1 :
神も仏も名無しさん:
臨済慧玄、一代の言行録である。
2 :
神の愛の証言者 ◆IHSXPiND6Q :2007/10/06(土) 22:59:27 ID:rLPz2EBW
2get
3 :
神も仏も名無しさん:2007/10/06(土) 23:14:47 ID:QUVImiu5
〔上堂〕一
師
「今日はわしの本意ではないが、やむを得ず世間のならわしに従って説法することにした。
しかし禅の正統的立場から言えば、禅はまったく一言半句の説くべきものもない。
だからお前たちの思索の足掛かりも無いのだ。しかし今日だけは常侍の強い要請にこたえ、
思い切って禅の本領を示すつもりだ。誰か腕に覚えのある者は無いか、もし居れば旗鼓堂々
一戦を挑んで来い、大衆の前ではっきり勝負しよう。」
僧
「仏法のぎりぎり肝要の処を伺いたい。」
師はすかさず「渇ーっ」と一喝を浴びせた。僧は礼拝した。
4 :
(^ω^):2007/10/06(土) 23:21:17 ID:Csi+oLnX
(^ω^)読んだを〜ん♪
5 :
神も仏も名無しさん:2007/10/06(土) 23:24:03 ID:QUVImiu5
読んだを〜ん!!!
--------------------------------------------------------
師
「お前は結構わしの話し相手になれるわい。」
僧
「老師はいったい誰の宗旨を受け、またどなたの法を受け継がれましたか。」
師
「わしは黄檗禅師の処で修行し、三度質問し三度したたか棒に打たれた。」
僧はここで疑義した。
すかさず師は「渇ーつ」と一喝し、追打ちの一棒をくらわして言った。
「虚空に釘を打つような無駄な真似はするな。」
次に座主が問うた。
「三乗教や十二分教など仏の教えはの一切は、すべて仏性を解き明かすものではありませんか。」
師
「お前なんぞそんなふうでは実地の修行は少しも出来ていないな。」
座主
「しかし仏陀はまさか人をだますようなことはなさるまい。」
師
「お前が言うその仏陀はどこにいる。」 座主は答えなかった。
師
「お前は常侍の前でこのわしをやり込めようとする気か。
退れ!退れ!他のものの質問の妨げになる。」続けて言った。
「… 釈尊も仏法は文字を離れている、因にも属さず縁にも依存しない、
お前たちは、それを信じ切れないためにこうして無用の問答を繰り返しているのだ。」
「渇ーっ」と一喝して言った。
「信に徹しきれない者はいつまでたっても埒のあく日はあるまい。諸君長い間ご苦労様。」
8 :
神も仏も名無しさん:2007/10/06(土) 23:59:51 ID:cFCqAUYV
二
王常侍が説法を請うた。師が演壇に登ると、
麻谷が進み問うた。
「千手千観の観音菩薩の眼は一体どれが正眼ですか?」
師「千手千観の観音菩薩の眼は一体どれが正眼ですか!
速やかに道え、速やかに道え」
麻谷は師を演壇からおろし、麻谷が代わって坐った。
師はその前に進み
「ご機嫌よろしゅう」と挨拶した。
麻谷はもたついた。
師は麻谷を演壇から引きずり下し、自分が代わって坐った。
すると麻谷はさっと出て行った。そこで師もさっと座を下りた。
三
上堂。云く、
「赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝ら諸人の面門より出入す。
未だ証拠せざるものは看よ!看よ!。」
・赤肉団上=生ま身の身体。肉体。宋板『伝燈録』では「肉団心上』(心臓の中)という。
・無位の真人=いかなる枠にもはまらず、一切の範疇を超えた自由人(入屋義高)
=位置づけることの出来ない、あらゆる差別を超越した大自由大自在の人(朝比奈宗源)
=凡夫とも聖人とも、その他一切の限定を絶した、真人間(秋月龍a)
=一切の位置づけや限定性を超えた真実の人間性・人格性・根源的生命(大森曹玄)
・真人 =古くから仏典では仏陀の訳語として用いられた。それを臨済が道教の盛んな
河北の地で、自己の理想とする自由人を表す語として用いた時、
全く新鮮な響きを持った禅語が創造されたと言える。(秋月龍a『臨済録』より)
(この生身の肉体上に、何の位もない一人の本当の人間、すなわち「真人」がいる。
いつでもどこでも、お前たちの眼や耳や鼻などの全感覚器官を出たり入ったりしている。
いまだこの真人がわからないものは、はっきり見届けよ)
(我々の肉体には、何ものにも限定されない絶対自由な人格性というものがある。
それは朝から晩まで、目では物を見、耳では音を聞き、鼻では香をかぎ、
身体では暑い寒いを感じ、意識ではものを識別し、手では握り、足では歩く
というように、いきいき働いている。それをまだハッキリと自覚し体得してないものは、
いま、ここで、とっくりと看てとるがよい。)大森曹玄
(霊性というものがある。主人公というものがある。仏性というものがある。
正法眼蔵というものがある。本来の面目というものがある…
無修無証、修行することもいらんが、悟りを開くこともいらん、
生まれたまま、そのままで結構じゃという 立派な主体性があるのじゃ。…
尽十方法界に弥綸して、…全宇宙、お互い感覚の届くところは何処でも行く
主観も客観もぶち抜いて、そこに一人の真人が働くのである。
こういう立派な真人が、仏が、みんなの体の中にちゃんと一人ずつござるのじゃ
こいつを見分けるのが、それをしっかりつかむのが、見性ということじゃ。
それがはっきり分かるのが、無字が分かったというのだ。)山田無文『臨済録』抜粋
(「一無位の真人が、赤肉団そのものをかなぐり捨て、露堂々として立つ。」
「この道人は個一であると同時に超個者であり、超個者であると同時に個一である。」(鈴木大拙)
12 :
神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 00:51:41 ID:7imHn1hE
時に僧あり、出でて問う
「如何なるか是れ無位の真人。」
師は席を下りて、僧の胸倉をつかまえて言った。
「さあ道え!さあ道え!。」(さあ言え!)
僧は疑議(ためらう・もたつく)す。
師は僧を突き放して
「無位の真人 是れ什麼の乾屎篦(糞かきべら)ぞ。」
(これでは無位の真人も糞かきべら同然ではないか)朝比奈宗源
(なんと見事なカチカチの糞の棒だ)入屋義高
(無位の真人が、なんという糞かきべらだ)秋月龍a
(ああ情けない。こいつも無位の真人の端くれじゃが、尻ふきにも劣るザマじゃわい)山田無文
と云って、そのまま方丈に帰った。
13 :
神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 22:00:59 ID:B+/H/Ag4
無相
14 :
神も仏も名無しさん:2007/10/17(水) 21:46:39 ID:WmQM6BJi
四
上堂。有僧出礼拝。
師便喝。
僧云、老和尚、莫探頭好。
師云、爾道落在什麼処。
僧便喝。
上堂すると、一人の僧が進み出て、問法もせず、ただ黙って丁寧に礼拝した。
師「喝アアァーッ」とすかさず一喝した。
僧「老師、探りを入れちゃいけませんよ。」
師「お前は今の喝の狙いが分かるか?」
僧「喝ァーッ」すぐさま一喝した。
15 :
神も仏も名無しさん:2007/10/22(月) 21:39:56 ID:n7b7glyB
又有僧問。
如何是仏法大意。
師便喝。
僧礼拝。
師云、爾道好喝也無。
僧云、草賊大敗。
師云、過在什麼処。
僧云、再犯不容。
師便喝。
また一人の僧が問うた。
僧「如何なるか是れ仏法の大意。」
師「喝アアァーッ」すかさず一喝した。
僧は礼拝した。
師「お前、言ってみよ。今の喝は好喝であるかどうか。」
僧「大敗した土一揆と同じ。」
師「失敗の原因は何処にあるか。」
僧「二度目の反乱は大目にみませんぞ。」
師「喝アアァーッ」すかさず一喝した。
16 :
神も仏も名無しさん:2007/10/25(木) 23:08:45 ID:YYTIElXi
喝
17 :
神も仏も名無しさん:2007/10/30(火) 19:58:18 ID:9I3pnCmk
是日両堂首座相見、同時下喝。
僧問師。
還有賓主也無。
師云、賓主歴然。
師云、大衆、要会臨済賓主句、間取堂中二首座。便下座。
「喝アーッ」「喝アーッ」
是の日、前堂と後堂の首座が行き合うと、同時に一喝を交えた。
それを見た僧が師に問うた。
僧「ただ今の喝に主・客の差別、相対、優劣といった区別がありますか?」
師「主・客の別はハッキリしてる。」
師「お前たちよ。私が常々言っている、主・客の意味を知りたければ、堂内の二人の首座に聞け。」
と言って、座を下りた。
18 :
神も仏も名無しさん:2007/11/04(日) 22:11:32 ID:3rlFLhg1
五
上堂。僧問
如何是佛法大意。
師竪起拂子
僧便喝。師便打。
又僧問。如何是佛法大意。
師亦竪起拂子。僧便喝。師亦喝。僧擬議。
師便打。師乃云、大衆、夫爲法者、不避喪身失命。
我二十年、在黄檗先師處、
三度問佛法的的大意、三度蒙他賜杖。如蒿枝拂著相似。
如今更思得一頓棒喫。誰人爲我行得。
時有僧出衆云、某甲行得。師拈棒與他。其僧擬接。師便打。
19 :
神も仏も名無しさん:2007/11/04(日) 22:12:17 ID:3rlFLhg1
上堂すると、ある僧が問うた。
僧「如何なるか是れ仏法の大意。」
師は払子を、スッと立てた。
僧「喝ァーッ」
師は払子で僧を打った。
また一人の僧が問うた。
僧「如何なるか是れ仏法の大意。」
師がまた払子を、スッと立てると、
僧「喝ァーッ」
師「喝アアァーッ」
僧は疑議した。(もたついた)
師はその僧を打った。そこで師は言った。
「お前たちよ、法のために修行するものは身命を惜しんではならぬ。
わしは二十年前、黄檗先師の処で三度、仏法的的の大意を問うて、三度棒でしたたかに打たれた。
でもそれは柔らかな蓬の枝で撫でられたようであった。できたらもう一度あのような棒を受けてみたいと思う。
誰かわしのために棒で打ってくれる者はおらんか。」
一人の僧が列の中から進み出て
僧「わたくしが致しましょう。」
師は棒を取ってその僧に差し出した。
僧が受け取ろうとすると、師はすかさずその僧を打った。
20 :
神も仏も名無しさん:2007/11/14(水) 15:31:32 ID:G40eB+oi
如何是佛法大意
21 :
神も仏も名無しさん:2007/11/14(水) 15:49:40 ID:OBDT2IOz
>>10 >無位の真人 って事実上アートマンのことでしょ?
ヒンドゥ的梵我一如と紙一重じゃん。
一切法無我 やばくね?
22 :
神も仏も名無しさん:2007/11/14(水) 15:59:57 ID:OBDT2IOz
>>10 >仏性 って梵我一如になれる可能性のこと?縁起を超越した梵のこと?
ブッダの縁起の「無明」と正反対の人間観でしょ。
一切行無常=縁起=空 やばくね?
23 :
神も仏も名無しさん:2007/11/14(水) 17:30:26 ID:OBDT2IOz
木刀をいかに磨こうと真剣にはなりはせぬわいのう、ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ
のう、神秀どの
24 :
昆布 ◆konbu//XQ6 :2007/11/18(日) 06:51:28 ID:qlp3z6JF
逆じゃないの?
木刀は、磨く必要がないから、真剣以上。
渇ァー!
だろうなw
臨在録は糞ベラと同じってことを言いたいわけだね。
26 :
昆布 ◆konbu//XQ6 :2007/11/18(日) 09:56:10 ID:qlp3z6JF
確かに、真剣でケツ拭く奴は変態だw
27 :
神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 10:04:19 ID:1hxAtht/
ZENとは?
28 :
昆布 ◆konbu//XQ6 :2007/11/18(日) 11:02:36 ID:qlp3z6JF
ウォシュレットw
29 :
神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 11:52:32 ID:1hxAtht/
ウォシュレット壊れてしまった 使いすぎ
30 :
昆布 ◆konbu//XQ6 :2007/11/18(日) 11:58:10 ID:qlp3z6JF
うんこしなくてもよくなったんだよw
31 :
神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 15:31:30 ID:FKXLnQGK
ウォシュレットでほんと綺麗にもどる。
>無位の真人 って事実上アートマンのことでしょ?
>>10-11 シャンカラなどに代表される絶対不二一元論の立場、
「アートマンはブラフマンであり無属性である。」は無位の真人と同じではないかと思う。
半眼で結跏趺坐を組んで修禅する方法はゴーダマ・仏陀以前から存在し、
数千年以上のインドのサンニャーシの伝統で、「無位の真人」と同じくする見地に至った僧は
おそらく無数に存在したのではなかろうか。
33 :
神も仏も名無しさん:2007/11/19(月) 01:11:28 ID:hjoEACgc
六
上堂。
僧問、如何是劍刄上事。
師云、禍事、禍事。
僧擬議。
師便打。
上堂すると、ある僧が問うた。
僧「如何なるか是れ剣刃上の事。」(真剣を抜き放ったときはどうですか?)
− 真剣で一切の知的分別を切断したかのような絶対無の境地 −
師「うおぉ!!! うおぉ!!!。」(危ない、危ない。)
僧はひるんで口篭った。 師はすかさずブッ叩いた。
34 :
神も仏も名無しさん:2007/11/19(月) 23:30:27 ID:Qanr5ahh
切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 踏み込み行けばあとは極楽
踏み込み行けば→入廛垂手
35 :
神も仏も名無しさん:2007/11/19(月) 23:55:15 ID:Qanr5ahh
さてさて、言葉と思考とは不自由なものだ。
36 :
昆布 ◆konbu//XQ6 :2007/11/20(火) 05:19:27 ID:BtYEyiYd
> 踏み込み行けばあとは極楽
ずいぶん、主体性のない生き方だヽ(^。^)ノ
もっと、前向きに思考したほうがいいぞw
> さてさて、言葉と思考とは不自由なものだ。
自分が不自由なのを他のせいにしてはいけないw
でも、まあ、糞掻きベラで飯をくうやつはいないわな(^o^)/
38 :
昆布 ◆konbu//XQ6 :2007/11/20(火) 07:57:44 ID:BtYEyiYd
逆もまたしんなりしてるぞぉ〜ヽ(^。^)ノ
言葉の両義性を切り捨ててどう読もうってんだろうねぇ〜
39 :
昆布 ◆konbu//XQ6 :2007/11/20(火) 07:59:12 ID:BtYEyiYd
仏舎利は単なる灰だw
って、どっかにあったような・・・・・・・
40 :
紅炉上一点の雪:2007/11/21(水) 16:35:30 ID:GgXpGiCE
>>33に対しては
>>34もいいが、
「碧巌録」六十九則の中から「荊棘林(けいきょくりん)を透る衲僧家(のうそうけ)は
紅炉上一点の雪の如し」もカッコいいよな。
川中島大会戦 謙信 如何なるか剣刃上の事!
信玄 紅炉上一点の雪!! 人生は気合だ
41 :
昆布 ◆konbu//XQ6 :2007/11/22(木) 03:55:47 ID:0q4F1Z6L
やっぱり、意味なんだな。
みんな極楽に行ったつもりで、痛いぞぉ〜ヽ(^。^)ノ
42 :
神も仏も名無しさん:2007/11/23(金) 22:29:29 ID:Y35fCaDo
問、祇如石室行者踏碓忘却移脚、向什麼處去。
師云、沒溺深泉。
師乃云、但有來者、不虧欠伊。總識伊來處。
若與麼來、恰似失却。不與麼來、無繩自縛。
一切時中、莫亂斟酌。
會與不會、都來是錯。
分明與麼道、一任天下人貶剥。
久立珍重。
(ある僧が) 問うた。
僧「石室行者は碓を踏みながら忘我の三昧境に入り、脚を移すことを忘れた
といいますが、その時の心境はどこへ向かって行ったのでしょうか?」
師「(三昧境の)深い淵に落ち込んで、溺れてしまったのだ。」(慧の働きなき)
師「わしの処にやって来る者があれば、すべてその者を見誤らない。
必ず、その者の境界を見抜く。
そのように自ら悟ったとして来てもいけない。(剣刃上や忘却移脚の境界の様な絶対や無心とやらを自ら引っ担ぎ)
そうでない迷いで来たならば、自縄自縛ということになる。
どんな時でも無暗に、ああだ、こうだと当て推量で分別するな。
悟ったいうも、悟らないというも、全て誤りだ。
わしはハッキリとこう言い切る。
天下の人がなんと批判しようとも、どうぞご自由に。
立ちっぱなし。ご苦労さん。」
43 :
神も仏も名無しさん:2007/11/26(月) 14:58:58 ID:JTZNCCg3
臨済の思想とクリシュナムルティの類似性は指摘されますが、
禅的なセンスのある方はクリシュナムルティに流れていますね。
明らかにクリシュナムルティの読者と禅に追随する方とでは、
クリシュナムルティを支持する立場のほうが理解力があると思います。
44 :
神も仏も名無しさん:2007/11/26(月) 16:31:32 ID:yPoT8Z4C
>クリシュナムルティを支持する立場のほうが理解力があると思います。
クリシュナムルティを支持する人のほうが理解力を、より、もっているという意味?
クリシュナムルティを支持する人のほうが理解され得るという意味?
立場って???
岩波の薄いヤツをざーっと読んでみた、感想は・・・
「おいおい、無茶苦茶だな、なんだこの坊さんは」
スレ諸兄のように精通してないから多分内容の5分の1も理解はしてないだろう
と思うけど心なし何かスッキリした。多分白隠とかいう和尚の本の方が読みやすいと思うから
今度読んでみようと興味は持てた。あだ名が「将軍」のワケも少し解った。
私は初読のときは、臨済と学人の遣り取りを滑稽にすら感じました。
訳注が詳しいものと師家の提唱録を読んで何とか読みやすくなった程度です。
滴水下の老師の提唱を実際に聴いたことがあるのですが、
解らない箇所をその場で質問できないので
そういう読み方をするのかと感心して終わりました。
後で自分で調べている時に少しは思い出す程度ですね。
訳者による訳注の違いがあるので比較しながら読んでます。
こんな坊さんもアリなのか?とちょっと笑いが出た。
仏像を枕に昼寝してる一休さんとか百姓が一息ついてる時に辻で腰を下ろして話をしてる白隠とかは何か親しみがもてる。
臨済や普化の遣り取りはどうも自分にはかなり難しいが形式にとらわれないで本質を見なさいというメッセージはなんとなくわかった。
自分は坊さんでも研究家でもないサラリーマンだけど、この先達のやりとりで少し視野が広がったような気がする、有難い。
・・・でも黄檗をどついた臨済に内心「それはやり過ぎだ!」と思った。
48 :
神も仏も名無しさん:2007/11/29(木) 01:45:07 ID:xFUJF+6Y
七
上堂。云、
一人在孤峯頂上、無出身之路。
一人在十字街頭、亦無向背。
那箇在前、那箇在後。
不作維摩詰、不作傅大士。
珍重。
一人は孤峯頂上に在って出身の路無く、一人は十字路頭に在って亦向背無し。
那箇か前に在り、那箇か後に在る。維摩詰と作さざれ、傳大士と作さざれ。珍重。
弧峯頂上 = 絶対平等の世界。本分の正位。
無出身之路 = 超出の余地のない独尊の境地。
十字街頭 = 相対差別の世界。現成の偏位。
無向背 = 前後・進退がない。差別にとらわれない。
珍重 = お大事に。さらば。ご苦労。
維摩居士 =「維摩経」の主人公。架空の人物と考えられている。維摩一黙。
傳大士 = 梁代の居士(497-569)。善慧大士。市井の中で衆生済度された。
祖師と同格とされ弥勒の化身とみられた。『善慧大士語録』『心王銘』。
幼時は長江で漁師が獲ってきた魚の見張り役をにない、漁師が漁に出かけると
カゴの魚に「逃げたかったらお逃げ、居たかったら居ていいよ」と語りかけたといわれる。
49 :
神も仏も名無しさん:2007/11/29(木) 01:45:52 ID:xFUJF+6Y
上堂して言った。
一人は絶対究極の悟りの境涯にいて、悟臭もなく独り超然としている。
一人は相対・差別の現実生活の中にいて、現実生活の差別に執われず自在に衆生済度す。
(社会生活を送りながら、絶対無心・自在の境涯にいる)
どちらが優れ、どちらが劣っているか。
前者は維摩居士であろう、後者は傳大士であろうなどと当て嵌めて
他人事の様に考えてはならぬ。
お前たち、各自のことだ。
珍重。
(維摩居士と傳大士の二者に優劣はない)
弧峰の禅も執すれば病になり、街頭の禅もそれを是とすれば病に陥る。
51 :
神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 22:52:21 ID:YmPwr4WR
八
上堂。云、
有一人、論劫在途中、不離家舍。
有一人、離家舍、不在途中。
那箇合受人天供養。
便下座。
途中=相対・差別の世界、十字街頭。
家舍=本来の場所(平等・本分の悟りの絶対境)、弧峯頂上。
上堂して言った。
一人は永遠に現実生活を歩みつつ衆生済度の働きをしながら、しかも悟りの絶対境を離れない。
一人は悟りの絶対境も捨て、しかも世俗の相対境を離れている。(無事是貴人の至妙境)
さて、このどちらが人間界・天上界の供養を受ける資格があるだろうか。
こう言って、すぐに座を下りた。
52 :
神も仏も名無しさん:2007/12/04(火) 22:54:53 ID:dxUiMzet
九
上堂。
僧問、如何是第一句。
師云、三要印開朱點側、未容擬議主賓分。
問、如何是第二句。
師云、妙解豈容無著問、和爭負截流機。
問、如何是第三句。
師云、看取棚頭弄傀儡、抽牽都來裏有人。
師又云、一句語須具三玄門、一玄門須具三要。
有權有用。汝等諸人、作麼生會。
下座。
― 臨済の三句 ―
53 :
神も仏も名無しさん:2007/12/04(火) 22:58:20 ID:dxUiMzet
若し第一句のうちに薦得すれば、祖仏のために師となるにたえたり。
若し第二句のうちに薦得すれば、人天のために師となるにたえたり。
若し第一句のうちに薦得すれば、自求不了。
54 :
神も仏も名無しさん:2007/12/04(火) 23:18:01 ID:dxUiMzet
上堂。
僧問「如何なるか是れ第一句。」
師云「三要印開して朱點側つ、未だ擬議を容れざるに主賓分る。」
上堂すると、ある僧が問うた。
僧「第一句とは何ですか?」(絶対の一句、仏法的的の大意)
師「印を捺して、上げた瞬間に、紙上に朱色の印文が顕れるように、
何とも言わん前の働きさ。(機前の一句)」
三要の印を捺して印をとると、朱の一点一画がクッキリ現れる。
そのように分別を容れる余地もなく、端的に主体と客体とが歴々と顕現する(諸法実相が現前する)。
(主客・自他が生ずる以前の絶対の境)
思惟分別を超えた処の絶対の一句。喝
56 :
神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 07:02:13 ID:FBt1l3ec
問「如何なるか是れ第二句。」
師云「妙解豈に無著の問を容れんや、おう和爭でか截流の機に負かん。」
妙解=根本智・絶対智。分別を超えた見地。
五台山に詣でた華厳寺無著と問答をした文殊菩薩の玄妙な境地。
おう和=方便。
截流=煩悩を截断。
僧「では第二句は?」
師「真人の玄妙なる絶対境は、なんの問いも受け付けぬが、
いったん働くと、鋭く煩悩を断ち切る。」
文殊菩薩の根本智・絶対智には、無著和尚の分別智からの問いを、容れる余地も無い深遠なものだが、
それが方便として発揮されると、煩悩を断ち切る鋭い働きを示し、絶対智にそむくものではない。
58 :
神も仏も名無しさん:2007/12/13(木) 22:18:37 ID:jVe3zg6e
問「如何なるか是れ第三句。」
師云「棚頭に傀儡を弄するを看取せよ、抽牽都來て裏人有り。」
抽牽=人形を操作すること。
僧「では第三句は?」
師「我々の肉体を自在に操つる、主人公である無位の真人を看て取れ。」
舞台上の人形の演技をよく看よ、その演技は舞台裏で操っている人の演出によるのだ。
59 :
dana:2007/12/13(木) 22:39:07 ID:Jz9B0PgB
60 :
神も仏も名無しさん:2007/12/15(土) 20:10:50 ID:gO30solI
第一句、人のそのままの姿。(体。機前の一句。維摩一黙。徳山の棒。臨済の喝。)
第二句、人の表現面。(相。声前の一句。)
第三句、人の行為面。(用。)
人々自己以前の端的は、天機とともに流行する、これすなわち第一句じゃ。
又一転して、喜怒哀楽の玄機、動き出るこれすなわち第二句じゃ。
再転して、行住坐臥著衣喫飯行屎送尿の妙を発す、これ第三句である。
畢竟如何となれば三即一、一即三である。(今北洪川)
夫れ三句は、一切の言語悉くこれ三句なり。
何ぞただ言語のみならんや事々物々もまたこれ三句なり。(人天眼目臆説)
61 :
神も仏も名無しさん:2007/12/19(水) 22:17:50 ID:Ztd9qQRE
一句語に須らく三玄門を具すべく、一玄門に須らく三要を具すべくして、
權有り用有り。汝等諸人、作麼生か會す。
師「すべて、なにもかも、真理を通してなければならない。
さあ、お前らはどうか?」 こう言って、座を下りた。
一言一句、一挙手一投足にも思惟分別を超えた根本真理たる“玄”が具えていなければならず。
また、そのひとつの根本真理には、諸法実相が歴々と顕現するようでなければならぬ。
そこに方便もあり、自由無礙の働きもある。
お前たち、ここをどう会得するか?
一句の語には三玄門が具わっていなくてはならず、一玄門には三要が具わっていなくてはならない。
そうあってこそ方便もあり、働きもある。さて、お前たち、ここをどう会得するか?
玄 = 原義は黒、常人には視えぬ神秘の意。『老子』小川環樹 訳注より
「玄の又 玄、衆妙の門なり」=玄(神秘)よりもいっそう見えにくいもの。その門から妙が出てくる。
― 臨済の三玄三要 ―
黒玄は本当の実在であり、暗黒がなければ光は現れない。
光は物質であり、光は幻影である。
黒玄は純粋な霊であり、絶対的なものである。
63 :
神も仏も名無しさん:2007/12/21(金) 00:26:24 ID:+EBLaOMV
臨済の頃は、道教の影響が強くなっているのだろうか?
64 :
神も仏も名無しさん:2007/12/21(金) 22:28:15 ID:1Z3t+Ss7
だから〜、臨済禅をブッキョーって言うなって!
65 :
神も仏も名無しさん:2007/12/21(金) 23:25:19 ID:+EBLaOMV
まだセクト意識の出る前だから、当時の宗教的な関心の強い層に浸透していたのか。
道教的な用語、もしくはその感覚を当時の人々が共有していたのかも知れませんね。
66 :
神も仏も名無しさん:2007/12/22(土) 21:19:44 ID:jw7hQgCI
訂正。
>1
×臨済慧玄 → ○臨済義玄(鎭州臨濟慧照禪師)
>53
若し第一句 … 祖仏のため …
若し第二句 … 人天のため …
×若し第一句 … 自求不了。→ ○若し第三句 … 自求不了。
67 :
神も仏も名無しさん:2007/12/25(火) 23:27:04 ID:/nm9KuzX
メリークリスマス! 臨済はんw
68 :
示衆:2007/12/28(金) 22:17:04 ID:dwbIapfi
一
師晩參示衆云、
有時奪人不奪境、有時奪境不奪人、
有時人境倶奪、有時人境倶不奪。
時、有僧問、如何是奪人不奪境。
師云、煦日發生鋪地錦、瓔孩垂髮白如絲。
僧云、如何是奪境不奪人。
師云、王令已行天下遍、將軍塞外絶烟塵。
僧云、如何是人境兩倶奪。
師云、并汾絶信、獨處一方。
僧云、如何是人境倶不奪。
師云、王登寶殿、野老謳歌
― 四料揀 ―
69 :
神も仏も名無しさん:2007/12/28(金) 22:21:04 ID:dwbIapfi
師、晩參、衆に示して云く
有る時は、奪人不奪境、
有る時は、奪境不奪人、
有る時は、人境倶奪、
有る時は、人境倶不奪。
師は、ある夜の説法のとき、修行者たちに教えて言った。
師「ある時は、自己を奪って万境を奪わない。(自己を万法に帰せしめる)
ある時は、万境を奪って自己を奪わない。 (万法を奪って自己一枚)
ある時は、自己も万境もともに奪う。 (自己も客観世界も蕩尽する)
ある時は、自己も万境もともに奪わない。 (自己と客観世界も肯定)
あるときは、山川草木国土宇宙森羅万象。(忘我の境地で、自己を対境に帰せしめる)
あるときは、天上天下唯我独尊。 (自由奔放の境地)
あるときは、絶対無。 (自己も現象世界も存在しない絶対無の境地)
あるときは、自然法爾。 (あるがままの世界の悦楽境)
70 :
神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 20:30:34 ID:+IVVpK+m
時に、
僧有問、如何なるか是れ奪人不奪境。
師云く、煦日發生して地に鋪く錦、瓔孩髮を垂れて白きこと絲の如し。
僧云く、如何なるか是れ奪境不奪人。
師云く、王令已に行なわれて天下に遍し、將軍塞外に烟塵を絶す。
僧云く、如何なるか是れ人境兩倶奪。
師云く、并汾絶信、獨處一方。
僧云く、如何なるか是れ人境倶不奪。
師云く、王、寶殿に登れば、野老謳歌す。
その時、一人の僧が尋ねた。
僧「人を奪って境を奪わないとは、どんな境地ですか。」
師「春の陽光が輝き出て大地は百花繚乱、錦を敷いた様である。ところが幼児の垂らした髪は絹糸のように白い。」
(春の陽光が…)で「境」(客観世界)の見事な様を示し、(白髪の幼児)は有り得ないので「奪人」(人・主観)の否定で、主観を交えない客観世界。
僧「境を奪って人を奪わないとは。」
師「国王の命令はあまねく行われ天下泰平、辺境を守る将軍は警戒の狼煙ひとつ上げない。」
万境すべてを掌握し、尽く自己のみの王者の境地。
僧「人境ともに奪うとは。」
師「并州と扮州は朝廷に背き連絡も絶え、それぞれ独立した。」
自己(朝廷・中央政府)も万境(并州、扮州)もともに否定。
僧「人境ともに奪わないとは。」
師「国王は宮殿の高楼に鎮座し、老農は太平の世を謳歌す。」
自己も万境も天下泰平である。
71 :
神も仏も名無しさん:2008/01/01(火) 23:07:31 ID:GvmC/gY4
喝!!
何ごちゃごちゃゆーとんねん! アホか
日々是好日 エー気持ちやね
奪人不奪境...客観のみを肯定。一毫も主観を交えない客観世界。(下根の学人に対する手立て)
奪境不奪人...主観のみを肯定。自由奔放の境地。真実絶対の人。(中根の学人に対する手立て)
人境倶奪.........主・客観を共に否定。自分も対象も忘れる。(上根に対する手立て)
人境倶不奪....主・客観を共に肯定。絶対肯定。(越格の学人に対する手立て)
凡夫は境を取り、道人は心を取る。
心・境双び亡ず、乃ち是れ真法なり。
境を忘ずることは猶お易く、心を忘ずることは至って難し。(黄檗希運)
道忠曰く、「人境倶を奪わずとは、凡情聖解並存し、向上の提持なり」と
>>72 以下は、コピペですが、ご参考までに。
四料簡(四料揀)は、「人」(主観)と「境」(客観)に対する認識のあり方をめぐって、
修行過程を4局面から説いたもの。
(1)「人を奪って境を奪わず」(奪人不奪境)
(2)「境を奪って人を奪わず」(奪境不奪人)
(3)「人も境もともに奪う」(人境倶奪)
(4)「人も境もともに奪わず」(人境倶不奪)
(1)「無我」を悟り、自己意識(人)が消えて客観世界(境)になりきる状況。
(2)「無常」を悟り、客観世界(境)は全て空であると観、自己意識(人)のみとなる世界。
(3)「涅槃寂静」を悟り、否定する自分も否定される環境も空であるという静まりかえった世界。
(4)(3)の絶対否定を転じて、「あるがまま」「花は紅、柳は緑」の世界、
「入廛垂手」、自由無碍、天地自由人の、いわば活発の境地。
また、修行の4段階としてとらえる場合。(師の弟子への接化)
奪人不奪境(主体性を失い、環境に囚われている状態)。一般にはこの状態を生きています。
ここを「対一説」で気づかせると、相手は奪境不奪人に進みます。外界に囚われず、自分自身の内面に深く沈む状態。
この「自己のみ」の状態を「倒一説」で突き崩すと、「人」も「境」も消えてしまう状態が出来上がります。
それを苗床にして、主体も外界も活き活きと動き始め、次の人境不倶奪が生まれ出てくる。
師は弟子の状態を四料簡で推し量りながら、適切な一説を加えます。
74 :
神も仏も名無しさん:2008/01/09(水) 22:55:24 ID:otvBWQQT
師乃云、
今時學佛法者、且要求眞正見解。
若得眞正見解、生死不染、去住自由。
不要求殊勝、殊勝自至。
道流、祇如自古先徳、皆有出人底路。
如山僧指示人處、祇要爾不受人惑。
要用便用、更莫遲疑。
如今學者不得、病在甚處。病在不自信處。
爾若自信不及、即便忙忙地徇一切境轉、
被他萬境回換、不得自由。
爾若能歇得念念馳求心、便與祖佛不別。
爾欲得識祖佛麼。祇爾面前聽法底是。
學人信不及、便向外馳求。
設求得者、皆是文字勝相、終不得他活祖意。
莫錯、諸禪徳。此時不遇、萬劫千生、
輪回三界、徇好境去、驢牛肚裏生。
道流、約山僧見處、與釋迦不別。
今日多般用處、欠少什麼。六道神光、未曾間歇。
若能如是見得、祇是一生無事人。
75 :
神も仏も名無しさん:2008/01/09(水) 23:14:41 ID:otvBWQQT
師、乃ち云く、
今時、佛法を學する者は、且らく眞正の見解を求めんことを要す。
若し眞正の見解を得れば、生死に染まず、去住自由なり。
殊勝を求めんと要せざれども、殊勝自から至る。
道流、祇だ古よりの先徳の如きは、皆人を出だす底の路有り。
山僧が人に指示する處の如きは、祇だ爾が人惑を受けざらんことを要す。
用いんと要せば便ち用いよ、更に遲疑すること莫かれ。
生死 = 梵語のSamsaraに当たる語「輪廻」とも訳す。対語は「涅槃」(生死の無い境地)
染 = 他に感化されて移り変わる意。(秋月龍a『臨済録』)
殊勝 = 特に優れたもの。正見を得た人におのずから付随してくる結果。
自由 = 自らに由る。無位の真人の働きそのもの。絶対自由。全的に自由。
真実の自己=仏性=絶対無的主体(久松真一)の自在な働き。
76 :
神も仏も名無しさん:2008/01/09(水) 23:29:04 ID:otvBWQQT
そこで師は言った。
「今日、仏法を学ぶ者は、まず仏祖と同じ正見(無我の正覚)を求めることが大事である。
もし正見を得れば、生死に染まることもなく、
あの世へ去くも、この世に往まるも自由である。(六道四生遊戯三昧)
殊勝は求めずとも、自然と向こうからやって来る。(自然に身について来る)
修行者達よ。古の祖師たちは皆、迷いの世界から救い出させる方便を心得ていた。
わしがお前達に心得て貰いたいことは、ただ、他人の言葉や外境に惑わされるなということだけだ。
真実の自己を働かそうと思ったら、すぐ働かせることだ。決してためらうな。」
今日、仏法を学ぶ者は、観る・聴く当体の“無位の真人”を徹見せねばならない。
見性すれば、生死、相対・差別に陥らず、絶対的自由の境地で、
生・死の世界に去くも住まるも、あらゆる客観世界においても絶対自由である。
見性すれば、“それ”(至高の境地など)も自我が求め回らずとも、“それ”自らやって来る。
諸君、昔の老師方は皆それぞれ、学人を見性させる活作略を持っていた。
わしが学人に一番言いたいことは、ただ、他人の意見判断に惑わされ、
既成概念や思想に囚われて、自らを束縛するなということだけだ。
見性したら、本具の真人のまま働き出でよ。決してためらうな。
77 :
ククリ:2008/01/10(木) 12:50:53 ID:g/T16x5d
わたしが臨済から「次を言え!」といわれたら平手打ちをくらわす
「仏法の根本儀」を問われたら、スッと立ち去るでしょう
大拙思想における自由の思想
ttp://www.lib.kanazawa-u.ac.jp/akegarasu/2005/index2.htm 「自由」とは、自らに在り、自らに由り、自らで行為し、自らで作ることである。
さうしてこの「自」は自他などと云ふ対象的なものでなく、
絶対独立の「自」――「天上天下唯我独尊」の、我であり、独であり、尊である――であることを忘れてはならぬ。
これが自分の今まで歩んで来て、最後に到達した地点である。(「明治の精神と自由」『東洋と西洋』『全集』二十一巻)
「自分から出てくるといふこと」
「おのづからそのものがそのものであるといふ、それをさして自由といふ」
「そこに内面性があつて、圧迫から離れるといふことではなくして、
積極性で、自然にそのものになる。柳は緑、花は紅、松は松、竹は竹といふことになる。
その自然性といふものを含めて、自由といふことが出てくる」(『東洋の心』)
* 自由のはたらきは空の場所ではじめて可能である。
「四苦八苦の娑婆の真中へ飛び出て、堪へ難きに堪へ、忍び難きを忍び、刻苦精励して、
人間のため、世界のため、何か大慈大悲底の仕事を行ずるのである。
さうして行動は報いを求める行動でない、無目的の目的で働くのである。これを無功用行といふ。自由性の発動である。
松はその松たる所以を自覚せず、竹はその竹たる所以を意識しないで、松になり、竹になつてゐるやうに、
仏や菩薩は達磨の「無功徳」と「不識」とで、慈悲行三昧である。
これを創造の生涯といふのである。詩の境涯である。一行三昧ともいふ。神通遊戯ともいふ。
「水を汲み薪をはこぶ」の妙用ともいふのである。
これはいづれも「空」の座にすわつてゐないとできないのである」(『東洋的な見方』)
80 :
神も仏も名無しさん:2008/01/17(木) 23:34:18 ID:AyHv70oP
如今の學者の得ざるは、病甚の處にか在る。病は不自信の處に在り。
爾若し自信不及ならば、即便ち忙忙地に一切の境に徇って轉じ、
他の萬境に回換せられて、自由を得ず。
爾若し能く念念馳求の心を歇得せば、便ち祖佛と別ならず。
爾は祖佛を識らんと欲得するや。祇だ爾面前聽法底是れなり。
學人信不及にして、便ち外に向って馳求す。
設い求め得る者も、皆是れ文字の勝相にして、終に他の活祖意を得ず。
錯ること莫かれ、諸禪徳。此の時遇わずんば、萬劫千生、
三界に輪回し、好境に徇って去って、驢牛の肚裏に生ぜん。
「この頃の修行者が仏法を会得できない病因はどこにあるか?
病因は、真実の自己を自覚しない処にある。
お前達が、もし真実の自己を自覚できず徹し切れぬと、あたふたと様々な情況に反応し、
すべての環境的影響に左右されて、自分を見失い、真実の自己の自由な働きを失う。
お前達が、もし一瞬一瞬、外に(仏や真正の見解を)求める心を断ち切ることが出来たなら、
即座に、祖師である仏そのものである。
お前達、祖仏を識りたいと思うか?
ほかならぬお前達、今わしの面前でこの説法を聴いてる者こそが祖仏だ。
お前達は、その聴法している者(真実の自己)を自覚出来ない為に、すぐに外に向かって求め廻る。
しかし、そこで何かを求め得たとしても、それはみな文字面の良さだけで、生きた祖仏の心は絶対に掴めぬ。
誤っては成らぬぞ、雲衲方よ。今、本来の面目にお目に懸らぬと、永遠に欲界・色界・無色界を輪廻し、
安逸な境遇のみに眼を奪われ畜生道に堕ち、驢馬や牛の腹に宿ることになるであろう。」
81 :
神も仏も名無しさん:2008/01/17(木) 23:35:42 ID:AyHv70oP
最近の修行者が駄目なのは、無位の真人を看取できない点にある。
もし無位の真人を徹見できないと、すぐにあらゆる現象に翻弄されて、無位の真人の働きを失う。
もし願望や欲求など、あらゆる自我の動きを、刻々終わらせるならば、そのまま仏である。
お前たち、仏を知りたいか?
わしの話を、今・目の前で・聴いている“そいつ”がそれだ。
お前たちは“そいつ”を徹見していないから、偉人の言行録や聖典、行法など自分の外に求める。
述べられ語られた真理は、文字言句上の概念で、生きた真理そのものではない。
誤っては成らぬ、道友諸君。 即今、徹見しなかったら、永遠に迷いの世界に輪廻し、
利己性の流れに囚われ、驢馬や牛に生まれ変わることになるであろう。
自信 = 現在一般に使われる「自分を信じる」の意味ではなく、
真実の自己(仏性=絶対無的主体)を“自覚・徹見する”意味が強いと思われる。
「自らが絶対であること(無位の真人)を看取すること。」
「個一を個多の一として見ず、超個者において絶対的存在であることを知るのが『信』。」
「『信』は霊性的自覚の別名。」(「臨済の基本思想」鈴木大拙)
歇得 = とどむ。止める。
念念 = 一瞬一瞬。「九十刹那を一念となす。」(仁王経般若波羅蜜護国経 観空品第二)
祖仏 = 祖師である仏。
82 :
神も仏も名無しさん:2008/01/21(月) 23:46:40 ID:kXFsf/bq
道流、山僧が見處に約せば、釋迦と別ならず。
今日多般の用處、什麼をか欠少す。六道の神光、未だ曾つて間歇せず。
若し能く是の如く見得せば、祇だ是れ一生無事の人なり。
「お前達、わしの見処から言えば、我々は釈迦と何の違いはない。
我々の日常の様々な働きに、いったい何が欠けているか。
この眼・耳・鼻・舌・身・意の感覚器官に働く真実の自己は、
かつて、一度も休止したことは無い。
もし、この真実を看取することが出来れば、
これこそ一生、求めるもののない、無位の真人に徹した人である。」
83 :
神も仏も名無しさん:2008/01/24(木) 02:33:16 ID:EFVBrg7a
真正の見解を求めんことを要す。
人惑を受けざらんことを要す。
病は不自信の處に在り。
馳求の心を歇得せば、便ち祖仏と別ならず。
面前聴法底。
無事の人なり。
84 :
神も仏も名無しさん:2008/01/25(金) 23:34:23 ID:1J/4SvWu
>>81 獏 妄想、 喝!!
「無位の真人」?アートマンの謂いか?
一切法無我の境地から存在を証明してみな。
戯論=形而上的空想ではないと証明しろよ。
『不滅、不生、不断、不常、不一義、不異義、不来、不出、
戯論(形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、
もろもろの説法者のうちで最も勝れた人として敬礼する』(中論 「帰敬序」)
ブッダの四聖諦、無常=無我=縁起=空の教えに背理無きや?
85 :
神も仏も名無しさん:2008/01/26(土) 00:16:15 ID:4tQ/q24z
だから、禅宗がバラモン=ヒンドゥ的ズブズブ観念から脱却できないでいる般若心経ごときを
ありがたがるのだ。あれはチラシの裏に書かれた落第答案だ。
『大神咒、大明咒、無上咒、無等等咒』などと落第ヒンドゥ丸出しの自画自賛でも不思議に思わぬ。
まともな呪文ならomオーム〜svahahスワーハの型になるはず。
“Om gate gate paragate parasamgate bodhi svahah"が及第答案だ。
呪い文句の完成、ど素人相手のこけおどし。細木和子もよく使う手だ。
オームが欠けていることからも、どっちからみても落第馬鹿坊主が書いた落第答案だと判るだろう。
これをありがたがるんだから、何をかいわんや!
ブッダが成道後、布教を躊躇された気持ちはよくわかる。
86 :
神も仏も名無しさん:2008/01/26(土) 00:32:41 ID:4tQ/q24z
バラモン=ヒンドゥ的梵我一如論とは紙一重w
ヒンドゥ丸出し真言宗、キリスト教的浄土真宗などとともに、
仏教を名乗るのは羊頭猪肉だぜ、流行の偽装表示だ。
あばよ!
87 :
神も仏も名無しさん:2008/01/27(日) 23:21:59 ID:EKG9rEd8
大徳、三界無安、猶如火宅。
此不是爾久停住處。無常殺鬼、一刹那間、不揀貴賤老少。
爾要與祖佛不別、但莫外求。
爾一念心上清淨光、是爾屋裏法身佛。
爾一念心上無分別光、是爾屋裏報身佛。
爾一念心上無差別光、是爾屋裏化身佛。
此三種身、是爾即今目前聽法底人。
祇爲不向外馳求、有此功用。
據經論家、取三種身爲極則。約山僧見處、不然。
此三種身是名言、亦是三種依。
古人云、身依義立、土據體論。法性身、法性土、明知是光影。
大徳、爾且識取弄光影底人、
是諸佛之本源、一切處是道流歸舍處。
是爾四大色身、不解説法聽法。
脾胃肝膽、不解説法聽法。
虚空不解説法聽法。是什麼解説法聽法。
是爾目前歴歴底、勿一箇形段孤明、是這箇解説法聽法。
若如是見得、便與祖佛不別。
但一切時中、更莫間斷、觸目皆是。
祇爲情生智隔、想變體殊、
所以輪回三界、受種種苦。
若約山僧見處、無不甚深、無不解脱。
88 :
神も仏も名無しさん:2008/01/28(月) 23:12:28 ID:LZqzkQlA
大徳、三界安きこと無く、猶お火宅の如し。
此は是れ爾が久しく停住する處にあらず。
無常の殺鬼、一刹那の間に、貴賤老少を揀ばず。
爾は祖佛と別ならざんと要せば、但だ外に求むること莫れ。
爾が一念心上の清淨光は、是れ爾が屋裏の法身佛なり。
爾が一念心上の無分別光は、是れ爾が屋裏の報身佛なり。
爾が一念心上の無差別光は、是れ爾が屋裏の化身佛なり。
此の三種の身は、是れ爾即今目前聽法底の人なり。
祇だ外に向って馳求せざるが爲に、此の功用有り。
「諸君、この三界(欲界・色界・無色界)は安住できる処ではなく、火事で燃えている家のような処だ。
この世界は、お前達が永く留まれる世界ではない。
無常という死神は、一瞬の絶え間もなく、貴賎老少を選ばず、生命を奪ってゆく。
お前達が祖仏と同じでありたいならば、決して外に向けて求めてはならぬ。
お前達の一瞬一瞬の心の動きの根源には清浄な智慧の働きがあり、
それが君達自身に具わる不生不滅の真理の当体、法身仏なのだ。
お前達の一瞬一瞬の心の動きの根源には無分別の智慧の働きがあり、
それがお前達自身に具わる行と願の完成の理想を示す、報身仏なのだ。
お前達の一瞬一瞬の心の動きの根源には無差別の智慧の働きがあり、
それがお前達自身に具わる衆生済度に働く、化身仏なのだ。
この三種の仏身は、ほかならぬお前達、今わしの面前でこの説法を聴いてる“者”こそがそうだ。
ただ仏を外に求め廻らないからこそ、このような優れた働きが出てくるのだ。」
89 :
神も仏も名無しさん:2008/01/28(月) 23:16:24 ID:LZqzkQlA
諸君、我々のこの世界は、火のついた屋敷のようで安住できず、永く留まる処ではない。
死は、絶えず貴賎老少を選ばず、生命を奪ってゆく。
祖仏と同じでありたいならば、決して心外に求めるな。
真実の自己の清浄な輝きが、法身仏そのものなのだ。
真実の自己の無分別の叡智が、報身仏そのものなのだ。
真実の自己の無差別の叡智が、化身仏そのものなのだ。
この三種の仏身は、わしの説法を、今・目の前で・聴いている、“そいつ”なのだ。
ただ心外に求めないからこそ、“そいつ”の優れた働きが出てくるのだ。
一念心上 = 瞬間の心の働き。
清淨光 = 光りは真実の自己の智慧のたとえ。
法身佛 = 不生不滅の真理の当体。法身の理体。例)大日如来。
無分別光 = 分別・不分別を超えた智慧の働き。
報身佛 = 仏に成る為の行を積み、報いとして完成された仏身。果位の仏。例)阿弥陀如来。
無差別光 = 差別・差別しないを超えた智慧の働き。
化身佛 = 衆生済度の為、この世に応現した仏。例)釈迦如来。
90 :
大王:2008/01/28(月) 23:38:14 ID:1zNNQzpT
やっぱり、普化が、サイコーだねえ、、、
91 :
神も仏も名無しさん:2008/01/29(火) 10:29:28 ID:kpScuwQt
age
禅天魔。
即今 目前 聴法底
94 :
大王:2008/02/02(土) 00:11:09 ID:J2PgvjhP
屁理屈、机をひっくり返す、普化が、サイコーだねえ、、
95 :
大王:2008/02/03(日) 15:25:48 ID:tCObvr+s
テレビで、イチローがバットは自分の体の一部分で道具でない、、という言葉の方が、
屁理屈書くより、ありがたいなあ、、、
>>94 > 屁理屈、机をひっくり返す、普化が、サイコーだねえ、、
何を持って、屁理屈というのだろうね、おばかは、
>>95 > テレビで、イチローがバットは自分の体の一部分で道具でない、、という言葉の方が、 屁理屈書くより、ありがたいなあ、、、
とんでもないところで、引き合いに出されたイチロー、怒り心頭だろうさ、
98 :
神も仏も名無しさん:2008/02/04(月) 22:40:54 ID:lduuysuZ
經論家に拠らば、三種の身を取って極則と爲す。
山僧が見處に約すれば、然らず。
此の三種の身は是れ名言にして、亦た是れ三種の依なり。
古人云く、身は義に依って立て、土は体に拠って論ずと。
法性の身、法性の土、明かに知んぬ、是れ光影なることを。
大徳、爾且らく光影を弄する底の人を識取せよ。
是れ諸佛之本源にして、一切處是れ道流が帰舍の處なり。
「経論家(教相家)によれば、三種の仏身(法身仏、報身仏、化身仏)は
仏法の究極のものとされる。しかし、わしの見処からすれば、そうではない。
この三身は(無相の自己の働きに依って)仮りに方便として名を付けたものであり、
(無相の自己が)相に応じて着ける三種の衣服なのである。
古人も言っている。
『仏身の区別は、教理上のこと、(衆生済度の為、相に応じてそれぞれ立てたもの)
仏身の住まう国土は、それぞれの仏身の境涯に応じて形成されるによう設定したのだ。』
法性の仏身(阿弥陀仏)、法性の仏国土(極楽浄土)が、
(無相の自己の)智慧の光りで出来た影(影法師)のようなものだとわかるだろう。
修行者達よ。お前達はぜひとも影(影法師)を操っている当の本体(主人公)をハッキリと看て取れ。
それそこ諸仏の本源であり、すべての修行者の安住できる本来の家郷なのだ。」
99 :
神も仏も名無しさん:2008/02/04(月) 22:41:54 ID:lduuysuZ
仏教学者は、法身仏、報身仏、化身仏を仏法の極致とするが、わしの見解は違う。
仏の様々な種類と名称は、慈悲の精髄(真理の理体・絶対無的主体・無位の真人)の働きの多様性なのだ。
古人も「慈悲心の化身は、時代・環境に応じて出現し、理想世界を方便として説いた」と言っている。
阿弥陀仏、極楽浄土と名づけても、慈悲の精髄(絶対無的主体)の光(般若の智慧の働き)の影である。
諸君、光影を以って衆生済度する慈悲の精髄である真理の理体(無位の真人・絶対無的主体)を看取せよ。
それこそが諸尊菩薩、森羅万象の本体であり、徹見徹底すれば、無相の自己(無位の真人・主人公)の
行為する行住坐臥すべてが、そのまま安住できる本来の場所なのだ。
身は義に依って立て、土は体に拠って論ずと。
= 法性の身は意義・理由によって成り立ち、法性の土は本体そのものの意。
「自性身の土は、即ち如理なり。此の身土、体に差別無しと雖も仏法に属す。
相性異なる故なり。義相を以って身と為し、体性を以って土と為す。」『大乗法苑義林章』
法性=真理の真理たる本性。万有の本体、真如・実相の異名。(秋月)
100 :
大王:2008/02/04(月) 23:24:56 ID:G17bCvI6
96 :神も仏も名無しさん:2008/02/04(月) 18:54:16 ID:a3w+9sGO
>>94 > 屁理屈、机をひっくり返す、普化が、サイコーだねえ、、
何を持って、屁理屈というのだろうね、おばかは、
97 :神も仏も名無しさん:2008/02/04(月) 18:55:45 ID:a3w+9sGO
>>95 > テレビで、イチローがバットは自分の体の一部分で道具でない、、という言葉の方が、 屁理屈書くより、ありがたいなあ、、、
とんでもないところで、引き合いに出されたイチロー、怒り心頭だろうさ、
まさに、これ、上記の内容、
すごいですな、自覚できない屁理屈。
101 :
大王:2008/02/04(月) 23:26:55 ID:G17bCvI6
ただ、妄想生産、書き立てるだけね、
何の役に立たず、この時点で、臨済録の内容では、ありませんなあ、、、
>>101 >
> ただ、妄想生産、書き立てるだけね、 何の役に立たず、この時点で、臨済録の内容では、ありませんなあ、、、
大王さん、臨済をどうとらえる?って聞いても、普化というまぼろしを追うだろうが。
103 :
糞あは、IDでばれてんだよカス:2008/02/05(火) 08:19:34 ID:EuDwST68
97 名前:紙を超え、観た。 ◆Kami/CluUc [age] 投稿日:2008/02/05(火) 01:04:24 ID:oVmKmJqS
>>195 102 名前:神も仏も名無しさん[age] 投稿日:2008/02/05(火) 00:36:23 ID:oVmKmJqS
>>101 >
> ただ、妄想生産、書き立てるだけね、 何の役に立たず、この時点で、臨済録の内容では、ありませんなあ、、、
大王さん、臨済をどうとらえる?って聞いても、普化というまぼろしを追うだろうが
246 名前:(。~ー~)(~ー~。)ポッたん ◆PottanMz5k [age] 投稿日:2008/02/04(月) 20:35:39 ID:a3w+9sGO
>>245 素人A さん
96 名前:神も仏も名無しさん[age] 投稿日:2008/02/04(月) 18:54:16 ID:a3w+9sGO
>>94 > 屁理屈、机をひっくり返す、普化が、サイコーだねえ、、
何を持って、屁理屈というのだろうね、おばかは
>>103 kudaranaikotowo,tokuigeni,
105 :
大王:2008/02/05(火) 23:48:55 ID:HQaVOLx5
クソあは、ぼったんの2ちゃんの活躍で、禅をすれば、現実に役立たないぼったん、あは、のようになると、
派手に禅を宣伝しているなあ、、、
禅などしたら、あはみたいに、基地外になると思われているだろうなあ、、2ちゃんで、、あは、の貢献だねえ、、、
106 :
大王:2008/02/05(火) 23:57:46 ID:HQaVOLx5
現実的でない学問的論文でも見て、禅をやりたいなあ、思う奴がこれを見て、
禅をやって、こんなアホになるのかあ、、と思う奴が多いだろうなあ、、、
>>105-106 イヌよ、汝は、今何時?
> クソあは、ぼったんの2ちゃんの活躍で、禅をすれば、現実に役立たないぼったん、あは、のようになると、 派手に禅を宣伝しているなあ、、、
> 禅などしたら、あはみたいに、基地外になると思われているだろうなあ、、2ちゃんで、、あは、の貢献だねえ、、、
> 現実的でない学問的論文でも見て、禅をやりたいなあ、思う奴がこれを見て、 禅をやって、こんなアホになるのかあ、、と思う奴が多いだろうなあ、、、
禅って、なんだと思うのかな ?
108 :
神も仏も名無しさん:2008/02/08(金) 00:18:53 ID:NsBuWB9f
えーと、そんなん簡単や。
1+1=3とか∞とか答えようがない、人格的言語・論理破壊の世界に気付き自得することが禅ですわ。
その手段が公案とか座禅とか。
時空=存在は縁起によるものゆえ、それ自体としての自性がない。
これは日常意識=人格を破壊するしか直感できない。
自性がないとはそれ自体として実体がない→無常(時間)=無我=空(空間)=縁起
だから『佛の人を教へ給ふおもむきは、ことにふれて執心なかれとなり。』(鴨長明、方丈記)
例えば輪廻だとか仏性=アートマンなんて観念の実体化は迷いの世界での蜃気楼・戯言にしか過ぎない。
おめーら、はやいとこ目を覚まして迷いの世間から超越してしかも世間の只中で慶安に生きろよ、というのがブッダの教えだろ。
色即是空⇔空即是色
迷妄禅坊主のクソ戯言自体が世俗諦で人を迷わしているのだということだよ。
こら! 臨在!! 文句アンだったら、化けて出て恋!!!
109 :
神も仏も名無しさん:2008/02/09(土) 20:19:27 ID:jIgYuPn0
中村元博士によって、最初期の仏教では「我はない」という意味の無我説は説かれていない、
「〔真実の〕我ではない」という意味の非我説が説かれたのである、ということが明らかになった。
非我と無我とは別の概念であって、はっきり区別する必要があり、非我から無我へと思想史的な変移がみられるという
(anattan の意味も同様に変化していったといわれる。
ttp://fallibilism.web.fc2.com/089.html
110 :
神も仏も名無しさん:2008/02/09(土) 20:22:36 ID:fJNU/ful
禅とは誰でも悟り顔になれる宗教グッズでしょ?
>>108 しかし、全く臨済録も読めていなければ、禅も理解できていない。
アートマンの解釈自体も容易になされるべきではない。
112 :
神も仏も名無しさん:2008/02/09(土) 22:57:40 ID:NwS1q+8G
で?
113 :
神も仏も名無しさん:2008/02/10(日) 11:17:03 ID:qJt0dGq4
>>110 とにかく先ず悟ったように行動(八正道)する<悟り顔>から、悟れるのだ。
Do→Be→Have(Get). Let it Be !
行動心理学的に全く正しい理論だ。
“理屈なし”に、まずアッチに飛ばんとアカンよ。
学者がアカンのはこの点。
『理解』だの『解釈』だのアホか。
そうでないと膨大な手間がかかるし、手間なんかかけてもしょーがない(無意味)。
渇ァー! ぶっ叩いたろかあ? 1+1=∞なんやろ?
114 :
神も仏も名無しさん:2008/02/13(水) 22:37:10 ID:qOdOUDaH
是れ爾が四大色身は、説法聽法する解わず。
脾胃肝膽は、説法聽法する解わず。
虚空は説法聽法する解わず。是れ什麼ものか説法聽法を解くす。
是れ爾目前歴歴底にして、一箇の形段勿して孤明なる、
是れ這箇、説法聽法を解くす。
若し是の如く見得せば、便ち祖佛と別ならず。
但そ一切時中、更に間斷莫く、觸目皆な是なり。
祇だ情生ずれば智隔たり、想変ずれば體殊なるが為に、
所以に三界に輪回して、種種の苦を受く。
若し山僧が見處に約せば、甚深ならざるは無く、解脱せざるは無し。
「お前達の肉体が法を説いたり聴いたりするのではない。
五臓六腑が法を説いたり聴いたりするのではない。
虚空が法を説いたり聴いたりするのではない。
では一体、何ものが法を説いたり聴いたりするのか。
ほかならぬお前達、わしの面前にハッキリと存在し、
これという形態なしに独自の輝きを発しているそのもの
それこそが法を説いたり聴いたりできるのだ。
このように看て取れたら、祖仏と同じである。
およそ十二時中、間断なく、見るもの聞くもの、みな一枚の仏性(真実の自己)である。
ただ情念が起こると般若の智慧と隔たり、想念が変異すれば仏心と違ってくるから、
三界に輪廻して、様々な苦を受けることになる。
しかし、わしの見処から言えば、甚深微妙不可思議でないものはなく、
解脱していないものはないのだ。」
115 :
神も仏も名無しさん:2008/02/13(水) 22:53:52 ID:qOdOUDaH
肉体が、五臓六腑が、説法を聴いているのではない。では、いったい何が聴いているのか?
我々自身に、はっきりと存在する、無相・絶対・独自の輝きを放つ“そいつ”が聴いているのだ。
これを徹見したら、祖師と同じ見得底であり、即今・目前・聴法底の“主人公”こそ仏と別ならず、
あらゆるときに、みな自己一枚であり、ありのままである。
思考と感情や想念に束縛されると、叡智の働きから遠ざかり、自我の苦しみにのた打ち回る。
見性し徹底すれば、己のすべての行為に叡智が働き、十方世界も甚深で解脱してないものはないことが解る。
116 :
神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 11:11:00 ID:co2LsXOB
915「太陽の裔である偉大なブッダ、あなたに遠離することと平安の境地とをお尋ねします。
修行者はどのように観じて、世の中の何をも執着することなく安らぎに入るのですか?」
916『ブッダは答えた、「考えているものである我がいる」という「虚妄の思考の根源」の
一切を破壊せよ。
内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ』
<スッタニパータ>
仏教は無常=無我=縁起にて候、無執着にて候。
仏性=真実の自己=主人公=アートマン観念への妄想執着は仏教にあらず、
ましてや「三界の輪廻」妄想に及んでや。
下半身がバラモン=ヒンドゥに侵食された自称「仏教」がある
だから現実の日本には禅宗でもバラモン的『葬式仏教』しかない。
白隠禅師『坐禅和讃』
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
譬えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離るべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称嘆するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
その品多き諸善行 皆この中に帰するなり
一坐の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くもこの法を 一たび耳に触るるとき
讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし
況や自ら廻向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 已に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 往くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 歌うも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前する故に
当処即ち蓮華国 この身即ち仏なり
118 :
神も仏も名無しさん:2008/02/15(金) 10:43:14 ID:EQUpJU+l
>>117 >衆生本来仏なり
>>114 >是の如く見得せば、便ち祖佛と別ならず。
>山僧が見處に約せば、甚深ならざるは無く、解脱せざるは無し。
呆れるほどブッダの縁起の教えを正面から破壊する反仏教思想だ。
我々の存在の根幹を「仏性」におくが、縁起の教えでは存在の根幹は「無明」=根源的迷妄性と把握する。
仏性と無明では根本的に反対極に位置する。
したがって、白隠や臨済の思考は縁起思想と対立し破壊している。
119 :
神も仏も名無しさん:2008/02/15(金) 21:12:53 ID:lgBRoZsj
自性即ち無性にて 已に戯論を離れたり
120 :
神も仏も名無しさん:2008/02/19(火) 21:32:41 ID:g+cJdtZE
道流、心法無形、通貫十方。
在眼曰見、在耳曰聞、在鼻嗅香、
在口談論、在手執捉、在足運奔。
本是一精明、分爲六和合。
一心既無、隨處解脱。
山僧與麼説、意在什麼處。
祇爲道流一切馳求心不能歇、上他古人閑機境。
道流、取山僧見處、坐斷報化佛頭、
十地滿心、猶如客作兒、等妙二覺、擔枷鎖漢、
羅漢辟支、猶如厠穢、菩提涅槃、如繋驢。
何以如此、祇爲道流不達三祇劫空、所以有此障礙。
若是眞正道人、終不如是。但能隨縁消舊業、
任運著衣裳、要行即行、要坐即坐、無一念心希求佛果。
縁何如此。古人云、若欲作業求佛、佛是生死大兆。
121 :
神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 22:39:02 ID:mQTGYd7N
道流、心法無形、十方に通貫す。
眼に在っては見と曰い、耳に在っては聞と曰い、
鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては談論し、
手に在っては執捉し、足に在っては運奔す。
本と是れ一精明、分れて六和合と爲る。
一心既に無なれば、隨處に解脱す。
山僧が與麼説く、意、什麼の處にか在る。
祇だ道流が一切馳求の心歇むこと能わずして、
他の古人の閑機境に上がる爲なり。
道流、山僧が見處を取らば、報化佛頭を坐斷し、
十地の滿心は猶お客作兒の如し、等妙の二覺は擔枷鎖の漢、
羅漢辟支は猶お厠穢の如く、菩提涅槃は繋驢の如し。
何を以ってか此の如くなる。
祇だ道流が三祇劫空に達せざるが爲に、所以に此の障礙有り。
若し是れ眞正の道人ならば、終に是の如くならず。
但だ能く縁に隨って舊業を消し、任運に衣裳を著けて、
行かんと要すれば即ち行き、坐せんと要すれば即ち坐し、
一念心の佛果を希求する無し。何に縁ってか此の如くなる。
古人云く、若し作業して佛を求めんと欲すれば、佛は是れ生死の大兆なり、と。
122 :
神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 22:39:53 ID:mQTGYd7N
「修行者達よ、心法(即今目前聴法底)は形がなく、十方世界に通貫している。
眼では見るといい、耳では聴くといい、鼻では香を嗅ぎ、
口では談論し、手では掴み、足では歩き走る。
もともと一心であり、分かれて六通の感覚器官を通して働くのだ。
一心は既に無であるから、徹底すれば随所に解脱する。
わしがこのように説く意図が何処にあるか。
お前達が一切の馳せ求める心を止めることが出来ない上、
古人の詰まらぬ言句や行動にすがりついているからだ。
修行者達よ。わしの見処に立てば、報身仏・化身仏の頭に坐って尻に敷き、
十地の修行成就者もまるで下賤な者、等覚・妙覚の悟りを得た者も自由を束縛された囚人、
羅漢、僻支仏(小乗の聖者)も汚猥であり、菩提・涅槃も驢馬を繋ぐ汚い棒杭だ。
何故そのようになるのか。
お前達が三祇劫(菩薩修行の無限の時間)が空であると達観しないから、
このような障碍があるのである。もし真正の道人ならば絶対にそんな事にならない。
ひたすら、その時その時、縁に随って過去の業を消し、自由に衣服を着けて、
行こうと思えばすぐに行き、坐ろうと思えばすぐに坐る。
一瞬たりとも、仏果(果報・悟り)を願い求める心を起こさない。
何故そうなのか宝誌和尚が言っておる。
『もし計らいの心を起こし仏を求めたら、その求める仏は迷いの大兆(象徴)である。』と。」
(『もし修行して仏を対象的に求める分別心が少しでもあれば、二元対立の迷いの始まりである。』)
123 :
神も仏も名無しさん:2008/02/20(水) 23:10:24 ID:mQTGYd7N
心の根源は無相で、全空間に通貫し、また感覚器官を通して働いている。
その根源は『無』であり、徹見徹底すれば、随所に解脱する。
徹見すれば、有り難そうな仏や、悟りを得たと称する修行成就者、
菩薩、羅漢、高位高僧、聖者、宗教上の理想の境地など一顧だに値しない。
求める心を止めることができず、心理的に成り行く過程に陥り、
時間は『空』であると達しないから、他人の説いた様々な教えに引っ掛かる。
もし本物の道人ならば絶対にそうではない。
日常の生活環境の中で自我の偏りを解消し、叡智の働くままに衣服を着けて、
行くも坐るもスッと自由自在である。悟りを求める心など微塵も起こさない。
「求める心が、迷いの始まりである。」
佛果 = 修行によって到達される仏の位。修行を因(仏因)とするため、仏を果とし仏果と称する。
古人云、若欲作業求佛、佛是生死大兆。= 宝誌和尚『大乗讃』では「業是生死大兆。」
作業 = 計らい。馳求心。
124 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 11:55:06 ID:OWjlNwy3
菩提心なき煩悩の徒に幸あれ!
125 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 22:35:37 ID:5xhWZ3Ki
大徳、時光可惜。
祇擬傍家波波地、學禪學道、
認名認句、求佛求祖、求善知識意度。
莫錯、道流。爾祇有一箇父母
更求何物。爾自返照看。
古人云、演若達多失却頭、求心歇處即無事。
大徳、且要平常、莫作模樣。
有一般不識好惡禿奴、便即見神見鬼、
指東劃西、好晴好雨。
如是之流、盡須抵債、向閻老前、呑熱鐵丸有日。
好人家男女、被這一般野狐精魅所著、便即捏怪。
瞎屡生、索飯錢有日在。
126 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 23:55:32 ID:OWjlNwy3
それでもやっぱり一切皆苦の根本命題の克服=ブッダの本懐は達成できぬ。
煩悩即菩提w
ああ、死にとむない、死にとむない(一休、仙香j
127 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 13:40:21 ID:UQPxqnN8
で、おっさん、縁起はどーなった?無視か?
128 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 23:50:32 ID:UQPxqnN8
我と仏の二見を離れて、ただただ菩提心あるのみ。
名称と形態はすでに寂滅しているではないか。
この相こそが、これすなわち法なり。
アホが「無」を振り回すだけが能ではあるまいw
129 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 20:53:48 ID:aE5TO/A3
大徳、時光惜しむべし。
祇だ傍家波波地に、禪を學し道を學し、名を認め句を認め、
佛を求め祖を求め、善知識を求めて意度せんと擬す。
錯まること莫れ、道流。爾祇だ一箇の父母有り、
更に何物をか求めん。爾自ら返照して看よ。
古人云く、演若達多頭を失却す。求心歇む處即ち無事、と。
大徳、且く平常ならんことを要す、模樣を作すこと莫れ。
一般の好惡を識らざる禿奴有って、便即ち神を見鬼を見、
東を指し西を劃し、晴を好み雨を好む。
是之如きの流、盡く須らく債を抵して、
閻老の前に向って、熱鐵丸を呑むこと日有るべし。
好人家の男女、這の一般の野狐の精魅の所著を被って、便即ち捏怪す。
瞎屡生、飯錢を索るる日有ること在らん。
「お前達、時は惜まねばならぬ。
それだのに、お前達は(自身の仏を見失い)あたふたと、禅を学び、道を学ぼうとし、
立派な経論や言句を当てにし、仏を求め祖を求め、師家を求め憶見を加えようとする。
誤ってはならぬぞ、修行者達よ。
お前達には、まさしく一箇の父母(本源、本来の面目)がある。
このうえ何を求めようというのか。
お前達、自らに取って返して自己自身を照らして看よ。(回向返照)
古人は言う『(演若達多の故事を引き)求める心が止んだ所が即ち無事なのだ。』と。
お前達、ともかく平常(びょうじょう)であれ。あれこれと思慮分別して臆見を加えるな。
世間には正邪もつかぬ悪僧の手合いが居て、何かと神や幽霊を見ただの、
また東や西を指して方位を占ったり、『晴れだ。雨だ。』と天気を予言したりする。
この手の連中は必ず借りを返させられて、閻魔大王の前で、熱い鉄の玉を呑まされる日が来るであろう。
ところが、善男善女が、こんな一群の狐狸の手合いに惑わされて、
すぐに狐つきになり怪しい振る舞いを遣らかす。
愚か者め。閻魔大王に、無駄飯を喰った飯代を請求される日があろうぞ。」
「即今・此処・自己」に徹せず、宗派禅や、仏道・真理を学ぼうとし、
選り好みの宗教書に酔って論を張り、神仏や宗祖・導師を求め、
真理に至る過程(時間、方法、書、知識、偶像)が有ると妄想の上塗りをする。
自己に一切の本源がある。外に向かって求めず己自究明をせよ。
「求める心が止んだ処、すなわち本来の自己が、求めるべき何ものもない無事安泰の処である。」
分上に豊かに備われり善男善女が、神霊の御宣託や吉凶占いを事とする連中に惑わされて右往左往する。
無心にその時その場をひたすら行じよ。理想を掲げ思慮を巡らして求めようとするな。
父母未生本来面目
回向返照
平常是道
演若達多失却頭 =
演若達多は、鏡に映る自分の美貌を楽しんでいたが、ある朝、鏡に顔が写らないので、
「私の顔はどこだ。私の頭がない。」と自分の頭を探して街中を走り回った。
ある人に「ここに有るじゃないか」と演若達多の頬を思いっきり引っ叩かれ、
思わず頬を押さえた演若達多が「有った」と涙ながらに得心したという故事。
自己を見失った喩え。(細部に違いがある)
132 :
神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 11:33:26 ID:mtpOGvdb
自己執着
133 :
神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 22:08:22 ID:CH/4I/Dn
成仏の道とは、自心を悟る是なり。
自心と云うは、父母も未だ生まれず、
わが身も未だなかりしさきよりして今日に至るまで、
移る変わることなくして一切衆生の本性なる故に、
是れを本来の面目と云へり。
抜隊得勝『抜隊仮名法語』
134 :
神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 13:03:30 ID:pOXwTgDB
なんであれなにものも執着されるべきでない−“Sabbe dhamma nalam abhinivesaya.”
禅て無執着で、この場合の自己って無相で無位でしょ。
136 :
神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 20:45:15 ID:ibc5mygT
あのね、釈尊の縁起を「空」であるとか「無相」だとか「無位」だとかの言葉で張り紙をした瞬間に空では
なくなるのだよね。
これを龍樹は戯論(プラパンチャ=形而上的言説)と言ってますが、
縁起している真実の世界とは観るものであり、決して言語表現され得ないものなんですよね。
ですから実は縁起の世界を「空(シューニャ)」などという
言語表現になった時点で縁起の本質からは離れてしまってるんですよね。
ですから縁起、無自性、空を「本来の真面目」「無位の真人」「真我」などと言葉でレッテル張りした時点で、
釈尊からも龍樹からも「あなたアフォですか?」と言われてしまいますよ。』
137 :
神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 21:08:02 ID:mmvtFgF0
通りすがりで悪いけど「本来の真面目」 「真我」はこの書のどこにもないでしょう。
誤字がすぎると思います。
言うに言われぬ「空(シューニャ)」を臨済や禅では、
なんとか表現しているのは読み取れませんか。
あと136さんは「自己」の言葉に詰まりすぎで真意を掴み損ねているように見えますが。
禅に詳しいおまいらに質問。
禅は「不立文字 教外別伝」といってるが、その割りには、禅の本が多いのは何故だ。
教えろ。
139 :
神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 22:03:33 ID:3L0a8R2W
二
示衆云、
我有時先照後用。有時先用後照。
有時照用同時。有時照用不同時。
先照後用有人在。先用後照有法在。
照用同時、駈耕夫之牛、奪飢人之食、敲骨取髄、痛下鍼錐。
照用不同時、有問有答、立賓立主、合水和泥、應機接物。
若是過量人、向未挙己前、撩起便行。猶較些子。
衆に示して云く、
我れ有る時は先照後用。有る時は先用後照。
有る時は照用同時。有る時は照用不同時。
先照後用は人の在る有り。先用後照は法の在る有り。
照用同時は耕夫之牛を駈り、飢人之食を奪い、
骨を敲き髄を取り、痛く鍼錐を下す。
照用不同時は問有り答有り、賓を立し主を立し、
合水和泥、應機接物す。
若し是れ過量の人ならば、未だ挙せざる己前に向いて、
撩起して便ち行かん。猶お些子に較れり。
140 :
神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 22:05:21 ID:3L0a8R2W
二
修行者達に示して云った。
「わしは、
時によっては、照が先で用が後であり、
時によっては、用が先で照が後であり、
時によっては、照と用とが同時であり、
時によっては、照と用とが不同時である。
照が先で用が後である場合は、働きとしての人が現前する。
用が先で照が後である場合は、働きとしての法が現前する。
照用同時の場合は、耕夫の大切な牛を追い払い、飢人の貴重な食物を奪うように、
修行者の骨を砕き髄を抜き取り、鍼を下すような厳しさがある。
照用不同時の場合は、質問もさせ答えもし、賓客として迎え主人として応じ、
お互いに泥をかぶって、相手の力量に応じて接得する。
もし越格の力量底の人であれば、御託を並べる前に、袖を払い振り向きもせず、
さっさと行ってしまうだろう。それでこそ真正の道人だ。」
「照」= 相手の内実(見解・見地)を照らし出し看て取る働き。
「用」= 相手に仕向けて用いる行動的な働き。(喝、棒など)
「先照後用」修行者の力量を"照"らし出し看取した後、喝や棒を"用"いて修行者の内実に適した働きで示す。
「先用後照」棒・喝など行動的な働きが先にすぐさま出る。
「照用同時」力量・内実を看取する働きと、棒・喝など行動的な働きが同時。(修行者の大事にしている自我を徹底的に奪う)
「照用不同時」賓客をもてなす様に懇切丁寧に相手の力量に応じて指導する。
「若是過量人」抜群の器量の人の場合は、問題が提起される前に立ち去る。
>>138 > 禅に詳しいおまいらに質問。
> 禅は「不立文字 教外別伝」といってるが、その割りには、禅の本が多いのは何故だ。
> 教えろ。
(爆々)
142 :
神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 22:14:03 ID:U9yamfGw
三
師示衆云、
道流、切要求取眞正見解、向天下横行、免被這一般精魅惑亂。
無事是貴人。但莫造作、祇是平常。
爾擬向外傍家求過、覓脚手。錯了也。
祇擬求佛、佛是名句。爾還識馳求底麼。
三世十方佛祖出來、也祇爲求法。
如今參學道流、也祇爲求法。得法始了。
未得、依前輪回五道。云何是法。法者是心法。
心法無形、通貫十方、目前現用。
人信不及、便乃認名認句、向文字中、求意度佛法。
天地懸殊。
143 :
神も仏も名無しさん:2008/03/16(日) 21:18:51 ID:waPH3v+y
三
師、衆に示して云く、
道流、切に眞正の見解を求取して、天下に向って横行して、
這の一般の精魅に惑亂せらるるを免れんことを要す。
無事是れ貴人。但だ造作すること莫れ、祇だ是れ平常なれ。
爾、外に向って傍家に求過して、脚手を覓めんと擬す、錯り了れり。
祇だ佛を求めんと擬するも、佛は是れ名句なり。
爾、還た馳求する底を識るや。三世十方の佛祖出で來たるも、
也た祇だ法を求めんが爲なり。
如今參學の道流も、也た祇だ法を求めんが爲なり。
法を得て始めて了る。未だ得ざれば、依前として五道に輪回す。
云何なるか是れ法。法とは是れ心法。
心法無形、十方に通貫し、目前に現用す。
人、信不及にして、便乃ち名を認め句を認め、
文字の中に向って、佛法を意度せんと求む。
天地懸かに殊なる。
144 :
神も仏も名無しさん:2008/03/16(日) 21:22:32 ID:waPH3v+y
師は、大衆(修行者達)に示して云った。
「修行者達よ、しっかりと真正の見解(真の悟り)をつかんで天下を自由に横行闊歩し、
この一群の狐狸の手合い(吉凶占い、似非坊主)に惑わされぬ事が肝要ぞ。
『無事是れ貴人。但だ造作すること莫れ、祇だ是れ平常なれ』
(一切の束縛を脱し無心自在で、求める何ものもない本来の自己に徹した人が尊い真人だ。
絶対に計らいの心<有心>を起し外に求めてはならぬ。ひたすら平常<びょうじょう>であれ。)
お前達は、外に向かって脇道にそれて求め回り手懸りを得ようとする。それが間違いだ。
お前達は、ひたすら仏を得ようと求めるが、その求める仏とはただの名称や言句である。
お前達は、その仏を馳せ求め回っているそのもの自身を知っているか。
三世十方の仏や祖師が世に出られたのも、ただ法を求めんが為であった。
今日の修行者諸君も、やはりただ法を求めんが為だ。
法を得たらそれで良いのだ。得られねば、今まで通り五道の輪廻を繰り返す。
法とは何か。法とは心法(弧明歴々即今聴法底)である。
心法は無相で十方世界に通貫し、目前にて顕現し生き生きと働いている。
ところが人々はこの真実を看取し切れぬ為、そこですぐに(菩提、涅槃だのと)名称や言句に捉われ、
文字や概念の中に仏法を推し量ろうとする。天と地ほども懸け隔たった見当違いだ。」
145 :
神も仏も名無しさん:2008/03/16(日) 21:47:48 ID:waPH3v+y
仏性を自覚し、邪師に惑わされぬことが大事である。(見性徹底)
「無事是貴人。但莫造作、祇是平常。」
静寂な精神。散漫な心と分別心の及ばない虚空の境地であれ。
精神が求める仏とは、ただの象徴や概念、あるいは自己投影したものである。
心法(何の計らいもなく聴いている意識)を悟徹すること。
心法は無相、全空間、無始無終に渡って通貫し、明歴々露堂々と働いている。
心法を自覚徹底できない為(信不及)、理論や文章に捉われ、
概念の中に真理を求め、盛んに分別意識を働かせて忖度する。
全く見当違いである。
切に眞正の見解を求取。
無事是貴人。但莫造作、祇是平常。
法を得て始めて了る。
法とは是れ心法。
心法無形。
人、信不及。
信とは、たよることではない、たのむことではない、またまかせることではない。
信とは、自らを見ることである、自らは自らであることを知ることである。
自らの姿が自らに映ることである、自らが他に向かって働くことではなくて、
自らの上に働くことである、自らを発見することである。(臨済の基本思想/鈴木大拙)
146 :
神も仏も名無しさん:2008/03/21(金) 21:47:28 ID:oYn5TTEL
道流、
山僧説法、説什麼法。説心地法。
便能入凡入聖、入淨入穢、入眞入俗。
要且不是爾眞俗凡聖、能與一切眞俗凡聖、安著名字。
眞俗凡聖、與此人安著名字不得。
道流、把得便用、更不著名字、號之爲玄旨。
山僧説法、與天下人別。
祇如有箇文殊普賢、出來目前、各現一身問法、
纔道咨和尚、我早辨了也。
老僧穩坐、更有道流、來相見時、我盡辨了也。
何以如此。
祇爲我見處別、外不取凡聖、内不住根本、
見徹更不疑謬。
147 :
神も仏も名無しさん:2008/03/23(日) 21:11:56 ID:ZpMDa6YP
道流、山僧が説法は、什麼の法をか説く。心地の法を説く。
便ち能く凡に入り聖に入り、淨に入り穢に入り、眞に入り俗に入る。
要且つ是れ爾が眞俗凡聖の、能く一切の眞俗凡聖の與に、名字を安著するにあらず。
眞俗凡聖は、此の人の與に名字を安著し得ず。
道流、把得して便ち用いて、更に名字に著せざる、之を號して玄旨と爲す。
山僧が説法は、天下の人と別なり。
祇だ箇の文殊普賢有って、目前に出で來って、各一身を現じて法を問うが如きは、
纔かに和尚に咨すと道わば、我れ早く辨じ了る。
老僧穩坐、更に道流有って、來って相見する時、我れ盡く辨じ了る。
何を以ってか此くの如くなる。
祇だ我が見處の別にして、外には凡聖を取らず、内には根本に住せず、
見徹して更に疑謬せざるが爲なり。
「修行者達よ、わしの説法は、何の法を説いていると思うか。
心地の法(心法)を説いているのだ。
この心法は、よく凡の世界にも入り、聖の世界にも入り、
浄土の世界にも入り、穢土の世界にも入り、真実の世界にも入り、凡俗の世界にも入る。
つまり、お前達が設けた眞俗凡聖の区別(価値観)そのものが、
一切の眞俗凡聖に対して名を付けているのではない。
そして眞俗凡聖の範疇では、そもそもこの人(心法)に対して名を付けることは出来ない。
お前達、心法を見得(見性)して、すぐに(心法の)働きに徹し、断じて文字や定義、概念に執われないことだ。
これをすなわち玄旨となす。(玄妙の意旨)
わしの説法は、諸方の宗匠方とは違う。
たとえば、文殊菩薩や普賢菩薩が、わしの面前に出て来て、それぞれの一身を現して法を問うたとしても、
『和尚(臨済)にお尋ねする』と、彼らが一言云っただけで、わしはその境地を見抜く。
また、わしが静かに坐っているところに、修行者が来たって相見した途端、わしはその内実をすっかり見抜く。
何故このようなことが出来るかと言えば、
それは、わが見処が諸方の宗匠方に比して格別であり、
外には凡聖の枠を認めず(相対・差別に捉われず)、内には根源の悟りに腰を据えず。
徹見徹底して全く疑謬がないからだ。」
心法(具足底の本心本性・絶対無的主体)を説いている。
心法は無相であるから、十方世界(眞俗凡聖)に通貫する。
相対・差別の価値観は精神の捏造であり、
精神が捏造した価値観では、心法を概念化できない。
本具の本性である聴法底の意識(絶対無的主体)を悟り、
すぐに日常の起居動静上に働くままにし、精神に囚われないことだ。
これが奥義だ。
臨済和尚は世間一般の布教師・宗教家とは違い、
相手の内実を一見して看破して一点の誤謬も無い。
それは、心外無別法であるから相対的な価値観に捉われないし、
心法は無相であるから、内面的な一如平等な悟りに滞らない。
そう徹悟徹道しているから、内外・凡聖を見抜いて、些かも戸惑うことがない。
心地 = 一切のものが大地から発生するように、心法が万物の根源であること。
把得便用 更不著名字 号之為玄旨 =
・「それには全く名前の付けようがない。名前をつけたものは自在に万境に出入しうるものではない。
このことをしっかりつかんで自在に用かせ、差別的な名前に全く執着しないのが、玄旨というものだ。」
・「凡聖浄穢真俗といった差別の境に滞ることなく、自由自在に凡聖浄穢真俗といった
あらゆる境に出入して用らくことのできるものが玄旨というものだ。」
玄旨 = 奥義。言語や思惟・分別を絶した深奥にして微妙な理。(「玄」は、分別を超えた悟りの境地。)
「玄」とはすべての色を溶かしこんだ黒色であり、そこからあらゆる妙なる働きが出てくるという意味。
古来より精神や物事を究めようとする言葉のなかでは「玄」という言葉がよく引き合いに出されている。
仏教では、仏教の哲理や宗派の宗旨を指す。鑑智僧?禅師『信心銘』。
「『信心銘』に、不識玄旨 徒労念静(玄旨を識らざれば、徒に念静を労す)
玄旨を識らないと、いたずらに心が静かになるということばかりをわずらう。
心が静かになり落ち着きを得るということが、心の究極のところだと思い込んで
これに固執してただ努めてゆくというのでは、本当に心の静かさをえることはできない。
本当の静というものは作用の根源そのものであり、動静一体不二の寂静といわれるもので
ありますが、そのような根源的なものは、向かわんと擬すればすなわち乖くものであり、
これを固定してみることのできない玄旨である。玄旨を識らないとかえってこれに固執して
玄旨からはなれ、根源の作用からはなれて根源の作用を求めることになる。これは徒労である」
(「茶道の哲学」久松真一)
仏教以外では主として道家系の哲理。
老子に「玄之又玄 衆妙之門」(玄のまた玄は、衆妙の門なり)
道(無名、「無名天地之始」)が万物生成の根本であるという意。
「玄」は黒色、老子の「道」を意味する。
「老子の道」は、無ではあるが有に対する無ではない、有無を超越した無である。
「玄之又玄」は幽玄中の幽玄。「衆妙之門」は「衆妙」が宇宙空間の森羅万象、
「門」は、すべての道が生じるところとして、道を「門」と表した。(諸橋轍次氏の解説による)
150 :
神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 21:41:20 ID:Tzd/UHcV
四
師示衆云、
道流、佛法無用功處、祇是平常無事。
屎送尿、著衣喫飯、困來即臥。
愚人笑我、智乃知焉。
古人云、向外作工夫、總是癡頑漢。
爾且隨處作主、立處皆眞。
境來囘換不得。
縦有從來習氣、五無間業、自爲解脱大海。
今時學者、總不識法、
猶如觸鼻羊、逢著物安在口裏。
奴郎不辨、賓主不分。
如是之流、邪心入道、鬧處即入。
不得名爲眞出家人、正是眞俗家人。
夫出家者、須辨得平常眞正見解、
辨佛辨魔、辨眞辨僞、辨凡辨聖。
若如是辨得、名眞出家。
若魔佛不辨、正是出一家入一家。
喚作造業衆生、未得名爲眞出家人。
祇如今有一箇佛魔、同體不分、如水乳合、鵝王喫乳。
如明眼道流、魔佛倶打。
爾若愛聖憎凡、生死海裏浮沈。
151 :
神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 22:06:21 ID:D74E5Kmt
師、衆に示して云く、
道流、佛法は用功の處無し、祇だ是れ平常無事。
屎送尿、著衣喫飯、困れ來たれば即ち臥す。
愚人は我れを笑うも、智は乃ち焉れを知る。
古人云く、外に向って工夫を作すは、總べて是れ癡頑の漢なり、と。
爾且らく隨處に主と作れば、立處皆眞なり。
境來たるも囘換すること得ず。
縦い從來の習氣、五無間の業有るも、自ら解脱の大海と爲る。
師は、大衆(修行者達)に示して云った。
「修行者達よ、仏法は計らいを加える処はない。
ただ平常無事で(日常を、当たり前の働き <本来の自己・無位の真人の働き>に徹する)、
糞を垂れたり小便をしたり、衣服を着たり飯を喰ったり、
疲れたらすぐ横になって休む。ただそれだけのことである。
愚人は、こんなわしを笑うが、智者ならば、そこ(平常無事の本来の自己の働き)が解るだろう。
古人も云う『外に向かって思慮を巡らし求め廻るのは、総じて是れみな愚か者である』と。
まあ、お前達よ、『随所に主と作れば、立所皆真なり』。
(その場その場で、絶対無的主体の自由自在の働きを確立していくならば、己の有り場所は皆真実の妙境である)
(一切所で無位の真人が主人公となり、自在の働きを示すとき、立場所がみな真となる)
(本来の自己の働きに徹すれば、どこにおいても仏界である)
どんな境(状況)がやって来ても、お前達を引き廻す事は出来ぬ。
たとえ、過去の悪因縁の余習や、無間地獄に堕ちる五つの大悪業があろうとも、
それらは自然に解脱の大海になるだろう。」
仏法は、自我が漸修するものではない。
ただ、そのまま(本来の自己の無心自在の働き)であればいい。
催したら排泄し、空腹を感じたら飯を喰らい、疲れたら横になる。
そこには些かの思慮分別も作為もない、自然法爾に無位の真人がスラリと働くことである。
(仏法は、日常の生活において無心・無我の境涯で事に当る。)
愚人は笑うが、明眼の人ならば、平常無事とは、求めずして禅定悟徹の心境を体得し、
無位の真人の働きに徹底したものだと理解できる。
「外に向けて計らい求むるは、愚者の所行である」
「随所作主、立所皆真」
いま・ここにおいて、自我ではなく絶対無的主体の働きが主とならば、そのまま真理の働く場となり
無的主体は、二元に染汚されないので、環境条件の変化にも振り廻されない。
たとえ悪習や大悪業があっても、仏性を徹見し、絶対無的主体の働きに徹底すれば、
言動行為はみな自ずから真理に適い、自我の悪業は自然に解消され、解脱の自由無礙の世界となる。
※「隨處に主と作れば、立處皆眞なり」
僧肇が唱え、馬祖を経て臨済に至る。
僧肇『不真空論』に、「世尊は真際を動ぜずして、諸法の立処となす、真を離れて立処なるに非ず、立処即ち真なり」。
馬祖『馬祖語録』に、「真を離れて立処あるに非ず、立処は即ち真にして尽く是自家の体なり」。
※「古人云、」= 南嶽明さん(王+賛)和尚。懶(王+賛)とも。北宗の第二祖普寂の法嗣。
「餓え来れば飯を喫し、困し来れば即ち眠る。
愚人は我を笑うも、智は乃ち焉を知る。
是れ鈍痴なるにあらず、本体如然たるが故なり」
『南嶽懶讃和尚楽道歌』
懶讃は、南嶽(衡山)の石室中に庵居し、貧寒ながらも正念相続の生活であった。
その高徳の噂が唐の粛宗(徳宗とも)の耳に達し、参内を求める勅使が派遣された。
折しも、彼は牛の糞を焚いた火で暖をとりながら、芋を焼いて食っていて、
勅使を礼を以て迎えようともしなかった。
鼻水を顎まで垂らし、芋と一緒になって口へ運び、それを拭おうともしない、
勅使が笑い「その鼻水を拭いなされ」と注意すると、
和尚「我れ豈に俗漢の為に洟を拭うの工夫(暇)有らんや」(正念相続)と顧みず、
勅命を拒否して山を下らなかった。
154 :
神も仏も名無しさん:2008/04/08(火) 21:59:12 ID:7GlJKmOz
今時の學者は、總べて法を識らず、
猶お觸鼻羊の、物に逢著して口裏に安在するが如し。
奴郎辨ぜず、賓主分かたず。
是之如くの流は、邪心にして道に入り、鬧處には即ち入る。
名づけて眞の出家人と爲すことを得ず、正に是れ眞の俗家人なり。
夫れ出家というは、須らく平常眞正の見解を辨得して、
佛を辨じ魔を辨じ、眞を辨じ僞を辨じ、凡を辨じ聖を辨ずべし。
若し是の如く辨得せば、眞の出家と名づく。
若し魔佛辨ぜずんば、正に是れ一家を出でて一家に入る。
喚んで造業の衆生と作す、未だ名づけて眞の出家人と爲すことを得ず。
祇だ如今一箇の佛魔有り、同體にして分かたざること、
水乳の合するが如きも、鵝王は乳を喫す。
明眼の道流の如きは、魔佛倶に打す。
爾若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に浮沈せん。
「今時の修行者は、まったく法を識らない。
それは何にでも鼻をぶつけてゆく羊が、鼻先に触れるものを見境もなく口に入れるようだ。
だから下僕と主人の区別もつかず、客と主人の見分けも出来ない。
(宗旨の邪正、師の道徳の高下、商量の賓主を見分けられない)
この類の連中は、邪な心で道に入った輩で、人の集まる賑やかな処にはすぐに入ってゆく。
とても真の出家とは言えぬ。まさしく真の俗人である。
そもそも出家というものは、平常真正の見解をしっかり見得して、
仏を見分け魔を見分け、真を見分け偽を見分け、凡を見分け聖を見分けねばならない。
もしこのように見分けることが出来たら、真の出家といえる。
もし魔と仏の見分けもつかぬようなら、それこそ一つの家を出てまた別の家に入ったもので、
そんなのを呼んで地獄の業を作る衆生という。とても真の出家とは呼べぬ。
たとえば、いま一箇の仏魔があって、同体で区別が出来ない場合は、
まるで水と乳とが混ぜ合わさったようなものだとする。そんなとき鵝王(鵞鳥)は乳だけを飲む。
明眼の修行者なら、(ガチョウのように片方だけでなく)魔と仏、倶に捉われず打破するだろう。
お前達がもし聖を愛し凡を憎むようだと、生死(迷い)の苦海に浮き沈みすることになろう。」
(心法の働きで見抜くのではなく、我見による取捨愛憎の念を持つと、迷いの苦海に浮き沈みする)
自己に具わっている心法を見得しないから、
人の集まる賑やかなものに、見境もなくすぐに飛び付き惑わされる。
平常無事の真正の見解を見得して、仏魔・真偽・凡聖を見分ける心眼を持ち、
宗教・行法・導師を転々と彷徨うことなく、教説や導師の邪正・真偽を見極めねばならない。
見分けもつかぬなら、世俗の家を出ても、出家という別の俗家に入るに等しい。
明眼の人ならば、たとえば仏と魔を識別しながらも仏魔どちらにも対応することが出来る。
聖を愛し凡を憎む揀択・憎愛の念を起こすと、迷いの相対世界を抜け出す事が出来ない。
※出一家入一家 = 世俗の家を出ても、出家という別の俗家に入る意。
※爾若愛聖憎凡、生死海裏浮沈 =
「更に若し、聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に沈浮せん。」宝誌和尚『大乗讃』
『信心銘』に
至道無難 唯嫌揀擇
但莫憎愛 洞然明白
毫釐有差 天地懸隔
欲得現前 莫存順逆
「道に至るに難きことなし、唯だ、揀択を嫌う、
ただ憎愛なければ、洞然として明白なり、
毫釐も差あれば、天地懸に隔たる、
現前を得んと欲せば、順逆を存するなかれ。」
156 :
神も仏も名無しさん:2008/04/12(土) 23:28:18 ID:dhF9wV7u
五
問、如何是佛魔。師云、爾一念心疑處是魔。
爾若達得萬法無生、心如幻化、更無一塵一法、處處清淨是佛。
然佛與魔、是染淨二境。
約山僧見處、無佛無衆生、無古無今、得者便得、
不歴時節。無修無證、無得無失。一切時中、
更無別法。設有一法過此者、我説如夢如化。
山僧所説皆是。道流、
即今目前孤明歴歴地聽者、此人處處不滯、通貫十方、三界自在。
入一切境差別、不能回換。一刹那間、透入法界、
逢佛説佛、逢祖説祖、逢羅漢説羅漢、
逢餓鬼説餓鬼。向一切處、游履國土、教化衆生、
未曾離一念。隨處清淨、光透十方、萬法一如。
道流、大丈夫兒、今日方知本來無事。
祇爲爾信不及、念念馳求、捨頭覓頭、自不能歇。
如圓頓菩薩、入法界現身、向淨土中、厭凡忻聖。
如此之流、取捨未忘、染淨心在。
如禪宗見解、又且不然。直是現今、更無時節。
山僧説處、皆是一期藥病相治、總無實法。
若如是見得、是眞出家、日消萬兩黄金。
道流、莫取次被諸方老師印破面門、道我解禪解道。
辯似懸河、皆是造地獄業。
若是眞正學道人、不求世間過、切急要求眞正見解。
若達眞正見解圓明、方始了畢。
157 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 21:36:07 ID:qJp+Zd3X
問う、如何なるか是れ佛魔。
師云く、爾が一念心の疑處、是れ魔なり。
爾若し萬法の無生にして、心は幻化の如く、
更に一塵一法無うして、處處清淨なるに達得せば是れ佛なり。
然るに佛と魔とは、是れ染淨の二境なり。
山僧が見處に約せば、無佛無衆生、
無古無今、得る者は便ち得、時節を歴ず。
無修無證、無得無失、一切時中、更に別法無し。
設い一法の此れに過ぎたる者有るも、我れは説かん如夢如化と。
山僧の所説は皆な是れなり。
道流、即今目前孤明歴歴地に聽く者、此の人は處處に滯らず、
十方に通貫し、三界に自在なり。
一切境の差別に入れども、回換すること能わず。
一刹那の間に、法界に透入して、
佛に逢うては佛に説き、祖に逢うては祖に説き、
羅漢に逢うては羅漢に説き、餓鬼に逢うては餓鬼に説く。
一切處に向って、國土に游履して、衆生を教化すれども、未だ曾つて一念を離れず。
隨處清淨にして、光十方に透り、萬法一如なり。
158 :
神も仏も名無しさん:2008/04/15(火) 21:38:49 ID:qJp+Zd3X
問「仏と魔とは、どんなものですか。」
師「お前達の一念の心の疑う処、それが魔である。
もしお前達が一切の存在は無生(不生)で、心も幻のようなものであり、更に十方世界は
一つの塵も一つの存在もなく、至る所が清浄(仏性・万法一如)であると達得すれば、それが仏である。
それゆえに仏と魔とは、染汚(二元・迷い)と清浄(一如・悟り)の二つの境に過ぎない。
わしの見処からすれば、仏もなければ衆生もなく、古もなければ今もない。
得たものはすなわち得ていたのであり、時節を経ての所得ではない。
修するものもなく証するものもない、得るものもなく失うものもない。
いかなる時においても、これ以外の法はない。(具足底の無位の真人の働きのみである)
たとえ、なにかこれに勝る法があるとしても、わしは断言する、そんなものは夢・幻のようなものだと。
わしの所説は以上である。
お前達、即今・わしの目の前で・独自の輝きを発しながらハッキリと説法を聴いている“此の人”、
“此の人”こそが、あらゆる場に臨んで滞らず、十方世界に通貫して三界において自由自在である。
あらゆる境の差別に入っても、それが“此の人”を引き廻すことは出来ない。
一刹那の間に、あらゆる世界に透入して、仏に逢えば仏に説き、祖師に逢えば祖師に説き、
羅漢に逢えば羅漢に説き、餓鬼に逢えば餓鬼に説く。
すべての所で、さまざまな国土を遊行して、衆生を教化しても、一念(即今現成)を離れたためしがない。
“此の人”至る処は清浄で、その光明は隅々に透り、萬法一如である。」
一念(一瞬の分別心、自我の計らい、疑い・迷いの心)が魔である。
万法は不生不滅で、心は幻であり、ひとつの塵もひとつの存在もなく、
すべてが清浄(仏性・一如)であると見得するのが仏である。
仏と魔とは、清浄(無分別智・万法一如)と染汚(分別心・相対的観念)の二つの境地である。
臨済和尚の見地では、絶対無的主体には二元的差別はなく、仏も衆生もなく、過去も現在もない。
本具であり時間の範疇に無い、修行も証悟の要もない、得るも失うもない。
これに勝る法・真実はない。所説は以上である。
即今・目前・孤明歴歴聴法底の意識(絶対無的主体)こそ、
あらゆる世界・すべての時を滞ることなく出入し、境の影響を全く受けない自由無礙な存在である。
あらゆる存在(仏・祖師・羅漢・餓鬼)を済度し、その働き至るところ清浄で、
光明は十方を貫き、すべての存在がひとつである。
※一念 = 一瞬。一瞬の心の動き。「九十刹那を一念となす。」(仁王経般若波羅蜜護国経)
「念の無いのが仏じゃ、各々更に自ら看よ。」白崖窟 ケ州全忠
「一念も生死を計れば即ち魔道に落つ」黄檗希運『伝心法要』
※爾若達得萬法無生、心如幻化、更無一塵一法、處處清淨是佛 =
“達得”を「萬法無生」又は「心如幻化」にかける読みと、「處處清淨」までかける読みとがある。
彼本来の面目と云うは、色形無き者なり、たとへば虚空のごとし、
虚空には形無きなり、故に仏説に云く、仏身法身は、猶虚空の如しと説き玉うなり
大燈国師
無位の真人を殺すのだ。
喝
禅も無我を目指す。
163 :
神も仏も名無しさん:2008/04/24(木) 22:05:32 ID:1W96Ar3d
道流、大丈夫兒は今日方に知る、本來無事なることを。
祇だ爾が信不及なるが爲に、念念馳求して、頭を捨てて頭を覓め、自ら歇むこと能わず。
圓頓の菩薩の如きは、法界に入って身を現じ、淨土の中に向いて、凡を厭い聖を忻う。
此之如きの流は、取捨未だ忘ぜず、染淨の心在り。
禪宗の見解の如きは、又且らく然らず。直に是れ現今なり、更に時節無し。
山僧が説處は、皆な是れ一期の藥病相治す、總べて實法無し。
若し是の如く見得すれば、是れ眞の出家、日に萬兩の黄金を消わん。
道流、取次に諸方の老師に面門を印破せられて、我れ禪を解し道を解すと道うこと莫れ。
辯の懸河に似たるも、皆な是れ造地獄の業。
若し是れ眞正の學道人ならば、世間の過を求めず、切急に眞正の見解を求めんと要す。
若し眞正の見解に達して圓明ならば、方に始めて了畢せん。
「修行者達よ。大丈夫たる者は今日まさに知る、本来“無事”であることを。
ただお前達が見究め得ない為に、念々外に求め廻り、
(演若達多のように)頭を見失い更に頭を求める愚を、自ら止めることが出来ない。
大乗最高位の円頓の菩薩でさえ、現実の事法界に入りあらゆる世界に身を現すことはできても、
いまだ浄土の中に心を向けて、凡を厭い聖を忻う。
この類の連中は、取捨・揀択を未だ忘ぜず、染汚と清浄の分別心が残っている。
禅宗の見解は全くそうではない。直に現今であり、更に時節はない。
わしが説くところは、すべて一期(その時その場)仮初の応病与薬であり、
(根本本分上には)まったく説くべき実体的な法・道理がある訳では無い。
もしこのように見得すれば、是れが真の出家であり、日に万両の黄金の供養を受けるに足る。
修行者達よ。みだりに諸方の老師方によって眉間に印可の判を捺されて、
『我れこそは禅が解った、道が解った』などと言ってはならぬ。
弁舌が滝の如く滔々たるものでも、皆これ地獄行きの業作りである。
もし真正の学道の人であれば、世間の過ちなどには目もくれず(過った法・見解を求めず)、
切急に真正の見解を求めようとするものだ。
もし真正の見解に達して円満明了であったなら、そこではじめて大事了畢である。」
※大丈夫兒、今日方知本來無事 =
「大丈夫児ならば如今直下に便ち休歇し去る」 大達無業禅師
※無事 = 一切の束縛から脱却し、両忘の境涯から、些かも計い求める心もなく、無作無心に働き出す境涯。
「外諸縁を息め、内心喘ぐことなく、心墻壁の如くにして、以って道に入るべし」達磨大師
「事に無心、心に無事」徳山宣鑑
※如禪宗見解・・・日消萬兩黄金 =
禅宗の見解は、揀択憎愛の二元相対分別はなく、
何も求めない即今・此処であり、修行成就の手間隙(時間・段階)はない。
本来、一法も人に説くべきものすらないが、御託を並べるのは、
応病与薬の方便で修行者の病が治れば不用の物である。
したがって、是非こうでなければというものがある訳ではない。
真理を得たとすれば、それもまたひとつの病である。
このように見究め得るのが本物の道人である。
※印破 = 印可証明せられて。
※不求世間過 =
『六祖壇経』に
「若し真正の修道の人ならば、世間の過を見ず。
若し他人の非を見ば、自らの非却って是れ左る。
他人の非は我れ非らず、我が非は自ら過有りとす。
但だ自ら非心を却け、煩悩を打除し破するのみ。」
真正の修行者ならば、世の人の過ちには目も向けぬ。
もし他人の咎に目を向けるなら、その己が咎こそ道にもとるもの。
他人の非は私は誹らぬ、己の咎がもともと悪い。
その咎有る心を自ら払い去り、煩悩をば打ち砕くだけのこと。
釈迦、達磨とは誰のことだ。
祖仏とは誰のことだ。
即今、面前聴法底是れなりだ。
そこではっきりと話を聴いている
意識そのものが祖仏だ。
話を聞いておる意識そのものは、
個人の意識ではない。普遍的な意識だ。
釈迦、達磨とちょっとも違っておらん。
自動車がブーといえばブーと聞く。
心理学者は条件反射と言った。
当然の心理だ。当然の意識だ。
普遍的な意識だ。
俺だの彼だのという差別はない。
そういう普遍的な意識そのものが分かれば、
これが釈迦、達磨だ。
http://www15.ocn.ne.jp/~satori/yogojiten/yogo_013.html
成仏の道とは、自心を悟る是なり。
自心と云うは、父母も未だ生まれず、
わが身も未だなかりしさきよりして今日に至るまで、
移る変わることなくして一切衆生の本性なる故に、
是れを本来の面目と云へり。
抜隊得勝 『抜隊仮名法語』 「成佛の直路」
167 :
神も仏も名無しさん:2008/05/03(土) 21:43:56 ID:EtWNwi4x
六
問、如何是眞正見解。
師云、爾但一切入凡入聖、入染入淨、入諸佛國土、
入彌勒樓閣、入毘盧遮那法界、處處皆現國土、成住壞空。
佛出于世、轉大法輪、却入涅槃、不見有去來相貌。
求其生死、了不可得。便入無生法界、
處處游履國土、入華藏世界、盡見諸法空相、
皆無實法。唯有聽法無依道人、是諸佛之母。
所以佛從無依生。若悟無依、佛亦無得。
若如是見得者、是眞正見解。
學人不了、爲執名句、被他凡聖名礙、
所以障其道眼、不得分明。
祇如十二分教、皆是表顯之説。
學者不會、便向表顯名句上生解。
皆是依倚、落在因果、未免三界生死。
爾若欲得生死去住、脱著自由、即今識取聽法底人。
無形無相、無根無本、無住處、活撥撥地。
應是萬種施設、用處祇是無處。
所以覓著轉遠、求之轉乖。號之爲祕密。
道流、爾莫認著箇夢幻伴子。遲晩中間、便歸無常。
爾向此世界中、覓箇什麼物作解脱。
覓取一口飯喫、補毳過時、且要訪尋知識。
莫因循逐樂。光陰可惜、念念無常。
麁則被地水火風、細則被生住異滅四相所逼。
道流、今時且要識取四種無相境、免被境擺撲。
168 :
神も仏も名無しさん:2008/05/07(水) 22:09:23 ID:FxNmvV6D
問う、如何なるか是れ眞正の見解。
師云、爾但だ一切凡に入り聖に入り、染に入り淨に入り、
諸佛國土に入り、彌勒樓閣に入り、毘盧遮那法界に入り、
處處に皆な國土を現じて、成住壞空す。
佛は世に出て、大法輪を轉じ、却って涅槃に入って、去來の相貌有ることを見ず。
其の生死を求むるに、了に不可得なり。
便ち無生法界に入り、處處國土に游履し、華藏世界に入り、
盡く諸法の空相にして、皆な實法無きことを見る。
唯だ聽法無依の道人のみ有り、是れ諸佛之母なり。
所以に佛は無依從り生ず。若し無依を悟れば、佛も亦た無得なり。
若し是の如く見得せば、是れ眞正の見解なり。
「真正の見解とは、どのようなものですか?」
「お前達(具足底の本性)は、何時何処でも、凡に入り聖に入り、染汚に入り清淨に入り、
諸仏の国土に入り、弥勒の楼閣に入り、毘盧遮那法界に入り、
至る処すべてに国土を現じて、成住壊空している。
釈尊は世に出られ大法輪を転じて、それから涅槃に入ったが、
去来の相貌(姿)は見られない。その生き死にの沙汰を求めても全く得られない。
すなわち無生の法界に入り、種々の国土を遊行し、華蔵世界に入り、
諸法は空相であり、実法(実体的な真実)は何一つ無いと見徹する。
ただ、わしの説法を聴いている無依の道人のみが有る、これが諸仏の母なのだ。
ゆえに仏は無依より生ずる。
もし無依を悟ったら、仏もまたこれといって得るものは無い。
もしこのように見究め得たら、これが真正の見解である。」
無相・無位なるが故に、一切差別の境涯に透入偏在し、処々で現成しつつ境と一体となり、
生成・存続・破壊・空無と自由無礙に働いている。
釈尊は仏法を説かれ涅槃に入ったが、その真実人体(絶対無的主体)は、
生まれ来たった沙汰も無いが、死に去った沙汰も無い。
絶対無的主体は不生不滅の世界に入り、万境に自由遊行し、光明遍照世界にも入るが、
その全ての世界・存在は、夢幻空華の如きものであり、実体らしきものは無い。
ただ『無依の道人』のみが真実有る。
これが諸仏の根源であり、仏も『無依の道人』から生じたものである。
無依を悟り、仏もまた本具で有り、改めて得ることを要しないと見得する。
これが真正の見解である。
※入凡入聖=「真俗、凡聖、染浄の世界に入って、真俗、凡聖、染浄を弁ずる働き」
※成住壊空= 世界の生滅変化を、成立・住止・破壊・空無の四相として見たもの。個人の場合は生老病死。
※無生= 本不生・空の意。
※無依の道人=
「仏は是れ無著の人、無求の人、無依の人なり。」『百丈広録』
「経に云く、無依は是れ仏母、仏は無処より生ず。」太原禅師『宗鏡録』
170 :
神も仏も名無しさん:2008/05/14(水) 20:11:49 ID:rPB0YKk1
>その真実人体(絶対無的主体)は、
>生まれ来たった沙汰も無いが、死に去った沙汰も無い。
ったく、形而上学的妄想丸出しだな。
勝手な御託は妄想ゆえに馬鹿でも言える。
縁起との関係を説明してごらんw
真実人体(絶対無的主体)とやらはいつ縁起したんでちゅか?
自性があるがごとき妄言はナーガールジュナもびっくりですなw
その妄想は検証実証証明できまちゅか?
形而上的妄言には無記(軽蔑的無視)されたブッダの趣旨は無視ですか、そうですか。
エライんですなあw
171 :
神も仏も名無しさん:2008/05/14(水) 20:16:20 ID:rPB0YKk1
たんぼでかえるが鳴いている。
ケロン(戯論)、ケロン(戯論)、ケロン(戯論)、ケロン(戯論)、・・・
172 :
神も仏も名無しさん:2008/05/15(木) 09:45:39 ID:4rQOG0xy
春ですなあ
戯論と妄想全開のスレですなあw
ブッダはなんでもありのバケモノでちゅか?
「一切」行無常 「一切」法無我 「一切」皆苦 涅槃寂静
「一切」外は無記 検証性事大 戯論寂滅
174 :
神も仏も名無しさん:2008/05/16(金) 22:21:32 ID:jVByq4PM
學人了ぜずして、名句に執するが爲に、他の凡聖の名に礙えらる。
所以に其の道眼を障えて、分明なることを得ず。
祇だ十二分教の如きは、皆な是れ表顯之説なり。
學者會せずして、便ち表顯の名句上に向いて解を生ず。
皆な是れ依倚にして、因果に落在し、未だ三界の生死を免れず。
爾若し生死去住、脱著自由ならんと欲得すれば、
即今聽法する底の人を識取せよ。
無形無相、無根無本、無住處にして、活撥撥地なり。
應是る萬種の施設は、用處祇だ是れ無處なり。
所以に覓著すれば轉た遠く、之れを求むれば轉た乖く。
之を號して祕密と爲す。
道流、爾箇の夢幻の伴子を認著すること莫れ。
遲晩中間、便ち無常に歸せん。
爾は此の世界の中に向いて、箇の什麼物をか覓めて解脱と作す。
一口の飯を覓取して喫し、毳を補って時を過すも、且く知識を訪尋せんことを要す。
因循として樂を逐うこと莫れ。
光陰惜しむべし、念念無常なり。
麁なるときは則ち地水火風に、細なるときは則ち生住異滅の四相に逼らる。
道流、今時且く四種無相の境を識取して、境に擺撲せらるるを免れんことを要す。
175 :
神も仏も名無しさん:2008/05/22(木) 22:01:56 ID:J7eXu0MJ
「修行者達は、この理を悟了せず、名称や言句に執われるため、
あれは凡(凡人)・これは聖(聖人)という名に引っ掛かっている。
故にその道眼を遮られて、はっきりと道理を明らかにすることができない。
たとえば十二分教など経典は、皆な何かを表現した教説に過ぎない。
修行者達はそこを理解せず、すぐにその表現上の名称や言句に対して分別・解釈を生ずる。
それはすべて名句へ依った解釈であって、それでは因果の世界に落ち、
いつまでも三界の生死輪廻・迷いを免れないであろう。
もしお前達が生死の去住を、衣を脱いだり着たりするように、大自由を得たいと願うなら、
即今、聴法する底の人を看取せよ。
(聴法底人)形も無く相も無く、根も無く本も無く、住する処無くて、それでいてピチピチと躍動している。
万般に応じて自由自在に働いて(その働きの場は、無の場であるから)何ら跡形を留めない。
ゆえに探そうとするといよいよ遠ざかり、求めようとすればますます逸れていく。
これをすなわち(父子家伝の妙処で)秘密となす。(公開せる秘密は自証自得の他ない)
修行者達よ、お前達は夢幻のお伴(肉体)を主人・実在だと思ってはならぬぞ。
そんなものは遅かれ早かれ無常・死に帰するものである。
お前達はこの世界の中に向いて、一体何者を求めて解脱だとするのか。
一口の飯を求めて食べ、ぼろ衣を繕いながら時を過ごすより、
ともかく明眼の師家を尋ね参禅弁道すべきである。
因循として安楽をむさぼっていては成らない。
光陰は惜しむべし、一念一念(一瞬々々)が無常であり死の歩みである。
我々は大にしては地水火風の和合の身でその変調に、
小にしては生住異滅の四相に追い詰められているのだ。
修行者達よ、今すぐ、この四種の変調は本来無相の境であると看て取って、
境(外境)に揺す振られぬようにすべきである。」
※學人不了・・・便向表顯名句上生解 =
真正の見解・無依が会得できず、概念にとらわれ心眼をくらまし、
効能書に過ぎない経典の解釈に執している。
※即今識取聽法底人・・・號之爲祕密 =
聴法底の意識は、無形無相、無根無本、無住処にして、活き活きと躍動し、
対象的に掴まうと探し求めれば、ますます逸れていく。
「汝若し自己の面目を返照せば、密は却って汝が辺に在らん」六祖慧能
『無門関・第二十三則』
※爾莫認著箇夢幻伴子・・・便歸無常。・・・且要訪尋知識 =
無常に帰する身の安楽をむさぼらず、
明師を尋ねて真正見解の会得に努めるべきである。
177 :
神も仏も名無しさん:2008/05/28(水) 18:30:06 ID:Kh3UJG3b
>>170 お前本当に馬鹿だろ。
これは真実身体は縁起してないと言ってるんだよ。
ちなみにナーガルジュナは縁起そのものがないといっている。
178 :
神も仏も名無しさん:2008/05/29(木) 22:52:03 ID:nxHEuUn6
七
問、如何是四種無相境。
師云、爾一念心疑、被地來礙。
爾一念心愛、被水來溺。
爾一念心嗔、被火來燒。
爾一念心喜、被風來飄。
若能如是辨得、不被境轉、處處用境。
東涌西沒、南涌北沒、中涌邊沒、邊涌中沒、
履水如地、履地如水。
縁何如此。爲達四大如夢如幻故。
道流、爾祇今聽法者、不是爾四大、能用爾四大。
若能如是見得、便乃去住自由。
約山僧見處、勿嫌底法。
爾若愛聖、聖者聖之名。
有一般學人、向五臺山裏求文殊。早錯了也。
五臺山無文殊。爾欲識文殊麼。
祇爾目前用處、始終不異、處處不疑、此箇是活文殊。
爾一念心無差別光、處處總是眞普賢。
爾一念心自能解縛、隨處解脱、此是觀音三昧法。
互爲主伴、出則一時出。一即三、三即一。
如是解得、始好看教。
179 :
神も仏も名無しさん:2008/06/04(水) 23:12:48 ID:XeLnD9Tt
問う、如何なるか是れ四種無相の境。
師云く、
爾が一念心の疑、地に來たり礙えられる。
爾が一念心の愛、水に來たり溺らさる。
爾が一念心の嗔、火に來たり燒かる。
爾が一念心の喜、風に來たり飄えさる。
若し能く是の如く辨得せば、境に轉ぜられず、處處に境を用いん。
東涌西沒、南涌北沒、中涌邊沒、邊涌中沒、
水を履むこと地の如く、地を履むこと水の如くならん。
何に縁ってか此の如くならん、四大の如夢如幻に達するが爲の故なり。
道流、爾が祇だ今聽法する者は、是れ爾が四大にあらずして、能く爾が四大を用う。
若し能く是の如く見得せば、便乃ち去住自由ならん。
「四種(地水火風)が無相の境とは、どういうことですか。」(四種の地水火風・生住異滅が無相であるとは)
「お前達の一念の疑いは、次第に凝り固まり堅い地のように成って、心の自由を妨げる。
お前達の一念の愛欲は、一滴の水が大河の流れのように成って、愛欲の流れに溺れさせる。
お前達の一念の嗔りは、燃え上がる熱い火のように成って、焼き苦しめる。
お前達の一念の喜びは、風にふわふわと吹き舞わされる塵のように、心を翻弄する。
もしこのように弁え得たならば、(四大〈地水火風〉の心の動きは実体なき無相であると)
外境に振り回されず、逆に至る処で外境を使いこなすことが出来る。
東に涌き現れ西に没し、南に涌き現れ北に没し、中央に涌き現れ端に没し、端に涌き現れ中央に没し、
水上を歩くことは地上を歩くように、地上を歩くことは水上を歩くように自由になる。
なぜそうなるかと言えば、四大(地水火風の肉体)は、夢の如く幻の如く無実体だと達得しているからだ。
修行者達よ、お前達、すなわち今わしの説法を聴いている者は、
お前達の四大(肉体)ではなく、能くお前達の四大を用いている(主人公・聴法底の人である)。
もしこのように見究め得たならば、死ぬも生きるも自由であろう。」
※四種無相境。・・・被風來飄。
・四種(地水火風、生住異滅)の相は無形。
・地は堅重の相、水は冷潤の相、火は熱照の相、風は軽動の相。
疑いの感情の奴隷となると、堅い地のように心の自由を失う。
渇愛の感情の奴隷となると、愛執の流れに溺れる。
怒りの感情の奴隷となると、熱い怒りの火で焼き苦しむ。
喜びの感情の奴隷となると、心は風に飛ばされるように翻弄される。
※東涌西沒、南涌北沒、中涌邊沒、邊涌中沒、履水如地、履地如水。
水が東南西北に自在に湧き溢れ没する様と、自在に歩む様から、
四大は夢幻の如く実在しないと徹見して境を自由に使いこなす働きと、
主人公(無依の道人)の自由自在の働きを、
六種震動の四種、十八神変中の二変で表したもの。
※爾祇今聽法者、不是爾四大、能用爾四大。
聴法している者は、肉体ではなく、その肉体を使いこなしている主人公(無依の道人)である。
心性、本より清浄にして、赤肉の内にありと云へとも、染汚する事あらず、
心性本来清浄にして飢たる事なく、渇する事もなく、寒熱なく病なく、
恩愛なく眷属なく、苦しみなく、善悪なく、本来一物無きなり。
大燈国師
183 :
神も仏も名無しさん:2008/06/18(水) 23:00:52 ID:3NnHb320
山僧が見處に約せば、嫌う底の法勿し。
爾若し聖を愛すれば、聖と者聖之名なり。
一般の學人有って、五臺山裏に向いて文殊を求む。早く錯り了れり。
五臺山には文殊無し。爾、文殊を識らんと欲するや。
祇だ爾目前の用處、始終不異、處處不疑なる、此箇は是れ活文殊なり。
爾が一念心の無差別光は、處處總べて是れ眞の普賢なり。
爾が一念心の自ら能く縛を解いて、隨處に解脱す、此は是れ觀音三昧の法なり。
互に主伴と爲って、出づるときは則ち一時に出づ。一即三、三即一なり。
是の如く解得して、始めて看教するに好し。
「わしの見処からすれば、嫌うべきものは何もない。
お前達がもし聖なるものを愛したとしても、その聖とは聖という名に過ぎない。
一般の修行者達は五台山の中に文殊を求める。もうすでに錯誤している。
五台山に文殊はいない。お前達、文殊を識りたいと思うか。
今わしの面前で活発に働き、終始決して変わらず
何処でもよろめかぬその働き、それこそが活きた文殊なのだ。
お前達の一念の心(一瞬の心の動きの根源)の、
無差別光(差別を超えた智慧の働き)こそが至る所で真の普賢である。
お前達の一念の心が自ら能く束縛を解いて、
随所に解脱を全うする、これが観音三昧の法である。
この三つの働き(文殊・普賢・観音)は互いに主となり伴と成り、
その出現は同時であり、一がそのまま三、三がそのまま一である。
このように悟り得て、はじめて経典祖録を看るに好いであろう。」
※約山僧見處、勿嫌底法。
臨済和尚の見地では、好悪すべきものは全くない。
揀択・憎愛の念を起して聖という名を愛しているに過ぎない。
※祇爾目前用處、始終不異、處處不疑、此箇是活文殊。
爾一念心無差別光、處處總是眞普賢。爾一念心自能解縛、隨處解脱、此是觀音三昧法。
行住坐臥・喫茶喫飯、終始即一する絶対現在の働き、万縁万境に躊躇せず対処できる主体的な意識。(文殊)
(“終始不異”時間的に前後違わず、“處處不疑”空間的にも一念のためらいなく)
差別の世界に平等を見る、無差別の叡智。(普賢)
一切の束縛を解き、一切所で解脱する働き。(観音)
※互爲主伴、出則一時出。一即三、三即一。
文殊・普賢・観音で表す三つの働きは互いに主従と成りながら同時に現れる、
一即三、三即一 = 三(文殊・体、普賢・相、観音・用)はそく一(聴法底)、一がそく三。
※如是解得、始好看教。
この点が理解できれば初めて看経の眼があると言える。
(経を読んでも、祖録を看ても真意がよく理解できるであろう)
文殊 = 理、体、平等、法身。清浄光
普賢 = 智、相、差別、報身。無差別光
観音 = 用、用、平等と差別・理と智の一如円融、応身。無分別光
「観世音菩薩、文殊、普賢、此の三法は是古今三世一切諸仏の共行十方共同なり。
文殊は法身妙慧の理を主り、普賢は根を知って万行の門を成ずることを明かし、
観世音は大慈悲もて生死に処することを明かす。三人の法、一人の徳を成ずること毘盧遮那と号す。
一切衆生総に此の三法に依る、之を号して仏と為す、一を欠けば成ぜず。」『華厳合論』
185 :
神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 23:13:07 ID:fgvZz3sp
八
師示衆云、
如今學道人、且要自信、莫向外覓。
總上他閑塵境、都不辨邪正。
祇如有祖有佛、皆是教迹中事。
有人拈起一句子語、或隱顯中出、便即疑生、
照天照地、傍家尋問、也大忙然。
大丈夫兒、莫祇麼論主論賊、
論是論非、論色論財、論説閑話過日。
山僧此間、不論僧俗、但有來者、盡識得伊。
任伊向甚處出來、但有聲名文句、皆是夢幻。
却見乘境底人、是諸佛之玄旨。佛境不能自稱我是佛境。
還是這箇無依道人、乘境出來。
若有人出來、問我求佛、我即應清淨境出。
有人問我菩薩、我即應茲悲境出。
有人問我菩提、我即應淨妙境出。
有人問我涅槃、我即應寂靜境出。
境即萬般差別、人即不別。
所以應物現形、如水中月。
道流、爾若欲得如法、直須是大丈夫兒始得。
若萎萎隨隨地、則不得也。
夫如セイ嗄上音西下所嫁切之器、不堪貯醍醐。
如大器者、直要不受人惑。隨處作主、立處皆眞。
但有來者、皆不得受。爾一念疑、即魔入心。
如菩薩疑時、生死魔得便。但能息念、更莫外求。物來則照。
爾但信現今用底、一箇事也無。爾一念心生三界、
隨縁被境、分爲六塵。爾如今應用處、欠少什麼。
一刹那間、便入淨入穢、入彌勒樓閣、
入三眼國土、處處遊履、唯見空名。
186 :
神も仏も名無しさん:2008/07/06(日) 23:03:33 ID:JNYPVxWd
師、衆に示して云く、如今の學道の人は、且らく自ら信ぜんことを要す。
外に向って覓むること莫れ。總べて他の閑塵境に上って、都べて邪正を辨ぜず。
祇だ祖有り佛有るが如きは、皆な是れ教迹中事なり。
人有って一句子の語を拈起して、或は隱顯の中より出づれば、
便即ち疑い生じて、天を照らし地を照らし、傍家に尋問して、也た大だ忙然たり。
大丈夫兒、祇麼ら主をを論じ賊を論じ、是を論じ非を論じ、
色を論じ財を論じ、論説閑話して日を過ごすこと莫かれ。
山僧が此間には、僧俗を論ぜず、但有る來者は、盡く伊を識得す。
任い伊甚れの處に向って出で來たるも、但有る聲名文句は、皆な是れ夢幻なり。
却って境に乘ずる底の人を見るには、是れ諸佛之玄旨なり。
佛境は自ら我れは是れ佛境なりと稱すること能わず。
還って是れ這箇無依道人、境に乘じて出で來たる。
若し人有って出で來って、我に佛を求むれば、我れ即ち清淨の境に應じて出づ。
人有って我れに菩薩を求むれば、我れ即ち茲悲の境に應じて出づ。
人有って我れに菩提を求むれば、我れ即ち淨妙の境に應じて出づ。
人有って我れに涅槃を求むれば、我れ即ち寂靜の境に應じて出づ。
境は即ち萬般差別すれども、人は即ち別ならず。
所以に物に應じて形を現じ、水中の月の如し。
188 :
風に吹かれて:2008/07/23(水) 09:38:42 ID:iGI2mifI
こんにちは、m(__)m
ある男を妊娠させた奴を捜せ!だってさ。
やってられんわ
臨在良い名前つけたな。
191 :
風に吹かれて:2008/07/26(土) 12:23:05 ID:l3riyGvF
保守
193 :
神も仏も名無しさん:2008/08/09(土) 10:11:39 ID:qvTQAchV
期待ageならぬ保守。
保守
198 :
神も仏も名無しさん:2008/10/06(月) 19:54:51 ID:Lfl8dr3z
200 :
神も仏も名無しさん:2008/10/20(月) 18:01:57 ID:Wn0CNT4x
201 :
神も仏も名無しさん:2008/11/02(日) 01:06:26 ID:9trwKhdE
達磨の「不識」
六祖の「本来無一物」
臨済の「乾屎篦」(乾いた糞の塊説を採りたい)
で充分だ.
202 :
神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 05:33:58 ID:MyXpn39X
>>138 その質問で、質問者が証明してしまっているわいw
203 :
神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 19:39:04 ID:u7ojkKCo
>>177 >これは真実身体は縁起してないと言ってるんだよ。
>若し無依を悟れば、佛も亦た無得なり。(
>>168)
>「天地の道を得たるが故にこれを真人という」(辛文子)
それがたとえ仏陀・経典であったとしても、外の権威によりかからぬ悟道者、
これが「無依の真人」である。
206 :
神も仏も名無しさん:2008/12/03(水) 23:30:30 ID:KpWyyiSw
207 :
お間抜けぼったんを苛めて:2008/12/03(水) 23:44:49 ID:Ab4uX0rt
210 :
神も仏も名無しさん:2009/01/23(金) 07:02:01 ID:8BhsgOjs
僧
211 :
神も仏も名無しさん:2009/01/24(土) 12:37:34 ID:h88tNnhM
戯論寂滅
感想とかどう?
213 :
神も仏も名無しさん:2009/02/15(日) 23:39:31 ID:QNICoND+
大愚も登場してのドタバタが好きだ
216 :
神も仏も名無しさん:2009/03/24(火) 20:46:44 ID:tMcZtgrJ
本来の面目と云うは、色形無き者なり、たとへば虚空の如し
虚空
蔵菩薩
221 :
神も仏も名無しさん:2009/04/24(金) 23:23:27 ID:PMJ1GDN/
これ笑えるんだけどwww
どういう意味だ?
師 「お前は今の喝はいい喝だったと思うのか?」
僧 「山賊はぼろ敗けだ」
師 「その敗因はどこにある」
僧 「二度と賊をはたらいてはならぬぞ。」
すかさず師は一喝した。
意味不明すぎるんだがwww
222 :
神も仏も名無しさん:2009/04/24(金) 23:29:08 ID:woYwylUq
乞食坊主
223 :
神も仏も名無しさん:2009/04/24(金) 23:34:50 ID:PMJ1GDN/
>>221 この、師匠にむかって偉そうに言い返すとこがうけるw
>>223 喝にも種類が有るんだよ。
詳しくは知らんが・・・・・・・・・
225 :
神も仏も名無しさん:2009/04/24(金) 23:51:33 ID:PMJ1GDN/
っていうかもはやこれはコントだろw
>>221 ここだけを取り上げても、僧が仏法の大意を問うことからみないと分からない筈だがね。
関山慧玄禅師(1277?1360)は、信州・中野の城主・高梨美濃守高家の二男。
徳治2年(1307)建長寺で大応国師(南浦紹明)のもとで修行され、
慧眼(後に大燈国師より慧玄と改名)と名付けられる。
国師亡き後、大徳寺の大燈国師が最もすぐれた禅僧であると聞き、
急ぎ京の大燈国師に参じ、大悟。
開山様、53歳。
後、大燈国師に嗣法し、伊深の山里で「悟後の修行」に8年間専念。
大燈国師が示寂されると、花園法皇は関山慧玄禅師を捜され、
はじめ固辞されたが、都へ上られ妙心寺の開山となられた。
その後、関山慧玄禅師は、弟子の授翁宗弼禅師を伴われて、
開山堂側にある風水泉の前で最後の法を説かれ、行脚姿で立亡された。
明治天皇より無相大師と追諡。