http://sports2.2ch.net/test/read.cgi/entrance2/1270611666/219-220 余談的補足
三世だろうが昨日今日だろうが、
《「私という想い」「私があるという想い」》は、その時その時に於いて仮設されているものだ。
別の言い方をすれば、
《【その時その時に】【所縁に依って】【生起している】【想い】》ということだ。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1251241875/639にあるように、
《そこには、所縁に依る(諸法の)生滅があるだけ》だ。
>>218にあるように説明体系の「(詳細な)(根本)原理」は示し得てはいないが、少なくとも、
主体無き連関(≒輪廻)に矛盾はない。
或る因及び縁によって五蘊が生起しているわけだが、その五蘊の生起に際し、
(「私という想い」の生起は通常必然なので)、
《「今ここに私が居て」「その私が」「ある業果(≒影響)を受けている」》と受け止められることになる。
しかし、この『私という想い』は、五蘊が生起した因・縁とは直接の結びつきは無い。
五蘊が生起したとき、付随して「私という想い」が生起する。だから、他でなく、また自でもない。
乱暴に図示すれば、
私 私
↑ ↑
●五蘊 → ○五蘊 ・・・・・・ この一行が、(今は五蘊が事例だが)
業 「諸法が縁起している」ということとなる。
といった感じだろうか。
だから、時制もなく、主客もなく、自己という想いもなく、(価値的因果・業報もなく)、
如来には「諸法の縁起だけが見られる」のだ、と・・・。
*(で、中論に於いては、「因果・業報もなく」、となるのかな?)