1 :
神も仏も名無しさん :
2008/01/27(日) 15:22:42 ID:tbYhBmT+ 人の幸せとは何か、幸せになるためには何が必要か、先覚者がどのように言っているか 等を真摯に考えて見ましょう。
2 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 16:02:18 ID:aqOYDAWG
共通点を探し出して書いてくれる人は少ないし、共通点を書いてくれる人を 新興宗教(カルト)が攻撃する。 浄土真宗の阿弥陀仏は神と云う意味です。 キリスト教の神と同一です。 阿弥陀(アン)(ミータ)アン→否定 ミータ→計測 つまり計測不能仏で無限エネルギーで神です。 浄土真宗とキリスト教とは同一の神への帰依を教えております。 「なまんだぶ」=「神に栄光あれ」 ♪阿弥陀の阿がアンであり阿弥陀の弥陀はミータじゃよー これでいいのだーこれでいいのだーボンボンバカボンバカボンボン 天才教祖だバーカボンボン こんなこと本気で考えている、計測不能なバカボンの新興宗教団体が 陣取るだけです。。。。。(@◇@)
スレタイに問題有りだな。イエスと比較するならシッダールタであるべきだし、目覚めたものとするなら油塗られたものにすべきだろう。
4 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 16:54:27 ID:MXqXRyuh
死んだら終わりだとして宗教に関心なかった自分も、共通点があれば宗教の意義はある かもしれないと思う。どちらが勝れた教え導きであるかは別として。
5 :
南無大師遍照金剛 :2008/01/27(日) 17:23:01 ID:up8xG0QK
イエスも仏陀も解説者 表現方法が違うだけ 真理真実は クウネルアソブ ヽ(´∇`)ノ
6 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 17:47:36 ID:tbYhBmT+
>>3 >目覚めたものとするなら油塗られたものにすべきだろう
アブラ塗られたものとは?詳しく
7 :
南無大師遍照金剛 :2008/01/27(日) 18:16:54 ID:up8xG0QK
共通点 どっちも人間 クウネルアソブ
8 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 21:29:29 ID:tbYhBmT+
>6 イエス(ヨシュア、イェホシュアなんでもいいが)ならシッダールタ。これは分かるよね? ブッダ(目覚めた者)ならばキリスト(メシア、油塗られた者)でないとだめだろ? スレタイの名前がちぐはぐですよってこと。
10 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 22:40:49 ID:tbYhBmT+
11 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 22:42:23 ID:tbYhBmT+
体に油を塗ると皮膚呼吸が阻害され健康に良くないと思いますが。
12 :
神も仏も名無しさん :2008/01/28(月) 00:22:03 ID:l6SGtaLi
キリスト、ブッダは、一般名詞、 イエスとシッダールダが固有名詞、どっちかに統一しろってことだろうけど、 前者も固有名詞化してるしいいんじゃないかな。 イエスは登場時すでに聖者のイメージだけど、シッダールタは、悟る前の 悩める青年のイメージも強い。このスレではその時代は対象外だろうし、、。
何をおっしゃいますやら。登場時、7歩歩いたのだぞ。
>12 一般名詞固有名詞ではなく、どちらも固有名詞。 人名であるならイエスとシッダールタで、称号あるいは尊称を使うならキリスト、ブッダでってことで。 >10 油塗られたもの(注がれたものでもあるか)は王になるものが油を注がれる、で、国が滅んだイスラエル(ユダヤ)で新たな王=救世主というお約束ができてた。詳しくは旧約聖書注解書とか、古代イスラエルのどーたらこーたらって学術書で。 油っても石油とかじゃなくて今でいやアーユルヴェーダの精油みたいなもんとかエッセンシャルオイルで香りをつけた奴を想像したらいいんじゃなかろか?
15 :
神も仏も名無しさん :2008/01/28(月) 17:40:30 ID:ZLMADhuF
なんか、どうでもいい。 イエスもブッダも、一般的に有名な呼び名でしょう。 歴史の教科書には、なんてでてる?
16 :
神も仏も名無しさん :2008/01/28(月) 20:45:50 ID:5WiqXSKV
>>4 死んでも死なない、生まれた事もないのが人間生命です。
17 :
神も仏も名無しさん :2008/01/28(月) 20:56:00 ID:5WiqXSKV
かつてイエスから受けたことがあります。 「愛とは困難なものに向かう。進化とは困難な高みへと向かう意志である。 情操を霊的に発達させるには、愛することが困難な者を、] あえて愛していくことによってのみ成就する。 自分に親切にしてくれる者を愛するのに何の困難があろうか。 自分を愛してくれている者を愛していくのに何の困難があろうか。 自分を嫌悪する者を嫌悪するのに何の困難があろうか。 自分に不利益をもたらす者を憎悪することに何の困難があろうか。 何の努力もいらない。何の努力もいらない愛を愛とは言わない。それは動物の愛に過ぎない。 動物を見よ。 ペットはかわいがってやればなついてくるが、足で蹴飛ばせばなつかない。 人間の言う愛はこの好き嫌いの動物の次元で止まっている。 自我の好き嫌いの愛とは、動物の愛にしか過ぎない。 えさを与えてくれる者、自分に親切にしてくれる者、 愛してくれる者を愛するのは、犬猫でもしていることである。 人間は犬猫ではない。足で蹴飛ばしてなつかない犬猫の愛を愛というのではない。 愛とは愛することが困難な者を愛していくことである。 かつてトルストイは愛は惜しみなく与う、と言った。 自我の愛は動物の愛であって、彼らを嫌悪すれば彼らも嫌悪し、 彼らを愛すれば彼らも愛すると言った動物の愛である。 無限の愛は自我の次元には存在していない。」 修行の初期段階の法に過ぎませんが・・・
18 :
神も仏も名無しさん :2008/01/29(火) 18:06:20 ID:Bvh00Kk3
>>17 真実の故に、愛すると言う事が正しい。
真実を知らない事を恥と言う。
真実に逆らう事を罪と言う。
19 :
神も仏も名無しさん :2008/01/30(水) 20:53:08 ID:Hrz0XdZl
http://sugano.web.infoseek.co.jp/isuramu/isu-0.htm 以下のように言うイスラム教がどうしてキリスト教やユダヤ教と相反する宗教であろうか?
何ゆえに、宗教戦争が有るのだろうか、いやそんなものは無いのだろう?
有るのは土地争いであったり、この世の正義の追及が戦争の原因だろう?
1-1 伝導の継続
--------------------------------------------------------------------------------
神はこの世に時を越えて異なった使徒を送りたもうた。
ダビデ(詩偏)、モーゼ(法律五書)、イエス(福音書)そして最後の使徒(予言者)として全人類の為にマホメットと聖コーラン(啓典)を授けられた。
予言者マホメットは571年キリスト教時代であったメッカにて出生し、AD632年長逝、メデイナに埋葬された。
この最後の予言者に奉ずる者のみイスラム教徒(MUSLIMS)。
イスラムは決して新しき信仰を伝えるものでなく経典を有する一神教、即ち(ユダヤ教、キリスト教の)信仰を確認するものに他ならない。
20 :
神も仏も名無しさん :2008/01/31(木) 00:30:15 ID:8u5/JaGC
教えの内容に違いがあるでしょう。 イエスを救い主と認めないし。 なんか、聖書系の宗教って血生臭い。 十字架とかも、はりつけられたイエスなわけで、 平和なイメージじゃないよね。
イエスを救世主とするのはキリスト教だけだしな。 ユダヤ教からすればただの異端者でしかないわけで。 イスラム教からみればムハンムドの前の予言者(あえて預言者とは書かない)でしかないわけで。 で、無理矢理スレらしー話題に戻す。 イエスとシッダールタの共通点はやっぱり本人の言ったりやったりしたことが、 弟子によって歪められてしまって世界宗教の崇拝物にされちゃった事でしょ?
22 :
神も仏も名無しさん :2008/01/31(木) 14:07:38 ID:aMP5yow3
>>21 釈迦の思想は阿含教に残されていますから、歪められてはいません。
23 :
VOID :2008/01/31(木) 15:38:57 ID:HkUrJUlZ
>>21 聖書にもイエスの足跡は残されています。
ただ、歪められてきた事実は確にあり、それにより神への信仰がイエス信仰に摩り替えられてきたこともあります。
24 :
神も仏も名無しさん :2008/01/31(木) 18:03:13 ID:lAWuAYUw
>イエスも仏陀も解説者 表現方法が違うだけ 違うな。釈迦は信仰からの解脱を説いている。 一方イエスは信仰を勧めている。大乗もまた信仰を勧める。 元から違う。
25 :
神も仏も名無しさん :2008/01/31(木) 18:58:09 ID:gwN8dBYM
>>24 イエスの言う信仰とは神への信仰である。大乗の言う信仰は、真実が空相であることを知り、理解し、
現実の万障の変化に囚われないようになるために、真実が(一相無相 )空相
である事を信じることである。そして、イエスの神とは、空相である。であるから、
イエスの言う信仰も、大乗の言う信仰も、同じなのである、と思う。
次に釈迦の解脱というのは、万象に囚われることから、空相を信じる結果として、まったく囚われない状態になることである。
それは、イエスの言う信仰の結果、神の国に入ることになるのと同じである。
このイエスの教える信仰の結果、イエスが、離婚を禁じている教えを是認できる。
なぜなら、神があわせたもの、これの意味は、縁起により生じたもの、それは結婚であるが、
縁起により生じている限り、そこには差別するいかなる実体も無いものであるから、その真実に反して、
別なものを求めると言う事は、真実が空相であり平等なものである限り、その真実に違反する行為となるからである。
26 :
神も仏も名無しさん :2008/01/31(木) 19:22:07 ID:aMP5yow3
>>25 釈迦に信はありません。
イエスの離婚を禁じている教えなんて聞いた事ありません。
27 :
神も仏も名無しさん :2008/01/31(木) 19:26:42 ID:mQfZsE1w
>イエスの神とは、空相である。 違います。
28 :
神も仏も名無しさん :2008/01/31(木) 21:22:10 ID:gwN8dBYM
マホメットの解する神の本質である。 これは空相である、一相、無相である。真実を言うなら、必ず、一相無相空相と言わなければならない。 1.神は、その本質、属性において被造物からの類推を一切拒否する。 一方神は各人の真近にあり我々に直接関与する存在でもある。 2. 神は絶対唯一であり、神の力は普遍であり、この世に生起するもので一つとして神の意志と力によらないものはない。 3.神は久遠、無始無終、絶対であり、時、場所、情況にかかわらず偏在し、無限永劫。 4.子もなく親もなく、並ぶものなき超越神。 5.神は偶像や崇拝さるべき人物というものは絶対に排斥す。 普遍の力で万物の創造者、支配者である。 助力者や伴侶家族も必要としない。 偉大であり天地万物の創造者、支配者である神は全知全能で完璧であり高貴で優れた慈悲深いお方、配偶者はなく生まれも死にもしない。 万物を創造し天地を支配し最後の審判を行う。 信徒よ、アッラーは全知全能天地創造支配の主アッラーを比較するものや類依するものは全くない。
29 :
神も仏も名無しさん :2008/01/31(木) 21:45:33 ID:aMP5yow3
30 :
神も仏も名無しさん :2008/01/31(木) 22:58:28 ID:8u5/JaGC
>>28 一相無相空相を神だなんて美化するな。
それは、禅定の境地への執着です。
31 :
神も仏も名無しさん :2008/01/31(木) 23:12:06 ID:gwN8dBYM
自分で説明してくださいw。
32 :
神も仏も名無しさん :2008/01/31(木) 23:13:12 ID:wPTQvBtb
それは言えてますね。w
33 :
神も仏も名無しさん :2008/01/31(木) 23:14:43 ID:a/tSI5VL
ははは
こういう闇雲な比較をしようとするとそいつの立ち位置がなんとなく見えるのも面白いなぁ(w。
35 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 08:53:51 ID:UpvAsmmW
どんな立ち位置に見える?
36 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 14:42:40 ID:ZXfYPr9w
>イエスも仏陀も解説者 表現方法が違うだけ 違うな。釈迦は信仰からの解脱を説いている。 一方イエスは信仰を勧めている。大乗もまた信仰を勧める。 元から違う。
37 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 20:28:04 ID:UpvAsmmW
>>36 確かに釈迦は、自分の修行を完成させ、伝道を始めようとした当初、「信仰を捨てよ」と言ったと記録されています。
釈迦の修行の完成と、釈迦自身以外の人々が行っている宗教行為を比較してみなければなりません。
同じではなかったんですね。釈迦のは縁起と空の理法でした。彼以外の宗教行為は、理法に欠ける教えでした。
キリスト教のイエスの犠牲の教えは、理法でしょうか?マホメットは、ユダヤ教、キリスト教の神に理法が欠けると感じたのか、
かなり神の本質などと言って、理法に近いことを言っています。それでも仏教に言う「縁起」に相当する教えは無いのです。
しかし、その理法は無いのですが、幸運な事に、縁起の理法から外れた教えとはなっているとまでは言えないです。
この真の実在である不生不滅なものを認めない教え、それは、結局変化を免れないものを単に妄信する教えと言うことになるでしょう。
例えば、キツネを信仰するもの、または、日蓮のように、呪文を唱えると言うもの、その呪文は理法とは何の関係もの無いもので、
誰もその意味を理解できないもの、などがそれに当たります。このようなものが現代でも、日蓮教徒がたくさん生じているように、
信仰と誤解されていたのだと思います、釈尊の時代でも。このような信仰を捨てよ、と釈尊は言われたのであります。
釈尊の信仰は、この理法とその導く世界(ニルバーナ)を信じるというものです。釈尊はこの意味の信仰を確かに説いています。
誰か釈尊のこの部分の説教をコピペしてくれないかな。
38 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 20:39:53 ID:CSNXTGFF
>釈尊の信仰は、この理法とその導く世界(ニルバーナ)を信じるというものです。釈尊はこの意味の信仰を確かに説いています。 釈迦は 信仰ではなく唯識の原理を説いてるのさ。 他と一緒にするなよな。
39 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 20:42:53 ID:W+MUxWS4
>>37 それは釈迦を美化し過ぎなんです。
釈迦は「アン・アートマン」なんです。
永遠の生命、神への信仰は皆無なんです。
われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
(相応部経典22.55 増谷文雄訳)
これが、ブッダの思想のもっとも基本的な教えの一つである「無我」の思想です。
「無我」の思想は、単に、自己中心主義を否定しているのではありません。
ブッダはバラモン教の教えである魂の輪廻説を否定したのです。後代の仏教はやがて
バラモン教(ヒンズー教)の教えを再び導入してしまいますが、魂の輪廻説を否定した
ブッダの「無我」の思想は、いくつかの禅の伝統にはまだ生き残っているように思えます。
40 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 20:52:16 ID:UpvAsmmW
>>39 >永遠の生命、神への信仰は皆無なんです。
生命とは何か?と、問うところですが、永遠と言うからには、その生命は、
空相で無ければならないのです。永遠なものは、純一なもので無ければならず、純一なものは、空相で無ければならないからです。
次に「神」とは何を言うものかと、問うところですが、神が空相でなければ、それは釈尊の否定した「信仰の本尊」です。
名称の違いに囚われるのは、理法を無視するもので、理法の理解が欠けているのでは、と思います。
41 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 21:07:18 ID:Avyf93kC
釈迦の理法は 無常を意味するので 永遠ではありません。
42 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 21:11:34 ID:W+MUxWS4
>>40 釈迦は神への信仰者であったと云いたいのですか??
43 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 21:23:29 ID:UpvAsmmW
44 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 22:01:00 ID:W+MUxWS4
45 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 22:23:14 ID:UpvAsmmW
>>44 これは嘘がイッパイ。りほうをもってせつめいして。
ハイ、どうぞ!
46 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 22:24:09 ID:UpvAsmmW
47 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 22:41:33 ID:W+MUxWS4
>>46 GLAの初代教祖、高橋信次の質疑応答の場面です。
32年前のビデオです。
説明してと言われてもですね、
別にあなたから授業料貰ってませんから・・・
勤労奉仕にも程があります。
48 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 22:56:33 ID:UpvAsmmW
>>41 釈迦の諸行無常の事だろう?
諸行とは諸々のつまり万象という意味だ。
無常とは、常にあるものではないという意味だろう?
そして、諸行と言われるそれぞれの行は無常と言う意味だ。
一つ一つの行が無常と言う意味だ。あらゆる行が無常と言う意味だ。
このように言う教えが、永遠を説いていない事は明白じゃないか?
諸行無常とは、文字通り、諸行が無常と言うことであり、諸行が永遠という教えでない事は、
言うまでも無いだろう?
釈迦は諸行無常とだけ教えてはいない。
しかし諸行無常とは、諸行は縁起しているものである、と言う教えなのだ。
そして、諸行は自性がないという教えなんだ。従って、諸行とは、空性という意味なのだ。
空性は永遠である。従って諸行は無自性空相であるので、永遠である、と言うことになるね?
49 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 23:02:04 ID:UpvAsmmW
>>47 諸行を宇宙と言う事なら、そんなに真理から外れていないと言える。
50 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 23:04:36 ID:AwfBIeil
>空性は永遠である。 永遠、というと、それは普通 永遠に存在するってことでしょう。 釈迦の説は、永遠も刹那も 区別が無いんだよ。 だからきみの文章はおかしいんだ。しかも長くて読みにくい。 >イエスの神とは、空相である。 違います。有相です。
51 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 23:14:36 ID:UpvAsmmW
>>50 刹那というと刹那でないものがあることを前提とする。つまり相対的存在である。
しかし、永遠と言うと、それには限りがないということであるから、絶対的存在である。
絶対的存在と相対的存在が同じって事はないよね。
イエスの神とは、空相という有相なのだ。
52 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 23:25:43 ID:UpvAsmmW
一相無相空相という表現は、最高度に厳密に定義してから使用する必要があるかもしれない。 自分はそれを感じる。
53 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 23:26:11 ID:W+MUxWS4
空相も有相も無いのだ、 ただ「生命のみ在る」! この世とあの世を貫く法則は「主客合一」です。 この世では「見られる全世界は、見る者全人類の心の世界」ですが、 あの世では「見られる菩薩界は、見る者菩薩の心の世界」な訳です。 菩薩界といい、如来界といい、宇宙界とも云うべき世界は、 その世界に住む霊人の心が創りだしているのです。 すなわち世界は生命で表現されています。 これはこの世も同じなのです。 自分もなく、他人もない。人類もなく、世界もない。自然界もなければ宇宙もない。 すべて生命で創造せられた表現結果の世界であるがゆえに、 この世でいうならば宇宙はない、無一物であるという禅家の教えと同一なわけです。 創造のみあるといえるのです。 宇宙や自然界を表現し、全天界を創造している「生命のみ在る」ということです。 生命は神ですから神のみ在るといえます。 これは個々人の生命の中心に在るわけです。
54 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 23:29:29 ID:UpvAsmmW
生命とは何か、定義、詳しく。
55 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 23:37:12 ID:z8GG7DKe
ま とりあえず イエスとブッダの教えは逆ってことで。
56 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 23:57:11 ID:W+MUxWS4
>>54 だから〜、別にあなたから授業料貰ってないってばっ・・・
57 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 07:18:28 ID:yzLvTy8q
>>56 自分の言う事に責任を持たない者は、ここで話す資格はないと思う。
58 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 07:20:32 ID:KZHmsYNP
いえ自由ですので
拝み系佛教はブッダの教えと正反対だよね?
60 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 09:27:53 ID:yzLvTy8q
例えば、浄土真宗を例にとれば、何を礼拝するのかと言えば、法と仏とサンガを礼拝するのである。 この三宝を念ずるのである。ここには、理法(縁起と空の理法)を信じ行う集団があるからである。 この三宝があるところが極楽浄土と言われるところなのだ。穢土にいても、この浄土を念ずるならば、 浄土に入ることが出来ると言うので、だ。 キリスト教でも同じであろう? 拝むと言う意味は、世俗の利益を求めると言う意味が一般的であろう。しかし、それは本来の意味ではない。 拝むの正式な名称は礼拝すると言う意味だろう。
>54 生命の定義にこだわる必要はなかろう
62 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 12:36:02 ID:yzLvTy8q
人間とは衆縁和合したものである。故に人間の実体と言うものが無いというのである。 このような人間の何処に生命などあるといえるのか?人間以外の他のものも全て、 衆縁和合したもの、何処にも生命など見られないだろう? 生命があるというのなら、それを定義できるだろう?それが出来ないのは、無いものをあると嘘をついているからだ。 これはまさに、仏教が排斥する虚妄そのものではないか。
63 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 13:01:04 ID:A9WONK2y
>>62 生命とは無質量の無限エネルギーの事です。
64 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 13:24:08 ID:yzLvTy8q
>無限エネルギー 無限とは理法である。無限なものは空相である。エネルギーが無限なら、エネルギーは無い。 無限のエネルギーとは矛盾した表現なのだよ。判らない?
65 :
共通点 ◆pDBYr0fjtE :2008/02/02(土) 13:34:35 ID:tBiendMG
◎万物創造以前は、病も無く、この地の困難も苦難も無く、一切が幸せで安穏・安楽に満ち、平安で あり、公平・平等で敵意や憎しみ・怨みや怒りなども無く、そのことを何よりも善いこととして受 け入れる境地であった。 「あなたは悪魔の征服者です・・煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡りおわり・・麗し い白蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません。」(スッタニパータ) 「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって」「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け」 「水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類に したがって創造された」「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種 類にしたがっていだせ」「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」 (創世記) 「草や木にも種類の区別あることを知れ」「美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い」「水の中に生ま れ水に棲む魚どもにも、種類の区別あることを知れ・・翼を乗り物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、種類 の区別あることを知れ」「小さなものでも、大きなものでも、四足獣でも、種類の区別あることを知れ」 「人類にはそのように生まれにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない」 (スッタニパータ) 「林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである」 「平安の境地に達して・・足ることを知り・雑務少なく、生活もまた簡素であり・・いかなる生物生類 であっても・・長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも・一切の生きとし 生けるものは、幸せであれ・・母が己が独り子を命を賭けても護るように・・上に、下に、また横に、 障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし・この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ」 (スッタニパータ)
66 :
共通点 ◆pDBYr0fjtE :2008/02/02(土) 13:35:22 ID:tBiendMG
「肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲と は過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる」「何ひとつ持たないでこの世を去って 行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである」(新約聖書) 「へびは女に言った・・神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです・・賢くな るには好ましいと思われたから」(創世記) ◎しかし、神が創造されたものを平安の境地で治めるより、人は賢くなる道を選んだ。 「園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々、かれらの功徳 は昼夜に増大する。」(サンユッタ二カーヤ) 人によくしてあげるなど「肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして目先だけの勤めをするの ではなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い」(新約聖書) 「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい」 (イエス) 賢くなった人も、自分の意向や考え通りに生きるのではなく、他人の意向に仕えたり、他人の幸福 だと思うことに仕えたり、世の中の安穏・安楽な暮らしに努めるならば、世の中を平穏・幸せに治 めることができる。 「学ぶことに生きがいを認め、奉仕を楽しむために・・・そこにとどこおっていなかった賢者たちは、 それで思い上がることはない。」(ウダーナヴァルガ) 「思うべき限度を越えて思いあがることなく」(新約聖書) 行いにより義とする偶像なる神は存在しないが、人々が平穏・安穏・安楽な暮らしに努めると、 世間も平穏・安穏・安楽となる。人は何事も自らを誇らないこと。善なら地上のものに心引かれず、 何でもできるから。
67 :
共通点 ◆pDBYr0fjtE :2008/02/02(土) 13:36:17 ID:tBiendMG
「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、一切のも のが従属した。」(サンユッタ二カーヤ) 「全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。」(新約聖書) 「思考の及ばない静かな境地」(ウダーナヴァルガ) 「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」(新約聖書) 人は悪しき者の配下に入り偶像を抱き、考え出そうとしている。 「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようか」「あす自身が思いわずらうであろう。その 日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(イエス)「わたしは何を食べようか」「未来のことに あくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。」(ブッダ) ※食べ着ることなど、自分の欲求を満たした時、「自分は善人だ、正しい人間だ」という人はほと どいない。それを提供する側も、自分を誇るべきではない。あくせくする営みにより、過労死や 苦悩が増すならば、無智・無明。 「貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ」「学び修めた賢明な人は、 食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ・・その豊かな功徳の流れは、施しを与える人に、降り注ぐ」 (サンユッタ二カーヤ) 「わたしが空腹のときに食べさせ、かわいている時に飲ませ、旅人であったときに宿を貸し」(イエス) 人間が考え出した偶像や教義は偽りで、初めと終わりである神は世の中の現象として今も存在する。 貧窮なる人々を助けようとしたり、食べ着飾ったりして自分を正しい人間だとしないなどで、人が考 え出した特異な教義より、自然にあるもののほうが、超自然的な存在に近づく。人の抱いた偶像は虚 妄として消え去る。
68 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 14:42:19 ID:A9WONK2y
>>64 無限エネルギー とは。
ドップラー効果によって宇宙は膨張しているという膨張宇宙論が確認されました。
宇宙は時間と共に膨張しておりますが、逆から言えば時間を遡(さかのぼ)っていきますと
宇宙は収縮していきます。
時間をどんどん遡(さかのぼ)っていきますと宇宙は収縮していき、
最後には手の平に乗るほどに宇宙は小さくなっていきます。
更に時間を遡り、宇宙誕生時刻ゼロの地点では不思議な世界になっていることが
科学で証明されています。
宇宙誕生時刻ゼロの地点では時間も空間もなく、質量も体積も存在していないにも関わらず、
エネルギーだけが「∞(無限大)」を示しているのです。
何もない世界に一切があり、エネルギーは無限大を示している。
禅の「無一物中無尽蔵」が先端のアインシュタイン方程式から出てきたため、
これが科学者の世界で問題となりました。
科学は無限を嫌うにも関わらず、最先端のアインシュタイン方程式から、
この無限大が出てきたため様々な探求と仮説が出てきました。
この大宇宙誕生時刻ゼロの地点を「特異点」と言います。
実はこの「無の無限エネルギー」こそ絶対生命(神)の正体なのです!
69 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 14:51:59 ID:A9WONK2y
70 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 15:02:25 ID:yzLvTy8q
信仰についてーーー大パリニッバーナ教 アーナンダよ、その法の鏡という名の法門とは何であるか?----------それを具現したならば 、立派な弟子は、もし望むならば、自ら自分の運命をはっきりと見極める事が出来るであろう、−−−−− 私には地獄は消滅した。畜生の有様も消滅した。餓鬼の境涯も消滅した。悪いところ、・苦しいところに堕する事も無い。 私は聖者の流れに踏み入った者である。私はもはや堕することの無い者である。私は必ず悟りを極めるものである、と。 アーナンダよ、ここに立派な弟子がいて、ブッダに対して清らかな信仰を起こしている。−−−− 「かの尊師は、このように真人・正しく悟りを開いた人・明知と実行とを完成している人・幸いな人・世間を知っている人・ 、無上の人・かたくなな男を統御する御者・神々と人間との師・ブッダ(悟った人)・尊師である、と。 又彼は法に対して清らかな信仰を起こしている。−−−−尊師が見事に説かれた法は、現にアリアリと見られるものであり、 直ちに効き目のあるものであり、実際に確かめられるものであり、理想の境地に導くものであり、諸々の知者が各自自ら証するものである、と。
71 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 15:15:25 ID:A9WONK2y
>>70 釈迦の法と云ったって、別に大した事無いじゃん・・”
唯の仮説の唯物論だし。
2400年前は殆どの衆生が文字の読み書きできない時代だから、
釈迦の法を真ともに判断できる者がいなかったし、
国王の息子だから批判したら殺されるし・・
だから如何にも素晴らしいと云う思い込みだけで広まったんだ・・。
実際に普通に考えたら、これ程バカみたいな屁理屈も珍しいと云えよう・・!
72 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 15:21:56 ID:yzLvTy8q
>>70 続き
彼はサンガ(集い)に対して清らかな信仰を起こしている。−−−−−−−−
尊師の弟子の集いはよく実践している。尊師の弟子の集いは真っ直ぐに実践している。
尊師の弟子の集いは、正しい道理に従って実践している。尊師の弟子の集いは和敬して実践している。
尊師の弟子の集いとは、即ち、二人づつの四組と八人の人々(四双八輩)とであるが、
彼らを敬うべく、尊ぶべく、合掌すべきであり、世間の 最上の福田であると。
彼は聖者の愛する、切れ切れではなくて、瑕の無い、雑じりの無い、汚れていないで、自在であって、
知者の賞賛する、汚れの無い、精神統一を現し出す様な戒律を、身に具現している。・・・・・・
73 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 15:24:30 ID:A9WONK2y
74 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 15:42:15 ID:yzLvTy8q
>>73 人はどうしたら、正しい、正しくない、と判断できるのか?、詳しく。
75 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 15:44:55 ID:yzLvTy8q
「定義」よりも「生命」のほうが遥かに広大・深遠。
77 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 16:24:27 ID:yzLvTy8q
マッカリーーーーーーー神々との対話 どの方向に心で捜し求めても、自分よりも更に愛しいものを、何処にも見出さなかった。 そのように他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。 それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない。
78 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 16:24:36 ID:A9WONK2y
>>74 正しいとは何か・・・
これを体得するには、釈迦の論理を捨て去り滅せよ!
そして神への信仰が必要です。
そうすれば、すべての行為が正となります。
79 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 16:30:31 ID:yzLvTy8q
80 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 16:31:35 ID:A9WONK2y
81 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 16:37:25 ID:wrlSHOR/
>>74 自分と他者の苦悩の原因になる思考・行為が、正しくない。
煩悩は苦悩の原因になるから、煩悩を育てるような行為も、正しくない。
煩悩を克服した人には平気なことでも、
煩悩を克服していない人には辛いできごともあるから、
相手のレベルに合わせて接しなければならない。
82 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 16:45:20 ID:A9WONK2y
>>81 色即是空
色(煩悩)即 空(正義)
煩悩 と 正義 は一つで切ってはならない。
83 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 17:15:32 ID:Sg54jRZc
>>82 人間は物・色・金 死んだ後にはそのようなものが存在しないから
それらに執着して生きていると暗黒をさまよい地獄へ
神と永遠の命の力 金への価値より他人への配慮(慈悲心)
物質の執着より、他人への分け与え
色より見えない寛容やあわれみ慈悲に働きかける
神に反することを正しいと教える人間は、大きなひきうすを首にかけられ
て海に沈められるより大きな裁きがある。つまり永遠の地獄。
84 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 17:59:18 ID:wrlSHOR/
>>82 色(物質)は空である(実体がない執着に値しないくだらない)。
受・想・行・識もおなじく空である。
色を煩悩、空を正義と読みかえることは、無理。
85 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 18:01:41 ID:eAYYX9l6
釈迦の教えをまとめますってえと、 世界は相互に関連している。 万物は変化するので永遠なる実体はない。 我というのもいずれ消えるものである。 何かが永遠だと勘違いして執着すると苦しくなる。 ないものねだりだからだ。煩悩にとらわれても、苦行で自分を 滅しようとしても、それによって得られる永遠のものはない。 執着すべきものなどない、と割り切って無理せず欲張らず淡々と生きよ。
86 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 18:05:12 ID:A9WONK2y
>>83 >>それらに執着して生きていると暗黒をさまよい地獄
だから言ってるでしょう、
煩悩 と 正義 は一つで切ってはならない と。
あなたは空(正義) を切って煩悩だけ捉えています。
つまり永遠の地獄はあなたです。
87 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 18:10:36 ID:A9WONK2y
>>85 神のみ永遠です。
>>無理せず欲張らず淡々と生きよ
それができないから日本の自殺者が年間3万人いるんですよ・・。
無責任な発言は辞めて下さい。!
88 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 18:16:29 ID:wrlSHOR/
>>87 それができるようになる具体的コツを、仏は説いているのです。
「根性で速く走れ」というだけの陸上競技のコーチはいません。
専門家のコーチは、ではどうすれば速く走れるようになるのか、
具体的なワザやコツや、練習仕方を教えてくれます。
それができない人々が多いからこそ、
それができるようになった仏の教えから、
ワザやコツを学ぶべきなのです。
具体的には、瞑想です。
89 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 18:19:47 ID:A9WONK2y
>>88 瞑想すればするだけ自殺者が増えるだけです。
90 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 18:36:10 ID:wrlSHOR/
>>89 何を根拠に?
詩人の正岡子規は、不治の病に犯されながら、仏教(禅)を学んでいたようです。
で、
「悟りとは、いつでも死ねることだと思っていたが、そうではなかった。
悟りとは、いついかなるときでも生きていけることだ。」
というような発言が有名らしいです。
91 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 18:49:16 ID:wrlSHOR/
最近の研究では、自殺者の九割は、 自殺直前には「うつ」の心理状態だと言われています。 自殺願望は「うつ」の症状のひとつ。 風邪をひいたらせきやくしゃみや熱がでるように、 「うつ」になると自殺願望が起きる。 ですから、自殺の九割は病死と言ってもよい。 諸行無常。生老病死は誰にでもいつかやってきます。 体の病か心の病かという違いだけの話です。 ただ、仏教で智慧と集中力が身についてきたら、 病気になりにくいような生活も上手くなるでしょう。
92 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 18:51:02 ID:A9WONK2y
>>90 しかしながら、釈迦は瞑想を否定しました。
禅の瞑想は釈迦とは関係ありません。
93 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 18:55:23 ID:A9WONK2y
イエスって結構東洋の影響があるような気がする。
95 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 21:02:28 ID:hMXrK6cl
浄土真宗の阿弥陀仏は神と云う意味です。 キリスト教の神と同一です。 阿弥陀(アン)(ミータ)アン→否定 ミータ→計測 つまり計測不能仏で無限エネルギーで神です。 浄土真宗とキリスト教とは同一の神への帰依を教えております。 「なまんだぶ」=「神に栄光あれ」 ♪阿弥陀の阿がアンであり阿弥陀の弥陀はミータじゃよー これでいいのだーこれでいいのだーボンボンバカボンバカボンボン 天才教祖だバーカボンボン こんなこと本気で考えている、計測不能なバカボンの新興宗教団体が 陣取るだけです。。。。。(@◇@) バカボンのパパがいた!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! バカボンスレ、「神は無の無限エネルギーだ。これでいいのだ!」つくれば いいよ。
96 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 21:13:42 ID:A9WONK2y
浄土宗では「南無阿弥陀仏」ともうしますが、 多くの人は「南無阿弥陀仏」という言葉の意味を知りません。 佛となったものは永遠の存在です。永遠と言うことは測ることが出来ないと言うことです。 測ることが出来ないと言うことを古代インド語で「アミータ」と言います。 「ミータ」はメーターと言うことばと同じ語源で「測る」と言うことを意味します。 「ア」は否定を意味する前置詞であり、「アミータ」とは測ることが出来ないという意味になります。 「ブッダ」は覚者(覚った者)の意味であり、「佛」と同義語です。 「永遠の佛」これが「アミータ・ブッダ」です。
97 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 21:35:14 ID:F9h4z2iI
釈迦は瞑想を勧めました。 阿弥陀仏は 似非の仏ですので 拝まないようにしましょう。 それ以前に 拝むのは仏教ではありません。
98 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 21:39:15 ID:BUC2hD/i
A9WONK2yが半端な知識で知ったかぶりをしてるということは判った。
99 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 22:44:25 ID:A9WONK2y
>>97 釈迦は瞑想を否定しました。
中期ウパニシャッドの『カータカ・ウパニシャッド』においては、
瞑想(ヨーガ)の目的は目に見えないこの人間存在の根底に潜んでいると想定される
「絶対者アートマン」すなわち、不変不滅の魂のような存在を内観することであると説いています。
古代インド人の特徴は、夢の中の体験を、目覚めているときにも体験しようと執拗に試みたところにあります。
それが、ヨーガ(瞑想)だと思われます。
ヨーガ(瞑想)に関する教典から、古代インドのバラモン教の実践者たちが、
現実の世界よりも夢(空想)の世界の内容を「より真実の世界」であると思い込んでいたことがうかがえます。
しかし釈迦はアートマンを否定しました。
すなわち、「buddh =眠りから醒める」という言葉を用いることによって、
釈迦の真理の特徴が夢想的なバラモンの思想(瞑想)の否定にあることを主張したのだ、と考えられます。
100 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 22:48:56 ID:CC5FAiTa
瞑想は 夢想とは違います。
101 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 22:50:42 ID:A9WONK2y
>>97 南無阿弥陀仏 は拝みではありません。
浄土真宗・親鸞の『歎異抄』にもありますように「わが心に往生の業を励みて申すところの念仏も自行になすなり」の
意味も知っていると思います。
自分が「往生」、すなわち天国に帰るために「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるのも「自行」、自力行の我力行である。
自我と我力を捨てて、ただ阿弥陀仏(神)に頼る絶対他力によってのみ救われるのだ。
信仰とは自分が天国に帰るという利益のためにするのでもなく、地獄に落ちたくないという恐怖からするのでもない。
利益と恐怖、この苦楽を捨てて、ただ神の心の実現のために信仰は在るのだ。
ただ神の栄光の実現のために信仰は在るのであって、それ以外は利益であり、自我である。
自我から出ているものを信仰とも神理とも言えない。
103 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 22:57:22 ID:A9WONK2y
104 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:01:22 ID:viMi+y70
唱えれば それは仏道ではない。
106 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:05:06 ID:bEejNK6L
>>96 イエスもブッダも情欲をよいこととしないで、情欲を抱いて女を見ることの
慎みを学ぶことになるが、阿弥陀は情欲を否定せず肯定している。
情欲と無の無限エネルギーが結びついてバイアグラのような宗教だな。
107 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:05:47 ID:A9WONK2y
>>105 その先生も管理してます。
>>104 仏道は未熟です。
神への信仰に切り替えねばなりません。
108 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:06:58 ID:A9WONK2y
109 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:09:56 ID:yzLvTy8q
真理真実を知ったので、それではそれに到る為にどのようにすべきかと考えることになるのだ。 瞑想も、真理の言葉を唱えたり、聖典を読誦したり、教えを他人に説いたり、座禅をしたり、 どのようなものでも、その修行する人が選択することが出来ると考えねばならないと思う。 目的は真理真実を体得する事であるから、それに有益なものはよき方法として留められ、 反するものは排斥されるのである。
110 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:13:45 ID:A9WONK2y
>>109 最大の修行は神より授かった人生の試練である。
111 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:15:38 ID:yzLvTy8q
大乗では、経典の読誦いうことを進めている。その内容は、確かに悟りに到る為に必要な内容であり、悟りに妨げとなる 内容は無い。この内容によって、自分の心を抑制することが出来るのであると思う。 ただし、読ジュの内容を判らないで、いくら読んでも効果は無いものと考えねばならない。
112 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:17:35 ID:viMi+y70
仏典捏造
113 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:21:07 ID:A9WONK2y
>>111 親鸞聖人はただ「南無阿弥陀仏」と称えよと教えて、
経典は読むなと云いました。
悟りは人生の試練からのみもたらされます。
114 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:22:44 ID:viMi+y70
こりゃ駄目だ。
115 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:26:25 ID:iTMwYSPp
無の無限エネルギーを何度も唱えてもなんら意味を持たない。 イエスとも根本的に違う。地球人類の管理者としての神も愛や慈悲という教えの哲学があった。 それは釈迦の教えにも通じるものだった。 地の者では普段知ることはできないが、上では地の物は存在せず、一切を幸せにする慈悲深い神 として、この世でも慈しみを崇高とせよという教え。 イエスも断食をする時に陰気な顔つきをするなと教え、修行僧はわずかな食物でも明朗な顔つき で瞑想修行していたのである。
116 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:28:28 ID:A9WONK2y
>>115 だから云ってるでしょ、
悟りは人生の試練からのみもたらされます。
117 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:30:27 ID:yzLvTy8q
118 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:34:02 ID:A9WONK2y
119 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:34:24 ID:jc1m4V/R
無の無限エネルギー 阿弥陀を唱えてもなんら意味を持たないという ことから悟りの教えがあるんだ。
120 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:37:20 ID:A9WONK2y
>>119 悟りは教わるものではありません。
自らの生命から湧き上がるのです。
121 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:39:53 ID:yzLvTy8q
しかし、イスラム法というものがあり、それはマホメットのコーランから導き出すと言うものらしいが、 これは、望むべきあり方である。今のアメリカの憲法法律もキリスト教から導いているが、良い事だ。
122 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:40:56 ID:yzLvTy8q
123 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:42:31 ID:A9WONK2y
>>122 しつこいねっー、
地球上の宗教のすべてを管理してます。
124 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:44:14 ID:7YEPSwwn
誰か回収してください。
125 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:44:24 ID:yzLvTy8q
ところで、釈尊もある部族のために法律を制定してやったと記録されている。 釈尊に法律の制定を頼んだ部族は賢明であったな。 パルメニデスも頼まれて法律を制定してやっている。かく有らねばならないよね。
126 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:46:31 ID:gBIrESYI
バイアグラみたいな無の無限エネルギーを何度も唱えさせて 喜ぶのは現代の坊主だけ
127 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:50:00 ID:A9WONK2y
>>126 門徒にも責任あるど・・
もうちょっと宗教勉強すりゃ、葬式仏教のアホらしさ分かるだろうに・・・
128 :
神も仏も名無しさん :2008/02/02(土) 23:51:54 ID:7YEPSwwn
おまえが言うな。
>22,23 残念ながらちゃんとは伝わっちゃいないでしょ。 新約の福音書が書かれた経緯とか、アーガマがまとめられた経緯を考えればイエスやシッダールタが 自分で書いちゃいない時点でダメでしょ? さらにはその後の教派の分裂を見ればね(w
130 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 00:11:35 ID:v23UiMgT
大無量寿経第18の願 18) わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。
131 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 00:16:06 ID:GMu916vk
>>99 あなたが言ってる瞑想は、定の瞑想。
お釈迦様が発見したのは、慧の瞑想。
仏教の修行は、戒・定・慧の三学と言われます。
戒は、生活を改め心身を整える。
定は、禅定・三昧・止(サマタ)の瞑想。
これは、集中力を養い、
眼耳鼻舌身の刺激に右往左往する通常の精神状態から離れる訓練。
お釈迦様以前からあるヨーガの瞑想も、この定の瞑想です。
慧は、智慧・観察(ヴィパッサナー)の瞑想。
これは、お釈迦様が発見した仏教独自の瞑想です。
眼耳鼻舌身意がとらえる現象を、
固定概念による判断を離してありのままに観察しつづける。
その結果、一切が苦・無常・無我であると気付き納得し、
ものの考えかたや感情の動き方が変わり、つまり煩悩が消えてゆく。
定の瞑想は、神秘体験を伴う場合もありますが、
そのような体験も心がつくりだす幻であり、神だとかなんとか美化してはいけない。
定の瞑想は、慧を上手くやるためにで集中力を養うだけ。
132 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 00:29:14 ID:GMu916vk
念仏や呪文をくりかえし念じるのも、定の瞑想の一種。 神様や仏様のことをひたすら念じるのも、定の瞑想の一種。 雑念をはらい集中して、禅定の心をつくる訓練。 心は、欲界心・色界心・無色界心の三界に分類される。 三界のことを、世間ともいう。 禅定の心とは、三界のうち、欲界心を離れた色界心と無色界心のこと。 欲界心は、眼耳鼻舌身の物質的刺激に束縛される心。つまり、私達の普通の心。 色界心は、五感の刺激には執着しないけど、 眼耳鼻舌身の物質的対象は存在する。 無色界は、禅定がさらに深まり、 物質的対象がなくなって精神世界だけになる心。 色界・無色界の禅定における体験を、 神様の境地だとか梵我一如の境地だとか宇宙との合一だとか美化して、 禅定の世界にイッちゃうのを最高だと考える宗教もある。 仏教では、禅定の境地への執着も煩悩のひとつに数える。
133 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 00:35:30 ID:9ayfMh6k
簡潔に。
134 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 00:35:59 ID:GMu916vk
禅定に関するエピソードとしては、 お釈迦様が禅定に入ってる時に雷が鳴ったんだけど、 雷が鳴ったことに気付かなかったという話がある。 心が五感の(肉体の)刺激から分離していたからでしょう。 禅定の状態は、心が止まって眠っているのではない。 むしろ、心がすごく活発に働いて集中している。 高速回転するコマが、 まるでその場に停まって立っているかのように 見えるみたいなかんじ。
135 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 00:38:02 ID:GMu916vk
>>133 精神統一して神様の世界にイッちゃう禅定の瞑想もあれば、
ものごとをありのままに観察して真理に気付く智慧の瞑想もある。
136 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 00:43:21 ID:v23UiMgT
137 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 01:07:23 ID:9ayfMh6k
ネットでは強者
138 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 01:47:41 ID:a7BViW1r
>>131 瞑想は現実界の逃避としか思えないですねっ。
ヴィパッサナーも含めて・・
139 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 02:09:24 ID:GMu916vk
>>138 その現実を、ありのままに見ていないから、
激しい欲望や怒りが起こり、悩んだり苦しんだりしているのです。
概念・観念の世界に逃げたり追われたりせずにすむために、
今・ここのありのままの現象だけを観察する瞑想をするのです。
140 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 09:21:53 ID:pIZz1y3K
>>130 イエスも教えを語り受け入れることとしました。
釈尊も世の人々の幸せのために完全な清浄行を顕示しました。
世の人々にそれを行えということではなく、尊敬心をもって決して謗らない
ことが重要なのです。
141 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 09:35:12 ID:RZIxy2fh
無の無限エネルギー=阿弥陀仏という人は、釈迦を謗っている。釈迦を軽蔑している。 釈迦の教えを否定している。→地獄行き
142 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 09:40:44 ID:v23UiMgT
143 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 10:06:39 ID:D7hJOqe9
情欲+バイアグラ=無の無限エネルギー教 無の無限エネルギーを唱えるなど、科学的にもおかしい。 情欲+無の無限エネルギー を信じよなんて、馬鹿な宗教がやること。オカルト・カルト・馬鹿
144 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 10:26:31 ID:v23UiMgT
エネルギーと聞くとアレルギーとなるよw。
145 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 11:10:23 ID:GMu916vk
阿弥陀とは、アミターバ・アミターユスの略。 量り知れ無い光明と、量り知れ無い寿命をもつ仏。 光明は智慧を、寿命は慈悲を象徴する。 無限のエネルギーではない。
146 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 12:37:50 ID:v23UiMgT
そもそもエネルギーと言うと、そのように名称されない他のものを前提とする。 とすると、エネルギーとは相対的存在なのだ。相対的存在が無限であるなどとは矛盾する。 しかし、空相とか一相とか無相というものは、相対的存在を排斥する表現なのである。 相対的存在が無い常態を意味する表現なのである。真実は必ずこのように一相とか無相とか空相 と言う表現を伴うのである。これは科学的理法であり科学的真実なのである。 科学的という表現を用いて説明しなければならない事が残念に思う。 エネルギーとかその他の、説明の無い神とかの名称を使用するのは、人を虚妄に導くものに他ならない。
147 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 13:40:08 ID:a7BViW1r
>>140 阿弥陀仏ってのは大乗の神なんだよ・・
釈迦の小乗とはまったく関係がないんだから、教えを否定した訳じゃないんだ。
148 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 13:41:05 ID:a7BViW1r
>>141 の間違いでした。
阿弥陀仏ってのは大乗の神なんだよ・・
釈迦の小乗とはまったく関係がないんだから、教えを否定した訳じゃないんだ。
149 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 13:46:05 ID:a7BViW1r
>>145 電池のエネルギーでも「量り知れ無い寿命」と云うなら
無限のエネルギーを持つ永久に使える電池と云う意味になる。
科学的だ・・!
150 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 13:49:15 ID:a7BViW1r
>>145 「量り知れ無い寿命」を慈悲深いとは云わない・・!
永久に使える電池を慈悲深いとは云わないからだ・・・
科学的だ・・!
151 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 14:28:37 ID:v23UiMgT
真実である一相無相空相がどうして、四無量心を生じさせるのだろうか?
152 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 15:13:53 ID:GMu916vk
>>150 阿弥陀仏の無量の寿命は、
いつまででも衆生を救い続けるという慈悲の象徴。
仮に、全てね衆生が成仏できてしまったら、
阿弥陀仏の役目も終わるわけです。
153 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 15:56:02 ID:X6q0mdHL
読経や儀式は、瞑想の一種。 よって、阿弥陀経でも賛美歌でもアリアでも倖田來未でも そういう気分になれるものならなんでもよい。
154 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 17:14:01 ID:r2BZWqdn
芸術でもスポーツでも勉強でも 生活全般なんでもよい
155 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 21:11:51 ID:GMu916vk
それらはサマタ瞑想。 悟るためには、サマタ瞑想で養った集中力をベースにして、 ヴィパッサナー瞑想(観察)をやる必要がある。
156 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 21:35:45 ID:xJ/ZZchE
>>113 親鸞が釈迦の教えを謗る人間をつくり、軽蔑する、無視することを教えたわけだ。
無限エネルギー=無限に地獄に堕ちる主ということだね。
157 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 21:46:42 ID:GMu916vk
新鸞は次のような発言をしている。、 どうせ自分は罪深くて地獄行きの身なので、 師匠の法然上人にだまされて (念仏で往生できるというのが間違いで)地獄に堕ちても、 後悔はしない。
158 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 22:04:00 ID:RFPUee/T
地獄行きだと釈迦の教えを少しでも耳にすると猛反発か。 大無量寿経にも反する。浄土、浄土真宗はとんでもない人を育てるんだなあ。
159 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 22:13:10 ID:v23UiMgT
法蔵菩薩(阿弥陀仏)の請願に、自分の名前を一度たりとも唱える、その人を浄土に入れる力を修行により獲得していないなら、 自分は修行を完成させない。 と言う請願を起こし、最後にその力を取得する修行を完成して、阿弥陀仏となったと、釈尊がこのシャバの衆生にといたのである。
160 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 22:51:05 ID:a7BViW1r
>>152 >>衆生を救い続けるという慈悲の象徴
人間とは救われねばならない存在ではありません。
>>衆生が成仏できて、阿弥陀仏の役目も終わる
衆生の悟りは無限であるから、終りも無い。
161 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 22:58:11 ID:a7BViW1r
>>155 >>悟るためには ヴィパッサナー瞑想(観察)をやる必要がある
ヴィパッサナー瞑想がそんなに価値あるなら、人生修行は無用じゃないですか?
ばかげた論理はもう辞めましょう・・!
162 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 23:01:26 ID:a7BViW1r
>>156 親鸞と云うよりも、
釈迦入滅後に、元のバラモンを取り入れた大乗仏教が広まったのです。
やはり釈迦の哲理は邪道で無意味であった訳です。
163 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 23:11:27 ID:a7BViW1r
>>157 >>罪深くて地獄行きの身なので
悪しか出来ない人間、後生に一大事有りと教えたのです。
すべての人類が対象なのです。
キリスト教の原罪と似た処があります。
164 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 23:14:59 ID:a7BViW1r
165 :
神も仏も名無しさん :2008/02/03(日) 23:32:34 ID:Bi9Mf4ej
>そもそもエネルギーと言うと、そのように名称されない他のものを前提とする。 意味不明。 阿弥陀仏という捏造仏は、釈迦の法を汚している。読経や儀式は、瞑想の一種ではなく 妄想の手段。 阿弥陀仏という捏造仏は、いつまででも衆生を救い続けるという慈悲の象徴。もちろんそれは 仏教とは何の関係も無い。 釈迦入滅後に、元のバラモンを取り入れた大乗仏教が広まったのですが、 それは、商売のために堕落した仏教です。つまり仏教はキリスト教のようなご利益信仰へと換えられてしまいました。 大乗仏教など プゲラです。
166 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 00:33:10 ID:T095YIOY
>>165 南無阿弥陀仏はご利益信仰ではありません。
神を信じない釈迦の方が仏教ではありません。
バラモンを取り入れた大乗仏教がほんとの仏教です。
浄土真宗・親鸞の『歎異抄』にもありますように「わが心に往生の業を励みて申すところの念仏も自行になすなり」の
意味も知っていると思います。
自分が「往生」、すなわち天国に帰るために「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるのも「自行」、自力行の我力行である。
自我と我力を捨てて、ただ阿弥陀仏(神)に頼る絶対他力によってのみ救われるのだ。
信仰とは自分が天国に帰るという利益のためにするのでもなく、地獄に落ちたくないという恐怖からするのでもない。
利益と恐怖、この苦楽を捨てて、ただ神の心の実現のために信仰は在るのだ。
ただ神の栄光の実現のために信仰は在るのであって、それ以外は利益であり、自我である。
自我から出ているものを信仰とも神理とも言えない。
167 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 00:51:09 ID:4WyZwAMv
という大乗仏教さんの面白いお話でした。 釈迦の名を借りた新興宗教 大乗。 宗教って 便利ですよね。
168 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 01:36:36 ID:T095YIOY
>>167 大乗が無かったら、釈迦は世界の笑いものに成る処でした。
169 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 01:50:29 ID:xFPbXFvv
そうだねえ。 大乗というコマーシャリズムの極値が無ければ釈迦の法は 宣伝されなかったかも。 真理とはナイーブなものだからなあ。
170 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 02:05:54 ID:T095YIOY
>>169 釈迦が本とに正しかったら、大乗に吸収される事も無かったろうに・・
171 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 03:41:38 ID:iSZyIyYM
南無阿弥陀仏は、自分のはからいをすべて投げ捨てて、無条件に仏法の言うがままにしますという意味だ。 阿弥陀仏は人格神ではない。崇高なる仏法のことだ。
172 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 03:43:41 ID:iSZyIyYM
阿弥陀教徒にとってもっとも避けるべき行いは、「何をすべきかなど考える」こと。
173 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 07:33:42 ID:zEbqgJuw
阿弥陀仏という捏造仏は、釈迦の法を汚している。読経や儀式は、瞑想の一種ではなく 妄想の手段。 阿弥陀仏という捏造仏は、いつまででも衆生を救い続けるという慈悲の象徴。もちろんそれは 仏教とは何の関係も無い。 釈迦入滅後に、元のバラモンを取り入れた大乗仏教が広まったのですが、 それは、商売のために堕落した仏教です。つまり仏教はキリスト教のようなご利益信仰へと換えられてしまいました。 大乗仏教など プゲラです。
お釈迦様の原始仏教は何事も見方しだいだよ というシンプルなもの 見方しだいで変わっちゃうようなものはどうでもいいじゃないか といっただけ。 だからくだらない争いや競争はやめて昼寝でもしようぜ というニート教だ たしかキリスト教もニート教だったきがする 愛をよこせ飯をよこせ右の飯も左に握り飯もよこせ早くよこせ だったかな? それだけのシンプルなものが多くの人に語り継がれる旅をして洗練されてきた。 仏教は自分ひとり救うものから世界中の人を救うものに変わり キリスト教も自分ひとりの飯を確保する手段から世界中の人の飯を確保する手段に変わった。
ニートの教祖ブッダ、ニートの実践者ブッダ。職場放棄、子捨てのブッダ。ってか
仏教の真理に基づけば誰もが呆けた顔をしてなにもせず横になって寝てる平安寂静の天国であり 温泉やリゾートだな キリスト教の真理に基づけば誰もが怠け者に手を差し伸べ物を与えまくる天国だ っ生活保護だな まぁどちらがいいかとおもう二択だね イスラムや其の他の教えの行き着く先はなんだろうな?
177 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 11:03:17 ID:iSZyIyYM
>>176 > 仏教の真理に基づけば誰もが呆けた顔をしてなにもせず横になって寝てる平安寂静の天国であり 温泉やリゾートだな
そんな生活が永遠に続いたら、平安を超えて退屈で精神がおかしくなるね。
極楽浄土で生きる気力を失った廃人と精神病院だらけの世界かも。
178 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 12:50:06 ID:2oIoXpaa
>>170 正しいから流行るわけではない。
煩悩にを刺激し、堕落するような教えのほうが、流行る。
欲望や怒りは、正しくなくても甘美だから。
美容と健康のためには、食べ過ぎずに適度に運動するのが一番いい。
これは正しい。
しかし、現実には、正しいダイエットをやる人は少なく、
楽してやせられると宣伝するものが流行る。
179 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 12:54:49 ID:2oIoXpaa
>>176 怠けて寝てるのは仏教でも否定している。
瞑想を本気でやるなら、怠けている暇などない。
金のために努力したって、死んだらお金は失われる。
美容のために努力したって、どうせ老いて醜く死ぬ。
子供にいくら執着しても、子供とは死別する。
つまり、世俗の努力は、努力したってあんまり意味のない努力。
むしろ、欲望や怒りにうつちをぬかして世俗の雑事に追われているほうが、
仏教から見たら怠けて遊んでいる。
180 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 12:59:46 ID:2oIoXpaa
>>161 欲望と怒りに右往左往するだけの無駄な人生修行は、効率的ではない。
181 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 13:06:25 ID:T095YIOY
>>178 一時的には煩悩を刺激する方に流行る事もあろうが、
これでは社会腐敗が訪れて、やはり正義に立ち返る方向に動くのが常である。
大乗つーか北伝とパウロくんってのはすごいよね(w うん。全く元と違うもんを普及させたんだから。
183 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 13:19:24 ID:T095YIOY
>>180 神よりもたらされる創造体験が人を成長させます。
例をあげれば、ライブドアの天国と地獄体験です。
瞑想が人を成長させる事はありません。
184 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 18:29:48 ID:8nHIeXjc
阿弥陀がスレの趣旨と違うことをしている。 このスレはイエスとブッダの共通点。 阿弥陀がそんなに世界的に有名なイエスと同じなら、イエスと阿弥陀の共通点 というスレをつくればいい。 それとも阿弥陀を信じたら常識がなくなるのか! アーア アーア 阿弥陀仏
185 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 18:42:03 ID:yMyz9qi0
阿弥陀は釈迦の教えではない。一般的に釈迦の教えが仏教だと思っている。 阿弥陀は仏教ではないと世間に明確に示すべきである。 キリスト教と阿弥陀が同一の教えなら、別のスレをつくって明確にすべき。
イエスとブッダは表層的に似ているところはあるが、 正反対の思想である。
187 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 19:07:20 ID:T095YIOY
>>185 >>一般的に釈迦の教えが仏教だと思っている。
その一般とは法の未熟者なんです。
法のプロの判断を仰ぐべきである。
189 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 19:20:08 ID:UzIWgSDh
全く同じ教えだったけど 受け手側の価値観、状勢が違ったんじゃないかと考えてる 気張りすぎてる所と、堕落しまくりな所 その地域の要素と打ち消しあって、後代、〜の教えはこういうもんやった って考えられるようになる 布教されるときはとりあえず善いモンや って感じで伝わって、元の教えとかけ離れる。 大乗とキリスト教は同じ経過状態みたいなもんじゃないかな 貧しい人とか苦しい人がカウンターカルチャー を手に入れたわけで、そういった人達の手を渡ってきた結果 慈悲とか善さげな点で似てるように見える
190 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 20:58:22 ID:PurX3AnX
根本の真理真実の理解があれば、仏教や他の教えを正しく判別できるのだが。 根本の真理真実とは、何回も言われているので、苔が生えているかもしれないが、 縁起と空の理法である。 この理法の故に大乗の一切の経典が生まれているのだ。
191 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 21:01:08 ID:HWQq/ezf
教える側の生活もあるし、収入の持続につながる宗教なら可。 なぜなら、後々教えを残していくという重要な任務があるからだ。
192 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 22:35:26 ID:2oIoXpaa
>>181 だから、時代がどう変わっても、
ブッダの教えを説く人が必要。
煩悩が苦悩の原因だと説く人が必要。
>192 OSHOでおk。「般若心経」」とかいろいろ。 勇気要るぞ、 マジ。
194 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 23:18:44 ID:PurX3AnX
>>190 つづき
この理法の故に、この歴史上の一切の教えが誕生しているのである。
195 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 23:27:13 ID:T095YIOY
縁起と空の理法は間違いです。
196 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 23:30:48 ID:2oIoXpaa
縁起と空を悟るのは、執着をなくすためのプロセス。 それが悟りの終点ではない。 縁起と空を知るのは、4段階の悟りのうちの、第1段階です。
197 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 23:37:07 ID:PurX3AnX
>>196 >悟りの終点ではない。
悟りの終点を説いてください。
198 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 23:44:00 ID:2oIoXpaa
>>197 第1段階の悟り預流果で、
有身見・疑・戒禁取見の三つの煩悩が消える。
第2段階の悟り一来果で、
貪(むさぼり)りと瞋(いかり)の煩悩が弱まる。
第3段階の悟り不還果で、
貪(むさぼり)りと瞋(いかり)の煩悩が無くなる。
第4段階の悟り阿羅漢果で、
色貪・無色貪・掉挙・慢・無明の煩悩が無くなる。
199 :
神も仏も名無しさん :2008/02/04(月) 23:50:29 ID:2oIoXpaa
縁起・空・無常・無我に納得することで、 有身見(心身を実体視する見解)が消え、 疑(真理を確かめようとしない保守的な見解)と、 戒禁取見(しきたりや迷信や儀式や苦行などに対する執着)も、消える。 それが第1段階の悟り。 それだけではまだ、欲望や怒りは変わらないので、 欲望や怒りによる苦悩・ストレスもある。 日本の僧侶で、第1段階の悟りを得ているような言動の人はたくさんいる。 例えば一休さんとか。 でも、一休さんは、欲望や怒りを完全に消していなかったように見える。
200 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 00:00:25 ID:vf0pXWAj
色貪・無色貪は、色界・無色界の禅定(ぜんじょう)の境地への執着。 つまり、瞑想でマスターした、宇宙との一体感とかの、 まぁわかりやすく言えば神様の世界への執着。 掉挙は、心の怠け癖、つまり集中力が途切れる弱さ。 慢は、他人と自分を比べて、優劣を気にすること。 たぶん、第3段階まで悟った人でも、 悟っていない他人を心のどこかで見下しているのでは。 で、無明とは、あらゆる煩悩の根源、 苦しみの生存の根本原因、智慧を妨げるもの。
201 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 00:16:53 ID:vf0pXWAj
悟りの終点である第4段階の阿羅漢果になると、 先に列挙したすべての煩悩が消える。 そうなると、慈悲喜捨の四無量心だけで余生を過ごすのでしょう。 慈…他者に楽を与えようといういつくしみ。 悲…他者の苦悩を取り除こうというあわれみ。 喜…他者の幸せや成長を喜ぶ気持ち。 捨…ものごとを平等に見る心。
202 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 00:18:38 ID:DYGj2fWc
>>198 理屈は立派なんだけど、
現実には成立しないでしょう。
煩悩を消してはならないのです。
色(煩悩)、心(浄土)
色心不二です、煩悩と浄土は一つで切ってはならない。
203 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 00:19:57 ID:YOQQ9b6h
>>201 どうもです。
>四無量心
ここに無量と言う表現をしていますが、何故無量と言う表現をしているのでしょうか?
204 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 00:28:09 ID:vf0pXWAj
>>203 日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の、
「アビダンマ講義シリーズ 実践仏教心理学」の本の中で、
その説明を読んだんですが、記憶があいまいです。
205 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 00:30:30 ID:YOQQ9b6h
>>202 色心不二というのは、色も縁起存在ゆえに空、心も縁起存在故に空
故に二つのものではない、と言う意味だよ。又、色と心とは縁起存在:相対的存在
である故に、両者の実体は空である、故に二つのものではない、と言う意味だと思うよ。
決して煩悩が浄土と言う意味にはならない。
207 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 00:39:49 ID:YOQQ9b6h
煩悩即菩提と言う熟語もある。これも煩悩が菩提であると言う意味ではない。 煩悩のあるところに菩提と言う真実が存在しているのであり、煩悩のあるところ以外に、 菩提と言う真実があるという意味に捉えられる傾向があるから、それに対抗して言われているものと解するべきだと思うよ。 つまり煩悩というのも、縁起存在、相対的存在に他ならないから、それの存在は虚妄であり、その真実は、 空相であり、空相を菩提つまり真実と理解または信じなければならないと言う意味だと思うよ。 何であれ、全てのものは縁起存在であると言う事、これゆえに、全ては虚妄であり、真実:実相は空相である、と言う大前提:これ を第一義諦というのだが、この真理真実から問題を解くようにしなければならない訳である、と思うよ。
208 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 00:58:37 ID:DYGj2fWc
釈迦は神を説かなかったから、宇宙の実相とズレるんだ。 縁起とは神の表現であり、煩悩とは神の表現で心とは神。 故に煩悩と神は一つで切ってはならないと云う事です。
>>207 > 煩悩即菩提と言う熟語もある。
熟語?
国語の試験なの?
>>208 > 釈迦は神を説かなかったから、宇宙の実相とズレるんだ。
> 縁起とは神の表現であり、煩悩とは神の表現で心とは神。
> 故に煩悩と神は一つで切ってはならないと云う事です。
ほとんど、何を言ってるのか、理解不可能なんですけど。とくに、その結論・・・
211 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 01:04:29 ID:vf0pXWAj
>>202 デタラメもそこまでいくとギャグですね。
色心不二という場合、色は物質や肉体のこと。
心とは受・想・行・識をまとめた呼び方で、「名」とも言います。
名色(みょうしき)で、心と肉体。
浄土とは、仏が生存し理想の仏教教団がある世界のこと。
212 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 01:07:58 ID:YOQQ9b6h
じゅく‐ご【熟語】 「じゅくご」を大辞林でも検索する 1 2字またはそれ以上の漢字で書かれる漢語。熟字。「幸福」「美女」など。 2 二つまたはそれ以上の単語が合わさって、一つの単語として用いられるようになったもの。複合語。合成語。 3 慣用によって、特定の意味に用いられるようになった語句。慣用句。成句。イディオム。「気が抜ける」「油を売る」などの類。
213 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 01:39:15 ID:DYGj2fWc
>>210 煩悩は社会生活に必要不可欠と云う意味です。
>>211 それはそちらの世界での話しで、
こちらの基準ではデタラメもそこまでいくとギャグでしかない・・!
214 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 01:42:07 ID:eeouLjsj
>デタラメもそこまでいくとギャグですね。 何を今更。
215 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 01:58:03 ID:DYGj2fWc
煩悩を消し去ってはなりません。 真の善と理法は物質を媒体として顕現するのである。 神の公正は物を否定した場合、喪失する。 例えば欲望を悪と云うが、欲望や情欲なるものは神の与えしもので、これは本来善である。 これを否定した場合、人類の存続は無い。愚か者はこれに執し、これをやたら規制しようとする。 天界の高低と理法をこの世で顕すものはこの欲望なのである。 すなわち神の公正と理法という最も高きものをこの世で表すものは、 最も低きこの物質なのである、ここに嘘はない。 地獄の生成の原因は欲望のせいではなく、自己の神の善を知らぬ霊的未熟にある。 これゆえに宗教家は欲望を捨てよ、自我を捨てよ等言い、悪を欲望や自我のせいにしてきたのである。 これでは全人類を真に生かしている「神の理法」が顕現しない。 欲を否定する者は力と数、都合とエゴ、「虚栄の善」の統治をしている。 信仰による万物肯定の道とは云えぬ。
216 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 02:26:57 ID:NyE1ugui
長文だね。
217 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 07:55:48 ID:vf0pXWAj
>>215 人類すべてが平安なる滅びに入るのが、仏教のめざす方向です。
人類を存続させなくていいの。
218 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 08:17:39 ID:vf0pXWAj
>>208 そうやって、煩悩の世間に衆生をひきとめようとする神様を、
仏教では天魔といいます。
219 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 08:42:27 ID:DYGj2fWc
>>217 平安なる滅びに入るのが目的なんて、子供が考えてもアホらしいと分かる。
人類滅亡を願う論理が如何に矛盾しているか、そんな事も分からないですか?
>>218 煩悩だけ切ってはならないのです。
神の心と煩悩は一つで切ってはならないのです。
220 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 12:34:09 ID:vf0pXWAj
>>219 ですから、神様自体が煩悩に執着している天魔なのです。
縁起している一切の存在世界、
眼耳鼻舌身意・色声香味触法の世間一切から、
消え失せるのが涅槃です。
神様は、衆生の涅槃を妨げようとするのです。
神様は、人々が神様の支配下から解脱するのを、邪魔しようとする。
で、世間はすばらしい、生存は甘美であると、ひきとめようとするのです。
221 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 12:39:37 ID:vf0pXWAj
>>219 仏教的な表現をするなら、輪廻の世界から解脱するのが目的です。
お経の中で、ブッダは死後にどうなるのか、尋ねた人がいました。
それに対する答えは、神々が探し求めても発見できなくなる、
という意味でした。
222 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 12:49:37 ID:DYGj2fWc
>>220 釈迦は神を認めていないので、
「神様は、衆生の涅槃を妨げようとする」の屁理屈は通用しないだろ。
輪廻の世界から解脱なんて幼稚な屁理屈なんだよ。
生まれた事も滅した事も無いのが我らであるから、
輪廻の解脱等とは幼稚園のお遊戯の事なんだよ。
釈迦のママゴトなんて信じちゃ駄目だぞい・・・
223 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 13:00:13 ID:vf0pXWAj
>>219 が言うような神様なら、
そんな神様は衆生の苦しみの原因だから、
捨てたほうがいい。
煩悩が苦の生存の原因であり、
煩悩を消して涅槃に入ることが最高の平安です。
224 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 14:14:16 ID:91MoYrU/
涅槃というからわからないんで、絶対的虚無というほうがわかりやすい。 ところで釈迦は、悟りを自分だけのものにしようとしていたが、 梵天があらわれて布教するように言われてそうしたんだな。 神の啓示にしたがうってことは、 悟りといってもレベルの低い段階で、釈迦はとても涅槃になんか至ってないね。
>>224 偉大な教祖様を謗ってはならない
君が余りに誤っており深い悩みにいるのは私にはわかる
悟りは本来自分だけのものだ。他の人に話すようなものではない。
悟りに至る道を他の人にも説明された。
これはしかし馬鹿にはわからない教えであるから、お釈迦様はためらわれた。
>>224 にもわからないだろう。わからないなら黙ってればいいのに
謗ったりするから罪が重い。
226 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 18:21:18 ID:YOQQ9b6h
キリスト教徒は無関係のようであるが、そんなことは無い。真理真実を追究している限り、 キリスト教の話をもしているのである。
227 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 18:25:51 ID:GtQH2BIB
キリスト教には 妄想と服従がいっぱい詰まっている。
228 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 18:51:51 ID:YOQQ9b6h
>>227 空相一相無相という真理真実を教えられない者に、上着を奪うものには下着をも与えよ、右の頬を打つものには左の頬をも向けよ、とか、
一マイル行かせようとする者には、二マイル行ってやれ、などと教えても、従い難いだろうね。
229 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 19:42:12 ID:YOQQ9b6h
そうでもないか、神は空相無相一相だから。
230 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 19:59:49 ID:DYGj2fWc
皆な、そんなに釈迦に帰依したいなら、 日本に再誕した釈迦に帰依しなさいな・・! 今、東京にいるじゃないか。。
231 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 20:03:50 ID:NUPX1WIJ
イエスは「神の愛」という妄想を抱かせて、イスラエルに平和をもたらそうとした。 強烈なインパクトを与えて、民主主義を生み出した。しかし、妄想を抱いたままのマザーテレサ など、まじめな人に「神の沈黙と不在」に悩む人もでてきた。 ブッダは彼岸には冷酷さや残忍さ無慈悲なことはないとして、慈悲を説いた。 豊かな暮らしができない貧しい人に、自己も持ち物も自分ではない世界があると慰め、怠惰 を世の中を輝かせないことであると説き、衣食は(働いて)正しく得ることを教えた。 ブッダは究極の世界を知ってしまったから、この世に生まれないように修行に励むことも重要 視したのだろうけど、今の人にとっては、働いて世間を光り輝かせ、幸せを享受することが一番 いいかも。 「富を得たならば、自ら用い、またなすべきことをなす。」自分を楽しませ、喜ばせ、父母 を楽しませ、喜ばせ、妻子を楽しませ、喜ばせ・・・健康な人は、富を得ると自ら用い、 他人にも与える。自分だけ楽しまないこと。
232 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 20:20:25 ID:YOQQ9b6h
233 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 20:22:36 ID:DYGj2fWc
>>231 その様な楽しい生活が送れないから、
皆な、悩むんじゃないか。
何にも回答になって無いじゃないですか・・?
234 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 20:23:38 ID:DYGj2fWc
235 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 20:25:50 ID:YOQQ9b6h
>>234 釈尊と同じ事を説いているのか?同じ理法を説いている?
236 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 21:23:45 ID:b1YBMz5M
大昔はパソコンがなかった。自動車も鉄道も舗装された道路もなかった。 どれだけ自分がそれらを造ったか?今あるものに満足しないから不幸と 思う。要は心の状態だけかもってことだよね。
237 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 21:23:59 ID:DYGj2fWc
>>235 釈迦は神を否定して集団化したが、
大川も自分の写真を100万で売り付け拝ませて集団化している。
どちらも神への侮辱行為で同じ道を歩んでおります。
故に仏陀再誕は大川隆法である。
238 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 21:29:59 ID:DYGj2fWc
>>236 そうじゃなくて働きたいのに職が無い、
職があっても、給料が安くて生活が苦しい、
健康保険が払えず、医者にも掛かれない、
税金の支払いで生活費もない。
これらは心の状態だけでは解決できません。
そう考えてしまうこと自体が あれだ、迷える人そのもの 仏教はハローワークではないし役所の国民福祉課でもないし 社会保険庁でもない 厚生省でもない わかりきったことじゃないか。 そもそもきちんとした心がけがないからそうした惨状になっているのだ。 旗振りでも雲助でも便所掃除でも何でも仕事はある。なくはない。 生活レベルは下げればよい。金を必要なところに出せないのは無駄遣いしているからだ 全部自分の責任と認め 反省して二度とこうならないように誓うのだ。
240 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 22:03:08 ID:DYGj2fWc
それは早合点だ。目的と答えなしにつまり俯瞰図無しに人生を歩むのは無謀だ どこに行き着くかもわからない。仏教は間違いなく意味ある人生の指針となる。 どうしてよく知りもせずに謗るのだ。非常に罪深い。 仏教というが真理は結局その人の心にある。 どんな形を取ろうがなんと名称を名づけようがどうでもよい、ただその人の心の形だけが その人を作るのだ。よく知りもしないものを謗るような軽薄な浮ついた心でなにができよう。 常に自性をみつめ謙虚であり続けるよう、ひとときも慢心せぬようにすれば 必ず幸せがやってくるのは道理ではないか。
242 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 22:18:46 ID:YOQQ9b6h
>>237 君よ、そんな理由では、釈迦の再誕と言う事にならないよ。同じ理法を説いていないなら再誕ではない。
それに再誕と言うこと自体おかしい。マホメットがイエスもモーゼもアブラハムも
同じところを語る預言者と見做す事が正しいように、釈迦も、阿弥陀も、ミロクも同じ真理真実の世界を
開示するものと見做すべきなのだ。そしてこれらの聖者は、空性を体得するもので、その点で差異が無いのである。
243 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 22:19:02 ID:PMBkwmBD
>>238 それで神を信じるわけだが、現在の苦境は神を信じるがために、なぜ神はこのような世を放置しているのかとなる。
そこで耐え忍んで天国に入ろうとする。どっちにせよ、耐え忍んで生きないとダメだよ。
世の中に苦悩を感じて解脱の道を歩んだ。世を厭い離れ離欲と安らぎと精神を安定統一して安穏な心で満足する。
世の中を変えようなんてまず無理だよね。どっちにせよ、離欲に満足しないとダメだよ。
そこで、貧しい人に分かち与えの教えがあった、公平やあわれみと忠実との教えなどを布教しようとする。
どっちにせよ、宗教でそれらの問題を解決できた国ってあるのかなあ???
244 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 22:25:05 ID:YOQQ9b6h
>>242 つづき
阿弥陀や弥勒が、大乗が心理真実の開示のために作った架空の仏陀であるというのなら、
シャリホツ、木蓮、などと釈迦の弟子を以ってしてもいいのだ。
245 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 22:37:05 ID:91MoYrU/
弱いものが宗教に駆け込んでいる間に悪いものが好き放題している。 この世のことはこの世で立ち向かえ。
246 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 22:40:34 ID:YOQQ9b6h
>悪いものが好き放題している このようにしてるからといって、これらのものが良いものを得ていると考えてはならないというのが、 真理真実の教えではないか?反対に、自らを苦しめるものを積み上げているのではないか?
247 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 23:24:02 ID:DYGj2fWc
全宇宙を表現した存在(神)を目的とせず、 釈迦は何を目的として人生の意義を説いたのか? 虚空に釘を打つに等しい釈迦の四聖諦である。
248 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 23:37:47 ID:YOQQ9b6h
お前の神が創造したこの宇宙は、天国か? この宇宙が神の表現か?
249 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 23:40:14 ID:vf0pXWAj
>>247 でも、煩悩が悩み苦しみを生んでいるのは事実だと思います。
日本で貧乏だって言っても、
昔の人や発展途上国の人に比べたら豊かな生活をしてる。
それなのに、なぜ不幸だと感じるのか。
なぜ不満を感じるのか。
結局、外部の環境ではなく自分の心に、
不幸・不満を生み出す原因がある。
250 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 23:50:50 ID:4b3n2KGG
結局ね 大川をブッダと間違うような 馬鹿ばっかりなんだから もうどうにもならないんだよ。 だからこそ 釈迦は説法を躊躇したんだろ?
251 :
神も仏も名無しさん :2008/02/05(火) 23:52:27 ID:vf0pXWAj
ブッダは入滅したんだから、 二度と生まれ変わらないはずなのにね。
最近、若い人たちが多くなったねー 不勉強だよ。σ(^_^;)アセアセ...
253 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 00:02:28 ID:kv9GyVLK
>>249 この世の人生は修行なのです。
悩み苦しみは買ってでも体験するのです。
そして修行を終えて故郷の霊天上界に帰り幸福に暮らすのです。
女性が結婚相手に年収200万と1000万の男性がいたら、
迷わず、年収200万の男性と結婚しなさい。
それが人生の意義です。
254 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 00:08:23 ID:bPg8RFOt
>>253 仏教の修行の目的は、
煩悩を軽減して苦悩を軽減していくことです。
人生の苦悩を体験した結果、
煩悩を克服できる場合もあるかもしれませんね。
あなたの言う人生の修業の目的は、何ですか?
修業によって、どうなりたいのですか?
欲深く怒りっぽく後悔しやすく軽率で怠けものに、
なりたいのですか?
255 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 00:14:16 ID:kv9GyVLK
>>254 人間は何故、この苦しいこの世に、生まれてくるのか
死後の生は無と断定する思想ほど人間生命を無価値にするものはありません。
死後の生があって、初めて人間生命は無限の価値を有した存在と言えるのです。
普段、すばらしいと思っている価値、優れていると思う感情、日々感じている良き心の動きは、
実は死後の生があるという事実が理解できますと、そこに無限の価値を感ずるようになります。
死イコール無の思想ほど実害的な思想はありません。これは全ての生命の価値を無にして、
人間を動物のように「えさ」だけを追うようないやしい存在におとしめる思想と言えます。
本当に事実として死が無であるならばいいませんが、明らかに事実と違うのです。
死が無であるならば人間は生まれてきません。生まれてくるのは死は無を意味していないからです。
死が無であるならば神の存在はありません。生まれてくるのは、
人間は既に永遠の生命を内に有した存在だからです。
永遠のタイムの過程で、ほんの一時期、生命の修行のために肉体を持つということです。
256 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 00:14:55 ID:c7TN7r1z
253は貧乏なんだな。死後に幸せになれたらいいね。明日死んでみたら?
257 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 00:15:42 ID:kv9GyVLK
もし死が無を意味するならば、何もするな。何をしてもそれは価値のないものとなる。 何をしてもそれは最後には無となり、無価値となり、ゼロとなる。 死神は神に対して常に勝利することになるでしょう。 死が無であるならば、死は神に対して常勝将軍となり、神ですら死に勝利することはできない。 神が「よし」とするものの、その全ての価値と心が無価値となるからです。 神の存在は全ての「死」と「無価値」に対する常勝将軍であって、全てを無に帰すると思われる「死」ですら、 神に勝利することはできない。正義は常に死を超えます。死神は神に勝利することはできない。 あの世は「波長」の世界であり、「波長一致の世界」ですから、 怨憎会苦や愛別離苦といった苦しみはありません。 恨み憎んでいる者と会う苦しみも好きな人と分かれる苦しみもないわけです。 波長が互いに合いませんから会うことができないわけです。 逆から言えば好きな者、相性の合う者とだけ常時、一緒にいられる世界です。 ここに苦しみはありません。
258 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 00:16:41 ID:kv9GyVLK
肉体を去った世界の普遍的特長は「ラジオ」や「テレビ」の世界であり、 生命は見たい番組の周波数やチャンネルを合わせる機能を有していると同時に 自分も生命波長として電波を常に発しているわけです。 この世でもある程度、似た者同士が集まるといった波長一致の原理が作用していると思います。 何かわからないけれども、相性の合うもの同士が何となく集まるといった関係があると思います。 この波長の原理は生命の中にもともと宿されている性質であり、 あの世では肉体がありませんので、特にはっきりと出ます。 この世では肉体というある意味同一波長を有した衣をまとっておりますので、嫌いな人と会い、 愛する人と別れ、憎む者と顔を突き合せなければならない。そしてこれが苦しみを生みます。 この世では肉体を持っておりますので、仏教で言う生老病死、生きる苦しみ、肉体が老いる苦しみ、 病気の苦しみ、死の苦しみがあります。 天界ではその肉体がありませんので、まず老いることがなく、病気もなく、死ぬこともなく、 また好きな者とだけ会っていればいいので、生きることが苦しみではなく、喜びとなります。 あの世は各人の生命の奥に在りますから、これが人間生命の本質と言えます。
259 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 00:18:04 ID:kv9GyVLK
つまり生きることは、本来苦しみではなく、喜びなのです。 もし苦しみの世界であると捉えている方がいますならば、 少なくともその方は本来のその方ではないと言い切れます。 ただ本来は喜びの世界であり、これが各人の生命の本質であることは事実です。 生老病死もなく、自己にとって快適な人間とだけ会い、あの世にはお金がありませんから、 金に関係する一切の苦楽はないわけです。 この世では想像しにくと思いますが、天界の世界とはそういった世界です。 あなたが死後、帰る世界です。しかもあなたがこの世に生まれる時、 背中を叩いて励ましてくれた方の記憶もよみがえります。 そしてこの世界での生活が本来の生活です。 肉体があるから自分と異なる人格性を有した人間とまみえ、その自分とは異なる人格との邂逅が、 自己を磨き、自己の生命の修行になっています。 肉体や物質は中間物であり、半分は相性の一致の原理で似た者同士が集まり、 半分は異なる者と顔をあわせるという世界が実現されています。 人格の波長よりも低い物質的波長を創造することによって、この多様性の実現を表現しています。 この物質界がありませんと、神の世界における多様性とその偉大性は理解できません。 あの世では未熟な霊ほど異なる価値や人格との接触を嫌うからです。
260 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 00:19:06 ID:kv9GyVLK
ところがこの世では否応なく接触せざるを得ない世界となっています。 これは物質界がなければあり得ないことです。神の見地から見ますと、 人類をかなり愛していることが読み取れます。 苦しみといっても、たかだか7、80年です。 その一瞬の時間ぐらい努力して、多少苦労して生命を磨きなさい、ということだと思います。 この世は道場であり、神の心を学ぶ少し厳しい学校ですから、自分の未熟や他との関係から 色々と苦しみを作りますけれども、神はかなり人類を愛していると思われます。 苦しみの原因は物質であり、自己の未熟です。 肉体があるから生老病死があり、肉体があるから嫌いな者や相性の合わない人と関係を持ち、 顔を互いに突き合せなければならなくなります。 しかもそれは一瞬です。 先はまだまだ長いわけですから、苦しみにのみとらわれますと、本末転倒となります。 神の心は幸福が目的だからです。 私が神が偉大であると思うのは、老いることもなく、病気もなく、死ぬこともなく、 好きな方とだけあって生きている喜びの世界である天界の住人は、 だから完全に成熟した人格をそれぞれが持っているから幸せなのかと言いますと、実はそうではないわけです。
261 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 00:20:29 ID:kv9GyVLK
少なくとも地球においては「この世」と同様、「あの世」では未熟な人達が多いけれども、 天界では肉体を持っていないから生老病死がなく、恨み、憎んでいる人間と会う必要がないから幸せなわけです。 未熟な人類のくせに天界では一人残らず全てを幸福に生かしている点が 神の偉大性があらわれている点だと思っています。 それを決定づけている法則が波長一致の原理であり、肉体なしの悟りであり神の心なわけです。 ただこの世では未熟が暴露される世界ですから、やはり神の心には向かっていかなければならず、 神理は幸福の早道と言えます。 あの世もこの世も未熟な人格体が地球では多いわけですが、天界では幸福、この世では腐敗で分かれています。 条件は同一であり、前提はあの世もこの世も未熟な人格が多いと言う点、同じなわけです。 にも関わらず一方は幸福、他方のこの世は腐敗です。 何故か。もうお分かり頂けると思いますが、この世の人類全体の幸福を考える上で、 あの世の霊天上界の仕組みやその構造の解明は必須なのです。 既に人類全体の幸福とその世界は各人の生命の奥で、既に実現されているわけです。 つまり既に在るわけです。
262 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 00:22:01 ID:kv9GyVLK
神は天界で人類全体を、しかも一人残らずをどうやって幸福に生かしているのか。 この世の幸福実現には、実はあの世の解明と物質の意味、世界の仕組みや構造、 並びにその世界で実現されている理法の探求なくして、ありえないのです。 そしてこれを知ることが神の心を知ることと言えます。 その心と世界に従って天界では一人残らずが幸福を実現しているからです。 神が幸福であるゆえんです この世がなければ本当の心、もっと言えば本当の自分、無限の自分を悟ることはできません。 この世の生死は有限です。苦しみは無限ではなく、有限がその本性です。 無限に感ずるのは錯覚だと思います。どう考えても70年です。 あの世の生活は永遠です。頑張って頂きたいと思ってます。
>>262 眼が悪いので、長文は、読めません、ごめんちゃいm( __ __ )mね・・・
264 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 00:44:13 ID:c7TN7r1z
とりあえず、最後の1行は仏教ではないな。
>>264 > とりあえず、最後の1行は仏教ではないな。
どの本の ?
266 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 00:57:25 ID:c7TN7r1z
262の
>>266 > 262の
言ってる事がわからないけど・・・アセアセ( ̄_ ̄ i)タラー
268 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 05:46:35 ID:iJG7Yl48
>>231 貴方の意見に賛成します、良い答えですね。
「富を得たならば、自ら用い、また為すべき事を為す」、同意します。
釈迦も、「悟りを得て自ら用い、また為すべき事を為す」、一生を過されたのですね。
269 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 08:30:34 ID:bPg8RFOt
>>257 煩悩があるまま死んでも、業(カルマ)によりまた生まれてしまう。
人間はなぜ生まれてくるか。
過去の業や煩悩が残っていたから。
二度と生まれずにすむためには、涅槃(煩悩の消滅)が必要なのです。
煩悩がなくなれば、輪廻から解脱する。
270 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 09:06:09 ID:wfNgwQtr
人類滅亡すれば輪廻しない
やっぱり湧いて出てくる新興宗教って感じだなぁ(w。 あと、仏教関係者(or 勉強した人)。漢語の仏教用語はそろそろ卒業せんかい? 元のサンスクリットの意味を拡大解釈する原因がそれだとおもわれ。 荻原辞書の仏の印の訳語は避けておくれよ。 てか、それが全てってのが今の日本の仏教方面? あたしゃギリシア語方面なので(藁
272 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 12:31:31 ID:kv9GyVLK
>>269 人間は不生不滅だから輪廻なんてどうでも云いこと。
この世の人類を導くために輪廻して生まれる事も必要。
煩悩は神が与えしもので、涅槃(煩悩の消滅)は無意味です。
273 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 12:40:51 ID:bPg8RFOt
>>272 神は煩悩を与えてくれるけど、涅槃は与えてくれないんですね。
煩悩に伴う悩み苦しみを与え、
悩み苦しみによる迷いにより、
新たな苦しみの原因となる行為をさらにくりかえさせるんですね。
煩悩が消えれば悩み苦しみも消える。
たとえば、人よりも金持ちになりたいという煩悩があれば、
自分より金持ちの人を見て怒り妬み、ストレス・苦痛になる。
人より金持ちになりたいという煩悩がないなら、
自分より金持ちの人を見ても、ストレス・苦痛にならない。
274 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 12:47:28 ID:bPg8RFOt
>>272 輪廻がどうでもいいなら、ますます、
現在を平安に生きることが重要。
今・ここで、すぐに平安になるには、煩悩を克服するのがてっとり早い。
金持ちになりたいという煩悩があると、
金持ちになるまで平安になれない。
金持ちになるには何か月・何年かかるかわからないので、
何か月・何年先になるまで幸せを感じられない。
煩悩がなくなれば、今・ここの瞬間に、平安で幸せになれる。
275 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 12:55:35 ID:mzQ4CEcH
>言ってる事がわからないけど・・・アセアセ( ̄_ ̄ i)タラー それより265の >どの本の ? ってどういう意味? 本の話題はよそでどうぞ。
276 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 13:09:02 ID:kv9GyVLK
煩悩は人生に夢と希望を与えてくれる。 夢と希望(煩悩)の無い人間は廃人同然である。 オリンピックで金を取るのは訓練に伴うストレス・苦痛が必要です。 ストレス・苦痛を避ける人生が平安で幸せなんてバカ(釈迦)のセリフである。
277 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 14:05:49 ID:kv9GyVLK
278 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 14:08:10 ID:kv9GyVLK
修正です 3・その原因である欲望や執着を捨て去り滅せよ
280 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 18:41:38 ID:k/kHCgNL
>>278 自殺願望の人のカウンセリングをしてるのじゃないの?
そんな人には効き目があるかも。
どうせこの板でやってんのは知識くらべで、大事なのは自論の勝利で、 イエスの愛の実践も仏教の利他行の実践もないんだから、やらないのと同じだよ。 ここの1とか、時おりまじめな人もいるけど。でも、それでもやらないのがましだよ。 大事なんは、あの世にもってけない宗教知識じゃなくて、自分がどれだけ本質的に成長できたかだろ。
>>281 そんなに気張ったことではなくて、いいのでは ?
利他行って。
283 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 20:02:53 ID:FK6PT3Np
>>201 のような人が世の中に多いと、世の中は随分と過ごしやすくなるな。
284 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 20:05:09 ID:k/kHCgNL
>>277 お前は修行とはどういうものかも知らず、苦も知らず、苦の原因も知らず、執着と言う事も知らず、
八正道と言うことも知らないではないか。お前の言う事はその場限りの有耶無耶な言論で、
人を騙すだけのものだ。
285 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 20:26:21 ID:EHtEaqcd
「べ、別に私が言ったんじゃないわよッ! かっ神サマが言ったんだからねッ!」 これで逃げ手を打つ奴さえいなければな…とたまに思う。
286 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 21:05:33 ID:kv9GyVLK
287 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 21:05:33 ID:bPg8RFOt
288 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 22:02:05 ID:k/kHCgNL
>>286 釈迦やキリストが好きなわけではないのだ。真実である清浄、平安、安楽
が好きなのだ。
289 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 22:13:44 ID:k/kHCgNL
仏教には沈黙の行と言うものがあるね。
290 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 22:31:08 ID:jQZesvh2
>>260 神の見地って神に聞いたこともないくせに。
人生苦もありゃ楽もある。楽しいこともあり苦しい時もある。
そして人はやがて死ぬ。死を餌に金儲けする奴もいる。
死んだ後をまるで見たように語り、神と対話したように命令を下す。
様々な宗教や宗派が自分たちの見解は正しいと言うが、それぞれ違った
見解を教える場合がある。
苦しい時も自暴自棄にならず、他人に苦悩を与えない。人は幸せを求め
て生きているだろうから、互いに他人を不幸にしようとするな。
ひとりでは幸せが築けないだろうから、他人の幸せを互いに手助けせよ。
それくらいのマナーがあればいい。
後は、この世は苦しみだからといって世の中から離れるのも個人の勝手
でやればいいだろうし、この世が幸せであると思っている人を誘うな。
悩んでいない、他人を悩ませようとしない人を宗教者が誘って、自分た
ちの考えで人を洗脳してはいけない。
291 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 22:48:39 ID:kv9GyVLK
>>256 >>明日死んでみたら?
それじゃ駄目なんです。
人生修行の放棄になりますから。
自殺で幸福になれません、耐え忍ぶのです。
292 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 23:03:26 ID:k/kHCgNL
>>286 世間話は聞きたくないのだ、世間話だろう?
293 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 23:05:00 ID:kv9GyVLK
294 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 23:08:38 ID:k/kHCgNL
295 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 23:12:17 ID:k/kHCgNL
>>293 ID:kv9GyVLK
貴方は大川龍峰の信奉者?大川と言う釈迦の再誕は貴方の様な事を言う人?
296 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 23:18:48 ID:kv9GyVLK
297 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 23:20:51 ID:k/kHCgNL
298 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 23:25:37 ID:ul8d2UCL
神とか霊界とか勝手に言ってる奴がいるけど、見たこともないのに 信じるカルト信者がいる。神って金儲けになるしな。 人生修行と誰が決めた?勝手なこと言うな。 人の人生は限定的でそのうちには苦もある。 オリンピック選手は欲があるからがんばれる。 こんなことで神などと言って宗教にするなよな。
299 :
神も仏も名無しさん :2008/02/06(水) 23:46:26 ID:kv9GyVLK
300 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 00:04:28 ID:k/kHCgNL
>299 これがどうして釈迦かカ?
301 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 00:14:28 ID:kvmSDj+z
>>299 マ、重なっているところが有るのは認める。
302 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 00:15:11 ID:4lYRwakk
303 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 00:17:00 ID:4lYRwakk
>>302 アカシックレコードを読み取るゲリー・ボーネルです。
304 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 00:20:26 ID:kvmSDj+z
305 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 00:22:24 ID:4lYRwakk
アカシックレコードとは宇宙に存在する記憶庫です。
306 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 00:55:53 ID:kvmSDj+z
わからん。ねる。
307 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 09:56:50 ID:XkyLCQre
>>明日死んでみたら? >それじゃ駄目なんです。 人生修行の放棄になりますから。 死にたく無いのはいいですが 修行などと美化しないほうがいいですね。正直になりましょうよ。 >自殺で幸福になれません、耐え忍ぶのです。 カルト組織は 自殺されると収益が減りますので 自殺推奨はしない。
308 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 09:58:56 ID:XkyLCQre
309 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 13:41:19 ID:4lYRwakk
>>308 この講演は1991年のビデオです。
当時は父親の影響もあり、神への信仰もありました。
信者を増やし勧誘の意図もあります。
宗教法人とは布教が命題ですから当然とも云えます。
ただ、これ以後教義が変質しまして、やはり2400年前の釈迦の時代の
神を否定する唯物論に傾きました。
自分の写真を100万で販売する神への冒涜が始まったのです。
仏陀再誕の由縁であります。
310 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 13:46:56 ID:4lYRwakk
>>307 ではあなたの正直とは何ですか?
ただの無知である事が正直でしょうか?
311 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 16:15:15 ID:CDTp2yFX
312 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 16:45:44 ID:4lYRwakk
>>311 それらは主に組織活動の場合です。
究極の正義は神と個人との一対一の信仰が必要です。
313 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 17:11:17 ID:iVqcEL+Y
正義は神とは無関係。 「神」とは 大昔に人々が 助けて欲しいために捏造した存在であるので 神の親は人類。 〜〜すれば助けてもらえる、と人々は思いたいが 真実はそんなに甘くない。 お金が無ければ治療が受けられず死ぬ。 神に祈るのは自由だが 神が居る、と言うなら証拠を出しましょう。 そして仏教には 神の居場所はありません。 釈迦は救世主ではなく道を示しただけです。
314 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 18:57:27 ID:kvmSDj+z
四無量心について。 正覚者は何者にも依存していない。空相である。自存者である。 そのものが慈を垂れるんだろうか?違う、煩悩あるもんが正覚者に慈を感ずるのである。 煩悩あるものの罪を正覚者は問題にしないからである。且つ、煩悩あるものは、常に正覚者を求めていたのである。 煩悩あるものは常に正覚者に違背していたのであるが、その違背を正覚者は問題にしないのであるから、そして、 問題されないことが、煩悩あるものが正覚者に近づいて平安を得る条件なのである。 こういう意味で、「慈」と言う事が言われるのである。 煩悩あるものは常に涅槃を求めているものである事を知らなければならない。
315 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 20:41:13 ID:4lYRwakk
>>313 「神は宇宙の表現体である」西田幾多郎
無質量の無限エネルギーを仮に神と名づけたに過ぎない。
>>「神」とは 大昔に人々が 助けて欲しいために捏造した存在である
一理あるが、我ら神の子は誰にも助けて貰う必要の無い存在である。
317 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 20:54:43 ID:kvmSDj+z
西田を捨てろ。名称と形態を破壊せよ!
318 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 21:34:47 ID:4lYRwakk
>>316 皆さん、神の正体をご存知無い様ですので、一度正しく解説したいと思います。
ドップラー効果によって宇宙は膨張しているという膨張宇宙論が確認されました。
宇宙は時間と共に膨張しておりますが、逆から言えば時間を遡(さかのぼ)っていきますと
宇宙は収縮していきます。
時間をどんどん遡(さかのぼ)っていきますと宇宙は収縮していき、
最後には手の平に乗るほどに宇宙は小さくなっていきます。
更に時間を遡り、宇宙誕生時刻ゼロの地点では不思議な世界になっていることが
科学で証明されています。
宇宙誕生時刻ゼロの地点では時間も空間もなく、質量も体積も存在していないにも関わらず、
エネルギーだけが「∞(無限大)」を示しているのです。
何もない世界に一切があり、エネルギーは無限大を示している。
禅の「無一物中無尽蔵」が先端のアインシュタイン方程式から出てきたため、
これが科学者の世界で問題となりました。
科学は無限を嫌うにも関わらず、最先端のアインシュタイン方程式から、
この無限大が出てきたため様々な探求と仮説が出てきました。
この大宇宙誕生時刻ゼロの地点を「特異点」と言います。
実はこの「無の無限エネルギー」こそ神の正体なのです。
319 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 21:36:21 ID:4lYRwakk
>>315 修正です。
「宇宙は神の表現体である」西田幾多郎
320 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 21:50:11 ID:kvmSDj+z
誰が神と言い出したんだ?
321 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 22:17:25 ID:dpzEtanv
「すべて重い荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。」イエス 「重い荷物を捨てたあとには、荷物をさらに引き受けるな。荷物を引き受けることは 最上の苦しみである。荷物を投げすてることは楽しい。」仏教 「立て。健き人よ。戦い勝った人よ。重い荷をおろした人、債務のない人よ。世の中 を歩め。あなたの心は、よく解脱しています。」仏教の神 不死の境地に達した(ブッダ)からすれば、人間界は愚かなこと(欲望など)を 喜び輪廻から離脱できない愚かな存在だと思っているでしょうが、人間がこの世は欲 楽もあり素敵な所だと思っているなら、本人が納得しているからそれで十分。 「一切の生きとし生けるものは、目的をめざして生まれたものである。あちらでも、こち らでも、それぞれの分に応じて。ところで一切の生きものの享楽は、その目的と結合する ことが最高である。その目的は、達成されたならば、みごとに輝く。耐え忍ぶことよりも、 されにすぐれたものは存在しない。」仏教の神 人間は目的をめざして生まれたものである。重荷に耐え、目的を達成できたならば、み ごとに輝く。欲もあって生きることは本来の人間の生き方。ただ、霊界の人々のように 勝れた存在であると思わないほうがよい。
>>318 うそついてるでしょ、あなた・・・いいかげんなことばかり・・・
323 :
神 :2008/02/07(木) 23:02:26 ID:cUnxOOEG
>実はこの「無の無限エネルギー」こそ神の正体なのです。 まあそうかもしれませんが それを神と呼んでいいと誰が許可した? ちゃんと申請しないと 罰しますよ。
324 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 23:29:40 ID:bbGvulMa
>>318 宇宙や世界の成り立ちとか、
そんなのは知的好奇心を満たしてくれる哲学にすぎない。
仏教は、人生の苦悩をいかにすれば消せるか、
具体的なワザやコツを教えています。
仮に、ビッグバンの起きる瞬間の巨大なエネルギーを神と呼ぶとして、
その神様は、私達の人生を平安で幸せにしてくれるのですか?
悩み苦しみを消してくれるのですか?
325 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 23:41:16 ID:90MHLAN6
【隔離スレ】*・∀・*【Latin系】
http://music8.2ch.net/test/read.cgi/dj/1202202856/ 262 :*・∀・*本家Franceハーフ :2008/02/07(木) 22:51:54 ID:0F1YBYWI
>>244 ユダヤ人にはユーモアがある
ダビデの紋章をつける事が屈辱だったのではない、ダビデの紋章はユダヤ人の誇り
それを馬鹿にされた事がユダヤ人にとって屈辱なんだよ
そこをはきちがえるな!
俺の彼女は「もしまた迫害が起き、キリスト教徒達にダビデの紋章をつけて歩け!と言われたら、私は屈辱を感じる事なくつける
むしろ自信を持ってつけようじゃないの!
だってあれは私達の大王の証だもの 何も恥じる事はない
キリスト教徒達にとってもダビデは英雄のはず! 逃げてるのは彼等
私は逃げも隠れもしない」
って言っていた事がある(うるおぼえだが)
お前にユダヤ人を豚扱いするような権利はないんだよ*・*!!!!!
俺はCatholicだが、ここまで言われたらこの子を死ぬ気で守ってやりたいって思ったよ
ダビデは旧約、新約両方を聖典とする俺みたいなCatholicにとっても英雄
326 :
神も仏も名無しさん :2008/02/07(木) 23:54:10 ID:kvmSDj+z
327 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 00:20:29 ID:w8BCfiOU
>>324 私たちはこの世に修行の為に一時的に生まれて来ました。
本来は霊天上界での生活がすべてです。
人生の苦悩をいかにすれば消せるかでは無く、いかに耐え忍ぶかです。
神への信仰に於いて耐え忍ぶのです。
神様は、霊天上界において全ての人類を、平安で幸せに
暮らせる仕組みを作られました。
328 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 00:26:29 ID:GRqsxCuv
327はまるでイスラム教だな。 けして仏教徒ではないな。 ならすぐ天上界に行けばいいのに 死にたくないので「修行のため生きる」 とか言い始める。 これだから
329 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 00:32:12 ID:w8BCfiOU
>>328 無事に修行を勤めあげなきゃならないんだ・・
辛い、苦しいから里へ戻して下さいは駄目なんだよ・・
何の為に望んでこの世に生を受けたのか?
それは自分自身が親を選択して修行覚悟で来たんじゃないか・・
死にたくないと云う問題じゃないんだ・・!
330 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 00:48:53 ID:ofVCb4md
>辛い、苦しいから里へ戻して下さいは駄目なんだよ・・ だからここが里だわ。 夢から覚めなさい。 >それは自分自身が親を選択して修行覚悟で来たんじゃないか・・ 親は選択不可能。 選択できるというなら何択かを言ってみなさい。
331 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 01:06:55 ID:w8BCfiOU
>>330 親の選択は指導霊の意向もあるよ。
でも最終的には本人の意思が優先される。
大体20拓だなぁ。
>>ここが里だわ。 夢から覚めなさい
霊天上界が無いと云う根拠はぁ??
332 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 01:14:21 ID:ofVCb4md
天上界は410年前に廃止されたよ。 使用者激減で。 需要と供給だからね結局は。 その意味で331さんの言うのが妄想だと分かる。410歳以上ならみな知っていることさ。
333 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 01:47:40 ID:w8BCfiOU
334 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 01:54:42 ID:F7rfE7yj
民衆の カルト妄想追放令 333及び江原も対象
335 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 02:12:42 ID:w8BCfiOU
>>334 じゃー、釈迦のカルト洗脳者も追放令じゃん
336 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 02:25:13 ID:F7rfE7yj
釈迦仏教とは、妄想の毒を排斥する修行の道なので 大乗やキリスト教 と違い 悪性阿片は含まれていません。
337 :
ばんこ :2008/02/08(金) 02:35:23 ID:wjB7AZ1t
イェスさんはみんなの期待をしょったまだ、未確定の人です。 仏陀さんは貴族から、自分の希望で底辺までおりたった稀有なひとです。 どちらも関係ありません。
とりあえずどちらもいい人です。
339 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 13:15:58 ID:w8BCfiOU
釈迦仏教は色心不二の悟りを得ていない為、 やたらと欲を否定しました。 例えば欲望を悪と云うが、欲望や情欲なるものは神の与えしもので、これは本来善である。 これを否定した場合、人類の存続は無い。愚か者はこれに執し、これをやたら規制しようとする。 天界の高低と理法をこの世で顕すものはこの欲望なのである。 すなわち神の公正と理法という最も高きものをこの世で表すものは、 最も低きこの物質なのである、ここに嘘はない。 地獄の生成の原因は欲望のせいではなく、自己の神の善を知らぬ霊的未熟にある。 これゆえに宗教家は欲望を捨てよ、自我を捨てよ等言い、悪を欲望や自我のせいにしてきたのである。 これでは全人類を真に生かしている「神の理法」が顕現しない。 欲を否定する者は力と数、都合とエゴ、「虚栄の善」の統治をしている。 信仰による万物肯定の道とは云えぬ。
340 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 18:23:35 ID:oXoEt+P6
>>339 >神の与えしもので
こういう神を釈尊は捨てよと言われたのです。究極の理法が顕現したのですから、
神と言うオバケは必要なくなったのです。
キリスト教はこの理法を神と言っているようです。なぜなら、この理法により万物が創造されていると言っているのですから。
理法に相当するものを神と言っているので、その理法が仏教の言う理法と酷似しているので、イエスの言う真理真実も、釈尊の言う
真理真実も同じものに違いないと見做す事は、自然な事です。
少し哲学用語を使用して言えば、キリスト教は、演繹的教えであり、仏教は帰納的教えといえないでしょうか?
しかしこれは、充分な説明にはならないと感じます。両者は帰納的でもあり演繹的でも有るからです。
何であろうと、真理による真実と言うものは、唯一で無ければならないですね。真実が二つあるという道理はないのです。
真理により真実を体得した人が何万人いようと、真実が一つなのですから、真実を体得した人も、
一人というべきで、それらの人々は無我で無ければなりません。
341 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 18:50:40 ID:w8BCfiOU
釈尊の云う究極の理法とは不完全である。 別に酷似してはいません。
342 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 19:08:28 ID:YlENW3iB
>339 >340 少し哲学的用語を使用して言えば、真理による真実とは、唯一無二で在り 釈迦の云う、究極の理法とは完全無欠で在る。
343 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 19:15:52 ID:w8BCfiOU
>>342 神と云う絶対基準を中心に立てない釈迦の理法の何処が完全無欠なんだか?
344 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 19:29:21 ID:YlENW3iB
>343 神の存在がなくても、釈迦の理法は完全無欠!
345 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 19:34:41 ID:hz+88w6j
もうさ、釈迦やキリストは伝説tと虚構まじりで正確なところよくわかんなくなっちゃったからさ、 現代の修行者の生の声を聞こうぜ。いくら彼らが歴史的有名人物でも、 彼らと他の人間は、人間とサルほどの違いはないんだしさ。 彼らレベルの宗教家は現代にもいるでしょ
346 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 19:42:06 ID:YlENW3iB
>345 彼らレベルの宗教家は現在、何処で何をしていると思う?
347 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/02/08(金) 19:42:35 ID:Txhl9lh+
お釈迦さん並の宗教家なんて居ないよ。(笑 キリスト並なら居るだろうがな。(笑
348 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 19:49:50 ID:YlENW3iB
>347 テヘッ!
349 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 19:59:32 ID:w8BCfiOU
350 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/02/08(金) 20:05:16 ID:Txhl9lh+
大川某なる小肥り爺は単なる凡夫。(笑 まぁ、視点に由っては同じに見えるかもな。(笑
351 :
神も仏も名無しさん :2008/02/08(金) 22:08:13 ID:w8BCfiOU
352 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 00:11:59 ID:w5jBI+by
大川氏のような者を 明らかに暴いていくことが大事ですね。
353 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 01:32:33 ID:7/Fb1abz
>>339 仏教で言う悪とは、悩み苦しみや、
悩み苦しみの原因になること。
善とは、悩み苦しみのないことや、
悩み苦しみの原因をなくすこと。
欲の裏には苦しみが隠れているのです。
また、欲は新たな苦しみをつくる原因にもなるのです。
悩み苦しみがない場合は、欲望もなくなるのです。
欲望をすばらしいと言うことは、
不満がある状態(満足できていない状態)を、
すばらしいと言うことです。
食欲は、空腹の苦しみの裏返しです。
空腹で苦しいから、食欲がわく。
満足したら食欲は消える。
食欲以外のすべての欲望にも、同じことが言えます。
すべてに満足したら、すべての欲望がなくなる。
354 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 01:46:41 ID:xa15/eUY
>>353 欲望は生存の為の手段であって、
欲望を目的化しないかぎり善である。
では究極の目的とは神である。
この世は物質界であるから、欲(物質)は、肯定されねばならない。
欲は苦だけでは無く、楽を得る事も有るでしょうに・・。
355 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 08:09:11 ID:7/Fb1abz
>>354 この世で生きること自体が苦しみであり迷いである。
356 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 08:14:37 ID:SHQQzUj1
>>355 生きるという事は苦しみであり迷いである
しかし生きてるからこそ喜びも幸福感もある
どんな事もそうですが、ただ欲望を満たすでは何もなりません
一人でおいしい料理を食べても味気ないけど、好きな人となら
さもない物でもおいしく頂けるはずです。
同じ事があっても人によって感じ方思いは千差万別です
全てのことは自分の心次第で大きくかわるものかも知れませんね。
357 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 10:26:37 ID:7/Fb1abz
すべての刺激の正体が苦痛であり、 その苦痛を喜びや快楽だと勘違いさせるのが、心のはたらき。 いったん固定観念をリセットて、 すべての刺激は苦痛のバリエーションにすぎないと気付いたら、 心の持ち方次第で幸せになれるとわかる。
358 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 12:16:14 ID:xa15/eUY
>>生きるという事は苦しみであり迷いである >>すべての刺激の正体が苦痛であり、 こんなバカ同然の屁理屈は歴史上では釈迦だけだ。 だから釈迦仏教はバカにされて大乗仏教に移ったんだろが・・・ >>心の持ち方次第で幸せになれるとわかる こんな屁理屈信じて幸せになれる訳ねーだろ・・!
359 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 12:28:52 ID:wvS+u3U0
真実は空相で、個々のものは縁起存在であるが故に、実体がなく、平等なのである。 この真実に基づいて、刺激を良いものであるといって執着せづ、又悪い刺激であるといって排斥しない、 失ったといって嘆かず、得たといって喜ばない、こう言う姿勢というか態度が、 真実に従った生活として、求められるのである。
360 :
虚無論は苦 ◆0TRc8cn4Bc :2008/02/09(土) 13:03:11 ID:5Hy88aPq
「虚無論をいだき」虚無論が人を苦しめる。 「世の中のどこにも、わたしは害いを見ない。」(ブッダ) 「人をさばくな・・人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。」(イエス) ブッダは世の中を悪だとか害いだとか言ってはいない。世の中に害いを見ることが、人は自分を害うこ とである。 「身に適したふさわしいことを為し、重い荷に堪え、努力する人は、財を得る。」(ブッダ) 「一切の生きとし生けるものは、目的をめざして生まれたものである。あちらでも、こちらでも、それぞれの 分に応じて。ところで一切の生きものの享楽は、その目的と結合することが最高である。その目的は、達成さ れたならば、みごとに輝く。耐え忍ぶことよりも、さらにすぐれたものは存在しない。」(仏教の神) この世を重い荷と感じず、苦悩であると常に感じて、そこから逃れて努力せず財などを得ようとしない 人は、自分の粗雑な思考も少なく、自己こそ自分の主として自分で生きている。悩みがない、悩みを自 分で解決しようとする人は、宗教に頼らないのが道理。 「平安の境地に達して、一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれ、慈しみのこころづか いを崇高とせよ。邪まな見解を捨て去れ。」 そのように生けるものは幸せを求めて生きている。修行僧よ、修行を積んで平安の境地に達し、生ける ものの幸せを害わない者となることを世の人々に顕示せよ。貪欲のため、邪まな見解を抱いてはならな いということを世の人々に示せ。
361 :
虚無論は苦 ◆0TRc8cn4Bc :2008/02/09(土) 13:03:57 ID:5Hy88aPq
「バラモン婦人が、いつものように梵天に献供をささげているのだ。」 「バラモン婦人よ。このようなものは、梵天の召し上がる食物ではないのです。」 修行者は、強い者にも弱い者にも暴力をふるうことはない。霊は人間の食物を食べない存在だから、 幸せを求めている人々を害わないように、世の平安を影で支えている人々を尊敬せよ。 「偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。」(聖書) くどくどと祈って、願いが叶えられると思ってしまったり、呪文のように聞いてもわからぬ言葉を 長々と唱えたり、「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」(イエス)、「葬儀などやるな」 と死んだ人は、生きている人の影響を受けない知識を身に着け、くどくどとわけのわからぬ言葉を 何度も唱えても、幸せが訪れないと無智な行為を戒める。 「この世またはかの世におけるいかなるかたちでも、悪魔の褒め称えるところである。魚を殺すために餌 が投げ込まれたのである。」(ブッダ) 形あるもの(偶像)の認識は、人間が存在する時だけのものだから、それを信仰対象にして正しい と言い張ったところで、肉の主人に仕えたり、他人が幸福だと思うことに仕えたり、平穏・安穏な 暮らしを人々が築いていこうとしないなら、この世に幸せは訪れない。 「愚劣な人が富みを得ると、自ら用いることなく、他人にも与えない・・親族の仲間を養って、人から非 難されることなく、天の場所におもむく。」 多くの財を得ても、自分を喜ばせ楽しませ、妻子・父母を喜ばせ楽しませ、老いた父母を養うような ことをしないと、多くの財の価値はない。人は死後、持って行けないものである。
362 :
虚無論は苦 ◆0TRc8cn4Bc :2008/02/09(土) 13:04:52 ID:5Hy88aPq
貧しい人も「その人の見識が真っ直ぐであるならば、その人の生活は空虚でない。」 「何物ももっていない人々は楽しんでいる。」 重荷から解き放たれた世界は、物質的な執着心もなく、わが物という愛着もなく、喜び楽しんでいる。 貧しいからといって虚無になることはない。「林の中は楽しい。」「美しい太陽を見、美しく晴れた 朝に逢い気持ちもよく起き上がった。」 「園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々の功徳は増大す る。」 たとえ働けないからといって、自分が全て造ったわけでもない物に支えられ、現代では公園や自然 などでお金を使わずに楽しむこともできるだろう。聡明な人は、快を貪らず、楽しみも多い。 「富んで、大いに財宝あり、大いに財産あり、容姿端麗で、みめ麗しく」 「身で善行をなし、ことばで善行をなし、心で善行をなし」 この身も、この環境も泡沫のごとくと知り、かげろうのようなはかない本性と知って、永遠でない 自己と明らかな知恵をもって知り、苦しみ悩む人も善行で素晴らしい環境に生まれる希望を持つこと。 「何もしないでも、だれでも決して老いることのないところがあるならば、それはニルヴァーナの道で ある。」 静かに瞑想を楽しみ、精神の安定統一と安穏な心で満足することを身につけ、老いと死を乗り越え、 諸々の欲望に関する貪りから離れ、何もしないでも母胎に宿ることがない希望を持てるのがニルヴ ァーナの道である。また、何もしないで安楽な時を過ごし、幸せと感じるなら、この身を越えた幸 せに近づいている時である。 誰でも失望とか、虚無論をいだくことがないのである。
363 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 15:07:53 ID:xa15/eUY
>>359 >>真実は空相で、個々のものは縁起存在で、実体がなく、平等
真実は神のみであり、個々のものは神の表現体であり、神に於いてのみ平等である。
信仰が真実に従った生活として、求められるのである。
364 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 15:13:49 ID:xa15/eUY
365 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 16:14:51 ID:d2/0I0nR
人は幸せを求めて生きているが、中には自分の幸せのために他人を不幸にする 人もいる。また、他人と比較して不幸を感じることもある。 金銭を欲して財を得ても、使用しないおかしな人もいるし、財がないと嘆く人 もいる。 そこでくどくどと祈ったり、呪文のように唱えたりして幸せを求めようとする が、また霊に供え物をするが、結局、他人の幸福のために働いたほうが、互い に益となる。葬儀や供養に熱心になっても、別の存在となって人間の影響外の 存在となるし、本当は人間が悩んでも仕方がないことなのである。 財がないと嘆く前に努力せよ。また、私には何かがないと苦しむよりも、上の 世界は何も持たずに幸せである。五感の刺激を受けず幸せなのだから、享楽が ないといって不幸せなことはない。何もせず静かにしていても虚しさを感じる ことはない。何かにこだわり不幸を感じることが不幸なのである。 自分の欲望のために、他人を不幸にし安穏な暮らし、安楽を奪う者がいる。 形あるものは全て滅び偶像なるものは存在しないが、人間互いが幸せとなるよ う、互いに幸福だと思うことに仕え、安穏な暮らし、安楽な暮らしができるよ う、慈しみのこころづかいを崇高として平安の境地に達した者の教えとするの だ。 世尊として学び修めるまで、世間のことより修行をさせよう。
366 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 17:04:37 ID:xa15/eUY
>>365 >>人間互いが幸せとなるよう、互いに幸福だと思うことに仕え、安穏な暮らし、安楽な暮らしができるよ
う、慈しみのこころづかいを崇高として
これらは人間の欲望である。
しかして、欲望も神の与えしもので否定もできない。
神への信仰義務を果たさずして幸を求めるは、
働かずして賃金を得たいと願う泥棒に過ぎないではないか・・
そうです、釈迦の論理は泥棒根性なのです。
367 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 17:13:51 ID:wvS+u3U0
一切は縁起しているだけの相対的存在である。それゆえに、目に見える一切、心にある一切は、実体の無い幻である。 目に見える、心に感じる、一切の相違差別は無いものとしなければならない。 身近にある空気、木々、音、これらの自然なものと、自分の肉親等のものとの差別もまたないのである。 肉親の存在は、自分の吸う空気と同じものなのである。是ゆえに、何かを求めて 行動する必要が無いのである。すでに備わっているのだから。 一切の仲には、悪いとされるものも、良いとされるものもある。しかし、その悪いものもよいものも、同じものとしなければならない。 悪いものと良いものの差別差異は無いのである。有る状態と無い状態というものも、そこに差別は無い。 このように教えてくれるものは、縁起しているものを示し、是有れば彼あり、これなければ彼なし、是滅すれば彼滅し、是生ずれば、彼生ず、 と理解させ、故に、このような相対的存在は、実体としてあるものではなく、いかなるものも止め置く事が出来ないものである、と教えてくれるものが 有るのであるが、それは一体何というべきだろうか? 我々は、悪人を見ても、悪を観てはならず、自分と同じ存在と見て対処するのが、真実に叶ったやり方である。 悪いものとして受け取ってはならず、善なるものとされるものと平等なものとして保持するのが真実に叶ったやり方である。 差異に囚われて差別してはならない。
368 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 17:26:28 ID:xa15/eUY
>>367 >>一切は縁起しているだけの相対的存在である。
それは間違いです。
一切は縁起しているでは無く、
「一切(宇宙)は神の表現体である。」西田幾多郎
神と云う絶対的存在が在るのです。
神基準とせずに語られる法は、
虚空に釘を打ち込むに等しいのである。
地獄界拡大の元凶なのです。
369 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 17:31:13 ID:wvS+u3U0
一切のものは同じで、本体がなく、本質的に相違のないことを知り、 またこれらのものを望まず、また、そのいずれをも決して区別して見ない者は、偉大な理智の持ち主であって、 教えの本体を残らず見て、三種の乗物は決してなく、この世には唯ひとつの乗物があると知る。 一切のものは同じで、すべては等しく、常に平等に等しい。このように知って、 不滅で吉祥な「さとり」の境地を正しく知るのだ。(第五章、「薬草」)
釈迦の論理では憲法にある基本的人権の尊重が展開できません。 何故に人間の権利が尊重されねば成らぬか? 一切は縁起しているだけの相対的存在であれば、人権は無意味、無価値となるのです。
371 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 17:34:54 ID:wvS+u3U0
>>358 >神と云う絶対的存在
絶対的存在というものは、一相空相無相なものといわなければならない、ということを理解する?
372 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 17:40:54 ID:wvS+u3U0
>>370 釈迦の教えの一部しか理解していないから、そのように言うことになる。
一切は縁起していて、相対的存在であるから、差別差異は無く平等であるというのが
仏説なのだ。人間が平等であるとは、そこから来るのである。是はキリスト教徒ても同じで、
この真理を憲法としているのである。この理解が無いと、憲法を正しく理解しない恐れがあるだろう。
373 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 17:46:04 ID:wvS+u3U0
>一切は縁起していて、相対的存在であるから、差別差異は無く平等 縁起しているものは実体がない、つまり、そこに見えるあるいは認められる相違は、 嘘であるという意味である。故に、嘘にとらわれてはならず、平等、同じもの、としてみるのが真理であり、正しい、というのである。 貴方と私は、今意見を異にしているようであるが、その相違は縁起の産物であるから、実体のない、嘘なのである、と知り、 真理を共有し真実に共に到ることが必定である、というのが真理なのである。
374 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 17:48:57 ID:wvS+u3U0
平等というとなんか弱い感じがする。仏教に言う平等とは、 同じもの、少しも、塵ほども相違の無いもの、という意味なんだ。
>>372 >>一切は縁起していて、相対的存在であるから、差別差異は無く平等
相対的存在であるからこそ、差別差異も相対的に有る訳です。
人間の能力、個性は相対的で相対的な努力によっては、収入にも差がでるのです。
平等意識では個性溢れた発明等もあり得ないでしょう。
100円盗んだ者と1億円盗んだ者とを平等の罪の重さに課すのも矛盾しています。
未熟者は現象にすりかえられた平等を説いてきたため、エゴイストほど都合が良いものになっているわけです。
他にもたくさん問題点が既存の平等にはあるわけですが、
真の平等とは個々人の生命のど真ん中に宇宙の本体と連結された神の存在がある。
この一つの神の心から分かれ、無数に派生している生命が人間であるゆえに人間を神の子というわけです。
従って我々個性を有した人間生命の源を辿っていけば、共通普遍の神の存在に行き着くわけです。
全く共通同一の神につながっているゆえに、神においてのみ人類は永遠に平等と言えるわけです。
>>373 >>縁起しているものは実体がないから
>>嘘にとらわれてはならず、平等、同じもの、としてみるのが真理であり
実体がないから平等として見よとは筋が通りません。
釈迦理論では全て幻覚となるようですが、
物質界は神の表現体故に実体が在るのです。
377 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 18:04:46 ID:wvS+u3U0
>>375 >相対的存在であるからこそ、差別差異も相対的に有る
差別差異は相対的なもの、または、相対的に存在するもの、であるから、
差別差異には実体がないのである。
>>371 の問いに答えろよ。
>>377 差別差異には実体が無いなら警察も検察も裁判もいらないじゃないか・・
世の中無茶苦茶になるのが釈迦の教えなのか??
>>絶対的存在というものは、一相空相無相なものといわなければならない
一相空相無相は釈迦の理屈だから、そちらで解説しろよ””
こちらは釈迦なんて相手にしてないから・・!
379 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 18:33:04 ID:wvS+u3U0
>>378 平等であるところ、差別する人が出てくる場合は、その差別する行為を
取り締まるのである。言うことがあべこべジャン。
次。
貴方の言う絶対的存在を解説してください。貴方の方法で。
>>379 平等即差別で実在です。
差別する行為を取り締まるのでは無く、
罪の重さを取り締まるのである。
絶対的存在とは・・・
この世とあの世を貫く法則は「主客合一」です。
この世では「見られる全世界は、見る者全人類の心の世界」ですが、
あの世では「見られる菩薩界は、見る者菩薩の心の世界」な訳です。
菩薩界といい、如来界といい、宇宙界とも云うべき世界は、
その世界に住む霊人の心が創りだしているのです。
すなわち世界は生命で表現されています。
これはこの世も同じなのです。
自分もなく、他人もない。人類もなく、世界もない。自然界もなければ宇宙もない。
すべて生命で創造せられた表現結果の世界であるがゆえに、
この世でいうならば宇宙はない、無一物であるという禅家の教えと同一なわけです。
創造のみあるといえるのです。
宇宙や自然界を表現し、全天界を創造している「生命のみ在る」ということです。
生命は神ですから神のみ在るといえます。
これは個々人の生命の中心に在るわけです。
真の平等とは。 スピノザは「万物は神の差別相」と言い、私は「物心は神の差別相」と言いました。 肉体を捉えても同一平等の肉体はありませんし、人格を捉えても個性ゆえに同一平等の人格はない。 法の下における平等にしろ、ある国では人権が重んじられるがある国では重んじられない。 国々の法制度自身も時代と共に変化していくものであるゆえに、いつでも万人に対して平等とは言えない。 物質と自我同一性としての生命を捉えている限り、平等はない。 平等というのは唯一であり、これしかないというものです。 これは過去・現在・未来の人類の中では一つしかありません。 もっと言えば全宇宙に住する霊人一人残らずに共通妥当するものでなければならない。 つまりこの宇宙に住する限り、一人の例外もなく、完全に平等で完全に同一であり、 時間の流れの中にあっても変化することなく、万人に対して欠落や差異が全くなく、完全に同一平等でなければならない。 これは我々には一つしかありません。個々人の生命の中心に在って、宇宙と直結している神の存在のみです。 生命のど真ん中にある神の存在のみです。これ以外「永遠の平等」は一つもありません。 平等をもし認めないというならば、各人はバラバラであり、「統一なき多様性」となり、 人類はただ地球にはびこっているような卑しい存在となります。
神の存在においてのみ永遠に平等なわけです。 そしてこの平等の神の心に従って自由を行使した時、全人類は自由となる。 神の存在は認めざるを得ないはずです。 これを否定した場合、我々には平等と共通性が永遠になくなるからです。 一方で平等を語り、他方で神の存在を否定するならば、その方の言う平等は嘘であるということです。 神の存在を無視して平等はどこにも存在していないからです。 平等観からも必然的に神の存在は要請されます。 平等はこの宇宙ではこれしかないからです。 平等と逆の自由観から述べても結構です。自由は主に差別相を表現します。 ある者は10の努力をし、ある者は100の努力をする。 個々人がどう努力するかはその者の選択と意志に関わっておりますので、 誰がどういった努力をどのぐらいするかは分かりませんし、 同一平等の努力をする者もおりませんので、結果として差別相が表現されます かつてエマソンは「あらゆるものには段階と度合いがある」と言いました。 何故でしょう。段階と度合いがあるということは、どこかに向かっているわけです。 どこかに向かっているから、その過程で段階と度合いがあるわけです。
383 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 19:01:45 ID:wvS+u3U0
>>380 差別とは、嘘である。嘘をついて人を不幸にするのであるから、そのような人を取り締まるのである。
その嘘に軽重がある場合は、その軽重に準じて処罰するのである。
絶対的存在とは、生命であるという解説のようですが、それでは生命とは何か説明してください。
神の正義以外の価値や対象に向かっているのであるならば、自我は必然的に利益と快楽を求めますので、 これを求めても段階はあるでしょうが、利益は握った瞬間、対立を生み、その対立から上下、勝敗、苦楽、優劣を生み、 その苦楽から悪が増大して克服できない者は地獄に落ち、この世では犯罪や精神病、苦悩や経済の没落、 悪魔の跳梁跋扈に環境破壊、飢餓や癒着、傲慢や憎悪が無制限に表現されてくるでしょう。 もしそれが人生の目的であるならば、宇宙は存在しておりません。 憎悪や苦悩は自他の存在の否定です。 存在そのものの否定が悪ですから、宇宙が存在しているということは目的はこれらとは別にある。 かつてプラトンは宇宙の存在そのままが善であると言いました。 悪の本性は存在の自壊性ですから、宇宙の本体、人類の本体がもし悪であるならば、存在しておりません。 悪は存在の否定がその本質ですから、存在しているということは善であると言うことです。 正義に向かう段階と度合いのみが在るといえるでしょう。
その究極は分からなくとも、現実に段階と度合いがあるという点は理解できるわけです。 段階と度合いがある限り神に向かっているとしか結論づけようはない。 各段階と度合いがある限り、自由からも共通の目的である神の存在が要請されるということです。 西田哲学にありますように 「実在の根本的形式は一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである」 という平等即差別が正しい実在の公理であると思います。 宇宙の仕組みもこの公理に基づいて整斉運行しております。 そしてこの「完全永遠に平等」なる神の心に従って「自由」を行使した時、全人類は自由となる。 少なくとも今の民主主義が矛盾しているのは理解できると思う。
憲法に盛り込まれた基本的人権は神への信仰が元なのです。 釈迦の論理からは導きだせないのです。 基本的人権の本質 基本的人権は我々が作ったものですから、その本質だけを簡単に述べておきますと、生命には個の永遠の目的と人類全体が永遠に向かう目的が宿されている。 個の中には個の目的と人類全体の目的が共に宿されております。 個が向かう方向性と人類全体が歴史で向かう方向性は神において完全に一致しております。 かつてヘーゲルが主張したように「個人が本当の自分を知るために<人生>を歩むように、人類全体も本当の自分を知るために<歴史>を歩む」わけです。個人も人類も神において目的は一致しております。 個も神に向かっているが、全体も神に向かっている。 そしてこの目的である神は宇宙が生まれる前より在るがゆえに、これを宿している神の子を国家や法律、権力や富といったもので毀損してはならない。ここに神への信仰を前提とした人格の尊重があらわれているわけです。 基本的人権が国家に先立ち、法律に先立ち、憲法に先立って子々孫々にまで恒久的に認められなければならない理由は、この個の生命の中に個の永遠の目的と人類全体が向かう永遠の目的が宿されているからです。 これは生命に永遠の目的としての神、宇宙に先立って在る神が宿されているがゆえに、国家に先立ち、憲法に先立ち、法律に先立って、子々孫々にまで保証されなければならない既得の権利となっているのです。 しかも神在るがゆえに、たとえ国家であろうが、法律であろうが、憲法であろうが、人間の作ったもので、これを決して毀損してはならず、冒してはならない永遠の権利として本来は造られてきました。 これが基本的人権の本質であり、我々が意図してきたものです。
>>386 ただ神を前面に出しますと、当時はキリスト教の関係から誤解を受けますので、人間は目的そのものとして扱えよ、
決して手段として扱うことなかれといった思想で説いてきましたけれども、
それが結果、人権を人間が利益に摩り替えるという様相を現代では呈しているため、
神の存在を前面に出して、これを本来の意義に戻していくのが、現代です。
利益を追っている人になぜ人権があるのでしょう。
利益や国益を追っている人はみずからの選択と意志で手段をおっているのです。
目的を追ってもいないし、目的も知りません。
この手段、物質を追っているがゆえに、その心の状態を素直に見て、「奴隷制度復活」を言ったのがナポレオンです。
というのは、物質というのは生命に対して下であって、物質に服従しているものは神理的に見ても「奴隷」であり、
とても生命の尊厳があるとは言えません。
イエスが「豚に真珠を与えるな」と言ったのも、心で人間が豚に見えていたから、それが口で出ただけです。
心でそう思っていなければ、口から出るものではありません。ナポレオンが「奴隷制度復活」を言ったのも同じです。
物質を追っている人は高い霊域の方が肉体を持つと奴隷に見えたり、豚に見えたりするのです。
あの世に帰ればきちんと「子供」として認識しますけれども、肉体を持ちますと、
もともと高い霊域から出た方は物質界という対等の土俵で生活しておりますから、えてして利益(えさ)ばかり追うというので、
「家畜」「豚」のように認識する天使もいて、恐らくこれは今後もいるであろうと思う。
高い霊域では神理以外、神の心以外、興味がないわけです。
388 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 19:26:51 ID:wvS+u3U0
>そしてこの目的である神は宇宙が生まれる前より在るがゆえに 神は生命なんだろう?この生命は、宇宙が生まれる前からあるんだろう? この生命なるものを説明してくださいといっている。我々に見られる身体に宿る 一般に言われる生命とは違うんだろう?
>>387 ところがこの世に生まれますと利益を追う人が多いため、本来の自分たちがいた霊域との、
あまりの差に結果としてそう見たり、言ったりするということです。
これがこの世では誤解を生みます。
ただこの「奴隷制度復活」を素直に言えば、「ナポレオンが天使?」と言われます。
にも関わらず近代を作る上で、非常に力を尽くした方ですから、上の霊域におります。
これがヒトラーと彼を分けた原因です。
大体、国益と利益がどうして国家や憲法、権力や宇宙に先立つのでしょう。
そういったものに尊厳もなければ、保証しなければならない理由も義務もないはずです。
個人の中に個と全体の永遠の目的、「宇宙が生まれる前より在るなり」の神聖な神の存在があるゆえに、
人間は手段ではなく、目的であり、人間の作った国家・憲法・法律・権力等々で毀損してはならないわけです。
それは人間の作ったもので、神を冒してはならないのと理由は同じです。
神や宇宙は人間が造ったものではないからです。
基本的人権の本質は神の存在です。
これを無視したり、信仰のない方、神(目的)を信仰しない人格というのは、本来、
目的そのものとして扱われなければならない理由は、実はないわけです。
「絶対の主権」は神に存し、その神は我々の生命の本質そのものであるゆえに、
基本的人権の本質は永遠の目的としての神の心に在る。
基本的人権の本質と実体が神の意志にあり、「永遠の目的」にある限り、
人権は単なる利権ではなく、永遠の目的を宿した崇高なる「人間生命の尊厳」を万人に保証した権利となります。
個と全体の「永遠の目的」が万人に宿されている限り、人為的創造物である国家・憲法・法律・権力といった
如何なるものにおいても毀損(きそん)ないし、廃棄されてはならず、
人間が生まれながらにして保証せられるべき恒久の権利となります。
基本的人権は、本来の意義である「神への信仰」を前提とした権利に戻していくのが現代です。
391 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 19:37:14 ID:wvS+u3U0
392 :
南無大師遍照金剛 :2008/02/09(土) 19:42:15 ID:4LGpXe2d
恨みとか憎しみのエネルギーは無駄に強いよね
エネルギーとは神の表現力を意味します。
394 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 19:50:18 ID:wvS+u3U0
神とは無の無限エネルギーなんだろう?神とは神の無限の表現力か?
>>394 我らは神じゃないからトコトン追及しても全容はつかめないです。
次元が違い過ぎますから。
ですから信仰と云います。
396 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 20:15:10 ID:wvS+u3U0
いや、神とは無の無限エネルギーだから、神とは、無のことか? それなら、無とは何か?
397 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 20:21:41 ID:wvS+u3U0
誰でも、自分の言う事に責任がある。説明責任というやつだ。それが出来ないものは、 自分の説を撤回しなければならない。
398 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 20:25:51 ID:y3lIJgt4
>>397 2chは、お遊びでもありますが、、、、。
>>396 無の無限エネルギーとは無(0グラム)の無限に大きなエネルギーの事です。
>>397 人間は10次元界までの悟りが限界です。
401 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 21:32:36 ID:wvS+u3U0
前後するが、主客合一とはどのようなことか?
402 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 21:44:01 ID:QhhMHMyy
ただ何でも神と結びつける基地外だって。 0グラムの無限に大きなエネルギーを信じて、神と名づけてハァハァしていれば、 幸せになれるという基地外。馬鹿相手の詐欺宗教。
403 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 21:56:57 ID:Iv0bAkIa
質問に全て明確に答えられれば、まんざら馬鹿ではなさそうだ。 0グラムの無限エネルギーを神と信じて、宝くじが当たって、働かないで生きて生ける方法ってある? それが無理だと言えば、信じても無駄だなあ。ちゃんと当たるように答えろよ。
ID:QhhMHMyy ID:Iv0bAkIa 神はおまいらを幸福にしてやる存在では無い。 幸福は自らの手でつかめ・・!
>>410 大宇宙は神の一大倫理表現であって、神理はこの点にしかあらわれておりません。
西田哲学で言われている「神意として知るべきは天地自然の理法あるのみ」といった天地自然の理法とは、
この世でのみ妥当している理法を指しているのではなく、あの世とこの世を貫いている理法のことを指しています。
従って神理の判断基準の一つには、その開示されている理法が時空を超越しているのみならず、
この世とあの世を超越して普遍妥当しているかどうかが知性的に問われなければならないわけです。
分かりやすい実例を挙げるならば、西田博士の「主客合一」の法則です。
「見られる世界は、見る者の心の世界」であり、見る者、いわゆる主観と見られる世界という客観は
主観即客観で主客合一なわけです。実際は主観と客観が分かれる以前の一者の実在を捉えて述べているわけですが、
主客合一はあの世とこの世の全てに普遍妥当している理法なのです。
しかもこの理法は何もこの世の全体のみに妥当する理法ではないわけです。あの世でも普遍妥当している理法なわけです。
あの世の全体、例えば近代、あの世には悟りに応じた差別的階層性の在る事実がイギリスのスピリチュアリズムでも
故・高橋氏の教団でも説かれていたと思いますが、その差別的階層性を説く前にあの世の各階層性の全てに
普遍妥当している理法として、「主客合一の理法」が作用している事実をまず教えて上げなければならない。
低い霊域であろうが、高い霊域であろうが関係なく、「見られる世界は、見る者の心の世界である」という主客合一の理法が
作用して各階層性が悟りに応じて決定している。あの世のどの霊域であろうとも、
「見られる全世界は、見る者、全人類の心の世界である」という主客合一の理法が作用しているということです。
「見られる如来界という、その世界は、見る者、如来の心の世界である」ということです。
神理か否かを判別する公理の二つ目に時空を無限に超越しているのみならず、
その開示されている神の理法があの世とこの世の全ての世界に普遍妥当しているかどうかが今後、
厳密に問われていかなければならない。
406 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 22:49:10 ID:7/Fb1abz
>>358 立っていて足が痛くなれば座る、
座ってておしりが痛くなれば寝る、
寝ていて背中が痛くなれば寝返りをうつ。
このように、人間の行動の裏には苦痛があるのです。
ある苦痛が強くなってきたときに、
別の苦痛に逃げられたときに、快楽だと勘違いするのだけです。
生命の活動は、苦痛から苦痛に逃げまわっているだけなのです。
407 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 22:54:19 ID:7/Fb1abz
すべては苦痛にすぎないんだと納得できたなら、 すべての現象は苦痛の表面的な姿の違いにすぎないとわかる。 眼耳鼻舌身意がとらえる一切の現象を、 平等に観ることができるようになります。
ID:7/Fb1abz では人類の人生の意義を何と捉えますか? まさか無意味、無価値では無いでしょうね・・?
409 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 23:06:58 ID:C/BpsaEy
おまえらって・・・
410 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 23:18:46 ID:7/Fb1abz
>>408 苦痛があるから生命反応が起きる。
その、苦痛から苦痛へ動きまわった足跡が、人生となるだけ。
息を吸わないと苦しいから吸って、
吸い続けると苦しいから吐いて、
吐き続けると苦しいからまた吸う。
それを後から見たら、「あの生き物は息を吸って息を吐いた」となる。
苦痛から逃げるために動いているものが生命。
苦痛がなくなれば、生命は生命であることを止める。
遺された肉体が石ころや川の流れや風になるだけ。
411 :
神も仏も名無しさん :2008/02/09(土) 23:21:33 ID:7/Fb1abz
人生の意味は、苦痛から逃れること。 そして、苦痛の原因がなくなれば、 生命活動の必要がなくなるので、 生命活動が終わる。
>>410 そんな空しい釈迦の理屈なんて嫌だなぁ・・
やっぱり永遠の生命と永遠の幸福に生きられる神の世界が良いなぁ♪
413 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 06:45:49 ID:HKZN8/zB
>386 基本的人権と謂う言葉を持ち出すこと程、虚ろで危くそして傲慢な者である。
>413 世の中413さんの思うようにならないから 基本的人権対策をしっかりして欲しいんですよ 理解してくださいな
415 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 08:48:24 ID:zENaxnYM
>>405 少女を見て、かわいいと思った。「主客合一」の法則です。
煩悩は切ってはならないから、買春した。神は宇宙の表現体であり、主客合一の理法が作用していることです。
煩悩をよしとするカルト教義は、社会を乱しても平気な人間を育てるだけ。
416 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 08:50:55 ID:wPNKyFpd
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。 しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。 わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、 あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、 わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。 わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 新約聖書 ヨハネによる福音書15章1〜5節
417 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 09:09:04 ID:wPNKyFpd
>>416 つづき
イエスは、一相無相空相を体得した人である。つまり真実である。
真実は一相である。彼に繫がっているとは、一相という真実に繫がっていることである。
真実に繫がっていないものは以下のようになる。
1506> 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げいれて、焼いてしまうのである。
1507> あなたがたはわたしんつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
418 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 09:21:08 ID:LY+ony6x
一切が平等なら、人権だけじゃなく、すべての生物、非生物に同等の権利を認めなければならない。 憲法は人間原理。仏教を反映することはできなし。
419 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 09:31:59 ID:wPNKyFpd
>>418 >一切が平等なら、人権だけじゃなく、すべての生物、非生物に同等の権利を認めなければならない。
その通りである。平等とは、同じもの、一つのものという意味である。一切に差異は無いという意味である。
人は一切に差異を認めてはならないのである。これが憲法に定められた人の義務である。
420 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 09:53:02 ID:3ORddk+q
>>415 少女は金を見て、欲しいと思った。「主客合一」の法則です。
煩悩は切ってはならないと教えられ、売春した。神は宇宙の表現体であり、主客合一の理法の作用に従ったということです。
煩悩をよしとするカルト教義は、社会から撲滅すべき。これが世間とキリスト教や仏教の一致。
421 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 09:55:51 ID:wPNKyFpd
>>420 >これが世間とキリスト教や仏教の一致。
これおかしい。間違いだろう?
422 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 10:51:12 ID:wPNKyFpd
>>415 >>420 煩悩は切ってはならない、
それは、「神の心と煩悩は切ってはならない」と云う意味です。
あなたは煩悩だけ切って行為する思想であるから誤りです。
神は宇宙の表現体では無く「宇宙は神の表現対」です。
誤り無きように・・・
>>418 >>すべてのに同等の権利を認めなければならない
人間だけは「神の子」であり神の表現体ではありません。
その他の生物、非生物は神の表現体ゆえに権利はありません。
426 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 11:57:57 ID:FykKeXk5
>>423 0グラムの無の無限エネルギーに神の心があるわけ?
それで西田幾多郎が神に代わって洗脳教育し、金儲けするわけ?
>>426 無の無限エネルギーに神の心があります。
洗脳教育って何の事ですか?
正しい事語るのが洗脳でしょうか?
誰からもお金貰わずこうして無料で法を説いております。
428 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 12:41:25 ID:wPNKyFpd
>>427 お前、われわれをバカにしてるよ。バカにしてるから、そのような意味不明なことを
言ってもなんとも思わないんだよ。
>>428 バカにされてると思うのは、
勉強不足が原因かも??
もうちょっと幅広く宗教なり、哲学を勉強したらどうだい・・
どこかの宗教に入って揉まれて来いよ。
430 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 12:58:57 ID:wPNKyFpd
真理真実を伝えて、みんなの利益に寄与したいと言う気持ちがあれば、綺語を避けるものだ。 お前の言う事は綺語だらけなんだよ。人に対して綺語を用いてはならないというのは、十戒の一つ。
431 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 13:02:12 ID:/0HeDy0B
美人を見て美人だと思う。ブスを見て近寄りたくないと思う。主客合一の法則です。 宇宙は神の表現体。無の無限エネルギーに神の心があります。 聞いても仕方が無い教義に、聞いても仕方が無いと言うと理屈をつける。 無料でもそんな法はいらねー。。。。。神の心と煩悩は切ってはならない と言っているから、いろいろ理由をつけて覆すなよ。
432 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 13:16:46 ID:wPNKyFpd
まあ、ひまなやつなんだな。w。色々書物を読んでそこから、もっともらしい言葉を収集して 、人に見せびらかして、人をだませている間、いい気になっているだけだろう? 仏教を学んだものは、お前の説も縁起しているだけの実体の無いものと見做して、 実体の無い事、それを空相というが、空相であるとして看過するよ。
>>430 >>431 なんだお前ら釈迦のあほだら教の信者か・・
何時までもそんな、くだらんカルト信じてるんじゃねーよ。
434 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 21:14:33 ID:wPNKyFpd
>>433 死んだかと思っていたら息を吹き返してきたな。とろこで今までと違った事を言いたいのか?
天使 λ,..,,λΨ , /i\/ ・ω・ヽ|/i\ ⌒⌒l::.:... o⌒⌒ `'ー---‐´l
436 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 21:39:39 ID:taF+M0AS
>>427 正しくても、人の悩み苦しみを解決できなければ、
宗教としての価値がない。
宇宙の成り立ちをどれだけ正しく説明できたとしても、
それで具体的な悩み苦しみの解決になるわけではない。
>>436 宗教が人の悩み苦しみを解決するのでは無い。
自分自身で悩み苦しみに立ち向かうのみである。
438 :
神も仏も名無しさん :2008/02/10(日) 22:26:38 ID:wPNKyFpd
>>437 そのようにいってお金だけは謝礼としてとりたいのですか?
440 :
神も仏も名無しさん :2008/02/11(月) 04:46:54 ID:kt7s9SEA
修行のインストラクターとしてお金をいただいております。 霞くっていきてくわけにもいかないんでね。
441 :
神も仏も名無しさん :2008/02/11(月) 11:44:30 ID:F7QMzL/O
貴方は謝礼金など貰わないで、霞を食って生きていくべきだと思います。
442 :
神も仏も名無しさん :2008/02/11(月) 13:26:31 ID:F7QMzL/O
ひどいことを言ったかな。。 しかし、真理真実と言うものは、時は何の影響をも与えられないものである。 釈迦の真理真実は古いから真理真実となら無くなったなどと言うことは無いのだ。 真理真実は時間と空間に影響されないからである。
>>442 釈迦の理屈は最初から狂っていました、バラモンの否定でした。
国王の息子だったから、誰も批判できずおだてられたんです。
そして釈迦入滅後に元のバラモン教に改まりました。
それなら最初から釈迦は登場しなくて良かったんです。
2400年経ったいまだに釈迦のカルト崇拝者が居るとは驚きです。
444 :
神も仏も名無しさん :2008/02/11(月) 14:07:46 ID:xyjyo8kL
>>443 どこが間違いかを具体的に指摘してくださいませんか?
ただし、神とかなんとかいう他の宗教の観点から間違いだと言っても、
そんなのは説得力ありませんよ。
446 :
神も仏も名無しさん :2008/02/11(月) 14:27:44 ID:xyjyo8kL
>>445 では、神とは何ですか?
その神は、人間の悩み苦しみを軽減することの、
役に立ちますか?
447 :
神も仏も名無しさん :2008/02/11(月) 14:29:16 ID:F7QMzL/O
神にとって、瞬間存在の地球自称知的カビ菌の貴方は何なのでしょうね。
449 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/02/11(月) 14:46:01 ID:doeYc3jM
仏教にもヤソと大差無いのもあるがな。(笑 てか、唯識以下は(ry
450 :
神も仏も名無しさん :2008/02/11(月) 16:51:17 ID:F7QMzL/O
>>449 >唯識以下は(ry
これはどういう意味?
>>446 >>神とは何ですか?
神とは全宇宙の表現者です。
つまり神が全宇宙を設計しました。
>>人間の悩み苦しみを軽減することの、役に立ちますか
人生は修行です。
悩み苦しみを有り難く頂くのです。
軽減などもっての他です。
>>451 >>446 > >>神とは何ですか?
> 神とは全宇宙の表現者です。 つまり神が全宇宙を設計しました。
(´ρ`)ヘー、見てたんだ・・・φ( ̄∇ ̄o) メモッチャエ
設計は、聞いたよ。
で、施工者は?
>>人間の悩み苦しみを軽減することの、役に立ちますか
> 人生は修行です。 悩み苦しみを有り難く頂くのです。 軽減などもっての他です。
マゾかなー・・・それ
仏教の言う、苦、とは、
思い通りにならない、ってことだよ。
>>452 >>で、施工者は?
部下です。
>>苦、とは、 思い通りにならない、ってことだよ
思い通りにならない人生は有りがたい、なまんだぶ・・
>>453 >
>>452 > >>で、施工者は?
> 部下です。
(・0・*)ホ,(゜0゜*)ホ--ッッ!!!
ブカブカ・・・
で、材料をあがなう価’あたい)は、いかほどで?
> >>苦、とは、 思い通りにならない、ってことだよ
> 思い通りにならない人生は有りがたい、なまんだぶ・・
そそ、苦とは、思い通りにならない事、です。
ありがたいとは、
有り難い
有る事は、難しい。
南無阿弥陀仏とは
帰依します、アミターバブッダ、アミターユブッダに対して。 です。
455 :
神も仏も名無しさん :2008/02/11(月) 21:00:44 ID:mKoQv0G/
共通点は愛です。
>>455 仏教の言う愛は、愛欲を、愛と言います。
慈悲ですね。
慈悲って 時代と共に言葉のニュアンスが変わってしまったのだろうか。 なにかおかしい。 例えば、私は 456さんに 慈悲をかんじます って言ったらおかしくないかね?
「皆さん、456さんに、慈悲を かけましょう 」 とかね。 現代では、仏教用語の意味が、ずれてしまってるんじゃないかね。
>>457 慈悲を感じます。
そういうことばの使い方も、あると思いますよ。
愛とは、
明治期
外国語を、日本語に訳する必要に迫られ、理論的だった禅の用語が、使われました。
宗教とは、おおもとの教え、という意味です。
禅宗が、自分たちの教えを、宗教と言っていました。
それからの転用です。
また、インドにおける宗教という身の原意は、いかに生きるか、という意味です。
愛とは、400年前のキリシタンたちが、どう訳して使っていたか?
おん大切
と、言っていましたよ。
おん大切のほうが、原意に近いそうです。
>>459 訂正
また、インドにおける宗教という身の原意は、いかに生きるか、という意味です。
↓
また、インドにおける宗教の原意は、いかに生きるか、という意味です。
宗教とは「宇宙の仕組みを示す教え」です。 禅とは「単等直入に宇宙の仕組みを示す」の意味です。
462 :
神も仏も名無しさん :2008/02/11(月) 22:16:55 ID:iEydtuKm
>>455 慈悲を崇高とせよ、いと高き者は慈悲深いからあなたがたも慈悲深い者となれ
信仰と希望
あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは世に勝っている。
被造物・アートマンである人間には悩みがある。しかし、あわれみの奇跡のわざを行ったイエスを
信じた人、一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれと慈しみを崇高とし邪ま
な見解を捨て去った人は、過ぎ去る世の中と消え行く霧にすぎない自分を超越して、永遠の全てが
幸せな世界を受け入れる真実の自分を知ったのだから、そのままこの世の苦しみに耐えて生きやす
いようになるよね。
自分に起きるこの世の苦難も自分の苦しみも真実の自分ではない。自己の断滅の妄執によって永遠
に至らず、生きて生かされ、世に勝って、真理を現した信仰により希望に生きるのだと。
>神とは全宇宙の表現者です。 つまり神が全宇宙を設計しました。 はい。あの時は大変でしたよねさすがに。 >慈悲って 時代と共に言葉のニュアンスが変わってしまったのだろうか。 慈悲とは 執着を無くした人から自然に発する生産的な行為のことさ。 宗教盲信者は 盲信するが故に執着が減らないので 慈悲を生むことは無い。
>>461 > 宗教とは「宇宙の仕組みを示す教え」です。 禅とは「単等直入に宇宙の仕組みを示す」の意味です。
宇宙の仕組みを示す
( ̄。 ̄)ホーーォ。
天文学みたいな?
>>462 かな〜り、勘違いだにゃー・・
これでは人生の意義が見出せないのだ・・!
この世に生きる我らは物質、現象への執着は当然であり、 認められうるべきである。 執着を無くした人は存在しようがないのだ。 執着即真理と云えよう。
>>465 宇宙の仕組みが分からずに人生の意義はつかめないのだ。
あのさー 名無し さんだらけで、誰が何を言ってるのか、分からないよ。 勝手に言いたい事だけを、個々にバラバラ言ってて、議論が深まらない。 コテ、つけていただけませんか? トリップ、準備します・・・ Angel/H1aw <= #Riy?W/\# Sleep/NdFw <= #rd=IRLHO IfSatori5U <= #&HB@r!]^ 9.6Queen/c <= #)g1v/ju~ ILoveUBREQ <= #U\E5QW$7 ChaWanA5AE <= #U46eb4$C SexSexyIhA <= #ke7Rmwhb RedRedVmLs <= #-!`vQYE\ 0SatoriCbc <= #6+S[uxK1 Speed/KVOg <= #]eKb.w8; Sweet/SjBc <= #/)Ulld10 YOSYUAiELw <= #=l`ZSrDq Child/yE8. <= #yPP@U2A6 HipHop7.R6 <= #2@qTnPda JobJobfuOo <= #0{K,gAWm omaONEone. <= #2\nN/Dre Trick/aCO6 <= #=htJ7+}Q Earth/YiNU <= #1SArd3Il GyouzaHGFo <= #*m6w\6-r Queen/lB.M <= #Gu$U[LHx GoldensowE <= #kY{FRMx1 /Jharukal. <= #3/=2Sj,} NoNoNoJKpI <= #3tIoKO8A Force/EdZo <= #gb`?x@-\ GyouzaWBDU <= #%Ao{O(jH Lime//kYqY <= #jB|?se+y
HugHugVNvM <= #r@Iqy;Ek ROYAL/cD5w <= #uU_G+!-; 3OHungry4I <= #U7)g_,H@ 3Angel/zqs <= #.ls[%k\l ECLucky/II <= #g56B-RQ( AharukaAeI <= #SY}AGn0# 8PaiOtu7zY <= #~9vBCxn: TigersfyyQ <= ##`'aIV.v SyakyaWnuY <= #52Sg3h'e DoctorUKPo <= #J\0UUN8@ 4Star//lrg <= #Yue@4KIm Woman/IjXg <= #olT%h^D| Eaglesnn/Y <= #xc`TpM@* Trick/EZ3Y <= #B4k^f.4? Warotaf04Q <= #)5tQ`[pD JobJob.Bso <= #EnW[m}v* 4Snow//PpM <= #]4t&SMQX Lion//eMjo <= #2:P7!/wa WarotaGWqA <= #E@j~kW?y Jazz//jS7k <= #fidoO)JR Trick/OYKA <= #T_5P^0-s Arinkoc/5g <= #m5Cq4iww Cocoa/4cWc <= #oydG-z?@ Gyouza6hWs <= #Fn,8iR1h Great/7CFk <= #=bvNkPY2 Ginga/0BEk <= #4ME1EZ2Y 39Snow//xU <= #R)ABH6{K OrangevuiM <= #p3O60Ir/ 2Super/lI. <= #g%S.P#^m l99Blue//Y <= #]u4Cz2e{ PaiOtuqHcA <= #(~5h7%bS MyCafeSI7. <= #TN@@mD3c
Mario/z8M <= #6bn}V12v Space/YxyA <= #sfLzI]W{ MokubatQ6w <= #4($*MAIn HotDoghv8o <= ##i,:gW@M 8Game//qmc <= #6iK#)tNh 3Noise/Y76 <= #zB~iL]}W MokubagpF. <= #VrqBkYOC 7BigManJfY <= #F4^xeVfU Space/u1NM <= #^y%2X[aL 5CatCatHYI <= #l8Xq@*Pt 8Jump//X5Q <= #p0tn+/AG OnOff/6qjg <= #Z`ET?0xx Woman/X5eA <= #Mm0zG}M8 eSmile/Gu6 <= #m^jZQ;7C OnlyU/FFpI <= #!:,1]ejh Tama//h806 <= #YimvQWi! Space/bJQc <= #57Nv{5L# JAPAN/FIZM <= #yxKTB/Ro ETenshizI2 <= #T=)o5fjZ Speed/axSM <= #WnBy{kiS Vodka/vVlU <= #bmqgq-Se GyouzayMk. <= #pIb%*|&w HotDogScJo <= #6DD87qLf ILoveUiNxc <= #~7.d64y( PaiOtuC11I <= #EzGO\.kM Trick/92kM <= #Xo5SO4ww Rocky/nATA <= #/8D+EQx= wcWarotaQw <= #akzh`ioB JobJoboLfI <= #lY@BvPpz 2Blue//soY <= #6AmVG|iS Power/z7T2 <= #AD%N9(B! 2TukiUBw5M <= #dMj4L:wU
神に名はありません。
>>473 > 神に名はありません。
そうですね、神ということばも、ありませんよ。
475 :
神も仏も名無しさん :2008/02/11(月) 23:13:22 ID:uChTJm02
この世も自分も真実の自分ではない。悩むことなかれ。 慈悲深い神を信じよ。思い上がることのない程度の慈しみを持て。 耐え忍んで生きよ。決して折れるではない。 そうすれば、慈悲深い神のもと、あるいは慈悲の境地の世界に至って、 全てが幸福で安穏で安楽な世界で永遠に生きる。 イエスやブッダは永遠が全てが幸福で安穏で安楽な世界と知ったのだ。 そして、他人の幸福を思うように、安穏で安楽な平安な世を思うよう に慈悲を説いた。 しかし、それを受け入れられる人はなかなかいなかった。 信者に今の自分の肉欲と永遠を信じたい人たちばかりが多かったのか もしれない。偶像礼拝をして、今の自分の欲得を満たそうとする人が 多かったのかもしれない。
476 :
神も仏も名無しさん :2008/02/11(月) 23:27:52 ID:xyjyo8kL
>>461 仏教の目的は、宇宙の仕組みを知ることではありません。
禅定(精神統一)によって五感に依存しない境地に入り、
神秘体験をすることもあるでしょう。
仏教以前の宗教では、そういう神秘体験を神聖視して、
宇宙の仕組みをわかったような気になって、
それで浮かれていたのです。
しかし、仮に禅定で宇宙の仕組みがわかったとしても、
人生の具体的な悩み苦しみを解決できるわけじゃありません。
知的好奇心を満足させるだけの、
インテリのたわむれごとになるだけです。
479 :
神も仏も名無しさん :2008/02/11(月) 23:38:00 ID:xyjyo8kL
>>478 宇宙の仕組みがわかっても、幸せにはなれない。
宇宙の仕組みを知ったくらいで浮かれてる宗教は、クソ。
480 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/11(月) 23:40:45 ID:xyjyo8kL
>476>479は僕です。
>>480 けちゃっぷ さん
神秘体験って、またまた、へんなとこに、あたま突っ込んじゃって・・・(;^_^A アセアセ・・・
482 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/11(月) 23:48:04 ID:xyjyo8kL
仏教の目的は、 悩み苦しみを軽減したりなくしたりすることです。 悩み苦しみの原因は、煩悩です。 煩悩が減れば苦悩も減る… というのが仏教の基礎です。 また、応急処置としては、 精神統一により一時的に煩悩を休眠させれば、 苦悩も一時的に休眠させることもできます。
>>482 けちゃっぷ さん
一時的って、・・・
効き目なさそう・・・な
484 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/11(月) 23:58:17 ID:xyjyo8kL
>>481 神秘体験と言ったのは、
日常的な意識では体験できない禅定(ぜんじょう)の境地ことです。
仏教では、生物の心を三種類に分けます。
欲界・色世界・無色界です。
欲界とは、
眼耳鼻舌身からの刺激に執着・依存する心で、
我々の日常の心がそれです。
色界とは、
眼耳鼻舌身からの刺激には執着しないけれど、
色(物質・肉体のこと)には束縛されていて、
物質的対象も存在する心。
無色界とは、
物質的要素から解放され、精神だけが存在する心。
色界と無色界は、禅定(精神統一)により体験する心です。
486 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 00:04:25 ID:d3Z344+I
>>483 はい、根本的解決にはなりません。
仏教以前の宗教では、この、
一時的な効力しかない禅定(精神統一)を重視するものが多かったのです。
いや、今の日本の仏教モドキでも、
禅定に偏ってしまった宗派が多いかもしれません。
たとえば、お経や呪文や念仏や題目を一心に唱えていれば、
その時間だけは、色んな悩みを忘れて没頭できます。
まぁ、それも息抜きにはなりますが、
お経や呪文等を唱えるのを止めて日常生活に意識をもどせば、
再び悩み苦しみに襲われます。
神様に祈るのだって、これと似たようなものかもしれません。
祈ってるときは悩み苦しみを忘れられても、
普段の生活ではイライラ・ムカムカが再起動してしまう。
487 :
神も仏も名無しさん :2008/02/12(火) 00:05:37 ID:kt7s9SEA
瞑想とは、現世のしがらみからの一時的な開放感。現代では薬物があるので必要ない。
全存在と一体化した気分になる。これは薬物で簡単にできるし、瞑想と同じもの。
瞑想状態のまま俗世に戻れば自他のギャップにますます苦しむ。
煩悩と煩悩の戦い。引けばつぶされる。これぞ真理とみて力強く生きよ。
>>486 けちゃっぷ さん
現代人は、
生きている事が、
そpく、地獄の生活って、知らなくなってしまいましたよね。
法然上人のお経を聞きながら。
いそいで、
入水して死んでいったという人たちがあった事なども・・・
492 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 00:11:48 ID:d3Z344+I
>>485 禅定(精神統一の境地)は、さとりではありません。
禅定は、さとりに必要な集中力を養う方法です。
>>492 そうですか。
さとりって、なんですか?
494 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 00:17:16 ID:Ry2Wjfyq
釈迦の理屈は邪道です。 この世は修行場ですから、悩み苦しみは必要なのです。 しかしながら、悩み苦しみを解決する努力は必要です。 煩悩を減らしたとしても苦悩は減りません。 私たちの里である霊天上界こそ本来の生活拠点なのです。 ここでは苦悩はありません、皆が幸福なのです。 この世の苦悩はよくて100年です。 あの世の生活は幸福で永遠です。 苦しくとも頑張って頂きたいと思います。
496 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 00:23:22 ID:d3Z344+I
>487>488 そういうのは、禅定の中で体験することもあるそうです。 しかし、そういう瞑想体験による禅定の気持ち良さに執着するのも、煩悩です。 瞑想には、二種類あります。 集中力を高める精神統一・禅定を目的にした 定(じょう)の修行(サマタ瞑想)と、 煩悩をなくすための智慧(ちえ)の開発を目的にした 慧(え)の修行(ヴィパッサナー瞑想)です。 仏教のめざす「さとり」は、 慧の修行(ヴィパッサナー瞑想)により 煩悩をなくすことです。
497 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 00:27:12 ID:Ry2Wjfyq
498 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 00:29:04 ID:Ry2Wjfyq
>>496 慧の修行(ヴィパッサナー瞑想)で成果があった試しがない・・
499 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 00:32:06 ID:d3Z344+I
>>493 さとりとは、智慧を開いて煩悩をなくすこと。
煩悩はたくさんあって、それが消えていく順番も決まってるそうです。
つまり、さとりには段階があり、
修行者は皆おなじ段階を踏んでいく。
これは、仏教者達の経験からまとめられた理論です。
禅定については、近年、セロトニン神経の活性化で説明する人もいます。
セロトニン神経のはたらきが鈍くなってると、
集中力や気力が衰え、「うつ」や「ひきこもり」の原因になるそうです。
で、座禅の呼吸法や、念仏統を一定リズムでとなえ続ける修行には、
セロトニン神経を活性化し、集中力を高める効果がある。
覚醒剤や麻薬は、セロトニン神経が活性化しすぎて、
幻覚を見たりするそうです。
座禅の修行者も、幻覚をみたりする場合があります。
500 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 00:36:24 ID:d3Z344+I
ネットはセロトニンを枯渇させる効果がある
ひきこもる⇒ネット⇒セロトニン枯渇⇒ひきこもる⇒・・・ の循環で大変なことです。
503 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 00:45:22 ID:d3Z344+I
昼夜逆転の生活や、日光を浴びないことも、 セロトニン神経を不調にするそうですね。 詳しくは説明できませんが、 セロトニン神経のはたらきが鈍くなると、 神経の伝達物質が不足するらしい。 で、麻薬の物質は、その神経の伝達物質と形がそっくりだから、 麻薬がピンチヒッターとして働いてしまう。 それで、余計にセロトニン神経が怠けてしまい、 麻薬のピンチヒッターにますます依存してしまう。
ピンチヒッターも正当な戦力。レギュラー9人野球は時代遅れ。
>>499 けちゃっぷ さん
さとりは、一如、です。
セロトニンの働きを高める薬物は、集中力を増し、食欲、性欲などの暴走を防ぐ。 たいへん、よい薬。依存性のないタイプも出てきている。科学は瞑想を超えていく。
このように、脳の伝達物質ひとつの働きだけで人格、感情、思考様式までもコントロールできてしまう。 修行はコストが高く、ご苦労なことである。
508 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 00:56:14 ID:Ry2Wjfyq
釈迦仏教で云う悟りは嘘です。 悟りとはひらめきの積み重ねなんです。 一つ悟って完全では無く無限の悟りが用意されているのです。
現代の駆け込み寺は心療内科、精神科。
510 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 00:57:42 ID:Ry2Wjfyq
釈迦仏教で云う修行は嘘です。 与えられた人生こそ修行なのです。
>>508 何故、そのような事言い出すようになったのですか?どこかの・・・セクト?カルト?
512 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 00:58:05 ID:d3Z344+I
一如は、少なくとも仏教では、 さとり(智慧・煩悩の消滅)ではなくて禅定です。 仏教登場以前のバラモン教でも、梵我一如とかがありました。 お釈迦様が出家して最初に弟子入りした二人の師匠も、 禅定のスペシャリストであり、一如のマスターだったのです。 禅定の境地により、一如、宇宙や全存在との一体感とかを体験しても、 禅定の境地から普段の状態に意識がもどれば、 悩み苦しみが再起動してしまうので、 人生の平安には至りません。
513 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 00:58:40 ID:Ry2Wjfyq
現代の駆け込み寺は2ch
もう、ボワンボワンに苦悩しきっている患者を日々みている精神科医は、 坊さんよりもはるかに、この世と人間の実相を洞察している。
515 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 01:00:06 ID:Ry2Wjfyq
>>511 なぜって??
釈迦の理屈なんてバカ丸出しでしょうに・・
>>512 けちゃっぷ さん
禅定とは、
禅、という事です。
禅とは、静かという事です。
さとりとは、一如、です。
釈迦はけっきょく、逃げるばかりで、俗世に戻ることができなかった。
>>515 >
>>511 > なぜって??
> 釈迦の理屈なんてバカ丸出しでしょうに・・
では、馬鹿でない教えって、なんですか?
比較的馬鹿じゃないのは大丈夫教でしょうな。かなり練られている。
あえて大乗仏教ではなく大丈夫教と書いたのは、大丈夫教はもはやカルト釈迦仏教とは まったく関係ないからです。
521 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 01:04:23 ID:Ry2Wjfyq
禅とは大宇宙を単刀直入に示すということです。 過去・現在・未来の真の姿を今、「現在」において指し示すということです。
522 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 01:05:50 ID:Ry2Wjfyq
523 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 01:07:20 ID:Ry2Wjfyq
ID:p7jP0bsR は コショウ と名乗りなさい。
バラモン教は、釈迦教、密教、大丈夫教、ヒンヅー教に分かれました。 釈迦教はもっとも異端であり、すぐに勢力を失いました。
525 :
ターメリック :2008/02/12(火) 01:09:37 ID:p7jP0bsR
インドファンですから、これにしましょう。
>>522 哲学徒とも、思えず・・・[電柱]д ̄) チラッ
527 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 01:11:42 ID:Ry2Wjfyq
仏法は矛盾しています。 人間は死んだら終わりのアンアートマンを説いていますから、 何ゆえに悟る必要があるのでしょう? 偉大な果報をもたらし、大いなる功徳、汚れからの完全に解脱等、 死んだら終わりですから全く無意味となるのです。 死後の生は無と断定する思想ほど人間生命を無価値にするものはありません。
528 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 01:11:53 ID:d3Z344+I
>>521 禅定も、所詮は変化する心のひとつの状態にすぎないのです。
禅定を神聖視したり、神様との遭遇みたいに勘違いしたり、
気持ち良さに執着したりする、そういう宗教もあるでしょう。
しかし、仏教では、禅定への執着も煩悩のひとつだと考えます。
煩悩とは、悩み苦しみの原因のことです。
禅定は、智慧の修行に必要な集中力をつける訓練です。
禅定の副産物である一如は、
「まぁ心が集中すればこういう体験もあるんだな」
程度に理解しておけばいいのです。
禅は釈迦教を色濃く受け継いでいます。 その証拠に、世捨て人です。
完全に悟った人は、八百屋のおっさんやタクシードライバーや農民にもたくさんいます。
531 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 01:15:55 ID:d3Z344+I
>マヨネーズさん どうせ死ぬなら、生きている今・ここを平安に暮らしたほうが幸せです。 悩み苦しみを減らして平安に暮らすためのワザやコツを、 仏教は説いています。
532 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 01:16:18 ID:Ry2Wjfyq
禅はアンアートマンなのか?
>>527 仏教は、アートマンを説きません。
ヒンズー、ですね。
八百屋のおっさんやタクシードライバーや農民にも 今ここを平安に暮らし、死は死にゆだねる人が多くいます。 坊さんにはなかなかそういう人はいません。
>>532 > 禅はアンアートマンなのか?
諸法無我、ですね。
パチンコ三昧の人生を生きる男がいます。儲ける損するという次元をこえておる。 三昧にはかわりなく覚者といえます。
537 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 01:22:16 ID:Ry2Wjfyq
>>531 >>今・ここを平安に暮らしたほうが幸せです。
その様な人種の集まりが社会腐敗の元凶なのです。
今苦しくとも正義に生きるのです。
平安に暮らすためのワザやコツなんてのは自己催眠に過ぎません。
人生の逃避です。
538 :
ターメリック :2008/02/12(火) 01:22:57 ID:p7jP0bsR
そのとおり
539 :
ターメリック :2008/02/12(火) 01:24:54 ID:p7jP0bsR
スマナサーラの本を読むと、俗世で軋轢を生じず、うまく立ち回るワザを教えているようです。 これは腐敗、退廃への道ですね。
540 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 01:24:59 ID:d3Z344+I
>>534 悟りには段階があり、
在家で生活していても、
ある程度の段階までは悟れる可能性があるそうです。
4段階の悟りのうち、第2段階までは在家でも有り得るらしい。
しかし、第3段階の悟りに達したら、
もう出家せずにはいられなくなるそうです。
欲望や怒りが完全になくなり、世俗のことに興味がなくなるから、
いよいよ悟りの終点に向けて、修行に専念したくなる。
541 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 01:29:08 ID:Ry2Wjfyq
>>540 いつも釈迦仏教は「なるそうです」以上に先進まないんだな、これが・・
所詮、空想の机上の空論なんだな、これが・・
542 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 01:30:27 ID:d3Z344+I
>>536 三昧とは、禅定のことです。
何か一つのことに集中して、禅定(三昧)に入る可能性はあります。
しかし、三昧だけではさとりじゃないので、
パチンコ三昧の人は覚者じゃありません。
パチンコに集中してるときは悩み苦しみを忘れられますが、
パチンコしていない日常に意識が戻れば、
欲望や怒りや悩み苦しみが湧いてきます。
543 :
ターメリック :2008/02/12(火) 01:30:29 ID:p7jP0bsR
つまる、無我の獲得は、正邪の観念にも執着がなくなるので、 この世でうまく立ち回ることでよしとするわけです、
544 :
ターメリック :2008/02/12(火) 01:32:53 ID:p7jP0bsR
>>542 パチンコ三昧の人は、日常をもたないのです。
朝は早くから並び、閉店まで三昧、赤子が泣いても無視です。
残りの時間は飯食ってうんこして寝るだけの修行です。
545 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 01:34:18 ID:d3Z344+I
>>543 怒りの煩悩が弱くなっていくと、
慈悲の心が強くなります。
自分の悩み苦しみが軽減できてきたら、
他人の悩み苦しみも軽減してあげようという気持ちが出てくる。
546 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 01:35:57 ID:Ry2Wjfyq
悩み苦しみは神が与えし試練ゆえ、 消し去る事を目的としてはならない。 悩み苦しみと戯れるのです。
547 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 01:37:34 ID:d3Z344+I
>>544 三昧への執着もまた煩悩。
三昧も心のひとときの状態にすぎません。
三昧もまた無常で、必ず変化します。
何らかの環境変化でパチンコ屋に行けなくなったら、
パチンコ三昧も味わえなくなり、
日常生活戻ってしまいます。
548 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 01:37:40 ID:Ry2Wjfyq
>>545 逆です。
自分の悩み苦しみが、他人の悩み苦しみを理解するのです。
549 :
ターメリック :2008/02/12(火) 01:38:43 ID:p7jP0bsR
いかにパチンコ三昧が悟りへの道であるかというと、 まず、パチンコとの一体感を感じる段階がある。 これで、すべての玉の動きは思い通りという錯覚に陥る。 これを見性といい、勘違いするとすべてを失ってしまう。 そこを乗り越えると、心に何も考えずにパチンコに三昧の 境地にいたり、死を迎えるときまで平安なのである。
550 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 01:40:27 ID:d3Z344+I
もうそろそろ寝ますが、 >546 その神は、何のために試練を与えるのでしょうか?
551 :
ターメリック :2008/02/12(火) 01:40:59 ID:p7jP0bsR
>>547 そういう人は修行がたりないと思われます。
パチンコで悟りを開いたものは、パチンコ台がなくても
日常の中でも、パチンコ台が目の前にあるのです。
552 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 01:41:13 ID:Ry2Wjfyq
パチンコにはパチンコの悟りがあるのです。 あらゆる業種に悟りの機会はあるのです。 おいらはゴルフの悟りを得ました。
>>552 そら、やかん・・・訂正、そりゃ、あかん・・・トランクスフリフリー〜♪~~~~凹ヾ(^∇^*)byebye!!
554 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 01:47:01 ID:d3Z344+I
欲望や怒りや憎しみを、 パチンコ台を目の前に出すことで いつでもどこでも瞬時に消せるなら、 ちょっと悟ってるかもね。
555 :
ターメリック :2008/02/12(火) 01:47:39 ID:p7jP0bsR
私は日に6回、世界の平安を祈る儀式を行いますが、 平安の敵となるものは憎み、死んでしまえと思っています。 仏教的には差別心でありますが、こんなところです。
556 :
ターメリック :2008/02/12(火) 01:50:33 ID:p7jP0bsR
パチンコの出玉はコントロールできず、必ず負けるのです。 これを数十年三昧の境地で行う修行者の高みを侮ってはいけません。
557 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 01:51:56 ID:Ry2Wjfyq
>>550 >>その神は、何のために試練を与えるのでしょうか?
この世では肉体というある意味同一波長を有した衣をまとっておりますので、嫌いな人と会い、
愛する人と別れ、憎む者と顔を突き合せなければならない。そしてこれが苦しみを生みます。
この世では肉体を持っておりますので、仏教で言う生老病死、生きる苦しみ、肉体が老いる苦しみ、
病気の苦しみ、死の苦しみがあります。
天界ではその肉体がありませんので、まず老いることがなく、病気もなく、死ぬこともなく、
また好きな者とだけ会っていればいいので、生きることが苦しみではなく、喜びとなります。
あの世は各人の生命の奥に在りますから、これが人間生命の本質と言えます。
肉体があるから自分と異なる人格性を有した人間とまみえ、その自分とは異なる人格との邂逅が、
自己を磨き、自己の生命の修行になっています。
この物質界がありませんと、神の世界における多様性とその偉大性は理解できません。
あの世では未熟な霊ほど異なる価値や人格との接触を嫌うからです。
558 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 01:53:01 ID:Ry2Wjfyq
>>550 >>その神は、何のために試練を与えるのでしょうか?
ところがこの世では否応なく接触せざるを得ない世界となっています。
これは物質界がなければあり得ないことです。神の見地から見ますと、
人類をかなり愛していることが読み取れます。
苦しみといっても、たかだか7、80年です。
その一瞬の時間ぐらい努力して、多少苦労して生命を磨きなさい、ということだと思います。
この世は道場であり、神の心を学ぶ少し厳しい学校ですから、自分の未熟や他との関係から
色々と苦しみを作りますけれども、神はかなり人類を愛していると思われます。
苦しみの原因は物質であり、自己の未熟です。
肉体があるから生老病死があり、肉体があるから嫌いな者や相性の合わない人と関係を持ち、
顔を互いに突き合せなければならなくなります。
しかしそれは一瞬です。
559 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 01:55:59 ID:Ry2Wjfyq
この世がなければ本当の心、もっと言えば本当の自分、無限の自分を悟ることはできません。 この世の生死は有限です。苦しみは無限ではなく、有限がその本性です。 無限に感ずるのは錯覚だと思います。どう考えても70年です。 あの世の生活は永遠です。頑張って頂きたいと思ってます。
560 :
ターメリック :2008/02/12(火) 02:02:02 ID:p7jP0bsR
苦しみは試練として耐えて生きよ、という思想は支配者にとても都合のよいものです。
561 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 02:17:51 ID:Ry2Wjfyq
支配者とは・・??
562 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 02:20:26 ID:Ry2Wjfyq
>>苦しみは試練として耐えて生きよ 生きる希望と勇気が湧くでしょう♪ 釈迦の滅する事が目的なんて、夢も希望もありゃしない・・
563 :
ターメリック :2008/02/12(火) 02:23:27 ID:p7jP0bsR
そう、いきなり滅するのではなくて、戦い抜いて敗れて、 無一文になって、荒野にたたずんで、「ああ、負けた。しょーがねえ」と諦める。 これが本当の悟り。
564 :
神も仏も名無しさん :2008/02/12(火) 07:57:24 ID:d3Z344+I
>>558 人の魂というか生命を成長させて、
神には何のメリットがあるのでしょうか?
なんか、この世は修行なんだと言いたいがために、
後付けで神という概念をつくったように聞こえます。
565 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 07:58:04 ID:d3Z344+I
566 :
神も仏も名無しさん :2008/02/12(火) 09:24:29 ID:VYSwsEnQ
というわけで 仏教とキリスト教は真逆ですから。
567 :
ターメリック :2008/02/12(火) 10:12:06 ID:p7jP0bsR
釈迦教とキリスト教は真逆ね。 大丈夫教はキリスト教にかなりに照るけどね。
568 :
ターメリック :2008/02/12(火) 10:18:52 ID:p7jP0bsR
なんてったって大丈夫。拝んでいれば大丈夫。 修行はつらいよ、凡夫には。
569 :
神も仏も名無しさん :2008/02/12(火) 10:34:32 ID:EYil+ZAQ
拝めば祈ればどうなるこうなるは 仏教ではなく大乗やキリスト教ね。 拝めば祈ればどうなるこうなるを棄却したのが 仏教。
570 :
神も仏も名無しさん :2008/02/12(火) 10:38:50 ID:EYil+ZAQ
神は人に修行の場を与えたとか何とか言いますが 人の魂というか生命を成長させて、神には何のメリットがあるのでしょうか? なんか、この世は修行なんだと言いたいがために、後付けで神という概念をつくったように聞こえます。 しかも、こうすれば神に認めてもらえるとか。 そもそも人が神を造ったんでしょ。
571 :
ターメリック :2008/02/12(火) 10:44:13 ID:p7jP0bsR
成長しないと堕落して悲しくなるからではないでしょうか。
572 :
神も仏も名無しさん :2008/02/12(火) 11:57:58 ID:YzNsm8uu
全然違うね。 ホームレスは悲しい。何故なら金が無いからだ。
573 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 12:40:55 ID:d3Z344+I
>>559 天界の生命を永遠だと感じるのも、
やはり錯覚ではないでしょうか。
天界がどんなに快適であろうと、必ず変化し、
快適な暮らしに終わりが来るのです。
物質がない世界の生命というのは、
仏教的に言えば「無色界」の禅定の心のみがある生命です。
禅定の心もやはり心ですから、無常であり、必ず変化します。
人間界だろうと天界だろうと、
心(意識)が認識するものごと(法境)には
実体がない(無我)のです。
因果関係が作りだす夢か幻みたいなものです。
天界が永遠だと錯覚するのも、
人間の寿命と比較したら途方もなく長いため、
永遠だと錯覚しているだけです。
永遠だと思って執着いたものが崩れ落ちる時に、
天界の生命には悩み苦しみ迷いが生じるのです。
574 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 12:44:53 ID:d3Z344+I
神が、天界の生命は永遠(だと思えるくらい長い)だぞと、 誇り悦んでいて、 人間どもも快適な天界に来なさいと誇っているとしたら、 実は、その心の裏側には、 「死にたくないよぅ、怖いよぅ、変化したくないよぅ」 という無明の闇が隠れているのです。
575 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 12:54:13 ID:Ry2Wjfyq
「生命と物質」はこの世もあの世も全て支配しています。 大宇宙にこの世とあの世の区別なし。 この世もなければあの世もない。 我々はこの世に生きているわけでも、あの世に生きているわけでもない。 大宇宙は自分自身であり、大宇宙の果てこそが自分自身である。 宇宙にこの世なく、あの世なく、区別なし。 今、ただちにここがこの世であり、ここがあの世であり、ここが天界であり、ここが神の国なのだ。 今の中にこの世があり、天界がある。 あの世は死して後に行く世界ではない。 今、ここがあの世であり、ここが天界であり、ここが神の国なのだ。 あの世とこの世の相違なし。 今、ここが大宇宙であり、今、ここが神理なのだ。
576 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 12:54:45 ID:d3Z344+I
ところで、ここからは妄想ですが、 天界の生命の集団を全体として「神」と呼ぶとき、 「神」はなぜそんなに永く生きていられるのでしょうか? 「神」は、何らかの形でエネルギーの補充、 つまり食事をして、生き長らえているのでは? で、神のもとに召される迷える子羊たちこそが、 神のお食事だと考えられないでしょうか。
577 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 13:00:07 ID:Ry2Wjfyq
>>人の魂というか生命を成長させて、神には何のメリットがあるのでしょうか? われら人間にはとても計り知れない問いです。 一つの考えとして、 完全であられる神が、更に完全を目指す為 人間を創造して自らの生命を与えた。 神は人間と共に成長、発展をされるのである。
578 :
マヨネーズ :2008/02/12(火) 13:02:36 ID:Ry2Wjfyq
>>576 天界では食事しません。
神は無限エネルギーです。
ゆえにエネルギーの補充はありません。
579 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2008/02/12(火) 13:41:56 ID:RF1DA/9z
イエスが天の父と表現した存在には名前はないんだよ。
神とは、社に申すだろ。はるか太古の昔に、宗教のベースとなった教えを
広めた人達がいたんだよ。ある地方では、ヴェーダとなり、
ある地方では、神道となり、そしてある地方では、一神教となった。
彼らは、当時の人達から、神と呼ばれ、神々と呼ばれた。
>>570 >人の魂というか生命を成長させて、神には何のメリットがあるのでしょうか?
それが大いにあるんだよ。創造は7という数字に密接に関係している。
六つの周期を得た後、収穫を向かえ、第七の日に、休まれる。それは永遠の安息である。
そこに時は無い。そして創造は目覚め、また創造が始まり、六つの周期の後、収穫の時を向かえ、
第七の日に安息する。こうして一つの命は、収穫と共に、拡大していく。
天の御国を何に喩えようか。
それは、天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って
三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。
天の御国を何に喩えようか。
また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、一粒のからし種のようなものである。
ある人がそれをとって畑にまくと、 それはどんな種よりも小さいが、成長すると、
野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。
良い麦は、蔵に収められ、毒麦は、炉に投げ捨てられる。こうして一つの命は、拡大を続けていく。
ブレーローマ。それは、命の充満。
釈迦も悟りを開いたとき、七日間、その境地にいたと、仏典には、たとえで、かかれているだろう。
ま、末法仏教に毒された君らに、いくら言ってもわからないだろうがね。
580 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2008/02/12(火) 13:52:05 ID:RF1DA/9z
>>570 >人の魂というか生命を成長させて、神には何のメリットがあるのでしょうか?
ま、
>>579 で書いた、メリットのある存在とは、正確に言うと、神ではなく、名前の無いもの。
自性のことだけどね。
581 :
神も仏も名無しさん :2008/02/12(火) 14:02:07 ID:BnZwHbO8
そうですね。 宗教というのは古来からあるが 科学が発達していない昔は そういうものを作り出して妄想してすがる他は無かったのでしょう。 現在でも科学はもちろん万能ではないので 宗教もまだまだ人気があります。 ただし 病院へ行かずに信仰だけで直そうとするほどの、立派な信仰者は少ないようです。
病気を治してしまうようなのは全うな宗教ではないな 信じなくてよし。
583 :
ターメリック :2008/02/12(火) 14:41:16 ID:p7jP0bsR
天界では食べることがないとしたら、何をしているのでしょうか。
584 :
ターメリック :2008/02/12(火) 14:43:21 ID:p7jP0bsR
人間界では、食べる、排泄する、寝る、が生きる張り合いであり、 それを満たすために職業をもつわけです。そしてその息抜きに娯楽などがあるわけです。 天界では、日々何をするのでしょう。
585 :
ターメリック :2008/02/12(火) 14:52:40 ID:p7jP0bsR
エホバという人たちがきて、絵本を見せながら天国の話をするのです。 きれいな森の中で動物と仲良くしているような絵です。 「こんな世界で永遠に暮らしたいと思いませんか」と聞かれましたよ。 「こんな世界、永遠どころか1年ともたず飽きてしまう」と答えたら、 お別れとなりました。
586 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/12(火) 18:10:12 ID:d3Z344+I
>579>580 それだと、輪廻をくりかえすのと似たりよったりに思えます。 自性は一切(十八界)を飲みこみ尽くすことを望み、 しかし飲みこみ尽して完全な自性に還ったら、 再び十八界を創造するわけでしょうか?
587 :
神も仏も名無しさん :2008/02/12(火) 21:51:55 ID:Z8V02VcV
>>570 しかし、この世で善いことをしたならば、安心しておれ。その善いことが、ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、
安心するがよい。人に知られずにしたことであっても、安心しておれ。それの果報があるのだから、安心しておれ。
仏典にも神がでてくるから、その果報を与えてくれるのが神ではないか。
力があれば病気も治せるんだけど。 まぁ背後霊型の霊媒師しかイメージつかないとは思うけど。
589 :
マヨネーズ :2008/02/13(水) 00:40:05 ID:+7hlFJIW
信仰とは病気が治る、治らないで受け入れるべきではありません。
590 :
マヨネーズ :2008/02/13(水) 00:49:20 ID:+7hlFJIW
浄土真宗・親鸞の『歎異抄』にもありますように 「わが心に往生の業を励みて申すところの念仏も自行になすなり」の 意味も知っていると思います。 自分が「往生」、すなわち天国に帰るために「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるのも「自行」、 自力行の我力行である。 自我と我力を捨てて、ただ阿弥陀仏(神)に頼る絶対他力によってのみ救われるのだ。 信仰とは自分が天国に帰るという利益のためにするのでもなく、 地獄に落ちたくないという恐怖からするのでもない。 利益と恐怖、この苦楽を捨てて、ただ神の心の実現のために信仰は在るのだ。 ただ神の栄光の実現のために信仰は在るのであって、それ以外は利益であり、自我である。 自我から出ているものを信仰とも神理とも言えない。
591 :
マヨネーズ :2008/02/13(水) 00:50:45 ID:+7hlFJIW
天界では常に人間の生命を看ています。 そして正義の人間にインスピレーションやアイディアを降ろしていきます。 従って信仰の欠如した人間には原則、インスピレーションは降りません。 信仰がないからインスピレーションが降りない。 インスピレーションが降りないから天的な啓示にあふれた製品が生命から出ない。 技術革新のアイディアもマーケティングのインスピレーションも 制度上の非効率的な部分も気付かず旧態依然のままとなる。 天的な啓示にあふれた製品がないので、消費者が欲しいものがない。 減税してもらっても欲しい物がないので消費は上がらず、設備投資も一時的なものになる。 政府は減税や財政出動等で何とか外から消費させようとするのですが、 ご存知の通り供給過剰のデフレに陥っております。 消費がないから企業収益がない。企業収益がないから株が売られて株価が下がる。 株価が下がれば銀行も株を持っておりますので含み損が自己資本比率を低下させ、 低下を防ぐために分母のリスクアセット(リスク性のある資産・株や債権、貸出金等)の圧縮に走り、 中小企業への貸し渋りや貸しはがしが生じて不景気になる。 特に日本の銀行は国内だけではなく、アジアからも資金を回収し始めている。 しかも企業収益がないということは税収の減少をもたらしますので、 不足分を国債の大量発行でまかなおうとする。 すると致命的な財政赤字から国債の格付けが下がる。 国債の暴落、すなわち長期金利の上昇という「日本経済の破局」の影に怯えつづけていくことになる。 こういった愚かなことを続けた挙げ句破綻していくのが日本です。 信仰がありませんので、すればするほど悪くなります
脳内モエーのおっさん、どこまで冗談、続けるつもり?
593 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/13(水) 12:36:26 ID:95tqrnyd
>>590 神の栄光の実現とは、どういうことでしょうか?
594 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2008/02/13(水) 16:26:47 ID:T6AN01Pm
>>586 自性の性質とは、創造、安定、破壊、そして静寂。
彼に、創造、安定、破壊が無ければ、それはただの、無である。
その輪があるから、彼は、永遠である。そしてこの世は流転する。
真我は、彼のその性質に影響されるので、輪廻する。
見るものは全てを認識しているが、見られるものは、見るものを認識しない。
見るものと、見られるものの結びつきが、苦の原因である。
見られるものの本質は、見るものが見るために他ならない。
見る者とは,見るだけのもので,純粋だが,表象を介して見ている。
目的を果たした者は、、肉が滅んだとき、再び、見られるものとの結びつきを解消させるだろう。
そのとき、真我は、独存となる。それは根源へと回帰することであり、
純粋精神の能力が、本来の姿に安住することである。そこに、苦の滅がある。
ゴータマ仏陀は、あくまで、形あるものには、アートマンはない。と言ったにすぎないのですよ。
ゆえに、”一切” は、無我である。
595 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2008/02/13(水) 16:42:35 ID:T6AN01Pm
輪廻からの解脱とは、再び肉の生存、つまり 私とあなたとを分ける、自我による生存をやめることであり、 この世に再び生まれてこないということである。 それは、見られるものを、自己だという無明を解消させ、真我が本来の姿に 安住することである。それは独存であり、根源へと回帰することである。
596 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/13(水) 18:11:05 ID:95tqrnyd
>>595 解説ありがとうございます。
おぼろげながら、カラスさんのお考えがわかってきたように思います。
さて、それでは、根源(真我)のことを知ったとして、
われわれ衆生(生き物達)は、
今生の寿命を終えるまで、
何のために、どのように過ごせばよいのでしょうか?
597 :
神も仏も名無しさん :2008/02/13(水) 21:30:57 ID:Lb3BDbJi
マヨネーズは精神病
598 :
マヨネーズ :2008/02/14(木) 01:18:41 ID:hrAQnvWm
>>593 神の栄光の実現とはこの世を信仰世界とするのです。
599 :
マヨネーズ :2008/02/14(木) 01:20:44 ID:hrAQnvWm
>>596 神を目的として自由自在に生きるのです。
600 :
ターメリック :2008/02/14(木) 07:24:57 ID:yTc//+sc
内なるキリストに目覚めよ とか、しょうもないことをいってみるテスト
601 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/14(木) 07:59:32 ID:yaUEIBQr
>>599 あなたの言う神とは、
カラスの唄さんの言う「根源」のことですか?
602 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2008/02/14(木) 09:01:50 ID:GN0DDLni
我々は一つの存在だ。 他人を殺す者は、自分自身を殺している。 自分自身を殺す者は、他人をも殺している。 自分自身を殺す者が、どうして生きられようか。 あなたが他人にしたことしなかったことは、全て自分にしたこと しなかったこと。だから他人を泣かしてはならぬ。 あなたが他人になした負の業の清算は、 たとえ1タラントたりとも、あなたが支払うことになるだろう。 あなたの成した負の業を清算しない限り、あなたは一つとならない。 だから悪を成してはならない。善を成せ。負の業の清算を成し遂げ、 再び悪を行わなければ、あなたは再び自我を形成する素因を作り出さないだろう。 我々は一つの存在だ。ならば、愛し合って、当然ではないか。 我々は一つの存在だ。なのに、皆、自分と他人とに別け、利己心に基づき、 他人を愛さない。この世に生まれる我々は、悪い存在なのだ。 父よ、罪深い我々を許したまえ。他人を裁いてはならない。なぜなら裁く相手は、 あなた自身なのだ。だから裁くな。許せ。あなたが許す相手は、あなた自身なのだ。 だから許してやれ。我々は本当は一つだ。あなたがあなたの心の奥底にある、あなた自身を見出したとき、 本当の自分を知るだろう。我々は本当は一つなのだ。それを知れば、 この世界で、なにが善で、なにが悪かを知り、何が正しく、何が正しくないかを知るだろう。 なんにせよ、この世のものに執着する心。それは心にエゴイズムを生み出す。 エゴイズム(利己心)は、一つのものを二つに分け。二つに分けたものを、決して一つにしないだろう。 このエゴイズムが、自我を生み出すのだ。この世は神の像。偶像を崇拝してはならないのだ。 この世のものの何一つたりとも、執着してはならない。それは苦しみなのだ。 あなたの心からこのエゴイズム(利己心)を完全に滅ぼしなさい。 天上天下唯我独尊。 この二元世界において、善の修業を完成させた者は、一元へと帰って行くだろう。
603 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2008/02/14(木) 09:20:55 ID:GN0DDLni
イエスが呼んだ天の父とは、命そのものだ。彼は一つであり、命は一つ。 〜スッタニパータ 143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。 能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。 144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、 聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。 145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、 幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。 146 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、 大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、 147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、 これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。 148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。 悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。 149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、 無量の(慈しみの)意を起すべし。 150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、 障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。 151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいを しっかりとたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
604 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2008/02/14(木) 09:22:18 ID:GN0DDLni
>>601 イエスは、「あなたがたは、互いに愛し合いなさい」と説いた。
ゴータマ仏陀は、上にあげたスッタニパータにあるように、慈悲の心を説き、
八正道を説いたではありませんか。
605 :
ターメリック :2008/02/14(木) 13:55:05 ID:yTc//+sc
右の頬を殴ったやつに左の頬を出す、これが慈悲であるなら、 慈悲は無理だわ。
『他人にはやりたいようにやらせる』という意味で取ればいいんじゃない? 慈悲とはまたちょっと違うし。
607 :
神も仏も名無しさん :2008/02/14(木) 20:28:18 ID:CT5QHQhs
>>605 心得として。
この世の者ではなくなったら、全ては一つであることを知り、
新約聖書を書いた人々も、そのことを知っているだろう。
そして我々は悪しき者の配下となり、地を生きる欲を得た。
神は罪深い人をゆるされ、
天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって
一つに帰せしめようとされたのである。
全てが一つであることを知る時に、神の栄光を知るが、
人は神の栄光を受けられなくなっており、神のめぐみにより、
キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのであ
る。被造物である私たちには誇れる存在ではなく、
愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいますようによう
になるためである。
地のものへの執着より愛が勝っている人々が、地上で平安を
築くためでもある。
608 :
神も仏も名無しさん :2008/02/14(木) 21:49:20 ID:+HMtmw3O
>>605 「罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを耐え忍び」
罵倒されたら罵倒仕返す、なぐられたらなぐり返す、なぐり返されたから
なぐり返す・・・という肉体反応を繰り返すより、耐え忍んで肉体反応を
超越した人は賢者。肉体反応で生きることは、動物も同じようだから賢い
とは言えない。人間も生物だから、その時愚かだと気づく人、自分を愚か
だと認める人は賢者。
「もしも愚者がみずから愚かであると考えれば、すなわち賢者である。
愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、愚者だと言わ
れる。」
609 :
神も仏も名無しさん :2008/02/14(木) 23:15:50 ID:8pc57pJk
>>598 変に神を信じて、常識外の人間をつくるより、信仰で良識ある人にする。
あの世では人間が存在しないから、宗教の教えはこの世の人のためにあるだろうが、
たとえば慈しみを崇高と教えて、それは違う物欲と自分のために生きることが崇高なんだ
と教える宗教は、他人のことを思うよりも、自己中心的な生き方を促すだけだから、宗教
として役に立たない。
610 :
神も仏も名無しさん :2008/02/15(金) 09:40:12 ID:FtxTNoQR
「母が已が独り子を命を賭けて護るように」慈しみを崇高とすることは、 人の内にも永遠を持つので、聞けばそうだとわかるようになっている。 人は地のことへの執着、自己の囚われによって失われる。 地上のものへの執着・欲に満ちた自己のない天国などの清まった世界を 信仰対象とすることで、己を清めようとする行為が宗教である。 人は生活活動によって汚れる。正常な精神さえ失われる可能性がある。 偶像礼拝により、地上の御利益を望むことで清められない。 奉仕でなくとも、人々の幸福や安穏、安楽な暮らしのために熱心に努め ている人々がいるから、地上に利益をもたらすことを知らない。 慈しみより、自分の欲得を正しいとする人は、永遠を持たない。 自分の欲得に生きるだけの人はこの世だけで、この世だけで終わりの人。 慈しみを拒否して、自分の欲得を考え生きる人は、この世だけで終わり の人。慈しみに共感する人は、永遠を持っているから。 不安なく迷いなく不満なく満足して生きている人は、喜び楽しむ。 喜び楽しむことは、宗教の役割ではない。苦悩を取り除くことが宗教。 崇高なものに一致した人は、自分を捨てて多くの人々を慈しむ。 最低でも悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与える ことを望んではならない。一歩近づいて、目の前の人の苦悩を取り除こう とする。
>>610 慈しみは人生の意義では無い。
地上のものへの執着・欲は神が人間に与えしもので否定してはならない。
「人々の幸福や安穏、安楽な暮らしのため」・・これらは結果に過ぎず、
真の目的は神とせよ。
慈しみに共感する人は偽善者である。
「苦悩を取り除くことが宗教」・・宗教で苦悩は取り除けません。
宇宙の仕組みを教えるのが宗教。
「一歩近づいて、目の前の人の苦悩を取り除こう 」・・人生は修行が目的ですから、
目の前の人の苦悩を取り払う行為は宇宙の法に反します。
612 :
神も仏も名無しさん :2008/02/16(土) 14:20:27 ID:vqWdRrg5
>>611 そんな宗教ならいらない。
人生の苦悩を克服するための宗教である仏教のほうがいい。
>慈しみは人生の意義では無い。 >地上のものへの執着・欲は神が人間に与えしもので否定してはならない。 >目の前の人の苦悩を取り払う行為は宇宙の法に反します 目の前の人の苦悩を取り払いたいという執着、欲は、否定してもいいの? それも神が人間に与えしものではないの? >慈しみに共感する人は偽善者である。 >「一歩近づいて、目の前の人の苦悩を取り除こう 」・・人生は修行が目的ですから、 苦悩だけが人生の修行?そんなちっぽけで限定されたもの? 慈しみを学ぶのも、苦悩を学ぶのも、すべての経験が修行じゃないの? >「苦悩を取り除くことが宗教」・・宗教で苦悩は取り除けません。 >宇宙の仕組みを教えるのが宗教。 あなたがここで言ってる「慈しみは偽善とする宗教」って、どんな宗教? キリスト教でも己の欲せざるところを他者に行うことなかれ、や 隣人を愛せよ、とか言ってるし、仏教でも八正道では苦の滅締を説いているけど?
614 :
神も仏も名無しさん :2008/02/16(土) 16:43:37 ID:luE1NZE8
>地上のものへの執着・欲は神が人間に与えしもので否定してはならない。 旧約聖書に於いても、神を愛せよとあり、神の創ったものに対して執着せよ、とか、愛せよなどの、 創られたものに対する注視は無いよね。それから、自分を愛するように隣人を愛せよ、だろう? 自分は神を何よりも愛する存在であるのだから、隣人を愛する時は、隣人も神を何よりも愛する存在として、 認めることが何よりも必要で有るのだから、結局、神の創ったものに対しての、愛とか執着の勧めのようなものは 無いのだ。イエスの教えでも同様だ、いやそれ以上ではないか。 そうすると、寧ろ「否定している」といえるのではないだろうか? もっとも、イエスの神とは、異なる神であるというのなら別だが。
615 :
ターメリック :2008/02/16(土) 17:33:47 ID:msIoTTko
まだ、仏も神も存在していない。救われない人を尻目に仏や神になることは不可能だからだ。 自分だけ先に救われることも、自分だけ救われないということもどちらもありえないのである。 修行を万物に回向しながら、らせん状に同期的に救われていくのである。 釈尊も法蔵菩薩も、万物とともにあり、いまだ修行中である。
616 :
神も仏も名無しさん :2008/02/16(土) 17:46:45 ID:YuA/3CDr
>>611 天界では常に人間の生命を看ています。
そして正義の人間にインスピレーションやアイディアを降ろしていきます。
従って信仰の欠如した人間には原則、インスピレーションは降りません。
信仰がないからインスピレーションが降りない。
インスピレーションが降りないから天的な啓示にあふれた製品が生命から出ない。
技術革新のアイディアもマーケティングのインスピレーションも
制度上の非効率的な部分も気付かず旧態依然のままとなる。
天的な啓示にあふれた製品がないので、消費者が欲しいものがない。
お前マヨネーズだろ。宇宙の仕組みとかいって、実際と違うことを
教える教義はいらない。
617 :
悪いから宗教の教え ◆9NMU2DhnNs :2008/02/16(土) 19:37:41 ID:YSczQgEg
◎人間界全ては神に悪と決められている 「全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。」(聖書) 「世間は妄執によって導かれる。妄執という一つのものに、一切のものが従属した。」(仏典) 人間という存在は、神に認められない存在だから教えがある。 スッタニパータで、 牛飼いダニヤが、「わが小舎の屋根は葺かれ、火は点されている・・わが妻は従順であり、 貪ることがない。わが意に適っている。かの女にいかなる悪のあるのを聞いたことがない。」 釈尊 「わたしは怒ることなく、心の頑迷さを離れている・・わが心は従順であり、解脱してい る。永いあいだ修養したので、よくととのえられている。わたくしにはいかなる悪も存在しな い。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」 ※地上のものへの執着・欲は人間の望みである。全て神の与えしものとする者は、人に原罪あ りを理解しない。 釈尊も人に原罪ありを知って教えを説いたのである。 「あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。」(イエス)
618 :
悪いから宗教の教え ◆9NMU2DhnNs :2008/02/16(土) 19:38:42 ID:YSczQgEg
◎信仰は人を自由にさせるためでもある 「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ・・・あなたがたも完全な者となりな さい。」 「兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」 「他人を見下げている人たちに対して。」(イエス) 「善悪のはからいを捨てた人」 「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。」 「他人を見下して思う人は、卑しい性質が増大する。かれは実に真理を見ることから遠く隔たってい る。」(仏典) ◎慈悲 「敵を愛し、憎む者に親切にせよ・・・あなたがたも慈悲深い者となれ。」(イエス) 「この平安の境地に達して・・上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。」 (仏典) 慈悲をこの世で崇高として、邪まな見解を捨て、正しい見解を持つこと。 ◎思い上がるな 「思うべき限度を越えて思い上がることなく」(聖書) 「奉仕を楽しむために・・・・・思い上がることはない。(一つの極端説)」(仏典)
619 :
悪いから宗教の教え ◆9NMU2DhnNs :2008/02/16(土) 19:39:27 ID:YSczQgEg
◎信仰はこの世に益をもたらす人をつくる役割 「善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」 (聖書) 「この世で善いことをしたならば、安心しておれ。その善いことが・・人に知られずにしたことであっ ても、安心しておれ。それの果報があるのだから、安心しておれ。」(仏典) イエスも「『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、父の御旨を行う者だけ が、はいるのである。」ただ、神を信じただけでは無意味で、御言を行うことが大事であると。 この世では、悪い者も栄えたりするが、他人を悪だとして憎まず、肉の主人に従い、快く仕えること。 だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受け るであろう。(聖書より) ◎重荷を下ろし 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。」(イエス) 「重荷をおろした人、債務のない人よ。世の中を歩め。」(仏教の神) 「何もしないでも、だれも決して老いることのないところがあるならば、それはニルヴァーナの道であ る。」 何もしないでも、信仰などにより、欲望を制して生きることは永遠(完全な善)の世界のように尊い ことだから、行えないからといって、人は自分を責めることはない。 地のものへの執着・自分の欲望は誰にでもある。役に立つ宗教と、人の考えで汚染されて、健康的な見 方ができなくなってしまう宗教もある。
620 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/17(日) 01:13:08 ID:df5Xqouk
>>615 釈尊は修行を完成し、すでに入滅されています。
人滅されているので、もう修行はしていません。
法蔵菩薩はもともと架空の人物ですから
妄想を膨らませるのは自由です。
しかし、お経の内容では、
法蔵菩薩は修行を完成して阿弥陀仏に成っています。
621 :
ターメリック :2008/02/17(日) 02:40:17 ID:tAzShUvK
自分だけは愚かでないというゴーマン・シットルカ
622 :
神も仏も名無しさん :2008/02/17(日) 10:58:19 ID:2Ydy88qa
釈迦は無所有で生きながら成仏した賢者。消滅世界に生まれることを究極の 安楽と説く。 神々の主となられたサッカは、人間であった時に、七つの誓戒を守った。 (1)父母を養う (2)家において年長者を敬う (3)やさしい心の会話 (4)そしることばを捨てる (5)もの惜しみを除くのに努める (6)真実を語る(7)怒りに打ち克った人 怒りを速やかに除く人 貪欲・享楽・欲楽を真実とすると不浄になるから、清浄世界を信じて慎み を学び、悪いことをしないようにするのが仏教理念。 1.快楽は享受すべきで欠点はない 2.無料奉仕に生き喜ぶべきである という両極端を捨て、中道を説く。 現代では仏を信じて、お経などにより物欲・快楽主義から遠ざかり離れる。
623 :
神も仏も名無しさん :2008/02/17(日) 11:02:06 ID:df5Xqouk
>>622 「消滅世界に生まれる」という表現はおかしい気もします。
消滅こそが究極の平安です。
624 :
神も仏も名無しさん :2008/02/17(日) 11:14:25 ID:G7k5glw3
マヨネーズの神様は、無の無限エネルギーなんだよな。 この神様の説明を正しく出来ればいいんだがな、エネルギーと言う概念を持ち込んでいるのが いるのがいけないんだ。執着をエネルギーとミステイクするからだ。エネルギーと言うものは 無執着から無限に生じるものではないか?無執着が空相であり、空相からあらゆる真理が生まれるのであるが、 その真理そのものがエネルギーなのである。それは善行となってあらわれるのである。善行が出来るようになるのだ。
625 :
神も仏も名無しさん :2008/02/17(日) 12:02:25 ID:G7k5glw3
>>624 えらそうな事を言ったが、未だ自己愛:自己に執着しております。
626 :
神も仏も名無しさん :2008/02/17(日) 14:10:55 ID:/bLGvLZC
永久に存在するという見解と滅びて無くなるという二つの見解を滅ぼし というのが仏の教え 今のままで人間が永久に存在するという見解は捨て去るべきだ。 滅びて無くなれば、宗教の意味はない。何やっても死ねば消滅だからだ。 離欲の世界を完全な清浄世界とし、信仰によりいつも確認する。 お経は快楽を貪らない時でもあり、世の中の迷いも少ない時でもある。 生活活動の中に組み入れることで、中道的な役割を果たす。
627 :
神も仏も名無しさん :2008/02/17(日) 17:41:30 ID:df5Xqouk
>>626 ブッダが入滅したという意味。
一切(眼耳鼻舌身意・色声香味触法)が苦しみなのだから、
一切が滅びた者だけが完全な平安に入る。
現代は「民主主義」と「共産主義」の二大勢力がありますけれども、 これらは共に菩薩が作った体制と言えます。 民主主義ではルソーが「人民共通の利益に基づいた国家契約」を打ち出し、今の民主主義があります。 本質は「利益」です。 共産主義もマルクスが「唯物論」として説きました。 どちらも「利益と物質」が本質となる理由は悟りの未熟です。 現行の国家観が全て「利益的共同体」になるのは、その本質を洞察すれば明らかであり、 「利益と物質」が根底にあるからです。 大宇宙と存在の根底は「神の心と正義」ですが、これが「利益と物質」に 摩り替えられているということです。 ルソーもマルクスももちろん悪意で作ったわけではなく、霊格は菩薩ですからそれは「良かれ」と思い、 正しいと思って出しているわけです。 ところが所詮、菩薩ですのでどう努力しても、その悟りの未熟が、 やはり「利益と物質」という内容で出るのです。 動機が正しく、霊格も高く、その方法論と手段が正当なものであったとしても、 「霊的未熟」は現実を破壊していきます。
629 :
神も仏も名無しさん :2008/02/18(月) 00:59:10 ID:4mhmoKIy
で、あなたはなんなのかな。
630 :
神も仏も名無しさん :2008/02/18(月) 01:24:58 ID:yUxbaV8m
1人でも違うといったらそれは真理ではない
631 :
ターメリック :2008/02/18(月) 09:06:22 ID:BrBC9f+8
一人でも信ずるものがあればすべて真理である
632 :
神も仏も名無しさん :2008/02/18(月) 12:36:24 ID:jEVjyvan
>>628 なぜその二人を菩薩だと思ったのですか?
菩薩とは、悟りを目指して修行している者のことでしょう。
二人とも仏教徒じゃないから、悟りをめざしてなかったのでは?
633 :
神も仏も名無しさん :2008/02/19(火) 00:18:49 ID:Ja7bXwQy
下僕になりますから救ってください〜〜〜と言うのがキリスト教。 自己を灯明として 欲を捨てあるがままを見て寂静になろうと言うのが仏教。 さああなたはどっち?
>>632 菩薩界の8次元世界に入ってきますと、明らかに自我を標準としていた生き方から
神の心を心とする生き方ができる悟りの段階となっています。
自我の好き嫌いと快不快を放棄し、物質と現象を基準にした生き方から解脱している段階です。
地位があれば喜び、なければ悲しむ、富を持てば喜び、なくせば悲しむ、学歴があれば喜び、
なければ悲しむ、力を基準にこれがあれば優越感にふけり、なければ劣等感に陥るといった苦楽からは
既にこの8次元世界の住人は抜けています。
組織が発展すれば喜び、衰退すれば悲しむといった組織・学歴・富・地位・名誉・物質・現象を
基準とした生き方から明確に抜けた悟りを有している段階の魂です。
物質や現象を心の基準にしていないとは、物質と現象を超えた神の心が、
この8次元世界から具体的に理解されてくるということです。
すなわち神の心を心とすることができるのは、この8次元世界からです。
菩薩界の住人がこの霊域です。
>>632 物質を心の基準とした生き方を選択し、富があれば喜び、なければ悲しむといった生き方をしている限り、
万人は決して幸福にはなれない点を悟っているため、迷わず自我を十字架に釘付けにして、
ただ神の心のままに生きんとする悟りの段階が、この8次元世界です。
自我の好き嫌い、快不快、現象を心の基準とした苦楽の世界に生存している限り、
真の人類全体の幸福は実現できない。
やはり神の心のままに生きていかなければならないと明確に悟っています。
8次元世界の住人は、神の心を悟れば喜び、悟れなければ悲しむ、苦楽が自我や現象ではなく、
神の心が基準となって知情意が決定しています。
ただ8次元世界では神の心を心とできる段階ではありますけれども、まだ生命と物質、神我と自我、
主観と客観、善と悪を自我で切って、後者を捨てて、前者を取ろうとする心的傾向をまだ有しています。
自我や現象、物質や地位名誉を基準とし、苦楽と優劣の相対的感情の世界とその生き方では
人類の幸福はないと明確に悟っているため、この段階から真に神の子を正しく導ける
「神のリーダー」の役割を課せられることになります。
636 :
神も仏も名無しさん :2008/02/19(火) 00:58:53 ID:JA/I8Fyv
大乗仏典にはそんな定義はないですよ。
637 :
神も仏も名無しさん :2008/02/19(火) 07:57:12 ID:jvqZWH0c
>>635 仏教用語である「菩薩」を、そんな怪しい者と一緒にしないでください。
なぜ、「菩薩」という仏教用語を使う必要があったのでしょうか?
仏教といえ虎の威を借りたかったの?
638 :
神も仏も名無しさん :2008/02/19(火) 19:48:04 ID:gsVANo6p
仏教には人間製造論もないし、管理論もない。 それらの出離だから、富があるとか顔がいいとか悪いとか、地位があるとか ないとか、世間のことから解脱し易い。 出離を願って、熱心に仏教修行していれば、世の中の迷いと苦悩から解脱し、 ととのえられた心となり、迷いの生存に陥らない。
639 :
神も仏も名無しさん :2008/02/19(火) 20:12:41 ID:xdNBPvrj
この世の全てが、縁起しているものだ。この世に背を向けヨ、この世に幸せは無いのだ。 この世の幸せを求めないところ、そこに幸せがあると考えるべきではないか?
たしかにこの世の幸福を求めることを一義にすると執着になるかな。 この世の幸福は、もちろん悪いものではないけれど、執着しないようにしないと。 お金や快楽はやはりイイ、けど、それは無常であり拠りどころにはならないので。
641 :
神も仏も名無しさん :2008/02/19(火) 21:00:10 ID:xdNBPvrj
出家と言うものの意味は、まさにこの世から抜け出すこと、解脱する事を目的にしているものだろう。 文字通り、人郷離れたところを必ずしも必要としないと思う。この世間の中においても、 出家の目的を実行できるのではないか?ここが大乗と小乗の区別の原因ではないだろうか?
642 :
神も仏も名無しさん :2008/02/19(火) 21:06:56 ID:aGjp+Y1x
神といってもなあ。それぞれの思いが含まれるわけだし。ある人は、この世の幸せを感じて 神に感謝する。ある人は、富も地位も稼ぐ能力もなく、まじめに暮らしても今日の飯食うの が精一杯なら、富あり何を楽しもうと悩んでいる人を見ては、弱肉強食の神と思うかも。 ついてない時に、神は私を呪ったと思い、順調な時に、神は私を思ってくれるとかあるかも しれない。 仏教に迷いはない。この世の幸せを否定しているから。何も迷わない時は幸せなのだ。 この世の喜びも苦悩も超越した世界をただひたすら求めている時が、既に完全な幸せに近い のだ。
643 :
神も仏も名無しさん :2008/02/19(火) 21:10:04 ID:aGjp+Y1x
大乗も小乗もない。出家しないと世間に迷う人々、欲望を制しきれない人々がいたから。 世の中にあって、信仰できる人のほうが立派だと思う。
644 :
神も仏も名無しさん :2008/02/19(火) 21:14:25 ID:V6XsKhBF
グルメとかセックスとか人間社会は神の枝葉にすぎないからな。 人間社会に夢中になっていると神の本体にはたどりつけない。 この世には神の枝葉はあるが本体は存在しない。
2chのような外部の刺激に一喜一憂しなくなればサトリ
646 :
神も仏も名無しさん :2008/02/19(火) 22:13:18 ID:xdNBPvrj
仏教史に於いて、大乗小乗と言い出した大乗に重大な反省を求めるべきであると思うようになった。
647 :
神も仏も名無しさん :2008/02/19(火) 22:29:39 ID:JA/I8Fyv
大乗も教条的に形骸化し、出家主義に偏った仏教への批判から起こった運動だろ。
648 :
神も仏も名無しさん :2008/02/19(火) 23:04:44 ID:xdNBPvrj
>>637 万教帰一だからです。
万教は神に帰一するのです。
「宇宙は神の表現体」西田幾多郎
>>639 >>この世に幸せは無いのだ。
そうでは無く、この世は人生修行ですから苦もあり、幸もありが人生です。
651 :
神も仏も名無しさん :2008/02/19(火) 23:33:00 ID:xdNBPvrj
>>650 マヨネーズ、お前は以前、この世界は、何も無いのだ、といっていただろう?
禅の話を持ち出して。
人生修行とは何か?
>>642 >>仏教に迷いはない。この世の幸せを否定しているから。
釈迦のアホ理論から脱却しなさいよ。
653 :
神も仏も名無しさん :2008/02/19(火) 23:37:36 ID:xdNBPvrj
それから、無の無限エネルギーというのなら、無限エネルギーというのがもんだいだ。 エネルギーなるものが無限にあるのなら、エネルギーと言うものしかないのだから、 または、エネルギー以外のもを認めることが出来ないのだから、そこにはなにも無いと言うことになるのだ。 これを一相と言うべきであるし、空相無相と言うべきなのだ。何故無相空相一相と言わないのか?
>>651 神の創造のみあるのです。
人生修行とは生まれて来た目的です。
私達は目的を果たさねばなりません。
656 :
神も仏も名無しさん :2008/02/19(火) 23:42:00 ID:xdNBPvrj
無限エネルギーが宇宙を表現したのです。 「宇宙は神の所作物ではなく神の表現体である」西田幾多郎
658 :
神も仏も名無しさん :2008/02/20(水) 00:12:25 ID:Sh88IUXA
>>657 はぁ、そうですか。
で、それが何の役に立つ?
Zoni/EegSo <= #Q1p5mK`_ f.ONI/mdL2 <= #`1p{g`X7 tnfRDoni/U <= #p'Jvoi/p KOni/z6Gbc <= #JqZ93?Y~ UONI/LvQ2Y <= #_qZAg3z~ uIKhDOni/g <= #5R**{tCB CONI/qprUw <= #AgS{fx;T GEOni/pWC. <= #eZ14j5[e AGoni/vU0o <= #HZ1IRDK% Oni/y9Kaxc <= #+Z1vyzVn VyOni/qioQ <= #ef!{Uc2A VVnmZOni/I <= #z@Zc!#Hh DOni/PVDoc <= #x8*[+VSI 2wsOni/hRU <= #|ay^q_os 6Tfoni/tyY <= #fjQL:5P@ BcWCONI/3s <= #Xq85H'Ge oni/kP/2eI <= #.by51D%f V96uOni/KQ <= #1by+ICA/ Jv6oni/OhA <= #@RYDMuLt egLgjOni/Y <= #JRYM85dw Oni/Mgwg0U <= #dJvmEsgI oni/06tJCY <= #9*c/wk}d shJOni/oOc <= #?*cZa`{9 KYoni/vfTQ <= #OssOvg'* fXOni/2U8o <= #g!#mSu;8 LhONI/Haxs <= #8CaV:}}m EbGqoni/VI <= #TCafS'j2 sOni/rhpSg <= #UCaz0i~+ GOni/FFF0M <= #Q4r4MpfH dPConi/a/I <= #R4rMTh~) X/NyIOni/E <= #eEl8DAfx oni/bfPLYQ <= #(ElN^K^7
660 :
ターメリック :2008/02/20(水) 01:50:04 ID:7GpDrMn7
一生強制労働の奴隷とかも、心の持ちようで平安になれるのかね
661 :
神も仏も名無しさん :2008/02/20(水) 05:59:19 ID:3uFsza4J
>660 古代(いにしえ)のユダヤの人々ー心の持ちようで平安を護持する律法が生成された ユダヤの教え、人としての教え。
662 :
神も仏も名無しさん :2008/02/20(水) 20:04:08 ID:ENDd/EXF
現代では労働者が給与を貰わないと働かないように、欲求がないと世の中うまくいかない。 「目には目を、歯には歯を」で、盗られたものを取り返す執着などがあって法律が生まれた だろうし、煩悩がまるで役に立たないというものではない。 相手が強すぎて抵抗しても無駄な場合や、臆病で抵抗できない場合、めんどくさい場合、 あきらめのほうが善いと教え聞かされて、そのまま忘れ去っても、それはそれで済むことだ から問題ないということだと思う。 世の中には強い者、弱い者がいて、弱い者が強い者に向かって敵意や憎しみを持っても仕方 がないという教えに納得すれば、弱い者も平和に生きて行けるということだろう。 昔の宗教の教えは、強制ではなく知識・知恵を与えようとしたんだと思う。
663 :
神も仏も名無しさん :2008/02/20(水) 20:31:31 ID:/y4djgc8
>>662 おお君よ、何たる間違い!
世界は、この世界とは自分をも含めた一切の事象を言うのだが、全て縁起しているだけの幻である。
自性あるものとして、あるものはないのである。自分の命など無いのである。
にもかかわらず、今仮に何かがあると思うと、それに縁起してあらゆる事象が生じるのである、しかし、それは幻なのだ。
何かがあると思うのは、執着なのだ。執着心が事象を創り上げているのだ。執着心が有る限り
幻の世界は消滅しないのである。しかし真実を知れ!一切は空相なのだ。全体でも空相なんだ。
かかる真実の為に、ものを追求しない、又は、執着心を起こさないようにせよ、というのが
仏教なんだ。この道理:真理をよくよく知るべきである。あなかしこ、あなかしこ。
664 :
神も仏も名無しさん :2008/02/20(水) 20:57:07 ID:/y4djgc8
これはキリスト教でも同じ真理なのだ。執着心を起こさないで、神の国を求めよ。 神の国は空相なんだ。そこにはこの世の苦しみは無い。幻は苦しみなのだ。
665 :
神も仏も名無しさん :2008/02/20(水) 21:46:53 ID:5Nz1DJCF
宇宙は神の表現体で、幸せに生きて人生修行している人と、 苦しみにまみれて人生修行している人と、 好む教えが違うのかもしれません。 宗教はよりどりみどりでバリエーション豊富。 好きな宗教が、その人の真実の宗教。 真理はいつか知ることができるものかもしれません。
666 :
神も仏も名無しさん :2008/02/20(水) 21:52:17 ID:/y4djgc8
>>658 >>で、それが何の役に立つ?
役とは利益の事ですか?
見苦しいぞ・・・
>>663 >>執着心が有る限り幻の世界は消滅しないのである。
それが仏教の邪道なんです。
消滅の必要なんて無いんです。
ありのままが真実なんです。
物質世界(宇宙)は神の心の現われであるからして、消滅の必要がないのです。
真の善と理法は物質を媒体として顕現するのである。 神の公正は物を否定した場合、喪失する。 例えば欲望を悪と云うが、欲望や情欲なるものは神の与えしもので、これは本来善である。 これを否定した場合、人類の存続は無い。 愚か者はこれに執し、これをやたら規制しようとする。 天界の高低と理法をこの世で顕すものはこの欲望なのである。 すなわち神の公正と理法という最も高きものをこの世で表すものは、 最も低きこの物質なのである、ここに嘘はない。 苦の生成の原因は欲望のせいではなく、自己の神の善を知らぬ霊的未熟にある。 これゆえに宗教家(釈迦)は欲望を捨てよ、自我を捨てよ等言い、苦を欲望や自我のせいにしてきたのである。 これでは全人類を真に生かしている「神の理法」が顕現しない。 欲を否定する者は力と数、都合とエゴ、「虚栄の善」の統治をしている。 信仰による万物肯定の道とは云えぬ。
670 :
神も仏も名無しさん :2008/02/20(水) 23:03:15 ID:ylZjYZ4M
欲望があって活動するし、仕事も楽しみがあってストレスを発散できる。 楽しいことを目標にして、意味の無い悪をしないようにする。 楽しいことを抑制された人生は暗い。欲望を抑えつけて自分たちだけが 素晴らしいとしないといけなくなるから、エゴとなって他人を軽蔑する。 できる範囲で楽しみなさいという宗教があるといいな。 景気もよくなり、世の中暗くならないだろうし。
671 :
神も仏も名無しさん :2008/02/21(木) 00:05:05 ID:1swj2Qx9
>>669 欲望イコール苦痛です。
快楽とかは、後天的に身に付ける概念。
生まれてまもない赤ちゃんを見てください。
欲望が発生したときには泣くのです。
欲望がある=満たされていない=苦痛がある
なのです。
お腹がすいたという苦痛と、オッパイ飲みたいという欲望は、セットです。
お腹がすいたという苦痛がない時には、
オッパイ飲みたいという欲望もない。
欲望が苦痛の原因というよりも、苦痛が欲望として現れるのです。
苦痛がない者ほど欲望も無いのです。
完全に苦痛がない者には、欲望も全くないのです。
672 :
神も仏も名無しさん :2008/02/21(木) 00:09:15 ID:1swj2Qx9
>>670 「欲望があって活動する」というのは、そのとおり。
で、欲望の正体は苦痛ですから、
「苦痛があって活動する」ということなのです。
活動する者には苦痛がある。
苦痛がなくなれば、活動する必要がない。
赤ちゃんは、苦痛がありるときは欲望と怒りで泣く。
苦痛がなくなり欲望と怒りがなくなれば、静かに眠るだけ。
673 :
ターメリック :2008/02/21(木) 01:50:56 ID:S5WPOiZ/
活動するな。ということか。
674 :
神も仏も名無しさん :2008/02/21(木) 08:18:55 ID:1swj2Qx9
>>673 活動のエネルギー源となる苦痛の発生を、防ぐようにする。
675 :
神も仏も名無しさん :2008/02/21(木) 20:00:49 ID:8yaaS00Y
仏教も偏ってしまうとおかしな教えになる。 言葉や行いで善いことをすれば、食料・飲料・衣服・乗り物・芳香・塗料 住居などに困らない生活を営めると説かれる。邪まな見解を捨て去った人 には、善きところに生まれると。 修行僧の修行も限定的で、「いつごろまの修行者の行い」を説き、死ぬま でせよとは説いていない経典もある。 片方で幸せな生活を説き、妻子を捨ててまで修行をして、「独り子を命を 賭けても護るような慈しみ」を説く。 世捨て人となって欲望を制する修行は、仏の教えの一部。
676 :
ターメリック :2008/02/21(木) 22:17:05 ID:S5WPOiZ/
中途半端に世を捨てるより、死んで完全に世を捨ててしまえばいいんじゃないの
677 :
神も仏も名無しさん :2008/02/21(木) 23:00:18 ID:J7TtkgBs
>>675 凡人は、縁起しているものに執着して、苦しみを受けているが、それは好んでそのようにしているわけではない。
即ち、もし目の前に、ニルバーナへに道を示されたなら、そしてそれをよく理解し、その道を選択できる境地に置かれるなら、
それでも、その道を選択しないと言う自由権を行使している訳ではないのである。
ニルバーナを求めていながら、地獄への道を選んでいるのだと思う。ここに慈しみを説く根拠があるのではないだろうか?
しかし、一方、この世で良い目にあっている人々もいるのである。そのような人々は、なかなかニルバーナへの道に興味を示さないだろう。
今得ている教遇で充分だと思っているからである。これが増長満の部類に入る人々である。それでもこの人達もニルバーナを求めている。
このニルバーナを求める心が、ぼさつ仏と一体である証拠であると思う。菩薩仏は、自存
者として空相なのであるから、凡夫の真実の姿である空相を自分として見るのである。凡夫の苦しみは
自分の苦しみであり、自分だけが、その苦しみから解脱させる事が出来るのである。
ここに慈悲喜捨が生じるのは自然ではアルマイカ?
678 :
神も仏も名無しさん :2008/02/21(木) 23:07:05 ID:uHnkb/he
苦しみの彼岸だからねえ。彼岸は方便だろうよ。 自分の子供には、良い贈り物をするのに、悪い贈り物をするとすれば 死んだふりの生き方さえも考えなきゃねえ。
679 :
神も仏も名無しさん :2008/02/21(木) 23:08:36 ID:J7TtkgBs
680 :
神も仏も名無しさん :2008/02/22(金) 21:05:10 ID:5BkVYXSq
>>676 世界の中には人里離れた所で暮らし、家族とも死に別れ独りで暮らす人もいるはず。
一切の人々を慈しんだ仏教の開祖は、労働者から金品を得て衣食住を十分満たすことをしなかった。
自ら最も貧しい人となり、それでも苦悩や迷いない人であることを示したわけだ。
財産のある人には自分のように貧しくなれと言わず、かえって自分や家族・父母を楽しませ喜ばせな
いと財産は持って帰ることができないものだから、愚劣で正しく物事を考えることができない人と教
える。欲望を否定したわけではないのだ。人を尊重せず、目の前の人が飢えているのに助けないこと
が悪なのであると。
何かの素晴らしい目的に囚われ、妻子を愛さず妻子を捨てたならば、世の中を捨て去り欲望も一切満
たされない世捨て人となって修行することがふさわしい。慈悲のかけらも無い人は、静かにそっと生
きることも世のためであり、世の中を耐え忍ぶことをしないで苦悩から逃れられるので、その人のた
めでもあり一石二鳥なのである。
普通は、自分のために働いてよくしてくれる偶像なる神(依存できる神)はいないから、供え物や長々
と何かを唱えず、世間と交際を交わし、何らかの施与(労働でもして与えて)苦楽ある世の中を耐え忍
んで生きる道を歩む。決して目的のために無慈悲で冷酷・残忍になってはいけない。怒っても、憎んで
も、怨んでも幸せにならないであろうと思慮ある人はそれらを慎むし、一時的な感情のために行為に及
ぶならば、取り返しのつかないことにもなりかねない。
自分の心を制することができる人は、世の中を災い多きものとせず歩む。
681 :
神も仏も名無しさん :2008/02/22(金) 22:27:12 ID:LuLPzKVe
信仰により御利益や環境が変わりそうな偶像礼拝者に対し、 彼岸を建前に静かな自然の中で目覚めさせ、何もなくても生きて行ける姿を見せた。 「彼岸は苦悩なき幸せ」から、「苦しみの彼岸」と変貌させ、 どんな環境にも耐えて生きること、人の言葉や行いによって世の中がよくなること、 耐えて努力して生きることで利益ありを教えた。 「苦しみの彼岸」だから、彼岸は人々を調教するまでの仮の目標。つまり方便だろう。
682 :
神も仏も名無しさん :2008/02/23(土) 07:55:57 ID:fzdQWugK
苦しみの彼岸か?方便としても、チョットな。 寧ろ、苦を滅する方法:方便、ではなかったか?
683 :
神も仏も名無しさん :2008/02/23(土) 11:41:09 ID:duXO+TKg
法を説く 世の中の苦しみから逃れたい、妻子に対する愛もない、彼岸は苦しみとは感じない。 人里離れた所で住み、世の人々と交際を交わさず、情欲を抑制する修行をする。 労働もせず、他人から貪らない。物欲もないし無所有で暮らす。享楽もない。 「人々から遠ざかり離れようとして安らぎを求めている人は、外に向かって揺れ 動いてはいけない。人々に対する欲望を制しなさい。」 世の中の苦しみから逃れたいと思わず、財産あり、或いは働いて財を得て、自らを 楽しませたり、妻子を楽しませ、父母を養い、邪まな見解を抱かず人を尊重して、 目の前の飢えた人を助けたり、死ぬのは苦しみであると心得て、慈しみのこころあ り他人の命を尊重する人々―世間にあって人から非難されない人。 働いて財もあるのに、享楽などを否定するのは、迷いや虚無的な思想に陥り苦 悩を生み出す。釈迦の教えはそんな教えではない。離欲と彼岸を求める人は、 世の人々と交際を交わさず、社会にはいない。
684 :
神も仏も名無しさん :2008/02/23(土) 15:12:08 ID:DW6doZeS
肝心なことは、世の苦悩から逃れようとしたり御利益的な信仰があった時代に、 偶像を抱ける神などいない、正直に世の中の悩みを取り除く方法を教えたことだ な。素直に世の中のことから離れること、或いは耐え忍ぶしかないと。
>>672 釈迦の理屈は暗い人生観でしかない。
欲望の正体は苦痛ではなく、生きる勇気と希望なんです。
686 :
神も仏も名無しさん :2008/02/23(土) 20:37:27 ID:fzdQWugK
誰かイエスの犠牲が人を救うと言う理屈を説明できる人いないかな? オレ、解らないのだ。
687 :
神も仏も名無しさん :2008/02/23(土) 22:30:42 ID:pxwAm8Vs
>686 神に義とされるのは世の創め。 神のもので全て満足した。最初の人も上の思いしかなかった。 怒り無く、情欲も無く、誓い無く、善悪なく悪人に手向かうことも無い。温順で逆らうこと 無く、自分の持ち物という執着も無い。敵意も憎しみも無い。正しい正しくないという判断 も無い。肉欲の自分という執着も無い。財を蓄えようとすることも無い。食べようか飲もう か着ようかという思いも無い。あすのことを思いわずらうことも無い。人をさばくことも無 く、罪に定めることも無く、責め立てることも無い。自分と他人、敵味方という分別も無い。 男女の性差という意識も無く、判断も無く、賢くも無い・・・・・。 今の人間にあることが無かっただろう。全てが公平な世界を尊重していただろうし、平安で 安らぎに満足していただろう。全てが幸せで、誰かが苦しみ悩むこと、困難な状況であるこ とを厭い、慈悲深い神とともに同じ思いで海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、 地のすべての這うものとを治めさせようとした。 最初の被造物である人には、何も無くても慈悲だけがあったが、人は賢くなり働いて食べる こと飲むこと着ることなどを自らの手で得る道を選んだから、その罪をゆるし、悪い者であ っても御言を受け入れることで、賢くなった人が地上を治められるようにした。 地の肉欲の思いと天の思いとを一つにして、終わりの日まで保っていなさいという神のゆる し。最後には肉欲の思いのままでいる者は滅び、あわれみのわざ、この世の苦難を無くする 慈悲深い神を受け入れる心だけが天国に入るのである。
688 :
神も仏も名無しさん :2008/02/23(土) 22:37:47 ID:sIgsC591
釈迦はひとりよがりな逃げじゃないのかな。 みんなが釈迦と同じ行動をしたら世の中どうなる?
まずは、釈迦は偉大なんだと云う先入観を捨てねばならんでしょう。
690 :
神も仏も名無しさん :2008/02/23(土) 23:25:19 ID:Cxj1txZf
>>685 希望の裏には絶望もある。
希望がなければ絶望もない。
肉体的に考えても、
すべての刺激は細胞の「痛み」の強弱にすぎない。
つまり、苦痛の強弱を情報化して、
快楽や希望という幻を見てるだけ。
まず、すべての刺激は苦痛のバリエーションの違いだけだと、
事実確認から入りましょう。
691 :
神も仏も名無しさん :2008/02/23(土) 23:31:28 ID:Cxj1txZf
>>688 平安な人生になる。
貧乏な人は貧乏なままでも平安を感じるし、
金持ちの人は財産を惜しまず他人のために使うし、
病気の人は病気のままでも平安を感じるし、
健康な人は能力を惜しまず他者の苦悩を減らすために活動する。
過去を悔やまず未来を妄想せず、
瞬間瞬間に、「今・ここ」の現実に平安を見い出す。
できることをできる分だけ気楽にやって、
風のように吹き抜けるだけ。
>>690 >>691 人間を物質と見做す愚かな思想に過ぎない。
現実逃避の自己催眠でバカボンの妄想主義である。
人間らしく生きなよっ・・・
693 :
神も仏も名無しさん :2008/02/24(日) 00:40:22 ID:7fGXVsPd
>>692 「人間らしい」生き方とは何でしょうか?
悩み苦しみの原因を見つめて、
悩み苦しみをなくすために具体的な方法を行うことは、
人間らしくないのでしょうか?
>>693 ですから、その解決手段が人間性の物質化である為に邪道なのです。
悩み苦しみは人生修行には付き物です。
悩み苦しみだけではなく幸福もあるでしょう。
苦楽を受け入れる事こそ人生の意義なのです。
この世で生きている限り、悩み苦しみをなくす具体的な方法等存在しません。
で、両者の共通点で、両者以外には見られない (常識や道徳や他の宗教の狭義などに反する) ような特徴を前提にしなければ話が始まらない、 というスタート地点はどこからなのか知りたい。
イエスとブッダの共通点は皆無です。
ごめん、狭義じゃなくて教義だw 空の定義とかにIME使ったから。 ごめんなさい。 空の代表は有で有無までは含む でも無は空に含まれない、の解説 に広義と狭義の区別が必要だった、 というしだい。 含意はありませんw ただの打ち間違いです。
っ善の選択の否定 長文ごめんね ナザレのイエスというかこの場合 史実のガリラヤのヨシュア自身は ユダヤ教の神の否定者ではない。 よって善を選択することへの否定は 何らかの形で継承しているとしてよい。 仏教は広義の善の持つ全域順序性 (上下型)価値尺度を制限している。 漢字で書くと「正」(ちょうどぴったり)、 など別の評価尺度を推奨するなど。 両者が順序性の象徴としての大蛇を 共有しながら、その退場と登場に対し 別のアプローチを取った点は違うが、 ギリシャ系星座として残っているもの なら、今もぐぐれば見られるはずだ。 (Draco座。日蓮のいう伝教大師、 八部衆の大蛇の星座。≠龍) 虚空会は仏教作の星座ではないし、 HeavenlyHost象徴体系も違う。 たんなるギリシャ系星座体系だ。 それぞれの経典に出るのは単に 広く知られ馴染みがあったからで、 教義ではないが、それで喩えられた 善の上下性への服従の制限は共通。 まぁイデア論などのギリシャの文化 (三つの時制:過来如来未来など)が 渡った地域なら評価尺度の構造が 複数あるのは普通のことなんだが。
699 :
神も仏も名無しさん :2008/02/24(日) 09:20:13 ID:6/59eM8F
>>699 イエスは神への信仰の教えですが、
釈迦(原始仏教)は神を認めない唯物の教えを展開したのです。
人生の目的をイエスは神、釈迦は消滅としたのです。
701 :
神も仏も名無しさん :2008/02/24(日) 10:38:07 ID:6/59eM8F
>>700 釈迦は神を認めない唯物の教え、と言われるなら、釈迦は神をどのようなものとして、観ていたのでしょうか?
その神とイエスの神とはどのような関係にあるのでしょうか?
>>701 釈迦は一生懸命に自分が偉くないたいので、
神を認める等とは考えなかったのです。
それ故に仏陀再誕の大川隆法は神を冒涜して自分の黄金の写真を100万で販売して 信者に拝ませております。
>>699 「あまりいじめるな…」
(かれいどすたーふぁんぶっくから)
ギリシャからローマを通じ英語などに
採用されたアルファベットの字形は、
その故郷アナトリアと関係の深い隣国、
古代エジプトまで遡ることができる。
古代エジプトでは日常語に近い
『カー』の古代ギリシャ語訳が『イデア』、
今の英語の『アイデア』などの語源だ。
『カー』〜『イデア』はどちらかといえば
(価値観の枠組の構造の分類としては)
簡単なものだから、いまきたさんぎょう!
美のイデアは「少ないのがいい」
善のイデアは「大きいのがいい」
真のイデアは「ぴったりがいい」
今の日本で本来の過来・如来・未来でなく
過去・現在・未来の名前になっているのは、
それらを聞き分ける側にとってそれぞれに
共通の文字、「被り」がない方がいいから。
漢字の『美』は太った羊(家畜)。
少ない餌や手間・費用で太ると嬉しい。
英語のBEATIFULには「うまくいった」
などの成功の意味でも良く使われる。
現在(如来)から過去(過来)を見るのが
「過来の(持ち)主」としての視点。
感覚対象の近似の誤差、目標へ到達する
までの距離、成功までの時間や費用。
ずれやコストが少なくすむのがよい。
705 :
神も仏も名無しさん :2008/02/24(日) 11:19:42 ID:7fGXVsPd
>>694 幸福は消さず、悩み苦しみを消せばよいでしょう。
過来と如来と未来の主(事実上の共通称号)のうち 残りの二つの方が多分かんたんだと思う。 古代エジプト語だと『ラー』(王)の『カー』とも呼ぶ 『マート』は、真理というよりは(社会)正義だ。 経済関係において、お釣りとして生産されるのは、 買掛金と売掛金、権利と義務の相互裏打ち関係だ。 単語は語義=適用範囲が広すぎると何も表せず、 狭すぎると使いたい場面で使えなくなってしまう。 表現はオーバー過ぎても控えめすぎても困る。 それらは対等な相互関係、ちょうどぴったりがいい。 現在と現在との関係の場合は対等が基本になる。 (権という文字は「仮・借り」を表す⇔義は「貸し」) 未来は変化法則=力学の基礎から見たほうがいい。 相対性原理とは、空間とも呼ばれる全体の順序性は、 その一種ごとに対応する力学法則と等しいということ。 量子力学では各種の変化の法則=全体順序性を その構造を表す数学用語=群の分類で表現する。 人の心なら変化の法則は広義の善=善のイデア、 漢字の徳または英語/宗教用語のVIRTUE、 力量(原因)/狭義の善:全体へ平均にという平等 (結果)/そして忠(対応)と情(報酬)の四つ。 (忠は内と外の境界、情は中心からの方向性) 全体が同じ順序性を保つ一番簡単な価値構造だ。 →徳やVIRTUEの語義はそういう広がりを持つ。 「力も善も一緒」は日本人には大雑把すぎるかも? (現在から未来へ自他を変える力としては同じ) 正確には十二支(縁起)の子は二者間関係だから、 十基幹契約第五「木星」等価交換=小自在天 (琴座環状星雲)を経て全順序性=大自在天 (蛇遣い座)まで組む…そこまで詳しくはいらない?
ギリシャ哲学の影響無しで史実のイエスの発言は語れず、 古代ギリシャ系(つまりアラブ経由で現在の)星座体系の 虚空会や、古代ギリシャの哲学者ガレノス学説そのものの 法華経の一節などを理解するのは難しい。経典自体は、 人類共通の生命法則の記述の適正さを魅力として広まる から、ある意味簡単だ(どこでも実例を見られるから)。 難しいのは当時は常識または流行した説・説話だったから いちいち宗教文献としては採用しない星座などのお話だ。 当時の宗教以前の前提としてそれぞれの宗教の経典には あたりまえのように説明抜きで登場する。現代日本人には 必ずしもあたりまえじゃないのは実感できたと思う。 共通の前提を足場にすることなく何も比較は出来ない。 したがって、どちらの宗教の内部の視点も使えないし、 ましてやそれぞれの宗教の信者が自分達の宗教として 述べた内容はまったく役に立たない。善として価値が あるだろうが、対話に使う語義正当性=正義にはならないし、 それぞれの「方言」に付き合わされる聞き手の費用対効果 =美(達成)のイデアの価値からはもう問題外と言える。 私の解説はへぼ(聞き手にとって不利益)だが、何が同じで 何が違うかの理解の材料になってくれればいいと思う。 善は個人または集団の内部の選択基準としての価値だ。 だから必ず食い違う。善は対話の時には引っ込むのが良い。 (対話以外の、それぞれがどう振舞うかは広義の善で決まる。 目的が決まれば効率が良い手段や道具がいいけれど…。) 長文すみません。素だと丁寧すぎて話がもっと長いので、 意図的に断定や「だ・である」口調にしています。失礼しました。 ・・・くれぐれも個々の宗教や個人の内からの善を対話には 持ち込まないでね。不快感などの感覚の方がまだましだから。
708 :
神も仏も名無しさん :2008/02/24(日) 12:15:02 ID:hhV7ugeQ
どちらも偶像礼拝の肉欲信仰を滅ぼそうとした。 釈迦は神=偶像を抱きやすい存在として、あえて神という名称を捨てた。 しかし、釈迦の教えを信じる者は「人間の身体を捨てた後では、神の身体を満たすであろう」と。 イエスは命乞いをしても助ける神はいないとして、偶像による御利益信仰を捨て去るように教えた。 修行を完成させ平安の境地に達して、一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれ、一切に敵意なき怨みなき慈しみ を行うべし。(釈迦) 敵を愛し憎む者に親切にせよ。人によくしてやり何も当てにしないで貸してやれ。いと高き者は恩を知らぬ者にも悪人にもなさけ深い から、あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。(イエス) 地上の思いによって焼かれ滅ぼされる人もいれば、「人によくしてやり何も当てにしないで貸してやる」ことは善いことだと受け入れら れる人もいる。それは神にあり、その人に永遠に生きる実があって、偶像礼拝より善いことだと受け入れられるのであって、身体を捨て た後には、全てを幸福に安穏に安楽に平安に地上の物への愛着もなく、貪りもなく、明日のことへの思いわずらいもなく、安らぎを与え て下さる神と神を受け入れる心となる。地上で教え、御言を受け入れた人はそのまま永遠に至る。
地の子である人類の最大の幸福は自由、 最良の補完要素は愛、どちらも正義系。 代わりが効くもの=(等価交換による) 上下に順序化された評価尺度である (広義の)善は自他問わず人に向けては …まぁ、実感がないか…まず感性からか。 視点の違いが理解できる段階への案内は 私にはできないから、善や正義については わからないなら他の人に聞いてください。 直訳の世界から出たくないなら…史実の =現実の人間の話をしないのは正解だよ。 誰かの解釈の話は前提には使えない、 もし論理合理的な検証ができないものなら。 話者同士の「同じである部分」はお互いの つながりにはならない、やめた方がいい。 それだけの前提が求められる立場なら 無知無能は言い訳にはならない。 でもそうでなければただの噂、世間話だ。 ひまつぶし以上のものは何もない。 …ああ、そちらの選択はそちらの善の話 だから、黙ろう。もし選択肢の実現に必要な 自由度があるならだけど。各宗教からの 視点は選べてる…ようには見えないよ? 史実上の人物からと各宗教の各派からと 自身からの視野と優先順位の違いは何? どちらも特定宗派の証言は当てにならない、 インド周辺の、パキスタン(ガンダーラ)など インドとは対立してきた諸民族の一人に 対する証言を、彼を師とする仏教を捨てて 採用しなかった国インドの証言はさらに…。
710 :
神も仏も名無しさん :2008/02/24(日) 14:04:58 ID:8FWSfBY5
困難や苦難もなくされる慈悲深い天の父(神)を永遠の真理・真実として、 信仰を増そうとするなら人によくしてやることは善いことだとして、人と して思わないといけないのに、 お釈迦様は世のことへの執着・自己のこだわりへの執着を少なくするため に修行をさせてから、慈しみを崇高と説いたから、世の中を離れられない 人々は、逆に迷ってしまったのかもしれませんね。 イエス・キリストは自分を信じて話せばわかるとされた。
711 :
神も仏も名無しさん :2008/02/24(日) 16:37:00 ID:ZD8NX87F
諸行無常・一切皆苦・諸法非我、安らぎは虚妄ならざる真理 平安の境地、一切の幸福と安穏と安楽なる境地 この世のものへの思いは滅びる性質のもので、平安と安らぎにより永遠 愚鈍なる者はそれがわからないでいた
ブッダは、この世のすべてのものは無常にして結局破壊にいたってしまうものに過ぎないのに、 そのことを理解せずそれに執着してしまうことから人の悲しみや苦しみが生じると考えました。 そのために、「定恒永住にして、変易せざるものは、この世には存しないのである」という 理解を徹底すること(覚り)によって執着心をなくし、 執着心が無くなればひとは苦しみから解放される(解脱)と考えたのです。 これは間違いです。 真の善と理法は物質(この世)を媒体として顕現するのである。 神の公正は物を否定した場合、喪失する。 例えば欲望を悪と云うが、欲望や情欲なるものは神の与えしもので、これは本来善である。 これを否定した場合、人類の存続は無い。愚か者はこれに執し、これをやたら規制しようとする。 天界の高低と理法をこの世で顕すものはこの欲望なのである。 すなわち神の公正と理法という最も高きものをこの世で表すものは、 最も低きこの物質なのである、ここに嘘はない。 苦しみの生成の原因は欲望のせいではなく、自己の神の善を知らぬ霊的未熟にある。 これゆえに宗教家は欲望を捨てよ、自我を捨てよ等言い、悪を欲望や自我のせいにしてきたのである。 これでは全人類を真に生かしている「神の理法」が顕現しない。 欲を否定する者は力と数、都合とエゴ、「虚栄の善」の統治をしている。 信仰による万物肯定の道とは云えぬ。
713 :
神も仏も名無しさん :2008/02/24(日) 19:07:38 ID:6/59eM8F
マヨネーズの論は極めつくしていない。
714 :
神も仏も名無しさん :2008/02/24(日) 21:57:19 ID:QN4yPM1s
欲望に生きることは誰でもしていることだし、 宗教的立場でこの世の苦悩を持たない自分が真実の自身として教え、 苦悩を抱えている他人を助けることが理想的な人と教えること。 そういう宗教だったら、世の中に増えてもいいと思う。 肉欲にまみれた人間界に、上層部=永久的な世界の形を下ろすこ とが宗教的立場で、欲なことばかり考えず、誰でも苦悩を抱えま せんから、他人の苦悩を取り除くような善い心を持って生きれば 幸せな世界に行き着きますと。 できない人もいるから、心だけは善い思いでいなさいと。 多くの人に名の知れ渡った宗教開祖は、上の世界を知ってそれ を告げるために名を知れるようにした。それこそ神の摂理かも しれない。
715 :
神も仏も名無しさん :2008/02/24(日) 22:15:06 ID:6/59eM8F
縁起と空の理法は、世界の究極に到るまで通用している。 故に、人は、この理法を修行する時は、やはり、やり残しや、中途半端な思いでいては、 究極までを支配する理法に叶わないものとなり、成仏は出来ず、本来の平安は得られない。 一点のしみも瑕も無く、純一でなければならないのだ。一相無相空相とは、純一を意味する。
716 :
神も仏も名無しさん :2008/02/24(日) 22:21:54 ID:7fGXVsPd
>>712 欲望を与える神様は、仏教的には悪魔です。
あなたは悪魔を愛している。
717 :
神も仏も名無しさん :2008/02/24(日) 22:23:56 ID:6/59eM8F
真理真実と言うものは、必ず、この一相無相空相、唯一、純一、などの 理法を表現する言葉に到らなければならない。キリスト教も、ユダヤ教も、イスラム教も、 仏教も、この理法を言っている。この故に、仏教以外のこれらの宗教も真理真実に繫がるものであり、 仏教と同じ真理真実を共有していると、言うのである。 純一などの理法の言葉に至らない宗教は真理真実ではないのだ。
718 :
神も仏も名無しさん :2008/02/24(日) 23:09:34 ID:7fGXVsPd
>>717 一相無相空相を知った人は、どう変わるのでしょうか?
719 :
神も仏も名無しさん :2008/02/24(日) 23:31:49 ID:6/59eM8F
720 :
神も仏も名無しさん :2008/02/24(日) 23:34:51 ID:BwLiWwLP
>>718 なにもかわらない。
十ちゃんとカーちゃんがセックスして自分が生まれたことを知った後も別に何も変わらないだろ
それとまったく同じだぞ。
722 :
神も仏も名無しさん :2008/02/25(月) 21:59:10 ID:dGZYn93z
>>721 じゃあ、知的好奇心を満たすために宗教やってるの?
723 :
神も仏も名無しさん :2008/02/25(月) 22:07:27 ID:AgjapnZG
>>716 そうとは限らないぞ。
尊師は次のことを説いた。
「修行僧らよ。昔・・・天の五欲をさずけられ・・神々なる人々の住居である歓喜の園を見ない
人々は、真の楽しみを知らない。」
歓喜の園を説いた尊師は、神に「愚かな者よ。拝まれるべき人たち(聖者)がどのように説かれた
ということを知らない。」「諸々のつくられた事物は、すべて無常である・・それらの静まるのが
安楽である。」
この世でも五欲の対象を享受している人々は、自分を誇ってはならず、プライドを捨てて自分を低く
していることは理法。五欲の対象を享受していながら、自分は偉いとか、正しいとか思ってはいけな
い。聖者となって拝まれるべき人となるには、五欲の対象の享受を捨てて、つくられざるものの境地
を目指すべきである。
724 :
神も仏も名無しさん :2008/02/26(火) 23:19:26 ID:HHccgSUp
>>723 歓喜園の事を説いたのは尊師じゃないだろう?
725 :
神も仏も名無しさん :2008/02/27(水) 19:29:43 ID:6BFyt9C1
拝まれた釈迦は、無所有で欲望を制し、わずかな食物で暮らした。 諸行無常を示し、世の中も自身も我ならざるものと示し、貧しい人 や、苦悩を受けている人を慰めた。 この世にあるものを否定しなかった釈迦は、世の人々の欲望も否定 しなかった。行為と言葉と心を善くせよと教えた。 崇拝されるべき道のみが仏教ではないので、世の中に広まっても世 の中が破滅することはないのが釈迦の教え。
726 :
神も仏も名無しさん :2008/02/27(水) 19:31:28 ID:6BFyt9C1
釈迦は、自ら天に生まれることを否定し、人々には天に生まれる ことができる道を説いた。
仏教の問題点は「厭世(えんせい)観(かん)」です。 これは仏教の世界観の根幹と深く関わっておりますので、この訂正はもはや仏教では 歴史の重みから見て不可能であろうと思われます。 間違っていても訂正できない理由は、歴史と時間の重みです。 仏教ではこの世を六道世界の一つ、すなわち迷いの一世界とみなしておりますので、 この世に生まれること自体が悟っていない証拠であり、苦界に転生すること自体が 迷いの姿なわけですから、この世を否定して,六道輪廻を抜け、極楽浄土に入らなければならない。 またこれが仏教の全体の目的となっており、そのために各経典が編纂されてきたわけですから、 この世を忌避して厭世観となるのは、その世界観から見て必然的なことであろうと思われます。 この世に生きること自体が苦であり、この世は肯定すべきものではなく、むしろ否定して修行し、 早急に極楽浄土の仏陀の世界に入らなければならないと説いているのが仏教ですから、 この世否定は必然となます。 唯一、法華経のみがこの世に仏国土(極楽浄土)を建設しようとしておりますが、神理上は不十分です。 「無明縁起説」を見ましても、これは六道世界の世界観と深く関わっており、 この世はもともとが迷いの一世界なわけですから、造物主のような存在が宇宙を創造したのではない。
無明、すなわち無知と迷いが縁起して宇宙は創造されたとする解釈以外は成り立たないのです。 迷いの世界であり、苦界に過ぎないこの世を肯定する根拠は、仏教の世界観からいってないわけです。 また釈迦自身も四諦で見ましたように人生の本質を苦と見ていた。 これが「厭世観」の原因です。 キリスト教の「造物主」の概念と対立する概念がこの迷いの宇宙創造説である「無明縁起説」です。、 「無明縁起説」は間違いで、光明が縁起して宇宙は創造されたとする「光明縁起説」が正解であるというのも、 現代では説けますけれども、仏教とその歴史の中では、もはや訂正はできないであろうということです。 すなわち「厭世観」の訂正はできないということです。 これが既存宗教がその役割を既に終えている理由の一つであり、 新たな法を説いていかなければならない大きな理由と言えます。 既存宗教の法では地球を救えないのです。
仏教の問題点はその世界観そのものです。 これは霊能力を基礎とした霊的知覚能力の限界性から生じた世界観であり、 確かに霊視をすればあの世があり、天界があり修羅界、畜生界等々がある。 ところが霊的知覚能力に限界、いわゆる悟りの未熟がありますと霊視で見たことを そのまま実在の世界のように説いてしまう場合があります。 例えば畜生界を霊視で見て、そこに牛がいるとする。 しかしてよくよく見てみると、どうやらこの牛はもとは人間だったらしいと認識しますと、 畜生界に人間が転生している、あるいは人間は牛やロバに生まれ変わるといった思想を説いたりするということです。 これは霊的知覚能力と悟りの欠如から説かれてきた世界観であり、実際とは違います。 近代、神理を学んできた人は知っていると思いますが、六道世界は神理上、存在しません。 修羅界、地獄界、畜生界等々、霊視で見て存在するのだと言われる方もいるかもしれませんが、 実在、すなわち神の心の観点から述べますと存在しておりません。
たとえ霊視で地獄界が存在していたとしても、それは心で創造した偽創造の世界ですから、 実在の見地からは認められません。 地獄界は心で創造することもできれば、破壊することもできる。 宇宙も神は創造もできれば破壊もできます。 この創造=破壊の理念が神理であり人間生命の本質ですから、世界観としては六道世界も極楽浄土もありません。 仏教の世界観の本質は方便であり、この世において大衆を修行させる方便として 六道世界と極楽浄土の世界観を設定したと見ていいと思います。 この世で修行をしなければ来世、どのような世界が待っているかを六道世界の「ムチ」で教え、 修行して解脱すればどのような世界が待っているかを教えるために極楽浄土の世界を設定したということです。 ところが実際は両世界は存在しておりません。 実在としてはないということです。
731 :
神も仏も名無しさん :2008/02/27(水) 22:32:11 ID:vZWEODQB
極楽をめざすのは一部の宗派。 仏教がめざすのは涅槃。
仏教の三つ目の問題点は、 迷いと煩悩の六道輪廻の世界と悟りと仏陀の極楽浄土の世界の関係が一方通行であり、 解脱して仏陀となり、悟りましたら、二度とこの世に転生することはないと説かれている点です。 仏陀の世界とは一切の迷いと煩悩から開放された悟りの世界であり、ここの住人は二度と苦界であるこの世に 転生しないと説かれておりますが、実際はこの世は苦界でもなく、迷いの世界でもありませんので、転生してきます。 地球系で最上位の世界では、確かにこの世を卒業しておりますので、この世に生まれるという選択は自由です。 しかしてその下の菩薩界以下の住人になりますと、まだこの世の修行を卒業しておりませんので、 強制的に生まれることになります。 この自由意志の選択にゆだねられている部分を見て、仏陀は二度と生まれ変わらないと説いてきたのだと思いますが、 実際は最上位の霊神も自由選択ではありますが結果としてこの世に肉体を持たざるを得ないというのが実情です。 というのはこの世を下の霊にだけ任せておりますと、この世の霊的進化が異常に遅延し、 腐敗も昂進していきますので、結果としてこの世の混乱と地獄界の増大が恒常化してくるためです。 この世を縁として腐敗と地獄の増大が現象化され、その増大した地獄界の連中も、 またこの世に影響を与えてきますので、ますますこの世を縁として腐敗が進行していくわけです。 従って結果として確かにこの世に生まれるのは自由であるけれども、 結果としては如来であっても生まれざるを得ないというのが実情です。 すなわち六道輪廻の世界から仏陀の世界へは一方通行ではなく、悟って最上位の霊域に帰天しても、 結果としてはこの世に生まれざるを得ないということです。
この世とあの世は無関係な世界ではなく、密接に関係しておりますので、悟った世界に入ったのだから、 後はこの世を放っておけば問題はないというものでもないということです。 もちろん仏教で言う極楽浄土はあの世のことを指しているわけではなく、 この世でもあの世でもない世界のことを言っています。 仏がその自らの力で作り上げた世界を極楽浄土、いわゆる仏国土と言っています。 これは架空の概念です。 強いて言えば宇宙の外にある世界、あるいは平行宇宙(パラレルワールド)に存在する世界であり、 これは架空の概念ですから実在としては認められない。 我々の心と離れて存在する世界などは、我々とは没交渉の世界であって、 たとえ在っても認識しえない点、実在とは言えません。空想と断定して差し支(つか)えありません。 仏がその力でみずから作り上げた世界というならば、それはあの世の世界、生命の世界です。 二分法的に六道輪廻と極楽浄土の世界を設定し、両者の関係を一方通行として極楽浄土の世界は、 六道輪廻の世界とは無縁な世界と教えてきましたので、二分法的見地から矛盾が出てきたと捉えていいと思います。 迷いの世界とこの世、並びに霊天上界は相互に密接に関係しており、互いに無縁な世界とは言えません。 互いに関係しているのは、ひとつだからです。 二分法もまた方便と言えます。
734 :
神も仏も名無しさん :2008/02/27(水) 23:09:50 ID:e6Y4TNwM
いいとこ突いてるんだかよくわからんけど、仏陀のおそらく唯一の過ちというのは、厭世観とは自分の「価値観」にすぎないということを認めなかったことだな。 仏陀が説いたこの世の成り立ち(三法印)は真理なんだが、それを好ましく思うか、嫌だと思うかは個人の勝手な価値観に過ぎない。 インドの伝統においては厭世観を抱く事が常識であったせいで、仏陀もその価値観を受け継いでしまった。 この世を嫌って逃げ出したいと思うのが当たり前だと思い込んでしまったんだよ。 だが、その価値観の独善性(みんなも俺と同じ価値観だよな?)を除けば、仏陀の見出した真理は正しい。 六道輪廻もまるでそれが物質的存在として実在してると勘違いしてる人がいるけど、そうじゃなくてこの法界限定の内輪ルールなんだと理解できれば、おかしな話じゃない。 究極絶対的な創造主は縁起の法則からも否定されるが、この法界程度の創造主なら十分に許容範囲内。いてもOK。 したがって、キリスト教の創造主は仏教に含有しうる。
仏教の四つ目の問題点は、 キリスト教の問題点と同一ですが、やはり神の心そのもの、 すなわち神の善悪が正確に説かれていない点が上げられます。 換言すれば仏教ではその法の質が大乗止まりになっております。 小乗の教えがあり、大乗の民衆救済の教えが出てきて、それ以後も様々な教えが出てきたわけですが、 全てその神理が大乗の法で終了しているという点です。 では大乗を超えた法とは何で、大乗とそれを超越した法との相違は何かと問われた場合、 答えられないか理解できないものになっています。 大乗を超えた法とは天地創造の法のことを指します。 究極の正義とは天地創造の法、造物主の法のことを言います。 これが大乗を超えている絶対乗とも言える法です。
>>734 極楽は涅槃じゃないよ。輪廻の輪の中の一世界にすぎないんじゃないのか?
ただしく言えば、極楽浄土というのは阿弥陀如来の管轄する極楽の一つに過ぎない。
ほかにも浄土は多々存在してるんだから。
しかも極楽浄土とは、この穢土においては涅槃に入る修行なんかできない衆生が、来世では修行に専念し涅槃に入れるようにと阿弥陀如来が用意してくれただけの世界であって、永遠に滞在する場所じゃない。
涅槃ってのは、永遠なんだから。
この世そのもの、地球そのものが神の星となる質を有した法です。 仏教やキリスト教、その他の宗教ではこの天地創造の法が説けていないということです。 天地創造とは天であるあの世、地であるこの世を神の心のままに創造する法のことです。 絶対永遠の理法が文明と国家そのものに具体的に実現される法のことです。 これが大衆救済の大乗を超えた法です。 既存宗教では教祖の悟り不足から、どうしても大乗の法を超えられていないという不完全があります。 大乗とそれ以上の法の相違とは、大乗は大衆救済、すなわち自我の救済といった方便の域を出られないけれども、 大乗を超越した法となりますと、神そのものがこの世にあらわれた、 神の理法そのものがこの世にあらわれたといった法として出ます。 これが大乗とそれ以上の法との相違です。 大乗の法を超えた法とは、従って天地創造の法と言えます。 もっと具体的に言えば、神の法則、あるいは普遍的理法がそのまま出現する法ということです。
739 :
神も仏も名無しさん :2008/02/28(木) 00:34:25 ID:nGW+sjGy
>>734 まったく違います。
極楽とは、阿弥陀仏がいる場所の名前です。
涅槃とは、煩悩の火が吹き消されることです。
仮に極楽が実在するとしたら、
極楽に往ったほうが修行しやすいから、
涅槃に入りやすいのです。
740 :
神も仏も名無しさん :2008/02/28(木) 00:42:12 ID:nGW+sjGy
>>733 涅槃とは、煩悩がなくなること。
煩悩がなくなれば悩み苦しみもなくなる。
悩み苦しみがない人には、生命活動の必要がなくなる。
たとえば、空腹が苦痛だから食べずにはいられない。
食べたらその分また生きてしまうから、また空腹になる。
しかし、空腹でも悩み苦しみを抱かなくなれば、食べる必要がなくなる。
食べなければ、残されたエネルギーを使いきって去るのみ。
それでは、ブッダはなぜ、悟ったあとも食べて旅して教えを説いたのか?
それは簡単な話です。
「教えてください」と頼む人がいたから。
ブッダは、教えること、生きながらえることに対しても、
悩み苦しみがないから、
頼まれれば快く生きながらえて教えを説いた。
741 :
神も仏も名無しさん :2008/02/28(木) 00:46:13 ID:nGW+sjGy
大乗の菩薩の場合には、悟る前からあらかじめ、 悟ったら人々を指導する側になるぞと誓っておく。 だから、悟ってしまって、 生きる必要(生命活動しなくちゃならない苦しみ)がなくなっても、 事前に誓ったことだから実行する。
742 :
神も仏も名無しさん :2008/02/28(木) 02:56:48 ID:Olld/U/G
イエスとブッダの共通点とは?真理真実とは? 共通点はあるが 本質は真逆。 そこを見極めよう。 イエスは仮想を配り 釈迦は真理を明らかにする。 さあ果たして真理はどちらに。
743 :
神も仏も名無しさん :2008/02/28(木) 07:03:24 ID:jifjZY/6
>>742 このスレは、真逆を具体的に論ずるすれ。
イエスの仮想、釈迦の真理、だけでは、解らない。
744 :
神も仏も名無しさん :2008/02/28(木) 07:29:08 ID:jifjZY/6
>>738 無記についてのマールんキャップの教えを想起するな。
イエスは若い頃にインドで修行してたって、ほんとか?
746 :
神も仏も名無しさん :2008/02/28(木) 20:32:19 ID:5wkLy+7u
涅槃に至った者はいまだかつていないし、永遠に登場しないだろう。
過去の四聖人の神人合一、宇宙即我とてそれは神の一端に触れたに過ぎず、 神の爪のアカにも相当しないレベルでしかない事実を知るのである。 神の全体は人間に把握できるような小さな存在ではないのです。 四聖人とて神の偉大なおこぼれを頂いているに過ぎないのです。
地獄(苦)は欲望(執着)のせいではなく、自己の善的未熟である。 すなわち金や女の欲を満たしても地獄を創らない者がいる。 物質的欲望を超越し、物質を超えているものが生命の中心にある。 単に欲望を悪として否定していくなら人生上の諸問題について解答を与え得ない。 善的に成熟している者、いわゆる高い精神と善の自得を成就している者の場合、 欲望を満たしても地獄を創らない。この時、欲望や情欲は善となる。 すなわち地獄は欲望より生じるのでは無く、神の心への無知と未熟より生じているのです。 もし欲望を悪とするなら、富を避け女を避け権力、支配の一切を否定する「不自由」を実現することとなる。 この場合、悪から逃亡し、問題の解決から逃げる無責任者を生み天地をわけ自他をわけるエゴイストを 大量生産することになります。
749 :
神も仏も名無しさん :2008/02/29(金) 00:18:53 ID:CDmxt5qL
>>1 イエスとブッダの共通点?
母親の名前にきまってんじゃん。
750 :
神も仏も名無しさん :2008/02/29(金) 18:01:29 ID:uV2DM90T
>このスレは、真逆を具体的に論ずるすれ。 イエスの仮想、釈迦の真理、だけでは、解らない。 知らない人は、自分で調べなさい。
751 :
神も仏も名無しさん :2008/02/29(金) 19:39:39 ID:P3wczMRp
>>750 知ってんだ。真逆などではない。同一です。w
752 :
神も仏も名無しさん :2008/02/29(金) 20:57:41 ID:CLgdnJvy
>>742 釈迦も人々をあわれんだ。イエスも人々をあわれんだ。
一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しない。
釈迦もイエスも心の内にあるものは、慈しみや平安といった心。
自分のために教えを語ったのではなく、人々を慈しんで教えを語った。
修行僧は世の苦悩から離れるために、世から離れ平安の境地に達して慈しみ
を崇高な境地として得た。イエスは自分を信じて、自分を主よ主よと呼ばず
に慈悲深い者となれと教えた。
釈迦もイエスも仮想なんかじゃない。永遠を信じて宗教をする人々に対して、
肉欲のある人間は限定的な存在で、消え行く霧か泡沫のごとくと示し、
一切の幸せを思う慈悲のみで神または永遠に生きると説いたのだ。
全ての苦悩なき世界が永遠であるとして、この世でも苦しみ悩む人々に対して
あわれみ・慈しみ・他に対して寛容であることが永遠につながると説いたのだ。
>>752 釈迦は永遠ではなく消滅を人生の目的としたのでしょう。
あんた、間違ってますよ!
754 :
神も仏も名無しさん :2008/03/01(土) 00:15:05 ID:iRJxEV5n
>>753 「永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という二人の武家の王をほろぼし」
滅びて全く無くなるという見解を捨て、このような今現在の生存状態が永久であるという見解を捨て、
一切が幸福で安穏で安楽な平安の境地、安らぎを虚妄ならざる真理と説いた。
崇拝される者は、自分の地上のことに囚われず、上の境地に到達して、一切の生きとし生ける者の幸
福を願い、安穏と安楽な暮らしを思い、慈しみのこころづかいで教えを説いた。
修行者は妄執に導かれた世の中を捨て、慈しみのこころづかいをしっかり保って、自分をよくととの
えて自分の主となる。
信者に、冷酷・残忍・無慈悲な邪まな見解を捨て、怨みや憎しみ、敵意、怒りや他人の過失を探し求
めることを正しいこととせず、できればそれらを捨て去り、慈しみのこころづかいを持つようにと教
えたかったと考えられる。
「慈しみのこころづかい」は無用です。 神への信仰に於いてその様な事は超越するからです。
756 :
神も仏も名無しさん :2008/03/01(土) 12:33:04 ID:3GLkXkrO
「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と 言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。」 「『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、父の御旨を行う者だけ が、はいるのである。」(イエス) 神を信じても、不死の世界で完全に善くなれば神とも言わず、慈悲深い神とともに同じ 心となってしまうだけだから、慈悲をいと高き者、慈悲を崇高としない者は、偶像礼拝 やその他の宗教で殺す(魚を殺すために餌を投げ入れる)。 真理に基づく行為は世の中のどこにあっても違和感がない。他人から奇異に見られない。 人によくしてあげることなどを善いことだと思うこと、敵意や憎しみ・怨み・怒り、あやま ちをゆるさず、他人の過失を探し求めること、他人を見下すことを正しいことと思わず、 ただ黙って行っている人は、他人から奇異に見られない。 あれやこれやと考えて心乱さず、苦悩を受けても過ぎ去るものは虚妄であるといつまでもく よくよと悩むことなく忘れ去って、明るい心を取り戻すことを黙って行っている人は、奇異 に見られない。世の中で耐え切れない重荷を背負い、命を絶とうとするほどの苦悩に満ちた 生き方をするよりも、世も過ぎ去り自身も過ぎ去るものだから、上に義を求め、開き直って 思いわずらい少なく、耐えて生きる知識を身に着けた人は、それだけ永遠に近い。
757 :
神も仏も名無しさん :2008/03/01(土) 12:33:39 ID:3GLkXkrO
しかし、「何かを信じた人よ、それは地上で何かをしでかす存在である」と言いふらす人よ りも、いと高き者は「良い者にも悪人にも、正しい者にも正しくない者にも太陽を昇らせたり、 雨を降らせたりする存在」として、「善悪のはからいを捨て去ること」として、他人に対して 善い悪いを定めず、慈しみのこころづかいで忠告してあげる人のほうが、世の中のどこにあっ ても違和感がない。たとえば親が子にあなたの将来のためにならないから、世の中の幸福に役 立つ人となるようにしっかり勉強しなさいというように。会社の上司は、その人を雇って助か り幸せだと思うからその人を認めるし、会社は世の人々を不幸にし安穏安楽を奪うためにあれ ば、世の人々から受け入れられない。 神を信じることとは、神の摂理に基づき、世の中のどこにあっても違和感のない人に育て上げ ること。 何かを信じた、それは在ると言いふらしても、世の人々には奇異に見られるし、自分の信じた 信仰対象を世の中で言いふらしていることは、世の中では受け入れられない。 それは、神の摂理に反しているから。 良い信仰に基づく行為は、その教えを行っても、世の人々からかえって受け入れられ、多くの 人々は文句を言わない。 あなたの過失を探し求め、あなたを見下し、敵意や憎しみを抱いているよりも、あなたが困っ ている時に助け、求めた時に貸し与え、それを黙って行っている人のほうが、何かを信じたと 言いふらしている人より好むあなたである人々は多い。 そのように真理の言葉は、神の摂理に基づき、全ての人々に違和感なく受け入れられる。世の 中で行って奇異に見られるのは、神に反しているから。
758 :
神も仏も名無しさん :2008/03/01(土) 22:58:12 ID:fyByrxS2
ダニヤ「わが妻は従順であり、貪ることがない。久しくともに住んできたが、わが意に適っている」 尊師 「わが心は従順であり、解脱している。永いあいだ修養したので、よくととのえられている。 わたくしにはいかなる悪をも存在しない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせ よ。」(スッタニパータ) 神は完全であり、人を頼りにして教えを考え出させることをされない存在である。 人が自分の考えや世の中のことに惑わされ、或いは人の言論に惑わされ、真実を見失ってしまった。 だから世の中から離れて静かに修養し、真理・真実をみつめ直す必要があった。(仏教) 自分を信じて、自分を主よ主よと言わずに信仰を増そうとするなら教えを行えと。(イエス) それらの教えは自然に考えても違和感の無い教えである。なぜなら、人には霊(永遠)に 通じるものが具えられており、自然のままでもある程度はわかることだから。 それらを日頃の生活のうちに忘れ去らないようにするのが真実の宗教。
759 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2008/03/02(日) 11:59:14 ID:RnTs9+6M
■ブッダ 生きながら不死の境地に達し、この上なき最上の喜びの境地を知り、それに対し一切皆苦である ことを知る。絶対的な幸せの境地に達し、全ての迷いから解き放たれ、全ての苦悩から解き放た れ、苦悩ある世の中より静けさや安らぎに幸せを見出す。 思考の及ばぬ静かな境地は、あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、あの世もこの世も望む心を 捨て去り、精神の安定統一と安穏な心で満足することを幸せと感ずる。五感も苦しみなのであり、 妄執を滅ぼし尽くしたその境地は、煩悩の可能力も存在せず、労働して何かを生み出すこともな い。 遠ざかり離れた静かな境地は、世の中を見ることもなく、今現在の自身というものからも離れる。 「空であり無相」「真理を見る人には何ものも存在しない」「全ては水の泡か陽炎のごとし、 一切は虚妄である」 何ものも存在しないその境地は、人が考えたことでは絶対近づけず、静かな安らぎを求め、 この世の苦悩から離れたほうが近い。 「森は楽しい、世の人々はここで楽しまないが、情欲のない人々はここで楽しむであろう。かれ らは快楽を求めないからである。」情欲も快楽も苦しみであり、静かな自然に満足しているほう が、その境地に近い。
760 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2008/03/02(日) 12:00:00 ID:RnTs9+6M
■人 「世間は妄執によって導かれる・・妄執という一つのものに、一切のものが従属した。」 「全世界は悪しき者の配下にあることを知っている。」(サンユッタ二カーヤと聖書) 「かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。」(スッタニパータ) 不死の境地を知っても、悪いものに従って人間の境地に至った。また、生存の断滅とい う方法では、決して善いところには行けない。恐ろしいことである。 不死の境地と妄執に従って人間の境地に至ったことを知り、経典や聖書を読んだ。しかし・・ ■神は言葉も語る存在 物を得ることも、享楽や欲楽などを全て否定された。勿論情欲も同様であった。人の心を読まれ、 心と対話されるのである。仕事をすることも左と言われ、「仕事しないと生活ができません。ど うすればよいのですか?」と何度聞いても答えてくれなかった。 ■人は人の望みで生きている 神の言われることを聞いていると何もできません。家を捨てよなど言われないが、粗食と自然を 楽しむこと、静かにしていることぐらいしかできなくなってしまうのです。 ■神は苦悩を与えない 自分が言うことを聞かないで生きていると、「罪汚れである」「苦悩から逃れない」「苦労する。 苦痛を受ける。」浮世を嫌い、文明を嫌う神は人をあわれみ、人が静かに苦悩を受けずに生きる ことを望まれている。「左になるな右になれ」・・・左とは地のもので呪われること、右とは地 上のものに心を引かれず、呪われないようになること。
761 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2008/03/02(日) 12:00:48 ID:RnTs9+6M
■神の栄光を知ったとしても 神の栄光、決して死を味わうことのない世界を知ったとしても、人は自分の望みで生きようとす るのだから、この世の苦悩も自分のものとして生きるしかない。「富む人は地で生き続ける」 ■宗教は神の戒め 信仰のある人もない人も、人には霊が宿っているから物のように扱ってはならない。人を敬し、 人を人として尊重すること。人にある愛は大切なものである。だから最初に「愛」「良識」と聞 いたのである。自分が不死の境地にこだわったから、それならもっと善いこと(完全に右になっ て生きること)を教え、地上のものに一切心を引かれない道を歩むよう語られた。 欲楽ある地上を善いところとせずに、天国でも極楽浄土でも上を善いところとして、お経でも欲 楽から離れる宗教的行為を戒めとすること。物質的な欲望を貪り続け、享楽や欲楽を貪ることは、 神の思いから遠く離れていく。それらは享受すべきものではなく、神が創造された自然を楽しん だりして、静かな安らぎに生きる人は多くはない。安穏な心に満足して生きる人は多くはない。 「人はできないようだから宗教で戒めを保て」神仏を信じて煩悩のまま生きることを止めよ。 宗教を戒めとして、神の完全な望みと人の望みを慎み中道を見出して生きるしかない。中道は慎む。 ■富む人は地を生き続ける 浮世を真実として、物質文明を喜び、享楽・欲楽を楽しむ人々は「罪汚れ」のままであって、地 の呪いとともに地を生き続けなければならない。無量の幸せがある所には、決して入れないので ある。「人は朽ちる。」別人となって地を生き続ける。「両方を望む人は貪欲」である。右か左 かはっきりして生きること。 「妄執が人を生まれさせる」・・・妄執によって生み出されたものを極力慎む。(右を目指す) 「業の輪廻」・・・・・言葉や行い、心を善くして、来世の悪行をつくらず、楽しみもあり 生きる。(左) 言葉や行い、心を善くして、地上の楽しみも享受して生きることは中道ではないが、再びその ような人々の中に生まれることができる。
762 :
神も仏も名無しさん :2008/03/02(日) 15:31:36 ID:FWsVqFty
欲だの女だのと言ってる奴は、ただ自分の意思に従って生きている だけのことだよな。それを認知させないカルトは認知障害患者。
763 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/03/02(日) 15:36:32 ID:3gkyGACQ
真理とは 誰もいませんよ ってことです
764 :
神も仏も名無しさん :2008/03/02(日) 19:46:26 ID:TPLfoBzw
神と言って女や欲望に生きてる人より、神と言わずに自分のことは自分でして生きている人のほうが異様に 見られないのは確か。人生上の諸問題は、人間が解決するだけのことである。
765 :
神も仏も名無しさん :2008/03/02(日) 21:47:20 ID:JeFhgVNj
>>763 神も人間として意識しないまま。
あの世に行っても神を意識せず、
そこにあるのは平安やこの世が存在しない世界。
信じる人に敵意や憎しみを持たず平安であることを
教えて、無慈悲で人を人とも思わない行為を戒めた。
悩める人に世の中への貪欲を慎み、この世より善い
世界を思うことを教えた。
そこに信仰がある。
しかし、考えの浅い新興宗教は、神を意識させ
この世の全てを認めさせる。そして、今までの
宗教開祖より、自分たちが一番真実を言ってい
るのだと。実に間抜けだ。
766 :
神も仏も名無しさん :2008/03/02(日) 22:32:19 ID:RQaruE51
信じて煩悩を認める無意味な偶像的礼拝を避けよということだな。
そもそも、もし神様が完璧な存在だったらさ、 人間を裁いたり、試練を与えたりとか諸々のことするのかな? 成長を望んだりもそうだし。魂を進化させろとか。
完璧な神が、更に完璧を目指す為、 人間を作り、自らの生命を投入し、 人間の成長と共に更に完璧を目指す道を選ばれたのでした。
769 :
神も仏も名無しさん :2008/03/03(月) 07:45:13 ID:fuw7zX46
神に集中してたら劣等な人間社会なんて気にならないだろ。 人間が気になってる奴は集中力が散漫なんだ。
770 :
神も仏も名無しさん :2008/03/03(月) 07:53:17 ID:2r892xzw
イエスの神とは妄想ではない。神の心と神の業は異なるものではない。 神とは、一相無相空相である。
771 :
神も仏も名無しさん :2008/03/03(月) 18:49:19 ID:VPhJLaHu
>>770 空論に走る者、彼らの口を封ずべきである。
>>768 神は完璧。人が不完全。しかし、神が完璧なため人の罪をゆるさねばならなかった。
>>767 永遠の命を得たいならば。
イエスはさまざまな病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、神は愛ということを示された。
人はその神を信じて、愛のうちにいなければならない。神は終わりの日まで人類をその
ままにさせておくので、地上のこと、人々の利害関係などで敵対して立ち上がる。
概ね人間は自分の不利益なこと、御言より自分の善悪により正しくない者に敵対して立
ち上がる。しかし、あやまちをゆるし愛に生きる人々は敵対して立ち上がらない。
そして終わりの日になって、さまざまな病苦など地上の困難もなくされる神を心から受
け入れなければ天国に入れなくなる。
今の時代は、地のことよりも愛が勝ろうとすることが成長すること。
>>769 地のことよりも慈悲深い神を信じていると魂は進化している。
一番進化した時は、さまざまな病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、完璧な世界で病苦など
地上の悩みをなくされる神と心がひとつになった時。神に集中している人は悩みもなくな
り、悪い人も良い人も気にならなくなり、人の世界に心が乱されることなく集中できる。
772 :
神も仏も名無しさん :2008/03/03(月) 22:44:07 ID:XDCqVTpl
普通人は敵を愛せない。敵を愛することができたなら戦争はない。 世の中を遠ざかり離れること、彼岸に至ることを目指し聡明な人となって 「聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に至る人となるであろう。」 意識もそなえ心もあるこの一尋の身体に即して、この世もかの世をも望まず 世界の終極を知り、煩悩を抹消することに努めるのが釈尊の教え。 一切の事物は我ならざるものであり、世の中を遠ざかり離れた世界に真実の 自分を見出そうとすれば、敵を無視することは容易い。
773 :
神も仏も名無しさん :2008/03/05(水) 20:46:40 ID:uYPLjo3I
神は人として永遠に意識しない。 ただ他人に対する悪を評価して、他人に右往左往されない自分がいるだけ。 だね。
774 :
神も仏も名無しさん :2008/03/05(水) 21:08:08 ID:nuRnkrsZ
確かに真の幸福は不動だな
775 :
神も仏も名無しさん :2008/03/07(金) 22:04:26 ID:1rbZsufH
無感動、とも言うね。ところが、凡人は、無感動な聖人を見て、バカだと言う。
776 :
神も仏も名無しさん :2008/03/08(土) 11:19:45 ID:MB6pvDLm
偶像なるものは存在しない。信仰対象はただ様々な病苦に悩む人をいやし、地上の苦難に遭遇し重荷を背負 い悩む人々に不朽の神を教えたイエス。地上で思いわずらいを与えたものは悪しき者・悪魔である。 妄執というひとつのものに従属し、人々は地上で幸福から離れ悩みを生み出す。 「地上のどこに神がいるのか、神はいない。」勿論、悪しき者の配下にある人間は永遠に神を知らず、滅び て無くなる存在であるが、神は自然のままでも律法を与え、地上の者に影響を与えているのである。 考え出されたことで真理を見出そうとした輩を批判し、「空であり無相」を説き、一切の事物は我ならざる ものであると説き、修行を完成させ、彼岸に到達し、「善悪の両者に汚されない」悪魔の征服者となったブ ッダ。憎む者にあって憎まずは聖書にもあり、他人の過失を見ては、怒ったり憎んだりする人々が多くいる よりは、修行を完成させ、上にも下にも中にも敵意なき怨みなき慈しみのこころづかいを崇高とせよ。 神は天国で様々な病もなく、地上の困難もなくされる慈悲深い存在だから、あなたがたもあやまちをゆるし、 慈悲深い者となれ。神の国はあなたがたのただ中にあるのだ。 考え出された特異な教義を学んでも、偶像も、全て人間として存在しなくなったら全く無に帰する。しかし、 ただ、慈悲深い父のみが全てとなるのである。
777 :
神も仏も名無しさん :2008/03/08(土) 11:20:38 ID:MB6pvDLm
イエスを主よ、主よという者が皆天国にはいるのではなく、ただ父の御旨を行う者だけが入るのである。 慈悲深い神を信じて、何も言わずに、人によくしてやったり、何も当てにしないで貸してやったり、仲間で ない人に挨拶をしたり、肉の主人に仕えたりする人々が偶像礼拝者より、全ての人々の中で異様に見られな いのだ。他人のあやまちを見てはゆるさず、敵意や憎しみを抱いて、来る日も来る日も怒り、この世でも幸 せになると思うな。 修行僧は自分の粗雑な思考を修め、慈しみのこころづかいを崇高とせよ。他人の過失を見て、怒り憎んでも、 心を沈めるだけで、幸せな境地から遠ざかる。他人を罵倒するな、たといどこにいようとも他人を軽んじて はいけない。人として尊重せよ。他人を罵倒してはいけない、悩まそうとして怒りの思いを抱いて、他人を 傷つけてはいけない。自分をよくととのえて自分の主となる。自分をよくととのえて諸々の幸せを得る。 迷いや悩みを取り除いた人々は精神を安定統一させ、「美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い気持ちもよ く起き上がった」というように健康的な精神を保ち、偶像的礼拝を捨て、この世を楽しむ心を得る。 学び修めた賢明な人は、目の前の人が飢えていると飲食物を与え、泊まる所のない人に宿を貸し、自分の貪 欲のために世間の人々に苛酷を与え平気ではなく、あわれみあり目の前の人が苦悩に遭っていても平然な心 でいない。 神と永遠の命の影響を説くのが真実の宗教の教えで、それを行っても誰も異様に見られない教えが善いこと を説く教え。
778 :
神も仏も名無しさん :2008/03/08(土) 12:30:21 ID:YozB1z4V
>>775 釈迦もバラモンの立場なら、人々から崇拝されるために無所有で人の家で貪らず、
修養してニルヴァーナを目指していただろうし、
釈迦も貧しい人の立場なら、自然などで楽しいと感動していただろうし、
釈迦も世間にいたら努力して財を得る、財を得たら妻子を楽しませ、父母を養って
自らを楽しませていたかもしれないし、
釈迦はその身がひとつのため、教えを伝えるため、世の中で優位といわれる立場を
捨て、無所有で楽しみ、修行僧のいる森を楽しいと感じ、修行を完成させ慈しみの
こころづかいで教えを説いた。
他人の家で貪ってはならない、一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏で
あれ安楽であれ、慈しみを崇高とし、決して世の中で他人を不幸にし安穏な暮
らしを奪い安楽な暮らしを貪欲のために奪ってはならない、と。
779 :
神も仏も名無しさん :2008/03/08(土) 20:59:47 ID:sdfw8I4e
神の国は何時来るのかとのパリサイ人達に、「神の国は目に付く様で来るのではありません。 ・・・神の国はあなた方の只中に有るのです。」 これって、煩悩即菩提、と言うことだよね?
780 :
神も仏も名無しさん :2008/03/09(日) 00:56:15 ID:ySJaJ/EE
>>779 この世と妥協せず、神のわざであわれみ深い奇跡を行ったイエスを主と信じること。
世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。
無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまな情欲と快楽との奴隷になり、
悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互いに憎みあっていた。
神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは
救われたのである。
肉の思いによって地獄に落ちるところを、信じて救われる道を歩む。煩悩は地獄
行きであり、信仰によって神の国に突入し神の国に入ることができたということ
でしょう。この世と妥協して肉の思いでいる人は、決して天国に入れません。
781 :
神も仏も名無しさん :2008/03/09(日) 11:13:38 ID:L3aQjF/C
キリスト教は、理法を語らない。理法があるのにもかかわらず、理法が隠されているようだ。 理法を語らないで、信仰を説いても、難しいのだ。 キリスト教の教えは、仏教の教える真理真実から来ているものとしか、考えられないので、 キリスト教の心理真実は、仏教の真理真実であると言うに過ぎない。 全く無いのかと言うと、そうでもない。つまり、創造者の事を神といっているのであり、 その創造者は、不生不滅なのだ。この神の性質は、イスラム教にも受け継がれている。 しかし、神の性質である不生不滅に付いて、又、是に関連して、説明がなされる事は、 旧約新訳に於いてないのである。単に、創造者、としか説明されないのである。 これはイスラム教についてもほぼ同様である。
782 :
神も仏も名無しさん :2008/03/09(日) 12:56:52 ID:L3aQjF/C
この創造者のことを仏教では、妄執と言う。仏教は、ものが有る無いというのは、われわれの妄想であると言う。 われわれの妄想が、この世界を作っていると言う。そうすれば、キリスト教の神は、仏教に言う妄執であり、 妄執こそ排斥すべき、または、抑制すべき心であるから、キリスト教の神が、被造物に心を止めるように教えるのなら、 それは仏教に言う悪魔である事になる。
783 :
神も仏も名無しさん :2008/03/09(日) 13:12:42 ID:L3aQjF/C
しかし、キリスト教が、被造物に心を止めよとか、または、執着する事を教えているだろうか? ゼンゼンそうではない。不生不滅の存在に心を止めるように教えている。 何故自分の創造したものを愛するように教えないのであろうか?
784 :
神も仏も名無しさん :2008/03/09(日) 23:28:55 ID:9SCEuKI6
>>782 ものが有る無いというのも妄執から生まれた。完全な善になれば、ものが有る無いの識別作用もなくなってしまう。
しかし、それでは人間という存在がありえない。また、人間が行いによって何をやっても善人と自任できない。
信仰対象が大切なのであって、完全な善では慈悲深い神のみ真実として在り、そこには肉欲も全く無い。
世の終わりには、この世の苦難もなく困難もなく全てを幸せにされる神のみとなり、この世でも苦しんでいる人を
助けようなど慈悲やあわれみ・寛容といったものが神に通じるもの。
思うべき限度を越えて思い上がることなく、それぞれの人に任せておくことがよい。
行いを強要すれば、人間は決して善と自任できないのに、行いにより善人と自任する人がでてくるから。
神が創造したものは自然しかない。自然環境は神が創造したもので、人間がこの世界を作った。
神にとっては、この世界の人々は罪のみがある。終わりの日になって天国に入らないと神に愛されるこ
とはないが、それまで人類の罪をゆるし、御言を残されたのである。
ものが有る無いの識別作用までなくしてしまうから、釈迦には生活活動もないし、神が創造された自然
の中でわずかな食物で暮らし、瞑想で暮らしていたのである。そんな仏教では、人類は救えない。
釈迦の真実の教えは、修行を完成させ平安の境地に達してから慈しみのこころづかいを崇高として、自
分をよくととのえて自分の主となれと教えたのである。
785 :
神も仏も名無しさん :2008/03/10(月) 08:00:40 ID:lBAeVdPO
>>784 識別作用のない状態で一生暮らすわけではないでしょう。
概念・観念による分別は絶対の真理ではないとわかれば、
分別されたものごとに執着しなくなる。
執着がなくなれば、その分人生の苦悩がなくなる。
786 :
神も仏も名無しさん :2008/03/11(火) 21:15:40 ID:NY3ANzYw
神の霊が全てを覆う。勝義諦と言う実体ある無相が全てを覆う。 こういうことじゃないのか?
787 :
神も仏も名無しさん :2008/03/11(火) 21:40:55 ID:LWMARP6o
宗教なんて悟りを開くための道具にすぎないから、 何教だっていいんだよ。 いつまでも道具にしがみついて ゴールへたどりつけない奴がほとんどだけどなw
788 :
神も仏も名無しさん :2008/03/11(火) 22:21:33 ID:Q0DRsNJI
共通点はあるだろうけどな。
>>603 あたりが悟った状態なんだろう。
790 :
神も仏も名無しさん :2008/03/12(水) 20:16:46 ID:uxXc0AyA
>>785 釈迦は修行を完成させ一切の生きとし生けるものの幸福と安穏と安楽である慈しみのこころづかいで教えを説いた。
財がある無いにこだわらない境地、「わが妻は意に適っている」というのは煩悩で「子ある者は子について憂い、牛(財)の
ある者は牛について憂う。執着する拠り所のない者には苦しみが存在しない。」
「私は勝っている、劣っている、中くらいである」という他人と自己に対する迷いも無い。
名称と形態(固体)に執着することも無い。
「一切の事物は我ならざるもの」で人々に対する欲望や執着も無い。自己に対する迷いも無い。財産など対する執着も無い。
苦悩の要因を学び修めてから、永遠の境地に従い修行を完成させる。
全く何も無いが、消滅ではなく一切が幸福で安穏で安楽な平安の境地がある。
「母が己が独り子を命を賭けても護るように」他に対する欲望・執着で我が意に適わない子であっても母が己が独り子を命
を賭けても護るように、海で溺れている見知らぬ人を命を賭けて助けるようなことが人々から素晴らしいと思われるように、
目の前の飢えた人に飲食物を与えるように、我が子の将来を思い叱るように、釈迦の教えはつくられざるものの教えであり、
奇抜な教えを作り出すことでもなく、永遠の自分に従えさせる(自灯明)の教えである。
792 :
神も仏も名無しさん :2008/03/16(日) 10:13:24 ID:6QJgIHfm
イエスもブッダも人の無意識にある善を説いたものであって、 カルト的な発想ではないし、メンヘルでもない。
793 :
神も仏も名無しさん :2008/03/18(火) 08:44:28 ID:nwPqhGL9
真実は無我であること、無相であること、一相であること、これを知っている人の、 その意識が我であり、その我は、真実であり、その真実は、一切は無我であり、無相であり、一相である、と言うものである。
794 :
神も仏も名無しさん :2008/03/20(木) 20:00:43 ID:hnkvReD3
「この身は泡沫のごとくと見よ。この身は陽炎のごとくと見よ。 世の中は泡沫のごとくと見よ。世の中は陽炎のごとくと見よ。そのよ に観じて遠ざかり離れる。」その修行。 遠ざかり離れた境地が真実であり真理である。 「世の中のどこにも害いを見ない。」し、他人の過失を探し求めない。 半分遠ざかり離れていれば、嫌なこと、悪いこと、苦しみを受けて も、それほど大きな悩みとはならない。 今の環境が悪いといって暴動も起きない。
795 :
神も仏も名無しさん :2008/03/20(木) 23:28:19 ID:PlWcyypB
(1)物欲・快楽・享楽を享受するべきである(2)奉仕活動に喜びするべきであるという二つの極端説を捨てること 呪文やくどくどと祈ったり、供え物、偶像礼拝、葬儀、誓い、清浄である不浄であると願い求め自分を義人として他人 を見下すこと、宗教的行為によって功徳を積もうとする怠け者の親族とならないこと そういった人間が作った宗教的行為を捨て去ること 慈悲・寛容を身につけ、怒り・憎しみ・敵意・妬み・傲慢など人の心の中にあるものを制すること
796 :
神も仏も名無しさん :2008/03/21(金) 16:57:44 ID:SOFzwqYi
福音書は、盛んに「真実」とか「真理」と言う表現を用いているね。 旧約には、この真実真理の表現はあるのだろうか?
797 :
神も仏も名無しさん :2008/03/21(金) 19:31:30 ID:s++llaMX
>796 中身が伴わないから言葉で飾るのサ
798 :
神も仏も名無しさん :2008/03/21(金) 21:40:09 ID:jlRq3XVh
真理とは、意識活動もなくなった不死の状態が在ることを示す。偶像なるものは存在しないし、主よ主よ と言うことも無い。 だが無意識では、自然は人間が創造したものではない。快楽に溺れるより、持ち物の有無に悩んだり、他 人の手で作られた持ち物を誇るより、自然を楽しみ「美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い気持ちもよ く起き上がった」という人のほうが健康的ではないか。情婦の下着を喜ぶ人などは不健康ではないか。 自分の欲望のみのことを考え、他人も公平であることを考えず、苛酷を与え、自分の利のために使うだけ 使う。人によくしてやることなど自分のためにならないから悪いことであり、貸し与えることなど損なこ とは最も悪いことである。他人に分け与えることなど、とんでもない過ちである。目の前の食べる物もな く乞う者を罵倒し退ける、退けても乞うなら殺すことは正義の他ならない。 しかし、無意識では目の前の乞う者を殺すことは悪いことであり、どちらかというと人によくしてやるこ とは善いことだと感じる。 自分の幸せのためにあくせくして明日のことに思い煩うよりも、今現在、感謝し満足して暮らしているほ うが思い煩うことがないだけ幸せである。敵意や憎しみのために生きる、なぐられたらなぐり返し、また なぐられるを繰り返すよりも、最後は止めてしまうわけだから、初めからなぐり返さないほうが損害は少 ない。自分のために臆病になっている人より、海で溺れた他人の子供を命を賭けても救う人のほうが素晴 らしい人だ。 そういったことが、永遠の世界の完全な公平、一切の存在が苦悩なきことを喜び、一切が幸せの慈し みの現れだから、つくられた人の教義を真理とせず、つくられた物(偶像)を崇拝せず、信仰を増そ うとするならその方向に向かいなさい。決してそれらに反駁してはならない。つくられた人の教義・ 物がそれらの事に勝ってはいけない、というのが真理の信仰。
799 :
神も仏も名無しさん :2008/03/21(金) 23:17:07 ID:mvoip/ZT
怒ったり・怨んだり・敵意を抱いたり・憎んだり・他人から貪り取ろうとして 意欲を持ったりせず、心を休ませてそれらの事に嫌悪を抱ける人は真理に近い。 他人を見下して自分を偉い者とせず、自分自身にこだわりを捨てた人は真理に 近い。自分自身にこだわり、他人の安穏と安楽を捨て去った人は真理から遠い。
800 :
(^ω^) :2008/03/26(水) 22:33:02 ID:BrMGhddj
(^ω^)800だぉ〜ん♪
801 :
神も仏も名無しさん :2008/03/27(木) 15:11:36 ID:XUEB6yxR
まだまだ、言葉の空論 ほんとの釈尊も ほんとのイエスも そこには 無い。
802 :
神も仏も名無しさん :2008/03/27(木) 15:16:41 ID:XUEB6yxR
もし、解っているなら 中道の真実を 語ってみよ。 もし、わかっているなら プロマーレの真実を 語ってみよ。
803 :
神も仏も名無しさん :2008/03/27(木) 23:23:29 ID:nSG0336O
>>802 お前は先生なのか、質問する生徒なのか?
804 :
ピエロ :2008/03/27(木) 23:25:11 ID:Bf8mMnff
もし、解っているなら 中道の真実を 語ってみよ。 もし、わかっているなら プロマーレの真実を 語ってみよ。
805 :
神も仏も名無しさん :2008/03/27(木) 23:45:27 ID:nSG0336O
>>804 ピエロよ、中道の真実と言うものは無く、ブロマーれの真実と言うものもないのだ。
806 :
神も仏も名無しさん :2008/03/28(金) 04:48:03 ID:5sqJwwJV
イエスは架空の人物、聖書はシュメールからのパクリ。
808 :
ピエロ :2008/03/28(金) 05:00:56 ID:8Zej+P/W
資本主義経済に最大級の感謝を捧げる。 所得のある親を持てば子は一生勉強しなくても働かなくても食っていける。 これが共産主義だったらそうはいかない。 財産は平等にされるために経済的余裕はまず生まれてこない。 ニートとはこうした資本主義のひずみが生み出したものさ。 その恩恵に与っているものは幸いである。 ニートは悪者ではない。そう考えるのは最近の悪い傾向。 ニートは社会の不平等を是正する。 貧乏な家庭だとニートはまず生まれない。 働かないと食っていけないから。 しかし金持ちの子はニートでやり通せる。 つまりニートとは経済的不平等を是正する、正義の使者であったのである
仏教の仏Buddhaとはサンスクリットのbudhの派生語。 budhとは目覚める、気付くという意味。
810 :
神も仏も名無しさん :2008/03/30(日) 09:51:37 ID:oyHvL3UZ
『求めよ、さらば与えられん。 尋ねよ、さらば見出さん。 門を叩け、さらば開かれん』 新訳聖書「マタイによる福音書」より
811 :
神も仏も名無しさん :2008/03/30(日) 23:21:14 ID:R6I5xYME
>>808 自由主義が地上の束縛から解放される。
普通、人は普段から資本主義・共産主義のこだわりで生きてはいない。
「そなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない。」(仏典)
「働こうとしない者は、食べることもしてはならない。」(聖書)
「苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、
万物に対して平等である。―動じない人。」(仏典)
「律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。」(聖書)
「貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ。」
「学び修めた賢明な人は、食物を用意して、食乞う人々を飲食物をもって満足せしめ
よ。」(仏典)
「空腹のときに食べさせ、かわいているときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し。」
(聖書)
働こうとしないのに人々から益を得ようとし、他人に苛酷を与えながら自らは楽して
贅沢を楽しむ。目の前の人が空腹でかわいているのに、平気で自分のみ飲食豊かな生
活を楽しむ。それらに対して悪を思えば、つくられざるものに従っている。
812 :
神も仏も名無しさん :2008/04/01(火) 20:16:38 ID:J8SpYYD4
ガソリンの暫定税率も、世論は一般財源化の人が多かった。 共産主義も資本主義も一部の人が力(数の力)で世間の人を無視すると、 結局は混乱と政治不信を抱くだけ。 多くの人々は国に借金があるのに、道路ばかり造ると幸福になれない、 地球温暖化などの問題もあるし、ガソリンの暫定税率をなくすと安穏・ 安楽な暮らしが危ぶまれると感じて一般財源化を望んでいたのかもしれ ないよな。
813 :
神も仏も名無しさん :2008/04/01(火) 20:46:05 ID:B/XrL/Mw
>>812 >ガソリンの暫定税率をなくすと安穏・
安楽な暮らしが危ぶまれると感じて一般財源化を望んでいたのかもしれ
ここは矛盾しているだろう?間違い。
しかし、真理真実とどう係わりあるのか?
諸悪莫作(悪いことすんなよ〜) 衆善奉行(善いことをしろよな〜) 自浄其意(そうやって自分の心を清めるんだぜ) 是諸仏教(ようするに、仏の教えってそんなもんだ)
815 :
神も仏も名無しさん :2008/04/02(水) 00:13:24 ID:/Ue+kcZo
結局正しいと主張する根底にあるのは仏の悟りの言葉だろう。 結局政治家も、「平均一世帯あたり年間6万数千円の減税だ。」民主 「日本の将来を考えて譲るべきではない。」自民 生ける者の幸福と安穏と安楽を主張して正しいと言っているから、 仏の言葉は皆正しいと認めているのは確か。 後は、本当に将来生ける者の幸福と安穏と安楽となるか知恵だけ。
816 :
神も仏も名無しさん :2008/04/02(水) 05:06:17 ID:XK6FCEks
ブッダのそこはかとない厭世観
817 :
神も仏も名無しさん :2008/04/02(水) 05:09:42 ID:ttvVnOdC
イエスは、共産主義者。
818 :
神も仏も名無しさん :2008/04/02(水) 05:09:42 ID:XK6FCEks
煩悩と現実のギャップ。現実を変えようとするのが俗人、煩悩のほうを変えようとするのが仏教者。 2通りの生きかたがあり、どちらも真実であり、苦難の道である。
819 :
神も仏も名無しさん :2008/04/02(水) 05:11:55 ID:XK6FCEks
イエスは厩戸皇子。実在したが事跡は捏造。
>>819 名無し さん
> イエスは厩戸皇子。実在したが 事跡は捏造。
実在してなかったらしいよ、実在したと言う証拠がないし・・・
821 :
神も仏も名無しさん :2008/04/02(水) 23:27:40 ID:82VLn2WF
>>815 宗教信者より政治家のほうがまし。
政治家が本気で日本の将来のことを考えていたらだが。
釈迦が立派な説教をした、イエスが立派な説教をしたとしても、
信者は自分の信じたほうが正しい、世の中より自分の信じるもの
が正しいといって、一般人より世の中に役立つ人を生み出さない
わけだが。
宗教は世の中にとってはゴミ人間をつくると釈迦は悟れなかった
のか?
822 :
神も仏も名無しさん :2008/04/03(木) 22:29:25 ID:c3FUBJBz
>▲昼が近づいたときに、昼飯の心配をする舎利弗に対して、維摩居士は、「汝は、病の慰問にきたのか、それとも昼飯の心配にきたのか」と叱責し、 舎利弗がそれに対して恐縮の意を表しますと、三万二千の弁当がとんできたと伝えられます。……202……『阿含経』…金岡秀友著 集英社…… これって、イエスの五千人に僅かの食物を持って満足させた事例と同じだね?
823 :
神も仏も名無しさん :2008/04/04(金) 22:46:53 ID:XS0Avc1/
病人を見舞い、本当に正しい人は「いつそのようなことをやったか」 イエスも解脱し、なんでもできる神とひとつになり、偶像を抱くより 無意識に行う善で救われると説いた。 身体の消滅、煩悩の完全消滅ではなんでもできる奇跡あり。完全に悟った世界。 しかし、この世では悟りの悟り、人間生きているのだから、慈悲を崇高とせよ、 愛が大事だということになる。 人として思いわずらい、くよくよと悩みあれこれと考えるより、集中力を身に つけたほうが問題解決しやすいだろうし、病気の時は静かに安静にする。 悟りの悟りは、人間としてそれに近づいた生き方をすること。
824 :
神も仏も名無しさん :2008/04/05(土) 12:43:30 ID:giUvNVYX
>>821 大乗経典の中の、たぶん涅槃経でなかったかと思うが、無数の人が、
仏教により救われているとある。表面の現実と真実の世界とは、
同じではない、と言うことを言っているのだろけど、考えてみなければならない
所だと思う。
825 :
神も仏も名無しさん :2008/04/05(土) 16:04:23 ID:4guKd7bB
826 :
神も仏も名無しさん :2008/04/06(日) 16:16:40 ID:50gsT0xd
僧・・・世の中を厭い離れ、自然の中で静かに瞑想する。 「安らぎは虚妄ならざる真理」として、五欲の貪りから離れ静けさを楽しむ。 僧に尊敬心あり・・・物や五欲の対象を貪るよりも、「森は楽しい。かれらは快楽を 求めない。」世の中がどうであれ、自然は楽しいとして喜んで 暮らしている人は争い少ない。 善い行い・・・この世を思う煩悩のある人も、 「苛酷なることなく、貪欲なることなく万物に対して平等である。動揺 して煩悩に悩まされず動じない。」 この世で苛酷な状態であっても、結局は平等。 他人の過失を見ず、自らの善業によって来世の拠り所をつくる。 修行僧を尊敬し、自然や安らぎ、平穏な心で満足する。不満なき人となって、他 人の過失を見ず、世の中がどうであれ、言葉や行いの善業の功徳を積む人々が多 いと世の中も良くなるという仏教。世のことよりも自然の安らぎを楽しむから、 世の中のことで争いは起きない。
827 :
神も仏も名無しさん :2008/04/06(日) 21:33:58 ID:+/evujXZ
>>825 海外では暴動。国内では環境破壊や地球温暖化。これは世界的な問題。
物質への執着により子供の体力の低下。外で太陽を浴びながら遊ばなく
なった。それらの問題さえ釈迦は解決していたのだ。
828 :
神も仏も名無しさん :2008/04/06(日) 23:58:46 ID:C0z8oan8
どちらも天才人間で、 天才人間の特徴である比喩が上手い。
829 :
神も仏も名無しさん :2008/04/07(月) 19:15:25 ID:P9j/dNuZ
>>824 このような今のような生存状態を希望し、永遠に生存本能を満たそうと信仰するが、
またくどくどと祈ったり、呪文のようなものを唱えて願いを叶えようとするが、
また特別な信仰対象によって、他のものより絶対に正しく救われる対象物であると
信仰させられるが、
人間には現実しかない。現実的な教えしかない。
「この世では慈しみのこころづかいが崇高です。」「人によくしてやること、何も
当てにしないで貸してやることは善いことです。」
そんな誰でもわかりそうな現実的な教えしかない。
修行僧は世の中を離れ、森の中で静かに瞑想し、わずかな食物で修行をした。
解脱すれば、「世の中もこの身も泡沫のごとく、一切は虚妄で世の中もこの身体の
ことも遠ざかり離れ、平安の境地に達して、あなたがたは何でもできる奇跡のこと
も知る。」イエスも荒野で断食をして不死を得た。意識も思考も及ばぬ境地。森の
中でわずかな食物で暮らし、平安の境地のみに生きればよいが、そこには生活活動
もない。
森の中で彼岸に到達して仙人として生きるか、世の中で生活をして現実的な教えを
善いこととして生きるか。「真理を見る者には何ものも存在しない」が、人は「人
によくしてやること」を善いことだと思考してわかるのではなく、無意識に善いと
思っているので、そのようなことを教えとして受け入れるしかない。
どのような宗教が正しい劣っているのではなく、宗教は物質主義にならないための
戒めの行い。不死を知れば「何ものも存在しないし、このような生存状態は全くな
い」と知る。生存状態では、現実的な教えのみがある。
830 :
神も仏も名無しさん :2008/04/08(火) 21:28:13 ID:3705hwvI
>>828 天才人間と言う見方は正しくない。
真実を教える時に、客観的であることを理解させるために、比喩を用いるんではないか?
真実はどの人も会得しなければならない。
831 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/04/09(水) 22:03:00 ID:Npa06mmK
「荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪霊の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、 その日数がつきると、空腹になられた。」(ルカによる福音書) 「森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうして 明朗なのであるか?」(サンユッタ二カーヤT) 物欲も無く、五欲の対象から離れ、「この身は泡沫のごとくと知り、陽炎のようなはかない 本性のものであると観ずる。世の中は泡沫のごとくと知り、陽炎のようなはかない本性のも のであると観ずる。」森の中で、身体のことと世の中のことを厭い離れるように、静かに瞑 想すれば不死の境地に至る。 解き放たれたその境地は、一切皆苦であることを悟り、現在の人間の状態は重荷であったと 悟るのである。「一切は虚妄」「真理を見る者には何ものも存在しない」 そして妄執(この世の栄華や権威=支配権の拡大=野望・欲望)に克ち、生存領域に戻らない 者は、「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に」「この山にむかって 『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、 何もないであろう」と教えることの神は何か、それは真実であり不死の境地からきた言葉だと わかり(ひとつの境地となり)神通力を得るのである。 「生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない」妄執によって悪いところに行く のであるが、釈尊は素晴らしい境地のまま、物欲と五欲の対象、快楽・享楽などは苦しみを受け ているだけだと真理のまま、それらから離れ賢者と名乗った。これ以上ない最上の境地を得て、 妄執を乗り越え神通力を得て、五欲の対象などから離れ、平安・安らぎの境地に安住した人は、 賢者と名乗ってもよいのである。その境地は自分を偉いとしないし、思い上がらない。
832 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/04/09(水) 22:03:34 ID:Npa06mmK
人には妄執(悪魔)も清浄も無意識に働き、自分たちの栄華や権威の拡大を願い、益を得てより 豊かになろう、この世で幸せになろうとする。肉の主人(人)を尊重して、他人の幸福だと思う ことに仕え、快適な暮らし、また、安穏・安楽な暮らしに役立つなら、人々から受け入れられ、 自らも益を得ることができる。しかし、ほしいままの肉欲に従っているなら役に立たない。 「軽安=心身をかろやかに快適にすること」「長寿」 病気の時は、「美味を貪り享楽を楽しもう」ではなく、「静かに安静にして病気を治す」 「律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなく ても、彼らにとっては自分自身が律法なのである」(ローマ人への手紙) 真理はある程度、自然のままで知らぬ間に行っていることであって、逆らうと人々に苦悩を 生み出す。「真理を見る者には何も存在しない」「一切が安穏で安楽で幸福」な境地がある だけだから、偶像として描けないし、特異な教義も考えてつくれない。 修行者が無一物となって、森の中で瞑想し解脱を目指し、五欲の対象を捨て、賢者となる生き方 をするとしても、多くの人にとっては、「からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、 『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう」であり、静かな 安らぎのみで満足して日々暮らすことはない。 ≪悟りの悟り≫ 「神様、罪人のわたしをおゆるしください」「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を 低くする者は高くされるであろう」(ルカによる福音書) 「もしも愚者がみずから愚かであると考えれば、すなわち賢者である」(真理のことば) 「このような身体を持ちながら、自分を偉いとする人は見る目が無い」(ブッダのことば) 本当に偉かったら、妄執を乗り越え、自ら偉いとしないし、物も欲しがらないし、五欲の対 象も享受しようと思わない。そして、できない事はないほど何でもできる。人は愚かになっ て、他人の幸福に役立ち、善人だ義人だとして誇れない道を歩むか、得ることも少なく、五 欲の対象も享受することも少ない、少しは賢い道を歩む。
833 :
神も仏も名無しさん :2008/04/12(土) 08:52:09 ID:GUgcgEl6
簡単に、良い事をし悪い事をしないようにしよう、と言うが、何が良いことで、何が悪い事であるか、 知らない人が大部分である。十善戒というものがある。その中で,嘘をつかない、と言う戒めがある。 嘘とは何か?約束を勝手に破棄することである。約束とは何か?契約である。 契約とは何か?算数から、文字から、理科、社会に係わる通用すべき事象として教えられる法律である。 ひっくるめて、法律である。自分勝手な法律を作ることは、約束に反する。 ソクラテスが、悪法であろうと、法律である以上、それを守ることは良い事であると考えたのは 悪い考えではなかったのである。 われわれは法律を教えられないために、何がよい事で、何が悪い事であるか、わからないでいるのである。 仏陀も、良いこと悪いこと葉教えられなければ判らないものであると言われている。 しかし、ブッダや、イエスは、法律を知らないくとも、一切の約束を守る方法を 教えられているのである。それは何か?
そんなものは教えてないよ。
白隠禅師『坐禅和讃』 衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし 衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり 長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず 六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離るべき 夫れ摩訶衍の禅定は 称嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等 その品多き諸善行 皆この中に帰するなり 一坐の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず 辱くもこの法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし 況や自ら廻向して 直に自性を証すれば 自性即ち無性にて 已に戯論を離れたり 因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 無相の相を相として 往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 歌うも舞うも法の声 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん この時何をか求むべき 寂滅現前する故に 当処即ち蓮華国 この身即ち仏なり
836 :
神も仏も名無しさん :2008/04/14(月) 21:24:48 ID:sDvYpcR0
>>834 イエスの愛であり、ブッダの慈悲である。違う?
愛は立法をマットウするといい、仏陀には罪過は存在しない、と言うのがこれだ。
>>836 イエスさんはローマの属国となったユダヤの地で「神の国が近づいた」と説きたまい、 おしゃかさまは「縁起の法」を説きたもう。
「縁起の法」
あれが在るから、これが在る。
あれが無ければ、これが無い。
838 :
神も仏も名無しさん :2008/04/15(火) 07:10:55 ID:g5CJ2DWL
神の国とは仏陀の言う「ニルヴァーナ」 縁起の法則だけが仏陀の説こうとされた真理ではなく、ニルヴァーナが仏陀の目的、と思う。
839 :
神も仏も名無しさん :2008/04/15(火) 07:42:34 ID:TVYRWsx+
最近多発する拉致監禁強姦殺人… なんでこんな酷い目に合う人がいるの? なんでこんな酷い罪を犯す人がいるの? ブッダの因果応報なら…キリストの贖罪なら…被害者たちは救われるの?
840 :
神も仏も名無しさん :2008/04/15(火) 07:56:07 ID:/kjDehoV
>>839 直接的な原因が
犯罪だろうが事故だろうが病気だろうが老衰だろうが、
人生は無常であり苦しみである。
どのような苦しみを受けたかで幸・不幸を判断するのが、
そもそも間違いなのでは?
>>840 幸・不幸を判断してるのではなくて、
心の救いはあるの?
その苦しみには、意味があるの?
…安直な答はないのは分かってるからこそ、聴いてみた。
842 :
神も仏も名無しさん :2008/04/15(火) 08:38:32 ID:g5CJ2DWL
>>841 >その苦しみには、意味があるの?
全く意味が無い。仏陀は苦しみは、ないものをあると妄想し、それに執着する事が苦しみであるといわれた。
心とは、その苦しみのことである。無いものをあると妄想し、色々と妄想を発展させる事を心といっているのではないか。
なので、心=苦しみは何の意味も無く、心などそもそも無いのである。
843 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/04/15(火) 11:04:05 ID:OxposqpN
>>842 >仏陀は苦しみは、ないものをあると妄想し、それに執着する事が苦しみであるといわれた。
だから、誰もいないよねw
844 :
神も仏も名無しさん :2008/04/15(火) 12:24:30 ID:/kjDehoV
>>841 悩み苦しみの原因は煩悩ですから、
煩悩が減れば救いがある。
煩悩があれば、
どんなに恵まれた環境でも悩み苦しみが絶えない。
どんな境遇でも、
「まぁ人生ってそもそもこんなもんさ。」
っていうふうに気持ちが受け入れられたら、
その瞬間には救いがある。
845 :
神も仏も名無しさん :2008/04/15(火) 12:31:14 ID:/kjDehoV
人生はすべて苦痛。 苦痛があるから生きている。 一切は苦しみである。 苦痛に意味はない。生きることにも意味はない。 生きることへの執着は、苦痛への執着である。 ただ、因果関係により一瞬一瞬に生じては消える現象の連続があるだけ。 苦痛に意味を求めるかぎり、苦痛からはおさらばできない。
846 :
神も仏も名無しさん :2008/04/15(火) 12:37:12 ID:/kjDehoV
>>839 犯罪の原因は、たとえば欲望。
欲望の正体は苦痛。
セックスの妄想がある人は、
頭の中にはセックスの信号がともっているのに
現実にはセックスできないから、そこに苦痛がある。
苦痛を解消したいという衝動が欲望になる。
欲望の解消しかたを間違って、犯罪に走る人もいる。
セックスに対する妄想を頭から消せば、苦痛が消えて欲望も消える。
847 :
神も仏も名無しさん :2008/04/15(火) 12:42:53 ID:/kjDehoV
普段エッチなことを考えなくても、 エロ本を見たらそういう欲望がわく。 エロ本を見ていないときには欲望も消えてる。 妄想というのは、頭の中でエロ本を見ている状態。 現実のエロ本を閉じるように、頭の中の妄想も閉じれば、欲望も消える。 瞬間瞬間の自分の心をコントロールすれば、欲望もコントロールできる。 しかし私達はちょっと気を抜くと、 心を操縦するどころか、心に操縦されてしまう。 心の妄想のままに欲望を起こし、衝動に刈られてしまう。 それがヒドイ人は、犯罪に走る。
といってみても、今すぐ肉親が拷問にあったり、自分が拷問にあったり、 陵辱されたり、手持ちの財産全て奪われたり、ホームレスになったり、そういうことに君は耐えられる? どんな境遇でも? それとも、煩悩を滅するまでは、それらを持っておきたい? それはいつ来るのかな。
850 :
神も仏も名無しさん :2008/04/15(火) 20:38:13 ID:g5CJ2DWL
>>848 仏教を正しく学んだものなら、真実が無相空相であることを信じて、
悲惨な現象に惑わされないだろう。真実には、悲惨な現象は生じていないのだから。
貴方はそのところが解らないでいるのでは?
>>849 それでは、仏教徒はどのような教えか?
851 :
神も仏も名無しさん :2008/04/15(火) 20:39:28 ID:g5CJ2DWL
訂正 仏教徒→仏教とは
852 :
神も仏も名無しさん :2008/04/15(火) 20:43:12 ID:g5CJ2DWL
>>843 >だから、誰もいないよねw
その通り。三昧王経典に、確かに、人間はいない、とある。
一切空、無相、一相、無我と言う真実に、人間がいるその相手が有る、などと言う言論は、
なんと真実に反するであろう!
853 :
神も仏も名無しさん :2008/04/15(火) 21:41:08 ID:/kjDehoV
>>848 「耐えられる」の意味がわからない。
悟っていない私にとっては、もちろんそんな境遇になりたくはない。
本当に耐えられないならショック死するか、
うつ病で自殺するだろう。
悟っていない人でも、ヒドイめに遭いながらも生き延びる人はいる。
854 :
神も仏も名無しさん :2008/04/15(火) 22:57:31 ID:g5CJ2DWL
住民に奉仕するのが自治体や国なのに、住民が自治体や国に奉仕しなければならないと言う転倒状態。
855 :
神も仏も名無しさん :2008/04/15(火) 23:29:39 ID:g5CJ2DWL
856 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/04/16(水) 21:33:54 ID:cfxvrN0Z
あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」(ヤコブの手紙) 「この世の有様は過ぎ去るからである。わたしはあなたがたが、思い煩わないようにしてほしい。」 (コリント人への第一の手紙) 「或るものを、ああだろう、こうだろうと、と考えても、そのものはそれとは異なったものとなる。 何となれば、その愚者の考えは虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄ならざるものであるから。 安らぎは虚妄ならざるものである・・・かれらは実に真理を悟るが故に、快を貪ることなく平安に 帰しているのである。」(スッタニパータ) 世と自己とを離れた境地は、この世の悩みがほんの僅かなことと感じられる境地であった。 『一切が安穏で安楽で幸福に満ちた境地は、あなたがたにできない事は、何もないであろう。』 ということを真実として知る。 「かれらには無が有であるかのごとく見られている。真理を見る人には何ものも存在しない。」 『全ては水の泡か陽炎のごとく、一切は虚妄』で何もない。偶像なるものは実際は存在しない し、ただ対象物を信じましたで益はない。人が考え出した特異な教義もない。 《不死の常識・思考の非常識》 「思考の及ばぬ静かな境地」「賢い者の賢さをむなしいものにする」 イエスが「神を信じなさい〜だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い」と教えてい ることから、神は不死の境地とともに知る神である。 人はその神より、栄華や権威、欲心を捨てきれず、「妄執というひとつのものに一切のものが従属 した。」「全世界は悪しき者の配下にあることを知っている」 『自分の栄華や権威の拡大のために、他を打ち滅ぼせ』というような悪いものに従い、現在の 人間の境地に至り、意識もあり思考もある存在となった。人は奇跡・神通力を考えられない存在 となっているだろう。しかし、人には野心が無意識に働き、組織の拡大を抱くことにより、競争 により苦労もして物を生み出し、世の中を豊かにすることは確かだろう。
857 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/04/16(水) 21:34:47 ID:cfxvrN0Z
イエスが「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』 と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう」と教えたのは、人々が『悪しき者の配下にはい り』物を必要とし、努力して物を生み出さねばならない存在となり、神通力を失い善でなくなった存 在となったから。 悪い者ほど、この世の豊かさを追い求め、組織の繁栄や人々をその組織の影響下に置こう、組織拡大・ 権威を得て人々を自分に従わせようとあくせく努力することとなる。利益の拡大を願っている。 《思考を得てわからなくなった人々に》 神が創造された自然の中で、欲心を捨てて、静かな安らぎを楽しんだ釈尊。平安の境地に達し、一 切の生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれと自身の心を教えた。 神のわざであわれみの奇跡を行い、自分を信じよと教えたイエス。神の奇跡のわざで、不朽の神を見 えるように教えた。どちらにせよ、神と永遠は慈悲で知るのである。このような今の人間の状態が永 遠に続くことはない。 自分の欲心や世の中のことよりも、いつも信じることにより「何でもできる神」に近づけるよう にした。 自分へのこだわり、世の中への様々な思い煩いよりも、賢くなった人も「愛」や「一切の生きとし 生けるものの幸福や安穏・安楽、慈しみのこころづかい」があるほうが何でもできる霊力に近づく。 《神が創造された自然で満足しなくとも》 静かな自然の中で瞑想し、妄執を滅ぼし尽くして完全にならなくても、何もできなくても欲心を捨て、 平穏な心で満足できたなら善に近い。この世から遠ざかり離れた人は、善人や悪人というこだわり、 敵意や憎しみや怨みも怒りといった苦しみの思いもなく、一切が安穏で安楽の幸せを感じて悩みから も解き放たれるのであるが、平穏な心で満足できたならその幸せに近い。しかし、妄執によって悪い ところに行くのであるから、自己の断滅の妄執も恐ろしいことなのである。
858 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/04/16(水) 21:37:02 ID:cfxvrN0Z
「誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑すること。」 (スッタニパータ)これが黒き魔の攻撃軍であると。 「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり。」(マルコによる福音書) 善を失った罪人でも、他人に仕え役に立ってから、人々から尊敬を得られるなら問題な い。 「世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲心が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である。」 (スッタニパータ) この信仰で救われたと思う人は、世の中のこと、自己のことを忘れて信仰に熱中したからで、他の信 仰では救われないと思うのは誤りである。 人は世の中で行動することも考えねばならず、その時、「何でもできる神」に近づく教えも重要。 自分の欲心を捨てて、相手の幸福であること、肉の主人に快く仕えること。益を得たい人が、自分の 栄華のために行動するから、この世に悩みを生み出す。
859 :
神も仏も名無しさん :2008/04/16(水) 21:44:40 ID:pEADZqdf
〔1〕世間一切に背くこともなく、世の中と自己へのこだわりと欲心とを捨て去ろうと志す信仰は、 離欲の世界で神と永遠を知るのだから、信仰の対象がどうであれ優劣はない。 〔2〕多くの人々は世間で行動する。その時、心が永遠に近い状態なら汚れは少ない。何も無いが、 『一切が安穏で安楽の幸福の境地』「一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ、安楽 であれ、慈しみのこころづかいがこの世では崇高」「あなたがたの父なる神が慈悲深いように あなたがたも慈悲深い者となれ」平安の境地はある。 金銭を思わず、他人が幸福だと思うことに役立ち、得るものを得られるなら問題ない。また、 得られなくても、慈悲深い心は永遠。肉の主人に仕え、他人が幸福だと思うことに仕える人々 が多いから世間に幸福が生まれる。欲心のため、他人の安穏・安楽な暮らしを奪う人々によっ て、世間に苦悩が生まれる。永遠に通じる心は、この世でも人々を幸せにする。 〔3〕何もしなくても、欲心なく怠惰でなく目覚めていて、物欲もなく、五欲の対象を貪ることな く、快楽も享楽も享受せず、心に悪意を抱くこともなく、安穏な心で満足するならむしろ善に 近い。何もできないからといって、悩む必要は全くない。妄執によって起動が生まれ、妄執を 断じた永遠の善に至った存在は、神通力により何でもできるから。
860 :
神も仏も名無しさん :2008/04/16(水) 22:15:09 ID:juquecKB
>>853 釈迦も葬儀などではなく、慈悲を教えている。
葬儀で成仏は慰め。仏教が教えねばならない本当のことは、慈悲。
>>854 住民は世の人々の幸福のために働き、物質を生み出し、サービスを行う。
生活に必要なものを揃える。
自治体はその上だから、全ての人々の幸福な暮らしのため、安穏な暮らしの
ため、安楽な暮らしのために努める。
人々の主である人が弱い人々を忍んでやるならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。
弱い人に対しては、つねに同情して忍んでやらねばならぬ。仏典
政治家や自治体は、強いところから弱いところへと助ける機能を果たせっ
てことだよ。
861 :
神も仏も名無しさん :2008/04/16(水) 23:37:41 ID:ULdSWdh8
>>833 法律では人の幸せを護れないこともある。
愛や慈悲を身に着けて、他人の幸せを害わないように気をつければ、法律を知らなくても、
法律にひかからないかも。他人の幸せを害わないようにしようと気をつけている人の過失
も、寛容やゆるしによって、当事者により和解が成立する。
>>850 悲惨な状態になった時、ひとり遠ざかって静かに心の安らいを味わえば、狂おしい悩みも
消えてなくなると。イエスも洗礼ヨハネが殺された時、さみしい所に行ったと聖書に書い
てなかっただろうか?
悩んでも仕方がない苦しい時は、森の中でも入って静かにしていると少しは安らぐかもし
れない。
862 :
神も仏も名無しさん :2008/04/19(土) 23:18:06 ID:TyuBOGeS
阿弥陀仏=キリスト教の神=解脱=一切
863 :
神も仏も名無しさん :2008/04/20(日) 07:22:38 ID:98yu+d1F
864 :
神も仏も名無しさん :2008/04/20(日) 09:54:18 ID:X0N+85+M
真理真実を掲げる点で、同一だ。それを装飾する点で、地域の特色があるが、 中味と言うか、根本の真理真実で同一なのだ。 これを言うとマニ教に近いものになるがね。
865 :
神も仏も名無しさん :2008/04/20(日) 10:02:27 ID:L29GgwnR
イエスは信仰そのものが存在しないと言っているから、阿弥陀仏という偶像は信仰対象としない。 イエスは無所有で慈悲やあわれみを説いたから、自分を信じよと教えた。 釈迦は無所有で慈悲を完成した修行完成者だから、仏教は慈悲を完成させる目的である。 信仰対象を持つ人間は全て「空=カラ」であり、死ぬ。 この世で苦しんでいる人をいやし、慈しみ、あわれみ、全てが幸せになるよう思う心と信仰は、 永遠なのである。 しかし、あまりにも人間が愚鈍、無知、無明であるため、偶像を抱ける人間が永遠だと勘違い し、死んでしまうのである。
866 :
神も仏も名無しさん :2008/04/20(日) 10:14:30 ID:WljYTfF5
阿弥陀仏は偶像ではない。各自に潜在する慈悲の心を言うのである。
867 :
神も仏も名無しさん :2008/04/20(日) 11:12:52 ID:X0N+85+M
イエスが信仰を否定したなどというのは無知だ。阿弥陀は偶像ではない。 阿弥陀は真実の別名である。 >信仰対象を持つ人間は全て「空=カラ」であり、死ぬ。 真実は永遠である。永遠を信じるものが死ぬと言う道理は無い。 真実は空相無相である。空相無相を体得した人が死ぬと言うことは無い。
868 :
神も仏も名無しさん :2008/04/20(日) 14:56:01 ID:WrwLUtby
阿弥陀って悪人成仏だよね。 釈迦の反駁思想。つまり仏になれない=成仏できない=地獄行き。 イエスもイスラエルで、主よ主よって言うんじゃなくて教えを行えと説いたようで、 釈迦は信ずることなく、一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者となった。 そこらへん釈迦とイエスに共通点あり。 永遠を信じても地獄って法則はあるかもしれない。
869 :
神も仏も名無しさん :2008/04/20(日) 15:34:20 ID:xwmL8lZN
>悪人成仏 悪人正機じゃなかったっけ? 善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人においてをや
870 :
神も仏も名無しさん :2008/04/20(日) 15:40:45 ID:xwmL8lZN
大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに 慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった より偉大なことができるように健康を求めたのに よりよきことができるようにと 病弱を与えられた 幸せになろうとして富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった 世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに 神の前にひざまづくようにと 弱さを授かった 人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに あらゆることを喜べるようにと 生命を授かった 求めたものは一つとして与えられなかったが願いはすべて聞き届けられた 神の意にそわぬ者であるにもかかわらず 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた 私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ (J・ロジャー・ルーシー神父)
871 :
神も仏も名無しさん :2008/04/20(日) 18:37:04 ID:RWU7dSSn
阿弥陀は閻魔の法則を示す。 釈迦は[天上と地獄とを見]、世の中を捨ててでも「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行 完成者」となり、地獄に絶対生まれない修行完成者となった。 イエスは徹底してあわれみの行いを教え、世の中を捨てないでも「世よりわたしを信じるこ と」として、信仰の対象となった。 ここで人が賢くなったことをゆるされたのは、 賢い人が、その身でこの世の欲望より「慈悲」「御言」を行えるようになるためであ り、知恵があるために、目の前の人を助けることができ、自分が得たいという欲望を 知恵で解決するためではなく、他人の肉欲(肉の主人)に仕える知恵で、互いが意向 を叶えあう(助け合う)ためである。 また、賢い人だから、盲人や口のきけない人や病に悩む人もなく、全てが幸せである ことを地上の何よりも真理・真実として理解し、慈悲・あわれみの心が永遠につなが る唯一のものであると理解できるようになる。 地上でまるで天国のようにあわれみの行いをしたイエスを世のことより信じることは永遠に 至る法則。世の中を捨ててまでも、あわれみ・慈悲を完成した釈迦は永遠。 この身がなくなっても、全てが幸せであることを思う心は永遠。違う永遠を求めると、その まま全ての幸せを拒絶して、闇に至る。 誰かが言い出したものではなく、人の心の内にもあるものが善い世界へとつながっている。 常に人の心の内にあるものが勝っていると、その身がなくなっても勝ち得ている。
872 :
神も仏も名無しさん :2008/04/21(月) 00:08:24 ID:NQa4kumj
結局、永遠の命は人の内に内在し、自然に安らぎを感じたり、 病気の人が治ったりするのを我が事のように喜んだり、 慈しみのこころづかいによって、人によくしてやること、何もあてにしないで 貸してやることがよいことだろうなと思ったり、 自分が他人より偉くなりたいからといって、敵意を抱き憎しみを持つことは悪 いことではないか?と自然に感じたり、 他人の過失を探し求め、ゆるさず責め立てたりすることはあまりよくないこと だから、ゆるしてやろうと思ったり、 それを地上の変化により捨て去って、永遠の命を落としてはいけないというこ とで、 自然界、この世の人にないものをつくりあげて信じさせることは、永遠の命で ないという教え。 永遠の命は人にある程度あり、学べばすぐわかり、それをいつも守ろうと教え るのが、本当の永遠の命の教え。
どっちも基本的にアンチ宗教なんだよな? 当時の宗教に対して要するに「教義に縛られるな」って言ってる
874 :
神も仏も名無しさん :2008/04/21(月) 20:32:41 ID:Uhkb8Diu
くどくど祈るな、呪文を唱えるな、死人を葬ることは死人、葬儀をやるな、供え物は悪霊、供え物は霊は食べない、 誓うな、誓いを捨て、神様他の人たちより貪欲な者ではないというような人に対し自分を低くせよ、清浄とか不浄 とか願い求めることなく、宗教行事で功徳が得られると思う人は怠け者の親族、死んだ人はもう手の届かぬ人だ、 余のために、塔を建てたり、僧院を建立したりする必要はなく、僧の集団へ供養する必要もないと、 そのような当時の宗教的行いから、 人間が存在しない世界の「完全な平安・苦悩の全く無い世界=安らぎ」の影響を人が受けていると教えている。 つまり、怒っても憎んでも怨んでも敵意を抱いても平安とならないことを理解し、くどくどと祈っても呪文を唱えて も宗教的行事により功徳を求めても、幸せを生み出せることはなく、貪っても人類の悩みが解決されるわけでもなく、 他人のあやまちを責めるより、自分に気をつける人々が増せばこの世も良くなり、耐え忍ぶことで幸せが失われない 場合もあり、信ずるよりも人が良くならないと人々はこの世で助からず、そういうような教えを語っている人を信じ るほうが、特殊な宗教行事を行って信仰があったと思う人々より信仰があるのだと。 そして肉欲を制して、平安を愛し、敵意や憎しみなどを制して、他人の悪に悩まされない安らぎを愛する人が、平安 と安らぎの永遠に至るというものが根底にある。
876 :
神も仏も名無しさん :2008/04/21(月) 22:37:35 ID:/AKVeLKo
877 :
神も仏も名無しさん :2008/04/22(火) 08:52:25 ID:AbxTcRFQ
アウグツツヌスがマニ教からキリスト教に改宗した事実。 マニ教は、真実を理論的に説く教えであったと思う。是に満足できなくて、 彼は、キリスト教に改宗したと言うことは、真実がキリストと言う人格でなければ 満足できなかったと言うことではないか? これは、真実を解く原始仏教が、後に大乗を生み出した原因と同じである。 大乗は大乗でも、阿弥陀と言う真実:人格を掲げる大乗である。 これも原始仏教にあるけどね。仏法僧の三宝は原始仏教に有る。 このうちの仏が阿弥陀なのだ。それと僧の拡大。・・・・。
878 :
神も仏も名無しさん :2008/04/22(火) 21:22:15 ID:SHerjhgb
釈尊は最高の清浄行を達成した。阿弥陀は離欲を達成できない人々の監視役の象徴 のような存在だろう。神々の中でも一番上の存在かも。 とにかく、家を捨てなくてよいから、「享楽や欲楽、物欲」を真実とするのを止めろと 言うのが上の存在で、離欲を達成した釈尊や離欲の世界を喜んでいる上の存在を尊敬し、 仏事を戒めとしている人々を大切に思っているようだから、本当に上に安住できるのは、 「享楽や欲楽、物欲」を慎み釈尊の教えを大切に思う僧しかいない。 イエスは五欲の対象を享受する(罪)をゆるし、輪廻転生をゆるした存在みたいなんだ。 輪廻転生王かもしれない。そのかわり人類は互いに助け合いなさいというような「愛」の 教えを残し、釈尊も輪廻転生する人々に対しても、悪業をするなと教えた。 「罪をゆるして下さい」と言うとそのまま、人間界のままで、離欲を志そうとすると上に 行ける。 天上界の存在にとっては、今の日本のような国は最悪で、人間にとっては色々な楽しみも あり幸せな世になった。その中で、仏事を戒めとしている人は大切なようだし、まじめに この世の欲楽を慎んで上の世界に行ける人は、もっと大切なようだ。
879 :
神も仏も名無しさん :2008/04/22(火) 23:15:19 ID:AbxTcRFQ
真実に従うと言うことはなんと安楽をもたらすだろう。 真実は無相一相空相無願無我である。常にこの真実にしたがって生きよう。
880 :
神も仏も名無しさん :2008/04/23(水) 00:18:34 ID:vo1vDwJb
一切の差別心が消えたとき、そこは絶対の安楽である
881 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/04/24(木) 22:21:44 ID:4iFItL4q
欲望も存在せず、悪も存在しない世界の境地とひとつになった釈尊は何も信じない。 「何ものかを信じることなく、作られざるものニルヴァーナを知り、生死の絆を断ち、善悪を なすによしなく、欲楽を捨て去った人、―かれこそ実に最上の人である・・・人のいない林は 楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。(真理のことば) 【なぜ信仰がいるのか?】釈尊も神の代弁者である。 「享楽・欲楽・物欲を捨て去れ」とは神がいつも語ることで、仏教修行僧は忠実に享楽・欲楽 を断ち、物への執着心を断った。美味も貪らなかった。そして、それらの無い幸せなところに 安住できたのである。欲望を楽しむ人々は、地につながれ「地(ち)獄」から脱出できない。 以前神に言われたことがある。「根底にあるものを説いたところで・・・」 釈尊は、「一切が安穏で安楽で幸福」世界に達した、快楽・享楽を捨て自然の中で静けさを楽 しんだ・・・不死の境地に達したからである。そして「何ものかを信じることなく、信仰を捨 て去った」 煩悩を断ち切れない多くの人々にとっては、信仰により近づく。信仰対象はこれでしかないと いうものはない。信仰に集中することにより、家に居ながら、煩悩から少しずつ離れていく。
882 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/04/24(木) 22:22:31 ID:4iFItL4q
世の中の快楽・欲楽・物への執着・貪欲を離れよと再三言われたことだが、 信仰対象を持つことで、諸々の自分の思いを願い叶えられたとして、それ以上の欲望・悩みを 持たない。欲望・悩みがなければ、不死の仏の境地に近づくのである。 信仰に集中することによって、「世の中どこにも、わたしは害いを見ない」仏の境地に近づく のである。 「この世で善いことをしたならば、安心しておれ。その善いことが、ずっと昔にしたことだと か、遠いところでしたことであっても、安心するがよい。人に知られずにしたことであっても、 安心しておれ。その果報があるのだから、安心しておれ。」「悪をなさない人には、悪の及ぶ ことがない。」(感興のことば・真理のことば) 不安や恐れも悪もない心は仏の境地。神仏を信じて、暴力・盗み・他人を故意に悩まそう とせず、罵倒せず、悪をなさない人には、悪の及ぶことがないから安心すること。 神の言うことに従わず、五欲の対象を享受しようとした。物欲が生じた。 「そなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない。」(悪魔との対話) 「働こうとしない者は、食べることもしてはならない。」(テサロニケ人への第二の手紙) 物欲などが生じた人は、安楽を願ってはいけない。誰も自分のために働いてくれる人々は いないと「苛酷なることなく貪欲なることなく万物に対して平等」であることを信じて、 「誠実、自制、施与、耐え忍び」を心得て、自分でこの世の重荷に耐えて生きること。
883 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/04/24(木) 22:23:16 ID:4iFItL4q
「貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ。」「食乞う人々を 飲食物をもって満足せしめよ。」(神々との対話) 目の前の人が飢えているのに、その人が助けてやらないと大変な苦悩を味わうことになる のに助けない。そのようなことにならないように、自然な感じのあわれみを持つこと。 神はこの世でも働いておいでになり、自分へのこだわり、怠惰、物への執着心のあまり、 拒絶してはいけない。 釈尊は上の境地に至り、信仰の根底にあるものを説いたのであって、在家の信者は神仏を信じ ることによって貪欲を捨て、自然に善となるか、法を学んで善となる。 理法のみだと、人々は生活活動もありすぐに忘れ去ってしまう。
884 :
神も仏も名無しさん :2008/04/29(火) 11:40:08 ID:9fQcsl9d
われわれの心配と言うものは妄想である。妄想と真実である無相空相一相無我があるだけである。 妄想を滅するならば真実が現れるのである。心配を滅するならば、真実が現れるのである。 心配の中で、心配を解決しょうとしても決して心配は滅しない。心配は相対的存在であり、 一方を滅しても異なるものが生じるからである。生じるものは相対的存在であり、妄想であり心配なのである。 ある人のことを心配しているというのは、善人であることの証拠であるように思われるが、全く真実に反して 悪い人である。 善人は、一切を心配しない。他人の過去未来を一切見ない。他人が過去見来永劫に幸せであることを知っている 善人に接するなら、自分を意識しないでいられるが、なんでも心配してやる事が善行であると思っている人に接すると、 心配が醸成される事になる。 出家と言う行為は、親族家族を放棄する行為であるから、世間的に見ると、ひどい行為であるが、 これほどの善行は無い、と言うべきではないか?
885 :
神も仏も名無しさん :2008/04/29(火) 12:10:55 ID:9fQcsl9d
阿弥陀の浄土に生まれるためには、阿弥陀を念じる事が前提であるが、 五逆罪を犯すものを除くと言う条件もある。五逆罪を犯す心と浄土に入りたいと言う心は矛盾する ので、このような除斥条件があるものと解すべきであろう。 真実はこの五逆罪もないものであるから、この無いことを立証する教えを聞いて、二度と五逆罪を望まないならば、 浄土に入れるのである。五逆罪を犯したものは入れない、というのは真理ではないのである。 五逆罪とは、 人倫や仏道に逆らう5種類の極悪罪。犯せば無間地獄に堕ちるとされ、五無間業(ごむけんごう)ともいう。 @殺母 A殺父 B殺阿羅漢・・聖者を殺す C出仏身血・・仏身を傷つけ出血させる。 D破和合僧・・教団を破壊する。
886 :
神も仏も名無しさん :2008/04/30(水) 18:56:10 ID:zjss3k+T
阿弥陀を念ずるとは、仏法僧を念ずる事である。仏法僧を念ずるとは、浄土を念ずる事である。 浄土を念ずるとは、天国を念ずる事である。
887 :
神も仏も名無しさん :2008/05/02(金) 08:29:17 ID:Nchu3FOE
>>884 人の心配をすることが悪いこと?
阿弥陀思想は利己主義の人間を生む。
>>885 何を言っているのかわからない。
父母と僧のみ殺してはならないと。
教団のみ大切にさせるただの洗脳。
こういうカルト思想は危険。他人を殺しても平気な人間をつくる。
>>886 阿弥陀を念ずることは、反社会的な人間になることを念じることである。
888 :
神も仏も名無しさん :2008/05/03(土) 09:23:34 ID:ft3M9Ca0
>>884 釈迦はバラモンを利用して教えを説いた。
諸々の人の家で貪り、呪文を唱え、宗教的行為により功徳を求め・・・
子や妻がいない人も悩まないこと、家族を捨て出家した人でも、「この平安の境地に達して」
母が己がひとり子を命を賭けても護るような慈しみを崇高として説いた。
子や妻を自分の意のままにしようとする人や、目的のため家族を捨てるような人は、教え諭さねば
いけないということ。
889 :
神も仏も名無しさん :2008/05/03(土) 18:04:24 ID:j1PCFLl7
>>887 ダンマパダ
345 346 鉄や木材や麻紐でつくられた枷(カセ)を、思慮ある人々は堅固な縛とは呼ばない。宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、──それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。それは低く垂れ、緩く見えるけれども、脱れ難い。
かれらはこれをさえも断ち切って、顧みること無く、欲楽をすてて、遍歴修行する。
890 :
神も仏も名無しさん :2008/05/03(土) 22:28:15 ID:v7dTeCvH
釈迦は修行僧の身の者と、神々の世界に生まれる人の行いと、輪廻転生する人の行い を説いた。 修行僧の行いをしているから、死後も修行僧の行いが報われる。 神々の世界に生まれる行いをしているから、神々の世界に生まれる。 輪廻転生する人の行いをしているから、輪廻転生する。 修行僧の行いをしていないのに、修行僧の報いを受けることはあり得ない。 天の世界に生まれる行いをしていないのに、天に生まれることはあり得ない。 業が悪いのに、よい運命となって生まれることはあり得ない。 信者全員が修行僧の行いをしていることはあり得ない。
貴方にとって今が修行のときです。笑顔で乗り越えましょう。 人間は誰でも何らかの修行をしています。 それはもともと人間は何らかの修行をするために生まれてきたからです。 修行とはいやなこととか苦手なことと決まっています。 得意なことは修行になりませんからね。 どんな修行も時間がたてば終わるものです。 ただし、笑顔で乗りこえたか苦痛の顔で乗りこえたかをいつも神様は見ています。 いくら乗り越えても苦痛で乗り越えた人は罰を。笑顔で乗り越えた人にはご褒美をくれるのです。 だから笑顔で乗り越えなくてはだめですよ。 For you, now is the time to train. Just do it with a smile. Every human ,trains about something, This is because every human is born to go through some training. Training is made to be hard and tough . For if it was something that you are good at then it wouldn’t be training. Numerous training will be done as time passes . But, god always watches if you over came the training with a smile or a frown. Even if you go through training, if you do so with a frown, you will get a punishment. But if you go through a training with a smile, you will get rewarded. So let’s go through every training with a smile!
892 :
神も仏も名無しさん :2008/05/03(土) 23:10:25 ID:j1PCFLl7
真実とか真理は一部の人間のものではないのである。特に仏教の言う真実真理は、 一切のものの真実真理である。一切のものは、この真理真実から離れる事は出来ないのである。 一切のものはこの真理真実を求めているなら、これら一切のものは修行をしているのである。 修行するものを修行僧と言うのである。 浄土真宗では、僧団と言うものは、一部の層たちを言うのではなく、一切を言うと言う考えを採用しているのではないか? 大経では、極楽浄土では菩薩声門の数は無限とされており、大教ばかりではなく、これは大乗の特徴ではないか? と反論に困るような事を思っているのでありますが、いかがでありましょうか?
893 :
神も仏も名無しさん :2008/05/04(日) 00:32:00 ID:rgsx7WDm
釈尊の修行僧は普通ではまねできない修行をした。 所有物を捨て去り、わずかな食物で暮らす仙人行。 その行いに尊敬心があるのが信者。 修行をして成仏したであろう修行僧をイメージさせて、 真理から説いた言葉に従えさせようとするのが経典。 釈尊は修行僧と在俗信者とを分けた。 釈尊が修行僧にあれだけのことをさせたのだから、 釈尊に尊敬心があるなら、死後の運命は人の生前 の行いによって分かれるとするのが正しい。 また経典にも書いてある。
894 :
神も仏も名無しさん :2008/05/05(月) 03:44:26 ID:5r+265eb
>>892 一切のものごとをつらぬく法則が仏教の真理でしょう。
真理に気付いていようと気付いていまいと、
真理からは逃れられない。
しかし、すべての人々が真理に気付こうと修行してるかというと、
修行していない人々の方が多い。
だから、一切の人々が修行僧であるということはない。
895 :
神も仏も名無しさん :2008/05/05(月) 12:01:59 ID:heXnwIFZ
釈尊に尊敬心のある人 「修行僧たちよ。そなたらも、天界のきずなであろうとも、人間のきずなであろうと も、すべてのきずなから解き放たれている。」 「色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたものと―わたしは それらについての執著を離れる。」 善にして尊く出家し修行に励むのは、それらの執著から離れ、天界のきずなから も解き放たれ、最後の身体を得るためである。 行為と結果がないと、釈尊(仏教)を信じることにはならない。 「悪い行いをした人々は地獄におもむき、善いことをした人々は天に生まれる。」 執著から離れられなくとも、善いことをした人々は天に生まれる。 この世で道を修して、五欲の対象から離れ、汚れを去り、最後の身体に至る人々 が全てではない。善いことをした人々は天に生まれると信じることも、釈尊を尊 敬している人である。 「世俗的であっても、すぐれた正しい見解をもっているならば、その人は千の生涯を 経ても、地獄に堕ちることがない。」 世俗的であっても、正しい見解をもっているならば、地獄に堕ちることがないと 信じることも、釈尊を尊敬している人である。 広くそれぞれの人の行為によって、結果を説くのが仏教である。
896 :
神も仏も名無しさん :2008/05/05(月) 14:57:14 ID:yCpJACsU
>>894 一切とは五蘊である。五蘊は貴方が所有しているものである。故に貴方は五蘊を捨てることも維持する事も自由である。
修行している人がいる、修行していない人がいる、と言う見分けも貴方の五蘊である。貴方の識である。
そして、五蘊は空であると貴方は知ったのである。故に五蘊を捨てることが出来るのである。
>>895 「色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたものと―わたしはそれらについての執著を離れる。」
五蘊が空であると知っても、すぐに捨てられない場合が多いのである。しかし、それが真理真実であるので、
捨てたく思うのである。そのときの貴方の五蘊は、修行中に有ると言うべきではないか?
つまり、貴方は一切のものが、修行中にあるのを認めるのである。それは貴方の五蘊だから。
それから、五蘊が空であると言う真理真実は、すべてのものは縁起存在であるので、
固定的な実体のあるものは無いと言うことであり、人間なるものがいると言う観念を否定するものであり、
従って、修行する人、しない人、と言う識別そのものが、修行の完成により消滅しなければならないもの、
と知るはずのものである。
897 :
神も仏も名無しさん :2008/05/05(月) 15:07:41 ID:yCpJACsU
アナンやシャリホツの顔をみると皆は、心嬉しくなり幸せな気分になったと原始経典の パリニルヴァーナは記録している。彼らは人を心配し、心配と言うう負荷を掛けなかったからである。 心配し、人を右に行かせたり左に行かせたりする事は、知恵あるもののすることではないのである。 反対に真実である無相一相空相無我を念じて、人の過去未来現在を見ないで、 相手の空相一相無相無我を見るべきなのであり、その度合いに応じて、自他をニルヴァーナに入れる人となるのである。
898 :
神も仏も名無しさん :2008/05/05(月) 15:38:52 ID:5r+265eb
>>896 ブッダの教えはそんなややこしい言葉遊びをしないと思うよ。
899 :
神も仏も名無しさん :2008/05/05(月) 22:52:12 ID:yCpJACsU
仏陀の教えとはどのようなものと考えていますか?
900 :
神も仏も名無しさん :2008/05/05(月) 23:45:11 ID:5r+265eb
>>899 実践すれば智慧や知識が自然についてくるような教え。
哲学ではなく、実践の教え。
学校の科目でいえば、体育かな。
901 :
神も仏も名無しさん :2008/05/06(火) 00:05:28 ID:yCpJACsU
>>900 どのような実践を説いていますか?
どんな知恵や知識が付くといっているのですか?
902 :
神も仏も名無しさん :2008/05/06(火) 00:51:42 ID:7nxkecsL
>901 八正道、戒・精神統一・観察。 2500年前の普通の人々でも理解できて、一日で悟った人もいる。 教えをぜんぜん憶えられなくても、 掃除をしてるうちに悟った弟子もいた。 仏教における知識は、 実践で行き詰まったときのヒントではないでしょうか。
903 :
神も仏も名無しさん :2008/05/06(火) 12:34:20 ID:RlgJI5Yx
>>902 >八正道、戒・精神統一・観察。
八正道と有るが、ここに言う「正」とはどのようなものですか?
904 :
神も仏も名無しさん :2008/05/06(火) 14:30:08 ID:7nxkecsL
>>903 悩み苦しみの解決・軽減に役立つことが「正」。
905 :
神も仏も名無しさん :2008/05/06(火) 19:29:37 ID:RlgJI5Yx
906 :
神も仏も名無しさん :2008/05/06(火) 20:45:06 ID:7nxkecsL
907 :
神も仏も名無しさん :2008/05/06(火) 21:35:21 ID:RlgJI5Yx
どんなコツか?
908 :
神も仏も名無しさん :2008/05/07(水) 08:20:25 ID:lU18m4ci
909 :
神も仏も名無しさん :2008/05/07(水) 20:58:28 ID:NwV827p9
仏教では、感情に気づく事と規定して、その通りに教えていますか?
910 :
神も仏も名無しさん :2008/05/07(水) 22:59:22 ID:e3yaiVuK
仏典に書いてあることを否定して、自分勝手な言葉遊びを正当なことだと言う 人ほどやばい。本当に地獄に落ちそうな人。 仏典は弟子たちが書いたものだから、ひとつの仏典に書いてあるものは、否定してもよい部分もある。 しかし、複数の仏典に書いてあることを否定してはダメなのだ。 仏典を弟子たちに任せたので、真実のものと偽りとを見分け、真実を選び出し、偽りを捨てろと七覚支 という修行方法が必要になる。 法(仏典)を頼りとして、自らを頼りとしないと、仏教を行っていることにはならない。 複数の仏典に書いてあることのみが仏教の真実なのだ。
911 :
神も仏も名無しさん :2008/05/07(水) 23:28:26 ID:lU18m4ci
>>909 八正道のなかの「正念」がそれにあたるでしょう。
912 :
神も仏も名無しさん :2008/05/07(水) 23:30:34 ID:NwV827p9
>>908 感情に気づくというのは曖昧である。真理真実とは曖昧ではない。
感情とは気持ちの変化を言う。気持ちが変化しているのを自覚する事を意味するものと解する。
これはこれでいいのである。これから先の教えがあるのであり、それを知らないでは仏教を知らないものであり、
仏教とは真理真実の教えと言う意味である以上、最大一の仏教からの恩恵を受けていないと言うことになるんである。
感情が変化していると言うことは、感情の変化が縁起したものであると言うことを認めることなのである。
そして縁起したものには実体がない、命が無い、無我である、個我が無い、故に真相実相真実は、無相:一相:空相であると知らなければならないのである。
縁起している感情に囚われないようにしなければならないのであり、この意味で、「感情を冷ます事」というのは当たっている。
感情は差別しないで、どんな感情であろうとも、つまり覚ますべき感情であろうと、温めるべき感情であろうと差別無く、
囚われないようにしなければならないのである。痛いと言う感情も快適であると言う感情もである。これを無感動と言う正しい禅定なのである。
何であろうと、一相空相無相と言う真実に合致させる方法が正しいといわれるべきなのである。
913 :
神も仏も名無しさん :2008/05/08(木) 07:50:55 ID:sRQW07Ae
914 :
神も仏も名無しさん :2008/05/08(木) 20:54:19 ID:f46Jcx/q
いつでも真理真実を伝え、確認する事を怠ってはならないといわれている。
915 :
神も仏も名無しさん :2008/05/09(金) 00:42:51 ID:x2gfDP3l
睡眠薬を飲んで朝まで涅槃にいきます
916 :
神も仏も名無しさん :2008/05/09(金) 08:50:37 ID:xbcQnaGn
自分はまわり全てのものと縁起している存在である。縁起しているものはすべて平等であり、 空相無実体である。無実体と言う真相に於いて平等なのである。 自分と他人は、真実実相に於いて同じものであり、平等なのである。 (平等の語源に基づいた解説を一度見てみたい) 更に、自分に付いて、生きている自分と死んだ自分も平等であり、同じものなんである。 損をした自分と得をした自分も、平等であり、同じものなのである。 この真理真実を知って初めて安住できる。 と、このように、真実が一相無相空相無我であるから、現象の差異に囚われないでいかなる場合にも、 安住できるものと思う。どう思う? イエスが、イエスを心配した弟子をしかって、「貴方は人のことを思っている、神の事を思うべきである、」と戒めた事がある。 人の事とは、現象である。自分の肉親を心配する心。神とは一相無相空相無我である。
917 :
神も仏も名無しさん :2008/05/09(金) 09:46:21 ID:9FQbAIRS
イエスは人の名で、仏陀は王朝の略称である。
918 :
神も仏も名無しさん :2008/05/09(金) 19:50:05 ID:xbcQnaGn
919 :
神も仏も名無しさん :2008/05/10(土) 07:16:58 ID:qPnNf66u
>>918 涅槃から帰りました
すっきりしました
涅槃は無でした
920 :
神も仏も名無しさん :2008/05/10(土) 08:06:39 ID:VDu+Z+n7
>>919 明朗な知恵のある人
>>916 死んで迷って幽霊になってパソコンに向かって書き込んでる?
他人も幽霊になるよう誘っては駄目だよ
>>918 お化けの誘い文句
宗教は現実離れの理屈を考える道具に過ぎない
日本人がこうなったら、日本は破滅
921 :
神も仏も名無しさん :2008/05/10(土) 20:26:53 ID:vVrLhIX2
922 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/05/10(土) 22:25:46 ID:OjMJGXeh
【人々が永遠の境地から益を得ること】 涅槃は無だと考えてもかまわない。 「真理を見る人には何ものも存在しない。人々は自我観念にたより、また他人という観念 にとらわれている。」「思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり」 (感興のことば) ≪悩み苦しみの無い幸せの道理をもたらす≫ 五感への貪りも無く、第六の思考・意向も無く、苦しみも無い。思考も煩悩であり、人はそ れぞれの考え方や意向があり生きており、互いに思考や意向を尊重することによって、苦し みが軽減される。 「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執 著するもとのものである。執著するもとのない人は、憂うることがない。」 ・・・「わが妻は従順であり、貪ることがない〜わが意に適っている。」という人に対し 釈尊は「わが心は従順であり、解脱している〜(わが心は)よくととのえられてる。」 自分の考え方が正しいとし、他人に執着し、自分の考えどおり意向どおりになると思い 苦しみが生ずる。他人について憂うものと心得ておけば、敵意や憎しみ、怒りといった 感情も失望も軽減され、安らぎから遠く離れることなく苦しみも少ない。自分の考えど おりにならないと怒り、罵倒する人がいないと、永いあいだ修養してない人でも、それ だけ平穏な心が失われず保てるのである。
923 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/05/10(土) 22:26:43 ID:OjMJGXeh
貪りのため、「他をならかしめて自らの利を貪る」人々がいないと、人は他人から過酷だけ を味わうこともなく、他人の貪欲のため過酷を味わう苦しみも少ない。過酷を味わうことだ けが自分の意向だという人は少ないだろう。五感の貪りも無く、物質的なものへの執着も無 く苦しみが存在しないから、満足している人々は、悩み苦しみも少ない。 「生きとし生ける者は幸せを求めている」(真理のことば) 「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して〜一切の生きとし生けるものは、幸福 であれ、安穏であれ、安楽であれ〜母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように 一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし〜この世で は、この状態を崇高な境地と呼ぶ。諸々の邪まな見解にとらわれず」(ブッダのことば) 「諸行無常」「一切皆苦」「諸法非我」形成されたものは無常であり、苦しみである。 一切の事物は我ならざるものである。 形成されたものは生じては滅び、執着も無く幸せな世界から見れば、形成されたものに 執着を示すのは苦しみである。それらは我ならざるものであるが、形成されたものにこ だわり、これから作ろうとするものにこだわり、形成されたものを失わないように執着 を示し、生きとし生ける者の幸せを害するなら、人々は正しい見解を得ていない。 仏教は、相手への期待感から失望して離別しないように、怒り・憎しみを抱いて不幸に ならないように、生きとし生ける者は幸せを求めているから、その幸せを助けることは 善い見解だと教え、この世のもので人々が不幸や苦悩が生じないように教えている。
924 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/05/10(土) 22:29:48 ID:OjMJGXeh
>>920 世の人々が、金銭欲・自分の幸せだけを追い求め・快楽や欲楽のために冷静さを失い・こ
の世のもののために不幸や苦悩が生じないようにするためにも仏教はある。
現実的な世の中から離れ、教えを学び冷静になって幸せを考える。
この世の現実しか見ず、貪欲と思考が結びついたら、人々は苦悩を生み出すために活動を
することになりかねない。
>>884 >>出家と言う行為は、親族家族を放棄する行為であるから、世間的に見ると、ひどい行為であるが、
これほどの善行は無い、と言うべきではないか?
しかし、修行をして平安の境地に達した人は、母が己が独り子を命を賭けても護るような慈悲
である。「わが妻は従順であり、貪ることがない。意に適っている。かの女にいかなる悪のあるの
をも聞いたことがない。」という人よりも、
修行を完成させ、「上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし」
「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたことしな
かったこととだけを見よ」となった人のほうが世の中に増えたほうがよい。
慈悲や寛容が世の人々に必要で、世の中から離れ、静けさを目指し、つくられざる境地に至るのも
かまわない。つくられざる者は、それはそれで善であるから。しかし、世の中にいて無慈悲で冷酷
で他人を自分の意に全て適えようとする人は妄執に従い悪である。
925 :
神も仏も名無しさん :2008/05/12(月) 01:29:21 ID:isQ1iP89
926 :
神も仏も名無しさん :2008/05/12(月) 21:21:43 ID:9NAUNx2k
>>925 仏教もキリスト教も一緒なことをといていると言う主張と対峙しています。
名称は異なりますが、意味を追っていくならば両者は一緒と言う主張に賛成します。
927 :
神も仏も名無しさん :2008/05/12(月) 21:25:56 ID:nxOmpLWu
イエスとブッダは似ていますが パウロの創始したキリスト教はブッダ思想と似ても似つかない
928 :
神も仏も名無しさん :2008/05/12(月) 22:41:21 ID:PeTB81o4
仏教は他人を頼りとせず自らを頼りとして法を島とすること 経典を読んで、自分で教えを考え学ぶのが一番いい 聖書を参考にするものいい 情報は他人の妨害で見れなくなるのが一番危ない
930 :
奇跡 :2008/05/13(火) 01:29:37 ID:kdc6X6jk
どんなにせつなくても 必ず明日は来る ながいながい坂道のぼるのは あなた独りじゃない 僕は神様でないから 本当の愛は多分知らない けれどあなたを想う心なら神様に負けない たった一度の人生に あなたとめぐりあえたこと 偶然を装いながら奇跡はいつも近くに居る ああ大きな愛になりたい あなたを守ってあげたい あなたは気付かなくても いつでも隣を歩いていたい どんなにせつなくても 必ず明日は来る ながいながい坂道のぼるのは あなた独りじゃない 今日と未来の間に流れる河を夢というなら あなたと同じ夢を見ることが出来たならそれでいい 僕は神様でないから 奇跡を創ることは出来ない けれどあなたを想う奇跡なら神様に負けない ああ大きな愛になりたい あなたを守ってあげたい あなたは気付かなくても いつでも隣を歩いていたい ああ大きな夢になりたい あなたを包んであげたい あなたの笑顔を守る為に多分僕は生まれて来た どんなにせつなくても 必ず明日は来る ながいながい坂道のぼるのは あなた独りじゃない どんなにせつなくても 必ず明日は来る ながいながい坂道のぼるのは あなた独りじゃない
931 :
神も仏も名無しさん :2008/05/13(火) 03:22:14 ID:QjbhIefm
イエスとブッダは似ていますが 根本がまったく異なります。 これからの展開をお楽しみに。
932 :
神も仏も名無しさん :2008/05/13(火) 07:01:12 ID:gFpU2jx4
イエスも釈迦も神に、仏になったのです。
933 :
神も仏も名無しさん :2008/05/13(火) 10:55:41 ID:3ymfwWqH
基本。神と仏は違いますよ。
934 :
神も仏も名無しさん :2008/05/13(火) 11:24:54 ID:gFpU2jx4
どのように違うと?
935 :
神も仏も名無しさん :2008/05/14(水) 21:27:29 ID:h++9dHgM
中国の地震も無いと言わなければならない。
936 :
神も仏も名無しさん :2008/05/14(水) 21:30:22 ID:X4Ri3nfm
大乗的には神は菩薩かな
937 :
神も仏も名無しさん :2008/05/14(水) 23:06:21 ID:h++9dHgM
インドの神や日本の神は、ユダヤの神と比べると、言い尽くされていないのである。 曖昧で呆けており、足らないのである。ユダヤの神でさえも、齟齬があり、解釈が困難である。 それでもイエスが説く神は、ブッダの説く真実と矛盾しない。インドの神や日本の神は 真理真実を説くものではない。菩薩は真理真実を説き、それを体得しようとしている存在である。
938 :
神も仏も名無しさん :2008/05/15(木) 07:53:25 ID:qcELgi6b
>>937 聖書の神は怒り妬む神でしょう?
怒りや妬みは苦悩の原因となる煩悩です。
仏教とは違うと思うよ。
>>938 聖書の神の記述はバールとかいろいろ混ざってしまってるから
評価そのものに値しないよ
940 :
神も仏も名無しさん :2008/05/15(木) 08:13:39 ID:+jn5dgJo
>>932 神道の考え方でいけば、そうかもね。日本人が無節操に見える位、宗教的行事を何も気にせず、お気楽にやってしまえるのは、根底にそれがあるからかも。皆神様。
でも、だからこそ日本人は宗教で戦争はしないようにも思えるし、それが決して悪い事とは思わんよ。
私自身は神道じゃなくて真宗だけど、真宗には「凡夫」っていう考え方があって、それに立てば人様の信じてる事を一方的にバカにする事はできないしね。
まあ実際は、私みたいな凡夫にはそんな広い心は持てなくて、原理主義者の類、日蓮系の盲信者は大嫌いなんだけどねw
仏陀もイエスも人 人は必ず死ぬ。 イエスは神の子人は皆神の子 仏陀は仏で人は皆仏性を備えている。
942 :
神も仏も名無しさん :2008/05/15(木) 21:08:24 ID:DlH4Evg6
>>940 神道の考え方から言ってはいないのです。このスレは、イエスの神と釈迦の真実を主題としていますから、
神と言えばイエスの神を指すのです。
日本の神もインドの神も、ユダヤの神もですが、創造者です。
その創造の様子が、説明責任を果たしているかどうかの度合いにより、重要となるのであると思います。
しかし、所詮創造と言うものは、仮のもので真実では有りません。神を説明する方便であると言うべきなのです。
943 :
神も仏も名無しさん :2008/05/15(木) 21:41:37 ID:qcELgi6b
>>942 現代人からみて都合が悪い(信じられない)からって、
仮だとか方便だとか後からフォローするのはおかしい。
信じられないなら信じられないと、素直に認めればいいじゃないか。
人間が理屈をこねて弁護しなきゃならないような神様が、
本当の神様なのだろうか?
944 :
神も仏も名無しさん :2008/05/15(木) 22:33:34 ID:GBmCrJiE
イエス自身が知っていた。 地上のものに心引かれず、敵意や憎しみ、わが物への執着など肉欲を制することで 神を知り、人によくしてやり、何も当てにしないで貸してやることが、しかも、自分 を善人とか義人だとか、自分自身にこだわらず人ができるのは、神と永遠に通じるも のを持っているからできるのだと。そのようなこと(御言の全て)は修行をつめばで きるが、人が世のことで忘れ去ってしまうから信仰対象となろう。 釈尊は修行僧とともに行いで示した。 無所有で地上のものに心引かれず、敵意や怨みや怒り、何も持たず喜び、名称と形態 を滅ぼし尽くして、慈しみを崇高として邪な見解を捨て去る。 つくられたもの、名称と形態にこだわり信じるのみであるから、真理から離れるのだと。 世間から離れ、自然の中での瞑想により自己の沈黙を修行により達成しようとした。そ して煩悩の潜在的な可能力を断って、彼岸に渡りおわり、悪魔の征服者となって、善悪 の両者にも汚されない者となった。 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安も、平安の境地も、ただ名称と形態、 偶像礼拝をすることのみによって知ることはできず、このような今のような生存状態が 永続するとは思わないで、人が世の中で神仏を信じ宗教的活動を行うなら、欲望を慎む 方向であること、他人に対する善悪を探し求めず、敵意や憎しみ、怒りなどを捨て去ろ うと心得させること、わが物という執着にとらわれず、わかち与えることも善いことと 心得させること、冷酷・残忍・無慈悲を避け、慈悲も善いことだと心得させることなど、 宗教的行いを廃するためではなく、成就するために極端な行いをした。
945 :
神も仏も名無しさん :2008/05/15(木) 22:43:49 ID:DlH4Evg6
神と、神が創造したものは、どのような関係にあるのだろうか? 神とは、創造しなくとも神として存在していたのだろう?
●船場吉兆が食べ残しを使いまわしていたことが報道されました。料亭に行 きたくなくなります。グルメも興ざめです。 しかし、これが何故起きてしまうのか。 先代の理念では考えもよらないことです。「もったいなかった」。経営者 の言葉です。お客様に対する貢献が、もったいないのです。 ●妥協を許さぬ「もてなしの心」が先代の理念です。その【もてなし】が【 もったいない】のです。お客様に対する「もてなし」が「貢献」であり、「 価値」になり、「売上」になり、「儲け」になるのです。 ●現在の社会で、他人に親切にすることは、「お人よし」で価値の無いどこ ろか極力避けなければならないことです。そうしないと自分の全てを持ち去 られる危険もあるのです。しかし、他人から見て貢献してくれる人が、価値 ある人です。だから、誰も貢献してくれないということは、誰も価値が無い のです。自分も他人も誰も逆に利用されるのを嫌って、他人を利用すること だけを考えているので、誰も価値が無いのです。 ●「もてなし」がなければ価値はありません。他人に親切にすると大変喜ば れます。でも継続的にお付き合いする人たちでは、親切にすると逆に「恩を 着せられたくない」とばかりに叩かれます。 船場吉兆の経営者たちは、「もてなし」が、重荷になっていたのです。 「もてなし?それはもったいないヨ!」と悪魔のささやきは、心地が良い ものでしたでしょう。 ●誰も価値の無い社会に、私たちは生きているのです。
>>945 ユダヤの創造神と被造物の関係?
たぶん、王様と奴隷みたいなものなんじゃなかろうか。
ちなみにイエスは我々のような被造物とは違い、
神のただ一人の子なのだということになってるらしい。
ユダヤ神=イエス=聖霊>>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>>>>>>>>>>被造物
949 :
神も仏も名無しさん :2008/05/15(木) 23:20:20 ID:DlH4Evg6
何はさておいても、第一に真実はどのようなものなのか、を知るべきなのだ。 真実がこのようなものなので、どのようにすべきかの方策が解ると言うものなのだ。 是については次回にする。
950 :
神も仏も名無しさん :2008/05/16(金) 01:43:14 ID:/nnuji1d
聖書って大乗偽経ぐらい後世の創作あるんじゃない? イエスが信じた神はブッダが説いた仏にまっと近いと思う
>>950 >趣味で格闘技通信読んでるけど、その中に極真空手をやっている 在日大使館に
>勤務しているユダヤ人が出てて、彼らの考え方は仏教で言えば如来蔵 、一切は
>仏性であるという理論、それと共通する考え方を持っておりました。つまり一切は
>神である、という事ですね。だからそういう意味で「私達は一神教というのは誤解
>である」と、主張しております。
952 :
神も仏も名無しさん :2008/05/16(金) 13:06:34 ID:4oDj/fC6
根本から違うんですよね イエスは自称神なんでしょ? ブッダはただ真実を知った者ですからねえ。 まあその意味では私もブッダですけど。 あと 如来蔵は仏教ではないといわれていますね
953 :
神も仏も名無しさん :2008/05/16(金) 23:04:16 ID:WtygNkQh
神に対して、からし種一粒ほどの信仰のある人はいない。 人は、好ましく愛すべき意に適う五感や第六の思考のみに生きるのみでなく、自然の中で 静かな安らぎを楽しむこともあるが、世の創めから神と不死を知っていた。 世間は妄執に導かれ、全世界は悪しき者の配下にあると知って、人の手でつくられたもの を好まず、静かな安らぎの中で自己の沈黙を修行して、妄執を乗り越え、人知ではとうて い知ることのできない平安と安らぎに至って、海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべて の獣と、地のすべての這うものと、いかなる生物生類に対して、一切の生きとし生けるも のは、幸せであれという慈しみの境地のまま不死を得ていたとしても、神通力を得ていて、 山を動かす力があるとしても、神が創造された自然の中で自己の沈黙を楽しんで、一生暮 らそうとする人々は少ない。 人は、賢くなり煩悩の潜在的可能力を得ても、誰も誇れないのである。 「このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、 かれは見る視力がない。」(仏典) 「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して・・・おおよそ、自分を高 くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(イエス)
954 :
神も仏も名無しさん :2008/05/16(金) 23:05:33 ID:WtygNkQh
〔ただ何かを信じました、素晴らしいことです〕という人はいない。 意識もそなえ心もあるこの一尋の身体に即して、思考を得て煩悩の潜在的可能力を得て、世 間で活動しても、誰も誇れる人はいないという法を説くことも宗教の成就であり大切な役割。 この世で罪汚れの無い人はいない。ただ何かを信じました、善い信仰をしてますという 人はいない。 快楽は享受すべきである、良いことだと思わせるような情報に対し、人の意識下に、自然を 楽しんだり、五欲の対象を享受しなくても、平穏な暮らしに満足するほうがよいと思う心が あるなら、それでよいとする宗教知識。 「今からは妻のある者はないもののように、泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ば ないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りし ないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。わたしはあなた がたが、思い煩わないようにしてほしい。」(聖書) 過ぎ去るものは虚妄として自身の実態を知る。その時は、一切の事物は我ならざるもの である。そこに、この世の思い煩いは一切無い。目の前の人が苦しんでいるのに助けな い無慈悲なことも悪しき者からくることだが、感情に左右されたり、また「おせっかい」 も慎むべきこと。世捨て人とならなくても、世と交渉のある者は、肉体の無い真理の世界 を自分の中で維持するように、深入りしないことも大切で、宗教が存在する価値。 名称と形態のあるもの、偶像礼拝により救われるというのではなく、世の中から離れた善い 心も持ち合わせることがあるからという理由。
955 :
神も仏も名無しさん :2008/05/16(金) 23:09:59 ID:YYlt2Axd
議論を定量化せず、反証可能性を認めない嘘つきが共通点。
956 :
神も仏も名無しさん :2008/05/16(金) 23:29:27 ID:GUqp7BCH
>>949 真実と言っても今始めて明らかにされるものではない。仏典には何度も言われているし、
その後の論でも、現代の解説に於いても、言われているものである。
それは変化と言うものは幻なのであり、真実には何も変化はしていない、というのが真実なのである。
先日の中国の地震にしても、始から中国と言う国土も存在せづ、中国人も存在していないのが真実なのである。
勿論我々日本人も、いや世界そのものが始から存在していないのである。であるから、中国国土と人民が
被害にあって阿鼻急患していると言うことはないのである。ここで注意しなければなら無いのは、変化しないものが
真実としてあると言うことである。それを(一相無相空相無我)と言う。これが我々の真実なのである。
ところが、生成した肉体とそれに付随する感官を自分であると思うものが、それに基づいてこの世界を妄想と言う形成をするのである。
地震とその被害というのもその妄想の一部なのである。
変化が何故真実にはないのであるかと言うと。変化とは相対的存在に他ならないからである。これ有れば彼あり、これ無ければ彼なし、
と言うものなのである。そして相対的存在とは、命あるものは絶無であると言うことなのである。
自分は大人であり意思をもち行動していると言っても、自分の両親がいないなら存在していないものではないか。
そのようなものなら、両親がなくなれば、自分も消えなければならないのだ。さてこのような存在は、
幻であり、実に取るに足らないものと言うべきである。このようなものは虚妄であり、真実では決して無いと言わなければならない。
957 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 00:08:14 ID:xJZWh3Ry
五感も無い、思考も無い、目で見て思考できた対象物も無い。 執着も感情も無いから争うことも無い。対象から考え出された悩みも無い。 ただ安らぎのみが真理としてある。 しかし、人はこの世で活動せねばならぬから、世の中とは別の離れた心を よしとするために信仰対象はある。それらの優劣は無い。
958 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 00:11:10 ID:Eglbzxo5
変化するものは相対的存在であるが故に、虚妄であるというのと反対に、 変化しないものが『ある』と言うのなら、それは虚妄ではありえず、その「ある」ものは 常に、空間的にも、時間的にも、無限でなければならない。無限に同一を保つものは、 いかなる変化も無いのであるから『無相』であり、『空相』であり、『一相』であなければならない。
959 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 00:20:57 ID:Eglbzxo5
>>958 つづき
変化は無い真実には無いと言うことを認めると言うことは、そこに変化しない同一なものが存在していると言うことを
認めると言うことに他ならない。故に変化しないものがあるのであり、
それは一相なもの、無相なもの、空相なもの、無我のもの、なのである。
960 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 03:03:44 ID:tupjpyjg
定性だけできっちり定量で物事を考えない。
961 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 09:31:48 ID:Eglbzxo5
内容:
神とは、天地の創造者であるとされている。天地とは変化である。しかし、創造者である神と言われるものは、
変化ではないのである。変化ではないものは、真実なものであり、一相無相空相無我である。故に神と称されているものは、
一相無相空相無我なのである。
>>968 つづき
そこで変化しない真実なものを示す時は、変化する虚妄なものを相対しなければ示しえない。
そこで、真実である神と、変化する虚妄な万物を相対する必要が生じるのである。そこで、
実在する神は、自らを証明するためには、万物を創造する必要があったのである。
962 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 11:05:47 ID:Eglbzxo5
>>968 つづき
モーゼは真実が空相であることを知っていたので、真実を知らしめるために天地創造を説いたのである。
963 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 12:09:42 ID:c9GyCGCk
>>962 そうかなぁ?
あなたの言ってるような内容は、
キリスト教のくせに仏教にあこがれてる人が、
むりやりキリスト教を仏教的に意味づけしてるだけでは?
>>963 仏教がなんぼだと思ってるの?
神秘主義は仏教徒が知らない古代伝承を継承しているのだよ。
釈尊は修行のために余計な知識は省いたけど、知れば重要なもの
だと言うことが分かるよ。
ま、仏教とは悟ってから知れば良いよ。
965 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 14:30:53 ID:Eglbzxo5
仏教で念ずるとは、キリスト教の信じると言うことである。仏教の念ずる対象は 真実である空相であり、それはこの世間の苦しみが無い世界である。キリスト教の信じる対象は、 真実である神であり、その神とは空相であり、空相とは仏教の言うこの世間の苦しみの無い世界、即ち天国である。 決して、被造物ではない。又、縁起しているだけの幻ではない。どちらも真実を念ずるのである。
966 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 14:46:27 ID:Eglbzxo5
>>968 つづき
そこで真実を知ったものの行為は如何にあるべきか、である。
真実の世界は、一切の物、想いがない世界であるから、現実生活において、
一切のものがあるとの前提から始まる判断に基づいた行為をしてはならない事になる。
一切の想いがない世界なのであるから、一切の思いがあるとの前提から始まる判断に基づいた
行為をしてはならないことになる。
967 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 15:26:32 ID:Eglbzxo5
968 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 15:41:39 ID:Eglbzxo5
かくして真実を知らないことによる行為が滅するのである。実のクリスチャンなら以下の12支縁起を認めるであろう。 時に世尊は、その夜の初夜において、縁起を順逆に作意したまえり。 いわく、無明に縁りて行生ず。行によりて識生ず。識によりて名色生ず。 名色によりて六処生ず。六処に縁りて触生ず。触によりて受生ず。 受によりて愛生ず。愛によりて取生ず。取によりて有生ず。有によりて生生ず。 生によりて老死の苦しみ生ず。かくのごとくにしてすべての苦蘊は集起する。 また、無明あますところなく滅すれば行滅す。行滅すれば識滅す。・・・かくのごとくにして、すべてこの苦蘊は滅尽する。 (律蔵大品、増谷文雄訳、『仏陀』69頁)
イエス自身は自分が神だなんてほざいてたわけじゃないでしょ? バカ弟子が勝手に祭り上げただけで
970 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 17:22:21 ID:Eglbzxo5
イエスは神とは真実であるとか真理であるとか教えている。 イエスは自分を神と一体なものであるといっているから、神であると言っていた事になるだろう。 又自分の言葉は真理であると言っている。 神とは何か解らなくとも、真理とか真実と言う意味なら、誰でも解るだろう。 イエスは自分が真実真理になっていると言う自覚が有ったのだよ。 弟子が勝手に神であると祭り上げたのではないと言うべきだと思うよ。
971 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 17:25:14 ID:Eglbzxo5
誰か更新スレッドを作ってくれ。俺は何回してもエラーになるのだ。
972 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 19:48:37 ID:YhBosKp3
973 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 22:02:16 ID:Eglbzxo5
更新スレも出来たので安心w。 残り28あるのだから、ここを埋めてから移る事にしよう。 実は少し体験談を話したい。 真実は空相無相であるので、それなら悪も無く善も無いのである。 そこで、私は、八百屋の前を通りかかった時、道路に面して大きな柑橘類が皿に盛られてあるのを見た。 私はその一つを取り上げ、全く断りも無く、恐れることも無く、皮をむきふた袋三袋とむしゃむしゃと食べたのである。 側にいた婦人は、これは見本なのね、と言っていた。そして自分も食べようかなと思った。 私は食べ終わって、店の奥を見ると、店主夫婦がにこにことしているのを見た。私は何も無かったかのように そこを通り過ぎたのである。後から店主が追ってくると言うようなことは無かったのである。 ヘタに真似をしないように。w
974 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 22:08:47 ID:Eglbzxo5
つづき その柑橘類の皿は決して見本とか、試食のために置かれていたものではなかったと確信する。 大きなものであって、小さな袋を三つほど食べて、残りは又その皿に返しておいた。
975 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 22:23:54 ID:SfqSYN3p
その論理だときみは働かないで豪邸に住み快適に暮らしていそうだな。 >真実は空相無相であるので、それなら悪も無く善も無いのである。 いえいえ 空相に至ってそこから善悪を判断するのだよ。善悪の判断できないようでは仏教徒ではない。 それ以前に 人間でも無い。ただの棒だ。 >先日の中国の地震にしても、始から中国と言う国土も存在せづ、中国人も存在していないのが真実なのである。 それはそうだが 人が、瓦礫に圧縮される時の爆痛は確実に存在していると言わなければならない。 どれだけ、一相無相空相無我だとか、言おうとも。
976 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 23:00:03 ID:Eglbzxo5
>>975 それならもう一つ体験談を。
私はその国道を今までは、注意して渡っていたのであるが、それは面倒くさいものに思われた。
そこで、一切は空であるとの真実に基づき、一切車の動向を考えないで、渡り始めた。右側からの車は
丁度すいていた。しかし左側から丁度自家用車が来たのである。私は難なく渡り終えたのであるが、
私の友人は叫び声を上げていた。
ところが、翌日もその翌日も、その場所に自動車が止まり、その中で、運転者が簡易な仏壇を作り、
ロウソクを灯し、経典を読んでいるのである。ところが三日目ぐらいであったろうか、その運転者は私を認め
、狂喜した。それ以降その場所には自動車が止まることは無かった。
その場所の付近に開放的な住宅があり、そこに隠居の老人がいた。その老人は私がその道路を渡るのを見ていたものと思う。
その老人も私が自動車に衝突したものとみたのであると思う。しかし、私はなんとも無く立ち去っているのを、それをも見ていたのである。
その老人は、その夜、仏教の禅宗の知識が有ったらしいが、自分も私の真似をしてみようと思い立ったらしいのである。
それで深夜それを実行したのである。しかし中央線で衝突し即死したのである。
私の友人は、私を恐れ離れていった。
977 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 23:44:47 ID:45f1yq+b
その論理だときみは働かないで豪邸に住み快適に暮らしていそうだな。 数ヶ月前 喰わないで1日じゅう瞑想してる釈迦の生まれ変わりだかの少年が話題に なったね。夜信者が食い物を運んでいたみたいだが、 空ならそれ実践して見せて欲しいなあ。 976のようなこと出来るならできるよね。 飲まず喰わずで。 そんな国道の話はいいから。
978 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 08:37:00 ID:Q5kQPRT6
2064> だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方を親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。 0625> それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分の体のことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 0626> 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養って下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 0627> あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 0628> また、なぜ、着物のことて思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 0629> しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾ってはいなかった。 0630> きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 0631> だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、 0632> これらのものが、ことごとくあなたがに必要であることをご存知である。 0633> まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添え与えられるであろう。 0634> だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。 マタイ6.24
979 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 08:51:44 ID:Q5kQPRT6
このイエスの教えは論理的ではない。要するに「神の国と神の義とを求めなさい」に要約される。 命がある、食物があり、命は食物により養われる。着る物がある、身体は着る物により養われる。 このように考えるのは、神の国と神の義に反するものである。このように考えているなら決して 神の国と神の義を得る事は出来ないのである。とこういうことではないか。
980 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 08:57:47 ID:Q5kQPRT6
神の義とは真理真実のことであり、真理真実とは、空相無相一相無我で無ければならないのである。 であるなら、命がある、食物がある、身体がある、着る物があると言う判断に基づく行為は排斥されなければならない道理である。 これは12支縁起に言う成起の逆の消滅の事である。
981 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 10:03:33 ID:H1pPdhR0
禁欲と瞑想の状態そのものを真理と言い神といい仏という どこかにいるものでもないし信じるものでもない
982 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 10:07:45 ID:dWiroUdh
>>980 無相(姿形のない真如)とは別に、姿形のある一切の現象があるのです。
姿形のある一切の現象は無常・無我なので執着してはいけない。
しかし、それらの現象がないわけではありません。
真如は無相。だから有相に執着するなと言うのです。
有相が存在しないわけではありません。
983 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 10:09:50 ID:JZQX4Y0a
た
984 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 11:04:44 ID:Q5kQPRT6
>>982 縁起している存在、即ち、相対的存在を「有相」というのなら、その限度で、許される見解かも。
985 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 11:12:56 ID:6zP1JgIN
仏教の「われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きていこう。光輝く神々のように、喜び食む者となろう。」 「悪い行いをした人々は地獄におもむき、善いことをした人々は天に生まれるであろう。しかし他の人々はこの世 で道を修して、汚れを去り、安らいに入るであろう。」 仏教には、@五欲の対象の享受をやめて、思考も静め、安らいに安住するなら形成されない安らいに入る A所有物や食べようなど物質的な欲望にとらわれず、善い行いをした人は天におもむく B俗人でも正しい見解を得て生活するなら、何度生まれても地獄に行くことはない その三つの生き方が説かれている。 安らぎに安住できたら、そのまま安らぎに入る 人間の欲望にとらわれず、善い行いをしたら、善いところに入る 人間の欲望があるなら、悪いことをしない。業はその人に影のようにつき従う やっていることがそのまま反映されるから、仏教は完全なのです。
m
990 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 11:20:49 ID:dWiroUdh
>>984 眼耳鼻舌身意・色声香味触法の一切の形成されたもの(有相)は
縁起(因縁により生じ因縁により滅ぶ)であり、
無常であり無我・無自性であるから、
執着に値しないのでしょう。
991 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 13:11:25 ID:Q5kQPRT6
執着に値しないのである。
992 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 13:14:46 ID:Q5kQPRT6
執着できないのである。
996 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 23:33:23 ID:N+HJHdMU
>仏教で念ずるとは、キリスト教の信じると言うことである。 いえ 仏教では念じません。 そんなことは 勧めません。
997 :
神も仏も名無しさん :2008/05/19(月) 00:23:35 ID:X7RfkMNe
ばぁ〜か
998 :
神も仏も名無しさん :2008/05/19(月) 07:26:28 ID:1bqXGEIi
一切の思い煩いは、実体の無い妄想心に他ならない。そのわけは、 その思い一つ一つは縁起しているものであるから、縁起しているだけの存在は 実体がない幻である、かかるが故に真実には何も生じているのではない、というのが 真実なのである。故にこの真実を空相無相一相無我と言うのである。 われわれはこの真実を追究しているのであり、個個人に生じている妄想心全てに 完全に対応して、それらは幻であると、告げているのである。 仏典に、真理の経典を読じゅするだけでも、心は浄化されると、読ジュの修行を勧めているのは、 この理由に基づくのである。 それゆえ、ここに集い空の意義を少しでも理解し、耳にしておくならば、更にその理解したところを 投稿する経験を積み重ねるなら、少なくとも正しい真理真実の道を歩んでいるものである。
999 :
神も仏も名無しさん :2008/05/19(月) 07:29:00 ID:1bqXGEIi
1000 :
神も仏も名無しさん :2008/05/19(月) 07:29:28 ID:1bqXGEIi
1001 :
1001 :
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