キリスト教正統派VSスウェーデンボルグ徹底討論

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38神も仏も名無しさん
>>35
隔離スレというか、テーマを決めてやれるのなら正々堂々とこっちでやれば
いいだけ。あんたも簡単に騙されてほめたりしてる。だから付け上がる。

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1268925841/179

だけど>>6だからさ。ちゃんと読まなきゃね、聖書。なまじほめるようなことの
ないように。
39神も仏も名無しさん:2010/03/20(土) 11:05:00 ID:mcc0rBeT
また移動。スエデンばーさんはあっちでないと自己主張でないと観念してる
のかも。こっちだとメタメタになるんだろう。

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1268925841/284

284 :神も仏も名無しさん:2010/03/20(土) 09:36:34 ID:cZlW3xKP
>279〜

また、死人のなかからの甦りという観念は、端的に古代的な世界像を
前提にしたものであり、これを歴史的事実とするなどということは、とり
わけ現代人としては考えられない。
イエスの時代でも、ユダヤ教のなかの一派のファリサイ派(パリサイ派)
は、もともと復活ということを信じていた。
しかし他の有力な一派のサドカイ派は、復活を信じていなかった。
「まえがき」で触れたように、同時代のグノーシス主義においても、
復活を文字通りの意味で受けとる者は「愚か者」であるとさえ言わていた。

パウロは、もともとファリサイ派に属していた者なので、最初から復活と
いうことを信じていた。それゆえ、彼にとっては復活ということが信じられ
るか否かが問題であったのではなく、イエスの復活が、罪の許しのため
の十字架の死を確証するものであったか否かが中心的な問題であった
のである。

いずれにせよ、死人からの復活というような観念は、まさに古代的な世界
像に基づいたものであり、それでも当時でさえ普遍性など持っていなかった
観念である。こういう観念を「事実」として主張し続けるようなことは、ほとんど
迷信だといわれても仕方がない。
40神も仏も名無しさん:2010/03/20(土) 11:08:03 ID:mcc0rBeT
はい続きだそうで。

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1268925841/287

287 :神も仏も名無しさん:2010/03/20(土) 10:07:49 ID:cZlW3xKP
>284〜
「それで、わたしたちは、今後だれでも肉に従って知ろうとはしません。
肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうと
はしません」(コリントU5.16)
「肉に従って知る」とは、生前のイエスを知っているという意味である。
パウロは、生前のイエスについて知ることに何の関心も持っていない
のである。ここにパウロの思想の特徴の一つがある。
このことに関連するもので、パウロの別の書簡「コリントT」には、
次のような言葉がある。
「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも
十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた
からです。」(2.2)
ここには、パウロが歴史のなかに生きてたかぎりでのイエスの
具体的な言行に対する関心を持っていなかったことが暗示されている。
彼は、イエスの死にしか感心がなかったのだ。(イエスとは誰かより)

イエスは、ご自分の身体を、(生けるパン)といわれました。
「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」(ヨハネ6.54)
「まことの肉」とは(神の善)、「まことの血」とは、(神の真理)を表します。
つまり、これは主が教えられた(み言葉)のことでなのです。
しかし、「こんな話が聞いていられようかと」言って、ユダヤ人たちは
とうとうイエスの喩えられたことが理解できませんでした。
直弟子たちにも理解できませんが、イエスに従いました。
パウロも、生前のイエスの教えには、何の関心もありませんでした。