キリスト教@質問箱215

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287神も仏も名無しさん
>284〜
「それで、わたしたちは、今後だれでも肉に従って知ろうとはしません。
肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうと
はしません」(コリントU5.16)
「肉に従って知る」とは、生前のイエスを知っているという意味である。
パウロは、生前のイエスについて知ることに何の関心も持っていない
のである。ここにパウロの思想の特徴の一つがある。
このことに関連するもので、パウロの別の書簡「コリントT」には、
次のような言葉がある。
「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも
十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた
からです。」(2.2)
ここには、パウロが歴史のなかに生きてたかぎりでのイエスの
具体的な言行に対する関心を持っていなかったことが暗示されている。
彼は、イエスの死にしか感心がなかったのだ。(イエスとは誰かより)

イエスは、ご自分の身体を、(生けるパン)といわれました。
「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」(ヨハネ6.54)
「まことの肉」とは(神の善)、「まことの血」とは、(神の真理)を表します。
つまり、これは主が教えられた(み言葉)のことでなのです。
しかし、「こんな話が聞いていられようかと」言って、ユダヤ人たちは
とうとうイエスの喩えられたことが理解できませんでした。
直弟子たちにも理解できませんが、イエスに従いました。
パウロも、生前のイエスの教えには、何の関心もありませんでした。