと、己を放棄させたという過程の満足はあっても
商品化それ自体はSにとって何かの達成ではないだろう。
高度資本主義化とMの増加は関係しているのではないだろうか。
885 :
羊:2007/08/23(木) 19:06:24
上から読ませてもらいましたが、ものすごく勉強になりました
目から鱗とゆうか人生で一番大切な事の真理、人間知を知った感じです。
無私、無我の状態、依存も支配もしなくても今ここに在る存在になれた時
いわゆる悟りに達したことになるのかもしれない。宗教がらみの話になるのですが
イエス・キリストが説いた生き方、隣人愛、許しをする事により、無我・無私の状態に
なれ悟りをひらけるのではないのかなと思いました。やっぱり共同体で生きている限り
真にヒューマニストでなければ無我・無私の状態になるのは難しいのかもしれませんね。
キリストもまた父(神)への強いコンプレックスをもっていた
と解釈すれば、マゾヒズムと関係させられるかもしれないが
実在したかどうかわからない歴史上の人物にそんなあてはめをしてもしかたない。。
ただ、宗教とマゾヒズムはかなり連結しやすいように見える。
「マゾヒズムの発明」でも、なかの一章を、
鞭打ち教徒などの宗教とマゾヒズムの関係に割いていた記憶がある。
日本でも、修験道などでの、先達にたいする後輩の絶対的服従など
なんらかの意味でマゾヒズムと関わらせて考えることもできるかもしれない。
その場合、問題はサディズムなのだが、そちらは別の考察が必要に見える。
(そのあたりはまだよい切り口がわからない┏○)
ちなみにオレの知ってる範囲で言わせてもらえば
表層的なヒューマニズムを唱えてる人間ほど
実はエゴイストでニヒリストだったりする。
888 :
えす:2007/08/24(金) 10:22:31
だね〜
ま、ニヒリズム自体は
日本人の平均的で平凡な思想だけどな。
これは地震と台風と四季が関係してると俺は見てる。
日本人のヒューマニズムが怪しげなのは、キリスト教的な「愛」概念がないのに
人間「愛」などを持ち出すことで、一種のモラルエリート臭・啓蒙家的な
「上から目線」がかなり強かったからだ。
フーコーによれば人間という概念はまだ新しいそうだが、
人間という考え方は嫌いではない。
インディアンは特別に自分たちを指す名称を持たなかったそうだ。
それはネイティブアメリカンなんていう政治的でちんけな名前よりはるかにいい。
人種・民族・国民・村人といった「所属概念」でした共同性を担保できなかったのを
人間という概念で拡張するというのはアジア人にはできなかった発想だろうし、
なかなか悪くない。
ただ、欧米流の 先験的に動物との対立概念として人間を特別視する
過剰な(欧米的)増長は鼻についたが、
猿と人間は99%遺伝子が同じだとか
動物にも言語能力や道具を使う能力があることなどが明らかになるにつれて
その手の増長は薄れていった、という経過だろう。
だからといって、人間という考えをあわてて捨てる必要があるとも思えない。
無我・無私は、生きながら死者になるようなものだ。
ヒューマニズムとは別の事柄な気がする。
死者が言い過ぎなら、植物生、と言い直してもいい。
SMの肉臭さは、まさに対極にある。
マゾヒストはSM現場で忘我状態になることはあっても
無我・無私になるわけではない。
自我を邪魔に思ってはいるかもしれないが。
ま、くだらないフェミニズムよりは
ヒューマニズムの方が「まし」だww
891 :
羊:2007/08/26(日) 15:43:09
話は変わりますが、マゾ、サド的な人とは自分に自信のない人なのかなと。
両親の価値観から否定的なメッセージを受け入れ自信がなくなっていった人だと思います。
人生で経験する快感のエネルギーは人類の基本的財産で、人間からこれを奪うと
結果として・持つもの持たざる者・との間に大きな分裂が生じて。自分の
権力を示すさまざまな形の快楽から、自慢するためのトロフィーに至るまでの
上流階級特有の快楽に対して労働階級はねたみ。ある人間の喜びが否定されて、
それが他の人間の喜びとなっていることに気づけば、革命を生み出すと思います。
あるいは、弾圧さるかで。したがって、大衆の生きる力や目的の合理化された活用
手段である・道徳律・は意図的な価値観の歪みから機能することになり。・人生の苦しみが
地獄のようであればあるほどそのほうびとして、もっと天国に近くなる・といったような幻想
が提供される。喜びと苦しみの歪んだ関係は、道徳的に歪んだ社会環境を生み出しました。
そこでは苦痛が喜びにつながるようにしました。この苦しみと狂った状態の中で代替される、
少なくとも臨時的に免れる嗜癖は、禁断の誘惑に勝つか負けるかという、致命的で反社会的な
ゲームとなってしまう。けれども人間は気高くて、要求もしないのに生まれてきた自分の存在に
対しての、永遠の葛藤にあって。その気高さは、つかみ所のないミラーハウスのような世界において
人間の唯一の支えとなり、人生そのもののプロセスに対する信頼を生でいるのですね。
サドマゾに対するくくりかたは’心理学のプロ’氏の影響だろうか。
親が有形無形で送った否定的なメッセージに対する復讐がサディズムとなり
同じく受け取った否定的なメッセージを漂白するのがマゾヒズム。
(’心理学初心者’の考えを俺なりにかってに延長させればそういう咀嚼もできる。)
通俗的な道徳への反発がサド・マゾに通底しているのは確かだ。
(道徳の起源については色々考えていた時期があるが未だに答えをもたない)
ただ、個人的な倫理観は、このスレに来るようになって「超自我」という概念を見直し
以前よりは輪郭がわかりかけている。
道徳律を「大衆の生きる力や目的の合理化された活用手段」である
という角度で観たことはない。
多少素朴すぎる気もするが、一笑に付するほど酷い考えとも思わない。
階級的弾圧によって、
ゆがんだ性的な悦び(禁断を犯すという快感)ゲームにいたるというのも、
一応頭に入れて置いていい視点ではあると思う。
(俺もこのスレで以前、SMは貧弱な(幼児的)支配階級の模倣「ごっこ」だと書いた覚えがある)
人間が気高いかどうかは俺には判らない。
いずれにせよ「自分の考え」を述べることはたいへんけっこうなことだと思う。
俺の言うことなど気にせず「自分の」考えを書けばいいと思う。 ここはそういうスレだ。
893 :
没個性化されたレス↓:2007/08/27(月) 05:04:08
>親が有形無形で送った否定的なメッセージに対する復讐がサディズムとなり
その通りなんだよ!
>892において'心理学初心者'に氏をつけるのを忘れていた。
俺の個人的原則として
自分の頭で考えを述べるコテには敬称をつけるようにしてきたので
遅まきながら「’心理学初心者’氏」に訂正。┏○
895 :
羊:2007/08/27(月) 22:21:09
マゾ、サドの人は幼児期の時や子供の時ものすごく精神衛生状よくない環境に
生まれ。親自身が子供や人に対する理解が少ない為に、子供に対して無責任で尊重しない言動で子供はそのあまりにも自分を大切に評価し尊重しない言動から親への仲間意識がなくなり
親は何かあるたび攻撃してくると、勘違いしてしまい。本当は親は攻撃してるのではけではなく自分の欲求に
対して協力してほしいとメッセージをだしているだけなんだけど。その表現や欲求があまりにも強すぎると
子供は評価を求める為に親を理解したわけでもないのに利己的な意味で協力し親に求めていた評価や関心を寄せられると安心するとゆう形
をとってきたのがマゾ。サドも同じく親が適切に自分に対して評価尊重されてないと勘違いしてもっと自分をしっかり見てと何事にも攻撃的に
なり周りの人や親を認めさせることで安心する形がサド。とゆうわけでどちらも人を利己的にコントロールしようとしているわけなので人生はいつも
不安と緊張がある。人が自分が思ったようにコントロールできるかいつも心配で仕方がないとゆう事になる。その人が何かをきっかけに自分自信や能力があると確信すると
その人は自立的になり健康的に生きられる。すべては自分自身に対する自己評価しだいなんだと思う。本当の意味で自分の事が大好きで、人に対して寛容に生きていく事が幸せと自己実現につながると思います。
コントロール願望と被コントロール願望だろ
親にうけたコントロールが強いとどっちも強くなる傾向があると思う
897 :
没個性化されたレス↓:2007/08/29(水) 16:14:33
>>895 非常に説得力があるが、どこかのコピペ?
898 :
羊:2007/08/29(水) 17:38:45
コピーではないですけど、いろんな心理学
の本を読み自分自身の病んでる所と照らしあわせね
自分の心を分析してみるとその通りだったので書きました。実際少し少し自分への能力への信じる
気持ちと何事の課題もあきらめなで自分で最後まで達成することを積み重ねていくうちに自信がでてきて
つまり自分の能力を信じる力、何事も自分であきらめないで乗り越えられるとゆう勇気がでてきて、人と比べることも
少なくなってきて心が安定して自分のやるべき事に集中でき心の充実感がありワクワクする
気持ちが増えてきました。まだ少し不安定な時がありますが少し少し自立的になり進化していきいと思う、今日この頃。
ちなみにアドラー心理学の影響を受けています。アドラー心理学の基本は、・支配しない・依存しない・目の前の課題を
解決する・です。
アドラーはちらりと覗いたことがある。
たとえば、子供の病を、親の関心を自分に引き寄せる戦略として
背後に潜むのは権力への意志だと、いうような部分だ。
性的衝動(リビドー)よりも権力への意志を心理的動機の根本においていた
という記憶。
権力への意志が、人間の行動の根元だとすれば
サディズムは、まんま、あたりまえの心理と見なされるような気がするが
違うのだろうか?
心的な病の根元として「権力への意志」があって、
それを超克しないと(心的)病は治らない、という事なのだろうか?
(以前チラ読みしただけで、アドラー心理学全体をよく知らないので一応質問。
むろん、答える義務などないし、違うことが書きたいなら、そっちでいいけどね)
900 :
羊:
人間の行動の根元は劣等感だと思います。人であるとゆうことは、ある劣等感を所有していることを
意味していて、それがそれ自体を克服するように前進させようといつも圧力をくわえている。人生の根本法則は、
欠陥や不適切なことを克服する法則であると思います。その解決方法が上記895で書いたように周りに対して理解力不足で
より劣等感が高まる事が続くとアドラーでゆう、劣等感コンプレックスがでてきて自己決定自己責任を放棄して、支配・依存・
周りをコントロールしてどうやったって自分の劣等感を克服しようとする試みがサド・マゾ・だと思います。健康的である人はその
劣等感を自立的に解決しようとする人つまり支配・依存しないで・目の前の課題を解決しようとする人。劣等感それ自体は異常ではないです。
劣等感があるので、人類という場所にあらゆる改善が生まれます。たとえば、科学それ自体は、人間が自分の無知を感じ未来を
拡げる必要を感じたときにのみ可能であるわけで。正常な劣等感と劣等感コンプレックスの違いは、単に程度の問題であって質の問題ではない。
劣等感が誇張された感情の場合望ましくない性格の特性がでてくる。例えば恥ずかしがり・臆病・過度の依存傾向・言いなりになる服従傾向・さらに
ずうずうしさや衝動性・頑固さ・反抗的態度などのような何らかの補償傾向を伴っているサド・マゾ傾向の衝動に結びつく。そのどれもが、最終的に
無視されているという誇張された感情から極まってなっていくと思います。愛の反対は無関心って、マザー・テレサが言ってました。周りに対しての無関心が人生
を生きづらくしているのかもしれません。より深く人を理解していたら戦争なんてなかったと思います。謙虚になってもっと人や周りを理解する事が大切なのかも
しれませんそうすればもっと人類や地球にとってみんなが建設的に役に立つ解決がでると思います。復讐とゆうサイクルもなくなるし。