http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1251941580/ 前スレ824(&820(&826(&898)))
以前、私が横入りして提示した幾つかの考察、視線の方向性、
あれが、『(現時点の)仏教が内包する言語(術語・概念)に於いて可能な説明』のギリギリの形でしょう。
どこかのどなたかさんは、ここにこれ以上の説明体系・言語(術語・概念)を重ねることは、
行き詰まった西洋哲学に堕することになる、或いは問いそのものが実在論だと言っている。
そして、不足しているように感じる部分は、(本来、他者への証明を要請されるものでなく)、
《行じることにより、自らにありありと自覚される「生滅のことわり(→縁起)」》であろうと思う。
だから、一概に彼を責めるわけにもいかない。
基本的に仏教が言葉にしているのはここまでで、このレベル以上のことが、
まさに「来なさい、比丘よ」「来て、見よ」と言われる部分であろうし所以であろうと思う。
21世紀の現代(いま)は、もう少し踏み込んで、言語化の範囲を広げた方が良いようにも思われるが、
彼が指摘するように、幾つかの試み(アビダルマ、唯識・倶舎、(華厳もか?))は既に為されていて、
必ずしも成功してはいない。(※私は、中論が成功しているとも、また思わないが・・・。)
が、いずれにしろ、実在論的同一性或いは基体を設けずに、
業果の連続性・継承のモデル化を、(無駄かもしれないが)今一度試みてみよう。
ただ、一つだけ、(完全な納得でなくてもいいから)押さえてほしい前提がある。
それは、《「因」により「縁」により「事象」は生じ、或いは滅し、「連鎖」してゆく(≒間断が無い)》
という在り方(≒構図・レイアウト)を一旦は許容すること。全てはこの構図に則している、と。
また、これまで「Aさん」「aさん」と称してきたが、これらも実は、
《Aさんとして表れている事象「A」》《aさんとして表れている事象「a」》 というのが厳密な見方である、ということ。
この二つを押さえてもらって次へ進もう。