59 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/12/08(土) 16:09:18
仏に逢うては仏を殺し、祖師に逢うては祖師を殺せ 喝!!!!!
60 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/12/22(土) 18:16:50
鎮州臨済慧照禅師語録序
延康殿の学士、金紫光禄大夫、真定府路の安撫使、
兼馬歩軍の都総管、兼知成徳軍府事の馬防撰す。
61 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/02/02(土) 21:05:20
臨済慧照禅師は坐禅嫌い。
63 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/02/15(金) 12:03:41
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1191679091/116 116 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2008/02/14(木) 11:11:00 ID:co2LsXOB
仏教は無常=無我=縁起にて候、無執着にて候。
仏性=真実の自己=主人公=アートマン観念への妄想執着は仏教にあらず、
ましてや「三界の輪廻」妄想に及んでや。
下半身がバラモン=ヒンドゥに侵食された自称「仏教」がある
だから現実の日本には禅宗でもバラモン的『葬式仏教』しかない。
118 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2008/02/15(金) 10:43:14 ID:EQUpJU+l
>>117 >衆生本来仏なり
>>114 >是の如く見得せば、便ち祖佛と別ならず。
>山僧が見處に約せば、甚深ならざるは無く、解脱せざるは無し。
呆れるほどブッダの縁起の教えを正面から破壊する反仏教思想だ。
我々の存在の根幹を「仏性」におくが、縁起の教えでは存在の根幹は「無明」=根源的迷妄性と把握する。
仏性と無明では根本的に反対極に位置する。
したがって、白隠や臨済の思考は縁起思想と対立し破壊している。
64 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/02/15(金) 12:42:10
65 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/02/15(金) 13:46:02
66 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/02/28(木) 02:22:11
さほど理解力が有ると思える人が来ないから気の毒だ。
67 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/04/06(日) 07:53:42
★茶道・東海流 【禅と酒】に付いて語ろう!★ (1) - お茶・珈琲板@2ch
…茶道も今では日本発の文化の代表格。日本酒もニューヨークで愛飲者が急増。
フィリピンでも禅僧の教化が進む。日本発、静岡発の日本文化を語ろう。…
最新:2008/04/06 07:34 板内 他の板 同じサーバ スレへのリンク p2で抽出
類似スレ
『茶道・東海流』と『臨済禅』についての考察 (1) - 伝統芸能板@2ch
…静岡に相伝する、『茶道東海流』 流派の精神の根幹を成すとされている、
『臨済禅』 その神髄を語り、奥義を極めよう!…
最新:2008/04/06 07:29 板内 他の板 同じサーバ スレへのリンク p2で抽出
類似スレ
★茶道・東海流と臨済宗・正眼寺★ (1) - 人権問題板@2ch
…★茶道・東海流と臨済宗・正眼寺★ 静岡県内の茶道と禅について、
人権の観点から見てまじめに考えよう。…
最新:2008/04/06 07:22 板内 他の板 同じサーバ スレへのリンク
p2で抽出 類似スレ
68 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/04/06(日) 11:10:35
893
4545
69 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/04/10(木) 19:52:15
白隠
70 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/04/12(土) 19:02:53
>>69 > 白隠
白隠禅師『坐禅和讃』
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
譬えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離るべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称嘆するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
その品多き諸善行 皆この中に帰するなり
一坐の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くもこの法を 一たび耳に触るるとき
讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし
況や自ら廻向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 已に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 往くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 歌うも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前する故に
当処即ち蓮華国 この身即ち仏なり
71 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/04/21(月) 21:12:16
「黄檗の仏法なんて、何もたいしたものではない」
臨済の悟りは、論理的連続性を持たぬ、直覚性のもの。
物事の了解と言うものは、最後は直覚である。
臨済は戒律的生活に満足出来ず、経論の検討にも飽き足らぬものがあって、
教外別伝の宗旨によらないと安心が出来なかった。
道眼を分明ならしめる事は、人惑を受けぬ事にすることで、
それは一朝に自省する結果である。
臨済はこの道眼で、何を自省ー直覚したか。
仏教の大意を直覚したのか。どうもそうでない。
道眼とは、なにかをむこうにおいて、それを此方から見ることではない。
自省することである。自省は自覚である。
道眼は外にむかはしめられたものではなくて、内に省みられたものである。
仏教の大意は自分の生活、自分の霊性のうえにおいて、自省し体得せられたのである。
「一朝に自ずから省す」
能所のある直覚ではなくて、能所を入れない自覚であった。
これを霊性的自覚といって、知性的および感性的なものと区別する。
臨済の自省は、自が自を自省するので、
しかもその自は始めてから分かれていない所のものなのである、
霊性的自覚である。それゆえに全体作用が可能に成る。
臨済の言葉で言うと、霊性は人(にん)である。「一無位の真人」である。
臨済録は、この「人」によってと彼、この「人」の働きを記録したものである。
この「人」は超個者であってかねて 個一者である。
換言すると、臨済は臨済であって、又臨済ならぬのである。
般若は般若でないから般若である。「人」は即非の論理を生きるものである。
は、矛盾に生きるということ。絶対矛盾の自己同一である。
そこで表を見せ、裏を見せるのである。(良寛)
悲・喜劇を演じて、表裏、是非、生死、を「生きる」のである。
絶対に生きるのである。既にそう「生きている」のである。
悉有仏性(絶対の有:道元)である。
もとより意識的計画的ではないが、
個一者としての臨済のうちに動いている超個者たる「人」は、
無意識ではあるが、彼をして、すべての応病与薬的なもの、
相似表顕的なものに対して、不満を抱かしめていたのである。
これが自省ー霊性的自覚ーの経験によりて、意識せられるようになった。
その結果が、示衆となり、上堂となり、勘弁となった。
示衆においては、一般的・思想的に開顕され、
上堂・問答・勘弁においては、禅的に挙揚された。
「赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の面門より出入する。まだ証拠せざるものは看よ看よ。」
一無位の真人が人間の官能をとうして、働くのである。
臨済は我らをして、「この人」を証拠せしめんとする。
証拠をは全体的確認である。単なる知性以上の了解ではない。
「その」働きを全体的に確認する。これは理屈ではない。
生きていること、存在と言うことをじかに知ると言う直接体験である。
ぽかっと殴られて、考える前に、判断なしに「痛い」と「知る」
(「そのまま」にわかる)、と言うようなものだ。
頭をはずして、その働きを知るということだ。
そこに全宇宙の展開のあり様がじかにわかるというようなものだ。
定上座が、臨済に「仏法の大意」を尋ねた。
すると臨済が降りてきて、定上座の胸倉をつかみ、その上に一掌を与えて突っ放した。
定上座はたじたじとして、しばらくは何もいえずにたったままであった。
するとそばにいた僧が「定上座何ぞ礼拝せざる」と注意した。
彼はこれを聞くともなしに聞きながら、無意識に礼拝しようとしたら、忽然として大悟したという。
そのとき定上座は全体的作用の意味する所(仏法の大意)を理屈でなく、じかに体験したわけだ。
このときの定上座の心のありさまをとりあえず、「無意識の意識」とよんでおこう。
自分を先に出さずにただ、観ずると言うことの意味合いを体験で知ったという事とみる。
75 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/03(土) 14:04:50
禅天魔
「太虚は霊智を生せず、真心は善悪に縁らず。
嗜欲ふかき者は、機浅く、是非交々争うものは、未だ通ぜず。
境に触れて心を生ずるものは、定少なく、寂寞にして機を忘ずるものは慧に沈む。
物に倣り心を高うするものは、我壮なり。
空を執し、有を執するものは皆愚なり。
文をたずね証を取るものはますます滞る。
苦行して仏を求むる者は倶に迷う。
心を離れて仏を求むる者は外道なり。
心これ仏と執するものは魔と為る。」
「無依の道人」
無依は自主自由・独立弧行・天上天下唯我独尊的なものを叙しているのであるが、
依はまた、衣であるから、無依は赤裸々の義である。
一無位の真人が赤肉団そのものをかなぐり捨てて、露堂々として立つの義。
超個者。面前聴法底、目前歴々底、現今用底。
名句の上には「真正の見解」は建立されない。それゆえにますます「人」から遠ざかる。
人は、個一でまた超個者であるという事実が、彼をしてすべての惑から自由ならしめるのである。
又こうもいう、「長く人間にありて世におらず、運用聲色の中を離れざる」物である。(誌公)
超個者と個一と相伴いともに語って却って相識らずと言う
禅者の体験事実を個一の側からのみ見ているものは、衣通であり、謾語者である。
が、超個者の側で自覚が生じると、ここに神通があり、神変があり、透入法界である。
又「即今目前狐明歴歴地に聴くもの」である。
法身、報身、応身と「人」
一切すべて影法師であることは明瞭だ。御前たちよ、この影法師を弄する所の人を見て取らねばならぬぞ。
この人こそ、諸仏の本源、何をしておっても、皆そこへ帰って、そこに帰家穏座するところのもの、それである。
法身は自性の本体そのものであり、
報身はこの本体の上に現れる一切の働きであり、
応身は宗教的化度の面から見て自性の働きがその置かれてある境に応じて現れる所を言うのである。
自性の本体成るものがその働きーこれを独立に働きそのものから見てもよし、
又境に対するものと見ても良いがーその働きから離れて別に本体があると考えるべきでないから、
法身は畢竟じて報身であり、応身であるべきである。
そしてそれをもっとも具代的に言詮すると、三身は「人」自身にほかならぬのである。
慧能
「三身仏は自性の中にあり、世人すべてこれを有すれども、自心に迷うがために、
内性を見ず、外に三身の如来を求めて、自身のなかに三身仏あることを見ず。」
「この三身仏は自性より生じて、外より得ざるなり」
彼は法身の寂、報身の智、化身の用をかねて、具代的に生きているのである。
あらゆるこの種の名目言句は「我なんじととも」なりとの霊性的自覚にうらずけられる時、初めてその意義を有するものである。
臨済が「我なんじとともに」というは、個多の世界から超個者の境地に入ればと言う心である。
「汝、祖仏と別ならざらんことを要せば、只只外に求むる事なかれ。
汝が一念上の清浄光、是汝が屋裏の法身仏なり。
汝が一念心上の無分別光、是汝が屋裏の報身仏なり。
汝が一念心上の無差別光、是汝が屋裏の化身仏なり。
この三種の身、是汝が即今目前聴法底の人なり。」
三身もみな名言にして実性なしとはいうが、彼はこれらを「一念心上」にみんとする。
そこで臨済の特異性は、これを「即今目前聴法底の人」の上にひきつけて、それがすなわちそれだ、と喝破するところにあるのである。
自覚するというだけではなお、知の分際を離れないが、個の自覚底ーすなわち人ーを認めるときに、用いんと要せばすなわち用いて、去住自由成るを得るのである。
他の万境に回換せられる事の代わりに、かえってこれを回換するの自主性が得られるのである。ここに彼の発明があるといわねばならぬ。
78 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/13(火) 19:06:19
人間も
ウィルスが
巨大化したものであろうか。
すべての名言、すべての衣装は、みなこれ「光影」である、
そしてこの光影を自在に使いえるもの、それが(臨済の言う)「人」である。
この人が説法を開始、聴法を解するのである。
分別意識の上で解する人は、此処でいう「人」でない。
臨済の言う「人」は超個者に即した個一者の謂いであるから、
個多の世界を透出しえない人の認識園内には入ってこないわけである。
この種の対境にいる限り、臨済のいわゆる自由自主底はえられない。
なぜかと言うに、彼はいつも対境を持っていて、それに支配せられる。
すなわち着ている衣を脱ぎ捨てたまわぬのである。
個多に世界にいて、自らも一個の個者であるものは、凡聖などのために名字を安著しえない。
すなわち個多の世界を超越する事の出来ないものである。
あるいは凡となり、聖となり、穢となって、自主的にこれを把握して、
「境に転ぜられず、却って處處に境を用いる」ことのできないものである。
「人」は個であると同時に超個であり、超個であると同時に個であるところの怪物である。
すなわち活者である。活祖である。
臨済の目はいつもこのもの、この「人」に著けられてあるのである。
玄旨とは抽象的意味を持つという事ではなくて、活きているとの義である。
一切の荘厳は畢竟ずるに、皆是れ名言章句で、、
これらの名句は自ずから名句であるのではなくて、
かえって是、汝が目前、昭昭霊霊として、
鑑賞し、聞知し、照燭する底のものが、一切の名句を安ずるのである。
人は自らは充足して、什麼の欠少かあらん、であるから、無依である。
人は物に依らず、境に依らず、空名・閑名に依らぬ。
什麼の欠少亡き人は無事なるのがまさにしかるべきところであろう。
彼らはさらに外にもとむるところはない。もの来ればすなわちてらすのである。
臨済は「聴法底」ということをよく言う。ここに彼の「人」思想の中心があるのである。
「目前現今」だけでは哲学的または知性的な存在のみが考えられて、そこから働きが出ない。
「人」の働きは知性的、分別智的、抽象的ではどうしても十分に見届けられないので、
禅者その人が飛び出すのである。
臨済はこの活き物を引きずりまわっているのである。
目前現用といい、また是何時目前用底、興仏祖別ならずというが如き、
いずれも活き物の消息を伝えんとするものではないか。
是に反する場合はいずれも何かを外に求めるものである。
何かの意味で欠少を自覚するものである。
もっとも具代性を持つ者がもっとも真実である。又これを逆に言ってもよい。
もっとも真実なるものはもっとも具代性をもつと。
信は此処で成り立つものである。
「人」は信である。他を信ずるのでなくて、自分が自分を信ずるのである。
自分を二つに分けて能信の自分と所信の自分とするのでない。
元来能所なき自分を、能所に分けないで、そのあるがままに信ずるのである。
そんな信が可能かという事にもなるであろうが、問題は可能不可能の問題ではない。
只、只事実そのものを肯定するにほかならぬのである。
「人」がそのままにある姿を認めるのが信である。
自分はこれを霊性的自覚といっておく。。。
在るものを在るがままに、それ自体が認める。
そしてその認めたところに、何も対象的なものが残らぬ、
−それが霊性的自覚である、信である、「人」である。
君達は祖師とは何だ、
誰だと知りたいというであろうが、彼は君達の面前にいる。
そして今わしの言うところを聞いている者が、それである。
ただ君達は信不及のゆえで、外に向かって彼を求めんとする。
たとえ求めえたとしても、それは皆文字言句の範囲を出ない。
生きた祖師意ー最も具代的な人ーは、そこにはいないのである。
「人」は目前現用のところに活きているのであるから、
それをそのままつかむ、すなわち信ずる事が出来なければ、
彼は永遠にわれらと関係を持たないことに成る。
そうなると、我らの思想、行為、感覚などはすべて夢幻・虚偽とならざるを得ない。
それは活きたものがいないということになる。
170 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2008/05/14(水) 20:11:49 ID:rPB0YKk1
ったく、形而上学的妄想丸出しだな。
勝手な御託は妄想ゆえに馬鹿でも言える。
縁起との関係を説明してごらんw
真実人体(絶対無的主体)とやらはいつ縁起したんでちゅか?
自性があるがごとき妄言はナーガールジュナもびっくりですなw
その妄想は検証実証証明できまちゅか?
形而上的妄言には無記(軽蔑的無視)されたブッダの趣旨は無視ですか、そうですか。
エライんですなあw
171 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2008/05/14(水) 20:16:20 ID:rPB0YKk1
たんぼでかえるが鳴いている。
ケロン(戯論)、ケロン(戯論)、ケロン(戯論)、ケロン(戯論)、・・・
172 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2008/05/15(木) 09:45:39 ID:4rQOG0xy
春ですなあ
戯論と妄想全開のスレですなあw
ブッダはなんでもありのバケモノでちゅか?
「一切」行無常 「一切」法無我 「一切」皆苦 涅槃寂静
「一切」外は無記 検証性事大 戯論寂滅
83 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/15(木) 16:41:08
間抜けだなw
85 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/15(木) 23:24:59
さて、臨済を殺したのは誰なのか?殺せるのか?
あいつが殺られるような魂か、って言いたいのかw
こら!
>>83&84 応えてみな、 びびるなよ。
おのれの「現観」を開示してみなよ。
そんな分別心満載で応えられるのかw
86 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/15(木) 23:58:26
戯論
87 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/16(金) 00:08:05
禅に形而上学的妄想はないだろう。
88 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/16(金) 01:35:09
>>85 縁起を説明して頂けないでしょうか。
仏性とは何でしょう?
89 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/16(金) 12:35:04
比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。
彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、覚者の法に順い、
あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、
したがって、彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、
我が中に色有りとも、色の中に我有りとも、見ることはない…。
一切は因縁の結ぶがままに有り、一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。
かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、
彼は、
われ(アートマン)というものはない。 また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、 何によってか、わがものがあろうか。 と知ることができるのである。(相応部経典22.55 増谷文雄訳)
90 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/16(金) 12:45:51
91 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/16(金) 12:48:21
>>88 0099_,02,0092c12(10):<com>(三三五)</com>如是我聞。
0099_,02,0092c13(07):一時佛住拘留搜調牛聚落。爾時世尊告諸比丘。
0099_,02,0092c14(03):我今當爲汝等説法。初中後善。善義善味。純一滿淨。
0099_,02,0092c15(03):梵行清白。所謂第一義空經。諦聽善思。
0099_,02,0092c16(04):當爲汝説。云何爲第一義空經。諸比丘。
0099_,02,0092c17(00):眼生時無有來處。滅時無有去處。如是眼不實而生。
0099_,02,0092c18(01):生已盡滅。有業報而無作者。此陰滅已。
0099_,02,0092c19(03):異陰相續。除俗數法。耳鼻舌身意。
0099_,02,0092c20(01):亦如是説。除俗數法。俗數法者。謂此有故彼有。
0099_,02,0092c21(04):此起故彼起。如無明縁行。行縁識。
0099_,02,0092c22(04):廣説乃至純大苦聚集起。又復此無故彼無。
0099_,02,0092c23(00):此滅故彼滅。無明滅故行滅。行滅故識滅。如是廣説。
0099_,02,0092c24(07):乃至純大苦聚滅。比丘。
0099_,02,0092c25(03):是名第一義空法經。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。
0099_,02,0092c26(00):歡喜奉行
ブッダは人間の根源として無明を説かれても、仏性なるものは説かれていない。
説明する責任はそちらだろう。
92 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/16(金) 13:04:00
仏に逢うては仏を殺し、祖師に逢うては祖師を殺せ!!!!!
93 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/16(金) 14:14:24
仏性は見性しないと解らないよ。
94 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/16(金) 14:32:46
南伝の信者か
95 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/16(金) 14:53:12
ブッダの見性・悟り・大覚成就の内容は縁起の法だ。
まこと熱意を込めて思惟する聖者に
かの万法のあらわとなれるとき
かれの疑惑はことごとく消え去れり
縁起の法を知れるがゆえなり
(ウダーナ冒頭)
ブッダは仏性を説かれない。
逆に人間実存の根源を無明と説かれる。
ブッダは「見性」されていなかったのかw
96 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/16(金) 20:08:16
zenは大乗、中国仏教だから仏性いうんだYO
97 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/17(土) 10:53:10
言葉は問題ではない。
非想非非想処という境地でもなをはたらく智慧の内容を問題にしている。
98 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/17(土) 14:21:55
主人公、本来の面目(無位の真人)は、虚空の如きもの。
99 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/18(日) 11:46:49
縁起發無の汎神論
100 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/18(日) 13:36:18
汎神論では全く無い
101 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/18(日) 14:34:03
102 :
99:2008/05/19(月) 01:32:29
中途半端ですが、思うところあって、ここで落ちます。
お騒がせしました。
どうぞお仲間で議論を重ねてくださいませ。
ひとが何か或るものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、
それは実にこだわりであると、<真理に達した人々>は語る。
それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと・または戒律や道徳にこだわってはならない。
智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。
自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
(スッタニパータ 798・799、中村訳)
103 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/05/19(月) 19:09:17
汚い言葉と、
誤字、勘違い、
にあふれたレスを行いながらこれだ。
http://www.rinnou.net/cont_01/subwindow/subwin01.html#%97%D5%8D%CF%8F@ 臨済宗は、禅宗五家の一派であり、達磨大師から数えて
11代目の祖師である臨済義玄禅師(?〜866)を宗祖と
仰ぐ宗派です。もちろん日本の臨済宗も、臨済禅師を宗
祖と仰いでいます。臨済禅師の言葉に、「赤肉団上に一
無位の真人あり。常に汝等諸人の面門より出入す。未だ
証拠せざる者は、看よ看よ」とあります。臨済宗の宗旨
は、我々に本来そなわるこの一無位の真人を自覚するこ
とであると言ってよいでしょう。
黄檗宗
明末の動乱期に長崎に渡来した隠元隆禅師が開いた。法
系図でも分かるように、中国では臨済宗に含まれますが、
法規などが中国的で、我が国の臨済宗と異なったため、
独立して一宗をなすにいたり、念仏禅がその特徴です。
本山は宇治にある黄檗山万福寺で、徳川家康の帰依を受け、
寛文2年(1662)に建立されました。
105 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/08/23(土) 19:06:31
106 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/11/03(月) 19:36:50
107 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2008/11/04(火) 12:17:19
>>90 はいいね
「説くと、その途端外れる」 かな?
智の外に在り、自己を含め、既に囲まれているもの かな?
108 :
名無しさん@京都板じゃないよ:
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