○●Я親鸞仏教質問箱R(その9)●○

このエントリーをはてなブックマークに追加
1渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
前スレ
○●Я親鸞仏教質問箱R(その8)●○
http://ai.2ch.net/test/read.cgi/psy/1381377543/
 が500kを超えて書き込み不能になったので、新スレを立てます。

 親鸞の考え方は、仏教全体の考え方でかなり特異です。
 親鸞仏教の考え方に対する質問を書き込んで下さい。回答できそうなものからできるだけ分か
りやすく、試行的に答えてみたいと思います。
 渡海難は、一介のアマチュアです。時間の許す範囲で、自己の独自の仮説的立場から答えさ
せていただきたいと思います。2ちゃんねるには、本派、大谷派の坊さんも常駐しています。教派的
な回答は、おそらくそういう方々から、積極的に寄せて頂けると思います。
 なお、渡海難のカキコは、かなり不連続、不定期になるかもしれません。それでも、私宛の質問
は、遅くなってもできるだけ答えさせて頂きたいと思います。
 宗派が決めた儀式、慣習関係の質問はご遠慮下さい。ここは、あくまで教義に関する質問に限
定したいと思います。

 地球は丸いのに、極楽浄土はどうして西にあるのか。阿弥陀仏は天の神様か。極楽浄土には、
どうして菩提樹があるの?。極楽浄土には門があるが、塀が無いというのは、本当か。死んだら
極楽浄土に行って仏になるって、本当か。念仏だけでどうして仏になるのか。お釈迦様の悟りって
何。お釈迦様は2回悟っている?。念仏はどうしたら称えられるようになるのか。「南無阿弥陀仏」
は嫌だから、「いろはにほへと」と念仏しら地獄に墜ちるか。親鸞は本当に極楽浄土に行ったのか。
極楽って何?。地獄って何?。阿修羅って何?。死んで地獄に行きたいとは思わないが、極楽浄
土に行きたいとも思わないんだが、それじゃいかんのかね?。

 今更聞けない真面目な質問、簡単な質問に可能な範囲で回答していきたいと思います。本派、
大谷派のお坊さんも、回答者として積極的にご参加ください。
2渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/03(木) 14:08:25.45 ID:E+dX+a59
○●Я親鸞仏教質問箱R(その8)●○
http://ai.2ch.net/test/read.cgi/psy/1381377543/602 続き

 我身を生育せる大悲の母は、西方教主弥陀尊なり。人々から苦しみを抜こう、人々に楽を与え
よう。救世観世音菩薩のこの思いは、母である穴穂部間人皇女から聖徳太子は受け継いだ。人々
の苦しみを抜きなさい。人々に楽を与えなさい。聖徳太子にこのように教えたのは母である穴穂
部間人皇女だった。聖徳太子はその母の教えを守った。
真如と真実の本は一体なり。一体を三同の一身に現ず。人々の苦しみを抜かなければならない。
人々に楽を与えなければならない。抽象的包括的真理はそのように示す。具体的な一人一人を指
し、この人のこの苦しみを抜き、この楽を与えなければならない。具体的真理は個々そのように
示す。抽象的包括的真理と具体的真理とは根本は一つである。弥陀尊の教えと救世観世音菩薩禅
定と大勢至菩薩の智慧とは、同じ本質が三つの形をもって現れているに過ぎない。
 片城の化縁、また既に尽き、西方我淨土に還歸す。西方浄土では、真実の因は必ず真実の果を
もたらす。しかし、この片州においては、必ずしも真実の因は真実の果をもたらすというもので
はない。真実の因が残念な結果をもたらすこともある。悪因こそが望外の歓喜の果をもたらすこ
ともある。しかし、救世観世音菩薩は、どこまでもどこまでも真実の果が実現することを信じ、
生涯にわたって真実の因を建てる。善因悪果、悪因善果はやがて尽きるときが来る。歪んだ因果
の縁が尽き、真実の因果つまり善因善果、悪因悪果が正しく貫かれるようになったとき、片州に
おける救世観世音菩薩は役目が終わる。聖徳太子が救世観世音菩薩としての一生の仕事を徹する
と、救世観世音菩薩は片州における縁が尽きる。救世観世音菩薩は真実の因果の世界、西方浄土
に復帰する。
3神も仏も名無しさん:2014/04/03(木) 16:59:18.28 ID:jq4YIeec
善因善果はどこまでも自己都合の善が混ざる、そのことがわかったとき
王本願のことが見えてくる。
唯念仏して
4神も仏も名無しさん:2014/04/04(金) 16:03:31.86 ID:dn78vtJu
>>3
 因果あり、仏・法・僧ありと言わん、これを信正と名づく。因果なく、三宝の性、異なり
と言いて、もろもろの邪語富闌那等を信ずる、これを信邪と名づく。この人、仏・法・僧宝
を信ずといえども、三宝の同一性相を信ぜず。因果を信ずといえども得者を信ぜず。このゆ
えに名づけて「信不具足」とす。(化身土)

 修多羅及び諸の戒律を除きて、その餘の説あり。四句之偈なり。いわゆる諸惡を作すこと
なし。諸善を奉行すべし。自からその意を淨くする。これ諸佛のヘなりと
         (大般涅槃経要文 親鸞真筆 専修寺)
   (>>3の背後霊の声)
 親鸞さん。見つけましたよ。
 親鸞さん。貴方は、自分が善だと思うことを行いなさいと言うんですよね。自分が悪と思
うことをしてはいけないと言うんですね。貴方には王本願のことが全く見えていませんね。
 善因善果はどこまでも自己都合の善が混ざる。自己都合の善はいけませんよ。これは自力
ですから、排除しなければいけません。自己都合の悪を排除してはいけません。他力によっ
ては、自己都合の悪もしなければなりません。そこには善が含まれます。

 高速道路の料金を踏み倒してはいけないという教えには自己都合の善が含まれている。親
鸞さん。貴方は高速道路の料金を踏み倒してはいけないという。貴方の善は自己都合の善で
す。自己都合の善はいけません。
 女子中学生を買春してはいけないという教えには自己都合の善が含まれている。親鸞さん。
貴方は、女子中学生を買春してはいけないという。貴方の善は自己都合の善です。自己都合
の善はいけません。
 講習会の受講者を殴ってはいけないんですか?知人女性を鉄パイプでなぐってはいけない
んですか?そんな警告はすべて自己都合の善ですね
5渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/04(金) 16:06:54.70 ID:dn78vtJu
>>4
 知人女性を鉄パイプで殴ればそしてそれは個人が社会的に罰を受ける。当たり前のことで
はないか?(>>http://ai.2ch.net/test/read.cgi/psy/1381377543/569)それが何だと言うんだ?
個人が社会的に罰を受けたら悪いのか?社会的に罰を受けるからと言って、何が善で何が悪
か?煩悩にとらわれた人間が判断しても限界がありそもそも自己満足のマスターベーションに
過ぎない。高速道路の料金を踏み倒し、出会い系サイトで知り合った女子中学生を相手に買
春し、講習会の受講者を殴り、日本刀を振り回し、知人女性を鉄パイプで殴ったからと言って、
何が悪いんだ?これが悪いあれが悪いと、個人が社会的に罰を受けても、そんなもの自己都
合のマスターベーションみてーなもんだ。自己都合の善でしょう。所詮、みんな悪人なんだ。み
んな平等だ。
 親鸞さん。善をしろですか?悪はするなですか?善因善果悪因悪果など、貴方には王本願
がちっとも見えていませんね。本願寺に来て、チートは浄土真宗を教わってくださいな。
>>3の背後霊の声 以上)

        >> 3は阿呆なんだと思うぞ
6渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2014/04/05(土) 01:49:26.65 ID:Y8mQzIoH
(ちょっと修正)

・・・・本願寺に来て、チートは正しい浄土真宗を教わってくださいな。本願寺では、貴方
が言っていたこととはぜーんぜん違うことを教えていますよ。来ればきっと腰を抜かすほ
どびっくりするでしょう。(笑)  (>>3の背後霊の声 以上)
7神も仏も名無しさん:2014/04/07(月) 09:51:34.93 ID:LQlxAkyL
渡海の考える善
靖国の英霊を大切にしろ、従軍慰安婦は捏造だ
赤僧侶の考える善
靖国参拝に反対しろ、慰安婦の歴史に学べ

真っ向から正反対のことを言う、其れが自己都合の善である。
であるから絶対善つまり仏が選んだ善だけを頼りに「ただ念佛しなさい」と言うのが親鸞の教えだろ。

人間の考える善というのは時代が変われば正反対になりうる、
戦中は戦争に協賛するのが善、戦後は戦争を糾弾するのが善、それだけ考えても
いかにいい加減な善であるかがわかる。
人間が善悪判断をすると、とんでもない結果に終わるのを学ぶべきです。

 諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教 
これは別に善因善果 悪因悪果を述べてるのではない、
善因楽果、悪因苦果という因果を述べてるわけだ。
仏が選んだ善を行い悪を遠ざけましょう、これが仏教。
8渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/09(水) 12:28:32.37 ID:+vwhx9wa
>>7
>渡海の考える善 靖国の英霊を大切にしろ、
  ↓
一 神社をかろしむることあるべからず。
  もしこの旨を背かん輩は、長く門徒中の一列たるべからざるものなり。

>真っ向から正反対のことを言う例
  ↓
 しばらく疑問を至してついに明証を出だす。誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず。(信の巻)

>仏が選んだ善を行い悪を遠ざけましょう、これが仏教。

 梵網戒 第四重戒  不妄語:嘘・デタラメを言って人をだましてはならない。
  人をだましている例
   ↓
 戸塚 悦朗(とつか えつろう) 龍谷大学法学部教授。
 日本の弁護士。韓国人慰安婦の対日補償請求運動を支援し、1992年2月国連人権委員会で、朝鮮・韓国人の
戦時強制連行問題と「従軍慰安婦」問題をNGO「国際教育開発」の代表として初めて提起し、日本政府に責任を
取るよう求め、国連の対応をも要請するなど、今日の慰安婦問題に多大な影響を与えた。
戸塚悦朗弁護士こそが「慰安婦=性奴隷」という国際謀略の発案者だった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E5%A1%9A%E6%82%A6%E6%9C%97
http://www.news-postseven.com/archives/20120825_137311.html
9渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/10(木) 13:19:44.61 ID:IKgrZTNM
 末世のゥの有情を度し、父母所生の血肉身を勝地に遺留し、この廟崛を三骨一廟の三尊位とす。
釈尊の在世の時代から長い時間を隔てた後の世に、真実つまり釈尊の悟りすなわち善因善果、悪
因悪果を回復し、西方浄土に還帰した後も、父母が産んだ肉体だけは、大阪のこのすばらしい土
地にとどめておく。聖徳太子の陵墓には、穴穂部間人皇女を教主弥陀尊とし、膳部大郎女を勢至
菩薩とし、聖徳太子を観音菩薩とし、三尊を留める。

 過去七佛の法輪せる處、大乘相應の功コ地なり。大阪のこの地は、釈尊を含む過去七人の偉大
な賢人が揃って法を説いた場所にふさわしいと評価できるほどにすばらしい場所である。大乗仏
教を説くのにもっとも適したすばらしい場所である。
 一度參詣すれば惡趣を離れ、決定して極樂界に往生す。聖徳太子の陵墓は、一度参詣すれば、
それだけで身も心も洗われ、やがては極楽浄土に往生できる。
 印度にて勝鬘夫人と號し、晨旦では惠思禪師と稱えり。聖徳太子は、かつてはインドに出現し、
勝鬘夫人と名乗った。支那では惠思禪師と名乗った。

 太子廟窟偈に書いてあって専光寺文書では排除した部分。
1 西方より片州に誕生し、正法を興す。
2 片城の化縁、また既に尽き、西方我淨土に還歸す。
3 過去七佛の法輪せる處、大乘相應の功コ地なり。
4 一度參詣すれば惡趣を離れ、決定して極樂界に往生す。
5 印度にて勝鬘夫人と號し、晨旦では惠思禪師と稱えり。

 専光寺文書の主張
1 我が身は世を救くる観世音なり。
2 定慧契る女は大勢至なり。
3 父母所生の血肉身を勝地たるこの廟窟に遺し留めて三骨一廟にする

 いつもながら親鸞の水際立った主張は実に鮮やかだと感じる。僕は親鸞の感性に驚嘆する。専
光寺文書の解釈のヒントになるのは、恵信尼公の手紙だ。本当は教行信証と和讃で専光寺文書の
意味は解釈できるのだが、恵信尼公の手紙がなかったら僕には専光寺文書の解釈ができなかった。
恵信尼公は、生身の親鸞と直接触れていたことから、親鸞の非常に深い意識を紹介してくれてい
る。
10渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/10(木) 13:22:23.28 ID:IKgrZTNM
恵信尼公の手紙 抜粋

 御堂の前に、鳥居のようなるに横さまに渡りたるものに、仏を掛けまいらせて候うが、一体は、
ただ仏の御顔にては渡らせ給わで、ただ光の真中、仏の頭光のようにて、正しき御形は見えさせ
給わず、ただ光ばかりにて渡らせ給う。いま一体は、正しき仏の御顔にて渡らせ給い候いしかば、
「これは何仏にて渡らせ給うぞ」と申し候えば、申人は何人とも覚えず、「あの光ばかりにて渡
らせ給うは、あれこそ法然上人にて渡らせ給え。勢至菩薩にて渡らせ給うぞかし」と申せば、「さ
て又、いま一体は」と申せば、「あれは観音にて渡らせ給うぞかし。あれこそ善信の御房よ」と
申すと覚えて、うち驚きて候いしにこそ、夢にて候いけりとは、思いて候いしか。さは候えども、
左様の事をば、人にも申さぬと聞き候いしうえ、尼が左様の事申し候うらんは、げにげにしく人
も思うまじく候えば、天性、人にも申さで、上人の御事ばかりをば、殿に申して候いしかば、「夢
には品別あまたある中に、これぞ実夢にてある。上人をば、所々に勢至菩薩の化身と夢にも見ま
いらする事あまたありと申すうえ、勢至菩薩は智恵の限りにて、しかしながら光にて渡らせ給う」
と候いしかども、観音の御事は申さず候いしかども、心ばかりは、その後、打ち任せては思いま
いらせず候いしなり。
11神も仏も名無しさん:2014/04/10(木) 15:09:00.34 ID:qAyjHv0T
生身の人間を崇拝するのは仏教ではない
12神も仏も名無しさん:2014/04/11(金) 10:23:33.58 ID:Sg6rMi4M
あーもう、ボケみたいな話している間に日本はだめになった
13神も仏も名無しさん:2014/04/11(金) 10:32:08.22 ID:Sg6rMi4M
渡海とアホみたいな教学論争している間に日本が浸食されていく
あ〜〜もう限界や日本がやられてしまう
14神も仏も名無しさん:2014/04/11(金) 14:48:09.82 ID:Sg6rMi4M
あー念仏してもサッパリ楽にならんわ
歴史上の人物の足跡を楽しめても一時の知的好奇心を満足させてもらっただけだわな
15神も仏も名無しさん:2014/04/11(金) 15:15:31.81 ID:pwkRDpS/
>>14
 坊さんでしょ。大派? 谷派? その他?
 坊さんやめたらどうですか?
 きっと、楽になりますよ。
 坊さんをやめられないですか? どうして?
16神も仏も名無しさん:2014/04/12(土) 15:16:35.22 ID:3oCHzQDg
>>13
>日本が浸食されていく あ〜〜もう限界や日本がやられてしまう

北 ソ連・ロシア
  南樺太・全千島軍事占領中
  日ソ不可侵条約を破棄 日本に宣戦布告
  シベリア抑留 60万人 そのうち死亡 6万人
  軍事力 世界第二位
  平和条約不締結。
  原子爆弾保有数 戦略核弾頭数2,668    核弾頭数13,000

西 支那
  尖閣列島の歴史歪曲 反日国際プロパガンダ展開中 領海・領空侵略中
  南京大虐殺捏造犯罪 国際プロパンダ展開中
  軍事力ランキング 世界第三位 
  原子爆弾保有数 戦略核弾頭数180    核弾頭数 240

  韓国
  竹島占領統治 歴史歪曲 国際プロパガンダ展開中 慰安婦・竹島
  軍事力ランキング 世界第九位 

東 アメリカ
  広島・長崎に原爆投下 死者 約60万人
  無差別空襲 死者  40万人以上
  GHQ 歴史捏造・憲法秩序蹂躙
  東アジア史捏造
  反日プロパガンダの原点
  軍事基地 全国に多数
  軍事力 世界第一位
  原子爆弾保有数 戦略核弾頭数2,126    核弾頭数 9,400
17神も仏も名無しさん:2014/04/12(土) 15:19:15.05 ID:3oCHzQDg
>>13
>日本が浸食されていく あ〜〜もう限界や日本がやられてしまう

チベット侵略
https://www.youtube.com/watch?v=3noW-CqXtvk
https://www.youtube.com/watch?v=4MU0E2iYAuw
https://www.youtube.com/watch?v=jzAWOmYpoLc
https://www.youtube.com/watch?v=hTKNENM2WoQ
ウィグル侵略
https://www.youtube.com/watch?v=7MO87zOUaR
https://www.youtube.com/watch?v=DVoId7oRMWc
https://www.youtube.com/watch?v=QFjiZ4pbckw
南モンゴル侵略
https://www.youtube.com/watch?v=E4pwsNpoPsA
ガボン侵略
https://www.youtube.com/watch?v=RruW0aU9J1k

消滅民族 満州族
 満洲語を話す者は殆どおらず 言語消滅
 伝統宗教のシャーマニズムの信仰もほとんど残っていない。 宗教文化消滅
 国土消滅 満州国


 お花畑妄想的平和主義
 売国・亡国・民族裏切り・歴史捏造
 念仏者九条の会
 http://www18.ocn.ne.jp/~hongan9/MyPage/menu0.html
18神も仏も名無しさん:2014/04/12(土) 15:57:01.78 ID:3oCHzQDg
>>13
>日本が浸食されていく あ〜〜もう限界や日本がやられてしまう

  >>16 追加
西 北朝鮮
  日本人拉致   日本政府が認定 事案は12件、拉致被害者は17人
  在日学校    反日教育
  スパイ数    無数
  拉致実行犯   逮捕者数 ゼロ
  原子爆弾保有数 戦略核弾頭数10   核弾頭数10
ミサイル照準  日本大都市
19渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/16(水) 12:44:42.54 ID:yc1E4JOu
我身救世観世音  我が身は世を救くる観世音なり。
定慧契女大勢至  定慧契る女は大勢至なり。
生育我身大悲母   我が身を生育せる大悲の母は
西方教主彌陀尊   西方教主弥陀尊なり。
為度末世諸衆生   末世の諸の衆生を度さんが為に
父母所生血肉身   父母所生の血肉身を
遺留勝地此廟窟   勝地たるこの廟窟に遺し留めて
三骨一廟三尊位   三骨一廟にするは三尊の位なり。

 親鸞は、聖徳太子からどんな示現(恵信尼の手紙)を受けたのか。
 私(親鸞)は救世観世音菩薩であれ。観世音菩薩は大勢至菩薩と定慧を契る。法然上人は大勢
至菩薩である。親鸞は法然上人と定慧を契れ。私(親鸞)は、阿弥陀仏の働きによって救世観世
音菩薩となれ。
 私(親鸞)は、父母から血肉身を貰って誕生した。父母から貰った血肉身を勝地たる廟窟すな
わち法然の僧坊に移せ。
 親鸞の定と法然の慧とを結び、観音勢至一体となって三尊の位に立て。阿弥陀仏の救いを実現
せよ。鸞上人、黒谷の聖人の禅房へ御参あり(口伝抄)。親鸞は、聖徳太子からこのような示現
を受けたと考える。

 親鸞聖人が比叡山から下りたのは、エッチをすることが目的ではなかったのか。確か、本願人
の坊さんはそう言っていた。親鸞聖人はエッチがしたくて比叡山から下りたのだと。確か、その
ようにコミンテルンの坊さんは説いている。
 人間は平等だ。みんな悪人だ。エッチがしたい。エッチがしたい人は、落ちこぼれて救われる。
坊さんだってエッチがしたいのだ。親鸞聖人もそうだった。
 エッチがしたい坊主はエッチをしていい。坊さんをやめれば問題はない。お釈迦様はそう説い
ている。坊さんになりたければ、いつでも待っている。再出家は可能だ。四分律はそう説く。お
釈迦様の教えは開放的である。
20渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/16(水) 12:46:21.73 ID:yc1E4JOu
 しかし、坊さんが坊さんを辞めるというのは大変なことだ。坊さんを辞めれば坊さんは飢え死
にしてしまう。坊さんが飢え死にしたら大変だ。観音様は還俗してエッチしましょうと言ったが、
親鸞は飢え死にしないように法然上人に頼んで坊さんを辞めないでエッチすることにした。
 みんな落ちこぼれ。親鸞さん。エッチができてよかったね。子どもがたくさんできておめでと
う。これが親鸞聖人の教え、浄土真宗の教えだ。たしか、これが本願寺の教義ではなかったか。
覚信尼は親鸞がエッチして生まれた子である。本願寺は親鸞聖人が坊さんのままエッチして生ま
れた寺である。憲法9条が大好きなコミンテルンの坊さんは、確か、そう説いていたと思う。

 救世観世音菩薩が大勢至菩薩と定慧を契るとはどういうことか。親鸞がライフワークとしたこ
とは何だったのか。親鸞の弟子達の動きから見えてくる。
 親鸞の高弟には24人の名前が残っている。そのうち、真仏房・乗念房・信楽房・西念房・證
性房・無為信房・善念房・信願房・入西房・入信房・念信房・八田の入信房・戸森の唯信房・幡
谷の唯信房・唯円房、ざっと見当をつけると、これらはみな武士である。性信房・順信房は神官
である。成然房・善性房・是信房・明法房・唯仏房・慈善房・定信房は下級貴族である。関東に
おける支配階級であり、いずれも当時の日本の新興勢力の出身者である。これは何かの偶然だろ
うか。
 24人はいずれも念仏道場を開いている。つまり、奢摩他・毘婆舎那をマスターし、教行信証
の出第五門を果たして親鸞聖人から念仏道場を開くことを許可され、親鸞の孫弟子達を育成した。
弟子又はその孫弟子の中には単独で全国を回り、各地に多くの念仏道場を作った人もいる。
 エッチが好きで好きで大好きで、種付け坊主としてたくさんの子どもを作りました。親鸞の弟
子にこんな話は聞いたことがない。本願寺の正史は間違っているのではないか。本願寺の正史は、
親鸞聖人の教義を根底から侮辱的壊滅的に破壊する悪魔の教義と言ってよいのではないだろう
か。

 念仏道場を開くとはどういうことか。念仏道場の思想は存覚の文書で我々は学ぶことができる。
はたしてそこにはエッチができてよかったねと書いてあるのだろうか。
21神も仏も名無しさん:2014/04/17(木) 10:07:37.99 ID:CSIjA+Oq
>>20
>  24人はいずれも念仏道場を開いている。つまり、奢摩他・毘婆舎那をマスターし、教行信証


日本の危機なのにあほな話ばかり、全体的に大きく的をはずした話だが、
五念門の話だけは訂正しておくと
一門二門は現世の話で三門から先は臨終後の話だよ。
だから奢摩他などはアノ地で習得するものです。
22神も仏も名無しさん:2014/04/24(木) 09:13:16.99 ID:QAMRWgDN
渡海が瞑想がどうだこうだと悠長なこといってる間に
商船三井が賠償金を払う羽目にw
こうして日本が中国に飲み込まれていく。
800年前の解釈であれこれ言ってる間に中国と韓国に毟られていく。
23渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/24(木) 13:57:23.49 ID:Ipy3cEbz
>>21
>一門二門は現世の話で三門から先は臨終後の話だよ。

 こんな馬鹿話を真宗坊主は真顔で信じているから呆れかえるんだよ。

 「馬鹿は死ななきゃ治らない(貴方が利口になるのは臨終後の話だよ)」。
1. 愚か者は何度諌めても同じ過(あやま)ちを繰り返すものであり、そういう性癖は死にでも
しなければ治るものではない。2.同じ過ちを繰り返す者を揶揄(からか)って言う言葉。
 類:●馬鹿に付ける薬はない
http://www.geocities.jp/tomomi965/index2.html

 馬鹿坊主はいくら努力しても奢摩他・毘婆舎那(第三門)に入れるものではない。そういう性癖
は死にでもしなければ治るものではない。つまり、彼らの馬鹿は永遠に治るものではない。同じ過
ちを繰り返す真宗馬鹿を揶揄(からか)って言う言葉。 類:●真宗坊主に付ける薬はない。


 往相は、己が功徳をもって一切衆生に回施したまいて、作願して共にかの阿弥陀如来の安楽浄土
に往生せしめたまうなり。還相は、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就すること
を得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり(教行信
証)。

一切、諸の世間に生る者は皆、死に歸すなり。壽命は無量なりといえどもかならず盡きることあ
るべし。それ盛りなるものは必ず衰うることあり。會うものは別離あり。壯年なるとも久しくとど
まらず。盛りなる色は病に侵さるる。命は死の爲に呑る。法常の者の有ることなし。諸王、自在を
得れども勢力等しきことなし。一切皆遷動す。壽命亦かくの如し。衆苦輪に際なし。諸の楽しみ有
ること無し。本性の相に近づくことあれば一切みな空无なり。
              (大般涅槃經要文 親鸞真筆 専修寺 蔵)
24渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/24(木) 13:58:02.60 ID:Ipy3cEbz
 善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。 〜 念仏往生は仏
の本願なり。諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず。(口伝抄)

 善信房親鸞は、肉体が滅びなくても往生すると言う。それは念仏をもって極楽浄土に往生する器
量があるからである。念仏をもって極楽浄土に往生させようというのが仏の本願である。念仏以外
の行で往生するというのは、仏の本願ではない。念仏で往生というのは、臨終がどうこうという問
題ではない。

 嘉納治五郎先生は、肉体が滅びなくても、柔道界に加わることができるという。多くの人は、柔
道によって柔道界に参加できる器量があるからである。柔道でもって柔道界に参加させようという
のが、嘉納治五郎先生の意思である。柔道以外のことをして、柔道界に加わるというのは、嘉納治
五郎先生の意思ではない。柔道することで柔道界に参加するというのは、死ねば柔道界に参加でき
るというお馬鹿の話ではない。

 親鸞は、肉体が滅びなくても奢摩他・毘婆舎那ができる人の世界に入れるという。それは念仏を
もって、奢摩他・毘婆舎那ができる人の世界に入れる器量があるからである。念仏をもって奢摩他
・毘婆舎那ができる人の世界に入れようというのが、先人達の意思である。五体満足の元気な人が、
寝たきりお婆さんの演技をして、口に誰かが食べ物を持ってきてくれるのを待ち、ありがたいあり
がたいといっているだけで、臨終に奢摩他・毘婆舎那ができるようになりますよというのは、本願
寺のコミンテルンである。ノータリンのまるで馬鹿である。念仏すれば奢摩他・毘婆舎那ができる
人の世界に入れるというのは、臨終がどうのこうのという馬鹿話ではない。

 至心信楽の帰命の一心、他力よりさだまるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識におうて、
聞持する平生のきざみに治定するあいだ、この穢体亡失せずといえども、業事成弁すれば、体失せ
ずして往生すと、いわるるか。
25渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/24(木) 14:09:19.97 ID:Ipy3cEbz
 真剣に一心に念仏しようという、そういう思いが沸き立たされたとき、極楽浄土に必ず往生でき
るというその道理を、優れた人から伺う機会に恵まれると、特別な時期でなく、普通通りの一般的
な時の一瞬に決意が確定する。よし、念仏を実践していこうと。こいう人は見込みがある。きっと奢
摩他・毘婆舎那がうまくなるだろう。これこそ、肉体が死ななくても、つまり腹が固まれば、条件さえ
整えば、極楽浄土にその瞬間に往生するということだろう

 真剣に一生懸命練習しよう。そういう思いが固まったとき、柔道界に加わり、柔道界から落ちこぼ
れるということがなくなる。こういう道理を、柔道の名人から伺う機会に恵まれると、特別な時期でな
く、普通通りの一般的な時の一瞬に決意が確定する。よし、柔道を練習していこうと。この瞬間、
柔道界の一員に確定する。こいう人は見込みがある。きっと寝技、足技がうまくなるだろう。これこ
そが、肉体が死ななくても条件さえ整えば、柔道界に参加するということだ。

 本願の文あきらかなり。 〜 本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、
殿最懸隔にあらずや。

 経典に書いてある文意は明らかである。馬鹿は死ななきゃ治らない。臨終になれば治りますよと言
う馬鹿話と、 不体失往生の話との違いは歴然としているのである。
26渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/24(木) 18:21:13.74 ID:Ipy3cEbz
>一門二門は現世の話で三門から先は臨終後の話だよ。

>>23では、真宗坊主と書いたが、実際は坊さんか坊さんでないかは分からんかったな。
まあそれよりも、真宗の人よ、馬鹿話を信じるのはやめようではないか。目を覚ませ。

 「臨終になったら奢摩他・毘婆舎那ができるようになりますよ」。真顔でこんなこという阿
呆は豆腐の角に頭ぶつけて寝ている方が利口だ。ノータリン阿呆教義の典型だろう。
27神も仏も名無しさん:2014/04/25(金) 10:26:30.93 ID:8foLWX8q
>>26
> まあそれよりも、真宗の人よ、馬鹿話を信じるのはやめようではないか。目を覚ませ。

だれそれの話ではなくて天親、曇鸞、親鸞が考える浄土往生についての話だ、
浄土往生については現世か臨終後かについて東と西にも考えがある。
しかし浄土往生を人間の生死ついて分け隔てる考えがそもそも間違っておる。
生死で分けると親鸞思想がまるでわからなくなる。生死の両法またがっているのが
親鸞の浄土観です。あなたもだれもわからんでしょ、だから
私が死ねば親鸞思想を継承する人がいなくなるw

ヒント@

必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界

ヒントA
獲(ぎゃく)の字は、因位(いんに)のときうるを獲という、得の字は、
果位(かい)のときにいたりてうることを得というなり。
28渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/25(金) 12:20:29.83 ID:cZRw05bA
>>27
ばかばかしい。寝言は寝て言え 馬鹿は死ななきゃ治らない。 ノーコメント

東西本願寺の教学の嘘を暴く大般涅槃経要門 
 東西本願寺が公表されては困る専修寺蔵の堂々の親鸞真筆文書

佛言はく。善男子よ、一切の業が定んで果を得るならば、すなわち、梵行解脱はまさにもとまらずと。
不定をもっての故に則ち梵行及び解脱の果を修せよ。
仏が言う。善男子よ、何か事があれば必ず結果が出ると思うな。必ず結果が出ると思うのであれば、
仏道を修行しても悟りを得ることはできない。事が起きても結果が出るとは限らないのだ。だからこそ、
だからこそ仏道を修行して悟りを求めよ。

善男子よ、もし能く一切の惡業を遠離せば、すなわち善果を得む。もし善業を遠ざからば、すなわち
惡果を得む。もし一切の業で定んで果を得んとすれば、すなわち聖道を求めて修習すべからず。
善男子よ、もし効果的にすべての悪業を離れれば必ず善果が得られるのか。もし、完全に善業から
遠ざかれば必ず悪果を生むのか。いかなる行為を行っても、必ず相応の結果が実現しなければ
ならないと思うなら、聖道門の道を歩む資格はない。東西本願寺にでも行って聖道門の道を捨ててし
まえ。

もし道を修せずば、すなわち解脱なし。
東西本願寺の教えのように聖道門の道を修行しないならそれはお前の勝手だ。聖道門の道を修行しな
いなら、東西本願寺の教えのように解脱はない。救いはない。仏教はない。外道の教えがあるだけだ。

一切の聖人が道を修するゆえんは、定業を壊して輕報を得るがゆえなり。不定の業は果報が無きゆえ
なり。もし一切の業で定んで果を得んとすれば、すなわち聖道を求めて修習すべからず。
世の中には東西本願寺が馬鹿にしている無数の聖者がいる。東西本願寺が馬鹿にしている無数の聖者
達はみな厳しい修行をしている。厳しい修行をしている理由は何か。過去に思い悪業を冒していても、
その報いが軽くても済むようにと祈って行うのである。善業は必ず善果を得ると決まってはない。善
業を行えば必ず善果を得なければならないと思うなら、本願寺の阿呆どものように、五体満足でもあ
たかも寝たきり婆さんの格好をして、昼間から無為無策に怠惰な生活でもしていればいい。聖道を求
めるのはやめてしまえ。
29渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/25(金) 12:26:17.24 ID:cZRw05bA
もし、聖道を修習することを遠離して解脱を得れば、この處(こと)はりあることなけん。解脱を得、
涅槃を得ずば、またこの處(こと)はりあること無けん。
もし、聖道を修習することなく、聖道の道を遠離し、浄土門だけで解脱を得られるというなら、仏道
つまり善因善果、悪因悪果という論理は破綻してしまう。

解脱を得、涅槃を得ずば、またこの處(こと)はりあること無けん。
仏道を修行しても悟りが得られないなら、仏道つまり善因善果、悪因悪果という論理は破綻してしま
う。

善男子よ、もし、一切の業で定んで果をえれば、一世の所作、純善の業は、まさにながくすでに常に
安樂を受くべし。
善業は必ず善果を得るというのか。どのような行為でも、その中に純善の業が含まれていたなら、永
遠に安楽が得られるのか。夢のようなそのようなことはありえない。

一世所作、慇重の惡業は、またながくすでに大苦悩の業果を受けるべし。若し爾らばすなわち修道し
解脱する涅槃の人はなからん。
悪業は必ず悪果を得るというのか。重大な悪業をしてしまった人はいつまでもいつまでも絶望的に苦
しみ続けなければならないのか。もしそうなら、仏道を修行し、悟りを得る人は一人もいないだろう。

善因は必ずしも善果を得ないかも知れない。悪因が必ずしも悪果をもたらさないかも知れない。しか
しそれでも、それでも、善因善果、悪因悪果を信じ、果敢に聖道門の道を歩んでほしい。結果は未定
だ。不定をもっての故に則ち梵行及び解脱の果を修せよ。
30渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/25(金) 12:30:04.44 ID:cZRw05bA
師子吼言ふさく。世尊よ、經の中に説くがごとし。若し毘婆舎那がよく煩悩を破すなら、なにがゆえ
ぞまた奢摩他を修するや。佛言はく。善男子よ、毘婆舎那は煩悩を破すと汝が言はば、この義は然か
らず。なにをもってのゆえに。
獅子吼菩薩が釈尊に尋ねる。経典の中に次のような記述がある。毘婆舎那を行えば効果的に煩悩を破
する。煩悩は毘婆舎那で破することができる。それなのに先生はどうして奢摩他を勧めるのですか、
と。

毘婆舎那煩悩を破せば、獨りよく破すとやせん。伴にことさらに破すとや。煩悩は毘婆舎那で破すこ
とができると言えば、毘婆舎那が単独で破すると言うのか。そうではない。毘婆舎那は、奢摩他を伴
うからこそ毘婆舎那を行えば効果的に煩悩を破するというのである。奢摩他・毘婆舎那などは臨終後
の話であるという東西本願寺の主張は嘘でたらめである。馬鹿が死ななきゃ治らないというのは、残
念なことである。
31神も仏も名無しさん:2014/04/25(金) 15:54:02.18 ID:8foLWX8q
だけどあなたも現実に現世で奢摩他 毘婆舎那など無縁でしょw
参ったかw
32神も仏も名無しさん:2014/04/25(金) 15:57:16.04 ID:8foLWX8q
驚き喜びで一門、確信して二門これで現生正定聚、あとは臨終の後と言うことに
何の疑いもございません。毎晩夢の中の善知識にそのように窺っております。
33神も仏も名無しさん:2014/04/25(金) 16:00:14.14 ID:8foLWX8q
三毒五悪段を親鸞さんはどのように考えていたか
これがわからんと何もわからんと言うことになる。
34神も仏も名無しさん:2014/04/25(金) 16:20:41.82 ID:I5PR3RJs
Wikipedia “聖道門” より
聖道門(しょうどうもん)は、「浄土門」に対する語。様々な修行を通して、
自力によって成仏することを説く宗旨のこと。
法然は、道綽の『安楽集』に「聖道」と「往生浄土」の2種の勝法が説か
れたことを受け、『選択本願念仏集(選択集)』にて用いられた言葉である。

法然が浄土宗を確立した当時、仏教といえば密教系の天台宗と真言宗が
主流だったため、主にこの2宗をさすが、その直後に登場した禅宗もこれに
含まれる。浄土教以外の宗旨でこの言葉は通常使われない。


>>28
渡海 難さんに質問です。
『大般涅槃經要文』において、「浄土門」という言葉があるのでしょうか?
「浄土門」だけでは解脱を得られないという表現があるのでしょうか?
『大般涅槃經要文』やその元になった『大般涅槃経』において「浄土」
という表現があるのでしょうか?

『大般涅槃經要文』における「聖道」を「浄土門」に対する語とされても
困っちゃうよなぁ。
『大般涅槃經要文』の元になった『大般涅槃経』には、「八聖道」という語が
たくさん出てくるのですね。検索楽しいです。
35神も仏も名無しさん:2014/04/25(金) 18:40:15.87 ID:I5PR3RJs
見聞集 親鸞筆 大般涅槃経要文 親鸞筆(重要文化財)
員数 一冊
縦25.0cm 横15.8cm
『大般涅槃経』の中から三十五文を抜粋し、そのあとへ『業報差別経』の
一文を続けて書写されたもので、著名などはないが、筆跡からみて親鸞
聖人の筆として 誤りないものである。聖人が『涅槃経』をとくに重視された
ことは、『教行証』に非常に多くの引文があることによって著名であるが、
その面からこの書の存在 が注目される。
なおこの聖人の筆写に続いて、『金光明経』などから三つの要分が墨書
されているが、これは聖人の筆跡とは認められていない。

http://www.senjuji.or.jp/houmotsu/houmotsu.php


>>28
>東西本願寺の教学の嘘を暴く大般涅槃経要門 
>東西本願寺が公表されては困る専修寺蔵の堂々の親鸞真筆文書

専修寺に伝わる『大般涅槃経要文』は『大般涅槃経』の抜粋。
単純に本願寺に『大般涅槃経要文』が伝わっていなかったというだけだろ。
他に写本は確認されていないし。
親鸞の著作における『大般涅槃経』の引用については、東西本願寺だけ
ではなく、様々なところで研究されているから。
36渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/25(金) 20:41:06.62 ID:cZRw05bA
>>34
http://yahoo.jp/box/NwGt84

>「聖道」を「浄土門」に対する語とされても困っちゃうよなぁ。
貴方が困っても、親鸞聖人は全然困りませんから安心してくださいな。

>『大般涅槃経』の引用については、東西本願寺だけではなく、様々なところで研究されているから。

 親鸞は、原文を換骨奪胎して引用して独自の主張をしています。
 『大般涅槃経要文』を読む。要文を親鸞の著作して読む。これがポイントだよね。

>「聖道」を「浄土門」に対する語とされても困っちゃうよなぁ。

貴方が困っても、親鸞聖人は全然困りませんから安心してくださいな。歎異抄を忘れなさいな。


>>35
>単純に本願寺に『大般涅槃経要文』が伝わっていなかったというだけだろ。

唯信抄文意は専修寺に伝わっていたんだよな。本願寺は親鸞が亡くなってずっと後にできたも
のだ。本願寺はいつ入手したの?
 消息集などは、ほとんど各地に末寺に伝わっていた。本願寺に伝わっていた消息集なんかあ
ったのか? ばかばかしい。


>『大般涅槃経』の引用については、東西本願寺だけではなく、様々なところで研究されているから。

 親鸞は、原文を換骨奪胎して引用して独自の主張をしています。
 『大般涅槃経要文』を読む。要文を親鸞の著作して読む。これがポイントだよね。
大般涅槃経要文と五会法事讃略抄は、歎異抄なんかと比較にならないほど、重要な文書だ。
37神も仏も名無しさん:2014/04/25(金) 21:06:06.79 ID:I5PR3RJs
>>36
>親鸞は、原文を換骨奪胎して引用して独自の主張をしています。
>『大般涅槃経要文』を読む。要文を親鸞の著作して読む。これがポイントだよね。

抜粋ではなく、『大般涅槃経』本文を最初から最後まで読んで、その内容を
精査する。『大般涅槃経』の文献学的研究としてはこちらの方が正統ですね。

『大般涅槃経』から『大般涅槃経要文』になった段階で、抜粋という親鸞の
意図が入る。
さらに親鸞は他の著作において『大般涅槃経』の引用し、解釈を加える
ことによって、自らの考えを説く。
それらを調べるのは『大般涅槃経』自体の研究ではなく、親鸞の思想の研究。

抜粋と換骨奪胎して独自の主張をしたもの、どちらが親鸞の思想をより多く
反映しているでしょうか?
東西本願寺は親鸞の著作における『大般涅槃経』の引用の存在を隠蔽しようと
しているのでしょうか?
38渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/26(土) 13:35:38.77 ID:knpsv3zI
>>31
>だけどあなたも現実に現世で奢摩他 毘婆舎那など無縁でしょw参ったか

 僕が奢摩他・毘婆舎那に無縁? まあ、無縁かも知れないね。
 でも僕は、自分ではできていると思ってる。奢摩他 毘婆舎那に完成と言う段階があるのかどうかは
知らないから、完成域に達しているかどうかは知らないけれど、使い勝ってがよくて、重宝している。
アマチュアの僕にはこれで十分だ。

 基本的に奢摩他・毘婆舎那は自己申告ではない。自分の感触でできている、できていないという思
いで判断するものではない。奢摩他・毘婆舎那のできるひとに心の中を見証して貰って印可を受ける
ものだ。親鸞聖人は、法然上人に見証して貰って印可を受けるはずだったんだろうが、流罪のどさく
さで親鸞聖人はそのチャンスを逃している。

 存覚上人や蓮如上人は当然、他人の見証ができたとおもう。彼らは、談合(現代ならエンカウン
ターグループ)という手法をとっていた。しかし、今の浄土真宗にそれができる人はいない。いれば
殺されるか、教団から追い出されるだろう
 見証では、どういう心理状態で禅に向かっているかを確認する。十数年前になるけど、僕は自分の
座禅はこれでいいのか、総持寺の坊さんに見て貰おうと思って日曜座禅会に少し通った。僕はずっと
在宅で仕事をしている。家計は火の車だから日曜日と言っても休みではない。出かけるのは数週間お
きだった。
 老師に会見するんだが、あそこは先輩後輩の序列が厳格だ。新参者は先輩に案内されて会見に向か
う。たまたま先輩の要領が悪く、トラブルがあり、会えなかった。
 僕はその後、そんな先輩の案内抜きで勝手に会いに行っていいものか、悪いものか、ルールが分か
らなくて躊躇した。その直後、思いがけず大病して入院し、一年以上通えなくなった。脚を曲げて座
禅を組むこともできなくなった。そのあと少し脚が曲がるようになって座禅会に通ったが、老師が来
る日と僕のスケジュールとがいつもずれた。老師も毎回出席してくるわけではなかった。
 そのうち、家を引っ越すことになって、総持寺から遠くなり、座禅会とは縁が切れてしまった。奢
摩他・毘婆舎那の確認はもういいやという気になった。僕はプロの坊さんになる道をとっくの昔に放
棄していた。
39渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/26(土) 13:39:19.26 ID:knpsv3zI
 親鸞・蓮如などは談合という手法を採ったが、臨済宗は公案を使う。曹洞宗は黙照禅かと思ったが、
総持寺の老師は自分も公案を使うと言っていた。臨済宗では十個の公案をパスすると印可が受けられ
る。僕は公案を貰ったことないけど、あれなら解けそうだ。

 奢摩他・毘婆舎那は先生の見証を受けて印可を貰う。僕はそれを貰ってない。だから、渡海は奢摩
他・毘婆舎那ができてない。他人はそう思って貰って結構だ。僕はプロではない。
 禅寺の座禅会に通いながら、禅寺では禅をするが、自宅ではしないという人がほとんどだ。僕はほ
とんど毎日、多念念仏を20分、一念念仏を20分行っている。親鸞と格闘しながら多念念仏・一念
念仏の型式に落ち着くには随分時間がかかったけど、座禅としては三十年近く毎日やってきた。最初
の座禅との出会いは、四十年以上前だ。

 人生の中で本当に苦しくなると、数時間連続して行う。食事もとらずにやったことは数回ある。そ
うすると、寝床について熟睡しながらも、脳は明らかに動いている。頭のなかの血管が猛烈に拍動し
てくる
 座禅しながら僕は不思議な体験もいくつもしている。その内の一部は、今振り返ると魔境という体
験だったと思っている。魔境に振り回されて僕は数年間人生を遠回りした。今は脱している。

 奢摩他・毘婆舎那ができているかどうかということより、僕にとっては自分に役に立つかどうかが
大事だ。仕事で行き詰まったとき、家計が苦しくなったとき、仕事がなくなって先行き真っ暗になっ
たとき、無明長夜の燈炬が得られるかどうか。智眼くらしと悲しまないで済むかどうか、ここが大問
題だ。逆境に遭ったとき念仏が無明長夜の燈炬となり、智眼くらしと悲しまないで済めばそれで目的
が達成する。それ以上のことは求めていない。

 念仏指導者として他人に念仏の指導をしようと思うなら、奢摩他・毘婆舎那の見証を受けて印可を
貰った方がいい。僕は若い坊さんにはできるだけ禅寺に行くといいと言っている。しかし、念仏指導
者になるのではなければ、自分の生活に役に立つようになれば念仏(禅)はそれで十分だ。
40渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/26(土) 20:15:15.29 ID:knpsv3zI
>>32
意味不明。ノーコメント。

>>33
>これがわからんと何もわからんと言うことになる。
 これが分かっても、実は何も分からんことに変わりはないでしょう。
 ノーコメント

>>34
 Wikipediaは、仏教音痴、宗教音痴が書いている。
 便利だから僕もしばしば使わせて貰っているが、嘘もたくさん書いてある。

>>37
意味不明。ノーコメント。
41神も仏も名無しさん:2014/04/27(日) 10:39:21.48 ID:5Y5RdgGk
>>39
なんや、ただの娑婆の話しやんか

あほらし
42渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/27(日) 12:07:45.51 ID:DiWxsSPv
>>41
 一切聖人、道果を得と雖も、自から稱説せず。稱説せざるゆえに、心悔恨せず。これを知足
と名づく。(大般涅槃経要文 親鸞真筆 専修寺蔵)

>なんや、ただの娑婆の話しやんか あほらし
 おぬしは僕から「道果を得たぞ」という話を聞きたかったのか?残念だったな。
 
 心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、心得たるなり。弥陀の御助けあるべきことの尊
さよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり(聞き書き) 

無宿善機無左右不可許之者也
  宿善の無いものには妄りに許すべかざるものなり。(歎異抄)

>>38,39 補足します
 頻繁に禅と言葉出てきます。疑問を持つ人がいると思います。疑問は親鸞にぶつけてください。
念仏は禅門であるという親鸞の確信を背景としています。

 しかるに念佛三昧は、これ眞の無上深妙の禪門なり。
     (本願寺が隠匿する五會法事讃略抄 親鸞真筆 専修寺蔵)。
 
念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。〜王いま座禅してただ当に念仏すべし (行巻)
『観仏三昧経』に云わく、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまう  (行巻)

 念仏は座禅して行う。座禅して念仏申す。親鸞の念仏は、天台禅そのものであったと理解
しています。
 天台禅はどのように行うか。知りたい人は「天台小止観」が必読書です。
43渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/27(日) 14:23:14.09 ID:DiWxsSPv
>>42
×  頻繁に禅と言葉出てきます。

○  頻繁に禅という言葉が出てきます。
44神も仏も名無しさん:2014/04/27(日) 16:34:21.89 ID:WeWTAmoS
>>42
そのような考えではだめなんだ、
特定の少数者しか救われないのは親鸞思想に反することなんだ。
奢摩他などどうでも良い、唯念仏するだけが正しいことなんだ、それは
弥陀、釈迦、諸仏、法然、親鸞の教えなんだからそのように考えるしか仕方が無い。
45神も仏も名無しさん:2014/04/27(日) 16:37:14.03 ID:WeWTAmoS
>>40
不体失往生 体失往生の論争に解決策があると僕は考える。
そのどちらに偏った考えも間違いであると親鸞思想からは言えると僕は思う。
46神も仏も名無しさん:2014/04/27(日) 16:39:26.84 ID:WeWTAmoS
>>40
善因善果、悪因悪果などという安っぽい考えは捨てたらどうだ。
道理を知らない中国人の限界だろ
47神も仏も名無しさん:2014/04/27(日) 16:43:27.83 ID:WeWTAmoS
>>39

> とんど毎日、多念念仏を20分、一念念仏を20分行っている。親鸞と格闘しながら多念念仏・一念
> 念仏の型式に落ち着くには随分時間がかかったけど、座禅としては三十年近く毎日やってきた。最初

そもそも多年念佛、一年念佛と言う行方がわからん、この言葉で一年近く前からレスしているが
サッパリわからん。誰もわからんでしょw誰か身近にあなたの賛同者はいるのですかw
48神も仏も名無しさん:2014/04/27(日) 19:25:09.95 ID:5Y5RdgGk
>>42
なんや、ただの自力のはなしやんか

あほらし
49渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/28(月) 11:18:14.91 ID:v+LY8wXw
>>44
ID:WeWTAmoS(>>44)の背後霊の声
 親鸞さん。見つけましたよ。あんたは何と無茶苦茶なことを言うんですか。貴方は馬鹿ですか?
念佛三昧が禪門ですって?。父王に念仏三昧を勧めた?。冗談じゃありませんよ。本願寺ではそ
んな馬鹿なことを教えていませんよ。念佛三昧しろというなら、特定の少数者しか救われない。
念佛三昧できない人は可哀想でしょう。親鸞さん。念佛三昧が禪門とか、念仏三昧を勧めますとか、
座禅しろとか、そんな馬鹿な教えは、親鸞思想ではあ・り・ま・せ・ん。
 あんた。親鸞さんよ、何の権限でノータリン教を説いているんですか?いまさら誰もあんたに用は
ない。浄土真宗ではみんな救われる。本願寺の教えに反する親鸞の主張に耳を貸す人なんか、馬
鹿な渡海難以外に一人もいません。あんたら所詮二人ぼっちだ。本当の親鸞思想は本願寺にある。
悔しかったら本願寺に浄土真宗を教わりに来んさい。

 大般涅槃経要文なんていう、糞みたいな文書を残して、あんたは恥ずかしくないのか。毘婆舎
那がよく煩悩を破すだって?毘婆舎那煩悩を破せば、獨りよく破すとやせん?冗談じゃない。あ
んた、まるで奢摩他をしろ、毘婆舎那をしろと言っているみたいじゃないか?あんたはだれの許
可で大般涅槃経要文を書いたんだ?
 親鸞さん。よく聞きなさい。奢摩他なんかどうでもいい、唯念仏するだけが正しいことなんだ。
それは弥陀、釈迦、諸仏、法然、親鸞の教えなんだからそのように考えるしか仕方が無い。みん
な右向け右でそのように信じるしか仕方がないんだよ。親鸞さん。あんたなど、誰も必要としな
いんだ。あんたは死んだ人間なんだから、黙っていればいい。あんたに本願寺は用がない。

 唯念仏するだけが正しいとは言っても、お前は念仏してないだろうですって?親鸞さんよ、冗
談じゃない。あんたはID:WeWTAmoS(>>44)に向かってそんな偉そうなことを言える身分ですか?
あんたから見て他人のことは放っておけばいい。私が念仏しないのはおかしい?。そんなことは
ないんだ。念仏しないと救われないなら、特定の少数者しか救われなくなる。みんな救われるん
だから、念仏も必要ない。あんたの言っていることの方がよっぽどおかしいんだ。

一昨日おいで。  以上、ID:WeWTAmoS(>>44)の背後霊の声
50渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/28(月) 11:46:46.99 ID:v+LY8wXw
>>45
 ID:WeWTAmoS(>>45)の背後霊の声
 覚如さん。見つけましたよ。あんたは、平気で嘘を言う。あんたはペテン師か。「善信は、念
仏往生の機は体失せずして往生をとぐ」といった?冗談じゃないよ。善信とは親鸞聖人のことで
しょう。いいですか?不体失往生と体失往生の論争に解決策があると僕は考える。そのどちらに
偏った考えも間違いであると親鸞思想からは言える。善信は、念仏往生の機は体失せずして往生
を遂ぐなどと言ったはずはないんでですよ。

 なになに?全国の真宗の寺のほとんどは、覚如・存覚以後にできているですって?覚如・存覚
以後にできている寺は、覚如・存覚の考えに賛成して誕生した?真宗寺院は、不体失往生を信じ、
その実現のために誕生した?冗談じゃないよ。そんな話は関係ない。聞いてない。いいですか、
不体失往生だけを言ったら間違いなんだ。小坂の善恵房証空上人も正しいんです。小坂の善恵房
証空上人の教えは本願でないなどというのはとんでもないことだ。だからこれは、法然も間違っ
ている。
 馬鹿は死ななきゃ治らない。馬鹿も死ねば少しはまともになるでしょう。死ないで極楽浄土に
いければそりゃ幸いだ。それでも、本願寺の坊主はみんなとんでもない馬鹿だから、馬鹿は死な
なきゃ治らない。だからあんたら馬鹿も、阿弥陀様のお力で、せめて死んだら極楽浄土にいけま
すよと、こういうありがたいありがたい笑い話を本願寺は説いて喜ばせてくださっているんだ。
 覚如さん。悔しかったら、本願寺に浄土真宗をきちんと教わりに来なさいな。しっかりと教え
て差し上げますよ。私は末寺の坊主です。

以上、ID:WeWTAmoS(>>45)の背後霊の声
51渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/28(月) 11:58:28.98 ID:v+LY8wXw
>>46
ID:WeWTAmoS(>>46)の背後霊の声

 「因果なく、三宝の性、異なりと言いて、もろもろの邪語富闌那等を信ずる、これを信邪と
名づく」?。親鸞よ、教行信証なんかで言う善因善果、悪因悪果などという安っぽい考えは捨
てたらどうだ。お前の言うことは、道理を知らない中国人の限界だろ。親鸞よ。お前のいうこ
とんなんか、本願寺だって一人も信じちゃいないんだよ。富闌那様々なんだ。親鸞よ、お前は所
詮、本願寺の操り人形なんだ。身分をわきまえろよ。
52渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/28(月) 12:33:25.43 ID:v+LY8wXw
>>47
ID:WeWTAmoSの背後霊の声 

「一念をひがごととおもうまじき事〜多念をひがごととおもうまじき事」だって?冗談じゃない。

そもそも多年念佛、一年念佛と言う行方がわからん、この言葉で一年近く前からレスしているが
サッパリわからん。誰もわからんでしょw。親鸞さんよ、誰か、渡海難以外で身近に親鸞さんあな
たの賛同者はいるのですか。  いるはずないよね。

  ↓ 仮説的に
http://www7b.biglobe.ne.jp/~propatent/syuu/5enenbutu.htm
53渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/28(月) 12:40:39.80 ID:v+LY8wXw
>>48
ID:5Y5RdgGkの背後霊の声
 親鸞だって!? なんや、ただの自力のはなしやんか。わしらは他力を知っとるぞ。
 本願寺の他力で救われたと人と、本願寺の他力で救われてない人と、何がどれだけ違うかだっ
て?生意気な質問するな。親鸞なんて関係ない。救われた状態と、救われてない状態とに差異な
んかいらんのだよ。寝たきりのばあさんの振りをしていればそれでいいんだ。生意気な心配するな。
54神も仏も名無しさん:2014/04/29(火) 02:04:21.58 ID:K5CV5drD
質問です、
阿弥陀仏の本願による救済ってのが浄土真宗の肝だと思うんだけど、
一方で諸法無我の前提がある。
そうすると、救済される主体って何?
55さとし:2014/04/29(火) 08:09:38.36 ID:2A0aQ9+0
御文章の「八万の法蔵章」の中に、後世をしらざる人を愚者とす、後世をしるを智者とす、という言葉が出てきます。
ひょっとして、浄土真宗って「後世をしる智者」のための教えであって、「後世をしらざる愚者」は救われないという教えなのでしょうか?
「死んだらおしまい」くらいにしか思ってない私は、まさに「後世をしらざる愚者」であると思うのですが、
私は、浄土真宗では救われないということなのでしょうか?
56神も仏も名無しさん:2014/04/29(火) 09:57:44.07 ID:8IbXb//m
川も渡れんのに

海を渡るのは難しい(渡海 難)とはこれいかに
57渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/30(水) 00:30:01.13 ID:Xm4pohRv
>>54
> 阿弥陀仏の本願による救済ってのが浄土真宗の肝だと思うんだけど、

本願寺流の歎異抄浄土真宗の考えですね。
僕には本願寺流の浄土真宗は全く理解できません。本願寺の坊さんに聞いてみてください。本
願寺浄土真宗の考えは、僕には理解不能、説明不能です

>>55
死生観が違うんじゃないですか?
 人間は精神と肉体とからなる。人の死は、精神と肉体が離れたときである。そのとき、肉体は滅
びる。貴方は、そういう死生観を持っていますね。これはアリストテレスなどのギリシャ合理主義的
死生観ですね。
 江戸期以前、特に戦国時代以前の仏典は、ギリシャの影響を受けていません。ギリシャ哲学を
前提にしません。インド的死生観で読んでください。確かに、ギリシャ的死生観も結構です。明治期
以後の書物を読むときには必要です。西洋の文献を読むときには絶対に必要です。
 しかし古典の仏典を読む場合にはギリシャ的死生観を捨て、インド合理主義的死生観で読んで
ください。

>>56
>川も渡れんのに海を渡るのは難しい(渡海 難)とはこれいかに

難思の弘誓は難度海を度する大船なり。得道の人は道果を得と雖も、自から稱説せず。稱説
せざるゆえに、心悔恨せずに、信ありて習うなり。
58神も仏も名無しさん:2014/04/30(水) 01:10:41.98 ID:NUA2wvlp
難思の弘誓は難度海を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり
『顕浄土真実教行証文類 序』


難思光仏と申すは、この弥陀如来のひかりの徳をば、
釈迦如来も御こころおよばずと説きたまへり。こころの
およばぬゆゑに難思光仏といふなり。

つぎに無称光と申すは、これも「この不可思議光仏の
功徳は説き尽しがたし」と釈尊のたまへり。ことばも
およばずとなり。このゆゑに無称光と申すとのたまへり。
しかれば曇鸞和尚の『讃阿弥陀仏の偈』には、難思光仏と
無称光仏とを合して、「南無不可思議光仏」とのたまへり。
この不可思議光仏のあらはれたまふべきところを、かねて
世親菩薩(天親)の…………としとみえたり。自力の行者
をば、如来とひとしといふことはあるべからず。おのおの
自力の心にては、不可思議光仏の土にいたることあたはず
となり。ただ他力の信心によりて、不可思議光仏の土には
いたるとみえたり。かの土に生れんとねがふ信者には、
不可称不可説不可思議の徳を具足す。こころもおよばれず、
ことばもたえたり。かるがゆゑに不可思議光仏と申すと
みえたりとなり。
『弥陀如来名号徳』
59さとし:2014/04/30(水) 04:06:59.63 ID:NrrVv7Y5
>>57
死生観の違い。まさにその問題です。でも、私が持っている死生観は、
簡単に言ってしまえば「死んだらおしまい」。肉体も精神も滅びて何も残らない。
そういう死生観です。だから私は自分のことを「後世をしらざる愚者」だと言っているのです。
インド的死生観というのは、六道輪廻のことでしょうか? 私には、この先、六道輪廻の
死生観を持つのは、たいへん難しいことのように思われます。単に文献を読む上での
話ではありません。生きていく上での話です。六道輪廻の死生観を持たない人は
浄土真宗では救われないのか? そういう問いです。
60渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/30(水) 12:42:06.57 ID:Xm4pohRv
>>59
>だから私は自分のことを「後世をしらざる愚者」だと言っているのです。

 教わってないから知らないだけでしょう。教わってないから知らないという人を愚者と判断す
ることは間違いですよ。
 僕だって最初は知らなかった。僕だって親鸞聖人から教わったんだ。親鸞聖人以外は誰も教え
てくれなかった。親鸞聖人が、こういうことだと書き残してくれていたから、ああそうかと分かったん
です。
 死生観はあらゆる思想においてのほとんど基礎的部分になります。最も基礎部分の思想は余計
な修飾がなくて極めて単純です。僕はこれまで、インド的死生観は幾度も書いてきた。繰り返し
書いてきた。過去ログを見るとたくさん出てくるだろう。

 インド的死生観は非常に重要だ。仏教思想のすべての基礎だ。難しい話ではない。親鸞聖人と
その弟子達は、必要なことほとんどすべて、完全な形で現代に文書で残してくれている。大事な
ことは、その文書を読み切る理解力があるかどうかだけだ。

 願力無窮にましませば 罪業深重も重からず 仏智無辺にましませば 散乱放逸も捨られ
ず(親鸞和讃)
 仏は願と力において際限がない。自分は罪業深重であると思っても、決して心配することはな
い。仏は智慧も際限がない。まとまりがなく、統一性、合理性のない人であっても、仏は決して
見捨てない。親鸞はそう教えてくれている。

 仏というのは願と力と智慧との三つに際限がない。人間とは何か。人間は、願と力と智慧の三つ
に際限がある。

 ギリシャ人は人間の要素を肉体と精神に分け、これを根本要素とし、知識(智慧)を深めた。
インド人は人間の要素を願(意思)と力(行動)とに分け、これを根本要素とし、知識(智慧)
を深めた。このように仮説できるのではないか。
61渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/30(水) 12:47:19.83 ID:Xm4pohRv
 ギリシャ人は考えた。人は肉体と精神を伴って誕生した。両者が分離しない限り死はない。
両者が分離すれば人は死ぬ。
 インド人は別の考えを持った。人は、意思と行動を伴って再生(生)する。意思が持続し、行
動が変われば彷徨(病)する。意思が変わり、行動が持続していれば疲弊(老)する。意思も行
動も変われば挫折(死)する。人は、絶え間なく意思と行動が変化する。つまり、再生(生)・
彷徨(病)・疲弊(老)・挫折(死)を繰り返す。再起・挫折・再起・挫折を繰り返す。生・死
・生・死を繰り返すのだ。肉体と精神が分離しないでも人は死ぬ。分離しても意思と行動が持続
する限り死んでいない。

 ギリシャ人は考える。人間の肉体をもって誕生した者は、その肉体を持続する限り人間である。
肉体こそ異なれば、同様の精神を持っていても別人格である。
 インド人は考える。意思と行動が変われば、同一の肉体でも別人格である。意思と行動が同一
であれば、肉体の別異を問わず、同一人格である。百年千年の時代を隔てても、意思と行動が同
一であれば同一人格である。時代を隔てれば、しばしば再来という。
 ある意思と行動をもった人の肉体が滅んでも、その同じ意思と行動を持った人格がきっと将来
また出現するだろうと確信できる場合、霊魂になぞらえてその人格は古巣に還帰したと言う。なぞ
らえて還帰したと言う

 ギリシャ人は考える。人間の肉体必ずいつか崩壊する。人は死を免れない。必ず死ぬ身である。
釈尊は死んだ人であり、弘法大師も死んだ人である。
 インド人は考える。教育によって人は先人の考えを学ぶ。これによって智慧が伝わる。智慧が
伝わると先人の意思と行動が肉体の相違を越えて再生・復活・拡大・連続する。同一の意思と同
一の行動が持続すれば、肉体の不連続性を越えて同一の人格が継続する。教育は死つまり挫折を
克服する。永遠の命を実現する。釈尊の意思と行動が持続する限り釈尊は生きている。弘法大師
も生きているのだ。
62渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/30(水) 12:51:09.55 ID:Xm4pohRv
 ギリシャ人は考える。ヒトの肉体を持っている者は、どんな精神を持っていても等しくヒトで
ある。鬼もヒト、ケダモノもヒトである。鬼は架空であり、龍も阿修羅もみな架空である。
 インド人は考える。人間の意思をもって、人間の行動をするものだけが人間である。ケダモノ
の意思でケダモノの行動をする者は、ヒトの仮面(穢体〈肉体〉)を被っていても本質はケダモ
ノである。鬼の意思で鬼の行動をする者は、ヒトの仮面(穢体〈肉体〉)を被っていても本質は
鬼である。同一の肉体(穢体)を継続していても、それがヒトとなるか、ケダモノとなるか。分
水嶺は宿った智慧の有無による。鬼も龍も阿修羅も実存である。仏であるかヒトであるか。その
分水嶺は慈悲を伴う智慧の量による。無限大か、有限か。

 法廷に被告が入廷してくる。突然、傍聴席から叫び声がする。「ケダモノ!」。声の主は初老
近くの皺が目尻に見える。興奮して全身が震えている。両手では若い女性の写真をしっかり握っ
ている。裁判長が大きい声で言う。「静粛にしてください」。傍聴席は満席で、報道陣が大半を
占める。若い新聞記者がつぶやく。「あのお父さんは頭がおかしいんじゃないか。ケダモノ?違
うよね。人間だよね。人間でなかったら、殺人をしても裁判なんかしないんだろ。狂犬病の犬が
人を殺しても、山中の蛇が登山客を殺しても、裁判なんかしないだろ。被告は人間だから裁判を
するんだよ」と。

 父親の言い分が正しいのか。その新聞記者が正しいのか。ギリシャ的死生観で言えばその新聞
記者が正しい。しかし、インド的、仏教的死生観で言えば父親が正しいと言うべきだろう。ケダ
モノの心でケダモノ行動をすれば、それはヒトではなく、ケダモノである。ギリシャ的死生観は
分析的であり、インド的死生観は躍動的である。

 昨日まで鬼の手先となっていたケダモノが、今日は涙を流しながら真人間を誓う。その舌の根
の乾かないうちに、有頂天になったかと思うと、あっという間に鬼の下に戻って地獄に墜ちる。
ケダモノとなり、有頂天から、鬼となり地獄に墜ちる。ヒトは無知(正確には無明)の故に、真
人間となり、ケダモノとなり、鬼ともなる。絶え間なく絶え間なく意思と行動を変え、そのたび
に古い人格が死に、新しい人格が生まれ、生死生死を繰り返す。
63渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/30(水) 13:38:03.87 ID:Xm4pohRv
 現在の意思と行動が無明を核心にしている限り、やがて挫折のときがくる。現在の人格が死に、
新たな人格が再生する。新たな人格は、必ずしもヒトであるとは限らない。鬼の行動で鬼の行為
をする鬼、ケダモノの意思でケダモノの行動をとるケダモノになっているかもしれない。欲望だ
けが無限大に拡大しながら、行動は微動だにとれなくなることもある。厚さ数キロに及ぶ南極の
氷の下で、欲望の焔だけが無限大に燃えさかり、外からは何も見えない。これが何千年も何万年
も続く。これを地獄という。このような現実を知らない者は愚者という外はない。  (蓮如)
64渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/04/30(水) 14:55:39.41 ID:Xm4pohRv
 穢土の仮名の人・浄土の仮名の人、決定して一を得ず、決定して異を得ず(行の巻)。

意思と行動が変わると世界観が変わる。世界が一変する。この場合、前後の人格は同一と考え
ると(異を得ず)、古い世界から新しい世界に「往く」という。
意思と行動が変わると人格が変わる。人格が一変する(一を得ず)。この場合、前後の世界は同
一と考えると、古い自分が死に、新しい自分が「生まれた」という。

 歌謡界の外から歌謡界に入った人を新人歌手という。政界の外から政界の中に入った人を新人
政治家という。
 念仏しなかった人が念仏をしようと決意して念仏を始めると、念仏者が誕生する。念仏界の外から
念仏界に入った人を念仏者という。念仏者は極楽浄土に往生するという。

 念仏者は念仏界を構成している。歌手は歌謡界で歌を歌う。念仏者は念仏界で念仏する。

 仏教にとって不可欠の重要な概念です。基本は親鸞の和讃です。
 「願力無窮にましませば 罪業深重も重からず 仏智無辺にましませば 散乱放逸も捨られず(親鸞和讃)」

 本願寺の浄土真宗は複雑怪奇、分け分からんが、親鸞聖人の浄土真宗は単純明瞭、極めて分か
りやすいでしょう。

 本願寺の教えは百年聞いてもちんぷんかんぷん。そのうち聞いている方で腹が立つ。
 親鸞聖人の教えは、一度聞いたら忘れられない。
65神も仏も名無しさん:2014/04/30(水) 15:25:49.28 ID:eBrH6x1Y
ただ念仏してこそ
66渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/01(木) 17:10:53.96 ID:TbBhdBz5
 肉体の誕生は必ずしも生を意味しない。肉体の死は必ずしも死を意味しない。この私における
今の再起(生)・彷徨(病)・疲弊(老)・挫折(死)は、始めなき始めから無数の人々が無明を
共通し、その無明を因とし、繰り返し、繰り返し経験してきた無数の生・病・老・死といささか
も変わらない。終わりなき終わりに向かって無数の人々が無明を共通し、その無明を因として、
繰り返し、繰り返し経験していく生老病死といささかも変わらない。
 私においてこの生・病・老・死を断てば、始めなき始めから無数の人々が繰り返し、繰り返し
経験してきた無数の生・病・老・死の最後の生・病・老・死となる。終わりなき終わりに向かっ
て無数の人々が、無明を因として、繰り返し、繰り返し経験していくであろう生老病死から人々
を永遠に解放することを意味する。横超断四流とは机上の空論ではない

 親鸞聖人の浄土真宗は、本願寺の浄土真宗と似ても似つかぬ思想にたっていることに気づくべ
きでしょう。

 大東亜戦争で散華していった無数の兵隊達、特攻隊員達、彼らの肉体の死は必ずしも彼らの
死を意味しない。国家を守ろうとするその崇高な精神に目覚めた意思と行動は、日本国家が存続
する限り、未来の子孫にしっかりと繋いでいかなければならない大事な大和魂だろうと僕は信じる。
67神も仏も名無しさん:2014/05/02(金) 08:07:25.56 ID:V2G11zxI
あんたが似ても似つかない思想だと気付いていない

自己満足

マスターベーション

凡夫じゃなくて愚者だね

凡夫になれ
68さとし:2014/05/02(金) 10:08:29.46 ID:XQq6cDpT
>>57
「阿弥陀仏の本願による救済」以外に、浄土真宗があるとは思えないけど…
69神も仏も名無しさん:2014/05/02(金) 10:24:09.72 ID:1PDvy5nr
永遠に続くアートマンのようなものを渡海は考えているのか
70渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/02(金) 12:21:19.47 ID:qZrD8huB
>>67
 言うことはそれだけ?

>>68
(さとしさんの背後霊の声)
 親鸞さん。見つけましたよ。見つけましたよ。貴方はとんでもない邪教を言いふらすんですね。
 「みだ仏は、自然のようをしらせんりょうなり」?何ですかこれは?阿弥陀仏というのは、自
然という概念を教えるためのりょう?「りょう」って何ですか?「りょう?」。

 りょう【料】 あることのために使うもの。「料紙/衣料・飲料・原料・香料・材料・資料・飼料・食
料・染料・塗料・燃料・肥料」 
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/232286/m0u/

 阿弥陀仏というのは、自然という概念を教えるための材料ですか?道具?手段?貴方にとって
は阿弥陀仏なんてそんなものなんですか?驚いちゃいますね。
 桃太郎さんは、よい子達に勧善懲悪という概念を教えるための教材だ。桃から人間が生まれる
わけはない。猿や犬が人間と話をするわけない。なぜ桃から人が生まれるのか?おとぎ話だから、
桃から人が生まれ、猿や犬が人間と話をする。おかしなことではない。桃から生まれたことが大
事なんではない。犬や猿が人間の言葉をしゃべったことが重要ではない。子ども達に、悪いこと
はしてはいけない。悪い者には勇気をもって立ち向かおう。桃太郎さんは、よい子達にそのよう
に教えるための材料だ。道具なんだ。だから、おとぎ話だ。
 何ですか?阿弥陀仏は桃太郎さんと同レベルですか?五劫だ十劫だなどという現実はあり得な
い?あなたはそんな馬鹿なことを言うんですね。

 冗談じゃありませんよ。阿弥陀様が桃太郎、一寸法師?冗談じゃありません。釈尊の前生物語
はインドの象徴文学だと言われていますが、阿弥陀様は違いますよ。阿弥陀様が桃太郎や一寸法
師と同じだと言うなら、阿弥陀仏の本願は何ですか?
 「よ〜し、鬼ヶ島に鬼退治に行くぞ」これが桃太郎さんの本願でした。阿弥陀仏が架空なら、
阿弥陀仏の本願は、「よ〜し、鬼ヶ島に鬼退治に行くぞ」という、こんな次元の話になりますね。そこに
救いがありますか?

 親鸞さん。貴方は阿弥陀仏の救いを信じないんですね?。
71渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/02(金) 12:22:58.75 ID:qZrD8huB
 親鸞さん。貴方は坊さんのくせに女とエッチしたから、私たち本願寺は貴方を尊敬してる振り
をしてるんです。腹の底ではみんなあんたのことなんか馬鹿にしていますよ。なんでこんな奴に
頭をさげにゃいかんのかと、怒っているんですよ。結局、あなたは、坊さんのくせに女とエッチ
したから、それだけが利用価値があるんで、貴方にはそれ以上の価値はない。貴方は黙っていれ
ばいいんですよ。何も言わずに本願寺の操り人形、ピノキオになってればいいんです。必要なこ
とは歎異抄の悪人正機で台詞を作るから、あなたは自分の身分をわきまえて口をぱくぱくしてい
ればそれだけでいいんだ。。
(以上さとしさんの背後霊の声)

>>69
 前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざら
しめんと欲す。 教行信証

〈ID:1PDvy5nrの背後霊の声〉
 連続無窮? 永遠に続くアートマンのようなものを親鸞は考えているのか。
72渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/02(金) 12:56:14.46 ID:qZrD8huB
 弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり

 弥陀仏の御誓いの、もとより行者の計らいにあらずして、南無阿弥陀仏と頼ませ給いて、迎え
んと計らわせ給いたるによりて、行者の良からんとも悪しからんとも思わぬを、自然とは申すぞ
と聞きて候う。誓いの様は、無上仏にならしめんと誓い給えるなり。無上仏と申すは形もなくま
します。形のましまさぬ(形而上の)ゆえに、自然とは申すなり。かたちましますと(形而下)
示すときには、無上涅槃とは申さず。形もましまさぬ様を知らせんとて、(初回目の講義で)始
めて弥陀仏とぞ聞きならいて候う。弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり。この道理を心得つる
後には、この自然の事は常に沙汰すべきにはあらざるなり。
             末燈鈔(正像末和讃 同文)
73さとし:2014/05/02(金) 14:20:03.77 ID:XQq6cDpT
>>70
渡海 難さんがときどき語る「背後霊の声」って、何なのですか?
私の本音を代弁しているつもりなのでしょうか…
74渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/02(金) 19:05:57.68 ID:qZrD8huB
>>73
>私の本音を代弁しているつもりなのでしょうか…

 本音? ではないよね。
 少なくとも>>70-71は貴方の本音の部分ではないだろう。むしろ、貴方に>>68のような発言を
導き、促してくる背後のどす黒い何かだ。因習、虚構、ごまかし、妄想、そんなものの声だと思
う。
 背後にそんなものはないと貴方は言うかもしれない。実は本当にそんなものはなく、単に渡海
難の一方的な妄想かもしれない。背後霊が映る原因の半分はこちら(渡海)にあるんだろうが、
のこり半分は、実体として相手にあるのかないのか、確認してみたい。

 >>55の質問はまじめな質問だと僕は感じた。2ちゃんねるでは珍しく、真宗への疑問の核心
を突く質問だと僕は思った。僕は、答える前に、質問者の思いがどこまで本気か確認したいと思
って、>>57で表面的な回答をしてみた。
 >>57>>59のレスが返ってきた。>>59を見て、この質問の主はやはり本気だと感じた。僕は、
本当は早く>>9の続きをしたい。しかし、真剣なまじめな質問で、こっちが簡単に回答できるな
らできるだけそれに答えたいと思う。原則としては、過去スレで書いたことはあまり繰り返した
くない。でも、聞く耳のないない人向けに仏教論を書くよりも、真剣に話を聞きたいという人が
出てくれば、それには回答したい。
75渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/02(金) 19:06:55.84 ID:qZrD8huB
 >>60-64,66は、僕としては本腰を入れて書いたつもりだ。>>59の真剣さに真正面に対応したつ
もりだ。>>59の質問に、おそらくこれ以上の回答はないだろう。僕は、自信をもって丁寧に書
いた。>>60-64,66は、>>59の胸に確実に届くだろう。そう思った。ところが、その後>>60-64,66
に対する応答は、質問者からない。お礼の言葉もない。「これでは分からん」という反発の反応
もない。

 応答を見守っていると、気が抜けた>>68のレスが返ってきた。>>59,>>60-64,66の大事な論点は
どこに消えたのか。質問者には、>>60-64,66に疑問、異論、反論はないのか。質問がまじめだと
思ったからこっちは真剣に答えた。こっちの真剣さは伝わらないのか。相手からは何事もなかっ
たかの如く、気の抜けた別の質問でてきた。質問者は自分が提示した問題から話題をそらしたい
のか。

 真剣な回答があれば、質問者は少なくとも何か一言書くべきだろう。>>60-64,66を忘れるほど
>>68の質問に何か緊急性、重要性があるとでも思っているのか?。要するに質問者は、2ちゃ
んねるの多くの参加者と同じように、仏教の核心を突くような議論には興味がないようだ。胸に
響くものはないようだ。>>59は本心から出た質問ではなく、借り物の上っ面の質問だったか。
そう思ったわけです。
76渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+1:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/02(金) 19:42:14.71 ID:qZrD8huB
 僕は仏教の核心部分の話をしたい。真剣な質問には真剣に答える。しかし、真剣に答えたこと
を無視し、話題をそらすかのようにどうでもいいようなレスが返ってくれば、スレにおもしろさ
を出す意味でも、変化球を返して相手の出方を観察します。

 >>70では、余計なことも書いてあるが、>>68>>54の繰り返しでもあるから、それなりに質
問に回答すべき内容は、僕としてはまじめにすべて回答し尽くしていると思っています。その上
で尾鰭をつけた。
 >>70>>68に真正面に回答している論点は無視し、>>73のようにどうでもいい尾鰭だけに食
いついてくるというのは、>>68が持つ核心的問題点には関心のないその程度の質問者なんだ。
こちらはそう理解します。
 尾鰭に食いつくのもいいが、尾鰭がなければ、いくらこちらが真剣に回答しても、>>70にも
>>60-64,66と同じように無視するのでしょう。
 真剣に回答しても無視されることは僕は慣れっこだが、質問者が、どうでもいい余計な尾鰭に
対してなら応答できるというなら、やはり核心的回答に尾鰭もプラスしてレスした方が親切だろ
う。そんな風に思います。
77さとし:2014/05/02(金) 20:17:13.62 ID:XQq6cDpT
>>75
これは、失礼しました。
これまで、聞いたことのない考えだったので
意味がよくわかりませんでした。どう反応していいかもわからなかったので、
つい反応しやすいところに目が行ってしまいました。
>>60-64,66は、私にとっては難解です。
少し時間をください。何度も読み返して、よく考えてみます。
78渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/03(土) 12:31:54.04 ID:qU+syjjv
>>77
>これまで、聞いたこと
  聞いている考えに疑いを持つようになりたいものです。

>どう反応していいかもわからなかったので、
  どう反応していいかわからないという反応があったようです。

>つい反応しやすいところに目が行ってしまいました。
  なるほど

>私にとっては難解です。
 単純な話が、坊さんという衣を着ると、それだけの理由で急に難解になるなら残念なことです。

>少し時間をください。何度も読み返して、よく考えてみます。
  時間はほとんど無制限にあります。

 昔の人は死を恐れなかった。特攻隊員が出撃の前日、笑顔で談笑している写真が残っています。
現代の日本人が、極限の特攻隊員から学べるものは、実に数多いようです。

 日本人は、明治以降、ギリシャ的死生観を注入された。しかし、日本人のDNAの深いところは本能
的にインド的死生観に根ざしている。日本人は死ですべてが終わるとは思っていない。日本人の強さ
の原因の一つがこの死生観であり、支那・朝鮮が日本に抱く脅威の先は日本人のこの死生観に到達
する。それを世界に見せつけたのが大東亜戦争だった。

 日本人にインド的DNAを注入したのは、室町・戦国時代の浄土真宗だったと思う。一時、日本人
のほとんどが浄土真宗一色に染まった時代があった。
 浄土真宗がもたらしたその深いDNAに現代日本で最も牙を剥いているグループがある。自称平和
団体の現代本願寺教団だ。皮肉な話だ。
79渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/03(土) 12:34:45.72 ID:qU+syjjv
 仏教的死生観の話は続ければきりがない。続きの話のヒントになるところだけを示して、僕はとり
あえず終わりにしたい。

かくの如く我聞く。一時、佛、拘尸那城の力士生地、阿利羅跋提の河邊、娑羅雙樹の間にあり。即
ち、純陀の為に偈を説きて言はく。一切、諸の世間に生る者は皆、死に歸すなり。壽命は無量なりと
いえどもかならず盡きることあるべし。それ盛りなるものは必ず衰うることあり。會うものは別離あ
り。壯年なるとも久しくとどまらず。盛りなる色は病に侵さるる。命は死の爲に呑る。法常の者の有
ることなし。諸王、自在を得れども勢力等しきことなし。一切皆遷動す。壽命亦かくの如し。衆苦輪
に際なし。諸の楽しみ有ること無し。本性の相に近づくことあれば一切みな空无なり。
              (大般涅槃經要文 親鸞真筆)

 ヨーロッパ人はギリシャ的死生観とユダヤ・キリスト教的死生観という二つの死生観を持ってい
る。ギリシャとユダヤ・キリスト教とは互いに異なる。
 日本人は、明治以降、ヨーロッパの死生観が空無の死生観と連続し、輪廻的死生観を失った。ヨー
ロッパの死生観と空無の死生観とは、本来は連続しない。空無の死生観は一元論をとるようだ。精神
と肉体、魂と肉体という二元論ではない。
 かつての日本人は、輪廻的死生観と空無の死生観を仏教から教わってきた。空無の死生観(一元論)
と輪廻の死生観(二元論)を、ヨーロッパの哲学と切り離して認識することは、仏教の古典を学ぶ上
で非常に重要だ。

 心ある人はじっくり考えてほしい。
80渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/03(土) 12:43:05.79 ID:qU+syjjv
しばらく書き込み不能。
81渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Dpsy1390367663168276】   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/03(土) 14:56:45.17 ID:qU+syjjv
>>79
この問題に触れると、話がなかなか終わらない。

 仏教の理解を助けるため、一言足して終わりたい。純陀の為の死生観と輪廻の死生観とは、
大前提、小前提のような三段論法的な関係にあるのではない。ヘーゲルの弁証法的関係にあ
ると僕は考えている。

 つまり、純陀の為の死生観と輪廻の死生観とは互いに相克し矛盾しあう。純陀の為の死生観
が(正)、輪廻の死生観が(反)、仏教はこの(正・反)を互いに補完的にダイナミックに受け入れ、
緊張関係をもって融合する(合)。

 死とは何か。純陀の為の死生観を忘れることなく輪廻の死生観を主張し、輪廻の死生観を忘
れることなく純陀の為の死生観も主張する。それが仏教だろう。
82渡海 難   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/15(木) 02:25:51.54 ID:ZwlkIymc
>>10
専光寺文書論の続きをする。 念仏道場を考えてみたい。

 おほよそ佛法修行のところはみな道場といふ、 〜 念佛三味の道場もその義おなじかるべし。
 〜 道場といふは、或は淨土をさし、或は佛果にかたどれる名なり。 〜 穢土なれども淨刹に
准じて道場といふなり(至道抄 存覚)。
 一般に、仏法を修行するところはみな道場という。念仏三昧を行う道場も佛法修行を行う場所と
いう意味である。道場とは極楽浄土を指し、仏の悟りを反映させる場所という意味である。
 世の中には理想的な病院などはない。問題を抱えてない病院など存在しない、それでも多
くの病院を、病院と呼称する。乱診乱療を繰り返し、患者の命を食い物にするところは病院ではな
い。しかし、非理想的であっても、理想的な病院にしようとスタッフが一生懸命に努力している限
り、その努力を信頼して我々は病院と呼称する。
 念仏道場も、様々な矛盾、諸問題を抱え、非理想つまり穢土ではあっても、極楽浄土に倣って道
場という。

 『浄土五会念仏略法事儀讃』に云わく、 〜 念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。 〜 
如来 〜 父の王に謂いて曰わく、「王いま座禅してただ当に念仏すべし」と(行の巻)。
 念佛道場は念仏三昧の道場である。念仏三昧は真の無上深妙の(禅)門である。五会念仏を実践
する。釈迦如来は父王に言う。「父王よ。座禅して念仏申されよ」

 「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠
林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり(証の巻)。
 非理想的な病院も理想的な病院に準じ、治療を求めて来た病人に理想的な病院に倣い、理想的な
治療に準じた非理想的な治療を行い、理想に準じた治療を達成して患者を社会に復帰させる。
 理想的な念仏道場など存在しない。非理想的な念仏道場であっても、理想的な極楽浄土に準じ、
仏道を求めて来たり已えた者には禅門道場として念仏三昧を教え、奢摩他・毘婆舎那ができるよう
にさせ、奢摩他・毘婆舎那の技術指導力を体得させ、迷いの中で再生と挫折を繰り返す社会の渦中に
還流させる。社会に戻った人には、大いに指導力を発揮してもらい、より多くの人々を仏道に導くことを
想定している。
83渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/15(木) 10:17:26.42 ID:ZwlkIymc
>>82 挿入)
× おほよそ佛法修行のところは・・・

○ 世にくせごとのおこりそうらいしかば、それにつけても、念仏をふかくたのみて、世のいのりに
こころをいれて、もうしあわせたまうべしとぞおぼえそうろう(消息集)。 
 社会に不都合のこと、あるいは困ったことが起きたなら、それをきっかけとし、念仏を深く信頼し、
問題の解決を祈り、少しでも多くの人々が話し合い、できるだけ一緒になって念仏を称えてくださる
ようになれば幸いです。

 おほよそ佛法修行のところは・・・

(以下 >>82の続き)
「出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩
の林の中に回入して、神通に遊戯し、教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出第
五門と名づく」とのたまえり。示応化身とは、『法華経』の普門示現の類のごときなり。(証の巻)
 浄土教は、念仏三昧を通じて五会念仏を行い、多念念仏・一念念仏を練習して奢摩他・毘婆舎那
を学習する。親鸞は、奢摩他・毘婆舎那の学習に五段階を設け、卒業生を社会に送り出す。
 病院で病気を完治した者は、治療受けた病院は非理想の病院であったとしても、理想の病院に準
じ、退院して社会に戻り、大いにその働きを実現する。
 念仏道場の卒業生は、学んでいたところは極楽浄土ではなくても、極楽浄土に準じ、卒業して社
会に戻り、大いにその働きを実現する。
 念仏道場の卒業生は、阿弥陀仏の左脇士の観音菩薩の化身となり、観音菩薩の大慈悲心をもって
人々の苦しみを見極める。奢摩他・毘婆舎那ができ、指導力を体得した卒業生は、再起(生)と挫
折(死)を繰り返す人々の渦の中に飛び込み、念仏道場で学んだ技能を生かす。観音菩薩の化身な
り、仏道の専門的能力を発揮して、人々を導く。
 観音菩薩は、社会の中にあって阿弥陀仏の意思と行動力を実現する。阿弥陀仏の意思と行動力を
実現するからこそ、これを念仏修行の最終段階すなわち、出第五門と言う。
 念仏道場の卒業生は社会に観音菩薩の応化身を示す。その姿は、『法華経』の普門示現品に書か
れているあの観音菩薩にそっくりである。
84渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/15(木) 10:31:23.43 ID:ZwlkIymc
 是の観世音菩薩を聞いて一心に名を称せば、観世音菩薩即時に其の音声を観じて、皆解脱するこ
とを得せしめん。若し是の観世音菩薩の名を持つことあらん者は、設(たと)い大火に入るとも火も焼くこ
と能わじ、是の菩薩の威神力に由るが故に、若し大水に漂わされんに、其の名号を称せば即ち浅き
処を得ん。(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)
 妙法蓮華経観世音菩薩普門品の観音菩薩は、人々が救いを求めて一心にその名を呼べば、いつで
もどこでもその声を聞き分け、苦しんでいる人を解放する。一心に観音菩薩の名を呼ぶ者は、周囲
を仮に大火で囲まれていても焼き殺されることはない。それは、人並み外れた観音菩薩の働きによ
る。仮に大量の水の中でおぼれることがあっても、その名を称えれば、浅瀬にたどり着く。親鸞は、
観音菩薩の応化身として、自らもそのようであろうとし、念仏道場の卒業生にもこのような姿を理
想として求めていた。

 話の次元を下げたくないのだが、浄土真宗の話をするときには、思いっきり品格を下げなければ
ならんのは残念なことだ。親鸞は、悪人こそが救われるとか、寝たきり婆さんの真似をして怠惰に
一生を寝た振りしていようとか、女とエッチができて良かったとか、そんなコミンテルンの悪魔の
教義、歎異抄の教義を主張していたわけではない。浄土真宗の僧は、僧衣を着ると急に話が聞こえ
なくなる。良識ある人はだまされないでほしい。 (続く)
85渡海 難   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/16(金) 13:55:21.75 ID:s2XIB9l2
>>82-84  今北産業 中間まとめ
  浄土真宗の考え方

1 浄土真宗は観音菩薩を育てることを目標とする。
2 世の中で困ったことが起これば、それを機縁にして、少しでも多くの人が一緒になって念
仏を称える。
3 極楽浄土は念仏道場である。念仏道場では念仏三昧を実践する。五会念仏を実践する。奢
摩他・毘婆舎那を練習する。奢摩他・毘婆舎那・指導力を体得する。
86渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/16(金) 14:08:28.18 ID:s2XIB9l2
>>84
 念佛の行者、うちに信心を蓄へて心を淨土の如來に掛(か)くといふとも、道場を構へて
功を安置の本尊につむべし。自行化他の利益これにあるべきなり。 〜 誠心をぬきんでて道場を
かまへ、同行を會して念佛を行ずべきなり(至道抄 存覚)。
 念仏道場で禅門を究め、奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、指導力を体得した者は、念仏に対
する確信を抱き、理想的な念仏道場のありかたに関心を持つようになったなら、自ら念仏道場を開け。
念仏道場の卒業生はどのようにして普門示現の類になるのか。普門示現の類、観音菩薩の応化身に
なるとはどういうことか、存覚は親鸞から投げられた問いに、念仏道場をもって答えた。
 念仏道場には本尊を安置する。本尊を念仏道場のシンボルとし、そのシンボルの下で念仏道場を
運営する。念仏道場の歴史は、その本尊の上に累積し、本尊がその歴史を語るようにせよ。自らが
仏道を修行し、それを通じて他を導くというその具体的な姿はその念仏道場、禅道場に実現せよ。
真心をもって念仏道場、禅道場を開き、念仏の同行者を集結させて共に念仏を実践せよ。

 高?親鸞聖人御在生のとき、末代の門弟等、安置のためにさだめおかる、本尊あまたあり、いは
ゆる六字の名号、不可思議光如來、无?光佛等なり。 〜 この不可思議光如來をもて、中央にす
へ奉らる 〜  つぎに南无阿彌陀佛の名号は、 〜 右にすえ奉られ、无?光は 〜 左に安ぜら
る。(弁述名体抄 存覚)
 高祖親鸞聖人御在生の時代、将来の門弟達が困らないように製作してくれた本尊がたくさんある。
いはゆる六字の名号、不可思議光如來、无?光佛等である。此等はどのように扱えばいいのか、現
代においてはその配置に混乱がある。整理しておこう。
 本尊は念仏道場の装飾物ではない。見世物ではない。歴史的遺物でもない。念仏道場の主張、念
仏道場のポリシーを表示する。浄土真宗本願寺のように、浄土真宗の教えも知らず、自分勝手な方
法で安易に変更することは許すべきではない。本尊の変更こそ、念仏道場の死を象徴する。
 「不可思議光如來」という七字の文字名号を中心とし、「南无阿彌陀佛」という六字名号はその
右に設置し、无?光佛等のその他の名号は左に設置する。(このように配置する意味は、今は省略
する。)
87渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/16(金) 14:20:36.18 ID:s2XIB9l2
 つぎに二尊の形像をもてまへに安ぜられたり。まづ彌陀の形像は、『觀經』の像觀のこころなり。
かの『經』に十三定善をとくなかに、第八の觀は像觀なり、これ形像なり。 〜 つぎに釋迦の形
像をのせらる(弁述名体抄 存覚)。
 次に、名号の前に阿弥陀仏と釈迦仏、二尊の人形を置く。阿弥陀仏は、『觀經』の第八の觀の人
形を置く。具体的には宇治平等院の阿弥陀像の例がある。次に、釋迦の人形を置く。阿弥陀像と釋
迦像との位置関係を存覚は言及してないが、阿弥陀像は右、釋迦像は左に置くと考える。

 つぎに三菩薩のなかに、勢至は 〜 中尊とす、龍樹天親は 〜 出世の前後により、地位の高
下につきて、左右に居したまへり、まづ勢至菩薩は、彌陀如來の右脇の弟子なり。彌陀の慈悲をつ
かさどれるを觀音となづけ、彌陀の智惠をつかさどれるを勢至と号す。かるがゆへに、十方世界に
念佛三昧のひろまることは、これ勢至のちからなり。 〜 源空聖人も、すなはち勢至の化身なり
としめしたまう。かるがゆへに、ことさらこれをのせたてまつらるゝなり 〜 勢至は彌陀の智惠
門をつかさどりたまうゆへに、彌陀如來より念佛三昧を相承したまへる邉をもて、これをのせらる
ゝなり。 
 〜 つぎに菩提流支 〜 曇鸞和尚 〜 道綽禪師 〜(弁述名体抄 存覚)。
 勢至菩薩を中央とし、龍樹菩薩を右、天親菩薩を左に置く。三者は菩薩像すなわち、蓮の華の上
に座っている姿で描くことになる。ここで大事なのは、勢至菩薩と観音の菩薩の考え方である。阿
弥陀仏の慈悲は觀音菩薩が司る。勢至菩薩は智慧を司る。十方世界に念佛三昧がひろまるのは勢至
菩薩の働きによる。源空聖人もすなはち勢至の化身である。だからこそ勢至菩薩を安置する。勢至
菩薩は彌陀の智惠門をつかさどり、彌陀如來より念佛三昧を相承する。
 親鸞は教行信証で、出第五門念仏者は普門示現の類となれと言う。しかし、観音菩薩は念仏道場
に安置しない。彌陀如來より念佛三昧を相承するのは観音ではない。勢至菩薩であるという。存覚
上人は、ここに念仏道場の本質を明らかにする。専光寺文書はここに生きてくる。
88神も仏も名無しさん:2014/05/16(金) 15:14:47.99 ID:A9B+M1L1
いろいろ言っても下品下生の私には南无阿弥陀仏と念仏するのが精一杯。
唯念仏して往生させてもらいましょ、それが親鸞思想で経典にもそのように書いてあります。
89渡海 難   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/16(金) 15:47:30.70 ID:s2XIB9l2
>>86-87  今北産業 中間まとめ
  浄土真宗のポイント

1 奢摩他・毘婆舎那ができて指導力を体得すれば、念仏道場を開け。
2 念仏道場には本尊を安置せよ。本尊に念仏道場の歴史を蓄積せよ。
3 念仏道場の本尊には、文字名号(不可思議光如來・南无阿彌陀佛・無
碍光)と仏の人形像(阿弥陀像と釈迦像)と菩薩の絵像(勢至菩薩・龍樹菩
薩・世親菩薩)と高僧達(菩提流支・曇鸞和尚・道綽禪師)の絵像を設ける。
4 彌陀如來より念佛三昧を相承しているのは勢至菩薩である。

注目点
A 念佛三昧は勢至菩薩に相承している。
B 念仏道場に観音菩薩像を置かない。
90渡海 難   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/16(金) 17:08:54.52 ID:s2XIB9l2
>>88
下品下生ですか?念仏するのが精一杯。?

 「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。(証の巻)

 羞恥心のない怠け者は、相手にしませんよと言っていたような。下品
下生を売り物にする面の皮の厚さで貴方にかなう人はいないでしょう。
91神も仏も名無しさん:2014/05/17(土) 02:28:14.62 ID:LGOebeVK
>>88 <参考>

>いろいろ言っても下品下生の私には南无阿弥陀仏と念仏するのが精一杯。

「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。(証の巻)

 第三に畜生道を明かさば、その住処に二あり。 〜 総じて論ずれば、三を出でず。
一は鳥類、二は獣類、三は虫類なり。かくのごとき等の類、強弱あひ害す。もしは飲、
もしは食、いまだかつてしばらくも安らかならず。 〜 これらのもろもろの苦、勝げて
計ふべからず。愚痴・無慚にしていたづらに信施を受けて、他の物を償はざるもの、こ
の報を受く(往生要集)。


愚痴・無慚にしていたづらに信施を受けて、他の物を償はざるもの、この報を受く

愚痴・無慚にしていたづらに信施を受けて、他の物を償はざるもの、この報を受く

愚痴・無慚にしていたづらに信施を受けて、他の物を償はざるもの、この報を受く
92渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/18(日) 12:03:54.09 ID:zMYOINoQ
我身救世観世音  我が身は世を救くる観世音なり。
定慧契女大勢至  定慧契る女は大勢至なり。
生育我身大悲母   我が身を生育せる大悲の母は
西方教主彌陀尊   西方教主弥陀尊なり。
為度末世諸衆生   末世の諸の衆生を度さんが為に
父母所生血肉身   父母所生の血肉身を
遺留勝地此廟窟   勝地たるこの廟窟に遺し留めて
三骨一廟三尊位   三骨一廟にするは三尊の位なり。

聖徳太子である自分は世を救うことを決意した観世音菩薩である。
カシワデノホキキミノイラツメこそ、自分が禅定と智慧を結んだ女性である。
自分を育てたアナホベノハシヒトノヒメミコは教主弥陀尊に当たる。
釈尊の時代から遠く離れた人々を救うため、
父母が産んでくれたこの肉体を、
自分の死後にあっても、このすばらしい土地である大阪府南河内郡太子町に墳墓を作って留める。
聖徳太子とカシワデノホキキミノイラツメとアナホベノハシヒトノヒメミコの三者の骨を合葬す
るのは、阿弥陀仏と観世音菩薩と大勢至菩薩の三尊仏の例に倣うものである。

 親鸞は、比叡山を脱して法然の下に行く。エッチがしたくて我慢ができず、坊さんを辞める勇
気がなく、法然上人の下に行けば坊さんのままでもエッチができると喜び、宗祖を貶す本願寺が
主張するような「ノータリンのアホ坊主が落ちこぼれ」て急いで駆け付けたものではない。
 時は鎌倉時代だ。貴族政治が倒れ、新興の武士が新たな権力者として実権を握った。昨日まで
深山や遠海で、追いはぎ強盗、海賊をしており、禄に自分の名も書けなかった男達が、昼間は刃
物を持ち、甲冑に身を固めて警察官顔して都大路を練り歩く。夜になれば、昼間に目星をつけた
館に押し入り、強盗・泥棒をやり尽くす。鎮護国家の思想をたたき込まれていた天台宗の坊さん
がのんびりエッチしていられるそんな暢気な時代ではなかった。
 親鸞は、聖徳太子から重大なメッセージを受けたからこそ法然上人の下に行ったんだと言うこ
と、これを読み取ってほしい。
93渡海 難   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/18(日) 12:05:42.24 ID:zMYOINoQ
親鸞よ。貴方の役割は、慈悲の心を持ち、観世音菩薩となって世を救うことである。
法然上人は、大勢至菩薩として定慧を併せ持つ。
貴方を育てるのは、西方教主の弥陀尊である。
現在と将来の人々を救おうとするなら、
父母から預かったその身を、
法然上人の住むすばらしい場所、吉水に留めなさい。
貴方が法然上人の下に行く時、観世音菩薩と大勢至菩薩と貴方を育てる弥陀尊とが吉水に揃う。
親鸞よ。法然上人の下、吉水に行きなさ。

 浄土真宗の本質は、奢摩他・毘婆舎那を練習する念仏運動であり、道場建設運動である。その
理念は、親鸞が聖徳太子から受けたメッセージに書かれている。
 浄土真宗とは何か。「下品下生の私には南无阿弥陀仏と念仏するのが精一杯」などと、恥知ら
ずで五体満足な畜生が、歎異抄を言い訳の盾に自分の面の皮の厚さを売り物にして、寝たきり
婆さんのまねをして坊さんの格好してエッチだけして一生を怠惰に過ごすことを理想とするもの
ではない。
 親鸞が聖徳太子から受けたメッセージを次に読み取ろう。
94神も仏も名無しさん:2014/05/18(日) 14:54:34.28 ID:zxE/mM9J
>>93
親鸞が道場建てろといったわけ?
何の道場だよ。
親鸞は寺を建てることさえ嫌ってたのに。

いいかげんな作り話こいてるんじゃなえぞ。

どうせどっかのインチキ宗教に洗脳されてるんだろうな。

親鸞会か?
幸福の科学か?
95渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/18(日) 16:17:47.39 ID:zMYOINoQ
>>94
>親鸞は寺を建てることさえ嫌ってたのに。

 面白いじゃないか。それでは、「親鸞は寺を建てることさえ嫌っていた」という主
張の根拠を示して貰おうではないか。根拠はあるよな。
 話は、おぬしがその根拠を示してから、その根拠に基づいて議論しようではないか。

>親鸞会か? 幸福の科学か? 本願寺か? いいかげんな作り話こいてるんじゃな
えぞ。 どうせどっかのインチキ宗教に洗脳されてるんだろうな。

 この言葉は、おぬしがその根拠を示すまで、おぬしに返却しておこう。

      ./| | ̄ ̄ ̄ ̄| |\
     .//. | | //     | |//\
  ∧_||// | | ∧_∧ | | //||_∧
  (´-ω||// | | <#`Д´  | |   ||ω-`)
 ( .⊃ ||/ / |__∧_∧_| .\ .||⊂  )
 ⊂_)|/   < >>94 >. . .\||(_⊃
    |\    (  O  )    /|
    |  \   u―u'   ./  |
   ∧_∧| | ̄ ̄ ̄ ̄| |  ∧_∧
   (  -ω| |  ∧_∧| | (ω-`  )
   (  . ⊃.|∩(;;  ;; )∩| ⊂   )
   (_) __) |_(    )| |/( __(_)
          ( __人_)
96神も仏も名無しさん:2014/05/18(日) 18:27:36.98 ID:zxE/mM9J
>>95
根拠といっても、以前読んだ本でそのように書かれていたのでそのように認識してるだけですね。

親鸞は開祖になる気すらなく、それでも民衆があつまり、寺の建立を民衆が願い、それで念仏用の道場をつくっていったのですね。

あなたと議論する気はありません。

親鸞なんてくだらんと思っていますので。

夢のお告げを信じてるレベルの人間ですよね親鸞は。

馬鹿馬鹿しくて話になりませんですわ。

そういえば、夢のお告げのような妄想話を、何十冊も本にして信者に買わせてる宗教団体もありますな。
97渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/18(日) 21:19:55.65 ID:zMYOINoQ
>> 96にはノーコメント。

>親鸞会か? 幸福の科学か? 本願寺か? いいかげんな作り話こいてるんじゃな
えぞ。 どうせどっかのインチキ宗教に洗脳されてるんだろうな(>>94)。

 この言葉は、おぬしに永久に返却しておく。

      ./| | ̄ ̄ ̄ ̄| |\
     .//. | | //     | |//\
  ∧_||// | | ∧_∧ | | //||_∧
  (´-ω||// | | <#`Д´  | |   ||ω-`)
 ( .⊃ ||/ / |__∧_∧_| .\ .||⊂  )
 ⊂_)|/   < >>94 >. . .\||(_⊃
    |\    (  O  )    /|
    |  \   u―u'   ./  |
   ∧_∧| | ̄ ̄ ̄ ̄| |  ∧_∧
   (  -ω| |  ∧_∧| | (ω-`  )
   (  . ⊃.|∩(;;  ;; )∩| ⊂   )
   (_) __) |_(    )| |/( __(_)
          ( __人_)
98渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/19(月) 11:21:08.37 ID:h85pVDAl
>>94
>親鸞が道場建てろといったわけ?何の道場だよ。

念仏を深く頼みて、世の祈りに心を入れて、申し合わせ給うべし(親鸞)


 穢土をもて淨土に准じ、私宅をもて道場に擬して、本尊を安ずる淨場とし、念
佛を勤むる會座とするなり。
 凡夫の眼見に穢土世間の舎宅なれども、佛陀の照覧には淨土出世の舎宅な
るべし。
 念佛を行ずる所は道場なり、道場の中にはまた種々の利益を具足せりと知る
べきなり。
 誠心を抜きん出て道場を構へ、同行を會して念佛を行ずべきなり。(存覚)

誠心を抜きん出て道場を構へ、同行を會して念佛を行ずべきなり。
誠心を抜きん出て道場を構へ、同行を會して念佛を行ずべきなり。
誠心を抜きん出て道場を構へ、同行を會して念佛を行ずべきなり。
誠心を抜きん出て道場を構へ、同行を會して念佛を行ずべきなり。
99神も仏も名無しさん:2014/05/19(月) 12:22:31.98 ID:2SJlCjt5
誠心を抜きん出て道場を構へ、同行を會して念佛を行ずべきなり

これって親鸞の言葉なの?
親鸞が道場を建てろといったわけ?
100渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/19(月) 18:25:49.56 ID:h85pVDAl
>>99
>これって親鸞の言葉なの?親鸞が道場を建てろといったわけ?

 おぬしは何が言いたいんだ?
>親鸞なんてくだらんと思っています>>96

 こんなこと言う奴に、親鸞の何が理解できるとでも思っているんだ?
 存覚と親鸞の言ってることが違うってか?親鸞を尊敬し、愛情をもって仰ぐことができなく
て、おぬしに親鸞の何がわかるというんだ?おぬし、親鸞など忘れたらどうだ?顔でも洗って
出直したらどうよ?

 僕は、十人いれば十人、百人いれば百人全員に僕の主張を賛同してもらおうなどとは全く思
ってない。十人いれば六人、百人いれば六十人位が、何となく「そうかも知れない」と思って貰
えればいいんだ。親鸞なんてくだらんと思っている奴に賛同されようなどと、全く思ってない。
親鸞だっておぬしなどに理解されたら、穴があったら入りたくなるだろうよ。

 親鸞なんてくだらんと思っているおぬしに共鳴されたら、おぬしが読んだ本の著者と同じく、
まさに僕など完全に絶望的だ。こっちこそ顔洗って出直さなければならんくなるぞ(笑)。

 道場の問題はこれで終わりだ。
101神も仏も名無しさん:2014/05/19(月) 18:32:00.26 ID:2SJlCjt5
>>100
それで、親鸞が道場を建てろといったわけ?

誠心を抜きん出て道場を構へ、同行を會して念佛を行ずべきなり

これは存覚の言葉だよね
102渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/19(月) 21:02:24.54 ID:h85pVDAl
>>101
ID:2SJlCjt5の術中に嵌まっていく感じだね(笑)

>それで、親鸞が道場を建てろといったわけ?
 そうです。それが僕の理解です。

「誠心を抜きん出て道場を構へ、同行を會して念佛を行ずべきなり」。こう言ったのは存覚だ。存覚
は親鸞とは人格が違う。「誠心を抜きん出て道場を構へ、同行を會して念佛を行ずべきなり」と存覚
が言っても、親鸞が言ったことではない。「親鸞なんてくだらんと思ってい>>96。」る人なら、「それ
は親鸞が言ったことではない」という主張もありでしょう。「親鸞なんてくだらんと思ってい>>96
る人からの評価なら、渡海難の理解は間違っているという主張を否定するつもりはありません。

 世に曲事の起こり候らいしかば、それに付けても、念仏を深く頼みて、世の祈りに心をいれて、申
し合わせ給うべしとぞ覚え候
 世の中で困ったことが起こればそれをきっかけにし、念仏を深く信頼し、合同して念仏を称え、祈
りの思いをもって互いに話し合ってみてください。
 現代語訳は渡海の訳ですが、原文は親鸞の文章です。現代語訳が気にくわなければ、原語で理解し
てくれ。

 「念仏を深く頼みて、世の祈りに心をいれて、申し合わせ給う(親鸞)」とは、「誠心をぬきんで
て道場をかまへ、同行を會して念佛を行ずべきなり(存覚)」と同じ意味であると解します。

 道場とは何か。「私宅をもて道場に擬して、本尊を安ずる淨場とし、念佛をつとむる會座とするな
り(存覚)」。
103渡海 難   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/19(月) 21:05:05.26 ID:h85pVDAl
 「道場といふときは、あながちにこれらの作法を具足せざれども、 〜 或は一時の會座佛法を勤
行するところ、みな道場なり(存覚)」。

 「凡夫の眼見に穢土世間の舎宅なれども、佛陀の照覧には淨土出世の舎宅なるべし(存覚)」。

「人屋たりといへどもこの所にをひて念佛を勤行す。念佛の中には衆悪を遠離して衆善に親近し、世
間舎をいでて出世間舎に住する功力をそなへたり。かるがゆへに念佛を行ずる所は道場なり(存覚)」、

「されば自作・教他ともに最上の善根なれば、誠心をぬきんでて道場をかまへ、同行を會して念佛を行
ずべきなり(存覚)」。

 道場をかまへるとは、凡夫の眼見に穢土世間の舎宅、普通の家に見えていい。二人でも、三人でも、
集まって念佛をつとめれば、そこが道場となる。佛陀の照覧には淨土出世の舎宅、道場となる。
 
 念仏を深く頼みて、世の祈りに心をいれて、申し合わせ給うとは、どこでもいい。二人でも、三人
でも、集まって念佛をつとめれば、そこは道場となる。民家の居間でも、河原の空き地でも、数人が
集まって本尊を安置し、念仏を一緒に称えれば、そこが道場となる。道場を構えるとは、そのように
念佛をつとめる場を構えるということだ。そのような道場を構えることを、「僕は道場を建設」する
という言葉で表現した。

 「僕は道場を建設」するという言葉が不適切であれば、「道場を構える」という表現でいい。「道
場を構える」とは、「一時の會座佛法を勤行するところ、みな道場」という言葉で理解すべきです。
104神も仏も名無しさん:2014/05/19(月) 21:16:28.38 ID:2SJlCjt5
>>102
親鸞の言葉とは関係なく念仏道場が建てられることには
問題を感じませんが、親鸞の言葉として語るのはどうかと
思って質問しました
そして親鸞の著作に関わらず、既存の文献の現代語訳に
渡海さんの解釈が入る場合は、その個所を括弧書きに
しておいた方が誤解を生まないと思います

そして私は>>93とは別人なんですけどね
105神も仏も名無しさん:2014/05/19(月) 23:32:17.27 ID:ELLwA9ME
>念仏を深く頼みて、世の祈りに心を入れて、申し合わせ給うべし(親鸞)

この言葉のどこが「道場を建設しろ」の意味になるのでしょうか?
複数の人と念仏を唱えなさいといってるだけではないでしょうか?

親鸞が積極的に道場を増やしていくことを認めた証拠を示してください。
106神も仏も名無しさん:2014/05/19(月) 23:56:44.27 ID:ELLwA9ME
親鸞は「念仏は1回だけ唱えればよい、その1回も唱えなくてもどちらでもいい」と言って、
念仏行を自力として否定したんですよね。
そして絶対他力を説いたんですよね。

親鸞は念仏を否定したのに念仏道場を建設するというのは、親鸞の根本教義を否定していますよね。

親鸞が念仏道場の建設推進を認めていた証拠をお示しください。
107ノスタルジア:2014/05/20(火) 07:46:31.70 ID:Uq9ruG3J
南無阿弥陀仏 合掌
108神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 11:26:16.10 ID:rbOMTgYk
>>107
久しぶり、お元気ですか
109渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/20(火) 12:37:34.58 ID:icun0lL8
>>104
>念仏道場が建てられることには 〜、親鸞の言葉として語るのはどうかと思って質問しました

 一時の會座佛法を勤行するところ、(浄土真宗では)みな道場なり(存覚)

 世に曲事の起こり候らいしかば、それに付けても、念仏を深く頼みて、世の祈りに心をいれて、
申し合わせ給うべしとぞ覚え候(消息集)

 世の中で不都合なことが起これば、それをきっかけとして、念仏を深く信頼し、世の中に対す
る祈りの心を持って、一緒に合同して念仏を称えてみてください。一時の會座佛法を勤行してみ
てください。道場を構えてみてください。
 山でも、里でも、村でも町でも、北海道でも、九州でも、場所は問いません。不都合なことが
起きるのは、町だけではありません。村で起きたら村で一時の會座佛法を勤行してみてください。
道場を構えてみてください。もし北海道で起きたら北海道で一時の會座佛法を勤行してみてくだ
さい。つまり道場を構えてみてください。もし九州で起きたら九州で一時の會座佛法を勤行して
みてください。道場を構えてみてください。
 北海道で道場を構えたら、北海道に一つあるんだから、九州にはもういらんだろう。そんなこ
とは思わないでください。一つあればいいんだと思わないでください。ひとつだっていらないんだと
思わないでください。

 北海道で道場を構えたとしても、不都合なことが九州で起これば九州でも道場を構えてみてく
ださい。どこでもかしこでも、道場を構えてください。
 提案です。世の祈りに心をいれて、あらゆるところで申し合わせ給うべしとぞ覚え候
110渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/20(火) 12:42:18.01 ID:icun0lL8
運動 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/21612/m0u/運動/
3 ある目的を達するために活動したり、各方面に働きかけること。「選挙―」「労働―」「委員になるため―する」
建設http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/70229/m0u/建設/
2 新しい機構や組織を作り上げること。「平和な社会を―する」
組織 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/130515/m0u/組織/
2 一定の共通目標を達成するために、成員間の役割や機能が分化・統合されている集団。

 世に曲事の起こったとき、念仏を深く頼み、世の祈りに心をいれるという一定の共通目標を達
成するために、活動したり、各方面に働きかけ(運動)、成員が合同して念仏を申し合わせて勤
行するという一時の會座佛法の統合集団(組織)を、五分でも十分でも新しく作り上げる(建設)。
一日でも、七日でも持続的に作り上げる。五年でも十年でも持続的に作る。百年でも、五百年で
も持続的に作る。そんな念仏道場を建設してほしい。道場建設運動、これが親鸞の願いであった
と考えます。

 渡海難は、僕の考えに十人中十人が賛同するとは思っていません。百人中百人が賛同するとは
思っていません。十人中六人程度、百人中百人の方が賛同してくだされば幸いです。十人中四人
は反対することを折り込んでいます。百人中四十人は反対することを折り込んでいます。

>そして親鸞の著作に関わらず、既存の文献の現代語訳に渡海さんの解釈が入る場合は、その個
所を括弧書きにしておいた方が誤解を生まないと思います

 親鸞の著作は古文、渡海の文は現代文です。古文と現代文の違いが分からない人を僕は対象に
していません。
 親鸞の著作を先に示し、現代文は改行して示し、親鸞の著作と僕の主張とは明確に分け、その
上で先人の文は、できるだけ忘れずに原典名を示しています。
 古文と現代文とが一つの文章(行内)に織り混ざっていれば、それは渡海難の文章です。親鸞が古
文と現代文とを一つの行内に織り混ぜて書いたなどと言うことは聞いたことがありません。親鸞の著
作と渡海の解釈が混同して誤解を招くと言うことは、予想していません。
111渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/20(火) 12:44:16.73 ID:icun0lL8
>そして私は>>93とは別人なんですけどね
 それは失礼した。なお、>>93が貴方でないことはわかりきったことなんですけどね。なぜな
>>93を書いたのは、渡海難です


>>105-106
>1回も唱えなくてもどちらでもいい 念仏行を自力として否定したんですよね。 そして絶対
他力を説いたんですよね。 親鸞が念仏道場の建設推進を認めていた証拠をお示しください。

 本願寺の教義で洗脳されている方と存じます。本願寺教についての質問は、本願寺の坊さんに
聞いてください。僕には全く理解不能です。ノーコメントです。
112神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 16:18:15.49 ID:rbOMTgYk
現世において自力で奢摩他毘婆舎那などを言ってると百人のうち一人か二人しか賛同せんじゃろ
113渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/20(火) 17:00:01.05 ID:icun0lL8
>>112
「師子吼言ふさく。世尊よ、經の中に説くがごとし。若し毘婆舎那がよく煩悩を破すなら、なに
がゆえぞまた奢摩他を修するや。 〜 もし破するに到らざれば凡夫なり。衆生はすなわちよく
破すべし 〜 毘婆舎那煩悩を破せば、獨りよく破すとやせん。伴にことさらに破すとや。
(嘘つき本願寺が隠蔽してきた大般涅槃經要文  親鸞真蹟  伊勢専修寺蔵)

 獅子吼菩薩が言う。世尊よ、経の中に書いてありますが、毘婆舎那でよく煩悩を破すなら、ど
うして奢摩他まで勧めるのですか。
 もし煩悩を破することができなければ、それは初心者だからだ。初心者には難しくても、普通の人
であれば練習を積めば煩悩を破することができる。
 毘婆舎那で煩悩を破すと言っても、毘婆舎那が単独で破すのではない。毘婆舎那は奢摩他を伴っ
て煩悩を破するのだ。

 広く三経の光沢を蒙りて、特に一心の華文を開く。しばらく疑問を至してついに明証を出だす。
誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず。浄邦を欣う徒衆、穢域を厭う庶類、取捨を
加うといえども、疑謗を生ずることなかれ、と(信の巻)。

現世において自力で奢摩他毘婆舎那などを言ってると百人のうち一人か二人しか賛同せんじゃろ(>>112)

すべて得道の人ありと信ぜざらん、これを名づけて「信不具足」とす、といえり(信の巻)。
114渡海 難   ◆Fe19/y1.mI :2014/05/20(火) 19:46:23.00 ID:icun0lL8
>>112
十方恒沙の諸仏は 極難信ののりをとき 五濁悪世のためにとて 証誠護念せしめたり
         (浄土和讃)

釈迦牟尼如来は、五濁悪世にいでて、この難信の法を行じて、無上涅槃にいたると、ときたまう。
         (唯信抄文意)

 坊さんの衣を脱げばすぐ分かることも、坊さんの衣を着ると突然分か
らなくなるなら、坊さんの衣というのは、悲しい悪魔の衣だな。
115在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/05/21(水) 08:10:12.55 ID:sBSmu8r5
難信とは称名念仏のいわれを聞くこと、そして納得し称名念仏することじゃないのかな、
自力修行の奢摩他、毘婆舎那のことではないと思われます。

現世にて念佛を知ること、喜ぶこと、そして来世で奢摩他毘婆舎那を修する事、還相廻向できること
などはすべて仏の側の願によるものであると思われます。二門偈
116渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/21(水) 18:43:23.25 ID:Oto8n36B
>>115

>・・じゃないのかな、・・思われます。・・思われます・・

 自己完結の独り言は、貴方のプライベートな自由空間だ。自分一人に聞か
せればいいのであり、布団の中で、鏡でも見ながらつぶやいていたらどう?

 >>93の続きを議論したい。
117神も仏も名無しさん:2014/05/21(水) 19:12:24.29 ID:6JnIx2uC
>>116
それってそのまんま>>1にあてはまるじゃん

>渡海難は、一介のアマチュアです。時間の許す範囲で、自己の独自の
仮説的立場から答えさせていただきたいと思います

ここは2chだから人のことを気にせず、自己の独自の仮説的立場から
つぶやいていたら良いと思うよ
でも他人のつぶやきを否定するのはどうかな
118渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/21(水) 20:54:44.88 ID:Oto8n36B
>>117
>それってそのまんま>>1にあてはまるじゃん

 ふーん。なるほどね。
 僕が2チャンネルに書き込むのは、僕の意見に賛成してくれる人を作りたいと思うからだよ。
目的があって書いている。

前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざら
しめんと欲す(後序)。

 僕は親鸞のこの考えに賛同するんだよ。この考えは大事なことだと思う。この考えは大事なこと
だと思うというのは、仮説ではない。「思う」というのは事実だ。他人が反対しようが、賛成しよ
うがそんなことに関係ない。僕は「大事なことだと思う」。「思っている」。思っているのは事実だ。
「思っている」と言う認識に賛同してほしい、などとは思わない。僕は信念で動く。

 仮説は本質的に賛同者を求める。同調者を求める。他の人には、今ある考えの変更を促そうとす
る。その場合、必ず根拠を示す。こういう根拠があるだろう。相手が否定できない事実を提示し、
その事実から一定の考えを仮説として合理的に導き、相手に示す。
 相手方は、その事実の存否を検討する。相手が存否を検討できないような事実は主張の根拠には
しない。相手が存否を検討できないような事実からいくら何を演繹しても説得力はないからね。主
張の根拠となる事実が確認できないとなれば、主張そのものが意味を失う。
 その事実が事実としてあっても、主張の結論に至る推論に合理性があるかどうか。ここが最大の
山場だ。合理性がなければ、賛同する人はいない。僕は六割の人が納得できる合理性を目標として
いる。六割の人が合理性ありと納得してくれれば、「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者
は前を訪」う休止のない連続性が確保できると思っている。
119渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/21(水) 20:57:57.93 ID:Oto8n36B
>> 115の主張は仮説ではない。
 仮説は、他人が存否を共通的に確認できる事実を提示し、その事実から合理性をもって演繹する
主張だ。相手に事実の存否と、合理性の有無の確認を求める。
 >> 115は、立証不要の事実を告白しているに過ぎない。「私はこう思う」と言っているだけだ。
「>> 115よ。そんなの嘘だ」「お前はそんなこと思ってない」。こんなこといってみる価値があるか?。
「いやいや、私(>>116)は本当にそう思っているんだ」というなら、話し合う問題なんかないだ
ろう。
 「ふーん。勝手にしたらどうですか」「お前の勝手だろう」。「だから何?」何かいうなら、この
程度だよ。面白くも何ともない。>> 115にも思想信条の自由はありますよ。何を思っても自由でし
ょう。

 どこそこにかくかくしかじかの事実があるだろう。だから私はこう思う。こういう風に言うなら。
その事実が本当にあるだろうか、その存否を論点とし、次に主張の合理性を争う余地がある。相手
の主張の当否を試す余地がある。相手の主張する事実があり、主張に合理性があれば、こちらも考
えを改めなければならない。

 何の前提もなく、根拠も示さず「私はこう思う」というなら「どうぞ御勝手に」。「それがどう
したの」。「僕には関係ないよ」。「お前の勝手だろう」「あなたにも思想信条の自由はありますよ」
という外はない。つまらん話だ。
120渡海 難:2014/05/21(水) 21:00:46.68 ID:Oto8n36B
>>119
× 私(>> 116)

○ 私(>> 115)
121渡海 難:2014/05/21(水) 21:23:28.06 ID:Oto8n36B
人は、何かを思う場合、根拠など必要はない。根拠なく、これはこうだ。ああだ、と思うことは
、他人が迷惑しない限り完全に自由だ。

 >>15が、根拠なく何をどう思っても、だれにも関係ない。自由奔放でいいわけで、自由奔放に
振る舞っている人を僕は相手にするほど閑ではない。お前はそんなに思ってはいけないなどと、
僕はそんなこという人間ではないんだよ。

 当たり前だろう。

 
122在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/05/23(金) 16:19:07.62 ID:wbhPKqC3
>>121
> 人は、何かを思う場合、根拠など必要はない。根拠なく、これはこうだ。ああだ、と思うことは
> 、他人が迷惑しない限り完全に自由だ。
>
>  >>15が、根拠なく何をどう思っても、だれにも関係ない。自由奔放でいいわけで、自由奔放に
> 振る舞っている人を僕は相手にするほど閑ではない。お前はそんなに思ってはいけないなどと、
> 僕はそんなこという人間ではないんだよ。
>
>  当たり前だろう。
>
>  
>>90
>>91
下品下生と自覚していると言ったらいきなり畜生認定されました。
他人に迷惑をかけてないつもりだが・・・

121と90,91ではずいぶん違う
123在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/05/23(金) 17:38:59.89 ID:wbhPKqC3
諸悪莫作(しょあくまくさ) ― もろもろの悪を作すこと莫く
衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) ― もろもろの善を行い
自浄其意(じじょうごい) ― 自ら其の意(こころ)を浄くす
是諸仏教(ぜしょぶつきょう) ― 是がもろもろの仏の教えなり

フムフムなるほど・・・じゃ俺も頑張ってみるか・・・
ところがこれがそう簡単ではない、自己を深く見つめれば見つめるほど簡単ではない。
そもそも何が善で何が悪かも深く考えてみるとなかなか難しい。
善とは何か?自己勝手な解釈で善を言うべきか?
法然親鸞は何を持って善としたか?先一番にそこを考えるべきだろ。
124渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/24(土) 13:21:44.49 ID:oY+Poa8t
>>122
>下品下生と自覚していると言ったらいきなり畜生認定されました。他人に迷惑をかけてないつ
もりだが・・・

 「自覚していると言った」か?
 ちがうよね。「下品下生の私」・「南无阿弥陀仏と念仏するのが精一杯」(>>88)と言ったんだ
よね。「下品下生と自覚していると言った」か?  (苦笑)

 「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。(信の巻)

 恥知らずという言葉を知っていますか。恥知らずというのは最低の人間という意味だ。人間と
して最低の奴を恥知らずという。
 人殺しは、自分が人殺しであることを自覚している。泥棒は自分が泥棒であることを自覚して
いる。ドラキュラには自分がドラキュラであるという自覚がある。心神喪失状態で人を殺せば無
罪になるが、自覚して故意に人殺せば死刑になることもある。自覚していれば許されるという免
罪符はない。

 他人に迷惑をかけてないなら、恥知らずでもいいのか。善良な隣人を悪意をもって困らせ、当
惑させることは恥ずかしいことだが、困っている隣人に手をさしのべず、黙殺することも、同じ
ように恥ずかしいことだ。
 人が道路で倒れていても、犬や猫なら、そばを平然と通り過ぎるだろう。平然と通りすぎるこ
とは、他人に迷惑をかけることではない。しかし、他人に迷惑をかけない平然とした行為が、犬
畜生に等しいことは少なくない。

>唯念仏して往生させてもらいましょ(>>88

たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。(大無量寿経)
畜生は極楽浄土に往生することができないんだよ。
125渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/24(土) 13:23:00.21 ID:oY+Poa8t
下品下生というは、 〜 不善業たる五逆・十悪を作る。もろもろの不善を具せる(観無量寿経)

 もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・
礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな
滅しなん。汝ただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法なきより生ずることを知らず。こ
のゆえに謗正法の人はその罪もっとも重なり、と(信の巻)。
 五逆罪は重罪だと知っても、それよりもむしろ五逆罪は正法が失われたときに発生すると言う
ことを知るべきです。人々を正しく教え導く者がいなければ、人々は仁・義・礼・智・信の重要
性を知ることができない。仁・義・礼・智・信を知らなければ人は五逆罪を犯すのだ。人々を正
しく教え導く者、仏・菩薩・僧は、念仏より先に、人々にまず仁・義・礼・智・信を教えること
こそ最大の仕事である。

 仁・義・礼・智・信の重要性を自覚し、自ら仁・義・礼・智・信を学び、それを実践しようと
思うこと。これが恥の本、慚愧の本だ。仏教を学ぶ資格条件であると考える。恥を知ること、こ
れが仏教を学ぶ基盤であり、恥知らずは仏教を学ぶ基盤がない。
 「慙」は自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。「慙」は内に自ら羞恥す、「愧」は
発露して人に向かう。「慙」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず(信の巻)。
126渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/24(土) 13:26:25.06 ID:oY+Poa8t
 「南无阿弥陀仏と念仏している」というなら、考えてみるといいだろう。

 下品下生とは、仁・義・礼・智・信を実践しようとする意思がある人だということか(自ら罪
を作らず)、その意思もない人だということか。意思もないなら恥ずかしい人だ。是非実践しよ
うと思うといいだろう。

 下品下生とは、仁・義・礼・智・信の重要性を他に教えようという意思がある人だということ
か(他を教えて作さしめず)、その意思もない人だというということか。意思もないなら恥ずか
しい人だ。是非他人にも教えるといいだろう。

 下品下生とは、仁・義・礼・智・信を欠けば、反省の思いが沸いてくる人だと言うことか(内
に自ら羞恥す)、そんな思いは沸いてこない人だということか。沸いてこないなら恥ずかしい人
だ。是非沸くようになるといいだろう。

 下品下生とは、仁・義・礼・智・信を欠けば、それを進んで相手対して詫びる人だということ
か(発露して人に向かう)、そんなことはしない人だということか。詫びることがないなら恥ず
かしい人だ。是非詫びるようにするといいだろう。

下品下生とは、仁・義・礼・智・信を欠けば、自分は人間関係において恥ずかしいと思う人だと
いうことか(人に羞ず)、恥ずかしいと思わない人だということか。思わないなら恥ずかしい人
だ。是非恥ずかしいと思うといいだろう。

 下品下生とは、仁・義・礼・智・信を欠けば、公共に対して恥ずかしいと思う人だということ
か(天に羞ず)、そんな意思はない人だというということか。ないというなら恥ずかしい人だ。
是非恥ずかしいと思うといいだろう。

 「南无阿弥陀仏と念仏するのが精一杯」で、仁・義・礼・智・信を考えたことがあるのか?。
そんな人は、念仏より先に、まず人間になるように、もっともっと学ぶべき事が外にある。
127渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/24(土) 13:56:50.34 ID:oY+Poa8t
 仁・義・礼・智・信とは何か。僕は教育勅語にその中身が簡潔に例示的に盛り込まれていると
考える。僕はおおよそ次のように割り振る。

仁(孝行・友愛・夫婦の和・博愛・徳器成就)
義(孝行・公益・世務・遵法・義勇)
礼(夫婦の和・謙遜・朋友の信)
智(修業習学・知能啓発・徳器成就)
信(孝行・友愛・夫婦の和・朋友の信)

 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝
ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス 
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業
ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦
緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノ
ミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン 斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫
臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服
膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ  明治二十三年十月三十日 御名御璽

 教育勅語の12の徳目が仁・義・礼・智・信のすべてを網羅しているかどうか、これは議論の
余地があると思うけど、仁・義・礼・智・信は、少なくとも教育勅語の12の徳目のすべてを網
羅していると思う。教育勅語は、小学生の子供が学ぶべき徳目だが、大人になっても最低限では、
十分に一生の間成立するだろう。
 教育勅語には「誠実に」とか、「心を込めて」というハードルを設定する表現が全くない。教
育勅語はハードルのある実践倫理を要求するものではない。むしろ天皇陛下ご自身が国民に最後
に庶幾フ(こいねごう)とおっしゃっている。心から願うという意味だ。人として少しでも常識
的に恥ずかしくなく振る舞える人であってほしいと、心から願ってくださっている方がいるとい
うのは、日本人は世界で一番恵まれている民族だと僕は思う。
128渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/24(土) 14:01:06.65 ID:oY+Poa8t
>>123
>そもそも何が善で何が悪かも深く考えてみるとなかなか難しい。

 真宗人は、まず逃げ口、言い訳、言い逃れ、予防線の形成から物事を始めようとする悪知恵が
働く(笑い)。
 逃げ口を先に確保するわけだから、まあ、本気ではないなと、背中を見て判断する。真宗人は、
隙あれば逃げようとする。本気になるエネルギーがない。真宗の馬鹿たれコミンテルンは、人か
ら生気を奪う歎異抄という名のまさに悪魔の書を手にしている。

>善とは何か?自己勝手な解釈で善を言うべきか?法然親鸞は何を持って善としたか?先一番に
そこを考えるべきだろ。

 僕は団塊の世代だ。少し前までは教育勅語を振り返るなどということは想像もできない時代だ
った。最近は教育勅語が見直されてきていると知ってびっくりしている。明治時代、新政府には
浄土真宗出身者が多く入り込んだと聞いたことがある。教育勅語の作成には明治時代の浄土真宗
出身者も絡んでいるんだろう。ここには、歎異抄で汚染される前、寺子屋として社会的機能を果
たしていた浄土真宗寺院で子供達に教えていた人の道が説かれているようだ。

 明治以降、公立の小学校が生まれ、子供達が寺子屋に通わなくなった。明治政府は、浄土
真宗寺院などの寺院に代わって公立学校で組織的に修身を教えるようになり、教育勅語を定めた。
 公立の小中学校で修身と教育勅語を教えることは、何ら問題なく、むしろ積極的に勧めるべき
だろう。しかし、お花畑の革命の夢をむさぼっているアホなコミンテルンをGHQがゴマンと増
殖させてしまった現代日本では、民主主義政府が決断できる範囲は限られている。
 浄土真宗の教団はそのアホなコミンテルンが巣くっている組織の代表例だが、幸いにも寺は独
立性が高い。慙愧心こそ仏道を学ぶ基礎だ。心ある寺であれば、かつての寺子屋のような形で、
子供達に論語や教育勅語を中心に、恥(慙愧)という概念を教える場所を提供することも、自分
たちの使命であると考えるべきだろう。
 倫理道徳という価値観に牙を剥くコミンテルンが蔓延した結果、坊さん自身がそれらを教えら
れなくなっているというなら言葉もない。
      しばらく書き込み不能
129在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/05/26(月) 08:17:08.64 ID:TtNjdK7Y
>>128
>  真宗人は、まず逃げ口、言い訳、言い逃れ、予防線の形成から物事を始めようとする悪知恵が
> 働く(笑い)。

おいおい何を言い出すんだよw
何が善か何が悪かを判断することは難しいと言う一般論を言ってるだけだろ。
誰彼にかかわらず善悪の判断を独自で判断するのは間違いだと言うことが逃げ口上かw
そもそも自分勝手に善を言い出すから争いが絶えない、民族間、国家間で言い出せば戦争になる、
今で言えば良い例がロシアとウクライナがそうだろ?第三者からみてどちらに善があるのか
正義があるのかそんなことは当事者ではわからないわけだ、
第三者からみれば双方間違ってる場合も多い。自己勝手な判断をする幼稚な思想からは
争いごとしかおきない。善悪をもう少し大人の目で研究したらどうだ?
真宗で言う善は慈悲を表す称名念仏しかないと言ってるのだ、だから「唯念佛をして」一日
一回ぐらいはそのことを思い出せよと言うことだ。

>>127
>  仁・義・礼・智・信とは何か。僕は教育勅語にその中身が簡潔に例示的に盛り込まれていると
> 考える。

考えるのはかまわないが、天皇の所感、思いを絶対の物として
恐ろしい暴走が始まったのが歴史的事実だろw
戦前戦後は教育勅語の読み間違いで簡単に校長先生や教員が罷免されたり、覚えの悪い生徒
はビンタの制裁を受けたわけだ。
普通に考えられる道徳をつまりこのような支配の道具として使った事実を覚えておきなさい。
130在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/05/26(月) 08:25:33.95 ID:TtNjdK7Y
>>124
誰彼にかかわらず自分のことを他と比較して上下を考えるのではなく、
すべての人が九つのランクを想定するなら一番したの人間だと考えなさいと言うことだ。
凡夫の自覚それが始まりの第一歩だ、凡夫の自覚無しに浄土門は始まらない。

「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。(信の巻)

そもそも「無慙愧」とは自分のことを上品だとか中品だとか恥を知らない人のことを言うのだw
131在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/05/26(月) 08:41:34.07 ID:TtNjdK7Y
善因善果、悪因悪果
正しくは善因楽果、悪因苦果というだろうが因果應報で世の中ことは95パーセントはOKだ、
小学生、中学生、大人になってもほとんどの人はそれで一生を過ごせばまず間違いは無い。
それは事実でわしもをそのことに同意する。だけどそれでは念仏する意味がわからないだろうね。

そもそも善とはなにであるかをまじめに考える、そこから念佛の意味もわかるようになる、
公園でごみ拾い、電車の中でハンデを持った人に席を譲る、あらゆる弱者に親切にする、
嘘をつかない、など普通うに考える「善」だけでは念佛する意味が失われていくのも当然だ。
もう一段深層を掘り下げて考えればどうか。
132神も仏も名無しさん:2014/05/26(月) 18:20:50.89 ID:5UBawVDE
親鸞聖人は妻とセックスしていたのでしょうか?
親鸞聖人はオナニーしていたのでしょうか?
親鸞聖人は間引きについてはどう思われていたのでしょうか?

まじめな質問です。
133渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/29(木) 00:31:04.73 ID:4prIuMlm
>>129
>善悪の判断を独自で判断するのは間違いだと言うことが逃げ口上か
  まあ、人に依るだろう

>良い例がロシアとウクライナがそうだろ?
  やれやれ。ここでロシアとウクライナが飛び出てくると言うのは真宗の坊さんらしいや。
 仁・義・礼・智・信を実践しよう。孝行・友愛・夫婦の和・博愛などを大事にしよう。こう言
ったら、いきなりロシアとウクライナ戦争したらどうするという、話題に飛んでいく。やれ自分
勝手の善だ。自分勝手の善はだめだ。戦争になる。まあ、本願寺のコミンテルンの言いそうなは
ちゃめちゃな議論だな。お前馬鹿だな。

>自己勝手な判断をする幼稚な思想からは争いごとしかおきない。
 孝行・友愛を大事にしよう。夫婦は仲良くしよう。衆を博愛しよう。これは普遍的基本的な道
徳だ。幼稚な思想ではない。
 これを自己勝手な幼稚な思想というお前は、頭がおかしいとしか言えん。在家を研究する在家
研究者なんてやめて、もっと大事なことを小学校から勉強したらどうだ。
 
>真宗で言う善は慈悲を表す称名念仏しかないと言ってるのだ、
 称名念仏なら、僕はほとんど毎日40分やってるよ。仕事が忙しくてできない日もあるけどね。
ところで、貴方は毎日どのくらいやっていますか?1時間、2時間?
 あなたは念仏を称えて、どのような効果が出ましたか。称えた場合と、称えない場合と、何が
どのように違いますか?
 称えても称えなくても、貴方の場合、全く同じですか?違いがありますか?

>考えるのはかまわないが、天皇の所感、思いを絶対の物として恐ろしい暴走が始まったのが歴
史的事実だろw

 教育勅語で暴走が始まった?歴史的事実? 何を馬鹿なことを言うんだ?
 歴史的暴走を言うなら、もっと格好の例があるんじゃないか?
134渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/29(木) 00:33:24.80 ID:4prIuMlm
戸塚悦朗 龍谷大学法科大学院教授
 慰安婦は「まさに奴隷」「性奴隷 (Sex Slaves) であった」と主張している。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/戸塚悦朗

 1944年当時、月収300円以上 
 朝鮮人慰安婦には、終戦時、家が2,3軒買えるほどの財産を築いていた婆さんもおり、終戦
後も引き続き現地で売春婦をやっていたような人もいる。
 これを、日本軍の性奴隷をだったなどと、とんでもない妄想を世界中に広めたのは、西本願寺
が経営する龍谷大学の法学部教授大先生ですね。
 コミンテルンの東京裁判史観を絶対の物として恐ろしい暴走を始めたのが現代の本願寺でしょ
う。貴方はこれでも、何が善で何が悪かわかりませんか?
 戸塚悦朗は悪人、詐欺師、売国奴、極悪人、本願寺・龍谷大学は最低だと僕は思いますよ。

 将軍の給与2倍以上の高給を取っていた嘘つき売春婦のでたらめを世界中に言いふらす売国奴
を何年も大学教授にする暴走を続けるなら、もっとやることがあるだろう。
 http://www.youtube.com/watch?v=cFiDzaxp-W8
 http://www.youtube.com/watch?v=OvpMNB9dnnY

教育勅語で教育された軍人達はどのような働きをしたか。
 http://www.youtube.com/watch?v=eynqGV835M0
http://www.youtube.com/watch?v=pJ9AH6zgd-o
http://www.youtube.com/watch?v=NJGeizNJMBU
 http://www.youtube.com/watch?v=OfHKiV1-z_s
 http://www.youtube.com/watch?v=3eRZposXUGw
http://www.youtube.com/watch?v=r2zwu_1bqIg
http://www.youtube.com/watch?v=XaDSy0J_YTQ
http://www.youtube.com/watch?v=pr7fFLAN6oQ
http://www.youtube.com/watch?v=tb8T6hIoW5o
 http://www.youtube.com/watch?v=OCy4xlS1EBY
http://www.youtube.com/watch?v=p_TEHz5yV98
 http://www.youtube.com/watch?v=__7fG0aqJDk
 http://www.youtube.com/watch?v=GcXTY5BkOTY
135渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/29(木) 00:35:18.64 ID:4prIuMlm
136渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/29(木) 00:56:20.82 ID:4prIuMlm
教育勅語で育った日本軍人が語られている
  ↓
http://www.youtube.com/watch?v=ko2pWxkD_W8

 善も悪も分からない下品下生
  ↓
  戸塚悦朗 本願寺派 龍谷大学法科大学院教授


   ↑
  ぼくはそう思う 
137渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/29(木) 12:36:15.09 ID:4prIuMlm
138在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/05/29(木) 15:23:51.86 ID:qGM8fkMa
>>134
従軍慰安婦等の意見には私もあなたと同じような考えを持っているので特に言うことはない。
しかしこの件でも本願寺とか龍谷大学を目の敵にしているようだが双方とも本丸ではないだろう。
朝日をはじめとするマスコミ、岩波に巣食う又文化人がまず本家本丸だろうね。
ピントがずれてますよ渡海さんw

あなたは過去に真宗教団から余程酷い目にあったのか?
139在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/05/29(木) 16:02:20.64 ID:qGM8fkMa
「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)

以下親鸞さんの解説は省略      唯信鈔文意


渡海さんどうだ?親鸞さんの心は以下省略したところから顕かに読み取れるだろう?
それとも全体をコピペしなきゃわかりませんか?
どうかもう一度原点に帰って謙虚に念仏してちょ
140渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/29(木) 20:27:19.21 ID:4prIuMlm
>>138
> あなたは過去に真宗教団から余程酷い目にあったのか?

〜 聖人を誹謗せんと、〜 を除かん(行の巻)

 酷い目にあったのではないが、怒りを感じている。

>>139
 「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。
(信の巻)

 おぬしと意見が合うことは決してない。
 こちらが言うべきことはほぼ出尽くしたようだ。言い足すことはないだろう
 おぬしの方で言い足りないことがあれば、思う存分羅列すればいい。それを
もっておぬしとの論争は終わり、こちらは>> 93の議論の続きに戻ろうと思う。
141在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/05/30(金) 10:57:59.60 ID:/5KAMoBL
あなたは道元に入門したらそのままその道を極めればよかったんだ、
親鸞思想(というより心)とはまるで違うようだ。
そもそもなぜ真宗に転向したのかも不明だな、そこがボタンの掛け違いという感。
142渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/30(金) 12:47:47.15 ID:jH2htcpY
>>132
>親鸞聖人は妻とセックスしていたのでしょうか?

 親鸞は、三十五歳のときに僧籍を剥奪され、流罪処分になりました。 正統伝の記録を読むと、
四十歳ころ、善光寺で再出家したようです。善光寺では律師という位を得たと考えるのが妥当
でしょう。三五歳から四歳までは、結婚も可能で、セックスも可能だったと考えます。
 善光寺で再受戒すれば、親鸞は日本天台僧に戻ったことになります。日本天台の僧は梵網戒を
守ります。梵網戒では再出家する場合、僧は離婚する必要はありません。しかし、セックスは禁
止されます。

 親鸞には還俗前から妻がおり、セックスしていたと考えることは、証拠がない以上は天台僧に
対する謂われなき誹謗中傷と考えます。流罪後、在俗時代に流刑地で地元の女性と事実上の恋仲
になり、子が産まれても不思議はありません。
 親鸞には妻がいたようです。恵信尼と言います。西本願寺には手紙が残っていますから、これ
を否定する必要はないでしょう。恵信尼とは流刑地で結ばれたと考えます。
 恵信尼は手紙の中で信蓮房という子供の話題に触れています。恵信尼は信蓮房の生まれた日時
まで具体的に語っていますから、信蓮房は恵信尼の実子であり、この人は親鸞の実子の可能性が
高いと考えます。信蓮房は親鸞が三八歳くらいのときに生まれていますから、そのころはセック
スもしていたでしょう。
 これ以外には親鸞がセックスしていた証拠がありません。当時の僧は、親を失った子供を預か
って育てることが仕事でした。親鸞の周りには多くの子供がいます。いずれも親鸞の実子とは考
えられません。
 親鸞はセックスしたという証拠がない以上、覚信尼も親鸞の実子ではないというべきです。覚
信尼は親鸞がセックスして産んだ子であるという本願寺の主張は、聖人を誹謗中傷し、本願寺を
貶め、自分も他人も無間地獄に堕ちる暴論と考えます。
143渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/05/30(金) 12:48:34.92 ID:jH2htcpY
>親鸞聖人はオナニーしていたのでしょうか?

 分かりません。
 故らに陰(おん)を弄して精を失すれば?伽婆尸沙なり(四分律 ?残法)。四分律ではオナ
ニーは僧の破戒行為となります。

 僧伽婆尸沙(そうぎゃばししゃ)は厳しい処分です。許されるまで比丘としての権利が失なわれ、
この罪を犯してそれを隠していた場合、その隠していた日数だけ、別住といって他の比丘達から
離れます。そしてその後、七日間さらに別住しなければならない。さらにその後、最低二十人の
比丘の前で懺悔し、全員の同意・承認を得て許されれば比丘としての権利が回復する。もし許さ
れなかった場合は、許されるまでさらに別住を続けなければならない。

 梵網経にはオナニー禁止項目がありません。日本天台は梵網経を守りますから、オナニーは日
本天台僧の絶対的禁止事項ではありません。しかし、日本天台でも、オナニーは、集団生活僧の
間で罰則のないあるいは罰則の軽い規範として禁止項目になっていた可能性はあると思います。
親鸞がもしそれを守っていれば、親鸞はオナニーもしていなかったと考えるべきでしょう。
 分かりません。

>親鸞聖人は間引きについてはどう思われていたのでしょうか?

 間引きとは子殺しです。人を殺すことは梵網経では重十戒の冒頭に出てきます。人を殺すこと
は、仁義礼智信のいずれにも反することでもあります。親鸞がこれを許すことはなかったと思い
ます。
144在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/05/30(金) 16:09:53.51 ID:/5KAMoBL
エッチの話になると俄然元気が出るんだな
145在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/05/30(金) 16:19:31.85 ID:/5KAMoBL
 「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」は上にあらはすところのよろづの道俗の戒品をうけて、
やぶりすてたるもの、これらをきらはずとなり。「罪根深」といふは、十悪・五逆の悪人、
謗法・闡提の罪人、おほよそ善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、
かやうのあさましきさまざまの罪ふかきひとを「深」といふ、ふかしといふことばなり。
すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひにはきら
はずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。
真実信心をうれば実報土に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。
「総迎来」は、すべてみな浄土へむかへ率て、かへらしむといへるなり。(親鸞)

破戒、十悪、五逆、誹謗闡提も無碍光仏のハタラキで真実心を得れば報土へ、これこそ
真宗の正意。セックスは禁止ではないです。
146渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/01(日) 15:19:58.85 ID:FhcRu5RW
>>93
 親鸞は教行信証で、出第五門の念仏者は普門示現の類となれと言う。

我身救世観世音  我が身は世を救くる観世音なり。
定慧契女大勢至  定慧契る女は大勢至なり。
生育我身大悲母   我が身を生育せる大悲の母は
西方教主彌陀尊   西方教主弥陀尊なり。
為度末世諸衆生   末世の諸の衆生を度さんが為に
父母所生血肉身   父母所生の血肉身を
遺留勝地此廟窟   勝地たるこの廟窟に遺し留めて
三骨一廟三尊位   三骨一廟にするは三尊の位なり。

念仏道場には勢至菩薩の像を安置する。勢至菩薩は、彌陀如來の右脇の弟子であり、弥陀の智
惠をつかさどる。しかし観音像は設置しない。なぜなら、道場主こそ念仏道場の観音菩薩だから
である。存覚がここに親鸞から継承した教えの真意が見える。

 専光寺文書の原文は太子廟窟偈にある。太子廟窟偈の「定慧契女」は解釈が難しい。どういう意
味か。
 聖徳太子は定慧の一方を有し、カシワデノホキキミノイラツメは定慧の他方を具し、両者が結
婚して定慧が結び合った。
 聖徳太子は、定慧を備えたカシワデノホキキミノイラツメと結婚した。
 聖徳太子はカシワデノホキキミノイラツメと結婚したことで、定慧が発生した。

 専光寺文書では、親鸞は肉筆の添え書きを記している。縦書きの定の左側に「オトコ」、慧の
左側に「オムナ」、契の左側に「カイ反」とある。つまり、縦書きの定慧契の左側には「オトコ
オムナカイ反」と小さく添え字してある。
 親鸞の思想と存覚の思想とは同一と考えれば、次のように解釈できるだろう。念仏道場とは母
胎である。念仏道場には彌陀如來右脇の女つまり勢至の智慧が備わっている。
 智慧が備わる道場に、慈悲を体現する男つまり観音が道場主として入ると、禅定と智慧が結び
つき、道場に参加する者に救いが出現する。
 三骨一廟とは太子廟窟偈では埋葬地を意味しているが、専光寺文書では生きた念仏道場を意味
している。親鸞は、太子廟窟偈をもって聖徳太子から念仏道場を建設せよという使命を受けた。
147渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/01(日) 15:25:15.55 ID:FhcRu5RW
 専光寺は室町時代の創建だそうだ。親鸞の時代には存在しない。つまり、専光寺文書は親鸞が
在世中、親鸞が別の所に送った文書が専光寺に回ってきた。
 専光寺文書はどこかある場所で念仏道場ができたとき、親鸞が祝電を送った。親鸞は、関東時
代、念仏道場建の重要性を常日頃、若い弟子達に盛んに訴えていた。その内容は、『上宮太子御
記』の中に読み取れる。上宮太子御記では、寺院建立の聖徳太子の偉業を非常に高く称賛してい
る。ここからは、親鸞が、親鸞塾に通ってくる関東武士の子供達に何を期待していたか、その真意
を読むことができるだろう。親鸞は、念仏道場ができると早速に祝電を送った。その一つが専光寺文
書だったのだろうと思う。

 親鸞の時代、念仏道場を開くには条件があった。少なくとも奢摩他・毘婆舎那ができ、他人を
指導できる能力があること、おそらくこれが条件だったと思う。
 しかし、親鸞の弟子達が開いた念仏道場は、必ず同じような後継者を育てることができるとは
限らない。奢摩他・毘婆舎那ができ、他人を指導できる能力そなえた孫弟子が育っても、育った
孫弟子が必ずしも道場の運営に意欲をもつとは限らない。親鸞の時代にできた道場の多くは様々
な問題でつぶれていったと思う。
 一方ではつぶれても、別の所では新たな道場が生まれるという動きもあった。室町時代、新た
に専光寺が創建されると、已に道場としての役割を終えた古い道場から、親鸞聖人の祝電が新た
な専光寺に寄贈されたのだろうと考える。

 親鸞が祝電に込めたメッセージは非常に意義深い。念仏道場はどのように運営するのか。念仏
道場の智慧は道場主が勝手に変更できるものではないと、釘をさしているようにも思う。仏道場
の根本原理原則は道場主に付属しない。あくまで勢至菩薩にある。具体的には親鸞が法然上人か
ら継承したものである。法然上人から伝わった先人からの伝統は守れと言っているのだ。存覚が、
念仏道場に多くの先人の像を安置せよというのも、念仏道場の本質は先人からの不変の智慧によ
るという主張を込めていると解すべきだろう。
 一方、禅定は道場主に帰属する。先人の智慧が詰まった念仏道場を舞台に、奢摩他・毘婆舎那
を得た観音は『衆生を度すと示すこと、遊戯するがごとし』。親鸞は教行信証でそのようにいう。
148渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/01(日) 15:27:38.27 ID:FhcRu5RW
 念仏道場は具体的にはどのように運営されていたか。蓮如の聞き書きから読むことができる。

  たとい、なき事なりとも、人、申し候わば、当座に領掌すべし。当座に詞を返せば、ふたた
びいわざるなり。人のいう事をば、ただ、ふかく用心すべきなり。是に付きて、ある人、「相た
がいに、あしき事を申すべし」と、契約候いし処に、すなわち、一人の、あしきさまなること申
しければ、「さように存じつれども、人の申すあいだ、さように候う」と、申す。此の返答あし
き、との事に候う。さなきことなりとも、当座は、「さぞ」と、申すべき事なり。 

 仮に最初は他人が自分に愉快でないことを言っても、その時は「なるほど」と右傾なさい。売
り言葉に買い言葉で、直ちに言い返せば、相手は二度と言わなくなる。相手の言葉は慎重に聞き
なさい。例えば、「悪いことでも互いに自由に言うようにしよう」と約束をしたにもかかわらず、
誰かが不愉快なことを言うと「それはそうだが、世間の常識ではこっちが正しい」と言い返す。
こういう言い合いはよくない。相手の言うことは違っているなと思っても、最初は「うむ。なる
ほど」と受け入れるべきである。蓮如はフリートーキングの原則を説いている。

 世の中で困ったことが起これば念仏道場を開け。これが親鸞からのメッセージである。念仏道
場では、多念念仏と一念念仏とを実践し、そのあとフリートーキングを行う。親鸞は、勧進僧と
して太子堂の先生になり、子供達に読み書き算盤を教えた。仁義礼智信を教えた。そしてその場
所を、念仏とフリートーキングとを行う仏道修行の場とした。親鸞が聖徳太子の示現により授か
った一生のテーマは、坊さんの格好をして喜んでエッチして子供を作ることではなかった。本願
寺が親鸞を貶めているように、妻の数も、一人で足りなければ、二人、三人とたくさん抱え、子
だくさんの寝たきり婆さんになり、悪人正機で極楽浄土に救われるそんな幸福者になりましょう
という馬鹿な話ではなかったのだ。
149渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/01(日) 16:01:15.02 ID:FhcRu5RW
 貴族に代わって新興の武士階級が政治的権力を握るようになると、殺し合いが増え、社会が不
穏になってきた。新興の武士階級に教育の機会を与えなければならない。仁義礼智信を教え、仏
道修行の場を提供しなければならない。念仏道場を全国に建設せよ。天台宗の理想である鎮護国
家を果たせ。法華経の理想社会を実現せよ。天台大師、伝教大師の理想を実現せよ。親鸞が聖徳
太子から受けた使命はこのようなライフワークだったと考える。
 
 親鸞にとっての仁義礼智信は決して高度なものではない。仏道修行の条件だから、人としてあ
りふれた、常識程度ものだったろうと思う。「誠実に」とか「心を込めて」などという修飾が加
わらず、寧ろ最後に「こいねがう」という言葉が付く教育勅語が小学生に期待していた程度の仁
義礼智信だったろうと思う。ところがこのような仁義礼智信が驚くべき効果を発揮する。第二次
世界大戦を始めとする戦争の中で、絶体絶命の究極の環境の中で、世界に誇るめざましい日本軍
人の武士道として発揮された。
http://www.youtube.com/watch?v=NJGeizNJMBU  http://www.youtube.com/watch?v=eynqGV835M0 
http://www.youtube.com/watch?v=ebk17gsFwBg
 日本軍人の多くはほとんど仏道を修行していない。もしあのような人々がさらにまねごとでも
奢摩他・毘婆舎那ができるようになっていたなら、さらにどんな可能性を秘めていただろう。そ
のような人々が、右にも左にも社会の至る所にいるとしたなら、どのような社会になっているか。
親鸞が実現しようとしていた理想の大きさに、僕はまさに表現の言葉を失う。
150渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/02(月) 15:37:13.74 ID:BF5oWQFF
>>148
× 右傾なさい

○ 受け入れなさい
151渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/04(水) 11:31:30.11 ID:OkK7xWvw
 戒律の問題と専光寺文書の議論は終わりにします。
 体失・不体失往生論について再開しようと思います。
 この議論は、公になると非常に困る人がいるようで、過去数回試みていますが、その都度、様々
な妨害が入り、最後まで到達しませんでした。
 しかし、この議論はきちんとやり遂げておくことが必要と思いますので、心機一転、もう一度
挑戦します。



○●Я親鸞仏教質問箱R(その8)●○
http://ai.2ch.net/test/read.cgi/psy/1381377543/44
 不体失往生論は重要な問題ですので、必ず続けます。
152渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/05(木) 12:43:56.82 ID:jZzgnx/U
 柔道界にはたくさんの人がいる。しかし、生まれながらに柔道界にいたという人はいない。柔道界
の人は、一人残らず、全て柔道界の外から柔道界に入った人だ。
 芸能界にはたくさんの人がいる。しかし、生まれながらに芸能界にいたという人はいない。芸能界
の人は、一人残らず、全て芸能界の外から芸能界に入った人だ。
 柔道界の人は、柔道界にいるということを証明する必要はない。柔道界にいるひとかどうかなどは、
その人を見ればすぐ分かることだ。芸能界の人は、芸能界にいるということを証明する必要はない。
芸能界にいるひとかどうかなどは、その人を見ればすぐ分かることだ。
 極楽浄土に往生した人かどうか、そんなことは証明する必要はない。極楽浄土のひとかどうかなど
は、その人を見ればすぐ分かることだ。

 柔道界とは何か。どんなところか。柔道界をよく知っている人十人に聞けば、みな話が違う。芸能
界とは何か。どんなところか。芸能界をよく知っている人十人に聞けば、みな話が違う。極楽浄土と
は何か。親鸞の極楽浄土、大無量寿経の極楽浄土、阿弥陀経の極楽浄土、観無量寿経の極楽浄
土、全て概念が違うようだ。各経典にはそれぞれ著者がいる。経典の極楽浄土は、それぞれ経典の
著者の極楽浄土観をもって描かれている。大無量寿経の場合、梵文と漢文とでも違うようだ。梵文は
梵文著者の極楽浄土観、漢文は漢訳者の極楽浄土観をもっている。

 柔道界とはどんなところか。著名な柔道家に聞けばおおよそ答えてくれる。芸能界とはどんなとこ
ろか。著名な芸能人に聞けばおおよそ答えてくれる。極楽浄土とはどんなところか。親鸞の極楽浄土
観に基づいて説明すれば、おおよそ足りるだろう。
153渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/05(木) 13:04:54.85 ID:jZzgnx/U
 善信は、念仏往生の機は体失せずして往生をとぐという。 〜 善恵房の体失してこそ往生はとぐ
れと、たてらるるも、また、やがて、さぞと、おおせあり。(口伝抄)

柔道界には、死んでからそこに入った人はいない。全員、生きているときに柔道界に入っている。
芸能界には、死んでからそこに入った人はいない。柔道界も、芸能界も死んでから行くところではな
い。生きたまま柔道界に加わっても、生きたまま芸能界に加わっても、びっくりする人はいない。「お
前、生きたままどうやって柔道界に入ったの?どうやって芸能界に行ったの?」こんなことを聞く人
がいれば頭がおかしいとしか言えないだろう。
 死んでから極楽浄土に入るなどと言う話は、実はおかしな話なのだ。極楽浄土は体(からだ)を失
わない(不体失)で参加する。そこは死んでから行くところではない
 親鸞の思想の中に体失往生という発想がないわけではない。しかし、往生を考えるなら、まず不体
失往生でその思想をしっかり固め、それを足場にして話を拡大していく。
 不体失往生(生前往生)が分かれば、実は体失往生(死後往生)などという話はどうでもいい話な
んだが、浄土真宗がほとんど葬式仏教化してしまった現代では、体失往生の議論は避けられない。そ
の場合、少なくとも親鸞中心で考えるなら、不体失往生の議論を先に固めておかないと、体失往生の
議論はとんでもない勘違いに飛んでいく。主客転倒するととんでもない話になる。不体失往生の議論
から考えよう。これが基点である。

 1882年、嘉納冶五郎先生は東京にある永昌寺で「講道館」という看板を掲げた。これが現代の世
界柔道の原点だそうだ。
154渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/06(金) 11:36:43.52 ID:od38aBYr
今北産業 >>152-153

 極楽浄土は生前に参加する世界である。当たり前の話だ。そんなところに死んでから行って
も何の意味もない 死後往生は敢えて否定する必要はない。死後往生は単なる付録だ。極楽
浄土は、今、行くことを考えるべきだ。
155渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/06(金) 13:53:29.03 ID:od38aBYr
 柔道界に来ませんか。人々にこのように声を掛けると、声を掛けられた人は三通りの反応をする。
 第一のグループ「とんでもない。絶対に嫌だ。俺は死んでもあんなことはしたくない。勧められる
のは絶対に嫌だ」。第二のグループ「うーんどうしようかな。やってみようかな、止めておこうかな。
うーん」。第三のグループ「もちろんだ。是非やりたい。誘われなくても自分はやるよ」。この三通
りである。
 誘いに出会うかどうか。誘いに乗れるかどうか、ここに柔道界に入る第一の関門がある。柔道など
は嫌だという人は、柔道界に入ることはできない。

 第一のグループを親鸞は邪定聚という。聚とは衆、集という意味だ。邪という字を使っていても特
に悪い意味はない。ようするに、柔道なんかしたくないという人だ。第二のグループを親鸞は不定聚
という。「当今の凡夫は、 〜 また不定聚と名づく(化身土)」。親鸞に言わせれば、現代人のほと
んどが、この不定聚だという。第三のグループを親鸞は正定聚という。最初から正定聚だという人は、
昔も今も数は少ない。

 第一の関門は礼拝門という。「こんにちは」と挨拶をして入るのが普通だ。極楽浄土にも同じよう
な門がある。挨拶もしないで入ると「お前は何者だ。なぜここに来たんだ?」と怪しい目で見られて
追い返される。挨拶ができれば追い返されない。

 仁義礼智信を知らない人、礼を知らない人、つまり畜生は柔道界に入れない。芸能界にも入れない。
第一の関門を通れない。畜生は極楽浄土にも入れない。極楽浄土に行くのは人間に限る。
156渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/06(金) 14:08:31.30 ID:od38aBYr
 浄土真宗は悪人でも極楽浄土に入れますよと教えている。悪人でも極楽浄土に入れますとはいうが、
犬畜生でも入れますよと言っているわけではない。柔道界と基本は同じだ。
 昔、犬畜生のようになって他人を殺したことがあるという人でも、いま真人間であるなら、柔道界
でも入れるだろう。しかし、人に挨拶もできないそんな犬畜生は、柔道界でも入る資格はないだろう。
最近、女性を強姦していたオリンピックメダリストが柔道界から追放された。強姦する奴には挨拶が
ない。挨拶して強姦する奴はいない。挨拶のできない犬畜生は柔道界にいられない。これは厳格な条
件だ。
 極楽浄土も同じである。悪人とは人という意味だ。悪人でも真人間なら極楽浄土に入れる。嘘つき
は挨拶ができない。挨拶のできない「嘘つき」「ひとでなし」でも極楽浄土には入れますよという話
を、もし本願寺が宣伝しているなら、それは歎異抄に騙された嘘八百である。
 
 「慰安婦は奴隷、性奴隷 (Sex Slaves) であった。日本政府は売春婦に賠償金を払え」。いくら龍谷
大学法科大学院教授であっても、極楽浄土は、こんな破廉恥なことを言っている犬畜生の入れるよう
なところでないことは当然だろう。極楽浄土は龍谷大学大学院教授のような犬畜生の行く場所ではな
い。
157神も仏も名無しさん:2014/06/06(金) 18:44:48.89 ID:kLdfoc3a
一体どこの時代の極楽浄土7日はさておき
中国の唐天竺と図と人物絵と
安土桃山浄土ならば
多くの戦国武将と大名と公家と商人と農民が賛同してくれている
もちろん浄土真宗の突き出し歩の檀家がこの俺の代わりをとり
安全に動いていくだろう
親鸞が描いた極楽浄土にはすぐには行かないつもりだ
158渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/07(土) 13:41:21.74 ID:KaVCX27J
 >>155-156
今北産業
念仏を称えてみませんかと誘われると、人は三種類に分かれ、極楽には門がある。礼拝門と
いう。迷わずに嫌という人は入れない。迷わず賛成する人は入れる。迷う人は誘われ方による。
門を入るには挨拶が必要だ。挨拶のできない「ひとでなし」、「犬畜生」は最初から論外である。

>>157
 ノーコメント
159在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/06/07(土) 17:00:05.60 ID:hGf5Bpfg
五念門行は法蔵菩薩の行業であり、「南無阿弥陀仏」の名号のかたちで衆生に与えられたもの
ゆえに名号を聞信すれば往生即成仏できます。

挨拶はただ南无阿弥陀仏と念仏すること、自力の行ではありません。
親鸞

如来の作願をたづぬれば  苦悩の有情をすてずして

廻向を首としたまひて  大悲心をば成就せり
160在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/06/07(土) 17:07:08.53 ID:hGf5Bpfg
>>133
>  称名念仏なら、僕はほとんど毎日40分やってるよ。仕事が忙しくてできない日もあるけどね。
> ところで、貴方は毎日どのくらいやっていますか?1時間、2時間?

一文不通の凡夫ゆえ研究勉強のほうはともかく行住座臥念佛のことが頭から離れない。
回数や時間なんかまったく関係ないね。

>  あなたは念仏を称えて、どのような効果が出ましたか。称えた場合と、称えない場合と、何が
> どのように違いますか?
>  称えても称えなくても、貴方の場合、全く同じですか?違いがありますか?

これはむずかしい。答えても茶化すだけの人には答えたくない。
161在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/06/07(土) 17:13:08.86 ID:hGf5Bpfg
不体失往生 体失往生を考える場合前提として往生する場のこと明確にしておかなければ
話は始まらない。浄土とは何か?それが問題だ

浄土と言う領域を人間の現世、来世で分けるかどうかを先考えてみたらどうか。
そのことわかればあえて不体失往生 体失往生の問題を問わなくても良い気がするが・・・
東と西にもそれぞれの考えがあるそうだが僕は一応この問題のことは解決した。
162渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/15(日) 13:12:47.32 ID:JHHxJMSr
>>160
>一文不通の凡夫ゆえ研究勉強のほうはともかく行住座臥念佛のことが頭から離れない。回数や
時間なんかまったく関係ないね。

 念仏などは称えることのない人の見解だな。

 もし始行の人の念は、数を記する、また好し。これまた聖教に依るなり、と(行の巻)。
 まず大坊主分たるひとは、 〜 数珠をもちても子細なし。これによりて真実信心を獲得した
る人は、必ず口にもいだし、また色にもその姿は見ゆるなり(お文)。

 平等院の本尊も鎌倉の大仏も阿弥陀仏だ。念仏を称えていた人が設計・製作を行っている。両
手の印相は数珠を持って数を数えている形だ。念仏を称える人が見れば、非常に実感がある。な
るほどと思う。念仏の時は、平等院のように目は開いていてもよい。鎌倉のように閉じていても
よい。しかし、両手には数珠がある。数珠がなかったら手は非常に落ち着きがない。念仏は、普
通、回数を決め、数珠で数を数えながら称える。これが親鸞・蓮如の流儀だ。

 人は念仏を生活の中で称える。様々なスケジュールに追われる中、時間を作って称える。
 散歩は、人は何時間歩いてもいい。何歩歩いてもいい。ラジオ体操だって、一日に何時間やっ
てもいい。回数や時間なんかまったく関係ない。ラジオ体操も散歩も、実際にそれを日課にしな
い人には回数や時間なんか関係ない話だ。
 しかし、忙しい一日のスケジュールに追われる中、意義を認識し、目的をもって散歩をしよう、
あるいはラジオ体操をしよう。そう決めたなら、時間を決め、あるいは回数を定めなければなか
なか実行できるものではない。現代の日本人は多くが歯磨きを習慣づけていると思うが、意義を
認識し、目的をもって回数とタイミングを定めているから実践できるのであり、それを決めなけ
れば習慣が身に付くものではない。

 念仏だって同じだ。様々なスケジュールに追われるなか、念仏に意義を認識し、一定の目的を
持ち、時間や回数を定めなければ到底実践できるものではない。在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPPの
ように、在家を研究するなどというつまらんことには興味はあっても、念仏を称えることに興味
のない人には、回数や時間なんかまったく関係ない話だ。歯磨きの興味のない人には、回数や時
間なんかまったく関係ないのと同じだ。
163渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/15(日) 13:15:07.02 ID:JHHxJMSr
 僕は、念仏の時間を40分を目安にしている。仏壇のろうそくが燃え切る時間が30分、線香
が燃え切る時間が40分だ。ろうそくや線香は昔の人は時計として扱っていたと考える。特に、
線香は半分に折ることもできる。そうすると、燃え切る時間は半分の長さになる。
 ああいうものは、ほとんど寺院から発している。一本が燃え切る時間は闇雲に決まったはずは
ない。意味があるはずである。昔は、仏道修行の一単位と考えていたと想像する。今でも、禅寺
では一回の座禅時間に決めているところが多いようだ。
 線香が燃え切る時間の長さは、念仏を称える一回の時間としては確かに微妙な丁度いい長さだ。
昔の真宗寺院ではたぶんこれを最小時間としていたと考えるが、在家の今の僕はこれを目標時間
としている。
 一般的な数珠は玉が20個ある。これも意味があるはずである。20個は、仏道修行の一単位
という発想から生まれたんだろう。念仏時間40分を半分に分け、前半20分を多念念仏、後半
20分を一念念仏とする。五会念仏一サイクルを一分間で称えると、20分間で数珠を一周する。
この一周をもって多念念仏とし、その後、20分間一念念仏を続ける。
 実際に効果があるようだ。無論、問題を抱えているときには、僕は何時間でも念仏を称え続け
る。解答が見つかるまで二時間でも、三時間でも、食事抜きで行う。そういうときには時間も回
数も関係ない。とにかく称え続ける。こういう場合には、その後熟睡し、翌朝、目が覚める瞬間
に何かにはっと気づくことがある
 それほど大きな問題のないときは、そんなことをしていられない。一日のスケジュールがある。
仏道の先輩は、線香と数珠を介して僕に智慧をくれた。僕はそう思ってこれを大事にしている。

 以後、在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPPのレスにはノーコメントを原則としようと思う。
164渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/15(日) 17:44:04.90 ID:JHHxJMSr
>>160
>行住座臥念佛のことが頭から離れない。

 世の中には、歯磨きが習慣づいているひとは少なくない。歯磨きは、動きながら行ってもい
い。止まって行ってもいい。座ってやってもいい、寝てやってもいい。本人の好き好きだが、
だからといって、歯磨きが頭から離れないという人はいない。普通は、食後とか、朝昼晩とか、
時期を決め、時間を決め、しかも普通は立って磨くことに決めているだろう。

またこの正の中についてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥
に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、これを「正定の業」と名づく、かの仏願に順ずる
がゆえに。 〜 また云わく、散善は行を顕す縁なり、と。また云わく、浄土の要逢いがたし、
と。(化身土巻)

 正行の中について二種類ある。その内の一つは、行住座臥に時を選ばず、時間の長さを問わ
ずひたすら阿弥陀仏の名号を称えるという方法である。一念一念を大切にする。これを正定の
業という。かの仏願に順ずるからである。また云う。こうした正定の業のような行は散善とい
う。行という物を紹介するための事例に過ぎない。また云う。行住座臥に時を選ばず行う念仏
では極楽浄土の核心部分に入ることはできない。

 また名号をもって何の心得もなくして、ただ称えては助からざるなり(蓮如)。
165渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/17(火) 12:46:16.73 ID:fKIBZjtb
 第一の関門つまり礼拝門というのは重要な意味がある。以前、僕はなぜ極楽浄土に礼拝門があ
るのか不思議だった。人は礼拝門から化土に入るわけだが、化土は辺土とも言って極楽浄土の一
部である。つまり、礼拝門は穢土と浄土の分かれ目にある。なぜあるのか。要するに、戸塚悦朗
龍谷大学大学院教授のような人物を極楽浄土に入れないためだと分かった。
 人間と畜生は何が違うか。飼い犬は飼い主が遠方から帰ってくると大喜びする。畜生でも歓喜
がある。畜生でも真剣になることがある。シマウマを追いかけるライオンは真剣そのものである。
畜生でも真剣になる。しかし、人間と畜生は違う。畜生には挨拶がない。挨拶があるのは人間だ
けである。礼拝と挨拶とは違うという人がいるかも知れないが、挨拶の意味のない礼拝はない。

 親鸞は、南無阿弥陀仏の南無を礼拝門だという(行の巻)。南無とは梵語のナーマスを音写し
たものだ。ナーマスとは感嘆詞であり、こんにちは・さようなら・おはよう・こんばんは、こう
いう意味の言葉だそうだ。つまり挨拶の言葉なのだ。
 「おやここでお会いしましたね。私は貴方に敵意はありません。貴方には誠意をもって接しよ
うと思っています。今後もいままでと同様、誠実に敬意をもっておつきあいさせてください。お
互い仲良くしましょうね」。挨拶にはこんなような意味が込められている。
 敵意や憎しみを持っている相手から「こんにちは」と言われても、ちっともうれしくない。む
しろ不愉快に感じることすらある。理由は簡単だ。「こんにちは」という言葉の中に嘘があると
思うからだ。「こんにちは」と挨拶されると嘘をつかれたように感じる。嘘の「こんにちは」は
「こんにちは」の意味を持たない。
 知っている人に出会った場合、相手から知らんぷりされると「あれ?」と思う。恨みでもある
のかしらと不信感が湧いてくる。
166渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/17(火) 12:47:20.48 ID:fKIBZjtb
 挨拶は非常に高等な意思伝達手段である。百貨店に朝一番で行くと、店員が入り口に並んで「い
らっしゃいませ」と言ってくれる。形式的だと分かっても、気持ちがいい。店員の一人一人は無
理矢理やらされているのだろうが、「私は貴方に敵意はありません。貴方には誠意をもって接し
ようと思っています。誠実に敬意をもっておつきあいさせてください」。こういう人間だけがも
つ企業の意思がしっかり伝わってくる。

 挨拶は畜生には存在しない。「日本軍の性奴隷、朝鮮人ババアに賠償金を払え」。嘘つきババ
アが本当に性奴隷だったかどうか、その研究を専門にしている人が一番よく知っている。戸塚悦
朗などは日本軍性奴隷捏造事件の張本人だ。事実かどうか、戸塚悦朗こそが一番よく分かってい
る。しかも、恫喝、脅迫の名宛ては日本政府・日本国だ。要するに、歴史と国際社会と全人類に
向かって大嘘を作出した。こんなやつに、人間の心など欠片もあるわけない。そんな奴を大学院
の教授大先生に持ち上げている龍谷大学などはとんでもない破廉恥大学だ。

 女性を準強姦していた柔道家を、事件が発覚すると日本の柔道界は間髪をおかずに永久追放し
た。本願寺・龍谷大学との大きな違いだ。柔道は礼に始まって礼に終わると言われている。なぜ
礼を重んじるのか。柔道は人間の競技であり、犬畜生のやるものではないということだろう。
 礼と挨拶は異なる。挨拶は、「おはよう」でも、「こんにちは」でも、「やあ」でもいい。腰を
折ることもあれば、笑顔だけのこともある。つまり形式性は幅が広い。しかし礼は必ず腰を折る。
折る腰の角度まで決められていることがある。礼は言語だけでなく、挨拶に込めてある意味を身体
動作を伴って表現する。
 礼拝はさらにその身体動作が厳格になる。五体投地がそのいい例だ。挨拶は心を起点に外部に
向けて一定の意思を発するが、礼拝は外的な身体動作から、その一定の意思を内部の心に意識的
に還流させ、原点の意思を強化する。
167渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/17(火) 12:56:33.40 ID:fKIBZjtb
 柔道は礼に始まる。念仏も礼拝に始まる。礼拝は人間が行うものであり、「犬畜生」や「ひと
でなし」が行うものではない。柔道界は、犬畜生に看板にション便を引っかけられるのは迷惑
だから直ちに永久追放して柔道の道義を形に表した。

 龍谷大学は本願寺から浄土教の看板を借用し、その看板にむけて「犬畜生」にション便を引っ
かけさせている。浄土教や極楽浄土の看板に向け、本願寺は金を払って犬畜生に嘘つきのショ
ン便を引っかけさせている。若者を犬畜生の嘘で洗脳することはできても、その犬畜生を、本願
寺は極楽浄土の中に押し込むことはできない。親鸞が犬畜生の出入りを頑なに拒否する最後の
砦になっているからだ。

 極楽浄土に礼拝門がなければ、戸塚悦朗などものこのこと入ってったかも知れない。それを防
ぐために親鸞は礼拝門を設けた。そういうことだろうと考える。
168白バラ十字軍:2014/06/17(火) 13:15:36.98 ID:RiaVsavW
【また創価!!!第二の尼崎事件!!】
【また創価!!!第二の尼崎事件!!】

今では殺人事件凶悪事件が起こると創価員かというぐらい
ネットではささやかれる時代になりました。刑務所受刑者の33%は創価員という事実は有名な話です

●巨人軍投手の松原由○(創価員)破壊的事件を起こし前科1犯 巨人、ロッテと渡り歩きクビ。転落の人生
その後はナマポ生活 毎日昼から浴びるように酒をストレートでラッパ飲み。警察に逮捕されること4−5回
前科は刑務所のかわりに罰金刑。金がないので強制労働 酒を飲むと本性が出て破壊性が著明にあらわになってきて本音がでる
ほぼ連日警察が呼ばれている状況 その数は警察を呼んでいないものを含めても事件数は数千回から数万に及ぶ。
とにかく連日のように起きる 刑務所受刑者の33%は創価員という事実は有名な話ですが、この者を見れば納得ができます
判決の際 法廷にこだまする「 池 田 先 生 万 歳 !」
●内柴正人→柔道金メダリスト (2009.5.15付 聖教新聞)創価のフレンド、通称Fであるのは間違いないですな
●中尾伸也容疑者(47)、妻の知佐(ちさ)容疑者(45)リサイクル店経営の夫婦、他人名義のカードで不正に現金を引き出したとして逮捕、殺人容疑で再逮捕 福岡・筑後 他にも行方がわからなくなっている人が多数 【第二の尼崎事件!!】
【また創価!!!第二の尼崎事件!!】
【また創価!!!第二の尼崎事件!!】
【また創価!!!第二の尼崎事件!!】
【また創価!!!第二の尼崎事件!!】

【創価】逮捕された福岡のリサイクルショップを放送した映像に創価学会3色旗(三色旗があるとはバリ活です)

また創価!!!!!!−−−−−−−−
169渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/18(水) 16:40:37.42 ID:5AA/ecx+
>>165-167
 今北産業
極楽浄土に礼拝門があるのは、畜生を入れないためであり、柔道界などと共通する。
挨拶は人間だけが行うものである。畜生との違いである。
畜生は、極楽浄土の看板にション便をひっかけるが、中に入ることはできない。 


 柔道場に行くと、練習時間の内の非常に長い時間、道場の隅で小さくなっている人がいる。誘
われてきたんだが、なんとなく落ち着かない。その一方で、決して柔道が強いというわけではな
いが、積極的に練習に励んでいる人もいる。勝手が分からず落ち着かない人と、積極的に練習に
励んでいる人は、同じ柔道場にいても、立っている世界が違う。道場の隅で小さくなっている人
から積極的に練習に励んでいる人を見ると、そこには越えられない壁がある。

 念仏道場に行くと隅っこで小さくなっている人がいる。友人に誘われてきたんだが、何となく
落ち着かない。その一方、座禅して念仏(行の巻)するときはみんなと一緒に生き生きと称え、
フリートーキング(聞き書き121番)になると積極的に発言もし、他人の話もしっかりと聞け
るという人もいる。二人は、同じ念仏道場の中でも、立っている場所が違うはずである。道場の
隅で小さくなっている人から積極的に念仏を称えている人を見ると、そこには越えられない壁が
ある。
 道場の隅で小さくなっている人が立っている世界を親鸞は化土という。化土は、挨拶さえでき
れば、厳密には礼拝ができれば、畜生でない限り、つまり真人間である限り、誰でも入ることが
できる。礼をしない人は柔道ができない。礼拝しない人は化土に入れない。親鸞が決めた礼拝は、
南無と称えることだけだ。
170渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/18(水) 16:42:16.48 ID:5AA/ecx+
 化土に入ればそれで十分ということではない。化土に入ればそれで十分だといえば、何のため
に化土に入ったか意味が分からなくなる。柔道場は目的があって行く。極楽浄土は目的があって
行くところだ。しかし、奥に進むには高い壁がある。落ち着きなくそわそわしている化土の向こ
うに、生き生きと念仏を称えている人がいる。フリートーキングの場では、人の話も「さぞ」と、
深く聞き入ってくれるそんな人が立っている世界が壁の向こうに存在する。壁の向こうの世界を
親鸞は功徳大宝海という。誘いがなくても自分から自律的に自主的に念仏を称える人々、つまり
正定聚の人々の世界である。

 化土に立つ不定聚の人が、壁を越えて功徳大宝海の正定聚の中に参加できるようにするにはど
うしたらいいのか。特別なことはない。正定聚の人に勧められ、支えられ、念仏を繰り返し繰り
返し称えてみるということだ。正定聚への門は広くない。念仏道場で共に念仏を称え、できるだ
け数多くフリートーキングに参加する。これ以外にない。念仏が楽しい、面白いと感じられるか
どうか、その一点にかかってくる。

ここをもって大経の願に言わく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念
を我が国に係けて、もろもろの善本を植えて、心を至し回向して、我が国に生まれんと欲わん。
果遂せずは正覚を取らじ、と。
また言わく、この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになお罪福を信じて、善本を修習して、
その国に生まれんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まる、と。
 また言わく、もし人善本なければ、この経を聞くことを得ず。清浄に戒をたもてる者、いまし
正法を聞くことを獲ん、と(化身土巻)。
                         さらに考えてみよう
171渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/06/20(金) 15:40:49.40 ID:OrTKINpH
>>170 修正

× ・・・親鸞は功徳大宝海という。誘いがなくても自分から自律的に自主的に念仏を称える
人々、つまり正定聚の人々の世界である。

 化土に立つ不定聚の人が、壁を越えて功徳大宝海の正定聚の中に参加できるようにするには
どうしたらいいのか。・・・



○ ・・・親鸞は功徳大宝海という。誘いがなくても自分から自律的に自主的に念仏を称える
人々、つまり正定聚の人々の世界である。

 柔道場に誘われて柔道場の壁際つまり辺土まで来たが、そこで小さくなっている不定聚の人
が、正定聚との間の仕切り越えて柔道の功徳大宝海の正定聚の中に参加できるようにするには
どうしたらいいのか。特別なことはない。正定聚の人に勧められ、支えられ、柔道を繰り返し
繰り返し練習してみることだ。正定聚に入る門は広くない。柔道場で共にみんなと一緒に練習
し、できるだけ数多く練習に参加する。これ以外にない。練習が楽しい、面白いと感じられる
かどうか、その一点にかかってくる。

 化土に立つ不定聚の人が、壁を越えて功徳大宝海の正定聚の中に参加できるようにするには
どうしたらいいのか。・・・
172在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/06/21(土) 16:41:40.74 ID:QSn3CBmZ
やれやれ
173在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/06/23(月) 15:46:12.67 ID:uJ1J6Izk
信がないから行にこだわるのであろうか
174渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/01(火) 22:11:38.65 ID:lRKZi4FJ
ここをもって大経の願に言わく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念
を我が国に係けて、もろもろの善本を植えて、心を至し回向して、我が国に生まれんと欲わん。
果遂せずは正覚を取らじ、と(化身土)。

 友人に誘われ、「こんにちは」と挨拶だけして念仏道場に行ってみた。厳かな雰囲気の中でみ
んな力強く念仏していた。念仏の後、みんな活発なフリートーキングをしていた。怖かった。道
場の入り口横の壁の隅つまり道場の辺地で自分は石のように固くなって時間が過ぎるのを待って
いた。
 誘ってくれた友人は道場の中央近くに陣取った。自分にはそこに行けない。入り口横の壁の隅
から道場の中央近くに自分も行けるようにするにはどうしたらいいのか。

 かつて、嘉納治五郎先生は言った、柔道が強くなりたいと思ったならひたすら柔道の練習をし
てほしい。自分は柔道界を創設し、段位制も設け、練習会を造り、柔道に関する様々な本も書い
た。柔道の練習をすれば、必ずうまくなる条件はすべて揃えた。一生懸命柔道の練習をしても柔
道が分からない、うまくなれない。そんな人が出ないよう、礼もできないようなノータリンでな
い限り、柔道が分からないという人が出ないよう、あらゆる手段を尽くした。
 もし、一生懸命努力してもうまくなれない。そういう人が出るなら、その間は自分は柔道の真
の指導者になったとは思わない。真剣に練習する者には必ず結果を出させる。必ず果遂させる。
自分はそう決意し、真の指導者を目指し、あらゆる努力をしてあらゆる環境を整え、柔道の真の
指導者になった。だから、真剣に根気よく時間を掛けて努力を重ねればだれでも必ずうまくなる。
どうか心ある人は柔道の道を信じて精進してほしい。嘉納治五郎先生はそのように言っていた。

 釈尊は、阿弥陀仏の誓いを紹介する。阿弥陀仏はこのように言う。力強い念仏者になろうとす
るなら、ひたすら念仏を称えてみてほしい。
 阿弥陀仏は念仏界極楽浄土を創設し、段位制五念門を設けた。念仏の多くの高僧を介して念仏
道場を設け、念仏に関する仏法書も世に送った。念仏を称えれば、奢摩他・毘婆舎那が必ず得ら
れるようになる条件はすべて整えてある。
175渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/01(火) 22:12:22.99 ID:lRKZi4FJ
 礼拝のできない「人でなし」や「犬畜生」のことではない。よいことをしていこう、悪いこと
をするのはやめよう。そう思う人である限り、自分の過去を反省することのできる人であるかぎ
り、四方、八方、上下、十方、どこにいる人、どんな立場の人も、心を至し回向してつまり真剣
に、もろもろの善の本つまり念仏を称え、よし「今度こそ、堂々と念仏道場に参加しよう。極楽
浄土に参加しよう。念仏界に加わわろう」。そう思う人はいつか必ず奢摩他・毘婆舎那が必ず得
られるようになる。真剣に念仏を称える人が、それでも念仏が分からない。念仏がうまく実践で
きない。そういう人が出ないよう、あらゆる手段を尽くしてある。
 一生懸命努力しても念仏がうまくなれない。果遂しない。そういう人がもし出るなら、その間
は自分は念仏の真の指導者になったことにはならない。練習する者には必ず結果を出させる。必
ず果遂させる。自分はそう決意し、真の指導者を目指し、あらゆる努力をしてあらゆる環境を整
えた。そうしてそれに成功した。念仏の真の指導者になった。だから、真剣に根気よく時間を掛
けて努力を重ねればだれでも必ずうまくなる。どうか心ある人は念仏の道を信じて精進してほし
い。阿弥陀仏はそのように言っていた。

 もし人善本なければ、この経を聞くことを得ず。清浄に戒をたもてる者、いまし正法を聞くこ
とを獲ん、と(化身土巻)。

 嘉納治五郎先生は言っていた。嘉納治五郎先生の話に出会うことができた人は幸いである。多
くの人はこの嘉納治五郎先生の話に出会うことができない。出会えただけで福徳がある。天の道、
人の道を守っているひとだけがこの正しい教えに出会うことができる。
 釈尊は言う。釈尊が語る阿弥陀仏の話に出会うことができた人は幸いである。多くの人はこの
釈尊の話に出会うことができない。出会えただけで福徳がある。天の道、人の道を守っているひ
とだけがこの正しい教えに出会うことができる。
176渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/01(火) 22:13:06.37 ID:lRKZi4FJ
 また言わく、この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになお罪福を信じて、善本を修習して、
その国に生まれんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まる、と(化身土巻)。
 念仏を練習すれば必ず奢摩他・毘婆舎那が得られるようになる。このことを信じない者がいる。
それでも、念仏道場に行けば、友達ができる。あるいは、健康になる。そう信じて念仏の練習を
し、念仏界に入ろうとする。念仏道場に参加しようとする。こういう人は、友達ができると目的
が達成される。健康になればそれで目的が達成され、しばしばそれで満足してしまう。入り口で
念仏が止まってしまう。入り口を脱することができない。念仏界の核心に入ることができない。
これは残念なことである。
 奢摩他・毘婆舎那ができるようになることを目指して、真剣に努力を重ねてほしい。

 定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する
(和讃)
 念仏は定散自力の我流ではだめなんだろうか。そんなことはない。練習する者には必ず結果を
出させる。必ず果遂させる。嘉納治五郎先生はそう決意してあらゆる環境を整えた。阿弥陀仏は
そう決意してあらゆる環境を整えた。
 阿弥陀仏の果遂のちかいを信じ、必ず結果が出るとそのように信じて持続する者は、自然に真
如の門、 奢摩他・毘婆舎那の世界に転入するだろう。
177渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/01(火) 22:54:53.55 ID:lRKZi4FJ
>>173
>信がないから行にこだわるのであろうか

信がない人は行にこだわるべきだ。
真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり(信の巻き)。

信心があるところには必ず称名念仏がある。称名念仏があるからと言って、必ずしも信心があ
るわけではない。
 しかし、称名念仏をしない者に信心があるということは決してありえない。信心の無いものは、
なくていい。まず念仏を称えることから仏門に入れ。

 穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの、特に如来の発遣
を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。(序文)

 念仏を称えることのない者は念仏を論じるな。
178在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/03(木) 10:59:07.30 ID:X7F9jNn0
仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す    大智度論

なるほど、もっともなことのように思われるが・・・・、だがしかし末法と言われた時代よりはや800年、

現代真宗の大海は、まず智をもって能入とし、信を能度と為す

一文不通の人間でも本を読み教養を磨き、山道を歩き思考し勉強する、
念佛のことが頭から離れないから勉強するとやがて智慧を蓄積することになる。
そうすれば自然と信を獲るようになる、その到達点が

帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数

と言うことであろう。
信を獲ればそれ以後は必ず名号を具足する、こういう流れです。

理由のわからない間は念佛などする必要は無い、わけわからなくとも念佛となえりゃいつかはわかる。
などとおかしなことを言うでない。それが間違いの元。
自分の頭で考え納得しそれから念仏を唱えることが大切。
179在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/03(木) 11:33:19.77 ID:X7F9jNn0
>>178
ようするに、称名念仏をするとやがて信を獲るようになるなどと、
当てにならないことは言わないほうがいい。
座禅するとやがて奢摩他毘婆舎那が身につくなどと言うような、
不確かなことは言わないほうがいい。

現代のような五濁悪時の末世では科学とか哲学を理解するのと同じように、
親鸞思想のことでも本を読み名号のいわれを納得して、それから称名念佛というのが正しい。

行ばかり先行させて40年念佛しても、称えるだけ無駄になってしまった。と言うことがないようにね。

信→行
180在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/03(木) 11:35:28.30 ID:X7F9jNn0
整理すると

称名→聞名の流れではなく
聞名→称名と言うのが現代では正しいと思う。
181在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/03(木) 11:37:38.76 ID:X7F9jNn0
座禅して口をパクパクして念仏しても何かなるものではない

本を読み山道を歩きながら反問し思考し、自分の頭で納得して阿弥陀仏の声を聞くことが
大切じゃないかな。
182在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/03(木) 14:42:43.87 ID:X7F9jNn0
>>180

誤解されると困るので

称名とは南无阿弥陀仏と称えること
聞名とは南无阿弥陀仏のいわれを理解すること


聞名とは自分が称える南无阿弥陀仏を仏の称える南无阿弥陀仏と聞くこと。
というような理解を私はしません。
「聞く」とは理解する。と言う意味に受け取ります。
183渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/05(土) 13:54:56.82 ID:MWyOvp2C
>>178
>末法と言われた時代よりはや800年

 親鸞聖人の時代は末法の入り口の時代だ。それから800年、親鸞聖人はもう古いというんだ
な。おぬし、浄土真宗など捨てたらどうだ。本願寺に行けば親鸞の像が座っている。そこに行っ
て、着ている坊主の服を突き返してきたらどうだ。在家の研究より、身のためになるだろう。

>現代真宗の大海は、まず智をもって能入とし、信を能度と為す

 速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり。(行の巻)真実
の信心は必ず名号を具す(信の巻)。信と行とふたつと聞けども、行を一声すると聞きて疑がわ
ねば、行を離れたる信はなしと聞きて候う。また、信離れたる行なしと思召すべく候う(消息集)。

 ◆g1YBnsKmRNPPの見解には、突っ込みどころが満載だが、突っ込みを入れても、おぬしには
何一つまともに答えられないということも承知しているから、突っ込みを入れる気にもならん。
おぬしの妄想の迷海は痴をもって能入としていることはこちらに伝わった。おぬしに理解できる
とも思えない

 渡海難とのやりとりで、おぬしにも、一つ理解できたことがあったようだ。それは、「親鸞聖
人の主張と現代本願寺教学とは違いがある」と言うことだ。どうやらこれはうすうす認識できて
きたようだ。便所の落書きとも言われる2ちゃんねるの功の部分だろう。

「おぬしがにわかに被った狸の化けの皮の主張に対し、親鸞聖人はどのように回答しているか紹
介しておこう。
 しかるに濁世の群萠、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入る
といえども、真なる者は、はなはだもって難く、実なる者は、はなはだもって希なり(化身土)。
 九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入っても、真なる者は難く、実なる者はまれな
り。まして、九十五種の邪道そのままのおぬしには、真も実も欠片も無い。
184渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/05(土) 13:57:04.35 ID:MWyOvp2C
>信を獲ればそれ以後は必ず名号を具足する、こういう流れです。

往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさん(歎異抄)
   信じて念仏申す。 教・信・行・証   歎異抄では信は行に先行する。

 専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ (教行信証)
            教・行・信・証     行は信に先行する
教行証を敬信す      (教行信証)
行あるいは教行証・・ 信の客体
   信       ・・ 教行証の発露(主体)
 信を離れた行はなく、行を離れた信はない。
 歎異抄と親鸞の教えとは思想の骨格が違う。構造が違う。基盤が違うんだよ。
  先師口伝之真信 (歎異抄は秘伝書である。限られた人だけが許される) 
  外見あるべからず。 (歎異抄は他人に見せてはいけない)
於無宿善機、無左右不可許之者也。  (宿善の無い者に見せてはならない)
歎異抄を見ておぬしは目が潰れたようだ。歎異抄など捨てたらどうだ。

>理由のわからない間は念佛などする必要は無い、

 信心の人に劣らじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩を知り 称名念仏励むべし(和讃)
 先人達は、様々な努力をしてすばらしい環境を整えてくれた。仏は高僧を介して多くの優れた
文書を残し、念仏道場も作ってくれた。念仏道場では何をしていたか、その内容も今の我々には
分かる。今の自分には信心がなくても、先人を介した如来の様々な働きに感謝し、それに甘える
こと無く、そうした環境を活用して称名念仏に励んでほしい。

 定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する
 (和讃)
 念仏は定散自力の我流ではだめなんだろうか。そんなことはない。練習する者には必ず結果を
出させる。必ず果遂させる。嘉納治五郎先生はそう決意してあらゆる環境を整えた。阿弥陀仏は
そう決意してあらゆる環境を整えた。
 阿弥陀仏の果遂のちかいを信じ、必ず結果が出るとそのように信じて持続する者は、自然に真
如の門、 奢摩他・毘婆舎那の世界に転入するだろう。
185渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/05(土) 13:58:36.51 ID:MWyOvp2C
>自分の頭で考え納得し

 心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、心得たるなり。 〜 少しも、心得たると思
うことは、あるまじきことなり(聞き書き)

 故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、確かに承り候いし上
に、ものも覚えぬ浅ましき人々の参りたるを御覧じては、往生必定すべしとてえませたまいしを
みまいらせ候いき。 (末灯抄)

>自分の頭で考え納得しそれから念仏を唱えることが大切。

 自分の頭で考え納得し、念仏を唱えることが出来るようになってから言いなさいな。百年経っ
ても夢のまた夢でしょう。
 心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、心得たるなり。弥陀の御助けあるべき事の尊
さよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり(聞き書き)
 分かった。納得した。そのように思ったときは分かってないときだ。奥は深い。まだまだよく
分からない。そう思えたときこそ分かったときだ。仏は高僧を介して多くの優れた文書を残し、
念仏道場も作ってくれた。念仏道場では何をしていたか、その内容も分かる。我々のために、様
々な努力をしてすばらしい環境を整えて伝えてくれている。これが実に我々にとって助けになっ
ている。実に尊いことだ。これをありがたく使わせて貰おう。そう思えたときが、本当に分かっ
たときである。中途半端なところで納得するなどと言うことはあってはならない。

>座禅するとやがて奢摩他毘婆舎那が身につくなどと言うような、不確かなことは言わないほう
がいい。

 ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん、これを名づけて「信不具足」とす(信
の巻)
 道があるとも信じない。得道の人も信じない。そんなおぬしには言う言葉も無い

>本を読み名号のいわれを納得して、それから称名念佛というのが正しい。
 名号のいわれを納得して、貴方も称名念佛できるようになってから言いなさいな。おぬしには、
百年経っても不可能でしょう。
186渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/05(土) 14:21:51.63 ID:MWyOvp2C
>行ばかり先行させて40年念佛しても、称えるだけ無駄になってしまった。と言うことがない
ようにね。

 師子吼菩薩摩訶薩言く。世尊、一切の衆生は如來の心相を知ることを得ること能わず。いかん
が觀じて知ることを得るべきや。善男子、一切衆生は實に如來の心相を知ること能わず。(大般
涅槃経要文 親鸞真筆)
 師子吼菩薩が釈尊に言う。◆g1YBnsKmRNPPなどの衆生は如來の心相を知ることができない。
◆g1YBnsKmRNPPなどは何をどのように見ればいいのでしょうか。すばらしい弟子よ。その通り
だ。◆g1YBnsKmRNPPなどの衆生は、実に如来の心相を知ることはできないのだよ。
 節穴のお前さんに心配されたくないもんだ(苦笑)

 もし、如來所有の口業を觀ぜば、まさに知るべし。これすなわち如來とするなり。(大般涅槃
経要文 親鸞真筆)
 如来とは思えないような人であっても、その人の言葉の中に如来しか発しないような言葉を見
つけたなら、そのときはその人を如来と仰ぎなさい。
 親鸞聖人とは似ても似つかぬ人であっても、その人の言葉の中に、親鸞聖人にしか言えないよ
うな言葉を発しているの見つけたなら、その瞬間は親鸞聖人を仰ぐようにその人を仰ぎなさい。

 最近でも僕は親鸞聖人の言葉の中で、様々な発見をしてびっくりしている。それまで長年持ち
続けてきた自分の考えを、つい最近も、あっさりと180度変えた許りだ。親鸞聖人の考えの深
さと僕とはその深さは天と地の開きが現実にはある。
 それでも、おぬしの目で見て、渡海難の主張と親鸞聖人の主張との間に差を見つけることはで
きないだろう。渡海難の主張と親鸞聖人の主張との間に差異があると思ったら、試しに指摘して
みるといい。見つからないだろう。親鸞聖人からあまりにも離れているおぬしには、渡海難の主
張と親鸞聖人の主張との間の差はあまりにも小さく、おぬしの目には映らない。
 節穴のおぬしから見れば、僕の言っていることと親鸞聖人の教えとの間に差はない。渡海難の
主張とおぬしとの主張との間には大きな差がある。それは親鸞聖人の主張とおぬしとの主張との
間の大きな差に等しい。
187渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/05(土) 14:24:50.22 ID:MWyOvp2C
 親鸞聖人とは似ても似つかぬ人であっても、その人の言葉の中に、親鸞聖人にしか言えないよ
うな言葉を見つけたなら、その瞬間は親鸞聖人を仰ぐようにその言葉を慎重に吟味すると良いだ
ろう。

>整理すると
  整理はいらんよ。もうわかったよ(苦笑)

>自分の頭で納得して阿弥陀仏の声を聞くことが大切じゃないかな。

 親鸞聖人の声も聞こえないで、「現代真宗の大海は・・・」などというおぬしに、阿弥陀仏の
声など届くわけが無い(苦笑)


>「聞く」とは理解する。と言う意味に受け取ります。

好きにしなさいな。
行を一声すると聞きて疑がわねば、行を離れたる信はなしと聞きて候う(消息集)。
188神も仏も名無しさん:2014/07/05(土) 14:55:46.16 ID:KyemliSu
信心決定は本当にあるんでしょうか?
証拠、根拠なども含めて
なるべく簡潔にお願いします
189在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/07(月) 09:57:43.08 ID:zhF9pdIe
簡単に言えば
念佛などまったく無縁だと思っていた人が
念佛のことを考え称え始めることだろうね。
190在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/07(月) 10:03:29.88 ID:zhF9pdIe
>>186
>  最近でも僕は親鸞聖人の言葉の中で、様々な発見をしてびっくりしている。それまで長年持ち
> 続けてきた自分の考えを、つい最近も、あっさりと180度変えた許りだ。親鸞聖人の考えの深
> さと僕とはその深さは天と地の開きが現実にはある。

2ちゃんねんるのおかげだ、やっと親鸞さんの深さがわかったか(苦笑
どこをどう変えたか言ってごらん。

>  それでも、おぬしの目で見て、渡海難の主張と親鸞聖人の主張との間に差を見つけることはで
> きないだろう。

あなたは異安心だよ、違いが大きすぎて、突っ込みどころが多すぎて、釣氏かなと思える。
>>>>たくさん書いてるから書き賃だけあげる。
191渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/07(月) 11:29:21.00 ID:9hbQ+uY1
>>189-190
      ノーコメント

>>188
>なるべく簡潔にお願いします
       難しい


 後日は>>176の続きに入ります。 
192在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/07(月) 15:34:39.23 ID:zhF9pdIe
>>191
スラスラわかるシリーズ

A 三時の説について法然、親鸞の時代は末法と言う認識が強かった。
  今はそれから800年、三時間で東京から京都へ、インドの人と携帯電話で話し、
  飛行機で十数時間、地球は丸い、ビックバンから138億年、銀河系だけで恒星の数は2000億、
  教法は当然違うだろう。

B 仏身には三身ある
  @法身 (真理、無上仏、空性・・・・自然法爾章参照
  A報身 (真実、阿弥陀仏等の大乗の仏、便宜的に理解させるためのもの ・・・愚禿鈔参照
  B応身 (事実、釈迦等、人間界・・・・書簡集、末灯鈔参照

特にBについては入門書も専門的な書もごちゃ混ぜに記載されてるから混乱する。

法然、親鸞は報身について語る場合が殆どであり教団もその教えを継承している。
報身の立場で言えば救済教とも考えられるが、天台の教えを受けた親鸞は当然無上仏について
良くご存知であり、その場合は成仏教でもある。
☆我々は無量寿経等からわざわざ悪人救済のために選び抜かれた法然親鸞の「思い」を汲み取ることから
始める事が肝心。
193在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/07(月) 15:38:30.96 ID:zhF9pdIe
渡海さんは法身について語りがちだが真宗はあくまで報身としての説明でナイト異安心
とされる。そこんところが良くわかってないようだ。
194188:2014/07/07(月) 15:52:09.96 ID:RlNg8EbK
信心決定した人は現在の日本に何人くらいいるでしょうか?
195188:2014/07/07(月) 15:53:00.92 ID:RlNg8EbK
生きてる人で
です
196渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/08(火) 11:52:27.55 ID:7ZT3cEN5
 在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPPのような愚かな一文不通の人間でも、スラスラわかるシリーズ
(>>192)などの本を読み教養を磨き、山道を歩き思考し勉強する、念佛のことが頭から離れないから
勉強するとやがて智慧を蓄積することになる。そうすれば自然と信を獲るようになるはずである。信
を獲ればそれ以後は必ず名号を具足するはずである。こういう流れです。>>178

 在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPPには信も無い、名号も無いのはどうしたことか。理論が悪いのか、
現実が悪いのか。

 在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPPの主張
  理論は正しい。現実が間違っているのだ

 渡海難の主張
  理論が間違っている。現実は正しい。


 
 渡海さんは 〜 そこんところが良くわかってないようだ(>>193)。
故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候いしことを、確かに承り候いし上に、ものも
覚えぬ浅ましき渡海難のような人々の参りたるを御覧じては、往生必定すべしとて得ませ給いしを見ま
いらせ候いき(末灯抄)。
 真実の信心は必ず名号を具す(信の巻)。 渡海難には決定の信もある。決定の行もある。
 現実と親鸞聖人の理論とは合致しているようだ
197188:2014/07/08(火) 18:43:12.35 ID:JZQweOe7
スルーされましたが一人もいないってことでよろしいでしょうか?
198渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/08(火) 20:25:19.05 ID:7ZT3cEN5
>>197
 2ちゃんねるは無料の掲示板です。書き込む人は
相手の質問に答えても、どなたからも一円も貰ってい
ません。
 2ちゃんねるには、自分用の家庭教師はいないと考え
ましょう。質問すれば当然解答がくるという考えは捨てま。
しょう。
 是非回答が欲しい場合には、名宛てを明確にしましょう。
>>194>>193に対する質問という理解でよろしいですね。

 貴方の質問に答えても、貴方から一円も貰えません。
貴方はこの現実をどう考えますか?
 相手からの回答があれば、相手の都合、あるいは相手の
好意で書いてくれています。相手が書くか、書かないかは相
手の全く自由です。

 「証拠、根拠なども含めてなるべく簡潔にお願いします>>188」とい
うのは、相手に「書くな」と書き込みを制止している印象があり
ます。

「信心決定は本当にあるんでしょうか?」こういう質問をする
場合には、信心とは何か、決定とは何か、貴方における言葉の
概念、言葉の定義を明確にしてほしいものです。

 「信心」「決定」。貴方はどういう意味でこの言葉を使っているのか
それを明示しないで「答えろ」というのは無茶です。
 

 
199渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/08(火) 20:39:26.96 ID:7ZT3cEN5
>>188さんは、信心決定とはどういう意味と思っているのでしょうか。
信心決定するまえと、したあととは、何がどう違うのでしょうか。

 貴方からそれを言って貰わなければ、答えられません。

 「ああ、そういう変化ならあります」「そういう変化をした人は見たことがありません」
「そういう変化は、あるか無いか分かりません」「そういう変化は絶対にありません」

 このように、親切な人がやがて答えてくれるでしょう。

 信心決定という言葉を、親鸞・蓮如上人の定義、概念で使うということもあるでしょう。
その場合には、親鸞・蓮如における定義を明確化しておく必要はあります。

 自分の考えている概念は普遍的であり、あらゆる人が自分と同じ定義でものを言っている
と思うのは止めましょう。
200神も仏も名無しさん:2014/07/10(木) 00:01:08.05 ID:dnAwNvrd
↑じゃあ君以外の人に質問


信心決定した人は現在の日本に何人くらいいるでしょうか?
201神も仏も名無しさん:2014/07/10(木) 00:02:06.86 ID:dnAwNvrd
ちなみに自分はゼロだと思います
この100年でも
202在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/10(木) 10:09:57.28 ID:t/Qm0/a9
『安楽集』(上 一八四)にいはく、「真言を採り集めて、往益を助修せ
しむ。いかんとなれば、前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪
へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さ
んがためのゆゑなり」と。{以上}

  しかれば、末代の道俗、仰いで信敬すべきなり、知るべし。
『華厳経』の偈にのたまふがごとし。「もし菩薩、種々の行を修行するを見て、
善・不善の心を起すことありとも、菩薩みな摂取せん」と。{以上}

顕浄土方便化身土文類 六


教行信証を仕上げるにあたっていろいろ述べてきたけれど
これはどのような「行」つまり方法でも善でも不善でも皆摂取されると言うことなのか。
203在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/10(木) 11:08:53.85 ID:t/Qm0/a9
念佛の理解に違いがある人、また念佛を非難する人、
分けもわからない人、自分を非難する人、すべてを菩薩は摂取する。
善も悪も無くみな摂取されると最後に述べておられます。
204渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/12(土) 15:09:00.54 ID:s64UsL21
>>203
>善も悪も無くみな摂取されると最後に述べておられます。
悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。(歎異抄)


もと僻ごうだる心も、思い直してこそあるべきに、その徴もなからん
人々に、悪くるしからずということ、ゆめゆめあるべからず候(消息集)。

 歎異抄に騙され、本願寺に騙され、親鸞の声などおよそ聞こえな
い人に、阿弥陀の声など聞こえるわけもない。

  「最後に述べておられます」など片腹痛い。
205在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/14(月) 10:58:41.74 ID:P4g24Obg
まことに、われもひともそらごとをのみ申しあひ候ふなかに、
ひとついたましきことの候ふなり。そのゆゑは、念仏申すについて、
信心の趣をもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとの口をふさぎ、
相論をたたんがために、まつたく仰せにてなきことをも仰せとのみ申すこと、
あさましく歎き存じ候ふなり。このむねをよくよくおもひとき、こころえらるべきことに候ふ。
これさらにわたくしのことばにあらずといへども、経釈の往く路もしらず、
法文の浅深をこころえわけたることも候はねば、さだめてをかしきことにてこそ候はめども、
古親鸞の仰せごと候ひし趣、百分が一つ、かたはしばかりをもおもひいでまゐらせて、
書きつけ候ふなり。

なんまんだぶ なんまんだぶ


親鸞さんの指導は野太い声であったか、甲高い声であったか、
日常どのような声で念仏を唱えていたか。唯円は直接親鸞の声を聞き人柄を知っている。
これを研究してこそ心がわかる。これが一番。
206在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/14(月) 11:03:51.06 ID:P4g24Obg
聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。
そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、
善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、
悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、
みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」
とこそ仰せは候ひしか。

ここで言う善悪の意味がわからないと思想、心を理解するのは苦しい。
親鸞聖人が直接おっしゃった言葉が聞こえる。
207在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/14(月) 11:11:27.16 ID:P4g24Obg
歎異抄

[右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。
無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり。

誰であっても歎異抄から獲るものは多いであろう、それが基因となって
真宗に転入する人も多いであろう。それが事実だったでしょうね。
現代では宿善、無宿善、他宗教、人種にかかわらず素直に読んでもらい珠玉の名作ですね。                        
208在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/14(月) 11:17:07.26 ID:P4g24Obg
「もし菩薩の、種々の行を修行するを見て、
善・不善の心を起すことあるを、菩薩みな摂取す」と。{以上}

まさに知るべし、謗りをなすもまたこれ結縁なり。
われもし道を得ば、願はくはかれを引摂せん。かれもし道を得ば、願はくはわれを引摂せよ。
すなはち菩提に至るまで、たがひに師弟とならん。
往生要集 末尾

南无阿弥陀仏の声を聞く小鳥も蝉も皆往生
209在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/15(火) 14:39:08.43 ID:SqZ0Nfbm
あぁ〜南无阿弥陀仏 なんまんだぶ ありがとうさん
210神も仏も名無しさん:2014/07/16(水) 23:34:22.83 ID:Xa7C770D
親鸞って悟りを啓いていないよね?
211在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/17(木) 11:39:08.05 ID:iPZD9NyT
うん
212在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/18(金) 10:23:29.48 ID:2Rth9ELi
>>186
亀だが

>  如来とは思えないような人であっても、その人の言葉の中に如来しか発しないような言葉を見
> つけたなら、そのときはその人を如来と仰ぎなさい。
>  親鸞聖人とは似ても似つかぬ人であっても、その人の言葉の中に、親鸞聖人にしか言えないよ
> うな言葉を発しているの見つけたなら、その瞬間は親鸞聖人を仰ぐようにその人を仰ぎなさい。

これはヒョットして俺のことか?

>  最近でも僕は親鸞聖人の言葉の中で、様々な発見をしてびっくりしている。それまで長年持ち
> 続けてきた自分の考えを、つい最近も、あっさりと180度変えた許りだ。

どう変えたのか聞こうではないか。
213渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/21(月) 15:11:25.19 ID:JAujMKY7
>>201
>ちなみに自分はゼロだと思いますこの100年でも
   信心決定の定義が不明確な前提の主張は無意味と思うのでノーコメント

>>205
「善も悪も無くみな摂取されると最後に述べておられます」などと、在家研究者◆g1YBnsKmRNPP
は、2014/07/10(木)にまつたく仰せにてなきことをも仰せとのみ、反省も無く、恥知らずに申すこ
と、あさましく歎き存じ候ふなり。このむねをよくよくおもひとき、こころえらるべきことに候ふ。  

>>212
>これはヒョットして俺のことか?
  ノーコメント

>どう変えたのか聞こうではないか。
 「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。(信の巻)
  僕に弟子入りの申し込みか?。すまんが、僕は畜生を弟子にする予定はないんだ。本願寺に
聞いてみろ。喜んで拾ってくれるだろう。

>>176 続き
 柔道場に行くと、壁際で小さくなっている人を尻目に、中心部で生き生きと練習しているグル
ープがある。念仏道場に行くと、壁際で小さくなっている人を尻目に、中心部で生き生きと念仏
を称え、発言をし、人の話も一生懸命聞こうとしてくれているグループがある。親鸞は中心部を
功徳大宝海と言い、その人々を正定聚と言う。正定聚とは念仏の楽しさが分かった人である。大
宝海には、親鸞は賛嘆門という入り口があるという。そこには、勧められなくても自分からどん
どん念仏を称える人々がいる

 柔道場の中心部の人々も実は一様ではない。柔道場ではベテランと初心者に違いがあるようだ。
ベテランはやはり強い。初心者はベテランに歯が立たない。そこには、目に見えない壁がある。
ベテランになるにはどうしたらいい。柔道は楽しい楽しいというだけでは済まないものがある。
相当な決意をもって、歯を食いしばってもやっていこう、そのように自分に言い聞かせなければ
ならない部分があるようだ。
214渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/21(月) 15:12:02.65 ID:JAujMKY7
 念仏界の功徳大宝海の人々も、実は一様ではない。念仏道場ではベテランと初心者に違いがあ
る。ベテランは自分からどんどん自分の問題点を発見し、解決策も見つけ出していく。他人の問
題点も見つけて適確な解決策を提示してくれる。こうした能力は、初心者はベテランに歯が立た
ない。ベテランと初心者には、目に見えない壁がある。ベテランになるにはどうしたらいい。念
仏は楽しい楽しいというだけでは済まないものがある。相当な決意をもって、歯を食いしばって
もやっていこうと自分に言い聞かせなければならない部分があるようだ。親鸞はここに作願門と
いう門があるという。作願門の向こうは蓮華蔵世界という。
 功徳大宝海までは先生や先輩が手取り足取り、様々に教えてくれる。しかし、自分も歯を食い
しばってもやっていこうと決心したなら、つまり作願門からは手取り足取りということはなくな
る。周りはみんな自分をライバル視してくる。これまでは先輩がいろいろ面倒を見てくれたが、
今後は自分が後輩の面倒も見なければならない。

 親鸞は礼拝門から作願門まで、つまり手取足取り面倒見て案内してくれる化土と功徳大宝海ま
でを往相回向の世界とよぶ。しかし、作願門を過ぎて蓮華蔵世界には入れば、後輩の面倒も見な
ければならない。ここからは還相回向の世界に入ると言う。

 蓮華蔵世界に入ってもやはり一様ではない。さらにそこにも目に見えない区切りがある。 
215在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/22(火) 14:44:36.91 ID:sqanJvbD
十八願のいわれを納得して現世にあるうちは 帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
身が滅べば                     得至蓮華蔵世界 速証真如法性身



「獲」と言う文字と「得」の違いには敏感でなければならない

「獲」の字は、因位のときうるを獲といふ。
「得」の字は、果位のときにいたりてうることを得といふなり。
216在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/07/22(火) 14:52:50.58 ID:sqanJvbD
十八願のいわれ納得する、道理を一念領解すると直ちに即便往生する。
後の念佛はおまけじゃ、仏恩報謝の念佛は日に一万回称えてもよし一回でもよし。
217渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/25(金) 12:55:56.06 ID:zxjo+09b
>>215
>身が滅べば             得至蓮華蔵世界 速証真如法性身

 馬鹿は死ななきゃ治らない
 みなさん。みなさんは死んだら利口になれますよ。ありがたい。ありがたい。
 こんな話を聞いて喜ぶ奴がいればそいつは本当の馬鹿だろう。

 みなさん。みなさんは死んだら蓮華蔵世界に至り、真如法性身を得ますよ。
 こんな話を聞いて喜ぶ奴がいるのか?。喜ぶ奴がいればそいつが本当の馬鹿だろう。

 一切、諸の世間に生る者は皆、死に歸すなり。壽命は無量なりといえどもかならず盡きること
あるべし。それ盛りなるものは必ず衰うることあり。・・・本性の相に近づくことあれば一切み
な空无なり。   (本願寺が隠したがる親鸞真筆  大般涅槃經要文  専修寺 蔵)

 話には文脈がある。どういう文脈の話か。文脈を無視すれば、仏道でも、本願寺のような魔道、
外道と一緒になる。

 如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じて、未だ六部を信ぜず。このゆえに名づけて「聞
不具足」とす。またこの六部の経を受持すといえども、読誦に能わずして他のために解説するは、
利益するところなけん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす(信の巻)。
 親鸞聖人の教えも様々な文書に書かれている、一部を信じ、大般涅槃經要文や五法事讃略抄
を信じない。これは聞不具足という。一部だけの文書を大事にするが、大般涅槃經要文や五法事
讃略抄が読めないまま人々に嘘八百を解説する。これを聞不具足という。本願寺の教えに真実は
ない。

教化するひと、まず信心をよく決定して、そのうえにて聖教をよみかたらば、きくひとも信をとるべ
し(聞き書き)。

 念仏もなく、信心もなく、嘘八百を言い立てる阿呆を外道という。
在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPPには、恥を知れという言葉がない。恥知らずを犬畜生という(信の巻)
218渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/26(土) 10:17:39.10 ID:tZ/5ndNZ
すべて得道の人ありと信ぜざらん、これを名づけて「信不具足」とす  (信の巻)
念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 暇なく受くとぞ説き給う(和讃)


 身が滅べば 至蓮華蔵世界 速証真如法性身
 馬鹿は死ななきゃ治らない

 本願寺の坊主は、念仏しないのは勝手だが、念仏を誹謗することだけはやめろ。

 
219渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/26(土) 14:31:37.03 ID:tZ/5ndNZ
>>214
 念仏は面白い。念仏道場は楽しい。そう思うことはとても大事なことだ。親鸞は往相の回向を
以て不定聚の人々を正定聚まで導こうとする。念仏は面白い。念仏道場は楽しい。そう思うよう
になれば、仲間もできる。大会衆の仲間に加わる。しかし、念仏は遊びではない。
 嘉納治五郎先生はなぜ柔道界を創建したのは、みんなに面白い、面白いと思って欲しいと思っ
たからか。そうではない。柔道は笑い話ではない。娯楽ではない。スポーツである。スポーツを
するなら、やはり強くなるべきである。
 親鸞はなぜ念仏界を創設したのか。みんなに面白い、面白いと思って欲しいと思ったからか。
念仏は笑い話ではない。念仏は娯楽ではない。仏道である。仏道をするなら、奢摩他・毘婆舎那
を求めて欲しい。奢摩他・毘婆舎那は、面白い面白い、楽しい楽しいだけでは得ることができな
い。一大決心を以て不屈の覚悟を決めるべきだ。作願門を通らなければならない。蓮華蔵世界は
その先にある。親鸞聖人による 往相の回向もここまでである。以後は親鸞聖人の還相の回向を
背景にして後輩の指導をしつつ、奢摩他・毘婆舎那を真剣に究めていかなければならない。還相
の回向は、往相の回向を因として得られる果の世界である。蓮華蔵世界はいきなりやってくるの
ではない。功徳大宝海を因として、功徳大宝海の果として開けてくる。功徳大宝海で念仏のおも
しろさが分かれば、やがてその心に芽生えてくるだろう。

 蓮華蔵世界は熾烈な世界である。足技が強くても立ち技が弱ければ強敵に勝つことができない。
立ち技が強くても足技が弱ければ強敵に勝つことができない。親鸞は大般涅槃経要文で言う。「毘
婆舎那煩悩を破せば、獨りよく破すとやせん。伴にことさらに破すとや」。煩悩は、毘婆舎那だ
けでは敗れない。奢摩他を伴って毘婆舎那で打破するのだ。奢摩他単独でも、毘婆舎那単独でも
効果がない。蓮華蔵世界には作願門を突破して転入しても、さらに観察門が聳えている。観察門
を通過し、始めて奢摩他・毘婆舎那が完成し、方便力つまり教育指導力が体得されるのだ。
220渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/26(土) 14:32:27.13 ID:tZ/5ndNZ
 奢摩他・毘婆舎那・方便力を成就すると、いよいよ親鸞の浄土教は卒業の時期を迎える。これ
までは極楽浄土に進んでいく、入っていくという方向で考えてきたが、いよいよ極楽浄土から出
る日がやってくる。出第五門は園林遊戯地門という。親鸞の弟子達は独自に念仏道場を開き、人
々に念仏を教える。

 親鸞の弟子達は、道場を開けるようになると、道場開講の許可を貰う。ここからが本物の仏教
である。道場主は浄土門を終え、聖道の道を歩む。親鸞からは浄土門免許皆伝の証として専光寺
文書が渡された。そこには念仏道場の極意が書かれている。親鸞の高弟は、さらに次の時代の弟
子達に重要な極意書を渡した。それが歎異抄である。歎異抄は念仏道場の道場主の虎の巻である。

 以上が極楽浄土の構造である。嘉納治五郎先生はなぜ柔道界を作ったのか。親鸞はなぜ極楽浄
土を作ったのか。この秘話に触れた後、死後往生の議論に入っていく。
221神も仏も名無しさん:2014/07/26(土) 18:45:28.06 ID:jh4ffa7M
親鸞は法然の法を継いでいるのか。
222神も仏も名無しさん:2014/07/26(土) 19:00:21.13 ID:no3+SuL4
親鸞は概念体系を徹底する代わりに、体得がダウンしてないか?
223渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/26(土) 19:12:55.58 ID:tZ/5ndNZ
>>221
> 親鸞は法然の法を継いでいるのか。

 法を継ぐとはどういうことか、貴方の言葉の定義、概念を
明確にして貰わないと話にならない。

 定義次第で何とも言える。金正恩はイエスキリストの法を
継いでいる。ヒットラーはお釈迦様の法を継いでいた。
安倍晋三は志位和夫の法を継いでいる。

 こんな話は何の意味もない。

 継ぐという言葉の定義を固めなければ、何も言えない。
法を継ぐとはどういうことか。貴方の考えをまず述べて欲し
い。それから考えよう。
224渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/26(土) 19:14:23.76 ID:tZ/5ndNZ
>>222
意味不明ですからノーコメント。
225渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/27(日) 16:18:55.17 ID:66O/1Gp2
 極楽浄土とはどういうところか、極楽浄土を詳しく説明したので、一気に死後往生の詳しい
話に移ろうと思ったが、それは止めよう。
極楽浄土をここまで詳しく説明すれば、死後往生とはどういうことか、察しのいい人は簡単
に分かるだろうと思う。察しのわるい人は思い出してほしい。東北大震災のあとで行われたい
ろいろな学校の卒業式で、震災で亡くなった学友も生き残った生徒と同じように名前を呼ばれ、
遺族や友人がその亡くなった学友の卒業証書を受け取っていた。あれは、死後往生の思想その
ものと言っていいだろう。
 死後往生の詳しい理論的な話は急ぐことはない。極楽浄土を概観したところから、他に非常に
大事な話があるのでそれを先に紹介し、最後に死後往生の議論を、仏教の中核思想、悟りの問
題から解説する。
 少し時間がかかる。
226渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/27(日) 17:00:41.55 ID:66O/1Gp2
>>225
 もう少し詳しく説明しようか。
 >> 215で、身が滅べば得至蓮華蔵世界 速証真如法性身と言っている。

 震災で亡くなった生徒も、生き残った生徒と同じようにすべての学業を
マスターしました。これは死後卒業の話だ。

 死後卒業こそ、学業の中核であるといえばとんでもない話だ。卒業は生きて
行うのが大原則であることは言うまでもない

 震災で亡くなった念仏者も、生き残った念仏者と同じように、蓮華蔵世界を得 
真如法性身を得ました。卒業しました。これが死後往生だ。

 死後往生こそ、仏教の大原則であるといえばとんでもない話だ。極楽往生は体失
しないで行う(口伝書)のが大原則であることは言うまでもない。

 極楽往生は、生前往生、不体失往生が大原則であり、死後往生は付け足しだ。し
かし、死後卒業は死んだ人が可哀想という同情論ではない。死後往生も同情論で
はない。少し深い論点がある。いずれ説明する。
227渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/27(日) 17:04:19.90 ID:66O/1Gp2
>>226

×  口伝書      ○ 口伝鈔
228渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/28(月) 12:09:39.16 ID:OfCU9Im6
 極楽浄土の構造を詳しく説明したので、これに関連する重要な話をしたい。
 仏教というのは対機説法である。機とは器という意味だ。器とはうつわという意味であり、人
間の器を器量という。仏法は相手の器に合わせて話をする。

 柔道の話は、柔道なんか絶対に嫌、聞きたくない、聞けば吐き気を催すなどという人に向かっ
て話かける言葉は準備がない。そうではなく、話せば関心を持ってくれる人、あるいは柔道をや
ろうと思っている人に聞かせる話がほとんどすべてである。

 親鸞の教えは、基本的には邪定聚に向かって話かける言葉は準備がない。ほとんどは不定聚に
向かって話しかけている。
 不定聚には二種類ある。念仏道場も、念仏はどのように称えるのかも知らない人々と、念仏道
場の壁際にいる人々である。あるいは壁際までは行ったことのある人である。壁際まで行ったこ
とがあれば、念仏を少し知っている。

 柔道に体系書というのがあるのか、ないのか、僕は素人だから知らないが、もし体系書という
のがあるなら、その体系書は、柔道とは何かを全く知らない人、どんなものか全く知らない人、
そういう人の目線で柔道のイロハから懇切丁寧書いてあるはずだ。
 親鸞の教えも同じである。親鸞が書いた念仏仏教の体系書も、念仏とは何か、念仏はどうやっ
て称えるのか、そういうことを全く知らない人を相手に、念仏のイロハから懇切丁寧に書いてあ
る。念仏仏教の体系書とは教行信証のことである。
229渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/28(月) 12:12:25.15 ID:OfCU9Im6
 教行信証は、念仏をよく知っている人に向けて書いてあると思っている人が多いようだ。これ
は間違いである。教行信証は、念仏というものを全く知らない人が念仏の全容を知ることができ
るよう書いてある。実際に目にする人は、ある程度念仏を知っている人である。しかし、書物が
展開している議論の目線は、念仏を全く知らない人に合わせている。
 議論を説明している相手方つまり聞き手像は誰か、これを意識しないで読むと、とんでもない
勘違いをする。教行信証は、念仏道場とはなにか、どんな世界か、そのようなことも知らない人
の目線で体系書を書いている。だから、その議論の中核は、念仏道場にいらっしゃい。念仏道場
はこんなところです。念仏道場はこんなことをします。来ればこうなります。そういう話が展開
している。

 親鸞の文書は、教行信証以外にも数多い。念仏道場の外にいる人に向かって呼びかけている文
書は教行信証以外にも存在する。しかし、量的に一番多いのは、念仏道場内の壁際にいる人に向か
って呼びかけている文書である。内容は、化土から功徳大宝海に早く進みなさいと言っている。
 念仏道場の外の人に向けて「念仏道場にいらっしゃい」と呼びかけている文書と、念仏道場の
壁際の人に向かって、もっと中央に進みなさいと呼びかける文書とは、内容に矛盾がある。その
矛盾は、話しかけている相手の立ち位置の違いである。どこに親鸞の目線があるのか、目線の違いに困惑してはならない。

A 定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する
B 信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
C 自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがえば 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞい
りにける

 A,Bは、自力でもいいぞ。信心がなくてもいいぞという主張をしている。Cは、自力ではだ
め、疑ってはだめと言っている。

 念仏道場の壁際にすらなかなかいけない不定聚に、まず壁際に加わりなさいと言っている。こ
れがA,Bの主張だ。
 壁際にまで行った人には、「そんなところに長くいるな。根っこが生えてそこから動けなくな
るぞ」と言って、もっと奧に進むように呼びかけている。
230渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/28(月) 12:14:04.46 ID:OfCU9Im6
 教行信証は、壁際にも行ったことのない人の目線で仏道への参加を呼びかけている書であると
いうことは序文からわかる。
 「聞思して遅慮することなかれ」。
 話を聞いて分かったら、ためらうことなく一緒に念仏を称えよう。親鸞はそう呼びかけている。

 親鸞の手紙のほとんどは、已に今は化土にあって、そこからなかなか功徳大宝海に入れない人
に向かって説いている。
 道場の中の化土、つまり壁際と言っても、そこにはいろんな人がいる。そこに来たばかりの人
も入れば、沼の主のような顔してどっかりと根を張っている人もいる。親鸞の文書と蓮如の文書
にはその違いが出ている。親鸞の文書は、化土で根を張っている人に向かって説いている文書は
多くない。しかし、蓮如の文書は、どっかりと根を張り、梃子でも動かないという人に向かって
呼びかけている文書が多い。

 功徳大宝海に入った人は、どんどん自分から念仏を称えていくから、親鸞としては余り言うこ
ともない。従って功徳大宝海の人に向かって訴えている文書は数少ない。
 尊号真像銘文などは、功徳大宝海の人に向かって語っているわりと数少ない文書の一つだろう。
唯信抄、唯信抄文意も功徳大宝海の人に向かって訴えていると考える。心配することはない。至
心信楽を得たなら、そこでしっかり称えていれば、やがて必ず正覚を得るぞと教えている。これ
は蓮華蔵世界に入るぞと言っているのだ。
 功徳大宝海から蓮華蔵世界に入るには作願門を通る。ようし、それでは今後しっかりと念仏を
称えていこう。こう、自覚的に決意する。これが作願門だ。親鸞は、「必ず正覚を得ることがで
きるぞ」と説くことで、功徳大宝海の弟子達が自然にその決意に目覚めることを期待している。
化土から功徳大宝海には急げ急げと言っている割には、功徳大宝海から蓮華蔵世界への転入は急
がない。焦らない。じっくりと時が来るのを待つという姿勢である。

 蓮華蔵世界の弟子達に呼びかけている文書はほとんどない。蓮華蔵世界では、弟子に手取り足
取り教えることはほとんどない。弟子達は、自分で工夫を重ねていく。あるいは、後輩を指導す
るなかで気づいていく。ただし、質問があれば親鸞はその場その場で口頭で教える。こういう指
導は文書に残らない。
231渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/07/28(月) 13:11:03.35 ID:OfCU9Im6
 蓮華蔵世界を卒業すると免許皆伝である。免許皆伝になると、その証として専光寺文書が渡さ
れた。あるいは歎異抄が渡された。歎異抄は門外不出の秘伝書である。これは、念仏道場を開き
たいという申し出のあった卒業生だけに極秘で渡された。

 蓮華蔵世界を卒業し、仏道のプロとして仏道を続けていこうと思う人には、親鸞は涅槃経要文
を示した。これが聖道を歩む仏道者の基本原理である。これまでの浄土門の歩みとはガラリと変
わる。涅槃経要文以外にも、親鸞は当然、梵網経、法華経なども読むように勧めただろう。法華
経は、プロの仏道者にとって基本書になる。
232在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/08/05(火) 10:14:24.00 ID:d/jHv7AI
■読者のみなさまへ
 吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。
当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、
証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての
矛盾がいくつも明らかになりました。

http://www.asahi.com/topics/ianfumondaiwokangaeru/


何事においても間違いはできるだけ速やかに訂正、取り消し、お詫びしたいものだ。
間違いを認めるのは勇気が要るけど認めることで真実に一歩近づく、それが大事。
233渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/06(水) 01:55:14.59 ID:lr47wU9A
>>232
 浄土真宗本願寺派の大谷光淳新門(31)は6月3日、大阪教区ならびに津村別院を巡回・巡拝、
参集した500人余りの門侶と意見を交換した。同新門は「今のままでは寺院、僧侶にとって厳し
い将来が来るのではないか」と教団の現状に強い危機感を示す・・・社会の中で僧侶やお寺の役割
が無くなってしまうという非常に厳しい将来が、何もしなければ、今のままでは来るのではないか
と思っています」・・・聞法道場として寺院機能の回復を強く訴えた。 (中外日報 2009年)

 真宗寺院は聞法道場だと信じていました。そうしたらどうでしょう。

二には声聞教  〜  みなこれ、難行道・聖道門なり(愚禿抄)。

  声聞教は難行道・聖道門であり、浄土真宗ではないそうです。聞法道場じゃなかったんですね。
存覚上人は、「念佛をつとむる會座」、念仏道場だと言っていました。


>>232
>何事においても間違いはできるだけ速やかに訂正、取り消し、お詫びしたいものだ。間違いを認
めるのは勇気が要るけど認めることで真実に一歩近づく、それが大事。

 朝日新聞の訂正には30年かかりました。勘違い表明から5年、本願寺が訂正するのに、何年か
かるでしょう。これでは、社会の中で僧侶やお寺の役割が無くなってしまうのは当たり前。大谷さ
んが訂正する日は永遠に来ないんでしょうね。
234在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/08/06(水) 11:45:59.35 ID:smOIVsio
>>233
意味がわからない

念仏道場は言葉を替えると聞法道場としてもよい

聞法の「聞」とは「いわれ・道理を納得して理解する」と言う意味とうけとると
真実或いは真理を理解する納得するための道場が聞法道場。

他人の念仏の声を聞いたり、自分が称える念仏を自分で聞くとかw
聞くと言う文字を実際に「聞く」と言う動詞の意味に取る必要は無い。
聞くとは理解する、納得すると言うことだ。

念仏とは真理真実を心で理解すると言うことで、あえてそれを態度に表せば本願念仏として声で称えることとなる。
理解納得できないうちは念仏を称える必要なし、称えることを禁止するぐらいのことが必要だろう。
日課念仏がやがて本願念仏に変わるなどと楽観的な教えはどうかと思う。
念仏を称えるのは本願の意味を納得して理解した後のことです。

現代人は本願をなかなか理解できない、納得できないはずである。
だから先は疑って疑って徹底的に疑ってから、法然親鸞が何故本願念仏を称えなさいと言うのか
徹底的に考えるべきだろう。


なお声聞教と聞法道場とは関係ない。
聞法=声聞と勘違いしてるのか?
235渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/07(木) 19:57:09.16 ID:jfw2j/az
>>234
> 意味がわからない
> 聞法=声聞と勘違いしてるのか?

 身が滅べば          得至蓮華蔵世界 速証真如法性身 (>>215

 馬鹿は死ななきゃ治らない。在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPPにつける薬は
持ち合わせがない。
 貴方の死ぬ日を心からお待ち申し上げます。 
236在家研究者 ◆g1YBnsKmRNPP :2014/08/11(月) 09:23:31.39 ID:HJGbcnaS
血の汗は流せないけど、僕は間違っていました。
237渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/11(月) 11:53:48.89 ID:q7IrPru7
>>236
>血の汗は流せないけど、僕は間違っていました。

 何がどう間違っていたか、さっぱり伝わってこないけど、何か感じるものがありましたというこ
とか。誰かに教えられましたということか。
 「間違っていました」と、全く軽薄なところで上っ面だけで言っているなら突っ込みどころだが、
しばらく様子を見ようと思う。
何か感じるものがあったということは、聞く耳が生まれましたということか。もし、聞く耳があ
るというなら、>> 234の「意味がわからない」という言葉に回答しようと思う。

>念仏道場は言葉を替えると聞法道場としてもよい。>>234

 こんなアホダラ話は聞いたことがない。本願寺のノータリン教だ。



 道場をかまへて念佛を勤行すべきこと(至道抄 存覚)
 おほよそ佛法修行のところはみな道場といふ、いはゆる眞言をおこなふ所をば三蜜瑜伽の道場と
いひ、妙法を行ずるみぎり(水限り=軒下、庭)をば法花三味の道場といふ。念佛三味の道場もそ
の義おなじかるべし。されば念佛の行者、うちに信心をたくはへて心を淨土の如來にかく(掛く)
といふとも、道場をかまへて功を安置の本尊につむべし。自行化他の利益これにあるべきなり。こ
のゆへに和尚の解釋をみるに、『法事讃』には行法の道場を讃じて「道場の荘嚴きはめて清淨なり」
といひ、『観念法門』には『般舟経」によりて入道場念佛三昧の法をあかせり。このゆへに穢土を
もて淨土に准じ、私宅をもて道場に擬して、本尊を安ずる淨場とし、念佛をつとむる會座とするな
り。  

 道場とは、念仏を勤むる会座を言う。
238渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/11(月) 11:55:03.66 ID:q7IrPru7
 そもそも道場いふは堂舎の名なり、 〜 あながちにこれらの作法を具足せざれども、或は長時
の持佛堂、或は一時の會座佛法を勤行するところ、みな道場なり。この道理によるがゆへに、道場
をかまへて本尊を安置し、同行を會合して念佛を勤行すべきなり。

 道場をかまへて本尊を安置し、同行を集めて合同念仏を勤行せよ。

 道場の二字を心得るに、道といふは佛道なり、場といふは庭なり、 〜 このところにして念佛
を修すれば、彌陀如來遍照の光明を放ちて稱名の行者を照らし給まふ 〜 この所にして念佛をと
なふれば、光觸を蒙るものは心不退を得て往生の益を決定するが故に、これ往生淨土のところなり。

 このところにして念佛をとなふれば、往生の益を決定する

 人屋たりといへどもこの所にをひて念佛を勤行す。念佛の中には衆悪を遠離して衆善に親近し、
世間舎をいでて出世間舎に住する功力をそなへたり。かるがゆへに念佛を行ずる所は道場なり、道
場のなかにはまた種々の利益を具足せりとしるべきなり。

念佛を行ずる所は道場である。

 誠心をぬきんでて道場をかまへ、同行を會して念佛を行ずべきなり。念佛は无上の功徳超絶の勝
行なるがゆへに、諸佛も哀納し諸天も歓喜したまふ。


 世に曲事の起こり候らいしかば、それに付けても、念仏を深く頼みて、世の祈りに心をいれて、
申し合わせ給うべしとぞ覚え候(消息集)

 世の中で不都合なことが起これば、それをきっかけとして、念仏を深く信頼し、世の中に対する
祈りの心を持って、一緒に合同して合同念仏を称えてみてください。一時の會座佛法を勤行してみ
てください。道場を構えてみてください。
239渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/11(月) 11:58:58.75 ID:q7IrPru7
 念念に捨てざるは、これを「正定の業」と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに。 〜 散善は行
を顕す縁なり、と。また云わく、浄土の要逢いがたし、と。(化身土)

 正定の業は散善である。散善は仏行のライブラリーを展示するに過ぎない。正定の業では極楽
浄土の核心に至ることはできない。念仏道場で行うことではない。 

 空中に側塞して、蓮華座に坐す。(観経)
  極楽浄土は蓮華座が正式な着座法だ。仏法の場には仏法の場の作法がある。

 『浄土五会念仏略法事儀讃』に云わく、 〜 父の王に謂いて曰わく、「王いま座禅してただ当
に念仏すべし」と(行の巻)
 
 次に『五会讃』法照禅師の述作する所、一巻の書なり。今の所引の文は、これ序の初なり。流布
の本に「深妙」の下、「問答」の上に禅の一字あり。 〜 次に「如来」等とは、これ五会念仏を
釈する文なり。 〜 上には「念仏三昧是真無上深妙禅門」といい、今は「如来常於三昧海中」と
いう。上に標する所は念仏三昧なり。(六要抄 存覚)

 念仏道場では座禅して念仏を称えよ。座禅して念仏を称えるとは、座禅して五会念仏を実践する
ことである。

 たとい、なき事なりとも、人、申し候わば、当座に領掌すべし。当座に詞を返せば、ふたたびい
わざるなり。人のいう事をば、ただ、ふかく用心すべきなり。是に付きて、ある人、「相たがいに、
あしき事を申すべし」と、契約候いし処に、すなわち、一人の、あしきさまなること申しければ、
「さように存じつれども、人の申すあいだ、さように候う」と、申す。此の返答あしき、との事に
候う。さなきことなりとも、当座は、「さぞ」と、申すべき事なり。(聞き書き)

 念仏道場では、念仏に続いてフリートーキングを行え。


 存覚の至道抄を100回くらい書写すれば、何かが見えてくるだろう。
 >> 234の続きは、おぬしがそれをした後で考えよう。
240渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/11(月) 16:06:51.97 ID:q7IrPru7
 柔道場は柔道の練習をするところ。
 剣道場は剣道の練習をするところ。
 念仏道場は?
   念仏の練習をするところだ。

 柔道の説明を聞くとことは柔道説明会
 剣道の説明を聞くところは剣道説明会
 念仏の説明を聞くところは念仏説明会という。

 聞法道場など、片腹痛い。
241渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/15(金) 20:23:10.05 ID:pmIVbgq/
 娑婆界から礼拝門を通過すると化土に入る。化土から賛嘆門を通過すると功徳大宝海に入る。功
徳大宝海から作願門を通過すると蓮華蔵世界に入る。蓮華蔵世界にはもう一つ門がある。観察門と
いう。観察門を過ぎると園林遊戯地門という門がある。園林遊戯地門は極楽浄土からの出口であり、
再び娑婆界に戻る。
 こういう話をすると、質問が出てくる。要門というのはどこにあるのかと。娑婆界から要門に入
ると仏道界に入る。仏道界に入ってもそれは直接悟りにつながっていない。説明しよう。

 いくら野球を練習しても、寝技、立ち技が強くなることはない。バドミントンを練習しても、寝
技、立ち技が強くなることはない。嘉納治五郎先生がいくら柔道に誘っても、「いやだ。絶対にい
やだ。あんなの絶対にしたくない」という人がいる。それでも、野球ならやりたいという人がいる。
バドミントンをしてみたいという人がいる。そういう人は野球をやればいい。あるいはバドミント
ンをすればいい。
 いままで野球をしたことがなかった人が野球を始めるなら、野球の入り口門から入る。いままで
バドミントンをしたことがなかった人がバドミントンを始めるなら、バドミントンの入り口門から
入る。野球の入り口門、バドミントンの入り口門、これは全てスポーツ界の入り口門であり、そこ
を通過するとスポーツ界に入る。
 野球が面白そうだと思って野球の入り口門つまり要門からスポーツ界に入っても、柔道が面白そ
うだと思えば、野球界から柔道界への転身は可能だ。一度野球を始めれば、絶対に柔道界に入るこ
とはできないなどということはない。野球界に入っても百人に一、二人、千人に五人、三人程度は
柔道界に転身しようと思う人もいる。柔道界に転身しようと思う人は、柔道界の入り口から柔道界
に入ればよい。
 
 念仏は嫌だという人は極楽浄土に入ることはできないが、それ以外の仏道をしてみたいと言えば、
要門を通過することになる。要門に入っても、やはり念仏がいいと思う人は、普通は念仏の礼拝門
から念仏門に入る。
242渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/15(金) 20:25:15.40 ID:pmIVbgq/
 各門には、それぞれいらっしゃいという誘いがある。どうぞお入りくださいという願いがある。
非スポーツ界の人が、いったんは野球がいいと思って野球界に入り、その後誘われて柔道界の入り
口から柔道界に入り直し、さらにその後、柔道を本当に面白いと思うようになったという人は、要
門と礼拝門と賛嘆門とを通過したことになる。要門と礼拝門と賛嘆門とを通過することを、仏教で
は三願転入という。


 嘉納治五郎先生は柔道界に初段位から十段位まで階級制を定めた。理由はなぜか。嘉納治五郎先
生には独自の考えがあったからだ。
 親鸞先生は、極楽浄土に入っていく方向で礼拝・賛嘆・作願・観察の四つの門を定め、化土・功
徳大宝海・蓮華蔵世界という三つの世界を規定した。さらに出口を園林遊戯地門を規定し、その先
を生死の園と呼んだ。
 親鸞はなぜこのような構造を規定したのか。理由はなぜか。親鸞先生には独自の考えがあったか
らだ。親鸞先生の独自の考えはなにか。親鸞聖人は天台の僧、法華経の行者だったからだと言うべ
きだろう。天台の中心は法華経にある。法華経には何が書いてあるのか。法華経を読まずに親鸞聖
人の真意を伺うことは不可能だ。親鸞聖人の極楽浄土は、法華経に発する思想であると言うべきだ
ろう。


 譬えば五百由旬の険難悪道の曠かに絶えて人なき怖畏の処あらん。
 距離にして五百由旬という、気が遠くなるような長さの険しい道のりがあった。もしその道を通
り越すことができるなら、その向こうにはすばらしい世界が広がっている。これまでは道の険しさ
のため、その道を歩んでいこうと思う人はほとんどいなかった。

 若し多くの衆あって、此の道を過ぎて珍宝の処に至らんと欲せんに、一りの導師あり。聡慧明達
にして、善く険道の通塞の相を知れり。衆人を将導して此の難を過ぎんと欲す。
 しかし、あるとき、多くの人が、その険しい道のりを越えてすばらしい世界に行ってみたいと思
った。そのとき一人のガイドが名乗りを上げた。非常に聡明で、彼はその険しい道の様子をよく知
っていた。ガイドは、そのすばらしい世界に人々を案内したいと思っていた。
243渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/15(金) 20:26:30.64 ID:pmIVbgq/
 所将の人衆中路に懈怠して、導師に白して言さく、我等疲極にして復怖畏す、復進むこと能わず。
前路猶お遠し、今退き還らんと欲すと。
 ガイドが人々を案内していくと、道半ばで人々に疲れがみえてきた。人々はガイドに訴える。我
々はもう疲れが限界である。もうこれ以上進めない。目的地までこの先は実に果てしない。もうこ
こらで帰りたいと思う。

 導師諸の方便多くして、是の念を作さく、 此れ等愍むべし。云何ぞ大珍宝を捨てて退き還らん
と欲する。
 ガイドは非常に考えの深い人だった。残念なことだ。もしここでみんなが引き返したなら、あの
すばらしい世界には永遠には行けないことになる。戻ることはなんとかして思いとどまらせたい。

 是の念を作し已って、方便力を以て、険道の中に於て三百由旬を過ぎ、一城を化作して、衆人に
告げて言わく、
 ガイドには名案が浮かんだ。険しい道の途中、三百由旬のところに城を工作し、人々に告げた。

 汝等怖るることなかれ、退き還ること得ることなかれ。今此の大城、中に於て止って意の所作に
随うべし。若し是の城に入りなば快く安穏なることを得ん。若し能く前んで宝所に至らば亦去るこ
とを得べし。
 みなさん。おそれる必要はありません。引き返す必要もありません。すぐ近くに大きい城があり
ます。その城まで行けば、きっとすばらしい喜びが見つかるでしょう。そこで思う存分、楽しみを
満喫してください。もう少し進んでその宝のような世界まで行けば、その後、来た道を戻ると言う
こともできるでしょう。

 是の時に疲極の衆、心大に歓喜して未曾有なりと歎ず。我等今者斯の悪道を免れて、快く安穏な
ることを得つ。
 疲労の極みにあった人々は、その言葉を聞き、大変喜び合った。我々はこれで苦しい道から解放
され、安らぎを得ることができる。

 是に衆人前んで化城に入って、已度の想を生じ安穏の想を生ず。
 人々は勇んで城に入り、心の安らぎを得た。
244渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/15(金) 20:53:16.84 ID:pmIVbgq/
 爾の時に導師、此の人衆の既に止息することを得て復疲倦無きを知って、即ち化城を滅して、衆
人に語って、汝等去来宝処は近きに在り。
 やがて人々は疲れるがとれる。ガイドは人々の疲れがとれたことを確認すると、城を取り壊し、
人々に言う。宝の世界はすぐそこだ。さらに進もうではないか。

 向の大城は我が化作する所なり、止息せんが為のみと言わんが如し。
 さっきの城は私が仮に作った仮の休憩所に過ぎません。そのように言った

 諸の比丘、如来も亦復是の如し。今汝等が為に大導師と作って、諸の生死・煩悩の悪道、険難長
遠にして去るべく度すべきを知れり。
 もろもろの比丘達よ。如来すなわち教育者というものはこれと同じようなことをする。釈尊があ
なた方のガイド役になったのは、再起挫折再起挫折を繰り返し、患いと悩みの多い険しい悪道を離
れる方法を知っているからである。

 若し衆生但一仏乗を聞かば、則ち仏を見んと欲せず、親近せんと欲せじ。便ち是の念を作さん、
仏道は長遠なり。久しく勤苦を受けて乃し成ずることを得べし。
 釈尊は大乗仏教と小乗仏教を説く。もし、大乗仏教だけを説いたなら誰も仏を仰ごうとは思わな
いだろう。近づこうとは思わないだろう。仏道は長く苦しい。仏道を修行しても、長く苦しいこと
ばかりである。決して解放はない。そのように思うだろう。

 仏是の心の怯弱下劣なるを知しめして、方便力を以て、中道に於て止息せんが為の故に、二涅槃
を説く。
 仏は、あなた方の意思が非常に弱いことを知っているからこそ、知恵を絞って途中に休憩所を作
る。小乗の悟りと、大乗の悟りという二つの悟りを設けているのである。
245渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/15(金) 20:54:04.50 ID:pmIVbgq/
 若し衆生二地に住すれば、如来爾の時に即ち為に説く、汝等は所作未だ弁ぜず。汝が所住の地は
仏慧に近し。当に観察し籌量すべし。所得の涅槃は真実に非ず。但是れ如来方便の力をもって、一
仏乗に於て分別して三と説く。
もしあなた方が小乗の悟りで満足をしてしまったなら、その時改めて法を説くだろう。あなた方
はまだ未熟だ。真実が分かっていない。あなた方が認識した知識は本物に近いが、まだ不十分であ
る。よく考えて欲しい。今、得た悟りは真の悟りではない。単に一時的方法論的に設けた仮の真理
に他ならない。たとえば大乗の教えに対し、菩薩乗・声聞乗・縁覚乗と区別してあたかも三つある
ように説明しているのも同じ問題である。どうか真の目的地を失わないで欲しい。

 彼の導師の止息せんが為の故に大城を化作し、既に息み已んぬと知って、之に告げて、宝所は近
きに在り、此の城は実に非ず、我が化作ならくのみと言わんが如し。
 ガイドが人々のための仮の休憩所を作り、休息ができたら人々に言う。目的地はもう少し先であ
る。ここは本物ではない。仮に作った休憩所である。そのように言うのと同じである。

 「化土・功徳大宝海・蓮華蔵世界・生死の園」。親鸞がこのように極楽浄土を設定し、胎宮・懈
慢界などと言っている言葉の背景は、法華経のこの化城品から理解すべきだろう。なぜなら、嘉納
治五郎先生柔道界に初段から十段までの階級制を設けたその思想は、法華経のこの化城の思想と軌
を一にすると考えられるからである。親鸞が設けた極楽浄土は、法華経の化城の思想を背景にする。
246渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/16(土) 13:25:02.30 ID:8yyYNQZA
>> 169-171,174-176,213-214,219-220 今北産業
 「こんにちは」と挨拶できれば仮入学する(礼拝門)。念仏が楽しくなると心のつながりが生ま
れる(賛嘆門)。真剣にやらなければだめと気付く核心部に入る(作願門)。技を鍛えていくと上
位者になる(観察門)。指導力が身につくと卒業し、指導者になる(園林遊戯地門)。
 


>> 228-231  今北産業
仏教は対機説法。教行信証は、念仏を全く知らない人に仮入学を奨める視線で書かれている。親
鸞の文書の多くは、辺土の人々を功徳大宝海に導く。功徳大宝海にいる人に向かって説いている書
もある。蓮華蔵世界の人に説く文書はほとんど無い。歎異抄は出第五門後の人に説いている。



>> 241-245 今北煮業
 親鸞の思想は、徹頭徹尾法華経に根ざす。思想の本籍は原始仏教と法華経にある。極楽浄土は化
城である。親鸞は化城の導師である。
247渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/17(日) 16:23:24.71 ID:QX47vAQC
 靖国神社に参詣に行ってきました。8月15日に行けなかったので、今日にしました。今日の
日本の平和を守ってくれている英霊に、後世の人間として、ささやかな感謝の念を寄せてきまし
た。本殿の前は20メートルくらいの列を作っていました。中国語だと思います。参拝客の中で
は外国語が行き交っていました。今日の日中の戦争を防いでくれているのも、靖国の日本の英霊
達であり、その英霊達に感謝しようという思いが、市民レベルでは中国人の中にもあるのかも知
れない。そんなことを思いました

 死んだら靖国で会おう。英霊達はそう言い合って散っていったそうです。死んだらみな極楽浄
土に行く。極楽浄土でお会いしましょう。靖国神社は神道になった浄土真宗そのものと考えます。
靖国神社を作ったのは、明治政府の中で宗教を担当し、島地黙雷などともつながる浄土真宗の僧
侶達だろうと考えます
 浄土真宗は天台宗から分かれた。天台宗は鎮護国家が根本思想にある。国を守ろう。社会を守
ろう。護国・建国の伝教大師の思想が浄土真宗という地下水道を通って靖国神社につながってい
る。日本思想の長い連続性を感じたりしました。

 親鸞の死後往生の思想を考えます。

 閏十月一日の御文、たしかにみ候う。かくねんぼうの御事、かたがたあわれに存じ候う。親鸞
はさきだちまいらせ候わんずらんと、まちまいらせてこそ候いつるに、さきだたせ給い候う事、
申すばかりもなく候う。

 閏十月一日の付けのお手紙、たしかに拝見しました。覚念房さんの一件については、あれこれ
しみじみと感じるものがあります。浄土には親鸞の方が先に旅立つものと待っていましたが、覚
念房さんの方が私より先立ってしまうとは、言葉もありません。

 かくしんぼう、ふるとしごろはかならずかならずさきだちてまたせ給い候うらん。かならずか
ならずまいりあうべく候えば、申すにおよばず候う。かくねんぼうのおおせられて候うよう、す
こしも愚老にかわらずおわしまし候えば、かならずかならず一ところへまいりあうべく候う。

 昨年亡くなった覚信房さんは、先立って亡くなっても極楽浄土ではきっと私達のことを待って
くれていると思います。必ずや極楽浄土でお会いできるということは、言うまでもないことと思
います。
248渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/17(日) 16:25:50.74 ID:QX47vAQC
 覚念房のおおせられて候うよう、少しも愚老に変わらず在(おわ)しまし候えば、必ず必ず
一所へ参り合うべく候う。
 覚念房さんの日頃の言葉は、親鸞が言っていたことと少しも変わりがありませんでした。覚念
房さんとは必ず同じ極楽浄土でお会いできることでしょう。

 明年の十月の頃までも、生きて候わば、この世の面謁疑いなく候うべし。入道殿の御こころ
も、すこしもかわらせ給わず候えば、先立ち参らせても、待ち参らせ候うべし。
 来年の十月ころまで私も仮に生きていたなら、入道殿とはこの世でまたお会いできるでしょう。
入道殿のお心も、私の考えと少しも変わりありません。この世でお会いできず仮に私の方が先に
死んでも、極楽浄土で入道殿をきっとお待ちしております。



1 親鸞は死んで極楽浄土に行く。極楽浄土は死後にある。
2 極楽浄土に行けば、先に死んだ人と会うことができる
3 極楽浄土に先立った人は、後から来る人を待ち受けている

 親鸞の手紙から以上のことが読み取れる。
 親鸞の思想は、分からなくなったら法華経・涅槃経・原始仏教の主張に戻って考えるのが大原
則である。法華経には何てかいてあるのか。涅槃経には何てかいてあるのか。原始仏教は何を教
えていたのか。ここが分かると、親鸞の思想が鮮明に浮かび上がってくる。親鸞の主張は仏教の
核心を核心にしている。
249渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/20(水) 12:36:13.12 ID:DdXfShEy
 死は複眼的に考える。親鸞真筆の大般涅槃経要門の親鸞の次の考え方もしっかり認識してお
かなければならない。

 かくの如く我聞く。一時、佛、拘尸那城の力士生地、阿利羅跋提の河邊、娑羅雙樹の間にあ
り。即ち、純陀の為に偈を説きて言はく。
 釈尊先生は次のように仰った。あるとき、先生は拘尸那城の力士生地、阿利羅跋提の河辺、娑
羅双樹の間にいたとき、詩を作り、弟子の純陀に次のように教えた。

 一切、諸の世間に生る者は皆、死に歸すなり。壽命は無量なりといえども必ず盡きることあ
るべし。
 この世に生まれた者は、いずれ必ず死ぬ。今、自分も死の床についた。人の寿命は無限である
と言っても、必ず尽きる時がくる。今、自分にもそのときが着た。

 それ盛りなるものは必ず衰うることあり。會うものは別離あり。壯年なるとも久しくとどま
らず。盛りなる色は病に侵さるる。命は死の爲に呑る。法常の者の有ることなし。
 今は健康である者も、やがては衰えがくる。今出会っている人とも、必ず別れが来る。今は壮
年期にある者も、その時期は決して長く続かない。どれほど元気であっても、やがては病で倒れ
る。人の命は死に飲み込まれる。永遠の者は存在しない。

 諸王、自在を得れども勢力等しきことなし。一切皆遷動す。壽命亦かくの如し。衆苦輪に際
なし。諸の楽しみ有ること無し。本性の相に近づくことあれば一切みな空无なり。
 多くの政治家達が、並ぶ者のない権力を掌握しても、そうした権力は決して安定しない。全て
のものが変化していく。人の命も全てそのようである。人々の苦しみに終わりはない。世の中に
楽というものはない。物事は、本質に迫れば、窮極は全て空無である。

 大般涅槃経要門は、奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、方便力つまり念仏の指導力も体得
でき、出第五門を達成して聖道門の道に歩み出した人に、聖道門とはどういうものかを示してい
る。親鸞は、大般涅槃経要門の冒頭で死とは何かということを教えている。その死の考え方は、
浄土門で教えていた死の考えと全く異なる。
250渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/20(水) 12:40:46.40 ID:DdXfShEy
 我が所説の十二部経のごとし、あるいは随自意説、あるいは随他意説、あるいは随自他意説な
り(真仏土)。
 歎異抄は、念仏道場の道場主として念仏を指導する者でない限り封印すべき対象の文書である
として無視する。その上で、親鸞の教えには、教行信証を始め、大般涅槃経要門・五会法事讃略抄な
ど、多い。そこには親鸞聖人の随自意説、随他意説、随自他意説(真仏土巻)などが含まれ、一見す
ると矛盾する言葉が出てくる。
 そのように考えると、「死んで極楽浄土に行く」という考え方は対機説法において、誰を相手にして
いるのかを考える必要がある。親鸞の多くの文書は、化土にある人々に、できるだけ早く功徳大宝海
に進みなさい、賛嘆門に進みなさいと策励している。親鸞は、人々を化土に誘い、化土の人には一日
も早く功徳大宝海に向かわせようとする。一人でも多くの不定聚の人を正定聚に育てるというのが親
鸞のライフワークだった。そう考えれば、「死んで極楽浄土に行く」という手紙も、親鸞のそのライフワ
ークの一部を支えていると考える。

 聖道に立つ念仏指導者は、不定聚にどのように接するのか。大般涅槃経要門で親鸞は次のよう
に言う。

 一切聖人、道果を得と雖も、自から稱説せず。稱説せざるゆえに、心悔恨せず。これを知足と
名づく。
 哲人・賢人というものは、高い認識を得ても、必要が無い限りそれをあれこれ吹聴しない。吹
聴することがないから間違いも無い。後悔することもない。これを足(たる)を知るという。

 親鸞は、証の巻で法華経の普門示現の類となれと言う。法華経の普門示現品を見る。

 観世音菩薩即ち仏身を現じて為に法を説き、辟支仏の身を以て得度すべき者には、即ち辟支仏
の身を現じて為に法を説き、 〜 童男・童女の身を以て得度すべき者には、即ち童男・童女の
身を現じて為に法を説き 〜 。無尽意、是の観世音菩薩は是の如き功徳を成就して、種々の形
を以て諸の国土に遊んで、衆生を度脱す。

 観音菩薩は、仏の身を出現させて法を説くが、辟支仏つまり小乗仏教の仏の姿を以て相手を救
うのが適切な場合、観音菩薩は辟支仏の姿をもって出現して法を説く。子供達の姿をもって相手
を救うのが適切な場合、観音菩薩は子供達の姿をもってをもって出現して法を説く。
251渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/20(水) 12:42:44.55 ID:DdXfShEy
 小学校・中学校の教室に行ってみるといい。教師はしばしば生徒に次のように言う。「ようし。
今度の問題は難しいぞ。解けるかな。よーく考えないと解けないな。さあどうだ。」と。
 教師本人にとって、生徒に教えている問題は難しい問題ではない。自分では解答はとっくに分
かっている。「難しい、難しい」というのは、教室で問題を解く生徒の立場に立って言っている
のだ。いくら教師本人にとって簡単でも、それを「こんなのは簡単だ、へっちゃらだ」と言えば、
教育指導にならない。問題を難しいと思う生徒の姿をもって生徒の前に出現するからこそ、教師
は教育ができるのだ。

 親鸞は、不定聚に対しては、不定聚の姿を以て出現し、自分も不定聚であるという立場で相手
に法を説いている。
 念仏道場の片隅の化土で小さくなっているような人には、化土にあってなかなか功徳大宝海に
転入できない人の姿で相手に出現する。これが親鸞の指導原理である。親鸞も、自分はまだ極楽
浄土に往生できていないんだというスタンスをとる。それは、その法を聞いている相手が真の極
楽浄土に往生できていないからであると理解すべきである。

 親鸞は、功徳大宝海どころか、蓮華蔵世界を越え、とっくの昔に出第五門を果たし、還相回向
している身である。そういう自覚を持っているということは、親鸞の手紙から見えてくる。そう
いうことは、必要が無い限り公言しないが、必要なときには言っている。

 また、至誠心のなかには、「かように悪を好まん人には、慎みて遠ざかれ、近づくことなかれ」
とこそ、教え置かれて候え。善知識・同行には親しみ近づけとこそ、説き置かれて候え。悪を好
む人にも近づき、善をせぬ人にも近づきなんどすることは、浄土に参りて後、衆生利益に帰りて
こそ、さようの罪人にも親しみ近づくことは候え。それも、わが計らいにはあらず。弥陀の誓い
により、かの御助けによりてこそ、思う様の振る舞いも候らわんずれ。当時は、この身共の様に
ては、いかが候べからんと覚え候。よくよく案ぜさせたまうべく候。
 至誠心を説く中には、悪を好む人とは慎重に距離を置きなさい。近づいてはいけないと説かれ
ています。普通の人は、善知識、あるいは念仏の同行にこそ親しく近づきなさいとさえ、説かれ
ています。
252渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/20(水) 14:00:06.02 ID:DdXfShEy
 それでは、悪人はどうしたら救われるのかとお思いになるでしょう。悪事を好む人に接近し、
あるいは善をしないような人に接近するということは、極楽浄土に往生し、その後に出第五門を
果たし、園林遊戯地で応化身を示して教化地に至り、生死の園、煩悩の林の中に回入した者が行
います。そういう人が、生死の園で衆生利益に帰り、そのような罪人にも敢えて接近していかな
ければならないということです。
 応化身を示して教化地に至った人は、そのような罪人にも敢えて接近しなければなりません。
しかし、最初からそれを意図し、計画しているということではありません。還相回向の応化身は
神通に遊戯するとは言っても、阿弥陀仏の誓いを背景に、阿弥陀仏の助けを借りてこそ、そうい
うことも始めて思う存分できるのです。
 依然として出第五門を果たしてない身であれば、悪人がいても悩む必要はなく、ただ、接近し
なければいいわけです。しかし、私とあなた方とは立場が異なります。平成時代の本願寺の一生
凡夫のままの開き直り外道坊主とは立場が異なります。関東在住の頃、私は不届き者を目の当た
りにし、自分はどうすべきかと悩んだものです。自分は、観音菩薩の応化身を示す身として何か
しなければならない。それでは、今の自分に何ができるだろうか。私は凡夫ではありません。凡
夫として悩んだのではありません。出第五門を果たし、応化身を示して教化地に至った一人の観
音菩薩として、聖道門を実践する天台の僧として責任を感じて悩んだものです。観音菩薩であっ
ても阿弥陀仏の助けのないところでは非常に困難になる場面があります。
 どうか浄土門段階の皆さんは悪人には近づかないようにしてください。

 親鸞の思考のスタンスを見失うと、親鸞を典型的破戒坊主のノータリンと誤解する現代の本願
寺浄土真宗のような、とんでもないでたらめを流布し、聖人誹謗の大罪を犯すことになる。注意
したいものだ。
     (つづく)
253渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/21(木) 10:02:17.54 ID:z1xHGbhG
 今北産業
>>247-252
 親鸞は、已に出第五門を遂げ、生死の園に観音の応化身となって回入した聖道門の僧である。
親鸞は法華経の行者である。親鸞は、自分もまだ往生極楽を遂げてない身だと言う。不定聚の面
前には、観音は不定聚者の姿で出現する。親鸞は、法華経の原理に徹頭徹尾、従っている。
254渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/08/30(土) 00:34:32.27 ID:txVupT+p
署名のお願い (僕も署名しました)
 http://nadesiko-action.org/

 
255渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/09/04(木) 16:26:46.87 ID:hmK82ctJ
 死んで極楽浄土に行く。極楽浄土は死後にある。この問題を考えよう。仏教の問題で分からなく
なったら必ず釈尊の悟りに戻る。これが鉄則である。鉄則を変更してはならない。

 修多羅及び諸の戒律を除きて、その餘の説あり。四句之偈なり。いわゆる諸惡を作すことなし。
諸善を奉行すべし。自からその意を淨くする。これ諸佛のヘなりと(大般涅槃経要門 専修寺蔵 
親鸞肉筆)。

 親鸞は四句の偈を大般涅槃経から引用して弟子達に示している。しかし、四句の偈は、もともと
法句経にある。

諸惡莫作 諸善奉行 自淨其意 是諸佛教
諸ノ悪ハ作ス莫ク  諸ノ善ハ奉−行シ、 自ラ其意ヲ浄クスル 是レ諸−仏ノ教ナリ
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-bdk-sat2.php 本縁部vol4 法句経 T0210_.04.0567b01:

ありとある 悪を作(な)さず ありとある 善きことは 身をもって行い おのれのこころを
きよめんこそ 諸仏のみ教えなり。(法句経 講談社 友松圓諦 訳)

 法句経は多くの経典に引用されており、スッタニパータと共に最古の経典であると考えてよい。
法句経は警句集として紀元前2,3世紀頃に完成したが、その後も盛んに追加されたようだ。そん
な中、釈尊その人の悟りの一角を示す肉声も数多く含まれていると考えてよいと考える。四句の偈
は法句経にあり、その他の多くの経典に引用されていることから、これもおそらく釈尊その人の口
から出た肉声と考える。
 
 釈尊の悟りとは何だったのか。それは当然四句の偈と矛盾するものではない。なぜなら、四句の
偈は釈尊の悟りの一角と言うべきだからである。しかしこれだけでは死後往生の問題は分からない。
僕はアマチュアだから身の回りに仏教研究の環境がない。こういう場合には他人の研究を使おうと
思う。僕は中村元さんの「原始仏教」から様々なヒントを貰った。
256渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/09/05(金) 00:47:24.96 ID:lp7syHYK
 では釈尊はそこで何をさとったのであるか。さとりの内容はいかなるものであったか。・・・
『ウダーナ(西暦150年ごろ ダルマトラータ編纂)』に出ていて・・・(ゴーダマ・ブッダ 中
村 元 春秋社 版)。

 或るとき世尊は、ウルヴェーラー村、ネーランジャラー川の岸辺に、菩提樹のもとにおられた。
初めてさとりを開いておられたのである。そのとき世尊は、七日のあいだ、ずっと足を組んだま
まで、解脱の楽しみを享けつつ、坐しておられた。ときに世尊は、その七日が過ぎてのちにその
瞑想から出て、その夜の部分において、縁起の理法を順に従ってよく考えられた。これがあると
きにこれがある。これが生起するからこれが生起する。

 すなわち、無明によって生活作用があり、生活作用によって識別作用があり、識別作用によ
って名称と形態とがあり、名称と形態とによって六つの感受機能があり、六つの感受機能によっ
て対象との対象との接触があり、対象との接触によって、感受作用があり、感受作用によって妄
執があり、妄執によって執着があり、執着によって生存があり、生存によって出生があり、出生
によって老いと死、憂い・悲しみ・愁い・悩みが生ずる。このようにしてこの苦しみのわだかま
りが全て生起する。

 そこで世尊はこの意義を知って、そのとき次の詠嘆の詩を唱えられた。
 努力して思念しているバラモンに、もろもろの理法が現れるならば、かれの疑惑はすべて消滅
する。原因との関係をはっきりさせた縁起の理法をはっきりと知っているのであるから。

 あるとき世尊は、ウルヴェーラー村、ネーランジャラー川の岸辺に、菩提樹のもとにおられた。
初めてさとりを開いておられたのである。そのとき世尊は、七日のあいだずっと足を組んだまま
で、解脱の楽しみを享けつつ、坐しておられた。ときに世尊はその七日が過ぎてのちにその瞑想
から出て、その夜の部分において、縁起の理法を順に従ってよく考えられた。すなわち、これが
無いときにこれが無い。これが消滅するからこれが生起する。
257渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/09/05(金) 00:47:57.44 ID:lp7syHYK
 無明を止滅するならば、生活作用が止滅する。生活作用が止滅するならば、識別作用が止滅す
る。識別作用が止滅するならば、名称と形態とが止滅する。名称と形態が止滅するならば、六つ
の感受機能が止滅する。六つの感受機能が止滅するならば、対象との接触も止滅する。対象との
接触が止滅するならば、感受作用も止滅する。感受作用が止滅するならば、妄執も止滅する。妄
執が止滅するならば、執着も止滅する。執着が止滅するならば、生存も止滅する。生存が止滅す
るならば、出生も止滅する。出生が止滅するならば、老いと死、憂い・悲しみ・苦しみ・愁い・
悩みも止滅する。このようにしてこの苦しみのわだかまりがすべて止滅する。」と。

 そこで世尊はこの意義を知って、そのとき次の詠嘆の詩を唱えられた。
 努力して思念しているバラモンに、もろもろの理法が現れるならば、かれの疑惑はすべて消滅
する。もろもろの縁の消滅をはっきりと知ったのであるから。

 以上が『ウダーナ』にある釈尊の悟りの部分である。『ウダーナ』とほとんど同じ内容が仏所
行讃すなわち馬鳴が書いた釈尊の伝記に出てくる。

爾の時、世尊是の伽陀を説き、龍王に答へ已りて、即ち彼処を離れ、還りて菩提樹の下に来り、
結跏趺坐し七昼夜を経、定に入りて、十二縁生を観察したまひき。云如何が根本にして、因より
生を得るや。所謂、無明に因りて、乃ち行を縁じ、行、識を縁じ、識、名色を縁じ、名色、六入
を縁じ、六入、触を縁じ、蝕、受を縁じ、受、愛を縁じ、愛、取を縁じ、取、有を縁じ、有、生
を縁じ、生、老死・憂悲・苦悩を縁ず、是の如き因に由りて一大苦蘊の集を得。是の如き根本、
生ぜざれば、即ち一切、滅を得む。所謂、滅すれば、即ち行滅し、行滅すれば即識滅し、識滅す
れば、即名色滅し、名色、滅すれば、即ち六入滅し、六入、滅すれば即ち蝕滅し、蝕、滅すれば
即ち受滅し、受、滅すれば即ち愛滅し、愛、滅すれば即ち取滅し、取、滅すれば、即ち有、滅し、
有滅すれば、即ち生滅し、滅すれば即ち老死・憂悲・苦悩、滅せむ。是の如き因滅を解すれば、
則ち一大苦蘊の滅を得む。  仏所行讃
258渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/09/05(金) 00:48:45.02 ID:lp7syHYK
 同じような内容は法華経にもある

 広く十二因縁の法を説きたもう。無明は行に縁たり、行は識に縁たり、識は名色に縁たり、名
色は六入に縁たり、六入は触に縁たり、触は受に縁たり、受は愛に縁たり、愛は取に縁たり、取
は有に縁たり、有は生に縁たり、生は老死憂悲苦悩に縁たり。無明滅すれば則ち行滅す、行滅す
れば則ち識滅す、識滅すれば則ち名色滅す、名色滅すれば則ち六入滅す、六入滅すれば則ち触滅
す、触滅すれば則ち受滅す、受滅すれば則ち愛滅す、愛滅すれば則ち取滅す、取滅すれば則ち有
滅す、有滅すれば則ち生滅す、生滅すれば則ち老死憂悲苦悩滅す。
                                                法華経
259渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/09/05(金) 15:13:06.06 ID:lp7syHYK
 釈尊は十二因縁則を悟った。仏典のこの主張は特に否定する必要はない。十二因縁則の中身
を考えれば、釈尊の悟りは自然なことだろうと思う。
 十二因縁則は仏教の原点である。仏教の原点であれば、親鸞聖人の浄土真宗の原点でもある。
無明を因として生老死の憂悲苦悩が生じる。無明を断てば生老死が消滅する。釈尊はそう考えた。

 生(再起)老(疲弊・彷徨)死(挫折)、再起・挫折・再起・挫折はなぜ生じるのか。無明す
なわち、軽薄・無知・誤解・思い込みが原因だ。正しい智慧・認識・知識・論理・方法論がない
ことによる。無明が断たれ、すなわち、正しい智慧・認識・知識・論理・方法論があれば、再起
・挫折・再起・挫折を繰り返して憂悲苦悩するという事態から人は開放される。釈尊の悟りとは
そういうものだった。
 単語が十二箇連続するが、おそらく当初はもっと簡単だったろう。勝手な想像で言えば、無明
・執着・生老死というおそらく、三つか四つの単語が並んでいたと思う。経典の編纂まで、釈尊
の時代から数百年が経過する。中間の単語はその数百年間に追加されたものだろう。
260渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/09/05(金) 15:13:36.91 ID:lp7syHYK
 法華経など、日本人になじみのある経典では、無明・行・識・・・という単語が並ぶ。南伝の
経典では無明・生活作用・識別作用と並んでいるようだ。そうであれば、法華経の「行」は「生
活作用」という意味で理解してよいだろう。考えてみれば、我々の日常行為はほとんど全て、深
い考えもなく、行き当たりばったりだ。釈尊はこういうあり方に警鐘を鳴らしてくれている。
 十二因縁の法則は、地理が不案内の道を迷子になって行きつ戻りつしながら目的地に向かって
歩いているときを考えればよくわかる。もともと本質が見えていない(無明)全てが行き当たり
ばったりの生活環境(行)の中で、地理が不案内の道でも進まなければならないという意思をも
つ(識)。できるだけ行きつ戻りつをしないで目的地にまっすぐ行けるよう、周りをきょろきょ
ろしながら進む。回りにあるもの(名色)に向け、五感と直感力(六入)に注意力(蝕)を集中
する(受)。いったん見たものは通り過ぎても忘れまいとする(愛)。忘れまいとすれば新たな
偏見・誤解(取)を形成する(有)。よし、きっとこっちだろうと、ときに気を取り直して再起
するが(生)、本質は見えていない。だからこそ、やがて疲弊し・彷徨し(老)、挫折する。

 四句の偈は言う。諸惡莫作 諸善奉行 自淨其意。正しい智慧・認識・知識・論理・方法論、
これを学ぼうではないか。無明を破れば、再起・挫折・再起・挫折という輪廻の苦しみから逃れ
ることができる。これが釈尊の悟りだったと考える。
261渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/09/07(日) 13:37:13.30 ID:3kt91ZlT
 釈尊はベナレスの鹿の園で五人の修行者と再会する。

『「このように告げたときに、五人の修行者の群れは私にこのように言った。「尊き方ゴータマ
よ。あなたはその行い・その実践・その苦行によっても、人間の性質を超えた、完成せる聖なる
特別の知見に達しなかった。しかるに今あなたは贅沢で、つとめはげむのを捨て、奢侈に赴いて
いるのに、どうして人間の性質を超えた完成せるすぐれた特別な智見に達することができるでし
ょうか」と。このように言われたので、わたくしは五人の修行者の群れにこのように言った。「修
行者どもよ。人格完成者は贅沢なのではない。つとめはげむのを捨てたものでもない。奢侈に赴
いたのでもない。如来は尊敬さるべき人、正覚者である。耳を傾けよ。不死が得られた。われは
教えるであろう。われは法を説くであろう(パーリ語 転法輪経)」』。

 『まさに知るべし。二辺の行あり、諸の道をなす者の当に学ぶべからざるところなり。一にい
はく、欲楽・下賤の業・凡人の所行に著す。二にいはく、自ら煩ひ、自ら苦しむ。賢聖が法を求
むるに非ず。義と相応すること無し。五人の比丘よ。この二辺を捨てて中道を取ることあらば、
明を成じ、智を成じ、定を成就して自在を得。智に趣き、覚に趣き、涅槃に趣くは、すなはち八
正道なり。正見乃至正定なり。これすなはち八となす。(漢訳 聖求経)』

 『このようにわたしは聞いた。あるとき仏はベナレスの仙人の住する鹿の園の中に住しておら
れた。そのとき、世尊は諸々の修行僧に告げられた。
 四つの聖なる真理がある。その四つとは何であるか。いわく苦という聖なる真理、苦の集起と
いう聖なる真理、苦の止滅という聖なる真理、苦の止滅に導くという聖なる真理である。
 仏はこの経を説きおわって、諸の修行僧は仏の諸説を聞いて喜び奉じ行った。(雑阿含経)』
262渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/09/07(日) 13:38:24.73 ID:3kt91ZlT
 『さて尊者コーンダンニャは、すでに真理を見、真理を得、真理を知り、真理の没入し、疑い
を超え、惑いを去り、確信を得て、師の教えのうちにあって、他の人にたよることのない境地に
あったので、世尊にこのように言った。「尊い型よ。わたくしは世尊のもとで出家したく存じま
す。わたくしは完全な戒律を受けたく存じます」と。世尊は言った。「来たれ、修行僧よ。真理
はよく説かれた。正しく苦しみを終滅させるために、清らかな行いを行え」と。これがかの尊者
の受戒であった。(パーリ語 律蔵)』

 釈尊は、十二因縁の法を悟ると、人々に中道・八正道・四諦・三学を説いたようだ。僕は、中
道・八正道・四諦・三学それぞれ、本質的な違いは無いと考えている。
 経典の編纂は、紀元前1,2世紀に行われている。釈尊の死から数百年が経ている。釈尊の実
際の悟りは、現在の我々が認識する概念よりもっと混沌とした原始的なものだったろうと想像す
る。そう考えれば、現代の我々は、十二因縁・中道・八正道・四諦・三学をあたかもばらばらの
概念のように考えがちに思うのは間違いだろうと考える。原始十二因縁・原始中道・原始八正道
・原始四諦・原始三学は、本来はその表現すら、渾然一体の一つのものとして認識されるべき思
想だと考える。それが時代を超えて人々に具体的に説かれ出したとき、十二因縁・中道・八正道
・四諦・三学という様々な形を取ったものと考える。それでは、そうした中のもっとも原始的な
核心的主張は何か。それこそ、「真理はよく説かれた。正しく苦しみを終滅させるために、清ら
かな行いを行え(パーリ語 律蔵)」であり、親鸞が涅槃経から引用している四句の偈だろう。
これこそが、そのもっとも包括的な原始的な核心的主張であると考える。

 十二因縁・中道・八正道・四諦・三学は互いに異なる主張ではない。本質は一つであるという
主張は、僕の個人的な主張ではない。已に法華経の中で説かれている。

爾の時に大通智勝如来、十方の諸の梵天王及び十六王子の請を受けて、即時に三たび十二行の
法輪を転じたもう。若しは沙門・婆羅門、若しは天・魔・梵、及び余の世間の転ずること能わざ
る所なり。謂わく是れ苦・是れ苦の集・是れ苦の滅・是れ苦滅の道なり。及び広く十二因縁の法
を説きたもう。(法華経)
263渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/09/07(日) 13:39:43.30 ID:3kt91ZlT
 ここでは、十二因縁の法と四諦とは同一の法であることを明確にしてある。こうしたことは、
中道・八正道・三学にも及ぶべきであり、その本質は四句の偈で表され、四句の偈は、十二因縁、
中道、八正道、あるいは三学という形で語られる。釈尊の悟りの内容とはそのように理解される
べきものと僕は解する。
264神も仏も名無しさん:2014/09/19(金) 13:53:33.03 ID:wmdzTRMN
人はアルコール類の飲料を飲むと、自分の感情、情念、衝動、本能、
話し言葉、身体の動きをコントロールすることができなくなり、
獣のレベルにまで落ちる。

肉を食べれば、暴力的な傾向が育ち、動物が罹る病気になる。
ラジャシックな(ラジャシックフード)食物を食べている人の心は、
強情で扱いにくくなる。
そのような食事を好んで食べていると、
心を作り直すのは困難になる。

by ラマナ・マハルシの教え
265神も仏も名無しさん:2014/09/19(金) 13:59:08.06 ID:0jE0wxOW
断つべきものは五穀、五辛(タマネギ、ニラ、ニンニク、ラッキョ)
酒、肉、婦女、歌舞、はげしい喜怒哀楽。
大切なのは道教が教えるいろいろな薬品、食餌による養生である。

そうすれば若返り、命を延ばし、また水上を歩み、鬼神を使い、
天空にのぼる。命は天地日月のように長い


空海(三教指帰より)
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-writing/post-105.html
266渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/09/21(日) 15:23:42.90 ID:Rb/IwpX8
 釈迦は、十二因縁の法・四諦・中道・八正道・三学・四句の偈を悟った。しかし、問題はそれ
ほど簡単ではないようだ。

 スッタニパータの最古の部分に注目すべき記述がある。

「シャカよ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることは
できません。わたしがたよってこの流れをわたり得るよりどころをお説きください。あまねく見
る方よ。」
 尊師は答えた、「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、そこにはなにも存
在しないと思うことに依って、煩悩の流れをわたれ。
 諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」
 ウパシーヴァ尊者がいった、「一切の欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、他のも
のをすて、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退き堕することなく、そ
こに安住するでありましょうか?」
 尊師は答えた、「ウパシーヴァよ。一切の欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、他
のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりする
ことなく、そこに安住するであろう。」
267渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/09/21(日) 15:24:11.55 ID:Rb/IwpX8
 「どのように行じた者にとって、形態が消滅するのですか? 楽と苦とはいかにして消滅する
のですか? 消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいもの
です。──わたくしはこのように考えました。」
 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想い無き者でもなく、想いを消滅し
た者でもない。──
 このように理解した者の形態は消滅する。けだし、世界のひろがりの意識は想いを縁として起
こるからである。」

 最初の引用は無所有の思想だ。次の引用は非想非非想の思想であることは間違いない。
 無所有というのは、アーラーラ・カーラーマの考えである。非想非非想の思想はウッダカ・ラ
ーマプッタの考えである。
 釈尊は、成道前、二人の師匠を順に訪ねる。アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッ
タである。釈尊は、二人の師匠を尋ねたが、いずれにも救いはないと確信し、二人の下をそれぞ
れ離れ、その後、数年掛けて悟りを開いた。その間には極端な苦行を経験し、苦行を諦めた直後
に悟りに到達している。だからこそ、釈尊は、師を持たないで悟りを開いたと言われている。そ
の釈尊が、弟子達に、捨てたはずのアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタの教えを
説いている。これはどういうことか。
 釈尊の悟りを考えるときの重要な問題と考える。
268渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/09/22(月) 11:16:16.64 ID:jNSce0ew
 無所有の思想は、その後、六波羅蜜のなかの布施行として、あるいは少欲知足として仏教思想
の重要な柱になる。非想非非想の思想は、空の思想として仏教の重要な柱になる。
 釈尊の悟りと非想非非想とは相克し合う。例えば苦集滅道で、苦がある。道がある。このよう
に考えること、あるいは思うことは非想非非想に反する。空の思想に反する。非想非非想を前提
にすれば、苦集滅道を考えること自体が矛盾する。十二因縁にしても、「無明がある」「生老病
死がある」「悟りがある」と考えること自体が、非想非非想に反する。自己矛盾することだ。一
切空であれば、無明も空、苦集滅道も空になる。
 少欲知足にしても同様だろう。もともと、欲がよいとか悪いとか考えること自体が空に反する。
少欲も空なら大欲も空である。少欲でなければならないと考えること自体が非想非非想に反する。
 苦集滅道を立てるなら、少欲知足である必要もない。例えば、医者は病人(苦)の病気の原因
(集)を解明し、治療法を立て(滅)、それを実行する(道)。だからといって、医者は貧乏で
なければならないという理由はない。医師に貧しさを強いれば、優秀な人材は集まらない。優秀
な人材はなかなか集まらないなら、医学における苦集滅道は崩壊するだろう。
 釈尊が、アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタの下には救いはないと思って独自
の道を選んだのはおかしなことではない。釈尊の悟りである八正道の中に、無所有も非想非非想
も含まれてないことは当たり前のことである。

 それではなぜ、仏教はなぜ、空の思想、あるいは布施行・少欲知足の行の実践を取り入れたの
か。釈尊の悟りは、インド社会で激しい批判に曝されたからだろう。釈尊の悟りに対する激しい
批判は、おそらく釈尊の在世中からあったと思う。親鸞は大般涅槃経要門をもって批判に対する
反論を行っており、そこから、釈尊の悟りに対する批判の核心部が見えてくる。
269神も仏も名無しさん:2014/10/01(水) 02:54:48.24 ID:6Sxz0Val
【悲報】清原和博さんの現在・・・また刺青、激太り、清原亜希と別居
http://blog.livedoor.jp/tangomin/archives/9644745.html
清原和博、清原亜希と離婚!逮捕寸前の薬疑惑・刺青・浮気・腹が出てる
http://www.akb48matomemory.com/archives/1009725343.html
【野球】糖尿病は重症だった・・・清原和博、血糖値900以上、麻薬使用疑惑
http://hagedounews.ldblog.jp/archives/36972764.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
香川伸行52歳 自己破産、糖尿病人工透析、生活保護、人工透析で死去
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/153692
九州を中心に野球評論家として活動する一方、讃岐うどんの通信販売業に
乗り出すなど、引退後しばらくは生活基盤も安定していた。が、01年に
急性腎不全になり、週3回の人工透析を余儀なくされてからは、
苦労が多かった。テレビ局との契約は打ち切られ、オープンした居酒屋も
閉店。監督を務めていた社会人野球チームもなくなった。08年に自宅が
差し押さえられ、10年には自己破産した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
他人に酒を売り、飲酒させることによって)
生きとし生けるものに(「わかっちゃいるけどやめられない」と
言った類の)逆様な心を起こさせれば
これは菩薩として、死罪に等しい罪である。

仏教経典『梵網経』(『大正新修大蔵経』24,P1004下段)より

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
仏典では次のような飲酒の欠点が挙げられる。
1.財産を失う。
2.病気のもととなる。
3.あらそいごとを起こす。
4.評判が悪くなる。
5.怒ったり乱暴したりする。
6.智慧が段々失われていく。
270渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/10/01(水) 19:54:57.90 ID:44WLlSWK
 善男子よ、智者の善根は深く固く動じ難し。この故によく重業を輕となさしむ。愚癡の人は、
不善が深く、厚く、輕業をして重報をなさしむ。この義をもってのゆえに、一切の諸業は決定と名
づけず。(大般涅槃経要文)

 智慧ある人は、精神の基盤が合理的で強固である。従って重大な悪い結果を生じるはずの働き(重
業)は弱める。愚かな人は多くの欠陥をもち、その根は深い。悪い結果を生じても軽微で済むはず
の作用(輕業)を重大な悪い結果に導く。だからこそ、善因は必ずしも善果をもたらすとは限らず、
悪因は必ずしも悪果をもたらすとは限らない。

 親鸞は大般涅槃経要文で重要なことを言っていると思う。教行信証の言葉と比べよう。 因果を
撥無する見を、空とす。(行の巻)
 因果なく、三宝の性、異なりと言いて、もろもろの邪語富闌那等を信ずる、これを信邪と名づく
(化身土)。
 因果の理法を信じるのが仏教の原点ではなかったか。善因は善果を生む。悪因は悪果を生む。我
々は仏教から徹底的にそう教わってきた。善因を実践せよ。悪因から離れよ。仏教はこのように教
えてきた。しかし、大般涅槃経要文では、悪因は必ずしも悪果を招かない。善因を行っても必ずし
も善果はないこともある。親鸞はそう説く。おかしいではないか。

 釈尊は十二因縁、三学、八正道を悟った。要するに因果の理法を悟り、人々を導く教育者となっ
た。しかし、その釈尊を迎えていたのは、悪因は必ずしも悪果を招かない。善因を行っても必ずし
も善果はないという現実であり、既存の思想から容赦ない激しい批判が向けられた。それは、釈尊
が人々に自らの悟りを説くとほとんど同時に寄せられたと考える。
271渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/10/01(水) 19:56:23.24 ID:44WLlSWK
 釈尊の考えは直ちに大幅な修正を余儀なくされた。そこで、釈尊は、釈尊がかつて一度は捨てた
アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタの思想を再び取り込んだ。ここに仏教は思想と
しての基本的形体を完成させた。
 仏教というのは、釈尊の思想だけを根源とするものではない。アーラーラ・カーラーマとウッダ
カ・ラーマプッタの思想を取り込んで成立する。ただしこの三者は、釈尊が一度は捨て、批判に曝
されて再び拾ったように、互いに激しく相克し合う。アーラーラ・カーラーマの捨と、ウッダカ・
ラーマプッタの空とを正とし、この正に対して釈尊の因果論が反となり、正と反とは、緊張関係を
もって合体したのが真の仏教である。
 この関係を大無量寿経は一言で表現している。
 「諸法の性は、一切空無我なりと通達すれども、専ら浄仏土を求めて、 必ずかくのごときの刹
を成ぜん」。
 一切空無我であれば、浄仏土を求めることも空無我であり、意味のないことである。ここで浄仏
土を求めることは意味が無いと言えばアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタの思想に
なる。釈尊は浄仏土を求めることは意味があるという。これは、釈尊の因果論である。しかしこの
因果論は現実に合わない。仏教は、一切空無我なりと通達すれども、専ら浄仏土を求めるという非
常に微妙は離れ業を取ることにした。仏教思想は空中分解することなく、逆説的に緊張関係を持っ
た極めてダイナミックな思想として完成した。

 死後往生とは、まさにこの仏教の矛盾相克するダイナミズムの核心部分から生まれてきている。も
う少し説明しよう。
272渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/10/06(月) 13:33:45.38 ID:2McFxzHN
 因果則と空と捨の関係の整理は極めて重要だ。仏教の理解が難しいと言われる原因は、この三
者の整理ができてないことが原因だろうと思う。
 因果則と空と捨は、三つとも同じものだと思うと話が分からなくなる。ところが、互いに矛盾
し合うものが互いに相克し合いながら共存すると言うことはあり得ないという、おかしな先入観
にとらわれていると、見えるものも見えなくなる。
 因果則は信の対象、捨は実践、空は悟りの対象、仏教の考えの中での標準的な位置はおそらく
このような位置にあって、それが現実と直面してダイナミックに衝突し、相克し合う。
 仏教は釈迦の悟りに始まる。アーラーラ・カーラーマを原点とするのでもなく、ウッダカ・ラ
ーマプッタを原点とするのでもない。善因は善果をもたらし、悪因は悪果をもたらす。いわゆる
諸惡を作すことなし。諸善を奉行すべし。自からその意を淨くする。これ諸佛のヘなりと(大般
涅槃経要文)。

 しかし、現実は一筋縄ではいかない。善の実行はしばしば困難に衝突する。様々な困難を克服
して善が円滑に実行できていける方法はないのか。捨というのは、そのための具体的な手段だ。
捨は、欲を捨てると言うことが中心だが、外部から客観的に見えなければ全く中身が無い。

 人間の欲は、しばしば問題を複雑化する。あるいは、本質を隠蔽して見えにくくする。欲を捨
てると、しばしば問題は単純化し、本質が見えやすくなることが多い。解決の助けになることは
少なくなく、予防になることも少なくない。アーラーラ・カーラーマが捨を提唱したことは決し
て不合理なことではない。
 しかし、人間の欲が問題原因の全てであることは多くなく、第一原因であることも多くない。
原因は千差万別で個別的であり、複雑である。原因は一つ一つ解決していく必要がある。
 そこで仏教は、アーラーラ・カーラーマの考えを再掘し、善因善果・悪因悪果の前提に、でき
る限り自分の欲を捨てることを要求する。
 ただ、欲を捨てることは物事の本質ではない。捨は、善因善果・悪因悪果の思想とは別個の価
値観である。捨は実践するものである。信じるとか信じないとか、悟るとか悟らないという問題
ではない。本来は無条件で実践すべき内容である。
273渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/10/06(月) 13:34:24.18 ID:2McFxzHN
 捨を実行すれば問題は必ず解決するというものではない。捨を実践していることは、善因善果
・悪因悪果を実践していることではない。捨を実践し、なおも問題の解決に至らなくても、捨を
実践していることを、問題放置正当化の抗弁にしてはならない。捨は本質ではない。善因善果達
成の道すがらである。善因善果達成の成果では決してない。捨を実践しても、捨は自慢すべきこ
とでもなく、その人に名誉をもたらすものでもないことはそこに理由があるだろう。

 善因善果と捨とは互いに相克し合う。欲を捨てることをもって全ての解決と考えるアーラーラ
・カーラーマの思想は外道である。アーラーラ・カーラーマに追随しているだけでは仏教は始ま
らない。仏教は欲をできる限り捨てることを要求する。しかし、欲を捨てていることは善果をも
たらす善因実践の免罪符ではない。欲を捨てて次は何を実践するかが問題である。

 もし、人が欲を完全に失えばどうなるか。おそらく意欲も失うだろう。人の行動エネルギーは
しばしば欲から生じる。全く無欲となれば、人は行動エネルギーを失うのではないか。人は、完
全無欲になる必要はなく、また完全無欲になることも不可能だろう。
 親鸞は大般涅槃経要文で少欲知足を提唱している。無欲になれとは決して言ってない。ただし、
親鸞の言う少欲知足のハードルは、特に出家に対し、生半可なものではなく、相当に厳しいこと
を突きつけていることを忘れてはならない。
274渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/10/12(日) 12:31:43.17 ID:jk9TsSfE
 空が成立すれば因果則は成立しない。捨も成立しない。因果則が成立するなら、空ではない。
捨も必要ない。捨があるなら、空ではない。捨があっても、かならず因果則が成立するというも
のではない。しかし仏教は因果則と空と捨の三つをダイナミックに包含する。
三つの中で、最も重要なのは因果則である。因果則は釈尊の悟りの内容である。阿羅邏迦蘭(ア
ーラーラ・カーラーマ)の捨、鬱頭藍弗(ウッダカ・ラーマプッタ)の空が釈尊の因果則の重要
性を超えることはない。小手先でなく、人間の根源的なあらゆる問題の解決は、あくまで因果則
をもって対処するというのが仏教の基本的スタンスである。因果則以上に空や捨を強調すれば限
りなく外道に近づく。
 しかし、現実の問題において、完璧な因果則を見つけることは極めて困難であり、善因と信じ
たものが縁によってしばしば悪因となり、悪因と信じたものが善因となる。因果則は絶えず現実
を前にして挫折を強いられ、善因をもって善果を実現しようとするその信念はその強度が現実に
直面して挑戦を受ける。

 因果則は釈迦にとって悟りの中身だった。しかし、我々にとっては、因果則は信の中身であっ
て、悟りの対象ではない。
 現実には善因を実践して悪果になってもいい。悪因こそが善果をもたらす現実に直面してもい
い。しかし、我々はどんな場合も、善因悪果、悪因善果という認識を持つべきではない。体験に
照らせば善因悪果、悪因善果が真理であっても、また、善因善果・悪因悪果を否定する経験にど
れだけ遭遇しても、決して考えを変更してはならない。善因善果・悪因悪果という信念を持て。
これこそが釈尊からのメッセージであり、仏教の教えの根本的スタンスである。

 それでは、現実の問題において、善因善果・悪因悪果が成立するのはどれほどあるのか。数値
をあげることは不可能でも、極めて微々たるものであることは言うまでもないだろう。仏教の先
人達は圧倒的多数の善因悪果、悪因善果の場合については例外的に鬱頭藍弗の考えを適用してき
たのだ。
275渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/10/12(日) 12:33:30.21 ID:jk9TsSfE
 仏教は、圧倒的少数の事例こそ仏教の大原則を適用し、圧倒的多数の事例は例外的に考える発
想をしてきたのだ。このようにして、圧倒的少数の事例を注意深く決して見失わないようにし、
いの一番に尊重しつつ、圧倒的多数の困難事例に空という思考を適用して克服してきた。

 空とは何か。仏教の多くの書物を見ても空の意味は極めて分かりにくい。空の原点は鬱頭藍弗
の考えである。鬱頭藍弗の思想に直接触れれば、実は滑稽なほど極めて分かりやすい。これほど
分かりやすい思想はない。鬱頭藍弗の思想に直接触れ、仏教以前の空の原点が分かれば、その後
に論じられた仏教内での空の思想の理解は決して難しいものではない。仏教以前の空の原点を見
てみよう。

『チュンダよ。実にラーマの子・ウッダカ(鬱頭藍弗)はこのような言葉を語った、−−「見つ
つ、見ず」と。
 「見つつ、見ず」は、深遠であって、腹具合の善い時でないと答えられない。暫くして答えよ
う、と言って、四ヶ月間、人々の尊敬供養を受け、その後、ラーマの子・ウッダカは語った。

 「見つつ、見ず」とは、何を見つつ、見ないのであるか?よく磨かれた剃刀の面(平〔ひら〕)
は見るけれども、その刃は見ないのである。これが「見つつ、見ず」と言われるものである。ラ
ーマの子・ウッダカの語ったこのことは、劣って卑しく、凡夫のことであって、聖に非ず、意義
のないことで、剃刀のことのみを暗に含めて考えてそういうのである。しかし「見つつ、見ず」
ということを正しく語る人が語るならば、「見つつ、見ず」ということを正しく語るべきである。
では、何を見つつ、見ないのであるか?「かくのごとく一切の相が具わり、一切の相を円満し、
減なく増なく善く説かれ純粋円満なる清浄行が明らかにされた。」と実にかくのごとく見るので
ある。「ここでこれが除かるべきである。それはかくのごとく更に清浄となるべきであ
る。」と、かくのごとくそれを見ないのである。「ここでこれが加えられるべきである。それは
かくのごとく円満となるべきである。」と、かくのごとくにそれを見ないのである。これが「見
つつ、見ず」と言われるのである。
            (中村元選集 ゴータマ・ブッダ)
276渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/10/17(金) 01:30:13.59 ID:RpjyFeLF
 空とは何か。その本質は、NHKの天安門事件報道に見ることができる。

 「これで広場での空白の3時間、何があったのか解明できたわけですけども、この事実から何
が言えますか。」
 「え。はっきり言えることは、広場での大きな虐殺は無かったと」。
http://www.youtube.com/watch?v=Zg8ZcFSyyqE

「当時、100人の兵士が学生に殺されたという噂を聞いたため、群衆に向かって無差別発砲し
たわけです。・・・この発砲だけで1000人余りの庶民が死亡、その後遺体はヘリコプターで
運ばれました。実は殺されてと言われた兵士は全員部隊にいました。騙されたとは言え、丸腰の
庶民に発砲した兵士は自責の念に襲われました。・・・」
http://www.youtube.com/watch?v=-0t-meS_J3I
http://www.youtube.com/watch?v=c7u-JBwZOrc

 全体では3000人以上の人が殺され、1万人近い人が負傷したのですから、大きな虐殺は無
かったと言うわけですね。3000人以上の人が殺され、そのようにして一切の相が具わり、一
切の相が円満したわけです。3000人以上の人が殺され、1万人近い人が負傷し、こうして何
一つ減るものはなく、増えるものもなく、立派に語られ、純粋円満な清らかなすばらしい行為が
行われたわけです。実にそのように見るのです。
 人が殺されたのはいけなかったとか、殺した人は罪を負って裁かれて罪を償い、清らかになる
べきできあるとか、そのようには見ないのである。不正義があった。正義が加えられれるべきで
ある。このようには見ないのである。亡くなった人は、記録に留め、厚く弔って円満となるべき
であるとは見ないのである。これが見つつ見ずと言われることである。

 空の本質、空の原点、中村元はそれを「見つつ、見ず」と訳したから分かりにくい。日本語に
はもっと適訳がある。「見て見ないふりをする」ということである。
277渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/10/17(金) 01:31:47.75 ID:RpjyFeLF
 「見て見ないふりをする」というのは、見ないのではない。見ているのである。3000人以
上の人が殺された。1万人近い人が負傷した。戦車でひき殺された。棍棒で殴り殺された。死体
はガソリンをかけて焼却された。そういう事実は見ているのである。つまり剃刀の面(平(ひら))
は見るのである。しかし、それを悪いこととか、邪悪とか、不正義とかは見ないである。改めな
ければならない。もっとよくしなければならない。そのような執着した考えではものは見ないの
である。剃刀の刃は見ないのである。つまり、「一切の相を円満し、減なく増なく善く説かれ純
粋円満なる清浄行が明らかにされた」。虐殺はほとんどなかった。そのように見るのである。

 空の思想の原点の鬱頭藍弗の思想は、非想非非想ともいう。3000人が死んだ。1万人以上
が負傷した。そんなことは、考えるのでもなく、考えないのでもない。考えないのでもなく、考
えるのでもない。そうか。そうか。それはよかった。みんな円満になった。そのように考えるの
である。何かを考えるのでもなく、考えないのでもない。

 鬱頭藍弗は、常に敬虔な態度で振る舞い人々から尊崇をうけていたようだ。鬱頭藍弗は禅定を
実践していた。釈尊は禅定をこの鬱頭藍弗から教わっている。3000人もの人が殺されれば、
普通なら怒りがこみ上げてくる。それを放置することは正義に反すると考える。そう考えれば不
安になる。そこで鬱頭藍弗は禅定を実践し、「正義に反する」とか、「人を殺した者は罰せられ
るべきである」という執らわれた考えは、妄想・執着心として排除するのである。これが外道の
禅である。

 鬱頭藍弗は、経済的にも社会的にも恵まれた立場にあった。何一つ不自由はなかった。職員に
は莫大な給与を払える今のNHKのように恵まれていた。全てが恵まれた立場にあって、何も困
ることはなく、それで非想非非想つまり、考えるのでもない、考えないのでもないという、外道
の理想の境地を切り開いたと考える。
278渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/10/17(金) 01:32:51.24 ID:RpjyFeLF
 釈尊は、鬱頭藍弗の考えを切り捨て、師なく悟りを開き、善因善果、悪因悪果の因果の理法を
主張した。しかし、この釈尊の主張は、NHKのような鬱頭藍弗を支持する人々からは激しい批
判に曝されたと考える。3000人も殺したと言うことはとんでもないことだと、怒り心頭に発
してどんな意味があるというのか。善因を積めば死んだ人が生き返るのか。善因を積めば、責任
者を罰することができるのか。何一つできるわけはない。ほったらかしておいて何が悪いのか。
何も悪くないだろう。大規模な虐殺は無かった。虐殺は空であった。そのように言う外はないで
はないか。釈尊は、NHKからのこのような批判に直面したと考える。
279神も仏も名無しさん:2014/10/19(日) 12:34:51.70 ID:GSsZMaI1
>>272>>276
>空の本質、空の原点、中村元はそれを「見つつ、見ず」と訳したから分かりにくい。日本語に
>はもっと適訳がある。「見て見ないふりをする」ということである。

もう、呆れるほどのトンチンカンとデタラメwww

対象化不立の非有非無の如き「空」に本質だとか原点がありうるわけがない。
『縁起しているもの、
(1)それを、われわれは「空」と説く。    *勝義 :空観(非心非仏の如く)  
(2)それは、「相対の仮設(仮説)」でもある。 *世俗:仮観(心⇔仏)
(3)それは、即ち「中道」にあるのである。』 *還滅:中観(即心即仏)
             (龍樹 中論24-18)

>釈尊は、鬱頭藍弗の考えを切り捨て、師なく悟りを開き、善因善果、悪因悪果の因果の理法を主張した。

『ニルヴァーナとは一切の得ることが滅し、戯論が滅しためでたい境地である。
 ブッダはいかなる教えも、どこにおいても、誰のためにも、説かなかったのである。』
                   (龍樹 中論25-24)
スッタニパータやウダーナ、法句経を引用しても、観得ない者には見得ない。

>大規模な虐殺は無かった。虐殺は空であった。そのように言う外はないではないか。

これを智慧の鈍い者を害する「空見」(中論13-8,24-11参照)という。
仮観を無視している。

おわかりにはならないでしょうがw

どうぞ勝手な妄想ひとり語りをやっててください。
では。 
280渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/10/19(日) 18:11:40.44 ID:RNGZOcTz
>>279
 なるほど。なるほど。
 貴重なご意見の表明に感謝する。
281渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/11/06(木) 22:49:52.73 ID:D3G/dDia
 仏説長阿含経巻第十二(十七)第二分 清浄経第十三

 周那、若し正受せんと欲せば當に見の見すべからざるを言ふべし。云何が見の見すべからず。一
切梵行は清浄具足、宣示布現するなり。是れ見の見すべからずと名づくるなり。」
 周那よ。正しい認識を得ようとするなら、「見つつ、見ず」つまり「見てみない振りをする」と
いうことが大事である。「見てみない振りをする」とは、全ての正しい修行は、清らかに満たされ、
過不足無く、いままさにそのまま実現しているということである。これを「見てみない振りをする」
ということである。

 爾時に世尊は諸比丘に告げ給はく。「鬱頭藍子は、大衆中に在りて是の説を作す。『見見すべか
らざる有り』と。
 そのとき世尊は諸々の比丘に言う。外道のウッダカ・ラーマプッタは、大衆に向かって、「見て
みない振りをせよ」と教えた。

 云何が見の見すべからずと名づく、刀は見るべく、刃は見るべからざるが如しと、諸の比丘、彼
の子は乃ち凡夫無識の言を引き以て譬喩を爲して是の如し、周那、若し正説せんと欲せば見の見せ
ざるを言ふべし。
 「見てみない振りをする」とはどういうことか。刀は見てもいい。しかし、刀についている刃は
見てはいけない。物事には、見ていいところと見て悪いところがある。弟子達よ、ウッダカ・ラー
マプッタは、物の道理がわからない者には考えつかないような大事なことを、譬喩をもって説明し
ていたのだ。

 云何が見の見せざる。當に正しく説言すべし。一切の梵行は清淨具足、宣示流布するなり。是れ
見るべからず。周那、彼の相續法は具足せずして得べく、不相續法は具足して得べからず。
 見て見ない振りをせよとはどういうことか。仏道の修行というのは、清らかに完璧に実践されて
始めて正しく広まっていく。中途半端な実践であってはならない。このようなことは言ってはなら
ない。考えてはならない。周那よ、正しい法は、不完全でも悟ることができる。間違った法は、条
件が揃っても体得することはできない。
282渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/11/06(木) 22:50:56.89 ID:D3G/dDia
 外道の鬱頭藍子は、幸せになる方法として、余計な事には見て見ない振りをせよと説いた。釈尊
は外道の鬱頭藍子の主張に独自の光を当てて解釈をする。釈尊は弟子の周那に鬱頭藍子の言葉を引
用しながら空を説く。様々な修飾語、美辞麗句が付与された複雑な空の思想が仏教思想家によって
様々に語られてくる前のおそらく最も単純な原始的な論理がここにあると思う。

 見て見ない振りをせよ。外道が主張すれば、道理の通らない間違った主張である。NHKが天安
門事件を報道すればそれは邪悪な主張となる。しかし、見て見ない振りをせよということは、もの
ごとの本質がわかっている者が正しく主張すべきである。

 1995年3月20日、地下鉄サリン事件が発生し、多くの人が亡くなり、また重軽傷を負った。そ
れを契機に、広域大規模災害時における救急活動が政府で問題になった。通常の災害救急事象では、
まず重症・重体の患者を優先して救急活動を行う。しかし、広域大規模災害の場合には、重症患者
は後回しにし、軽傷、中等症患者を優先するのだ。重症・重体の患者は、息がある内でも敢えて治
療を行わない場合がある。通常であれば助かるはずの重症・重体患者でも、敢えて見殺しにする。
治療を行うか、それとも見殺しにするか。治療現場の医者には瞬間的な判断が要求され、人の生死
を切り分ける。

 広域大規模救急活動の医療活動は戦場のような修羅場となる。治療を受けるのも治療を行うのも
人間である。修羅場における人間の瞬間的な判断は間違いも多い。助かるべきはずの人の多くが、
災害の直接被害だけでなく、現場の医療関係者の一瞬の間違った判断によっても死んでいく。医者
・看護師はそのような死を、医療現場の当事者として目の当たりに目撃する。その後、激しいトラ
ウマに見舞われる医者・看護師も多いだろう。

 重症・重体患者は見殺しにしていいのか。見殺しにしていいのだ。
 医者・看護師は間違った判断・行動をとっていいのか。間違った判断・行動をとってもいいのだ。
 間違った判断・行動の結果、死ななくてよかったはずの患者まで死ぬ結果になってもよいのか。
死ななくてよかったはずの患者まで死ぬ結果になってもよいのだ。
 医者・看護師は死んでいった者のことを忘れていいのか。忘れていいのだ。
283渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/11/06(木) 22:54:15.22 ID:D3G/dDia
 一切の医療行為は、何一つ欠けること無く、完璧な形で実現するからである。死ななくてよかっ
たはずの患者が死んだこと、間違った判断・行動をしたこと、それらについては、原因の究明と、
その後のより良い対処方法を見つけようとするところまでは注意深く見て、つまり刀は見て、それ
を超えて人が死んだことまで心の負担に思ってはならない。つまり刃まで見るべきではないのだ。

 自分たちはもっと良い医療ができたはずであると、その苦しい思いに縛られてはならない。多く
の患者が死んだことを負担に思えば、つまり刃まで見れば、医者・看護師は自らが傷つく。自らが
傷つけば、トラウマとなって次の正しい行動がとれなくなる。

 見殺しになって死んでいった重症・重体患者は、実体のない空である。医者・看護師おこなった
間違った判断・行動も、その実体は空である。原因の究明と、今後の方針を立てること以上に振り
返る必要はない。心が奪われる必要はない。人は、身を傷つける刃まで見てはならない。

 善因を実践して善果を求めよ。釈尊は因果の法則を立て、苦集滅道の教えを説いた。しかし、そ
の教えは、空の思想によって修正され、補強されている。

 2011年7月23日、杭州市杭州駅発福州市福州南駅行きの高速鉄道D3115列車と、北京市北京南
駅発福州駅行きのD301列車が追突した。事故車両は7月27日時点で事故現場の高架下にすべて埋
められ、残りの車両は中国鉄路の車両基地に搬送された。結局捜索は打ち切られ、埋め立て作業に
入ってしまった。数百人近い人々が、事実上生き埋めになった。
 この事故では、死ななくてよかったはずの多くの人が見殺しになった。この事故も空だろうか。
生き埋めによって死んだ人を「空」というなら、それはまさに外道のウッダカ・ラーマプッタの空
だろう。生き埋めによって死んだ人は「空」ではない。埋め立て責任者は激しく断罪されるべきだ
ろう。埋め立て実行者は、その埋め立てによって死んでいった者の存在を決して忘れてはならない
だろう。

 外道の空と仏道の空とは紙一重の違いがあるが、その差は千里・万里の隔たりがある。仏道の空
は因果の理法の筋が通っている。外道の空は、因果の理法の筋が通っていない。
284渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/11/06(木) 23:05:49.21 ID:D3G/dDia
 仏道は因果の理法を教わることから始まる。因果の理法は万人の教えであるべきである。善因は
必ず善果を得る。悪因は必ず悪果をもたらす。しかし現実には、善因を実践しようとしてもできな
いこともあり、善因を行っても不幸な結果になることもある。しかし仏道は、どこまでもどこまで
も善因善果・悪因悪果を旗印にするのだ。その上で、善因善果・悪因悪果が貫徹できないところは、
空と称する。貫徹できないところは見てみない振りをし、そこに心が奪われることに用心し、なお
善因善果・悪因悪果の姿勢を堅持する。これが釈尊の教えであると考える。
285渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/11/28(金) 12:53:21.19 ID:XHaKA+1v
 「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の
稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり(証の巻)。

 親鸞は、天台僧として鎮護国家の重要性を教えられていた。鎮護国家はどのようにしたら実現
するのか。昨日までは木曽山中などに出没していた山賊が、今日は京都の警察官(検非違使)と
なる。昼間は甲冑に身を固め、刃物を持ってを都大路を練り歩き、夜は押し掛け強盗に早変わり。
自分の名も書けない新興勢力の武士達に、読み書きを教え、奢摩他・毘婆舎那を体得させ、他人
を指導できるようにしなければならない。それが天台僧の仕事である。そう考えていたようだ。
 奢摩他・毘婆舎那は止観ともいう。インドからシナには様々な止観が伝来し、日本にも伝わっ
ている。菩提流支流・達磨大師流・天台大師流・玄奘三蔵流などがあると思う。玄奘三蔵流の止
観は瑜伽を行う。この流れは多分、鑑真和上などが伝えてきていると思うが、日本でもシナでも
消えているようだ。
 菩提流支流の止観は曇鸞に伝えられ、その後は道綽・善導と伝わる。善導はこれに正定の業を発
展させ、源信に継承され、法然はその中の正定の業を選択した。
達磨大師流と天台大師流の止観は、歴史的には別系統のようだが、達磨大師と天台大師は同一
人物であるという俗説まであるようで、両者の止観は互いに非常に近い。現代の達磨禅つまり臨
済宗・曹洞宗の禅者は天台大師の文書を勉強する。現代の我々は事実上、両者は同系統であると
扱ってよいと考える。

 親鸞は、教行信証の善導の文書を引用して菩提流支流の止観を、「極楽浄土の要には到達しな
い」と言う。親鸞は極楽浄土の要つまり、蓮華蔵世界に到達する止観を行えという。極楽浄土の
要に到達する止観は何か。当然、達磨大師流・天台大師流の止観と言うことになるだろう。高田
派の親鸞伝記を読むと、親鸞は比叡山時代、天台小止観を盛んに読んでいたという。親鸞は、門
弟達に、天台小止観を読むことを勧めていた。
286渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/11/28(金) 12:54:15.86 ID:XHaKA+1v
 細かい話は飛ばす。要するに親鸞は、達磨・天台大師流の止観(奢摩他・毘婆舎那)を、念仏
を通じて人々に練習させたいと考えていたようだ。特に、達磨・天台大師流の止観は、五会念仏
という手法を使うと進歩が早い。達磨・天台大師流の止観を、政治的に強い影響力を持ってきた
武士階級に練習させたい。これが親鸞における鎮護国家の願いであると考える。

止(奢摩他)は心を固定する。親鸞は、南無阿弥陀仏を繰り返し称え(多念念仏)、自分の耳
に聞こえる声をずっと聞きながら(聞其名号)意識は鼻の左右の孔の間の隔壁、あるいはまた臍
と股との間つまり丹田に集中する。これが有声の禅である。これによってできるだけ妄想を消去
する。

観(毘婆舎那)は、心に起きてくる妄念をそのまま放置する。一度、南無阿弥陀仏を称えた後
(一念念仏、乃至一念)、静かな沈黙状態に入る。毘婆舎那は沈黙禅である。心を止めない。何
か起きてくる心があれば、意識はそれをそのまま眺めている。心がいろいろ動けば、動いていく
その心をただ眺める。そうして、妄念が出てくる自分の潜在意識の中を見つめる。

 簡単そうで難しい。難しそうで簡単だ。詳しくは天台小止観に書いてある。親鸞はこれができ
るようになると極楽浄土の出第五門と言って念仏道場を卒業させた。ある者は念仏道場を開く許
可を貰い、ある者は継続してその念仏道場の師範代となった。あるいは職場で、家庭でその成果
を実現した。

 止観ができるようになるには、時間のかからない人もいれば、時間のかかる人もいる。おそら
く止観だけなら半年又は一年程度でできるようになった人もいるだろう。しかし、練習をやって
もやってもできないで、一生を終える人もいただろう。

 練習してもとうとう完成しなかった人は練習が無駄だったのか。善因を行えば必ず善果が得ら
れる。念仏の練習をしていけば必ず奢摩他・毘婆舎那ができるようになる。しかし、現実にはそ
うでもないだろう。この現実にどう立ち向かうのか。これが死後往生の考えである。
287渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/11/28(金) 12:55:44.09 ID:XHaKA+1v
 見つつ、見ず。見て見ない振りをすればいい。もっとうまく練習すれば、奢摩他・毘婆舎那が
早くできるようになるはずだ。なったはずだ。そのように考えてはならない。奢摩他・毘婆舎那
ができるというのも、できないというのも空である。奢摩他・毘婆舎那が完全にはできなくても、
座禅して念仏を称えていれば、必ず有形無形の効果は出ているはずである。なぜなら、実践した
念仏練習は、何一つ欠けること無く、完璧な形で実現するからである。中途半端な実践であって
はならない。「中途半端な実践であってはならない」と、このように言ってはならない。考えて
はならない。周那よ、正しい法は、不完全でも悟ることができるのだ。
 人は死ねば鬼籍に入る。人には霊魂がある。霊魂だけが鬼籍に入る。そのように考えてはなら
ない。霊魂があっても無くても、鬼籍には全てが入る。その人の名誉・実績・悪業・善業等々、
全てが鬼籍に入る。善因は必ず善果を生むが、その時期は長短がある。善果が結実する前に鬼籍
に移る人もいる。結実後に移る人もいる。鬼籍に移っても善因善果は揺らぐことがない。善果が
結実する前に鬼籍に移ったなら、鬼籍の中で善果が結実する。鬼籍の中が蓮華蔵世界に転換する。
これが死後往生の考えである。

 死後往生の解説は以上を以て終了する。
288神も仏も名無しさん:2014/11/29(土) 11:29:35.20 ID:wHoPEAeY
(^-^)おかえり
289渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/11/29(土) 14:33:30.98 ID:Ob7vr9g5
>>288
 おひさ〜♪

 お元気そうで、なにより。
290渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2015/01/31(土) 15:07:55.77 ID:TQY1WJ64
 浄土真宗を学ぶ。

 『悲華経』「大施品」の二巻に言わく、  〜 ただ、五逆と、聖人を誹謗せんと、正法を廃
壊せんとを除かん (行の巻)
 互いに仰崇の礼儀を正しくし昵近の芳好をなすべしとなり。その義なくして、あまっさえ悪口
を吐く条、尽く祖師・先徳の御遺訓を背くにあらずや、知るべし。   (改邪抄)

 「親鸞は、エッチがしたくて我慢ができなかった天台宗の落ちこぼれ破戒坊主である」。この
ような事実無根の悪口を吐き、宣伝し、浄土真宗の高僧を蔑み、侮辱し、誹謗中傷することはや
めようではないか。本願寺は浄土真宗の高僧を誹謗中傷することをやめよ。
 親鸞は持戒僧だった。少なくともそれを否定する歴史資料的根拠は全くない。エッチがしたく
て我慢ができなければ、僧は自主的に還俗すればいいだけである。エッチがしたくて我慢ができ
なかったと、そういう理由で還俗しただけなら、いつでも再出家の道は開けている(四分律)。
親鸞は自分から還俗した事実は無く、天台の落ちこぼれ破戒僧というのは全くの事実無根である。

 浄土真宗の高僧を蔑み、侮辱し、誹謗する人から浄土真宗を教わってはいけない。浄土真宗は、
浄土真宗を正確に知っている人から教わろう。

 かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、
一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。(証の巻)
 念仏は、楽しい・楽しいと、そのように思っているだけではだめなんだ。真剣に実践しなけれ
ばいけない。よし、真剣にやろう。このように気づくと、念仏者は、作願門つまり宅門、第三門
を通過する(行の巻)。
 作願門を通過すると、念仏者は意思と行動が変わり、蓮華蔵世界つまり極楽浄土の要(中心部)
に往く。そこで新たな人格が誕生する。蓮華蔵世界で新たな人格が誕生し、更に屋門つまり第四
門も通過すると、やがて奢摩他・毘婆舎那と共に方便力つまり教育指導力を体得する。浄土真宗
は、奢摩他・毘婆舎那・方便力を成就している人から学んで欲しい。

 奢摩他・毘婆舎那・方便力を成就している人はどうやって見つけるか。大般涅槃経要門 親鸞
真筆は言う。
291渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2015/01/31(土) 15:08:47.17 ID:TQY1WJ64
 師子吼菩薩摩訶薩言く。世尊、一切の衆生は如來の心相を知ることを得ること能わず。いかん
が觀じて知ることを得るべきや。
 師子吼菩薩摩訶薩が釈尊に言う。普通の人は誰も如来の心の相を知ることができない。どのよ
うにしたら如来の心の相を知ることができるのでしょうか。
 普通の人は、奢摩他・毘婆舎那・方便力を成就している人の心の様子を認識することができま
せん。どのようにしたら、奢摩他・毘婆舎那・方便力を成就している人を知ることができるので
しょうか。

 善男子、一切衆生は實に如來の心相を知ること能わず。若し、觀察して知ることを得んとおも
わば、二の因縁あり。一は眼見、二は聞見なり。
 善男子よ。普通の人には如来の心の相を知ることが真に難しい。しかしそのために注意深く見
るという方法と注意深く聞くという方法の二つの方法があるのだ。
 普通の人にとって、奢摩他・毘婆舎那・方便力を成就している人を知ることは真に難しい。し
かしそのために注意深く見るという方法と注意深く聞くという方法の二つの方法があるのだ。

 もし、如來の所有の身業を見たてまつらん、まさに知るべし。これすなわち、如來とするなり。
これ眼見と名づく。
 如来ならばこそと思えるそっくりの振る舞いをしている人を見つけたなら、この人は如来であ
る可能性があると思いなさい。これを眼見という。
 親鸞聖人ならばこそと思えるそっくりの振る舞いをしている人を見つけたなら、この人は奢摩
他・毘婆舎那・方便力を成就している可能性があると思いなさい。これを眼見という。

 もし、如來所有の口業を觀ぜば、まさに知るべし。これすなわち如來とするなり。これを聞見
と名づく。
 如来ならばこそと思えるそっくりの発言をしている人を見つけたなら、この人は如来である可
能性があると思いなさい。これを聞見という。
 親鸞聖人ならばこそと思えるそっくりの発言をしている人を見つけたなら、この人は奢摩他・
毘婆舎那・方便力を成就している可能性があると思いなさい。これを聞見という。
292渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2015/01/31(土) 15:09:52.91 ID:TQY1WJ64
 もし、色貌を見ること、一切衆生のともに等しきもの無くば、まさに知るべし。これすなわち
如來とすべし。これを眼見と名づく。
 普通の人ではなかなか無い如来ならばこそと思える姿の人を見つけたなら、この人は如来であ
る可能性があると思いなさい。これを眼見という。
 普通の人ではなかなか無い親鸞聖人ならばこそと思える姿の人を見つけたなら、この人は奢摩
他・毘婆舎那・方便力を成就している可能性があると思いなさい。これを眼見という。

 もし、音聲微妙最勝なるを聞かむ。所有の音聲には同じからず。まさに知るべし。これすなわ
ち如來とする。これを聞見と名づく。
 声の響きが非常に繊細で、普通とは思えないようなことがあれば、この人は如来である可能性
があると思いなさい。これを聞見という。
 声の響きが非常に繊細で、普通とは思えない親鸞聖人ならばこそと思える人を見つけたなら、
この人は奢摩他・毘婆舎那・方便力を成就している可能性があると思いなさい。これを聞見とい
う。

 もし、如來所作の神通を見むに、衆生のためとやなせん、利養のためとやせん。若し、衆生の
爲にして、利養の爲ならずば、まさに知るべし。これすなわち如來とするなり。これを眼見と名
づく。
 如来が振る舞う神通力を持っていて、それを自分の利益のためでは無く、多くの人々のために
使っていたなら、この人は如来である可能性があると思いなさい。これを眼見という。
 親鸞聖人が振る舞う神通力を持っていて、それを自分の利益のためでは無く、多くの人々のた
めに使っていたなら、この人は奢摩他・毘婆舎那・方便力を成就している可能性があると思いな
さい。これを眼見という。

 もし、如來を觀ずるに、他心智をもって衆生を觀ずる時、利養のために説き、衆生のために説
かん。もし衆生のためにして、利養の爲にせず。まさに知るべし。これすなわち如來とするなり。
これを聞見となづく。略出
 他人の心を知るという如来だけが持っている他心智を持っていて、それを自分の利益のためで
は無く、多くの人々のために使っていたなら、この人は如来である可能性があると思いなさい。
これを聞見という。
293渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2015/01/31(土) 16:09:17.90 ID:TQY1WJ64
 他人の心を知るという親鸞聖人が振る舞う神通力を持っていて、それを自分の利益のためでは
無く、多くの人々のために使っていたなら、この人は奢摩他・毘婆舎那・方便力を成就している
可能性があると思いなさい。これを聞見という。

 覚然房の仰せられて候うよう、少しも愚老に変わらずおわしまし候えば、必ず必ず一所へ参り
合うべく候う(消息集)。
 覚然房の言っていたことは、親鸞が言うことと少しも違っていませんでした。覚然房さんは、
親鸞聖人と同じ所、つまり親鸞聖人と同じ認識界、同じ世界観に立っていたということです。親
鸞聖人と同じ奢摩他・毘婆舎那・方便力を成就していたということです。

 親鸞聖人が言っていることと少しも違ってない人は、親鸞聖人と同じ所、つまり親鸞聖人と同
じ認識界、同じ世界観に立っているということです。同様の奢摩他・毘婆舎那・方便力を成就し
ているということです。

 親鸞聖人が言っていることと、言っていることが違うとはどういうことか。親鸞聖人の認識界
とは異なる認識界にあるとはどういうことか。 

 「外見(げけん)あるべからず」
 http://www.anrakuji.net/bukken/bukken335.html  千葉 乗隆
 『歎異抄』の本文は、「外見あるべからず」と、念仏者以外の人には見 せないように、との
言葉でしめくくつている。また、蓮如は奥書の中に、「無宿善の機においては、左右なく、これ
を許すべからざるものなり」と、仏法に縁のない人には容易に見せないようにとしるしている。
 これらの言葉を厳しく理解して、本願寺の倉庫にとじこめ非公開の書とし、人には見せなか
ったとする説がある。

 しかし、
 〜   このほか『教行信証』 『愚禿鈔』 『未燈鈔』 『六要鈔』等の写本の奥書にも、
この種の文言がしるされており、これは聖教を大切に取り扱うことを求めた言葉であると理解
すべきであろう。
294渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2015/01/31(土) 16:10:52.10 ID:TQY1WJ64
 したがって『歎異抄』の「外見あるべからず」等の文言は、本書の取り扱いにはよく注意する
ようにとのことで、決して本願寺の蔵にとじこめて見せないようにせよというのではない。また、
実際に、『歎異抄』を室町時代に書写したものが十五冊、 江戸時代書写本もほぼ同じ数が現存
しているので、『歎異抄』を禁書として封じ込めたということはなかった。

 外見あるべからずとは、本書の取り扱いにはよく注意するようにということだろうか。図書館
に行くと「持ち出し禁止」と言われている本がたくさんある。国会図書館行くと、世界に一冊し
かない本がたくさんあり、それは厳重に管理されている。「外見あるべからず」とは、果たして
そういう意味だろうか。

 念仏申す程のことになりなば、元僻ごうだる心も、思い直してこそあるべきに、その徴もなか
らん人々に、悪苦しからずということ、ゆめゆめあるべからず候。    (親鸞消息集)
 浄土真宗には確かに悪人正機の教えはある。しかし、念仏を称える人になれば、それまでの歪
んだ心も反省するようになるのが当前である。ところがそのような徴候さえないような人に、悪
苦しからずというようなことは決してありえない。悪人正機ということは決してあり得ない。

 歎異抄は、先師口伝之真信である。(歎異抄前序)
口伝
1 言葉で伝えること。くちづたえ。
2 師が、学問や技芸の奥義などを弟子に口で伝えて教え授けること。また、その教え。口授(く
じゅ)。口訣(くけつ)。
3 奥義を伝えた文書や書物。秘伝書。
 本来は文字で公開するようなことではない。文書とするなら、それは秘伝であり、非公開とす
べき書である。

直に報土にうまれずして、辺地にやどをとらんこと。一室の行者のなかに、信心ことなることな
からんために、なくなくふでをそめてこれをしるす。外見あるべからず(歎異抄)。
295渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2015/01/31(土) 16:12:05.54 ID:TQY1WJ64
 せっかく念仏道場に来たが、道場の壁際で小さくなっている。つまり道場の辺土にへばりつき、
道場の中央近く、つまり功徳大宝海に入れない人がいる。一つの道場という一室のなかで、互い
に考えていること、思っていることが違い、透明な壁ができてしまう。そういうことがあれば、
道場主としては残念なことである。そこで、新道場主となる人のためにやむなく道場運営上の虎
の巻を記す。道場主の虎の巻であるから、むやみに公開してはいけない。必要なとき、必要な人
に、ケースバイケースで口頭で伝えなさい。

 学生手帳「本校では、試験にあたってカンニングは決して許さない。カンニングした者は必ず
即刻退学処分とする」。
 教師用虎の巻「本校では、試験にあたってカンニングした者でも、必ずしも退学処分とはしな
い。何が善で何が悪か分からないような生徒こそ正しく導くことが本校の目的である。この虎の
巻は、妄りに生徒に見せてはならない。必要なとき、必要部分だけ口頭で示すこと」。

千葉乗隆の主張
 教師用虎の巻は、本校の倉庫にとじこめ非公開の書とし、人には見せなかったとする説がある。

 しかし、 〜 これは聖教を大切に取り扱うこと を求めた言葉であると理解すべきであろう。
 したがって「教師用虎の巻」で、「妄りに生徒に見せてはならない。」等の文言は、本書の取
り扱いにはよく注意するようにとのことで、決して本校の蔵にとじこめて見せないようにせよと
いうのではない。また、実際に、『教師用虎の巻』を室町時代に書写したものが十五冊、 江戸
時代書写本もほぼ同じ数が現存しているので、『教師用虎の巻』を禁書として封じ込めたという
ことはなかった。

 歎異抄は悪人正機を説く。しかしこれは、念仏を称えるようになっても、それまでの歪んだ心
を反省する徴候の無い人には決して明らかにしてはならない。これが親鸞聖人の言葉である。親
鸞聖人の言葉と千葉乗隆さんの言葉とは明らかな相違がある。二人の認識界、世界観は異なる。
つまり、千葉乗隆さんは奢摩他・毘婆舎那・方便力を成就していなかった。他人に浄土真宗を教
える資格はない人だったということになる。千葉乗隆さんのような人に浄土真宗を教わってはい
けないということである。
296渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2015/01/31(土) 16:27:54.17 ID:TQY1WJ64
 渡海難は歎異抄を新たな念仏道場主になる人に伝授された『教師用虎の巻』だろうと考える。
だからこそ、外見あるべからずということであり、宿善の無い者には見せてはいけないという主
張であると考える。
 教師用虎の巻は生徒が妄りに覗き込んでいいものではないんだ。これは非公開本である。
 早稲田大学には物理学科がある。早稲田大学物理学科は、物理学を知らない人に入学を勧め、
物理学を教えようとする。だから、物理学科では、物理学が分からないことは、本質的には問題と
しない。しかし、入学すれば、当然、物理学を勉強しようと思うもので、そのような気持ちの無い学
生に対しても「物理学など分からなくていいんですよ」などとは決して言うことは無い。早稲田
大学の文学部、慶応大学の法学部、みんな同じ発想をしている。
 極楽浄土を知り、念仏道場で念仏を称え出しても、それまでの心を改めようとしない人に、悪
苦しからずということは絶対にあり得ない。

 渡海難の考えは、親鸞聖人の言葉と異なることがあるだろうか。渡海難の考えは親鸞聖人の言
葉とは異なると言えば、渡海難は親鸞聖人の認識界、世界観と一致していないことになる。もし、
異なることがないと思えば、渡海難は親鸞聖人の認識界、世界観と一致している可能性があると
いうことになる。つまり、親鸞聖人の奢摩他・毘婆舎那・方便力とおなじものを持っている可能
性があるということになる。
 千葉乗驍ウんの言葉は親鸞聖人の言葉と同じだろうか。違うだろうか。渡海難の言葉は親鸞聖
人の言葉と同じだろうか。一つくらいの言葉が一致しても、それはあくまで認識界が一致してい
る可能性であるというだけで、十分とは決して思わないで欲しい。
 自分が注目する相手の言葉が、親鸞聖人の言葉と一致しているかどうか、これはそれぞれの人
が自分の責任で比較判断する外は無い。できるだけより多くの言葉を比較し、親鸞聖人の言葉と
不一致はなさそうだと思えば、その人は親鸞聖人と一つ所いる人の可能性が極めて高いと、勇気
を持って判断すべきである。
 親鸞聖人と一つ所いる人の可能性が高いということは、親鸞聖人の奢摩他・毘婆舎那・方便力
とおなじものを持っているということ。つまり、浄土真宗を教わる相手として不足はないと判断
すべきである。
297渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2015/01/31(土) 16:29:54.67 ID:TQY1WJ64
 一切聖人、道果を得と雖も、自から稱説せず。稱説せざるゆえに、心悔恨せず。これを知足と
名づく。 (大般涅槃経要門 親鸞肉筆)

 悟りを得たと言うことはどんな哲人・賢人でも、特別な理由が無い限り自分からはそのこと
を言わない。自分からは言わないから、哲人・賢人には後悔がない。これを知足という。自分か
ら言う人は愚かな人である。
 奢摩他・毘婆舎那・方便力を得ている者は、自分にはその思い、確信があっても、自分からは
自己申告しない。他人がその心相を見て判断するべきものである。渡海難も奢摩他・毘婆舎那・
方便力を得ているとは言わない。
 奢摩他・毘婆舎那・方便力を得ている者は自己申告してくれ。自己申告があれば、その人を奢
摩他・毘婆舎那・方便力を得ている人だと考える。こういうことを思ってはいけない。期待して
はならない。
 誰に浄土真宗を教わるかは自己責任である。親鸞聖人の言葉と言っていることがずれていれば、
その人は浄土真宗を教える資格が無い。千葉乗驍ウんには浄土真宗を教える資格が無かった。奢
摩他・毘婆舎那・方便力がなかった。彼は録に念仏も称えていなかったでしょう。親鸞聖人の認
識界とは全く異なる世界にいた人です。

 親鸞聖人の言葉と言っていることがずれているかどうか、これは、学ぼうとする人が自分の目
と耳で時間をかけて判断し、自分で見つけて欲しい。

諸禅境界 或復鬱然、解悟心生 善識法相 随所聞経 即知義趣 (天台小止観)

 諸禅の境界は、あるいはまた鬱然とし、悟りの心の生ずるのを解する。よく法相を識り、随所
で経を聞く。すなわち義の趣を知るなり。
諸々の禅の世界は、あるいはまた勢いがよくなって悟りの心が生じてくるのを理解する。法の
相(すがた)を正しく認識し、随所で経典の教えを目撃し、経典の正しい意味を知るようになる。

 禅を体得すると、悟りの心が生じ、経典の様々な意味が理解できてくる。
 一念多念念仏を実践すると、奢摩他・毘婆舎那・方便力が体得され、親鸞聖人の文書の意味が
分かってくる。
 親鸞聖人の文書の意味が分かっている人かどうか、発言が親鸞聖人の言葉と矛盾しているかど
うか、それが奢摩他・毘婆舎那・方便力が体得している人かどうか判断する基準となる。
298神も仏も名無しさん:2015/02/03(火) 03:42:52.47 ID:i5yAlub9
当法人に入社した者を社員とする。http://www.senshinkai.jp/index.html
299神も仏も名無しさん:2015/02/03(火) 21:34:45.78 ID:oWXRYqHh
o(^-^)o 肉、喰う?
300渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2015/02/07(土) 01:15:37.44 ID:ata+4J5q
 親鸞が抜粋した『親鸞抜粋涅槃経』の読み下し文を訓点付き漢文と並列させて表示した文書フ
ァイルを作りました。自分の勉強用に作ったものですから、希望者がいれば無料で配布します。
 『親鸞抜粋涅槃経』は、一般には殆ど知られていない親鸞の本物の文書と思います。僕自身は
以前から存在だけは知っていましたが、現実にその内容を読んだのは今回が初めてです。最近西
本願寺の浄土真宗聖典全書の第二巻に加えられ、今になってやっと一般に手に入りやすくなりま
した。真宗聖教全書にも掲載されていません。

 浄土真宗聖典全書では訓点付きの漢文のまま載っています。もともとは親鸞聖人小部集という
名で、専修寺の蔵にひっそりと世間に隠して伝えてきたものです。親鸞聖人小部集の中には、大
正時代に親鸞真筆と認定された五会念仏略法事讃も含まれています。

 『親鸞抜粋涅槃経』は、親鸞真筆本がなく、徳川時代初期の写本が伝わっているようです。徳
川時代初期の写本の原本は、どうやら顕智上人の写本のようです。しかし、内容を見ると、親鸞
の他の文書と非常に親和性があります。親鸞見聞集の中にあり、冒頭には愚禿親鸞という記載が
あると言うことですから、過去には親鸞の真筆が存在していたと考えます。

 親鸞絶筆の遺書という感じがします。未完の書です。釈迦の最晩年を反映させている涅槃経を
読みつつ、自問自答している親鸞の様子が目に浮かんできます。文書の途中までは訓点が入って
いて、終わりの方は訓点がほとんど入っていません。しかも、入っている訓点も非常に間違いが
多い。おそらく老人が、ふらふらになりながら最後の力を振り絞って書いており、途中で息絶え
たという感じです。死を目前にして何を考えていたか。高僧の鬼気迫る真剣な心がひしひしと伝
わってくる文書です。

 漢文では一般になかなか読みにくいので、渡海難が全文を書き下しました。渡海流の訓点に直
した部分があります。間違えながらも死期迫る老人が最後の力を振り絞って必死に書いていた元
の文章は、西本願寺の浄土真宗聖典全書で確認してください。修正後の渡海流の訓点に間違いが
あればそれはご勘弁ください。渡海の日本語書き下し訳は一応意味が通っていると思っています。
301渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2015/02/07(土) 01:16:21.89 ID:ata+4J5q
 文書ソフトは『一太郎2014徹』です。ファイルは無料の『一太郎Viewer』で閲覧可能です。
文字ソフトはATOK2014です。
 訓点ソフトは無料の『漢文快くん』を使っています。
http://www.vector.co.jp/soft/win95/edu/se275196.html

 なお、親鸞親筆の『五会法事讃略抄』と『大般涅槃経要文』の書き下し文も数年前に作ってい
ます。もし希望者がいればこれもお送り可能です。

 メール  b*i**g_s*u*n*s*k*y−b*u*d*dh**ism@ya**
hoo.c**o.jp
 メールアドレスは、半角に戻し、*マークだけ外してください。スパム防止のため、工作を
加えました。
302渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
 過去、幾度もありましたが、突然ですが、またやむを得ない理由でしばらくインターネット
活動を停止します。再開予定は未定です。一か月程度か、半年か、一年、あるいは数年先か
全く分かりません。 渡海 難