原始佛教 その23

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943神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 22:08:19 ID:5qaLlnXh
>>942
別に、電波・阿呆陀羅サイドを擁護するわけではないが、
前世・来世を考えずとも仏教を語ることはできる、というのが私の持論。
断見というレッテルを貼っても構わない。
21世紀の仏教を考える時、聖典の記述そのままを、
「無条件に、盲目に」金科玉条とするつもりはない。
「我が身に引きあて、理解と頷きのない言葉は使用に値しない」(辞書的解説・説明等の際は除く)。

たぶん私のスタンスは、あなたと電波サイドの中間くらいでしょうw
944神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 22:20:57 ID:5qaLlnXh
ところで・・・

>>906
何しに来たんだ?w
945神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 22:22:42 ID:w344IhE4
>>942

> 私がアホダラさんに言いたかったのは、因果関係を認めるなら前世や来世を認めなけれならない、ということです。

前世や来世を想定したとしても 無我 なるものはどこまでいっても
無我 でありましょう。
 釈尊も 私の弟子の中で前世を記憶しているものがあるが
 それらは五蘊の何れかを記憶しているのである。

と説いています。
 我見を抱いているからそうなるというだけでしょう。

946神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 22:26:03 ID:yV/Tfvon
>>943
残念ながら、その点は譲れないですね。
断見では、仏教はほとんど意味をなさないものになると私は考えます。
では、覚りや解脱は体験されてないですよね? でも、それは否定しないでしょう。
それなら、他の体験できない教説はなんで認められないのでしょうか?

>>905 などを拝見する限り古いタイプの科学、ニュートンとか素朴実在論などを基準に考えて
おられるようですが、物理学にしろ認知科学にしろ素朴実在論は、成り立たないでしょう。
つまり、見たものが実在するというのはもう無理な時代に来ていると思いませんか?

ちなみに仏教で変な説は、主に部派仏教の理論のための理論がほとんどだと考えてます。
947神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 22:34:13 ID:yV/Tfvon
>>945
> 前世や来世を想定したとしても 無我 なるものはどこまでいっても
> 無我 でありましょう。
>  釈尊も 私の弟子の中で前世を記憶しているものがあるが
>  それらは五蘊の何れかを記憶しているのである。
> と説いています。
>  我見を抱いているからそうなるというだけでしょう。

全く仰る通りです。もちろん無我です。本質、実体などありません。
ただし、我見を持っているから、私が実在するとし見るもの触れるものが本質、実体があると見る、
それを同じように我見を持つかぎり前世や来世に輪廻する、無我を悟れば、輪廻から解脱できる、
我見を持つかぎり輪廻にいるという認識がなければ、仏教は始まらないでしょう。
948神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 22:52:38 ID:MXBlibLR
>>953
>生まれてきた時の、様々な生物の違いは何の因果業報なのか?

 あんた、アホちゃう?2000年前から知的レベルが進化してないのか?
DNAの変異を伴う系統的な流れであって、それ以上の意味も以下の意味もない。

自然現象であるシナイ山の噴火を神の怒りとでっち上げ曲解したモーセと同じ発想だな。

おめでとうwww
949素人:2007/05/01(火) 22:55:10 ID:5qaLlnXh
>>946>>947
なるほど・・・w

ありとあらゆるところで、使用している概念・語義にズレがあるようですね・・・。
また、重視するポイント(≒用語)についても・・・。
一つ一つを、しらみ潰しに突き合わせてゆくには、長期間に亘り実際に対話しなければならないでしょうね・・。
掲示板では埒が明かない・・・。

この名前欄で過去ログ検索してみてくれ。
(ちょっとしかないし簡単ながらも)私の、このスレへの関わり方が少しはわかると思う。

それは同時に、
私が、見ないフリをしている、引出しの奥へ仕舞っている、自分自身の境遇と甘えだったりするわけだが・・・w(自嘲


ノシ

(誰か談話室ででもいいから、921-922の龍樹、玄奘、維摩、達磨版等々やらないかなぁ・・ 楽しそうだw)
950948:2007/05/01(火) 22:55:30 ID:MXBlibLR
× >>953
〇 >>935 すまん
951神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 23:04:52 ID:/yYR2m8N
>>934-935
横レスですが、他の読んでいる人々のために多少参考になれば・・・。

梵語 ヘートゥ 因・パラ 果-サンバンダhetuphala-sambandha。
bandh には「縛る」という意味がありますが、sambandha を relation(関係)と意味を取れば、
まさに「因果関係」となるけど、漢訳ではどうなるんでしょうかね。

カルマ 業・ヴィパーカ 異熟 karma-vipAka という熟語があるから、これが「業報」の原語かな?
「因果応報」という語は、本来「(業)因に応じて(異熟)果を報ず」ということなんでしょう。


> 死によって全てが終わるなら、因果応報ではなく断見でないのはいかなる典拠なのか?

「死によって全てが終わる」とは、このスレに書いている人々は流石に述べていないと思うんです
けどね。だから、それをも断絶論と呼ぶのは少し行き過ぎだと思うんですが。龍樹がバラモン教側
などにナースティカ(虚無論者)と貶称されたことと比べるのは多少気が引けますが、そんな印象
が拭えないんですよ。そこまで言い切ってしまう理由が見えてこない、というか。

過去やりとりした中で垣間見えた何度かの書き込みから判断すると、あなたは因縁仮和合のなにか
が生死流転する、という難解な見解のようですが(詳説希望)、どの段階で判断を打ち切っている
かという点で、私などから見ると、あなたと断滅論者とされる人々との間は微妙な違いだなあと感
じます。(輪廻に関しての自身の態度はまだ決定できていません。否定はしない、ということぐら
いです今言えるのは)大寺院発行の輪廻の絵解き施本などを見ると、いわゆる「常見」そのものの
解説も見られますし。
952阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/01(火) 23:05:40 ID:nIgWJR+n
因果律や理由と帰結、おこないとむくいの連鎖等を、所謂「転生」という形而上的独断に基づく見解を前提に
捉えるのは、「風が吹けば桶屋が儲かる」以上の不当拡張すなわち、“論点先取の虚偽”に他なりません。
953神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 23:20:54 ID:yV/Tfvon
>>948

DNAは、仏教でいえば色蘊でしょう。色蘊は、連続しないんですね。
DNAで説明しても意識の発生は説明できないでしょう。

問題は、それぞれの意識がそれぞれのDNAを持つ身体を獲得する原因です。

半端な科学知識は、信仰と同じだと思いますよ。
954神も仏も名無しさん:2007/05/01(火) 23:29:08 ID:yV/Tfvon
>>952
むちゃ言うね。経典の記述及び、現存の仏教教団全てが保持する伝統説なのにね。

アナタの論説こそ論点先取じゃないの、転生などないという。
しかし、そんなことは仏教に説かれていない。どこを見ても。
転生ばかりだ。原始経典、ヴィスッディマッガ、中論、因縁心論、十住心論、
往生要集、修証義、スマナサーラ本、ダライラマ本、みんなそうだ。

認められないらな、仏教をアナタが捨てればいいだけ。
955阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/01(火) 23:36:51 ID:nIgWJR+n
誰も「転生など無い」などと言明していないが(嗤笑)。
尤もあらゆる不当前提の類は駆逐却下対象。
如何なるセクトドグマも破落戸ジョーユーどもの御託も顧慮範疇外であることは今更言うまでもない。
956神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 00:03:10 ID:RVA4xN5M
仏教の業報説は無我説との兼ね合いがあるので、
ウパニシャッドやジャイナ教という明瞭な常見のようには、簡単には解きほぐせない。

苦の自作(ジャイナ。常見)・他作(断見になる)・共作・無因自然生(アージーヴィカ)と
いう四つを離れた、苦の縁生という見方をしなければならない。

サンジャヤは、多分、上の四つのどれとも見なかったのだろう。そこで判断停止。
それ以上、なんらの意見も示さない。
仏教がサンジャヤと違う点は、縁生説を採用した点にあると思う。
しかし、前提となる見方はサンジャヤと同じなのではないか、と思う。


なお自分としては、他作説は断見に陥る、ということのステップが完全に把握できたとは言えない。
「苦難が現れるのは他者のせいだ。神に祈ったのに苦難があるんだから、神などいない。
−−−そこで断見に陥る、ということなのか、と一応考えている。
> 「行う者と受ける者は異なる」とすると、「感受に悩まされて存在している者にとって、
> 苦は他者の作ったものである」という断見に至ってしまう。
> 「この苦難は、自分以外のもののせいだ。海に入るとき、神を祭らなかったからだ。」→他作
957神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 00:21:19 ID:YUBEM7d0
>>954
>経典の記述及び、現存の仏教教団全てが保持する伝統説

伝統仏教がどうしてきたか、が問われているのではなくて、
目標は原始仏教の闡明ですよ。ここが肝腎な点です。

仏像礼拝は伝統仏教では二千年くらいの伝統がありますよね。
たぶん龍樹もストゥーパに礼拝したんでしょう。
でも、釈尊は過去仏ストゥーパ礼拝していたんでしょうか。<私ならしますがw
そういう記述があったら是非教えて下さい。
958神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 00:27:01 ID:DdsdkRXz
>>947
>もちろん無我です。本質、実体などありません。

「無我」は「『実体が無い』という形而上学的断定」ではなくて。。。
分かってらっしゃるとは思いますが、念のため。
959カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/02(水) 06:36:38 ID:YPfHvGQQ
>>955
>誰も「転生など無い」などと言明していないが(嗤笑)。

でたな、電波教の詭弁。
そりゃ、そんなもんないといえば、おまえ達は、断見だと、仏教徒からみれば、
トンデモさんになるからな。

嘘を言うな。おまえら、一切の形而上のテーマは認めない、断見仏教じゃねぇか。
おまえ達の心は、おまえ達が一番知っているだろう。嘘つきめ。

己の心を偽り、詭弁まで吐いて、自分達を正当化しようとするおまえ達の心が
いくら仏典を読もうと、解釈は偏見で凝り固まったものにしかならない。

なぁ、そこのアホ。おまえ達のアプローチでの、おまえ達の仏教の行き着く先の結論は、
全く意味の無いものになると気付かんか?アホだからそんな事も気付かんのか?哀れよの〜。
おまえをみてると、まさに馬鹿に付ける薬は無しだ。おまえ達は仏教を捨てろ。
おまえ達の仏教は、全く意味がない。

我の強い者は、釈迦の仏教とは正反対に属する者だ。
960神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 07:32:35 ID:fg5eI2jn
>>958
> 「無我」は「『実体が無い』という形而上学的断定」ではなくて。。。

あらゆる色(肉体)は、それが過去のものであれ、未来のものであれーーー
中略ーーー
それは見かけだけのものであって、実体はなく、また本質もないことを
知るのである。
相応部経典 22 95 泡沫 雑阿含経 10 泡沫 増谷氏訳

961神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 07:39:38 ID:fg5eI2jn
>>945
>  釈尊も 私の弟子の中で前世を記憶しているものがあるが
>  それらは五蘊の何れかを記憶しているのである。

前世ではなく 過去世でありました。
もろもろの沙門 バラモンの中には、いろいろと過去世の事を記憶しているものがあるが
それらもすべて、人間を構成する五つの要素(五蘊)、もしくは、そのいずれかを
記憶しているのである。
ーー略ーー  (私は過去世において、このような色(肉体)をもっていた)
というのは、色を記憶しているのである。
相応部 22 79  雑阿含経 2 14  増谷氏訳

962神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 07:54:30 ID:fg5eI2jn
無常、−− 苦 −− 五蘊無我を説き 次いで
十二縁起を説く
その上で そのようにみてもろもろの神通力を享受するだろうか 
ーーー
「では、スシーマよ、そなたもまた、そのように知り、そのように
みて、いろいろと前世のことを思い出すことができるであろうか。−
たとえば、一生 二生 、−−そのように詳しく、いろいろと
過去世の事を思い出すことができるであろうか」
「いいえ、大徳よ、そのようなことはございません」
ーーー中略ーーーー
「スシーマよ、いまや、わたしはいう。今われらが問答したことと、
 それから、そのたがそこには至らないといったこと。スシーマよ、 
 これがわれらの成就したことなのである」
相応部 12 70 雑阿含経 14 5 増谷氏訳

963神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 08:03:49 ID:fg5eI2jn
> >>955
> 嘘を言うな。おまえら、一切の形而上のテーマは認めない、断見仏教じゃねぇか。
> おまえ達の心は、おまえ達が一番知っているだろう。嘘つきめ。

アホさんのは無記にもとづく対応でありこれもまた 見識というものです。
先に引用したように 輪廻や過去世を議論する場合 前提には 苦 無常 五蘊無我
十二縁起を踏まえないと、道を外すものと思われます。
つまるところ仏陀釈尊は人間は十二因縁と 見ていたのではと思うしだいですから
十二因縁が衣を着て メシを食って 寝る そういうだけのものでありましょう。

964神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 08:12:25 ID:pBpcU9sU
アマラ識というのはアカシックレコードだ、と聞いた事があります
これは非仏教なのですか?
965机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/05/02(水) 08:27:33 ID:W4q3NBhr
>>964
アマラ識というのは、ユングの集合意識みたいなものですか?
シンクロ二シティーとか、
胸騒ぎ、というのはありますよね。
虫の知らせ、とか。

私の身近な人で「虫の知らせ」があった人がいますよ。
「兄貴に何かあったかも知れない」。ということで、不安な顔をしていて・・・
その内に交通事故で亡くなった。
というのは、私はリアルでそういう現場に立ち会ったことがある。
ちなみに、兄貴というのは殆ど”音沙汰のなかった人”らしい。
(事故で即死の状態)

>これは非仏教なのですか?

これは唯識派でしたら詳しいかもしれませんね。
私見では仏教とは関係ない。
966阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/02(水) 08:49:36 ID:XKREWbBH
>>964
>アカシックレコード
紛うことなき外道説。壁蝨破落戸の飯のタネです。
967神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 09:39:25 ID:pBpcU9sU
でも、アマラ識がないのに、どうして太陽の余命が56億7千万年とわかったのですか?
968机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/05/02(水) 10:08:36 ID:W4q3NBhr
>どうして太陽の余命が56億7千万年とわかったのですか?

惑星の寿命が大体100億年ということで、ある程度は導き出されるかと思う。

>でも、アマラ識がないのに、

「ない」とは断定はしてません。
それに類似する感受性みたいなのは、太古の人類はあったかと推測します。
五感は現代人よりも発達していたでしょうし、
また、第六感的な感覚もあったかと思いますね。
(例えば、テレパシー的な能力です)

人類は言語を獲得していく段階において、それらの能力も退化して逝く。
文明というのは、そういうもんです。

新日鐵が永久に鉄を作り続けるには、その数値だけ消費せにゃならし
高炉の熱によって、また環境破壊といふ失うものも同時にあり、
経済の発達は、やがて人類の滅亡へと誘う。
969机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/05/02(水) 10:14:54 ID:W4q3NBhr
太陽は恒星ですねw

恒星の寿命も、惑星と同じくらいです。
970阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/02(水) 10:21:37 ID:XKREWbBH
脳天がメルトダウンしたGW厨はとっととお花畑板へ(嗤)。
971カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/02(水) 10:27:51 ID:YPfHvGQQ
>>970
おまえよ、次ぎスレ立てんなら、ここの板にしろよ
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1175249680/l50
おまえ達のアプローチで仏教を語るのは、ここ、宗教板ではふさわしくない。

てかおまえ達の仏教に何の意味あんの?
理論的にも矛盾だらけだし、仏典の解釈も、全て自分達の自説に合うよう
な強引な解釈で矛盾だらけだし、結論は、その辺の街の
心理カウンセラーと変わらないレベルのものだ。そんな事も気付かねぇ?

ま、おまえ達は、ただの我の強い、アホだからな。
972神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 10:32:25 ID:G3UXoxxd
わからん
973カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/02(水) 10:33:27 ID:YPfHvGQQ
机は禅スレに行けよ。

うっとおしい。
974阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/02(水) 10:36:09 ID:XKREWbBH
>>963
>十二因縁が衣を着て メシを食って 寝る そういうだけのものでありましょう。
ブッダは人間を因縁所成の仮有と観じ、そこへ実体や本体を何ら見出さなかったことは、原始佛典の
記述から容易に帰結されます。
975神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 10:38:58 ID:pBpcU9sU
生命の起源が、太陽系にあるという説と太陽系外にあるという説があります
後者は異端かと思いきや、そうではないそうです
つまり、彗星に乗って、
生命は地球に来たのではないか、という仮説が有力なそうです
実際、彗星の有機物含有率は非常に高いそうです

もし、その生命の起源に記憶があったとすると…
976阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/02(水) 10:42:18 ID:XKREWbBH
>>975
全くスレ違いに付き即刻退去のこと。
977カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/02(水) 10:50:27 ID:YPfHvGQQ
>>971 訂正
失敬、URL貼り間違えた。
民俗学・神話学@2ch掲示板
http://academy6.2ch.net/min/

おまえらさ、自分達が何を信じようとお前等の勝手だが、
他人を巻き添えにしたり、正しいことを語る人の口を封じ、他の人も
道連れに穴に落としていると、そのうち、その報いは、自分自身が受けるよ。
あんたらが他人にしたこと、しなかった事は、全て自分にした事、しなかった事だ。
因果応報とは、そのことも含まれる。他人を殺す者は自分自身を殺し、自分自身を殺す者は
他人を殺している。他人に成した業による報いは、全て自分自身が受け取ることになる。
ま、おまえらには理解できん道理だろう。

おまえら穴に落ちるのは勝手だけどさ、他人までを巻き込むなよ。
おまえら学問で仏教を語りたけば、他行けよ。うっとおしい。

心配するな。我欲に走って、おかしな仏教を語るカルトが現れたら、俺が追い出してやるよ。

978机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/05/02(水) 10:54:21 ID:W4q3NBhr
>生命の起源

たんぱく質が、養分を吸収し且つ排せつする作用があれば生物になる。
そこになんら自律性は問題ない。
979神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 10:55:07 ID:g9Zhc/Xf
カラスさんお久しぶり、いつもはどこにいるの?
980カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/02(水) 10:57:02 ID:YPfHvGQQ
>>979
最近は、キリスト教質問箱。

もう寝るよ、どなたかは存じませんが、おやすみ。
981神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 11:00:31 ID:pBpcU9sU
カラスさん、今日も元気がいいですね
あなたには悪のエージェント ゾルゲに敢然と立ち向かうバロムワンの勢いがある
がんばれ
982机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/05/02(水) 11:01:13 ID:W4q3NBhr
>>977
もっとも、断見とか常見とかは、つまり死んだその後のことを言うておるんだろうけど、
生死の境目を論じるのは虚しい。
というのは分る。

実際は、この境目こそが無明なんだけど。

まあ、こういう書き込みをロムるのも、なんとも微笑ましい気分にはなるね。
983神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 11:01:49 ID:g9Zhc/Xf
本当。元気だったんだね、嬉しいよ。おやすみなさい
984阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/05/02(水) 11:36:49 ID:XKREWbBH
>ID:g9Zhc/Xf
文盲でなければ>>1を読め。
汚穢撒布幇助厨は即刻退下のこと。
985神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 12:56:28 ID:EriUbZSF
なんか 貪りと、怒りと、白痴の集合スレだなwwww

わが人間存在の真相=有限性を洞察して震撼し、そのうえに涙を注ぎえたものにしてはじめて、
生きとしいけるもののうえに涙することができる(共感慈悲)という構造を読み取れる者はいないのか。

ブッダの教えの行く末が思いやられる。
986神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 14:00:07 ID:WX1TUpWL
私は漢訳に携わった人たちのセンスを高く評価する。決して意訳に過ぎるからだめだ、などと言うつもりはない。
ただ、角度で言えば、1度のズレが、100メートル先では膨大なズレになることには注意を払っていいと思う。
そうした、訳出に際してのセンスに関連して少し・・・。

>>951
なるほど。

 > 梵語 ヘートゥ 因・パラ 果-サンバンダhetuphala-sambandha。
 > bandh には「縛る」という意味がありますが、sambandha を relation(関係)と意味を取れば、
 > まさに「因果関係」となるけど、漢訳ではどうなるんでしょうかね。

ポイントその1:hetuとphalaの関係。
ポイントその2:sam-bandhaのsamという接頭辞の意味するところ。
ポイントその3:hetuphalaとsambandhaとの、前後の関係。
ポイントその4:全体としてどういう意味となるか。(おそらく熟語として一つのものと見ていいのだろうから)

1に関しては、並列されたものと見ていいだろうか。【因と果】というように。
ただ、phala-hetu という並びが仏典の中に見られないものであるなら、
語順の示す意味合いが多少は含まれるかもしれない。
「因が果に先んじている」「因から果へと向かうベクトルが含意されている」 と・・・。
しかし、いずれにせよ「因→果というベクトル」は大前提として受け止めた上で並列表記と見做しておきたい。
987神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 14:00:43 ID:WX1TUpWL
2に関しては、(951さんは sam に注意を払っていないようですが)重要な部分かと思う。
たとえ sambandha 自体が、既に一語の術語として「connection」とされていても、
 (水野辞書では“結合”“連結”、動詞の所には“統合”とも。)
bandha は、「縛り、結びつき」といった意味合いがスタンダードだと思う。
勿論それを、敷衍した意味として「関係ている(関係性がある)」としても良いと思う。
(てか、sam が付いて、関係という意味合いを付加・強調したものと言えるのだろうが・・)。
が、この時、もう少し「縛り」というニュアンス・イメージを残しつつ見るならば、
単に「関係している」というだけでなく、
そこに『「強い結び付き」「必然としての、それ以外あり得ない強固な関係性」が含意されている』、
と、訳者が読んでもおかしくはないだろう。
そして、sam が「正しく(→まさにそうあるべきものとして)」とか「正当に」とか、
(或いは「共に、一緒に」、或いは「同様に」「等しく・平等に(→≒互いに)」とか、)
bandha の意味するところを更に強調するために用いられているものだとしたならば、
sambandha とは、【まさに、分かち難く関係付けられている、関連している】と読めるのではないか?
(なぜ、hetuphala-bandha でなく hetuphala-sambandha なのか?)
だとするならば、このhetuphala-sambandhaを解釈する時に、
【応に報いられるべき関係】という受け止め方が生じても不思議はないように思う。
漢訳経典でなく、中国オンリーの解説書等において、或いは日本における解説において、
そこに「応報」という意味合いを見る姿勢は、必ずしも責められるべきものではないかもしれない・・・。
どなたかパーリ・Sktに詳しい方解説ヨロ。m(_ _)m
988神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 14:01:45 ID:WX1TUpWL
3に関しては、2を受けた上で、(どなたか言語学での適切な分類ヨロ。m(_ _)m)
a 主語述語として
 ・『因果(因と果)は、関係している』 『因果(因と果)は、分かちがたく結びついている』
 ・『因果(因と果)は、(それぞれ互いに)縛られたもの、結びつけられたもの』
b 修飾関係として
 『因果(因と果)という関係性』『因果(因と果)という結びつき』
など、幾つかパターンがありそうだが、いずれにしろ
【因と果は、縛りつけられているように関係している(もの)】という大枠は、妥当な読みと言えるのではないか・・。

そうして、4に関して、(3で終わってもよいのだが)、
3のbを受けて、【因果という関係】【因果という結びつき】といった程度の意味となるのかもしれない。
そして、そこで意味されることは、『個別の事象同士の固い結び付き(価値判断の入ったベクトル)』でなく
単に、【ある果には、原因がある】という関係性のみが言われているだけかもしれない。
(※ sam の挿入が、どこまでの強調のためになされているものなのか?が焦点かもしれない・・・※)
だから、ここに「応報」という語を持ってくることは、
2という事情があるにせよ、大きく外した読みではないにしろ、いささか行き過ぎなのだろう。


私は、個人的姿勢として、(詳しくない人・仏教をほとんど知らない人等と対話する時は特に)
「応報」という言い方をせずに縁起を語っていければいいな・・と思っている。
989神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 14:26:21 ID:EriUbZSF
因果関係に人智を超えた神秘性を潜入させてはならない。
990机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/05/02(水) 14:51:40 ID:W4q3NBhr
縁起を因果といふ脈絡に含意しては全く仏教の意味がない。
991神も仏も名無しさん:2007/05/02(水) 15:07:22 ID:EriUbZSF
縁起は、時間的生起の関係(因果関係)としてではなく、
論理的相互関係(相互依存関係)として理解するのが当然。
992神も仏も名無しさん
>>986-988
sam を無視したわけではなくて、「関係」というあっさりした意味だけではなく、「縛る」という
意味合いも含まれている点にも留意されたし、ということで bandh の意味を付記したものです。
逆に sam(共に)の付加で、bandha だけから想起される「縛る」という重い意味を緩和し、また、
因・果という2者の関係、結び付きであることを示しているのではないでしょうか。

hetuphala-sambandha の六合釈はどうなんでしょう。前分と後分は主語・術語というより、
前分「因と果」の内部構造の説明が、後分でされているように思います。
ですから「という」でよろしいかと。

次に漢語の「因果応報」の語順についてですが、これは「東奔西走」と同じような構造だろうと思います。
つまり、東西に奔走する、を東奔西走と分割表記して、一字ずつ飛び越して結び付く、という修辞法ですね。
略して「果報」という表現もあるように、原因に対応して結果としての報いがある、ということだと思います。

因果まさに報ずべし、と訓じるのは少し苦しいかな、と。因が報じるとなって変です。
ただ応報だけで使われる場合もあるので、その場合には、まさに報ずべし、と訓じて、
当然むくいるべきだ、むくわれて当然だ、相応のむくいだ、といったニュアンスも生じると思います。