【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】13

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639合ってるかどうかは知らんw  旧7
>>613
(そろそろネタが尽きてきましたが・・・w)別のアプローチをしてみましょう。

「(過去)(私が為した)業があり、その果が(今)(私に)結ばれている」
「(今)(私が為した)業があり、その果が(未来に)(私に)結ばれる」
「(過去)(私が為した)業があり、その果が(未来に)(私に)結ばれる」

「(前世に)(私が為した)業があり、その果が(今生に)(私に)結ばれている」
「(今生に)(私が為した)業があり、その果が(来世に)(私に)結ばれる」
「(前世に)(私が為した)業があり、その果が(来世に)(私に)結ばれる」

上記から、(>>390が言うように)「時系列」を(→恣意的・世俗的区分を)抜きます。
 「(私が為した)業があり、その果が(私に)結ばれる」
更に、仮設されている「我、自己」を(→所縁によりその時のみに認められる主体を)抜きます。
 「業があり、その果が結ばれる」。  これが勝義(に於ける業報)です。

順序はこちらの方がよいかもしれません。
上記から、仮設されている「我、自己」を(→所縁によりその時のみに認められる主体を)抜きます。
 「(前世に)業があり、その果が(今生に)結ばれている」(他略)
更に、(>>390が言うように)「時系列」を(→恣意的・世俗的区分を)抜きます。
 「業があり、その果が結ばれる」  これが勝義(に於ける業報)です。

そこには、「時制(或いは三世)」もありません。「行為者」も「果報を受ける者」もいません。
諸法が縁起しているだけです。 だから、「無常」であり「無我」である、と。
時制がないから、始めもなく終わりもありません。
ですから、如来には(解脱者には)世俗的(自己・自我の)生も死ないので「不生」であり、「不死」です。
「時制に区切られた死」はなく、五蘊の滅に際し「般涅槃」と言われます。
上の形式で言えば、「縁により五蘊の仮和合があり、縁により五蘊の滅という果があるのみ」となります。
それが如来の般涅槃です。ですから後有がありません。
凡夫は、上で抜いて来たような「各( )」(特に「私」)があるために、輪廻し、後有を受け続けるのです。