北伝仏教の誤りを追及したい

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1紀元前
どの経典が釈迦牟尼仏の教えをそのまま伝えているか真面目に議論してみたい(そうでないものはどれなのかも)
北伝と南伝の違いは、スリランカのローカル部派由来か、インドに残った主流派部派由来かの違いで
スリランカの経典でどうこうは根拠になりえない。
『般若心経は間違い?』
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1187688140/l50

釈迦一代五時継図
大論に云く「十九出家、三十成道、八十入滅」文。此の論は竜樹菩薩の造、寿命三百年、三十万偈
の論師なり。付法蔵の第十三、仏滅後七百年の人なり。
http://www.mitene.or.jp/~hokkekou/gosyo/syakaitidaigojikeizu.htm

十二因縁
http://life.2ch.net/psy/kako/1031/10316/1031648775.html
...それは大般若経に載っている。
ある時魔波旬が比丘の姿でやってきて『君たち十二因縁の修行も三十七菩提の修行も必要ないよ
この世は空だから十二因縁も空だから存在しないから』と言うんだ。
もし、比丘たちがこれを知れば、阿含経の修行はしなくてもいいことになってしまうんだ。
だから仏は無記といい、この世は『無癡なる行から識・名色・・・・・・・・・・・生・老死』として現れている
と言っているんだ。つまり十二因縁は幻夢の出来方の説明なんだ。 ...
現存阿含経は南伝北伝どちらも、部派アビダルマによる改竄改変を受け、般若経な
どの大乗経典群も、論師たちの著述の影響を受けています。どちらもそのまま佛説
とはいえないでしょう。
2紀元前:2010/05/25(火) 18:50:38 ID:sdj+9UcR
大乗非仏説(だいじょうひぶっせつ)
大乗仏教の経典は、釈尊の説いたものではなく、後世に作られたものだという説。

日本では、仏教は江戸時代に寺請け制度で権力の一翼を担い堕落していた幕末において、仏教に批判的
な思想家等によって展開された。 明治維新以降は西洋の仏教研究が日本に
流入し、その影響も受けた。

江戸時代の富永仲基の加上説や、明治期の村上専精などの学者による「大乗
非仏説論」などが有名である。

仏教内部においては、大乗仏教を認めない上座部仏教の側から主張された。
仏教の経典に対する文献学的研究では、大乗仏教の経典は釈尊の般涅槃から
数百年後に編纂され、釈尊に仮託された思想文学であるという結論が支持
されている。 また、徐々に成立した仏教思想史の一環として大乗仏典を
捉える見方が一般的になっている。涅槃や悟りが何であるかとの論争で
対立していた部派仏教からの脱却を狙って涅槃は定義不能な「空」であると
論じた龍樹もこのような視点から評価されている。
(Wikipedia 現在議論中)
3神も仏も名無しさん:2010/05/25(火) 20:51:43 ID:z+3pXggn
>現存阿含経は南伝北伝どちらも、部派アビダルマによる改竄改変を受け

ってことは北伝も南伝も非仏説ということでっか
4神も仏も名無しさん:2010/05/26(水) 12:29:15 ID:002TjRVL
...神秘主義的な合一の思想と、歴史上のブッダが説いた涅槃とを同一視する
ことはできないと、考えます。
...そもそもブッダはバラモン教が説く梵我一如の神秘思想を無我説によって
否定したわけです。そのブッダが普遍の形而上的実在である法と合一する
ことが涅槃だと主張したのであれば、梵我思想と同じことを言っていること
になってしまいます。
方法論の上からも、この差異は歴然としています。宗教的な行、神秘主義的
な実践は、その全てがいろいろな形での精神集中法であるといえます。祈り
の言葉を唱える(マントラ)、神や仏のイメージに集中する、等々、シャーマニ
ズムから密教まで、共通した要素を持っています。これを一括してサマタ
瞑想と言うわけです。サマタ瞑想のゴールは対象との合一感であり、これを
三昧(サマーデ)と言います。
これに対して初期仏教独特の実践法であるヴィパッサナー観法は、心身に
起こる感受等の諸現象を、瞬間瞬間意識的に微細に観察する(サティによる
純粋観察)というものです。初期仏教には瞬間定というものがあり、これは、
瞬間瞬間生起する異なる事態に対して、そのつど矢継ぎ早に三昧の状態にな
っていると解釈されています。こうした訓練によって、現象の無常・無我、
苦を認識し、執着を離れて解脱、涅槃にいたるとされます。
このように、仏教の解脱は合一ではなく、離れること、捨てることであり、
神秘主義的なサマタ・サマーディでは得られないと言うことになります。
スリランカやミャンマー、タイなどの南方上座部仏教(テーラワーダ)では、
サマタを否定してはいませんが、サマタの訓練で定力をつけた上で、
ヴィパッサナーを行なうようになっているようです。流派によってはヴィ
パッサナーだけで解脱を目指すようです。
http://qookaku.kitunebi.com/bbs/hist/hist0014_345.html
5神も仏も名無しさん:2010/05/26(水) 20:28:02 ID:002TjRVL
ヴィパッサナー瞑想
ヴィパッサナー瞑想は、現在世界中でもっとも広く行われている瞑想法だといえます。
ヴィパッサナー(vipassana)とはサンスクリット語で、ものごとを・あるがままに・観照する・という意味
ですが、通常、ヴィパッサナー瞑想というときには、呼吸の出入りに意識をおいて、同時に周囲で起こっ
ているあらゆる出来事に気づいている、というひとつの瞑想法をさしています。
もともとはアナパナ・サティ・ヨグというヨガの呼吸瞑想法でしたが、ブッダ自身が修行中からおこなっ
ていた瞑想法でもあり、後にブッダがたびたび雨期の定住地でこの瞑想法についての講義をおこない、
パーリー語の経典には、この技法にたいするくわしいブッダ自身の講義(経典)が残されています。たい
へんわかりやすく、おもしろく、実際的に、くわしく説明されてますから、機会があったぜひ読んでみる
ことをおすすめします。
ブッダの死後、仏教が外国へも枝分かれしていく過程で、この瞑想技法に少しずつ細かな違いができてき
ましたが、おもに呼吸を意識して見守るという基本的な技法は同じです。
仏教は皮肉なことに発祥地であるインドでは消滅してしまいましたが、その教えは他のアジアの国々に
広範囲に広まっていきました。
http://www.ayur-indo.com/meditation/meisou7.html
6神も仏も名無しさん:2010/05/26(水) 20:37:39 ID:002TjRVL
私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。
– 『南伝大蔵経』12巻、234頁
わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり

此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す
– 小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)

古い経典では、釈迦の成道は、十二因縁の順観(anuloma)と逆観(paTiloma)に
よると説いているが、これは迷いの事実がどのようなものであるかを正しく
知ることが、とりもなおさず悟りと...
十二支縁起の要素
無明(むみょう、avidyaa) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。
行(ぎょう、saMskaara) - 志向作用。
識(しき、vijJaana) - 識別作用
名色(みょうしき、nama-ruupa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。
六処(ろくしょ、SaD-aayatana) - 六つの感覚器官。
触(そく、sparSa) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。
受(じゅ、vedanaa) - 感受。
愛(あい、TRSnaa) - 渇愛。
取(しゅ、upaadaana) - 自分の求めるもののために馳求する位。
有(う、bhava) - 存在。
生(しょう、jaati) - 生まれること。
老死(ろうし、jaraa-maraNa) - 老いと死。
7神も仏も名無しさん:2010/05/26(水) 22:04:01 ID:002TjRVL
経行(きんひん)
坐禅には経行(きんひん)と言って、坐禅中に立ち上がって歩く作法があり、
臨済宗と曹洞宗では少し方法に違いがある。
 天台宗の法儀集には、経行には緩中急あり、単なる行道ではないと書いて
あるが、実際に天台のお寺で坐禅止観中に経行することは、滅多にないのが
現状だ。
 テラワーダ仏教におけるヴィパッサナ瞑想には歩く瞑想法がある。
体験したことのある人には一目瞭然だと思うが、中国や日本の坐禅における
経行は、ブッダも行っていたこの瞑想法が、後に形を変えたものだ。
 この瞑想法を原始仏典ではcankamanaチャンカマーナと呼び、それを漢訳
では経行と言うのだが、中村元博士ですら、これを坐禅の中休みに行うそぞ
ろ歩きだと解説している。
 禅宗では、経行は動中の工夫だとか歩行禅だと言う人もあるにはあるが、
多くは何も説明していなかったり、足を休めるためのものであって、坐禅
とは違うなどと解説していたりする。
 ところでインドのブッダガヤの大塔の横には、ブッダが悟りを開いた後に
経行した跡だという石がある。インドの仏跡について解説するのに現地
の英語案内看板を翻訳しているだけの人が意外と多くて、経行石についても
「ブッダはチャンカマーナと言って、ここを行ったり来たりした」などと
書いてある。確かに歩行瞑想中に行ったり来たりしたわけだから間違いでは
ないかも知れないが...
http://blogs.yahoo.co.jp/pwbdt973/33044298.html
8神も仏も名無しさん:2010/05/26(水) 22:15:25 ID:002TjRVL
三法印とは「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」といい、仏教界では最も
重要な言葉です。諸行無常は「万物は流転する。同じところにとどま
らず、絶えず変化する」として捉えられ、釈迦はこれを「苦」としま
す。日本では「平家物語」の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き
あり」などと情緒的です。
 諸法無我は「全てのものは自分を含め何も無い」という意味で、
「己をなくして欲望・執着を断つ」と理解されます。涅槃寂静は釈迦が
ひたすら求めた最高の安定の境地です。 しかしこの三法印は釈迦仏典
の中にはでてきません。これは大乗仏教派が後に作り出した言葉で、
釈迦の口述経を護る上座部、説一切有部などの伝統派では、涅槃寂静
でなく、「一切皆苦」という言葉を入れます。...
釈迦はこの「空」という言葉は余り使いません。二、三ありますが、...
竜樹が生み出し、般若心経で見られるような、理念として固定的で、
核心をつくような「空」でなく、釈迦が使うのは、悟りの心境で、
漠然として、つかみどころのないという意味の「空」です。...
9神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 12:35:50 ID:Y66dSaze
>>日本の密教全部についてもいえることなんだけどね、限界は阿羅漢だよ。
じゃあ、なぜ、阿羅漢と言い切れるか。もし、阿羅漢でなく仏陀の道を
歩いている人だったら現世利益は説かない。それはなぜか説明しよう。
すべてのカルマというものは原因によって結果が生じる。これはわかるな。

例えば護摩法を一つ取ってみようじゃないか。護摩火に、護摩木を供養する。
その護摩木に願望を書く。炎の力によって、願望を成就するとしよう。
そのときの原因は何だ。願望成就の原因は火によるトランス、つまり一種
の精神集中だ。そして、それはアストラル世界(形状界)に影響を与えて
いる。つまり願望を成就することで、アストラル世界に借りを作った形に
なる。そうしたら結果としては、願望は成就するかもしれないけれど、
次は必ず火によって痛めつけられるという結果となる。

火によってプラスのエネルギーを受けたわけだから、次は火によってマイナ
スのエネルギーを受けることになる。だとしたら、そういう法は真理
の法であるか、あるいは邪法であるか、考えなさい。そうすると、そ
の法を展開している弘法大師空海の、少なくとも精神ステージ、原因と
結果に対するものの考え方、洞察力というものは、真理を見抜いているとは
いえない。この場合彼の霊的ステージは別だけれどね。
10神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 13:06:53 ID:Y66dSaze
釈尊は「無常なるもの」「無我なるもの」から『離れなさい』、それは移
ろいゆくものであって、「@無常なる諸行、A無我なる諸法」
のなかに留まっていてはならない、といっておられる、ということを、
阿含経で明確に繰り返し、そう説かれている、それが最重要ポイント
になっているのを確認して、現在愕然としております。
すなわち、「無常なるもの」「無我なるもの」であるがゆえに、それ
に囚われること(執著すること)が「苦」になるのであって、
それ故一切の「無常・無我なるもの」に対する執着から離れなさい、
「無常なるもの」「無我なるもの」は、色受想行識の五蘊として立ち
現れているが、それこそが滅尽の対象なのだ、というようにつながっ
てきております。
それが、般若心経の冒頭につながることになります。すなわち、我々
が空ずるべき対象としての五蘊とは、そのような『無常・無我なるも
のとしての』色受想行識である、ということを明確に認識していなけ
ればならなかった、ということになります。
@ 諸行無常A 諸法無我 すなわち、この二つは、そこに留まるべき仏教的真理ではなく、そこ
から離れるべきものを捉え、その範囲を確定するための仏教的真理で
ある、ということを明確に認識しておく必要があるということになり
ます。ないしは、諸法無我は、中間的途上的段階での真理であるに
過ぎないということです。ですから、@ 諸行無常A 諸法無我である、
ということがわかった、というところで止まってしまってはダメな
のであって、だから、無常・無我として捉えられたものから離れなさ
い、というところまで続けて言わなければなりません。
11神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 13:08:27 ID:Y66dSaze
諸法は無我であるとか、自性がないとかと言いっぱなしにされる
だけで、そのことがわかったならば、諸法が無我であることこそが、
我々の苦の原因なのであるから、そこから離れなければならない、
離れなさい、というところまでセットにして指摘する記載にいままで
一度も出会わなかったというのも不思議です。
[注]色界から無色界に入るためには、明確に「無我なる諸法」か
ら解脱しなければならないということになる。 
それ故に、逆に言えば、無色界とは、色(物質・肉体)
の繋縛(束縛)から解放された(解脱した)受想行識だけの世界で
ある、ということになる。
とにかく、それだったら、三点(諸行無常 諸法無我 涅槃寂静)
を並べて、仏教はこの三点に要約できる、などと言うことは、おかしいですね。
もっとも、この三つのキーワードを含めて、正しい意味に作文する
ことはできますが、文なしでキーワードだけ並列するのは、やっぱり
おかしいです。
...竜樹尊者(ナガールジュナ)は、釈尊をどうとらえたのか、また
自分は釈尊をどうとらえるのか、という問題が浮かび上がってきます。
...この問題は、大乗仏教では空観で、一本筋が通ってくること、しかも
それは『釈尊のところから』そう理解されることという、中国・日本
(北伝)仏教にとっては、当たり前の前提とされてきたことを、南伝仏教
に接するに当たり、改めて意識的に再確認するということを意味します。
南伝仏教では、その「当たり前の前提とされてきたこと」を認めていない
のですから・・・・・。(西方世界、長年の誤謬...)
12神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 13:55:43 ID:Y66dSaze
般若経ではあまり露骨にされていないが、維摩経や
法華経になると、小乗仏教(上座部仏教)をぼろくそにこき下ろしている。

しかし、これは大変可笑しな議論の仕方であると思う。

お釈迦様時代の阿羅漢やニッバーナを真っ向から議論せずに、ホッカムリして、
お釈迦様時代の修行法を、部派仏教時代の修行法研究(分析的哲学的な議論
の仕方)にすり替えた上で、上座部の伝統全体(この中にお釈迦様時代
の釈迦仏教が含まれている)を葬り去ろうとする意図が見え見えなのである。

クマラジーヴァ(鳩摩羅什)のナーガールジュナ伝によると、ナーガールジュ
ナは小乗の仏典を全て読破したとある。経典に従って(上座部の指導者
の指導も受けて)修行したとは書いていない。ナーガールジュナが阿羅漢や
仏になったとは書いてない。小乗仏典に飽き足らず大乗仏典を求め、
竜の手引きで全経巻を読むことができたとある。だから、竜樹阿羅漢とか、
竜樹仏とは言わずに、竜樹菩薩と呼ぶ。

ここでもすり替えが行われている。
仏教は修行の体系であったはずなのだが、経典つまり教義の体系の研究に
すり替わっているような気がするのだ。

大乗仏典は説法集の体裁を繕っているが、中身は明らかに教義集である。
何度も繰り返すが、お釈迦様の説法は、修行法を説明したものである。

お釈迦様の悟りや仏となる奥義はあくまで実践修行しかないはずなのに、
悟りの境地や仏の境地を言葉で説明しようとしている。...
13神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 14:04:22 ID:Y66dSaze
中国や日本に入った仏教は釈迦の没後四百年以上後の紀元一、二世紀ごろ竜
樹(ナーガールジュナ)が主導した大乗仏教のものです。
 それが伝える全ての仏典は大乗派が勝手に作り上げた創作経で、釈迦
の思想に全く反したものも多く、これらを後世、偽経と呼びます。

釈迦は「空」を唱えていない

 しかし釈迦の本当の教えである原始仏教の経典を見る限り、釈迦はこのよう
な「空」は唱えていません。原始仏教経典のひとつ「スッタニパータ」に
空の言葉が見られます。
 「常によく気をつけ、自我に対する見解を打ち破って、世界を空なりと
観ぜよ。そうすれば死を乗り越える事ができるであろう。このように世界を
観ずる人を、死の王は見ることが無い」
(スッタニパータ第5章1119 中村元訳)。

 釈迦は死後を言わない

 私が調べた限りでは、釈迦は死後の世界は「無記」として語りません。
弟子たちにも死後を語ることは禁じています。そして釈迦ははっきりと、
老死は遁れられないといっています。...

般若心経に「度一切苦厄」と言う言葉があります。五蘊を空と悟った瞬間、
全ての苦厄を除くことができた、という一文です。これがあるため、般若
心経はありがたい霊験のある経と信じられてきましたが、実はこの言葉は
玄奘より前の般若心経にはありません。釈迦は宗教のご利益主義を徹底的に
否定していました。しかしこれでは信者に魅力がないと、玄奘が勝手に入れ
たのです。(般若心経は偽経)
http://www4.tokai.or.jp/kyuguan/mutoku/16_07gikyou%20.html

14神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 14:42:21 ID:Y66dSaze
空(シューニア),無自性(ナスバータ),縁起(プラティティアサムツパーダ)
4世紀に鳩魔羅什が,
サンスクリット語を現在の漢字に翻訳し,それが日本で通説の「空」論,あるいはダルマ(諸法=事物)
非実在論の根拠になっています。それでは,これらのサンスクリット語の漢訳ははたして正しい訳で
あったかということが問題になります。これについて日本の仏教学界には,シューニアを空としたのは
羅什の世紀の誤訳であったとする少数学説があります。当時,竜樹はサンスクリット語のシューニアを
仏教の最高のレベル状態と考え,中国で主流であったタオ思想の最高のステージである玄あるいは無に
準えて,空と漢訳したという見解です。

確かにシューニアには,空のほかに諸法実相つまり「ありのままである」との意味もあるということか
ら,もし後者のラインでいけば,無自性は「すべてのものには実在がない」ではなく「ダルマの主観的
な独自性を否定した」だけと言えるし,また縁起は「すべては相互的依存関係であって実在がない」では
なく,本来の意味の「眼に見える総合的関係」と考えるのが適切と言えるというものです。
特に日本の仏教学会で空の思想が多数説になったのは,明治以降の圧倒的な西洋の実在論に対抗するため
に,独自の世界観を求めたことにあったからだとも言われています。
15神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 14:44:39 ID:Y66dSaze
悟りの内容は,言葉では言えないし,言えたとしても煩悩が好きな衆生は受け入れないと言って,
当初梵天勧請を断った釈尊の予想どおり,本国インドの釈迦仏教は現世肯定のヒンズー教に取って替わら
れました。しかし,国外では仏教自身が自利利他の現世主義に大変容することによって,大乗仏教,
密教として中国,日本,チベットで受け入れられたと考えられます。この大転換と釈尊との関係は,
一言で言えば,原始仏教が釈尊の悟りの四諦を即実践しようとするのに対して,大乗仏教では,釈尊自身が
前世を含めて仏陀になる前までバラモン教徒としてやってきた利他行(菩薩行)のプロセスを追体験
しようとする宗教と言えるかと思います。...

...日本の近代仏教学の多くの学者が,無我論はともかくとしても,
いまだに非実在論あるいは
空の思想に固執しているのは,いったいどうしたものでしょう。
しかしいずれ近い将来には日本仏教学も,
これらの問題を乗り越える時期が来るでしょうが,その時こそはじめて西洋の宗教,心理学とカテゴリーを
共にした真の研究がスタートのではないかと期待するところです。
16神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 15:29:04 ID:mBAy2V+g
>>9
お前オームかwww
17神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 15:34:17 ID:mBAy2V+g
オーム=アレフの偽装スレwww
18神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 15:49:41 ID:Y66dSaze
いえそうではありませんよww
オウムも含め、創価や真の如きで真でない、現代日本の腐敗堕落ぶり
の淵源はそもそも北伝の誤りにあったであろうというトピ主
の意図に賛同しているだけです。

そして仏滅後700年の魔波旬の正体を暴きたいという野望にも共感を
覚えます。
19神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 15:54:54 ID:Y66dSaze
>>13 誤)釈迦の没後四百年以上後
         ↓
    正)釈迦の没後7百年後
20神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 16:04:57 ID:Y66dSaze
はいwwこれについてはどういう見解を抱かれますか?

>>空海は、『十住心論』の中で、『法華経』は『大日経』より見れば三重の劣であり第三戯論である
と書いています...
21神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 16:35:36 ID:etlFce8P
>>9なんて麻原まんまじゃんwって言うかでたらめだしw

いつ高野山が丸焼けになったんだかwww
22神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 16:46:32 ID:Y66dSaze
それは知りませんでした。
まんまって何処に書いてありますか?
松本も、どっかからパクってたのでは?
23神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 17:18:30 ID:etlFce8P
>>22
普通の仏教書に霊的ステージなんて単語つかわんだろうがWWW
24神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 21:00:22 ID:Y66dSaze
会話が出来るのは楽しいですねw
グーグルで霊的ステージ の検索結果 約 461,000 件
あります。松本しか使わないということも無いと
思われますが、オウムは騒ぎになる前からその言葉を多用していた訳
ですかね?

確かに、護摩法くらいで願望が成就するほど世間は甘くない。それも事実
ですが、世の中には”たまたま”と言いましょうか、どっちみちラッキー
な人もいて、護摩法の所為で願望が叶ったんだと思い込んでしまう人も
いる訳なんですね。ちょおと逸れましたが。
そうするとその人にとっては”絶対的真理”となり、以後その人は
哀れにも護摩法の、火の虜・卑しい僕に堕してしまうだろうと、想像できます。
25神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 22:45:45 ID:Y66dSaze
自分は北伝の仏教者を全部否定する積りは毛頭ありません。
日本でも、弘法大師・慈覚大師・興教大師を崇敬しています。
(他に補欠が数名)
しかし中国は問題大アリです。
26神も仏も名無しさん:2010/05/27(木) 23:11:07 ID:Y66dSaze
弘法大師は本当に立派な求道者・宗教家であった。
しかし詐欺にかかった面があった。シナ人から紛い物を掴まされた面もあった
ということです。
現代でもあちらへ行くと、日本人の食べるもの飲むものに
イロイロ混ぜるとか聞くじゃあないですか?
27神も仏も名無しさん:2010/05/28(金) 00:02:59 ID:qzkD+I6o
北伝の中に殺虫剤みたいなもんが混じっていたから
現代に至って創価のような悪い花が咲いてしまったのかもしれんということでしょ。
オウムだってチベット密教を利用しようとしたようだけど
本質的にチベット密教とイコールである訳もなく、松本について見ると
針灸とかってインチキ東洋医学とか
オタク文化とかの折衷、或いは在日なのか帰化朝鮮系なのか知らんけども
ウラ現代日本文化に根があるよねw早川は統一カルト
石原は霊友会山口敏夫は真如苑?CIA関与も言われたようだが複合体かww
28神も仏も名無しさん:2010/05/28(金) 12:09:43 ID:ZUfAmYRk
ー(サンユッタ・ニカーヤ、「ブッダ悪魔との対話」中村元、p.147 ) ー
バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。
それは単に外側に関することであるからである。
外的なことによって清浄が得られると考える人は、
実はそれによって浄らかさを得ることができない、
と真理に熟達した人々は語る。
バラモンよ。わたしは〔外的に〕木片を焼くことをやめて、
内面的にのみ光輝を燃焼させる。
永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、
敬わるべき人として、わたくしは清浄行を実践する。
バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。
怒りは煙であり、虚言は灰である。
舌は木杓であり、心臓は〔供犠のための〕光炎の場所である。

真言密教も釈迦の禁止した護摩を焚き、道を外している。

ーマッジマニカーヤ大獅子吼経『パーリ仏典1−1』ー
また、サーリプッタよ、ある沙門 バラモンで、つぎのような説をもち、
つぎのような見解をもつ者たちがいます。「火祀りによって清浄になる」
と。しかし、サーリプッタよ、そのような得易い火祀りはありません。
私が、この長い間、正しい王族の潅頂王として、あるいは大家のバラモンとして、
そのような火祀りをこれまで行ったことがないからです。
29神も仏も名無しさん:2010/05/28(金) 12:50:49 ID:ZUfAmYRk
四諦(したい、サンスクリット語 catvāri āryasatyāni चत्वारि आर्यसत्यानि、
パーリ語:cattāri ariyasaccāni)とは、仏教用語で、釈迦が悟りに至る
道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた苦集滅道の4つ

それぞれ「遍知」、「滅除」、「成就」、「修習」という課題が付随している。

すなわち、

苦は「知り尽くすべきもの」(遍知)
苦の原因は「滅するべきもの」(滅除)
苦の滅は「実現すべきもの」(成就)
苦の滅を実現する道は「実践すべきもの」(修習)
30神も仏も名無しさん:2010/05/28(金) 12:53:35 ID:ZUfAmYRk
『相応部経典』では、釈迦は、その最初の説法(初転法輪)で、
まず非苦非楽の中道を説き、それを八正道であるといい、さらに
四諦を説いたといわれる。四諦を説いて、その道諦として八正道を
説いたのでなく、中道とは八正道であることを説いて、ついで四諦を
説いたのである。このことは、四諦という教義的組織は、八正道を
中道と説く立場の教義的な裏づけであることを示している。
釈迦の説法は、直接に人間の実践を主としており、教理は実践を体系
付け裏付けるものである。
31神も仏も名無しさん:2010/05/28(金) 13:05:20 ID:ZUfAmYRk
下は魔波旬の家来に依る
>>>>竜樹が釈迦を盲信していたら、あれほどの大哲学の確立は不可能であった。帰
敬偈は、形だけの挨拶。釈迦を抜いたという自負が感じられる。釈迦は単なる
ヒントに過ぎず、中論は、釈迦佛教の「コペルニクス的転回」と言っても過言
ではない。釈迦よりも竜樹のほうが頭脳明晰であることは明らか。「中道の、
相対性ゆえの空」は見事である。
>>「中道」が「相対性」であることを見出したのは、竜樹であって、釈迦では
ない。釈迦の「中道」では、実体としての両極端を前提とするから、
その両極端の間のどこをとっても「実体」であり、「空」は成立し得ない。
32神も仏も名無しさん:2010/05/28(金) 13:26:57 ID:yVACYBYH
>>27
でもさ
松本ってホント都合よく口当たりがいいように仏教とか捻じ曲げてるから

引用しないほうがいいっすよ

あなたの文体は適度に複雑だからそのほうが読み手の初心者には安心w
33神も仏も名無しさん:2010/05/28(金) 13:49:46 ID:ZUfAmYRk
オウム、アレフに引っ掛かってしまった方々にも目覚めて戴きたい
と思います。(しかしアレが松本だとはねぇ・・・)
『ブッダ----伝統的釈迦像の虚構と真実』光文社知恵の森文庫、1998.8

序論は「ブッダ観の変遷」で、大乗仏教がゴータマ・ブッダの仏教から
いかに懸け離れたものになっているかを明示。
34神も仏も名無しさん:2010/05/28(金) 13:58:18 ID:ZUfAmYRk
確かに「宗教は一つの道」というオウムのページ  ガアリマシタネ。
まぁ参考程度ということで。
しかしあの発言じたい松本死刑臭が思索したものでは
無いだろうと感じますが。誤解を招くコピペには注意しようと思います。
(感謝)
35神も仏も名無しさん:2010/05/28(金) 14:32:16 ID:ZUfAmYRk
世尊は迦葉に、告げておっしゃられた。
『私が涅槃入滅して七百年の後に、ここに魔王波旬(=魔の王たる悪魔)が次第にその姿を現わし、
しきりに私の正法を崩し破壊しよう
とするであろう。それは譬えば、おぞましい殺生者たる猟師が、身に
法衣を纏って、巧妙に人々を騙すようなものである。魔王波旬のやり
口もまた、これと全く同じである。僧や尼の姿、優婆塞・優婆夷
の姿に化け、更にはまた、須陀?人(スロータアーパンナ)の姿に
化け、あるいは、阿羅漢の姿、ひいては法性身の御仏の姿にさえ化け
るであろう。魔王は、その邪悪なる煩悩に満ち満ちた有漏の本体であ
りながら、煩悩なき無漏の身に化けて、私の正法を破壊しようとする
であろう。
36神も仏も名無しさん:2010/05/28(金) 17:22:10 ID:ZUfAmYRk
南伝の大般涅槃経
釈尊と「鍛冶工の息子」チュンダとの関わり。釈尊と少数の弟子たちが
王舎城の郊外の霊鷲山を出て、北へ向かっている途中で、ある時、鍛冶工
の息子チュンダのマンゴー林で休んでおられました。チュンダはそれを
知って大喜びで一行を食事に招待しました。釈尊たちは毎朝村や町で托鉢を
して人々から捧げられた食べ物で朝食を食べ、その残りで昼食を食べた後は
午後も夕方も何も食べられなかったから、おそらく朝食に招待したのでしょ
う。一行がチュンダの屋敷に着き、席に着くと、様々な料理が並べられまし
た。釈尊はその一つ「スーカラ・マッダヴァ」といわれる料理を見てチュン
ダに、「その料理は私が食べるから、ほかの料理はすべて弟子たちに与えな
さい」と指示されます。釈尊はそれを少し食べられるとチュンダに残りを
すべて地面に穴を掘って埋めてしまうように言います。「その料理は完全に
悟りを開いたものだけば食べられるもので、たとえ神々でも悪魔でも
食べられない」とのことです。このスーカラ・マッダヴァという食べ物に
ついては、豚肉料理だという見解と、キノコ料理だという見解に分かれてい
て未だにはっきりと分かっていません。

釈尊はそのスーカラ・マッダヴァを食べるやいなや、猛烈な痛みに襲われ
ました。下痢も起こり、血も出てくる病でした。しかし釈尊はそれを超人的
な忍耐力と精神統一でこらえ、チュンダには静かに説法をしてから、
弟子たちと、次の目的地クシナーラに向かって出発されます。途中、釈尊
は、通常なら死をももたらすような傷みを耐え、下痢をし、下血もして、
あちこちに休みながらクシナーラに向かわれます。...
37神も仏も名無しさん:2010/05/28(金) 17:27:09 ID:ZUfAmYRk
クシナーラに到着する前に釈尊は弟子たちに次のように言います。

あなたたちは私の死後、「お前の出した食事のために尊師はなくなったのだ
ぞ」と言ってチュンダを責めてはならない。チュンダのくれた供養は、
むかし私が苦行を捨ててネーランジャラー川のほとりに休んでいた時に
村の娘スジャーターがくれた乳粥に劣らない功徳のあるものであった。
その理由は、スジャーターの場合は、その供養のおかげで私は元気を
回復して完全な覚りに至ることができたのだし、チュンダの場合は、
その供養のおかげで、私はこの世の生とともに残っていた煩悩を消滅させ
て、完全な涅槃にはいることができるのだから。
釈尊はここで仏の智慧と慈悲を最も鮮明に示してくださっています。
チュンダの供養した食べ物は、純粋で混じりけのない仏への信仰から
出たものですから、その意味では最上に清らかなものです。釈尊は
その食べ物が死を招くものであると知りつつ、チュンダの誠を受け
入れたのです。そして自分の死後、弟子たちがチュンダを非難する
ことを見越して、チュンダの誠実さと功徳の高潔さを誉め称えた
のです。
鍛冶工チュンダの捧げた食事を食べて
覚者はついに死に至る激しい病にかかられた。
スーカラ・マッダヴァを食べられたので、尊師に激しい痛みが起こっ
た。下痢をしながら尊師は言われた、
「私はクシナーラの町へ行こう」と。
(中村元訳注『ブッダ最後の旅』p.111参照)
38神も仏も名無しさん:2010/05/28(金) 17:28:36 ID:Ecnj3ltI
北伝ってやっぱ

ヒンドゥーの祈祷を取り入れすぎた

クマラジーヴァの捏造意訳

道教の悪影響

がガンだったんでしょうか
39神も仏も名無しさん:2010/05/29(土) 13:33:56 ID:Exy9uwsl
鳩摩羅什の2つの破戒
彼の破戒の経緯はこうです。
彼はクチャ王国の王妹の子でした。母に随って出家しましたね。その後、
クチャ王国は呂光という男に滅ぼされてしまいます。
呂光は、中国の前秦という国から、クチャを併合するため(鳩摩羅什を国に
迎えるためと、仏典は書いていますが、これは主目的ではないと思います)
派遣された武将ですが、そのままそこに居着いてしまいました。
この呂光は仏教の戒律など分からない男ですので、なかば遊び程度にクチャ
の王女を妻とするように強要します。彼は断ります。すると怒った呂光は、
鳩摩羅什にきつい酒を飲ませて、酔わせた上王女と密室に閉じこめてしまい
ます。したがって、酒と女で、二つになるとおもいます。ここで女と交わった
かどうかは一応分かりませんが、もう僧侶してはそんなのは通用しません。
その後、呂光の国は滅ぼされて、今度は後秦(よう秦、ようは女ヘンに
兆と同じこと)という国に迎えられます。1の方も言うように、中国へ連行
され、盛大に迎えられます。
ここの庭園付き宮殿でお経を翻訳します。その時、これまた仏教を理解しな
い皇帝に命令されて、身の回りのお世話をする侍女達を侍らせたと言うこと
になっています。最初は身の回りの世話ではなく、もっと肉体的な意味で
女性を与えるということだったようですが、これで落ち着いたということ
のようです。
と、いうわけで、伝記によると酒と女、なかなか演歌な破戒人生を歩んで
おらましたぁとなるのですが、この伝記は専門家の間では、どうも
歴史的事実とは多少違っているようで、似た話などにヒントを得て創作され
たものであると言われています。創作と言っても、酒や女をやらなかったん
ではなくて、女は実際やったのですけど、たぶん酒もですが、無理矢理と
いう部分が創作だったというのです。創作説の根拠の妥当性については、
私は知りませんが、専門家ではかなり常識的な説のようです。確かに、
話が出来すぎている感じがしなくもないですね。鳩摩羅什は、当時お経
の翻訳で一世を風靡していましたが、やはり中国に来ていて戒律を広めた
僧侶とは微妙な対立関係にあったと言います。(noname#12704)
40神も仏も名無しさん:2010/05/29(土) 13:42:41 ID:Exy9uwsl
『スッタニパータ(経集)』第3章第12経「二種の観察」に見られる
素朴な縁起説が、どのように語られていたかを考えてみたいと思います。

そこで先ず、「十二支縁起」について、最も整った形で伝承する一文を
紹介します。
これは成道直後の仏陀の悟りの内景を叙述したものです。

 「十二支縁起=十二因縁」について

 そのとき仏・世尊は、ネーランジャラー(尼連禅)河の岸辺
の菩提樹下で悟りをひらかれ、ウルヴェーラー村に滞在していた。
世尊は菩提樹下で七日間、足を組んだ「結跏趺坐(けっかふざ)」
ままで解脱の楽しみを享受しながら座っていた。
そして初夜に、さとった縁起の真理を順・逆に思考した。
すなわち・・・

@無明(無知)によってA行(人間の行為を形成する思考。滞在的
形成力)がある。この行によって、B識(識別作用。心)があり、
識によってC名色(名称と形態=対象)がある。名色によってD六処
(六入ともいう。心と対象を結ぶ六つの領域で、眼・耳・鼻・舌・身・
意の感官)があり、六処によってE触(心が対象と接触する)がある。
触によってF受(感受作用)があり、受によってG愛(渇愛。渇きに
似た欲望、妄執)がある。
愛によってH取(執着)があり、取によって、I有(生存)があり、
有によってJ生(出生、生まれること)があり、生によってK老死
(老い死にゆくこと)愁い、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みが生起する。

(以上を順観、流転の縁起という。)
41神も仏も名無しさん:2010/05/29(土) 13:49:14 ID:Exy9uwsl
 縁起を見る者は法を見る。法を見る者は縁起を見る。
(『中部』1・190〜191頁。『南伝』第9巻339頁「大正蔵」第1巻476頁上)

 法を見る者はわれを見る。われを見る者は法を見る。
(『相応部』3・120頁。『南伝』第14巻190頁)

と言う、有名な一文が伝承されています。
しかも、この縁起=縁生法は「仏=如来の出世もしくは未出世であれ、
常住である」(『相応部』2・25頁。『南伝』第13巻37頁。
「大正蔵」第2巻84頁中)というのです。

『相応部』12・第41経に、

 智慧によって聖(とうと)い理法がよく見られ、よく知られるというのは
どういう事なのか。
家主(居士)よ。聖い弟子は縁起をよく思惟している。
このように「これあるときかれあり、これなきときかれなし。
これ生ずるよりかれ生じ、これ滅するよりかれ滅す。」。
すなわち無明に縁って行あり、行に縁って識あり・・・・・ないし・・・
・・(生に縁って老死苦あり)。
このように、すべての苦の蘊(あつまり)の集起がある。
しかし、無明の余りなき離貪・滅より行の滅がある。行の滅より識の滅が
ある。・・・・・ないし、・・・・・(生の滅より老死苦の滅がある。)
このように、すべての苦の蘊の滅がある。
(『相応部』2・70頁。『南伝』第13巻102〜103頁)
42神も仏も名無しさん:2010/05/29(土) 13:59:27 ID:Exy9uwsl
無明を余りなく滅すれば行の滅あり、行が滅すれば識の滅あり、識が滅すれば名色の滅がある。
名色が滅すれば六処の滅があり、六処が滅すれば触の滅がある。
触が滅すれば受の滅があり、受が滅すれば愛の滅がある。
愛が滅すれば取の滅があり、取が滅すれば有の滅があり、有が滅すれば生の滅があり、
生が滅すれば老死、愁い。悲しみ、苦しみ、憂い、悩みが滅する。
(これを逆観・還滅の縁起という)
43神も仏も名無しさん:2010/05/29(土) 14:26:03 ID:DWQiD3jA
チベット大蔵経で読めばOKさ
44神も仏も名無しさん:2010/05/29(土) 15:47:51 ID:7t0RQjGI
後付設定が多いよね
45神も仏も名無しさん:2010/05/29(土) 21:07:52 ID:LZC9ovB8
>3 :神も仏も名無しさん:2010/05/25(火) 20:51:43 ID:z+3pXggn
>>現存阿含経は南伝北伝どちらも、部派アビダルマによる改竄改変を受け
>
>ってことは北伝も南伝も非仏説ということでっか
それはもちろんそうでしょう。
北伝が非仏説だからといって、南伝が正しいとはとてもじゃないが言えない。
46神も仏も名無しさん:2010/05/29(土) 21:23:21 ID:Exy9uwsl
自分の感じを言いますとね、あくまで個人的な印象ですがね、、、
北伝の不純ブツ(釈迦仏教以外の何らかの思想)混入度80〜90%
南伝の不純ブツ混入度30〜40%・・・・
有識者の方がた、どう判断されますか?是非ご意見お聞かせ下さいませw
47神も仏も名無しさん:2010/05/29(土) 22:10:14 ID:LZC9ovB8
>北伝の不純ブツ(釈迦仏教以外の何らかの思想)混入度80〜90%
これには異論なし…いや、もっと多いかな?

>南伝の不純ブツ混入度30〜40%・・・・
逆じゃないかな?
本物がそのくらいの割合で、60〜70%は不純物かと…
(参考)三蔵経の中のダイヤモンド
ttp://space.geocities.jp/tammashart/book-sanzou.html
>私は、一般の知識人に対しては、三割は切り捨てるべきだと言います。
>考古学や科学、三蔵経に精通している学生になら、もう三割切り捨てるべきだと言います。
48神も仏も名無しさん:2010/05/30(日) 18:21:35 ID:cJqAWh/A
、『南伝大蔵経』相応部経典・神足相応では六神通が説かれています。
六神通?

天眼通(てんげんつう)=いわゆる透視能力
天耳通(てんにつう)=ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする力
他心通(たしんつう)=他人の心を知る力
宿命通(しゅくみょうつう)=自分や他の人間の前世を知る力
神足通(じんそくつう)=機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力
漏尽通(ろじんつう)=佛のみが持つとされる通力。煩悩を滅し尽くす通力
49神も仏も名無しさん:2010/05/30(日) 21:58:13 ID:cJqAWh/A
>>47
プッタタート比丘の素晴らしいお話有難う御座いました。
現代で最もブッダを理解していた方ではないのかとw
合掌

50神も仏も名無しさん:2010/05/30(日) 22:01:45 ID:cJqAWh/A
神足通というのは生霊とかドッベルゲンガー
のことを言っているのでしょうかね?
現代でもアレフとか真如苑などで、このキーワードを
持ち出しているようですが、彼らが山海を飛行したという話は
聞きません。
51神も仏も名無しさん:2010/06/11(金) 22:49:49 ID:xr+utGJy
仏典に就て

 仏教には五戒十戒などいふ事があるが、それは釈迦が信者の一人一人についての戒であつたのであるが、それが遂に一般的のものとなつて仕舞つたのである。
たとへば、大酒の癖があるものに対してはそれを戒められ、色欲で身を過つやうな弟子に向つては又其を戒められたのである。これを普遍的なものとして、誰にでも強ゆるやうになつたのは間違つて居る。
釈迦の説かれた経文は、阿含部のみである。弟子達が勝手に如是我聞を主張したのが一切経である。村上専精博士が大乗非仏論を称へたのは誠に至当の事である
52神も仏も名無しさん
敬禮森章司博士
ttp://www14.plala.or.jp/hnya/tokubetukikou-.html

新譯般若波羅蜜多心經

觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
彼菩薩如是思念仏語、後滅一切苦。即曰「舍利子!如是観察。色是無常。色即是空。受想行識亦復如是。
舍利子!如是観察者。即知。諸法空相。」
爾時聖觀自在開眼。而感興自語。「於第一義。戯論寂滅。諸法実相。不生不滅不垢不淨不摯s減。
故知空義不戯論聖者。無罣礙於。色受想行識。眼耳鼻舌身意。色聲香味觸法。眼界。乃至意識界。
若欲通空義赴。応讃嘆法義語衆。是到涅槃之初道也。即曰。
『是如来所説語!到梵行道!無明亦無明盡。乃至老死。亦老死盡。苦集滅道。智慧亦無所得。』如是。
此中無所得為最上。以何故?以無所得故。菩提薩埵。修般若波羅蜜多。修智度故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真實不虛故。
說般若波羅蜜多咒即說咒曰
唵 揭帝揭帝 波羅揭帝 波羅僧揭帝菩提娑婆訶
新譯般若波羅蜜多心經