【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】15

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831/2 旧7
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1251941580/
前スレ824(&820(&826(&898)))
以前、私が横入りして提示した幾つかの考察、視線の方向性、
あれが、『(現時点の)仏教が内包する言語(術語・概念)に於いて可能な説明』のギリギリの形でしょう。
どこかのどなたかさんは、ここにこれ以上の説明体系・言語(術語・概念)を重ねることは、
行き詰まった西洋哲学に堕することになる、或いは問いそのものが実在論だと言っている。
そして、不足しているように感じる部分は、(本来、他者への証明を要請されるものでなく)、
《行じることにより、自らにありありと自覚される「生滅のことわり(→縁起)」》であろうと思う。
だから、一概に彼を責めるわけにもいかない。
基本的に仏教が言葉にしているのはここまでで、このレベル以上のことが、
まさに「来なさい、比丘よ」「来て、見よ」と言われる部分であろうし所以であろうと思う。
21世紀の現代(いま)は、もう少し踏み込んで、言語化の範囲を広げた方が良いようにも思われるが、
彼が指摘するように、幾つかの試み(アビダルマ、唯識・倶舎、(華厳もか?))は既に為されていて、
必ずしも成功してはいない。(※私は、中論が成功しているとも、また思わないが・・・。)

が、いずれにしろ、実在論的同一性或いは基体を設けずに、
業果の連続性・継承のモデル化を、(無駄かもしれないが)今一度試みてみよう。

ただ、一つだけ、(完全な納得でなくてもいいから)押さえてほしい前提がある。
それは、《「因」により「縁」により「事象」は生じ、或いは滅し、「連鎖」してゆく(≒間断が無い)》
という在り方(≒構図・レイアウト)を一旦は許容すること。全てはこの構図に則している、と。
また、これまで「Aさん」「aさん」と称してきたが、これらも実は、
《Aさんとして表れている事象「A」》《aさんとして表れている事象「a」》 というのが厳密な見方である、ということ。
この二つを押さえてもらって次へ進もう。
842/2 旧7:2009/09/13(日) 15:36:24 ID:wOKemhoH
さて、或る因或いは縁により「A」が生じているとする。この「A」の業(影響力(行為))が「a」を生じさせるとする。
「A□→a◇」という図式を設定して見る。□◇という事象にA(Aさん)やa(aさん)というラベルが貼られていると考えていい。
(間はちょっと省略するけれども、間断なく連鎖していると見てほしいw)
ここで普通の考察は≪「A→a」が繋がっていることがなぜ担保できるのか?≫というものになる。
だが、ここで、上記の前提を思いだして欲しい。A(Aさん)やa(aさん)は便宜上のラベルであり、
つまり、図式はこのようになる、と。『□→◇』。これが、縁起としての原則となる。
そして、
≪「□は、Aと仮設されるものであり」「◇は、aと仮設される」。だから、「A→a」は成立する≫、
こういう考察順序となるわけだ。
≪《「A→a」ありき》ではなく、《『□→◇』》であり、それぞれ《「□はA」と見做され「◇はa」と見做される》≫から、
≪「A→a」が担保される≫、と。(→この意味で≪「A→a」を担保するのは『□→◇』(縁起)である≫と・・。)

 ※(また、この矢印は間断なく続くもの故に時制の楔を外し得る。
   たとえば、昨日と今日の境目はどこか?成人と未成年の境目はどこか?
   春と夏の境目はどこか? そして、事象として『□→◇』なれば、「A→a」が後付けのラベルなれば、
   時制で区切られることにあまり意味はない。三世を跨いだとしても、昨日と今日とでも事情は一緒である。)

とまあ、
こういう説明では如何なもんでしょうか・・・w    >> 前スレ834、最終ID:FqGqSr5Z



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