>>765 >私自身、50人もくる外来で力動的な精神療法は難しいと思っていました。
しかし「患者数の問題でできない」というのは専門外の私の言い逃れかも
しれないので、「専門家」のみなさんにお伺いをたてたというわけです。
繰り返しますが、この文章がそのまま書かれていたのであれば、「煽りっぽく」
書かれたのとは全く違う「反応」が返ってきたのではないか、と私は思います。
御存知かもしれませんが、日本精神分析学会の会長を務めておられた成田善弘先生は、
ずっと総合病院に勤務しておられました。成田先生は有名な方ですから、それこそ
半日で50人以上の患者さんが来られる外来の中で、精神力動的精神療法を実践して
こられました。
私自身はreverieさんのような人格者ではありませんので、現時点においては765番さんの
提起された問題については、これ以上の書き込みを控えさせていただきます。
>>768 >神経症と精神病の境界状態という定義の境界例が未だに診断に使われている
少なくとも私自身は、「神経症と精神病の境界状態」という意味での「境界例」と
いう概念は、診断に使ったことはありません。ただ、特に現在の日本でどうであるか
などのことはよく分かりません。すみません。
774 :
没個性化されたレス↓:04/06/07 00:59
700age
>>762 浦島さんのお題に、一つの切り口です
「熱心すぎる治療者」を、浦島さんの「熱心な治療者」の定義をかりて定義してみました。
「患者さんを有効に治療するための技術をもたない故に、熱意を頼りに自分の仕事に取り
組む治療者」でしょうか。ここで「技術をもたない」ことを、彼が自覚しているかどうか
が、問題になります。「自分には技術がないから、熱意でやっていくしかない」と自覚し
てへまをしでかすわけではないでしょう。自覚して無手勝流にはまっていくような人は、
ここでは論外とします。
そもそも「患者さんを有効に治療するための技術をもたない」ことを自覚するには、自覚
するに十分な知識や技術を身につけている必要があります。「実るほど頭の垂れる稲穂か
な」ではないですが、十分な技術を用いながら、人が為しうることの限界をわきまえた治
療者は、ある意味「患者さんを有効に治療するための技術をもたない」ことを自覚してい
るわけです。
「熱心すぎる治療者」は、「患者さんを有効に治療するための技術をもっておらず、熱意
を頼りに自分の仕事に取り組むことで、不安を防衛している治療者」ということになるの
でしょう。つまり患者は治療者の不安を防衛する道具に使われてしまうわけで、こう書い
てしまうと身もふたもない話になってしまうのですが、どの治療者にとっても他人事では
ないでしょう。初心の頃を振り返れば原罪のようなものでしょうし、経験を積んでからも
こういう事態にはまってしまう危険は常にあると言えるでしょう。
>>775 >治療者にとっても他人事ではないでしょう。初心の頃を振り返れば原罪のようなものでしょうし
>経験を積んでからもこういう事態にはまってしまう危険は常にあると言えるでしょう。
身につまされる思いで、かわずさんのレスを読みました。獣医臨床でも同じです。勉強しても
勉強しても至らない部分は出てくる。ついつい、いろんな事をやってしまってヘマをするんです。
過去に何度かおかした失敗のいくつかは、この種のものです。これからでも絶えず気おつけないと
失敗の原因になるんだと思うのです。今は私の場合は自分に手に負えないと思ったら抱かえ込ま
ないで早めに他の獣医に相談したり、他院を紹介したりして対処しています。
>>767 Reverieさん
ウィニコットが「私たちのできることには、限界がある。でもそれで意気消沈
してしまったら、私たちの存在する意味すらなくなってしまう」と、どこかで
書いていたのを思い出しました。
大変ですね。開業すれば好きなようにできる、とは言っても経済的なことを考
えれば、ますます患者さんの対応に追われるでしょうし。心理職はゆっくり時
間を取って面接しているし、急患に振り回されることも少ないし、その点では
医師からうらやましがられることもあります。しかしこの立場と薄給では、全
面的にうらやましがられることはないですが。
それから……読みやすい一行の限界もあるので、開業の前に改行よろしく。
>>マリリンさん
申し訳ありませんが、今は専門的な話となっておりますので
口を挟まないでもらえませんか?
通りすがりですが
>それから……読みやすい一行の限界もあるので、開業の前に改行よろしく。
ブラウザによっては自動的に改行されるようなので、
ひとによってはその加減がわかりにくいように思います。
ご自身のブラウザ設定でも対処できるかも知れませんよ。
あと>778さん
あまり気にしないのが一番だと思いますよ。
関係ない、と思われる書き込みを排除して行くと、本当に専門的な人しか
書き込めなくなってしまうと思いますので、ズレてるなーと思うことが
あったとしても(悪意あるものじゃなければ)壁紙の模様だと思って
スルーしたほうが。この書き込みも然り。
>>779 申し訳ありませんでした。
以後スルーします。
>>778 >>779 776は「獣医」を「心理」と読みかえれば、ズレてないでしょ?
お題に関心をお持ちなら、書き込んでいただけると嬉しいです。
さて浦島さんのお題に、もう一つの切り口です。
女性には大変失礼な表現ですが「悪女の深情け」を辞書でひくと、「醜い女性はかえっ
て情愛が深い。通常はありがた迷惑の意味で用いる」とありました。「かえって」には
「醜い女性は心も醜い」の偏見があって、これまた失礼ですね。
それはそれとして、「醜い女性」がなぜ「情愛が深い」のか。男性と恋仲になるチャン
スが少ないから、離そうとしないのか。「醜さ」を「情愛」でカバーしようとするのか
(
>>775)。いや男性にとって一番恐ろしい?のは、「醜さ」ゆえにこうむった被害を、
「情愛」の形をかりて「ありがた迷惑」の復讐することではないでしょうか。
つまり患者に評価されない治療者が、「熱心」に治療に取り組み、「患者を壊す」こと
で攻撃衝動を満足させる、というパターンがあるかもしれません。ここで「醜い」が女
性の自己愛に連動する感覚であるように、「評価される」(自己愛を満足させられる)
かどうかも、治療者の自己愛のありように左右される体験なのだと思います。
>>777 かわずさん
まずは失礼。改行気をつけます。
>>762 浦島さん
>「熱心すぎる治療者」が「スーパーバイザーを見つけることなしに、いきなり
>自分一人で精神分析的精神療法や力動的精神療法を始めてしまう場合」この場合、
>その治療者の「万能感」が関与しているように思います。
なにやら昔の自分のようで耳が痛かったりします(笑)。
特にこの万能感は、Cl.に対する万能感、すなわちCl.を変えたり行動を制御したりする事ができる
というようなphantasyが影響しているように思います。もっと言えば「直すことができる」というような
医療者にありがちな万能感というか。
Cl.がas if selfなら尚のこと、面接室では一見洞察めいたことを聞き(Cl.が言わされ?)
面接が終わる直前につい聞き込みたくなるような内容で時間の設定を無視したり、Th.の行動化が
目立つ状態になると思います(全部自分がやって来た事では無いですよ(笑))。
で、面接室の外で相変わらず衝動行為が止まらず、無力感に浸るという悪循環
というのが過度に熱心な治療者に見られるかと思います。
このあたりは限界設定という治療技法に対する理解不足や、面接室のなかで起る治療者の
情緒的な変化などなど様々でしょうね。
「幼児的な救済願望」に関しては、結構同期の石が喫茶店でCl.とあったりしてましたね。
私の指導医はこの手の限界設定には非常に厳しくて、「面接室と病棟とレクレーション
での集団外出以外の場所で合うのは厳禁」と誠に分かりやすい(笑)限界設定を教えてもらいました。
当時はこのような限界設定が何となく不全感があって、患者さんに十分なことがしてあげていないような
感じがしたものですが。私の同期は限界設定を「そんなことは権威的だ」といって聞く耳をもたなかったような
気がします。
「Cl.がもっている自助の力を治療者が奪ってはならない(肩代わりしてはならない)」という
なにやら神田橋先生チックな(笑)感覚になれたのは随分あとになってからのように思います。
逆に衝動行為を目の当たりにしても「Cl.は自助の力をもっているはず。今はそれに気がつかないか
もしくは上手に使えないだけだ」と願うような気持ちで信じることが少しはできるようになったかも。
ある種の熱心さは精神療法の技術とCl.の自助能力を高め、過度の熱心さは逆にそれを
弱めてしまうことになりそうです。やっぱりウィニコットのGood Enoughというのは的を
得てるな〜と肌で感じてしまいますね。
775-783番まで、ただただ感心して読ませて頂きました。皆さん、すごく良いことを
書かれているように思いました。
無責任な思い付きです。実は私には、「後輩の世話(指導を含めてですが)をしすぎて
しまう」という病理(笑)があります。したがって、できるだけ自分で意識して抑える
ようにしています。かわずさんの775番の書き込みを読ませていただいて、「治療者
としての自分の原罪」を償おうとしているのではないか、と思いましたが。。。そして
もしかしたら皆さんも、私と同じような病理をお持ちで、だからこそこんなに実感に
あふれたすばらしいことがかけるのではないか、と空想しました。
先に書いた通り、根拠もない無責任な思い付きです。違っていたらすみません。
>>781 かわずさん
775番の「不安を防衛している」というご指摘は、その通りだと思いました。しかし
「患者に評価されない治療者が、『熱心』に治療に取り組み、『患者を壊す』こと
で攻撃衝動を満足させる」というのは、少なくとも医者の場合はあまり多くないかも
しれません。というのは医者の場合、「攻撃衝動」を満足させるもっと容易なやり方が
あるように思うからです。
患者さんに評価されない場合、例えば生物学的精神医学などの「科学的な」方向に
進み、「精神療法」などという「非科学的なこと」をしている治療者を見下して
攻撃し、自分の「攻撃衝動」を満足させる、というのがそのやり方です。
誤解を防ぐための書き込みです。「生物学的精神医学」を専門にしている方が一般的に
「自分の攻撃衝動を満足させている」とは、私は全く考えておりませんので念の為。
>>783 Reverieさん
私の場合、入局した直後の勉強会で「夜遅くまで入院患者さんと(個人面接で)会って
いて、結果的に悪くしてしまった医者の話」などを聞かされました。何といっても
入局直後ですから、私の場合「権威的」とも感じず、単純にそういうものだ、とそのまま
受け入れてしまいました。あとから知ったことですが、私たちの入局直前に、BPDの
患者さんたち(この当時は複数です−しかも多数の−笑)のために病棟がすごく荒れて、
若手にこのような指導を徹底する必要性に迫られた、という背景があったようです。
>>784 浦島さん
私は原罪を意識するのは、中年になった証拠ではないかと思うのです。
「良いことをしている」と信じ込んで熱意にまかせた治療をして、結果が裏目に出
たら「一生懸命やったのだから、しょうがない」で済ませられるのは、若いからで
しょうね。若さの特権が、中年になると原罪になってのしかかってくるようです。
原罪についてもっと言えば、「人を変える」こと自体が、攻撃的な行動と言えるわ
けです。それは農民が植物を育てて収奪するのと同じように、治療者の原罪につな
がります。植物は農民を恨んだりはしないでしょうが、患者は「変わる」のと引き
換えに何かを失っているはずであって、治療者に「変えられた」部分が大きければ
大きいほど、恨みにつながるように思います。
治療者は「患者が変わるのを手伝う」のであって、「患者を変える」のではない
――と言う枠組みに収まりきっている治療者は、おそらくいないのではないでしょ
うか。回復して治療者に感謝している患者さんであっても、治療者に「変えられた」
恨みを、どこかに抱えていくのではないかと思います。
さてこの原罪を感じてしまった治療者は、どうなるのでしょうか。中年を通り過ぎ
て、老年の境地でしょうか(笑)。治療に対して、臆病になるかもしれません。でも
「何が何でも治療する」という、妙な強迫観念からは自由になれると思います。
>>784 浦島さん
>後輩の世話(指導を含めてですが)をしすぎてしまう」
ありますね〜、これは私も(笑)。指導医にうつされたような気がします。
何故か教えている最中に、研修医の頃、自分が困ったこと・患者さんが困ったこといろんなことが
浮かんできて、「あれもいわなきゃ。これもいわなきゃ」と熱弁をふるってしまうことが、あったりなかったり。
結局、同席面接してたりでなんだかな〜という状態になったことが多々あります>私。
このうちの「患者さんが困ったこと」が原罪に近そうですね。
>>787 かわずさん
>「人を変える」こと自体が、攻撃的な行動と言えるわけです。
この事は精神科医が研修医の時の「モデル」にも影響していると思います。
少なくとも、精神科の研修医は入局当初、基本的な薬物療法を学びます(の、はずです、多分(笑))。
この時の治療モデルは「医療モデル」すなわち「症状」を「消去する」ことを
目標とします。このモデルは古典分析などでも出てきますよね?
で、「症状」の同定と「療法」の基礎を学ぶわけですが、この時、症状を
コントロールできる(実際にはコントロール出来そうな症状を選んでいたりする
のですが)感覚が身につきます。ある種の精神状態をコントロールできる感覚ですね。
これは実は悪い部分ばかりでなく、精神科医療の治療的敗北感から初学者を守る
ことにも貢献していると思います。「どーせ、治らないならなにやっても一緒」という感覚に
ならずにすむ、といところでしょうか。
で、「精神症状をコントロールすること」=「患者さんが喜んでくれる」=「いい医者」(゚д゚)ウマー
という図式が出来やすくなります。すなわち「変える事」=「いいこと」だと。
ただ、その後色々な症例を経験すると実は変わらない事の方が多いことに気付きます(脱錯覚?)。
>>789 このモデルの万能感をもったまま精神療法をやろうとすると、恐らくとてつもない困難な状況がまっていそうです。
すなわち、「治す」感覚の万能感を(もっと言えば「万能の治療者」に再度治療者の同一性を維持しようとした場合)
過度に熱心な治療者ができあがるような気がします。
ですのでこの万能感に付随する攻撃性は「患者の症状が思うようにコントロールできない」為、意識的・無意識的な
治療の中止で現れるかなと思います。技法としての限界設定はこれをある程度知的にコントロールしてくれますけどね。
浦島さんが指摘されている
>例えば生物学的精神医学などの「科学的な」方向に進み、
>「精神療法」などという「非科学的なこと」をしている治療者を見下して
>攻撃し、自分の「攻撃衝動」を満足させる
は、多分、治療者の万能感を維持する為の防衛機制ではないかとふと思ってしまいます。
このあたりは「医療モデル」から「心理(成長)モデル」のパラダイムシフトがどうやら
必要な感じですね。
「あ〜、患者さんにしてあげられる事はすくないなぁ」としみじみ思いながら、それでも
患者さんの変化の可能性を信じて向かい合うことのできる治療者の心性と、
「たしかに今までと違って生きやすくなった。でもなんとなく物寂しい」という心性は
抑うつ態勢の一つかなと空想してみたりします。
>>791 Reverieさん
>「あ〜、患者さんにしてあげられる事はすくないなぁ」としみじみ思いながら、
それでも患者さんの変化の可能性を信じて向かい合うことのできる治療者の心性と、
「たしかに今までと違って生きやすくなった。でもなんとなく物寂しい」という心性は
重なっているんですよね。しみじみとした調和で、良い感じですね。
Reverieさんが789番と790番で言われていることは、その通りなのでしょうね。それに薬物療法
で患者さんを治療できるようになって、「一人前の精神科医」というアイデンティティが確立
されてしまえば、あえてうだつの上がらない精神療法を一から始めようと言うのは、大変なこと
です。薬物療法ではすぐに論文が書けても、精神療法で論文が書けるようになるには年月がかか
りますしね。
フロム=ライヒマンのテキストは、初心者の頃に感銘を受けて何度も読んだ思い出があります。
おそらく彼女もそうだろうと思うのですが、薬のない時代に精神療法を実践して精神療法家と
してのアイデンティティを確立していた人たちは、薬物療法をどんな目で眺めていたのでしょ
うね。ATスプリットは、もしかしたら精神療法家としてのアイデンティティを、薬物療法
から守る意味があったのかもしれない、とも考えます。
>>792 かわずさん
>ATスプリットは、もしかしたら精神療法家としてのアイデンティティを、薬物療法
>から守る意味があったのかもしれない、とも考えます。
既に、ATスプリットをせざるおえない状況自身が患者さんが投げ入れてきた病理なのかもしれませんね。
ただ、ATスプリットができるスタッフが揃っている治療セッティングはやはり恵まれていて、往々にして
一人二役をせざる負えない苦しさもあります。ある種の役割分担はその役割の同一性を獲得していないと
苦しいものがありますね。
実は最近グループ間でもこの役割分担のあいましさと行動化が目立ち、辟易しています(笑)。
治療設定がなくて職場で生身で解釈・直面化をやるとよからぬ事が起りそうなので控えてますが(爆)。
基底欠損を起こしているカンファレンスが多くてうんざりぎみです。
>>787 かわずさん
>「人を変える」こと自体が、攻撃的な行動
>治療者の原罪につながります
このような形の「治療者の原罪」の話は、どなたかは思い出せませんが誰か偉い(?)
先生も書いておられたように思います。したがって、このことに反論することは、
その偉い先生に反論するような気がしてプレッシャーではありますが。。。(笑)
(私の思い違いかもしれないのですが。。。)
患者さんが「治療者によって変えられた」と感じたり、それを恨んだりすることは、
とてもPS的な心性であるように思います。したがって、このように感じておられる
患者さんの場合は多分、自分の状態を治療−特に精神分析的精神療法−の中できちんと
理解された時には、おそらくもっと治療を受けたい、という気持ちが生じてくるのでは
ないか、と私は思います。
しかし現実問題として、治療者側又は患者側の要因のために、そこまで長く治療を
続けられる人はそれほど多くないでしょうから、その結果「自分に与えられたものが、
自分の欲しいものより少ないこと」に対する「恨み」が生じることが考えやすいように
思います。そして、かわずさんの指摘された「変えられたことによる恨み」は、多分
認知行動療法などの方が生じやすいのではないか、と思いました。
>>788 Reverieさん
>結局、同席面接してたりでなんだかな〜という状態になったことが多々あります>私。
ちなみに私は、同席面接までしたことはありません。ということは、Reverieさんの
方が、私よりも重症(?)のようですね(笑)。
>>789 >>790 >>791 Reverieさんの書き込まれていることは、全くその通りだと思いました。そして、
臨床家としての自分がしていることに本当の意味で自信がもてず、不安になってしまう
からこそ、ついつい万能感を持つことでそれに対処しようとしてしまうのではないか、
と思います。
「人間のできることには限界がある。でも、確実に何かはしてあげることができる。
そして、やってみると意外に患者さんは成長していってくれるものである」などの
形で臨床家としての自信がついてくると、万能感を持つ必要性が次第に薄れてくる
のではないか、と私は思います。
精神分析的療法と力動精神療法の違いをおしえてください
798 :
没個性化されたレス↓:04/06/17 22:08
700age
>>797 ども、病理の深い(爆)Reverieです。
この違いは浦島さんが最も厳密にされていますので回答を待ちましょう(とふってみたりします)。
力動的精神療法に関しては「精神力動論を基礎におく精神療法全般」と理解しています。
現実的には認知療法的な側面があったリするようです。
ちなみにGabbard(APAでの力動精神医学の取りまとめ役)の力動精神医学では、このあたり厳密に
していないみたいですね。
私信:浦島さんへ
某学会の認定医制度がそろそろ動き出しそうです。ご存じかな?
精神力動論を一言でいうと、どうなるのでしょう?
それと精神分析との関係はどのようなものなのですか?
>>800 一言で表せば、精神力動論とは「心の仕組みを理解しようとすること」ではないかと思い
ます。
「やたらに怒る人」がいるとします。「些細な刺激で怒る」とか、「誰に対しても怒る」
などの、「特性」を調べることはできるでしょう。怒っている様子を、「記述」すること
もできます。彼の怒りを、現象学的に解釈することもできるでしょう。これに対して精神
力動論は、精神内界に何らかの「仕組み」があることを想定し、その仕組みによる動きを
理解しようとする、と言えるでしょう。
精神力動論で一般にイメージされるのは精神分析ですが、アドラーの個人心理学やユング
の分析心理学も、精神力動論でしょう。ただし精神分析は治療者と患者の間に生まれる力
動(転移・逆転移)を積極的に扱おうとするだけ、他の学派よりも力動論的と言えるかも
しれません。
>>797 >>799 >精神分析的精神(心理)療法と力動的精神(心理)療法の違い
せっかくReverieさんに御指名を頂いたのに、手抜きの回答で申し訳ありませんが。。。
以下の書き込みを御参照ください。まだ「浦島」のハンドルネームを使っていませんが、
すべて私の書いたものです。
「日本の精神分析学の運命」 213番、334番
「カウンセラーと人間としての器」 319番、328番、330番、336番、337番、351番
リンクしていないのは、単純に私はやり方を知らないからです(笑)。
>>797 Reverieさん
某学会というのは、精神科医であれば多分入っているであろうあの学会のことでしょうか?
実は私、若い頃に「その学会に参加するなら会場を選ばないと、嫌な目に会うかも
しれない」(どんな「嫌な目」かは省略しますが。。。)と脅されて以来、一度も
その学会に行ったことがありません。今でも学会員で、学会誌の面白そうな論文は
一応目を通していますが。。。
今学会誌をよく見てみたら、会告に「専門医制度規則と過渡的措置について」と
ありました。Reverieさん、もし何か御存じでしたら、ここに書いてもよさそうな
範囲で教えてください。
「過渡的措置の範囲を広くしすぎるのは良くない」という議論を、どこかで読んだ
記憶はあるのですが。。。
>>803 浦島さん
>某学会
あたりです(笑)。で、例の会告に関してなのですが、未確認情報でよければお力になれる事が
あるかと思いますので、捨てメールアドレス教えてください。裏がとれてるネタでもないしちとスレ
違い気味なので(汗)、ご希望でしたらメールで連絡差し上げます。hotmailでもinfoseekでも
なんでも(笑)結構です。あ、トリップも宜しくお願いしますね。
#「なんだかなぁ〜」という感じでしたら(笑)、このレス、スルーして頂いて結構ですので。
該当スレ読みに行ってきました。207、282,277,は浦島さんだっただ。
ずいぶん昔から、2chにいらっしゃったんですね。私は該当スレは難しくて良く分からなくて
ロテのバカーと思う程度でスルーしておりました。
数字コテとコテハンの発言に重みが自分の中で全然違うのは不思議でした。
周りの煽りレスも数字コテの浦島さんには容赦なく、低レベルなレスを返しているのは面白かったです。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 電波警報発令! | マリリンを確認!
\ 電波警報発令! \素人のみなさんは騙されないで!
\ \
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
M ┌――z
゚γノノ''ノハヽ ノノ''ノハヽ.
ノリ´ヮ`)ゝ ( ゝ・D・)ゝ
と>卯< つ ⊂>.Y.<つ
∠;;;;;;;;;ゝ [:::: ::::]
レハJ .U.^.U
2ちゃんねる心理学板電波警報
http://www.geocities.jp/sarupppsaru/index.html
マリリソが、「容赦なく、低レベルなレスを返している」のも面白いです。
浦島さんにお聞きしたいことがあるのですが、現代の精神分析理論、特にクライン派は
「前意識」をどのように扱っているのでしょうか。局所論なので「前意識」なる言葉そ
のものも、全くお呼びではないのでしょうか。
810 :
没個性化されたレス↓:04/06/22 22:17
800age
811 :
没個性化されたレス↓:04/06/24 22:21
800age
>>804 >例の会告に関してなのですが、未確認情報でよければお力になれる事が
あるかと思いますので
Reverieさん、親切にありがとうございます。でも、メールでのやりとりは
やめておきます。というのは、「掲示板においては、誰かが書いたものを読んで、
それに対して思いついたことを書き込む」以上の関係を持たないほうが良い、
又はそのような関係を持つことが可能だと考えない方が良い、という意見を
私は持っているからです。多分、「自分が望めば、掲示板を通していつでも
誰とでも知り合いになれる」という「一種の万能感」を、自分が持ってしまう
危険を冒したくないからだと思います。
幸い私の医局とのつながりは続いていますので、少し尋ねてみます。でもReverieさんの
ご親切には感謝します。
>>809 >現代の精神分析理論、特にクライン派は 「前意識」をどのように扱って
いるのでしょうか。
クライン派の中で「前意識」に関する議論を聞いたことは、少なくとも私は
あまりありません。ただし特にフロイト派の論文などでは、現在でもしばしば
目にするように思います。
なぜクライン派の中であまり聞かないか、という理由については、よく分かり
ません。無責任な想像ですが、クライン派の場合「前意識」「無意識」を厳密に
区別するよりも、とにかく「解釈した時に伝わるであろう(=患者さんにとって
何らかの形で役立つであろう)ことを解釈する」と、いわば「実際的、実利的に」
考えるからかもしれません。
最近、とても忙しくなっています。そしてこの先それが一層ひどくなり、その
状態がずっと続きそうです。そこでとても残念ですが、「掲示板で議論する」
という「遊び」をやめようと思います。私が「浦島」というハンドルネームを
使い始めたのはもともと「議論を不必要に混乱させないため」でしたので、
「浦島」というハンドルネームで書き込むことは、多分今後二度とないと
思います。名無しで書き込むことも、多分ないと思いますが。
ここに書き込むようになってから、もう1年半以上たったようです。今まで
本当にありがとうございました。特にReverieさん、かわずさん、いろいろと
議論できて楽しかったです。
それではさようなら。皆さん、お元気で。
>>814 他にもいろいろな方の名前を思い出しました。ヨッパライさん、マリリンさん、
ロテ職人さん、その他の方々もいろいろとありがとうございました。
またすばらしいコテハンが引退してしまう。
もう心理学板で学問的議論をすることはないのか。
この板はもう終わりだ。
817 :
没個性化されたレス↓:04/06/25 11:20
浦島さま
もうお名前を見ることも、書き込みを見ることもないのだと思うと、とても残念です。
たくさん勉強させていただきました。
浦島さんの書き込みから、わたくしの、精神分析もしくは精神分析的精神療法に対する先入見が変わりました。力動的精神療法との違いもはっきりしました。
これが一番勉強になったことです。
いつか浦島さんのお書きになったものとは知らずに、浦島さんの文章を読むことを楽しみしたいと思います。
#もしかしたら、既に知らずに拝読しているかもしれませんが(^^;。
どうぞお元気で。
一初学者
>>816 浦島氏のことはともかく、コテハンが全員すばらしい訳ではないよね。
一部の板住人の、コテハンに過剰な期待をかける傾向が
コテハンをつけて書き込む人に負担になることもあると思う。
古くは、伍長氏がその一例。
名無しでも良質の書き込みはありますよ。
もし板を憂いでいらっしゃるのならば、あなたも良質の書き込みを
続ければ良いのですよ。
>浦島先生
お疲れ様でした。
こちらの話には参加はしませんでしたが、ずっとロムさせて頂いておりました。
ありがとうございました。
何から書こうか考えたのですが。まずは
>>813のお返事レスから、私が「無意識」の
概念を知ったのは、ユングの本を読んでからかな。それまでは言葉は知ってたけど、
「無意識」なんて考えた事もなかった。また、それについては聞くのも恥ずかしくて
今まで書けなかったのですが、浦島さんの
>>813を読んで整理が付いたように思う。
というのは、私のように人間が単純にできていると、自分が無意識の何かに
よって動いているなんてことは実感できないんです。無意識だと思われる事でも、冷静に
なって、良く良く考えると誰に教えてもらわなくても意識化できるんです。
だけど、ここの人たちが人間には無意識の部分が存在すると言うのでそうなんだろうな
思ってきました。
でも、「前意識」と言われると、自分にはとっても納得できるんです。無意識ではな
いけれど、自分としては考えることから除外していた。あるいは今おこっている事情とは
関係あると思っていなかった事柄なんて、いっぱいありますものね。
ですから、マリリンとしては「無意識」と言われるより「前意識」と言われた方が素直に受け入れ
られます。ただし、私に「無意識」が全く存在しないかどうか自分では良く分からないです。
ですから、
>>813の下記の部分で、今まで分からなかった疑問が綺麗さっぱり解決しました。ありがとうございました。
>「前意識」「無意識」を厳密に区別するよりも、とにかく「解釈した時に伝わるで
>あろう(=患者さんにとって何らかの形で役立つであろう)ことを解釈する」と、
>いわば「実際的、実利的に」 考えるからかもしれません。