178 :
神も仏も名無しさん:2008/05/29(木) 22:52:03 ID:nxHEuUn6
七
問、如何是四種無相境。
師云、爾一念心疑、被地來礙。
爾一念心愛、被水來溺。
爾一念心嗔、被火來燒。
爾一念心喜、被風來飄。
若能如是辨得、不被境轉、處處用境。
東涌西沒、南涌北沒、中涌邊沒、邊涌中沒、
履水如地、履地如水。
縁何如此。爲達四大如夢如幻故。
道流、爾祇今聽法者、不是爾四大、能用爾四大。
若能如是見得、便乃去住自由。
約山僧見處、勿嫌底法。
爾若愛聖、聖者聖之名。
有一般學人、向五臺山裏求文殊。早錯了也。
五臺山無文殊。爾欲識文殊麼。
祇爾目前用處、始終不異、處處不疑、此箇是活文殊。
爾一念心無差別光、處處總是眞普賢。
爾一念心自能解縛、隨處解脱、此是觀音三昧法。
互爲主伴、出則一時出。一即三、三即一。
如是解得、始好看教。
179 :
神も仏も名無しさん:2008/06/04(水) 23:12:48 ID:XeLnD9Tt
問う、如何なるか是れ四種無相の境。
師云く、
爾が一念心の疑、地に來たり礙えられる。
爾が一念心の愛、水に來たり溺らさる。
爾が一念心の嗔、火に來たり燒かる。
爾が一念心の喜、風に來たり飄えさる。
若し能く是の如く辨得せば、境に轉ぜられず、處處に境を用いん。
東涌西沒、南涌北沒、中涌邊沒、邊涌中沒、
水を履むこと地の如く、地を履むこと水の如くならん。
何に縁ってか此の如くならん、四大の如夢如幻に達するが爲の故なり。
道流、爾が祇だ今聽法する者は、是れ爾が四大にあらずして、能く爾が四大を用う。
若し能く是の如く見得せば、便乃ち去住自由ならん。
「四種(地水火風)が無相の境とは、どういうことですか。」(四種の地水火風・生住異滅が無相であるとは)
「お前達の一念の疑いは、次第に凝り固まり堅い地のように成って、心の自由を妨げる。
お前達の一念の愛欲は、一滴の水が大河の流れのように成って、愛欲の流れに溺れさせる。
お前達の一念の嗔りは、燃え上がる熱い火のように成って、焼き苦しめる。
お前達の一念の喜びは、風にふわふわと吹き舞わされる塵のように、心を翻弄する。
もしこのように弁え得たならば、(四大〈地水火風〉の心の動きは実体なき無相であると)
外境に振り回されず、逆に至る処で外境を使いこなすことが出来る。
東に涌き現れ西に没し、南に涌き現れ北に没し、中央に涌き現れ端に没し、端に涌き現れ中央に没し、
水上を歩くことは地上を歩くように、地上を歩くことは水上を歩くように自由になる。
なぜそうなるかと言えば、四大(地水火風の肉体)は、夢の如く幻の如く無実体だと達得しているからだ。
修行者達よ、お前達、すなわち今わしの説法を聴いている者は、
お前達の四大(肉体)ではなく、能くお前達の四大を用いている(主人公・聴法底の人である)。
もしこのように見究め得たならば、死ぬも生きるも自由であろう。」
※四種無相境。・・・被風來飄。
・四種(地水火風、生住異滅)の相は無形。
・地は堅重の相、水は冷潤の相、火は熱照の相、風は軽動の相。
疑いの感情の奴隷となると、堅い地のように心の自由を失う。
渇愛の感情の奴隷となると、愛執の流れに溺れる。
怒りの感情の奴隷となると、熱い怒りの火で焼き苦しむ。
喜びの感情の奴隷となると、心は風に飛ばされるように翻弄される。
※東涌西沒、南涌北沒、中涌邊沒、邊涌中沒、履水如地、履地如水。
水が東南西北に自在に湧き溢れ没する様と、自在に歩む様から、
四大は夢幻の如く実在しないと徹見して境を自由に使いこなす働きと、
主人公(無依の道人)の自由自在の働きを、
六種震動の四種、十八神変中の二変で表したもの。
※爾祇今聽法者、不是爾四大、能用爾四大。
聴法している者は、肉体ではなく、その肉体を使いこなしている主人公(無依の道人)である。
心性、本より清浄にして、赤肉の内にありと云へとも、染汚する事あらず、
心性本来清浄にして飢たる事なく、渇する事もなく、寒熱なく病なく、
恩愛なく眷属なく、苦しみなく、善悪なく、本来一物無きなり。
大燈国師
183 :
神も仏も名無しさん:2008/06/18(水) 23:00:52 ID:3NnHb320
山僧が見處に約せば、嫌う底の法勿し。
爾若し聖を愛すれば、聖と者聖之名なり。
一般の學人有って、五臺山裏に向いて文殊を求む。早く錯り了れり。
五臺山には文殊無し。爾、文殊を識らんと欲するや。
祇だ爾目前の用處、始終不異、處處不疑なる、此箇は是れ活文殊なり。
爾が一念心の無差別光は、處處總べて是れ眞の普賢なり。
爾が一念心の自ら能く縛を解いて、隨處に解脱す、此は是れ觀音三昧の法なり。
互に主伴と爲って、出づるときは則ち一時に出づ。一即三、三即一なり。
是の如く解得して、始めて看教するに好し。
「わしの見処からすれば、嫌うべきものは何もない。
お前達がもし聖なるものを愛したとしても、その聖とは聖という名に過ぎない。
一般の修行者達は五台山の中に文殊を求める。もうすでに錯誤している。
五台山に文殊はいない。お前達、文殊を識りたいと思うか。
今わしの面前で活発に働き、終始決して変わらず
何処でもよろめかぬその働き、それこそが活きた文殊なのだ。
お前達の一念の心(一瞬の心の動きの根源)の、
無差別光(差別を超えた智慧の働き)こそが至る所で真の普賢である。
お前達の一念の心が自ら能く束縛を解いて、
随所に解脱を全うする、これが観音三昧の法である。
この三つの働き(文殊・普賢・観音)は互いに主となり伴と成り、
その出現は同時であり、一がそのまま三、三がそのまま一である。
このように悟り得て、はじめて経典祖録を看るに好いであろう。」
※約山僧見處、勿嫌底法。
臨済和尚の見地では、好悪すべきものは全くない。
揀択・憎愛の念を起して聖という名を愛しているに過ぎない。
※祇爾目前用處、始終不異、處處不疑、此箇是活文殊。
爾一念心無差別光、處處總是眞普賢。爾一念心自能解縛、隨處解脱、此是觀音三昧法。
行住坐臥・喫茶喫飯、終始即一する絶対現在の働き、万縁万境に躊躇せず対処できる主体的な意識。(文殊)
(“終始不異”時間的に前後違わず、“處處不疑”空間的にも一念のためらいなく)
差別の世界に平等を見る、無差別の叡智。(普賢)
一切の束縛を解き、一切所で解脱する働き。(観音)
※互爲主伴、出則一時出。一即三、三即一。
文殊・普賢・観音で表す三つの働きは互いに主従と成りながら同時に現れる、
一即三、三即一 = 三(文殊・体、普賢・相、観音・用)はそく一(聴法底)、一がそく三。
※如是解得、始好看教。
この点が理解できれば初めて看経の眼があると言える。
(経を読んでも、祖録を看ても真意がよく理解できるであろう)
文殊 = 理、体、平等、法身。清浄光
普賢 = 智、相、差別、報身。無差別光
観音 = 用、用、平等と差別・理と智の一如円融、応身。無分別光
「観世音菩薩、文殊、普賢、此の三法は是古今三世一切諸仏の共行十方共同なり。
文殊は法身妙慧の理を主り、普賢は根を知って万行の門を成ずることを明かし、
観世音は大慈悲もて生死に処することを明かす。三人の法、一人の徳を成ずること毘盧遮那と号す。
一切衆生総に此の三法に依る、之を号して仏と為す、一を欠けば成ぜず。」『華厳合論』
185 :
神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 23:13:07 ID:fgvZz3sp
八
師示衆云、
如今學道人、且要自信、莫向外覓。
總上他閑塵境、都不辨邪正。
祇如有祖有佛、皆是教迹中事。
有人拈起一句子語、或隱顯中出、便即疑生、
照天照地、傍家尋問、也大忙然。
大丈夫兒、莫祇麼論主論賊、
論是論非、論色論財、論説閑話過日。
山僧此間、不論僧俗、但有來者、盡識得伊。
任伊向甚處出來、但有聲名文句、皆是夢幻。
却見乘境底人、是諸佛之玄旨。佛境不能自稱我是佛境。
還是這箇無依道人、乘境出來。
若有人出來、問我求佛、我即應清淨境出。
有人問我菩薩、我即應茲悲境出。
有人問我菩提、我即應淨妙境出。
有人問我涅槃、我即應寂靜境出。
境即萬般差別、人即不別。
所以應物現形、如水中月。
道流、爾若欲得如法、直須是大丈夫兒始得。
若萎萎隨隨地、則不得也。
夫如セイ嗄上音西下所嫁切之器、不堪貯醍醐。
如大器者、直要不受人惑。隨處作主、立處皆眞。
但有來者、皆不得受。爾一念疑、即魔入心。
如菩薩疑時、生死魔得便。但能息念、更莫外求。物來則照。
爾但信現今用底、一箇事也無。爾一念心生三界、
隨縁被境、分爲六塵。爾如今應用處、欠少什麼。
一刹那間、便入淨入穢、入彌勒樓閣、
入三眼國土、處處遊履、唯見空名。
186 :
神も仏も名無しさん:2008/07/06(日) 23:03:33 ID:JNYPVxWd
師、衆に示して云く、如今の學道の人は、且らく自ら信ぜんことを要す。
外に向って覓むること莫れ。總べて他の閑塵境に上って、都べて邪正を辨ぜず。
祇だ祖有り佛有るが如きは、皆な是れ教迹中事なり。
人有って一句子の語を拈起して、或は隱顯の中より出づれば、
便即ち疑い生じて、天を照らし地を照らし、傍家に尋問して、也た大だ忙然たり。
大丈夫兒、祇麼ら主をを論じ賊を論じ、是を論じ非を論じ、
色を論じ財を論じ、論説閑話して日を過ごすこと莫かれ。
山僧が此間には、僧俗を論ぜず、但有る來者は、盡く伊を識得す。
任い伊甚れの處に向って出で來たるも、但有る聲名文句は、皆な是れ夢幻なり。
却って境に乘ずる底の人を見るには、是れ諸佛之玄旨なり。
佛境は自ら我れは是れ佛境なりと稱すること能わず。
還って是れ這箇無依道人、境に乘じて出で來たる。
若し人有って出で來って、我に佛を求むれば、我れ即ち清淨の境に應じて出づ。
人有って我れに菩薩を求むれば、我れ即ち茲悲の境に應じて出づ。
人有って我れに菩提を求むれば、我れ即ち淨妙の境に應じて出づ。
人有って我れに涅槃を求むれば、我れ即ち寂靜の境に應じて出づ。
境は即ち萬般差別すれども、人は即ち別ならず。
所以に物に應じて形を現じ、水中の月の如し。
188 :
風に吹かれて:2008/07/23(水) 09:38:42 ID:iGI2mifI
こんにちは、m(__)m
ある男を妊娠させた奴を捜せ!だってさ。
やってられんわ
臨在良い名前つけたな。
191 :
風に吹かれて:2008/07/26(土) 12:23:05 ID:l3riyGvF
保守
193 :
神も仏も名無しさん:2008/08/09(土) 10:11:39 ID:qvTQAchV
期待ageならぬ保守。
保守
198 :
神も仏も名無しさん:2008/10/06(月) 19:54:51 ID:Lfl8dr3z
200 :
神も仏も名無しさん:2008/10/20(月) 18:01:57 ID:Wn0CNT4x
201 :
神も仏も名無しさん:2008/11/02(日) 01:06:26 ID:9trwKhdE
達磨の「不識」
六祖の「本来無一物」
臨済の「乾屎篦」(乾いた糞の塊説を採りたい)
で充分だ.
202 :
神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 05:33:58 ID:MyXpn39X
>>138 その質問で、質問者が証明してしまっているわいw
203 :
神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 19:39:04 ID:u7ojkKCo
>>177 >これは真実身体は縁起してないと言ってるんだよ。
>若し無依を悟れば、佛も亦た無得なり。(
>>168)
>「天地の道を得たるが故にこれを真人という」(辛文子)
それがたとえ仏陀・経典であったとしても、外の権威によりかからぬ悟道者、
これが「無依の真人」である。
206 :
神も仏も名無しさん:2008/12/03(水) 23:30:30 ID:KpWyyiSw
207 :
お間抜けぼったんを苛めて:2008/12/03(水) 23:44:49 ID:Ab4uX0rt
210 :
神も仏も名無しさん:2009/01/23(金) 07:02:01 ID:8BhsgOjs
僧
211 :
神も仏も名無しさん:2009/01/24(土) 12:37:34 ID:h88tNnhM
戯論寂滅
感想とかどう?
213 :
神も仏も名無しさん:2009/02/15(日) 23:39:31 ID:QNICoND+
大愚も登場してのドタバタが好きだ
216 :
神も仏も名無しさん:2009/03/24(火) 20:46:44 ID:tMcZtgrJ
本来の面目と云うは、色形無き者なり、たとへば虚空の如し
虚空
蔵菩薩
221 :
神も仏も名無しさん:2009/04/24(金) 23:23:27 ID:PMJ1GDN/
これ笑えるんだけどwww
どういう意味だ?
師 「お前は今の喝はいい喝だったと思うのか?」
僧 「山賊はぼろ敗けだ」
師 「その敗因はどこにある」
僧 「二度と賊をはたらいてはならぬぞ。」
すかさず師は一喝した。
意味不明すぎるんだがwww
222 :
神も仏も名無しさん:2009/04/24(金) 23:29:08 ID:woYwylUq
乞食坊主
223 :
神も仏も名無しさん:2009/04/24(金) 23:34:50 ID:PMJ1GDN/
>>221 この、師匠にむかって偉そうに言い返すとこがうけるw
>>223 喝にも種類が有るんだよ。
詳しくは知らんが・・・・・・・・・
225 :
神も仏も名無しさん:2009/04/24(金) 23:51:33 ID:PMJ1GDN/
っていうかもはやこれはコントだろw
>>221 ここだけを取り上げても、僧が仏法の大意を問うことからみないと分からない筈だがね。
関山慧玄禅師(1277?1360)は、信州・中野の城主・高梨美濃守高家の二男。
徳治2年(1307)建長寺で大応国師(南浦紹明)のもとで修行され、
慧眼(後に大燈国師より慧玄と改名)と名付けられる。
国師亡き後、大徳寺の大燈国師が最もすぐれた禅僧であると聞き、
急ぎ京の大燈国師に参じ、大悟。
開山様、53歳。
後、大燈国師に嗣法し、伊深の山里で「悟後の修行」に8年間専念。
大燈国師が示寂されると、花園法皇は関山慧玄禅師を捜され、
はじめ固辞されたが、都へ上られ妙心寺の開山となられた。
その後、関山慧玄禅師は、弟子の授翁宗弼禅師を伴われて、
開山堂側にある風水泉の前で最後の法を説かれ、行脚姿で立亡された。
明治天皇より無相大師と追諡。