マハシゴエンカパオ☆ヴィパッサナー瞑想法Part.10
1 :
神も仏も名無しさん :
2011/10/08(土) 00:04:27.44 ID:4mXYdbO9
2 :
神も仏も名無しさん :2011/10/08(土) 00:06:15.81 ID:4mXYdbO9
サマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想及びテーラワーダ(上座部)仏教についての総合スレッドです。
3 :
神も仏も名無しさん :2011/10/08(土) 00:18:31.02 ID:DXqaS3H4
フランスではセクト団体として認定されています。 薬物治療が必要な患者に薬を与えず修行を受けさせ 死亡させた事例があるためです。
4 :
神も仏も名無しさん :2011/10/09(日) 18:31:12.58 ID:ydvK1D5i
地方有志による瞑想会に参加したら アバターとホメオパシーの勧誘がしつこかった
5 :
神も仏も名無しさん :2011/10/24(月) 04:46:31.94 ID:1GxqSAU8
次スレですよ
6 :
神も仏も名無しさん :2011/10/24(月) 23:39:35.45 ID:IQd0gDTM
結跏趺坐は練習すれば座れるようになりますか? どういったストレッチすれば良いか教えてください
7 :
神も仏も名無しさん :2011/10/25(火) 20:19:52.56 ID:JPdKchQa
8 :
神も仏も名無しさん :2011/10/26(水) 00:11:21.30 ID:pwtVJH00
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕 警視庁防犯課 二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
9 :
神も仏も名無しさん :2011/10/26(水) 23:21:11.27 ID:EiIWmVPS
そういえば、神奈川のおねだるまの先生が、 パフーム、USB3.0などを挙げて、世の中の動きを解説とかしてらっしゃたよね。 結局(ry...) 最近では、googleのSNS、これこそSNSのあるべき姿で本流になるみたいなこと 言ってたはずなんだけど、その後googleのそれが本流になってる?
10 :
神も仏も名無しさん :2011/10/27(木) 00:30:34.18 ID:LMzmbABR
おねだるまってだれ?
>>9 USB3.0 そんなこともあったなぁ。
たいしてpc状況は変わってないけどねぇ
>>9 瞑想なんてただの健康法の範疇を出ないのに、何でここまで話を広げるやからが多いんだろうね
ブランス料理なんか1ヶ月で習得できるとか
13 :
神も仏も名無しさん :2011/10/28(金) 18:40:00.94 ID:AOLJj/1N
>>12 フランス料理一ヶ月で取得って、さて、それで三ツ星店のマスターになれるだろうか?
瞑想だって、ゴエンカさんのところで10日間でひと通り取得だけど、
それで至れる境地なんかたかが知れてる。もちろんそれでマスターできるわけじゃない。
瞑想をただの健康法だと思っていたら、たしかに健康法にしかならないだろう。
ただ、瞑想法をフランス料理に例えたのはなかなかの慧眼だと思う。
瞑想も心という素材を美味しく、栄養のあるものに加工する作業だし、
それが「フランス(仏)料理」として例えられているわけだからね。
そんなに話を膨らませて語ることがあるか?ということじゃないかと。
15 :
神も仏も名無しさん :2011/10/29(土) 01:13:51.24 ID:OyY168lk
ただの健康法かね?外界との関わり方や認識方法、心理的構造までが変わるものだと思ってたが。
18 :
神も仏も名無しさん :2011/10/31(月) 23:11:54.22 ID:Ps5jKI9x
また「ワードプレス」が世界標準になりつつあるとか言ってましたね。 おねだるまティーチャー...。 先の見通しに関する根拠とかたいしてないのに 適当なこと言うのが癖なのか?
19 :
神も仏も名無しさん :2011/11/01(火) 07:06:03.05 ID:3qIAcmeB
>>18 今回のでパオメソッドの修了者は日本では今「私だけ」だという話があった。
事実かもしれないが、「私だけ」ってのを出してくるのもなんだかなぁ。
コンセプトは嫌いじゃないけど内容は毎回のようにハンさんなど持ち上げて終わりだったの。
21 :
神も仏も名無しさん :2011/11/02(水) 14:57:07.55 ID:Yk/J9RQp
あれ、水源禅師さんとかいう人もパオメソッド終了したとか どっかの紹介文にかかれてあったけど、、、? ところで、ワードプレスってなんじゃい? 聞いたことね
ワードプレスはブログ運営システム 3年くらいから既に世界標準の一角だよ 何を今更って感じ
23 :
神も仏も名無しさん :2011/11/07(月) 09:18:15.33 ID:Vv4iApWs
ヴィパッサナーも慈悲もも、 クリスマスまでには彼女ができるという奇跡起きると信じて続ける。
24 :
神も仏も名無しさん :2011/11/07(月) 10:20:17.19 ID:woxNyC5V
23さんにクリスマスまでに彼女ができますように…(^∧^)
27 :
神も仏も名無しさん :2011/11/07(月) 23:54:44.62 ID:wl6Oqugy
恋人が欲しい、伴侶が欲しいという欲は仏教的にはどうなんだろうね 単なる煩悩?
毎日座ってる人で性欲の塊みたいな女がいたよ 幻滅したけどハマってしまった
そしてやり逃げされた ヴィパッサナーの人は最悪だ
変化している 変化している 変化している 心は変化するものだから他人を傷つけてもいいんだってさ アニッチャ アニッチャ アニッチャ
31 :
神も仏も名無しさん :2011/11/08(火) 14:06:51.85 ID:AEapXsFm
やれやれ。
32 :
おねだるま :2011/11/08(火) 17:58:23.42 ID:kLpNasSw
おねだるま先生のスポンサーって誰なんだ?お志だけじゃ無理だろう?
33 :
神も仏も名無しさん :2011/11/08(火) 19:09:10.83 ID:2fkcR4/5
>>32 小池龍之介みたいに本が売れてるわけでもない。
きっとバックにパトロンがいるんだろうね。
一体誰?
34 :
おねだるま :2011/11/09(水) 09:15:45.29 ID:LI1zOTbn
アイザワさん オオナルさんって 未だ来てるの?
あたらしいおチンポ アニッチャ アニッチャ あたらしいおチンポ アニッチャ アニッチャ
ダンマパーヌのキッチンでもぱっくんちょ
38 :
神も仏も名無しさん :2011/11/16(水) 23:28:31.74 ID:bAVuKO8w
40 :
神も仏も名無しさん :2011/11/18(金) 21:11:10.76 ID:pMdDipYC
ヴィパッサナー瞑想をしたいのですが、 現状では五戒を守れないので、 守れるようになってからした方がいいのでしょうか?
41 :
神も仏も名無しさん :2011/11/18(金) 21:48:13.23 ID:pt3e4EDt
>>40 いや、そんなことないよ。
瞑想やってるうちに、お酒飲みたくなくなってきたりするし
どっち先とか関係ない
>>41 ありがとうございます。
やってるうちに守れるようになればいいんですかね?
43 :
神も仏も名無しさん :2011/11/19(土) 06:06:25.81 ID:H1bh2xFJ
>>43 分かりました。
私はお酒以外が大変です。
結局、戒ってのは、エゴでもってエゴを抑えようとするものだから、 戒に執着しすぎると、それによってまたエゴ的に苦しむ事になるわな。 全て完璧にコントロールしたいというエゴ欲求に。
今、グリーンヒルWeb会、一法庵で瞑想と仏教勉強してます。 って某webにコメント。内容が痛かった。
仏教の戒を厳格に守ろうとすれば、整髪料も使えませんし映画も見れません。 現代の在家信者には無理なのです。
49 :
神も仏も名無しさん :2011/11/22(火) 21:29:10.62 ID:ZVKvEzdv
瞑想よりも5戒を守った方が効果があるんだってね
瞑想は自分の好きに出来るけど、戒はそうはいかないからね 自分と正面から向き合わないといけない
51 :
神も仏も名無しさん :2011/11/22(火) 23:28:07.52 ID:ZVKvEzdv
禁酒が一番簡単な戒だね 後は解釈次第でどうとでも逃げ道を作れてしまうから
キリスト教全否定っすかw
53 :
神も仏も名無しさん :2011/11/24(木) 05:10:23.57 ID:NRM6Z1Ls
戒は心を整える上で基礎として大事だし、 また心整った後も守ってるといろいろ助かる でもとらわれる必要はない。
自分は1戎だけまもる。 月200km走る。 これが自分の唯一の戒律。 しかし絶対に守る。無条件絶対最優先事項だ。しかし、 今月は後85kも残ってる。ヤバイ。アッという間に時間がたった。 計画的にやれば、どってこと無いのに、うっかりしているうちに追い詰められた。 思うに戒律は言い訳なしに絶対に守ることが大切で、何を戒律とする かは、二の次だと思う。 だから、トンカツをたべるのは問題ない。 さらに思うに、5戒律よりも1戒律を厳格に守ることの方が大切だ。 なぜなら、仮に1戒律でも破ると、全部パアー。無いのと同じ。そんないい加減なのは 戒律ではない。 無理して守れないなら、たった1つでもそこに集中して守る方が好い。 自分は、嘘は言わないし、酒も飲まない、みだりに殺したりもしない。 しかし、これは主義であって戒律ではない。だから、嘘も方便、たまには付き合いで ヘベレキに飲むこともある。 >でもとらわれる必要はない。 戒律はこんな態度では絶対に守れない。それは嘘をつくことに等しい。こんな戒律なら ただちにやめた方がいい。
「戒を守らない」というのが私の戒です! この戒だけは厳格に守りたいと思います!
>>54 見事なまでに、完璧にコントロールしたい欲望に囚われてるな。
それ即ちエゴからくる執着なわけだがw
重要なことは、 それらが、他者からの評価に直結してしまうという点だろう。 仮に、(日蓮系以外w、どこの宗派でもいいが)、学会の者と対話・議論となったとき、 ―実際にそういう場面があり得るのかどうか知らんが―、 「学会の教義や指導といった教えそのものは仏教とは言い難いでしょう?」と指摘した際に、 「しかし、貴方方自身も、“僧侶”と言えるのですか?“比丘”と言えるのですか?」と問いかえされて 仏教的に(教義的に、論理的に、伝統的教えの上で)弁明可能かどうか。 「実質的に“僧侶でない人”つまり、我々“在家者”と変わる所がない貴方が、仏法云々できるのですか?学者の研究とどこが違うんですか」 と言われて、どのように言葉を返すか。 また、世間一般の大多数は、「本来、僧侶は酒を飲まない・女を抱かない・肉を食べないことが“本来の姿”だ」という 定型イメージを持っている。(今、仮に挙げただけで、他にも考えられるが。) そして、普段付き合う、或いは目にする僧侶に対しては、準僧侶という暗黙の位置付けをして解決する。 (だから、世話好きな檀家は、菩提寺の息子に見合い話を持っていく。菩提寺の和尚は、そういう本来的な僧侶でなくてもいいからだ。) このイメージに沿う必要が無いというならば、このイメージ自体を変える必要がある。 もし、本来の姿をその定型イメージを存続させるなら、イメージに沿うような方向性(具体的実践(事例))が必要だし、 そのイメージから外れているケースは、あくまでもイレギュラーなものである、本来あってはならない特例である、 というコンセンサスが、僧侶の側在家側双方ともに必要だろう。 「戒」とは、内面的には「自らを調え、行を円滑ならしめ、菩提へ導く」(松明のような)ものであるが、 外面的には「仏法の正しさや優れていることを、仏道を行じること或いは準じることによる確かな成果を、 (サンプルとして)他に示す」(看板・幟のような)ものであろう。 だからこそ、その守り方が問題となってくるわけだ。
>57 自分は僧侶でも、仏教徒でもない。仏陀の教えを理解して、敬愛するのであるか ら、そのあたりの議論はよくわからない。 >「戒」とは、内面的には「自らを調え、行を円滑ならしめ、菩提へ導く」(松明のような)ものであるが、 >外面的には「仏法の正しさや優れていることを、仏道を行じること或いは準じることによる確かな成果を、 >(サンプルとして)他に示す」(看板・幟のような)ものであろう。 >だからこそ、その守り方が問題となってくるわけだ。 一般的「戎」はそうだと思う。 自分の場合は戎のエッセンスを引き出すのが目的。ボやっとした戎を厳しくとらえなおして みると、そこに修行をする上で非常に有意義な機能がある。 実は、「絶対に嘘をつかない」と決めたことがある。しかし、いざそれを実行し始めると、これはあまり にもテーマが重いということが分かった。厳密には実現不可能だ。 それよりも、もっと簡単なことでも、戎として十分機能する。 たとえば、「鞄から荷物をだしたら、必ずチャックを占める」というようなことでもいい。 簡単なことだが、状況によっては、チャックを閉める暇もないほど急ぐ時がある。あるいは 頻繁に出したり入れたりするような時はめんどくさかったりする。それでも必ず閉める。 直ぐそこに津波が来ていてもチャックを閉めてから逃げる。 やってみるとそういう状況に直ぐに直面する。場合によっては命がけにすらなる。 ここに戎のエッセンスがある。 「嘘をつかない」という戎と「鞄のチャックを閉める」という戎とどちらが戎として 優れているだろうか? 自分の考えでは後者だ。 法としては「嘘をつかない」が優れているが、戎としては後者の方が優れていると考える。
簡単な戒律をまもる。しかし本当に厳格に無条件に守る。 これを3か月も続けると、内面的には劇的な変化があった。 新たに次々と規則を決めても、それをを守るのが、抵抗なく楽にできるようになった。 「掃除をする」とか「机を綺麗にする」とか、今までなら、理屈として分かっていても、 幾ら頑張っても3日坊主で終わったようなことが、不思議に楽にできる。 なんら抵抗感なくできる。 「嘘をつかない」というような戎ではこのような心の成長は達成できなかった。 戎には、このような実用上の機能がある。それは、戎の意味よりも戎の守り方にある。
>>46 アンベードカルみたいなname。アルベ*トでしょ?
GLAから流れてくるのは、2000年代前後の上座流行の黎明期から
ちょくちょくみられてたんだがだんだん変なのが多くなってきたなぁ。
戒が自分にとって有用だと思う人にはそれでいいんじゃね? ただそれっていうのは、 基準に反するものは認めないという「裁くエネルギー」だからね。 で、それが肥大化すると新たな苦を作り出すわけだ。 まあ、シッダルタって人は裁きのエネルギーの強かった人みたいだけど、 苦から抜け出すためのメソッドであるはずの仏教の矛盾点なんだよなあ。
>>62 けど、五戒や十不善戒を見てみれば、「なぜ、避けるべきなのか?」は明瞭だと思うけど。
その辺は、実に合理的且つ論理的だと思うよ。
その他梵網経・沙門果経で言われる諸戒も、同様に、理由は明白だ。
たとえば、酒好きなら、しばらく禁酒してみて、
飲んでる時・期間と飲んでない時・期間とで、「思考」や「行動」「体調」、或いは「感情の流れ」
とかを観察してみたら?
必要ないw 元々そんなに飲まんから。 ただし、一切禁止にするつもりはない。 人生がつまらなくなるから。
そもそも、なぜそんな事を検証する必要があるのかわからん。
>>65 例として挙げただけで、
禁酒に、「至上の価値や効果がある」というわけではない。
パーリ語での不飲酒戒は
私は、怠惰の原因となる穀物酒・果実酒・酒類(語源的には“酩酊の原因となる・錯乱の元となる”)を
離れるという学処(戒め)をまもります。
という意味だから。
つまり、(酒に限らず、貪りの心や、怒り、愚痴、嫉妬、保身、慢心等々は)
修行や精神集中、或いは利他や慈悲の妨げになるからでしょ?
つか、このスレタイのスレに居て、(信)戒定慧を知らない筈ないでしょ?
すまぬ。そういうエネルギーは自分の魂には不要、 手放して行くべきものだと気づいてしまった。 まあ、人それぞれだからな。 そういうものを必要とし、修行に勤しむ人たちは頑張って欲しい。
>67 手放していくべきものか? 手放して執着なく自由になっていく。 チベット密教では執着を放すためにウンコを食べる練習をしたりすると聞いたことがある。 そういうのは抵抗なくできるのか? ただ、執着のない自由といっても、ボンクラの自由なら曖昧でもいいが、家族の 長になるとか、会社の長になるとか、すこしでも重責を担う立場になれば、自由を 曖昧には出来なくなる。たとえば死刑をどう考えるのかとか、というようなことも 非常に身近に突きつけられることもある。自由に躊躇なく殺しをやった人間に、どう 向き合うのか? 真剣に考えると、自由は「どもまでも手放す」というようなこと では、実現できない。 「ならぬものはならぬ」というのは、非自由の核になるが、非自由がないと自由は 曖昧な気持ち悪いものになる。自由をシロとたとえるなら、非自由はクロ。白黒を ハッキリさせるには黒がしっかりしないと駄目なように、「手放す」を突き詰める には「戎」もしっかりと突き詰める必要がある。
ならぬものはならぬの基準ってのは人によって違うものなんだよ。 酒にしても、キリスト教では神の子の血だったりするわけだ。 斉藤ひとりさんが言ってたが、 自分の所が正しいと主張するから宗教戦争が起きる。 自分の所は楽しいと言えば、ウチも楽しい、あんたも楽しい、 楽しい者どうしでヨカッタネ。で終わる、と。 その考え方に同調する人間なのだなぁ、俺はw
まあ、人それぞれだからね。 仏教は優れたものだし、それに同調する人は頑張って修行してください。
>>67 >そういうエネルギーは
ハァ?(゚∀゚) 何言ってんの?
どこがどうエネルギーなの?w
たとえば、「彼女ができたので毎日に遣り甲斐ができた」というような意味での、彼女の存在がエネルギーになってる、
とか
「この子たちの爲に、無謀なこと、愚かなこと、反社会的なことはできない!」と思う父親のように、ブレーキとしてのエネルギー
ということ?
少なくとも、“所謂エネルギー”という呼称はふさわしくないでしょ?
もしかしてスピ系?
>>69-70 まず、国語辞典で「戒」を調べ、次いで漢和辞典で調べ、そして仏教辞典で調べ、
パーリ梵網経・沙門果経を読め。
その後、今度は、「自戒」「節制」といった言葉を国語辞典で調べ、
手術前後や病気治療中に、禁止される事項があること等を推測・想像してみろ。
貴方が言っているもの(―今の流れで、無くても良いとしているもの・排しようとしているもの―)は
戒でも何でもない。
>>69 なぜ、車の運転に際して飲酒が禁じられると思ってんだ?
そこまで馬鹿とは思わなかったよ・・w ┐(;´ー`)┌
74 :
神も仏も名無しさん :2011/12/06(火) 10:33:02.72 ID:DA2iOrYA
五戒さえ守れない人が、ビパッサナやってもたいした意味はないと思うけど。 瞑想を始める前に、五戒を守れない自分を観ることから始めては?
瞑想の師が言ったこと以外何も考えないほうが良い 教えられた通りにやらなければ意味が無い
76 :
神も仏も名無しさん :2011/12/26(月) 13:10:58.12 ID:RxUv/4Vu
バーヌも雪だね。
S木、I上さんもお世話になったという 九州の平和パゴダ 休館か。
78 :
神も仏も名無しさん :2011/12/29(木) 18:22:54.61 ID:mS5oAHPt
ミャンマーに瞑想ビザで行った人いますか? 瞑想ビザで3カ月くらいメディテーションセンターに滞在する場合、得度式を経なければ (つまり出家しなければ)いけないのでしょうか? ご存知の方、いらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。
滞在予定のセンターに聞くといいですが ビザ自体は在家でも出家でもどちらでもいいと思いますよ。
80 :
78 :2012/01/02(月) 19:41:53.28 ID:9LdH7uog
79さん、レスどうもです。
81 :
神も仏も名無しさん :2012/02/04(土) 19:35:27.29 ID:66sz1k/E
人気下降か
ねずみ講に誘われるからじゃないかな
83 :
神も仏も名無しさん :2012/02/08(水) 20:16:02.22 ID:O0N2HKw4
ないな。
84 :
神も仏も名無しさん :2012/02/12(日) 20:28:45.67 ID:fR/YJ5kT
パオメソッドで瞑想して人体が透けて内臓が見えるようになった人っているの?
85 :
神も仏も名無しさん :2012/02/16(木) 06:15:56.39 ID:rwTMh9Bh
成瀬雅春 「悟りのプロセス」講演&ライブ
2月29日は、講演会場にて『悟りのプロセス』(成瀬雅春著・BABジャパン)も
先行発売されます。
日 時 2月29日(水)午後7時〜8時30分 (6時30分開場)
会 場 きゅりあん 1F 小ホール (東京都品川区東大井5-18-1)
講 演 者 成瀬雅春
出版記念ライヴ 桜井ひさみ サッティヤ・ジーヴ
入場料金 前売: 2,500円 (ご予約あり+事前お支払い)
予約: 3,000円 (ご予約あり+当日お支払い)
当日: 3,500円 (ご予約なし+当日お支払い)
主催/問合せ
成瀬ヨーガグループ Mail:
[email protected] ※会場の「きゅりあん」には、電話問合せをしないようお願いいたします。
http://www.naruse-yoga.com/event.html (←申し込みはここから)
86 :
神も仏も名無しさん :2012/02/20(月) 03:45:23.21 ID:e5kU/m/I
87 :
法人 :2012/02/20(月) 20:51:45.11 ID:p7caLagN
宗教なんですか?
>86 答えは最後の一行に書いてあるでしょう。
>>75 >瞑想の師が言ったこと以外何も考えないほうが良い
>教えられた通りにやらなければ意味が無い
少なくともテーラワーダのスマナサーラのところではそういう教え方はしてない。
スマさんは、瞑想においては、お釈迦様や経典の言うことにも惑わされてはならないし、
スマさん自身の言うことも邪魔になると自分で言ってる。
「自分で発見するんだ」とはっきり述べている。
スマさんは、オウム事件もよく知っていて、グルに言われた通りやるみたいなのを嫌悪している。
真言宗も相当嫌っている。
>>87 宗教では無いですが自然食品などの営業の場になっています
ゴールデンウィーク中に合宿に参加してみたい ゴエンカさんとこに興味あるけど10日も休み取れない 1〜3日くらいで良い所無いかな
やるなら1週間は最低時間取った方がいいよ。3日ならやめた方が好いと思う。 一度失敗すると、次はハードルが高くなる。短期間でやろうとすると失敗する確率 が高い。 自分は1週間の接心を受けたけど、3日から4日目が山だったと思う。できれば ゴールデンウィークも外した方が好いと思う。やはり人が集中するからね。 とはいえ自分もゴールデンウイークだったけど。
バーヌはここ数日、近場の事件の取材で ヘリとかでうるさかったんかなぁ...
95 :
神も仏も名無しさん :2012/04/27(金) 15:03:57.22 ID:ygIfFScu
と
96 :
神も仏も名無しさん :2012/04/27(金) 18:33:41.27 ID:0/sg2mva
瞑想と坐禅の違いを教えてください
97 :
神も仏も名無しさん :2012/04/29(日) 22:47:29.87 ID:W2Atx9Fk
同じ。
バーヌへの送り迎えの先のバスターミナル バスが向かう駅の周辺は、ここ最近 取材の人でいっぱいだろな。
亀岡だから?
スネークやら動いてるのは園部だろ。
お酒はダメだけど大麻だったらいいんでしょ? なぜ酒はダメで大麻はOKなの?
スマさんはサマタに自由自在に入れるのでしょうかね
グリンヒルweb会公認インストラクターってどんな人だ?
>>103 サマタ自体 入るのはそんなに難しくないですよ
問題はまともに社会生活続けられるかどうか
>105 どれくらいで入れるようになりますか?
4日
たいまとちんぽがだいすき こずえです いいえこだまです
110 :
神も仏も名無しさん :2012/06/26(火) 17:09:18.63 ID:QPIlMEqX
バーヌで修行には、一番荷物少なくていい時期だな。
111 :
神も仏も名無しさん :2012/06/26(火) 19:10:49.28 ID:QPIlMEqX
これからは全仏法なのか。 zenbutsuho.jp/zenbutsuho/top.php
夏休みが確定したけど微妙にゴエンカさんの合宿とずれてるわ 今年も行かずじまいで終了
114 :
神も仏も名無しさん :2012/07/02(月) 21:37:56.51 ID:8ikQNryI
人類は衰退しました
10日間の瞑想するやつ行ったけど 期間中喋らないの終わったあと、音があふれて頭が痛くなった。 おもしろいな瞑想
116 :
神も仏も名無しさん :2012/07/07(土) 11:31:45.80 ID:xzgRC06T
ヒッグス粒子
117 :
神も仏も名無しさん :2012/07/09(月) 08:01:17.76 ID:RahCwi73
あさってから、ゴエンカ氏の10日間コースin千葉に行きます。 瞑想合宿は初めてです。 千葉の瞑想道場は、気温はどんなもんでしょうか?暑い、寒い? 持っていったほうがいい物とか、注意点とか・・・ご教授していただけると うれしいです。
118 :
神も仏も名無しさん :2012/07/10(火) 09:49:16.38 ID:+k2jduUz
暑くても寒くても、準備もなんもしないで、体一つ、能天気に出かけるのが 一番いいと思う。 お金は十分持っていくこと。寄付金とか喜捨とか、いろいろいります。 貧乏なら今からでも遅くないので止めた方が好い。貧乏人が瞑想しても何にも ならない。貧乏は極上の瞑想だから、わざわざ瞑想する必要はない。
119 :
神も仏も名無しさん :2012/07/11(水) 19:49:43.16 ID:3d0m6iPS
>>117 裏山です
終了したら是非体験談をここに書いてください
初心者なんで質問なんですけど、
>>1 にある5つの会ってどういう関係にあるんでしょうか?
全部同じ瞑想法を教えてるみたいなんですけど……?
>>118 >準備もなんもしないで、体一つ、能天気に出かけるのが 一番いいと思う。
これは、絶対に無理です。こんなこという人は、行ったことない人だと思います。
指定されたものだけ用意しても登山用50リットルぐらいのリュックサックいっぱいになりますから。
掛け布団・敷布団のシーツ、枕カバー、懐中電灯、長靴、傘、
10日分の着替え、目覚まし時計、タオル・・・・
今日のダンマ
今日も明日もセルフ洗脳
124 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 22:51:00.57 ID:DVHBPtUJ
今日のダンマ 毎日配信してたら 本配信になるまでにネタが尽きないか?
www.youtube.com/watch?v=T_0upOVKsI8&feature=relmfu 最後の5分だけはなかなかの説明のしかた。 むちゃくちゃな歴史認識も多いが。
www.youtube.com/watch?v=Z9LAcuSScCw&feature=relmfu つづきみてたらスマさんとの対談本原稿チェック中だとw
127 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 09:26:14.76 ID:cZt3INbk
>>126 自我がないのに、悩むとか、、、
バカじゃないの?
「わかる?」「わかる?」「わかる?」何なのこの人w
苫米地の本読んでみたらすべてがわかるよ 中途半端にサマタ瞑想(この他人の場合は気功瞑想だけど)をやるとこうなるよっていう典型みたいな本ばかりだしてる ここは瞑想実践してる人多いからわかるだろうけど、サマタやって集中力が付くと変に自信が付いて万能感や自分が神にでもなったかのような気になるから こういう人を「教祖止まり」なんていってる奴もいるな
いろいろ才能あるんだから、ちょっとはわかってるんだろうし ちゃんと修行すればいいのに。
132 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 23:02:29.12 ID:vNUzB6Wg
一つ質問があります。最近パオ系の瞑想の階梯にならい、 アーナパーナ瞑想をはじめたのですが、 最初の禅定の段階とも言えるニミッタ(禅相)というものがなかなか現れません もやもやとした白い煙のようなものが視界の一部に見えることはあるのですが、 はたしてそれがニミッタといえるものなのかもわからないのです そこで質問なのですが、ニミッタというものは具体的にどのような色形で現れるのでしょうか?
ニミッタについて書かれているサイトがあれば紹介していただけるとありがたいです 連投すいませんでした
134 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 23:20:57.98 ID:jNc4K6DI
何で在家でパオ式をやろうと思ったのか ニミッタに関して言えば、「うわ、なんだこりゃ!」って感覚になるから一発でわかるよ そんなモヤモヤしたものじゃない ビッグバンと表現する人もいるくらい激しいもの
135 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 23:30:21.37 ID:jNc4K6DI
137 :
安堂 :2012/09/14(金) 00:03:54.39 ID:VZZJzhpL
「アナパナ似相」もお忘れ無く・・・。
夏には、台所など虫がわきやすいですが、皆様は、どう対処されてますか? ゴキブリの発生にも悩みます。 慈悲の心で、相対できますか? 夏だけ、台所のゴミ箱を外におくことにしました。 外のゴミ箱なら、虫がわいても気にならない。 そしたら、ゴミ箱なか、蛆虫だらけに。 気持ち悪く、とでも慈悲の心にはなりませんでした。
139 :
神も仏も名無しさん :2012/09/18(火) 04:53:11.59 ID:XBbfGQNB
普通に殺せばいいよ 無理に慈悲の心を引き出そうとするのが間違い 仏教の指導者って寝たきりの人にフルマラソンやれというような、いきなりハードな要求するのが多いんだよな 物事には段階ってものがあるのに、それをすっ飛ばして無茶な要求をして、それができないと「まだまだ修行が足りないね(ニヤニヤ」って感じで 禅定ができてない段階でヴィパッサナーやらせたりとか
ゴミ箱の中に木酢液をスプレーすれば良い。 他にも、屋内で虫がわかないようにする方法はたくさんある。 自分は、子供の頃から蚊にさされても叩いてつぶすことはないな。 慈悲かどうか知らないけど、そのくらいいいじゃん。 在家の生活もあるから、完全に殺生を断つ生き方は出来ないけどね。
インドでは、菜食専門のマックがオープンしたとか。 もともと輪廻転生を信じられていて、殺生を嫌う文化があるインドで生まれた仏教。 虫がわいたりしても、気にならないのかも。 たぶん世界一綺麗好きな日本人。 まだまだ不衛生なインドの文化を綺麗好きの日本人が受け入れることに無理があるんじゃないかと、 仏教の慈悲の心と不殺生の教えには、悩む次第です。 タイやミャンマーの寺院は衛生的ですか? ゴキブリやねずみやハエは、どうなのでしょうか?
不殺生を徹底できない国、情況に生まれたのも1つのカルマなんでしょう。 自分のできることだけやればいいんじゃない? 雨の後とか、道路でのた打ち回ってるミミズを拾い上げて土のある所に のせたりしてる。 別に仏教思想とかではなく、苦しそうだからなんとなくそうしてるだけ。 主義じゃないので、急いでたら心痛みながらもやらないときもある。 いっぽうでいつか図らずも大量殺虫してしまう情況だってくるときは来るだろう。 それに対する悲しみと、出離の心は関係あると思う。
なぜ殺生をしないかということがなかなか理解できないです 戒律全般によくわからないものが多いので団体に参加することにためらいがあります 説明されるとなんとなく分かった気になりますが結局なんのための戒律かわからないので どこまで厳格にまもるべきかがいまいち器用に見極められないのです 厳格にやりだしたらきりがないですからね
144 :
神も仏も名無しさん :2012/09/19(水) 22:34:31.46 ID:MuM4SMIc
そもそも仏教のはいわゆる戒律じゃないし 「やったほうが瞑想はかどるよ、嫌なら別にやらなくてもいいよ」くらいののり 朝鮮と日本の仏教は苦行になってるから、がちがちの戒律にぶっ倒れる寸前までやる厳しい瞑想のところが多いけど
145 :
神も仏も名無しさん :2012/09/19(水) 23:07:31.65 ID:7sNtdu+j
>>138 ゴキブリはホウキとチリトリで捕獲して窓から外へポイ。
蚊は、パチンとたたいて殺したりはせず手で追い払うことが多いけど、
小さな子供がいるので、蚊取り線香等を使うこともあります。
お寺の建物の白蟻駆除をやったことがあります。
罪悪感はありますが、お寺は檀家の財産なので、損害を避けるためにはやむをえません。
>仏教のはいわゆる戒律じゃないし 戒も律も仏教用語なんだが・・・
戒律をまもると瞑想がはかどるという考え方はよく聞きますがよくわからないんですよね 多分そういうことがあるんだろうなと思うので戒を自分で定めてやっております でも効果といいますかどういう仕組みなのかいまいち見えてこないので どういう感じに戒律をまもるべきかいまいち線引きがわからないんです
150 :
神も仏も名無しさん :2012/09/20(木) 00:29:25.63 ID:2To0gSZF
>>148 元々はそうだけど、一般的な意味では「守らないと天罰が〜」とかってことだろ?
「イスラム教の戒律」とかいうじゃん
151 :
神も仏も名無しさん :2012/09/20(木) 07:51:30.57 ID:0kTB7OX8
>>149 少なくとも、飲酒については冥想の邪魔になりますよね。
あと、戒を守ること自体が冥想の一種のような気もします。
殺生しないように意識することで、自分の殺生してまで何かを実現させたい欲や怒りに気づくし。
152 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/20(木) 18:53:10.69 ID:S06+x14d
生き物を殺すということは、自分自身を殺しているんだ。もちろんその業は自分自身が背負うことになる。 相手が有情の生き物ほど、負う業は深い。だから殺してはいけない。 慈悲の瞑想は無意味にあるわけじゃない。あの心を今生で完成させるのが涅槃に通じる道。瞑想だけやってても、八正道を 努め励み今生を全うしなければ涅槃はない。なぜそうなるかは、真理を掴めばわかる。 もっとも今の仏教徒は無我思想を誤謬し、その誤った見解に執着してるので理解しないだろうけどね。
153 :
神も仏も名無しさん :2012/09/20(木) 19:07:50.07 ID:2To0gSZF
>相手が有情の生き物ほど といってる時点で仏教がわかってないだろ 大体、生き物を殺すなとはいってない ジャイナ教と勘違いしてないか?
154 :
カラスの唄 :2012/09/20(木) 20:06:20.78 ID:S06+x14d
>>153 どこがどう間違ってるのか君らお得意のただ違う。わかってないというだけで誤魔化すんじゃなく、
わかってないというなら理由を具体的にいってみな。君にその力量があればな。
155 :
カラスの唄 :2012/09/20(木) 20:57:45.30 ID:S06+x14d
今の仏教はゴータマの仏教とは違う。特に日本の大乗系の仏教は全然違う。 なかでも中論被れの連中は絶望的だ。彼らの仏教はただの言葉遊び。実の無い詭弁を極めているだけである。 彼らにかかるとゴータマの仏教の根幹とも言える業報も否定されてしまう。 おっと、彼らいわく、否定も肯定も無い。だっけか(苦笑) 竜樹の空理空論中論教を持ち出して、おまえは仏教がわかってないといわれても困るわけよ。 概ね今の仏教界の指導者は無我思想を誤謬している。間違った師についたって迷いが深まるだけだである。
156 :
カラスの唄 :2012/09/20(木) 21:03:53.61 ID:S06+x14d
ところでゴエンカさんところのヴィパサナーって、要はカルマ落としだよね。 それをわかってやってる人ってどれくらいいるんだろ? おっと、別にゴエンカさんのヴィパサナーを否定してるわけじゃないのであしからず。
157 :
神も仏も名無しさん :2012/09/20(木) 22:07:33.54 ID:5bAH3BuO
>>151 さんあっ確かに
もう少しそのあたりの仕組みを観察してみます
なんとなく心に波風たてず健康になるから戒律がよいというふうにとらえていました
ヒントありがとうございます
158 :
151 :2012/09/20(木) 22:22:34.14 ID:0kTB7OX8
>>157 破戒を迫られる場面で、観察者として待ち構えていられたら
いいんですが、完全スルーしちゃいます。
生ゴミにわく虫に悩み、試行錯誤した結果、いい方法を見つけました。 生ゴミを入れる袋を冷蔵庫に入れとけば、絶対、虫はわかない! 実際、実行してますが、うまくいってます。
160 :
神も仏も名無しさん :2012/09/22(土) 17:48:42.09 ID:AY1DEVMl
>>154 証明責任は言いだしっぺのお前にあるんだが
自分から話を振っておいて否定されると「証明しろ」とはあほすぎる
>>160 証明責任も糞もお前は仏教を分かっていないというなら、
どこをどう分かっていないのか具体的に言ってもらわないと、説明も
証明も、実はお前の方がわかっていないということも議論できないわけだが。
お前、頭大丈夫?ま、日本の大乗系似非仏教徒は、詭弁とごまかしの
テクニックだけは極限まで研ぎ澄まされてるからな。
お前は違う。わかっていないと言いつつ、じゃぁ自分はどう思うんだという話は
一切しないなんてのは日本の似非仏教の坊主の常套手段だからな。
え?仏教に思うも何も無いだって?(爆笑)
二元世界の束縛で生きる我々にとこの世界にいきなり勝義の話無理やり
当てはめても実のないただの言葉遊びにしかならない。君らは話にならんのだよ。
詭弁ばっかり達者な詐欺師共がよ。
スッタニパータ >究極の理想に、通じたものが、この平安の境地に、達した後に、 >為すべきことは、次の通りである。 〜中略 >さながら、己が独り児を、母が、命を賭けて守るよう、 >一切の生きとし生けるものに、無量の慈しみの心を起こすべし。 早い話、敵も味方も、愛する者も嫌いな者も、自分を好いてる人も嫌ってる人も 身内も赤の他人も、引いては全ての生類は自分自身だと思い、愛しなさいということだ。 たしかダンマパタにも同じような意味の文言があったはず。 これはなぜ伝統的に仏教には不殺生戒があるのかにもつながる話。 これを否定すると、ゴータマの仏教とは違うものになる。おっと、中論カブレの似非仏教の 患者・・・・もとい、信者さんは否定してたっけ。おっと、間違えた。彼らいわく、 我々は否定も肯定もしない。中道だ!!!ってか(爆笑) そういうのをゴータマが外道と称した、詭弁論って言うんだよ。 なぜ不殺生戒が必要なんですか?と聞いてる人がいたので親切心で書き込んでやったが、 聞く耳ない人にいくら教えてあげても仕方ないやね。不殺生戒とは瞑想修行を 進める為に必要だとかチンプンカンプンなこという指導者もあれだが・・・ま、いいや。 不ニ一元の「一」とは、名称で表してもいい。つまり言語上のものである。 もちろん言語上のそれは、「多」という相が現れる。一方自性とは識別し得ないもの。 竜樹は致命的な間違いを犯している。
163 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 15:20:53.36 ID:kalnC5a7
このコテ、マインドフルネススレで煽ってる奴と同じだろ? 仏教知識が中途半端で質問に質問で返すのがそっくり
164 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 22:31:46.61 ID:EWdkNApp
仏教知識に詳しいのと、仏教的に生きているかはまったく関係ない。 知識をもてあそびたいなら、それが仏教だろうと化学だろうとアイドルだろうと、質は同じ。 逆に執着の強さを露呈してるだけだ。君らの。 って言うのがスレタイだと思うね。
慈悲の瞑想をすすめるために 殺生をしない。 つまり、慈悲の瞑想という瞑想をすすめるために 殺生をしない。 不殺生戒とは慈悲の瞑想という瞑想修行 をすすめるために必要! コレ大正解!
167 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/25(火) 21:10:32.02 ID:K1xwCjD3
>>165 だから究極の平安の境地に達した者は、
なぜ生きとし生けるものに無量の慈しみの心を持たなければいけないのか?
なぜ慈悲の瞑想は必用なのか?という話をしてやってるんだよ。
ま、ゴイ達にいくら言っても心に響くものはないんだろうけど。
168 :
神も仏も名無しさん :2012/09/25(火) 21:43:07.92 ID:vjtbb9SD
>>167 怒りがなくなれば慈悲が顕れるからでしょう。
心に余裕がないと他人に優しくできないし。
正論やな
なぜ殺生を禁止してるのか? という話をしてるんだよ。 まぁ、おまえに言っても、馬の耳に鼻くそだけどな。
171 :
神も仏も名無しさん :2012/09/26(水) 08:10:31.06 ID:lDqLAI7w
>>167 >>168 なるへそ、究極の平安の境地に達した者は、無量の慈しみの心を持たなければいけないのではなくて、
究極の平安の境地に達した者は、怒りがなく、慈悲が顕れるのですね。
今日もオマタ、まぁた、まぁた勉強になっちゃったぁもぉんねぇ〜!
173 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 00:46:53.70 ID:U2co+FPB
殺生するなってゆうのは殺されたいと思う生命がほとんどいないからって理由じゃなかったっけ 動物や野菜はとっちゃだめだけど果物はいいとか
174 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 00:58:22.53 ID:U2co+FPB
そもそも殺生するのも欲を捨てるのが仏教なんじゃないの
176 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 02:30:38.35 ID:U2co+FPB
最初のころはそうとなレベルの修行者ばかりが帰依したから戒律が必要なかった
177 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 13:16:07.84 ID:T6NzJJve
>>173 仏教は自分と他者の悩み苦しみをなくす教え。
「死にたくない」と思ってる相手を殺すとしたら、相手の苦悩が増すから、仏教の方向に反する。
オモチャに執着している子供からオモチャを無理矢理とりあげるのも、子供に苦悩を与える。
子供がオモチャへの執着を克服して自らオモチャを手放すようにするのがベスト。
オモチャを生命に置き換えても同じ。
178 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 13:18:54.61 ID:T6NzJJve
寿命で死んだ生物の遺体を食料にできる技術が開発されたらいいのにな。
本当にそういう問題なのかな 犬ならともかく虫に死にたくないという意志があるとは私は考えにくい 修行が進めば一寸の虫にも五分の魂が感じられるのだろうか
自分が人ではなく、彼(蚊)だったかもしれない、と言うこともありうる。
181 :
神も仏も名無しさん :2012/09/29(土) 02:07:20.02 ID:4eU8kID1
>>179 蚊やありでも殺そうとしたら逃げる人間ほど複雑な感情はないけど
死をさけるはたらきはある植物にもある。
183 :
神も仏も名無しさん :2012/09/29(土) 17:54:03.97 ID:iA7yzWu/
細胞を培養というのは、細胞はまだ生きているということでは。
185 :
神も仏も名無しさん :2012/09/30(日) 14:56:53.66 ID:+EApNl6J
瞑想をやるなら、「フォーカシング」を学ぶのが非常にお勧めです。
自己回復のエッセンスが凝縮されたような技法です。
自己の内部、潜在意識下に溜まっている心の傷や痛み苦しみを、
自分で取り除いていくことができます。
自己回復してくためには、「フェルトセンス」というものに意識をフォーカスする事が、
非常に大切な事のようです。それがフォーカシングの一番の核心部分です。
フェルトセンスに意識をあてることで、無意識下に抑圧されているものが顕在化してきます。
それを感じ続けるほどそれが解放されていき、自己回復が進んでいきます。
これは私自身、精神疾患の激しい心の痛み苦しみを自分自身で取り除き、
回復してきた実体験があるので本当です。それなりに時間はかかりましたが。
潜在意識下に抑圧されている痛みを顕在化させて少しずつ解放していった感じです。
ただし、激しいものを抑圧している人ほど、解放過程は過酷なものになります。
また自己回復だけでなく、様々な「気付き」も得られるようです。 自己理解も進みます。
自己回復と気付きが得られるので、非常にお勧めです。
フォーカシングとスピリチュアリティ:仏教
http://www.focusing.org/jp/buddhism_rlevin.htm
密教の瞑想の五相成身観は清浄道論にも似たようなものがあると聞いたんだがガチなの?
フォーカシングは原始仏教と親和性が高そうだよね。柔軟に応用できる技法だからフォーカシングと原始仏教を 組み合わせた技法が今後臨床などで実用化されてくるかもしれないね。既にありそうだけど。
原始仏教のプロセスには、フォーカシングも 内包されてるんだよ。 究極をめざしてるんだからあたりまえじゃないか。 やってくと、心の雑音が少なくなっていくのがわかってくる。 これが進んでいくと、平安とか安心立命とかになっていく。 さらに進んで、クリアで波ひとつない水面のような 心の状態に・・・・。 ここまでくると、他の人の心までが自分のなかの鏡に 写るようになるんだよ。
マインドフルネス認知療法ってのは、先鋭化したあまりすごく可能性を狭めてる気がするな・・・ フォーカシングにしろマインドフルネスにしろ本来は「療法」に捕らわれず全人的な完成をめざす方向でしょ。
190 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 02:22:05.24 ID:B0Y1pEMq
生きとし生けるものが幸せでありますように
>>190 サドゥ。サドゥ。サドゥ。よくぞおっしゃいました。
風邪引いたら普通、寺じゃなくて病院行くわな。 仏道もとめるんなら普通、病院じゃなくて寺いくわな。 だから病気直したけりゃ病院行け
数年前までは滅茶苦茶にぎわってたスレだったな。 スマナサーラがまるで生き仏のようで、その反動でいっしょに他宗教けなす人が多かった。 すでに悟り開いたみたいな態度だったが、連中は今一体何してるんだろう。
自殺する人おおいよな 出家でもしなけりゃ現実との齟齬に苦しむのだろうな
ちょっと疑問なんだけど、 もう絶対、この世なんてイヤだ!って絶望して自殺しちゃえば阿羅漢になれないのかな? 執着がなくなれば転生しない気がするけど。
この世なんてイヤだっていう執着から離れないといかんじゃろな 生きとし生けるものが幸せでありますように
197 :
神も仏も名無しさん :2012/10/26(金) 23:08:34.59 ID:U2iTZW9g
>>195 まったく違う恵まれた環境なら生きてあげてもいいかな、
なんていうことを少しでも思ってしまうようなら、まだ執着がありますからねぇ。
たとえば、6億円当たって明日の午前中には口座に入金されるという状況でも今すぐ死にたい、
というくらいに「本気で絶望」できてるかどうか。
自殺多いのは元からメンタル抱えて瞑想やりだすからにしても現実との齟齬って一体なんだい具体的に
>>198 世襲全盛、伽藍仏教、家族寺院である日本仏教を見ながらその台詞ですかw
鈍過ぎると言わざるを得ませんね・・。
用語が多くてわからん 第一出家しないと齟齬をきたす話なのに坊主としてのしがらみの話をされても
>>200 マジで言ってんの? (´・ω・`)
日本仏教=在家仏教なんだぜ?
出家するってことは、現行日本仏教の在り方への叛旗ってことなんだぜ?
その辺判って言ってる?
つか、『出家』ということの本質を判ってないんだろうな・・。
せめて、「在家仏教の提唱」(山内舜雄/大蔵出版)くらい読んどけよw
202 :
神も仏も名無しさん :2012/11/06(火) 23:55:10.55 ID:F7MeuibM
日本にお坊さんいないもんな
203 :
神も仏も名無しさん :2012/11/08(木) 09:48:04.16 ID:2EFZaPfx
アルボムッレ・スマナサーラという人の本はどうですか? たくさん書いているけど、読むとすればどれを読むべきですか? ちなみに私は、ラリー・ローゼンバーグの本などは読んでいるので、 ヴィパッサナー瞑想についても(やってないけど)少しは知っています。
204 :
神も仏も名無しさん :2012/11/08(木) 18:06:10.55 ID:cQywfAdE
アビダンマ講義シリーズ「ブッダの実践心理学の第2巻 心の分析」は読むと勉強になりました。 色界の初禅の心には尋・伺・喜・楽・一境性があって、 禅定の段階が上がる(深まる)とそれらが順番に消えてゆき、 色界心の最後は尋・伺・喜・楽が消えて一境性だけになる。 その先、さらに禅定が深まると、無色界の心に入っていく。
他宗教批判、一神教批判の部分意外は勉強になる。 玉石混合で、玉は素晴らしいが、石はひどい。
206 :
神も仏も名無しさん :2012/11/08(木) 21:02:25.74 ID:2EFZaPfx
>>204 ありがとうございます。読んでみます。
>>205 本でいうと、どの本が玉で、どの本が石ですか?
ゴエンカさんがQAでラマナマハルシのことをかたっていてびっくりしちゃった。
他流派を批判って仏教に限らず?悟りを開くと真実=自分の流派以外は全部妄想扱いになるのかな?なぜ流派で感情的になれるのかが解らない
なんかのQ&Aのシメで、 「こんな馬鹿なことを言うのは、一神教の信者くらいでしょう」とかいってた。 内容忘れちゃったけど、一神教関係ないところでいきなり出てきたからインパクトあった。
超宗派はモダンな1つの流れだけど日本には全く浸透してないし向いてないかな
212 :
神も仏も名無しさん :2012/11/21(水) 00:11:50.22 ID:k3PHuXWz
うちの職場とかでは、関係者のお通夜に行った翌日、 「あのお経は宗だ」 「昨日のは何宗だろ?あまり聞いたことのないお経だったな」 などという会話をよく聞く。 葬式仏教も、一種の文化としてはそれなりに愛されてる。
>>212 べつに愛されている訳じゃないとおもうよ
職場の人達が温泉旅館に行ったなら
翌日には「あの温泉は○○質だ」「あの旅館の料理はまあまあだった」って話すだろう
単なる会話のおかずに過ぎない
「昨日は寒かったですね」「そうですね」と変わらないよ
>>212 ゴータマ仏陀も他宗教を否定したりはしなかったし、
葬式仏教もいいと思う。
ご先祖や故人を敬うのは歴史と伝統を敬うのと同じだからね。
悪いことではまったくない。
まあだからと言って葬式仏教が正統な仏教直系であるということでないよね。
あれは、仏教のスキームを借りた日本独自の宗教。
正統と言い張るならせめて坊主くらい厳格に戒律を守るべきだよね。
他宗教があろうとなかろうと 他宗派があろうとなかろうと 他の瞑想メソッドがあろうとなかろうと 信じようと信じまいと 神がいようといなかろうと ダンマはただ常にここにある 俺らに一番大事なのはそこでしょ 清浄道論やスッタニパーダを初めとするなるべく初源に近い教えを読み込んで 理解して、それぞれの瞑想法で頑張ればよいと思うよ。 確かにパオもゴエンカさんもマハシも清浄道論からは逸していない ただアプローチの仕方が異なるだけ。 好みで選べばいいね。
全くだな
みなさんは、禁酒ですか? 忘年会などは、どうしてるんですか?
乾杯はするし、ほどほどに飲むけど酔うほどは飲まない。 社会生活してたら、角が立たないように慣例には従う。 普段は一切飲まないけど、それは元々お酒好きじゃないからで、 我慢して飲まないわけでもないので、困らない。 家では一切飲まないし。
219 :
神も仏も名無しさん :2012/12/03(月) 02:20:38.92 ID:K5incw8/
職場や友人との飲み会では飲むし、 妻の父が泊まりに来たときは晩酌につきあいます。 飲むと眠くなるたちなので、飲んだ日は瞑想ムリ。 修行スゴロクは「一回休み」。
付き合い等では飲む。 自らは飲まないようにしている。
221 :
神も仏も酒は飲まん :2012/12/04(火) 01:41:10.80 ID:lKzcPTNr
一年365日、うるう年は366日飲まない。 忘年会では大変困ったこともあった。 頑として禁酒を貫き通してきたが、これまでに忘年会などで 「私は仏教徒なので酒はやりません」と言う奴に唯の一人も出会ったことが 無い。
222 :
安堂 :2012/12/04(火) 02:09:11.41 ID:dL7WPzwZ
とりあえず 「飲酒」「喫煙」は 絶対的もだめ・・・・。これは本当にダメ・・・・。
時代が時代だけに酒が槍玉にされているが現代においてはカフェインもかなり問題なんだよな 肉は瞑想の直接の妨げという点ではそこまで問題ではない 初期仏教は肉食を特に禁じてはいなかった あと高校の恩師に住職がいて人間的にいたく尊敬していたが 妻帯の知らせを聞いた時は非常に複雑な気持ちになった
224 :
神も仏も名無しさん :2012/12/05(水) 12:36:16.59 ID:2oq6K6e7
うちのたえ寺(法人)の寺院規則に定める住職(代表役員)の資格要件には、 宗派の教師資格を持つ者との記載はあるが、 比丘・比丘尼(出家者)であることは厳密には書かれていなかった気がする。 つまり、結婚するために還俗して在家の「職業拝み屋」となっても、 資格を持っている(出家としての修行経験がある)ということで住職の資格はあるのではないか。 何が言いたいのかというと、「日本仏教は在家仏教です」と堂々と認めてしまえば?ってこと。
225 :
神も仏もセックスはしない :2012/12/05(水) 12:36:31.24 ID:gW+QLCov
僧侶としては不淫戒を破ればその時点でアウト。 ただし、日本で坊さんの格好をしている者はその殆ど全てが釈尊以来の(戒)律を 継承していないので、はなから仏教僧侶ですらない。 私はこれを僧侶コスプレ詐欺と呼ぶが、本当に真摯な人ならば、まず、日本の坊さんを 辞めるだろうと思う。 が、いまだかつて上座部仏教に触れて日本の僧職を辞したと言う人を知らない。 日本の僧職を有したままスリランカで出家した者なら知っているが、日本に帰って来ると やっている事は無茶苦茶だ。 暴力団が検事に協力はしているのだが、組から脱退しないならば、どうして信用する事が 出来るだろうか。
まあ人のやった事やらなかった事なんかどうでもいいじゃないか。 上座部仏教に触れた君が上座部仏教で出家するとかいうくらいの気概があるならともかく。
初歩的な質問ですが眠くても瞑想続けたほうがいいのは何故ですか? 睡眠欲に逆らうのもまた寝たくないという執着だと思ったんですが。
228 :
神も仏も名無しさん :2012/12/07(金) 12:29:25.31 ID:nSx0goFZ
悟りたいという欲は「意欲」と呼ばれ、他の欲とは区別されています。 「悟りたい」という意欲まで否定したら仏教の意味がなくなりますし。 で、24時間以上一睡もしていない人ならともかく、普通は、 瞑想してて眠くなるのは、怠けの煩悩による集中に対する拒否反応ではないでしょうか。 怠けの煩悩に挑戦することが「精進」だと思います。
ただの睡眠>>>>>>>瞑想
>>12 >瞑想なんてただの健康法の範疇を出ない
としか思えないのは、それがあなたのレベルだから。
超初心者だということを露呈しているだけですよ。
>>228 ありがとうございます。私は超初心者なので健康法としてやっていますが駄目ですか?
悟りが何かがわからないので悟りたいと思えません。その場合も眠くても続けたほうがいいですか?
233 :
神も仏も名無しさん :2012/12/08(土) 08:05:55.40 ID:J0N9aFCC
>>232 悟りは煩悩(悩み苦しみの原因)がなくなることだと思います。
悟りをめざさず、集中力の強化もめざさないのであれば、
別に眠ってもよいのではないでしょうか。
また、冥想すれば眠くなるというのを利用して、
眠れないときに冥想するというような使い方もできると思います。
234 :
神も仏も瞑想する :2012/12/08(土) 09:08:08.20 ID:TLaJ10IN
仏教の瞑想は坐禅とは言わず、行(walking)住(standing)坐(sitting)臥 (lying)のどの姿勢でやっても構いませんし、また、やらなければならない。 眠るじゃなくて、寝た姿勢(臥)でやれば当然眠たくなり、そのまま眠るなん て事、何度もあるし、半分眠ったような状態ながら一晩中念じ続けたなんて 事も何度もある... 心も貪という病、瞋という病、痴という病に何時でも見舞われる危険性が あります。そんな中、身体の健康だけではなく心の健康にと、瞑想を始める だけでも立派。
横からすみません。 行住坐臥で瞑想しなければならないとは常に瞑想するってことですよね。 そうすると人と話している時や机に向かって作業している時にも瞑想するんですか? それって熟達すると出来るものなんでしょうか?そんな人間がいることが想像もつかないもので。 それと、食事中の瞑想についてなんですが、どうしても一口食べるのに一分はかかります。 丁寧にやると数分はかかります。一分で済ませたとしても世間の平均的な量を食べると一時間以上かかりますよね。 そんなに時間がとれません。皆さんはどのようにされていますか?
236 :
神も仏も名無しさん :2012/12/11(火) 02:31:33.46 ID:jS3kRTam
スマナサーラのやり方 ひたすら実況中継しながら、感覚を感じる 地橋のやり方 感覚を感じたら、ラベリング
237 :
神も仏も名無しさん :2012/12/11(火) 08:14:52.49 ID:x3qISGD7
口で「あいうえお」と言いながら同時に頭で「12345」と念じることができるように、 口業と意業は別々なんだけど、 黙っているときも口業と直結した側の思考は動いてしまっている。 実況中継は、口業と直結した思考を実況中継に縛って管理して、 意業を黙らせて(意業におしゃべりをさせないで)おいて、 意業をより管理しやすくするのではないだろうか。
238 :
232 :2012/12/11(火) 08:46:19.01 ID:IWPvYvAZ
>>233 お返事遅れました。
悟りが具体的に解らないので目指したいという気持ちがないです。集中力はつけたいです。
>>234 座る瞑想だけでしたがどの姿勢でもやってみます。
>丁寧にやると数分はかかります。一分で済ませたとしても世間の平均的な量を食べると一時間以上かかりますよね。 >そんなに時間がとれません。皆さんはどのようにされていますか? 最初は5分間でも坐禅するのは難しい。しかしなれてくると1時間は平気で坐れる。 最初は5分間でも走るのは難しい。1時間も走るなんてトンデモないと思う。しかし慣れると 1時間なんてアッという間に過ぎる。 丁寧に食事をする。丁寧に仕事をする。最初は忙しいので、そんな時間は無いと思う。しかし 丁寧にする方が結局は早い。忙しさが解消されて十分暇ができる。 だから、時間が取れないと思っても、時間を取ってやってみる。
240 :
神も仏も名無しさん :2012/12/12(水) 12:53:54.60 ID:PcZfCLlh
普通の速さで食べながらできるかぎりサティを入れればよいのでは。 また、よく気を付けて無駄な動きのないようにすれば、結果的により早く食べられる。 …行きつく先は茶道ですね。
別に瞑想に求めなくても、茶道、書道とかの方がいいのかもしれない。自分は 坐禅に行き詰ったので、マラソンを始めた。新鮮な瞑想のツールを得た気がする。
>>239 助言ありがとうございます。慣れるとサティが高速化すると聞いた覚えがあります。
しかし慣れるまでが大変そうです。やはり本格的にされている方はかなり少食なんですかね?
ミャンマーの入門的な合宿(?)では1日にほんの少ししか食事が出ないと聞きました。
>>240 茶道との関連性は新鮮でした。ゆっくりが良いと読んだ覚えがあるのでゆっくりでやっていました。
普通の速さでやるなど試行錯誤してみます。食は人間にとって色んな意味で大きな存在だと思うので
食事を瞑想することが苦境を打開する足がかりになるのではという気がしています。
243 :
神も仏も名無しさん :2012/12/13(木) 07:27:23.76 ID:ZD+K/ivO
五戒の内、「不邪淫」は日本に入る前は「不淫」だったそうですね。 sexはしなくても平気だけど、オナニーが辞められません 皆さんどうして居ます?
>>243 まず、なんでダメなのか?をとことん考えたほうがよいぞ。
性欲があるということはまだ執着が残っているから解脱できないことの証明であると。
つまり、してはいけないのではなく、性欲に執着しなくなるまで修行をつづけなければならなくて、
そのためには、常日頃から性欲を遠ざけるような生活をしなければならないよ、と言うこと。
まあ、つまりはオナニーしても構わないが
なるべく、そういう執着から離れるようにならないとなあ…と
反省して頑張るがよろしい。
ちなみに浮気は違うぞよ。
そもそも日本だと悟りと解脱をごっちゃにして論じてる問題がでかいと思うがどう思う? 俺的には 解脱=輪廻転生の輪から抜ける(テーラワーダ仏教が目指すもの)、涅槃(ニッバーナ) 悟り=ダンマ(仏性、理法)すべての仕組みを体感し、理解すること このように区別するようにしている。 なので、俺は悟りは目指さない。解脱を目指す。 で万が一、悟っちゃったらラッキーぐらいの感じでいる。
246 :
神も仏も名無しさん :2012/12/13(木) 10:15:00.39 ID:ZD+K/ivO
>>244 ありがとうございました。
浮気はしませんから大丈夫です。w
247 :
神も仏も名無しさん :2012/12/13(木) 12:20:18.05 ID:ZD+K/ivO
>>245 その通りだと思いますよ。
悟っても、初期段階だと輪廻してしまうらしいですからね。
完全に阿羅漢に成らないと解脱はしないそうですから。
ですが、いきなり解脱を目指すと挫折しやすいと思います。
スマナサーラ長老が本で言っていましたが、
小さな悟りを繰り返していくうちにレベルが上がるそうですから
まずは、小さな事からこつこつとが良いと思います。
質問です。 30分座れるようになりましたが血流が圧迫されて足が冷たくなり感覚もなくなります。 それでも集中力は続くので45分まで座れないことも無いのですが無理に続けないほうがいいのでしょうか? 慣れると長く座れると聞きますがそれは血流が無くなっても気にならなくなるという意味ですか? それとも血流も圧迫されなくなりますか? 関節痛、神経痛、冷え性など脚の病気があるので非常に気になります。 まさか健康でいたいという執着まで手放さないと前に進めないところまで来てしまったのですか? 身体が弱くて病気が悪化すると修行が立ちゆかなくなるのではと気がかりなのです。 病魔に苛まれながら死ぬ気で修行している人は健康が気にならないのでしょうか?
>>247 そう簡単に解脱できるとも思ってないのでまず預流果目指してるんで挫折はしないです。
できることからですね。
とにかく現世でできるだけパーラミーつめることを目指してます。
慈悲の心を育みながら家族への愛別離苦の執着を捨てることは
多分、現世では無理であると認識しておりますので。
>>248 ちょっとづつ無理してれば大丈夫と思う。
自分ははじめ15分も座ると痺れて立てなかったけど
今は1時間座ってもするりと立てる。
15分から2〜3日おきに5分づつ延ばしていって、
最後はえいや!って50分
>>1 時間に延ばした
かといって足が痺れなくなったわけでもない。
やっぱり残り10分くらいは痺れて痛い。
そんな感じで徐々に徐々に慣れていくようです。
>>250 精神的に慣れるのみならず物理的にも慣れると聞いてとても安心しましたよ。
脚の骨格や柔軟性が適応するのかもしれませんね。
脚組み替えずにらくに1時間座れるときっと捗るだろうなぁ。
モルモン教徒の布教のエネルギーは何なのだろうと思う。中身はともかくも 日本に来て僅かの時間で日本語を覚えて布教をする。そのエネルギーは怖いくらい凄い。 創価学会の会員と2chで議論を始めると、堂々巡りで結局ウンザリする。しかし このエネルギーはどこから来るのだろうと思う。 ナタリー・ゴールドバーグのクリエイティブライティングという本を読むと、文章技術を 磨くためには、構文の枠を外れて自由になることが強調されていて、キチガイや知恵おくれの 文例が取り上げられている。それらは壊れているにもかかわらず、強烈なエネルギーを感じる。 一方、NHKの番組でみたゴエンカ氏は落ち着いていてしかも切れのいい頭の回転が印象深い。 しかし、自分にはなぜか同種のエネルギーを感じる。 もしゴエンカ氏にこれらの半ばキチガイの守をさせたら、恐怖を感じることもなく、ウンザリ することもなく十分に役を果たすだろうと思う。何故なら、ゴエンカ氏もやはりキチガイに 負けないだけのエネルギーをもっているからだ。 251には、この種のエネルギーの欠如を思う。立派に坐禅をして立派に修行をしても 結局、キチガイの守はできないのではあるまいか? 自分が坐禅に行き詰りを感じたのはこの点だ。そこで方法を変えた。
253 :
神も仏も名無しさん :2012/12/14(金) 06:45:07.06 ID:ON16vMPJ
254 :
神も仏も名無しさん :2012/12/14(金) 06:55:55.97 ID:i4Gm032e
>>252 さん
頻繁に集まってみんなで洗脳し合って、理論武装しているからじゃないですからじゃないですかね?
「俺は一人じゃない」集団の心理に近いと思いますよ。あと信仰心の強さ?
信仰心は恐ろしい所がありますからね。
座禅から何に変えたんですか?
地橋さんの感覚を感じたら即ラベリングっていう方法は自分には難しい 瞬間にラベリングのボキャブラリーを探している自分がいるから、 「こりゃ絶対無理だわ」と思う 鼻を通る息に集中とかならできそうだけど
>頻繁に集まってみんなで洗脳し合って、理論武装しているからじゃないですからじゃないですかね? >「俺は一人じゃない」集団の心理に近いと思いますよ。あと信仰心の強さ? >信仰心は恐ろしい所がありますからね。 洗脳ってなんですか? あなたは簡単に洗脳されますか? 理論武装ってなに? あなたは簡単に理論武装できますか? 集団心理ってなに? 信仰心ってなに? あなたは強い信仰心を持つことができますか? 多分どれも出来ないでしょ。だからあなたは、まったく怖くない。普通の人です。 もちろん私もそうです。 でも怖さの中身を知りたくはないですか? どこからその怖さが出てくるのでしょう? 彼らは洗脳された取るに足らないくだらない奴等だから、無視してもいいのでしょうか? 本当は彼らが持ち得て自分が持ちえないその怖さにすこしの劣等感と大いなる興味が あるのではないでしょうか? 熱心なモルモン教徒や創価の馬力を身に付ければ、英語なんてたちまちマスターできます。 資格試験なんて、あっという間に合格するかもしれません。でもモルモンにも創価にもなりたくはない。 そうではないでしょうか?
257 :
神も仏も名無しさん :2012/12/15(土) 07:03:07.98 ID:S2n6klHM
プライドの煩悩をうまく使えば怠けの煩悩を押さえつけることはできるのでは。 怠けが押さえられれば、欲と怒りのエネルギーは怠ける方向の欲・怒りではなく、 突進するような欲と怒りになるので、エネルギッシュに見える。
258 :
神も仏も名無しさん :2012/12/15(土) 07:43:02.76 ID:3MND46/2
>>255 さん
劣等感も興味も無いですよ。
一度創価に誘われましたが、それはそれは、熱く話し合っていました。
理論でかえそうならば、余計に食いつくので面倒くさく成っちゃいましたけどw
でもやって居る事は、オウムと変わらないですよ。
モルモンとも話し合いましたが、意外とこっちの話も聞いてくれて、
帰っていきましたよ。
彼らのエネルギーを欲しいとも思いませんね。
創価やモルモンで何か得られるわけではないと私は思いますね。
「行き詰まった時は、説法や法話を聞き、状態を上の人に見てもらう事」
「これが入るから、仏教は宗教に成ってしまう。」
と、スマナサーラ長老の「ついに悟りを開く」と言う本に書いてありました。
座禅から何に変えたんですか?
259 :
神も仏も名無しさん :2012/12/15(土) 09:13:02.72 ID:3MND46/2
信仰心。ある宗教を信じてよりどころにする事。証拠抜きで確信を持つ事。それらを正当化する要因。 理論武装。個人や組織が他者や外部からの批判などに備えて自己の立場を正当化するための理論をつくり出す様子を、戦いに備えて武装する様子になぞらえた言葉。、 真理の探究ではなく、あくまで他の人々を説得することに主眼がおかれている。 例えば、ある程度規模が大きくなった宗教団体では教義を体系化する活動が盛んに行われるが、これも一種の理論武装としての性格を持つ。 洗脳。特定の主義・思想を持つように仕向ける事、またはその方法を指す。 精神的圧迫(罪の意識の植え付け)などの強い外圧があるとされる。 人間の精神が極めて受動的になることを利用して行われる。 集団心理、その社会の構成員である集団が、合理的に是非を判断しないまま、特定の時流に流される事を指す。 私は、イスラム、キリスト、原理主義も怖いかな
坐禅と瞑想は違うのでしょうか? どっちをやろうか迷ってるんです。
きょうのだんまに、 ソータパンニャに達した人の話が載ってたな。 ちょっとおどろき。
262 :
神も仏も名無しさん :2012/12/15(土) 12:46:44.00 ID:3MND46/2
>>260 さん
座禅は止観瞑想で、瞑想の一つ。
大きく分けて、サマタ(止観)瞑想とヴィッパサナー瞑想にわかれます。
他にも沢山瞑想法はありますよ。
サマタとヴィッパサナーを両方やるのが一般的です。
263 :
神も仏も名無しさん :2012/12/15(土) 13:13:27.17 ID:3MND46/2
>>260 さん
ごめん。間違えた。
「止」がサマタで「観」がヴィッパサナー
坐禅は心を止める、落ち着かせる瞑想。
264 :
神も仏も名無しさん :2012/12/15(土) 13:57:14.09 ID:S2n6klHM
>>258 業報輪廻の話をモルモンの「長老」(20代前半の外国人)に話したら、
「その罪の重さは誰が裁いているのですか?」(神様ですか?)と言われた。
なるほど、そういう発想か、と思った。
グリーンヒル瞑想研究所の地橋氏は、阿羅漢にまで到達した方なんですか?
266 :
神も仏も名はある :2012/12/16(日) 00:23:06.72 ID:p9jmsTbn
在家が阿羅漢になったらその日のうちに出家しないと死にます。 生きているという事は阿羅漢ではない事の証明になる。 何年か前まで奥さんがいたのだからその時点では不還ですらない。 坐禅というと日本仏教の坐禅をイメージするので使わない方がいいと思う。 あれは仏教の瞑想ではない。何とか誤解させて、そっちへ引っ張り込もう というのがいるから初心者は気をつけてね。
みんなオカルトを信じないでね!
268 :
神も仏も名無しさん :2012/12/16(日) 18:03:02.73 ID:EPMXdhaG
>坐禅と瞑想は違うのでしょうか? >どっちをやろうか迷ってるんです。 どっちでもいいと思うけど、自分は坐禅の接心が良かった。ピリッとしていて武道とか 好きだったら、坐禅の接心がおすすめ。ただし、ただ坐るだけだから、自分で捕まえないと 捉えどころがない。 その点、ゴエンカさんのやる瞑想は、やることが比較的明確なので、入りやすい かもしれない。 とはいえ、自分は只管打坐以外はやったことがないので良くわからない。 京都瞑想センターには一度行ってみたいと思っている。 でも何故瞑想に興味があるのだろう。心の落ち着きをとか集中力をつけたいとか だろうか。それとも悟り。超能力? 悟りって本当にあるんだろうか? これは、「究極的理解」のようなものだから、そんな ものは、あり得ないとおもっている。ただし驚異的な理解力ってのはありうると思う。 でも瞑想が何故そんなことに関わるのだろう。 坐禅をやってその理由は多少なりとも理解できた。
悟りが究極的理解と言っても未来予知が出来たりするわけじゃない。 世間では悟れば全てが分かるというイメージがあるけど、実際のところ 悟りがなんであるかは悟らないと分からないから肯定も否定もできないと思っている。 瞑想は初期段階においては集中力つけるのが目的だけど、それは自我を手放しやすくするための 準備だととらえると分かりやすいのではないか。 自分の殻にこもって雑念がわいている状態では物事を真実のままに見ることができない。 集中力があれば雑念を手放して物事を見抜くことができる。特に自分の苦しみの原因である執着を 見極めることができ、手放しやすくなる。そういうふうに理解している。 自分はさしあたっては仕事に役立つ集中力や知力のために瞑想をしていて、 さらに心身の健康のためにも瞑想をしているが、最終的には苦しみからの解放を 目指しているんだと思う。なんというか、安らいだ状態への憧れがある。
事象の生滅変化を体験する。→それが悟り。
仏教の根本教義を体験したこととなる→仏教にたいするゆるぎない信が生まれる。→悟りの第一歩、預流果
預流果の条件、仏教(ブッダ)にたいするゆるぎない「信」とは、信仰心・心・気持ちの持ち方ではなくて、仏教の根本教義を体験したことによる
揺るぎない信だということでしょう。
http://butuda.blogspot.jp/2012/07/blog-post_07.html ↑で音のずれについて述べられていますが、中村天風も似たことをいっていて、
鐘を鳴らし、その音が消えていくとき、「間」がある、それが悟りだといっています。
悟りが理解だとしたら、哲学者や学者のほうが悟れるはずで、瞑想する必要がなくなります。
>↑で音のずれについて述べられていますが、中村天風も似たことをいっていて、 天風が伝えたかったものが何なのかは解る。それは境地であって悟りとは違う。 もう一つ、右脳優位で起こるニルバーナの世界を悟りの認定とする場合もあるがこれも悟り とは違う。 >悟りが理解だとしたら、哲学者や学者のほうが悟れるはずで、瞑想する必要がなくなります。 哲学も悟りも本来同質のもの。少なくとも仏陀が目指したものは、哲学にちかい。 哲学=瞑想というくらい哲学には瞑想が必要だ。 たとえば、 「洗脳。特定の主義・思想を持つように仕向ける事、またはその方法を指す。 精神的圧迫(罪の意識の植え付け)などの強い外圧があるとされる。 人間の精神が極めて受動的になることを利用して行われる。 」 このような説明は、多少は理解を助けることになるが、理解ではない。 「天才ピアニスト: 天才的にピアノが上手い人」 といったところで、どれほど理解したことになるだろうか? 多くの人は天才ピアニスト とピアノの上手い小学生の演奏の区別はつかないだろう。 実際に洗脳を体験すると、この説明はかなり不十分だし、本質的なことが抜け落ちている 感じすらする。とはいえ丁寧な説明は難しいし、自分の体験を語って状況を伝えること くらいしかできない。 天風が鐘をたたいて、「これだ。」という以外にないのと良く似ている。
ああ、例の人か。座禅からマラソンに変えたらしいよこの人。
>>241 に書いてある。
マラソンでは難しいだろうな。 瞑想・座禅、立禅のように静止。または、太極拳のようにゆっくり動くということをやってると、身体の中の「気」が自覚されるようになるんだ。 瞑想・座禅の意義の一つはそれだ。 気はナビゲータだ。水先案内人だ。 ----------------------------------------- 哲学は思考だ。瞑想は思考回路を減じていく作業だ。 悟りに哲学はいらない。 瞑想に哲学はいらない。
himatubusi >272 天風は、「間」があり、それを体験(自覚)できるといっていたのであり、境地とは違います。 「間」を便宜上「無」または「空」とすると、「無」「空」を頭ではなく、体感したのであり、境地とは違います。 空であるとわかったのであり境地とは違います。 悟りに応じた境地があるのであり、例えば、阿羅漢の悟りに応じた境地がニルバーナです。 哲学に瞑想は必要でも、瞑想に哲学はまったく必要はありません。 ブッダは、瞑想を指導していたのであり、哲学を指導してはいません。 説法なりでは、言葉で伝えなくてはいけないので、哲学的問答みたいになったりしてますが、それは、仏教へ導くため仏教を理解してもらうためであり哲学は関係ありません。 例えば、スマナサーラ氏は仏教哲学の教鞭をとっていた方ですが、セミナーでは哲学は一切ないです。 セミナーで氏は仏教は実践だといい、瞑想指導するだけです。 瞑想の実践、これが原始仏教です。悟りに哲学はまったく必要ありません。
>マラソンでは難しいだろうな。 >瞑想・座禅、立禅のように静止。または、太極拳のようにゆっくり動くということをやってると、身体の中の「気」が自覚されるようになるんだ。 >瞑想・座禅の意義の一つはそれだ。 只管打坐よりも呼吸への集中の方が簡単という人もあるかもしれない。 自分は只管打坐の方が簡単にできた。坐って呼吸へ集中するのはいまだにできない。というか やらない。 集中の苦手な人は、もっと楽な方法、動きのなかで集中を練習する方法もある。 走りに集中するのなら、1時間でも集中できる。多くの場合は静止したり、ユックリやる方 が簡単だが、ゆっくりの方が難しい場合もある。スキーなら緩斜面をバランスを取りながら 滑るよりもある程度スピードの出る斜面で、コントロールを覚える方が楽にマスターできる。 しかも、応用の効く複合的技術としてマスターできる。 それに集中力というのは、「集中力が続かない」のが問題なのであって、 集中すること 続けること この二つの意味を内包する。 実は集中力というのは、誰でももっている。遊びでも仕事でも面白くなれば集中できる。 問題は継続の方だ。興味があらぬ方向へ行き中断するから問題なのだ。 呼吸に集中したり、炎に集中して強い集中力をつけるのは重要だとは思うが、継続力とは あまり関係がない。 継続する力をつけるのは、プランを立て、それを実行することで養われる。個別の能力を 組み合わせて上手に運用する力が問われる。 その意味では、1年計画を立てて、それを着実に実行して成果を上げれば、集中力を磨く ことと同時に自信になる。 マラソンを走るという目標を立てて、日々練習を積み重ねて完走するなら、集中力のほかに 大きな達成感と健康と継続力を得ることになる。
>天風は、「間」があり、それを体験(自覚)できるといっていたのであり、境地とは違います。 >「間」を便宜上「無」または「空」とすると、「無」「空」を頭ではなく、体感したのであり、境地とは違います。 >空であるとわかったのであり境地とは違います。 その意味では空は分かるし、常に体験している。それを境地といっただけで自分の中では悟りとは違う。 >瞑想の実践、これが原始仏教です。悟りに哲学はまったく必要ありません。 では正見、正思惟とはなんだろう? 瞑想だろうか?
>マラソンでは難しいだろうな。 >瞑想・座禅、立禅のように静止。または、太極拳のようにゆっくり動くということをやってると、身体の中の「気」が自覚されるようになるんだ。 >瞑想・座禅の意義の一つはそれだ。 1)「気」を自覚するには、静かに「気」を感じる。 2)「気」を自覚できるレベルまで強くする。 どちらでもいいと思う。 走ると身体が温まり、気が強くでるようになる。だから気を感じやすくなる。 できれば、二つを組み合わせると楽に感じることができる。 1時間走った後で瞑想をすると、胸が良く開く。 地橋さんはこのような方法を多分否定していたとおもうが、初心者にはこの方が向いていると思う。
279 :
神も仏も名無しさん :2012/12/17(月) 08:12:43.73 ID:cGVw0oZS
>>277 無と空とか滅とか言うと、禅定に入ったときに現れるものだと思いがちですが、
実際には、普通のときにも刹那ごとに滅が起きている。
映画のコマとコマの間みたいに、速すぎて見えないけど、滅はいつもすぐ隣にある。
ということは、怒りも欲も本当は瞬間ごとに消えているはず。
>では正見、正思惟とはなんだろう? 瞑想だろうか? 正見、正思惟にける「正」、つまり正しさとは何ですか? 何を基準に正しさとするのですか? そのこたえは、哲学や思考ではでません。 絶対的基準とは?答えはいいませんけどね。
今、本を読んでいようと、仕事をしていようと、常に「正見、正思惟をせよ」というので あって、哲学的に考えたらダメで、瞑想的に正思惟をマスターしてから思惟をするのだ とそういう悠長なことを言っている暇はない。時はすでに動いている。机にうずくまって 結論のでない方法論をどうするかなどと考え込まれたら仏陀だって困ると思う。 即座に貴方の今持てる最良の正見、正思惟をするのが正しい。それが正見、正思惟だ。
>>281 >悠長なことを言っている暇はない
仏教は暇人倶楽部ですよ。お釈迦様は7年間も瞑想してたんですから。
>結論のでない方法論をどうするかなどと考え込まれたら仏陀だって困ると思う。
釈迦は、人は正しく見えてないから、正しく見よと言われたのであって、そのための修行なのです。
方法論は釈迦の提示した修行です。
>即座に貴方の今持てる最良の正見、正思惟をするのが正しい。それが正見、正思惟だ。
最良ってなんですか?
あなたのいってることは、結局、各人の妄想でも正しいと思えば正しいといってるだけです。
正しいと思えば正しいのなら釈迦は正見など説きはしません。
釈迦のいう正見ができるまで、見るのを止めろと。W
正見があるように、正しい行いがある。 当然正しいウンコの仕方がある。 君の言うようにするならそれをマスターするまでウンコですら出来ないではないか?
『カッチャーヤナ姓の長老はブッダに問うた。 ――「尊い方よ。「正見」といわれますが、「正見」とはそもそも何ですか?」 「カッチャーヤナよ。この世の人々は多くは有と無との二つにとらわれている。 正しい知慧によって、この世の生起をあるがままに観じている人にとっては、 この世のことに関して<無>であると執することは存在しない。 また正しい知慧によって、この世の止滅をあるがままに観じている人にとっては、 この世のことに関して<有>であると執することは存在しない。 この世の人々はたいてい手段に執著し、とらわれている。 だから[仏教の修行者は]手段に執著すること、心の固執、執著、こだわりに赴かず、依拠することなく、 <われに我(アートマン)が存在しない>と固執することがない。 生じつつある苦しみが生じ、滅しつつある苦しみが滅し[そのありさまを観じて]惑わず、疑わず、 他によって知ることなきがゆえに、そのときかれに智が生ずるのである。 「正見」とはじつにこのようなものである。
><われに我(アートマン)が存在しない>と固執することがない。 >生じつつある苦しみが生じ、滅しつつある苦しみが滅し[そのありさまを観じて]惑わず、疑わず、 >他によって知ることなきがゆえに、そのときかれに智が生ずるのである。 執着があると、思考もはじけない。執着を無くすと、自由自在にアイデアが湧いてくる。 正しいということが、無限にあることも解ってくる。 つまり、ウンコを右にトグロするのも正しい、左にトグロするのも乙。チョンチョンと 切り出して川の字にするのもまたいい。 仏陀なら100通りは瞬時に考え付いただろう。俺でも50やそこらは直ぐに思いつく。 「正見」とはじつにこのようなものだ。
この世の人々は多くは有と無との二つにとらわれている。 これはつまり邪見ということです。 では正見は何かというと、 正しい知慧によって、この世の生起をあるがままに観じている人にとっては、 この世のことに関して<無>であると執することは存在しない。 また正しい知慧によって、この世の止滅をあるがままに観じている人にとっては、 この世のことに関して<有>であると執することは存在しない。 この世の実相は、生滅の世界なのであるから「有」とも「無」ともいえない これが正見です。
有るとか無いとか考えるような意識をうまく言い表す言葉ないかな? 正見はまだいいとして正行って何かよくわからない。執着がなければ正行?
公案禅みたく思考から悟ろうという流派もあるにはある。思考を瞑想の対象にして悟りに至る。 だから瞑想に思索がまるっきり必要ないわけではない。もっとも思索の内容が真理であると 言い出したら悟りの道からはズレるけど。そういう意味では哲学と瞑想は相容れない。
正見の前提が >この世の生起をあるがままに観じている人 だから、預流果以上の悟りがある人の場合ということになる。 その悟りを得るために、釈迦の提示した瞑想法があるということ。 釈迦が伝えるために説明したこと。(説法) 釈迦が問答に答えたこと。 釈迦が自分の悟りを説明したこと。 これと、修行法は別の次元のことだということ。
>公案禅みたく思考から悟ろうという流派もあるにはある。思考を瞑想の対象にして悟りに至る。 >だから瞑想に思索がまるっきり必要ないわけではない。もっとも思索の内容が真理であると >言い出したら悟りの道からはズレるけど。そういう意味では哲学と瞑想は相容れない。 公案禅は凝り固まった常識的思考を壊すのが目的だから、「思考から悟る」というのではない。 頭を解すストレッチやマッサージみたいなもの。思考を使って、糖化して固くなったコラーゲンを 引っ張ったり緩めたりして柔らかくする。 坐禅の只管打坐は、自重によるストレッチだ。固くなった金太郎あめを無理やり引っ張ると ポキッといく。重さにまかせてゆっくりとストレッチする。 あるいはスルーだな。かまってほしくて暴れている思考をスルーしていると、諦めて消えていく。 そもそも、トレーニングとマッサージを同じ土俵で説明しようとするからおかしくなる。 トレーニングをした後でマッサージをするのが基本だ。 哲学はトレーニング、瞑想はマッサージ。 「哲学と瞑想は相容れない。」のではなくて、哲学に瞑想は無くてはならないものだ。 釈迦はこの両方を上手く駆使した。釈迦は良く歩き、哲学し、瞑想をした。 ソクラテスもまた良く歩き、哲学し、瞑想をした。
>哲学に瞑想は無くてはならないものだ。 あのさぁ、瞑想を愛好している哲学者はいるだろうけど、してない哲学者もいるわけだから、必ず必要なわけではないことは、0.01秒考えればわかるよね。 つまり君は嘘を平気でいってることになるんだよ。 釈迦は、いろいろいったけど、それを哲学だと思っていたかどうか?哲学という言葉は、当時インドにあったかどうかも不明だし。 釈迦が哲学を駆使しというより、後世の人が、それを仏教哲学としただけで、悟りに哲学が必要だと釈迦がいったわけでもないでしょう。 それとも釈迦のメソッドに哲学が組み込まれているんですか?何かの経典に悟りには哲学が必要だといったのがあるわけですか? >289 禅問答は、もともと思考では答えのでないものを問題としているのだから、思考を使ってるわけではない。 思考を捨てさす手段です。
うんだからそういうこと言ってるよね。悟りだから当然思考を捨てる。でも出発点は思考から、思考を題材にすることから始まる。 だから思考の内容が大事じゃないって書いてある。内容を意識しないためにわざわざ思考で答えがでない問題を出す。 だから思考の結果悟れるのではなく思考を題材として悟れるという発想になります。 ちなみにジュニヤーナ・ヨガのように中身を問題とする思考瞑想もあります。
「般若(パンニャー)」には3種類。 1、スタマヤー・パンニャー(単なる知識) 2、チンターマヤー・パンニャー(思考の知識) 3、バーヴァナー・マヤー・パンニャー(体験レベルの智慧) 2に哲学が入る、3が瞑想で得るパンニャー 仏教は3を重視するので2で話そうとしても無理がある。
>仏教は3を重視するので2で話そうとしても無理がある。 一人なら何とかなるにしても、1万人規模のサンガを運営するとなると、いくら瞑想 重視だからといって瞑想だけでは無理がある。 実際に釈迦の時代の記録として残っているのは、若い僧が、性的欲望を 処理できなくて女を連れ込んだり、サルや石垣にチンポコを突っ込んだりと、、想定外のことを やらかす。それにたいして釈迦はいちいち規則を作って、丁寧に対処しているわけだ。 まして、1国を統治するレベルになれば、政治も哲学も道徳も科学も軍事も必要になる。 瞑想だけでは無理がある。
仏教は哲学だとか何とかいってる人へ 七科三十七道品は仏教の修行のカリキュラムメニューですが、 この中のどれが哲学的修行なのでしょうか?教えてください。 また、釈迦はどのように哲学的修行を弟子にやらせていたのか、 経典をもとにおしえてください。
読んでも分からんものを読む意味はない。
298 :
哲学なんか気にするな :2012/12/18(火) 14:27:51.86 ID:wkSrw3uc
しかし、あえてプッタタート比丘の独自性はなにかというなら、ひとこと でいうと、パーリ三蔵を構成する律蔵・経蔵・論蔵のうち、最後の論蔵に あたるアビタンマ・ピタカ(阿毘達磨)を「ほうりなげた」点にあるといえ よう。比丘がいわれるように、タイの仏教僧は三蔵の内、まずこのアビダンマ を学ぶことに懸命で、このことを第一としている。しかし、それは本と末とが ひっくりかえっており、むしろアビダンマは実に難儀で、さらにその註釈書 (アビダンマッタサンガハ(Abhidhammatthasaṅgaha)がよまれるように、究極的 な目標とする涅槃 nibbānaをうる上での障害となっている。
299 :
哲学なんか気にするな :2012/12/18(火) 14:29:00.53 ID:wkSrw3uc
そのようなものを、若い修行僧がまず最初に、そのアビダンマの註釈書を ひもとき、時間をかけてひたっている。比丘はアビダンマのことを「ネズミ の巣」とまで形容した。また、このアビダンマは超自然的な性格をふくみ、 その一部が現在のタイの葬式にて読まれている。 このような現状にあって、真に釈尊の教えに帰依しようとする純粋な者に とっては、経蔵を先にして論蔵を「けっとばせ」と述べておられる。この ような大胆さは、胸をドキドキさせるが、それは比丘があくまで真に釈尊の 教えを人々に結びつけようとするつよい純粋性によるものといえる。
>>297 いいかげんな自説、屁理屈ばっかり言うのやめてもらえませんか。荒らしと同等の行為ですよ。
キチンと経典なりの根拠をしめしてください。
釈迦が弟子にどのような哲学的メソッドを指導してたのか示してください。
>300 インド哲学って言葉しらんのか? 中村元でもよんでみなさい。お前のような スピ系の解釈は一般的じゃないんだよ。頭を冷やせ。
>>301 インド哲学も中村元も知ってますよ。
仏教の修行に哲学は必要なのですか?それが問題になってるんですけど。問題となってる趣旨をとらえたから発言ください。
中村元なんて哲学者であり、ひらたくいえば、理屈屋でしょ。
中村元は、仏教哲学を極めて悟ったのですか?
おなじく理屈こきで、ひろさちやがいますが、サマナサーラ長老と喧嘩になったそうですが、
十分ありえます。
サマナサーラ長老は仏教哲学の教鞭をとられてたほどの方ですが、仏教は実践だといっておられます。
修行を求める者に哲学を教えたりはしません。
スピ系というのは、スピチュアル系ということですか?
解釈でもなんでもなく、仏教は哲学ではないという事実です。
釈迦の言葉をもとに後世の人が哲学という学問にしてるだけですが。
哲学とは、形而上学的に真理を追求するものですが、釈迦は哲学により悟ったわけでも
哲学を薦めたり指導したりしてたわけではありません。
同じことを何度もいわせないでください。
釈迦は哲学的追求により悟ったのでない。 仏教哲学というのがあるが、それは仏教ではない。 仏教哲学を仏教を哲学として追求しているだけのことです。 苫米地英人氏は数学的に「空」を証明したといっておられますが、 だからといって仏教は数学なのでしょうか? 仏教は数学ではありません。同じく仏教は哲学ではありません。 悟りに数学は必要ありません。 釈迦は数学を説いてはいません。 釈迦は哲学を説いてはいません
>仏教哲学を仏教を哲学として追求しているだけのことです。 仏教哲学は仏教を哲学として追求しているだけのことです。
>おなじく理屈こきで、ひろさちやがいますが、サマナサーラ長老と喧嘩になったそうですが、 >十分ありえます。 坊主どおしが喧嘩をしてはいかん。 >サマナサーラ長老は仏教哲学の教鞭をとられてたほどの方ですが、仏教は実践だといっておられます。 >修行を求める者に哲学を教えたりはしません。 その程度で教えたりしたら不味いだろ。その程度というのは、簡単に喧嘩をしたり悪口を いったりするレベルということだが。 「 他人が悪い言葉を発したならば、言い返すためにそれをさらに口にするな。 同じような悪口を口にするならば悩まされる。聖者は悪い言葉を発する事がない。 愚かな者どもが悪い言葉を発する。」 (仏陀) まあ、仏陀に言わせると愚かな者ということになる。
>>305 ひろさちや氏とサマナサーラ長老の対談があったことは確かなようで、そのなかで、「意見の対立があった」と表現しているブログ、「喧嘩した」と表現しているブログがあります。
サマナサーラ氏は慈悲の瞑想を重視しているかたで、日ごろからゴキブリにまで声をかけたりしているらしいです。ゴキムリが害虫だという認識もなくなってくるそうで、友達
みたいに思えてくるそうです。
そのくらいの方ですから、感情的にののしろあったりしたわけではないと思いますよ。ましてや悪口をいったとか、そういうことはないでしょう。あくまで推測ですが。
授業の講師を決めるのは大学ですから、サマナサーラ長老は大学から要請があって教鞭をとっていたのだから、それがまずいというのなら、大学の責任です。
307 :
神も仏も名無しさん :2012/12/19(水) 12:07:13.34 ID:GLeze9UW
サマナサーラ長老ってどこのウマの骨だ? ひろさちや並みの人生論や哲学本で大稼ぎしてたスマナサーラなら有名だが・・・
ちょうどいいところ読んでたw スッタニパータ 第四 八つの詩句の章 十二、並ぶ応答---小篇 八九四--- 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらに彼は世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことはない。 心を平静に執着を捨てようね。
十三、並ぶ応答--長篇 八九五-- これらの偏見を固執して、「これのみが真実である」と宣説する人々--かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。 八九六--- (たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理をみても、汝らは無論争の境地を安穏であると観じて、論争してはならない。
北伝仏教からきた人は仏教を難しく考えすぎる。仏教は哲学でも思想でもましてや宗教ですらない。 仏教とは単なる解脱に達するためのレシピ。 レシピに思想も哲学も必要ない。 そもそも輪廻転生など世の中にあり得ない!と言い切ってしまう人にはそれで話は終わってしまう。
女性は感情だけど、男は判断の第一基盤を思考にたよる傾向があるから、思考に走るんだよね。 それで、適当に答えだしてわかったよううな気持ちになって安心感を得て解決したように思えてる。 ヴィッパサナー瞑想は思考を止めるようになってるんで、そちらに専念すべきなんだけどね。
>ヴィッパサナー瞑想は思考を止めるようになってるんで、そちらに専念すべきなんだけどね。 専念してやってみて、どんな感じでしょう? ヴィッパサナー瞑想ができるようになると、頭が柔らかくなって、自然と着眼点とか発想が鋭くなって 平凡な知識を並べ立てるようなことは我慢できなくなって來るのではないでしょうか?
>>312 >平凡な知識を並べ立てるようなことは我慢できなくなって來るのではないでしょうか?
我慢できなくなるとかいう心の苦を取り除くのがヴィパサナーです。
なお、頭がよくなるとか副次効果もありますが、基本はそのような現世利益での執着を離れ心を平静に保つ技術です。
ですのであまり現世利益を追求するために行い、我慢できなくなるようだと増上慢に陥っている可能性があります。
まったく目指すものとは逆なのでヴィパサナに向かないでしょう。
「執着を離れ心を平静に」と上達していますか?
315 :
神も仏も名無しさん :2012/12/20(木) 08:15:16.47 ID:65EFB693
>>314 横レス失礼。
上達してるかどうかよりもまず、冥想できるること自体が平安なんです。
人を殺そうと思ってる人でも冥想してるときは人を殺せません。
>>312 >ヴィッパサナー瞑想ができるようになると
やり方さえわかれば、誰でもすぐにできるようになりますが・・・・。
>頭が柔らかくなって、自然と着眼点とか発想が鋭くなって
昔のわたしより、少しは、よくなったかなと。馬鹿もまだまだ混じってはいますが。
>平凡な知識を並べ立てるようなことは我慢できなくなって來るのではないでしょうか?
私のようなできそこないでも、師は見守ってくださってましたので、我慢できなくなるということはないのではないかと。
指摘するタイミングを待てるのが良い師でしょうね。
>>288 「武産合気」
武術家植芝盛平の言葉で、相手、状況に応じて無限に技が産み出されるという意味合いです。
武術の命題は、敵から身を守ることです。そのための正しい行動(正行)が自在だというのです。武術としての知恵を完成させた方だといえます。
そして植芝盛平は、愛と和合の合気道を創始しました。実際に植芝盛平は戦わずして勝つことが可能でした。
武術は本来、殺傷の技術です。愛とは対立するものですが、融合しちゃったわけです。これが中道です。合気道は中道の武術といえるでしょう。
有と無、静と動、生と死(願望と恐怖)・・・・極と極、本来対立するもの、矛盾するものが、調和、融合、一体化、内包化・・・・・それが中道だと思います。
仏教の命題は、全生命の幸福です。ですが利益の相反や価値観の違い、対立、矛盾が必ず生じます。もともと人間は、まったく生命を殺さずに生きることも不可能です。
瞑想を続けていると脳は十全かつ高度に働くようになります。そして命題である全生命の幸福を「慈悲の瞑想」により脳の稼動目的としてアプローチし続けます。
修行を続け、状況に応じて全生命の幸福に適った行動ができるようになっていくとき、それが正行でしょう。
318 :
神も仏も正業だろう :2012/12/22(土) 17:47:12.46 ID:PM4sEmFK
正行って正業の事か。 「修行僧たちよ、正業とは何か。生き物を殺すことから離れ、与えられない ものを取ることから離れ、邪婬から離れること、修行僧たちよ、これが正業と 言われる。」(大念住経)
>>276 目のまえのワークに集中していても、周りの状態も見えてる。大局を見てても細部までとらえてる。つまり中道なのだが、これがアラハンや武術の達人レベルですよ。
誰か一人の人に指導していても、周りの他の人たちの意識もとらえてる。ハタから見てると化け物じゃないかと思う。どういう意識構造になってるんじゃ・・・とか思うけどね。
潜在意識レベルの情報も顕在意識レベルでキチンと処理ができるんだろうね。
>継続する力をつけるのは、プランを立て、それを実行することで養われる。個別の能力を ・・・・
集中と放下、リラックスと緊張・・・これも中道だが、これができていないからだよ。
じゃあどうしたらいいのか?となるけど、それができるように修行してるんだから。そのための修行なんだから。
>>320 訂正
アラハンは中国での読み方です。
普通はアラカンですね。
322 :
仏はaraha& ◆CI5R2FXHD2 :2012/12/24(月) 16:40:05.97 ID:c2N2p23S
漢訳:阿羅漢 パーリ語:arahaṃ 漢の中国読み知らないから何だが逆じゃない? 仮に中国で阿羅漢をアラハンと呼んだとしても日本では阿羅漢は アラカンと読んで来た経緯がある。 本場インドでは昔からarahaṃ=アラハン。
>>320 >リラックスと緊張
ここでいう緊張とは、深層筋に力がこもるということです。リラックスは脱力です。力がこもるべきところにこもり、脱力ができているということです。
戒律を守れと言うとやたら反発する人がいるけど、 でもそっちからのアプローチじゃなく ダンマへの理解を深めると、なぜ戒律が必要なのかが自然にわかるようになるので そちらの勉強から始めると良いと思う。 結局、戒律は他人から押し付けられるものではなく自分を律するものだし。 戒律=ダンマの理解度 と解釈している。
325 :
神も仏も戒を守る :2012/12/25(火) 12:43:08.93 ID:lgsCfgX1
戒律は建物で言えば土台の様なもの。 軟弱な地盤の上に建てた家は直ぐに傾く恐れがあるのに比し、 堅牢な地盤の上に建てられた家はビクともしない。 戒を持して瞑想して得た定と破戒しながら瞑想して得た定。 果たして破戒していて定が得られるだろうか...
>>324 >>325 昔のエキスモーは、アザラシ狩をしてアザラシを常食していました。
北極では、ビタミンが取れる食料は少なく、生でアザラシを食するのは、タンパク質のみならずビタミンの栄養補給ともなっていました。
また、アザラシの毛皮は貴重な防寒素材でした。
生きていくためには、アザラシ狩は必要なことだったのです。
この場合、エキスモーにとって不殺生を貫けば、生きていけないことになりますが、どうすればよいのでしょうか?
エキスモーでなくとも、人間は殺生をまったくしないというわけにはいきませんが、たとえば
ウイルスや菌を殺すために白血球が活躍しますが、これも殺生ではないでしょうか?
江戸時代、赤ちゃんを間引きしていました、間引きというのは、殺していたということです。貧しくて養っていけないので、畑などに埋め赤ちゃんを殺害していました。
当時の法律でも許されていました。昭和初期ごろまで、間引きはあったといわれています。
現在と違い避妊用具もない時代で、間引きが禁止されていたら、生活に支障をきたすのは当然かと思います。この場合不殺生の戒はどうやって守ればいいのでしょうか?
飲食店など経営している人にとっては、ゴキブリは大敵ですが、不殺生をまもっていたら、店中がゴキブリだらけになりますがどうしたらいいでしょうか?
無農薬野菜つくりを経験すればわかりますが、雑草刈は大変な労力をともないます。なので農薬は使わざるえない面があり、現実に使用されていますが、農薬により微生物が
死にますが、この場合の殺生はどうなのでしょうか?
どうかご指導よろしくお願いします。
>>324 >>325 仏教では、もう死んでしまった動物の肉は食してもいいことになっていますが、これには、托鉢により施しを受けたものを拒否するのはよくないという
根拠もあったそうですが、現在の日本では食は豊富ですし、在家の場合、施しを受けるのではなく、自分で選べるので、自分で殺したものではないからといって
肉や魚を食するのは、間接的殺生ではないでしょうか?
お酒は適度であれば、リラックスができ百薬ともいわれます。また、酒を飲むと脳梗塞の防止効果があるといわれてます。
お酒が絶対ダメなわけは何でしょうか?
お酒やタバコをたしなむ方でも、定を得られてる方はいますが、酒やタバコを一切やらない人との定とどう違うのでしょか?
ダンマを深く理解した方よ、どうかご指導ください。
ダイバダッタの意向が斥けられたのも頷けるな・・。 また、だからこその聖俗の別(役割分担)だし、専門分野を任せるってことだし、 生活の中での「できる範囲」と「“已む無し”判断の基準緩和」で宜しとされる在家なわけだけど・・。
ふわふわした土台からできる建物は壊れやすい そもそも建物だと思い込んでる可能性すらある だから邪定と言われる 例えば音楽を使った瞑想は邪とされる 煩悩をなくすのが瞑想です 煩悩を持ったまま深みに入るのは瞑想ではない 煩悩があると土台がぐらぐらするからな 瞑想のフリして中身はまったく違う 戒律も煩悩を和らげるから瞑想の土台固めなのだ 瞑想という捉えにくい建物をつくるのだから一層土台を固めることが肝要である
>生活の中での「できる範囲」と「“已む無し”判断の基準緩和」で宜しとされる在家なわけだけど・・。 現実的・実用的なご回答いただきましてありがとうございます。 >ダイバダッタの意向が斥けられた これについて知りたいのですが、よければ参考URLなど教えていただけないでしょうか?
332 :
神も仏も名無しさん :2012/12/26(水) 00:34:31.53 ID:x8WggA+c
先週からヴィパッサナー瞑想をはじめたものです。 スマサナーラ氏の「自分を変える気づきの瞑想法」を読んで実践しているのですが、 今一歩具体的な感覚(瞑想のやり方やら・・・)がつかめてきません。 他の書籍も読んでみようと思うのですが、どれがわかりやすいでしょうか? 地橋さんの「人生の流れを変える瞑想クイックマニュアル」なんてどうでしょうか?
333 :
安堂 :2012/12/26(水) 01:17:29.51 ID:oNp77qxw
>>332 著作はいろいろ読めばええと思いますけど、
瞑想は実践です・・・。
そですからヴィパッサナでは感覚の観察ですけど、
まずはサマタ瞑想つまり集中瞑想をしっかり会得した方がいいですよ。
ヴィパッサナだけだと飽きますし、長続きしないです。
サマタの方が実感としての効果が体感されやすいですからね。
基本は出入息念経にあるとおりアーナパーナ瞑想です・・・。
スマナ僧の本は実践より理論を学ぶ本だと思いますよ。 具体的感覚をつかむにはどの本がどの方法がといったことは程々にして 身体や呼吸に集中・観察する瞑想を堅実に積み重ねるのが早道と思います。
335 :
神も仏も名無しさん :2012/12/26(水) 08:18:01.21 ID:9nnjXvSQ
あれこれ試してみるのもいいけど、 ひとつのやり方をひたすら続けるほうがよいような気がしている。 どの師匠のやり方をやるかよりも、地道にやり続けることのほうが大事な気がする。
336 :
神も仏も名無しさん :2012/12/26(水) 08:20:43.29 ID:9nnjXvSQ
>>327 戒律というものを口やかましい無理難題のようにとらえるのか、
親切にきめ細かくマニュアルを用意してくれているととらえるのかの問題。
マニュアルどおりやるのが理想だが、困ったときだけマニュアルをヒントにするというやり方もある。
337 :
神も仏も名無しさん :2012/12/26(水) 10:00:44.07 ID:x8WggA+c
332です。 アドバイスありがとうございます。 まずはサマタからやってみます。
338 :
神も仏も名無しさん :2012/12/26(水) 12:38:26.63 ID:9nnjXvSQ
>>326 自分が生きていたいと思うことが最大の煩悩なのです。
他の動物を殺すくらいなら自分が死んでもかまわない、
と思えるようになれば、修行完成。
>>338 自分は死んで、家族を路頭に迷わせるのが仏法かw
>>338 ま、
法句譬喩経護戒品が象徴する如く、それが(的としての)極だってのはわかるけどさ・・。
悟りと慈悲はまた別の話ですよね。片方に偏り過ぎるともう片方が犠牲になることもあるでしょうね。
スマナサーラ:原始脳が完全にスイッチオフできれば、覚りに達している。煩悩が無くなっているんです。
343 :
神も仏も名無しさん :2012/12/26(水) 18:26:29.25 ID:9nnjXvSQ
>>339 家族もいずれ死ぬわけだしね。
家族のためならどんな犯罪もやるのか?
たとえば、家族のためなら罪のない他人を何万人でも殺せる?
私はいくら家族のためでもそこまでやれないと思う。
で、悟ると「犯罪」と感じる基準が変わるだけの話だと思います。
>>343 お前、馬鹿だろ?
議論スレに晒してくるわ・・(怒
家族のためも大事だがそこまで絶対的なものではないし、 家族を捨てることに劣らぬほど動物を殺すことを犯罪と感じるようになるってことでしょう
殺す者は憎まれる。 ただの因縁の法である。 故に因縁を嫌う者は殺さない。
女子高生のパンツだろうが、女子大生のパンツだろうが、OLのパンツだろが、熟女のパンツだろうが、沢山ありすぎて見飽きたぞ。
犯罪というのは刑事法における言葉であり、犯罪でないのは明白。 主張するなら、もうちょっと、適切な言葉を探すべきだな。 釈迦は、苦行を続けていて死にそうになっいたとき、牛乳をほどこされ生気を吹き返したそうだけど、現在の牛乳なら殺菌されているが、 しぼりたての生乳なら雑菌も混じっていて雑菌を殺したことになる。 これが犯罪と感じるのが正しいのか?
350 :
神も仏も名無しさん :2012/12/27(木) 08:15:47.13 ID:6gpc4qO8
>>348 涅槃寂静という仏教の旗印が答えです。
つまり、涅槃に入ってしまえば細菌を殺してしまうこともなくなるのです。
では、どうやったら涅槃に入れるのか?
そこで、煩悩に注目して考えるのです。煩悩を減退させないと涅槃に入れない。
「殺してやるぞ!」という怒りは煩悩です。
怒りによって殺す行為は、煩悩を鍛える行為なので、涅槃に入ることから遠ざかる。
怒らないように、殺さないようにと気を付けることは、煩悩を弱らせる修行なので、涅槃に近づける。
351 :
神も仏も名無しさん :2012/12/27(木) 08:55:31.16 ID:3mh3M3Qu
>>338 他者と自分という境界があるのが煩悩なんじゃいのかな?
本当に煩悩が弱まれば、自分も他者も分け隔てなく愛おしめるはず。
本来両者に堺はないのだから。
>涅槃寂静という仏教の旗印が答えです。 つまり、涅槃に入ってしまえば細菌を殺してしまうこともなくなるのです。 これは、嘘だよね。 沐浴すれば身体についてた菌は死ぬし、牛乳のめば、中にはいってた雑菌死ぬし、ヨーグルと食べればヨーグルト菌を殺してるし。 歩けば知らぬ間に微生物や昆虫を踏み殺してるかもしれないし。 普通に瞑想してても空中の雑菌殺してるし。 菜食でも植物殺してるし。 妄想はやめてくださいね。
353 :
神も仏も名無しさん :2012/12/27(木) 12:14:25.65 ID:6gpc4qO8
>>352 すみません、言葉足らずでした。
「無余涅槃に入ってしまえば」です。
解脱して平安なる滅びに入れば体も心も滅びるので、
三界にアクセスできず、三界の生き物を殺すこともできません。
極端な話、もしも人類すべてが滅びに入れば、人類の殺しあいはなくなりますよね。
354 :
神も仏も名無しさん :2012/12/27(木) 12:32:17.49 ID:6gpc4qO8
お釈迦様は無余涅槃に入ったので転生しません。 ですから、お釈迦様は入滅してからは細菌も殺してませんよ。
>>353 wwwww
無余涅槃てのは、世俗の言葉に翻訳すれば「死」ってことだぜw
>人類すべてが滅びに入れば、人類の殺しあいはなくなり
そりゃそうだろうよw
なんせ、そのとき、『人類は一人も存在しない』のだから。
殺し合うという事象が生じる筈もない。
が、同時に、人間社会も文明も日常生活も、すべて存在しないんだぜ?w
そういうこと分かってんのかな・・ ┐(;´ー`)┌
>>355 妄想系を相手にすると疲れるぞ。
時間の無駄。
殺生を犯罪というレベルのやつだから・・・。
>>354 >お釈迦様は入滅してからは細菌も殺してませんよ。
それは、誰がどういう手段で確かめたんだ?
358 :
神も仏も名無しさん :2012/12/27(木) 23:03:10.47 ID:6gpc4qO8
>>357 お釈迦様は涅槃に入られたのだ、というのは仏教徒としての信仰告白と言えます。
ワロタw
ツッコまれてるの、そこじゃねーwwwww
>>358
360 :
神も仏も名無しさん :2012/12/27(木) 23:07:04.84 ID:6gpc4qO8
>>355 涅槃が一番すばらしい、というのが仏教の特徴のひとつではないでしょうか。
滅びたくないという執着こそがあらゆる悩み苦しみの原因であるというのも仏教の特徴でしょう。
361 :
神も仏も名無しさん :2012/12/27(木) 23:24:15.74 ID:6gpc4qO8
>>359 誰が確かめたのかという話ではなく、そのように信じるのが仏教徒だという回答です。
362 :
神も仏も名無しさん :2012/12/27(木) 23:53:51.46 ID:svrzbfma
詳しい方教えて下さい。 よく自分の呼吸に集中して、呼吸を鼻の穴、もしくは鼻と上唇の上の部分?で感じることを 意識するっていうやり方をみかけるんですが、どうも感じ方が微妙なんですよね。 吸い込むときは、まあ感じられますが、出すときは全く感じられないです。 なんかコツとかあるんですかね?
>>360-361 勿論その通りだがw、
《『これこれは正しい』ので、それに則って他を道連れにすることも善である》
という考え方は、オウムのポア思想と大差無いぜ?w
貴方は「そうではありません」「そのような意図の発現ではありません」「そのような考えも毛頭ありません」
と言うだろう。 だが、それは、貴方がそのように自分で思っているだけで、
他者へ届く発現としては、そうしたオウム的なものとなって届くのですよ。
それが、世俗の言語というものです。
それが嫌なら、維摩の如く黙して、一人で滅びてゆくべきだと思いますよ。 (´∀`)b
また、
>>360 は、返答としてあまりにも頓珍漢すぎるだろw
更には、自分で「無余涅槃のことです」と後出しジャンケンで限定しておきながら、
再びその限定を外して、「《涅槃》とはそのようなものです」と来る。
姑息過ぎて反吐がでるぜ・・ ( ゚听)、
364 :
神も仏も名無しさん :2012/12/28(金) 00:20:55.80 ID:27L2uQv+
「涅槃」と言ったら無余涅槃の意味で通じると思っていたんですが、そうではないんですね…。 悩み苦しみの原因を消すのが仏教です。 殺されたくないと思っている人を無理矢理殺すのは、悩み苦しみを生みますから、 オウムのようなポアはまったく見当違いでしょう。
>>364 w
寧ろ、無余涅槃は特殊な涅槃だよ。
少なくともパーリや初期仏教に於いては、涅槃と般涅槃(無余涅槃)は明確に区別されるし、
付属語無しに「涅槃」と言ったときは、無余でもなく般でもなく、『ただの涅槃』ですよ。
>>361 >そのように信じるのが仏教徒だという回答です。
細かいようですが、言い回しに気をつけていただけますでしょうか?
妄想先行自己満足型のあなたと同じ仏教徒だと思われたくないし。
妄想・信仰してない仏教徒もいますので!
俺の場合、死後はあるかないかわかんない。もしかしたらあるかもしれない。
仏典には嘘もまじってるので、全部は信用しない。
自分の体験でわかったことだけしゃべる。
推測で言うときは、「〜と思う」と表現する。
文章かくときに気を配るのも八正道の実践だよ。
それとあなたは、3人ぐらいから冷たいツッコミを受けているけど、
そのことについては、どう思う?
仏教は創価スレでやれよ。
>>366 いいね。八正道の実践。
これを軽んじる輩が多いのは実際難しいからであり、
何をどうすればいいかわからないからである。
369 :
神も仏も名無しさん :2012/12/28(金) 07:42:40.44 ID:27L2uQv+
>>366 死後のことだけではなく、悟り(煩悩をなくす)だって本当に可能なのかどうかもわかりません。
わからないから「信じる」しかないのです。
信じたうえで、確かめるべく実践する。
私は、仏道も宗教であり、三宝を信じることから始まると思っています。
ツッコミ入れられてる人については、
無余涅槃を求めない人だからなのか、
あるいは私の言いたいことが伝わらなかったためなのかわかりませんが、
私は、生への執着が苦しみの原因であると信じており、それを言っているだけです。
細菌が殺生の対象にあたるかどうかと問うのか? その答えは是であり非である。 ヒントは慈悲の心にある。慈悲の心の源泉はなにか? それはダンマのどこでどう作用しているのか? 一見、苦の連続である輪廻転生の世でなぜにゴータマは慈悲を説かれたか? こいつは難しかったが俺は解いた。 みんな瞑想して自分で解くといいよ。
>>368 >悟り(煩悩をなくす)だって本当に可能なのかどうかもわかりません。
煩悩の源泉となっているのが、脳の大脳辺縁系、煩悩を実現するために発達したのが、大脳。辺縁系の指令で、五感からの情報を分析・判断し行動するのが大脳の役割。
煩悩という欲のままに人間が行動してると、人類自体が破滅するおそれもあるので発達したのが、前頭前野という理性をつかさどる脳。戒や律は、この脳を強化するものではあるが、煩悩を弱めるのには力不足。
これらの脳は、能動的脳であり、顕在意識の領域の脳。
脳の下部に宿るのが、呼吸中枢である延髄や小脳。小脳は精密な運動を可能にする脳。延髄や小脳は受動的脳であり、大乗仏教でいうところの末那識の領域の脳。
延髄や小脳は人間の生の基盤となってるものであり、これが活性化されてないと、バランスがわるくなり、煩悩が強くなる。
次回に続く・・・・。
(`∪´)o彡°脳幹!脳幹!
>>371 脳科学で一気に悟りまでもっていけそうだなw
実践しなければ意味はないだろうが、
脳をバランス良く仕上げていく方法はありそうだな
>>371 の続き
人間の特徴は「直立」、つまり立つことによって人間となったのだけれど、それが重い足かせにもなっている。重い頭を支えるために首に、上半身を支えるため、そして立つために腰に力入れすぎ、
硬く立ってしまっているということ。そして、より外側の筋肉を使い硬く立ち、身体を硬くさせてしまっているということ。それらは常習化されていて、自覚できずにいる。その硬直性が脳にすごく悪い影響を与えている。
身体は脳の端末であり神経により情報が脳に伝わっているが、硬直により気の流れが滞り、脳にとってはノイズとなっている。この脳へのノイズは雑念として現れます。
脱力して立つのが理想だけれど、本当に脱力してしまったら、寝るしかない。寝てるときのようにリラックスして立つというのは矛盾するのだけれど、矛盾が矛盾でなくなるのが中道。
>>362 君がヴィパッサナでなく「アナパナ」をやりたいのなら
別に感じとれなくてもいい。
意識をそこにおいて、入ってくる、出て行くのを「知って」いればいい。
とアナパナをやらせるところの先生には、共通して言われた。
感覚、ヴェーダナーを捕らえるのでないと。
質問です。 グラナタナ長老のサイトだかに、「電車に乗っているときに 揺られてる感じや、横になったときに体が寝具に触れている感覚 を感じるようにすればいい」と書いてあったが、 そういうことをして何の効果があるのですか? 効果というか、目的というか、意図は・・・。
>「電車に乗っているときに 揺られてる感じ 本当は、グラナタナ長老に聞くのが一番いいわけだが、個人的な見解、人が硬く立ってしまっているとき、本来の柔らかさはなく、ゆらぎや揺れがまったくない立ち方になる。 ゆらぎながらもバランスをとりながら立てているとき、美しいものです。脳はその分、多くの情報を処理しなければなりません。 硬く立てば、安定性がある、脳での情報処理の量が少なくて済むなどの理由で硬直性を強めていくのです。 硬直性を取っていくひとつの方法が、ゆらぎながら、揺れながら身体をほどいていく方法。 揺れるというのは、なんらかの脱力ができないとできないわけだ。 電車の揺れに身をまかせながら、身体をいろいろ感じてほしい。 >横になったときに体が寝具に触れている感覚 グラナタナ長老の意図はわからんけど、横になってるときは脱力できやすいときだから、身体をいろいろ感じながら、脱力に専念されたらいいのでは。
ありがとうございます。 脳と体は不可分ですね。
>>373 横だけど、俺が無知なだけかもしれないけど頭にりんご置いて瞑想するとかそういった種類の工夫は
仏教的伝統の中ではあまり見あたらないから案外そういうところから新たな糸口が見えてくるかもしれない
個人的には脳科学とか身体操法も大事だけど同じくらい情報科学的視点も重視してる
380 :
神も仏も名無しさん :2013/01/01(火) 09:38:47.22 ID:ahStLG5S
>>376 電車内で揺られているときの感覚なども、
苦・無常・無我・縁起に気付くための素材・教材でしょう。
また、すぐに妄想に飛んでしまう意識を、感覚に戻す、また飛んでいってまた戻す、
そのようにして心の制御を学ぶことにもなります。
怒り狂って「殺すぞ」と包丁を振り上げたとしても、
次の瞬間に「あ、いけねぇ、妄想から怒ってしまった」
と包丁を下ろして「失礼しました」ニコッと微笑むことができる、
そういう人になりたいな。
釈迦やキリストは喩え話を多用している。 何を意味するかといえば現実に則したイマジネーションを大切にしている。 言葉を変えれば妄想だ。 心を制御するには現実の観察とそれに則したイマジネーションが重要となる ことを意味している。
382 :
神も仏も名無しさん :2013/01/02(水) 13:13:32.42 ID:aJnOt3D5
仏道修行者には、退屈な時間や無駄な時間というものがない。 以前は、電車の長旅とかは読書や音楽など退屈しのぎの道具が欲しかったが、 今は、いついかなるときでも一切の現象を相手に冥想できるわけだから、 いわば、世界すべてが教材でもあり遊び道具でもあり、 どこにいても退屈することはない。
数学者もみな数学はどこでも出来ると言う 数学と瞑想は関わりが深い
「今日のダンマ」に軍隊のことについての見解があったな。 内容にびっくりした。
「 勝たんとひとすぢに思うも病なり。 兵法つかわんとひとすぢに思うも病なり。 習いのたけ出さんとひとすぢに思うも病なり。 かからんとひとすぢに思うも病なり。 待たんとばかり思うも病なり。 病を去らんとひとすぢに、思いがたまりたるも病なり。 何事も心のひとすぢにとどまりたるを病とするなり。 このさまざまの病、皆心にあるなれば、これらの病を去って心をととのうることなり 」
>382 どんな修行? 楽しい? 楽しくないと続かないはず。何がどう楽しいの?
只管打坐をやると快感がある。最初は「スゴイ、なんかつかめそう」と思えた。 そこで、毎朝1時間坐禅を半年やってみた。ところがそこから先の手ごたえのような ものが無い。 また坐禅をしなくても、普段の隙間時間でもその快感に浸ることは できるようになってきた。それもあって、1時間という時間がもったいなくなって 坐禅の習慣は無くなった。 また始めてみようと思うが、こんどはビッパサナをやってみよう。しかしサマタが 出来ないのにビッパサナはできないということを聞いた気がする。一番簡単なビッパサナ は何だろう。
昔、ある指導者から個人指導で「只管打坐」「ただ、座る」といわれて、当時はよくわかっていなかったが、大事なことだと今なら言える。 願望や期待や見返り・・・を持ち込まない。「ただ、座る」 求めずめに「ただ、座る」 快感とかにとらわれると「ただ、座る」ではなくなる。 手ごたえも求めない。 正しい(方向への)稽古、瞑想なら、必ず脳は反応している。それは脳にとってはうれしいことなのだから。 手ごたえがないと感じられても必ず蓄積されていっている。
それはその通りだと俺も思う。 思うけども、 >正しい(方向への)稽古、瞑想なら、必ず脳は反応している。 かどうかがわからないまま座ってる人たちが多くて そのまま正しくない方向で何十年も座ってる人がいるから、 何十年もぼーっと座ったままで、悟れないし指導もできなくなってるんじゃないの? そいつが我慢できなくてみんな坐禅からこっちへ移動してくんだと思うよ。 実際、俺がそのパターンだし。
わかりやすく言うとならサマタのアーナーパーナ瞑想なら 雑念を止めた上で、リラックスして集中しなければ禅定とはいえない。 でも坐禅の人等は、雑念さえなければボーっとしてても禅定だと思ってる人がけっこういる。 ボーッっとなにも考えずにただ座るならこれ以外に簡単。
俺はそれだな。一日ボーッとしていてアッという間に終わる。どうしたらいい?
>>392 一日の内で集中する時間を少しづつ増やしていく
欠点は時間がなかなか経たなくなる
>393 そうだよね。瞑想とかしてもそういう種類の集中力はつかないんだよね。 坐禅の接心を受けた時、15人くらいいたのだけど、自分は特に坐相がいいと言われて 老師から誉められた。静かに坐っていれば自然と三昧に入ることも解った。 もともと実生活でも一人でボッーとしていて退屈しないタイプなので、只座るのだったら 得意に決まってる。 ところが仕事で集中するのが苦手だ。納期が3か月ある仕事でも、本当に集中できるのは 最後の2週間くらい。でも仕事が嫌いな分けじゃない。今回も、 最初1か月 : 調査、勉強、基本設計、 次の1か月 : 詳細設計完成 最後の1か月: 予備 と計画したのに、実際には 最初1か月 : 調査、勉強、 次の1か月 : さらに勉強 最後の1か月(前半2W):ヤバイと思いつつ、ここは押さえておこうとさらに勉強 最後の1か月(後半2W):詳細設計着手 残り2週間に迫ってやっと仕事に集中できるようになってきた。 でも以前なら、この時期になるとイライラしてきたが、坐禅を覚えてからは 「なるようになるさ」と平気になってきた。それは成長?かもしれない。
たとえばパオのアーナーパーナ瞑想なら
雑念が消えてからニミッタに集中して五禅支(尋・伺・喜・楽・一境性)を確認するんだけど、
集中が途切れると尋>>伺>>一境性の順に欠けていって、
喜と楽だけ残っちゃうので気持ちよくってボーっとなる。
酷いときにはそのままボーっとしてると寝ちゃうこともある。
坐禅だとこの寝る前の瞬間が気持ちよくて雑念も消えているから禅定と勘違いしやすいのね。
でもこれは有分心(ヴァヴァンガ)といって禅定(ジャーナ)じゃないとちゃんと分けて考える。
パオの瞑想法は
菩提樹文庫のpdfに山ほどあるから読むといいよ
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/index.html
397 :
神も仏も名無しさん :2013/01/10(木) 12:34:03.97 ID:cEagzXbE
一境性が出てときって、明確にわかるものなのでしょうか?
398 :
神も仏も名無しさん :2013/01/11(金) 05:07:02.61 ID:WXPqIyoC
ニミッタってパオ式に特徴的現象なのだろうか? 今まで聞いたことがなかった。 段階を踏んでいくという方向性があるのなら解り易そうだね。坐禅はどこに向かって のかさっぱりわからない。
座禅にはニミッタがない。特に只管打坐ならどこにも向かわないよ。 アナパナはサマタだから。集中だから特殊な現象も起きる。ニミッタはパオ限定ではないが。
>397 > 一境性が出てときって、明確にわかるものなのでしょうか? まっすぐにニミッタに集中してる心。 だからわかるよ。
悟りたいと言ったら高尚だけど惨めな人生から抜け出したいだけなんだよ 自分に執着してるから駄目なんだよな? それが最近諦めて惨めでもいいかと思えてきたらとたんにやる気が失せた 今まで何をやってたんだろう 何かヒントください
403 :
401 :2013/01/11(金) 13:13:09.69 ID:qZAbeeaY
>>402 読みましたますます分からなくて苦しいです
悟りたいと言ったら世の中では高尚なイメージがあるじゃないですか?
そこが分からなくなったんですよ
どこが分からないかという点は伝わってますか?
なぜこれまで頑張っていたかという根底の部分だよ
だからどうしたら良いか分からないと言っても仏典に書いてあるようなことが分からなくなったのではなく
そもそも何故悟りたいかという根底の部分なんです
一度本を読むことをやめてみようと思う
>>403 悟りたいって何を?
悟って何が偉いの?
悟って苦しみから逃れられるの?
解脱して涅槃に達したいというならならわかるよ。
解脱と悟りを混同しないで。
あなたと同じように苦しいし、苦しいからもうこんな思いはしたくない。
それで、生まれ変りたくない、あるいはそれが無理でも来世で少しでも楽になりたいからから修行してる。
結果的に現世でもずいぶん楽になったけど。
懸命に瞑想しなさい
トップってどれ?目が悪くて分からなかった 法話というページがたまたまあったので見た 内容はよく分からないけどいいことが書いてあった 分かりやすいのは分かるけど何が書いてあるか分からない 馬鹿にしてませんそういうギャグみたいな状態です アナパナは半年前に始めた 呼吸を手がかりに思いを手放す つまり悟りたい意味すら考えてはいけないということ? うまく分からないけどちょっと深い事情があって惨めな生き方をしたくない だから瞑想してたんだけど半年前 急に積み重ねてたものの底が抜けた 惨めな自分にこだわるのをやめた それはあなたの言う成長ですか? 成長かもしれないけどそれで悟りがすっかり願望じゃなくなった そういうことありますか? 惨めなのが良いって言ったら嘘になるけど惨めでも仕方ないと諦めた そのとたんに底が抜けて悟りたいという気持ちがなくなり 今まで頑張ってたのがあほらしくなったというか いや悟りたいです悟りたいですが全然気持ちはそういう気持ちじゃない
>>405 気持ちは落ち着きましたありがとうございます
でも問題は何も解決してない
悟ったことないから悟りが何かはわからん気持ち的な話だよ
苦しみから解決されたいから何とかしたいから悟りたい
あなたは悟りが何か知ってるけど私はしらない
しらないけど気持ち的に目指しているということ
解脱とかは信仰じゃないすかね
悟りは体験すればわかるけど解脱は体験できない
解脱なんて信じてないよ
そういうことより今ここの苦しみがなんとかしたい
だから高尚なこと言って悟りたいと言ってるけど
それは高尚じゃなく逃げたいといいますか惨めな自分にこだわってるだけ
そう気付いてわけ分からなくなっちゃった
頭では悟りたいけど全然そういう気持ちじゃない
悟りという言葉でまた怒ったらごめんなさい
懸命に瞑想しなさいと言われたのでします 私も素直に現実世界の生活に適合したいです いろんなことが仏教的にどうでもよくて人の話が理屈でしかできない 感覚が非仏教徒と合わなくなったらミャンマー行って出家するしかないんですか? まったくそこまで考えてないけど先を考えるとそういう未来しか見えないというか 仏教嫌いじゃないけど無知だし信仰がないんです
>>408 うーん
真剣で深刻なのは伝わりました。
しかし私では力になれそうになれません。
私はまったく悟る気がないんです。
悟った人の話を聴いてもそれは理法がわかっただけで自分の人生に変化がないからです。
しかもあなたは自分に信仰心がないのをわかってらっしゃる。
瞑想で深層心理にアクセスする時にロックを外すのは
1.信仰心
2.絶望
3.ドラッグなど
だからです。
信仰心以外で自分を救う方法を考えられたほうがいいかもです。
私は盲目的に仏陀を信じているわけじゃないです。 彼以前にもインドには修行者も解脱者もたくさんいたわけです。 そして彼はあらゆる苦行や瞑想法を学んで、その上でまだこの上になにかあると確信し 自分でそれを確かめた上で、その法を人に説いたわけです。 しかもそれが彼の独断であれば2500年もの間、この教えが脈々と伝えられるわけ無いです。 ああ、あれはインチキだったねで途切れているはずです。 しかし、その後も南伝では多くの比丘が瞑想の段階で同じものを経験し同じく教えを守っている。 それが私が信仰する説得力の源です。 だから信じている。それだけです。当然、信じない人もいるでしょう。 であれば縁がなかったと、それだけです。
そんなこと言ったって体験したことのないものは信じられないよ。 あなたが否定している「理法」と同じレベル。信じている人を非難するつもりはないけど。
412 :
神も仏も名無しさん :2013/01/11(金) 14:47:45.24 ID:WXPqIyoC
体験してるよ。 「自分の手を良く見てごらん。それが仏の手です。」 というような説明を大拙はしていて、私は納得していますが、、、、、 あなたの手は仏の手にみえませんかね?
いや解脱の体験。
414 :
神も仏も名無しさん :2013/01/11(金) 15:19:20.65 ID:WXPqIyoC
仏は解脱しているでしょ。
それがね、信仰なんだって。それが信仰なんだよ。体験したことのないものを信じる。
信仰は否定しないけど。解脱の体験なんてどこにもない。だから信仰は信仰だと認めるべきだ
と僕は思っているし、そのほうが人に説明するときも分かりやすいと思う。君に無理強いはしないけど。
解脱なんて定義からして現象界の話じゃないから体験できないし、根拠づけられも
しないし現世に輪廻転生してるかのようなパターンがあっても、それはあくまで現世の中で
そういうパターンがあるに過ぎず形而上学的にどうこう言うことはできないと強弁することもできるしょ?
それなのに何故、解脱の存在と可能性を信じるの?一体なぜ?何がそうさせるのか?という話をしてる。
世の中には輪廻転生なんて全く信じてない人もいれば、物事を根本から問い直したがる人もいる。
それをさらっと当たり前のように
>>412 >>414 みたいに言わないでよww
だと思うよ。 例えば、巨大な瀑布を見て心を打たれる人は多いし、宇宙に出て地球を見れば強烈な印象を もつと思う。でも自分の手を見ても同じように神秘的感情に打たれることはあり得る。 「手をみる」はサラリしたものだろうけど、それは毎日何気なく見ているからだよ。 君のいう解脱が「まるで宇宙に出てみるような、とてつもない、だいそれたこと」であっても 毎日何気なく解脱していればサラリとしたものになる。 だから君はサラリとした仏なのさ。
どうも君の中では僕が「解脱なんてだいそれてたことがあり得ない」 と言いたいように見えるらしいな。なんでそう思ったのか分からないけどそれは間違い。 僕が言いたいのはそれが本当に解脱だと何故分かるのかということ。全然違う話してるよ。 サラリとしてるとか言われましても。そういう話ではないですし。 ちょっと思い込みが激しいようですな。
要は強くなりたいんだろ 体を鍛えなさい
体を鍛えると心も安定するよね 瞑想だけが安寧の道というわけじゃない なにか過度の不安に苛まれている自覚があるなら 向精神薬の助けを借りるのもひとつの選択肢ではある
「だいそれた」というのは感覚の問題だから、慣れたら、普通のことになる。 だから「解脱」はある人にとってはだいそれたものでもあるし、ある人にとっては普通 のものだ。 解脱のだいそれたものという属性を取り除いてみてはどうなのだろう。 もし、だいそれたものでないなら「彼女は恋をしているのだろうか?」という疑問と それほど違わないのではあるまいか? それを信じるとか信じないとかそれほどムキになる必要はないだろう。 「太陽が上るのは不思議だ。神秘的で凄いことなんだ」と主張しても、共感し理解して くれるものは僅かだろう。 理解できるのは素朴で無邪気な信仰だ。 人は経験を積んで、知識を蓄えることで物事に慎重になり安易には信じなくなる。 それは良いことでもあり欠点でもある。
我が子が始めてケーキを口にした時「この世にこんなおいしいものがあるのか?」 というように、目をキラキラ輝かせて、ケーキを載せたお皿までベロンベロンに舐め まわしていたのを思い出す。 勉強をして知識をつけていくにしたがって、最初は感動したものにも見向きもしなくなる。 修行も同じで最初の出会いは生き生きとしていたのだが、経験して知識を積んでベテランに なるほどに無感動に陥りやすい。 ある種の修行は逆効果になるのであるまいか? つまり修行とは経験を積むことでは なくて、むしろ経験を剥ぎ取ることに向けられなければならない。経験という記憶や思考 を駆使することではなくて、無邪気に信じたり驚いたりすることの方が近道に感ずる。
422 :
神も仏も名無しさん :2013/01/12(土) 01:18:22.34 ID:vV+TL21K
迷ったときは原点(四諦)にもどりましょう。 悩み苦しみの原因は煩悩。 悟りとは煩悩が消えてゆくこと。 煩悩のリストは悟りのリストでもある。 煩悩を消せたか、消せてなくても煩悩を制御できるようになってきたか。 これが修行の進み具合の目安ではないでしょうか。
423 :
神も仏も名無しさん :2013/01/12(土) 01:21:54.01 ID:vV+TL21K
とりあえず、欲・怒り・怠け・プライドに気を付けましょう。 こいつらが絡み合って襲ってくる。 正体を見破れ。 襲って来たら、対処せよ。 台風が来たら雨戸を閉める。 煩悩が来たら冥想をする。
>>423 そこが難しいんじゃねーかw
世に「案ずるより産むが易し」と言うが、仏教は違う。
「案ずるに易く、産むに難し」だw
>>425 まぁその通りだがグダグダ考えてもしょーがないのよ
悟りってのは心臓に毛の生えたような酩酊状態だからな
どこかがぶっ壊れてるのよw
だから信じるも驚くもなく無相
無相故に細かいことは気にしない
即ち寛容になるのよ
まぁ無邪気に驚いたり信じたりってのも 否定しないしその通りだと思う しかし飽きればそんなものはぶっ壊れる
無知とは知識の欠如ではなく、自己認識の欠如である。自己認識なくして知性はありえない。 自己認識とは知識のように蓄積されるものではない。 知識の集積は寧ろ、自己認識を阻害し、原初的エネルギーに厚い殻を被せる。 その殻は恐怖やめんどくささのようなものの集りで、意識の血管にへばり付くプラークの ように正常な血流を阻害する。 取り除く手っ取り早い方法は、記憶の断片と深く結びついた「物」を捨てることだろう。 数年前、30年間貯めた本や資料を電子化してすべて捨てた。その直後にHDを落下させて電子化 した資料も本も全て消失した。このような偶然か神の計らいにより、人は自己認識を得る。
自己破壊=自己認識の欠如だからね 無我と大きく矛盾するようだが、無我を見るのは誰なんだ という点で自己認識は必要不可欠であり全く矛盾しない
世間では、高校生自殺「体罰問題」が取りざされていますが、仏教では、体罰は絶対禁止であると思います。 もし、釈迦が教師で、問題のある生徒が多数おり、風紀が乱れ、授業もままならない状況の場合、どういった対応をとると思われますか? みなさまのご意見をお伺いしたいです。
如何すればいいか、自分で徹底的に考えるでしょうね。
432 :
神も仏も名無しさん :2013/01/14(月) 11:45:10.85 ID:JuZK0hPV
>>430 普通にあれするな、これするなのルール作るだろうね
ルール守れぬヤツは去れの対応とるだろう
>>433 けど、今の時代は
『自由の侵害』『個の尊重に逆行』『全体主義の復活』etc.
ということで、
保護者・教育関係者・メディア等あらゆる所から糾弾・バッシングが熾烈を極めるだろうなwww
>>434 社会はルールで固められている
そうやって社会的順応性が削がれていくんだろうな
学校教育と宗教修行はちがうのでは
何も変わらん。個人の主観で現象をどう捉えるか個人によって違う。
>>430 永平寺みてると仏教が体罰絶対禁止とは思えないよww
439 :
神も仏も名無しさん :2013/01/15(火) 17:50:58.12 ID:6bOOyOmb
古武道やって居るけれど、すげー仏道にも役に立っている。 怒らないのがコツだったり体の使い方が特殊だったり。
仏道には身体の使い方という観点があまりないからね。 武術で補える部分もあると思う。
441 :
神も仏も名無しさん :2013/01/15(火) 19:18:07.51 ID:6bOOyOmb
怒って、平常心を失うと、体が力んで本当の力が出せなくなってしまうので 心を鍛えて、体も使い方を訓練するので。 とっても良いよ。呼吸法もあるし。平行してやって居る
>>441 確かに間違いなく良いことだ。
しかし裏を返せば心と身体の運動に過ぎない。
何が良いという偏見と拘りを捨て、
心と身体の修練に努めるのが本当の意味で良いだろう。
443 :
神も仏も名無しさん :2013/01/16(水) 08:19:45.26 ID:MtDQE3kX
もう一つあげると、「剣禅一致」というのもやる。 武道には禅もやります。 体の内部感覚を身に付けるのに、必要なんです。 普通の格闘技では、手なら手だけの部分の筋肉しか使いませんが 武道では、足の先から手の先まで、の筋肉を一つに成る様に訓練します。 その為に禅をやって内部感覚を磨きます。 あと、必殺の気を交わしながら、平常心を保つ心の内部感覚を養う訓練もします。 仏道に役立つ事が多いです。
意識の上で偏見と拘りがなくても行動の上で目的のために偏りがあるということもあるからな。 両者は次元の違う話。
445 :
神も仏も名無しさん :2013/01/16(水) 14:12:57.26 ID:MtDQE3kX
次元が違うというより、別の物です。 瞑想が上手くいくと、精神から離れられる感覚を持った事がありますが 武道ではないですし、そもそも武道には「良い人間を作る」と言う目的も無いです。 ただ、瞑想には役に立っただけですよ。
瞑想して賢くなりたくて、マハシ式の「歩く瞑想」を応用してウォーキングしています 自覚症状はどのように発生するでしょうか また、夜寝床に就く時にA・スマナサーラ長老ご推奨の「慈悲の瞑想」(サマタ瞑想)を行っています これも「劇的に何かが変わった」とおっしゃる瞑想実行者の証言はありませんでしょうか よろしくお願いします …そもそも瞑想して賢くなるとはどういう意味合いで賢くなるのやら 暗算が得意になるわけでも、いろんな言語が話せるわけでも、いろんな単語が丸暗記できるわけでもなさそうだし 一番有力そうなのが「頭がスッキリしつづける」とか「劇的に集中力がアップしつづける」とかなのだろうけど 「俺も俺も」という証言者が少ないのが玉にきずかなぁ
集中力と観察力が頭の働きの基礎だとは思いませんか? 私にとっては瞑想で賢くなるのは明らかなことです。 証言者が少ないのは当たり前だからでしょう。また賢さにこだわる人も少ないでしょうから。
>>447 頭が良くなる云々は集中力と洞察力ももちろんあるだろうが
岡目八目の原理だな。対戦者よりも解説者の方が戦局が見えたりする。
まぁ傍観てことだろう。瞑想は関係ないなw
いや瞑想で傍観力を鍛えるべきかw
武道でいうと最強はやっぱり木鶏の境地だろう。 岡目八目と相通ずるだろうな。
450 :
神も仏も名無しさん :2013/01/16(水) 20:18:32.10 ID:MtDQE3kX
詰め将棋なんて良いかもね。
>>450 名人になった人でストーカーで話題になった人もいるから
何ともいえんなw
フォーカシングを身につけて物事を相対化して見るクセをつけるのが手っ取り早い。 本格的にやるなら瞑想だけど、漫然とやるのではなく意識や思考の中身にとらわれずに 全体の状態を見極めることが大切。下手に瞑想するくらいならフォーカシングを勧める。
そういや柔道の金メダリストでもアホやったヤツがいたよな 頭が良けりゃいい、強けりゃいいってもんでもないなw 欲望は一寸先も見えなくする典型だな
うどんの汁を思いっきり服にこぼしたとき、効果を実感したよ 以前なら慌てふためくか、怒りの感情が沸いてきたと思うんだけど 雨に濡れたのと同じ程度の「やっちまったな」的な感情が生まれただけで済んだ ヴィパッサナーやってる人なら感覚を理解、想像してもらえると思う
早い段階で反応を選べるのは大きい。サティを入れて気づくと消える。 岡目八目できると頭がすっきりする。フォーカシングでフェルトセンスを うまくとらえると負の感情が収まる。全部同じ現象。 よくよく見ると、ただ消えるのではなく進展している。
なるほど、なるほど。皆がんばってるね 悟りに最も近いスレだなw
このスレの人たちにとってJ・クリシュナムルティの言葉や書籍はどのように感じられますか? あの人はヒンズー教的や仏教的な瞑想を半分否定しているようです 少なくとも心の中でのマントラは嫌っているみたいです それでいて本人は「瞑想とは心を観察することだ」と言って方法を指定したことはなしときた
興味あるけどよく知らない。どんなふうに否定してた?
ごめんなさい 書籍が多すぎて引用しづらい どこが適切か分からない そのくらい瞑想に関して本人は「宗教的な瞑想とは違うんだ」みたいなことを言っていたような…?
>>455 > うまくとらえると負の感情が収まる。全部同じ現象。
> よくよく見ると、ただ消えるのではなく進展している。
>
ごめんなさい 最後の2行が実感できません
観察や慈悲の瞑想によって負の感情がなくなることは感じられますが
そのあと、負の感情が消えて「何か」が進展しているとおっしゃっているようなのですが、何が進展しているのか…?
そして進展している「もの」はいつ、どのように発動されるのか…?
見通しが立ちません
とりあえず「慈悲の瞑想」や「歩く瞑想」をもとに続けてみたいと思います
どうもありがとうございました>ALL
>>460 昇華が分かりやすい例。悔しさをバネにしたり、怒りのエネルギーや性的エネルギーを良いことに転化する。
あるいは、これまでの理解が消え去って、本質が見えてくるという場合もある。
本質と言ってもどこまで理解すれば終わりという類いのものではないけど。
怒りは集中力にも変化する 怒って悪いという道理はない
「クリシュナムルティの瞑想録」(平河出版社) 瞑想についてこれでもかというくらいに説明が書いてある。 ・瞑想は世俗からの逃避ではない。 ・瞑想は世界とそのあり方を理解することである。 ・瞑想は目的のための手段ではない。 ・瞑想において大切なことは精神と心の質である。 ・瞑想は沈黙を養うことではない。 ・瞑想は快美な体験に身を任せることではない。 ・瞑想は何か見えない道をたどって空想的な至福を実現することではない。 ・瞑想は始めを持たず、それゆえ終わりがない。 ・瞑想は新たなるものの不断の開示である。 ・瞑想は抑える間もなく勢いよく流れて、氾濫する川のようなものである。 ・瞑想のさなかにある精神は、真に宗教的な精神である。 ・瞑想の行為にとりかかろうと試みることは、瞑想に入ることではない。 ・瞑想はふと窓を開け放てば吹き入る微風のようなものである。 ・瞑想を行うことは至難の業である。それは最高度の規律を必要とする。 他多数
「クリシュナムルティの瞑想録」p118より引用。 瞑想は単に何か日常的な思考や感情を超えたものを経験するだけのものでもないし、幻想や喜悦を 追い求めることでもない。意識の拡大するような幻想を抱いたり、何かを経験してそれに自らの制約性 が影を落としていることに気づかないのは、未熟で卑小な精神である。ところが世間ではそのような未熟 な精神が大成功を収め、有名になり評判になったりしうるのである。そうした未熟な人間たちが従う導師 たちもやはり内実において従う者たちと変わりない。 瞑想はこうしたものとは無縁である。それは探し求めて得られるものではない。なぜならば、探求にとら われている者は、なるほど求めているものを見出すかもしれないが、それによって得る慰楽は、自らの 恐怖に根差した道徳の枠を超えられないからである。 信念とドグマの人はいかにあがいてもついに瞑想の領域に踏み入ることはできない。瞑想を行うためには、 自由であらねばならない。まずはじめに瞑想があり、次に自由がやってくるというわけではない。 自由――すなわち社会道徳とその諸々の価値を全的に否定すること――こそは瞑想のはじめのものである。 それは多数が参集して祈りをあげるといった公の事柄ではなく、ただひとり常に社会的行動様式の枠を 超越して立っていることである。なぜならば心理は思考が作り出したものや思考がこねあげて勝手に真理と 呼んでいるようなものの中にはないからである。そのような思考の全構造を全的に否定することが、瞑想の 持つ積極性なのである。 ご参考までに。
訂正(下から3行目) × なぜならば心理は思考が作り出したものや ○ なぜならば真理は思考が作り出したものや
466 :
神も仏も名無しさん :2013/01/17(木) 08:10:30.72 ID:YftKuPej
>>462 怒っているときは幸せではないし、くつろいでいない。
幸せでくつろいでいるときは怒っていない。
仏教がめざすのは、幸せでくつろいだ人生。
だから怒りは消すほうがいい。
467 :
神も仏も名無しさん :2013/01/17(木) 08:12:12.08 ID:tPjRpCQU
なんか良スレ。みんな頑張っている。
468 :
神も仏も名無しさん :2013/01/17(木) 08:13:48.38 ID:YftKuPej
仏教は四諦が基本。 悩み苦しみの原因を消して悩み苦しみを消すのが仏道。 めざす方向性をまず理解したほうがよいのでは。 というか、四諦に賛同する者が仏教徒なんだと思う。
ちょっと遅レスだが 瞑想で頭がよくなるかどうかだけど 英語のヒヤリングは上達した。 あと、なにか判断する時に私情を挟まず最適な選択ができるようになったので 外から見てると、頭が良くなったように見えるかもね。
瞑想初心者が、指導者に直接教えてもらえない状況ではじめるのに適した方法ってある? どれ式がいいのか、とか情報ごっちゃでよくわからないし、近くにセンターとかもないんだ。
471 :
神も仏も名無しさん :2013/01/17(木) 15:58:25.26 ID:YftKuPej
>>470 スマナサーラ長老のとこは、わりといろんな地域で冥想会などやってると思う。
私は、日本テーラワーダ仏教協会のサイトで近所(隣の都道府県)で
初心者冥想指導をやる日をみつけて、そこに参加した。
最初だからこそ、直接指導を受けたほうがいい。
自己流でやってると、「これでいいんだろうか?」と常に迷いが出るので。
>>466 怒りが起これば、それを抑えろというだけで
別に怒りを消せというわけではない。
勘違いしないように。
道理の通らない宗教殺人やいじめ問題など怒りなくして
解決するわけがない。
怒りすぎて感情的になり判断力を鈍らせるなということに過ぎない
仏の顔も3度までというのは、怒りを消すのが愚行ということを 示している。 1度で済むことを3度まで引っ張るんじゃないといえる。
>>466 は上座部修行者としての答えで
>>472 は大乗的な視点からの答えに何となく見えました
私は今の時点では怒りは不要との立場に傾いています
怒りがないと宗教殺人やいじめ問題は本当に解決しないのか?
また怒りがあると上記問題をどのように解決できるのか?
そのあたりが今のところまだ理解できていないので教えてほしいです
怒るのではなく、悪いこと、無駄なことは、論理的に否定すればいい。 もし怒るなら行為(悪事)に対してであって、行為者には怒らない。 むしろ、そういう行為をしてしまう行為者の境遇や業の深さに慈悲の気持ちを。 誰しも幸せになりたいのであって、悪事を働きたくて生まれてくるわけではない。 問題は悪事であって、誰かを一方的にただ裁くだけの慈悲のない世の中では、 また別の悪事がカタチを変えて起こるだけでしょう。 悪事は世の中の思いやりのなさゆえに生じるのだから。
476 :
神も仏も名無しさん :2013/01/18(金) 08:16:10.63 ID:CnXsyhZ6
>>474 人間に攻撃されるのと台風に攻撃されるのとどうちがう?
台風も悪い人も世の中にはある。
しかし、自分達はそんな世の中でも善良であろうとしなければならない。
>>474 怒りは力です。問題を解決するのは力です。
思考するにも力が要ります。
怒りとは問題に力が集中することです。
怒りがなければ犯罪は放置されます。
宗教テロに立ち向かうには怒りは必要不可欠です。
>>477 ご返答ありがとうございます
怒りは力との前提を正しいと仮定してお聞きします
怒り以外の感情は力にはなりえないのですか?
この世に不要なものなどない。
>>478 力になるから困りものなのです。
快楽を求める感情は無為に人を傷つけます。
怒りは無差別的に人を傷つけるものです。
怒るにしても快楽を求めるにしても対象を明確にする作業は
必要といえます。いかなる感情も暴走は傍迷惑なものです。
>>479 この世に不要はあります。
50キロ制限の道路を100キロで走る、あるいは20キロで走るようなものです。
>>480 よく理解できない点があります
怒り以外の感情も力になるということですが
ではなぜ怒りが必要不可欠なのでしょうか?
50キロ制限の道路は、50キロまでの速度でそれ以上超えないように走りますか?
>>482 怒りとはエネルギー変換と考えればいいです。
集中力と密接に関わります。
緊急時の対応には多くのエネルギーを消耗します。
あくまでケースバイケースなのですが、
モチベーションの維持にも怒り要素は不可欠です。
怒りとは喚き散らすように思われているかもしれませんが、
静かなる怒りのようなものと捉えて下さい。
物事を慎重に運んだり問題解決するためには不可欠な要素なのです。
>>483 流れに沿うことを言っているのであり、
ケースバイケースでもあります。
前の車が50キロで走っていたとして、それ以上に出そうとしても無駄です。
前に車がいないとして何キロで走ろうが自由ですが何故50キロ制限かを
考えればスピードはその辺りに落ち着きます。
不要とは無駄ということです。 無駄なものはこの世にいっぱいあります。 不要なものはこの世にいっぱいあるといえます。
>>485 >流れに沿うことを言っているのであり、
>ケースバイケースでもあります。
流れが60キロだったらそれに沿うわけですね。
制限速度10キロオーバーで道路交通法違反だとわかってもそのまま走り続けるのですか?
別に絶対に法規は守らなきゃいけません、ということを言ってるわけではなくて、
違反している事実をどう見てるのかな、という点ですね。
>>487 違反しているのは事実です。
でも何も問題ありません。
切符切られたら諦めるだけですね。
>>484 ご返答ありがとうございます
ただ、まだ理解できないでいます
ケースバイケースということですが
どのようなモチベーションの維持には怒りが不可欠で
そして不必要なのでしょうか?
>>489 例えば何か犯罪被害にあったとします
あなたは知らん顔でなされるがままですか?
抵抗しませんか?
笑顔で対応しますか?
>>488 問題ないということは、後ろめたさや良心の呵責は消えて、違反しているという事実だけが残るということでしょうか?
>>491 ハイ。10キロオーバー程度の違反に良心の呵責を覚える方が異常です。
公には余裕で認められています。
>>492 異常だと思ったことに対してはなにか気づきはありますか?
>>493 良心の呵責を覚える人は自分に捉われてるでしょうね。
潔癖症みたいなもんです。女性に多いヒステリーと関連性が強いです。
>>490 なるほど
確かに私に置き換えて考えてみると
罪を犯した人の性格や私との関係性などを考慮してケースバイケースで対応すると思います
その際、慈悲の心で対応することにより犯罪者が改心する可能性はないのでしょうか?
>>494 自分に捉われ、潔癖症で、女性に多いヒステリーが異常だと思ったことに対してはなにか気づきはありますか?
>>496 自尊心というかプライドですね。無いに等しいものへの捉われです。
つまり錯覚ですね。
>>497 貴方の見方によれば、制限速度を超えずに車を走らせる人の遵法精神は異常だ、ということでよいのでしょうか?
>>499 それは異常ではない。
異常なのは必要以上にナーバスになること。
>>500 慈悲の心で何とかできるという錯覚が潜みます。
腹をすかして気が立っているライオン、トラ、犬なんでもいい
食べ物なしで、慈悲心だけで接触することができると思いますか?
>>502 もし可能であれば比喩でなく
客観的なデータや論拠を示してほしいです
>>503 犬で実際試してみるとよくわかると思います。
でも一概に慈悲心を否定するわけでもありません。
相手の立場、感情などを考慮することは大切な事です。
>>504 私も慈悲心は大切だと思います
ただ、その比喩が本当に理解できないのです
慈悲の心で対応しても犯罪者の改心する可能性はなぜないのか?
比喩でなく客観的なデータや論拠を提示していただくことはできませんか?
>>505 そういう事例に >客観的なデータや論拠 があると思ってんの?
アホとしか思えんw
>>506 例えば、犯罪者更生施設の対応の違いによる再犯率の統計など
論拠となるデータがあれば私はいつでも態度を変える準備があります
>>501 ですが、遵法精神のある人が、制限速度超えたら、途端にいけないと思って減速すると思います。
もしそのまま走り続けようとしても、良心の呵責が起きて出来ないと思いますが、それほどでもない
人から見れば、必要以上にナーバスに映ることでしょう。
なので、同じ良心の呵責であっても、遵法精神がある人は異常ではなく、それほどでもない人は異常
という判断がよくわかりません。同じ制限速度超過であっても、問題ないケースと問題あるケースの違いは
ドライバー側の主観によるという考え方は、道路交通法の運用という観点から適切とは言えないような気がします。
道路はドライバーだけのものではないと思うからです。
その時、その場で潜在意識的に強く当たり前のように都合よく考えてしまうということもあるのではないでしょうか。
>>505 犯罪者の堅固な思い込みを解放するのはその場の慈悲心じゃ無理ですよ
なんたって捉われてますから
子育てしたことある人ならわかるでしょうが、経験により知るしかないですね
慈悲心だけで他人の泣く子が泣き止むわけがありません。
>>509 犯罪者の堅固な思い込みとは具体的に何を指しているのかよくわかりません
犯罪者以外の堅固な思い込みとの違いは何なのでしょうか?
また、堅固な思い込みというものがあるとして
その場の慈悲心では無理ということであれば
その場ではない慈悲心では可能ということでしょうか?
>>511 ケースバイケースとしか言いようがありません。
>>512 ・犯罪者以外の堅固な思い込みとの違いは何か?
・その場ではない慈悲心では可能か?
2点お伺いしたのですが、ケースバイケースというのは
どちらに対するお答えですか?どちらもでしょうか?
ちょっとよくわからないのですが
>>513 なんでそんな難しく考えるのさw
世の中には、話して分からん相手も居るってだけの話だろ?w
>>514 だとすれば話して分かる相手もいるということだと思います
私はだからこそ、慈悲の心で接しても犯罪者は絶対に変わらないとすることが
腑に落ちないので、その部分をいまたずねているのですよ
>>513 違いは価値感だと思います。
ケースバイケースというのは慈悲心でも可能なケースがあると思います。
ですが付随する論理性を併せ持たないと難しい気がします。
確かに
>>514 さんの通り単純な話です。
517 :
神も仏も名無しさん :2013/01/20(日) 00:43:37.80 ID:5PO+BXMU
怒りが減る(慈悲が増える)ほど、自分の悩み苦しみが減るのです。 犯罪者に好き放題されてもまったく「嫌だ」と感じない心になれたら、 犯罪者に何をされても悩み苦しみを感じないで笑っていられたら、こんな幸せな人間はいません。 犯罪者を改心させるとかは、オマケの話です。 仏教は、悩み苦しみの原因(煩悩)を制御したりなくしたり したほうが悩み苦しみがなくなるから、そうしましょう、という教えです。 怒りがな人間は幸せだというのが仏教的な考え方です。
つまり、怒りは出るけども、それに捉われない、ということでしょうか?
>>516 慈悲心でも可能だが難しいということですか
そういうことであれば私も理解できます
だからこそ慈悲心を養うのが修行とされているのだと思いますから
犯罪者間でも価値観は違うと思うので「犯罪者というものは」と
ひとくくりにするのは止めませんか?
犯罪自体も動機も多種多様ですし、無理があると思います
目の前で娘や奥さんが犯されようとしています。 腕力では複数の犯人に勝てそうにありませんが、傍には鉈が置いてありました。 次はどうすればいいのでしょうか? 私なら鉈を振って切り殺すかもしれません。
>>520 知人とそういう話をしたことがあったので
今回いろいろと話を伺ったのもあります
まさに今のチベットがそういう状況にありますね
それでも彼らは焼身を選んだ
仏教徒にとっては難しい問題と理解しています
>>521 自分が死ぬのはいい。勝手にすればいい。
だが、そのために、
「同意していない(価値観を共有していない)他者」(或いは身内・知人等)
を道連れにすること(その他者にも命を捨てさせること)は許されるのか?
>>522 補
チベットの焼身自殺がそうだというのでなく、
抵抗せず(危害を加えようとする者を害することを避けるため)にすますことが
例外なく是とされるかどうか?という点で。
自分の身に今起きていないことをあれこれ妄想するのは、 そもそもいけないことだと仏陀が教典で話しております
>>524 一例を挙げれば、
大般涅槃経に阿難への教誡があります。
女性とのかかわりについて。
(欲望が起きないように)
『見ないようにしなさい』
「見なければならないときは?」
『喋らないようにしなさい』
「話さねばならないときは?」
『触れないようにしなさい』
「触れねばならないときは?」
『念を確立していなさい』 と。
(少なくともお経の中では)、
今起きていないことについて事細かに語られていますけどね。
>>525 それは普段誰にでも起きているようなごく一般的な出来事についてでしょう
妄想しないというのは特別な事柄についてですよ
>>525 衝動的欲望を生まないための教えであり事実だが、
それとこれとは別もので問題があるなら解決した方がいい。
>>522 さんの問題提議はその通りであると思う。
無抵抗主義の目的は被害を最小限に抑える優れものだ。
だが、それを遂行するにあたっての被害の考慮は考えなければならない。
相手が国を乗っ取ろうというのに無抵抗主義だけで乗り切れるわけがない。
洗脳からなる盲信は絶対に捨てるべきだ。
まして焼身自殺など何の効力も持たず、周囲の影響を考えないものであり
被害をいたずらに拡大するのは明白だ。
そもそもの被害を最小限に抑えるという理念から逸脱するものだ。
釈迦の基軸もカースト含めた諸々の洗脳から脱するというのが真の目的であり、
釈迦に洗脳されることが釈迦の意に適うとは決して思わん。
528 :
神も仏も名無しさん :2013/01/20(日) 17:13:58.93 ID:5PO+BXMU
>>518 できるだけ速やかに怒りを冷ますようにするのが大切ですね。
529 :
神も仏も名無しさん :2013/01/20(日) 17:19:53.07 ID:5PO+BXMU
>>520 究極の理想は、怒りを伴わず冷静なままで、鉈を使って危険を回避。
料理人が野菜を切るときにいちいち怒りを爆発させない。
そのように鉈を使えばよい。
ただし、仏教徒は殺人禁止だから、とどめをさすのはダメ。
慈悲の心で相手のダメージは最小限に。
530 :
神も仏も名無しさん :2013/01/20(日) 18:39:31.00 ID:mSLpXj39
悩みがあります。知人とちょっと口喧嘩になり、いちおう和解っぽい所まで来たものの、思い出すとむしゃくしゃします。 そこで心の整理をつけたいのですが、そういう時は皆さんはどのようにされていますか? 一番疑問に思うのが「思考」の扱いです。仏教では思考は否定的に扱われると聞きました。 けれども、今回相手にどう言うのが適切か等のように、重要な決定をしないといけない時、 いくらかは思考する必要がありませんか?そんな時はどのように思考すればいいですか?瞑想しながら思考するんですか? 過去レスにアナパナでは呼吸の観察ではなく呼吸していることさえ分かっていれば良いとありました。 また、呼吸に気づいていることで思考とは距離をおくことができるという話もありました。 とすれば、呼吸していると分かりながら思考することで、思考の渦中に入り込まずに、冷静に考えられると思いました。 この考えはどのように思われますか?
532 :
神も仏も名無しさん :2013/01/23(水) 00:16:48.61 ID:1TsOLw+l
>>531 思考する必要があるときに思考するのはオッケーだと思います。
問題は、感情、煩悩です。
欲・怒り・怠け・パニック・プライド等を戒めるよう注意が必要です。
私の場合は怠けが強く、他人に何かを説明するときなんかも、とにかく早く済ませたくなります。
しかし、そのせいで言葉足らずになったりします。
仕事でもなんでも、すぐに怠け癖が出て、新しいことに挑戦とかを後回しにしたくなってしまいます。
そんなときは、「これは怠けの煩悩ではないか?面倒だけど必要な仕事なのではないか?」と自分に問いかけます。
我見を交えない、ただ論理的な思考はなんら問題ない ただ、自分で論理的と思っていても、無意識に自分に都合のいい論理を選び、 我見が含まれてしまうのが普通の人間だからむずかしいね 呼吸は感情の制御になる そして心の特徴として、人は一度にひとつのことにしか集中できない 呼吸の観察に集中できてるときは怒ることはできないし、 怒ってるときは呼吸の観察に集中しようとしても、おざなりにしかできない だから、なるべく呼吸に集中したままに、その合間合間に思考すれば、 感情の入らず、我見にならない、ただ論理的な思考になりやすいはずです
私は瞑想中は瞑想に、この場合は呼吸のみに集中すべきと思います。 瞑想が終わってから思考することできっと瞑想前より、落ち着いた真っ当な結論がだせると思います。 少なくとも怒りに任せた解決法には向かわないと思います。
>>531 なぜ悩むのか?
それは脆弱性に他ならない。
むしゃくしゃを寄せ付けない心に成長するまでは
解決する見込みはないです。
536 :
brown :2013/01/26(土) 04:39:38.34 ID:QDNBOKXf
>>531 なぜ思考が私に属しているように思うのか,なぜ私がむしゃくしゃする
ように感じるのか,なぜそれが長引くように感じるのか,なぜ相手の
ことを思い出すと感情が呼び起こされるのか?
これら全ての基盤が思考だからです。
それはどのように工夫しようが,選択しようが,理由付けしようが,
単に罠であって,そのトラップから抜け出す方法はただひとつ,
思考を捨て去ることです。
そう言っている次の瞬間にも,「いや,でも,思考を捨てたら・・・」
と別の思考が続いていく。
そのループ,継続,習慣的パターン,・・・これを最高の注意力,努力,
観察力,粘り強さをもって静めていくとよろしい。
そうすれば,今まで生まれてこの方一瞬たりとも経験しなかった,
思考という幻術師である仲介者にだまされることなく,直に見る世界を
初めて見ることができる。
>>536 犯人は思考だけではない
むしろ思考を捨てることが問題の放棄に繋がることになり
実の所、そこから脆弱性の発信源となる。
問題を真摯に見つめそれを克服していくことが強靭性に繋がる。
そこに直に見る世界とか余計な思考は一切必要ない。
さしあたって重要なのは余計を取り除くことにあるのは当然。
無明が問題の発信源であるのは間違いない 個人の問題などたかが知れている
思考力なさそうな感じだな。
540 :
531 :2013/01/27(日) 23:30:10.29 ID:EWTF6l0R
回答ありがとうございます。知人との口論の件はおかげさまであっさり解決いたしました。
一方、思考の扱い方についてですが、レスを参考にあれこれ試しましたが未だに明確な答えを得られていません。
まず整理してみます。
思考そのものを悪とする
>>536 さんの立場と
必要な思考は思考すべきとする
>>532 さんや
>>533 さんや
>>534 さんの立場と
思考ではなく脆弱性が問題とする
>>535 さんの立場があることが分かりました。
必要な思考は思考すべきとする立場では、思考時に感情が問題となる点で一致しています。
ただ、呼吸の瞑想によって感情の制御になるので、呼吸に集中しながら合間に思考するという立場と、
瞑想中は瞑想に思考中は思考に集中すべきなので、瞑想が終わってから思考するのが良いという立場がありますね。
いろんな立場がありますが、これらは場合によって使いわけるものなのでしょうか?そうだとしたらどんな場合分けですか?
それとも一部だけが正しいのでしょうか?そうだとしたらどういう理由ですか?
個人的な感想を申しますと、私の場合は瞑想超初心者ですので、瞑想と思考を組み合わせる恩恵があまり得られないような気がしています。
しかし、全く効果を感じないわけではなく、途切れ途切れではありますがうまく呼吸に集中できている時がありまして、
そういう時には冷静な思考と明晰な洞察が得られるような感じがしています。
したがいまして、瞑想中の思考は初心者向けではないけれども上級者になると活用できるのではと疑問を持った次第です。
けれども、指摘がありましたように瞑想後に思考するのでも効果がありますので、必ずしも瞑想中に思考する必要がないということに気づきました。
よろしければ、なぜ瞑想中は瞑想に集中したほうが良いのかご教示くださいませ。
まあ、ハッキリ言うと、どれも同じことを少し違う側面から言ってるだけだと思うよ やってみて、それなりに効果を感じたりしてるみたいだし、 いろいろやってみたらいいんじゃないかな 人によって思考の仕方や、思考への感情や観念の入れ方、 言葉や言葉の意味への執着の仕方など違うから、万人に合う正解はないと思う いろいろ試していきながら、 効果がはっきりしてきたことを続けていけばいいんじゃないかな
542 :
神も仏も名無しさん :2013/01/28(月) 08:11:47.37 ID:cmaRfLCB
>>540 とにかく、自分の感情に早く気づいてすぐに冷静な状態に戻ること、
怒りを長引かせないことが重要だと思います。
あとは、身は不浄であり、受は苦であり、心は無常であり、法は無我である、
ということを心の底から理解するために修行しているのだ、
それを理解できれば感情も穏やかになるし冷静に思考できて悩みも減るのだと、
目指す方向性を再確認するのがいいと思います。
>>540 >>なぜ瞑想中は瞑想に集中したほうが良いのかご教示くださいませ。
それはその人が瞑想の目的をどこに置くのかというところです。
このスレはマハシゴエンカパオ☆ヴィパッサナー瞑想法のスレですので
スレのテーマに従うなら、スレ住民の多くの人にとって、
瞑想は解脱を目指すためのものですので、
その目的にむかって行います。
これらヴィパッサナーの指導者に、瞑想しながら考え事をしてもいいか?と尋ねたら
まず、否と言われると思います。
もし思考を解決するのを目的とした瞑想をしたいのであればなにか他の瞑想法にするのが
よいかもしれません。
またこりもせずbrowちゃんでてきてたのかよ。 心の栄養について、でたらめ回答して 間違いを指摘されてそのまま..
545 :
brown :2013/02/04(月) 23:19:23.65 ID:0pcvvhUj
>>540 思考に集中しても思考しないことに集中しても,実はどちらでもいいんですね。
もし思考しないことに集中するのであれば,
「瞑想中は瞑想に集中」することが既に別の思考なので,
それを捨て去ることに集中していくことになります。
もし思考することに集中するのであれば,
例えば,「私が○○を思考する」というとき,その思考している私はまた
別の思考なのか,思考されている○○はまた思考なのか,思考が思考する
とはどういうことなのか,ところで,「思考が思考するとはどういうこと
なのか」などと思考しているのは誰で,それはどういうことなのか,
と思考していくことになるでしょう。
160 : 神も仏も名無しさん[sage] : 2009/11/26(木) 20:50:45 ID:hRuh2foP ど忘れしたのでちょっと教えてほしいのだけど、 人間には四種の滋養、栄養があると仏教では説くけれど、 その四種って、何でしたっけ?
162 : brown : 2009/11/30(月) 00:09:00 ID:C4JlFr+m
>>160 人間には次の四種の滋養,栄養があるのです。すなわち,水分,炭水化物,たんぱく質,脂質などの栄養素の滋養が一種の
滋養,栄養です。また,褒められる言葉,励まされる言葉,温かい言葉,気にかけてくれる
言葉,これらの言葉が一種の滋養,栄養です。 また,善行,仏道の修行,瞑想,仏教の知恵,語り合う友達,修行の成果,
禅境,経典これらの法悦が一種の滋養,栄養です。しかし,これらの功徳の高い滋養,栄養よりも,もっと悦ばしい滋養,栄養が
あります。それが第四の滋養,栄養なのです
163 : 神も仏も名無しさん[sage] : 2009/11/30(月) 00:14:14 ID:F7RZlRLj
おまえ嘘教えるなよ。大悪だぞ。
165 : 神も仏も名無しさん[sage] : 2009/11/30(月) 19:46:06 ID:kXMpjZsc
>>162 ありがとうございます。別のスレで、四種の栄養素のことを、「四食(段食 触食 思食 識食)」と
教えてもらったのですが、brownさんの言われる法悦よりも大きな、第四の滋養とは
何でしょうか。
unkar.org/r/psy/1252766603 w1.log9.info/~2ch/2011101/psy/1252766603.html 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践5 >160 162 163 170
550 :
brown :2013/02/10(日) 17:43:15.07 ID:QmPx1b4f
>>548 それで,第四の滋養,栄養とはなんだったのでしょう?
気になるところですね。
この文脈でいくと,あるがままの完全性のことをいってるのでしょうね。
修行の成果としての瞑想ではなく,原初の方より完全な形で,全ての事象に
あまねく浸透しており,いかなるものにも妨げられることがなく,
途絶えることのない無量の,大楽の境地のことをいうのでしょう。
我々はそれを発見でき,発見すれば,それがそうだと知るようになります。
そして,そうと知ってみれば,実はそれは遠くにあって手の届かない
滋養,栄養なのではなく,実のところ,そうと知らないうちから,
常に,いかなる人にも備わっており,与えられており,享受しており,
(無自覚かもしれないが)感受しており,生かされているものなのです。
551 :
brown :2013/02/10(日) 17:53:44.66 ID:QmPx1b4f
どのような人にも,どの瞬間にも,その大楽の境地は訪れていますが, しかし,思考や感情,欲望,いらつき,心の動揺,習慣的な反応,枠組み, 思い込み,カルマの力,心の汚れ,・・・といったものが, これまた全ての瞬間ごとに,毎回毎回視野を色付けし続けるために, 結果的に人々にはそれがそうだと認識できないようになっている訳です。 ですから,瞑想とは,そうしたものを取り除いて,素直に見ればそこにある ものが自然に知られるようにする作業なんですね。 そうして知ってみれば,もはや,そうした障害物を取り除く必要すらない ということにも気づくようになっていきます。 というのは,そうした障害物も完全性の一部だからです。
552 :
ベゲザンピーク :2013/02/11(月) 16:01:51.06 ID:kUjOIvxt
>>551 オンレイレイピワンダラピスーダラピッタラー
553 :
神も仏も名無しさん :2013/02/13(水) 03:10:29.67 ID:saz3lwEV
生きとし生けるものが幸せでありますように
>>550 過去ログ>170探ればでてくるよ。7/16 H
境地についてはなんもいわんが,,,
間違った知識内容を自信満々に書くのはやめてあげてね。
瞑想って自然にできるので「どうやったらいいか」と問われても答えようがない。 それより何故できないのか不思議で仕方ない。 瞑想の達人というのは、もともと瞑想が下手で苦労してやっと出来るようになった人なのだ。 だからその過程を人に教えることが出来る。 数学の才能のない人が大学の数学者として優秀なのと同じだ。数学に秀でた人は元から数学 が出来るので、判らない人の気持ちは分からない。だから学生に教えたりすることは出来ない。 才能のない人からこそ学ぶのだよ。
556 :
神も仏も名無しさん :2013/02/19(火) 04:58:12.26 ID:1zWAWd3G
>Q: 諦めるということは、受け入れるということですか。
>
>A: そうですね。認めること、つまり、受け入れるということです。それに対して、
>対立して戦わないことです。希望を作って、現実と戦かおうとするでしょう?
>希望というのは妄想概念。妄想概念を持って戦うことはやめるということです。
http://www.j-theravada.net/qa/gimon65.html 受け入れられません。
どうしたら良いのでしょうか?
557 :
神も仏も名無しさん :2013/02/19(火) 08:13:25.23 ID:qO73HJOc
>>556 受け入れられるようになるために修行するのでしょう。
まずは、受け入れたほうが悩み苦しみが減って平安だ、という理屈に賛同するかどうか。
それに賛同できた人が仏教徒。
まず仏教徒になって、そこから、実際に受け入れられるようになるための修行が始まる。
558 :
神も仏も名無しさん :2013/02/19(火) 08:18:36.06 ID:qO73HJOc
たまに、「何のために冥想するんですか?」という人がいます。 何のためかわからずに冥想を始めてるのは不思議ですが、そのように、 何のためにやってるのかわからずなんとなく冥想をしたり仏教書を読んだりしている人が、 けっこういるので驚きです。
559 :
神も仏も名無しさん :2013/02/19(火) 13:44:27.84 ID:0oh8CySg
1.単に目標を見失った 2.瞑想のやりすぎで目標を見失った 3.瞑想のしすぎで過去の自分の不幸がなくなったため目標を見失った …その他「過去の自分は不幸だったから瞑想して自分を変えて問題を克服しよう」と思っていたら 瞑想をしているうちに振る舞いや環境などが変わって不幸や問題が消えてしまった これを観察するのを忘れたために起きる史上最大の「痴」が発生したのではなかろうか? 不幸感を感じなくなってそれを観察するのも忘れたからというのもあり 要するに「瞑想による観察不足」こう仮説を立てる
不幸な映画を見ても不幸じゃないんだろ。不幸でもいい映画には感動がある。 人生を芸術に高めるのが瞑想だ。 こういう仮説を立てる人は智慧があって幸福なのだよ。
気づきを入れる時、声帯を使って喋っているせいか 息苦しくなるのは、俺だけ?
俺元水泳部でたまに泳ぎに行くけど水泳自体がヴィパッサナーだと思ったわ 1時間ぐらいゆっくり泳ぐんだけど自分の体の姿勢を頭から爪先まで確認しつつ クロールで指を入水するタイミングや角度それからどこまでのばして どっから肘を立てて水をつかむかってもう細かいことを確認しながら無心に泳いでるわ 多分陸上とかの選手でもフォームとか注意しながら走るんだと思うけど それもヴィパッサナーだと思う 男とか若いやつでじっとしてるのが苦手な人はこういう形で瞑想してもいいんじゃないかな?
普段自分の体のことなんか忘れてるからね。 風呂に入るときに水面と自分の体の設置面を意識したり、 またいわゆる歩行瞑想=意識的な歩行もそれと似たような作用があると思う。
カバットジンの本でも、精神を患ってじっとしていられない女性が、 座るかわりに歩く瞑想をしてた例があったな。 要するに、一挙手一投足、マインドフルになることでいいのだと思う。
スポーツを瞑想に利用するのは色んな意味でいいと思う。俺はマラソンだけど 健康にもいいし、仕事で悩みを抱えているような時でも、ひとっ走りするとフッ飛んでしまう。 そういう浄化作用があって、日常から瞑想に切り替えるような時には特にいい。 最終的には坐禅が一番いいと思うが、走る習慣があると意識の重心が下がる所為か坐禅に入りやすい。
566 :
神も仏も名無しさん :2013/02/24(日) 08:04:20.15 ID:eDkHiOuW
みなさん、ヴィパッサナは独習ですか、それとも一度はセミナーに行ってるのでしょうか。 独習は可能なのでしょうか?
567 :
神も仏も名無しさん :2013/02/24(日) 10:17:10.91 ID:onMovoTj
>>566 スマナサーラ長老(日本テーラワーダ仏教協会)の初心者冥想指導を受けただけです。
>>566 >>567 みたいなのを受けたけど、今となってはすっかり忘れてしまった気がする
だからもっと勢力を拡大して講師が増えて欲しい
独学じゃ危険な気がする
禅宗のほうがテーラワーダより数が多いイメージがあるし、結局勢力に帰結するんじゃないかと
もちろんカルトになっても困るけど…
569 :
神も仏も名無しさん :2013/02/24(日) 12:53:25.69 ID:eDkHiOuW
>>566 ですが、レス有難うございます。
DVDや本を買って自分なりにやっていますが、道場というか
そういうところだと瞑想の進み具合を修正してくれるような
ので、やはり一人では難しいのかなと思っていました。
本とかはだいぶ増えたね。ワークショップも。 井上ウィマラさんが、これからの仏教のありかたを訊ねられて、 昔のように宗を立てるのではなく、瞑想の種を撒いていけばいい、と 言っていた。 玉石混合になっても困るが、いまは情報かも進んでいるから、 そうそう怪しいのには引っかからないだろう・・・
本やDVDでは伝えられないものがある。自分は禅宗の接心を受けたが、それだけで 全然違う。
そんなお人がいまここで何してるの
573 :
神も仏も名無しさん :2013/02/25(月) 22:49:48.65 ID:FxpJVbZQ
>>571 >>566 ですが、やはりそうでしょうね。言外の機微とでもいうのでしょうか。拈華微笑ですね。
以前、臨済の僧堂に参禅していましたが、週一回の参禅ではやはりなかなか難しい。ましてや今では家でゴロゴロ。もう一度やり直しますか。
574 :
神も仏も名無しさん :2013/02/26(火) 00:43:42.72 ID:m/evk8Rf
目を閉じて瞑想してると無意識にめちゃくちゃ寄り目になってるらしくて目が痛い
575 :
神も仏も名無しさん :2013/02/26(火) 01:11:13.42 ID:pp1sTsSp
マントラ系の冥想や念仏を集中的にやると、頭の前の方(前頭葉?)が痛くなることがある。 脳のその部分ばかりに負荷をかけるからだろうか?
たまに接心に参加するだけで効果があるなら、禅宗のお坊さんってやはりすごいんだな。
577 :
神も仏も名無しさん :2013/02/26(火) 23:26:14.75 ID:1629vYLq
ゾクチェンをやっている方います?
>518 怒りが薄くなる、怒りがまとわりつかなくなる、怒りがすぐ落ちてしまうようになる
580 :
神も仏も名無しさん :2013/03/01(金) 06:17:51.52 ID:BJ1jlPsA
>>579 お前がやってないということだけは分かったよww
ぐわ、調子悪い!70分で集中とぎれた
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の他に仏なし 衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり 長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず 六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離るべき それ摩訶衍の禅定は 称嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等 その品多き諸善行 皆この中に帰するなり 一坐の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣何処に有りぬべき 浄土即ち遠からず 辱なくもこの法を 一たび耳に触るる時 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし いわんや自ら廻向して 直に自性を証すれば 自性即ち無性にて 已に戯論を離れたり 因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 無相の相を相として往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡うも舞うも法の声 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに 当処即ち蓮華国 この身即ち仏なり
583 :
神も仏も名無しさん :2013/03/02(土) 15:40:36.25 ID:wDccpOWD
白隠の坐禅和讃かな。 でも唐突になんで?
>たまに接心に参加するだけで効果があるなら、禅宗のお坊さんってやはりすごいんだな。 別にすごいってことはないと思うが、例えば昨日、塚原卜伝で1000日修行をやっていたが 坐禅の姿をみてると未経験者ってのが直ぐに解る。たたずまいに静けさがない 多動症の人がいるが、禅の坊主から見ると一般人はみな多動症に見える。それだけ静かさを 保つことが出来る。 接心を一回受けた人なら恐らく1/3くらいの人は坐禅の本質(静寂)を掴むことが出来ると思う。
>以前、臨済の僧堂に参禅していましたが、週一回の参禅ではやはりなかなか難しい。ましてや今では家でゴロゴロ。もう一度やり直しますか。 思い切って、一度接心を受けることをお勧めします。 坐禅は特定の周波数にチューニングする感じですね。普段はダイヤルをクルクル回し続けて いるので、その周波数に当たっても通り過ぎて気が付かない。ところが非常に静かにチューニング し続ければ、そこに当たる。そのコツを一旦掴めば、近傍までグッとダイヤルしてそこから スッとと合わせることが出来る。 接心では、一切の会話を断って静かに坐り続けますから、コツを掴む環境が調います。 一日坐禅会などは騒々しいだけで、初めての人がコツを掴むには向きませんね。既に坐禅を マスターした人が交流の場とするのならいいですが、これからマスターしようとする人には あまり良くない気がします。 坐禅は積み重ねではないです。まず掴むことが大切です。最初は丁寧に思い切って坐禅のため だけに時間をかけることが大切です。
586 :
神も仏も名無しさん :2013/03/03(日) 09:31:09.56 ID:azQsa0Sj
ブッダ最後の旅 岩波文庫 中村元訳 大パリニッパーナ経 P158より さあ 修行僧たちよ。お前たちに告げよう もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ること無く (ぼんやりと放心することなしに、気をつけて) (不放逸にならないように、気をつけて) (appamadena sampadetha. = sati-abippavasena sabbakiccani sampadeyatha.) 修行を完成させなさい と これが修行を続けて来た者の最後のことばであった。 (一切の教えを怠るなかれという唯一つの句のうちに要約して与えたのである。)P295
588 :
神も仏も名無しさん :2013/03/05(火) 22:19:13.91 ID:zRwhaAr1
ヴィパッサナの講習を受けたいのですが、どこが良いのでしょうか。 東京近辺です。
ネットで調べてみると、ヴィパッサナー10日間研修で深い経験をする人の話より、 なんにも経験せず、ただ眠いだけだったという人たちが研修終わって互いに話し合った体験話の方が妙に現実味がある。 東南アジアでは盛んなようだが、何年も瞑想しているのにほとんど進まない人たちが大勢いるという書き込みを読んで、それが現実なのかなとも思う。
誰もが上手になれるわけでは無いとおもう。 そこで何か小さな物でも得られたら、十分ではないだろうか 瞑想もそれもこだわらず 生きていければと思う
591 :
神も仏も名無しさん :2013/03/06(水) 12:56:23.92 ID:RuTYVobZ
禅定体験などなくても、冥想している時間は功徳を積んで貯まった悪業を消化している時間である。 冥想していることそれ自体が安らぎであり、休息である。
釈迦は相手に合わせた瞑想法を指導していたようですね。 今はそこまで指導できる人がいるかどうかわかりませんが、自分に合った瞑想法でないと上手くいかないのかもしれませんね。 私も瞑想の本を8冊くらい読んで試していますが、マントラ唱えたり数を数えたりするよりは黙って呼吸を感じている方が合っている気がします。 気がするだけで今年始めたばかりだしこの方法のまま続けるかどうか・・・
前々から思っていたんですがカルマであるとか解脱であるといった概念がありますけど 具体的に何を指しているか分からないのでアレですけど 話を聞くかぎりですと確かめようがないことを主張しているように思えるんですね そこが仏教の一部だけの人たちに対して宗教だなぁと思う部分です 経験すればなにがしかの「ああ、あの言葉はこれのことか」という納得が得られるのかもしれませんが それにしてももう少しオブラートに包んだ言い方があるのではないかと思ったりします 落ち着いて理性的に物事を説明してくれる仏教徒は数多いですが、こと話が核心部分にさしかかると 死んだあとのことは分からないと勇気を出して明確に言ってくれる仏教徒は結構少ないですね
実は、とある漫画(同人)によると、瞑想のプロになるには大変な労力がいるらしい 「ある調査によると… そのジャンルを問わず一流と呼ばれるプロフェッショナル達が積み重ねた鍛錬は 最低でも累計一万時間……! それが一流の条件なんデス!」 「大雑把に計算して一日三時間の練習を十年間休まずに続けてようやく一万時間……! つまり多くの『プロ』たちはそれだけの積み重ねをしてきたということデス!」 この理論を仏教の瞑想に当てはめようとすると、無理があるのではないかと思う 「邪精進」に引っかかるから さて、「プロになる条件の一万時間」を「邪精進」と定義した時、お釈迦様だったらどのくらいの時間瞑想して どのくらいの時間托鉢してどのくらいの時間弟子たちを教育していたのでしょうか?
>>594 1万時間の理論はよく聞きますけどどういう根拠があるんでしょうね
しかしそういう現実的な話にも興味ありますから実際どうなのか知りたいですね
注意: 瞑想のプロになるということは「悟りを開く」という意味ではありません 現在現存している「仏教の瞑想のプロになる」という意味です 「悟りを開く」には多分、お釈迦様の教えを忠実に守って出家する必要が出てくるでしょう 在家でもやりやすい「サマタ瞑想(慈悲の瞑想)」と「マハーシ式瞑想」もしくは「パオ式瞑想」など をやり続けた場合を考えて下さい ちなみにA長老は「サマタ瞑想」と「マハーシ式瞑想」の組み合わせで 「この方法で悟りを得るには4百ウン十ウン年かかります」と言っていました つまり、在家的瞑想法では「悟りを開く」というのは無理だと言っているのと同じです しかし、在家的瞑想法(サマタ瞑想法とマハーシ式瞑想法)で、「仏教を学ぶ上での初めの一歩」を踏み出す、 もしくは「それなりの幸せを得る」なら充分だというニュアンスを匂わせていました そこから先仏道を志すか否かはまず、一万時間瞑想をしてみてから考えてみるのもアリだと思います もっともA長老は「その気になれば2週間で悟りを開くことができる」と豪語していましたが、 今となってはカルト宗教扱いで誰も信じてはくれないでしょう(仏教の経典には過去に悟りを得た人がいたのでしょうが) その方法はひょっとしたら非常にリスクの高い方法かもしれません もしくはテーラワーダ仏教に精通していて仏道の何たるかを熟知している人しかできないかもしれません アーナパーナ瞑想という方法もありますが、在家的瞑想法の一万時間をカバーできるかどうか保証できません 皆さんは「プロになる条件の一万時間」をどのように考えますでしょうか?
>皆さんは「プロになる条件の一万時間」をどのように考えますでしょうか? 先ほどと重複しますが一万時間理論そのものがよく分からないというのが正直な感想です そして一万時間理論は仏教の瞑想にも適用できるのかどうかという疑問もあります 「その気になれば2週間で悟りを開くことができる」という話は少し気になります よろしければ詳細教えていただきたいです >「それなりの幸せを得る」なら充分 と聞いて安心する人は多いと思いますが、「それなりの幸せ」というものがどういうものなのか、 本当に存在するのかどうかにいささか疑問が残ります 私は世間一般で言われる幸せというのは総じて相対的な側面を持っていると思っていて、 卑近な話で言いますと、昨日よりも今日のほうが調子が良いから幸せ、 あの人よりも私のほうが認められているから幸せといった比較に基づくものだと思います ですから、同じ現象にしましても、時と場合によって大きな喜びに感じられたり 小さな喜びに感じられたりするものだと思います 考え出すと訳が分からなくなりそうですが、そういう訳のわからない不確かなものなんだと思います そんな不確かなものに「それなりで満足する」ということが果たしてあるのかどうかが引っかかります
「今ここ」に生きられるだけで十分だと思ってます。 それだけで十分幸せじゃないかなあと・・・
599 :
神も仏も名無しさん :2013/03/06(水) 23:13:22.79 ID:RuTYVobZ
>>593 カルマと言うと死語のことだとばかり思われてしまうのが残念です。
今生において、心の悪い癖(悪業・悪いカルマ)が弱まり、心の善い癖(功徳)が強まる。
あ、そう言うと、「悪とは?善とは?」と言う人がいますね。
悪とは悩み苦しみの原因になること、善とは悩み苦しみの原因を減らすこと、だと思います。
仏教の基本である四諦とリンクさせて考えていただきたい。
悪業(悪いカルマ)とは、悩み苦しみの原因をつくりやすい心のパターン、悪い心の癖。
逆に善業(功徳)とは、悩み苦しみの原因をつくりにくくする心のパターン、善い心の癖。
冥想は善い癖を刻む。
>>599 それは失礼しました。あなたの言葉に文句をつけたわけではございません。
一般にカルマと言いますと死後の世界を前提とする考え方があります。
善悪については同感です。
>593 >死んだあとのことは分からないと勇気を出して明確に言ってくれる仏教徒は結構少ないですね 後陽成天皇と愚堂の問答の中に 悟った人が死ねばどこへ行くのかとの問いに わかりませんと答えたと言います。 続けて なぜわからないのかとの問いに 私はまだ死んではいないからです。と答えたとあります。
コンサル星人きもい
>>601 それは悟った人の場合ですね。悟っていない人の死後については悟らず死んだ経験もないのに言うのではないですか?
戒というものは 瞑想システムを強化する物の様に見える。 瞑想は今常に行う様に心がなってくるので 24時間瞑想状態を想定した場合 戒も守れない状態では、これがグダグダに なってしまう。 特に初期に定められた戒は、その色彩が 大きいと思える。
その視点で戒を見てみた場合 わからないのが、不非時食 原始仏教では比丘(僧侶)が非時(正午から翌日の暁に至るまで)に食することは 不非時食戒を犯すとされていますが これが瞑想システムに、どのような影響を与えるのだろうかと思えるのです。 たしかに多食であるなら、瞑想システムは当然崩れてくるのはすぐわかりますが なぜ正午までなのか、というのがわかりません。
日本でその不非時食を守り切れるのか大いに不安である …あのA長老でなくても他の比丘でも だから公園にいたり、擬似的に林のような空間を作ってじっとしているんだろうな
活動していないなら、使用エネルギーは少ないので 一食でも問題は無いはずです。 特に熱帯であれば、一年中暖かいので、使用エネルギーは 少なくてすみます。 だから小食であっても、問題は無いでしょう。 いや逆に小食ぐらいの方が、寿命は延びるという 研究も出てきていますので、実は合理的です。 しかし、それがなぜ午前で無ければならないのか?
僧院の比丘(僧侶)は一日二食原則で病気療養の時などを除き、 正午以降に固形物を食べてはいけないとなっています (ただしジュースや水は飲んでもさしつかえない) 正午以降は食事をしないというのが原始仏教以来の僧院の定めであり、 経典に厳格な南アジアの僧院などでは今なお厳守されています
一人でやる分には時間は関係ないとか?
>僧院の比丘(僧侶)は一日二食原則で病気療養の時などを除き、 >正午以降に固形物を食べてはいけないとなっています だからアイスクリームを食べるのですね。 アイスクリームは向こうの僧に言わせると「飲み物」だそうですので。
釈尊は極めて合理的な世界観・人生観を持っておられました。したがってその教えは極めて合 理的なものでし、その生活も合理的なものです。 だから決して苦行的でもありませ んし、まして神秘的でも、秘教的でもありません。 確かに出家の生活でしたから、世俗の生活とは同じではありませんでしたが、 しかし当時の一般の人々の作った食事を食され、 当時の一般の人々が着ていた衣料を使って僧衣を作り、 当時の一般の人々が住んでいた素材や形式をもとにして作られた僧院に住んだのですから、 釈尊もその弟子たちも一般の人々と異なる世界に住んでいたのではありません。 要するに、おそらくお坊さんも在家信者の人も、同じような着物を着、 同じような食べ物を食べ、同じような家に住んでい たのではないかと思います。
釈尊のよって立つ立場は中道であって、遍歴は苦行として否定される修行のあり方 であった。 また仏教のめざす悟りは智慧を完成させるためであって、 そのためには禅定することが必要であり、 また禅定のためには生活の安定が必要であって、 遍歴は必ずしもそれに資すものではなかった。 したがって「遍歴」は頭陀行と同様に、あるい は頭陀行には遍歴の要素は含まれないから、 頭陀行よりもより特殊なものとして、も し欲するならば行ってもよいという程度の位置づけであった。
非不時食の意味 お釈迦様の夜の過ごし方において 世界全体の神々が機会を得て世尊に近づいてきて、 思いつくままに質問をする。 世尊はこれら神々の質問に答え、中夜分を過ごされる。 とある。 次の後夜分を3 つの部分に分けると 第3部分に起き上がって坐り、過去仏たちのもとで布施や戒などによって恭しく務めた人を見るために、 仏眼をもって世界を観察される。これが後夜分の務めである。 こんな大切な時間がもしあるなら、夜食事などするわけにはいかないだろう 瞑想の深さが妨げられる、そういうものを観ることができる時間だから 夜の瞑想に何かありそうにみえる。 (確かにこの時間帯は、深くなる) もしこれが正しければ、非不時食である理由は、明白となる
614 :
神も仏も名無しさん :2013/03/17(日) 21:03:53.47 ID:dhGv3BaH
一日一食って、いっけん世俗と比べ厳しいことしてるなって思えるけど、 よくよく考えると、2500年前の人って、一日三食くってたわけじゃないよね。 日本で言うと、江戸まで一食から二食な感じらしいし。 当時からすると、食いすぎんなよ程度だったんじゃないか?
同感です 現代人は食べ過ぎです
616 :
神も仏も名無しさん :2013/03/23(土) 17:02:32.49 ID:0yOcCNOj
進んでくると自動的に素早くサティが入ると聞いたのですが、 実際、そんな体験をされるのでしょうか。 その時に見える風光とはどんなものでしょう。
普通に、普段サティが入ってるのと同じ眺めでは?
カレンダーでも広告でも目に付く数字を片っ端から計算していると計算力が 異常についてくる。数字を見ただけで瞬時に結果が出るようになる。 サティも同じだよ。つまりは頭の訓練だ。 頭の訓練をするなら、具体的なものから進めた方が好い。つまり暗算の練習を 徹底的にやるとか、英語の本を徹底的に一冊丸憶えするとかでも同じような結果 を得られる。サティのような中途半端な練習よりは集中しやすく効果も大きい。 独学でも進度がわかり2,3か月でみるみる上達してくるのが解る。ある時点を過ぎると 上達の喜びとは別に練習をする度に脳が快感を覚えるようになる。 「今自分はxxをしている」をサティするのではなくて、絶えず「計算をしている」 状態だからサティなど必要ない。 その時に見える風光は「計算」という輝くばかりの快感だ。
いやいや、案外計算しながら別のことが頭に浮かんで、しかもそれに気づかなかったりする。
その時は計算に立ち戻るようにするのさ。 でもすこし練習すると集中できるようになる。そうすると別のことは浮かばなくなる。 多少のことは浮かんだとしても集中は途切れない。
まあーそれもいいが、それを仮に瞑想と呼ぶなら、サマタ瞑想のほうだ。 ヴィパッサナーはあくまでも今自分がやっていることを、自覚的にみるという やり方だ。 マントラを唱えたり、ロウソクに集中したり、そういうことでは。
622 :
神も仏も名無しさん :2013/03/23(土) 23:32:12.48 ID:0yOcCNOj
地橋さんの本に自動連続サティが入って意識が寂滅し 世界が光り輝いて見えたというような記述があって聞いてみました。 というか、ヴィパッサナーでの目的はここにあるんでしょう? これで得られる悟りが何とか等正覚とか何とか言うんじゃないんですか?
質問 地橋さんはスマ長老のように評判悪くないのですか? 講習会通ってるだけなのでよくわからないのですが
>621 サマタもビパッサナも同じだと思うよ。ただ一般には三昧という集中状態に入るのは サマタの方が遥に簡単だ。 もし「計算瞑想」というのがあるとすると、簡単さの順序は サマタ>計算瞑想>ビパッサナ のようになる。ところが、人によってはサマタは難しい場合もある。とくに多動症気味の 人には難しい。ゲームや勉強にはものすごい集中力を示すのに、5分もじっとできない人 は多い。こういう人はわざわざサマタをやる必要はない。簡単なところから入るのがいい。 ビパッサナもやり易い環境があって、静かすぎても難しいし賑やか過ぎても難しい。その人 にあった適度な環境がある。適度さを測るのは興味だ。内向的で心の動きを眺めるのが好きな 人はビパッサナは向いているが、興味が外を向いている人は外を見つめればいい。 単純な計算の繰り返しはサマタに似ているが、ビパッサナに似た高度な計算もある。
>>625 >ゲームや勉強にはものすごい集中力を示すのに、5分もじっとできない人
>は多い。こういう人はわざわざサマタをやる必要はない。簡単なところから入るのがいい。
簡単なものというとどんな方法がありますか?
>ヴィパッサナーの目的とか悟りは、意識の寂滅というか、 >世界や自分が無常であり無我だと完全にわかって、解脱することじゃないかな 自分が自分である時もっとも幸福なのではあるまいか? 自分が自分である時には 自分という意識も消える。それが無我=解脱だと思う。解脱はそんなに特殊なことじゃない。 もっとも坊主が探し求めている解脱は超能力とリンクした特殊な解脱だが、超能力の 発現は別のことと考えた方がいい。超能力や特殊な内的体験を求めるならまた別の効果的 アプローチがある。 自分が自分であることをイエスは「人は求める時よりも与える時により幸福になる」という ような表現をしていたと思う。解脱のあり方の本質をついているように思う。 >簡単なものというとどんな方法がありますか? もっとも自分が興味があることに没頭することだと思う。それがビパッサナであっても 問題ないがね。
629 :
神も仏も名無しさん :2013/03/30(土) 08:15:36.53 ID:cncMxgoh
冥想の結果として煩悩(悩み苦しみの原因)が軽減されたかどうか。 仏教の目指す方向はそれだ。
何年も前に地橋さんの本やCDを買っていて、本も読み込んだし、 特にCDなどは買った当初からベッドのお共になっていて、毎晩のように 聴いていたからもう千回じゃきかないくらい聴いている。ようつべの動画で 歩行瞑想も真似したみた。・・・その上で思う。 果たして、サティを入れることに習熟するとゴエンカの言う「生きる技」が 身につくようになるのだろうか? 「生きる技」が身につくならこれほど心強いものはないが、そのために ヴィパッサナー瞑想を始め、始めたら始めたでサティを入れることに腐心し、 ようやくのことでサティが高速で入れられるようになったとして、その少し先に ゴエンカの言う「生きる技」が身についていないとすれば、それはあまりに 笑えない話であるし、滑稽な現実だ。 ヴィパッサナーの技術習得に埋没している人たちには、これが「生きる技」に 到達する確かな道が見えているのだろうか? 自分は疑問だ。
在家向けとも言われているマハシ流でさえも この板を見ている人間にとっては 満足に習得することが難しいと思われ ヘタすると日常生活の行動にラベリングをつけることも適切に実行できていないのではないのだろうか? 人間の動作が簡単にヴィパッサナー瞑想の技術とともに制御できるとは考えにくい だから(かもしれないが)書籍「ミャンマーの瞑想」の最後の方に「必ず指導者をつけてください」と書かれている タイの森の中で瞑想修行を指導していたと言われるア・チャンチャー長老も 「早くよくなるのだぞ」と言いながら指導していたと書かれていた(参考「手放す生き方」) これがヴィパッサナー瞑想のマハシ流かどうかは不明だが 瞑想がとても難しいことに間違いはない
マハシ流でも雑念はものすごく減った いろいろな感情が分離できて、消えてしまうことがわかり 観る人とはこういうものかと
雑念が消えていく過程を観察していくと 諸行無常 の意味がよくわかってくる
人間って、優れたものを見て触れて聴いて・・・そうして自分の目標なり常識なり型なり標準なりを自然に吸収して、高いレベルに自分を引き上げることができる それを考えると、良い習慣や問題の少ない自分の性格なり癖や体質をなんとかしようとする時にも、自分の動作行動を観察したところで良い方向に行くのだろうか? むしろ、自分が理想とする、あるいは好ましいと思う対象を思い描いて、これを真似ていくほうがよほど良いと思うのだが
訂正:良い習慣や問題の少ない自分の性格なり癖や体質を(身につけたいと思って)なんとかしようとする
そのために戒(シーラ)があると思う。 ダンマパダとか、入菩提業論とか
>良い習慣や問題の少ない自分の性格なり癖や体質をなんとかしようとする時にも、自分の動作行動を観察したところで良い方向に行くのだろうか? それができる人はそうすれば良いと思う 自分というものを認める事はとても難しいとおもう。 たとえば怠けについて、怠けてはいけないと思うと、どうもうまくいかない そこには我慢するという別の心ができてくる 実は怠けたいと言うのも、自分の作り上げた妄想と理解するために 観ると言う事をしている。 自分でも変な方法だとは思うが、やってみるとうまくいくから観ている やってみてうまくいかないなら、無理にする必要は無いとおもう。
諸行無常は外界を観察すると すべてが変化し続けている事がいやでもわかる。 それが自分の心もそうだと気がつくのが、ここまでかかるとは 自分はなんと愚かな事か、当たり前の話だと思うが 自分は変わらないと言う思いが、無意識の奥に存在しているんだろう それはおそらく生きたい(死にたくない)と言う生命力の本質が起こすものだろうと観ている 人の考えているものも諸行無常 ただ変化し変わっていくと言う真理しか存在していない事になる。
639 :
神も仏も名無しさん :2013/03/31(日) 10:12:37.84 ID:iqcS1fGK
すべての現象は冥想を邪魔する刺激であり、 それらの刺激は瞬間瞬間に変化しながら襲いかかりつづけてくる。 そのような感覚(すべての刺激が雑音、ノイズ、邪魔しようとする横やり)がふにおちたうえで、 冥想への執着という刺激に関しても同じように(冥想中にあらゆる刺激に対するときと同じように)客観的であるようにする。
640 :
神も仏も名無しさん :2013/03/31(日) 12:43:19.66 ID:I9z5wJm3
何かを改善しようとすればするほど悪化しちゃうんだよね。怒りだから。
瞑想にしても、いかに苦悩なく生きていくための方法のひとつだとおもう
改善するというとき、思考を使っている これが苦しみの本質にある 否定もせず、肯定もせず、思考を使わない(正しい表現では無いと思うが) ただあるがままに観る (こういうしか表現しか言いようが無い)
思考を使えない方が苦しいのでは? 思考を使えない人ほど苦しんでるように思う。 愛を使えない人は冷たいでしょ。でも彼らは冷血なだけで苦しんではいない。 愛があっても思考が使えない人は苦しいでしょ。助けたくても助けてあげることができない のは苦しいでしょ。
二の矢を受けるのは、本人のオーラが大きすぎる(拡散しすぎる)か、 それがゆえにか、他人より多くのものを拾ってしまう(受信してしまう)とか、 言葉=言霊の邪気に弱いからやられやすいと言えると思う。 だから、理屈で「それができる人は」と言ってみたところでどうなるものでもないし、 ダンマパダを抱いて寝たって改善するはずもない。 「ブッダの瞑想」などもイントロは現代人を引き込むに十分なことが書いてあるけど、 「受けやすい」体質で二の矢がいっぱい刺さってしまう人たちに習得の難しいサティ、 習得した先に二の矢が防げる体質を一切保証しない(できない)論理飛躍で現実と 理想の隙間を埋められないヴィパッサナー瞑想はさらなる絶望の深淵を覗かせる だけでわ?
瞑想が難しいのは現実に瞑想が必要な状況に直面しないからでは? 直面すれば自然に 瞑想はできるようになる。 苦しみがない人や苦しみに鈍感な人が、苦しみをなくす方法を探したところで何の意味 もない。ところが他人の苦しみまで引き受けてしまうような人は少しコツを覚えるだけで 瞑想できるようになる。
ひさーーしぶりにUSB3.0の先生の話ファイルを聞きに行ったが、 あいかわらず、うわべから中身に入っていかなぁとしか思えない話であった。 そうなんだけれども....
647 :
神も仏も名無しさん :2013/04/02(火) 22:46:48.88 ID:xPIQT0Ma
早いもので、2013年も4月。新年度に突入した。ますます時間が進むのが速くなる。 このまま、どこに向かうのか? 地球の次元上昇は、着実に進行している。「次元が上昇しているというのなら、 証拠を見せろ」という人もいるけど、証拠はある。 「波動が上がっている」というのが、その証拠だ。 もっとも、「波動が上がっている」と言っても、「ボクにはそんなの、ちっとも 感じられないよ?」という人もいるだろう。 そういう人には、「残念でした。ご愁傷さま」としか言いようがない。 でも、ちょっと呼吸を止めるか静めて、雑念を消し、意識を集中してみよう。 何か、ビリビリ感じられるものはないかな? そう、それが上がってきた地球の波動なのだ。もしくは、地球の波動に合わせて、 自分自身の波動が上がってきているのだ。何ヵ月かするうちに、ビリビリ感が だんだん上がってくるから、そのうち実感できるはず!? どちらにしても、全員がそれを感じ取れるわけではない。 「地球の次元上昇」にもともと興味がなければ、まず無理だろう。 これは植物の生長と同じで、日々の変化は微細なものでしかない。 でも、何ヵ月かすれば、明らかに違ってくる。もちろん、植物と言っても タケノコとか、ツクシとか、ああいうのではなく、普通の樹木の話。 こんな話を世間の一般人にしたって、笑われるのがオチかもしれない。 「お前は、アセンションを信じ込んでいるのか?」と言われるかもしれない。 でも、まさに、その通りだ。こちらは、アセンションを信じ込んでいる。 それで、何が悪いのか? そちらも、「このままの地球が続く」と信じ込んでいるのであり、それもまた 一種の信仰なのだから、お互いさまだ。
他人の話を聞いてもな 聞かれた方はどんどん自分が対応変化せざるを得ず、 従って、しまいには妄想や戯れ言を口にするようになる。 一般に、「先生」の話を聞き出すと生徒が苦しむのはそのため
犀の角のようにただ独り歩め
USB3.0 不発 グーグル+ 不発 ワードプレスもなぁ。的が... ワードプレスだけはまぁまぁかもしれんけど。
誤爆? ・・・とサティが入りました
誤爆ではないぞ。
654 :
神も仏も名無しさん :2013/04/13(土) 12:24:42.14 ID:f11/qsBZ
忙しいすぎていらいらして焦って、サティを忘れてしまう。 こんなときこそサティが必要なのに。
僕もそうですが、それが心の本性らしいので気にしないようにしてます。 肝心なのは、何十億回でも懲りずに繰り返すこと、その際、自分を責めないようにすること、 と本に書いてありました。 お互いがんばりましょう。
時々でも行動にサティ入れることで意識は落ち着くし 瞑想も深まるよね
自分を責めると、執着になってくる それをまずいと思わず まずいことでもなんでもないんだけど それを水が流れるように観る そこから戻ることに気がつく と言うのが大切だとおもう 今の一瞬しか現実は無く、過ぎ去った過去に囚われることは無いから イライラもありがとうと、気がつかせてくれるからと そう思っている。
658 :
神も仏も名無しさん :2013/04/14(日) 04:48:27.09 ID:/+EepC8b
そこで止めるとか疑うとか別の方法に変えるとか、基本的にそういう柔軟さや センスがないと、それが結局は優しさだとか愛の根本なんだろうと思う。硬直化した 従順さのようなものはある種の催眠状態であって、真面目で羊のようにおとなしく見えて 信者が脱会しようものならシツコク追いかけて牙をむいたり理解しがたい行動を容易に 取る性質がある。
プラユキが「サンガ」13号でラベリング批判しているね。
>>660 しかし、一旦広まってしまったものをどうやってなくすべきか?
ラベリング以上に良い瞑想法を勧めるとかは可能なのか?
A・長老の「ブッダの実践心理学第8巻」の行く末で決まるかもしれない
ラベリングとサティの違いがいまだにわからない
ラベリングはサティの簡便法。ラベリング無しのサティ、つまり言葉を使わず感覚を直接するサティを勧める流派もある。
訂正 感覚を直接するサティ→感覚を直接観察するサティ
サティを知るには、ラベリングがわかりやすいとおもう。 自分でもこれが無かったら、とっかかりが難しかったとおもう。 取っ掛かりやすいから、ラベリングをまず薦めているのだろう ただ ブラユキさんが、ラベリングの危険性(ラベルする言語に こだわるというか執着してしまう)を言うのもよくわかる。 言葉にこだわってしまうなら、そこから進まないだろう思う 右足という言語の名札(ラベル)をつけるのではなく、 それをただ単に観ればよいのだとおもう。 ただあるがままに観ることをしなさいと言っているのだと理解している。 言語はただの記号に過ぎないと思えれば、ラベルをしてもしなくてもどちらでも 問題ないのだとおもえる。 そういうものを投げ捨てていくというか、自分でも難しいのだけど そうしていかなければならないと思う。
サティが軽く素早く流れるようになってきたらだんだん言語によるラベリングが追いつかなくなってきた。そうなってからはあまり言語にこだわらずにサティを続けている。 要はサティを絶やさず続ければいいんでしょって感じで。
667 :
神も仏も名無しさん :2013/04/17(水) 09:12:35.00 ID:qq79i6Bh
Do not dwell in the past, do not dream of the future, concentrate the mind on the present moment. これが修行としてのサティだ。でもここには何故サティなのかという説明がない。 サティそのものは目的じゃない。サティは集中することであって、そうすると何が起こるのか? 何故サティが必要かというと 現在の瞬間に注意を向ける(サティ)ことによって、「注意しているもの」に気が付く。 現在の瞬間を観るには思考が必要ないから思考が止まる。思考が止まって解るものがある。 「止まれ」ということだ。止まったら解る。それが現れてくる。 過去や未来というのは、記憶や複雑な思考回路を通してしか見ることが出来ない。 だからどうしても思考優位になる。ところが現在の瞬間をとらえるには思考が必要ない。 馬鹿でもできる。寧ろ馬鹿の方が簡単にできる。だから「馬鹿になれ」という人もいる。 サティというのは馬鹿になれということだ。だからやり過ぎると実際に馬鹿になる。 だからサティにあまりにも上達するのは良くない。 坐禅も同じだ。坐禅も思考を止めるが、目的は「注意しているもの」に気づくことだ。 坐禅に習熟してはいけない。 これは目的じゃない。「ちょっと馬鹿になる」程度でいい。 さて、ともかくそうすると注意しているものに気づく。 今度は「注意しているもの」から現在をみる。そこから過去を見る。そこから未来を見る。 外を向いていたベクトルを一旦内に向ける。そうするとベクトルの起点が解る。今度は 外を向ける。元通りだが違っているのは、ベクトルの起点がしっかりとしているということだ。 心がここにある。
サティに熟達すると、想念、瞬間瞬間の自己の生じる一瞬までわかるようになって、 自分を構成するあらゆるものの生滅、無常、無我が実感できるということでしょ 常にサティをいれていくのは、そうなるまでの訓練じゃない? ラベリングがいいかどうかは、その人の進み具合、状態によるので、 一概にはいえないんじゃないかなあ
669 :
神も仏も名無しさん :2013/04/17(水) 10:44:15.08 ID:qq79i6Bh
>サティに熟達すると、想念、瞬間瞬間の自己の生じる一瞬までわかるようになって、 >自分を構成するあらゆるものの生滅、無常、無我が実感できるということでしょ >常にサティをいれていくのは、そうなるまでの訓練じゃない? そんなことはありえない。そうはならないよ。安易にそういう出鱈目を信じない方が好い。 サティに上達するというのは、「サティに上達すること」以上のものではない。 そういう出鱈目に気が付くというのも大切だね。それはサティでは訓練できない。 訓練は度を超してはいけない。 たとえばスポーツは健康にいい。ボクシングでもマラソンでも健康にいいからと度を越して はいけない。一般に選手のレベルになれば訓練は既に度を超している。 マラソンの選手は桁違いな距離を走り身体を痛めて早死にする。ボクサーも若くして引退して 終生パーキンソン病などとの戦いになる。 坊主も選手と同じだ。すでに度を越している。坐禅やサティのし過ぎだよ。 スポーツ選手も坊主もその生き方としての意味は重要なのだが、一般人は真似をしない方が好い。
この瞬間瞬間がわかるというのは、何となく理解できる 神経伝達(シナプス)を調べてみると、化学物質の放出と 吸収を繰り返しているので、微細に見ると連続にならない事が わかると思う。 どうしても、デジタル的にオンオフを繰り返している構造をもっている まあ頭脳は、神経伝達が並列的に流れているので、連続 しているようには見えるが、微細にみれば個別的になっている というのは、自分では良く理解できる。
671 :
神も仏も名無しさん :2013/04/17(水) 14:50:31.89 ID:qq79i6Bh
別にサティでなくても、瞬間をとらえることはできる。 呼吸に意識を置くとか、腹に意識を置くとか、脳の中心に意識を置くとかそういうことでも いいし、寧ろその方がおすすめだ。最初からサティをやるのは難しいと思う。 一番簡単なのは坐禅だと思う。訓練方法としては坐禅が最も洗練されていて技法が確立 している。坐禅が分かればサティは自然に解る。坐禅が分からずにサティをやると単なる 集中力の練習になる。 坐禅が出来ると動禅が出来るようになる。この動禅がサティだ。 「いつでも何処でも禅」=「サティ」
672 :
神も仏も名無しさん :2013/04/17(水) 15:11:36.83 ID:HOYoUTHw
みんな馬鹿ですね。
あなた方にはスピリチュアルラボのテルテルさんのように実践に基づく
知識を持つ人間にはいつまでたっても立ち向かえません。
実践あるのみ、です。
他人の知識の受け売りをいくら繰り返しても時間を無駄にしてしまうだけですよ。
テルテルさんのブログをよく読んで自分たちの愚行を反省しなさい。
http://teruterulog.jugem.jp/
怒りが生まれている、とサティが入りました。
674 :
神も仏も名無しさん :2013/04/18(木) 10:33:03.80 ID:Td9rNPyA
「アナパナサティ」というのがブッダが教えたサティでこれが基本中の基本。 アナパナサティでの準備姿勢を強調したのが坐禅。 姿勢が特別大事なんだ。チャンとした姿勢でアナパナサティやるとサマディを掴むのが速い。 特に初心者は結跏趺坐が最もよい。 それが出来て初めてバリエーションとしてのサティがある。 アナパナサティが出来れば、姿勢を崩しても、動きながらでも、あらゆることにサティを 入れても問題なく出来るようになる。 アナパナサティを飛ばしていきなりサティは無理。 たとえるとアナパナサティは自転車に乗る程度の難しさ。特訓すれば2,3日でマスター できる。あとは片手運転とかウイリーとかジャンプとか綱渡りとか上級者になればいろんな ことが出来るようになる。 自転車に乗れないのに、いきなり片手運転は無理でしょ。 「サティをいれる」ってやってる人は、最初から片手運転をやろうとしている。 そんなことをやってるから何年経ってもマスターできない。
>>674 相手を思い通りにしたいという気持ちは、怒りですね。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
>>674 スマ長老のところや地橋さんのところ以外で
ヴィパッサナー瞑想教えているところご存知ありませんか?
日本人僧侶プラ・ユキ・ナラテボーもあちこちで 瞑想指導しているようだよ
中村天風はヒマラヤの秋空をぼーっと眺めて、天の声を聞く、つまり意識を離すことで健康が回復したんだよね サティだのラベリングだのの違いはわからないけど、一挙手一投足、一分一秒の自分の言動や意識に注意を入れていくと神経過敏になるだけで、世の中のつまらないものまで拾い上げてしまって生きるのがつらくなるだけでわ? 別の例でも、テレビなどでおなじみの霊能者たちも、見たくないものまで見えてつらい生活を送った後で、それらを遮断して心に入れない方法で日常を取り戻しているようなことを話しているし・・・
気持ち悪いほど心が静まりかえっている のがわかる 自分はそれでなくてもこころのお喋りが人一倍多かったので これが消えると、余計にそうおもう。
681 :
神も仏も名無しさん :2013/04/21(日) 09:13:06.88 ID:xdp2WGuo
>678 そのとおりだと思う。トレーニングというのはダメージを与えることでもある。スポーツなら ダメージを与えて不可逆反応をおこし不要な筋肉をつける。マラソンをやってみると まさにダメージを与えれば与えるだけドンドン速く走れるようになる。一昨年から練習を 初めて自分なりには驚異的な距離(42k)を驚異的スピードで走れるようになった。 練習を始めた当初はまさか自分がこんなに走れるとは思っても見なかった。 (しかしもちろん上には上がいる) サティだって練習すれば驚異的スピードでできるようになる。しかしそれはサティの 能力であって、マラソンと同じようにそれほど役に立たない一つの芸でしかない。 サティもそれほど悪いとは思わないが、芸ならもっと役に立つものをマスターした方が 好いと思う。 ただやり過ぎは良くない。マラソンも上位者になれば驚くほど故障を抱えている。健康とは 程遠い。それに脳にもかなり影響が出る。ハッキリ言ってやり過ぎている人は素人目にも 脳に異常がある。 サティはスポーツのように脳への直接の物理的ショックはないが、極端な訓練をやれば スポーツ以上に脳へのダメージは大きい。スポーツの場合は疲れや故障などで抑制が効く ので急激に進行はしないが、抑制機構をすり抜ける方法がいくつも考え出されていて、そういう 方法を用いれば簡単にダメージを与えることが出来る。一週間で神になる方法もある。
682 :
神も仏も名無しさん :2013/04/21(日) 15:00:50.66 ID:nQ76IyB4
半分くらい想像で話しているような…
いつもの人だな と思った
○○は××だ、ってのが頭の中にいっぱいあると、 機会をみては出てきちゃうよね そういうたのしみ方を心と脳がしてる
なんで日本に来て活動しているのか、活動できるのか知らないが 日本で瞑想を紹介したり、本を乱発して儲けてる坊主がいるけど、 あの坊主がヴィパッサナーに精通しているとして、あれが一つの到達 した結果なのかよ?と思わずにいられない。 サティをがんばって、その結果がああじゃ堪らないだろ 人間修養はダメダメだし、普通の質問には逆ギレするか、逃げるだけで まともに答えが返せないしね マラソンは速くなった、42kも走れるようになった・・・でも健康にはなっていない たしかに、ヴィパッサナーもそんな感じかな 第一、紹介されて結構久しいけど、いまだに一般人でヴィパッサナー成功者を知らないからなあ
687 :
神も仏も名無しさん :2013/04/21(日) 16:07:49.00 ID:0jMlGSgs
ここ今にサティ入れてるだけではダメだ、しかしそれ以上をあまり言わないんだよな ここと今に気づくのは当然なのだがそこが終着点になって人によってはここ今に執着している様子が散見される
>>686 成功してる人はこんなとこに書き込まずに、指導者についてどんどん先に進んでるんじゃない?
進めば進むほど自我がとれてくんだから、自己主張なんてしないでしょ。
>>688 つく指導者によっては「間違っていた」ということもあり得るので独学でやっていて、たまにここに書き込むのはアリだと思う
特にA長老の周りは評判を下げるためなのか、極端に曲がった人達が信者になっていて
別の人間からはA長老の精舎はカルト と見なされていることがある
しかし、A長老自身は極端に曲がった人達をみて観察し
「こんな奴がいましたが、私が勉強した仏教ではこれは間違っています」とか反面教師にして書籍に載せている
だから修行を志す人はA長老だろうとG長老だろうとT・N・H長老だろうとJ指導者だろうとやる気を継続させて
彼らの指導の間違いを指摘できるように成長しようと(たとえ独学でも)精進しているだろう
それが「やる気のある奴で見込みのある奴」だ
そして、グルが変わりようがなかったらさっさと立ち去る
そうじゃなかったら書籍を読んで信じてみても害は起きない
実際に瞑想を本気でやることは少ない
書籍は教えとお布施がわり それで心の安定を得る
旧世代の布教方法だ
自己主張以前に「やる奴はやる、能力のある奴はいい人に就く、能力がなくて曲がった人はグルに利用される
けど、カルト宗教みたいに反社会的なことは行わない」
「やれない人で曲がっていない人は書籍に書いてある教えを読んでありがたがる、そして精神の安定を得る、
その対価を書籍の購入という形で果たし、何分の一かはお布施になる」
こんなもんでしょ
そうじゃなかったら「出来ない人・やらない人は自己主張だけしかしない、進歩のない奴だ」という結論になり、
このスレで「出来ない人・やらない人」を白眼視する動機になるだろう
こうして格差が生まれると仏教的にも人間的にもよろしくない
そういう悪循環だけは避けた方がいい
じっくりとヴィパッサナー瞑想の成功者を待ち望んだ方がいい
それは現代の日本でお釈迦様やキリスト様を待つほど気の遠い話だ
それでも忍耐強く待った方が良い
特に瞑想ができる・やっていると思っている人間は
>>688 あなたの言いたいことは「自分は指導者を信じていない」だよね?
「間違いを指摘してやろう」っていうのは強烈な自我だよ。
少なくとも預流果の悟りに至れば「この方法でここに至ったなら、指導者は間違っていなかった」と思うはず。預流果では「疑」が消えるから。
その人たちは自我が以前より取れているから、やはり指導者に疑いを抱かずにどんどん修行を進めていると思うよ。そして自己主張はしない。
自分的な判断基準として「難しいことはたいてい間違っている」と思う 釈迦がヴィパッサナーを、もしかしたらその原型を見いだして作ったの かもしれないけど、それも2500年前のことを自分の目で見たわけじゃ ないからわからない。 でも、釈迦自身がヴィパッサナーの実践者として奥義を極めたという話を 聞いたことがないんだ。
釈迦の瞑想方法ってどんなのかわかりますか?
釈迦が行った瞑想と伝えられるもの 呼吸による気づきの教え(アーナパーナサティ・スッタ) 修行者は森に行き、樹下に行き、あるいは空家に行って、足を組んで坐り、身体をまっすぐに保って、対象に満遍なく気づきを向け、気をつけて息を吸い、気をつけて息を吐く。 最初の四考察(身体に関する組) 一.息を長く吸っているときには「息を長く吸っている」と知り、息を長く吐いているときには「息を長く吐いている」と知る。 二.息を短く吸っているときには「息を短く吸っている」と知り、息を短く吐いているときには「息を短く吐いている」と知る。 三.「全身を感知しながら息を吸おう、全身を感知しながら息を吐こう」と訓練する。 四.「身体の動きを静めながら息を吸おう、身体の動きを静めながら息を吐こう」と訓練する。 第二の四考察(感受に関する組) 五.「喜びを感じながら息を吸おう、喜びを感じながら息を吐こう」と訓練する。 六.「安楽を感じながら息を吸おう、安楽を感じながら息を吐こう」と訓練する。 七.「心の動きを感じながら息を吸おう、心の動きを感じながら息を吐こう」と訓練する。 八.「心の動きを静めながら息を吸おう、心の動きを静めながら息を吐こう」と訓練する。 第三の四考察(心に関する組) 九.「心を感じながら息を吸おう、心を感じながら息を吐こう」と訓練する。 十.「心を喜ばせながら息を吸おう、心を喜ばせながら息を吐こう」と訓練する。 十一.「心を集中させながら息を吸おう、心を集中させながら息を吐こう」と訓練する。 十二.「心を解き放ちながら息を吸おう、心を解き放ちながら息を吐こう」と訓練する。 第四の四考察(法則性に関する組) 十三.「無常であることを繰り返し見つめながら息を吸おう、無常であることを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。 十四.「色あせてゆくことを繰り返し見つめながら息を吸おう、色あせてゆくことを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。 十五.「消滅を繰り返し見つめながら息を吸おう、消滅を繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。 十六.「手放すことを繰り返し見つめながら息を吸おう、手放すことを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。 (パーリ語原典より、井上ウィマラ訳)
その他にもパーリ語原典に、 説法や弟子との対話や、ヴィパッサナー瞑想の元になった話が、 いろいろ伝えられています
ほかにどんな話が残っていますか?
原始仏典や原始仏典の解説本はいろいろ出てるので読んでみるといいと思いますよ
ネットや図書館などでもいろいろ見れますし
最初の説法、初転法輪 聖求経
「修行僧たちよ、これらの五つの欲望の対象がある。
五つとは何か。
眼によって識別される、好ましく、愛すべく、また望ましく、かわいく、欲をともない、魅力的なもろもろの色かたちあるものである。
耳によって識別される、[好ましく、愛すべく、また望ましく、かわいく、欲をともない、魅力的な]もろもろの音声である。
鼻によって識別される、[好ましく、愛すべく、また望ましく、かわいく、欲をともない、魅力的な]もろもろの香りである。
舌によって識別される、[好ましく、愛すべく、また望ましく、かわいく、欲をともない、魅力的な]もろもろの味である。
身体によって識別される、好ましく、愛すべく、また望ましく、かわいく、欲をともない、魅力的なもろもろの触れられるべきものである。
修行僧たちよ、じつに、これらが五つの欲望の対象である。
(中略)
また、修行僧たちよ、いかなる沙門たちであれ、いかなるバラモンたちであれ、
これら五つの欲望の対象に縛られず、夢中にならず、執着せず、患いを見、脱出する智慧があって享受する者たちは、
不幸にならず、災いをこうむらず、悪魔の思うままにされないであろうと知るべきである。
(中略
一禅ニ禅三禅四禅の説明)
かれは世間における執着を渡り超えている。
かれは安心して行き、安心して立ち、安心してすわり、安心して横になる。
それはなぜか。修行僧たちよ、悪魔の領域に入らないからである」
世尊は、このことを語った。修行僧たちは世尊が説かれたことに満足し、おおいに喜んだ。
http://www.geocities.jp/avarokitei/shotenporin-kuwasiku-miru/shogu-sutta.htm
中部経典の一節ですね ご教示ありがとうございます。
>>693 ありがとうございます。書店に行ってみます。
699 :
神も仏も名無しさん :2013/04/23(火) 04:20:42.80 ID:wLWT75Fx
>五.「喜びを感じながら息を吸おう、喜びを感じながら息を吐こう」と訓練する。 これが出来たら、ある意味苦悩なんて解決だよね。こういうのは一人で練習しても 難しいんじゃない? でもグループワークなら簡単に出来る。喜びは人との関係の 中で生まれるのだから関係の中で練習した方が簡単に練習できるし、またそうでない と意味がない。 >十三.「無常であることを繰り返し見つめながら息を吸おう、無常であることを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。 こういうのをやると鬱になるだろ。WWW そんなもん別に見つめなくてもいいだろ。わざわざ見つめなくても実際に直面する。 その時に直面すればいい。 結論からすると瞑想で練習するのは1と2だね。 後は引き籠もって練習するものじゃない。それは非常にまづいやりかた。 3,4は運動感覚と同時にやる方がマスターが速い。ダンスの練習にはこれのエッセンスが 入っている。アイソレーション、コンストラクション、、というようにテーマ別に練習 するようになっていて、練習すると身体感覚が鋭敏になる。 5から12は演劇のレッスンにエッセンスが入っている。そういうアプローチをした方が 効率的に学べる。 悟りもトランスパーソナルやゲシュタルトみたいに心理学的アプローチがあるけど ダンスや演劇的レッスンを沢山取り入れて、それらの方が理に適ってる。 古臭い経典に囚われない方が好いと思う。
がんばってください
>五.「喜びを感じながら息を吸おう、喜びを感じながら息を吐こう」と訓練する。 これ非常に良くわかるよ
最近強く思うけど、何か他に解決策を見いだそうとするのはすべて間違っているのだろうな〜 現実の問題にぶち当たって、たとえば 本屋漁り ⇒ ヴィパッサナーみっけ ⇒ 歩行訓練 ⇒ サティ習熟 ⇒ うまくいかずに道場の門を叩く ⇒ 習得がはかばかしくなく悩む ⇒ 本が増え、ネット徘徊が増え、セミナーに金貢いで・・・ 堂々巡りで自分をますます被害者にしてしまう 問題を問題として取り込まずに、さっと受け流して見送る方法で縁を紡がないのが一番なんだが・・・
>>699 はヴィパッサナーを実践したことはないんだね。
704 :
神も仏も名無しさん :2013/04/23(火) 14:49:00.49 ID:wLWT75Fx
>十三.「無常であることを繰り返し見つめながら息を吸おう、無常であることを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。 悟りというのは、「普遍的な真理の獲得」のようなイメージで考えられているけど 実際には13−16のような特殊な世界観を共同体(サンガ)で共有することなんだ。 だから諸派ごとに少しづつ世界観は違ってくる。大乗仏教は哲学的にかなり煮詰められている が、小乗はまだかなり素朴なまま。ただその素朴さゆえにレッスン部分は力強い。それが いま注目されている。 禅ももちろんローカルな世界観を共有する。禅は「決着」という内的なある種の了解を 悟りとしているが、悟るとどうなるかというと、彼らだけに通用する「悟り語」という言語 が理解できるようになる。カッチョイイ方言みたいなものだな。 自分も何種類かのローカルな悟りを開いたのでわかるが、悟りを開くと今まで奇異に感じて いた言葉が突然しっくりと分かるようになる。だから集団内部で特に悟りを開いたものどうしは 非常に親密になる。 逆に、そういう集団(コミューン)で2,3か月暮らして家に帰って親兄弟と話をすると 話がしっくりこない。どうも心が通じない。何故かというと微妙なニューアンスの言語が 通じなくなっている。 もっとも1週間もすると慣れてきて言葉が通じるようになる。頭の固い人は元にもどらなく なって、親兄弟と決別するようなことも多い。
>>704 あなたの開いた何種類かのローカルな悟りとはどういったものですか?
またそれぞれの違いなどをおしえてくださりますか?
706 :
神も仏も名無しさん :2013/04/24(水) 08:00:22.63 ID:dtONmZxK
悟りとは煩悩が消えること。 煩悩は大きく10種類に分けられる。 最初の3つが消えたら預流果の悟り。
私はいない
預流果者って、わりとその辺にごろごろ居るような気がしてならない。
>>702 >最近強く思うけど、何か他に解決策を見いだそうとするのはすべて間違っているのだろうな〜
瞑想初心者ですが、本を読んで始めたものの、思考や眠気が頻繁に起きるので足踏み状態です。
道場に通うことも考え始めましたが、貴方のカキコを読んで踏みとどまろうと思いました。
>壁に突き当たると、何か解決策はないか考えてしまいがちですが、そんな風に考える癖が染みついているため、
>自分でわかる範囲でものごとをコントロールしようとする、これが自己流に陥るということで、こういう取り組み方は何の役にも立ちません。
という本にあった解説が身に沁みます。
710 :
神も仏も名無しさん :2013/04/25(木) 01:58:19.08 ID:IkmtRdpl
うまくいかないからとすぐに別の方法を探したくなるのが間違いなのかも。 石の上にも三年。 どんなやり方であろうと、まずは今のやり方をとことをやる、それが実は近道なのかもしれない。
思考(雑念)に気がついて、そこから引き戻るこそが 一番大切な事ではないかと思っています。 『ぼんやりと放心することなく きをつけて』
もう思考(雑念)が問題だと言う事に気がついておられる 周りを見てみれば、それが問題だと言う事すら 知らない人が大部分ではないでしょうか だからそれだけでももう進み始めているんですよ
釈迦の教えよりありがたいお言葉がある シンプル・イズ・ベスト 難しいことは簡単に 簡単なことはもっと簡単に
他人からの(根拠のない逆)恨みやねたみ、憑依を蹴散らすにはどうすればよい? 真剣になんとかしないと・・・元いたブラック上場企業から(見えない世界で)追い回されてる
715 :
神も仏も名無しさん :2013/04/27(土) 21:40:50.04 ID:nuiXai9T
自分の妬みや憎しみを破壊すれば他人の妬みや憎しみがどれだけ自分に向かおうが気にならなくなる。 相手と同じ土俵で相撲を取らないことです。
わかっているけど、出来ないというのが普通の人だとおもう。 自分も本当に出来なかった。 自分のこころをどうすれば良いのかわからなかった。 そのこころを否定するとかダメとか思うと余計に穴に落ち込むから 自分のこころと言ういじめっ子に、いつもいじめられていたよ
717 :
神も仏も名無しさん :2013/04/30(火) 14:55:21.73 ID:mR8UZTrd
自分が怒りや憎しみを手放したのは、 1番大きいのはマントラを唱えること。 一日一万回ぐらいを半年続けたら怒りや憎しみがほとんど湧かなくなった。 次に相手の理不尽だったり馬鹿な行動などは全て過去に自分がやってきたことの反映と考えるようにした。 試しに今生で出会った否定的なあらゆるものを総和した全体像を一つの人格に結集してみる。 とんでもなくひどい奴が出来上がるはずだが、 その否定的なことを他人にしてきた人物像を思い浮かべて、 結局それが自分の過去世ではないかと考えると腑に落ちることがたくさんある。理不尽なことが消えて全部すっきりする。 馬鹿なことをする人に対しては昔の自分の愚かさを理解すればなんとも思わないし憐れみさえわく。 今の境遇が納得がいかないのは過去世が理解できてないっていうのも大きいと思う。 因果の理解は重要。 なんで今生でたいして悪いこともしていないオレがこんな理不尽な目にっていうのが一切なくなるから。 今の怒りや憎しみに気づくだけでは怒りや憎しみの根源に気づくことができないし、根本を破壊することができない。 そういう意味では過去に向かって念想するのも重要だと思う。
マントラって破壊力があるんだなー。 悩みってのは脳の余分な回路なんだろうな。だからそれを破壊すれば消える。 走るのもいいと思う。走ると脳への衝撃が大きいからチマチマした回路は飛んでしまう。 習慣的に走るようになって悩みが無くなった。 でもあまりやり過ぎるとパンチドランカーみたいになる。せいぜい月に300kmくらいまで だろうな。 激しいスポーツをやる人はだいたいシンプル。脳みそがスカスカという感じで清々しい。 具志堅まで行くと問題がある。 坐禅もやり過ぎるとそうなるような気がする。禅僧なんかは非常にシンプルな感じ。 シンプルになると判断力が速くなる。考える内容は浅いけれども回転は速くなる。
筋トレの場合は部位を意識してトレーニングすると効果が倍増する。その部分が破壊されて 超回復するときに筋肉は太くなる。 マントラも原因を意識して唱えると、効果が倍増するのだろう。マントラによっては メスのように鋭利なものもあるようだ。特殊なマントラと唱えると脳の一部に効く。その部分を ピンポイントで潰してしまう。 思うに部屋を整理して空間を作り出すとものすごくエネルギーが湧いてくる。空間って すごく大事だ。脳も破壊してすっきりすると空間が広がる。そうするととんでもない エネルギーが湧いてくる。
スマナサーラ長老の本を読んでヴィパッサナー瞑想をやってるんですが、 ここではスレ違いになるのでしょうか?
良いんじゃないんでしょうか
722 :
神も仏も名はある :2013/05/03(金) 11:39:19.24 ID:J6kM2ui7
禅だとかマントラとか言っている奴の方がスレ違いなので問題ない。
>>721 >>722 ありがとうございます
三年くらい坐禅やってたのですが、いまいちはかばかしくなくて
スマ長老の本に書いてあったように
「ブッダは様々な瞑想を試してみたが、ヴィパッサナーでしか悟りまでいけなかった」
これが正しいのかなと思い、ヴィパッサナーに転向しました。
それ以来、一週間しかたっていないのですが、瞑想に手応えを感じています。
やはり、余計な雑念を遮断するのはヴィパッサナーが最適ですね。
遮断した部位は血流がいかなくなるので萎えるから、確かに手ごたえはあるだろう。 お大事に。
座禅を3年もしておられたら、確かに早いでしょうね 止がある程度できていると、その力を観に変えるだけだから
ところで、どのような手応えが有ったのですか?
727 :
723 :2013/05/04(土) 04:29:13.58 ID:ePbIu/ru
>>726 休日に職場の嫌なやつの顔が浮かんだ瞬間、条件反射でヴィパッサナーが始まる。
これはなかなか大きいです。
明らかに無駄な被害妄想なんかもカット出来るのは助かります。
ビパッサナはいいと思うが、 「折角3年間も坐禅をしてクリーンにしたのだから、もっといいものを流し込んだら いいのに」とおもってしまった。 ヤブ医者というのは、養父医者のことで特別優れた医者を指していたらしい。しかし その評判に付け込んで、「私は養父で修行した医者だ」と騙るものが出てきて今では ヤブ医者と言えば逆の意味を指すようになっている。 偽者を偽者と分からない人は悲しい。
>727 やはり同じような事ができているんですね そういう実感があるんだ 自分はいやなやつとか言う実感自体が 薄くなって来ています。
>>728 もっといいものって何ですか?
あなたはどのような瞑想や座禅を行って、どのようにクリーンになり、
いまどのような状態になっているのですか?
>>729 慈悲の瞑想に励むと、嫌な相手も嫌と思わなくなるらしいですね。
自分は難しいです。
世の中、本気でヤバい奴っているし、なるべく関わらない方が得策だったりする。
お釈迦様が一切皆苦と言う意味も分かる。
>>731 こころと言葉の分離ができませんか?
瞑想中に一切皆苦を観ることが できましたか
>>733 一切皆苦。世の中、辛いことだらけですよね。
別に、瞑想中とかそういうんじゃないです。
昔は楽しかった。
ただ、今思い返せば分かってなかっただけなような気もする。
なんなんだろうね・・・
://blog.goo.ne.jp/kizukinomeisou/e/dbda72c02d94af219c029463b596f720 なんでなんだろうについて 参考になるかどうかわかりませんが ここにある講義メモをどうぞ
ヴィパッサナー瞑想で観察対象を見るときは自分は何も頑張らなく河川敷で打ち上げ花火見てるくらいの感じで意識を向けてればいいのでしょうか? 勿論サティは厳密に入れるとして気持ち的な問題で。
気をつけると言う事は、その時点で思考が止まっている事だと 思っていますので そう思うと、だんだんと心が平坦というか、静かになっていることを 観る事ができませんか?
738 :
神も仏も名無しさん :2013/05/05(日) 12:41:04.90 ID:Dca1c0cS
>>734 スマナサーラ長老の初心者冥想指導を受けたときに、
冥想指導に入る前の説法の内容は、一切皆苦についてでした。
まず、生き物の特徴は「知る」ことと「動く」ことだ。
ではなぜ生き物は動くのか?皆さん、今から息を止めてみてください、
それから、できれば心臓も止めてください(笑)。
苦しいでしょう?
生き物が動くのは、苦しいからなのです。
…というような導入でした。
739 :
神も仏も名無しさん :2013/05/05(日) 17:39:24.30 ID:Bsjn4zU6
サティについては 気づきの瞑想で得た苦しまない生き方 を読むと得るものが有るように思えます。
瞑想始めて4か月、毎日1,2回30分ずつしているけども一向に前に進まない。 呼吸に意識を集中しても数分もたずにすぐ考え事に没頭する。 気がついて呼吸に注意を戻すけど、またすぐ考え事始める、の繰り返し。 ほとんど瞑想になってないw 集中力が出るまでこのまま続けて忍耐するしかないのかな・・
膨らみ縮みに集中する? 膨らみ縮みを傍観する?
>>741 それ、歩行とか手の上げ下げなんなかも混ぜた方がいいよ
自分は歩行から始めました ひと月ぐらいで 心のおしゃべりが減ったことが実感できています。
>>742 集中って感じです。
呼吸するたびの細かな動きの違いも見分けるようにしてますけど、
しばらくすると、呼吸のイメージを追ってるだけだったり、他の事考えてたりw
>>743 J・カバットジンの「マインドフルネスストレス低減法」という本に倣ってやってます。
歩行瞑想の解説もあるんですけど、それはまだちょっと先の方です。
静座瞑想法はエクササイズ1から5まであって、自分は呼吸に注意しつづける自信がなかなかつかないので・・1で足踏み状態です。
5までできたらボディースキャン、次にヨーガ瞑想法、次に歩行瞑想という順番です。
それとも気にせず次々に取り組んでいった方がいいですか?
>>744 本を買って今更初めて歩行瞑想の章を読んでみましたw
そしたら静座瞑想さえままならない人が歩行瞑想でうまくいった例が書いてありましたw
章の順番通りじゃないといけないと思って必要なところだけしか読んでなかったんですね。
ちょっと歩行もやてみますw
>>743 さんもどうもありがとうでしたw
歩行やってみたら、感想聞かせてください。 自分は逆コースで歩行からはじめて座るようになりました。
ブッダが悟ったとか言ってるニセクソ坊主がいるけど、悟っていないと思う ちょっとしたことに気がついたに過ぎないと思うよ
スマの本より、地橋さんの「瞬間の言葉」CDを聞いてるほうがずっと良い
>727 顔が浮かんで来たとき、観るものは 自分の心を観ているのですか?
>>750 自分は心を観たりする複雑なヴィパッサナーはやりません。
四肢(右手がある×3右足→左手→左足)と、
手の上げ下げと歩行、そして日常生活のヴィパッサナーだけです。
職場の嫌なやつの顔が浮かんだりすると、すぐに四肢の右手に飛ぶ。
その時に自分一人しかいなかったら、雑念の回避力が強い手の上げ下げをします。
そういう方法もあるのですね わたしは、この憎いとかいう心がわき上がってきたときに それをつかまえてじっと観ています。 否定も肯定もせず いまそれと同時に、その心が出た瞬間の体を見ています。 大体呼吸がおかしくなっているとか、緊張が走っている 事がわかりますので、これも観ています。
753 :
741 :2013/05/08(水) 21:24:04.79 ID:dZXFd1/f
>>747 2日間やってみました。1回15分だけです。
2秒で1歩のペースで狭い部屋の中をぐるぐる回ってますw
かかとが床に着いた時、足裏が床に着いた時、つま先で蹴る時、離れた時の感触を見ています。
注意力散漫なのか、歩行中も雑念のオンパレードでしたけど、眠くならないのが非常にいいですねw
静座瞑想は一旦やめて、1か月ぐらい朝・夜に30分ずつ続けてみて様子見ます。
手の上げ下げも雑念対策に良さそうですね。
雑念は出ても良いのだと思っています。 それからまた戻っていく事が大切と思っています。 雑念を否定もせず、当然肯定もせずに 観る人になられますように
日本では 気づきの瞑想 手動瞑想 歩行瞑想 中国では 動中禅 アメリカでは ダイナミックメディテーション タイでは チャルーンサティ と呼ばれています
スマ長老の本を見ると、歩行の瞑想は一時間やれと書いてある。 だいぶ無茶言うよな。 そんなに暇じゃないし、時間あってもやりたくないw
サンガのvol何だったっけかな。ティク・ナット・ハンのリトリートのCDがついてたけど、 あれがとてもよかった。 図書館とかで借りてコピーとかしたら
通勤の時や気がついたときにしていますが いかに自分が余計なことばかり考えていることが わかりました。 まあ次から次から脈絡も無く出てくる事だと、あきれるほど 歩行をするようになって、この余計な考えが減ることが わかりました。 落ち着きというか、わさわさしなくなると言うか そういうことが増えました。
ヴィパッサナーしばらく続けてるけど全然だー。 瞑想の効果ってだんだんわかってくるもの? それともどっかの段階でふとなんらかのカタルシスが得られるものなの?
自分を観るというか客観的に観る訓練と思えます。 自分は本当に困ったやつと思えます。 やれやれと思いつつ そいつと明るくプロレスをしております。
761 :
神も仏も名無しさん :2013/05/09(木) 12:20:59.60 ID:GQ33RiwT
自分の心がこんなにも暴れん坊なんだと気づくだけでも全然違うと思います。 心が暴れることがわかってるから、悩みの「犯人」が事前にわかっている。
これを続けていると こころがやけに平坦になっていることを 観ることができませんか?
心をみる心のほうが平坦になっているのかも
スマ長老って日本になにしに来たのよ 自分の国でやってなさいって
765 :
741 :2013/05/09(木) 20:39:36.96 ID:gNM5i2ne
>>754 >それからまた戻っていく事が大切と思っています。
そうですよね。
分かっているんですけど、考え事している時はそんなこと気づきもせずにしばらくの間没頭して、ふっと我に返ったり、
呼吸に意識を戻したつもりでも単なる呼吸のイメージを思い描いているだけだったり、集中しているつもりが雑念に引っ張られそうになって根負けしたりいろいろですw
>雑念を否定もせず、当然肯定もせずに
これが結構やっかいなんですよねw
集中できなかったり、雑念に気づいたりすると、「あぁ、だめだぁ」「なんでこんなに振り回されるんだ」と自分じゃ意識してなくても何かしら評価してるのはほぼ間違いないんです。
そんな時の感情がネガティブに受け取ってますから間違いないと思いますw
たぶん自分は起きてるときは四六時中、好き嫌いとか、善悪とか、損得の二見で判断していてそれが癖になってるんだと思います。
でももうわかっていらっしゃるじゃないですが それが心を観ていると言うことではありませんか? できているんですよ どんな思考もただじっと観ていると、消えてしまいますよ
767 :
741 :2013/05/09(木) 21:54:10.99 ID:gNM5i2ne
>>766 後になって気づくんです。
気がついたら考え事していた、気がついたら雑念に振り回されてた、気がついたら呼吸から意識が離れてた・・
考え事が始まる瞬間に気づけないので、ほとんど瞑想になってないんですw
30分瞑想したら、そのうち集中してるのはほんの数分程度だと思いますw
>>764 僧侶が教えを広めようとするのはあたりまえでは。
お釈迦さまだって、弟子達に、
バラバラに散らばって各所に教えを広めに行け、みたいなことを言ってます。
仏教が悩み苦しみをなくすのに役立つと信じているなら、
仏教を他人に教えようとするのが自然な流れではないでしょうか。
>>767 わたしも同じようなものですよ それでも色々な事に気がつくようになりました
慣れてきてんのか、気づかぬうちにヴィパッサナーをやっている。 醤油にワサビを溶いている溶いている・・・・
771 :
神も仏も名無しさん :2013/05/11(土) 14:57:33.87 ID:8usGcQEO
中観は、最初のナーガールジュナではあまりそのことが強調されていないので、 あたかも単なる論理遊戯のように見えてしまうけれど 最後の方のいわゆる後期中観派になると、 サマタ・ヴィパッサナーの複合によって悟りに達するということが明確に言われていて、 そのこととナーガールジュナの空の論理とが繋がるところがとても面白いんですよ。 気づきの主体自体を空とみなすところまで行けるから、ここの人にも意味があると思うよ。
772 :
神も仏も名無しさん :2013/05/12(日) 12:28:32.54 ID:6rkGNvgA
>気づきの主体自体を空とみなすところまで行けるから、ここの人にも意味があると思うよ。 通常のヴィパッサナー瞑想では気づきの主体は誰(何)なんですか? 771さんでなくてもよいので、教えてください。 前から疑問に思っていたことなので。
773 :
神も仏も名無しさん :2013/05/12(日) 12:33:09.85 ID:JpHY8qY4
ネガティブ思考が溢れてくるので、 暇さえあればヴィパッサナーやってる。
他国に布教を勧めたとしたら、釈迦もロクなやつじゃないな
無我と言う事が言われるのですが、無我をしるには どのようにすれば良いのでしょうか?
>>772 771じゃないけど、気づき(瞑想)のレベルによって言い方や表現も変わると思うよ
771は気づきの主体は空とか気づき自体って言いたいんじゃないかな
心や身体や変化や自分に気づくのも自分(心)だし、主体が誰かということに関しては、
移り変わるものが、移り変わるものに気づいてるので、
特に確固たる主体と呼べるものはない(全て移り変わってる、無常)ってことになるのかな
無常観や無我ということが心身で理解できて、瞑想のレベルが上がると、
また違う言い方になるのかも
>>776 身体や心が常(確固たる実体)であるかどうかひとつひとつ調べていくといいんじゃないでしょうか?
それらが移り変わって常に変化してゆくものなら、
確固たる我と呼べるものもなく、無我ということになるのかもしれません
我と思っているもの、それは川とか滝という記述があったので この様に理解してみました。 川は常に水が流れているから、川と言える 水が流れていなければ、へこんだミゾみたいなところで川とは言えない つねに流れつづけているから川と言える。 しかし、今の川と、一秒後の川は同じとは言えない、今目の前に流れているものは 一秒前のものとは異なっているので、厳密には同じものでは無い でも人はこの流れ続ける川をみて、同じ川と言っている。 我があると思っているのは、実はこのようなものでは無いかと思っている。 流れ続けるから川であるように、認識の流れがあるから、我があるように思えている。
川の中に堅固な岩みたいな存在として我という物が あるなら、わかるのだけど どうもそうにも見えない 有ると言う事は、その存在を見つければ有ると証明できるが 無いと言う物の証明は、無いと言う無限の証明を 続けていかなければ、証明できないはずですからね
そういうことでしょうねー 変化の速度(川の流れ)が速すぎるので変化してることに気づかない(ひとつのものと錯覚してしまう) とか言いますね 誰でも生まれた頃とは全然別人だし、見かけも性格も変わってる 十年前とも一ヶ月前ともずいぶん変わってる それでも生まれてからずっと自分を同じひとりの人物だとなぜ思うのか スマ長老なんかは音楽の例えをしてましたね 音楽が鳴り、曲に聞こえるけど、あれを10倍100倍のスローで再生したら、 音が始まり終わり、また別の音が始まり終わり、 別別の音が次々鳴るだけで、曲とは思えない 変化のスピードが速いから、変化に気づいていけず、ひとつの曲に聞こえてしまう ヴィパッサナーをやって、自分(身体、心)の瞬間瞬間の変化に気づいていけるようになると、 連続した自分でなく、曲の音のように途切れ途切れの自分、 瞬間瞬間生じ滅している自分という、無我、無常性がわかってくるのかもしれません
我という思いは、川の流れに例えると この川の流れの中にいる限りは、我という思いと同一にあるので、分離できない 寝てしまうなら、我というものを判断できるもの自体も消えてしまうので、我が無いことを 理解できない。 ではどうするか、 この流れは連続しているように見えて、じつはデジタル的に 途切れ途切れで流れている。あまりに高速に流れているので、連続して見えている この切れる瞬間には我は消えてしまうはずなので、その前後から類推できる可能性がある。 また受想行識の流れの途中で、遮断してしまうなら、我が出るのは最後の方であるから 我が無い部分が現れる事がわかる。 我が無いと言う事は、間接的にしかわからないと思うので、不確かにしか見えない所があると 思える。 方法はもう一つあるように思えます。
ウィパッサナーとは思考を止める事だという記述があります。 これを止める様にしていくと、この意識の大河の流れが だんだん大河から小川に減っていくはずなので どこかで川の底が垣間見れる可能性が考えられます。 うまいことに認識の流れは受想行識というように 順番に流れているので、その途中でも切ることが できると、川の底が見えるんじゃ無いかと思えるのです。 思考を止めると言う意味は、こういうことなんじゃ無いかと 思えるのです。
川に例えたましたがこの川に大きな石があったとする この石が我であるなら、水が流れようが、流れまいが、確固としてこの石は有るとして存在している。 だれが見てもその石を確認できる。でもどうもその様な物では無い しかし我を川の流れとするなら、さてこの川は有るのだろうか、無いのだろうか? しかし、非常にあやふやな概念であるとおもう。 だれもがこの川=我は有りそうに見えるのだけど、じつは怪しい 受想行識の意識の流れに依存して、あたかもアワのように浮かび上がっていく物にみえる。 我=川というものは、意識=水の流れに依存して存在していると思っているのです。 こう言う物は、有でも無でもなく、相依存のある物と呼ばれています。 この我という思いは、有でも無でもなく、意識の流れを因としてその縁として生起されるもの 従属物として作り出すものと見える。 よって確固たる有るものとは言いがたい 蜃気楼やまぼろしのようなものに見えてくるのです。
784 :
神も仏も名無しさん :2013/05/13(月) 20:57:21.02 ID:j/zEpb1h
瞬間瞬間に次々と襲いかかってくる衝動の連続が「我」の正体。 インプットに対するアウトプット、そのくりかえしにすぎない。 音が聞こえたら、何の音かと瞬時に概念とつなげてしまう。 音というインプットに対して概念のアウトプット。 衝動に対して動き。 ただそのくりかえし。 たいして意味のない虚しいくりかえし。
慈悲がないと死ぬんじゃないか。
心根は猿こうの如くにして暫くも停まる時あることなし
787 :
神も仏も名無しさん :2013/05/16(木) 10:53:46.58 ID:0GqCeInl
>瞬間瞬間に次々と襲いかかってくる衝動の連続が「我」の正体。 「襲いかかってくる」とは受け身的表現だが、誰にあるいは何に襲い掛かってくるんだ? それともただ「襲い掛かり」だけが存在するのか? 遅いかかられる者(物)なしに? もしそうなら、実は誰も襲いかかられてないから、襲いかかりもまた存在しないことになる。 >インプットに対するアウトプット、そのくりかえしにすぎない。 しかし、それはどこで起こる? >音が聞こえたら、何の音かと瞬時に概念とつなげてしまう。 >音というインプットに対して概念のアウトプット。 >衝動に対して動き。 >ただそのくりかえし。 で、その繰り返しはどこに起こるんだ?
>>787 「今・ここ」に対して襲いかかってきて、
「今・ここ」においてアウトプットが起こります。
「我(わたし)」と名付けられる現象はある。
しかし、その「我」の正体を、
次から次へと襲いかかってくる衝動・刺激の総称なのだと気付いていれば、
悩み苦しみや感情がいっきに冷めます。
「襲いかかってくる」を、「平安を邪魔する」「冥想を邪魔する」と言い換えてもよいと思います。
1秒前の「わたし」でさえも、「今・ここ」の平安を邪魔する刺激の発信源でしかない。
朝起きて目を開けた瞬間からヴィパッサナーが始まる。 この押し寄せる煩悩が、いかに強力か!魂を削られる。
そんなにこだわらなくても.....
>>792 こだわっているというより、変に余計なことを考えてしまってツライからやっている。
まぁ、考えすぎなんだろうね
そのとき体と呼吸はどうなっていますか? こわばっているとか、息が詰まっているとか 早くなっているとか それを観れば消えやすくなると思いますし それが出来れば、心と体を分離して理解する事ができるようになると思いますが
795 :
神も仏も名無しさん :2013/05/17(金) 16:48:59.66 ID:mwyZYQy7
ヴィパッサナーっていちど本格的にのめり込んじゃうと一生やめれらなくなるだろ? ふつうの楽しいことをふつうに楽しんで(=よけいな気づき一切なしに)やることがもう絶対できなくなる。 ある意味マインドコントロールされた一種の廃人になるとも言える。 そうなってもいいから滅したいほどの苦がある人以外は手を出さないに限ると思うね。
>>795 現在日本で教えられてる方法そのものが在家向けみたいなものでしょう
たしかに静かな揺れない心を知ってしまうと そう思えるでしょうね どうすれば心を制御できるか と言う方法を知ってしまうと やめると言うことは、出来ないでしょうね
798 :
神も仏も名無しさん :2013/05/17(金) 21:00:54.96 ID:tP5rGVL9
廃人まではなかなかいけないな。 冥想を多少やってても、普通に社会生活はできる。 「廃人になったらどうしよう」というのは妄想。 廃人になってから考えればよい。
廃人に成っても考えられるのか?
ヴィパッサナーで廃人になるというなら、 釈迦の悟った後も廃人だったと思ってるの?
今年に入って、「アセンションに伴う、いろいろな症状」を語るのが流行している。 それだけ、なんらかの異変を感じている人が多いということだろう。 多いのは、何と言っても、「耳鳴り」だ。高周波の回転音みたいな耳鳴り。 これが、ずっと続く。それから、何かモアモアとしたエネルギーに包まれている感じ。 体温が上がっている感じもある。 あと、振動を感じることもよくある。「あれ、地震かな?」と思ったら、周囲は まったく、いつもどおり。実は、振動してたのは自分だった…ということも、 何度もあった。そのときは、「なんだか、我ながら、もう危ないな…?」と アセったものだったが、そういう人は他にも沢山いるみたい(笑)。 でも、それ以上に、多くの人が一様に語るのは、「眠気」だろう。 妙に眠くてたまらなくなることが多い。 それも、よくある話なのは、「夜、寝ても短時間で起きてしまう。 そして、一日に何度も眠くなる」というものだ。 でも、睡眠障害みたいなのとは違う。 夜も、とても起きてられないくらい、思いっきり眠くなるからだ。 「一日に何度も眠くなる」というのも、「睡眠不足で、日中もうつらうつら」 というのとは違う。短時間だけど、グッスリと深く眠れる。 この睡眠パターンは、何かと似ている。それは、赤ちゃんだ(笑)。 (続く)
802 :
神も仏も名無しさん :2013/05/18(土) 09:30:46.81 ID:9OpJg6rt
冥想中の雑念は、夢と同じなんじゃないかな。 つまり、脳が余計な刺激のないときに、貯めていた記憶の整理作業を行う。 だから、本来は、冥想者は睡眠時間が少なくなるはず。 だって、夜の睡眠中にしていた整理作業の一部を冥想中にしているんだから、 夜の睡眠が少なくてもいい。 ただ、眠気というなは、退屈なときにも起こる。 集中したくないときの拒否反応(怠け)の現れとしても眠気は起きる。 眠いイコール睡眠が必要、とはかぎらない。
>>795 あまりにも若い人にヴィパッサナーを教えるのは疑問を感じるね。
ただ、今の時代ツライ学生生活を送っている話も、ちらほら聞くんだけどさ
804 :
795 :2013/05/19(日) 10:32:42.85 ID:tmIZiFrf
>>798 熱心にやれば、私の言う意味での「廃人」には数年でなれる。
最初の最もはっきりした兆候は恋愛感情が起こらなくなること。
そして、そのくらいでないと滅苦そのものができない。
>>800 正確に読んでほしい。
「ある意味マインドコントロールされた一種の廃人になるとも言える。」
そして、これは価値転換だから、両方を対等に見る視点は原理的に存在しない。
ニーチェの言うルサンチマン的転倒が起こるわけだが、
ニーチェは気づいていないが、良くも悪くもキリスト教よりも仏教のほうが遥かに深い。
>>803 基本的には賛成。
老病死が視界に入ってからでも遅くないので。
「そうなってもいいから滅したいほどの苦がある人」以外は。
ルサンチマン的転倒ってなんですか?
老病死なんて生まれたときから視界に入ってるし、 歳とってからあせって始めてももう遅いかもしれないじゃん?
807 :
神も仏も名無しさん :2013/05/19(日) 12:14:37.48 ID:Iptvc3JP
一般的にルサンチマン的転倒とは 不細工なヲタである私が美人に一目惚れして告白したがフラれて、 「アイツは美人だが俺の価値を何も分かってないバカだ、 顔を近付けたら肌も汚いし大したことなかったな」 とか言っちゃうとこれはルサンチマン的価値転倒となであります。 復讐感情によって価値評価を正反対に反転させることです。 酸っぱい葡萄の例えが有名です。
酸っぱいブドウで理解できました ありがとうございました
>>795 自分の心を観ると言う事は、自分のありのままの姿を
目の前に示されるので、嫌になるだろうとおもえる。
そんなひどい人間かと絶望するかもしれない
それも自分であり、そう思うのも自分でそう思っているに過ぎない
と言う事に気がつけば、よいのだけど
若い人にはつらいかもしれないと思える。
それを過ぎると
苦しみを観ることは、他の人も同じであると言う事にも気がつくようになる
その事にも気がつく様になると
修行がわずかであっても
よき人がその中にできあがってくるだろうと思う
自分の心が見えると言う事は 人の心も見えるようにわかる様になるから 他人の心を(自分の心として)洞察する力を獲得することができる 情欲に満ちた心であるか否かを知ることができる 憎しみをいだいた心であるか否かを知ることができる 迷いのある心であるか否かを知ることができる 集中した心であるか否かを知ることができる 寛大な心であるか否かを知ることができる 平凡な心であるか否かを知ることができる 安定した心であるか否かを知ることができる 解脱した心であるか否かを知ることができる
ヴィパッサナー瞑想ってマイナーですよね? 俺の身近な人でやってるようには、とても思えない。 日本の全人口の何人ぐらいやっているのだろう。 50万人ぐらいか?
812 :
神も仏も名無しさん :2013/05/24(金) 16:56:15.41 ID:gpY6R8ss
コンサル星で流行ってます
813 :
神も仏も名無しさん :2013/05/29(水) 23:08:22.12 ID:MFNbyWj2
>>764 蝉丸Pのつれづれ仏教講座でも読めよw
オタクじゃないとスラスラ読めないけどなwその辺の事情もやんわりと
書いてある。
>>803 まぁな。甘露門の三途八難の辺地(世の中楽しくて修行なんかする気おきねーや)
のリア充の若者に瞑想なんか薦めらんねw
家庭環境最悪とか学生生活最悪で自殺してぇって奴なら別だがw
この瞑想で、パニック障害を治すことはできますか?
815 :
神も仏も名無しさん :2013/05/31(金) 08:01:37.34 ID:PV6D8bL1
>>814 病気を治すための瞑想じゃないけど
マジメにやるなら改善していくと思うよ
817 :
824 :2013/05/31(金) 12:14:37.56 ID:O0QddJKY
>>815 >>816 レス有難うございます。
ヴィパッサナー瞑想でパニック障害を克服された方いますか?
もしいたら、どういう風にサティを入れるのか
解らないので、教えてもらえないでしょうか?
>814 自分の知り合いにも鬱病(パニック障害)の人がいる。性格的に物事にこだわり過ぎる というか感度が過剰に良すぎるというか、本来は優秀なのだがすこしバランスを欠くところが あるように思える。 こういうことは瞑想や瞑想の周辺にある訓練方法でかなり効果的に修正することが 出来ると思う。 例えば瞑想をすると「心を開くことができる」ようになる。胸のあたりが閉じていた のが開く感じがする。「胸のチャクラが開く」というように表現する人もいる。 胸の解放感だけでもずいぶん違った良い影響があると思う。 でもこのような「体感」に関する部分は、瞑想よりも寧ろ、広々とした景色のいいところ に出かけることの方が直接的で手っ取り早い。それから少し運動して汗を流すと胸は開きやすい。 だから毎週土曜日は、ハイキングで山に登るようなことをすると随分違うと思う。 瞑想に上達した人ならともかく初心者が一人で引き籠もって瞑想の練習をしても病的な状態 では瞑想じたいが上手くいかない。それよりは登山などをするほうがはるかに効果がある。 会社が倒産して鬱になった社長が毎朝登山を3か月?くらいやったおかげで健康を回復して その後有名なIT会社を成功させた例を聴いたことがある。 もちろん指導者について一週間ほど瞑想の練習をするというのはこれは非常にいい。特に 山中の禅堂などで修行するのはいいと思う。
あっ膨らみだけといっても、膨らみだけにサティを入れるんじゃなくて 膨らみ、縮みに専念するってことでしょうね
>>818 >感度が過剰に良すぎる
これは自分もそうで、ヴィパッサナーやり始めてから変に想像しすぎる
考え方がなくなった。
もしくは、薄れた。
いつも考え事をしてるような人、思考が回りやすい人は
ヴィパッサナーが効果的だと思うよ。
822 :
神も仏も名無しさん :2013/05/31(金) 18:19:52.72 ID:GWf3miSl
日本ではスマナサーラ(と本では地橋本)のやり方が一般化しているけど、 あれは要注意だな。 どちらかといえば、言語ラべリングはやめた方が無難だ。 地橋のような本質を言語で射当てるやり方はもっと悪い。
>>822 アーナーパーナ、マハーサティ、マハーシと色々試したけどそうでもない
ラベリングの言葉は割とおおざっぱでいいと気づいたときは、これは優れた方法だなと確信したわ
肝心なのは気づくことで、言葉はその優れた補助になる
地橋さんのやつは同意。あの人はあまりに精密なラベリングに拘りすぎる
あれははっきりいってやってられんwってなるわ
色んな人がいるから効果は様々だとおもうよ。地橋流がぴったりくる人もいると思う。 自分もぴったり来た。だから1日で完全マスターした。 ビパッサナ系もいろいろやってスゴイと思うし、全部ひっくるめて一週間でマスターして 今はもう全くやってない。 マスターと言っても「これで十分」と思って自己了解しているのでマスターなのだが 気になる人は突き詰める余地は際限なくあって奥は無限に深いだろう。
>地橋のような本質を言語で射当てるやり方はもっと悪い。 何故本質を言い当てるやり方が悪いのだろうね。かなり特殊な理解の仕方だね。 ちょっと理解できないな。 凄くいいと思うんだが。
その人の言語構造、心の構造によって、どの方法が合うかはかわるでしょう 自分に合うものが他人に合うとは限らない 自分に合わないものが他人に合わないとは限らない
感覚を感じること9割、ラベリングは1割って出してる本に普通に書いてあるけどね
気付きは起こることだよね。無理に気付こうとしても無理がある。それが自然に起こる のを待つしかない。それにはどうしたらよいかというと起こりやすい環境を調えたらいい。 例えば819が紹介してくれた文章などはかなり誤字がある。誤字だらけという印象だ。 これは意図的じゃなくて気付いていないんだよね。 こういう誤字をなくそうとするにはどうするかというと、チェックのためのテンプレート のようなものがあるといい。それに従って読みなおしてチェックをすれば誤字はほぼ完璧に なくせる。 つまり感性で書いている文章にテンプレートというロジックのフィルターを通すことで 誤りを正すことができる。チョットした環境を準備するだけで気付きは飛躍的に起こりやすく なる。 「ロジカルシンキング云々」をいうような人々はロジックこそが成長と変化ををもたらす のだと思っている。 一方「ビパッサナ云々」という人々は気付きこそがそれだと思っている。 どちらも偏りがある。 本来はロジックなどで環境を準備して、ビパッサナでそれが自然に起こるのを待つのが 正しい。
>>828 >気付きは起こることだよね。無理に気付こうとしても無理がある。
>それが自然に起こるのを待つしかない。
いやいやいやw
無理にでも気づくんですよ
そのためにラベリングとかの方便があるんで
一体、誰がそんなことを言ってたんですか?
>自分もぴったり来た。だから1日で完全マスターした。
これが怪しくなってきました(^ ^;)
830 :
814 :2013/06/01(土) 03:58:38.22 ID:ZQiPkVON
長続きしない・・・
>>831 すぐに結論づけないで、気楽に考えればいいんでないの?
833 :
831 :2013/06/02(日) 12:40:43.99 ID:ywVEb+Ir
>>832 そうですね、気楽にやっていこうと思います。
やってみて「自分に合わない」と確信したら他の方法に変えてみたら? 他の人に別の方法へ誘導・勧誘する必要は無い
おそらくパニック障害の一種になった
パニック障害って、どんな感じなの?
838 :
はくいん :2013/06/03(月) 16:10:57.57 ID:fQowV5o6
白隠禅師の丹田呼吸法などをしてみれば良いとおもう。 息を吐くときに足のほうへ吐くという意識 息を吸うときは足の方から吸っているという意識 重要なのは吐くという部分長く細く
いまこれをしているが、これは少林拳で習った呼吸法と よく似ている 丹田にむかって吐く息を落とし込むような感じ
>丹田にむかって吐く息を落とし込むような感じ こういうイメージを使った技法は危ない面もあるから一般に薦めるのはどうかなあ? あと、ヴィパッサナースレに常駐して座禅の宣伝してるのってどうなの?w 何が目的なのか分からんw
>>837 どうもです
何かに書いてあったけど、
うつ病は二人に一人は再発し、
三人に一人は薬が効かないんだってさ。
これって、かなり深刻だよね。
あたまを使いすぎるんじゃないでしょうか 昔のように朝日を浴びておき、体をうごかし 夕暮れとともに寝ていくという時代ならよいのでしょうけど そうもいってられないでしょうし
>841 薬で治そうとするのは無理があるんじゃないかな。 脳の神経伝達物質の殆どは腹(腸)で作られてるので、腸の環境を良くすると 鬱とかパニックは無くなるとおもう。鬱病の人はまず食事が悪いんじゃないかな。 知り合いの鬱病を発症した人もジャンクフッドが多い。 精進料理みたいに少食で菜食にすると腸の環境が良くなる。 自分も一週間の坐禅の接心ですごく体調がよくなったので、暫らく精進料理にしたら 腹の調子が驚異的によくなった。腹が空洞というかスッカラカンみたいで非常に気持ちがいい。 しかし痩せすぎるので最近は肉も魚もアイスクリームも食べるけど食事の10%以内にしてる。 50%が穀類 40%が野菜 10%が肉や魚 ならベストじゃないだろうか? >842 簡単にできると思うよ。自分も大都市に隣接した街にすんでるが朝5時に起きれば 鳥がさえずり魚が飛び跳ねて、亀が甲羅干しをしているところをゆっくり散歩できる。 ジョギングしたりブラブラと河川敷を散歩したり、自転車で少し遠出するなら山に登る ことも出来る。 朝1時間自然に触れれば全然違うと思う。
>843 指摘ありがとう、これでいろいろなことがわかった。 腸でセロトニンか、鬱的な症状が出てきたとき 腹式呼吸をする意味が理解できた。 確かに消える、なぜかと考えていた。 苦が現れたときは、強く呼吸して見ろという 太陽にはあたるようにしている。 大脳辺縁系(感情の中枢)とセロトニンの関係の調査と 瞑想の関係に非常に参考になった。 ありがとう
セロトニン〜はスレチだが一応レスしとく 有田秀穂のセロトニン呼吸法云々はスマナサーラ長老との対談で完膚なきまでに論破されてたはずだが セロトニンだけじゃダメでしょ?セロトニンとノルアドレナリンとドーパミンのバランスが重要でしょ?って 有田さんはぐぬぬってなってたな あの対談はフィードバックされたのか、それとも無視を決め込んだのか
アイスクリームもバランスに追加してください。
ヴィパッサナー瞑想は自然な呼吸を観るやり方だから、 意識してコントロールする呼吸はヴィパッサナー瞑想的じゃないだろうね でも、うつは医学でもセロトニンとの関係がよく言われてるから、 ヴィパッサナー瞑想関係なく、効果あるならやるのもいいんじゃないかね
うつとセロトニンの関係もはっきりしないし セロトニンと呼吸法の関係もはっきりしてない 俺も昔セロトニン呼吸法やってたけど知人の医師に有田先生はちょっと・・・と教えて貰ったことがある
ヴィパッサナー瞑想やってると習得前に人生終わっちゃうよ
大丈夫だよ。 人生って、意外に長いから。
852 :
835 :2013/06/08(土) 14:43:05.89 ID:0WNhBb42
なんとかもどったみたいだ 朝日をあびる 白いんの呼吸法が役に立った 教えてくれた人 ありがとう 18年前同じような症状になったが そのときは離脱に年単位かかった 100kmしかだせない車が300kmだして しまったようなものだ
>>852 >教えてくれた人
>ありがとう
あなた自分で「白隠禅師の丹田呼吸法などをしてみれば良いとおもう。」ってレスしてたじゃないかw
面白い自作自演だなw
854 :
神も仏も名無しさん :2013/06/10(月) 19:26:55.35 ID:DQrYjx8S
信じようと、信じまいと… 昨日、ふだんのジョギングにヴィパッサナー瞑想的な要素を意識しながら走ってみたら、次の日めちゃくちゃ気持ちが落ちついてて驚いた。 誰に対してもニュートラルな気持ちで接することができた。自然と笑顔にもなれた。 もう何年も精神的に不安定な日々が続いてたのに、こんなに心が平穏な日を自分から作りだせたことにホントに驚いた。 いままで、いかに自分は感情とか欲望に振り回されていたか痛感した。 こんなに効果あるとは… 信じようと、信じまいと…
855 :
神も仏も名無しさん :2013/06/10(月) 21:30:47.77 ID:xViFBoFT
考え事が浮かばない位のスピードである程度の時間はしれるようになるといいよね、呼吸だけが残る感じ。苦行になっちゃうかw
856 :
神も仏も名無しさん :2013/06/10(月) 22:01:10.27 ID:HJUDnnAg
>>854 いい話を有り難う。
ということは行住坐臥、サティを入れることも可能ってことだよね。
僕もやってみるよ。
関係あるのかわからないけど、最近筋トレ(腹筋)するときにヴィパッサナーするようにしてる 呼吸にサティしたり、動く筋肉にサティしたり サティするときとしないときで、腹筋できる回数や疲れの感じ方がずいぶん違うのでおもしろかった
>>856 どんな時でもヴィパッサナーは出来るけど、
車の運転中はやめた方がいいよ。
やってると視界がボヤけてくる時があるからね。
859 :
神も仏も名無しさん :2013/06/11(火) 16:02:37.37 ID:Y/KpPHQx
サティってのがいまいちわからないんだけど、無心に集中できてる瞬間のことでしょうか?どなたかご教授ねがいます!
860 :
神も仏も名無しさん :2013/06/11(火) 17:25:47.65 ID:Ok94GS88
>>859 自分に気づく事じゃないでしょうか
無心とかを意識すると力みや自己暗示を生みやすいみたいです
861 :
神も仏も名無しさん :2013/06/11(火) 19:14:48.96 ID:+5Q90hoi
>>859 タンスの角に足をぶつけるときなどはサティができていない。
「上の空」になっている。
862 :
神も仏も名無しさん :2013/06/11(火) 19:53:15.50 ID:Y/KpPHQx
>>860 >>861 ありがとうございます!
瞑想していて、自分なりに「ひょっとして、この感じかな?」というのはあるんですが、お二方の教えをもとに再度挑戦してみます。
satiとは例えば歩くとき足が地面についたと 感じ認識すること 手すりを握ったとき握ったと感じることと 理解しています。 こういう状態を続けていくと、心はsatiで 満たされ、普通なら次々と沸き上がる 思考が出てこれなくなります。 この状態を認識できるはずです。 さらに進むと。このsatiすらもうすくなり 結果的に無心が出てきます。
864 :
863 :2013/06/12(水) 03:48:59.23 ID:8QiirZdC
これは半年ほど色々と自分で 試行錯誤してきた結果であり あくまでわたしの個人的な見解です。
サティしながら仕事もできますか?
866 :
神も仏も名無しさん :2013/06/12(水) 08:44:51.64 ID:0GeRnTkk
「今」仕事をしていると気付けばそれもサティです。静まれば気付く(集中)し気付けば静まってきます。
単純作業の仕事だとやりながらできるって地橋さんの本に書いてあったな 思考(=妄想)をフルに使わないとダメな仕事だとムリじゃないかな たとえば瞑想しながら会議はできない
慈悲の瞑想に関して、 スマ長老は気持ちを込めないと意味がない、 言葉を回転させるだけなら無駄だと言っているが、 地橋氏は全くやる気なくても上っ面で 慈悲の瞑想の言葉を言うだけでも効果があると言ってるよね。 それがウケるw 実際、能面のような顔でシラーっと適当に慈悲の言葉を言うだけでも、 心の変化を感じてしまう。
身体と心は互いに連動してるからねえ たのしいから笑うけど、笑い顔作れば楽しくなるし 言葉も、思ってなくても言ってれば、少なからずそういう気持ちが生じる 地橋さんの言ってるのはそういう意味だと思う でも、スマ長老は、気持ちを込めたほうがそれよりずっと効果的なので、 鼓舞するイミでも少し大げさに言ってるんじゃないかなあ
870 :
865 :2013/06/13(木) 09:35:56.05 ID:dm0JZv7+
ありがとうございます 仕事中は流石に無理ですか 発達気味で脳内の多動が強くすぐ気がそれてしまいます 逸れるのは仕方が無いにしても 逸れた事実にすぐ気づけば早く戻れるようになるかなと
871 :
神も仏も名無しさん :2013/06/13(木) 11:54:11.83 ID:6TjzIxMC
サマタで静まればそのあとしばらくは自動的にヴィパッサナーに移行するのでその時間を徐々に延ばしていければいいと思います
サマタで来てヴィパッサナーに変わっている事に同意できる。 どちらも集中力、 こころが発現したらそれを捕まえて止めて(サマタ) それを観察(ヴィパッサナー)している。 否定も肯定もせずただ観る
>>868 心を込めるのと上っ面なのとの境界線は何だ?と聞かれて双方共に返事に困ったりして
初めてのマインドフルネスということで amazonのレビューの数や星の数、値段で下の本を最近買いました。 基礎からというよりも基礎をがんばります。 Transformation and Healing: Sutra on the Four Establishments of Mindfulness Mindfulness in Plain English ヴィパッサナー瞑想という言葉だけは以前見たことがありましたが どんなものかは知りませんでした。
ティク・ナット・ハン師とグナラタナ長老の本ですか すごくいいチョイスですね
>>875 ありがとうございます。励みになります。
877 :
神も仏も名無しさん :2013/06/13(木) 22:42:21.37 ID:JM/0vL5x
>>873 心を込めるというのは、より具体的にイメージすることでは?
単に「生きとし生けるものが幸せでありますように」という言葉を念じるだけではなく、
たとえば人混みや群衆を思い浮かべ、その群衆全員がニコニコとしている様子をイメージする。
「悩み苦しみがなくなりますように」のときは、
群衆全員が何か大きな危機から同時に解放されて
「ふーーっ、助かった!」「あーっ、よかった!」と全員同時にホッとする様子をイメージ。
「願いごとが叶えられますように」では、
群衆全員の望がかなってみんな一斉に、誰一人もれなく
「やったー!やったっ、ついにやったぞー!うぉぉぉー!」と叫んでいる様子をイメージ。
「悟りの光が現れますように」では、群衆全員が静かに心落ちついている様をイメージする。
>876 やめとけ。悪いことは言わん。 坊主には暴れ者がなるのがいい。ディクナットハンも過激な学生運動家で札付きのワルだった。 スマ長老も見るからにワルではないか。まだ完全には抜けきっていない。 学校で悪いことをすると坊主にされる。街のごろつきも坊主が多い。ム所に入ると 坊主にされる。 糞坊主とはよく言ったもので坊主ほど糞が集まった集団は他にない。 坊主とはそういうものだ。 品行方正でおとなしい人は坊主になんかなるものじゃない。 ところがこういう悪どもが坐禅をしたり宗教的に回心すると聖人になる。そこが不思議な ところだパウロでもディクナットハンでも元を知ってる人は驚く。
879 :
神も仏も名無しさん :2013/06/14(金) 09:31:17.14 ID:n/sIYIn9
心に苦(幻想)があるからこそ瞑想とかするんじゃないですか。平々凡々生きていければあまり瞑想とかに感心が向かない。なんかの宗教でも天国にいくには地獄を通らなければならないって寓話?もあるし。
>>878 すごいメカニズムだ
もっと論理的に解析できたらオモロイ本が一冊できるかも
「悪人坊主改心の法則」とか
ただ
> 品行方正でおとなしい人は坊主になんかなるものじゃない。
これは気になるところですが…これも論理的に解析できたらいいですね
悪人正機 アングリマーラ
882 :
神も仏も名無しさん :2013/06/14(金) 12:51:31.05 ID:uY4tWMPf
>>879 平々凡々の人生にも悩み苦しみはあります。
単に物欲を満たすとかだけじゃなく、
悩み苦しみをなくすことに感心が高い人はけっこういるでしょう。
そういう人が冥想という方法に出会えば、やってみたくなる。
たしかにやれば、悩み苦しみは減ります。 いまの自分の実感ですが
>>881 アングリマーラは極論だし、お釈迦様でなければ多分だめだったかもしれない例なのでちょっと…
もう少し最近ので、日本のお坊さんの実例で誰か
どんなに他人から口撃されても弾はすべて自分を除けていき、 傷を一切負わない人間になりたい 国連の人道大使が挑発に乗せられて、シャラップとか言っちゃダメなんだ モーリシャスの代表も、中韓が騒ぎ立てる話を鵜呑みにしてしまって 日本を糾弾するのは、モーリシャスの代表の意識の中に不平不満などの ホコリっぽい残留物があって、なにかのきっかけがあったらそれを どこかにぶつけたいと思っているから。 つまり、日本を挑発してくるのは、挑発する側の問題であって 日本がこれを拾っちゃいけない
平凡でも安定してる人は興味ないんじゃないかな ストレス強い仕事してると自然と精神鍛えたくなる
たしかにストレスのかかる職場で こころ黒雲が湧き上がるような不安にさいなまれてきました。
これ心髄観ができないと、すべてが始まらないと思う でもこれって実は難しくなくて、よく考えてみると 普通の人が当たり前にやっていること
889 :
神も仏も名無しさん :2013/06/15(土) 09:35:41.46 ID:WcNoRfjv
ここのスレに書かれてることや瞑想などは 原始仏教を前提となっているんですか?
>>886 精神鍛えたくなるけど、鍛える前に鍛えたいと思う時点ですでに
ストレスで精神を相当にやられていて退職に追い込まれた自分。
会社ではいじめ抜かれた思い出しかない
891 :
神も仏も名無しさん :2013/06/15(土) 10:38:10.75 ID:rkLnAuQ8
鍛えるというか、うまく休むコツを掴むというか。 筋トレの後のストレッチや休養みたいな。
>>891 あ、そうか
鍛えるだけじゃなく休まるのね
過眠だったのに年齢と共に精神が休めなくなってきて不眠症に
下手なりに頑張ろうかな
893 :
神も仏も名無しさん :2013/06/15(土) 11:01:13.88 ID:rkLnAuQ8
頑張るというか 頑張らないコツというか 「もう疲れたから考えんのやめんべ」と思考放棄し、静かな場所で眼を閉じる。
894 :
神も仏も名無しさん :2013/06/15(土) 11:09:06.33 ID:rkLnAuQ8
うまく静まれば思考のもとになる思考みたいなのが見えてくるからそれに巻き込まれないよう静寂と呼吸に気付きつづける。15分位たったら眼を開け手を見つめて開いたり閉じたりしてみると手を手として感じ、自分の意志で動かせている事に新鮮味を感じたりするです。
sageにサティ出来ませんでした。 サーセン
>>894 ありがと それいいなぁ
どのくらいやればそうなるんだろう
1年30分ずつ瞑想したけどサッパリだったのでサティに興味もったんだよね
ちなみに好きに思考走らせてるといつまでも疲れないかもしれない 思考ちょん切るのが難しい 身体はいつもダルイから実際はどこかで疲れてるんだろうけど、自覚しにくいのかな
効果は1週間で出る。3週間やれば他人が見ても分かるくらい効果がでる。 出ないとしたら間違いをしている。
899 :
神も仏も名無しさん :2013/06/15(土) 13:20:50.83 ID:rkLnAuQ8
>>897 思考が止まらない場合は思考のきっかけになった思考を
さかのぼってたどっていくと思考を客観視(サティ)する感じが掴めたりしますよ。
ほんの些細な事から連想が連想を呼んで不機嫌になってたりする。
人と話してて「あれ?なんでこんな話題になったんだっけ?ぁ、そっか」って経験あるでしょ?あんな感じ。
それって心髄観、客観視する ふっと浮き上がる感情思考をサマタで捕まえて固定(止) そしてヴィパッサナーで観る(観)、わかんないんかな おそらくよっぽど思考の雑音が多いので 巻き込まれているんだけど、 ある程度の心の静かさが必要なんで 静かなら、この浮き上がりが一発で捕まえられるんだが 899さんのおっしゃるとおりなんだよ 一発捕まえれば、コツがわかるんだけど
>898 まったくその通りで、1週間でわかるはずなんで 数名にこうですよ、実際にやってもらったけど すぐに捕まえることができた (できない人もいたけど) 反応はこれで良いのかと言う感じなんだけど
この事は仏教の根本教義 3法印(4法印)(4念住)が自動的にわかるようになるんで 瞑想が無ければ、仏教の根本理解に つながらないんです。(信じるしか無くなるから) 心髄観ができると、自動的に上記が導かれるのです。
>>901 はい。
感情的な思考がクセになってるとなかなか取れない。取れたと思ってもまたすぐ巻き込まれるし。
全力ダッシュとか、かなりきつめの筋トレなんかも思考に'スペース'を作るのに
効果的だったりします。一瞬無心に近づくでしょ?
苦行になりますがw釈迦も言いました「苦行で悟りは開けないが無心にはなれる」
904 :
神も仏も名無しさん :2013/06/15(土) 14:48:03.88 ID:EHa8groT
上から説法してもよろしかったでしょうか。
>903 「思考を無くす」のなら癖はどうでもいい。 思考が問題なのでしょ。それは思考を解決しなくては駄目でしょう。
906 :
神も仏も名無しさん :2013/06/16(日) 07:54:23.77 ID:QqbfMk8W
感情が無常であるとわかるだけでも全然違う。 ある人のことで怒って、1時間後にそのことを再び思いだしてまた怒ったとする。 実際は1時間怒りっぱなしだったわけではなく、1時間のほとんどはくつろいでいた。 しかし、あとから「1時間ずっとあの人のせいでむかついていた」と勘違いしてしまうと、 人生の1時間が不幸だったことに塗り替えられてしまう。 嫌なことはあっても、嫌なことと嫌なことの合間でくつろぐコツをつかめば、 人生のほとんどは楽チンな時間となる。
思考を止める事が必要です。 もちろん思考を止める事は無理ですが、減らすことは できるのです。 それにはサティを入れることでできます。 ざっと1ヶ月くらいではっきりわかるようになりましたよ あーー減ってるって
思考をなくしたいんじゃなくて、感情的な思考をなくしたいんじゃないの? ようするに、思考に感情を交えてしまう癖だよね 生じた思考を自分自身だとみなしてしまう癖 思考(論理思考)自体はただの脳機能だしいくらあっても別に問題ないし 思考に感情を交えてしまうのは、 自分が存在してるという観念がなくなるまでは完全には取れないと思う 思考の停止はサマタなり何かに集中すればいいだけだからわりと簡単だけど、 思考から自由になる(思考が生じててもそれを自分とみなさない)のはむずかしい 完全にできたときはもう悟ってるだろうし
>906 そういうことが分かって具体的に説明できるのは、思考力でしょう。思考力は トレーニングで順序立てて鍛えることが出来る。
910 :
神も仏も名無しさん :2013/06/16(日) 08:15:37.82 ID:mKR4MFll
>思考から自由になる(思考が生じててもそれを自分とみなさない)のはむずかしい もともと思考からは自由でしょう。それは別次元のことだから。 私が対象なのか? 人類とか人間が対象なのか? そういう違いです。
そういう、もともと思考から自由とか、 もともと悟ってるとか、もともと無我とか、それはたしかにその通りだけど、 それは理屈ではわかってる人は多いし、 そういう人に、そういう言い方しても仕方ないよね 説明するなら相手に応じた説明しないと
912 :
神も仏も名無しさん :2013/06/16(日) 16:57:54.92 ID:PX6/QVrW
* 地球に似た所にいたような夢から目覚めるが、この世界だったと思ってしまえるほどリアル。 * 何かを失ったかのような混乱に陥って落ち着きを失い、居場所を間違えたような感じがしたり、その理由が分からないまま目覚める。 * すぐに何かかが起こるという強い感覚がするが、奇妙にもその感覚が心地よい。 * 体に電気ショックのようなものを感じる。 * 急に強い嫌悪感やむかつき感を覚える。 * 体の中が破裂するような、圧力鍋の中にいるような感覚がする。 * 何かが大きな音を出して鳴るのが聞こえたり、耳鳴りがする。 * 何かを待っているような気がするが、それが何か分からない。 * 時間が歪曲(タイムワープ)した中にいるような気がする。
堂々巡りで先へ進めない時には別の視点でみると旨く行くことがある。 もし神の視点でみたらどうなのか? 次元の違うものを同時に扱うことはできない。しかも固定した次元にいつも押しこめ られているわけではない。たとえば、自分が転げて服が汚れたら大問題だが、あなたが 転げて骨を折っても、あるいはニュースになるような大事故で意識不明になってもそれほど 大きな問題ではない。 これは、私を含む次元と、人間を対象とする次元の二つを行ききしているからだ。覚者が 問題とするのは後の次元だから、あなたが車に引かれてぺしゃんこになっても何ら同情する ことはないと思う。寧ろ覚者でない私は少しは同情して気の毒に思うことだろう。 あなたが思考から自由になれないと感じるとすれば、極端に慈悲深いからだ。 パニック症になるような人には異常に共感してしまう性質があるようだ。震災が起こると 直ぐに多額の寄付をするような人に多いらしい。 覚者は違う。思考から自由だから「病気になる時はなったらいい。死ぬときは死ぬのがいい」 という。だからパニック症とは無縁だ。
心理学者にはゾッとするほど冷たい人が多い。知人は精神科医を選ぼうとしたら 「向かない」と指導があったそうだ。簡単に感情移入してしまうような優しい人は向かない。 精神的探究も同じではあるまいか? 生まれつき共感力があり慈悲深い人は探究には向かないとおもう。 さらに精神的指導者だが、元はゴロツキでも立派な指導者になった人は沢山いる。とはいえ誰もが 立派になれるわけではない。元はゴロツキで指導者を目指したががやっぱりゴロツキのまんま という指導者の方が圧倒的多数だ。これは自然の摂理だらかしょうがない。 そういう指導者に「生まれつき共感力があり慈悲深い人」が群がるというのが宗教集団の 構図ではあるまいか?
会社に入社してまだ2ヶ月の頃のこと、明日納期の案件が終わらずに 一人深夜残業になってしまった。 頑張ってるんだけど、こんがらがったままミスの原因が見つからない。 自分がやったミスではなく、他部署のミスを自分がチェックしてまとめてたんだ。 次第に緊張と焦りで体がひとりでに震えだした。 押さえようとしても収まらない。どうにもならなくなって家に電話し、 「とりあえずデニーズで食事する。これで緊張解けなければ仕事ほかして タクシーで帰るから2時ぐらいまで玄関開けてて・・・」 その後何年も経って会社を離れた後もずいぶん経ってから 自分の症状がパニックディスオーダーだと知った。
916 :
神も仏も名無しさん :2013/06/17(月) 23:46:12.42 ID:jXl0DVI3
ヴィパッサナー瞑想が仏陀の瞑想だというのは本当なのですか? ブッダが「膨らみ‐縮み」なんて「サティを入れ」ていたなんて原始仏典のどこにもないが。 妄想に気づいて手放していくなんて話も見当たらないのだけれど…
917 :
神も仏も名無しさん :2013/06/18(火) 00:35:37.92 ID:SFDBsM73
まあボケ防止になるかもしれんはなぁ 何が本当で何が嘘かはさておいて 良いと思うことは何でもやりゃいいじゃないか
918 :
神も仏も名無しさん :2013/06/18(火) 00:41:01.97 ID:iyOSNtiZ
920 :
919 :2013/06/18(火) 01:40:55.30 ID:ZZB33boA
>>919 は下の部分についてね。
>ヴィパッサナー瞑想が仏陀の瞑想だというのは本当なのですか?
呼吸に集中するとき意識を向ける場所については教典には明記はなく、
これまでの著名な注釈書では「鼻のてっ辺」ということらしいです。
近年ビルマ人のmeditation master Mahasi Sayadawが腹の収縮に意識を
向ける指導をしてるという言及は
>>919 の上の方の本にあります。
下の方の本の著者は別の本も含め確か鼻腔辺りの感じやすい箇所
だったと思いました。
921 :
920 :2013/06/18(火) 01:57:32.71 ID:ZZB33boA
>>920 >近年ビルマ人のmeditation master Mahasi Sayadawが腹の収縮に意識を
>向ける指導をしてるという言及
「指導をしていた」でした。82年に亡くなられていますね。
本から段落をそのまま引用すると、
>In recent times, The Brumese meditation master MMahasi Sayadaw
>taught the method of being attentive to the inflation and contraction
>of the abdomen caused by the in-breath and the out-breath.
>Using this method, the practitioner can realize concentration easely,
>but it isn't described by the Mahasi as a method of awareness of Breathing.>The basic reason for doing this practice, according to the Mahasi, is that
>understanding (Prajna) arises naturally when there is concentration.
>Perhaps the reason Mahasi Sayadaw doesn't describe this method as a practice
>of awareness of breathing is because of traditional prejudice that
>conscious breathing should not follow the breath into the body and
>down into the abdomen.
924 :
神も仏も名無しさん :2013/06/18(火) 20:17:19.78 ID:1iO43N7X
ブッダは「口のあたり」と言っているんじゃなかったっけ?
925 :
神も仏も名無しさん :2013/06/19(水) 02:11:37.22 ID:1BoyVwe/
>>923 を読めばマハーシサヤドーの瞑想法がどういう根拠で提唱されたかは大体分かる
926 :
神も仏も名無しさん :2013/06/19(水) 10:36:45.24 ID:BQ7Vap9L
「ですから膨らみ、縮みを無常、苦、無我と見るように念じることは五蘊、十二処などのそれぞれのパーリ経典に一致し釈尊の意向に沿っている仏説だといえます」 というのは「牽強付会」というものだな。 大乗仏典が「釈尊の意向に沿っている」から「仏説」だと言うのと同じで。 「意向」の解釈が問題なのだからこんな言い方では全然駄目。
ヴィパッサナーに納得いく人はすればいいし、 納得いかない人は別の派なり別の技法なりすればいい 強制でも義務でもないし自分で選べばいい
928 :
神も仏も名無しさん :2013/06/19(水) 12:35:25.78 ID:XlEBUYHs
煩悩ぉ、ぼんのおぅう ヴオォンノオオゥゥ
ずーと静かな心に入ることができる その時間は延びている それを持続するには 動作をできるだけ 気がついていくだけ ただ平安がいかに楽な状態であるか 思考が出てきても薄い あとに残さず消える
930 :
神も仏も名無しさん :2013/06/19(水) 12:42:21.00 ID:z/uXzDKV
>>926 膨らみ縮みも苦・無常・無我である、というのは仏説に沿ってると思います。
日常生活において、なにかの拍子に膨らみを感じたとき、
「この感覚も苦・無常・無我だなぁ」と念じるのも仏説に沿っている。
その「なにかの拍子」を意図的にやっているのがヴィパッサナー冥想なのでしょう。
931 :
神も仏も名無しさん :2013/06/19(水) 12:46:28.98 ID:No6rrXyN
とりあえず、パーリ語の四念処経だけ読んで その通りやってみてはどうだろうか。
932 :
神も仏も名無しさん :2013/06/19(水) 12:48:36.68 ID:No6rrXyN
パーリ経典と違う。けしからん。ということであれば パーリ経典だけ読んで、ほかの注釈書などは一切よまず パーリ経典の通りにやるのがよろしい。
>>931 四念処経はティク・ナット・ハン師も書籍にしていますね
>>933 下の本出してるね。下の一番上の翻訳を柱に本が書かれていて
三つのバージョンが入ってるよ。
下二つも、本文で触れる部分があったり、本の最後に付録でついてる。
その後に、三つのバージョンの比較を簡潔に述べてる文章も付録してる。
ブッダの〈気づき〉の瞑想
http://www.amazon.co.jp/dp/4787711865/ Transformation and Healing: Sutra on the Four Establishments of Mindfulness [Kindle版]
http://www.amazon.co.jp/dp/B006JO1SKM/ >a translation from the Pali Satipatthana Sutta (number 10 in the Majjhima Nikaya)
>a translation of the Nian Chu Jing (number 98 in the Madhyama Agama
>and number 26 in the Taisho Revised Tripitaka) of the Sarvastivada school,
>translated into Chinese from the Sanskrit Smrtyupasthana Sutra
>a translation of the Yi Ru Dao Jing (Ekottara Agama, sutra number 125
>in the Taisho Revised Tripitaka)
937 :
神も仏も名無しさん :2013/06/19(水) 20:29:45.03 ID:BQ7Vap9L
>>930 926は「仏説に沿っている」かどうかなど問題にしていない。
939 :
神も仏も名無しさん :2013/06/21(金) 20:19:23.43 ID:elCr0KbO
ヴィパッサナー瞑想は別に仏説である必要はないだろう。 いまや医学的にも有効性が確認されているのだから。 もはやはっきりと仏教と切り離した方がいい。 輪廻からの解脱とかああいう種類の話はきれいさっぱり切り捨てた方がいい。
いや なにかある 奥に
医学的にやるなら自律神経訓練でもなんでもいいじゃん ヴィパッサナーは悟りのために行われてきた修行法なんだから 上座部仏教もいろんなサマタ瞑想や観想があったり、 本に載ってるような初心者向けヴィパッサナー瞑想だけじゃないんだから
942 :
神も仏も名無しさん :2013/06/21(金) 21:35:55.61 ID:cP6YOZkk
ヴィパッサナーをもとに、宗教色を廃した療法をやりたいっていうなら 医療現場の方でやればいいだけの話なのではないか。 ストレッチだってヨガをアレンジしたもんだろ。
>>941 病気を治したくてなおかつお釈迦様の言葉を聴きたいと言う場合は切り離しても意味が無いのでは?
体の治療と心の喜びは微妙に違うと思います
あと、生兵法は怪我の元と言われていますので、自分の家の隣にでも施設がないとなかなかうまくいかないと思います
ヴィパッサナー瞑想に他の科学的な呼び名でもあればいいんだけどね。 友達にヴィパッサナーを勧めても、すぐに宗教という単語が頭に浮かぶのか、 相手の対応が引き気味になるよねw
945 :
神も仏も名無しさん :2013/06/23(日) 15:29:33.14 ID:I8mKOlmC
コンサル星人
スマ氏が仏教は心の科学を著してるが断じてヴィパは科学ではない 「認知行動療法」という言い方も濫用すると科学的な印象を受ける人がいるみたいなので要注意
947 :
神も仏も名無しさん :2013/06/23(日) 16:18:07.59 ID:3T2tzQZJ
ヴィパッサナーをヴィパッサナーと言わずに人に教えたり安易な名前に変えるのって 盗みであり嘘をつくことだということは認識しておくように
観瞑想
950 :
神も仏も名無しさん :2013/06/24(月) 12:53:21.03 ID:E/6RwU14
>>946 冥想は「心のスポーツ」ともいえるでしょうね。
サッカーが上手くなりたいかどうかはその人の好みによるので強制はできない。
もしも、その人がサッカーを上手くなりたいなら、その方法はある。
悟りたいかどうか、煩悩を制御したいかどうかも、その人の好みによる。
もしもそうしたいなら、そのために役立つ方法はある。
951 :
神も仏も名無しさん :2013/06/24(月) 12:57:22.87 ID:E/6RwU14
>>944 仏教の冥想は、四諦説に基づいて、煩悩を消したり煩悩をなくすのを目的とする修行。
目的を共有しないで冥想を勧めてもしかたない。
で、目的を伝えるにあたっては煩悩が悩み苦しみの原因だよ、
煩悩を消したり制御したりすることは可能で、その方法を発見したのがお釈迦さまだよ、
という説明が必要になるので、仏教という宗教(むねとする教え)について語らないとムリ。
953 :
神も仏も名無しさん :2013/06/24(月) 13:25:04.16 ID:ThbuBSyV
現代科学や心理学の唯物論的世界観の限界内で瞑想してると ある一定段階からその世界観が足枷となって進めなくなる あるがままとか言っても結局、見える世界、自分達が共通に認める世界でのあるがままなんだよな 現代一般人のヴィパッサナーもそういう定見を壊すとこまで進もうとしない、そこの執着は根深い
>>955 心身分離の苦悩もなにもヴィパッサナーで初めに得る智慧は「名色分離智」だろw
煩悩って執着と言えるのは僅かで多くは生命の基盤だから無くすなんて無理だよ。
瞑想がすすむとそう思ってるものの多くが実はただの執着だってわかってくるんじゃない? だって、戦争とか、我慢しないと死ぬみたいな状況になったら、 ほとんどのものはみんな我慢できるし興味なくなるでしょ 生命を維持するには最低限の眠りと食と呼吸しか必要ないんだし
瞑想で分かることは「瞑想状態で分かること」だから、代謝を落とした特殊な状態での理解 であって、普段の活動的生活の中で分かることとは違うだろ。 戦争中に分かったことを今引きずる必要はないとおもう。今は今。今を理解することが大切で 同様に瞑想で分かったことを今に適用するのは問題がある。
あなたに今必要なものってなんなんですか? 未来に必要なものじゃなく、今、この今に必要なものって
創造的であろうとするなら、不健全や頽廃や反社会的衣装をまとうことも時として必要になる。 瞑想で魔境や毒が出てくるのは、芸術的創造活動に毒が必要なようにそれが必要だからだろう。 避けるものではなく対峙する物と捉えるべきだ。そこに在ろうとすると常にある。それこそが 必要なものだ。
963 :
神も仏も名無しさん :2013/06/26(水) 12:38:45.31 ID:WaQjITgm
>>957 「もっと生きていたい」という執着がなくなれば、生命活動の必要がなくなる。
たとえば、みんな、食べることに満足したら食べるのを止めますよね。
眠ることに満足したら眠るのをやめる。
カラオケ行って歌うのに満足したら延長せずにお会計してカラオケをやめる。
では?生きることに満足したら?
生きるのをやめる。すなわち平安なる滅び、全き涅槃。
964 :
神も仏も名無しさん :2013/06/26(水) 12:43:37.07 ID:WaQjITgm
もしと、心身が受ける一切の刺激の本質は苦痛(不満の種)である、と納得できたら、 「もうこれ以上生きる必要はないな、充分生きたな、あー生きた生きた、よく生きた、もう充分だ。」 と満足し、生きること(輪廻)から卒業できるのでしょう。 もちろん、心底満足していない(執着が残っている)人の場合は、 仮に自殺したとしても輪廻してしまうので無意味。
行為者はいない。私は存在しない。 私と思っているものは肉体(脳)の反応や思考の束・プロセス。 なのに、輪廻転生。地獄もあれば、天上界もある。 誰が輪廻転生するんでしょう?
968 :
神も仏も名無しさん :2013/06/26(水) 21:09:23.12 ID:WaQjITgm
969 :
神も仏も名無しさん :2013/06/26(水) 23:21:23.21 ID:hRMP645E
みんな馬鹿ですね。
あなた方にはテルテルさんのように実践に基づく知識を持つ人間にはいつまでたっても立ち向かえません。
実践あるのみ、です。
他人の知識の受け売りをいくら繰り返しても時間を無駄にしてしまうだけですよ。
テルテルさんのブログをよく読んで自分たちの愚行を反省しなさい。
http://teruterulog.jugem.jp/
970 :
神も仏も名無しさん :2013/06/26(水) 23:35:32.68 ID:GKNGJKM1
971 :
神も仏も名無しさん :2013/06/27(木) 00:05:23.27 ID:Ib/TlLrP
>>966 「誰か」が輪廻転生するのではなく、あるプロセスが続くだけ
そのプロセスをAさんとか「生命」と仮に呼ぶだけのこと
>>967 ありがとうございます。
難しそうですね。
>>968 ありがとうございます。
肉体の死とともに消滅するエゴです。
>>971 ありがとうございます。すっきりしました。
仏教(アーナパーナサティ)に入ってくると輪廻転生の話や、
瞑想を通じて地獄界が見え、天上界が見え、自らの前世の死の瞬間が見える
という話やno-returner、one-returnerなどの話があり、
その一方でimpermanence、unsatisfactionとともにno-selfも説かれていて、
地獄界、天上界の住人の主体や転生する主体が気になってました。
973 :
神も仏も名無しさん :2013/06/27(木) 12:24:57.27 ID:52piS9vz
テーラワーダ仏教協会の機関誌でだったか、スマナサーラ長老も書いていたが、 冥想で無我になるわけではないんですね。 もともと我はない(もともと無我)だと冥想で気付くんですね。
瞑想でどうなれば無我とわかるのですか?
>>973 単なる精神統一による集中力増加でしょうか?
我はないという結論も結局瞑想による客観的な観察で気づくんでしょう?
ということは精神が余程統一されていないと無理なのでは…
あとは、お釈迦様の教えを集中力を持って聴いて、自分で確かめるために瞑想するんでしょ?
それが前提で瞑想しているわけじゃないの?
そうじゃないとお釈迦様の教えを覚えることも実践することも適わぬわな
無我とわかると 怒ること 不安になること 悲しむことなどが そう思わなくなる
私が怒るとき その私が捏造なら 怒りようがない また捏造の私が怒ろうとしていると
後天的に身に付けた考え方や、自己暗示、そこから来るある種人工的な感情みたいのを取っ払って「ただ在る」状態が無我への入り口じゃないでしょうか
意識が消える時(寝る時を考えてみる) わたしは消失する 眼、耳、鼻、舌、身、意の六門からの信号が消失するとき わたしは消失する
唯識論より あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、 それら諸存在は主観的な存在であり客観的存在ではない。 それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。 即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。 唯識は、4世紀インドに現れた瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは 唯識瑜伽行派とも)、 という初期大乗仏教の一派によって唱えられた認識論的傾向を持つ思想体系である。瑜伽行唯識学派は、 中観派の「空 (くう)」思想を受けつぎながらも、とりあえず心の作用は仮に存在するとして、 その心のあり方を瑜伽行(ヨーガの行・実践)でコントロールし、また変化させて悟りを得ようとした(唯識無境=ただ識だけがあって外界は存在しない)。
プラユキ・ナラテボー比丘は二十歳過ぎるまでは瞑想によって自我を破壊するだけでは無く、 自我を構築するようにどっかの本で勧めていた…そんな記憶があります たしかそう本に書かれていたような気がします 気のせいかなぁ?
>>982 スマ長老も文庫本で自分をしっかりさせるというのは認めてたような気がする
自我構築までいくと言い過ぎだけどw
どっちにせよ、無我を強調しすぎることで初心者に不具合が起こることへの方便かなという感じ
我というものは 滝の流れとか 川の流れに例えると分かりやすいよ
無我というのは、確固たる固定的な自分はいないということ 自分は常に変化し続けているので、心も身体も自分と呼べるような固定的なものではない なので自分を構成している性格や価値観、観念、生じる感覚感情にもこだわらなくてすむ それらによってもたらされる悩みや苦にも捉われなくなっていく けれど智慧からではなく頭で自分は無我と理解してると、無我という観念に捉われるかもしれない 無我が少し実感できてきても、それにこだわったら、自分は無我だという自我を作ってしまう 自分が無我だとこだわってしまったら、そういう執着する自分を持っていることになる 無我はわかりやすく言えば無執着ということなので、 無我とか無我でないとかいうことにこだわらない、こだわる自分などいない、というのが本来 なので、無我は無我であるけれど、無我にこだわる自我を持ちそれに執着しないよう、 自我が生じるまま、無我になっていくまま、無執着であるのがいいでしょう
その通りです
987 :
神も仏も名無しさん :2013/06/28(金) 10:23:56.48 ID:0/7ZIhA7
「無」は「存在」するのか?って事ですね。
宇宙の隅々まで含めた"神の青写真"というものが存在し、 それが時間と空間の存在するこの世界に投影されている。 人間は背景幕に映った影あるいはコンピュータのようなもので自由意志はなく、 生まれたときにすでに死ぬまでの運命や行動が事細かに決まっていて、 遺伝や育った環境(それさえも"神の青写真""神のプログラム")に基づき 青写真どおりに刺激に反応しているだけ。 この世界で起こることは"神のリーラ"であり、 人間と思っている存在は自も他も実は"操り人形"にすぎない。 そこには、個に基づく善悪、成功、不成功といったものは存在せず ただ配役になりきって寸分違わぬ芝居を行っている"操り人形"が存在するだけ。 操り人形に人形使いや脚本家の意図はわからない。 という考え方の方が好きだがね。
>>987 そうですね
仏教でいう無は、有も無も無い絶対無のことだと説明されるように、
有も無も無い、有と無を分けない、有と無を区別しない、有と無に執着しない、
そういう無でしょうね
990 :
神も仏も名無しさん :2013/06/28(金) 13:00:01.50 ID:RtFgAHJN
無我と苦が同じ意味だということを忘れたら、別の方向に行ってしまう。
>>989 有と無に執着しないなら「無」とか「絶対無」という形而上学的な言葉すら必要ないでしょ
「執着しないこと」だけで充分
なぜ無我と苦が同じなのですか?
同じだったらわざわざ「無常・苦・無我」の三相に分けて説く必要がない あと無常だから苦、苦だから無我とはいえても苦=無我とは言えないだろう
994 :
神も仏も名無しさん :2013/06/28(金) 22:04:04.05 ID:RtFgAHJN
>>992 結局、無我も無常も苦も、執着する値打ちがないと気付いて手放す、「捨無量心」につながる。
>>993 一つの方向からの表現では誤解されやすいから、
三つの方向から説かれたのではないでしょうか。
四念処で4つの「観測点」で観察するのもそう。
995 :
神も仏も名無しさん :2013/06/28(金) 22:36:09.47 ID:RtFgAHJN
>>993 色声香味触法の刺激が入ったら、
必ずなんらかの出力をせずにはいられない、とにかく何らかの反応をしてしまう、それが「苦」です。
刺激に対して反応しただけ。反応の形にはたいした意味や価値はない。
意識に法境(心に対する刺激)が触れたら、何らかの思考を出力せずにはいられない。
法の刺激も苦だから。
意識がつくりだす思考(法)は 刺激に対して何かを吐き出さないと苦しいから、
単に吐き出されただけであり、吐き出された法には絶対的な価値はない(無我)。
たとえば「私」という概念も、刺激に反応して心から吐き出されただけの泡ぶく。
996 :
神も仏も名無しさん :2013/06/28(金) 22:43:44.49 ID:RtFgAHJN
心に何かの情報が入ったら、何か答えを吐き出さないと苦しいから、心がとりあえず応えただけ。 その答えにはたいした価値はない。 思考や感情に対してそのように冷めた目で見る、瞬間瞬間ごとにどんどん捨てる(価値なしと手放す)。 それが捨無量心。法(心に浮かんだこと)は無我(たいした値打ちがない)。 刺激に反応せざるをえない、ウズウズ(苦)。 だから心はどんどん変化する(無常)。 ウズウズの刺激を生み出すだけのウザい身体は、キラキラピカピカの宝物などではない(不浄)。
997 :
神も仏も名無しさん :2013/06/29(土) 00:20:41.37 ID:5aM2ECka
素人の説法必要あるか? このスレに議論も説法もいらんだろ。
998 :
神も仏も名無しさん :2013/06/29(土) 00:51:09.52 ID:5aM2ECka
それより、基準になるテキストを選定してテンプレに入れた方がいいと思うが。
999 :
神も仏も名無しさん :2013/06/29(土) 01:09:21.80 ID:5aM2ECka
「捨無量心」でも「捨梵住」でもいいけど一切衆生を対象にする心だからヴィパッサナーの智慧とは関係ないんだけどな 地橋さんの本でも、ただの「捨」と「捨無量心」をごっちゃにしてて、これはどうかと思った
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