行為 (縁)
.業 →→→→→→→→→→→→→→→ 果(≒異熟)
(仮A無し) (仮B無し) ・・・勝義
──・───────┬→(次の生)────・─
仮設存在A 死 仮設存在B
(五蘊の滅)-(五蘊の結生) ・・・世俗
行為・(悪)業 報い
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
──・───────┐
・仮設存在S 般涅槃 ・・・如来、阿羅漢
(シッダッタ) (五蘊の滅)-(無記)
・歴史的釈尊
※補:伝統的には、「五蘊の結生」の因は「渇愛・我執・無明等」であり、
その捨断・滅が「苦の終り」であり、「今の五蘊」の滅後に「次の生(後有)」を受けることはない、
となろうが、図がややこしくなるので略した。
>>169 この構図(考え方)自体には矛盾はない。(この抽象度の高さであれば・・・。)
問題は、
≪《「一段目の業」と「二段目の仮設A」とのリンク》が、
《「一段目の果」と「二段目の仮設B」とのリンク》へと
【そのリンクのまま】連なっていると言えるのか≫
ということだ。
仮設Bに於いて結生した果Bが、仮設Aの業の果であると言い得るのはなぜか、と。
このことの試案が
〔【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】15 の83・84
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1252710272/83-84 及び
【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】13 の639
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1251241875/639 〕 なわけだが、
簡単に言えば、
「業Aが果Bを紡ぐ」。「業Aは仮設Aによるものであり、果Bは仮設Bに於いて生じているもの」。
(どちらも、所縁としてそのようでしかない。)
故に「仮設Bの果は、まぎれもなく仮設Aの行為による」と。
一応、アートマンや霊魂・永続的主体に拠らない、
縁起による輪廻の骨格はこのようなものとならざるを得ない。
*(ここに関して、明確な指摘批判は、まだ縁起馬鹿からも来てはいなかったように思う。)
※(【決着】アートマン15スレでは、83・84について、外野から指摘・批判が入っている。
110、125など。そして146の横レスは示唆に富む。)
前回の試案を違う形(図式的)にしてみたが、まだ何か足りないだろうか。
171 :
神も仏も名無しさん:2010/02/14(日) 15:07:36 ID:4NWLTT88
>>170 >「業Aは仮設Aによるものであり、果Bは仮設Bに於いて生じているもの」。
>(どちらも、所縁としてそのようでしかない。)
【決着】アートマンスレ15のレス110の一つ目の疑義に関連して、上記を若干補足しておく。
《仮設されたAによる行為が業Aなわけだが、これは同時に
業Aであるから、A(という存在)が仮設される》ことでもある。
それは、「呼吸」という名称及び現象が「肺という器官の収縮による気体の出入」であるようなもので、
そこには「気体の出入」しかなく、それが「呼吸」と称されている。
そして【「気体の出入」が「血流」と呼ばることはない】。
或いは、長野の竈で飯を炊いて灰が生じたとしても、決して鹿児島の竈の灰とはならない、と。
このような形で、レス84の 《 >「□は、Aと仮設されるものであり」「◇は、aと仮設される」 》
は担保され得るのではないか。
以下は、
>>169を少しいちびってみた図w
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
「生き続ける釈尊」 (・・・縁起という法)
↑
行為. 経典・論書
(転法輪等) →→→→→→→→→ 〔 果 〕 教えの伝承・(聖者の輩出)
. 仏教学
──・───────┐
・仮設存在S 般涅槃
(シッダッタ) (五蘊の滅)-(無記)
・歴史的釈尊 …(説法の為化身した釈尊?w)