【浄土真宗】妙好人と学ぶ4【信心獲得(決定)】

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1
真実信心について語りあうスレです。
容量オーバーが迫っているので立てました。
(※特定の団体個人を叩くのは他の専用スレで)

前スレ 
【浄土真宗】妙好人と学ぶ3【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1200414712/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1198478098/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1191756120/
2神も仏も名無しさん:2008/02/10(日) 22:58:41 ID:IftJ/RMR
【重要なお知らせ】

精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。

▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)


※以下の文を10回暗誦して反省してください。

荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
3神も仏も名無しさん:2008/02/10(日) 23:00:04 ID:IftJ/RMR
     ∞〜プーン       〜
      / ̄ ̄ ̄ ̄\   〜 プゥーン
     (  人____)  〜
 〜∞  |ミ/  ー◎-◎-)  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 プーン (6     (_ _) )<オレはこう見えても結構モテるんだぜ!!!!
      |/ ∴ ノ  3 ノ  \_________
      \_____ノ,,    ∩_
     /,|┌-[]─┐| \  (  ノ
      / ヽ| |  バ  | '、/\ / /
     / `./| |  カ  |  |\   /
     \ ヽ| lゝ    |  |  \__/
     \ |  ̄ ̄ ̄   | プーン〜∞ 
      ⊂|______|
       |l_l i l_l |  
       |   ┬    |
◆渡海難の正体◆
・引篭り歴10年以上・童貞、彼女&女友達無し(というか友達1人も無し)
・身長159cm以下体重75kg以上 体脂肪率38%以上 ・年賀状は1枚も来た事が無い
・3流大学卒、アニメサークル所属、合コン歴無し ロリコン
・今行きたい所:秋葉原、オタワ(カナダの首都、ヲタクが集まる所だと思ってるらしい)
・前科5犯(万引き、食い逃げ、性的暴行、強制猥褻、痴漢(存在自体が痴漢))
・好きなゲーム:ゲーム関係なんでも、但しホラー以外(ションベンちびって3日以上放心状態になるから)
・所持エロゲーは軽く1000を越える
・コンビニの処分された弁当しか食べられない、というか最近家族に手料理を作ってもらってない
・風呂には3日に1回しか入らない ・50M走タイム11秒5以上 ・自分の年齢=彼女いない歴
・AV、アニメビデオを1日最低3回は見る ・“ラップ”と聞くと「サランラップ?」とボケでなくマジで答える
・趣味:2CH心と宗教板への書き込みをすること、座禅念仏
 そして浄土真宗関連スレ、親鸞会関連スレを見つけるとここぞとばかり攻撃し、チンポをこすりながらレスを待つ
・カラオケで歌うのはいつもアニソン、というか友達がいなくてカラオケも行けない
・真宗教団と親鸞会と真宗の僧侶を目の敵にしている ・ギャルゲグッズを多数所持
・メル友募集をしても女性からは1通も来ない、(ネカマからは来る、しかも普通に女と勘違いする)
・自分にレスする者全員に対して「ボーズ(坊主)」「親鸞会」と言う恥知らずのリアル精神病患者
4神も仏も名無しさん:2008/02/10(日) 23:01:46 ID:IftJ/RMR
念仏宗渡海会(「こんにちは会」ともいう)
・教祖 渡海 難(「とうみかたし」と読む) ←渡海紀三朗文科相とは無関係
・会費 4000円
・HP  ttp://www7b.biglobe.ne.jp/~propatent/
・根本聖典(?)親鸞の思想と教行信証(世界数ヶ国後に翻訳されると本人が称している)
「親鸞仏教の正当性を問う」ttp://mentai.2ch.net/psy/kako/970/970632275.html
「親鸞仏教の正当性を問う(パート2)」ttp://mentai.2ch.net/psy/kako/975/975404451.html
「親鸞仏教を見直そう。」ttp://mentai.2ch.net/psy/kako/979/979297776.html
「親鸞仏教を問う(V)」ttp://life.2ch.net/psy/kako/1000/10001/1000165825.html
「親鸞仏教論 W」ttp://life.2ch.net/psy/kako/1012/10129/1012997700.html
「□■ЯЯ親鸞仏教(浄土真宗)質問箱RR■□」ttp://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1123906853/
「○●Я親鸞仏教質問箱R(その2)●○」ttp://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1157628310/
「○●Я親鸞仏教質問箱R(その3)●○」ttp://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1179146870/
・教義 渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思
想の代弁者となる。大川隆法の「霊言」のようなものである。
ちなみにカルト教団に「サタン」とするものがあるのと同じく念仏宗渡海会にも「親鸞会」や「浄土真宗のお坊
さん」というサタンが存在し、自分に都合の悪い者がいると「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」と言って決め
つける。
ちょうど創価学会の「日顕宗」のようなものと思えばいいだろう。
・会員数 ゼロ(笑)
・教祖の性格 一言で言えば基地害、電波。独善的で絶対に他人の言うことを聞かない。
裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす。
・活動 2chでの布教活動を主とする。
あと、彼にとってのサタンである親鸞会の退会者に狙いをつけて退会者狩りを行うが念仏宗渡海会の信者になっ
たという話は聞いたことがない。
渡海会には「座禅念仏」という行があるそうだ。それを真宗関係のサイトで説いて回った所、次々と拒絶されて
いる。
あと「ああ先生」という呪文もある。詳しいことは分からないが人の意見を聞かない奴に先生もヘチマもあった
ものではないが。
5神も仏も名無しさん:2008/02/10(日) 23:02:54 ID:IftJ/RMR
渡海難のカキコパターン

1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが
始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多
い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げ
る。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエー
ションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐
れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。
6神も仏も名無しさん:2008/02/10(日) 23:04:16 ID:IftJ/RMR
もう渡海難の話題はうんざりだろうけど、まだまだ出現するかもしれないので、
特定するためプロファイリングしてみますね。

渡海 難 とはこんな人物

 ●年齢は60歳くらい

 ●浄土真宗、真宗の僧侶、親鸞会に深く怨みを持っている

 ●来世を否定して、現世を肯定

 ●阿弥陀仏は架空の存在と主張

 ●親鸞聖人が問題を解決したから、我々は世間のことに努力すれば良いと
  「十劫安心」まがいのことを言う

 ●カウンセリング、自律訓練法など、いろいろな事を経験したらしい

 ●正規の宗教教育は受けておらず、すべて独学のようだ

 ●座禅して念仏せよと主張するが、その目的は不明
  ココロが癒されて身体に良いのかな?


7神も仏も名無しさん:2008/02/10(日) 23:16:57 ID:IftJ/RMR
最後に298さんへ
渡海難が来ても相手にしないように。
8298:2008/02/10(日) 23:38:31 ID:Lq9NTAum
>>前スレ857
というより、「偽」書による「真実」信心は、無理だと思います。
「書」というものには、多少の伝承間違いは、お聖教にもあるかもしれないと思いますけれども、
肝心要が間違っていては、信心いただくのは無理なのではないでしょうか。
9298:2008/02/10(日) 23:47:40 ID:Lq9NTAum
>>前スレ850
>信仰を先にして文献を読む人なら『周異記』や『春秋』を典拠とするでしょう

あくまでも「しばらく」なのですから、あまりこだわる必要も、無いのではないかと思います。
10神も仏も名無しさん:2008/02/10(日) 23:49:53 ID:LUpUYpP2
スレ立て乙です。

>>8
前スレ856

浄土真宗の奥義である「次第」は何故、秘密にされるのでしょうか?
298さんは、その「次第」というのはどのような内容であると推測されますか?


11神も仏も名無しさん:2008/02/10(日) 23:52:50 ID:vkrfT9sc
>>851
>その弥陀を説いている三経も正しいことになる・・・という順序です。

それは裏返せば「信心に合わない説はすべて間違っている」ということになりませんか?
この例で言うなら
「親鸞聖人がご引用されたのだから『周異記』や『春秋』を偽作というのは異安心である」
という具合に。

>>853
浄土の真実によって仏の世界が心に開け起こる
自己中心的なあり方をしていた自己に、他律的な視野が開ける

>照合する際には、お聖教が良いと思います。

度海氏もお聖教と照合して、あの結論なのでしょうけどね
12298:2008/02/10(日) 23:58:57 ID:Lq9NTAum
御礼遅れました。聞様、スレ立てありがとうございます。

>>10
次第が秘密にされることについては、仏法を誹謗させないため、また、
法滅を防ぐためと聞いています。
この一連のスレを見るだけでも、正法以前に、獲信について述べるだけでも、
感情的反応がたくさんあったと思います。
ですから、私は納得しています。
自分は救われていて安心だとしても、相手の方が、今生で救われるなら良いですが、
誹謗して命終を迎えるようなことがあっては、ならないからです。


>298さんは、その「次第」というのはどのような内容であると推測されますか?

私は、六字のいわれをいただいており、掟に触れる可能性がありますので、
推測といえども、お話できないのです。
13298:2008/02/11(月) 00:00:27 ID:Lq9NTAum
>>11
>度海氏もお聖教と照合して、あの結論なのでしょうけどね

本当に照合されたのでしょうか・・・
あの方のお説は、冗談なのではないかと、思っています。
何があったかは存じませんが、愉快犯のような方なのではないでしょうか。
それでも、真宗に関心があるのなら、なんとか弥陀に救われてほしいものです。
14298:2008/02/11(月) 00:04:06 ID:Lq9NTAum
>>11
>それは裏返せば「信心に合わない説はすべて間違っている」ということになりませんか?

しかし、お聖教と合わないならば、少なくとも、御開山一流とは言えないと思います。

>この例で言うなら
>「親鸞聖人がご引用されたのだから『周異記』や『春秋』を偽作というのは異安心である」
>という具合に。

この例の場合は、あくまでも「しばらく」ということですから、適切な例にはならないと思いますが、
それでは、ID:vkrfT9sc様の御主張を汲んでいないことにならないと思いますので、
別の観点からおこたえします。
異安心かどうかは、真実信心いただいているかどうか、
極楽往生治定しているかだけで判断されます。(この両者は同じことです。)
その他のすべては、どちらでも良いのです。
15神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 00:04:22 ID:0Z4yjmUk
>>12
>私は、六字のいわれをいただいており、掟に触れる可能性がありますので、
>推測といえども、お話できないのです。

それは、悪用されるような衝撃的なものですか?オカルト的な要素もあるのでしょうか?
妄想が広がって眠れません。答えてもらえなくてもいいです。



16神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 00:06:01 ID:LdmyRVTj
>>861
偽書に「依る」真実信心は、良くないと思います。
あくまでも、南无阿彌陀佛が根拠です。

>>8
>というより、「偽」書による「真実」信心は、無理だと思います。

偽書は、真実を主張する派が正統性を裏付けるために捏造するものです。
その派に属する人は、自己の信心を証拠としてそれらを真撰であると主張します。
そして領解文とも相応すると主張するでしょう。

信心の真偽が主観的な判断にまかされるのなら、彼らの信が偽であるという根拠は?
17298:2008/02/11(月) 00:13:38 ID:l7RZujrx
>>16
>偽書は、真実を主張する派が正統性を裏付けるために捏造するものです。
>その派に属する人は、自己の信心を証拠としてそれらを真撰であると主張します。
>そして領解文とも相応すると主張するでしょう。
>信心の真偽が主観的な判断にまかされるのなら、彼らの信が偽であるという根拠は?

主観的な判断にまかされるからこそ、ひとりのしのぎになるのだと思います。
自ら納得の行くことを探すことが肝要だと思います。
他を説得しようとしても、詮無きことです。
もちろん、求める方にお話はしてゆきますし、誤解を解く事も大切なことだと
思います。
しかし、相手の方が、私の信じることに同意する義務もなければ、
必然性もありません。
私は、私がおかしいと思うことについて、「おかしいと思いますよ」というかもしれませんが、
あくまでも、それは私の意見に過ぎないのです。
ですから、ご自身の信心を決定させることが先決であり、その上で、
それについてお話してゆけば、同じような思考を持つ方は、
納得してくれるでしょうし、そうでない方には、納得がゆかないことでしょう。
領解文と相応するかどうかも、素直な心で、あくまでも主観的に、
感じてゆかねばならない所です。
私も、本当に自分が真実信心いただいているかどうか、結局は、
宿善まかせになるのです。
私に宿善無いのなら、それは私が蒔いた種、致し方の無いことです。
18神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 00:16:38 ID:LdmyRVTj
>>13
>この例の場合は、あくまでも「しばらく」ということですから、適切な例にはならないと思いますが、

この場合の、「しばらく」は
両説あるが今のところ確定せず両説を提示する。
(なぜなら、どちらの説に依っても現在が末法であることを証明できるからである)
の「今のところ」という意味でしょう。

親鸞聖人は反法然浄土教の人々の「正法千年説であれば現在は末法ではない」という批判に対して、
現在(鎌倉初期)は末法である、と反論するために両説を引いたからです。
同じ意図で「末法灯明記」も引かれていますが、これも偽書説が強いですね。
19神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 00:22:12 ID:LdmyRVTj
>>13
>何があったかは存じませんが、愉快犯のような方なのではないでしょうか。

たくさんいますよ
ああいう人

>>17
>私も、本当に自分が真実信心いただいているかどうか、結局は、
>宿善まかせになるのです。

そうですね。
それは最後には「あちらに聞け」としか言えないことでしょう。
20神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 00:27:02 ID:0Z4yjmUk
「潜伏する仏教集団」は、
三宝(仏・法・僧)に帰依するという、仏教の大前提と、
『完き人(ブッダ)の教法には、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない。』という釈迦の姿勢と、
矛盾しませんか?
21298:2008/02/11(月) 00:29:05 ID:l7RZujrx
>>18
「滅後の年代多説ありといへども、しばらく両説を挙ぐ」なのですから、
多説あることを認識した上で、とりあえず2説を挙げているということだと思います。
末法というのは、大きな区切りであるので、多説あるとは言っても、
いまが(実質上の)末法であることには変わりがない、というようなことではないでしょうか。
なぜ、この二書を挙げられているのか。私は、おそらくそこには謂れが有るだろうと
思いますけれども、私はそれを知りません。
さらに、親鸞聖人には、当時の僧侶の現状の観察があり、
それも根拠になっていることだろうと推測します。
22298:2008/02/11(月) 00:33:53 ID:l7RZujrx
>>20
「弟子」とは何か、また、「隠す」とは何か、ということだと思います。
対機説法というものもあります。
釈尊の教法は、最初から最後まで良いものですが、それは、
対機であるからだと思います。
求める方がいれば、その方にとって必要なものがいただける。
それは、「隠す」ということとは、違うと思います。
釈尊も、教えを公開して遺したわけではありません。
各自に対して、その場の衆生に対して、語られたのです。
そして、私は釈尊ではありませんので、対機には、ものすごく限度があります。
ですので、限られた種類の方にしか対応できないのです。
現在、仏門にもたくさんの種類のものがあり、
釈尊であれば、おひとりでできたでしょうけれども、
我々にとりましては、それぞれで分担して、
求める方に説明して行くかたちになっていると思います。
また、私は悪機ですので、信心いただく前は、三宝帰依もできないような
凡夫でした。信じようとしても、できませんでした。
23298:2008/02/11(月) 00:35:31 ID:l7RZujrx
>>20
なぜ、三宝帰依に矛盾すると思われたのでしょうか?
後半の矛盾は、掟に関することとして理解できたのですが、
前半は、よくわかりませんでした。
24神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 00:45:26 ID:LdmyRVTj
>>21
>>18で断言しましたが出典に当たっていないので、これは説かもしれません。
現在は末法ではないのに末法と煽り立てている、という法然批判があり、
それに対して、現在は末法であると反論するためにあの一文が書かれたという話です。

三時思想は正法五百年説と千年説があり、比叡山側は千年説に立って念仏者を批判したそうです。
「現在は末法でないのだから、念仏である必要はない」というわけです。
それに対して親鸞聖人は、正法五百年説を証明する引文を出し
(その中には比叡山の開祖である最澄作とされる「末法灯明記」が含まれる)
仏滅年代を二つ出して、そこから計算したら今は末法である、と結論づけられたわけです。

>それも根拠になっていることだろうと推測します。

御消息の
「なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。」

近年より近日に至るまで天変・地夭・飢饉・疫癘、遍く天下に満ち広く地上に迸る。
牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり死を招く之輩既に大半に超え、之を悲しまざるの族、敢えて一人も無し。
という文章が書かれた年と同じです。
25298:2008/02/11(月) 00:52:56 ID:l7RZujrx
>>24
ここに私が書くことは、「味わい」ということで、真実信心とは、
直接の関係は無いことですけれども、
今を末法と受け取るかどうかは、ひとりひとりに任されていると思います。
在家五戒ですら、私は守れません。
出家して戒を授かったら、おそらく、さらに守れません。
私は、どこまでも凡夫です。
「自分が凡夫である」ということが、末法であるということであり、
「では、自分にとっての救いはないのか?」というところから、
真宗は答を提示するのだと思います。
26298:2008/02/11(月) 00:55:05 ID:l7RZujrx
>>24
>>25で私が書いたことは、>>24との関連が、わかりにくかったかもしれません。
私は、万人を説き伏せるために、親鸞聖人が引いたとは、読んでいないということです。
「なるほど、そうだな」と思う方のために書いたのだと思っています。
27神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 00:55:50 ID:0Z4yjmUk
>>23
何となくです。矛盾しないのならいいです。
秘密だといわれる「次第」を妄想してみました。

・弥陀の光を、霊的な能力にて、信者に滲入させる秘儀。
・阿弥陀仏の本当の正体。
・死後の世界、輪廻転生を確信させるための証拠となるようなもの。
・未信者を獲信に導くための指南書。

28298:2008/02/11(月) 01:00:16 ID:l7RZujrx
>>27
真宗では、釈尊は、弥陀の応身です。南无阿彌陀佛です。
真宗では、法は南无阿彌陀佛です。
真宗では、僧は機法一体の南无阿彌陀佛です。
簡潔に言えば、私はこのように理解しています。
三宝帰依も弥陀にいただいたと思い、よろこんでいます。
南无阿彌陀佛
29神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 01:02:19 ID:LdmyRVTj
話がそれてしまいましたが

>というより、「偽」書による「真実」信心は、無理だと思います。

無理かどうかは私には言えません。
しかし
彼らが主観的に「私は真実信心を得た」と言うことを余人は否定できない。

しかし“潜伏する仏教集団”が各々継承する相承の伝承や書物が
捏造ではないことが証明されなければ、その教義は”歴史上の親鸞”と
繋がりがある客観的真実とは言い難いですね。
(ちょっと修正しました)
30298:2008/02/11(月) 01:03:19 ID:l7RZujrx
>>27
次第について妄想するのは、これは仕方がありません。
凡夫の性です。
おそらく、「次第」は、「六字のいわれ」よりも、意味が広いと思います。
次第は六字のいわれを含むという意味です。
行者が聞き開くのは、六字のいわれです。
31298:2008/02/11(月) 01:10:47 ID:l7RZujrx
>>29
>>というより、「偽」書による「真実」信心は、無理だと思います。
>無理かどうかは私には言えません。

これは、私には教義面の前提があるのです。
あくまでも、(「私からすれば」ですけれども、)真実信心をいただくのは、
南無阿弥陀仏に依らなければなりません。
「”歴史上の親鸞”と繋がりがある客観的真実」は、求めても、
得るのは難しいのではないかと思います。
主観的な体験として、求める以外は無く、だからこそ、
宿善が問題になるのだと思います。
宿善あれば、真実信心に辿り着きますし、
そうでなければ、真実信心に辿り着いたと思ったところで、
異安心を誤解しているに過ぎません。
しかし、これをきちんと自覚することは凡夫にはできないのですから、
お聖教を読み、お講のすがたを見て、自身で判断する以外無いと思います。
また、真実信心いただけば、その働きを、我が身に体験することが
できるでしょう。そのような経験も傍証としながら、
後念相続をしてゆくしかないと思います。
南无阿彌陀佛
32298:2008/02/11(月) 01:14:25 ID:l7RZujrx
>>29
>しかし“潜伏する仏教集団”が各々継承する相承の伝承や書物が
>捏造ではないことが証明されなければ、その教義は”歴史上の親鸞”と
>繋がりがある客観的真実とは言い難いですね。

その通りだと思います。
33神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 01:18:07 ID:0Z4yjmUk
「次第」の謎は深まるばかりなり。
34298:2008/02/11(月) 01:24:20 ID:l7RZujrx
>>33
「次第」はともかく、六字のいわれは探せば聞けると思いますよ。
探しているうちに、自分は本当に真実信心いただきたいのかも、
わかってきますし。
どうしても今生でいただきたいなら、あきらめるわけに行かないでしょう。
途中で、急に興味を失う方もいらっしゃるでしょう。
本人にも、自分のことでも、わからないと思います。
35神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 01:27:03 ID:0Z4yjmUk
あるいは、禅問答のような、世界なのだろうか?

公案 「六字のいわれ」「弥陀の声」



36神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 01:35:22 ID:0Z4yjmUk
>>34
「六字のいわれ」を、ネットや書物ではなく、善知識から直接聞かなくてはならない。
即ち、善知識を探して出して面会を受けなければならない。
ということですね。
37298:2008/02/11(月) 01:35:26 ID:l7RZujrx
>>35
「問答」と、以前のスレに書いたら誤解を呼んでしまったようなのですが、
もし問答があるとしたら、六字のいわれを聞き開く前です。

(参考)
しかるあひだ宿因多幸にして、本朝念仏の元祖黒谷上人(源空)に
謁したてまつりて出離の要道を問答す(報恩講私記)

次第相承の善知識様に遭い奉って、特に聞くこともなければ問題ありませんが、
やはりご質問があれば、「問答」と言って固ければ、そこには「会話」があると思います。
そして、その方なりに納得があれば、「すべて、おまかせいたします」と、
法に頭が下がるだろうと思います。
禅問答の世界は、聖道の世界です。浄土門の世界ではありません。
どなたでも信をいただける、易行の世界です。
信前の方からみれば、「南无阿彌陀佛」と言われても、
それだけでも、禅問答のように響くでしょう。
「法も南无阿彌陀佛、信も南无阿彌陀佛、僧も南无阿彌陀佛、
なんだそりゃ?」と。
ですから、「易行」とはっきりと書く事が大切であると思います。
そうでなければ、易行では無いものを、南无阿彌陀佛と言いくるめられてしまう
可能性が高まるからです。
「なるほど、易行だ。一文不知の身にも分かる」という領解でなければ、
お聖教とは異なるということです。
38298:2008/02/11(月) 01:40:14 ID:l7RZujrx
>>36
そうです。公開の場で語られることは、ありません。
前スレの348の一部を再掲します。すべて、蓮師の御文章からです。

◎無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、
かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、
手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、
もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

◎一つには、自身の往生すべき安心をまづ治定すべし。二つには、
ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。

◎当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを
分別せずはいたづらごとなるべし。このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて
人をば勧化すべし。

◎あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、
この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもひて、
一流真実の法義を沙汰すべからざるところ
39神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 01:41:13 ID:0Z4yjmUk
>>38
晩くまでいろいろと、ありがとうございました。
40298:2008/02/11(月) 01:44:40 ID:l7RZujrx
>>39
真宗のお話ができて、うれしく思います。
このようなお話に興味を持っていただけただけでも、
深く感謝致します。
41298:2008/02/11(月) 02:46:03 ID:l7RZujrx
>>14
>この例で言うなら
>「親鸞聖人がご引用されたのだから『周異記』や『春秋』を偽作というのは異安心である」
>という具合に。

異安心かどうかは、弥陀をたのんだかどうかにかかっていると思います。
弥陀をたのめば、真実信心いただき、極楽往生治定です。
ですので、「『周異記』や『春秋』を偽作と言うかどうか」は、
異安心かどうかを考える上では、どちらでも良いことだと思います。
42298:2008/02/11(月) 02:50:36 ID:l7RZujrx
>>14
どのような機でも、救われる教えです。
「『周異記』や『春秋』を偽作と言う(あるいは、思う)」方でも、
救われなければ、おかしいです。
御本典読んだことの無い方でも、救われなければ、おかしいです。
すべては、南无阿彌陀佛の六字だけであり、
この六字さえあれば、救われるのだと思います。
43298:2008/02/11(月) 04:19:36 ID:l7RZujrx
◎罪のあるなしの沙汰をせんよりは、
信心を取りたるか取らざるかの沙汰を
いくたびもいくたびもよし(聞書35)
44298:2008/02/11(月) 04:35:03 ID:l7RZujrx
◎しかるに当流において毎月の会合の由来はなにの用ぞなれば、
在家無智の身をもつて、いたづらに暮しいたづらに明かして、
一期はむなしく過ぎて、つひに三途に沈まん身が、一月に一度なりとも、
せめて念仏修行の人数ばかり道場に集まりて、わが信心は、ひとの信心は、
いかがあるらんといふ信心沙汰をすべき用の会合なるを、
ちかごろはその信心といふことはかつて是非の沙汰におよばざるあひだ、
言語道断あさましき次第なり(御文1-12)
457:2008/02/11(月) 06:12:28 ID:BsZJup5I
スレ建てありがとうございます。

298様いつもいつもありがとうございます。

獲信者の皆様、信心決定を求める皆様、よろしくお願いします。
46298:2008/02/11(月) 06:22:28 ID:l7RZujrx
7様おはようございます。
ひとりでも多くの方が、弥陀に救われますことを、願っております。
47298:2008/02/11(月) 06:46:58 ID:l7RZujrx
帯解きの秘事について書いてあるページです。
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n365.htm
私はおそらくこのページを過去読んだことがあるのですが、
今朝検索していて、再度見つけました。
興味ある方もいらっしゃると思い、紹介しました。
48神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 09:51:27 ID:EamvHvFH
おはようございます。
ここに書き込まれてる方は「安心論題」は
すでにお読みですか?
49神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 15:00:45 ID:gRF2PzGr
>>48
私なんか、いま初めて聞いたような按配でして・・・
50神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 15:05:04 ID:0Z4yjmUk
伝統的真宗教団では、廃仏毀釈や第二次世界大戦、西洋学問の影響、唯物的科学主義やマルクス主義の洗礼などを経て、
霊性・信仰・宗教性が換骨奪胎され、形骸化、儀礼化してしまった。
一方で、「潜伏する仏教集団」においては、純粋性、機密性が保たれている為、未だに「正法」が保たれているということになろうか?
51神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 15:09:32 ID:EamvHvFH
>>50
もしそうだとしたら、あなたは「潜伏する仏教集団」に
やはり関心を持たれますか?
52神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 15:17:10 ID:EamvHvFH
298さんの言われる「次第相承の善知識」というのは一般の俗人だけでなく
真宗の僧籍にある方にも伝えられているのでしょうか?
それとも俗人に限っているのでしょうか。
53神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 15:33:41 ID:EamvHvFH
>>27
27さん、あなたの想像は非常に興味深いものがありますね。
54神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 18:46:10 ID:yRgER8K1
いまの真宗のお坊さんのなかには、地獄や極楽のこと、この世の心の
在り方のようにとらえている人がいるみたいです。
お説法にしたって、道徳の話ばかりみたいな。
そうじゃないだろ。
どうしたら極楽へ往生できるかって話、そういうのを聞きたい。
55神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 19:01:54 ID:R1WH9uxN
>>http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1200414712/835
>こちらに紹介されているお講のメンバーであれば、腑に落ちるそうですが、私のことは、腑に
落ちていないわけでしょう?

 誤解されないように、ここだけはコメントしておきます。
 腑に落ちるというのは、もし、802の真宗秘密講類似の宗教の一員であれば、298さんの
発言は、まさにそういう宗教的思想の中での発言であり、悪気があってやっているんではないと
いう、そういう感触を持ったということです。信心チェック表、あるいは掟・掟と言って返答を
拒否するというのも、まさにそういう宗教的思想なんだと考えなければならないと思うわけです。
 自分が回答するつもりもないような点検表を表示し、これで点検してみろというやり方は、通
常の常識で考えれば、無礼千万な虚仮威しと言うべきだと僕は考えます。しかしそうではないと
いう価値尺度の宗教があっても、なるほど不思議はないと考えます。

 常識で考えれば、提示者本人が答えないというのは、自分が答えられない質問を提示している
ということを意味すると考えます。しかしこれは僕の世界の常識です。
 しかし、僕は、自分の常識があらゆる世界の常識であるとは考えません。秘密主義宗教では、
教義を開示していいか、開示できないかは重要な問題になるはずですから、自分では模範回答を
持っていて相手を試すということはあるでしょう。相手の宗教がまさにそういう教義であるなら、
こちらはそれなりに対応すべきでしょう。
 秘密主義宗教という世界で考えれば、日常茶飯事的に行われており、隠し事に対する抵抗は、
僕より遙かに低くても不思議はないと思います。それが教義の一部であれば、少なくとも嘘つき
という批判は当たらない可能性があると考えるわけです。
56渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/11(月) 19:03:20 ID:R1WH9uxN
>55 ← 渡海 難です。
 僕は、自分を東西本願寺の教義に対する批判者だと思っていますが、もともとは大谷派育ちで
す。原点は大谷教学で育ちました。考えで対立する部分はあっても、根っこは大谷派教学にある
と思っています。しかし、隠れ念仏となると、その基本的考えは本願寺教学の枠外にあるでしょ
う。掟、自障障他の考えについて、こちらが本願寺教学の土俵で議論しようすることは無理であ
ると考えます。
 隠れ念仏の人と話をするなら、もともとの尺度が全く違う別の宗教であるとして、自分の中で
はもっと広い土俵を考えないといけないと考えます。

 世界中に無数の宗教があります。本願寺大谷派の教学で言えば、キリスト教は嘘つき宗教にな
りかねません。しかし、誰もキリスト教を嘘つき宗教とは言わないし、僕もそうは思っていませ
ん。キリスト教とは土俵が違います。

 他の宗教が、自分たちと共通の聖典を使うと言うことは、別にこちらがどうこういう問題では
ないでしょう。仮に、聖典が偶々重なっていても、自分たちと全く価値観が違う別の宗教であれ
ば、価値観が違うと、そのようにこちらも腹をくくらなければなりません。

 これが腑に落ちるという意味です。

 例えば、psy/1200414712/826のような発想がスパッと思いつくというのは驚きでしす。あれは、
隠れ念仏の価値観でなければ出ない言葉でしょう。本願寺の坊さんと議論して、言葉の定義の違
いにいつも苦労していますが、psy/1200414712/826では、それ以上に概念の違いの大きさに驚きま
した。
 定義の違いの開きは、恐らく、真言宗や天台宗との間とよりも広いでしょう。真言宗や天台宗
は教義を公開しています。教義非公開の宗教とは、他宗派は教義学で交流の道が狭まりますから、
同じ言葉でも、その概念の違いは時代と共に益々違っていくでしょう。
 真宗=本願寺教学という無意識の土俵で考えがちなこちらの方が筋違いかも知れないと思った
わけです。
57神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 19:15:44 ID:yRgER8K1
なんか、ぜんぜん見当違いのことを想像しているような気がする。。。
58:2008/02/11(月) 19:43:13 ID:EamvHvFH
私は渡海さんのいってることがよく分かりますよ。
前スレで「ウソツキでないと思う」といったのもその点からもです。
59神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 19:47:02 ID:EamvHvFH
「その点からもです」→「その点からです」に訂正します。

同じ文書を根拠にしていても、まったく異質の宗教になりえます。
同じ言葉を使っていても議論がかみ合わないということも起こりえます。
60298:2008/02/11(月) 19:54:04 ID:l7RZujrx
>>48
私は読んだことがあります。
それほど真剣には、読んでおりません。
61298:2008/02/11(月) 19:55:48 ID:l7RZujrx
>>52
俗人に限っていません。
道俗という区別とは、別の分類です。
次第相承を受けていれば、次第相承の善知識ですし、
そうでなければ、そうでありません。
僧籍を持っている方もいます。
62神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 19:58:21 ID:EamvHvFH
>>61
僧籍にある方もいるんですね。
それなら全然秘事じゃないですね
63渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/11(月) 19:58:48 ID:R1WH9uxN
>>56 (続き)
 僕は、創価学会をはじめ、真宗以外の宗教を論評するつもりはありま
せん。
 隠れ念仏も同じと考えます。秘密主義の宗教は、欺瞞性がある。僕は
そう思っていますから、自分からその世界に入っていこうとは思いませ
ん。
 世の中に、自分の考えと異なる宗教がいくつあってもいいわけです。
その集団が、特別に反社会的なものでもなければ、自分とは無関係で
す。価値観が違う宗教の教義・思想を批判するつもりはありません。進
んで議論しようとは思いません。


>>58  そういう意味でしたか。前スレでは、失礼しました。
64298:2008/02/11(月) 20:03:45 ID:l7RZujrx
>>54
>どうしたら極楽へ往生できるかって話、そういうのを聞きたい。

私も同じようなことを考えて、探しました。
私が得た結論は、南无阿彌陀佛によって往生が治定するということです。
肝心なのは、「南无阿彌陀佛とは何か」ということです。
「ただ口にとなえるのでは無い」ということは、御文様に書いてあります。
では、どうするのかは、書いてありません。
書いてあるのは、「知っている人にたずねなさい」ということです。
そのように書いてありますのに、多くの方は、たずねるのではなく、
自分で考えようとするようです。
自分で考えてわかるような方は、御釈迦様のような方です。
いたとしても、希でしょう。

◎信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて
他力の安心をば治定すべし。一往聴聞してはかならずあやまりあるべきなり。(御文4-8)

◎近代このごろの人の仏法知り顔の体たらくをみおよぶに、
外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、
内心にはさらにもつて当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、
あまつさへ相伝もせざる聖教をわが身の字ちからをもつてこれをよみて、
しらぬえせ法門をいひて、自他の門徒中を経回して虚言をかまへ(御文3-11)

◎しかれば当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、
ものをしりたりといふとも、一念の信心のいはれをしらざる人は、
いたづらごとなりとしるべし(御文5-2)
65渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/11(月) 20:12:22 ID:R1WH9uxN
>64
> 自分で考えてわかるような方は、御釈迦様のような方です。
> いたとしても、希でしょう。

 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずね
きたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんが
ためなり。      (歎異抄)

 まさに、全く世界が異なる宗教であると認識します。歎異抄は扱ってな
いんでしょうね。
 
66298:2008/02/11(月) 20:15:27 ID:l7RZujrx
>>62
御文様にも、「公開の場所にて正雑二行の沙汰をしてはいけない」と
はっきり書いてあるのに、それを「秘密主義だから真宗では無い」と
批難するのは、どうかしていると私は思います。

◎あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、
この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもひて、
一流真実の法義を沙汰すべからざるところ(御文4-5)

「だから真宗はおかしい」という批難なら、わかりますが・・・


「秘事」ということばは、聞書に出ています。

◎前々住上人、大坂殿にておのおのに対せられて仰せられ候ふ。
一念に凡夫の往生をとぐることは秘事・秘伝にてはなきかと仰せられ候ふと云々(聞書283)

この解釈ですが、本願寺版の訳では、

【大坂の御坊で、蓮如上人は参詣の人々に対し、
「 信心一つで、凡夫の往生が定まるというのは、
何よりも深遠な、秘事秘伝のみ教えではないか 」
と仰せになりました】
http://www.bunbun.ne.jp/~namo/sub16.htm

となっているのです。私はこの訳には、かなり驚きました。
本願寺にいらっしゃる御同行の方が訳されたのではないかと思っています。
ただ、もちろんこの訳は、「比喩」としても読める様に書いてあると思います。
ですけれども、比喩としてわざわざこのような書き方をするのも、
不自然であると私は感じます。
67298:2008/02/11(月) 20:21:58 ID:l7RZujrx
>>65
相手にしない方が、いいのでしょうか・・・
スレの意思がそうなら、私も従います。
「たずね来」「問い聞(く)」と書いてあるのに、何が疑問なのか、
私には、よくわかりません。
しかもこの後には、「よきひとの仰せをかぶりて」とありますように、
親鸞聖人もまた、法然聖人から教わったのですから。
68神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 20:22:13 ID:XAMgjUJr
渡海さんは、298さんとは土俵が違うんだと考えることにして、ホッとしてるんだと思うよ。
それでいいんじゃないかと思いますけど。
69298:2008/02/11(月) 20:23:08 ID:l7RZujrx
>>68
ホッとしてるのであれば、良かったです。
70神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 20:25:17 ID:EamvHvFH
>>66
お西のお寺さんのサイトですね。
71神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 20:42:57 ID:EamvHvFH
「獲信のときがわかるのか」
ttp://www4.point.ne.jp/~sekenkoke/Qkakusin.html
上記リンク先の記事によれば、
分かる人も分からない人もある、と書いてあります。
これも宿善のない人には沙汰できないことからくる
ひとつのロジックであって、実際は別の答えがあるということなのでしょうか?
72神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 20:44:28 ID:EamvHvFH
善知識との面授で信心をうる、というのに例外がないとすれば、
「獲信のときがわからない人」というのは存在しえないと思うのですが
73298:2008/02/11(月) 20:55:54 ID:l7RZujrx
>>71,72

あくまで私の考えと言うことで書きます。
まず、真実信心そのものは、凡夫に直接認識できません。
ですので、信をいただく一念そのものは、覚知できないのです。
しかし、そのような「一瞬」がいつかはわからなくても、
「いつ、善知識様に会ったか」ということは、わかります。
日時を覚えているかは記憶力の問題ですが、
通常の意識の方であれば、もちろんわかりますし、
記録に残すこともできますし、「覚えよう」と思えば、
覚えていることもできるでしょう。
ここで私が「通常の意識の方」と書いたのは、
弥陀の救いというのは、通常の意識の方でなくとも
救われるからです。
たとえば、赤子であったり、障害を持っている方などです。
自力の信は関係ないのですから、意識があることは
必須ではありません。
通常の意識がある方であれば、信をいただいたのが、
「大体いつか」はわかりますけれども、
弥陀に救われる方全員が、救われる前後に
はっきりとした意識を持っているわけではありませんから、
全員が、わかるわけではないのです。
通常の意識を持っている方でも、「昨日」であれば、
多くの方は覚えているでしょうけれども、
たとえば数年たったりすれば、日付を忘れる方も多いと思います。
しかし、おそらく多くのお講では、「記念日」として、
日付を覚えておくことが推奨されているだろうと思います。
私自身は、以上書きました理解です。
74神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 21:05:54 ID:EamvHvFH
>>73
ありがとうございます。

あなたのたびたび使われる「お講」とは?
全国各地に講組織がある某書にあるのですが
もしかしてそれのことでしょうか?
75神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 21:06:39 ID:EamvHvFH
↑「講組織があると某書に」に訂正いたします。
76神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 21:09:43 ID:EamvHvFH
連投で失礼します。全国各地とは書いてありませんでした。
ただ少なからぬ数の講が存在するようです
77298:2008/02/11(月) 21:11:36 ID:l7RZujrx
>>74
「お講」というのは、門徒の集まりのことです。
特殊な用語というわけではなく、現在の真宗で一般に用いられている意味と
同じです。
蓮師が月に一度の会合を推奨なさっていますので、
その伝統が今に続いているのだと思っています。
78298:2008/02/11(月) 21:17:18 ID:l7RZujrx
>>74

リンク先にて、

◎弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり(御文5-12)

が引かれておりますが、「弥陀如来他力の大信心は」では無く、
「弥陀如来他力の大信心といふことは」であることを、
意識していただけたら、と思います。
このように、御文様は注意深く書かれていますので、
「一字一字が佛菩薩」と私たちは呼んでおります。
79神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 21:19:04 ID:EamvHvFH
ありがとうざいました。>>77
80神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 21:31:55 ID:EamvHvFH
補足です。>>74で私が持ち出した「講」はいわゆる
「秘事」に関連するものとは別のものです。
お西の「必携」に講という組織があると書いてあったもので。
298さんはそれに属しているのかな、と思ったのです。
違ったのですね。誤解があるといけないので念のため書きました。
ややこしい書き方ですいません



81298:2008/02/11(月) 21:32:47 ID:l7RZujrx
>>71のリンク先についてですが、「さーて、いつでしたかな」と言った方、
「御信心をいただいた時がわからないなんて、そのような信はいいかげんな信心である」と
言った方、どちらも御同行である可能性もあると思います。
弥陀に救われてよろこんでいて、でも、日時までは大変だから覚えていなかった方が
いらっしゃれば、「さーて、いつでしたかな」とおっしゃっても、不思議ではありません。
私は気楽に生きているほうなので、私のまわりは気楽な方が多いです。
私がお手引きした方で、日付を覚えている方は、(今のところ)おそらく一人もいないでしょう。
私は気楽なほうですから、そういう姿をとがめる気になりません。
「ほんと、救われて、よかったなあ」と、うれしく思っています。
しかし、そのような姿を見て、「弥陀に救われる程の一大事の記念日を、忘れるとは何事だ!」と
怒る方がいても、おかしくありません。
結婚記念日を覚えている人もいれば、覚えていない人もおり、
覚えていない人を見て、怒る方もいます。
82298:2008/02/11(月) 21:34:30 ID:l7RZujrx
>>80
私はお講に属していますが、どこのお講に属しているかは、
いまのところ、書くつもりがありません。
83神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 21:44:24 ID:0Z4yjmUk
298さんの問題提起は、すごいですね。
アカデミズム(権威)などは、凡夫の自覚を持ちうる人間には不要であります。
84神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 21:57:56 ID:0Z4yjmUk
少なくとも298さんはコテハンで対応されていて、他の存在(渡海先生以外)は名無し。
85神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 22:13:02 ID:cDh8WPAf
>>84
基地外に「先生」は不要
86神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 22:19:09 ID:0Z4yjmUk
トマス・アクィナス(スコラ哲学)から見たら、フリーメーソン、薔薇十字、神智学、オカルティズムも異端になるのでしょう。
87神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 22:59:18 ID:0V5kZ6dx
298さんは秘事法門ではなくして、
特に信心を獲りたいと願う篤信の門徒や
求道者・聞法者が集うグループの方だったわけですね

下の記事は本願寺派のものですが「蓮如上人と深いつながり」とあります
どうやら篤信者の集う講社のようなグループがいろいろあるようだ
ttp://www.hongwanji.or.jp/r500houyou/graph/04/0404/main.htm
88298:2008/02/12(火) 00:12:07 ID:MYJYVRwD
>>71
では、親鸞聖人はと言いますと、

◎しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す(化身土巻)

ですから、自覚をお持ちでいらっしゃると思います。

御伝鈔では、

◎建仁第一の暦春のころ・・・凡夫直入の真心を決定しましましけり。
89298:2008/02/12(火) 01:22:20 ID:MYJYVRwD
「たづねる」に関する御文です。長めに引きました。
読みにくいと思いますが、興味のある方に読んでいただけたら、うれしいです。
できましたら、御文五帖八十通、全文お読みいただけたら、うれしいです。

◎かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、
さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。
師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。
なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。
しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、
信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、
もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(御文1-11)

◎そもそも、当流において、その名ばかりをかけん輩も、
またもとより門徒たらん人も、安心のとほりをよくこころえずは、
あひかまへて、今日よりして、
他力の大信心のおもむきをねんごろに人にあひたづねて、
報土往生を決定せしむべきなり。(御文3-1)

◎そもそも、このごろ当国他国のあひだにおいて、当流安心のおもむき、
ことのほか相違して、みな人ごとにわれはよく心得たりと思ひて、
さらに法義にそむくとほりをもあながちに人にあひたづねて、
真実の信心をとらんとおもふ人すくなし。これまことにあさましき執心なり。
すみやかにこの心を改悔懺悔して、当流真実の信心に住して、
今度の報土往生を決定せずは、まことに宝の山に入りて手をむなしくして
かへらんにことならんものか。このゆゑにその信心の相違したる詞にいはく、
「それ、弥陀如来はすでに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることを、
いまにわすれず疑はざるがすなはち信心なり」とばかりこころえて、
弥陀に帰して信心決定せしめたる分なくは、報土往生すべからず。
さればそばさまなるわろきこころえなり(御文3-8)

◎信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて
他力の安心をば治定すべし。一往聴聞してはかならずあやまりあるべきなり。(御文4-7)
90神も仏も名無しさん:2008/02/12(火) 02:08:32 ID:jfRT8N9P
>>87
こうしゃ【講社】
講とは、もと経論を講説する法会を意味しましたが、後には、信者が集まって法義を讃嘆する会合や、
その団体をさすようになりました。本願寺における講とは、蓮如上人のころからはじまり、地域集落を単位とする小寄講や、
それらを統括する大寄講も組織されました。
こうした講の組織を講社といい、講社の全員を講員といいます。法義讃嘆をはじめとして、
ご本山護持のため懇志進納や社会奉仕から会員の相互援助活動まで、幅広く行われています。
講社の全国的組織として、本願寺全国講社連絡会が組織され、現在約500の講社が活動を続けています。
http://yamaguchibetsuin.org/k_yougo/index.html

しかし、これに属さない講社もたくさんあるようです。さすが民衆宗教、蓮如はすごいですね。

91298:2008/02/12(火) 02:18:41 ID:MYJYVRwD
>>90
蓮師はすごいですね。今に至るまで、各地で続いているわけですから。
弥陀の救いをわかりやすく伝えてくださった御恩は、本当にありがたく、
感謝しています。
92渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/12(火) 09:11:52 ID:ZVJmC2or
>>67
 面白いですね。秘事法門でも歎異抄は読んでいるんですか。意外な気持ちです。神秘・不可思
議な宗教ですね。

 右斯聖教者、為当流大事聖教也。於無宿善機、無左右不可許之者也。 釈蓮如御判

 歎異抄などは絶対に読まない。まして無宿善機とは歎異抄について話をするなどということは、
掟の第一箇条に抵触するんじゃないかと思いましたが、その辺は便宜主義、ご都合主義なんで
しょうかね。面白いですね。

>「たずね来」「問い聞く」何が疑問なのか、私には、よくわかりません。  

 そうですか。何が疑問だったか解らない。そうですか。「何が疑問なのか、よくわかりません」ですか。
うむ。なるほどなるほど。勉強になります。神秘な秘事法門の教えは、我々には測り知れませんね。

 僕には、往生極楽の道は「ただ念仏して」ということとだと、そういう結論で読めてくるんですがね。
これ以外には何もないと。結論さえ解れば、僕にはもう、十分なんですよ。
93渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/12(火) 09:14:11 ID:ZVJmC2or
 歎異抄の「ただ念仏して」という記載は、無宿善機は読んではならない部分なんでしょう。墨
が塗ってあるとか、切り抜いてよんでいるとか、まあ、それこそ秘義の中核なんでしょう。善知
識様の口伝が優先しているんでしょうね。そこは隠していると言うことも、秘伝なんでしょうね。
善知識様以外は目を向けてはいけない。善知識様もそこを読むと目が潰れると教えられてい
るとか、まあ、そういうところでしょう。

 僕も最近、眼科に通いました。考えてみれば、原因は歎異抄の「ただ念仏して」という記載を
読んでしまったからかもしれないと思うようになりました。

>親鸞聖人もまた、法然聖人から教わったのですから。

 なにか? そうですか。法然聖人から教わった教えという部分は墨を塗るとか、削除するとか、
秘事法門ではそういう扱いをしているんでしょうね。法然聖人から教わった教えという部分は間
違った教えであると、そういう考えをとるんでしょうね。まさに秘事法門の神秘な宗教ですね。
 このへんは、善知識様の秘事口伝の不可思議な教えをお伝えするんでしょうか。非公開で。

 まあ、私どもが信じる宗教じゃないんで教義がどうなっていても関係ないんだけど、秘事法
門とは、神秘・不可思議な宗教ですね。勉強になります。
94渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/12(火) 09:19:38 ID:ZVJmC2or
 右斯聖教者、為当流大事聖教也。於無宿善機、無左右不可許之者也。 釈蓮如御判

 蓮如の奥書が書いてあっても、歎異抄は読むと言うことは、やはり僕らが考える「無宿
善」と、秘事法門が考える「無宿善」とは、根本的に概念が違うんでしょうね。
 秘事法門では、その違いも秘事にしているかもしれませんね。
95神も仏も名無しさん:2008/02/12(火) 09:44:23 ID:fHGAVy9h
渡海先生は298さんを秘事法門と決めてかかっているようですね。
>>90によればどうやら組織化されていない講社もあるようだ。
一般的には御本尊はご本山からお受けすることになる。
組織化されている講社ではおそらく、講社が属しているご本山から
お受けするのだろう。しかし組織化されていない講社では
御本尊はどこからお受けするのだろう?

それはともかくとして、蓮如上人以来の、信心のための講社が
現代にも存続しているということには驚きを禁じえない。
96神も仏も名無しさん:2008/02/12(火) 10:41:45 ID:DLZHQjAV
渡海教信者が来てるな
>>95は精神科のお仲間かな?基地外を先生呼ばわりしてるし。
97渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/12(火) 10:56:32 ID:ZVJmC2or
>95
>渡海先生は
 別に僕は先生と呼ばれるような人間じゃないんだ。それともこれは皮肉の意味が込めてあるの
かな? 皮肉の入った「先生」という意味なら、快くお受けするよ(w。

>秘事法門と決めてかかっているようですね。
 まあ、そうだね。それ以外に理解不能だからね。本願寺は、まあ、少なくとも建前上は裏表のない
公開法門でしょう。蓮如も裏表のない人だった。
(現代の本願寺を秘事法門と言っても、あながち外れてない。w)

 秘事法門は自分たちからは秘事法門とは名乗らないんじゃないの?。自分たちが秘事法門かどうか、
その事実こそ、もっとも核心的秘事になるだろう。秘事法門と言うと間違いなら、覆面法門というべ
きだろう。
 彼らは歎異抄は読んでいるらしい。歎異抄を読んでいれば、法の内容は善知識の胸三寸で何でも決
まる神秘のご都合主義法門と言った方が適切かも知れない。

 本当は歎異抄は読まない、読ませないんだが、「歎異抄は読みません」というと秘事法門が露見す
るので、秘事を隠す都合で読んでいるのかも知れない。
 いろいろと隠し事をされると想像がかき立てられる。少なくとも、僕が考えている浄土真宗とは、
教義が異なる別異の宗教だ。こういう宗教の人と話をすると、とても社会勉強になる。でも、宗教上
の僕の土俵には入らない。
98渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/12(火) 10:59:07 ID:ZVJmC2or
>蓮如上人以来の、信心のための講社が現代にも存続しているということには驚きを禁じえない。

 蓮如の本願寺集団は、盛んに念仏を称えていたけど、298さんは念仏を称えないらしい。蓮如の
直系の講社とは、僕にはとても思えない。 
 江戸時代、秘事法門は幾度も幕府の取り締まりを受けた。取り締まりを逃れる方便で、表向きでは
蓮如教団の体裁を取っていた。
 蓮如を看板にするというのは、当初は幕府の取り締まりを逃げる方便だったのが、現代では固定化
し、看板の蓮如解釈も、本願寺とは異質の解釈をしている。まあ、本願寺の解釈も右往左往している
から、他人の右往左往を笑えるような本願寺じゃないんだがね(w。
 信教の自由だから、僕は論評するつもりはない。
99神も仏も名無しさん:2008/02/12(火) 11:03:55 ID:jfRT8N9P
コピペ
なお、依用しないと定めたご消息のなかには、現在も講社で拝読しているものがあり、
各講社がどのようなご消息を拝読しているのか、参拝志納部において確認する準備を行っていくこととなりました。
しかし、本山に登録せずに活動している講社もあることが報告され、
これを機に講社連盟への登録を呼びかけてはどうか、との意見も出されました。
http://www2.hongwanji.or.jp/kikan/houkoku/h0406.html
100渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/12(火) 11:12:38 ID:ZVJmC2or
>98
誤 本願寺とは異質の解釈をしている。
正 本願寺とは異質の解釈をしている。298さんの言葉から、僕にはそんな風に推定されてきた。

誤  信教の自由だから、僕は論評するつもりはない。
正  信教の自由があるから、僕はあまり論評するつもりはない。秘密主義というのは、盛んに他人の
 想像をかき立てるんで、少なくとも、健康的な宗教じゃないね。
101神も仏も名無しさん:2008/02/12(火) 12:42:27 ID:0zoJtCxV
既成概念はどうあれ、正当か異端かを判断するには、やはり親鸞さんや蓮如さんの
残してくれた言葉と符合するかどうか、でしょうね。
それにしても「秘事法門」について、渡海さんがいままで知らなかったというのには
驚きました。
ひょっとしたら御文章は読まない人だったの?
102298:2008/02/12(火) 12:52:05 ID:MYJYVRwD
>>93
>歎異抄の「ただ念仏して」という記載は、無宿善機は読んではならない部分なんでしょう。墨
>が塗ってあるとか、切り抜いてよんでいるとか、まあ、それこそ秘義の中核なんでしょう。善知
>識様の口伝が優先しているんでしょうね。そこは隠していると言うことも、秘伝なんでしょうね。
>善知識様以外は目を向けてはいけない。善知識様もそこを読むと目が潰れると教えられてい
>るとか、まあ、そういうところでしょう。
(苦笑)
103298:2008/02/12(火) 13:03:11 ID:MYJYVRwD
>>92
>>「たずね来」「問い聞く」何が疑問なのか、私には、よくわかりません。
>そうですか。何が疑問だったか解らない。そうですか。「何が疑問なのか、よくわかりません」ですか。

わかりません。なぜなら、あなたの書いたことは、反証になっていないからです。

私は、「念仏とは、どのように行うのか、自分で考えるのではなく、
知っている人に教わるものなのである」という主張を、>>64にて行っています。

◎近代このごろの人の仏法知り顔の体たらくをみおよぶに、
外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、
内心にはさらにもつて当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、
あまつさへ相伝もせざる聖教をわが身の字ちからをもつてこれをよみて、
しらぬえせ法門をいひて、自他の門徒中を経回して虚言をかまへ(御文3-11)

と引いた通りです。渡海氏は、この御文様に指摘されている通りの方であり、
まるで真宗を信仰しているようなそぶりを見せながら、その実は、
自分の解釈力にて聖教を読み、虚言をかまえていると判断しています。

それに対するあなたの書き込み>>65は、歎異抄を引いていますが、
この段は、「念仏とは何かを自分で考える」ことを主張していません。

親鸞聖人に尋ねにきているのは、自分で考えるのではなく、
親鸞聖人に確認をするためです。

そして、親鸞聖人も、法然聖人から教わったと述べています。

したがって、反証になっておらず、>>92の批判は、あたりません。
見当違いです。また周辺の発言は、罵詈雑言が多いと思います。

渡海氏は、信心獲らないままで、独自の法門を立てて、
導こうとしていますが、それは、自障障他です。
104298:2008/02/12(火) 13:07:57 ID:MYJYVRwD
>>92
> 右斯聖教者、為当流大事聖教也。於無宿善機、無左右不可許之者也。 釈蓮如御判
>歎異抄などは絶対に読まない。まして無宿善機とは歎異抄について話をするなどということは、
>掟の第一箇条に抵触するんじゃないかと思いましたが、その辺は便宜主義、ご都合主義なんで
>しょうかね。

「便宜主義、ご都合主義」なのではなく、あなたの推測が間違っていたということです。

渡海氏の推測 「298は、歎異抄等は、絶対に読まないのだろう」

→ (事実) 幾度も読んだことがある


渡海氏の推測 「298は、無宿善機とは、歎異抄について話をすることは無い」

→ (事実) 「無宿善かどうかは、凡夫には判断できない」という主張を行っています


検討外れの推測能力に基づいて、批難を繰り返しているだけです。
105298:2008/02/12(火) 13:11:52 ID:MYJYVRwD
>>92
>右斯聖教者、為当流大事聖教也。於無宿善機、無左右不可許之者也。 釈蓮如御判
>歎異抄などは絶対に読まない。

渡海氏のこの推測ですが、そもそも、漢文が読めていないか、
私の主張が読めていないと思います。

無宿善の機が読まない方がよいのは、その通りです。

なぜなら、誤解する可能性が高いからで、渡海氏が、その例です。

「自分は、無宿善の機なのでは?」と考える方は、
蓮師に従い、読まないでしょう。

宿善の機は、信をいただく前には、「無宿善なのでは?」と不安になることの
方が多いからです。

蓮師がおっしゃっていることは、「信前の方が読むには向かない」ということです。

信心獲た方については、信心獲ている以上、宿善があるわけです。

ですから、そのような方には、とても役に立つ書であり、
信後相続において、用いられるべきものです。
106298:2008/02/12(火) 13:42:03 ID:MYJYVRwD
>>92
>右斯聖教者、為当流大事聖教也。於無宿善機、無左右不可許之者也。 釈蓮如御判

渡海氏が、矛盾していると思うのは、この部分についての知識があったということです。
それであれば、あくまでも対機であって、何でもかんでも話して良いわけではない、
とわかると思います。

そもそも、渡海氏自体、すべての質問にこたえているわけではなく、
相手に答えさせるために、「秘密主義だ」と批難しているに過ぎません。

私は、渡海氏は、いわれなき批判を繰り返していると考えます。

「秘密主義」とは、何なのでしょうか? 何でもかんでも教えなければ、
秘密主義なのでしょうか?

お聖教を読めば、「南无阿彌陀佛と、ただ口にとなえれば良いわけではない」という
ことはわかります。

しかし、「では何をするのか?」が書いてありません。

では、どうすれば良いかと言えば、「知っている人に聞くように」と書いてあるのです。

そのように読めないのは、素直に読んでいないからだと思います。
107298:2008/02/12(火) 13:48:37 ID:MYJYVRwD
>>93
>善知識様もそこを読むと目が潰れると教えられているとか、まあ、そういうところでしょう。

たとえば、このような批難ですが、まったくいわれの無きことです。

私の書いた文が、読めていません。

「そこを読むと目がつぶれる」という類いの主張を、私は行っていません。

では、なぜこのようなことを渡海氏は推測するのかと言えば、
おそらく私を批難するためでしょう。

なぜ、私を批判しなければならないのかと言えば、
私は、渡海氏は自障障他を行っていると、はっきりと書いているからだと思います。

信心獲ないで他を導こうとするのは、いたずら事です。

私は渡海氏に、幾度も、「信心獲たのですか?」と尋ねています。

秘密主義を批難する渡海氏は、この質問にこたえません。

念仏を大切にするかのようなことを言いながら、
その念仏は、信をいただけない念仏です。

信をいただけない念仏は、法の通りに行われていない念仏です。

そして、なぜ「信を獲ているのですか?」という質問に答えないのかを推測するならば、
渡海氏は、信を獲ていないからです。

自らが信を獲ることのできない方法を他に勧めているのですから、
それは自障障他です。
108298:2008/02/12(火) 13:52:54 ID:MYJYVRwD
>>93
>善知識様もそこを読むと目が潰れると教えられているとか、まあ、そういうところでしょう。

この部分もまた、渡海氏の推測能力の低さを示していると思います。

この種の推測能力にもとづいてお聖教を読んでいるから、
書いてあることが読めず、とんちんかんな解釈をするのだと思います。

私から見れば、はずれている推測をたくさん行っているのですから、
渡海氏の推測能力が低く、かつ、批難したいという感情のために、
推測がいい加減になっているということが、よくわかるのです。

ですから、お聖教を読めていないだろうことも、見当違いの修行をなさっていることも、
私からは、よくわかります。

渡海氏のまわりで、誰が信を獲っているのですか?

正しい修行法であれば、弥陀から信をいただけるはずです。

凡夫直入の捷径があるはずです。

それが無いなら、いたずら事なのです。

求める行者は、弥陀から真実信心をいただき、極楽往生を治定しなければなりません。

ひとたび治定したら、その後は、御恩報謝のお念仏です。

一念に至る往生をとげねばなりません。
109298:2008/02/12(火) 14:01:00 ID:MYJYVRwD
>>102
>墨が塗ってあるとか、切り抜いてよんでいるとか、まあ、それこそ秘義の中核なんでしょう。

念仏こそが、秘儀なのです。
凡夫が佛になるのです。
110298:2008/02/12(火) 14:03:53 ID:MYJYVRwD
念仏こそが秘儀であるのだから、念仏さえすれば良いのです。

念仏して信をいただいた場合、さらに信後のすがたがわかれます。

また、同一人物でも、揺れ動きます。

「信をいただけた」とよろこんでいる場合。

「これで良いのだろうか?」と疑問に思う場合。

疑問に思い、尋ねに行ったところ、「念仏したのですから、それで良いのです」と
お答えをいただいたのです。
111298:2008/02/12(火) 14:06:06 ID:MYJYVRwD
蓮師も、秘事秘伝であると、聞書にてはっきりとおっしゃっていますけれども、
なぜ、それが強調されないのかと言えば、いわれなき批難を受けるということと、
興味本位の扱いをされるからだろうと思います。
112298:2008/02/12(火) 14:11:52 ID:MYJYVRwD
凡夫が簡単に救われる方法があるのに、多くの方は、
それを知ろうとしません。
その方法こそが、南无阿彌陀佛です。
南无阿彌陀佛をとなふれば、凡夫が佛となるのです。

南无阿彌陀佛とは何か、自分で考えるのでは無く、
知っている人に聞かなければなりません。

命をかけて御布教下さった方々の文書に、なぜ、
「南无阿彌陀佛とは何か」が書いていないのか、
お念仏をあれだけ勧める方々が、
なぜ、「南无阿彌陀佛とは何か」を書かないのか、
それは、文書に書けば、それを真似して、
異安心になる方が出ることも、大きな理由だろうと思います。

安心していないのに、「これで良いのだ」と思い込んでしまう方が出たり、
自流の念仏を本物と主張する方が出るかもしれないと思います。

ですから、信後の状態については、たくさん書いてあるのだと思います。

自分がそうなっているかどうか、確かめることができるからです。
113ひとり言:2008/02/12(火) 15:38:48 ID:vKiCQ12l
念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。
114渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/12(火) 20:09:43 ID:ZVJmC2or
>>99
>これを機に講社連盟への登録を呼びかけ
 徳川時代、秘事法門として盛んに本願寺に痛い目に遭わされた講社が、いまこそ先祖のしっぺ
返しとばかりに、本願寺に乗り込んでこないことを祈るよ。(w

>各講社がどのようなご消息を拝読しているのか
 ニセモノの消息を持ち込まれて、本願寺が一杯食わされたりしたりして・・。(w

>>101
 地中の化石でしか知らなかった伝説のシーラカンスが、生きたままいきなり登場したらビック
リするだろう。化石が生きていたとは、驚くべきことだ。

 秘事法門なんて、大昔の話だと思っていたよ。岐阜県関ヶ原を歩いていたら、いきなり石田三成
に出会ったような気分がしたよ。本当は、石田三成より、もっともっと古いんだろう?

 僕は昔、真宗史の薄い本を読んだとき、徳川時代に秘事法門の摘発があったという記述を見て
びっくりしたものだ。それまでは、徳川時代でさえそんなものがあったとは知らなかった。

 確かにネットを見直すと、現代でも秘事法門が残っているという記事がある。でも、そんなの全く
眼中になかったよ。考えたこともなかった。いまここで秘事法門さんに親しく教えを受けられるなん
て、インターネットに乗って、蓮如さんの時代にタイムトンネルしている気分だ。
115神も仏も名無しさん:2008/02/12(火) 20:26:08 ID:vKiCQ12l
そんなに秘事法門が珍しいなら念佛宗無量寿寺でも覗いてみろよ。
116神も仏も名無しさん:2008/02/12(火) 20:48:54 ID:rwmO2US1
渡海難も秘事法門と同じようなことをやってるけどな

今月初めにも新宿でキモオタ仲間2人に対してやってたらしいし
117神も仏も名無しさん:2008/02/12(火) 21:16:22 ID:fHGAVy9h
>>101
異端か正当か、昔なら法主様・ご本山が裁定された(もしくは寺社奉行?)ものに
従っておればよかったのですが、今はそういうことはあまりないようです。
(大谷派では金子・曾我両師が異安心の疑惑を受けたことがありますね)
118神も仏も名無しさん:2008/02/12(火) 21:23:29 ID:fHGAVy9h
>>110
>「念仏したのですから、それで良いのです」というお答え
をいただいた場合、「これで良いのだろうか?」の思いは
消えてしまうのでしょうか。それともそのまま残るのでしょうか。

119神も仏も名無しさん:2008/02/12(火) 21:27:46 ID:fHGAVy9h
わたしはかつて稲田に参りましたが、なだらかな山に囲まれた
風光明媚な土地でありました。御開山聖人が教行信証を著述され、
また関東でもっとも長く滞在されたところでありますから、
わたしとしてはひとしおの思いがございました。
120神も仏も名無しさん:2008/02/12(火) 21:37:07 ID:fHGAVy9h
117とも関連しますが
たとえば現在は新規の宗派を立ててはならぬ、といったような
お上からの命令はないわけです。ですから>>99氏が出されているような
ご本山に登録していないで活動する講社がたくさんあったとしても、
それは全く自由なわけです。
121298:2008/02/12(火) 21:54:15 ID:MYJYVRwD
>>95
>渡海先生は298さんを秘事法門と決めてかかっているようですね。

どうもそうらしいですね。
しかも、これまで秘事法門について知らなかったのに、
新たに獲得した(小さな?)知識によって、
私のことを推測して、「秘事法門」と、断定しているのでしょう。

「秘事法門」という用語は、

◎それ、越前の国にひろまるところの秘事法門といへることは、さらに仏法に
てはなし、あさましき外道の法なり(御文2-14)

とありますように、通常、否定的な意味で用いられますからね。
おそらくは、私のことを、否定したいのでしょう。

一方、私は「御文を繰り返し読んで下さい」と、繰り返し申し上げているわけです。

渡海氏は、掟のことも、知らなかったみたいですよね。

そのような自分自身の状態を、知らないはずがないと思うのですが、
御文も全然読んでいないような状態で、あそこまで強気に真宗について発言できる
キャラが変わっていると思います。

信を獲らずして他を導こうとするのは、やはり、自障障他になると思います。
障他になってしまうのは、信を獲ろうとしている、他の方を防げようとしてしまうからです。
御文一帖第一通を、よくよく読んでほしいと思います。
122298:2008/02/12(火) 22:02:20 ID:MYJYVRwD
>>98
>298さんは念仏を称えないらしい

これも、何度か渡海氏に書かれていますけれども、
これもまた、間違えている推測です。

誰に聞いたんでしょうね?

私が誰か知らないはずですから、こちらの掲示板への
書き込みから推測されたということですよね?

「あまりにも・・・」な内容なので、スルーしてきましたが、
またもや、書いていますので、コメントしました。

一体、私の書き込みを、どう読んだらそう思えるのか、
本当にわかりません。

「渡海氏は、真の念仏を称えたことは、生まれてから一度も無い」
という意味のことは、書いてきましたが・・・

渡海氏が、何度お念仏称えようとも、あくまでも自己流の、
自力のお念仏にとどまります。

ですが、渡海氏は、自力のお念仏も過小評価しており、
心を落ち着かせるための手段に過ぎないようです。

ですので、感謝の念をこめ、よろこびながら自力のお念仏となえる
篤信の方でも無いと思っています。
123神も仏も名無しさん:2008/02/12(火) 22:07:27 ID:fHGAVy9h
117で書き忘れたことがありました。
御開山様、蓮如上人の残してくれた言葉に直接あたる、ということですが
「解読」という作業は結局のところ、各人人のセンスや知識といったものに
拘束されてしまうことがあります。
もし仮に「読み間違い」があったとしたら取り返しのつかないことにならないのでしょうか。
124神も仏も名無しさん:2008/02/12(火) 22:07:55 ID:fHGAVy9h
123は>>101氏の書き込みについての感想です。
125298:2008/02/12(火) 22:15:43 ID:MYJYVRwD
「ただ口に唱えるのでは無い」ということについては、

◎ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、
それは極楽には往生せず(御文3-3)

他力をたのまない念仏の存在については、

◎別解は、念仏をしながら他力をたのまぬなり。別といふは、
ひとつなることを、ふたつにわかちなすことばなり、解はさとるといふ、
とくといふことばなり、念仏をしながら自力にさとりなすなり。
かるがゆゑに別解といふなり(一多証文)

渡海氏が創意工夫された「渡海流五会念仏」を、
わたしは、「指定の節で念仏唱える」と解しているのですが、
それについては、

◎まつたく聖人の仰せとして音曲を定めて称名せよといふ御沙汰なし(改邪鈔)

この改邪鈔も、おそらく以前、他の方からも指摘されていると思いますが、
無視されているのだと思います。
126298:2008/02/12(火) 22:16:42 ID:MYJYVRwD
◎まつたく聖人の仰せとして音曲を定めて称名せよといふ御沙汰なし(改邪鈔)

ですけれども、渡海氏についての解説のテンプレに加えてほしいです。
127298:2008/02/12(火) 22:20:19 ID:MYJYVRwD
>>118
>「念仏したのですから、それで良いのです」というお答え
>をいただいた場合、「これで良いのだろうか?」の思いは
>消えてしまうのでしょうか。それともそのまま残るのでしょうか。

これは、機によります。
「やはり、お念仏だけで良いのだ。よかった、南无阿彌陀佛・・・」と、納得される方もいれば、
「どうも腑に落ちない」という方も、いらっしゃるのではないかと思います。
腑に落ちない方は、ご自分の道を、探されれば良いのです。
それでも、もし本当に弥陀をたのんでいるならば、
極楽往生治定に変わりはありません。
128298:2008/02/12(火) 22:24:38 ID:MYJYVRwD
>>127
>腑に落ちない方は、ご自分の道を、探されれば良いのです。

そして、腑に落ちないけれども、「やはり真宗は本当なのでは?」と感じる方は、
多くは、お聖教を探ることになるのだろうと思います。
そのとき、まずは、信をいただいたお講の方に聞くことになるのではないかと
思います。
それで納得行かなければ、他を探されるのではないでしょうか。

信をいただいても、すぐには、何の価値があるのか、
そして、それが正統のものであるのか、わからないかもしれません。

ですので、信をいただいたら、しばらく後念相続をされて、
納得されたら良いのではないかと思います。

もし、お手引きするとしても、その後になると思います。
これは、他力信は決定していますけれども、
自力の信を育てているわけです。

他力信そのものはわからないので、
自力の信を育てることにより、間接的に他力信を感じようとする
試みとも言えます。
129神も仏も名無しさん:2008/02/12(火) 22:26:34 ID:fHGAVy9h
蓮如上人が現在の勤行をさだめるまで、
五会念仏などがおつとまりになっていまたとのことです。
(渡海流の詳細を知らないので、天台宗の五会念仏と同じかどうか
分かりませんが)
1301:2008/02/12(火) 22:32:32 ID:fHGAVy9h
>>128
つまり「信をいただく」のと「納得する」のは
かならずしも同時に起こるというわけではないのですね。

また他力の信と自力の信が同時並行的に存在するということなんですね。
丁寧に解説していただいてありがとうございました。
131298:2008/02/12(火) 22:38:41 ID:MYJYVRwD
>>129
私は、おつとめであれば、異論は無いのです。
たとえば、おつとめで正信偈をあげましたり、和讃をあげましたり、
どちらも尊いことだと思います。
他にも合掌礼拝しましたり、本当に尊いことです。
ですけれども、それを真実行として皆様やってらっしゃるのでは無いと思います。
それによって、信を獲ようとしているのではなくて、
感謝の気持ちでなさっているのだと思います。
弥陀をたたえるゴスペルソングのようなものを創って歌われても、
それも良いことだと思います。
これらはあくまでも、信後の感情表現であったり、
信前であれば、弥陀に親しんで、信を獲ろうと思う様になったり、
あるいは、自分が未信であると自覚できるためのものであると思います。
一方、渡海流五会念仏は、まるで真実行であるかのような位置づけで
述べられていると思います。
私の理解では、渡海流五会念仏は、「その行を続けていると、
ある日突然、信をいただく」というものです。
ご本人も見ていますから、勘違いがあるなら、教えてほしいと思います。
そもそも、「渡海流五会念仏では信は獲れないが、リラックス効果があるから
おすすめです」ということであれば、きちんとそう言ってほしいと思います。
まぎらわしいです。
132298:2008/02/12(火) 22:44:10 ID:MYJYVRwD
>>130
はい、「納得」が、獲信直後に起こる方は、それまでの
教義理解の蓄積があって、一気に疑問が氷解するタイプの方と、
直感的に理解されるタイプの方だと思います。

そうでない場合は、お聖教の解説などを受けまして、
「なるほど、お聖教の通りだ、ありがたい、もったいない、
素晴しい・・・」と理解してゆくことになると思います。

既に、信をいただいていますので、わかり方が違うと思います。
133298:2008/02/12(火) 23:31:04 ID:MYJYVRwD
>>113
無義であるのに異義があるとは是如何に? と考えてゆかねば
ならないと思います。
このようなところから、真宗(の御聖典)や御開山を、
「論理が破綻している」と主張する方々もいらっしゃいますが、
そういう方々はさておき、真宗を本当ではないかと感じる輩は、
会わせて解釈できる義を求めてゆかねばならないのだと思います。
134298:2008/02/12(火) 23:40:07 ID:MYJYVRwD
御文様には、

◎他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、
たとへば十人は十人ながら、みなもつて極楽に往生すべし(御文3-2)

したがって、信心獲ていない方は、他力の信心といういわれを
よくは知らないわけです。

「よく」や「あさからず」には、特定の意味が込めてあると、
私は思っています。
135298:2008/02/12(火) 23:47:07 ID:MYJYVRwD
>>10
>浄土真宗の奥義である「次第」は何故、秘密にされるのでしょうか?

◎これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、
宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。
しかれば近代当流の仏法者の風情は、是非の分別なく当流の義を
荒涼に讃嘆せしむるあひだ、真宗の正意、このいはれによりて
あひすたれたりときこえたり。かくのごときらの次第を委細に存知して、
当流の一義をば讃嘆すべきものなり(御文4-1)

相手を見ずに、誰にでも話してゆくならば、真宗の正意はすたれてしまう
ということなのです。

◎しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり(御文4-1)
136298:2008/02/12(火) 23:57:34 ID:MYJYVRwD
真宗に、弥陀の救いに、真実信心に、
後生に、極楽浄土に、関心を持つすべての方に、
救われてほしいと思っています。

そのために、私に何ができるのかはわかりませんが、
真実信心いただいたことをよろこんで、
この掲示板を見ているどなたが信をいただいてくれればと、
書き込んでいる次第です。

南无阿彌陀佛
137神も仏も名無しさん:2008/02/12(火) 23:57:46 ID:vKiCQ12l
>>133
> 会わせて解釈できる義を求めてゆかねばならないのだと思います。

私にはこの言われる意味が分からないんだけど、
凡夫の解釈や義なんて必要ないんじゃないかな?他力の念仏には。
私が信心を得ようが得まいが、納得しようがしまいが、
弥陀による私の往生は決定しているのではないですか?
138298:2008/02/13(水) 00:09:30 ID:7Ez5KABj
>>137

「無義をもつて義とす」のですから、無義という義があります。
不可称不可説不可思議でありながら、
なぜ、「もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐ」(御文1-11)が
できるのか、ということです。
「その信心のおもむきを弟子にもをしへ」(御文1-11)ということは、
「をしへ」の内容は、不可説ではありません。
説ける念仏の中に、不可説の念仏がある。
これは、わけのわからぬことを言って煙にまいているのではなくて、
真実信心いただけば、「なるほど」とわかるのです。
このようなことを、「割符が合う」と言うのだと思います。
弥陀の救いそのものは不可説なものですが、
すべてが不可説であれば、凡夫に取り付く島がありません。
139298:2008/02/13(水) 00:13:40 ID:7Ez5KABj
>>137
>>138における私の説明が適切かもわかりません。

なぜなら、

>凡夫の解釈や義なんて必要ないんじゃないかな?他力の念仏には。
>私が信心を得ようが得まいが、納得しようがしまいが、
>弥陀による私の往生は決定しているのではないですか?

私は、この内容に、すべて納得するからです。

念のために、私の理解を表現する為に補うとするならば、

凡夫の解釈や義なんて必要ないんじゃないかな?他力の念仏には。
私が信心を得ようが得まいが、納得しようがしまいが、
【弥陀をたのんだのであるならば】弥陀による私の往生は決定しているのではないですか?

になります。念仏無くして決定はしないからです。
140298:2008/02/13(水) 00:16:05 ID:7Ez5KABj
>>137における「私が信心を得ようが得まいが」の「信心」を、
私は自力の信心と解釈致しました。

自力の信心は必要有りませんが、一心に弥陀をたのむ経験は必要です。
一念に至る念仏です。
141298:2008/02/13(水) 00:17:53 ID:7Ez5KABj
>>137
よろしければ、もう少し詳しく、領解をおっしゃっていただけると
うれしいです。
お互いの領解が、より明確になってゆくと思うからです。
142神も仏も名無しさん:2008/02/13(水) 00:36:54 ID:FaTAtkjV
浄土真宗の坊さんって保険売り込むのが仕事なんですか?
衣で保険売り込みに行くの?
こんな人に僧侶の資格を与えていいのでしょうか?
やはり浄土真宗って何でもありなんですね?
http://www.e-hoken.com/hp/masahito/
mixiにもいて宣伝してますけど・・・
http://mixi.jp/show_friend.pl?id=466778
143298:2008/02/13(水) 03:17:19 ID:7Ez5KABj
>>114
>いまここで秘事法門さんに親しく教えを受けられるなんて、

おそらく、ここでの「秘事法門さん」というのは、
前スレの「秘事法門さん」では無く、私のことだと思うのですが、
渡海氏の言う「秘事法門」というのは、
どのような異安心を指して言っているのでしょうか?

一体、私がどの異安心に該当すると思っているのですか?

異安心を分類する用語もさまざまあるのですから、
何を想像されているのか、さっぱりわかりませんので、
どのように推測しているのか、教えていただけたらと思います。

拝まずの秘事、光明秘事、他にもありますけれども、
一体どれに該当されると想像されているのでしょうか?

単なる罵詈雑言をならべられても、
どう推測されているのかも、わかりません。

たとえば、>>93の推測は、全くもって間違いです。

渡海氏の推測は、ここでも、的外れということになります。

私のことを推測すれば的外れ、
お聖教を読めば自力の解釈、
信を獲るために勧めるものは自力(のみ)の念仏、
そして自分は信を獲れておらず、
というのが、渡海氏の現状だと思います。

さらに、信を獲らないままで、自障障他を続けていると思います。
144298:2008/02/13(水) 03:23:38 ID:7Ez5KABj
>>93
>なにか? そうですか。法然聖人から教わった教えという部分は墨を塗るとか、削除するとか、
>秘事法門ではそういう扱いをしているんでしょうね。法然聖人から教わった教えという部分は間
>違った教えであると、そういう考えをとるんでしょうね。

まず、ここに書いてある「秘事法門」は、私のことを指そうとしているものであると
してお書きします。

しかし、その呼び名は、あくまでも渡海氏の決め付けであり、
的外れなレッテル張りに過ぎないと思います。

このようなレッテル張りをするのも、
自障障他であると私は考えます。

ここにおいてなされている渡海氏の推測は間違っており、
渡海氏の推測能力の低さ、推測のいい加減さを示しています。


渡海氏の推測:法然聖人から教わった教えという部分は墨を塗るとか、削除する


間違いです。この渡海氏の推測は、外れています。そのようなことは、聞いたことがありません。


渡海氏の推測:法然聖人から教わった教えという部分は間違った教えである


間違いです。この渡海氏の推測も、外れています。
法然聖人のおかげで、この日本に念仏の教えが広まったのです。


いわれのなき批難を為す目的は、何なのでしょうか。
145298:2008/02/13(水) 03:30:49 ID:7Ez5KABj
>>94
>やはり僕らが考える「無宿善」と、秘事法門が考える「無宿善」とは、
>根本的に概念が違うんでしょうね。

私が弥陀の救いについて説明しているのに、あなたはひたすら受け付けないでしょう。
しかし、同じ話を聞いていても、違う反応をしてくださる方もいます。
つまり、信じて下さる方もいるのです。
あなたのように、信じない方が、「無宿善の機」なのです。
弥陀の救いについて聞いても、全く受け付けず、自障障他のはたらきを為します。
信心獲れていない以上、あなたの念仏は、一称にて信をいただける念仏ではありません。
「無宿善の機」と言っても、宿善の機の、開発前の状態も指して言っています。
この掲示板をご覧になっていただいる方にも、
その姿は明らかになっていると思います。
自分も弥陀に救われたくないし、他の方にも救われてほしくない。
そのように、自障障他を示す方がいます。
御文様一帖第一通に書いてあります。
そして、三恒河沙の諸佛のお育てに会うまでは、
弥陀の十八願を真実と感じることはできません。
信をいただけた方は、どんなに自分がイマイチに思えたとしても、
諸佛のお育てにあずかっているわけで、
本当に、感謝できると思います。
なぜかそこに本物があると感じることができたから、
求めることができたからです。
数えきれない程の佛のお育てのおかげです。
南无阿彌陀佛
146298:2008/02/13(水) 03:45:51 ID:7Ez5KABj
>>145
これは、渡海様が、「三恒河沙の諸佛のお育てに出会っていない」という意味では
ありません。それは、私にはわかりません。
しかし、現状においては、無宿善の機です。
どうか、弥陀の救いに気付かれます様に。
南无阿彌陀佛
147298:2008/02/13(水) 03:53:58 ID:7Ez5KABj
そもそも、弥陀の救いというのは、信じにくい話です。
「昔の人は、信じられたかもしれないけれど」という論調を聞くこともありますが、
それは、昔の人をバカにしている発言だと思っています。
今の人も、昔の人も、信じられる人は信じられたし、
信じられなかった人は、信じられなかった、それだけのことです。
私はどう思っているかというと、
むしろ、今の人には、信じられる方が多く生まれているだろうと思っています。
真宗最興の時期が来ていると思っているからです。
受け付けない無宿善の機をよそに、日々、弥陀に救われる方々が
出て来るだろうと思っています。
易行ですし、あっと言う間に救われます。
無宿善の機が気付かない間に、次々と弥陀に救われる人が出て来ることと
思います。
内心に秘める教えです。救われても、まわりの人にも、それとわかりません。
救われても、外相に出す必要もありません。念仏行者と公言する必要が無いどころか、
仏法者にも、善人にも見えないことが勧められています。
それでも、求める方には、必ずご縁が現れます。
南无阿彌陀佛
148298:2008/02/13(水) 03:55:03 ID:7Ez5KABj
>>147 「最興」→「再興」
149298:2008/02/13(水) 06:44:09 ID:7Ez5KABj
◎もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、
信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。(教行信証)

どうか、疑謗も縁となりますように。
150渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/13(水) 09:39:01 ID:hQdEI/rR
>>103
>わかりません。なぜなら、あなたの書いたことは、反証になっていないからです。

 ほほう。そうですか。なるほど。なるほど。ところで僕は何か反証しようとか、そんな思いは
全く持ってないんですよ。何か反証しようとでもしているように感じましたか?。

  >> 64
  >>どうしたら極楽へ往生できるかって話、そういうのを聞きたい。
  >「ただ口にとなえるのでは無い」ということは、御文様に書いてあります。

  こう仰っているから、ご安心くださいと申し上げたいんですよ。ご迷惑でしたか?。反証で
はありません。ただ(いたずらに)口にとなえているだけでは無益かも知れませんが、往生極楽
の道は、ただ(専一に、ひたすら)念仏すればいいと、歎異抄に書いてあります。貴方が歎異抄
を読んでいるとは思いませんでしたから、情報提供をしただけです。

>自分で考えてわかるような方は、御釈迦様のような方です。
    僕は親鸞様と法然様に伺いますから十分なんです。

>知っている人に教わるものなのである」という主張を、>> 64にて行っています。

  往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思とりて(念仏)申す外
には、別の子さい候わず。(一枚起請文)

 親鸞聖人が歎異抄2章で「ほかに別の子細なきなり」といい、一枚起請文で法然上人が「別の
子さい候わず。」と言っている。
 貴方が言う「知っている人」は、まさかこれを同じことを仰るんじゃないんでしょう。僕は、
親鸞聖人や法然上人と違う秘密の教えをお教え下さる方に教えを受けようとは思いませんね。
151渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/13(水) 09:40:48 ID:hQdEI/rR
>>104
>「無宿善かどうかは、凡夫には判断できない」という主張を行っています

 >> 145
あなたのように、信じない方が、「無宿善の機」なのです。
 >>146
 しかし、現状においては、無宿善の機です。

 それで298さんは他人を、「無宿善」「宿善」判断はできる凡夫なんでしょうか。できない
凡夫なんでしょうか?。

 >> 135
   相手を見ずに、誰にでも話してゆくならば、真宗の正意はすたれてしまうということなの
  でしょう。

 自分は無宿善かどうかを判断できる凡夫になったり、判断できない凡夫に変わったり。変わり
身の大変お忙しい方なんでしょうね。

 まあ、「宿善」も「無宿善」も、便宜主義、ご都合主義なんでしょう。まあ、テケトーに変わ
るというところでしょうか。全て善知識様の神秘の胸三寸で決まるんでしょう。神秘的ご都合主
義。善知識様にとっては、自分の教えこそ、大変ありがたい教えなんでしょう(笑)。
 こんな方に、無宿善か宿善か、判断されたくないですよね。(⌒▽⌒)アハハ!。

>検討外れの推測能力に基づいて、批難を繰り返しているだけです。

 検討?外れ? はいはい。はいはい。
152渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/13(水) 09:41:31 ID:hQdEI/rR
>>106
>お聖教を読めば、「南无阿彌陀佛と、ただ口にとなえれば良いわけではない」ということはわ
かります。

 ただ(いたずらに)称えても無益でしょう。ただ(専一に、ひたすら)称えたいものです。し
かし、ただ(いたずらに)称えても、益にならないだけで、害になると言うことはない。

>しかし、「では何をするのか?」が書いてありません。

 ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずる。
 ただ、往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思とりて(称名念仏
を)申す

 念仏三昧は、 〜 父の王に謂いて曰わく、王いま座禅してただ当に念仏すべしと(行の巻)
 念仏三昧は、座禅してただ(ひたすら・専一に)当に念仏す

>>109
>念仏こそが、秘儀なのです。

 はて?聞いたことがない。やはり我々の知らない特別な聖教をお使いのようだ。

 慈信が申し候法文の様、名目をも聞かず、いわんや、習いたることも候わねば(血脈文集)
 善鸞さんは、親鸞様が聞いたこともないような証文を持ち出して人々を教えていたと聞きます。
貴方のところにもその辺の古い証文が伝わっているんでしょう。
153渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/13(水) 09:53:47 ID:hQdEI/rR
>>110
>念仏こそが秘儀であるのだから、念仏さえすれば良いのです。
   秘儀であっても秘儀でなくても、本願を信じ念仏すれば往生する。 

>111
>蓮師も、秘事秘伝であると、聞書にてはっきりとおっしゃっていますけれども、

 はて?念仏を秘事秘伝と言っていますか?
 やはり、秘事秘伝の古文書をお使いのようだ。名目をも聞かず、いわんや、習いたることも候
わず。 

 前々住上人、大坂殿にて、各々に対せられて、仰せられ候う。一念に、凡夫の、往生をとぐる
ことは、秘事秘伝にてはなきかと、仰せられ候う。(聞書)

 秘事秘伝の古文書は、この文が変わっているんでしょう。秘事法門流に書き替えましょう。
 前々住上人、大坂殿にて、各々に対せられて、仰せられ候う。念仏は秘事秘伝と、仰せられ候
う。

 本願寺は、自分たちの聞書が本物だと言う。別の者は、自分たちこそ秘伝の本物の聞書を継承
しているという。これは、水掛け論だ。
154渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/13(水) 10:49:40 ID:hQdEI/rR
本願寺文と秘事法門の証文の違い

 山家の伝教大師は 国土人民をあわれみて 信心決定するために 善知識を訪ぬべし

 一枚起請文
もろこし、我がちょうに、もろもろの智者達のさたし申さるる観念の念にも非ず。又、
学文をして念の心を悟りて申す念仏にも非ず。ただ、往生極楽のためには、南無阿弥陀仏
と申すより先に、まず善知識を訪ね、信心決定すべし。
 但、三心四修と申す事の候うは、皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思うこと
は誤りなり。無宿善の機は教えを乱す。
 念仏を信ぜん人は、念仏称える前に善知識を訪ぬべし。秘事秘伝の教えを学ぶべし。

 歎異抄
おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう
御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。念仏よりほかに往生の
みちを善知識に詳しくたずぬべし。名号をもってなにのこころえもなくして、ただとなえ
てはたすからざるなり。秘事秘伝の教えを学ぶべし。
155渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/13(水) 11:06:26 ID:hQdEI/rR
>121
>おそらくは、私のことを、否定したいのでしょう。

 298さん方は、民俗学的な亜流密教の思想を根底で継承しているんでしょうね。

 よるもひるも慈信一人に、人にはかくして法文おしえたることそうらわず。
                                         (親鸞)

 善知識様に非公開の教えが、現代にも伝わっているというのも、大
変面白い話です。 
156神も仏も名無しさん:2008/02/13(水) 12:53:35 ID:Mt10NIzD
>>139
> 【弥陀をたのんだのであるならば】弥陀による私の往生は決定しているのではないですか?

【弥陀をたのんだのであるならば】
これが往生の条件、信心を得る条件ならば、
それは絶対他力の阿弥陀さんの教えではないと私は思います。
私を私のまま無条件で救って下さるのが親鸞聖人が伝えて下さる阿弥陀様の教えだと思います。
157神も仏も名無しさん:2008/02/13(水) 12:54:45 ID:Mt10NIzD
>>140
> 自力の信心は必要有りませんが、一心に弥陀をたのむ経験は必要です。

「経験は必要」と、ここでも往生には条件がついているように感じます。

> 一念に至る念仏です。

理解によっては、念仏が往生の手段のように感じられるのですが・・・。

親鸞聖人の説かれる他力念仏の教えは、念仏も信心も往生のための条件ではない、ということだと思います。
「心から信じて念仏する」ことは、私がすることではなく、阿弥陀仏がすでに完成されていて、私に回向されているもの、これが親鸞聖人の教えではないでしょうか?

過去レスをずっと読んできたわけではないので、私の誤解があるかと思います。
その点お許し下さい。
158渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/13(水) 12:59:24 ID:hQdEI/rR
>110
>念仏こそが秘儀であるのだから、念仏さえすれば良いのです。

 秘儀念仏?。 非公開・口伝の神秘的な特殊化した(例えば修験
道のような)念仏を秘密裏に称えているのかも知れませんね。

 非宗教的・非仏教的・土着民俗学的な興味・関心がそそられる。
159298:2008/02/13(水) 16:35:14 ID:Mh63WpvK
>>157

>「経験は必要」と、ここでも往生には条件がついているように感じます。
>理解によっては、念仏が往生の手段のように感じられるのですが・・・。

私は、往生には条件がついているという立場です。

そして、念仏は往生の手段であり、念仏により彌陀より真実信心いただき、
この真実信心の相続により、極楽に往生するという立場なのです。

◎「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、
みな往生すとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆得往」といふなり(唯信鈔文意)

「ひとへに御なをとなふる人のみ」とございます。
160298:2008/02/13(水) 16:35:38 ID:Mh63WpvK
>>157
>「心から信じて念仏する」ことは、私がすることではなく、
>阿弥陀仏がすでに完成されていて、私に回向されているもの、
>これが親鸞聖人の教えではないでしょうか?

◎そのことばにいはく、「十劫正覚のはじめより、
われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。
これおほきなるあやまりなり。そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれを
しりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、
いたづらごとなり(御文1-13)

「阿弥陀仏がすでに完成」は、「そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれをしりたり」
に対応すると思います。

しかし、「われらが往生すべき他力の信心といふいはれ」を知らなければ、
いたずら事なのだと思います。


「条件が無い」という事は、真宗門徒でなくとも、死後は皆、
極楽往生するというお立場の方でしょうか?

>過去レスをずっと読んできたわけではないので、私の誤解があるかと思います。
>その点お許し下さい。

誤解は誰にでもあるし、私にも、あるはずだと思います。
だからこそ、互いに信心をあきらかにし、意思疎通して行くことが大切だと
思うのです。
往生程の一大事、互いにことばを尽くして、お互いに相手を理解して行くことが
大切だと思っています。
端的な発言だけだと、何を考えているかお互いにわからないですし、
そもそも、短い文で自分の考えを適確に伝えることも、凡夫には
むずかしいことです。
161298:2008/02/13(水) 16:37:21 ID:Mh63WpvK
>>157

>「心から信じて念仏する」ことは、私がすることではなく、

ただし、「心から信じて」は、凡夫にはできませんので、弥陀から
真実信心をいただくのだと思います。

真宗念仏により、弥陀から真実信心をいただき、
その後は、疑心なくして、心から信じての念仏ができるようになります。

それが、御恩報謝のお念仏です。

南无阿彌陀佛
162298:2008/02/13(水) 16:57:35 ID:Mh63WpvK
>>150
>ところで僕は何か反証しようとか、そんな思いは
>全く持ってないんですよ。何か反証しようとでもしているように感じましたか?。

「全く持ってない」ということは、渡海様は、自分の思いはすみからすみまで、
すべて自覚できると思っていらっしゃるということなのでしょうか?

そのように思われているのであれば、決めつけが激しい事にも、
納得がゆきます。

「何か」どころか、全体的に、いろいろと反証しようとなさっているように
感じます。

>>150
>ただ(専一に、ひたすら)念仏すればいいと、歎異抄に書いてあります

つまり、渡海様は、自分自身は、「専一に、ひたすら」念仏されていると、
御主張なさっているのですね?

「自分は、専一に、ひたすら念仏しているから、安心しているのだ」
ということで、いいですね?


>僕は親鸞様と法然様に伺いますから十分なんです。

霊能者の方なのでしょうか。
親鸞様と法然様に伺って、五会念仏を教わったのですか?
違うでしょう? 自己流でしょう? 渡海流です。
おそらく、「お聖教を自流に読み解く」ことを指しているのでしょう?
あなたは、お聖教をあげても無視しますね。
それで、どうして親鸞様と法然様に伺うことになるのですか。
いい加減なことを言ってほしくありません。
163298:2008/02/13(水) 17:05:40 ID:Mh63WpvK
>>150

>貴方が歎異抄を読んでいるとは思いませんでしたから、情報提供をしただけです。

http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1198478098/50
>歎異抄第12段を読んで下さい。

と、私がすすめている書き込みもあります。

信前の方には、本来誤解され易い文書ですけれども、
既に読まれている方、そして、真実信心を求めている方には、
その意味を、話せる範囲で説明してゆくことになると
思います。

私が歎異抄を読んでいないという渡海様の推測は、間違っています。
渡海様の推測は、他の箇所でも間違っています。
あなたが私をどのように解釈するかを見て、
私は、あなたの聖教理解を推し量っています。
それは、この掲示板をご覧になっている、他の方々もそうだと思います。
私のことも、部分的な発言を取り上げて、おおげさに誤解しています。
おそらく、お聖教も、同じ様にして、自流に読み解き、
部分的な文言を自己流に解釈して、おおげさに誤解しているのだと思います。
164298:2008/02/13(水) 17:08:37 ID:Mh63WpvK
>>153
> 前々住上人、大坂殿にて、各々に対せられて、仰せられ候う。一念に、凡夫の、
>往生をとぐることは、秘事秘伝にてはなきかと、仰せられ候う。(聞書)

では、渡海様の理解では、この「一念」とは、念仏ではないといことで、
よろしいですね?

「念仏以外の一念によって、凡夫が往生をとぐることがある」と、
渡海様の教義体系では、解釈なさっているということで、
良いのでしょうか?
165298:2008/02/13(水) 17:14:27 ID:Mh63WpvK
>>153
>本願寺は、自分たちの聞書が本物だと言う。
>別の者は、自分たちこそ秘伝の本物の聞書を継承しているという。
>これは、水掛け論だ。

何を妄想しているのですか? 本当に、わけがわかりません。

>>66にて、私が、

◎前々住上人、大坂殿にておのおのに対せられて仰せられ候ふ。
一念に凡夫の往生をとぐることは秘事・秘伝にてはなきかと仰せられ候ふと云々(聞書283)

と引いているでしょう。

そこから、どのようにしたら、このような推測が、出てくるのでしょうか?

いわれ無き批難を続ける目的は、何ですか?
何といわれようとも、信心無くして、他を導こうとするのは、
自障障他です。
渡海様は、信心獲ないままで、渡海流五会念仏の実践を勧めていらっしゃいます。
それは、おかしいです。
まず、信心いただかねばなりません。
166298:2008/02/13(水) 17:19:25 ID:Mh63WpvK
まじめに求めている同士、互いの見解が違う場合に、
話し合ってゆくのは前進になると思いますけれども、
渡海様の場合は、決めつけが激し過ぎます。
それは、自分自身が、「法然聖人、親鸞聖人に伺い、
五会念仏という実践法の結論を得た」と思い込んでおり、
それを他に勧めているからです。
そもそも、渡海様のところは、「念仏すれば、安心して現世のことに精が出せる」という
教義でしょう?
真剣に後生のことを考えている方々からすれば、
そんな教義では、助けにならないのです。
167298:2008/02/13(水) 18:17:10 ID:Mh63WpvK
仏教には、非常にたくさんの方便があります。
しかし、このスレは、妙好人に獲信を学び、
自らも獲信したい方のためのものだと、私は思っています。
ですから、肝心要の周辺をお話しています。
実際に、目の前の方にお話しているわけではありませんから、
その分、話も不明確になるでしょう。
スレタイに沿う方だけが、見るとは限らないからです。
ですから、わかりにくいお話になることもわかりますが、
以前のスレも合わせて概要をつかんだ方が、
おひとりで御文様を幾たびも通読すれば、
わかる方もいらっしゃるだろうと、私は信じて、書いているのです。
168渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/13(水) 20:19:46 ID:hQdEI/rR
>>162
>すべて自覚できると思っていらっしゃるということなのでしょうか?
    子供の口げんかみたいなことをいう人ですね。話をややこしくするのはやめましょう。

>そのように思われているのであれば、決めつけが激しい事にも、納得がゆきます。
   馬鹿馬鹿しいのでノーコメントです。

>「何か」どころか、全体的に、いろいろと反証しようとなさっているように感じます。
   そうですか。なるほど。なるほど。ふむ。ふむ。まあ、そういところもあるでしょうね。

>>150
>自分自身は、「専一に、ひたすら」念仏されていると、御主張なさっているのですね?

 話のわからん人だな。歎異抄には「ただ(専一に、ひたすら)念仏すればいいと」書いてありま
すと、情報提供したわけです。何か不足ですか?。

>霊能者の方なのでしょうか。親鸞様と法然様に伺って、五会念仏を教わったのですか?

 話をどんどん飛ばす人だな。歎異抄は親鸞聖人の言葉を書いてくれているんです。歎異抄は信じ
られないというなら、話は別です。
 歎異抄は、比較的親鸞聖人の肉声に近い言葉を書いてくれていると、僕は思っているんです。僕
は歎異抄を通じ、往生極楽の道を教わりました。
 一枚起請文は、法然上人の言葉です。一枚起請文から、往生極楽の道を教わりました。今は五会
念仏の話をしていません。
 298さんが、往生極楽の道がわからないというから、歎異抄と一枚起請文とに書いてあります
よと、情報提供しました。
169渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/13(水) 20:22:40 ID:hQdEI/rR
>>163
>私がすすめている書き込みもあります。

 そうでしたか。僕との対話で、貴方が歎異抄の話にこれほど乗ってくるとは思いませんでした。

>私が歎異抄を読んでいないという渡海様の推測は、間違っています。

 そうですか。298さんは、歎異抄に墨を塗り、切り抜きをして読んでいるんだろうという思い
を強めました。
 真宗密教の方は、そういう読み方にならざるを得ないでしょう。貴方の真宗系の証文は、墨だら
け。あなだらけ。
 密教系の証文も読んでいるんでしょうが、そこも多分穴だらけ、墨だらけでしょう。それを埋め
るのが、善知識が胸三寸で操る口伝なんでしょうね。口伝と言えば、善知識様は、好き勝手なこと
を何でも言える。
170渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/13(水) 20:24:11 ID:hQdEI/rR
>>164
>渡海様の理解では、この「一念」とは、念仏ではないといことで、よろしいですね?
      話のわからん人だなぁ。 全く!

 秘事秘伝にてはなきかと   ひょっとしたらこれは秘事秘伝かも知れないなぁ
 秘事秘伝であると、聞書にてはっきりとおっしゃっていますけれども、(>>111

 か 助詞 (広辞苑)
 (係助詞) 種々の語に付き、活用語には連体形に付く。話し手の疑念を表し、その結果、この語を
受ける結びが活用語の時は、断言することを避けて連体形になり、係結びの関係ができる。

 はっきり  (広辞苑)
 物事が確実で明らかであるさま。ものの輪郭が明瞭であるさま。

 真宗密教では、はっきり断言しているよう書かれている聞き書きを使っているんでしょう。
 一念が時間を指しているのか、念仏の回数を指しているのか。見解が分かれるところでしょうが、
いまそれをここで議論するつもりはありません。
 真宗密教では、はっきり断言しているよう書かれている聞き書きを使っているということです。

>いわれ無き批難を続ける目的は、何ですか?

 秘事法門の人々は、秘事秘伝を断定している証文を使っていると言うことが解りました。
 非常に興味深く教えて頂きました。

 はっきり断言しているのが本物の聞き書きか、疑念を加えているだけなのが本物の聞き書きか。
本願寺は、自分たちの聞書が本物だと言う。別の者は、自分たちこそ秘伝の本物の聞書を継承して
いるという。我々には解りませんね。水掛け論ですね。
171神も仏も名無しさん:2008/02/13(水) 20:42:19 ID:m7KzH7tQ
東北のかくれ念仏の一派には、密教と融合したようなのもあるらしいですが
きっと、ネットでそういう記事を見つけて想像が膨らんでるんでしょうね。
172渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/13(水) 20:42:58 ID:hQdEI/rR
 僕は、多分、これが真宗密教の原点だろうと思っています。確証はありません。 

 慈信が申し候法文の様、名目をも聞かず、いわんや、習いたることも候わねば(血脈文集)
  <親鸞が知らない法文を使用していた。>


 慈信坊のくだりて、わがききたる法文こそまことにてはあれ、ひごろの念仏はみないたずらご
となりとそうらえばとて、おおぶの中太郎のかたのひとびとは、九十なん人とかや、みな慈信坊
のかたへとて、中太郎入道をすてたるとかやききそうろう。(消息集)
  <念仏は無駄なことだと主張した>

よくよくかきもたせたまいてそうろう法門は、みな詮なくなりてそうろうなり。慈信坊にみな
したがいて、めでたき御ふみどもはすてさせたまいおうてそうろうときこえそうろうこそ、詮な
くあわれにおぼえそうらえ。
  <親鸞が書き残した文集を廃棄した>

 また、親鸞も偏頗あるものとききそうらえば、ちからをつくして、唯信鈔・後世物語・自力他
力の文のこころども、二河の譬喩なんどかきて、かたがたへ、ひとびとにくだしてそうろうも、
みなそらごとになりてそうろうときこえそうろうは、いかようにすすめられたるやらん、不可思
議のこととききそうろうこそ不便にそうらえ。
  <親鸞の苦労を台無しにした>
173渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/13(水) 20:47:44 ID:hQdEI/rR
>171
 ネットにも書いてあるかい?

 むかし、たしかNHKだったかが、善鸞を扱っていて、その中で
秘事法門に話が及んでいて、解説者が、善鸞は密教だと言って
いたのを覚えているんだよ。


174渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/13(水) 20:52:54 ID:hQdEI/rR
>171
 こっちに間違いあれば、どんどん訂正が飛んでくるのが、ネットのいいところだ。

 隠れ念仏=密教 という図式は簡単には成立しないということですか?

                                 ...ψ(。。)メモメモ...
175神も仏も名無しさん:2008/02/13(水) 20:55:54 ID:xhiRXCwm
死後の世界や、霊的存在を認めることは、信仰の門に入るためには不可欠なのだと思います。
近代人には、これが難しい。
176神も仏も名無しさん:2008/02/13(水) 21:28:48 ID:ZDrTuwRL
「たのむ一念」とは私が「えいやっ!」と阿弥陀様に
「往生させてください」とたのむのでしょうか?
177神も仏も名無しさん:2008/02/13(水) 21:32:47 ID:ZDrTuwRL
たとえば、心を集中させて、阿弥陀様に思いを凝らし、
自分の念が阿弥陀様に届くように念ずる、といったような感じに。
178神も仏も名無しさん:2008/02/13(水) 21:40:33 ID:e53rbdDI
>>177
たぶん、それは無いだろね。
それをやったら浄土真宗じゃないかも。
阿弥陀様のほうからこちらへ届けてくれるんじゃないだろか?
179神も仏も名無しさん:2008/02/13(水) 21:43:50 ID:ZDrTuwRL
>>178
しかし>>140を読むと何か特別な念仏があるような感じがして仕方が無いんよ。
180神も仏も名無しさん:2008/02/13(水) 21:50:00 ID:e53rbdDI
うん。そんな感じはしますね。
181神も仏も名無しさん:2008/02/13(水) 23:57:42 ID:Mt10NIzD
>>159
> 私は、往生には条件がついているという立場です。

私は全ての人をありのままに救いとってくださるという
他力念仏の基本は無条件の絶対平等だと思うのですが・・・。
条件があると、条件を満たすことのできない落ちこぼれがでて、
往生から漏れるものがいることになり、
本願が成就されていないことになるのではないですか?
極端かもしれませんが、私は信心のあるなし、念仏するしないも無関係に往生するのだと思います。
ただ、信心が必要なくとも、阿弥陀仏によって救われていく自分であると気づかなければ意味がありませんから、
それに気づくことが大切なのではないでしょうか?

>>160
> 「条件が無い」という事は、真宗門徒でなくとも、死後は皆、
> 極楽往生するというお立場の方でしょうか?

オームの信者もアルカイダも本願によって往生すると思います。
182298:2008/02/14(木) 01:24:47 ID:k4TJqn/Z
>>177
>たとえば、心を集中させて、阿弥陀様に思いを凝らし、
>自分の念が阿弥陀様に届くように念ずる、といったような感じに。

自力の心をふりすてるわけですから、むしろ逆だと思います。
心を集中するのでは、定善になるでしょう?
定善でもなければ、散善でもないのです。
そのとき、弥陀の方から、極楽往生を治定させてくださいます。
183298:2008/02/14(木) 01:27:14 ID:k4TJqn/Z
>>181
>条件があると、条件を満たすことのできない落ちこぼれがでて、
>往生から漏れるものがいることになり、
>本願が成就されていないことになるのではないですか?

いずれは皆、弥陀の本願によって救われると思いますけれども、
今生にて真実信心いただく方は、今生にて、弥陀をたのんだ方であると
私は考えています。
弥陀の修行が成就しているのは、十劫前ですよ。
もし、弥陀をたのまなくてよいのであれば、
今、生まれている方は、全員が、十劫前よりも、さらに以前からの
転生ということになりますが、181様は、そのように
お考えになっているのですか?
184298:2008/02/14(木) 01:34:28 ID:k4TJqn/Z
>>181
>ただ、信心が必要なくとも、阿弥陀仏によって救われていく自分であると気づかなければ
>意味がありませんから、それに気づくことが大切なのではないでしょうか?

では、

◎信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし(聞書35)

の「信心」というのは、往生の正因たる信心ではなくて、
自力の信心、「気づき」であるという、お考えでしょうか?

181様は、信心正因は、認めていらっしゃいますか?

>極端かもしれませんが、私は信心のあるなし、
>念仏するしないも無関係に往生するのだと思います。

とのことですので、もしかしたら、信心正因説を取らない方かもしれないと、
思いました。

もし、信心正因とされている方であるならば、
その信心は、生まれたときに、皆が弥陀からいただいている、
という考え方になるのでしょうか?
185298:2008/02/14(木) 01:37:33 ID:k4TJqn/Z
>>181
>条件があると、条件を満たすことのできない落ちこぼれがでて、
>往生から漏れるものがいることになり、
>本願が成就されていないことになるのではないですか?

本願が成就して、南无阿彌陀佛となっています。
ですから、南无阿彌陀佛で往生治定するのだと思います。
本願が成就していないならば、南无阿彌陀佛もありませんし、
南无阿彌陀佛で往生が治定することも無いと思います。

弥陀の側では、南无阿彌陀佛は成就しています。
あとは、凡夫が弥陀をたのむだけです。

たとえて言えば、誰かが、電子レンジを開発したとしましょう。
しかし、その恩恵を受けるのは、それを使った方です。

大経は、南无阿彌陀佛を体とします。しかし、それを用にするのは、
凡夫の側からのはたらきかけが必要であると、私は思います。

そして、その「凡夫の側からのはたらきかけ」ができるのは、
弥陀のお育て、お導きによるのだと思います。

南无阿彌陀佛
186298:2008/02/14(木) 01:38:42 ID:k4TJqn/Z
>>181
つまり、「凡夫の側からはたらきかけ」ているようにも見えますが、
その実は、「弥陀からのお招き」であるということです。

南无阿彌陀佛
187神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 01:44:49 ID:LLKG0D0G
南無阿弥陀仏の
南無は、安心せよ
阿弥陀仏は、どこにいても助けるぞ
ということ

信心とは、なにか自分の中に確信が存在するのではなく、
阿弥陀仏は、すでに私の救いを完成されたということ
私の称える念仏は阿弥陀仏の喚び声であるということ
それをただ聞き開く、そのすがたを指す言葉
188298:2008/02/14(木) 01:46:24 ID:k4TJqn/Z
そもそも、歎異抄というのは、口伝と現状が異なることを
嘆いている書であるわけです。
それを、口伝を否定するための書にする方がいらっしゃることを、
知ることができました。

また、

◎幸ひに有縁の知識によらずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや(歎異抄)

とあるように、有縁の知識の必要性も説いていると、私は思います。

しかし、これを反語と取らず、疑問と取る方もいらっしゃるのでしょうね。

その方にとっては、読者に対して、「善知識がいない場合は、どうしたら良いだろうか?」と
問うている書、ということになるのでしょうか?
それでたとえば、その答えが、自力の五会念仏の実践なのでしょうか?
それを指して、「親鸞聖人との対話」と思っている?
あるいは、歎異抄を、「善知識がいない場合の方法論について説いている書」と読むのでしょうか?
「幸ひに」は、どう解釈するのでしょう?

私は、この部分は、「善知識が、必要である」ということを、強く断定すると同時に、
その喜びも含意する表現であると思います。反語で解しています。
189298:2008/02/14(木) 01:47:06 ID:k4TJqn/Z
>>187
南無とは帰命であり、帰命とは礼拝ではないでしょうか?
190神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 01:57:29 ID:LLKG0D0G
>>189
帰命の解釈はいくつかあります。
己れの身命を投げ出して仏に_帰依すること
という解釈もありますが、真宗においての第一義は
「帰命は本願招喚の勅命なり」とあるように阿弥陀仏の(勅)命に帰順する、です。
「安心せよ必ず助けるぞ、助かっているぞ」という仰せを、ただ聞くことです。
191298:2008/02/14(木) 02:03:24 ID:k4TJqn/Z
>>190
「ただ聞く」ために、どうするかが、大切だと思っています。
そこがわからなくて、みなさま悩んでいるように見えます。
「安心せよ必ず助けるぞ、助かっているぞ」というのは、
わかりやすくするための擬人的表現であるとお読み致しました。
「そういう声が、どこからともなく聞こえてくる」という意味では無いですよね?
「ただ聞く」ための方法が、南无阿彌陀佛であると、私は思います。
192298:2008/02/14(木) 02:07:21 ID:k4TJqn/Z
>>189
では、「南無」が「安心せよ」という、弥陀からのお誘いだとします。
その場合、行者は、そのお誘いに、どうやってお答えするのでしょうか?
あるいは、何もせずとも、良いのでしょうか?
193神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 02:08:28 ID:LLKG0D0G
>>191
>「そういう声が、どこからともなく聞こえてくる」という意味では無いですよね?

私の称える念仏は阿弥陀仏の喚び声であるということです。
しかし、その名号のいわれ、仏願の生起本末を聞くことでもあります。

我称え 我聞くなれど 南無阿弥陀仏
連れてゆくぞの 親の喚び声
行け・来いの中で 忘るる己かな
194神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 02:13:01 ID:LLKG0D0G
>>192
本願には乃至十念と誓われてあります
その後の念仏の数は問題となりません

上尽一形
から
聞名のものをも往生にもらさず、きらはぬことをあらはししめすとなり
195298:2008/02/14(木) 02:13:13 ID:k4TJqn/Z
>>193
では、193様のお説は、自分が口から南无阿彌陀佛を称えれば、
その口から出ている南无阿彌陀佛が、
弥陀からの喚び声そのものであるということでしょうか?
そして、その自らの口から出ている南无阿彌陀佛が、
「名号のいわれ、仏願の生起本末を聞く」ということになるのでしょうか?

これは、機を問わず、誰でも、そのようになるのですか?
あるいは、念仏を一度でも口にした方は、
全員、獲信しているという立場の方でしょうか?
196298:2008/02/14(木) 02:17:24 ID:k4TJqn/Z
>>193
また、蓮師は、信を獲らない方がいらっしゃることを嘆いていらっしゃいますが、
この「聴聞しながら信を獲らない方」とは、
聴聞しながら、一度も南无阿彌陀佛を口に出したことの無い方、という
捉え方でいらっしゃるのでしょうか?

その場合、

◎ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、
それは極楽には往生せず(御文3-3)

は、どう解されますか?
197神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 02:19:22 ID:LLKG0D0G
>>195
まず「名号のいわれ、仏願の生起本末を聞く」ことが先となります。
それを如実に聞けるかは人によるでしょう。

阿弥陀仏はその人に合わせた手だてを用意されるのだと思います。
198298:2008/02/14(木) 02:19:26 ID:k4TJqn/Z
>>194
私は、凡夫の生涯にただ一度、真実信心いただく念仏があると解しています。
この念仏を一称すれば、後は御恩報謝のお念仏となり、
命が続けば続くだけ、お念仏も続いて、一念が多念となるのです。
199298:2008/02/14(木) 02:21:12 ID:k4TJqn/Z
>>197
>まず「名号のいわれ、仏願の生起本末を聞く」ことが先となります。
>それを如実に聞けるかは人によるでしょう。

では、どのようにして、「名号のいわれ、仏願の生起本末を聞く」かですが、
名号のいわれを聞くには、次第相承の善知識にお会いして、
六字のいわれを聞き開くのだということを、
私は、この一連のスレで書いてきています。

どのようにして、その場所に至るかは、人によると思います。
200神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 02:22:28 ID:LLKG0D0G
>>196
>この「聴聞しながら信を獲らない方」

自分のはからいを交えて聴聞される方です。
201298:2008/02/14(木) 02:23:31 ID:k4TJqn/Z
>>200
では、同じ法話を聞いていて、獲信する人と、獲信しない方が出て来る、
ということで、よろしいでしょうか?

つまり、法話によるのでは無く、機による、ということでしょうか?
202298:2008/02/14(木) 02:25:38 ID:k4TJqn/Z
>>200
私はどう解するかというと、同じ法話を聴いていて、
尋ねる人と、尋ねない人が出てきます。
尋ねる方で、次第相承の善知識にお会いし、
六字のいわれを聞き開き、弥陀をたのんだ方は、全員獲信します。
法話を、聞き流している方は、尋ねる必要性を理解しないと解しています。
このような意味でしょうか? それとも、別の意味でしょうか?
203298:2008/02/14(木) 02:32:04 ID:k4TJqn/Z
一枚起請文の、「一文不知の愚鈍の身になして」について、
書きたいと思います。
「一文不知」というのは、「漢字を一文字も知らない」ということでしょう。
これが何を意味しているのと言えば、「読むのではない」ということだと、
私は思っています。
あれだけ短い文章なのですから、どの部分にも、意味があるはずです。
読んでもできる方法であるのであれば、あのような書き方はなさらないだろうと、
私は思います。
そして、「読んだことは忘れよ」ということだと思います。
読んだことの無い方でも、実行できる方法だからです。
あくまでも、主観的な解釈に過ぎないですけれども。
こう読まない方も、たくさんいらっしゃるみたいですので。
204298:2008/02/14(木) 02:34:38 ID:k4TJqn/Z
たとえば法話にて、「無宿善の機と、宿善の機が混在している場所では、
話せない話があるのです」という内容を聞けば、
「では、その話とは、何なのですか? 私は、宿善があるのですか?
私には、聞かせていただけるのでしょうか?」と尋ねる方が出てくるのだろうと、
私は思います。
205神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 02:36:39 ID:LLKG0D0G
>>199
それは次第相承の善知識が何を意味するかによりますね

私は特別な儀式を秘密裏に継承する存在であるとは考えません
私の知る善き人々も特別な相承の儀式を受けてはいません
聞法を通して信を獲てゆかれました

また、法然上人以前にそのような集団が維持されていたということを証明する史料はありますか?
それに、阿弥陀仏の法灯が人にのみ依存するのなら、その人々が死に絶えれば
法は途絶えてしまうことになります。
阿弥陀仏の教えは、そのような性質なのでしょうか?
206298:2008/02/14(木) 02:37:32 ID:k4TJqn/Z
宿善の機に話す話も無い方は、寝た子を起こすだけですから、
このようなことは、言わないのではないでしょうか?
なぜかと言えば、保身のためです。
墓穴を掘るようなものですから。
「御文様には、そう書いてあるのですけれども、
私も、宿善が無いのか、私も、その話の内容までは、知らないんですよ」
と言える方は、かなりのものだと思います。
もし、そう言い続ける僧侶の方がいらっしゃるなら、
いずれ、信を獲ている門徒から、お手引きがある可能性が高いと思います。
多くの場合は、「この方も、知っているふりをしているばかりで、
お手引きは、難しいなあ」と見えていると思います。
南无阿彌陀佛
207神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 02:38:37 ID:LLKG0D0G
>>201
その人の業縁によるのかもしれません
しかし、それは私にはわかりません
私の理解を離れたことです
208298:2008/02/14(木) 02:38:52 ID:k4TJqn/Z
>>205
>それに、阿弥陀仏の法灯が人にのみ依存するのなら、その人々が死に絶えれば
>法は途絶えてしまうことになります。
>阿弥陀仏の教えは、そのような性質なのでしょうか

止住百歳ですから、死に絶えることは、ありません。
必ず守られるお約束です。
だからこそ、一子相伝では無いのではないでしょうか。
209神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 02:40:06 ID:LLKG0D0G
失礼ですが
寝ます
210298:2008/02/14(木) 02:40:21 ID:k4TJqn/Z
>>205
>また、法然上人以前にそのような集団が維持されていたということを
>証明する史料はありますか?

私は知りません。無いのではないでしょうか。
そもそも、釈尊が弥陀の救いを説かれたことを証明する史料も、
無いのではないかと思います。
しかし、私たちは、釈尊が弥陀の救いを説かれたと信じています。
211298:2008/02/14(木) 02:40:53 ID:k4TJqn/Z
>>209
いえ、夜中ですし、失礼では無いと思います。
ご挨拶くださり、感謝致します。おやすみなさい。
212神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 02:42:32 ID:LLKG0D0G
>>208
私は次第相承の善知識が死に絶えたとしても、必ず法は見いだされるのだと思います

法然上人がそうであったように
213298:2008/02/14(木) 02:46:33 ID:k4TJqn/Z
◎あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、
この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもひて、
一流真実の法義を沙汰すべからざるところ(御文4-5)

◎しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり(御文4-1)

この2つを読めば、「宿善の機のみ聞ける話」=「当流の法」が有ると
わかると思うのですが・・・

素直な心で、御文様を拝読してほしいと、思うばかりです。

蓮師がご出生くださり、御文様を遺してくださいましたことに、
心より、感謝致します。よく生まれてきてくださったと思います。

南无阿彌陀佛
214神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 02:46:48 ID:bowFvXIt
次第相承の善知識は、こっそりと存在する。
それは、坊さんではない。真の阿弥陀の使いである。
その者達のみが、求法するものを獲信させることが出来るのだ!
次第相承の善知識は、知る人は知るが、知らない人は知らない。
その次第は、未だ公表されることはなく、口伝によりひっそりと伝えられのだ!
次第相乗の善知識は、あの世で、弥陀から勅令を受けて生まれてくる!



215298:2008/02/14(木) 02:47:26 ID:k4TJqn/Z
>>212
私たちは、法然聖人も、相承を受けていると信じています。
証明は、できません。
216298:2008/02/14(木) 02:49:57 ID:k4TJqn/Z
>>212
わかりにくい話かもしれませんが、死に絶えることは、無いのです。
弥陀は神通があり、釈尊にもあるのですから、
そういうことは、起こらないはずです。
217神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 03:03:51 ID:bowFvXIt
法然は善導の霊から相承を受けている!
信心を得たいのなら、次第相承の善知識(弥陀の使い)を探すことだ。
しかし、次第相承の善知識は、世界中に散らばっている!
必ずしも日本語が通じるとは限らない。
しかし、求める者は、阿弥陀の神通力によって出会えるだろう。
218298:2008/02/14(木) 03:04:11 ID:k4TJqn/Z
>>212
でも、確かによく考えてみれば、「死に絶える」の意味が、
きちんと定義されていないですよね?
極楽浄土に、たくさんの菩薩方がいらっしゃいますから、
死に絶えるようなことはないのだと思います。
219神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 03:12:29 ID:F/vtsCdX
誰も知らない 知られちゃ いけない〜♪ 
次第相乗の善知識が誰なのか〜♪
何も言えない〜♪ 話しちゃいけない〜♪  
次第相乗の善知識が誰なのか〜♪
220神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 03:21:47 ID:bowFvXIt
蓮如以降、次第相承の善知識の数は爆発的に増加した!
しかし、本物の次第相承の善知識は、一握りである。
阿弥陀の神通力によって、一定の数に保たれているのだ。
公の場で、次第相承の善知識を名乗ることは許されない。
そして、あくまでも、阿弥陀の神通が貫入した者のみに、次第が伝えられてゆく。
次第は、有史以前から未来永劫にわたって連綿と相承される!
凡夫の出る幕ではない。凡夫には想像することすら出来ぬ世界があるのだ。
221298:2008/02/14(木) 04:09:11 ID:k4TJqn/Z
>>181
>ただ、信心が必要なくとも、阿弥陀仏によって救われていく自分であると気づかなければ
>意味がありませんから、それに気づくことが大切なのではないでしょうか?

◎ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、
かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、
永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずは
われも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して
阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。末代今の時の衆生においては、
このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、
成仏するといふことあるべからざるなり(御文3-2)

「このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつ(る)」ことが、
条件になっていると思います。

「浄土他家の方に対しては、沙汰してはならない」と、
この後にあります。
あくまでも、真宗の御同行に対してのことであるということで、
お書きしています。

御文様三帖第二通には、今の世に大切なことが、たくさんたくさん書いてあります。
ぜひ、有縁の方には、「一文字一文字が佛菩薩」ということを意識していただいて、
よくよく御拝読いただけたら、と願う次第です。
「一文字一文字が、すべて大切」という意識で、よくよく読むことが
大切だと思います。
御文様は、全文が無料にてインターネットからダウンロードできます。
222298:2008/02/14(木) 04:51:58 ID:k4TJqn/Z
◎仏智うたがふつみふかし
 この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし(和讃)

補って訳します。もちろん、異論はあると思います。
私釈ということです。

仏の智慧を疑う罪は深いのです。
自分に、仏の智慧を疑う心があるということを、
よく思い知ることができたのであれば、
それを悔やむ心が原因となって、
仏智の不思議をたのむことになるのです。

「この心」とは、「仏智うたがふ」心のこと。
「おもひしる」のは、自分に、この心が有ることを、思い知るのです。
これが、宿善の開発です。
この和讃を読んでいても、ほとんどの方は読み流し、
自分事としては読んでいません。あさましき事です。
そして、それに気付き、それを悔いて、悔いるが故に、
佛智の不思議をたよりにすることになるということです。

ここでは、「罪」は、「つつみ」につながり、
蓮の花が開かず、胎生となることに、
つながっていると思います。
223神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 04:56:03 ID:/XO/XEV2
みなさんはじめまして。

私は寺に生まれ現在は大学生です。御講師さんのお説教を聴かせていただくのがとても好きです。
お経や仏様などの部分的な事はあまりわかりませんが、失いかけていた日常の幸せの大切さなどに気付かせていただいています。

しかしここに書いてあるようなことは浄土真宗のことなのでしょうが、何も知らない人にとってはとっつきにくいと思うんです。むしろ『不気味』『怪しい宗教っぽい』と受け止められてしまう事も多いと思います。

『浄土真宗ってどんな宗教なの?』と聞かれたらどう答えたら良いのでしょうか。教えてください。
224298:2008/02/14(木) 05:09:46 ID:k4TJqn/Z
>>223
ここに書いてあることは、とてもマニアックだと思います。
それは、そもそもテーマが「獲信」に絞られているからです。
いきなり、一般の方にお話したら、引かれてしまうこと請け合いです。
ですから、はじめは、一般的なテーマから話すことになると思います。

『浄土真宗ってどんな宗教なの?』と聞かれたら、

うーん、阿弥陀さまが、どんな人でも救ってくださるっていう教えだよ

のような感じが、一般的な答えになるのではないでしょうか。

もともと、一切世間難信之法ですから、多くの方が信じて下さることは、
はじめから諦めた方がいいと思います。

相手の方の、宗教との距離感をはかって、その距離感に応じた話をするのが
良いと思います。

とても距離感のある方に対しては、日常の気付き、心がラクになる考え方、
のような入り方になると思います。

この場合、真宗の話も、ほとんど出てきませんが、それでいいと思います。

つまり、最後の要になれば、ひとつの話に集約されますが、
そこから離れれば離れるほど、話のパターンは増えます。
それが、方便ということだと思います。
(しかし、すべての方便が指す先は、ひとつのゴールであり、
それが、南无阿彌陀佛だと思います。)
225298:2008/02/14(木) 05:14:52 ID:k4TJqn/Z
>>223
何も、宗教の話をしなくても、良いと思います。

一緒に笑い合えるような、楽しい話をしたり、
「この人といると、何か心がラクになるなあ」って思ってもらえるなら、
大成功だと思います。

そして、何となく、「救われた人と一緒にいるって、いいなあ」という感覚を、
相手の方が(無意識にでも)感じてくだされば、
話が進むこともあるのではないかと思います。

弥陀に救われている安心感は、他では得られないものだと思いますので。

ただ、基本的に、期待はしない方がいいと思います。
あくまでも、弥陀のお導きにまかせるしかないのだと思います。
226298:2008/02/14(木) 05:18:03 ID:k4TJqn/Z
>>223

参考になるかもわかりませんが、以前、「カンタンに」というリクエストに
答えまして、私が書いた文章です。

無理だとは思うのですが、がんばってみますね。

「ふつうの人」というのは、こんなことを考えるのです。

「なるべく働きたくない。だけど、給料はたくさん欲しい」

これは、この世ではなかなか通りません。

経営者や上司の方に向かって、「仕事はしたくないんです、というか、できません。
ですけど、一番上の役職をください。お給料は、一番上のランクがいいです」と言えば、
「ふざけるな」と断られます。

(そうじゃなかったら、すごいんですけど。そんな会社は、たぶんつぶれてしまいます・・・)

お経を読みますと、昔、女性の方で、これに似たことを
お釈迦様にたのんでくださった方がいらっしゃって、
そして、お釈迦さまは、ほほえまれたのです。

それは、それまでそのような無理なお願いをしてくださる方がいなかったので、
そういう教えを説く機会がなかったからなのです。

お釈迦様は知恵あるお方ですので、その方法を説かれました。(つづく)
227298:2008/02/14(木) 05:18:54 ID:k4TJqn/Z
>>223

お釈迦様は、聞くと答えてくださるのです。
(「返答しない」ことによって、お答えすることもあったようです。)

だから人気があって、いろいろな方がお釈迦様とお話したがったようです。

「化けの皮をはがしてやる!」と挑戦に行った方が、会うとファンになって、
たとえば出家してしまう、ということも、たくさんあったようです。

話しを戻しますと、その女性の方は、大胆なお願いをしてくださったわけなんですが、
私なんかだったら、自分をカッコ良く見せようとして、
「お釈迦さま、修行の方法を教えてください」とお頼みしてしまったのではないかと思います。

これは、「善人ぶりたい」気持ちが強いからなんです。

でもそうして、わがままで強気な方が、ズバッと本当の望みを言ってくださったおかげで、私でも、実際に実行できる教えが残されました。

わかりやすく言うと、すごく荒唐無稽です。
228298:2008/02/14(木) 05:20:04 ID:k4TJqn/Z
>>223

極楽浄土という素晴らしいところがあって、そこに行くと、
すごくカンタンに言うと、仏になれるんです。

それで、それには、阿弥陀如来をたのめばいいのですが、そのたのみ方が伝わっています。

口伝で伝わってきているので、その方を探さねばなりません。

ここで勘違いしてはいけないのは、「その方(人間)」が救うのではなくて、
あくまでも、阿弥陀様が救ってくださるということ。

そして、阿弥陀様の救いは「摂取不捨」と言って、一度救った人間は、見捨てることがなく、
極楽往生治定と言って、その時点で、極楽行きが決定するのです。

だから、救われた後で、たとえばその方(人間)に一度も会わなくても、
救われたままなのです。

救われると、その後は、ずっと阿弥陀様の光に包まれて、阿弥陀様が守ってくださいます。

ですから、「死んだらどうなるのだろう?」とか、「死んだら地獄行き?」とか、
不安にならなくて、良くなるのです。

そして、ここも勘違いしやすいところなのですが、阿弥陀様に救われていなくても、
死後のことが気にならない人もたくさんいます。

阿弥陀様に救われるには、一生に一度の行で済みますので、とてもカンタンです。

この「カンタン」というのはどれくらいカンタンかと言いますと、
100人いれば100人が実行できる程度のカンタンさなのです。
229298:2008/02/14(木) 05:22:28 ID:k4TJqn/Z
>>223
大体、こんな所です。
法の話は、尽きないですからね・・・
ちょっとお話するだけでも、すぐに長くなってしまいます。
いろいろな方のご意見を聞いてゆこうとする姿勢がすばらしいと思います。
お寺の方とのことですので、そのような方こそが、
これからの真宗を担ってゆくのだと期待しています。
230298:2008/02/14(木) 05:33:47 ID:k4TJqn/Z
>>223
この掲示板でも、私が距離感をはかって、
要(かなめ)から離れた話をすれば、たいして紛糾しないのです。
相手の方のお話にうなづいてゆけば、なおさらです。
しかし、ここでは私は、求める方のご縁になることを望んでいますので、
このような書き方になっています。
「どうしても獲信したい」という時点で、もう、一般の方とは違うからです。
見苦しいとは思いますが、どうかお許しいただけたらと思います。
阿弥陀さまは、本当にすばらしいです。

南无阿彌陀佛
231神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 05:58:45 ID:/XO/XEV2
詳しいご回答をありがとうございます。

私は浄土真宗のことは人並み程度しか分かりません。
ですが先程も書いたようにわかりやすい説法を聴かせていただくといつも自分の幸せに気付かされます。
私は浄土真宗から学べる事は何気ない日常を生活する上でとても大切な事だと思います。例で言えば、少しでも多くの方が日常を当たり前に過ごせる有り難さを実感できたら、『私って幸せなんだ。』と自分の幸せに気付き、心が暖かくなります。
世の中にはいろいろな宗教があって中には排他的な宗教もありますが、世界中の人にあってほしい素敵な考え方だと思います。
色々な事を気付かせていただける夜の月明かりの様な浄土真宗が私は好きです。
これからも勉強したいと思います。
また機会があればよろしくお願いします。
ありがとうございました。
232298:2008/02/14(木) 06:00:36 ID:k4TJqn/Z
>>231
浄土真宗は、すばらしいですよ。
「真宗」の名に恥じない、すばらしい教えです。
こちらこそ、どうもありがとうございました。
233渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/14(木) 10:08:54 ID:Ytz7B5DK
>>188
おのおの十余か国の境を越えて、身命を顧みずして、訪ね来たらしめ給う御志、一重に往生極
楽の道を問い聞かんがためなり。しかるに念仏より外に往生の道をも存知し、また法文等をも知
りたるらんと、心憎くおぼしめしておわしましてはんべらんは、大きなる誤りなり。 〜 親鸞
におきては、ただ(ひたすら・一重・専一に)念仏して、弥陀に助けられ参らすべしと、良き人
の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

 往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思とりて(ひたすら・一重
・専一に、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏)申す外には、別の子細候わず。但、三心四修と
申す事の候うは、皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に篭り候う也。此外に奥深
き事を存せば、二尊の憐れみに外れ、本願にもれ候うべし。

 念仏三昧は、 〜 父の王に謂いて曰わく、王いま座禅してただ(ひたすら・専一に)当に念
仏すべしと(行の巻)

 歎異抄は幾度も読んだことがある(>>104)とう。どうしたら極楽へ往生できるかって考えて
きましたという(>>64)。念仏を、ただ(いたずらに・虚しく・惰性で)口にとなえれば良いわ
けではないということも分かる(>>64)という。それでいて、「では何をするのか?」が分からな
い(>>64)という。

 298は、関東の弟子達が身命を顧みずに聞きに行った親鸞仏教の核心がわかってないと言う
ことだ。
234渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/14(木) 10:11:24 ID:Ytz7B5DK
 「善知識が、必要である」ということを、強く断定するという(>>188)。「善知識が、必要
である」ということを強く断定するのはいいが、それでは、この人はどんな善知識に会ってきた
というのか。善知識にあってこの人は、親鸞仏教の核心を教わらずに、一体、いままで何を聞い
てきている人なんだろうと思う。

 相手を見ずに、誰にでも話してゆくならば、真宗の正意はすたれてしまう(>>135)。しかし、
無宿善かどうかは、凡夫には判断できない(>>104)。そういいながら、同じ議論の続きの中で
は、あなたのように、信じない方が、「無宿善の機」なのです(>>104)。現状においては、無宿善
の機です(>>145)、と言ってくる。
 宿善か無宿善か、相手を見ることは大事なことで、凡夫にはそれはできないと言いながら、
「お前は無宿善だ」と判断してくる。
 宿善・無宿善の機を判断できる凡夫になったり、判断できない凡夫になったり、一瞬一瞬に変
わり身する。言っていることは無茶苦茶だ。

 相手を見ずに真宗の正意を廃らせるのは、まさに自分(298)であると告白しているような
ものでしょうね。298が出会ってきたと、298が胸を張っている善知識はどんな顔をしているのか
顔を見てみたい。

 往生極楽を巡る議論は、一応ここで終結したようだ。
235渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/14(木) 10:43:14 ID:Ytz7B5DK
誤 「無宿善の機」なのです(>> 104)。現状においては、無宿善の機です(>> 145)、と言ってくる。
正 「無宿善の機」なのです(>>145)。現状においては、無宿善の機です(>>146)、と言ってくる。

誤 顔を見てみたい。
正 顔を見てみたい。顔に何て書いてあるか。「私は無宿善の機です。ごめんなさい」なんてね。
                              (/≧◇≦\)アチャー!!
236渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/14(木) 10:44:52 ID:Ytz7B5DK
> 235は、>234の訂正です。
237神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 12:40:38 ID:BlZqFddw
>>182-186
歎異抄第2章で、
関東からわざわざ京都の親鸞聖人のところにまで、極楽往生の方法を聞きに来た人たちに対して、
ただ念仏して阿弥陀仏の本願に救われなさい、と法然上人から教えられたままを信じているだけで
その他のことも、深い理屈などもしらない、とおっしゃっています。
さらに、念仏が本当に浄土往生の業因になるのか、地獄に堕ちる業因となるのか、私には全く分からない、
とまで言われています。
自分の知恵で阿弥陀仏の教えを理解し、理屈で納得して信じているのではない、念仏しているのではない、
とおっしゃっておられるのではないでしょうか?

238↑ 続き:2008/02/14(木) 12:41:12 ID:BlZqFddw
そして、ではなぜ念仏の教えを信じているかというと、
念仏以外の行を一生懸命修行して覚りをひらくことができるなら、話が違うけれども、
浄土往生のために、どのような修行もできない私なのだから、
地獄へ堕ちることが決まっているようなものだ、
それなら、念仏して地獄へ落ちても後悔することはない、
そんな私だから、法然上人に教えられた通り念仏するだけだ、
とおっしゃっておられます。
つまり、自力ではとても浄土往生の行を積むことができない人間だという自覚があるから
阿弥陀仏におすがりするのだとおっしゃっておられるのではないでしょうか?
親鸞聖人が念仏の教えを信じられる根拠は、理屈を納得したということではないと思います。
239↑ 続き:2008/02/14(木) 12:41:43 ID:BlZqFddw
次に、
阿弥陀仏の本願が真実であるならば、釈尊の教えも本当であり、善導大師の教えも本当であり、
法然上人の教えも本当であり、私のお話しすることもウソではないと、
親鸞聖人自身の信心の真実性を証明されています。
ここでも、念仏の教えは人間の理屈で証明するものではないということが分かるのではないでしょうか?
240神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 12:50:52 ID:bowFvXIt
次第相承の善知識は驚くべき存在である!
信心を与えうる資格を阿弥陀(神)から賦与されているのだ。
しかし、決してその能力を悪用してはならない。
そして、自分が教祖になることも許されない。
故に、掟をまもって、ひっそりと法が守られ続けてきたのだ。
しかし表念仏が唯物論に堕落した現代、裏念仏の時代が到来することとなる!


241神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 13:12:40 ID:v4egdXoi
少し冷静になっていただきたいものです・・・
242神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 19:22:13 ID:mMnMwt60
>>228
秘密のたのみ方があるんですよね。
しかも誰が保持しているかも明らかにされていない、と。。
243神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 19:39:33 ID:mMnMwt60
で、その「秘密のたのみ方」でたのむと往生が定まると。
でもこれって「秘密のたのみ方」にたのんでることになるような気がするのですが・・・。
あと、カトリックの事効説みたいな感じですね。かなり通じるものがある。

244↑ 続き:2008/02/14(木) 22:46:11 ID:gGHGt1ta
>>228
> 阿弥陀如来をたのめばいいのですが、そのたのみ方が伝わっています。
> 口伝で伝わってきているので、その方を探さねばなりません。

あなたの宗教・教えにとって最も大切なことはこれですか?
あなたは口伝の伝承者を知っているのですか?
それともあなた自身が伝承者なのですか?
245298:2008/02/15(金) 01:51:23 ID:2J5n0q9k
>>244
教えにとって、「最も大切なこと」ということであれば、
南无阿彌陀佛だと思います。
伝承者は知っていますが、私は伝承者ではありません。
246298:2008/02/15(金) 01:53:58 ID:2J5n0q9k
>>243
「何をたのんでいるのか」という議論ですね。
まず、243様ご自身は、何をたのまれているのでしょうか?
これは結局、「信を獲られましたか?」という質問に似ています。
当流では、「たのむのは彌陀」と決まっていると思いますが、
243様ご自身が、どのようにしてたのまれたかが、大切だと思います。
「もう、弥陀をたのまれましたか? たのまれていませんか?」という
質問として考えていただいても、結構です。
あるいは、弥陀をたのんだかどうかは、わからないものなのでしょうか?
247298:2008/02/15(金) 01:58:38 ID:2J5n0q9k
なぜ、対話が有用かと言えば、言葉上、どちらの言い方もできることが、
多いからです。
ですから、単なる一方通行ではなくて、対話することが有用であり、
ただ読むよりも、掲示板は利点が多いと思いますし、
何よりも、対面して話せることが、一番なのだと思います。
一度聞いたことばに、こだわり過ぎるのではなくて、
「どういうことなのか」を感じて、つかんでゆかないと、
間違えてしまうと思います。
もともと、わかり切ることができないことを、なんとか説明しようとしているからです。
それでも、その意味(の一部)を感じることができる人がいるのだと思います。
248298:2008/02/15(金) 02:05:43 ID:2J5n0q9k
宿善の有無の凡夫からの判別について、整理したいと思います。
まず、宿善、無宿善の定義です。

宿善の機・・・今生にて、弥陀から信をいただく
無宿善の機・・・今生では、弥陀から信をいただくことができない

この意味において、凡夫には、判別することができません。
なぜなら、宿命通を得ていないからです。

宿善の機でも、開発前と、開発後(あるいは、開発中)にわかれます。

開発前の宿善の機・・・弥陀の法を求めない
開発されて(きて)いる宿善の機・・・弥陀の法を求める

そして、「開発前の宿善の機」と、先程書きました意味における「無宿善の機」を
合わせた、総称としての「無宿善の機」という言い方もあります。

この場合、「宿善の開発のはじまっている、宿善の機」を「宿善の機」と
お呼びします。

この意味に置ける宿善、無宿善は、凡夫にも、わかるようになっています。

無宿善の機は、弥陀の法を受け入れず、拒否致します。

宿善の機は、弥陀の法を求めます。その結果、次第相承の善知識に
遭い奉り、六字のいわれを聞き開き、弥陀をたのむことになるのです。

これは、わかりやすく、分かれます。
249298:2008/02/15(金) 02:06:45 ID:2J5n0q9k
以前のスレでも議論になりましたが、「求める」について、
説明します。

「求める」と言っても、意識的に自覚できるとは、限りません。

それでも、「求める」ことには、変わりありません。

これは、これまでの永い永い流転の中、弥陀のお育てによるものです。
250298:2008/02/15(金) 02:10:29 ID:2J5n0q9k
「弥陀をたのむ」という場合、実用上は、「どうやって?」ということが、
とても大切です。
ここをきちんとわからないで、どうやって、獲信すると言うのでしょうか?

一般にその方法と思われているものが、2つあると思います。

1)罪悪感を深める。自分で自分を責める。誰かに自分を責めてもらう。
自分がいかに悪機かをわかってゆくと、あるところで、心に転換が起き、
「弥陀は救ってくださっているではないか!」とよろこびが起こる、
のようなもの

2)聴聞を長く続けるうちに、「すでに弥陀は救って下さっている」という内容が
心に入ってゆき、それが一定量を超えたところで、自分の考え方が転換し、
そのように考えることになる

2)は、自ら望む洗脳のようなものだと思います。

この両者の方法論は、お聖教に合わないと私は考えていますけれども、
それは、ひとりひとりが考え、確認してゆくことだと思います。

私からすれば、1)も2)も、自力の信に過ぎません。いたずら事だと思います。
251298:2008/02/15(金) 02:13:12 ID:2J5n0q9k
そしてもうひとつ、「弥陀をたのんだつもりになる」というものがあります。

この一連のスレでは、この立場の方が多い様に思います。

>>250で言えば、2)に似ています。

(将来、2)のパターンに入ることを、望んでいるのかもしれません。)

このパターンの場合は、「弥陀をたのむ」という行為を、
自らの意業としています。

ただし、本人はそれに気付かずに、他力と思っています。
252298:2008/02/15(金) 02:16:37 ID:2J5n0q9k
そして、>>251に書いたようなことが、「言葉上は、どちらにでも言える」という内容と、
つながってきます。

なぜなら、実は凡夫は、「弥陀をたのんだつもりになる」ということしか、
できないからなのです。

そして、「そもそも、弥陀をたのんだつもりになることしかできないのであれば、
何でもいいじゃないか!」という議論にもなるかと思いますが、私はその立場を取りません。

この「つもり」の内容にも、いろいろあるからです。

結局は、「本人が安心しているなら、それで良い」ということになってしまうと
思います。

ですから、私は既に安心を獲ている方に対して、特に申し上げることはありません。

しかし、未安心で、どうやって信を獲たら良いかわからず、そして、信を獲る事を
求める方に対しては、「凡夫が生涯にただ一度の念仏で、
真実信心を彌陀からいただく方法がありますよ。その方法こそが、
南无阿彌陀佛ですよ」と繰り返し訴えているのです。

南无阿彌陀佛
253298:2008/02/15(金) 02:19:23 ID:2J5n0q9k
真宗の要は、「南无阿彌陀佛とは何か」「念仏とは何か」ということに、
集約されると思います。

私の考えでは、真宗念仏というものがあり、このお念仏は、他力であるが故に、
同一のものになります。

完全に同一のものであるからこそ、厳密に御同行であり、
同一の信心を獲ており、同一の報土に往生します。

これは、人間業ではできません。弥陀の早業になります。
254298:2008/02/15(金) 02:22:26 ID:2J5n0q9k
もともと、信じるのが難しい話、受け入れる方が少ないことは、
わかっています。
それでも、求める方にその存在を知ってほしいのは、
正信あることを知るとき、宿善の機の宿善開発は、加速するからです。
求める方には、必ずご縁が現れるいわれがありますから、
たとえば、この掲示板をきっかけにする方もいらっしゃるでしょうし、
この掲示板を見たことがなくても、知り合いの方から声をかけられるですとか、
道はいろいろあると思いますけれども、宿善の機には、必ずご縁が
現れるはずです。
255298:2008/02/15(金) 02:24:40 ID:2J5n0q9k
弥陀の救いを求めるのが宿善の機なのですから、
弥陀の救いを求める方は、自分に宿善があるかどうかを憂えず、
宿善あると信じて、求めてほしいと思います。
もし、宿善無いならば、途中で止めてしまう事でしょう。
宿善があるならば、一度、あるいは百度、途中で止めたとしても、
また求め始めるでしょう。
そうして、正法を探し、ついには辿り着き、
六字のいわれを聞き開き、意識的に求める過程を通ったからこそ、
よろこべることが、あると思います。
南无阿彌陀佛。感無量であると思います。
256298:2008/02/15(金) 02:31:42 ID:2J5n0q9k
たとえば、>>250の1)と2)の方法ですが、私には、どちらも
「凡夫直入の捷径」であるとは、思えません。
ただし、もちろんこれは、私の主観的な言語感覚に依存しており、
客観的なものではなく、証明もできません。

1)や2)の方法を、

「これこそが、凡夫にも実行可能な近道である」

「永劫の流転から比べたら、どれほど早いことでしょう」

のように解釈する事も、可能だと思うからです。

しかし、私の言語感覚では、「割符が合わないな」と思います。

私はそれを、「凡夫直入の捷径」とは感じません。

そして、1)も2)も、凡夫の知恵を問う方法になっています。
したがって、他力ではなく、自力であると私は感じます。
257298:2008/02/15(金) 02:35:40 ID:2J5n0q9k
>>237-239

私は、こちらに書いてあることに、ほとんど同意します。

しかし、結局大切なのは、

    「法然聖人の教えてくださった念仏」とは何か

ということです。

私は、親鸞聖人に質問に来たのは、獲信者の方々であったと思っています。

獲信者必ずしも、自力の信を堅固に抱いている訳ではありません。

しかし、信じようが、疑おうが、極楽往生治定は変わりません。
258298:2008/02/15(金) 02:40:16 ID:2J5n0q9k
口伝が批判されていますけれども、口伝だけでは無いのがポイントだと思います。

(公開されている)文書も残されています。

この両者は、セットです。

しかし、文書だけでは、好き勝手に解釈できます。

口伝だけでは、伝言ゲームの間違いの可能性もあります。

さらに、偽物の可能性もあります。

ですから、大切なことは、口伝が、文書を補うものであり、
両者は一致するように感じるということだと思います。

すなわち、口伝無くしてわからなかったことが、いろいろとわかるようになる。

このような体験が、その人に取り、信憑性を高め、後念相続を助けることになるでしょう。

獲信者が少ない大きい教団を批判する方もいらっしゃいますが、
広く公開されている場所に置いて、保たれている文書の存在は貴重です。

そうでなければ、偽物がはびこっても、凡夫にはわからないからです。

だからこそ、真偽を見抜く為に、お聖教が大切だと思います。
259298:2008/02/15(金) 02:51:05 ID:2J5n0q9k
幸いなことに、私たちは、 「法然聖人の教えてくださった念仏」であるならば、
比較的容易に、選択集を手に取ることができます。

ですけれども、ここでも、現代語訳ではなく、原典にあたることが大切であると、
私は思います。

私が以前、こちらの一連のスレで取り上げた内容としては、

◎それよりこのかた今日に至るまで、自行化他ただ念仏を縡とす。
しかるあひだ希に津を問ふものには、示すに西方の通津をもつてし、
たまたま行を尋ぬるものには、誨ふるに念仏の別行をもつてす(選択集後述)

この「念仏の別行」こそが、「法然聖人の教えてくださった念仏」であると
私は思っています。

まず、「津を問ふ」方が、既に「希」なのです。この方には、「通津」をもって
示します。

そして、さらに「たまたま」「行を」尋ねる方には、「念仏の別行」を教えます。

「誨」というのは、「知らない者に教える」という意味でしょう?

「希に」「問う」のでない方には、「念仏を縡」として説いています。

この部分は、誰にでもお話できる部分です。

このお話を聞いただけでは、示されていないことがあるから、
「誨」とおっしゃっているのだと、私は解します。

現代語訳をお持ちの方は、ここにあげた原典と比べてみてほしいです。
260298:2008/02/15(金) 02:54:17 ID:2J5n0q9k
私は、真宗を学問していませんので、たとえば私が>>259に書いたことが、
学者さんの説と同じなのか、違うのか、誰の説と同じなのか、違うのかも、
わかりません。

この解釈そのものは、口伝なのではなく、口伝を受けたことにより、
それまでわからなかったことが、「なるほど」と腑に落ちたことがいろいろとあるのですが、
そのひとつです。

選択集には、本願念仏について、きちんと書いてあります。

正雑も書いてありますし、五念門も書いてあります。

ありがたい書です。
261298:2008/02/15(金) 03:12:41 ID:2J5n0q9k
偽物と本物について書こうと思います。

このスレでも、渡海という方が、ひたすら私を偽物と書いています。

確かに、偽物なのかもしれません。

ですけれども、もちろん、自分としては、「これが本物なんだなあ」と感じて、
よろこんでいるわけです。

たとえば、ヴィトンのバッグの偽物があるとします。

偽物は、(ある程度)本物に似ています。

渡海様のような方は、ヴィトンのバッグに偽物があると聞いて、
本物を見たときも、「これは偽物だ! なぜなら、偽物に似ている!」と
騒いでいる方に似ています。

しかし、見る目のある方は、本物を本物と見抜き、
偽物と偽物と見抜きます。

もし、私が自分の信心を誤解しているとすれば、
本物としてプレゼントされた偽物を、ずっと本物と信じて大切にしている人に
相当するでしょう。
262渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/15(金) 10:51:05 ID:P7nLvbnG
>>261
>本物としてプレゼントされた偽物を、ずっと本物と信じて大切にしている人に相当するでしょう。

 この言葉は、298さんは何気なく出た言葉でしょうか。そのように真剣に感じて出た言葉でし
ょうか。僕は重みを感じます。

 298さんの言葉に、僕は一つの筋の通ったある種の芯棒を感じます。298さんの言葉に共鳴
する人は、7さんを始めとして、この2ちゃんねるにもたくさんいます。298さんのゆるぎない
言葉、自信に溢れた言葉に共感するのでしょう。僕も298さんには、ゆるぎない自信・確信があ
ると感じます。

 僕は、知り合いにクリスチャンがたくさんいます。その中には、精神的に非常に強固な芯棒が貫
いている人がいます。彼らは、往生極楽の道を求めているのでもなく、念仏を称えているわけでも
ありません。彼らは僕らとは別異の道、つまり、神を信じ、イエスキリストを信じ、聖書が預言し
ている神の栄光を地上に実現しようと、本気で考えています。だから彼らは芯棒が通っています。

 恐らくこの2ちゃんねるを見てくれている人の中に、芯棒と言えば渡海難にも貫いているものが
あると言ってくれる人はいると、僕は思っています。渡海難の芯棒は、聖書が預言している神の栄
光を地上に実現しようとする芯棒ではありません。往生極楽の道に立った芯棒です。
263渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/15(金) 10:52:00 ID:P7nLvbnG
 世の中には、芯棒の通ってない人もたくさんいます。芯棒が通っている人もいます。芯棒は、生
まれたときから備わっているということはありません。これは、後天的に備わってきます。渡海難
の芯棒は往生極楽の道から与えられた芯棒です。ただ(ひたすら・専一に・真剣に)念仏していく
往生極楽の道という芯棒です。

 298さんは、「どうしたら極楽へ往生できるかって考えてきました。念仏を、ただ(いたずら
に・虚しく・惰性で)口にとなえれば良いわけではないということも分かる。それでいて、では何
をするのかが分からない」といいます。往生極楽の道とは、「どうしたら極楽へ往生できるかって
考える」ことでもありませんから、298さんの芯棒は、往生極楽の道の芯棒とは、別異の所に立
っている芯棒です。京都まで十余か国の境を越えて、身命を顧みずして、訪ねて行った弟子達の芯
棒とも別異の所に立っています。

 往生極楽の道は、釈迦・善導・法然・親鸞の道です。往生極楽の道以外のところに立っている芯
棒もあります。これは、釈迦・善導・法然・親鸞の道ではありません。強靱なキリスト教信仰を持
っている人は、単に、往生極楽の道とは別異の信仰を持っています。

 渡海難の芯棒は、釈迦・善導・法然・親鸞の道と同じ道に立っています。298さんの芯棒は、
これとは別異の所に立っています。298さんの芯棒に、往生極楽の道という釈迦・善導・法然・
親鸞の光を当てれば、これは偽物ということになるでしょう。
 キリスト教に釈迦・善導・法然・親鸞の光を当てる人はいません。298さんの芯棒に価値観の
違う別異の宗教の光を当ててはいけないのでしょう。298さんの芯棒は、善知識から給わった、
別の世界の本物の芯棒であるというべきでしょう。
264渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/15(金) 10:58:45 ID:P7nLvbnG
 298さんの芯棒は、釈迦・善導・法然・親鸞の道と似ているという人もいるでしょう。通常、
偽物というのは一つ二つではありません。ヴィトンのバッグは一種類でも、偽物は多種多様です。
「298さんの芯棒は偽物だ! なぜなら偽物に似ている」。こう騒ぐことは誤りであることを、
ここ一日、二日で知りました。
 298さんの芯棒は、釈迦・善導・法然・親鸞の道とは似て非なる立派な秘事法門の信仰なので
しょう。信仰の自由は誰にでもあります。秘事法門は間違った教えであるという人は、現代にはい
ないでしょう。秘事法門はもともと秘密主義ですから、その内容は多種多様、298さんの考えの
奥底などは分かりません。僕は秘事法門の教えなどに興味などありません。

 親鸞さんの在世中、関東では多くの人が善鸞さんの教えに従っていきました。善鸞さんの教えは、
往生極楽の道とは異なったところで、非常に芯棒の通った自信に溢れた教えだったのでしょう。2
98さんの教えのように、非常に素晴らしい教えだったんだろうと思います。善鸞さんが現代に生
きていれば、恐らく多くの人が善鸞さんに従っていくでしょう。しかし、僕は親鸞さんの亡き後で
も親鸞さんに従っていきたいと思っています。
265神も仏も名無しさん:2008/02/15(金) 13:11:17 ID:yvHM8uUO
298さんへ

獲信する為には、必ず次第相承の善知識から口伝を受ける必要がある、とのことですが、
善導から法然に相承されたように、
その次第相承の善知識は、必ずしも人間では無くとも、この世ならざるもの(霊、浄土の諸菩薩)からの口伝でも獲信できるのでしょうか?
266神も仏も名無しさん:2008/02/15(金) 13:39:42 ID:yvHM8uUO
298さんへ

蓮如以降は、次第相承の善知識が、民衆の中から選ばれたということですが、
蓮如の子孫である東西本願寺の門主には、どの代頃から、次第相承の善知識が途絶えてしまったとお考えですか?
想像でいいので、教えてください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E6%B0%8F
267神も仏も名無しさん:2008/02/15(金) 19:00:26 ID:apJ3ifGT
>>228
> たのみ方が伝わっています。
> 口伝で伝わってきているので、その方を探さねばなりません。

>>245
> 伝承者は知っていますが、

しつこいですが、あなたの立場は、歎異抄第2章で親鸞聖人が言われる
南都北嶺のゆゆしき学生などの立場だと思います。

「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、
 よきひと(源空)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」
親鸞聖人は明確におっしゃっておられるではありませんか。

あなたは、親鸞聖人が特別な口伝を知らなかったと思われますか?
それとも、関東から命がけで教えを請いに来ている弟子に、
自分が知っている奥義を隠して教えないそういう人だと思っていらっしゃるのですか?
歎異抄は、親鸞聖人の語録集という性格もあります。
唯円は、親鸞聖人の口伝を書き忘れたのでしょうか?

いろいろ勉強なさっておられることはよくわかりますが、
「口伝」にこだわるところに失礼ですが、カルトの匂いを感じます。
268神も仏も名無しさん:2008/02/15(金) 19:11:56 ID:83D6gUDD
渡海難って無職なの?
269神も仏も名無しさん:2008/02/15(金) 20:56:54 ID:MmJPrldk
まあ、ー般的な浄土真宗と298さんの浄土真宗は違うということだったね。
270神も仏も名無しさん:2008/02/15(金) 21:06:11 ID:Uz+Qg1l2
弥陀に助けられようと念仏するのですが、その念仏の仕方を善知識に教わります。
老少にかかわりなく十人が十人、百人が百人、たのめば救われる念仏ですので
そんなややこしいものではありません。易行です。
信心獲得したからといって超人になるとか不思議な力が備わるとかいったことは一切ありません。
あまりに簡単なもので、もしも
「もっと難しい秘伝があるぞ」
などと信頼する人から言われれば動揺するかもしれません。
心配になって詳しい話を聞きにいきたくなります。

298さんのお話がすべて判るわたしは、たぶん同じ信心をいただいているのだろうと思います。
「よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」
なんら矛盾を感じていないのですが、わたしは異安心でしょうか。
わたし自身はそうは思っていません。
アタマも悪く勉強もしていないので298さんのように詳しくお話することはできません。
はっきり言って教行信証はわたしには読めません。しかし、御文様は読めます。
読むほどに良く理解できるような気がします。
ひとりよがりと言われるかもしれませんが、信心をいただいているからこそだと思います。
弥陀の本願を信ずることは尊いことです。しかし、それだけでは往生できません。
弥陀に帰命して南無阿弥陀仏の体とならねばなりません。
蓮如さまも口をすっぱくしておっしゃっておられると思うのですが。

のちの代の しるしのために かきおきし のりのことの葉 かたみともなれ

こうおっしゃってくださっていますので、御文様とちがう信心であると気づいたときは
わたしはこのご信心をいつでも捨てます。それが正しいありかたなのだと思います。
しかし、どう考えてもいまのところは、御文様と同じだなあ、と思うばかりです。

突然に失礼しました。
またロムに戻ります。
271神も仏も名無しさん:2008/02/15(金) 21:07:28 ID:MmJPrldk
>>181-183のやりとりについて一つだけ申し上げたい。

>いずれは皆、弥陀の本願によって救われると思いますけれども、
>今生にて真実信心いただく方は、今生にて、弥陀をたのんだ方であると
>私は考えています。
これは同意します。ただ秘密の善知識による特別なたのみ方によって
たのむことが唯一の「弥陀をたのむ」にあたるということについては
まったく同意できませんが。。
272298:2008/02/15(金) 21:09:52 ID:2J5n0q9k
>>267
>いろいろ勉強なさっておられることはよくわかりますが、
>「口伝」にこだわるところに失礼ですが、カルトの匂いを感じます。

カルトの匂いを感じるかどうかは、267様の感性ですから、
私には、いかんともしがたいことです。
どのように感じるかは、ひとりひとりの自由だと思いますし、
あくまでも、感性の領域ですから・・・

現代の日本の状況としては、強い信仰を持つ集団がいれば、
それだけで、「カルト」と感じる方もいるようでし、
強い信仰を持っている個人がいれば、「狂信者」のようにも、
見えるようです。

宗教に距離を置いて生きるのが、
生活の知恵にもなっているようにも感じられます。

それも、もちろん、その方の選択した生き方です。

だからこそ、信仰は内心に秘め、王法を優先し、仁義を優先することが
推奨されているのだと思います。

私はあくまでも、ここでは、信心獲得にこだわる方のために書いています。

話は戻りますが、267様は、「口伝にこだわる」ことを、
カルトの十分条件と感じられている、ということなのでしょうか?

真宗のお聖教では、口伝の大切さは、繰り返し説かれていることです。

もちろん、何をカルトと感じるかは、各自の感性に任されていると思います。
273298:2008/02/15(金) 21:17:25 ID:2J5n0q9k
>>267
>「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、
>よきひと(源空)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」
>親鸞聖人は明確におっしゃっておられるではありませんか。

解釈は、ひとそれぞれです。

私は、「よきひとの【仰せ】」とは、口伝であると解しています。

そして、親鸞聖人は、「かぶりて」いるのですから、
その口伝を受けているのだと思います。

>あなたは、親鸞聖人が特別な口伝を知らなかったと思われますか?

もちろん知っていたと思います。
だからこそ、他力の信心を獲得することができたのだと思っています。

>それとも、関東から命がけで教えを請いに来ている弟子に、
>自分が知っている奥義を隠して教えないそういう人だと思っていらっしゃるのですか?

私は、関東のお弟子さんは、既に、「念仏の教えを授かっている」と解しています。
その「念仏の教え」以外の「教え」があるのかを、尋ねに来ていると解します。

つまり、親鸞聖人は、既に「奥義」=「六字の教え」を授けており、
「それ以外の教えは要らない」ことを伝えたのだと解しています。

信後も、きちんと後念相続をしなければ、自力の信は揺れ動きます。
歎異抄は、信後の話が多く書いてある書です。
274神も仏も名無しさん:2008/02/15(金) 21:21:56 ID:MmJPrldk
>>273
「信後も、きちんと後念相続をしなければ、自力の信は揺れ動きます。」
これは書き間違いではありませんか?
275神も仏も名無しさん:2008/02/15(金) 21:22:53 ID:MmJPrldk
間違いでないのなら無視してくださって結構です。
276神も仏も名無しさん:2008/02/15(金) 21:25:59 ID:Sp3a1bRb
おじゃまします。渡海さんの芯棒は散善自力の念仏でしょう。

あなたみたいな人は真門がなにかわからんでしょうが.あなたのいいたい事はわかったから

ここにこないで下さい。298氏と渡海氏のどちらが釈迦.七高僧.親鸞.蓮如一流の流れを理解

しているのかは、298氏のほうが信憑性があるといわざるを得ませんが。

説明するのもあほくせェわ、だいたいこんなとこでなにを言ったところで得るものなんか

ないやろ、298氏の真実を伝えねばの思いはわかるが、こんなとこで表すのはどうかと思う

よ、仏さんはみんな見とるよ、もしかしたらあきれとるかもしれんよ。余計なことはするなとね

この掲示板をみて一人でもと思っているのでしょうけど、そりゃ筋違いやわ、聞くひとは聞くんやから

こんなことせんと自分で出来る範囲でいいから人を勧化すべきだと思うよ、こんな掲示板で表すのは

ちょっとやりすぎじゃないの?以上一人言でした。失礼しました。
277298:2008/02/15(金) 21:33:07 ID:2J5n0q9k
>>273
今でこそ、意識・無意識ということが一般常識になってきていますが、
昔は、そうでなかったために、一般向けの用語法だと、
意識的なこと(自分で意識できる部分)、無意識的なこと(意識できない部分)の
両方に同じ用語が使われることが多いですから、
わかりにくくなると思います。

(宿善、無宿善の議論や、求めるかどうかについても、この問題がかかわっていると
思います。)

他力信をいただいた場合、他力の信心そのものは、他力の信心自体が
相続してゆきますので、意識的に相続しようとする必要はありません。

凡夫が根源無明について、瞑想しようが修行しようが、何もできないのと同じ様に、
真実信心についても、何もできません。

ですから、いただいた信心を落とすことはできないのです。

一方、他力信いただいた後でも、自力の信は、どうとでも揺れ動きます。

それでも、(意識的な)後念相続をすることにより、
自力の心が晴れ渡ったり、よろこびが出てきたり、
「本当にありがたい南无阿彌陀佛だ」と納得したり、
うれしくなったりします。

(参考)
◎また深心の深信とは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、
永く疑錯を除きて、一切の別解・別行・異学・異見・異執のために退失傾動せられざるなりと。

「教に順じて修行し、永く疑錯を除き」が「自力の信を育てる」ことに対応します。
「自心を建立」は、「存じ」であると解しています。
278298:2008/02/15(金) 21:45:23 ID:2J5n0q9k
>>276
掟の存在を考えたときに、ご立腹なさる方がいらっしゃることも、わかります。
しかし私は、蓮師はひとりでも多くの方に、御文様を読んでほしかっただろうと思います。
私は、「この掲示板」ということで、2chを低く見たりはしていません。
弥陀も、どのような生命のことも、低く見るはずは無いと思います。
以前もお書きしましたが、1万人相手に話すのも同じ、一人相手に話すのも同じです。
高貴な方向けに話すのも、2chで話すのも同じです。
宿善ある機のみが聞ける話にとどまらず、
無宿善の機でも聞けるはずの話ですら、
耳に入らなくなってきている昨今だと思います。
私のやっていることを、「やりすぎ」と感じる方は、今後増えると思います。
おそらく、蓮師も「やりすぎ」と思われてしまっていたのだと思います。
弥陀の真実の名号が今に伝わることを、明らかにしてゆくために、
この2chだけにとどまらず、目の前のことをひとつずつ進め、
多くの方に、弥陀に救われていただかねばならないと私は考えています。
279298:2008/02/15(金) 21:52:51 ID:2J5n0q9k
>>265
>その次第相承の善知識は、必ずしも人間では無くとも、
>この世ならざるもの(霊、浄土の諸菩薩)からの口伝でも獲信できるのでしょうか?

口伝を受けるだけではなく、弥陀をたのむことが必要であると思います。

>蓮如の子孫である東西本願寺の門主には、どの代頃から、
>次第相承の善知識が途絶えてしまったとお考えですか?

まず、途絶えてしまったのかどうか、私は知らないのです。
御発言を追いかけて行けば、推測することはできるだろうと思いますが、
あまりそのようなことに興味がありません。

仮に、途絶えてしまったとしても、弥陀は見ていますから、
必要なときに、次第を相承されている方が門主にご就任なさるはずだと思います。

もちろん、相承が続いている可能性も高いのだろうと思います。

私のような身が、確認できるわけもございませんので、
私の身の丈を超えたご質問であると思います。申し訳ありません。
280298:2008/02/15(金) 22:16:39 ID:2J5n0q9k
相承が行われている異安心も多いことは、
既に、各種の調査によって、明らかになっていると思います。
私は、落とす信心を説いているところが、
真実信心をいただける場所だとは考えていません。
「落とす信心」というのは、第十八願の「唯除」を、
信後の条件とする解釈です。
この場合、弥陀から信をいただいても、
正法を誹謗したり、五逆を行うと、弥陀の約束の
除外条件に該当し、極楽に往生できなくなるという説です。
この教義は、信をいただいているはずなのに、
ビクビク生きる信徒を生み出します。

私は、そのようには考えません。
弥陀をたのんだ衆生は、極楽往生治定であり、
何があろうとも、何をしようとも、必ず極楽に往生致します。

もし、そのような「落とす信心」をいただいている方は、
さらに探し、早く本当の、弥陀の真実信心をいただいてほしいと願っています。

南无阿彌陀佛
281298:2008/02/15(金) 22:25:03 ID:2J5n0q9k
異安心は、他にもあります。

信心いただくときに、「必ず肉眼で光明が見えなければならない」とする光明秘事。
目の見えない方が、救われません。

弥陀をおがまず、善知識を拝む秘事。
善知識が、弥陀の化身だから、善知識を弥陀として拝むそうです。
次第相承の善知識は、あくまでも凡夫であって、釈尊とは違うと思います。

弥陀をたのまない秘事。
「十八願は、もう古い」という秘事だそうです。

来迎の秘事。
信心いただくときに、来迎が見えなければならないとします。
臨終時の来迎ではなく、信をいただく際の来迎だと言うことです。

名称は、わかりやすくするために、ここで適当につけました。
他にも、いろいろあるようです。

私が考える真宗最大の奇瑞とは、
凡夫が真実信心いただいて、ついには佛になることです。

ですけれども、何かが見えるわけでもないので(見える方もいらっしゃるようですが、
思い込みかもしれませんし、見えない方も多いのです)、
外部の方からすれば、それこそ、「はだかの王様」のように感じる内容なのかもしれません。

「真実信心いただいたって、勘違いしているだけじゃないの?」のように。

それでも、真実信心いただいたと思えるから、不思議です。
だからこそ、不思議なのだと思います。
282298:2008/02/15(金) 22:31:00 ID:2J5n0q9k
私が否定しているもの。

信をいただかずに、他を導こうとする、自障障他。

真実信心いただいたはずなのに、落とす信心と説き伏せて、信徒を脅す団体。

弥陀の代官たる善知識は、今の地上にただひとりと説く善知識。

次第相承を否定して、弥陀から直通で次第を受け取ったと主張する善知識。
283神も仏も名無しさん:2008/02/15(金) 22:31:06 ID:teg3MDsd
>今でこそ、意識・無意識ということが一般常識になってきていますが

で思い出したけどこんな本あるね


神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡
http://www.amazon.co.jp/dp/4314009780

上記の本を紹介しているブログ
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003679.html
http://ponta.moe-nifty.com/blog/2005/09/post_7c3f.html
2847:2008/02/15(金) 22:39:02 ID:2WO8pcbq
>>276様 お怒りのご様子ですが、自分のようなものは、この掲示板なしには一歩も前へ進めなかったことでしょう。

ここに書き込まれる皆様に感謝しております。何卒よろしくお願い申し上げます。
285298:2008/02/15(金) 22:52:18 ID:2J5n0q9k
>>283
おもしろそうな本ですね、さっそく注文致しました。

>>284
私も、かなりいろいろと書いてますので・・・
広い心で見守ってくれる方がいらっしゃることは、とてもうれしいことです。

私の存在を邪魔に思う方は、今後ますます増えるでしょうけれども、
準備をつづけ、現代語にて、往生要集や、選択集、歎異抄、御文などの
解説書も出そうと考えているのです。

ただし、これはしばらく後になる予定です。

なぜ、後になるのかと言えば、現代の日本において、
宗教に対する偏見があるからです。
286神も仏も名無しさん:2008/02/15(金) 23:57:23 ID:apJ3ifGT
>>278
> 掟の存在を考えたときに、

掟とは、誰が何に対して定めた、どういう掟ですか?
287神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 00:01:38 ID:apJ3ifGT
>>270
> 弥陀の本願を信ずることは尊いことです。しかし、それだけでは往生できません。

どこの誰の教えですか?
288神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 00:20:24 ID:4BzjOiQ0
>>271
言葉の問題化と思いますが、
単に「弥陀をたのむ」というと、私から弥陀に向けての能動的な働きのように思います。
しかし、信心すら「如来よりたまわりたる信心」。
そして、自力ではとても浄土往生の行を積むことができない人間だという悪人の自覚により
「如来をたのむ」ということが成り立つのだと思います。

ところが 298氏は、
秘密の善知識による特別なたのみ方によってたのむことが唯一の「弥陀をたのむ」
と言います。
これは、私の側からの能動的な働きかけであって、
それは自力の行為だと私は受け取りました。

「弥陀をたのむ」という言葉で表現してもその内容は違いと思います。
289神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 00:45:56 ID:mWD4zg1n
>>298さま
信心について厳しく問いかけてくださるお言葉、尊く読ませて頂きました。
前スレをずっと読んできて、私の善知識から聞かされているお話とまったく同じなので、
驚き、感動し、頼もしくなりました。
私は信前で、どれだけ聞いてもはからわずにいられないのですが、
獲信のときが必ずあることを信じて、進ませて頂きたいと思います。
ありがとうございます。

他のいろいろな宗教も求めてみましたが、よくよく考えてみると、どうも他ではしっくりきません。
真宗で説かれている姿こそが、たしかに人間の姿と思えるのです。
ただ、それが「自分だ」とは思えません。思うのが辛いのです。
どうかお導きください。南無阿弥陀仏。

…けれど、こうしてありがたく思う心もすぐに味気なく、なんの感動もない心になってしまいます。
よくよく、どうしようもないなあと感じます。
どうにもこうにも…ただ、この計らいさえ捨てられれば、と思います。
290298:2008/02/16(土) 01:18:56 ID:M9lBbluO
>>289
信心いただいても、相続しなければ、疑いの心もでてきますし、
よろこびの心も薄れます。

(参考 歎異抄 第九条)

自力のはからいは、自分では捨てられません。

そこには、弥陀のはたらきが必要なのです。

ただの一度で真実信心いただける、真宗念仏のその最中に、
自力の心をふりすてることができることでしょう。

その後は、また自力の心にふりまわされる生活が待っていますが、
今度は、真実信心いただいているところが違います。

それでも、その「違い」も、相続しなければ、わからなくなってしまいます。

苦しい出来事に直面しても、疑いが出て来るだろうと思います。

真実信心いただいても、疑ったり、はからったり、
私たちは、そんな凡夫だと思います。

でも、そんな凡夫でも救われるのが真宗です。

本当に、ありがたいと思っています。

はからいの心は、自分では捨てられませんから、捨てられなくて大丈夫ですよ。
291298:2008/02/16(土) 01:21:11 ID:M9lBbluO
>>288
「弥陀をたのむ」のを、どの瞬間まで適用するか、ということだと思います。

以前のスレにも書きましたが、私の書いている南无阿彌陀佛は、

    自力にはじまり、他力があり、自力でおわります

自力ではじめることができないなら、どうすれば良いのでしょうか?

ここに、混乱があると思います。

「他力」という用語がひとり歩きしていると、私は思います。

そういうところから、無帰命安心も出てきているのではないかと思います。
292298:2008/02/16(土) 01:25:56 ID:M9lBbluO
>>286
>掟とは、誰が何に対して定めた、どういう掟ですか?

定めたのでは蓮師では無いと考えますが、御文様に、わかりやすく出て参ります。

◎無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、
かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、
手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、
もつてのほかの当流の掟にあひそむけり(御文3-12)

(参考 >>38
293298:2008/02/16(土) 01:29:21 ID:M9lBbluO
>>287
>> 弥陀の本願を信ずることは尊いことです。しかし、それだけでは往生できません。
>どこの誰の教えですか?

私の文章ではありませんが、ロムの方ということですので、コメントします。

私は、>>270に書いている「信ずる」というのは、自力の信を指していると思います。

自力の信をいくら高めても、他力信心なければ、いたずら事であると思います。

おそらく、287様は、自力の信心と、他力の信心を混同なさっているのではないでしょうか。
294298:2008/02/16(土) 01:32:11 ID:M9lBbluO
>>289
>ただ、それが「自分だ」とは思えません。思うのが辛いのです。

これは、まだ信前だからだと思います。

信前には、他力の信心がありません。

心のすみからすみまで、全てが自力の心です。

ですから、そんな自分が凡夫だとすれば、
暗くもなってしまうでしょう。

しかし、信後の方は、弥陀の他力信心をいただいています。

ですから、自分の心がどうあろうと、弥陀は真実なのですから、
弥陀からいただいた金剛の信心は尊いのです。

安心して、自分が凡夫だと認められます。

自分の中には、弥陀の清浄心があり、この清浄心の功徳にて、
極楽往生治定だからです。
295298:2008/02/16(土) 01:48:04 ID:M9lBbluO
すみからすみまで自力の心で、やることなすことすべてが自力の私たちです。
一体、どうしたら良いのでしょうか。
他力念仏、非行の行、行者の為す善ではなく、弥陀からいただく無上善。
これしか無いと、私は思います。
296298:2008/02/16(土) 01:53:30 ID:M9lBbluO
>>288
>自力ではとても浄土往生の行を積むことができない人間だという悪人の自覚により
>「如来をたのむ」ということが成り立つのだと思います。

多くの場合は、「もう自力ではどうにもならない」という気持ちから、
その諦めにもよおされて、弥陀をたのむことになるだろうと思います。

しかし、全員ではありません。

悪人の自覚が必要だとすれば、凡夫が全員救われません。

「オレっていい奴だよな」って思っている方も、弥陀をたのめば、例外無く救われます。

「善人なほもつて往生をとぐ」傲慢な善人でも、ほがらかな善人でも、
弥陀をたのめば、救われます。

本願に、偽り無き故に。
297298:2008/02/16(土) 01:56:18 ID:M9lBbluO
>>288
>自力ではとても浄土往生の行を積むことができない人間だという悪人の自覚により

たとえば、このような書き方であるならば、

「『悪人の自覚』とは、自力の意業ですよね?」

という批判が成り立つと思います。

また、以前の方の真似をして批判するならば、「『悪人の自覚』をたよりにしてはいませんか?」
ということになると思います。

凡夫の行為は、どこまで行っても自力です。

あくまでも、弥陀に救ってもらわなければならないと思います。
298298:2008/02/16(土) 03:21:42 ID:M9lBbluO
>>228
「秘密」と言ってもいいのですが、語弊もある気がします。
「昔から伝わってきている」という感じだと思います。
求める方は、皆、聞くことができるわけですから。

「秘密のたのみ方」と、「昔から伝わってきているたのみ方」では、
大分ニュアンスが違う気がします。

もちろん、「昔から伝わってきている」というだけで、
正統性があるとは限りませんから、お聖教が大切だと思います。
299298:2008/02/16(土) 03:23:51 ID:M9lBbluO
>>298 >>228は、>>242の間違いでした。

>>243
>でもこれって「秘密のたのみ方」にたのんでることになるような気がするのですが・・・。

あくまでも他力ですから、少し違うと私は思います。
どこが違うのか、なぜ違うのか、御同行とであれば、
語り合うことができると思います。
300298:2008/02/16(土) 03:30:09 ID:M9lBbluO
>>267
>唯円は、親鸞聖人の口伝を書き忘れたのでしょうか?

「書き忘れた」のではなくて、書いて良いことと、書いてはいけないことが
あるのだと理解しています。
301298:2008/02/16(土) 03:50:24 ID:M9lBbluO
真実信心いただいても、獲信しても、凡夫であることに、
変わりはありません。

妬んだり、怒ったり、恨んだり、イライラしたり、
本当に、ごく当たり前の凡夫です。

弥陀の信心をいただいていることが尊いだけであって、
どこまでも、自分は卑しい凡夫です。

南无阿彌陀佛
302298:2008/02/16(土) 04:10:56 ID:M9lBbluO
森ひなさんの歌です。

◎だれのおかげで、このみになれた、
  ごかいさんさま、れんによさま、
   しだいしょうじようのぜんちしき。
    ごおん、とうとい、なむあみだぶつ。
303神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 04:18:04 ID:mWD4zg1n
>>298さま
ありがとうございます。

>ですから、自分の心がどうあろうと、弥陀は真実なのですから、
>弥陀からいただいた金剛の信心は尊いのです。

>安心して、自分が凡夫だと認められます。

なんと申しましょうか、理屈ではなるほど凡夫だなあと思うこともあります。
ただ、本当にそうだと認める(見る)ことは、目の前が断崖絶壁とわかって
いながら足を踏み出すような怖さです。

一方で信心を獲た方のお話を聞くにつけ、そんな安心や感謝の心持は自分にはないなぁと、
情けなく寂しくなります。
このままでは苦しいばかりだ、と思って一生懸命、聞かせて頂こうとするのですが
光が見えないのに断崖絶壁に飛び出す恐怖…到底、足を進めることができません。
できないではすまない、と思ってはいるのですが。

>自力にはじまり、他力があり、自力でおわります

とのお言葉がありましたが、もう少し詳しく教えていただけますか?
獲信ののちは、自力の信心はいっさいなくなるのではないのでしょうか?

つまり、「どうしたら、助けていただけるだろう、こうだろうか、ああだろうか」
「こんな有様では、助けていただけないのではないか」と計らう心のことなのですが。

よく、「たのむ機」までもが既に、南無阿弥陀仏の御六字のなかに入っている、
という風にお聞きします。
そこのところは、どのように受け止めさせていただけばよろしいでしょうか?
304298:2008/02/16(土) 04:34:36 ID:M9lBbluO
>>303

悩まれていますね。
次第相承の善知識から教わることができれば、>>303にての
疑問はすべて解決することと思います。

>よく、「たのむ機」までもが既に、南無阿弥陀仏の御六字のなかに入っている、
>という風にお聞きします。
>そこのところは、どのように受け止めさせていただけばよろしいでしょうか?

これは、私の信心と同じです。

そして、信前の方は、受け止めかたについて、悩む必要もありません。

信前の方は、「なるほど、そうなのか」と軽く聞いておいて、
信をいただいた後に「なるほど!」と納得すれば良いことだと思います。

これは、私が前スレにてお書きしましたチェックリストと同じです。

あの内容も、信前に悩む必要は有りません。真実信心いただいた後に、わかれば良いのです。
305298:2008/02/16(土) 04:38:09 ID:M9lBbluO
>>303

>>自力にはじまり、他力があり、自力でおわります
>とのお言葉がありましたが、もう少し詳しく教えていただけますか?
>獲信ののちは、自力の信心はいっさいなくなるのではないのでしょうか?
>つまり、「どうしたら、助けていただけるだろう、こうだろうか、ああだろうか」
>「こんな有様では、助けていただけないのではないか」と計らう心のことなのですが。

自力の信心は、無くなりませんし、むしろ、多くの方は、
自力の信も求めてゆくだろうと思いますけれども、

>「どうしたら、助けていただけるだろう、こうだろうか、ああだろうか」
>「こんな有様では、助けていただけないのではないか」と計らう心

これは、一気に無くなるだろうと思います。

ただし、ゼロになるわけではありません。自力の疑いの心も、残るからです。

それでも、

◎しかるにこの光明の縁にもよほされて、
宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。
これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とは
やがてあらはにしられたり。かるがゆゑに、行者のおこすところの信心にあらず、
弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり(御文2-13)

ということは、わかると思います。
306298:2008/02/16(土) 04:41:52 ID:M9lBbluO
>>303
>「どうしたら、助けていただけるだろう、こうだろうか、ああだろうか」

その方法は、次第相承の善知識にお会いして、宿善開発し、
聞き開かねばならないのです。


>「こんな有様では、助けていただけないのではないか」

心から、法に頭が下がる方であれば、大丈夫です。
弥陀は、信前の機を問いません。
その身、その心のままで、お救いくださいます。
問われるのは、唯一、宿善だけです。

宿善開発の機は、必ず善知識に遭うご縁を得ます。

そして、宿善開発の機は、次第相承の善知識より、六字のいわれを聞き開きます。

そして、宿善開発の機は、一心にて弥陀をたのみ、一念に至る念仏により、
弥陀の真実信心をいただき、信心獲得、極楽往生治定するのです。

南无阿彌陀佛
307298:2008/02/16(土) 04:46:51 ID:M9lBbluO
>>303
>光が見えないのに断崖絶壁に飛び出す恐怖…到底、足を進めることができません。
>できないではすまない、と思ってはいるのですが。

真実信心いただく前、大抵の方は、すごく恐くなるようです。
ですので、「信前相続」とも呼ばれるプロセスもあり、
疑心を解いて参ります。

私がこの一連のスレにおいて行っていることは、
信前相続そのものです。

本当に易行であるのですが、凡夫が弥陀をたのむには、
事実上、第十九願、第二十願が大切になるのです。

できなくて良いですから、良き事を心がけ、口に南无阿彌陀佛を唱えてください。


>なんと申しましょうか、理屈ではなるほど凡夫だなあと思うこともあります。
>ただ、本当にそうだと認める(見る)ことは、目の前が断崖絶壁とわかって
>いながら足を踏み出すような怖さです。

これは、他力信心をいただいていないのですから、仕方が無いと思います。
他力信心をいただく前に、あまり自己否定をしてしまうと、
人格形成上も、良くないのではないかと思います。

>一方で信心を獲た方のお話を聞くにつけ、そんな安心や感謝の心持は自分にはないなぁと、
>情けなく寂しくなります。

安心や感謝の心持ちは、真実信心いただいてから、後念相続にて、
育ててゆけば良いことだと思います。

当流では、信心為先なのですから、まずは弥陀の真実信心をいただいてください。
308298:2008/02/16(土) 04:49:14 ID:M9lBbluO
>>303
>本当にそうだと認める(見る)

自分で「見て」も、いたずら事ですよ。

あくまでも、弥陀から信心をいただかねばなりません。

その上で、極楽往生治定した上で機を見て行けば、
暗い気持ちになることもなく、いかに自分がひどい存在か、
よくわかるようになるのです。
309298:2008/02/16(土) 04:52:49 ID:M9lBbluO
>>303
>このままでは苦しいばかりだ、と思って一生懸命、聞かせて頂こうとするのですが

次第相承の善知識様に、よくお頼みすることだと思います。
(これは、「弥陀をたのむ」とは違います。)

本気だと思っていただければ、宿善の機のみが聞ける話が聞けるはずです。

もし、「そのような話は無い」ということでしたら、
私たちの信心とは、違います。
310298:2008/02/16(土) 05:07:17 ID:M9lBbluO
森ひなさんシリーズ

◎たりき、たりきとおもうてゐたが、
  おもうたこころが、みなじりき。
   じごくきらひの、ごくらくのぞみ、
    のぞむこころも、みなじりき。
311神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 05:30:17 ID:mWD4zg1n
>>298さま
いろいろと、誠にありがとうございます。
私の善知識から、よくよく聞かせて頂こうと思います。

>他力信心をいただく前に、あまり自己否定をしてしまうと、
>人格形成上も、良くないのではないかと思います。

自己否定は良くないことですし、するつもりはありません。
益のないことですから。
ただ、自然な自分の心の働きを、仏鏡に照らすと…ということなんです。
あまりうまく書けず、申し訳ありません。

もうひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?

>ただし、ゼロになるわけではありません。自力の疑いの心も、残るからです。

これは、煩悩ということでしょうか?
それとも、疑情ということでしょうか?


>本気だと思っていただければ、宿善の機のみが聞ける話が聞けるはずです。

そうですね…「宿善の機のみが聞ける話」というのがあるとは、善知識からも、
獲信された方からも、お聞きしたことはありません。
ただ善知識がお話くださる、いつもと同じお話を、
阿弥陀様から真実信心いただけるまで、ただひたすらに聴聞させて頂くばかりです。

もし「宿善の機のみが聞ける話」があるとしたら、こちらのこころもちがそのように
(宿善の機)になっていれば、同じお話でも、素直に聞き開かせて頂くことができる、
ということなのではないでしょうか?
百人を前に同じお話をして頂いても、百通りの聴き方がありますから。
312298:2008/02/16(土) 05:34:25 ID:M9lBbluO
>>311
>これは、煩悩ということでしょうか?
>それとも、疑情ということでしょうか?

疑煩悩です。
我らを流転させている根本原因である、
根源無明は、きれいさっぱり、跡形も無くなります。

>もし「宿善の機のみが聞ける話」があるとしたら、こちらのこころもちがそのように
>(宿善の機)になっていれば、同じお話でも、素直に聞き開かせて頂くことができる、
>ということなのではないでしょうか?
>百人を前に同じお話をして頂いても、百通りの聴き方がありますから。

ID:mWD4zg1n様がお話をお聞きしているところが、
どうなのかはわかりませんが、少なくとも、私は、そのような意味では書いていません。

もちろん、「百人を前に同じお話をして頂いても、百通りの聴き方があ(る)」のは、
その通りであると思います。

>ただ善知識がお話くださる、いつもと同じお話を、
>阿弥陀様から真実信心いただけるまで、ただひたすらに聴聞させて頂くばかり

にも、異論は、ありません。

それでも、私が書いているのは、次の様なことです。(つづく)
313神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 05:35:31 ID:mWD4zg1n
時間も時間ですので、これで休ませていただきます。
皆様、拙い書き込みで、お目汚し申し訳ありませんでした。
また、南無阿弥陀仏のお話をさせて頂ければ幸いです。
314298:2008/02/16(土) 05:41:42 ID:M9lBbluO
>>311
「ただ善知識がお話くださる、いつもと同じお話を、
阿弥陀様から真実信心いただけるまで、ただひたすらに聴聞」しているうちに、
ある日、気付きます。

「このままでは、信心いただけない。これら、すべて自力ではないか」

そして、尋ね始めるのです。

もし、まわり中、自力の信心の方しかいらっしゃらないなら、
私たちからすれば、いたずら事です。

どんなに獲信しているようでも、それは易行でもなければ、
弥陀からいただいている信心でもなく、思い込んでいるだけです。

探しているうちに、「宿善の機のみが聞ける話」に行き当たります。

(何時間かかるか、何年かかるか、何十年かかるかは、
宿善の厚薄によります。)

それを話してくださるのは、次第相承の善知識です。

それまでのすべてのご縁も、善知識に変わり有りませんが、
次第を相承してはいないのです。

これは、聞けば、わかります。蓮師の言う「当流の法」「六字のいはれ」のことです。

そして、弥陀をたのんで信心いただき、易行であることも、
他力であることも理解でき、前スレ165のチェックリストもわかるのです。

もちろん、これらすべて、私が言っているだけのことです。
315298:2008/02/16(土) 05:42:40 ID:M9lBbluO
>>313
おやすみなさいませ。
313様は、313様が信じる道を歩まれる他ございません。
また、南无阿彌陀佛のお話をすることできますならば、
私もとてもうれしいです。
316298:2008/02/16(土) 06:51:47 ID:M9lBbluO
法然聖人『禅勝房にしめす御詞』より

◎一向專修の念佛者になる日よりして、臨終の時にいたるまて
申たる一期の念佛をとりあつめて、一度の往生はかならすする事也

◎かるかゆへに信をは一念にむまるととりて、行をは一形はけむへし。
317神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 07:06:54 ID:SF7RXoNj
おはようございます!!
今日もとても気持ちのよい朝です。
318298:2008/02/16(土) 07:07:57 ID:M9lBbluO
そうですね、とてもさわやかな朝ですね!
319神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 07:30:04 ID:tmD9N6M+
>>その次第相承の善知識は、必ずしも人間では無くとも、
>>この世ならざるもの(霊、浄土の諸菩薩)からの口伝でも獲信できるのでしょうか?

>口伝を受けるだけではなく、弥陀をたのむことが必要であると思います。

次第相承の善知識は、人間に限られるのでしょうか?
こんな人もいます。
良忍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平安時代後期の天台宗の僧で、融通念仏宗の開祖。聖応大師。

1117年(永久5年)阿弥陀仏の示現を受け、「1人の念仏が万人の念仏に通じる」という自他の念仏が相即融合しあうという立場から融通念仏を創始し、
称名念仏で浄土に生まれると説き、結縁した人々の名を記入する名帳を携えて各地で勧進を行った。
四天王寺に参籠した時に見た霊夢により、摂津国住吉郡平野庄(現大阪市平野区)の領主の坂上広野の邸宅地に開いた修楽寺が、
その後の融通念仏の総本山の大念仏寺の前身である。

320神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 07:47:07 ID:SF7RXoNj
>>298
「昔から伝わってきている」といっても掟で秘密にされているわけよね?
そうでしたら「秘密のたのみ方」もよろしいのではないでしょうか
3211:2008/02/16(土) 07:50:42 ID:SF7RXoNj
>>285
宗教への偏見ということですが、これは日本だけではないと思います。
先進国では・・・アメリカのバイブルベルトのプロテスタント、
アイリッシュ・カトリックくらいではないでしょうか。

322神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 07:52:06 ID:SF7RXoNj
>>321
「宗教を本気で信じているのは」が抜けていました。
もっとも、日本でも「霊魂」は広く信じられていますし、
最近はスピリチュアル・生まれ変わり・ヒーリングなどもブームではありますが
323渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/16(土) 09:54:46 ID:TA9iySnH
>273
>私は、「よきひとの【仰せ】」とは、口伝であると解しています。

 極楽往生の話が止まってないようだ。もう少しお付き合いさせていただきます。

 よき人から親鸞聖人はどのような口伝を受けたのでしょうね

もろこし、我がちょうに、もろもろの智者達のさたし申さるる観念の念にも非ず。(中国、日
本の、様々な賢人達が仰っているような、浄土・仏の形をイメージしていく観想の念仏ではない
のだ。)

 学文をして念の心を悟りて申す念仏にも非ず。(様々な書物を読み、知識をふやし、真実を認
識する心を得、そこから称える念仏でもない)

 ただ、往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思とりて申す外には、
別の子さい候わず。(往生極楽の道は何か。ただ、往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と称名念
仏を申し、称名念仏をして間違いなく極楽浄土に往生するぞと確信し、そのように確信して念仏
を称える外には、細かいことは存在しません)

 但、三心四修と申す事の候うは、皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に篭り候
う也。(観無量寿経では、至誠心・深心・回向発願心を起こせという。あるいは、恭敬修・無余
修・無間修・長時修を行えという教えもある〈四修とは何かは、この他にも解釈が分かれている
ようだ〉。これらは全て、必ず南無阿弥陀仏を称えて極楽浄土に往生するぞと、腹を決めること
のなかに含まれている。要するに、ただ(ひたすら・専一に)念仏申せ)。
324渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/16(土) 09:56:10 ID:TA9iySnH
 此外におくふかき事を存せば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。(ただ(ひた
すら・専一に)念仏申す外に、さらに奥深いことがあれば、それは、阿弥陀仏と釈迦仏との慈悲
から外れ、本願からも外れるだろう。この他に、善知識の口伝がある。口伝でしか伝えられない
ことがあるといえば、これは本願に外れた教えだ)。

 念仏を信ぜん人は、たとい一代の法を能く能く学すとも、一文不知の愚どんの身になして、尼
入道の無ちのともがらに同して、ちしゃのふるまいをせずして、只一こうに念仏すべし。(念仏
を信じようという人は、仮にどれほど深く、釈迦一代の教えを学んでも、何も知らない愚かな者
であるという腹に座れ。自分は何かを知っているという振る舞いをするな。女性の僧は出しゃば
るようなことをしない。振る舞いを慎む人々のようにせよ。知者の振る舞いをするな。ただひた
すら、専一に念仏を称えよ)

為証以両手印(両手の印を押して、法然の証とする。)

浄土宗の安心起行、此一紙に至極せり。源空が所存、此外に全く別義を存せず(浄土宗で、行
を起こして心を安んずる道は、この一枚の紙の中の記載を究極とする。法然の教えがこの他には
決して存在しない)。

 滅後の邪義をふせがんが為めに、所存を記し畢(自分か死んだ後に間違った教えが出現するこ
とを防止するため、自らの信じるところを記しました)。

建暦二年正月二十三日
325渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/16(土) 09:57:33 ID:TA9iySnH
法然 「親鸞さんよ。今から貴方に口伝を授ける。一枚起請文は嘘じゃ。まやかしじゃ。今から言
うことが本当じゃ。

 往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申すより先に、まず善知識を訪ね、信心決定すべし。但、
三心四修と申す事の候うは、皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思えばこれは誤りなり。
無宿善の機は教えを乱す。ただ念仏しても極楽には往生しない。助からん。念仏を信ぜん人は、
念仏称える前に善知識を訪ぬべし。善知識によって信心を決定せよ。

 よいか。これが真実の教えじゃ。ただ(ひたすら・専一に・一筋に)念仏して弥陀に助けられ
まいらすべしと言っても、それは嘘じゃ。称える先にまず善知識を訪ね、信心決定することを先
とすると教えよ。
 一枚起請文?。あそこには、善知識を訪ねよということを書き忘れたわい。まあ、捨てておけ。
捨てておけ」

> 歎異抄は、信後の話が多く書いてある書です。

 歎異抄は、異議を嘆いている書です。信心が得られないで迷っている人に向かって説いてある
というのが、僕の理解です。298とは見解が違う。

> つまり、親鸞聖人は、既に「奥義」=「六字の教え」を授けており、「それ以外の教えは要ら
ない」ことを伝えたのだと解しています。

 「浄土宗の安心起行、此一紙に至極せり。源空が所存、此外に全く別義を存せず」親鸞が法然
から受けた口伝は、起請文に書いてある内容と同じか、違うのか。
 起請文に書いてないような内容の奥義があるなど、知者の振る舞いはしたくないものだ。
326神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 09:59:53 ID:SF7RXoNj
渡海さん、おはようございます。
327渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/16(土) 10:41:33 ID:TA9iySnH
>326
 はい。おはようございます。

 まず、当流の安心の趣は、あながちに、我が心の悪きをも、また、妄念妄執の心のおこるをも、
止めよというにも非ず。

 心安らかにしようという浄土真宗の本質は、自分の悪い心を止めたり、妄念妄執がわき起こっ
てくる心を止めようということではない。

 ただ商いをもし、奉公をもせよ、猟、漁をもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕迷いぬ
る我らごときのいたずらものを、助けんと誓いまします弥陀如来の本願にてましますぞと深く信
じて、一心に二心なく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもうこころの一念の信
まことなれば、かならず如来の御たすけにあずかるものなり。

 商売もせよ。サラリーマンになるのもいい。狩猟・漁労もいい。職業は何でもいい。実に我々
は、妄念妄執の心が起きてくる。様々な迷いがあって、朝から晩まで迷っているそんな存在であ
る。念仏を申せ、称名念仏は阿弥陀仏の勅命である。念仏申す者を助けると仰っている誓いは、
まさにこのような我々を救おうとしてのことである。本願を深く信じよ。どうか私を助けてくだ
さいと、二心のない専一な一念の心が真剣であれば、必ず阿弥陀仏は助けてくれるだろう。


328渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/16(土) 10:42:57 ID:TA9iySnH
 この上には、何と心得て念仏申すべきぞなれば、往生はいまの信力によりて、御助けありつる
かたじけなき御恩報謝のために、我が命あらん限りは、報謝のためとおもいて(続けて・持続的
に)念仏申すべきなり。

 さあ、これから念仏を称え続けようじゃない。これからは、どのように腹を据えて念仏を申
せばいいのか。極楽浄土往生は、一心に二心なく、弥陀一仏の悲願にすがり、どうか助けてくだ
さいと、こちらが真剣に思えば、必ず助けて下さる。なんと有り難いことか。この思いで真剣に
真剣に念仏を称える心を持てば、必ず助けて下さる。ありがたさ、尊さ、さあ、このご恩に応え
ようではないか。命ある限り、死ぬときまで、ご恩報謝と思い、繰り返し、繰り返し称名念仏を
繰り返していこう。

 命ある限り、一度南無阿弥陀仏を称えれば、もう一度称えよう。命ある限り、二度称えたら、
また南無阿弥陀仏を重ねよう。死ぬときまで、命ある限りは(続けて・持続的に)真剣に真剣に、
ひたすら、ひたすら称えていこう。

 実に我々は妄念妄執の止むことがない。それでも、真剣に念仏を称える者は必ず救うという。
なんとありがたいことか。さあ、この恩に報いよう。ご恩報謝の念仏を(続けて・持続的に)称
えていこう。南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と称えていこう。どうかこのいたずら者をお助けくだ
さい。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
 
 これを当流の安心決定したる、信心の行者とはもうすべきなり。

 ただ真剣に真剣に、専一に・ひたすら・持続的に称名念仏するこのような心こそ、心を安んじ
た信心の行者というのである。

あなかしこ、あなかしこ。
329神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 12:13:36 ID:mWD4zg1n
おはようございます。
このように真剣にお話させて頂く場があることを感謝いたします。
その上、妙好人のかたとお話できるとは、これも不可思議なご縁と、なんとも暖かく嬉しく感じております。

>>298さま

「こう聞かねば」「ああ聞かねば」と思うのは全て自力の信心と教えて頂いております。
「宿善の機のみが聞ける話」を、次第相承の善知識」からお聞きしなければ、
信心いただけない、というのは私の腑に落ちません。
ただ、南無阿弥陀仏の六字のまことを聴き開いた方から聴聞しなければ、
決して獲信はできないともお聞きしています。これは、私の腑に落ちます。

「腑に落ちる、落ちない」、で「受け入れられる、受け入れられない」が生じるところはもう、
いまは、そういうわたしなのだと思うより他ありません。
私は仏法と私の心とに照らして、こうと信じる道を進むより、ほかにどうしようもありません。

それも、すべて阿弥陀様の調熟の光明のお蔭様と教えられますが、
今は信前なので、そうなのだろうかと思うばかりですが、
きっとこれもはっきりとわかることがあるのだと、「自分の心で」信じていまは、進もうと思います。
善知識から聴聞させて頂き、真宗聖典を読ませて頂き、自分の心と真っ向から向き合うことで。
阿弥陀仏の生きた御六字を、身体一杯に頂くことができるそのときまで。

ありがとうございます。

>もちろん、これらすべて、私が言っているだけのことです。

このお言葉は、私の理解が間違えてはいけないので確認させて頂きたいのですが、
ご自分の考えでしかない、と言われていますか?
それとも、阿弥陀様の真実信心で、わかっておられることを「私が」言っているだけと言っておられますか?
330298:2008/02/16(土) 12:14:13 ID:M9lBbluO
>>319
私は融通念仏には詳しくありませんが、その教義をざっと見た限りでは、
一念の念仏を信じていないように感じられます。

往生するためには、一念で十分でありますけれども、
その救われたうれしさに、さらに称えてゆくわけです。

融通が必要だということは、自力のお念仏をたよりにしているようにも
感じられます。

ですけれども、断言はできないと思います。

善知識がひとかどうかですが、

◎総じていふときは、真の善知識といふは諸仏・菩薩なり。別
していふときは、われらに法をあたへたまへるひとなり(真要鈔)

とありますように、「ひと」である伝統があると思いますが、
諸佛・菩薩であることもあるのだと思います。

また、このスレでは、「獲信」に焦点を当てていますので、
私は一念の念仏を強調して書いていますけれども、

◎又云、一念十念にて往生すといへはとて、
念佛を疎相に申せは、信か行をさまたくる也。
念々不捨といへはとて、一念十念を不定におもへは、
行か信をさまたくる也(法然聖人)

とありますように、多念の念仏も大切であります。
331298:2008/02/16(土) 12:15:47 ID:M9lBbluO
>>320
呼び名は自由ですからね。もちろん、そう呼ぶこともできるでしょう。
しかし、「秘密にする」というよりは、「大切にしている」というニュアンスだと思います。
求める方は、聞くことができるからです。
332298:2008/02/16(土) 12:23:55 ID:M9lBbluO
>>329
>私は仏法と私の心とに照らして、こうと信じる道を進むより、ほかにどうしようもありません。

これは皆がそうだと思います。それで良いと思いますし、それ以外は、
どうしようもないと思います。

>「宿善の機のみが聞ける話」を、次第相承の善知識」からお聞きしなければ、
>信心いただけない、というのは私の腑に落ちません。

◎しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり(御文4-1)

とありますように、宿善の機のみにあたえられる法があるのです。

>>もちろん、これらすべて、私が言っているだけのことです。
>このお言葉は、私の理解が間違えてはいけないので確認させて頂きたいのですが、
>ご自分の考えでしかない、と言われていますか?
>それとも、阿弥陀様の真実信心で、わかっておられることを「私が」言っているだけと言っておられますか?

私が、私の経験と考えに基づいて言っているに過ぎない、ということです。
私は、私の信じる道がありますが、それはあくまでも、私が信じる道と言うだけのこと。
そして、私は何を信じているかというと、
「凡夫が、生涯にただの一度で真実信心いただけるお念仏がある」ということを
信じているのです。
そうして信心いただいた後は、命ある限り、御恩報謝のお念仏です。
私が信じる道を、同じく信じる方もいるでしょうし、もちろん、信じない方もいるでしょう。
ひとりひとりが、その方の信じる道を行くしかないと考えています。
易行であっけないものですが、そこに辿り着くまでには、いわゆる「自力がすたれる」まで、
探さねばならぬことも多いのだと聞いております。
333298:2008/02/16(土) 12:47:28 ID:M9lBbluO
>>325
一枚起請文にある「南無阿弥陀仏」とは何か、教わらずともわかると
思っていらっしゃるわけですから、それで良いのではないですか。
ご自分の道をお進み下さい。

「疑なく往生するぞと思ひとりて」とありますが、
渡海様は、既にそうなっているということなのでしょうか?

それであれば、問題無いのではないでしょうか。

私とは、考え方が違います。

真剣な方は、「学文をして念の心を悟りて」と「疑なく往生するぞと思ひとりて」が、
会わせにくいのではないかと、私は思っています。

「疑なく往生するぞと思ひとりて」とは、獲信を指すと私は解します。

その「思ひ」を、どうやって「と(る)」のでしょうか?

墨で塗るとか、一枚起請文は嘘だから捨て置けとか、
一体どこの話をしているのでしょうか。
334神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 13:19:26 ID:mWD4zg1n
>>298さま、いつもありがとうございます。

>私が、私の経験と考えに基づいて言っているに過ぎない、ということです。
>私は、私の信じる道がありますが、それはあくまでも、私が信じる道と言うだけのこと。

これは、自力の信心とお見受けします。
つまり、阿弥陀仏から頂く絶対他力の信心とは、まったく異なるものですね?

>ひとりひとりが、その方の信じる道を行くしかないと考えています。

これも、「法然上人も親鸞聖人もまったくおなじに頂かれている、
阿弥陀仏のまことのこころ」とは、全然異なるものですね?

これは信心のことなので、ぜひ詳しくお聞かせ頂きたいと存じます。
何卒よろしくお願い申し上げます。
335298:2008/02/16(土) 13:20:54 ID:M9lBbluO
二十願と、十八願と、双方あるわけです。
法然聖人は、臨終来迎もおすすめになっています。
これは、そもそも今生にて、十八願を受け入れぬ機もいらっしゃるからです。
称名念仏も受け入れない機には、定散の善もあります。
真宗では、頓教中の頓である、真宗念仏を重視していると思います。
しかし、あくまでも、弥陀のお育てを尊重せねばなりません。
336298:2008/02/16(土) 13:22:40 ID:M9lBbluO
三心・四修を心がけて、お念仏を唱える。
本当に、尊いことだと思います。
しかし、やってみれば、それすらできない凡夫であると感じる方も出ると思います。
易行であるはずの称名念仏、それすらできない凡夫である。
これにより、真門に向かうのだと思います。
決定すればそなわるのですから、これも、弥陀にいただくものであると思います。
337298:2008/02/16(土) 13:24:54 ID:M9lBbluO
>>334
また今晩、つづきをお書きするかもしれません。
取り急ぎ、お返事致します。

「私の信じる道」とは、当然のことながら、自力の信心です。

他力の信心と全く異なると言えば、そうでもありません。

他力の信心は、自力の信心にも影響を与えるからです。

阿弥陀仏のまことのこころは、弥陀からたまわるもの。

凡夫が妄念をこねあげて作るものとは違います。

凡夫の妄念にも影響を与えますが、凡夫の妄念は、
他力の信心ではありません。
338渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/16(土) 15:18:50 ID:TA9iySnH
 念仏研修のお知らせ

 念仏研修会を予定しています。しばらくの間は試行的行ってみて、可能なら試行結果を参考に
本式に近い念仏研修を考えています。つまり、親鸞聖人から蓮如上人の時代にかけて行われて
いた中世の念仏道場に近いものを、現代にできるだけ復活させてみたいと願っています。

 親鸞聖人は、五会法事讃略抄を著し、法照禅師の五会念仏を念仏三昧法として勧めています。
また、蓮如上人は、ものを言え、ものを言えと言っています。従いまして、五会念仏と座談の組
み合わせを基本構造と考えます。
 五会念仏は、1回で20〜30分程度(線香1本、又はその半分が燃え尽きる時間程度)、座
禅しながら無心になって称えていきたいと思います。

 座談では、原則として真宗教義の話は脇に置き、自分が念仏を称え、実際に称えた中で生身の
自分に今起きた気づき、心理的・生理的変化、あるいは他の人に起きた気づき、心理的・生理的
変化、そこに真剣に耳を傾けていくことに心がけたいと思います。何か変化が起きるはずです。

 一回目の試験的実施は、来月、愛知県のあるお寺で予定しています。半日から一日程度です。
参加希望の方は、渡海難にメールをください。詳細をお知らせします。なお、あくまで試験的実施
ですから、参加希望があれば必ずそれに応じられるという体制を保証しているものではありません。
ご了解ください。また、次回の研修(時期未定)にお誘いをする場合もあります。

 今後は、他県のお寺でも考えています。しばらくは試行錯誤の試験的実施になると思います。
将来は、東京・大阪でなどでも行いたいものです。自分のお寺の本堂を貸してくださるという方
がいらっしゃって下さると幸いです。

  [email protected]
339神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 15:49:50 ID:tmD9N6M+
それにしても、次第相承の善知識とは、どこの誰で、全国に何名程いるのだろうか?
340神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 15:56:12 ID:9r69SOn5
>>339
俺もおんなじこと考えてたわ。
でもどこの誰であるかも秘密らしいぜ。
341神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 15:59:06 ID:4UsNoQD9
>>338
                           ∧_∧
◎               へ          (´<_` )
  \    ≫ ̄ ̄ ̄ ̄彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒    \
      彡____人  )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\       )  何が念仏研修だ、氏ねや異安心キモオタッ!
 ◎-●一( * *    ヽミ          |.      |   
      ((_ _ (( ( ;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ〉     | |   
 ‘,'.∴・,‘・(ε ((  ヽ-=_二__ ̄    \     | |
  ,'.・∵  ヽ_____ ノ       ̄\     / /
       (__))     ヽ        .\__/_丿
       |  |         ヽ         .|  |
       |  |______)          |  |
       |  〉三三三[□]三)        |  |
       ノノノノ:::::::::::::::::::::::::::::/         \ ヽ
       ~~~|::::::::::::::::::/:::::::/             \ |
         |;;;;;;;;;;;;;;;/;;;;;;;/            / ノ
        (___|)_|)           `-
342神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 16:04:29 ID:9r69SOn5
かならずしも異安心ってわけではないよ。
渡海氏は大谷派の影響を受けている、と書いていた。
大谷派はもともとこちら側の称名を重んずる立場だといわれている。
座って静かに念仏を称えることを提唱している僧侶もいるくらいだから。
343神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 16:05:50 ID:4BzjOiQ0
>>339 >>340
本部にいけばいるんじゃないの?
参加料(入会金)支払えば、口伝の秘儀が伝授されるという組織のような気がする。
で、1度信心を授かっても、その信心を継続するためには、研修会に続けて参加しなければならないとか・・・。
344神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 16:22:03 ID:mWD4zg1n
>>298さま
ありがとうございます。続きを読ませて頂くことを、楽しみにしております。
あのようにお尋ねしたのは、

>そして、私は何を信じているかというと、
>「凡夫が、生涯にただの一度で真実信心いただけるお念仏がある」ということを
>信じているのです。

これは、私も信じているからです。
信前であり、阿弥陀仏にお偶いしていない私が信じていることですから、自力です。

>私が信じる道を、同じく信じる方もいるでしょうし、もちろん、信じない方もいるでしょう。
>ひとりひとりが、その方の信じる道を行くしかないと考えています。

これは、現世一般のことですよね。
何であろうと、その人が、自身の心で救われると思うものを求めればよい。
いえ、良いも悪いも、それ以外に道はないのですから。

でも、浄土真宗の教えはそうではなく、別々の道を歩むのでなく、
阿弥陀仏のまことのこころを頂けば、法然上人、親鸞聖人とまったく同じ、
無碍の大道を歩ませて頂くことができる、と教えて頂いています。
345神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 16:25:09 ID:Ji6ti6Br
>>342
久々にこのスレを覗いてみたら、
298というキャラが現れていて、渡海がすごく真っ当に思える。

ただ、「座禅しながら無心になって称えていきたい」というが、
罪悪深重・煩悩熾盛の衆生、いづれの行もおよびがたき身、
そういう凡夫が無心になれるだろうか?
無心に念仏しようとするなんて、自力作善の行為に思えるのだが・・・。
まぁ、やってみもしないで不可能だなんて言っているより、
やってみた方がいいかもしれないけどね。
俺には無心なんて不可能だわ。
346神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 16:29:42 ID:vAyDBfyA
>>345
>久々にこのスレを覗いてみたら、
>298というキャラが現れていて、渡海がすごく真っ当に思える。

目糞鼻糞だよ、両者は
347神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 16:39:50 ID:pOa5MFUG
>>343
そういうふうになるのを恐れるからこそ、今のシステムがあるんです。
348298:2008/02/16(土) 16:41:08 ID:M9lBbluO
>>342
安心していないのならば、異安心というよりは、未安心だと思います。
そして、未安心にて「研修」を行うなら、
それは自障障他になると思います。
「研修」が必要なのであるならば、明らかに自力の念仏であると思います。
349298:2008/02/16(土) 16:44:14 ID:M9lBbluO
>>344
肝心なところです。よくよく尋ねていただけたら、うれしいです。
続きもお書きしますけれども、今晩までにも、もし他にもご質問があれば、
書き込んでいただければ、お読みして、お返事書くように致します。

>これは、現世一般のことですよね。
>何であろうと、その人が、自身の心で救われると思うものを求めればよい。
>いえ、良いも悪いも、それ以外に道はないのですから。

はい、その通りです。

>でも、浄土真宗の教えはそうではなく、別々の道を歩むのでなく、
>阿弥陀仏のまことのこころを頂けば、法然上人、親鸞聖人とまったく同じ、
>無碍の大道を歩ませて頂くことができる、と教えて頂いています。

これも、その通りです。
真実行たる南無阿弥陀仏があるからです。
これにより、御同行となり、同心一味となれるのです。

南無阿弥陀仏
350298:2008/02/16(土) 16:51:02 ID:M9lBbluO
>>343
何でもお金で買えると思う方は、そう思うのでしょうね。
351神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 16:53:57 ID:9r69SOn5
渡海念仏と298法門は別の宗教です。
それは明白です。それが自障障他なのですか?
正直意味が分からないです。
352神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 16:56:37 ID:9r69SOn5
渡海念仏は坐禅して念仏して何かを味わうという。
298法門は秘密の善知識を探し出して面授し、
特別な「弥陀にたのむ」を教わって獲信するという。
いろんな法門があるものだと思うことです。
353298:2008/02/16(土) 16:57:30 ID:M9lBbluO
>>351
渡海氏が未安心だからです。
たとえ本人の誤解にせよ、信心獲ているという方であれば、
そのような批難はあたらないでしょう。
しかし、未安心にて他を指導するのは、皆で未安心の道を歩むことを
勧めているのと同じです。
もちろん、お念仏は尊いのです。
私がこのようなことを書いているのは、ここが、
獲信を求める場所だからです。
また、今晩お書きします。
354神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 17:02:14 ID:tmD9N6M+
秘密念仏組織は、何百年もの命脈を保ちながら存在している!
しかも、そちらの方が本流である!
観念仏教ではなく、魂の裏念仏だ!実在の浄土であり、阿弥陀仏(神霊)は実在する!
次第相承の善知識も、日本に数名以上存在する!
355神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 17:11:16 ID:tmD9N6M+
これは驚くべきことであろう。
霊性を失ったキリスト教に対する、グノーシスやフリーメーソンに相当する!
弾圧や迫害、偏見に屈することなく、
いつの時代も、人々は真実の霊の光を求めるのだ。
356神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 17:14:48 ID:9r69SOn5
>>354-355
あなたもユニークな書き込みをされる方ですな。
357神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 17:18:09 ID:9r69SOn5
世の中には口にお念仏をする人も少ないのに
お念仏する人たちが自障障他と退けあうのは
なんともかなしい。
358神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 20:49:28 ID:mWD4zg1n
298さま。いろいろと教えて頂き、ありがとうございます。
少し時間がなくなり、しばらく書き込みを控えることになりそうですが、
こちらでご縁を結ばせて頂いたこと、まことにありがとうございます。

あとひとつ、お聞かせ願えれば幸いです。

>「私の信じる道」とは、当然のことながら、自力の信心です。

>他力の信心と全く異なると言えば、そうでもありません。

>他力の信心は、自力の信心にも影響を与えるからです。

と書いて頂きましたことについて。
自力の信心というのは、信心決定の際にすたるのではないのでしょうか?

しかし、いろいろなかたにお話を聞いていましても、
阿弥陀様に偶われたというかたは本当に少なく、
難き中にも難き道、と言われましたのがよくわかります。

それでも、人様のことでなく自分の魂のことですから…
阿弥陀様のお力によって、我が機を深信させて頂き、そのわたしめあての救いであったと
御六字のまことをこの身に受け取るまで、聴聞に励んで参りたいと存じます。
阿弥陀様のお呼び声に、ハイと素直にお返事させて頂けるまで。
359298:2008/02/16(土) 21:56:48 ID:M9lBbluO
>>358
お忙しい中、おつきあいくださりありがとうございました。

>自力の信心というのは、信心決定の際にすたるのではないのでしょうか?

これは、もちろん、「すたる」という言い方もできるのです。

弥陀に救われたとき、「自分で救われよう」という気持ちは、無くなります。

他力というのは本当に他力であって、
それまでどうやっても、すべてが自力であったと知らされます。

「これは自分では、どうあがいても無理だった」とわかります。

358様が、信をお獲りになることを、願っております。

そして、「ハイ」というお返事、これはもちろん、「ハイ」という言葉を口に出すことではありません。

それでも、弥陀の呼び声に、うなづけるのです。

本当に尊い六字です。

南无阿彌陀佛
360298:2008/02/16(土) 21:58:59 ID:M9lBbluO
>>357
お念仏は、尊いです。
ただ、口に唱えるだけだとしても、本当に尊いのです。
ましてや、心をこめるなら、なおさらです。
そして、弥陀をたのめるなら、それ以上の善は無いのです。
361298:2008/02/16(土) 22:07:27 ID:M9lBbluO
これほどの易行でありながら、
難信之法である、南无阿彌陀佛。
凡夫が無上の果をいただける、真実の南无阿彌陀佛。
易行である故に、証がすぐれている故に、
皆が信じぬ南无阿彌陀佛。
弥陀の本願捨て置かれ、
凡夫はただに自執する。
362298:2008/02/16(土) 22:09:33 ID:M9lBbluO
真実の弥陀に帰命せよ。
帰命とは礼拝。礼拝とは身業。
称名口業。
観察意業。
法蔵菩薩の清浄心。
供養正行。
南无阿彌陀佛
363298:2008/02/16(土) 22:17:40 ID:M9lBbluO
行廃れ、証廃れ、行証盛んな南无阿彌陀佛。
真実信心いただけば、
弥陀の光輪際も無し。
凡夫の芯を照らしたもう。
大応供に帰命せよ。
364298:2008/02/16(土) 22:30:11 ID:M9lBbluO
真実信心者、是唯彌陀能授。
雖在善知識、度行者無所度。
365298:2008/02/16(土) 23:35:32 ID:M9lBbluO
救われるのに、全く知恵才覚の要らない、弥陀の救い。
第十八願の救い。

悩み沈んだ凡夫のこころ、弾指の間に信むまる。
第十八願の救い。

本願信受の前念命終。娑婆のりんじゅと思ふべし。
第十八願の救い。
366298:2008/02/16(土) 23:38:08 ID:M9lBbluO
気付いてみれば弥陀がいる。
どこでなくとも弥陀がいる。
弥陀をあおいで信じてみれば、
こころよろこぶ南无阿彌陀佛。

弥陀のばしょなど知らなんだ。
たのみかたなど知らなんだ。
探しもとめてあゆんでみれば、
いまに生きてる南无阿彌陀佛。
367298:2008/02/16(土) 23:41:14 ID:M9lBbluO
行きて去りてもつゆしらず。
弥陀が来たりて手をのべる。
おさめすくわれめざめてみれば、
娑婆のりんじゅに信むまる。
368298:2008/02/16(土) 23:43:11 ID:M9lBbluO
知らぬ存ぜぬつゆ知らぬ。
弥陀のことなどつゆ知らぬ。
逃げてつづけてさげすんで
ついには弥陀にすくわれき。
369神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 00:40:09 ID:qSyTregW
すみません、スレ違いですが。
恵心僧都書往生要集の人道の事の章で仙人も無常を免れることがないと例えて
いる箇所で
      『この世界皆滅し、天とも地ともわからずして、泥のうみとなりて。
又雨土。ひらけはじまりしを。七たび見たる仙人も終に無常をのがれられず』

とあります。わたしはこの七たびというのが、まさに過去七仏の説と一致していると
思ってます、この地球上でかはわかりませんが、過去にまさに仏が娑婆におでましになり
そのたびに南無阿弥陀仏の法を開示し、いま現在に至るのだと思います。
つまり現在この世におられる方は長い長い間、弥陀の救いからもれているという事だと
思いました。

それほどに信じ難き法といわれる所以でしょう。

親鸞聖人の教行真証の仮真土巻に『平等覚教』にこういわれている。

 かかる功徳に  欠くる人  この経の名を聞くをえず  清き戒め まもるひと

 この正法を  聞くべけれ  橋慢・けだいに  なれしひと  この法信ずる  ことかたし

 宿世に仏  見しひとは  このみて教え  聞くならん  人の命は  得難くて

 仏に遭うも  かたけれど  信ずる智慧の なおかたし  見聞かんときは  はげむべし

298氏などはよくこの意味を理解せれていると思いますよ。残念ながら渡海氏は橋慢・けだいの方なのでしょう。

このスレを見てそう思いました。
370369の続き:2008/02/17(日) 01:25:26 ID:qSyTregW
 また正・像・末・法滅の三時の説を見てみると、(親鸞聖人 教行信証)

おおまかで申し訳ないのですが、釈尊入滅後約3000年とすると現在は末法に入って

約1000年になろうかと思います、末法は1万年続き一万年後100年間の法滅の時代まで

弥陀の法は続くといわれています、法滅後はおそらくこの地上から人類はいなくなる

のではないかと思います。まだ信を獲ってない方はまだ約9000年間チャンスがあるの

です、その間に何回人身を得てこの法を聞くチャンスがあるのか、とどうしようもない

ことを考えている変人であると自覚していますが、弥陀の法を得て浄土に往生したとして

もこの長い末法の間、娑婆に出て弥陀の法を人に聞かさなければならない人もいるでしょう。

それらを代表するのが七高僧・親鸞・蓮如だと思っています。または名も知れず仏法を知りそうに

もない他力の行者なのではないのかと思います。

このスレを見ている方たちは298氏の勧める信を獲っていただけたら幸いです。
371298:2008/02/17(日) 01:30:42 ID:WPafjbQV
>>369
弥陀の救い者難信之法也矣。
自らが信じること難。教えて信じてもらうこと、更難。
是故、道徳を説、神と化、善行を勧、
諸佛諸菩薩、長時育熟我等。
往生要集も、御本典も、引文感動致します。

南无阿彌陀佛
372298:2008/02/17(日) 01:38:13 ID:WPafjbQV
>>370
>その間に何回人身を得てこの法を聞くチャンスがあるのか

大抵は、一度も無いだろうと思います。
それでも、弥陀の救いは続きます。
真宗の教えを伝え聞いている方は、
すぐそこにまで来ているわけだと思います。
わずか六字の南無阿弥陀仏。
兆載永劫の功徳がおさまっています。
心が無くとも、往生不定のままで、
名号称えてほしいと思います。一心不乱、間断無く。
なむあみだぶつなむあみだぶつ・・・
373298:2008/02/17(日) 01:46:30 ID:WPafjbQV
雨の降る日に仰いでみれば
弥陀が照らすはわがこころ。
凡夫の心の雲こえて
もれる光はなむあみだぶつ。
374298:2008/02/17(日) 01:48:25 ID:WPafjbQV
なむあみだぶつととなふひと。
みだをしらずにとなへても
みだはすくふとまうされき。
ぎょうじゃをかたへとさしむけて
うへしたとはず、とへといふ。
375298:2008/02/17(日) 01:51:03 ID:WPafjbQV
すくせにみだにすくはれて
いままたきたるはぜんぢしき。
そしるひとをもすくふとはしり
さいどにいのちをちぢめたまう。
376298:2008/02/17(日) 01:53:49 ID:WPafjbQV
みだはたれのなかにいく。
みだはわたしのなかにいく。
むまれる信のなかにいく。
しんをあげるとわがみすて
くどくのなかにもまれたまう。
377298:2008/02/17(日) 01:55:30 ID:WPafjbQV
みだはあなたのそばにいて
すくわせてくれとたのみたまう。
ぎょうじゃがたのむはぎょうじゃのこころ。
みだはたのめとおおせたまう。
378298:2008/02/17(日) 01:58:34 ID:WPafjbQV
みだをたのむはしんしゅうねんぶ。
しゃくそんしんぬとほめたまう。
ぼさつとひとしといふけれど
ぼんぶはぼんぶでなむあみだぶつ。
379298:2008/02/17(日) 01:59:53 ID:WPafjbQV
あめがふってもなむあみだぶつ。
そらがはれてもなむあみだぶつ。
うれしいときにもなむあみだぶつ。
かなしくなってもなむあみだぶつ。
380298:2008/02/17(日) 02:01:33 ID:WPafjbQV
あるいてとなふはなむあみだぶつ。
ねながらとなふはなむあみだぶつ。
たつたままでもなむあみだぶつ。
すわつてとなふもなむあみだぶつ。
381298:2008/02/17(日) 02:02:30 ID:WPafjbQV
一念成就のなむあみだぶつ。
うれしくつづくはなむあみだぶつ。
おもいだしてもなむあみだぶつ。
弥陀にかんしゃのなむあみだぶつ。
382298:2008/02/17(日) 02:03:24 ID:WPafjbQV
みだがみているなむあみだぶつ。
みだがきいてるなむあみだぶつ。
みだのこころのなむあみだぶつ。
いつもいっしょのなむあみだぶつ。
383298:2008/02/17(日) 02:06:27 ID:WPafjbQV
ゆるせすくへとさけぶひと。
たのんだこころにしんむまる。
むまれたしんはしょうじょうの
しんじつしんじんきはもなし。
384298:2008/02/17(日) 02:12:08 ID:WPafjbQV
となへてすくふはなむあみだぶつ。
たのんですくふがあみだにょらい。
まことをおしふるしだいさうじょのぜんぢしき。
うえんをひくのはねんぶつぎゃうじゃ。
すくひすくはれごおんほうしゃのおねんぶつ。
385298:2008/02/17(日) 02:18:43 ID:WPafjbQV
妙好人とよばれても
信獲るひとぞなきがかなしき
みだのすくひをつたへても
わがみときづくものは無し
386298:2008/02/17(日) 02:21:01 ID:WPafjbQV
ありがたいでおはるひと。
ほねをくだきてなすかんしゃ
しんじんいだいてしれるなり。
387298:2008/02/17(日) 03:58:15 ID:WPafjbQV
>>181

◎ただし念仏のひと、ひがごとを申し候はば、その身ひとりこそ
地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがに
なるべしとはおぼえず候ふ(御消息)

念仏のひとにも、地獄におちる方がいらっしゃることが、示されています。
もちろん、これは、自力のお念仏であり、かつ、ひがごとを申している方の
ことであると思います。

そのような方にも救われてほしく、御恩報謝の廻向のお念仏を
申し上げる次第です。

南无阿彌陀佛
388298:2008/02/17(日) 04:15:19 ID:WPafjbQV
◎世のなかに弥陀の名号をとなふる人おほけれども、
往生する人のかたきは、この三心を具せざるゆゑなりとこころうべし(唯信鈔)
389298:2008/02/17(日) 05:58:05 ID:WPafjbQV
◎またまことに尋常のときより信なからん人は、ひごろの称念の功によりて、
最後臨終のときはじめて善知識のすすめにあうて信心をえんとき、
願力摂して往生を得るものもあるべしとなり(尊号銘文)

(大意)
平生のときに、信を獲ていない人でも、それまで、お念仏称えていたおかげで、
最後臨終のとき、はじめて善知識のすすめにあって、信心を獲るようなときに、
願力が摂して、往生を得る人もいるに違いないということです。

平生のお念仏が、宿善の開発の助けとなり、臨終にて、ついに
善知識に遭うことがかない、そのすすめを得て、信を獲る方も
いらっしゃるということです。

この場合でも、往生を得ていますので、臨終来迎を待つわけでは、
無いと思います。
3907:2008/02/17(日) 07:24:53 ID:69AVK4IU
おはようございます。前念相続の日々を頂けることが、ありがたいです。
391神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 09:33:24 ID:cH+xvPlp
涅槃経 「法に依って人に依らず」
教えを依り所とし、説く人に依ってはならない。
人間を崇拝してはならないということですが、
カルトは教祖のカリスマに引きつけられた人の集まりであると指摘され、
そうであるがゆえに、第3者からするとデタラメな教祖の言動に
信者はなんの疑いもなく従ってしまいます。
 
カルト信者と教義を語り合うことは徒労なことだと言われます。

ただ、阿弥陀仏の名を語り、親鸞の名を語るカルトであっても
弥陀の本願によって救われることは決定しています。
「弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」

機縁があってカルトのマインドコントロールから解放されることを願っています。
392神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 10:06:21 ID:tE/pXNze
どう考えても十劫安心に思えるんですが。。。
393渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/17(日) 10:13:16 ID:eSCVUjRd
 298さんが是非、御文を読もうと提案しているので、御文を読んでいきたいと思います。一
帳目第三通を選びました(>327-328)。この御文の結論部分を拝読します。

 この上には、何と心得て念仏申すべきぞなれば、往生はいまの信力によりて、御助けありつる
かたじけなき御恩報謝のために、我が命あらん限りは、報謝のためとおもいて念仏申すべきなり。
これを当流の安心決定したる、信心の行者とはもうすべきなり。

 第一の主張「我が命あらん限りは、念仏申すべきなり」。
 第二の主張「かたじけなき御恩報謝のために」
 第三の主張「往生はいまの信力によりて、御助けありつる」
 第四の主張「これを当流の安心決定したる、信心の行者とはもうす」

 四つの主張が見えてきます。信心決定前に善知識に会いにいきなさいということは、言われて
いません。我々は、親鸞聖人・蓮如上人を善知識とします。ですから、この他に、口伝がありま
すなどとも言われていません。念仏を称えても駄目ですよとも言われていません。
 「我が命あらん限りは念仏申すべきなり」といいます。一念で信心が得られ、信心決定すると
も言われてません。一つ一つ検討していきましょう。

 我が命あらん限りは、念仏申すべきなり。命あらん限りはとは、死ぬまでという意味です。死
の時期は自分で決めることはできません。娑婆の縁尽きたとき(歎異抄)、命が絶えます。念仏
が停止するのはその瞬間です。それまでは、称えると言うことです。称え続けるという意味です。
死の瞬間が念仏の終期となります。
 念仏の始期は何時になるでしょう。ここでは明示していません。歎異抄を読めば、念仏を申さ
んと思い立つ心の起こるときと言うべきでしょう。つまり、浄土真宗の称名は、念仏を申さんと
思い立つ心の起こったときを始期とし、死の瞬間まで続きます。

 念仏申す。念仏とは、仏を念じることです。念仏という語は、古くは仏を観想することを指し
ていました。南無阿弥陀仏という仏の名を称えることは、執持名号、あるいは称名念仏と言って
きました。法然・親鸞流の教えでは、念仏は「南無阿弥陀仏」と口で称えることをいいます。
394渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/17(日) 10:13:57 ID:eSCVUjRd
 申すべしとあります。べしには、当然・推量・可能・命令という意味があります。申すべしと
は、当然・命令の意味で解すると、ここは一応間違いでしょう。当然の事ながら、死ぬまで称え
なければならない。蓮如上人はそのように命令する人ではありません。死ぬまで称えることもで
きるでしょう。ご真意はそのような意味になるでしょう。私たちは、死ぬときまで称え続けて行
きましょう。そのような提案であると解するのが一番妥当なところと思います。
 命令の意味はありませんが、「当然」という意味は若干あるかもしれません。親鸞は、教行信
証で「帰命は本願招喚の勅命なり」といいます。帰命は本願招喚の勅命であれば、当然死ぬとき
まで称えなければならない。そのような意思も、内心には含めてあるかも知れません。

 蓮如は、かたじけなきご恩報謝といいます。何がかたじけないのか。「往生はいまの信力によ
りて、御助けありつる」とあります。さあ、「今の信力」とはなんでしょうか。「かたじけない
といわざるような信力」とはなんでしょうか。ここが問題になります。

 かたじけない(広辞苑)
 恥かしい。面目ない。日本霊異記中「こころに―・くおもほてりし耳熱し」
 (過分の恩恵や好意を受けて)身にしみてありがたい。源氏物語桐壺「―・き御心ばへの、た
ぐひなきを頼みにてまじらひ給ふ」。「御親切―・く存じます」
 (尊貴さがそこなわれるようで)もったいない。恐れ多い。

 恥ずかしくなるような信力・面目ないような信力・御助けなどという過分の恩恵や好意を受け
るということは、身にしみるような信力・御助けを得れば、阿弥陀仏の御助けの尊貴さがそこな
われるようでもったいないような恐れ多いそのような、面目ないような信力、そう言う意味でし
ょうね。

 恥ずかしくなるような信力で御助けありつる、これがかたじけないということです。このご恩
には報謝しなければならない。その報謝のために、死ぬまで念仏を称えていきましょう。蓮如は
そのように提案しているわけです。
395渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/17(日) 10:16:37 ID:eSCVUjRd
 御助けを戴ける恥ずかしくなるような、面目ないような信力とは何か。蓮如は二つ挙げていま
す。
 第一の信
 朝夕迷いぬる我らごときのいたずらものを、助けんと誓いまします弥陀如来の本願にてましま
すぞと深く信じる。
 第二の信
 一心に二心なく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもうこころ

 朝に夕に、様々に迷っているこの愚かな自分を助けよう。阿弥陀如来はそのように誓って下さ
っている。そのように信じようということです。
 ある時は有頂天になり、次の瞬間には鬼・ケダモノとなり、あるいは地獄にも堕ちる。鬼の心
で鬼の行動を取る。これを鬼という。ケダモノの心でケダモノの行為をするもの、これをけだも
のという。朝に夕に意思と行動が変わるこの私をお助け下さろうとしているんだと思う心、これ
が第一の信です。
 一心に、ひたすら、専一に阿弥陀仏の悲願にすがり、どうかお助けください。真剣にそのよう
に思う心、これが第二の信です。蓮如は「真剣」という言葉ではなく、「まこと」という言い方をし
ています。

 蓮如は「一念の信」といいます。つまり、第一の信と第二の信と、二つあるように見えるけど、
これは一つであり、表裏一体であると言っているのです。表が第一の信であれば、裏から見ると
第二の信、裏が第一の信と見れば、表が第二の信。この表裏一体になったもの、これが南無阿弥
陀仏という形で現れます。機法一体の南無阿弥陀仏という考えはここにあります。

 たったこれだけの信力でお助け下さる。これが畏れ多い、かたじけないという言葉に表れます。

 さあ、念仏申さんと思い立つ心が起きたなら、死ぬまで念仏を称え続けよう。そう思う心、こ
れが当流の安心決定したる信心の行者の心である。蓮如はそのように教えてくれています。
396神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 10:24:07 ID:64sjiE77
>>369-370
あなたも秘密の善知識を探し出して、
秘密の口伝「弥陀をたのむ」の方法を教わって獲信された方でしょうか?
397神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 10:33:36 ID:64sjiE77
御一代記聞書より
  一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、
     水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」と
     いへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、
     御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。

これはどう頂くのでしょうか。これは無宿善の機もいるところでのご指導なのであって、
単なるカモフラージュである、ということでしょうか。
それとも「聞書」は蓮如上人が直接かかれたものではなく、口伝なので
信頼はおかない、ということなのでしょうか。あるいは、これは蓮如上人のお言葉ではなく
秘密の次第相承を受けていない方のお言葉が混ざってしまったものなのでしょうか。
398神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 10:48:08 ID:8BvU+ig1
自称妙好人(ニート海難と298)と愉快な仲間たちのスレはここですね。
399神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 11:12:54 ID:qSyTregW
>>369-370
あなたも秘密の善知識を探し出して、
秘密の口伝「弥陀をたのむ」の方法を教わって獲信された方でしょうか?

自分の場合は生まれたところが298氏が表す真宗門徒です。
家族に親類みな一念を頂いておりますよ。
400渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/17(日) 11:14:55 ID:eSCVUjRd
>>333
>ご自分の道をお進み下さい。   貴方からご指示を受ける理由はない。

>渡海様は、既にそうなっているということなのでしょうか?
  無論です。

>それであれば、問題無いのではないでしょうか。
   >>348
  未安心だと思います。未安心にて「研修」を行うなら、それは自障障他になると思います。

 疑なく往生するぞと思ひとることができない未安心の貴方から自障障他の心配をされる必要は
ない。

 自分(298)は疑なく往生するぞと思ひとることができない未安心(>348)であり、僕(渡
海 難)が信心を得ているとも思えないそんな貴方から、問題がある、ないと言われる筋はあり
ません。
 2ちゃんねるだけでも膨大な書きこみがある。渡海は信心のある人か、ない人か、信心のある
人が読めば見当がつく。それでも渡海は信心がないという人がいれば、勝手にそう思えばいい。
僕は、信心のあることをこれ見よがしに看板にしたりしない。これは僕の内心・内奥の良心に関
わることだからね。牛盗人以下と思われるのも不愉快だ。
 信心は僕(渡海難)の看板ではない。貴方のように、偽看板を掲げたりもしない。信心の無い
人(298)が信心のある人(渡海)を見れば、自分を映して信心の無い人に見える。これは鏡
の効果というそうだ。禅寺で教わったよ。
401渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/17(日) 11:15:38 ID:eSCVUjRd
>その「思ひ」を、どうやって「と(る)」のでしょうか?

 そのようなことも分からず、他人を未安心だ、自障障他などというのは、筋違いではありませ
んか?
 僕は貴方の家庭教師ではない。仏法を語ろうと思えば、まずその「思ひ」を自分でもとれるよ
うになってから言いなさいよ。秘事法門には、その「思ひ」を「と(る)」道がない。永遠の彷
徨い道であるということでしょう。


>墨で塗るとか、一枚起請文は嘘だから捨て置けとか、一体どこの話をしているのでしょうか。

 根拠としていたカキコをもう一度読み直したが、根拠と思ったカキコはこちらの誤解でした。
402298:2008/02/17(日) 11:16:22 ID:WPafjbQV
>>397

聴聞については、夏御文章に、くわしく書いてありますので、
ぜひ御拝読ください。

◎今日よりしては、あひかまへてそのいはれをききわけられ候ひて、
もとの信心のわろきことをも人にたづねられ候ひて直され候はでは、かなふべからず候ふ
(夏御文章第二通)

聴聞を心に入れてお聞きしているうちに、自らの信心のおかしいところが感じられて
きます。

そのところを、「人にたづねられ候ひて直(す)」のです。

特に、第一通と第二通を幾度か繰り返し御拝読いただければ、
わかるところもあるのではないかと思います。
403298:2008/02/17(日) 11:19:12 ID:WPafjbQV
>>399

ご縁深きご家族ご親類と拝されます。誠にすばらしいです。
南旡阿彌陀佛
404298:2008/02/17(日) 11:25:30 ID:WPafjbQV
>>400, 401
いつの間にか、渡海様が信心のある人になってますね・・・

では、未安心ではなく、異安心かどうかということになりますね。

信心いただいているのであれば、「10人が10人」すべて信をいただける方法を
ご存知ということになるでしょう。

また、師も弟子も、もろともに、信心いただけるということになるでしょう。

自分が信心獲ていて、有縁の方に信心を獲っていただくことができないならば、
異安心です。

ひとりよがりの、思い込み信心に過ぎません。

これは、私にはわかりません。研修に行った方は、いずれわかるでしょうし、
これまで渡海様と、ある程度のおつきあいがある方であれば、
わかるはずです。
405渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/17(日) 11:25:30 ID:eSCVUjRd
>360
 298が言うと、何となく空々しい。言葉に心が籠もっていればいいんだけどね(苦笑)。
406298:2008/02/17(日) 11:27:36 ID:WPafjbQV
申し訳ありませんが、私たちからすれば、渡海様は、
明らかに異安心です。

異安心にて安心獲ているというのは、正法誹謗です。

ますます、おかしな方向に進まれています。

素直な心にてお聖教を読み、どうか軌道修正されますことを。

南无阿彌陀佛
407298:2008/02/17(日) 11:29:10 ID:WPafjbQV
ちなみに、>>404はソフトな言い方、>>406はズバリと言っています。
408298:2008/02/17(日) 11:31:49 ID:WPafjbQV
ましてや、相承無き所で信心獲ているというのであれば、
新興宗教に過ぎません。
お聖教を示しても、まともな検討がなされないはずです。
まじめに信じている方であれば、未安心の方であっても、
少なくともお聖教に対する態度は、もっときちんとしたものであるでしょう。
409298:2008/02/17(日) 11:37:27 ID:WPafjbQV
信心獲ているとまで言うのであれば、なおさら今生にて、
信を獲てほしいと思います。

本当に、そう思い込んでいるのでしょうか。

もし、軽い気持ちでつい言ってしまってしまっただけなのであれば、
今後はそのようなことは厳につつしんで、
お聖教をよく読み、本当に信心をいただいてください。

人を導きたい気持ちが強いのであれば、
なおさら信をいただくのが良いのです。
410渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/17(日) 11:43:43 ID:eSCVUjRd
>404
>いつの間にか、渡海様が信心のある人になってますね・・・
     いつのまにか? (苦笑)

> では、未安心ではなく、異安心かどうかということになりますね。
     秘事法門からみて、異安心ということでしょう(苦笑)

>信心いただいているのであれば、「10人が10人」すべて信をいただける方法を
ご存知ということになるでしょう。
    杓子定規な人だ。疑城胎宮の人は、500年は無理でしょう。

>また、師も弟子も、もろともに、信心いただけるということになるでしょう。
 
 弟子一人も持たず候。秘事法門とは違うからね。御同朋・御同行の世界だ。

> 自分が信心獲ていて、有縁の方に信心を獲っていただくことができないならば、
>異安心です。

 秘事法門の教えですか?。 善鸞さんを義絶した親鸞聖人に対しては、秘事法
門の方々は、今でも怨み骨髄に達しているということでしょうか (苦笑)。
411298:2008/02/17(日) 11:45:01 ID:WPafjbQV
◎故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、
たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとの
まゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしを
みまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、
「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき(御消息)

法然聖人に会いに来られた方が、みな信心を獲られたわけではありません。

民衆に愛された聖人です。

法然聖人も、とても偉大な方であると思います。
412渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/17(日) 11:45:05 ID:eSCVUjRd
>ひとりよがりの、思い込み信心に過ぎません。
   信謗共にあるべし。信じる者もあり、謗る者ありと教わってきました。

>研修に行った方は、いずれわかるでしょうし、

 たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。行信を得る機会になればいいですね。
チャンスは一度ではないでしょう。これはご縁です。

>これまで渡海様と、ある程度のおつきあいがある方であれば、わかるはずです。
   みな、ご縁です。
413神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 11:46:26 ID:tCtSfOtS


    彡川三三三ミ
   川出 ::::::⌒ ⌒ヽ  俺は渡海 難(自称妙好人・自称善知識)だ!!
  出川::::::::ー◎-◎-)
 ..川(6|::::::::  ( 。。)) 体重120キロ以上のピザだぞ!悪いか!!
 出川;;;::∴ ノ  3  ノ  
   ノ\_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ   ライバルは298と親鸞会の高森顕徹だ!!
  ( *  ヽー--'ヽ )
  (∵ ;)  ゚ ノヽ  ゚ ):) チンポは極小で包茎だぞ!!ちなみに童貞だ!!
  (: ・ )--―'⌒ー--`,_)
  (___)ーニ三三ニ-)
  (∴ ー' ̄⌒ヽωニЗ 好きなものは座禅念仏と萌えアニメとエロゲーとスレ荒らしだ!!
   `l ・  . /メ /
    ヽ ∵  /~- /.    今日も妙好人スレを荒らしてやるぜ!!
    (__)))))_)))))
414神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 11:48:10 ID:3n6sIAz6
次第相承の善知識から教えを受けずに、信心獲ることは不可能である。
仏教は、学問や知識では無いのだ。
次第相承の善知識のいない真宗教団は、偽の信心を安売りする新興宗教なのだ!
真実の正法は、秘密門徒組織にしかない。
相承を重んじる裏念仏こそ、表念仏とならねばならない!
415渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/17(日) 11:48:22 ID:eSCVUjRd
>411
> 法然聖人に会いに来られた方が、みな信心を獲られたわけではありません。
>404
> 自分が信心獲ていて、有縁の方に信心を獲っていただくことができないならば、
異安心です。

 法然は、秘事法門にかかると異安心ということか。
 それとも298は単純なる2枚舌?  (苦笑)
416298:2008/02/17(日) 11:48:53 ID:WPafjbQV
善鸞さんの教えでは、十八願をしぼめる花にたとえられたと
言われているでしょう。
私たちは、第十八願をこそ仰いでいるのであって、
なぜ、同流に思われるのか、不思議です。
親鸞聖人の御消息を、よくよく御拝読いただけたらと思います。
417神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 11:51:39 ID:df5Xqouk
浄土三部経は仏説じゃないでしょう。
阿弥陀仏は、ゾロアスター教の神様が仏教に取り入れられた、
架空の仏でしょう。
この点について、浄土真宗ではどう受け止めていますか?
418298:2008/02/17(日) 11:51:56 ID:WPafjbQV
>>415
あさく読めば、言葉上矛盾があるだろうことは、わかって書いています。
私の書き込みに対して、そのような反応をよくしますけれども、
それでは、お聖教は、ますます読めないはずです。

全員に信を獲らせることができると言っても、
あくまでも、宿善の機に対してだけです。

心から信心をいただきたくて、聖人のもとに参った方は、
例外無くいただいているはずです。
419298:2008/02/17(日) 11:53:27 ID:WPafjbQV
>>417
私は、そのような説を採っていません。
釈尊の教えであるといただいています。
ただし、物証があるわけではありません。

釈尊は、神通により、弥陀の本願を知り、
本願成就も知り、凡夫が救われる道を、
明らかにされた方であると思っています。
420渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/17(日) 11:55:03 ID:eSCVUjRd
>416
>十八願をしぼめる花にたとえられたと言われているでしょう。

 ただ(ひたすら・専一に・一筋に)念仏しても助からざるなり
   (298 秘事法門) 

 萎んだ花は、善知識から口伝される秘事に変わったのでしょうか?。
 
421298:2008/02/17(日) 11:57:43 ID:WPafjbQV
>>420

それは私の過去の発言からの引用ですか?

「ただ」にも、いろいろな意味があるでしょう。

◎ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、
それは極楽には往生せず(御文3-3)

このような意味の「ただ」であれば、いたずら事です。

「一心に」の意味の「ただ」であれば、信心いただけます。
422神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 11:59:27 ID:df5Xqouk
>>419
自分の所属する宗派だから、
無意識にひいき目で見てるのではありませんか?
423298:2008/02/17(日) 12:01:34 ID:WPafjbQV
>>422
心から信じているのですから、ひいき目というレベルにはとどまらない
だろうと思います。
424渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/17(日) 12:02:31 ID:eSCVUjRd
>418
心から信心をいただきたくて、聖人のもとに参った方は、例外無くいただいているはずです。
法然聖人に会いに来られた方が、みな信心を獲られたわけではありません。

>「10人が10人」すべて信をいただける方法をご存知ということになるでしょう。

> あさく読めば、言葉上矛盾があるだろうことは、わかって書いています。
> 私の書き込みに対して、そのような反応をよくしますけれども、
> それでは、お聖教は、ますます読めないはずです。

 口ほど便利な道具はない。まあ、秘事法門の教えなど、こんなものなんだろう


>>421
>「一心に」の意味の「ただ」であれば、信心いただけます。

 これは、秘事法門の世界では、自力になって、いかんのじゃないか?。
 口はころころ変わっていくのかな?
425399:2008/02/17(日) 12:03:13 ID:qSyTregW
>>393 一念で信心が得られ、信心決定すると
も言われてません。一つ一つ検討していきましょう。渡海氏はこのように言っているのは
御文の場合でしょうか?

 教行真証の信巻に『ところで、『経』に『聞く』といっているのは、仏の誓いが起こされた根本の
理由とそれが完成された後の帰結とを聞いて、疑いの心がいささかもないとき、これを『聞く』という。
また『信心』といっているのは、すなわち如来が本願の力によって回向された信心であり、
『喜びにあふれる』といっているのは、身も心も喜びにつつまれている姿を現している。
また『ないしは』というのは、数の多、少をかね含んだ言葉であり、『一念』というのは、信心にニ心
がないから、一念と言ったもので、これを『一心』となずけるが、この一心は、すなはち真実の浄土に
生まれる真の原因である。

とあります。他力の一念こそが真とおっしゃておりますね。


 
426神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 12:04:12 ID:df5Xqouk
浄土宗の徳本上人という方は、
「口先で 南無阿弥陀仏と 言えばよい 心なくして 申せるものか」
と言われたそうです。
また、法然さんは、
「疑いながらも念仏すれば往生できる」
と言われたそうです。
疑いながらの口先だけの念仏でも、
まったく信心がなければ出てこないはずだ、ってことでしょうか。
427298:2008/02/17(日) 12:05:04 ID:WPafjbQV
>>422
また、私たちは、釈尊を如来と仰いでいるのであって、
釈尊が示されたさまざまな法門は、すべて、
如説に修行すれば、滅度へ至る道を示されたと
思っています。

ただ、私たちは凡夫ですので、
凡夫も救われる、易行の法門を尊んでいるに過ぎません。

たいした修行もできない私たちですので、
易行の道を選んだだけなのです。

良き方には素晴しいさまざまな法門も、
私たちには、宝の持ち腐れになってしまいます。

その価値をいただける方が、修行すべきであると思います。
428渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/17(日) 12:06:17 ID:eSCVUjRd
>425
>他力の一念こそが真とおっしゃておりますね。

 あくまで、一帳目3通目内での話です。
 あそこでは、一帳目3通目内の話です。議論を多岐にしないでください。

 なお多忙ですので、午前中はこれで終わります。
429神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 12:08:26 ID:df5Xqouk
>>427
釈尊の教えは、凡夫は凡夫なりに、
やったらやっただけの結果が得られるのではないでしょうか。
最初から、釈尊の教えを見くびっているように思えます。
430神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 12:13:30 ID:3n6sIAz6
法華経も唯摩経も無量寿経も大乗経典は全て仏説である!
釈迦如来は肉体を超越しているが故に、時空を超えて法を説く。
阿弥陀仏は、大乗の神、ゾロアスター教のアフラマツダもキリスト教のヤーヴェも神。
釈迦如来は神々の指導者である故に、無神論者は仏教徒にあらず。

431298:2008/02/17(日) 12:13:55 ID:WPafjbQV
>>426
>疑いながらの口先だけの念仏でも、
>まったく信心がなければ出てこないはずだ、ってことでしょうか。

これは、その通りです。声のあるところ、念があるのであって、
ましてや、ご聴聞されている方であれば、
法蔵菩薩のお話もご存知でいらっしゃいますし、
知らず知らず、念が出て来るからこその易行であります。

そう信じて、お念仏つづけて申されている方のおすがたは、
実に尊いのです。

「法然聖人が、『ただ口に申せば良い』とおっしゃっているから
申すのだ」という方々は、本当に尊いと思います。

そこには、まごころがあると思います。

きちんと口にお念仏となえて、化土往生になるのですけれども、
そのような方は、化土と言っても、報土に往けます。

ここは、微妙なところなのです。

「ただ口に」と言って、「『ただ口に』であるから」と言って、
ぞんざいに称えるのは、違うのです。

「至心になれない自分だから、ただ口にとなえさせていただく。
もったいないことだけれども」という方の「ただ口に」とでは、
同じ「ただ口に」でも、違います。
432神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 12:16:32 ID:64sjiE77
>>399
そうですか。家族・親類ぐるみで298さんと同じ法門なのですか。
すごいですね。

433298:2008/02/17(日) 12:18:21 ID:WPafjbQV
>>429
私たちは、釈尊の教えを、何も実行しないのではありません。
如実にできないだけです。
たとえば、三毒なども慎もうと致します。
「やったらやっただけ」というのはその通りであると思いますが、
その量が少なく、私には、須陀?果ですら得ることができないでしょう。
如実にできる方は、その道を行かれるのが良いと思います。
434神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 12:18:29 ID:64sjiE77
レスの数が多すぎて読むのに時間がかかりますわぁ
435298:2008/02/17(日) 12:19:29 ID:WPafjbQV
>>433
文字化けしてしまいました。預流果のことです。
436神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 12:19:49 ID:64sjiE77
>>411,415
つまり法然聖人も聴聞の様子をごらんになって
信心を授ける、授けないを決めておられたということですね。
437298:2008/02/17(日) 12:20:37 ID:WPafjbQV
>>429
釈尊の教えと言っても、山の様に有りますが、
どの道を指しておられますか?
「弥陀の救いは仏説にあらず」という方なのでしょうか?
438298:2008/02/17(日) 12:25:32 ID:WPafjbQV
>>436
その通りなのですが、「信心を授ける、授けないを決めて」と言うと、
語弊がある気が致します。

聖人は、ひとりでも多くの方に、伝えたかったはずです。

聞く方が、受け入れないだけなのです。

そして、誹謗正法させるわけにはいきませんので、誰にでも話すわけには
行かないのです。

いただいてくれると思われる方だけが、聞くことできたはずです。

私は参加したことがありませんので内容まではわかりませんが、
現在でも、浄土宗では、五重相伝が行われていると思います。
これも、「誰でも」とはいかないのだろうと思います。
439神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 12:26:37 ID:df5Xqouk
>>437 戒・定・慧の三学、あるいは八正道、あるいは六波羅蜜。
440298:2008/02/17(日) 12:31:38 ID:WPafjbQV
>>439
439様は、いまどこにいらっしゃるのですか?
戒を保ち、定に入っておられるのでしょうか?
戒を保てば、自らの心が見えてくるでしょう。
定に入れば、観察の力も育つでしょう。
進める方は、進むのが良いのですが、
我らのような凡夫には、本当に無理なのです。

私たちは、この世界にて正見を開くのではなく、
極楽浄土において教主弥陀の説法をたまわり、
仏道をすすめるのです。
441298:2008/02/17(日) 12:35:55 ID:WPafjbQV
>>431
>「ただ口に」と言って、「『ただ口に』であるから」と言って、
>ぞんざいに称えるのは、違うのです。

そして、このお話にもつづきがあって、
それでも、ただ口に称え続けてゆけるのであれば、
大丈夫なのです。

本当に尊い尊い南無阿弥陀仏です。
442神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 12:37:39 ID:df5Xqouk
>>440 浄土三部経の念仏往生の教えがフィクションなら、
凡夫であろうと、自分のレベルに応じて、
できるかぎりの仏道を歩むしかないでしょう。

私も凡夫ですが、
仏教の瞑想をやってみると、
色々気付かされることがあります。
443298:2008/02/17(日) 12:40:44 ID:WPafjbQV
>>442
フィクションであるなら、そうですね。
ところで、442様は、フィクションと知られたのですか?

釈尊は、在世中に、たくさんの法門を説かれたと
私たちは思っています。

どの法門でも、如説に修行される方は、
必ず、修行に応じた成果を得るはずであると思います。
444神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 12:41:23 ID:64sjiE77
>>438
五重相伝のなかにも絶対に言ってはならない秘伝があるそうです。
しかし五重相伝は法然上人の時代ではなく、
ずっと時代の下った、聖冏上人の時代に始められたものです。
445神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 12:44:26 ID:64sjiE77
歴史学や国文をやられた方ならご存知かもしれませんが
中世というのは宗教・学問・和歌・芸事などの道で、
ご内証のように「秘伝」化することが隆盛した時代でもあります。
446298:2008/02/17(日) 12:46:10 ID:WPafjbQV
>>444
私は、内容を知らないのですが、それまで伝わってきたものを、
形式を整えて、行事化した可能性があると考えています。
各地で行われていますが、内容が統一されているのかどうかも、
私は知りません。
447神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 12:50:17 ID:64sjiE77
>>446
浄土宗が宗門として行っているものです。
導師も開筵もお寺さまです。
448298:2008/02/17(日) 12:51:33 ID:WPafjbQV
>>447
そうなのですね、ありがとうございます。
449神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 12:55:43 ID:64sjiE77
>>402
「人にたづねられ候ひて直(す)」これは
「ものをもうせ」というのと同じで、自分の領解を言葉にしてみて
わからないことを積極的にたずねよ、という意味であって、
秘密の特別な「弥陀をたのむ方法」とはつながらないと思うのですが・・・
450神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 12:56:36 ID:3n6sIAz6
宗教においては、秘儀、秘伝はあたりまえのことである。
真宗の場合は、蓮如がそれを門徒に伝えたのである!
宗教は政治に取り込まれると堕落する。
これを防ぐための、蓮如の策略であったのだ!
知らぬは仏とはこのことなり。
451神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 12:57:29 ID:64sjiE77
>>450
やはりそうなのでしょうか。
452神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 13:02:37 ID:64sjiE77
そもそも秘密の法門であるならば、>>399さんのように
家族・親類のあいだで、とか、あるいは信用できる縁者をたよって、
などのように密かに静かに伝わるのがふさわしいのではないでしょうか。
453298:2008/02/17(日) 13:03:24 ID:WPafjbQV
>>449
もちろん、私がここで書いていることを、うのみにする必要は無いのです。
「自分の領解を言葉にしてみてわからないことを積極的にたずねよ」
ということにうなずかれていらっしゃるのであれば、
それを実行しているうちに、さまざまな方に会い、
さまざまな信心をお聞きし、何が本当かを、
ご自分なりに感じるようになるはずだと思います。

その真剣な姿を見て、いずれ、私たちと同じ信心獲ている方から、
お手引きがあることでしょう。

その結果、私たちと同じ道を真実と感じるかどうか、
それは、私には、わからないことなのです。
454神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 13:07:53 ID:64sjiE77
掟を守ることを条件に、秘密の特別な「弥陀をたのむ」方法を伝授されるわけですよね。

わたしは掟を守るこ自信がないです。掟は苦手です。
もし仮に298さんの法門の方からお手引きがあったとしても、
遠慮すると思います。
455神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 13:08:50 ID:64sjiE77
「こ自信」は「自信」の間違いであります。
456298:2008/02/17(日) 13:09:21 ID:WPafjbQV
>>454
求める方と、拒否する方がいるのです。
あくまでも、求める方のためのものです。
457298:2008/02/17(日) 13:12:00 ID:WPafjbQV
>>454
たとえば、>>449にて、

>「ものをもうせ」というのと同じで、自分の領解を言葉にしてみて
>わからないことを積極的にたずねよ、という意味であって、

と解釈なさっていますが、これをどの程度、実行なさっていますか?
各所にて、これを行っていれば、お手引きもあるでしょうが、
実行もされていないなら、杞憂というものです。
458298:2008/02/17(日) 13:52:07 ID:WPafjbQV
>>457
これは、解釈したら実行せねばならないということではなく、
(いろいろと解釈してから、実行を比較検討することもあるからです)
杞憂はもったいない、ということです。

拒否にもいろいろあるのですが、真宗の話に限らず、
このような「先行する拒否」は、日常生活においても、
よく見られると思います。

「掟が苦手」(>>454)とのことですが、おそらく、それは信心の厚さに由来しています。

たとえば、454様は、個人的な秘密を、皆にぺらぺらとしゃべっていますか?

もし、自制がなされているのであれば、掟の問題ではなく、
信心の問題になると思います。

つまり、「掟」という自分の外部にあるものを理由にしようとし、
自らに理由があることを、見ないようにしていることになると思います。

たとえば、454様は、家に友人が遊びにきたときに、
自分のクレジットカードの番号や、銀行のカードの暗証番号を、
ぺらぺらとしゃべってしまっていますか?

もちろん、そのような方でも、救われたい方は、
掟を保ちながら、救われることができます。

そして、真宗の話で言えば、私たちの多くは、
これまで弥陀の救いの話があったとしても、
拒否をつづけ、流転を続けることになったということになると思います。

いつか救われてほしいと思い、我らは、御恩報謝の廻向の
南無阿弥陀仏を称えるのです。
459298:2008/02/17(日) 13:57:33 ID:WPafjbQV
>>458
クレジットカードのたとえや、暗証番号のたとえを書きましたが、
通常の方であれば、宿善が開発されているならば、
掟を保つことは、易いのです。

戒を保てぬ我らにも、保てる戒をいただいて、
弥陀との約束を守れることも、よろこびであります。
460298:2008/02/17(日) 14:01:01 ID:WPafjbQV
>>390
おはようございます。ご挨拶遅くなってしまいました。
461神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 14:05:34 ID:z4aAn0Nw
掟をしゃべってしまった場合はどうなるのだろうね
462298:2008/02/17(日) 14:10:33 ID:WPafjbQV
>>461
それでも、往生治定に変わりはありません。
今までのところ、そのような例がないのは、
驚くべきことだと思います。(私が知らないだけかもしれません。)

これからは、情報化時代でありますから、
誰かが明らかにしてしまうのかもしれません。

そうなれば、誹謗が起こるはずです。
しかし、法は絶えないはずですので、
相承は、どこかで続いて行くと思います。

私のはからうところではありません。
私は、保てる限り、保つばかりです。
463298:2008/02/17(日) 14:12:27 ID:WPafjbQV
死後の往生のことを言うだけでも、
「妄想に遊んでいる」という批難が起こります。
揶揄された経験もあります。
批判する側の方は、軽い気持ちで批判しているだけなのです。
ですから、正法についても、軽い気持ちで、
簡単に気軽に批難してしまうと思います。
464神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 14:18:36 ID:z4aAn0Nw
>>463
>死後の往生のことを言うだけでも、
>「妄想に遊んでいる」という批難が起こります。
浄土系の門信徒ならそんなことないでしょう
宗教に関心のない一般人に言うなら
そうかもしれないが
465298:2008/02/17(日) 14:19:28 ID:WPafjbQV
>>462
不正確な書き方だと思うので、補足します。
私が知らないのは、現代(最近)の例です。
御文様を読みますと、当時、そのような方がいらっしゃったことが
書いてあります。
そのようなところから、見よう見まねの秘事が生じたのだと
考えます。
466298:2008/02/17(日) 14:22:46 ID:WPafjbQV
>>464
なんでも、死後往生は真宗の神話であって、
現代の真宗では、そのような非近代的なことは言わない、
私のような者は、江戸時代のちょんまげを続けているようなものだ、
とのことでした。
しかし、その方は、門徒ではないのかもしれません。

「浄土系の門信徒ならそんなことない」というのは、
もちろん私も信じたいことです。
467298:2008/02/17(日) 14:24:33 ID:WPafjbQV
「秘密、秘密」と幾度もこのスレで言われていますが、
求める方には開かれているのですから、
一般に言う「秘密」とは、少し種類が違うと思います。
468298:2008/02/17(日) 14:33:09 ID:WPafjbQV
掟について以前考えていて、私は気付いたことがあります。
そのとき私が考えたのは、次のようなことでした。
「たとえば20年修した方が、寺の広い敷地に守られて、
秘密の法を受けるなら、法の秘密も守るだろう。
しかし、真宗では、一般の家屋で、法を聞くのも
普通の人。よく、保たれてきたものだ、不思議だ」と。
そのとき私が気付いたのは、僧侶を尊いと見なし、
一般の私たちを低いものと見なす卑下の気持ち、
差別の気持ちです。
皆、法に感謝しているのですから、真剣に、守ってきたのです。
例外となる方もいらっしゃったとは言え、
多くの方が守ってきてくださったおかげで、
今に伝わり、私もいただくことできたのですから、
私も、一期の限り、守りたいと思っております。
南无阿彌陀佛
469298:2008/02/17(日) 15:04:04 ID:WPafjbQV
>>393
「一念の信まこと」につきまして、ご自分の領解を語り、
信心を明らかにされてゆけばよろしいのではないでしょうか。
470298:2008/02/17(日) 15:11:28 ID:WPafjbQV
また、語らずしても、ご自分で、御文様に照らすことできると思います。

「一念の信まこと」とありますときに、ご自分の経験と照らしまして、
「これはまことの信である」と思えるかどうかを、見て行くことになると思います。

そして、その際に、「一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて」と
なっていたかどうかだと思います。

同じく、弥陀一仏の悲願にすがる方は、信をいただけるはずです。

そして、「かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬる
われらごときのいたづらものを、たすけんと誓いまします弥陀如来の
本願にてましますぞとふかく信じて」すがったかどうかということです。
471神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 15:14:52 ID:cH+xvPlp
>>467
> 求める方には開かれているのですから、

「求める方」 = 「入会者」 じゃないの?
472298:2008/02/17(日) 15:20:52 ID:WPafjbQV
>>471
お講には属すると思いますが、いわゆる「入会」という感じとは
違うような気がします・・・

入会金の方ですか?
473神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 16:03:30 ID:3n6sIAz6
真宗秘密講には秘密の法がある。
掟により、一般公開は禁ぜられている。
この法を知れば、たちどころに獲信する秘法である!
これを知らない学者や坊主は、哀れにもいろいろと思案するばかり。
この秘法が、一般に公開されると大騒動、大誹謗、大パニックが巻き起こる!
今後は、求める者が増えれば、公開されることもあるかも知れない。
474298:2008/02/17(日) 16:19:33 ID:WPafjbQV
>>473
公開されることは、おそらく無いんじゃないかと思います。
ですけれども、蓮師の時代にも、公開していた方がいたようですから、
今後も、そのような方が出ないとは言いきれません。
475神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 17:26:24 ID:3n6sIAz6
>>474
それは、短い言葉で表せるようなものでありまするか?
それとも、一巻の書物になるような大部のものになりましょうか?
476298:2008/02/17(日) 17:38:06 ID:WPafjbQV
>>475
行者についての部分につきましては、
「一文不知の方もいただける」「易行である」ということから、
ある程度推し量ることができるのではと思います。
その他の部分については、私はわかりません。
477神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 17:38:28 ID:jBjYJcpk
このスレは

渡海難 VS 298

どっちが電波で基地外かを争うスレです。

言い換えると、自称妙好人の渡海難と298の公開オナニー合戦です。

両者に対するレスはご遠慮くささい。
478神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 17:48:44 ID:df5Xqouk
>>443 少なくとも学問の世界では、
ブッダの直説ではない後世の創作だという説が一般的でしょう。
479298:2008/02/17(日) 17:52:49 ID:WPafjbQV
>>478
各自の信じられる道を歩まれれば、良いと思います。
釈尊の直説と聞いて、「そんな気がする」と感じる方もいますし、
創作と聞いて、「そうなのかも」と思う人もいると思います。
480神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 17:55:30 ID:df5Xqouk
>>438
五重相伝の口伝の部分は、
教えを知らずにその部分だけを知ってしまうと、
誤解してしまう危険がある内容だと思います。
481298:2008/02/17(日) 18:01:20 ID:WPafjbQV
>>480
そうなのですね。だからこそ、秘されているのでしょう。
対機でお話してゆくのは、まっとうなことであると、私は思います。
真宗の教義でも、(御文様にて)「他宗には沙汰すべからず」となっているものが
いくつかあります。
482神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 18:20:58 ID:LhGEnEDa
298さんやそのお仲間の方、
他力念仏の秘伝を伝承している善知識さんや妙好人さんがいらっしゃる団体くらい明らかにされてはいかがですか?
ここまで熱心に宣伝されたのですから。
483298:2008/02/17(日) 18:23:30 ID:WPafjbQV
>>482
それは、何のためにですか?
484神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 18:25:35 ID:LhGEnEDa
求める方は導いてくださるのではないのですか?
阿弥陀様のお使い、親鸞聖人の代理として・・・。
485298:2008/02/17(日) 18:36:39 ID:WPafjbQV
>>484
求める方のためには、手間を惜しんではならないのは、
その通りです。
しかし、探している方には、必ずご縁が現れますから、
心配は要らないのです。
間違っていたら、大変申し訳ないのですが、
482様は、「宣伝」とおっしゃるくらいですから、
少なくとも、今のところは、探されていないのだと思いましたが、
間違っていたら、まことに申し訳ありません。
もし、探されているなら、私のことも探せます。

しかし、信後の相続のことを考えますと、
できましたらば、地元(あるいは近辺)でご縁を得ることが良いと思います。

探している方に、正信あることを知っていただきたいのが、
第一の目的です。
もちろん、お経様には、止住百歳と書いてあります。
それでも、よりリアルに感じることができれば、
探し方も変わって来るのではと、期待しているのです。
486神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 19:53:42 ID:LhGEnEDa
>>485
教義、儀式が秘伝ってばかりではなく、名乗れないなんて
結局、いかがわしい組織ってことじゃないですか!
渡海のほうがよほどそういう意味じゃ、参加者を募って、連絡も可能だし、健全じゃないですか?
487神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 20:04:16 ID:64sjiE77
>>486
確かに。。
488298:2008/02/17(日) 20:06:10 ID:WPafjbQV
いかがわしいかどうかは、各自が決めることです。
486様にとって、真実を説いていると思われるところで、
求めたら良いのだと思います。
探せば探せるのですから、特に問題無いと考えます。
いかがわしいと思う方は探しませんから、
特に誰も困らないのではないでしょうか。
486様が渡海様を健全と感じるのであれば、
そちらで求められたらよろしいと思います。
486様の批難の目的は、何ですか?
探されている方の、助けになりたいのですか?
その心配は、必要ないと思います。
なぜなら、求める方は、必ずいずれどこかの法脈に出会うからです。
489298:2008/02/17(日) 20:09:17 ID:WPafjbQV
>>486
486様と私とでは、健全性に対する意識が違います。
こと真宗に関しては、私にとっては、お聖教に合致する信心が
健全です。
掟のことも、御文様に書いてあるのですから、
それを不健全と感じる方は、
他宗派に行かれるのが良いと思います。
真剣に求めている方が、実際に獲信できるかどうかが重要です。
490神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 20:12:08 ID:64sjiE77
横ざまに超越する法です。頓教です。
想像もつかぬことであります。
491298:2008/02/17(日) 20:13:29 ID:WPafjbQV
その後の論旨を見る限り、
>>484は、他人事としてのいい加減なご発言であると思います。
求めている方のために努力するのは大切ですが、
ひやかしや、批難のための方に対して、
そのようなことをする必要はありません。

話せる方の人数が増えることに、直接的な意味はありません。
獲信者が増えることが大切です。

獲信者を増やそうという価値観は、一般の方とは違います。
ですから、理解が得られないことも、仕方ありません。

しかし、このスレの趣旨は、妙好人に尋ねて、
信心を獲得しようとするためのものだと思います。

そのような場であることを忘れ、
見当違いの批難をなさっているように感じます。
492神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 20:13:44 ID:64sjiE77
自分は修行を積まぬのに佛となる身と定まるなんて、
考えてみればおそれ多いことです。
493298:2008/02/17(日) 20:14:44 ID:WPafjbQV
>>492
その尊さがわかれば、
自ずから、法に頭が下がります。
494298:2008/02/17(日) 20:16:00 ID:WPafjbQV
>>492
まず、そのおそれ多さを、単に「考える」のではなく、
少しでも、感じられるようになることだと思います。
495298:2008/02/17(日) 20:18:16 ID:WPafjbQV
>>490, 492

信前であるのにそのようなことを繰り返すのは、
自己暗示のようなものになってしまって、
良くないと思います。

ひやかすのではなく、きちんと求めてゆくことを考えて下さい。

結局は、弥陀を信じていないから、そのようなことができるのです。
496神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 20:20:16 ID:64sjiE77
>>495
>弥陀を信じていない
そうかもしれません。
497298:2008/02/17(日) 20:21:20 ID:WPafjbQV
>>492
本当に尊いと感じられてくれば、
生活全般も変わって来るでしょうし、
求め方にも変化が起こるでしょう。

口先でありがたがるのを求めているわけではありません。

そのようなことをしていれば、
またもや弥陀から離れることになると思います。

よくよく、お聖教を読むことだと思います。
498神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 20:21:51 ID:64sjiE77
>>490はアレですが
>>492は私の本当の気持ちですけどね。
もう書き込むのはやめたいと思います。
ごきげんよう。
499298:2008/02/17(日) 20:23:44 ID:WPafjbQV
>>496

ほとんどの方は信じていませんから、そのこと自体を
批難しているのではありません。

信を獲たいなら、信じ切ることはできないにしても、
やはりある程度は信じていなければ、
弥陀をたのむことができないでしょう。

信を獲たいのかどうか、ご自身を、見て行くことだと思います。

そして、多くの方は、獲信など求めていませんし、
後生もたいして気にしていないのです。

私は、本当に救われたい方に向けて、お話しています。
500298:2008/02/17(日) 20:26:03 ID:WPafjbQV
>>498

「考えてみれば」ということは、そのおそれ多さに、
気付きはじめているかもしれないということでしょう。

ご自身のプライドが高く、
そのままでは、やはり弥陀をたのめません。

ですから、第二十願もあるのです。

信をいただけるかわからなくても、そのような状態でも、
口に出す方は、少しでも弥陀にたよりたい気持ちがあるのです。

第二十願は、むなしいものではありません。

弥陀は、いつまでもお待ちしています。
501298:2008/02/17(日) 20:30:13 ID:WPafjbQV
>>498

私の書き方が悪いのだと思いますが、
「佛となる身と定まる」というのは、本当の話なのです。

そのようなことが本当にあるということです。

498様にとって、私のような性格が未成熟の人間は、
つきあいにくいのだろうと思います。

有縁を探してほしいのには、この意味もあります。

やはり、ご自分で探されて、ご自分が納得行くところで
法をいただくのが、その方のためです。

法は同じ法ですけれども、信をいただいたその後は、
その場で後念相続をしてゆくわけですから。

求める方には、必ずご縁が現れます。

その体験自体が、「弥陀は本当に見ているのだ」と感じられ、
信心の助けになるのではと思います。
502298:2008/02/17(日) 20:40:13 ID:WPafjbQV
>>490
凡夫が佛になる、これ以上の奇跡はありません。

これは、いわゆる「奇跡」とは違います。

そして、そのような希な出来事が、
弥陀の無上願によって、いとも簡単に、あっという間に
達成されるのですから、信じられないのも無理のないことですし、
私も、その価値を十分に感じているとは、
とてもではないですが言えません。

私も、凡夫の想像を超えた出来事であると思います。

想像を超えているのですから、想像ができません。

体験しても、想像ができません。

つまり、我が身に何が起きたのか、よくわからないということです。

それでも、命ある間、娑婆にある間、
自分はもういただいたのですから、
望むのは、ひとりでも多くの方が、今生にて弥陀に救われることなのです。

それでも、極難信法なのですから、
信じない方が多いのは、仕方ありません。

極希にいらっしゃる、弥陀に真実を感じてくださる方を、
ひたすら探しているのです。
503298:2008/02/17(日) 20:48:06 ID:WPafjbQV
一念の念仏によって、往生が治定しています。

この無上善に、自分で加えることのできる善などありません。

ですから、信後のお念仏は、御恩報謝です。

御恩報謝と言っても、見返りを求めているのでは無いのです。

もう、救われているのですから。

これにより、やっと私は、見返りを求めない行為を理解しはじめました。

感謝による行為は、見返りを求めずして、行動のエネルギーが出てくる事を、
理解しはじめました。

御恩報謝のお念仏の功徳を十方衆生に廻向しても、
自分は極楽往生治定していますから、何ももったいなくありません。

(もともと廻向というのは、理論上はもったいないことではないのですが、
感覚的に、自分の取り分が減るような感じが私はしていました。
本当に、凡夫です。)

私がお話している方が、すぐには、弥陀に救われなくても、
いずれ弥陀に救われるのです。
その方とみかけの縁が切れましても、他所にて信をいただく助けになるかも
しれません。そしてそれは、今生なのかもしれません。
宿縁になることを、願います。(その方がいつ救われるかは、
私のはからいを超えたことです。私には、目の前のことをやるしかできません。)

苦しむことも、誹謗も、弥陀への縁になる可能性があります。

阿弥陀如来の救いは仏法であると、つくづく思います。
504298:2008/02/17(日) 20:52:32 ID:WPafjbQV
>>503
ただ、利他は、見返りの一種です。それでも、弥陀がいつかは
救ってくださいますから、こだわりが少ないと思います。
自利という見返りがなくても良いことを理解しはじめていると
思います。
それでも、利の心は強く、利他も名利につながり、
ひとりのときの御恩報謝のお念仏も、
自らのよろこびという利を求めていることを感じるのです。

ましてや人前では、名養が出てきます。

それでも、きちんと実行はできていないにせよ、
信前に比べれば、「見返りを求めない」ということの
体得がはじまっていると感じます。

「今、きちんとできている」という意味ではありません。

弥陀の真実信心は、(当然のことですが)仏道の助けになるということが、
言いたい事です。弥陀の無上方便だと感じます。凡夫なりに、
感謝しております。
南無阿弥陀仏
505神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 20:56:02 ID:64sjiE77
>>498
一言付け加えるのを忘れてました。
・何か失礼があったらどうかお許しください、ごきげんよう。です。
では・・・
506298:2008/02/17(日) 21:00:14 ID:WPafjbQV
>>505
いえ、失礼があるなら、私の方だと思います。
どうしても、できるなら、今生で弥陀に救われてほしい思いが強いので・・・
だからと言って、失礼が正当化されるわけではありません。
自らの生意気さに迷惑しております。
実際、信をいただいている方で、まろやかな人格者は、
こうしてあまり掲示板に書かないと思うのです。
ですから、私のような者ばかりではありませんから(当然ですが)、
気分がもよおしましたときに、念仏行者を探して頂ければ、
本当にうれしく思います。
真宗にご縁のある方は、弥陀に近いような気がしてしまいます。
それが凡夫のはからいであることもわかるのですが、
つい、そう思ってしまう凡夫であります。
南无阿彌陀佛
507神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 21:25:56 ID:LhGEnEDa
>>502
> 体験しても、想像ができません。

リアルに体験したのなら、想像なんてする必要がそもそもないでしょ?
508298:2008/02/17(日) 21:29:59 ID:WPafjbQV
>>507
体験とは言っても、自分で認識できるのは、凡夫の観察能力の範囲内です。
しかし最大の理由は、他力であるということです。
すべて自力の心で追いかけられるなら、自力の心がふりすてられていません。
私たちの多くが体験と読んでいることは、実際の体験の、ごく一部であると
思います。
限られた認識能力と処理能力によって、イメージを作り上げているに
過ぎないと思います。
509298:2008/02/17(日) 21:33:01 ID:WPafjbQV
>>507
別の言い方を試みてみます。
たとえば、小学生から、中学生に成長したとします。
その変化は、おそらく実際に起こったのですが、
その変化のすべてを追いかけ、想像することは、凡夫の想像を超えています。
中学生以上の方は、リアルに体験しているはずですが、
凡夫の想像を超えています。
聖道を進まれている方は、このすべてを想像できるはずだと思いますが、
凡夫である私の認識能力は超えています。
510298:2008/02/17(日) 21:42:30 ID:WPafjbQV
参考になると思いますので、引用します。

『それゆえ、ナムアミダブツを称えるとは、完全に自己を忘れることで
なければなりません。ナムアミダブツを言っていることすら意識しないのです。
しかし、この私がナムアミダブツと一体になり、名号 --アミダの名-- を
称えている当人であることを忘れるとしても、まだ充分でありません。
名号そのものが名号を称えている、ナムアミダブツがナムアミダブツを
称えている、と感得するとしましても、もし意識が残存しておれば、それはまだ
至心ではありません。至心とは、完全に自己を忘れることです。しかし同時に、
単なる忘却ではありません。通常われわれは多くのことを忘れながら
いろんなことをしているのですが、その種の忘却ではありません。
宗教的忘却、霊性的な無意識への転入 ー それがいかなる忘却であり、
いかなる無意識であるかは、自分自身で経験するしかないのです』
(鈴木大拙著、佐藤平訳『真宗入門』)

本の全体を通読する限り、少なくともこの時点では、著者と私は、
同じ信心をいただいているのでは、ありません。

しかし、この部分の多くの表現が、私の体験に通じることに私は驚き、
著者の洞察力に敬意を示したのです。

このように、おそらく体験はしないままで、どのような部分から
洞察されたのかはわかりませんが、他力の経験に迫り来る方々がいらっしゃいます。

ですから、たとえば鈴木禅師が法然聖人に出会ったならば、
親鸞聖人と同じ様に、「たちどころに他力摂生の旨趣を受得」されたのでは
ないかと想像します。
511298:2008/02/17(日) 21:44:49 ID:WPafjbQV
>>509
補足します。
しかし少なくとも、小学生から中学生へと成長する体験は、
その全体像は、ある程度、想像することができるものです。
ですけれども、全体像ですら、凡夫の想像力を超えている面があると
思います。
このように身近なものですらそうなのですから、
凡夫が往生治定し、他力の信心いただく体験は、
なおさら把握しにくいものだということが言いたいのです。

それに、把握しようとふんばっていたら、いつまでも自力になってしまうと
思います。
512神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 21:45:53 ID:3n6sIAz6
>行者についての部分につきましては、
>「一文不知の方もいただける」「易行である」ということから、
>ある程度推し量ることができるのではと思います。

秘伝の部分とは、やはり人間の霊魂に関わる問題でござりまするか?
513神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 21:46:59 ID:LhGEnEDa
そもそも、想像とは、実際に経験していないことを、こうではないかとおしはかることですよ。
あなたは、実際に経験をしたのですか?経験をしていないのですか?
514298:2008/02/17(日) 21:48:31 ID:WPafjbQV
>>513
ふつうの言い方であれば、「経験した」で構いません。
しかし、厳密な議論であれば、他力である以上、経験していないとも言えます。
つまり、経験したとも言えますし、経験していないとも言えるのです。

513様の「実際」や「経験」は、どのような意味でおっしゃっているのでしょうか。
515神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 21:53:20 ID:LhGEnEDa
>>514
>>502 をご自分で読み返して、解説してみて下さい。
516298:2008/02/17(日) 21:53:24 ID:WPafjbQV
>>512
「霊魂にかかわる」と言っても構わないと思いますが、
そのような言葉づかいにこだわってしまうと、
誤ったイメージが解釈の際に形成される可能性も高いのではと思います。

「凡夫が流転する原因である、根源無明を破砕し、
真実信心いただく」という言い方を私は好みます。

一般の方が言うところの「霊魂」は、実際には相続されない部分までも、
含んでいるような気がします。

(512様がどうかはわかりません。)

おおまかなイメージとしては、「霊魂の性質が変わる」で良いと思いますが、
512様が言うところの「霊魂」の意味がわからないと、
よくわからない面があります。
517298:2008/02/17(日) 21:56:00 ID:WPafjbQV
>>515
まず、なぜ解説を求めるのか、その意図を、観察してみてください。
その意図は、515様の心の中にあるはずです。

そして次に、不可説という教義について、考えてみてほしいです。

さらに、515様が、どれくらいわかりたいかについても、
考えてみて下さい。

いまのところ、515様に対する解説の必要性を、私はあまり感じていません。

まずは、ご自身の心の中にある、意図を観察してみてほしいと思います。

そして、それを説明してみてください。その説明を読んで、考えます。
518神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 21:56:12 ID:LhGEnEDa
>>502
> >>490
> 凡夫が佛になる、これ以上の奇跡はありません。
>
> これは、いわゆる「奇跡」とは違います。

奇跡なのですか?
奇跡ではないのですか?

あなたは、仏になったのですか?
なっていないのですか?
519298:2008/02/17(日) 21:58:21 ID:WPafjbQV
>>515
そして、私の514の問いを通過したのはなぜか、
次には、その意図を観察してほしいと思います。

南无阿彌陀佛
520神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 21:59:34 ID:LhGEnEDa
>>502
> そして、そのような希な出来事が、
> 弥陀の無上願によって、いとも簡単に、あっという間に
> 達成されるのですから、信じられないのも無理のないことですし、
> 私も、その価値を十分に感じているとは、
> とてもではないですが言えません。

弥陀の無上願によって、いとも簡単に、あっという間に達成される
ことを経験したのですか?していないのですか?

弥陀の無上願によって、いとも簡単に、あっという間に達成される
ことを想像したのですか?想像していないのですか?
521298:2008/02/17(日) 22:01:51 ID:WPafjbQV
>>518

518様は、「凡夫が佛になる」と聞いて、連想できるお聖教がありますか?

弥勒如来と弥勒菩薩の双方の言い方の関連性については、
どう把握していらっしゃいますか?

518の問いかけに答えるためには、518様の現在の認識を
知る必要があると考えます。

また、二分法で考える傾向があるように見受けられますが、
そのような思考法で捉えられる種類のものではありません。

どちらの言い方もできます。

それでも、本当に知りたいのであれば、私の問いにも、
できる範囲で、答えてほしいと思います。

それに、518様自身、何を知りたいのか、よく考えてみてください。
522298:2008/02/17(日) 22:03:47 ID:WPafjbQV
>>518

奇跡であるのは、希に起こることだからです。
奇跡でないのは、凡夫の目には見えないからです。

佛になっていないのは、凡夫だからです。
佛になったのは、極楽往生が治定し、必至滅度の願が成就しているからです。
523298:2008/02/17(日) 22:05:07 ID:WPafjbQV
>>520

経験したのは、私は既に救われているからです。
経験していないのは、私が為したことではないからです。

想像したのは、私にも、思い起こせることがあるからです。
想像していないのは、私には、思い起こせないことがあるからです。
524神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 22:05:15 ID:3n6sIAz6
霊魂に関わる問題であれば、秘伝を公開すれば誹謗が起こるのは必死!
過去にも、多くの殉教者がいた!
迫害され、拷問され、磔にされても、永遠の生命をえるために、信仰を捨てなかった。
信仰というのは、手垢にまみれた言葉だが、無数の屍の上に成り立っている!



525298:2008/02/17(日) 22:08:50 ID:WPafjbQV
>>524
もちろん、殉教者は、真宗にもいらっしゃると思います。
教えを守って死んでいった方々は、たくさんいらっしゃることでしょう。
そのような方々の御恩により、私にまで法が届いていることに、
感謝申し上げたいと思います。
526神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 22:17:47 ID:LhGEnEDa
>>502
> 凡夫が佛になる、これ以上の奇跡はありません。
> これは、いわゆる「奇跡」とは違います。
> そして、そのような希な出来事が、
> 弥陀の無上願によって、いとも簡単に、あっという間に
> 達成されるのですから、

阿弥陀仏の誓願によって生きとし生けるものすべてが救いられているのですよね。
全ての衆生が救いとられているはずなのに、
「弥陀の無上願によって、いとも簡単に、あっという間に達成される」ことが、「希な出来事」というのはおかしくありませんか?
527神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 22:23:48 ID:LhGEnEDa
>>521
> 518様は、「凡夫が佛になる」と聞いて、連想できるお聖教がありますか?

仏教の目的は、仏になることではありませんか?
お経は全て凡夫が佛になるための教えではないのですか?
ゴータマ・シッダールタという一人の凡夫が、覚りを開いてゴータマ・ブッダという仏になられたのでしょう?
528298:2008/02/17(日) 22:26:26 ID:WPafjbQV
>>526
526様の学んできた教義に、私が書いていることが反するということなのでしょうか?

一応説明を試みてみますが、できれば、お手数ですけれども、もう少し思うところを
くわしく書いていただければ助かります。

「阿弥陀仏の誓願によって生きとし生けるものすべてが救いとられている」という言い方を
することも、真宗ではあるかと思いますが、解釈する際には、「時間」について
考えねばならないと思います。

私たち凡夫からはどう見えるかと言うと、弥陀の救いは成就していますが、
実際に一切衆生が救われてゆくには、長い長い時間がかかるように見えます。

しかし、いずれ救われることはわかっていますから、
「阿弥陀仏の誓願によって生きとし生けるものすべてが救いられている」
という言い方もするのです。

私たちから見た場合、私たちが救われるには、弥陀から真実信心をいただいて、
極楽往生を治定させる必要があります。

そして、たとえば現代の日本において、獲信される方は希です。

それでも、大乗相応の地ですので、他の多くの国よりは、割合は高いのではないかと思います。
(ひょっとしたら、国単位での割合は、世界一かもしれませんが、
確信までは持てません。)

つまり、無限の時間の尺度から見れば「全員」ですから、「希」というよりは「すべて」ですけれども、
(現在日本に生きている方で、今生で救われる人数)/(現在の日本の総人口)を考えれば、
「希」であると言えると思います。
529神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 22:32:25 ID:LhGEnEDa
>>528
私はあなたと論争する気はありません。
ただ、あなたの書き込みに矛盾があると思われ、私には理解できないので質問をしているだけです。
530298:2008/02/17(日) 22:32:45 ID:WPafjbQV
>>527

お答えくださり、ありがとうございます。
現在、527様がどのような認識を持っているのかが、知りたかったのです。

仏教の目的は、仏になることであると、私も思います。
お経は全て凡夫が佛になるための教えであると私も思います。

先程>>528にて書いたこととも関連するのですが、
「凡夫が佛になる」という表現では、「時間」に気をつける必要があると思います。

弥陀の救いにおいて、凡夫が滅度に至るのは、救われてから、まだ先のことです。

しかし、必至滅度の願がある以上、必ず滅度に至り、しかも、
一度救われれば、不退転です。

不退転に住すが故に、「佛になる」と表現をします。
531298:2008/02/17(日) 22:36:15 ID:WPafjbQV
>>529

わかりたいための論争(という表現が適切かはわかりませんが)であれば、
私は構いません。

不審を問うこと自体は、奨励されているからです。

私がいくつか質問をしたのは、529様の仏教理解がよくわからず、
どう答えるのがよいか、考える参考にするためです。

528の回答については、どう思われますでしょうか。
なるべく、思う所を明らかにしてくださいますと、とても助かります。
532298:2008/02/17(日) 22:40:08 ID:WPafjbQV
>>529
また、言葉上矛盾があるのは、それがそもそも真宗の作法であると
お考えください。
そこを尋ねて来る方を期待しているのです。
そのようにして、互いに理解が進みます。
言葉上の整合性を追究しても、死んだ理論になってしまい、
実際の救いには(真宗の場合には)あまり役に立たないのではないかと思います。
533神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 22:41:04 ID:LhGEnEDa
>>528
> そして、たとえば現代の日本において、獲信される方は希です。

あなたが経験された秘法によれば現代の日本において獲信することは可能で
生きながらにして救われるのでしょう?
希なのは秘法としてその秘法が受けられる場所すら明らかにされていないからでしょう?
どうして、弥陀の誓願の全ての衆生を救いとるという願い通り、多くの人に機縁を与えようとしないのでしょうか?
往相・還相の回向ということがありますよね。
先達として救われたあなたは、後に続くものを救うはずなのではありませんか?
534298:2008/02/17(日) 22:51:57 ID:WPafjbQV
>>533
明らかにしていないわけではありません。
もちろん、可能と思われる際には、日常生活においても、お手引きをしています。
そして、この一連のスレを見てみてください。
さわりを聞くだけでも、拒否する方が多いことが、わかると思います。
一方、この掲示板からでも、実際に私を尋ね、会いに来た方もいらっしゃいます。
探している方には、この程度の明らかさで十分なのです。
私はまだ知りませんが、この掲示板を見て、有縁の方を尋ね、
探しはじめ、念仏行者に出会い、獲信された方もいらっしゃるかもしれません。
もしかしたら、これまで会ったことのある方の中に、獲信者がいらっしゃったかもしれません。
それに、このスレの内容を読んで、思い当たった方もいるかもしれませんし、
これから出るかもしれません。
実際、過去(蓮師の御文の時代です)、「多くの方を救うためには」ということだと
思いますが、弥陀の救いの法を公開された方もいらっしゃるらしいです。
その結果、かえって廃れたと書いてあります。
少しでも多くの方に機縁を持ってほしいから、こちらの掲示板にも書き込みをしています。
(お聖教に書いてあるような)弥陀の救いの法は、もう絶えてしまっていると
考えている方もいると思います。
そのような方に、お約束どおり、今でも法が生きていることを
知って欲しいのです。もちろん、私のやり方は、これからどんどん改善してゆきたいと
考えています。私は、これから日本に真宗再興の時代が来ると考えています。
希なのは、信じることができないからです。
535神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 22:51:58 ID:LhGEnEDa
>>502
> 極希にいらっしゃる、弥陀に真実を感じてくださる方を、
> ひたすら探しているのです。

阿弥陀仏の誓願によって生きとし生けるものすべてが救いられている、
第十八願は、
心から浄土に往生したいと願って、阿弥陀仏の救済を願い、
「南無阿弥陀仏」(南無とは帰依するの意)と自分の名をたとえ10遍でも念ずる者は、
すべて阿弥陀仏の国である極楽浄土に救いとってやろう、
という誓願ですよね。
あなたは、得信されたということは、この本願を信じられていらっしゃるということでしょう?
なのに、弥陀の真実を感じるものが極希だと言われるのは、弥陀の誓願を信じていないということではありませんか?
536298:2008/02/17(日) 23:01:02 ID:WPafjbQV
>>535
弥陀の誓願を、どう解釈するかだと思います。
「ただ口に十遍称える」だけでは、第十八願に相当しないと私たちは考えます。
確かに、ただ口にするだけで報土往生できるなら、その方が凡夫が救われ易いように
私にも感じられますが、弥陀の五劫思惟の結論ですから、
私の推測よりも、弥陀が正しいだろうと信じています。
なぜそうなるかの推測ですが、おそらく願成就ができなくなってしまうのではないでしょうか。
弥陀の本願は、既に成就しており、実際に機能していると私は考えます。
乃至十念というのは、一念も含み、聞も含むというのが、
私の解釈です。
しかし、それには、回向される三心が必要です。
実際上は、

      「聞其名号」とは何か

ということです。それを、次第相承の善知識に聞き開かねばならないというのが、
繰り返し私が書いていることです。
537神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 23:06:52 ID:LhGEnEDa
>>536
> 「ただ口に十遍称える」だけでは、第十八願に相当しないと私たちは考えます。
> 確かに、ただ口にするだけで報土往生できるなら、その方が凡夫が救われ易いように
> 私にも感じられますが

どうして「乃至十念せん。」だけを抜き出されるのですか?
「十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。」でしょう?
538298:2008/02/17(日) 23:12:44 ID:WPafjbQV
>>537
>どうして「乃至十念せん。」だけを抜き出されるのですか?

すみません、そこがポイントだと思ったからです。

第十八願について述べてゆくとなると、かなり長くなってしまいます。

>「十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。」でしょう?

「十方衆生」が「至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて」という条件を
満たさねばなりません。そして、「乃至十念」で条件が満たされます。

後ろの条件を抜いたのは、後ろが満たされているとき、前の条件は満たされているからです。

また、大経の下巻には、願成就文があり、そこに「聞其名号」という条件が出てくるのです。
539神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 23:15:36 ID:LhGEnEDa
>>536
> 弥陀の誓願を、どう解釈するかだと思います。

解釈とは、文章や物事の意味を、受け手の側から理解すること。
他力の本願に凡夫の解釈が必要なのでしょうか?
ましてやあなたは得信されたのでしょう?
本願をそのまま受け取られたのではありませんか?
阿弥陀様が、すべての生きとし生けるものを救いとったといわれるのですから、
そのまま素直に信じるというのが他力の信心ではありませんか?
540298:2008/02/17(日) 23:20:32 ID:WPafjbQV
>>539

議論がかみ合っていないように思います。

他力の本願に凡夫の解釈が必要かどうかではなく、
実際に、第十八願や、願成就文の解釈は、分かれていると思います。

「阿弥陀様が、すべての生きとし生けるものを救いとったといわれる」
というのも、539様の解釈です。

私も、「阿弥陀様が、すべての生きとし生けるものを救いとった」ということを、
信じています。(>>528にてお書きした通りです。)

私としては、大経のおことばを、そのまま素直に受け取りたいと思いますが、
その際、自分の解釈が入り込むことは、避けられないと思います。

539様は、「他力の信心とは何か」ということについての、ご意見をお持ちで、
そのご意見と、私の書いていることが、合わないということでしょうか?
541神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 23:26:12 ID:LhGEnEDa
>>540
> 他力の本願に凡夫の解釈が必要かどうかではなく、
> 実際に、第十八願や、願成就文の解釈は、分かれていると思います。

解釈が必要なのは、信仰としてではなく学問として研究する学者か、
未だ信仰できずに疑いを持つ者がすることでしょう?
得信、信じたということは、もはや解釈で揺れ動くことのない信仰を得たということではないのですか?
542神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 23:28:34 ID:LhGEnEDa
>>540
> 実際に、第十八願や、願成就文の解釈は、分かれていると思います。

世の中の信心を得ていないものの解釈など、信心を得た人にとっては関係ないのではないですか?
543298:2008/02/17(日) 23:34:07 ID:WPafjbQV
>>542

ああ、そういうことなのですか。
「関係無い」と言ってしまっては、確かにそうかもしれませんが、
それでは、コミュニケーションがむずかしくなってしまうでしょう。

お聖教について興味の無い方であれば、簡単に、
「阿弥陀様が救ってくださるんだよ」とお手引きすることもできるのかもしれません。

つまり、自らが信心を獲る上では、もう必要ないのかもしれませんが、
他の方にわかっていただくために、必要なのではないかと思います。
544神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 23:36:23 ID:LhGEnEDa
>>540
> 「阿弥陀様が、すべての生きとし生けるものを救いとったといわれる」
> というのも、539様の解釈です。

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。
もし生ぜずは、正覚を取らじ。

解釈ではありません。
法蔵菩薩は、この誓願を成就されたから、正覚を取られて阿弥陀仏となられたのでしょう?
だから、すべてのものは念仏をして往生することは決定しているのです。
お経の言葉そのままであって私の解釈ではありません。
545298:2008/02/17(日) 23:39:41 ID:WPafjbQV
>>543

>他の方にわかっていただくために、必要なのではないかと思います。

ただ、これは、私の個人的な意見ですね。

「自分が絶対に正しい!」というスタンスで、ぐいぐい説く方も、
いらっしゃるのかもしれません。

しかし、触光柔軟の願もありますし、いつまでも、そういう感じには
ならないのではないかと思います。

また、獲信していても、皆がお聖教を読めるとは限りません。

そういう方の場合には、お聖教の解釈を語ることは、あまり無いと思います。

獲信する上では、行者がお聖教の解釈を知る必要はありません。

(獲信する上で必要なことは、すべて善知識が教えてくださいます。)

しかし、信後相続において、「たしかにお聖教に書いてある通りである」ということを
確認してゆくことにより、よろこびが増し、正統性の自覚が増すということは、
あると思います。

ですけれども、現代においては、真宗に興味があって、なかなか獲信できない方の場合、
自分でお聖教を読み込んでゆく場合も多いのではないかと思います。

そのような方に対しては、信前の疑心を解いてゆく上で、
お聖教について説明してゆくことは、助けになると思います。
546298:2008/02/17(日) 23:41:05 ID:WPafjbQV
>>544

>すべてのものは念仏をして往生することは決定している

これは、私もそう思いますよ。

では、「念仏」とは何ですか?

実際に、信をいただくとなれば、解釈が入り込んで来るのではないですか?
547神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 23:42:13 ID:LhGEnEDa
>>543
> 他の方にわかっていただくために、必要なのではないかと思います。

>>502
> 凡夫が佛になる、これ以上の奇跡はありません。
> そして、そのような希な出来事が、
> 弥陀の無上願によって、いとも簡単に、あっという間に
> 達成されるのですから、

百聞は一見にしかず、経験していただけばよろしいのではないですか?

> 自分はもういただいたのですから、
> 望むのは、ひとりでも多くの方が、今生にて弥陀に救われることなのです。

> 極希にいらっしゃる、弥陀に真実を感じてくださる方を、
> ひたすら探しているのです。

こういう願いを持っていらっしゃるのですから・・・。
548神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 23:44:57 ID:LhGEnEDa
>>546
> では、「念仏」とは何ですか?

至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん

解釈など必要ないのではないですか?
549神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 23:46:55 ID:LhGEnEDa
>>546
> 実際に、信をいただくとなれば、解釈が入り込んで来るのではないですか?

本願により約束された、如来よりたまわりたる信心、解釈は必要ないのではないですか?
550298:2008/02/17(日) 23:49:16 ID:WPafjbQV
>>547

>百聞は一見にしかず、経験していただけばよろしいのではないですか?

これは全くその通りで、ですから、「信心為先」と繰り返し申しております。

信前にて、あれこれ言っても、単なる想像ですので、お聖教を学ぶにしても、
とにかく信をいただいてから、学んでゆく方が早いと考えます。

なかなか信じていただけないだけですね。

一心に弥陀をたのまねばならないのですから、無理やりやらせることはできないですから、
ご本人の自発性が必要で、しかもその自発性は、無意識によるものなのです。

意識レベルで信じないのではなくて、無意識レベルで信じられないから、
たのめないのです。

ですから、第十九願、第二十願も大切です。

凡夫が悟るのを邪魔する「魔」の働きがありますので、
ある程度守られていないと、実際には、弥陀をたのむところまで進めません。

自分が信を獲ってしまえば、「なるほど易行だ」とわかりますけれども、
もし547様が信を獲ればわかると思いますが、なかなか信じていただけないものなのです。

易行にて、大利がいただけるのですから、こんなに良いものは無いと、
私たちは思いますけれども・・・
551神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 23:49:20 ID:StZ7IKnA
>>530
>しかし、必至滅度の願がある以上、必ず滅度に至り、しかも、
>一度救われれば、不退転です。

滅度=無上涅槃
順序が逆だよ
552298:2008/02/17(日) 23:51:31 ID:WPafjbQV
>>548

>解釈など必要ないのではないですか?

では、「至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん」が実行できますか?

もしできるなら、獲信できることになります。

善知識に六字のいわれを聞き開くというのは、本願の解釈(の一部)を聞くということと、
同じです。
553298:2008/02/17(日) 23:54:05 ID:WPafjbQV
>>551
必至滅度というのは、その時点で滅度に至るということではなくて、
将来においての滅度が確定することを指します。
そして、確定した時点では、正定聚不退転の位です。
わかりにくい書き方で、申し訳ありませんでした。
554神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 23:54:57 ID:LhGEnEDa
>>545
> 獲信する上では、行者がお聖教の解釈を知る必要はありません。

> ですけれども、現代においては、真宗に興味があって、なかなか獲信できない方の場合、
> 自分でお聖教を読み込んでゆく場合も多いのではないかと思います。

自分でお聖教を読み込んでゆくことなど必要ないと教えてあげればよろしいのではないですか?
555298:2008/02/17(日) 23:58:52 ID:WPafjbQV
>>554

>自分でお聖教を読み込んでゆくことなど必要ないと教えてあげればよろしいのではないですか?

それで通じそうな方には、そうお伝えしています。

実際、私がお手引きして獲信した人の中には、お聖教を読んだことの無い人もいます。
556神も仏も名無しさん:2008/02/17(日) 23:59:28 ID:LhGEnEDa
>>552
> では、「至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん」が実行できますか?

これは阿弥陀さんの誓願、阿弥陀さんの約束ですよ?
皆に実行させると約束されて、その願を成就されたのです。
それをあなたは信じたのでしょう?
信じた方が、「実行できますか?」?
あなたは、阿弥陀様を信じていないではないですか。
557神も仏も名無しさん:2008/02/18(月) 00:05:14 ID:GJDGPLJz
落ちます
558298:2008/02/18(月) 00:05:15 ID:73bGZrLP
>>556

私から見ると、556様は、ご自分の解釈を堅固にお持ちでいらっしゃるように見えます・・・

弥陀の願は確かに成就していますから、556様も、弥陀をたのめば、
すぐに獲信できることでしょう。

私が言っているのは、「今すぐ」実行できますか? ということです。

未来永劫の時間を考えるならば、いずれ実行されると思います。
559298:2008/02/18(月) 00:14:57 ID:73bGZrLP
>>556

「皆に実行させる」の「させる」は、どの文字の解釈ですか?
5607:2008/02/18(月) 09:15:18 ID:aSrUcGDw
おはようございます。今日もいい天気になりそうです。
561神も仏も名無しさん:2008/02/18(月) 09:52:19 ID:r0GGuhCQ
>534
「この掲示板からでも、実際に私を尋ね、会いに来た方もいらっしゃいます。」
連絡先も何もわからないというのに。
これはまた一つのミステリーだ。
562渡海 難  ◇Fe19/y1.mI:2008/02/18(月) 10:00:35 ID:DywZv5iU


    彡川三三三ミ
   川出 ::::::⌒ ⌒ヽ  俺は渡海 難(自称妙好人・自称善知識)だ!!
  出川::::::::ー◎-◎-)
 ..川(6|::::::::  ( 。。)) 体重120キロ以上のピザだぞ!悪いか!!
 出川;;;::∴ ノ  3  ノ  
   ノ\_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ   ライバルは298と親鸞会の高森顕徹だ!!
  ( *  ヽー--'ヽ )
  (∵ ;)  ゚ ノヽ  ゚ ):) チンポは極小で包茎だぞ!!ちなみに童貞だ!!
  (: ・ )--―'⌒ー--`,_)
  (___)ーニ三三ニ-)
  (∴ ー' ̄⌒ヽωニЗ 好きなものは座禅念仏と萌えアニメとエロゲーとスレ荒らしだ!!
   `l ・  . /メ /
    ヽ ∵  /~- /.    今日も妙好人スレを荒らしてやるぜ!!
    (__)))))_)))))
563渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/18(月) 11:59:46 ID:UzmGHRde
 298さんが是非読んで欲しいと言っている御文、四帳目五通を拝読しよう。
 298さんは言う。「公開の場所にて正雑二行の沙汰をしてはいけない」とはっきり書いてあ
る(>>66)。書いてあるんだろうか?。

 それ、中古已来、当時にいたるまでも、当流の勧化をいたすその人数のなかにおいて、さらに
宿善の有無ということをしらずして勧化をなすなり。

 中古つまり親鸞聖人の時代から、当時つまり応仁の乱・戦国の時代に至るまで、浄土真宗の教
えを説こうという人はたくさんいた。そういう人はたくさんいても、宿善の有無ということをほ
とんど考えないで、無闇にこれを説こうしている人々がいる。

 所詮自今已後においては、このいわれを存知せしめて、たとい聖教をも読み、また暫時に法門
をいわんときも、この心を覚悟して一流の法義をば讃嘆し、あるいはまた仏法聴聞のためにとて、
人数多く集まりたらんときも、この人数の中において、もし無宿善の機やあるらんとおもいて、
一流真実の法義を沙汰すべからざるところに、近代人々の勧化する体たらくを見及ぶに、この覚
悟はなく、ただいずれの機なりとも、よく勧化せば、などか当流の安心にもとづかざらんように
思いはんべりき。

 今後、浄土真宗の教えを説こうという人は、宿善という言葉の概念を認識すべきである。例え
ば人に聖教を読み聞かせるとき、あるいは法門を説こうと言うとき、宿善という言葉の意味をし
っかり認識したうえで、浄土真宗の教えの素晴らしさを紹介すべきであろう。仏法を聞きに多く
の人々が集まってくれば、一人一人における仏法の馴染みの深さは千差万別である。一を言えば
十を知り、ツーと言えばカーと応える人もいるだろう。しかし、十を言えば一を知るのがやっと
という人もいる。繰り返し繰り返し同じ事を言わなければならないひともいる。実に様々なご縁の方
が集まってきていると、そのように考えなければならない。

 話は、場所と時と聴衆に合わせて行っていく。仏法との馴染みの深い人ばかりがいるところで
は深い話もする。聞き始めの人がたくさんいるような所では、いきなり難しい話をしてはいけな
い。最近、法を説いている人々の様子を見ると、場所と時と聴衆に合わせようという思いが無い。
564渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/18(月) 12:00:50 ID:UzmGHRde
一流真実の難しい話をするような時・場所でないところで、いきなり難しい話をする。誰彼かま
わず、相手を見ないでとにかく布教・伝道すればいいと思っているようだ。どうしてそんな風に
思うのだろうか。結局、浄土真宗の心に安んじてないからだろう。そのように考える。

これあやまりとしるべし。
 場所と時間と聴衆とを考えない説き方は間違えであると認識してほしい。

かくのごときの次第をねんごろに存知して、当流の勧化をばいたすべきものなり。
 浄土真宗の教化活動は、以上のことを慎重に理解して行うべきである。

中古このごろにいたるまで、さらにそのこころをえて、うつくしく勧化する人なし。
 親鸞聖人の時代から応仁の乱・戦国の時代に至るまで、教化活動の本来の考えをもって正しく
行っている人はほとんどいない。

これらのおもむきをよくよく覚悟して、かたのごとく勧化をいたすべきものなり。
 多くの人が集まってきてくれた時には、どのような人が聞きに来てくれているのか、よく考え
るべきだろう。場所と時間と聴衆とを考え、難しい話をする場合か、易しい話をする場合かをよ
く考えないといけない。きちんとルールを定め、ルールに基づいて教化活動をすべきである。

そもそも、今月二十八日は、毎年の儀として、懈怠なく、開山聖人の報恩謝徳のために、念仏勤
行をいたさんと擬する人数これ多し。
 今月28日は、各地で毎年恒例の念仏勤行、開山聖人に報恩を感謝する記念会を、過誤なくし
ようと計画している人が多くいる。

まことにもって、ながれをくんで本源をたずぬる道理を存知せるがゆえなり。
 なぜこのようなことをするのか。それはものごとの本質に戻る大切さを知っているからである。
565渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/18(月) 12:01:33 ID:UzmGHRde
ひとえにこれ聖人の勧化のあまねきがいたすところなり。
 我々がこうして浄土真宗の教えに出会えているのは、全て親鸞聖人の布教のお陰である。

しかるあいだ、近年ことのほか当流に讃嘆せざるひが法門をたてて、諸人をまどわしめて、ある
いはそのところの地頭・領主にもとがめられ、わが身も悪見に住して、当流の真実なる安心のか
たも、ただしからざるようにみおよべり。
 しかし、最近では浄土真宗と言いながら、親鸞聖人の教えに反し、賛嘆を忘れた間違った法門
を立て、人々を惑わしている人もいる。地元の警察・地方政府にとがめられても、自らの間違っ
た見解に固執している。心を安んじる浄土真宗の本質的概念の理解も、どうも違っているようだ

あさましき次第にあらずや。かなしむべし、おそるべし。
 残念なことである。悲しいことである。恐ろしいことである。

所詮、今月報恩講七昼夜のうちにおいて、各々に改悔の心をおこして、わが身のあやまれるとこ
ろの心中を、心底に残さずして、当寺の御影前において、回心懺悔して、諸人の耳にこれを聞か
しむるように、毎日毎夜に語るべし。
 誤った法門を立て、諸人を惑わしている人々は、今月の報恩講の七昼夜の中でそれぞれ、反省
の心を起こして欲しい。報恩講を行う寺の親鸞聖人の御影前で、自分の行ってきた間違った思い
を、心の底から余すことなく吐き出し手欲しい。心から謝罪し、謝罪していることを人々に聞い
て貰うよう、毎日毎晩語って欲しい。

これすなわち謗法闡提回心皆往の御釈にあいかない、また、自信教人信の義にも相応すべきもの
なり。
 このようにすれば、仮に今まで間違ったことを言って人々を誤らせたとしても、謗法闡提回心
皆往の考えに合致し、自信教人信の考えの本質にも相応することになるだろう。
566渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/18(月) 12:18:37 ID:UzmGHRde
しからば、まことにこころあらん人々は、この回心懺悔を聞きても、げにもと思いて、同じく日
ごろの悪心を翻して、善心になりかえる人もあるべし。
 真剣に反省している人の言葉を聞けば、真剣な心のある人は、同じような間違いを冒していた
人でも、本当にそうだなと思い、反省している人の思いに動かされ、日頃の自分の間違った考え
を改め、善心になるという人もあるだろう。

これぞまことに今月聖人の御忌の本懐にあいかなうべし。
 これこそ、今月、親鸞聖人ご命日記念会を行う本来の意味にも叶うだろう。

これすなわち報恩謝徳の懇志たるべきものなり。
 これこそ、親鸞聖人対する報恩感謝の心であると言うべきである。

あなかしこ、あなかしこ。 文明十四年十一月二十一日


 秘事法門が使っている御文と、一般に公開されている御文とは、内容が違うようだ。
 公開の場所にて正雑二行の沙汰をしてはいけないとはっきり書いてある」部分はどこにもない。
 どっちが本物なんだろう。本願寺は、「自分たちの方が本物だ」という。秘事法門も「自分たちの
方が本物だ」という。
 結局、水掛け論になる。真相は藪の中だ。
567298:2008/02/18(月) 12:34:05 ID:73bGZrLP
「正雑二行の沙汰」の意味がわかっていないだけでは
ないでしょうか。

御文の引用も幾度もしているのに、
相変わらず妄想していますし。
568298:2008/02/18(月) 12:44:14 ID:73bGZrLP
渡海流の解釈を多く含む訳文をもとに、
私が御文を改竄していると主張しているわけでしょう?

本気でそういう主張をしているとしたら、
かなり危ない人ですよ。

渡海氏の周辺では、渡海訳お文を、原典としているのですか?

とんでもないことだと思いますが・・・

容易に入手できるのですから、書店等で原典を入手し、
五帖八十通を自ら読み、渡海氏の教えと比較検討してほしいと思います。
569298:2008/02/18(月) 12:55:39 ID:73bGZrLP
私が御文を改竄して引用しているかどうかは、
書店等で入手できる御文と、私の引文を比較すれば、
すぐにわかることです。

このように簡単に確かめることができることについてすら、
堂々と否定するというのは、自分で確かめないタイプの方々を
だまし、支配したい方に多く見られる性質だと思います。

思想は、各自違うものだと思いますが、
私が御文を改竄しているという主張は、受け入れられるものではありません。
570298:2008/02/18(月) 12:59:15 ID:73bGZrLP
私が引いている御文は、現在広く用いられているものです。

(細かい引用ミス等あるかもしれませんが、指摘されれば、直します。)

それを、「内容が違う」と主張しているのが、渡海氏です。

しかも、渡海氏は、自らの教えを、
「法然聖人、親鸞聖人に伺った」ものとし、
相承を否定しています。

自流を立てる輩と言わざるを得ません。
571神も仏も名無しさん:2008/02/18(月) 13:04:27 ID:OP9NJMUz
輪廻転生、宿業を説けば差別助長と罵られ。
弥陀の救い、地獄極楽の実在を説けば、秘事法門、異安心のレッテル貼られ。
霊魂不滅を説けば、仏教無霊魂説を強要され。
宗教修行を説けば、カルトやオウムと馬鹿にされ。
まことに日本は、唯物論大国である。

572渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/18(月) 13:14:00 ID:UzmGHRde
>567
> 御文の引用も幾度もしているのに、相変わらず妄想していますし。

 あなたは、(>>66)で、御文4-5には、「公開の場所にて正雑二行の沙汰をしてはいけない」と
はっきり書いてあると言っているんですよ。違いますか?
 御文4-5について、秘事法門では、これとは違う内容のものをお使いなんでしょう?

>568
>渡海氏の周辺では、渡海訳お文を、原典としているのですか?

 訳文は参考です。私の解釈が入っています。
 市販の原文も、すべて併記してあります。原文だけでもお読みください。
秘事法門でお使いの聖教と、原文でも内容が違っているでしょう。

>569
>私が御文を改竄しているという主張は、受け入れられるものではありません。

 御文を改竄している? はて?誰かがそのようなことを言いましたか?心当たりがない。
渡海の主張を改竄することは、受け入れられるものではありません。


573渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/18(月) 13:19:12 ID:UzmGHRde
>570
> 私が引いている御文は、現在広く用いられているものです。

 はて?「公開の場所にて正雑二行の沙汰をしてはいけない」と
四帳目五通ではっきり書いてあるそんな御文が市販されているんですか?
 秘事法門教会に申し込むと入手できるのでしょうか? (微笑)
574神も仏も名無しさん:2008/02/18(月) 13:24:33 ID:XAWKEqHz
お文に二通りなんてあるわけないことが分っていながら
確信犯的にゴネてるんでしょ。渡海さんは。
どんな状況でも、かまってくれたら嬉しいんだと思いますよ。

・・けど、もし、本気で言ってるのなら驚くべき人と言わねばなりませんが。

どっちにしろ、スルーでいいんじゃないですか?
575298:2008/02/18(月) 13:56:49 ID:73bGZrLP
>>574

一時スルーしてたんですけど・・・

途中で、「アポーン機能」というのを覚えて、一応非表示にしてるんです。

でも、あんまり非表示が連なっていると、つい、見てしまうんですよね、
さみしそうで。

おっしゃる通り、構ってほしいんだと思ってます。

私も、もし渡海様が本気だったら驚くのですが、どちらなのか、よくわからないです。

何がご縁になるか、わからないですし・・・

いずれにしても、何か気になるんでしょうね。

それが、宿善のもよおしであればいいな、と思っています。
576298:2008/02/18(月) 14:11:16 ID:73bGZrLP
渡海氏が幾たびも書いてくるので、また説明しますけれども、
渡海氏にとって、このような行為は、自らの読解力の程度をあらわにするだけであって、
「法然聖人、親鸞聖人に伺っている」という主張と合まって、
ご自身の主張のいい加減さが明らかになってゆくだけだと思いますが・・・

「霊能ではない」とのことですので、「伺う」とは、書を通してのことなのだと
受け止めています。

◎あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、
この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもひて、
一流真実の法義を沙汰すべからざるところ(御文4-5)

「人数おほくあつまりたらんとき」とありますが、これを公開の場と解釈されないの
でしょうか?

ここでの本質は、「もし無宿善の機やあるらん」ということです。

2chでは、誰でも見ることができるために、無宿善の機が見る可能性があります。

ですから、一流真実の法義を沙汰すべき場所ではありません。

そして、「もし無宿善の機やあるらん」とある以上、獲信者のみの
集まりを指しているのではないとわかるはずです。

では、「一流真実の法義を沙汰」とは、「正雑二行の沙汰」にあたるかどうかですが、
この部分が、疑問なんでしょうか?

あれだけ強く言い切るということは、自身が「読めていない」という自覚が無いという
ことを表現しているのだと思います。
577298:2008/02/18(月) 14:13:25 ID:73bGZrLP
>>574
一応、>>567-570のようなことを書いたのは、お聖教をあまり読んだことのない方が
スレを見たときに、誤解する可能性があると思ったからです。

渡海氏は、自信満々に書いていますから、知らない人が見たら、
勘違いする可能性があると思います。

ですので、私の意図としては、渡海氏とやり取りをする際には、
有縁の方に、私の主張がよくわかるように、
渡海氏とのやり取りを通じて、私の主張が浮き上がって来るように
対話することを心がけるようにしています。
578神も仏も名無しさん:2008/02/18(月) 14:20:37 ID:XAWKEqHz
>>577
なるほど・・・
いろいろと苦心されているんですね。
ご丁寧な御勧化に頭が下がる思いです。
一人でも多くの方に、信不退の座についていただきたいものです。
579298:2008/02/18(月) 14:37:12 ID:73bGZrLP
>>578
そうですね、信不退の座についてほしいです。
これは、娑婆の仕事でもそうですが、成果をあせらず、
目の前のことを着々と積み上げて行くことが大切だと
思います。

私が一方的に書いているだけでは、
読んでいる方が、退屈してしまうと思います。

なぜなら、多くの方は、感情的刺激、すなわち、感情の起伏を
求めるからです。

ですから、チャチャが入ることは、悪い面だけではなく、
娯楽的要素が増し、読み易くなるという利点が有ります。

しかし、あんまり品位が下がるのも、問題です。

これは、方便としてですね・・・

どのような方も救う弥陀の救いですから、相手の方に合わせてゆくのが
原則ですけれども、特に公開の場所においては、
一定の品位は要求されると思います。

(現代においては、この品位は、かなりくだけたものでも
大丈夫になっていると思います。)

私は2chにこだわりがあるわけではありません。

今のところ、私の目の前にあることですから、行っています。
私は、弥陀の導きを信じていますから、流れにしたがっているのです。
580渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/18(月) 15:02:43 ID:UzmGHRde
>574
 二種類の御文があるようですよ。
 本願寺市販本
 所詮自今已後においては、このいわれを存知せしめて、たとい聖教をも読み、また暫時に法門
をいわんときも、この心を覚悟して一流の法義をば讃嘆し、あるいはまた仏法聴聞のためにとて、
人数多く集まりたらんときも、この人数の中において、もし無宿善の機やあるらんとおもいて、
一流真実の法義を沙汰すべからざるところに、近代人々の勧化する体たらくを見及ぶに、この覚
悟はなく、ただいずれの機なりとも、よく勧化せば、などか当流の安心にもとづかざらんように
思いはんべりき。

 秘事法門市販本
 所詮自今已後においては、このいわれを存知せしめて、たとい聖教をも読み、また暫時に法門
をいわんときも、この心を覚悟して一流の法義をば讃嘆し、あるいはまた仏法聴聞のためにとて、
公開の場にて、必ずや無宿善の機あるべしとおもい、正雑二行の沙汰決してあるべからず。近代
人々の勧化する体たらくを見及ぶに、この覚悟なく、ただいずれの機なりとも、よく勧化せば、
などか当流の安心にもとづかざらんように思いはんべりき。これあやまりとしるべし。かくのご
ときの次第をねんごろに存知して、当流の勧化をばいたすべきものなり。

 異同(判明分)
人数多く集まりたらんときも、この人数の中において、→ 公開の場にて 
もし無宿善の機やあるらんと                → 必ずや無宿善の機あるべしとおもい
一流真実の法義を沙汰すべからざるところ       → 正雑二行の沙汰決してあるべからず。
581神も仏も名無しさん:2008/02/18(月) 17:16:15 ID:yGwScvHC
>>558
> 弥陀をたのめば、

> 私が言っているのは、「今すぐ」実行できますか? ということです。

「今すぐ」であろうが、ずっと後のことであろうが、
他力の信を得たと言われる方が、実行できますか?とは、摩訶不思議ではありませんか?
信を得ていない私が、「弥陀をたのめば・・・」、「一心に念仏申さねば・・・」と言うのを、
他力の信を得たあなたが、そういう自力作善の努力は必要ありませんよ、
何もせずに素直に阿弥陀仏の救いを信じなさいと言われるならともかく・・・。

浄土の教え、浄土の教えを求めるものの根本的な問題だと思うのですが、
そもそも、こういう仮定が立てられて質問されること事態が私には疑問です。

阿弥陀如来は、四十八願を実現したからこそ如来となり、極楽浄土を建立し、その教主となられたのでしょう?
四十八願はすでに達成されているのであって、そうすると、生きとし生きるものは、みな、阿弥陀仏に救われることになっている、
というより、もうすでに救われてしまっているということです。
ですから、「弥陀をたのまねば・・・」とか「念仏に専心しなければ・・・」などという思いは、
阿弥陀仏の慈悲の心がわかっていない、信じていないのだということになります。

これは、理屈ではありません。
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。
もし生ぜずは、正覚を取らじ。
お釈迦さんが伝えて下さった阿弥陀仏のお言葉をそのままいただけばそういうことです。
582イオナ:2008/02/18(月) 17:20:46 ID:L5rOM/ud
私は宗教は入ってないけれど太古の神々の為に毎日東の空に向かって祈りを捧げてるけど
創価学会員も東の空に向かって祈ってるのでしょ?
私は不眠症なので、毎日の睡眠時間は一時間半や多くて三時間。
眠らずご飯はほんの少量で暇があれば祈ってるのだけれど
創価学会は主に何を崇拝し、どんな事柄を祈ってるの?
神々の怒りを鎮める祈りはお金じゃないよ。神々の憂う心や思いを癒す為に祈りを捧げてる。
私は神々から東の空に向かって祈りなさいと伝えられずっと祈りを捧げてるよ。
日本の崩落暴落極楽へ、と。
私が祈りを捧げてるのは中国の太古の神々だから
でも、それが何の宗教か良く分からないから困ってるんだよ。
私は言われた通りにしてるだけで、私が祈りを捧げてる宗教に何か心当たりはありますか?
崩壊へ暴落へ極楽へと祈れ、と。
そして憂い酒を清め酒として腹を膨らませ憂いの子を孕め、と。
私は、東の空で創価学会なんだと思ってたけれど創価学会では無かったので
今日初めてこの板に書き込んでるのだけれど…。
私自身、私が何の宗教に属するのか知りたくて…。
恐ろしい未来ばかり目に映り、今年からこの三年の2010が要であり。
2011年に暗黒の雲が出始め、2012年に何か地球規模で悲惨な出来事が起こり何かが変わると言われ。 必ず。
もしかしたら終わるのかも知れない。

私以外にこの意味が分かる人がここにおりますか?
583渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/18(月) 19:34:16 ID:UzmGHRde
>570
>それを、「内容が違う」と主張しているのが、渡海氏です。

 内容が違うのに「違ってない」と言い張る298は、自障障他の
誹謗正法になるんじゃないのか。おぬしは地獄に堕ちないのか?
 こういうことは、秘事法門の298は、掟に反しないのか。

 秘事法門で信心決定している人には、自障障他ということはな
いのか?。
 まあ、自分で勝手に掟をでっち上げる人だから、そんなことは関係な
いんだろう。

 そんなことよりも、御文4-5には、「公開の場所にて正雑二行の
沙汰をしてはいけない」とは書いてないと言えば、そんなことを言う
奴こそ、秘事法門に反する自障障他の誹謗正法ということか?
584渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/18(月) 21:04:17 ID:UzmGHRde
>574
> お文に二通りなんてあるわけないことが分っていながら

お文に二通りなかったら、おぬしは、神聖な秘事法門を否定する誹
謗正法の徒になるかも知れんぞ。(笑)
585298:2008/02/19(火) 01:02:50 ID:3sxSJ/3L
>>581
>信を得ていない私が、「弥陀をたのめば・・・」、「一心に念仏申さねば・・・」と言うのを、
>他力の信を得たあなたが、そういう自力作善の努力は必要ありませんよ、
>何もせずに素直に阿弥陀仏の救いを信じなさいと言われるならともかく・・・。

エレベーターによって、階上に運んでもらうには、
エレベーターに乗り込んだり、行き先の階のボタンを押さねばなりません。

あなたの議論は、

「エレベーターに運んでもらった。自分の足で登ったのではない。
他力で持ち上げてもらったんだ」

という方に、「それはおかしい。ボタンは自分で押したのだろう?
それは他力と呼べない」と言っているようなものです。

別に、名称は本質ではないので、他力と呼びたくなければ、
それで構いません。

名称にひっかかって、弥陀をたのめないのであれば、
本末転倒です。

そして、多くの方は、エレベーターの場所を知りません。

お聖教に書いてある内容は、
「エレベーターというものに乗り込んで、行き先のボタンを押しなさい」
のようなものです。

多くの方がやっていることは、エレベーターを想像し、行き先のボタンを
押す動作を真似しているようなものです。
586渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/19(火) 01:03:11 ID:YeZTlHy9
 二種類の御文を再度検討しました。秘事法門の御文も市販されているようですので、秘事法門
で使用の正確な御文も紹介があるでしょう。

 本願寺市販本
 所詮自今已後においては、このいわれを存知せしめて、たとい聖教をも読み、また暫時に法門
をいわんときも、この心を覚悟して一流の法義をば讃嘆し、あるいはまた仏法聴聞のためにとて、
人数多く集まりたらんときも、この人数の中において、もし無宿善の機やあるらんとおもいて、
一流真実の法義を沙汰すべからざるところに、近代人々の勧化する体たらくを見及ぶに、この覚
悟はなく、ただいずれの機なりとも、よく勧化せば、などか当流の安心にもとづかざらんように
思いはんべりき。これあやまりとしるべし。 かくのごときの次第をねんごろに存知して、当流の勧化
をばいたすべきものなり。

 秘事法門市販本
 所詮自今已後においては、このいわれを存知せしめて、たとい聖教をも読み、また暫時に法門
をいわんときも、この心を覚悟して一流の法義をば讃嘆し、あるいはまた仏法聴聞のためにとて、
公開の場にて、必ずや無宿善の機あるべしとおもい、正雑二行の沙汰ゆめゆめあるべからず。
近代人々の勧化する体たらくを見及ぶに、この覚悟なく、ただいずれの機なりとも、よく勧化せば、
などか当流の安心にいささかももとづかざること明々白々なり。これ断固あやまりとしるべし。堅く
停止すべし。この旨を堅く存知して、当流の勧化を秘事としていたすべきものなり。

587渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/19(火) 01:03:46 ID:YeZTlHy9
 異同(判明分)
人数多く集まりたらんときも、この人数の中において、→ 公開の場にて 
もし無宿善の機やあるらんと               → 必ずや無宿善の機あるべしとおもい
一流真実の法義を沙汰すべからざるところ      → 正雑二行の沙汰ゆめゆめあるべからず
この覚悟はなく、                      → この覚悟なく
当流の安心にもとづかざらんように           → 当流の安心にいささかももとづかざること
思いはんべりき。                      →  明々白々なり。
これあやまりとしるべし。                  → これ断固あやまりとしるべし。堅く停止すべし。
かくのごときの次第をねんごろに存知して、      → 堅く停止すべし。この旨を堅く存知して、
当流の勧化をばいたすべきものなり。          → 当流の勧化を秘事としていたすべきものなり。
588298:2008/02/19(火) 01:08:43 ID:3sxSJ/3L
>>581
>信を得ていない私が(中略)
>お釈迦さんが伝えて下さった阿弥陀仏のお言葉をそのままいただけば

信を獲ていないのに、「そのままいただく」ことができると思うなど、思い上がりです。

「そのままいただく」ことができる方なら、
真宗でなくとも、救われることができるでしょう。

救われていないにもかかわらず、
「そのままいただいている」など、どのような論理展開なのでしょうか。

現に救われていないのに、
どうしてそこまで、自論にこだわるのでしょうか。

幾度も書いていますように、多くの方には、
自障障他のはたらきが入っているのです。

凡夫はそのようなものだと認識し、
自己を知ることが、求道の助けになるはずです。

「救われているから何もしなくて良い」など言う方よりも、
自力でひたすらお念仏唱えている方の方が、
はるかに弥陀に近いと私は思います。

自力しかできぬ身をわからずに、
自力を否定するなど、傲慢そのものです。

自力しかできぬなら、少しでも自力を良い方向に向けようと、
努力している方々の方が、はるかに弥陀に近いと私は思います。

第十九願、第二十願も、実に重要であると言わねばなりません。
589298:2008/02/19(火) 01:13:57 ID:3sxSJ/3L
>>582
ここは、真宗のスレなのですが、そのような教えは、
真宗ではありません。

真宗の教えは、どのような悪人でも、
弥陀をたのめば、凡夫が生涯にただ一度のその回心により、
弥陀に救われ、真実信心をいただき、業楽往生治定するというものです。

この世から離れるとき、来迎もまたずして、
即座に極楽に生まれます。

そのようなお告げの意味を解釈する必要もなく、
悪鬼の声を聞いたとふりすてて、
本師本佛である弥陀をたより、弥陀に救われるのが真宗です。

このようなお話を聞いて、不快であるならば、
さらに他のスレを探さねばならないと思います。

弥陀に救われたいのであれば、このスレは
関連しているでしょう。

念仏行者には、悪鬼は近づけません。

そのような声を聞き続けたいのであれば、
真宗の救いは、関係ありません。
590298:2008/02/19(火) 01:14:35 ID:3sxSJ/3L
>>589
業楽→極楽
591298:2008/02/19(火) 01:23:58 ID:3sxSJ/3L
他力本願で無い他力本願など、何の意味もありません。

他力がわからないなら、自力の道を進むべきです。
そのために、自力のお念仏も準備されています。

善友見つかるまで、ひとりの道を歩むのが、仏道です。

悪友と共にいるよりは、ひとりで進む方が、
はるかに、はるかに、良いのです。

しかし、他力の存在を聞いた方は、
他力を求める気持ちも残るかもしれません。

それでも、獲信者を探すこともしないのであれば、
「他力を求める」とは言っても、
そこにたいして価値を感じていないということに過ぎません。

その場合は、自力の道を進みながら、
人によっては、いずれ真剣に探しながら、
人によっては、人生のどこかで出会うことを念じながら、
他力を求めることになるでしょう。

もちろん、あまりにも価値があることですから、
凡夫にその価値を十分に認識することはできないはずです。
それでも、他力信のために、どれだけの手間ひまをかけて、
尋ね歩いたかが、大体の指標になると思います。

そもそも、多くの場合は、自力へのあきらめがなければ、
他力を求める気持ちもたいして出ないはずです。

生活でも、家事でも、仕事でも自力修行の道でも、良いですが、
力を尽くして進むべきであると思います。
592298:2008/02/19(火) 01:33:59 ID:3sxSJ/3L
獲信者を探すのが面倒な方は、
ひたすら、お念仏を唱えるのが良いのです。
お念仏唱えるのも信じられない方は、
諸善を心がけるのが良いのです。

諸善の意味がわからない方は、
因果の道理を学び、
善行に意味があるのを理解するのが良いと思います。

この他にも、仏教にはたくさんの法門があり、
三部経だけでも、たくさんのことが書いてあると思います。

南無阿弥陀仏
593298:2008/02/19(火) 01:40:44 ID:3sxSJ/3L
凡夫が一度で真実信心いただく、
真実行たる南无阿彌陀佛を知らないなら、
自力でお念仏唱えるしかありません。

お念仏は、むなしいことではありません。

お念仏を唱えて唱えて、どうにもならない、
それでも救われない、「阿弥陀様、どうしたら良いのですか」という方は、
すぐそこまで来ていると言えるでしょう。

お念仏唱えて唱えて、なぜこの思いが弥陀に届かないのかと、
それでも、届くに違いないと、弥陀から逃げているのは自分であると、
遅くとも、臨終時にはご来迎くださるのだと、
信じてお称えするのです。

それでも、かなりの易行なのです。

しかし、その易行もできない方のための、
第十八願であります。何もしないのではありません。

南无阿彌陀佛
594298:2008/02/19(火) 01:43:17 ID:3sxSJ/3L
弥陀は神通をお持ちなのですから、
弥陀をたのめる準備のできている方には、
必ずご縁が現れます。

ご縁が現れないのは、
縁を示したとしても、拒否してしまうことがわかっているからです。

その場合でも、いつか弥陀をたのめるように、
諸佛諸菩薩と協力し、衆生をお育てくださっているはずです。

もう、流転はイヤだと感じ、なんとか弥陀に救われたいという方は、
後送りにせず、今生にて、弥陀に救われるべきです。
595298:2008/02/19(火) 01:47:46 ID:3sxSJ/3L
弥陀の救いを説くということは、
「ザルで水をすくうようなもの」とも言われます。

しかし、そのザルは、いずれ十方衆生を救うでしょう。

ザルですくえる水もあるのですから、一滴の価値を感じ、
その一滴のために、数百億をはるかに超える如来が努力してくださっているのですから、
その価値も、ものすごいものだと言わねばなりません。

ひとりの凡夫が救われることが、どれほど価値があるか。

永劫の流転から抜けていただくことができるのですから、
本当に本当に、価値のあることです。

ザルにて水をすくい続け、
それを皆で協力し、十方衆生を救おうとするのです。
596298:2008/02/19(火) 01:51:20 ID:3sxSJ/3L
菩薩が凡夫を救うのは、
凡夫の苦しみを、理解しているからです。

六道どこにいても、苦しみがあります。

そのような苦しみを、持たずに良い命が、
苦しんで流転しています。

はじめは、苦しんでいることすらわかりません。

それでも、心のどこかでは、苦しみを理解しています。

そして、心のどこかでは、救いの存在も知っています。

弥陀の修行が成就した今、
凡夫も、いつまでも苦しむ必要がありません。

今の世に救いが続いていることを信じる方は、
獲信者を探し、次第相承の善知識を探し、
弥陀に救われて欲しいと思います。

易行であり、凡夫も実際に救われることができます。
597298:2008/02/19(火) 02:58:44 ID:3sxSJ/3L
上に書いてきていることは、
第十八願が信じられない方は、
自分が信じられる道を行くのが良いのであって、
善行も信じられない方は、
もっと経験が必要なのだということです。

第十八願が信じられる方は、
弥陀の救いを求めて、探すことが良いと思います。

本来、このスレッドは、既にその段階の方のための
ものであると思い、書いてきていますが、
現状、そうでない方もご覧になっているので、
第十八願ではない部分も書きました。

第十八願の要はひとつですが、雑行は、ものすごい種類があります。

雑行と言っても、悪行為よりは、はるかに良いものです。

弥陀をたのめる方は、弥陀をたのむのが良いことは言うまでもありませんが、
そのような望みが無い方は、
自らを信じ、信じる道を行かれるのが良いと思っています。

弥陀の救いというのは、
「自分は、自力の道を進めぬ凡夫である」と思う方が、
仕方なく、求めるものであると思います。

2chの他スレをみていたら、
何十億年かかっても、自力修行の道を進むとおっしゃっている方も
いらっしゃいました。

そのような方のためのものではなく、
「もう、早く救われてしまいたい」という方のためのものです。
598298:2008/02/19(火) 03:04:37 ID:3sxSJ/3L
「ここには、他力の救いはない。弥陀の救いの教義は知っているけれども、
実際の救いはここには無い」という方のところに、
弥陀の救いはありませんけれども、この方は、西方をきちんと指している方です。

「ここには、他力の救いがある」と主張する方のもとで求めても、救われないのであれば、
その方は、西を指していません。

凡夫直入の易行なのですから、求める方は、簡単に救われるはずです。

信を獲ている方には、信の獲り方を聞くべきです。

「こんな簡単なことが、なぜわからないのですか?」のような応答をする方は、
自力に押し戻しているに過ぎません。

「わからないから、弥陀をたのみたいのです。弥陀のたのみ方を教えてください」と
食い下がるべきです。

「そんな方法などありません」と言われてたら、

「では、真実行の『行』とは何ですか?」と食い下がるべきです。

「凡夫がする行ではありません」と言われたら、

「では、あなたは私に何を教えてくださるのですか?
私は何をしたら良いのですか?」と食い下がるべきです。

救いのない場所にいつまでもとどまるのも、
行者の側がラクをしたいからだけです。

救いがある場所を探さねばなりません。

獲信者のいない場所に、弥陀の救いがあるはずがありません。
599298:2008/02/19(火) 03:10:01 ID:3sxSJ/3L
なぜ、善知識よりも先に、獲信者を探さなければならないのか。

獲信者とお会いして、自分なりに「どうも獲信しているようだ」と思えないようであれば、
そのような場所に、弥陀の救いはないと考えられるからです。

自障障他、自信教人信の教えは、とても大切だと思います。

自分で探す場合は、やはりお聖教はたよりになると思います。

できれば原典で読むのが望ましいのですが、
もしどうしても無理ならば、現代語訳を読むしかありません。

その場合は、なるべく「ふつう」のものが良いと思います。

そして、現代語訳を読む際には、「あくまでも、訳文である」ということを、
意識にとどめながら読むのが良いと思います。

自分の心のどこかが、弥陀の救いを知っているから、
「どうもおかしい」「これは、本当ではないか」と感じることができます。

ですから、宿善は、どうしても必要です。

日本は大乗相応の地ですから、南無阿弥陀仏を聞いたことの無い方は、
ほとんどいないだろうと思います。

それだけでも、かなりのお育てにあずかっているはずであると、
私は思います。

私の場合は、南无阿彌陀佛には真実があるのだろうと、
ぼんやりと感じていました。
600298:2008/02/19(火) 03:11:00 ID:3sxSJ/3L
しかし、なかなか納得のゆく場所に出会うことができませんでした。

ですので、私は宗派を限らず、探しました。

結局は、弥陀の救いに行き着き、よろこんでいます。

本師本佛の救いに出会えたのですから、これ以上のものは無いと思っています。
601298:2008/02/19(火) 03:14:08 ID:3sxSJ/3L
もちろん、「本師本佛」と言われても、
「そんなもの、真宗門徒が勝手に信じているだけだろう」という方も、
いらっしゃると思います。

そのような方は、無神論でも、何でも、その方が信じる道を行けば良いと思います。

しかし、弥陀の救いを求めている方も、
世の中にはいます。

弥陀の救いを聞いたことがなくて、そのお話を聞いてみたら、
弥陀に救われたくなる方もいます。

そのような方がいらっしゃるから、一般の法話も大切です。

私たちは、弥陀の準備してくださったご縁となれるだけですけれども、
弥陀に使っていただけるならば、うれしいのです。
602298:2008/02/19(火) 03:16:38 ID:3sxSJ/3L
「後生などない、現世はあるだろう」という方であれば、
まずは、自分なりに、その現世の生活をしあわせにするために、
精一杯、力を出し切って生きれば良いと思います。

力を出すのがイヤであれば、
一体、どうしたいのか、考えるのが良いと思います。

考えるのもイヤであれば、
何をやりたいのか、観察するのが良いと思います。

それもイヤであれば・・・

何もしなくても、呼吸もしていますし、ほとんどの方は、
食事をするでしょう。

そのような自らを観察することからはじめ、
自分を知り始めるのが良いと思います。
603298:2008/02/19(火) 03:17:56 ID:3sxSJ/3L
特に、呼吸をしない方は、ほとんどいません。

行住坐臥、なぜか、していると思います。

ですから、このような呼吸を観察してゆきます。

すると、観察する力が伸びます。
604298:2008/02/19(火) 03:19:32 ID:3sxSJ/3L
そうやって、一歩一歩進みます。

そして、地獄に行ったり、天界に行ったりもしているうちに、

「こんなこと続けてて、何なんだ?」と感じられてくるようになると思います。

そして、抜けたい方は、修行もはじめるでしょう。

そして、「修行したところで、無理じゃないか?」という方のための
弥陀の第十八願です。

凡夫が易行にて、簡単に救われることができます。
605298:2008/02/19(火) 03:22:59 ID:3sxSJ/3L
心が見ているこの世界は幻である、と言われてもピンと来ない方には、
自分で感覚認識を変化できるような練習があります。

そのような練習をしていれば、
いわゆる奇跡に、あまり魅力を感じなくなります。

しかし、阿彌陀経がすごいのは、一般的なイメージ作成能力では、
形成できないレベルのイメージが書いてあります。

「自分には無理だ」とわかります。

もちろん、法蔵菩薩は観察なさったのです。

格の違いが、とても良くわかるはずです。
606298:2008/02/19(火) 03:24:59 ID:3sxSJ/3L
そして、そのような修行は凡夫の側には必要がなく、
法蔵菩薩のご修行の成果を、ただいただくことができるのです。

そのための方法が、南无阿彌陀佛です。

この六字がどれほど尊いか、
世界中の人が、一億年讃え続けても、讃え尽くす事はできない程だと
言われます。

讃嘆ですら、凡夫がする讃嘆など、知れたものなのです。

これは、何かをもらって、うれしいとき、
自らが、どれだけ感謝を表現できるかを考えれば、わかると思います。

あっと言う間に、不平不満が出てくるのが、凡夫だと思います。
607298:2008/02/19(火) 03:27:09 ID:3sxSJ/3L
広義の他力においては、空気の大切さなども説かれます。

自分が作ったわけでもない、空気に支えられて生きています。

地上に支えられて生きています。

しかし、そのような大きな力への感謝にしても、
これらは、日々現証があるにもかかわらず、
たいして感謝できないのが凡夫です。

「証拠を出せ」という方は、
このような、証拠がある感謝から練習するのが良いと思います。

作ったことのない道路の上を歩いています。

作ったことのない農作物をいただいています。

縫ったことのない服を着ます。

このようなことへの感謝も、たいして出て来ないのが凡夫です。
608298:2008/02/19(火) 03:38:56 ID:3sxSJ/3L
第十九願を、軽視するのは、間違いです・・・

そのようなことができない、凡夫であるから、
弥陀をたのむのですから・・・
609298:2008/02/19(火) 04:09:29 ID:3sxSJ/3L
>>581

おそらく、この方は、「弥陀の救いが成就されていたことに、ある日突然気付き、
感謝の気持ちが溢れ出る」のような教義を信じているのでしょう。

もし、そうだとした場合、その「気付き」の前には、その行者は、
何をしているのでしょうか? 自力の行為なのではないでしょうか?

凡夫が生涯に一度で真実信心をいただくことのできる、
真実行たる南无阿彌陀佛は、自力で始まり、自力におわります。

これは、そうでなければ、おかしいのです。

確かに、自力の部分は、千差万別でありますけれども、
教えられないものなのではなく、
善知識に教わることのできるものです。

たとえば、「エレベーターの、ボタンを押して下さい」という方法を教わったとします。

それでも、機によって、その方法はまちまちになります。

指の微妙な動かし方などが、異なるからです。

しかし、その方法を、教われないわけではありません。

千差万別ですけれども、共通部分が無いわけでもありません。

この方は、「そのままいただく」と言いながら、
ご自分が教わった教義に、しがみついています。

「そのまま」では無いからです。
610298:2008/02/19(火) 04:12:50 ID:3sxSJ/3L
>>609

ことばで示すのが難しいのは、たとえば、

>「弥陀の救いが成就されていたことに、ある日突然気付き、
>感謝の気持ちが溢れ出る」

とあったとして、これは必ずしも間違ってはいないからです。

たとえば、「突然気付く」前に、弥陀をたのむのであるならば、
間違っていません。

ですから、対話も必要になるのです。

あまりにも厳密な表現にしようとすると、
わかりにくくなったり、言葉がむずかしくなって、
何も届かなくなってしまいます。

時間も手間もかかりますが、ひとりひとり、
お話してゆかねばならない由縁です。
611神も仏も名無しさん:2008/02/19(火) 09:59:54 ID:OoTw+HuU
未だ生死流転の只中で、出離の縁を求める身です。情けなくも世間ごとの合間を見ながら、
妙好人のかたとのご縁を求めて書き込みます。

他力の信心はわからないので、私の想像に過ぎませんが、
298様のいわれる「秘密」、聞いたこともないようなお話ではないのでしょう。
浄土真宗の教えに、真宗聖典で読ませて頂く以外のことが、あるとは思えません。
ただ、魂に聴いたこともないお話であることは確かだと思います。

真宗聖典の中の、お経や仏教の言葉での解説は、まだ勉強不足でよくわかりません。
ただ、妙好人のお言葉のなかには、それらすべてが入っているように思えます。
私にとっては、妙好人のかたのお言葉が、道しるべ、我が身の鏡となってくださいます。
この場所は、私にとってそのための大切なご縁の一つです。
これからもどうぞご教導ください。
南無阿弥陀仏。ありがとうございます。

>もう、流転はイヤだと感じ、なんとか弥陀に救われたいという方は、

はい、このように思っています。
ただ、思っているはずが、念仏を称え、真宗聖典を読ませて頂くうちに、すうっと消えて、
何も考えていない、救われたいとも思っていない自分がいました。(というか、いませんでした)
これはまさに、出離の縁がないのではないかと、我が身に呆れます。
612神も仏も名無しさん:2008/02/19(火) 11:07:13 ID:U028BWfY
現在は、末法の時代は終り、正法の時代である。
釈尊は世界の人々を救うと宣言している。
http://international.kofuku-no-kagaku.or.jp/info.html

613298:2008/02/19(火) 13:05:25 ID:3sxSJ/3L
>>611

>298様のいわれる「秘密」、聞いたこともないようなお話ではないのでしょう。
>浄土真宗の教えに、真宗聖典で読ませて頂く以外のことが、あるとは思えません。

経典成立前ならともかく、現在においては、真宗聖典にもかなりの量があり、
ほとんどのことは、書いてあると思います。

聞いたことのないようなお話ではないのは、もちろんのことです。

お聖教に親しみのある方であれば、「なるほど、そういうことだったのか」と、
(特に、後念相続をされた方は)感じるようになり、感謝の気持ちが出てくるのだと思います。

たとえて言えば、考えてもわからない数学の問題があるとします。

誰かに解法を教われば、「ああ、なるほど」とわかるでしょう。

そして、ふりかえってみれば、既に知っている手法の組み合わせであったようなものです。


>これはまさに、出離の縁がないのではないかと、我が身に呆れます。

私たちは、凡夫ですから、弥陀から信心いただくまでは、
出離の縁がなく、それによって、流転を重ねるわけです。

三心にも、自力と他力があります。

たとえば、欲生我国にしても、自力の心で、「ああ、極楽に行きたいなあ」と
思うこともできます。

しかし、その心を回向するだけでは、浄土往生の因としては、不足しているのです。
614298:2008/02/19(火) 13:09:35 ID:3sxSJ/3L
>>611

同じ様に、二種深心にも、自力と他力があります。

これも、自力にはじまり、他力があり、他力の中で、自力となるのです。

自力がはじまるのも、もちろん他力の中ですが、こちらの他力は、お育てです。

光明摂取により、弥陀の光明に救い摂られ、
心光常護の中で、決定した上で、自力の二種深心を育て、
感謝し、お念仏するのです。
615渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/19(火) 13:44:08 ID:YeZTlHy9
>222
 秘事法門さんがお使いの聖教というのは、大変興味深いものがあります。

> 仏智うたがふつみふかし この心おもひしるならば くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし(和讃)
> 補って訳します。もちろん、異論はあると思います。私釈ということです。 〜  それを悔やむ心が原因となって、
>仏智の不思議をたのむことになるのです。
>そして、それに気付き、それを悔いて、悔いるが故に、佛智の不思議をたよりにすることになるということです。

 掲示板での原文の引用は、本願寺本を参照しているんでしょうが、298さんの口語訳の原本は秘事法門文の聖教を
使っているようです。秘事法門で使用してる原本はどうなっているのか。

 仏智うたがふつみふかし この心おもひしるならば くゆるこころをたねとして 仏智の不思議をたのむべし(和讃)

 わかりますか。微妙な違いですね。紙一重というのはこのことを言うのでしょう。「むね→たね」になっているようです。
わずかカナ一文字ですね。意味が激変しますね。
 まあ、秘事法門さんは、たねもむねも同じだからどっちでもいいというんでしょう。われわれは、天と地の違いがある
と思う。これを仏魔一髪といいます。一文字の違い、一髪で魔道の教えになっている。まあ、これが、秘事法門の教え
なんでしょう。

 徳川時代、本願寺からの弾圧に苦しめられた秘事法門が、自分たちは本願寺教団の一部であることを仮装するため、
本願寺にすり寄っていった。それでも、魂までは決して売り渡さなかった。「む」を「た」に変えて読んだ。微妙な言い回しで
教学を換骨脱胎している点に非常に興味を抱きます。

>「罪」は、「つつみ」につながり、蓮の花が開かず、胎生となることに、つながっていると思います。
 仮説としては面白い。ただ、賛同が得られるかどうかは分からない。僕は余り心が揺り起こされない。
616渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/19(火) 14:44:42 ID:YeZTlHy9
 「むねとする」「たねとする」。普通の人は、この違いは分からんだろうと思うよ。僕も、最
初は読み流していた。2回読んでおかしいと分かった。
 仮に聖教で文字では「むねとする」と書いてあっても、善知識と称する人から、自信のある声
で「たねとする」という解釈をされれば、「たねとする」という理解をするのが通常だ。教行信
証を読んでいれば、むねとするの意味は分かるんだけど、教行信証を読んでなければむねとする
の深い意味がわからない。(笑)。
 「補って訳します。もちろん、異論はあると思います。私釈ということです」。こんなこと言
われても、「むねとする」「たねとする」のすり替えに気がつく人は少ないだろう。
 まあ、仏法は、疑城胎宮の人からではなく、考えのしっかりした人から教わりたい典型のよう
なところだ。ここは面白い論点になる。いずれ論説してもいいだろう。
617渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/19(火) 19:49:15 ID:YeZTlHy9
 このスレッドでは298さんに大きく惹かれているギャラリーが多い。本願寺の弾圧の下で、
本願寺にすり寄りながら、自分たちの良心だけは固守し、決して売り渡すことなくしたたかに
生き抜いてきた秘事法門に、現代では本願寺門徒が、真っ先に自分たちの良心をかなぐり
捨て、酔いしれる。とても面白い現象だ。

 まあ、現代の本願寺教団の教えなど、とっくに秘事法門化していたから、驚く奴などどこに
もいない。

 たねとする? むねとする? 何が違うの? たねとするでいいんじゃないの?。  教行
信証? そんなことどっかに書いてある?。書いてないだろう。
 秘事法門本願寺の坊さんのそんな声が聞こえてきそうだ。  (笑)。
618渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/19(火) 20:05:12 ID:YeZTlHy9
>613
> 三心にも、自力と他力があります。
> たとえば、欲生我国にしても、自力の心で、「ああ、極楽に行きたいなあ」と
> 思うこともできます。
> しかし、その心を回向するだけでは、浄土往生の因としては、不足しているのです。

 欲生我国の十八願は萎んだ花だという教えだな。

 秘事法門の馬鹿話に喜ぶ人がいるから世の中は面白い。
 浄土真宗、総秘事法門化している現れだ。親鸞が義絶したはずの秘事法門の笑い
が聞こえてくる。 (苦笑)
619長いけどゴメン:2008/02/19(火) 20:12:22 ID:spifjDfE
http://homepage3.nifty.com/1206/
これだね

六道輪廻について、たとえば、人間界での苦痛、地獄界の凄惨さ、生まれ変わり死に変わり六道を迷わなければなららい我々の存在等を説明される。
つづいて、我が教団には釈迦以来2500年続いている正しい教えがある。
それは、経典には書かれてなくて代々伝えられてきたものである。
それによると、自力での解脱は絶対にありえない。
弥陀の第18願でしか助かる道はない。
禅宗でも、実際は他力の力によるもの。
しかも、ただ、念仏を唱えるだけでは駄目で、正法を受け継いでいる善智識がその法によって、皆さんを救ってくれる。
また、この儀式は誰でも受けられるものではなく、前世で縁のあった人だけ。

初日の信者獲得話法は、こんな荒唐無稽な話を聞くために来たのかと思っていたが、
2日目の日想観の言ってみれば実技と、日想観の経典をもとにしての説明にその時点では心酔したように思う。
教団では日想観を、私たちが、普通の体ではなくなって、光明を頂いた身は、普通の人とは違ってる、その、証拠(あかし)が例の太陽直視だと教えられた。
また、太陽直視の直後に目を閉じて、再び開けば、普通の人は 暗反応があるから、まぶしい光を見た直後は、回りが見えない筈だが、ご光明を頂いた身だからそれがはっきり見える、それもあかしだと経典をみせながら説明された。

儀式の他言禁止について、
「これは、民間にも教えが隠されて伝わっている。
それは かいぐりかいぐり おつむテンテン あばばばば。
かいぐりとは六道輪廻の姿、おつむテンテンは儀式。あばばばは他言禁止ということ」
620神も仏も名無しさん:2008/02/19(火) 20:34:44 ID:uiMzXlUy
念仏宗 無量寿寺
京都へ行けば、2日間にわたり、念仏宗・無量寿寺信者としての(かなり洗脳作用を伴う)教育および儀式を

強制的に受けさせられる。
このとき、念仏宗の秘儀というものも教わるが、(太陽を裸眼で見る方法、 化仏、化菩薩を見る方法等で、こ

の秘儀を伝えられたことにより、極楽往生が決定し菩薩の仲間になったと教え込まれる。) これは普通の生活

では経験していないことを教えるだけで、同じようにすれば、誰でも見える。また、徹底した秘密 主義を誓わ

せ、たとえ家族のものであれ念仏宗無量寿寺で聞いたことを他人に話すと、無間地獄に落ちると脅される。
621神も仏も名無しさん:2008/02/19(火) 20:57:20 ID:HjvkMXku
縁の端、障子の外で聞いた人が手作りした法門だね。
622神も仏も名無しさん:2008/02/19(火) 21:02:15 ID:ESURjdY9
まぁその、なんというか・・・。
623神も仏も名無しさん:2008/02/19(火) 21:50:36 ID:HjvkMXku
私の住む地域にも、ありがたいことに、お講、お同行の集まりがありますが
来る物拒まず、去る者追わず、です。
「教団」というものは無いですし、皆さんがいわゆるボランティアなものですから
お金も必要ないです。
ゆるやかな集まりです。
それに甘えて、これほどの大功徳をいただきながら、月次のご法座さえも休みがちな私。
極楽行ったときにバツの悪い思いをするといけないので、少しは仏恩報謝しなきゃ。

624神も仏も名無しさん:2008/02/19(火) 21:54:52 ID:uiMzXlUy
儀式の内容など具体的に知りたい人は、こちらをどうぞ。
http://nenbutsu.web.fc2.com/gishiki.html
625298:2008/02/19(火) 22:09:56 ID:3sxSJ/3L
>>620

ここに書いてある通りであるならば、「落とす信心」であるので、
異安心であると思います。

極楽往生が、「治定」していません。

あくまでも、風聞に基づいた判断です。


>>618

渡海氏は、第十八願の三心を、自力と解釈していたということなのでしょうか。

まさかこれを、十八願の否定と取るとは・・・

ちょっと、コメントに困りますね。

冗談ではないのだとしたら、「【本当の】親鸞聖人の教えを明らかにする」など
意気込む前に、ごく当たり前の概説書を、とりあえず、読んでほしいです。
626298:2008/02/19(火) 22:11:24 ID:3sxSJ/3L
>>623

ありがたいことですね。阿弥陀様も、よろこんでおられることでしょう。
627298:2008/02/19(火) 22:31:32 ID:3sxSJ/3L
>>615
「むね」「たね」とこだわっていますけれども、そもそも私は「たね」と書いて
いないと思いますが・・・

そして、

>>616
>「むねとする」「たねとする」。普通の人は、この違いは分からんだろうと思うよ

とのことですが、私は「たね」と書いていないわけです。
「むね」の訳語として出しています。

こういうことをおっしゃるくらいですから、一文字一文字に注意して、
丁寧に読んでいらっしゃるということを主張したいのだと思っています。

御本典に基づく、お説があるなら聞きたいので、お待ちしています。

それはともかく、渡海氏のHPも見てみました。
『五会法略事讃』を紹介しています。それは、素晴しいことだと思います。

しかし、そこで用いられている訳文は、「むね」「たね」どころでは、
ありませんね。(そもそも、「たね」と書いているのは渡海氏で、私では無いのですが。)

逐一指摘することはしません。

たとえば、

「真の無生を得む者には、たれかよくこれを与えんや」

(渡海訳)真実の不変の認識を得ようとするなら、何が一番よいのだろうか。

本当に、これで良いのでしょうか?
628298:2008/02/19(火) 22:33:00 ID:3sxSJ/3L
>>627 五会法略事讃 → 五会法事讃略抄
629神も仏も名無しさん:2008/02/19(火) 22:57:28 ID:z+5xL6mh

        /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \   パー───ン       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
      <       (☆)   〉                     /               \
       \ =======,/                  (__i|__i|__リ     ;       |
        /~`ー=、=,=ィ.                  (   ;;    ∪     |
      /    (●)ヾ'(●) \                    ,◎─ 〃⌒)         |
      |    "⌒(__人__)⌒" |    _'そ       (o,;(´   ´_'ノ     ,; ′;| ´  ;  '
.     \     `ヾ┬ノ´ ,/〔ニ二【@】        ゝ   u.  ゞ    ,●";`‘,`・    ;
       /⌒ ̄ ̄〃 ̄ ̄〆⌒'ニ)ソ  ̄ Y `       `i       ーーーーrーゝ
        ヾ  、__゙__il、_,ジ,イ            ヾ、__  ____-‐ー‐\
       |       o| = |_ノ               /´ ̄ ̄         ヽ
.        |          |    |               /    ゙ヽ  渡海 難   |
.      |       o|   .|               /     |           |
      |   ===   | ==|                /      |           |
630神も仏も名無しさん:2008/02/19(火) 23:55:40 ID:Pn9Bzmxm
>>624

気持ち悪い、なにこれ、インチキやん。こんなんやっとる人おるんか。

この行事主催しとるやつが無限地獄行き決定やんか。
631神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 00:16:46 ID:Sh88IUXA
>>623 お経を読むかぎりでは、
極楽では、自分と他人を差別するような概念がありません。
ですから、バツが悪いとかそんなの心配いりませんよ。
632神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 00:22:58 ID:HA65SdKx
>>619

何かの儀式で信心決定できるなら、いいなあ〜と思ってしまいます。
しかし、今も昔も人造の宗教体験というのは大差がないんですね。
人造だからまあ、当たり前といえば当たり前だけど。

>>623
>それに甘えて、
>少しは仏恩報謝

もしかしたら、極楽を思うより地獄を思ったほうがいいのでは?
もちろん、人事ではないですけど。

>>626
>ありがたいことですね。阿弥陀様も、よろこんでおられることでしょう。

なんだか、よそよそしい仰りように思えます。
真実信心得られても、阿弥陀様は、よそよそしいものなのですか?
633298:2008/02/20(水) 00:32:20 ID:xdwEKMqW
>>631

第十六願もありますし、本当に心配ないですよね。

>>632
>真実信心得られても、阿弥陀様は、よそよそしいものなのですか?

常によりそってくださいますし、護ってくださいます。
我らも、弥陀をたよっています。
心配は、ご無用ですね.
634298:2008/02/20(水) 00:34:16 ID:xdwEKMqW
>>632
>もしかしたら、極楽を思うより地獄を思ったほうがいいのでは?
>もちろん、人事ではないですけど。

つくづく呑気ですね。
635神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 00:59:51 ID:HA65SdKx
>我らも、弥陀をたよっています。

たよっておられますか。たより心があるのが、本当に羨ましいことです。

>つくづく呑気ですね。

いやまったく本当にその通りですね。
こんなわたしたちのための第十八願なのですね。
それなのにまだわからん、わからんと迷っている。
あるいは「ありがたや、ありがたや」と、どこかよその人のことのように言っている。
困り果てました。
といいながら、困ってもいないから困ります。
636298:2008/02/20(水) 01:05:15 ID:xdwEKMqW
>>635

それで、困り果てているのですね・・・
ゆとりがあるうちは、なかなか弥陀の方を向けないものです。
637298:2008/02/20(水) 01:18:02 ID:xdwEKMqW
>>632

◎さればこの流に帰して修行せんひと、ことごとく決定往生の行者なるべし。
しかるにわれらさいはひにその流をくみて、もつぱらかのをしへをまもる(真要鈔)

「この流に帰して修行」すれば、皆決定往生の行者になることができます。


真要鈔を引きましたので、537様にも、

>>537
>どうして「乃至十念せん。」だけを抜き出されるのですか?

◎「乃至十念の行者かならず往生を得べし」(真要鈔)

このような例もありますと、付け加えます。
638298:2008/02/20(水) 01:23:07 ID:xdwEKMqW
>>635
>といいながら、困ってもいないから困ります。

こうなると、やっぱり、自己の機を見つめるしかないんでしょうか・・・

本当に、どこまでも三毒に毒されていて、何をやっても、
不純な気持ちが入っているとわかってくると思います。

良いことと思って、善行をしているつもりでも、
その心には、三毒が染み込んでいるのが、凡夫です。

ですけれど、この種のことは、あくまでも、こういうことを、やりたい人向けです。

望んでいるわけでなくても、知らず知らず、そういう自分が見えてきてしまって、
そんな自分に嫌気がさして、というのが、スムーズな進み方だと思います。

ですから、はじめは観察力を高めるのが良いのです。

戒を保とうとすれば、自分の心が、見えてきます。

「絶対に、怒るのはよくない」と見つめるだけでも、見えて来ると思います。

怒ろうとしなくても、どうでも良いことで怒るはずです。

怒りが出たときには、その原因をみてゆけば、
どうでも良いことで怒るとわかってきます。

南无阿彌陀佛
639298:2008/02/20(水) 01:27:32 ID:xdwEKMqW
「ありがたや」と言いながら、たいしてありがたくない。

なんのためにそんなことを言うかと言えば、
名利のためや、逃げるため。

それどころではありません。信心決定しても、たいしてありがたくないのが
凡夫なのです。

ですけれども、弥陀はそんな私たちを十分にご存知で、
そんな私たちを助けようと、ご修行くださったわけです。

だからこそ、御恩報謝のために、あまりにもかたじけなくて、
「ありがたい」という気持ちも、育てて行かねばならぬ凡夫なのです。

なむあみだぶつ、なむあみだぶつ・・・
640298:2008/02/20(水) 01:36:14 ID:xdwEKMqW
>>638

ただ、これは、「困れ」と言っているわけでもありません。

やっぱり、対話が望ましいですね。

「苦しめ」というのは、仏説ではないのです。

広い意味での他力において、弥陀はいつでも私たちを
見守ってくださる。

信心決定の念仏行者でなくても、弥陀は私たちを見守ってくださっている。

だから、どんなことがあろうとも、困ることはありません。

困ったことなど、起こらないのです。いつでも、弥陀が見ているのです。

信心決定していなくても、必至滅度であるのに、
信心決定して、必至滅度をよろこぶのも、ヘンなものですね。

しかも、必至滅度であるけれども、信決定しても、
凡夫は凡夫のまま。やっぱり怒ったり、妬んだり。

信決定って、何なのでしょうね。

それは、後生において、地獄に行かず、極楽に往生します。
ですから、後生の苦が少ない。

ところが、済度にお出かけしますので、また苦の世界に出てきます。

まるでおんなじですね。とても、おもしろいのです。
641298:2008/02/20(水) 01:42:51 ID:xdwEKMqW
何が正しいのか、何が間違っているのか議論することにも、
たいした意味はありません。

この「たいした意味はない」というグラウンドを押さえたうえで、
議論をしてゆくことが、とても大切だと思っています。

つきつめてゆけば、自分が所持している考え方が、
正しいのかもわからない。

それでも、議論して行くのは楽しいのです。

法を論ずるのは、とても楽しい。

実生活に役に立たない、どうでも良いはずのことなのに、
これが楽しい。

そして、救われてしまう人が出る。これまた楽しい。

しかも、救われたのかどうなのか、本人にも、まわりの人にもわからない。

なんということなのかと、ますます楽しい。

ひたすら手間ひまかけて、そんなものですから、
本当にたのしいのです。
642298:2008/02/20(水) 02:06:28 ID:xdwEKMqW
>>638

まあ、ですから、「自己の機を見つめる」と言っても、
暗くなる必要もないわけです。

「なんなんだ、これは・・・!」と、あきれて絶句するくらいでいいんです。

そこには、「笑い」がありますから、あんまり暗くなりません。

「これは、どうにもならんなあ」と。そして、弥陀をたのみに行く。

「いや、ほんと、ほんとに御願いします」と、法に頭も下がります。

すると、そんな凡夫のままで、あっと言う間に、易行で救われてしまう。

ますます楽しいですね。

だから、踊りだしたくもなるわけです。

めでたいめでたい、なむあみだぶつ。
643神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 02:07:21 ID:HA65SdKx
>「ありがたい」という気持ちも、育てて行かねばならぬ凡夫なのです。

育てて行かなければならぬのなら、自力です。

>しかも、救われたのかどうなのか、本人にも、まわりの人にもわからない。

わからないのなら、救われていないのです。
それを見せてくださるのが、妙好人のかたがたのお言葉で、
ここは、そのためのスレだと思うのですが…
わからないですんで、論じて楽しいですむなら、他のどの宗教でもできますね。


せっかくのスレなので、散々既出かもしれませんが、「六連島のおかる」のうたを。

   どうで他力になれぬ身は 自力さらばとひまをやり
   わしが胸とは手たたきで たった一声きいてみりゃ
   この一声が千人力 四の五の云うたは昔のことよ
   じゃとて地獄はおそろしや なんにも云わぬがこっちのねうち
   そのまま来いよのお勅命 いかなおかるも頭がさがる
   連れて行こうぞ 連れられましょうぞと
   往生は投げた 投げた


なんとも鮮やかで心惹かれます。
今の方でも昔の方でも、妙好人のお言葉を知っている方がいたら、書き込んで頂けませんか?
聞いてみたいので。
644298:2008/02/20(水) 02:12:30 ID:xdwEKMqW
>>643
>>「ありがたい」という気持ちも、育てて行かねばならぬ凡夫なのです。
>育てて行かなければならぬのなら、自力です。

これは全くその通り。

弥陀の信心清くても、凡夫の心は濁り水。

いただく信心、浄摩尼珠。

念仏となえて、きれいにしましょ。


>わからないですんで、論じて楽しいですむなら、他のどの宗教でもできますね。

わからぬ信心、わかってる。

わかるとわかるは、わからぬ信心、未安心。

とんちのようでそうでない。

弥陀をたのむが妙好人。

なむあみだぶつで佛となる。
645298:2008/02/20(水) 02:15:41 ID:xdwEKMqW
>>643

聞いた教義にしばられていると思いますね・・・

「信心獲ったらこうでならぬ」と、そんなものは無いのです。

弥陀をたのめば、それでよし。
646298:2008/02/20(水) 02:20:09 ID:xdwEKMqW
>>643

「こうでならぬ」とつかんでいるから、そんな自分を演じようと、
名利の気持ちに苦しめられますよ。

いいじゃないですか、そのままで。

弥陀はそのままで、受けとめてくださいます。
647298:2008/02/20(水) 02:28:40 ID:xdwEKMqW
>>643
>わからないですんで、論じて楽しいですむなら、他のどの宗教でもできますね。

「すむ」前に、南无阿彌陀佛があるのです。

信心決定があります。

ここが、ポイントです。

救われているから、わからないですみますし、論じて楽しいですむんです。

「なにもわからぬこんな身が、弥陀に救われた、ああうれしい」と。

「救われたかも、わからん身が救われた!」と。

まあ、こういうことをあまり言うと、内輪ノリになりすぎるだろうと思いますが。
648298:2008/02/20(水) 02:35:32 ID:xdwEKMqW
>>643

ところで、「そのまま来いよ」で、頭が下がりますか?

それとも、「まだあれこれ準備せねばならぬ」とお思いなのでしょうか?
649298:2008/02/20(水) 02:49:58 ID:xdwEKMqW
>>643
では、おかるさんから。

『聞いてみなんせ まことの道を
無理なおしえじゃないわいな
きのう聞くのも 今日またきくのも
ぜひに来いとの およびごえ』

『思案めされや いのちのうちに
いのちおわれば あとじあん』
650298:2008/02/20(水) 03:32:02 ID:xdwEKMqW
>>643
>>「ありがたい」という気持ちも、育てて行かねばならぬ凡夫なのです。
>育てて行かなければならぬのなら、自力です。

歎異抄第十六条より。

◎ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまゐらすべし

ここは、自力でやるのです。(特にはじめは)

そうすると、感謝の念が出てきます。

感謝の念が出てくれば、南無阿弥陀仏が口から出て来る。

身体にも、合掌礼拝が出て来るかもしれません。

これが、自然のはたらきです。

そして、もう一歩考えてみれば、

◎ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまゐらすべし

を自力でやろうと思いたったのは、なぜか。

弥陀をたのんだからです。

弥陀をたのんで、「こんな感謝もできんのでは、申し訳が無い」と、
「ありがたいなあ」と感謝の念を起こす。

そのような気持ちになったのは、弥陀をたのんだからですね。

だから自然なのです。
651298:2008/02/20(水) 03:35:02 ID:xdwEKMqW
>>650

自力の心で「感謝せにゃあ」と思う。

それは、他力のもよおしによるのです。

わかりにくとは思いますが・・・
652神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 03:35:44 ID:HA65SdKx
>まあ、ですから、「自己の機を見つめる」と言っても、
>暗くなる必要もないわけです。
>「なんなんだ、これは・・・!」と、あきれて絶句するくらいでいいんです。
>そこには、「笑い」がありますから、あんまり暗くなりません。

あのーー、それは機の深信とはあまりにかけ離れてませんか。
笑いが出るうちは、それこそ余裕がありすぎます。

>「これは、どうにもならんなあ」と。そして、弥陀をたのみに行く。
>「いや、ほんと、ほんとに御願いします」と、法に頭も下がります。

たのみに行く心、下がる頭があるうちは、自力ですね。

>すると、そんな凡夫のままで、あっと言う間に、易行で救われてしまう。

何か根本的な誤解があるようなのですが…
信心決定とはそういうものだといわれるのですか?
機法一体の懺悔と歓喜とは、そんなものですか?

笑いで済む程度の内省をして、だめだったから阿弥陀にたのんでみて、
ああ、こんなでも助けてもらえて(本人によくわからないまま?)、
ありがたやとお念仏して安心している?としたら、
まだまだもったいない、表看板で喜んでいるのではないでしょうか。
浄土真宗の人にはけっこういる普通の信前の人なのかも?

>「救われたかも、わからん身が救われた!」と。
>まあ、こういうことをあまり言うと、内輪ノリになりすぎるだろうと思いますが。

内輪ノリもなにも、それでは開き直りではないでしょうか(笑)
653298:2008/02/20(水) 03:42:02 ID:xdwEKMqW
>>652
>あのーー、それは機の深信とはあまりにかけ離れてませんか。
>笑いが出るうちは、それこそ余裕がありすぎます。

これも、うまく表現できない部分ですね・・・

全員が、「笑いが出る」ということではないですよ。

特に、正信あると知るまでは、思い詰めている方も多いと思います。
だからこそ、「笑えますね」と。暗くなってほしくない、苦しんでほしくないからです。

しかし、「弥陀をたのむ」ということが、現実化してきたときに、
それだけでも、凡夫はうれしくなってきますね。

652様は、自力の機の深信と、他力の機の不信を、
おそらく混ぜていますよ。

第十八願の三心が、弥陀からたまわる三心であることは、
ならっているでしょう?

凡夫が自分で、「往生したいなあ」と思ったところで、
欲生我国には、ならないのです。

では、いつ他力に転じるのかと言えば、
自力の気持ちを高めた果てにでは無いのです。

この誤解は、とても多いのですが、
自力を高めた果てにあるものであれば、結局自力をたのんでいるのです。

私が、一連のスレで、他力信心に至り自力の部分を意識して書いているのは、
「他力」のことばがひとり歩きをして、
そこでつまづいている方が多いと思っているからです。
654298:2008/02/20(水) 03:43:57 ID:xdwEKMqW
>>652
>たのみに行く心、下がる頭があるうちは、自力ですね。

これも、その通りです。

そして、その部分が、「他力に至る自力」の部分です。

よくよくわかってほしのですが、他力の部分は、
私たちには、実行できません。

実行できるなら、他力ではありません。

肝心の要の、本当の要は、我々には実行できません。

では、我々は何をするかと言えば、
「他力に至る自力」を為すのです。

この部分を教わるからこそ、導きになるのです。
655298:2008/02/20(水) 03:50:22 ID:xdwEKMqW
>>652

本当に、よくよくわかってほしいと思います。

信心をいただくのは、ほんの一瞬です。

その一瞬のちょっと前まで、自力があるのです。

不可説のものは、説くことができません。

だからこそ、真諦は、凡夫にはアクセスができません。

自力の心がふりすてられるその時、
弥陀の信心いただけることは、決まっています。

勘違いしてほしくないのは、これは、無念無想とは違います。

凡夫が真実信心いただく前、
善知識に会い、六字のいわれを聞いています。

善知識に会うのも自力、六字のいわれを聞くのも自力です。

もちろん、「他力にもよおされてのこと」と言うことはできます。

それでも、この部分は、「自力で求めるのですよ」と教えた方が、
ふつうは早いはずです。(特に、このスレを見ているような、探している方の場合)
656298:2008/02/20(水) 03:51:20 ID:xdwEKMqW
>>652
お経様にも、

◎たとい大火ありて三千大千世界に充満すとも、要ず当にこれを過ぎてこの経法を聞きて、
歓喜信楽し、受持読誦し、如説に修行すべし

とございますね。この中にも、他力と自力が両方入っています。
657298:2008/02/20(水) 03:58:41 ID:xdwEKMqW
>>652
>笑いで済む程度の内省をして、だめだったから阿弥陀にたのんでみて、
>ああ、こんなでも助けてもらえて(本人によくわからないまま?)、
>ありがたやとお念仏して安心している?としたら、
>まだまだもったいない、表看板で喜んでいるのではないでしょうか。
>浄土真宗の人にはけっこういる普通の信前の人なのかも?

そもそも、「内省を深めねばならない」というのが、思い込みなのです。

試しに、お聖教から、そのような意味のことばを探してみてください。

◎たまたまなにごころもなく、本願に相応して念仏するひと(歎異抄12)

という方も、いらっしゃるわけです。

どんなに内省しようとも、それで心が晴れ渡ろうとも、
感謝の気持ちが噴出しようとも、それは凡夫のいたずら事、
往生の役には立ちません。

残念ですが、自力の信、思い込みです。

一方、弥陀をたのんで何もわからぬ方は、往生が治定しているのです。

なぜかと言えば、その信心の体が南無阿弥陀仏であるからです。

どうして、自意識に、そんなにこだわるのでしょうね。

よく考えてみて下さい。
658298:2008/02/20(水) 04:00:40 ID:xdwEKMqW
>>652

もちろん、とてつも無く苦しんで、もがいても救いが無くて、
やっとのことで正信に辿り着き、
六字のいわれを聞いて、涙する方もいらっしゃるでしょう。

「確かに易行であった。逃げていただけであった」と、
悔恨の涙を流す方もいらっしゃいます。

しかし、たまたま本願に相応してしまった方と、
どちらが上ということはありません。

ひとりひとりが、歩む道です。

信後のすがたも、ひと、それぞれです。
659298:2008/02/20(水) 04:05:47 ID:xdwEKMqW
>>653
訂正 (誤)652様は、自力の機の深信と、他力の機の不信を、
おそらく混ぜていますよ。

(正)652様は、自力の「機の深心」と、他力の「機の深心」を、
おそらく混ぜていますよ。
660298:2008/02/20(水) 04:08:56 ID:xdwEKMqW
>>652
>信心決定とはそういうものだといわれるのですか?
>機法一体の懺悔と歓喜とは、そんなものですか?

「そんなもの」と言われましても、私の心の中まで、わかりませんでしょう?
私はもちろん、私なりによろこんでいますし、感謝しております。
しかし、弥陀の大恩と比べましたら、「こんなもの」と言わざるを得ませんね。
所詮は、たいしてよろこべない凡夫。それでも、今まで生きてきて、
これほどよろこんだことはありません。
661298:2008/02/20(水) 04:15:43 ID:xdwEKMqW
>>652
>>「救われたかも、わからん身が救われた!」と。
>>まあ、こういうことをあまり言うと、内輪ノリになりすぎるだろうと思いますが。
>内輪ノリもなにも、それでは開き直りではないでしょうか(笑)

開き直りと、ちょっと違うのは、「弥陀をたのんでいる」ということですね。

そして、よろこびの心で、御恩報謝のお念仏を称える。

いつも弥陀に守られている。

お聖教を読めば(語学的な壁が少なければ)、よくわかる。

後念相続すれば、よろこびの心も、どんどん出て来る。

「かたじけないなあ・・・」と思いますけれども、
「救われたかも、わからん身が救われた!」で合っているのですが、
この種の話は、未安心の方には、わかりにくいのです。

私たちからみれば、信前の方が、自力で内省して、よろこびの心を開発したとしましょう。

しかし、どうせ自力でやるのであれば、他力信心得たあとで、それをやれば、
どれほどさらによろこべたことでしょう。

ですから、信心為先だと、思うわけです。
662298:2008/02/20(水) 04:22:17 ID:xdwEKMqW
>>652
とにかくレスをいただけるのは、うれしいことです。
幾度も書いていますように、対話がなければ、よくわからないからです。
これは、ことばの限界によるのです。
私は、私の感じていること、得ていることを、ことばにて表現します。
表現間違いもあれば、お互いの、単語のイメージの違いでも、
ずれが生じます。
それでも、会話によって(「おしゃべり」であれば、さらに良いです)、
思うところが、少しずつ、なんとなくでも、伝わるものです。

信後どれくらい喜びが出るかは、機によります。

喜びは、おまけです。極楽往生治定こそが、大切なことなのです。

ですけれど、よくわからないことだけであれば、
凡夫は弥陀をたのんでくれないでしょう?

ですから、喜びもくださいますし、御恩報謝の気持ちもくださるのです。

六字は、尊いですよ。ぜひ、六字のいわれを聞き開いて、弥陀をたのみ、
「仏説に虚妄無し」と実感してほしいですね。
663神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 04:35:02 ID:HA65SdKx
>聞いた教義にしばられていると思いますね・・・
>「信心獲ったらこうでならぬ」と、そんなものは無いのです。

言うこと、行いに「こうではならぬ」というものはないです。人それぞれなので。
それでも、本当に信心獲得されたかたの書かれるものをみていると、
何かが常人とは明らかに違います。
妙好人のなかには、南無阿弥陀仏が収まっていらっしゃる。
それが、お言葉を通じて太陽のように輝く、と感じられます。


    おかるおかると呼びさまされて ハイの返事も向うから


こんな、途方もない体験(空想や比喩ではなく)があるところが、ものすごいと思います。
しかも誰でもいつでもどこでもそうなれて、ずっと続くというのですからとんでもない話です。
664298:2008/02/20(水) 04:40:33 ID:xdwEKMqW
>>652
南無阿弥陀仏にも、自力と他力があるんです。
御恩報謝の南無阿弥陀仏にしても、
自分の口で称えるなら、そこには自力もあります。
それを、「他力だ」と言い張る人がいるから、おかしなことになるのです。
(特に、信前の方。信を獲ていることにしたいから、「他力だ」と言い張ります。)

凡夫が何をやろうと、全部自力。
意業だろうが、口業だろうが、それは全部自力です。

「じゃあ、どうすれば良いか?」と言えば、
善知識に教わるしかありません。

本願尊し。

本願名号は、第十七願ですからね。

◎その真実の行の願は、諸仏称名の願なり(行巻)

行は第十七願。信が第十八願です。

行は自分でしないですからね。信は、自らがいただきます。おそれおおいことです。

南无阿彌陀佛
665神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 04:40:56 ID:HA65SdKx
>念仏となえて、きれいにしましょ。

自力の「綺麗にしよう」と思う念仏で、綺麗になると思うんですか〜!

>そもそも、「内省を深めねばならない」というのが、思い込みなのです。

自分自身を法鏡で照らしてよくよくみていかなくては、どうやって、
救われるべき「私」が見えてくるのでしょう。

>どうして、自意識に、そんなにこだわるのでしょうね。

こだわるというか、「自意識」しかなくないですか?わたしたちには。
それにこだわらなくて、何が助かるのだろうと思います。

もしかして、298様の言われる信心決定には、親鸞聖人の徹底した自己の洞察も、
そのような自分めあての本願であった、という懺悔も歓喜も、ないのでしょうか?
だから仏凡一体の体験も、はっきりとはしていないのでは…?

少なくとも自力と他力について、298様はいまひとつスッキリわかれられていない
ように思えます。

このスレは妙好人に学ぶということなので、信心の沙汰をあまりしたくはないのですが、
でも大切なことなので…
666298:2008/02/20(水) 04:45:15 ID:xdwEKMqW
>>663
>こんな、途方もない体験(空想や比喩ではなく)があるところが、ものすごいと思います。

獲信の現証があるのは、真宗が殊にすぐれたるいわれですね。


>しかも誰でもいつでもどこでもそうなれて、ずっと続くというのですからとんでもない話です。

「誰でもいつでもどこでも」は、ちょっと語弊があると思います。

もう一度、おかるさんを引きます。

『思案めされや いのちのうちに
いのちおわれば あとじあん』

「思案」とは、自力ですよ。これは、獲信を指すのではなくて、
信前の思案です。

よくよく御思案ください。後生の一大事です。
667298:2008/02/20(水) 04:46:11 ID:xdwEKMqW
>>665
>このスレは妙好人に学ぶということなので、信心の沙汰をあまりしたくはないのですが、
>でも大切なことなので…

これは、圧倒的に逆だと思います。信心の沙汰をこそ、どんどんとするべきでしょう!
668298:2008/02/20(水) 04:51:49 ID:xdwEKMqW
>>665
>念仏となえて、きれいにしましょ。
>自力の「綺麗にしよう」と思う念仏で、綺麗になると思うんですか〜!

あんまり形式的にしたくもありませんが、分類して書いてみます。

1)信前の念仏
2)信をいただく念仏
3)信後の念仏

私が書いた
>念仏となえて、きれいにしましょ。
は、3)ですね。

信をいただいた瞬間に、自力の心が、すみからすみまで綺麗にはなりません。
煩悩の厚い厚い雲が残ります。

これは、実践すればわかりますね。
信後の御恩報謝のお念仏で、たしかに何かが変わります。


>>そもそも、「内省を深めねばならない」というのが、思い込みなのです。
>自分自身を法鏡で照らしてよくよくみていかなくては、どうやって、
>救われるべき「私」が見えてくるのでしょう。

見えないままでも、救われる方がいるということです。
(もちろん、心のどこかでは、わかっているはずです。)
そして、本当に法鏡に照らせるのは、信後のことです。

真実信心いただいたことにより、照らし出されて来ることがあるのです。
それは、弥陀の光によるのです。
669298:2008/02/20(水) 04:56:47 ID:xdwEKMqW
>>665
>少なくとも自力と他力について、298様はいまひとつスッキリわかれられていない
>ように思えます。

これは自分では、かなりスッキリとわかっていると思いますけれども、
公開の場ですから、遠慮して話していない面があります。

ですから、ぼんやりすることも、わかります。

真実信心いただく他力と、その他の自力は、
信をいただけば、やはり、明確にわかります。

いずれにしても、教わらねば南無阿弥陀仏はわかりません。

南無阿弥陀仏を教わり、弥陀をたのんだ後に、
ご自身で整理すれば、自力他力の水際もよく分かるでしょうし、
善知識様に聞いても、教えてくださるでしょう。

信後の方に対してなら、私も話せます。

自力他力の水際は、むずかしい話ではありません。
670298:2008/02/20(水) 05:01:31 ID:xdwEKMqW
>>665
>こだわるというか、「自意識」しかなくないですか?わたしたちには。
>それにこだわらなくて、何が助かるのだろうと思います。

自意識にこだわるのは、欲だと思います。
「よろこびを獲たい」とか、そういう欲が働いてはいませんか?

多くの方に取り、自覚できるのは自意識だけかもしれませんが、
それ以外の心もあるから、宿善があるのです。


>もしかして、298様の言われる信心決定には、親鸞聖人の徹底した自己の洞察も、
>そのような自分めあての本願であった、という懺悔も歓喜も、ないのでしょうか?

徹底した自己洞察があるかはわかりませんけれども、
三毒染み渡る身であったことは、わかります。

そんな自分めあての本願であったことも、正にその通り。

懺悔も、歓喜も、ありました。(今は、歓喜が強いです。)

救われたよろこびに、日々うれしく生きています。

今も、三毒がある。しかし、そのままでうれしいですね。

「自分めあての本願」というのは、「現に自分が救われている!」という感慨です。

どこかのお話でも、本の中の話でも無い。

「この自分が・・・!」という驚きです。

私は、自分のことを、かなりの悪機だと思ってました。
671298:2008/02/20(水) 05:04:46 ID:xdwEKMqW
>>665
「こんな自分が・・・」と思うことは、弥陀の本願を疑っていることに他ならないのですが、
私は、疑っていました。

もちろん、同時に信じる気持ちも、ありました。(疑うだけでは、弥陀をたのめません。
信じる、あるいは、信じたい気持ちがあるから、前に進めるのです。)

「本願成就の南無阿弥陀仏、自分以外は救われても、この自分だけは、
救われなかったら、どうしたことか」という不安がありました。

それでも、その不安あるままで、弥陀をたのみ、
約束の通り、救われました。

誠に誠に、不思議なことです。
672298:2008/02/20(水) 05:10:39 ID:xdwEKMqW
>>665
自意識が苦しんでいても、心の奥の奥の方がよろこんでいれば、
やっぱり、うれしいんですね。

ものすごく自意識が苦しんでいたとしても、
弥陀の光が奥にあれば、何かが苦しい。

自意識というのは、地獄一直線の性質を持っているわけです。

だから、弥陀になんか、救われたくないわけです。

ですけれども、私たちには、宿善がある。

これが私たちを、弥陀に向かわせます。

救われたって、自意識は、よろこぶかわからないですよ。

「地獄に行きたいのに、余計なことするな」と思っているかもしれません。

ですけれども、地獄に行きたくても、行けない身にさせていただけるのです。

そして、それを、心のどこかが、よろこんでいるのです。

佛凡一体ですね。凡心だけではなく、佛心をいただいている。

自意識の牢獄から解放されたうれしさを、心のどこかが感じ、
それを思うときに、涙があふれてきます。

おそらく、涙は、自意識とは別の場所につながっているのでしょう。

自分ではわからない、自意識にとらえられている、自分の心。
ずっと流転してきました。
673298:2008/02/20(水) 05:12:36 ID:xdwEKMqW
>>665
その流転から解き放ってくださったのが、弥陀なのです。

そして、そのご縁をくださったのは、お手引きくださった方と、
善知識様です。

何としても返せないご恩をいただいたと思っています。

このスレに書いているのも、少しでも、仏恩報謝になればと思ってのことです。

御恩報謝の南無阿弥陀仏。

私が書いていることは、すべて、南无阿彌陀佛です。

つきつめれば、「弥陀をたのめ」と、それしか書いておりません。
674298:2008/02/20(水) 05:17:06 ID:xdwEKMqW
>>669
>信後の方に対してなら、私も話せます。

現に私を尋ねてきている方もいますので、
その方が、信をお獲りになったら、
以前私が書きましたチェックリスト(http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1200414712/165
についても、御説明申し上げたいと思っております。

それは、やはり私の責任であると思うからです。

そして、信後の相続におきましては、共にお聖教をよろこんでゆきたいと思うわけです。

その方のお味わいも、聞いてゆきたいですし、
私のよろこびも、話してゆきたいと思っています。

御同行がいらっしゃることは、本当にありがたいことです。
675298:2008/02/20(水) 05:21:20 ID:xdwEKMqW
>>672
(誤)ものすごく自意識が苦しんでいたとしても、
弥陀の光が奥にあれば、何かが苦しい。

(正)ものすごく自意識が苦しんでいたとしても、
弥陀の光が奥にあれば、何かがうれしい。
676298:2008/02/20(水) 05:26:37 ID:xdwEKMqW
>>665
>自分自身を法鏡で照らしてよくよくみていかなくては、どうやって、
>救われるべき「私」が見えてくるのでしょう。

わかっていただけたかはわかりませんが、

>救われるべき「私」

は、自意識ではないのです。

自意識は、極楽に持ち込めません。

そんなもの、ゴミみたいなものです。汚らしい、けがらわしい、
悪魔のしぼりかすみたいなものですよ。

それにつかまって、流転してきたのです。

そんなものに、未練はありません。

置いてゆく心です。そこが救われるのとは、違います。

南无阿彌陀佛
677298:2008/02/20(水) 05:33:05 ID:xdwEKMqW
>>665
ですから、自意識はどうでも良いのであって、
それがひどいとわかっても、どうにもなりませんので、
大切なのは、弥陀にいただく真実信心ですし、
光なのです。
この真実信心が相続して、極楽へと参れるのです。

もう少しキチンといえば、
私たちの心のうち、流転しているものが、
弥陀の光の照射を受けて、その性質が変わります。

そして、浄土に往く部分と、置いて行く部分に分かれます。

この仕分けは、体失往生まで続きます。

浄土に参るときには、きれいな心にしていただき、
きれいな自分が参るのです。

残った体は文字どおりのゴミであって、
それを脱ぎ捨てて、極楽へと参ります。

南无阿彌陀佛
678神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 05:42:30 ID:HA65SdKx
>自意識の牢獄から解放されたうれしさを、心のどこかが感じ、
>それを思うときに、涙があふれてきます。

心のどこか…
これは、「ほとけのたもとに包まれている」とよく言われる妙好人の言葉、

    わたしゃ 六字のなかに とられておること

などと歌われている、信後のこころと、あきらかにずれていると思います。
ずれていない、と仰るでしょうが、あわせようとしていませんか?

あと、
>そんなもの、ゴミみたいなものです。汚らしい、けがらわしい、
>悪魔のしぼりかすみたいなものですよ。
>それにつかまって、流転してきたのです。
>そんなものに、未練はありません。

それが私だ、と見せて頂いたのでは、ないのですか?
自意識という言葉にも、いろいろな意味がありますが。
ともあれ、わたしというものが、「悪魔のしぼりかす」以外にあると思っておられるのですか。
それ以外にない私だからこそ、阿弥陀様が特に哀れみ給い、ご苦労くだされて、
まことのこころをくだされたのだとは思っておられないのですか。

というか、この取るに足らない機のままが役に立ち…と、妙好人のかたはみな、

    わしが心は荒木の松よ
    つやのないのがおめあてに

自らの機そのままを喜びとしておられますね。

あと、安心決定鈔本に、「願行みな佛体より成ずる事なるが故に、
拝む手・称ふる口・信ずる心・みな他力なりといふなり」とありますね。
679298:2008/02/20(水) 05:51:39 ID:xdwEKMqW
>>678
>これは、「ほとけのたもとに包まれている」とよく言われる妙好人の言葉、
>
>    わたしゃ 六字のなかに とられておること
>
>などと歌われている、信後のこころと、あきらかにずれていると思います。
>ずれていない、と仰るでしょうが、あわせようとしていませんか?

心光常護を、どう書くかだと思います。

妙好人の「わたし」も、どんな意味なのか、それだけでは、
私にも、よくわかりません。

いわゆる妙好人相手にでも、信心の沙汰はつづけねばならないのです。

「妙好人? 本当に、信心獲ているのか?」という視線も、
私は持っていました。

「あわせる」というのは、何を、何に、あわせようとしていると
思われたのでしょうか?


>ともあれ、わたしというものが、「悪魔のしぼりかす」以外にあると思っておられるのですか。
>それ以外にない私だからこそ、阿弥陀様が特に哀れみ給い、ご苦労くだされて、
>まことのこころをくだされたのだとは思っておられないのですか。

「私」の意味にもよりますが、「以外」もあります。
そうでなければ、どうして宿善があるでしょうか。

また、どうして佛性があるでしょうか。
680298:2008/02/20(水) 05:59:26 ID:xdwEKMqW
>>678

◎念仏三昧といふは、報仏弥陀の大悲の願行は、
もとより迷ひの衆生の心想のうちに入りたまへり、
しらずして仏体より機法一体の南無阿弥陀仏の正覚に成じたまふ
ことなりと信知するなり。願行みな仏体より成することなるがゆゑに、
をがむ手、となふる口、信ずるこころ、みな他力なりといふなり(安心決定鈔)

これは、他力の行、非行の行、そして、御恩報謝の南無阿弥陀仏について
書いている部分だと思います。

他力の信心を得て、そして、自然に三心具足の念仏を行う。

この三心具足のお念仏が、自然に、三業相応のお念仏となり、
それを他力と書いているのだと思います。
681298:2008/02/20(水) 06:02:29 ID:xdwEKMqW
>>678
>それが私だ、と見せて頂いたのでは、ないのですか?
>自意識という言葉にも、いろいろな意味がありますが。
>ともあれ、わたしというものが、「悪魔のしぼりかす」以外にあると思っておられるのですか。

「それが私だ、と見せて頂いた」という書き方でも、
大体構わないと思いますが、それだけでは、無いからです。
682神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 06:04:26 ID:HA65SdKx
>ですから、自意識はどうでも良いのであって、
>それがひどいとわかっても、どうにもなりませんので、

仏教では、己を知ることが根幹ですよね。自分を知ることがとても大切。
自分がわかれば、如来がわかる。如来の本願で助かる、とわかる。
機の深信につながります。

>大切なのは、弥陀にいただく真実信心ですし、
>光なのです。

もちろん光は大切ですが、照らされる自己がなくては…

>「私」の意味にもよりますが、「以外」もあります。
>そうでなければ、どうして宿善があるでしょうか。
>また、どうして佛性があるでしょうか。

ん?どういう意味でしょうか。
683298:2008/02/20(水) 06:12:44 ID:xdwEKMqW
>>678
たとえば、弥陀の信心を受け取れる。
これは、良い性質です。

真実信心を受けとれば、その影響は随処に出てきます。

その意味では、自力の心にも、穢身にも、そのすべてにまで、
真実信心の染み渡らないところは無い、という言い方もできます。

これを指して、皆他力と言うこともできるでしょう。

しかし、自意識も消えません。意識も残ります。

ただ、この意識的行為が以前とは異なり、
別の動き方をするという感じです。

指示系統が切り替わったような感じと言えると思います。

だから、以前の自分とは違う。しかし、同じ自分である。

私は思うままを書いているのであって、
苦しむ自分がありながら、どこかがよろこんでいる。

これは、真実信心を感じているどこかがあるのだろう、
と推測しているわけです。

この心が抜ければ、私の体は、私の心の影響から離れて、土に還りますね。

私は浄土へ往くわけです。

自分だけでなく、他の方が穢土への執着を強く示すことも、
流転を望むことも、見えるようになってきたと感じます。
684298:2008/02/20(水) 06:17:53 ID:xdwEKMqW
>>682
>仏教では、己を知ることが根幹ですよね。自分を知ることがとても大切。
>自分がわかれば、如来がわかる。如来の本願で助かる、とわかる。
>機の深信につながります。

己を観察してゆけば、「己は無い」とわかるはずです。

智慧が開ければ、因果の関係性を理解するはずです。

やはり、それでは機の深信を、自分で形成することになります。

自分など、わかりません。

それは、聖道になります。


>もちろん光は大切ですが、照らされる自己がなくては…

弥陀の光に照らされて、自分は悪機だと、ますますわかるようになるでしょう。

これは、ひとつには、弥陀に救われた安心感により、
自分が悪機でも、変わらず浄土に往けるので、
安心して観察できるところが大きいと思います。

それでも、なるべく善を為そうとするわけですが、
信前よりも、落ち着いて観察できますし、厭離穢土になってゆきますので、
だんだんラクになると思います。
685298:2008/02/20(水) 06:25:59 ID:xdwEKMqW
>>682
>>「私」の意味にもよりますが、「以外」もあります。
>>そうでなければ、どうして宿善があるでしょうか。
>>また、どうして佛性があるでしょうか。
>ん?どういう意味でしょうか。

私の感覚では、「宿善」は、「私」の中に入るのです。

そもそも、「私」というのは、縁の集積であって、仮名人に過ぎません。

このように、タンパク質等が集まってできている私の体も、
縁の集積により、このように集まっていますが、
刻々移動し、出たり入ったりもしています。

心の世界は、広大です。

悪業も、溜まりすぎており、処理できないレベルになっています。

弥陀は、どう解決してくださるかと言えば、
法性を離れることになった原因である、根源の無明に働きかけてくださいます。

悪業そのものではなく、その原因を滅すのです。

そこから因果がはじまり、極楽往生がかないます。そして、滅度もかなうのです。

ところが、極楽に往生した私たちは、神通を得、
それまでの自分の流転の経緯を知り、有縁の命の状態を知り、
また還相となって生まれます。
686298:2008/02/20(水) 06:32:27 ID:xdwEKMqW
>>678
>自らの機そのままを喜びとしておられますね。

「こんな自分でも救われた・・・」ということを、
よろこんでいるのだと思いますが・・・

悪機だからよろこぶというよりも、救われたことがうれしいのだと
思います。(少なくとも、私は、そうです。)

悪機であってうれしいのは、だからこそ、弥陀をたのむように
なったということですが、しかし、それは本当は、
弥陀のお育てのおかげですので、
私は、私をよろこぶというよりは、弥陀をよろこんでいます。
687298:2008/02/20(水) 06:34:02 ID:xdwEKMqW
>>687
>>また、どうして佛性があるでしょうか。
>ん?どういう意味でしょうか。

佛性があるから佛になれるので、佛性が無ければ、
佛になりようがありません。
688神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 06:36:41 ID:HA65SdKx
>たとえば、弥陀の信心を受け取れる。
>これは、良い性質です。

え…良い? 仏性といわれたのは、それですか?
極重悪人のための本願ですよね?
良い性質があるのなら他の宗教でも救わると思うのですが。

残念ながら、298様の言われること、書かれることすべて、
思い込みの自力の信心であっても、そのように思えることです。
また自己認識という意味でも、仏の光明に照らされて
仏の智慧を持って自らを見ておられるように見えません…
機の深信がないようにお見受けします。
そしてそれゆえに、第十八願についてあまり深く身にしみておられるようにみえません。

阿弥陀仏のこの本願でなければだめだったー、という思い、それがないから、
自然と出てくるといわれる御恩報謝のお念仏も、みずから努力して起こさねば
ならないのではないですか?


>やはり、それでは機の深信を、自分で形成することになります。

機の深信につながる、と書きました。
たしかに自分などわからない凡夫、己もない己ですが、
それは仏法もとめていって始めて見えてくるものです。
そして、機の深信が知らされる前でも、三毒染み渡る身であることは、
法鏡を見ていけば、凡夫なりにわかりますよ。
(仏法に向き合わない人でも、わかっている人はわかっていますし)

298様の機の深信は…ご自身の言葉で言うと、何ですか?
689298:2008/02/20(水) 06:39:39 ID:xdwEKMqW
>>688
>自然と出てくるといわれる御恩報謝のお念仏も、みずから努力して起こさねば
>ならないのではないですか?

「自然と出てくるといわれる御恩報謝のお念仏」というのは、
無意識状態になって24時間延々とお念仏するのでは無いですよ。
690298:2008/02/20(水) 06:45:25 ID:xdwEKMqW
>>688
>そして、機の深信が知らされる前でも、三毒染み渡る身であることは、
>法鏡を見ていけば、凡夫なりにわかりますよ。

そうですか・・・
本当であれば、ものすごい方だと思います。
明日死んだら、そのまま地獄行きなのですが、わかりますか?

良いことやろうとしても、欲まみれですよ。
何かを推測しても、間違いばかりです。

本当に、わかってますか?


>残念ながら、298様の言われること、書かれることすべて、
>思い込みの自力の信心であっても、そのように思えることです。

それは残念なことではなくて、当たり前のことです。


>極重悪人のための本願ですよね?
>良い性質があるのなら他の宗教でも救わると思うのですが。

本願は、十方衆生のためのものです。
「極重悪人のため」なのではなくて、自分がたまたま極重悪人だっただけです。
691298:2008/02/20(水) 06:50:48 ID:xdwEKMqW
>>688
>機の深信がないようにお見受けします。
>そしてそれゆえに、第十八願についてあまり深く身にしみておられるようにみえません。

別にそう見えるのは、構いませんが・・・
やはり、機の深信を、自分で自覚できるものとしていますね。

自力の機の深信など、たとえ信後でも、浅いものです。

他力の深心が、重要です。

それは、度衆生心です。わかるでしょうか?

教学では、ないのですよ・・・

他力他力と言いながら、自力を見ていますね。
692298:2008/02/20(水) 06:54:56 ID:xdwEKMqW
「機の深信を深めよ」など、獲信する上で、必要のないことです。

それでは、「悪人を救う」と言いながら、
自己観察のできる善人しか救われません。

弥陀をたのめば、皆救われます。

無理して自分を悪人と思う必要もありません。

「俺って、結構いいヤツ。だから、阿弥陀様も救ってくださるんだ」と思って、
弥陀をたのんでも、同じく救われます。

救いを狭めるのも、やはり、自障障他になると思います。

いろんな教義があるものですね・・・

阿弥陀さまは、その身、その心のままで、
弥陀をたのめば救うのです。

南无阿彌陀佛
693298:2008/02/20(水) 07:10:48 ID:xdwEKMqW
今朝の方は、獲信したいと言いながら、自力の信が欲しいのでしょうね。

他力の信なんですから、自分では何もわからなくても、
弥陀が救ってくれれば、それで良いのです。

無知な凡夫に、弥陀の救いがわからなくても、当たり前と、
私は思います。

智慧ある方は、自覚もできるのでしょう。

私には、無理な事です。そんな自分が救われたことに感謝。

南无阿彌陀佛
694298:2008/02/20(水) 07:21:50 ID:xdwEKMqW
今朝の人の獲信者のイメージって、救われたら、
「俺は悪人だー 極悪人だー」って、ずっと悔いていて、
懺悔ばっかりなんでしょうか。

やだなあ、そんなのは。

まあでも、「地獄一定と知らされる」とか、「だからこそうれしい」というのは、
無いと言えば?になる。

だけれども、そういう紋切り型のことを言いたくない自分がいる。
「こんな悪人が・・・救われた!」というおどろきとよろこびはあるけれど、
「悪人だったー!」とよろこびたい気持ちもあるけれど、
この信は、誰にも証明のできない信。

大切にする人が、大切にしてくれる人へ、伝えてゆく信。
695298:2008/02/20(水) 07:22:52 ID:xdwEKMqW
>>694
文字化けしてしまいました。「?」→「嘘」
696神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 07:23:16 ID:HA65SdKx
>「機の深信を深めよ」など、獲信する上で、必要のないことです。

機の深信を深めよ、とは言っていません。
自己観察を深めるべき、とは思います。これは、仏法の基本ですから。

獲信すれば機の深信(深心)はうまれると教えていただきます。
298さまの、機の深心は、どのようなものなのですか?


>明日死んだら、そのまま地獄行きなのですが、わかりますか?
>良いことやろうとしても、欲まみれですよ。
>何かを推測しても、間違いばかりです。
>本当に、わかってますか?

はい。信前でわかる範囲でわかっていますよ。
だからこそ、真剣でないなりに真剣になって仏法を求め、助けてくださいと
阿弥陀様に一向専念になろうとします。
ここまでは、信心決定しなくてもそうと思えるものです。

もちろん、これもすべてお育ての光明のひとりばたらきなのですけど、
それなりに自分で努力して進まずにいられなくなってくる、ということです。
そしてそれは、よくよく自己観察しなくては進めない道です。

>それは残念なことではなくて、当たり前のことです。

そうですか、それでは、298様は妙好人ではないのですね。
697神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 07:24:19 ID:HA65SdKx
>「自然と出てくるといわれる御恩報謝のお念仏」というのは、
>無意識状態になって24時間延々とお念仏するのでは無いですよ。

もちろん違いますよ。でも、自力ではなく他力と教えられてありますよね。
それを、298様が自力と言われているのが、おかしいと思ったのです。

>今朝の方は、獲信したいと言いながら、自力の信が欲しいのでしょうね。

ちょっとw なぜそんな風に決め付けられるのですか?
まあ、獲信前まではずっとそれしかないのですから、欲しいと思うのも「他力」の仮面を
かぶった自力であろうとは思いますが。
こちらからは、298様が、自力で作り上げた他力にしがみついているとお見受けしました…

>無知な凡夫に、弥陀の救いがわからなくても、当たり前と、
>私は思います。

無知か、無知でないかではないです。
自分がわかっていないのなら、「いろんな状況からして、そうなんだろうな」
と思っていても、それは信心決定していないのです。
698298:2008/02/20(水) 07:29:05 ID:xdwEKMqW
悪人だったのが、なぜうれしいのか。

それまでは、「悪人」と感じてはいても、
それをおおっぴらに感じてゆくことに、抵抗感があったから?

弥陀の前に出るときに、悪人正機の阿弥陀様だけれど、
「やっぱりこんな自分は・・・」と、辞退したくなる思いがあった。

阿弥陀様にも、否定されたら、行くところがない。

だけれども、こういう気持ちそのものが、阿弥陀様を信じていないことになるので、
阿弥陀様は決して怒らないと言い聞かせ、求めることにした。

自力の心が強い自分だったけれど、
阿弥陀様は、救ってくださった。

「ああ、本当に悪人だったんだ」と思う前に押し寄せたことは、
救われたよろこび。

感謝の南無阿弥陀仏を称える。

阿弥陀様は、ずっと救いに来てくれていたのに、ずっと断っていた。

弥陀を受け入れて、心がすっと軽くなった。

自分が悪人とわかり、楽しくなる。

この楽しさは、軽さにつながる。

信後のよろこびは、人それぞれと言う。私の場合は、こんな感じになる。

このスレからも、獲信者が出そうなので、そのうち、他の方が書いてくれることだろう。
699神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 07:32:10 ID:HA65SdKx
>今朝の人の獲信者のイメージって、救われたら、
>「俺は悪人だー 極悪人だー」って、ずっと悔いていて、
>懺悔ばっかりなんでしょうか。

違いますよ〜!
こんな悪人が(機の深信)、だからこそ、阿弥陀仏の本願に救われた(法の深信)。
懺悔と、歓喜です。

あの…親鸞聖人のお姿こそ、それなのですが…
ほかの、妙好人のお姿もね。


そして、>>698のお姿は、やはり、それとは違いますね。
700298:2008/02/20(水) 07:39:04 ID:xdwEKMqW
>>696, 697

たぶん、誰かに教わった教義を信じているのだと思います。


>自己観察を深めるべき、とは思います。これは、仏法の基本ですから。

それではお聞きしますが、自己観察のできない方は、弥陀に救われないのですか?

自己観察もできない悪人は、弥陀をたのんでも、救われませんか?

弥陀に救われるには、自己観察が前提になるということですか?


>獲信すれば機の深信(深心)はうまれると教えていただきます。
>298さまの、機の深心は、どのようなものなのですか?

「自力では、流転を抜けることできなかった」というようなものです。


>だからこそ、真剣でないなりに真剣になって仏法を求め、助けてくださいと
>阿弥陀様に一向専念になろうとします。

これは全部自力で、極楽往生には、何も役に立たないことも、
わかりますか?

弥陀をたのもうとせず、自力のことばかりしているからです。

一向専念になろうとしても、なれませんよ。それは、わかりますか?

善知識にお会いして、その方法を聞かねば、いたずら事です。
701298:2008/02/20(水) 07:43:06 ID:xdwEKMqW
>>697
>まあ、獲信前まではずっとそれしかないのですから、欲しいと思うのも「他力」の仮面を
>かぶった自力であろうとは思いますが。

仮面をかぶってもいませんよ。全部自力です。


>もちろん違いますよ。でも、自力ではなく他力と教えられてありますよね。
>それを、298様が自力と言われているのが、おかしいと思ったのです。

おかしいと思うのは、他力と教わっているからでしょう?
単に、あなた様が、私よりも、その方を信じているからに過ぎません。

獲信しても、自力の心は残ります。


>無知か、無知でないかではないです。
>自分がわかっていないのなら、「いろんな状況からして、そうなんだろうな」
>と思っていても、それは信心決定していないのです。

三毒染み渡り、無知が染み渡るあなたでしょう?
なぜ、わかるのですか?

その根拠は、何ですか? 誰が、そのように教えているのですか?
別に、教えてくれている方の個人名を求めているのではなくて、
お聖教が根拠になっているなら、その箇所を教えてください。
702298:2008/02/20(水) 07:45:55 ID:xdwEKMqW
>>696
>そうですか、それでは、298様は妙好人ではないのですね。

弥陀をたのめば、誰でも妙好人ですが・・・
703298:2008/02/20(水) 07:50:07 ID:xdwEKMqW
>>699
>こんな悪人が(機の深信)、だからこそ、阿弥陀仏の本願に救われた(法の深信)。
>懺悔と、歓喜です。

つまり、あなた様の理解は、「機の深信」とは、懺悔なのですね?

それでよろしければ、お聖教の根拠はありますか?

そして、私が獲信しているかどうかは、
私の書き込みから判断でき、そして、
私は獲信していないと、判断したということですね?

おそらく、あなたから見れば、ほとんどの獲信者は、
「獲信していない」ということになるでしょう。

ですから、「自力の信を求めている」と申し上げたのです。
704298:2008/02/20(水) 08:00:17 ID:xdwEKMqW
>>697
>こちらからは、298様が、自力で作り上げた他力にしがみついているとお見受けしました…

そう見えるのは自由ですが、他力は自力では作れません。
なぜなら、他力だからです。

これは、通常の意識のある方であれば、信をいただけば、
ハッキリとわかることです。

おそらく、何がハッキリとして、何がハッキリしないのか、
きちんと教わっていないのでしょう。

つまり、あなた様は、獲信者から教わっていないということです。
ですから、理解がずれるのです。

まず、お聖教と照らし合わせることをお勧めします。

次に、もし獲信者に教わっていると思っているのであれば、
凡夫が易行にて、獲信しているかどうかを、見ることですね。

獲信者が増えないなら、それもまた、いたづら事です。

御文様五帖八十通は、通して幾度か読んでいますか?

それとも、抜粋しか読んでいませんか? それとも、御文様を否定している所ですか?
705298:2008/02/20(水) 08:04:29 ID:xdwEKMqW
やはり、御文様は尊いと思います。

信を獲たい方は、そして、今のところ、ご縁の無い方は、
御文様五帖八十通を繰り返して読まれることを、
再度お勧めしたいです。

お聖教はありがたく、そして、そのエッセンスを、
わかりやすい言葉で説いてくださった御文様は、
本当に尊いです。

南无阿彌陀佛
706298:2008/02/20(水) 08:17:06 ID:xdwEKMqW
弥陀をたのむには、必要なのは宿善のみ。

宿善あれば、次第相承の善知識にも、遭うことができます。

そして、六字の謂れを聞き開き、一心に弥陀をたのむとき、
真実信心をいただき、極楽往生が治定します。

次第相承の善知識を探すとき、まず探すのは、
獲信者です。

獲信者は、獲信している以上、次第相承の善知識を知っているからです。

獲信者を探すとき、何をやったら良いかわからない方は、
御文様五帖八十通を読み、口には南無阿弥陀仏を称えると良いと思います。

その上で、上下を問わず、尋ねてゆくことだと思います。
707無量寿寺広報:2008/02/20(水) 09:34:23 ID:hycaMucM
たった38万で、2500年前にお釈迦様がおこなった同じ方法で皆さまに法をさずけ
これによって参加者すべてが御仏と同じ体になります。
この作法は昔に寺から里に下りて今まで口述で伝えられてきた仏法を 
開祖が再び行えるようになったものです。

授けられる秘儀
手を消毒薬で洗い、口を塩水でゆすぎ 再び手に塩をつけて流します。
一人ずつ順番に並び奥の仏間に入ります。
順番は、先に男性が入り、女性は後です。
入り口で目をつぶり胸元で死人の様に両手を組んでその手で襟をつかみます。
前の方が終わり扉が開くと後ろから抱えられるように目を閉じたまま進み、ひざを曲げて祈るような姿勢をとります。
先生の合図で前にあるクッション付きのイスのようなものに、頭を打ち付けます。
スポンジの様な感触で決して痛いものではありません。
先生が大声で「よしっ」と言われ、これで第三の目が開いたのです。
「ありがとうございました」と5体投地します。
708神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 09:44:25 ID:2NeiyE67
A「そのまま」です。
B「そのまま」かぁ、ふーん。それはいいな。楽だな。
 ・・・ところで、 そのままとはどのまま?
Aだから「そのまま」だってば。
B「え?そのまま?」
(以下くりかえし)
709神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 10:03:49 ID:2NeiyE67
思うに「自力」「他力」の定義があってないから話がかみあわないのではないですかね。


710神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 10:08:37 ID:2NeiyE67
もしくはやはり別の法門と思ったほうがわかりいいね。
711渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/20(水) 10:30:15 ID:28Q+dWvs
>>619
>これだね
 こういう世界があるんだね。浄土真宗を支持する者総体の恥部だね。
 こういう連中のノウハウは、過去数百年間、秘事法門と言われてきた人々が一部で様々に培った
きた秘事なんだろうかね。無量寿寺と高森親鸞会が、浄土真宗の二大カルトか。

>627
>一文字一文字に注意して、丁寧に読んでいらっしゃるということを主張したいのだと思っていま
す。

 298さん方が使っている聖教の記載は興味深いと思ったということです。
 時と場所によっては、一文字一文字までは神経質になる必要のないところもある。インターネッ
トの2ちゃんねるなど、まさにその典型だ。ここの掲示板などは、一文字一文字までは神経質にな
って読まなければならないようなところではない。人は自由に書きこみができる。まさにそういうとこ
ろだ。文脈によっては「むね」と書いても「原因(たね)」と書いてもいいという文章はいくらでもある。
本当はたねと書くべきところ、親鸞は間違ってむねと書いてしまった。そう思うのも自由でしょう。

 たね【種】(広辞苑)
 物事の発生する、または成り立つもと。原因。
 げんいん【原因】(広辞苑)
 ある物事を引き起すもと。また、その働き。
 むね【宗・旨】(広辞苑)
 主とすること。中心とすること。また、そのもの。
712渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/20(水) 10:31:20 ID:28Q+dWvs
 念仏もうすについて、信心のおもむきをも、たがいに問答し、ひとにもいいきかするとき、ひと
のくちをふさぎ、相論をたたかいかたんがために、まったくおおせにてなきことをも、おおせとの
みもうすこと、あさましく、なげき存じそうろうなり。


>御本典に基づく、お説があるなら聞きたいので、お待ちしています。

 争論に勝つことが目的ではありません。自障障他になるのは目に見えています。たねかむねかは
細かい話だ。298さんの考えを魔道といえば、逆にお前(渡海)の考えこそ魔道であると言われる。
 「悔やむ心が原因となって、仏智の不思議をたのむことになるのです」。人には信仰の自由はあ
る。これ以上あなた方の説に反対するのは、今回はやめておきます。
713神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 10:44:29 ID:2NeiyE67
>>692
>「俺って、結構いいヤツ。だから、阿弥陀様も救ってくださるんだ」と思って、
>弥陀をたのんでも、同じく救われます。
この人がそのままの気持ちのままで救われるんですね。
これはまたすごい。
714神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 10:45:30 ID:2NeiyE67
本当に真宗なのですか?
715渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/20(水) 10:51:01 ID:28Q+dWvs
> 御文様三帖第二通には、今の世に大切なことが、たくさんたくさん書いてあります。
> ぜひ、有縁の方には、「一文字一文字が佛菩薩」ということを意識していただいて、
> よくよく御拝読いただけたら、と願う次第です。
> 「一文字一文字が、すべて大切」という意識で、よくよく読むことが
> 大切だと思います。(>>221

 「一文字一文字が、すべて大切」という意識、一文字一文字が佛菩薩」ということを
意識して読んだら、「むね」という言葉が「原因」いう言葉で読めた。それなりに意味深
いものがあると思います。

716神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 12:24:41 ID:Sh88IUXA
>>619が本当なら、めちゃくちゃですね。
仏教や浄土教を正式に学んだことない人が、
お経を読んで適当に思いついた儀式って感じ。
717神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 12:29:36 ID:N0mRL+CN
298氏へ質問

・哲学や科学でいわれる「神」と「阿弥陀如来」は、別のものか?違うのなら両者の関係を聞きたい。

・次第相承の善知識から直接教えを聞けない、体が不自由で寝たきりの人、目や耳が不自由な人、外国人、動物等は、今世では救われないのか?

・地獄から直接、転生してくることは不可能であり、また、宗教を信じていなくても地獄に堕ちるとは限らないということを知っているか?

・同じ阿弥陀如来の教えでも、受け取る側(人間)によって主張が千差万別なのは何故か?


718298:2008/02/20(水) 12:30:39 ID:xdwEKMqW
>>709
あと、そもそも、わかろうとしているかどうかだと思います。
もともと、わかりやすいことばで書けば書くほど、
つっこみ所も出て来ると思います。

「他力」というのは、獲信の瞬間だけに使うと、
とてもわかりやすい。

そこでは、自力がすたれていますから、
自力と併存していません。
719298:2008/02/20(水) 12:33:56 ID:xdwEKMqW
>>708
そのループは、とても良くて、とりあえず、そのループをある程度、
繰り返して、「ふーん、そのままなんだ」とわかってきたところで、
弥陀をたのめば、良いと思います。
720298:2008/02/20(水) 12:34:49 ID:xdwEKMqW
>>692
真宗は、すごいです。
自力と他力の差です。凡夫が本当に救われる道です。
721神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 12:37:21 ID:Sh88IUXA
「他力」とは、本来は、
念仏者を往生させる阿弥陀仏の本願力のことです。
真宗の人が言う色んな意味の「他力」のことは、
何か別の用語を使うべきでしょう。
たとえば、「因縁」とか、「み仏のはからい」とか。
722298:2008/02/20(水) 12:38:07 ID:xdwEKMqW
>>619
ああいう告知がたまにあれば、
「ここに真実信心があるのかも!」と、
誰かが迷い込まなくて、良いことだと思います。

入り口の所の主張は、似ているような気もするからです。

今まで、この掲示板に書いてきて、
「似ている」と「同じ」に見えることがあることも、
幾度も経験してきました。
723神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 12:43:51 ID:Sh88IUXA
>>713 阿弥陀仏の「救い」とは、
極楽浄土に往生させてもらえることです。
極楽浄土に生まれた瞬間に、性格は改善されてしまいます。
724298:2008/02/20(水) 12:46:39 ID:xdwEKMqW
>>717
>哲学や科学でいわれる「神」と「阿弥陀如来」は、別のものか?違うのなら両者の関係を聞きたい。

哲学や科学で言う「神」の方が、よくわかりません。

他宗教と比較して、その概念を理解する、という作業が、十分に行われていません。


>次第相承の善知識から直接教えを聞けない、体が不自由で寝たきりの人、目や耳が不自由な人、
>外国人、動物等は、今世では救われないのか?

「直接教えを聞けない」という仮定を入れてしまえば、救われなくなってしまうのかも
しれませんが、

・体が不自由で寝たきりの人(ただし、これは程度によると思います)
・目や耳が不自由な人
・外国人

は、救われます。動物等は、私はわかりません。機会があれば、
善知識様に聞いてみたいと思っています。


>地獄から直接、転生してくることは不可能であり、
>また、宗教を信じていなくても地獄に堕ちるとは限らないということを知っているか?

「地獄は、とにかく長い」というイメージはありますが、
その後は、よくわからないです。
「宗教を信じていなくても地獄に堕ちるとは限らない」のは、
もちろんのことです。
725298:2008/02/20(水) 12:49:58 ID:xdwEKMqW
>>717
>同じ阿弥陀如来の教えでも、受け取る側(人間)によって主張が千差万別なのは何故か?

これは、人間の性質によります。
ただ、一流の方であれば、共通する主張があるはずです。

いわく、

・弥陀をたのめば救われる
・易行である
・弥陀から真実信心いただく
・六字は尊い
・あくまでも、他力であって自力ではない

等、共通する主張はあると思います。
726298:2008/02/20(水) 12:57:29 ID:xdwEKMqW
>>713

◎それ、弥陀如来の念仏往生の本願(第十八願)と申すはいかやうなることぞといふに、
在家無智のものも、また十悪・五逆のやからにいたるまでも、
なにのやうもなく他力の信心といふことをひとつ決定すれば、
みなことごとく極楽に往生するなり(御文3-3)

十悪や五逆を辞書等で引いていただければ、
わかるのではないかと思います。

これが、他力真宗です。
727神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 12:59:54 ID:Sh88IUXA
浄土宗系の発生自体、お経の解釈を変えたことからはじまったわけで、
解釈は変えられうる。
728298:2008/02/20(水) 13:03:17 ID:xdwEKMqW
アンカー間違い
>>720  692→>>713
>>722  619→>>716
729神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 13:03:25 ID:N0mRL+CN
>>724>>725
次第相承の善知識から直接教えが聞けない場合は、救われない?
阿弥陀仏から直接、示現を受けたという僧もたくさんいるのでは?(例、一遍、良忍、弁栄)
730298:2008/02/20(水) 13:11:20 ID:xdwEKMqW
>>729
>阿弥陀仏から直接、示現を受けたという僧もたくさんいるのでは?

浄土真宗における次第相承の善知識は、法然聖人からの法脈だと思います。

口決面授による血脈です。

「直接の示現」ということを認めすぎれば、偽物も増えるでしょう。

還相廻向の方にしても、次第相承の善知識になるとは限りません。

さまざまな方法で、弥陀の救いを広める仕事をなさっているはずだと思います。

真宗以外の救われる道については、
その道の方にお尋ねになるのが良いと思います。
731神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 13:24:49 ID:N0mRL+CN
>>730
同じ阿弥陀如来からの働きでも、受け取る側の人間の性質によって、教えの現れかたが違ってくる。
阿弥陀如来の救いは、浄土真宗以外にも、いろいろある。
逆にいえば、救われる(浄土往生)には、必ずしも次第相承の善知識にあわずとも可能である。
ということでよろしいか?
732298:2008/02/20(水) 13:30:15 ID:xdwEKMqW
>>731
救いには、浄土真宗以外の道もあると思いますよ。
私は、あくまでも、浄土真宗の救いについて、お話しているのです。
次第相承の善知識に遭わない道もあるのかもしれませんが、
私は、その道を知らないだけのことです。
733神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 13:34:02 ID:N0mRL+CN
>>732
浄土真宗では、次第相承に遇わずに救われる可能性は100%ない?
734神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 13:43:04 ID:P7g6rRq+
>>732
遭わない より
遇わない のほうがよろしいのではないでしょうか
735神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 13:44:59 ID:P7g6rRq+
結局、「次第相承の善知識」に遇わずに獲信する という体験を
お持ちでないのだから、遇わずに獲信した、という方の存在を
否定することはできないはずなのです。獲信は2度ありませんからね。
736神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 13:46:56 ID:P7g6rRq+
一般的な意味でのおすすめを下さる善知識には
遇う必要があります。謦咳に接することです。
737神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 13:54:36 ID:HA65SdKx
「妙好人を語る」という本を頂きましたので、ご存知のかたが多いかと思いますが、うつします。

(浅原才市)

  浮世は娑婆で極楽で
  目が境 なむあみだぶつ。

  才市や いつ(浄土に)まいる
  へ、わたしやなむあみだぶつに今まいらせてもろうでありまする
  いのちの門があくばかり
  ごをんうれしや なむあみだぶつ
  なむあみだぶつ

  わたしや しやわせ
  法の智慧を丸もらい
  なむあみだぶは法の智慧
  才市がこころとひとつになって
  才市を助ける法の智慧
  法の智慧が口にでる
  なむあみだぶつ なむあみだぶつ。

  海には水ばかり
  水を受け持つ底あり
  才市には悪ばかり
  悪を受け持つ阿弥陀あり
  うれしや なむあみだぶつ
  なむあみだぶつ。
738神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 14:06:04 ID:N0mRL+CN
極少数の次第相承の善知識から直接、秘伝を聞かねば救われないとすると、極めて閉鎖的な宗教と言わざるを得ない。
普遍宗教は、既存の学問体系、情報に対して開かれているべきであろう。
阿弥陀から賜った慈愛の精神があるのなら、キリスト教徒のように、世界を飛びまわって布教するであろうし、
宗教者として、世間に対して堂々と死後の救い、弥陀の愛、永遠の生命を説くべき。
ごく一部のコミュニティーで、知らぬうちにエゴを育み、優越感にひったているのでは?
739神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 14:16:15 ID:HA65SdKx
(浅原才市)

  あなたおがむに
  体を清め 心清めるこたできぬ
  抱かれておがむ なむあみだぶつ
  これが親様 なむあみだぶつ。

  あさましや
  雨の降るほど罪が降る
  六字の上に降る罪は
  罪は降れどもみな消える
  なむあみだぶに照らされて。

  わたしや久遠の悪人で
  あなたは久遠の阿弥陀仏
  二つ一つのなむあみだぶつ。
740神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 14:16:42 ID:HA65SdKx
(讃岐の庄松)
  「庄松あるお寺で三部経を読誦する仏事があり、自分の寺の住職のお供をして、
  三部経の包みを背に担いで行った。
  お寺に着いて住職は正面玄関から上がって屋内へ行ったので、庄松も
  三部経を担いだまま続いて上がろうとすると、住職は庄松に『お前は台所の
  裏口から入れ』と言った。三部経を担いでいる正松は『お前さえ其処から
  上がるではないか』と言ってさっさと入って行った。」

  「庄松、天野周天師のお供をして船生村の馬篠という所を通りかかったら
  火葬場から煙が上がっていた。『誰かが火葬されているのじゃろう。
  おらの古家が焼かれる時も、誰かが見るだろう。焼けて無くなる古家なれど、
  この古家があったからこそ如来様の呼び声が聞こえたのであった』と身体に
  感謝した。周天師も一緒に喜んだ。」


(因幡の源左)
  「御らの話は親さんからもらったものの裾分けだけなあ、おらが話すと思って
  ごしなはるなよ。親さんのお取次ぎを源左がさしてもらっとるだけだけえ。
  おらの話は一つもないだいなあ」
  「ご法話に来いって招待があって行くだが、人様からいろいろなお尋ねが出ると、
  するすると答えさせてもらうだがやあ。何にも知らんおらが何とか話ができるのは
  全く親様の御恩だで、有難いもんだのう。我が言いながら我が聞いて我が喜ぶ。
  我ということはないだでのう」
741神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 14:19:08 ID:N0mRL+CN
秘伝など意味をなさない。
何故なら、あらゆる情報が公開されている時代であるから。
霊界のしくみ、人類史、地球外生命体の存在、宗教と科学の一致。
宗教の根元は唯一なる神に由来し、万教帰一が真理である。
今後は、古い既成宗教は淘汰されていくだろう。
742神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 14:28:47 ID:HA65SdKx
>これは全部自力で、極楽往生には、何も役に立たないことも、
>わかりますか?
>弥陀をたのもうとせず、自力のことばかりしているからです。
>一向専念になろうとしても、なれませんよ。それは、わかりますか?

なれませんよ。一向専念になるまでは、自力しかありませんから。
弥陀をたのもうとしていない自分です。だから苦しいのです。
そこのところが、

>善知識にお会いして、その方法を聞かねば、いたずら事です。

どうしてこうなるのですか。
「方法を善知識から聞くことができる」これは、自力ですよ。

どうみても、
>弥陀をたのもうとせず、自力のことばかりしているからです。
この姿です。

このスレは、妙好人と学ぶ場所ですよね。
貴方はよく「自分はこう信じている」という旨を言われますが、これが、
広く妙好人といわれている方のお姿と、違うと思われませんか?

妙好人になるまでは、一切が自力ですから。
だからこそ、妙好人から学ばせて頂くことが多いのだと思います。
743神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 14:29:50 ID:HA65SdKx
>「他力」というのは、獲信の瞬間だけに使うと、
>とてもわかりやすい。
>そこでは、自力がすたれていますから、
>自力と併存していません。

貴方の自力は、「そこでは」すたるのですか。

744神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 15:12:35 ID:HA65SdKx
>>自己観察を深めるべき、とは思います。これは、仏法の基本ですから。
>それではお聞きしますが、自己観察のできない方は、弥陀に救われないのですか?
>自己観察もできない悪人は、弥陀をたのんでも、救われませんか?
>弥陀に救われるには、自己観察が前提になるということですか?

仏法聞く耳のないのがこの機と教えていただきます。それをこそ、
阿弥陀仏一仏が救ってくださる、だからこそ真宗が尊いのですよね?
でも「仏法聞く耳ない」は、聞こうとしてみて初めてわかる体験です。
「そのままじゃ」のそのままがわからずに苦しんだ経験が、おありではないのですか。

>その根拠は、何ですか? 誰が、そのように教えているのですか?

真宗聖典から、善知識から、そして周りの方々から気づかせて頂く私の体験です。

>つまり、あなた様は、獲信者から教わっていないということです。
>ですから、理解がずれるのです。

まったくそのまま、お言葉を返してしまいます…

>御文様五帖八十通は、通して幾度か読んでいますか?
>それとも、抜粋しか読んでいませんか? それとも、御文様を否定している所ですか?

否定したら真宗ではありませんから…。
真宗聖典は最初から読ませて頂きますが、不勉強でわからないところが多いので、
インターネットで探したり、人に教えて頂いたりしながらですね。
いずれにせよ、もうどう読もうとも自力であることは間違いないので、開き直って
そのまま読ませて頂こうと、苦心しています(この中に既に矛盾があるのですけどね!)

真宗聖典で教えていただくこと、
阿弥陀様のこころを、私の心で掬おうとせずに、私の心を
そのなかにつけることができれば、もう言うことはないです。
745神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 15:32:25 ID:HTFamXIV
むつかしいことを考えておられるんですね。
禅の公案みたい・・・
746神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 15:40:45 ID:N0mRL+CN
普遍的には、浄土真宗はバクティーヨガ、キリスト教に相当する。
仏教的にいえば、他力門、信解脱の法門。
釈尊が神の存在を認めているのはあまり知られていない。

コピペ
パーリ原始仏典 中部第百経『サンガーラヴァ経』

サンガーラヴァというバラモン青年は尊師にこのようにいった。
「ゴータマさんのつとめ励みは堅固不動の人のそれです。ゴータマさんのつとめ励みは善き人のそれです。
尊敬されるべき人、正しく覚りを開いた人のそれと同じです。ところでゴータマさん、神はいるのですか」

「サンガーラヴァよ、道理から『神はいる』とわたしは知る」

「ゴータマさん、『神はいるのですか』と聞かれたとき、サンガーラヴァよ、道理から『神はいる』とわたしは知りますというのですか。
ゴータマさん、そのようにいうのならば、それは嘘、偽りではありませんか」

「サンガーラヴァよ、『神はいるのですか』と聞かれたとき、『神はいる』と答えるであろう。
または、『道理から神はいると、わたしは知る』と答えるであろう。しかし、この点については智者によって一方的に結論されるべきである。
『神はいる』と」

「ゴータマさんはわたしに、どうして最初にそれを説明しなかったのですか」

「サンガーラヴァよ、『神がいる』ということは世間では声高に同意されているものだからである」

747神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 15:57:36 ID:HA65SdKx
(駒立の吉蔵同行)

  「大名が持っても乞食が持っても十両は十両。持った人によってその値打ちは
  変わりゃせぬ。今もなむあみだぶつという十両も、聞き手に徳があるのじゃない。
  なむあみだぶつという体そのものに徳があるのである。機の上に値打ちを見たら
  地獄落ち。この機の上に往生の相談注文のないのが、如来の本願の約束じゃ」

  「弥陀は凡夫のウブを受け取る。善知識は凡夫をウブにして渡すが役。
  私はただ凡夫の性のウブのまま死んでゆくじゃ」


(田原のお園)

  「伊勢の町をお園が念仏を称えながら歩いていると、行き違いの人が、
   「婆さんが空念仏を称えて行かれるわい」と独り言を言いました。それを
  お園が聞きつけて、「よう言うてくれた、よう言うてくれた。何処に善知識がいるやら
  知れぬものじゃ」と言いながら、その人の後を追ったのです。するとその人は
  振り返って、「そのように腹を立てぬでもよいじゃないか」と言うと、「いや、腹を
  立てたのじゃない、お礼が言いたいのじゃ。この婆の口に称える念仏が、もし
  功徳になって助かるのなら何としよう。まるまる助けられた後の粕念仏とは
  嬉しい。よう知らせてくれた、よう知らせてくれた」とお園は喜んだと言います。」

  「ある人が「私はたのむ一つでお助けと決定しております」と自分の領解を述べると、
  お園曰く「たのむものがお助けなら、たのまぬものはなおお助けじゃ。
  たのむを我から見る世話のいらぬお助けが嬉しゅうござります」」
748神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 16:08:51 ID:HA65SdKx
>>745
>むつかしいことを考えておられるんですね。
>禅の公案みたい・・・

自分で難しくしているんでしょうね。せっせと支度を(地獄行きの)しているんでしょう。
と自分では言いますが、これを人に言われるとカーッと来るから凄いものです。

もう考えるのに疲れたので、阿弥陀様にお任せしたいと思いつつ、
なかなかそう都合のいい話もないように思えます。
749神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 21:00:17 ID:2NeiyE67
「そのまま」がわからない。苦しむ。どう骨折ってもわからん。
「そのまま」がわからんまま、おまかせになる。
750渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/20(水) 21:47:56 ID:28Q+dWvs
>730
非正統伝         慶証寺 玄智 述 (江戸中期)

 新伝「唯授一人口決」。『撮要』には、一切唯授口決の事を云わず、兇僧はやしもすれば口決
に誇り他家を罵辱す。孰をか正とせんや。

 「唯授一人口決」という書が刊行された。以前の「撮要」では、唯授口決などということは全
く言っていなかったではないか。キチガイ坊主は往々にして口決を誇り、他家をさげすむ。彼ら
は一体何をもって正とすると言うのだろうか。

巻三『三重相伝』及『踏破』下十六等によるに、六角夢告の「文に付て、この臆度を説くと見ゆ。
唯授一人の言は、密家の名目を剽取せり。

 口決はそもそもどこから始まったものだろうか。巻三『三重相伝』及び『踏破』下十六等を読
むとその経過が分かる。
 六角堂の夢告の文で、このような推測じみた話が出てくる。ただ一人に授けるという言葉は、
密教の教えを盗んできたものだ。

『撮要』上三十七右 自袖伝等の七伝を叙す。多くは是暗中の摸索にて、採用するに足らざるも
のなり。

『撮要』上三十七右、自袖伝等の七伝にそのように書いてある。口決面授などは、闇の中で探し
当ててきたもので、採用するに足りない。
751渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/20(水) 21:48:32 ID:28Q+dWvs
それ口決を尊ぶは禅家密家等なり。密家は種々の秘授あれども、禅宗には唯仏心印を授受するの
み。西鎮の徒これを羨み、新に円戒伝授五重口決杯と云うことを設けて宗規とし、庸愚を欺惑す。

 そもそも口決などを大事するのは、禅宗・密教の宗派である。密教の教えには、様々な秘授が
ある。禅宗では、唯仏心印つまり覚りを開けたかどうかを確認し、その印可を与えるためである。
鎮西派が、禅宗・密教の教えをうらやみ、円戒伝授五重口決杯と云う制度と設けてある。これは、
大衆を欺瞞する教えである。

潜に其説を聞くに、真妄混淆して取るに足らざるものなり。吉水すでに念仏往生の外に奥深きこ
とを不知とのたまえば、祖承に非ること勿論なり。

密かにその考え方を漏れ聞くところでは、真実と間違いとが混じり合い、全く意味をなしてない
ようだ。吉水で法然聖人は何と言っていたか。念仏往生の外に奥深いことは知らないと言ってい
る。鎮西派の円戒伝授五重口決杯などは、法然上人が全く関与しない問題である。法然上人以来
の教えに反していることは明らかである。

 高田また浄土下野派なれば、これに傚て新義を仮立するにや。所謂三門徒の人、親鸞位の邪義
に彷彿たるものか。夫真宗には七祖已来帰仏の心印を授受するの外、口伝口決と称して他の見聞
を憚り、私語密授すること更になし。

 高田つまり浄土下野派であれば、鎮西派に倣って新たな教義を立てることもあるだろう。いわ
ゆる三門徒派が説く親鸞聖人の教えの邪義を思い出させるくるものがある。そもそも、浄土真宗
には、七祖以来、仏に帰依する心を授かることのほか、口伝口決などと称して他の見聞を加える
ことを嫌う。個人的に密かに何かを授受することを嫌う。
752渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/20(水) 21:49:31 ID:28Q+dWvs
試に問ん、真宗の大事は往生にあり。口決を受ざるものは、往生を遂ざるや。往生に関らば、仏
願何ぞこれを誓わざるや。往生に関らずば無益のことなり。

考えてみようじゃないか。浄土真宗の核心は極楽浄土往生にある。口決の無い者は往生できない
というのか。仮に往生できないということになれば、仏の本願は何を誓ったことになるのだろう
か。全く無意味ではないか。

もし各家伝灯の規則なりといわば、他家また各自の規則あるべし。何ぞ独り誇称せんや。ああ燕
石を認めて、省悟の日なし、憐むべし。

 仮に、各家ごとに伝灯の規則があるというなら、当然他の家にも同じような規則があるだろう。
面授口決でどうして、自分の家だけが優れていると言えるのだろうか。偽物を宝物とし、全く反
省の色がない。哀れでならない。
753神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 21:57:23 ID:2NeiyE67
慶証寺の玄智というお坊様はなかなか面白い仕事をされた方ですな
お経の読み方なども考証されたようだ
754神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 22:02:59 ID:2NeiyE67
>>747
>「ある人が「私はたのむ一つでお助けと決定しております」と自分の領解を述べると、
> お園曰く「たのむものがお助けなら、たのまぬものはなおお助けじゃ。
> たのむを我から見る世話のいらぬお助けが嬉しゅうござります」」
味わい深い 如来様のお心がお園さんを通して透けて見えるようだ・・・
755無量寿寺広報:2008/02/20(水) 23:31:13 ID:9BC5Lior
>>754
> お園曰く「たのむものがお助けなら、たのまぬものはなおお助けじゃ。
> たのむを我から見る世話のいらぬお助けが嬉しゅうござります」

妙好人たちはどうしてこのような信心を受けられたのかなぁ?って素直に思いますね。
「自力でたのまなければ・・・」理屈をこねなくてもそんなものはぶっ飛びますね。
次元が違うって感じです。

756:2008/02/20(水) 23:32:19 ID:9BC5Lior
ありゃ、コテハン残ってましたね (^^ゞ
757神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 23:40:19 ID:Sh88IUXA
>>752 口決(?)の無い者でも当然往生できる。
しかし、口決が無い者は、どこまで正しい浄土教の知識を得ているのか怪しい。
口決を受けた人は、一応、
他の人にも正しく説明できるだけの体系的な知識がある。
口決は、往生のためではなく、
次の世代に教えを正しく伝えるため。
758神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 23:44:30 ID:Sh88IUXA
もしも、浄土教を正式に学んだことのない者が、
僧侶であると嘘をついて教えを説いていたとしたら、
どうやって見破ることができるでしょうか?
正式な教育を受けた人しか知らない「口伝」について
質問してみれば、化けの皮がはがれる。
759神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 23:52:35 ID:ZJSUEdK+
妙好人伝に登場するような人たちは、なんというか、私らとは違う霊的な高みに
ど〜んといっちゃったような、ある種宗教的なエリートでしょうかね。
じゃ、そこまでの境地に達しなければ往生はかなわないのかって言えば、そうでもないと思う。
泥だらけの妄念だらけ、そのままで救われるのが浄土真宗なんだと思う。
そして、そのまま救われた後に、人によってはど〜んと突き抜けちゃった、ってのもアリかなと思う。
760神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 23:55:23 ID:Sh88IUXA
補足説明。
口伝は、五重の最終に授かる。
いわば、卒業の証。
口伝を授かる段階までたどりついたということは、
浄土教について体系的な知識を学んできたことになる。
だから、口伝を受けたか受けていないかは、
いわば、卒業証書をもらったかどうか。
卒業していないのに先生のふりして
デタラメを説く人もいるからね。
761秘伝のタレ:2008/02/21(木) 00:24:11 ID:d1NUW5gf
浄土往生に口伝など役に立ちますかねえ。煩悩成就凡夫人の口伝を当てにするより、
若不生者を当てにせよ。善知識はそれを私に教えてくれる方々。
そう受け取ると、この世には数限りない善知識方がおられる。
三河のおそのさんの称名を聞いて「空念仏」と言った人も、
おそのさんにとっては善知識だった。自分の体験ばかり見ている人は、
その壁に閉じこもって、大利を失う。弥陀の本願まことであって、
私はスカスカ、空っぽ。口伝もそのまま受け取れず、
自分の業に併せて勝手に解釈。そんな私がどうして仏と成る?
何がなんでも、成仏させる、弥陀の本願有り難し。
私の喜び当てにならず、聞いた覚えた当てにならず、
私が自分の意業で善知識と信じた人の口伝も当てにならず。
ひとり弥陀の本願のみ、悟りの智恵の上の誓いなり。
その誓いとは「お前を必ず仏と成す」有難うございます。南無阿弥陀仏
762秘伝のタレ:2008/02/21(木) 00:44:26 ID:d1NUW5gf
秘事法門は、私たちだけが真実を伝えていると言う。
大体、凡夫が真実を伝えられるわけがないのに、まことしやかに、
あれこれと飾りをつけては人を欺く。人は胡散臭いのが実は大好きで、
必ず救うと弥陀が誓ったことよりも、そっちの方が大好きなんです。
自分は特別、自分は確固たる信を獲ている、自分は求道している、
皆、煩悩のお仕事です。煩悩のお仕事の行く末は、苦果しかありませんね。
それを見かねた仏さまが南無阿弥陀仏。
エッチラヤッチラ、毎日毎日、煩悩遊戯。求道も、救いを求めるも、
偉そうな事を言うも、伝えずにはおられないなんて煩悩の固まりの癖に言う事も、
煩悩の所作以外の何物でもない。信用しなくていい。
ただひとつ、信用できるのは、悟りを得た人の言葉。
阿弥陀仏は悟りのお方。摂取不捨は悟りの言葉。
有難うございます。南無阿弥陀仏
763神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 00:51:22 ID:/p5QSVHL
>浄土真宗における次第相承の善知識は、法然聖人からの法脈だと思います。
>口決面授による血脈です。

しかし、これが本当だったら面白い。

764渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/21(木) 01:02:55 ID:nIBM4E7J
>760
 凡そ聖道門は智慧を極めて生死を離れ、浄土門は愚痴に
還りて極楽に生る。
                   (三心料簡事 法然)

故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候
いしことを、たしかにうけたまわり候いし
                  (末灯抄)

学問をむねとするは、聖道門なり、難行となづく。
                  (歎異抄)
765神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 01:09:59 ID:n0TAS44R
おまいらエベレスト登頂目指すのと温泉につかるのとどっちが好き?
766298:2008/02/21(木) 01:25:20 ID:MxMdHy2j
>>755

弥陀をたのむと言いながら、たのんでおらぬと見えた人に、
他力の救いをピシャリと言ったまでのこと。

自力のたのむは、たのむにあらず。

真実信心求める人は、あらゆる雑音をかきわけて、弥陀をたのまねばならぬと思います。

方法を知りたいといいながら、説明すれば拒否する方が多いですね。

ある程度求めている方は、他力の描写は知っています。

肝心なのは、我が身がどうして信をいただくか。

他力信心いただけば、他力は自力ではないと、明瞭にわかります。

世の中、自力の信ばかり。

教えても、受け付けず、望んで弥陀から逃げてゆく。

いただいた方にはわかるのですが、いただかない方は、非難をつづけます。

わかりやすく書かない方が、ありがたいのですね。

南无阿彌陀佛
767298:2008/02/21(木) 01:26:51 ID:MxMdHy2j
>>743

そうですね、そこで「すたる」ことが肝心です。

南無阿弥陀仏になるからです。

すたるからこそ、自力で無いと後からわかる。
768298:2008/02/21(木) 01:32:09 ID:MxMdHy2j
>>749
>「そのまま」がわからない。苦しむ。どう骨折ってもわからん。
>「そのまま」がわからんまま、おまかせになる。

「骨折ってもわからん」というのが、尊いです。
わかるはずがありません。

わかるための方法も、幾度も書きました。

本を読むのはいいけれど、
いざ教えられると腹が立つ。

流転から抜けたくなくて、しがみつく心があるからです。

しかし、そんな心もあるままで、
弥陀をたのめば、すべてが解決です。

いただいて、はじめてわかる世界がある。
だからこその、信心為先であり、「いそげ、いそげ」です。
769298:2008/02/21(木) 01:50:48 ID:MxMdHy2j
「口伝など、役に立ちますかねえ」と言いつつ、
真宗を尊いと思っているとしている方が、
真宗のお話をどこで知ったかと言えば、
そのほとんどは、話し言葉か、書き言葉からです。

聖道とは違い、聴聞にて、聞いたお話か、
読んだお話が多いはず。

聴聞の御恩がわかるなら、
話を聞く恩もわかるはず。

お経様も言葉にて書いてあるのに、
口伝の価値はわからない。

お聖教に、口伝について書いてあっても、
思いこみで否定する。

他力と言いつつすべてが自力。

それでも、わかる方には、わかります。

◎かるがゆゑに行者のおこすところの信心にあらず、
弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり(御文章)
770298:2008/02/21(木) 01:53:09 ID:MxMdHy2j
>>747

どれも、本当に素晴しいと思います。

そして、これらが、「なるほど」と領解できる救いがあるのです。

南无阿彌陀佛
771298:2008/02/21(木) 01:55:28 ID:MxMdHy2j
>>744
>いずれにせよ、もうどう読もうとも自力であることは間違いないので、開き直って
>そのまま読ませて頂こうと、苦心しています(この中に既に矛盾があるのですけどね!)

読んで他力の信をいただこうとするなら矛盾があるでしょうが、
他力を知らぬから、まずは自力を進むのだと、
それで矛盾はありません。

自力が往生の役に立たないからと言って、
自力に意味がないのではないのです。

自力の信が否定されるのは、それで満足すると、
他力信まで進めずに、止まってしまうからで、
自力で求めることは、大切です。

わかるまでは、自力で求めることが大切。

否定されるのは、自力であるのに、他力信を獲ているという態度です。
772298:2008/02/21(木) 01:57:02 ID:MxMdHy2j
>>744
>つまり、あなた様は、獲信者から教わっていないということです。
>ですから、理解がずれるのです。
>まったくそのまま、お言葉を返してしまいます…

お聖教には、善知識の性質が書いてありますよ。
よくよく、お読みすることだと思います。

今の時代、全文検索もかけられます。
773298:2008/02/21(木) 02:01:01 ID:MxMdHy2j
>>742
>貴方はよく「自分はこう信じている」という旨を言われますが、これが、
>広く妙好人といわれている方のお姿と、違うと思われませんか?

「広く妙好人といわれている方のお姿」に、あえて合わせようとしていない面が
あります。

それは、フリをするなら、学べばできることだから。

本当に求めている方は、違いがあるからこそ、逆に何かを感じる面があるのです。

これまでは、他力の救いそのものが語られることが多かった。

あるいは、信心の味わいが多かった。

それで、そういう話はたくさん聞いたけれども、
「では、どうやって信を獲たら?」という方の、助けにはあまりならなかった。

それでも、まわりの人に聞いてゆけば、
御同行もいたのです。

このスレでも、私は尋ねることを勧めていますが、
地域によっては、おそらく絶対数が少ないのが現状です。

昔でも、妙好人を遠くから尋ねた方々がいました。

そのような方々の一部は、信をいただいたはずです。
774298:2008/02/21(木) 02:08:09 ID:MxMdHy2j
「たづねる」については、>>89で引きましたが、再度引きます。

◎そもそも、当流において、その名ばかりをかけん輩も、
またもとより門徒たらん人も、安心のとほりをよくこころえずは、
あひかまへて、今日よりして、
他力の大信心のおもむきをねんごろに人にあひたづねて、
報土往生を決定せしむべきなり。(御文3-1)

このように書いてありながら、否定する方が多いです。
御文様を読んでいるとのことでも、否定する方が多いです。
775298:2008/02/21(木) 02:15:34 ID:MxMdHy2j
>>751
>そもそも、浄土真宗には、七祖以来、仏に帰依する心を授かることのほか、
>口伝口決などと称して他の見聞を加えることを嫌う

◎近代このごろの人の仏法知り顔の体たらくをみおよぶに、
外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、
内心にはさらにもつて当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、
あまつさへ相伝もせざる聖教をわが身の字ちからをもつてこれをよみて、
しらぬえせ法門をいひて、自他の門徒中を経回して虚言をかまへ(御文3-11)

この「相伝」とは、口伝ではないのでしょうか。


◎このごろ、いにしへ口決を伝へ、面受をとげし門徒等、おのおの好
を慕ひ、路を尋ねて参集したまひけり(御伝鈔)

「口決」「面受」と出ています。


◎わたくしにいはく、源空聖人、勢至菩薩の化現として本師弥陀の教文を和国
に弘興しまします。親鸞上人、観世音菩薩の垂迹として、ともにおなじく無碍
光如来の智炬を本朝にかがやかさんために師弟となりて、口決相承しまします
こと、あきらかなり。仰ぐべし、たふとむべし(口伝鈔)

「口決相承」とあります。


◎かつは一流口伝の宗旨に依りて、かつは一分短慮の領解に就きて、
聊か以てこれを記す(六要鈔)

「口伝」と出ています。
776298:2008/02/21(木) 02:18:30 ID:MxMdHy2j
>>751

◎まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、
自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、
今師(親鸞)御相承の口伝にはあひかなひはんべれ(改邪鈔)

「今師御相承の口伝」とあります。


お聖教をあげても、無視し続ける方もいます。
有縁の方のために、あげました。
口伝について述べている箇所は、他にもあります。

みなさまご自身でお聖教を調べれば、わかることです。

南无阿彌陀佛
777298:2008/02/21(木) 02:57:06 ID:MxMdHy2j
>>744
>「そのままじゃ」のそのままがわからずに苦しんだ経験が、おありではないのですか。

「そのまま」がわからない、ということは、あまりありませんでした。
「そのまま」は「そのまま」ですから、「なるほど」とわかる。

私の場合は、「この『そのまま』で、本当に良いのか?」のような疑問でした。
しかし、それは苦しみというよりは、気後れ、遠慮に近いでしょう。

あとは、「そのまま」について言えば、
「そのまま・・・なんだけれども、救われていないよ?」のような
感じの疑問です。

私が苦しんだのは、そもそも、私に苦しみがあったということ。

そして、「弥陀をたのむ」がわからなかったこと。

「他力、他力というけれど、何をやっても、自力じゃないか!」と
思ったこと。

他力を求めて何もしないよりも、修行した方がいいんじゃないかと
考えたりもしました。

「信決定ができない」ことが、苦しかったですね。

自分ではわからなかったことを、教わってわかり、
弥陀をたのんで、信決定した。

だから、私は感謝しています。
778298:2008/02/21(木) 03:13:19 ID:MxMdHy2j
>>744
>仏法聞く耳のないのがこの機と教えていただきます。それをこそ、
>阿弥陀仏一仏が救ってくださる、だからこそ真宗が尊いのですよね?
>でも「仏法聞く耳ない」は、聞こうとしてみて初めてわかる体験です。

「聞こうとしてみて」は、ちょっと弱いと思います。

私にとっては、「聞いてみて」の方がわかりやすいです。

つまり、私には、次のような言い方のほうがわかりやすいです。

信をいただいてから、お聖教を読みますと、「なるほど、書いてあった」とわかる。

ここで、「聞く耳もない」「読めども読めずだった」とわかります。

私が繰り返し書く事も、多くの方に、幾度も否定されていますからね、
同じことです。

もし、誰かが気が変わって信をいただいて、
それから私の書き込みをみたら、「なるほど」とわかる箇所が、
かなりあると思います。

(私は、個人的な感想も書いていますから、そこはずれるでしょうけれども、
それでも、教えに関するところは、かなりの部分が「なるほど」とわかり、
「読めども読めていなかった」とわかるはずです。そのときには、
掟の意味もわかっていることでしょう。)

蓮師は、「掟が有る」と領解文にしっかりと書きました。

これは、やはり尋ねてほしかったからだと思います。

「掟がある」と書かずに、掟によって語られないなら、探しにくいと思います。
779298:2008/02/21(木) 03:21:00 ID:MxMdHy2j
>>744
>真宗聖典で教えていただくこと、
>阿弥陀様のこころを、私の心で掬おうとせずに、私の心を
>そのなかにつけることができれば、もう言うことはないです。

「真宗聖典で教えていただくこと」については、よくわかりませんが、
下の二行につきましては、私が言う「弥陀をたのむ」ができれば、
実現します。

それが易行だから、真宗はすごいのです。

「言うことはない」というのが嘘でなければ、
大きな感慨もいただけるであろうと思います。

弥陀から、ひたすら逃げていた事もわかるでしょう。

南无阿彌陀佛
780298:2008/02/21(木) 03:24:50 ID:MxMdHy2j
>>742
>どうしてこうなるのですか。
>「方法を善知識から聞くことができる」これは、自力ですよ。

それが自力なのも、その通りです。
方法を聞いただけでは、もちろん自力のままです。
方法を聞いて、実行しても、もちろん自力ではじまります。
しかし、他力に至り、自力に戻る。

他力そのものは、私たちには実行できません。
行者にとっては、非行です。

しかし、非行をどうやって為すのですか。
非行を自分ではやりようが無いでしょう。

ですから、非行に至る行があるのです。
781298:2008/02/21(木) 03:52:21 ID:MxMdHy2j
他力と思うが自力であって、
自力と思うて他力知る。

ほんに尊い南無阿弥陀仏。
自力が他力の南無阿弥陀仏。

機法一体機が自力。
機法一体法が弥陀。

弥陀と自力に隙間無く、
自力が阿弥陀の法になる。

他力の弥陀に救われて、
自力戻れば弥陀といる。

南無と信ずる機となって、
阿弥陀の法に感謝する。

行者のすること何も無し。
尊い知識に御同行。

機法一体南無阿弥陀仏。
御恩報謝の南無阿弥陀仏。
782298:2008/02/21(木) 03:57:00 ID:MxMdHy2j
自力すたれとがんばる自力。
すたるどころか疲れるばかり。

弥陀の救いは自力が他力。
他力本願真宗念仏。
783298:2008/02/21(木) 04:07:11 ID:MxMdHy2j
>>713
◎コノ名號イカナル亂想ノ中ニモ稱スヘシ。
稱スレハ、法藏菩薩ノ昔ノ願ニ、心ヲカケムトセサレトモ、
自然ニコレコソ本願ヨトオホユヘキハ、コノ名號ナリ。
シカレハ別ニ因位ノ本願ヲ緑セムトオモフヘキニアラス(法然聖人)
784298:2008/02/21(木) 04:16:52 ID:MxMdHy2j
朝の方が、私が書いた御恩報謝の念仏の自力について、
疑問に思ったことも、わかるのです。
なぜなら、私は意識的に書いているからです。
なぜ意識的に書いているかと言えば、
単語がひとり歩きしているからと思うからです。

◎たゝ一念二念をとなふとも、自力の心ならん人は、自力の念佛とすへし。
千遍、萬遍をとなふとも、百日、千日、よるひるはけみつとむとも、
ひとへに願力をたのみ、他力をあふきたらん人の念佛は、
聲々念々しかしなから他力の念佛にてあるへし。
されは三心をおこしたる人の念佛は、日々夜々、時々剋々にとなふれとも、
しかしなから願力をあふき、他力をたのみたる心にてとなへゐたれは、
かけてもふれても、自力の念佛とはいふへからす(法然聖人)

「自力の念佛とはいふへからす」とありますが、
それでも意識的には、自力にて、一生懸命に称えているのです。

(もちろん、すべてがではありません。
習慣化しているかのように、自然と口からでてくることも、
またもちろんです。)

これを、「自力の念仏だから、むなしいと批難してはいけない」ということです。

朝の方は、自力だと批難しているのです。

他力をいただいている方のお念仏は、自分でとなえても、
他力の念仏なのです。

「他力のお念仏だから、自力ではとなえないのだ」とばかりに、
その実際は自力のお念仏を、ほんの少ししか称えない方のことを、
「それは違う」と言っていると思います。
785298:2008/02/21(木) 04:31:55 ID:MxMdHy2j
少し長いですが、三心具足のお念仏について。

◎問ていはく、これ程にやすく往生せは、念佛するほとの人は、みな往生すへきに、
ねかふ物もおほく、念する物もおほき中に、往生する物のまれなるは、
なにのゆへとか思ひ候へき。
答ていはく、人の心はほかにあらはるゝ事なけれは、その邪正さためかたしといへとも、
經には三心を具して往生すと見へて候めり。この心を具せさるかゆへに、
念佛すれとも往生をえさる也。三心と申すは、一には至誠心、二には深心、
三には廻向發願心也。はしめに至誠心といふは眞實心也と釋するは、
内外とゝのほれる心也。何事をするにも、ま事しき心なくては成する事なし。
人なみなみの心をもちて、穢土のいとはしからぬをいとふよしをし、
淨土のねかはしからぬをねかふ氣色をして、内外ととのほらぬをきらひて、
ま事の心さしをもて、穢土をもいとひ淨土をもねかへとおしふる也。
次に深心といふは佛の本願を信する心也。われは惡業煩惱の身なれとも、
ほとけの願力にて、かならす往生するなりといふ道理をきゝて、
ふかく信して、つゆちりはかりもうたかはぬ心也。人おほくさまたけんとして、
これをにくみ、これをさへきれとも、これによりて心のはたらかさるを、
ふかき信とは申也。次に迥向發願心といふは、わか修するところの行を迥向して、
極樂にむまれんとねかふ心也。わか行のちから、わか心のいみしくて往生すへしとはおもはす、
ほとけの願力のいみしくおはしますによりて、むまるへくもなき物もむまるへしと信して、
いのちおはらは佛かならすきたりてむかへ給へと思ふ心を、
金剛の一切の物にやふられさるかことく、この心をふかく信して、
臨終まても、とおりぬれは、十人は十人なからむまれ、百人は百人なからむまるゝ也。
されはこの心なき物は佛を念すれとも順次の往生をはとけす、
遠縁とはなるへし。この心のおこりたる事は、わか身にしるへし、人はしるへからす(法然聖人)

そしてさらに、一枚起請文によれば、

◎ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して
南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに篭り候ふなり
786298:2008/02/21(木) 04:48:44 ID:MxMdHy2j
◎若シ心ヲトヽノヘ身ヲ愼テ、念佛シテ生ルトナラハ、ヤハ疾雨ノ如クハ生ルヘキ。
又カヽル願ナレハトテ、ワレトフテカヽリテ、ワロカレトニハアラス。
本願ノ手ヒロク不思議ニマシマス樣ヲ申斗ナリ。念佛往生ノ義ヲカタクフカク申サン人ヲハ、
ツヤツヤ本願ヲシラサル人ト心得ヘシ(法然聖人)

三心を説き、心をととのえなくて良いと説く。
矛盾しているようですが、これを会わせていただくべきであると思います。

心整えずして、本願念仏をすれば、自ずから三心を具す。
私は、そのように考えます。

南无阿彌陀佛
787神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 08:24:42 ID:1swj2Qx9
>>761 その善知識の皮を被って
間違った教え(例えば自力の念仏とか)を説く人が

出てきたらどうするんですか?
偽の善知識を防ぐために、
正しい知識をもった善知識を育成するわけです。
788神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 08:29:09 ID:1swj2Qx9
>>764 念仏往生には学問は不要。
しかし、そのことを明かすためには学問が必要。
教論を正しく解説できる学僧がいたからこそ、
学問がなくても往生できることがわかったのです。
789はかりごと:2008/02/21(木) 08:40:20 ID:d1NUW5gf
298さん、自力他力を判別する主体が自力なのだから、
いくら判別しても自力ですよね。言うなれば、らっきょの皮剥きみたいなもの。
他力信を得たと言って憚らない人は、らっきょの皮をある程度まで剥いで、
ここで全てなし尽くした。南無阿弥陀仏と一体となった、
と自己満足しているだけなのではないかなあ。
どこまでいっても皮は皮。凡夫は死ぬまで嘘の皮ならば、
体験も善知識も当てにはならない。第一、それを認識している私自身が、
何といっても当てにならない張本人なのですから。
覚如上人は、本願寺中央集権を目指した人だから、
自分が法然・親鸞・如信と続く者、口伝血脈を主張するけれど、
もしこの血脈だけに限ると主張してしまったら、
弥陀の本願を凡夫の分際で、限定してしまうことになる。
298さんは、覚如さんの本願寺教団中心主義を裏付ける為に主張された血脈相承を
信心の条件と考えている故に、真実信心と言う何人たりとも介在できない仏心即ち信心を、
凡夫の境涯に引き落としてしまっているのではないかなあ。
自分の経験体験にすがるのを止めてみるといいんだろうけど、
凝り固まっている人には難しい相談かもね。
業繋に束縛された、各々大した差異もない凡夫の麁なる体験を
後生大事にする必要があるのかな?
摂取不捨の仏さまは、凡夫に注文されない。
注文しても答えられないと見て取った故の摂取不捨。
こうでなければいけない、ああでなければいけない、と
自分の経験になぞらえて、注文造って、壁こしらえて、
無碍の光明のお仕事を邪魔しているようにしか見えないんだよね。
摂取不捨の真言に言い訳は無用だよ。
南無阿弥陀仏
790神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 08:52:28 ID:IjNsaWGm
>>789
南無阿弥陀仏
791神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 09:34:36 ID:dUwtItR7
そろそろこのスレ終わりだな

渡海難と298の長文オナニー合戦もそろそろ決着が
792神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 09:59:04 ID:DrpoCHhJ
>>789
そうすると、真宗聖典を読むときには、そのまま全部真に受けるんじゃなくて、
要点を取捨選択しなきゃならないってことでしょうか。
793渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/21(木) 10:14:50 ID:nIBM4E7J
>778
> 蓮師は、「掟が有る」と領解文にしっかりと書きました。
     298さんが推薦している領解文の掟を読んでみよう。原文と僕の解釈を併記します。

 領解文
諸々の雑行・雑修、自力の心をふり捨てて、一心に阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生御
助け候えと頼み申して候。

 極楽浄土往生のためには称名念仏以外はいらない。極楽浄土往生を目的とし、称名念仏以外の
様々なことをしようと思えば、これは愚かなことである。
 極楽浄土往生を目的とし、称名念仏以外の様々なことを選択していこうとする心、我流で分別
判断するそのような自力の心、こういうものは振り捨てようではありませんか。 「阿弥陀如来、
今後の我等を待ち受ける予測を超える困難に対し、どうか援助をください」。そのような祈る思
いを抱き、念仏申す者を救わんというその本願を自分の水先案内、つまり頼みとし、拠り所とし
て念仏をお称えなされませ。

 頼む一念のとき、往生一定・御助け治定と存知、この上の称名は、御恩報謝と喜びもうし候う。

 阿弥陀仏の本願を頼みとし、つまり拠り所とし、本願をしっかりと我が水先案内として南無阿
弥陀仏と称えて行くんだ。これが大事なんだと分かれば、そう分かった瞬間、将来の極楽浄土往
生が確定的に定まる。本願を頼みとし、拠り所として称える念仏の意味が分かったとき、救いが
具体的に確定的に定まる。
 予測を超える困難にあたっても必ず道が開けるだろう。将来の救いが確定する。そのように確
信しようじゃないか。そうすれば、その後は、さらに念仏を重ね、確定に対する御恩報謝の念仏
を称えていこうではありませんか。
794渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/21(木) 10:16:22 ID:nIBM4E7J
 自分の確信は実に粗末なものでしかない。恥ずかしくなるようなそのような信力、そのような
信力しか自分にはない。そのような信力でさえ御助けあり。かたじけない。その報謝をもって、
本願を頼みとし、本願を水先案内とし、死ぬまで念仏を称えていきましょう。(一帳目三通、趣旨挿入)

 この御ことわり聴聞申し訳候こと、御開山聖人御出世の御恩・次第相承の善知識の浅からざる
御勧化の御恩と、有り難く存知候う。

 これだけの内容の道理をしっかりと聴聞したいと思います。これだけのことが分かれば、「あ
あ、御開山聖人が自分のライフワークとして、生涯を賭けて伝えようとしていたことはこのこと
だったのかと思い、そのご苦労を偲ぼうではありませんか。その後の代々の善知識達は、何を伝
えようとしてきたのか。まさに親鸞聖人のこの思いだったわけです。いま、それだけのことが分
からせてもらえた。これは、親鸞聖人を始めとする多くの先人達の実に深い働きであったと、そ
のように有り難く思いたいと思います。

この上は定め御おきて、一期を限り守り申すべく候う。

 念仏申せ。念仏申せ。親鸞聖人がライフワークとして、生涯を賭けて伝えてくださった念仏申
せというこの掟、念仏申せというこの掟を、自分の座右の銘として、死ぬまで守り続け、念仏を
重ねていきたいとい思います。
795神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 10:17:15 ID:80TVmTm3
>>784
>朝の方は、自力だと批難しているのです。
>「他力のお念仏だから、自力ではとなえないのだ」とばかりに、
>その実際は自力のお念仏を、ほんの少ししか称えない方のことを、
>「それは違う」と言っていると思います。

違います。他力のかたのお念仏を非難なんてしてません…
ただ、他力を得ていないのに他力を得たといい、その方法は「口伝」によってのみ
伝えられるのだからそれを聞かなければ信心頂けないぞ、と、
誤った導きを書き込むのはよろしくないのではないか、と言っています。

非難されていると感じられる、その姿こそ自力です。
信心頂いた方はみな、非難を徳と受け取られる。妙好人のことばをみるにあきらかです。
あなたは、人の意見を非難と受け取られる。哀しいです。

>>762
>秘事法門は、私たちだけが真実を伝えていると言う。
>大体、凡夫が真実を伝えられるわけがないのに、まことしやかに、
>あれこれと飾りをつけては人を欺く。人は胡散臭いのが実は大好きで、
>必ず救うと弥陀が誓ったことよりも、そっちの方が大好きなんです。

まさにこれと思います。
凡夫が信心を伝えられるわけがない(聞くほうも聞けるわけがないのですが)
まことしやかに、「保つ」ということが、どうしてもおかしい。

真宗の教えは、ひとりひとりが、阿弥陀仏から直接に信心を頂くのであり、
だからこそ他の宗教から際立って尊いのだと思います。

298さんは確かに何かの信心を誰かから得ておられるのでしょう。
でもそれは、真宗の信心ではないです。
796神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 10:32:51 ID:80TVmTm3
>>795
真実を信心と言い換えてしまっていました。同じ意味と読んで頂ければ幸いです。

凡夫が真実を伝えられるわけがない、聞くほうも聞けるわけがない。
それでも、妙好人のかたの言葉からは、なにか太陽のように輝く力を感じます。
その人の身体を貫いて、包み照らすなにかの力というようなもの。
だからこそこういうスレもあるのでしょう。

298さんの書き込みは、私にとって残念ながら妙好人のおことばではないです。
でも、最後の最後、信心頂くと言うことについて(一番大事なところですが)異なるだけで、
その前の部分については、やはり真宗の道を歩む御同行のお姿と見えますので、
大切なご縁として、聞かせて頂きたいと思います。
797渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/21(木) 10:37:04 ID:nIBM4E7J
>>775-776
> この「相伝」とは、口伝ではないのでしょうか。

そうでん【相伝】(広辞苑)
代々うけつぐこと。つたえつぐこと。「父子―」
くでん【口伝】(広辞苑)
口頭で伝えること。奥義などの秘密を口伝えに教え授けること。口授。また、それを記した書。

 相伝≠口伝

> (御伝鈔) 「口決」「面受」と出ています。
>(口伝鈔) 「口決相承」とあります。
>(改邪鈔) 「今師御相承の口伝」とあります。


 御伝鈔・口伝鈔・改邪鈔は覚如が書いたものだ。京都では鎌倉から上ってきた新興鎮西派と布
教戦線で劣勢に立ちながら戦い、関東の高田派の切り崩しを図って本願寺の独立を図った人だ。
教派主義・派閥主義が強い。覚如の書き物は、立場を考えて解釈する必要がある。
 親鸞は弟子一人も持たず候(歎異抄)。覚如の思想は親鸞の考えと対立するところがある。
798神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 10:39:02 ID:/p5QSVHL
法然の口決面授の秘伝は、八百年の歳月を経て、現代の次第相承の善知識に伝わる。
次第相承の善知識から、相伝を受けずば、往生は叶わず。
次第相承の善知識から、相伝を受ければ、十人が十人、百人が百人、往生決定する!
一人の例外もない故に、
全国に数名といわれる善知識様を知らぬ他力門徒並びに他力僧侶、親鸞学徒の信心は、偽物である!
799神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 10:59:12 ID:80TVmTm3
>>298
>そして、これらが、「なるほど」と領解できる救いがあるのです。

「なるほど」は、自力ではないですか。
おそらくですが、信後のかたは、「これこそわたしであった」と喜ぶのではないのですか。

言葉一つ、言い方一つで、信心を装うことはいくらでもできますが、
ずーっと貫いて芯がぶれないということ、これが妙好人のおすがたと思います。
やはり、ずーっとお話を聞いていくと、おかしなところがでてきます。

>>632
>阿弥陀様も、よろこんでおられることでしょう。
これも、我が身をただいま現在、阿弥陀仏に包まれているおかたのお言葉としては、
どうもよそよそしい。

型にはまった言い方をしたくない、と書かれていますが、
その心が自力ではないですか。こう書けば私らしいかな、という。

それにしても、私にとっては、いま298さんと「他力だ」「他力でない」と
やりとりさせて頂くのは、真っ暗闇のなかにいるもの同士が、
「見えるとはこういうことだと思う」「いやわたしの知っている光はこうです」と、
言い合うようなものだと思います。
800神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 11:01:48 ID:F9jNbgzd
ただいま488k、もうすぐ500kでこのスレも書き込みできなくなります。
801神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 11:34:39 ID:DrpoCHhJ
無明を苦しみながらも、どこかで楽しんでるのでは。
802神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 11:37:18 ID:F9jNbgzd
>>801
といいますと?
8037:2008/02/21(木) 11:40:14 ID:UwutXE5L
書き込んでくださった皆様、本当に有難うございます。

妙好人と学ぶスレ、浄土真宗における信心獲得をされた方と、求める方のための、スレでございます。

「信心の沙汰をせよ」との蓮如上人のお言葉に従っていきたいと思います。

私も先ずは他力の信心を獲得し、「聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。」の身にさせていただきたいと願います。

獲信された皆様、求めておられる皆様、どうかよろしくお願い申し上げます。
804神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 11:48:02 ID:DrpoCHhJ
>>802
わかりません。ちょっとそんな気がしただけです。
見当はずれの書き込み、ご容赦くださいませ。
805渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/21(木) 12:53:35 ID:nIBM4E7J
>792
>要点を取捨選択しなきゃならないってことでしょうか。

 どんな書物でも、著者が生きていた時代背景、その社会を
念頭に置きながら読まなければ、真意が分からないというの
は当たり前のことだろう。

 常識じゃないのか?
806神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 13:00:40 ID:1swj2Qx9
>>801 おっしゃるとおり。
生きることを楽しみだと勘違いさせるのが無明です。
一切(眼耳鼻舌身意・色声香味触法)は苦痛なのです。
我々は苦痛があるから生きているのであり、
苦痛がなければ生きる必要がなくなります。
生きているということは、苦痛があるからです。
807神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 13:01:10 ID:DrpoCHhJ
>>805
真宗聖典にかぎっては、私にとってそれは常識ではないです。
808神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 13:05:38 ID:F9jNbgzd
取捨選択はともかく優先順位はあるんじゃないですか
809神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 13:16:30 ID:DrpoCHhJ
その優先順位が、信心が先だというほかは私には判断できないのです。
810298:2008/02/21(木) 13:39:26 ID:MxMdHy2j
>>799
>おそらくですが、信後のかたは、「これこそわたしであった」と喜ぶのではないのですか。

それは、妙好人像を決めつけていると思いますが・・・

別に「なるほど」で、全然良いと思います。

人によっては、「なるほど」とも思わないかもしれない。

そういう方は、説明を聞いて、「なるほど」と思えれば十分ですし、
「なるほど」と思えなくても、信決定、極楽往生治定には、変わりがありません。

如来の方より定めたまう信心です。

妙好人と言えど、怒ったり、妬んだりもするのです。

それは、同じく凡夫であるからです。

何が違うかと言えば、他力の信心をいただいていることです。

たとえ信後であろうとも、私が何かを表現すれば、そこに自力が入るのは、
当たり前のことです。

私を見て、「あんなの嘘だろう」と思う方は、
あくまでも、その方の道を行けば良いこと。

自力ばかりの凡夫でありますが、その自力を捨てる道があり、
その道は凡夫直入であり、捷径です。
811298:2008/02/21(木) 13:40:38 ID:MxMdHy2j
>>807
もちろん、私にとっても、そうです。
「聖典」というのは、時を超える書物だと思います。
もちろん、時代背景を含む記述も無いわけではありませんが、
そのほとんどには、普遍的な内容が書いてあると思います。
812298:2008/02/21(木) 13:43:01 ID:MxMdHy2j
>>803
私も、いろいろな方の意見が聞けて、とても感謝しています。
このようなスレがあることが、うれしいです。
813298:2008/02/21(木) 13:49:46 ID:MxMdHy2j
>>799
>型にはまった言い方をしたくない、と書かれていますが、
>その心が自力ではないですか。こう書けば私らしいかな、という。

信後の方が何を言おうとも、それもまた自力ですよ。
しかし、以前ご指摘ありましたが、これは「自力」「他力」の定義にもよるのです。

「あとは余韻で生きるだけ。
如来につつまれて、自力のもとも壊されて、
あとは死ぬまで生きるだけ」

説明すれば、私はこんな感じですね。「自力は無い」ということには、
抵抗があります。

それを指して、「他力信を獲ていない」という方がいらっしゃるのも、
うなずけることです。

私が言えるのは、私が獲ている信心は、易行にて獲ることができ、
お聖教とも割符が合うということです。
814298:2008/02/21(木) 13:56:47 ID:MxMdHy2j
>>813
>信後の方が何を言おうとも、それもまた自力ですよ。

それに、こう書くのにも、確かに語弊があります。
如来に生かされているのですから、他力に生かされていると言えます。
信をいただいても、煩悩残る凡夫。
極楽往生に、自力は何の役にも立たない。
役に立つと思っていたのは、この世の欲をかなえる範囲のことです。
私は、体失往生でかまいませんでした。
信をいただいて、そのまま死ねば、すぐに極楽で、ラクだと思いました。
だけど、そうはなりませんでした。
生かされていて、如来と共に、何かが違う自分を味わいながら、
こうしてスレに書き込んだり、日常生活を送っております。

ことばには限界がありますね。ことばのすき間から、
もれてくる何かが大切だと思います。

私の書き込みは、他力の信心がきちんと書けているような、
そのようなものではありません。

そんなものでも、ご参考にしてくださる方がいるのは、うれしいことです。
815298:2008/02/21(木) 14:01:30 ID:MxMdHy2j
>>795
>凡夫が信心を伝えられるわけがない(聞くほうも聞けるわけがないのですが)
>まことしやかに、「保つ」ということが、どうしてもおかしい。

もちろん、善知識様が信心くださるわけではありませんよ。
信心くださるのは如来様です。

しかし、矛盾されているように、感じるのでしょうね。

私たちに、他力信心をどうこうできるはずがありません。

如来の御はたらきが、どうしても必要です。
816神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 14:05:40 ID:/p5QSVHL
いくら経典を勉強しようが、お坊さんの説教を聞こうが、坐禅念仏をしようが全て無意味である!
真宗の奥義を知りたければ、次第相承の善知識を探し出し、遇い奉らねばいたずらごとなり。
善知識様から聞いた話は、口外してはならない。
信心を獲ることと引き換えにこの掟は守らねばならないのだ!
ただし、一度この法門に入った以上、抜忍することは許されない。
817298:2008/02/21(木) 14:09:20 ID:MxMdHy2j
>>795
>ただ、他力を得ていないのに他力を得たといい、その方法は「口伝」によってのみ
>伝えられるのだからそれを聞かなければ信心頂けないぞ、と、
>誤った導きを書き込むのはよろしくないのではないか、と言っています。

実語についても、六字のいわれについても、お聖教に書いてあるのに、
どうして受け付けられないのか、そういうご自身を観察されたら、
いかがでしょうか。

私の言うことを受け付けないのは仕方ないにしても、
御文様にも、「六字のいわれを聞き開くように」ということが、
書いてあるように思うのです。

◎さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、
この南無阿弥陀佛の六字の名号の体は、
阿弥陀佛のわれらをたすけたまへるいはれを、
この南無阿弥陀佛の名号にあらはしましましたる御すがたぞと
くはしくこころえわけたるをもつて、他力の信心をえたる人とはいふなり(御文3-5)

私は、これもよくわかります。
凡夫の心に用は無く、信心の体が南無阿弥陀仏だからこそ、尊いのです。

南无阿彌陀佛
818298:2008/02/21(木) 14:16:07 ID:MxMdHy2j
>>816
>ただし、一度この法門に入った以上、抜忍することは許されない。

そんなものでは、ありませんよ。
如来に信心いただいて、それで信心治定です。
いただいたことをよろこんで行くのが信後のすがた。
そして、ゆらいだ信心を、お聖教や御同行と確認し、
「もったいないことだ」と感謝してゆくのが信後のすがた。

他力の信心は揺らがねど、凡夫の信は揺らぎます。

凡夫の信を揺らがぬようにしてゆくには、
後念相続がいるのです。

その中で一番大切なことは、御恩報謝のお念仏であると思います。

自然と人が集うから、そこにも如来のはたらきを、感じることができると
思います。

おそらく、一時に比べれば、妙好人の数は減ったのでしょう。
(これは私の推測で、数えたわけではありません。)

では、真宗が衰退したのかと言えば、そういうことでは、無いと思います。

あくまでも、獲信者の数は如来の意図によるのであって、
そういう時期が来ていたというだけだと思います。

そして、これからは、また増える時期に来ているように、
私は感じるのです。

宿善の機が多く生まれていなければ、助けようがありません。
819298:2008/02/21(木) 14:29:39 ID:MxMdHy2j
>>789
>298さん、自力他力を判別する主体が自力なのだから、
>いくら判別しても自力ですよね。言うなれば、らっきょの皮剥きみたいなもの。
>他力信を得たと言って憚らない人は、らっきょの皮をある程度まで剥いで、
>ここで全てなし尽くした。南無阿弥陀仏と一体となった、
>と自己満足しているだけなのではないかなあ。

聖道はそうですけれど、横超ですからね・・・
ただ、信を獲たと言ってもおわりではなく、そこからも、
まだ生きていますしね、歩んでゆくわけです。

全てなし尽くすのは、生まれてきて、私になせる最上の善は、
既に為したということですね。

自己満足もできていないのが、凡夫たる証です。

南無阿弥陀仏と一体になり、如来から信をいただいても、
それでも「満足」とも行かないのが、凡夫ですけれども、
「感謝しなければ救わない」というような、如来ではありません。

私も、如来に感謝して、お念仏を称えます。

法然聖人は、第二十願のお念仏を、たくさんおすすめになっています。
たしかに第十八願は易行ですけれども、これは、すすめても、すすめにくい。
第十九願、第二十願も、受け付けない人もいるでしょうけれども、
より多くの方が、わかってくださると思います。
820神も仏も名無しさん
298さんの書き込みから、

>念仏して信をいただいた場合、さらに信後のすがたがわかれます。
(中略)
>疑問に思い、尋ねに行ったところ、「念仏したのですから、それで良いのです」と
お答えをいただいたのです。

疑問に思ってたずねて、人から「それでよい」と言われて納得というのは、
それは信前の姿です。

>信をいただいても、すぐには、何の価値があるのか、
>そして、それが正統のものであるのか、わからないかもしれません。

それは、真宗の信心ではありませんね。

>いただいたことをよろこんで行くのが信後のすがた。
>そして、ゆらいだ信心を、お聖教や御同行と確認し、
>「もったいないことだ」と感謝してゆくのが信後のすがた。

ゆらぎません。揺らぐのは自力です。
「揺らいでも、頂いているのだ」と、「自分で」信じているのです。

御文様にしがみついておられるように見えます…
真宗聖典すべてが真宗で、その教えに従って
一心一向に弥陀をたのみたてまつる、それが真宗の信心ですよね。

ともあれ、このように話をさせて頂くのは有難いことです。
真っ暗闇しかない中で、光について話すだけでも凄いことですから。