何だかんだといってる内に早23スレ目です。
ここで篩に掛け、下記の板や某SNSへの誘導ロビーにすればいいかと思います。
http://jbbs.livedoor.jp/study/6782/ ここではアーガマ(漢訳阿含經典など)やニカーヤ(パーリ佛典)に説かれている教法や教理 を中心に、様々な議論を重ねて行けた
らと願います。佛教の原点を闡明できる良スレにな る こと期待しております。引き続きよろしくお引き立てのほどを。
自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されるようお願い申し上 げます。原始佛教関連以外の話題は当該スレ
ッドか新たなスレッドを建ててお願いいたします。 スレ違いの妄想デムパ発言には終始黙殺・完全無視が吉と思われます。かかる輩は
http://etc3.2ch.net/denpa/あたりへ誘導すれば宜しいかと存じます。立論議 論に際しては首尾一貫・理路整然を心がけて頂きたく存じます。
※尚、当スレで得られる知見の使用等はあくまで各個人の営為に委ねられることをお含み置きを。
【前スレ】
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1171778595/ 【参照資料】
独り言 ◆ZZW30U26joさんのご厚意による過去ログ保管サイト(多謝深謝です)。
http://www.geocities.jp/jfcps873/index1.html 【注意事項】
追記:スレに粘着寄生しては無意味有害有毒な病的無知蒙昧言説を排泄し続けるサイコパス外道「机龍之介」、 同じく病的粘着を続ける「栗花 馨」
ならびに「カラスの唄」という、スレ穢し外道壁蝨は一切 出入厳禁。カキコがあっても無視・スルーでお願いいたします。尚、これらにレスを与える こ
とも荒し行為と認定いたします。
外 道 壁 蝨 ど も へ の 撒 き 餌 行 為 厳 禁 ! !
加えて、「ドグマタルチュフ・紐付き神学屋、宗義ゴロ・セクト奴婢」というべき輩(=破落戸ジョーユー)が粘着占拠していますが、視線を合わ
さず門前払い、且つ敷居を決して跨がせないようにしながら生温かく観察しましょう。長大空疎なカキコもその意図に全く反する廃物利用の可能性があるようです。
5 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/03/30(金) 21:04:25 ID:3BtLTrA9
6 :
南無妙法蓮華経:2007/03/30(金) 21:14:07 ID:91SKNEr1
7 :
神も仏も名無しさん:2007/03/30(金) 21:17:58 ID:KdL9CiBT
>>7 汚物には反応せず、スルーに徹してください。
9 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/03/30(金) 21:20:11 ID:3BtLTrA9
題目馬鹿の法華基地外は隔離ゲットースレへ。玩弄物にも足らぬかかる底辺無能者の居場所はここには皆無(冷笑)。
1乙
11 :
神も仏も名無しさん:2007/03/31(土) 17:23:45 ID:FM/gOzQ2
>>9 実は隔離されているのはお前達だってことに気付いているかい?
ここは、断見似非佛教、電波教一派と、空教サイコパス、机龍之介氏の隔離スレ。
皆様、ようこそ似非仏教者の隔離スレへ。
ここに巣食う、邪見、断見の塊、似非仏教者達をとくと観察あれ。ククク。
12 :
神も仏も名無しさん:2007/03/31(土) 17:26:48 ID:FM/gOzQ2
おっと、もうひとつ忘れてた。
馬鹿馬鹿しい、お題目似非佛教者の隔離もここは担ってたっけ。
ここのスレ主にふさわしい集まりだことで(嘲笑)
13 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/03/31(土) 18:08:46 ID:3WRT0pNq
馬鹿裸巣は癲狂院へ頼んでネット環境を没収して貰うように。
監理不十分。
14 :
神も仏も名無しさん:2007/03/31(土) 18:15:27 ID:EKt+RWd9
司法関係者の常識とは?
「 女子高生コンクリート詰め殺人事件 」
1988年11月夕刻、足立区東綾瀬の路上で少年2人(当時18歳と16歳)
は帰宅中の女子高校生を拉致し、少年の自宅に40日間監禁、殺害した。
監禁中、仲間を集め被害者を繰返し暴行し、性器を灰皿代わりにした。時には
被害者に音楽に合わせて踊りながら服を脱ぐように強要し、演奏の合間に集まった
仲間で一斉に蹴ったりした。被害者が逃亡を図ると、罰と称して体の各部に
揮発性油を塗りライターで火をつけ、熱がるさまを見て笑い転げた。
被害者の遺体の歯はほとんど折れ、性器と肛門にはスポーツドリンクの瓶が
突き刺ささったままであった。 量刑が極めて軽いうえ未決勾留期間があるため、
主犯は今年2月に、他の少年も全て6年程度で刑期満了前に出所した。
事件の様子は、 lynch 、女子高生コンクリート のキーワードで検索可能
15 :
神も仏も名無しさん:2007/04/01(日) 12:02:20 ID:TdvWJHeS
>>14 全く残酷ですね。刑法上は掲法上の刑罰でしょうけど、真理真実に照らせば、
完全に、その罪を消去しなければ、真理真実が下す罰を免れる道理は有りませんな。
世間では、裁判行政を始め、権力を濫用して、法律上の罰を免れる人がいますが、
真理真実からの罰は免れようが有りません。これこそ恐ろしいことです。菩薩は、
毛先ほどの罪でも、大雲のように恐れると言われます。真理真実を知り、それを体得し様としている
人にとっては当然な心です。
真理真実は、空相であるところ、この子供達は、このような恐ろしい光景を作り出したのです。
空相に反してこのような恐ろしい光景を妄想したのです。
悟りは成人だけが出来ると言うものでは有りません。未成年の、小学生でも悟ることができます。
悟りに成人も未成年も関係無いのです。であるから、真理真実に反する行為の始末は、成人未成年
に関わらず償わなければならないのです。未成年の場合は、その養育に成人が関わっていますから、
成人も、その真理真実に反する行為の償いを同等に果たさなければならない、と思います。
16 :
神も仏も名無しさん:2007/04/01(日) 14:17:16 ID:TdvWJHeS
日本の社会全体が腐っています。特に教育関係が腐っているんです。
正しい教育が行われていないのです。公教育の目的は、住民が法律を知り、
それを守れる様にすることです。
17 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/01(日) 14:26:16 ID:erZ3OErR
スレ違いどころか板違いの床屋政談駄弁は余所でやること。
18 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/01(日) 16:28:22 ID:Peg5ZY6X
>>16 >特に教育関係が腐っているんです。
申し訳ありません。
日本教育界を代表しまして、この机龍之介が陳謝します。
>正しい教育が行われていないのです。
このことに尽きましては、私は一言では申し上げられませんが、
一言でいうなら、戦後民主主義における複合的要因の結実こそが全てでありましょう。
結論から逝ってしまえば制度疲労であります。
父兄においても教師においても、今やその極限状態にある。と言うても過言ではないでしょう。
では、今後におけるその対策はなにか?
>公教育の目的は、住民が法律を知り、 それを守れる様にすることです。
なる程、それは妙案です。
では具体的にどうすべきか?
これらの事案において、我々は努力してきたつもりでおったのですが、
微力ゆえ期待に添えなきことは慙愧に耐えません。
しかしながら、今後も努力に努力を重ねまして、
日本教育界の為に身命を賭する覚悟であります。
どうか、机龍之介を男にしてくらさい。
必ずや皆様の期待に答えまふ。
19 :
神も仏も名無しさん:2007/04/01(日) 16:47:36 ID:TdvWJHeS
机さんあなたは教育委員ででもあるのですか?
社会教育ですよ。公民館による社会教育が全然無いんですよ。
これはしなければならないのに、全く無視されているんです。
社会教育の目的は、いうまでも無く、自分の選挙で選んだ代表が決定した、法律
を知ることです。この法律に縁ってこそ公の秩序が保たれるんですから。
これが為されないなら、住民はどうやって生活するのですか?公平自由な生活です。
犯罪とは、まさに公平自由を破壊するものです。
教育委員会の罪はなによりも重大です。
20 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/01(日) 17:03:22 ID:Peg5ZY6X
社会教育課というのは、役所の中でも地味な課でして、
そもそも議員が、こういうことにあまり関心がないのです。
困ったもんですね。
一応、議案が議会で通過しましても、いざ具体的な実行となりましても、
なかなかその主旨というのが、市民に浸透しないのです。
ゆえに、
どうしても、役所そのものがカタチだけど実行で終ってしまうのですね。
まあ、公務員というのは仕事自体がそれでいいんですけど。
> 教育委員会の罪はなによりも重大です。
おそれいります。慙愧に耐えません。
以下、同文。
21 :
神も仏も名無しさん:2007/04/01(日) 18:50:08 ID:l0Hlg/3R
>>18 出来の悪い子と出来の良い子。農耕民族と、狩猟民族。
あなたの言葉の端々に、差別、区別意識をのぞかせる。それはあなたが
差別主義者であるから他ならない。
もろもろの悪をなすことなく(諸悪莫作)
もろもろの善をなし(衆善奉行)
みずからの心を清澄にすること。(自浄其意)
これが諸仏の教えである。(是諸仏教)
と説く釈迦の教えを全く無視して、なにが善であり、なにが悪かも悟れなければ、理解できないものを
他人に教え諭すことも出来ず、あげくに、自分達が理解できないからと、
善悪に囚われるから、人は苦しむ、そんなものに囚われることなく自由奔放に生きよ。それすなわち涅槃静寂などという
もはや釈迦の教えとは全く違う、麻原シンパのオウムの残党顔負けの教えを仏教だと勘違いしている者が、
いけしゃぁしゃぁと、教育会に身を置き、子供達を教育している。それが今の子供達だ。
この国の未来はお先真っ暗だな。
君の言説は、オウムの連中の能書きと、そっくりそのままなんだよ。
連中の詭弁も、君に負けず劣らず達者のもので、言説も、そっくりそのままだ。君らの教えは、
単に自分勝手な人格を形成するものに過ぎない。エゴを大事にする者は助からない。カルトは君の方だと知れ。
釈迦の教え、仏教とは、とどのつまり、七仏通戒偈であり、四正勤であり、そして八正道である。
これが仏の教えである。何が善で、何が悪かを悟らない盲人共には理解できないものであるらしい(苦笑)
これらの釈迦の大事な教えも迷いだのひとつにしてしまう御仁の能書きは、
もはや釈迦の佛教ではなく、それこそ皆を迷わす邪教だと知れ。
机よ、お前のような、なにが善で、何が悪かも悟れない、似非宗教者が、子供達を教育するなんざ、
ブラックユーモアにもならないよ。
22 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/01(日) 19:50:35 ID:Peg5ZY6X
>>21 >出来の悪い子と出来の良い子。農耕民族と、狩猟民族。
>あなたの言葉の端々に、差別、区別意識をのぞかせる。それはあなたが
>差別主義者であるから他ならない。
教育の原点は、先ず子供達を理解することが一番大切。
皆それぞれ適性というのがあって、それを引き出してあげるのが教育者の使命です。
その才能が社会に出た時に生かしきれるのが、本人の幸せに通じる訳ですから、
ひとりひとり全部子供達は違うのです。
農耕民族と狩猟民族というのも同じです。
培われてきた文化を先ず理解して逝くことが大事です。
日本舞踊とバレーは、全く違う文化だからこそその形態も違う訳です。
それぞれの民族は、またそれぞれに長所短所がありまして、
長短織り交ぜて、互いの良き文化を取り入れることこそグローバリゼーションであります。
どうか貴殿も国際人として、今後の日本を展望して逝ってください。
机は期待しちょりまふ。
23 :
神も仏も名無しさん:2007/04/01(日) 20:34:44 ID:TdvWJHeS
>教育の原点は、先ず子供達を理解することが一番大切。
皆それぞれ適性というのがあって、それを引き出してあげるのが教育者の使命です。
その才能が社会に出た時に生かしきれるのが、本人の幸せに通じる訳ですから、
ひとりひとり全部子供達は違うのです。
ここには縁起というものが全然ありませんね。仏教は真理の教えと言う意味ですが、
その真理として縁起と空を言うものですが、この真理と上の教育者の思いはどうつながるんでしょうか?
24 :
神も仏も名無しさん:2007/04/01(日) 20:43:35 ID:XVd8LhjR
突然ですが質問させていただけますでしょうか。
天台宗の止観業にみられる常坐三昧、常行三昧の修行法は、上座部のいうシャマタ、ビバッサナに相当すると考えてよろしいのでしょうか?
よろしくお願いします。
25 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/01(日) 20:51:22 ID:Peg5ZY6X
>>23 あのですね、貴殿はPCを操作するのに、いちいち説明書とか見ながら操作しちょるのですか?
こういうことをやるのは、アホダラ氏(文献派)くらいしかおらんでしょ(笑
ある程度PCの操作を覚えたら、説明書はいらない。
あとは身体で学習する。
一般的にはプログラマーでもそうです。
どうしても分らん場合は説明書を見る。のが普通です。
では、お休み。
26 :
神も仏も名無しさん:2007/04/01(日) 21:08:14 ID:TdvWJHeS
成人は平等に法の支配かに属しますから、平等に教えることになるんでしょう。
そこに差別して、適性とか家庭環境とか考えることはないと思います。それはあっても二次的なものでしょう。
未成年にしても、成人になるまでに必要な教養はみな平等に必要なのであって、個別指導は副次的なものになるおともうのです。
成人教育にしろ未成年教育にしろ差別を先にだしては行けないのではないでしょうか?と言うのは子供でも大人でも、
すべては縁起して存在しているもので有り、そこには優劣はないと言うのが仏教の真理真実なのですから。
27 :
神も仏も名無しさん:2007/04/01(日) 23:44:58 ID:TdvWJHeS
>>27 天台宗と上座部と並習してるヤシなんているのか?www
29 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/02(月) 00:32:36 ID:cqjZfwLd
>>1参照。
能無し足切り厨房政談は隔離ゲットースレでやること。
30 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/02(月) 07:57:52 ID:kyJzxiuX
>>26 今の教育現場では、教師と児童はフレンドリーな関係が多くなってまして、
子供がなにげに「昨日、デイズニィーランドへ逝ってきた」と、教師に語り掛けるだけで、
それを聞いていた子供が、えらい心の傷を負う場合もあるんですよ。
母子家庭はいい方で、中には母親が直接めんどう見てない家庭もありますから、
遊園地に親と逝ったこともない子供もおる訳で、
全ての子供が平等な家庭環境ではなく(アタリマエですが)
その格差も充分に考慮していかねばならんのですよ。
>すべては縁起して存在しているもので有り、そこには優劣はないと言うのが仏教の真理真実なのですから。
これは真諦のことでして、そこから俗諦に還滅するのを
空即是色と言います。
空が真諦で、色が俗諦ですから、空から色への智慧がいる訳です。
色とは、俗世間の価値判断に照らし合わせて導き出すのを世俗諦と言いますね。
31 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/02(月) 13:00:20 ID:kyJzxiuX
>>21 >机よ、お前のような、なにが善で、何が悪かも悟れない、似非宗教者が、子供達を教育するなんざ、
>ブラックユーモアにもならないよ。
まだそんなこと言うとるようだから、簡単に説明してあげるよw
北方四島返還問題は、日露両国の利害が対立する。
この利害関係を善悪の基準にすれば、明らかに両国の善悪判断は逆転する。
判断は、直接的に利害が絡まない両国国民においては「愛国心」というイデオロギーを利用する。
つまり、善悪も愛国心も同じ自己愛でしかない。自己満足でしかないんだよ。
自己愛は、結局は対立しかもたらさない。
対立を実行するのが戦争であり。
究極の至上善追求にてもたらされるものとは・・・
自己破滅か、または相手を破滅させることになる。
三島由紀夫は、このベクトルにおいて自死を選択することになる。
32 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 13:41:34 ID:jzpEyWvw
>>31 よく歴史の先生などが言う能書き。
何が善で、何が悪かは、その時代によって価値観などは変わるので、
一概にはいえない。これは典型的な世俗諦における善悪の説明である。
お前のこの能書きは、それこそまんま世俗諦における善悪じゃぁねぇか。
アホが、俺は前からそんな事は言ってねぇだろ。なんぼ言うてもわからんやっちゃ。
自己愛、自己満足を満たさせるなんてのは、まるきり正反対のことだ。
おまえは ”エゴ” というでっかい梁が目の中にあるので、人の言うことも理解できず、
自説にあうよう、人の言説も捻じ曲げて理解する。
真諦における善悪の判断もできないで、本当に教えるべき何が善で、なにが悪かも理解できない盲人が、
子供を教育するなんざ、ブラックユーモアにもならないと言ってるんだよ。
盲人が盲人の手を引けるか?盲人が、盲人の手を引くと、二人とも穴に落ちてしまうじゃないか。
すでに生じた悪を除こうと勉めること
悪を生じないように勉めること
善を生じるように勉めること
すでに生じた善を増すように勉めること
これを四正勤と言う。
いいか、これが釈迦の教えだ。おまえいつから釈迦より偉くなった?
お前の中に在る ”エゴ” と言うでっかい梁のおかげで、人の言うことも理解せず、
何が善で、何が悪かも理解できないお前が、佛教を語るな。ましてや人を教育しようなんざ、とんでもない話だ。
33 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/02(月) 14:00:00 ID:kyJzxiuX
>>32 四正勤というのは、つまり成道に至るマニュアルだから、
これが即真諦という訳じゃない。→方便・方法のことです。
(よく勘違いする人が多い)
「勉めること」と書いてある通りです。
文意をそのまま素直に解釈したらいい。
「勉めること」。いわゆる”過程”のことです。
人間における最低限の道徳律ですから、これが即ち仏教の本義という訳ではない。
そういう経過をへだてて逝くのは、なにも仏教に限らず、
一般的な常識の範疇です。
>真諦における善悪の判断もできないで、本当に教えるべき何が善で、なにが悪かも理解できない盲人
真諦においては、善悪そのものは全くない。
慈悲喜捨です。
貴殿は、この境地にまで達観しとらんから、いつまでも善悪概念に迷うのです。
34 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 14:10:29 ID:jzpEyWvw
>>31 ちなみにこいつの上げた例は、典型的な悪である。
自分達がそれは善だと思って行動するのと、真諦における善とはまた違うものなのだ。
愛国心、ナショナリズムなどというのは、典型的な、”エゴ” を満たす心の働きである。
オウムの連中がしたことも、典型的な悪である。彼らは自分達は善だと思い、
こうすることが善だと思い、あのような行動(事件)を起こしたが、
彼らがしたことは、単に自分達の ”エゴ” を満たそうとしたに過ぎないのだ。盲人はそのことにも気付かない。
これは典型的な悪である。
35 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 14:23:42 ID:jzpEyWvw
>>33 おまえは慈悲喜捨の意味もわかっちゃおらんようだな。
これは慈悲の心、喜ぶ心、それら全て捨てよと言う意味ではないんだよ。
他のHPからの引用分に近いが
慈悲喜捨の、慈悲心は、詳しくは慈悲喜捨の四無量心として説かれ、
仏陀如来の四無量心は大慈・大悲・大喜・大捨とされるものである。
四無量心の慈・悲・喜・捨の四つにはそれぞれ多少の区別があり、
「慈」は親しみをもって相手に心の安らぎを与えることであり、「悲」は悲しみ苦しんでいる相手とともに悲しみ合うことであり、
「喜」は相手とともに喜び合うことであるとされる。「捨」とは同一の心をもつことであって、
不違(たがわず)ということにも通ずる。親しみ愛する人にも、怨み憎む者にも、すべて同一の心をもつことが「捨」ということである。
ちなみにここにも慈悲喜捨について書かれているのでご参考までに。
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi5.html しかし慈悲喜捨の意味も誤謬しているのも気付かず、得意げに語る君は、とんだトンデモさんだな。
みなさん、いかにこの御仁の言う仏教知識がいい加減なものか、おわかりでしょう。
しかし、八正道も、四無量心も、単なる方便で、本当はそんなものは必要ではないとまでいいたげなこいつ能書きは、
とんだ法を汚す、邪教の教えだな。
36 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/02(月) 14:28:28 ID:kyJzxiuX
>自分達がそれは善だと思って行動するのと、真諦における善とはまた違うものなのだ。
覚者は、すでに善悪から離れておるんですよ。
おしなべて生死からも離れておりますし、
いわゆるこれが涅槃寂静といいまして、
すなわち成道なんですね。
詳細は省きますが、
解らんことがありましたら、また書き込みます。
37 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/02(月) 14:28:54 ID:jzpEyWvw
慈・悲・喜・捨の ”捨” とは、慈悲の心を捨てろと言う意味ではなく、
己の ”我” を捨てろという意味なんだよ。わかったかい?邪見の王様さん。
38 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/02(月) 14:33:58 ID:kyJzxiuX
>「捨」とは同一の心をもつことであって、
そう書いてありますように、すなわち分別の心を捨て平等こそが本義。
ということでありますから。
分別である善悪そのものも「捨」となりますね。
よくよく文意を吟味の程よろしこ。
39 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/02(月) 14:35:52 ID:jzpEyWvw
>>36 >覚者は、すでに善悪から離れておるんですよ。
それはある意味正しい。。
人を善悪に分ける心。この心は、人の心にエゴを生む。
善悪に分けることなく、他を平等に愛する心。これは己の心から、エゴを滅ぼす道である。
お前の言う、覚者は、すでに善悪から離れておるんですよ。とは、
それはすなわち、善の修行を完成させることでもある。
なんぼゆうてもわからんやっちゃ。
私の言葉を曲解することなく、正しく理解する者は、幸いである。
40 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/02(月) 14:41:23 ID:kyJzxiuX
>それはすなわち、善の修行を完成させることでもある。
いや、そんなことはする必要はなく、
かえって世間的には迷惑です。
あまりッ勘違して、世間に迷惑にならないよう、
お願いします。
41 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 14:44:42 ID:jzpEyWvw
>>38 >すなわち分別の心を捨て平等こそが本義。
その通りだ。それを善だと言っているのだ。それは己の心に巣食うエゴを捨てる道だ。
お前の言い回しだと、その道さえ捨てろと聞こえる。
ちゅうかお前の言い回しだと、その心指しさえ迷いになってしまう。
事実、おまえは差別主義者だからな。
42 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/02(月) 14:48:31 ID:jzpEyWvw
>>40 世間の迷惑になるような事をするということは、
己のエゴを満たしている行動をとっていると言うことだ。
俺はなにもオウムのやったことを推奨しているのではない。
自分達のエゴを他人に押し付けてはならない。
素直な心の無い、心の腐っているお前は、何度言ってもわからないんだな。
ちなみに俺は今、悪を行っている。
43 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/02(月) 14:53:25 ID:kyJzxiuX
>その通りだ。それを善だと言っているのだ
善の意味は、主体が客体において善という意味で成立つ。
すなわち主体(主観)においての善は、必ずしも客体が善である意味ではない。
勘違いしないように願います。
日蓮正宗において広宣流布(主体)が善であっても、
折伏受けた者(客体)が、必ず善とは限らない。
善の押し付けは、得てして究極の悪である。by机龍之介
44 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/02(月) 14:56:31 ID:kyJzxiuX
>>42 どうも貴殿は、洗脳されているみたいですね。
カルト的なプログラムが、脳にインプットされているんじゃないでしょうか?
45 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/02(月) 14:59:40 ID:kyJzxiuX
つまり、カラス氏のいう「善の修行」というのは「カルマ落し」のことですねw
やはり、一般人は迷惑なんですよ。
こういうことをされては。
46 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 15:06:15 ID:jzpEyWvw
>>43 それは前にも説明した。
言語では、真理を正確には伝えられない。なぜなら、
言語とは、識別するものであるからである。それを踏まえてあえて言語で説明しているとな。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
同じことを言わせるなよ。
なんぼいうても、善悪の話になると、社会科の先生の世俗の善悪の判断の例を出し、反論してくるのと同じで、
何度説明しても、人の言説をまるっきり無視して、自分が俺はこういっているかのよう、人の言説を
勝手に捻じ曲げて、同じ反論を何度でも永遠に繰り返す。
それほどまでにお前のエゴはでっかい。お前のエゴは自分の過ちを決して認めず、
エゴはお前の目を曇らせる。
47 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 15:07:36 ID:jzpEyWvw
>>45 >つまり、カラス氏のいう「善の修行」というのは「カルマ落し」のことですねw
そんなことは言ってないだろう!おまえとことん性質が悪いな。
48 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/02(月) 15:12:26 ID:jzpEyWvw
>>44 論では勝てないと知るや、今度は人をカルト呼ばわり、
無理なこじつけ、意味不明のレッテル貼りかよ。いつものパターンだな。
俺の話は、いまだに残る麻原シンパの、オウムの残党には相容れない教えだ。
事実、以前、彼らとはぶつかってきたしな。
彼らは麻原を信奉しているのではなく、己のエゴを信奉しているのだよ。
カルトはお前だ。
お前の能書きは、いまだに残る、麻原シンパの能書きとまんま一緒なんだよ。
お前の教えこそ、カルトを生むんだよ。
49 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/02(月) 15:15:26 ID:kyJzxiuX
>そんなことは言ってないだろう!おまえとことん性質が悪いな。
善の修行というのは、それが無意識のうちに実行される場合がある。
犠牲になるのは、常に周囲の人だが・・・
本人には善行意識しかないので、それが怖いですね。
本人は、あくあでも善行ですが、
善行を受けた人は、えらい災難ですよ。
それでも貴殿は、善行修行を継続するのですか?
50 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/02(月) 15:23:18 ID:kyJzxiuX
>俺の話は、いまだに残る麻原シンパの、オウムの残党には相容れない教えだ。
>事実、以前、彼らとはぶつかってきたしな。
相容れないとしても、基本的な洗脳は明確に残存してますね。
でも、一度洗脳を受けますと元には戻らんですよ。
まあ、戻る気もないかもしれんが。
やがて年老いて、自己嫌悪に陥る者多し。
その時が辛い。
51 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 15:49:42 ID:bYQ1ZD/V
おい、机
おまいは現総理の祖父が戦前何をしていたか知ってるのか?
52 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/02(月) 15:54:04 ID:kyJzxiuX
岸信介のことだね。
安保闘争の頃に顔は拝見してる。
たしか戦犯だったかな。
よく知らんが。
そのころ私は左翼に傾倒していて、
統一教会の開拓伝道もしたことがある。
いろんなセクトに関わってきたよ。
53 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 16:06:05 ID:bYQ1ZD/V
その孫が現総理なのは必然か?それとも偶然か?
悪なのか?それとも善なのか?
54 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/02(月) 16:12:43 ID:kyJzxiuX
偶然ですね。
そこには悪も善もなく、ただただそうなった。
桜が咲くことに必然も偶然も善悪もなく、ただ今咲いておるだけですね。
55 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/02(月) 16:19:21 ID:jzpEyWvw
>>50 いつから俺は元オウム信者になったんだ?
俺が彼らと意見を交わしたのは、ネット上のことだ。
俺はカトリック信者だ。それはお前も知っているだろう。
いいかげん捏造で、俺を元オウム信者にするのはやめてもらえないかね。
事実とは違う。
ところで行動科学って知っているか?
俺はここ、ネット上で、お前のような鬼のように我の強い相手と何度か意見を交わしたが、
論で俺に勝てないとなると、決まって同じ行動をとる。
それは、俺の言説の捏造であり、捏造で俺を、どこぞのカルトと呼ばれる信者だとレッテルを貼り、
他者に間違ったイメージを与え、ついには罵倒する。
そして論破された話題を、人の言った言説は全く無視して、他人の言説を、まるで違う
言説を言っているかのように言い、いつまでも同じ話題を蒸し返しては、同じ反論をしてくる。
おまえがことあるごとに俺をオウム信者にしたがるのは、お前は、差別主義者だからなんだよ。
お前はオウムに対して、偏見を持っている。
56 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 16:26:07 ID:bYQ1ZD/V
植民地支配の定石
属国の少数に多数を統治させる
その白羽の矢が朝鮮民族、裏部隊として、統一・草加・オウムにたてられたわけだ
そのことは、善でもなければ、悪でもない
オウムは身切りをくらった
ただ、それだけのことですよね?
机さん。あなたは
>>36で、覚者とは善悪から離れている者だといいながら、
その道を完成させよというカラスさんに対して、それは人の迷惑になると言いがかりを付けています。
あなたは論理破綻していることに気付いていますか?
私は差別主義者のあなたが教育会に身を置いていることに驚きを禁じ得ません。
58 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/02(月) 16:44:01 ID:kyJzxiuX
>>55 例えばね、アホダラ氏がたまに「リサンチマン・コンプレックス」という書き込みを入れる。
人間というのは、あまり意味ない言語は脳には溜めないで直ぐ忘れる。
ある拍子に聞きなれない言語が飛び出すと、
まだ、こういう考えの人もいるんかいな?とか思ってしまう。
それと同じで、善悪というのは普通は意識はしない。
こういう言語が何度も飛び出す。ってのは、日常において善悪概念に囚われている証左。
それだけでも一種の病的要素がある。
というか、この概念が継続的になってきたら人間は気が狂うよ。
そんなに人間の精神力は強靭ではない。
というか、仏教というのは、そもそもそういった弁証法ではない。
(弁証法とは二項における正邪選択)
59 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 16:51:18 ID:jzpEyWvw
いくら身を粉にして真理を語ろうとも、悟らないものはいつまでたっても悟らない。
彼らはそもそも聞く耳を持ち合わせていないのだ。
彼らにいくら真理を語ろうとも私には無駄な疲労しか残らない。
だが、戯言をぬかす彼らに迷わされることなく、真理を悟るものがいれば幸いだ。
一人でもそういう人がいれば、私の努力も報われる。
60 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/02(月) 16:52:00 ID:kyJzxiuX
>>57 >その道を完成させよというカラスさんに対して、それは人の迷惑になると言いがかりを付けています。
そもそもが、善とは普遍性はなく、立場によって悪にもなる。そこが問題
あたかも善が普遍的である。
という見識は、八正道の正見ではない。
八正道とは普遍性における正見です。
それが慈悲にあたる。
61 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/02(月) 16:55:32 ID:4Dlo/8/W
>>57 >>1参照。
ご心配なく。出禁サイコパス外道は娑婆世間のあらゆる場から“波羅夷”を喰らっております。
汚穢撒布の因になりますのでシカトして下さい。
62 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/02(月) 16:59:37 ID:jzpEyWvw
>>60 >そもそもが、善とは普遍性はなく、立場によって悪にもなる。そこが問題
だからそれが世俗諦における善悪だと言っているんだよ。
おまえいいかげん皆を迷わせるのはやめたらどうだ。穴に落ちるのはお前一人で十分だ。
何度も言うが、釈迦の教えは七仏通戒偈であり、四正勤であり、八正道である。
おまえこそ邪見を捨てて、正見を持ったらどうだい。
おまえはこれだけ言っても、なにが善で何が悪かも悟らない。
釈迦は、善を成し、悪を成してはならない。と、説いたんだよ。その教えを曲げるな。
63 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/02(月) 17:08:43 ID:kyJzxiuX
>>62 >何度も言うが、釈迦の教えは七仏通戒偈であり、四正勤であり、八正道である。
>おまえこそ邪見を捨てて、正見を持ったらどうだい。
これは、釈尊成道のプログラムだろうし、
プログラムが即、成道という訳ではない。
成道は、そう簡単ではない。
>釈迦は、善を成し、悪を成してはならない。と、説いたんだよ。その教えを曲げるな。
これも同じで、やはり成道にはそれなりの生死大海を渡らねばならん。
それあってこその成道ですから。
64 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/02(月) 19:10:44 ID:cqjZfwLd
>>57 ついでながら、
池沼馬鹿裸巣も監理不行き届きの癲狂院から汚穢撒布をしてますが、早晩・・・(嗤)。
65 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 20:23:11 ID:4MAR0pra
>>64 けったいなやつW。
漢字が読めなくて幸いだよW。
66 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 20:28:35 ID:MoPVIFp4
あ〜、こっちでしたか。横レスですがオペラの重唱ということで。
992 :神も仏も名無しさん :2007/04/02(月) 17:27:22 ID:MoPVIFp4
およそ存在は無自性=無自由=空であり、人間という意思的存在もそうならば、
自由意思を認める余地がなく、五戒を破った者の非難=責任を問う理論的余地もない。
意思的自由のないロボットに責任を問えないのと同じだ。
目の前の無抵抗な人間を理由なく殺したとしても、責任を問われるべきは、
このような縁起的存在形式にある宇宙にある。
勝義諦ではともかく、世俗諦では問えるなどというインチキな論理は持ち出すべきではない。
995 :神も仏も名無しさん :2007/04/02(月) 20:07:26 ID:MoPVIFp4
およそ存在が縁起による仮有ならば、人間の意思も同じく仮有であり
「因果律に則った自由意思」などは論理矛盾破綻以外の何物でもなく、
責任非難を問うことは不可能だ。刑務所は廃止すべきなのか?
67 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 20:38:57 ID:MoPVIFp4
自由がなければ善も悪もないだろうに。
机さんの悪いところはね、
コンピューターの発明者を攻撃せずに
カラスさんに攻撃の矛先を向ける所だよ。
69 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 20:59:04 ID:QpXUQ8UU
阿呆陀羅經さん、捨を説明してみてください。
70 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 22:23:11 ID:4MAR0pra
>>67 自由、これが涅槃である。何かに執着することが涅槃に反するのだ。
71 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 23:14:32 ID:jZ0NBu4b
>>50 > 相容れないとしても、基本的な洗脳は明確に残存してますね。
> でも、一度洗脳を受けますと元には戻らんですよ。
> まあ、戻る気もないかもしれんが。
洗脳というのは他人からされるものばかりではない
自己の見解に執着する 自己洗脳というのもある。
オウムの洗脳と同意であると思うなら 根拠を示して下さい。
議論においてレッテル貼りは卑怯以外のなにものでもない。
レッテル貼ったらもう 議論ではなくなる。
72 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 23:30:22 ID:MoPVIFp4
>>70 ブッダの縁起の公式に当て嵌める。
自由あるによりて善悪・責任あり
自由生ずれば善悪・責任生ず
自由なきによりて善悪・責任なし
自由滅すれば善悪・責任滅す これ縁起の法なり
執着の塊として縁起する人間には自由がなく、従って責任は問えない。
世俗諦の価値観では責任を問うているから, 責任ありなんてインチキだ。
>自由、これが涅槃である。
これって、縁起思想からはヤバい結論でっせ。善悪・責任は涅槃にのみあることになる。
73 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/02(月) 23:35:07 ID:cqjZfwLd
>>69 卑賎の愚問は「捨置」(笑)。
>>71 “群盲撫象”の標本そのものの、サイコパス外道や池沼馬鹿裸巣の自家中毒がどうかしましたか?
74 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 23:49:13 ID:QpXUQ8UU
阿呆陀羅經さん、偉そうにして人を低脳とか言うなら、
「捨」ってのはこういうことですよ、ってスラスラ説明できないとね。
阿呆陀羅經さんのコメントが一番無意味で醜悪ですよ。
75 :
神も仏も名無しさん:2007/04/02(月) 23:51:07 ID:4MAR0pra
>>72 良い質問だ。
執着している人間は、その執着を避けることが出来る。執着から離れる意志を持てるだろう?
真理として縁起の理法を教えられ、更に空の真実を教えられ、それでもこの真理真実に反する執着をするかどうか
その人の責任だろう。
世俗諦というのを厳密に言う前に、今世間にある法律は、人のものを盗まない様に、盗むならかくカクジカジカの処罰をすると決めているのだ。
どんなに欲しいものがあっても、人の目を盗んで、人のものを取っては行けないと法律は教えているのだ。
これは、物に執着する心を抑制している。つまり、この世間の法律は、執着をしてはいけないと教えているのでもあるのだ。
これは仏教の十善戒と同じだろう?ただ世間の法律は、、執着しないとどの様になるかまでは、言っていないのだ。
仏教は何と言っているかと言うと、ニルバーナに入れるよ、って言ってるんだよね。
76 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 00:02:10 ID:ck9w5ypa
>>72 > 自由あるによりて善悪・責任あり
自由生ずれば善悪・責任生ず
自由なきによりて善悪・責任なし
自由滅すれば善悪・責任滅す
そこで、一旦罪、つまり執着の行為をしてしまったもの、はその執着の行為に相対的に生じる行為を受け取ることになるのであるが、
、その執着はその人を束縛しているのである。その執着の奴隷になるのである。束縛するものは次ぎから次ぎと生じる。
これは決して自由ではないね。そこで、自由ではないので、束縛の奴隷となっている人は、苦しむのだよ。
つまり自由と束縛は相対的に存在しているね。そこで、仏教はそのような罪の奴隷となっている人を救う為に、
自由も束縛も相対的に存在しているから、実体が無いのであると教え、そのことをくよくよ考えない様にと言うわけだよ。
くよくよ後悔するのを三毒の愚痴と言うね。
77 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 00:06:49 ID:ck9w5ypa
そして、自由となっていたものが、執着心をおこしたならば、前回と
同じ様に苦しむことになる。
イエスさんが、罪を犯した人に、もう罪を犯さないように、また地獄に落ちるから、と言って
帰したのを思い出そう。
78 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 00:19:47 ID:ck9w5ypa
又明日ね。
79 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 00:40:32 ID:SdL8oJBK
ブッダの思想には「自由」という観念があったのかが問題だ。無かったろう。
龍樹のいわゆる「自性」とは「自由」と重なり合うのか?重なるだろう。
龍樹の天才的なレトリックにごまかされてはならない。
「自由な主体」なくして善悪・責任は問題になりようがないのだ。
いわば「自由な主体」とは共同幻想(サンスカーラ)なのか。
80 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 00:52:01 ID:SdL8oJBK
無我思想に善悪・責任論が馴染むのかが問題だ。
81 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 05:47:11 ID:VahfAvQs
>>63 間違い。典型的な邪見。
この人にいくらいっても仕方がないが、他の人が邪見に迷わされないよう、私が正見というものを示そう。
スッタニパータ
143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。
能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、
諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。
145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。
一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
146 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きいものでも、
中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、
これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。
悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、
無量の(慈しみの)意を起すべし。
150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
152 諸々の邪まな見解にとらわけず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、
決して再び母胎に宿ることがないであろう。
82 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 05:48:40 ID:VahfAvQs
>>81 続き
ここのスッタニパータに書かれているように、釈迦のように真理を悟り、成道に達した者は、机の言うように、もはや
善悪に囚われることなく、好き勝手、自由奔放に生きるものだ。などと言っているのではなく、むしろ戒を保ち、善を成さなければならない。
と言っている。何が善で、何が悪かは、何度も語ってきた。盲人はいくらいっても何が善で、何が悪かも悟らないで、
世俗の善悪の判断を引き合いに出して永遠に絡んでくる。まことに滑稽で、可哀想な人達だ。
ひとつ言っておこう。道徳の完成とは、真理に至る道なのだ。そこに至る者は、完全な ”人” となる。だがそれはとても難しいこと。
83 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 05:58:22 ID:VahfAvQs
人の ”群れ” の中にいると、人は自由ではないものだ。
真理は人を自由にする。
この言葉の意味を理解する者は少ない。
真理とは机の言うように、この世に善悪などはないのだから、好き勝手に生きろ。
それが真理は人を自由にするということだ。それすなわち、涅槃静寂。というものではない。
こういうのを邪見というのだ。
この世には、善悪がある。だからこの世なのだ。
ではなぜ真理は人を自由にすると言うのか。それはあえて語らないでおこう。
多くを語らなくとも、悟る人は悟る。悟らない人は、いくら多くを語ったところで、悟らない。
豚に真珠を投げてもしかたがないのだ。世の中そういうものだ。
84 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 06:16:53 ID:VahfAvQs
釈迦は七仏通戒偈説き、四正勤を説き、八正道を説いた。
それらを実践してみたところ、私は苦しんだ。
そこで私は悟った。そんなものにこだわるから人は苦しむのだ。そういうものを捨て去ったとき
人は自由になり、苦はなくなる。
こういうのを典型的な邪見というのだよ。
釈迦は、それらを捨てよと説いたのではなく、それらを修めなさいと説いたのだよ。
成道に至るプログラムの意味を履き違えてはいけないのだ。
釈迦はあくまで、それらの道を、修めなさいと説いたのだ。
机の能書きは、単に破戒坊主の言い訳にしか過ぎないものだ。釈迦の教えとは外れている。
85 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/03(火) 07:38:25 ID:X8NCJbRJ
池沼・厨房・蟲喰い外道どもはさっさと隔離ゲットースレへ。
86 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 07:49:45 ID:VahfAvQs
87 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/03(火) 07:57:34 ID:X8NCJbRJ
>>1参照。
スレ違いの蟲喰い外道は癲狂院でさっさと淘汰始末してもらえ。
88 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 07:58:39 ID:VahfAvQs
89 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/03(火) 08:02:51 ID:X8NCJbRJ
軌道修正。
“一切法無我”=「一切法(含有漏・無漏、有為・無為)には実我、実体・本体は無い」
90 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 08:08:52 ID:VahfAvQs
>>89 釈迦の言う一切とは、この世のことを言う。
一切法無我とは、この世には、アートマン(真我)はありませんよ。ということなんだよ。
それは言語で表す、法とて同じこと。
名称とは「言」によって成る。言語とは識別するものである。
91 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 08:13:30 ID:SdL8oJBK
ブッダが誰に対して「道徳」を説いているかが問題だ。
衣食足りて礼節を知る。
バラモン教の業報輪廻観念で、最下級のシュードラに
“合理的”に落とし込められている連中にとって、
はあ?生活に追われてそれどころではない!だろう。
現にブッダの元に出家したのは裕福な超エリート連中がほとんどだ。
イソップが奴隷の道徳を説いたのと同じく、所詮階級固定道徳の機能を果たした。
日本においても事情はおなじ。
92 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 08:14:21 ID:rF3iRBJh
>>バカラス
ヒント:非梵非我=無我
93 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 08:19:11 ID:VahfAvQs
>>91 真諦における、本当の意味の、なにが善で、何が悪かを悟らない者に、”釈迦の佛教” は理解できないよ。
94 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 08:23:15 ID:VahfAvQs
>>92 この世の創造主とされる梵天とはどういう存在か、君らは知らないのだよ。
私は、梵天一如の話をしているのではない。
95 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/03(火) 08:36:54 ID:85WioXmg
>>71 >自己の見解に執着する 自己洗脳というのもある。
>オウムの洗脳と同意であると思うなら 根拠を示して下さい。
なる程。
では、善修行について私見を述べさせて頂きまふ。
つまり善修行というのは、善のテーゼのもとに修行をする。と解せる。
ならば、そこにはおのずと「善をする者」と「善を受ける者」といふ関係においてなされるやに普通は理解する。
これこそ人間差別の最たるものです。
人は、このように慢心になることこそ悪と言わねばならんでしょう。
能動→受動という対立は、そもそも仏道にそぐわないのです。
あくまでも方便、道しるべの意味で善悪があるかもしれんが、それを成道と勘違いしてはならんのです。
慈悲とは、差別のない不二の関係です。「捨」で、それもなき真諦の意です。
なにかを施すこともなければ、なにかを施されることもない。
人間平等の甚深なる法こそ釈尊の本義なのです。
どうか、この縁に巡りあえた歓びとともに、摩訶不思議なる真諦まで透過しておくんなさいませ。
96 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 08:41:03 ID:SdL8oJBK
自由なくして善悪・責任なし
たとえ真諦とやらの観念操作をしたとしても、アプリオリな善悪があるわけではない。
自由・善悪・責任は一体の観念だ。
そもそも縁起と自由は両立しうるのかが問題だ。竜樹は無自性=空=縁起と主張し、
無自性観念が無自由を包摂するなら、善悪・責任はありえない。
自由意思のない縁起的存在に「悟り」もない。
自由意思は自我と同じくサンスカーラにしか過ぎないかもしれないからだ。
97 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 08:43:42 ID:rF3iRBJh
>>バカラス
ここで言う梵とは我と対極する一切の“もの”である。らーめんの話ではない。
98 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 08:58:35 ID:VahfAvQs
>>97 だから一切とはこの世のことだと言っている
馬鹿と話をしてもしかたがない。
豚に真珠を投げても徒労に終わるどころか向き直って噛み付いてくるものだ。
己の魂の責任は誰彼にあるわけでもなく、己自身にある。
私にあなたの魂の責任はない。涅槃とは、己の魂の解消の先にあるものだ。
あんたはあんたの信じる道を行けばいいだろう。
ただ真理を語る者の邪魔をするな。それは決して許されない。
お前の成した業による報いは、おまえ自身が受けることになる。
99 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 09:04:06 ID:rF3iRBJh
>>バカラス
お前の虚構妄説の戯言を真理と受け取るかは相手次第である。
100 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 09:08:38 ID:rF3iRBJh
そして>>バカラス
お前の低レベルの頭脳と経験値では佛教を語る資格なしなのだよ。。
101 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 09:10:39 ID:SdL8oJBK
みなさん、おそらくお気付きのように
>>91>>96の言説は
ブッダ当時、六師外道のなかでもっとも広く人気のあったアジタ・ケーサカンパラの
見解を下敷きとしている。ローカーヤタ(順世外道)とも呼ばれる。
なぜもっとも広く行われたか。インド的エピキュリアリズム(快楽主義)であり、
シュードラ階級を含め、人間開放の思想だったからだ。最も鋭い階級開放思想と言っていい。
人間の生き方をみれば、生きている間を思い残すことなく悔いなく生きよ!だ。
バラモンーヒンドゥーが弾圧したのはいうまでもない。
102 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 09:12:07 ID:SdL8oJBK
真理とは階級的な性格がある。
103 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 09:15:55 ID:VahfAvQs
104 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 09:19:42 ID:rF3iRBJh
>>バカラスよ
せめて佛教概説などの書物を購入して基礎学習くらい汁
105 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 09:20:23 ID:VahfAvQs
>>100 ところでおまえさん、どうして名無しなんだい?(苦笑)
106 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/03(火) 09:21:15 ID:l4/Yowaz
Atma-vAdaに迷い込んだ挙げ句、脳天の破綻した廃物が引きも切らぬようだことで(冷笑)。
展狂院でさっさと始末して貰うように。
107 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 09:24:02 ID:VahfAvQs
馬鹿に付ける薬は無しとはよく言ったものだな。
豚に真珠を投げても仕方がない。もう寝るとしよう。
おやすみだアホ共。早く悟れよ。
>>107 そうとわかっているなら二度とくるな(^^)
>>24 > 天台宗の止観業にみられる常坐三昧、常行三昧の修行法は、上座部のいうシャマタ、ビバッサナに相当すると考えてよろしいのでしょうか?
まずは、常坐三昧は常に坐っての禅定であり、常行三昧は常に歩行しながらの禅定であり、その他、
非行非坐三昧などもありますが、すべて身体の行動はどうであれ、禅定の一種であり、止観の両面を
備えるべきものとされています。
また、『摩訶止観』に説かれている常行三昧と、日本で行われている形式、つまり、比叡山に於いて
親鸞聖人が常行三昧堂の堂衆を勤めていた時に行われていたように、歩行しながらの称名念仏三昧と
では内容的に多少変化がある点も考慮しなければなりません。
が、そういう細かい点を除けば、基本的にサマタ(止)・ヴィパッサナー(観)を車の両輪とする
考え方において南伝上座部のものと止観業は同じもの、と考えてよろしいかと思います。
110 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 17:15:22 ID:bRn5AiCl
苦の原因が無明にあるとしたのは仏教独自のものではなく、
ウパニシャドの哲人たちも言っています
何が善であり、何が悪であり、
善とは何であり、悪とは何であるか?
これがわかれば、無明は消え去る
多くのブッダたちは衆生を導くために、様々な補助輪を考案されました
111 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/03(火) 17:39:20 ID:l4/Yowaz
佛教の根本義がウパニシャッドの如きAtma-vAdaではないことは幾度となく論及され済み。
混ぜこぜはオウムの始まり。
>>95 邪見です。
あなたの言説は、まるで六師外道の方々の言説そのものですね。
サンジャヤ・べーラッティブッダのような論法は、釈迦が詭弁論だと批判したものですよ。
113 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 18:17:12 ID:VahfAvQs
>>111 オウムの真我思想の誤り。
彼らは、今の私を認識している意識,、つまり魂こそが永遠不変の真我だと説いたんだよ。
もちろん釈迦はそんなことは言っていない。
魂と言うのも、所詮はこの世に属するものだ。
魂なども、縁起によってなる無自性な空である。
釈迦が言ったのはあくまで、一切。つまりこの世には、我はないですよ。と、説いたんだよ。
なんぼいうてもわからんやっちゃ。
涅槃とは、この魂を解消させた先にあるものだ。”今の私” を大事にする者に、涅槃はみない。
ところで断見の鬼のアホウ陀羅經さん。
いつから釈迦は形而上のことを否定することになったんだい?君らの脳内だけだろ(爆笑)
114 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 18:35:17 ID:VahfAvQs
さて、ここの自分達は頭がいいと勘違いしている断見仏教者の言うように、
釈迦が本当に五感で感じられるものしか信じられないという意味での実存的経験主義者であり
形而上のテーマは、はっきり言ってあるかどうかわからない。というレベルではなしをしていたのなら、
彼は真理を悟っていたとは言えない。
彼は真理を悟っているのではなく、単に世俗の知恵を語っているに過ぎない事になる。
そんなものなら、時代時代により価値観なども変わるのだから、世俗の知恵レベルの話ならば、
現代人のほうが、より現代にマッチした、より適切な世俗の知恵を教授できるだろう。
これぞ、あぁ無常だな(大爆笑)
そんなこともわからないここの自称頭がいい断見仏教者達は本当に馬鹿だ。
彼らは自分達がどういうことを得意げに語っているかも理解していない。
それともなにかい?実は釈迦は形而上のことなど本当は無いと悟っていたとでもいうかい?
断見とはどういう意味か知ってるんだろ?君ら頭いいんだから(嘲笑)
ほら言ってみろよ。形而上のことなどあるわけない。それが釈迦の佛教だとな。
115 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 18:35:52 ID:ukSV160W
善悪というか 仏陀の因縁相応から言うなら
禅那を修して智慧を得てしまえば、福行に識が向かうこともなく
福行ならぬことに 識が向かうこともなく そのいずれにも向かうことがなくなる
との事です。
識を生じさせないようにするのが目的であって 禅那の補助として
戒も善もあるのではないでしょうか?
116 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/03(火) 18:44:42 ID:X8NCJbRJ
Atma-vAdaという虚偽仮定・誤謬前提、似非論理の棄却捨象は根本佛教の大前提。
尤も池沼蟲喰い外道には永劫に理解不能だろうが(嗤)。
117 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 18:47:57 ID:VahfAvQs
>>115 違うよ。正しく禅定を得て、真理を悟るものは、
何にもするなといっているのではなく、
福行に向かわなければならないと釈迦は言っているんだよ。
その辺の禅坊主の能書きと、釈迦の言葉のどっちを取るんだ?
縁起の理法など、所詮はこの世の説明をしているに過ぎない。
君らの迷いは深いよ。救いようが無いほどにね。
なぜ福行に向かわなければ成らないのかは、真理を悟り、自分が何者かを悟れば、理解できるものだ。
だがそれはとても難しい。頭でわかっていても、それを修めるのはとても難しい。
それほどまでに肉の思いは凄まじい。
118 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 18:50:06 ID:ukSV160W
>>114 お釈迦様は涅槃に役立たないのは説かないと言っています。
ヴァッチャ の問答
ここでの教えは 見惑の林に迷い込み 見取の結縛にとらわれるというものですから
見の煩悩が増えてしまうから 説かないというものです。
シンパサーという経典では 私が証知して、しかも汝らに説かざるところは
多くして、説けるところは少ないのである。
と言っています。
知ってはいるけれども 説かないというスタンスのようです。
119 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/03(火) 18:53:07 ID:85WioXmg
>>115 >そのいずれにも向かうことがなくなる との事です。
まさにそういうことですね。
こころ住(とど)まるところなくして、何ゆえ善悪に迷うのか?
ということを、机は一貫して板に書いておるんです。
しかしながら、なかなかこの明智に至るには至難なんですね。
>>112 >邪見です。
いやいや、私は不可知論をいうておるんではないです。
不一不二にして自他そのものは寂滅しております。
そのテーゼにおいて書き込みしちょるのですから、
ならば自他は慈悲とういう他あるまいのぉ〜。
120 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 18:53:07 ID:ukSV160W
>>117 > 福行に向かわなければならないと釈迦は言っているんだよ。
比丘たちよ、もし人が無明に覆われておれば、彼がなんぞ福行を
なさんとすれば、その識はおのずから福行に向かうであろう。
彼がなんぞ福行ならぬことをなさんとすれば、その識はおのずから
福行ならぬことに向かうであろう。またもし、そのいずれにも
あらぬことを為そうとすれば、その識はおのずからそのいずれにも
あらぬことに向かうであろう。
しかるに、比丘たるものが、もしその無明を滅し、智慧を得たらば、
彼は、無明を捨て、智慧を得たるがゆえに、もはや福行をなさんと
せず、福行ならぬことをもなさんとせず、また、そのいずれでも
ないことをも為そうとはしないであろう。
かくて、彼は、為そうともせず、したいとも思わず、この世の
何事にも取著することがなく、取著しないからして心に悩みもなく、
心に悩むところがないから、自ら満ち足りて、
(我が迷いの生涯はすでに終わった、清浄なる行はすでに成った。
作すべきことはすでに弁じた。この上は、もはやふたたび
かかる迷いの生涯に入ることはないであろう。) と知るのである。
相応部経典 12 51 思量 増谷氏訳
因縁相応の部に説かれるものです。
識を生じさせないのが芯眼目であると 私は理解したのですが。
121 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 18:53:31 ID:VahfAvQs
>>116 だからよ、それは”一切”法無我だと言っているんだよ。
馬鹿は何度言ってもわからない。
お前達の定説によると、釈迦は形而下のことは雄弁に語っていたが、
形而上のことは語っていないんだろう。ま、それは懐疑心の強いある弟子とのエピソード
ひとつとってお前達が無記、無記と騒いでいるだけで実際は語っているんだがな。
でだ、釈迦は形而下、つまりこの世界にはアートマンは無いと言ったが、
いつ形而上でもアートマンはないと言ったんだい?答えてみろ。
122 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 19:06:06 ID:VahfAvQs
>>120 行というのは正しくないかも知らんな。
行いを、自ら探してまで無理に行えと言うことを言っているのではないよ。
心の問題だ。行いそのものが大事だとはいっていない。
目の前に困った人がいる。己の利益を考えて、その人を見捨てた。そういう人は、涅槃には入らないと言っているんだよ。
しかし仏典は駄目だな。あえて人を迷わす言い回しで書かれているように思える。
それは聖書とて同じこと。なにかそこには意図的なものを感じる。
そもそも、釈迦が悟りを得たという瞑想法など具体的、かつ詳細に語られている仏典はない。
そもそも皆が、彼の境地に達すれば、無駄な論争も無いはずだ。もちろん彼の直弟子達は釈迦自ら教えてもらっている。
だが後世には伝えられていない。あるのは、おおまかな、漠然としない方法だけだ。
仏典には一番肝心なことが、あいまいにはぐらかされている。ここには何か意図的なものを感じる。
あそうそう、釈迦は弟子からは大徳とも呼ばれていた。徳の意味くらい知っているだろう?
なぜ彼がそう呼ばれていたか、少し考えてみるといい。
123 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/03(火) 19:06:48 ID:X8NCJbRJ
>>118 森の木の葉程もあるあらゆる「見解(=形而上的前提に基づく独断)」を知りながら、戯論に過ぎない
それらを退け、説くに値するのは四諦(含縁起の順逆)のみという、ブッダの明白な意思表示といえます。
124 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/03(火) 19:18:18 ID:X8NCJbRJ
>>120 阿羅漢正覚者は有漏の行(福・非福等の)から離れるという意味ですね。
理非善悪が帳消しになるわけでは全くありません。
125 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 19:19:46 ID:VahfAvQs
>>123 >説くに値するのは四諦(含縁起の順逆)のみという、ブッダの明白な意思表示といえます。
その四諦とは、とどのつまりこの世の生存は苦しみでしかない。
苦を滅するには、とどのつまりこの世の生存を滅することだと言うことだな。
釈迦は、この世の生存は苦しみでしかないと言いきっているんだから、逆順で考えるとそういう結論になる。
この世の生存の矢を絶つ。その道が八正道だ。
十二支縁起の逆観とは、無明から始まり、この世の生存がはじまり、無明無ければこの世の生存は無いという理屈だ。
126 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/03(火) 19:31:38 ID:85WioXmg
>>123 >説くに値するのは四諦(含縁起の順逆)のみという、ブッダの明白な意思表示といえます。
縁起の順逆はブッダの意思表示ではなく、釈尊入滅後において学僧において「縁起を説明されたもの」であり、
釈尊言説には、逆順そのものがない。
だから逆観したら即明智になる訳ではない。
(解説としての縁起です)
127 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/03(火) 19:39:58 ID:X8NCJbRJ
脳天破綻の池沼蟲喰い外道は存在そのものが場所塞ぎな上に資源の無駄。癲狂院でさっさと処理して貰うように。
>>120 補足
等正覚者たるブッダは、終生「正理と法の領域のみを歩んで来た」求道者でありました。
T24n1451_p0396c06(00)? 我年二十九 出家求善法
T24n1451_p0396c07(00)? 又五十餘年 專行戒定慧
T24n1451_p0396c08(00)? 一心無散亂 唯求於正理
128 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 19:45:52 ID:VahfAvQs
129 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 20:06:14 ID:Qw3GRLXp
カトリックのアンタが 外道、外道いうても 誰も(ry
130 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/03(火) 20:13:04 ID:VahfAvQs
>>129 真理は一つだ。
イエスと釈迦が違うことを言っていたのなら、どちらかが間違っていたことになる。
表現は違えど、同じ事を言っていたのなら、外道はお前達のほうになる。
おまえら結局のところ、なにもわかっちゃいないじゃないか。
131 :
素人:2007/04/03(火) 20:22:12 ID:NF5KPlPe
>>130 >真理は一つだ。
これに関してはよくわからんがw
(個人的には、イエスと釈尊とが説いた真理は、それぞれ違う、と理解しているがw)
>イエスと釈迦が違うことを言っていたのなら、どちらかが間違っていたことになる。
これに関しては、断固反対する。
二人の教えは、被る部分こそあれ、
【出発点】も、【その過程】も、【目指されたところ】も、
説かれた相手も、説かれ方も、その後の伝えられ方・発展の仕方も、
異なる部分が多く、また、その骨子(【 】部分)は、絶対に違うものである筈だ。
私から見ると、貴方と阿呆陀羅氏も、両極としての似た者同士に見えます。
132 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 20:31:53 ID:ukSV160W
>>130 ヴァッチャ の問答はこのスレでは 引用するまでもないのでしょうけれど
中論でも こんなこと言っているようです。
第六
霊魂に関する主張は、まさに誤った情報の提供であり、
霊魂の否定に関する主張の方が、むしろ納得がいく。
仏陀によって霊魂も、霊魂の否定も、ともにと欲否定された
事の方が、むしろ納得がいく
(西嶋 和夫氏訳)中論
まあ 霊魂という考えをしない 考えないのが仏教なのでは?
キリスト教とは全然別ものだと思います。
133 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/03(火) 20:32:20 ID:X8NCJbRJ
うんうんw、誤謬の染み付いたオッサン厨房は消えた消えた(嗤)。
基督教などを持ち出す必要一切無し。
134 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/03(火) 20:36:33 ID:X8NCJbRJ
>>132 西嶋訳などという代物は持ち出さなくて結構。
“霊魂”などという、アートマン説こそがまさに“毒矢”そのもの。
>>120 >もし人が無明に覆われておれば、
この前提がある限り、動機として善・悪・無記のいずれをなそうとしても、
それらはいずれも無明に導かれての行為という性格を帯びる、ということを
述べているのではないでしょうか。
もちろん、善・悪・無記のいずれをなそうともしない、というのは、
〔善行を行い悪行をとどめよ、という世俗の教えと矛盾するものではなく、〕
修行者の達成する境地においては、のことですが。
と一読直後に書いたあとで以降のレスを読んだら、
>>124に同趣旨のことが
既に述べられていましたが、一応アップしておきます。
>>131 そこまで言うからにはあなたはイエスさんと釈迦の教えを正確に理解しているのですね?
もしそうでないのなら、あなたは単に知ったかをかまして
偉そうにうんちくを垂れているにすぎないことになります。
ちなみにキリスト教と言ってもいろいろあります。
グノーシスなどは、非常に仏教思想に近いものがありますね。
137 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/03(火) 20:44:45 ID:X8NCJbRJ
混ぜこぜはオウムの始まりと書いたが、
オウムを●福の○学や、●一○会に代入するのも可。
基地外は何処も同じようなプロセスを辿るという標本か(嗤笑)。
138 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 20:50:31 ID:ck9w5ypa
>>96 >自由なくして善悪・責任なし
一切は縁起の存在である。されば一切は実体有るものではない。これが諸法の実相《真実》である。
この真実に違反して、何かがあると思い、それを避け様、又はそれを取ろう、とすることは、真実に反した
自作自演の偽り行為である。これが悪行為である。一方、無いものは無いものとして行為するなら、
それは自分他人を欺かないので善行為である。この善行為は、真実と一体なものであるから、真実と区別して取上げてはならない。
以上であるから、悪は、真実というものがあるので、それを基準として判定されるのである。
相すれば、真実が無いならば、悪は無いと言うことになる。真実と悪は相対的存在であるから、
真実なる実体も無く、悪なる実体も無い問わなければならない。ここにおける無実体が実相《真実》となる。
自由とは、無責任を言う。善なる行為は、無実体と言う真実を行う行為であったから、そこには、いかなる責任もないのである。
無実体が善であった。そして無実体は無責任である。これが自由である。
世界で津波などの大災害が発生し、何十万人の人が死亡するが、そのような行ないは善なる行為で、無責任の行為である。
神とか仏の行為は常にこのようなものである。世間で「この世に神も仏も無い」と言われるのは、
139 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 20:52:08 ID:ck9w5ypa
>>138つづき
神や仏が無責任な存在であるからである。
140 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/03(火) 20:56:02 ID:X8NCJbRJ
> ID:ck9w5ypa
能無しの披瀝は厨房隔離スレで。
訂正
に代入するのも可。→で代入するのも可。
141 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 21:02:29 ID:ck9w5ypa
>>132 キリスト教の聖霊とは、真理の言葉と言う意味ではないかな。仏教でも真理の言葉と言い、
それは、方便とも言われている。この真理の言葉を欠いたなら仏教そのものが成り立たないのでは?
142 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 21:11:31 ID:6UjSDSCw
>>130 唄子オマイさん、ほんんまにカトリックか。
教祖よび捨てにしたらあかんやろ。呼び名までちごとるし。「イエズスさま」やろ。
仏典なんぞにうつつ抜かしとったら、神父さまから大目玉くろうても知らん。
143 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 21:26:49 ID:ck9w5ypa
そもそも縁起と自由は両立しうるのかが問題だ。竜樹は無自性=空=縁起と主張し、
無自性観念が無自由を包摂するなら、善悪・責任はありえない。
自由意思のない縁起的存在に「悟り」もない。
自由意思は自我と同じくサンスカーラにしか過ぎないかもしれないからだ。
自由自由と言っているがあなたの自由とはどのようなもの?
144 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 21:28:55 ID:ck9w5ypa
145 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 21:57:29 ID:ukSV160W
>>128 > もう一度してやろうか?六師外道の話。
六師外道はプーラナカッサパ マッカリ ゴーサーラ、バクダ カッチャーヤナ、
アジタ ケーサカンバリン
第一師で 断見
ジャイナ教とバラモン教は 第二師で 常見
ほんで 仏陀の場合は 縁起の法で 第三師
世界中にある宗教を分類すると この三つに分けられる?
間違いがあったら ご指摘下さい。
146 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/03(火) 22:04:21 ID:X8NCJbRJ
>>145 いずれにせよ、ブッダ以外は実体乃至本体論を(不当&誤謬)前提に辺見・戯論を説く連中。
147 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/03(火) 22:25:22 ID:X8NCJbRJ
>ID:ck9w5ypa
穀潰し、学習能力皆無の愚物は厨房隔離スレにでも粘着しておけ。
ここは分不相応もいいところ。場所塞ぎ且つ資源の無駄。
148 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 22:37:13 ID:A5A2GQtf
無我においての、行為の報いの捉え方に関しては、
雑阿含経 巻第二(五八)
爾時。会中復有異比丘。鈍根無知。在無明[穀-禾+卵]起悪邪見。而作是念。
「若無我者。作無我業。於未来世。誰当受報。」
「もし無我ならば、無我の行為をして、未来世に誰が報いを受けるのだろうか」
という問い方は正しい見方ではない、と評価されています。
経文には以下、その理由が続きます。
色という無常で苦なる変化するものの中においては、我、我が物、我が実我と見ない。
受想行識でも同様。
だから、あらゆる色の、過去・未来・現在、内外、粗細、好醜、遠近のいずれにせよ、一切が
我でなく我が物でもない。このように見ることを正見としています。受想行識でも同様。
>>145 第一から第三の師というのは、当時の宗教家の実我・輪廻に関する見解に関して述べたもので
あって、世界中の宗教を対象にしたものではないので、それを分類するのには相応しくないでしょう。
また、第一に入れられているマッカリ・ゴーサーラは一応、賢者も愚者も長い転生の果てに、
それから解放される、という見解なので、第二の常見ということになるでしょうね。
まあ、今世がその長い流転の最後に当たっている、と言うなら断見ということにはなりますが。
その他、業報否定論者も六師外道にはいますが、彼に関しては実我・輪廻に関する説が不明なので、
その3分類には含まれないかも知れません。
150 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 01:08:39 ID:kGY9e+QH
おい、カラス
おまいはダイバダッタを知っているか
戒律を遵守する真面目な僧侶がなぜ誰よりも悟りから遠いとされたか?
151 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 01:37:25 ID:kGY9e+QH
『ゴータマブッダが八正道を説いたかどうか疑問である。少なくとも彼の活動の初期には説かれなかったことである。』
中村元「原始仏教の生活倫理」
152 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/04(水) 07:27:16 ID:vryDgsYH
>>151 そうなんです。
じつに素晴らしい書き込みです。
原始仏教スレッドに相応しい書き込みです。
釈尊言説の後付け解釈を、さも原始仏教の如くに書き込みしておる
アホ〇〇というコテハンがいますが、
このコテハンには私は何度も注意しておるんですが、なかなか聞く耳を持ちません。
それどころか、エンドレスにスレを立ち上げておるんですよ。
困ったもんです(^^ゞ
153 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 07:40:06 ID:cKoLeW4S
>>120 しかし君の引用した、この翻訳が正確なのかどうかは知らんが、読めば読むほどおかしな言い回しだ。
これをそのまま読むと、かたや、究極の境地に達したものは、
常に四無量心を持ち続けなさいといいながら、方やそんな心も必要ないと言っているように聞こえる。
これじゃ、釈迦は二枚舌のいい加減な男に思える。
これはつまりこうだ。涅槃境地とは、もはや善悪という識別も無く、あなたと、私という識別もない。
そこに時の流れも無く、時の流れも無ければ、意識の活動も無い。
あるのは ”今ここ” だけなのだ。福行成す、成さないというのは、自他の区別があるからであり、
自他の区別があればこそ、私は福行成す、成さないという意識が生じるのであり、
究極の境地を知り、己が何者かを知り、もはや自他の別からの意識から離れた者にとっては、
もはや福行成す、成さないという意識から離れる。なぜなら自分自身にすることに対して、福行成すも、
成さないもなにも無いからである。こういうのを無明から離れると言い、無明のままにいる人は、
己が何者かも知らずに、自他を分け、福行成す、成さないの見解から離れないでいる。だから彼が
賢者と同じ行動をしても、彼の起こす行動は、常に、福行成す、成さないという意識活動によるものであり、
これを無明と言う。自他の別から離れた人は、目の前に困った人がいれば助けるのは当たり前の話である。
なぜならそれは、彼にとっては、自分自身を助けているからにほかならないからである。
そこに福行成す、成さないの見解はない。自分自身を助けるのは当たり前の話なのである。
また他人を自分のことのように愛するのは当たり前のことであり、本人は、その行為に対して、善を成しているという
意識からも離れている。本人にとっては、自分自身を愛するのは、あたりまえのことなのだ。
だが無明に囚われた凡夫から見れば、彼の行為は、善を行っているように見え、凡夫に真理に至る道を説明する
のには、善を成しなさいと言う説明になる。
しかし、あんたの上げた仏典の言い回しはおかしいな。まるで机のような邪見を意図的に起こさせるような言い回しだ。
悪意のようなものさえ感じる。仏典にはこのような性質の悪い言い回しが数多く見受けられる。
そしてオウムや、机のようなカルト思想を生む。
154 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 07:53:09 ID:cKoLeW4S
邪見の王様が、また邪見で戯言を抜かし、皆を迷わす前に一つ言っておく。
これは他人も自分なのだから、他人に対してなにをしてもOK。という話ではない。
涅槃とは、一元の世界に戻ると言うことだ。ではどうすれば、そこに帰れるのか?
なんにせよ、この世のものに執着する心。それは人の心にエゴを生むだろう。
エゴは、私とあなたを分けるもの。
155 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 08:01:36 ID:cKoLeW4S
>>120 しかしよくみると、しっかり
>我が迷いの生涯はすでに終わった、”清浄なる行はすでに成った”。
と、”清浄なる行” はすでに成った.。と、書いてるね(苦笑)
しかしいくら読んでも、性質の悪い言い回しだ。どうせ書くのなら、もっと違う(ましな)表現で書けばいいのに。
これでは意図的に邪見を生むように書かれているようなものだ。
そして机や、麻原のような者が現れる。
156 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/04(水) 08:19:23 ID:vryDgsYH
>>153 かつて故マザーテレサは、クリスチャンの鑑として全世界から尊敬されていた。
しかしながら、テレサはインド基督教会からは批判する人が多かったらしい。
理由というのは「神の被造物破壊」です。
俗世間的価値は判断からすれば善行であっても、必ずしもそれが万人に共通するものでもない。
という、これが例示です。
では、何ゆえこうも人の心は多様な捉え方をするのか?
それは端的に言うたら「視座」の違いです。
凡人と覚者の違いとは、これに尽きるので御座います。
どうか彼岸まで透過なされまして、
釈尊本懐に至ることを祈念いたします。
さすれば机の書き込みも理解されるやに思います。かしこ
157 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/04(水) 09:00:08 ID:kOFY33Pi
>>151 最初期から“法数”として纏まっていなかったとは考えられるが、正道諸支の先頭に位置し、それらを成立させる
大前提が“正見(=縁起説)”であることは疑い得ない。
158 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 09:01:48 ID:cKoLeW4S
>>132 霊魂ってなに?そんなものは聖書には書かれていない。
そんな言葉を出して得意げに語っているのは、真のキリスト教を知らない
今のキリスト教会の聖職者であり、彼らから教えをこう、その教会の信者達である。
あのさ、先にも言ったけど、聖書には霊魂って言う言葉もなければ、
お前達が想像している霊魂、つまり幽霊みたいな存在など、書いていないんだよ。
霊と、魂とは別のものだ。特別大サービスだ。知ったかのお前達に、特別に教えてあげよう。
霊とは、父の属性。父とは、仏教で言うところの自性だ。神や悪魔とはまた違う。
神や悪魔は ”人” が作ったものだ。根源はそれらを超えている。
その存在をイエスは神と表現せず、父と表現した。霊とは父の属性。それはこの世界では
言葉として現れる。霊は魂の根源であり、言葉は人の魂の元となる。
言葉は、時に悪霊ともなり、時には聖霊ともなる。言葉は識別するもの。全ては表裏一体。
言葉は、魂を生かしもするが、魂を殺しもする。魂は、身体に縁あって成るが、
霊によって目覚めた魂は、自ら身体の行により、自らを殺すのである。御国とは、魂の解消にある。
名称は言によってなり、言は識別する。万物は言によって成り、言によって成らないものはなにもない。
なぜなら、言は識別するものであり、名称は言によってなるからである。
人の魂は言によって成り、生みの母は、女と呼ばれる。そして女は、自ら解消し、男と一つと成ったとき、
御国に入るだろう。御国とは、仏教で言う、涅槃のことである。女は父のハートであり、万物の母である。
言は人をこの世で人を神ともするが、悪魔ともなりえる。神と悪魔は相対するもの。根源はそれらを超えている。
人の魂は言によって成る。イエスは自らを人の子と称した。父とは完全な人のことである。
我々は本当の自己を知らないでいる。これを佛教では無明と呼ぶ。
ま、おまえらには真のキリスト教は難しくて、理解できんだろう。
159 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 09:14:53 ID:cKoLeW4S
おっと「霊魂」などという聖書に書かれていない造語を得意げに語るのは
無知な今の教会の聖職者と、無知な今の教会の信者達だけではなかったな。
お前達のように、真のイエスの教えも知らなければ理解もできないくせに、
キリスト教を批判する知ったさんもだったな。学者も同じ間違いをおかすなんざ、とんだ
お笑い種だ、所詮、宗教学の学者なんざそのレベル。
人の魂は霊によって成るが、霊と魂は、別のものだ。ちなみにグノーシスでは、魂のことを「心魂」と呼ぶ。
つまり、心と魂だ。御国に入るとは、この心魂解消の先にあると説く。霊は人の心=魂を生むが、
この霊こそが、この心魂を滅ぼすのだ。わかるかな?わかんねぇだろうな。アホには。
160 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 09:21:43 ID:cKoLeW4S
>>156 だからお前の上げる善悪の判断の例は、あくまで世俗の善悪の判断に過ぎないものだと言っているんだよ。
人の言説をまるっきり無視して、自説だけをひたすら押し付けるおまえは、まともに議論できる相手ではないな。
なんぼ言うてもわからんやっちゃ。
161 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 09:21:43 ID:kGY9e+QH
『こうして儒家と墨家との善し悪しの論が起こり、
相手の悪しとすることを善しとし、
相手の善しとするところを悪しとしている。これは、真の明智を用いる立場には及びもつかない。』
――荘子――
162 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 09:27:08 ID:do0HQofK
>>バカラス
お前は何歳でどこ住まい?
163 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/04(水) 09:28:33 ID:kOFY33Pi
164 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 09:30:18 ID:cKoLeW4S
>>161 なにがダイバダッタだ。
お前はレインボーマンでも観て、オナニーでもしていろ。
おまえは単なるアホだ。
アホの相手をしていても仕方が無い。もう寝よ。早く悟れるといいな、
せめて釈迦の仏教とは違う自分達の佛教は、とどのつまりまるで意味の無いことくらい悟れよアホ共。
お休みだ。良い一日を。わっははは。
165 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/04(水) 09:31:27 ID:kOFY33Pi
166 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 09:39:36 ID:kGY9e+QH
おい、カラス
ちょっとだけ面白かったぞ
レインボーマンはいい作品だ
土の化身が特に良い
167 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 09:50:05 ID:cKoLeW4S
>>165 俺は梵我一如の話をしているのではない。
厳密に言うとその表現は間違いであるからだ。
この世の創造主の解消の先に涅槃はあると言っているのだ。
お前も何度言ってもわからんな。さすがアホウ陀羅經だ。
ちなみに釈迦はヴェーダを否定していない。むしろ真のバラモンとはと言う言い回しで、
教えを説いている。当時もヴェーダに対する邪見が横行していたのだろう。今のお前達のように、
釈迦の佛教を邪見しまくって、得意げに語っている御仁たちのようにな。
ちなみに釈迦我悟りを開いた瞑想とは、ヨーガの他ならないものである。ヨーガとは本来合一すると言う意味である。
わかったかい?自分では頭がいいと思っている、外道の ”アホウ” 陀羅經さん。
ま、お前にいくら言ってもわからんだろうが、自ら名乗るアホだから。本当にお前は”アホウ” 陀羅經だな。
ところでお前の教祖さんは、イエスより明知にたけ、彼の言説はイエスの教えより優れているんだってな。
すごいな、電波教は。おまえら恥ずかしくね?厚顔無恥とはよく言ったものだ。
168 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 10:05:15 ID:cKoLeW4S
そういや釈迦が成道に至った修行法(瞑想法)は、
古よりあった修行の再発見をしたに過ぎないと、語っていたと仏典には記述されていたよな〜〜〜。
別に釈迦は、ヴェーダを否定していない。むしろ肯定している。
佛教とヴェーダは、全く違う教えだ。と得意げに語る人はトンデモさんだよ。な、アホウ陀羅經さん(苦笑)
169 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/04(水) 10:26:24 ID:vryDgsYH
>>160 貴殿は自称キリスト教徒らしいけど、
まともに旧約聖書を読んだことがあるのか?
人間が堕落したのは、善悪汁の木の実を食べたからだよ。
人様に善を施せるのは神だけである。
(マザーテレサさえ「善行」などと一言も言うてない)
まあ、貴殿に何を言うても駄目かもしれんね。
170 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 10:32:01 ID:Bq0ucYm4
>>153 この経典は因縁相応の部にあり、説く趣旨は十二因縁です。
苦を滅するにはどう思量したらいいですか? という問いに対する答えです。
趣旨は縁起の法です。
>>158 > 御国に入るだろう。御国とは、仏教で言う、涅槃のことである。女は父のハートであり、万物の母である。
> 我々は本当の自己を知らないでいる。これを佛教では無明と呼ぶ。
仏教においては 三法印がその旗印でありますから
キリスト教と同じであるというのなら どう同じなのか経典文献引用をもって示してください。
本当の自己などというのは無我の思想とは相反するものですし、
無明というのは 基本的に四聖諦 縁起の法に無知なことでありますから
これらとどう関連するのか示して戴ければ 私の理解も深まると思います。
171 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/04(水) 11:06:22 ID:HZPdtve4
>>170 「本当の自己」など、ナンセンスな世迷い言、循環論すなわち戯論に過ぎません。
172 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 11:09:26 ID:kQYagB55
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 って人はずいぶんエゴの強い人ですね。
というより、自分のプライドと現実の境遇との落差に、世間に対する
激しい貧怒と劣等感をぶつけているようですね。
なんでこの俺様がこんな境遇なんだあ!という具合。
知識と観念が貧怒で空回りして、自己分裂している状態です。
悟りの「境地」からはほど遠い。
智情意の三位一体で境地が形成されます。
情意は言語表現になじみません。
智(真理)は理ですから言語(当該言語システムの優劣はある)表現可能です。
だから、智で解っちゃいるけどやめられない(植木等風に)んです。
現実を受け入れて、プライドを捨てればいいんですが、情意が邪魔してできない。
自己分裂って結構苦しいんですよ。人間8:2法則で80%は感情でできていますから。
感情のコントロールができる人が「境地」を掴むんでしょうね。
173 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/04(水) 12:08:54 ID:HZPdtve4
当節蔓延る「中二病」の格好の症例標本といったところでしょうか(笑)。
174 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 12:26:16 ID:GtAX/6OX
>>96 > 無自性観念が無自由を包摂するなら、善悪・責任はありえない。
下記の経文のように、実我があれば変化し得ない、させ得ない、とするのが仏教の見方。無我だからこそ、それが可能とする。
佛説五蘊皆空經
色…若是我者。…我欲如是色。我不欲如是色。既不如是。隨情所欲。是故當知。色不是我。受想行識。亦復如是。
自性が実我と同類の概念とすると、無自性は無我に相当し、本人の努力、改善行動を可能と認める立場に通じる。
したがって、冒頭の引用文とは逆で、無自性だからこそ自由意志が発揮でき、善悪の意志・行為に対する責任も生じることになる。
>>79の
> 龍樹のいわゆる「自性」とは「自由」と重なり合うのか?重なるだろう。
に関しても同断で、自性と自由とは反対概念ということになる。
その他、気になった言葉遣い
共同幻想(サンスカーラ):なぜ行が吉本隆明の共同幻想と結びつくのか
真諦とやらの観念操作:真諦が観念操作?真諦を観念操作?どちらにせよ、なぜ観念操作と真諦ということが結びつくのか何ら説明なく、意味不明
無自性=空=縁起:無自性=空はいいとして、縁起はそれらの原因理由であり、等号には馴染まない
自由意思は自我と同じくサンスカーラにしか過ぎないかもしれない:自我が行?自我が共同幻想ということ?
なら分からないでもないが、共同幻想と行を結びつけた説明がないので意味不明
ブッダ当時、六師外道のなかでもっとも広く人気のあったアジタ・ケーサカンパラの見解:最も人気があったとする根拠は?
176 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/04(水) 13:43:10 ID:HZPdtve4
>>175 水野弘元氏による「無我相經」類の比較研究(著作集所収)も参考になるかと思います。
177 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 17:11:24 ID:cKoLeW4S
>>169 〜創世記
>園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、
>と神様はおっしゃいました。」
>蛇は女に言った。 「決して死ぬことはない。
>それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
>女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。
>女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
>二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
人は善悪を知る実を食べたとき、初めて目が開き、自分達が裸であることを知った。
つまり人は善と悪を分けたとき、肉の身体を持ち、死ぬ存在となった。と言う意味だよ。ここに書かれている
善悪とは、おまえの考える、あくまで世俗の判断による善悪のことを言っているのではない。
なんぼ言うてもわからんやっちゃ。ほんまにおまえはアホだ。
邪見の王様のお前がいくら聖書を、単なる御伽噺しか見出せないだろう。
あれは喩えでしか書かれていない。智慧の無いものがいくら読んでも、あそこに書かれている真理は見出せない。
178 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 17:15:40 ID:kGY9e+QH
そもそも、生きていること自体が悪でしょ?
生き続けるということは動植物を殺し続けることですから
それともそれは神様が人間のために用意したものだから悪でないのですかい?
179 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 17:16:27 ID:cKoLeW4S
>>172 意味不明。エゴの強さで言うと、君らには負けるよ。
君には、一度病院に行かれるのをお勧めする。
180 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 17:20:15 ID:cKoLeW4S
>>178 死んでいる者共は、死んでいるものを食べ、
死んでいるこの身体を生かす。
だが生ける者達は生ける者を食べ、生ける者になるだろう。
人の心は言によって成る。人の心の食べ物。それは言葉である。
181 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 17:27:57 ID:cKoLeW4S
ダンマパタ160
>自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、”得難き主を得る”。
四法印
一切は、無常であり。
一切は、無我であり。
一切は、苦である。
そして涅槃静寂。
一切皆苦と説く釈迦の佛教で、必死でこの世に涅槃を探し求める君らは、みていると滑稽であり、哀れなものだ。
馬鹿に付ける薬は無い。
182 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 17:35:16 ID:cKoLeW4S
>>171 いつからヴェーダと釈迦の佛教はまるっきり別物になったんでちゅか?
ほんとにあなたは、ア・ホウ〜〜〜でちゅね。
183 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/04(水) 17:50:27 ID:vryDgsYH
>>177 >それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。
そういうことなんです。
つまり、アダムとエバ(イブ)は神より創造された段階においては善悪の概念はなかった訳です。
蛇はサタンの象徴となっていまして、
つまり、エバはサタンの誘惑に負けて木の実を食べてしまった。
(ここにおいてアダムとエバは堕落する)
本来は、神にしか許されていない訳です。善悪は。
そのようにバイブルにも書いてありますがなw
やはり私が言うた通りではないか。
184 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/04(水) 17:55:31 ID:vryDgsYH
>>177 >蛇は女に言った。
キリスト教徒なら、間違っても「女」とは書かない。
エバとかイブとか書くのが普通。
185 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 18:01:34 ID:cKoLeW4S
>>170 ふ〜ん。君の上げた引用文の書かれた仏典は、十二因縁について
述べられているわけ?ならスッタニパータなどと違い、釈迦入滅後、随分後に書かれた仏典の、引用文なわけだ。
なるほどね〜。ま、どうでもいいけどさ。
ま、あんたはあんたの信じる道を進めばいいんじゃない。
どの道、禅思想を代表する現代日本仏教に毒された人は救いようが無いんだし、好きにすればいいさ。
日本には、破戒坊主のなんと多いことか。それも日本の仏教思想ではOKになるんだからどうしようもないやね。
この人のあげた仏典の文章の、この人の言わんとする解釈は、禅宗などの典型的な破戒坊主達の言い訳になっている。
いつから釈迦の佛教は、現世利益を求める教えになったんだい?(苦笑)
186 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 18:18:29 ID:cKoLeW4S
>>184 >キリスト教徒なら、間違っても「女」とは書かない。
アフォですか?お前聖書も持ってないのか?俺の文章は聖書からの引用文だ。
原文もそこは男と女となっているはずだ。恥ずかしいやつめ。
キリスト教における男・女の意味は重要だ。もちろんこれは生物学的な男女の意味ではない。
〜創世記
>人は言った。 「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。
>これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
>こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
〜マタイ
>イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」
>そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。
>だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
前にも言ったが聖書は真理を喩えで書かれている。特にイエスのこの言葉、この喩え話は重要だ。
男と女は一つだった。男と女が分かれたとき、人に死が入り込んだ。 女は男のハートであり、万物の母である。
机よ、邪見の王様のおまえには、キリスト教は無理だよ。
187 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/04(水) 18:30:42 ID:vryDgsYH
>アフォですか?お前聖書も持ってないのか?俺の文章は聖書からの引用文だ。
聖書にはいろんな訳文があるから、宗派とかの推奨する聖書で随分違うんだろうね。
私が持っていた聖書には、ちゃんとエバとか書かれていたね。
だから「女」とは言わない。
エバ、つうて逝ってたね。
随分、昔の話だけどね。
>机よ、邪見の王様のおまえには、キリスト教は無理だよ。
随分むかしに伝道活動をやっていたことがあるんだよ。
189 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 19:28:11 ID:Bq0ucYm4
>>185 これは私のような まったくの初学者にもわかるように
増谷文雄先生が 文献批判した上で第一結集に迫ったものであると
書かれています。
ま、専門的なことは 私にはわかりません。
原始仏教に限らず仏教と他の宗教を分ける旗印は 三法印であると
私は聞いています。
はぐらかさないで、四聖諦との関連を教えていただけるなら
幸いです。
190 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 19:29:02 ID:kGY9e+QH
『人間がもし、自由人として生まれたものであるとするなら、
彼の自由が続く限り、
善悪の判断はできなかったであろう。』
スピノザ「エチカ」
創世紀はメタファですよ
191 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 19:35:57 ID:Bq0ucYm4
>>149 常見 断見 縁起の法以外の考え方をする宗教があると
いう指摘ですね。
192 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 19:40:13 ID:y9tKi/F/
俺の持ってる聖書は文語訳だけど、なんで
禅宗とキリスト教が、「龍」と「カラス」が
原始仏教スレで指相撲してんだか分からん
193 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 19:54:25 ID:cKoLeW4S
これはイエスの教えである。
>消滅するものから生じているものは消滅するのがつねである。
>消滅するものに由来するゆえである。〜イエスの知恵
>そこを幻影であるかのように考えてはならない。
>むしろこの物質世界こそ、幻影なのだ。〜真理の福音
>永遠まで続くものは生成のないものである。
>なんであれ生成のあるものは、滅びるからである。
>だが生成の無いものにははじめがない。
>というのはなんであれ、はじめのあるものは滅びるからである。〜イエスの知恵
>>189 もう君の問いにはとっくに答えているだろう。
聞く耳のない君が、聞こうとしないだけだ。
キリスト教も、”一切” には我はないと言っているんだよ。
イエスの言葉
彼らは見える目があるのに見えず、聞こえる耳があるのに聞こえない。
私は彼らを癒さない。
194 :
松:2007/04/04(水) 20:09:19 ID:ncHV18jA
おおっ、カラス久しぶりに見たよ。
生きてたんだな。
もうアーレフの奴らに、内ゲバでヤられたかと思ってたよ。
あいかわらずアーレフの宣伝か?
上祐はもうMIXIの方に行ったそうじゃないか。
しばらくいなかったのはそっちの方を手伝ってたのか。
しかし、あいかわらずクソみたいなキリスト教折衷の教義で、良く飽きねえな。
よっぽど脳みそが少ないんだろうなwwww
195 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 20:15:00 ID:Bq0ucYm4
>>193 > キリスト教も、”一切” には我はないと言っているんだよ。
>
> イエスの言葉
> 彼らは見える目があるのに見えず、聞こえる耳があるのに聞こえない。
> 私は彼らを癒さない。
もしかして この文章が 我 が無い根拠?
縁起の法と 四聖諦 との関連は ?
>>158 >我々は本当の自己を知らないでいる。これを佛教では無明と呼ぶ。
カラスさんは 本当の自己を知るのが 明と義するのでしょう。?
これと整合性が取れなくなるのではありませんか?
196 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 20:16:40 ID:cKoLeW4S
またアホが絡んできた。
>>194 おまえ、相当頭悪いだろ。
キリスト教を批判したいのなら、キリスト教を正しく理解してから言おうね。
ま、お前には無理だと思うが。
暇潰しに、頭悪いくせに、態度だけはやたらとでかい低脳をからかってやりたいところだが、
いまから世俗の勤めを果たしに行かねばならなん。
ま、落ちるわ。よかったな、低脳児。
197 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/04(水) 20:21:21 ID:cKoLeW4S
>>195 答えはもう、一連のレスで書いてるじゃないか。
君はそれが読めない。釈迦はあくまで、一切には、我はないですよと言ったのですよ。
仏教の言う一切とは何処のことですか?
ま、聞く耳のない人にいくら言っても無駄なことだろうけど。
四法印とは、
一切法無我
一切行無常
一切皆苦
そして涅槃静寂。
そういうことなのですよ。
198 :
松:2007/04/04(水) 20:32:13 ID:ncHV18jA
ありゃ、もう逃げたか。
相変わらず逃げ足速いな。
そんなにビビらなくてもいいぜ。
ただ苛めるだけなんだから。
おまえの所属するアーレフの連中のように、ぬっころしてプラズマ炉で焼く訳じゃないんだからよ。
199 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 20:35:29 ID:5EnDM4wO
>>193 >消滅するものから生じているものは消滅するのがつねである。
>消滅するものに由来するゆえである。〜イエスの知恵
>そこを幻影であるかのように考えてはならない。
>むしろこの物質世界こそ、幻影なのだ。〜真理の福音
>永遠まで続くものは生成のないものである。
>なんであれ生成のあるものは、滅びるからである。
>だが生成の無いものにははじめがない。
>というのはなんであれ、はじめのあるものは滅びるからである。〜イエスの知恵
こう言う言い方では、真実と真理を分ける必要が無いな。
支持するよ。
200 :
松:2007/04/04(水) 20:45:39 ID:ncHV18jA
>>199出た出た、カラスの得意技、自作自演wwwww
笑わしてくれるよwwwww
おまえは前もこの自作自演使ってて、俺には通用しないとわかっていながら、やっぱりやるんだな。
洗脳で自分の頭で考えることができなくなってるんだよな。
上祐に命令されたことを何度も繰り返す、人間ロボットカラスの豚って訳だ。
201 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 20:50:35 ID:Bq0ucYm4
>>196 真実の自己との整合性も取れていませんし
答えになっていません。
四聖諦との関連 十二縁起の説明は ?
202 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 20:52:14 ID:5EnDM4wO
203 :
松:2007/04/04(水) 20:59:22 ID:ncHV18jA
>>202 わかったわかった。
おまえはカラスじゃないぜ。
スラカだろ?
アーレフのスラカ、イカスじゃないか。
ちょっと教えてくれよ。
亜茶利ってのが本当に今、アーレフ居残り派の実権を握ってるのか?
それとも分裂はウソでやっぱり上祐が操っているのか?
kwsk説明プリーズ
204 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 22:09:15 ID:5EnDM4wO
205 :
172:2007/04/04(水) 23:00:51 ID:kQYagB55
>>203>>204 カラスがどういう人間であるかは俺が知っている。
>>198だけで馬鹿そのものと解る。
オソ松はじめおまえら低能クズ餓鬼が来れるスレではない。
おまえ等には都立松沢病院がふさわしい。 消えな。
206 :
神も仏も名無しさん:2007/04/04(水) 23:25:44 ID:5EnDM4wO
>>205 >低能クズ餓鬼が来れるスレではない
このスレの初めにも恐ろしい事が書いてあるけど、このスレは恐ろしいね。地獄みたい。
ダンマパダ 29-29 空、無相
208 :
我羅捨:2007/04/05(木) 01:47:48 ID:NVgJD4rD
阿呆陀羅經さま、原始佛教初心者ですがカラスさんにお聞きしたいことがございますので、
書き込みお許し願います。
カラスさん、キリスト教にも初心者です。ご無礼お許し願います。
>>177 >善悪とは、おまえの考える、あくまで世俗の判断による善悪のことを言っているのではない。
ここでいう「善悪」とは、「主客」ということでしょうか?「神と人間」ということかもしれません。
また、「善悪を知る実」とは、「自我」ということでしょうか?
もし、どちらも間違いでしたら正解を教えていただけませんか。
そして、創世記のその部分に書かれている真理とは何なのか御教授願います。
>>186 聖書でいう男と女。この「男女」も「主客」の喩えかと思われます。
エヴァはアダムの肋骨から作られたわけですから、当然、アダムの肋骨には穴が開いていて、どうも収まりが悪い。
その穴を埋めるべき骨と肉、すなわちエヴァと出逢う(=自分と出会う)ことで『自我が安定する』ということでしょうか?
>女は男のハートであり、万物の母である。
ここが、よくわかりません。
>>193 >キリスト教も、”一切” には我はないと言っているんだよ。
神(実相)に反逆した(自我を持った)から真理が見えない(迷い、苦が生じる)。
自我を捨てることによって(神の命令に従うことによって)、全てが明らかになる(平安がそこにある)
ということですか?
209 :
我羅捨:2007/04/05(木) 03:52:53 ID:NVgJD4rD
>>208 訂正
「善悪を知る実」について、練り直しました。
「善悪を知る実」とは、言葉(言語)のこと。言葉(言語)を得ることで概念(意味)を生じ、
やがて自我が芽生え、同時に、相手との違いを認識するということ。(=主客分離)
210 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/05(木) 07:11:43 ID:you+yY3U
>>208 君等が思っているような神の命令なんてものはないよ。
そのへんのキリスト教徒が思っている神という者もね。
あるのは自分自身の意思だけ。
君の質問に答えてもいいが、ここには豚がたくさんいる。
豚に真珠は投げない。
メールのアドレスでもさらしてくれたら、メールでも送りますよ。
211 :
神も仏も名無しさん:2007/04/05(木) 07:37:19 ID:gXWtRe90
212 :
96:2007/04/05(木) 08:57:05 ID:pVLPQB47
>>175 遅くなって申し訳ない。この2日ほど知人の死とその儀式に立ち会ってきた。
渇愛が執着を生むとはいえ、死の何たるかを解らずも、死を悲しむ家族たちの姿
は身を切られるほど切ない。
論点は多岐にわたるが、ポイントは『因果律=縁起における“自=主体”由意思』とは何かにある。
995 :神も仏も名無しさん :2007/04/02(月) 20:07:26 ID:MoPVIFp4
およそ存在が縁起による仮有ならば、人間の意思も同じく仮有であり
「因果律に則った自由意思」などは論理矛盾破綻以外の何物でもなく、
責任非難を問うことは不可能だ。
この問題については
http://www.tatsuru.com/jibutsu/html/text.2.htmlでも 議論されていることに気がつきました。やっぱり、同じような問題意識を持つ人が多いのですね。
また後ほどレスさせてもらいます。
213 :
神も仏も名無しさん:2007/04/05(木) 09:45:36 ID:Li2AQt5d
>>196 真実の自己
>>210 > あるのは自分自身の意思だけ。
阿含経で説かれる無我は そういった意思すら
条件によって生起するものだから 無我 という
ものであったと思います。 引用略
ですから カラス氏のいう事は 矛盾の域を脱していません。
214 :
我羅捨:2007/04/05(木) 09:46:41 ID:f7PwIgtM
>>210 すみません、メールアドレスは公表できません。魑魅魍魎からの総攻撃で
収拾つかなくなるのは目に見えますから・・・・・・。
では、質問を変えます。
>君等が思っているような神の命令なんてものはないよ。
>そのへんのキリスト教徒が思っている神という者もね。
>あるのは自分自身の意思だけ。
ほとんどのキリスト者は、神を自分の外部にある(神が存在する)ものとしてとらえているようですが、
実際には、その正体は、全て自分の意識が作り出した幻想(概念)であると。
つまり、敢えて言えば、神も本来は内的なものにすぎない。仏教で言う「仏性」と同じということ。
全ては自分の意識の作用のことなのに、キリスト教(ユダヤ教を起源とする一神教など)は、
発祥地、バックグラウンドから、人間が生き延びるためには指導者を頂点とする群れ(集団)が必要だった。
また、群れを統率するには、共同幻想(神)が必要だった。
余談ですが、私はキリスト者ではありません。
215 :
松:2007/04/05(木) 09:46:53 ID:x3Hbh0k5
>>210 おお、とうとう表立ってアーレフの勧誘にきたなカラス。
ところで例の警告出していいか?
返事が無ければ出す。
居残り派は亜茶利が実権を握ってるのか。
それとも他の奴なのか、どうなんだカラス。
216 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/05(木) 11:56:35 ID:sAsh3PKr
>>208 >>女は男のハートであり、万物の母である。
>ここが、よくわかりません。
ここはたぶん文脈からの流れからして
>エヴァはアダムの肋骨から作られたわけですから
こういうふうに記述がありますから「肋骨=ハート」というコジツケで、
何かのマイコンプログラムを受けたのでしょう?
カルトはよく「男&女」のモチーフを使い、
なんとなく淫靡なムードに盛り上げ、盛り上がったところで、
さりげなくマイコンプログラムを挿入するよぉな事をやりますから、
善男善女は上手い具合に釣れ上がるかと思いますね。
実際、私もプログラムを挿入されたことがあります。
随分むかしの話ですがね。
>>188 ttp://www.cbeta.org/result/normal/T22/1428_032.htm CBETA T22 No. 1428《四分律》卷32
色無我。
若色是我者。色不揄v。而我受苦。
若色是我者。應得自在。欲得如是色不用如是色。
以色無我故。
而色搨キ。故受諸苦。
亦不能得隨意欲得如是色便得。不用如是色便不得。
この漢訳は、パーリ文英訳および下に引用するパーリ文和訳と同じ趣旨ですね。
> 色は無我である。
> 若し色が我であるならば、この色は病ともならず、
> また色について「わが色はかくあれ」とか、「わが色はかくあること勿れ」とかいうことができるであろう。
> 然し色は無我である。
> 故に色は病にもなり、
> また色について「わが色はかくあれ」とか、「わが色はかくあること勿れ」とかいうことができないのである。
また、以下の佛説五蘊皆空經の趣旨も、丁寧に読んでみるとパーリ文と同じ内容のようです。
汝等當知。色不是我。若是我者。色不應病及受苦惱。我欲如是色。我不欲如是色。既不如是。隨情所欲。是故當知。色不是我。
〔汝ら當に知るべし、色は是れ我ならず、と。若し是れ我ならば、色は應に病み及び苦惱を受くべからず、
我れ是くの如くの色を欲し、我れ是くの如くの色を欲せざらんに、既に是くの如くには、情の欲する所に隨はず。
是の故に當に知るべし、色は是れ我ならず、と。〕
漢訳の四分律と五蘊皆空經およびパーリ文が同趣旨であり、雑阿含経巻2所収の2経だけが
異なるので、これらは錯簡や誤写などにより意味が逆転してしまったもののようです。
したがって、
>>175の「実我があれば変化し得ない、させ得ない」は雑阿含経に引きずられた誤読となると
思われるので、それを理由としての説明はひとまず撤回させていただき、改めて考えてみたいと思います。
218 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/05(木) 15:18:21 ID:3gFpeOIG
219 :
我羅捨:2007/04/05(木) 15:51:53 ID:f7PwIgtM
>>218 弄るなんて滅相もございません。
>>197で
>釈迦はあくまで、一切には、我はないですよと言ったのですよ。
と、カラスさんは書かれています。
仏教(ブッダ)とキリスト教(イエス)の接点を考察する、比較して見えてくるものもあると思います。
カラスさんの見解に非常に興味ありますが、説明はカラスさんの御機嫌次第ということで、
無理強いするつもりはありません。
220 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/05(木) 16:18:25 ID:3gFpeOIG
221 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/05(木) 16:19:49 ID:3gFpeOIG
222 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/05(木) 16:34:25 ID:sAsh3PKr
>>175 > その他、気になった言葉遣い
>共同幻想(サンスカーラ):なぜ行が吉本隆明の共同幻想と結びつくのか
吉本隆明のことは、よく知らないけど、語意からするとクリシュナナムルティーも同じような事を逝ってるね。
ここからは私見ではあるが、
つまり人が形成する共同体には、その体制の維持のために何らかの保守的作用が付与される。
善悪というのも当然このベクトルにあり、
いわゆる人が社会生活を維持するための規範でもある。
実は釈尊の本懐とは、これとは全く別もんで脱共同体と逝ってもいいくらい。
その象徴的なのが「犀の角の如く歩む」の脱共同体なるやに思う。
(禅の公案も、いわゆる脱共同体・脱社会規範です)
この社会規範には全く属さない自由思想こそが真諦の意とするならば、
ここにおいてが、つまりは正覚(真諦)になり、これが四諦になる。
ここより俗世間的規範に順応させて逝くのが世俗諦となる。
223 :
1/2:2007/04/05(木) 17:12:52 ID:LuGG1Msz
ところで雑阿含におけるこの五蘊無我の経典では、
無我説が他の系統や有部毘奈耶破僧事におけるものと違っている。
パーリをはじめすべての五蘊無我の論証においては、有部毘奈耶破僧事におけるように、
色無我、若
色有我、 不応生諸疾苦、 能於色中作如是色、不作如是色。是故汝等、知
色無我故、 生諸疾苦、不能 作如是色、不作如是色。
とあって、これを平易にいえば、
「色がもし我(自在者)であるならば、
色には病苦が生ずることもなく、
色に対して『このような色となれ』とか『このような色となることなかれ』とか
いうことができるであろう。だが、
色は無我(不自在者)であるから、
色には病苦が生ずることもあるし、
色に対して『このような色となれ』とか『このような色となることなかれ』とか
いうことはできないのである」
ということになる。
これに対して漢訳雑阿含の無我相経では、以上の部分が
色非有我、若
色有我者、於色不応病苦生、亦不得於色欲令如是不令如是。
以色無我故、於色有病有苦生、亦 得於色欲令如是不令如是。
となって、逆の意味となっている。これを解り易くいえば、
「色は無我である。
色がもし我(絶対的)であるならば、
色には病苦の生ずることはあり得ないし、
色に対して、かくあらしめ、またはかくあらしめざらんと
欲するを得ないであろう。
色は無我(相対的)であるから、
色には病苦の生ずることもあり、
色に対して、かくあらしめ、またはかくあらしめざらんと
欲するを得るのである」
ということになる。
224 :
2/2:2007/04/05(木) 17:13:27 ID:LuGG1Msz
前の場合は通俗的な我・無我が説かれているのに、
ここでは【第一義的な】我・無我が説かれ、中論などの大乗的立場と同じである。
五蘊無我に関する釈尊の真説はいずれであったか不明であるが、
【仏教本来の説としては】雑阿含のような無我説であるべきである。
今日五蘊の無我を伝えている無我相経の多くは、
諸部派ともに通俗的な無我を掲げているのである。
(水野弘元“転法輪経について”仏教研究創刊号(1970)より)
著作集では改訂部分があるのだろうか?
改行・【 】は挿入させて貰った。
また漢訳部分は、返り点は省略し、句点を入れた。
>>223-224 深く追求せずさらっと流しているし、「自在者・不自在者」とか「絶対的・相対的」と
前後で ( )書きを変えていたりして、幾分恣意的な解説のようにも思えるが、
ともかく、少ない事例の方を(【内容の面から】)本流であるとしているようだ。
226 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/05(木) 17:31:51 ID:3gFpeOIG
>>224 只今出張先でして、架蔵の当該書籍を参照出来ません。
帰宅後に調べてみます。
(パーリ他諸伝)
・色が我であるならば、(色に我があるならば)、
色には病苦は生じない。
≪『このようであれ』『このようであるな』と【言える】。≫
・色が我でないから、(色に我がないから)、
色には病苦が生じる。
≪『このようであれ』『このようであるな』と【言えない】。≫
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(雑阿含)
・色が我であるならば、(色に我があるならば)、
色には病苦は生じない。
≪『このようであれ』『このようであるな』と【言えない】。≫
・色が我でないから、(色に我がないから)、
色には病苦が生じる。
≪『このようであれ』『このようであるな』と【言える】。≫
228 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/05(木) 17:53:02 ID:you+yY3U
>>216 カルトは統一教会のお前だろがよ。
それを言うなら、創世記に女は肋骨から造られたから漠然と女は男のハート
だと言っているのではなく、私は男と女の意味を知った。
それを知れば、創世記の、女は男の肋骨から造られたという喩えの意味を知った。
と言うことだ。逆なんだよ。
アホめが。俺は教会にもほとんど通っていない、カトリック教徒だ(笑)。
統一教会のお前と一緒にするな。
教会では、真理は教えてくれない。
なぜなら、肝心の教える立場の彼らが、何も知らないからだ。
それは今の佛教会の坊主もおなじこと。
俺は誰かに教えてもらったからではなく、
全て自分で気付いたものを語っている。自分達の盲信する教祖の能書きを
そのまま語っているのでもなければ、
どこぞの学者の説、見解に過ぎないものを、あたかも正解のごとくも語ってもいない。
お前達と一緒にするな。
門を叩け、探せ、求めよ。門を叩く者は開けられ、探すものは見出し、求める者には、与えられる。
答えは、自分の中にすでに持っている。
229 :
素人:2007/04/05(木) 17:56:55 ID:LuGG1Msz
恣意的などと書いてしまったが、水野さんの( )書き通り、
前者の『我』は、
「一切合財を自由にできる、統御できるもの、そうした能力を持つもの」
という意味合いとなろう。そして、日常の自己と大きく重なり合う。
後者の『我』は、上記のような能力を持つものとしてでなく、
「人の通常の意思・思考とは別の存在、
内奥に鎮座する核としての(命の元と言ったら言い過ぎかw)存在」
を指すものとなろう。(常住不変という性格を持つものという意味でいけば、勿論こちらであろうが・・。)
こちらは、日常の自己とは隔絶している。(だから、行・苦行等により(よってのみ)接近できるものなのだろう。)
私個人としては、どちらが「本来的か」は即断できないと思う。(「第一義的か」どうかは、後者であるだろうが・・・。)
『我(アートマン)』の定義次第(仏教内でどのように解釈されていたか)であろうから。
前者のように定義されていたのならばパーリ諸伝が正統であろうし、
後者のように定義されていたのならば雑阿含が正統であろう。
もし、仏教内でのみ言うなら、前者でも不備はないような気もする。
後者が必要とされる理由は、内在する不変の核を否定せねばならないからであろう。
(だから、中論的という水野さんの言は、的確と思う。)
当時の主流が、そうした絶対的(常住不変な性質)なものとしていたのか、
自在者としての性格も持っていたのか、詳しい人の解説を待つ。
雑文失礼した。 ノシ
230 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/05(木) 18:00:46 ID:you+yY3U
>>214 そう。君の問いに対する答えは、一連のレスでもう書いている。
改めて書く必要もないだろう。豚が噛み付いてくるだけだ。
仏典や聖書に書かれている事は、読む人が読めば、すぐに悟るだろう。
だが智慧なく、我執に囚われているものはいくら読んでも内容を読めず、悟りもしない。
231 :
素人:2007/04/05(木) 18:09:33 ID:LuGG1Msz
参考追記:
『我』であれば、老死は無い。
≪このようであれ と言える。(→死なずにいられる)≫
『我』でないから、老死がある。
≪このようであれ と言えない。(→死が避けられない)≫
『我』であれば、老死は無い。
≪このようであれ と言えない。(→死が避けられない?)≫
『我』でないから、老死がある。
≪このようであれ と言える。(→死なずにいられる?)≫
ノシ
232 :
神も仏も名無しさん:2007/04/05(木) 18:15:39 ID:noKwVzXy
前スレ 988 992 993 995
>>66-67 >>72 >>79-80 >>91 >>96 >>101-102 >>212 の論点を整理。
---縁起する人間には自由がなく、従って責任は問えない。
1.存在が縁起による仮有ならば、
2.人間の意思も同じく仮有であり
3.自由意思を認める余地がなく
4.責任を問うことは不可能だ。
勝義諦ではともかく、世俗諦では問える などというインチキな論理は 持ち出すべきではない。
---真理とは階級的な性格がある。
ブッダが誰に対して「道徳」を説いているか が問題だ。
所詮 階級固定道徳の機能を果たした。
---エピキュリアリズム(快楽主義)
生きている間を思い残すことなく悔いなく生きよ!
シュードラ階級を含め、人間開放の思想 最も鋭い階級開放思想
アジタ・ケーサカンパラの見解 ローカーヤタ(順世外道)
233 :
神も仏も名無しさん:2007/04/05(木) 18:21:55 ID:Li2AQt5d
原始仏教は 観察 分析 の部分が多いですし、
その流れをついた アビダルマもまた これまた細かいと聞いています。
カラスさんのは 説明になっていないように思います。
私としては期待はずれでした。
>>229 我に属せぬもの
と訳されている 経典もあります
比丘よ 、色は我に属するものではない。だから、汝は、
それについては、欲心を絶つがよいのである。 −−−
増谷氏訳 雑阿含経 1、 18
ほんじゃあ 五蘊を離れて我に属するものが あるんかいな?
という ?? も生じます。
>>229 > 後者が必要とされる理由は、内在する不変の核を否定せねばならないからであろう。
『仏教学辞典』の「我」の定義
> 永遠に変らず(常)、独立的に自存し(一)、中心的な所有主として(主)、支配能力がある(宰)
> 永遠に存続し(常)、自主独立して存在し(一)、中心的な所有主として(主)、すべてを支配する(宰)
にかんがみるに、パーリ文などは「宰」の意味合いであり、雑阿含経は「常」の意味合いであるよう
に思えます。つまり、「我」に支配能力があるので他(色)を思い通りに変化させられる、というのと、
色が「我」なら、「我」自身は永遠不変だから変化し得ない、というのと。
これは
>>227の「色に我があるならば」のように「色に我が内在するならば」と理解するか、
「色全体が我ならば」と解釈するか、ということにも関わって来ますが。
235 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/05(木) 20:03:03 ID:you+yY3U
>>233 人が親切に教えてあげようと思い書いても、
返ってくる言葉は、これだ。
はなから聞く耳のない者に話したところで、なんの益になるだろう。
私には疲労しかのこらない。
しかし、私の話を否定する者が、私の話を裏付ける仏典の文章を、
自ら引用しているということにすら気付かないとは、とんだお笑い種だ。
そんな人に、どう言えば私の言うことを理解させられるというのだ?
理解しない者にいくら語ったところで、私には疲労しか残らない。
236 :
松:2007/04/05(木) 20:03:41 ID:x3Hbh0k5
このスレに「カラスの唄」という名前で書きこんでる者は 元オウム真理教、現アーレフ(上祐派)の者である可能性が非常に高いようです。
この者達は数台のパソコンを使い、複数人を装って一人を攻撃します。
この者達にオフ会、勉強会などに誘われても決して行かないように。
住所、メアドなどの個人情報を聞かれても、決して教えないように。
もしこの警告にご不満の方が訴訟を起こされるというなら、喜んでお受けします。
237 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/05(木) 20:03:56 ID:3gFpeOIG
>>234 無限ループの耄碌サヨク厨房に、このスレは無理(嗤笑)。
隔離スレへ退下せよ。
238 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/05(木) 20:05:55 ID:3gFpeOIG
239 :
松:2007/04/05(木) 20:11:40 ID:x3Hbh0k5
スレ主、もちつけ。
>>236 中沢新一→グノーシス→オウムという、「外道トライアングル」もあるようなので
要注意ですな。スレ違い失礼。
241 :
松:2007/04/05(木) 20:17:48 ID:x3Hbh0k5
こーゆーゴミ掃除も、汚濁の娑婆世界で修行する我等の勤めでござる。
242 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/05(木) 20:23:03 ID:you+yY3U
釈迦の話は何もそんなに難しい話をしているのではない。
簡単な話を得意げに難しく話、それをありがたがって聞く者達のどこに智慧があるのだ?
縁起の理法を正しく理解する者なら、この世は実体のない幻のようなものだと知る。
ではここにある幻は、何に縁あってなるのか?それはそれとは違う他の幻に縁あって成ったものだとしる。
ではその幻は何に縁あって成ったのか?そう考えていくと、あるものにぶつかる。
起点がないと、幻も生まれえず、起点なければ、幻も存在し得ない。幻は起点となりえない。なぜなら幻が起点
だとすると、その幻はどこから来た?と堂々巡りになり、結論のない、虚偽論になってしまうからである。
縁起の法を、順逆で考えると、始まりなければ、生まれざるもの、元から在るものに行き当たる。
縁起佛教に執着する盲人達は、縁起の法を理解しようとするが、因果律の法則からは目を背ける。
盲人は、盲人のままだ。
縁起は時に縁してなる。時の始まりは宇宙の始まり。
現代物理学は、宇宙の始まり、特異点を解き明かす。宇宙の始まる前は時の流れもなく、形あるものもない。
だがエネルギーは∞。無限大にある。これは現代の物理学でも証明できるものである。
私はその存在の話をしている。
時である過去はどこにあるのか?それは私の記憶の中に。
それでは未来はどこにあるのか?それは、未来を思う私の思考の中に。それらは全て、実体のない、幻。
ここで智慧のあるものは気付くだろう。在るのは ”今ここ” だけなのだ.。
タイムアウトだ。早く悟れよアホ共。せめて自分達の佛教論は、便所紙ほども役に立たない、ゴミくず
見たいなものだってことくらい悟れよ。君ら頭いいんだろう?(苦笑)
243 :
我羅捨:2007/04/05(木) 20:24:25 ID:iEYIc+SL
>>230 ご回答、ありがとうございます。私の解釈でOKと解していいでしょうか?
私は、カラスさんの見解について誹謗中傷の意図で書き込みしたわけではありません。
ここのスレをロムして日は浅いですが、カラスさん、かなり本質的で重要なことを書かれて
おられると思いました。言葉使いはかなり荒いですが。
ここからは、独り言です。
ここにレスされていらっしゃる方は、みなさんとても博学なんですね。
でも、その博識(自己の解釈)がこのスレの中で「体現されていない」のは・・・・、はて???
244 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/05(木) 20:31:34 ID:you+yY3U
>>240 お前グノーシス理解してていってんのか?
おまえ佛教すら理解していないじゃぁねぇか。
お前が知ってるのは、現代ではまるで役にも立たない古文や、
常用では使わねぇ、どうでいい漢字だけじゃねぇか。
アホに付ける薬は無しだな。可哀想人だな、アホ陀羅經さん。
お前のハンドルは、おまえ自身アホだと気付いてるから付けてんだろう?プププ。
245 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/05(木) 20:32:12 ID:sAsh3PKr
>>228 >全て自分で気付いたものを語っている。
分ります。誰でもそういう時期というのがあるんですよ。
キャピキャピ&ルンルンした気分ですね。
そういう心が上ずっているのはマダマダ浅いんです。
つうか、
これが宗教の魔性というもんで、ここを透過していかんと本物にはなって逝かない。
本物になって逝きますと、もはやルンルン気分がなくなります。
つまり無心になるんですね。
なにものも求めるものはありゃせんかった。
このようになってこそが本物と言えましょう。
これを明鏡止水などと言いますね。
アタマに変なプログラムを挿入されますと、辞めるのも留まるのも地獄です。
私がカルトに入っていた頃の信者というのは、殆ど脱会したらしい。
まあ、30過ぎる頃になりますと、大体が自分の身の処置を考えますが、
その時に気づいても、もう人生はヤリ返しが効かんのですよ。
では、おやすみ。
>>241 ゴミはゴミらしく、孤独に腐ってればいいものを、身の程も弁まえず出しゃばって他人様を誘い込もうとするもんで、
素性がばれてしまうという醜態を晒すわけですな(嗤)。
無心で題目を唱えると、気分が澄み切ります。
248 :
神も仏も名無しさん:2007/04/05(木) 21:07:38 ID:I3pPEUqQ
カラス だいぶ天狗になってるなw 烏天狗め!
中身のない空巣の話 プ と煽っても、油臭スに絡め取られた愚能死ス脳では理論展開はピノキオの鼻から無理かw
249 :
神も仏も名無しさん:2007/04/05(木) 21:14:43 ID:gXWtRe90
>>232 ---縁起する人間には自由がなく、従って責任は問えない。
1.存在が縁起による仮有ならば、
2.人間の意思も同じく仮有であり
3.自由意思を認める余地がなく
4.責任を問うことは不可能だ。
勝義諦ではともかく、世俗諦では問える などというインチキな論理は 持ち出すべきではない。
232さん、談話室の方で話させてください。
250 :
神も仏も名無しさん:2007/04/05(木) 21:45:49 ID:Li2AQt5d
>>158 > 人の魂は言によって成り、生みの母は、女と呼ばれる。そして女は、自ら解消し、男と一つと成ったとき、
> 御国に入るだろう。御国とは、仏教で言う、涅槃のことである。女は父のハートであり、万物の母である。
>>167 > ちなみに釈迦我悟りを開いた瞑想とは、ヨーガの他ならないものである。ヨーガとは本来合一すると言う意味である。
>>148 > 無我においての、行為の報いの捉え方に関しては、
> 「もし無我ならば、無我の行為をして、未来世に誰が報いを受けるのだろうか」
> という問い方は正しい見方ではない、と評価されています。
釈尊のヨーガはsati ヨーガと呼ばれるそうですから真我合一といったものとは別のものと
考えられます。
>>148 で語られているように “誰” という言い方をしないのが釈尊の縁起の法でありましょう。
さらにsati ヨーガである念処経に説かれるところ(注釈ですが)によると
最終的に(これは縁と縁巳生法のみであり、他の生けるものや人は存在しない)
男であるとか女であるとか母であるとか父であるとか そういう見方もしないようです。
「出入息は何に依存するのか。基体に依存している。基体とは業生身である。業生身とは
四大要素、所造色である」とこのように色を把握する。それより、「その所縁である
第五蝕が名である」とこのように名色を把握する。
そして、その縁を探求し、無明などの縁起を見、これは縁と縁巳生法のみであり、
他の生けるものや人は存在しない」と疑いを解き、有縁の名色を三相にのせて、観を
増大させ、順次 阿羅漢果を得る。これが一比丘の、阿羅漢果にいたる出離門である。
マッジマニカーヤ 方山一良氏訳 念処経 注釈より
251 :
松:2007/04/05(木) 22:11:18 ID:x3Hbh0k5
>>246 全くゴミは自分がゴミだと気付かないから、ゴミのままなのでござる。
この
>>243などもゴミの匂いがぷんぷんしおる。
暴言を吐くことは仏教でもキリスト教でも禁じているというのに、それを垂れ流すカラスを誉め、他を貶めるとはいかにも臭い。
恐らくゴミの仲間であろう。
ゴミはゴミ同士でつるみ合って悪趣を形成し、見え見えの手口で他人様を引き摺り込もうと必死になってますな(嗤)。
253 :
我羅捨:2007/04/05(木) 22:27:16 ID:iEYIc+SL
>>251 あなた、お・か・し・い。
まだ都立松沢病院で診てもらってないんですか?
敷地内に桜の木もあるらしいから、お花見がてら行ったほうがいいと思います。
癲狂院内も同類同士つるんでいるようだ(嗤)。
なんだこの流れは…たまげたなぁ……。
256 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/06(金) 06:06:27 ID:SGDJZGhl
>>252 >ゴミはゴミ同士でつるみ合って悪趣を形成し、見え見えの手口で他人様を引き摺り込もうと必死になってますな(嗤)。
それはままんまおまえと、その一派と、松っていう変な病人のことじゃねぇか。なんかのギャグか?
おまえ、随分、松 っていうゴミと、気が合うようじゃねぇか。類は友を呼ぶだな、わっははは。
松は、おまえにお似合いだよ。
257 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/06(金) 06:24:48 ID:SGDJZGhl
>>245 なにが十牛図だ。釈迦の仏教とは別物の、禅思想を、
ここ原始佛教を唄うスレで得意げに語られてもな〜。
ましてや俺に、虚偽論に過ぎない禅思想を得意げに語られても、ちゃんちゃらおかしいだけだ。
しかし似非キリスト教の統一教会の次は、似非佛教の禅宗か(苦笑)
盲人のおまえにふさわしい流れだ。馬鹿に付ける薬はないよ。
>なにものも求めるものはありゃせんかった。
>このようになってこそが本物と言えましょう。
>これを明鏡止水などと言いますね。
お前達の言うように、実は何にも無いというのなら、この幻影であるこの世界も存在し得ないものである。
無からは何も生まれないからだ。だがこの幻影も、この瞬間、瞬間には存在している。
あれ有りてこれ有り。あれなくして、これもなし。だがこの世は幻影であっても、”いまここ” には存在している。
つまりこれは、あれありての証明でもある。縁起があるということは、それがあるということだ。
それがなければ、縁起も有り得ない。無からは、何も生まれないのだ。
縁起を語りながら、結論は何にも無いという無を語るお前達の理屈は、理論的に成り立たない。論理破綻している。
258 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/06(金) 07:28:07 ID:j9RxqCE0
>>257 仏教を語ちるなら、根本的にインド哲学から勉強した方がいいよ。マジで
例えば「無」という表記にしても、西洋哲学とインド哲学は全く意味あいが違う。
なんでも一緒くたにしたら、それだけで稚拙な書き込みしかできない。
例えば、
>実は何にも無いというのなら、この幻影であるこの世界も存在し得ないものである。
これにしても、西洋哲学なら意味は通じるけど、インド哲学では意味不明です。
西洋とインドの大きな違いは、仏教は一如の法門でして、
そもそも論理の組み立てからして全然違う。
アビダルマは、なんとか西洋論理も通じるとこがありますが、
これは帰納法的論法におけるからです。
中論のように演繹法では全く意味不明になる。
>無からは何も生まれないからだ。
貴殿は、これ↑が脳にインプットされている為、多様な考えがそこで拒否反応がおきる。
これがいわゆるマイコンの特徴でして、これを解除するのは困難です。
259 :
神も仏も名無しさん:2007/04/06(金) 07:44:11 ID:kfm5dmvu
>>バカラスよ
愚かな人間どうしで罵りあってもなんの得にもならん。
便所掃除でもしながらてめぇの穢れた心も浄めなさい。
260 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/06(金) 08:00:33 ID:SGDJZGhl
>>258 おまえのいいたいところの無とは何か知っている。
俺は基点のゼロを話している。完全な無の話をしているのではない。
それは、言葉で表現すると、一相=無相。
それは何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
語っている。それをおまえは永遠に俺がそれを悟っていないかのごとく、絡んでくる。
おまえ、キチガイだな。
おまえは方や、
>>245のような物言いで、何にも無いという意味の無を語りながら、
それは違いますよと指摘すると、いいや私の言っているのは、一相、無相の無ですよと言い返す。
どちらも相反するものだ。おまえは論理破綻している。子供が屁理屈で、親に口ごたえしているレベルだな。
お前の言う、無とは、一相、無相という意味の無だ。というなら、
>>258出のお前の主張である、それは「何にも無い」という表現は完全違う、間違いだ。
お前の言う無が、一相、無相という意味での無なら、求めるものは存在しているということになる。
お前の口ごたえは、論理破綻している、ただの詭弁でしかない。
カルト思想に洗脳されて、それから抜けられないのは、元統一教会員の、お前の方じゃないか。
お前の言説は、いまだに残る、麻原シンパのオウムの残党の能書きと、まんま一緒なんだよ。
結局お前らは、いくらへ理屈で言いつくろうとも、己の我を、大事にしたいだけの、能書きに過ぎない。
出禁廃物のカテゴリーは二つ(嗤)。
片や沙婆世間、社会のあらゆる場から波羅夷・駆逐されているサイコパス外道。
片や池沼の身の程も弁えず、勧誘工作を始め、忽ち素性が暴露されてしまうジャンキー外道。
262 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/06(金) 08:14:11 ID:SGDJZGhl
一相=無相であるということは、それは自性ということになる。
つまり、一相=無相=自性。
それを何にも無いなどとほざくとは頭が悪すぎる。
こいつの能書きによると、一相=無相=自性=なんにも無い。ということになる。
論理破綻している。
自性とは現代語に訳すと、実体ということになる。
さすが洗脳された人の思考回路は違うようで。
263 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/06(金) 08:26:07 ID:SGDJZGhl
ある心理学者によると、世の中には邪悪な人がいるという。
彼らは、驚くほど共通の特徴を持ち、その点から見ても、明らかに病気であると判断できるものである。
だが残念ながら、現代の精神医学では、彼らの精神の病を治す治療法は確立されておらず、
現代の精神医学では治療できないものである。彼らは体裁を人一倍気にし、
自分の心の闇に光を当たられることを極端に恐れ、自分の心の闇を、見事に他人に転嫁できるという能力を持つ。
机よ、カルト思想に侵され、アタマに変なプログラムを挿入されたのは、元統一教会信者の、お前の方じゃないか。
自分(カルト)の見解を、鬼のように執着し、多種多様な考えを受け入れないのはおまえのほうだし、
カルトに洗脳されたのもおまえのほうだ。自分のことを、他人に転嫁するんじゃないよ。おまえは、邪悪だよ。
>>261 なんか言ったか?アホウ陀羅經さん、アホアホ陀羅經さん。
君のお友達の、松さんはどうしたんだい?
類は友を呼ぶとは、よく言ったもんだな(爆笑)
265 :
神も仏も名無しさん:2007/04/06(金) 08:29:58 ID:kfm5dmvu
>>バカラスよ
お前の頭脳レベルはわかったから、早くオナニーでもして寝ろ。
266 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/06(金) 08:39:03 ID:j9RxqCE0
>>260 >俺は基点のゼロを話している。完全な無の話をしているのではない。
基点などあろうわけはなく、ましてや完全などあろう筈はない。
なんにおいて何があろう筈もなく、ましてやなんにおいて何がないわけではなく、
このように論理そのものの構築が違うのです。
それは一如でありますから、基点も完全も、その名称&形態こそが意味をなさない。
何故なば、基点という相対と完全という相対そのものが”ナイ”。
この”ナイ”の意を「無」と言うておるのです。
ですから、有無における二項の無とは全く語意自体が違うのであります。
>カルト思想に洗脳されて、それから抜けられないのは、元統一教会員の、お前の方じゃないか
原理講論は勉強しました。
その頃はマルクス論も双修していました。
層化にも出入りしてましたね。
そういうのが好きだったのかもしれません。
(今はあまり関心はない)
267 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/06(金) 08:47:15 ID:SGDJZGhl
>>266 だからそれは言葉では正確に言い表せない性質のものですよ。
なぜなら言葉は識別するものだから。そのことを踏まえて、
それを、言葉で表現している。と、俺は、
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
語っているんだよ。
それをまるで俺が知らないかのごとく、永遠に絡んでくる。
おまえキチガイだな。
>それは一如でありますから
一如があるということは、なんにもないということにはならない。
おまえの戯言は、単なる詭弁であり、虚偽論に過ぎない。
名称とは何に成ってなるか?それは言によって成る。俺はそこまで突っ込んだ話をしている。
居議論でごまかす、お前とは違うのだよ。
268 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/06(金) 08:49:26 ID:SGDJZGhl
>>266 統一教会→創価学会→禅宗。
華々しい経歴だことで(苦笑)
269 :
我羅捨:2007/04/06(金) 08:53:42 ID:kwcQXgyl
言葉という道具を使って説明するのは、難しいですね。
言葉は己の思考(観念、主観)そのものだから。
270 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/06(金) 09:09:28 ID:j9RxqCE0
>>268 >華々しい経歴だことで(苦笑)
「ものの見方、考えかた」を多角的に見証するのも大事なんですよ。
そういう中で、ドグマ的要素がなく
哲学的見地でも有力な判断材料が期待できるのは禅かと思う。
禅に固執している訳ではない。
ようするに宗教というのは、それが目的という訳ではなく、
自己変容の材料になってくれさえすればいい。
宗教という意味は「もともとの教え」ですから、
そのベクトルにおいて宗教と関わるのがベター。
出禁廃物どもが底辺外道、「無縁の衆生」であることは確定した事実につき、問答無用で退下を命ず。
これらの眷属・カモどもも
>>1を読み、即刻退下せよ。
↑そんなにムキになって排除しようとしなくても。
外道、外道って言ってるお方が一番外道のような気がしないでもない。
淘汰されるべきものは、時が来れば自然に淘汰されるもんよ。
鷹揚に行きましょうや。
273 :
素人:2007/04/06(金) 10:45:51 ID:ycU4RTrX
2chにおける初歩の初歩はスルー。
ああいう輩の弾圧・駆逐は、学童期からの遊戯・道楽なもんでね(笑)。
275 :
素人:2007/04/06(金) 10:49:11 ID:ycU4RTrX
しまったw
enter書き込みになっとった。
基本はスルー。
興味深い内容があれば、レス。
それでいいじゃない。
比重を言うなら、
『「誰が」言ったか』ではない、『「何が」言われたか』だ。
276 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/06(金) 11:49:05 ID:j9RxqCE0
>>257 >だがこの世は幻影であっても、”いまここ” には存在している。
そもそも仏教においては、こういう論法は相応しくない。
アビダルマ哲学は、実有論としてこの流れの論法はするけど、
当時はまだまだ論法自体が未達の発展段階にあったことも考慮すべきかと思うね。
しかしながら、アビダルマにしても
時系列において「幻影」と「存在」といふ相反する概念を併記することは全くない。
この論法はカルトがよく使う手法です。
この世界は幻影ではない。
倶胝和尚の侍者が、どうも解らん人で、
和尚がちなみに指を切ったところ、その痛み(リアル)で領悟した。
つまり幻影じゃなく、指を切れば痛いわけです。
痛いことが真実であり、ここからは免れることはできまいのぉ〜。
無我と自由意志と業報の関係については、すでに平川彰『インド仏教史 上』pp.243, 245-246で解説されている。
それで十分だと思うが、あえて私見を付け加えるとすれば以下のとおり。
ウパニシャッドはアートマンの実在を説き、業報を言う。
これに反対してアジタは「人は四大から成り、(アートマンの)実在は偽りの戯れ言」と説き、
「善悪業の果報はない」と言う。(沙門果経)
仏教は、これら二つの見方を離れて中道に立つ。「我でもなく非我でもない」(スッタニパータ858)
また仏教では通常の「自己」を否定していない。「自己を正しくととのえよ」(ダンマパダ 自己の章)
そして、無常・縁起を言う。無常・縁起だから、物事は変化する。変化し得るのだから、努力も
奨励されて、責任も問われる。「ブッダは業論者であり、業果論者、精進論者である」(AN.I, p.287)
278 :
我羅捨:2007/04/06(金) 12:38:35 ID:Rso0HiXW
>>276 横レスですが、机さん、論理の前提がズレていませんか?
>>だがこの世は幻影であっても、”いまここ” には存在している。
というのは、カラスさんの実感としてあるわけですよ。
これに対して、
>当時はまだまだ論法自体が未達の発展段階にあったことも考慮すべきかと思うね。
そもそもアビダルマ自体が、ブッダ没後数百年してから当時の僧たちによって研究、編纂されたものです。
言葉(文字)を媒体として著されたもの(著したもの)は、そもそもその時点で、ブッダの思想そのものを
正確には現せないと思います。
もちろん、ブッダ自身が、自分の内的体験を口を通して(言葉として)外部に表現した段階でも然りです。
禅に詳しい机さんなら、そのところはよくご存知だと思いますが・・・・・・・。
また、「実相(実体)」は論法手段がどうであれ、「それそのもの」なんですよ。というか、論法云々の問題なんですか?
「幻影」という言葉の概念が机さんとカラスさんでは違うと思いますが、机さんの「幻影」は、
あたかもスクリーンに映し出される映像のような、その映像を見ているような感覚の印象(意味)を、
私は受けます。
一方、カラスさんの言う「幻影」は「空」という意味に受け取れます。
(別に、カラスさんを擁護しているわけではありませんよ。)
空そのものは、過去でもなく、未来でもなく、現在(現時点)にある。そういう意味において、
「今ここに存在している」ということだと思いますが。
>つまり幻影じゃなく、指を切れば痛いわけです。
>痛いことが真実であり、ここからは免れることはできまいのぉ〜。
指を切れば痛い。これは、当たり前でしょう。五感から直接受ける刺激ですから。
279 :
96:2007/04/06(金) 13:37:02 ID:UUM9mMul
>>232 論点整理ありがとうございます。
>>188>>217>>222>>223-
>>224>>229>>231-
>>234>>277なども大切なレスです。
(つまりカラスの唄 ◆S5WLCcUno2 関連は全部無視ということでww)
<縁起のなかで人は本当に自由でありうるのか?>
仏教は『因果律=縁起の中の自由意思』という命題は正しいのか。
“自由”とは、それ自身で存在していること。自ら=主体、自我によるということ。
縁起とは逆の概念になる。
http://www.tatsuru.com/jibutsu/html/text.2.html いろいろ考え直しましたが、自分なりに以下の平凡な仮説を立ててみました。
『人は真に自由意思があり、自由でありうるかはべつとして、「自己という仮有」の相に
おいては、自由の主体として自らも行動し、また他人からもそのように取り扱われている
という共同幻想が現実なのだから、少なくとも人倫の世界においては、人は「自由なもの
としてー少なくともー擬制されている」。』従って自由―(相対)道徳―責任―非難は
一体のものとして擬制として成立している。
280 :
96:2007/04/06(金) 13:38:51 ID:UUM9mMul
281 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/06(金) 14:43:01 ID:j9RxqCE0
>>278 >一方、カラスさんの言う「幻影」は「空」という意味に受け取れます。
空というのは、そもそも何かを指して(名詞)成立つ言語と違って、
その意味を含まない。という語義。だから非語義とも言うべきや。
>指を切れば痛い。これは、当たり前でしょう。五感から直接受ける刺激ですから。
存在というのは対象化されて成立つ語義ですから、
五感感受は、これに含まれなく、また非存在とも言えない。
だから縁起を現象とするならば、
存在(実体有)でもなく非存在(実体無)でもなく、この二辺に依らない空(中道)とした訳です。
五蘊は色であります。一切は現象である。の意味
一切が現象であるならば、一切は空である。これが五蘊皆空
(色即是空)
つまり「痛い」というのは、存在でもなく非存在でもなく空である。
>>278 池沼外道の「実感」とやらは、妄想と呼ばれる。不可触基地外のサクラ行為を禁ず。
>>280 ブッダは、バラモン・六師外道らとの思想的前提の共有を峻拒していることに常に留意すべきと考えます。
283 :
神も仏も名無しさん:2007/04/06(金) 15:50:13 ID:6ZpOasBJ
統一教会→創価学会→禅宗。
へー しばし 絶句するような。どういう組み合わせかな これは?
真面目そうな文体の人なんだが、これは一体・・
284 :
我羅捨:2007/04/06(金) 16:01:07 ID:Jgixd7QO
>>281 もしもし、デスクさん?いえ、机さん。
また、理解不明なことおっしゃってませんか?
>空というのは、そもそも何かを指して(名詞)成立つ言語と違って、
>その意味を含まない。という語義。だから非語義とも言うべきや。
って、「空とは非言語ですよ。」って言語化してるじゃあ〜りませんか?
本来、空そのもの(そのこと)は確かに言語化出来ないものだとは思いますよ。
でも、それは個人的な内定な体験(感覚)を言語化出来ないということであって、空の概念そのものが分からなければ、
ブッタの思想も般若心経の意味も、仏教そのものの理論も、後世、今現在の私達にまで伝わってこなかったでしょう。
言葉(言語)の性質からして、ある意味、無理があるのは否めませんよ。発する側と受け取る側の主観と主観の問題ですから・・・・・・。
この主観と主観を越えたところのもの、または、主客を越えたところのものが無我であり涅槃ということなのではないでしょうか?
>存在というのは対象化されて成立つ語義ですから、
>五感感受は、これに含まれなく、また非存在とも言えない。
そんなことはないでしょう。
机さんは、目に見える対象だけが「存在」と認識されているように思います。
五感感覚は、もちろん、物体としての存在ではありません。しかし、感覚そのものは「ある」でしょう?
もし、何をやっても(何をされても)痛みがないというのなら、ハッキリ言って、病気ですよ。
今まで、歯の痛みも、胃の痛みも感じたことはありませんか?寒い、熱いを感じたことはありませんか?
その痛みをも「空」っと喝破するなら、机さん、あなた、人間じゃないですよ。
>>283 驚くことはありません。統一教会(外道)→糟禍学会(外道)→禅モドキ(外道)という外道サーフィンの挙げ句、沙婆世間から波羅夷・放逐された、虱壁蝨以下の廃物です。
286 :
我羅捨:2007/04/06(金) 16:06:27 ID:Jgixd7QO
>>282 どういう、意味ですか?私は、サクラではありません。
前にも書きましたが、カラスさんを無意味に擁護しているわけではありません。
カラスさんのレスに対して私の見解を書いているだけです。
もちろん、それが間違っているのであれば、カラスさん本人から指摘があるでしょうから。
たとえ、カラスさんが言葉上で暴言があるにせよ、本質の部分で間違っていないのならば、
私はそれは納得いきますよ。
287 :
神も仏も名無しさん:2007/04/06(金) 16:09:41 ID:lQ9jUcUg
289 :
我羅捨:2007/04/06(金) 16:13:23 ID:Jgixd7QO
>>284 訂正
×でも、それは個人的な内定な体験(感覚)を
○でも、それは個人的な内的な体験(感覚)を
290 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/06(金) 16:14:21 ID:j9RxqCE0
私が統一教会と接点をもったのは随分むかしですね。
女子大生が2名で、駅前で辻説法らしいアジ演説?をやってるのを目撃しまして、
冷やかし半分に女子大生に接近したんでよw
そしたら女子大生が「毎日でもいいからアパートに来てくらさい」。
とか言うんです。
そう言われば、やはり逝きたくなるもんですね。
私は毎日のようにアパート(下宿やみたいなもん)に通いまして、
原理講論を勉強しました。
その後、いろんな事がありまして、
女子大生は「ホームに帰るから一緒に来ないか?」。とかの誘いがありましたけど、
私は断りまして、それっきし統一とは縁が切れましたね。
私の青春期において、いい思い出になりましたよ。
層化は、ただ座談会に参加いていただけで正式の会員ではなくF(エフ)といわれる、
いわゆる会友とでもいいますか、フレンド的な位置におりました。
まあ、つまりオブザーバー的なもんと了解なさってくれればいい。
当時は、私はどちらかと言うと左翼に傾倒しておりまして、
そちらの方が付き合いは多かったですね。
致命王・絶命王とかいう、これまた壁蝨虱どもの断末摩を遠巻きに眺めるのも一興(嗤笑)。
292 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/06(金) 16:26:58 ID:j9RxqCE0
>>284 >五感感覚は、もちろん、物体としての存在ではありません。しかし、感覚そのものは「ある」でしょう?
感覚があるのはアタリマエですよ。生きているなら感覚はあります。
「感覚」というのは対象化されて成立つ訳じゃなくて、
それは関係性のことです。
関係性というのは対象化できんでしょ?
(これは分りますか?)
対象化できんもんを、存在とか非存在とかに”対象化するのは無理”なんです。
(これは分りますか?)
>って、「空とは非言語ですよ。」って言語化してるじゃあ〜りませんか?
「空とは非言語ですよ」。→勝義諦
「言語化してるじゃあ〜りませんか?」。→世俗諦
293 :
我羅捨:2007/04/06(金) 16:51:17 ID:Jgixd7QO
>>292 机さんって、論理のすり替えが下手ですね。ツッコミどころ満載。
>「感覚」というのは対象化されて成立つ訳じゃなくて、
>それは関係性のことです。
関係性?どういうことですか?机さんの論理展開が理解できないので詳しく説明していただけませんか?
>関係性というのは対象化できんでしょ? (これは分りますか?)
わかりません。
>対象化できんもんを、存在とか非存在とかに”対象化するのは無理”なんです。(これは分りますか?)
わかりません。
というか、どうして五感感覚(この場合、痛みということ)=関係性=非存在=空という論理になるのかわかりません。
>「空とは非言語ですよ」。→勝義諦
>「言語化してるじゃあ〜りませんか?」。→世俗諦
「空は勝義諦」ということも、言葉を用いなければその概念も伝えられないでしょう?といっているんですよ〜。
では、空という概念を言葉を使わないで説明してみて下さい。
もし、言葉を使わないというなら、机さんが、ブッダがやったことをそのまま実行して、その感覚を実感し、
今、この掲示板で体現するしかないでしょう。でも、そんなことできますか?できないでしょう。
つまり、あなたがどんなに頭脳明晰な方かは知りませんが、どんなに勝義諦の概念、世俗諦の概念を
知識として理解(解釈)したところで、所詮、あなたの主観、あなたにとってのドグマでしかないんですよ。
それこそ、あなたにとってドグマ的でない、哲学的な「禅」とはかけ離れたものだと思いますが・・・・・・・・。
294 :
我羅捨:2007/04/06(金) 16:57:05 ID:Jgixd7QO
サイコパス相手というのは、すごく疲れます・・・・・。
しばし、休憩します。
295 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/06(金) 17:10:07 ID:j9RxqCE0
>関係性?どういうことですか?
痛い(関係性)があってこそ、感受される者(主体)と、その対象(客体)が分別できる。
関係性とは「痛い」です。
つまり、対象化できるのは主客であり、関係性そのものは対象化できない。
>というか、どうして五感感覚(この場合、痛みということ)=関係性=非存在=空という論理になるのかわかりません。
そりゃぁ簡単に解せるもんじゃないです。
釈尊入滅後、無数の行者がこの命題に取り組んできた訳だけど、
全ての行者が開悟した訳じゃない。
それだけ至難なのは、いがめない。
>空という概念を言葉を使わないで説明してみて下さい。
空というのは概念ではなく、ものごとを捉えるその以前の主客未分であり、
およそ直覚的に領悟するもんです。
思考の延長線にあるのではなく、そのアンチと解釈したらいい。
>所詮、あなたの主観、あなたにとってのドグマでしかないんですよ。
おそれ入ります。
>>294 サイコパス・ジャンキーいずれの不可触外道も人語を解し能わぬ廃物につき、汚穢散布幇助を固く禁ず。
>>279-280 「本当に自由」ということが「何ら制約のない完全自由」ということなら、
そういうものはないし、また、求めても得られないでしょう。
しかし、大事な点ですが、問われているのは善悪の2つの選択肢があった場合のことであり、
それを選ぶことは本人の意志に委ねられている、と言えます。
そういう意味では、自由意志があり、責任も伴う、ということになります。
また、縁起というのは、「これ生ずれば かれ生じ、これ滅すれば かれ滅す」というように、
生起・消滅の両面を持つものであり、自由意志の及ぶ範囲内で、「これ」を生じさせるか、
それとも滅しようとするかは、本人の意志にゆだねられています。
ということで、縁起は自由意志と矛盾するものではないと思います。
> ブッダの・・・本質的志向は六師外道と変わらず、
文意が不明ですが、ブッダの教説の本質が六師外道と同じとは、とても思えません。また、新概念
に、旧概念の新たな組み合せ、という面のあることは肯けますが、新発見という面もあります。
298 :
280:2007/04/06(金) 20:48:01 ID:UUM9mMul
>>297 >「自由意志の及ぶ範囲内」「縁起は自由意志と矛盾するものではない」
無我と自由(=自我に由る)は矛盾ではないかを問題にしました。
「自我」と同じく「自由意志」があると思うのはサンスカーラ(誤まった思い込み)
ではないか、と問いました。
しかしこういう根本的な問いをしていたのでは社会は成立ちません。
自由意思の存否は形而上問題であり、人間を「自由意思の抽象」(マルクスのヘーゲル法哲学批判)とは
できません。
従って、人倫世界では「擬制」と考えざるを得ないのではないかと仮説を立てました。
>ブッダの教説の本質が六師外道と同じとは、とても思えません。
偉大な思想は真空管のなかで生まれるわけではありません。
孔孟vs諸子百家、ソクラテスvsフォルソクラティー・ソフィスト、ブッダvs六師外道などの対応関係が
観られるように、人類を導く偉大な思想の誕生は百家争鳴の中からうまれます。
あの当時、バラモン・カースト(特に業法輪廻思想)を最も先鋭に破壊し得る思想はアジタ・ケーサカンバラにあると考えます。
シュードラ階級にとってはこれしかないと思えます。ブッダの「中道」はとうてい社会革命思想ではありえません。
アジタの思想は「もっともひろく行われたものであったようである」(増谷文雄)。
増谷文雄・梅原猛「知恵と慈悲」66〜92頁、206〜210頁
宮元啓一「仏教誕生」など
299 :
280:2007/04/06(金) 20:54:26 ID:UUM9mMul
やはり真理は階級性があるのです。
300 :
神も仏も名無しさん:2007/04/06(金) 21:27:34 ID:SbcklrsO
何の束縛もなく何をしても自由というほどの不自由はありませんよ
寝る時間もないほど忙しいのも辛いけど、
寝る時間が腐るほどあるのに寝れないのはもっと辛い
自由か不自由か?という問いは馬鹿げている
>>298 >あの当時、バラモン・カースト(特に業法輪廻思想)を最も先鋭に破壊し得る思想はアジタ・ケーサカンバラにあると考えます。
>シュードラ階級にとってはこれしかないと思えます。ブッダの「中道」はとうてい社会革命思想ではありえません。
現在、ネパールで活躍しているマオイストにつながる思想でしょうが、体制の破壊という方法で
現体制を急激に変革して、その結果、国民が幸福になったかというと、ロシア革命や中共成立後の
大量餓死の発生、クメール・ルージュ政権樹立後のキリング・フィールド、という実例もあり、
急進政策で成功するものかどうか、はなはだ疑問ですね。
自由な意見の表明も難しいようですし。
それよりか、もろもろ不満はあったとしても、微温的な対応の積み重ねをしていった諸国の方が
国民の満足度は高かったように思います。
まあ、支配層が制度改革をみずから推進してゆかない国では、被支配層の政治変革を求める欲求は
高まる一方でしょうが。
というか、そもそもブッダが解決を目指したものは、政治がどう変ろうと、また、科学技術が
どれほど高度になり、人間の生活の質的向上に資するようになろうとも、人間に付きまとうことを
止めない本質的な苦のあり方、それへの対処に関してであり、また、それ以外の何物でもなく、
社会変革を直接志向するものとは、根本的に、その指向性を異にしていると言えるでしょう。
痛みは物じゃないから無い(有る、無い)
痛みは在る
同音異義のひっかけ。「ある」だと、どっちとも都合よく取れる。
有無で言えば痛みは無い。
痛み(非物体、概念、事)は、切る物(物)と切られる者(物)
の関係で成り立っている。
だから
五感感覚=関係性=非存在(有無として、物体か概念か)=空
ま、
>>299みたいな耄碌敗残サヨク厨には、「真理」など絵に描いた餅にすらならんわけだが(嗤笑)。
どうせ悪趣の最底辺を永劫ループし続けるだけ。
304 :
神も仏も名無しさん:2007/04/06(金) 22:47:59 ID:VZl28Bbx
>>280 六師外道は 縁起中道でない外道だから外道なんでしょう。
>>302 そう、話を複雑にしないでもいいんじゃないかな。
問題は、肉体的な痛みとして受けた第一の矢だけでなく、
それを更に苦しくさせる第二の矢をどう受けないか、ということであって。
>>305 > そう、話を複雑にしないでもいいんじゃないかな。
> 問題は、肉体的な痛みとして受けた第一の矢だけでなく、
> それを更に苦しくさせる第二の矢をどう受けないか、ということであって。
できるな。おぬし。
この粘着シャカシャカスレにおいて、稀有なことである。
シャカシャカ:釈迦はかくのごとく言っているなどと、歴史上人物の後光を借りることであーる。
またはイエスはしかじかと言っているなどと、いかにも正論であるかのように振る舞うことであーる。
>>298 >無我と自由(=自我に由る)は矛盾ではないか
1)ウパニシャッドなどの「有我論」
2)それに対抗してアジタの言った「存在しない」ということ
仏教でいう「無我」という言葉の意味は、2)ではなく、
3)「それら両者の論争を離れる」
ということが本意です。
形而上学の論争に巻き込まれない、ということですね。
ですので、「自我が無いのに、その無いはずの自我に由る、というのは矛盾ではないか」という
問いは、そもそも成立し得ないのです。
また、仏教では「通常の意味での自己」が存在しない、とも言いません。
なので、この点から言っても、
自己の判断で決める、つまり、自らに由る、という意味での「自由」と、
仏教の「無我」とは矛盾しない、ということになります。
308 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/07(土) 07:36:14 ID:U7RpLHal
>>305 >そう、話を複雑にしないでもいいんじゃないかな。
いや、論題としたら
>>302はイイ書き込みかと思うよ。
第一義諦は何か?において、アビダルマと中観の違いがありますから。
アホダラ氏がエンドレスにスレを立ち上げているのは、
この骨格の部分が把握されていないため。
>痛み(非物体、概念、事)は、切る物(物)と切られる者(物)
>の関係で成り立っている。
これを逆な論法で有部を批判したのが龍樹ですから。
縁起の順観・逆観論もこの論法です。
第一義空において無自性の論理的整合性が成立つ、
非常に重要なとこかと思います。
309 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/07(土) 13:26:16 ID:U7RpLHal
(つづき)
>というか、どうして五感感覚(この場合、痛みということ)=関係性=非存在=空という論理になるのかわかりません。
一切というのは事象・心象の一切ですから、この一切が三法印において冠になっていることから
お解かりのように、仏教の根幹をなすところです。
これにおいて無我とか無常とか皆苦が続く。
つまり、一切でどうにか自己同一を感受できる。
(自己同一については京都学派が論文出してる)
感受できるから自己という認識もある。
ということで、
つまり自己同一は関係性においてのみしか認識はできない。→無我
一義は関係性であり、自己は二義。→無常
ということでありまして、
第一義空(関係性=縁起)とて三法印は説かれたものです。
流転縁起
無明:真実のありようについての根本的無知↓
行:それにより集合的,社会的にsams作りだしkAr共有している通念a幻想↓
〜〜〜越えがたい溝〜〜〜
識:その幻想に色づけられた認識作用↓
名色:それによって作られる概念と世界像↓↑
六処・触・受:それに基づく感覚の歪曲,変容↓↑
以下略
311 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/07(土) 17:01:14 ID:7rd5T7lE
>>302 以前に指摘のあった、繋辞と存在辞の整理によって片付く話。
312 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/07(土) 17:26:01 ID:7rd5T7lE
>>310 耄碌敗残サヨク厨は、「ポル=ポト・ブッダ」でも拝んで悶絶しときなさい(嗤笑)。
Paul Groner, A History of Indian Buddhism, From Wakya to Mahayana, University of Hawaii Press, 1990.
お弟子さんによる平川彰『インド仏教史』の英訳
314 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/07(土) 18:38:26 ID:WxH9GCfB
>>312 左翼だの右翼だのと、いつまでも二元思考に囚われ続けるおまえは凡夫そのものだな。
何年佛教に関わっているんだ?情けない人だ。まさに豚に真珠とは、おまえのことだよ。アホウ陀羅經さん。
315 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/07(土) 18:39:43 ID:U7RpLHal
>>312 書き込んでくれた名無しさんに、そんなことを言うては駄目ですよ。
なかなかイイ書き込みじゃないですか。
貴殿の持論である「十二支縁起の逆観で真諦に至る」。ってな命題にピッタシじゃないですか。
<<摘要>>「ジャイナ教古聖典とDhammapada」 渡辺研二 印佛研54−2 (平18.3)
>諸悪莫作の表現がマハーヴィーラ出家直後の言葉とパラレルにある
>サンスクリット語では否定辞のついた名詞は積極的に強い意味をもつことがある。
>したがってapramAda「不放逸」は積極的に「注意深いこと」というような意味になりうる。
>「激流も押し流すことのできない島を作れ」ダンマパダ25
>「あたかも水に浸かったことのない洲のように、その法は聖者によって説かれたのである」ジャイナ教古聖典
>インドにおける洪水のとき、若干高くなっている洲が水に浸からないことから、このようにいうのである。
>この場合dIpa(=dvIpa)は洲あるいは島を意味する。
>ジャイナ教の文脈では仏教における法燈明自燈明の燈明(dIpa)の意味にはとることがないようである。
>このアーヤーランガ・スッタでは法(dhamma)が洲にたとえられている。
>「自らを島(dIpa)とし、自らをたより(saraNa)として、他のものをたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころ(saraNa)として、他のものをよりどころとするな」大般涅槃経
「たより、よりどころ」の原語 saraNa は、三帰依文の「帰依」と同じ。
「帰依法」のパーリ語 "dhammaM saraNaM gacchAmi"
>ダンマパダ379c so attagutto satimA sukhaM bhikkhu vihAhisi.
>修行僧よ、自己を護り、正しい念を持てば、汝は安楽に住するであろう。
>アーヤンガラ・スッタ Aya-gutte sayA dhIre jAyA-mAyAe jAvae
>賢者(気をつけている人)は常にアートマンを護っている。
仏典でもアートマンを護れ、となっている点に留意。もちろん、永遠不滅の真我ということではない。
なお、「『これはわが物である、これがわれである、これがわが本体である』と認めることはできない」の場合の
「われ、わが」は "etaM mama, eso 'ham asmi, eso me attA" というように代名詞 ahaM が用いられている。
317 :
神も仏も名無しさん:2007/04/07(土) 20:12:35 ID:Jh6euRLQ
行(サンスカーラ)=共同幻想・・・順世外道、社会革命派
縁起はあくまで、個の解放、しかもそれは社会の違いにも関わらず、あらゆる人に
つきまとうことからの解放、そのための方途であり、(つまり内縁起ってこと)
原始仏教スレに政治ネタは根本的に異質であり、不要不急ってことでは。
318 :
神も仏も名無しさん:2007/04/07(土) 20:58:13 ID:cdTCR/4h
>>317 涅槃とやらで孤独にオナニーに耽ってたい奴が多いな。
人間は社会的動物なんだよ。
だから、ブッダも成道後「正覚者の孤独」に陥られた。
ハイデガーのいうIn-der-Weit-sein(世にあること)=Mitsein(共にあること)だ。
このブッダのこころの動きはとても尊く、美は乱調にありを感じさせる。
ここから、かの「梵天勧請説話」へ続く。
原始仏典で最も美しく好きな名場面だ。
>縁起はあくまで、個の解放 って、誰が限定したんだ?
>政治ネタ? 現象に対するあなたの把握にしか過ぎない。
ブッダのもので出家したのは、その「平等主義」の建前にもかかわらず、
ほとんどが当時の超富裕エリート階級であり、支援者も広大な土地に金貨をばら撒ける
ような連中だったことはどういう「政治的」意味をもつのかな?
319 :
神も仏も名無しさん:2007/04/07(土) 21:09:15 ID:1PjpAiQw
>>317 アートマン肯定 vs アートマン否定
に固執するから?ということですか?
320 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/07(土) 21:34:20 ID:U7RpLHal
>行(サンスカーラ)=共同幻想
四文字熟語は、造語した時に意味付けされるから、
共同幻想というのは、その意味でしか通じなくなる。
例えば、集合意識というのはユングの世界に関連して普通は解釈される。
共同体とか集合体とかは、ある特定の形態を形成していく特殊性がある。というのは
クリシュナムルの持論だが、ここの共同〇〇という造語を作れば、
これはクリシュナムルに関連した意味付与がされる。
これが前記の
>共同体とか集合体とかは、ある特定の形態を形成していく特殊性がある。
ということな訳だけど、
これがつまりが言語の特殊性。ということになり、
この特殊性を超克するのを脱共同体ともいう。
これは論理学においても非常に高度な論な訳だが。
>どういう「政治的」意味をもつのかな
あなたが志向してるのは、苦楽の苦を減らし楽を増やそう、という「最大多数の最大幸福」だよね。
それはそれで追究してけばいい。政治制度も改良し、科学技術も進歩させてけばいい。
大事なのは、仏教ではそういう相対的な苦の解放を第一目標にしてるのではない、という点なんだ。
そういう訳で、政治的意味を探るとかいった話はなじまない、ってことをどうぞご理解ください。
簡単にいえば、「地上の楽園」国家樹立でも、四苦八苦の解放は実現できない、ってこと。
322 :
神も仏も名無しさん:2007/04/08(日) 07:47:58 ID:XsU2hy2V
今はカリユガの時代
誰がどうあがこうが、それを変えることはできない
この最悪の時代をどう心地よく生きていくか
それを考えることが智恵ではないでしょうか
323 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/08(日) 08:09:02 ID:5J0dEWcx
初期サンガは、形態とすれば原始共産主義的であり、
それがやがて規模が拡大するにつけ規律とか戒律が統制としての役割をもつ。
つまり戒律は政治的なアプローチという多面性な意味あいもありますから、
これは、サンガ(共同体)における独覚という、
ある種、背反する形態が常に内在する。という特殊性があります。
つまり、サンガの発展はやがて形骸化してくる。
という共同体特有の特殊性がありまして、
>ほとんどが当時の超富裕エリート階級であり、支援者も広大な土地に金貨をばら撒ける
>ような連中だったことはどういう「政治的」意味をもつのかな?
このように、古今東西、人類は繰り返してきました。
(今の日本仏教がその結果)
これが仏教史観であります。
324 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/08(日) 12:31:31 ID:cHs0+eHi
ヘーゲルやらマルクスなどの荒唐無稽な戯論イデオロギーを、佛教教理にこじつけよう
など、筋違い且お門違い(嗤笑)。
325 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/08(日) 13:14:54 ID:5J0dEWcx
>>324 純粋な原始仏教というなら、死灰滅智涅槃で本能否定だよ。
戒律が厳しかったのはそのため。
つまり、貴殿が講釈垂れるのも滅智の涅槃には程遠い。
ということになる。
まあ、そこまで徹底汁!!
とは言わないがな・・・)^o^(
326 :
神も仏も名無しさん:2007/04/08(日) 16:51:42 ID:XsU2hy2V
『お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。』
『お前は額に汗をながしてパンを得る。』
主なる神は、彼をエデンの園から追い出して、
彼に、自分がそこから取られた土を耕せさせることにされた。
人類は農耕という名の「パンドラの箱」を開けてしまったのです
安定食糧の供給という「希望」に人々は狂喜乱舞しました
その裏に潜む「絶望」に気付かないふりをしながら…
それは今から5000年前の出来事
そう、
そのとき『カリユガ』が始まったのです……
327 :
神も仏も名無しさん:2007/04/08(日) 18:18:14 ID:ExHD4muq
莫妄想
■仏教 苦とは、自己の欲するとおりにならない、願いがかなえられないことをいい、それを
深く探究していくと、自己の外のものが思うようにならないというよりも、むしろ自己の内なる
ものが自己に背く、逆にいえば、たとえば、生・病・老・死からの解放というような、自己に
かなわないものを、自己が欲する、そのようなところに苦の本質があって、いわば自己矛盾ないし
自己否定ということになる。〈三枝充悳〉
■苦 人生における苦しみ、悩み。苦はすべての人生の根本問題であり、苦を知り体験すること
によって、人間の生がより深く明らかになる、ということもできる。苦の問題に正面から取り組む
のが宗教であり、宗教は、いかに人間の物質生活が満たされても、なお、残る苦の超克を課題として
生まれ、成立している。苦の究極の原因は、一言でいえば、人間の有限性にある。キリスト教は
被造物としての人間を、仏教は迷いの存在、あるいは人間のもつ自己矛盾・自己否定のあり方を、
苦の根底に据える。
仏教の四苦八苦はよく知られているが、それは、生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会(おん
ぞうえ)苦・求不得(ぐふとく)苦・五蘊盛(ごうんじょう)苦を加えたものをいう。さらに一切皆(いっ
さいかい)苦を諸行無常・諸法無我と結び付けてとらえ、あるいは苦を、身体に感ずるものと、
心に感ずるもの、また対象にかかわるものと、自らによるものなどに分類する。
つねに有限でしかありえない人間が無限を求めるのは明らかに矛盾であり、この根源的な矛盾を
宗教は知的論理を超えて救済ないし悟りに導こうとする。日常の一時的で表層的な苦は、他によって
粉飾され、忘れて通過されたりもするが、生そのものの苦はあくまでも深く、純粋な心に基づく信、
ある啓示ないし直観による自己の転換、苦の徹底的な自覚、修行への沈潜その他によって、かえって
その苦を超克しえた楽の頂もまた高い。〈三枝充悳〉
参考文献 仏教思想研究会編『苦』(1980・平楽寺書店)
日本大百科全書 1999(C)小学館
329 :
神も仏も名無しさん:2007/04/09(月) 02:57:59 ID:px0uGg16
イナゴの大発生
これは醜い
これは恐ろしい
これは不吉だ
人類は知恵をしぼり、協力し、数々の大発生にいどみ解決してきました
でも、人類が解決どうしても出来ない事がひとつだけあります
それは、
人間の大発生
これは醜い
これは恐ろしい
これは不吉だ
でも…
これだけはどうすることも出来ません
人間は禁断の果実を食べてしまったのですから…
330 :
神も仏も名無しさん:2007/04/09(月) 09:07:55 ID:px0uGg16
旧約聖書に気をつけよ
モーセはユダヤのユダヤによるユダヤのための教えを説いたにすぎぬ
『なんじ殺すなかれ』とは『なんじユダヤ人を殺すなかれ』である
だから彼等は平気でゴイムを殺す
神の意志として
新約聖書に気をつけよ
キリストは人間の人間による人間のための教えを説いたにすぎぬ
だから彼等は平気で家畜を殺す
神の意志として
331 :
神も仏も名無しさん:2007/04/09(月) 12:34:30 ID:LMpl9skl
キリスト教と仏教が同じなわけが無い。
十字軍に見られるように キリスト教は異教徒に対しては
殺しもありだろう、
カラスさんは あたまがおかしい。
異質なものを真理は同じなんて単純な発想で
持ち込んでも、物笑いになるだけ。
332 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/09(月) 14:31:42 ID:sUHABdkc
333 :
神も仏も名無しさん:2007/04/09(月) 16:46:23 ID:px0uGg16
漢字ドリルが得意なだけで後は何の取り柄もない不細工・馬鹿・運動音痴・学年一モテナかった僕は今日も漢字ドリルです(嗤笑)。
tathA-gata そのように、ありのままに理解したひと
su-gata 正しく理解したひと
335 :
神も仏も名無しさん:2007/04/09(月) 17:05:02 ID:px0uGg16
街を掃除してまわっていると必ず、「掃除の兄ちゃんが頼んでもないのに勝手に片付けてくれるから散らかしてもいいんだよ」という奴が現れます
アフリカに食糧支援をしてると必ず、「異国の兄ちゃんが頼んでもないのに勝手に食糧を持ってきてくれるから遊んでてもいいんだよ」という奴が現れます
善行って何ですか?
336 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/09(月) 17:14:37 ID:sUHABdkc
底辺文盲厨は保育園くらいから出直すように。
そこも足切りされなければの話だが(嗤笑)。
337 :
神も仏も名無しさん:2007/04/09(月) 17:18:38 ID:3ui/ia+1
test
338 :
神も仏も名無しさん:2007/04/09(月) 17:22:04 ID:3ui/ia+1
なんでこの俺様が長時間アク禁だったんだあ!
これは、阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ の「足切り術」か?
おみそれしました。
339 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/09(月) 17:41:27 ID:4hlYLDKT
>>333 実に深い書き込みですね。
勿論、釣り(ネタ)の書き込みなんでしょうけど。
私は実際(嗤笑)←この字が読めないのですけど。
今まではスルーしてきまして、改めてネット辞書で検索しましたら。
>ししょう ―せう 【嗤笑】 (名)スルあざけりわらうこと。嘲笑(ちようしよう)。
>「牢獄の役員にも―せられて/妾… [さらに]
人間というのはいつか死にますが、死ぬと葬式をやって、精進落しの席で故人の話は出ますね。
故人を悪く言う人はいませんが、
それを差し引いたとしても、故人の隠された逸話を聞くたびに私が恥ずかしくなるほど立派な方は多いですよ。
人は見かけによらんですよ。
(これは一概には言えんけど、嗤笑?されるようなキャラな人ほど逸話は多い)
#、今日は、午前中に入学式(二件)と葬式(ニ件)をこなしました。
午後は精進落しで禅坊主と語ちりましたけど。
坊主は盛況ということで、疲労も一段と濃くなっておりました。
(ガムバレ坊主!!)
340 :
神も仏も名無しさん:2007/04/09(月) 18:02:38 ID:px0uGg16
へえー、「ししょう」と読むのですか
私も初めて知りましたww
で、『善行』って何ですか?
まじでわかりません
341 :
神も仏も名無しさん:2007/04/09(月) 18:54:47 ID:px0uGg16
息子を失って悲嘆にくれる母に対する、
『死人を出したことのない家を探しなさい。』という言葉と、
『善行をつみなさい。』という言葉は、もしかしたら、
同じなのではないかと、さっき、ふと思った
342 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/09(月) 19:22:13 ID:4hlYLDKT
>>340 人は、善悪にある程度の共通認識がある。
その概念を行動および思推に当て嵌めれば善にもなり悪にもなる。
簡単なことじゃないですか?
何がわからんのですか?
善という意味はわかりますか?
>、「掃除の兄ちゃんが頼んでもないのに勝手に片付けてくれるから散らかしてもいいんだよ」という奴が現れます
こういうのは「公徳心の欠如」とか言いまして、
そもそも善悪が行動規範にはなってないし、
すべて善悪が行動規範になる訳ではないのは、人は経験的に学習する。
343 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/09(月) 19:39:56 ID:sUHABdkc
>>341 佛教の場合、真理・正理に随って生きることが善とされると考えます。
齋藤滋「初期アビダルマ仏教における「我」の同義語について」 印佛研54−2 平18.3
を読んだ後、末尾の「掲載されなかった諸氏の発表題目」にあった
「『釈軌論』の『勝義空性経』『転有経』解釈」堀内俊郎(東京大学大学院)
というのから「勝義空性經」で検索してみると、
ツォンカパの『辨了不了義善説藏論』でも一部引用され論じられているようですね。(下に引用)
そこで調べてみたところ、この経典は対応するパーリ経はなく、大乗の部に包摂すべきという意見もあるようです。
しかし、(根本)説一切有部が伝持した雑阿含経の所収ということも重要です。
問題の「有業異熟而無作者」と訳された文、
「有業報而無作者」(『雜阿含經』巻13第一義空経)
「有業有報作者不可得」(異訳『勝義空經』大正蔵経集部)
これは無我と業報について記したものと言えますが、「業の報いということはある。
だからといって、業をした者を永遠不変のアートマンとしない」ということでしょう。
『佛爲阿支羅迦葉自他作苦經』で、断常二見への信を捨てさせ、縁起を説くのと似た構造になっています。
「作者」に相当する箇所の蔵訳がどうなっているのか少し興味があります。
梵語だとkartRだったのか、それとも過去形だったのか。
ttp://www.cwbausa.org/2020.doc 解釋正理論敘聲聞乘諍云:「勝義空性經説,有業異熟而無作者,若是勝義,云何一切諸法,皆無自性?
若是世俗,於世俗中可有作者,云何無耶?」
答彼難曰:「當知何是世俗勝義,由此能知彼二中有,當問何為二諦?
若謂名、顯了、假立、言説,是名世俗。諸法自相,是名勝義。
若爾業及異熟,倶於名有,亦自相有。故彼二法,隨欲皆有。」
345 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/09(月) 19:52:33 ID:9vVHxxMs
One for All All for One
>>343←と、真理を知らない凡夫が申しております。
今時の仏教徒は、真理も知らなければ、何が善か悪かも悟れない。
知っているのは縁起の理法だけだ(苦笑)
346 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/09(月) 20:00:56 ID:9vVHxxMs
>>331 One for All All for One
一人が皆の為に。皆が一人の為に。
主の平和。アーメン。
347 :
神も仏も名無しさん:2007/04/09(月) 20:05:29 ID:yhB8yPYs
>>344 辨了不了義善説藏論、変わった言い方ですな
348 :
不二の鳥:2007/04/09(月) 20:30:32 ID:LEE6E3ML
>>331 そうかもしれません。
が、おそらくは そう断定したなら残り来るは ついに 戦争かもしれません。
違うかもしれません。
人間(超人化はせず) が、きわめえるのは、ついに 同じところを
みいだすかもしれません。
たとえは 悪いですが ジュードーに生涯をかけた者の足払い と
カラテに生涯をかけた者の蹴り は ついに 同じようなものに
なってゆく というというようなものかも 。 超一流なら。
349 :
神も仏も名無しさん:2007/04/09(月) 20:44:10 ID:3ui/ia+1
およそブッダの仏教上の真理は
・縁起の理法
・無常の世界観
・無我の人間観 に尽きる。これは言語で習得可能。
これを納得したうえで大脳生理学的に、瞑想などで
・セロトニンが前頭連合野と大脳辺縁系に放出されて「静寂な満足感」に包まれ
・ドーパミンが興奮によって放出され、受容体が認識すると「幸福な快感」に包まれます。
これにより智慧(真理)感情(深い満足納得感)意志(行動への意志)の三位一体の
「境地」を自覚し、お悟りとなります。
350 :
神も仏も名無しさん:2007/04/09(月) 20:45:11 ID:3ui/ia+1
別に神秘的現象があるわけではない。
351 :
神も仏も名無しさん:2007/04/09(月) 21:00:21 ID:3ui/ia+1
もう一発、問題発言
仏教は『因果の中の自由意志 』という命題の問題性
自由意志なるものが存在『しない』ことは、1861年にパスツールがアリストテレス以来の生物自然発生説を
実験によって否定的に証明(全ては因果関係がある)したことで決着済みと言えるのではないか。
(1861年のルイ・パスツール著『自然発生説の検討』)
ブッダの縁起説が科学的に実証されたといえるのではないか。
自由意志がなければ、本来自他の分別もできないはずだ。
だから「自他の分別」は、自由意志があるというサンスカーラ(誤まれる思い込み)によるもので、
法や道徳(善悪)・自由意志による応報責任の人倫世界もすべてそういうサンスカーラ(共同幻想)による「擬制」的存在だろう。
自他分別のない無常=無我=縁起が真実である事が科学的にも証明されたといえよう。
だからこその慈悲ではないか。
ブッダは、実存的経験主義者であり、ブッダの所説は実証済みなのだから
もう妄言(アホな妄想「仏教」者のでっち上げ経典を含む)に迷わされることはない。
生天思想、神・悪魔、業報輪廻転生論、法華経などは実証できないサンスカーラに過ぎないことは 実証されているのだ。
無知(無明)妄迷の徒になる必要はない。
352 :
神も仏も名無しさん:2007/04/09(月) 21:42:07 ID:yhB8yPYs
サンスカーラ=誤まれる思い込み、共同幻想
これは誤解でしょ。誰がいってんの?
353 :
富士の鳥:2007/04/09(月) 22:52:11 ID:LEE6E3ML
>>349 なるほど。 物質現象として ありえますね。
>>350 断定は できないような。
>>351 自由ですか。 ナイフかピストルか自由だ といった問題ですね。(多くは。)
仏陀の読みは驚くほど深くて 全部 苦 ということでしょうか。
354 :
神も仏も名無しさん:2007/04/09(月) 23:23:52 ID:cAIFiJp1
これはっつけて板中まわってみたけれど、回答は得られませんでした。
いったいこの板はどうなってしまったの?
ほんの一、二年前なら簡単に答えてくれそうなかたが二人はいらっしゃったのに・・
突然ですが質問させていただけますでしょうか。
天台宗の止観業にみられる常坐三昧、常行三昧の修行法は、上座部のいうシャマタ、ビバッサナに相当すると考えてよろしいのでしょうか?
よろしくお願いします。
某所のコピペになりますが、簡単に解説させていただきます。
1、常坐三昧じょうざざんまい 90日間、食事とお手洗い以外は、ひたすら坐禅をします。ただし眠気などに悩まされた時は、仏名を唱えることが許されます。
2、常行三昧じょうぎょうざんまい 90日間、阿弥陀様の名前だけを唱え、阿弥陀様のまわりを歩き続けます。休むときは、天井から下げたヒモにつかまって休みます。座ったり寝たりしません。
これは摩訶止観にある天台宗の修行法・止観業の一部です。
止観というのは、サマタ・ビヴァッサナの漢訳ですよね。
355 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/09(月) 23:40:21 ID:sUHABdkc
論点先取マルチポストはどこへ行こうと忌避対象にしかならんのにも気付かないバカは消えること(冷笑)。
>>355 論点先取なのは、あなた方ですね。
御自分のことを言って、御自分を貶すとは、さすがアホウダラアさんですね。
357 :
素人:2007/04/09(月) 23:55:02 ID:kQ1BOGa6
>>354 >>28 答えた二人も怪しいもんだ。
天台と上座部なんて、普通は併せて学んだりしない。
知っていたとしても、それが高いレベルまで達しているかどうかは「?」だ。
辞書的回答なら、どっかのスレで誰かが答えてたじゃないか。(てか、文字通り、辞書等書物を調べれば済むこと)
それ以上を望むなら、自分が修してみるしかないんじゃないか?
人を見下して優越感に浸りたいなら、帰れ。
>>356 これは 論理的。 でも 「 あなた方 」って・・・ 非論理的。
だれか 1レスで済むから 言葉の上手な人答えてあげればいいのに。
359 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 00:13:24 ID:KTucAmla
>>355 どういう意味で論点先取と言ってるの?
>>354 違うでしょう。ご自身でも仰るように「止観というのは、
サマタ・」ヴィパ「ッサナの漢訳」に相当しますから、
常坐三昧、常行三昧は、行の形態です。天台ではそのような分類をしたのです。
そんな比較してどうしようというのでしょう?
>354
ふーん。 天台って ハードが好きですね。 ランナーズ・ハイ のような。
有名な1000日回峰とか。
しかし 日本の名僧はほとんどここ天台からですね。
原始仏教では もっと自然な感じがしますが。
361 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 06:52:53 ID:KTucAmla
>>360 「名僧」も「有名僧」なら確かに天台系出身が多いのですが、
「名僧」が「優れた僧」という意味なら、天台ばかりとは言えないでしょう。
天台は平安末期は確かに「名僧」を輩出したわけですが、
362 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 07:14:20 ID:/An70Ixq
>>361 パーリ語の原始仏典の存在を知らず、従ってオリジナルに近いブッダは前提として知らず、
客観的なチャンコロ変容・捏造の大乗だけが「仏教」だという誤解前提での「名僧」。
だから、もはや日本仏教はゴータマ・ブッダの教えとは別な宗教系と把握したほうがいい。
そのほーが、居直って「葬祭葬式仏教」という資本主義的サービス業に徹せるやろ?
だから、
>>354よ、おまいは二度と来るな。邪魔だ。
363 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/10(火) 07:32:38 ID:KFeqcFOE
>>345 >今時の仏教徒は、真理も知らなければ、何が善か悪かも悟れない。
仏教の根幹に関わることなので、私が簡単に説明いたします。
(もちろん、アホダラ氏の書き込みは間違っています)
仏教の基本は四諦です。
滅諦においての寂滅とは、これは二項(苦楽など)という意味においての滅です。
苦楽寂滅は同時に善悪寂滅です。
道諦において、この二項(苦楽・善悪など)は既に淘汰されます。
よって八正道においての正覚とは、まったく善悪の二項から解脱しております。
真諦は同時に慈悲でありまして、
ここに何ら属性もなければ、何ら付与することもないのです。
それが正覚なんですから。
これが善悪の悟りでして、それ以上の善悪の悟りはないですね。
364 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 07:41:11 ID:/An70Ixq
だいたい現代日本『仏』教のプロ僧侶で、下記の教えを説くブッダに堂々と顔向けできる
自信のある奴はいるのか?
曰く、『偈を説いて、わたしは食を得るものではない。
バラモンよ、かかることは知見あるものなすべきことではない。
覚者たるものは、誦偈による賃をうけてはならぬ。
バラモンよ、覚者はただ法に住するのであって、それが覚者の生活の道である。』
(スッタニパータ 81:雑阿含経 四 十一 耕田)
365 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 07:55:14 ID:/An70Ixq
そもそも善悪などというものは
>>351の通り、
人倫世界(世俗諦というのか)におけるものであって、
人間社会を離れて、アプリオリな全宇宙を支配する善悪なるものがあるわけがない。
1億光年離れた天体での現象に善悪判断を下すなどはナンセンスそのものだ。
366 :
351・365:2007/04/10(火) 08:20:34 ID:/An70Ixq
>>343 >佛教の場合、真理・正理に随って生きることが善とされると考えます。
おい、阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ さんよ。おまい、ほんまに大丈夫か?
>>341 そうですね。
同じ方の言葉ですね。
(`ー´)yヽξ
369 :
351・365:2007/04/10(火) 09:48:58 ID:/An70Ixq
>>361 だから、日本「仏」教の実体は「ヒンドゥー教日本支部」なんだって。
だから、仏性やら如来蔵、本覚思想、諸法実相などのヒンドゥー的梵我一如思想を
何らの矛盾も感ぜずに撒き散らして、日本的アミニストを迷わせ、バラモン的儀式仏教として飯を喰っている。
ブッダ当時のバラモン教と事実上実体は同じだーな。
ヒンドゥー教にむしばまれたゾンビ「仏」教が真相だ。
370 :
351・365:2007/04/10(火) 10:01:06 ID:/An70Ixq
仏性とはアートマンの日本「仏」教的表現でしかない。
だから、ブッダの(原始)教えからは、「仏性」なるゾンビ概念は
完全否定される。
>>369 ほぼ同意。
但し、バラモン=ヒンドゥでは無く、道教=神道ラインと思う。
万物は元気より成る故に、ブッダを雛形として万物が成仏するって視点。
372 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 14:02:05 ID:KTucAmla
>>364 へー、じゃ、上座部の本とか講演沢山してる人は、一銭ももらってないの?
373 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 14:16:28 ID:hSZ+2XGA
>>369 シャンカラはだめですか?
仏教とウパニシャドがごちゃ混ぜみたいですけど
374 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 14:25:40 ID:cqxdeBM0
>>363 > 滅諦においての寂滅とは、これは二項(苦楽など)という意味においての滅です。
わるいけど、これゴビューあるね。
苦諦も苦楽の苦でなく、一切皆苦という意味での苦ね。
朦朧之介さんは茶でも飲んで、笑って黙って眺めててね。
>>373 原始仏教スレでも、一切皆空を「世界は幻だ」とか言う人いるけど、シャンカラの影響かもね。
だけど、彼はアートマン実体論を説くウパニシャッドの信奉者だってこと、お忘れなく。
376 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 16:29:28 ID:/An70Ixq
>>372 スッタニパータ 81を読み上げて、
テーラワーダのスマナサーラ師にどうしてるのか、直接聞けよ。
法人と個人を使い分けているんじゃないの?
脱法(世俗税法およびダンマの両意で)すれすれだったりして・・・
これだと、堂々とブッダに顔向けできんわな。
377 :
376:2007/04/10(火) 16:35:27 ID:/An70Ixq
× ダンマ
〇 律蔵
378 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 16:40:56 ID:KTucAmla
>>376 じゃ、同じだね。現代でも全く金銭に触れない僧は、いらっしゃいますが、
そういった方は、それができる環境にいられるからです。
食事の心配しなくていいとか
あと、何度もいうがパーリ系南方仏教にどれだけアルハットが現在いるんですか?
大乗チベット仏教にはたくさんいますよ。
パーリだけが真正であるという態度は、困りますね。
スッタニパータは確かに最古の経典と言われてるけど、内容は
ジャイナ教的苦行主義のそれに影響されてて、中道とは少々
言えんような。
380 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 16:47:01 ID:KTucAmla
>>377 ダンマでいいでしょう。律蔵という方がおかしい。それなら律かヴィナヤです。
ヴィナヤを持ち出すなら、金銭は所持してはいけない。畜銭宝戒に完全に犯して、
ニッサッギャ・パーチッティヤになるでしょ。
381 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 16:48:45 ID:KTucAmla
>>379 それは松本史郎あたりの珍説ですよ。それに完全に中道の意味を取り違えてます。
382 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/10(火) 19:37:16 ID:xi4cxOme
>>374 >わるいけど、これゴビューあるね
私の説明が簡単すぎまして申し訳ありません。
じつは四諦とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦という四諦をいうのであります。
一切皆苦が突如としてテーゼになる訳じゃないのです。
苦諦・集諦を私が説明を省いたのが誤解の元でした。
いずれそういったことも、希望がありましたら
いつでも説明します。
>苦諦も苦楽の苦でなく、一切皆苦という意味での苦ね。
>朦朧之介さんは茶でも飲んで、笑って黙って眺めててね。
あほだら経の書き込みじゃないんだから、
もっとレベルの高い書き込みをきぼぬします。
素朴実在論かどうかに関して以前話題に登りました。
SN35.23「一切」の定義で十分だと思っていたので特に興味も湧かず、その際は全く発言しませんでしたが、
次のような記述があったので参考のため書き込んでおきます。
桜部建「原始仏教・アビダルマにおける存在の問題」『講座仏教思想 1』p.39
「阿含では四大といってもまだ【直接具体的な物質を指している】ような言い方が多いが、
しかし時には、それらの物質から堅・湿などそれぞれの物質が抽象されて考えられようとする跡も見出せる。」
こういうことを指して素朴実在論という言い方になったのではないかと思いました。
ただ三枝充悳「序文」同書p.8では、
「もとより原始仏教やアビダルマには、かなり素朴なカテゴリジーレン(範疇化)もある。
しかしそれは一度としていわゆる素朴実在論に陥ることがない。実在・存在は法の実在・存在であって、
もののそれではない。たとえ法=ものという例があっても、そこでは存在論は説かれていない。」
とあって、一見矛盾しているようですが、
三枝氏も【法の実在・存在であ】る、と書いているように、「ものとしての存在論」かどうかが
キーポイントのようで、そのあと三枝氏はハイデッガーの『存在と時間』の話につなげていきます。
384 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 20:14:58 ID:c0KeMd6P
>>378 > アルハットが
> 大乗チベット仏教にはたくさんいますよ。
些末ですが、さすがに阿羅漢はおらんでしょw成就者ってことでヨロ
>>381 スッタニパータは各経典の韻文を集成したもんなんでしょ?それって古いって言えるのかな。
韻文だから古い語形を残してしまった、ということはないのかね。書き換えにくくて。
散文の部分はパーリ語に全部書き直してしまって。
385 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/10(火) 20:24:40 ID:xi4cxOme
>>383 例えば、物らしき実在的なものがあったとして、
それは「実在」といえるには、それを認識する者があって成立つ概念ですから。
つまり認識する者がなけりゃ、実在そのものもない訳ですから、
結局は一切(認識)に依るしかありえない。
ってのが、もっとも合理的な説明かと思いますね。
認識もなく、それ自体で実存している。
なんてのは実際、架空の話です。
つまり、人が死ねば世界は消滅しちゃう訳だし、
死んだあとも世界がある訳ではない。
>>381 >完全に中道の意味を取り違えてます。
>>379が言わんとしてるのは、スッタニパータはちょっと苦行主義に偏してる、ってことじゃないの?
自分の読後感もそういうものだったし。
仏教は快楽主義と苦行主義のどっちでもない中道、ということだから、
スッタニパータが苦行主義に傾いてるとするなら、「中道とは少々言えん」というのは変じゃないのでは?
ジャイナの影響云々の話はよく分からないんで横に置いておいて、
まあ相応部なんかとはだいぶ趣が違う気はするけどね。だから、最初に『ブッダのことば』から
経典を読み出すのと、相応部あたりから読み出すのとでは、その後の仏教イメージがだいぶ違って
くるんじゃないか、とは感じるけど。
387 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 20:42:58 ID:/An70Ixq
なんだなんだ、禅は独我論に陥っているのかwwwww
388 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 21:01:54 ID:KTucAmla
>>384 そりゃ、いませんよ。大乗ではアルハットは低い状態ですから。
全て無上正等覚を目指すので。
『スッタニパータ』が編纂されたのは比較的新しいのですが、
『アッタカ・ヴァッガ』などは釈尊時代から読誦されていたという伝承があり、
伝サーリプッタ註もあり、サンスクリット、漢訳も伝わっていて、古いという
ことでは異論はないでしょう。
389 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 21:07:51 ID:KTucAmla
「仏教は快楽主義と苦行主義のどっちでもない中道」この捉え方、
特に苦行主義をどんなものと捉えるかが、問題なんです。
苦行主義は、ヴラタやタパスに代表される本当に徹底的な苦行であり、
それに比して仏教は肉体的な行を二次的なものにし、
根本は心を制することとし、そういった徹底的な苦行は廃した。
それにしても心を制するために身体的行為も制することも実践した。
それはヴラタやタパスのような苦行ではないが、現代人からすれば苦行と
見られる可能性がある。
つまり言いたいのは自分勝手な苦行概念を前提にして、これは苦行だから
仏教ではないというような判定はしてはいけないということです。
390 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 22:21:09 ID:KccaMPHx
> つまり言いたいのは自分勝手な苦行概念を前提にして、これは苦行だから
> 仏教ではないというような判定はしてはいけないということです。
まあそうなんだけど、サーリプッタの悟りへの階梯などを見ても
ほとんど、いわゆる苦行というイメージは湧いてこないなあ。
出身母体の教団が、苦行林の集団だったか、サンジャヤのグループだったかでは、
仏教の受け止め方にも差が出てきたりはしないものかな、とね。身にしみついたものの影響が。
391 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 22:30:59 ID:KTucAmla
じゃ、ヅダ第一の大カショウなんかどう? かなり苦行者に近くない?
しかも釈尊も賞賛してたし、釈尊なきあとは、リーダーだったわけだしね。
ダイバダッタの存在も忘れないでね (´∀`)b
393 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 22:57:39 ID:/An70Ixq
しかし、ブッダの弟子連中っていまいち理解力のレベルが低くねえ?
ブッダの次のような簡単な問いかけに応えられる奴がいない!!
『比丘たちよ、なにがあるによりて、なにを執着するによりて
なにを貪ることによって、我見は起るのであろうか。』
優秀なはずの比丘たちは応えられず、ブッダに教えてくれと願っている。
出典は書かない。ここのスレのレベルからいえば簡単すぎるだろ?
だれか応えてみろよ。以下答えを書いてからレスすること。
394 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 23:04:44 ID:gXOSvsk2
395 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 23:09:56 ID:gXOSvsk2
>>393 >なにがあるによりて、→無明があるによりて、
なにを執着するによりて →有身見に執着するによりて、
なにを貪ることによって、→執着を貪るによりて、
我見は起る
396 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 23:10:56 ID:hSZ+2XGA
生存欲?
397 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 23:13:22 ID:KTucAmla
>>393 まずは、君がパーリだけでなく大乗も認め、大乗に対する暴言を懺悔すること。
話は、それから。
398 :
393:2007/04/10(火) 23:33:28 ID:/An70Ixq
俺が言いたいのは、こんな理解力の低い連中がまとめた仏典に
どこまでの価値があるのかということだ。
およそ非ブッダ的としかおもえない、バラモン−ヒンドゥ的言説を
ボンボン入れてきて、ブッダ像をこいつら低レベル連中が歪ませているだろうことは
容易に推測できる。ブッダ本来の教えなどほとんど理解できなかったのではないか?
だから、偽経の嵐(特に法華経)!超神格化(漫画的スーパースタ−化)と仏神崇拝!
など俗物根性過ぎる。中国にわたれば、中国人特有のクソ・リアリズムのご都合主義的変容!
日本はもう論外。 もう、『俺だけのブッダの教え』による『ブッダと自己とのの対話』しかないのではないか。
真のキリスト教徒にとってもそうだろう。キリストのパウロ的変容をそのまま信じている奴など
いるのだろうか。日本の法華経信者のように。
399 :
354:2007/04/10(火) 23:34:24 ID:mzjNZSQH
天台の止観について質問したものです。
まず、
>>109さん、丁寧に答えてくださっていたのに、気がつきませんでした。
申し訳ありません。そしてわかりやすいご説明をありがとうございました。
>>354で再度質問させていただいてからも多くのこめんとを頂きありがとうございました。
ちょっとあおりっぽく書いてしまいましたが、御気分を害されたかたがいらっしゃったらごめんなさい。
私が止観に興味を持ったのは、変容してしまった日本の大乗にも原始仏教の業法が受け継がれている可能性を考えて、身近な仏教なだけに少し嬉しくなったことが理由みたいです。
質問には偏見も入っていたのではないかと思いますが、ひとまずは
>>109さんのご説明に満足して退散させていただきます。
400 :
神も仏も名無しさん:2007/04/10(火) 23:42:01 ID:KTucAmla
>>398 君は、自分がどれほど理解できていると思ってるだ。悟っての?
そういった文献学的分析による源流、根本だけが正しいというのは、倒錯してる。
確かに日蓮は、間違っているが、
401 :
393:2007/04/10(火) 23:47:11 ID:/An70Ixq
明日は早いのでもう寝るが、念のために“経典上の”ブッダの答えを
書いておく。(雑阿含経 七 十二 「有我」)
>>395正解だ。
『比丘たちよ、色があるによりて、色に執着することによりて、
色を貪ることによりて、我見はおこるのである。
また、受のあるによりて、想のあるによりて、行のあるによりて、
識のあるによりて、それらに執着し、それらを貪るによりて、我見はおこるのである。』
402 :
神も仏も名無しさん:2007/04/11(水) 00:04:27 ID:/xoQMrE9
>>401 色とはなにか、の答えは、肉体とそれに縁起する肉体以外の色形を言う。詰まり視覚に捉えられる一切のものを言う。
もっと正解は、五蘊と言うべきだったね。色受想行識である。此れらに執着することにより、そして貪ることにより、
我見が起きると。受相行識は空であると言うことを知らないと言う無明が発端だ。
403 :
神も仏も名無しさん:2007/04/11(水) 06:33:49 ID:pKM7IXBy
例えば、5人の子供をかかえて、働けど働けど楽にならない夫婦に、
「苦の根本原因は無明にある」
と教えてあげたら、この夫婦は楽になるのですか?
なるほどねえ。
王子うまれの仏陀に、本質的に、わかるわきゃ・・・
でも、貧しい夫婦にも、問題あったりして。
例えば、貧乏マニアで、
「 貧しければ貧しいほど、天国に行ける 」 と 信じていて、
それを 夫婦で、喜んでたりして、ちっとも苦ではないという・・・
405 :
草レーサー:2007/04/11(水) 07:53:55 ID:ZfoALvXd
>>403 結論としては、無明といわれるものを本当に理解、納得し
たならば、まず精神的には楽になるだろうと思います。
子供を捨てて、伴侶も捨てて、無一物になれるかどうか?
こういう問題になってくるかもしれませんが。
つまるところ「我がものという執着」を離れることが仏教の
本義なんだろうから。
ゴータミーという女性も、運命から子供も伴侶も失って呆然
自失しながらも、悟ったといわれています。
406 :
素人:2007/04/11(水) 07:59:25 ID:pWOmqJkP
>>405 このスレでは(っていうか阿呆陀羅氏(或いは電波氏も?)は)、
一段目のみを問題とし、二段目は考慮しない、
というスタンスなんだよね・・・w
(或いは、維摩居士のように、在家の悟りや涅槃を炙り出そうとしているのか・・・)
いずれにしても、スレ違い乙www
407 :
神も仏も名無しさん:2007/04/11(水) 08:24:13 ID:uwsT96pw
>>403 ブッダの問題意識にあった『苦』とは何でしょう?
鴨長明 仏の教え給う趣は 事にふれて執心なかれとなり 方丈記
408 :
素人:2007/04/11(水) 08:53:49 ID:pWOmqJkP
>>407のような書き込みもあるが、だからこそ、
縁起、四諦等、仏教の骨格の理解があればいい、ということであれば、
それが、よく言われるように(特に禅系で顕著だが)無執着・とらわれない、という意味に近似しているなら、
苦へと連なる諸縁を絶つ(必要条件の一つを遮断する)ことで安心(あんじん)を得るものならば、
一般人でも十分可能だし、実際、(仏教の理論とのズレはあったとしても)
飄々と生きている、たくましく生きている人は沢山いる。
単に縁起を理解すること、三法印を理解すること、四諦を理解すること、八正道を実践すること、などなど
でよいならば、出家する意味はない。
(出家の勧め・強引な出家もあったろうが、ただ法を説くだけ・出家を思いとどまらせるやりとりもまた、経典中には見られる)
出家生活を「負債のない生活」と讃えた釈尊の真意はどこにあったのか?
と、まあ、これも甚だスレ違いなわけだが・・・・・w
409 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/11(水) 08:56:28 ID:++xRjwnZ
>>403 >この夫婦は楽になるのですか?
私はこのスレでも書き込みしましたが、
いわゆる仏教というのは、自分自身の問題に言及したものであり、
日蓮宗(正宗)やマルクス論のように全体主義的なものではない。
故に、夫婦が楽になるかどうか?までは分らんですね。
「楽になれる」。とキッパリ言い切れるのは日蓮宗(正宗)や共産主義者だけです。
釈尊自身も、妻とか子供の関心は二の次で、
先ず自身の問題解決のため出家したのですから、マルクスとはそこが違うのです。
410 :
神も仏も名無しさん:2007/04/11(水) 09:16:56 ID:uwsT96pw
>>385 『個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである、
個人的区別より経験が根本的であるといふ考から独我論を脱することができ』
西田のこの文章で倉田百三は救われたわけだが、机流(サイコパス)禅の存在論は
いまだに独我論に固執しているわけ?
ブッダの無常=無我=縁起のいわば縁起的実在論からは、コギト優先の独我論など
出てくるわけがない。
『比丘たちよ、ここにおける如性、不離如性、不異如性、そして相依性なるもの、
比丘たちよ、これを縁起というのである』
『このことは、如来がこの世に出ようと出まいと、定まっていることである。
法として定まり、法として確立している。すなわち相依性である。如来はそれを証り知った。
証り知って、教え示し、宣布し、詳説し、開顕し、分別し、解明して、
そして<汝らも見よ>というのである。』
(雑阿含経 十二 十四 因縁法)
この中道から、独我論など出てくるわけがない。
やはり、阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ の言うサイコパスか?
411 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/11(水) 09:47:13 ID:++xRjwnZ
>>410 私は第一義空諦を拠りどころとして書いておりますので、よく文意を確認して頂きたいもんですねw
>個人的区別より経験が根本的であるといふ考から独我論を脱することができ』
これを解説いたします。
個人が先ずありき。ではなく、経験(縁起)ありて個人(分別)ありの意ですから、
経験を第一義とすれば、おのずと個人(分別)は二義になります。
これが第一義空諦ですね。
つまり、人が死ねば(五蘊の消失)、経験(縁起)そのものも無くなりますから、
一切(認識)なくば実在とか存在(つまり依りてあるもの)そのものは全てが無くなるのは当然です。
もっと簡単に説明しますと、
貴殿が生まれる前は、この世界がありましか?
無かったでしょ?
まあ、こういうことです。
分ってくれれば宜しいのです。独我論じゃない。ってことが・・・
>>408 「 出家生活を「負債のない生活」と讃えた釈尊の真意はどこにあったのか?」
参考になるかどうか。
古代インドと現代日本では 相当違うはずなのに
私には驚愕した事実があります。
親が死んで財産分与となったとき、実の親戚、兄弟姉妹間で、
とんでもないことになりました。
私には 信じられませんでした。
幼い時、本を買ってくれたり、祝福してくれた人達。ことあるごとに 行き来し
祝い、共に遊んだ人達。
それが、、・・何と、悪鬼のような、信じがたいしうち、と、争い。
私には 信じられませんでした。
何かが、起こってきた時と、それまでは 全く違うのです。
私はこの時、
仏陀の出家というのは、修行者本人を守るためだった、というのを
驚愕の中で、痛切に感じました。
( 出家とは 結局 その本質の1つは 財産放棄にあります。)
仏陀のみていた深さに驚いたことでした。
413 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/11(水) 11:53:55 ID:++xRjwnZ
>>410 >西田のこの文章で倉田百三は救われたわけだが、
机の文章で意味が通じましたか?
> やはり、阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ の言うサイコパスか?
自説の主張に際しては、
最低限の論拠や根拠を併せて提示されるようお願い申し上 げます。
>>1 <阿呆陀羅經&机龍之介・花押>
素人さんへ。
質問ですけど、
>>406の電波氏って誰の事ですか?
415 :
神も仏も名無しさん:2007/04/11(水) 17:58:14 ID:22buCW+x
>>414 こういう人です。
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/occult/1174377797/ ニフティ時代からトラブルを起こし続けるヒロシ君(ヒロヘロ、電波男、バスタ)は、
2ちゃんでは宗教板で活躍する。しかし宗教板でも本来の無能ぶりが露呈し、
オカ板へ来て弱い者いじめをして憂さ晴らししていた。
ところがオカ板でも馬脚を現し、逆に集中砲火をうけボロクソにやられる。
特にリベリオンに落とされた時の逆上ぶり、罵倒ストームが絶品である。
また、この時の法律少女自演も傑作である。
形勢不利になったヒロシ君に、サルと裁判中の革命王が絡んだのを幸いに、
敵の敵は味方、且つ援助するという大義名分を得たヒロシ君は、
「サルさんを命がけで守る」といって革命王を堂々と罵倒して復讐する。
そこに主婦という第三者がかかわり、ヒロシ君はサルと主婦の間で揺れ、
女自演者とバスタ名の書き込みのID一致というお笑いのピークを実現。
だれもがここで恥じて引退すると思いきや、どっこい、ヒロシは只者ではなかった。
無線LANただ乗りという無謀な笑える言い訳と共に復帰するも、
サルがヒロシ君のいい加減さに耐えきれなくなったのか、決別宣言し、
現実でもヒロシ君が卑しいことが発覚する。
大義名分も失い完全な笑いものになったヒロシ君は、無謀にもまとめサイトを作り
名誉回復を図り、このスレを立て今に至り、またいつもながらみんなに弄ばれここに至る。
これががヒロシ君の姿と想像する。
http://jimaku.in/w/pkPIBc1AFjI/XklVXIsZpou 誰かヒロシ君のお笑い名言まとめサイト作らないかな。
416 :
神も仏も名無しさん:2007/04/11(水) 18:06:36 ID:22buCW+x
その後、ここで
http://dso.2ch.net/test/read.cgi/myanmar/1175588584/l50 自分が自演してるものだから、反論者も自演だと思い込み、IP を抜こうとして
フシアナに引っ掛かかり自分のIPをさらした。それを反論者のせいに偽装し、
それを見抜かれた質問しとぼけた。以後、七誌でこの駄々っ子の言い訳を残している。
> 54 :名無しさん@また挑戦:2007/04/10(火) 00:30:29 ID:???
> は?ホストがわかる術が公然のものならば試して何がおかしい?お前
> だってひっかかっていたかもしれんのだぞ。
> で、不正行為?お前不正行為の意味わかってるのか?提示してみろや。アホが。
> 犯した行為や悪などとのたまう前に意味を理解してから発言しろ。低学歴の馬鹿が。
非常に恥ずかしいハッタリ、ホラ吹きオヤジです。
仏教にも卑浅な知識でハッタリ、ホラ吹きオヤジです。信用してはいけない。
417 :
神も仏も名無しさん:2007/04/11(水) 18:11:46 ID:q/cQvQ6r
>>379 マハーバーラタに現れる在家の苦行者ダルマヴィヤーダ 検索キーワード>>Dharmavyadha, Kausika
「真の婆羅門は生まれによってではなく徳行による」
ダンマパダ
393「生まれによって婆羅門なのではない」
391「身口意において、悪をせず慎む人、かれをわたしは婆羅門と呼ぶ」
418 :
神も仏も名無しさん:2007/04/11(水) 18:44:53 ID:4rL5o9i3
色は無常 受想行識も無常 このように見て
知る 再びこの世に生を受けることはない と
相応部22.87 ヴァッカリ
420 :
神も仏も名無しさん:2007/04/11(水) 19:08:29 ID:22buCW+x
どういたしまして。ですが少々、自意識過剰かと。
《經集》中的《賤民經》與《雜阿含經》中的第102經完全一樣,
《耕者婆羅豆婆遮經》與《雜阿含經》中的第98經亦完全一樣。
422 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/11(水) 19:33:25 ID:++xRjwnZ
>>419 >なんだ、俺の事じゃないのね
貴殿の書き込みは、見たことないですが、
私は電波先生の書き込みは
5・6年前から拝見しています。
その頃の先生は、宗教板(哲板とか)においてはカリスマ的な存在でしたから、
今でも先生に傾倒している御仁は多いですね。
中には浄土真宗の坊主も先生の指南を受けてます。
(アホダラ氏もそうです)
423 :
神も仏も名無しさん:2007/04/11(水) 19:38:08 ID:r/FIzN26
本人は悪と分かっているが、それを行うことが人の利益のために必要だと考えて、その悪を行うこと
本人は善と信じているが、人が見たら悪であることを行うこと
本人は悪と分かっているが、それを行うことが己の利益のために必要だと考えて、その悪を行うこと
424 :
素人:2007/04/11(水) 20:02:25 ID:v1kQUlPK
阿呆陀羅氏は忙しいのかな。
無我相経についての【阿呆陀羅氏個人の】見解・解釈、
>>403についての【阿呆陀羅氏個人の】見解、
等、聞いてみたいんだけどなw
425 :
410:2007/04/11(水) 20:56:44 ID:uwsT96pw
>>411>>413 概ねファジーに了解。
しかし
>>385を読めば、独我論と受けとめられても当然ではないか。
で、
>>385 >人が死ねば世界は消滅しちゃう訳だし、死んだあとも世界がある訳ではない。
>> 411 >貴殿が生まれる前は、この世界がありましか? 無かったでしょ?
これって、断見じゃないの?私は生前も肉体滅後も未経験だから、答えようがない。
ブッダの教えでは、そんな事に迷っている場合ではない。どうでもいい。
あなたは経験済みだから上記のように断定するわけ?それが中道ですか?
行くものは行かず、去るものは去らず。
死ぬものは死なず、生きるものは生きず。
過去・未来、生死・・そんなものが在りますか?
現在瞬間の何たるかを悟っておられるのですか?
あなたの時間は時系列で流れているのですか?
ずいぶんな矛盾と受けとめられます。
「サイコパス」の件は留保します。
426 :
神も仏も名無しさん:2007/04/11(水) 21:23:37 ID:U9UuGPYV
>>416 > 仏教にも卑浅な知識でハッタリ、ホラ吹きオヤジです。信用してはいけない。
それはあなたの決め付けでしょう。
信用するしないは 学者さんの翻訳 論書をおのおのが読んだ上で
判断すればいいことです。
427 :
神も仏も名無しさん:2007/04/11(水) 21:54:04 ID:22buCW+x
>>426 訳や論文などでなく、原典をあたってみれば明らか。
428 :
神も仏も名無しさん:2007/04/11(水) 22:03:30 ID:22buCW+x
>>426 仏教関係でも論破されると自演して評価を立て直すことをしている。
わけのわかんない専門家が出てきて無茶な説を立てて
「電波男さん、応援してます」とか言って以後、現れない。
429 :
神も仏も名無しさん:2007/04/11(水) 22:29:43 ID:pKM7IXBy
やっはり観察だと思います
人の書いた観察日記をいっぱい読んで、
わかったようなこと言ってみても誰も信じてくれないと思います
自分自信も…
電波さんは人の観察日記をいっぱい読まれて、いっぱい知識があるのでしょう
でも、自分で観察し、あるいは、自分自信を観察することが不十分だった
で、今まわりに観察されているのではないでしょうか?
裁判の席で…
430 :
神も仏も名無しさん:2007/04/11(水) 22:36:49 ID:pKM7IXBy
自身ですた(〉〈)
431 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/11(水) 22:37:13 ID:kwBZ0HXW
娑婆世間の壁蝨・虱たる破落戸どもが血祭りに上げられて絞り出す断末摩の絶叫の
長々しいこと(冷笑)。
>>391 十二頭陀の中では、最後の但坐不臥くらいしか、苦行に近い感じがするものはないですね。
これとても懈怠を戒めるということであり、断食や呼吸の抑制とかの苦行とは、目的も方法も違いますね。
>>392 提婆達多の問題提起は戒律のことなので、苦行のことではないですね。
南伝の教義では、「業」は心・心所にのみ存する、とするので、
「身業」とは身体に表れた行為ではなく、心理面を指す。
同じ理由で、身体に表れた行為は「身表」と言って「身表業」とは言わない。
435 :
神も仏も名無しさん:2007/04/11(水) 23:07:33 ID:pKM7IXBy
『善行』は社会観察、
『瞑想』は自分観察
それを伴わない佛典研究は童貞のHowTo本読みあさり
>>435 悟りに至らなければ、五十歩百歩
目クソ鼻クソ
437 :
神も仏も名無しさん:2007/04/12(木) 01:55:43 ID:pT35RvKe
>>436 それは完全な間違い。仏教では未来のため他のために少しでも良い状態、行為を目指す。
帰依戒>五戒>八戒>十戒>具足戒 といったようにできることをする。
これは一例で、なんでもそう空性や禅定もできなければ、できないなりのことをする。
それが分からないようでは、全く悟ってないと告白してるも同然。
それこそ完全な間違いです。
仏教真理の目的が、なんであるのかすらをもまったく理解していないから、火病寸前のレスをし、
結果としてか、意図してか、
>>435の擁護をしてしまうのです。
目クソ鼻クソ、10年早いよ。
このスレで役立ったのは、テンプレと阿呆陀羅經さんが紹介してくれた
本だけだなぁ。
なんだかお互いにけなしあい、見下しあうばかりに見えて、釈尊の
崇高で眩しいほどに美しい思想とはギャップを感じます。
あ、ほかにも「釈尊の生涯」をご紹介いただきました。
Amazonで中古を入手できて、とても嬉しいです。
ありがとうございました。
>>339 小智にとどまり続けたいお前にとっては、キラびやかな末法が好みに合うだけのことだろ(冷笑)
442 :
神も仏も名無しさん:2007/04/12(木) 05:12:06 ID:0VHOy8s5
だいたいこの時間に起床していないだけで問題だ。
理屈などより早寝早起きで、身辺雑事をキチンとスキなく調えるー
こんな事さえできない奴が仏教哲理を弄することなど、笑止千万で論外。
では、身辺雑事と瞑想にgo!
いや、そんなお前こそ、笑止千万で論外と言われてしまうだけ。
形式にきゅうきゅうとしていることから八つ当たり小僧に成り下がる始末だ(失笑)
ブッキョーって、こんな馬鹿しかいないのか?(冷笑)
そりゃぁ、自由段著や半太からみたら、馬鹿ばっかだろう。
逆だったら大変だよ。
445 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/12(木) 07:59:14 ID:OoyX7iVr
>>425 > これって、断見じゃないの?私は生前も肉体滅後も未経験だから、答えようがない。
断見というのは、全く別問題です。
西田がいう「経験が根本的」という言い方は、ある意味正解なのです。
つまり、例示しますと・・・
過去に太平洋戦争があったか?それは経験で知り得た。ことと、
情報において知り得た。ことは全く別問題です。
西田は初学の者に、簡単に説明したのは空諦ですね。
これをもっと詳細に説明すれば、
> 行くものは行かず、去るものは去らず。
> 死ぬものは死なず、生きるものは生きず。
これが説明できるし、三時不成に脈絡を繋げることが出来る。
まあ、また暇な時間に書き込みします。
446 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/12(木) 08:11:59 ID:OoyX7iVr
>>425 >> 411 >貴殿が生まれる前は、この世界がありましか? 無かったでしょ?
「ある」とか「ない」とかは、
〇〇が◆◆において「ある」とか「ない」とか、あくまでも対象化なされなければ、
この二項そのもの自体が成立たない訳ですから、
あくまでも相互依存でしか自己とその対象は分別は出来ない。
だから三法印は一切になる。
>>435 瞑想は自己観察と自己の外の観察でしょ?
善行は、何を以って善行と言うのかよく判らないですね。
448 :
神も仏も名無しさん:2007/04/12(木) 10:34:33 ID:pT35RvKe
>>438 仏教では、そのような罵倒は禁止されています。
なぜでしょうか、悟ったものは他を傷つけられないからです。
他を傷つけることは、自分を傷つけることになるからです。
それに悟ったつもりというのは、重い罪になることも憶えといてくだないね。
449 :
神も仏も名無しさん:2007/04/12(木) 10:40:22 ID:pT35RvKe
>>447 仏教でいう善とは楽を生ずる原因になることをいいます。
楽にも一時的な楽と、永遠の楽があり、一時的な楽はあらゆる世俗的なきもちよさです。
これは本質的には苦ですが、楽と感じるので一時的なものです。
永遠の楽とは、完全な覚りのことで、ネハンと言い換えても同じです。
それで十戒や聞思修などをして一時的な楽と永遠の楽を目指すわけです。
>>448 そんなの知ってるよw
お前の方が余程達観した気になって、上からものを見下ろしていい気になっていやがるぞ。
破戒なら、あんた自身が該当するんじゃないの?
虚偽暴言でな。
>>444 そうだね。
水は高い処から低い処へと流れるものだというしね。
どうも、浅はか症候損しのブッキョーたちは、群盲哲理の遊戯に夢厨になりすぎてか、現実にもメクラ馬鹿が多いようですね。
そのおかげで、今日は早朝からウザイ失笑の連続だったよ(冷笑)
>>451 あははは。
半太から見たら、そうなるよな。
ヤソと初期仏教の間には無差別殺人集団があるからな。
>>452 中世の暗黒時代は酷かったね(苦笑)。
初期仏教ってピンと来ないけど、いつごろのことなの?
>>453 あら?
ツマンナイレスだよ?
え?
半太って基督教原理主義者じゃないの?
あ、私見だが、龍樹あたりじゃない?
世親からは他宗教との合習としか思えん。
>>454 原理主義は破壊カルトでしょに。代表的なテロ集団としては、暗殺側のブッシュ、ネオコン・ユダヤ、ついでに自民党も入れとくか、事実だから。
ブッキョーなら、釈尊入滅後だとは思いました。
ま、空論厨のタコ以降なら、納得ですわ。なんせ、龍樹は、強姦魔だからね(大作のナカーマw)。
むしろ、もっと後世における僧兵などを、先にイメージしてしまいましたよw
456 :
神も仏も名無しさん:2007/04/12(木) 12:06:50 ID:0VHOy8s5
>>承狂 ◆nR84EH8w52 & エルカンターレとも呼ばれた賢者
おまえ達が有能なら、原始仏教にふさわしい下記命題を説け
解けないなら、土下座のうえ、消えろ。
曰く、
去るものは去らず 来るものは来ず
生ずるものは生ぜず 滅するものは滅せず
産れるものは産れず 死ぬものは死なず
457 :
456:2007/04/12(木) 12:11:03 ID:0VHOy8s5
念のため、「説」と「解」は“とく”だが、わざと分けてある。
>>456-457 失笑ものだねwwwwww
まず、そもそも、三蔵にキチンと師事し、理解してから出直して来ることだな。
話はまずそれからだよ、浅はか症候損し。道場破りをされた負け組の創価ヤクザなど、10年早いよwwwwww
>>455 半太は相変わらず、日本語がチャンと読めないんだな。
俺は初期は龍樹あたりまでじゃないかって言ってるだろ?
まあ、仕方ないか。
早く母国に帰れよ。
>>456さんへ。
ゴメンよw
笑って許しておくんなさいましw
>>459 失礼な椰子だな。私見に過ぎないくせに、事実であるかの如くに誤魔化すんじゃないよ。
その無知っぷりからすると、お前創価じゃね?ならお前が半島に帰れよw
空理空論ぐらい付き合ってやれよ、でないと、創価だとバレるぞwwwwww
461 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/12(木) 12:36:33 ID:OoyX7iVr
>>325 >過去・未来、生死・・そんなものが在りますか?
>現在瞬間の何たるかを悟っておられるのですか?
>あなたの時間は時系列で流れているのですか?
ここに書いた3問は、全て同義でありますし、
個別的論考するよりも、
全て空諦で解釈し、諸々に俗諦で説明すればいい訳ですね。
言語には、それに連関する情報を想起するが、
このベクトルで考える必要は全くない。
例えば、
自己を自己と認識できる瞬時に、自己は自己に成り得る。
それを一切という訳で、
一切に、時系列的脈絡は一切ないのです。
>>460 半太のクセに他人を失礼よばわりかよ。
龍樹菩薩の説く六不なんか、ヤソの目に触れさせたくないな。
半太イジリ飽きたからヨソに行こうっと。
またな、半太。
463 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/12(木) 12:44:59 ID:OoyX7iVr
464 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/12(木) 12:50:49 ID:DfPsCEEG
ここには足切り厨房どもの出る幕は皆無。
さっさと隔離スレへ。
>>462 はっはっはっ、生憎だが紛い物でしかない厨論には興味ないんでねw
龍樹はボサツどころか、大作と同じ強姦魔の破戒損しだからな。
創価バレした途端、逃げ足だけは早いみたいだが、あんたお得意の空理空論をいじくって逝かなくてもいいのか?w
466 :
神も仏も名無しさん:2007/04/12(木) 15:05:27 ID:ll7yPr3B
「量子は「波」かな?」と思って観察すると、それはみごとに「波」となり、
「量子は「粒子」かな?」と思って観察すると、それはみごとに「粒子」となってくれるそうです
人を好きになってしまうと、その人はみごとに最高の人になり、
人を嫌いになってしまうと、その人はみごとに最低な人になってくれます
先入観が観察を阻害するのです
先入観には二つあります
「好き」という先入観と、「嫌い」という先入観です
前者は欲望に支配され、後者は怒りに支配されます
この二つの毒により、無明=観察失敗、という三つ目の毒が生まれます
>>466 先入観?
立ち位置を変えれば先入観など関係無いでしょう?
何処に自分を置くも自由自在の観を持ち
置きたい場所から眺めればよろしいのでは?
468 :
神も仏も名無しさん:2007/04/12(木) 16:02:13 ID:pT35RvKe
>>466 それが縁起であり、空であり、仮設なんですが。
それと善については、納得していただけましたでしょうか?
469 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/12(木) 16:08:03 ID:OoyX7iVr
>>425 > 行くものは行かず、去るものは去らず。
> 死ぬものは死なず、生きるものは生きず
この問いも個別に論考する必要は全くない。
>>446の
>「ある」とか「ない」とかは、
>〇〇が◆◆において「ある」とか「ない」とか、あくまでも対象化なされなければ、
>この二項そのもの自体が成立たない訳ですから、
>あくまでも相互依存でしか自己とその対象は分別は出来ない。
これに当て嵌めればいい。
つまり「行く」それ自体は成立たない。「去る」それ自体は成立たない。
>>456の「去るものは去らず」に関しては、
過去ログ
>>1の去年大晦日のレスをご参照あれ。
江島恵教氏によると、時間的に見るものなど解釈に諸説あるようですが、
そのレスではgatamを時間的にとらえて(韻文という制限のため、adhvanの略された語形)、
しかも副詞として読んでいます。他にも副詞という読み方をしている人はいるのかな。
471 :
神も仏も名無しさん:2007/04/12(木) 18:36:36 ID:ll7yPr3B
欲望と怒りに支配されないこよう努めることとが「善」であり、それにもとづく行動が「善行」かと
善行を積めば正しい観察ができるようになり、その観察結果の束を分析すると法則が見えてくる
法則が見えれば、欲望と怒りの正体が看破され、それらそのものが滅却する
それが無我の境地かと
>>433 提婆達多の五法
釈尊に拒絶された、衣食住に関する規定をもっと厳しくしようという要求
各項目の前に、「尽形寿」(死ぬまで)という言葉がつく。
1、乞食す(食事の招待を受けない)
2、糞掃衣を著(つ)く(信徒の寄進した衣を受けない。墓場などで拾った布切れで作る)
3、露坐す(屋根の下に入らない。樹下に坐る)
4、酥(乳製の油)塩を食せず
5、魚及び肉を食せず
(四分律4による。異説もある)
中阿含、[口茶]帝経「此衆生、従何処来、趣至何処」
(此の衆生は何れの処より来たり、何れの処にか趣き至る)
雑阿含13「眼生時、無有来処、滅時、無有去処」
(眼生ずる時に来る処あること無く、滅する時に去る処あること無し)
474 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/13(金) 06:56:27 ID:G+P3NxIR
>>470 >(眼生ずる時に来る処あること無く、滅する時に去る処あること無し)
このあたりが勝義諦の、言語表記の限界でしょうね。
つまり言語は一字一句がその方向性(相対における)を有しておりますから、
即非という論法じゃないと人の論理思考は理解は出来ない。
理解というのも、実は論理思考に依るものですから、
これを越える。という意味において直覚などという言い方をしますが、
ようするに、文意は時系列で構成されているものではなくて、
あくまでも直覚的感性を期待する他はないんでしょう。
475 :
素人:2007/04/13(金) 11:23:18 ID:amxcdSfz
>>464 >>226はどうなったんだ? 調べてくれるんじゃなかったのか?
それとも、発言者が私だと判ったので、
態度を豹変させて無視ということか?
>>223-225 >>227 >>229>>231 も、罵倒・無視されるような内容ということか?
>>234も、君からすればバカらしいレスなのか?
最初は名無しだったから反応したが、私の発言だから無視することにしたのか?
内容如何でなく、発言者が誰かによって耳を塞ぐのが君の仏教へのスタンスなのか?
文章めちゃくちゃかもしれないが、なんかムカついたのでレスする。
邪魔したな。 >>ALL
ノシ
476 :
素人:2007/04/13(金) 11:23:57 ID:amxcdSfz
あ、ついでにageとく。
477 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/13(金) 12:42:01 ID:sQS6jYIQ
蘇武・俊寛にはあらねども、未だ出先(笑)。
>>475 待てば海路の日和あり
中論觀作作者品第八でも読んでゐませう。
にんにくにんにん(^^
479 :
425:2007/04/13(金) 16:41:37 ID:wXOmOKzy
>>469 そんな寝言めいたトンチンカンな信仰告白では何の説明にもなっていませんね
>>385 >「実在」といえるには、それを認識する者があって成立つ概念ですから。
>つまり認識する者がなけりゃ、実在そのものもない訳ですから、
>人が死ねば世界は消滅しちゃう訳だし、
>>411 >貴殿が生まれる前は、この世界がありましか? 無かったでしょ?
⇒過去・未来、生・死・・そんなものが在りますか?(
>>425)
答えてください。
1)死⇒2)認識(者)の滅⇒3)世界の滅
あなたのいわゆる1)「死」とは何ですか?定義してください。
1)⇒2)というのは検証できますか?単なるサンスカーラ(誤れる思い込み)にしか過ぎないのではないですか?
経験しましたか?ブッダはなぜ無記とされたのですか?
逆に実在がなければ認識者もいないわけですね。あなたは実在しているのですか?
あなたの問いは、うさぎの角・亀の毛・鯨の足を問題にするのとおなじく、
特定の固定観念を前提とするもので、問いとしてナンセンス−成立しないと思いませんか?⇒無記
いったい、なんのために議論しているのですか?
龍樹はなぜ難解な言語批判をやらねばならなかったのでしょう。
根本は自我(意識)
>>401>>402←サンスカーラによる誤まった思い込み=実体視であり、
唯識風な外界の有無議論ではなく、龍樹がいう概念の実体視に苦しみが由来するからではないでしょうか?
480 :
神も仏も名無しさん:2007/04/13(金) 17:04:25 ID:MUk6J8em
サンスカーラ(誤れる思い込み)
これ誰が言ってんの? 完全に間違いだよ。
481 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/13(金) 17:43:54 ID:G+P3NxIR
>>479 >あなたのいわゆる1)「死」とは何ですか?定義してください。
俗世間的な意味で「1)死⇒2)認識(者)の滅」でいいですね。
して、貴殿が解らんのは
>3)世界の滅
これですね。では簡単に、かつ解り易いように解説します。
「世界の滅」というのは「一切の滅」ですね。
一切というのは、貴殿にとっての一切ですから、五蘊の滅は即世界の滅になります。
五蘊が滅しておるのに世界が残存しますか?
そんなことはないです。
認知(縁起)なくば世界もない。
これが第一義空諦です。
縁起と世界は同時にあります。
>経験しましたか?ブッダはなぜ無記とされたのですか?
世界の滅は個別的滅でありますから、貴殿の滅が万民の滅には成り得ない。
>逆に実在がなければ認識者もいないわけですね。あなたは実在しているのですか?
空諦は、実在・非実在の二項には依らない。生起するものは既に生滅しております。
>特定の固定観念を前提とするもので、問いとしてナンセンス−成立しないと思いませんか?⇒無記
無記と縁起は同義ではない。
>いったい、なんのために議論しているのですか?
釈尊成道を語ちております。
482 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/13(金) 17:50:03 ID:G+P3NxIR
>龍樹はなぜ難解な言語批判をやらねばならなかったのでしょう。
言語は相対概念に依りて語義となります。
よって無差別相(空諦)を言語表記すること自体が不可であります。
手段としまして、その言語を否定することにぉいて真意を計る以外に手だてはない。
>龍樹がいう概念の実体視に苦しみが由来するからではないでしょうか?
簡単に言えばそうですね。
483 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/13(金) 18:01:58 ID:G+P3NxIR
(つづき)
「実体視」というのも俗な表現ですね。
「実体」とか「無実体」とかが、なにゆえ論題になるのか疑問です。
むしろ、
この相対概念こそが問題であり、
実体・無実体には全く意味はない。
(名称とその形態は滅寂する)
484 :
素人:2007/04/13(金) 19:04:22 ID:EcpmBMGE
>>477 失礼しました。
ま、自分で図書館なり何なりへ行けばすむことだから、(行かないけどw)
いちゃもんと言えばいちゃもんなわけで・・・w
てか、長いなwww
何の仕事してるんだ?w
プライベートに興味津津w
「サンスカーラ(行)」の定義
雑阿含経 巻2(四六)
為作スル相ハ 是レ行受陰ナリ。何ノ 所ゾ為作スル。
於イテ色ニ 為作シ、於イテ受想行識ニ 為作ス。是ノ故ニ、為作ノ相ハ 是レ行受陰ナリ。
パーリ相応部22-79
ttp://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn22/sn22.079.than.html "And why do you call them 'fabrications(行)'?
Because they fabricate fabricated things, thus they are called 'fabrications.'
What do they fabricate as a fabricated thing? ...
サンスカーラ(ふつう「行」と訳される)はもともとの字義からいえば「作りなすこと」
「作りなすもの」を意味する。…
阿含の中の主要な用例には二つがある。第一は、「なすこと」「行為」「動作」を意味するカルマン
(ふつう「業」と訳される)の語と通ずる意味に用いられる場合で、…五蘊の第四「行」もそれである。
第二は、縁起という考え方に関連して用いられる場合で、…「諸行無常」の行はそれである。 p.25
サンスカーラは能動であって、… p.26 『講座・仏教思想 1』
486 :
神も仏も名無しさん:2007/04/13(金) 20:36:49 ID:MUk6J8em
サンスカーラについては村上真完先生の徹底的な論文を見てください。
サンスカーラが能動というのは誰ですか、それはないでしょう。
487 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/13(金) 22:10:53 ID:sQS6jYIQ
>>480 > これ誰が言ってんの? 完全に間違いだよ。
色(肉体)は我であると考える。だが、しかし比丘たちよ、彼の考え方は
行(意思)である。その行は、しかし、なにを因縁とし、なにによりて生起し、
何によりて生じ、なにを起源とすrのであるか。比丘たちよ、まだわたしの
教えを聞かない人々においては、無知との接触によって生まれる受(感受)
によって養われて渇愛が生ずる。そこからこの行が生ずるのである。−−−
中略ーーー
死後もなお我は存在いして、−−−−略ーー
比丘たちよこのような常見も、また人間の意志的な考え方(行)である。
ーーー略ーーーー
〈もし我がなかったならば、我が所有ももまたないであろう。−−−−
比丘たちよこのような断見も、また人間の意志的な考え方(行)である
ーーー略ーーー
比丘たちよ、その疑念をいだき、躊躇して、正法の究極にいたることを得ないのも、
また、人間の意志的な考え方(行)である。
相応部経典 22、81 雑阿含経 2、25 陰根 増谷文雄氏訳
注釈
同じ五蘊を語るにも、行(sankhara)すなわち人間の意志的な考えかたに
焦点がおかれているーーー
縁起の法によらない意思的な考え方でありますから
> サンスカーラ(誤れる思い込み)
で正解であると思います。
我見 常見 断見 躊躇 そのように分類されるようです。
489 :
神も仏も名無しさん:2007/04/13(金) 23:31:27 ID:MUk6J8em
>>488 増谷さんの「意志的な考え方」という訳も問題だけど、
そこから飛躍して「誤れる思い込み」とするのが正に「誤れる思い込み」ですね。
ちなみにサンスカーラは縁起して生じます。アナタが引用された所でも
「そこ(渇愛)からこの行(サンスカーラ)が生ずるのである」としているでしょう。
増谷さんなんか読まないで、水野弘元先生を読みましょう。
>>489 色受想行識の行を主軸にしたんじゃないかな?
>>486 村上真完「古代インドの身心観と仏教」「諸行考 原始仏教の身心観 (1)-(4)」ですね。
国会図書館蔵書にあるようなので、いずれ読んでみたいと思います。
著者は桜部建氏。引用部分を略しすぎたので誤解されやすかったですね。
語の成り立ちとして saMskRta は受動だが saMskAra は能動である、ということでした。
それにしても、行受陰が行に於いて為作する、というのが分かり難いですね。
492 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/14(土) 07:40:06 ID:pzADocAg
>>479 >そんな寝言めいたトンチンカンな信仰告白では何の説明にもなっていませんね
トンチンカンな訳はないし、私は論理的に説明してある。
>>466にある
>先入観が観察を阻害するのです
というのが、ある意味において核心的な捉え方である。
論題になってる「思い込み」というのも同義であり。
また、
釈尊成道の切っ掛けともなったのが既成概念の破壊であった。
「弦は張り過ぎることもなく、また緩過ぎることもなく、その中間がいい」。
というのはアタリマエじゃないか。
アタリマエのことを気づいたのが成道の切っ掛けになった。
これを、コペルニクス的大転換という。
493 :
神も仏も名無しさん:2007/04/14(土) 13:18:23 ID:kc0mhRO+
<サンスカーラ>
ダンマパダ338
『たとえ樹を切っても、
もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、
妄執(渇愛)の根源となるサンスカーラを滅ぼさないならば、
この苦しみはくりかえし現われ出る。』
中村元訳(岩波文庫57頁)では『潜勢力』だが、なんのこっちゃ?
後の言語批判=分別批判を考慮するなら、(誤まれる)『概念形成力』か?
解りやすくするなら『(あるがまま=真実=から誤まれる)思い込み』が正解だろう。
いずれにせよ、サンスカーラとあるがままの真実(それを知らない状態が無明)とのギャップが
『苦』をうみだす。
根本的な命題だけに慎重に議論する必要がある。
494 :
神も仏も名無しさん:2007/04/14(土) 13:36:26 ID:kc0mhRO+
あるがままの真実とは、無常=無我=縁起であって、
生天思想の世界観、神・悪魔の概念、業報輪廻の時間観、
その他もろもろの誤まれる思い込み(概念形成力)がサンスカーラだ。
恋をすれば、アバタもえくぼ
>>484 改めて考えてみたのですが、やはり雑阿含経の誤写などの可能性が高いと思いました。
その理由を述べるに当たり、全部の本で有我・無病としていることから出発します。
本来、それら有我・無病は望ましいことです。そして、意の如くになることも望ましい。
しかし現実には、望ましくはないが無我・有病です。
したがって、望ましくない意の如くにならないことも無我の側に入るべきもの、と考えます。
パーリ文に苦という語はありませんが、この苦ということで統一的に見てみると、
無我・有病・不如意だから苦である、という感じになります。
>>494 >その他もろもろの誤まれる思い込み(概念形成力)がサンスカーラだ。
煩悩具足の衆生の五蘊である五取蘊ということであれば、
行蘊を「誤った潜勢力・意志」などとするのも一理あるけど、
煩悩を脱した如来・阿羅漢にも五蘊はあるのだから、
その場合の行蘊には、「誤った」という形容詞を付けるのはどうでしょうか。
497 :
神も仏も名無しさん:2007/04/14(土) 14:04:55 ID:kc0mhRO+
ひとつ聞きたいんだが、十二縁起の根本原因は無明とされている。
じゃ縁起思想により無明の更に奥の因縁も訊ねられるわけだ。
無明を生み出すもの。生命であること⇒非生命と分けるもの。DNAがあること
⇒?
これ以上縁起を逆流すれば「一切」を脱し、俺の力では形而上学に突入しそうだ。
本来目的の生病老死その他の生存苦の克服に役立たないから、
今日はこれぐらいにしておいてやらあ!
498 :
神も仏も名無しさん:2007/04/14(土) 14:19:09 ID:kc0mhRO+
>>496 なるほど。「あるがままとのギャップ」という論点先取りの定義かもしれませんね。
>>470に関してレスが付かないようなので、自己レスです。
>gata(過ぎ行きたる)の後には adhvan(時という道、漢訳:世路)という語が略されている、
>と見ます。中論のあとの方でこの語が出てきますが。そして、これを「Acc.の副詞化」と見ます。
過去ログ「三法印」スレによると、梶山・三枝・奥住・立川諸氏の「行ったものは、行った所は」と
いう訳し方になっています。その他、中村・江島・桂諸氏も同様です。これらはプラサンナパダーの
影響なのでしょうか。なお、過去ログでは今西氏の見解が不明確なのが残念でした。
これら層々たる諸学者に対して異論もなんですが、管見の及ぶ限りでお一人、定方晟『空と無我』が
時間として、副詞として読んでいる例がありました。
中論青目註羅什訳も「三時有作。已去未去去時、以有作故、當知有諸法。/已去・未去・去【時】/
已去無有去、已去故。若離去有去業。是事不然。」と時間として読んでいます。
ただ、これでは文の主語か、時間を示す副詞かどうかは判然としませんが、仏教では時間を実体と
して捉えないということなので、時間を示す語を主語にとるとも考えにくいし、また、少し後の方で、
去る者ということは別に出てくるので、ここは副詞として読んだ方が自然に思います。
gataが時間とすると、後ろに略されていると思われる原語としては adhvan m., kAla m., samaya m.
などが考えられますが、いずれも男性形であり、変形として女性形もあり得ますが、
中性形としてはどうなんでしょう。(主格と解釈するには中性形でなければなりませんので)
男性形だとgatamは主格ではあり得ず、対格になります。この対格の副詞化で時間を表すというのが、
辻文法「格の用法」対格の9に出てきます。
> これ以上縁起を逆流すれば「一切」を脱し、俺の力では形而上学に突入しそうだ。
> 本来目的の生病老死その他の生存苦の克服に役立たないから、
それで正解だと思う。分からないものは分からない。だから無明と言う。
それに、形而上学の議論はあれこれ追究していっても結局、戯論となり苦の克服に役立たない。
議論のあり方の発展には貢献すると思うけどね。
501 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/14(土) 17:27:01 ID:pzADocAg
>>499 「去りいくもの」というのは、語意からしますと、その立脚点は現ですね。
現在において、既に去ってしまった。ことと
未だ去っていない。という二項が対立しますから、
現において”去りつつある”ということ(進行型)自体が論理的に成立たない。
>>469参照
(現を立脚点にすること自体が論理的に無理)→現そのものはない。
ならば、
立脚点を基軸とする時間概念そのものが成立たない。
「去るものは去らない」。と、結論するに至れり。
502 :
神も仏も名無しさん:2007/04/14(土) 18:25:17 ID:kc0mhRO+
>>499 要するに、無常の縁起的時間論存在論なのだから、
固定点はありえず、言語は化(または仮)設でしかありえず、
あるがままを表現できないという、まさに言語批判だ。
ウィトゲンシュタインは言う。
『論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
したがってわれわれは論理の内部で,世界にはこれこれが存在するがあれは存在しない,と語ることはできない。
というのも,こう語ることはある種の可能性の排除を前提するように見えるが,この排除は実は ありえないことである。
なぜなら,そのためには論理は世界の限界を超えていなければならない。
それは論理がこの限界を反対の側からも考察できるという場合のことであろうから。
われわれは考えられないことを考えることはできない。われわれはまた,考えられないことを語ることもできない。
語り得ぬことには沈黙しなければならない。>>Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen<< 』
『空』を否定的表現でのみでしか「語らなかった」竜樹に、ウィトゲンシュタインは最接近している。
503 :
神も仏も名無しさん:2007/04/14(土) 18:27:18 ID:kc0mhRO+
(続き)
しかし、ウィトゲンシュタインは独我論に陥る。
『独我論が考えている(いわんとする)ことはまったく正しい。 ただそのことは語られることができず,みずからを示すのである。』
『神秘的なのは世界がいかにあるかではなく,「世界がある」ということだ。
死に際しても世界が変わるのではなく,世界が終わるのである。
時間・空間の中の生に絡む謎の解決は,時空の外にあるのである。』
故池田晶子が泣いて喜びそうな言葉だが、「時空の外」「空相」などの言語の実体化によって、
梵我一如思想にも最接近した思想でもある。内実はむしばまれているのかもしれない。
空教とカラスから非難されるゆえんである。
504 :
神も仏も名無しさん:2007/04/14(土) 20:04:02 ID:1W3ck3gW
> 世界が終わるのである
宇宙論における人間原理に通ずるものがある。自分に好都合なように世界なり宇宙なりを
規定したいのだろうか。っていうか単なる自家中毒という気も、、、
自分で作り出した概念の使い先を誤用してるだけな気がするよ。
自己って何よ。他者との関係でそうソテーするだけで、、、って言おうとしたが止めとく。
あまりにも原佛から離れ過ぎてきてるので。
505 :
神も仏も名無しさん:2007/04/14(土) 20:22:17 ID:2yy0MPX4
>>501 >現そのものはない。
中論第2章で扱っていることは、時間があるとかないとか時間そのものについての議論ではないだろう、と思います。
去来品という章題ですから、ここは運動を初めとする行為が、過去・未来・現在の三時において成り立たない、という
論から、三時に諸法が実有であるということは不可能だ、と説き進めるものですよね。
時間論そのものに関しては、ずっとあとの章で扱われています。
506 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/14(土) 21:03:07 ID:pzADocAg
>>505 2章1偈では、つまり現は依存関係においては否定はしないで「去る作用」を否定する脈絡になってるが、
3偈から6偈あたりで、現は本性(依存として)あることの否定となり、
つまり「去る作用の否定」の説明が、
現の本性の否定に依る「去る作用の否定」という、丁寧に説明してある。
つまり、現とは依存関係においても成立たないということを、
「去る作用」と【絡めて】解説しているところが、
私はポイントかと思うけどね。
いずれにしても中論の骨格部分であり、スレの流れがそういう方向になれば、
私もそれなりの書き込みはします。
では、おやすみ。
507 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/15(日) 07:03:38 ID:E8UJwRqr
>>504 >宇宙論における人間原理に通ずるものがある。自分に好都合なように世界なり宇宙なりを
>規定したいのだろうか。っていうか単なる自家中毒という気も、、、
なる程、実に示唆に富んだ書き込みですね。
文意というのは、その人その人でどうにでも解釈できる。
貴殿の解釈が間違っている。とは言わないけど、
私は全く逆な解釈してます。
つまり、自己とは二義的なものであり、それは自己の生死さえも超克できえる。
「世界の消滅」とは、その象徴的な語意がある訳で、
リアルな世界が消滅する。という意味ではない。
「世界」は、空即是色の「色」のことで、あくまでも俗諦としての消滅である。
> インドにおける自己論の構造 宮元啓一
> 五蘊のうちの色蘊(色かたちの集まり)は身体に相当し、受蘊(感受作用の集まり)、
> 想蘊(識別作用の集まり)、行蘊(想起作用の集まり)、識蘊(判断作用の集まり)
> 受、想、行、識についてのこのような訳語や解釈は、『倶舎論』の「界品」にある説明にもとづく。
> 従来、想は「イメージ化作用」、行は「意志作用」、識は「識別作用」といったような解釈が行われてきたが、
> これでは心の作用を一貫したものとして説明したことにはならない。
> 想(saMjJA)というのは、受によって得られた知覚情報の中身を、
> 言語化、概念化する以前に識別、区分する作用(言語論でよくいわれる分節化作用)である。
> たとえば、視覚でいえば、受によって与えられた一面無区別の知覚風景を、
> 色やかたちによって区分けすることである。
> 行(saMskAra)は、記憶、ないし記憶からことばや概念を取りだして、
> 想によって識別された知覚情報と照合する作用のことである。
> 行は、ものごとを形成する力、ないしそうした力をもつもののこといい、
> インド哲学では、メンタルには記憶を指すというのが一般的である。
> 行を意志とか意志作用とする実例を、筆者は知らない。
> たとえば、ヴァイシェーシカ哲学でいえば、意志というのは、欲求(icchA)と嫌悪(dveXa)か、
> あるいはそれにもとづく努力(prayatna)に相当し、記憶である行とは完全に区別される。
> 識は、こうしてことばや概念と照合された知覚情報をもとにして、
> たとえば「これは牛である」というように、具体的に判断を下すことである。
> と、このように受から識までを解釈することによって、
> われわれは、情報受容から判断にいたる明快なプロセスを得るのである。
509 :
神も仏も名無しさん:2007/04/15(日) 15:18:13 ID:6ynOIx48
仏教者って、こんなに口が悪くなるものなのか。
全体をざっと見ての感想。
心がすさんでるんジャマイカ?w
こんな罵事雑言だらけのスレを読むより、中村元、渡辺照宏、水野弘元、
宮元啓一、片山一良らの本を読んで、ここは読まない方が全然いいと
思ってしまった。
510 :
神も仏も名無しさん:2007/04/15(日) 16:33:47 ID:PYXJgpgt
エセ「仏教」(ブッダの教えの意)者が混じるとこうなる。
もぐりや趣味者もエセに含む。
511 :
神も仏も名無しさん:2007/04/15(日) 17:04:04 ID:PYXJgpgt
>>508 いったいなんの話をしてるんだ。
宮元が 受⇒想⇒『行』⇒識の系列因縁が正しくて、
ブッダの無明⇒『行』⇒識⇒〜〜〜⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死
の十二因縁の系列が間違っている、その上での正しい定義付けを出すといいたいのか?
サンスカーラで問題なのは、当然 十二因縁上の 無明⇒『行』だぞ。
つまり無明を直接因として生じる精神現象の意義だ。
*俺的には 取⇒有→生の→の方が問題だ。執着心なくしても生まれるときは生まれるからだ。
>>489 学者さんの良し悪しを判断するほどの学問はありませんから 逆にどう違っているのか
示してもらえるなら幸いです。
>>488 で引用したように 我見 断見 常見 疑念躊躇
縁起の法によらない見方を意思的な考え方と表現したものと
思われますから つまるところは (思い込み)であると私は感じたしだいです。
片山一良氏訳正見経注釈にも(邪見は三地法によって行所縁である) と
ありますから少しは関連があるのかなとーーー。
尺取虫の十支縁起というのがあり 凡夫の場合は
この行(縁起の法によらない意思的な考え方)を超える事ができませんから
識までという事になるのではとーーー。
つまるところは 思い込みを超えることができないから
尺取虫のごとく 識と老死の間(輪廻と表現するべきか迷いますが)
をいったりきたりするのが凡夫なのではと 思うしだいなわけです。
比丘達よ、そこで私はこう思った。
「この識はここより退き、名色を超えて進むことがない。
この限りにおいて老い、生まれ、衰え、死して再生する。
すなわち、この名色に縁って識があり、識に縁って名色がある。
ないし六処・・・触・・・(老死がある。)
このように、すべての苦の蘊(あつまり)が集起するのである。
514 :
神も仏も名無しさん:2007/04/15(日) 21:15:50 ID:PYXJgpgt
>>513 現役のプロ僧侶の手馴れた説法はさすがに判り易い。
『「私」というものがすべての煩悩の根源なんです。だから、その「私」は、滅尽させなければならない。
「私」を芽生えさせる力をサンスカーラ(行)といいますが、そのサンスカーラを滅尽することが、修行の目的なんです。
サンスカーラを滅尽して、ほどかれた「私」が、「無我の状態になった自分」なのです。
それこそが、「頼りとすべき自分」ということです。そのために、「瞑想しなさい」とお釈迦さまは説いています。
瞑想によって、自分を調えるのです。それが、「自灯明」になるわけです。
それから、よく調えられた自分が感じとる世界が「法」です。
よく調えられた自分によって受けとられた世界、それを頼りにすることこそ「法灯明」になるわけです。』
玄侑宗久
http://www.genyusokyu.com/interview/kizi/dana07/dana0701.htm
515 :
神も仏も名無しさん:2007/04/15(日) 23:21:54 ID:PYXJgpgt
>>514 これって、ニューエイジ僧侶の寝言だから
学問的(これ自体がマユツバだが)正確さは、全く保証できないことは当然だww
516 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/16(月) 07:11:58 ID:7mkGPTb9
>>514 >「私」というものがすべての煩悩の根源なんです。
私と認識できるのは、ようするに主体と客体を同一として認識(五蘊)できるからです。
これは論理的には矛盾しています。
主体と客体というのは概念上は別々なものですから。
自他を分別する概念をアイデンティティーと言いますけど、
これも矛盾において成立つ概念です。
>その「私」は、滅尽させなければならない。
滅尽させることは論理的に不可です。
過去仏クナゴンムニ(拘那含牟尼)の法は久住せず。(四分律巻第一)
アショーカ王がコーナーガマナ仏のストゥーパを修復した。
つまり、過去にクナゴンムニ仏が出て弟子もいた。仏滅後、ストゥーパが作られた。
法は途絶してわずかな伝承だけが残った。
その後、釈迦牟尼仏が現れた。
のち、アショーカ王が釈尊ゆかりの地を巡拝し、クナゴンムニの仏塔を修復した。
518 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/16(月) 19:40:23 ID:7mkGPTb9
>>514 >「私」というものがすべての煩悩の根源なんです。
いやいや、そうじゃあないですね。
「私」という思い込みが煩悩の根源なのです。
>>516参照
「私」を「私」と成らしめることが根源なんじゃないでせうか?
>>446参照
という訳で、ポイントだけ書いておきました
>>507参照
>>509 数年前、教育テレビで北海道の人がベッドに横たわりながら視線の移動だけで
キーボード入力してメールのやり取りしているのを見たことがあります。
自分で本を読み、専門家の講義を聴きに行くのが正確さでは一番ですが、
外国居住とか色々と、そうできない人もいるだろう、と思うので、
自分としてはなるべくこの場で提供していこうと思っています。
また、掲示板の良いところは一方通行ではない点ですね。
誤った理解に対しては、その指摘も受けられるだろうし、
ホームページに優れた論文がアップされているのもありますが、
メアドがわからなければ、疑問が浮かんでも解消できませんし。
520 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/17(火) 07:38:19 ID:kFUumG2d
私において世界がある訳じゃないですね
>>446参照
(色即是空)
世界において私がある
>>507参照
(空即是色)
仏教は逆説的であります。
池田晶子が大逆転して達観したのは、その証左でありましょう。
521 :
神も仏も名無しさん:2007/04/17(火) 12:14:27 ID:hrlfOStm
オリジナル・ブッティストなら
>>514のニューエイジ玄侑宗久の言ごときは
当然、鎧袖一触やろ?
522 :
神も仏も名無しさん:2007/04/17(火) 12:16:16 ID:hrlfOStm
× ブッティスト
〇 ブッディスト
523 :
神も仏も名無しさん:2007/04/17(火) 13:24:36 ID:3vlB3kkf
>>521 偉そうに言うなら、じゃどこが違うか自分から示さないとね。
524 :
神も仏も名無しさん:2007/04/17(火) 16:02:01 ID:Ikl3ljUW
池田晶子にだまされるとは、あんたただのスケベ爺だな
女は灰になるまで女
彼女は死に瀕するにいたってまでも嘘を言い続けたんだよ
借りてきた言葉を駆使してね
そのへんを察っしてやれ
525 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/17(火) 18:22:00 ID:kFUumG2d
>>524 文体というのは、その人の心情というのが如実に表れるもんだよ。
例えば、
>『神秘的なのは世界がいかにあるかではなく,「世界がある」ということだ。
>死に際しても世界が変わるのではなく,世界が終わるのである。
これだけを抽出しても、第一義と二義は明確。
ここにそれなりの注釈を入れれば作為にはなるが、
能書きを入れるか?入れないかが凡人と覚者の違うところ。
>女は灰になるまで女
糸瓜の花が紅いか白いか?ではなくて、
花が糸瓜であるということであり、
そう名づけただけである。
526 :
神も仏も名無しさん:2007/04/17(火) 20:36:13 ID:hrlfOStm
>>524 >死に瀕するにいたってまでも嘘を言い続けたんだよ
それを嘘とはいわない。凡人には解し難いだけだ。
奥山貴宏、勝谷誠彦と池田晶子、睦田真志の違いだ。
前者二人を「下品」(げぼん)、後者二人を「上品」(じょうぼん)という。
おまえは、どっちだ。
上品、下品は仏教用語。徹頭徹尾、精神的な語彙だ。
527 :
神も仏も名無しさん:2007/04/17(火) 20:39:51 ID:Ikl3ljUW
アバタもエクボ
この世に未練テンコ盛りの断末摩の叫びじゃないか
印税のために未婚を装った魔女に天罰が下ったのだ
528 :
神も仏も名無しさん:2007/04/17(火) 20:45:02 ID:hrlfOStm
凡人には解し難いだけだ。
529 :
神も仏も名無しさん:2007/04/17(火) 20:47:16 ID:3vlB3kkf
君、ここで、つまり仏教用語で凡人とはどういう意味なのか分かって使ってるのか?
マーガンディヤよ、わたくしはこのことを説く、ということがわたくしにはない。
(スッタニパータ4章)
これは、龍樹のプラサンガ(帰謬)論法の根拠の一つになったのだろう。
相手の論法を用いてその矛盾を衝き、相手の立論を突き崩す。そして自らは何ら立論をしない。
(1) 立論「有る」。バラモン教
(2) 立論「無い」
(3) 「有る」のではない。「無い」のではない。仏教
〔15-7「カーティヤーヤナへの教説で、有無を正しく知る世尊は、有る、無い、という
二つとも否定した」中論頌で唯一の教証〕
バラモン教徒は「仏教徒は無論者(ナースティカ)だ」と言った。
「正しい選択肢は『有る』しかない」という信条のもとにいる人々には
「『有る』以外はすべて『無い』と言っている」と感じて、
「有るのではない」も「無い」に聞こえてしまうのだろう。
531 :
神も仏も名無しさん:2007/04/17(火) 22:01:04 ID:DySZWcaA
>>530 法華経安楽行品
「一切の法を観ずるに 皆所有無し 猶虚空の如し 堅固なること有ること無し 不生なり不出なり 不動なり不退なり 常住にして一相なり 是れを近処と名づく」
ここに『常住にして一相』と言っている。
自分は覚者だと言い、他者を凡人だと見下す優越にこだわる競争心、自己主張がある時点で凡人でしょう?
人に認めさせようという気持ち自体全く残っていないはず。
533 :
神も仏も名無しさん:2007/04/17(火) 23:28:22 ID:hrlfOStm
>>529 当然、あなたのような存在をいっているのだから、自問するのが筋だろう。
534 :
会長:2007/04/17(火) 23:34:47 ID:tRAt56tE
【聖書の言葉をスレに関係なく貼付ける会】
地の果てまで聖書の言葉を貼付けなさい。
狂信的に貼付けなさい。
(^0^)/がんばろう!
535 :
神も仏も名無しさん:2007/04/17(火) 23:50:19 ID:3vlB3kkf
>>533 何、詭弁操ってんだ。オレはもちろん凡夫だが、仏教的文脈で非凡夫というのは聖者を意味する。
聖者というのは、小乗では見道に入った方以上ということで一致している。
大乗では、菩薩十地の初地、七地、十地以上と色々と見解が分かれているが、
いずれにしても高い境地である。
そんな境地と池田みたいな臆説を書き散らす評論家を並べるなということだ。
評論家がどれほど自分に誠実であろうと、それは仏教から見れば臆説に過ぎない。
そんなものと混ぜて適当な慰め物語を創作するのはやめてくれ。
536 :
神も仏も名無しさん:2007/04/18(水) 02:33:05 ID:7Teknxr/
女に格闘技をさせてはならぬ
女は戦えない
同じく、哲学もできない
なぜなら、ヒステラがそれを邪魔するからだ
537 :
神も仏も名無しさん:2007/04/18(水) 06:59:21 ID:7Teknxr/
「女」の「又」に「心」
瞋は貪を呼び、貪は瞋を誘い、癡が形成される
「女には九つの悪い属性がある」
女の怒りに注意せよ
電波がやられた
机もすでに死に体だ
538 :
神も仏も名無しさん:2007/04/18(水) 07:18:16 ID:7Teknxr/
去るものは去らない、
などと分けの分からぬこてを嬉しそうにほざいているあいだに、
おまいは隣のどこの馬の骨とも分からぬおネエちゃんに、
骨抜きにされておるのじゃ
539 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/18(水) 07:24:55 ID:VVgtEpMp
>>537 文体というのは、その人の心情というのが如実に表れるもんだよ。
例えば、
>女の怒りに注意せよ
>電波がやられた
これだけを抽出しても、女への偏見がある。
(過去に女に酷い目に遭わされたとか)
電波先生が女難に遭われたのは、それなりの理由がある。
八正道にて調うておったなら、先ずこういうことは有得んのです。
これを縁として正覚を得るを仏道と言ふなり。
540 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/18(水) 17:28:22 ID:VVgtEpMp
>>538 >去るものは去らない、
>などと分けの分からぬこてを嬉しそうにほざいているあいだに、
ティックナットハーンといふ僧が、
「三法印とは彼岸に至るための道程である」。とか、著書に書いておるが、
この意味は、その当時には分らんかった。
後に私はこの意味を解するに、長い年月を要した。
仏道とはそういうもんだよ。
仏道といふ道はなく、その足跡が残るだけである。by道元
《般若心経》
法隆寺写本(浄厳写本・慈雲刊本) zUnyataiva rUpaM
玄奘訳には同箇所を欠く。
法月訳(智慧輪訳も同文)「空性是色」
紀野・中村訳「実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。」s.35
渡辺照宏訳「空虚性そのものが形態なのである。」s.44
−−以下は、空想。
中村訳に触発されて次のようなことを考えてみた。
...rUpaM (bhavati) 色(である/になる)
空性だからこそ変壊するもの(rUpa)だ。(空性を無我と見ると、少し原始仏教らしい話題になる)
逆に言うと、
実有ならば、つまり空性でなければ、変壊するものではない。
当然のこと、この空想は受想行識では当てはまらなくなる。
542 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/18(水) 19:56:19 ID:VVgtEpMp
>>541 実有か実無か?は客観性にいおて成立する概念であるから、
それを決定付けるのは、論理的には主体ということになる。
主体はそれ自体では成立しない(無自性)。
よって主体とは論理的には主客同一を主体と仮設する。
仮設主体における、その対象(客体)が論理的には「実有or実無」ということになるから、
つまり主体そのものが「実有or実無」という論理矛盾に陥る訳です。
つまり客体として対象化は不可であり、客体そのものが主体ということになる。
ようするに無限ループに陥る訳でして、
実有でもなく実無でもない。という他は論理構成自体が不可であります。
>>446参照
新国訳大蔵経 阿含部 1, 1993.8 長阿含経 1
新国訳大蔵経 阿含部 2, 1994.1 長阿含経 2
新国訳大蔵経 阿含部 3, 1995.3 長阿含経 3
新国訳大蔵経 阿含部 4, 2004.1 雑阿含経 1
新国訳大蔵経 阿含部 5, 2006.3 雑阿含経 2
新国訳大蔵経 本縁部 4, 2000.1 法句経
新国訳大蔵経 禅定経典部 2, 2006.7 稲[カン]経 / 坐禅三味経 達摩多羅禅経 治禅病秘要法
> ■六師外道
> サンジャヤは、来世の存在などの問いに対してことさらあいまいでとらえがたい議論を行い、
> 確答することをしなかった。彼によって初めて形而上学的問題に対する判断中止の思想が
> インドに現れたとされる。舎利弗、大目(牛建)連という釈迦の二大弟子はともに当初は
> サンジャヤの徒であった。〈松田愼也〉
> ■アージービカ派
> マウリヤ朝(前3世紀)ごろまでは仏教、ジャイナ教と並んで勢力があったが、その後衰微し、
> ジャイナ教に吸収された。典籍はすべて散逸し、断片的な引用が残るにすぎない。〈松田愼也〉
> ■ジャイナ教
> ジャイナ教では動植物はもちろん、地・水・火・大気にまで至るあらゆるものに霊魂の存在を認めた
> から、アヒンサーの誓戒を破らぬよう、あらゆる機会に細心の注意を払わなければならない。
> しかしアヒンサーを守るための最良の方法は断食であり、もっとも理想的な死は、断食を続行して
> 死に至ること(サッレーカナー)である。ただしこの断食死は、原則として飢饉(ききん)、老齢、
> 不治の病などに限って許される。
> ■教団史■マハービーラ在世中、マガダのセーニヤ(仏教のビンビサーラ)王やその王子クーニヤ
> (アジャータサットゥ)などの帰依・保護を受け、すでに強固な教団を形成していたと思われるが、
> 没後は高弟(ガナダラ「教団の統率者」)のスダルマンなどによって順次受け継がれていった。
> マウリヤ朝時代にチャンドラグプタ王などの庇護を得て教団の拡張をみた。
> 以降のジャイナ教団史をみるうえでは、とくに白衣派(シュベーターンバラ)と裸行派
> (ディガンバラ)の分裂と両派の関係をたどることが重要となる。
> 両派の分裂はすでに前3世紀にその萌芽が認められるが、明らかな分裂は後3世紀ころに起こった。
> 〈矢島道彦〉
日本大百科全書 1999 (C)小学館
( ゚Д゚)
_(__つ/ ̄ ̄ ̄/_ [゚Д゚] こっち来てごらんよ。デフラグの瞬間を見せてあげるよ。
\/ /
_ __/ ̄ ̄ ̄/_
\/ /
[゚Д゚]
_/[___/ ̄ ̄ ̄/_ ( ゚Д゚ )
\/ /
/\
../ ./| (。Д。)
∴\/./
_, ,_゚∵ |/
[ノ゚∀゚]ノ
/ /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
すまんw
548 :
神も仏も名無しさん:2007/04/19(木) 01:13:12 ID:SllOJDVl
ちがうんじゃない。誤爆を装ったパスタくんおちょくり、と見た。
案外、このスレ、ガイドライナー多かったんだな
何線?
552 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/19(木) 09:17:21 ID:1BUA8cph
(つづき)
白隠は、この主体・客体に関して「それは水に浮く氷のようなもん」。
とかの比喩にて言うておるが、勿論これは中論からのパクリで、
あくまでも市井向けの解説に過ぎない。
その本意とは、主客同一(同質)を比喩したに過ぎなくて、本義は境界はない(龍樹)。
というのが中論の見解。
主客といふ概念は仮設として成立つ訳ですから俗諦となります。
成立つのは縁起に依るものですから、とうぜん縁起(空)が第一義になります。
阿含経における第一義空経は、このようなことが文意です。
このテーゼがありませんと、阿含経そのものの解釈は無理です。
ましてや一如の法門にアンチの立場ですと、語句自体がチンプン・カンプンになりますね。
553 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/19(木) 15:43:10 ID:1BUA8cph
前記レスにありました「善行をする」といふのは、明らかに迷いであります。
論理矛盾であります。
>>542参照
善行するその対象を己自身と発見した瞬間に大悟して、己自身の迷いに気づきます。
それは、対象に何らかのアクシデントがあったような状況の場合が多い。
私の経験では、例えば下肢が不自由で「最初の一歩」が踏み出せない場合は、
その歩行訓練師は「一歩を踏み出すように」指導はするが、
なかなかその成果というのは、あがらない。
ところが、
何らかのアクシデントが発生した状況において現状固定の概念から解脱し、
思わず下肢が動いた。というのは良い事例です。
(火事場の馬鹿力のような理屈)
仏のたまわく「仏性の義を知らんと欲(おも)はば、まさに時節因縁を観ずべし、
時節若(も)し至れば、仏性現前す」。by道元
『無我相経』
「最初の説法」(『初転法輪経』)につづいて、釈尊は五人の修行者たちに本経を説かれた。
出典については、『律蔵』の「大品」、『相応部経典』第22.59経「五群比丘」を参照。
(早島鏡正『人類の知的遺産 3 ゴータマ・ブッダ』p.259- 全訳あり)
釈尊は法眼を得た五比丘に、さらに続けて第二段の修行をさせるために、「無我相」に関する説法をされた。
無我相とは我相が無いということであって、現象世界はすべて無常であり、苦であり、無我であることを述べたものである。
(水野弘元『釈尊の生涯』p.134)
我相。自我という思い。(ここからは趣意) Atma-saMjJa 実体としての自我が実存するという考え。
(『般若心経・金剛般若経』岩波文庫 pp.46, 47, 134.)
我相とは、五蘊に実我あり、わがものあり、と思いなす(計)ことである。
555 :
神も仏も名無しさん:2007/04/20(金) 01:33:04 ID:KFKcvIsV
ヒント:無限遡及、エポケー、アポリア
556 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/20(金) 07:14:52 ID:h0JuqHxs
>>554の書き込みに
>>555のレスポンズ。
これが仏教の核心的なもんですね。
闇夜のカラスは物理的条件において見えるようになるのか?
いやいや、そうじゃなくて識における心眼をもって見えるようになるのか?
こういう二項の問題ではない。
このベクトルを越すところに本義がある。
相対立するは結論でるまじ。by道元
557 :
神も仏も名無しさん:2007/04/20(金) 07:47:39 ID:tLCpj/pl
無我と納得しようとする我がいる。
558 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/20(金) 07:56:15 ID:h0JuqHxs
善行をしようとする我がいる。
まあ、これと同義でありますから、
本来仏ならば無為で宜しい訳ですね。
560 :
神も仏も名無しさん:2007/04/20(金) 09:42:13 ID:mTvJP8Uz
561 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/20(金) 12:13:48 ID:h0JuqHxs
下肢不自由児と歩行訓練師は、「歩行」という目的は一緒です。
訓練師は、坦々と忍耐強く訓練を継続させて逝くのが仕事です。
児童も、やはり同じで忍耐強く訓練を受けて逝きます。
ようは、児童のアクションを待つより方法はない。
児童はそのうち忍耐の限界に達しまして、訓練師に反撃に転じるのです。
この場合は、物を投げたりすることもあり
児童は精神が興奮している状態です。
反撃に転じた後の、児童は反射的に逃げる体勢になります。
この瞬間に下肢の束縛がら脱却し、自由を得る機縁になる場合が多い。
訓練師は、この一瞬を待つのです。
この双者の関係を、茶道では「和敬清寂」とも言います。
そして道元の、
「まさに時節因縁を観ずべし」
に繋げることができる。
#、あくまでも例示であり、一般論として御理解なされたき候。
>>555 仏教で「無我」というのは、
「実我がある。」「いや、実我はない。」「いや、実我はある。」という、
実我の有無を論じ合う場でのもの言いではない、と。
〔そういう議論は結局、結論の出ない形而上学に陥る。
つまり、無限にさかのぼることになって、最後には行き詰まりaporiaに至る。
なので、判断停止epocheにしておく。〕ということでしょう。
ただ、ここまでは、サーリプッタが仏教帰依以前に学んでいたサンジャヤの懐疑論にも、ある意味、
共通した発想をもとにしている、と思われます。しかし仏教では、そこに留まらず、
「そういう形而上学は、結局、苦からの解放に資することはない」という観点から、
「『これがわがものである。わたしはこれである。これがわが実我である。』ということはない。」
と見て、苦の原因となる執着を離れることに説き及ぶ点で異なってくるようです。
無限遡及anavasthAに関しては廻諍論に詳しい論説があります。世界の名著2、251頁を参照されたい。
「rUpam anattA 色非我/色無我」などについて「無限判断」(infinite judgment)という考え方を
援用してみるのも有意義でしょう。
肯定判断「SはPである」、否定判断「SはPではない」、無限判断「Sは非Pである」
563 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/20(金) 20:02:19 ID:h0JuqHxs
>>562 日常性といふ意味連関の切断における一瞬なのであります。
この一瞬については
>>561に例示しました。
>訓練師は、この一瞬を待つのです。
これですね。
簡単の言いましたら、論理構築の空白における一瞬であります。
通常においては、人は目的意識において行動しますから、それは連続性の継続です。
だから認識できる。
「まさに時節因縁を観ずべし」とは、
このベクトルの切断された空白のことです。
哲学的には直覚ともいふ。
では、おやすみ。
「悟るの!?こうやって、悟るの!?ねぇ!悟る!法眼得て悟る!?」
「あぁ、悟るよ」
「本当!?大丈夫なの!?波旬じゃない!?」
「あぁ、正自覚者だから大丈夫だよ」
「そうかぁ!僕凡夫だから!凡夫だから煩悩ばっかりだから!」
「そうだね。煩悩ばっかりだね」
「うん!でも八正道なんだ!そうなんだぁ!じゃぁ悟っていいんだよね!」
「そうだよ。悟っていいんだよ」
「よかったぁ!じゃぁ悟ろうね!四諦・縁起を悟ろう!」
「うん、悟ろうね」
「あぁ!四諦八正道だから縁起を知って阿羅漢になっちゃうよね!ね、世尊!」
「うん。涅槃見てていいよ」
「あぁー世尊と僕は今涅槃を見ているよー!ヴェーサーリーは美しいねぇー!」
コンダンニャ「やめるの!?苦行、やめるの!?ねぇ!苦行!苦行やめる!?」
世 尊 「あぁ、やめるよ」
コンダンニャ「本当!?大丈夫なの!?堕落じゃない!?」
世 尊 「あぁ、中道で四諦八正道だから大丈夫だよ」
コンダンニャ「そうかぁ!僕五比丘だから!五比丘だから四諦とか八正道とかわかんないから!」
世 尊 「そうだね。わからないね」
コンダンニャ「うん!でも中道なんだ!そうなんだぁ!じゃぁ苦行やめていいんだよね!」
世 尊 「そうだよ。やめていいんだよ」
コンダンニャ「よかったぁ!じゃぁやめようね!苦行やめよう!」
世 尊 「うん、やめようね」
コンダンニャ「あぁ!五蘊は無我だから諸行無常だよね!一切皆苦だよね!ね、世尊!」
世 尊 「うん。托鉢行ってていいよ」
コンダンニャ「あぁー世尊と僕とで阿羅漢は二人だよー!他の四人はまだかなー!」
566 :
神も仏も名無しさん:2007/04/20(金) 22:21:42 ID:nTfgVFco
本当の意味で仏教独自の思想というのは縁起だけ・・・かな。
無我も、言ってみれば、アートマンのアンチテーゼだし、坐禅は勿論、以前からあった、
輪廻・生天、業報・因果応報もそう、一切皆苦も後先不明だけど他派でも言う。無常は
、、、これもアートマン常住論の、言ってみればアンチの変種かな。
善悪を超えた解脱の境地、というのも何か他の宗教でも言うてたような。
とうぜん、以上のものは全部、仏教風の再解釈を受けて変容してると言えるけど、
他のインド宗教・哲学派にもあるもの。
だけど、縁起って他の宗派に見当たらないような。
としたら、なぜ真似しなかったのかも、不思議っと言えば不思議だ。
・・・・・・なぁんてことを考えてみた。
>>566 そういう話題もいいんだよねぇ・・・。
文章もくだけてて、いろいろ言い合えるような・・・。
スレ主には嫌われちゃうけど・・・w
568 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 06:24:00 ID:NOGHuWy1
怒りながら笑う人はまだですか?
「まさに時節因縁を観ずべし」「直覚」「無我」など、どんな方向にでも
現れる。
火事場の馬鹿力然り、窃盗・殺人然り。
八正道に勤めるべし。
八正道に勤めて居るならば、周囲にもそれなりの人が集まるだろう。
足るを知り、欲を出し過ぎず、くよくよせず、中道を自分のものとするならば、
ストレスも少なく、無我の境地に置かれた時に善行もできるかもしれないね。
それはでも2次的なことで大したことではないと思うよ。
ただ、己の慈悲心により魑魅魍魎的な人と多く関わってしまう人もいるのだね。
それは、自分で望んで関わったことであるから何が起ころうとも自己確立し
自分の中で解決してそれを受ける覚悟が必要ということになるね。
571 :
草レーサー:2007/04/21(土) 09:05:06 ID:RfJ7Z2iq
>>566 縁起という言葉は使用されていませんが、原始ジャイナ教でも
物事の関係性が語られていいたことがあります。
572 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 09:19:04 ID:SQNJlkpu
>>570 >無我の境地に置かれた時に善行もできるかもしれないね。
無我の境地ならば、善行から離れるやに思いますけどね。
「善行」と「慈悲」は全く意味が違う。
善行は俗諦でありますし、慈悲は真諦であります。
菩薩は、その行動規範が菩薩ではない。
その存在そのものが菩薩である。
池田晶子とか正岡子規は、仏教的には菩薩ということになる。
何ゆえか?
それは、存在(故人ではあるが)そのものが大衆を導くからである。
573 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 13:02:12 ID:NOGHuWy1
黙って聞いてりゃ結局また池田晶子かよ
どんだけ…
574 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 13:50:04 ID:xlthOa26
>>572 普通ならダイヴァダッタって言うよ。
全く何も分かってないんだから。
君のいう菩薩の定義や属性なんて聞いたことないよ。
575 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 13:58:31 ID:SQNJlkpu
>>573 私はアンチ教条主義ですから、あえて仏教というジャンルとしての拘りはない。
>>540参照
>「三法印とは彼岸に至るための道程である」。
仏教のテーゼである執着からの解脱は、身辺状況においてそうならざるを得ない。
といふところまで追い込まれることもある訳で、
これは全く自己意識に関わることのない、いわばアクシデントです。
それが、たまたま仏教のテーゼに抵触してしまった。
こういう機縁というのは、
そこいらの坊主が求めても得られるもんではない。
まさに道元のいふ「まさに時節因縁を観ずべし」。ですね。
菩薩というのは、個別性を特定する意にはあらずして、
その関わりにおいての相互依存の意。
キリストがその人の菩薩であってもいい訳です。
相依において(空)菩薩という(色)。空即是色
576 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 14:04:33 ID:SQNJlkpu
>>574 菩薩のモデルは、一応はあります。
架空のモデルですが、布袋(ほてい)さんは空想上の菩薩ですね。
生活態度は遊び人風ですが、
この布袋さんと縁すると、人は癒されるようですよ)^o^(
577 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 14:14:20 ID:fl3Vl3ZD
>>572 君の能書きだと、世の中サイコパスだらけになっちゃうな。
自己中人間になることが釈迦の仏教ですか?
自己中人間になれば、それすなわち、苦の滅ってわけですね?
小難しい話でごまかしても、あなたの言っていることは、そういうことです。
サイコパスだらけの世の中なんて、さぞ楽しい世の中でしょうね。
あんたなんか間違ってない?
何でこんな人が教育界にいるんだろう?子供に善悪も教えられない人が、教育界にいるなんて、
ある意味怖い話ですね。
578 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 14:17:51 ID:fl3Vl3ZD
机さん。どうして人を殺しちゃいけないんですか?
そんなものにこだわるのは、苦であり、迷いですね?
人は殺してもいいんですね?
579 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 14:21:19 ID:SQNJlkpu
>>577 >自己中人間になることが釈迦の仏教ですか?
自他分別する善悪こそが自己中ですね。
>あんたなんか間違ってない?
いやぁ〜、間違ったことは言うておらんですね。
貴殿は、善行と慈悲の違いが解せますか?
そこが問題です。
580 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 14:23:39 ID:fl3Vl3ZD
ちゅうかここは、禅スレだったんですね。
なんでスレタイは原始佛教なのでしょう?
不思議です。
581 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 14:26:06 ID:fl3Vl3ZD
>>579 はいはい屁理屈、屁理屈。
で、どうして人を殺しちゃいけないんですか?
582 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 14:28:05 ID:SQNJlkpu
>>578 >机さん。どうして人を殺しちゃいけないんですか?
仏教は一如の法門ですから、
殺す者と殺される者という対立こそが法に反します。
法は一枚平等でして、この対立のない大悲・大慈が本義となります。
ここに調ふて下されば全ての邪念は寂滅されますね。
583 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 14:32:19 ID:fl3Vl3ZD
>>582 ごまかさないでください。
人は殺してもいいんですね?
584 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 14:39:44 ID:SQNJlkpu
>>583 八正道における行動規範というのは、
簡単に言うたら全てが慈悲に依るものです。
人は殺してもいいか?わるいか?
ってのは、慈悲で分るかと思うけどね。
まあ、世の中にはそれでも分らん人もおるのは致し方ないですが、
慈悲のキーワードで「殺し」を絡めれば、
普通は分るんじゃないでしょうか?
分らんかったら「慈悲」で検索してみて下さい。
585 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 14:40:15 ID:fl3Vl3ZD
>>579 >貴殿は、善行と慈悲の違いが解せますか?
慈悲とは、自他不二の心を。それは差別区別をなくしすべて平等に思う心。
善行とは、どの心の働き、その心に基づく、身体の行。
不二がれば、識別あり。識別なければ自他不二もなし。
ところであんたの話だと、差別のない不二の関係というのも迷いになりますな。
真諦あれば、俗諦あり。俗諦なければ真諦もなし。
あんたはよく、真諦、俗諦と区別差別しているけど、これもあんたにいわせれば、迷いになるな。
机さん。なにを迷うておるのです。
586 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 14:42:06 ID:fl3Vl3ZD
>>585 訂正
×慈悲とは、自他不二の心を。それは差別区別をなくしすべて平等に思う心。
善行とは、どの心の働き、その心に基づく、身体の行。
○慈悲とは、自他不二の心。それは差別区別をなくしすべて平等に思う心。
善行とは、その心の働き、その心に基づく、身体の行。
587 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 14:46:56 ID:fl3Vl3ZD
>>584 ごまかさないで、聞かれたことに、単刀直入に答えたらどう。
答えられないの?
禅宗はごまかしのテクニックだけは、極限にまで研ぎ澄まされている。
机の能書ききいてもわかるように、邪教だよ。
机の思想を元に、実際に集団でそのように生きれば、立派なカルトだ。
オウムの思想と変わりませんね。
588 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 14:51:22 ID:SQNJlkpu
>善行とは、どの心の働き、その心に基づく、身体の行。
自己裁量に委ねられて、善行によって人殺しもある訳です。
不二の法門ですと、主客裁量ということになりますから、
おのずと主客対立概念そのものが滅却されますね。
これを慈悲と言うんです。
>机さん。なにを迷うておるのです。
サイコパスというのは、自己本位の極でありますから、
私のテーゼであります中道とは全く異なります。
どうか私の文意を精査なさいまし。
かしこ。
>>584 慈悲があれば、利己心というものがあります。
慈悲も、利己心(自己中)も、二項によるものです。
仏教は、一如の法門でありますから、慈悲=八正道というのも間違いになります。
なんにせよ、八正道とは、正見に基づくものでありますから。
机さん。何を迷うておるのです?
590 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 14:57:22 ID:fl3Vl3ZD
>>588 >自己裁量に委ねられて、善行によって人殺しもある訳です。
自己裁量といっている時点で、あなたの論理は破綻しています。
言っている意味がわかりますか?
>サイコパスというのは、自己本位の極でありますから、
>私のテーゼであります中道とは全く異なります。
だからあなたの能書きは、論理破綻していると言っているのです。
言っている意味がわかりますか?
591 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 14:58:49 ID:SQNJlkpu
>>589 書き込みでカラス氏は分ります。
>慈悲も、利己心(自己中)も、二項によるものです。
全く違いますね。
ってか、アーレフのスポークスマンですか?
592 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 14:59:36 ID:fl3Vl3ZD
>>588 >私のテーゼであります中道とは全く異なります。
中道あれば、極端の道もあり。中道も二項によるものです。
机さん。なにを迷うておるのです。
593 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 15:02:24 ID:fl3Vl3ZD
>>591 カラスさんって誰ですか?
オウムのスポークスマンはあなたの方ですよ。
変なレッテルを貼るのはやめてください。
議論に負けるからと、相手に論理的でないレッテルを一方的に貼るのは
卑怯者のすることです。さすがカルトですね。
594 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 15:02:34 ID:SQNJlkpu
>中道あれば、極端の道もあり。中道も二項によるものです。
全く違いますね。
ってか、これから夜勤で善行をしに逝くんですか(^^ゞ
595 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 15:05:23 ID:fl3Vl3ZD
>>591 どう違うのか、説明してください。
禅宗の方は、論理的な理由も言えないくせに、
「それは違う」と、偉そうに言うのが得意ですね。
ただ、「違う、違う」と言うだけなら、子供にだって言えますよ。
596 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 15:07:48 ID:fl3Vl3ZD
>>594 なんと、善行をしにくと!?
善行あれば、悪行あり。
これも二項によりますな。
机さん、なにを迷うておるのです。
597 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 15:15:38 ID:SQNJlkpu
>>595 >慈悲も、利己心(自己中)も、二項によるものです。
慈悲とは空諦のことです。→無差別相
利己心(自己中)とは色諦のことです。→差別相
覚者は自他分別から離れた空諦より〜色諦という智慧に依る解釈です。
ですから当然、善悪そのものの捉え方も違います。
つまり、慈悲に善悪そのものの意も含まれ、
あえて慈悲に属性を付記することもない。
598 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 15:23:09 ID:fl3Vl3ZD
>>588 >自己裁量に委ねられて、善行によって人殺しもある訳です。
まるで、麻原のポアですね。
オウムのスポークスマンはあなたのほうですよ。
カルトなのは、あなたのほうなのですよ。
あなた、ご自分の教義は、カルトそのものだって事も気付かないのですか?
あなたは他人をよくカルト呼ばわりしているようですが、
なんかの本で読みましたが、
サイコパスは、自分の心の闇を、見事に他人に転嫁できるそうですね。
カルトは、あなたなのですよ。
599 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 15:32:39 ID:fl3Vl3ZD
>>597 あなたは他人があなたのいう空諦を、「一」として表現すれば、
それは二項によるもので間違いだと言いました。
あなたの論理だと、空諦という言葉も、二項により成り立つものです。
だから空諦などというのも間違いです。
何を迷うておるのですか?
>覚者は自他分別から離れた空諦より〜色諦という智慧に依る解釈です。
>ですから当然、善悪そのものの捉え方も違います。
ほう。覚者は人を殺してもいいというわけですね。
あなたの能書きは、まるでオウムのポアそのものですね。
あなたのその思想が、麻原の殺人を肯定する信者を作り、あの事件を生んだのですよ。
たく、カルトはどっちなんだか。
600 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 15:35:28 ID:fl3Vl3ZD
>>597 あなたの過去の書き込みから判断すると、
あなたの能書きは、論理破綻しています。
あなたは目がみえないのですね。
601 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 15:38:08 ID:SQNJlkpu
サイコパスは、良心の欠如というのがありますが、
それは生得的なものであり、
カルトとはその起因が全く違います。
サイコパスでも人格者?はいますから、
一概にサイコが悪、ということも言えんわけです。
得てして善悪の基準が人を判断してしまいますが。
カルトは作為に依る洗脳ですから、
サイコと同列には出来ない。
602 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 15:40:10 ID:mV5PCPHX
十二支縁起の最後、生老病死憂悲愁苦悩、人々のこれらの苦しみに、仏陀は責任があるだろうか?
603 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 15:44:20 ID:fl3Vl3ZD
>>601 良心?あなたにいわせるとそなものはないのでしょう?
良心と言うのも二項によりますな。
あなt自称覚者なんでしょ?
何を迷うておるのです。
604 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 15:45:22 ID:SQNJlkpu
>>600 >あなたの能書きは、論理破綻しています。
撃竹大悟、桃花悟道、身心脱落、いずれも論理破綻ですね。
つうか、
貴殿は論理破綻はしたくないのですか?
605 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 15:52:36 ID:fl3Vl3ZD
>>601 >カルトは作為に依る洗脳ですから、
>サイコと同列には出来ない
麻原は反社会性人格障害、サイコパスですね。
おそらく過去のカルト教教祖、現代のカルトと呼ばれる教祖(指導者)
彼らもこの種の人格障害者だろうというのは、今の精神科医達の多くも
賛同するでしょうね。
ところで机さん、あなたはまともだとおもっていますか
606 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 15:53:59 ID:fl3Vl3ZD
607 :
素人:2007/04/21(土) 16:04:11 ID:UMhusVlF
机は、禅を(禅的思考・言葉を)少し離れたらどうだ?
いいかげん鼻につく。
そういうのを業界では、「悟りの臭み」がある、とか言うw
百尺竿頭から足を踏み出していないのは、君の方だと思うよ。
608 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 16:04:21 ID:SQNJlkpu
>>605 >ところで机さん、あなたはまともだとおもっていますか
どこまでが正常で、どこからが異常か?
というのは実際のところはボーダーレスですね。
一応のボーダーがありますが。
こういうことは学会でもテーマになります。
自閉症というのは、”自開症”という方が適切なんじゃないか?
とか、そんな話題もあるくらいですから。
近年において開示されてきた諸々の事例が、多数派になりますと
これがノーマルになる訳ですから、
ただ単に少数派としての異常性とかのコンセンサスがある。
ってだけのことです。
時代の変化は、また新たな基準が構築されて逝く。
常にその過程においての判断に過ぎぬ。
609 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 16:04:40 ID:Oj7NE4Lm
シアノバクテリアの(現在の観察から見た)利己的な遺伝子DNAに自由はない。
従って、責任はない。
「世間」の発生と共に、善悪、道徳、自由、責任、神・悪魔、天国・地獄、
損得・勝ち負けなどといった世間的価値観=共同幻想が発生する。
610 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 16:11:02 ID:SQNJlkpu
>>607 私は普通に書き込みしているつもりだけどね。
>百尺竿頭から足を踏み出していないのは、君の方だと思うよ。
そうでしたか。
では、貴殿の竿頭のその先のことでも教示してくれまいか?
お願いいたします。
かしこ。
611 :
609:2007/04/21(土) 16:16:21 ID:Oj7NE4Lm
世間的価値観(苦しみを産む)から超越して生きること、これが仏(真理の覚者)道。
612 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 16:21:09 ID:SQNJlkpu
>>611 そうですね。
マルクスから言わせると、原始共産主義社会から人が所有の概念が生まれたころから
苦が初まったんでしょうね。
613 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 16:24:17 ID:xlthOa26
>>610 簡単なこと、ここは経典を正確に読むことを目指すスレ。
机さんの恣意的な臆説を議論する場ではないのだ。
614 :
素人:2007/04/21(土) 16:24:27 ID:UMhusVlF
>>610 私の過去レス嫁。(このスレだけじゃないぞw)
615 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 16:34:27 ID:SQNJlkpu
>>613 >簡単なこと、ここは経典を正確に読むことを目指すスレ。
勝義諦は経典には書けないですね。
方便として指し示すことはできる。
正確に読む。とは、方便のまんまに理解する。ということですか?
616 :
609:2007/04/21(土) 16:36:33 ID:Oj7NE4Lm
>>614 なんだ素人よ、【私】を記述してください。【私の存在性】という辺境スレから
本社帰りか?おまいのヨタレスなんか調べるかようwwwww
617 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 16:37:35 ID:SQNJlkpu
>>614 そうでしたか、それじゃあまた機会がありましたら竿頭から足が出た話を聞かせて下さい。
618 :
609:2007/04/21(土) 16:40:54 ID:Oj7NE4Lm
経典ったって、インチキ経典だらけで、徒労の末に迷いの淵に沈むぞ。
アホダラ的教条主義は御免だ。
619 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 17:15:59 ID:xlthOa26
>>615 貴方は、人がいいがほとんど何も分かっていない。
貴方のスタンスは、悟った者が、弟子に解き明かすスタイルを取っている。
この場合、最低限二つのことが要求される。
貴方が悟っていることと、聞くものが貴方を覚者と認め信を持って聞こうとしていることである。
だから、釈尊も信を持たないものには説いていないのである。
で、貴方が悟っているかどうか、それは分からない。
が、少なくともここで貴方を悟ってると認め信を持って聞きたいと思う者は、一人もいないようである。
一人以上、そんな奇特が方がおられたとしても、どこか別のスレで
『机が真実を教える』なんてスレタイで、つぶつぶと教えてればいいのである。
ここは貴方のような方が書く所ではありません。
620 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 17:48:09 ID:SQNJlkpu
>>619 >貴方は、人がいいがほとんど何も分かっていない。
そうでしたか、それは不徳でした、
では何かいい話でもあるのですか?
竿頭から足が出る話とか、
そんなことが機縁になることもある。
私は、赤信号で車を停めている時に、目の前の落ち葉が風に舞うんですよ。
それを何気に見つめていたら気づきましたね。
あの光景は今でも鮮明に覚えています。
まるでスローモーションの映画を観るような感覚でした。
実に美しい。
この世の極の美を見た感じですね。
池田晶子とか正岡子規とか、想像ですが、こんな光景を見たんじゃないでしょうか?
あれは執着を滅し切った人の本性の顕現なんでしょうかね?
まあ、滅し切る訳ですね。
死を覚悟しとるんですから。
凡人にはこの覚悟はなかなか至難ですね。
621 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 18:02:11 ID:Oj7NE4Lm
>>619 んな〜こたーない。それはべらぼうな偏狭だ。
我々の精神形成も縁起=無自性空=相依性によっているのだから、
様々なスタイルがあっていい。
悟りは最終的には個人的な問題だ。「自己」の問題だ。諸要素は多いほどいい。
これが解らない奴は、不合理なれど我信ずの「信仰」による救済にゆく。
ブッダの教えは「信仰」ではない。
622 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 18:04:31 ID:xlthOa26
>>620 私が言いたいのは、経典を根拠にここでは仏教を語るべきである、ということです。
それと貴方が唯一知ってるのは勝義は語れないということだけ。
じゃ、なにを言ってもいいかというとそんなことはない、
縁起、因果は欺かないものと、仏教の伝統では捉えられてきました。
これは原始仏教、テーラワーダはもちろん、大乗でも同じこと。
禅宗でも私が知る限りそのようである。因果を認めないのは、野狐禅と言われる。
私が見るところ貴方は、その野狐禅にも達しておらず、
唯の常識を適当な仏教語と机さんの知の領域で良いと思ったものを適当に混ぜて適当にしゃべってるだけ。
まあ、善意なんでしょうから、そこだけが救いなんですが、
ホントは、ただ人に共感してもらいたいだけなんじゃないですか?
623 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 18:12:46 ID:Oj7NE4Lm
机の依拠経典は般若心経を通した原始仏典wwwwwww
624 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 18:15:13 ID:SQNJlkpu
>>22 >私が言いたいのは、経典を根拠にここでは仏教を語るべきである、ということです
そうでしたか。大いに語ちて下さい。
私も語ちてきました。
>私が見るところ貴方は、その野狐禅にも達しておらず、
そうでしたか。それは不徳の致すところ。
では、野狐であることの根拠などを指し示して下され。
教示を乞うも、なんら指し示すことのなきは、語ちるにその意は見えざるなり。
625 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 18:34:24 ID:SQNJlkpu
>>622 >禅宗でも私が知る限りそのようである。因果を認めないのは、野狐禅と言われる。
縁起は空諦で、因果は俗諦ですね。
つまり因果とは必然性か?偶然性か?
というなら偶然性です。
626 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 18:51:19 ID:xlthOa26
>縁起は空諦で、因果は俗諦ですね。
>
>つまり因果とは必然性か?偶然性か?
>というなら偶然性です。
また、適当なデマカセを。空諦というと天台の三諦か『瑜伽論』の九諦の中の空諦しか知りませんが、それはどちらも縁起という意味ではないですよね。
そして縁起は因果を重視します。
もちろん縁起は、因果の面もありますが、無常、無我、空という面もあります。
ですが、それは机さんの言っている意味とはまるで違う。
言うことは言いましたので、後はどうぞご自由に。
>>620 机さんって、どんなに論理的に負けていても、
決して自分の考えを改めない人ですね。
あなたは御自分の考えに、恐ろしく執着しておられる。
御自分で自分は執着の鬼だとお気付きになりませんか?
628 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/21(土) 20:19:51 ID:SQNJlkpu
>>626 >そして縁起は因果を重視します。
森羅万象、心作用・色作用も含めて現象としてあるものですから一切が色諦になる。
その理として空諦ということになる。
ゆえに縁起が主語とは成りえない。
629 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 20:39:27 ID:9raTgzp8
机氏、延々とこのスレで書き込んでいるのは何故?単なる暇つぶし?
内容もいつも同じところぐーるぐる。
机のような呆け老人の相手をすることはない。
あの獣は、独りよがりの独善家にすぎない。
善人のように見せかけているだけで一切が似非だよ。
631 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 21:41:53 ID:xlthOa26
>>630 いや、人はいいよ。それだけは評価すべき。
電波、アホダラも、それぐらい見習うべし!
632 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 22:01:13 ID:mV5PCPHX
その通りだ、机サンガ怒ったのを見たことは滅多に無い。これだけでも対したものだ。
それに禅宗が影響しているのでは?禅宗と言うのは、人に「考案」なる宿題を課すという。
この宿題の為に死ぬものまであると言うじゃないか。机さんのぼやけた明晰でない言い方は、
に、我々は我慢して死ぬくらいなら、反撃した方が良いと、言うのではW。
633 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 22:22:00 ID:9raTgzp8
いや、オイラが机氏に問いたいのは、仏教を語る意図、目的のことよ。
オイラの記憶が正しければ、氏がカルトとか草加から脱退した過去があるので、
それらの現役信者の救済の為にここに書き込んでいるのかなとも思うが・・・・。
しかし、もしそうだとしたら氏の徒労になるだろう。理屈で彼らを納得させようと
すればするほど、彼らはますます理屈で応えてくるか、氏を無視するかだ。
もし、氏自信の仏教知識のお披露目なら・・・・・、”好きにすれば〜”
とだけ言っておこう。
634 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 23:13:43 ID:Oj7NE4Lm
あれっ? オリジナル・ブッディズム中心に、みんな好きにやってるんだろ?
>アーガマ(漢訳阿含經典など)やニカーヤ(パーリ佛典)に説かれている教法や教理 を中心に、様々な議論を重ねて行けた
>らと願います。
ところで、最近岩波文庫で中村元訳の原始仏典を読みながら、
丸山勇「ブッダの旅」(岩波新書)のカラー写真を見ているが、
プロらしくうまく撮れ過ぎていて?ウソっぽい。
やはりインドへ行ってみる必要がある。
現地へ行った事のある人の体験談も聞かせて欲しい。
松涛誠達「仏教が排除したもう一つの『輪廻説』」(『東洋学術研究』22.1, 1983)
636 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 23:37:36 ID:xlthOa26
それなら同じ丸山勇さんが写真を撮り奈良康明先生などが解説をつけた『ブッダの世界』を見てみるといいですよ。ただしお高いので図書館がお勧め。
写真も立派、解説も立派な非常によくできた名著です。
インドはなんでもありの国。
四大聖地の印象:
ルンビニー(ネパールだけど)昔行った時は、田舎だった。3年前行ったら観光地になってたが、いまだ静謐な聖地。
ブダガヤー:仏塔の中は聖地、周りは千人を超える乞食と盗みやボッタくろうという
現地人たちが我々に襲いかかる餓鬼か地獄、ナイラジャラー河を越えてスジャータ廟
のある寒村の人々も観光ずれしていて嫌な感じ。
サールナート:よい感じ。
クシナガラ:いまだ田舎。もっともよい。行ができる環境。
>>562 > サンジャヤの懐疑論にも、ある意味、共通した発想をもとにしている
http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn22/sn22.081.than.html > he may have a view such as this: 'This self is the same as the cosmos.
> This I will be after death, constant, lasting, eternal, not subject to change.'
> This eternalist view is a fabrication...
> he may have a view such as this: 'I would not be, neither would there be what is mine.
> I will not be, neither will there be what is mine.'
> This annihilationist view is a fabrication...
> he may be doubtful & uncertain, having come to no conclusion with regard to the true Dhamma.
> That doubt, uncertainty, & coming-to-no-conclusion is a fabrication.
常見(この'私'というものが死後も永遠に続く、という考え方。無因有果説、現在世に我が実有する
と計(オモイナス)することから、遡ってゆき遂に初めに因なし、とする見方)、
断見(今わがものであるものが断滅する、という考え方。有因無果説、現在世の我実有と計すること
から、後世に果がなくなる、とする見方)、懐疑論(というより、法に関する無結論)のどれもが
行(サンスカーラ、構成fabricateされたもの)である、とされているようです。
638 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 05:59:09 ID:8tNV1q01
サンジャヤはブッダに愛弟子たちを根こそぎ取られて狂い死にした可哀想なオジサン
合唱
639 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/22(日) 06:26:03 ID:gP6WjxKw
机よ、何を迷うておるのだ?
わはははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははは
640 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 07:02:40 ID:r6MbbiUV
>>631 しかし、人が良いと言う評判は良いよな。詐欺師山師の危険もあると思うが。
641 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 07:05:42 ID:QZeAGbcx
沖縄県の方へ(命に関わる注意事項です)
沖縄県での選挙ですが、どうか民主党だけは避けてください。県民の生命に関わる可能性があります。
民主党の最大の公約は一国二制度(※)ですが、一度「一国二制度 沖縄 三千万」等で検索をお願いします。
この際、民主党のHPで調べても良いです。以下の注釈↓と矛盾することは書いてないはずですから…
※一国二制度
簡単に言えば沖縄を中国と日本の共有物にし、そこに3000万人の中国人を入植させます。
(つまり沖縄人口の 96% を中国人にして、実質、沖縄を中国人の居住地とします。)
さらに「自主」の名の下、沖縄で有事が起きても自衛隊は干渉できません。
3000万人の中国人が、少数派となった130万人の日本人に何をしても、です。
そして反日教育を受けた中国人の反日感情の強さは、ほとんどの日本人の理解を超えるものです。
今回の選挙で民主党が勝った場合、「自主」「発展」を連呼しつつ段階的に進めていくことになります。
自主と言っても、自主を認めるのが「住人の96%が中国人となった」後だということに気をつけてください。
発展と言っても、新沖縄の少数派となった「少数民族日本人」の発展ではないことに気をつけてください。
642 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 07:29:02 ID:v1A2idiD
>>633 >いや、オイラが机氏に問いたいのは、仏教を語る意図、目的のことよ。
白隠の「参禅帰りの見性体験」というのは、ある程度の行を修したなら誰でも体験は出来るかと思う。
実際、私は白隠と全く同じ体験をしましたから。
>>620参照
この体験で、ある程度世界観が変わりますから、
こういったことも情報としてネットで開示していきたいですね。
皆様に参考になればと思う次第であります。
>オイラの記憶が正しければ、氏がカルトとか草加から脱退した過去があるので、
>それらの現役信者の救済の為にここに書き込んでいるのかなとも思うが・・・・。
私は救済するほど偉くはないです。
救済は神にしかできません。
仏道とは、粛々と坦々と
>>561の
>訓練師は、坦々と忍耐強く訓練を継続させて逝くのが仕事です。
のように、己の心のままにあるだけです。
643 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 07:35:34 ID:v1A2idiD
(つづき)
>しかし、もしそうだとしたら氏の徒労になるだろう。理屈で彼らを納得させようと
>すればするほど、彼らはますます理屈で応えてくるか、氏を無視するかだ。
徒労に終ろうと、そうでないだろうと、
仏道とは、粛々と坦々と
>>561の
・・・以下同文。
>もし、氏自信の仏教知識のお披露目なら・・・・・、”好きにすれば〜”
>とだけ言っておこう。
仏教は知識ではない。
平常心是道。
644 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 10:14:44 ID:ghI2wgYf
>仏教は知識ではない。
経典読んだから、俗諦とはこういうものだ、真諦とはこういうことだって知りえたんじゃないの?
そういう知りえたことを知識と言わずして何と言う?
645 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 10:49:02 ID:v1A2idiD
>>644 仏道といふ道は平常心が肝心です。
では、平常心を目標に仏道に精進するのが良いか?
と言えば、そうではなくて、
目標とすれば道に外れる。
では目標がなれば、求めたり知り得ることが出来んじゃないか?
そう思ふのは当然であるが、
仏道とは、求めることもなく、知りえることもなく、これには属せず
ただただ平常心(普段のまんま)にて調へば宜しかろうに思います。
仏道といふ道はあらずして、足跡のみが残るだけである。by道元
646 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 11:23:35 ID:1b7d+/LU
>>645 よーするに、平常心とは仏のいえ、大自然の運行、自然法爾のままに、
一切を御仏にお任せするその心そのままのこと、というのが禅の説明文。
しかし、こーゆーのはブッダの仏教ではない。外道だ。
ブッダの仏教だというなら、その説明・弁解をどぞー。
さあ、平常心とやらでナンパしてくるか。
647 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 11:32:15 ID:ghI2wgYf
>仏道といふ道は平常心が肝心です。
って、誰がそう決めたの?
いや、そもそも仏道とはこうであるというと、それ以外もある。それ以外は仏道ではないと二元的になってしまう。
同様に、平常心とはこうであるということは、こうでない(平常ではない)こころがあるということになる。
単純に知識というものについて問うたわけだが、なんで仏教≠知識って話にいくのか。
648 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 11:44:28 ID:v1A2idiD
>>646 禅といふのは、開祖・達磨菩提において釈尊の模倣がその起源です。
釈尊は瞑想にて正覚を得ましたから、
この通りの模倣において成道する訳です。
釈尊は独覚でありますから、禅も基本的にはこれに習うものです。
独覚とは何でありましょうや?
おのずと知れたことでありまして、己に習う。といふことであります。
他に求めることもなく、ましてや他から知り得ることでもなく、
己の仏性開眼こそが釈尊の辿られた道でありましょう。
凡夫は、ただただこの道を模倣する以外にないのです。
649 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 11:51:26 ID:v1A2idiD
>>647 >単純に知識というものについて問うたわけだが、なんで仏教≠知識って話にいくのか。
般若心経は勝義諦のことが書かれていますが、
実際のところ、それは知識ではないのは読めば直ぐに解せるやに思ふ。
内容は「知り得る」ことは何も書かれていない。
月を指し示しているに過ぎん。
650 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 11:54:18 ID:ghI2wgYf
>釈尊は瞑想にて正覚を得ましたから、
>この通りの模倣において成道する訳です。
正覚じゃなくて、ただ「覚」でいいんじゃない?
瞑想だけが「覚」への手段ではないだろう。ブッダにとってはそれが手段だったという
結果論に過ぎない。
>>620に書いてあったけど、机氏は車の運転中に覚性したんだろ?
651 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 12:03:53 ID:ghI2wgYf
>>649 >実際のところ、それは知識ではないのは読めば直ぐに解せるやに思ふ。
答えがズレてます。
般若心経を読んで、その内容を理解すること(理解したこと)は知識です。
オイラが言いたいのは、その内容のとおりに机氏が「感覚として」掴んだ(掴んでいる)のか?ということ。
652 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 12:07:20 ID:v1A2idiD
>>650 >机氏は車の運転中に覚性したんだろ?
赤信号の合間ですから、数秒とか十数秒くらいな時間でしょうね。
しかしながら感覚とすれば数分単位くらいはありましたね。
まあ、こういう体験にしても、
それを誘発する起因というのは勿論あってのことですがね。
>瞑想だけが「覚」への手段ではないだろう。
勿論、それだけが覚への手段ではない。
仏教におけるテーゼには抵触しておりますけど、
そのキーワードとは果たして何なのか?
そういうことも、私は書いてきましたから、
これも幾ばくかは参考になるやに思いまふ。
653 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 12:16:20 ID:v1A2idiD
>>651 >答えがズレてます。
>般若心経を読んで、その内容を理解すること(理解したこと)は知識です。
心経は理解するものでしょうかね?
ただ否定文が書かれているだけです。
文意は、そのまんまに解せば意味不明です。
>オイラが言いたいのは、その内容のとおりに机氏が「感覚として」掴んだ(掴んでいる)のか?ということ。
心経の文字列を超えたとこが真諦になりますが、
真諦に逝くのはどおすればいいか?
かようなことを、私は書き込みしておるんです。
願わくば、全ての衆生が逝ってもらいたいですね。
654 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 12:30:01 ID:ghI2wgYf
>>653 >文意は、そのまんまに解せば意味不明です。
では、机氏は文意をそのまま吸収していないんですね?つまり、机氏の主観でもって文意を曲解している
ということですね?
そのまんま(あるがまま)はそのまんま(あるがまま)であってはいけないんですか?
いや、そのまんま(あるがまま)を捉えずして、そのまんま(あるがまま)とはなんぞや?
>心経の文字列を超えたとこが真諦になりますが、
>真諦に逝くのはどおすればいいか?
どうすればいいんですか?
655 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 12:39:24 ID:ghI2wgYf
ついでに、書いておきます。
「逝く」というのは、この地点→かの地点への移動を意味します。
真諦(空)には距離はないですよ。
敢えて文字で表すなら、「気づく、覚醒する」が適当かと思いますが。
656 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 12:49:51 ID:v1A2idiD
>>654 心経は「〇〇ではない」という文体で、世俗の価値基準を否定することがその骨格になってます。
つまり世俗の価値基準をベースとした知識とかは、
かえって仏道においては妨げともなる訳です。
>どうすればいいんですか?
どうすればいいか?っても、
私はこのテーゼに乗っ取って書き込みしちょるのです。
善悪とか慈悲とか、
なるべく身近なテーマをモチーフとしまして、
分りやすく、なお且つ簡単に、一如の本門の深遠なる本義を書いておるんです。
657 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 12:57:45 ID:v1A2idiD
>>655 >真諦(空)には距離はないですよ。
勿論、距離はないですが、凡夫のアタマに解せるよう、
心経においては「羯諦・ギャーティー」とか「逝く者」とかの比喩で説明しておるのが一般的です。
まあ、経典というのは方便で構成されているもんですから、
覚者は、その本意は勿論解している訳です。
>敢えて文字で表すなら、「気づく、覚醒する」が適当かと思いますが。
それでもイイですね。
658 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 12:59:01 ID:ghI2wgYf
>>656 >なるべく身近なテーマをモチーフとしまして、
>分りやすく、なお且つ簡単に、一如の本門の深遠なる本義を書いておるんです。
申し訳ないが、机氏の説明が分かりやすいとも、簡単とも思えたためしがない。
少なくとも子供にでもわかるような言葉、文章、つまり、もっと簡素な文体でないと。
本当に理解している人は、難しいことを簡単な言葉で説明できるし、そうしてるよ。
659 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 13:07:14 ID:v1A2idiD
>>658 >少なくとも子供にでもわかるような言葉、文章、つまり、もっと簡素な文体でないと。
私の書き込みじゃないけど「思い込み」とか、
かようなベクトルでもイイわけですね。
660 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 13:24:05 ID:ghI2wgYf
>>659 いつも、思い込みで書いているんですね?
そうですね、物事は主観でしか説明できませんから・・・・・。
ほう、ということは机氏は覚者ではないということですね?
自分以外の人間を凡夫と区別するのはいかがと思うが・・・・・。
そうういうことを書く(言う)から、いろいろ突っ込まれるわけですよ。
661 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 13:37:24 ID:8tNV1q01
想像妊娠なんじゃないですか?
その場合いつまでたっても子供が生まれないから、途中で気付くんだけど、
この人の場合、いつまでたっても気付かないでいる
…ような
662 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 14:18:20 ID:8tNV1q01
信号待ちしているとき、
落ち葉に乗って、
忘れかけていた魂が、
よみがえったのですよ!
文先生の魂が…
>>638 サンジャヤの教説は、「不死矯乱宗」というのだそうです。
「我らは不死の浄天に仕える」と言っていて、
ほかの人に「不死の道理とはどういうことか」と問われると、
曲げ偽って(矯)相手を攪乱するような答弁をする者、ということのようです。
『沙門果経』からは、「浄天に仕える」といったようなことは全く伺われませんが、
あるいはバラモン教の祭祀をも行っていたのかも知れません。
狂死した云々については、彼の論法の真価を見抜けない編纂者が、サンジャヤは意味もなく冗長に
敷衍しているとして、狂っているのではないか、と見なした上での酷評ではないか、と思えますが。
智慧第一と評される舎利弗が、理由もなくやたらに信奉していた訳でもないでしょう。
664 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 14:57:36 ID:GXYpnz3s
机が迷ってるんじゃなくて、
机が仏教徒だと思ってマジ対応してるオマイらが、惑ってるのだよ。
レスの付け方パターン見れば分かりそうなものだが。
意味をあさっての方へ押しやって、レスの無効化を狙うってのは、アラシの一手法。
禅語を間に挟んでても魂胆は見え透いてるw
まあ廃仏希釈「○花○」のアバタぁってとこでしょうなw
665 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 15:06:38 ID:v1A2idiD
>>660 >そうういうことを書く(言う)から、いろいろ突っ込まれるわけですよ。
私に突っ込んでもどうにもならんのです。
仏道とは己自身に対峙することですから。
私に出来ることは何もありません。
一期一会です。
>>662 >文先生の魂が…
統一の草創期においては、文氏の名前は秘密にされていましたから、
信者においてもメシヤが何処の誰とも推察する人はおらんかったですね。
統一がカルトとしての色彩が濃くなってくるのは、商業活動を切っ掛けとしてからです。
私が修練会に参加したのは、食事&宿泊代はロハでしたから、
教会には全く金は払ってません。
統一というのは、一過性の宗教団体で終ってれば良かったんですが、
黒幕に絡んで現在に至ってる訳です。
この歴史はアレフと同じですね。
宗教団体の、ある意味、宿命みたいなもんです。
666 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 15:12:38 ID:v1A2idiD
>>660 >いつも、思い込みで書いているんですね?
「思い込み」とは既成概念のことでありまして、
仏教は、このアンチの立場ですね。
「思い込み」をモチーフにする。
ということは、既成概念をモチーフにする。
ということと同義です。
667 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 15:22:08 ID:OBIpLmFK
>>666 >「思い込み」とは既成概念のことでありまして、
>仏教は、このアンチの立場ですね。
仏教は〜、じゃなくて机氏本人はどうなのよ?
あなたは既成概念から離れているの?
仏教は〜、真諦は〜、と説明した時点で「既成概念」にとらわれとるんじゃないんかね?
668 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 15:30:09 ID:v1A2idiD
>>667 >仏教は〜、真諦は〜、と説明した時点で「既成概念」にとらわれとるんじゃないんかね?
「既成概念」に全くとらわれなくなりますと、いわゆる病気というジャンルになります。
世俗で生きるためには、術(すべ)としての智慧も必要です。
>あなたは既成概念から離れているの?
勿論、離れています。
そのための仏道ですから。
669 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 15:38:33 ID:OBIpLmFK
>>668 >「既成概念」に全くとらわれなくなりますと、いわゆる病気というジャンルになります。
>世俗で生きるためには、術(すべ)としての智慧も必要です。
病気なら病気のまま生きればいいんじゃないのかね?そもそも、精神的なことに病気も健康もないでしょう。
世俗で生きるって、ブッダは世俗から離れてから(離れたから)覚醒したんじゃないの?
670 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/22(日) 15:46:11 ID:9ZpjdCJI
ここは、野狐どころか蟲ケラにすらなれぬ虱・壁蝨、出禁サイコパス外道を弄って汚穢撒布をさせるスレに非ず。
>>1 に従い、速やかに放置のこと。
671 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 15:48:43 ID:OBIpLmFK
>>668 >勿論、離れています。
>そのための仏道ですから。
机氏よ、あなたが書いた
>>645の一文
>仏道といふ道はあらずして、足跡のみが残るだけである。by道元
↑よく、読み返してみそ。書いてること矛盾しとるぞ。
つまりだ、理屈(知識)と実践(行為)がかみ合っていない状態にもかかわらず、己を覚者と妄想しとるよ。
妄想者がいくら仏教だ、道だと説いたところで説得力はないよ。
672 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 15:50:24 ID:v1A2idiD
>ブッダは世俗から離れてから(離れたから)覚醒したんじゃないの?
世俗から離れることを色即是空といいます。
したがって、そのまま留まるのではなく、離れたら戻らねばならんのです。
この戻ることを空即是色というんです。
<色即是空 空即是色>
673 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 15:55:05 ID:v1A2idiD
>>671 >↑よく、読み返してみそ。書いてること矛盾しとるぞ。
一如の法門は二相ゆえ
>>672にて調ふたら宜しかろうに思ふ。
674 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 15:59:31 ID:8tNV1q01
誰も相手にしてくれなかった僕に、
あなたは笑顔をふりまいてくれました
僕はあなたに気にいられたい一心で原理の勉強をしました
…
あなたは池田晶子さんに似ていました
だから、僕はあなたを忘れるために彼女の本を読みあさりました
でも、それは、あなたを忘れるためではなく、
あなたを忘れないためだったことに気付いたのです
お元気ですか?
675 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 16:11:47 ID:v1A2idiD
>>674 >僕はあなたに気にいられたい一心で原理の勉強をしました
彼女は「私達のアパートに来ませんか?」と、私を誘ったのです。
このセリフは、川端康成の「伊豆の踊り子」の、
「活動を観に逝きませんか?」。のフレーズを想起してしまいまして、
思わず私が誘いに乗ってしまったのです。
(ここで原理を学習しました)
その後、修練会に20日くらい参加。
修練会の終了した時点において「私達のホームに来ませんか?」。
とか言うんです。
キタ〜〜〜〜かと思いましたが、
このフレーズには、私もそうそう乗る訳にはいかんので、
丁寧にお断りしましたね。
それで全ての縁が切れた訳です。
青春の淡い思い出ですね。
676 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 16:27:22 ID:OBIpLmFK
机氏よ、最近、心の底から笑ったことあるかぁ?
飯を旨いと感じたことあるかぁ?
よくわからんが、泣けてきた・・・・・・。
677 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 16:45:18 ID:v1A2idiD
>机氏よ、最近、心の底から笑ったことあるかぁ?
最近は酒席に誘われることが多いのですが、私は元来酒を楽しむことをあまり知らんのです。
それでも、なるべくお誘いには応じようと努めています。
こういう席では、ギャグとかはあまりないもんですから、
大体が身の上話とかになりますね。
職業においては、かなり深刻な問題を相談されることもあります。
人生の無常を感じますね。
>飯を旨いと感じたことあるかぁ?
飯とかは寿司を食べることが多いのですが、最近、ウナギが美味かったですね。
思い起こせば、ウナギはあまり食べてなかったもんですから。
あれは上物じゃないと美味くはない。
それなりの値段のもんじゃないと・・・。
>よくわからんが、泣けてきた・・・・・・。
なにかありましたら、いつでも相談に乗ります。
678 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 16:52:17 ID:OBIpLmFK
>>677 >なにかありましたら、いつでも相談に乗ります。
ちゃうちゃう、それはこっちが言う台詞だって!!(爆
679 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 17:09:40 ID:v1A2idiD
今は公務員の人事異動の時期であり、歓送迎会とかの席が多いのですよ。
まあ、いろんな話が次から次と出てきますね。
あるリッチな人がいて、随分景気が良さそうなんで、その流れで話を振ったところ
いろいろ内情を話されて、
そのリッチな訳が分ったり。
なんか、人の内情を探るような後ろめたさがあったり、
人とのコミュニケーションの難しさなんでしょうけど。
まあ、そういった付き合いから離れて、のんびりする時間がまたいいですね。
とにかく、公務員はストレスが溜まるようです。
680 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/22(日) 17:22:55 ID:v1A2idiD
>>678 >ちゃうちゃう、それはこっちが言う台詞だって!!(爆
貴殿の書き込みには悲壮感が漂ってましたから、わたしの老婆心です。
泣いたり、笑ったり、というのは普通はないですね。
男は理性的でありますから。
で、貴殿は女性的な方ですか?オンナだったりして・・・(>_<)
681 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 17:30:51 ID:8tNV1q01
怒りながら笑う人、ご健在でしたか
痛風かなんかで、ご入院かと心配しておりました
682 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 19:58:40 ID:1b7d+/LU
無常=無我=縁起という真相を見据えて生死を離れ、
苦を生じさせる無明を因とする世間的価値観=共同幻想的基準(時空の観念)から
自らを開放(超越・厭離)して、深く中道(ちょうどいい適正な様)に生きること。これだけ。
仏性、諸法実相、空相、真如などは梵我一如思想に毒された誤まれる観念。
ブッダの無常=無我=縁起思想の鎧袖一触の鋭さを鈍らせ、人々を誤解させる。
というより、教える僧侶が解ってないのかwwwww
683 :
神も仏も名無しさん:2007/04/22(日) 22:13:56 ID:KOi9RmFM
> 無常=無我=縁起という真相を見据えて生死を離れ、
上は、いい。
> 苦を生じさせる無明を因とする世間的価値観=共同幻想的基準(時空の観念)から
> 自らを開放(超越・厭離)して、深く中道(ちょうどいい適正な様)に生きること。これだけ。
この「共同幻想的基準」ってサンスカーラ君でしょ。だから違うって、
そして「深く中道(ちょうどいい適正な様)に生きること」この結論が全く倒錯、
これは、机、電波、アホダラの共通理解だ。
それなら、なんで一切を捨てて出家し、あらゆる生産活動を止めて、
ひたすら経を暗誦し定を修習するだい? 全く倒錯してることをよく自覚されたし。
そんな単純なことも分からないのに、以下のような偉そうなこと言うな。
> 仏性、諸法実相、空相、真如などは梵我一如思想に毒された誤まれる観念。
> ブッダの無常=無我=縁起思想の鎧袖一触の鋭さを鈍らせ、人々を誤解させる。
> というより、教える僧侶が解ってないのかwwwww
アージーヴィカ教の善悪観、宿命論での苦行の意味づけ、自由意志と刑罰、苦自作などについて
http://lapc01.ippan.numazu-ct.ac.jp/c/ajivika2003.pdf >…切っても殺すことにならない理由を『婆沙論』は、
>「常住なアートマン(我)がもっぱら所有する命は害することができないから」と解説する。
>これは『バガヴァッド・ギーター』第二章の「彼は断たれず、焼かれず、減らされず、乾かされない。
>彼は常住であり、遍在し、堅固であり、不動であり、永遠である」(2.24)という思想と等しい。
>…などの悪を行なっても罪も福もないという、…これも業説を否定する目的で説かれたと理解される。
>アージーヴィカ教が法典の思想と一致するという指摘もある。この宗教は、決して無法、無道徳を説くものではなかった。
>心口意の行為の滅尽なくして最終解脱への到達はないから、苦行せざるを得ない。
>宿命論でありながら、苦行に励む意味はここにあると思われる。
>最近では、存在証明ができない自由意志を前提とする議論は避けて、決定論に立って刑罰を根拠
>づける理論が現れてきている。
http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v6n2ida.html >倫理学では、…たとえすべてが決定されていて、そうせざるをえなかったとしても、結果として
行為が及ぼす影響はあるので、それに対して賞罰を加えるというのである。
最後に、苦の自作・多作・共作・無因の四句分別の分かりやすい説明があったので。
>「この苦難は私が自分から生み出したもので、海に入るとき、沐浴して身をきよめなかったからだ。」→自作
>「この苦難は、自分以外のもののせいだ。海に入るとき、神を祭らなかったからだ。」→他作
>「こういうことが起こるのは、自分のせいでもあり、他のもののせいでもある。海に入るとき、
>沐浴して身をきよめ神を祭ったがていねいではなかったからだ。」→自他共作
>「この出会った苦難は、自分のせいでも、他のもののせいでもない。ただ原因なく得るものなのだ。」
>→無因自然生、アージーヴィカ教の立場
685 :
神も仏も名無しさん:2007/04/23(月) 07:18:46 ID:ecxenGNq
みんな40代のおっさんだべ?2ちゃんねるいいの??
686 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/23(月) 12:14:53 ID:jhXBTsiz
>>682 貴殿の書き込みはトータルとしてはイイですが、
少々誤解がありやに思いますので、私がその旨付記する。
>仏性、諸法実相、空相、真如などは梵我一如思想に毒された誤まれる観念。
例えば、道元の正法眼蔵に「即心即仏円相の位相」などという記述があるが、
(これはある境涯を述べたもの)
随分難しい漢字を並べて、さも有り難い教説やに思うかもしれんが、
ここにおける仏性の意は、その意自体の滅でありまして、
つまり文意それ自体は何にも意味はない。
>というより、教える僧侶が解ってないのかwwwww
坊主は馬鹿ではないから、ある程度のことは分ってます。
何処まで分ってるかは分りませんが。
日本の僧侶で「霊魂は存在すると思いますか?」の質問(アンケート)に、
禅宗の坊主でも霊魂を信じてる者もいる。
しかしそれは2割くらいなもんで、あとの8割は、まあまあマトモ。
ということで、
先ずはイイかと思うけどね。
687 :
神も仏も名無しさん:2007/04/23(月) 16:15:59 ID:fUAaoNPP
本能はなぜあるのですか?
ニヤーヤ学派によると、常住なるアートマンの前生からの記憶らしいです
688 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/23(月) 17:06:34 ID:jhXBTsiz
>>687 本能とか、常住とか、前世とか、記憶とか、
それらの文字列で問えば、人はその文字列の範疇でしか思考は及ばない。
これを論理といいますが、
先ず一つ一つの語義は、現世における経験に依りもたらされた概念でありますから、
この概念を形而上における概念に当て嵌めること自体が矛盾してます。
例えば、宇宙は有限か?無限か?は、論理的には双方が破綻します。
つまり人の概念というのは、おのずと限界がありまいて、
その限界のボーダーは何か?といふならば、
これは経験なんです。
人は経験で知りえた情報でしか脳は対処できんのです。
本能とか、常住とか、前世とか、記憶とかは、
その形態すらない訳です。
689 :
神も仏も名無しさん:2007/04/23(月) 17:36:21 ID:fUAaoNPP
『本能』=『煩悩』
だと思います
『煩悩の根源は無明にある』、というのも詭弁のような気もします
690 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/23(月) 18:17:03 ID:jhXBTsiz
>>689 >『煩悩の根源は無明にある』、というのも詭弁のような気もします
あらゆるものの根源とは、無機的なものであり、
そこから有機的な概念に発展して逝き、
有機質の根本的な意として本能とかの概念にもなり、
その細分化された意が属性的な意となる訳で、
その一つ一つが煩悩とか無明として、意味付けされて逝った。
ようは、一連のこの脈絡は心作用の一形態であり、
それが形態としてあるのではなく、
そのように名づけただけである。
この心作用のことを五蘊というが、五蘊とは縁起のことであり、
五蘊は空である。五蘊皆空。
つまり、
それが形態としてあるのではなく、
そのように名づけただけである。
「縁起を見る者は法を見る。
法を見る者はわれ(仏)を見る。」(水野弘元『仏教の基礎知識』158頁)
縁起偈(縁起法頌)が仏像内に納められたり、
法身偈や舎利偈と呼ばれたりするようになったのは、この言葉に基づくと思われる。
692 :
神も仏も名無しさん:2007/04/23(月) 22:38:14 ID:fUAaoNPP
『本能』=『煩悩』と書いたのですが、正確には、
『壊れた本能』=『煩悩』
のような気がしてきました
人間だけですよ
年中発情して、喜んで、苦しんでいるのは
693 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/24(火) 07:28:48 ID:o7R9uQyP
マーチクラスの学卒が、いま企業からの内定をなかなか貰えず、
殆ど諦めきった表情で言ふのは
「せっかく大学でたのに・・・。
ほらほら、その発想こそが内定貰えない原因だよ。と、
つまり、このレスの流れである「思い込み」による・・・無明です。
この「思い込み」を敏感に察知するのが企業の面接官で、
目が開いているか?そうじゃないか?は、人生を大きく左右する。
面接官はプロですから、相手の心象を素早く見抜きます。
学力には殆ど差異のない人を、面接官は何を基準にして選択するのか?
ようは、そこがキーワードになる訳です。
まあ、つまりは般若波羅蜜は、いうならば、世俗に生き抜くための智慧のことで、
これを学問として学んでも何も役にはたたんのです。
井戸茶碗は、使ってこその値打ちもんですから、
仕舞い込んだり、飾りもんにしておったのでは単なるガラクタに過ぎん。
694 :
神も仏も名無しさん:2007/04/24(火) 07:41:20 ID:GzhtkXBc
レイヤーは太陽を知らない
彼等は「光線管理」されている
最大多数の卵を産むために
人間は鶏の本能を破壊することに成功したのだ
人間は100万年前に火を発見しました
ドヴァパーラユガの始まりです
ヘシオドスは言いました
『人類の歴史の歩みは、堕落の歴史である』
自ら籠の中に入ってしまった鳥は、
さえずる事を忘れてしまったのです
695 :
682:2007/04/24(火) 07:48:26 ID:VIiVEAFR
>>683 >なんで一切を捨てて出家し、あらゆる生産活動を止めて、
>ひたすら経を暗誦し定を修習するだい?全く倒錯してることをよく自覚されたし。
どちらが倒錯しているのでしょうか?
オウム真理教の殺された故村井秀夫は、出家の際に「これを読んでもらえば僕の今の心境はわかってもらえる」と
「かもめのジョナサン」を母親に手渡したそうだ。しかし、こういう象徴的・抽象的ガンバリズムは中道ではない。
生活と人生の混同はまさしく倒錯だが、生活抜きの人生は空虚だ。
『思い煩うことはない。人生は無意味なのだ!』(S・モーム「人間の絆(束縛)」)。
だからこそ、既成の目的論や価値論を離れて慶安且つ自由(少なくとも擬制)でいられる。
世間的価値観からみれば、まさしく「不良」だろう。ブッダは不良である事を薦めたのだ。
映画『イージー・ライダー』のなかで、落ちこぼれ弁護士が吐き捨てるように言う、
「アメリカ人は口では自由が大事だというが、本当に自由な人間を見ると、そいつに石を投げるのさ」。
696 :
682:2007/04/24(火) 08:13:04 ID:VIiVEAFR
>>686 お言葉ですが、日本仏教の一般的傾向として、
空相・真如・宇宙的生命などの語で「梵」を、
仏性・本来の自己・父母未生以前の真面目などの語で「我」を表現し、
実質的に梵我一如思想に陥っていると思われます。
無常=無我=縁起思想の破壊としか思えません。
根本にあるのは日本人のアミニズム的傾向でしょうか。
697 :
神も仏も名無しさん:2007/04/24(火) 08:16:29 ID:5CfFmIqI
>>695 机さんと同じですね。そんな勝手な人生哲学、臆説を仏教に投影されても困るんですよ。
貴方が生きてきたなかで、常識との妥協を図って人生哲学、臆説を創るのは自由ですが、
それを入門書程度の仏教知識と混ぜ合わせて、これが仏教だというのは止めてください。
それは貴方の人生哲学、臆説であって、仏教ではないのです。
698 :
682:2007/04/24(火) 08:25:15 ID:VIiVEAFR
>>684 >最近では、存在証明ができない自由意志を前提とする議論は避けて、決定論に立って刑罰を根拠
>づける理論が現れてきている。
http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v6n2ida.html >倫理学では、…たとえすべてが決定されていて、そうせざるをえなかったとしても、結果として
行為が及ぼす影響はあるので、それに対して賞罰を加えるというのである。
この点については
>>279を参照。
『人は真に自由意思があり、自由でありうるかはべつとして、「自己という仮有」の相に
おいては、自由の主体として自らも行動し、また他人からもそのように取り扱われている
という共同幻想が現実なのだから、少なくとも人倫の世界においては、人は「自由なもの
としてー少なくともー擬制されている」。』従って自由―(相対)道徳―責任―非難は
一体のものとして擬制として成立している。
699 :
682:2007/04/24(火) 08:33:39 ID:VIiVEAFR
>>697 この点につき
>>398参照。
かなり不遜かもしれませんが・・
>もう、『俺だけのブッダの教え』による『ブッダと自己とのの対話』しかないのではないか。
701 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/24(火) 10:46:32 ID:o7R9uQyP
>>696 >お言葉ですが、日本仏教の一般的傾向として、
密教も禅も般若心経を依典としますが、
しかしながらその経典解釈は天と地ほどの違いがありますから、
一概に同列で語ちることは至難やに思ひまふ。
>仏性・本来の自己・父母未生以前の真面目などの語で「我」を表現し、
例えば「即心即仏」とは、「心は仏」の意ですが、
これは「非心非仏」。→「心は仏にあらず」と同義です。
つまり、差別相と無差別相を使い分けているに過ぎなくて。
その根拠となりますのが、仏教は「一如の法門」である。ということです。
主客相対ならば差別相でありますし、また主客同一ならば無差別相であります。
このニ相において鑑みましても、また、それは二にあらずして一にあらずの、
なんともヤヤコシイことにあい成りますが、これを「不一不二」などと、
またまたヤヤコシイ説明をせねばならんのが仏教の不可思議なる所以なるやに思ひまふ。
これを簡単に著したのが心経における<色即是空 空即是色>です。
「色」は差別相を、「空」は無差別相の意であります。
色においては仏性となりますが、仏性に相対なくば「仏性」そのものの意もありません。
これを非心非仏と言いますね。
702 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/24(火) 10:52:21 ID:o7R9uQyP
>これは「非心非仏」。→「心は仏にあらず」と同義です。
これは「心はあらず、ましてや仏はあらず」の意です。
つまり勝義諦でありまして、
即心即仏は世俗諦です。
色即是空で、勝義諦も世俗諦も意とするところは同義で、相の違いです。
703 :
神も仏も名無しさん:2007/04/24(火) 12:02:44 ID:5CfFmIqI
>>699 貴方が正に「『俺だけのブッダの教え』による『ブッダと自己とのの対話』」ですね。
なぜ、仏教徒が一貫して出家して戒を守り、禅定を修習することに専心したのか?
よく考えてみてください。
もう、言いませんので、ご自由に。
足切り“中二病”バカどもは、さっさと厨房隔離スレへ退下のこと。
>>704 一々癇に障る言い方をするなぁ・・・w
>>697>>699>>703 は、
仏教の根幹に関わる重大事項だぞ。
言っとくけど、
『仏典』の根幹に関わる・・・ じゃなく、『仏教』の根幹に関わる・・・ だから。
意味は解るよねw
過去ログも読みこなせぬ、学習能力皆無のバカ厨房は足切り隔離スレへ逝けよかし。
707 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/24(火) 16:32:39 ID:o7R9uQyP
http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v6n2ida.html >・自由…それ自身で存在していること。縁起とは逆の概念になる。
全く縁起とは逆の概念にはなりませんね。
縁起と因果律を同系列での解釈だろうが、そもそも縁起と因果律は相が違う。
縁起は空諦で、因果律は俗諦であります。
因縁和合は仮設としてあるもんで、これを空諦に絡めましたら釈尊の法は台無しです。
このことは私が
>>656にさり気なく書いておきました。
>心経は「〇〇ではない」という文体で、世俗の価値基準を否定することがその骨格になってます。
>つまり世俗の価値基準をベースとした知識とかは、
>かえって仏道においては妨げともなる訳です。
まあ、こういうことでして、
縁起と因果律が何ゆえ時系列としての脈絡と成り得ないのか?
詳細につきましては暇な時に書き込み致しまふ。
708 :
神も仏も名無しさん:2007/04/24(火) 17:44:31 ID:5CfFmIqI
>>705 その人は、笑いながら汚く怒る だけで、言ってる内容は机さんと殆ど変わんないから、
ほっとけばいいでしょ。
709 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/24(火) 17:57:29 ID:o7R9uQyP
(つづき)
縁起とは、読んで字の如しでして「縁に依り生起する」といふ意です。
実際は空諦ですから「生起することはない」ので、論法上において「生起→生滅」といふ
否定的な語句で縁起の説明をする訳です。
つまり、縁起とは「縁生→縁滅」しているわけで、ここにおいての属性はなにもない。
ようするに「花は紅である」というこてです。→無為でありこと。
因果律とは、この自然無為(じねんむい)における作為を原因とした捉え方です。
つまり「花を摘む行為とか」。
この「花を摘む行為」自体は、縁起とは別問題です。
つまり「無為⇔作為」で考えたら宜しいかと思う。
件の「自由」のテーマですが、自由とはこの作為のことでありますから、
「無為⇔作為」には、何ら脈絡的関係性はありません。
>・自由…それ自身で存在していること。縁起とは逆の概念になる。
仏教の根本義とは自由思想でありまして、その根幹をなすものが空思想(縁起)です。
ん? また破落戸ジョーユーかなんかが迷い出たか(嗤笑)。
711 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/24(火) 19:18:36 ID:o7R9uQyP
>>696 一応、念のために書いておきます。
>実質的に梵我一如思想に陥っていると思われます。
仏道の初期段階においては、梵我一如とかアミニズム的な傾向の体験はします。
「白隠の見性体験」も、この思想に近い、いうなれば神秘体験ですから。
これはある程度のマイコンの要素を脳に与える為かと思いますね。
つまり自己暗示的なものです。
修行というのは、つまりこれらの世界観が崩れて逝く過程のことでありまして
このことは、「スッタニパータ・蛇の章」にての記述とおりです。
蛇の章は、いわゆり骨格部分でして、このテーゼが明確でありませんと、
その後における第二章以降は意味不明かと思いますね。
私はスッタニパータは優れた経典かと思います。
ただ、それを読み込むスキルがあってのことですが、
スキルがありませと、ただの紙切れと同じです。
>>571 >縁起という言葉は使用されていませんが、原始ジャイナ教でも
>物事の関係性が語られていいたことがあります。
ジャイナ教のスヤード・ヴァーダの相対性と、龍樹などの縁起解釈(相互依存関係)が似ている、
ということでしょうか。それともナヤの方かな。
>実際は空諦ですから「生起することはない」
般若心経では「諸法《空相》不生不滅」や「是故《空中》無色無受想行識」とあるように
不生というも無というも、いずれも大乗経の《空》の立場から物を言うている話でありまして、
原始仏教における《縁起》や《無我》とは別箇に扱うが宜しかろうと存じます。
714 :
神も仏も名無しさん:2007/04/25(水) 00:49:10 ID:C1E716Bf
>>706 > 過去ログも読みこなせぬ、学習能力皆無のバカ厨房は足切り隔離スレへ逝けよかし。
日ごろ尊敬するアホ氏ではありますが 少しつっこみ。
過去スレは時間のある方とかが もぐる分にはいいですが
辞書のように付箋がついていれば別です。 (^^
やはり 機縁 というものも配慮していただけると私のような初学の
ものにはありがたく思うしだいです。
>>714 無駄レスが七八割占めてるからなぁ・・・w
>>714 すみませんねぇ(;´∀`)
本当は項目別にまとめを作っていった方が遥かに見やすくはなるのでしょうが、
如何せん膨大になりすぎて私も手が回らないです。
とりあえず入門書として推薦されてる図書を読み終わられた方は
三法印・四法印スレから読まれていく事をお勧めしますが。
>>715 あー、、、、言葉もない。。。。orz
717 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/25(水) 08:57:12 ID:uLoDVNEy
>>713 >原始仏教における《縁起》や《無我》とは別箇に扱うが宜しかろうと存じます。
釈尊入滅後、約100年は口伝でありましたし、
私は口伝がそもそもメジャーなのかと思いますね。
で、
スッタニパータは、文体そのものが口伝の特徴であります、
情緒的かつ詩的に構成されています。
(聖書はこの文体)
そこに何ら体系的なものはなく、おそらくはマニアック的な感をいがめません。
バラモン教の文化を引き継いでいたのかと思います。
こういう土壌の中で部派仏教が興隆する訳ですが、
アビダルマ哲学も、バラモン教の影響を受けて発展したものですから、
その脈絡で語ちれば《縁起》や《無我》は別個で扱わねばならんですね。
スッタニパータなどは、これらの哲学が発展する以前の原義に近いもんがありますよ。
そういことも念頭におきまして、古き良き時代を偲びたいもんですね。
まあ、こういうのを懐古趣味などと世間では言うんでしょうか?
年とりますと、昔が懐かしくなるらしいですよ。
私は、そんな年ではないですがね(>_<)
718 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/25(水) 18:20:32 ID:uLoDVNEy
詩の翻訳というものには大きな困難がつきまといます。
内容を正確に再現しようとすると、なかなか他の言語の韻文形式に乗らない。
散文っぽいものとなってしまう、ということがあります。
翻訳したもので、詩としての美や韻律を大事にすると、元々の内容はあまり伝わらなくなる。
スッタニパータやダンマパダも韻文経典なので、元の言語からパーリ語に翻訳した際に
韻文としての形式を残すため比較的、元の言語の形を保てたのであって、
他の散文経典は古形を保つ必要がなかったので、外形上は古形を失った、ということが
あったのではないかと思っています。
(パーリ語ダンマパダと梵語のウダーナヴァルガでの比較研究がどうなのか知りたいものです)
また、これだけの量の韻文が仏教以前からあったもの(苦行者文学)の流用なのか、または
初期教団時代に誰かに作詩されたものなのかは不明ですが、
説法の場では複雑な教説を韻文で述べたとも思えません。
だから、これらが内容的にも最も釈尊の原義に近い、とするのは早計ではないか、と。
「縁起」思想という極めて大事なものがない点も考慮すべきでしょうね。
>>716 ○
ノ|)
_| ̄|○ <し
あなたのせいじゃないw イ`
721 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/25(水) 20:00:22 ID:uLoDVNEy
>>719 >詩の翻訳というものには大きな困難がつきまといます。
もともと文化の違いなんでしょうね。
古代インドは、アーリア人のインド侵攻においてその文化も形成されて逝った。
インド侵攻は土着民族との混血をもたらしたであろうし、
とにかく、アーリア人は記憶力が優秀でありますから、
当然その法の継承においても、この頭脳は生かされて逝ったものと推測す。
日本人は、アーリア系からしますと記憶力は劣ります。
よって筆記したり文章に残さねばアタマには入らない構造になっている。
(一般論ですが)
>「縁起」思想という極めて大事なものがない点も考慮すべきでしょうね。
スッタニパータには縁起のことは書いてありますね。
ただ体系だったものはないだけです。
これも民族の違いで、日本人が考えるよりかは、もっと理解力があったと思います。
なんにしろ、こういった哲学(思想・宗教)とかのジャンルはインドには敵いませんよw
722 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/25(水) 20:26:06 ID:uLoDVNEy
> 中観的な万物の相互連関縁起は、初期仏教よりもむしろジャイナ教で主張された
> ことです。厳密な原始仏教の縁起思想は、有支縁起。
> 因果異時か因果同時か、といった二者択一は、中道を欺くことにもなり
> ますので、わたしはただ端的に、有支縁起と申した次第です。
岸根敏幸「『中観への入門』和訳研究(1) 」によれば、
中期中観派の月称の"madhyamakAvatAra"には、次のような記述があるそうだ。
>仏陀たちの勝義は自性そのものであり、さらにそれはまさに欺くものではないから勝義真理である。
「自性そのものであ」るという表現は、龍樹の「一切は無自性」という主張から逸脱しているのでは
ないだろうか。たとえ勝義に関してでさえ、龍樹なら「自性あり」とは決して言わないと思うから。
「空性という自性がある」とか「無自性という自性がある」とか言い出す人もいるが、
月称自身が、いわゆる常住相似に類した過誤に陥っているとも思えないが、その危うさは感じた。
相応部無記相応ケーマー経では、如来は大海の水の如く量り難い、というように述べて、
なんら如来を規定するような表現をとらない。
消えた火はどこへ行ったのか、と捜し求めるようなものだから。
なお、この涅槃を消火に喩えるのには、事火外道が火に供物を捧げること(pradAna。仏教から見れば
煩悩に対して燃料を供給し続ける、ということになる)をやめる、というイメージがあるのだろうか。
岩波文庫『真理のことば 感興のことば』p.349註29を読んでいて、そんなことを連想した。
725 :
神も仏も名無しさん:2007/04/25(水) 21:36:33 ID:qvZIACei
>>723 > 中観的な万物の相互連関縁起は、初期仏教よりもむしろジャイナ教で主張された
こんなことは始めて耳にしますが、ソースは有りますか?
726 :
神も仏も名無しさん:2007/04/26(木) 02:14:09 ID:9OeDhcC6
ジャイナ教がんばれ!
マハーウィーラ嘘つかない、肉食わない、虫殺さない、心優しいある
コータマはニ枚舌あるよ
727 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/26(木) 07:00:22 ID:bdtCO4bS
>>724 いい書き込みですね。
最近は世相を反映してか、アングロ的な仏教関連本ブームになっておるようですが、
もちろん覚者は、本のタイトルを見ただけでその内容は大体わかるので、本は買わんでうすが、
まあ、機縁というもんがありますから、
「机さん、石飛道子はどうよ?」とかのお題を頂いたので、
私は石飛女史の「ブッダ論理学五つの難問」とかの著書を拝しましたが、
(ネット上で)
案の定、余計なもんを付記するもんだから、かえって法が台無しになる。
こういうことの連続が、まあいわゆる仏教史観といふことなんでしょうけど、
一休和尚は「釈迦といふいたずら者が世に出でて、衆生を惑わす」。
などの言葉は、史観をズバリ指摘したものかと思いますね。
皆様にご報告です。
役年にわたる裁判もボチボチ収束の兆しを見せてきました。
色々ありましたが、法律の学的研鑽には何一つ益するものはありませんでした。
逆に相手側当事者を教育する始末ですw
実際の裁判と2ch上でやり取りする内容にはあらゆる意味で隔たりがあります。
実際の裁判実務では三人の裁判官が論理的妥当性を様々な角度から審理し、
当事者が修正し、または相手側に論難することで進められていきます。
「論点先取」と言う用語を使ったときに、議論がなされている実際の論理運用とはかけ離れて
「アリストテレス」を出してきた智慧遅れがいましたが、彼のような論理性では裁判を勝ち抜くことはできません。
また現在の仏教関連全般に言えることなのですが、論理運用について甘すぎる点が目立ちすぎます。
例えば、
「唯識とは外界の存在を否定するのではなく、外界を認識の根拠としないことが言われている」
と主張した場合
「唯識は外界を肯定するというお前は間違っている」という説明する必要の無い誤謬を犯しています。
また、
「輪廻転生が存在すると肯定するのは間違いだ」と主張したときに
「輪廻転生は存在する。存在しないというお前は断見であり仏教ではない」とこれまた説明する必要の無い誤謬を犯しています。
このような論理運用程度であれば、裁判では完全敗訴です。
暫くして、この論理的妥当性や斉合性を中心としてまた参加させていただきます。
>>728 お疲れ様です。
ハンドルをそちらにしてあるのは意図的、ですかね(裁判関係の報告
レス、という意味をこめて)。
なんら学問研鑚に益する事のない裁判だったとの事、ご愁傷様です。
お時間できましたら、また顔出してくださいませ。
#居眠り管理人より
730 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/26(木) 15:15:52 ID:bdtCO4bS
>>723 縁起はプロセス(時系列)に関係ありませんし、
というか、時空は一如でありますから、あえて付帯する必要性はありませんし、
むしろこういった概念こそが悟入の障害になるやに思いますね。
そもそも有支縁起は便宜上における縁起解釈でして、
真諦・縁起においては、いささかもその本義とは成り得んのです。
釈尊入滅後において、熱心な学僧における仏法解釈として伝わる、
いわゆり俗諦における有支でありまふ。
732 :
神も仏も名無しさん:2007/04/26(木) 18:08:27 ID:xi/B/T8G
>欺くものではないから勝義真理である。
あやうく素通りするところだったけど、もしかして、これを裏返すと、
(主目的ではないにしろ)世俗真理(を用いる場合に)は欺く(こともある)、と言ってる?
>>728 そんな裁判上の正誤の判断を引き合いにだして、
おまえの仏教が正しいと主張されてもね〜。
おまえは馬鹿だな。
おまえの仏教は、立派な断見仏教だよ。そんなことも気付かないのか?気の毒な人だ。
おまえは屁理屈だけは達者で決して自分の過ちは認めない、我見の鬼だ。
ひとつ言っとくよ。法を邪見し、自分が勝手に無意味な断見仏教を信じ、
それに倒錯していくのは、あんたの勝手だろう。誰も文句はいわない。
だが、その誤った考えを他人に押し付け、他の言論を封殺し、
このような公の掲示板で、間違った教えで皆を迷わすなんて人は、早く死んだほうがいい。
そのほうが、皆のためであり、本人の為なんだよ。わかるかい?
>>728 東京の方へ来られなくて残念でした。
今度出向かれた時にはラーメンでも御一緒にw
手打ちのおいしい店に御案内しますよ。
735 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/26(木) 19:14:09 ID:bdtCO4bS
>>732 >(主目的ではないにしろ)世俗真理(を用いる場合に)は欺く(こともある)、と言ってる?
いやいや、基本的に
>岸根敏幸「『中観への入門』和訳研究(1)
の誤謬がある訳で
なんせ中観というのは、理解できるのは学だけなら数%くらいの人間かと思います。
何気には分るけど、その本義には至らん。
というのは、
丁度、相対性理論と同じようなもんで、やはりスキルの問題になってくる。
これが百尺竿頭から足が出る話なんですが、
(これが行学双修)
なかなか足の話は出んようですな(@_@)
736 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/26(木) 19:24:52 ID:bdtCO4bS
>>734 >手打ちのおいしい店に御案内しますよ。
たしか、環八通りのノレンが擦り切れた店でしたよね?
>>733 「断見」というのは、「実我であるものが、死を境にして断絶して無になる」という見解では
ないのでしょうか。その辺、もっと明瞭な所見を読みたいものだと思っていました。
因縁仮和合のものが、その仮和合が解けた後のことについて「エポケー」とすることと、
「『無になる』と断言すること」との間には、懸隔があるように常々感じているものですから。
それに対して「常見」というのは、「実我が存在し、それが生前から不変に続いている。」と
するので、「ならば、その最初の最初はどうだったのか。」という疑問に答えられなくなる、
という矛盾を抱えている、とされていると思います。
(以前書き込まれた、縁起が輪廻して云々の話は、よく分かりませんでした。)
いずれにしても、原始仏典に輪廻に関する記述があることは確かなのですが、なぜ五道輪廻説と
六道輪廻説とに分かれていたのか、また、六道輪廻の傍生、つまり、動物に転生するという話は
ジャータカ以外の原始仏典に既にあるのか、とか、また、これが最も大きな点だったのですが、
中有を説く部派とそれを認めない部派がある、というのは、一体どういう事情なのか、など色々疑問点があります。
詳しいことは釈尊自身が明確に述べなかった、としか思えません。
そこから、仏典に説かれる輪廻説のありさまがキサーゴータミーに対する方便のようなもの、つまり
世上の輪廻説を換骨奪胎した教えなのか、それとも、いわゆる第一義諦のように何ら「欺く」要素の
混じらない純粋な比丘相手の教えなのか、ということ、
これを、一旦、仏教内部での様々な論議を離れ、釈尊当時における色々な外教の輪廻観と、
それに対する釈尊その人の態度を調べ直して、再検討してみてはどうか、という感想を持っています。
とにかく苦からの解脱を目指すのが釈尊の出発点であり、到達点だった、というのは確かだとは思いますが。
738 :
神も仏も名無しさん:2007/04/27(金) 06:13:36 ID:0RtHf258
電波さんは裁判でボロボロだし、
アホ蛇羅さんは怒ってばかりだし、
机さんはただのスケベオヤジだし、
仏教の知識があるだけで賢者とはほど遠いと思います
まさに末法の世を見ているようです
739 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/27(金) 07:30:01 ID:mZlhJDZS
>>738 なかなかイイ書き込みですね。
>アホ蛇羅さんは怒ってばかりだし、
アホダラ氏が怒ってばかりいるなら、それを暖かく受け入れてやるのが慈悲といふもんです。
(善行とは違う)
さすれば、アホダラ氏の心も当然理解できるようになりましょうし、
同時にこれが自己洞察です。
いわゆる仏教といふのは、自己洞察が教義そのものと言うていい。
この透過において真諦もおのずと開かれてくるもんでして
>>737のお題にしても、
これあってばこそ、その問いも解けるやに思いまふ。
>まさに末法の世を見ているようです
地球の歴史が約45億年。人類の歴史はたかだか100万年くらいのもんです。
人類がいつ滅亡しても不思議ではないですが、
それは数百年とか数千年とかの単位じゃなくて、万年単位です。
まあ、とりあえずは今のところは心配はないですね)^o^(
740 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/27(金) 07:51:39 ID:dM6jW8js
法廷ピエロの致命・絶命王がまた迷い出たのか(冷笑)。
毎度の機械的処理で怒ってるなら、銀行のATMも怒ってることになるぞ(嗤笑)。
741 :
神も仏も名無しさん:2007/04/27(金) 08:42:33 ID:0RtHf258
ATMのボイスは耳障りなだけでウザくて無意味だから、即刻廃止せよ、
と中島義道が抗議しておりました
742 :
734:2007/04/27(金) 09:00:00 ID:2aNTyiKs
>>736 机さん、せっかくラーメン糸の先にナルトをつけて釣りをしようと思ったのに
あなたが釣れてはダメですw
だから、スケベオヤジと言われるw
でも、殿方はスケベじゃなくなったらお終いですから・・・w
環八に手打ちラーメンのおいしいお店があるのですか?
私は知りません。
机さんのお勧めラーメン屋さんは?
喧嘩しちょる暇があったらトイレ掃除でもしてなさい。見苦しいぞおじさんたち
744 :
神も仏も名無しさん:2007/04/27(金) 10:29:45 ID:JyIBr8JK
ある禅者の口癖
「ノミのキンタマ八つ割り」ほどの悟り
このスレにはこれさえも持ち合わせない人が多いようで。
745 :
神も仏も名無しさん:2007/04/27(金) 10:44:57 ID:JyIBr8JK
>>739 >人類がいつ滅亡しても不思議ではないですが、
>それは数百年とか数千年とかの単位じゃなくて、万年単位です。
ホーキング博士は、地球温暖化の影響で人類は3000年までに滅亡すると予言しておられます。
それまでに他の惑星に移住する必要があるそうです。
だから、それまでにごく最近発見された恒星グリーゼ581の惑星が候補にのぼる。
たかだか高速度ロケットで20年(20光年)ほどだから、空間を曲げる技術開発に成功すれば
不可能ではない。
そのときにはブッダの教えはどうなっているんだろう?
746 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/27(金) 10:57:03 ID:mZlhJDZS
>>742 >だから、スケベオヤジと言われるw
私の女性観についてのお題でしょうか?
まあ、女性といふなら直ぐに想起するのは川端文学ですね。
川端は極の美を追求したのでしょうが、
その美の行き着くとこが「天城越え」の作品なのかと思います。
川端のナイーブな心象が如実に表された優れもんですね。
こういうのをスケベとか言うんでしょうか?
まあ、たぶんこういうのをスケベの極とか言うかもしれません。
文学というのは、こういった人の負の部分を恥ずかしげもなく
世に曝け出してこそ良い作品と評価されるようです。
潜在的な露出癖があってこそです。
世間的評価とアブノーマルの世界の二律背反において
文学者は相当なストレスになります。
どうか般若にて、ここは乗り越えて頂きたいもんですね。
747 :
神も仏も名無しさん:2007/04/27(金) 11:14:48 ID:JyIBr8JK
× 高速度
〇 光速度
>>746 >私の女性観についてのお題でしょうか?
あはは〜、おぬし、そうとう煩悩のかたまりですな。頭で理屈かき回してるから、
そういう言葉に引っかかるんだよ。
742さんは、喩えて言ってるんだよ。
>川端のナイーブな心象が如実に表された優れもんですね。
>こういうのをスケベとか言うんでしょうか?
どこがナイーブなんだよ?うじうじして生身の女をマトモに扱えなかった
現実逃避なやつだったってだけじゃないのかね?
だいたい、彼は最期はガス自殺してんだよ。およそ仏教の教えからは一番遠いところに
いたんじゃないか。
>文学というのは、こういった人の負の部分を恥ずかしげもなく
>世に曝け出してこそ良い作品と評価されるようです。
>潜在的な露出癖があってこそです。
性欲は負?だったらいままで人類がしてきたことは負?その結果生まれたあなたは負?
文学が負なんじゃなくて、じめじめした日本の文学界が負なんだよ。
>世間的評価とアブノーマルの世界の二律背反において
>文学者は相当なストレスになります。
文学がアブノーマル?世間の評価なんかどうでもよくて「自分の書きたい欲望」みたすツール
ってだけでしょうが。
749 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/27(金) 11:17:10 ID:mZlhJDZS
>>745 私もいつかは人類は滅亡するかと思います。
>そのときにはブッダの教えはどうなっているんだろう?
空思想というのは、宇宙が仮に滅亡したとしても何ら関係ないですね。
たまたま現象として宇宙がある。
ってだけですから。→色即是空
まあ、こういった仏教哲学に私は惹き付けられる訳ですが。
非常に素晴らしいです。
ブッダだって両親の性欲から生まれたんだぜ。
負の負の作品の脳みそに拘ってるあなたは、ふふのふ?
真諦に負なんてあるのかね。
751 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/27(金) 11:32:11 ID:mZlhJDZS
>>748 >どこがナイーブなんだよ?うじうじして生身の女をマトモに扱えなかった
>現実逃避なやつだったってだけじゃないのかね?
だからこそ優れた文学作品が書けるんですよ。
文学に限らず、あらゆるアーティストは自己の劣等感を極にまで垂れ流すのです。
しまいには自分自身が支えられなくなって自死とかするんじゃないですか。
それがあってこそ世に認められる。
こういうことも分らんのかね?
音楽の世界も皆そうです。
負け犬の歌だからこそ民衆は支持し、
自分の置かれた立場を安泰させる。
安泰料として高い金を払って、CDとか本を買うんですよ。
> 普通はこれを実体的に捉えず、比喩的に捉えます。
> 比喩でも何でもなく、人間が死後に生まれる世界ですよ。
> 死んで実際に見たこともないのに断言しうる根拠は何ですか?
> 六道が死後の世界であることは阿含経のあらゆる所で説かれていますよ。
> (十力経)復た次に如来は、天眼浄の人眼に過ぐるを以て、衆生の死時、生時を見て、
> 妙色・悪色・下色・上色・悪趣に向かひ、善趣に向ひ、業報に随ふ受を悉く実の如く知るなり。…
> 彼の因彼の縁もて身壊命終して善趣の天上に生ずるを悉く実の如く知るなり。是れを第九の如来力と名づく。
> 雑阿含では…第432経(輪廻五趣 而速旋轉。或墮地獄。或墮畜生。或墮餓鬼。或人。或天。還墮惡道。長夜輪轉)と406・955の三経が五趣。
> 三悪道が133経はじめ六経
> これに対して六趣は、第155経ただ一つだけですね。しかしこれは…他教の説として提示されています。
753 :
神も仏も名無しさん:2007/04/27(金) 12:11:26 ID:BBYnz+Kr
>光速度ロケットで20年(20光年)
>空間を曲げる技術開発
あのですね(一瞬絶句)光速で飛行したら飛行船そのものがつぶれてまうですわ。
空間はすでに巨大重力の近くで曲がってるです。皆既日食での恒星観測で実証済み。
まあ、数世代が連繋しての移住は可能かも、ですね。ってスレ大違いでした。スマソ
思いつくまま輪廻思想の問題点を列挙してみよう.
人類の歴史は100万年しかないので,それ以前は人間は宇宙にいなかった.
六道輪廻にも人道はなかったことになる.それでも六道輪廻はあったと言えるのか?そのころは人道を除く五道輪廻か?
\次に倫理との関係/
‘輪廻がなければ業報が成り立たず,この世での悪業を罰せられない’という説明の仕方がある.
輪廻を関知しなかったクリスチャンにも,悪業を抑制した人々は多数いた.
そもそも,‘人間の都合で宇宙の仕組みができている’という説明には無理があるのではないか?
宇宙の全歴史から見たら,人類の発生からはほんのわずかの時間しか経過していない.1年にたとえると12月31日の夜遅く.
理論上は,報いの到来するのは,来世とは限らない.来々世かも知れないし,さらにもっとずーっと後になる可能性もあるわけだ.
いくら善業を積んでも輪廻から逃れられるわけではない.
物事に一喜一憂し続けることに変わりはない.
But,持戒は三昧の下地を作るのに必須だろう.
755 :
神も仏も名無しさん:2007/04/27(金) 14:35:46 ID:zLY5TJM2
>>733 それは机さんもですね。
しかしこの机さんって人、ある意味すごいですね。
あー言えば、こう言う。どんなに論理的に論破されても、
この人は決して自分の過ちを認めない。
この人の我執は、恐ろしく強烈。
執着の鬼であるこの人に、釈迦の仏教は理解不能です。
事実邪見の塊ですし。自らの邪見に執着し、自ら躓くのは勝手ですが、
皆に嘘を教え、皆を躓かせるような人は、早く死んだ方がましです。
756 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/27(金) 15:58:21 ID:mZlhJDZS
>>755 >この人は決して自分の過ちを認めない
自らの過ちを認めることこそ大事ですね。
断見とか、常見とかは、その思考そのものが過ちなんですから。
このベクトルでは結論は見出せません。
このことは当該スレッドにおいても、私は語ちてきましたし、
また、今後もこれらについては語ちるつもりです。
>あー言えば、こう言う。どんなに論理的に論破されても、
論理的に論破されたことはありませんし、
そもそも論理には限界があるから十無記(十二無記)になる。
757 :
神も仏も名無しさん:2007/04/27(金) 16:19:25 ID:0RtHf258
「去らないものも去る」
宇宙からの観察者である私の視野から、
あなたがた人間は、
地球といっしょに、
時速1600キロのスピードで、
去ってゆくのです
私は止まっているつもりなのですが、
宇宙外の誰かから見ると、
どう見えているかは定かではありません
758 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/27(金) 16:30:07 ID:mZlhJDZS
相対性理論を最初に発見したのが釈尊ですね。
759 :
神も仏も名無しさん:2007/04/27(金) 16:34:06 ID:zLY5TJM2
>>756 な、あー言えばこう言うだろ、この人。
せめて電波のように黙ればいいんだが、この人は
どんなに論理的にあなたは間違いですよと論破されても、
決して間違いを認め、改めないどころか、屁理屈で口ごたえばかりしては、
永遠に自説を垂れ流し続ける。全て自己満足の為だろ。
我執の鬼だよ、この人。
法を捻じ曲げ、他人に躓きをを与える者は許されない。
自分の蒔いた種は、自分自身が摘み取るときが来るだろう。
自分自身の成した業による報いは、自分自身が受け取るしかない。
760 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/27(金) 16:37:45 ID:mZlhJDZS
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【私】を記述してください。【私の存在性】 [哲学]
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カーペンターズが好きな方がいらっしゃるのですね)^o^(
私もカレンは好きですね。
698 :伝説の名無しさん :2007/04/23(月) 21:06:56
西田(ひかる)さん自身が一番好きなアーティストは?
西田「うーん…、やっぱりカーペンターズかな」
(カーペンターズの)一番の魅力はどこですか。
西田「やっぱりカレンの声の美しさ。すごく明るい声でメロディも明るいんだけれども、
どこかすごく切ないところがあったりして。
同じ曲でもすごくハッピーな時に聞くとそういう風に聞こえるし、悩んでる時に聞くと涙が出てくるような。
すごく身近に感じるんですよね。それはもしかして私だけなのかもしれないけど。
耳元で歌ってるような。やっぱり声の質なんでしょうね。
天使の声だと思います(笑)」
________________________________
そうそう、そんな感じ。
761 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/27(金) 16:48:21 ID:mZlhJDZS
>>759 >自分自身の成した業による報いは、自分自身が受け取るしかない。
不生不滅でありますから、業・報といふ無限連鎖は論理矛盾ですね。
762 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/27(金) 17:17:10 ID:IaGlfyey
ID:zLY5TJM2なる池沼外道が、木の芽時の吹き出物みたく醜悪な形相を示しておることで(冷笑)。
763 :
神も仏も名無しさん:2007/04/27(金) 17:35:46 ID:vGyQhHai
>>762 机さん、擁護ですか?
笑いながら怒る得意技が出ましたね。
しかしながら、他人を害することは自分を害することですよ。
なぜなら、自分の心相続に瞋恚を縁起させることで、
悪業というサンスカーラが形成され、何時の日か苦という果が縁起するであろうから、
自分を害することになってしまうでしょう。
>>761 お釈迦様も因果応報の法を説いています。あなたはそれを否定するのですね。
ところで机さんは不生不滅なんですか?この世のものは不生不滅なんですね?
あなたは根本的なところで誤謬しています。
765 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/27(金) 17:39:54 ID:IaGlfyey
>>763 文盲はテンプレも読めぬようだ(嗤)。
基地外にはトイレの流水音も「怒り」に聞こえるのだろうよ(蔑笑)。
766 :
734:2007/04/27(金) 18:12:52 ID:2aNTyiKs
>>746 それは「伊豆の踊り子」ですね。
中学生の時に読んだきりなので内容を失念しています。(現在形w
淡い恋の話というだけで、他は何も覚えていませんw
検索してあらすじを読みましたら、青年が少女と会ってからの5日間の話らしい。
出会ってから5日間で口説かれたら引くと思いますw
まして少女の頃ならなおのこと。
川端文学がお好きですか・・・
私は誰が好きかな?・・・
谷崎なんて言ったら大変なことになりそうだしw
>潜在的な露出癖があってこそです。
こうして、こういう掲示板に書くということも、そうかもしれないですね。
他人の何かを露出させようとして、自分を露出してしまうーーなんてよくあること。
>どうか般若にて、ここは乗り越えて頂きたいもんですね。
わかるようなわからないようなw
乗り越えるも何も、極めて現実的な問題に日々流されるだけの毎日w
色気も何もナシw
それも又困ったものかも。
767 :
神も仏も名無しさん:2007/04/27(金) 18:40:14 ID:zLY5TJM2
>>762 阿呆陀羅經さん。
あなたを観察していると、つくづく馬鹿に付ける薬はないと
わかります。それを自分は賢いと、必死で誤謬しながら、アホを表してくれるあなたは、
滑稽であり、非常に笑えます。そのハンドルは、あなたにピッタリですね。
>>761 ではあなたに聞きましょう。この世界は二項によって成るか、否か。
詭弁でごまかさずに、あなたに答えられますかね(苦笑)
768 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/27(金) 19:11:00 ID:mZlhJDZS
>>764 >お釈迦様も因果応報の法を説いています。あなたはそれを否定するのですね。
因果応報といふのは、もともとはウッパニシャット哲学(梵我一如思想)の業報思想からの流れです。
釈尊原義はこの哲学にはアンチの立場ですが、
その時代の民衆が”仏教にウッパニシャット哲学を取り入れた”だけです。
769 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/27(金) 19:31:20 ID:mZlhJDZS
>>766 「伊豆の踊り子」は、主に踊り子の純心さをモチーフにしてますね。
かたや「天城越え」は売春婦と土工のセクスといふ状況において
青年の純心さを浮きぼりにさせてます。
日本的なあの情緒感がいいですね。
谷崎のエロチシズムは、もっと洗練された大人の文学というところでしょうか?
>>767 >ではあなたに聞きましょう。この世界は二項によって成るか、否か。
二項といふのは、そもそもが人類の進歩によってもたらされた概念です。
よって、世界は二項に非ず。ですね。
770 :
神も仏も名無しさん:2007/04/27(金) 19:42:12 ID:0RtHf258
カーペンターズって近親送還の鬼畜兄弟のことですか?
さすがは机さん、マニアックですね
>>768 あきれましたね。あなたはスッタニパータを否定するわけだ。
そう言えば、あなたは八正道も後世の捏造だといっていましたね。
あなたの自説に合わないものは全て捏造で片付けてしまうとは、呆れた人です。
あなたは勘違いしているようですが、お釈迦様はヴェーダを否定していませんよ。
ただ今のあなた達のように、当時の誤謬におちいったバラモン達の教えを正したんですよ。
間違ってもお釈迦様はヴェーダを否定していたわけではありません。
あなた般若心経だけで、まともに原始仏典を読んだことがないのでしょう。
読んでも、この人にかかれば、自説に合わない記述は全て捏造にされてしまう。
我執の強い人にかかれば、お釈迦様の仏教も、ほれ、このとおりです。
それにしても当時の阿羅漢とよばれた、お釈迦様の直弟子の残した仏典は捏造だとし、
自説の正しさを主張し、自分のほうが正しいとするなんか、開いた口が塞がりませんね。
772 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/27(金) 20:01:32 ID:mZlhJDZS
>>770 人間の脳は限界がありますから、どこか秀でたとこがあれば
それによって失われる脳細胞もあるわけで、
そのアンバランスによって生きねばならんこともあるんじゃないでしょうか?
カレンは、どこか「東電OL事件」の悲劇のヒロインに似てますね。
あの事件も、時のOL達の心の奥底では泰子に惹き付けられた部分があったかと思いますね。
こういう世界というのは殆どマニアック的ではありますが・・・
773 :
神も仏も名無しさん:2007/04/27(金) 20:22:39 ID:zLY5TJM2
>>769 >二項といふのは、そもそもが人類の進歩によってもたらされた概念です。
>よって、世界は二項に非ず。ですね。
この世界が二項に非ずというのは、トンデモさんの主張です。
この世界には、善があれば、悪もあります。光もあれば、闇もあります。
私がいれば、あなたもいます。これらを否定すれば、トンデモさんの主張になります。
もしくは単なる詭弁、虚偽論でしかないでしょう。
もちろん仏教は一如の法門であることは否定しません。あなたは根本的なところで誤謬していますね。
釈迦は、別にヴェーダを否定していません。
梵我一如を否定したというのは、あくまで、今の自我が 、梵ではないですよ。ということです。
あなたがたには難しすぎますか?
774 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/27(金) 20:42:37 ID:mZlhJDZS
>>771>>773 あのですね、
スッタニパータの冒頭にありますように、
先ずは固定された概念を捨て去りませんと、スッタニパータの本義には至らんのです。
スッタニパータは説法方式での記述ですから、
機根に合わせて方便で書いてあることを念頭に置くべきです。
>もちろん仏教は一如の法門であることは否定しません。あなたは根本的なところで誤謬していますね。
ということは
>もちろん仏教は一如の法門であることは否定しません。あなたは根本的なところで誤謬していますね。
という、自我(主体)と梵(客体)といふ対立がないことを一如。
と言いますね。
775 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/27(金) 20:45:17 ID:mZlhJDZS
×
>もちろん仏教は一如の法門であることは否定しません。あなたは根本的なところで誤謬していますね。
ということは
>もちろん仏教は一如の法門であることは否定しません。あなたは根本的なところで誤謬していますね。
という、自我(主体)と梵(客体)といふ対立がないことを一如。
と言いますね。
〇
>もちろん仏教は一如の法門であることは否定しません。あなたは根本的なところで誤謬していますね。
ということは
>梵我一如を否定したというのは、あくまで、今の自我が 、梵ではないですよ。ということです。
という、自我(主体)と梵(客体)といふ対立がないことを一如。
と言いますね。
>>774 おやおや、今度は自説に合わない記述は方便ですか。
やれやれ、まるでオウムの仏教ですね。
彼らの中でいまだに残る麻原シンパは、あなたとまるっきり同じ事を言っていますよ。
777 :
神も仏も名無しさん:2007/04/27(金) 23:25:09 ID:JyIBr8JK
>>776 カラスにも、ブッダが超優秀な当時の比丘たちへ出した復習問題を解いてもらおう。
曰く
『比丘たちよ、なにがあるによりて、なにを執着するによりて
なにを貪ることによって、我見は起るのであろうか。』
778 :
734:2007/04/28(土) 01:55:27 ID:tjy294Ux
779 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 06:24:42 ID:iY3yvho2
>>777 おまえは馬鹿だな。君の問いに対する答え。
>『比丘たちよ、色があるによりて、色に執着することによりて、
>色を貪ることによりて、我見はおこるのである。
>また、受のあるによりて、想のあるによりて、行のあるによりて、
>識のあるによりて、それらに執着し、それらを貪るによりて、我見はおこるのである。』
これは、まんまおまえ達、色(物質世界であるこの世)に執着している、
断見仏教者のことであり、「わしゃ死にとうない」と最後にこの世に未練たらたらのまま
死んでいった一休の悟りが仏教だと誤謬して得意げになんちゃって仏教を語る、
邪見の王様、机であり、自分の考えに恐ろしく執着して、仏典に書いていることを素直に読めず、
自分の考えに合わないものは認めず、屁理屈で曲解して、無理やり自分達の
考えに合うように解釈するか、その部分は、方便や、捏造だと切って捨て、
自分の考えに合う部分だけ都合よく取り出しては、自分の考えは正しいと強弁している
君ら(含む、机)の事だよ。俺は己の固定観念などのフィルターなど通さず、
仏典に書かれている事は、素直に読んでいる。我執の鬼であるおまえ達とは違う。
しかし俺に、この問いとは、(苦笑)何かのギャグですか?
どうせ問うなら、この問いは君らに対すべき問いかけだろう。さすが盲人は、自分のことすら気付かないらしい。
おまえは馬鹿だよ。
780 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 06:25:38 ID:iY3yvho2
我執が強いのも、度が過ぎると、ある種の病気だと知るべし。
781 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/28(土) 07:44:38 ID:8sppO09X
>>777 娑婆世間の最底辺を這い回る、虱・壁蝨そのものの外道オウムの残党崩れに餌を撒かないよう。
782 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 07:50:42 ID:JMK+60wi
>>781 最近、このスレ読み始めたんですけど、なんでカラス氏はオウムの残党崩れなんですか?
過去ログのどのあたりを読めばいいのかな??
783 :
734:2007/04/28(土) 07:54:42 ID:tjy294Ux
カラスさんが机さんに執着してるのは何故なん?
自分が正しくて、机さんが間違っているからかな?
我見って、ある意味自分の考えすべてが我見ですよねぇ。
784 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/28(土) 07:55:23 ID:cHRxsHOQ
>>778 音楽を聴かせて頂きました。
この歌謡曲は川端の「天城越え」をモチーフにしたんじゃないですか?
いつしかあなたに 浸みついた
誰かに盗(ト)られる くらいなら
あなたを殺していいですか
天城峠で少年は女と出会う。そして急激に少年は女に恋をしてしまう。
この年代にありがちなプラトニック的な純真な愛です。
ところが、この女は少年の抱いていたのとは全くの対極にある売春婦だったんですね。
少年は、往きずりの土工と女が青姦しているのを目撃しちまうんですよ。
(女は売春宿から逃げてきたので、生きるため僅かな金で身を売るんです)
まあ、大人でしたらそんなに刺激のないもんでも、
少年にしてみたら非常に残酷なシチュエーションですね。
少年は混乱して、ついに土工を殺しちまうのです。
(こういうこともあるんですね)
青姦も、こういう危険がありますから、
なるべくだったら周囲を偵察して、危険がない
と判断してから実行した方が宜しいかと思いますね。
上記の歌詞は、この少年の切ない男心を表したものですね。
愛というものは、儚くも悲しい。と
川端はアピールしたかったんでしょうかね?
785 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/28(土) 07:59:37 ID:8sppO09X
>>782 出禁外道の汚穢撒布など読めば目が腐ること必定。穢らわしいだけのその名には言及すらしないように。
いずれにせよかかる虱・壁蝨の類は、癲狂院の害蟲籠で飼い殺しにされるのが妥当な処置。しかしまあ、こんな代物を野放しにしている
保健所は職務怠慢ではないかとも思う。
786 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 08:08:52 ID:JMK+60wi
>>785 >出禁外道の汚穢撒布など読めば目が腐ること必定。
それは、阿呆陀羅經さんの見解ですよね?それとも、カラス氏本人が表明されているんですか?
私は「客観的事実」が知りたいんですよ。だから、過去ログで確認したいんですよ。
もし、「その必要がない。」とおっしゃるなら、阿呆陀羅經さん、あなたは相当の独裁者ですよ。
787 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/28(土) 08:12:57 ID:cHRxsHOQ
「伊豆の踊り子」では、
少女が学生にいう「こんど活動に連れて逝ってくださいましね」。
と言いつつ、
学生の下駄を揃える場面はいいですね。
良寛も、甥の下駄を揃える場面が話としてあるのですが、
下駄に良寛の涙がポタリと落ちるんですね。
それで甥は良寛の気持ちが分るのです。
これも泣ける話ですね。
788 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 08:14:49 ID:JMK+60wi
>こんな代物を野放しにしている 保健所は職務怠慢ではないかとも思う。
野放しにしているのは保健所なんて、検討違いの責任転嫁、自己正当化。
駆除を保健所に〜など、洒落にもなりませんぜ。
カラス氏、および机氏を追放したければ、「己の論理」で 負かしたらどうですか?
最近のあなたの書いていることは、ネタが尽きた芸人の断末魔のあがきと同じですがな。w
789 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 08:18:29 ID:JMK+60wi
ネタが尽きた芸人、つまり、ワンパターンってことですがな。
「欧米化、欧米化」しかいえないどっかの芸人と一緒。
790 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 08:26:13 ID:iY3yvho2
>>783 この人はね、邪見の中でも、もっともたちの悪いものだ。
この人の仏教は、もっともらしい屁理屈であーでもない、こーでもないと捏ねているが、
要約するとこうだ。
この世には善悪は無い。そんなものに囚われるから苦はある。
だからそんなものに囚われずに自由奔放に生きよ。それすなわち涅槃静寂。
早い話、彼の悟りとはこういうことだ。
これは皆を穴に落とす、典型的な誤謬であり、教えである。
この類の教えは、最も性質が悪い。言っておくが、この世には善悪はある。
善と悪があるからこの世なのだ。それらは二つで一つであり、切っても切れない関係であるが、
この世界は相対で成り立つ、二元世界なのだ。勘違いしてはいけない。
彼の教えは、もっとも邪悪なものだ。彼が自らの誤謬に執着し、彼一人で勝手に穴に落ちるのは
彼の勝手だろう。だがここで、無知な人を惑わし、道連れに穴に落とすのは善い事ではない。
だからこの男の能書きで、穴に堕ちなくてすむ人まで、穴に落ちることが無いよう、
この男の能書きは間違いですよと、警笛を鳴らしているのだよ。
それでも穴に落ちる奴は落ちる。それは定めだ。勝手に落ちればいい。
791 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/28(土) 08:35:55 ID:8sppO09X
>>783 「我見」の語義も知らず、調べる能力も持ち合わせない無知蒙昧の文盲故に不可触外道とされるのです。
792 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 08:42:25 ID:iY3yvho2
>>786 それはそいつが勝手に言っている事だ。
そいつは、自ら名乗るハンドルの通り、正真正銘の、アホだ。
そいつの脳内では、少しでも形而上の要素を入れると、即、オウムということらしい(苦笑)
こいつらは、自分達こそが正しい。他は一切認めないという、我執の鬼だ。
論理的に反論できるのならまだわかるが、そうではなく、はなから聞く耳を一切持たない。
こいつは論理的に反論できるどころか、オウムの連中にも論破されて逃亡したくらいの男だ(大爆笑)
俺はオウムなど今まで関わった事は無い。
また、俺の話から、オウムの事件はありえない。
むしろ、机などの能書きのほうが、よっぽどオウム思想を生むだろう。
事実、机の話は、いまだにオウム内に残る、麻原シンパ達の
能書きと全く同じだ。こいつらは俺にかなわないと悟ると、いわれのない、俺はオウムだという
レッテルをはって、中傷することで、逃げる。こっちはいわれのないレッテルを貼られて、迷惑な話だ。
この阿呆陀羅經という男の仏教知識は、オウムスレにて、あそこの連中に、コテンパンに論破され、
全く反論できないほどの、お粗末なものだ。以前、こいつがオウムスレで彼らに説教を垂れたのはいいが、
見事に帰り打ちにあって逃亡したのには、非常に笑えた。名は人を表す。こいつのハンドルは傑作だ。
こいつはアホだよ。
我「アートマン」が“ある”という考えが我見
♪がっけんのおばちゃん
794 :
734:2007/04/28(土) 08:44:30 ID:tjy294Ux
795 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 08:47:22 ID:YNmN4wCl
無知蒙昧の不可触外道にも優しく説法するのが仏なのではないですか?
796 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 08:48:08 ID:iY3yvho2
>>791 はいはい。おまえ達のいう「我見」と、世間一般で認識している「我見」とは意味が違うもんな〜
素朴実在論の意味も、おまえ達独自のものだったし。
そいうのを、「我見」というんだよ。
意味がわかるかい?お馬鹿さん(苦笑)
797 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/28(土) 08:50:01 ID:8sppO09X
798 :
734:2007/04/28(土) 08:50:57 ID:tjy294Ux
>>790 >この人の仏教は、もっともらしい屁理屈であーでもない、こーでもないと捏ねているが、
>要約するとこうだ。
>この世には善悪は無い。そんなものに囚われるから苦はある。
>だからそんなものに囚われずに自由奔放に生きよ。それすなわち涅槃静寂。
そうでしたっけ?
世俗的には善悪があると言われてるのだと思っていましたが。
ちがったかな。
799 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 08:51:07 ID:iY3yvho2
>>793 釈迦の言う「無我」とは、頭に「一切」とつくんだよ。
馬鹿には、なんぼ言うてもわからん道理のようで。
馬鹿には難し過ぎる話のようで。
馬鹿に付ける薬は無しだな。ご愁傷様。
800 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 08:52:41 ID:iY3yvho2
>>798 おまえはメクラだな。
頭の悪い奴と話すのは、空しいよな。
801 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/28(土) 08:55:42 ID:8sppO09X
>>795 断善根の縁無き衆生の頭上遥かを、佛説が素通りしているだけの話です(笑)。
802 :
734:2007/04/28(土) 08:55:45 ID:tjy294Ux
803 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 08:57:19 ID:JMK+60wi
>>797 もしもし?あなた老眼か?
私が言ったのは、「過去ログ」のリンク先を貼り付けろっていってるんですよ。
島田裕巳の本読めってか?
カラス氏は島田裕巳本人なのか?その証拠はどこにある?
804 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 08:57:32 ID:iY3yvho2
>>797 おまえも、麻原も、あの事件を起こした連中も、
いまだに残る麻原シンパのオウムの残党も、同じ穴の狢なんだよ。
いおまえ達はエゴの塊だ。おまえのこのスレの言動、行動で、自分でわからんか?
かわいそうに、メクラには、自分のこともわからんのだろう。
おまえ達は、自分の考え、自分達の価値観以外の者は一切認めず、排斥する。
テロって言うのはな、お前のような人が起こすんだよ。
805 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/28(土) 09:00:51 ID:8sppO09X
>>803 人語も解せぬ文盲厨房は足切りバカ隔離スレへ退下のこと。
806 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 09:03:31 ID:iY3yvho2
>>805 おまえも救いようが無い人だね。可哀想に。
807 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 09:05:50 ID:JMK+60wi
>>805 ふ〜ん、己の論理に自信がないもんだからどっかの宗教学者様の論理を借りないと
論破できないってことだな。
あなたのいう人語、ってなによ?まず、そこから定義してみ。w
808 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/28(土) 09:10:57 ID:8sppO09X
>>807 文盲の分際で「論理」などという言葉を使うとは、笑止千万の身の程知らず(失笑)。
チラシの裏の落書きは厨房隔離スレで。
809 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 09:14:52 ID:iY3yvho2
俺は言っておく。
何が善でなにが悪かも判断できない者は、真理を悟っていない。
彼らは偽者だ。惑わされてはいけない。
道徳の完成こそが、真理へ至る道なのだ。
それは真理を悟る人には理解できるだろう。
何度も何度も言ってやるよ、道徳の完成こそが、真理へ至る道なのだ。
なにが善で、なにが悪の判断も出来ない奴が、
学校の社会科の先生の言うレベルの世俗的な意味で善悪の話をし、善悪などは無い
などと、もっともらしい御託を並べて悦に入っている奴は、何もわかっちゃいないのさ。
善を成せ。あなたがたが釈迦の弟子でありたいと思うのなら、
生きている間に、善の修行を完成させよ。たとえ、今、大きな善を成せなくとも、いまあなたに出来る
どんな小さなことでもいい。今あなたに出来る善を成せ。悪を成しては成らない。
もちろん我々に悪を成すなといっても、難しいのはよくわかっている。だが悪を成すな。
この世も、かの世も主人公は我一人。自分の心を制する者は、得がたい主を得るだろう。
それが釈迦の仏教なのだよ。
>>803 無理でしょ。
たとえば、「(教理に於ける)何々の言明の根拠は仏典のここにある」というように
「カラスはオウムの影響を受けている」ことが、【明確に、そのまま】記されているレスはないであろう。
カラスの種々の発言を読み、解釈し、総合し、類推した時に、
「オウムの言っている内容とシンクロする部分がある」と(阿呆陀羅氏は)判断したのだろう。
(※実は、仏典の読み説き方も、この方法によるしかないわけだが・・・w
最終的には、根拠となる部分そのものに対して、仏教としての妥当性を吟味しなければならないから・・・)
だから、個別にレスやスレを特定することはできないから、
>>797のような提示になったのだと思われる。
勿論、それが阿呆陀羅氏の誤認である可能性はゼロではない。(また逆に、正解であるかもしれない。)
カラスは七誌で書き込むことも多いから、
自分で確認したければ、結局過去ログ全て読破するしかないと思う。
811 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 09:23:13 ID:JMK+60wi
>>810 >カラスは七誌で書き込むことも多いから、
>自分で確認したければ、結局過去ログ全て読破するしかないと思う。
うん、最初からそのつもりでした。ただ、過去ログが多すぎるのよ。
連休だし、時間はたっぷりある。最初から読んでみる。
指摘に感謝。
812 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/28(土) 09:23:57 ID:8sppO09X
>>798 善悪・正邪・理非・真偽等の峻別と後者の駆逐排除は、佛教にコミットするための初歩の初歩、大前提であり必要条件です。
尤もそれだけでは充分条件とは成り得ませんが。
813 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 09:24:13 ID:iY3yvho2
>>810 今の自分を意識している心。
今の自我(魂)が、真我だと説いた麻原と、
俺の話のどこが同じなんだい?一緒にするな。
彼の話と、俺の話は、根本的に違う。盲人のおまえ達は、そんなこともわからんのだ。
そこのアホウ陀羅經は、単にレッテルを貼ってるだけだよ。
おまえはそんな事もわからんのか?
おまえは馬鹿だな。
814 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/28(土) 09:30:26 ID:8sppO09X
>>793 「アートマン=我・実体」を前提に設定する見解が我見。常見・断見等もこの一種。
すなわち不当前提に基づく戯論。
815 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 09:35:50 ID:iY3yvho2
>>812 結局おまえ達、断見仏教、唯物仏教論者達(含む机)の結論はこれだ。
だから俺はおまえ達を叩くんだよ。
おまえ達の教祖、電波男は、「糞の役にもたたない、慈悲の心など糞食らえ」
と言い切った男だからな。おまえ達、唯物仏教の行き着く先の結論は、とどのつまりこれしかない。
おまえ達の思想、仏教こそ、オウムの思想を生むんだよ。
おまえ達は仏教を語るな。穴に落ちるのはおまえ達だけで十分だ。
他の無知な人を道連れにするな。
>>813 なんで俺に絡むんだよwww
>それが阿呆陀羅氏の誤認である可能性はゼロではない。
と断り書きしてるだろw
私個人の印象を述べれば、
原理主義的ではあるが、オウムと直結するとは見ていないよ。
少なくとも、オウムをオウムとして特徴づけている要素はないだろうと思うよw
817 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 09:43:07 ID:iY3yvho2
>>814 馬鹿の反論はもう聞き飽きた。
なんぼいうてもわからん人達だ。
一切法無我。
一切行無常。
一切皆苦。
そして、涅槃静寂。
四法印。これは仏教の基本である。
盲人には、なぜ、涅槃静寂には ”一切” がつかず、他には ”一切” が付くのか、
理解不能らしい。なんぼいうても、こいつらにはわからん。
気の毒な人達だ。やれやれ、この人達、どういう頭の構造をしているのやら、不思議でしょうがない。
818 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/28(土) 09:46:54 ID:8sppO09X
支離滅裂な邪説妄言を撒布し続ける虱・壁蝨外道の居場所など娑婆世間にないのだが・・・。
全く保健所は何を怠けてるんだか。
以下、某SNSの書き込みから。
他方、アレーフと、そこから分裂した上祐派の団体も、実質オウム真理教であり、全国30か所の拠点
に信者1650人を抱え活発に活動している。かつてテロ事件を起こしたオウム真理教が、なぜ現在で
も活発に活動を続けているのか、全く理解に苦しむところである。
819 :
734:2007/04/28(土) 09:48:35 ID:tjy294Ux
>>812 イスラームみたい・・・・・
宗教は皆そうなんだろな。
820 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/28(土) 09:55:32 ID:8sppO09X
>>819 > 善悪・正邪・理非・真偽等の峻別と後者の駆逐排除
の対象には、
>>814で言及したような戯論も必然的に含まれることを忘れないように。
821 :
734:2007/04/28(土) 09:57:20 ID:tjy294Ux
>>818 無理やり解散させると、地下に潜ってしまって法の目が届かなくなるから。
822 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 10:01:14 ID:iY3yvho2
>>818 おまえよ、いわれの無いレッテル貼りで、事実と違う、いい加減な事を言ってると、
しまいにゃ、名誉毀損で訴えるぞ。事実と違う捏造でのレッテル貼りはいい加減に
やめてくれたまえ。
ちゅうかおまえ、ことあるごとに、オウムを引き合いにだすなんざ、
あのオウムの連中にコテンパンに論破されたことが、よっぽどトラウマになってるんだね。
可哀想に。
823 :
734:2007/04/28(土) 10:02:44 ID:tjy294Ux
>>820 戯論だか何だか知りませんが、「それは原始仏教ではありませんよ」と言うことなんでしょ?
ならばその証明だけでいいのでは?
824 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/28(土) 10:05:56 ID:8sppO09X
>>816 すぐに釣られる単細胞ぶりを晒すこと自体語るに落ちてるんですけどね、あの外道原理主義蟲(嗤)。
825 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/28(土) 10:20:52 ID:8sppO09X
>>823 言及済みの「我論」は、
「一切法(有為・無為=涅槃、有漏・無漏の一切法)無我」に全く相反する外道説。
826 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 10:33:47 ID:iY3yvho2
>善を軽くみて、自分になんの報いも無いものと思ってはならない。
>水滴もつもり積もれば水差しを一杯にする。智慧のある人はたとえわずつであっても
>善行を積み、自分の中を善で満たす〜ダンマパタ
>賢い者は善行を積みなさい。それは他人に分けられず、他人に盗まれず、
>永遠になくなることのない富である〜グッダカパータ
>世の多くの人は林浴をするが、それで清浄になることはできない。
>罪の大小に関わらず、あらゆる罪を避ける人が、一切の罪のないバラモンなのである〜ウダーナヴァルガ
>思いやりの瞑想にふける人は、ブラフマーを自分の目でみることができ、
>向かい合って言葉を交わし、助言を求める事もできる〜ディーガ・ニカーヤ
>道を尋ねられてとまどい、困惑する人もいるだろう。しかし私はブラフマーを知り、
>ブラフマーの世界を知り、ブラフマーの世界に至るための修行の道を知っている。〜ディーガ・ニカーヤ
愚鈍な者達と話しても時間の浪費だ。勝手に穴に落ちればいい。
彼らには騙されてはいけない。智慧のある人なら、彼らがいくらもっともらしい能書きを垂れようと、
彼らの仏教に何の意味もないことにすぐに気付くだろう。眼ある人よ。穴に落ちるのは、彼らだけで十分だ。
一緒に落ちることはない。
827 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 10:38:57 ID:iY3yvho2
>>825 外道は君らだろ。
釈迦が言った外道とは、君らの事だよ。
わかるかい?断見唯物仏教論者の皆さん。
といっても、なんでも自説に合うよう、邪見、曲解の名人、
我執の塊の君らには、わからんだろうな。
828 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 10:46:45 ID:jr58GZ7B
>>817 ブッダの姿勢は「一切」外についての論題につき『無記』、
即ち、否定以上の強い否定、そもそも馬鹿は相手にすらしないということだ。
実存苦の滅尽をめざす実践的な実存的経験主義=中道なるがゆえだ。
おまえのような一切外の観念世界で無意味な裸踊りをしている連中とはわけが違う。
それにしても、連休で夜勤に行かなくともいいから元気だな。
829 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 10:58:32 ID:iY3yvho2
>>828 ところが一方では語っているんだよ。
おまえは仏典のどこを読んでいるんだ?それとも電波教の能書きは知っているが、
仏典は読んだ事がないのか?仏典すらろくに読んでいないのに、
知ったか仏教か?
おまえ達は、どうしよもないメクラだよ。
我見に囚われて、仏典も素直に読めない。読んでも、自説(我見)に合うよう、
解釈は、邪見の塊だ。しまいには、それは捏造だの、方便だのとごまかす。
君らは救いようがない。終わっとる。
830 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/28(土) 11:05:11 ID:cHRxsHOQ
カラス氏は、善といふのを非常に抽象的な概念で捉えていて、
その概念自体が肥大化され、
ついには善中毒とまで逝ったかとおもいますね。
かつてオウムが民衆救済を教義の根幹に掲げていたさい。
救済だけが目的化されたのと同じことです。
(これは悲劇でしかない)
道路交通法を守らにゃいかん。ということで
ノルマを警察官に課せるのと意味は同じです。
ノルマが目的化され、微罪取り締りが結果的な悲劇を生む場合もある。
カラス氏は、もう少し善というものを具体的な例示において考えてみたら如何でしょうか?
普通のアタリマエな人の行動を、あえて善と名づくなら、それは悪にしか成り得ない。
831 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/28(土) 11:05:32 ID:8sppO09X
>>828 「当て馬」を教説成立の構成要件に持ち込まずには居られないのが外道の外道たる所以。
いずれにせよ因果撥無の邪見妄説に他ならぬ。
>>828 無記は無記ですね。つまり肯定も否定もしないということです。
それを、『即ち、否定以上の否定』と解釈するのはいかがなものでしょう?
それはあくまであなたの断見。あなたの願望でしかありませんね。
無記はあくまで無記です。
833 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 11:15:43 ID:iY3yvho2
>>830 その言葉はそっくり釈迦にも言わないといけないな。
釈迦にも言ってみろよ、タコ。
おまえいつから、釈迦より偉くなったんだ?タコ。
おまえの仏教論は、釈迦の仏教とはかけ離れている、全く違うものなんだよ、タコ。
そんなことも気付けないとは重症だな、おまえ。
おまえは真理を知らないから、世俗的な意味での善悪しか理解できず、
相も変わらず世迷言を言ってるんだよ。
おまえの能書きは、結局はオウムと変わらないわけだ。
それは過去スレを読めば、眼ある人なら、一発で気付くだろう。
834 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 11:22:02 ID:jr58GZ7B
>>829 この論点につき>>393-
>>403参照
回答は、ブッダが成道されたあとの、不思議ともおもえる
ブッダのこころの揺らぎ(俺にはとても美しく大好きなシーンだが)にある。
あの当時の変動するバラモン的社会風土のなかで、実際的伝道戦略をどうたてるべきか、
必死に考えられたと拝察する。白いキャンパスに絵を描くのとはわけが違うのだ。
はっきりいえば、戦争なのだ。現にインド仏教はイスラム→ヒンドゥ→仏教の順の戦争圧力で、
物理的に抹殺されている。
弟子達のレベルもある。さまざまな弁証法的(縁起とはあえて言わない)現象の一形態が「仏典」なのだ。
教条主義に陥るわけにはいかないのだ。
お馬鹿な弟子のバラモン-ヒンドゥ的歪曲を鵜呑みにするわけにはいかないのだ。
835 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 11:22:58 ID:iY3yvho2
>>830 >カラス氏は、もう少し善というものを具体的な例示において考えてみたら如何でしょうか?
それはなんどもなんども説明している。
>普通のアタリマエな人の行動を、あえて善と名づくなら、それは悪にしか成り得ない。
そんな事は言っていない。
何度も説明している。おまえ達は何度説明しても、理解できないで、
いつまでも、社会科の教師よろしく、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
何度も何度も何度も何度も何度も何度pも何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
いつまでも世俗的な善悪を引き合いに反論してくる。
これだけ簡単にわかりやすく何度も説明しているのに、理解できずに、相も変わらずおんなじ反論をしてくる
君らの無能ぶりには、驚かされるよ。
>>834 おまえは馬鹿だな。
おまえは馬鹿すぎて、毒にも薬にもならない。
他者の害にもならないだろうから、相手にする価値もないだろう。
勝手に躓いていろ。
837 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/28(土) 11:27:03 ID:8sppO09X
>>834 負け犬耄碌サヨクの遠吠えは、厨房隔離スレででもやるように(冷笑)。
838 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 11:29:38 ID:iY3yvho2
>>830 で、あんたに言わせtると、人を殺してもかまわないわけだ。
過去レスであんたはそう言った。
オウムの善悪感は、おまえと一緒だよ。
そんな事も気付かないおまえは、どうしようもない盲人だ。
自分のことを、他人に擦り付けるなよ。人格障害者だからしょうがないか?
839 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 11:34:35 ID:jr58GZ7B
なんだ?カラスもアホも教条主義かwwwwww
840 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/28(土) 11:45:56 ID:cHRxsHOQ
目が開きますと、善行とかの概念は寂滅します。
本来あるものを、あえて名づけないし、その形態そのものも寂滅しますね。
「本来あるもの」というのをあえて「仏性」とか言いますが、
本来あるもの故、仏性といふ意も消失します。
この相を慈悲とか言う訳です。
ですから、慈悲とは本来あるものですから「慈悲喜捨」となる訳です。
すでにここまで悟りますと、もはや善悪とかの二項は寂滅しますね。
まあ、俗諦としては善悪などと言う場合がありますがね。
841 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/28(土) 11:48:21 ID:8sppO09X
生憎「弁証法」なるドグマ・イデオロギーも却下排除対象なもんでね(嗤)。
842 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 11:52:35 ID:iY3yvho2
>>840 >目が開きますと、善行とかの概念は寂滅します。
ちゅうことは、釈迦は目が開いていない、覚者ではないということになるな。
すごいなおまえ。
843 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/28(土) 11:54:06 ID:cHRxsHOQ
>>838 >で、あんたに言わせtると、人を殺してもかまわないわけだ。
人を殺すのは自他対立ですね。
空諦とは自他不二ですから、もはや「殺し⇔殺され」の対立そのものが無くなります。
この位相を慈悲という訳です。
慈悲は対立のない平等一枚。
いわゆる空諦のことですね。
844 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/04/28(土) 12:02:10 ID:iY3yvho2
>>843 だから殺してもいいわけだ。
すごいな、、あまえの仏教は。
とろでおまえ、釈迦の仏教には、不殺生戒というのがあるってこと
知ってるかい?
おまえの詭弁はもう聞き飽きたよ。
845 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 12:02:28 ID:jr58GZ7B
846 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/28(土) 12:07:11 ID:cHRxsHOQ
>>842 >すごいなおまえ。
いやいや、別にすごくはないですよ。
ただ貴殿おっさる善行というのは、世間的な評価なら私は日常的に善行してますがね、
あえて善行などという概念さえ寂滅しとるもんですから、
「善行した」とかの自覚がないだけですよ。
普通は、アタリマエのことだったら「善行」とかは言わんですよ。
そこまで自意識過剰じゃないですから。
847 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 13:03:14 ID:jr58GZ7B
展転総是空 展転 総べて是れ空
空中且有我 空中に且(しばらく)我れ有り
況有是興非 況んや是と非と有らんや
不知容些子 如かず 些子を容れて
随縁且従容 縁に随って且く従容(しょうよう)たるに
848 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 13:29:16 ID:jTaUjkn1
>>846 >「善行した」とかの自覚がないだけですよ。
>そこまで自意識過剰じゃないですから。
ようするに、「判断力欠如」ってことだな。かわいそうだな。
今生きているのは、お前のまわりにいる人間のお慈悲のお陰だぞ〜。
849 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/28(土) 14:17:33 ID:cHRxsHOQ
>>848 >ようするに、「判断力欠如」ってことだな。かわいそうだな。
かわいそう。とか、そうういふレベルさえも既に透過しますね。
>今生きているのは、お前のまわりにいる人間のお慈悲のお陰だぞ〜。
生きている。とか、
生かされている。とかの分別さえなきが慈悲ですね。
これを「大死」とか言います。
これがいわゆる「即心即仏円相の位相」とか言いますけど、
ここまで逝けば、まあ、だいたい目が開くかと思います。
850 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/28(土) 15:03:03 ID:cHRxsHOQ
>>794 >机さんも調べてみて下さい。(机さんの勘違いがあるかもー・・・)
私の勘違いのよぅですね(^^ゞネットで調べました。
「天城越え」は松本清張・原作でしたか。
私はずっと勘違いしてましたよ。
舞台が伊豆ですから、きっと川端と重なったのかと思います。
ああ、松本清張もいいですね。
かくいう私は、昔は本が好きだったんですよ。
清張の本も好きでした。
あれは、一つの作品が好きになると、続けてその作家の本を読み漁るようになるんです。
そして本の中毒になるんですよ。
ここに書き込みしているアホ氏などは、昔の私を見る思いです。
ちなみに私が本の中毒から開放されたのは、目が悪くなったからです。
全集もんとかは、特に活字が小さいので疲れますね。
あと、ロシア文学は登場者の名前が覚えきれなくて、大変難儀します。
私は松本清張のファンになりまして、清張の処女作を世に出す過程とか、
あと清張の父のこととか調べたことがありますね。
田中角栄と同じで中卒なんですよ。
その劣等感は生涯続いていたらしい。
それをバネにしてイイ作品が書けたのかと思います。
851 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 17:36:02 ID:YNmN4wCl
死刑は仏教的にはどうなんですか?
>>729 独り言さん。いつもまとめサイトのメンテナンス、お疲れ様です。
なんか流れが変ってきてますね。あぽ〜ん設定してるのですが、今回は多いw
>>733 > そんな裁判上の正誤の判断を引き合いにだして、
だれがそんなこと言ってる?論理的な妥当性は裁判でも仏教学を語る上でも共通したものだと言ってるんだけど、
それが分っていないから↓↓のようなボケかましてるんだね。
> おまえの仏教は、立派な断見仏教だよ。そんなことも気付かないのか?気の毒な人だ。
> おまえは屁理屈だけは達者で決して自分の過ちは認めない、我見の鬼だ。
どこが断見だ?「輪廻転生がある」(常見)、「外界は存在していない」(偏見)
あんたは二辺を離れていないんですよ。
で、言論封殺?早く死んだほうがいい?お前がしねや。
>>734 東京のラーメンか、、、。おいしいというお店ではまだ食べたことが無いんですよ。
台湾で食べた多種多様の麺が染み付いていて、ラーメンの味の判断ができないのです。
あ、ハンドルかえるのを忘れていましたw
854 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 18:33:25 ID:YNmN4wCl
オウムが人を殺すのは悪で、
国家が人を殺すのは善だ
ということでいいのですね?
855 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/28(土) 19:33:53 ID:cHRxsHOQ
前の法務大臣が真宗だったかの仏教徒でしたね。
で、任期中は大臣の信念に基づいて刑を執行しなかった。とか
まあ、それはそれでいいんじゃないですか?
それは大臣の考えなんですから。
書類に判を押すのは、ある程度の勇気がいりますからね。
しかしながら、大臣というのは刑を執行する任務がある訳で、
そのような道(政治家)を志たなら、最後までその志は貫くべきかと思います。
人それぞれに役割というものがありますから。
勿論、世俗的役割から逃げるのも自由です。
(出家とかですね)
856 :
神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 21:06:38 ID:jr58GZ7B
>>854 再び、この点については
>>279を参照。
『人は真に自由意思があり、自由でありうるかはべつとして、「自己という仮有」の相に
おいては、自由の主体として自らも行動し、また他人からもそのように取り扱われている
という共同幻想が現実なのだから、少なくとも人倫の世界においては、人は「自由なもの
としてー少なくともー擬制されている」。』従って自由―(相対)道徳―責任―非難は
一体のものとして『擬制』として成立している。
責任-非難は、国家レベル(世俗、世間)では刑罰として具体化される。
857 :
神も仏も名無しさん:2007/04/29(日) 03:15:50 ID:B6/fpp7t
>>855 あんたが法務大臣だったらどうする?
職務全うか?出家か?
あんたの仏教解釈に則って答えてくれよ。
858 :
神も仏も名無しさん:2007/04/29(日) 06:06:19 ID:xTruhb9s
世俗諦が具体化されて戒律となった?
不殺生戒は自由なの?
859 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/29(日) 07:17:56 ID:TFvJYJEz
>>857 私でしたら職務は全うしますね。
刑の執行について、私は問題は別のところにあるかと思います。
@刑が確定した後において、その執行の期間が永過ぎること。
A絞首刑という、残酷で且つ苦痛が伴なうことが予想されること。
この二点を重点的に審議し、早急な法改正が望まれます。
>あんたの仏教解釈に則って答えてくれよ。
再審請求のない、殆ど免罪の可能性もない確定犯は、
早急な刑の執行を行い、
かつ安楽な執行方法(絞首刑以外)がベターかと思いますね。
860 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/29(日) 07:22:04 ID:TFvJYJEz
861 :
神も仏も名無しさん:2007/04/29(日) 07:35:32 ID:xTruhb9s
ということは、
大善のための小悪はいいということですね?
862 :
神も仏も名無しさん:2007/04/29(日) 07:42:36 ID:xTruhb9s
新日鉄の株を買って、楽して老後の安定した生活をうる、
というのは、
あなたにとっての善であると
863 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/29(日) 08:17:16 ID:TFvJYJEz
>>861 貴殿が考えてる善というのは何ですか?
例えば、貴殿が善と思うことでも、100人が全て「善と受け止める」訳ではない。
たとえ少数派だとしても「貴殿の善が、かえって悪になるかもしれない」。
全て普遍的な善など有得んのですよ。
すなわち、
大善には小悪は既に含有する。
>>862 私は株の取引はやらんですね。
864 :
神も仏も名無しさん:2007/04/29(日) 08:40:55 ID:xTruhb9s
「シャンバラ化計画」という『大善』には既に、
「サリンを撒く」という『小悪』が含まれている、
ということですね?
865 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/29(日) 08:41:27 ID:TFvJYJEz
善悪について、分らん人が多すぎるんで、ついでに書いておきます。
日本には、自民党とか民主党とかの政党があって、
その党の綱領は皆違います。
それは善について、いろんな考え方がありまして、
例えば、自民党と共産党は善の考えかたが全く違います。
ついでだから書きますが、
又吉イエスは、あの方は実直で真面目な方かと思いますね。
ただその善なるところが裏目に出てしまっただけで、
世間的評価においてマイナスイメージになってしまっとるんです。
人間的にはイイ人ですね。
866 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/29(日) 08:47:48 ID:TFvJYJEz
>>864 わたしは前記しましたが、
いわゆる善というのは個別性の問題なんですよ。
>「シャンバラ化計画」という『大善』
あくまでも個人的問題ですね。
>「シャンバラ化計画」という『大善』には既に、
>「サリンを撒く」という『小悪』が含まれている、
それをあたかも普遍性とするのが、カルトの常套句ですね。
別に価値相対主義を標榜するわけではないが、
この場合、「サリンを撒く」という行為を「善である」と認識してしまう、
受け止めてしまう心理構造(及びその理由)にメスを入れるべきなんだろうな。
【彼らにとっては】まぎれもなく「善」であったのだろうし・・・。
(※ここで「(万人共通の)善とは何か」という問いは、哲学的に過ぎるかもしれない・・・。
仏教においてそれに答えようとすると、
「命を大切にすること」「他者の生存・安心を脅かさず、むしろ増進させること」
くらいは言えるかもしれないが・・・。)
868 :
草レーサー:2007/04/29(日) 09:15:37 ID:TAvap80L
私は、死刑制度には反対します。
政治的な責任が伴う立場には立ちたくないし、そういう
パワーが欲しいとも思わない。
できるだけ、自由人でいたいですからね。
原始仏教のスタンスも、死刑には反対でしょう。
出家ですから、捨てて逃げ出す。
古人曰く
地獄への道は、「善意」によって舗装されている。
スレ違いに付きsage
870 :
神も仏も名無しさん:2007/04/29(日) 10:10:44 ID:OqTood61
>>859 > 再審請求のない、殆ど免罪の可能性もない確定犯は、
> 早急な刑の執行を行い、
> かつ安楽な執行方法(絞首刑以外)がベターかと思いますね。
原始仏教を標榜した毒ガステロリスト アサハラのようなヤツでも
そう思うのですか?
原始仏教ーカルトからテロリストへ以降した人間がこの世界に現実に
いたわけですから。
871 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/29(日) 11:10:00 ID:TFvJYJEz
>>870 >原始仏教を標榜した毒ガステロリスト アサハラのようなヤツでも
>そう思うのですか?
人間が犯罪を犯すのは、いろんな要因の複合的結果によるものです。
私はその一番の要因は親の愛情不足(または溺愛)かと思いますね。
(また、貧困とか差別とかがあるでしょうけど・・・)
だから、犯罪は自己責任(結果責任)であっても、
親や地域、また国家さえも間接的には責任があるかと思います。
どんな犯罪でも、それは全て自分が責任を取らねばならんですね。
自己責任が取れないから国家が責任を取れるように手助けする。
それには最低限の人間の尊厳を尊重する方法。
これがイイですね。
人間の尊厳を尊重する。というのは
早急に処刑することです。
これが法務大臣の職務ですから。
アングリマーラ・スッタが存在することの意味と影響、活かし方を、
原始仏教に触れる者は考えねばならない。
874 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/29(日) 12:36:09 ID:TFvJYJEz
>>873 西部開拓時代(アメリカ)においては、局地的に保安官を配置し、
それで補えないものは騎兵隊でカバーする。
というのが治安の方法でして、
それでも犯罪は防ぎきれないで私刑(リンチ)とかが、一応はコンセンサスとしてあって、
これは国情において人間が考え出した国家体制です。
釈尊在世当時は、これほどの国家治安体制はなかっただろうし、
そういった時代的背景をバックにした「アングリマーラ經」 である。
ということを、先ずもって理解せにゃ〜ならんかと思いますね。
今や日本は近代国家ですから、
司法・立法・行政において国家は統治されています。
犯罪者が司法に委ねられることなく、それをスルーしまして出家するなど
時代的なバックグラウンドが違い過ぎまして、
ある意味、神話的な域にまで達していますね。
875 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/29(日) 17:24:32 ID:Pshg2TAn
「アングリマーラ經」も因果業報が大前提となっており、ブッダの説法もこれに基づいています。
そしてこれには世俗だの何だのという「逃げ場」は皆無です。
オウムの元凶たる松本死刑囚は始末されても、その誤謬まみれの外道ドグマに帰依した習気がもたらす業の
清算は困難を極めると考えます。
私見を述べれば、死刑を廃止し「終身24時間ネット有料(木戸銭は収監コストと被害者救済に宛てる)晒し物刑」を極刑として
採用した方が、松本死刑囚のように「人間の尊厳(とやら)」を踏みにじる手合いに対する妥当な処置たりうると考えます。
876 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/29(日) 18:54:42 ID:TFvJYJEz
>>875 >「アングリマーラ經」も因果業報が大前提となっており、ブッダの説法もこれに基づいています。
>そしてこれには世俗だの何だのという「逃げ場」は皆無です。
そんなことはないですね。
文意は、あえて俗諦でしか衆生を救えない釈尊の苦悩が書き記されております。
>「尊師よ、それは私の意図的な虚言ということになるでありましょう。尊師よ、私
>は故意に多くの生きるものたちの生命を奪ったからであります」
この文ですね。
この以降の文意は、この記述において意味が方便であることは明確です。
877 :
神も仏も名無しさん:2007/04/29(日) 18:54:56 ID:52Vg4ulI
電波阿呆堕羅も因果応報
878 :
神も仏も名無しさん:2007/04/29(日) 21:18:05 ID:sB+7yBC9
因果応報で、前世や来世を認めないのは矛盾だろう。
880 :
神も仏も名無しさん:2007/04/29(日) 21:48:28 ID:sB+7yBC9
>>879 では、生まれてきた時の、様々な生物の違いは何の因果応報なのか?
また、死によって全てが終わるなら、因果応報ではないだろう。
それが断見でなくで、何が断見なのか?
881 :
神も仏も名無しさん:2007/04/29(日) 22:20:05 ID:YBg4Mtfe
諸法無我 人間他の生物に差別は無い。
あたかも親の財産を受け継ぐかのように、今も、あなたの親の因果があなたに報いている。
あなたが悪事を為せば、あなたの子供がその責めを受け継ぐ。
あなたが人を殺して死刑になったとしても、それで全てが終わるわけではない。
あなたに子供がいれば、彼は死刑囚の子供として生きねばならない。
釈尊は出家して法を説き死んでいった。それで全てが終わったわけではない。
彼の法は、今もあなたを生かし続けている。
883 :
神も仏も名無しさん:2007/04/29(日) 23:20:27 ID:0Zk9ADzA
腐ったタヌキが多いスレだな。
臭い事臭い事。 連休だあ
なにか?明治時代のインチキ見世物小屋の口上か?
『親の因果が子に報い、ロクロ首の花ちゃんでーす!
花ちゃんやーい!』
アホ僧侶でもここまで馬鹿をいう奴はいない。
うんこブラフ(脅し)マンとか、アホバの便所神に顔洗って出直して来いと言え。
885 :
神も仏も名無しさん:2007/04/29(日) 23:44:42 ID:0Zk9ADzA
だいたい「親の因が子に果として報う」なら馬鹿論理としてまだしも、
親の因果なら収束してるだろ?無問責。
>>882 アホすぎる。
神は馬鹿すぎて死んだ
アホな超マイナーな世俗的価値観をいかにも臭い真理の如く語るのは、お里が知れるwww
886 :
神も仏も名無しさん:2007/04/30(月) 05:12:33 ID:0nwm4R42
アホンダラ氏、机氏、悪いことは言わない。
今まで脳みそに詰め込んだ、理解したと思っている仏教知識を
一旦、全部捨ててみな。
そしたら、見えるものが見えるようになるからさ。
いつまでも同じところグルグルしててもつまらんよ。
887 :
神も仏も名無しさん:2007/04/30(月) 05:18:54 ID:0nwm4R42
まあ、人間、年取るほどに過去の記憶に固執するからなぁ。
全部捨てる勇気もないかぁ・・・・・・・。w
ここまで来ると、ブッダの教えも悲しいもんだな。
888 :
神も仏も名無しさん:2007/04/30(月) 06:11:18 ID:+CdKSO1v
>>884 過去ログ読めですか? 答えられないなら、そういえばいいのに。
ここの断見説に基づく曲学阿世を見てもしょうがないでしょう。
一貫した論理があるなら、簡単に答えられ、経典も引用できるはずですよ。
889 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/30(月) 08:46:58 ID:aVPQ/N2G
ん? また性懲りもなく破落戸ジョーユーがまろび出たか(冷笑)。
890 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/04/30(月) 08:52:41 ID:aVPQ/N2G
大体、論点先取で塗り固められた愚問に回答を要求することこそお門違い(失笑)。そんなもの出禁外道どもと
同様、誰からもまともに取り扱われないと知るべし(冷笑)。
891 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/30(月) 09:13:07 ID:4fmxpKps
>>890 >「アングリマーラ經」も因果業報が大前提となっており、ブッダの説法もこれに基づいています。
>そしてこれには世俗だの何だのという「逃げ場」は皆無です。
そんなことはないですね。
文意は、あえて俗諦でしか衆生を救えない釈尊の苦悩が書き記されております。
もう一度、文章をよく読んで下さい。
「アングリマーラ經」はストーリーになってますから、
その展開をよくよく吟味して下さい。
もし分らんのでしたら、私が解説を書き込みます。
このよぉに、経典ひとつ読むのさえ、それなりのスキルがありませんと難解なのです。
>>888 馬鹿か?
三世にわたる因果でなくとも、
一個人の一生の中での(短いスパンでの)因果を見ることも可能、というだけだ。
必ず三世にわたらなければならない理由はない。
経典の中に三世にわたるように述べられている箇所があっても、
そうでない部分もまたあるということだ。
>>879は、『三世にわたらない』と断言しているのでなく、『「一個人の中で閉じた因果」【も】ある』という意味でしかない。
前世や来世が確認しようがないものだとしたら、
『まず「自分の生」において、因果を見る(≒縁起を見る)姿勢』をとることが、仏教を外れることとは思わない。
少なくとも、釈尊の因果は、自身の思考・想いについてのもの(→『俺の「苦(という想い)」は何によっているのか?』)であった筈だ。
四門出遊のエピソードを絵空事と切り捨てるのは勿体ない。
また、「因果【応報】」という言い方が含む危うさに、もっと慎重になるべきかと思う。
その意味でのURLだ。
君は読むのがめんどくさいw 私は再編再述がめんどくさいw
ポイントとなるレスのURLを幾つか貼ろうか?w
893 :
神も仏も名無しさん:2007/04/30(月) 09:49:55 ID:1oWNp6JJ
まだ馬鹿言ってるのがいるのか!
常見、断見は有我を前提とするから論外なんだって、もう・・・
ウサギの角、亀の毛、イルカの足を問題にするようなもの。
不当前提であって、問いとして成立せず、論ずる事自体誤り。だから、無記。
894 :
神も仏も名無しさん:2007/04/30(月) 12:43:45 ID:9PaJhtsk
このスレ、当然次も立つんだろうな。w
そして、延々とバトルは続く、エンドレスゲームだ。w
ここから早く抜ける奴が勝者だ。論破しようとネチネチやってる奴は敗者だ。w
895 :
神も仏も名無しさん:2007/04/30(月) 14:05:12 ID:1oWNp6JJ
ゴータマ・ブッダ本人とかかわりのない無縁な代表的な言葉郡ー外道の言葉
燃燈仏、阿弥陀仏、阿しゅく仏、毘盧舎那仏(盧舎那仏)、
薬師如来、大日如来、法蔵菩薩、弥勒、観音菩薩、文殊師利菩薩、
普賢菩薩、勢至菩薩、地蔵菩薩、空、廻向、浄土、自力本願・他力本願、
声聞・独覚・菩薩、一乗・二乗・三乗・五乗、如来蔵、仏性、心性本浄説、
自性清浄心、アーラヤ識、五姓格別、唯識、仏身論、密教、純密、マントラ、
マンダラ、即身成仏、加持祈祷、中観、末法、念仏、題目、寺、檀家、仏像・・
「色とは四大と四大所造の色とである。」中部 106
この四大というのが、古代ギリシャのエンペドクレスの「万物の根源」(火・水・空気・地)とそっくり。
ギリシャ哲学では原質として、タレスの水、アナクシメネスの空気、ヘラクレイトスの火、とエンペドクレスに到る過程がわかりやすい。
インドでもアジタとパクダが四大を言うが、思想発達の跡がはっきりしない。
ウッダーラカの熱・水・食物は、水を原質的に見たと言える可能性もあるが、熱を火、食物を地と
するのは、どうも後世(シャンカラ、服部正明1979, p.132)の解釈のようだ。むしろ仏教で言う
識食との関係を考えた方がよいのだろう。なお仏教では無我説から、食者を言わない。
ヤージュニャヴァルキヤの火というのはあるが、こちらも原質への発展というより、仏教でいう
寿(生命)に関わる煖(なん, 体温)につながっているようだ。
仏教で業報を異熟と呼び、有部では火大に煖性(あたたかさの性質)・熟業(煮る作用)ありとする
のは、ジャイナ教のタパス(熱、苦行)で業を滅ぼすというのに繋がった発想なのかも知れない。
古く『リグ・ヴェーダ』に「タパスの歌」というのがあるにはあるが。
なお、ウッダーラカの「無から有は生じ得ない」はパルメニデスに近いし、逆にヘラクレイトスの
生成説にはナーガールジュナに似た点もある。
この辺、いろいろ比較思想史として興味深いものがありそうだ。
1識不入母胎
2識入胎不出
3識出胎、嬰孩壊敗
4無識
yoniso や paTisandhi (結生)との関連は?
文字通りの母胎なのか、それとも当時の慣用表現なのか。始まり、とかの意味の。
特に3から4へのつながりに断滅的なニュアンスを感じる点が不審だ。
『四分律』の巻2
「阿那般那三昧より覚め已(おは)りて、みずから増上勝法を得て、果証に住すと知る。」
このあと自殺・殺人の禁止が説かれる。
アナハナ三昧(=数息観)を行じていたら悟った気になって、もう人生目的の悟りを達成したから
もう死のう、と仲間にも自殺を勧める愚か者が現れたので禁止された、という話。
一方で、禅定は、初歩的と見られる数息観ですら、このような危険性を伴う、ということも示されているのだろう。
√bhU- (…が)なる, ある; …である
bhAva (赤松@バルトリハリ解説) ならしめること・もの。(使役形から。bhAvaya- 使役語幹、ならしめる)
svabhAva で、それ自身の、そうならしめるもの・本質、ということになる。
そして、さらにこれを実体視してゆく・・・。
mAra に関係する使役の使役、という興味深い語形についてはいずれ。
bhAva 有(世界の名著2, 月称の訳の末尾)
bhava 有(十二支縁起の一)
sva-bhAva 自-性, para-bhAva 他-性, a-bhAva 無-性(中論)
900 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/04/30(月) 17:20:23 ID:4fmxpKps
>>896 >逆にヘラクレイトスの
>生成説にはナーガールジュナに似た点もある。
そうですか?私は全く違うかと思うんですが。
哲学というのは、その人の人間性が微妙に思想に反映する。
ってのは、よくあるかと思いますね。
例えば、根暗な人間はダイナミズムな世界観を空想するとか?
ヘラクレイトスなどはいい例で、動的で闘争的であります。
(後にマルクスがこの流れを体系つける)
かたや龍樹は、どちらかというとプレイボーイでして、
その世界観は実に静寂しておりますね。
ギリシャ哲学とインド哲学は、水と油みたいなもんですから比較はできんですが。
901 :
神も仏も名無しさん:2007/04/30(月) 21:17:32 ID:+CdKSO1v
>>892 全然答えになってないよ。答えるなら次に答えてね。
>>880 生まれてきた時の、様々な生物の違いは何の因果応報なのか?
死によって全てが終わるなら、因果応報ではなく断見でないのはいかなる典拠なのか?
今生でも因果はあるだろう。しかし、因果は解脱するまで尽きることはない。
これは、仏教だけでなくローカーヤタを除いたインド法の一貫した前提でしょう。
仏教では、因果が途中で断つと見る見解を断見という、そして概ね、
死をその区切りとすることが多いから、死後、因果が相続しないと見る見解を断見するのが一般的。
「因果応報」という言葉は、アホダラさんが持ち出した言葉だからね、
親の因果が子に巡りみたいな日本的「因果応報」については私は関知しませんよ。
>>901 粘着質な奴だなw
>生まれてきた時の、様々な生物の違いは何の因果応報なのか?
生まれてきた時の、様々な生物の違いは【因果応報】ではない。
>死によって全てが終わるなら、因果応報ではなく断見でないのはいかなる典拠なのか?
私は、「死によって全てが終わる」 と発言していない。むしろ「わからない」と言っている。
認識論的には、「死によって全てが終わる」と言っていい。
仏教的には、簡潔明確な答えは無い筈だ。(勿論、本当に一切合財全てが終わる、と言えば断見であろうと私も思う。)
それは、人の死後「何が残るのか、未来へ影響してゆくのか」についてのスタンスの取り方で変わるだろう。
唯識を視野に入れずとも、「業果の受け手は誰か」についてみた場合、
その行為がどんなものであったか、そのスパンをどう取るか、等の場合によって大違いだろう。
君は、私の発言の裏を想定しすぎだ。勝手に想定した部分から、私に言葉を掛けている。
冷静になれ。仏教をほんの少しだけ離れた見方をすれば、リンク先の話は有益だと思うから貼った。
いや、仏教(原始仏教でもいいが)という枠内で考えるならば、
尚更、頭の隅に入れておかねばならないポイントが散見されるからだ。
また、
>「因果応報」という言葉は、アホダラさんが持ち出した言葉だからね、
>親の因果が子に巡りみたいな日本的「因果応報」については私は関知しませんよ
と言いながら、なぜ冒頭の再質問に於いても
>何の因果応報なのか? >因果応報ではなく断見でないのは・・・
と、『因果応報』という言い方をする?
君がもし、原始仏教という枠内に限定した話だ、と言うならば、
『因果応報』に相当するパーリ、Skt、チベット等の語は何だい?不勉強な私に教えてくれないか?
903 :
神も仏も名無しさん:2007/04/30(月) 21:52:25 ID:KLJelOiM
>>902 もしかしたら、素人さん? さすがに、ここでは貫禄をみせていますね。
904 :
神も仏も名無しさん:2007/04/30(月) 22:00:33 ID:+CdKSO1v
>>902 > 生まれてきた時の、様々な生物の違いは【因果応報】ではない。
これは完全な断見でしょう。生前の因によって、生まれてきた時の、様々な生物の違いがある
と得のが仏教でしょう。これは通仏教であるし、ローカーヤタ以外のインド・ダルマ全てでしょう。
> 私は、「死によって全てが終わる」 と発言していない。むしろ「わからない」と言っている。
> 認識論的には、「死によって全てが終わる」と言っていい。
> 仏教的には、簡潔明確な答えは無い筈だ。(勿論、本当に一切合財全てが終わる、と言えば断見
> であろうと私も思う。)
仏教はそんなことは言わないでしょう。例えば『スッタニパータ』中村訳
276 争論を楽しみ、迷妄の性質に蔽われている修行僧は、
目ざめた人(ブッダ)の説きたもうた理法を、説明されても理解しない。
277 かれは無明に誘われて、修養をつんだ他の人を苦しめ悩まし、
煩悩が地獄に赴く道であることを知らない。
278 実にこのような修行僧は、苦難の場所に陥り、母胎から他の母胎へと生まれかわり、
暗黒から暗黒へと赴く。死後には苦しみを受ける。
660 悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、
十万と三十六のニラップダの[巨大な年数のあいだ]また五つのアッブダの[巨大な年数のあいだ]地獄に赴く。
661 嘘を言う人は地獄に墜ちる。また実際にしておきながら゜わたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。
両者とも行為の卑劣な人々であり、死後にはおの世で同じような運命を受ける(地獄に墜ちる)。
この認識は、最初期から一貫してテーラワーダでも、シナ朝鮮日本でも、チベット・モンゴルでも貫かれています。
当然の仏教的認識であり、アナタの見解は、ただの断見ですよ。
明日早いんだよ・・・w もう寝るからなw
別に断見と括られても構わんよ。聖典絶対主義を採るつもりはないから。
ポイントだけ述べておく。
>>904 『応報』という語を使い続ける意図は何だい?
『応報』という言葉の意味を自問してみることをお勧めする。
(自ら >日本的「因果応報」については私は関知しませんよ。 と言うならば・・・。)
あなたの言う地獄・来世・前世とは何ですか?
あなたの受け止める『後有を受けず』の【後有】とはどのようなものですか?
『迷いの生存』と言われる時、それは何を指していると考えますか?
各種神通力は記述通りに、『ある』と考えますか?
マリアの処女懐胎についてはどう考えますか?
あなたは、自分の前世がどうであったか想起できますか?他者の前世がどうであったか想起できますか?
>>903 藻前は誰だよ?www
おやすみ ノシ
906 :
神も仏も名無しさん:2007/04/30(月) 22:42:17 ID:KLJelOiM
>>905 また、とぼけて。酔です。いまは、わけあって(ウソ)別名を名乗っていますが。
907 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/01(火) 00:22:13 ID:nIgWJR+n
「因果業報」とは書いたが、「因果応報」とは書いていない。悪しからず。
908 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/05/01(火) 06:57:49 ID:tX3i6S49
>>904 スッタニパータといふのは、解釈するのはある程度のスキルが必要です。
>276 争論を楽しみ、迷妄の性質に蔽われている修行僧は、
目ざめた人(ブッダ)の説きたもうた理法を、説明されても理解しない。
理解できないから、常に地獄観念から解脱できない。
>277 かれは無明に誘われて、修養をつんだ他の人を苦しめ悩まし、
>煩悩が地獄に赴く道であることを知らない。
その通り。
>278 実にこのような修行僧は、苦難の場所に陥り、母胎から他の母胎へと生まれかわり、
>暗黒から暗黒へと赴く。死後には苦しみを受ける。
自らの観念で、自ら苦しみを受ける。
>660 悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、
>十万と三十六のニラップダの[巨大な年数のあいだ]また五つのアッブダの[巨大な年数のあいだ]地獄に赴く。
苦しみは、自ら作りだす。
>661 嘘を言う人は地獄に墜ちる。また実際にしておきながら゜わたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。
>両者とも行為の卑劣な人々であり、死後にはおの世で同じような運命を受ける(地獄に墜ちる)。
上記同文。
909 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/05/01(火) 07:05:14 ID:tX3i6S49
では、解脱してない者を救うにはどうしたらイイか?
これは虚言で救う他ない。
(アングリマーラ經・参照)
この虚言というのは、つまり俗諦のことでして、地獄・極楽観念がこれに相当します。
ようするに、俗諦というのは方便でして、
いささかもスッタニパータが真諦を記しておる訳ではない。
910 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 07:25:39 ID:pE1AGvy4
バルトリハリは、地獄も天界も、ひいては業も輪廻も、
勝義においては存在しないものであり、
ただの教育的意義を有するにすぎない、と考えていたのである。
『智者は何人であれ、聖典によって禁止されたことを行うことはない。』
すなわち、真理に到達した人は、
因果応報説が仮りの方便説であるということを知りつつも、
決して人倫の理法にはずれたことは行わない、というのである。
911 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 08:42:17 ID:MXBlibLR
よろしければ、・・・
5/7 22:00 NHKスペシャル
「ドキュメント 新日鐵の苦闘〜迫りくる買収の脅威〜」
みんな見てね。 〜日本が日本でなくなる日〜
912 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 09:22:17 ID:7MnOCwWA
>>911 新日鐵というのは、あの巨大鉄鋼メーカーの? ふーむ、これも因果応報か。
かつては、この会社の経営者たちは「鉄は国家なり」と嘯き、お客さまである
自動車業界に対して「お前たちクルマ屋が好業績なのは、我われが安くて質の
よい鋼材を提供してやっているからだ」と、大言壮語したもの。
新日鐵とはいえ、民間の一企業だということを、いまになって思い知らされて
いるとしたら、因果応報(という迷信)も悪くはないか。
913 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 10:06:01 ID:pE1AGvy4
戦争に負けて以来、日本は日本ではありません
いまのイラクを見てください
傀儡なのは誰にでもわかるでしょう
自民党が売国政権なのは火を見るより明らかなことです
安倍一族は統一の忠実な家臣なのです
オウムは統一の仏教部として期待されていました
ところが、あの馬鹿、薬のやり過ぎで…
914 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 11:05:12 ID:7MnOCwWA
>>913 “統一”というのは、統一教会のことかな?
岸、福田、安倍一派が統一と親しかったのは事実。しかし、これは片方が忠実な
“家臣”だったのではなく、持ちつ持たれつの関係にあったとみたほうがいい。
この系譜で最大の謎は、岸。戦犯から総理にまで登りつめ、安保条約を改定した
この人物にはまだ(日米の)暗部が隠されているように思える。孫の安倍は、岸の
し残したことをやり遂げるつもりなのだろう。
オームは別に論じなければならない。連中が“反米”だったのは事実なのだから。
915 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 11:34:59 ID:pE1AGvy4
日本の暗部は満州
岸や笹川はそこで何をしてた?
両者はなぜA級戦犯となり、かつ釈放された?
オウムの社長は早川
操り人形を起こした
916 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 11:43:46 ID:pE1AGvy4
『三角合併』とやらが今日から合法となったらしい
モラトリアムが終わった
917 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/01(火) 13:19:05 ID:LS/cUO25
はいはい、スレ違い厨房は消えた消えた(冷笑)。
918 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/01(火) 13:29:40 ID:LS/cUO25
919 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/05/01(火) 17:23:43 ID:tX3i6S49
>>918 ただ、だらだらとスレッドを継続しても意味はないよ。
そこに進歩がなけりゃ法に近づくことも至難。
よぅするに、なにげにROMっていて、そこにキラリと光る書き込みに目が留まらんと。
例えば
>>910などはイイ書き込みだよ。
>決して人倫の理法にはずれたことは行わない、というのである。
これを仏教においては「慈悲」と言うわけですが、
つまり慈悲において既に善悪とかは超克されちまう訳ですから、
私はあえて善悪を論題から外しておる訳なんです。
(カラス殿が誤解しているよぉですが・・・)
第1の師。不滅(ア-ムリタ)の実我が【ある】
第2の師。不滅の実我は【ない】
第3の師。五蘊のそれぞれは不滅の実我【ではない】
(補足説明)
実我が有るとか無いとか、そういう決着のつかぬ議論は、参加しても無駄だから言わぬ。
でも、人間を構成する五蘊は縁によって生じたものだから、縁によって滅し、
永遠不変のものではない、と縁起説は述べる。
本当は、第2と第3の間に有亦無(梵網経に「一分常住を説く外教」というのがあるので、「亦」を
partlyと理解してよいのでしょう)と非有亦非無という立場も入るのが本来の形なのかも知れない、
と思います。すなわち、四句分別で外教の立場を全て分類して、仏教の立場は、それらの有無論争を
離れた別の立場、つまり縁起説で理解する、というもの。
縁起説に関して、三枝氏の「此有故彼有云々」の公式が具体的に各支を有する縁起の後に成立したの
ではないか、という説があるそうですが、これと此縁性(idappaccayatA)の語とを含め、現在の段階
は、無我説理解に関して目鼻がついたと思うので、縁起説を最優先で考えてみようと思っています。
正自覚者候補釈迦族ゴータマ・シッダッタ35歳
反バラモン教運動を出発点に縁起的沙門活動家となり、
いまどき遊行者として六年苦行し、現在に至るも中道八正道による行為論者
では続いて、ゴータマ・シッダッタさんの転法輪です。
娑婆の衆生諸君、私が如来である。
諸君、この仏教は最悪だ。
小乗大乗だとか中論唯識だとか何とか仏教だとか、私はそんな事には一切興味が無い。
あれこれ解釈して問題が解決するような、もはやそんな甘っちょろい段階にはない。
こんな仏教はもう見捨てるしかないんだ、こんな仏教はもう滅ぼせ。
私には、現世利益的な法力なんかひとつも無い。
今はただ、無常アンド無我。すべては縁起していると見ることだ。
諸君、私は諸君を軽蔑している。
このくだらない仏教を、そのシステムを、支えてきたのは諸君に他ならないからだ。
正確に言えば、諸君の中の理論派は私の敵だ。
私は諸君の中の実存派に呼びかけている。
実存派の諸君、今こそ団結し立ち上がらなければならない。
奴等理論派はやりたい放題だ。
我々実存派がいよいよもいって生きにくい世の中が作られようとしている。
実存派の諸君、悟りで何かが変わると思ったら大間違いだ。
所詮悟りなんか理論派の堅苦しい解説に過ぎない。
我々実存派にとって悟りほど馬鹿馬鹿しいものはない。
論理的に詰めていけば、理論派が勝つに決まってるじゃないか。
じゃあどうして説法してるのか。
その話は、長くなるから律蔵の大品を見てくれ。
梵天勧請は相応部にもあるから、どちらも見逃さないように。
私は、この仏教の、実存派に対する迫害にもう我慢ならない。
実存派の諸君、理論派を説得することなど出来ない。
奴等理論派は我々実存派の言葉に耳を傾ける事は無い。
奴等理論派が支配する、こんなくだらない仏教はもはや滅ぼす以外に無い。
原典批判なんていくらやったって無駄だ。
今進められている様々な研究・解釈は、どうせ全部すべて奴等理論派のための解釈じゃないか。
我々実存派はそんなものに期待しないし、勿論協力もしない。
我々実存派はもうこんな仏教に何も望まない。
我々実存派に残された選択肢はただ一つ、こんな仏教はもう滅ぼすことだ。
ぶっちゃけて言えば、もはや第七結集しかない。
実存派の諸君、これを機会に第七結集という不可能な陰謀を共に進めていこうではないか。
初期の弟子達は各地を遍歴してるから雨安居中でも、托鉢後でも構わない。
彼らに色々聞いてくれ。
もちろん出家の許されてない未成年の沙弥や、王族・居士以外の諸君でも構わない。
我々実存派には悟りなんかもともとぜんぜん関係ないんだから。
最後に、一応言っておく。
私が般涅槃したら、奴等はビビる。
私はビビらない。
ブッダに悪意の帰依を、ブッダにやけっぱちの帰依を、じゃなきゃ出家なんかするな。
どうせ仏典じゃ何も変わらないんだよ。
釈迦族、ゴータマ・シッダッタさんの転法輪でした。
923 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 18:51:30 ID:pE1AGvy4
俗諦と真諦があるのと同じく、歴史にも真と俗があると思います
そのことを具体的に考察しなければ無明はなくならない
924 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 19:11:31 ID:MXBlibLR
>>923 >歴史にも真と俗があると思います
歴史の事実と評価および言語表現は、エグイほど難しい。
ほとんど不可能だろう。客観的な記述などできるわけがない。
で、何が言いたいの?
925 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 19:12:18 ID:pE1AGvy4
例えば、拉致問題の報道を真にうけると、なんとも腹立たしくなります
でも、被害者の会と勝共連合のただならぬ関係、蓮池兄の職業などを調べてみると、真相が見えてきます
我々は世論操作されているだけです
怒ってはいけません
926 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/01(火) 19:15:34 ID:LS/cUO25
実存派(冷笑)?
誰にも相手にされぬ負け犬サヨク崩れの耄碌厨房は、隔離スレにでも籠もって臍でも噛んでおくように(嗤)。
927 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 19:16:17 ID:MXBlibLR
だから不可能だと言ったろ。 すべての縁起とその評価など記述できない。
928 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 19:25:21 ID:MXBlibLR
>>926 おい阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ よ、
俺はおまいから『誰にも相手にされぬ負け犬サヨク崩れの耄碌厨房』と賞賛してもらっているが、
俺はいくらなんでも
>>921>>922みたいなトンマは書かんぜよ。
『この仏教』『理論派』なるものが明確に定義されておらんではないか。
おまいの早とちり、誤まれる思い込みぶりは相変わらずだな。
祇園のキャバクラに通いすぎか?
929 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/01(火) 19:31:14 ID:LS/cUO25
930 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 19:33:46 ID:S7Yz55sW
921 私が如来である。922 私が般涅槃したら、
いうてることが・・・。それともなにもうムヨエでっか?
ほいでもって、悟ってもおらんのに砂糖てるいうのんは、支払いいう縛りがあるんやがなあ・・・。
ま、熱いのはわかった。うろん茶でも飲んでもちつけ。
931 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 19:39:17 ID:MXBlibLR
932 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/01(火) 19:45:04 ID:LS/cUO25
> ID:MXBlibLR
誰とも言わぬ発言に、脊髄反射して更に恥の上塗りとは笑止千万(冷笑)。
933 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 19:51:30 ID:JMhrinkM
>>918 糞スレ立てんなボケ。
おまえが立てるスレタイは、「原始佛教」ならず、「断見仏教」なんじゃねぇの〜〜。
(冷笑)
934 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 20:55:26 ID:yV/Tfvon
>>902 > と、『因果応報』という言い方をする?
> 君がもし、原始仏教という枠内に限定した話だ、と言うならば、
> 『因果応報』に相当するパーリ、Skt、チベット等の語は何だい?不勉強な私に教えてくれないか?
うーん、言い方が悪かったのか、私が言ったのは親の因果が子に巡りといったインド的用例から逸脱した
「因果応報」という言葉に含まれる意味はありません。単純な因果関係という意味で私は使っている
と言いたかったんですが。因果関係とは、縁起であり、
「それあればこれあり...」という此縁性に他なりません。(^_^)v
「因果応報」という言葉は、インド撰述の漢訳で見つかったのは『根本説一切有部毘奈耶藥事』のこれだけ、
時有四天王衆。亦作是念。今諸人等。不見因果應報。猶自供養。
rgyal chen bzhi'i ris kyi lha rnams kyis bsams pa / re zhig mi bsod nams mngon sum du
ma mthong ba 'di dag kyang bcom ldan 'das mchod pa bya ba la lhag par spro bar gyur na /
上は、そのチベット訳、つまり「因果応報」の対応蔵訳は bsod nams mngon sum (福徳を実際)です。
それではちょっと分かりにくいので「不見因果応報」 bsod nams mngon sum du ma mthong ba
「福徳を実際に見ない」ですね。要するに一般的意味の「因果応報」の原語であるインド語や、
そのチベット語訳はないということです。そして面白いのが、人間が釈尊に供養したことに対して、
神々が人間は供養した結果の福徳を実際に見れないのに供養したのに神々は結果が分かるのに
どうして供養しないだろうか? と言っているのです。
因果関係という意味の「因果応報」に相当するインド語は、idappaccayatA, idaMpratyayatA
チベット語では rkyen nyid 'di pa tsam の「此縁性」でしょうか?
チベット語では las rgyu 'bras mi bslu bar nges pa(無謬必然の業因果)とか
las rgyu 'bras bslu med rang bzhin(業因果の欺かない性質)と言った言葉が似てますが、
インド語で相当する言葉は、hetuphala-sambandha ぐらいしか思いつきませんね。
935 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 21:07:09 ID:yV/Tfvon
>>907 これは失礼「因果応報」でなく「因果業報」でしたね。
それだと尚更 las rgyu 'bras mi bslu bar nges pa(無謬必然の業因果)や
las rgyu 'bras bslu med rang bzhin(業因果の欺かない性質)にぴったりですが、
「因果業報」という言葉は、インド撰述の漢訳仏教文献にみあたりませんが、
因果と業の報いという意味で、「因果応報」と殆ど同じ意味で用いられていますね。
それなら同じで、
生まれてきた時の、様々な生物の違いは何の因果業報なのか?
死によって全てが終わるなら、因果業報ではなく断見でないのはいかなる典拠なのか?
以上がなぜ、論点先取なんですか? 私にはアナタこそ論点先取に見えますが。
936 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 21:16:32 ID:pE1AGvy4
二辺を離れましょう
右翼だ左翼だと捕らわれていては何も見えなくなりますよ
仏教を一生懸命勉強しても無意味です
>>921 だれも、勝ち負けのために原始仏教やってるのと違うはずだよ。
それぞれ自分の好みや得意の分野で精進し貢献すればいい、という話であって、
人それぞれ持ち味を出し合えればよいね、と。
> 修行完成者は(賛同者の)順応と(反対者の)反論とから解脱している。
相応部1集4篇2章4節 (岩波文庫版)
〔如来は、説法して、たとえ人から賛成され称賛されても、
逆に、反対を受け非難されても、そのどちらにも、とらわれない。〕
938 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 21:38:25 ID:pE1AGvy4
右翼の構成員の過半数は朝鮮人です
満州と児玉、ヤクザと新興宗教と政治家は一枚岩です
植民地支配は少数民族・または団体に委ねられます
定石です
>>934 なるほど。
そのチベット訳から類推すると、漢訳は
「人々は因果が(因と果が)応じて報いられていることを見ず(見れず)に自ら進んで供養する。
しかるに、どうして我々(天人)の仲間は供養することができないのだろうか(しないのだろうか)」
というところでしょうか・・。(況我等輩照果知因。豈不能供養。と続いてますね)
或いは、「因果が応に報いられていること(因に応じた果として報いられていること)を見ずに(知ることなしに)・・・」
と読んでもよいだろうか・・。
良くも悪くも、意訳のオンパレードな漢訳において、
漢字そのものが本来持つ(持っていた)意味へのスライド、後代の漢字の意味へのスライドは
必然なものとして注意すべきなのだろう。
そして、この「応報」という考え方が、(―勿論、因と果を結ぶ必然的逃れられない関係はあろうが―)、
社会的差別と密接に結びついていた歴史的事実に想いを馳せる時、軽々しくは使えない。
いずれにせよ、流布する「応報」という言い方には「まさにそのようにあるべきだ(→そのようにあってほしい」という
恣意的な要素が抜きがたく入り込んでいると言えるのではないか?
そのように読めてしまうから、「応報」という漢訳は少ないのではないか?
「応報」は、解釈の段階になって初めて出現した概念と言えないだろうか?
だとするならば、あなたこそが、もっと慎重に言葉を選ぶべきではないか?
ニュアンスを伝えるために「応報」という言い方が、そこまで詳しいあなたに必要とは思えない。
「(因果)応報」という言葉は手垢が付きすぎていて、
もはや、あなたの望む(単純な因果関係を指すもの)としては使用不能ではないでしょうか・・・。
この一連のやりとりで私が言いたかったことは、この二行に尽きます。てか、それしか言ってないつもりだったのだが・・・。
941 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 21:48:52 ID:w344IhE4
>>933 > 糞スレ立てんなボケ。
>
> おまえが立てるスレタイは、「原始佛教」ならず、「断見仏教」なんじゃねぇの〜〜。
原始仏教スレッドを 糞スレと定義したのは あなたですから
その糞の中に自分でとびこみ コメントを書いたご気分は
どうですか?
さぞかし ここちよい 糞尿のかほりがすることでしょう。
942 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 22:00:41 ID:yV/Tfvon
>>939 仰るとおりです。私は因果応報という言葉は好きではありません。
それを使ったのは、アホダラさんが因果業報と使っていたのを因果応報と読んでしまったからです。
ただそれだけです。
私がアホダラさんに言いたかったのは、因果関係を認めるなら前世や来世を認めなけれならない、ということです。
この点は、いかがお考えになりますか?
>>942 別に、電波・阿呆陀羅サイドを擁護するわけではないが、
前世・来世を考えずとも仏教を語ることはできる、というのが私の持論。
断見というレッテルを貼っても構わない。
21世紀の仏教を考える時、聖典の記述そのままを、
「無条件に、盲目に」金科玉条とするつもりはない。
「我が身に引きあて、理解と頷きのない言葉は使用に値しない」(辞書的解説・説明等の際は除く)。
たぶん私のスタンスは、あなたと電波サイドの中間くらいでしょうw
945 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 22:22:42 ID:w344IhE4
>>942 > 私がアホダラさんに言いたかったのは、因果関係を認めるなら前世や来世を認めなけれならない、ということです。
前世や来世を想定したとしても 無我 なるものはどこまでいっても
無我 でありましょう。
釈尊も 私の弟子の中で前世を記憶しているものがあるが
それらは五蘊の何れかを記憶しているのである。
と説いています。
我見を抱いているからそうなるというだけでしょう。
946 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 22:26:03 ID:yV/Tfvon
>>943 残念ながら、その点は譲れないですね。
断見では、仏教はほとんど意味をなさないものになると私は考えます。
では、覚りや解脱は体験されてないですよね? でも、それは否定しないでしょう。
それなら、他の体験できない教説はなんで認められないのでしょうか?
>>905 などを拝見する限り古いタイプの科学、ニュートンとか素朴実在論などを基準に考えて
おられるようですが、物理学にしろ認知科学にしろ素朴実在論は、成り立たないでしょう。
つまり、見たものが実在するというのはもう無理な時代に来ていると思いませんか?
ちなみに仏教で変な説は、主に部派仏教の理論のための理論がほとんどだと考えてます。
947 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 22:34:13 ID:yV/Tfvon
>>945 > 前世や来世を想定したとしても 無我 なるものはどこまでいっても
> 無我 でありましょう。
> 釈尊も 私の弟子の中で前世を記憶しているものがあるが
> それらは五蘊の何れかを記憶しているのである。
> と説いています。
> 我見を抱いているからそうなるというだけでしょう。
全く仰る通りです。もちろん無我です。本質、実体などありません。
ただし、我見を持っているから、私が実在するとし見るもの触れるものが本質、実体があると見る、
それを同じように我見を持つかぎり前世や来世に輪廻する、無我を悟れば、輪廻から解脱できる、
我見を持つかぎり輪廻にいるという認識がなければ、仏教は始まらないでしょう。
948 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 22:52:38 ID:MXBlibLR
>>953 >生まれてきた時の、様々な生物の違いは何の因果業報なのか?
あんた、アホちゃう?2000年前から知的レベルが進化してないのか?
DNAの変異を伴う系統的な流れであって、それ以上の意味も以下の意味もない。
自然現象であるシナイ山の噴火を神の怒りとでっち上げ曲解したモーセと同じ発想だな。
おめでとうwww
949 :
素人:2007/05/01(火) 22:55:10 ID:5qaLlnXh
>>946>>947 なるほど・・・w
ありとあらゆるところで、使用している概念・語義にズレがあるようですね・・・。
また、重視するポイント(≒用語)についても・・・。
一つ一つを、しらみ潰しに突き合わせてゆくには、長期間に亘り実際に対話しなければならないでしょうね・・。
掲示板では埒が明かない・・・。
この名前欄で過去ログ検索してみてくれ。
(ちょっとしかないし簡単ながらも)私の、このスレへの関わり方が少しはわかると思う。
それは同時に、
私が、見ないフリをしている、引出しの奥へ仕舞っている、自分自身の境遇と甘えだったりするわけだが・・・w(自嘲
ノシ
(誰か談話室ででもいいから、921-922の龍樹、玄奘、維摩、達磨版等々やらないかなぁ・・ 楽しそうだw)
950 :
948:2007/05/01(火) 22:55:30 ID:MXBlibLR
951 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 23:04:52 ID:/yYR2m8N
>>934-935 横レスですが、他の読んでいる人々のために多少参考になれば・・・。
梵語 ヘートゥ 因・パラ 果-サンバンダhetuphala-sambandha。
bandh には「縛る」という意味がありますが、sambandha を relation(関係)と意味を取れば、
まさに「因果関係」となるけど、漢訳ではどうなるんでしょうかね。
カルマ 業・ヴィパーカ 異熟 karma-vipAka という熟語があるから、これが「業報」の原語かな?
「因果応報」という語は、本来「(業)因に応じて(異熟)果を報ず」ということなんでしょう。
> 死によって全てが終わるなら、因果応報ではなく断見でないのはいかなる典拠なのか?
「死によって全てが終わる」とは、このスレに書いている人々は流石に述べていないと思うんです
けどね。だから、それをも断絶論と呼ぶのは少し行き過ぎだと思うんですが。龍樹がバラモン教側
などにナースティカ(虚無論者)と貶称されたことと比べるのは多少気が引けますが、そんな印象
が拭えないんですよ。そこまで言い切ってしまう理由が見えてこない、というか。
過去やりとりした中で垣間見えた何度かの書き込みから判断すると、あなたは因縁仮和合のなにか
が生死流転する、という難解な見解のようですが(詳説希望)、どの段階で判断を打ち切っている
かという点で、私などから見ると、あなたと断滅論者とされる人々との間は微妙な違いだなあと感
じます。(輪廻に関しての自身の態度はまだ決定できていません。否定はしない、ということぐら
いです今言えるのは)大寺院発行の輪廻の絵解き施本などを見ると、いわゆる「常見」そのものの
解説も見られますし。
952 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/01(火) 23:05:40 ID:nIgWJR+n
因果律や理由と帰結、おこないとむくいの連鎖等を、所謂「転生」という形而上的独断に基づく見解を前提に
捉えるのは、「風が吹けば桶屋が儲かる」以上の不当拡張すなわち、“論点先取の虚偽”に他なりません。
953 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 23:20:54 ID:yV/Tfvon
>>948 DNAは、仏教でいえば色蘊でしょう。色蘊は、連続しないんですね。
DNAで説明しても意識の発生は説明できないでしょう。
問題は、それぞれの意識がそれぞれのDNAを持つ身体を獲得する原因です。
半端な科学知識は、信仰と同じだと思いますよ。
954 :
神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 23:29:08 ID:yV/Tfvon
>>952 むちゃ言うね。経典の記述及び、現存の仏教教団全てが保持する伝統説なのにね。
アナタの論説こそ論点先取じゃないの、転生などないという。
しかし、そんなことは仏教に説かれていない。どこを見ても。
転生ばかりだ。原始経典、ヴィスッディマッガ、中論、因縁心論、十住心論、
往生要集、修証義、スマナサーラ本、ダライラマ本、みんなそうだ。
認められないらな、仏教をアナタが捨てればいいだけ。
955 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/01(火) 23:36:51 ID:nIgWJR+n
誰も「転生など無い」などと言明していないが(嗤笑)。
尤もあらゆる不当前提の類は駆逐却下対象。
如何なるセクトドグマも破落戸ジョーユーどもの御託も顧慮範疇外であることは今更言うまでもない。
956 :
神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 00:03:10 ID:RVA4xN5M
仏教の業報説は無我説との兼ね合いがあるので、
ウパニシャッドやジャイナ教という明瞭な常見のようには、簡単には解きほぐせない。
苦の自作(ジャイナ。常見)・他作(断見になる)・共作・無因自然生(アージーヴィカ)と
いう四つを離れた、苦の縁生という見方をしなければならない。
サンジャヤは、多分、上の四つのどれとも見なかったのだろう。そこで判断停止。
それ以上、なんらの意見も示さない。
仏教がサンジャヤと違う点は、縁生説を採用した点にあると思う。
しかし、前提となる見方はサンジャヤと同じなのではないか、と思う。
なお自分としては、他作説は断見に陥る、ということのステップが完全に把握できたとは言えない。
「苦難が現れるのは他者のせいだ。神に祈ったのに苦難があるんだから、神などいない。
−−−そこで断見に陥る、ということなのか、と一応考えている。
> 「行う者と受ける者は異なる」とすると、「感受に悩まされて存在している者にとって、
> 苦は他者の作ったものである」という断見に至ってしまう。
> 「この苦難は、自分以外のもののせいだ。海に入るとき、神を祭らなかったからだ。」→他作
>>954 >経典の記述及び、現存の仏教教団全てが保持する伝統説
伝統仏教がどうしてきたか、が問われているのではなくて、
目標は原始仏教の闡明ですよ。ここが肝腎な点です。
仏像礼拝は伝統仏教では二千年くらいの伝統がありますよね。
たぶん龍樹もストゥーパに礼拝したんでしょう。
でも、釈尊は過去仏ストゥーパ礼拝していたんでしょうか。<私ならしますがw
そういう記述があったら是非教えて下さい。
>>947 >もちろん無我です。本質、実体などありません。
「無我」は「『実体が無い』という形而上学的断定」ではなくて。。。
分かってらっしゃるとは思いますが、念のため。
959 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/02(水) 06:36:38 ID:YPfHvGQQ
>>955 >誰も「転生など無い」などと言明していないが(嗤笑)。
でたな、電波教の詭弁。
そりゃ、そんなもんないといえば、おまえ達は、断見だと、仏教徒からみれば、
トンデモさんになるからな。
嘘を言うな。おまえら、一切の形而上のテーマは認めない、断見仏教じゃねぇか。
おまえ達の心は、おまえ達が一番知っているだろう。嘘つきめ。
己の心を偽り、詭弁まで吐いて、自分達を正当化しようとするおまえ達の心が
いくら仏典を読もうと、解釈は偏見で凝り固まったものにしかならない。
なぁ、そこのアホ。おまえ達のアプローチでの、おまえ達の仏教の行き着く先の結論は、
全く意味の無いものになると気付かんか?アホだからそんな事も気付かんのか?哀れよの〜。
おまえをみてると、まさに馬鹿に付ける薬は無しだ。おまえ達は仏教を捨てろ。
おまえ達の仏教は、全く意味がない。
我の強い者は、釈迦の仏教とは正反対に属する者だ。
960 :
神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 07:32:35 ID:fg5eI2jn
>>958 > 「無我」は「『実体が無い』という形而上学的断定」ではなくて。。。
あらゆる色(肉体)は、それが過去のものであれ、未来のものであれーーー
中略ーーー
それは見かけだけのものであって、実体はなく、また本質もないことを
知るのである。
相応部経典 22 95 泡沫 雑阿含経 10 泡沫 増谷氏訳
961 :
神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 07:39:38 ID:fg5eI2jn
>>945 > 釈尊も 私の弟子の中で前世を記憶しているものがあるが
> それらは五蘊の何れかを記憶しているのである。
前世ではなく 過去世でありました。
もろもろの沙門 バラモンの中には、いろいろと過去世の事を記憶しているものがあるが
それらもすべて、人間を構成する五つの要素(五蘊)、もしくは、そのいずれかを
記憶しているのである。
ーー略ーー (私は過去世において、このような色(肉体)をもっていた)
というのは、色を記憶しているのである。
相応部 22 79 雑阿含経 2 14 増谷氏訳
962 :
神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 07:54:30 ID:fg5eI2jn
無常、−− 苦 −− 五蘊無我を説き 次いで
十二縁起を説く
その上で そのようにみてもろもろの神通力を享受するだろうか
ーーー
「では、スシーマよ、そなたもまた、そのように知り、そのように
みて、いろいろと前世のことを思い出すことができるであろうか。−
たとえば、一生 二生 、−−そのように詳しく、いろいろと
過去世の事を思い出すことができるであろうか」
「いいえ、大徳よ、そのようなことはございません」
ーーー中略ーーーー
「スシーマよ、いまや、わたしはいう。今われらが問答したことと、
それから、そのたがそこには至らないといったこと。スシーマよ、
これがわれらの成就したことなのである」
相応部 12 70 雑阿含経 14 5 増谷氏訳
963 :
神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 08:03:49 ID:fg5eI2jn
>
>>955 > 嘘を言うな。おまえら、一切の形而上のテーマは認めない、断見仏教じゃねぇか。
> おまえ達の心は、おまえ達が一番知っているだろう。嘘つきめ。
アホさんのは無記にもとづく対応でありこれもまた 見識というものです。
先に引用したように 輪廻や過去世を議論する場合 前提には 苦 無常 五蘊無我
十二縁起を踏まえないと、道を外すものと思われます。
つまるところ仏陀釈尊は人間は十二因縁と 見ていたのではと思うしだいですから
十二因縁が衣を着て メシを食って 寝る そういうだけのものでありましょう。
964 :
神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 08:12:25 ID:pBpcU9sU
アマラ識というのはアカシックレコードだ、と聞いた事があります
これは非仏教なのですか?
965 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/05/02(水) 08:27:33 ID:W4q3NBhr
>>964 アマラ識というのは、ユングの集合意識みたいなものですか?
シンクロ二シティーとか、
胸騒ぎ、というのはありますよね。
虫の知らせ、とか。
私の身近な人で「虫の知らせ」があった人がいますよ。
「兄貴に何かあったかも知れない」。ということで、不安な顔をしていて・・・
その内に交通事故で亡くなった。
というのは、私はリアルでそういう現場に立ち会ったことがある。
ちなみに、兄貴というのは殆ど”音沙汰のなかった人”らしい。
(事故で即死の状態)
>これは非仏教なのですか?
これは唯識派でしたら詳しいかもしれませんね。
私見では仏教とは関係ない。
966 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/02(水) 08:49:36 ID:XKREWbBH
>>964 >アカシックレコード
紛うことなき外道説。壁蝨破落戸の飯のタネです。
967 :
神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 09:39:25 ID:pBpcU9sU
でも、アマラ識がないのに、どうして太陽の余命が56億7千万年とわかったのですか?
968 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/05/02(水) 10:08:36 ID:W4q3NBhr
>どうして太陽の余命が56億7千万年とわかったのですか?
惑星の寿命が大体100億年ということで、ある程度は導き出されるかと思う。
>でも、アマラ識がないのに、
「ない」とは断定はしてません。
それに類似する感受性みたいなのは、太古の人類はあったかと推測します。
五感は現代人よりも発達していたでしょうし、
また、第六感的な感覚もあったかと思いますね。
(例えば、テレパシー的な能力です)
人類は言語を獲得していく段階において、それらの能力も退化して逝く。
文明というのは、そういうもんです。
新日鐵が永久に鉄を作り続けるには、その数値だけ消費せにゃならし
高炉の熱によって、また環境破壊といふ失うものも同時にあり、
経済の発達は、やがて人類の滅亡へと誘う。
969 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/05/02(水) 10:14:54 ID:W4q3NBhr
太陽は恒星ですねw
恒星の寿命も、惑星と同じくらいです。
970 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/02(水) 10:21:37 ID:XKREWbBH
脳天がメルトダウンしたGW厨はとっととお花畑板へ(嗤)。
971 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/02(水) 10:27:51 ID:YPfHvGQQ
972 :
神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 10:32:25 ID:G3UXoxxd
わからん
973 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/02(水) 10:33:27 ID:YPfHvGQQ
机は禅スレに行けよ。
うっとおしい。
974 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/02(水) 10:36:09 ID:XKREWbBH
>>963 >十二因縁が衣を着て メシを食って 寝る そういうだけのものでありましょう。
ブッダは人間を因縁所成の仮有と観じ、そこへ実体や本体を何ら見出さなかったことは、原始佛典の
記述から容易に帰結されます。
975 :
神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 10:38:58 ID:pBpcU9sU
生命の起源が、太陽系にあるという説と太陽系外にあるという説があります
後者は異端かと思いきや、そうではないそうです
つまり、彗星に乗って、
生命は地球に来たのではないか、という仮説が有力なそうです
実際、彗星の有機物含有率は非常に高いそうです
もし、その生命の起源に記憶があったとすると…
976 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/02(水) 10:42:18 ID:XKREWbBH
977 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/02(水) 10:50:27 ID:YPfHvGQQ
>>971 訂正
失敬、URL貼り間違えた。
民俗学・神話学@2ch掲示板
http://academy6.2ch.net/min/ おまえらさ、自分達が何を信じようとお前等の勝手だが、
他人を巻き添えにしたり、正しいことを語る人の口を封じ、他の人も
道連れに穴に落としていると、そのうち、その報いは、自分自身が受けるよ。
あんたらが他人にしたこと、しなかった事は、全て自分にした事、しなかった事だ。
因果応報とは、そのことも含まれる。他人を殺す者は自分自身を殺し、自分自身を殺す者は
他人を殺している。他人に成した業による報いは、全て自分自身が受け取ることになる。
ま、おまえらには理解できん道理だろう。
おまえら穴に落ちるのは勝手だけどさ、他人までを巻き込むなよ。
おまえら学問で仏教を語りたけば、他行けよ。うっとおしい。
心配するな。我欲に走って、おかしな仏教を語るカルトが現れたら、俺が追い出してやるよ。
978 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/05/02(水) 10:54:21 ID:W4q3NBhr
>生命の起源
たんぱく質が、養分を吸収し且つ排せつする作用があれば生物になる。
そこになんら自律性は問題ない。
カラスさんお久しぶり、いつもはどこにいるの?
980 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/02(水) 10:57:02 ID:YPfHvGQQ
>>979 最近は、キリスト教質問箱。
もう寝るよ、どなたかは存じませんが、おやすみ。
981 :
神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 11:00:31 ID:pBpcU9sU
カラスさん、今日も元気がいいですね
あなたには悪のエージェント ゾルゲに敢然と立ち向かうバロムワンの勢いがある
がんばれ
982 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/05/02(水) 11:01:13 ID:W4q3NBhr
>>977 もっとも、断見とか常見とかは、つまり死んだその後のことを言うておるんだろうけど、
生死の境目を論じるのは虚しい。
というのは分る。
実際は、この境目こそが無明なんだけど。
まあ、こういう書き込みをロムるのも、なんとも微笑ましい気分にはなるね。
本当。元気だったんだね、嬉しいよ。おやすみなさい
984 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/02(水) 11:36:49 ID:XKREWbBH
>ID:g9Zhc/Xf
文盲でなければ
>>1を読め。
汚穢撒布幇助厨は即刻退下のこと。
985 :
神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 12:56:28 ID:EriUbZSF
なんか 貪りと、怒りと、白痴の集合スレだなwwww
わが人間存在の真相=有限性を洞察して震撼し、そのうえに涙を注ぎえたものにしてはじめて、
生きとしいけるもののうえに涙することができる(共感慈悲)という構造を読み取れる者はいないのか。
ブッダの教えの行く末が思いやられる。
私は漢訳に携わった人たちのセンスを高く評価する。決して意訳に過ぎるからだめだ、などと言うつもりはない。
ただ、角度で言えば、1度のズレが、100メートル先では膨大なズレになることには注意を払っていいと思う。
そうした、訳出に際してのセンスに関連して少し・・・。
>>951 なるほど。
> 梵語 ヘートゥ 因・パラ 果-サンバンダhetuphala-sambandha。
> bandh には「縛る」という意味がありますが、sambandha を relation(関係)と意味を取れば、
> まさに「因果関係」となるけど、漢訳ではどうなるんでしょうかね。
ポイントその1:hetuとphalaの関係。
ポイントその2:sam-bandhaのsamという接頭辞の意味するところ。
ポイントその3:hetuphalaとsambandhaとの、前後の関係。
ポイントその4:全体としてどういう意味となるか。(おそらく熟語として一つのものと見ていいのだろうから)
1に関しては、並列されたものと見ていいだろうか。【因と果】というように。
ただ、phala-hetu という並びが仏典の中に見られないものであるなら、
語順の示す意味合いが多少は含まれるかもしれない。
「因が果に先んじている」「因から果へと向かうベクトルが含意されている」 と・・・。
しかし、いずれにせよ「因→果というベクトル」は大前提として受け止めた上で並列表記と見做しておきたい。
2に関しては、(951さんは sam に注意を払っていないようですが)重要な部分かと思う。
たとえ sambandha 自体が、既に一語の術語として「connection」とされていても、
(水野辞書では“結合”“連結”、動詞の所には“統合”とも。)
bandha は、「縛り、結びつき」といった意味合いがスタンダードだと思う。
勿論それを、敷衍した意味として「関係ている(関係性がある)」としても良いと思う。
(てか、sam が付いて、関係という意味合いを付加・強調したものと言えるのだろうが・・)。
が、この時、もう少し「縛り」というニュアンス・イメージを残しつつ見るならば、
単に「関係している」というだけでなく、
そこに『「強い結び付き」「必然としての、それ以外あり得ない強固な関係性」が含意されている』、
と、訳者が読んでもおかしくはないだろう。
そして、sam が「正しく(→まさにそうあるべきものとして)」とか「正当に」とか、
(或いは「共に、一緒に」、或いは「同様に」「等しく・平等に(→≒互いに)」とか、)
bandha の意味するところを更に強調するために用いられているものだとしたならば、
sambandha とは、【まさに、分かち難く関係付けられている、関連している】と読めるのではないか?
(なぜ、hetuphala-bandha でなく hetuphala-sambandha なのか?)
だとするならば、このhetuphala-sambandhaを解釈する時に、
【応に報いられるべき関係】という受け止め方が生じても不思議はないように思う。
漢訳経典でなく、中国オンリーの解説書等において、或いは日本における解説において、
そこに「応報」という意味合いを見る姿勢は、必ずしも責められるべきものではないかもしれない・・・。
どなたかパーリ・Sktに詳しい方解説ヨロ。m(_ _)m
3に関しては、2を受けた上で、(どなたか言語学での適切な分類ヨロ。m(_ _)m)
a 主語述語として
・『因果(因と果)は、関係している』 『因果(因と果)は、分かちがたく結びついている』
・『因果(因と果)は、(それぞれ互いに)縛られたもの、結びつけられたもの』
b 修飾関係として
『因果(因と果)という関係性』『因果(因と果)という結びつき』
など、幾つかパターンがありそうだが、いずれにしろ
【因と果は、縛りつけられているように関係している(もの)】という大枠は、妥当な読みと言えるのではないか・・。
そうして、4に関して、(3で終わってもよいのだが)、
3のbを受けて、【因果という関係】【因果という結びつき】といった程度の意味となるのかもしれない。
そして、そこで意味されることは、『個別の事象同士の固い結び付き(価値判断の入ったベクトル)』でなく
単に、【ある果には、原因がある】という関係性のみが言われているだけかもしれない。
(※ sam の挿入が、どこまでの強調のためになされているものなのか?が焦点かもしれない・・・※)
だから、ここに「応報」という語を持ってくることは、
2という事情があるにせよ、大きく外した読みではないにしろ、いささか行き過ぎなのだろう。
私は、個人的姿勢として、(詳しくない人・仏教をほとんど知らない人等と対話する時は特に)
「応報」という言い方をせずに縁起を語っていければいいな・・と思っている。
989 :
神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 14:26:21 ID:EriUbZSF
因果関係に人智を超えた神秘性を潜入させてはならない。
990 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/05/02(水) 14:51:40 ID:W4q3NBhr
縁起を因果といふ脈絡に含意しては全く仏教の意味がない。
991 :
神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 15:07:22 ID:EriUbZSF
縁起は、時間的生起の関係(因果関係)としてではなく、
論理的相互関係(相互依存関係)として理解するのが当然。
>>986-988 sam を無視したわけではなくて、「関係」というあっさりした意味だけではなく、「縛る」という
意味合いも含まれている点にも留意されたし、ということで bandh の意味を付記したものです。
逆に sam(共に)の付加で、bandha だけから想起される「縛る」という重い意味を緩和し、また、
因・果という2者の関係、結び付きであることを示しているのではないでしょうか。
hetuphala-sambandha の六合釈はどうなんでしょう。前分と後分は主語・術語というより、
前分「因と果」の内部構造の説明が、後分でされているように思います。
ですから「という」でよろしいかと。
次に漢語の「因果応報」の語順についてですが、これは「東奔西走」と同じような構造だろうと思います。
つまり、東西に奔走する、を東奔西走と分割表記して、一字ずつ飛び越して結び付く、という修辞法ですね。
略して「果報」という表現もあるように、原因に対応して結果としての報いがある、ということだと思います。
因果まさに報ずべし、と訓じるのは少し苦しいかな、と。因が報じるとなって変です。
ただ応報だけで使われる場合もあるので、その場合には、まさに報ずべし、と訓じて、
当然むくいるべきだ、むくわれて当然だ、相応のむくいだ、といったニュアンスも生じると思います。