1 :
神も仏も名無しさん :
2007/07/24(火) 08:09:26 ID:X7dXItKA 人の幸せとは何か、幸せになるためには何が必要か、先覚者がどのように言っているか 等を真摯に考えて見ましょう。
222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222 getgetgetget getgetgetget getgetgetget
┌───────── │>>1を迎えに来たよ └───v───── /⌒ \ /' ⌒'ヽ\ /\ ( ( 从从) ) /\ | \ |● ● l |〃 / |: | / .ハ~ ■ノ)./ .|: / /⌒ ミミ \ .|/ / / |::| | |√7ミ |::| ト、 |./|:| V_.ハ / |_V | . / N .i N / ヘ、| NV V\W V
6 :
神も仏も名無しさん :2007/07/24(火) 19:20:03 ID:X7dXItKA
8 :
偽イエス :2007/07/25(水) 00:35:59 ID:y1vrD3fW
ねえよ!食中毒、下痢ピー(死)といっしょにしてくれんな。 やっこさん骨も残ってるじゃねえかア?
9 :
偽イエス :2007/07/25(水) 00:39:06 ID:y1vrD3fW
無理せずまったり中道・・・いつかわかってもらえるさ・・のらくら。 やっこさんにゃあ民主主義も人権も男女平等もねえ。 なっぱくって奥ですわってろ。
独り〜
真理って な〜に
12 :
11 :2007/07/28(土) 18:53:08 ID:Ay1jkIlM
ね〜っなーに?
何なの?・?・?
14 :
神も仏も名無しさん :2007/07/28(土) 23:06:00 ID:R1L//+ck
>>11 相対的に存在する諸法は自性がない、という道理を真理と言うのだ。
しかし、このような道理は本当に真理だろうか?
ものにこだわらない人がいて、その人が貴重なものも卑賤なものも差別せづに
与えたり貰ったりしているなら、その人はみんなから馬鹿にされるのではないだろうか?
上着を盗るものには下着をも与えている人を見るなら、左の目を欲しいという人には、
右の目も与えるような人を見るなら、そのように教える人を見るなら、ばか者と言うであろう。
15 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2007/07/29(日) 01:07:14 ID:W1osIhD8
仏教は内道 キリスト教は外道
16 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2007/07/29(日) 10:57:07 ID:OOM+W/eF
>15 目を与える、あたえないの話し派、仏教の話。しゃりほつ。
17 :
11 :2007/07/29(日) 20:10:57 ID:7vyjy8Ur
18 :
神も仏も名無しさん :2007/07/29(日) 21:34:17 ID:OOM+W/eF
..11 具体的問いを求む。
19 :
数奇狂 :2007/07/29(日) 21:39:17 ID:p9z938cJ
20 :
数奇狂 :2007/07/29(日) 21:41:05 ID:p9z938cJ
豚に真珠。
21 :
数奇狂 :2007/07/29(日) 21:44:14 ID:p9z938cJ
豚はそのうち、どどっといくから心配しなくてよい。
22 :
11 :2007/07/29(日) 22:00:31 ID:7vyjy8Ur
>>18 この世、あの世、悟り、真理、苦悩、幸せ、ん〜?とにかくぜ〜んぶ!
わたし?あなた?存在?無〜?なんなの〜わかんな〜い
全てをしりた〜い!覚者って?
>>19 ポンティオ・ピラトってなんですか?
>>20 私も、貴方も豚なの?
23 :
神も仏も名無しさん :2007/07/29(日) 22:22:40 ID:7vyjy8Ur
ポンティオ・ピラト←調べた〜!
24 :
11 :2007/07/29(日) 22:23:48 ID:7vyjy8Ur
もしかして〜 無視〜
25 :
神も仏も名無しさん :2007/07/29(日) 22:35:22 ID:OOM+W/eF
>>24 今まで、どのようにすれば幸福になれる、どのようにすれば不幸になる、とかんがえてきましたか?
26 :
11 :2007/07/29(日) 22:54:31 ID:7vyjy8Ur
27 :
神も仏も名無しさん :2007/07/29(日) 23:12:18 ID:OOM+W/eF0
>>26 誠実な人と不誠実な人がいれば、どちらが他者を安心させるでしょうか?
28 :
11 :2007/07/30(月) 18:41:29 ID:7iUumeGW
やっぱり殆どの人は豚なんだ〜 何にも分からないんだ〜 ぞうだよね?
一番最初に気づくことになることは ほとんどの人が確率で話していたと 気づいてしまうことかもしれない。 あこがれていた、どこかで尊敬してもいた、 人生の達人のような親戚の 社長のおじさんも、 実は 単に確率で人をなめきり話し生きていた人だと わかってしまうかもしれない。
30 :
神も仏も名無しさん :2007/07/31(火) 20:32:12 ID:WkDXfvK/
31 :
神も仏も名無しさん :2007/07/31(火) 21:25:44 ID:WkDXfvK/
32 :
神も仏も名無しさん :2007/08/01(水) 21:40:12 ID:Fb0f5Ssf
イエスとブッダは悟りを開いたんでしょ?
33 :
神も仏も名無しさん :2007/08/04(土) 11:14:26 ID:lYIAXBOK
34 :
神も仏も名無しさん :2007/08/04(土) 14:10:46 ID:x8dpLsfJ
>>33 皆、どうして信仰を持つんだろう?
悟りを開くため?
35 :
神も仏も名無しさん :2007/08/04(土) 15:59:50 ID:lYIAXBOK
幸せになるためだよ。
36 :
KEY :2007/08/04(土) 16:31:56 ID:Q0jyyRZa
37 :
神も仏も名無しさん :2007/08/04(土) 20:03:52 ID:kz+9s8fQ
M.J.ボーグ「イエスの言葉ブッダのことば」大東 出版社は必須文献です>1 片方はブッダで、片方は神の御子なら、教理は正 反対でも、戒めの部分では同じか類似の教えにな るのは当然ですな。 なお、「仏教とキリスト教」第三文明社では、キリスト 教はアショカ王のパクリという説を理路整然と説いて いて、キリスト者ヤばい。
38 :
34 :2007/08/05(日) 19:57:30 ID:7Bvl3ds+
39 :
神も仏も名無しさん :2007/08/05(日) 23:57:35 ID:O/WzEJAz
ぬるぽ。。。
40 :
神も仏も名無しさん :2007/08/06(月) 21:08:15 ID:cddOG82v
>>38 悟りを開くと言う意味が明確か?
理法により(この理法を真理と言う)真実を信じることが出来たものは、その真実を体現しようとするのである。
真理とは、幸不幸とはなんかと言う事に対する回答である。
41 :
神も仏も名無しさん :2007/08/08(水) 15:43:28 ID:s5pOD72r
ブッダの何かの本で、 ブッダ「あなたの一番大切なものはなんですか?」 羊飼い?「それはわたしの息子です」 ブッダ「いえ。違います。あなたが最も愛しているのはあなた自身です」 というような会話が交わされている仏典をご存知の方はいますか? 難しいでしょーか
42 :
神も仏も名無しさん :2007/08/08(水) 23:09:19 ID:BRrs4B1W
当の経典ではないが、関係ある説教がサンユッタニカーヤにある。 岩波文庫 サンユッタニカーヤ1(神々との対話」中村元訳 第三編 第一章 第四節「愛しきもの」第五節「自らを護る人」
43 :
神も仏も名無しさん :2007/08/10(金) 22:30:20 ID:SLc2hRP/
>>41 子ある者は子について憂い・・・・・・自己ほどかわいいものは存在しない
財産や自己さえ自身ではない
牛飼いダニヤ 「わが妻は自分の意向に適っている。彼女にはいかなる悪をも存在しない」
ブッダ「私にはいかなる悪をも存在しない。自分をよくととのえている」
そんなような教えを経典で見たことある。仏教は自分を愛しなさいではなく、彼岸の自分が
自身なんだ。他人に執着を示し、他人の動向に気をとられて、好きになったり嫌いになった
り、怒ったり、怨んだり、憎んだり、敵意を持ったりせず、一切の生きとし生ける者をあわ
れむ修行完成者を崇高な存在とし、他人に対して過失のない生き方をしなさいと教えている
と思う。
44 :
神も仏も名無しさん :2007/08/11(土) 22:12:16 ID:YnDYNapn
「どの方向に心でさがし求めても、自分よりもさらに愛しいものをどこに も見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれの自己がいとし いのである。それ故に、自分のために他人を害してはならない」 (仏教) 「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」(イエス) 普通の人なら自分を愛するなどと教え聞かさなくても、自分を一番 大切なものと心得ている。そのように他人も自己がいとしいのだか ら、自分を愛するように、あなたの隣人を愛せ。 釈尊とイエスの教えの根本にあるのは、他人に対する慈しみのここ ろづかいを崇高として、最低でも自分の恣の肉欲のために他人を害 してはいけないということだろう。 自分を愛するために教えを聞くかもしれないが、自分をもっと愛する ために信仰をするのとは違う。
45 :
神も仏も名無しさん :2007/08/12(日) 01:21:29 ID:LRuRCN7A
現代新興宗教的な言い方をするなら(必ずしもこの範囲内ではないかもしれないけれど) 例え、どの様な悪人でもどこの誰であってもその心の奥底の内側には神が在る その人を生かす理由は、その人の過去と過去前世のおかげか はたまた縁者親類先祖の善徳のおかげか(親の七光りを食いつぶすと言ふ 信仰者にあっては、その道理を理解するなら その人の裁きは神に全てを委ね その人の心に神の光が届く様に祈り無用な争いからは身を遠ざけ 必要とあるならば、行為で身を呈することを厭わない 光差す、針の穴ほどの大きさの 風穴であっても それは偉大なる奇跡と呼ぶべきものかも知れませんね
46 :
神も仏も名無しさん :2007/08/12(日) 13:01:18 ID:BSKKuh8i
仏教、キリスト教とも この世一切のものは妄執に導かれ、全世界は悪しき者の配下にあり、ひとりとして 正しい者は存在しない。 人間は善い者・悪い者を区別して、善い人にはこの世で善い報いが、悪い人にはこの 世で悪い報いがあるのは当然として全世界を観察する。 善悪を制した人が悪魔の征服者であると(仏教)善悪によって賢くなり罪を犯した のだと(創世記参考) 神は善い者の上にも悪い者の上にも正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降ら せ、善悪のはからいを捨て去った者は悪しき境地に至らない。 (イエス・仏教参考) 人が天の父のように、或いは修行完成者のようになれ 敵を愛し憎む者に親切にせよ、罪に定めるな裁くなゆるしてやれ、上にも中にも下 にも敵意なき怨みなき慈しみのこころづかいをしっかりたもて。 たとえ天に生まれて二度と地上に生まれない人、妄執の範囲内の地上に再び生まれる 人があったとしても、他人の過失を見ず、あやまちをゆるし、人々によくしてやるな ど慈しみのこころづかいを心得ている人が多いと、この世が良くなるか、人の慈悲心 が永遠のものとして通じて、永遠の世界を知る存在となるかもしれない。
47 :
未熟な存在 :2007/08/12(日) 13:03:42 ID:vNR4kl5u
48 :
神も仏も名無しさん :2007/08/12(日) 18:09:41 ID:9ICuBpsi
人の善悪意識に関係なく物事が起きる世界で、 「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない」 (ブッダ神々との対話) あわれみの奇跡のわざを行ったイエス・キリスト 「人間の身体を捨てたあとでは、神の身体を満たすであろう」(ブッダ神々との対話) 神々ではなく、死後の世界で知るような仏教的な唯一の神は、朽ちるような人間的な 神ではなく、境地で出会える神。 1)あわれみの奇跡のわざを行ったイエスのように、一切が安穏で安楽であり、そ のことに幸福感じるような世界の神 2)五欲の対象の享受を抑制し、諸々の感官を静め、身体が欲する喜びを捨て去る 修行に努めた人が帰するような神 仏教では諸々の欲望に関する貪りを止めない限り、この世を輪廻すると教えて いる。
49 :
神も仏も名無しさん :2007/08/15(水) 15:04:44 ID:Nx3eqI9F
41です。 皆さん、仏典ありがとうございました。 でも、 ブッダ「あなたの一番大切なものはなんですか?」 羊飼い?「それはわたしの息子です」 ブッダ「いえ。違います。あなたが最も愛しているのはあなた自身です」 というような会話が交わされている仏典があったはずなのです。 この箇所を探したいのです! よろしくおねがいします!!
50 :
神も仏も名無しさん :2007/08/15(水) 19:32:34 ID:79b2ex4F
私もその経典を読んでみたいな。博学の人、よろしく。
51 :
神も仏も名無しさん :2007/08/16(木) 15:28:31 ID:Iw+aFJJH
>>49 しかし、インドでは牛飼いが一般的で、羊飼いと言うのは無いんじゃないのかな?
豚飼いもテレビで見た。
52 :
神も仏も名無しさん :2007/08/16(木) 15:39:36 ID:Iw+aFJJH
53 :
神も仏も名無しさん :2007/08/16(木) 16:09:46 ID:cSyj2d/o
49です。 牛飼いだったような気もします。 よろしくおねがいします!!
あれ? 国王と王妃じゃない? 確か、スッタニパータにあったやうな…
55 :
神も仏も名無しさん :2007/08/16(木) 18:01:30 ID:Iw+aFJJH
56 :
神も仏も名無しさん :2007/08/16(木) 18:04:18 ID:Iw+aFJJH
57 :
魔封 ◆byMAFUjwaM :2007/08/20(月) 02:05:26 ID:K2kW9uNs
58 :
神も仏も名無しさん :2007/08/21(火) 11:40:54 ID:l3SFNjcg
49,53です。 >56さん ブッダという人は人を愛し、社会を愛せ、と言っているのかと思っていたのですが、自分というものをまず愛し、その形を他人に、社会に、ということを言っているのかな、と 自分の中で感じたからです。この話を読んだときの衝撃は半端ないものでした。だからです。
59 :
神も仏も名無しさん :2007/08/21(火) 12:19:11 ID:239XK1bG
神は存在しません、しかし宇宙人はいます。
仏教は悟りの宗教 キリスト教は救いの宗教
61 :
神も仏も名無しさん :2007/08/24(金) 21:06:45 ID:STTqk7oA
>>58 「自己ほどかわいいものは存在しない」「世界のどこを探しても自己ほど愛しいものは
ない。だから他人も自己が愛しいのである。」
そんなようなことを経典に書いてあった。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せ」
出家修行をしている人に対し、神は「いつごろまでそのような修行をするのですか」と。
修行完成者が一切の生きとし生けるものをあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しない。
究極の理想に通じた人が、平安の境地に達して、「慈しみのこころづかいをしっかり保て、
この世ではこの状態を崇高な境地と呼ぶ」
学び修めた賢明な人は、「食乞う人々に飲食物をもって満足せしめよ。与えよと彼は雨降らす
ごとくにその轟きを発するのである。その豊かな功徳の流れは、施し与える人々に降り注ぐ」
神がもし地上に人の姿をして現れたなら、人々に出家修行という方法を教えず、結果を教えて、
「行え」と命令して、できない人々に対しても、「受け入れよ、信仰を増すということはこう
いうことだ」と告げるかもしれない。
「妄執を断じてニルヴァーナと呼ばれる」と出家修行をしている人々に対して、「悪いものに
一切のものが従属した」のは、人間が「自分が正しい」と誇らないようにするためかもしれない。
62 :
神も仏も名無しさん :2007/08/26(日) 23:26:23 ID:k8/+13Oj
>>58 >>43 彼岸の自分が、自身なんだ。
エゴに囚われている人の愛は、毒交じりの愛であろう。この人は自分でないものを自分と勘違いしているのだ。
このような愛は迷惑であろう。ほン杜の自分とは、先に引用したようにひがんのじぶんではないだろうか?
この彼岸の自分を愛し、隣人をも彼岸に導くように釈尊は伝道の旅を続けられてのである。
イエスも確か「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と言われなかったろうか?
イエスの愛は、彼岸の自分であったと思う。大乗経典は盛んに、大乗を広めるように説いている。
63 :
神も仏も名無しさん :2007/08/31(金) 19:42:50 ID:qxeSbTdM
イエスも釈迦も、この世に物があふれても幸福だとしてないよな。 人間が互いに愛し合って、慈しみあって幸せになれると説いたんだ。 それが宗教的な立場だったんだ。
64 :
神も仏も名無しさん :2007/08/31(金) 21:18:36 ID:n4oB6lyA
愛の理由として、自分を愛しいなら他人も自分が愛しい、他人を害するなと いう教えの理由として、 一切が安穏で安楽で幸福な世界があり、この世で苦難に遭遇している人々を あわれみの奇跡で救ったイエスを主とするキリストの教えがある。 その世界を仏教は修行をして境地で知ること。キリストは見えるかたちで表 現した。 この世で苦難に遭っている人々、病に苦しんでいる人々が皆幸せになる日が 来る。この世は悪しきものの配下だが、真実の世界、永遠の世界が終わりの 日に来るので、互いに愛し合いなさいという教えだ。 病もなく、この世で苦しんでいる人々が、皆幸せになる世界があるかどうか、 その世界を善として受け入れられるがどうか、善として受け入れることがで きた人々は、この世で他人を愛することができるかどうか。
65 :
神も仏も名無しさん :2007/08/31(金) 23:42:12 ID:bK+TT+hW
自分によくしてくれそうなものを愛するのは、自分に餌をくれそうだとして犬でもしそうなことだよなあ? ただ自分を愛せと教えるのは普通なら人がしていることだし、そう教えられて、自分と考えが違った り、自分に少し不利益があると相手を憎んだりする。誰かの考えが正しいのじゃなくて、現実的に天 国よいことろ皆幸せと思っていたら、下界もみんなが幸せになるように、最低でも隣人を害しないよ うに気をつけることが自然かもな。天上を見た人は、それがあるからと民衆に説得しただけ。
66 :
足乃 香 :2007/09/01(土) 03:40:05 ID:w42jAXRS
どっちも愛を実践してたことよ、共通点は。人間にとって、真理とは 愛なしには私たちはこの世に生まれてこなかったということでしょ。 真実は愛よ。楽しむのよ、人生を。
67 :
神も仏も名無しさん :2007/09/01(土) 17:15:35 ID:yo06K9uJ
信仰の対象は、全員が幸せな世界で、 天国など善いところは、誰でも誰かが幸せで、誰かが不幸なところと思わないから、 不幸な人を知ったら、助けようとすることが教えの中心だね。
68 :
神も仏も名無しさん :2007/09/01(土) 18:59:44 ID:jnkGnzER
宇宙の法(愛)を説いていたということです。すべてはこの法の下で生きているんですよ。 人々に理解してほしかったんですねえ。
69 :
神も仏も名無しさん :2007/09/02(日) 09:58:17 ID:4iAGTUi8
釈迦は修行完成者として修行の目的を人々に伝えようとした。 平安の境地に達してから、一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽で あれ、慈しみのこころづかいをしっかりたもて、この世ではこの状態を崇高な境地と 呼ぶ。 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しない。 イエスは神のかたちとして人々に示した。 病に苦しむ人々などを癒し、あわれみの奇跡を起こして自分を主として崇めよと。 神々を信じる人々に対し、ブッダを信じる人々は神の身体を満たすだろう。 多くの神々がいたとしても、わたしたちには唯一の神のみがいますのである。 結局、人は一切において不幸がないことを喜び、一切の幸せを喜ぶ世界=霊の 他に何も無くなるのだから、この世で安穏でない人々を安穏に、安楽でない人 々を安楽に、一切の人々の幸せを思う慈しみのこころづかいが永遠の命と教え ている。 肉体のありとあらゆるものは燃やされる、または土の中で溶けてなくなるが、慈しみの ある人々は、永遠を見るであろうという。
70 :
神も仏も名無しさん :2007/09/03(月) 17:55:48 ID:DZD8puoo
宗教にはまっている人ってメンへラーだって言われた ホントですか?
日本から一歩も出たことないでしょ? 学校の勉強でも。旅行でも。
72 :
神も仏も名無しさん :2007/09/05(水) 19:57:49 ID:b6+uX4Eu
>>68 宗教は「愛」の一言に尽きるということですよねえ。
物質的に豊かになったとしても、人間が物により不幸になったら本末転倒。
万物は愛によって人間が治める。これが宇宙の法。
73 :
神も仏も名無しさん :2007/09/05(水) 20:25:12 ID:V2kOmuOe
>>70 現実主義信仰と、偶像礼拝の病的信仰に分かれる。
>>72 偶像は人間が作ったもの。偶像の所有者が人々を支配してはいけない。
何かを信じたいという人は、無宗教の人ですら認めようとするものでなくて
はいけない。
死後成仏世界とか天国だとか偶像を拝んでいる人々がいるが、「一切の幸福」
が釈迦で、「病もなく地上の苦悩もない所」がイエス。
そこで宗教教義があり、その世界を善として、「慈しみ」が崇高、いと高き
者の世界として、他人に害を加えるな、隣人を愛せという教えとなる。
現実的にも偶像を拝んで、自分は善いことをしましたという人よりも、他人
によくしてあげたり、親切にしてあげたりしたほうが人々の有益になる。
74 :
神も仏も名無しさん :2007/09/05(水) 22:19:58 ID:mIbTtp+L
死んだ後わかんね〜やといって、適当に教義つくってつくった人に 盲従させる。 金銭や物の豊かさだけを追い求めやすい時代に、宗教くらい他人の ことを思えみたいな互いの人間関係をよくするような教えがあって もいいよな。わけわかんねーものを拝ませて服従させるんじゃなく てさあ。
75 :
神も仏も名無しさん :2007/09/05(水) 22:25:29 ID:mIbTtp+L
結局、宗教で偉いと尊敬される奴を、さらに偉い、正しい教義をした奴だ と認めさせるんじゃなくて、信じた人同士が、互いに信頼しあえる教えが 正しい教えで、人の世界に必要だということだろうね。
76 :
神も仏も名無しさん :2007/09/06(木) 19:39:12 ID:V2KPCnoC
自殺という社会問題に対しても、 自殺→葬儀→法要→成仏という教えはない。 「葬儀などしない」というのが釈迦の教えで、本来の仏教は法要などする はずがない。 「生存のための妄執も生存の断滅の妄執も存在しない」「妄執を断じてニルヴァーナ と呼ばれる」 生存を自ら断じることは悪いことだ、決して成仏することはないと教えている。 自己の悩みとこの世の悩みとを断つために自らの命を絶つ。我ならざるものを我と感 じて間違いを犯す。 釈迦の教えは、世の中と自己との悩みとを自然の中での瞑想により、静けさと安らぎ を楽しんで、妄執を滅ぼし悩みをなくす。悩んで自己の命を絶って苦しみのない世界 ではなく、この世で悩まずこの世の苦しみを回避することを他人を傷つけず勇気を持 って行う。 自然の中は楽しい、太陽は美しい、悩みもこの世の苦悩を感じないのがニルヴァー ナで、生存の断滅の妄執も存在しない。 仏教の教えは、葬儀や法要ではなく、普段から自然の中で楽しむことをよしとして、 世の中の悩みと自己の悩みも少ない健康的な精神を保つことを促進すること。 「林の中は楽しい・・・・・今日われらは美しい太陽を見、美しい朝に逢い気持 ちもよく起き上がった。」 普段から貪欲のために悩みを抱えることのないように人々に教えること。
77 :
神も仏も名無しさん :2007/09/06(木) 20:32:42 ID:V5Qc0HuB
人が宗教に依存することを利用して、誰々が正しいとするのに騙されること なく、絶対的な善を誰でもわかりそうな病もなく、この世の苦悩もない世界 を善として、他人の苦悩や困難を取り除いたり、人間が互いに故意に苦悩を 与えないよう気をつけることなどを教え、他人の考えや意向を認めてあげら れるような人となったり、貪欲のために自ら悩みを抱えることのないよう教 え、自然に感動することのできる健康的な精神をつくることですねえ。
78 :
神も仏も名無しさん :2007/09/08(土) 00:13:19 ID:GIObr5zE
この世の苦悩から逃れるため、自分の苦悩から逃れるため自殺する人。自らの消滅により 苦しみを受けることがないと半分知っているのだが、 仏教では、生存の断滅の妄執も存在しない、妄執を断じてニルヴァーナと呼ばれると説き、 自殺は悪いことだ、自殺によって永遠の安楽が得られることはないと教える。 世捨て人となり、所有物を捨て去り、五欲の対象も第六の思考・意向の六つを制した人、 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者となった人。ブッダは自らを賢者としてい る。 そのブッダを尊敬することで、安らぎを愛し、この世の苦悩からこの世で厭い離れること は誤りではないと諭す。 世間は妄執に導かれ、一切のものが妄執というひとつのものに従属した。妄執がひとを悩 ませる。悩みのない完全な世界は、一切の悪をも滅ぼしつくされた世界である。 それは多くの人々が自然に感じるような事でもあるだろう。彼岸は苦悩も一切の悪をも存 在しない世界であると。しかし、自己の断滅が悪いことで、自殺によっても苦悩から逃れ られないと考える人は少ない。永遠の安らぎを求めて修行する仏教では、自殺=苦悩を受 けない世界としていない。
79 :
神も仏も名無しさん :2007/09/08(土) 00:16:48 ID:GIObr5zE
「世の中は泡沫のごとくと見よ」「この身は泡沫のごとくと見よ」この世から逃れて苦悩 のない世界を思うように、この世で苦悩のない世界を築き上げる。 「孤独の味、心の安らいの味をあじわったならば、熱のような悩みも無く、罪過も無くな る―真理の喜びの味をあじわいながら」 この世の苦悩を味わっている人々は、賢者に習って、自然の中での瞑想、静けさと安らぎ を味わって楽しみ、次第に熱のような悩みもなくなっていく。 「過ぎ去るものは虚妄である」ということも、「自然の中で静かに瞑想して静けさを楽し み悩みが少なくなること」も、事実に近い。人には真理の世界の影響を受けて、忘れ去る という作用があるのかもしれない。 思考と意向をこの世の煩悩として、自分の考えを人に押し付けるより、相手の考え方を聞 いてあげたり、相手のしたいことを助けてあげたりしたほうが、相手から喜ばれる場合が 多いだろう。自分の貪欲のために、この世で苦悩を受けることはおかしい。 「一切の生きとし生ける者の幸福と安穏と安楽」に反して、人々の安穏・安楽な生活を奪 うために活動することは平安を愛する人々に認められない。誰かが幸福だと思うことを察 して与えれば、見返りもある。 仏教は事実あるものから人を癒し、宗教で教えを学ぼうとする人々の根底に既にある ようなものを言葉として説いたものである。異様な行動を説いたものではない。
80 :
神も仏も名無しさん :2007/09/08(土) 10:37:21 ID:kI/ziW4i
釈迦は彼岸を根拠に、無所有で五欲も自制して自分を賢者として崇拝させた。 貪欲と苦悩に生きるより、安らぎに生きることが賢い人であると。 人々にそれを広めることにより、貪らないこと安らぎを求めて生きることは賢明 な人のすることだと明確に示そうとした。 道理・理論・現実を考えても、人の労力で得られたものを享受し続けるより、人 の労力以外のもの、自然に安らぎを感じることもあり、五欲の対象が滅び去った 世界は存在すると。 五欲の対象を享受しようとする人々に、愚者と認めるならばすなわち賢者である として、賢明な人のすることではないと分かりなさいと教えた。 仏教の救いは、道理を正しく知って、自分がそれを行おうとすること。
81 :
神も仏も名無しさん :2007/09/08(土) 12:49:28 ID:0ip2MPPM
82 :
神も仏も名無しさん :2007/09/08(土) 15:06:24 ID:dahw1tMO
(1)宗教を否定して、人は自分の気ままな生き方だけでよいのだろうか? (2)人は死んだら終わりで、他人を苦しめても自らの利益があればよく、自分だけ楽しめば 得という発想によって生きていても後々何も起きないだろうか? (3)世の中にはいろいろな宗教があって、それぞれの人が自分の宗教はまともであるとして いるが、信じるならどの宗教が事実に近いのだろうか? イエスやブッダの証言として、世の中の苦に悩まない世界が善として存在するようだ。 他人の苦しみを取り除くことが善い行いというような教えがあり、他人に苦悩を与えて平気で 自分の生きる道を歩む人は、後々悪い報いがあるとしている。 信仰対象として、他人の苦しみを取り除いて、終わりの日にこの世で苦難に遭っている人々の 苦難を取り除き、信じた人を全て幸せにするから、私を主として信じておれ(イエス) 修行完成者として慈しみのこころづかいを示し、安らぎの世界を信仰対象とし貪り悩むなと教 え、不満を抱かず平穏な心で満足したり、精神の安定統一を教える(ブッダ)自然に感動した り、健康的な精神を人々に与える。 世の中には様々な信仰対象があるが、人の手でつくられたものはこの世で限定されるもので、 永遠の世界では、他人の困難もなく一切が幸せで善で、貪欲もなく安らいでいるという宗教者 の証言は信頼できる。
83 :
神も仏も名無しさん :2007/09/08(土) 15:23:25 ID:OPDRTCjl
イエスはいいコト言っても、信者がいらんこと言うからキリスト教は 日本に来ないほうがイイ
84 :
神も仏も名無しさん :2007/09/09(日) 14:23:56 ID:2mr24HMQ
「平安の境地に達して、一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれ」 「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない」 人として修行を完成させたブッダ。永遠として知る世界は、一切が安穏で安楽で幸福である世界 しかない。平安の境地の世界であり、安穏でない者、安楽でない者を安穏に安楽にするあわれみ や慈しみのこころづかいがこの世では崇高な境地である《仏教》 信仰をする人々が崇高なものとしなければいけないのは、慈しみのこころづかいである。 神を信じる人々に対して、「イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲 人を見えるようにしておられたが・・・・・わたしにつまずかない者は、さいわいである。」 人の罪がなくなり、永遠の世界で神を知る時は、病苦もなく悪霊などに悩むこともなく、全て をいやし、この世の苦難をなくされる神を善人となって受け入れる時。イエスは神のかたちを 示し、自分を心より信じ受け入れる人々は父(永遠の命)を持つと示し、心より信じ受け入れ ている人々は罪なき人となる。 《思い上がり》 「学ぶことに生きがいを認め、奉仕を楽しむために、戒律をまもって生き」 「快楽は享受すべきである」 この二つの極端説を知って、そこにとどこおっていなかった賢者たちは、それで思い上が ることはない。「世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。身体 は泡沫のごとしと見よ。身体はかげろうのごとしと見よ」そのように観ずる修行方法を行 う。(仏教) 「思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りに従 って、慎み深く思うべきである。」(聖書)
85 :
神も仏も名無しさん :2007/09/09(日) 14:24:45 ID:2mr24HMQ
「慈しみのこころづかいが崇高。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからであ る。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。」 釈尊やイエスから慈悲が崇高、いと高き者が行うもの、あなたがたも慈悲深い者となれ、と教 えられても、崇高とすべきものは何かと知ればよく、奉仕や看護を行うべきであるとしてしま い、それにより自分を善人だとか義人だとか思い上がらせる教えも永遠から遠ざける。 信仰対象が大切なのであって、永遠にあるものと完全な善を常に心より受け入れていること、後は 各自の心に従って生きればよい。 「平安の境地に達し一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれ、一切の生きと し生ける者をあわれむ修行完成者」の心を得たら、すべきであるという教えを捨て去ること。 あわれみのわざを行ったイエスへの心かの信仰がたえずあれば、行いを重要とすることもない。 《世界の終わり》 「世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあり得ない・・・清らかな行いを修めた人 は、世界の終極に至る人となるであろう・・・世界の終極を知り、この世もかの世も望まない」 (仏教) 「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(イエス) 終わりの日、世界の終極は釈尊もイエスも予言し、世の人々が貪りと憎しみによって滅びると。 貪りにより地球環境が悪化し、やがて戦争や騒乱などが起きると予言したのかもしれない。 それは地上の運命であり、世の思い煩いを捨てて、他人に惑わされず、あわれみ深い神のかた ちを示したイエス・清らかな行いを修めた人々は、そのまま全てが幸福となる永遠の世界に至 るだろう。地上を友としている人々は地の苦しみの後に滅びる。
86 :
神も仏も名無しさん :2007/09/10(月) 04:55:13 ID:2FTPAOe/
われわれは真実として釈迦やイエスさんと一緒にいるんですね。
87 :
神も仏も名無しさん :2007/09/10(月) 20:50:29 ID:pFsfz/BT
両者とも行い重視で思い上がる人間より、目の前に飢えて死にかけた 人がいるのに食物も与えない非常識な人は別として、信仰重視だな。 世界の終わりはいつかは来ると両者とも知っていて、素晴らしい世界 のために今を生き、信仰するんだと教えているんだな。
88 :
神も仏も名無しさん :2007/09/10(月) 21:00:05 ID:pFsfz/BT
なんかわかんない宗教の教えを暗示にかけられるように教えられるが、 最初はスカーッと悟れるような教えだったんだろう。 永遠はこの世のように苦難あり幸せありという区別なく、全ての存在 が幸せで善いとして他人への配慮を善として教える。教えの根拠がし っかりしていて、スマート。
89 :
神も仏も名無しさん :2007/09/12(水) 21:22:00 ID:3l70Wy6C
「無論争の境地を安穏」「安らぎは虚妄ならざる真理」「慈しみを崇高」 「ああだろう、こうだろうと考えても過ぎ去るものは虚妄」「粗雑な思考を修める」 「精神の安定統一」「林の中は楽しい」 論争をしなくても、安らぎは安らぎ。森の中は楽しい、静けさは安らいでいて安楽で ある。彼岸は絶対的な境地で安らぎ。 他人に対して慈しみのこころづかいがある人を素晴らしいと感じること。非暴力・他人を罵倒 しないことと教える。 健康的な精神の人は、迷妄を乗り越えて、自然は楽しいとか、生き生きとして生きている人。
90 :
神も仏も名無しさん :2007/09/12(水) 22:58:15 ID:wUSydwcI
世界の終極・世界の終わりと言っても、 平和・平和と言って、この世界の理想を押し付ける人々より、この世界の災い を気にせず、他人の過失を見ず、他人のあやまちをゆるし、慈しみを崇高・いと高き 者の行いと学び、思い上がるほどの善行をせよというものでもなく、老いと死の苦悩 と世の思い煩いにくよくよ悩むことなく重荷を下ろし、神の国に突入しあの世もこの 世も望まず欲求不満のない健康的な精神の人が増えたほうが良い世の中となるという ことだろうね。 平和とこの世の理想を追い、自分たちの考えたことを人々に押し付ける煩悩のある人 より、自分の行いを正す人が多いほうが互いに幸せになる。
91 :
神も仏も名無しさん :2007/09/13(木) 22:33:33 ID:qiKbnxDT
ブッダもイエスもこの世の欲楽が善いこととは教えず、 釈迦と弟子たちはそれから離れ人々に示し、人々はその人々を尊敬すること、 イエスは罪として懺悔することによりゆるすと教える。
92 :
神も仏も名無しさん :2007/09/13(木) 22:37:13 ID:qiKbnxDT
幸せの根本がこの世の欲望としてないから、人が欲望を喜ぶが、 それらと正反対のことを説いて、自分で中道の道を探れということだろう。
93 :
神も仏も名無しさん :2007/09/13(木) 22:44:19 ID:qiKbnxDT
一切皆苦、この世の人は既に裁かれている、そのことを知り抜いて教えを 説き導こうとするが、普通この世界しか知らないから、この世界からの出離 を目指そうとせず、この地上を輪廻して生きる人々も神はゆるされたという 感じがする。
94 :
神も仏も名無しさん :2007/09/15(土) 00:03:09 ID:cAwZJCzZ
天界へのくびきを乗り越えて、肉体より霊体、霊体より消滅を目指した釈尊と修行僧。 妄執というものに一切のものが従属した。五感も第六の思考も存在しない世界。完全な 安らぎと平安。世の中から離れて、所有物を捨て去り、五欲の対象を離れて、静けさを 目指して自分の粗雑な思考を修めて、安らぎに安住する。修行僧は外に平穏を求めては いけない、内なる平穏を目指せ。安らぎは虚妄ならざる真理である。 消滅世界は、一切の苦悩から解き放たれて、完全な安らぎに至り、完全な平安となると。 天界は分け与え、食乞う者に分かち与えるなど慈しみのこころづかいが天界に生まれる 要因になると。天界に生まれる人は、離欲を行いとして修行しないが、その修行僧らを 尊敬し、ブッダの真理の言葉に熱烈な尊敬心を持つこと。 欲望界(下界)がまるで天のように楽しいとする人々は、業を正すこと。人の行いによ って成立している下界では、良い行いをして善業を達成し、良い環境に生まれる。
95 :
神も仏も名無しさん :2007/09/15(土) 22:06:45 ID:qKJntY+i
仏教は自分のことばかりで他人のことを考えない自己中心的な人ばかりつく る教えだと思っていたが、慈悲を重要視した他人への配慮を教えている。 イエスは愛で、まず人を大切にすること、偶像など人が抱ける神は人が存在 しなくなったら、抱けないものとなり愛で知るのだから、愛だということだ ろう。 静かなところで安らぎを覚えることもあるが、真理・真実はどこか人が感じ ているもので、それを強く思う心が永遠に通じるということだろう。
96 :
神も仏も名無しさん :2007/09/16(日) 12:14:01 ID:gAldSh2g
イエスやブッダは本来はリアルな教えだったんだ。
97 :
神も仏も名無しさん :2007/09/16(日) 12:40:00 ID:ml7nSwZ4
人間が存在しなくなっても、永遠にあるものを説き、それらが人間の内にも多少ある。 つくられた教義は人間が存在しなくなったら消え去るものとして、たとえば「公平と あわれみと忠実」イエス、「動揺して煩悩に悩まされることなく、過酷なることなく 貪欲なることなく万物に対して平等」釈迦、という永遠は絶対公平で平等、公平に思う ことは善いことだという教えとなる。
98 :
神も仏も名無しさん :2007/09/16(日) 15:53:54 ID:1zAvLKYC
<健康的な精神とは?> 「人のいない林は楽しい。かれらは快楽を求めないからである」「林のほとりで楽しみ、大い にみずから満足すべきである」「今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気持 ちもよく起き上がった」(仏教)自然の中で楽しみ、五欲の対象の貪りを捨て、健康的な精神 に至る。 「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られず、上にはキリストが神の右に座 しておられ、上にあるものを思って、地上のものに心を引かれてはならない(聖書から) <上の世界、神の右、永遠は在るのか?> 《本当に正しいこと》 「信仰心あり、学び修めた賢明な人は・・・食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ。・・ かれは、天が雨降らすごとくに、その轟きを発するのである。その豊かな功徳の流れは、施し を与える人に、降り注ぐ」(仏教)学び修めた賢明な人、修行完成した人のあわれみ、平安の 境地に達した人の慈悲。 「わたしが空腹のときに食べさせ、かわいているときに飲ませ・・・」「そのとき、正しい者 たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物 をめぐみ・・・』」 「真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、 明らかにされるためである」(聖書)
99 :
神も仏も名無しさん :2007/09/16(日) 15:54:51 ID:1zAvLKYC
自分たちは正しいと主張する人々がいるが、本当に正しく賢明な人は、たとえば自然災害など で飲食物もなく困っている人々に飲食物を与えても、自分たちが正しいことをしただとか、善 人であるとか、意識しないで行っている人々。 災害で瀕死の重傷を負っている人を助けた人が、自分は正しい人間である、善人であると言わ なければ、人々はその人を無意識のうちに認めている。瀕死の重傷を負っている人を助けず、 その人の前で笑って記念撮影でもしている人を見れば憤る。 それらの行いは、あわれみのわざを行って神のかたちを示したイエス、永遠の世界を「一切の 生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ、修行完成者ブッダに罪過は存在 しない」として、この世の苦難というものが無く、一切が安穏で安楽な世界、神の右の世界が あってなされたということ。 それらが人の内に宿っていて、まるで自然のように被造物を通じて行われているのだから、正 しいことを見誤らずに信仰していなさいということだろう。 「世界の終極に達しないで苦しみから離脱することはあり得ない」と釈尊。 世の人々が地上のものに心を引かれ、貪欲と憎しみにより、自然破壊と憎しみにより終わりの 日が来るかもしれない。本当に正しいことを見失い、正しい正しくないとして争いが起き、終 わりに至る。 正しいことを見失わずに生きている人々は、滅びに至らずに苦しみから離脱した世界に至る。
100 :
神も仏も名無しさん :2007/09/16(日) 15:55:53 ID:1zAvLKYC
《他人の過失を見るな・他人を見下すな》 「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこと としなかったこととだけを見よ。他人の過失を探し求め、つねに他人を見下して思う人は、卑 しい性質が増大する。かれは実に真理を見ることから遠く隔たっている」(仏教) 「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか・・・偽善者よ、 まず自分の目から梁を取りのけるがよい」 「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスは・・・」(聖書) <善人悪人を区別して自然を左右しないのは事実> 「心が煩悩に汚されることなく、心が縛られることなく、善悪のはからいを捨てた人」(仏教) 「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者に も、雨を降らして下さるからである」(聖書) 他人への善悪意識を反映してくれる存在ではない。それを良く知り抜いて、心が煩悩に汚 されることなく、他人のあやまちをゆるし、自分のしたこととしなかったこととを見れる ようになったら、永遠に至ることから遠く隔たってはいないので、他人にそのようにする よう伝えること。
101 :
神も仏も名無しさん :2007/09/16(日) 21:26:27 ID:RbN0RLIZ
地球温暖化も、格差是正も解決の糸口が教えにあったということだろうね。
102 :
神も仏も名無しさん :2007/09/16(日) 22:38:57 ID:eK5NgB7h
慈しみが崇高としながら、世界の終極を説く。 貪りがやがて人類に悪影響をもたらすと予言し、他人を責めたらもっと悪い状態をもたらすとして説いたかも。 貪らない人々が大勢となると、地球環境の悪化が防げると知っていたのかもしれない。
103 :
神も仏も名無しさん :2007/09/17(月) 21:42:13 ID:zQDZQi2j
仏教思想 1)この世が苦悩・・・・・・・彼岸を目標に世の中のことに煩わず安らぎを目指す 2)信仰心ある人・・・・・・・食乞う人に飲食物を与える 分け与え、共存の教え 3)幸せな人・・・・・・・・・行い(業)を正す 人の行いによりこの世が成立 重荷に耐え、元気な人々も行いを正さないと幸せは築けない。 信仰により頼りとする人々も、分け与え、慈しみ互いを助け合わないと苦悩は自分のみ が背負うばかりである。 この世が苦悩で生まれたくない人々も、欲望から離れ静かな幸せをこの世で達成すれば 苦悩から遠ざかり、そのまま彼岸に至るだろう。 その人の生命状態により諸々の道が選べる仏教思想。しかし、どの道も慈しみのこころ づかいから離れ、無慈悲で冷酷・残忍、自分の貪欲のみで、人々に奉仕与えようとしな い人は悪いと教える。
104 :
神も仏も名無しさん :2007/09/18(火) 22:09:26 ID:2neieK9j
イエスは、この世では正しいと言える人はいないという教えによって、 差別なき教えを説いた。神のみ以外の善は存在しない。奇跡のわざで 人々をあわれみ、信じた人はその罪がゆるされる。上が善で肉の思い で、全ての人は正しいと言える人はいないと。
105 :
神も仏も名無しさん :2007/09/18(火) 22:34:46 ID:2neieK9j
目の前の人が飢えたり、瀕死の状態であったりする人を見て助けることに多く の人々は違和感を感じない。飢えた人の隣でおいしいものを食べて知らぬ顔し ている人、瀕死の状態の人を見て楽しんでいる人に、嫌悪感がある。 この世の困難もない世界、永遠に存在する神が在って人に影響を与えていると、 人の本当の姿は、この世では慈悲だと教えられても、偶像ではなく慈悲を崇高 なものとしなさいと教えられても、納得できる教えである。 偽善者でない人は、自分を正しい者と認められたいから行っているわけではな い。
106 :
神も仏も名無しさん :2007/09/19(水) 20:53:34 ID:Yags0dFL
善悪(自分は善人だから)捨てる→能力(人間に必要な物を生み出す) 怒り・憎しみ・怨み・敵意・嫉妬→自制心(心の中に苦悩を抱えない・自分の幸せから遠ざかると認識する) 欲得宗教(来世を含めてこの今の人間の存続)→平安を生み出す教えの崇拝(慈しみなど) 貪欲→今現在の満足・感謝(自分の欲得のためにあくせくしても幸せであるとは限らない)
107 :
神も仏も名無しさん :2007/09/21(金) 23:38:40 ID:LUS6A8h4
「色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたものと、わたしはこれでは ない」「色かたちと、音声と、味と、香りと、触れられるものと、ひとえに思考の対象なるも のと、これは世人をおびきよせる恐ろしい餌である」 「一切の形成されたものは無常である」「一切の形成されたものは苦しみである」「一切の事 物は我ならざるものである」 「安らぎは虚妄ならざる真理」として、五欲の対象と思考(意向)の六つから離れてこの 世の地獄を乗り越えるために修行に励む修行僧(仏教) 「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか・・・・・上にあるも のを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである」(聖書) 労働もせず、わずかな食物で暮らし、五欲の対象から離れることを修行とした釈尊と聖書 の教えは対象的である。 「世の中のどこにも、わたしは害いを見ない。それ故に、一切の生きとし生けるものを憐れみ ながら、われは眠る」(仏教)釈尊の教えは、害だ罪だと定めるのではなく、生けるものを憐 れんで説いたものとしている。
108 :
神も仏も名無しさん :2007/09/21(金) 23:40:17 ID:LUS6A8h4
《働くこと》 〔神いわく〕「わたしは、そなたに依存して生きているのではない。またそなたのために仕事 をしてくれる人々がいるのではない」 「罪汚れなくして、常に浄らかさを求めている人には、毛先ほどの悪でも、雲ほどに大き く見えるのである」(仏教) 水中に生ずる蓮の花の香りを嗅いだだけで香りの盗人と神に言われた修行僧。慈しみが崇 高と釈尊は教えているので、神は荒々しい男には説かないが、五欲の対象を求める心があ れば、自分で仕事をせよと。神は五欲の対象を享受する罪汚れくらいなら、ゆるすという 存在だと思われる。 「働こうとしない者は、食べることをしてはならない」(聖書) 《金持ちが分け与えること》 「富んだ家に住んでいるならば、まことあり、柔和で、よく分かち与え、温かい心でいるなら ば・・・・・四つの事柄に安住している人は、来世を恐れる必要がない」(仏教) 「貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう」(聖書)
109 :
神も仏も名無しさん :2007/09/21(金) 23:41:06 ID:LUS6A8h4
《乏しい中から分け与えること》 「乏しき中からわかち与える人は、法を実践することになるであろう」(仏教) 「その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」(聖書) 《平等・公平》 「『われになし』といって悲しむことがない。苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺し て煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である。―動じない人の美点」(仏教) 「公平とあわれみと忠実とを見のがしている」「貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあな たがたのものである・・・しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けて しまっているからである」(聖書) 《人に知られずしたことであっても》 「この世で善いことをしたならば、安心しておれ、その善いことが、ずっと昔にしたことだと か・・・人に知られずにしたことであっても、安心しておれ。それの果報があるのだから」 (仏教) 「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」「善であれ悪であれ、自 分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(聖書) 罪汚れの無い世界のみのことを思うのではなくて、この世にも見えぬかたちで法があると 教える。肉体である人間は、自分が正しいとか偉いとか素晴らしいとか思い上がらないよ うにするために、人を妄執・悪しき者の配下にしたのかもしれない。
110 :
神も仏も名無しさん :2007/09/22(土) 20:37:13 ID:SldJjaTO
(1)罪汚れのない人・・・・・人の手でつくられた物を持たず、無所有で五欲も 思考も静め、安らぎと平安と安穏に満足する (2)不浄世界で独立する人・・・・・五欲の対象を満たすために働き、依存せず 自らを主として自立し、耐え忍んで生きる (3)信仰のある人・・・・・善業・悪業の報いがあると信じ、富んでいる人は貧 しい人に分け与え、苛酷も貪欲もなく平等世界であ ることを信じる (1)(2)は何ものかを信じなくても、罪汚れという言葉もないくらいの欲望の静まっ た世界を完全に苦悩のない世界、完全な平安、完全な安穏として説く。信じることなく、 安らぎ(ニルヴァーナ)を信じ、瞑想して安らぎを求め、苦悩から離れる。 神という存在が、人々の食料をつくらない、人に必要な物をつくらないとして、人が労働 することにより、生まれるものだと認識する。 何かを信じる人は、富んでいる人から飢えている人などを全体として捉え、自分の罪汚れ (貪欲)などを意識し、分け与えなどの善業を学ぶ。仏教によれば、信じるものは平等で、 苛酷も貪欲もないとしている。
111 :
神も仏も名無しさん :2007/09/22(土) 20:41:40 ID:RI5bMWfG
真理とは自然。真実とは見えるもの、聞こえるもの。
112 :
神も仏も名無しさん :2007/09/22(土) 21:50:45 ID:SldJjaTO
>>111 宗教は人間の道徳とは違い、永遠の世界があるとして成り立っている。
人間が存在しない世界を真理の世界として、この世を苦悩と感じている人々を、善悪を別とし
て、世のこころづかいなどを思わず、自然の中で静かに瞑想などをして、心を休ませること、
瞑想修養して、自分をよくととのえて自分の主となることを教えている。
この世を苦悩と感じている人は、少なくとも貪欲を制し、他人の過失などに悩まず、自分のし
たことだけを見る人となり、様々な思い煩いを捨て去ること。
この世から離れた世界は、この世のことも何もなく、絶対に苦悩がなく、一切の悪をも存在し
ない、人が真理の世界を追究して、思い煩いを捨て去ることは、悪いことではないという教え。
事実は、この世のことに思い煩いを感じないように、貪欲を自制して、自然の中で静かに心を
休ませていることに汚れがないと信じて努めていると、苦悩が少なくなるかどうかだろう。
誰も自分のために働いてくれるわけではないは事実だし、宗教を信じようとする人に貪欲を慎
め、それは善いことだからと教えようとする。慈しみを崇高として、他人に暴力や荒々しい言
葉を語らないように教えることは、人間同士互いが相手を悩ませないよう努力して、人間から
くる苦悩を少なくしよう、できれば人間が互いに助け合い、相手の苦悩を取り除くことが理想
であるとしている。
しかし、他人が思うようにならない人であっても、人は基本的にその人の思考により生きるも
のであるとして、他人の意向などを尊重して助けてあげられる人となれば、対立するどころか、
その人からお礼が来る場合がある。
113 :
神も仏も名無しさん :2007/09/22(土) 23:28:01 ID:v1PaxXzv
ブッダはつくられざる世界を愛し、安らぎに安穏を見出したが、 仏典の神もキリストの神も、神が創造した自然に満足しない人間の罪汚れを ゆるし、イエスは被造物を低くし、「愛」を教え、被造物が互いに愛するこ とでの平和を願った。神にもどこか共通点があるみたいだね。 神が被造物の世界に現れたら、人類は神様にすがるばかりで、互いに助け合 愛がおろそかになる。後から善と悪とを判定しようということにしたのだろ う。
114 :
神も仏も名無しさん :2007/09/23(日) 12:28:43 ID:Jv+O5Axf
格差是正、貧しい人への配慮が人に生じるのも、 上では貧富の差もなく、全てを公平・平等にされる神(真理)の世界が地上にも働い てそのようになるのだから、信仰をする人は、人間がつくった教義を真理とせず、かた ちあるもの意識してつくられた偶像を真理とせず、「多くの財産のある人に貧しい人々 に分けてあげなさい」と言われたイエスを主として、意識されないままこの世にも在る 神をよく吟味して善を受け入れなさいということだろう。 自分だけの豊かさを追い求める心は、自分がこの世を去る時までの限定的なもので、滅び の心。貧富の差もなく、この世でも貧しい人々をあわれみ、公平・平等を思う心は、永遠 に通じる心。
115 :
神も仏も名無しさん :2007/09/23(日) 15:36:30 ID:ySmBMEzL
仏陀はイエスの傀儡(対抗アイコン)。 仏教も2、3世紀インド支配勢力のキリスト教ヘレニズム対抗策(民衆教化防止)の一つ。イスラムもイラン、アラブ支配者の対キリスト教東西ローマ帝国侵略(物心両面)対抗政策に利用されただけ。 東亜文明縁辺諸国民には知らされなかった真実。
116 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/09/23(日) 16:21:09 ID:3H8KucsA
真宗教団の一部の人が非常に嫌がる親鸞論というのがあります。真宗界は揺れています。従来の
教学でよかったのか。従来の教えは正しかったのか。そういう反省意見を出している人がいます。
一方で、そういう反省意見を徹底して押さえ込もうとしているグループもあります。
反省意見を徹底して押さえ込もうとしている守旧派グループが嫌がる考えとはどういう意見でし
ょうか。彼らは何を恐がるのでしょうか。恐がるその一例を紹介しましょう。
守旧派グループから嫌がられる考えは、妨害を受ける教団の中では声になりません。2ちゃんね
るしか発表の場がありません。しかし、無論のこと、2ちゃんねるではとても激しい荒らしを受け
ます。
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1179146870/ 守旧派と言ってもいろいろあるでしょうが、表向きでは親鸞や、仏教を口にしているオオカミが、
虚構の信心の仮面の裏で磨いている野獣の牙が、ここでは鏡のように剥き出しになっています。
既成仏教の守旧派が、命に代えて押さえ込もうとしたがる仏教とはどんなものか。現代の宗教を
語る上では、避けて通れない問題でしょう。荒らしの牙も是非、ご見聞下さい。
真宗教団の守旧派の人々が、知恵を絞って荒らしています。今後もいろいろな仕掛けがかかると
思います。2ちゃねんる以外に誘導するリンク先は無闇に開かないで下さい。
必死の形相で拡散を阻止したがる親鸞思想はどのようなものか、見聞して下さい。
117 :
神も仏も名無しさん :2007/09/23(日) 16:26:33 ID:N/f/TkNc
>>114 イエスとブッダが同じようなことを教えるのは、意識は地上を考え真理から
離れ、
無意識には一切の幸福と安穏と安楽、愛やあわれみ、慈悲を感じて、自然に
も貧しい人など他人への配慮があるのだから、それを目標(崇高)として信
仰せよということだろうね。
意識活動が本当になっなってしまった場合、本当に金持ち、貧乏人の意識も
なくなり、みんなの幸せを喜ぶ世界=慈悲の世界があるかもしれない。
それで地上のことに憂うことなく耐え忍んで、慈しみのこころを身に着けて
永遠に至れという教えが実際になるかもしれない。
118 :
神も仏も名無しさん :2007/09/23(日) 16:40:13 ID:N/f/TkNc
>>116 あまりよくわからないけど、浄土を素晴らしいところとして信仰する
仏教は、貪り=人間の煩悩を慎んだら、その果報がきっとあると教えて
いるんじゃないかなあ。
親鸞と日蓮で、共通点を探すのもいいかもしれない。それでひとつの宗教
にまとまれば、日本の仏教となる。
119 :
神も仏も名無しさん :2007/09/23(日) 16:46:26 ID:N/f/TkNc
同じ宗派同士争っていないで、親鸞や日蓮の共通点を探し出し、 日本の仏教をひとつにまとめるスレ立てたら? 宗教同士争っているところを見たら、信者は不幸だよ、きっと。
120 :
神も仏も名無しさん :2007/09/23(日) 17:10:26 ID:tWSeKgKu
>>115 お前日本語めちゃくちゃだね。
わかるように書けよ。
121 :
神も仏も名無しさん :2007/09/23(日) 17:53:23 ID:aDid26nI
同じ宗派同士で何が真実か争う現実。浄土系、日蓮系はどっちも自分たちが真実だとしてひとつにまとまらない だろう。 仏典と聖書に共通点が少しでもあれば、そのようなお坊さんをあてにして何を信じるべきだとしなくてもよい。 共通点を参考にして自分たちで考えましょう。
122 :
神も仏も名無しさん :2007/09/23(日) 21:25:13 ID:iPPde8Y+
>>115 >仏陀はイエスの傀儡(対抗アイコン)。
↑
わけがわからん。
>仏教も2、3世紀インド支配勢力のキリスト教ヘレニズム対抗策(民衆教化防止)の一つ。
↑
で、誰が何の目的でどうやってしかけたの?インド支配勢力って何?断定する根拠は?
イスラムもイラン、アラブ支配者の対キリスト教東西ローマ帝国侵略(物心両面)対抗政策に利用されただけ。
↑
どう利用されたの?目的は?その根拠は?
>東亜文明縁辺諸国民には知らされなかった真実。
↑
そいで、なんでテメェが知ってんだ?
この読解不可能な文章のソースを書けよ。オメェ行間飛ばしすぎなんだよ。
123 :
神も仏も名無しさん :2007/09/24(月) 11:58:31 ID:lqWUK78v
>>121 >浄土系、日蓮系
日蓮は仏教を理解しなかった、破仏法者。こんなやつは論外。
124 :
神も仏も名無しさん :2007/09/24(月) 21:31:14 ID:4weIiBfc
他宗教を邪宗として見下すこと自体が仏教じゃないよな
125 :
神も仏も名無しさん :2007/09/24(月) 22:19:38 ID:DqvXLD4W
釈迦は静かな安らぎと内なる安穏に満足して善悪を超越し賢者となった。 後の人は、農家であろうが、食料をつくろうが、大工であろうが、衣料を つくろうが、教育指導する人だろうが、労働者であろうが、正しいと言え る人はいないということだろうな。
126 :
神も仏も名無しさん :2007/09/24(月) 22:33:44 ID:DqvXLD4W
罪汚れ=欲界の人は、互いにつながりがあって、誰かが自分たちは一番正しい と言い出すと、正しくない人から食料を得、衣服など必要なものを得ている。 釈迦のように、わずかな食料と物質的なものに執着を捨てて、安らぎを愛せば、 まるで彼岸のように罪汚れなく苦悩を乗り越え賢者としてもいいけど、後は互 いに助け合いという面があるから、一番正しいものは何かと決めない事実があ る。第一、安らぎを楽しむ人は、自分たちが一番正しいという執着もないだろ うに。
127 :
神も仏も名無しさん :2007/09/25(火) 08:08:00 ID:TS9/tpQD
日蓮は縁起と空相を排斥しているのだ。
128 :
神も仏も名無しさん :2007/09/25(火) 20:53:41 ID:4V5v6q3+
天国・極楽・成仏・神のような人物、信仰の対象になるようなものって 本当にある?日本の仏教はお経で葬式の時世話になるだろうけど、インド とイスラエルに共通点があるなら、半分信じよう
129 :
神も仏も名無しさん :2007/09/25(火) 22:47:52 ID:TS9/tpQD
イスラエルの神=仏陀。釈尊の真理=イエスの真理。
130 :
神も仏も名無しさん :2007/09/25(火) 23:42:55 ID:lm8Pu4Qy
借金で苦しむ、夫婦仲が悪い、いじめで悩み、子供または夫の家庭内暴力で苦しむ、 それから僧侶に相談する人もいるけど、悩みを生み出す前に、貪欲を慎め、互いに 他人の考えを尊重し慈悲の心を持って人に接する人間をつくるという、予防みたい な教えは最低でもあるよな。
131 :
神も仏も名無しさん :2007/09/26(水) 08:44:46 ID:CKXdr62A
>>130 もっともな考えと思う。しかし、良く考えてみよう。
縁起と言う関係は今の考えの範囲内程度のものだろうか?
縁起は無限に広がっている。無限に広がっているが故に、縁起しているものには実体が無いという
真実(勝義諦)も無限なのだ。今の考えの範囲は、無限という真実に、むしろ反しているだろう。
真実が無限に有るにもかかわらず、その真実に反して、限定した固定的なものを想定し、その限定的範囲
から阻害されるものを、(最低な教え)に基づく境涯であると考えていないだろうか?
そして、縁起しているものは、みな平等におんなじものであることを知るべきであろう。そうすると、
限定された範囲以外に、良いものが無限にあることに気づかなければならないのではないだろうか?
むしろ限定されているものこそ、実体のないものをあると思っているのであり、嘘偽りに陥っていると言うべきではないだろうか?
パウロが牢獄に閉じ込められている時、パウロは神の力により、牢獄の鍵が自然にほどけて、脱出できた、というのが有るだろう。
この神の力というのは、神への信仰であり、信仰とは、一切は空性で有り差別のないものであるという真理真実を信じることであるはずである。
このように無限に自由な世界を示し教えてくれる教えが「最低な教え」であるとはいえないだろう。
132 :
神も仏も名無しさん :2007/09/26(水) 19:51:59 ID:CKXdr62A
>131 自分ながら、現実味がないな〜w。
133 :
神も仏も名無しさん :2007/09/26(水) 22:30:44 ID:jCKx6k7d
1)全世界は妄執・悪しき者の配下に入った 善悪(煩悩の可能力=仏教)(賢くなった=創世記) 仏陀は善悪の両者に汚されず煩悩の可能力を断ち悪魔の征服者となり彼岸に達した 2)創世記 地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって、水に群がるすべての動く生き物と、 種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を、種類に従って、地は生き物を種類にした がって、家畜と、這うものと、地の獣を種類にしたがって・・・・・われわれのかた ちに、われわれにかたどって人を造り、 仏陀 草や木にも種類の区別あることを知れ、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも種類の区 別あることを知れ、翼を乗り物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、種類の区別あることを 知れ、這うものにも、小さなものにも、大きなものにも、四足獣にも種類のあること を知れ、人類には区別のないことを説いた 悪魔の征服者(善悪の両者に汚されない)となった仏陀は、不死の境地(彼岸)に到達し、 神通力を得た。煩悩の可能力を捨て、神が創造した自然の中で楽しみ、静けさや安らぎを楽 しみ、苦悩なき者となった。 3)人類は罪汚れのない世界(神が創造した自然)で満足するよりも、思考で作られる物を望んだ。 賢くなることも選択可能にしたのは神だから、「人によくしてやり、何も当てにしないで貸し てやれ」など御言を行う人の報いを教えるのも神である。賢くなった人が自分の欲だけに使え ば報いはない見えない法をつくった。人の物を必要とする全ての人は、神通力などより法に従 おうとすることでしか認められないようになった。
134 :
神も仏も名無しさん :2007/09/27(木) 20:55:36 ID:Pv4Y/c3G
135 :
神も仏も名無しさん :2007/09/27(木) 21:15:13 ID:/T/oS447
>>121 >仏典と聖書に共通点が少しでもあれば、そのようなお坊さんをあてにして何を信じるべきだとしなくてもよい。
共通点を参考にして自分たちで考えましょう。
共通点と言えるかどうかわかりませんが、釈尊時代の宗教家はバラモンであれ、ヒンズーであれ宗教的儀式に重きを置き、人間の内面的な行為や生活法には無頓着であったと思います。
釈尊はむしろ内面的な行為(普段の心構え)やそれに基づく生活法の方が宗教的儀式より効果があると説いていたように思います。
イエスの時代も同様にラビ(ユダヤ教の指導者)は律法主義の傾向が強く、内面的な行為には無頓着だった様に思われます。
イエスも釈尊同様に単に律法を守るより内面的な心構えや信こそ神の義に適っていると教えているような気がします。
(仏教もキリスト教も儀式に基づく祈り方より(もちろん、それぞれの宗教に応じた祈り方はあると思いますが)、内面的な慈悲や愛などの他者への慈しみを基調にした(心構え)祈りを説いるのは興味深いと思います)
また、釈尊もイエスも偉大なる宗教家でしたが、2人とも自ら私は誰々の生まれ変わりだと称して布教したり、自らの宗教や教団の為に財を築くことも蓄えることもありませんでしたし、信者に寄付を強要することもありませんでした。
今の日本の多くの宗教家は釈尊時代のバラモンやイエスの時代のラビと同様に外見的な宗教儀式等を重点にしている宗教家がほとんどだと思われます。
136 :
神も仏も名無しさん :2007/09/27(木) 22:20:55 ID:gXb8aapd
結局2人とも、人間は被造物・アートマンで、物質的なものも自分ではなく、 世のこころづかいや富の惑わし、地上のものも自分ではなく、 平安と安らぎが自分だと教えようとしたのだろう。 それを言葉で示すなら、敵意も怨みも憎しみも怒りも自分ではないし、 一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれ、一切の幸福 世界を喜ぶのが自分だから、あわれみや慈悲がこの世では自分に忠実である。 この世は苦難もあるし、様々なことがあるが、他人の過失をとやかく言う前 に、教えを心得て、本当の自分を見失うことのないよう、無慈悲で残忍・残 酷なことをするな、思い上がらない程度のあわれみや慈悲心を持て、欲楽が なくても、今現在、思い煩いなく平穏な心で満足すれば、本当の自分を得て いるのだから、地上のものへの貪りを自制せよということだろう。
137 :
神も仏も名無しさん :2007/09/27(木) 23:27:11 ID:HBSNvrDS
しかし、平安で安らいだ世界が本当にあるのかどうかだな。釈迦は、静かな安らぎを人々が愛することによって 平安と安らぎの大切なことを自覚させようとしたのだろう。世のことから少し遠ざかり、静かな安らぎに幸せを 感じることで世の悩みがなくなる。そして慈悲を説いて、人間が互いにわざと苦悩を生み出す存在とならないよ うにせよと。イエスは人間が安らぎに逃避するより、慈悲深い行いを重視して人間が互いに助け合い悩みを少な くすることを重要とした。
138 :
神も仏も名無しさん :2007/09/28(金) 22:44:43 ID:n1aLuUyP
>>134 これが本当だとすると、実に考えさせられるね。
真実は、空相、一相、無相なのだ。神と言う他と区別される実体はないのだ。
神こそ空相一相無相なのだから。テレサさんは、真理真実について哲学的信仰を持っていなかった、というべきでは?
139 :
神も仏も名無しさん :2007/09/29(土) 11:48:23 ID:t9xCdIDY
<創世記と仏教の共通点> 《種類》 「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹と地の上に」(創世記) 「草や木にも種類の区別あることを知れ」(仏教) 「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け」(創世記) 「今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気持ちもよく起き上がった」(仏教) 「水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類 にしたがって創造された」(創世記) 「水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、種類の区別あることを知れ・・・翼を乗り物として虚空を飛 ぶ鳥どもにも、種類の区別あることを知れ」(仏教) 「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」 (創世記) 「小さなものでも、大きなものでも、四足獣でも、種類の区別あることを知れ」(仏教) 《人には区別ない・慈悲によって地のものを治める》 「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地の すべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」(創世記) 「人類にはそのように生まれにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない」(仏教) 《慈しみ》 「いかなる生物生類であっても・・・長いものでも、大きなものでも、中くらいなものでも・・・ 一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」(仏教)
140 :
神も仏も名無しさん :2007/09/29(土) 11:50:13 ID:t9xCdIDY
平安の境地(不死の境地)に至り、一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽であ れ・・・・・慈しみのこころづかいで生きとし生けるものに接しよと。一切の生きとし生ける者をあ われむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない。不死の境地に至った人は、神通力を得ている。 《善悪》 「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って 食べてはならない・・・・・女がその木を見ると・・賢くなるには好ましいと思われたから」 (創世記) 「悪魔の征服者・・・煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡りおわり・・・麗しい白 蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません」(仏教) 《自然で満足すること》 「林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである」(仏教) 「『われになし』といって悲しむことがない。苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩 に悩まされることなく、万物に対して平等である。動じない人について・・・その美点」(仏教) 「わが物という執着」「五欲の対象を貪ることなく、五感も第六の思考・意向を静めた人」 諸々の欲望に関する貪りを離れ、慈しみのこころづかいを崇高とし邪まな見解から離れ、敵意や 怨み、悩まそうとして怒りの念を離れた人は母胎に宿らないであろうと。
141 :
神も仏も名無しさん :2007/09/29(土) 11:51:52 ID:t9xCdIDY
神は自然を創造された存在として、「飯を炊き、乳を搾ってしまった、妻子とともに住んで、 わが小舎の屋根は葺かれ・・・神よ、もしも雨を降らそうと」生活のこころづかいさえ神の望 みではないと。煩悩の可能力を得て、生活活動をすることは妄執の範囲であり、『われになし』 といって何ものかを思って悲しんでも、それとは正反対の思いが神の望みとして、また、煩悩を 断ち、母胎に入ることがないようにすることが神の望みとしている。 仏教は明快で、神から人間の欲望を達成できないとしている。神=無所有で、五欲の対象も第六の 思考・意向も静めた修行完成者・ブッダを尊敬することで、「世界には我になし」という人がいま すがという迷いも存在しない。 《神=五欲の対象を満たそうとする人には、誰も自分のために働いてくれない》 <神いわく>「罪汚れなくして、常に浄らかさを求めている人には、毛先ほどの悪でも、雲ほどに 大きく見えるのである」「わたしは、そなたに依存して生きているのではない。またそなたのため に仕事をしてくれる人々がいるのではない」(仏教) 五欲の対象を満たそうとする自分の望みがある人は、自分で仕事をすること。神のためとして、 誰か何かできる人がいるわけではない。<神>「下女の汚れた衣のように、汚れて荒々しい男 に向かって、わたしは説いているのではない」=慈悲を崇高と心得た人 《与える功徳》 「信仰心あり、学び修めた賢明な人は・・食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ・・かれは、 天が雨降らすごとくに、その轟きを発するのである。その豊かな功徳の流れは、施しを与える人に、 降り注ぐ」(仏教) 重荷に耐え働き生きる人々も、苛酷なることなく貪欲なることなく万物に対して平等を忘れず に、貪り幸せを喜んでいる人は来世のために功徳を積めと教えているようだ。
142 :
神も仏も名無しさん :2007/09/29(土) 13:57:56 ID:HMx2UxKJ
イエスもからし種一粒ほどの信仰があるなら、桑の木に「抜け出して海に 植われと言ったとしても、その言葉どおりになるとして、神への信仰があ る人はいないと教えようとした。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人に も、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あ なたがたも慈悲深い者となれ。わたしを愛さない者はわたしの言葉を守ら ない。 いくら人がイエスを主よ主よと言ったとしても、真理の言葉に従わない人 は神知らず。人が神を知る時は、物質的な欲望もなく全ての幸福を真理と して知る時だから。行いによって神に義とされることもなく、自分のため だとできるような人が神の国を知れるようになるのだと教えようとしたん だろうね。 神に私は善いことをしましたと肉欲を満たせる人はいないし、信仰なき者 として、自分のために他人によくして喜べるくらいになれというのがイエ スの本音だろう。イスラエルは宗教しながらイエスを殺したが、そのため 信仰の対象となった。
143 :
神も仏も名無しさん :2007/09/29(土) 21:26:24 ID:QJT3PTWj
永遠も神も人が作った物を作らないし、それらから離れることを善、 人が作った物を人が勝ち誇ったように喜ばないために宗教はある。
144 :
神も仏も名無しさん :2007/09/29(土) 21:40:46 ID:QJT3PTWj
神は自然、永遠も快楽や欲楽、自分の持ち物の誇りなどなく、 公平で何も差がない役割、 人間は自分の手で物を作り楽しむから、そこに永遠へのつながり はなく、分け与えを果たす人は、少しはその役割を果たすわけ。
145 :
神も仏も名無しさん :2007/09/29(土) 21:50:44 ID:QJT3PTWj
マザーテレサはなぜ神に不信を抱いたか? もともと神は人の生活に必要な物を作らないし、貧富の差、 この世の苦難あり幸せありの差などもともと考慮に入れない 存在なんだ。 人は物質的な執着のない永遠にもとづき、分け与えを行うこ とをすれば、物をつくらず執着もない神を知ったことになる。
146 :
神も仏も名無しさん :2007/09/30(日) 08:33:30 ID:gSUSUd0j
人は神を知ったとか神に認められると言う考えの時は不完全な状態であると思う。 まさに、キリスト教なら、神にならなければならないのである。イエスが自分は神と一体であるといったように。 テレサさんは、この状態ではなく、イエスさんに逢いたいというような、自分と相対する人格を求めているので、 それは真実に反するので、暗黒の世界にいなければならなかったものと思う。 この大事なところを仏教は説いているんだよね。成仏は各人の修行によるとし、成仏は 全て平等な境地で、大乗によれば成仏しているものは、無数にこの宇宙にいるのである、と言っている。
147 :
神も仏も名無しさん :2007/09/30(日) 20:22:58 ID:LmXhK7/z
創造主、全知全能の愛情深い神を信じて、この世界を観察すると「神不在」の苦悩が生まれる。 イエスも神と言うな、敵意や憎しみ(仏教でいう煩悩)を捨て去ろうと思って信仰することが、 真実に向かう道だと教えたかったのだろうが、教えだけでは全ての人が行わないとしてイエス を信じさせた。神の存在は、悪いことをすれば神に叱られるような印象を与えるので、それな りに有効かもしれないが、 仏教は貪欲を捨て去ることを修行の目的としているので、貧しくてもそれなりの意義ある人生 があることを教え、慈悲を教えて悪を封じる。神や神々などの存在、業の輪廻により、自分の 行いは自分にかえってくるので悪をしようとしない。 神がこの世を創造したという印象により、この世で生きることを目的に信仰すれば、悩める者 が悩みから逃れることはできない。仏教はこの世からの脱出のための修行。貪らないようにし、 平穏な心で満足するようになれば、悩める者も苦悩から逃れられる。
148 :
神も仏も名無しさん :2007/09/30(日) 22:44:54 ID:k6Lugcqw
現実として、人が何を作ろうと、一切の幸福と安穏と安楽に反する物は作るべきではない。 誰かの幸福を奪い、安穏と安楽な生活を物を作ることはしてはいけない。 誰かが幸福と思うこと、安穏・安楽な生活の助けになるような物を作るべきだ。 世間のことの思い煩いから離れ、静けさや安らぎを求めるなら、世の中の苦悩から離れる。 何が一番正しいかといっても、全く悪の無い世界は彼岸であり「空」。人は正義や悪とい うこだわり、正しいものへの固執から離れ、一切の幸福と安穏と安楽を奪わないことに努 め、悩みを生み出すような貪欲を慎み、安穏な心で満足すれば、永遠から遠くないだろう。
149 :
神も仏も名無しさん :2007/10/01(月) 00:22:36 ID:cIrlkITt
おもしろいね
150 :
神も仏も名無しさん :2007/10/01(月) 21:20:00 ID:ZF0ckyD7
宗教の意図は、信仰により上(天国か成仏世界)を信じて、他人のあやまちや 平和を望んで世間を変えようと思わず、無慈悲であわれみもない悪を行わず、 何ものにも満足しない貪欲を慎んで、恣の行いをせず、誰かの役に立つように 働く。 自分には無いとか有るとか思わず、その他の自分の粗雑な思考を修め、精神を 安定統一させて、集中力を身につけ、真っ直ぐに歩む人間になること。
151 :
神も仏も名無しさん :2007/10/01(月) 22:33:51 ID:SGi857BR
事実として、思考の及ばぬ世界は、人間が全く存在しないと同等のいらぬ悩みも存在しない世界である。 他人の過失にも悩まず、世間の悩みも存在せず、失われた物への執着や、求めても得られぬものへの失望 や、その他諸々の悩みや苦しみに苛まれることなく、全くの安楽である。 この何も無いに等しい世界を喜ぶ境地は、一切の苦悩から解脱している。 世間から離れて自然などに安らぎを覚え、ひとり静かに瞑想していれば苦悩から遠ざかり離れることもで きようが、世間の中で働かないと人々は衣食住などを得ることができないだろう。 慈しみのこころづかいを崇高として、人が人に対していらぬ苦悩を与える存在となってはいけない。相手 の苦悩を取り除くくらいの能力あり理想的な人となれ。人という存在がわざと苦悩を生み出す存在となっ てはいけないのである。
152 :
神も仏も名無しさん :2007/10/02(火) 14:37:19 ID:D0qpOEgi
然り。 でも苦悩を撒くことの、故意と不意との線引きは容易づはありませんよね?
153 :
神も仏も名無しさん :2007/10/02(火) 20:35:48 ID:s7R6wHk2
「何ぴとをも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒り の想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。」仏典スッタニパータ 慈しみより 失敗や自分が病気で他人に世話をかけること、不慮の事故などはいいんじゃない。他人に苦痛を与えない心意気 が大事だと思う。他人に苦痛を与えた場合は、相手が納得するように謝ったりすること。
154 :
神も仏も名無しさん :2007/10/03(水) 21:12:11 ID:wDnQllbN
「神の沈黙と不在」 神を信じていた人々に、イエスは「神を信じなさい。よく聞いて おくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったこと は必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。」???だろ 父には、変化とか回転の影とかいうものはない。???だろ 上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。???だろ 結局、存在するような人格的な神はいないってことだよ。マザーテレサは そのことをようやく悟った。人の死後は、思考もなにもかも無くなり、病も 盲人やその他諸々の地上の困難がない世界を真実とし、永遠に安らぎと平安 となり、人格らしい存在も想像しなくなる。その時、完全な善となり、偶像 というものも一切抱かなくなる。
155 :
神も仏も名無しさん :2007/10/03(水) 21:32:27 ID:TEVNqBrt
なにが「ようやく悟った」だ。おまえがあってきいたわけでもないくせになw 思い込みの激しいタイプはこれだから。
156 :
神も仏も名無しさん :2007/10/03(水) 22:17:02 ID:c/8Q+Ib0
生きていることに充実し不満のない人。
よく運動し、太陽が美しいとか自然が楽しいとか、生きていることを楽しいと思う人。
一方、今生きていることに充実感のない人。欲求不満のある人など。
健康的な生活から離れ、少し危険な精神状態になった場合。
お化け、幽霊、上には人間のような存在(神など)を考え、信じるようになる場合がある。
人の精神状態によって、信じるものが違ってくるかも。
自分が永久には続かないから人格的な神は存在しないだろうという
>>154 タイプの人と、人々が
見たことないのにいると信じるタイプがあるよな。
人格的な神を信じるタイプは、誰かの想像を信じるタイプと自分で想像するタイプとに分かれる。
生きていることに充実している人は、他人などを切実に当てにしないから、他人の想像したものなど、
本気で信じないだろう。
157 :
神も仏も名無しさん :2007/10/03(水) 23:23:18 ID:9Kx8SU/I
そしたら神を信じたい人は、自分と同じような偶像を抱くことなく、 澄み切った青空や太陽のような白い光のようなものを想像し、愚痴や不満を 聞くような人間的な愚かな存在じゃないとして、自分もその澄み切った青空 のようになろう、太陽のように悪い者も良い者も照らす偉大な人間になろう と思えばいいじゃん。人間を想像するから変な感情がわく。感情的になる。 思考や想像もつかない偉大な存在は、想像も思考もしない時に知れると思え ば、誰かの想像や考えたことに惑わされなくて済む。
158 :
神も仏も名無しさん :2007/10/04(木) 22:14:06 ID:nJu28FFc
イエスとブッダの共通点とは? 真理真実とは? ズバリ自分で見つけろ!です。 その方法は語り継がれている。それが宗教です。
159 :
神も仏も名無しさん :2007/10/04(木) 22:14:37 ID:ypw/scr+
ドウモ〜〜〜ッ!!ハジメマシテ〜〜〜ッ☆☆(*⌒ヮ⌒*) 私は創価学会員〜〜〜っ♪(#⌒〇⌒#)キャハ うーんとー、私、新入会者がすっごくすっごく欲しくってー、\(⌒∇⌒)/ 探してたら(◎_◎)なんとっ!☆彡(ノ^^)ノ☆彡ヘ(^^ヘ)☆彡(ノ^^)ノ☆彡 あなたの素敵な戸籍♪を発見!!!!条件ばっちり〜〜(^o^)//""" パチパチパチ てなわけで、ついつい折伏しちゃったのらー(o^v^o) エヘヘ 会館に、逝ってくれるよねっ。(*^-^*) お・ね・が・い♪(* ̄・ ̄)ちゅ♪ッ え?逝ってくれないのぉ〜?(;¬_¬)そんなの死刑〜〜、ガ━━━(゚ロ゚)━━━ン 逝ってくれなかったら盗聴部隊と集スト担当が、( `_)乂(_´ ) ポア! \(^o^)/ ☆○(゜ο゜)o 信濃町ぱ〜んち、☆(゜o(○=(゜ο゜)o なんみょーほーれんげきょー!! ( ゚▽゚)=◯)`ν゚)・;'日顕宗くら〜〜っしゅ☆ (>_<) いてっ!ダメ!! ゛o(≧◇≦*)oo(*≧◇≦)o″ダメ!! (☆o☆)きゃ〜〜(@_@;)やられた〜〜(o_ _)o ドテッ ガ━━(゚Д゚;)━━ン! (+_+) 他宗絶滅。。。。・゚゚・o(iДi)o・゚゚・。うぇぇん <(゜ロ゜;)>ノォオオオオオ!! なあんて(#⌒▽⌒#)こんな公明党っ!σ(^_^)だけど、(///▽///) 半島の手先になってm(_ _)mくださいませませ♪('-'*)フフ ということで。(^-^)v ほんじゃo(゜▽゜ヽ)(/゜▽゜)o レッツゴー♪ それでは、今から他の戸籍も色々見てきまーすC= C= C= C=┌(^ .^)┘ (*^-^*)ノ~~近所の文化会館でネー☆'.・*.・:★'.・*.・:☆'.・*.・:★
160 :
神も仏も名無しさん :2007/10/04(木) 22:17:56 ID:nJu28FFc
教えにを鵜呑みにして、 あれ?違うな?と気づいて、ある日妙な事に気づいて。 ああ、そういう事か!の繰り返し。とても単純な事です。 真理真実というものは。
161 :
神も仏も名無しさん :2007/10/04(木) 22:19:29 ID:1QHnfCyh
あたしイエス。スピリチュアルなモテカワガール☆ あたしは訳あって援交やってるマグダラのマリア、 訳あって漁業してるペトロ、 訳あってユダヤ人なユダとつるんでる。 あたしのこと理解ってくれないやつらがいるけど、 あたしはヘーキ。 あいつらのことなんか、どーでもいい。 あたしはユダに裏切られた。 あたしは無理やり服を脱がされた。 あたしは十字架(クロス)にかけられた。 「ガッシ ボカッ」 あたしは死んだ。 アーメン(笑)
162 :
神も仏も名無しさん :2007/10/04(木) 22:21:31 ID:qCr0twaa
共通点があれば、永遠の命とか、そういうもんがあるかもしれない=50% 死んだら終わりかもしれないけど。 だが自分で見つけるのは大変。
163 :
本気@Eyes on me... :2007/10/04(木) 22:23:18 ID:5LyZWcz3 BE:164279423-2BP(0)
(#⌒〇⌒#)キャハ これかわいい。
164 :
神も仏も名無しさん :2007/10/05(金) 04:45:29 ID:Db5zOp9K
真理 真実 こういう姉妹いそうー。
165 :
神も仏も名無しさん :2007/10/05(金) 18:23:24 ID:LF9iOsE0
縁起してるから空である。どのような修行が必要なのか?
166 :
神も仏も名無しさん :2007/10/05(金) 18:39:41 ID:4nR3pBvZ
レベル低いな!coco! ┐(´д`)┌ヤレヤレ
167 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2007/10/05(金) 19:33:03 ID:y6zM3A83
>>1 イエスとブッダの共通点は無いな。
ヤソの真理真実と仏教の理法の間には、
巨大な河があるのだよ。
168 :
神も仏も名無しさん :2007/10/06(土) 00:29:30 ID:xLCvvhfK
釈迦の形なきものへの信仰は、永遠無限だからな。 修行は長々と意味不明の言葉を唱えたり、呪文のような感じのものに力あり と思っていた人々に、瞑想を教え、永遠にある安らぎを求めさせた。
169 :
神も仏も名無しさん :2007/10/06(土) 09:25:41 ID:i3ImsMm4
真実は空相であるというのなら、その真実に現実の不真実どう合致させていくか、これが問題だ。 執着するな、と言うが、執着するな、とはどういうことか?
170 :
神も仏も名無しさん :2007/10/06(土) 14:16:51 ID:HDHbY/S0
「安らぎは虚妄ならざる真理」自己の内に平安と安らぎを見出すことが永遠につながる。 「誤った修養方法を正す仏教」 1.自殺による葬儀・・・平安と安らぎを見出すことができないのに、世の悩みのために自己 を断滅してはいけない。 2.供え物・供犠・・・・霊は食べない。神々に供犠を捧げて見返りを求めることは欲念あり。 3.宗教行為による功徳・・・怠け者の親族。田や園に植え、橋をつくったり、休息所をつく ったり、生ける者の安穏や安楽な暮らしのために働いた人々の 功徳は増大する。もの惜しみの心を制して、貧困なる人々・旅 行く人々・宿無き人々・乞う人々・わずかな食物で暮らす生活 を守る修行者に与えるなら功徳あり。 宗教的行為より、慈しみの心の功徳、生きとし生けるものどもを憐 れむ功徳は十六倍以上も大きい。 4.呪文など聞いてもわからぬ語句を唱えるな・・・ 聞いて有益な言葉を一つ聞くほうが勝れている。一切の事物は我ならざるものだから、 物質的なものに執着し過ぎず、慈しみのこころづかいをもって分け与えたり、世の中の 出来事に動揺せず、また一部の感受作用を静めて、心の内に平穏を見出し永遠を持続す る。五感も第六の思考も自身に非ず、それらの貪欲を制して、静けさや安らいに真理を 見出す人々は、永遠に生きる。
171 :
神も仏も名無しさん :2007/10/06(土) 14:17:47 ID:HDHbY/S0
5.多くの呪文をやたらにつぶやいて内心は汚物・・・ 多くの呪文のような聞いてもわからぬ語句をやたらにつぶやいていても、内心は汚物に 汚れ、欺瞞にたよっている。王族でも庶民でも下水掃除人でも誰でも、精励してつとめ、 静けさや安らぎ、慈しみのこころづかいによる分け与え、一切の生き者の平安と幸福と 安穏と安楽を心得て、熱心であり、つねにしっかりと勇ましく行動する人は、最高の清 らかさに達する。 6.呪詛などのようなものに効力ありとする人々は無明・・・ 「わたしが乞うているのに、あなたが施してくださらないならば、いまから七日の後に、 あなたの頭は七つに裂けてしまえ。」偽りをもうけたそのバラモンは、呪詛の作法をし て恐ろしいことを告げたが、仏教では祈祷などになんらかの力があると思う人は無明で ある。 7.誓いや清浄とか不浄とか願い求めるな・・・ 誓いや清浄とか不浄とかいってねがい求めることもなく、安らぎに固執することもなく、 (1)奉仕すべきである・(2)快楽は享受すべきである、快楽に欠点はないという愚 かな説を離れ、二つの極端説から離れ、「世の中は泡沫のごとしと見よ、世の中はかげ ろうのごとしと見よ、身体は泡沫のごとしと見よ、身体はかげろうのごとしと見よ。」 という何ものにも執着し囚われることのない道を歩む人は、真理に通じる人。 8.哲学にも騙されるな・・・ 「一切の哲学的断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。」 ああだろう、こうだろうと考えられたことも虚妄であり、見られたことは見られただけ のものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたこ とは考えられただけのものである知り、識別されたことは識別されただけのものである と知ったならば、苦しみが終滅する。
172 :
神も仏も名無しさん :2007/10/06(土) 14:19:18 ID:HDHbY/S0
「一切の事物は我ならざるもの」だから、世の中への気づかいも思いわずらいが生まれるならば慎 んだほうがよい。しかし、自分たちの幸福や安穏や安楽な生活を築くために人々は働く。他人の過 失を責めることなく、かえって憐れんで助けてあげたほうが、その人から喜ばれることもある。 五感も第六の思考・意向も自身ではない。相手の考え方や意向を聞いてあげたほうが、相手に喜ば れる場合がある。自分の五欲を満たそうとするよりも、他人の幸福のことを考えられる人の方が、 相手から好まれる。温順であることは人が真理を現している。 「一切の形成されたものは無常である」「一切の形成されたものは苦しみである」貪欲・憎しみに より世界は消滅すると。思考が平穏・安穏・安楽に結びついた時、人々は平穏・安穏・安楽な生活 を生み出すかもしれないが、満足しない心・贅沢に結びついた時、環境破壊・地球温暖化などの問 題を生み出す。平安と安らぎ、心の内の安穏を求めている人は、世界の終極に至り、そのままの状 態で平安と安らぎに至るだろうから、この世もかの世も望むことを捨て去ること。 飢えた人々、災害などで苦しむ人々を助ける哀れみの行為は、多くの人々が正しくない行為としな い、乞う人々に自分の所有物を分け与えようとすることも、善いことと思う人々は多い。基本的に、 苦しんでいる人々を助けることは善いことだと人は思っている。自分に親しい仲、よくしてくれる 人など関係なく挨拶をすることも、誰も敵対せず安穏に暮らしたいという心の現れだろう。 しかし、善や正しいことが社会環境の変化や他人から言い聞かされる別の言葉によって失われるこ とが多い。それで人は永遠を知ることがなくなるのだろう。
173 :
神も仏も名無しさん :2007/10/06(土) 16:33:23 ID:eLQ+AmqZ
>>169 仏教には、年老いて白髪になり死ぬよりも前に妄執を離れよという教えがある。
修養者は、世間を厭い離れ静かな自然の中で瞑想により安らぎという真理に迫る。
世間の人々には真理からの教えとして、自分の貪りを慎み、憐れみにもとづく分
け与えを教えたかったのだろう。安穏・快適な暮らしのために、世間の安楽な暮
らしを心得て働くことや、人々が五欲の対象を貪り続けることにより、自然環境
破壊による世界の終わりまで予言できたのかもしれない。
わが物という執着から離れるのを事実として、今現在は誰にも与えない物を惜し
む心をやめなさい、乞う者、哀れまねばならない人がいれば、哀れみの心ととも
に分け与えよという教え。全ての執着から離れる時は、年老いて死ぬ間際でもよ
い。
174 :
神も仏も名無しさん :2007/10/06(土) 23:20:24 ID:i3ImsMm4
よくべんきょうしておられる方々がおられるのを知ることは、友を見出したものと思います。
175 :
神も仏も名無しさん :2007/10/06(土) 23:59:31 ID:yNDQYDw1
イエスも「わたしが空腹のときに食べさせ、かわいているときに飲ませ、旅人で あったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいた ときに尋ねてくれたからである。」 「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わ たしにしたのである。」 仏教の旅行く人々に与えるなら功徳ありとの共通点は偶然だろうか。 創世記の善悪に、仏教の善悪、上の世界が本当にあり地上で人々に教えることは おおむね決まっていたと想像してしまう。共通点があるということは、宗教の教 えに興味を持ってしまう。
176 :
神も仏も名無しさん :2007/10/07(日) 09:01:40 ID:nHGx+ua1
宗教が真理真実と別なものなら、それは偽りであり、悪魔の教えである。 真理真実はひとつである。二つはないのだ。一つならその教えも同一になる。
177 :
神も仏も名無しさん :2007/10/07(日) 14:10:48 ID:F7V1/OKT
偶像×(バツ) 神の摂理=自然+(プラス)永遠にあるもの 無意識(裸であることを意識しただけで失楽 男女の性差の意識 他に対する善悪の思考など) 思考から生み出されないものは自然 静けさ・安らぎ・世の中の苦悩のない世界=永遠もそのとおりになる(完全に静か・安穏・安楽) 一切の不幸なく苦悩や困難もない世界を思い続ける境地 もしも、自分を善人と人に言うことなく、他人の困難や苦悩を取り除こうとする人がいれば、そ の人を受け入れること。自分が善人となにものか(誰かに)思わせようとすることもなく、飢え た人など、その人の思いで不幸だと感じる人を無意識に助けられるようになる心。 他人を自らの思考で管理することも無く、怒りも憎しみも怨みも敵意も何も無い世界。
178 :
神も仏も名無しさん :2007/10/07(日) 14:11:48 ID:F7V1/OKT
肉欲(肉体) 目で見て、耳で聞いて〜思考で判断して その六つを増すごとに永遠から遠ざかる。 人が五感を喜ばすことに努め、考えられるものであって好ましく愛すべき意に適うものの貪りによ って永遠から遠ざかる。 世界の終わり(終極) 世界の終わり(終極)があるとしても、自然の摂理(神の摂理)に逆らって、自然に起きると予測 する。 人類が五欲の対象を貪り続け、思考が貪欲に結びついた時、自然環境破壊を生み出し、自然災害な どが起き、飢えや略奪、敵対意識が生まれ戦争が起きる、失われたものへの悲しみ、失望。 しかし、人が真理を思い続けているかどうか自然に試される時。心を磨いていない人は裁きに巻き 込まれる。人類の終わりまで、指導者(救い主)は現れない。 善い者であったのになどは関係ない 自分が善人であったのにと言って、受け入れてくれる偶像なるものは存在しない。 世にあるものを真実とせず、世の初め人の手でつくられたものが一切なかった時のように、執着な く安らぎや、地より一切の不幸なく苦悩や困難もない世界を思い続ける境地に安住している人は、 そのとおり世界を受け入れることができるだろう。一切のものの安穏と安楽で安らぎに満ちた幸せ な境地の世界が訪れる。
179 :
神も仏も名無しさん :2007/10/07(日) 14:47:44 ID:fwxqs8mM
「悪魔の征服者です・・・煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡りおわり・・・・・ 麗しい白蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ、サ ビヤは師を礼拝します」(仏教) 彼岸に渡りおわり、創世記のように善悪の両者に汚されなくなった釈尊。平安の境地に達して、 「海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」 (創世記) いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、長いものでも、大きなもの でも・・・一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。神が生き物を創造したのは、人に慈しみ のこころづかいをもって治めさせようとした。 林の荒地に住んで、蓮の花の香りを嗅いだ修行僧に対し、神は、「下女の汚れた衣のように、汚れ て荒々しい男に向かって、わたしは説いているのではない・・罪汚れなくして、常に浄らかさを求 めている人には、毛先ほどの悪でも、雲ほどに大きく見えるのである・・・わたしは、そなたに依 存して生きているのではない。またそなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない」 釈尊―煩悩の可能力を断って、仕事をせず森に住み、わずかな食物で暮らす生活を守る。 イエス―罪のゆるしと、「働こうとしない者は、食べることをしてはならない」(聖書)で、 仕事しない、わずかな食物で暮らせと教えてはいない。
180 :
神も仏も名無しさん :2007/10/07(日) 14:48:23 ID:fwxqs8mM
《肉に汚れた者》 「下女の汚れた衣のように」(仏教) 「肉に汚れた者に対しては、その下着さえも忌みきらいなさい」(聖書) 《顔色が明朗》 神「森に住み、心静まり・・・日に一食・・・顔色はどうして・・明朗なのであるか?」 釈尊「未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている」(仏教) 「断食をする時には・・・陰気な顔つきをするな」(聖書) 《その日一日だけを》 「あすのことを思いわずらうな・・・一日の苦労は、その日一日だけで十分」(聖書) 《食べようという思慮の抑制》 「善を喜び・・・『わたしは何を食べようか』・・・『今夜はわたしはどこで寝ようか』―家を 捨て道を学ぶ人は」(仏教) 「信仰の薄い者たちよ・・何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかといって思い わずらうな」(聖書) 森に住み、日に一食を取るだけの生活。修行者の行いを仏教の中心としたために、世間一般 には通じないとしてお経を唱えることになったのだろう。親類の法要でお経を聞くが、文字 は教えを伝えるものと思っていると、仏典には無益なことばを唱えるよりも、聞いてわかる 有益なことばをひとつ聞くほうがよいと、そんな感じの良識的な教えがある。
181 :
神も仏も名無しさん :2007/10/07(日) 14:49:19 ID:fwxqs8mM
《唯一の神》 「地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にい ます父である・・・あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである」(イエス) また他の或る神は、尊師のもとで、この詩をとなえた。 「ブッダに帰依した人々は・・・悪しき境地におもむくことはないであろう。かれらは、人間 の身体を捨てたあとでは、神の身体を満たすであろう」(仏教) 「偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知 っている・・・多くの神、多くの主があるようではあるが、わたしたちには、父なる唯一の神 のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の 主イエス・キリストのみがいますのである」(聖書) 人間はその身体を捨てたあとで信仰の対象が何であるのか完全にわかる。何を食べようか、 未来のことにあくせくせず、あすのことを思いわずらうこともないならば、目で認識でき、 誰かの考案で生まれた偶像を信仰の対象にしているよりも、真実の信仰対象に近づいてい る。
182 :
神も仏も名無しさん :2007/10/07(日) 16:38:54 ID:zzGRMj1j
日本人の感覚で、愛の神様と聞くと人格的な存在だと思ってしまう。 世界を見れば自然災害、飢餓に苦しむ人もいるし、どこが愛の神様? キリストの言う神は、肉体と肉体でない世界を分けた法則のような 神で、「愛の神様よぉ、もうちょっと災害を少なくしたら?」と話 かけられるような幼稚な神じゃないんだ。
183 :
神も仏も名無しさん :2007/10/08(月) 01:08:34 ID:ir9GUbeM
真理は、死が正常で生が異常。 生が正常で、死は異常なことと勘違いしている人があまりに多い。
184 :
神も仏も名無しさん :2007/10/08(月) 01:14:52 ID:ir9GUbeM
無が正常で有は異常。 有が正常と考える人は世俗のものに執着する。
185 :
神も仏も名無しさん :2007/10/08(月) 16:51:01 ID:+4aY1Wz9
“真理”という言葉を使うから人は混乱する。 スレタイから真理とか真実とかいう表現を除外した方が良い。 宇宙に元からはたらいている秩序や規則性、神の見えざる手のやりくり・・・、 こんな表現が良いんじゃないかと。
186 :
神も仏も名無しさん :2007/10/08(月) 17:22:56 ID:ir9GUbeM
完璧は無の世界にしか存在しない。 有の世界で完璧を求める人間は徒労に終わるであろう。
187 :
神も仏も名無しさん :2007/10/08(月) 20:17:20 ID:wrnjrRJN
この世は罪汚れで、自分は清いとか正しいとか思っている人より、 物質世界の中でいる以上、自分に対する思い上がりの少ない人の ほうが気楽かも。全部自分が製造した物の中で暮らしているわけ ではないし。 自分のことを他人より偉いとか正しいとかいう人は、人のいない 山の中で暮らすと正しいよ。
188 :
神も仏も名無しさん :2007/10/08(月) 22:10:56 ID:ir9GUbeM
自分という概念は有です。 自己は滅却されるべきなのです。
189 :
神も仏も名無しさん :2007/10/08(月) 22:56:42 ID:qRekEuru
何事も意識し過ぎってことだな。こだわりや哲学的断定も「空」から離れる。本当はこのような人間の 意識活動の無い世界は何も無いに等しい。何も無いから勝手なことをしていいかというと違う。 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安、平安の境地が在るとして、偶像なるものは存在し ない。 この世では一切の生きとし生ける者の幸福と安穏と安楽を害ってはいけない。一切の生きとし生ける者 をあわれむ修行完成者であるブッダに罪過は存在しない。イエスのようにあわれみを教え、聖霊を汚す 者はいつまでもゆるされない。思い上がるほどの奉仕をしろと言っているわけではない。 他人に対して無慈悲でなかったら後は別にこだわりや何かを意識し過ぎというのも真理から外れる。
190 :
神も仏も名無しさん :2007/10/09(火) 07:14:38 ID:ZjkDAtvR
>>187 人と対話しない人は死んでるようなもの。偉いというのなら、その訳を聞きたいもの。
正しいと言うなら是非その人の言い分を聞かせてもらいたいもの。対話を通してそれぞれの場所に落ち着く。
乱暴な物言いは止めましょう。むかつくのだ。
仏教で言うところのイエスは仏陀 2人とも未来永劫の真理を得た人 キリスト教はイエスの教えを説く教え 仏教は真理を得ることを説く教え
192 :
神も仏も名無しさん :2007/10/09(火) 20:42:18 ID:OKPaJURB
「ねがい求める者には欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。 この世において死も生も在しない者、―かれは何を怖れよう、何を欲しよう。 或る人々が、『最高の教えだ』と称するものを、他の人々は『下劣なものである』と 称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?かれらは自分の教えを『完全 である』と称し、他人の教えを「下劣である」という。」(スッタニパータ) 釈尊の神は、「わが心は従順であり、解脱している。永いあいだ修養したので、よく ととのえられている。わたくしはいかなる悪をも存在しない。神よ、もしも雨を降ら そうと望むなら、雨を降らせよ。」(スッタニパータ) 「世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲心が世間の汚れである。苦悩が世間の大き な恐怖である、とわたしは説く。」(スッタニパータ) 「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中 にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのと おりに成るであろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、す でにかなえられたと信じなさい。」(マルコによる福音書) 修行により死も生も在しない者となって、怖れも欲もない者となる仏教。 神を信じきって、あなたの思いわずらい、欲求などはすでにかなえられたとして、思 いわずらいを捨て去れと教えるイエス。勇気や自信は大切だろう。
193 :
神も仏も名無しさん :2007/10/09(火) 21:39:04 ID:kdCQZuf5
>>127 >日蓮は縁起と空相を排斥しているのだ
これ本当?
だったら問題だなあ。
194 :
神も仏も名無しさん :2007/10/10(水) 02:12:31 ID:IgrOZiss
死は何の為に存在するのかな?
195 :
神も仏も名無しさん :2007/10/10(水) 06:47:51 ID:QMR5FFkK
>>194 物質の状態が変化するからでしょ。人間の場合、それでシステムが破壊して、意識がなくなる時点から死と名前をつけて、区別しているけど
197 :
神も仏も名無しさん :2007/10/12(金) 00:07:05 ID:wsWKLjWX
仏陀は世の中を厭い離れ、修行を積んで悩みなき人となられた。 世の中を厭い離れることができず、世間の妄執に悩まされる人々は、 貧困な人々、乞う人々など他人の悩みを取り除く人々の行為を悩みなき清浄な世界からの行為と知って、 真理の教えに信仰心あり、もの惜しみせず、貪欲を正しいこととせず、 罪汚れあり悩みある多くの人々は、信仰により心の内の平穏を願う。
198 :
神も仏も名無しさん :2007/10/12(金) 03:15:57 ID:+1/WYa9+
>>196 腕を失ったとしてもそれは死ではないし、
痛みできを失ったり、眠りについて意識を無くしてもそれは一般的には死とはよばない。
観念的にはそうとも言えるかもしれないが。
死の定義も面白いかもしれないがややこしくなるので止めとく。
ただ単に変化することの必然として死があるだけなら
むなしいような気がするがまあしょうがない。
…じぁ、なんで変化しなければいけないのかな?w
199 :
神も仏も名無しさん :2007/10/12(金) 03:26:38 ID:+1/WYa9+
>>197 よくわかっちゃいないけど、
信仰とは癒しを求める行為である。
そのくらいが丁度良い気がする。
>>199 もともといわゆる信仰なの?仏教って。
修行はあるようだけど信仰が目的?
キリスト教は信仰そのものみたいだけども。
201 :
神も仏も名無しさん :2007/10/12(金) 04:23:35 ID:3xzvtMLN
神智学あたりだとどうなんだろうか。ナカーマ?
202 :
神も仏も名無しさん :2007/10/12(金) 04:51:33 ID:JKFic0vP
シャカ族王子、ガウタマ=シッダールタ
203 :
神も仏も名無しさん :2007/10/12(金) 04:57:45 ID:+1/WYa9+
パンピーなのでイメージでしか語れないが、 法華教のように呪文を唱えれば極楽に行けるとかあるので 信仰ではないとは言い切ることはできないような気が。 あとジンチガクは、それがなんなのかさえ知らない。
204 :
似炎 :2007/10/12(金) 17:03:32 ID:ojZx95RZ
>>198 変化とは消滅に対する抵抗である。
宇宙でさえ消滅する。
ましてや人間などと言うちっぽけな物質が消滅の法則から逃れている事の方が不自然である。
ただ、法則に抗い生命の物質面はその種を残す。種を残している限り消滅とはいえない。
人の意識、魂、そのエネルギーは新しく生まれた物質に記憶として引き継がれていく。
宗教もその端くれである。
先に言っておく。抵抗に意味などない。
205 :
神も仏も名無しさん :2007/10/13(土) 12:12:21 ID:9Dy9jrce
離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、捨て去らねば ならぬ――聡明な人はわれらの現在のこのような生存状態は永続しないと知っている。(仏典) 思考の及ばない静かな境地、平安の境地、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安、 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 考えられたことなど思考の消滅とともになくなる。漠然としてあるものが真理。 平安・安らぎ・一切が安穏で安楽で悩み苦しみなく幸せな世界と表現・怒り、憎しみ、怨み、 敵意、物質的なものへの執着ない・五感も思考も意向も意識活動も感受作用も識別もない・ 平等・公平と表現・世間のざわめきなき静かな所・このような自分自身さえ存在しない・過ぎ 去るものは虚妄〜神々が存在したとしても、人が神を知る場合、そんな境地に至ってから知る と想定する。このような悪しき者の配下・妄執に従属した状態で知ることはない。
206 :
神も仏も名無しさん :2007/10/13(土) 12:13:41 ID:9Dy9jrce
唯一の神は地上にも影響を与えている。飢え、渇き、自然災害などで命の危険性のある人を助 ける行為、人の苦悩を取り除くことを清浄と心得て無意識に行う。他人に分け与えたりする。 怒りや憎しみなどを心に重く感じ、怒り憎しみを楽しみとして生きているわけではない。 過ぎ去ったことは忘れてしまう、いつまでも過去の記憶を背負って生きているわけではない。 公平性を尊重しようとする。五欲の対象を享受すべき、快楽は享受すべきと常に考え生きてい わけではない。人の苦労(労働)で生み出されたものに価値を見出すのみで生きているわけで はなく、自然などに楽しみを感じる人もいる。他人の考えに従うなら、その人から見返りを求 める場合がある。自分の意向に従ってくれた人に、感謝する場合がある。考え方の相違により 対立し争っている人々を見て、第3者は賢いことをしていると思わない場合がある。憎しみや 敵意を抱いて常に争っている場合、幸福とは言い難い。親しい人でなくても挨拶する場合があ る。自分の肉体にこだわっていると、老いや死に悩む場合がある。 自分の思考も含む肉体のみに生きるに非ず、他人の思考により生み出されたものに従うのみに 生きるに非ず、漠然とある真理の影響を受け入れ、それに反することのないよう、死がある。 恣に生きるに非ず、誰かの思考支配が永続されないためにも、公平であるためにも、肉体の死 は必要なもの。
207 :
神も仏も名無しさん :2007/10/13(土) 12:14:50 ID:9Dy9jrce
人の手でつくられた物から離れて、常に罪汚れなく清浄に生きているわけではない。不浄とい うものが全く存在しない世界が、思考の及ばぬ意識活動もない世界である。 思考により物質世界や世間が生まれた。常に罪汚れなき世界に生きるのではなく、罪汚れある ことも神はゆるされた。 宗教的行為によって、感謝したり、力あるものへの思いを抱き、不平を抱かず、足りないこと への願い、不安や恐れなど悩みを取り除くこと、信仰により願いが叶えられ、欲を抱いて目的 を達成しようとせず、地道に生き働くことが生み出される。 人が考えたこと、学ぶことに生きがいを求める極端説は、思考が消え去った時に消滅する。 学んだことは学んだだけで終わりなのに、それが日常生活にも全く関係なく生かされない宗教 的な奇異な教義は永遠にも地にも存在しない虚妄を学ばされているだろう。 永遠にあるものは「空であり無相」であるから、この世のことでのいらぬこだわりや迷いを捨 て、安穏な心にするために宗教はある。
208 :
神も仏も名無しさん :2007/10/13(土) 20:22:43 ID:wj4Mgdp5
┏━━━━━━━━━┓ ∧_∧ 10/14 京都11R 芝・右 2000m ┃第12回秋華賞(JpnI) .┃(´∀` )<指名が入ったモナー ┣━┯━┯━━━━━┻○━○━━━━┯━┯━━━┓ ┃1 │1 │(外)ヒシアスペン [牝3]│55│池 添┃ ┃1 │2 │(父)(市)ミンティエアー .[牝3]│55│蛯 名┃ ┃2 │3 │(父)ブリトマルティス [牝3]│55│ 幸 ┃ ┃2 │4 │(父)ザレマ [牝3]│55│川 田┃ ┃3 │5 │(市)ラブカーナ .[牝3]│55│吉田隼┃ ┃3 │6 │(父)カレンナサクラ ..[牝3]│55│武士沢┃ ┃4 │7 │(市)ピンクカメオ .[牝3]│55│後 藤┃ワイエム ┃4 │8 │(父)マイネルーチェ [牝3]│55│大 野┃ ┃5 │9 │(父)アルコセニョーラ [牝3]│55│中 舘┃ ┃5 │10│(父)(市)ハロースピード 、[牝3]│55│松 岡┃ ┃6 │11│(父)(市)ベッラレイア .[牝3]│55│武 豊┃清 E川田 吉田均 今井 ┃6 │12│(父)(市)ホクレレ [牝3]│55│藤岡佑┃ ┃7 │13│(父)ダイワスカーレット [牝3]│55│安藤勝┃B川田 柏君 東原 ┃7 │14│(父)市)タガノプルミエール.[牝3]│55│橋 本┃ ┃7 │15│(父)クィーンスプマンテ _[牝3]│55│鮫島良┃ ┃8 │16│(父)ウオッカ [牝3]│55│四 位┃由希子 田中 藤川 安田 ┃8 │17│(父)レインダンス [牝3]│55│武 幸┃ ┃8 │18│(外)ローブデコルテ .[牝3]│55│福 永┃ ┗━┷━┷━━━━━━━━━━━━━┷━┷━━━┛
209 :
神も仏も名無しさん :2007/10/13(土) 22:30:35 ID:X7m6QYXW
釈迦の教え・・・離欲を基本として信仰活動に励む キリスト・・・・キリストが神の右に座し、上にあるものを思うべきであって、地上の ものに心を引かれてはならない 神は人のために自然を創造されたのだから、その命令に従わなかった人は、悔い改め る。或いは貪りを避ける。
210 :
神も仏も名無しさん :2007/10/13(土) 23:49:07 ID:snzRn/IG
真理真実は一つであるという真理から、モーゼは神を空性と捕らえていると考え、 その空性が万物を創造したというのは、モーゼと言う真理真実を悟った菩薩の方便であると 言わなければならないと思う。空即是色というのがこれ;モーゼの天地創造に当たるのでは? と思う。方便であるから、実体あるものではないのである。であるから、キリスト教において モ、被造物に止まるような教えはない。天国:神の国を求めるように言う。
211 :
神も仏も名無しさん :2007/10/14(日) 04:31:44 ID:eOZ6HfyT
欲を否定し 思考を否定し 価値を否定する 確かに悲しみも苦しみもない世界かもしれない。 ただそこには喜びも楽しみもない。 無で有り、空で有り、闇で有る。 人は生命はそれとは対極の存在である。 どちらの存在が正しいとはいえないが 人を否定する宗教は野暮じゃないかな。
213 :
神も仏も名無しさん :2007/10/14(日) 15:58:37 ID:kqYn5Bir
科学的な考え ◎死んだら無になる。思考も意識活動も全く存在せず、完全な消滅で永遠というものが無い。 ×飢えた人に食を与えるのも、瀕死の人を助けるのも、災害に遭った人を金銭の有無を聞かずに 助けるのも、人に親切にしたり、自分の持ち物を返してもらうつもりなく欲しい人に与えてし まった行為も、考えて意識的に行っている。 ○怒り・憎しみ・敵意なども、それらが何も幸せの役に立たない、互いを尊重すべきと考えて、 法律などによって、公平性を確保しようと考える。 ×他人に挨拶することも、物質的な物への喜び、サービスを受けることのみならず、人が自然を 楽しむのも、考えて意識的に行っている。 △自分の思考・意向や五欲の対象を人に押し付けるより、他人の考え方を尊重したり、他人の意 向や五欲を喜ばすこと、自分も世の中からして欲しいと思うくらいのサービスや物質的な提供 をしたほうが、人々から支持される。自分の考えが一番正しいと主張するよりも、自分の知識 や能力が社会の幸福に役立って人々から支持されたほうが自分にも益がある。 良いか悪いか、ああだろう、こうだろうと考えてから行動しない場合がある。 〔神〕「どれだけの日時にわたって修行者の行いを行うべきであろうか?もしも自分の心を制する ことができないならば。」 〔釈尊〕「自分の粗雑な思考をおさめとり、何ものにも依存することなく、他人を悩ますことなく、 束縛の覆いを完くときほぐして、なんぴとをも謗るな。」 人間の粗雑な思考が、自然体といえるものを阻害する。世にある善いことを否定し、特異で 奇異な思考を持たせるためではない。
214 :
神も仏も名無しさん :2007/10/14(日) 15:59:37 ID:kqYn5Bir
あなたがたの父なる神・彼岸である平安の境地・安らぎが無意識に働く ◎万物が神に帰する時、霊体より消滅が安楽と説く釈尊の教えで、全ての世界に影響を与える平 安と安らぎ(清浄世界)が人の思考にも無意識に働いて、安穏・安楽でない者を安穏・安楽に、 悩み苦しみの無い世界(清浄)が働いて、他人の苦悩を取り除こうとしたり、社会が快適に、 苦難ありの生活を取り除こうとする。勿論、貪らず、静かな安らぎを楽しみ、心の内の平穏に 満足すれば、活動(起動)するよりも清浄である。しなければならぬ時にできる立場であるの にしないのは無慈悲で不浄。 ◎われらのこのような生存状態は永続せず、特異で奇異な知識は人間であることが無くなった時、 失われ永続することはない。 仏教・・・平安の境地に達して、一切の生きとし生けるものは幸福・安穏・安楽であれ、怨みなく 敵意なき慈しみを行うべし。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。一切の生きと し生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない。信仰心あり学び修めた 賢明な人は、食乞う人々に飲食物を与えよ。貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、 乞う人々に施しとして与えよ。自分の粗雑な思考をおさめとり、他人を悩まさず、謗ら ず、貪欲、怒り、有身見(われ、わがものとかいう観念を離れる、おれがおれがという アートマンを乗り越える)、誤った修養方法を正しいとせず、瞑想により静かな安らぎ を楽しむ修養方法を正しいとし、精神を安定統一するまで。
215 :
神も仏も名無しさん :2007/10/14(日) 16:01:02 ID:kqYn5Bir
イエス・・・あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。空腹の時 に食べさせ、かわいているときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であった ときに着せ、病気のときに見舞う。あやまちをゆるし、自分の目にある梁を認める。 求める者に与え、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人 と共に二マイル行きなさいという言葉を心得ておく。あいさつを親しい仲間以外にも する。温順。 〔神〕「罪汚れなくして、常に浄らかさを求めている人には、毛先ほどの悪でも、雲ほどに大きく 見えるのである。」(仏教) 肉体より霊体、霊体より消滅が安楽として、五欲の対象の貪りも抑制し、何ものかを信ずることな く、作られざるものを知り、思考の及ばない静かな境地を瞑想により具現化する仏教。世を厭い離 れ、静かな安らぎに安住する人々は、何ものかを信ずることはない。 「人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。」(創世記) 被造物である人が考える力を得ても、霊の思いもないと永久に生きない。霊の思いは、あわれみの 奇跡のように、安穏・安楽でない人を安穏・安楽に、全ての存在が苦悩無きことを真理・真実とし ているだろう。それが慈悲でもあり、公平・寛容でもある。他人の苦悩を取り除こうとする心が霊 の思いだろう。イエスはさまざまな病苦など悩む人をいやし、自分につまずかない者はさいわいと 教えた。思考と五欲ばかりで霊の無い人もいるかもしれない。また、全ての平安を喜んでいるだろ う。 人間の粗雑な思考など無い。悟りの境地は「空であり無相」。静かな安らぎの中で、特異・奇異な 知識・思考を修めてから慈しみを崇高とする。
216 :
神も仏も名無しさん :2007/10/14(日) 19:10:25 ID:GN1S3SoM
「愚劣な人が富みを得ると、自ら用いることなく、他人にも与えない。健康な人・智慧 のある人は、富を得たならば、自ら用い、親族の仲間を養って、人から非難されること なく、天の場所におもむく。」(釈尊) 「『さわるな、味わうな、触れるな』などという規定に縛られているのか。これらは皆、 使えば尽きてしまうもの〜上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座 しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに 心を引かれてはならない。」(聖書) 人間の考えや五欲の対象を享受して生きているだけでは永遠は得られない。 一切の安穏・安楽世界の思いを抱いて、一切の悩み苦しみなき心も抱いて、他人 に対しても、悩み苦しみを除こうとする心も持ち合わせないと、人間が考えたこ と、五感のみで生きると、自分が存在しなくなった時に、本当に闇に帰するかも しれないということだろう。とりあえず自分の心を静かな安らぎで精神を安定統 一させてから、他人の悩みも除けるくらいの人となることだろう。
217 :
神も仏も名無しさん :2007/10/15(月) 16:46:09 ID:MaM52/Lb
>>216 >永遠は得られない
欲を満たす為に、欲を捨てよと説く。
>闇に帰するかもしれない
悩み苦しみが無いのであれば、闇におびえる必要もない。
そのような存在になったのなら、天国も地獄も関係ない花に囲まれようが釜で煮られようが。
また、苦しみと喜びは表裏一体のものである。喜びだけの世界はなりたちようがない。
生と死もまた表裏一体のものである。
欲を思考を価値を否定することは死を賛美しているにすぎない。
死は
そのような苦楽をもった生命であることからの解放であり、闇への回帰である。
人が生まれたとき与えられる唯一の絶対の権利でもある。
心配しなくても死は必ずおとずれる。
生の存在であるうちは、精一杯苦しみ楽しめば良い。
218 :
神も仏も名無しさん :2007/10/15(月) 19:44:17 ID:EJA8qpKR
―世の中のどこにも、わたしは害いを見ない―仏陀 世の中に害いを見る時は、世の中、他人が自分の考えどおりにならない時。
219 :
神も仏も名無しさん :2007/10/15(月) 21:55:59 ID:tZucDC0r
自分の考えが正しいだけでは世の中通じない。 自分の考えがを他人にも身近な人にも通じると思い、他人を自分の考え通りにしようとする。 違う考え方を持って生きようとする人を悩ませる。どちらが一番正しい考え方かと迷った時に、 思考も煩悩のうちだから、相手の考えも尊重することが大切だ、何人をも悩ませないようにす ることが大切だと悟らせようとしたんだろう。 如実に思考も及ばぬ静かな境地、思考を静めれば安らぎと説き、世尊として世の中で思考と思 考の対立を避けて生きることも大切だと悟らせようとした。 「子ある者は子について憂い」子が自分の考え通りにならなかったら暴力を振るう事件もある。 寛容や慈悲よりも、他人が自分の考え通りにならなかった場合の事件も多いだろう。
220 :
神も仏も名無しさん :2007/10/16(火) 02:20:04 ID:IDdD8PvH
んーいまいちなにを言いたいのかわからない。 ゆうこと聞いてくれない子がいてなやんでるの?
221 :
神も仏も名無しさん :2007/10/16(火) 18:15:57 ID:5FG0sRhn
ブッダもイエスも人はその人の考えどおりに生きればいいって。 だから、どうして人が他人の考えに支配されることがゆるされようか。
222 :
神も仏も名無しさん :2007/10/16(火) 18:56:42 ID:h9PRc72T
基本的に人それぞれの考え、生き方でいいが、 宗教という集団が正しいと信じ込んでしまうもの、 集団に影響を与えそうな力を持った人が、ただ自分の考えが 正しいとかで人々に影響を与えないようにするために教えが あるのだろう。
223 :
神も仏も名無しさん :2007/10/16(火) 19:31:57 ID:RDpR2qvf
基本的に人それぞれの考え、生き方でいい。 宗教という集団で影響を与えそうな力を持った人が ただ自分の考えが正しいとかで、 人々に影響を与えないようにするために 教えがあるのだろう。 でいい?
224 :
神も仏も名無しさん :2007/10/16(火) 20:02:32 ID:nQimQlUh
「世の中のどこにも、わたしは害いを見ない。それ故に、一切の生きとし生けるものどもを 憐れみながら、われは眠る」(釈尊) 「人をさばくな・・人を罪に定めるな・・ゆるしてやれ」(イエス) 「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の梁を認めないのか・・・偽善者よ、まず自 分の目から梁を取りのけるがよい」(イエス) 「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこ ととしなかったこととだけを見よ」(釈尊) 「他人の過失を探し求め、つねに他人を見下して思う人は、卑しい性質が増大する。かれは 実に真理を見ることから遠く隔たっている」(釈尊) 「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスは」(イエス) 真理は見えず、触れることもできず、かたちで現すことができず、しかし、多くの人 々の中にも普通なら大なり小なり存在しそうなもの。他人の過失を責め立てながら、自 分のすることが人々を悩ます行為であっても平気な人はおかしいとか、特殊なことが一 番正しく後は間違いであるということはない。
225 :
神も仏も名無しさん :2007/10/17(水) 22:24:07 ID:RJROMjE2
粗暴・残酷であって、陰口を言い、友を裏切り、無慈悲で、極めて傲慢であり、 ものおしみする性質で、なんぴとをも与えない人々、―これがなまぐさである。 非難するべきことは説き、基本的に他の過失を問わないから、争いは起きない 教え。他の過失をいろいろ理由をつけて探し求めることが愚かな事。
226 :
神も仏も名無しさん :2007/10/17(水) 22:48:13 ID:psIe2Xm6
ウソ偽りの世界にいる事が苦痛なのである。ウソ偽りの世界とは、縁起の世界である。 縁起の世界とは、相対の世界を実在の世界と見ることである。千変万化してものが実在しているとし, これが良いか、あれが良いか、これが優れているか、アレが優れているか、 これは幸せになる方法か、アレが幸せになる方法か、と迷わせる。これをとっては、アレが良かったのではないか、 と後悔する。縁起の世界に留まるなら、まさに地獄である。迷いの世界である。 縁起の存在は実体のない幻であると知ったなら、千変万化しているものに囚われる事から逃げることが出来る。 自分を他人と比較しない。幸せに差があると考えない。時間に差があると考えない。 ある立場になれば幸せになれるのだがな〜と妄想しない。何処にいようと、どのような気持ちであろうと、違いはなく 同等な空性で一相、無相の真実であると理解し、信仰して、心を定め、不動でなければならない。 と言う事になると思うが、どう思う?
227 :
神も仏も名無しさん :2007/10/17(水) 23:24:51 ID:TuQ9q0wN
―執著(しゅうちゃく)を去り、あらゆる苦しみを捨てた賢者は、見聞きしたことに汚されない― ―かれらには無が有であるかのごとくに見られている。真理を見る人には何ものも存在しない― ―すでに得たものと、これから得られるはずのものと、この二つは塵ほこりであり、病であると知 って、心を安定統一した智者は〜世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ、 身体は泡沫のごとしと見よ、身体はかげろうのごとしと見よ。このように観ずる人は― ―自分にひとしい、あるいはひとしくない生まれ、生存をつくり出す諸の形成力を聖者は捨て去っ た。内的に瞑想を楽しみ、心を安定統一して、自分の覆いを破ってしまった― この世の煩悩に結びつける誘惑に勝つために信仰はあると思う。
228 :
神も仏も名無しさん :2007/10/18(木) 01:46:11 ID:/ZSLuP1i
仏教も外来教、しかも仏教も白人の宗教なのを知らない日本人がけっこういる。(笑 仏教の生れた所のいわゆるインド人てな人種的にアングロサクソン(白人)の仲間 。
>>228 ニチャンならではのトンデモだな。(笑
侵略者のアーリア人がバラモンとなり、時代と共に混血が進んでから、北方のヴァイシャだかクシャトリアだかのラージャから釈迦は生まれた。
生粋のアーリア人(白人)は、その頃のインドに居なかったらしいぞ。(笑
>>229 未熟ものだなー。(笑)インド人が白人の仲間であることはちょっとした識者なら皆知っている事実だろ。
そんなに仏教をモンゴロイドが作りだしたものにしたいのかい? まさか仏像見てモンゴロイドっぽい
からそんなこと言ってるんじゃないだろうね? あれはブッダの顔じゃないだろうに。w
インド人は人類学上りっぱに白人として分類されている。
インド人の肌が浅黒いからって人種差別するのは良くないと思う。
図書館で本が読めない人はネットで「インド人」で検索すれば結構ひっかかるよ。
たとえばwikiでは ↓
○白色人種
インド・アフガン人種: インダス低地およびデカン西方
アナトリア人種: ヒンドスタンの西全域
ちなみにインド人種は古代より欧州方面に流れ住んでいて「ケルト人」の総称で呼ばれ、
現在の東欧地域、未成国時代のフランス セーヌ川流域、その他南欧、現在のアイルランド、その他
各地域に流れ住んでいる。例えばフランス セーヌ川流域に住み着いたインド人を「ゴール人」と呼び
この土着人に進行してきたローマ人が混ざってできたのが現在のフランス地域の民族の大元になっている。
(ジプシーと呼ばれる南欧の移動民なんかもインド人)
なので現在のフランスとか東欧諸国人の中には帰化人ではなく生粋のラテンやスラブでありながら
インド人そのものの顔立ちや肌の色をした人が多くいる。これらは隔世遺伝的なものであると学会では
言われている。ケルト人(インド人)の欧州地域での呼名は土着化した地域によってまちまちなので、
最近の欧州人類学会では「ケルト人」の呼称をやめ、「ケルティックピープル」と呼び方を改めている。
しかしこれにはウラがあるそうで、近年に欧州でケルトブームと呼ばれる懐古主義が起こった時に、
それまでは学者しか知らなかったようなケルト人=インド人の系譜を一般人が知り始め、もともとインド
やらアジアに差別的意識を持つプライド高い「白人ども」が、自分たちのルーツを知って一時混乱が起
こった。つまり自分たちの祖先にインド人がいる事を認めたくなかったわけだ。
特に英国ウェールズ地方などは王室も多いから「事実を見えないように」せねばならなかったのだろう。
なんといっても英国はかってインドを植民地にして奴隷のように採取してたからね。
なので、かってはひんぱんに目についた「ケルト」の文字は、最近になって伏せられるかのように
表面には出て来なくなり、欧州の雑誌や新聞や街の看板からも「ケルト」の文字は消えてしまった。
>>229 のように中途ハンパな知識だけで知ったつもりになると大きな間違いを犯すので気をつけねばならん。
私も人類学を30年「しか」やっていないが欧州まで度々足を伸ばして研究している。人類学は「枝」だけ
を学んでいたのでは間違った知識を身につけることになる。必ず「幹」のところまで辿りつかねばいかん。
>229氏にはもっと勉学に励んでもらいたいものだ。 以上めんどくさいからあとは御自由に!
232 :
神も仏も名無しさん :2007/10/18(木) 15:57:16 ID:mdTo5S7s
>>226 男が憧れる男像かもしれないね、不動心。健さんみたいなストイックで静かでブレない男。
ただ、自分はなりたいかというとまだいいかなと。w
死を目前にした時そのように枯れた心持ちでいられたらいいなとは思う。
むかしはその事を考えただけでワクワクしたことでも、いまでは下らないと思うこともある。
わずかでも悟ってきたともいえるし、残念な気もする。
子供がそんな風であったらなんか物足りないと思うだろう。
人間、死ねば仏様。善人も極悪人も。
ものすごく真理をついていると思う。
生きている人間は自分もふくめ、納得したくない人もいるだろうが。w
>>231 つまり、ブッダもイエスも白人つながりであるといいたいのですね。
さらに進めると、モンゴロイドには元々道徳的な宗教は必要とされていなかったと。
233 :
231 :2007/10/18(木) 16:32:47 ID:/ZSLuP1i
>>232 そこまでストイックな意見は持ち合わせておりません。
ただし、世界的に「日本は仏教国である」というような間違った認識をもたれる方が多く、
また、仏教が日本のオリジナル宗教だなんて思っているDQNな方がけっこう多いのです。
キリスト教は白人の外来教で仏教は黄色人種の日本の宗教だなどと思っている方も多いので
神道が日本の土着宗教ですよという正しい認識を一応もっておいてほしいのです。
あと、別な話しですが。
芸能人とかの無教養な人は、「仏教のお祈りは手のひらを合わせてするから、キリスト教
のお祈りは仏教と同じなわけないから手の指を組んでするものなんでしょう?」とよく聞かれ
ますが笑ってしまいます。ちなみにカトリックでは仏教と同じく手の平をあわせるのが
正式なポーズなんですよね。もちろん指を合わせる亜流なことをしても怒られはしませんけどね。
手のひらを合わせてお祈りしていると仏教徒だと思われたりしますけど、カトリックもイギリス国教会
聖公会も手のひらを合わせるのが祈りのポーズですからね。正教会にいたってはそんなポーズは
いっさいしないくらいですからね。とにかく日本人なら仏教がアタリマエ、という誤認識は嫌ですね。
おヴァカな連中に多いけど…。
234 :
神も仏も名無しさん :2007/10/18(木) 21:12:02 ID:Z5CZUg7Z
>>227 如来なる仏は、彼岸に達した大仙人であるが、かれに二つの思いがしばしばはたらきかける。
(1)安穏という思い (2)人を離れて孤独を楽しむ
望むこと無く、生きとし生ける者どもを観じて、世のためを思うている(世尊)。
この世またはかの世におけるいかなるかたちでも、これらはすべて悪魔の褒め称える
ところである。魚を殺すために餌が投げ込まれたのである。
多くの呪文をやたらにつぶやいていても、内心は汚物に汚れ、欺瞞にたよっている。
論争が起きたときにも、党派にくみすることがない。
〔仏陀〕
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、
争い、そねみ、怒り、党派心、
〔聖書〕
仏陀やイエスも形あるものへの信仰(偶像礼拝)や呪文のたぐい・まじないといったものから、
多くの人々がなんとなく思っている永遠にある善いところ、病苦も様々な悩みを抱えることも
ない一切の安穏・安楽で幸福なるところを教えとした。
235 :
神も仏も名無しさん :2007/10/18(木) 21:13:15 ID:Z5CZUg7Z
あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、 たちまち消え行く霧にすぎない。 この世の有様は過ぎ去るからである。わたしはあなたがたが、思い煩わないようにし ていてほしい。〔聖書〕 身体は泡沫のごとしと見よ。身体はかげろうのごとしと見よ。世の中は泡沫のごとし と見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。〔仏陀〕 しかし、平安の境地に達して、一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽で あれ、敵意なき怨みなき慈しみのこころづかいはこの世で崇高な境地。〔仏陀〕 様々な病苦などに悩む人をいやしたイエスを主として、身体も霧のようで、この世も本当の自 分ではない。病苦などをいやされるあなたがたの天の父を信じることが永遠にもある自分だと して、敵を愛し、人によくしてやり、あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも 慈悲深い者となれ。〔聖書より〕 実際、現実的にも病など苦しむ人を助けることが善いとすることは人の心の内にあっても、 人を病にすることが善である人はほとんどいない。真理はかたちで現すことも、つくるこ とも、考えて生み出すこともできないが、人の内のどこかに存在し、それを説く言葉に従 うことで、人里離れた所のみで安穏を築くのではなく、世の中を安穏にし、人が精神を安 定・安穏にできるようにする。
236 :
神も仏も名無しさん :2007/10/18(木) 22:29:25 ID:v02oGQve
イエスもブッダも、身体・世の中から離れて、病苦など悩みの無い一切安穏安楽 世界に身も心も置く境地となるか、そのようなものは慈悲と説き、持続して永久 の存在となるか、世の中でも他の過失をゆるし、慈しみのこころづかいがある人 が多いと、人からくる悩みの少ない安穏な世の中となるかといったような教えだ から、争いの少ないはずの宗教。 ブッダは別に世の中から離れて、仙人の道も説いた。ここらへんがイエスと違う だろうが、世の中から離れた人は世の中で争わない。 御利益宗教、この世かこの世から離れこの身体も今の人間の思考もなくなるは ずだろうに、妙に変な宗教教義を人が考えだすので、オカルト宗教が生まれる。
237 :
神も仏も名無しさん :2007/10/19(金) 05:55:22 ID:Lz57pySj
イエス=みのもんた 釈迦=草野仁
仏陀はプリズンブレイカー
239 :
神も仏も名無しさん :2007/10/20(土) 22:03:07 ID:soiRc1h/
世の中どこにも、害を見ない。生ずることと滅びることとのこの二種の道を知れ。 諸行無常 〔一切の形成されたものは無常である〕と明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみか ら遠ざかり離れる。 一切皆苦 〔一切の形成されたものは苦しみである〕と明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみ から遠ざかり離れる。 諸法非我 〔一切の事物は我ならざるものである〕と明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみか ら遠ざかり離れる。 これこそ人が清らかになる道である。ことばを慎み、心を落ち着けて慎み、身に悪を為しては ならない。この三つの行いの路をたもつならば、仙人の説きたもうた道を克ち得るであろう。 精神が安定統一され、あれこれ考えて心が乱れることなく、あれこれ考えるのをしずめるのを楽し む人、恐れること無く、わずらいの無い人、更に無欲ならば、最後の身体である。
240 :
神も仏も名無しさん :2007/10/20(土) 22:03:53 ID:soiRc1h/
「自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」聖書 「わずらいの無い人」仏教 聖書では、身を慎み、目をさましていること。全知全能の神が身を慎み、信仰のある人をかえりみ ていて下さる。 仏教は、欲楽から離れ、静けさや安らぎと目指し最後の身体を目指す。 世と世にあるものとを、愛してはいけない。肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たもので はなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。 「肉の働きは明白である〜泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。」聖書 「実に人々は歓楽にふけり、楽しみもとめて、生まれと老衰とを受ける〜彼岸にわたることを求め る人々は享楽に害われることがない。」仏教 他人をむやみに悪だとすることなく、世と世の欲とを過ぎ去るものと認め、滅びから永遠に向 かおうとする人の信仰。
241 :
神も仏も名無しさん :2007/10/20(土) 23:31:51 ID:+Emw8dpP
―怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者 は、苦悩に追われることがない。束縛を断ち、苦しみもなく、願望もない人― 仏陀 ―そのように解脱した人に敬礼する人々も、また称賛されるべきである。 かれらもまた理法を理解し、疑惑を捨てて、束縛を超えた者となるから である―仏陀 願望もなく、無一物となり苦悩に追われることがない仏陀に敬礼する人々も、称 賛されるべきであると仏陀。生きながら彼岸を達成した仏陀に敬礼する人は、そ のうち束縛を超えた者となると。 もの惜しみしない人々が、仏陀と真理の教えとに対して信仰心と熱烈な尊敬心を もつことにより善い運命となって生まれると。
242 :
神も仏も名無しさん :2007/10/21(日) 13:10:47 ID:A1ny5hZF
○世界は六つにより害われる 五感も第六の思考も自分だと思い、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、 考えられるものに執着して害われる。 あれやこれやと考えることを静め、精神を安定統一すること。 考えられたこと、学んだこと、見聞きしたことさえ執着し囚われない。 快楽は享受すべきだとしない。名称と形態にこだわらない。識別・感受作用を静める。 いかなる形ある物も信仰の対象としない。 ○心というものに一切のものが従属した 動揺・思念・空想をしない。 ○世界は妄執に従属した 一切の生きとし生ける者の幸福と安穏と安楽、慈しみのこころづかいを崇高、一切の 生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しないと学び、無慈悲 で冷酷・残忍な行いをしないこと。貪りのため何人をも害わないこと。奉仕活動をす るべきであると思いなし、思い上がりの生ずるまでのことをしない。
243 :
神も仏も名無しさん :2007/10/21(日) 13:11:34 ID:A1ny5hZF
◎健康的な精神は永遠に通じる 「今日我らは美しい太陽を見、美しい朝に逢い気持ちもよく起き上がった。」 「人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛着なき人々は楽しむ であろう。かれらは快楽を求めないからである。」 サーヴァッティー市に住しておられた時も、楽しいと。五欲の対象を貪り求め、快 楽に耽溺しない人々は心が汚されず、あれやこれやと考えることを静め、見聞きし たこと、考えられたことなどに執着し囚われない人は、どこにいても心から楽しい という気持ちが湧いてくるのだろう。 ◎功徳と法に安住する人々 「園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休憩所を与える人 々」「貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々、飲食物の少ない人々に施 し与える人々」 生ける者の幸福と安穏と安楽のために考え生き、施し与える人々は法に安住し戒め を保つ。自然に見られる貧窮な人々、宿無き人々、乞う人々、飲食物の少ない人々、 瀕死の状態の人々を助ける行為には、功徳があるとしている。
244 :
神も仏も名無しさん :2007/10/21(日) 13:12:44 ID:A1ny5hZF
◆無明(闇)をもたらす人々 @形あるものへの執着・識別、また形あるものへの信仰 A快楽・享楽・五欲の対象は享受すべきだとする思想 B考えられたこと、学んだことへの執着・囚われ C宗教行為に功徳あり D呪文のたぐい・呪詛の作法のようなものになんらかの力があると思わせること E聞いてわかり心の静まることばを語らず、意味のわからぬ語句よりなる詩をとなえ る人々 F死んだ人はその人の業によっておもむき、生きている人が手の届かぬものであると いう理法を教えぬ人々 G供養物などを霊が食べるとして、供養物を捧げることを教える人々 H現世での迷いなく、こだわりなく、健康的な精神を見出すことを教えず、このよう な今の生存状態が永続すると宗教的行為によって導く人々 I何かに依拠させ、その他のものはつまらぬものだと教える人々 J見たこと、学んだこと、考えられたことに執着させ、論争をし、これが正しいとか 正しくないとかの迷妄の性質に蔽われている人々 K怠け者で、五欲の対象を欲しがるが、世間の幸福と安穏と安楽に努めようとしない 人々、 L無慈悲で冷酷・残忍で暴力を振るい、謗り、他人を悩まし、何人をも何も与えよう としない人々
245 :
神も仏も名無しさん :2007/10/21(日) 14:13:00 ID:mlwRFCX6
闇の軍隊としての形ある物への信仰、特定の考え方の支配 を防ぐためにも、仏陀は空であり無相を説く。 迷いと苦悩の無い人々は、修行僧のように森の中で瞑想し、 仏教信者も、何も無いが、美しい太陽に感動したり、森や 林で楽しめるような人々、どこにいても五欲の対象の貪り よりも、心の中の安穏で満足するような人となれと。
246 :
神も仏も名無しさん :2007/10/24(水) 21:51:14 ID:mwvllbmP
正しく精神統一し、空相に有るなら、毒蛇、やぶ蚊、像なのどの心配もなくなるのだ。 釈尊が臨終の時には、あらゆる動物が人間とともに集まったと言うのは、この釈尊の見地から 説明されなければならないと思う。
247 :
神も仏も名無しさん :2007/10/24(水) 21:52:45 ID:X86nfR5l
「ゴータマ・ブッダの弟子たちは神々を念じる」 バラモンに貪欲と牛を犠牲にする供犠が生まれた。 ブッダは貪欲を制し、慈悲を完成させ迷いに陥らず、苦悩なき人となった。 多くの人々は、信仰により他人を害することなく、安穏を願い信仰をする。
248 :
レインボマン :2007/10/24(水) 21:59:03 ID:FDPf6zZk
249 :
神も仏も名無しさん :2007/10/26(金) 17:43:18 ID:QptZ6QBg
250 :
神も仏も名無しさん :2007/10/28(日) 17:26:10 ID:wIC0YokS
ある覚者が言いましたがやばい。 皆自分の悟りが他の人ひとりに認められ、それが他のひとりに認めさせ、 それをまた他のひとりに認めさせようと布教に努めることを正当化し、 分裂・分派を生み出した。 イエス・ブッダとも素直に信じない。そこらへんにいる人の言うことも 信じない。日本で有名になった人も信じない。 しかし、共通点があればそれを参考にする。事実であるかどうか自分で 考え客観的になる。 真理・真実を求める時、誰の考え言ったことも素直に信じてはいけない。 自分で聖典などに書いてあることを参考にしながら、自分で考えないとい けないと思う。
251 :
神も仏も名無しさん :2007/10/28(日) 18:18:42 ID:wIC0YokS
聖書や経典に書かれている共通点とみられるもの、同じような意図を示すもの があっても、それを書いてあるから事実として認めるのは自然ではあるが、聖書 や経典に書かれている共通点を参考にしても、他人の意見を参考にしない。 仏教も様々な形式の仏教に分かれているし、キリスト教も分かれている。 仏教もキリスト教も、同じ教祖であるのに、時には対立するような教えとなるの は信じた人の見方で捕らえ方が違い、信じた人の見方で他人に話すから同じ教祖 の教えでも食い違いがでる。 仏教もキリスト教も、違う教祖であるのに共通点があるなら、その教えは真理・ 真実に近いと思う。
252 :
神も仏も名無しさん :2007/10/28(日) 20:32:08 ID:nDhlw9Fk
釈迦が仏教の開祖、キリスト教のイエス。教えを展開して新しい教えをつくり出す。そして宗教の開祖のようになり、 または教えから自分の感じたことが一番正しく、後は正しくないと誰かに教え伝える。そしていろいろな宗教ができ、 対立や一番正しいものができるわけだが、教えとして書いてあることを読んで、共通点を見つけたほうがまともな教 えを学ぶことができるかもしれない。そのような意見なら自分も同意する。 釈迦もイエスも信じようと思わねばならないという思い込みを捨て、事実として拒否できないことなら真実の教えと して受け入れよう、妄信を捨て究明をしても、これは事実に近いものなら真実の教えとして受け入れればよいじゃな いか、そのような姿勢ならいいと思う。 仏教も「真実の教えと偽りの教えを見分け、偽りを捨てよ」という教えがあるし。
253 :
神も仏も名無しさん :2007/10/28(日) 22:29:28 ID:dakgMv14
ホメロスのイリヤスに、ネストールの話で、巨岩を遠方までらくらくと投げる話が出てくる。 これは奇想天外なお伽話ではない。 原始経典にも、釈尊が巨岩を投げ上げたり、粉々にする話が出てくるのと同様な原理に基づいて説明されるべきである。 誰か説明を試みてみて欲しい。
254 :
神も仏も名無しさん :2007/10/28(日) 22:38:16 ID:dakgMv14
>>253 訂正
粉々にする話が出てくるのと同様な原理に基づいて説明されるべきである
↓
・・・・・話が出てくるが、その原理と同じ原理に基づいてネストールの話も説明されるべきである
255 :
神も仏も名無しさん :2007/10/28(日) 22:54:42 ID:GXDjCSVH
前スレのリンクがないので、誰だか不明。
>>1 ちゃんとフォロー汁〜
257 :
神も仏も名無しさん :2007/10/30(火) 09:49:47 ID:N/PZG1HM
「この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなた がたにできない事は、何もないであろう。」(イエス) 決して死を味わうことのない境地、不死の境地があると知って、同時にイエスのこの言葉 も真実であると体験し知ったとしても、 私がそのことにこだわり、思い続けていた時に神の言葉を聞き、 「あなたは、人の手でつくられた物を必要とし喜んでいるではないか。」「真理・真実を喜ぶ のはまだ早い。」 と言ったとしても、「そんなことは考えられない、嘘だ」と普通なら言うだろう。 だから、今の時代は神により罪がゆるされ、人には善悪判断ができ、賢くなって肉の主人に仕 えられる時代。霊能力・奇跡などを期待する人は、世の創めのように、人の手でつくられた物 を一切必要とせず、世の中から離れて、常に静けさや安らぎを求めて、罪汚れないよう努める 人。人の手でつくられた物を必要として生きる世の中では不法。
258 :
神も仏も名無しさん :2007/10/30(火) 09:50:45 ID:N/PZG1HM
自分の思い煩いのある人は、神に祈り「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられた」と 信じ、「肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのではなく、 キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。 あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それ に相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。」を行うことを望まれている時代。 「あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。」 「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」 人に敵意を抱き、憎むことを善いことだとする人は少ないし、人によくしてやり、何も当てに しないで貸してやることを善いとする人は多い。そのようなことを受け入れて生きる時代。 世の終わりになって、様々な病苦もなく、困難もない全てを幸せにする神と奇跡と敵意や憎し みなど一切ない世界を真実として知るだろう。 今は、奇跡などを常に念頭に入れず、思い煩いのある人は「すでにかなえられた」と信じ、人 の考えでもわかる「人によくしてやる」「隣人を愛す」など愛を大切とする時代。
259 :
神も仏も名無しさん :2007/10/30(火) 19:24:46 ID:jmm3o+7W
261 :
神も仏も名無しさん :2007/10/31(水) 22:16:34 ID:H106AXI+
前スレ持っているならリンクかカキコのコピーを貼ってよ。 誰か判らん。
263 :
神も仏も名無しさん :2007/11/01(木) 14:43:11 ID:KOl9wgIi
264 :
神も仏も名無しさん :2007/11/01(木) 14:44:42 ID:KOl9wgIi
265 :
神も仏も名無しさん :2007/11/01(木) 19:12:54 ID:adHrkQ0Y
不死の境地であり平安の境地があり、このような人間の思い、思考概念も無くなり、人間は 今の思いか、平安と安らぎに至るだけだから神は人格的に存在しない。 とそのように神は人格的に存在しないと考えて、生まれる前は無に近く平安・一切苦悩 無き安らぎ、今人間が存在しても平安を害わず、他人に苦悩を与えなければ、平安と他 人に苦悩を与えないのだから罪は無い。他人から貪らず、苦悩を与えず働いて、平安を 害わないようにすれば、今人間となって存在しても、存在しない時のようにこの世の平 安を乱さず、他人に苦悩を与えないから良いだろう。そして、再び生まれる以前のよう に無に帰し、平安となり苦悩を受けることもないだろうと。 しかし、「私を信じよ」と。「根底にあるものを悟ったからといって悟りにならず、信仰 にもならない。」と。 平安・安らぎ→今生きて、この世の平安を乱さず、他人の安らぎを害わないように他 人に害を加えず→平安・安らぎに再び至る ではないと。
266 :
神も仏も名無しさん :2007/11/01(木) 19:13:31 ID:adHrkQ0Y
仏教徒でもキリスト教徒でも、この世の欲楽から離れて信仰に熱心な人々は「右」。 働いて、一切の生きとし生ける者の幸福と安穏と安楽を害わずに生きていても、物質的な ものに執着し、享楽・欲楽を貪る人は「左」だと言われたのである。 平和だ平和だと喜んで、働いて物質的な幸せを享受したからといって、人格神は快く思っ てはないようだ。 ビデオカメラやデジタルカメラ、ゲームなどに趣味があるが、それらに興味を持つことも、 その他のデジタル機器やTV番組を見ることすら、人格神は快く思ってはいない。 平和、平和といって、あらゆる楽しみができ、「浮世」を快く思っているのは人間だけで、 人格神は快く思ってはいなかったのである。 むしろ信仰に熱心で、この世の欲楽から離れようとする人々は「右」だとされ、浮世離れ ができない人にはつらい言葉を聞かされた。 平安や他人に害を加えないことは多くの人々の根底にあり大切なことだが、物質的な物へ の楽しみ、欲楽から離れようとすることで信仰が完成されるということだろう。 神が存在しても、物質的なものを喜んでいると「欲が深すぎる」など、戒められるだけで、 嬉しくなり楽しくなるようなことではない。
267 :
神も仏も名無しさん :2007/11/01(木) 19:20:30 ID:KOl9wgIi
dat落ちしていてアクセス出来ない。orz どんな事書いていた?その人。
269 :
神も仏も名無しさん :2007/11/02(金) 00:11:17 ID:01KipZok
>>268 まあ、どっかの本に書いてある事だけどね!
270 :
神も仏も名無しさん :2007/11/02(金) 04:07:08 ID:mENH6BGl
>「この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。 >このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。」(イエス) これは仏教ではありえないですね。 一切皆苦ですから。不可能だらけですから。 さて 都合のいいこといって偽りの希望を与えるのは 釈迦ですかイエスですか。
新スレでは、仏教解説が殆どで、ロム専門だったけどカキコします。 マタイ17章 17:14 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。 17:15 「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。 17:16 お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」 17:17 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」 17:18 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。 17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。 17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
イエスは聴衆の理解度に応じて様々な比喩を用いて話している。ただ、比喩の理解は、話した状況や、聴き手の推論能力にもよるので、難しい箇所もある。 このくだりでは、強い信仰に基づく信念こそが、神の意志に沿った行動の基本であり、この様な信仰なくしては何事も成就しない、と言う事の比喩だろう。 信仰さえあれば瞬時に山が自動で移る、と云う事ではないと思う。 無論そうではなくて、信仰があれば、山を移す様な一見馬鹿げて困難な事でも、実は可能なのだ、という事かと。 ただからし種一粒ほどの信仰、とは言っても、凡夫に取っては相当高度なものを要求している、とは言えるかとも思う。
273 :
神も仏も名無しさん :2007/11/02(金) 22:58:47 ID:CLLT/XfH
イエスはストレートに語った。 「よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかっ て『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできな い事は、何もないであろう。」(マタイによる福音書 17) イエスはストレートに永遠の命の世界のあなたを示した。 「イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるように しておられたが、」(ルカによる福音書 7) 釈尊は修行を完成させ彼岸に到達した。 「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない。」 人間が善い世界、永遠の世界を知る時は、このように劣った姿ではない。病苦も無く、 全てが苦難もなく、安穏で安楽な世界で、地のものを真実とすることも無い。 しかし、今は考えられることはできないが、信じていること。 「世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあり得ない。」(仏典) 「わたしは、世界の終極に達しないで苦しみを消滅する、と説くのではない。」 (釈尊)
274 :
神も仏も名無しさん :2007/11/02(金) 23:45:33 ID:WPL97kXr
イエスもブッダも人知では知れない世界を知って説いた。 強い信仰で苦難を乗り越え、真っ直ぐ生きよう、というような大乗 仏教もあるような。 信仰にはそれを信じるありがたみと、力強さもあるよ。
Faith is an assurance of what is hoped for a conviction of unseen realities. 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認する事である。(ヘブル人への手紙11-1) And though I have sufficient faith for the removal of mountains, but I have no love, I am nothing. だが、たとえ山を移す程の強い信仰があっても、もし愛がなければ、私は無に等しい。 There remain then, faith, hope, love, these three ; but the greatest of these is love. このように、何時迄も存続する物は、信仰と希望と愛と、この三つである。然し、このうちで最も大きなものは、愛である。(コリント人への第1の手紙13-2,13)
276 :
神も仏も名無しさん :2007/11/03(土) 09:45:25 ID:vpFVzRtP
>>275 >Faith is an assurance of what is hoped for a conviction of unseen realities.
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認する事である。(ヘブル人への手紙11-1)
何を望むかは関係ないのか?
277 :
神も仏も名無しさん :2007/11/03(土) 23:41:43 ID:vpFVzRtP
真実が天国:神の国:浄土:仏国土 いかなる罪(真実に反する事象)が生じたので万物が生じたのであろうか?
278 :
275 :2007/11/03(土) 23:44:48 ID:IT7nn+pI
Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen. (これはiBibleの英訳文 substanceは重要なものについての確信 275は国際ギデオン協会発行の新約聖書の英訳文 assuranceもほぼ同義) ともに〜hoped for は受け身になっているので、hopeするのは人間ではなくて、神だと思いまする。 神が人間に望んだ事を確信するとは、古くは、モーゼがシナイ山の山中で授かった厳格な十戒、新約では、神への愛を通じた人への愛なのでしょうか? つまりは、信仰が深まれば深まる程に、神が人間に託された思い、意志が見える、という事かも?
279 :
神も仏も名無しさん :2007/11/04(日) 03:49:10 ID:A+5k5TG+
彼岸に到達して悪魔の征服者となり、善悪の両者に汚されない。 草や木にも種類の区別あることを知れ、這うものにも、水の中に住む魚どもにも、翼 を乗り物として虚空を飛ぶ鳥どもにも・・・種類の区別あることを知れ。 平安の境地に達して、いかなる生物生類であっても、長いものでも、大きなものでも、 中くらいのものでも・・・一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。 何ぴとをも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならな い。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んでは ならない。あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の 生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみの意を起こすべし。 上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。 この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。(仏典より) 荒野で修行に励む修行僧に対して、五欲の対象を享受するおもいが生じた。 神は常に罪汚れなきことを求める修行者がそのようなおもいを持つなら、かえって雲 のように汚れが大きく見える。誰でもあなたのために働くことがないから、働きなさ い。何によって善きところに行けるか、慈しみのこころづかいを崇高として、諸々の 欲望に関する貪りを除いた人は、再び母胎に宿ることがないであろう。(仏典より)
280 :
神も仏も名無しさん :2007/11/04(日) 03:49:57 ID:A+5k5TG+
思考の及ばぬ静かな境地で、人の手でつくられた物を一切所有せず、森の中に住み、 一切が安穏であり安楽である平安の境地とともに、この世で一切の生きとし生けるも のは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれと生けるものの幸せをおもい慈しみのここ ろづかいがあれば罪汚れはない。 自然は生じていて、人は賢くなり考えることにより、様々な物が生まれるようになっ た。上に、下に、また横に、障害なく一切の安穏と安楽と幸福をおもう慈悲心のまま で、平安の境地で一切の事物は我ならざるものであるなら、他に善悪を見ることはな い。 賢くなり物が生まれ、世間が生まれ、貪りや他に悪を見る思いが生まれ、一切の安穏 と安楽に反し、無慈悲や冷酷・残忍、暴力など様々な思いが生まれた。 世間(欲望世界)の中にあっても、恣の行いをしないで、人の手でつくられたものへ の慎みを教えたり、他人の過失を見ないよう自分のしたこととしなかったこととだけ を見よと教えたり、慈悲深い者となれと教えたりして、貪欲より満足、悩むより自然 を楽しめるような健康的な精神、他人の過失を責め立てることなく、慈悲を崇高とし て他人によくしてやれるような人をつくることが釈尊が願ったことだろう。 修行僧は自分をよくととのえて自分の主となる。苦しみの彼岸として、この世で人が 彼岸を目的として生きるというのではなく、空であり無相世界は何も迷いがなく、平 安の境地は、貪りなく一切の生きとし生けるものは幸福であり安穏であり安楽となる から、自制心を身につけ、慈しみを崇高として生きよと教えた。肉体は消え去り、あ りとあらゆるものへの執着は滅亡するもののうちにはいるが、慈しみは永遠であると。
281 :
神も仏も名無しさん :2007/11/04(日) 11:37:26 ID:CUBxM6Zk
花火を見に行っても、映画を観に行っても、おいしい物を食べに行っても、神は快く思わ ない。自分たちは豊かになったとこの世間のことを喜んでいると、 「ぬるい」人々は働き、生きる人々の幸福と安穏と安楽な暮らしをつくりだした。働き、 人々がこの世で幸せを享受することはよい事である。しかし、神は 「左れ」と。 なかなか自分は言うことを聞けないけれど、この世の物質的な幸せを享受することを快く 思わない存在だったのです。 聞いていると聖職者やお坊さんなど、世間の欲楽から離れている人々ぐらいしか認めない ような存在。 「富んでいる人々は地を生きつづける。」霊体となって生まれ、神に愛されることはない。 「朽ちる」「土に帰する」「旅する人々となる。」肉体も心も消滅して土に帰る。別の誰 かとなって世界のどこかに生まれる。 釈尊の教えによれば、善業と悪業の両者を背負い、輪廻すると。それを神は喜ばれない。 「聖書は説くものではない。」愛や慈悲といった人々の根底にあるものだけを教えとして 受け入れるのではなくて、信仰をして世の汚れ(物質的な欲望、快楽や享楽)から離れ、 霊体の世界に生まれることが大事だと言われる。 豊かになって幸せを享受していると、「浮世」「ぬるい」と言われ、「朽ちる」「土に帰 する」と教えられる。豊かになった現在、土に帰ることもなく霊的な世界に生まれること は困難になったようだ。
282 :
神も仏も名無しさん :2007/11/04(日) 14:11:39 ID:oGOc2hq9
>>278 であるとすれば、この訳は正反対の意味になっている。貴方の解説のほうが正しく
そのように訳されるべきであると思います。
283 :
神も仏も名無しさん :2007/11/04(日) 14:27:11 ID:I/ihw588
284 :
N :2007/11/04(日) 20:32:29 ID:qfLt9HI6
テレビなんかに出てくる牧師さんなんかは、イエスさんのイを発音する 人がほとんどいない。エッサン、エッサンと聞こえるけど なんか理由あるの?
285 :
神も仏も名無しさん :2007/11/04(日) 22:16:49 ID:oGOc2hq9
>>284 イエス様と言わないで、イエスさんと牧師が言うのかい?
286 :
神も仏も名無しさん :2007/11/05(月) 00:08:19 ID:5C9BvKSK
イエス様、偉い方・自分を偉いと認めよという教祖などは失格。 イエスもブッダもそれまでのしきたりを変えた。 自分の考え方や物欲を捨て、自分の命を捨てるくらいにして生きる者を愛する ことを理想とする人が、日本に蔓延すると神の国・仏国土となる。 できるできないは別として、心得として常に持つ人々。 無所有でも、一切の生きる者に慈しみの心を持っていたから、イエスもブッダ も尊敬されるべき存在となった。
287 :
神も仏も名無しさん :2007/11/05(月) 00:15:50 ID:2AKEy/5b
288 :
神も仏も名無しさん :2007/11/07(水) 23:50:44 ID:TJ58GrCR
仏教の無我の思想は自己否定の思想か?ゼンゼン違う。 究極の自己肯定の思想である。これを間違うと正反対の効果を生むだろう。 キリスト教の、自己を愛するように隣人を愛せよ、の教えは自己の肯定であるが、 仏教もこれであり、仏教が自己否定の教えであれば、自己と否定するように隣人を否定せよと言う事になり、 それは人殺しの教えとなるだろう。 仏教は自己分裂を戒め、自己統一を追及する。自己統一は、一相であり、一相は空相であり、空相は無相なのだ。 自己統一とは、あらゆるものが縁起しているものであるから、二つ以上のものがないと悟り、 更に、縁起と言う変化が生じる前の状態を、真実のものとし、変化に囚われるのは、 二つ以上のものに囚われるのであるとし、それが自己分裂であるとし、これは真実に反する状態として 排斥するのである。 どう?どこか違うところがあるかな?
289 :
神も仏も名無しさん :2007/11/08(木) 22:43:36 ID:TwVe2Wbj
五蘊が一切である。五蘊は各自に属する。五蘊は一切空である。 万物の変化を見ても、そこに実体を認めず、一相空相であると理解し見るなら、 それは真実に従っている状態ではないだろうか?一切は自分なのではないだろうか? 一切が自分なら、自分という他と識別する実体は無い。
290 :
神も仏も名無しさん :2007/11/09(金) 22:23:59 ID:VcKKHzb9
「かれらには無が有であるかのごとくに見られている。真理を見る人には何ものも存在しない。 人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている。このことわりを或る人々は 知らない。実にかれらはそれを身に刺さった矢であるとは見なさない。」(仏教) 「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(イエス) 「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して・・・あたかも、母 が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生ける ものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし」(仏教) 「自己の存在を否定すれば生まれることがなくなる」 「生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない」(仏教) 「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に 至るであろう」(イエス)
291 :
神も仏も名無しさん :2007/11/09(金) 22:24:59 ID:VcKKHzb9
「この身は泡沫のようなものであると知り、陽炎のようなはかない本性のものであると、さと ったならば」 「世の中は泡沫のごとしと見よ、世の中は陽炎のごとしと見よ」(仏教) 「あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たち まち消え行く霧にすぎない」 「世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は 過ぎ去るからである」(聖書) 「過ぎ去るものは虚妄なるものだからである」(仏教) 「世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて」(イエス) 「悟りの境地は空であり無相」生存の断滅も存在せず、世の中も所有物も自分ではない。自 己さえ自分ではない。他人という観念さえない。一切の不幸も苦悩もなく、この世では一切 の生きとし生けるものの幸福と安穏と安楽に反しない。慈しみのこころづかいをこの世では 崇高と教える(仏教)いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ(イエス)
292 :
神も仏も名無しさん :2007/11/09(金) 22:26:05 ID:VcKKHzb9
「空であり無相」平安と安らぎに安住し、静けさを目指し五感と第六の思考を静め、所有物に 対する愛着もなく、他人から貪らずわずかな食物で暮らし、世を厭い離れ、自己の生存の妄執 も断滅の妄執も存在しない人。 しかし、世間は妄執によって導かれ、妄執というひとつのものに一切のものが従属した(仏教) 全世界は悪しき者の配下にある(聖書) この世で「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない」 聖霊を汚さず、あわれみの奇跡のわざを行ったイエスを信じること。 罪汚れなく、世間から離れ自然の中で静けさを楽しみ、他人から貪らずわずかな食物で暮 らす生活を守る人々もよいが、世間の中であわれみの奇跡のわざを行ったイエスを主と信 じて、悪しき者に打ち克ち、罪過のないように生きることがイエスの教えだろう。
いつもこのスレに貼ってる人には感服するよ。
294 :
神も仏も名無しさん :2007/11/11(日) 12:04:42 ID:4/7izDms
―神― 「修行僧よ。そなたは、修行僧たちとともに住んでいるのに、なぜ真理のことばをとなえな いのか?真理のことばをとなえられるのを聞いたならば、心が清らかな喜びにみち、現世で 人々の賞讃を博する。」 ―修行僧― 「いまやわたしは、離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたこと でも、すべて知った上では捨て去らねばならぬ、ということを、立派な人々は説かれました。」 呪文や供犠に専念して自己の願望を満たそうとした時代に、静けさを目指し安らぎを愛 した釈尊の教え。「安らぎは虚妄ならざる真理である」 離欲を達成し、妄執を滅ぼし尽くして、思考の及ばぬ静かな境地に至る。 不死の境地は呪文や供犠も存在せず、すでに有ったものが存在せず、見られたことは見ら れただけのもの、聞かれたことは聞かれたたけのもの、考えられたことは考えられただけ のものであると知り、それすら離れて離欲を達成し、静けさと安らぎに安住し、自分を動 揺させ煩悩をおこすことなく、心の内の安穏に満足して、精神が安定統一できれば近い。
295 :
神も仏も名無しさん :2007/11/11(日) 12:05:19 ID:4/7izDms
口で説き現すことのできない静かな境地は、自然の中で静かな安らぎを楽しむことに近いが、 多くの人々は生活活動を捨ててまでできない。 神はお経を否定することはなく、信仰により離欲を心得ている人々も「右」とされている。 「あなたがたが悪しき者にうち勝ったからである。世と世にあるものとを、愛してはいけな い。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわ ち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである。 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」(聖書) 不死の境地を知れば、人が見られることでもなく、聞いただけ考えただけでわかること もなく、それらを超えている境地だとわかるのだが、一切のものが妄執に従属した。悪 しき者の配下にあることを知る。 人としてその境地に近いものを真理・真実として受け入れるべきだと考えたが、神の言 葉で、離欲を心得させる信仰活動そのもので「右」となり得ると。
296 :
神も仏も名無しさん :2007/11/11(日) 12:05:51 ID:4/7izDms
貪りも無く、迷いも悩みも無い何ものも存在しない静かな安らぎの罪無き世界を、離欲を 心得させる信仰により達成させる。 世と世にあるものとを貪り求めず、常に満足している人々が、思い煩いもなく聡明な心と なって、自然は楽しいとか、美しい太陽を見、美しく晴れた朝に感動したりして、清々し い気持ちで日々を過ごすような世の中となる。 他人の過失を見ず、慈しみのこころづかいを崇高として、苦悩を味わっている人を助けよ うとはするが、決して他人に害を与えない人々の世の中となる。 この世のものの貪りが悪しき者の配下、妄執に従属して生まれたものとわからずに人々は、 世と世にあるものとを愛し続ける。 しかし、釈尊やイエス・キリストは所有物に対する貪りを行わず、快楽や享楽を一切捨て、 慈しみを教え自ら信仰対象となられた。
イエスとブッダ 本人は教典を残していない 生まれた時に賢者が訪ねて来る (インドで修行を積む)
298 :
神も仏も名無しさん :2007/11/16(金) 00:26:14 ID:nNgJZJCl
本人が経典など書物を残す必要ないと。 この世に在りまた、不滅である永遠が人間の存在すらなく、 一切の幸せのみを真理・真実のひとつとしていたなら、 この世で他人を不幸にするような教えは有り得ない。 しかし、この世では他人を不幸にしてまで自分の利益を得よ うとする輩がいる。 どうしたら、そのような人を他人の幸福に役立ち、世間全体 の幸福に役立つひとりになることは、人が考えることとした のではないか。
299 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2007/11/18(日) 11:24:53 ID:HIFhMoy5
神・・・・・神を信じなさい・・・だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと 言い。 世と世にあるものとを、愛してはいけない。すべて世にあるもの、すなわ ち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは父から出たものではなく、世から出 たものである。神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安。不死。 思考の及ばぬ静かな境地。平安の境地。離欲を達成。 神の言葉を聞くと、文化・文明的なものは好まれない。扱ったり、楽しんでいると、 「罪」「朽ちる」「土に帰する」「地を生き続ける」「旅する人となる」と。それら から離れるよう言われるだけだ。物質的なものから離れ、世から離れ、静かな安らぎを 思うと、「来ることができるか」と。朽ちずに、永遠の世界に行くためには、物質文明 的なものから離れなければならない。
300 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2007/11/18(日) 11:25:31 ID:HIFhMoy5
子・・・・・イエス・キリスト 人は悪しき者に従い、また賢くなり奇跡のことはわか らなくなってしまったが、地上の思いを超越して、神の栄光を現す。人は 悪しき者の配下、妄執に従わなかったら、世のことも考えず、奇跡のこと も真実と知り、イエスは神とひとつになられたと知る者となる。 人・・・・・悪しき者の配下、妄執に従属し、世と世にあるものとを愛し、考え生み出 せるようになった。神のことは考えることはできない。 聖霊・・・・罪人で神のことは考えられないが、賢くなった人々にも考えてもわかるよ うに奇跡のわざであわれみを行われた。善い世界は、一切が困る人々・苦 難に遭う人々もなく善い国、釈尊は一切の生きとし生けるものは幸福であ れ安穏であれ、安楽であれと表現し、慈しみのこころづかいが崇高、自分 を愛するように隣人を愛せよと教えた。それがわかり、やっと「人」とし て神に認められるのである。 しかし、隣人への愛はあたりまえで、霊的な世界に生まれるまでには、神は「地上のも のに心を引かれるな、永久に生きよ」と。今の生活を悔い改め、神の敵とならないため に、離欲を心得させるため様々な宗教があるのだと。
301 :
神も仏も名無しさん :2007/11/18(日) 13:26:07 ID:NDmpl9BY
「神は愛」といって世界には困窮な人々、贅沢極まりなく何不自由 なく生きている人々もいて「神の不在」を言う人がいるが、 イエスやブッダのように、無所有で神とともに生き神に愛され、 自分の命を賭けても一切の生きとし生ける者に慈悲のある時に、そ の人は神の愛を抱いている。 偶像を抱き「神の愛」を乞う人の中には神はいない。誰でも神に指 示はできない。指示できる存在はいない。そのことを理解できるよ うに人の姿で示した。
302 :
ここにいる皆様へ :2007/11/19(月) 17:23:22 ID:4DHPBFTG
303 :
神も仏も名無しさん :2007/11/19(月) 20:32:14 ID:12X7Qo+i
304 :
神も仏も名無しさん :2007/11/20(火) 19:15:33 ID:vQA77m6M
305 :
神も仏も名無しさん :2007/11/20(火) 20:34:10 ID:ztOpUPKr
「満足しない人が貧乏」というような教えが仏典に書いてあった 記憶があるし、 確か主に感謝という教えも新約聖書に書いてあったような。 人が慈悲を身につけ、勤勉に働き、肉の主人に仕え、人々が幸福 を築きあげることを願った。
306 :
神も仏も名無しさん :2007/11/22(木) 18:06:04 ID:LI8h9iw1
>>302 独善的でまったくもって困ったサイトだと思いました。キリスト教らしいです。
307 :
神も仏も名無しさん :2007/11/24(土) 09:35:41 ID:LZDVuGAt
昨日の夕方、NHK で岡山に有る禅寺で修行する欧米人の放映が有った。 見た人はどう思った?
308 :
神も仏も名無しさん :2007/11/24(土) 10:22:26 ID:LZDVuGAt
全てのものは相対的存在で、したがって全てのものは空相であって、したがって 全てのものは平等であって、したがって全てのものは優劣がない。これが真実であるから、 人は他を追い求めるならば、真実に反しているのであり、他を追い求めずに自己に満足する、 又そのような自分になるように自己を抑制するなら、彼は真実に従っているということになる。 この世のものは、一切生じたもので、生じたものは相対的存在である。この世の快楽、苦しみ はそれである。今苦痛に支配されていると思っている人は、その苦痛が相対的存在であり、 実体の無いものと知り、それを排斥または逃れようとしないで、その苦痛に止まって快楽を思わないようにすべきではないだろうか?
309 :
神も仏も名無しさん :2007/11/24(土) 11:22:06 ID:Q3uJ4DFn
>>308 それ、違うだろう。引きこもりの言い訳だよな。
その相対的存在というのは実は真の自分と無関係じゃないんだよ。
結局、引きこもってないで、自分のやるべき生産的なことをしろ、ってこどだろう?
311 :
神も仏も名無しさん :2007/11/24(土) 19:36:55 ID:Is+tP5Kw
すべてが神なんだろ。 すべての人間の性格、感覚、思考、触覚、色覚など ありとあらゆるものを神が創造した。 神と離れているものは何ひとつない。 イチローもひきこもりもどちらも神が創造した。 ひきこもりを非難する思考も神が創造した。
312 :
神も仏も名無しさん :2007/11/24(土) 22:32:32 ID:LZDVuGAt
相対的に存在しているものは、単にそのように見えるだけの、幻である。そのような幻に優劣、真不真 はないのである。真実は平等に穢れのない空性なのである。同じものなのだ。区別するのは、 幻である事を知らない、あるいは理解しない、知恵の無いことから来るのである。 一切は空であるということは、一切が真実であると言う事である。千変万化しているものが相たいてい存在で 幻であると言う事を知らないものは、それらの中で最も良いもの、優れたもの、を追求するだろう。 この世界でもっとも幸せなものはナンであろうかと模索するだろう。幻を追いかけているのである。 司会一切は空相、つまり真実であると学んだものは、何も追いかけたりしない。 一切は同じ性質で、これ以上ない美しいものであり、無限であり、つまりアミターバ:アミターユスなのである。 理解の目と心で一切を見よ。貴方は永遠である。浄土にいるのだが。
313 :
神も仏も名無しさん :2007/11/24(土) 23:02:51 ID:LZDVuGAt
>312訂正 >司会一切は空相、→しかし一切は空相
314 :
神も仏も名無しさん :2007/11/24(土) 23:07:07 ID:7yx7eh5A
>>312 なんだぁ、アホだら教か!
カルト洗脳にも程があるぞ・・・
315 :
神も仏も名無しさん :2007/11/24(土) 23:28:40 ID:jVnc5oVj
では住む家もなく冬を迎える人々を憂うことは間違っているのか? この地上のあらゆる存在と移ろいを無価値と断定し 無関心と無作為による無感動で無機質な人生が至高のものか?? 世捨て人同然の如く寺に引き籠もった今の坊主の在りようが・・・
316 :
神も仏も名無しさん :2007/11/24(土) 23:52:32 ID:LZDVuGAt
317 :
神も仏も名無しさん :2007/11/24(土) 23:55:32 ID:jVnc5oVj
318 :
神も仏も名無しさん :2007/11/25(日) 00:14:04 ID:Ig9p6+/l
地上生活に一切の価値を認めないと断言しつつ問答を求める。 存在は幻と認識しつつ他者の啓蒙に固執する。 この高慢、迷走、矛盾が仏教衰退の一因である。
319 :
神も仏も名無しさん :2007/11/25(日) 09:33:34 ID:Ex7Wj5At
しかし、現代のように機械力もない時代に、あのような巨大な伽藍を作らせるもの、これは僧なんだろうケド、 造る庶民の生活は楽ではなかったに違いないだろうね。 アメリカの科学者が、宇宙の神秘を解き明かせると言う段階に到ったと思ったとき、今までにない新たな問題が生じて、 いっそう宇宙の真実がわからなくなった、と言っていた。一切のものは相対的存在であると認めなければ休息はないだろうにね。
320 :
神も仏も名無しさん :2007/11/25(日) 13:11:12 ID:JY5N5E+o
一切のものは相対的存在ではなく、 唯一、神に於いてのみ絶対が有りうる。 絶対が存在する故に人類、宇宙が存在する由縁である。
321 :
神も仏も名無しさん :2007/11/25(日) 13:13:36 ID:JY5N5E+o
この絶対を認めない思想が釈迦の原始仏教なのです。 そうです、釈迦は只の唯物論者に過ぎません。
宇宙の大霊は無限の存在です。いかに神聖に思える建物でも、その大霊を閉じ込めることはできません。 四つの壁では "永遠なるもの″は包めません。書物も、その言葉がいかに美しくても、いかに内容が立派でも、 いかに霊的でも、それ一冊に無限なる霊すなわち神に関する真理のすべてが記されるわけがありません。 いかなる人間でも、たとえ地上で最高の聖職にある人でも、あなたと神との関係に干渉することは許されません。 あなた方の存在にとって必要なものは、あなた方自身が無限の啓示の宝庫から引き出すことができるのです。 あなた方が神と呼ぶところのもの、私が大霊と呼ぷところのもの、すなわち全生命の背後の普遍的摂理は、 永遠にあなた方と切っても切れない絆で結ばれております。
323 :
堕落快楽 :2007/11/26(月) 01:08:25 ID:Dg70LHJ3
人界
324 :
神も仏も名無しさん :2007/11/27(火) 00:10:11 ID:XzPijCc5
>>322 済みません、
あなたは何者でしょうか??
まるで、神の代弁者のようです。
イエスを軽く超えておられますよね!
325 :
堕落快楽 :2007/11/27(火) 04:00:22 ID:zNQ9ZeOb
点が今今日の幕開けだ
326 :
神も仏も名無しさん :2007/11/28(水) 23:03:26 ID:Y8StNDeF
>>311 神は愛という教えで、人が不幸な時、神の愛はどこにあるのかと失望する。
人が幸福な時、神の愛はあると信じる。
しかし、神が自分を創造されなかったとすると、今の自分は有り得ない。
そこで人は罪を犯し、神は地上を呪ったと信じる。
この世の苦難も人が罪を犯したからあるのだと。
しかし、人は自暴自棄にならず、ただ中にある愛を隣人に行って永久に生きるのだと。
世の中に打ちひしがれた人も信仰できるようにと、その理由は人は罪人である。
327 :
神も仏も名無しさん :2007/11/28(水) 23:10:20 ID:RZJZ9JOZ
>>326 人生は修行場なのです。
神の愛とは神の子に修行場をお与えに成られたのです。
私たちはこの世にいずる時、仲間たちとがんばりますと誓ったではありませんか!
この世の苦難は私たちが正義そのものであるからです。
328 :
神も仏も名無しさん :2007/12/01(土) 00:00:07 ID:vDrED43e
青色を際立たせたい時は、側に補色の赤色を置いてやるのが良い。 苦しんでいる人の苦しみを更に感じさせたいときは、側に楽しんでいる人を教えてやるのが良い。 これらは相対的存在の証明である。 空性の神を教えたい時は、被造物を示してやるのが良い。空性の一相を教えたい時は、 その人に、十二支縁起を教えてやるのが良い。 このようにして真理真実を悟っている人は、人を真理真実に導く為に方便として縁起の理法を活用するんであると思う。 縁起の理法とは、存在は相対的存在であるという事である。
喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣け。(Romans 12-15) 哭くものの側に喜ぶものを置けば、哭くものの悲しみは一層深くなる。 喜ぶものの側に哭くものを置けば、喜ぶものの喜びは一層深くなる。 街角の見知らぬ純白の花嫁は、万人に向けて己が幸福を降り蒔く。 然るに、かが姿に意図的に目を逸らす通行人も多いのは、その真理を物語る。 幸福を分け与える、などとは、上気した新郎新婦の戯言と迄は言えないが、 実は、ごく限られた華燭を喜ぶ者の間でしか届かぬ、片面的な思いでしかない。 然し乍ら、哭くものとて、己よりも更に苦しむものが側に居れば、その悲しみが和らぐ。 更には、苦しむものに手を差し伸ぶ事で、己の悲しみから解放されゆくことすらも真理である。 何よりも、苦しみは、神の愛ゆえの、必ず栄光の約束された人に課された一過性の魂の訓練の過ぎないからだ。 この世の苦しみが、どれも凡て古よりありふれているものなのは、それは神が予定されたものだからだ。 逆もまた然り。喜ぶものの側に更に喜ぶものを置けば、己の喜びは半減する。 更に高価な衣装で若く美人の花嫁が、男前の花婿と差し向かっている姿を側に置けば良い。 己を高くする者、高慢な者、を神は最も憎むからだ。 ゆえに、悲しむ者は幸いであり、喜ぶ者は不幸である。(Luke 6-21~25)
330 :
神も仏も名無しさん :2007/12/01(土) 12:30:03 ID:z5MHtIu3
辛子種程の信だにあれば、己を高くする者、高慢な者は天使である。
331 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2007/12/01(土) 13:13:34 ID:7IRdd8SY
《神とは》 「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」「平安の境地」「世と世にあるも のとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。す べて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではな く、世から出たものである」「自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。身 を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、 食いつくすべきものを求めて歩き回っている」「上にあるものを求めなさい。そこではキ リストが神の右に座しておられるのである・・・地上のものに心を引かれてはならない」 「神を信じなさい・・だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い」 「こころ軽やかに、長寿」「かれらには無が有るであるかのごとくに見られている。真理 を見る人には何ものも存在しない」「思考の及ばない静かな境地」「重荷を下ろし」 この世のもの一切離れた境地で神を知る。 《悪しき者(妄執)とは》 神より地上のものに惹かれ、栄華や権威を他のものを打ち滅ぼしてでも得ようとする「野望」 に従ったので不死の境地から離れた。 人々が利益拡大・組織の拡大を願って熱心に活動するのは野望(悪しき者から得た心)が根 底にあるから。
332 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2007/12/01(土) 13:14:31 ID:7IRdd8SY
神は不死とともに存在し、不死の境地に達した状態で神とともにいる。 神は人知では知れず、人間の知恵によって神を認めることはできない。かえって賢い者の賢 さをむなしいものにする。 神はこの世の思いから離れ、今の自分の思いさえなく、地上のものに引かれることはなく、 地上のものに引かれる心が存在しなくなった状態で神とともにいる。そして何でもでき、キ リストの奇跡のこともその完全な状態になればわかる。人間のどんな知恵でも解き明かせな い。 その神より地上のものに惹かれる心があったため、「自分の栄華や権威を他のものを打ち滅 ぼしてでも得よう」とする「野望の妄執・悪しき者」に従い不死を失った。 だから、人々が自分たちの繁栄を拡大させよう、組織を拡大させて人々を自分たちの支配の 影響の下に置こうとして、日々熱心に努めるようになった。 神は物を生み出さない。人間には地上のものに引かれる心があるから、愛や慈しみ・あ われみを宗教として説き、無慈悲である悪魔を説き伏せて、地上で物とともに皆幸せに 生きることが、この世を創造した方でもある神の意向だと思っていた。そして隣人を愛 するくらいを教えとして受け入れ、この世のものの幸せを楽しんでいた。
333 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2007/12/01(土) 13:15:25 ID:7IRdd8SY
《神は心を読み、言葉を発する存在でもあった》 花火・映画・TV・携帯電話・音楽鑑賞・ゲーム・パソコン・モーターショーなどのイベント、 法要後の宴会・会社の宴会、外食などを楽しんでいても、何を食べようかと考えスーパーに 買い物をしに行っても、おいしい料理をつくろうとしても、神はそのつど言葉を発し、 「朽ちる、土に帰る、ちりになる。富む者は地を生き続ける。旅をする。」 風邪で寝込んだ時も「お前は地の者だからだ」として何もしてくれない。 生活のために仕事をすることはどうですかと思ったら「お前は地の奴隷である」 物を捨て去れ、断食せよとは言われないが、文明とともに喜んで暮らしていると「左れ」と。 聞いていると何もできなくなってしまうのでゲームなどを楽しんでいると「お前は私の敵だ」 と。文明的な物を扱い楽しんでいる人を神は敵視されている。 自然を楽しむくらいのことは何も言われなかった。夕陽を見ていると「きれいな夕陽だな」 と。しかし、公園でバトミントンをしても快く思われない。 『世と世にあるものとを、愛してはいけない』言葉を実際聞いてから注目するようにな った。物質的なものを追い求めず、世の欲楽を捨て、聖職者やまじめな僧侶が土になら ないかもしれない。「哲学的な信仰になってはなにもならない」とも言われ、実際世と 世にあるものとを愛さないようになるために信仰するよう教え諭される。 無慈悲なことが罪だと思っていた自分に、実際神の言葉で物を喜んで生きることも「朽ちる」 から止めよと言われ続けた。神は厳しい方である。
334 :
神も仏も名無しさん :2007/12/01(土) 13:31:44 ID:z5MHtIu3
「宇宙は神の表現体」西田幾多郎 宇宙、物質、世は神の表現体故に、無意味ではないのです。 主客合一、神と世との調和が人生の意義です。
335 :
神も仏も名無しさん :2007/12/02(日) 00:27:15 ID:ftKbzBeG
イエスもブッダも世の中との調和を教えなかった。 イエスは神への信仰がからし種一粒ほどもないと神への信仰自任に慎重 だったはず。 それで教えを全て受け入れることができない人への罪のゆるしがあった。
336 :
神も仏も名無しさん :2007/12/02(日) 03:38:01 ID:ZqvmfVh2
イエスもブッダも誤りである。 釈迦は神を否定した唯物論者であるし、 イエスは人と神との関係に介入する中間搾取人に過ぎない。
337 :
神も仏も名無しさん :2007/12/02(日) 12:59:43 ID:SzGiIduI
ブッダと神 「わたくしはもはや母胎に入ることはないであろう。神よ、もしも雨を降らそうと 望むなら、雨を降らせよ。」 ブッダと創世記の善悪 「悪魔の征服者です。煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡りおわり、 あなたは善悪の両者に汚されません。」 慈しみ 「この平安の境地に達して、上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈 しみを行うべし、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿るこ とがないであろう。」 あわれみ 「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない。」 思い上がり 「奉仕をするべきとして思い上がることなく。」 善悪のはからいを捨てよ 「他人の過失を見るなかれ、みずからのしたこととしなかったこととだけを見よ。」
338 :
神も仏も名無しさん :2007/12/02(日) 13:00:34 ID:SzGiIduI
誓いを捨て、哲学的断定を捨て、呪文のようにくどくど祈ることなく、清浄とか不浄 であるとか願い求めず、供え物をしないで慈悲を説く。修行僧は葬儀などやるなとし て、葬儀が大切だとは教えてはいない。 乏しき中から 「乏しき中からわかち与える人は、法を実践することになるであろう。」 罪過を告白して 「罪過を告白して懺悔するのを受け入れない人は、怨恨をまとう。そなたの罪過の 告白を受け入れる。」 おいしく料理された鳥肉を食べることが悪ではない 「生き物を殺すこと、他人の妻に接近する、盗み、法廷で偽証、怒り、驕り、強情、 嫉妬、誹り、欲望を制することなく美味を貪るようなことで、おいしく料理された 鳥肉を食べることが悪なのではない。」 食べようか・未来のことにあくせくしない 「何を食べようかという思慮の抑制・未来のことにあくせくする営みを離れる。」 父母に慢心を起こすな 「父母または長兄に対し、慢心を起こさず尊敬心を持て。」 自分を偉いとするな 「このような身体を持ちながら、自分を偉いとする人は見る目がない。」 常に罪汚れなく生きることではない神 「常に罪汚れなく生きる人のほんのわずかな五欲の貪りも雲のように大きく見える。」 世界の終極・神の身体を満たすであろう 「世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することは有り得ない。ブッダに帰依し た人は人間の身体を捨てた後では、神の身体を満たすであろう。」
339 :
神も仏も名無しさん :2007/12/02(日) 13:01:27 ID:SzGiIduI
ブッダは生きながら彼岸に到達することを人に教えたから、神と別の教えとして後々伝 わった。 無所有で五欲の対象を制する修行により生きながら彼岸に到達するのは神の教えではな い。神いわく「修行者はいつごろまでそのような修行をするのか?」 常に罪汚れなく生きる人はわずかな罪汚れでもかえって雲のように大きく見えるのだか ら、彼岸に渡り終わらずとも善悪の両者に汚されず、仏教完成が慈しみのこころづかい、 あわれみをこの世で崇高なものとして邪まな見解を捨て去ること、神に善悪のはからい を求めず、善い者も悪い者関係なく太陽を昇らせる存在として受け入れ、人間も他人の あやまちをゆるし、かえって人によくしてやれるような存在となること。 生きながら修行を完成させるなどを除けば、ブッダの教えとイエスの教えの共通点と今 の世の中の人が善だと思うことは多い。 仏典にも神は罪汚れをある程度ゆるす存在として書かれている。罪汚れをゆるしながら、 慈しみをいと高きものの行いとして受け入れることと神の子が語ったとしても不自然で はない。あわれみ深い行いをしたイエスを汚す者はいつまでもゆるされず、あわれむ修 行完成者・ブッダに罪過が存在しないのと同じだ。 いつか欲界(罪汚れ)世界が終わりを向かえ、あわれみを主としていない人々を裁く日 が来るかもしれない。
340 :
神も仏も名無しさん :2007/12/02(日) 13:16:57 ID:ZqvmfVh2
↑只のカルト洗脳で偽善思想に過ぎない。 あわれみ思想は神の意思に反する。
341 :
神も仏も名無しさん :2007/12/02(日) 15:33:56 ID:N/0brJH/
>いつか欲界(罪汚れ)世界が終わりを向かえ、あわれみを主としていない人々を裁く日 >が来るかもしれない。 神があわれみ深いなら、あわれみを主としていない人々をもあわれむのではないかな?
342 :
神も仏も名無しさん :2007/12/02(日) 16:27:34 ID:ZqvmfVh2
神(絶対者)を認めない釈迦の思想は、どれだけへ理屈を並べて 宇宙の法を説いた処で、所詮は完全ではないのだよ(間違い)・・ 完全は神しか存在しないからだ!
343 :
神も仏も名無しさん :2007/12/02(日) 19:14:40 ID:MFfa5MLo
神は絶対者、完全にこの世を創造した。 宗教など人の反抗に過ぎない。
344 :
神も仏も名無しさん :2007/12/02(日) 21:15:16 ID:0XYzejfx
>>343 神は完全だから人殺しも認める。
しかし、世では人殺しを認めない。
得体の知れない神を信じない人のほうが世と調和ができる。
神を信じないことは無意味ではないのです。
345 :
神も仏も名無しさん :2007/12/02(日) 22:16:46 ID:KP8/c51K
346 :
神も仏も名無しさん :2007/12/02(日) 22:18:06 ID:KP8/c51K
347 :
神も仏も名無しさん :2007/12/02(日) 22:23:35 ID:Ulr9mDtG
神に限らず、宗教というものは良識のわからぬ人を食い物にする組織だよね。
348 :
神も仏も名無しさん :2007/12/02(日) 23:28:10 ID:ZqvmfVh2
>>344 神を無視して世と調和できる訳ないじゃん!
349 :
神も仏も名無しさん :2007/12/02(日) 23:35:00 ID:ZqvmfVh2
イエス(ネオコン)は、World Trade Centerの破壊を黙認した。 しかし、被災者は全員、空中けい挙で魂の救出を受けました。 ブッシュの自作自演の一大イルージョンでした。 悪役を演じるビンラディンよ、大根役者やの〜!
>>320 だからぁ、その絶対なる神と相対的に自己があるわけだ。
じゃ、万物は神に対してすべて相対的なものだろう?
すべてのものは神を解して関係してるんだろう?
その絶対が良く判っていないから、勝手な解釈である「自分ルール」を喧伝するのが
カルト教祖だよ。
>>320 もそうなってきてるぞ。
351 :
神も仏も名無しさん :2007/12/03(月) 07:35:46 ID:QE9WJNLh
>>350 辛子種程の信だに有らば、「自分ルール」は「神ルール」と主客合一する。
352 :
神も仏も名無しさん :2007/12/03(月) 15:40:58 ID:bsmNxHkR
神なんかいねーよ
354 :
神も仏も名無しさん :2007/12/08(土) 15:03:18 ID:9cR7Alms
ケニヤのマサイ族は、牛乳とそれからできる乳製品だけを食物としていると言う。 日本に着たマサイの二人の青年は、日本料理を見て、それはテーブルの上に何十種類も置かれたものであったが, 一切手を着けず、紙パックに入った牛乳を所望して、飲んで「アア、これは牛乳である」と言って、それは一リットル入りのものだったが、 いっきに飲み干したのだった。一人二リットルほど飲んだのではなかったかな。 生活が単純で簡単であるといいたいのだ。
355 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2007/12/08(土) 16:26:30 ID:UpF43rDa
神は存在し、言うことの聞けない人が罪人であり汚れ人 《信仰に生きる人が神への信仰のある人》 自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もない世の中で幸せを感じて生きてい た。デジタルカメラを楽しみ、デジタルビデオカメラを撮影し、ゲームや携帯電話、パ ソコンを便利なものとして楽しんでいた。しかし、神はそればかりか町内野球や法要後 の宴楽まで、「土に帰る、お前は左である、地を生き続ける」とやめろと言われ続けた のです。TVを観てもダメで、生活の糧を得るため仕事をすることも「地の奴隷」として、 「ぬるい」と実際に言われたのである。楽しみとゆるされたのは静かに自然を楽しむく らいであった。それらのもののために土に帰るどころか、地の奴隷として生き続けなけ ればならない。 生活のこころづかいも捨てるくらいにして、世のこころづかいも捨て、信仰を戒めとし て離欲に生き、朽ちない永遠の世界に生まれて神に愛されるようになる。神はこの世の ことよりも、信仰に熱心な人を神への信仰のある人とされている。それは別にお経でも かまわないということです。
356 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2007/12/08(土) 16:27:27 ID:UpF43rDa
《信仰が足りない人》 「信仰に生き、離欲に生きることはできない」と思うと、「愚かな者よ」「罪人」と言 われ、(物などの喜びを断てないと)「つながりを切る」「悪魔に売り渡す」と言われ、 「この世の権威や栄華のために働き続ける悪魔のもの」となる。神より、この世のもの を楽しむ欲望が捨てきれないために、「地の奴隷」となって物を生み出したり、様々な 地のものの奴隷となって生まれ変わり続ける。不死の世界に入り神に愛されることはな い。 《罪人でも多少不死の世界で知れる神の影響はある》 ◎快楽に耽溺するよりも自然を楽しんでいる人のほうが健康的である ◎「空腹のときに食べさせ、かわいているときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い」(イエス)「貧窮なる人々、旅行く人 々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ」(釈尊) ◎「公平とあわれみと忠実とを見のがしている」(イエス)「苛酷なることなく、貪欲 なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等」(釈尊) ◎「卑しい言葉と愚かな話とみだらな冗談を避けなさい」(聖書)「だじゃれ、嫌悪、 いつわり、詐欺、貪欲、高慢、粗暴なことば、驕りを除去し」(釈尊) ◎「ラザロという貧しい人が金持ちの玄関の前にすわり、食卓から落ちるもので飢えを しのごうと望んでいた。貧しい人は死後慰められ、金持ちは苦しみもだえている」 (イエス)「この世でもの惜しみし、吝嗇で、乞う者を罵り退け、他人が与えようと するのを妨げる人々、かれらは、地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる」(釈尊)
357 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2007/12/08(土) 16:28:21 ID:UpF43rDa
神に愛されている世界では、「過ぎ去るものは虚妄」となりこの世界のことは忘れ去る。 この世でも良かったことも悪かったこともいつまでも覚えているわけではなく、神の影 響を多少受けて忘れ去る。病気の時、安静にしたほうが病気の治療に役立つ。神に愛さ れている世界では、この世の活動もなく病も存在しない。人々は無意識に神に身を委ね る。 貧窮なる人々を気遣ったり、公平性を求めたり、目の前の人が飢えているのを助けたり、 愛やあわれみ、慈しみは罪人の中にもある。悪魔に売られ、地の奴隷として地を生き続 ける人々が、様々な状態に生まれ、自分が過去大変な状態であったから今度は他人を助 けようと無意識に感じ他人を助ける。「困った時はお互い様」を過去世と現世を通じて 行っているだけである。人(罪人)に反する者は人にも非ず、もっと悪い世界で苦しみ を受ける。 世にあるあわれみの行いに反してはならないが、神はもっと厳しい方であり、信仰によ り戒めを受け、この世の物への喜びから遠ざかり、享楽や欲楽から遠ざかり、不死の世 界で苦悩なく神に愛されることだったのです。この世は「物」とともに呪われているの です。
358 :
神も仏も名無しさん :2007/12/08(土) 17:33:46 ID:wEErQ2e3
文明はキリスト教国から。 神様に信仰があると思う人よりからし種一粒ほども信仰がないと思い上がらず、 愛など自然体であるほうがこの世の平和を築く。
359 :
神も仏も名無しさん :2007/12/08(土) 19:49:51 ID:s/v6jm1n
神なんかいねーつの!(^-^)v
360 :
神も仏も名無しさん :2007/12/08(土) 20:00:18 ID:KNI2bRZu
神や天国とは、支配者が非支配者をなだめる装置です、
361 :
神も仏も名無しさん :2007/12/08(土) 20:12:09 ID:AVs3x4jp
仏=慈悲、イエス=愛 てところが共通しているかな。 それと、後の時代になるとご本人さまの教えから離れた点も同じだ罠。
362 :
神も仏も名無しさん :2007/12/08(土) 23:12:42 ID:9cR7Alms
イエスを神そのものであるという宗派が有るが、それは釈迦が無余涅槃の仏であるというのと同じだな。
363 :
神も仏も名無しさん :2007/12/09(日) 11:58:16 ID:bUVK+FrW
人の欲望を抑えるのが共通点だが、キリスト教国から文明や贅沢が生まれ、 仏教徒もそれを喜んでいる。 仏教には慈悲のほかに、環境破壊に対する解決もあった。
364 :
神も仏も名無しさん :2007/12/14(金) 22:24:55 ID:QDSdBIV+
>>363 贅沢ってナンだ?一度良く考えてみる価値があると思う。
365 :
神も仏も名無しさん :2007/12/15(土) 01:03:02 ID:RjVpbO9Y
イエスもブッダも「物質的な欲望のない世界」が存在すると教えてい るだろう。 「貧しい人」が最も神に見放されることはなく、またブッダは無所有 を進んで行い、金持ちが神の国に入ることはなく、ブッダは富んだ人 は分かち与えることで来世を恐れることはないと。 人間がその人の都合で考えることが過ち。神のように賢くなったつも りで考えて真理を枉げる。真理に反する罪があるなら、「罪人の私を おゆるし下さい」として、謙虚になったほうがよいという教え。
>>358 >文明はキリスト教国から
ていうか、「文明はキリスト教国の一部で始まった政教分離の合意から」と言ったほうが正鵠を得ているように思う。
で、さらに言えば、少なくも近代文明の根幹はこれ、政教分離に基づく唯物主義から形成されていったというのが正しそうだね。
マルクスの登場するずっと以前から、唯物主義の温床が形成されていたことを意味してはいまいか?
(ちなみに東欧においてはビザンチン帝国などのキリスト教国だって長らく政教一致を基本としていた)
367 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2007/12/15(土) 13:59:12 ID:9n2ya9o/
神より「物」の豊かさを追い求める心があったために「栄華と権威」の拡大を追い求 める「野望の妄執」に一切の者が従属した。 ◎神にとって、この世は罪を犯しに生まれてきた者の住む所であり、この世で清浄と か善人であること、宗教的な理想世界を人が望んではいけない。 ―世と世にあるものとを愛しながら、神に信仰があると思う人が最も悪い― 「肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものであ る。」 《重荷》 「すべて重荷を負うて苦労している者は」(イエス)「重い荷物を捨てたあとには、荷 物をさらに引き受けるな」(釈尊) 《負債》 「わたしたちの負債をもおゆるしください」(イエス)「負債なき人よ」(釈尊) 物欲・享楽などから離れるように信仰している人々が、神への信仰がある人で、 世と世にあるものとを愛しながら朽ちずに生きながらえ、神への信仰があると 思っている人が最も悪い。悪しき者からでたものに打ち克ち、土に帰らなけれ ば、重荷から解き放たれた世界で永遠に安らいで生きる。
368 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2007/12/15(土) 14:00:14 ID:9n2ya9o/
《貧しい人》 「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」(イエ ス)「この神の子が、むかし人間であったときには、貧しい人、哀れな人、みじめな人 であったのに、身体が壊れて、死んだのちには、よいところ、天の世界に生まれて」 (釈尊) 《乏しい人》 「乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」(イエス) 「乏しき中からわかち与える人は、法を実践することになるであろう」(釈尊) 《富んでいる人》 「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい 人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう」(イエス) 「ことばと心を正しくするようにこころがけ、身に悪事をなさないで、もしも飲食豊か な富んだ家に住んでいるならば、(1)まことあり、(2)柔和で、(3)よく分かち 与え、(4)温かい心でいるならば、これらの四つの事柄に安住している人は、来世を 恐れる要がない」(釈尊) 賢くなり煩悩の可能力を駆使して金儲けが上手くてもその金を使うことができない。 物などを生み出す力を得て金儲けができても、それは悪魔のものだから贅沢をするご とに徳を失う。 豊かな人は、貧しい人々に分かち与えて来世を恐れる必要がなくなる。
369 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2007/12/15(土) 14:01:28 ID:9n2ya9o/
神に信仰のある人は、信仰により離欲を達成しようとする人々。 人々の労働で得たもので、この世の幸せを願うことは神への信仰ではない。 からし種一粒ほどの信仰もないと認めて、「罪と愚かさ」を自任すれば、働いて得た金 でこの世を楽しみ、死んで土に帰り、再び呪われた地上に生まれ苦楽を味わうことがで きるようだ。 重荷を背負い、「地の奴隷」として人の運命に生き、やがて土に帰る。別人となって生 まれ災いに遭遇しても誰の責任として問えない。 《悪人に手向かうな》 「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けて やりなさい」(イエス) 「罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを耐え忍び、忍耐の力あり、心の猛き 人」(釈尊) 他人の悪を非難しても、この世は「物」を生み出すとともに、全ての人々が悪なの だから、忍耐の力のない人は、更に争い苦しみを生み出す。
370 :
神も仏も名無しさん :2007/12/15(土) 19:27:38 ID:jB7Bnws2
>>366 古代において、金属の発見発明が文明の初めと言うべきでは?
これを見出したと言う事はどういうきっかけがあったのか、私は知らないし、
ほとんどその点に光をあってている情報に接した事が無い。
金銀銅鉄錫、青銅。これらはどんなにか生活に有用であったことだろうか!
石器から金属に発展変化しているのだ。
371 :
神も仏も名無しさん :2007/12/16(日) 08:57:15 ID:h5PdEZP4
貧困・・・自然の恵みを感謝して聡明に生きる 富裕・・・愛と平和の維持
372 :
空知 :2007/12/16(日) 11:31:25 ID:BF0LOOmX
自己の内面に平和と愛があることを見い出すことが「物質世界をも平和にしていく」 そのためには、 自分は誰か?何者か? を知らなければならない。 愛とは全て。 価値観の判断を離れ、全てを受け入れ、無条件に愛することができれば、その人は至福とは何かを知る。
373 :
神も仏も名無しさん :2007/12/17(月) 00:18:16 ID:cRGTIYE/
永遠に通じる完全な平安も人の内面にあり、 永遠に通じる完全な安らぎも人の内面にあり、 永遠は全て完全な平安と安らぎだから、 肉体を通してこの世の平和を愛する心が生じると考える。 無慈悲・冷酷・残忍・暴力・憎しみ・敵意・対立などは全ての安らぎに反する ものだから、肉体を通して愛となるのだろう。 しかし、自己のみにこだわり生きることで、それらに反する思いが生じる。
374 :
空知 :2007/12/17(月) 04:41:15 ID:3kwp0edP
肉体を通じなければわからないだろうか? それは愛ではなく自我と呼ばれる
375 :
神も仏も名無しさん :2007/12/18(火) 19:18:22 ID:1OIDu6SI
空知はイエスやブッダに及ばない。イエスやブッダは教えにも理論性があった。 「平安あれ」「安かれ」=イエス「安らぎは虚妄ならざる真理」「平安の境地」=ブッダ この身体は限定的で、永遠には平安と安らぎしかない。 しかし、「この世では」という断りの後、慈しみを説いている。 愛も慈しみもあわれみも肉体を通じてあるのであって、永遠世界のように、その教えを 崇高、受け入れるなら、この世でも平安・安らぐだろうという教え。 空知はイエスとブッダの共通点から学ぶ良スレを自分の知ったかぶりで汚す。 逝け。
376 :
空知 :2007/12/19(水) 06:17:09 ID:3XRWKw7T
人の本質は「肉体にあらず」 肉体は「限界であり、制限であり、束縛である」 なぜわざわざ其のようなことを体験するのか? 「無限、永遠、自由を体験し、そのものになるため」である。 死は肉体を持つものの宿命である。ただし、それが「私でない」ことを知っていれば、さらに「永遠に続く命」を知っていれば、それに執着することがない。 例えば今亡くなったとしても。
377 :
空知 :2007/12/19(水) 06:35:26 ID:3XRWKw7T
自分の中に実現していないことを、具現化することはできない。 この世は「全て人の内面の具現化」である。 喜びも悲しみも、怒りも、全て人が抱く感情である。それらが実体化した姿が今の世である。 そして、それを存在させているのが「私」であり、「あなた」だ。 「人はひとゆえに神である」
378 :
神も仏も名無しさん :2007/12/19(水) 22:57:52 ID:Uj5ryyLX
>>377 「空知」とはどういう意味で使用していますか?
379 :
空知 :2007/12/19(水) 23:57:16 ID:3XRWKw7T
空を知る者、という意味です。
380 :
空知 :2007/12/20(木) 09:27:03 ID:5X9d/C8f
目覚めと同時に世界は現れ、眠りと同時に世界は消え去る。 全てのものに意味を与え、価値を与えるものは、「私であり、あなたである」 花を花とし、水を水とし、山を山とする者である。 具現化した幻は、いずれ消え去るだろう。 消え去ったとき、残るものが「人の本質」である。 全ては「計画の内にあり、例外はない」 自らが課した課題を解き終え、来るべき時に肉体を離れることになる。 それは今日かもしれない。明日かもしれない。十年後かもしれない。 それを知ることはできない。 しかし、それで終りではない。終りは次の始まりを意味する。 命は尽きることなく、永遠に続いていく。 これを輪廻と呼ぶ。
381 :
神も仏も名無しさん :2007/12/20(木) 20:59:33 ID:QgsFDSD1
>>379 貴方の「空」が何かを説明してください。
382 :
神も仏も名無しさん :2007/12/20(木) 21:18:28 ID:5tConXPD
無にはなれても空にはなれず、誰の言葉だったかな?
>>378 てっきり、北海道の空知(そらち)在住の方だとばかり思ってたよ w
384 :
空知 :2007/12/20(木) 23:26:51 ID:5X9d/C8f
>>381 私にとっては全てです。
全てが人の内にあると考えていますので。
385 :
神も仏も名無しさん :2007/12/20(木) 23:34:13 ID:QgsFDSD1
>>384 人の内にある全てのものが、どういう理由で「空」なのか説明してください。
386 :
空知 :2007/12/21(金) 03:59:24 ID:SI2/pU9o
あくまでも、「私はそう思う」ということで受け止めてください。 人の中に全てがある、というのは、「全てを存在させているのは、人の思考であり、その思考を司るものが存在である」と考えています。 思考は、実体はありませんが、抱いたもの全てが具現化するものだと思います。しかし、それは所詮「道具」に過ぎない。 使う者がいなければ、思考は存在できない。 つまり、「人の本質が存在であって、通常人が認識している私(わたくし)は本質ではない」と思うわけです。 私は当初、存在を神だと認識していましたし、今も表現としては使います。 ただ、一般的には神というと、「人とは別のもの」と解釈されがちなために、あまり多くは使いません。 呼び名などなんでもいいと思っています。
387 :
空知 :2007/12/21(金) 04:08:47 ID:SI2/pU9o
その存在は、誰しもの内に存在するもので、例外はありません。 仏教でいうところの「空(くう)」が存在であると考えています。 更に言うならば、「神=空=存在」だと思います。 元々は実体などない。夢であり、幻。だから空です。
388 :
神も仏も名無しさん :2007/12/21(金) 22:52:36 ID:8N3GXvfe
>>386 あくまでも、「私はそう思う」ということで受け止めてください。
そう思う」というのなら、「そう思わない」ということもあるわけですか?
389 :
空知 :2007/12/21(金) 23:33:07 ID:SI2/pU9o
人の認識は様々。 私が「そう思う、思わないに関わらず」存在している事実にかわりはありません。 私は「私のことしか語れない」 単に私の選択がそうだというだけです。当然、思わないこともあります。 しかし、私の見解が全てではありません。
390 :
神も仏も名無しさん :2007/12/21(金) 23:37:20 ID:8N3GXvfe
>>389 仏教でいうところの「空(くう)」が存在
仏教ではどのように空を説明していますか?
391 :
空知 :2007/12/22(土) 01:46:09 ID:NBYKa43P
それも様々。 御自分で御調べ下さい。 それと、これ以上の対話は致しませんので。
392 :
神も仏も名無しさん :2007/12/22(土) 09:23:59 ID:/SigVsWm
理法を語れ!
393 :
空知 :2007/12/22(土) 10:04:41 ID:NBYKa43P
394 :
空知 :2007/12/22(土) 10:39:15 ID:NBYKa43P
もし、法則というならば、「法則など無い」とううのが本当のところではないでしょうか。 これをすれば、こうなると言った「マニュアル」があれば、それさえ実行していればいい訳ですが、残念ながら、見当たりません。 様々な宗教が存在しますが、合っているものを選べば、それが「その人にとっての理法」でしょう。
395 :
神も仏も名無しさん :2007/12/22(土) 12:17:05 ID:/SigVsWm
394>> >その人にとっての理法 誰でも認める道理を理法と言う。そこで、仏教では、縁起と言うものを理法と言う。 次に、縁起しているものは、実体というものはありえない、と言う理法をいう。 これらの理法が尽きるところが真実のものであるといい、それを空とか一相とか無相とか言う。
396 :
空知 :2007/12/22(土) 12:42:11 ID:NBYKa43P
ならば、やはり理法は存在しませんね。 なぜならば、「誰もが理解できること」がないからです。 理解は「その人の状態」が大きく関わります。つまり、内的成長の度合いですね。 同じことを学んでも「成長の度合い」により理解の速度、深度、高度、拡度は全く異なります。これが「個」と呼ばれているものです。 無論、速ければいいわけではないし、遅いから劣るわけでめありません。 人が「個人」としてそれぞれの人生を生きる以上、「共通の理」を探すことに力を注ぐより、「それぞれの理」を通じて学び、気付いた結果、同じところに立っていたという方法が、非効率に見えて、実は効率ではないでしょうか?
397 :
神も仏も名無しさん :2007/12/22(土) 14:22:28 ID:/SigVsWm
犬でも植物でも大地でもこの理法は理解している。この理法から免れるものは一切に於いて無いのだ。
398 :
空知 :2007/12/22(土) 14:55:23 ID:NBYKa43P
視覚できるものだけを判断すれば、そうなりますね。
399 :
空知 :2007/12/22(土) 15:07:38 ID:NBYKa43P
視覚に囚われることは、「体が私である」と認識していることと同じです。 それが間違っているのではなく、「それだけではない」ということ。 人の体に纏わる五感は、体が無くなれば関係なくなります。 ところが、人の感覚は五感以外にも存在します。 それを認めなければ、如何に聖書を学ぼうが、仏典を学ぼうが、知識を蓄えるだけです。
400 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2007/12/22(土) 18:20:12 ID:dXy+8Tff
信仰のある人と、土に帰り地を生き続ける人々は全世界「苛酷なることなく貪欲なるこ となく万物に対して平等」 ≪信仰のある人≫ 「世と世にあるものとを、愛してはいけない」「何ひとつ持たないでこの世を去って行 く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである」(聖書) 「足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々 の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく・・・諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、 決して再び母胎に宿ることがないであろう」(釈尊) 肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものであ る。神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。信仰を戒めとして、物欲や享楽から 離れようと努めている人は、物欲や享楽の無い永遠世界に安住でき土に帰らない。 ≪信仰のない人々≫ 自分の意思で生きたい、この世の幸福を求めたいと思ったほうがよいと思う。 「真理を見る人には何ものも存在しない」空であり無相という言葉で表現。一切は虚妄 で、このような今の人間の思いは一切無くなり、「安らぎは虚妄ならざる真理」「平安 の境地」のみとなる。今の人間の思いは一切無く善である。
401 :
神も仏も名無しさん :2007/12/22(土) 18:20:58 ID:dXy+8Tff
正しいこと、勝れたこと、或いは劣っていることなど全く存在しない。 思考も意向も存在せず、五感も存在せず、誰かの考えが正しく従わねばならない、誰か の行為が正しく従わねばならないということはない。 一切は虚妄で、真理を知った人は何ものも存在せず善であることを知る。「真理は人を 自由にさせる。」 だから誰でも自分の考えが正しいとして人に押し付けてあたりまえにすることは「悪」 であり、多くの人々は自分の考えで生きたいという欲望があるために、相手の考えを認 めてあげたほうが、相手から好感が持たれることは多い。 自分の意向を人に押し付けてあたりまえにすることは「悪」であり、相手の意向に従っ てあげたほうが、相手から感謝される場合が多い。 人はこの世の幸福を求めて生きているだろうから、自分が幸福だと思うことを相手にし てあげたり、相手が幸福だと思うことを叶えてあげたりしたほうが、なぜかその人の考 えが正しく偉いから従うべきであると思わせる人より良い行いをしているだろう。 真理を見た人は何ものも存在せず善を知るから、この世でもなぜかその人が偉く正 しいから従うべきであるとはしない。
402 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2007/12/22(土) 18:22:41 ID:dXy+8Tff
《貪欲が満たされても尊敬しない》 「汝の第一の軍隊は欲望、第二嫌悪、第三飢渇、第四妄執、第五ものうさ、睡眠、第六 恐怖、第七疑惑、第八みせかけと強情と誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と自己 をほめたたえて他人を軽蔑すること」(釈尊) 「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかし らになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない」(イエス) この地でも、自分の考えが正しいだけで人々を従えさせることはよほどのことがな い限りできない。人々はなんらかの益があるからと思って、その人を尊敬し従うだ け。その人から益を得ているから従うだけ。益もないのに誰かの考えに従うべきだ と言われた時に、無意識に真理を感じて、「なぜ?」と疑ってもよいだろう。 真理は知らぬ間に私たちの生活の中にも影響し、その存在が証明できそうなものである から、来世別人になって生まれることも有り得ると心得て、「苛酷なることなく貪欲な ることなく万物に対して平等」も信じて、五欲を満たし意向通りになっている人を尊敬 するよりも、地道に人々の安穏と安楽な暮らしに役立っている人々を尊敬するほうが賢 明だろう。 今貪欲な状態に生まれている人も「あなた」であり、苛酷な状態に生まれている人も 「あなた」であり、輪廻をも見通し慈しみのこころづかいをこの世で崇高・いと高き 者の行いとして釈尊もイエスも教えているのだ。
403 :
神も仏も名無しさん :2007/12/22(土) 20:17:35 ID:miVzzeif
>>386 思考で抱いたもの全てが具現化するならこんな楽しいことはない。
404 :
神も仏も名無しさん :2007/12/22(土) 20:24:15 ID:miVzzeif
>>396 イエスとブッダの共通点から理法を学んだほうがいい。
人が個人として理を考え、固執し、大間違いを犯すこともある。
405 :
空知 :2007/12/22(土) 22:38:21 ID:NBYKa43P
所有という考えを捨ててみなければ、私(わたくし)という個を越えなければ、理解することは難しい。
406 :
空知 :2007/12/22(土) 22:46:24 ID:NBYKa43P
>>404 あなたがそうすればいい。
それがどんな意味を持ち、何を体験できるかは、あなた次第。
どのような道からも学ぶ意思があれば、学べます。
それに、間違いを存在させているのは、「間違いを認識している当人以外にはない」
人が異なる人生を送るのは、そうあるのが必要だからです。
書物から学び、宗教から教えをいただいても、自らの人生を送る事実にはかわりはありません。
必要だと思うならやればいいし、いらないならやめればいい。
それだけです。
407 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 08:16:04 ID:H7cMq3Wn
408 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 09:57:44 ID:bf0XMZml
空知はスレ違い。 どのような道からも学ぶ意思があれば学べるならそのスレに行け。 いらないならスレに来るな。 それだけです。
409 :
空知 :2007/12/23(日) 10:06:21 ID:5PjDtVTf
どのような道にはイエスや仏陀は入らないのですか? 「どのような道」とは、あらゆる道すべてのこと。 まぁ、出ていけというなら、そうします。
410 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 11:47:42 ID:H7cMq3Wn
空知には興味など無いのだ。 真実とその説明の真理とに興味がある。
411 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 12:34:00 ID:OTB8H4f6
2chも社会のひとつ。 学校の先生が教室で学ぶとしても、外で運動したほうがいい子供が教室で 学ぼうとする子供を妨害するようなもの。 共通の認識で集まってきている人に、反対の考えを述べても伝わらない。 このようなことが目に見えないで存在する理法なんだろうね。
412 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 13:22:00 ID:C9xp0OKv
自分の意向や思考は自分のものとしてあり、 他人への意向や思考は‘意向も思考も無い世界を完全’として、 他人の意向や考え方を認めてあげたほうが他人から認められる理法がある。 如何なる意向も思考も他人に押し付けようとするならば、争いが起き平和や幸福から遠ざかる。 あれやこれやと考えず、自分の粗雑な思考を修めとり、精神を安定統一し安穏な心で満足するなら完全世界に近づく。
413 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 13:25:41 ID:C9xp0OKv
不完全な世界だが、誰かが自分の意向や思考を押し付けようとすることで、争いや不愉快なことが 起き、この世の幸福を求めようとして生きている人を害う。
414 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 21:54:05 ID:H7cMq3Wn
しかし、真実に至る道はひとつしかない。それは縁起である。または相対的存在形式に気づく事である。 ギリシャのパルメニデス、他に真実を哲学的に、または、学問的に説いたものは、両者だけのようだ。 真実に至る道を説いた人もこの両者なのであるが、この道なるものも、同一であると言わなければならないものだ。 キリスト教は、学問的、哲学的側面が無い、希薄だ。あったに違いないのであるが、 それが秘匿されているに違いない。このような学問的知識、があると、信仰が理性的なものになる。
415 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 23:31:12 ID:H7cMq3Wn
>>414 両者だけ→パルメニデスと釈尊だけである。
416 :
神も仏も名無しさん :2007/12/24(月) 13:09:32 ID:ETtIrbHI
自分に負けるとか自分に勝つとか、これはどういうこと(意味)でしょうか?
417 :
神も仏も名無しさん :2007/12/24(月) 21:27:49 ID:p3nsn8Dv
>>416 仏典を参考に考えると、「一切の事物は我ならざるものである」
他人と自分、世間と自分という思いがなくなり、自分についての迷いなどもなくなり、真実の自分となる。
しかし、他人や世間に対しての過失などを見て、憎んだり、怒ったりして自分が苦悩を受ける。
互いに他人や世間に対しての過失を見ないで、自分に対して気をつけるようになれば理想の世間となり、
他人に対して過失を犯さない、苦悩を与えない、かえって苦悩を取り除けるような人となることも重要で、
慈しみのこころづかいを崇高としてしっかりたもてと教え、修行僧は自分をよくととのえて自分の主となる。
とりあえず、他人の過失を見ないで自分のしたことのみ見る人とならねばならず、他人の過失を見て怒り、
憎むならば自分に負けている。そういうのも自分に負けていることのひとつだと思う。
418 :
神も仏も名無しさん :2007/12/25(火) 23:19:02 ID:sPwmgQFy
>とりあえず、他人の過失を見ないで自分のしたことのみ見る人とならねばならず、他人の過失を見て怒り、 憎むならば自分に負けている。そういうのも自分に負けていることのひとつだと思う。 やはり真実が空相であるから、それに反して、人がおり、憎しみが有り、過失があり、などと思っているのは、 真実に反している、と言うことですね。真実に従え、という事では? この世の良いものも悪いものも、それらを求めたり、避けたりすることは、真実に反する行為であると。
イエスとゴーダマの共通点・・・本国で排撃され異国の地で異邦人にある事ない事付け足されて教理を破壊乃至改変された事
420 :
神も仏も名無しさん :2007/12/26(水) 21:09:07 ID:nH4sGYiB
>>416 自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行いをつつしみ、自己をととのえている人、
このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァも、悪魔も、梵天もなすことができない。
素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
ブッダの真理のことばより
421 :
神も仏も名無しさん :2007/12/26(水) 21:57:32 ID:bz7ggGm5
>>418 二つの極端説
快楽は享受されるべきであり清らかである 学ぶことに生きがいを認め奉仕活動を楽しむ
この二つの極端説を知って、そこにとどこおっていなかった賢者たちは、それで思い上がる
ことがない。
世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。身体は泡沫のごとしと見よ。
身体はかげろうのごとしと見よ。
422 :
神も仏も名無しさん :2007/12/29(土) 00:57:33 ID:zz4tCFFe
永遠は世の中と身体を泡沫のごとしと観じ、安らぎは虚妄ならざる真理であると知って、 遠ざかり離れること止滅の境地に基づき、他人の過失を探し求め怒りたけることながな ければ安楽で、歓楽にふけることなく、享楽に害われることなく、物惜しみすることな く、慎み深く、敵意なく忍耐の力あり、浄らかに生きる善い友とつき合い、その行いが 親切で、慈しみあり悪をなさない人で、あれこれ考えて心が乱れず、わずらいなく、精 神が安定統一され、情欲を抱かず、貪りと怒りなどをこの世で断ったならば、ニルヴァ ーナという永遠世界に近くなる。 慈しみを心得て悪業をつくらず、肉体から発する思いを徐々にでも静めていけば、永遠 世界に一致するようになり、そのまま永遠世界に安住できるようになるとブッダは教え ていると見られる。
423 :
神も仏も名無しさん :2007/12/31(月) 22:26:32 ID:Z0StHRBW
みなさん、来年も修行しましょう!
424 :
神も仏も名無しさん :2008/01/01(火) 12:31:41 ID:d4mSt+BL
謹賀新年 一応ねw。新年に何か意味があるとするのは、仏教ではないと考えるから。
やそとぶったのだましあい
426 :
神も仏も名無しさん :2008/01/01(火) 18:39:55 ID:d4mSt+BL
>>425 騙しあってないよ。一致しているよ。
どんなところが騙しあっていると言える?
q
428 :
神も仏も名無しさん :2008/01/02(水) 13:45:03 ID:T/c8k+KU
仏教でもキリスト教でも、現に浄土や天国に入りつつある人、入ってしまっている人、がいるとしている。 このことを良く考えてみよう。この世を否定しなければ決して浄土や天国に入れまいと思う。
429 :
神も仏も名無しさん :2008/01/02(水) 13:58:18 ID:T/c8k+KU
仏教により、真実は一相無相空相であると示された。キリスト教により、 真実は神であり、神は神により創造されたもののうちにはないということを知る様に教えられている。 神の国とは、神により創造されたものの世界ではないことを知ろう。極楽浄土とは縁起している世界ではない事を知ろう。
430 :
神も仏も名無しさん :2008/01/02(水) 19:13:18 ID:bbOxqzBJ
おいおい まだやってるのか?オマイラ
431 :
神も仏も名無しさん :2008/01/02(水) 21:49:51 ID:P2zwx9G0
彼岸・天国=肉体が存在しない清浄な世界 現世とは全く関係ないのではなく、人間が無意識に、つまり知らぬ間に行っている 行為に関係あり、または肉体反応で生きている人を教えによって目覚めさせる 「律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法 を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。」ローマ人への手紙 永遠の世界はあるのか、死んだら全くの無になるのか、ブッダとイエスは 永遠はあるから教えを説いた。永遠世界はひとつのものだから共通点があ り、自然のままでも人々はある程度行っている行為。
432 :
神も仏も名無しさん :2008/01/02(水) 22:48:52 ID:5GLXZY4Y
占い師、霊媒師に自分の生き方を聞くよりは、イエスとブッダの共通店から学んだほうがいい。 人には霊と肉体があるとして、霊寄りになれば肉体のみで終わらずに済むということだろうな。
433 :
神も仏も名無しさん :2008/01/04(金) 13:15:35 ID:WqIYBubQ
盗むと言う行為は、どの世界に行っても嫌われる行為であろう。 原始仏教経典に、修行者が、蓮の花の香りを嗅いでいるのを神霊が見咎めた。 修行僧はそれくらいのことは盗む事にならないと思っていた。神霊は、「人は何によりて、 よきところに行きえるかと言うことを、そなた自身が知るべきである。」と教えた。悪魔との対話「サンユッタ・ニカーヤ」 修行僧が、修行をしているのは、真実に合一するために始めた事である。真実とは、 空相、一相、無相である。香りを嗅ぐと言う事は、香りと言うものが有り、それが嗅ぐに値するいいものであるという考えがあるからである。 このような考えは、真実に反するのである。何も得てはならないのに、香りを得たのである。 このことを盗んだというのである。 と、このように解釈すべきであると思う。どう思う?
434 :
神も仏も名無しさん :2008/01/04(金) 13:22:31 ID:WqIYBubQ
>>443 づづき
香りが自分に漂ってきても、それを「有」なるものと想い、自分のものに吸収するのがいけないのであって、
漂ってきても、それは実体の無いものと観、よきものであるとみなして吸収しないならば、真実に反していないのである。
このことは、われわれが食事をする時に直ちに適用されなければならないとおもう。
435 :
神も仏も名無しさん :2008/01/04(金) 22:44:28 ID:3qfGEhz1
>>433 釈迦はニルヴァーナに忠実であった。この上なき最上の喜びの境地ニルヴァーナ
は世の中を厭い離れ、この世では荒野で静けさを楽しむような境地。一切皆苦を
悟り、最上の喜びとひとつになったなら、静けさと安らぎを求めよと教えるだろ
う。
多くの神々を信じたとしても、結局は唯一の絶対的な境地に至る。
しかし、安らぎや平安の境地より妄執に従って人間の境地に戻る。悪いものに従
って人間の境地に戻る。常に罪汚れを求めずともよいと神々が言うなら悪いもの
に従った人間の境地を否定することはない。
欲界であるこの世に法をつくるためであった。貪らないのが善で、五感を満たそ
うとするなら、働きなさい。一切の生きとし生けるものをあわれむ修行完成者は
荒々しい言葉で他人を謗らない。他人から貪ろうとしない。
しかし、五感も抑制でき貪ることをしないで、平安であること安らいでいること
に満足して真実の自分に近い人は、勝利者でもある。
で、あなたはその境地におられるの?それとも想像でいってるの?
437 :
神も仏も名無しさん :2008/01/05(土) 10:35:39 ID:zeIf5/qK
今はその境地にいない。その境地を知らなかったら仏教に興味はなかった。 「思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらき の静まった安楽である。そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識 別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしは よく知っている。・・そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。・・かたちか らも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する・・これは最上の究 極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することな き解脱の境地である。」感興のことば ニルヴァーナより しかも、「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執と いう一つのものに、一切のものが従属した。」ということも知っている。神々との 対話
438 :
神も仏も名無しさん :2008/01/05(土) 15:27:38 ID:nsVu1GEv
復讐は神にまかせよ、と言う言葉があったよね。原始仏典に聖者に悪をするのは、 風に向かってチリを投げるようなものである、とある。神が何かをするのではないのだ。 聖者が悪行に対して何かをすることが無いのと同じである。聖者や神は一切が空の境地 に有るものである。一方凡夫は、あるものがあるとしてそれを対象にして行動するのであるが、 その対象は神や聖者にあるものではないのだ。真実にあるものではないのだ。あると思っている凡夫にのみあるものだ。 それは凡夫に返らざるを得ないのである。天に唾するもの、ということである。悪行するものは、 その報いを自ら受ける他無いのである。
439 :
神も仏も名無しさん :2008/01/05(土) 15:51:46 ID:Qd84osyt
440 :
神も仏も名無しさん :2008/01/05(土) 21:18:00 ID:NFC+BjSo
神は誰も裁かない。 慈しみのこころづかいを崇高とせず、無慈悲で冷酷・残忍な人が増えれば 人々は苦悩を受け、他人から貪り取ろうとする人々が増えれば、「世の中 は怠惰と貪りによって光り輝かない」 仏教には業の輪廻という教えがあって、「殺す者は殺され」現世に悪い行 いをした人は悪い報いをこの世で受けると。掠め取った勝ちではない。 生存の輪廻しない人は、諸々の欲望に関する貪りを離れ、静けさを目指す し、貧しい人も現世で安らぎを求めて失望しないし、欲心ありこの世の幸 せを求めて生きている人々は、不幸せの原因となる悪業をつくらない。
441 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 09:50:51 ID:AvnbMGH9
>>440 釈迦の原始仏教ですね、神を認めない唯物論の・・
1行目の「神は誰も裁かない」は釈迦の教えに反しています。
釈迦に神を加えてもナンセンスです。
442 :
愛・慈悲・あわれみ・寛容・謙遜 ◆TxeNgR2IGY :2008/01/06(日) 12:05:34 ID:YmNfhFxC
イエスは「『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいます わが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」 イエス 「敵を愛し、憎む者に親切にせよ・・・いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、な さけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い 者となれ。」「修行をつめば、みなその師のようになろう。なぜ、兄弟の目にあるちり を見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」 ブッダ 「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して・・・一切の生きとし生けるもの は、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。・・・上に、下に、また横に、障害なく怨 みなく敵意なき慈しみを行うべし・・この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。」 イエスもあなたがたが神と呼ぶ存在を認める時は、「イエスはさまざまの病苦と悪霊と に悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが・・わたしにつま ずかない者は、さいわいである。」内なる神、聖霊で知るのだから、平安の境地に達す ることができない人は、あわれみの奇跡のわざを行ったイエスを信じて御言を受け入れ ていなさいということ。「平安あれ」「そして〔やすかれ〕と言われた」
443 :
愛・慈悲・あわれみ・寛容・謙遜 ◆TxeNgR2IGY :2008/01/06(日) 12:06:23 ID:YmNfhFxC
「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のい ましめを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる。」 「わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。」イエス 無意味に「主よ、主よ」と言ったとしても、あわれみの奇跡のわざを行ったイエスを 信じて、あわれみの心を身に着けようとしないと神といわれる永遠にも在る存在から 遠く離れている。 「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない。」 「神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。」 神は愛だから、偶像なるものを抱いたり、拝んだりしても、愛がなければ神を永遠に 知れない。 「『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』」 イエス 「母または父、あるいは長兄に対し・・これらの人々に対して慢心を起こしてはならな い。」ブッダ
444 :
愛・慈悲・あわれみ・寛容・謙遜 ◆TxeNgR2IGY :2008/01/06(日) 12:07:11 ID:YmNfhFxC
「善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないか らである。」コリント人への第二の手紙 「この世で善いことをしたならば、安心しておれ。その善いことが、ずっと昔にしたこ とだとか、遠いところでしたことであっても、安心するがよい。人に知られずにしたこ とであっても、安心しておれ。それの果報があるのだから、」ブッダ 「世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあり得ない。それ故に、世界を 知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に至る人となるであろう。」 ブッダ 「その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から 落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子 が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(イエス) 「そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみず から知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱す る。」(ブッダ) 両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られても、耐え忍ぶことによって、自分の魂を かち取る。世に勝って、全てをゆるし愛する者は、障害なく怨みなく敵意なき慈し みのこころづかいのある人は、肉であることを超越し永遠に至る。
445 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 12:54:10 ID:aVEZaJMV
>>441 浄土真宗の阿弥陀仏は神と云う意味です。
キリスト教の神と同一です。
阿弥陀(アン)(ミータ)アン→否定 ミータ→計測
つまり計測不能仏で無限エネルギーで神です。
浄土真宗とキリスト教とは同一の神への帰依を教えております。
「なまんだぶ」=「神に栄光あれ」
阿(アン)弥陀(ミータ)から神を計測不能仏 無限エネルギー神として
キリスト教と同一の神への帰依を教えていると言っている人ですね。
イエスもあわれみの行いを示し、慈悲の行いを教え、神のかたちを示しながら
私を信じよとした。
ブッダは平安の境地がこの世では、一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏
であれ安楽であるから、慈しみが崇高と教えた。
無意味に神を信じ言うことを否定し、計測不能仏=無限エネルギー神などという
教えの神の栄光を称えることなど教えていない。ましてや「なんまんだぶ」を唱
えて「神の栄光」を褒め称えることなど教えていない。
「神の栄光」は永遠では「さまざまな病いに苦しむ人々をいやし、盲人は見え・
安穏・安楽でない人を安穏・安楽に」この世で苦悩を受けている人を安穏・安楽
にするあわれみの心で知るのだから、あわれみの心を身に着けなさいということ
です。
446 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 13:13:25 ID:AvnbMGH9
>>445 あわれみ、慈悲、は無意味です。
偽善行為に過ぎないのである。
神の子にはあわれみ、慈悲を必要とする者は存在しないからです。
447 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 14:49:54 ID:cWwIT21H
>>446 あのなあ、持論で宗教つくらないでくれ。
阿弥陀からアンミータ=計測不能仏=無限エネルギーの神という「おやじギャグ」から
生まれた教えと、修行完成者ブッダの説く教え、イエスの教えと一緒にするなよなあ。
448 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 17:40:49 ID:69n9iWXd
原始仏教でも大乗仏教でも密教でも慈悲の大事さをといているが
449 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 18:47:25 ID:AvnbMGH9
>>447 釈迦が修行完成者ですか??
イエスが修行完成者ですか??
とんでもありません・・
人間に完成はありません。
450 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 18:58:28 ID:fRnpJZwv
阿弥陀の阿から(アン)弥陀から(ミータ)
計測不能仏 無限エネルギーの神
=ギャグ教として布教中=
>>446 >>449
451 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 18:59:12 ID:AvnbMGH9
>>447 イエスが全宇宙の霊の意義であれば認められうるであろうし、
釈迦の為に全宇宙が生きていれば、彼が一生懸命偉いと思わせようとする権威も
認められうるかもしれない。
しかし宇宙の構造と真景は違う、やはり神を志向するように創られている。
過去の四聖人の神人合一、宇宙即我とてそれは神の一端に触れたに過ぎず、
神の爪のアカにも相当しないレベルでしかない事実を知るのである。
神の全体は人間に把握できるような小さな存在ではないのです。
四聖人とて神の偉大なおこぼれを頂いているに過ぎないのです。
452 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 19:51:00 ID:ntpvA9Uo
453 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 20:24:36 ID:2j9cLLXm
聖人なくして神と言う真実を知る事は出来ない、とも言われる。仏陀やイエスを神であるというのは 真理である。
454 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 20:38:00 ID:AvnbMGH9
>>452 神への信仰は人類の初期からありました。
455 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 20:39:39 ID:AvnbMGH9
>>453 仏陀は神を否定したので神ではありません。
456 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 20:48:56 ID:XP2UBl5a
勿論、見えぬ神や永遠は人の想像でどうにでもなる。 信じること=信じた人にとってはそれが正しいことなのだ。教義によっては反対する者への 殺人さえ有りうる。 梵天の親族とされた仏陀。この世の創造主と呼ばれたイエスが、人間の思い(肉欲)は限定的 で、幸せな世界は一切が安穏で安楽であり幸福な心に近いものであるから、様々な病苦もなく、 富む人も貧しくもなく、盲人などをいやす世界だから、その世界のようにこの世で慈しみを崇 高として互いに助け合いなさいというような教えを残したとしても普通である。
457 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 21:29:22 ID:2j9cLLXm
>>455 このスレは、ブッダと神とは同一であるとの見解に争いは無いのだ。仏陀の言う真理真実も、
イエスやモーゼの言う神も、その神をキリシタンは、真実真理というのであるが、これらの真理真実は同一なものである
、というのである。その故に、同じ真理真実から流れる教えであるので、その教えに相違は無い、と認めているスレなのだ。
仏教に言う神とは、まったく異なる。
458 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 21:34:03 ID:AvnbMGH9
>>456 信仰は人類の義務となっております。
互いに助け合っては共産国家になり個人の発展も国の繁栄もありません。
一旦、釈迦の唯物論から離れて社会の有り様を考えましょうよ!
459 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 21:36:17 ID:AvnbMGH9
>>457 釈迦は神を否定した唯物論者です。
神とは全く無縁なのです。
460 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 21:41:12 ID:2j9cLLXm
461 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 21:41:13 ID:AvnbMGH9
われ(アートマン)というものはない。 また、わがものというものもない。 すでにわれなしと知らば、 何によってか、わがものがあろうか。 (相応部経典22.55 増谷文雄訳) これが、ブッダの思想のもっとも基本的な教えの一つである「無我」の思想です。 「無我」の思想は、単に、自己中心主義を否定しているのではありません。 ブッダはバラモン教の教えである魂の輪廻説を否定したのです。 後代の仏教はやがて バラモン教(ヒンズー教)の教えを再び導入してしまいますが、 魂の輪廻説を否定した ブッダの「無我」の思想は、 いくつかの禅の伝統にはまだ生き残っているように思えます。
462 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 21:44:02 ID:AvnbMGH9
>>460 神への信仰を説きませんでした。
故に唯物論者です。
463 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 21:51:09 ID:2j9cLLXm
>>462 神と言うから、その神がイエスの神と同じでなければならない、ということはいえないのだ。それなら、日本の神々は、
イエスの神と同じか?
古代インドで言う神も同様で、それはイエスの神とは同じではない。神と同じ発音であるから、
その中味も同様でなければならないとは、稚拙すぎないか?
仏教では、真理真実を掲げ、それはイエスの神と同一のものであるのだ。
464 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 21:54:03 ID:2j9cLLXm
>>463 つづき
仏への信仰を仏教は説いている。その信仰は、イエスの言う信仰と同じだ。
465 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 22:15:19 ID:DGKfropC
なんでブッダが唯物論なんだ。人が神とか永遠を知る時は、妄執というものに一切のものが従属し 「全世界は悪しき者の配下にある」(聖書)だから、このような不浄な人間の思いの状態(罪)で は神と永遠を知ることはできないと説いているのだよ。 そして安かれと言われた。平安あれ。(イエス)平安の境地に達してからの慈しみを崇高とすること(ブッダ) ブッダの方針は彼岸に達して悪魔の征服者になり善悪の両者に汚されず、敵意なき怨みなき慈しみを崇高とす ること。一旦永遠(神)を知ってから慈しみのこころづかいを崇高とせよと教えた。 イエスは御言でいと高き者は恩を知らぬ者にも悪人にもなさけ深いあなたがたの父なる神だから慈悲深い者と なれと教えた。常にイエスを信仰し御言を受け入れることで、修行しなくても済むようにした。 神という神聖な存在は、このような今のような生存状態の思いでは絶対わからない存在ということ。 その時は、主よ、主よということもなくなるだろう。人は敵意、憎しみ、自分をよくしてくれる者のみ愛する ことなどを少なくすれば、少しずつその神に近づくことができる。
466 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 22:21:20 ID:2j9cLLXm
妄想を徹底的に排除した教えが仏教。イエスの言う神も妄想ではない。 神を仏教のように説明しないが、創られざるものといえば、解るのだが。
467 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 23:33:24 ID:AvnbMGH9
>>463 「宇宙は神の表現体」西田幾多郎
この場合の神は宇宙共通の最高神です。
宗教で捉える処の神とは人格神です、
元は人間で次元の高い霊性を体得した人物です。
日本の神々は神道系です、やはり人格神です。
468 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 23:39:54 ID:AvnbMGH9
>>464 仏教には釈迦に拠る唯物原始仏教(阿含教)と
釈迦入滅後に全く別の教えである大乗仏教とがあるのです。
大乗仏教が仏への信仰を説いています。
469 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 23:53:54 ID:AvnbMGH9
>>465 神と永遠(アートマン)
>>461 を釈迦は否定したのです。
知ることはできないと説いてはいません。
釈迦もイエスも偽善な綺麗ごとを述べていたに過ぎません。
470 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 23:56:53 ID:AvnbMGH9
釈迦は今、日本に再誕しております。 当時の誤りのまま、現在も同様に邪道を続けております。
471 :
神も仏も名無しさん :2008/01/06(日) 23:59:39 ID:AvnbMGH9
>>466 >>妄想を徹底的に排除した教えが仏教。
釈迦は神と永遠を妄想としたのでした。
472 :
神も仏も名無しさん :2008/01/07(月) 01:00:45 ID:6D45dfOV
>>455 仏陀が神を否定したという根拠を挙げてください。
原始仏典には神という言葉が頻出するが
473 :
神も仏も名無しさん :2008/01/07(月) 01:03:37 ID:6D45dfOV
>>470 どこに誕生したのでしょう。
具体的に教えてください。また、「輪廻転生も否定」したのに、なぜ再誕できるのでしょう。
矛盾していませんか。
474 :
神も仏も名無しさん :2008/01/07(月) 01:37:26 ID:nN2EHVgY
>>472 原始仏典(阿含教)の神の登場を示して下さい。
宇宙表現神でしたか?
>>473 「輪廻転生も否定」だから釈迦の誤りなんですよ”!
「宗教法人幸福の科学」の総裁、大川隆法 です。
475 :
神も仏も名無しさん :2008/01/07(月) 21:33:06 ID:+SOPz9/T
また他の或る神は、尊師のもとで、この師をとなえた。 「ブッダに帰依した人々は、すべて悪しき境地におもむくことはないであろう。 かれらは、人間の身体を捨てたあとでは、神の身体を満たすであろう。」 多くの神、多くの主があるようではあるが、わたしたちには、父なる唯一の神のみ がいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、 唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。 ブッダもイエスも一切のものが妄執に従属した、全世界は悪しき者に従った から信仰があるとしているだろう。
476 :
神も仏も名無しさん :2008/01/07(月) 22:27:41 ID:nN2EHVgY
>>475 >>人間の身体を捨てたあとでは、神の身体を満たすであろう。
釈迦の唯物論理からはズレているようです。
信仰は 悪しき者に従ったからではないでしょうに。
477 :
神も仏も名無しさん :2008/01/07(月) 23:17:45 ID:GoBuUn/m
478 :
神も仏も名無しさん :2008/01/08(火) 00:21:17 ID:DYrVcPQ1
>>477 無の無限エネルギーを捉えていない哲学を云います。
479 :
神も仏も名無しさん :2008/01/08(火) 21:31:20 ID:dwiCeu1u
無の無限エネルギーから考え出された教えより、イエスとブッダの共通点は 何かを知りたい。
互いに真理を知っている事。
481 :
神も仏も名無しさん :2008/01/08(火) 22:14:43 ID:1T7inogK
共通点は無限のエネルギーの根源を知っている事。
483 :
神も仏も名無しさん :2008/01/08(火) 22:32:39 ID:c+b5obHx
484 :
神も仏も名無しさん :2008/01/08(火) 23:07:44 ID:1T7inogK
エネルギーなどありませんよ。イエスにしろ、釈迦にしろ、エネルギーとかそのほか、現代で必須のものと認められているものが、 有るのに、昔であったから知らなかったのだ、と考えてはならないのである。昔も今も、無いのである。
そうそう、エネルギーなんて出鱈目だよね
486 :
神も仏も名無しさん :2008/01/08(火) 23:16:53 ID:1T7inogK
488 :
神も仏も名無しさん :2008/01/08(火) 23:22:54 ID:d3PvCg50
本当のことを言います。 ウソも方便 これが真理です。 宗教とは、ウソで人間を救うシステムです。 シャカは、「真理って何だろう?」 と、研究し、 自分なりの答えを見つけて【悟り】としました。 彼は 宗教の教祖なんぞになりたくなかったのです。 仏教なんぞを広めたのは 彼の弟子たちでしょ?
489 :
神も仏も名無しさん :2008/01/08(火) 23:27:00 ID:1T7inogK
490 :
神も仏も名無しさん :2008/01/08(火) 23:29:42 ID:1T7inogK
>>488 >ウソも方便
ウソと言うからには、真実と言うものがあるんでしょう?
それなら、真実についても何か言っているんでしょう?
何を真実真理といっているんでしょうか?
悟解脱極難解言説不可 衆上真理歪曲認識諦感 真理森羅万象道何処開 聖人真理末端知道一成
492 :
神も仏も名無しさん :2008/01/08(火) 23:41:55 ID:1T7inogK
493 :
神も仏も名無しさん :2008/01/08(火) 23:47:34 ID:d3PvCg50
シャカは言った。 真実真理(悟り)は、死ぬほどの苦行をおこなったから といって 得られるものではない。 また、何の苦行もせぬ者には、絶対に得ることは出来ぬ。 そういうものですよ。 他人に質問して 簡単に得られるようなものではない。
悟解脱極難解言説不可・・・悟り解脱は極めて難解な事で有る為、言葉で説明するのは困難である 衆上真理歪曲認識諦感・・・人々はその真理を歪曲して理解しているのに諦めを感ずる 真理森羅万象道何処開・・・実は真理は森羅万象何処にでも開かれているのだが 聖人真理末端知道一成・・・聖人君子は真理の末端を知っていて、それを観ずるのもまた一つの道である・・・・・・ かもしれない。
495 :
神も仏も名無しさん :2008/01/08(火) 23:59:18 ID:1T7inogK
俺の言葉。
497 :
神も仏も名無しさん :2008/01/09(水) 00:03:27 ID:nHTPVXHE
>>496 ww. あんまり見かけない言葉、と思った。
贈る言葉。開縁隊
499 :
神も仏も名無しさん :2008/01/09(水) 00:33:11 ID:nHTPVXHE
あなたは真面目だなあ。つまらない語呂合わせの冗談なので軽く流してください。 贈る言葉(海援隊)by武田鉄也
501 :
神も仏も名無しさん :2008/01/09(水) 20:55:05 ID:nHTPVXHE
空相の名前が神である。神の名を述べ伝える、これがイエスの目的であった。
502 :
神も仏も名無しさん :2008/01/09(水) 20:57:17 ID:nHTPVXHE
真実は唯一である。しかし、真理は無数にある。真理とは真実を説明する言葉である。
503 :
神も仏も名無しさん :2008/01/09(水) 20:59:10 ID:IZQjaH0N
キリストがダメでブッダはよく、ブッダはだめでキリストはよく、 ブッダより親鸞、親鸞より日蓮、日蓮より親鸞、浄土真宗から親鸞会 を否定し、日蓮系は日蓮系でも互いに否定する。それら全てより無限 エネルギーという人も。 自分たちが一番正しい信仰をしていると思うことこそ真実。それ以外 の真理真実はないかもしれない。
504 :
神も仏も名無しさん :2008/01/09(水) 21:53:18 ID:nHTPVXHE
例えば、ブッダの「真理の言葉」「感興の言葉」などがある。ここに書かれている多数の教えの言葉は、皆真理である。 ひとつの教えだけが真理なのではない。しかし、真理の言葉が目的とするものは一つ、唯一である。 真実と真実に至る道は一つである。これは幸福を求めるどの世界においても、一つのものであると言いうる。 仏教では、37菩提分法である。キリスト教では律法であろう。 ここに言った事は矛盾しているようであるが、理解されるべきである。
505 :
神も仏も名無しさん :2008/01/09(水) 22:08:13 ID:Gi+NYViX
ブッダの教えは皆誤りである。
慈悲とは? アガペーとは?
507 :
神も仏も名無しさん :2008/01/09(水) 23:34:32 ID:FYgq6wXt
善悪に囚われず、他人の過失を見ず、あやまちをゆるし、自己に囚われないで、 物惜しみもせず、人によくしてやるなど慈しみの心づかいを崇高だとしている人。 イエスとブッダは一般的に善い人だと思われそうな人となることを理想としてい るみたいだし、後々になって独特な教えを説く宗教が他宗教を批判し、自己の宗教 の優位性を言うようになった。 崇高とは何か、いと高き者のようとは何か、ただ偶像を拝むことが素晴らしいとは 思えないのだが。他を批判し、自分たちのやっていることは素晴らしいと思える理 由が教義を学ぶことだったら、一般的ではないからカルト。
508 :
神も仏も名無しさん :2008/01/10(木) 00:13:21 ID:KObWbN/A
信仰は人類の義務である。 信仰無き者は犬猫に劣る・・ これは無信仰者への批判ではあるが正義である。
>>504 例えば川からはエネルギーを取り出せるけど地下水からは取り出せない
エネルギーは川と同じく「太く短く」の側に属しているから
僕はエネルギーじゃないと思う
510 :
神も仏も名無しさん :2008/01/10(木) 20:42:41 ID:f1vHaaIg
他人の過失を探し求め、つねに他人を見下して思う人は、卑しい性質が増大する。かれは実に真理を見ることから遠く隔たっている。 仏陀 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスは
511 :
神も仏も名無しさん :2008/01/10(木) 21:31:21 ID:AOqg3TqH
信仰は快楽や享楽への慎みを教え、物欲の慎みを教え、貪らないように 満足することを教える。 神または空相に反する行為を当たり前のように人類がしていると、地球 環境が破壊され、温暖化などの現象が起き、大変な災いが起きるかもし れない。 世界の終極、世界の終わりは貪りを慎めというブッダやイエスからの 警告。
512 :
神も仏も名無しさん :2008/01/10(木) 22:17:07 ID:KObWbN/A
>>511 ブッダは唯物論だから、人間の行為での世界の終極、
世界の終わりは認めてはいません。
イエスは唯心論、ブッダは唯物論でした。
513 :
神も仏も名無しさん :2008/01/10(木) 23:32:58 ID:y3r/mVYi
514 :
神も仏も名無しさん :2008/01/11(金) 01:38:26 ID:hQ7hQ/rm
>>1-1000 まぁこのスレ読んでる段階でダメに決まってるけどな。俺も含めて。
516 :
神も仏も名無しさん :2008/01/11(金) 18:51:46 ID:2kAgEtgZ
>>514 仏教徒なら宇宙と言うものを認めてはならないと思うよ。仏教徒でなくとも真理真実を尊重するならば、
宇宙などと言うものを認めないのだ。認められないのだ。
生と死は相対的な存在。それなら生も死も無いと言わなければならないのだ。
お前の言う宇宙とは生に属するものだろう?
日蓮教徒か?
517 :
人間の生死とは :2008/01/11(金) 20:06:52 ID:hQ7hQ/rm
>>516 >>お前の言う宇宙とは生に属するものだろう?
人間の生死とは、大宇宙と十分一体化していない未熟な生命が作り上げる
架空の死生観であり、生死は存在していない。
生まれたこともなければ、死んだこともない。
生きもしなければ、死にもしない。
生まれる前にも生きていたし、生まれた後も生きている。
死によって死ぬこともなく、死んだ後も生き続ける。
あの世の存在は、一つの死生観を人間に提示しています。
生命を基準にするならば、生まれたこともなければ、死んだこともない。
肉体を基準に述べるならば、生まれる前にも生きていたし、死んだ後も生きている。
死に対する生、生に対する死といった相対的死生観は存在していない。
絶対的生命観と運動的死生観のみが在る。
「絶対の生」に向かって運動する生命が生死を繰り返しながら、
神に向かって上昇し、前進していく死生観のみがあります。
我は宇宙の叡智である。
518 :
神も仏も名無しさん :2008/01/11(金) 21:00:41 ID:2kAgEtgZ
519 :
神も仏も名無しさん :2008/01/11(金) 21:04:48 ID:mx0Uxz76
宇宙は神の表現体なら、無慈悲で冷酷・残忍な行為も神の表現と教えてもよい。 「しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、 明らかにされるためである。」律法を持たない異邦人が自然のままで、人によくしてあげることなど 慈しみの行為は、偶像では抱くことができない神にあってなされたことであると明らかにされる。 ただ単に宇宙は神の表現体と言っているわけではない。 それは、平安の境地が働いて生じたからであり、この世では一切の生きとし生けるものは幸福であれ、 安穏であれ、安楽であれ、慈しみのこころづかいを崇高として教えとしている。 「イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられた が」神を知る時は、病苦もなく、さまざまな困難もない世界を真実として知るのだから、いと高き者の ように、あなたがたも慈悲深い者となれと教え、終わりの日まで耐えて生きなさいと教える。そして、 安かれ、平安あれと言われた。 「日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。」聖書 「そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についても自己の沈黙をみずから知るがままに、 かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。」仏典 「肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ 去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」(聖書) 宇宙は目などの肉が識別するのだから真理真実とは違う。宇宙は神の表現体と言う人ほど唯物論。 「世界を知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に至る人となろう。」仏典
520 :
神も仏も名無しさん :2008/01/11(金) 21:37:21 ID:hHVS7Ms8
慈しみといっても、思うべき限度を越えて思いあがることなく(聖書) 奉仕を楽しむという極端説を捨てて、思い上がりもない(仏教) 快楽は享受されるべきである、享楽に耽溺し害されることなく、永遠世界の ように迷いなく、怒りや怨みを捨て、あれこれ考えて心が乱れることもなく、 精神を安定統一させ、自己の中に真実永遠の自分を見出して生きること。
521 :
神も仏も名無しさん :2008/01/11(金) 22:42:44 ID:hQ7hQ/rm
522 :
神も仏も名無しさん :2008/01/11(金) 23:17:17 ID:2kAgEtgZ
523 :
神も仏も名無しさん :2008/01/11(金) 23:22:12 ID:hQ7hQ/rm
>>522 辛子種程の信惰にあらば、神の子の資格がある訳です。
信仰は人類の義務です。
524 :
神も仏も名無しさん :2008/01/11(金) 23:56:29 ID:hQ7hQ/rm
>>519 >>幸福であれ、 安穏であれ、安楽であれ、慈しみのこころづかいを崇高として教えとしている
崇高とは信仰である、それらは信仰の副産物に過ぎないのだ。
>>あなたがたも慈悲深い者となれと教え耐えて生きなさいと教える
信仰である、慈悲深さは関係ありません、終わりの日とは肉体の死ですか?
>>一切の苦しみから全く解脱する
肉体死後の霊天上界では皆幸福であります、解脱と云う事ではありません。
>>宇宙は神の表現体と言う人ほど唯物論
宇宙は物質ですが、神の心(デザイン)が表現されるのです。
525 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 00:15:27 ID:muwQ8MWO
>>524 貴方のは論理無き押し付けです。または自己中です。または思い込みです。
526 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 00:33:15 ID:h/VCI1+e
>>525 それ云い出したら、イエスも釈迦も同じじゃん。
527 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 15:59:15 ID:muwQ8MWO
>>524 >宇宙は物質ですが、神の心(デザイン)が表現されるのです。
宇宙はあなた方神の子等がデザインしたものであると?
だとすると、どのようにデザインしたのか?
俺は最近ではキリスト一色だけど、中一で初めて神様の存在を実感して以来、色々見てきたけど、最終的に信じられるのは愛だな。 後、正しい目。 世の中の見方。 客観性と主観性。 ブッタ自身はあの世がどうこう、神様仏様がどうこうとは言ってないから好きだ。 どっちかと言えば哲学に近いと思うし。 だけど、だからこそ俺は神様どうこう言うキリスト教を信じてる。
529 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 16:14:16 ID:h/VCI1+e
>>527 望遠鏡で空見上げれば分かるだろう。。!
530 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 16:50:48 ID:KaYIOm6u
>>526 イエスも釈迦も理論的な教え。
今は全世界は悪しき者の配下、妄執というものに一切のものが従属し、人間界には悪も存在する。
しかし、神を知ることのできる天国では、さまざまな病やその他の困難に悩むこともなく、一切が
幸福で安穏で安楽である。
人間の思い(肉)では天国に入ることはできないが、病に苦しんでいる人が治ったことを自分のこ
ととして喜ぶこころがあるならば、病苦もなく一切を安穏安楽に幸せにされる神とそれを善いこと
と受け入れられる永遠の命があるから、地上でどんなことがあろうと耐え忍んで受け入れていなさ
い。「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない。」
しかし、思うべき限度を越えて思い上がることなく、善だからといって、一切を安穏安楽にするべ
きである、奉仕活動をしなさいと教えているわけではない。
肉の思い(人間の思い)でいる者は、全て永遠に至らず滅び去る。敵意や憎しみ怨みや怒り、他人
のあやまちをゆるさず、見下すこと、目の欲、快楽、享楽、物の誇り、自分の物への執着など、地
のものの思いのままでいる人間は全て滅び去る。
「天上と地獄とを見」生けるものに対して貪り求め、敵対して殺し、常に害をなすことにつとめる
人々は、死んでからは暗黒に入り、地獄に落ちる。
531 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 16:51:46 ID:KaYIOm6u
「快楽・享楽・おいしいものを食べました。私は清く偉い人です。」と言って認められないのも、 言わないのも神の摂理である。しかし、人によくしてやり、何も当てにしないで貸してやることで 恩を知っている人から喜ばれたりするのも神の摂理である。地上のことで敵を憎み、わずかなこと で争って平和を願っても得られないのも神の摂理である。そのように見えぬ神は地上にも影響を与 えている。 人は自分の善悪を捨て、「正邪の道理」を知ること。 肉体は絶対に永遠ではない。肉からくる欲に執着しても永遠は得られない。敵意や憎しみ怒りや怨 み、他人を見下しあやまちをゆるさず、無慈悲で他人を貪欲のために使い平気な人々、冷酷・残忍 で人を人と思わない人は、悪い境地のまま地獄に落ちる。 釈迦は煩悩を抑制する修行、妄執に従属した人間の思いが存在しない平安の境地から道理を説いた。 五感も第六の思考も存在せず、五欲の対象の貪りを抑制して、あれこれと考えることを静め、精神 の安定統一により清浄となることを目指した。 イエスは偶像で抱けない神を「さまざまな病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見 えるようにしておられたが・・・わたしにつまづかない者は、さいわいである。」 病に苦しむ人が治ったことを自分のことのように喜ぶ心、天国に通じる心が人にはあり、あわれみ の神が全てとなり真理・真実として何ものも存在せず清まっているから、そのあわれみの行いをし たイエスを信じて清められるとした。五欲の対象の貪りを抑制する修行はせず、上ではキリストが 神の右に座し、地上のものに心を引かれてはならないとした。
532 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 16:52:26 ID:KaYIOm6u
神は理論でもあり、現実でもある。全世界は悪しき者の配下にあり、このような今の人間の状態で 善いところ、天国、永遠、神を知ることなどない。しかも、人間の考えで洗脳されなければ、多く の人々は、病もなく、この世の苦難も存在しないと考え、地上への思いも存在せず、人の手でつく られたものも存在せず、肉体としての人間はあり得ないと考え、肉欲は存在しないと思っている。 その世界を善いところと思うならば、地上の思いに惑わされず、病に苦しむ人が治り、自分のこと のように喜ぶように、慈しみやあわれみをいと高き者の行いとして、慈しみを崇高な教えとして地 上でも受け入れていなさいとすることは正しい道理である。しかも、限度を越えて思い上がること もなく、真理真実の世界が五欲の対象を一切貪らない世界であっても、享受した場合、自分を正し 者、清浄な者とせず、自分を低くしていたほうが、他の人々を見下すより真理に近いのである。 「快楽は享受されるべきであり、清らかである。快楽のうちに欠点は存在しない。」とこのよ うに見なす愚者どもがいる―これは第二の極端説である 「肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである。世と 世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」 しかし、快楽や目の欲などを正当化することは決してない。
533 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 17:02:30 ID:h/VCI1+e
「『自然』とは何だい? 『自然』とはぼくらを産んでくれた大いなる母なんかじゃない。 それは僕らが創ったものなんだ。」 「ぼくらが見るからこそ物があるのであり、ぼくらの見るもの、 またその見方は、ぼくらに影響を与えてきたその『芸術』に依存するのだ。 あるものを眺めるということは、あるものを見ることとは大違いなのだ。 ひとはそのものの美を見るまでは、なにものをも見てはいないのだ。 美を見るとき、そしてそのときにのみ、ものは生まれてくるのだ。」 『嘘の衰退』オスカーワイルド
534 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 17:08:25 ID:h/VCI1+e
>>530 その様な偽善的な屁理屈云ってるようじゃ、社会は益々腐敗して行きます。
535 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 18:28:59 ID:muwQ8MWO
ニルバーナとは煩悩の消滅したところ、ではなかったか?真実は一相無相空相であることを知ったので、 あらゆる今までの欲求が消滅するのでは?
536 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 18:42:31 ID:7mad3KI5
たとえば、死ね煩悩消滅。お釈迦様と弟子は教えを残さなくてもよかったw 宇宙は物質で神の心で表現されているので、援交でもして楽しく生きればいいのですwww
537 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 18:46:37 ID:h/VCI1+e
色即是空 色=煩悩 空=神 煩悩と神とは一つです、切ってはならない。 真実を知るとは、神の欲求と人間の欲求が合一である事を知る。 すなわち、「主客合一」。
538 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 18:55:18 ID:h/VCI1+e
>>536 >>援交でもして楽しく生きればいいのですwww
ところが、人生は修行場ですから援交してもうまくいきません。
539 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 20:49:11 ID:muwQ8MWO
煩悩と言うものは無く、神と言うものも無く、主客合一というものも無い。 宇宙と言うものも無い。
540 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 20:55:29 ID:q+UF4v2l
煩悩はないといえば、ウソになるでしょ?
541 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 20:56:46 ID:tmuEy7vm
援交即菩提
542 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 20:58:04 ID:tmuEy7vm
>>538 うまくいくとかいかないとか、こだわりを捨ててただ歩め。
543 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 21:29:52 ID:pyGX+lkV
神は空ですから、人間の欲求のまま生きればよいのです。 それが人間の真の生き方です。 人生は修行場ですからうまくいかない援交も修行のつもりでがんばれば 煩悩の修行ができるのです。「主客合一」それが重要です。
544 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 21:32:46 ID:pyGX+lkV
「主客合一」「援交即菩薩」煩悩と神は一つです、切ってはならない。 人生という修行場ですから、煩悩に努めましょう。
545 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 21:50:11 ID:pyGX+lkV
イエスも釈迦ももともとは信憑性があった。 現代の末端の教義では、いらぬが仏、頭が「空=カラ」ということか(WWW
546 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 23:20:05 ID:muwQ8MWO
縁起している存在は実体がない、または、自性がない、または命が無い、と言う意味である。 幻もまた縁起しているものであるから、結局一切は空、または、一相、無相である、というのである。 この真実から、様々な応用が産まれる。
547 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 23:39:59 ID:h/VCI1+e
>>539 >>煩悩と言うものは無く、神と言うものも無く、主客合一というものも無い。
宇宙と言うものも無い。
そうかい、だったら早く死ねよ・・!
548 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 23:47:24 ID:h/VCI1+e
>>543 >>神は空ですから、人間の欲求のまま生きればよいのです。
「主客合一」ですから、神に於いて人間の欲求のまま生きるのです。
549 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 23:50:01 ID:h/VCI1+e
>>544 >>人生という修行場ですから、煩悩に努めましょう。
神と煩悩に努めましょう。
550 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 23:54:56 ID:h/VCI1+e
551 :
神も仏も名無しさん :2008/01/12(土) 23:58:55 ID:FSsX0Omh
仏教の悟りには4段階あります。 第1段階では、3つの煩悩が消えます。 有身見・疑・戒禁取見です。 有身見とは、無常・無我を知らないために、 心身を実体だと思ってしまう見解です。 疑とは、自分で確かめもせずに真理疑ったり、 自分で確かめもせずに何かを信じこむ、 保守的な見解です。 戒禁取見とは、間違った意味のない しきたりや戒律や儀式に執着する見解です。 悟りの第1段階に達したら、 キリスト教を信じなくなるでしょう。
2.3.4も教えてね。
553 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 00:20:25 ID:LZTa7rB7
>>551 この3つが煩悩ですか??
神への信仰とは永遠の生命の信仰です。
肉体心身は仮の姿であるとの認識です。
永遠の生命を説かない釈迦の方が有身見であります。
疑ですか・・
確かめもせずにと云われますが、神の存在は信以外に捉えようがないのです。
釈迦はただ信仰の否定のこじつけに過ぎません。
戒禁取見・・
これは仏教に多いです。
葬式仏教です、困ったものです。
故に3つの煩悩は仏教では消えません”!
永遠の命なんて信じてるかぎり、仏教は理解出来ないよ。(笑
555 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 01:40:54 ID:LZTa7rB7
釈迦は神(永遠の命)を否定した唯物論者であった。 王の息子であった為、誰も批判できず、悟った訳でもないのに ぶっだ(悟りを得た者)と云われその気になって自惚れたのだった・・! 後に大乗仏教が広まり釈迦の屁理屈は影を潜めるのであった。
556 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 01:48:07 ID:LZTa7rB7
そして、1956年に日本に再誕して又しても集団をつくり、 バカな教えを広めようと、一生懸命偉く見せようとして 日々勤めているのだった・・!
>>555 は無知を晒して悦ぶ変態さんか?(笑
でも、手抜きしないで少しは内容変えないとなぁ。(笑
558 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 03:13:08 ID:LZTa7rB7
人類史上初めて、釈迦の誤りを見抜いたのであった・・!
>>558 釈迦を誤りとする奴なら、掃いて捨てるほどいたぞ?(笑
560 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 08:03:20 ID:d/qRqbhp
>>553 第1段階で消えるのはその3つだけです。
激しい欲望や怒りの感情は、第2段階の悟りで少なくなり、
第3段階の悟りで消えると言われます。
仏教は、自分で実験して確かめることのできる教えです。
キリスト教系では、神様を試してやろう
なんて考えてはダメだと聞いたことがあります。
日本の葬式仏教を見たらお釈迦様も嘆かれることでしょうね。
人々の煩悩は、仏教の中にさえ、
余計なしきたりや儀式を取り入れさせてしまいました。
561 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 08:08:04 ID:d/qRqbhp
562 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 10:31:57 ID:ZDtO/uzd
>>550 真理の言葉が生まれる。真理の行動が生まれる。
563 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 10:55:26 ID:ZDtO/uzd
>>561 永遠の命といって、何か価値有るものと妄想してるだけだ。
しかし、永遠と言う文字に注目してみるならば、それは時間と空間を意味している。
永が時間で、遠が空間である。しかし、これだけでは時間と空間と言う意味だけで、
本来の無限、無量と言う意味は無い。だから、考えが足りないと言うか、
思考が足りないのである。
無限の時間、無量の空間を指して初めて、言い切ったことになる。
無限の時間と言うと、時間の認識は無い事になるのだ。無量の空間と言うと、
空間の認識がない事になる。
次に、空間時間の認識の無い命とは何か、である。
命とは何かを、553に答えてもらう必要がある。553は何を命といっているのかを。
564 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 12:54:07 ID:ZDtO/uzd
キリスト教については、今までイエスの犠牲などに付いて言われたことが無い。 犠牲に特別な意義を認めないからである。 イエスが本当に真実の境地にいたなら、死など無いのだから。 われわれは真実と真理について考えているのである。
565 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 13:19:24 ID:LZTa7rB7
>>563 命とは「無一物中無尽蔵」「無の無限エネルギー」である。
566 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 13:36:05 ID:ZDtO/uzd
567 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 15:11:48 ID:d/qRqbhp
568 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 18:40:54 ID:ZDtO/uzd
>>563 つづき
無限の時間、無限の空間、これの説明は簡単じゃないな。
無限の時間とは、ある一つの心の状態が、過去未来において変化が無いということである。
無限の空間とは、ある一つの空間が、四方八方において変化が無いという状態である。
569 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 19:16:39 ID:LZTa7rB7
>>567 >>キリスト教の言う永遠の命とは
神への信仰を永遠の命というよぅ。
570 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 19:17:57 ID:LZTa7rB7
571 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 19:19:38 ID:LZTa7rB7
>>566 >>唯物論や唯心論は捨てるべきです。
色即是空 唯物論即唯心論
572 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 19:31:42 ID:w0UgUVjZ
無の無限エネルギーを信じて永遠の命かね。イエスはそのようなことを 教えてたの? 神を空にして神の欲求と人間の欲求が合一であることを知る。 「主客合一」 結局、神を物言わぬ存在だから、人間の欲求だけで生きればよ いということになる。 「援交即菩薩」「売春即菩薩」「盗人即菩薩」「暴力即菩薩」 人生は欲求の修行場、その人はその人の欲求に応じて生きればよい。 イエスやブッダはそんなこと教えなかったようだが、彼らを超越した人間が現れて、 人の欲求のまま生きることを教える。
573 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 20:02:56 ID:LZTa7rB7
>>572 イエスの教えは書物に残された訳でもないので追求されてもなぁ・・
>>神は物言わぬ存在だから、人間の欲求だけで生きればよい
私たちは神の子ゆえに神性が宿っているのです。
信仰において「援交即菩薩」「売春即菩薩」「盗人即菩薩」「暴力即菩薩」
が初めて成立するのです。
人生は欲求の修行場では無く、神の与えし試練の修行場です。
釈迦は誤った思想ですが、イエスは9次元界の哲理です。
私は10次元界から法を降ろしているのです。
イエスの哲理を超えているのです。
574 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 20:53:28 ID:ZDtO/uzd
575 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 20:59:22 ID:LZTa7rB7
全ての自我をなくした生命状態を無我と錯覚し、 自我の一切を否定していくためであり、 自我そのものを全て悪として否定していく内容の教義というのは、 すなわちその教祖自身が大宇宙の理法を十分悟っていないからです。 自我の全てを否定していく教えそのものが、 実は自我である点は理解できると思います。
576 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 21:09:23 ID:gzPz49QD
>>573 精神病院ではみんなあんたの話を聞いていた?
577 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 21:14:49 ID:LZTa7rB7
>>574 世界腐敗の原因は、「権力がある」、「お金がある」、「名声がある」、「学歴がある」、「地位がある」、
「物質がある」といった普段、「人間がある」と思っているものによって成り立っています。
「人間がある」と思っていたものが、実は「ない」場合、世界は腐敗していきます。
「生命がある」、「善がある」、「正義がある」と思うことを、「信仰」と言います。
「信仰」が世界を救うというのは、この意味です。
信仰がありませんと、自我のままに生きますから自我の先天的性質である「自我は快楽と利益を求める」性質のまま、
「ない」ものを「ある」と錯覚して生存していきます。
「認識の転倒」です。
生命の転倒は、環境破壊や学級崩壊、犯罪や病の増加を必然的にあらわします。
「信仰」とは、普段から「生命がある」、「善がある」、「正義がある」と思い、信念化することであり、
本来、我々の世界は神を信ずるだけで良くなるように作られているのです
信仰とは神在ることを人類各人が体得し得る事”
それを原因として人類救済を含む一切の御利益が現象化する。
大宇宙の偉大なる心を知った時、人類を通して「神の繁栄」があらわれる。
これが人間の本質です。
578 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 21:23:00 ID:ZDtO/uzd
>>577 >信仰とは神在ることを
神とは何か説明を。詳しく
579 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 21:28:54 ID:+3wit4Yk
くだらねぇ
580 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 21:46:17 ID:LZTa7rB7
>>579 勉強する気のない奴は出てってくれ・・!
581 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 21:52:50 ID:UUHI1hdK
神を信じるだけでテロも起きるが。そのうち信じない人を正義によって 抹殺する。 今は違うと言うだろう。
582 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 21:56:53 ID:UUHI1hdK
>>580 お前こそ出て行け。ここはイエスとブッダの共通点。
神を信じるだけで、常識以外の行動をする。
神の信じ方もいろいろあるんだろうよ。
583 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 22:04:27 ID:LZTa7rB7
>>581 神をままごと扱いするなよ・・
>>582 イエスとブッダの共通点は無い、真理真実とは?スレだろ・!
584 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 22:05:37 ID:LZTa7rB7
585 :
神も仏も名無しさん :2008/01/13(日) 23:07:52 ID:LZTa7rB7
>>578 現代科学による神の存在への到達
皆さん、、
神の正体をご存知無い様ですので、一度正しく解説したいと思います。
ドップラー効果によって宇宙は膨張しているという膨張宇宙論が確認されました。
宇宙は時間と共に膨張しておりますが、逆から言えば時間を遡(さかのぼ)っていきますと
宇宙は収縮していきます。
時間をどんどん遡(さかのぼ)っていきますと宇宙は収縮していき、
最後には手の平に乗るほどに宇宙は小さくなっていきます。
更に時間を遡り、宇宙誕生時刻ゼロの地点では不思議な世界になっていることが
科学で証明されています。
宇宙誕生時刻ゼロの地点では時間も空間もなく、質量も体積も存在していないにも関わらず、
エネルギーだけが「∞(無限大)」を示しているのです。
何もない世界に一切があり、エネルギーは無限大を示している。
禅の「無一物中無尽蔵」が先端のアインシュタイン方程式から出てきたため、
これが科学者の世界で問題となりました。
科学は無限を嫌うにも関わらず、最先端のアインシュタイン方程式から、
この無限大が出てきたため様々な探求と仮説が出てきました。
この大宇宙誕生時刻ゼロの地点を「特異点」と言います。
実はこの「無の無限エネルギー」こそ神の正体なのです。
何となく解る、解脱すると僕らが認識できる時間も空間も無い。 そこには完全な生命力みたいな物が有る。 そこっていうと、空間を指してしまうが、表現する言葉無いんで。
587 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 00:46:51 ID:YSrUN3A/
588 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 10:35:45 ID:ooVW9CCB
>>585 >禅の「無一物中無尽蔵
これは何?、詳しく。
589 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 12:03:02 ID:YSrUN3A/
>>588 専門じゃないんでネットで調べてくれるかなぁ。
590 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 12:19:20 ID:ooVW9CCB
>>589 禅宗が言うところは仏教なのだ。仏教を引用するなら、その意味を取り違えて引用してはならないだろう。
591 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 12:32:31 ID:YSrUN3A/
取り違えてはいませんが・・ 宇宙の法はバラバラではなく一つに統一出来ますから・・!
592 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 14:07:39 ID:ooVW9CCB
>>591 仏教の縁起と空の理法と、何処が共通するのか?
593 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 14:14:02 ID:4xfO1rSf
宇宙は縁起と空のみで構成されてる 特定の神が支配してるなんて嘘です 仏教は宇宙の法そのものなんですよ
594 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 14:18:51 ID:ooVW9CCB
>>585 >無の無限エネルギー
これは何、どんなもの?詳しく。
595 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 15:55:00 ID:ooVW9CCB
真実は一相無相空相である。この表現は理法を言うものである。
596 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 17:38:23 ID:QbqY92+E
>>595 仏教の目的は無相であり空である存在への執着を捨て、
存在の世界から解脱することです。
存在の本質を説き明かすことが目的ではありません。
宇宙の本質を知ることが目的ではありません。
597 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 18:38:47 ID:YSrUN3A/
>>592 仏教の縁起とは神を否定した唯物論。
空の理法とは神の摂理で共通しません。
598 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 18:42:40 ID:YSrUN3A/
>>594 無の無限エネルギー とは神であり、
我ら人間では到底把握できる存在では無い為、
唯、信仰により信じるのみです。
599 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 18:44:07 ID:YSrUN3A/
>>596 >>存在への執着を捨て、存在の世界から解脱することです。
釈迦の唯物教へのカルト洗脳に過ぎません。
600 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 19:10:35 ID:ooVW9CCB
>>599 >唯物教
唯物論とか唯物教とかわからない。詳しく教えて。
601 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 19:20:43 ID:YSrUN3A/
>>600 釈迦の唯物論とは神を認めないで宇宙と人間の仕組みを解明した哲学です。
それを人に教えると唯物教と云うのです。
602 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 19:41:54 ID:ooVW9CCB
釈迦の哲学で、無の無限エネルギーを説明できませんか? 神とは無の無限エネルギーですし、釈迦の哲学は、宇宙と人間の仕組みを解明した哲学ということですから、 出来るんでは?詳しくお願いします。
603 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 20:55:22 ID:ooVW9CCB
無の無限エネルギーとは、理法の表現です。無も、無限も、エネルギーも理法です。 この関係を説明できるでしょう?
604 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 21:38:46 ID:YSrUN3A/
>>602 釈迦が神を説かなかったものを、
他者が介入して神を説いたなんて弁明できる訳ないでしょ。
釈迦は自分が偉くなりたいが為、神を否定して宇宙と人間の仕組みを間違って解明したのです。
605 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 21:44:01 ID:YSrUN3A/
1956年に日本に釈迦が再誕しました。 やはり、インド時代と同様に偉くなりたいようです。
606 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 21:55:50 ID:ooVW9CCB
お前の神というのは、理法とは関係ない。肉体である。妄想である。
607 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 22:19:36 ID:QbqY92+E
>>604 神は煩悩を捨てきれていないように思えます。
ブッダよりも精神的に未熟でしょう。
608 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 22:26:49 ID:YSrUN3A/
>>607 釈迦は人間です、神は無限です。
ブッダよりも精神的に未熟なんて天地逆転のアホですか??
609 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 22:51:36 ID:kBbhF8Cr
釈迦は永遠=虚無と悟り、存在への執着を断ち切りました。
610 :
神も仏も名無しさん :2008/01/14(月) 23:07:04 ID:QbqY92+E
>>608 神も煩悩にとらわれた生きもの一種です。
迷いの世間にとどまっている生命です。
ブッダは、生きものの世界から解脱し、
平安なる滅びに入ることができました。
聖書の神は、怒りや妬みの感情をもっているでしょう?
怒りや妬みはストレスの原因となる煩悩です。
煩悩があると苦悩が発生します。
執着があると苦悩の原因になります。
611 :
神も仏も名無しさん :2008/01/15(火) 00:05:31 ID:PVU0eZjm
>>609 >>存在への執着を断ち切りました。
断ち切ってねーし、断ち切れるものでもない。
612 :
神も仏も名無しさん :2008/01/15(火) 00:08:39 ID:PVU0eZjm
>>610 聖書の神は人格神で元は人間でした。
「宇宙は神の表現体」西田幾多郎
私が教える神は宇宙を表現した神です。
613 :
神も仏も名無しさん :2008/01/15(火) 07:57:38 ID:GtiHpa+6
614 :
神も仏も名無しさん :2008/01/15(火) 13:08:30 ID:PVU0eZjm
615 :
神も仏も名無しさん :2008/01/15(火) 19:53:31 ID:pNR+VILs
>>612 そしたらこのスレじゃなく、別のスレたてて話せばいいじゃないか。
スレのタイトル、「無の無限エネルギー 宇宙は神の表現体」というようなスレ。
それなら、その趣旨にあった話ができるだろうに。
確かに人格神の教える教えは「仲保者」の教えだと思うし、神は人知では知れず、
罪をゆるしながら、無の無限エネルギー真理真実の世界に近くなるように、人に
できることから教えたのかもしれない。
616 :
神も仏も名無しさん :2008/01/15(火) 21:28:20 ID:V/bYpihn
>>614 真理真実と言うなら、必ず一つだけの道があるのだ。それは変化に注目し
それの虚を論証するものである。これを言わない論は全て嘘偽りであり、それは悪魔の
存在を示すものである。
真理真実は、一相であり、無相であり、空相なのである。
宇宙など無く叡智など無い。
617 :
神も仏も名無しさん :2008/01/15(火) 23:50:20 ID:GtiHpa+6
苦・無常・無我・空。 全部同じことを示している。
618 :
神も仏も名無しさん :2008/01/16(水) 00:14:14 ID:2n6jlXEz
>>616 マタイによる福音書
第十八章(CHAPTER 18)
そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。
しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。
619 :
神も仏も名無しさん :2008/01/16(水) 01:40:44 ID:x7Cn1sDb
>>616 真理真実とは神であり、論証ではなく信仰である。
神基準と観れば宇宙も叡智も無い、神の表現に過ぎない。
620 :
神も仏も名無しさん :2008/01/16(水) 14:39:43 ID:nexnSNVg
>>1 推薦本があったら教えて下さい。
私の推薦本は
『霊性の開発』五井昌久著 白光出版
人間本質は霊性であって、物質体ではない。
だから人間が真実に救われるためには、どうしても
自己の霊性を開発しなければならない。
本書は日常生活の中で出来る霊性開発の道を説く。
『聖書講義』五井昌久著 白光出版
序文から抜粋〜
私は特にイエスと仏陀、キリスト教と仏教をところどころで
比較して書くことに努め、宗教の奥義というものは、
何宗でも終局は同じなのだということもわかっていただきたいと願った。
621 :
神も仏も名無しさん :2008/01/16(水) 21:24:18 ID:2n6jlXEz
>>620 プラトンのパルメニデス。パルメニデス本人の残っている断片。アリストテレスの
のパルメニデス、ゼノン、メリッソスについての記述。
622 :
神も仏も名無しさん :2008/01/16(水) 22:17:31 ID:GVkubav4
仏陀は人として、 「悪魔の征服者です、賢者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡 りおわり・・・麗しい白蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません。」 ―かの神は、次の詩句を以って、尊師に呼びかけた― 「森に住み、心静まり、清浄は行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうし てあのように明朗なのであるか?」 「未来のことにあくせくすることなく、ただ現在のことだけで暮らしている。」 〔神いわく〕「下女の汚れた衣のように、汚れて荒々しい男に向かって、わたしは説いているの ではない・・・罪汚れなくして、常に浄らかさを求めている人には、毛先ほどの悪 でも、雲ほどに大きく見えるのである。」「わたしは、そなたに依存して生きてい るのではない。またそなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない。修行 僧よ。ひとは何によってよきところに行き得るのかということを、そなた自身が知 るべきである。」 神が創造されたとされる自然の中で、煩悩の潜在的な可能力を断って、仕事もせずわずかな食 物で暮らす。思考を静め、五欲の対象から離れる。しかし、蓮華の香りを嗅いだ修行僧を憐れ んで、毛先ほどの悪でも、雲ほどに大きく見えると。
623 :
神も仏も名無しさん :2008/01/16(水) 22:18:07 ID:GVkubav4
修行完成として 「平安の境地に達して・・・長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、 ・・・一切の生きとし生けるものは、幸せであれ・・・上に、下に、また横に、障害なく怨みなく 敵意なき慈しみを行うべし・・この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。」 学び修めた賢明な人 「貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ・・汚れに打ち克って、 施し与えることをなせ。功徳は、来世における、人々のよりどころである」「信仰心あり、学び修 めた賢明な人は、食物を用意して、食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ。心に喜んで、撒き 散らし、「与えよ」「与えよ」と語る。かれは、天が雨降らすごとくに、その轟きを発するのであ る。」 神が創造された自然に満足しない人を憐れんで、その罪をゆるし、「あなたがたは、実は一切を 幸せに安穏に安楽な世界を真実として喜ぶ永遠を内在している者だから、慈しみを崇高とせよ。」 と世間の人々に教える神の子が過去地上に現れたとしても不思議ではない。
624 :
神も仏も名無しさん :2008/01/16(水) 22:18:51 ID:GVkubav4
教えの永続 「世の興亡盛衰をさとって、良き心あり、こだわることなく、そのとき、すぐれた益をもたらすも のとなって。」 「罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを耐え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人」 「世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあり得ない。それ故に、世界を知れる人、 聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に至る人となろう。」 世界の終極まで教えとともに歩めと。 イエスはさまざまな病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにして おられたが・・・わたしにつまずかない者は、さいわいである。 「天国など善い世界があるとするなら、病に苦しむ人々も、この世の苦難もなく、全ての幸せを喜 び、全ての安穏と安楽を喜ぶだろうな」と自然のまま考える人も多い。「一切の生きとし生ける者 をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない。」 善いことを知りながら、人々は地のことのために戦争をする。平安を幸せと思いながら、地の ことのために争う。思考を持ったがために、考え方の違いで両親、兄弟、親族、友人さえ対立 する。他人の過失を見ず、地のことよりも善いことを真理真実として心にとどめている人は、 滅びることのない永遠を知る。慈悲、あわれみ、寛容、謙遜、柔和、愛は永遠。
625 :
神も仏も名無しさん :2008/01/16(水) 22:26:30 ID:YQDaluXu
仏教徒は、ブッダとイエスの共通点にあまり興味ないのではなかろうか。 しかし、聖書をいまひとつ信じきれないキリスト教徒は、 ブッダとイエスの共通点をみいだすことに、 「イエスも捨てたもんじゃないだろ」 というアリバイを求めているのではないだろうか。 論理的なブッダの教えに どこかあこがれているキリスト教徒は、 イエスとブッダの共通点を欲しがるのではないだろうか。
626 :
神も仏も名無しさん :2008/01/16(水) 23:25:34 ID:x7Cn1sDb
627 :
神も仏も名無しさん :2008/01/16(水) 23:28:42 ID:ld6LW1Ze
あなたキリスト教徒?
628 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 00:31:23 ID:P563L+5K
論理的なブッダの教えと云うよりも、 強引なこじ付け論に過ぎないのだが・・
629 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 06:22:20 ID:tmDzzGTg
>>628 具体的に,こじつけ論と思われるところを挙げてくれ。
630 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 08:07:51 ID:ugRs4kq0
聖書に無我説のような記述はある?
何故求めているものが同じなのに、このように争うことばかり生じるのか? キリスト教の精神である「博愛」とはいったい何か? 仏教の教えにある「無分別智」とはいったいどういうこと? 突き詰めればどちらもゴールは同じになるのに… 何故か、近付くどころか遠ざかる者ばかり目立つ 聞くには聞くが決して悟らず…か! それとも、難解難入?
632 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 12:41:12 ID:U4Y+5pPc
>>631 それは、「求めているものが同じであって欲しい」
というあなたの願望でしょう。
現実には、求めているものも違う。
違いを認めた上で、地球上でうまく共存するしかない。
あと、掲示板での議論は、
争いではなくお遊びだと思いますよ。
633 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 13:01:22 ID:P563L+5K
>>629 これが釈迦の代表的な論理だと云う処を記載して下さい。
それに対して論破します。
634 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 14:10:14 ID:P563L+5K
>>631 ただ言葉や書面で綺麗ごとを並べたとしても何の意味もない儀善者と云う事です。
635 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 17:14:05 ID:tmDzzGTg
636 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 17:55:31 ID:P563L+5K
>>635 >>縁起している存在は実体がない、または、自性がない、または命が無い、と言う意味である。
>>また縁起しているものであるから、結局一切は空、または、一相、無相である、というのである
つまり神を認めない論法であるため、この様な内容に成らざるを得ない。
この世とあの世を貫く法則は「主客合一」です。
この世では「見られる全世界は、見る者全人類の心の世界」ですが、
あの世では「見られる菩薩界は、見る者菩薩の心の世界」な訳です。
菩薩界といい、如来界といい、宇宙界とも云うべき世界は、その世界に住む霊人の心が創りだしているのです。
すなわち世界は生命で表現されています。
これはこの世も同じなのです。
自分もなく、他人もない。人類もなく、世界もない。自然界もなければ宇宙もない。
すべて生命で創造せられた表現結果の世界であるがゆえに、
この世でいうならば宇宙はない、無一物であるという禅家の教えと同一なわけです。
創造のみあるといえるのです。
宇宙や自然界を表現し、全天界を創造している「生命のみ在る」ということです。
生命は神ですから神のみ在るといえます。
これは個々人の生命の中心に在るわけです。
637 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 18:14:26 ID:EpJhE37u
>>636 キリスト教とはもっとも「神」を認めない宗教である
638 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 18:16:16 ID:U4Y+5pPc
>>636 もはやキリスト教ではない。
仏教でもないか。
世間の現象を成り立たせている因果(縁起)を、
「いのち」とか「生命」と呼ぶ人もいるでしょう。
「神」と呼ぶ人もいるでしょう。
仏教で大事なのは、神(縁起)がつくりだす現象は
苦・無常・無我であり儚い幻だから、
それらに執着しても悩みの種になるだけだよと
説くことです。
639 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 18:55:54 ID:tmDzzGTg
>>636 論破に到ってないよ。自説を言ってるだけじゃないか。
それから、お前の言う主客合一とか神とか、命とか菩薩とか如来とか、も、ゼンゼン自分勝手じゃないか。
640 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 19:36:37 ID:tmDzzGTg
>>636 貴方の自説には仏教と共通する趣旨もある。しかし、論証が無い。
創造とは何か?詳しく。
641 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 20:53:41 ID:P563L+5K
>>638 >>それらに執着しても悩みの種
性欲、食欲、名誉欲、そして虚栄心などの欲望は一定限度であれば認められます。
神の心を忘れて自我の欲望のみに生きる者は罪人と云う意味です。
宗教用語で色心不二とありますが、色(物質、欲望)と心(神の心)とは
切り離してはいけない、一体と云う事です。
歴史上は色を抹殺する事が神の御心と考えられていた時期もある訳ですが、
現在の最先端の法は色心不二に統一されています。
「人間は苦難を乗り越えて成長するもの」は正解です、
ですが色を捨て去る苦難ではありません。
神が用意した創造体験が人を成長させます。
642 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 21:00:21 ID:P563L+5K
>>639 >>主客合一
大宇宙は神の一大倫理表現であって、神理はこの点にしかあらわれておりません。
西田哲学で言われている「神意として知るべきは天地自然の理法あるのみ」といった天地自然の理法とは、
この世でのみ妥当している理法を指しているのではなく、あの世とこの世を貫いている理法のことを指しています。
従って神理の判断基準の一つには、その開示されている理法が時空を超越しているのみならず、
この世とあの世を超越して普遍妥当しているかどうかが知性的に問われなければならないわけです。
分かりやすい実例を挙げるならば、西田博士の「主客合一」の法則です。
「見られる世界は、見る者の心の世界」であり、見る者、いわゆる主観と見られる世界という客観は
主観即客観で主客合一なわけです。実際は主観と客観が分かれる以前の一者の実在を捉えて述べているわけですが、
主客合一はあの世とこの世の全てに普遍妥当している理法なのです。
しかもこの理法は何もこの世の全体のみに妥当する理法ではないわけです。あの世でも普遍妥当している理法なわけです。
あの世の全体、例えば近代、あの世には悟りに応じた差別的階層性の在る事実がイギリスのスピリチュアリズムでも
故・高橋氏の教団でも説かれていたと思いますが、その差別的階層性を説く前にあの世の各階層性の全てに
普遍妥当している理法として、「主客合一の理法」が作用している事実をまず教えて上げなければならない。
643 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 21:01:04 ID:P563L+5K
>>639 低い霊域であろうが、高い霊域であろうが関係なく、「見られる世界は、見る者の心の世界である」という主客合一の理法が
作用して各階層性が悟りに応じて決定している。あの世のどの霊域であろうとも、
「見られる全世界は、見る者、全人類の心の世界である」という主客合一の理法が作用しているということです。
「見られる如来界という、その世界は、見る者、如来の心の世界である」ということです。
神理か否かを判別する公理の二つ目に時空を無限に超越しているのみならず、
その開示されている神の理法があの世とこの世の全ての世界に普遍妥当しているかどうかが今後、
厳密に問われていかなければならない。
644 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 21:11:21 ID:P563L+5K
>>639 釈迦は存在の否定、自己自身の存在の否定を説きました。
これは誤りです。
神は、万物肯定であり、信仰とは宇宙の肯定、存在の肯定、森羅万象のことごとくの肯定を意味する。
不信仰とは実を言えば自己自身の存在の否定を意味しているのである。
信仰とは万人の義務である。
既成宗教ならば方便神を中心としている為信仰は義務化せられぬが、
義務化せられる為には本当の神をここに打ち出していかねばならぬ。
すなわち万人に普遍妥当する原理としての神を中心に置かねばならぬ。
これぞ「生命と物質」の権威といわれるものである。
645 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 21:37:16 ID:P563L+5K
地獄は欲望のせいではなく、自己の善的未熟である。すなわち金や女の欲を満たしても地獄を創らない者がいる。 物質的欲望を超越し、物質を超えているものが生命の中心にある。 単に欲望を悪として否定していくなら人生上の諸問題について解答を与え得ない。 善的に成熟している者、いわゆる高い精神と善の自得を成就している者の場合、欲望を満たしても地獄を創らない。 この時、欲望や情欲は善となる。 すなわち地獄は欲望より生じるのでは無く、神の心への無知と未熟より生じているのです。 もし欲望を悪とするなら、富を避け女を避け権力、支配の一切を否定する「不自由」を実現することとなる。 この場合、悪から逃亡し、問題の解決から逃げる無責任者を生み天地をわけ自他をわけるエゴイストを 大量生産することになります。
646 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 22:11:27 ID:U4Y+5pPc
>>644 万物を肯定し、生を美化したがる愚かさの源が、
無明です。
眼耳鼻舌身意・色声香味触法の一切は苦痛です。
生きているかぎり苦しみから逃れられない。
生きものの世間から消え去るのが仏教の目的です。
647 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 22:21:21 ID:P563L+5K
>>640 神の創造とは・・
「有用なものを造ることは、その製作者がそのものを賛美しない限りにおいて許される。
無用なものを創ることは、本人がそれを熱烈に賛美するかぎりにおいてのみ許される。
すべて芸術はまったく無用である。」 『ドリアン・グレイの肖像』
ワイルドの芸術論では、人生や人間、芸術や価値といったものは、あるものの手段ではなく、目的そのものである。
人間は役に立つとか立たない、あるいはこの人間は自分の利益になるとかならないといった
「有用性」の見地に対してワイルドは次のように言っています。
「覚えているかい、どう?
きみに『有用な』人間と見られることがどんなに嫌だったか、どんなに芸術家というものはそんなふうに見られたり
扱われたりしたがらないかを。
芸術家というものは、芸術そのものと同じく、その本質自体において無用のものなのである。」 『完本・獄中記』
芸術が人生の役に立つとか立たない、あるいは利益になるとかならないといった
「有用性」の見地から芸術を論ずるならば、「芸術というものは全く無用なものである」とワイルドは言っているのです。
「人生のための芸術」論者が言うような「人生に益する」といった利益のために芸術はあるのではない。
芸術は芸術のために在るのであって、芸術は人生の利益のための手段ではない。
芸術は物質、すなわち「手段」ではなく、それ自身が目的であり、人格性が目的とせられるのも
神の美、神の善、神の心を目的としているからである。
648 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 22:24:02 ID:P563L+5K
>>640 「有用な」人間として見られることをワイルドが嫌悪しているのは、生命と人格をある利益の目的を達する
「手段」として見られることを嫌悪しているということであり、人格性には神が宿っている限り、目的そのものです。
通常、芸術では、例えば風景画を描く時、自然界を模倣(もほう)します。
大空・草木・風・雲といった風景を肉眼で追って模倣します。
肖像画でも、鏡に写っている自己を模倣し、写実します。
ところが芸術至上主義では、芸術が自然を模倣するのではない。
自然こそが芸術を模倣するのだ、と説きます。
芸術が退屈で物質的な自然界を模倣するのではない。
日月星辰・山川草木、地水火風の自然界の方が「神の美」を模倣しているのだ。
物質の方が「神の美」、すなわち「芸術」を模倣しているのだという主義です。
自然界の方が神の心を真似ているということです。
この芸術観は大宇宙の構造とも一致しています。
「宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である」 : 西田幾多郎
649 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 22:29:14 ID:P563L+5K
>>646 この世は人生修行の場です。
私たちの里は霊天上界です。
修行を無事に終えた後は霊天上界で楽しく暮らします。
生きものの世間から消え去る必要はありません。
650 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 22:40:54 ID:U4Y+5pPc
>>649 一切は苦です。
天界だろうと何だろうと、
永遠の生命もなければ永遠の快楽もありません。
たとえば、食べる快楽は幻です。
「おいしい」の正体は、「もっと食べたい」という欲望です。
「もっと食べたい」の正体は、
「まだ満足していない」という不満であり、苦痛なのです。
目の前に食べものがあり、
「早くもう一口食いたい。もう一口を待っているこの状態が苦しい。」
というときに、「おいしい、もっと食べたい。」という幻の快楽が生じる。
本当に満足したら、もう「おいしい」とも思いません。
生きるという生命反応はすべて、
このように苦しみを解消したいから起きる、
苦しみから逃げ回る反応なのです。
天界の快楽も、快楽があるということは、
その裏に何か苦しみがかくれているのです。
快楽を求めて反応しつづけないと、
苦痛がいよいよ大きくなって襲いくるのです。
肩が凝っている人は、肩をもまれたら快楽を感じますが、 肩の凝っていない人は、肩をもまれたらくすぐったかったり痛かったりで、 不快に感じます。 肩もみの快楽の裏には、肩凝りの苦痛があるのです。 食べる快楽の裏には、食べなきゃ苦しいという苦痛がある。 呼吸の快楽の裏には、呼吸しなきゃ苦しいという苦痛がある。 生きるという生命反応はすべて、 強い苦痛から弱い苦痛へ逃げまわるだけ。 息を吸うのが苦しくなったら、息を吐く。 息を吐くのが苦しくなったら、また吸う。 仏教の目指す本当の平安は、 食べる必要もなく呼吸する必要もない。 食べることに本当に満足したら、食べる必要がない。 呼吸に本当に満足したら、呼吸する必要がない。 生きることに本当に満足したら、それ以上生きる必要もなくなる。 眼耳鼻舌身意・色声香味触法の世間から消え去り、 平安なる滅び(涅槃)に入る。 涅槃に入った仏は、もはや、神々でさえもみつけることができなくなる。
652 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 22:57:44 ID:U4Y+5pPc
仏教では、天界も迷いの世界です。 天の神様は、毎日楽しいことをしていないと死んでしまうのです。 必死で楽しんでいるのです。 そういえば、人間のお金持ちでも、 毎日楽しい刺激を求めて走り回ってる人がいますよね。 退屈したら死ぬのかなぁ? 天の神様も死ぬときがくるんです。 そのときには、天人五衰(てんにんごすい)という、 衰えて弱りきった状態になるそうですね。神様なのに。
653 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 23:10:32 ID:U4Y+5pPc
>>647 聖書の神の創造って、赤ちゃんの発達心理を表現してるのでは?
まず母体の暗闇から明るい外に産み落とされ、
光を最初に感じます。
そして、言葉による概念で、
ひとつひとつの物を認識していきます。
この認識していく過程こそが、神の創造なのでは。
いろんな動くものの中で、神様自身(赤ちゃん)に似ているのは人間です。
人間を認識するとき、赤ちゃんの認識世界に人間が創造された。
神様に似せて人間を造ったのではなく、神様に似てるものが人間。
で、赤ちゃんの身近にいる人間は、両親です。
ですから、神が最初に造った(最初に認識した)人間は、
男女二人だったのです。
654 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 23:29:01 ID:tmDzzGTg
大事な根本的なことが未だ言われていないと思うが、言いたい事は言い尽くせ、誰にせよ。
655 :
神も仏も名無しさん :2008/01/17(木) 23:48:55 ID:P563L+5K
>>650 霊天上界では食べる必要がありません。
>>生命反応はすべて、 このように苦しみを解消したいから起きる、
時間の概念が無いので、生きるも死ぬもありません。
息もしません。
>>平安なる滅び(涅槃)に入る。
滅ぶ必要も無いのです。
天人五衰(てんにんごすい)は地獄界だけです。
>>聖書の神の創造って、赤ちゃんの発達心理を表現してるのでは
ちょっと違うのではないかと・・
656 :
神も仏も名無しさん :2008/01/18(金) 05:00:36 ID:bdX0Se4D
空腹、や体の痛みという生理的苦痛は、 どんなに修行してもなくならないでしょう。仏陀が克服しようとした の自己存在への執着。自己も世界もただあるだけの無意味なものと わかることによって涅槃にいたる。
657 :
神も仏も名無しさん :2008/01/18(金) 05:03:51 ID:bdX0Se4D
そして、実践的には不所有を目指すこと。金や財産の不所有は 入り口で、最終的にはすべての「思い」の不所有を目指す。
658 :
神も仏も名無しさん :2008/01/18(金) 05:06:51 ID:bdX0Se4D
何も願うことがなくなったとき、最終の平安に入る
659 :
神も仏も名無しさん :2008/01/18(金) 07:49:24 ID:34G9+rEr
>>656 生きること自体が、結局は生理的苦痛じゃないか、
生きることへの執着は、生理的苦痛への執着だ、
と納得できたとき、生きることへの執着も消える。
660 :
神も仏も名無しさん :2008/01/18(金) 07:51:48 ID:34G9+rEr
>>655 天界では、食べる必要がないかわりに、
楽しいことをやる必要がある。
楽しいことをやめたら死ぬ。
661 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2008/01/18(金) 09:01:09 ID:Rr6bLqSY
>>616 縁起によらず、一相であり、無相であリ存在しているもののことを、
自性だというんだよ、タコ。もともと「空」という単語を意味ありげに使い出したのは
末法仏教の創始者ともいえる、竜樹のアホだと思うが、
もともと「空」とは、縁起=無自性=空。という意味で使われたものだ。
おまえの理解力は、自性と無自性がごっちゃになってる、めちゃくちゃなものじゃないか。
縁起、空、無我、無常という教えを正しく理解せず、正しくない見解、邪見に執着するものだから
仏典を読んでも、どんなに論理的に、君らの見解は間違いですよと、教えてあげても
決して聞く耳を持たない。邪見とは、自分の価値観、見解に執着することにより起こる。
君らは、自分のエゴの虜なのさ。まさに君らは、イエスの言った、
「見える目があるのに見えず、聞こえる耳があるのに聞こえない」盲人そのものだ。
あのな、一切行無常も、一切法無我も、あくまで、この五感で感じられる世界。そしてこの世の自我
形あるもの(形あるものも縁起により存在している)。それに縁起することによって起こる自我、
つまりこの世のことを言ってるに過ぎないんだよ。どちらも縁起により存在している無自性な、空だ。
空という言葉は、こう正しく使うんだよ。一相=無相とは、縁起なしに存在しているもののことを言うんだ。
それはすなわち全ての根源となる、自性だ。どちらも正反対なものだ。
それを得意げに、同じ空として語っている。盲人のおまえらは、自性も、無自性も、同じ「空」という
単語で語っているんだよ。おまえらの馬鹿さ加減に気づいたかい?(苦笑)
子は、父に似せて創造された。父と子は一つだ。イエスはその存在を「天の父」といい、
その存在となることを、「永遠の命」と称したんだよ。
ま、自分の見解に恐ろしく執着しているエゴの塊であるおまえらには、いくら言っても
聞く耳持たずだろうがな。自我とはもともと無かったものだ。無かったものは、元の無いものに解消
されていくだろう。お前達、末法仏教者の大好きな「無」だよ。心配しないでもおまえらは「無」になれるよ。
それがどういうことかも知らないで。言っとくが、我の強い奴は助からない。よかったね。
662 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2008/01/18(金) 09:13:28 ID:Rr6bLqSY
>比丘たちよ、いま、わたしは、壊れるものと壊れないものについて語ろうと思う。… >色は…。受は…。想は…。行は…。 >識は壊れるものである。もし、識が去り、滅し、没すれば、 >すなわち、壊れないものである。相応部22、32 >識是壞法。彼識滅涅槃。是不壞法。 雑阿含経、巻二(五一) >『ウダーナ』8章3節(不生不滅)> >生じないもの、生成しないもの、つくられないもの、形成されないものがある。 >もしも生じないもの、生成しないもの、作られないもの、形成されないものがないならば、 >生じたもの、生成したもの、つくられたもの、形成されたものが、(そのような状況から)脱し、離れることはないであろう。 >生じないもの、生成しないもの、作られないもの、形成されないものがあるからこそ、 >生じたもの、生成したもの、作られたもの、形成されたものが、(そのような状況から)脱し、離れることがあるのである。 と、釈迦はこういってるんだよ。 つまり縁起によらずに存在するものがある。ゆえに縁起によりなるこの世界から脱することが出来る。 それすなわち、苦の滅である。一切皆苦。 一切とは縁起でなるこの世のことだ。 釈迦の教えは、縁起によらずとも成る世界があるからこそ、苦の滅があると、説いたんだよ。 わかったかい?ドメクラの末法仏教者のアホ共。ま、こいつらにいくら言っても無駄だろうけど。 いつまでも自分の価値観に執着し、邪見に執着してるがいいさ。
663 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2008/01/18(金) 09:30:30 ID:Rr6bLqSY
ちなみに「自性」とは、言葉では言い表せないものである。 なぜなら、「自性」という言葉は、「無自性」という言葉があればこそ、存在するもの。 つまり、自性も、縁起で成り立つものということになる。これは矛盾をはらむことになる。 ただ便宜上、言葉で、その存在を、自性と表現しているに過ぎないものである。 イエスは言われた。「その世界をおまえに見せてあげよう。天使達でさえ見たこのない世界。 広大で、限界の無い世界。その王国には、名前は無い」 万物は「言」により成った。言葉は識別するもの。名称は、言葉によってなる。 「言」は全てを生み出した。「言」は子宮を持つもの。 女と男は一つだった。「言」が識別したとき、万物は生まれ、元の夫と別れた。 「言」が識別をやめたとき、元の夫の元に戻り、二人は、元の一つとなるだろう。 「言」はどこにある?「言」は「人」の心の内にある。「人」は神に似せて創造された。 男と女は、一体である。「人」が識別をやめたとき、それは自性となる。自性とは父である。 ゆえにこの三つは、一つである。 女は、男の前では黙っていなさい。
664 :
神も仏も名無しさん :2008/01/18(金) 12:54:00 ID:34G9+rEr
>>663 創造神は、人の(この私の)自我じゃないの?
私の自我が言葉を憶えて概念(識別)を増やしていくにつれ、
世界に概念(識別)の数だけ物事が創造されてゆく。
やがて自我は、世界と私とを識別する。
私が自分に似た存在を「人」という概念で識別したとき、
世界に人が創造される。
この私の自我をこのように在らしめているのは、
すべての因果・縁起であり、
それはこの私の自我(創造神)の理解を超えている。
創造神(自我)が存在し、世界を識別しているかぎり、
無相・一相・自性にはならない。
665 :
神も仏も名無しさん :2008/01/18(金) 22:46:05 ID:V2S+M6GK
だいぶ内容のある主張が出ているが、もっと無いか?反論は無いか?
666 :
神も仏も名無しさん :2008/01/18(金) 23:53:12 ID:fdhtEbCk
667 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 00:13:15 ID:0elxyebp
>>664 私の無我(神)が宇宙や自然界を表現し、全天界を創造する。
すなわち世界は生命(無我、神)で表現されています。
自分もなく、他人もない。人類もなく、世界もない。自然界もなければ宇宙もない。
すべて生命で創造せられた表現結果の世界であるがゆえに、
この世でいうならば宇宙はない、無一物であるという禅家の教えと同一なわけです。
創造のみあるといえるのです。
宇宙や自然界を表現し、全天界を創造している「生命のみ在る」ということです。
生命は神ですから神(無相・一相・自性)のみ在るといえます。
これは個々人の生命の中心に在るわけです。
668 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 01:16:56 ID:UYvj/BT8
____ /__.))ノヽ .|ミ.l _ ._ i.) (^'ミ/.´・ .〈・ リ 神はわしが育てた .しi r、_) | | `ニニ' / ノ `ー―i
669 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 01:18:26 ID:UYvj/BT8
ところで、無我論と虚無主義は同じかえ?
670 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 01:48:15 ID:0elxyebp
671 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 10:55:31 ID:WV8anxQS
>>667 >宇宙や自然界を表現し、全天界を創造している「生命のみ在る」ということです。
生命は神ですから神(無相・一相・自性)のみ在るといえます。
無相一相自性の神が、宇宙や自然界を創造するというは、矛盾しているが、この説明を詳しく。
672 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/01/19(土) 11:25:12 ID:dUXljJJ5
世界が縁起で成る相依性であるならば、 第一原因も縁起で成る相依性と理解出来て無いだけだな。(笑 無自性なのにヤソ神とか…(笑
673 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 11:41:33 ID:WV8anxQS
674 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2008/01/19(土) 12:46:12 ID:F/O6fu05
「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言え ば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。」(聖書) 「平安の境地に達して・・能力あり」神通力 「思考の及ばぬ静かな境地は・・・すでに有ったものが存在せず・・・太陽も存在せず、月も存在 しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。」 「かれらには無が有るであるかのごとくに見られている。真理を見る人には何ものも存在しない。」 「世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。」「身体は泡沫のごとしと見 よ。身体はかげろうのごとしと見よ。」「空であり無相」「五感も第六の思考もない究極の安らぎ」 「過ぎ去るものは虚妄」「安らぎは虚妄ならざる真理」 「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」(聖書)「平安の境地」 「起動も労働も存在しない」 「見られたことは見られたでけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると 知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り」 「離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、捨て去れねばなら ぬ。」 一切は虚妄であり、真理を見る人には何ものも存在せず、考えられたことすら存在せず、 あなたがたにできない事は、何もないであろうということを真実であると知って、不死の 境地に至る。
675 :
真理の言葉 ◆jsuZUzfsCM :2008/01/19(土) 12:46:58 ID:F/O6fu05
≪論じることすら悪しき者の配下、妄執から生まれた行為≫ 「争論を楽しみ、迷妄の性質に蔽われている修行僧は・・・苦難の場所に陥り、母胎から他の母胎 へと生まれかわり、暗黒から暗黒へと赴く。死後には苦しみを受ける」 「彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である」(聖書) いくら「空」だと言って理法を論じても、その理法すら論じ合うことは「悪しき者の配下・妄 執に従属」してから生まれるのであって、清浄とはならない。 釈尊の教えは「一切皆苦」を知り、自然の中で瞑想し、五感も第六の思考を静め、静かに瞑想し、 不死の境地に至って賢者となることです。妄執を乗り越え、平安の境地に至ったら、神通力もある。 しかし、五欲の対象を満たすこともなく、人の手でつくられたものに執着しない。快楽よりも静か な自然を喜び、労働もせず、安らぎと平安の境地を何よりも幸せに感じるようになる。 「真理を見る人には何ものも存在しない」ということを知っているから、いくら「空」から見出し た理法を論じても、学ぶことに生きがいを見出しても、清浄とはならない。むしろ無意味に不浄と なる。五感や第六の思考を静め、静かな安らぎを愛する行為が必要となる。
676 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 12:48:27 ID:F/O6fu05
≪神は人格的にも存在する≫ 「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」「平安の境地」を知って、地上の一切の ことも虚妄であると知り、不死の境地に至るから神は人格的にいないかもしれないと思っていた ら、神は人格的にも存在する。 五欲と第六の思考を自分だと思い、現在の地上のことのみで終わると考える人々。宗教により、 慎みを学び、他人に害を加えないようになろうとする。離欲を達成できない人が、宗教行為によ り戒めを受け、貪りを快く思っていない神の意向に近づく。この世に宗教があるのは、神の意図。 ありのままです。貪り悩まない健全な精神は、何でもできる永遠の世界に近づき、この世にもた らす。 ―――――人は自分を低くしておれ――――――― 物欲や五欲の対象から離れることのできない人は、「自分を低くしておれ」ということです。 「悪しき者の配下、妄執に従属」して現在の人間の境地に至った。思考についても、労働につい ても、五欲の対象を満たすことについても、その他の行為をしようがしまいが、人は善人・他の 人たちより義人・他の人たちより正しい者と自任しない。 離欲をしようとしないならば、「劣っていることを認め、自分を低くしていなさい」ということ です。 生きながら離欲を完全に達成し、不死の境地に至れない存在、人間は誰でも何でも公平に劣って いるのだから、それを認めて自分を低くしていなさいということです。
677 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2008/01/19(土) 16:23:21 ID:Rbta8nuF
>>665 なにゆえ議論、争論せにゃいかんのだ?
議論、争論するのは、己の価値観、見解への執着の表れ。
他人と区別し、「私」を認識している今の「私」の意識も含め、
なんにせよ、この世のもの一切に執着する心。それはエゴイズム(利己心)
エゴ(自我)は、他人と自分を識別したときから生起したもの。
そしてエゴイズム(利己心)は、この自我を強め、
さらなるエゴ(自我)を生み出す原因となるだろう。人は、このエゴイズム(利己心)を
滅ぼさない限り、己のエゴ(自我)を滅ぼすことは出来ないだろう。ゆえに、
「あなたがたは、互いに愛し合いなさい」
678 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2008/01/19(土) 16:27:11 ID:Rbta8nuF
しかしおまえさん、自分では何も語れないただの傍観者のくせに、偉そうだな。 なにが、反論はないか?だ。俺は、おまえさんを楽しませるために書いてるのではない。 2Chではおまえのような、幼稚な者が巣食っているから、真面目な話は、なかなかできない。 豚に真珠を与えるということは、心の宝を、泥の中に捨てるようなものだ。 法を語るには、ふさわしい場所で、ふさわしい相手に語るべきものだ。 おまえが何か学びたいという動機でここにいるなら、謙虚さを学ばなければいけない。 人に教えを乞うのなら、謙虚な姿勢でなければならない。そのような当たり前の心を持てない者は、 そこにはふさわしくない。そこは、あなたの場所ではない。 根源は一つだが、誰もが不滅性の者に属しているわけではない。 彼らは、聞くには聞くが決して聞こうとしない。見えるには見えるが、 決して見ようとしない。彼らは決して自分の過ちを改めようとしない。彼らは この世と、己の自我(エゴ)を愛して止まない。滅びの子達に憐れみを。 この世(宇宙)は元々無かったものだ。無かったものは、元の無いものへと解消されていくだろう。 この世と縁起して成る自我も、この世のものであり、元々無かったものだ。無かったものは、 無かったものへと解消されていくだろう。生じたのは滅するのが定めなのだ。 真実の自己を見出す者は幸いだ。彼らは生きるだろう。
679 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2008/01/19(土) 16:34:29 ID:Rbta8nuF
>>672 おや、今の仏教の常識だとされている邪見に執着している人、おはよう。
縁起も、根源がなければ、生起しないんだよ。日頃、縁起、縁起と得意げに語る君らが、
因果律の法則も理解しないさまは、まことに笑えるな。
それは無であり、有である。それを無であるというなら断見となり、有であるというなら
常見となる。それは無の状態であるが、完全な無からはなにも生まれ得ない。それはあらゆる基点である
ゼロなのだ。この宇宙は、縁起で成り立つ、主体性の無い幻だが、その幻は、今ここ、今この瞬間には、
存在している。決して「無」ではないのだ。
君は、無明に囚われた、盲人の見本だよ。
680 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2008/01/19(土) 17:02:09 ID:Rbta8nuF
え?おまえは議論争論しているではなか?だって。 はいその通りです。でも、わかっちゃいるけどやめられない、 ハイ、スースースーダラダッタ、スラスラスイスイスイ。だ。 自覚してる奴は、改めようという気持ちも生じるが、自覚もない奴は、その気持ちすらない。 「あなたがたは、互いに愛し合いなさい」 今の大淫婦の支配する時代に生きる者は、このイエスの言葉を聞いても、 それを実戦するのは不可能に近いだろう。だが、不滅性に属する者は、彼の言葉を受け入れる。 そして、彼の言葉を受け入れながらも、実践できない罪深い自分を、よく自覚している。 だが、不滅性に属さない、滅びの子達は、決して彼の言葉を受け入れない。 不滅性に属する者は、今の時代には、その性質は隠されて、出ないものである。 今の時代、大淫婦の支配する今の時代、今の価値観の元生き、今の価値観にどっぴり 心を犯され、犯されている人々の間に生きる我々は、今の時代には不滅性の性質は隠されて、でてこない。 だがら次に時代が用意されている。その時代、大淫婦は滅ぼされ、人々の価値観は改められ、 不滅性に属する人は、その性質を現すだろう。人々はその時代に始めて、イエスの言葉を受け入れ、 真理に沿った生き方を実戦できるだろう。聖書にでてくる大淫婦は、女性性であるのに注目。 次の時代に倒されるとされる大淫婦とは、今の時代の価値観にどっぷりつかった、我々の「心」のことだ。 今の時代に生き、大淫婦に支配された今の時代の価値観にどっぷりつかった我々には イエスの教えを実戦するのは不可能に近い。だから、人々の価値観の改まった次の時代が用意されている。 その前に、大いなる生みの苦しみが待っている。その時代に預かる者は幸いだ。彼らは生きるだろう。 俺はその時代に、預かれるのだろうか?魂の解消にこそ、永遠はある。父よ私の魂を救い給え。 私の心の悪を除き給え。全ての命を、救い給えと、嘘偽り無く思える心を、私に与え給え。アーメン。
681 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/01/19(土) 17:11:11 ID:dUXljJJ5
>>679 おや、今の仏教の常識だとされている空見に執着している人、こんにちは。(笑
縁起は相依性だから第一原因なんて無いんだよ。
日頃、縁起、縁起と得意げに語る君が、因果律の法則も理解しない様は、まことに笑えるな。(笑
ヤソの神は無であり、有では無い。
それを妄想であるというなら良識となり、有であるというなら空見となる。
ヤソの神は無であるから、愚者から好き勝手な妄想が生まれ得る。
それがあらゆる国際問題の起点である。
ヤソの中身はゼロなのだ。(笑
この宇宙は、縁起で成り立つ。無自性だから、有無を離れて中道を求めるべきなんだよ。(笑
決して「無」ではないのだ、なんてセリフは有に囚われたタコが言いそうだな。(笑
君も、無明に囚われた、凡人の一人だよ。(笑
682 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2008/01/19(土) 17:12:23 ID:Rbta8nuF
>>677 訂正(追記)
×この世のもの一切に執着する心。それはエゴイズム(利己心)
○この世のもの一切に執着する心。それはエゴイズム(利己心)を生みだすだろう。
俺の言わんとすることを理解してくれる人がいれば、幸いだ。
イエスの教えを正しく理解する人がいれば、幸いだ。
ゴータマの説いた法を、正しく理解する人がいれば、幸いだ。
生きとし生けるものは、全て、幸せでありますように。
683 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 17:30:48 ID:hoVKtL/W
>>669 私も違うものだと思います。
>>681 カラスの話こそ、中道をいってるものだと思うよ。
君の話こそ断見だろ。「無」を断定している。
>縁起は相依性だから第一原因なんて無いんだよ。
原因無くてあるなら元からあったということになり、縁起は自性ということになる。
縁起だけは元からあったのですか?ビッグバン理論から導かれる特異点くらい知っているでしょう?
特異点が『相依性』からなる、縁起だとでもいう気で?つまり特異点は、二つのものからなる
相依性なものだったと?君の理論は、無茶苦茶なものですね。論文としてまとめても落第点です。
「無」に執着しているから、あなたは論理的でないものを、妄信しているのですよ。
684 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/01/19(土) 17:56:31 ID:dUXljJJ5
>>683 第一原因をググりましょう。(笑
また、
特異点とは、任意の事象経過の中で『特異』である時点であり、
第一原因を特異点だなんて言ったらヤソだって怒るぜ?(笑
685 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 17:59:24 ID:WV8anxQS
>>683 >カラスの話こそ、中道をいってるものだと思うよ。
誰も幸せを求めている。中道がどうして幸せの道なのか、詳しく説明してくれ。
執着心の無い事が幸せであることを説明してくれ。
>>681 二つのものからなる相依相であるからこそ、根元が必要であり、
生起したものでしょう。つまり縁起の始まりが宇宙のはじまり。
あなたの話では、相互依存の関係性のある二つのものがあってこそ、
初めて成り立つ主体性の無い縁起という現象が、
自性という結論になる、論理破綻している無茶苦茶なものです。
あなたは、キリスト教徒が神と呼ぶ、その存在を
何がなんでも認めたく無いという自分の価値観に恐ろしく執着しているので、
そのような論理破綻している邪見を生み出し、盲信しているのですよ。
カラスの唄さんの話は筋が通っている。
縁起=無自性。いいですか?縁起とは、そういうものです。
結論が、縁起が自性となるあなたの話は、論理的にあり得ない。
687 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/01/19(土) 18:34:08 ID:dUXljJJ5
>>686 主体性の無い縁起が自性だなんてレスした記憶は無いぜ?(笑
俺の脳内では、そんな斬新な文は浮かばないから。(笑
君の読解力って凄ぇなぁ。(笑
688 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 19:09:48 ID:y5muqksB
>>687 あなたの話だと結論はそういうことになる。という話をしているんですよ。
あなたの理解力には呆れますね。
どうやらあなたはまともに会話のできる人ではないようです。
詭弁、屁理屈で返すような人とは、まともな議論はなりたたない。
ただ不毛な時間を浪費するだけです。
689 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 19:09:55 ID:WV8anxQS
空即是色 色即是空 ここに言う色とは縁起の事だと思う。 空即是受 受即是空、以下同様。 縁起は主体性のない存在、このように見るあるいは理解する ことは、空相を見ていることになる。そして空相こそ自性が有るといわなければならないものだ。 従って、縁起とは空相であり、空相が自性であリ、故に、縁起は自性といえるのである。 判断には段階があるのだ。その判断を表現する言葉が、縁起とか空相といわれるものでは?
690 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/01/19(土) 19:29:40 ID:dUXljJJ5
あのなぁ。(笑 『自性』って言葉が解らないんなら解らないと言えよ?(笑 無理すんな?(笑
691 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 19:49:39 ID:WV8anxQS
縁起を見ないとは、あるものに執着する事である。一方に執着する事である。 それは誤りであるから、真実には、その被対象は縁起しているだけのもの故に消滅する。 執着するものは失われたといって悲しむ。失われないまでも、執着の度合いに縁起して、 新たなものが相対的に縁起してくる(いる)のだ。これが輪廻の根本である。そして執着者は、 縁起を見るもの(客観的存在者)ではないので、つまり縁起を引き起こす元凶となっているので、 次から次へと望まない状況を見る、この心境以外ないことになるのである。故に輪廻を地獄とも言うのである。 天界の神々もこの範囲のものである。 一方縁起を見るものは、縁起しているものに執着していない状態にあるものであるから、縁起状態にあるものから離れている。 これが解脱である。彼は空相を生きるものである。 縁起を妨げるものを悪魔または、悪魔の誘惑というのである。この悪魔はキリスト教においても同じ働きをするものである。 イエスの求める神の国も、仏教の解脱の境地も同じものであるから。 この悪魔としては、仏教では、所有物、妻子、なのである。所有物も妻子も、縁起しているだけの実体の無いモンと知るべきである。 イエスの教える捨てるべきものも同じ。
692 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 19:54:02 ID:WV8anxQS
>>691 訂正
縁起を妨げるものを→縁起を見ることを妨げるものを
693 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/01/19(土) 20:05:04 ID:dUXljJJ5
>>691 縁起については同意だが、
悪魔云々についてはマダ執着があるな。(笑
ヤソの神について、ヤソと話すと噛み合わないだろ?(笑
694 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 20:14:31 ID:WV8anxQS
自性あるものとは、そのものだけで存在できるものである。決して他のものに依ることの無いものである。 これは一者で無ければならない。もし二つのものがあるならそれは相対的に存在しているものである。 両者が自性あるものとして独立して存在しているものではない。お互いに他を認めて、その故に自己を見ることになるからである。 あいて有っての自己という事になるのである。相手が無ければ自己というものはないのであるから、そのような自己は自性、命ある独立者ではないのだ。 しかし一者であるなら、上のような不都合はない。これは絶対存在である。絶対存在は、その中にいかなるものもないのであるから、 一相でありかつ無相と言わなければならない。また立体的に言うと空相である。 自性あるものは、必ずこのようなものでなければならないのだ。この自性ある空相一相無相は、純粋な存在である。是に近づきこれを体得するのであるから、 小さな罪も、入道雲のように感じるのである。
695 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 20:24:34 ID:WV8anxQS
>>694 つづき
このような叙述を論証というのである。
696 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 20:43:22 ID:WV8anxQS
私は仏とも神とも菩薩とも、宇宙とも、言ってないだろう? 何かを貴方に押し付けていないだろう?
697 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 20:45:02 ID:7rtWuXtJ
>>691 牛飼いダニヤ「わが妻は従順であり、貪ることがない。久しくともに住んできたが、わが意に適っている。
かの女にいかなる悪のあるのを聞いたことがない。」
釈尊「わが心は従順であり、解脱している。永いあいだ修養したので、よくととのえられている。わたく
しにはいかなる悪も存在しない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
修行して平安の境地に達してから、「母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし
生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。」
他人の過失を見ないで、命を賭けても護るような慈しみのこころを起こさない人は、世と自己を厭い離れるよ
うに、解脱を目指す。しかし、信仰対象によりそのような煩悩を少なくすることができれば修養しなくてもよ
いと思う。
>>690 その言葉はそっくりそのまま、あなたにお返ししますよ。
佐倉さんのHPに、自性、無自性、空、縁起について、わかりすく書いてあるので、
一度目を通されてみては?もっともあなたの理解力では、
御自分の意見の矛盾に気付かないんでしょうけど(笑
699 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/01/19(土) 21:16:43 ID:dUXljJJ5
>>698 自性ってのは、例えば「去りつつあるもの」に「去る働き」があるという考え。(笑
仏教徒なら常識だよね。(笑
だいたい、俺は中論の信者だから法有なんか唱えないぞ?(笑
てか、サクラのホームページなんか行かないよ。(笑
701 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/01/19(土) 22:03:39 ID:dUXljJJ5
>>700 アンカ間違えるほどじゃないけどな。(笑
702 :
Mr名無しさん :2008/01/19(土) 22:06:45 ID:KLR0Vm0K
>>701 それをいっちゃあ、突っ込みも台無しだー
自性の意味も知らん奴が縁起を得意げに語るなんざ 呆れてものもいえんわ。反論といえば、屁理屈と詭弁、 あげくに揚げ足取り。終わっとる。
704 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 22:22:53 ID:WV8anxQS
涅槃経という大乗経典は、無我について、空性という我、という事を説いている。 空性という自性、という事も説いていたと思うよ。
705 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 22:39:45 ID:WV8anxQS
>>697 >他人の過失を見ないで、命を賭けても護るような慈しみのこころを起こさない人は、世と自己を厭い離れるよ
うに、解脱を目指す。しかし、信仰対象によりそのような煩悩を少なくすることができれば修養しなくてもよ
いと思う。
貴方の言う事は良くわからないが、涅槃経典に、魅力的なたとえ話があります。涅槃経典は阿含経典に基づき
それに剃って説いていくもので、従来の般若経典と趣が異なり、阿含経典に回帰しているようです。
いくつかの魅力的なたとえ話のうちの一つですが、このような荒筋のものです。
ある貧しい女が、ミモゴッテ仕舞いました。宿を借りるお金も無いので、妊婦でありながら、宿を断られ、野宿し、
途中に一人で子供を産みました。そして、ついに大きな川のほとりに来ました。その川は、一人でなら渡れるのですが、
子供と一緒では渡れませんでした。彼女はその子を抱いて川を渡り始めました。川の真ん中で、彼女は子供を抱いたまま
溺れ死にました。その女は死んで天上界に生まれたというのです。
これは喩えであります。何の喩えかといいますと、真実は空相一相無相であるというのは、子供に喩え、子供ともども川に溺れて死ぬというのは、
その真実の教えを最後まで離さないと言う事の喩えです。
彼女は、ですから浄土に入っているのです。これは信仰の喩えでもあります。
706 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 23:26:24 ID:UdFn8DsS
多くの人々の幸福のために、世間の人々に同情し、大きな人間の利益と安寧 と幸福のために専念して、このように考えられぬほどの徳を具えているのだ。 汝はまた、大きな慈しみに専念する意志で―法華経 大乗経典の法華経にも慈しみ、人々の幸福のために専念することの大切さを 教えている。貧しくとも子供を命を賭けても護れという喩えだろうが。
707 :
神も仏も名無しさん :2008/01/19(土) 23:33:27 ID:WV8anxQS
>>706 >貧しくとも子供を命を賭けても護れという喩えだろうが。
そうではない。この母親がわが子を無条件に愛したと同じように、
人は真実を無条件に何よりも愛さなければならない、という喩えであると思う。
このように真実を愛する事が、周囲全てにどれだけの恩恵慈しみをもたらすものか、を考えて見るべきである。
708 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 00:14:45 ID:lKs0r5Ba
>>706 法華経はご利益信仰ですか?
法華経に帰依する事が意義ではなかったのですか?
709 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 00:40:26 ID:0KXVsVaE
「苦行者の風習にならってクシャ草の端につけて食物を摂るようなことをしても、慈しみの心の功徳の十六分の一にも 及ばない。愚かな者がたとい毎月苦行者の風習にならってクシャ草の端につけて食物を摂るようなことをしても、生き とし生けるものどもを憐れむ功徳の十六分の一にも及ばない。」感興のことば >>彼女はその子を抱いて川を渡り始めました。川の真ん中で、彼女は子供を抱いたまま 溺れ死にました。その女は死んで天上界に生まれたというのです。 小乗経典から大乗経典の慈悲心の大切さの教え。 それを真実を空相一相無相の教えを最後まで離さないことの喩えとした。それは釈迦の意図から外れる。 諸行無常で、「諸々のつくられた事物は無常である。それらの静まるのが安楽である。」という教えとは 別に慈悲心の大切さも教えている。生きているうちにつくられざる世界のように(要するに死んだふり) して生きるのではなく、慈しみも説いている。諸行無常は、物質的ものへの執着心の苦しみから離れるた めの教え。
710 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 10:04:39 ID:pY5Rb+LJ
小乗から大乗に至るまで、‘母が独り子を命を賭けても護るような慈しみ’ 慈悲の大切さを仏教は説いているのに、現代仏教に至り、『経典名を繰り返し 言うこと』や『空相一相無相が真実で大切だ』と間違った仏教解釈となった。 仏の教えとは【一切の幸福世界の境地】「この世で一切の生きとし生けるもの の幸福と安穏と安楽」物質が滅んでもその境地となることから生まれたのであ り、貪欲や迷いなどを捨て、互いに与え合うことの利益や、慈しみのこころづ かいを人々にもたらそうとした教え。
711 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 10:49:26 ID:hH6H0j/E
少なくとも仏は、人間の苦しみを抜き楽を与える。 イエスキリストも、衆生の幸福を願ったはず。 今の多くの宗教は、人間を隷属させるためのツールに成り下がっている。 どんな宗教をベースにしているにしろ、個人の幸福のための対話をすべき。 ただ相手に勝ちたがる命(心根)は、修羅界。 他の幸せを願う命(心根)は、菩薩界。 一切の差別を無くして、人間と人間の対話が出来ない者は人間として情けない。
712 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 10:51:51 ID:2d6vWDva
仏様はあなたを処罰したりしない。処罰するのはあなた自身である。
>>710 > 慈悲の大切さを仏教は説いているのに
ここに言う慈悲とはどのようなもんか詳しく説明してください。
713 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 11:28:24 ID:2d6vWDva
どういう心根から慈悲心が発生するのでしょうか?
714 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 14:16:59 ID:2d6vWDva
>>694 追加
ここで(一者)といっているのは誤解を招きやすいので訂正すべきと考える。
一者というと一人の人という意味に取られやすい。人は、周縁和合したもので、
縁起の集合体である。このようなものが純一な「一」なるものではない。
一者ではなく、「一」なるものが絶対者である。これは空相というほか無く、一相無相というほか無いものである。
715 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 16:30:33 ID:lKs0r5Ba
>>710 >>仏教は互いに与え合うことの利益や、慈しみのこころづ かいを人々にもたらそうとした教え。
浄土真宗・親鸞の『歎異抄』にもありますように
「わが心に往生の業を励みて申すところの念仏も自行になすなり」の
意味も知っていると思います。
自分が「往生」、すなわち天国に帰るために「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるのも「自行」、
自力行の我力行である。
自我と我力を捨てて、ただ阿弥陀仏(神)に頼る絶対他力によってのみ救われるのだ。
信仰とは自分が天国に帰るという利益のためにするのでもなく、
地獄に落ちたくないという恐怖からするのでもない。
利益と恐怖、この苦楽を捨てて、ただ神の心の実現のために信仰は在るのだ。
ただ神の栄光の実現のために信仰は在るのであって、それ以外は利益であり、自我である。
自我から出ているものを信仰とも神理とも言えない。
716 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 17:19:36 ID:FLFsECPI
<仏の教え> 人間の生存の境地以外を知った(不死の境地)釈尊は、一切が幸福・安穏・安楽の喜びに満ち た幸せな境地を知った。この上なき最上の喜びの境地ニルヴァーナである。 諸行無常・・・一切の形成されたものは無常である。それらは生じて滅びる性質である。 物質的なものへの執着、色や形などに囚われてはいけない。「何物も持って いない人々は楽しんでいる」貧しい人々、自己の形、他人の形に悩む人も、 真実は形成されたもの以外の幸せな境地にあるので、悩むことはない。 一切皆苦・・・一切の形成されたものは苦しみである。 五欲を満たしたり、その他様々な甘味なものへの幸せを求めても、苦悩を受 けるだけであるので、他人を羨望したり、妬み、貪欲のために盗んだり、愚 かな行為をしてはいけない。心が平穏になることが幸せである。 諸法非我・・・一切の事物は我ならざるものである。 「世の中のどこにも、わたしは害いを見ない。」他人や世間に害いを見るの ではなく、怒りや憎しみといった平穏な心を失うものを制し、自らをよくと とのえ、物が欲しかったら与えてから得ること。 思考・意向・・世間は六つのものに執着しており、世間は六つのものに悩まされている。 あれこれと考えることを静め悩まないこと。たとえ他人が思考通りにならな くても、思考の静まった世界が清浄なのだから、悩まないこと。
717 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 17:20:19 ID:FLFsECPI
空・・・・・「かれらは『ここにのみ清らかさがある』と言い張って、他の諸々の教えは清ら かでないと説く。『自分が依拠しているもののみ善である』と説きながら、それ ぞれ別々の真理に固執している。」正しい見解・正しくない見解といって、「特 殊な偏見に固執して論争が起きても、特殊な見解そのものが存在しないのだから、 無論争を安穏と感じて争わない。 輪廻しない・孤独の味、心の安らいの味をあじわったならば、熱のような悩みも無く、罪過も 無くなる。善悪業から離れ、五感と第六の思考を静め、諸々の欲望に関する貪り を離れ、欲界に生まれない。業(行い)と欲があるから欲界に生まれる。瞑想し 静かな安らぎを求め、この世の苦悩から離れた静けさの境地に至る。 「慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背く ことなく、犀の角のようにただ独り歩め。」 煩悩の残り・欲望を捨てきれない人々も、もの惜しみせず、施しをなし、身で善行をなし、こ とばで善行をなし、心で善行をなし、身体が破滅したあとで善いところに生まれ る。富裕な家、容姿端麗で、様々な物が手に入りやすい状態となる。 法に安住・・園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える 人々、かれらの功徳は昼夜に増大する。それらの人々は、法に安住し、戒めを身 に具えて、天におもむく。
718 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 17:21:10 ID:FLFsECPI
人の粗雑な思考を修め、特殊な見解に固執することを止めさせ、自然にあるような現実的な教 えを説く。 この世を苦悩と感じて、生まれないを目指す人は、自殺で安楽は得られず、世を厭い離れ、行 い(業)に囚われず、静かな安らぎに安住する。 「美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気持ちもよく起き上がった。」 悩み絶望のため命を絶っても善い境地のところには至らない。 満足せず、飽き足らない欲望にあくせくする営みよりも、満足して足りている人は、足りない 人よりも幸せである。幸せのために貪り、環境問題を生み出すならば、人類は愚かな行為をし ている。 この世の幸せを求め、不幸せな人は一切の形成されたものは我ならざるものだから、「世の中 とこの身を泡沫のごとくと観じて」安らぎに真実の自身を見出して、熱のような悩みをなくし、 「身とことばと心で善行をなし」幸せな善い運命となって生まれることを信じる。 「世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲心が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖で ある。」橋を作ったり、休息所を与えたり、世の中の安穏と安楽と幸福のために尽くす人々。 この世に生まれる人々は、人間の行為によって幸福をつくり出し、安穏と安楽な暮らしを つくる。特殊な見解に固執することを捨てさせ、喩えであろうが、様々な人がその状況に 合った現実的な正しい道を教える。
719 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 18:21:50 ID:2d6vWDva
真実が一相であるとわかったので、あらゆる違いを無視し、離れて心が休まる。 あらゆる違いとは一切の現象である。
720 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 20:12:54 ID:2d6vWDva
>>686 >二つのものからなる相依相であるからこそ、根元が必要であり、
生起したものでしょう。つまり縁起の始まりが宇宙のはじまり。
縁起というのは、あるものが生じるということはそれに対するものが同時に生じるという意味である。
この故に存在は相対的存在といわれるのである。相対的存在である以上、両者それぞれは独立して存在しているのではない。
そうすると、何か生じたと考えるべきだろうか?何も生じていないというべきではないか?
一方が滅すれば他方も滅するのだから。
そうすると、宇宙は誕生していないものといわなければならないのだ。
721 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 20:39:47 ID:2d6vWDva
宇宙などというものは無いのだよ。
722 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 21:14:55 ID:2d6vWDva
宇宙が誕生したというのなら、又、それが誕生する前はどうなっていたのか?という質問にも答えなければならない。 宇宙の誕生などというのはキリスト教とか世界にあるさまざまな神話による押し付けなのだ。 キリスト教学でも、神が天地創造をしたのなら、それに責任がある、という意見がある。 この世界の苦しみは神に責任があるというのだ。しかし神にその責任を押し付けない時は、この世界の創造者は、 悪魔で無ければならないということになる、という意見が出てくる。実に宇宙というものがあるというのなら、それは悪魔の教えである。 悪魔というのは、真実を知らないもので、自己に執着するものである。
723 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 21:44:15 ID:lKs0r5Ba
宇宙誕生時刻0時 ドップラー効果によって宇宙は膨張しているという膨張宇宙論が確認されました。 宇宙は時間と共に膨張しておりますが、逆から言えば時間を遡(さかのぼ)っていきますと 宇宙は収縮していきます。 時間をどんどん遡(さかのぼ)っていきますと宇宙は収縮していき、 最後には手の平に乗るほどに宇宙は小さくなっていきます。 更に時間を遡り、宇宙誕生時刻ゼロの地点では不思議な世界になっていることが 科学で証明されています。 宇宙誕生時刻ゼロの地点では時間も空間もなく、質量も体積も存在していないにも関わらず、 エネルギーだけが「∞(無限大)」を示しているのです。 何もない世界に一切があり、エネルギーは無限大を示している。 禅の「無一物中無尽蔵」が先端のアインシュタイン方程式から出てきたため、 これが科学者の世界で問題となりました。 科学は無限を嫌うにも関わらず、最先端のアインシュタイン方程式から、 この無限大が出てきたため様々な探求と仮説が出てきました。 この大宇宙誕生時刻ゼロの地点を「特異点」と言います。 実はこの「無の無限エネルギー」こそ神の正体なのです。
724 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 22:00:10 ID:2d6vWDva
>>728 >実はこの「無の無限エネルギー」こそ神の正体なのです。
神とは何だろうとはじめから疑ってなもいものに、これが神の正体です、といっても、押し付けに他ならない。
そうじゃなくて、これを神と命名するのです、というのなら問題ないが。
725 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 22:03:28 ID:2d6vWDva
>>723 正直に言うと、このような論は学ぶに値しないのだ。
726 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 22:07:45 ID:lKs0r5Ba
727 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 22:08:46 ID:lKs0r5Ba
728 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 22:12:13 ID:EWhWI9V6
イエスとブッダは根本的に逆ですから 一緒にはなりません。
http://sky.geocities.jp/sonnna_ahona4649/bkn.html ☆ 仏 教 の 教 え
仏教の教えの基本は、三法印(3つの根本思想)である。
1.諸行無常(一切の形成されたものは無常であり、縁起による存在としてのみある)
2.諸法無我(一切の存在は、要素により形成されたもの、アートマンのような実体はない)
3.涅槃寂静(苦を生んでいた煩悩の炎が消え去り、一切の苦から解放された境地が目標である)
我欲を取れば苦が消え、寂静という安らぎに至る、という論理的な教えです。 信じれば永遠に生きられる、と言うキリスト教とは逆に、そんな欲から解脱することで 至福に向かう教えです。
729 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 22:31:37 ID:lKs0r5Ba
>>728 >>信じれば永遠に生きられる、と言うキリスト教とは逆に、そんな欲から
キリスト教の祈りとは「神に栄光を帰す」ですから個人的な欲はありません。
730 :
神も仏も名無しさん :2008/01/20(日) 23:57:15 ID:2d6vWDva
聖書に疑問を持つようになった。天地創造というのは、方便であると考えているのだが。 造られたものを愛するようには教えていない。神を何よりも愛せとある。神とは 造られざるものであるが。
731 :
神も仏も名無しさん :2008/01/21(月) 00:15:22 ID:My7XHHad
732 :
神も仏も名無しさん :2008/01/21(月) 00:29:49 ID:NCTM11oM
>>731 >>ブッダは、「信仰を棄てよ」、と教えました。
だから釈迦のアホダラ教は衰退して元のバラモン教を受け継ぐ大乗仏教が広まったのです。
733 :
神も仏も名無しさん :2008/01/21(月) 00:59:30 ID:My7XHHad
そうですね。 営利繁栄には、麻薬的宗教の方が 真実の教えよりも適しています。
734 :
神も仏も名無しさん :2008/01/21(月) 01:33:20 ID:qYjuGf/Z
お前ら・・・・、たまにふざけるのも良いかw。
735 :
神も仏も名無しさん :2008/01/21(月) 06:06:42 ID:Vzxf3ZNK
>>731 「求めるな」と「求めよ」は究極に於いて一致する
736 :
神も仏も名無しさん :2008/01/21(月) 21:56:42 ID:qYjuGf/Z
737 :
神も仏も名無しさん :2008/01/21(月) 21:59:41 ID:qYjuGf/Z
一切は空であるとき、食物がなくなったらどうしょうとか、冬の夜は凍えるが 耐えられるだろうか、などと心配するのは、理にかなっているだろうか?
738 :
神も仏も名無しさん :2008/01/21(月) 22:13:54 ID:NCTM11oM
色即是空 空即是色 色は求める 空は求めるな 「求めるな」と「求めよ」は一つで切ってはならない!
739 :
神も仏も名無しさん :2008/01/21(月) 22:23:26 ID:EvXg2I1e
740 :
神も仏も名無しさん :2008/01/21(月) 22:24:19 ID:l1hinOqn
>>738 > 色即是空 空即是色
> 色は求める 空は求めるな
> 「求めるな」と「求めよ」は一つで切ってはならない!
(・0・*)ホ,(゜0゜*)ホ--ッッ!!!
珍説、ですねー
φ( ̄∇ ̄o) メモッチャエ・・・(笑)
741 :
◆Zama3//bUI :2008/01/21(月) 22:29:15 ID:l1hinOqn
>>739 >
>>738 色即是空はいいが、空即是色は邪魔。
空即是色と、帰っていく。リアルの社会に。
これ、ヨシャさんが、知らずじまいに終わったこと。
若かったしね、彼・・・
742 :
◆Zama3//bUI :2008/01/21(月) 22:30:31 ID:l1hinOqn
743 :
神も仏も名無しさん :2008/01/21(月) 22:34:23 ID:jAkocymH
>>735 キリストでも学んで求めれば教えがわかる。教えから見出さないとダメ。
釈迦でも学ばないと教えがわからない。じゃない?
無の無限エネルギーでも、憎ま無い、敵意を持た無い、自分という存在に対し
よくしてくれる人のみ愛さ無い、妬ま無い、無慈悲になら無い、残忍になら無い、
思い上がら無い、貪欲を正義とし無い、苛酷を他人に押し付けることも無く平等・公平
他人の善悪を見無い、ゆるさず責め立てることも無い、温順であっても反抗し無い、
冷酷になら無い、世を真実とし無い、肉欲のある自分を正しいとし無い、情欲を抱か無い、
無い無いを言葉にして教えていることも多い。
無になれば神通力・あなたがたはなんでもできる神に近くなるかも。
744 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 00:27:05 ID:wvwXZv+Y
745 :
◆Zama3//bUI :2008/01/22(火) 00:46:07 ID:eaGEH9tO
746 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 00:56:34 ID:wvwXZv+Y
>>745 >>死んだ子はそのままで最高なんだ”!
ちょっと違うのではないかと・・
747 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 01:00:45 ID:wvwXZv+Y
死んだ子を抱いた母親が、生き返る薬など探しまわるはずが無い”!
748 :
◆Zama3//bUI :2008/01/22(火) 01:14:12 ID:eaGEH9tO
749 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 01:16:36 ID:wvwXZv+Y
>>748 でも、ひろさちやの解説がバカ丸出しなんだ・・!
750 :
◆Zama3//bUI :2008/01/22(火) 01:21:11 ID:eaGEH9tO
751 :
◆Zama3//bUI :2008/01/22(火) 01:21:51 ID:eaGEH9tO
752 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 01:24:44 ID:ttzWq7Yz
744の ひろさちやは許せんな。 出鱈目の解釈をよくも堂々と。 諸行は無常。 誰でも死ぬ。 そんなあたりまえの理に気付いて 死を、別れを、受け入れて心安らかに相互慈愛で生きて行こう。 それを 死んだ我が子も愛せだ? 誰が死者を愛せと説いたんだ? 毎日毎日 死者と共に生きていけってか。 この宗教商売人め。 おまえが死ね。
753 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 01:26:10 ID:wvwXZv+Y
>>751 >>死んだ子はそのままで最高なんだ
誰も最高だなんて思わないよ・・
754 :
◆Zama3//bUI :2008/01/22(火) 01:29:13 ID:eaGEH9tO
>>752 親は、生死にかかわらず、溺愛するぞ。
特に、子供で死んだのならば、ことさらに、いとしい・・・
755 :
◆Zama3//bUI :2008/01/22(火) 01:31:20 ID:eaGEH9tO
>>753 >
>>751 > >>死んだ子はそのままで最高なんだ
>
> 誰も最高だなんて思わないよ・・
前後の文章がわからないけど、その人の受け取り方、だろうな・・・
756 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 01:32:45 ID:wvwXZv+Y
死んでしまった子は悪い子、 こんなの役に立たない” だから生き返らせたいと思った。 ひろさちや 母親がこんな事思う訳ねーよ、、 (`ε´)
757 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 01:39:20 ID:wvwXZv+Y
758 :
◆Zama3//bUI :2008/01/22(火) 02:23:39 ID:eaGEH9tO
759 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 02:34:16 ID:+Yfmn8nu
五木ヒロユキも かなりの悪徳だよな。 こいつら知っててとぼけて金儲け。
760 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 04:32:37 ID:rnFObV3S
>>753 大乗仏教の諸法実相の思想でしょう。
あらゆる現象はそのままで宇宙の真実の姿である。
死んだ子供(思い出の存在になってしまった子供)も、
思い出の子供として最高だということ。
あの時あの子供がいたおかげで、
母親はここまで生きてこれたのかもしれないし、
子供が死んだおかげで仏教に出会えたのかもしれない。
子供の死も含めて、あらゆる現象はつながっていて、
この世には無駄なできごとなど何ひとつない。
761 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 05:15:03 ID:rnFObV3S
1年の人生でも百年の人生でも、価値に差はない。 活け花で、種類の違う花がお互いを飾りあいひきたてあっているかのように、 ひとつひとつの花や葉っぱ一枚の配置にも、すべて意味がある。 宇宙には、不要な現象は起きない。 すべての現象は、因果関係でつながっていいる。 私を今生かしているすべての因縁を「いのち」と総称するなら、 過去から未来まで、宇宙のすべての現象があるから、 今の私がある。 宇宙のすべてが私を私たらしめている「いのち(因縁)」であり、 私も、私以外のあらゆる存在を存在させるための「いのち(因縁)」である。
762 :
◆Zama3//bUI :2008/01/22(火) 05:48:39 ID:eaGEH9tO
>>760 理屈で、親の悲しみが、見えないのかなー
763 :
◆Zama3//bUI :2008/01/22(火) 05:49:42 ID:eaGEH9tO
764 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 07:51:43 ID:rnFObV3S
>>762 仏教では、理屈を納得するための修行があります。
765 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 08:46:45 ID:fEUlRXdR
共通点… よく分からんけど、真宗門徒の自分でも、遠藤周作さんの本を読んでて「あっ!!」と思う事がある。どこかで聞いたような話だ!って。 それは周作さん一人の解釈であって、カトリックの解釈ではないのかもしれないけど、本気で混乱する時がある。 周作さんがカトリックの中で変な人なのか、真宗が仏教の中の変な人の集まりなのか、自分がただ単にアホなのか… 三番目の可能性が一番高いけどもw
766 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 11:18:32 ID:wvwXZv+Y
>>764 そんなのは自己催眠だ、
人間性を失う思想じゃないか・・。
767 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 11:31:10 ID:wvwXZv+Y
768 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 13:51:48 ID:GQ6jfDEV
道徳っていうか、処世術だろ。平穏に生活したいなら極端に走るな、と。
769 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 14:29:16 ID:wvwXZv+Y
道徳も処世術も一緒だろ・・
770 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 16:01:59 ID:YxkLLPKI
771 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 20:53:18 ID:M5vMC8NS
通常言われている四勝諦は大事な真理が欠けているのだと思うよ。 その真理とは縁起の理法とと空と言うもので、これあれば彼有り、これなければかれなし等と言われるものである。 これが欠けているために、集がどうしていけないか、滅とはどういうものか、八正道の正とはどのようなものかわからないからである。 何が正しいか解らなかったら、どうして八正道を行えるのだろうか? それとも、四っつの真理だけで、八正道が行える? この縁起と空の真理が欠けているために、大乗教徒から、蔑まされるようになったのである。 この縁起と空の真理が欠けているのは、編集者の過失であると思う。 真実が空相であるので、正見とは、真実を見ることが正しい見方である、と言わなければならないのである。 以下同様に、正しいとは真実である空相に近づき一体となる方法なのである。 と思おう。どう思う?
772 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 20:56:37 ID:g+Vbuc4A
>>730 天地創造の神は偶像ではない。人が抱けないものだ。
人が賢くなり考える知恵を得て、殺人も犯すようになった.................
創られざるものは、創られざる世界にいなきゃわからない。
そこでは、殺人も憎しみも敵意も怨みも争いもなく完全に平安で公平なのだ。
地上のものに心を引かれることもなく。
人のような人格が創造したわけではない。人格が想像できるのは思考があるから。
何ものかを想像せず、考え出さず、自然のままであれば、地上の創造は自然的なもの。
773 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 21:29:30 ID:yuiDXo73
イエスは真理の世界を病苦などもないことから、慈悲深い神として表現し、 互いに愛しなさいと教えた。神は愛で、愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。 ブッダは真理の世界を一切の幸福と安穏と安楽世界と表現し、慈しみを説いた。 他に貪欲にならない、静けさ安らぎ、平安として非暴力など。
774 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 22:15:33 ID:Ss0n+3R8
>この世には無駄なできごとなど何ひとつない。 またまた。かっこつけちゃて。
775 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 22:22:40 ID:rnFObV3S
>>771 四諦の説明には、縁起が含まれている。
煩悩があるから悩み苦しみが起こり、
煩悩がなくなれば悩み苦しみもなくなるという、
因果関係の説明です。
で、当然、どうやって煩悩をなくし苦悩をなくすのかという
具体的な方法の話になる。
それが道諦(八正道)。
776 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 22:39:42 ID:wvwXZv+Y
>>775 色心不二です。
色は煩悩、心は神の心。
神の心と煩悩は一つで切ってはならない・・!
人生の修行には煩悩と苦しみは当然です。
無事に修行を終えて霊天上界に帰る事が里帰りで幸福の世界です。
777 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 22:47:27 ID:M5vMC8NS
煩悩など無い、修行など無い、というのが正思。
778 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 22:59:00 ID:wvwXZv+Y
779 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 22:59:34 ID:NTDUPtyG
愚かな者が偶像を抱いて神を批判しても、神は空気のようなもの。空気を吸いながら神を批判する。 それくらい神は世界に影響を与えている。憎しみ殺し争い平安から離れる。人の存続さえ危ぶまれる。 遠ざかり離れることにもとづき、欲情を離れることにもとづき、止滅にもとづき、煩悩を捨て去るこ とに向かう正しい見解を修め、正しい意向を修め・・・・・この世から遠ざかり離れてしまえば近く なる神。世の中は煩悩世界だから、その世界を真実とせず、教えを学び、正しい見解を修める。
780 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 23:04:23 ID:wvwXZv+Y
>>779 「宇宙は神の表現体」西田幾多郎
煩悩、欲情も神の表現した心であるからして、切ってはならない。
色心不二です。
781 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 23:06:29 ID:rnFObV3S
>>777 怒りっぽい人は、怒らない人よりも、
日常生活の中でストレスを感じる場面が多い。
怒りの煩悩はストレスの原因となる。
782 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 23:08:23 ID:wvwXZv+Y
>>781 怒りっぽい人は正直です。
本心を速やかに表す為にストレスの原因にならない。
783 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 23:17:56 ID:rnFObV3S
>>782 心の中で怒ってる時点でストレスを感じる。
怒りの感情を隠すのではなく、
怒りの感情が起こりにくい性格に変わるための
人格改造をするわけです。
784 :
神も仏も名無しさん :2008/01/22(火) 23:28:27 ID:wvwXZv+Y
>>783 食事を野菜主体にすれば良いよ。
人格改造なんて関係ないよ・・
785 :
とんちゃん :2008/01/23(水) 00:23:55 ID:fTNgxqoh
極論的に感情が問題なのは、感情は肉体に付随する五縕であるかであり、 感情に左右されるのではなく感情を制御コントロールできればよい。 つまり低級な感情から高級な感性へと昇華することで精神的な力として利用できる。 だから怒りも個人的利己的な怒りではなく、相手の間違いを正すことが 真意としてある必要がある。感情に溺れ感情に左右されないことが肝要である。 野菜を食べることは心を沈めやすくはなるが、食物だけでは根本的な解決にならない。 食物で解決するなら、薬でも解決できるだろうしそんな簡単なことはない。 難しいのは、結局自己制御ができなければ乗り越えられない道であるからだ。 人体改造というのはある意味では正解であり、心の波長が変わることで、 肉体的にバランスがとれ、病気やストレスに強くなるからである。 多くの病気が心のアンバランスから起こる、「病は気から」である。
786 :
神も仏も名無しさん :2008/01/23(水) 00:53:38 ID:HTSV1gMJ
>>785 そんな話は精神病患者の事だろ。
普通は無意味だよ、そんな話・・!
自己制御なんて当たり前じゃないか・・
それよりも変に偽善な抑圧に気を付けなきゃ。
787 :
とんちゃん :2008/01/23(水) 11:08:11 ID:fTNgxqoh
いや実際に普通の人、私や貴方や友人や世界中の正常人のことだよ。 だからほとんどの宗教が精神修養を経ることを重要視していて、例外がない。 ヨガ、禅、滝行、瞑想、庭掃除に至るまでが精神の鍛錬で宗教の修養部分である。 だからそれらを修行した名僧は、過去においては芸術や政治にまで関わることが出来た。 心に平常心を持ち、客観的に観ることができると、如何に人間が成長進化する かが分かるからである。だから昔は僧になることは世間からの逃避ではなく、 頭脳明晰で心身強健な者が入門したから学問の府でもあったし、そうでなければ 経文の暗唱や、不眠不休の過酷な訓練に耐えられないからである。 我々普通人は、それほど自分の感情を支配できていない。
788 :
神も仏も名無しさん :2008/01/23(水) 13:12:38 ID:HTSV1gMJ
>>787 ヨガ、禅、滝行、瞑想、庭掃除なんてバカみたいな事辞めなよ。
そんな事人間の成長進化なんてないよ。
天狗になりたいんですか?
人間は人間になるべきです!
789 :
神も仏も名無しさん :2008/01/23(水) 13:14:13 ID:yoJX6tMH
私もそう思います
790 :
とんちゃん :2008/01/23(水) 14:53:41 ID:fTNgxqoh
残念ですね、これは他人より優位に立つめに天狗になって奇行を行ったり 現世を徘徊して人を驚かすことではなく、誰もが心の進化と人類の平安を目指す ために成すべきことでしょう。間違った宗教が誤解を生んでいるが、 元来の宗教は、あらゆる問題の根底に人間の心の中の闇が原因であることを見て、 それを浄化することを目指したものです。優れた能力はその修行過程で副産物として発生するが、 単にそれを求めるのは当然に愚行、邪道でもある。ここのテーマの 仏陀とイエスの共通点でもあり、彼らが布教を開始するまでに多くの修行を行っている。 イエスも仏陀も布教を始めたのは30歳前後であり、それまでは明らかに心身の修行を行っていた。 ヨガ、禅と言ったのは、たとえば、ということであり、自分にあった様々な心身の努力を行う必要があり、 それを否定すれば、学業でも仕事でも、また人生でも成長と平安が訪れない。 人間の心は明らかに成長するのであり、その方法は心理学にも共通することが多いが、 学ぶべきであり、怠惰に人生を過ごすべきである。「努力をして狭き門より入れ」である。
791 :
神も仏も名無しさん :2008/01/23(水) 16:01:10 ID:HTSV1gMJ
>>790 人生が修行であるから、他に修行を見出す必要もないが、
それ以外が修行というなら、それは単にその者の趣味の範疇と云えよう。
自らの趣味を他人に押し付けるのは如何なものかと・・?
792 :
神も仏も名無しさん :2008/01/23(水) 16:14:02 ID:HTSV1gMJ
>>790 >>元来の宗教は、あらゆる問題の根底に人間の心の中の闇が原因であることを見て、
それを浄化することを目指したものです。
それは人に拠りけりでしょう。
心の中の闇が無い人もいます、それを浄化することを目的とはなりません。
宗教とは「宇宙の仕組みを示す」の意味です。
宇宙の仕組みを学び、自らが如何に生きるかの追求です。
滝行では悪霊に憑依されるのが関の山です。
793 :
神も仏も名無しさん :2008/01/23(水) 17:53:59 ID:NNRzCdCk
>>791 無常・無我に気付くための修行をすることで、
悩み苦しみの原因となる執着が解消されていくのです。
欲望や怒りにまかせた人生は、
欲深く怒りっぽくなるための修行になってしまう場合があります。
そのような人生なら、悩み苦しみの種は消えません。
794 :
神も仏も名無しさん :2008/01/23(水) 20:13:21 ID:wMQcpabO
>>780 別に他人の煩悩を批判しているわけではないだろう。「世の中のどこにも、わたしは害いを見ない。」から。
彼岸または最も神(神と命名した場合)を知る世界では、身体の特性も煩悩も一切存在せず、情欲も存在せず
、神通力あり勝れた世界では、性器を不浄と見る。賢者であり勝れた人は、情欲も存在せず、不浄なものを不
浄としてあるがままに見る。
形あるものは老いて朽ち、老いた人も女性は女性。たとえ独りでいても勝れた人なら悩まない。自分には何か
ないからといって、特にこだわらない。しかし、煩悩を増している人は、今美人の彼女がいないからといって
悩む。
発情しても彼女は得られないし、思考の押し付けよりも、相手の考え方を認めてあげたり、慈しみのこころづ
かいで相手に接したほうが、情欲を抱いて悩んでいる人より彼女が見つかる可能性はある。「わが妻は従順で
あり、わか意に適っている。」という人より、互いに「自分をよくととのえて自分の主」となっている夫婦の
ほうが離婚しにくい。
情欲を抱いている時に、勝れている、賢者という人はほとんどいないし、これらは真理真実世界からの理法が
あって事実となっている。教えを学ぶことによって、無意味な悩みや不幸を生み出すことが少なくなる。
795 :
神も仏も名無しさん :2008/01/23(水) 20:28:15 ID:ZIOdqA92
>>793 執着は悩み苦しみの原因ではありません。
人間生活に執着は必要不可欠です。
悩み苦しみは人生修行に必要です。
死後、天国で悩み苦しみ無く幸福に暮らすのです。
>>794 色即是空 空即是色
色は煩悩 空は神の心 」
煩脳は神の子から切ってはならない。
796 :
とんちゃん :2008/01/23(水) 20:29:12 ID:fTNgxqoh
>791 短い文の中で説明するのも難がありますが、>793の方は知識がお有りのようです。 人生を修行と見るなら、別に修行の方法を見つける必要はなく個人の好みに応じて 行えばよい、というのは全く誤りというわけではないでしょう。押しつけるのも意味はなく、 貴方のおっしゃるとおり無駄です。だから確かに私の理解に基づくものです。ただここのテーマは 仏陀とキリストの共通性ということですから、仏教とキリスト教の理解の上での論議をする必要がありますね。 だから、その意味から言えば、仏陀やイエスは、自分の好みや趣向に従うのではなく、 方法や教えを示しているのですから、それを修養として学ぶ必要はあるでしょう? 例えば個人のレベルには大きな差があり、大人から見れば幼児の考えや行動は未熟であるのと同じで、 大人同士でも大きな程度の差があるし、知らないことも多い。そういう観点に立って、 自分の考えや人生を反省し修正し訓練していくことが心の成長であり、その方法を 宗教は示していて、仏陀やイエスは、我々のことを道に迷う幼児のように見ているとも言える。 病気は自分自身より医者の方がよく知っている、自己流では危ない。人生も例外ではない。 >792 宗教とは「宇宙の仕組みを示す」というは仏陀とイエスもそれなりの表現で表してますのでその通り ですが、それだけが宗教の意味ではないことは貴方もご存知でしょう?インド、中東系の宗教は宇宙的な構想が多いですが、 また「滝行」の話はやめましょう、単に修行の例としてあげただけで特に意識はしていません。 ただ悪霊に憑依されるかどうかはその人次第でしょう。聖書にも悪霊の話が多くありますが。
797 :
神も仏も名無しさん :2008/01/23(水) 20:42:30 ID:lot3C8qp
修行僧は「多くの人々の利益のために、多くの人々の幸せのために、世間の人々をあわれむために、 神々および人間の利益のために、幸せのために、遍歴をなせ。完全で浄らかな清浄行を顕示せよ。」 迷い悩める人々に、完全で浄らかな清浄行を顕示した。多くの人々は、煩悩を全て滅ぼすのではなく、 迷い悩まない、苦悩のない究極の行いは何かと常に学び、利益と幸せを得ればよいのです。
798 :
とんちゃん :2008/01/23(水) 20:48:33 ID:fTNgxqoh
>795 「執着は悩み苦しみの原因ではありません。」・しかし仏陀はそう述べているが、 どういう理由でこの仏教最大の論点である四聖諦を否定できるのですか? 「人間生活に執着は必要不可欠です。悩み苦しみは人生修行に必要です。」とは イエスか仏陀がそういっていますか?
799 :
神も仏も名無しさん :2008/01/23(水) 20:59:14 ID:DvuTBBV6
>>798 「何の喜びがあろうか。何の歓びがあろうか?世間はこのように燃え立っているのに。汝らは暗黒に
陥っていて、燈明を求めようとしない。」感興のことば
「心を清くせよ。苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。」聖書
「罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを耐え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人。」真理のことば
「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」聖書
イエスもブッダも無所有で欲楽ではなく、耐え忍んで、慈しみを説いた。
行いそのものを尊敬することで、この世の苦悩を耐え忍ぶことができるかもしれない。
800 :
とんちゃん :2008/01/23(水) 21:29:07 ID:fTNgxqoh
>799 それでよいのでは。この世に苦しみがあり、耐え忍び灯火を灯す努力をせよ。 全くその通り。
801 :
神も仏も名無しさん :2008/01/23(水) 21:43:29 ID:ZIOdqA92
>>798 イエスも仏陀も時代遅れなんです。
私が新時代の法を説いているのです。
802 :
とんちゃん :2008/01/23(水) 21:44:43 ID:fTNgxqoh
>>799 書き忘れましたので追加。
それで問題は、「執着は苦しみの原因ではない」と
「人間生活に執着は必要」という文面ですが?
803 :
とんちゃん :2008/01/23(水) 21:47:33 ID:fTNgxqoh
>>801 真理に時代遅れってあるんですか?
例えば、どういう真理が時代遅れなんですか?
804 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 00:08:57 ID:Xr/+g4Vh
>>803 釈迦の哲理は宗教では無くバラモン教を否定した唯物哲学でした。
故に賛同が得られずに後に元のバラモン教(大乗)に戻りました。
釈迦の哲理は終わっているのです。
805 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 07:27:27 ID:+jr3vDso
釈迦はバラモン教のうち差別的部分をこそぎ落としたリベラルバラモン教です。 略してりべバラです。
806 :
とんちゃん :2008/01/24(木) 12:03:18 ID:z1Pc83S1
>>804 >>805 宗教的哲理は様々なものが輻輳しているので、
割り切ってカテゴリー化できるほど単純なものではないし、
インドでのバラモンへの回帰と、仏教の他地域への波及は
単なる一つの歴史的、社会的視点に過ぎないのだから、
その哲理自体が持つ真理とは直接関係がないが?
それより、真理、ダルマ、法というものに時代遅れがあるのだろうか?
という課題ですが?
807 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 13:15:02 ID:Xr/+g4Vh
>>806 全ての自我をなくした生命状態を無我と錯覚し、
自我の一切を否定していくためであり、
自我そのものを全て悪として否定していく内容の教義というのは、
すなわちその教祖自身が大宇宙の理法を十分悟っていないからです。
自我の全てを否定していく教えそのものが、実は自我である点は理解できると思います。
浄土真宗・親鸞の『歎異抄』にもありますように「わが心に往生の業を励みて申すところの念仏も自行になすなり」の
意味も知っていると思います。
自分が「往生」、すなわち天国に帰るために「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるのも「自行」、自力行の我力行である。
自我と我力を捨てて、ただ阿弥陀仏(神)に頼る絶対他力によってのみ救われるのだ。
信仰とは自分が天国に帰るという利益のためにするのでもなく、地獄に落ちたくないという恐怖からするのでもない。
利益と恐怖、この苦楽を捨てて、ただ神の心の実現のために信仰は在るのだ。
ただ神の栄光の実現のために信仰は在るのであって、それ以外は利益であり、自我である。
自我から出ているものを信仰とも神理とも言えない。
808 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 13:22:19 ID:Xr/+g4Vh
続き この信仰の基本は踏んでいると思っています。 ただもちろんこの程度では実は世界の救世は不可能なのです。 私はもう抜けていますが、十分にこの段階を踏み、卒業したならば、次にこの段階から抜けなくてはならないのです。 学校も卒業しますと抜けるでしょう。いつまでも自我の放棄の段階で学習していてはいけないわけです。 神我と自我、善と悪、生命と物質の両領域を自由自在に理法に外れることなく行使していかなければならない。 自我を強めても、神我を強めても神の理法から外れない者が神の心に一番叶っているし、 実は今回の救世はここまで行きませんと務まらない。 神の存在と信仰、あの世の存在を前提として「生命と物質」の権威の確立、 並びにこの探求と実践にまで行かなければならないわけです。
809 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 13:26:43 ID:Xr/+g4Vh
善と悪、神我と自我、生命と物質を神の理法に外れることなく、 自由自在に行使しながら神の心の実現をしていかなければならないのです。 神理の実現とは「神の完全性の実現」であることは事実です。 不完全の実現ではないわけです。 この世は不完全であり、不完全しかないと言われるならば、地球の救世は永遠に生きてもないでしょう。 しかしてもし「神の完全性」が存在するならば、地球の救世とはこの道以外にはありません。
>真理、ダルマ、法というものに時代遅れがあるのだろうか? あるよ?ギャンブルにだって確率論と言う法則があるのに 未だに確率論を理解出来ない宗教家ばかりなのはどうして?
811 :
とんちゃん :2008/01/24(木) 16:14:11 ID:z1Pc83S1
>>807 >>808 >>809 なかなかすばらしいですね。よく知っておられる。
特に自我から神我(真我)への理解がすばらしい。
自我を灯火として神我に接近するしかない、その通りです。
また、仏陀は、どこで自我の一切を否定し悪としているのだろうか?
しかし、悪も理法にふれることなく利用するとは?どうして?
>>810 確率論というのは法則性ではない。確率というのは不確実性の集合である。
つまり、運動と行為において、環境条件を完璧に規定していないために
その結果を集合的に予測したに過ぎない。だからダイスを振る場合に、
もしあらゆるモーメントとその空間の状態を完全に規定すれば、
常に同じ結果が出せることは科学的事実である。
>>811 ではそのダイスで猪を捕って食うにはどうしたら良いんでしょう?
猪が取れなかったらとんちゃんが次の食料になるとして?
813 :
◆Zama3//bUI :2008/01/24(木) 20:58:36 ID:AAO09X/W
814 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 21:11:05 ID:nJ9OA7sL
浄土真宗など浄土系は釈迦を否定したバラモン教という説明で納得。
815 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 21:18:58 ID:n/5tQChg
>>814 バラモン教というは、独裁者崇拝ですか?
816 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 21:19:55 ID:n/5tQChg
阿弥陀仏が独裁者だと言う意味ではないですが。
817 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 21:22:15 ID:B5EtDBAQ
一般的に「南無阿弥陀仏」も仏教だと思う人が多いが、お釈迦様を否定した仏教とは違う 宗教なんだ
818 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 21:23:50 ID:B5EtDBAQ
阿弥陀仏が独裁者ではないけど、お釈迦様を否定した宗教だと知ったからいいよ
819 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 21:35:55 ID:n/5tQChg
仏教は人に拠らず、法に拠ることが絶対的に必要なんだ。阿弥陀であろうと釈迦であろうと、 その名称に意味があるのではなく、仏と言う意味の真理真実を体得し、人を真理真実に導ける真実の人という と言うことが認められるべきなのだ。 時間と空間は一体のもので、それが無限と言う事は、空相という意味になるのだ。 阿弥陀を信じるとは、空相を信じると言う意味である、と思うよ。 このことは生きている間にも出来る事である。ところが、それが出来難いので、 死んでから浄土に生まれるという教えに注視される様になって、阿弥陀信仰とは、 死んでからの事を解決する教えのように言われるのだが、ここのところの勉強が 足りないようである。
820 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 21:38:29 ID:n/5tQChg
イエスが神への信仰を説いているが、その信仰も阿弥陀信仰と本質的に同じである、と言わなければならないと思う。 神も空性であるから。
821 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 22:25:14 ID:hf4sYqDL
>>819 釈迦は「南無阿弥陀仏」を唱えよと教えていない。
浄土系は釈迦を批判している。つまり、釈迦の教え=仏教としているから、
自分たちの教えは釈迦を批判し、一般に思う仏教とは別であると多くの人に
正しく認識させることがまず重要だと思うよ。
私たちはバラモン教であって、釈迦の教え=仏教とはぜんぜん違う、と多く
の人々に正しく認識させないから、釈迦の間違ったとする教えと浄土系などと
混乱して、正しい教えが世間に伝わらない。
最も正さないといけないのは浄土系の人々。釈迦を批判しながら、釈迦の名
声を利用して、釈迦の教えから来たものだと思わせるズルさ。
822 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 22:25:44 ID:HMHZ2pHy
>>819 阿弥陀仏は、修行を完成させて
無限の光明(智慧による力の空間的拡がり)と
無限の寿命(いつまでも衆生を救い続ける慈悲の実現)を
手に入れたのです。
阿弥陀仏は、そういう人格的な存在であり、
空性とか宇宙とかではありません。
人格的な阿弥陀仏をそのままでは信じられない人が、
阿弥陀仏を信じ易い別の概念に置き換えたがるのです。
823 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 22:33:20 ID:HMHZ2pHy
>>821 ゾロアスター教の国の仏教者達が、
ゾロアスター教に配慮して、阿弥陀仏を考えだしたらしいですね。
阿弥陀仏関係のお経を普通に読むと、
救済信仰よりも仏教の善行を勧めている。
阿弥陀仏の浄土に無数いるりっぱな優等生修行者達を紹介して、
この世での善は浄土での善よりも難しいけど、
この世のお前達も精進しなさい、と説いている。
ゾロアスター的な阿弥陀仏はカモフラージュで、
本音は仏教の戒・定・慧の実践を勧めている。
824 :
とんちゃん :2008/01/24(木) 22:44:38 ID:z1Pc83S1
阿弥陀仏とはバラモン教ではアミターバだから中台八葉院(Eight Lotsu)の 一つであり、大日如来の変化の一つに過ぎず、勿論、それを擬人化することは 一般信者向けのことであり、簡単に言えば「神の力の表現の一つ」だから 宗教としての方便的手段に過ぎないのでは?また空相とはシニャーシャであり、 特定の対象物に当てはめることはできないし、無限と空相の概念は一致しない。 似て非なるものであるが、どうもバラバラの論理になってしまっているようですよ!
825 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 22:59:30 ID:n/5tQChg
>>822 >>821 無限とは、又、無量とは空相の意味であると、大乗経典の涅槃経は説いています。
一つのものが無限または無量と言う事ですから、当然、空相ということになります。
このような境地を得た 法像菩薩が、人格的存在であるとは言えません。人格的存在
は、無我ではないです。無我の境地には人間などと言うものも無いのです。
これは理法の帰結する事実です。
826 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 23:02:03 ID:n/5tQChg
名称に何か意味があるのではないのです。あくまでも理法です。
827 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 23:06:53 ID:n/5tQChg
>>825 >無限と空相の概念は一致しない
無限とは一つのものが無限にある場合にしか成り立たないです。
つまり、一相です。複数のものが無限に有るとは不可能です。複数のものは相対的に存在しています。
それらは自性としてあるのではないですから、自性複数のものの無限存在と言うことはありえないのです。
828 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 23:09:05 ID:n/5tQChg
>>829 訂正
>自性複数のものの→複数の自性あるものの
829 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 23:12:50 ID:n/5tQChg
自分は人間である、と言う認識は、真実である空相一相無相から言って、 間違いと言う事に成ります。自分を人間以外のものと区別しているからです。
830 :
とんちゃん :2008/01/24(木) 23:16:04 ID:z1Pc83S1
無限無量=空相空性ということではなく、空性とは事物の本質が 自性ではなく、他性であると理解することであり、Mayaであることの 認識だから、直接的に無限無量と表現することは方便的としてそう説いただけである。 また無我の境地の本当の意味の理解が分かれば、人格的、限定的存在はない ということは正解です。 そう、名称には気をつける必要がある、名称にとらわれると、深い理解が得られない。
831 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 23:18:04 ID:HMHZ2pHy
>>825 お釈迦様だって、80歳まで教えを説かれた人格的な存在です。
悟っていない人間も仏も、もともと無我です。
無我だから人格的存在ではないとは言えません。
お経に出てくるとおりの阿弥陀仏、
聖書に出てくるとおりの神様やイエスを、
そのまま信じられないなら、信じる必要ないでしょう?
無理に自分が信じたいような概念に仕立て直して、
それで信じたような気になっている人々が、
けっこういますよね。
832 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 23:20:16 ID:n/5tQChg
>>821 >釈迦は「南無阿弥陀仏」を唱えよと教えていない。
大無量寿経では、釈迦が法蔵菩薩の事を説いているのであり、観無量寿経でも釈迦が
阿弥陀仏の称名念仏を説いています。
833 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 23:25:38 ID:HMHZ2pHy
>>829 たしかに、「人間」という概念は、それ自体がない(無自性)ですが、
仏教者でも「私は人間です。」と普通に話します。
世俗諦(世間のルールの中では正解)においては、
「私は人間です。」と言っても間違いではないから。
しかし、太郎くんも花子さんも人間だけど、
太郎くんは太郎くん、花子さんは花子さんであって、
人間という人物はどこにもいない。
人間の「それ自体」(人間の自性)は、どこにも存在しない。
どこの役所の戸籍にも、日本人という名前の登録はない。
日本人それ自体はどこにも存在しない。
834 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 23:29:24 ID:HMHZ2pHy
>>832 無量寿経は、お釈迦様の死後何百年後かに、
お釈迦様が説いたという形式で書かれたフィクションです。
「無量寿“経”」というより、「無量寿“物語”」と呼んだほうがいい。
835 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 23:37:33 ID:HMHZ2pHy
仏教を論破できないから無理。 お釈迦様は、あるかないか考えてもわからないことは、考えても仕方ない、 それよりも今の修行に励みなさいと説いた。 いるかいないか確かめようのない神様を信じろというのは、 仏教の知識がある人からバカにされる。 まぁ、仮に嘘でも、霊能者が霊を見るかのように、 日常的に神様が出現しているというイメージができれば、 スピリチュアルみたいに流行るかもね。
836 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 23:43:31 ID:wUgksX8M
>835 その意味でまったく逆なんだよ 仏と神は。 それを一緒にしたがる馬鹿どもときたら。 釈迦は宗教を批判しているんだよ。一緒にすんな。
837 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 23:45:07 ID:n/5tQChg
>>834 キリスト教でも、イエスだけが神と等しい存在ではない事は明らかです。誰でもイエスと同じ存在になることをイエスは求めていますね。
つまり、神はイエスだけではなく、無数に居ることを知るべきです。
これと同様に、仏教でも仏というのは無数にいると言っているのです。特に大無量寿経は言っています。
背後の釈迦もブッダであり、前の阿弥陀もブッダなのです。釈迦と阿弥陀の区別は無いのです。
この区別が無い事を無我と言うべきでしょう。
大乗は、原始経典を発展させているのであり、異なる教えを作り出したのではないです。
838 :
神も仏も名無しさん :2008/01/24(木) 23:47:42 ID:n/5tQChg
839 :
とんちゃん :2008/01/24(木) 23:54:57 ID:z1Pc83S1
>>835 そうつっけんどんに言わないで、対機説法が釈迦の説法だから、相手に合わせて
教えてあげるのも自分自身の修養ですよ。釈迦の「無記説」は
「あるかないか考えてもわからないことは、考えても仕方ない」ということではなく、
レベルの低い弟子に対して、「今、貴方はそんなことを考えるレベルではない」
と言ったのが文脈からの真意だから、時間があれば、理解できるように説いてあげるのも大事ですよ。
840 :
とんちゃん :2008/01/25(金) 00:01:11 ID:z1Pc83S1
>>837 その通りだ、少し荒っぽい表現だけど、その通りですね。
失礼な言い方だけど、貴方、名前つけてよ?貴方の理解には深度がある。
841 :
浄土 :2008/01/25(金) 00:09:06 ID:5ocfohfD
>>840 それでは必要と思われる期間だけ、「浄土」と言う名前を使用しますのでよろしく。
しかし今晩は、オヤスミナサイ。
842 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 00:29:45 ID:/AdUTC7u
>>837 >>大乗は、原始経典を発展させているのであり、異なる教えを作り出したのではない
843 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 00:39:02 ID:xcIolHxA
よく対比される、 仏教での「されたくないことは、しない方が良い」 キリスト教での「してほしいけとを、すれば良い」 これだけ対にしようとするから、水と油になりかねないのです! これに加えて「因果応報」で考えれば良い。 簡単には「してほしいことをしましょう」と「因果応報」が対なのです!!
844 :
とんちゃん :2008/01/25(金) 00:40:24 ID:fle2ysU+
正確に言えば、「発展」ではなく基本に沿っての展開だね。 進んだ考えではなく、多岐的多面的に展開している。
845 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 00:49:13 ID:/AdUTC7u
>>837 >>大乗は、原始経典を発展させているのであり、異なる教えを作り出したのではない
そうかなぁ?
原始経典はアンアートマンだし、大乗はアートマンの肯定だから全く異質と捉えるべきだよ!
846 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 01:11:48 ID:dEBDyCYZ
>>844 今時、釈迦の原始仏教を指針にしてる教団なんて存在しないよぅ。
30年前にはGLAが釈迦の八正道を勧めてた位だけど、
教祖の高橋信次が48歳で亡くなってからは大分裂しちゃいました。
847 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 02:44:32 ID:TU4EXncK
837は 完全に間違い。
神になろうとしたアダムとイブは 楽園から追放され 命も有限になった。
キリスト教は GODと呼ばれる唯一絶対神のシモベとなることを勧める宗教です。その化身がイエス。
そして、釈迦は神ではなく ただ道を説く人です。その道とは、何かのシモベとなることを勧めるのではなく
逆に自らを灯明とすることを勧める。
その内容は、何かを信じることではなく、ありのままをありのままに観て解決していくこと。
そのために「悟り」という境涯が必要となる。
つまり「悟り」とは、目的ではなく、欲から解脱して寂静に至るための状態に過ぎない。
阿弥陀など 単なる救済偶像に過ぎず、釈迦とは何の関係も無い。
いわば偽の釈迦だ。大乗は偽仏教。
何でもかんでも区別無く一緒にしてもらうと 仏教徒にとっては大迷惑だ。
大乗は仏教と言うより キリスト教に近い。 何故なら、信じたり、祈ったり、唱えたりすることを勧めるからである。
http://sky.geocities.jp/sonnna_ahona4649/bkn.html
阿弥陀仏崇拝は、自己を越えた究極実存に思いを凝らすことにより、
相対的、二分的、対象的世界を
超越し、禅の悟りと同じ境遇に至らしめる。
と禅の鈴木大拙がいってたお
>>847 原始仏教に対する理解さえも薄いサイトだな。
引用してる著者でさえ大乗肯定派だし、ダライ・ラマが釈迦の生まれ変わりとかって設定も間違いだし、
理釈を事釈でしか解釈してないし、
>実際的には 乞食として物を所有せず 木の下などで瞑想して自己を見極め
>食を恵んでもらうことと引き換えに 衆生に真理を説いて廻ります。
>ただし 現代日本では布施の習慣は無く 家を持たないと冬は寒いですから、ちょっと無理ですね。
これもなんだかw
無理なら言うな、って感じだがw
849 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 12:54:01 ID:dEBDyCYZ
>>847 >>「悟り」とは、目的ではなく、欲から解脱して寂静に至るための状態に過ぎない。
現代の最先端真理は「主客合一」西田幾多郎
阿弥陀(神)と欲とは一つであり切ってはならないに統一されています。
850 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 13:02:41 ID:dEBDyCYZ
>>847 >>キリスト教は GODと呼ばれる唯一絶対神のシモベとなることを勧める宗教です。
>>阿弥陀など 単なる救済偶像に過ぎず、釈迦とは何の関係も無い。
>>いわば偽の釈迦だ。大乗は偽仏教。
逆だと思う。
釈迦が正しくて他は間違いと云う発言みたいだけど逆なんだよ。
世界的にも神やそれに順ずる信仰を教える宗教が全てだけど
釈迦だけは神を説かないんだ。
こんなの宗教の分類から切り離して唯物哲学で議論すべきだ。
国王の息子だったから煽てられたんだよ、もうあほらして!
851 :
とんちゃん :2008/01/25(金) 14:09:57 ID:fle2ysU+
これはいかん、私は去ることにした、 なかなか真の理解は難しいようだ。 浄土さん、お元気でがんばって下さい。 また、どこかで会いしましょう。
852 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 16:43:17 ID:g8XFeVI9
>>850 逆の逆だと思う。
「釈迦だけは神を説かない」、だから本物なんですよ。
853 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 18:42:50 ID:dEBDyCYZ
>>852 だったら、宗教じゃないから、宗教板じゃなく哲学倫理板へ引越したら良いじゃないか?
854 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 18:54:03 ID:dEBDyCYZ
>>852 宗教板じゃなく、哲学板で
[マルクスとブッダの共通点とは? 真理真実とは?]
をスレ立てすりゃいいよ・・。
855 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 20:37:16 ID:0U3lTl2J
「一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれ、慈しみの心づかいがこの世では崇高」ブッダ 「いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深い ように、あなたがたも慈悲深い者となれ」イエス 何かに洗脳されなければ、他人を不幸にし人々の安穏安楽な暮らしを奪う行動は認めようとしない。 誰かが幸福だと思うことに仕え、安穏安楽な暮らしになるよう努めれば、人々は平穏な暮らしができる。 「園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々、かれらの功徳は 、昼夜に増大する。それらの人々は、法に安住し、戒めを具えて、天におもむく。」ブッダ 「肉の主人に従いなさい。人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのではなく、キリストの僕として 心から神の御旨を行い」聖書 神を信じた人に、ただ主よ主よと言うのではなく、見えない律法(法)を行わせるのが重要なことで、 そのために信仰対象となった。
856 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 21:43:57 ID:dEBDyCYZ
普通に考えて、イエスはしっかり仏教的思考してたと思うが、、、、。 当時のユダヤ教のパラダイムで仏教的志向してたから、表現が違うだけで。 盲目の障害について「罰ではない、ただ神の業が現れただけである」 これは、空性のことを言ってるんでしょ。 差異を語りたい人は、けっきょく自分の信奉してる宗派も、単に俗世的構造物としてしか見てない。 ユダヤ教だってタルムードとか読むとかなり仏教と共通点があるし、 差異よりは共通点をさぐったほうが、収斂されて自分の信奉してるものの理解も深まるよ。
858 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 22:17:52 ID:4HkoIMPw
855はイエスとブッダが同じだと言いたいんだろ。 違うから。 >釈迦が正しくて他は間違いと云う発言みたいだけど そんなことではない。 次元が異なるから比較できないのだよ。 >こんなの宗教の分類から切り離して唯物哲学で議論すべきだ。 それをいうなら唯識だろう。 >原始仏教に対する理解さえも薄いサイトだな。 またまたそんな揚げ足取りの批評しちゃっておまえは。 そんななら、いくらでもケチつけられるよなあ。笑 >ダライ・ラマが釈迦の生まれ変わりとかって設定も間違いだし どうでもいいわそんな部分。 そういうわけで、837は 完全に間違い。
859 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 22:32:55 ID:XIV9x7ng
>>858 、、、、、、いや、君のレベル分った。勝ち好きらしいから勝ちでどうぞ
860 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 22:40:22 ID:4HkoIMPw
なら最初から書き込むなよなw
861 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 22:43:50 ID:LITju6b/
真理に目覚めたら苦痛はない。 苦痛とは人間が作ったものだから。 苦痛などもともと存在しなかった。
862 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 22:50:37 ID:5ocfohfD
863 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 23:18:45 ID:5ocfohfD
誰かが主客合一と言っているが、それは、理解あるものの言うことではないと思うよ。 主と客が混ざり合うのではないのだ。混ざり合ったものは決して、一つになったものではない。 主と客と言うものは、相対的な存在形式であるので、主というものの実体も、客と言うものの実体も無い。 故に、両者は主客を離れて、真実には区別の無いものである、というのが、仏教という尊い教えなのである。そこで 真実が尊いのだから、主と客と言う認識をしないようにし、そのためには、両者の為になる認識をするといいのだ。
864 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 23:39:11 ID:5ocfohfD
一般的に言って、神とは、日本神話であろうと、ギリシャローマ神話であろうと、ユダヤの神であろうと、 この大地と天と、その間にある全てのものを創造したもの、と言う事になっているだろう?このような創造者を神と言っているのだ。 そして、人間であろうと、ナンであろうと、造られたものは、創った神を恐れるのだ。 神は、創られたいかなるものとも似ていないのである。似ていてはならないのである。 ところが、ユダヤの神は、自分の姿に似せて人間を創ったと言っている。 この点は間違いではないかと思うのだが、誰か説明できないかな?
865 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 23:42:57 ID:5ocfohfD
そればかりではない。ユダヤの神は、男と女なのだ。
866 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 23:44:22 ID:5ocfohfD
男と女が神であるなら、どうしてイエスキリストと言われているお方は、 「唯一の神」と認めているのだろうか?
867 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 23:46:42 ID:C65aqXPl
親は子供に似ている。 だから神は人に似ている。
868 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 23:54:15 ID:5ocfohfD
>>867 それなら、牛や馬の親も神なんであるが、神は牛や馬の姿をしているか?
人間の姿と牛や馬の姿が違うが、このような違う姿を同時に持つことはどうしてできるのか?
869 :
神も仏も名無しさん :2008/01/25(金) 23:59:38 ID:5ocfohfD
人間は神の姿に似ているというのだから、神は牛や馬の姿に似ていてはいけないのだ。
870 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 00:03:02 ID:5ocfohfD
ユダヤの男と女の神は、われわれの姿に似せて人間を創ろうと、考えたと聖書は言っているだろう? これは、女と男の情欲のことではないだろうか?ユダヤ教はセックスを根本とする教えなのか?
871 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 00:05:29 ID:5ocfohfD
さて人間の姿に似ているユダヤの男と女の神は、人間ばかりではなく、牛や馬をも生んだのであるが、 人間の男と女も、牛や馬を産めるんだろうか?
872 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 00:08:08 ID:i5YPzFvH
子供は親に似ている。 神もまた人に似ている。
873 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 00:09:44 ID:yNM9oKFC
874 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 00:11:28 ID:yNM9oKFC
最初に神が人を創ったと言っている。人が神を創ったと言うんで無ければ、 神は人の子である、とはいえないが。
875 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 00:20:34 ID:yNM9oKFC
産めよ増やせよ、天地に満ちよ、か?これは情欲だよね?
876 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 00:22:09 ID:7IMoLBQI
>>854 「むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように気をつけなさい。」(コロサイ人への手紙)
「一切の哲学的断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。」(仏典)
「あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ〜あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費
全部を入れたからである。」(ルカによる福音書)
「乏しき中からわかち与える人は、法を実践することになるであろう。」(仏典)
イエスもブッダも哲学というよりも、法を学べということ。神が存在していたとしても、人が誰かの不
幸のために働き、安穏な暮らしを奪い、安楽な暮らしを奪い、地上に幸せが訪れないように、たとえ貧
しくとも、それに負けないで法を行うならいずれは幸せが訪れる。様々な法を説いているのだ。
両者とも無所有であり、地上のものに心を引かれず、一切の幸福世界(永遠)の存在となり、慈しみの
こころで人々に教えを説いた。病苦もなく、この地の苦難もなく、全ての幸せを善とする完全な存在と
なって、人々をあわれんで、慈悲深いことをいと高き者のされること、崇高な境地と説き、人の慈悲心
が永遠に近いものであると説いた。限度を越えて思い上がらない程度の行いをせよと。有償であっても
無償でも、他人の幸福であることに仕え、安穏や安楽な暮らしに仕えたり、肉の主人に仕えたほうが、
他人の特異な考え方にとりこにされるより、人類としては有益な結果が生まれるとしているだろう。
また快楽・欲楽などから遠ざかり離れることも、苦悩なき世界に近づく。完全な世界では、地上のもの
に心を引かれることもなく幸せだから。
877 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 00:31:03 ID:i7Z+ubeG
イエスもブッダも哲学というよりも、法を学べということ。 ただし、その「法」は仏教とキリスト教では真逆。 人は、崇拝依存対象として 妄想から神を生んだ。 ブッダは 妄想を捨て、神でなく自らを拠り所とせよと説く。
878 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 00:38:40 ID:yNM9oKFC
>>877 >法を学べということ
法とはどんなものか、詳しく。
879 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 00:49:57 ID:OBn+tLpv
>>878 法とは・・
「宇宙は神の表現体」「あの世もこの世も主客合一」西田幾多郎
880 :
◆Zama3//bUI :2008/01/26(土) 00:54:36 ID:K5nsisOh
dharmaですか?
882 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 00:57:57 ID:OBn+tLpv
883 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 00:58:52 ID:yNM9oKFC
神とは?詳しく。
形而上学的な理論を話し合っても絶対的な答えを得ることはできないと思います。
885 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 01:04:59 ID:WBeKnApN
>法とはどんなものか、詳しく。 あのね。 法だ法だ法だと言うのは簡単。 だから新興宗教は 法だ法だ法だと言ってマインドコントロールしているでしょう。 その中身が問題。 新興宗教は その中身をこっそり入れ替えている。 さて 仏教の言う法と キリスト教の言うそれに当たるもの。 それはぜんぜん違うんですよ。 いうなればキリスト教の法とは 信仰。 仏教では むしろ信仰を排斥する。 さて 仏教の「法」とは?
法dharma「教え」
887 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 08:31:27 ID:OBn+tLpv
>>885 大乗は信仰だどっ。
仏教の「法」とは「南無阿弥陀仏」”!
888 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 09:09:07 ID:yNM9oKFC
今まで、法については、究極に到るまで言われてきた。法とは理法の事である。 そして、真実についても同時に言われてきた。真理と真実は常に一緒にあるものであるから、 真理が語られる時は真実について語っているのである。 ところが、もう一つ欠かすことの出来ないことが、未だ語られていないのである。 人が救われる、人が安息に入る、と言うためには、これが欠けては有りえないものなのだ。 誰か、それが何であるか、判る人がいるなら、みんなの幸せのために説いてみるべきである。 経典から探してもいい。何だろうか?
889 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 09:11:51 ID:/+6j9col
>>873 聖書は赤ちゃんの発達心理を現している。
神とは、赤ちゃんの心・認識。
赤ちゃんは、胎内から産み落とされたとき、まず光を感じる。
やがて、言葉による概念で認識世界を構築していく。
そして、自分に似た生き物、「人」という概念を知る。
赤ちゃんが最初に出会う人間は、赤ちゃんの両親。
だから神が最初に創った人間は男女二人。
神とは、人が忘れた赤ちゃんの心。
890 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 10:02:38 ID:yNM9oKFC
891 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 10:13:30 ID:yNM9oKFC
なんか日本の最初の誕生のところを読んでみると、やはり男と女の情欲が下になっている。 情欲と言うものは、自然に生じるもので、知性と違って、人を導く命のように見做しやすい。 知性はその情欲をもどのようなものかを見極めてコントロールするものだ。世界の神話が、情欲を神の働きとしている限り、 釈迦やキリストの浄土天国には入れないのでは?
892 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 11:54:06 ID:rVSFSV06
ここで質問してる人は、井筒俊彦の「意識と本質」みたいな、 諸宗教の構造比較を語るときに必須って定評のある本は読んでからきてるの?
893 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 12:29:04 ID:OBn+tLpv
894 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 12:33:12 ID:ilTMNbzg
神が人間を創造された時点では、永遠の命とともに神が創造されたものを治めるはずだった。 永遠の命とは、 「イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられ たが・・・わたしにつまずかない者は、さいわいである。」 病苦も無く、地上の様々な困難も無く、全てを幸せにされる神とその神を心より受け入れる心(境地) で、敵意も憎しみなども無く、公平に全てが幸せで、慈しみやあわれみといった教えとなる。 「あなたは悪魔の征服者です・・煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡りおわり・・麗し い白蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません。」(スッタニパータ) 「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって」「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け」 「水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類に したがって創造された」「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種 類にしたがっていだせ」「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」 (創世記) 「草や木にも種類の区別あることを知れ」「美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い」「水の中に生ま れ水に棲む魚どもにも、種類の区別あることを知れ・・翼を乗り物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、種類 の区別あることを知れ」「小さなものでも、大きなものでも、四足獣でも、種類の区別あることを知れ」 「人類にはそのように生まれにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない」 (スッタニパータ)
895 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 12:34:12 ID:ilTMNbzg
「林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである」 「平安の境地に達して・・足ることを知り・雑務少なく、生活もまた簡素であり・・いかなる生物生類 であっても・・長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも・一切の生きとし 生けるものは、幸せであれ・・母が己が独り子を命を賭けても護るように・・上に、下に、また横に、 障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし・この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ」 (スッタニパータ) 「肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲と は過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる」「何ひとつ持たないでこの世を去って 行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである」(新約聖書) 「へびは女に言った・・神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです・・賢くな るには好ましいと思われたから」(創世記) 神は地上の物で人に苦しみを与えようとはなさらなかった。人が賢くなる(罪)も選択肢として与 え、イエスキリストがあわれみのわざで奇跡を起こし、信じる者の罪をゆるされた。そして人類は 何も誇るなと。神より善い者はいないから、人類は自分を低くしておれ。
896 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 12:35:04 ID:ilTMNbzg
人間の考え出した特異な教義に惑わされることもなく(考え出されたものは、過ぎ去れば全て滅び去る ものだから)、人によくしてあげるなど「肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして目先だけ の勤めをするのではなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い」(新約聖書) 「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい」 (イエス) 自分の意向のみに生きるのではなく、他人の意向や他人が幸せだと思うことに仕えなさい。地上で 苦しみを受けている人を助けたりしなさい。そうすれば地上に幸せが訪れますから。たとえ貪欲な ことがあっても、自分を誇らないようにしていなさい。永遠の命を保っていなさい。 世界の終わり 「世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあり得ない・・清らかな行いを修めた人は、 世界の終極に至る人となるであろう」「思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅で あり・・すでに有ったものが存在せず・太陽も存在せず、月も存在しない」(サンユッタ二カーヤ) (ウダーナヴァルガ) 「日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。 そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう」(イエス) 世の中にいても、最後はあわれみ深い神が病苦も無く全てを幸せにして、その神を心より受け入れる 心を持ったままなら肉のまま滅び去ることもなく、永遠の幸せに至る。今、世間の苦しみから逃れたい 人は、神が創造された自然に近いところで、衣食があれば足れりとし、簡素な生活に満足して生きるこ と。思考を静め、安らぎを楽しむこと。人間の考え出した特異な教義はない。
897 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 12:35:51 ID:yNM9oKFC
>>892 そんなこと気にしない、気にしないw。
>>893 仏教が特に定めているもので、その答えの半分ほどしか当たってない。もう少し考えて。
898 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 12:41:38 ID:OBn+tLpv
899 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 12:43:31 ID:yNM9oKFC
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1200142232/ 638 名前:m0rSvao3[] 投稿日:2008/01/26(土) 10:02:49 ID:Eqw56Xsi
>>636 (=゚ω゚)ノぃょぅ
もう諦めろよ。
俺は君より若干頭が良い。
それも、本当に頭の良い奴から見れば目くそ鼻くそ程度の差だけどね。
だが、たとえ微差でも、自分より頭の良い奴と論争すると勝てないよ。
彼我の頭の差を認めたら、頭を使うゲームで勝とうとすることはやめた方がいいんだよ。
負けるに決まってるんだから。
君は頭は悪い代わりに何か他に良いところがあるはずだから、そっちを伸ばせばいいんだよ。
頭の良し悪しなんて、足が速い遅い、野球が上手い下手、喋りが上手い下手なんてのと同じなんだよ。
単なる個性だ。コンプレックスを持つ必要はない。
安心しろ。もう自分を赦してやれよ。
俺の発言が気に障ったのなら謝るからさ。
その無駄なエネルギーを、自分を幸せにすることに使ってくれよ。
901 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 17:29:54 ID:yNM9oKFC
>>898 以下のサイトをお借りして答えとする。
帰依三宝(きえさんぼう)
サンガとは実に面白い課題だと思っています。(詳しくは私のホームページをご覧ください)
サンガ(Samgha)はもともとは仏陀に連れだつ多くの人々をサンガ(集い)と呼んだのですが、このサンガの決まりは、実は徹底した平等がテーマでした。
35歳の仏陀が世に出現されて、最初に5人の仲間(後のサンガ)に仏陀になる道を説かれます。それは「初転法輪(しょてんほうりん)」と呼ばれています。
2週間かかって、共に同じダルマ(法)をいただく最初のグループが出来ました。それは6人の阿羅漢あらかんたちと呼ばれました。が、その集いは、すぐに30になり60になったと記されています。
その60人の比丘たちと一緒に、仏陀は世間に帰って来られます。王舎城(おうしゃじょう)の竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)に、このサンガは住まいます。
902 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 17:31:43 ID:yNM9oKFC
>>901 つづき
れを別に表現するなら、1つの光が6つに展開し、すぐにそれは61の光に展開したのです。そして輝けるサンガは、えてして暗い世間に真実の明るい道があると指し示しました。そして、それを見た多くの人々にその光がまた伝達されていったのでした。
その光は、サンガには共通の光でした。仏陀もサンガの一人でしたし、共に真実の世界(涅槃(ねはん))を共有する人々でした。そして、実はこういう出家の比丘だけではなくて、彼らを支えた無慮無数(むりょむすう)の在俗のサンガが生み出されていったのです。
仏法僧を三宝と呼びますが、その第一の仏陀がなくなられても、サンガ(僧伽)は歴史を貫いてその活動を展開しました。たとえば仏教の経典は、実はサンガがすべて公開したものなのです。サンガのある所に、大きな仏道があり大きな仏国土が見つめられているのです。
真宗では親鸞聖人が示された七高僧が知られていますが、実はこれこそが歴史を貫くサンガの系譜ではないでしょうか。このようなサンガの歴史は、法然上人との出遇いによって親鸞聖人に確認されたものでした。
法然上人の生まれられる世界なら、人が何と言おうともたとえ地獄でも行くのだと親鸞聖人は言われたといいます(『恵信尼(えしんに)文書』筆者意訳)。お二人が見つめられた阿弥陀仏の世界は、三世十方の仏陀たちと共に行く大きなサンガ世界なのではないでしょうか。
(新潟県・最福寺住職)
※里村専精氏ホームページ
903 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 18:58:35 ID:yNM9oKFC
このサンガの事をキリスト教では、教会というのだろう?真理を述べ伝えるのであるから、 必然としてサンガが形成されるのだ。 この掲示板も、サンガである。
904 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 19:35:00 ID:yNM9oKFC
サンガには見本となる仏と法があり、それは、真理神事を信じ実行している 仲間がいるのである。そこは、真実の世界である。そここそが、実在する世界なのである。 イスラム教について、ほとんど話されないが、真面目な教えなら、仏教と変わるところがないと思う。 彼らが国家的にサンガを形成しているのは、注目すべきである。
905 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 19:37:13 ID:yNM9oKFC
906 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 19:44:37 ID:rVSFSV06
宗教団体なら何でもいいってわけじゃないだろうけど、、、。 イスラムスーフィズムや、ユダヤ教の神秘主義(オカルトとはまた違う意味)、 キリスト教神秘主義(同じ。マイスターエックハルト)は、仏教とだいぶ近い 「イスラム教徒がアラーという時、仏教との真如と同じなのです」 井筒俊彦
907 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 19:52:34 ID:yNM9oKFC
真理真実は、「一」をもって存在できるのだよ。イスラム教徒が真理真実と言うものと、 仏教徒が真理真実と言うものは、決して異なるものではありえないのだ。科学的に「一」にならざるを得ないのである。 宗教戦争は、真理真実を知らないから、自分の宗教の教えを知らないから、と言わなければならないのでは?
908 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 20:00:46 ID:HVQslpwF
>人が救われる、人が安息に入る、と言うためには、これが欠けては有りえないものなのだ。 そんなの簡単なことだ。答えは充足だ。 >俺は君より若干頭が良い。 >それも、本当に頭の良い奴から見れば目くそ鼻くそ程度の差だけどね。 出た出た。もういいから黙っておれ。 信仰宗教キリスト教 ≠ 哲学精進仏教 。
>>907 「一」などは無い。迷いと罪とが終末まで続くだけだろう。
910 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 20:50:32 ID:yNM9oKFC
何も無いのを「一」というのである。であるから、又、無相、一相、空相とも言うのである。
>>910 なら「二」でも「三」でも良いではないか
912 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 21:21:03 ID:yNM9oKFC
「一」であるからには 「一」=「一」+「無」=「二」であってもおかしくなかろう
914 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 21:28:43 ID:SreJWtMU
無所有で地上のものに心を引かれず、この世の苦悩のない世界と一つとなった存在。 そこは、病という苦しみもなく、この世の困難も災いもないことを心より幸せとしている。 あなたがた神を知る時は、さまざまな病苦もなくさまざまな困難に苦しんでいる者もいやされ、 その神を何よりも愛するようになるのだから、イエスを信じ人によくしてやるなど慈悲深いこ とを善いことだと受け入れていなさい。修行を完成させ平安の境地に達して一切の生きとし生 けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれ、慈しみのこころづかいを崇高とせよとブッダ。 思考や意識活動により忘れ去られるが、いざ飢えた人貧窮なる人々、宿無き人々、裸である人、 などを目の前にすれば誰でも助けようとする心があるのだから、地上のものを真実とせず、意識 がなくなった後も肉体として滅び去ることなく、一切を幸せにされる慈悲深い神を受け入れてい なさい。または、森の中で修行して一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であ れという慈しみの境地に達していなさい。 他(イエス)を善として信仰しているか、自分で平安の境地に達して一切の生きとし生けるものは幸福 であれ安穏であれ安楽であれとなるかだけで、永遠にあるものは地上と肉欲ではなく、病苦もこの地の 苦難もなく、一切の幸せを思い喜びとする永遠の心があるだけ。
915 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 22:03:16 ID:yNM9oKFC
>>913 要するに、有と無との関係に要約できそうだね。
これが相対的に存在している事はわかるだろう?相対的存在は、実体がないよね。
これをギリシャ人的に解説すると、変化しているものは実体としてあるものではない、と言う事になる。
ゼノン風に言うと、無限分割とは、分割できないことであり、一体のものであると言う異なるのだ。つまり、
変化しているものの境目と言うものは、二つを分割しているはずのものと見えるが、分割不可能が事実である、と言う風になる。
つまり一体である事を否定できない、と言う事だ。
であるから、「一」+「無」=「二」のように二つのものが無いのであるから、=「二」と言う事にはならないのである。
916 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 22:05:15 ID:yNM9oKFC
>>915 訂正
>一体のものであると言う異なるのだ →一体のものであると言う事になるのだ。
917 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 22:25:28 ID:rVSFSV06
918 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 22:42:53 ID:yNM9oKFC
>神の啓示 釈迦やあのギリシャ人のように、真理と真実はこのようなものであると説明した上で、 それ以上の説明が必要な場合に限るが、その真理または真実を「神」と言う、と説明する人は、 決して人を騙すことの無い人、または、自分でも判らないことを言って自他共に騙す人ではない、と言わなければならないと思う。
919 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 23:10:14 ID:0jgoXw/5
人の考えで真理を作り変えるのがいけないんじゃない? 偶像は今人が存在するだけにあるものだし、 五感も思考も意識活動さえ存在しなくなった時、 地上のものを見ることもなくなり、 そこには一切が幸福世界があった。平安で安らぎに満ちていた。 地上で他人の不幸を厭い、苦しんでいるのを厭い、平安を乱す行為を厭い、食べたり飲んだり 人が作った物や快楽のみに生きるのではなく、自然に安らぎを感じ楽しんだりするのは、人の 心の内に永遠に通じるものがあるから。 それを言葉として表現し、教えとするのが宗教の役割。
920 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 23:10:57 ID:rVSFSV06
まあでも、メンヘル板ではリアルタイムでガンガン自殺実行してるレスがつくけど、 こうして温かい環境でPCやりながら宗教について実にもならない話を 時間つぶしてできるんだから幸せとしか言いようがないよな。 金がなくなったり、ボロボロになったりっていうのは、ほとんど実力よりも運の差だからな。 大して働いてなくても生まれつき恵まれてたり、才能がなくても声がでかいだけで お笑い芸人はすごい金稼いだりできる。 人がよくて気が小さい人間がメンヘル板でガンガン自殺してる。 おれらは他人事のようにここで「しゅうきょう」を論じて飽きたら寝ることが出来る。 自分がブタに思えるけど。
921 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 23:11:39 ID:rVSFSV06
ああ、このスレに書くことじゃないな、、、すまん
922 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 23:28:32 ID:yNM9oKFC
>>921 そんなこと無いよ。
神とか仏と言う名前だけしか知らない人が多い。この実体が何であるか知らないで、しかし、神や仏が
人を助けると言う話を聞いているんだ。それで、神や仏に助けを求めるのであるが、
神や仏の実体をわかるように説明で切る人にめぐり合わない限り、クスリにならないのである。
新興宗教ばかりか、従来の宗教でも、この神や仏の実態を、判るように説明しているとは言いがたい。
特に新興宗教の場合は、人を妄想の世界にいれるだけのものが多いのではあるまいか?
923 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 23:32:51 ID:yNM9oKFC
病気の人も健康である人も、死んだ人も生きている人も、悪いことをしたと言ってロウに入っている人も、 そこに何の差異も無い、一つの状態だけがあるのである、というのが真実であるというのが、 仏教やキリスト教の説く教えなのである。
924 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 23:37:23 ID:44cmRVsc
>であるというのが、仏教やキリスト教の説く教えなのである。 真逆ですけどね。
925 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 23:44:57 ID:rVSFSV06
おそらく、キリスト教的には、すべての人は良し悪しもなく救われているのだろうし、 仏教でも勝義締的な見方からすれば良し悪しを世俗的な基準で決めることは出来ない、 すべて良し悪しをこえて肯定されているのだから、自殺を自然に反したものとみるのだろうけど、、。 真理がどんなものか、神がどんなものかは体感してないからわからないけど、 どの宗教でもその境地は、主客のない状態、永遠の状態、絶対至福の状態、とかよく言われる それでもこの日本だけでも、年間三万人の人が「主観的に」苦しんで絶望して泣いて自殺していることを考えると、 俺も主観的に悲しまずにはいられない。どんな幸福が保証されていようと、現在の苦しみは耐えられない。 子供さんに自殺された親はどうやって生きていけばいいんだろう、とか、、。
926 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 23:51:43 ID:yNM9oKFC
>>925 それは先ほどから言われているように、サンガを知りそれの存在を認め
それを賛嘆し、その仲間に入るようにすることが残されているのである。
悪い意味での孤独であってはならないのである。自他の区別の孤独は、つまり阻害されての孤独は、
真実ではないのだと思うよ。真理真実を知り、それの世界に入りつつある人の仲間、即ちサンガ、に入ることが残されている。
927 :
神も仏も名無しさん :2008/01/26(土) 23:52:46 ID:yNM9oKFC
>要するに、有と無との関係に要約できそうだね。 これには同意。 >であるから、「一」+「無」=「二」のように二つのものが無いのであるから、=「二」と言う事にはならないのである。 同じ宇宙に暮らす仲間だから宇宙が終わる時はみんな一緒に滅びる。 ってくらいの意味しかわからなかった。ごめん。
929 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 00:02:33 ID:tbYhBmT+
930 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 00:05:59 ID:kD3qto9F
自己愛のために特定の信仰対象物にこだわるけど、 他人の考え方をわかってあげたり、人によくしてあげるなど社会全体が慈しみの心づかいがあれば、 この世界で悩んでいる人を救える可能性はある。 自殺で善いところには行けず、世の中から離れてでも、自分の物欲などを離れても、他に対する慈しみ や、この世の悩みなき心にならないと、善い世界の境地に一致せず善いところには行けないという理。 肉である自己も私ではない。世の中も私ではない。悩んでいる自己も私ではない。世の中から離れてでも、 自然の中で安らぎ、諸々の自分の粗雑な思考を修める。自然の中での修養により、楽しいとか美しいと か、サーヴァッティー市に住していても、世間にいても楽しいという気持ちになり生きないと、きっと 死んでも楽なところには行けないだろう。自己の断滅の妄執も存在せず、妄執は悪いところに行く行為。 肉である自己より、遠ざかり離れることを賢者として、世の苦悩を受けている人にも自身を持たせた。 世と自己に悩まない善い境地、自身に対するこだわりよりも、物欲など世間に存在するものへの執着を 捨てた他に対する慈しみは、自身に対する悩みも緩和する。
931 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 00:07:36 ID:JSZEL2Ai
御釈迦様は素晴らしい。 阿羅漢の方々は素晴らしい。 御釈迦様と阿羅漢の方々を供養された方々は素晴らしい。 龍樹菩薩は素晴らしい。 世親菩薩は素晴らしい。 十方三世の諸仏諸尊諸菩薩方の教えを伝えた学者の方々は素晴らしい。 ささやかながら賛じます。 いいね、、。
932 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 00:08:37 ID:tbYhBmT+
>>928 宇宙には誕生した時期があるのであり、それ以来何年経過していると言う思想が、害となっているのだ。
誕生と言う事はないのである。無限の過去に向かって、縁起の法理が適用されるのであり、未来に向かっても、無限に縁起の法理が
適用されるのである。そして、縁起である以上、実体のない幻なのである、と理解しなければならないのだ。
であるから、未だ課って、何かが生じたことはなく、これからも何かが生じると言う事はないのであると知らなければならない。
このことを死って、この知識に反する妄想に打ち勝つ事を、自己に勝つことであり、信仰有る、と言う事だと思う。
933 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 00:13:34 ID:rH0Actg7
イエスも洗礼ヨハネが殺された時、さみしい所で自分をいやしたのではなかったかなあ。
934 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 00:24:09 ID:ivUBfwmH
935 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 00:25:27 ID:ivUBfwmH
936 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 00:27:14 ID:ivUBfwmH
937 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 00:36:00 ID:ivUBfwmH
>>932 実体のない幻では無く「神のみ在る」のです。
この世とあの世を貫く法則は「主客合一」です。
この世では「見られる全世界は、見る者全人類の心の世界」ですが、
あの世では「見られる菩薩界は、見る者菩薩の心の世界」な訳です。
菩薩界といい、如来界といい、宇宙界とも云うべき世界は、
その世界に住む霊人の心が創りだしているのです。
すなわち世界は生命で表現されています。
これはこの世も同じなのです。
自分もなく、他人もない。人類もなく、世界もない。自然界もなければ宇宙もない。
すべて生命で創造せられた表現結果の世界であるがゆえに、
この世でいうならば宇宙はない、無一物であるという禅家の教えと同一なわけです。
創造のみあるといえるのです。
宇宙や自然界を表現し、全天界を創造している「生命のみ在る」ということです。
生命は神ですから神のみ在るといえます。これは個々人の生命の中心に在るわけです。
938 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 00:58:14 ID:ivUBfwmH
善と悪 真の善と理法は物質を媒体として顕現するのである。 神の公正は物を否定した場合、喪失する。 例えば欲望を悪と云うが、欲望や情欲なるものは神の与えしもので、これは本来善である。 これを否定した場合、人類の存続は無い。愚か者はこれに執し、これをやたら規制しようとする。 天界の高低と理法をこの世で顕すものはこの欲望なのである。 すなわち神の公正と理法という最も高きものをこの世で表すものは、 最も低きこの物質なのである、ここに嘘はない。 地獄の生成の原因は欲望のせいではなく、自己の神の善を知らぬ霊的未熟にある。 これゆえに宗教家は欲望を捨てよ、自我を捨てよ等言い、悪を欲望や自我のせいにしてきたのである。 これでは全人類を真に生かしている「神の理法」が顕現しない。 欲を否定する者は力と数、都合とエゴ、「虚栄の善」の統治をしている。 信仰による万物肯定の道とは云えぬ。
939 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 12:13:40 ID:MXqXRyuh
浄土真宗の阿弥陀仏は神と云う意味です。 キリスト教の神と同一です。 阿弥陀(アン)(ミータ)アン→否定 ミータ→計測 つまり計測不能仏で無限エネルギーで神です。 浄土真宗とキリスト教とは同一の神への帰依を教えております。 「なまんだぶ」=「神に栄光あれ」 馬鹿馬鹿しい教義 まずこういうことを信じて行う奴は馬鹿に 過ぎない。
940 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 12:19:24 ID:ivUBfwmH
>>939 つまり、万教帰一ってことだ・・
信じて行うって何の事ですか?
信仰は行いではありません。
941 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 13:10:01 ID:tbYhBmT+
しかし、今時何処を探せば、真のサンガが有るんだろうか?
942 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 13:14:54 ID:uuMPrNcW
>>939 俺は、浄土宗現役住職だが、
真宗にしたって、こんな話聞いたこと無い。
「だから、うちが素晴らしい。」なんてのにろくなの無いわな。
943 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 13:20:40 ID:tbYhBmT+
キリスト教の修道院がそれに近いかもしれない。 修道院は何も人里はなれた地域である必要はないと思う。 街中に有ってもいいはずである。街中であれば、世間の喧騒な思想に 触れることになるが、それに対して抵抗することは修行になる。 林間に住んでも、煩悩は、刺激されないとしても、刺激されない事が、煩悩の止滅 に繫がると考えるのだろうが、止滅させるために林間に入ったのであるから、 効果はあるだろうね?
944 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 13:59:02 ID:tbYhBmT+
こういう掲示板に投稿したり、読んだりして、真理真実の教えを学び、実行しようとしている人 がいることを知り、自分もその仲間である事を認識しているならば、たとえ、都会に住んでいても 困難と言う事は無いのではないだろうか?
シモーヌ・ヴェイユは、キリストに傾倒して、本気で洗礼を受けようとしたが、 教会も社会的構築物である以上、俗世に属するとして、 あくまで神と自分の直接的関係を結ぶ為に、けっきょく洗礼を受けなかったそうだ。 歴史上の仏陀や阿羅漢、菩薩や、仏教以外の聖人達を 念じ祈るのもいいのでは? 実際、他力思想は社会的に孤独な病者にも(むしろそれでこそ強く)適用されるでしょう。 ただ、その縁を取り持つために、少しでも和顔、愛語を心がけたい。 孤独な人が孤独なままなくなるのは悲惨だ、、。
ダライ・ラマやティク・ナット・ハンの本を読むと、 やはり最後には社会に戻ることを前提とした上で、 隠遁するのもいいと。 人間は弱く、一人で喧騒のない所で煩悩の止滅に心掛けるのも有効だと。 真宗の妙好人の本を読むと、喧騒だらけの世の中で、傷ついたり 苦しんだりして、無力感に打ちひしがれる。 そこに絶対他力の差し伸べられる余地ができる。自己と自己を越えた超越的実存の 無分別の状態が生じる、とか。 知り合いのクリスチャンも、高齢だが、よく「くだかれた」という言葉を使う。 「くだかれる」というのは、生きてて障害にぶつかり、自分の無力さ、ちっぽけさを悟ることだと。 その人は仏教の浄土の思想なんて全く知らなかったけど、それきいて、「あーにてるな」と思った、、。
947 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 14:10:16 ID:uuMPrNcW
948 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 14:20:02 ID:tbYhBmT+
>>947 どんな教えに基づいて、どんなところで修行するのが良いかについて
決定的なことはいえないということでは?w
949 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 14:20:53 ID:JSZEL2Ai
自力も他力もけっこうってこと。
950 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 14:23:55 ID:uuMPrNcW
>>949 それをおっしゃるのに、こんな量書き込んでも、独り言の延長に過ぎないと思うのですよ。
>>949 の一言が、わかりやすく、正確だと思う。
言葉を使えば使うだけ、縛られて、基本を見失う。
951 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 14:24:25 ID:tbYhBmT+
しかし、オームはサンガを造ったのだよね。神など言わず、政治に関係しようといしなければ、 結構良い線言っていたんじゃない??
952 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 14:25:27 ID:JSZEL2Ai
ちょうどよかった、質問ですが、真宗のお坊さんって、普段何の仕事してるんですか? 南無阿弥陀仏ですむのだし。阿弥陀仏の前ではすべておなじと思うのですが。
953 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 14:29:22 ID:JSZEL2Ai
>独り言の延長に過ぎないと思うのですよ。 それに関しては、まさに独り言を書いただけですわ。 説法したつもりもないです。 サンガについてのレスがあったから、自分の意見を書いただけ、文章が下手なのは申し訳ないが。
954 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 14:30:06 ID:uuMPrNcW
このスレを少し、読ませていただいたが、言葉遊びが多くて 閉口します。 これら、各宗の、教義や、教えを言っていたのでは、何事も自己満足の 域から出ない。みなさんが、どれだけ読書量がおありでも、 経典の一部でしか判断はしてらっしゃらんでしょうし。 あまたの宗派の各経典全てはとてもムリ。そして、もし、読んだとして、 お気づきになると思うが、全ては、1を知って10を知るのである。
955 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 14:34:14 ID:JSZEL2Ai
それこそが、戯論だと思うが、、、。 妙好人に共感した、ヴェーユに共感した、市井のクリスチャンに共感した、といっているだけですよ。
956 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 14:36:25 ID:uuMPrNcW
>>953 隔世で悟って何になりますか?そんなものに左右されるほどでしたら、
結局はムリでしょうし。
それであれば、ニートのうちのいくらかは、悟ってそうなもんです。
世に在って、生きてゆくこと。
それが、教えと、修行なのではないのですか?
ちなみに、自分は、布教活動は、一切、行いません。
檀家の寄付も頂いておりません。
ですので、ここにおいても、教義、経典、教えを書き込みません。
957 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 14:43:16 ID:zExq0LLi
普通なら欲望や情欲は人にある。それを肯定して、 無の無限エネルギーを「南無阿弥陀仏」として「神に栄光あれ」というのは仏教ではない。 無の無限エネルギーを唱えても何の意味もない。人は何も唱えずとも欲望や情欲に生きればよいのだ。 釈尊は煩悩を滅ぼし安らかになった。 人々は煩悩を抹消できないから、悩みを持つ。修行を完成させた帝釈天や梵天などを神々と念じ、その他 修行を完成させて神となった存在を「南無阿弥陀仏」と念じて、悩みある地上より神々の世界、極楽浄土 を信じさせるなら仏教的だ。キリスト教的に言えば天国はあると。 「ゴータマブッダの弟子たちは神々を念じる。」 そのためには見えざる唯一の天地が滅んでも永遠に在る神、万物発生以前にもこの世の困難はなく、完全 に平安で安らかな世界、一切が幸福で安穏で安楽な世界に逆らって、この物質世界に幸福は訪れないとい うこと。 この世の者でも、他人の不幸のために安穏安楽な暮らしを奪うために行為を行って幸せにはなれない。 他人が幸福だと思うことに仕えたり、安穏安楽な暮らしのために働いて、この世の者が安穏な暮らしを得 て、幸福だと思うことが満たされる。 しかし、誰かの貪欲のために他人に苛酷を強いて平気な者がいるから、不幸も生まれる。
958 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 14:47:33 ID:tbYhBmT+
>>956 今まで真人とその法を話してきたが、それだけでは足らないんであり、それはサンガ
である、と言ったのです。そこでサンガは何処に見出せばいいか、と言う事になり、
少なくとも、この掲示板がそれである、と言っているのです。
959 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 14:49:40 ID:uuMPrNcW
>>956 ですが、
>>957 は、何をおっしゃっているんでしょうか?
全くわかりませんよ。
あなたは、普通に話すときに、
このような難解ない・い・ま・わ・しをされてるんですか?
こういうことが、前レスで言いたかったことです。
これは、100を語って1を知る感じかと。
960 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 14:50:55 ID:JSZEL2Ai
>>956 >世に在って、生きてゆくこと。
>それが、教えと、修行なのではないのですか?
ですから、世にあって、であった人、出会った思想に対する所見を述べたまでです。
修行中なので、あなたの意に添わないかもしれませんが、
あなたに、このスレの人がどんな人生の背景を持って、
どんな人生の困難に出会い、どんな気づきを得たか、
ここの書き込みの「一部」でしか判断はつかないでしょう。
おそらく専門のお坊さんの読書量にはかないませんので、、浅学をはじますが、
あまり、他人の背景も苦難も知らず、見下したことは言わないでいただきたい。
ニートのうちのいくらかは、悟ってそうなもんです。
その論法でいけば、ニートより就職してる人は悟りに有利とか?
そうじゃないでしょう。ニートも、社会で働いている人も、阿弥陀仏の前に差はないでしょう。
個人的には、ニートの状況も、隠遁とは内実は違っていて、俗世にあって傷ついている状態の1つ
でもあると思います。そうでない人もいるでしょうが。表面だけで判断はいけませんね。
また、よく読んでいただきたいのですが、
だれも隠遁が悟りの条件だとはいっていません。
946でも、世にあってくだかれて、と書いてあるでしょう。
ただ、出家にも一定の意味があるのでは、といっているだけですよ。
>教義、経典、教えを書き込みません。
けっこうですが、、、。
961 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 14:56:13 ID:JSZEL2Ai
あと、 >ちなみに、自分は、布教活動は、一切、行いません。 >檀家の寄付も頂いておりません。 >ですので、ここにおいても、教義、経典、教えを書き込みません。 別に、そんなことをきいているんじゃないです。 「普段、真宗のお坊さんは何をしてるのか」という質問です。 「世にあって、生きていく」そんなことは、それこそ前提で、口に出すようなことではないでしょう。
962 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 15:03:13 ID:JSZEL2Ai
>ニートのうちのいくらかは、悟ってそうなもんです。 個人的には、このセリフほど、頭でっかちで人を見下したセリフはないな。 「就職してたら世で修行してる人 就職してなければ隠遁」じゃないでしょう。 それこそ表面的なちがいで、ニートも娼婦もサラリーマンも、阿弥陀仏の前では平等では?
963 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 15:06:39 ID:uuMPrNcW
>>961 気に障る書き方をしているようで申し訳ない。
ちなみに、私は浄土宗で、真宗ではないです。初めにも書いています。
普段は、一般の方と同じに働いておりますよ。
自分は、35位まで、一般の人間でしたよ。皆様方のご苦労は、わかりません。
それぞれの、背景、苦難は、あるでしょうが、それを比べることは出来ません。
修行をされていらっしゃるようなので、申しますと、背景、苦難は、
あえて、そこに在ります。それは、他人が斟酌してみるものでもなく、
あなたのための条件。 なのではないでしょうか?
964 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 15:08:50 ID:tbYhBmT+
ニートは、真理真実に向かいたいと思って、そのようにしていると見做すべきで、 決して非難されるべきではないと思っています。
965 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 15:12:33 ID:uuMPrNcW
>ニートのうちのいくらかは、悟ってそうなもんです。 と、書きましたよ。ニート。が、差別用語に当たるとするなら、訂正しますが、 社会的に、わかりやすい言葉、表現を使ったつもりです。 少なくとも、自分に差別はありませんよ。 自分自身、人を差別できる生い立ち、過程では、在りませんでしたから。 ホームレスの方と同じように、冬のマイナス5℃とかで外で寝なくちゃならなかったり もありました。 基本的に差別はしたくないと思っています。
966 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 15:19:23 ID:tbYhBmT+
修行と言って特別なものがあるわけではないです。要するに正しい行いをするということです。 そこで何が正しいかは、正覚者の説いた、真理真実であり、一相無相空相であり、それを実行すると言う事なのです。 正見、正命「正しく生活すること」、正思、正定、正業、正語、正念。
967 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 15:24:07 ID:tbYhBmT+
968 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 15:24:52 ID:JSZEL2Ai
もしかしたら二重書き込みかもしれないですが、、。 >ニート。が、差別用語に当たるとするなら、訂正します ニートを「世にあって苦しむ人」から除外したことは差別ではないのですか?
969 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 15:25:06 ID:tbYhBmT+
970 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 15:28:41 ID:JSZEL2Ai
>背景、苦難は、 >あえて、そこに在ります。それは、他人が斟酌してみるものでもなく、 >あなたのための条件。 なのではないでしょうか? その通りです。 で、 >言葉遊びが多くて >閉口します。 >これら、各宗の、教義や、教えを言っていたのでは、何事も自己満足の >域から出ない。みなさんが、どれだけ読書量がおありでも、 >経典の一部でしか判断はしてらっしゃらんでしょうし これこそが、他人の背景、苦難を無視した「他人の斟酌」ではないでしょうか? 「おまえらはわかってない」がいいたい「説教(説法)」にきこえますが、 あなたのこれと、「自己満足の域を出ない言葉遊び」との違いを教えていただきたい。
971 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 15:51:28 ID:tbYhBmT+
神を何よりも愛せ、自分を愛するように汝の隣人を愛せ。 神を一相無相空相の真実とするなら、畢竟一相無相空相がすべてと言う事になる。 神が一相空相無相であることは、このスレでは否定される問題ではないのであるが。 スレが、イエスとブッダに関するものであるから、ブッダばかりではなくイエスの教えをも 取り上げておくべきであろう。
972 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 16:30:53 ID:NBRE/lOs
ブッダも神を知る時は、彼岸(不死)に到達しないとわからない。 修行を積んで平安の境地に達して、一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれ、慈しみを崇高とせよ。 イエスもあなたがたの父なる神とは 恩を知らぬ者にも悪人にもなさけ深い。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。 地上のものへの思いは過ぎ去り全て無くなるが、一切の幸せを思う慈悲だけは神とひとつになり永遠に生きる。 人は完全に無となって消え去ることはないという教えで、自殺など悪い心では善いところに行けず、生きないと生か されず、苦難あり世の中でも神を信じて耐えて生きなさい、自殺するほど苦しかったら、世の中から離れて静かな 安らぎを求めて生きてもよいという教え。
973 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 17:57:38 ID:uuMPrNcW
>>942 です、来客のため、書けませんでした。
>>968 の、ニートを「世にあって苦しむ人」から除外したことは差別ではないのですか?
と、おっしゃるが、隠遁して、悟りを得ると言う感覚に異を唱えて、あえて、揶揄的な表現に
しているだけで、他意はない。
>>956 をもう一度確認いただきたい。
ここで、なぜ、言葉遊びというかといえば、それこそ、こうしている間に
救える人も居るのではないかと。その、心理を追求していって、
皆さんは何処に行かれるのでしょうか?
何をされたいのでしょうか?と、言うところがわからないのです。
また、自分は、全ての者を救え。とは、考えておりません。
救えるとも思っておりません。自覚の無いものは何事によらず
前に進めません。その、条件は、示された通り、日常の、中にあると思います。
974 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 19:46:59 ID:tbYhBmT+
>>973 貴方は僧職にあるというが、少しも仏教を知らないもののようだ。
975 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 23:28:53 ID:tbYhBmT+
976 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 23:35:50 ID:tbYhBmT+
全ては白紙なのだ。縁起により自分の好きなものを創造する事が出来る。 しかし何かを創り出したのではない。悪い結果となるようなものを創らないで、良い結果となるものを創るなら、 災いを受けないで澄む。 白紙であるとは全ての罪が許されたと言うことである。縁起と空の理法を理解したので、地獄から脱する事が出来たのである。
977 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 23:38:34 ID:EIaI35Oo
>>966 一相無相空相は禅定の境地だけど、
それだけならバラモン教の梵我一如でいいことになる。
無相の禅定は、お釈迦が最初に弟子入りした
二人の仙人達も体得していたはず。
お釈迦様の教えの特徴は、梵我一如の禅定ではない。
一相無相空相は、仏教の特徴ではない。
ましてや、一相無相空相を神と同一視するなんて、
梵我一如と変わらない。
978 :
神も仏も名無しさん :2008/01/27(日) 23:51:02 ID:EIaI35Oo
>>957 念神や念仏は、サマタ瞑想の一種です。
何か特定の対象を念じて、
その対象以外のことを考える雑念ははらうようにする。
それによって、集中力を養うのです。
サマタ瞑想により養われた集中力によって、
世界のありのままを観察(ヴィパッサナー)する。
そうしているうちに、苦・無常・無我に気付き納得すると、
苦悩の原因である執着・煩悩の炎が、
吹き消されてゆくのです。
神や仏を念じる修行は、信仰の修行ではなく、
集中力の訓練です。
979 :
神も仏も名無しさん :2008/01/28(月) 00:03:42 ID:ZLMADhuF
仏教の修行は、戒・定・慧の三学に分類できます。 定とは、禅定、止(サマタ、三昧の瞑想です。 集中力が高まるにつれ、禅定の状態に入っていきます。 禅定の頂点は、非想非非想処という、 想いないのでもあるのでもない状態です。 まさに、一相無相空相を体験する境地。 しかし、それはお釈迦様が最初に弟子入りした仙人が すでに説いていた修行です。 それだけでは、すばらしい禅定の境地への執着が残ってしまいます。 禅定を神様と同一視して、梵我一如みたいな、 あるいは宇宙仏信仰みたいなものになってしまう。 それは仏教ではないのです。 一相無相空相を神様だと勘違いしたり美化したりするような教えから 脱却したのが、仏教の特徴なのです。 禅定は集中力を養うために使いますが、 集中力を使って慧(智慧)の瞑想、観察(ヴィパッサナー)をやるのです。
980 :
神も仏も名無しさん :2008/01/28(月) 00:16:21 ID:ZLMADhuF
集中力が高まって一相無相空相の状態にイッちゃってる間は、 煩悩は休眠状態になるそうです。 神様と合一して、梵と我が合一してる時は、 欲望も怒りもプライドも執着も休眠する。 しかし、禅定状態から普通の意識に戻ったら、 また普通に煩悩が働きだして、悩み苦しみも起きてくる。 煩悩を消すには、さまざまな対象を観察(ヴィパッサナー)して、 苦・無常・無我に気付かねばならない。 深い禅定で一相無相空相の神様の世界にイッちゃうと、 観察する対象も消えてしまって、観察の修行ができない。 だから煩悩を消す訓練もお休みになってしまう。 観察にも集中力が必要だから、 集中力を養うために禅定の訓練をするけど、 禅定の究極である神様の世界にイッちゃっうことは、 仏教の目的ではない。 神様の世界(三昧・禅定の境地)への執着もまた、 煩悩の一種に数えられる。
981 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2008/01/28(月) 08:58:37 ID:O71489KV
ニートは糞だ。 少しは外にでて働け。少しでも社会に貢献しろ。 引き篭もって、他人の為になることはなにもせず、コミニュケーション能力の著しく 劣るニートは、こういう掲示板上でも、妬み根性丸出しで、荒らし、 他人を不愉快にするしか能が無い。これのどこが真理に沿った生き方だ? まるで正反対だな。真理に沿った生き方とは、自分を捨てて、他人の為に働くことだ。 イエスの天の御国のからしだねの喩えにでてくる鳥とは、働き者のことだ。 もちろんこれは、大淫婦の支配する今の時代では、多くの人は、不可能なことだが、 自分のために働くのではなく、自分を捨て、他人の為に働く人のことだ。 何の生産性も無ければ、社会に貢献することもない。もちろん他人の為に働くことも無い。 外に出て働くのがいやな、ただの怠け者。仏典にもこういう、なまぐさの屑とは付き合うなと書いてあるだろ。 外にでて働くのはいやな、ただの怠け者で、することといえば、他人を妬み、 今の境遇は、全て自分のせいなのに、自分の怠け癖は棚に上げ、 このような掲示板上で、他人に不愉快な思いをさせるだけの、おまえらニートは、人間の屑だよ。 仏典には明確に友を選べと書いてある。聖書もしかり。 はっきりいって、救われる者の数は少ない。自分自身、その道を選んでいるのだからしかたがない。 この人達がどういう生き様を選ぼうと勝手だが、このような掲示板上で、他人を不愉快にさせ、 他人の心を汚すのだけは、勘弁してほしい。 イエスも、ゴータマも、こういう人達とは付き合うなとはっきりいっている。 ただ、こういう人達を憎んではいけないといっているだけだ。彼らは、その人生観、生活態度を 改めない限り、兄弟ではない。兄弟とは成り得ない。
982 :
神も仏も名無しさん :2008/01/28(月) 20:49:48 ID:XdTnwwRj
一見しただけだが、イスラム教と言うというのは、マホメットが、従来のキリスト教 の神についての説明が充分ではないと感じたので、それをもっと前面に押し出した教義が必要と感じたので、 創出した宗教ではないかな?
983 :
神も仏も名無しさん :2008/01/28(月) 20:55:47 ID:XdTnwwRj
従って、イスラム教のほうがより、ユダヤ教、キリスト教かも知れないと思う。 イエスの犠牲というのは亜流ではないかと。本質ではないのではないかと。
984 :
神も仏も名無しさん :2008/01/28(月) 21:02:10 ID:ZLMADhuF
>>983 ムハマンドの生涯について見てみると、
暴力的なカルトだよ。
985 :
神も仏も名無しさん :2008/01/28(月) 21:42:42 ID:XdTnwwRj
それでも、ムハマンドの言う事は、仏教に近い。いや同じものだ。 仏教でも、言い訳として、暴力を肯定する場合があった。 釈迦は大乗の擁護者であった時、大乗につかず小乗についているバラモンを 切り殺した、と言う話がある。それはバラモンのためになり、来世にバラモンは 大乗を信奉するだろうと言うのである。
986 :
神も仏も名無しさん :2008/01/28(月) 22:44:24 ID:jP5m3NSP
985は 大乗仏教が捏造した物語でしょうか。 その者を切り殺せば来世にまともに生まれ変わる、というのはオウムそのもの。そんなイスラム教のような大乗仏教ですね。 このような妄想宗教へと 本来の仏教は曲げられてしまいました。
987 :
神も仏も名無しさん :2008/01/28(月) 22:48:14 ID:XdTnwwRj
986 それは本質の教えではないのだから。
988 :
神も仏も名無しさん :2008/01/28(月) 23:04:12 ID:ZLMADhuF
>>985 どこが仏教に近いのですか?
ムハマンドは、欲望と怒りに燃え、権力指向が強く、スケベ。
989 :
神も仏も名無しさん :2008/01/28(月) 23:27:41 ID:ZLMADhuF
イスラムでは、天国では処女とヤリ放題だと言う。 仏教では、欲望も苦しみの原因だと考えます。 いや、欲望が苦しみそのものか。 百歩譲って、天国ではセックスの必要がないというならわかるが、 イスラムは性欲パラダイスを説く。
990 :
神も仏も名無しさん :2008/01/28(月) 23:37:34 ID:5WiqXSKV
>>989 >>仏教では、欲望も苦しみの原因だと考えます。
それは釈迦の原始仏教であって、大乗仏教に於いては
色即是空 で欲望(色)と天国(空)は一つであり切ってはならないと云う教えです。
仏教には全く異なる2種類が存在するのです。
991 :
神も仏も名無しさん :2008/01/29(火) 00:06:47 ID:gW6s+nX0
本当に 大乗ってのはしょうもないな。 >イスラムでは、天国では処女とヤリ放題だと言う。 いいねえ。それに操られる馬鹿どもは最高の馬鹿どもだね。そして死ね。
995 :
神も仏も名無しさん :2008/01/29(火) 01:49:36 ID:a8B6/B5r
そんなにわかってんならそろそろ悟れ
996 :
神も仏も名無しさん :2008/01/29(火) 08:24:03 ID:s91yifvd
>>991 実際、テロの犯人の少年は、
天国ではヤリ放題だと言われて犯行に及んだらしい。
997 :
神も仏も名無しさん :2008/01/29(火) 12:55:42 ID:Gsw9dPb0
998 :
神も仏も名無しさん :2008/01/29(火) 18:16:08 ID:Bvh00Kk3
・・・・
999 :
神も仏も名無しさん :2008/01/29(火) 18:17:20 ID:Bvh00Kk3
Om gate gate paragate parasamgate bodhi svahah !
1000 :
神も仏も名無しさん :2008/01/29(火) 18:17:46 ID:Bvh00Kk3
Om gate gate paragate parasamgate bodhi svahah !
1001 :
1001 :
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