2 :
釈迦原理主義者 ◇XQFt+/J1 :2006/10/09(月) 22:33:08 ID:UiAzXA30
3 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/09(月) 22:37:36 ID:UiAzXA30
テンプレは、謹んで 阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ に任せよう。おい、出番だぞ。
4 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/10/09(月) 22:46:56 ID:78GDgZnr
5 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/10/09(月) 22:49:11 ID:78GDgZnr
6 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/10/09(月) 22:56:51 ID:78GDgZnr
7 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/09(月) 23:11:26 ID:UiAzXA30
前スレは本当に酷い状態でした。もう、うんざり。これも修業か・・・ 本日の晩飯メニュー ・手羽元の塩から揚げフレンチポテト添え ・残り野菜のコールスローサラダ・オリーブオイルドレッシング ・トウモロコシの塩茹で ・冷奴 ・茗荷と茄子・お揚げの味噌汁 以上、約1時間かかって作りました。 おいしかったよ おやすみ アディオス!!
8 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/10(火) 09:34:17 ID:JvmZy7Fj
私の今朝のメニューを紹介しとう御座いまふ。 ・栗ごはん→栗は今が旬でして、これは裏山から採ったものです。 ・茎ワカメのスープ ・香のもの→ナス&きゅうり ・納豆(ミョウガ添え)→ミョウガは旬の終わり頃です(裏山より) ・オニオンスライス&ポテトのマヨネーズマリーネ デザートは、柿→柿はまだ旬には早いですね。→柿も裏山より。 いたって朝食はシンプルです。
9 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/10/10(火) 10:58:17 ID:IuUUVS8z
誘導といっても、件のダニ類は端から埒外・論外・対象外です。 よしんば身の程も弁えず侵入したところで、一顧だにもされないか、玩弄物にされた挙げ句、汚穢として処理されるのが関の山です(笑)。
朝はご飯とじゃ芋入り味噌汁と梅干☆ お昼は大概らーめん♪ 夜は鍋&納豆やっこ♪♪(夜は炭水化物を摂らない) 風呂(43℃)上りにベランダでビール♪♪♪
11 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/10(火) 12:46:40 ID:JvmZy7Fj
お昼は、近くのスーパーで魚フライ&メンチカツを買ってきました。 揚げものは鮮度が命ですね。 今くらいに買いに逝くのがいい。 揚げ物の中身が温かくなってるようでなくちゃ駄目。 レンジでチンは、かなり品質が落ちます。 私なんぞは、チンなどしたこたぁない。
12 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2006/10/10(火) 12:49:16 ID:Hw/oOmsC
>>8 豪華ですね!
僕は、朝は食パン一枚、昼は菓子パン一個です。
14 :
天狗退治 :2006/10/10(火) 13:10:54 ID:Q/S6kwWd
長崎ちゃんぽんはうまかですばい!
15 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/10(火) 13:41:36 ID:JvmZy7Fj
>>12 私は田舎者ですから、間に合わせの食材でメニューが決まるんですよw
私の田舎には、「立ち食いソバ屋」がなくて、
私が上京した時は、「立ち食いソバ」を喰うのが楽しみなんです(笑
あと、「東京ラーメン」ね、
あのシンプルな味がいい。
16 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/10/10(火) 14:21:08 ID:IuUUVS8z
>>13 かの長浜は店先の臭気に辟易(笑)。
行き付けは山陰街道近くの店。
18 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/10(火) 14:57:01 ID:Qbo9UDzt
本日は机氏の朝食に刺激を受けまして、の栗ごはんをつくります。 栗皮をめくるのがめんどくさそうで敬遠していましたが、お酒たっぷり +もち米1/3+昆布出汁(昆布茶少々の隠し味)で傑作をつくります。
みなさん主夫、あるいはご隠居さんですか?
21 :
カルトハンター :2006/10/10(火) 15:17:10 ID:1Yziqb6y
創価は異端ですよね。 前スレみましたけど、創価がなに生意気にも、原始佛教語っているんです? ここは創価の巣なんですか?
22 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/10/10(火) 15:20:37 ID:IuUUVS8z
糟禍も出禁ダニ輩も、外道という意味で同類。
23 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/10(火) 15:23:46 ID:Qbo9UDzt
>>19 スッタニパータ18〜34の牛飼いダニヤの「牛」『飼い』を、
「京都の賃貸マンション」『経営者』に入れ替えてもらえば小生になります。
牛の面倒を見るのは結構大変なんですよ。
しかし、神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。
よろしいですねぇ。 料理が得意なお父さんですか、
脂肪肝に注意しましょう。
26 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/10(火) 17:51:26 ID:Qbo9UDzt
>>25 毎日、夕刻1〜1.5時間 京都御所のなかをヴィッパッサナー瞑想をやりながら
ウォーキングすること。週2〜3回は水泳などでタップリ汗をかくこと。
すりおろしニンニクを汁物に溶かしてアリシンを摂取していれば脂肪肝には
なりにくいですよ。
27 :
天狗退治 :2006/10/10(火) 17:56:35 ID:Q/S6kwWd
>ヴィッパッサナー瞑想をやりながら >ウォーキングすること いいですね。
28 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/10(火) 18:14:23 ID:Qbo9UDzt
そうそう、「大安般守意経に学ぶ 釈尊の呼吸法」(村木弘晶 春秋社)の 吐く息を長く保つ丹田呼吸法=横隔膜呼吸法は常に内臓をマッサージしている ため脂肪肝になりにくいと気が尽きました。 ブッダの解脱へ至る重要なノウハウでしょうね。
ヴィパッサナーより酒だろ♪つーことでいま居酒屋で飲んでます(*^^*) 普段(週5?)はスポーツジムで筋トレ+有酸素運動、たまに水泳もやっております♪ あ〜〜〜気持ちがイイ〜〜〜♪♪♪
あぼーん
31 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/10(火) 23:42:29 ID:Qbo9UDzt
若いときの胃袋は底知れない。あっけにとられる。 家族五人だが、20歳前後の男子二人で うるち米七合+餠米三合+栗1.5Kg ほとんど完食しよった。 その他、もろもろのおかずも含めて・・・ エンゲル係数が高くてびびる。 おやすみ アディオス
32 :
草レーサー :2006/10/11(水) 07:53:34 ID:NGMmdS+N
みなさまおはようございます。
私の場合、クルマの運転がそのままサマタ・ビパッサナの実習
になっています。
面白いことに、ゆっくりとした歩行瞑想を厳密にやろうとする
と、非常に忙しくなってくるのに対し、ギリギリまで速く操作
するレーシングドライブでは、逆にどこか間延びしたような
ゆっくりとした時の流れを感じてきますね。
>>29 オレもジム行ってるよ〜
身体動かして汗を流した後は気持ちいいよね〜
33 :
聖霊大王 :2006/10/11(水) 10:45:09 ID:jy6d2uj9
ま、取り合えず、平和になって、良かった、 騒乱状態を止めるのに、少し役立ったか、、 カルトハンターとか、馬鹿が残るが、、、 机龍之介 ◆8Z1PfzdK1と寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7が、中心にいい話なればいいね、、 平和をお祈りします、、、
34 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/10/11(水) 11:37:31 ID:vak4/gPm
愚かな平和よりも、談論風発の大激論のほうが千万倍マシ。 無論、癡愚外道ダニどもの駄弁排泄は問題外だが。
こいつ見たら110番→阿部・将英(フルフィルメント瞑想)
http://money4.2ch.net/test/read.cgi/manage/1160435912/ 阿部・将英っていう2ch宗教板・癒し板管理運営しているスタッフなのですが、
気に食わない人間はIPログから身元割り出して、そいつの実名書き込み
したり、遠隔透視の超能力だとかいって霊感商法でお金ネコババしたり
してる基地外です。このこと皆に広めてやると警察に言うって偉そうに言い出すので
望むところだから警察まで出向いてやるっていったら、ビビってそのまま逃亡(笑)
下記は阿部の犯罪の確たる証拠のほんの一部ですが、こいつ見かけたら
110番通報お願いします。2ch住人の力で刑務所に放り込みましょう。
●どりーむろっじ 阿部・将英の銀行口座は偽造されていた!!
※(参考銀行口座)みずほ銀行蒲田支店3160358アベマサヒデ
指摘されて以後は、即他の銀行口座へ変えている。
●UFJ銀行 三宮支店 (普)3977007 野見山 明子
(サイト名・瞑想教室みのり) 特定商取引に関する表示義務違反
(おそらく偽名・架空の人物で、阿部のネカマキャラという噂も)
36 :
名無しさん@3周年 :2006/10/11(水) 12:10:16 ID:k0tftFCN
>>33 つまらない話しかできん草加のおまえは当スレではお呼びじゃねぇよ。
巣に帰れ!帰った、帰った。ぺっ。
37 :
聖霊大王 :2006/10/11(水) 14:37:23 ID:8VqwiCAP
36のような、ばか者が、カラスのような外道を呼び込む、、 自覚亡き阿呆だ、、、
38 :
聖霊大王 :2006/10/11(水) 14:44:40 ID:8VqwiCAP
36は、八正道を知らんし、関心ないだろううね、、
39 :
名無しさん@3周年 :2006/10/11(水) 15:40:25 ID:k0tftFCN
>>37 少なくともカラスはまともに議論のできないおまえより仏教を知っているよ。
おまえの草加は外道じゃねぇってのかい!まともに議論もできない外道は帰った帰った。
ここは原始仏教を語るスレ。草加の来るところじゃない!外道は帰った帰った。
40 :
聖霊大王 :2006/10/11(水) 15:44:54 ID:8VqwiCAP
39は、正しい言葉を語るを知らないらしい、、哀れ、、、
41 :
名無しさん@3周年 :2006/10/11(水) 16:11:07 ID:k0tftFCN
>>40 だからおまえんところの草加は、外道じゃねぇのかと聞いてるんだよ!
他人に正語を言う前に、てめぇが正語を使いやがれ、草加!
草加のおまえは、正語の意味もわかってねぇじゃないの。
さ、外道は帰った帰った。
42 :
聖霊大王 :2006/10/11(水) 16:12:18 ID:8VqwiCAP
へーーーー、39は自分が気に食わん奴を、層化、外道と断定するのが、、 原始仏教の教えらしい、、知らなんだ−−−,頭いいんだ、、 外道、層化と罵声することが、議論で、知識なんだ、、、、へーーーー レベル高いねーーーー君は、、、
43 :
聖霊大王 :2006/10/11(水) 16:21:05 ID:8VqwiCAP
正定は、41にないだろうね、、 三毒、怒りの塊とか、、
44 :
名無しさん@3周年 :2006/10/11(水) 16:22:04 ID:jkZ0Ub2W
カラスは無視、無視
45 :
聖霊大王 :2006/10/11(水) 16:25:03 ID:8VqwiCAP
八正道の心有るもののみを相手にしよう、、
ごちゃごちゃ言ってねぇでトイレ掃除でもしてらっしゃい。 浄穢を超えずして何が八正道だ?このバカちんが!!!
飲食、嗜好品の流れで言うと > >ブッダの禁じられた飲酒にインド酒はともかく、日本酒とウィスキーが入るかは知らん。 > これが日本の仏教さ。詭弁で何でもOK。詭弁でなんでも開き直り〜。 タバコはどうなんだろう? 律で禁じられてないからと、南方の比丘で喫んでる者がいるやに聞いたが。
48 :
聖霊大王 :2006/10/11(水) 16:37:36 ID:8VqwiCAP
46の意見で、カラスが燃えるんだろうね、、ご苦労様、、争いの種をまくんだ、、
49 :
名無しさん@3周年 :2006/10/11(水) 16:41:19 ID:jkZ0Ub2W
仏教がエクスタシーなどトランスを求める宗教だったら ブッタはソーマを飲めと説かれただろう。
いや、タパス(苦行)をせよ!と仰せだったであろう。 さすがにわしは自殺行為的実践は試みたことない‥ 死の間際に臨死体験といふものがあるらしい。 釈尊も臨死体験を得たであろうか‥ さあみなさん、息を止めましょう♪
51 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/11(水) 18:16:08 ID:127rqGyw
>>50 莫迦牟尼佛 はん、ウソゆーたらあかんわ。
大安般守意経を読めば、怒責(強く息を止めること)は絶対厳禁。
ブッダの苦行時代からの体験的結論でっせ。試行錯誤の上のブッダの大反省ですわ。
出息長・入息短の存分の呼吸をせんと、酸素が脳に十二分に供給されず
120%フル回転した高度な精神的境地に至れまへんで。⇒徹底思考の瞑想
(雑阿含経第二十九第六経 参照)
52 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/10/11(水) 18:52:40 ID:r6ynEEYx
なーんだ!!次スレ立ってんじゃん。
俺様が立てるなと言ったろうが。どういうことだいこれは?
俺様によっぽど遊んでほしいよーだーなー。ククク。
>>42 >へーーーー、39は自分が気に食わん奴を、層化、外道と断定するのが、、
横レス失礼。
ちゅうかおまえ創価だし、なにとぼけてんの?
今は禅ごっこですか?智慧のない人はとことん智慧がありませんな。
一転集中型のサマタでは智慧もわかず、悟りはないですぞ。
プロテスタント→創価→禅宗。わっははは。アホは真理に近づくことなく、
バッタもんばかりに引かれるようで。
しかし嘘はいけませんな、嘘は。あんた創価なんだから。正語を守りましょう。
53 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/10/11(水) 18:54:31 ID:r6ynEEYx
しかし改めて読むと、全スレの913 例によって相も変わらず、 創価のおばちゃんの知ったかが炸裂してるわけだ、これ。 >2 人間の内部に「神的火花」「本来的自己」が存在するという確信 >「人間は創造神の造ったものであるが、その中に、至高神に由来する要素がわずかだけ閉じこめられている」 >つまり本来的自己とは霊(プノウマ、原義は気息でサンスクリットのプラーナに相当する)であり、 >カラスはそれを「真我」であるとし、ブッタが「無記」としたものと解釈する。 ま、いつものように、どこかの本の受け売りをそのまんま垂れてるわけだ。全然違うわ、タコ!!。わっははは おい、知ったかのボケ。教えてやるよ。キリスト教では、霊は人間だけに宿り、獣には宿らないんだよ。 な〜にが霊は気息だ。寝言は寝てから言えや、気息と霊の違いも知らない、知ったかの艇脳児が。 ほれここ見てんだろ。知ったかは恥ずかしいぜ〜、ケラケラ。 あのな、どこかの学者さんが言っていることが正しいとは言えないんだよ。 やつらが正しければ、学者の先生方は、全て真理を悟り、阿羅漢ですわな、ククク。 もちろん、んーなことわない。アホがそんなことも気づかず、どこかの解説書読んだだけで、 グノーシスを知ったつもりでいやがる。低脳はまことにおめでたいねん。 顔が真っ赤ですよ、知ったかの創価の、おーばーちゃん。 わはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは。
54 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/10/11(水) 18:56:51 ID:r6ynEEYx
気息は、獣でもしますわな。 わかるかい?知ったかの、創価のおばちゃん。カカカカ。 しかしおまえ、どこまでも俺を笑わせてくれますな〜。
55 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/11(水) 19:58:00 ID:127rqGyw
ブッダは四聖諦で『苦』を語られたが、 一方で『楽』についても語っておられた。 意を守る中に四楽あり、 一には要を知るの楽しみ =要楽 二には法を知るの楽しみ =法楽 三には止を知るの楽しみ =止楽 四には可を知るの楽しみと為す =可楽
56 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/10/11(水) 21:14:08 ID:vak4/gPm
NG外道ダニ輩はどんな餌にも食い付き、基地害妄語を排泄する汚穢以下の代物です。 専用ブラウザの機能で視界から抹殺するなりして、完全無視のこと。 以上確認まで。
58 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/10/11(水) 21:38:36 ID:vak4/gPm
無闇にレス番が飛ぶのは、NG外道ダニ輩の汚穢散布のためであろう。あれらリソース浪費基地害は存在そのものが資源の無駄。
59 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/10/11(水) 21:51:10 ID:r6ynEEYx
>>56 なんだおまえ、NGワードで俺の投稿がみえねぇのか?
なら都合がいい。聞こえないのなら好き放題いわせてもらうぜ〜。
おまえは本当にアホだな、アホ。
外道。六師外道の話しを見るまでもなく、外道なのはこいつのような
思想を持つものの事を言うんだよね。仏教をまるで意味のないものにしている。
60 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/10/11(水) 21:59:35 ID:r6ynEEYx
ちなみに『至高神に由来する要素がわずかだけ閉じこめられている』 のこの要素ってなんだかお前らにわかるか? そういや大乗の思想にも阿頼耶識の奥底に、光の粒と言うか、佛性と言うか そういうものが付いているという思想があるって聞いた覚えがあるな。 それはなにかは、俺はよく知っているぜ。 しかしアホ創価ばばぁ〜の知ったかには、呆れてものが言えんわ。 あれ、早く死ねばいいのにな。
61 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/10/11(水) 22:02:44 ID:vak4/gPm
視界から抹殺されるNG底辺外道ダニ輩もスレ落ち防止のための使役機能程度は果たせるようだ。 折りを見てageることを命ず(笑)。
仏教って儒教とかに影響与えてる?
63 :
名無しさん@3周年 :2006/10/11(水) 22:57:47 ID:a4oH51ow
64 :
名無しさん@3周年 :2006/10/11(水) 23:25:54 ID:a4oH51ow
>>52 一転集中型のサマタでは智慧もわかず、悟りはないですぞ。
ちょっと、見直した。けど、やっぱり>> 60なんですね。いつか、超えられることを祈っとくよん♪
65 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/11(水) 23:26:49 ID:127rqGyw
第一の要楽とは人生の根本的な楽しみで生甲斐といえ、人との共同で分かち合える 根源的な枯れざる歓びをいう。 第二の法楽とは、法を他と共に自得・実践できる楽しみをいう。美について感動し、 親しき友との不二の交友、四季自然への溶け込みを含む。 第三の止楽とは、無雑念の「止」「観」=心を一事一物に集中することで湧き出る喜楽といえ、 根源的な本質へ到達・生知できる歓びをいう。 第四の可楽とは、「さらに楽しむべきものを知る」歓びをいう。逆にいえば、楽しみの節度 ・限度を知る洗練された態度・境地であって、不変の最高の楽しみといえる。 ブッダは世に溢れる、低級なペシミストではない。 藤村 操 よ、早まてり!
66 :
創価ハンター :2006/10/11(水) 23:27:19 ID:UWg6Lple
>>58 、
>>61 無差別大量殺人破壊活動カルトの創価学会SGIと自民公明、犯罪公務淫など、
東京ドームを毒ガス室に改築して、かかるゴキブリらを処理すれば、日本の破滅は免れ得るかも知れませんね。
他に有効な手段などないのですから!
67 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/10/11(水) 23:50:57 ID:r6ynEEYx
>>64 アホだな。自性を語れないものに、悟りはないんだよ。
お前達は大変な思い違いをしている。
神という単語に反応しすぎなんだよ。仏と言えばいいか?
ま、その程度の言葉の定義などどうでもいい。
ところで釈迦の修行とは、とどのまりヨーガだ。
これを否定すると、トンデモになる。
ヨーガの起源は古い。古くはインダス文明から見られ、イ
ンドに入ってきてからは、最古のウパニジャッドの文献にも見られる。
釈迦はこのヨーガを行っていたんだよ。
ヨーガとはなにか知ってるか?それは神人合一。わかる?ヨーガとはとどのつまり
目的はこれなんだよ。
ヴェーダを聖典とするバラモンは、もともとヨーガにより悟りを開くはずが、
いつのまにか、祭祀中心となり、バラモン達はいつか堕落し、祭祀により利得を得るのに
専念していった。釈迦はそれを批判したんだよ。そして彼の仏教は、再び、ヨーガ
に目をむけ、それにより悟りをひらくという、いわゆる原点回帰の教えを効したに他ならない。
ちなみに釈迦の入滅後、成立したヨーガの聖典、ヨーガスートラのごく初期の部分は、
明らかに仏教の影響を受けているとされている。君らの仏教(主に大乗系)は、
この肝心のヨーガが、すっぽり抜け落ちている。おまえらは長い年月をかけて、仏教を、
大きな勘違いに導いていったんだよ。君らの仏教は、大きな勘違いなんだよ(苦笑)
証拠に君らの仏教は、糞の役にも立たない。ほら、ヨーガとはなにか、ググってごらん。
釈迦がこの世を捨て、何を目指していたのか、何を目指しなさいと説いていたのか、
今の定説に囚われない、目の開いた人なら、たちどころに悟るだろう。
ま、ここにいる連中じゃ無理だろうけどな。カワイソウニ。。
68 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/11(水) 23:52:30 ID:127rqGyw
本日の晩飯メニュー ・前菜:@丹波黒枝豆の塩茹で A引き揚げ湯葉冷製生山葵添え ・主菜:鯵の塩焼 ・副菜:菊菜・ヒジキ・コンニャクなどの白和え ・汁物:アサリの潮汁 ・ご飯:1升五合 走りの丹波黒豆枝豆は最高!世界No1!! ブッダにも献上させて頂きたい美味しさでした。 アディオス!
69 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/10/11(水) 23:55:04 ID:r6ynEEYx
もちろん今のキリスト教徒だって、イエスの言う「天の父」とは ”何者” かを悟れば、古い信仰に囚われている今のキリスト教徒達にいうぜ。 「信仰を捨てよ!お前達の神はいない!」ってな。 これは前スレでも言ったっけか?ま、どうでもいいや。
70 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/10/11(水) 23:59:08 ID:r6ynEEYx
今の似非仏教徒は、神と言う単語に反応するが、 それはみんなの思っているようなものではない。もちろん今のキリスト教徒 が思っているようなものでもない。彼の正体を知るものは少ない。
71 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/12(木) 00:22:07 ID:nbPBEXZf
セピア色をした音色で、ティボー&コルト―の奏でる フランクのVnソナタが流れている。 微熱を帯びた高貴な情熱で音楽は流れ、 モーツアルトのジュピターシンフォニー以来とおもえる 神の筆と思えるような奇跡的な終楽章フーガが部屋を満たしている。 子供たちは自室で楽しみ、妻は軽い寝息で就寝している。 神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。 おやすみ
72 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 00:40:13 ID:M5hgEJev
>>67 ユガ行派の唯識思想は自性を説いてると思うけど…
73 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 00:44:51 ID:4rZ6zGzM
>>67 自性、神、アートマン、ブラフマン、大日如来、サマンタバドラ、カーラチャクラ、
なんと呼ぼうと、仏教ではそれは空なのです。
サット、チット、アーナンダ(有、知、楽)って知ってる?
ブラフマンの別名でその境地を表してるんだけど、貴方の体験はそんなとこでしょ?
ところがヒンドゥーに似てると非難される密教でも、空、光明、楽と表現するんですよ。
有、知が主体を立てた表現なのに、空、光明は主体を立てない無我こそ、あるがままだから。
仏教は一貫してそう。如来蔵もアーラヤも空に他ならない。誤読する人はいますけどね。
ちょっと考えてみて、
74 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/10/12(木) 01:00:53 ID:qPMpf7Iu
>>73 >自性、神、アートマン、ブラフマン、大日如来、サマンタバドラ、カーラチャクラ、
>なんと呼ぼうと、仏教ではそれは空なのです。
わっははは。またしたり顔の大乗仏教徒が空を使ったトンデモ見解で意見してきたよ〜
あのな、それが空なら、自性とは言わないんだよ。わかる?
まるで自性と、無自性はまるで正反対なわけ。わかる?しったかさん。
もう一度仏教用語から勉強しましょうね〜知ったかさん。わっはははははははは。
自性はないと断見するなよ。釈迦は少なくとも、お前らの定説でも、一切以外、
つまりこの世である無自性以外の世界は歩かないかは無記としたんだよ。
お前達の定説でもな。ま、実際は語っているわけだが。
ま、今の仏教会の定説にひたすら執着する君らは、永遠にわからないだろ。
せいぜい自分達のエゴに執着し、無意味な仏教で、一生を棒に振ってください。
ちゅうかお前らの仏教で、苦が滅することができると思ってるわけ?出きるわけないよな。
君らの仏教は、苦の滅と言っても、せいぜい気休め程度。そんなのは中学生でも、
君らの仏教知ればすぐに悟るぜ。
しかし「空」と言う言葉は便利ですな〜〜。
75 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 01:16:02 ID:4rZ6zGzM
やっぱダメか
からすの唄という方は 仏教をいわば勉強してる人であって仏教徒ではないと言う理解でいいのでしょうか? 教えて悟った人。
77 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/10/12(木) 01:20:43 ID:qPMpf7Iu
ちなみに創造神は、真理を悟るものからは、あまりよいものとは表現されませんな。 グノーシスでは、悪神デミウルゴスとされ、別名「無知」と蔑称される。 ま、ブラフマンも、デミウルゴスも、君らの言う縁起により生起し、 ある意味縁起そのものである彼らは、無自性な空でしょうな。 そりゃ仏である釈迦は、それらより上だと見るわけだ。グノーシスでは、 父の独り子であるイエスを、それら創造神より上に見るわけだ。 俺は創造神の話をしているんではないんだよね。 ま、本質は仏も、ブラフマンも、独り子も、デミウルゴスも同じなんだけどな。 わかるかな?わかんねぇだろうな〜〜。 さぁ寝よ。もう俺をこんな糞スレに呼ぶなよ。あばよ。
78 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 01:43:16 ID:4rZ6zGzM
>>77 分かるよ。単純だから。私も始めそうゆう理解したし。仮象から実在へ。
世のたいていの神秘主義はそう捉えてる。カバラ、スーフィー、ヒンドゥー、
ボン、道教、神道などなど。
独り、仏教だけがそう捉えていない。それを理解するのは結構たいへんなんだ。
なかなか、基体や本質がないと世界が成り立たないという思いこみが深いから。
まあ、縁があれば将来、何世先か分からないが分かるでしょ。
それとこれは大乗だけではなく、完全に原始仏教からだ。
いくつか逸脱して基体を設定してしまう人たちがいたに過ぎない。
これが分かんないと仏教じゃないんだな。そこは譲れない。
79 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 07:43:59 ID:M5hgEJev
>>78 実在を求めてるとかいう指摘は、有無の分別から出られてない。
無自性や空は、無でも有でもないわけでしょう?
あなたの指摘は無の主張に聞こえます。
無自性というのは自性がないということであり、真如じゃないということ。
真如じゃないから、妄分別・空である。
「真如=空」ではない。「真如じゃない=空」。
もちろん、「真如だ」「空だ」という言葉による分別も、
真如じゃないから空ですが。
縁起により成立しているものは、それ自体では成立しえないから、無自性という。
無自性であるから、空であるという。
空であるというのは、虚妄分別であるということ。
無自性であり空である虚妄分別を除き去った状態を、
真如・円成実自性と呼ぶ。
ところが般若心経だけ読んでる人の中には、
空を真如のことだと勘違いしている人が多い。
空じゃないから真如なのに、空を真如と同義に扱うと、
逆の意味になってしまう。
80 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 08:03:31 ID:M5hgEJev
空・無相・無願を三解脱門という。 これらは、どれか一つを悟れば三つすべてを悟ることになるそうです。 しかし、三つに分けているというのには意味があるはず。 無相とは、カラスさんのいう「一」のことであり、真如のことでしょう。 空とは、妄想分別であり実体・自性がないこと。 あらゆる相は空であり、真如は無相である。 これに気付けば、欲望のない無願の境地になる。
81 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 09:22:30 ID:4rZ6zGzM
>>79-80 そう単純な仮象/実在構造。 その見解だと実在が無相といっても「在る」。
その見解だと縁起・空/真如・無相という対立構造になる。
つまり非三昧/三昧の状態、三昧では現象が静まるが、三昧から出ると現象が現れ、相変わらず虚妄。
ところが 縁起・空=真如・無相なら、現象している状態が三昧の状態と同じ境地になる。
つまり現象に迷わない、現れてもあるがままで虚妄に陥らない、これが色即是空空即是色、
原始仏教では同じことが無常・無我・空として表現される。そして 真如は、有無を超えている。
在るとは決していわない、無いとも決していわない。
だから、縁起・空/真如・無相という対立構造で何か基体を見てしまう見解は、境地が低く、
解脱できない。それが『スッタニパータ』875-877、『ウダーナヴァルガ』26.20-30 で述べられることで、
自性では決してありえない。三解脱門は全く正しいが、自性では決してありえない。
これが分からなければ仏教ではありえない。仏教徒はずっとアートマン・ブラフマン等の
実在、実体、自性を否定し続けてきた、その意味を認めなければならない。
私が説く大乗は、机さんや日本的大乗とは全く違う、インド伝統の大乗であることを理解していただきたい。
82 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 09:53:55 ID:59muk27K
svabhavaの意味も分からず、ほざいている低能がいるな・・・ 唯識は三性説ね。
83 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 10:20:43 ID:qPMpf7Iu
>>82 なにがsvabhavaだよ。普通に日本語で自性といえ。
しかしここはこんな奴ばっかりだな。
あのな、中論とか、釈迦の時代から随分たった思想が全て正しいという
断見から、あんた達の迷いがあるんだよ。
しかもここ原始仏教のスレだし。
相も変わらず、般若心経が仏教の全てだとする人達が、幅を利かすんだね〜
こりゃ日本の仏教は駄目なわけだ。
般若心経など、所詮無自性なこの世界を説明しているに過ぎない。
もちろん無自性なこの世界に、真理などはない。
しかし自分達の定説にがんじがらめに縛られて、目から鱗の御仁はおらんのか。
84 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 10:32:08 ID:qPMpf7Iu
何度もいっとるが、 諸法無我、諸行無常は、元々は 一切法無我といい、一切行無常と言っていたんだよ。 つまり、無我も無常も、一切の内の中の話。 一切とはなにか、仏教徒ならよくご存知だろう。
85 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 10:43:27 ID:59muk27K
あなたの日本語がおかしいんですけど? 一切の法とか一切の行とは何か?なら分かるけど・・ 一切の何? ちなみに「一切」は形容詞、すべて、あらゆると言う意味だよ。
86 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 10:47:09 ID:qPMpf7Iu
>>85 あなたは仏教用語を知らないんですね〜。
せいぜいあまりたいしたことないな般若心経をありがたく頂戴して、
自分達の無意味な仏教で悦に入ってください。
87 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 10:55:42 ID:59muk27K
「空」と「空性」、「余れるもの」の区別がないと、誤った理解になるよね。
88 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 10:56:51 ID:59muk27K
>86 あなたは自性とは何か知ってるから、空と空性の違いはもちろん分かるよね?
89 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 10:59:03 ID:59muk27K
>86 質問に答えないととこみると、日本語がおかしいことに気づいた? 俺は超能力とかないから、ちゃんとした日本語で書かないと理解 してもらえないよ?
相変わらず迷いカラスによる自作自演の虚構暴説が展開してますな。 いちいち相手する暇があるなら読書するなりトイレ掃除しなさい。
91 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 11:48:15 ID:nbPBEXZf
>一転集中型のサマタでは智慧もわかず、悟りはない >大安般守意経(安般守意、安般念の守意・念=スムリティ) 日曜早朝の「こころの時代」で 八正道の正定(定=スムリティ) はヴィパッサナーだと言っていた。 南伝でサマタとされる四十業処には安般念が入る。 これらの関係はどうなっているのか?
訂正 >八正道の正定(定=スムリティ) 八正道の正念(念=スムリティ)
94 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 13:42:59 ID:nbPBEXZf
しかし、ブッダは人の印象に残るように数字を巧く使われるね。 超一流の導師だな。 ・三(四)宝印・十二縁起・四聖諦・八正道・四楽・四意止・五根・五力・七覚意などなど
みなさん宗教と科学の違いを考えたことあります? 1度考えてみてはどうでしょうか? 個人的には宗教と言うものは閉じた世界で者を考え、逆が科学ではないでしょうか? つまり、宗教はあくまで教義のをもとに事象を理解しようとするのですが 科学とはある事象をりかいするのに実験や事実によってたしかめようとするのです。 宗教とはどこまでいってもぐるぐると閉じた世界を回っていて自分の尻尾をおいかけてる犬のようなかんじですね。 ある意味哲学とか心理学のひとつの学説にしがみついているようなかんじのような気がします。
96 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 14:21:23 ID:nbPBEXZf
『宗教』のなかにゴータマブッダの教えという意での『仏教』は 入れないで下さい。 科学はブッダの縁起弁証法の内容を解明してゆくものです。 仮説(理論)と検証。 どーでもいいけど、キリストの復活って、たとえゴキブリに復活しても復活だが 輪廻転生なんてカワイソス。解脱しとけよ。ブッダだったら お断り だろうな。
>>96 ちょっと違います。
宗教の偉い開祖さまとかの考えはあくまで科学的なひとつの理論だと思いますよ。
じゃあ何が宗教かというとその他の人たち周りの人たちそして後世の人たちががそれをどう捕らえるかと言うだけですね。
ある一人がとなえた仮説、論をあくまで真理とかんがえ、それを解釈する人たちやひたすら信じる人があつまると宗教になるけど、
その考えが正しいかどうかを見極めようと試行錯誤し間違っていたら別の論を考えると科学になると思います。
私の個人的な考えですけど。
98 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 14:43:20 ID:qPMpf7Iu
>>89 わたすは、アホの相手はしないだけです。
あなたはアホすぎます。
自分の投稿がいかにアホなのか気づかないところが
あまりにアホすぎます。
99 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 14:51:27 ID:qPMpf7Iu
>>96 >どーでもいいけど、キリストの復活って、たとえゴキブリに復活しても復活だが
>輪廻転生なんてカワイソス。解脱しとけよ。ブッダだったら お断り だろうな。
復活の意味が全然わかっていませんね。
その辺のキリスト教徒と同じ事を言っていますね。
涅槃に入るのを、キリスト教では復活と言うのです。
キリスト教を理解してから、キリスト教に意見しましょう。
ま、あなたじゃ無理だと思いますが。
>科学はブッダの縁起弁証法の内容を解明してゆくものです。
>仮説(理論)と検証。
君もアホ過ぎます。どうせ言うなら科学は、この世は空であるということと、
いずれ、絶対者にぶつかる事となるでしょう。現にそのように進んでいるように思われます。
100 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 14:56:50 ID:nbPBEXZf
>>98 カラスよ、松沢病院精神科から迎えに来て貰えや。
>>100 お前はレベルが低すぎる。
いくら仏教をかじろうと、おまえは凡夫どまりだよ。
>100 寒山&拾得さん。 あなたのよう唯物論者を、釈迦は外道と称したのですよ。 可哀想な人だ。
103 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 15:34:57 ID:nbPBEXZf
おやおや、やはり冗談と皮肉が解からぬらしい。プププ・・・
104 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 15:37:10 ID:nbPBEXZf
>>95 科学は事実をもとに、それを説明づける理論を構築する。(たとえば万有引力の法則)
その理論で説明つかない事実に直面したら、理論の練り直しをしていく。
(たとえば光速の観測結果=光速度一定から特殊相対論の構築へ)
宗教思想は、事実が人間にとって持つ意味を考える面はあるかも知れない。
たとえば旧約聖書ヨブ記で、苦悩の連続の意味を考えたような。
>>96 >『宗教』のなかにゴータマブッダの教えという意での『仏教』は入れないで下さい。
確かに仏教の場合、一般的な宗教の枠組みに入りきらない感じはある。
>ゴキブリに復活しても復活だが
別の肉体に甦るという考え方なら、復活というより転生じゃないかな。
キリスト教では同一の肉体での甦り、という発想から、復活を待つため火葬じゃなくて土葬にする意味、
魔女裁判で魔女(とされた人)を火炙りにする意味、なども出てくると思う。
106 :
聖霊大王 :2006/10/12(木) 15:39:41 ID:cmlwiIwd
呪文をさずけよう、、 「カラスは三毒、無視、無視、無視、、、」 皆さん、これを唱えて、追いだしましょう、、、、、
>>85 これを指してるのでは?
智度論三十「滿一切者、名字一切。非實一切。」
「名字の一切」と「実の一切」を区別している。
一つは名字(名目上)の一切(almost)、もう一つは実の一切(all)。
「諸」の字義からすると、名字一切ではあっても、實一切ではない、と。
108 :
96 :2006/10/12(木) 16:07:53 ID:nbPBEXZf
わざわざ『どーでもいいけど』と前書きしているのに、
ホント簡単に釣れるね。本当の「かまってちょうだい君」だ。
南無大師遍照金剛と同じだな。
おっと、カラスにエサをやってはいけないんだった。
>>4 >>56 >>106 すんません、反省します。
今夜のメニューがなかなか決まらなくて、ちょっといらついておりました。
>108 あなたは外道だと自覚は出来ましたか?
ところで皆さんは釈尊が現在の世界にうまれたら現代の科学のじょうきょうを踏まえどんな教えを説いたと思いますか? もし、宗教とか哲学以外のせかいだったらどんな分野でどのように活躍すると思います?
111 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/10/12(木) 16:16:26 ID:kgHLG1Mh
>>100 困ったことに、最近は松○病院にもネット環境が導入されている模様ですな(苦笑)。
112 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 16:33:27 ID:nbPBEXZf
>>109 私は ブッダの言われる 自灯明主義者ですよ。
そんな下手糞なラベリングではヴィパッサナー瞑想は進歩しませんよ。
お互いに注意しましょうね。
ニュアンスいっぱいの人間をそんな類型的判断で押しこめるなんて、
「自由」の精神に欠けると思いますよ。
んんんんんんんんんんんん〜〜〜
メインディッシュをどうするのだ! お酒とほうれん草タップリの
豚の常夜鍋にでもするか!
美味いポン酢をつくらなくっチャ。
でわでわ・・・・
>112 あるがままをあるがままみれないあなたが、なにが自灯明なんです? 自らを特定の価値観に執着し、がんじからめにしているのに気づきませんか? そんな石頭では、ヴィパッサナーの瞑想も進歩しませんよ。
>112 あるがままを、あるがまま見れば、あなたは外道です。 それが正しいものの見方です。まずそこから始めないと、あなたの佛教は単なる自己満足だけで終わるでしょう。 正見も出来ない人が、なにがヴィパッサナーなんです(失笑)
115 :
聖霊大王 :2006/10/12(木) 17:39:52 ID:cmlwiIwd
呪文をさずけよう、、 「カラスは(失笑),三毒、無視、無視、無視、、、」 皆さん、これを唱えて、追いだしましょう、、、、、
116 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 17:49:36 ID:M5hgEJev
>>85 小乗仏教では、「一切」といえば十八界のことだと、
中村元『龍樹』で読んだ気がするけど。
117 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 18:10:00 ID:59muk27K
>116 前スレに書いてあったよ。 彼の言う「一切」はグノーシスで否定的に説かれる「コスモス」なんだって。 でもギリシャ・ローマの宇宙観とインドの宇宙観は別だし それを仏教に当てはめるには当然無理がある。 ましてそれが「十八界と同じである」とは言えないな。 どうもキリスト教とかの概念で仏教を解釈するみたいだな。
118 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 18:11:23 ID:M5hgEJev
>>81 それをいいだすと、
現象にとらわれ迷う/現象が現れてもあるがまま
という対立構造も浮かんできますよね。
結局、縁起による現象を「在る」とあなた自身が認めてる。
縁起は無にならない。
縁起の中から無自性である分別を取り去ったら真如。
決して無や有を説いているわけじゃなく、
縁起による現象を認めつつ、
分別判断については無自性・空だと言ってるわけです。
真如についても、真如だという分別判断は空だから真如ではありませんね。
空なる分別を空なる分別だと気付いているのが智慧・観察でしょう。
三昧から出たら真如は消えちゃうけど、
真如を体感したことのある瞑想者は智慧があるので、
妄分別が妄分別だといつも気付いていて、いつも夢から覚めている。
自灯明、法灯明。 自灯明だけだと、個人主義や自己中心主義と誤解しやすいかも知れない。
120 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 18:16:11 ID:qPMpf7Iu
>>117 ボケが。俺は仏教の言う一切とは何かと聞いているんだよ。
で、グノーシスちゅうか、キリスト教の宇宙観と、インドの宇宙観はどう違うわけ?
インドの宇宙観は、地面を象さんが支えているんですか?
わはははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははは。
知ったか君は、お呼びじゃねぇんだよ。タコ。
懲りない奴だ。
121 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 18:18:07 ID:qPMpf7Iu
>>118 あなたは正見を持つ、智慧のある人のようだ。
ちなみに、ここの連中になんぼゆうても、わからんよ。
122 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 18:19:07 ID:59muk27K
何のために聞くんだ? 知らないからか? 知らないなら「教えてください」と言うべきでしょう?
123 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 18:22:26 ID:qPMpf7Iu
>>122 おまえを馬鹿にする為に聞いているんだよ。
そんなこともわからんのか?
さすが正見をもてず、邪見で悦に入るだけのことはありますな。
智慧の欠片もありゃしない。
わはははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははは。
畜生もしくは餓鬼、地獄へと没落した見るも無惨な哀れ糞蟲が増えたもんだ。
>>116 >中村元『龍樹』で読んだ気がするけど。
その部分は自分も大いに関心を抱いて読んだ。たしか説一切有部の説の紹介じゃなかったかな。
あまり納得できなかったけど。
>>117 >彼の言う「一切」はグノーシスで否定的に説かれる「コスモス」なんだって。
>どうもキリスト教とかの概念で仏教を解釈するみたいだな。
ヘレニズム期のギリシア語文献に、ブッダの説話が書かれたものがある、というのを
何かで読んだ記憶があるなあ。
当時のシンクレティズムの諸宗教、特にペルシャ辺りでの混淆現象と仏教との関連を
調べること自体は、何か裨益するものがあるかも知れない。
>>125 いつからアホダラの代行になったんだよwww
128 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/12(木) 19:53:15 ID:kyMa+gwc
>>118 >真如を体感したことのある瞑想者は智慧があるので、
白隠が参禅帰りに真如を体感しましたよ。
師はこれを「見性体験」などと後に記しておりますが、
>妄分別が妄分別だといつも気付いていて、いつも夢から覚めている。
白隠も、よぉく考えて気づいたんでしょうね。
それが真如でも、なんでもない。ってことを・・・
この「なんでもない」ってのを、白隠は「大悟」と、
かように後に文献の記すことになる。
まあ、グリコのキャラメルは二度美味しい。
ってことなんでしょうね。
129 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 20:41:58 ID:qPMpf7Iu
>>128 >白隠も、よぉく考えて気づいたんでしょうね。
>それが真如でも、なんでもない。ってことを・・・
白隠がそう思ったんら、見性体験は、真如を体感ではなかったんでしょうな。
釈迦は、禅宗の十牛図のように、悟った後は普通の生活に戻るんじゃなく、
むしろ起きている限りは慈悲の心を常に持ち、なおいっそう、勤め励みなさいと
いっている。そして八正道を修めなさいとね。実際彼らの時代のサンガではそうしてたわけだ。
禅思想を、あたかも仏教思想のごとく語るなよ、おまえ。
130 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/12(木) 20:55:04 ID:kyMa+gwc
>>129 >勤め励みなさいと いっている。そして八正道を修めなさいとね。
この分別から離れる。
では、おやすみなさい。
131 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 21:12:06 ID:qPMpf7Iu
>>130 だからおまえらは、仏教じゃないと言っているんだよ。
132 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 21:38:30 ID:qPMpf7Iu
そもそも禅などの一点集中型のサマタでは、神秘体験はできるが、それまでなんだよね。 真理を悟る智慧もわかなければ、思考を止滅させる智慧も沸き得ない。 所詮は神秘体験止まり。それが見性体験なら、無論捨てろとなるわけだ。
134 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 22:20:49 ID:qPMpf7Iu
>>133 お前らに話すのはもったいない。
少しでも興味があるんなら自分で探せ。
本気で探せば、きっと見つかるよ。
本気で探せばな。
135 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 22:25:05 ID:qPMpf7Iu
たとえば、ローソクの火、一点を集中してみたところで、 思考の止滅は成し得ない。これくらいは子供でもわかる道理だ。 だから、ヴィパッサナーなんだよ。
>>134-135 そうか、あなたは天才だ!しかしバカだ!
意味わかるか?
ヴィパッサナーとやらで解いてみやれ。
137 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 22:42:34 ID:qPMpf7Iu
>>136 愚問を考察するのは時間の無駄。
ま、ここにいるおまえや、その同類項は、救いようのない馬鹿だけどな。
それだけは間違いない。
豚に真珠を投げてはいけない。
あのな、サンガには、誰でも彼でも入れたわけではないんだよ。
あぼーんするからコテハンを入れて欲しいものだ
139 :
終りの始まり :2006/10/12(木) 22:52:25 ID:tm66UuRh
拉致問題の闇を覗いてみれば、 やはり、そこには必ず創価がいましたからね。 創価の犯罪体質は底無しです。矯正も治療も不可なのです。 もう凶団信者ごと焼き払うしかないですね。cf:大作コレラ菌
141 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 22:54:30 ID:nbPBEXZf
だから、改めて 大安般守意経 を学びましょう。 また、あとで。でわ、でわ・・・
142 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 22:59:57 ID:qPMpf7Iu
>>140 お前達に慈悲の心があるって言うのかい?
わはははははははは。笑わせるな。
釈迦は全ての人に真理を明かしたのではない。
それはイエスとて同じこと。
ふさわしい相手に、ふさわしい話をする。
それが待機説法と言うものだ。
第三者にしてますと、まことにこの閉じた世界での議論みてるとわびしいです。
146 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 23:19:28 ID:qPMpf7Iu
147 :
名無しさん@3周年 :2006/10/12(木) 23:20:31 ID:qPMpf7Iu
148 :
112 :2006/10/13(金) 00:07:03 ID:qNU60bTi
>>113 ,
>>114 ??????????????? なんでそんなに分類、色塗りしたがるのかな。
この時点で「あるがまま」ではないよね。不正確。不自由。
そして誰もが「あるがまま」をみているというが、その保証があるわけではない。
俺はノンセクト自灯明主義者だよ。それを「外道」とあなたから、勝ってに無根拠に
決めつけられても、別に〜なんてこたーない。俺自身でブッダという秀峰に登るだけだよ。
富士山ルートは静岡からも長野からもあるんだよ。だいたい、外道の厳密な定義ができるのかな?
ブッダの法灯明・自灯明の精神とは俺は次のように受け止めている。
『全宇宙において、疑いを許されない権威は存在しない』
これを外道といわれても、ブッダだけは祝福して下さると思う。
いかん、カラスっぽくなってきた。反省。 おやすみ
149 :
名無しさん@3周年 :2006/10/13(金) 00:38:14 ID:hJf58kKx
法を州とし、自己を州とする。 僕は、灯明という訳より州という訳の方が好きです。 法と自己を観察しつづけること、つまり正精進を説いているように思えるからです。 迷いや妄想を中断して、すみやかに、法や自己の観察にもどるようにする。 煩悩の川の激流に流されたら、すみやかに州(しま)につかまる。 州につかまれば溺れなくてすむ。 流されてはつかまり、流されてはつかまる。 妄想に気付いて観察にもどり、できるだけ観察を続けるようにする。 妄想に気付いては観察、妄想に気付いては観察。
150 :
名無しさん@3周年 :2006/10/13(金) 09:16:37 ID:Ns6eksyA
磔になった罪人を拝んでる宗教は単純で良いよね〜 村岡、野田、二ノ宮、杉浦 とっとと消えろ!
敬虔な仏教とは「単純でいいよね〜」なんていわないですね。 仏陀によるといいも悪いもないそうですから。 いいとかわるいとかと言うのは執着の心がうみだすそうですし。 まだまだ煩悩に囚われていますね。
152 :
名無しさん@3周年 :2006/10/13(金) 11:32:18 ID:Ns6eksyA
キリストも麻原のオッサンみたいだったんだね、2000年前は。
153 :
名無しさん@3周年 :2006/10/13(金) 11:38:53 ID:Ns6eksyA
聖人たるものは世俗の法も犯さない。 お釈迦様の過失は足の指に棘が刺さったくらい・・・。 弟子にタレこまれるとは、カルマか?はたまた人徳がなかったのか?
154 :
名無しさん@3周年 :2006/10/13(金) 11:40:22 ID:Ns6eksyA
髪は伸ばし放題、ひげも伸ばし放題 小汚いね・・・
155 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/13(金) 11:44:31 ID:IKfr81dE
>>131 >だからおまえらは、仏教じゃないと言っているんだよ。
釈尊の出家の本懐とは、滅諦にて遂げるわけです。
先ず、四苦がありき。ですから。
(ここが大事)
そこから四諦。
そして本懐です。
156 :
草レーサー :2006/10/13(金) 19:15:12 ID:Bp03W4DK
御釈迦様の過失!? 息子に「ラーフラ」と名づけた。 サイアク!! 王子の立場を放棄し、妻子まで放ったらかしで蒸発した。サイテー! 一家の主を数多く出家させ、その家族を困らせた。 イイカゲンニシロ! 職業も持たず、他人に食を乞う一生を過ごした。 ハタラケヨ! これらは反社会的で、一般世間からは非難を受けますね。
157 :
つきピエ :2006/10/13(金) 19:19:32 ID:+A2JELkc
徹底して自力を棄てる
釈尊も龍樹も羅什もヤリチンだった。俺もヤリチンだ!
>>148 >ブッダの法灯明・自灯明の精神とは俺は次のように受け止めている。
> 『全宇宙において、疑いを許されない権威は存在しない』
もちろん、自灯明からは権威主義への批判という面も出てくるでしょうが、
むしろ力点は、みずからの生きる姿勢を示している所に重点があるように思えますが。
>>149 >僕は、灯明という訳より州という訳の方が好きです。
>煩悩の川の激流に流されたら、すみやかに州(しま)につかまる。
暴流の中洲ですね。暴流に流されそうな時の寄る辺。
灯明というと、やはり暗闇を連想しますね。
原語はどちらにも訳し得る語だそうですが、
灯明というのは、無明に対するものとしての意味合いなのでしょうか。
161 :
名無しさん@3周年 :2006/10/13(金) 21:28:44 ID:wV2ebIym
「自灯明」「アッタン・ディーパ」を自分自身で判断せよと解釈する方が多いようですが、 「アッタン・ディーパ」は「自州」と読むべきでしょう。これは日常言語としての自を州とせよ、 という意味と思われます。本来無我で、自などないが、言葉で自己として仮設される無我なる法を指します。 どういう意味かというと、後に大乗で言われる「有暇の拠り所としての身体」という意味です。 これは輪廻を暴流と譬えて説かれる苦行者文学の中で次のように説かれます。 はてしなく広大な輪廻の洪水に漂流している生物達にとって....何が島であるのでしょうか。 荒牧 典俊訳、岩波講座東洋思想、インド仏教1、66頁 この「島」が正しく「ディーパ」「州」に他ならなりません。 つまり輪廻の暴流の中で中洲に譬えられるべき修行できる身体という自己によって 向こう岸の涅槃へ渡れという意味としか思えません。 日常言語としての自を州とせよという解釈は、石飛道子『ブッダ論理学』206頁に明解であり、 水野弘元『仏教要語の基礎知識』初版149頁でも同じことが、つつましく表現されています。 また苦行者文学という観点から解き明かす荒牧典俊前掲論文は、諸用語の意味を解釈するのに 非常に示唆的で有用です。
162 :
名無しさん@3周年 :2006/10/13(金) 22:18:38 ID:wV2ebIym
>>95 では科学はどう生きるべきか? 何故、殺してはいけないか? を示せますか?
悪いのですが、貴方のような態度は科学に対する無意識の盲信としか思えません。
>>97 の論理を適応すれば、きっちり検証実証実験を行った科学者以外、科学宗教を信仰してることになるでしょう。これが第一点。
第二に貴方の考えは、18世紀西洋思想のようだ。宗教/科学の対立構造、迷信/合理というような西洋の香りがします。まるで科学によって全てが解明解決可能だと夢想するような18世紀の楽天さが香る。
仏教は、解脱悟りの再現性によって長期間検証されてきているのです。
セム系宗教のように命令を盲目に信じろというものではなく、納得し実践して習得するものです。
「宗教」という記号で両者を同一視してもらっては困ります。
第三に科学は客観的対象を観察し、検証し、実験し、反証可能な方法であり方を実証的に記述する方法といった
ようなものと思ってます。その方法は本質的に「何であるか」「どうなっているか」を記述する仮説でしょう。
言い換えれば「何であるか」「どうなっているか」の確からしさ、妥当性、再現性にしか逼れない。
そんな方法では、どう生きるべきか? 何故、殺してはいけないか? は示せないでしょう。
つまり、対象が全く異なるものを比較しても意味がない。
>>161 この場合の「アッタン」は、再帰代名詞として
「自己自身を」州(しま)と見なしての語なのでしょうかね。
いわゆるアートマンではない、という意味で
「日常言語としての自」と書かれたんですよね。
苦行者文学というキーワードで以前、検索したことがありましたが、
ほとんど出てこないですね。画像ファイルとして一つあったのは、
原始仏典とジャイナ教聖典と相似した点を述べたものくらいでした。
荒牧論文を読んでみたいと思います。紹介ありがとうございます。
仏教独自のものとされる無我説や縁起説と、苦行者文学など他の宗教と
近似したものとの、受け止め方の兼ね合いが難しいです。
164 :
名無しさん@3周年 :2006/10/13(金) 22:36:19 ID:wV2ebIym
>>132 >>135 分かってるね。なるほど、自信持つわけだ。
ただ、伝統的な言葉の使用法は水野弘元『仏教要語の基礎知識』ぐらい身につけたほうがいいと思いますよ。
それとインドに行って本物に沢山会ってくることを勧める。仏教でもヒンドゥーでも沢山いるから。
偽物も多いが、それぐらい貴方なら簡単に分かるでしょう。
まあ、本物は凄いから会ってみて、それこそ今生を無駄にしないために。
>>118 貴方にも、インド行きを勧めます。ああ、ヒンドゥーならリシケシ、仏教ならその隣のデラドゥン、
ダージリン、カリンポン、マナリ、シッキム辺りを勧めます。誰に会うかも縁しだいで楽しいよん!
そうすれば縁起・空・無我が分かるかもしれない。
165 :
名無しさん@3周年 :2006/10/13(金) 23:37:42 ID:wV2ebIym
お役に立てて光栄です。それでしたらこれを参照されるのがよいかと思います。 タイトル 仏教及びサーンキヤ・ヨーガに共通の源流に関する研究 責任表示 荒牧,典俊,大阪大学 出版年 1983-1984 注記 文部省科学研究費補助金研究成果報告書 入手困難で、私は未見です。国会図書館でしか確認できてません。 この研究によって某先生は出版物の全面書き換えを行ったようです。しかも明記せず。 それから、以下にもかなり触れられていた記憶があります。 仏と聖典の伝承 : 仏のことば註-パラマッタ・ジョーティカーー研究 / 村上 真完,及川真介著. -- 春秋社, 1990 科研費の研究成果報告書は全て PDF で自由に閲覧可能にしていただきたいものです。
どうも、禅宗の見性を神秘体験と見るのには抵抗を感じる。質が違うような。気づきというか。 神秘体験というと、脱魂・憑依や幻覚等を思い浮かべる。 まあ、ある種の神秘体験、ならいいかな。 止や観とも微妙に違う気が。うまく言えないけど強いて言えば、止とは目的が違うし、 観とは方法が違うといったところ。
167 :
名無しさん@3周年 :2006/10/13(金) 23:46:04 ID:qNU60bTi
禅宗の悟りはオナニーですよ、 やっぱり、生エッチしないと新たな命は宿りまへん。
>>165 重ねてのご紹介ありがとうございます。「共通の源流に関する研究」とはまた、
そのものずばりの研究がなされていたんですね。これはいずれ読みたいと思います。
春秋社の本はスッタニパータ注釈に関する研究みたいですね。
169 :
名無しさん@3周年 :2006/10/14(土) 00:00:23 ID:WdjIjJno
>>166-167 禅宗の場合は、分別の破壊が重要だし、師家によって見性といっても
境地がバラバラのように思えます。凄い人は凄いと思う。ただ体育会系で肌にあいません。
>>168 仰る通りです。その中で結構述べられてました。
そうそうヴィンテルニッツにも述べられているそうです。未見で〜す。(^_^;)
身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し、 時々に勤めて払拭して、塵埃にして惹しむること莫れ。by神秀禅師 ふきん(シャマタ)、ピカール(ヴィパッサナー)と想えば上の意味がわかりやすかろ。 いまの禅宗修行は戒なし、定なし、慧なし!もう佛道ではございやせん。
>>169 ああ、そう言われて思い出しました。こちらですね。
Winternitz, M., Some Problems of Indian Literature
「法と律」という言い方などにも古い伝統の存在が伺われる気がします。
すいません、今日はもう寝ます。
172 :
118 :2006/10/14(土) 01:23:15 ID:+GoLe9V3
>>135 スリランカやタイはだめですか?台湾は?
173 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/14(土) 07:23:45 ID:YFTf06qm
>>166 白隠の見性体験というのは、幻覚に近いものですね。
>>169 さんが言うよう、見性といっても人によって境地はバラバラです。
(幻覚を見性というのは、あまり例がないかとおもいます)
神秘体験というのは、キリスト教の修道院などでもあるらしい。
(神と一体になる、という瞑想による)
アタマがトランス状態になれば、どんな宗教に関わらずあるのかとおもいます。
つまり、オナニー状態になった場合ですね。
いつまでもオナニーが長く続く状況を、禅では魔境と言うてるんですよ。
やはりこれは経験的に、あまりよくない。
ってのを学んだ結果なんでしょう。
174 :
聖霊大王 :2006/10/14(土) 10:30:04 ID:TGvUjTuU
見性体験か、、一応4回だなあ、 1)隣の鳴く犬、 2)夢 3)心地覚心の気合、 4)大森曹玄老師、喜ぶ、、 これらは、それ自体は何も、役立たない、、 それが、日常生活で、どういうものであるかを知ったとき、真実は現れる、、、
それまでの思い込みによる判断がポロっと取れる、というか 凝り固まっていた思考の枠が抜ける、というか だから、無い物が見えるようになるんじゃなくて、 元々無かった物がそのままに見えるようになる、というか。
言いたい事が済んだらトイレ掃除でもしてなさい。
177 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/14(土) 17:26:35 ID:YFTf06qm
>>175 そうそう、私はそういうベクトルのスレッドを立ててみたいのですが、
自称・仏教徒という輩でも、こういう話題はあまり関心がないかとおもう。
原始佛教というのは、つまり簡単にいうと八正道の実践ということになってるんでしょ。
そもそも八正道というのは凡人が捉えている概念と、覚者が捉えてる概念は違うんですから、
ここで既に机上の空論において語ちるようなもんです。
釈尊の命題は四苦。これの解消が八正道。ってのもやはり矛盾がありますね。
こういう根本的な自己矛盾に突き当たらんと、やはり眼が開かんかとおもいますよ。
178 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/14(土) 17:37:37 ID:YFTf06qm
始祖・達磨から〜五祖・弘忍。→これが草創期で、つまり部派仏教だとすると、 六祖・慧能から〜現在。→これが成熟期で大乗。 こういう捉えかたもできる。 (仏教史観)
179 :
名無しさん@3周年 :2006/10/14(土) 20:02:13 ID:WdjIjJno
>>172 スリランカやタイはだめですか?台湾は?
ダメとは言いません。もちろん、日本でも探せば見つかると思います。
ですか、インドをお勧めします。何故かというと、自分の業や縁が目に見えるように現れるから。
つまり、縁のある人と出会える可能性が高いということです。
100人ぐらい聖者と会ってみるのがいいと思います。
良い出会いがあることを祈ってます。
180 :
草レーサー :2006/10/15(日) 08:04:06 ID:jLfUXMOo
>>177 私は仏教徒ではないのだど、それは関心ありますよ。
バージョンアップした思考にも、興味あります。
181 :
聖霊大王 :2006/10/15(日) 09:32:35 ID:vnEV8bE/
最近、日本人タイ仏教僧と、たくさん、話したなあ、、
182 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/15(日) 10:10:12 ID:PdR6BLMo
>>180 >バージョンアップした思考にも、興味あります。
PCにエラーが生じますと、PC内部でエラーを修正しますね。
バージョンアップすると、この処理を瞬時にやる。
エラーってのは誰にでもありますよね。
植草教授も、配線の一部が混戦しておるんですよ。
そういうったのをバージョンアップすれば、たちどころに邪念は滅寂される。
仏教とは、この法なり。
般若心経の「色即是空、空即是色」の原文 rUpaM zUnyatA, zUnyataiva rUpam (ルーパン・シューニヤター、シューニヤタイヴァ・ルーパム) zUnyatAは「空性」が固定した訳語だが(空と訳した例もあるそうだ)、 「色は空性である」と訳すと、「もの」と「概念」を結び付けているような感じで、少し違和感がある。 サットヴァ(sattva <- sat-tva)を辻文法●(§)で「存在、存在物」と訳しているように、 「空なるもの」と訳してみると、(zUnyaMという異本での表現とも合致するし) rUpa(色)との相性がいいような気がする。「色は空なるものである」 後段も、zUnyataiva <- zUnyatA evaのeva(エーヴァ)による限定の意味を汲んで、 「空なるものこそがまさに色である」と訳すと、意味が通じやすい気がする。 色が空なるもの以外のなにものでもない、ということになる。 これを下にヴェン図で示すと、 色は空なるもの 空なるものこそ色 ┌─────┐ ┌─────┐ │ @ │ │ ↑ │ │ 色 │ │ ┌─┐ │ │A │ │ │空│ │ │ B │ │←│物│→│ │ C │ │ └─┘ │ │ │ │ ↓ │ └─空物──┘ └──色──┘ 「色は空なるもの」では、色は空物の中の一員。@もAも空物に属す。 「空なるものこそ色」では、空物の領域が拡充して色の領域とぴたり重なったイメージ。 梵語の注釈書があれば、その解釈を参照するのが一番いいんだろうが。
辻文法の該当するセクション番号を書こうと思っていて忘れていました。
185 :
草レーサー :2006/10/15(日) 20:19:46 ID:Lv8d9qwi
>>182 私も一般的な「ものを考えること」としての思考とは、ちょっと
違うものをやっぱ認めてるんですよ。
スポーツなどの現場でも、瞬時に判断を下すこともよくあって、
それが、その場的、直感的な判断だとしても、その判断を成立
さえているものを鑑みてみると、やっぱ普通の思考では全然追
付かない、もの凄いスピードで計算している領域があることに
気がついてきたりします。
思考のバージョンアップとは、こういう領域の思考のこと?
禅では、こういう思考さえも死滅させてしまうんですか?
186 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/15(日) 20:57:26 ID:PdR6BLMo
>>185 >禅では、こういう思考さえも死滅させてしまうんですか?
何らかの愚問を、愚問で返すなら、普通はそこに意思疎通はない。
そこに何らかのメッセージをキャッチするなら
それは以心伝心ということになる。
禅では、こういう例は沢山ある。
日常社会では、こういうのはない。
何故かというと、それは愚問ではないからだ。
では、おやすみ
187 :
名無しさん@3周年 :2006/10/16(月) 12:34:19 ID:H2Go/i80
大パリニッバーナ経(ブッダ最後の旅)に出てくる 八つの禅定(八つの解脱)について、 カラスさんはどうお考えですか? 八つめが非想非非想処になってるやつ。
189 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/16(月) 18:01:18 ID:Q5CKMkqH
(つづき) 例えば、一休の「死にとうない」は、明らかに公案をぶつけているわけでして、 その暗黙の了承こそが、私は一休の遺偈なのかとおもいます。 凡人はこれを公案とはおもわんですね。 これは、祖師西来意における柏樹子に、その脈絡こそ同一にして寸分も狂いなき 一休の境涯をまさに目のあたりにするんです。 いやはや、拈華微笑ですね。 これこそ悠久の年月を越え、まさにここに顕出なるべし。
横レスだけど、最初期から四禅八定というような形はなかったのでは。 アーラーラ仙の無所有処定とウッダカ仙の非想非非想処定、そして菩提樹下の禅定はいいとして。 非想非非想処、これを四句分別の第四で解釈してみるのは如何か。 ところで、菩提樹下の禅定と滅尽定の関係はどうなんだろう。滅尽定が軽視されているような。 滅尽定は別名、想受滅。 ちなみにHNの「カラスの唄」はエドガー・アラン・ポーの「鴉の詩」とは関係あるのかな。
>>4 によれば机くんも出入り禁止らしいね。
机くんの話は好きなんだけどな〜
192 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/16(月) 18:58:08 ID:Q5CKMkqH
>>190 >ところで、菩提樹下の禅定と滅尽定の関係はどうなんだろう。滅尽定が軽視されているような。
>滅尽定は別名、想受滅。
私が
>>178 に書いた如しです。
つまり、五祖までは原始佛教の悟りというプロセスはあったのでしょう。
これは塵払看浄という「淨」に滅尽していくわけですから。
(明鏡台の払拭といふ淨)
これは現在においては北宗禅として、細々と脈絡はある。
しかしながらそれも、南宗禅になりますと、
殆ど意味もなくなる。
やはり漸修と頓修の違いで、現在は漸修に関心が向く人は殆どいない。
(学者とかは別ですが)
193 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/16(月) 19:00:31 ID:Q5CKMkqH
>>190 >ちなみにHNの「カラスの唄」はエドガー・アラン・ポーの「鴉の詩」とは関係あるのかな。
「闇夜のカラス」かとおもいますね。
なんだかんだ言うても、カラスどのは一休を敬愛しちょるんでしょう。
-tA f., -tva n. 名詞・形容詞に添えられて広範囲に抽象名詞を作る重要な接尾辞で、性質・本質・ 観念・機能・論理的関係等を表し、時には集合体または具体的事物にも及ぶ。e.g. sattva- '存在, 存在物'. (辻文法 §106. II. 9.) さて、まず「一切」について。sarvAsti-vAdin や sarvAstitva-vAdin (説一切有部) という語で sarva-asti (一切が存在している) というように、下に「法」や「行」が付かず「一切」だけで主語 になっている。(ただし、形容詞 sarva が名詞化して「一切のもの」となっている。「一切皆苦」の 例もあるが、これは「一切行苦」とも言う) 注意すべきは、動詞 asti が3人称単数現在であること。単数というのは、総体として一つと見てい るのか、それとも「個々のものは」という見方なのか。 以下は本題だが、「一切有」には、「一切法空」が対置されるが、「一切法無我」ということがある のに、なぜ一切法空がわざわざ言挙げされたのか。 一切法無我 (諸法無我、『仏教学辞典』の法印の項目を参照) には我 (アートマン、常一主宰の実体) という語が含まれるが、このことから実体存在説に転じやすいのかも知れない。 つまり、無我が「非我」と漢訳された例があるように (色非我非我所應など、雑阿含経巻一)、〈た とえ色や受は「我でなく」ても、「別に我がある」のではないか〉という発想を生み出す可能性を秘 めている。 そこで、我という語を含まない空という原始仏典に出てくる語の多用に至ったのではないか。
195 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/10/16(月) 22:07:18 ID:/a1dPl0j
>>187 最後の境地、滅尽定とは、かすかに残ったこの世の意識を完全に滅尽した境地である。
ここで智慧が必要である。愚か者はそれを完全の無だと誤謬する。
ま、そう思うなら、君らの目指す境地を得るのはたやすい。瞑想など必要ない。
ハルシオンでも飲んでおけ。熟睡すりゃ、意識など完全になくなり、無の境地を味あわえるだろう(爆笑)
大事故起こして、全身麻酔でもいいぞ。完全に無の境地が味合えるぞ(爆笑)
智慧のある人ならわかりますね。これが馬鹿馬鹿しいかって事が。
勘違いしてはいけないのは、滅尽定とはかすかに残った、この世の意識をも、
完全に滅尽させた境地であるということ。そのさきあなたはなにをみるだろう。
私は知った、第一天、私は知った、第二天。私は知った、第三天。私は知った、第四天
私は知った、第五天。私は知った、第六天。そして、私は知った、第七天!!それは安息の日。
初めに立つ者は幸いだ。彼は終わりを知り、単独者となり生きるだろう。
そして私は七日間座を組み、第八日目に座を崩した。
196 :
名無しさん@3周年 :2006/10/16(月) 22:12:59 ID:45RRCP13
>>196 破格構文のことは以前、なにかで読んだ覚えがあり、すこし気になりましたが、
「色即是空、空即是色」の部分の解釈に影響はないだろう、と思って上記のレスを書きました。
よく考えたら、zUnyataiva rUpam(空即是色)は、色が主語ととっても文意に変化はないですね。
転置してrUpaM zUnyataivaでも同じ。zUnyatAがrUpaの領域を限定する(同じ範囲になる)ことも変わらない。
ただ口調が平板になり、強調点がzUnyatAよりrUpaの方に行ってしまう点がありますが。
ご紹介のアドレス、読んでみます。ありがとうございました。
空を論証しようと努めた先人がいたことを、仏教論理学の歴史を調べるなかで知りました。 勝義の立場では、空性は論理的思考の及ばないものであるとしつつ、世俗の範囲内では、空性を論理 で証明しようとしました。 清弁「般若燈論」(『世界の名著 2 大乗仏典』pp.324-325) にその立場が述べられています。 > すなわち、[概念的思惟を越えた知恵]に相応するものである。それにもかかわらず、その教説は文 > 字に付託されて起こってくる。 > このように、(われわれは)[自証されねばならぬ真実]を[方便によって説明する]のであるから、 > [真実の定義を述べていない]わけでもないし、[誹謗者にすぎない]わけでもない。 中観派への他派・他教からの「真実をみずからは定義しない、単なる誹謗者」という批判をかわそう としたのでしょう。 ところで、漢訳阿含に「説処経」という経があるそうですが、お分かりの方がいらっしゃいましたら、 大正蔵の巻数とNo. を教えてください。
199 :
草レーサー :2006/10/17(火) 08:00:54 ID:RdMkCyjb
>>186 いやはや、わかったようなわからんような。。。
以前は私も、禅者が大嫌いでして。
まあ、その辺はご存知かとは思いますが。
だけど最近は少し変わりまして、禅が何を言うておるのか?
聞く耳くらいは開けてきたんだろうと思います。
普通は、禅問答といえばわけのわからなぬ話のこと。
例えば一流のドライバーも、何らかのメッセージをキャッチ
して、巧くそれに乗れるから、目も覚めるパフォーマンスを
見せることができます。
世人はそれを、才能とか言って特別なものにしてますが。
つまり万人に開かれたものではないという。
200 :
聖霊大王 :2006/10/17(火) 10:18:51 ID:wfVahdoi
原始仏教の修道法、ヴィパッサナーは、おもろいなあ、、 慈悲の瞑想の効果は思い当たる、、 禅は一切空だから、、 きっと、見性=慈悲的感覚を日常に展開するという、不親切極まりない手法で展開する、、
202 :
聖霊大王 :2006/10/17(火) 17:57:36 ID:+Rg/jvzq
ヴィパッサナーの地橋方式で、サティをぶち込むと、簡単に決まり、サマディーに入る、 なかなかおもしろい、、、
203 :
名無しさん@3周年 :2006/10/17(火) 20:55:15 ID:P1b9X9QI
>>197 サンスクリットのダルマ・ダルミン関係を越えた、同一表現ということです。
詳しくは、今西、村上、原田の三論文を見てください。
rUpaM zUnyataivaと転置した場合、厳密には「同じ」でなく
「(zUnyatAに)含まれる」であり、前文と同趣旨になってしまう。
これでは、〈zUnyatAこそが色だ〉という後文のニュアンスが活かし切れない。
よって、
>>197 での追記は取り消します。
>>203 ありがとうございます。
205 :
名無しさん@3周年 :2006/10/17(火) 21:04:02 ID:P1b9X9QI
>>198 空の論証は、江島先生の『中観思想の展開』が明解で簡潔にまとまってますね。
個人的には寂護菩薩の『中観荘厳論』の一多超越論証のよさが最近分かってきました。
『説処経』は以下が全文です。
T01n0026_p0609a06(00) (一一九)中阿含大品説處經第三
T01n0026_p0609a07(04) (第三念誦)
T01n0026_p0609a08(00) 我聞如是。一時。佛遊舎衛國。
T01n0026_p0609a09(05) 在勝林給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。此有三説處。
T01n0026_p0609a10(01) 無四無五。若比丘見已。因彼故説而説我見.
T01n0026_p0609a11(00) 聞.識.知。比丘説而説是我所知。云何爲三。
T01n0026_p0609a12(00) 比丘。因過去世説。而説如是過去世時有。
T01n0026_p0609a13(00) 比丘。因未來世説。而説如是未來世時有。
T01n0026_p0609a14(00) 比丘。因現在世説。而説如是現在世時有。
T01n0026_p0609a15(00) 是謂三説處。無四無五。若比丘見已。
T01n0026_p0609a16(01) 因彼故説而説我見.聞.識.知。
T01n0026_p0609a17(07) 比丘説而説是我所知。因所説善習得義。
T01n0026_p0609a18(06) 因不説不善習得義。賢聖弟子兩耳一心聽法。
T01n0026_p0609a19(05) 彼兩耳一心聽法已。斷一法.修一法.一法作證。
T01n0026_p0609a20(03) 彼斷一法.修一法.一法作證已。便得正定。
T01n0026_p0609a21(04) 賢聖弟子心得正定已。便斷一切婬.怒.癡。
T01n0026_p0609a22(04) 賢聖弟子如是得心解脱。解脱已便知解脱。
T01n0026_p0609a23(03) 我生已盡。梵行已立。所作已辧。不更受有。知如眞。
T01n0026_p0609a24(00) 因其所説有四處。當以觀人。
T01n0026_p0609a25(05) 此賢者可共説.不可共説。
T01n0026_p0609a26(11) 若使此賢者一向論不一向答者。分別論不分別答者。詰論不詰答者。
T01n0026_p0609a27(00) 止論不止答者。如是此賢者不得共説。
206 :
名無しさん@3周年 :2006/10/17(火) 21:05:05 ID:P1b9X9QI
T01n0026_p0609a28(01) 亦不得共論。 T01n0026_p0609a29(12) 若使此賢者一向論使一向答者。分別論分別答者。詰論詰答者。 T01n0026_p0609b01(04) 止論止答者。如是此賢者得共説。亦得共論。復次。 T01n0026_p0609b02(01) 因其所説。更有四處。當以觀人。 T01n0026_p0609b03(05) 此賢者可共説.不可共説。若使此賢者於處. T01n0026_p0609b04(04) 非處不住者。所知不住者。説喩不住者。道跡不住者。 T01n0026_p0609b05(00) 如是此賢者不可共説。亦不可共論。 T01n0026_p0609b06(02) 若此賢者於處.非處住者。所知住者。説喩住者。 T01n0026_p0609b07(01) 道跡住者。如是此賢者可得共説。 T01n0026_p0609b08(04) 亦可得共論。因所説時止息口行。捨已所見。 T01n0026_p0609b09(03) 捨怨結意。捨欲.捨恚.捨癡.捨慢.捨不語.捨慳嫉. T01n0026_p0609b10(00) 不求勝.不伏他。莫取所失。説義説法。 T01n0026_p0609b11(00) 説義説法已。教復教止。自歡喜.令彼歡喜。 T01n0026_p0609b12(00) 如是説義。如是説事。是聖説義。是聖説事。 T01n0026_p0609b13(00) 謂至竟漏盡。於是。世尊説此頌曰
207 :
名無しさん@3周年 :2006/10/17(火) 21:05:36 ID:P1b9X9QI
T01n0026_p0609b14(00) 若有諍論議 雜意懐貢高
T01n0026_p0609b15(00) 非聖毀呰徳 各各相求便
T01n0026_p0609b16(00) 但求他過失 意欲降伏彼
T01n0026_p0609b17(00) 更互而求勝 聖不如是説
T01n0026_p0609b18(00) 若欲得論議 慧者當知時
T01n0026_p0609b19(00) 有法亦有義 諸聖論如是
T01n0026_p0609b20(00) 慧者如是説 無諍無貢高
T01n0026_p0609b21(00) 意無有厭足 無結無有漏
T01n0026_p0609b22(00) 隨順不顛倒 正知而爲説
T01n0026_p0609b23(00) 善説則然可 自終不説惡
T01n0026_p0609b24(00) 不以諍論議 亦不受他諍
T01n0026_p0609b25(00) 知處及説處 是彼之所論
T01n0026_p0609b26(00) 如是聖人説 慧者倶得義
T01n0026_p0609b27(00) 爲現法得樂 亦爲後世安
T01n0026_p0609b28(00) 當知聡達者 非倒非常説
T01n0026_p0609b29(00) 佛説如是。彼諸比丘聞佛所説。歡喜奉行
T01n0026_p0609c01(00) 説處經第三竟(七百二十三字)
こちらも参考まで
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E8%AA%AC%E5%87%A6%E7%B5%8C&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
208 :
名無しさん@3周年 :2006/10/17(火) 21:09:53 ID:P1b9X9QI
これだけでは分からないです。そして『大乗四論玄義』は電子化されてないようなので、参照困難です。
論文とテキストがないと。そして慧均が百済の僧である可能性は十分あるように思います。何か問題ですか?
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/10/16/20061016000033.html 崔教授は慧均が百済の僧である決定的な証拠として、この文献に登場する寺の名称“寶憙寺”が2000年に
忠清南道扶餘郡陵山里の寺跡から発見された木簡に記録されている“寶憙寺”と一致する点を挙げた。
崔教授は自らの著書で「現在この地の寶憙淵師・・・」という文字に注目した。“現在この地”とは文献が編さんされた地域を意味し、
“寶憙淵師”は“寶憙寺の僧である淵師”を意味する。文章全体の意味は「現在この地で問われる問題はすでに中国では解決している」
となるため、“この地”は中国ではないということだ。木簡では“寶憙寺”を判読できるので、“現在この地”とは百済ということになる。
釈尊の悟境を伺うに、長老偈・長老尼偈に見られる悟境が参考になるかも知れない。 釈尊の場合ほど神話化の霞が懸かっていない分、もっと重視すべきではないだろうか。 いわゆるヴィパッサナー瞑想で得られる境地と比較してみるのもありか。
>>205-208 説処経の紹介並びに引用、参考文献の紹介も、どうもありがとうございました。
これから説処経を熟読してみたいと思います。
中観に関しては、般若経との関わりの部分が、今のところ特に気になりますね。
212 :
聖霊大王 :2006/10/18(水) 10:14:07 ID:9XyLe9uP
ヴィパッサナー瞑想にはまっちまったなあ、、 透明感のある、シャープなサマディー、、 唯識では、カラーがある、一如のサマディー、、 天台では、白い甘みのある、サマディー、、、 サマディー天国、、、
213 :
聖霊大王 :2006/10/18(水) 10:34:54 ID:9XyLe9uP
214 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/18(水) 18:16:41 ID:TRjSr3qH
>>199 禅の草創期は、どちらかというと道徳律に近いものだったのかとおもいますね。
現在における「道徳」というのとは意味が違いますけど。
その後に中興において節目を迎える段階になりまして、
宗教的な色合いが濃くなってきた。
というような見方を、私はしているのです。
もっともインドというのは、宗教と哲学というのは意味とすれば同一的なものらしい。
なんでも吸収合併して、そこに一滴なる抽出したものがあればいい。
というような、ある意味、包容力こそがインド思想の原点なんでしょう。
バラモン教もそうでありますし、
また、ヒンドゥー教もしかりです。
そこになんら排他性は、私は見ることはできない。
仏教もしかり。
215 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/18(水) 18:23:02 ID:TRjSr3qH
>>199 >例えば一流のドライバーも、
私はライダーなのですが、この前チョッといかすフェアレディーを見まして、
なにやら若い血が騒ぎました。
少し乗ってみたいよぉな気分になりましたね。
気分だけなんですがw
引用いただいた「説処経」を、リンク先の、対応パーリ文からの邦訳も参照しつつ読みました。 パーリ文がアングッタラ・ニカーヤ(増支部)所収でも、増一阿含でなく中阿含の所収なんですね。 ということは説一切有部の伝承のようですが。そのことも多少、念頭に置いて。 一向答・分別答・詰答・止答、これは、いわゆる四記答のようですね。 「瑜伽釈」には五問四記答を釈しているようです。 このうち五問とは、不解の故に問う、疑惑の故に問う、試験の故に問う、軽触の故に問う、有情を 利楽せんと欲するが為の故に問う、の五つの問いで、質問の理由・動機による分類のようです。 主題からは逸れますが、「爲現法得樂」の現法という表現が興味深い。 現法楽住と同様のことみたいですが、仏教では法の意味が幅広い。
机さんっていくつ?
218 :
名無しさん@3周年 :2006/10/19(木) 10:00:52 ID:M67v40oJ
小空経は素朴ですが含蓄あります。 稲竿経の「法を見るものは・・・仏を見る」これも縁起の重要性を説いてあります。
219 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/19(木) 10:16:08 ID:PKo4gtG7
人生は視点勝負。 ブッダは蛸壺悲観論者だ。哲学するタコだ。 生涯、四聖諦という狭苦しいタコツボから抜けようとしなかった。 タコツボとタコを「一切」と規定し、タコツボとタコ自身は無常であり 無自性の空だと自覚すればタコツボから開放され無上の状態=涅槃に 逝けると夢想した。 不思議なことに蛸は固定した最初の自分の視点に凝り固まっていたので タコツボから抜け出るという簡単なアイデアを忘れていたのだ。
>>219 蛸壺が四聖諦というのは喩えとしてズレ過ぎだろw
むしろ、戒や律を蛸壺とするのが妥当であろうよ。
だとしたら、蛸壺の外は現代日本仏教だw
(また、蛸壺を世界とするなら)、
蛸壺から出ることが「死」であっても?
ま、簡単なアイデアには違いないが・・・w
屋上、電車、薬、練炭、ロープ・・・ 手段は一杯ある(爆
221 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/19(木) 11:25:35 ID:KVo+sOqP
>>217 ちなみに、フェアレディーというのは「女」のことではないです。
車に乗ってみたい。ってことです。
(女に乗るわけじゃない)
禅者というのは、一般的に長寿な方が多い。
それは禅者は年をとらないで、万年青年だからです。
80歳・90歳にして少年のような生き方ですね。
だから年をとらないで長生きする。
ふうん、じゃあ少なくとも40代とか50代じゃあないんだね。
223 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/19(木) 15:23:16 ID:KVo+sOqP
>>222 そのとおりなんです。
人世七十 力圍希
咄 吾這寳劒祖佛
共殺
提ル我得具足の
一太刀今此時ぞ
天に抛
天正十九仲春
廿六日 利休宗易居士
人世七十 力圍希
咄 吾這寳劒祖佛
共殺
提ル我得具足の
一太刀今此時ぞ
天に抛
天正十九仲春
廿六日 利休宗易居士
<どうぞ、とくとご覧あれ>
机も阿呆陀羅も三十後半だろ。約半分生きた感想を述べよ!
>>224 そしてまた
為す事無く
ただただ歳をとるのみ・・・
てな日常だけはイヤだな、と思いつつ、通算すればそういう漫然とした
一日が多いような気がしますわ。
ダメですねぇ、我ながら。
机さんはおじいちゃんでしょ?万年青年の。
>>218 小空経・稲竿経というのは漢訳名でしょうか。でしたら大正蔵の巻数とNo.を教えてくださいませんか。
中論 卷第三 觀法品第十八
T30n1564_p0024a01(00) 諸佛或説我 或説於無我
大智度論 八不共法釋論第四十一(卷第二十六)
T25n1509_p0251b15(04) 又佛處處説有我。處處説無我。處處説諸法有。
諸仏あるいは我を説き、あるいは無我を説く
また仏、処処に有我を説き、処処に無我を説く。
「仏が我ありと説いた」というのは変な気もしますが、一体どういうことなんでしょう。
そういう直截な表現が阿含経やニカーヤに記述されているんでしょうか。
それとも、「(色は我ではない。受想行識もかくの如し。しかも)五蘊を離れて我があるのでもない」
(いま、ちょっと出典が思い浮かびません。増谷文雄『佛陀』で読んだことかも知れません)
ということの言い換えなんでしょうか。有我と我不離蘊では微妙に違う気がしますが。
それとも、龍樹の表現上の問題かな。
>>227 横レスですが
>「仏が我ありと説いた」というのは変な気もしますが、一体どういうことなんでしょう。
これは世俗諦で解釈したら如何でしょうか?
世俗では「我あり」も「無我」も有効です。
禅では即心即仏とか言うたりしましますけど、
普通は世俗諦で解釈します。
でも、まあ、そんなに世俗に拘らなくていいかとおもう。
なんせ「無我」というのも世俗になりますからね。
こういうことは、一応はコンセンサスがあるのが普通です。
仏説有我のことは、
>>218 さん単独への質問ということではなく、ひろく見解を求めてのレスです。
世俗諦として、大衆への説法の中で我を認めたような表現を用いた、ということは、
まずもって思い浮かんだのですが、
諸佛或説我
佛處處説有我
という書き方をするというのは、なにか原始仏典にそう読める文言があるのかも知れない、
と思いまして。釈尊でなく「諸仏」というのも、引っかかりますし、「処処に」というのも。
般若経で説いている、ということかな。
>>205 寂護の瑜伽行の階梯は、
有部、経量部、有形象の唯識(陳那)、無形象唯識、自立論証の中観という教判により、
清弁などの立場を最も高く位置づけているようですね。
>>229 例えばですが、慧能は「本来無一物」などと言います。→心は本来ないの意。
ところが慧能の公案においては(非風非幡)心は揺れる。などと言う場合もあります。
つまりはここに論理矛盾はあります。
(本来無一物なら、心が揺れるはずがない)
普通は論理矛盾があります。
これは言語次元における二重性において、致しかたないことです。
(禅においては、教外別伝とか、または不立文字とかで解説する)
ゆえに、普通は本来無一物も非風非幡も世俗諦において解釈し、
語義そのものの意を越えた勝義諦として還滅する。
というのが仏典の読み方かとおもいます。
>般若経で説いている、ということかな。
心経においては、語義の否定といふ手法において絶対肯定の意を表出する。
という、独特な経典かとおもいます。
232 :
草レーサー :2006/10/20(金) 08:03:24 ID:YS5mtYr3
>>215 バイクの運転と、クルマの運転は非常に似通ったものがあり
ます。二輪上りの四輪レーサーは多い。
逆の、四輪から二輪レーサーに転向する例を私は知らない。
私も、二輪でサーキットを攻めてみたいとは思わなかった。
技術的な問題ではなく、やっぱ、コワイから。
この理由が大きい。
だいたい皆、そうなんだと思う。
バイクの方が危険度が高いのはわかるけど、クルマでは
激しく危険なことを平気でやっているのにね。
われながら面白い人間心理です。
233 :
聖霊大王 :2006/10/20(金) 16:15:34 ID:RnZUJDRi
チベット密教は恐怖のF1カーかも、、素人が手を出すと、病院送りとか、、、
仏教って、いかに信者から金をとるかっていう技術に特化してると思う
幡が風に揺れている。 それを指差して「揺れているのはなんだ?」 「幡です」「いや違う」 「風が揺らしているから、風でしょうか」「いや、それも違う」 ・・・・・・「お前の心が揺れているのだ」−−−明鏡止水 「本来は、一物も無し」 本来は、というのだから、勝義諦というのに近いか。 いずれの物言いも、相手を言葉の昏迷状態に陥らせて、 「言語道断」の頓悟に「引導」しよう、という動機に基づく感がある。(カギ括弧内の語の意味に要注意) ただ、これは師弟が生活を共にしないと伝わりにくいことかも知れない。 弟子の機が熟した瞬間に問いかける言葉として。
最澄は、天台止観のほかに、行表から道センが伝えた北宗禅を伝承し、 牛頭山で牛頭禅を受伝したそうな。牛頭禅というのがよう分からんです。
釈尊と龍樹、それぞれの当時の思想環境の違いが、 それぞれの表現形式に与えた影響にも留意すべきか。 やはり、それぞれの時代に流行した用語で表現しているだろうし。 正確な年代比較は難しいが、 ウパニシャッドの我論、サンジャヤの不可知論、ジャイナ教の相対主義、 片や、説一切有部の実有説、ヴァイシェーシカ派の実在論、ニヤーヤ派の論証主義、
毒箭喩経 (1) tathAgataは死後存在する (2) 死後存在しない (3) 死後存在しながら、しかも、存在しない (4) 死後存在するのでもなく、存在しないのでもない (中部 63経、『世界の名著 1 バラモン教典・原始仏典』p.473) これは「四句分別」が原始仏典で使われた用例に当たると思いますが、 四句分別というのは、 マールンキャープッタが比丘になる前に就いていた師(がいたら)や、 当時の沙門・バラモンたちの間で一般に使われていた論法なのか、 それとも初期仏教教団内で特に使われていたのか、 あるいは後代の付加という可能性もあるのか。
239 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/21(土) 00:08:24 ID:v2+fYRQx
仏教徒が目指す最高の境地=涅槃の様子のブッダによる描写 『修行僧たちよ、このような境地がある。そこでは、地もなく、水もなく、火もなく、 風もなく、空無辺処もなく、識無辺処もなく、無所有処もなく、非想非非想処もなく、 この世もなく、あの世もなく、月も太陽もない。修行僧たちよ、[そこに]来るとも、 行くともいえず、[そこに]いるとも、死ぬとも、[再]生するともいえない。 それは何かに依っているのでも、何かから生じたのでも、何かに支えられているのでもない。 それこそが苦しみの終わりである。』 『ウダーナ』 おまいたちは本当にこんなとこに逝きたいのか? 解脱、涅槃、悟りとはしゃぐが、退屈で気持ち悪そうだな。 この夏休み、子供を素晴らしい自然ばかりの母の故郷で遊ばせた。最初は喜んだが、 2〜3日で超退屈して、京都の家へ帰ろうとせがまれた。 こんなあくびが出そうな退屈な涅槃で恒久的にすごすなんて、『苦』が永遠に続くなんて 涅槃=地獄そのもので願い下げだあ。 やっぱり、苦と楽・善と悪・道徳と偽善・静謐と猥雑が渦巻くチョイ悪娑婆が懐かしい。 そんなに現世も捨てたモンじゃないと思うがなあ。 京都祇園界隈は今日も金満スケベ坊主で盛況だ。 ブッダよ、『一切皆苦』という最初のボタンが・・・・・・やめとこ、石頭にはわからん。 俺は 宇宙最高のトリックスター 寒山&拾得様なるぞ! ケケケケ・・・・・
240 :
名無しさん@3周年 :2006/10/21(土) 00:09:18 ID:5C2k5ZGE
板違いかもしれませんが、このスレの人に質問があります。
ここなら答えられる人がいるかもしれなので。
お釈迦様が特別の法話の中で語ったと伝えられる植物についてです。
なぜこんな質問をするかというと話が長くなるのですが...
ジェイソン・ウィンターズ・ティーというブレンド茶をご存知でしょうか?
世界中で6500万人以上の愛飲者がいて、そのほとんどが口コミで広がったという
バケモノ級のハーブティのことです。日本では2003年に販売が始まったばかりなの馴染みが薄いかもしれませんが。
参考ホームページです↓
http://jwt.to/ 私も先日、健康良品店に行った際に知ったばかりなのですが、そこの店主に熱心にその効能について語られました。
そのとき気になったことがいくつかあったのです。
1.値段がやたら高い。
2.会員になることを暗に勧めてくる(おそらく店主自身が信者です)
3.三種類のハーブをブレンドしているのですが、そのうち一つを企業秘密としている。
ということです。
日本ではジェイソン・ウィンターズ公認のイオスという会社を通してしか販売できないらしいのですが
値段が6300円とバカ高いのです。アメリカではこの3分の1以下の値段で売られているようです。
しかも聞けば、会員というものになり知り合いに紹介すれば報酬がもらえるといいます。
要は今流行のネットワークビジネスの匂いがプンプンするのです。
ただ試しに飲んでみたところ、このハーブティ、効用こそ不明ですが、確かに体にいい、普通のお茶ではないとすぐに分かりました。
おそらく良いものなのでしょう。世界中6500万人というのは伊達ではないといった感じです。
242 :
241 :2006/10/21(土) 03:40:08 ID:tz71h/vS
ここからが本題です!!すみません、長くなってしまって。
このジェイソン・ウィンターズ氏によると、悪意に利用されることを避けるために
三種類のうちの一つ、ハーバリンという茶を商品名にして企業秘密にしています。
実際まがい物も出回っているらしいです。
私からすればその発言は独占販売したいだけの理屈に聞こえたのですが...
三種類のハーブの詳しい効用についてはこちらをご覧ください。
http://jwt.to/3harb.html HPを読めばわかるように、2500年前にお釈迦様が特別の法話の中で語った薬草らしいのです。
法話の中で何度も語っているらしいです。おそらくかなりの聖草と思われます。
ご存知の方いませんかね?
243 :
名無しさん@3周年 :2006/10/21(土) 06:59:36 ID:aq8VX1G0
244 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/21(土) 08:50:20 ID:v2+fYRQx
>>243 プラス感情のことだよ。当然グラデーションがある。
各人の資質による差異が大きい。
哲学や宗教は、「人がよりよく生きる」ためのものであり、
難しい言葉や思想で人を迷わせるためにあるものではない。
「正しい」言説とやらに従って、よく似たライフスタイル・
マインドスタイルをとらなければならないというものでもない。
自分の解釈で「自分がよりよく生きること」ができる
のなら、それでよいのではないのだろうか。←自灯明
245 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/21(土) 09:26:30 ID:v2+fYRQx
>>239 >それは何かに依っているのでも、何かから生じたのでも、何かに支えられているのでもない。
つまり、ブッダによれば涅槃=苦しみのない境地とは、縁起=空を越えたところということになる。
物凄い神秘主義丸出しで、常人では到底知りえない「物語」そのものだよ。
知りえない物語を「信じる」のだから、仏教は立派な宗教そのものであって
断じて哲学ではない。 最終的にブッダは縁起=空を完全否定しているのだ。
>>それは何かに依っているのでも、何かから生じたのでも、何かに支えられているのでもない。 実際に冷静に判断すれば解るかとおもいますが・・ 「依っている」とか「生じた」とか「支えられている」とかは、 仮説のもんですよね。 よって、こういう記述じたいは世俗諦でしかない。 依っているんでしょうか? 生じているんでしょうか? 支えられているんでしょうか? んなことはない。 あえて説明すれば。の範疇でしかない。 普通は、そう解釈するかとおもいます。 ですから勝義諦になりますと、「いるのでもない」と、 否定せざるを得ない。
>>241 東京・上野・アメ横で、茶問屋がありますから、そこで業務用の緑茶を売ってます。
1キロ単位で1000円とか2000円とか、安く買える。
安い茶は、タンニンの含有量が少ないため胃に優しい。
こういう茶を日常的に飲むと、先ず、風邪など全くひかない。
殺菌作用があるため、世界的に注目されているのが日本の緑茶です。
かくいう私は千家流派のものです。
なにかありましたら、どうかお問い合わせください。
248 :
名無しさん@3周年 :2006/10/21(土) 12:56:33 ID:4PTiiIfn
>最終的にブッダは縁起=空を完全否定している. これは明らかな間違いだな。 それを言うなら「・・・否定していると私は思う」と言うべきだな。 あんたブッタから直接教えを受けたわけじゃないだろ? 主語が曖昧な日本語じゃ、所詮曖昧な議論しか出来ない。 些細なことと思うだろうが、大事なことだよ。
249 :
名無しさん@3周年 :2006/10/21(土) 14:12:52 ID:4PTiiIfn
仏典なんてもんは所詮「如是我聞」の世界。 頼りにはならない。 ブッタ直筆、ブッタ所造の経典なんてない。 訳者は分かっていても作者は誰だか分からない。 そんな誰が聞いたのかも、誰が作ったのかもわからない 仏典をまずは「ブッタの真説である」と信じる宗教が仏教なのか。 逆にプラマーナにはなりえない教典だからこそ、かくもバリエーションが あるんだけどね。
>>239 >>244 そういう方は、在家者のままいればいいのですよ。
仏教に触れた者が、皆比丘でなければならないことはないw
251 :
241 :2006/10/21(土) 15:55:30 ID:A+9jYI7k
ことごとくスルーされていますね。
やはりマニアックすぎましたか...
>>247 殺菌作用では緑茶は大変優れていると思います。
ただこのハーブティは何か普通ではないのです。
気というものを敏感に感じられる人なら飲んですぐに分かると思います。
私はもともと保守的な性格ではないので興味を持っている次第です。
>>251 ハーブは簡単に自分で栽培ができます。
つ〜か、栽培という程のことはなく、自生している雑草くらいの管理しかいらない。
繁殖しすぎたら、草刈する程度の管理で充分です。
今現在は、約30種類のハーブが自生しています。
あまり肥料はやらない方がいい。
で、ハーブというのは、お茶にしてもいいのですが、料理に使うと一流料亭並の味ができます。
ハーブを刻みましてカツオタタキに添えるとか、
また、焼肉に絡めますと帝国ホ〇ルなみの料理が楽しめます。
スープにハーブを入れても、またオツですね。
私は、このようにしてハーブを利用しております。
ハーブは、つまり雑草のようなものですから、私は買ったことはないです。
お茶としても、たまに飲みます。
しかしながら、緑茶というのは製品にするまで手間が掛かるので、
私は栽培はしていないです。
これは買った方が安くつく。
ちなみに、釈尊は腐った乳粥をスジャータに勧められるがままに召し上がったブッダですから、 あまり美食には関心がなかったかと思います。 この乳粥で食あたりして涅槃に往かれたわけです。 かくいう私も質素な食であります。 盤珪なんぞは、腐った味噌でも食うくらいですから、 仏道においては、美食家というのは、あまりいないかとおもいます。
俺は納豆が大好きです♪
255 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/21(土) 17:28:51 ID:v2+fYRQx
>>253 そうでもない。京都の精進料理は美味しいですよ。
グルメ坊主は多いですよ。
食は人生の一大事です。大切にしましょう。
>この乳粥で食あたりして涅槃に往かれたわけです。
?チュンダさんの茸⇔スジャータさんの乳粥
>>250 当然です。出家などする気はありません。もっといろんなものに触れ
試行錯誤(ばっかり)を楽しみたいと思います。
>>255 >?チュンダさんの茸⇔スジャータさんの乳粥
どうやら、チェンダさんが正解のよぉだね(^^ゞ
京都は、もともと食文化が発展しやすい土地柄だったんだよ。
魯山人などがいい例。
私は関東でも内陸部だから、どちらかというと食材にはあまり恵まれていない。
だから、それなりの食文化。
大根一本で、いかにバリエーションのある料理ができるか。
とかいう文化が発展していった。
そういう土地柄で育ったんだよ(笑
257 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/21(土) 18:10:32 ID:v2+fYRQx
>>248 >それを言うなら「・・・否定していると私は思う」と言うべきだな。
ご教示ありがとうございます。反省して、次のように訂正いたします。
『 つまり、初期仏典によれば涅槃=苦しみのない境地とは、縁起=空を越えたところということになる。
物凄い神秘主義丸出しで、常人では到底知りえない「物語」そのものだよ。
知りえない物語を「信じる」のだから、仏教は立派な宗教そのものであって
断じて哲学ではない。 初期仏典にブッダの言葉が記されているとすれば、
最終的に、苦しみの終わり=涅槃では、縁起=空を完全否定していると解される。』
NG壁蝨は相も変わらず、羞恥も性懲りもなくデマを垂れ流しているのですか。
>>238 に追加
原始仏典に於ける四句分別の例証
中部72、ヴァッチャゴッタへの答えの中で釈尊が触れている、
(1) 生まれ変わる
(2) 生まれ変わらない
(3) 生まれ変わり、また、生まれ変わらない
(4) 生まれ変わるのでなく、また、生まれ変わらないのでもない
また、沙門果経でサンジャヤが阿闍世王に語ったこととして、四句分別を用いている。
次は四句分別の第四とも思えるが、判断は少し難しい。
「我(attan)もなく非我(nirattan)もない」スッタニパータ 858, 919
これは、我への執着とともに、無我への執着をも戒める、という意味合いで説かれたものらしい。
>>244 「自灯明、法灯明」でワン・セットだと思う。両者は切り離せない。
>自分の解釈で「自分がよりよく生きること」ができるのなら、それでよい
「自灯明、法灯明」が大般涅槃経で述べられた時の状況とは、自灯明の趣旨が違うような感じがする。
自灯明というのは、釈尊を頼りにして生きる、ということでなく、
釈尊が亡くなっても在世していても変わることなく、
「よく整えられた自己」を頼りにすべきだ、ということだと思う。
釈尊がヴァッカリにも説いたように、理法を見ることが
釈尊個人に会うことより大切なことだというニュアンス。
だから、どちらかと言えば、むしろ法灯明の部分を顕揚すべきではないだろうか。
>>259 四句分別というのは、なんですなぁ〜
つまり、答えを4つ用意してきますから、どれか選択してみ?
ってことですよね。
仏教というのは、そもそもこういう選択そのものがないのかとおもいます。
部派仏教は、多くのセクトがあったかとおもいますが、
もしかしたら、こういうテーマで論じたセクトもあったのかとおもいます。
アビダルマも、その流れやにおもうのですが。
では、おやすみ。
サンジャヤと釈尊の応答の仕方の違いをよく見るべきだろうね。 ただ、沙門果経では、いわゆる六師外道の中でジャイナのナータプッタだけが 「〜でない」という否定の説き方をしていないのが少し気になった。 サンジャヤが四句分別を用いたことや、サーリプッタとモッガッラーナの師であったことも考えると、 仏教の(釈尊の成道それ自体でなく、布教の際の)展開の形に影響を与えているかも知れない。
263 :
草レーサー :2006/10/22(日) 08:43:00 ID:EYo2coEr
レースの場合だと、前方で多重クラッシュが起きたら、 そこを通過できる保障はどこからも得られない。 それでもアクセル踏みっぱで飛び込んでいく。 雨の日のレースだと、他のクルマの巻き上げるしぶき で、視界は10メートルも得られない。 前方のコーナーを通過できる保障は何もない。 それでもアクセルを踏みながら飛び込んでいく。 こういう、普段頼っている技術や経験則が役に立たなく なった時に生じてくる、心理的負担を最後に解決するの は、やっぱ自分の信念以外にはないですね。
>>262 >ただ、沙門果経では、いわゆる六師外道の中でジャイナのナータプッタだけが
>「〜でない」という否定の説き方をしていないのが少し気になった。
相対主義(陰陽思想)と一如の法門というのは、互いにけん制しつつもどこか重なる思想があるのはイガメナイ。
中国が仏教思想を受け入れていったのも、やはり陰陽思想と重なる。
日本においても、じつは茶道というのは元来は陰陽思想からの文化に端を発するのです。
ここにおいて利休は禅を合体させた新分野を形成して逝く。→茶禅一味
何故にかような論理構成が可能なのか?
じつは、陰陽思想を世俗諦として、まさに仏教と相対なくし対をなすわけです。
あたかもそれは、ニーチェの思想は対なくして接を有する如きなり。
机さん、鈴木公一って何? 本当におかしいの?奇跡を呼び込むって…
>>265 壁蝨のことは壁蝨に訊けというわけね(笑)。
>>265 >机さん、鈴木公一って何?
そのような人物は、私は知りません。
机龍之介は剣客で有名ですが、奇蹟を呼ぶようなことはせんのです。
これは、潜在意識(阿頼耶識)を覚醒する。
ってフレーズかとおもいますが、
こういう類は殆どがインチキであります。
くれぐれも騙されませんように。
268 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/22(日) 17:52:55 ID:bQk1iSQr
(インチキ)宗教とお金(布施名目)にまつわる汚い話はブッダの時代から 数多い。 当時の祭司を仕切っていたバラモン教と現代の葬式仏教とが 不思議に重なる。 インチキ宗教に身ぐるみはがされた人の涙は大海の如し。 お布施をたくさん積めば死後の階級とやらが上るなどというのは、 現代でもインチキ宗教の常套句だ。
269 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/22(日) 18:08:38 ID:bQk1iSQr
『偈を説いて、わたしは食を得るものではない。 バラモンよ、かかることは知見あるもののなすべきことではない。 覚者たるものは、誦偈による賃を受けてはならぬ。バラモンよ、 覚者はただ法に住するのであって、それが覚者の生活の道である』 (雑阿含教 四 十一、スッタニパータ 81など)
空とは、あんこの入っていないアンパンか、それとも 取ろうとしても取れない、映写機で壁に写したアンパンの映像か。
273 :
名無しさん@3周年 :2006/10/23(月) 18:14:54 ID:AcqhdxVP
>>244 楽が「プラス感情」とや? それは良い動機と混同してませんか?
仏教でいう一切皆苦とは、感受に本質的楽はないということです。
なぜなら、無常だから。楽という感受も、それの持続を求める苦の因となる
とよく説かれます。
> 哲学や宗教は、「人がよりよく生きる」ためのものであり、
> 難しい言葉や思想で人を迷わせるためにあるものではない。
もちろん迷わせるためのものではありません。だからこそ迷ってない人に
就かないと、何が迷いなのか、何が「人がよりよく生きる」ことなのか、
勘違いして迷ってしまうと思います。
だから、次のような貴方の考え方は、迷っています。
> 自分の解釈で「自分がよりよく生きること」ができる
> のなら、それでよいのではないのだろうか。←自灯明
その証拠に自灯明の意味が全く迷いそのものです。
自灯明は、自州であり、輪廻という暴流から脱出するチャンスとなる、
州のような人身という意味です。この解脱可能である貴重な人身によって
梵行の果てに解脱せよ! ということなのです。
>>159 >>161
274 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/24(火) 09:50:25 ID:KG+sXEQL
>>273 叩きまくられるのを覚悟で書きます。
『迷い』が自力で理解できないと言う意味なら、迷っています。
性能の良くない頭で自分なりに考えよう、簡単に信じたり鵜呑みに
はしないで、迷いを楽しもうと思っています。
以前存在現象を(1)受精(2)現状(3)肉体の滅に仮に区分すれば
(1)と(3)は誰も経験したことがなく誰も確かな事は語れない。妄想は別。
だとすれば、それと密接に関連する(2)についても誰も確かな事は語れない
はずだと書きました。だからこそ人類史上最高の哲人ゴータマブッダの教えに
接してみたいと思ったのです。机氏からそんな時系列で把握してはダメだとお叱りを
受けたがあります。
しかし、知り得ないことを既知のように語る全ては物語(フィクション)です。
だから(1)(2)(3)の輪廻や(3)の死後生の有無、輪廻からの解脱=涅槃は
現状の私には物語としか言いようがないのです。
最近、池田晶子女史が同趣旨?を書いておられるのを歯医者の待合室で偶然発見しました。
>私にとっては、自分が存在しているということ以上の神秘はありえない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>「存在する」ということは、それ自体で生死を超越しているのだから、「生前」「死後」が
>眼中になくなる。逆に、存在の神秘の前には、そういうものは全て物語だということが
>はっきりと見えるのである。
まるでハイデガーですね。たとえ縁起によるとしても無常・無(非)我は苦楽とは別問題です。
受け取り方でどうにでもできるからです。無常=苦がアプリオリな真理とはいえないと思います。
しかし、存在自体の不思議さだけはどうにもならない。なんでこんな俺が現象しているのだ?
275 :
聖霊大王 :2006/10/24(火) 11:14:27 ID:/l1A4ymG
274 :寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7さん、慈悲の観想と、ビィパッサナーのサティで、頑張るしかないね、、 やはり、慈悲の観想は、相当有効だなあ、と思う、、 天台宗、真言宗方式じゃ、自分の心に仏の心を、イメージする、、 そこから、魂の解放へ、、 器用だから、、色々、教義を読んで、教義にのっとて、瞑想を楽しむ、、
277 :
名無しさん@3周年 :2006/10/24(火) 16:06:49 ID:MRnLNPsR
>274 カラスより謙虚でいいね。 がんばってね。
278 :
聖霊大王 :2006/10/24(火) 17:15:58 ID:/l1A4ymG
275は、人生よっぱっらっているなあ、、がんばりやあ、、莫迦ちゃん、、
279 :
聖霊大王 :2006/10/24(火) 17:51:37 ID:/l1A4ymG
276の間違い、ま、自分も瞑想によっぱらっているか、、がはははは、、
280 :
名無しさん@3周年 :2006/10/24(火) 20:15:13 ID:hABx0tYk
>>274 常識人ですね。私もハイデガーは好きですよ。
今、現象してるのは業・煩悩・苦という縁起の輪廻にいるからと、仏教は説きます。
なぜ、無常だから楽が苦かというと、楽に愛着して持続したい、再現したいという
望みが生じ、持続できず、再現できないと苦悩を感じるから、と仏教は説きます。
信じる信じないは、自由ですが、仏教はそう説くのです。
私は信じるし、実際、世の中の多くの人は楽に愛着してるでしょう。
大切なものやことが、消え去ると苦になる、それは無常なのに常を求めてしまうから、
とは思いませんか?
281 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/24(火) 20:25:19 ID:KG+sXEQL
解脱とは? ・何が解脱するのか・・・主語(自己・我)が建てられるのか? ・何から解脱するのか・・輪廻の存在は確実か、現世が輪廻の一環といえる根拠は? ・何故、解脱できるのか・そのメカニズム、過程は? ・何故、解脱すれば再生はありえないのか・・だれが確認したのか。 ・解脱即涅槃か?涅槃に達せられない事があり得るか。 ・涅槃は永遠恒常に続くのか、だれが確認したのか。 ・涅槃では主語が建てうるのか。
282 :
名無しさん@3周年 :2006/10/24(火) 22:18:57 ID:hABx0tYk
仏教教義の妥当性根拠は、再現性です。つまり、追体験できること。 釈尊・諸仏の伝統を継ぐ方々が、今に至るまで達成しています。 ということで、多くの方が確認しています。 凡人が客観的に検証する方法はありません。厳密に言えば、そこは信のみです。 甘い見方をすれば、教義から妥当性を検証することはできます。 例えば、苦諦と集諦は、検証可能と考えられます。 本来、無我ですから主語はありません。世俗的には仮説された我が解脱すると言えるかもしれません。 輪廻から、解脱します。輪廻は形而上学的選択と言ってもいいかもしれません。 十二縁起の各支を止めることで、解脱でき、再生しないとされ、それが涅槃です。 確認は上述の如く、釈尊・諸仏と諸聖者によってされてきました。
283 :
名無しさん@3周年 :2006/10/25(水) 06:03:17 ID:0NfVOgy0
ID=20008X9W
>>281 解脱即涅槃 涅槃即解脱
284 :
寒山&拾得◇ 9Cm1SZG7 :2006/10/25(水) 06:43:40 ID:TL7z6CmQ
>>275 >>280 >>282 >>285 ありがとう。瞑想して、最初から考え直してみます。
性格のせいか結構大きい波があるんだよね、スランプと好調の。
ガチッと固まって迷わず、なんて人が羨ましいというか信じられないというか・・
空気が澄んで気持ちのいい朝です。
久しぶりで旅に出てみるか。
ちみたちのは“迷妄”だね。とりあえず黙ってトイレ掃除だ!頑張りたまえ
286 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/25(水) 08:15:29 ID:Va3iOBg2
【机龍之介秘伝、トイレ掃除の仕方】 トイレ掃除は、用をたした後「流せるシート」にて小間目に床部分を拭きます。 そして、たまぁに「金隠し」または「朝顔」の部分をブラシとサンポ―ルで磨けば充分です。 ようは小間目にやるのが秘訣。 水洗トイレの場合は、昔のような樟脳とかはいらないし 是非、水洗にしてください。 トイレ掃除からに煩わしさから開放されます。 ちなみに、昔の映画館はボットン便所で樟脳を入れておったのです。 また、最近の水洗トイレで「おつり」が心配な方は、私が秘伝を書きますから、 どうか参考になさって下さい。 排泄物が落下すると推測される部分に、前もって用意していたトイレットペーパーをアテガイます。 これでオッケーです。 「おつり」がありません。 心配な方はどうか試してください。 ちなみに、江戸時代でも禅寺は水洗でした。 今でも本山などは、昔の習慣を残しているとこもあります。
>>286 不合格。
トイレ掃除は水とフキンのみでやるのです。
臭ぇーとか汚ぇーとか言わずに黙々と掃除しなはれ。
ちなみにボットントイレは強烈だ…
>トイレ掃除は水とフキンのみでやるのです。 フキンじゃなくて雑巾なんじゃないですか? >臭ぇーとか汚ぇーとか言わずに黙々と掃除しなはれ。 臭いとか、汚いとかは、先ず最近のトイレはないよ。 ウォシュレットは随分普及しているし、 昔のトイレは、糞便が周囲に拡散するから臭気が充満する。 最近のトイレは、そういった難点も工夫されている。 永平寺でも、水洗トイレです。 バケツに汲み置きしてある水は、尻を洗うものですが、 伝統的に置いてあるだけで、殆どが使う人はいないだろう。 ちなみに、ウォシュレットが完備してない場合は、ウエットティッシュで尻を最後に拭くといい。 トイレという所は、基本的には清潔な場所です。 (昭和から平成になり、トイレ自体の概念も変化したのは事実)→自宅の場合 それよりも、台所の方が不潔です。 最低でも、まな板くらいはハイターで、週一回くらいは消毒。 食器は、必ずフキンとか掛けるか、または食器棚に保管する。 このくらいは、最低でもやらなければならない。 (理由は、希望があれば書き込みもやぶさかではない)
で、臭気が漂うトイレって? どんなトイレよ? ボットン便所なの? 東京の山間部には、まだ下水は行き渡らないかもしれんが・・・ まだ、下水がない場所とかあるのですか?
290 :
聖霊大王 :2006/10/25(水) 15:01:07 ID:R60WJD7+
287 :莫迦牟尼佛 ちゃんは、禅坊主の修業を言いたいのか???? ココ、原始仏教だよな??
291 :
聖霊大王 :2006/10/25(水) 15:14:46 ID:R60WJD7+
莫迦牟尼佛 ちゃん、 ここでは、トイレ掃除のサティを入れながら、トイレ掃除をせよ、 が、正しい表現だ、、、
瞑想する以前に浄穢を克服しろ!といふことである。 ごちゃごちゃ言ってねいで黙ってトイレ掃除!これも禅定(サマデー)なり。
ちなみに、私の家は洋式トイレです。 私は、大便以外はトイレを使わない。 バケツに小水をするか、または寝床におる場合はビニール袋に入れます。 小水の処理の仕方は下水道に流す。 注意:これも般若波羅蜜の智慧のなせる技です。 般若は、このように生活そのものに生きておるんです。 淨もなく不浄もなく、ただただ垂れ流しております。 なんの溜まることがありよぉか?
294 :
聖霊大王 :2006/10/25(水) 18:28:46 ID:cHHhRsOP
頑固に禅を貫くねえ、、莫迦牟尼佛 ちゃん、
五波羅蜜(施、戒、忍、努、禅)の過程を経ずして毘鉢舍那観(智慧)はない。 修行を甘くみるでないよちみたち!!!
そういえば机くんは栃木県在住でしたね!どの辺っすか? あたくしはいま中禅寺湖の宿(四季彩)でアチャヒチュパドライを飲んでます♪
私はネット上で特徴のある情報を書き込んでいるゆえ、 詳細なことを書き込みますと、非常にリスクがあります。 いや、実際にそういう状況の一歩手前まできたんですから、 非常にヤバイですよ(^^ゞ カルトを叩いていますからね。 しかし伊丹十三は、なんであんな映画を作る気になったのかな? というか、私は伊丹みたいな勇気などありません。 リアルでは、全く小市民に徹しています。 (層化で、怖いめにあったことはないですが) 情報流出はmixyは怖いですね。 yahooも、間違うと怖いですよ。 ミスっても、安全なのは2ちゃんですね。 とにかくネットは、どんな人間がロムってるか分らんから、 セキュリティーには気を使っておるんです。 (実際にそういう経験をしとるんですから)
パーリ文「大般涅槃経」の無常偈(8音節が4つの韻文)のうち、前半部分から、 aniccA vata saGkhArA ああ諸行は無常であり、 uppAda-vaya-dhammino / 生起・消滅という性質をもつ。 saGkhAra:集め(因縁和合により)造られたもの sabbeが付いていないので、「諸」行無常 dhammin (Skt. dharmin):性質・属性をもつ(もの) ダルミンという、因明で術語となっている語を使っているが、 これは、後世の編纂の手が加えられている、ということを示すのか
類語?w vayadhammA saNkhArA appamAdEna sampAdEta
下の代表的な論証式と形式がほとんど同じなのが気になる。 anityaH zabdaH. 聲ハ是レ無常ナリ kRtakatvAt. 所作性ナル故ニ(声に所作性がある故に) (喩は略) kRtakatva:造られたものの属性
301 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/26(木) 14:16:07 ID:sao3Bz/Q
>>298 >dhammin (Skt. dharmin):性質・属性をもつ(もの)
この意訳だと、ますます本義から離れるかとおもいます。
だいたい、パリー文にせよ日本文にせよ、該当する文字そのものがない。
というふうな”前程”にて解釈するのがいいかとおもいます。
ところで日本文なのですが・・・
>生起・消滅という性質をもつ。
これを最も勝義諦に近い文にしようとしたら、
「生起しつつ生滅する」というふうになるかとおもいますけど、
実際に解釈するのは「生起」とか「生滅」とかはない。→中道
あくまでも世俗諦の論法の枠の範疇でしかない。
そういう意味においては、私は語意の機微が表現なしえることにおいては、
日本文は世界でも優秀な言語かとおもいます。
「生起」とか「生滅」とか、仏教語として通用するわけですから
それだけでも凄いかとおもいます。
果たしてパリー文で、こんな繊細な造語?が作れるのか?
ってことです。
>>dhammin (Skt. dharmin):性質・属性をもつ(もの)
dharmin:性質・属性をもつ(もの) これは意訳でなく直訳です。 dharma(法):性質・属性。dharm-in(有法):dharmaを持つ(もの)。 一体、この意味で釈尊在世時に既に使われたのか、という疑問が湧いたものですから。 こういう偈としての成立は、アビダルマやニヤーヤ派の興起した後の成立かな、と。 空観の勝義諦と論理ということになれば、C辨『大乘掌珍論』 眞性有爲空如幻縁生故 無爲無有實不起似空華 眞性ニハ有爲ハ空ナリ、幻ノ如シ、縁生ノ故ニ 無爲ハ實有ルコト無シ、起ラザルコト空華ニ似タリ 眞性とは勝義諦のこと
>・・・「生起しつつ消滅する」 >・・・「生起とか消滅とかはない。」 ここでは生滅という一組みの語感ではなく、因縁の和合によって生起したものは そのこと自体の属性によって、いずれ滅するものだ、という捉え方だと。 >・・・「意味の機微が表現しうる」 >・・・「繊細な造語」 梵語は、接頭語・接尾語を幾つもくっ付けて、複雑な概念を表すことができるようで、 たとえば諸行の行の原語saMskAraサンスカーラなら、sam-kR-aの3要素が結合して出来た語、 所作性の原語kRtakatvaクリタカトヴァなら、kR-ta-ka-tvaの4要素が結合。 最後の-tvaや-tAは便利な接尾語で、例えばzUn-yaシューニヤ空に付ければ、zUn-ya-tAシューニヤター空性。
304 :
名無しさん@3周年 :2006/10/26(木) 22:42:47 ID:JEbJS9t7
305 :
名無しさん@3周年 :2006/10/27(金) 08:14:46 ID:OWbFa3z/
宇宙が収縮過程に入れば、274は 瞬間生滅を繰り返しながら(因果一如:カルマの否定) (3)肉体の滅⇒(2)現状⇒(1)受精の過程へ転換し、 サイクルはゼロ点で消滅する。 ブッダの言われる名称と形態の本質は 縁起連関=無自性=空なるがゆえである. 無常なるは自明。 従って、存在現象自体はゼロ(決して一なるものではない)なるものであって 意味本質を問う事自体不可能である。
306 :
名無しさん@3周年 :2006/10/27(金) 08:22:49 ID:8BMRL/1J
空=お前はもう死んでいる
307 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/27(金) 08:58:40 ID:5/52N39f
>>303 >ここでは生滅という一組みの語感ではなく、因縁の和合によって生起したものは
>そのこと自体の属性によって、いずれ滅するものだ、という捉え方だと。
この「属性」といふのが、私にはわからんですね。
無自性においての属性なる性質があるのか?
というのが分らんです。
では、私の考えを少し書いてみます。
「生起」といいますと、じゃあ何故生起するのか?
って難問になってきます。
(これも論理矛盾がありますから)
で、私が考えるには、生起という仮説を立てる。
その生起を、生滅という論理で相殺する。→中道
論理として、これは整合性があるので世俗諦として成立する。
勝義諦になりますと、「来るものは来ない、去るものは去らない」。
ということになろうかと思いふ。
つまり、生起というのが来るものでもない。ましてや生滅として去るものではない。
と、かような解釈で宜しいかとおもいます。
この論法は、縁起を説明すると同時に主客の相殺がありますから、
釈尊の悟った中道に随分近い説明かとおもいます。
と、なりますと、やはり仏教は一如の法門にて宜しいのかとおもいます。
自他不二ですから。
308 :
305 :2006/10/27(金) 09:01:00 ID:OWbFa3z/
『2001年宇宙の旅』のボーマン艦長はどこへ行った? 幻影のニューヨークの悪趣味なロココ風の部屋で夢から醒め、 スターチャイルドはゼロなる地球を眺めるのだ。
309 :
名無しさん@3周年 :2006/10/27(金) 09:04:44 ID:T//WsruY
ゼロなる地球=お前はもう死んでいる
310 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/27(金) 09:17:47 ID:5/52N39f
>>302 釈尊滅後、約100年くらいは経典の編纂がなかった。
というのは、ある示唆を与えておるのかとおもいます。
つまり経典にしますと、語句自体に意味あいを有してきますから、
その解釈で学僧は難儀しますね。
結果として、意味あいを有した哲学と発展したのがアビダルマかとおもいます。
>眞性ニハ有爲ハ空ナリ、幻ノ如シ、縁生ノ故ニ
>無爲ハ實有ルコト無シ、起ラザルコト空華ニ似タリ
学僧は、勝義諦を記すに随分難儀したのかとおもいます。
仏教の歴史は、ひとえにこの歴史だったのでしょう。
この二列の文体を解説するのにも多くの言語を必要としたのですから。
(禅では不立文字)
311 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/27(金) 09:27:49 ID:5/52N39f
>>304 >石飛先生的には、ブッダ論理学を龍樹菩薩が整備し、ニヤーヤがパクリ、
>ディグナーガ菩薩、法称菩薩がさらにパクったということなるでしょうか?
いや、これは随分難題ですね(^^ゞ
私は龍樹という学僧は、論理学そのものの破壊者かとおもうてました。
石飛先生の考えは、少し読んだことがあります。
表面的ですが。
先生は奥が深いのでしょうか?
そこまでは私は分らんです。
いろいろ勉強しとう御座いまふ。
312 :
名無しさん@3周年 :2006/10/27(金) 09:34:29 ID:YqWf16Kx
松本知子 マハーマーヤ改めヤソーダラー 正大師 郵政省大臣 麻原長女 アジタナーター・シャクティー・ドゥルガー 正悟師 流通監視省大臣 麻原次女 アジタナーター・カーリー 麻原三女 アジタナーター・ウマー・パール・ヴァ−ティ・アーチャリー 正大師 法皇官房長 麻原四女(識華) 報省大臣 石井久子 マハー・ケイマ 正大師 元大蔵省大臣 上祐史浩 マイトレーヤ 正大師 緊急対策本部長、元外務省大臣 村井秀夫 マンジュシュリー・ミトラ 正大師 科学技術庁長官 早川紀代秀 ティローパ 正悟師 建設省大臣 新実智光 ミラレパ 正悟師 自治省大臣 井上嘉浩 アーナンダ 正悟師 諜報省大臣 飯田エリ子 サクラー 正悟師 東信徒庁長官 都澤和子 ウッパラヴァンナー 正悟師 西信徒庁長官 村岡達子 ウッタマー 正悟師 教団代表代行 青山吉伸 アパーヤージャハ 正悟師 法務省大臣 遠藤誠一 ジーヴァカ 正悟師 厚生省大臣 山本まゆみ キサーゴータミー 正悟師 労働省大臣
313 :
名無しさん@3周年 :2006/10/27(金) 09:35:28 ID:budA5AsQ
大内利裕 プンナ・マンターニプッタ 正悟師 ロシア支部長 野田成人 ヴァジラティクシュナー 正悟師 車両省大臣 岐部哲也 マハーカッサパ 正悟師 防衛庁長官 石井紳一郎 ウルヴェーラ・カッサパ 正悟師 究聖音楽院トップ 林郁夫 ヴォーディサットヴァ・クリシュナナンダ 正悟師 治療省大臣 中川智正 ヴォーディサットヴァ・ヴァジラティッサ 正悟師 法皇内庁長官 豊田亨 ヴォーディサットヴァ・ヴァジラパーニ 正悟師 科学技術庁 土谷正実 ヴォーディサットヴァ・クシティガルヴァ 正悟師 厚生省(化学班) 岡崎一明 マハ−・アングリマーラ 警備班 林泰男 ヴァジラティッサ・イシディンア 正悟師 科学技術庁 瑞本悟 ガフヴァ・ラティーリヤ 正悟師 SPS 石井陽子 ダンマー(エカテリーナ) 正悟師 大蔵省 名倉文彦 ナローパ 正悟師 法皇官房 二ノ宮耕一 アッサージ 正悟師 東信徒庁 タントラギーター 正悟師 究聖音楽院 ヴァジラチッサ・ヴァンギーサ 正悟師 文部省
314 :
名無しさん@3周年 :2006/10/27(金) 11:09:18 ID:OWbFa3z/
仏教はゼロの法門である
315 :
名無しさん@3周年 :2006/10/27(金) 12:10:16 ID:OWbFa3z/
>いかなる形態をも超えた(形なき)純粋生命が、自己自身に顕わになるとき、 >その時こそが目覚めの実現であるということができる。 『仏教の根底にあるもの』 玉城康四朗著、講談社文庫、22ページ。 2001年宇宙の旅の原作者アーサー・クラークはボーマン艦長を 『実体を持たないエネルギー生命体』と規定した。 これは玉城康四朗の「形なき純粋生命」論のパクリではないか。 その実体はアートマンそのものだ。そしてダルマ=実質ブラフマンと規定し、 純粋生命=実体なきエネルギー生命体がダルマと一体化⇒梵我一如が実現し、 仏教がヒンズゥー教にレイプされることとなる。 玉城康四朗はポンビキか?
たとえば、「Aは料理がうまい」ということを英語に訳すと、"A is a good cook."となる、 というようなのは中学英語でやったことがあると思うけど、これが西洋の論理学での発想。 「Aは[上手な料理人]である」と捉える。 [上手な料理人]というのは別にたくさんいる。Bさんもそう、Fさんもそう、とか。 Aはそういう集合の中の一員であると。 ところがインドに来ると、そういう形式でなく 「Aには[巧みに料理を作る能力]がある」となる。 この[巧みに料理を作る能力]という所が、Aの属性と捉え、Aをその属性の所有者と捉える。 […能力]がダルマ、Aがダルミンと呼ばれる。 ちなみに、この発想では、他者の存在を度外視している、とも言えるだろう。 属性という捉え方は、アートマン論の伝統から生じたのかも知れない。 木の実からまた樹木が生じるように、木の実・種などに 樹木を生み出す能力、つまり樹木そのものの本質・本体が存在する、という見方。
空と無自性と微妙に違う感じがする。 空はカラ箱、箱はある感じ。 だから、「色は無我」「色は空」は同じ事を表現している、とも見なせる。 色の中にアートマンがあると思っていたら、じつはカラだった、と。 しかし、無自性は、それ自体の存在が無い、という感じ。 水面に映った月がじつは無いものだ、というような。
318 :
名無しさん@3周年 :2006/10/27(金) 20:10:35 ID:7SM7A++9
>>311 私は深いと思います。妥協や先入観を持たない徹底的な論理思考は、仏教学・インド学の革新に留まらず、
世界的パラダイム・チェンジに至る可能性もあるとさえ思います。
ぜひ、読んでみてください。机さん。
319 :
名無しさん@3周年 :2006/10/27(金) 20:15:03 ID:7SM7A++9
>>317 無自性は、何かそれであると考えられているもの、本質がないという意味と
中観では使用され空と同義です。
色という本質、それ自体がない、それが無自性、空。
けれども縁起して色として仮設される。
一つ、世俗「諦」というのだから、これも真理。尊重せねばならない。<空仮中の仮> 二つ、勝義諦では、まず、生じない、とする。よって、滅することも無い。生滅せず、となる。<空仮中の空> 三つ、中観でいう「中」と、釈尊の快楽・苦行の二辺を離れた中道と、質が異なる感じがするが、いま詳説はできない。
>>319 言いたいのは、原始仏教での文脈で出てくる「空(シューニヤ)」と、中観での「空」には
意味に変遷があるのではないか、ということです。
なにせ数百年の間隔があるわけで、変化がゆっくりしていた古代だとしても、
周囲の思想状況も異なっているから、当然、意味に変化があってもおかしくはないので、
その時代状況に合わせて、中観では、「空」が「無自性」という意味で使われるようになったのではないか、という疑問です。
322 :
名無しさん@3周年 :2006/10/27(金) 21:45:49 ID:7SM7A++9
>>321 そうですね。私は説き方は変わっても、本質的意味に変わりはなかったような気がしてます。
中観と原始仏教はかなり近いと思います。
遠いのはアビダルマや唯識ではないでしょうか?
きっちり、詰めてませんので単なる印象です。
『小空経』と唯識は接近してたりしますが
十大弟子の須菩提(しゅぼだい) 増一阿含經三「恆樂空定、分別空義、所謂須菩提比丘是」 つねに空定を楽しみ、空義を分別す、いはゆる須菩提比丘これなり また、般若経の聞き手としても登場する。「スブーティよ、・・・。スブーティよ、・・・」 北伝では解「空」第一だけど、南伝だと、解「脱」第一なのかな。
>>322 時代の要請に直截に対応する立場と、残された教えを墨守(悪い意味はなく)する立場とがあり得る、と思いますが、
それぞれに価値があって、相互補完の関係にあり、どちらも捨て難いものがある、と。
しかし同時に、どちらか一方の立場を極めることも有意義であると。
中観は当時の状況に思想的に対応して、ああいう形を採ったのではないか、と今のところ思っています。
当時の説一切有部などの部派にも、それ自体の価値はあったと。
また中観派の中でも、プラーサンギカ派が龍樹の思想を墨守するものとすると、自立論証派も
当時の状況の中で中観思想を展開しようとしたのではないか、という印象を持っています。
325 :
名無しさん@3周年 :2006/10/28(土) 00:19:42 ID:c1pOyGzu
中観派の場合、 縁起だから無自性である、無自性だから空である、 縁起だから空である、 という順番らしいです。 逆の説き方はしていない。 空だから無自性である、 無自性だから縁起である、 空だから縁起である、 などという言い方はしていないらしい。
326 :
名無しさん@3周年 :2006/10/28(土) 00:34:47 ID:c1pOyGzu
>>317 水は、水素と酸素がくっついたものであり、つまり縁起したものである。
だから、
水という元素それ自体は存在しない、無自性である。
したがって、水というものは
有でもなく無でもなく、しかもまた有であり無である、
つまり空である。
水は縁起である。
縁起であるので無自性である。
無自性であるので空である。
逆の順番での説明は難しい。
いきなり、水は空であるという結論からは入れない。
いきなり、水それ自体はないから水は縁起だ、なんてチンプンカンプンになる。
証拠がわかってから犯人がわかるのであり、
犯人がまずわかってから証拠がわかるのではない。
327 :
名無しさん@3周年 :2006/10/28(土) 00:41:28 ID:c1pOyGzu
見られたものはただ見られただけものであると観じ、 聞かれたものはただ聞かれただけのものであると観じ、 考えられたものはただ考えられただけのものだと観じる。 光は見られただけの光であり、熱は触れられただけの熱である。 炎それ自体はない。 炎とは、光と熱に対してただ名付けられただけのものである。 炎とは、考えられただけのものである。
328 :
名無しさん@3周年 :2006/10/28(土) 07:58:18 ID:UwLx46+x
あるがまま(純粋事実)なんて、わからないんだよ。 あるがままをみるなんて、不可能を強いることだよ。 だけど、あるがままがあると感じることの不思議さは、 どんな仕方によってもわからないということを、 賢人はわかっているんだよ。 ブッダや竜樹が賢人であったかどうかはわからないんだよ。 だって、ブッダや竜樹のあるがままなんてわからないからさ。
329 :
名無しさん@3周年 :2006/10/28(土) 08:12:18 ID:f1QIKtO7
ブッダ=龍樹=無 無=お前はもう死んでいる
330 :
名無しさん@3周年 :2006/10/28(土) 08:15:10 ID:UwLx46+x
331 :
名無しさん@3周年 :2006/10/28(土) 08:25:30 ID:UwLx46+x
>>329 『死』という形態のあるがままを解き明かしてください、賢者よ。
死のあるがままは誰もわからないのです。
332 :
名無しさん@3周年 :2006/10/28(土) 08:31:54 ID:f1QIKtO7
仏様に成ることだよ
333 :
名無しさん@3周年 :2006/10/28(土) 08:44:35 ID:UwLx46+x
>>332 ありがとうございます。
そうすると
>>329 によって、仏様に成ったのですね。
ブッダの見解からはかけ離れていますが・・・
不浄のままで・・・
トンデモ説が日本大乗葬式仏教の特徴なんですね。
仏って、煩悩のことなんだ
334 :
名無しさん@3周年 :2006/10/28(土) 09:02:43 ID:UwLx46+x
>>327 >炎それ自体はない。
そう判断した根拠は?断見ではないですか。
それがあるがままですか?
あなたの推測、妄想にしか過ぎないのではないですか?
335 :
名無しさん@3周年 :2006/10/28(土) 12:42:44 ID:UwLx46+x
だいたい 解脱したい 悟りたい 覚りたい 深い教説を知りたい なんて煩悩=無明そのもの 仏を殺せ 解脱も殺せ 「悟った」とか「深い」なんていう奴には気をつけたほうがいい。
336 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/28(土) 12:58:59 ID:afEVv9zq
>>316 インド人というのは、非常に記憶力がいいらしくて、
日本でいう「メモを取る」という習慣そのものが、ないらしい。
それを前程としてインド人同士でコミュニケーションをするんでしょうから、
やはり文化の違いというのは、念頭に入れてインド思想というのを解釈していかねばならんでしょうね。
IT関連で、インド人というのは優秀な人材がいる。
というのは皆さまご存知でしょうけど、
そういう人材というのも、カーストにおける上層の人間が活躍しているわけで、
下層にも多くの埋もれた人材はあるそうです。
(ただ、そういう人は社会で活躍するということはないでしょうけど)
インド哲学の興隆というのは、やはりそれなりの原因があるのですね。
やはり奥が深いですよ。
どこか、やはり日本とは違う特殊性を感じます。
337 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/28(土) 13:11:12 ID:afEVv9zq
>>318 >私は深いと思います。
そうですか?私にはどうも分からんですね。
例えばですが、石飛氏は輪廻思想を論理的?に解釈するのは上手です。
たしかに、そういう意味では「論理学としては優秀」なのでしょう。
しかし、あくまでもそれは輪廻思想のテーゼの延長線においての論理です。
もし氏が、このテーゼより離れた視点において再度、輪廻思想に挑戦したならば、
もっと素晴らしい著書になるかとおもいます。
私は先生に期待しております。
如実知見というのは、何もないところから純粋事実を見つけ出そう、としているのではなく、 すでにある顛倒した見方、それは苦をもたらすものであるので、その固定化されている見方をほどき、 それへの執着を離れて知見しよう、と言っているだけではないかな。 それがインド哲学での否定の多用の理由だと思う。 また、断見とは常見の対語で、死後断滅論を指していると思うので、 空観から見た表現を断見とするのは、語義のとらえ方が少し違うのではないかな。
>すでにある顛倒した見方、それは苦をもたらすものであるので、その固定化されている見方をほどき、 >それへの執着を離れて知見しよう、と言っているだけではないかな。 これを色即是空というのでしょうね。 「すでにある顛倒した見方」が色になりますから、そこから如実知見。 >また、断見とは常見の対語で、死後断滅論を指していると思うので、 >空観から見た表現を断見とするのは、語義のとらえ方が少し違うのではないかな。 断見も常見も、いわゆる主観がもたらすゆえ、 そもそも一如の法門には相容れない。 ってことなんでしょうね。 つまり、空観ですと意味そのものがなくなるのかとおもいます。
340 :
名無しさん@3周年 :2006/10/28(土) 21:47:22 ID:zCnqFrJV
>>227 > 中論 卷第三 觀法品第十八
> T30n1564_p0024a01(00) 諸佛或説我 或説於無我
自己があるとも「かりに」説かれた。
自己がないともまた説かれた。
もろもろの仏陀は、また、自己もなく、自己がないのでもないと説かれた。(中論 18.6)
『世界の名著 2 大乗仏典』pp.314-315 清弁による解説
四句分別 1 是A(かつ、非B) 2 是B(かつ、非A) 3 是A、かつ、是B……両是 4 非A、かつ、非B……両非 1 Aである。 2 Aでない。(これをaとよぶことにする) 3 Aであり、aでもある。 4 Aでなく、aでもない。
>>340 >輪廻は仏教に必要な現状認識ですよ。机さん。
そうでしょうね。確かに。
石飛氏も現状認識における輪廻転生を解釈してましたから、
私は直ぐに石飛先生の論法が分りましたよ。
石飛氏が、空諦認識における輪廻転生解説を成し得たなら、
私は先生を評価できるのですが。
まあ、先生には期待はします。
是非、頑張って頂きたいです。
石飛氏の著書が、もしも初心者向けに執筆したなら話は別ですけど。 しかし、氏の文体にはそれらしき脈絡は見受けられませんし。 またそれ以外に、私自身の「読みが浅い」ということも考えられますので、 一概には結論は出せませが・・・
345 :
名無しさん@3周年 :2006/10/29(日) 08:54:02 ID:Toc8WqOf
>>343 それは輪廻が空といった般若、中観的解釈のことですか?
無常・縁起・無我と空は、ほぼ同じことを指してますので、
仮設として我々があると言われるように、輪廻も仮設としてあると言われるが、
本来、無常・縁起・無我・空なだけです。
もちろん、無常・縁起・無我・空という言葉自体も空です。
以上は、『ブッダ論理学』から読めるはずです。
ただし、原始仏教なので空を強調して説かれてません。
空に関しては、次回の龍樹本で明らかなるでしょう。
346 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/29(日) 09:10:47 ID:hV8seUt1
>>345 >輪廻も仮設としてあると言われるが、
輪廻というのは、つまり時間軸の延長にある概念ですよね。
無常という、いわば空間概念における空諦ならば、
同時に時間軸においても空諦でして、
時間軸そのものも全く意味はなさないものかと思うのですが・・・
なにゆえ輪廻が仮設として「ある」のか?
私にはよく分らんです。
>本来、無常・縁起・無我・空なだけです。
空はそもそも、時間という概念そのものも空なり。と、おもうのですが・・・
347 :
名無しさん@3周年 :2006/10/29(日) 11:53:48 ID:UMj/gQX0
そんな空念仏で調いますか?
348 :
名無しさん@3周年 :2006/10/29(日) 12:41:00 ID:lZm4EzGI
理論武装しても、個人で完結しちゃうんだよねぇ 他者に対して無力だし、結局のところ、倒錯、自己陶酔なんじゃね?
>>347 >そんな空念仏で調いますか?
って?(^。^)
普通は調うんじゃないですか?
私は、ちなみに調ひますけど。
350 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/10/29(日) 13:45:23 ID:dWOR0YFC
空念仏も何も、癲狂院の檻の中へ呼び掛けるのは荒らし行為です。
351 :
名無しさん@3周年 :2006/10/29(日) 16:04:24 ID:UMj/gQX0
無常という動的現象をもたらすエネルギーは何に拠りますか。 それも空概念で逃げますか。
>無常という動的現象をもたらすエネルギーは何に拠りますか。 もし、それが何かに依ったとしても、 では何故「何かは生じるのか?」というように、 つまりは無限ループに陥るだけです。 カラス氏のように「一」に依る。というならば話は簡単ですが。 仏教は、そもそも一如の本門ですから、そういう発想そのものがない。 これを道元などは「相対立するものは結論でるまじ」 などと言い、あんに外道を批判しておるのです。
353 :
名無しさん@3周年 :2006/10/29(日) 18:01:16 ID:UMj/gQX0
『一切を知る者』の一切の現象に関る根本なことなのに、調っていませんね。
>『一切を知る者』の一切の現象に関る根本なことなのに アビダルマ哲学は、そのような考えのもとに発展していったのだろうね。 で、スレタイにいう「原始佛教」というなら、 本来はそうじゃない。 これはハッキリすべきかと思うよ。 何を指して「原始佛教」というのか? 説一切有部あたりか? そうじゃない。厳密に言えばそうじゃない。
355 :
名無しさん@3周年 :2006/10/29(日) 20:20:44 ID:UMj/gQX0
つまり原始仏教では E=MC2乗は理解できない、 形而下の問題であるにかかわらずEの拠って来るところは 「一切智者」ではないと認められるわけですね。 ブッダの理解もニュートンまでですか。
>>355 私はよく相対性理論を持ち出すけど、釈尊が悟ったのはこの理論と全く同じだよ。
(詳しいことは前に書いた)
また、エネルギー転換方程式においても、なんら介在(形而上)することもなく成立つわけだから、
形而下の範疇内であることは疑問の余地なし。
四句分別では、第3の「Aにして亦非Aなり」が最も理解しにくいのではないか。 ジャイナ教の七つの命題の第3がこれに相当するが、それについて、宇井伯壽氏は、 「第三句は前二句が同時に同一物に適用せられなかったのを特に適用して 異時異立脚地からは肯定も否定も共に之をなすを得るを示すものである。」 と「異なる時、異なる立脚地」からの視点があることを述べている。 その例を挙げると、ジャイナ教の7命題第3では、 「両者(すなわち肯定と否定と)を順次に述べようとするときは、表現は両者の集合にかかわる。 両者を同時に述べようとするときは、それは不可能であるから、(下略)」(『世界の名著 1』pp.413-414) と、「順次に述べる」「同時に述べるのは不可能」と時間軸でとらえている。 また中観派の清弁は、 「二種の真理(世間の慣行と最高の真実)の立場から見るときには、 真実であり、また真実でない。 と言う。」(『世界の名著 2』p.322) と、「異なる立場」でとらえている。
ジャイナ教の相対主義(スヤート・ヴァーダ) 7つの定式のすべてに、syAtスヤート (ある点からすれば) という前提がつく。 1. asty eva. それが存在することもあり得る。 2. (na asty) eva. それが存在しないこともあり得る。…na (asty eva).という句切りの方が妥当かどうか検討を要する。 3. (asti) (na asti) ca. それは存在し、かつ、存在しない。 4. avaktavya eva. 言葉で言い表せないこともあり得る。 5. (asti) ca (avaktavyaz) ca. それは存在し、かつ、言葉で言い表せない。 6. (na asti) ca (avaktavyaz) ca. それは存在せず、かつ、言葉で言い表せない。 7. {(asti) (na asti) ca} {avaktavyaz} ca. それは存在し、かつ、存在せず、また、言葉で言い表せない。 a-vak-tavya…言葉で言い表せない(言詮し得ない)、答えられない
苦を脱するのには、一切智であれば十分。サルヴァ・サルヴァジュニャー(一切智智)は必要でない。
360 :
草レーサー :2006/10/30(月) 07:49:24 ID:7q2sPdXn
ジャイナ教と佛教中観派の論が似通っているのは、気になる。 ジャイナ教によると、我は、どこまでいっても我なんだそう である。我はブラフマンである。とはならないらしい。
361 :
名無しさん@3周年 :2006/10/30(月) 09:13:31 ID:bTacoi+N
ブッダが宣言看板とおりの形而下の一切智者なら、 2500年前の古代インドで産業・情報革命が起り、 古代インドはインターネットと核保有、オール電化で ウォッシュレット・トイレを使っていたであろう。 8:2法則で、生きにくさ(苦)の大部分は解消されたはずだ。 もちろん、人類は新たな苦と楽を発明する。それでいいではないか。 「水月の道場に座し、空華の万行を修す」これでいいではないか。 無理やり苦だと信じこむことはない。たかが、2500年前のイカレ男の 言説に踊らされることはない。 >私はよく相対性理論を持ち出すけど、釈尊が悟ったのはこの理論と全く同じだよ。 ブッダの悟りとやらはたかがこの程度のもんですか。人類は全宇宙を説明できる アインシュタインが夢見た「統一理論」など今だ持ち合わせてはいない。 ひいきの引き倒しすぎは、ブッダも困るだろう。 仏陀とは俺の事かとブッダ言い。
362 :
名無しさん@3周年 :2006/10/30(月) 10:36:12 ID:2w2LdrkU
産業革命があるとき、苦がある。 なぜなら、産業革命は楽の追求だから。 楽は追求しても苦にしかならない。 なぜなら、楽は飽くことを知らず、満足せず、 一旦体験すれば持続しなければ苦、持続しても楽ではなくあたりまえの感覚にしかならない。 だから、釈尊はそんな欲望を実現するような道は全く説かなかった。 欲望を止め、苦を止める道のみを説かれた。
363 :
名無しさん@3周年 :2006/10/30(月) 10:40:20 ID:qJe1gWqX
>361 それで満足できて、かつ畏れることなく死ねればそれで良いんじゃない? ウォシュレットを使っても俺は「死」が怖くて仕方ない。 科学的知識があるわりには、科学者って人格が優れた人って少ないよね? 足の引っ張りあいに、知識の独占欲、年はとっても常識がなく子供っぽい・・・ とても人を導く師匠には思えないんですけど・・・ 確かに頭は良いけどね。 ターミナルケアの場でも、患者の心を癒すのに相対性理論は役に立たない。 豆腐で釘を打っても刺さらない。
364 :
名無しさん@3周年 :2006/10/30(月) 10:59:32 ID:bTacoi+N
一切皆苦と言う見解は一切皆楽の反対極であり 中道の精神に自己矛盾する。間違っているんだよ。 もういいかげんにひいきの引き倒しは止めなよ。 なぜあんたはインターネット利用してんの? なぜ呼吸してんの? なぜ睡眠したの? なぜ食事したの? 全部欲望のなせるワザなんだよ 苦なんだろ?全部止めろよ。 もっと素直になれよ。 けっこう人間として生きることも捨てたモンじゃないよ。 もう一度 「水月の道場に座し、空華の万行を修す」これでいいではないか。 俺の今の境地だ。
>>361 >ブッダの悟りとやらはたかがこの程度のもんですか。
簡単にいうと、
ニュートンが定置観測だとすると、アインシュタインは定置・動体二地点同時観測。
これを勿論飛び越えた上での不二元論へと達観して逝ったのが一如の法門。
>>357 にある
>異時異立脚地からは肯定も否定も共に之をなすを得るを示すものである。」
>と「異なる時、異なる立脚地」からの視点があることを述べている。
は、相対性理論と重なるとこがあるのは言うまでもない。
つまり帰納法でいうたら妥当な説明となる。
これより中観派になりますと、これが演繹的な手法へとランクアップさせていく。
これは、神秀と慧能を比較すると、類似・共通点があるのが解せるかとおもう。
勝義を望遙するのと、世俗を還滅するほどの違い。
さすれば、これよりアビダルマや唯識を語ちるのに、すでに叩き台ができたであろう。
そういうことなんです。
原始佛教などと、ひと括りにしておったのでは何も見えてこない。
多次元視座こそが原始佛教といふものを浮かびあがらせるこになるんです。
わたくしは、そぉいう視点において、
まさに原始佛教を語ちておるんです。
366 :
名無しさん@3周年 :2006/10/30(月) 11:17:28 ID:qNg1O0z/
生臭坊主って暇なんだな
367 :
名無しさん@3周年 :2006/10/30(月) 11:21:26 ID:bTacoi+N
>>365 21C半ばにある天才が「統一理論」を完成したとする。
生きていればあなたを含め贔屓筋は、それこそブッダの
悟りの内容だ、全智者には解っていたと言うだろう。
念のため、俺はカラスとちゃうで。
368 :
名無しさん@3周年 :2006/10/30(月) 12:19:12 ID:bTacoi+N
>>363 >ウォシュレットを使っても俺は「死」が怖くて仕方ない。
なんで?知らないことを経験するってワクワクしませんか?未知との遭遇ですよ。
また、ヴィッパサナーで現在瞬間のみの実在を知り因果一如、因も果もその瞬間
だけで受け取り貸借なしとできますよ。刹那滅・心相続でもいいですよ。
ものの見方ひとつですよ。生きるって苦だと思う人にとっては苦です。
楽しいと思う人にとっては楽しみです。死も同じ。人生の極意ってこれだけですよ。
同じアホなら、楽しまにゃ損損。観音さんを真似て、方便によりて苦を遊戯すですわ。
ブッダってイカレ男はずいぶん人を苦しめてきた奴だと思いますね。
これは読み解き方の問題になるが、 「一切皆苦」というのは、そのまま「苦しみ」と見るのでなく、 「思い通りにならないこと」と読めばいい。 勿論、勝義に於いては「涅槃の妨げとしての煩わしきもの(悩ませるもの)」であるから「苦」である、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ と読まれるのであろうが・・・。
370 :
名無しさん@3周年 :2006/10/30(月) 12:55:47 ID:bTacoi+N
思い通りにならないことと、思い通りになることの両者があって人生は味わい深いと 思いますよ。 昔、リストというピアニストがいて、悪魔のヴァイオリンといわれたパガニーニを 聴いて、ピアノのパガニーニになる!と決心しそのとおりになった。大金持ちになるわ、 女にもモテモテ、全て思いとおりになった。一級の教養も身につけ非の打ち所がない状態。 しかし、なんか空しくなってキリスト教の坊さんになったというゼイタクな人もいます。 思い通りになると空しいとは、人間とは面白い生き物ですね。
>>367 >21C半ばにある天才が「統一理論」を完成したとする。
完成したとしても、それは世俗の完成ですし、
空諦は完成することはないです。
(発展することもない)
中観においては、龍樹が理論(骨格)体系を築いた。ってことですから、
時代とともに人類に進歩(あるいは退化)があれば、
また論法も変化するかもしれませが、(第二の龍樹が現れるかもしれません)
基本的なものが変化する訳ではなく「世俗諦」として変化するのであって、
勝義においては、まったくこの範疇ではない。
372 :
名無しさん@3周年 :2006/10/30(月) 17:33:13 ID:qJe1gWqX
>368 現象としての死すら理解できていないようですね。 実際に死が差し迫ってみたらわかるでしょうけど。 「わくわくするでしょ?未知との遭遇?」 この言葉を末期癌の患者なり、あなたの死にそうな親族なりに語ってあげてください。
373 :
名無しさん@3周年 :2006/10/30(月) 17:37:42 ID:qJe1gWqX
>一切皆苦と言う見解は一切皆楽の反対極であり >中道の精神に自己矛盾する。間違っているんだよ。 反対極?中道? 恐ろしく浅い理解だが・・・ このような人には宗教は必要ない。 2ちゃんに書き込みしてる場合じゃないだろ? 親のすねでもかじってせいぜい人生を謳歌してくれたまえ。 人生たのしまにゃ損損・・・だろ?
374 :
名無しさん@3周年 :2006/10/30(月) 18:17:36 ID:6kPAw0TH
宗教ってなによ
375 :
名無しさん@3周年 :2006/10/30(月) 22:34:31 ID:2w2LdrkU
>>364 もうすこし考えてみてください。
仏教的には我々が行動しているのは、業>煩悩>苦>業>煩悩>苦.....
の連環です。それを輪廻と言います。
つまり全て業のせい。
全部止めろというのは、自殺しろということですか?
それで終われば話は簡単なんですが、輪廻は自殺では解決しない。
それでは業が尽きないから、再生してしまうんです。
人間として生きるのは解脱するチャンスと仏教では考えてます。
それ以外の生き方は、無意味とします。
「水月の道場に座し」というのは、空である水月のような現世を、修行する道場として生まれ変わりつづけて涅槃に入らない無住処涅槃、という意味でしょう。
「空華の万行を修す」というのは、無住処涅槃で普賢行を行うのだが、その行も空と
認識して一切衆生を救済するまで利他の万行を修す、という意味でしょう。
相当高度な内容ですよ。それが貴方の境地なら素晴らしい! 随喜します。
376 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/10/31(火) 07:10:02 ID:j2S3C6MX
>>375 そうですか、ずいぶん難しいお話ですね。
>仏教的には我々が行動しているのは、業>煩悩>苦>業>煩悩>苦.....
>の連環です。それを輪廻と言います。
禅的には、この連環(連関)こそが迷いと捉えております。
生滅の理法は即、時間的連続性においても空諦における現に滅すという考えです。
縁起の現観とは、この位相をいうております。
とはいえ、
いろいろな捉え方がありますね(^。^)
参考になります。
377 :
名無しさん@3周年 :2006/10/31(火) 08:31:45 ID:5sLwpAku
>>仏教的には我々が行動しているのは、業>煩悩>苦>業>煩悩>苦..... >>の連環です。それを輪廻と言います。 > >禅的には、この連環(連関)こそが迷いと捉えております。 もちろん、普通の仏教なら輪廻は迷いですよ。
379 :
名無しさん@3周年 :2006/10/31(火) 09:42:50 ID:qGZY8bKq
さる先生はエジプトくらいまでは仏教は伝播していたのでは?と仰っていました。 いつごろか分かりませんが、エジプトにはインド産の孔雀がいてインド人も 住んでいたそうですから。
380 :
名無しさん@3周年 :2006/10/31(火) 10:09:08 ID:FF3uJHm1
>>372 >>375 おお、厳しく難しいレスありがとうございます。先ほど「空華の万行を修す」仕事から
遅い朝帰りしました。実にハードでしたが、そのハードさを楽しめました。ギンギンです。
反面、最近プライベートで感じ、考えることが薄いブルーの「透明」になってゆくのを感じます。
このまま、水面の月のようにスッと溶け消えても不思議ではないような・・・
私の好きなブルース・リー「燃えよドラゴン」に、弟子に蹴りを教えるシーンがあります。
“We need emotional content." (感情を込めろ)弟子の蹴りにリーは納得しない。
“I said emotional content Not anger !"(感情を込めろと言ったんだ、怒りじゃない!)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“Don't think ! Feel !"(考えるな!感じるんだ!)
“It is like a finger pointing away to the moon.
Don't concentrate on the finger or you will miss all that heavenly glory."
(月を指差し、月を眺めるようなもんだ。指先に精神を集中するな。さなくば栄光は得られん)
私は今まで3人の同居の家族、伯母(大腸癌)父(胃癌)母(脳梗塞)の死に相伴してきました。
幸か不幸か母は老人痴保だったのですが、伯母と父は死を受け入れてくれたと思います。
肉体の滅後は誰も経験していません、わからないのです。輪廻もです。わからないのを「信じる」かどうかだけです。
宗教や哲学はわからない死という現象を日常的に慣れ親しむ訓練です。私達はいわば死の受験生です。
日常勉強しなかった(生死観を確立できなかった)受験生に試験間際になって暴れられても困ります。
先ず受け入れ、どう受け入れるかはその人次第でしょう。わたしは次のシーンを
楽しみたいとおもいます。(無内容な長文スマン)
>>380 きれいな表現ですね。コテハンをつけて下さいませんか?
あなたのレスは面白いです。
雜阿含經十三「一切者謂十二處」 一切とは十二処をいふ 形而下の事象の一切を知る者、という意味で「一切智者(サルヴァ・ジュニャ)」と呼んだのではなく、 解脱に関して一切を知る、ということ。自然科学の法則のすべてを知るということではない。 生起するもの それは永遠ではない 諸行無常 楽があっても それはいつか壊れる 一切皆苦 楽苦というが、楽そのこと自体を苦と見なしているのだろうか。 楽は壊れたとき苦となり得る、という見方は成立しないだろうか。 涅槃経で、ブッダはヴェーサーリーを去り行くとき、これを眺めて美しいと言った。
「是A亦非A」の図解 ■■月2■ ■■水■■ ■aA■■ @Aでは水中に月が見える A【異立脚地】aでは見えない A´【異時】時移り月が2に来ればAでは見えない
部派の論書でも四句分別を用いている。 「品類足論」弁千問品 (果)非(有果)、(有果)非(果)、(果)亦(有果)、非(果)非(有果) (見)非(見処)、(見処)非(見)、(見)亦(見処)、非(見)非(見処) 等々。 「方便心論」で、随所執を四種に分けたもの、一切同、一切異、初同後異、初異後同、 これはまさしく、四句分別の3句、4句を異時によって解釈した一例と言えるだろう。
今西氏の論文はまだ読めていないが、 rUpaM zUnyatA, zUnyataiva rUpam. (色即是空、空即是色) について別の着想があった。 色即是空を勝義諦とし、空即是色を世俗諦として読む、というものだ。 色(体・物)は・・・と提示して、空性(空なるもの・こと)なり、と、まず勝義諦を説破する。 ところが、宗教家でも哲学者でもない人が大多数を占める一般世間では、やはり色として作用している。 よって、本性は空なれども、現象としてはやはり色の面が重要である、空即是色、と世俗諦を説きおくことも忘れてはならない。 (なお梵文では、この際 zUnyatA rUpam のままだと、空性が色の集合に含まれる、つまり空性でない色もある、 というニュアンスも出てきてしまうので、zUnyatAに限定詞evaを付けてそれを防いだのではないかと思う。) 空(勝義諦)と仮(世俗諦)のいずれにも偏せず(両諦併記)、両々相まってこそ真実、これが中だ、ということになる。
386 :
名無しさん@3周年 :2006/11/02(木) 10:10:56 ID:SakeMEmY
苦と楽 >両々相まってこそ真実、これが中だ、ということになる。
快楽に偏せざれ、苦行に偏せざれ、これ即ち中道なり
小空経、大空経(中阿含經巻49所収) T16 No.709 《佛説稻稈經》 www.cbeta.org/result/T16/T16n0709.htm T16 No.710 《慈氏菩薩所説大乘縁生稻稈喩經》 www.cbeta.org/result/T16/T16n0710.htm T16 No.712 《佛説大乘稻稈經》 www.cbeta.org/result/T16/T16n0712.htm
空(勝義諦)に偏せず 仮(世俗諦)に偏せず 両諦相まってこそ真実、これが中だ
ttp://homepage1.nifty.com/manikana/keijiban/17uii24880.html > 山下正男『論理学史』(岩波全書)
> 「インド論理学における分類原理」という項目
> 四句分別について説明
> 二つの命題pとqについて、p∧q、〜p∧q、p∧〜q、〜p∧〜qを四句として説明している
> 「しかしこうした禅の立場、そして広くは大乗仏教の龍樹系の立場は論理的には無謀、無意味な行為ではあるが…」とありました。
岩波書店の「哲学・思想の事典」にも、四句分別の第3・第4句は証明されていない、といったような記述があった。
@ p、q、pq、〜p〜q
A p〜q、〜pq、pq、〜p〜q
B p、〜p、p〜p、〜p〜〜p …これなら確かに一見、矛盾してるけど、
異時・異立脚点という視点もあった、ということは知られていないのかな。
392 :
名無しさん@3周年 :2006/11/02(木) 23:29:25 ID:SakeMEmY
なんだ、月を差す指ばっか見る奴だらけだな。 頭でっかちで、大乗、大乗、大乗で ダイジョウぶ? ゚(゚^Д^゚)゚。プギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ ・・・・・あほ杉! 大乗とやらで 解脱者なんてでるわけねーんだよwwwwwwwwwww
怨みに怨みを以て報ゆれば、遂に怨みの止むことなし。
釈尊内証の原像を探ろうとしたら、パーリ語大蔵経だけでなく、遺された梵文仏典、 漢訳阿含、大乗の論典、その他も参照すべき、という意見です。
>>394 漢訳阿含にしても、いわゆる勝義諦をベースにしてあるところなんぞは、
そりゃ〜非常に丁寧に記述してあります。
しかし、勝義諦をベースにしてあるため、解読する方が全く意味を解せないのですよ。
私は、アホダラ氏といふコテハンと被りまして
氏がどういうふうに漢訳阿含を解釈してるのか問うたことがあります。
しかしながら、あくまでも世俗諦において氏は解釈しておるため、
せっかくの漢訳阿含の本義が氏には伝わっておらない。
これでは、なんにもならなと思うけどね。
知のベクトルは法から離れる。ってのも、また真かとおもいます。
つまり帰納法では、とうてい無理かとおもう。
>>391 > 二つの命題pとqについて、p∧q、〜p∧q、p∧〜q、〜p∧〜qを四句として説明している
> 「しかしこうした禅の立場、そして広くは大乗仏教の龍樹系の立場は論理的には無謀、無意味な行為ではあるが…」とありました。
これは、そのとおりかと思います。
私が
>>261 に書いてありまふ。
性懲りもない外道壁蝨の蟲喰いで番号飛びが・・・。資源の無駄遣いそのもの。 拾い喰いの挙げ句の消化不能で腹が破裂し汚穢撒布になるだけだが(冷笑)。
>>227 >>341 > 諸仏あるいは我を説き、あるいは無我を説く
「小空経」(『中部経典』、『中阿含経』巻49)
釈尊が鹿子母堂という講堂でアーナンダと比丘たちに説く。
「ここに牛はいない。牛に関して言えば、空である。
しかし、比丘はいる。比丘に関して言えば、空ではない。」
(補記。牛を探しに来た人々なら、後から来た人が「いるか?」と聞いて、先に中を覗いた人は
【いない】と答える。比丘を探しに来た人々なら「いるか?」【いる】となる。)
この「講堂の牛と比丘」の論法で、以下を見てゆく。
> 村想の時は[我なし]、人想の時も[我なし]、林想の時のみ[我あり]、と見る。
> 人想の時は[我なし]、林想の時も[我なし]、地想の時のみ[我あり]、と見る。
以下、同様にして、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処の、いわゆる四無色定についても考察してゆく。
以上、「〜に関して言えば無我、…に関して言えば有我」というように、
四句分別の第三句「Aあり、また、非Aあり」を、同時に異なる立脚地から見ている例である。
399 :
名無しさん@3周年 :2006/11/03(金) 23:43:37 ID:1tpb5pM8
真を求めず、我田引水ブッダのみを求むアホ多数。 教科書アホにアホを以て報ゆれば、遂に教科書アホの止むことなし。 アホの我田引水はエゴイズムそのもの ゚(゚^Д^゚)゚。プギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ ・・・・・やっぱ、教科書石頭は、あほ杉! 非本質的議論で命を削っとけ 先ず、妄想ニルヴァーナを設定し、現世への厭世観=無価値、無意味、善悪判断無効を夢想する ブッダのニヒリズム(虚無)とは、<神>の別称鼎立に他ならず、 徹底した厭世観=虚無観確立による解脱とは、神否定の逆説に他ならない。 あほらし。 ゚(゚^Д^゚)゚。プギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ ・・・・・あほ杉、寝るぞ
脳天の潰え果てた狂躁基地外は疾く永眠すべし。 それも叶わんのだろうが(嗤笑)。
>>304 で紹介されている所の論義の中から、同じ内容でありながら微妙に表現の違う2文について。
> vaya-dhammA saGkhArA
> Skt. vyaya-dharmAH sarva-saMskArAH
> 他は dharmin になってるんで意味が異なってしまいます
> aniccA vata saGkhArA
uppAda-vaya-dhammino
> Skt. anityA bata saMskArA utpAda-vyaya-dharmiNaH
複合語vyaya-dharmaの六合釈を考えると、詳述は煩瑣になるので避けるが、格限定複合語と判断できる。
辻文法の[§109, U, 2. 格限定複合語]の[単純な格関係では説明できない場合]、
及び[附録A 格の用法, W. 与格, 6. 述語的用法]の[帰着するところを示す]を参照。
訳は「消滅(に帰着する) もの(法)」となる。
utpAda-vyaya-dharminも格限定複合語であり、「dharmin(性質を持つもの)が
[utpAda-vyaya(生起・消滅)という性質]を持つ」という文を複合語の形に変えたものである。
つまり、「生起・消滅(という性質を持つ) dharmin」という関係だ。
なお、どちらも、前分・後分以外の事物を修飾しているわけではないので、所有複合語ではない。
ここで注意してもらいたいのは、前者のdharmaと後者のdharminで意味が根本的に違っていること。
前者は「もの」であり、後者は「性質を持つもの」である。
dharminに含まれるdharmaの部分は「もの」ではなく、「性質」という意味だ。
このdharmaの質的変化から、[基体・属性関係を基にする論理学の発展の影響を受けて、
vaya-dhammA saGkhArA が aniccA vata saGkhArA uppAda-vaya-dhammino に書き換えられていった]
のではないか、という推測も可能だろう。
>>399本覚論者くんよ。 それじゃ龍さん風のプラサンガモドキにもなってないから、 さっそく本質的ケ論で反定律して見せてくれ。
>>401 >つまり、「生起・消滅(という性質を持つ) dharmin」という関係だ。
う〜ん、そうでしょうか?
生起・消滅ってのは、つまりは勝義諦を世俗諦に落としての、生起・消滅ですから、
生起・消滅に法則は・・・どうなんでしょ?
また、暇なときにカキコします。
十二処というのはファジーでして、 つまり、認識するものと認識されるんものの明確な区分はできない。 ようするに関係性というのは、複合的な条件なりが相依なくば具体化された縁起とはなりにくい、 仮に縁起を生起とするなら、それ自体が生起するわけではないから つまり生滅として相殺することにおいて、それで縁起が成立つ。 というふう論理的整合性をたてただけのこと。 無自性だから、依っては生起はするが、それは同時に生滅していることになる。 もし勝義諦において生起とするなら、それは無自性であらずして自生に他ならない。 中観においての生起の意は世俗諦における論拠でしかない。
405 :
冥界通信記者A :2006/11/06(月) 23:22:41 ID:9xzLN3ap
大スクープ調査中! 激しい取材合戦展開中 驚天動地の大スキャンダル 発覚! 次回「冥界通信」に請う ご期待! 心臓病の方は読まないで下さい。
マールンキャープッタは考えた「この生きている私にはアートマンがある。 このアートマンは死後どうなるのか世尊に伺ってみよう」 マールンキャープッタ「世尊よ、アートマンは死後もあり続けるのでしょうか、 死後はなくなるのでしょうか、…」 釈尊「マールンキャープッタよ、その問いかたはふさわしくない」 すでにアートマンがあることを前提に、それがどうなるのか質問しているのに対して、 そもそも、アートマンがある、ということは言えない、という見地だ。 だから、そういうアヤフヤなものが、どうなるか、と聞かれても答えない。 「色はアートマンではない、受はアートマンではない、…、識はアートマンではない」 「アートマンはない」とは言明しないが、あらゆるものを一つ一つ取り上げて、 「これはアートマンではない」と片端から否定してゆく。 インド哲学では、最初から例外の出現の可能性(ほとんど0に近くとも)を想定して、 「・・・は〜だ」と定義せず、「〜ではない、…ではない」という言い方で、 万々一の例外の出現に備えているように思われる。
中観派が勝論・有部の実在分析を批判する際に用いた「指を見て月を見ない」という比喩を、 色んな人が多様な見地から種々の方向を指さしている場合に適用するのはどうかな。
408 :
名無しさん@3周年 :2006/11/07(火) 13:24:31 ID:qvwidLrY
維摩経ってメッチャ面白いね。 こういう楽しめるのがいい。 聖徳太子もそら嵌るわ。 だれか、オペラに仕立てろや。
> vaya-dhammA saGkhArA > aniccA vata saGkhArA uppAda-vaya-dhammino 前者は、「諸行は滅するものだ」と言うだけで、生起ということは触れられていない。 後者では、「諸行は生と滅の性質がある」と、生・滅の両方に言及している。 生滅についての原始仏典の立場は、「生ずることが無いから、従って、その次の段階として 滅することもない」としているのではないか。 中論では、世俗諦では生滅しているように言えるものも、勝義諦から見れば、 生滅ということではない。つまり、そもそも生じたり滅したりという姿でとらえていない。 どちらにせよ、生起と同時に滅する、ということは述べられていない、と。
>>409 いや、そんなに難しく考えると余計に分らなくなるんじゃないですか?
例えば十二処の「味」だったとしたら、
味自体というのはないが、複合的要因に依りて、
それは生起する。と一応は仮設する。
がしかし、それ自体(生起)は論理矛盾があるので、一応は否定で生滅とする。
世俗諦においては、つまりは論理的な矛盾を前程としなければ論理の整合性自体がないので、
世俗諦においては、
>中論では、世俗諦では生滅しているように言えるものも
ということになる。
勝義諦においては、この非論理として(インド哲学)
>勝義諦から見れば、 生滅ということではない。
ということになる。
>どちらにせよ、生起と同時に滅する、ということは述べられていない、と。
というのは、あえて世俗諦における論理破壊といふ手法においての
勝義諦の説明です。
(世俗諦では論理矛盾があっても、同時に生起&生滅は勝義諦では矛盾はない)
では、おやすみ。
「諸行」のルーツについて(以下は仮説です) @ anityaH zabdaH シャブダは永久不変にあらず A anityAH saMskArAH 諸々のサンスカーラは永久不変にあらず シャブダはヴェーダ讃歌の詠唱の音声であり、それを永久に保とうとしている正統バラモンには、受け入れられない主張だ。 同様に、サンスカーラも神聖なヴェーダ祭儀の執行であり、これを永久に保とうとしている正統バラモンには、受け入れられない主張だ。 vaya-dhammA saGkhArA それ自体の表現に関して。 諸行無常という言い方が、行と無常とで同語反復になっているのではないか、と思えることから。 はじめは色無常などと個別に言っていたが、そのうち、ひとまとめで言い表そうと諸法無常と言った。(文証は未確認) しかし、ちょっと考えてみると、法(ダルマ)には保つものという原義がある。これでは無常というのと反する。 そこでサンスカーラというバラモン教宗教用語が採用された。儀礼、集まって(サム)する(クリ)こと、 集まって作るもの、因と縁が集まって生起するもの。因縁生起、縁起のものはいずれ滅する。これなら無常とよく合う。
>>411 なるほど、面白い書き込みですね。
じゃあ、わたしなりにレスポンいたします。
>因縁生起、縁起のものはいずれ滅する。これなら無常とよく合う。
「無常とよくあう」ってだけで、つまりは語意にはあまり関係ないのが法(ダルマ)かとおもいます。
文献学者のよぉな方が、ここでいろいろと解説つけてしまうから、
衆生は余計に迷うのかとおもいます。
石飛氏がいい例で、
論理学として固定してしまいますと、それだけで法から離れてしまう。
じつは法などといふもんはナイわけです。
法などナイ。などといふと、つまりは衆生が余計に迷うものですから、
一応は、法などと言うて、それで衆生を安心させるのです。
>しかし、ちょっと考えてみると、法(ダルマ)には保つものという原義がある。これでは無常というのと反する。
つまりは、ダルマというのは既存の言語には当てはまらないのが、
もともとの意味ですね。
意味自体もないですけど。
言語は相対概念によりて成立つ。という
それ自体が一如の法門を語ちるのに、非常に不便てこってすね。
知のベクトルは、つまりは相対分別を無限連鎖して逝きますから、
私が日頃から言うておりますように、「仏教は知にあらず」の意は
じつは、こういうことだったのです。
#、で貴殿は、石飛先生に傾倒なされておるよぉですね(^。^)
唯識では生住異滅の四相を説くが、 龍樹は廻諍論で生起・維持・消滅の三時という発想を述べている。もちろん空の文脈で。 しかし、無生ということに力点が置かれているように思える。 そもそも生起がないから、滅ということが起こり得ない、と。 いずれにせよ空観の立場を採る人なら、龍樹がいかに緻密な言語分析により、 実在論に論理をもって対していたか、再考すべきだろう。
人空勿執之
阿含経は空諦にて解釈するなら非常に優れた経典だ。 というのは解せるかとおもいますけど、 こういう空諦とか知らんもんが読んでも、意味は全くわからんかとおもいます。 空諦に入らず、経典だけ読んで悦に入っている某コテハンなどおりますが、 私は、そういのはどうかと思いますね。 あえて掲示板にコテ名を書き込むのは控えますが・・・ そういった輩のためにも、中論は良き手引書になるかと思います。 しかしながら、これは、まあ、手引き書なわけですから、 ズバリこれもってして、そのまで達観しちゃう訳ではない。 とはいえ、私は手引書としては非常に優れたものかと思います。 龍樹にして、ようやく中道の曙を垣間見るわけです。 しかしながら龍樹にしても、論理矛盾を批判する論法には限界があると、 そういうことは龍樹自身が一番よく分っておるかとおもいます。 空観にしてみれば、限界というのは当然あるわけです。 逆に言うたら、 その限界を見極めることこそ、いわゆる空諦といふことですから。 ここまできて、やっと中論の本義に到るものと、 かように机は思うておりまふ。 <机龍之介・花押>
416 :
名無しさん@3周年 :2006/11/09(木) 10:40:34 ID:B0anmMy3
我が生は何処より来り 去って何処にか之く 独り蓬窗の下に座して 兀々として静かに尋思す 尋思するも始めを知らず 焉んぞ能く其の終わりを知らん 現在も亦復然り展転総べて是れ空 空中に且く我れあり 況や是と非とあらんや 如かず些子を容れて 縁に従って且く従容たるに <良寛・花押>
ぬるぽ
>>416 そういうことですね。
「限界」といふのは、そういうことなんです。
ここまで龍樹が語ちるのは困難であると、龍樹自身が分っておることなんですね。
で、こういう場合は、龍樹はなんとおっさるか?
チャネラー風に言えば
「生死大海へ逝ってよし」ということになる。
これはどういうことかと言いますと、生死大海に飛び込んで彼岸を目指せ。
というふうに解釈されます。
また、般若心経にも「逝く」ことの推奨が記してあります。
で、彼岸とは何か?という本題を書きますが・・・
いろんな視座がありますから一概には結論つけることは困難にしても、
ひとつの言いかたとして、
「限界の非限界といふ逆説的諦観」と、そのようにも言えるかと、
私は思うのでありまふ。
<机龍之介・花押>
>>398 の「小空経」で述べられている、観点の違いによる有我・無我に関連して
(江島惠ヘ『中観思想の展開』春秋社、p.xii 参照)
C辯は、空性を論証する際の全ての否定判断をprasajya-pratiSedhaであるとした。
これは、「非馬(馬でないもの)」が他の四つ足動物(たとえば牛など)を指すのとは違い、
他のなにごとをも指し示さない否定である。
「小屋に非馬がいる」と言った場合は、牛などの、馬と同類の四つ足動物がいることを、
牛か他か種類は明示せず、述べている。
これに対して、「小屋に馬がいない」と言った場合は、
牛がいても、いなくても、どちらにもかかわらず、馬の不在に関してだけを述べている。
これがprasajya-pratiSedhaである。(cf. インド仏教史・下, p.202; prasaGga, prasajyate)
早島鏡正『人類の知的遺産 3 ゴータマ・ブッダ』(1979)に パーリ文からの、小空経・大空経の全訳がある。
>>419 >C辯は、空性を論証する際の全ての否定判断をprasajya-pratiSedhaであるとした。
まあ、そういう論法が龍樹の特徴ですね。
わたしが既に
>>418 に書いておきました通りです。
限界の否定としての限界。ということで暗に諦観を指し示す手法です。
中観においては、これが文字とおりの限界でして、
しかしながら、
龍樹がなんで優れている学僧なのか?
というたら、
これ程までに、中道を懇切丁寧に解説した学僧が、龍樹以前にはいなかった。
ってことです。
Jan Nattier, "The Heart Sutra: A Chinese Apocryphal Text?" The Journal of the International Association of Buddhist Studies 15-2, 1992, pp.153-223. 邦訳「『般若心経』は中国偽経か?」『三康文化研究所年報』37号(2006), pp.17-83.
やっとヒトリゴツルを脱してフタリゴチてきたという感じ・・・
424 :
名無しさん@3周年 :2006/11/09(木) 22:09:55 ID:nS+K8reE
>>422 ナティアなんか和訳するかなあ。とっくに論破されてるのに。
外人だとトンデモでもありがたがっちゃうんでしょうか?
425 :
名無しさん@3周年 :2006/11/09(木) 22:55:20 ID:mTD3zIGF
誰か出禁バカの行状を地元教委やKQ庵に垂れ込んでやれよw
釈尊は口伝でしたね。 そして釈尊滅後100年くらいは口伝の伝統は守っていた。 じつに長い間、伝統を守っていた。とも言えるわけです。 この100年というのは、じつは非常に重要なことだったかと思います。 何ゆえにこうも、長い間経典の編纂を躊躇ったのか? ああ、経典編纂というのはやりたいものです。 (特に禅僧などは書きたがる) だいたいが僧というのは書きたがる。 経典というのは断定的な解釈になりまして、中道においてはあまりソグワナイ。 ということで、私は100年近く伝統を守ってきたのかとおもいます。 口伝というのは、その脈絡に機微なるニュアンスを挿入できる。 という、非常に優れた利点がある。 禅では教外別伝とか言うたりしますが、このことです。 経典が一度完成してしまいますと、この解釈において論争のネタになる。 まあ、いわゆるネタ本として現存する経典は数知れず。 「釈迦という、いたずら者が世にいでて衆生を惑わす」。 とか、なんとか、一休の言葉ですが、 結果的には、この負の部分を抱えてしまったのが、 いわゆる経典編纂かとおもいます。 もちろん、諸刃の剣であることは言うまでもないことだが。
427 :
名無しさん@3周年 :2006/11/10(金) 10:17:49 ID:Dm2neU8F
出禁バカが今まで書きなぐった特定情報をコピペして、地元教委やKQ庵へ送りつけてやれば、タダでは済まんだろ。
428 :
名無しさん@3周年 :2006/11/10(金) 16:42:28 ID:oVvNRRi/
我々は、約2500年前のゴータマブッダが喋った言葉(おそらくかなりキツイ訛り)と内容を ニュアンスまで含め本当に正確に捉えているのか、はなはだ心もとない。 伝聞に次ぐ伝聞、翻訳に次ぐ翻訳・・・・ 2500年前のインドの一地方⇒複雑な北方ルート⇒やっと日本 これだけでも危ういのに、言語そのものが持つ限界がある。 現代でも例えばヴィトゲンシュタインやハイデガーを内容ニュアンスを含め 正確に伝わっているかは心もとない。 昔、九鬼周造がハイデガーに「いき」を言葉を尽くしても了解させられなかった ように。 これに解釈と哲学論議が入り、人間の感情が入れば、はたして万人共通の真理なるものが あるのかどうかさえ怪しい気分になる。
次の文も
>>401 と同様の構造を持っている。パーニニに対するパタンジャリ(紀元150年頃)の解説で
>「sphoTaH zabdaH | dhvaniH zabdaguNaH : スポータこそが言葉である。
>音声は言葉の属性である」 白水社、文庫クセジュ『サンスクリット』p.75
(スポータは一種の言霊。グナを属性の意味で使うのは勝論派と同じ。)
「サンスカーラ」の意味についての記述(同書 pp.46-47, 69, 99)
>サンスカーラという動作名詞は、一つの行為を準備する多様な要素群を総称する語だ。
>行為者、その他の要因、必要とされる素材などを包括的に参照する準備行為だ。
>その「準備」はその目的、つまり何ものかの実現、によってのみ意味を持つ。
>調理そのものは、材料を、身体を養うのに適した状態にするという点で、「サンスカーラ」の一種だ。
>「サンスカーラ」は、いくつかの要因を寄せ集め、それらの要素に一つの目的を持った機能を
>与える行為だ。その意味では、それは完成させる行為とも言える。
>この概念は社会的、宗教的生活の分野でも用いられる。一人の人間は
>いくつかの祭式儀礼によって準備されて、あれこれの行為をなす能力を与えられる。
>入門儀礼は人に師匠のもとで学ぶ能力を、婚姻儀礼は人に一家の主人たる能力を与える、という風に。
>心理学の分野では、「サンスカーラ」は過去の経験が無意識のうちに残す効果の全体であり、
>それが新しい経験を可能にする能力を人に付与する。
>それは認識と行為を可能にする組織された知識の習得である。
>言語能力も、同様に、個人に新しい言語行為を可能にしてくれる「サンスカーラ」だ。
>一種の聖別(サンスカーラ)を受けることで、宗教的儀礼であり義務であるヴェーダ頌唱を行う能力を付与される
>誕生、命名、入門、結婚、葬送、などの聖なる儀式をサンスカーラと言う。
一切皆苦 根本的には苦だ、と見るのは仏教特有のことではない。正理経疏・数論偈(ともに5世紀)にもある。 特に正理経疏の教理面は、有我論などを除くと、仏教の説き方にとても似ている。
431 :
名無しさん@3周年 :2006/11/10(金) 22:59:26 ID:oVvNRRi/
ほんとは人生は楽しめるし、楽しいんだよなんて、 本当のことを言うと宗教はあがったりだから、当然。
>>429 わたしなりに書き込みしてみまふ。
>>言語能力も、同様に、個人に新しい言語行為を可能にしてくれる「サンスカーラ」だ。
わたしは、言語というのもっと根源的なものかと思いますね。
>>心理学の分野では、「サンスカーラ」は過去の経験が無意識のうちに残す効果の全体であり、
>>それが新しい経験を可能にする能力を人に付与する。
つまりこれは学習能力ということですから、
「人間は考える葦であある」。byパスカル
とあるように、一応は人間というのは考える。という前程においてこの概念が成たつ。
思考は言語に依りて成すわけですから、
いわゆる言語とは人間たるべきにおいては生得的である。
(社会生活を営むという前程において)
ということが先ず基本において、そしてその属性たるサンスカーラという方向性も成立つのかと思いますね。
では、人間の思考(煩悩とか)とはなにか?
というお題があったとしたら、これは言語とは何か?が、
テーゼになってくるかとおもいます。
>>音声は言葉の属性である」
というなら、また思考もこの属性である。
とも言えるわけでして、
つまり仏教とは、この根源的な洞察こそがその本義というべきかと、
このようにおもうのであります。
で、その脈絡の続きが
>>426 なんですね。
言語を表記して、それを解釈する手法と・・・
口伝における、言語表記を介さないで解釈する手法。
この違いは、私は大きいかとおもいます。
まあ、とは言いましても、大乗ともなれば口伝などと悠長なことは言うてはおれんですけど、
しかしながら、こういうった、あたかも何でもないようなことでも、
釈尊滅後100年においては、
「何でもない」つぅ〜ことは、なかったわけですね。
もう一度、原点回帰することが、私は真の原始佛教を論考することに通ずるのかと思いまふ。
434 :
名無しさん@3周年 :2006/11/11(土) 09:58:21 ID:g8+LDj4E
出禁バカはゴタクを並べるヒマがあったら、己れのクビの心配でもしとくことだなw みんな生暖かく見物してるぜwww
435 :
風 :2006/11/11(土) 10:28:31 ID:zwFTLGVf
こんにちは。お初です。 おもしろそうなので、見学させてください。
436 :
名無しさん@3周年 :2006/11/11(土) 12:37:30 ID:e/dce7L3
プギャー!プギャー!プギャー! プギャー!プギャー!プギャー!プギャー! プギャー! m9 m9 ノ) プギャー! プギャー! 川 m9 川彡'三m9 プギャー! プギャー! m9ミm9、m9ミm9彡m9 プギャー! プギャー!m9三ミm9(^Д^)彡三彡三m9 プギャー! プギャー! m9彡川m9彡川ミm9 プギャー! プギャー!m9彡川m9m9 m9川彡m9 プギャー! プギャー! (ノ m9 川 m9ミ) プギャー! プギャー! m9 プギャー! プギャー!プギャー!プギャー! プギャー!プギャー!
>>428 >九鬼周造がハイデガーに「いき」を言葉を尽くしても了解させられなかったように。
わたしも「いき」については、よく分っておりませんが、
例えば江戸・長屋にしてみれば、狭い一部屋に隣人との堺が壁一枚ですよね。
血の気の多い江戸っ子にしてみれば、便所は共同だし、使い勝手が悪いし、
いつ喧嘩になってもオカシクナイ。
そういう環境において、隣人と上手くやっていく知恵として「いき」もまた、
その地において発展していったのかと思う。
非常に高度な道徳律です。
(そういう一面がある)
じつは現代の東京にも、この「いき」の文化ってのは残ってまふ。
いい面と、悪い面がありますが、私はこの「いい面」ということで東京が好きですね。
特に田舎者は、この「いき」が魅力です。
「いき」ってのは外人が理解するには難しいかもしれませんね。
わたしが、中世のヨーロッパでは糞尿を二階から投げ落とす。
(つい最近まで、この風習はあったらしい)
という文化が分らんよぉに(^^ゞ
438 :
名無しさん@3周年 :2006/11/11(土) 14:08:23 ID:g8+LDj4E
出禁バカはいくら粋がったところで教委やKQ庵に一睨みされたら、平グモみたいに這いつくばって泣きを入れるに決まってらw ったく、どこまでも見苦しいチンカス野郎だなwww
439 :
名無しさん@3周年 :2006/11/11(土) 15:35:10 ID:e/dce7L3
>>425 >>427 >>434 >>438 お前な、言いたいことがあるんなら、このスレの趣旨に合うかぎり、
明解に言えよ。訳のわからん呪詛念仏ではお前自身が腐る。
『ったく、どこまでも見苦しいチンカス野郎だなwww 』
そういや、大昔に糞カラスとかいうのが居たっけwwwwww
今は哲学板で、都立松沢病院からキチガイ電波を撒き散らしているぞ。
440 :
名無しさん@3周年 :2006/11/11(土) 16:01:32 ID:g8+LDj4E
>>439 出禁バカの過去のヨタ話読んでみろよ。
アンタが言ってるカラスなんたらの同類だw
441 :
名無しさん@3周年 :2006/11/11(土) 16:48:16 ID:g8+LDj4E
442 :
風 :2006/11/11(土) 17:13:23 ID:zwFTLGVf
ここも同じですか。 わかりました。
モハばっかりだな
山田孝道『禪宗辭典』 四句。外道論諍の範疇たる、一・異・有・無をいふ。(出典なし) ――元々は仏教外で用いられていた、ということか。 『禪學大辭典』 四句分別。第三句、一部肯定一部否定(倶句) ――この定義は、中村元『論理の構造』で、文証なしと批判されている スチェルバツキー説(partlyと理解している)と同趣旨だ。 残念ながら、これにも出典が記されていない。 佛教大辭彙にも当たってみたいところだ。 論証式に於いて、宗有法(主張される命題の主題)の全分・一分に非極成(立論側・反論側に 異論があること)がある過ち、の「一分」に関係があるかも知れないが未詳。
445 :
風 :2006/11/11(土) 21:24:50 ID:zwFTLGVf
あの〜、静かに自己を見つめている方はおられませんか? 非難や批判ではなく。
>>445 ここは、200過ぎ辺りから400過ぎ辺りまでのように
専門的、学究的レスの多いスレです。(その他は余興w)
しかも原始仏教を中心としています。
あなたの望む流れは難しいでしょう・・・。
447 :
風 :2006/11/11(土) 21:46:48 ID:zwFTLGVf
では去ります
448 :
名無しさん@3周年 :2006/11/11(土) 23:32:23 ID:e/dce7L3
>>447 馬鹿は去れ!
ブッダの悟りの境地とは・・・
プギャー!プギャー!プギャー!
プギャー!プギャー!プギャー!プギャー!
プギャー! m9 m9 ノ) プギャー!
プギャー! 川 m9 川彡'三m9 プギャー!
プギャー! m9ミm9、m9ミm9彡m9 プギャー!
プギャー!m9三ミm9(^Д^)彡三彡三m9 プギャー!
プギャー! m9彡川m9彡川ミm9 プギャー!
プギャー!m9彡川m9m9 m9川彡m9 プギャー!
プギャー! (ノ m9 川 m9ミ) プギャー!
プギャー! m9 プギャー!
プギャー!プギャー!プギャー!
プギャー!プギャー!
449 :
名無しさん@3周年 :2006/11/11(土) 23:56:05 ID:e/dce7L3
言語を絶した世界!! このスレに居付く 石頭根本馬鹿にはわからんやろな。 世俗諦の感情・論理思考で「荒し」としか認識せず、拒否反応しか 無能には思い浮かばないからだ。 おまいら全員、ほんとに プギャー!プギャー!!!!!
>>444 貴殿の書き込みは非常にアカデミックなので、私はついついレスポンしちまいます(^^ゞ
>佛教大辭彙にも当たってみたいところだ。
当たる場所を、己の心に当てた方が手っ取り早いかとおもいます。
そんなに難しいお題じゃない。
十二処は縁起つうことですから、既に答えは見えたり。
なんも案ずることなく、
そのままにて調えば、まさに中道じゃあないですか?
その中道を万人にも分りやすいよぉに説いたのが龍樹なんですから。
こういうことでは、せっかく龍樹が中論を開示したとして、
それを生かしきれんでは勿体無いじゃないですか?
中論と四句分別は、別問題じゃないです。
451 :
名無しさん@3周年 :2006/11/12(日) 09:57:51 ID:1xrUQPfk
出禁バカが手を当てて案じるのは己れのクビの行く末www 基地外どもはクスリぶち込まれておとなしく寝とくんだなwww
>>451 阿呆陀羅經の罵声より勢いあって面白いな
(つづき) 縁起ですから立論側に矛盾があります。 この矛盾を人為的に覚醒させる手法を、いわゆる公案とかいいますね。 世界を対立としては捉えておりませんから、 定義することも困難なわけです。 例えばですが、明と暗は同時にあります。 ゆえに、その一辺だけどうにかなっちゃうんだろうか? つぅ〜ても、どうにかなるどころか、先ずは論理矛盾に気づくべきです。
454 :
名無しさん@3周年 :2006/11/12(日) 22:38:47 ID:1xrUQPfk
出禁バカよ、教委とかKQ庵に召喚されたら、せいぜいその調子で間抜けゴタクやヨタ話を並べてみろやwww
455 :
名無しさん@3周年 :2006/11/13(月) 06:42:24 ID:wEZq5wI3
バーミヤンのらーめん結構好きよ♪
バーミヤンのラーメンは、最近は食うておらんね。 私はどうも寒天が入っとらんと、ラーメンという気がせんのですよ。 そしてまた縮れ麺だとなおいい。 いわゆる、東京ラーメンというオーソドックスなバージョンが、 私はいいですね。 カンテラ下げた、いわゆる屋台ラーメン風味なんですが・・・ こういうレアなのも、食えるとこはあります。 まあ、好みの問題ですが。
458 :
名無しさん@3周年 :2006/11/14(火) 00:13:06 ID:aw9isgzs
進退きわまった出禁バカは、ラーメンでクビでもくくるかトコロテンの角に頭ぶつけてくたばるんだろなwww
459 :
名無しさん@3周年 :2006/11/14(火) 00:24:30 ID:INIcEpAs
>>454 >>458 お前な、言いたいことがあるんなら、明解に言えよ。
訳のわからん呪詛念仏ではお前自身が腐る。
ったく、どこまでも見苦しいチンカス野郎だなwww
゚(゚^Д^゚)゚。プギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ どアホ!!wwwwww
お前の親の顔が見てみたいwwwww
>>455 >壮大な物語ですなあ!
ロマンですね。
どんな思いが隠されておったのか?
「御魂入れ」みたいな風習があったのか?
それとも未来に大仏が壊されるのを想定しておったのか?
そういう邪推には、そもそもソグワナイのか?
凡人にはどうも解せず。
古天明平蜘蛛と心中する松永久秀も、私はミステリーなんですよ。
どうやってことを運んだか?
茶釜はそんなに簡単には壊れんし、いろいろ推測はしとるですが。
あれですなぁ〜
戦国の武将といふのは、なかなか現代人には想像もつきません。
非常に気性は荒い。
徳川時代でしたら、現代に通ずるとこがありますが、
あの時代の日本人は、なかなか想像もつきません。
それと同じことなんでしょうか?
玄奘三蔵の時代というのは。
461 :
名無しさん@3周年 :2006/11/14(火) 09:49:15 ID:aw9isgzs
出禁バカは教委やKQ庵から無様に詰め腹切らされる観念でもしとくんだなwww...
462 :
名無しさん@3周年 :2006/11/14(火) 09:59:42 ID:aw9isgzs
>>459 出禁バカ並の脊椎反射ぶりだなw
たんまりクスリぶち込まれておとなしく寝かせてもらっとけwww...
463 :
459の正体は :2006/11/14(火) 10:37:15 ID:lYj1avWF
カラスの唄でしょう、別名ココモスキー、 三毒にまみれているんで、 相手せず、無視しましょう、、、
464 :
名無しさん@3周年 :2006/11/14(火) 10:54:02 ID:INIcEpAs
>>4621 >>463 ゚(゚^Д^゚)゚。プギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ どアホども!!wwwwww
お前らの親の顔が見てみたいwwwww
465 :
名無しさん@3周年 :2006/11/14(火) 13:40:38 ID:yiLee2Ud
最近、原始仏教に興味を持った者です。 これまで、宗教に全く興味が無かったのですが、おススメの文献がありましたら教えてください。
466 :
聖霊大王 :2006/11/14(火) 13:51:51 ID:lYj1avWF
地橋さんの、ヴィパサナー瞑想の本はおもしろいなあ、、 気持ちい、三昧、集中を味わえた、、
>>465 とりあえず、少し古いですが、文章が読みやすく、
たいていの都道府県立図書館に置いてあると思われるものとして、
増谷文雄『仏陀』、渡辺照宏『新釈尊伝』あたりから取り掛かるのは、いかがでしょうか。
>>465 >最近、原始仏教に興味を持った者です。
わたくしも、そもそも原始佛教というのはどういうことなのか?
ってのが、まだ分っておりません。
そういう意味においても、こうして皆さまと共に切磋琢磨しております。
とどのつまりは、まあ、原始も現代もかかわらず、
釈尊の悟りは何だったか?
ってことに尽きますね。
それがテーゼなんですから。
まあ、いろいろと語ちてまいりましょう。
して、机の首を欲しがるような輩がおりますが、私はそう簡単には首は切れんのです。
それがコネクションと言われるものです。
権力はこうして腐敗して逝きますが、
わたしは批判すり立場じゃありません。
どうか若いもんがガムバッテ権力を破壊してくんなせえ。
わたくしはいつでも首を、若いもんに贈呈するつもりでふ。
フジテレビで16日午前2:28から「男一代菩薩道」の再放送。というか4回目の放送。 よっぽど反響が大きかったのか。 このなかに、ベンガル地方に残存した仏教徒のことも少し出てくる。 彼らを取り上げた番組は何年か前に、NHK教育テレビで放送されたことがある。
>>455 玄奘訳「縁起経」1巻
龍朔元年(661年) 神ムが筆受を担当
分別説部の修道論 「清浄道論」 説一切有部の修道論 空観派の修道論 唯識派の修道論 「瑜伽師地論」 密教の修道論
リグ・ヴェーダで言語(ヴァーチ)は女神。
473 :
465 :2006/11/14(火) 22:36:09 ID:yiLee2Ud
>>467 >>468 レスありがとうございます。
そして、挙げていただいた文献は図書館であたってみます!
私自身が合理主義で、宗教的な話は敵視するような人間でした。
デカルト、スピノザ、ニーチェと浅いながらもかじってきて、
たまたま原始仏教に触れる機会がありました。
もう、なんちゅうか、上記の哲学者をかじっていた時には考えられないような感動というか
震えがありまして。。。
これから、少しずつ勉強していこうと思います。
474 :
名無しさん@3周年 :2006/11/14(火) 23:38:43 ID:D4Q04i8z
>>473 「宗教」というレッテルだけで毛嫌いする人が多いですからね。
あなたのような方に仏教の存在を知ってもらえると、うれしいです。
475 :
名無しさん@3周年 :2006/11/15(水) 12:26:37 ID:peXt3e8r
原始仏教(ゴータマブッダ〜没後約100年)の真実性を考えていくには、 維摩経批判と本覚思想批判は避けられない。
そもそもバラモン教というのは、インドの土着信仰と吸収合併しなががら進歩して逝った宗教ですね。 ですから、仏教もまた当時のインド思想と繋がりながらも進歩していって、 その流れが部派仏教なのかとおもいます。 今のヒンドゥー教も、なんでも取り入れていく宗教ですから、 こういうある意味、寛容?な宗教というのはインド古来からの歴史の遺産なのかと思いまふ。 で、ここでいう原始仏教というのは釈尊滅後の、どこいらへんまでいうのか? 純粋な仏教というなら、やはり部派仏教成立以前。 ということになるのか? そういうことでしたら、おそらくは釈尊滅後、数十年くらいか? この年代は貴族階級などで仏教は評判が良かったらしいが、 わたしもあまり詳しくはない。
477 :
名無しさん@3周年 :2006/11/15(水) 19:07:04 ID:peXt3e8r
明星当現呼成道 驀掩垢面出世間 早識得黄金自貴 六年辛苦不居山 <盤珪>
>>427 ふーん、“KQ庵”ねえ・・・(苦笑)。
まあ、件のNG外道壁蝨がどんな憂き目に遭おうとも、所詮は自業自得・因果応報・天罰覿面に他ならぬわけで
格好の見世物に過ぎませんな(冷笑)。
それにしても、
どうしてここに粘着する蛆蟲共は論文剽窃糞カルト坊主といい、虚偽誤謬常習中年厨といい、当家の近所や有縁
の団体の関係者《※頭隠して尻隠さずのお間抜け(失笑)》がこうも多いのだろうか(苦笑)。
質問 縁起は一切行(有為有漏)で起こっているのでしょうか? それとも一切法(有為有漏・無為無漏)の境界内を含めて起こっていることなのでしょうか? 無為無漏を涅槃の境地とすれば、ここで因果律が働いているのは変な感じですし、 一方、涅槃=縁起という話もここで聞いた気がしますし…どっちなんでしょう?
成道の後、世尊は七日間、解脱の楽しみを享受しつつ坐られていた。 >快と不快とは、感覚器官による接触に基づいて起こる。 >生起と消滅 (スッタ・ニパータ 870) >多種多様の「誤った認識」がある。・・・あらゆる楽しみがなくなり、知性もないこの解脱を 賢者はどうして喜ぶであろうか、とするたぐいである。 >それ(生存)があれば「苦」がある。 >「苦」が消滅したとき、究極的な解脱、すなわち至福があるのである。 (ニヤーヤ・バーシヤ 1.1)
483 :
唯俺 :2006/11/15(水) 23:15:58 ID:hRQj6kvr
これ(P)あるとき、かれ(Q)あり、… 生起(P,生)を条件として、衰滅(Q,老死)があり,※憂愁・悲嘆・苦・憂悩・苦悶あらゆる苦悩の塊がおこる。<中部115> 「因此有彼、無此無彼、此生彼生、此滅彼滅」中阿含経47 「縁生老死、憂悲悩苦、如是如是、純大苦聚集」雑阿含12 仏「体は常(永久不変)か無常か」弟子「無常です」 「無常なものは、苦か楽か」※「苦です」 「無常で苦なものを、わが(常で安楽のはずの)真我だ、としてよいか」「いいえ」<中部35> 苦しみは、執着を縁として生起する。<スッタニパータ1050> >「無常なものは、苦か楽か」※「苦です」 ※無常な事物が苦とされる理由 事物が生起する。<それは無常だから>それは衰滅し,<そこを執着して>憂愁等々(つまり苦)がおこる。
>>481 >>484 レスありがとうございます
縁起自体は苦ではなく、縁起によって起こる無常なる事象に執着するところに苦が起こる?
縁起をさとり、そこで起こる事象に執着を持たなければ涅槃であると
つまり、縁起は無為無漏でも起こっている、
というより世の縁起を観じ、それに執着しないことが無為無漏である、と
>>482 たしか前に読んだことがあったんですが、あまり消化できなかったようです
ところで、原始仏教の業界では、西田幾多郎をはじめとする京都学派って評価低いですか?
>>485 前半
桶www
あなたはもうここへ来る必要はないです。
自身の理解を深めてください。
>>480 >縁起は一切行(有為有漏)で起こっているのでしょうか?
>それとも一切法(有為有漏・無為無漏)の境界内を含めて起こっていることなのでしょうか?
そもそも、主語と述語の使い方がオカシイ気がします。
縁起というのは、いわゆる関係性というふうな考えかたでいいかと思いますね。
で、このお題について面白い公案がある。
非風非幡という公案なんですが、ここで慧能は「心が動く」というような言い方をする。
これは世俗諦での答えです。
勝義諦では、主体と客体の関係性ではない。
このことは、私が前述したとおりです。
ましてや縁起が、それ自体が生起するわけではない。
488 :
名無しさん@3周年 :2006/11/16(木) 08:40:46 ID:NBqvMdii
>>477 盤珪さん、盤珪さん! あなた、お釈迦さまを半ば揶揄したように
そうはおっしゃいますが、誰でも試行錯誤はあるもの。あなたも
長年おシャカになる寸前まで座禅されて、お悟りされたではありませんか。
親から授けられたコアは仏心なるがゆえに、一切事は不生で調うとのこと。
ところがお釈迦さまの悟りのコアは渇愛=無明なるがゆえに執着を脱して
解脱せよとのこと。
これではお釈迦さまとまるでシャカさまですね。
極端な本覚思想であって、根本でお釈迦様の縁起思想・業・輪廻を破壊してますよね。
仏性は自性なるものでしょうから空とも矛盾しませんか?
盤珪さんの人生は、夢の中で寝とぼけておじゃるが如く・・・・・
489 :
名無しさん@3周年 :2006/11/16(木) 08:48:42 ID:NBqvMdii
盤珪さん、盤珪さん 生来の仏心とはアートマンのことですか?
舎利子「どまいら!今日は釈迦の説法を聴きますが何か?」 富楼那「詳細きぼーん」 舎利子「摩訶迦葉降臨期待age」 摩訶迦葉「クレクレ厨uzeeeeee!!おまいらが先ず何かうpしろや」 富楼那「金波羅華うpしますた」 摩訶迦葉「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!!」 富楼那「詳細キボンヌ」 摩訶迦葉「一本で足りるかヴォケ!もっとうpしる」 富楼那「氏ねDQN」 摩訶迦葉「煽り厨逝ってよし」 舎利子「オマエモナー」 摩訶迦葉「うるせー馬鹿」 須菩提「摩訶迦葉必死だな(w」 摩訶迦葉「↑=厨房 今からこのスレは「摩訶迦葉様のために金波羅華をうpするスレ」になりますた」 須菩提「2get」 迦旃延「ハァ?」 阿那律「盲目スレsage」 摩訶迦葉「名スレの予感」 阿難陀「↑(・∀・)ジサクジエンハケーン!!」 富楼那「ほれ、再うpしたぞ」 摩訶迦葉「微笑降臨!!!」 (実は優曇華の花) 摩訶迦葉「ブラクラ貼るなドキュソが」 富楼那「拈ってないのに気付かないお前が厨房( ´,_ゝ`)プッ」 舎利子「激しくワラタ」 優婆離「アヒャ笑いする摩訶迦葉がいるスレはここですか?」 舎利子「もう飽きたので -------------糸冬 了-------------」 摩訶迦葉「-------------再 開-------------」 迦旃延「↑(・∀・)ジサクジエンデシタ」
491 :
業玉物駄 :2006/11/16(木) 09:20:23 ID:NBqvMdii
>>490 ウッセー ウッセー ウンコども!
本日の業玉物駄の説法は
プギャー!プギャー!プギャー!
プギャー!プギャー!プギャー!プギャー!
プギャー! m9 m9 ノ) プギャー!
プギャー! 川 m9 川彡'三m9 プギャー!
プギャー! m9ミm9、m9ミm9彡m9 プギャー!
プギャー!m9三ミm9(^Д^)彡三彡三m9 プギャー!
プギャー! m9彡川m9彡川ミm9 プギャー!
プギャー!m9彡川m9m9 m9川彡m9 プギャー!
プギャー! (ノ m9 川 m9ミ) プギャー!
プギャー! m9 プギャー!
プギャー!プギャー!プギャー!
プギャー!プギャー!
どーだ、まいったか!
493 :
名無しさん@3周年 :2006/11/16(木) 11:01:18 ID:CFT+OM6p
死に体の出禁バカが切磋琢磨だとよwww そんなクサくてきたないエンガチョクビなんか欲しがるヤツどこにもいねーよwww ゴミ屋も持ってかないなwww
>>493 わたしが茶人であり。なおかつ教育者であることを、
貴殿はよく知ってなさる。
つまり貴殿は机龍之介の隠れファンなのであろう?
そうでなけりゃ、わたしに関心を持つはずがない。
そういうのを世間では”片思い”とかいう。
わたしは貴殿のことは全く知らんし、
あるいはレス交換などしたかしれんけど。
それはさておき、今は机龍之介がアタマから離れんのじゃないか?
これ以上、ネットの人格に惚れ込むと、精神衛生上はよろしくない。
わたしには心配はいらん。
たとえ無職になったとしても、飯は食えるし糞もでる。
495 :
名無しさん@3周年 :2006/11/16(木) 11:44:11 ID:CFT+OM6p
出禁バカが野垂れ死んで行くのを生暖かく見物されてる山師・詐欺師・ぺてん師なのは周知の事実だがなwww
496 :
業玉物駄 :2006/11/16(木) 11:59:37 ID:NBqvMdii
>>492 |:: ::::::
|:::::::::::::::::I::::::
| ????? ::::::
|:::::::::::::::::I::::::::
|:::::∩::::::::: I
| ̄ ̄ ヽ:::::: I
| ● |::::: I
|( _●_) ミ::: J
| |∪| ノ:::: <喰うべきか、喰うわざるべきか
| ヽノ i:::: それが問題だ >
| /:::
机龍之助
>>495 ゚(゚^Д^゚)゚。プギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ どアホ!!wwwwww
お前の親の顔が見てみたいwwwww
>>496 汚穢釣りや如何物喰いはお止めなさい(苦笑)。
中った挙げ句に○沢×院逝きになっても知らんよ。
498 :
名無しさん@3周年 :2006/11/16(木) 12:23:53 ID:CFT+OM6p
>>497 心配しなくともコイツはとっくに病院でクスリ漬けWWW
499 :
業玉物駄 :2006/11/16(木) 12:40:32 ID:NBqvMdii
>>498 墓場のゾンビ語では
>>495 は正しい日本語らしいwwwwww
おみゃーがゾンビでないなら俺の
>>477 >>488 >>489 の公案を解いてみろ!
解けなかったら墓場でしかわめき散らせない糞ゾンビと看做すぞ!
人間と話できるための試験さ。
そら、解いてみろよ チンカス・ノータリン!
500 :
名無しさん@3周年 :2006/11/16(木) 12:46:17 ID:CFT+OM6p
悪いが俺はクスリ漬け基地外のかかりつけ医者じゃないんでねwww
501 :
業玉物駄 :2006/11/16(木) 12:52:21 ID:NBqvMdii
>>500 要するに、この公案を解けるだけの知識・教養・思考能力さえない
チンカスゾンビだと認めてるんだ。 お前の完全敗北!!!!wwwww
陰でしかモノが言えないチキン・ノータリンの糞ゾンビよ、もっと勉強して恋!!
502 :
名無しさん@3周年 :2006/11/16(木) 12:58:25 ID:CFT+OM6p
ん? まだクスリが足らんみたいだなwww かかりつけの医者に頼んで死なん程度に寝かせてもらえwww
503 :
業玉物駄 :2006/11/16(木) 13:04:08 ID:NBqvMdii
504 :
名無しさん@3周年 :2006/11/16(木) 13:19:52 ID:CFT+OM6p
せいぜいそうやって出禁バカみたくのたうち回って悶え苦しむんだなwww
505 :
業玉物駄 :2006/11/16(木) 13:39:45 ID:NBqvMdii
>>504 お前の完全敗北宣言!!!!wwwww
ご苦労!
506 :
名無しさん@3周年 :2006/11/16(木) 13:49:53 ID:CFT+OM6p
だいたい、基地外に言葉など一言もかけてないんだけどなwww 独りでのたうってやがらあwww 出禁バカの同類全開じゃんwww
足切り蟲(=NBqvMdii)がまた一匹・・・(苦笑)。 ここで構って貰いほど、世の中で誰にも相手にされない輩が余程居ると見える(憐憫)。
訂正
貰いほど→貰おうとするほど
>>485 「苦」は縁起する(した)ものであり、それは滅する(語義に注意)ことが可能であると原始佛教では説かれます。
あと「京都学派」は論外でしょうね。
509 :
業玉物駄 :2006/11/16(木) 14:19:10 ID:NBqvMdii
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ の涅槃図 ミ -― ̄ ̄ `ノ ―--ノノ _ .. .. , ´ , ~  ̄、"ー 、 _/ # / ,r # _ ヽ ノ 勘定書持って恋! ν / / ● i" …… ,/ ,| # / / _i⌒ l| i ミノ と,-‐ ´ ̄ / / (⊂ ● j'__ ミ (´__ 、 / /  ̄!,__,u● |  ̄ ̄`ヾ_ し u l| i /ヽ、 ,_ \ ノ(`'__ノ (__  ̄~" __ , --‐一~⊂ ⊃_  ̄ ̄ ̄ ⊂ ̄ __⊃ ⊂_____⊃
510 :
業玉物駄 :2006/11/16(木) 14:32:15 ID:NBqvMdii
>>506 ∩___∩
| ノ ヽ/⌒)
/⌒) (゚) (゚) | .|
/ / ( _●_) ミ/
.( ヽ |∪| /
\ ヽノ / バーカ
| _つ /
| /UJ\ \ 個人恨みの墓場ゾンビは無用
| / ) )
∪ ( \
\_)
511 :
名無しさん@3周年 :2006/11/16(木) 14:38:10 ID:CFT+OM6p
基地外らしくアタマがズレて歪んだ自画像を書きなぐる出禁バカの同類がwww
512 :
業玉物駄 :2006/11/16(木) 14:43:59 ID:NBqvMdii
おかしいな、本日鯖がえらく重いし、歪むな
>>495 そうか、文法的には問題があるにしても、
わたしの解読能力にて、なんとか意味が解せた。
わたしは、今の日本における現状認識をもとに書き込みをしとるんです。
就職、介護(医療)人権(同和問題)など、あらゆる分野において格差が拡大しております。
ただマスコミがそういう問題を、あまり取り上げないだけ。
(最近は、同和問題に少し関心が向いている程度)
で、件の「野タレ死に」のことですが、
これも現在における医療&介護における問題をバックボーンにしてある。
わたしがあえて、こういう問題を書かないのは、板違いだからです。
例えば、70歳老人が医療費はタダ同然。
とか思うかもしれませんが、これは状況が違えばdでもない格差があります。
これからの日本は、もう駄目かもしれんね。
なんせ、日当5000円くらいのフリーターじゃあ、税金&年金&NHK受信料を払えないどころか、
70歳老人のベット代にも追いつかんのですから。
わたしは、そういう現状を誤魔化すことなく、いかに安楽に死ねるか?
というテーゼのもとに、問題提起を文脈に挿入した、
いわゆる独自の文体なのです。
Test 字間が空かないね。 詰まるようだし(w なんか変だね。
Test プロパディー標準に修正。
516 :
名無しさん@3周年 :2006/11/16(木) 14:55:49 ID:CFT+OM6p
板違いなのは、アタマの具合が最底辺の出禁バカwww
517 :
名無しさん@3周年 :2006/11/16(木) 14:59:18 ID:CFT+OM6p
いくら基地外の毒電波でも鯖には影響なしだろww
手動で字間が空きました。 _ プラウザの問題。
>>485 >ところで、原始仏教の業界では、西田幾多郎をはじめとする京都学派って評価低いですか?
「京都学派」というほど、独自の学派を形成したわけでなく、
いわゆる中論を、西田風味に展開しただけなんじゃないですか?
あまり斬新な論は展開してないようですが、
どうですか?
西田に関心がありますか?
Test
>>480 涅槃本来の寂静面を無漏無為、涅槃の作動面を無漏有為(四諦の道諦とも)、と分けて呼ぶこともあるようです。
しかし思うに、涅槃としては無漏であれば充分であり、
有為無為は問わず、でよいのではないかと。
涅槃を証しても、無常の世界に身を置いていることになんら変わりはないわけですから。
521 :
業玉物駄 :2006/11/17(金) 00:22:54 ID:8DMGM5kX
>>517 ⌒、''''''''''''''''''''''''''''''''';、
),,,,.. ∩__∩ )
;;:;:;:;;:;:;:;:-| ノ ヽ;;.. ◎ にーちゃん、いいたいことあるんやったら、
;:;:;:;:;:;:;:./ ● ● |__|
;:;:;;:;:;:;:;:|_ ( _●_) __)__ わかるように言えや。こいつ流行のイジメチンカス野郎だな。
;:;:;;:;:;:;:(__) ヽノ/ ―――''
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄) ,,,,⌒)''⌒) /;: 生死一如のこのスレ住人に対して片腹痛い、ヘソが番茶を沸かす。
哀れな奴よのう。
原始佛教雑談スレで www2.toyo.ac.jp/~morimori/naani.html 原始仏教の定義 森ゼミの「原始仏教ってなーに」 _ こんなのを見つけてきたけど、 つまり「原始佛教」として、一括りで論ずるのは非常に難しいかとおもうよ。 例えば、 「反代々木系全共闘について語ちてみよう」。というのと同じ。 反代々木系でも、いろんなセクトがあって、それぞれ皆違う。 革マルについて語ろう。とか反帝学評について語ろう。 とか言うんなら簡単だけどね。 _ 「説一切有部」とか「アビルマ哲学」とか、ある程度ジャンルを絞らないと。 またこれを原始佛教として語ちるのに、 語義からして、衆生は根本仏教かと勘違いするね。 _ わたしもじつは、勘違いしておったですが(^^ゞ
>>522 ( ゚Д゚)ポカーン
机さんが過去ログ一切読んでない事が判明。
それどころかテンプレも読んでない可能性あり。
もう好い加減常連(迷惑な常連だが)固定の分際で、何を今更言ってる
のだ?という感じなんですが。
524 :
業玉物駄 :2006/11/17(金) 09:16:10 ID:8DMGM5kX
原始仏教、初期仏教、根本仏教など名称のことはともかく、 おいらは単純にゴータマブッダ入滅後約100年目で起きる 上座部と大衆部に別れた「根本分裂」までのことと捉えて 板あるよ。 反代々木系全学連でも革共同第三次分裂を各派 ともに非常に重要視している。 もちろん分裂に至るまでには激しい内部闘争が あったはずで、内部矛盾の弁証法的発展が分裂を招いた。
部派仏教というのは、当時のバラモン教の影響を受けていることだし、 もし部派仏教をテーマとするなら、帰納法的推論がテーゼになるかと思うけど、 私が当該スレの原始佛教スレ・シリーズにおいてROMった限りでは、 そういう書き込みはなかったようだね。 _ 例えば、禅における草創期の始祖から五祖あたりは、あまり論題にもならない。 それには理由があって、時代を経てようやく開花する。 というのを経験的に学ぶためです。 これもやはり帰納から演繹という転換期に一大変革期を迎える。 _ あと大事なことは、口伝というのは当時なら普通のことっだったろうし、 日本人のように「書き記す」という習慣はないほど、記憶力はよかった。 結集はある意味、部派独自のメッセ-ジを内包する。 というような意味あいがあったのかもしれんね。
>>523 かの壁蝨への荒らしNG認定は、仰るような文章読解&学習能力皆無と外道謬見の垂れ流し
醜行に対する処置です。
遠からず世間レヴェルでも弾指駆逐の処分を受けるらしいとのことです(苦笑)。
T23n1442_p0810c17(13)?根本説一切有部毘奈耶卷第三十四
T23n1442_p0813c28(03)?縁合成熟果報不失。凡諸有情先身所作善惡之業。
T23n1442_p0813c29(00)?非於外界地水火風而令成熟。
T23n1442_p0814a01(05)?然於自身蘊界處中業果成熟。即説頌曰
T23n1442_p0814a02(00)? 假令經百劫 所作業不亡
T23n1442_p0814a03(00)? 因縁會遇時 果報還自受
>>524 巷間で説かれるような「根本分裂」の史実性はとっくに疑われているし、全く性質の異なる学生
運動分裂の顛末を持ち込むのはアナロジーとしても不当であり無意味。
もしあちらを読んでるならNG壁蝨並の学習障害。
>>526 私が
>>525 に
>もし部派仏教をテーマとするなら、帰納法的推論がテーゼになるかと思うけど、
_
というふうに書いておきましたけど、
これは私の考えであって、もし貴殿が根本説一切有部などを研究したい。
というなら、
これは話は別問題です。
528 :
名無しさん@3周年 :2006/11/17(金) 12:34:42 ID:5WqJJdPE
出禁バカはツベコベ吐かしてねえでクビでも洗って召喚失脚でも待っとくんだなwww
529 :
業玉物駄 :2006/11/17(金) 12:58:09 ID:8DMGM5kX
>>528 ピカッ \ /
/ /
く < 天罰!
:::: ,\\ ドッシャーン
:::::::: ’,∴ //∵・_ ::::::::::::::
;;;;;::::::∩ ’;人・’∩:::::::;;;;;;;;::::::::: ぎゃぁぁぁぁ〜
;;;;;;;;;;;;|ノ  ̄死亡 ヽ;;;;;;::::::::::::::::
;;;;;;;;;/ ○ ○ |;;;;;;;::::::::::::::
;;;;;;;;| ( _○_) ミ;;;;;;;::::::::::
;;;;;;;;ヽ |∪| 、;;;;;;;:::::::::::
>>all
>>528 は抹殺されました。死亡通知に代えさせていただきます。
以後、無視してください。
530 :
業玉物駄 :2006/11/17(金) 13:13:00 ID:8DMGM5kX
燃えるゴミとして
>>528 の死体を移動します。
♪ 気づかぬ振りをして轢くだけさ ぺっちゃんこ
___,=====ヽ____ ヾ
/ 〃  ̄ (0)スピンドル || ̄ ̄|
| i`i`i`i || /`´ ̄ ̄ ̄|| ̄||(0)/`i ∧_∧
| i、i、.i、.i |/  ̄ ̄| ̄|i i.|(`・ω・´)
∨∨∨∨ | |●⊂●⊂ )]]_
::::::::::: | || | / / ハ.| |ΞΞ||
::::::::::::::::::: __| / ̄/ ̄|⌒ノ )| |ΞΞ||
:::::::::::::::::::::::: 〔Ξ二二二|三同]┌┘|___/
:::::::::::::::::::::::::: ___〕´ ,二_|三三三三〔__
::::::::::::::::::::::::::: (二((ト---(二(◎◎◎◎◎◎◎) )) キュラキュラキュラ…
l ⊃ ⌒_つ
`'ー---‐'''''"
5WqJJdPEの轢死体
>>528 わたしはクビにはならんのですよ。
それより、クビになった人間のクビを繋げることだったら、なんとか出切る場合もある。
そういうことを、かの「自殺したら地獄に逝けるか?」ってスレで書き込みしようかと思ったけど、
書いても無駄かと思って書き込みはしなかった。
勘違いしたら困るけど、童話枠じゃないよ。わたしは街道じゃないからね。
こういうことは、500人以上の企業の人事課なら大概は知っていることだよ。
一般的には知らん人が多い。
当該「地獄に逝く」スレの
>>1 だったら、この話しは諦めること以外にないだろう。
つうか、そもそも精神的に無理かもしれん。
就職・介護・人権、このジャンルは、全く別世界の如く格差がある。
ハロワに逝っても、こういうことは扱わないだろうし、
だいたい、ハロワで求人しておるのは派遣企業が大勢w
つまり職務放棄の状態だよ。
こんなだから「クビ」などと言うと机が驚くかと思っておるんだろうけど、
ほとんど使いもんにならん人間でも、人事課が喜んで採用する場合もある。
こういう可笑しな社会が出来あがっちまったんだよw
これ以上は詳しいことは書けん。
生を条件として、老死があり、憂愁・悲嘆・苦・憂悩・苦悶、あらゆる苦悩の塊がおこる。 (中部 115、世界の名著1, p.490) 生縁、老病死、憂悲惱苦。如是如是、純大苦聚、集。 生滅、則老病死、憂悲惱苦、滅。如是如是、純大苦聚、滅。(雜阿含經 卷第十二 283) 生を縁となして、老病死・憂悲悩苦あり。是の如くして是の如く、純大苦聚 なる。 生 滅すれば、則ち老病死・憂悲悩苦 滅す。是の如くして是の如く、純大苦聚 滅す。 「純」<動>一つにまとまる。 「聚」<動>あつめる。あつまる。 「集」<動>ある状態に達する。物事ができあがる。<動>一つにまとまる。 <対訳> 憂愁,悲嘆,苦,憂悩,苦悶(世界の名著1, p.490) 憂い,哀悼,苦,不安,心痛…母の死を悼む苦(世界の名著2, p.279) 憂,悲,悩,苦(雑阿含12)
信を捨てよ。 pamuJcantu saddham〔梵天勧請〕 (おのれの盲)信を捨てよ。 (邪)信を捨てよ。 (自己や世界に関する誤った)見方を捨てる(中部8)
534 :
名無しさん@3周年 :2006/11/17(金) 18:50:33 ID:5WqJJdPE
失脚出禁バカ、クスリ漬け基地外が何書きなぐっても屁のツッパリにもならんし薄汚いだけwww よほど醜い自爆ぶりを見せびらかしたいみたいだなwww
>>532 そこには、いわゆる四苦を滅するノウハウ的なことが書かれていて、
宗教というより、つまり道徳律的な色合いがありますね。
作為から無為と発展っしていって、ようやく宗教色的は体系というのが形作られて逝くのかと思います。
_
苦集滅道も法の到る道ではありますが、釈尊の本懐である中道には
いささか遠き道に拝せられまふ。
しかしながら、これも道程にして研鑽するを仏道というんでしょうね。
536 :
業玉物駄 :2006/11/17(金) 19:08:39 ID:8DMGM5kX
虫
537 :
名無しさん@3周年 :2006/11/17(金) 21:38:44 ID:5WqJJdPE
基地外が進行すると文盲になるのかwww
中部28、大象跡喩経
世尊「縁起を見る者は法を見る。法を見る者は縁起を見る。」
尊者サーリプッタ「[縁起しているもの](縁生法)とは[執着を起こすもと]の五取蘊である。
五取蘊に対する欲情を抑えること、欲情を断つことが、苦滅である。」
初転法輪、相応部56.11
人生のすべてのもの――それは執着をおこすもとである五取蘊として存在するが――それがそのまま苦である。
>>532 <対訳>
悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みも苦である。(初転法輪)
539 :
業玉物駄 :2006/11/17(金) 23:54:17 ID:8DMGM5kX
三三三三三三三三[釈迦場=酒場]三三三三三三三三三三三 _i^i__i^i__i^i__i^i_i^i__i^i i^i ._i^i_ __, -―- 、___ _i^i_ |*||*||*||*||*||*| i^i _i^i_ | | |@ll|(_/,,,, ,,,, ヽ_) |@| |≡||≡||≡||≡||≡||≡| ([])|;□;|.(≡)|_| |● ● | |_| . 二二二二二二二二二二二二二二二二 彡(_●_ ) ミ二二二 /` ''∪'' / ヽ ___ /i ` ー '" iヽ | | ! (___ノ | | | l ..───────────;==i─Y────────(⌒)─ ____._________ └-┘ ┴  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∧ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| 一週間ごくろう。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| このシャカバーで今宵はゆっくり飲めや。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| あるのは般若湯のみ、一休も良寛も般若湯には目がなかった。 ぬる燗で、肴は炙ったイカがいい。BGMは八代亜紀だ。 人生は苦が多いが、苦の克服を創意工夫するところが醍醐味で 面白い。思い起こせば、苦味も味わい深い。捨てたもんじゃねーな、人生も。 ゆっくり、やんな。
平川彰「空観の性格」(『講座仏教思想 3』所収)では、四句分別に対する三つの態度、 つまり肯定・無記・否定、があるとしている。 肯定は、a・-b; -a・b; a・b; -a・-bの4領域に明確に区分できるもの。アビダルマで多用されたらしい。 無記は、マールンキャープッタの形而上の問いへの答えに見られるもの。 否定は、アチェーラ経の苦の原因に関する自・他・共・無因の四句。 自作は常見、他作は断見に陥る、という答え。(ただ漢訳では無記となっている。下記参照) いずれにせよ、常見・断見の二辺を離れた中、という点で、 箭喩経のタターガタ死後の有・無の二辺を離れる、ということと通じるものがあるだろう。 四句分別の自・他・共・無因 雜阿含經 卷第十二(302阿支羅迦葉經) 苦自作者。此是無記。/苦他作者。此亦無記。/苦自他作。此亦無記。/苦非自非他。此亦無記。 中論 観因縁品 諸法不自生 亦不從他生 不共不無因 是故知無生
>>540 アビダルマというのは、つまりダルマを深く考究して逝くという理念でもって発展していった哲学ですよね。
そのテーゼとして中道から離れてしまったがゆえ、
法を世俗にまで落としてしまった。
というのが、じつは本当のことかとおもいます。
_
こういうことはよくあります。
石飛氏などは、あまりにも考究しすぎて法を世俗にまで落としてしまった。
だから、あまり考究し過ぎない方が宜しいかと思うのです。
_
法に到るベクトルは、全くこの範疇にはない。
といふのが、じつは本当のことかと拝せられます。
_
四句を分別するところが、そもそも世俗諦の範疇でしかない。
覚者はそもそも、この分別から解脱する。
<机龍之介・花押>
542 :
名無しさん@3周年 :2006/11/18(土) 10:43:56 ID:8+f4gMi6
失脚文盲出禁バカがアビダルマなんたらだと? ふざけんなwww
縁起の定型句のペア
順観「これがあるとき、かれがある。」
逆観「これがなければ、かれがない。」
の関係について、
>>482 のサイトの「三章 (2)順観と逆観の関係」で言われていることは、
「〔これがあるとき、かれがある。〕だから、〔これがなければ、かれがない〕。」・・・この論理は誤り。
「〔これがあるとき、かれがある。〕かつ、〔これがなければ、かれがない〕。」・・・こちらが正しい。
ということですが、次に、
「順観」自身の内部論理「〔これがある〕とき、〔かれがある〕。」について、
因果関係か相待関係か、ということが問われます。
このことについて、白館戒雲氏の所論「縁起に関する考察 −チベット撰述の資料から−」
www2.otani.ac.jp/bukkyo/events/20060713siratate.pdfを見ると、
>[長が有る]なら[短が生起する]し、[短が有る]なら[長が生起する]ので、相互に相俟(ま)っている
>中観派以外ではこのような縁起は承認されていない。
ということらしい。つまり縁起を相待関係とも見るのは中観派だけのように思われます。
そして、縁起と有為無為に関して、
>無為法、たとえば虚空も、所依成立している。有るし、所知である。だから、その面では縁起である。
>唯識派以下の立場においては虚空は無為法であって、けっして縁起ではない。
この相違は、縁起するものを諸行(さらには有為法として)ととらえた時、有為無漏などに関する諸見解をもたらすでしょう。
上記からは、中観では、虚空は無為法だが縁起したもの、ととらえているように読めますが。
>上記からは、中観では、虚空は無為法だが縁起したもの、ととらえているように読めますが。 _ 中観は、実体有でなくまた実体無ではない。→無自性 というふうに、実体・存在論から既に離れておりますから(中道) 虚空であっても、虚空でなくても、その事象にはまったく関係なく、 虚空という縁起に他ならない。 _ ようするに、宇宙が存在していようが存在していないようが、 縁起=空である。というのが、一般的な解釈やにおもいますね。 ならば、すでに見えたり。 空にして、時系列も縁起にして、そのまま果となる。 というような連続性そのものもない。 (相互依存関係が生起するだけである) 無自性でありますから、依存関係の消滅は、そのまま連続性の断絶である。 ゆえに、実体・無実体そのものの意は消滅する。 (名と形態の消滅)
当該スレの住人である、アホ〇〇氏は、順観が世俗諦で逆観が勝義諦などと、
板に書き込みしておるようですが、
これは大変な間違いです。
順観も逆観も世俗諦です。
どうか、私が書き込みした
>>544 を見てくだされ。
これが私の回答です。
では、おやすみ。
546 :
業玉物駄 :2006/11/19(日) 00:19:37 ID:XCmJIvFm
良寛さんは、悟ったというより、この世の全てを諦めたんだろうな。 ∩_∩l||l /⌒ヽ ) 世俗に対処しえない己の無能さをふくめて・・ ( o_ ) 逃げたらあかんけど・・・ _,,..-―'"⌒"~⌒"~ ゙゙̄"'''ョ .. (⌒・⌒) ゙~,,,....-=-‐√"゙゙T"~ ̄Y"゙=ミ ^^ アホー T | l,_,,/\ ,,/l | ,.-r '"l\,,j / |/ L,,,/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ,,/|,/\,/ _,|\_,i_,,,/ / −_─ - ─_−_─ - ─− ̄─ - ─_−_─ - _−- _V\ ,,/\,| ,,∧,,|_/ -  ̄─_─ ̄─ -- = ─ -- = ─− ̄-
547 :
名無しさん@3周年 :2006/11/19(日) 01:31:22 ID:tKal6GQv
失脚文盲出禁バカの虫ケラヨタ話なんぞ問題外www
>>546 良寛自身が、菩薩道とかの自覚もなく、いわゆる無心であったのだろうけど、
わたしは、菩薩道としては超一級の、見本となる僧かとおもいます。
_
わたしがイメージしている菩薩というのは、ずいぶん良寛と重なりますね。
ただ、世間とのシガラミがありますから、
現実的には、良寛のような生き方は出来ませんけど。
_
それは、太宰の人間失格の冒頭を読んだだけで、女学生が直ぐ太宰に傾倒して逝く心理に似てるんでしょうな。
つまりは自己投影なんです。
_
貴殿もじつは良寛が好きなんですね(^。^)
分っております。
自己投影なんですから。
549 :
名無しさん@3周年 :2006/11/19(日) 10:35:15 ID:tKal6GQv
モウロク文盲出禁バカはKQ庵や教委からの懲戒処分通知をせいぜい楽しみに待っとくんだなwww おっとその前にうどんでクビ吊るか目玉噛みきってクタバルかwww
汚穢が飛び散って不衛生ですので、門前払い足切り外道壁蝨の腐爛屍体への鞭打ちは無用に願います。
縁起の定型句を原義で確認してみた。 imasmiMこれに於いて satiありつつある〜に於いて, idaMこれが hoti在る, imass'これの uppAdA生起より, idaMこれが uppajjati生じる; imasmiMこれに於いて asatiあらざりつつある〜に於いて, idaMこれが naず hoti在ら, imassaこれの nirodhA滅より, idaMこれが nirujjhati滅す. これがある時、これが在る。これの生起より、これが生じる。 これがあらざる時、これが在らず。これの滅より、これが滅す。 atthiでなくhotiを使っているのは、述語を強調するためと思われる。ここでは「ある・在る」と区別してみた。 "imasmiM sati(ありつつあるこれに於いて)" の解釈は、 imasmiM が指示代名詞 imaM の n. 3 sg. loc.、sati が現在分詞 loc.、と見て、 辻文法, 附録A, VII. 依格, 9. L. absolute で理解した。 両者が主語・述語関係となり、情況・原因・条件・譲歩などを表す副文と見る。 「これがある/ありつつある/〜ことを原因として・〜ことを条件として」などの意味に取り得るかと思われる。
中観派の縁起理解では、 「長い(もの)があるから、短い(もの)がある。短い(もの)があるから、長い(もの)がある。」というように、相対的に成立する、と見る。 縁起の相関関係(相互観待 parasparApekSA) 平川彰『インド仏教史 下』p.44 参照 ありつつあるこれに於いて、これが在る。 「ありつつある長い(もの)に於いて<第七格(於格)>、短い(もの)が在る」【場に参与】 これの生起より、これが生じる。 灯火の生起より<第五格(従格)>、光が生ず。【出発点】 「二つの縁起」という解釈が出てくるのは、辻文法の「附録A. 格の用法」で従格と依格の用例を見てもらえば分かるが、 従格の場合、基本的意味が【出発点】で、二者は別々だという印象があるのに対して、 依格(於格)の方は【場に参与】で、二者が一緒にいる印象がある。「ありつつあるこれの場に参与して」 前者が因果関係、後者は「長・短」「大・小」など「相互観待」と親近性がある、と言えるだろう。
>前者が因果関係、後者は「長・短」「大・小」など「相互観待」と親近性がある、と言えるだろう。 この状況を私なりに説明いたしますと、 >灯火の生起より<第五格(従格)>、 例えばラッシュアワーなどの条件において >光が生ず。【出発点】 異性が気になる場合と、気にならない場合がある。 つまり「光が生ず」は五蘊でありまして、 (色(光)は、また即五蘊皆空) 必ずしも上記・条件において生じるわけではない(生じる場合は依存関係に依る) 相依性の複合的意味あいとは、まさにこのことでして、 因果関係と縁起は意味は違います。 また、 >後者は「長・短」「大・小」など「相互観待」と親近性がある、と言えるだろう。 これは明らかな色相であります。 「長・短」の意味は、馬面女(長)と、狸女(短)を分別するというふうに解せます。 つまり、縁起・空は、そのまま色相を顕すやにおもいます。 色即是空。
時間的要素を無視した縁起に意味はない。
>>554 時間と空間は「相互観待」じゃないですか?
「長・短」「大・小」と同じです。
556 :
名無しさん@3周年 :2006/11/19(日) 17:51:27 ID:tKal6GQv
>>550 スマソ。失脚出禁バカの末路を実況したかっただけで多意はござんせんwww
ここからが、説一切有部と中観の決定的な違いとなってきますが、 じつはここからが話しは面白くなって逝きます。 いままでのは、序論と逝ったところでしょうか? それでも、お題を頂いた方には感謝します。 絡めば被ります(^。^)
558 :
名無しさん@3周年 :2006/11/20(月) 17:20:58 ID:fJp1iKjF
この失脚バカはじきにシャバからも出禁喰らうぜwww...
阿呆陀羅經の物まねが流行のようでw
560 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/11/21(火) 18:18:49 ID:PRisQCw1
本論においては、世俗諦を先ず提示して その矛盾点から考察して逝きたくおもいますが、 こういう話に関心がある御仁はいますか? もし、いないようでしたら、私は撤退します。 馬鹿らしいんでw
561 :
名無しさん@3周年 :2006/11/21(火) 20:23:32 ID:1FqmPHCB
馬鹿らしいのはシャバからも失脚させられる出禁バカの存在そのものwww
龍樹が、縁起を、於格によって相互観待(相依相待関係)として用いた例
空七十論 11
saMskAre 'saty avidyA na naiva sa tadabhAvataH /
行がなければ無明も生じないし、それ(無明)がなければ行も生じない。(
>>482 のサイトより訳文を引用)
*{saMskAre asati, avidyA na;} (語形を明示するため連声を除いてみた)
saMskAre 行<男性/単数/於格>
a-sati 現在分詞 「行のあらざりつつある(場)に於いて」(原因・条件として)
avidyA 無明<女性/単数/主格>
na否定辞(asti が省略されている) 「無明がない」
*{na eva sas tad-abhAvatas}
na 否定辞 eva 否定辞の強調 (ここでも asti が省略されている)
sa 指示代名詞「それ」<男性/単数/主格>…男性/単数なので「行」を指す。
tad-(a-(bhAva-tas)) は複合語で、副詞のはたらきをする(-tasについては辻§51.1参照)
tad それの-(a不-(bhAva存在-tasから))
tad は複合語の支分として性・数を失っているが、sas が行を指すので、tad が無明を指す。
「無明の不在から行が無い」
龍樹が縁起を相待関係ととらえたことが、ニヤーヤ・バーシヤに言う「過度の一般化」なのかどうか。 原始仏典における用例との対比が必要だと思う。 つまり、釈尊が相待関係で縁起を説いたことはないのか、因果関係としてだけで縁起を説いたのか、 ということを確認することが必要と思う。 白館氏の論にある、中論派だけの説なのか、釈尊に遡り得るのか。 前掲のパーリ文の定型句では、わざわざ2つの格で2回重ねていっていることから、 それが編纂されたときには、そのように解釈していた可能性もあるし、 上のサイトで引用している、 >サーリプッタ「たとえば二つの蘆束は、たがいに相依りて立つであろう。 >友よ、それと同じく、ものに依りて識あり、識によりてものあり。」 も、それらしく思えるが、出典・原文など確認はできていない。
564 :
名無しさん@3周年 :2006/11/22(水) 01:38:55 ID:M5aDOgH7
自分の頭で考えろ!一発かまそうか。 おまいらは一体何のための議論をしているのだ?議論の為の議論、知的遊戯か?アホらし過ぎる。 ゴータマ・ブッダの縁起の本質=此縁性(肯定的・否定的検証法)は、輪廻的生存「苦」の因果関係の連鎖を順逆にたどり、 確定原因(渇愛=無明)の滅失により結果(苦諦)を滅失させるという超合目的的且つ経験的な実践的課題によって立論されている。 あくまでも経験的事実としての因果関係すなわち前後時間的な関係に他ならない。 此縁性(縁起)とは相互依存関係(同時に原因であり且つ結果である関係)などではありえない、同時因果の関係などは経験的に存在しえない。 そのようなものは論理的な過失そのものであって、大乗禅者の形而上的な夢の中の与太話にすぎず、 諸行無常という時間的動的現象を無視した抽象論にしか過ぎない。誤まった議論だ。 もっといえば、大乗「空」論は単なる意識上の主観的神秘体験=サマディを客観的「真理」にすりかえる謬論だ。 ゴータマ・ブッダの仏教上の真理は四諦と縁起である。 それは真「理」である以上ブッダが説かれたように言語で明解に説きうるものだ。
565 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/11/22(水) 07:07:55 ID:P9UHUynO
>>562 の書き込みに
>>563 が、はたしてそれが釈尊の言説なるか?
と、一応はお題を提示。
それから
>>564 が真っ向から反論。
じつにいい流れです。
例えば
>>552 の書き込みで「灯火の生起」と「光が生じる」は同時にありますね。
「光が生じる」は同時に「闇が滅する」。ですから、
いわゆる相待関係であるわけです。
勝義諦では生滅はありません。→般若心経参照
>>563 どの、じつにいい書き込みです。
このスレは、原始佛教に精通しておられるアホダラ氏を筆頭に
原始佛教に詳しい方が何人かおられるようですから、
いろいろとお聞きしたいですね。
やはり
>>564 どののような考え方が、一般的な原始佛教理解でよろしいのでせうか?
理由と帰結という論理関係抜きに縁起は成立しない。これを見落とすのは誤謬もいいところ で無意味。 「神秘体験」にせよ、絶えざる吟味批判を受け脱臼克服されメタ化されるのは日常体験と同様。
涅槃が神秘体験じゃないんですか?
568 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/22(水) 10:54:16 ID:rQx0GtPN
「見られたものは見られただけのものと知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、 考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、また識別されたことは識別さ れただけものであると知ったならば苦しみが終滅すると説かれる。」『ウダーナヴァルガ』26・17 「(経験するものを)実質ある物だと思って走り近づいていくが、ただそのたびごとに新しい束縛を 身に受けるだけである。暗黒の中から出て来た蛾が(火の中に)落ちるようなものである。かれら は見たり聞いたりしたことに心が執著しているのである。」同上29・5
569 :
名無しさん@3周年 :2006/11/22(水) 10:54:31 ID:M5aDOgH7
例えば、龍樹の大乗「空」論を理解したら次のような結果が出せるのかね。 『或るとき尊師は、王舎城の(仙人の山)の山腹で、黒曜岩のところで 五百人もの大勢の修行僧の仲間と共に住んでおられた。 かれらはすべて(敬わるべき人たち)であった。 大モッガラーナ尊者は、かれらの心をしらべて、その心が解脱していて、 こだわりのないものであることを知った。』(悪魔との対話<サンユッタ・ニカーヤ> 中村 元訳 岩波文庫 201頁) 龍樹は論敵の自性論に議論上の勝利を得る動機として、縁起を相衣関係として把握する必要があり、 “故に”無自性=空と説きたかったにすぎない。議論の為の主張、理論の為の論理であって、 本来の実践目的=解脱に役に何らも立つものではない。 般若心経くらいは現在の日本のプロ僧侶たちなら理解しているはず。 そうならば、ブッダ当時のように、本当に心解脱した僧侶を500人集めてみせて欲しいものだ。 何故大乗からは真の心解脱者が見出しえないのか? なんらの実践性もないからだ。
570 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/22(水) 10:59:05 ID:rQx0GtPN
虚偽誤謬駄弁の煮凝りは出て失せるように。
571 :
名無しさん@3周年 :2006/11/22(水) 11:29:04 ID:M5aDOgH7
はーい
572 :
名無しさん@3周年 :2006/11/22(水) 11:39:40 ID:oUE2XqQU
>>564 もっといえば、大乗「空」論は単なる意識上の主観的神秘体験=サマディを客観的「真理」にすりかえる謬論だ。
なぜ、そう断言できるのか「言語で明解に説」いてください。
>>569 なんか怨念だけで論理的に筋が通ってませんが、
> 龍樹は論敵の自性論に議論上の勝利を得る動機として、縁起を相衣関係として把握する必要があり、
> “故に”無自性=空と説きたかったにすぎない。議論の為の主張、理論の為の論理であって、
> 本来の実践目的=解脱に役に何らも立つものではない。
これも、なぜ、そう断言できるのか「言語で明解に説」いてください。
チベットだと「本当に心解脱した僧侶を500人」以上、集ってると思いますが。
ところでテーラワーダでは現在「本当に心解脱した僧侶を500人」集まるのですか?
もちろん、日本では「本当に心解脱した僧侶を500人」集まらないと思いますが、
だからといって大乗がだめだというのは、包括関係上あてはまりませんね?
573 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/11/22(水) 12:14:03 ID:P9UHUynO
>>564 >確定原因(渇愛=無明)の滅失により結果(苦諦)を滅失させるという超合目的的且つ経験的な実践的課題によって立論されている。
そうでしたか。なるほど。
つまり逆観の実践というのが瞑想なのですね?
瞑想しながら逆観していって、そして苦諦を滅失すると・・・
釈尊は悟っておりますから、私は「自己暗示的ノウハウ」が成道とは思えないのです。
中道ですから、
やはりそれなりのインパクトはあります。
私は、「中道」だけでも超一級の哲学かと思いますけどね。
そこから抽出して逝けば、おのずと正覚に辿りつけるやに思いまふ。
574 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/11/22(水) 13:41:44 ID:P9UHUynO
>>566 >理由と帰結という論理関係抜きに縁起は成立しない。
× 縁起は成立しない。
〇 因果関係は成立しない。
じゃないですか?
因果と縁起は意味が違う。
心解脱の面に強い関心があるなら、そちらから、慧解脱に関心が強いなら、そちらから、 結局、両々相まってこその解脱でしょうね。 『論語』為政篇から、 経師・論師に、「学びて思わざれば、すなわち、くらし」 禅師・法師に、「思いて学ばざれば、すなわち、あやうし」
576 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/22(水) 19:45:26 ID:jL09wlp8
>>564 「相互依存関係」を「同時に原因であり且つ結果である関係」ととらえていることが
自縄自縛なのでは? 龍樹はそういう見方はしていないと思うけど。
つまり、於格の方の「縁起」定型句を、相互依存関係としてとらえてはいるが、
「相互因果関係」のようなことではないはず。
「諸法は相互依存で成り立っているものであり、単立しているのではない」と言って、
説一切有部に現れた「諸法に内在し、常住にして自立する自性」(有我論の諸法版のようなもの)が
存在している、という見方を否定しているのが本意ではないかな。
つまり、諸法の属性は「なにものにも依らず、自立している自性」だ、という見方を、
「こうこうこういうように、相互依存性があるではないか」と言って否定しているのだと思う。
具体的に言うと、「ゾウは鼻が長いなどの属性を持っている。この属性は、自立している自性だ」
という見方に対して、「長いものという見方は短いものという見方から生じたのであり、
また短いものという見方も長いものという見方から生れたのだ。
性質として見ていることが、実は相互依存のもとにあるのだ」と。
このことじたいは、何ら間違ってはいないと思う。
それを「縁起」という同じ語で呼ぶことが、「縁起」概念の混乱をもたらすことの是非は別にして。
>>577 >それを「縁起」という同じ語で呼ぶことが、「縁起」概念の混乱をもたらすことの是非は別にして。
ココ、すごく重要じゃない?
説一切有部(倶舎論)による存在の分析 有為法 72 無為法 3 虚空…空界(目に見える隙間や天空)とは別〔倶舎論一〕 択滅…簡択ケンチャク(智慧)による煩悩の滅(涅槃) 非択滅…簡択によらない滅
>>576 原始仏教的に言うと、まず阿含部経典の梵語原典という点がありがたいでしょうね。
6−7世紀というと玄奘の時代に近いですが、墨痕鮮やかというか、
文字がとても鮮明で驚きました。写真の上下が逆だったのはご愛敬。
アフガニスタンは、バクトリア王国の故地。その太祖アレクサンドロス大王の師匠はアリストテレス、
当然、彼の哲学は、その自然論も含め、旧マケドニア帝国系の諸王国で尊重されていたのではないでしょうか。
そのことと、説一切有部がカシミールで有力だった、(さらには、そこで発達したのではないか)ということと照らし合わせると、
当地のアリストテレス哲学の影響を受けて発達した可能性も考えられるでしょう。
また、アリストテレス論理学が、ニヤーヤ派の発達に刺激と影響を与えたことも。
581 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/11/23(木) 07:17:45 ID:jB21mYly
縁起がわかりませと、一切もわかりませんし、また十二処も難解になってきますね。
ましてや「自他不二」など、最初から論理矛盾があるのが仏教の根幹だし。
>>578 >ココ、すごく重要じゃない?
重要です。
相対分別も同時に成らしめるけど、そもそも五蘊とは何か?
というのが縁起がわからんと、これさえわからん。
582 :
名無しさん@3周年 :2006/11/23(木) 08:43:20 ID:8Y02c18I
失脚出禁バカは段ボール小屋からも書きなぐるつもりかwww
583 :
名無しさん@3周年 :2006/11/23(木) 13:32:49 ID:yvoFx6ke
>>562 >空七十論 11 saMskAre 'saty avidyA na naiva sa tadabhAvataH /
『空七十論』のサンスクリット原典は存在するのでしょうか。
>「縁起が時間的生起の関係を意味するのではないという思想は まあ、当然といえば当然のことですよね。 縁起ってのは、つまり机上の理論でなくてリアルの事象・心象のことですから。 日常において経験していることですから。 アタマを殴られて、時間の経過により感受するわけではない。 ってのは、今さらながらに論ずることでもない。 つまり、縁起ってのは序論の範囲かとおもいます。 わたくしは本論などを語ちりたいかとおもうのですが、 こういう話に関心のある御仁はおらんのですかね? では、おやすみ。
587 :
名無しさん@3周年 :2006/11/24(金) 10:59:25 ID:ZqdPyWD+
しつこいようだが、空(そのものとしての実体が無いこと=無自性)を 空間的に把握すれば「縁」(つながり=因果的連関)になるし 時間的に把握すれば「無常」(不動・恒常性の否定)になるだけのこと。 別に難しいことでもなく、悟りなどという言語同断な神秘体験が必要なわけでもない。 「理」で尽くせる。あとは感情などの言語表現機能の限界という当然のことだけ。 ブッダは語り尽くしているし(ご自身で教師の握り占める秘密は無いと言っている) 四諦+縁起+無常というブッダの真理で全て間に合ってますが、なにか? わざわざ大乗大乗とこねくり回して解脱に「資する」のですか。 解脱になんらも「資」さないという意味では、ブッダの禁じられた形而上談義と 機能的に変わらない。アホらしい。 日本人で心境的にブッダに再接近した人物は良寛さんだけですよ。 神秘的な「悟り」でもなんでもないんです。
>日本人で心境的にブッダに再接近した人物は良寛さんだけですよ。 賛否両論あるかもですな。 私は一遍上人だと思ってます。 何もかも捨て果て、生涯を通じて遊行を続け、今わの際には著作を全て 焼き捨てた。 「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」 凄みを感じさせますね。
589 :
名無しさん@3周年 :2006/11/24(金) 12:25:52 ID:ZqdPyWD+
590 :
587 :2006/11/24(金) 12:29:55 ID:ZqdPyWD+
△ 再接近 〇 再及び最接近
>>589 いや、ごめん。書き方悪かった。
「賛否両論あるかも」って書いたのは、人によって
>日本人で心境的にブッダに再接近した人物
これの候補が異なるだろうと思って書いたのであって他意はないです。
んで、「私は一遍上人だと思う。理由はこうこう」って書いたのが
>>588 ね。
良寛さんと思う人も当然いるでしょう。
他の人を「この人こそ」って推薦してくる人も出るかもしれない。
ま、他のスレなら荒れそうな話題だが、このスレならそれなりの説得力
を持った人物と論拠を持ち寄ってくれそうだから。内心はwktkしながら
成り行きを見守ってるとこ。
592 :
583 :2006/11/24(金) 17:40:22 ID:mkj2Jsbj
>>586 御返答ありがとうございます。
御返答を頂戴しながら、重ねて質問をして申し訳ありませんが、
文字化けするのですが、修正する方法はあるのでしょうか。
また、これらの本頌は、チベット訳からの還元されたサンスクリットなのでしょうか、
或いは、サンスクリット原典が存在する、ということなのでしょうか。
その場合、本頌のみなのか、月称註のサンスクリット原典も存在するのでしょうか。
御時間の許すときに御返答を頂ければ幸いです。
>>587 > 空(そのものとしての実体が無いこと=無自性)を
> 空間的に把握すれば「縁」(つながり=因果的連関)になるし
「空を空間的に把握すれば因果的連関になる」というのが、よく分からないんですが。
>>587 >空間的に把握すれば「縁」(つながり=因果的連関)になるし
ただの「因果的連関」ならば、カッパノベルスあたりで発行されている、
「人生ノウハウ読本?」とかで充分ですし、
なにもあえて仏教でなくてもいいわけです。
つぅか、アビダルマ哲学というのは、「哲学」つぅ程のものではないですよね?
私はアビダルマに関する資料を拝見するに、
アレフとか、ああいう教義を連想するのです。
レベル的には低いですよね?
だからアレフの信者も直ぐに教義が脳にインプットされる。
つまり、凡人にも直ぐにわかるような哲学?です。
ちなみに、無自性ですから「原因」も「結果」もないわけです。
これはホンの初歩的なものですけど、
いうならば、今まで「原始佛教シリーズ」を「その19」まで回を重ねてきて、
こういう初歩的なところも把握していないところが、
殆どの議論も無駄なことになりますね。
ちなみに、三世実有論というなら話は別です。
598 :
名無しさん@3周年 :2006/11/25(土) 12:28:34 ID:3SmCssnP
無駄で無意味なのは失脚出禁バカが必死で踏んでるガキの地団駄www ゴマメの歯ぎしりにも屁のツッパリにもならんwwww
【原始仏教】 @縁起 (因果関係と相互関係の両面を備えている) A無我 (有我論に対置) B空 『小空経』「講堂は、牛に関しては空であるが、比丘に関しては空でない」 【部派仏教】 自性(スヴァバーヴァ) 説一切有部の「三世実有、法体恒有」=諸法(もの)の本質は、 過去・未来・現在にわたって不変で他に影響されない本体として存在している、という教義。 【大乗仏教】 『般若経』「空」を説く。 …B′ 龍樹 無自性(アスヴァバーヴァ) 「三世実有、法体恒有」説に対する反論と見られる。 …A′ 縁起(相互依存関係としての縁起) …@′
【原始仏教】というのは、 禅でいうたら始祖から〜五祖あたりの清浄禅に似てますね。 その頃の禅というのは塵払看淨というて「心を清浄にしませう」というような感じです。 これはノウハウ的なものであって、あまり宗教色はない。 つまり、体系的なものはなかったので、 それしか方法がなかったから、それを継承する以外にない。 (禅の起源は釈尊の模倣ですから) 【原始仏教】も、いうならば未達のもんですから、一生かえけて論考しようが究考しようが、 それはそれで原始佛教だけの話ですね。
601 :
名無しさん@3周年 :2006/11/25(土) 21:45:10 ID:3SmCssnP
未達(ママw)どころか能無し失脚出禁バカは居ることそのものが空間と資源の無駄www
603 :
名無しさん@3周年 :2006/11/25(土) 22:54:32 ID:clEg8fbZ
形而下一切智者宣言を厳かに行われたゴータマ・ブッダが、 全てを語りつくし、誠実に「教師の握り占めた秘密はない」と言っているのに レヴェルが低いだの、未達だのと評する。 さぞかしブッダよりレヴェルが高い境地に達っせられたお方と拝察いたします。 当然ニルヴァーナに達しておられたうえで、2ちゃんねで真言を書いておられるわけで、 心解脱を実況解説していただけるとありがたい。ブッダより高級な生佛が現代日本に誕生して おられたとは恥ずかしながら知りませんでした。 大乗が空疎な形而上観念論大伽藍を築いて、シロート相手のコケ脅しをやっているわりには 金儲け葬式観光仏教に徹し、解脱者をほとんど見出しえない現状を生佛として 説明していただきたい。
「シューナ」から「シューニヤ(空)」という語ができた。シューナの意味は、 はれた、ふくれた、膨張した(特に、不健全に) <名詞> 空っぽ(原義 ふくらんだ状態、うつろなこと、中空) なお、大乗仏教の空の比喩として、夢・幻(幻術師の作り出した幻)・泡・影・水中月・かげろう・蜃気楼など、 実体の無いものが列挙されているので、空をただちにこのイメージそのものと捉えやすいが、 龍樹の場合、実際にはもっと抽象的、論理的なものと捉えた方がよいのではないかと思う。
605 :
603 :2006/11/25(土) 23:20:48 ID:clEg8fbZ
誤解しないでいただきたいが、私はアレフやその他の 宗教セクトに拘わっている者ではありません。 あくまでもノンセクトで、いかに善く生きるべきかを 自分なりに考えようとしている市井の愚鈍な人間にしか 過ぎません。
舎利子よ、頭からっぽ(空観)にして真を観察せよ。 妄評しちょる暇があったら修行をせよ。無駄に過ごすな。なむあみだぶ…
>>455 バーミヤン大仏の体内に納められた経典の意味について
仏舎利ブッシャリに2種がある。一つは生身ショウジン(ご遺骨)、一つは法身ホッシン(教え、特に縁起偈ゲ、
法身偈とも)。これを塔の基壇や内部、仏像体内に安置するということがあった。
義浄の『南海寄帰内法伝』4に
「凡ソ形像ハ……当(ベ)キ作ル之ヲ時、中ニ安ズ二種ノ舎利ヲ。一ハ謂ヒ大師ノ身骨ヲ、二ハ謂フ縁起法頌ヲ。
其ノ頌ニ曰ク、諸法従縁起、如来説是因、彼法因縁尽、是大沙門説。」
等身大の仏像でなく大仏なので、縁起偈でなく縁起経を納めたものだろうか。
>>603 > 形而下一切智者宣言を厳かに行われたゴータマ・ブッダが、
>全てを語りつくし、誠実に「教師の握り占めた秘密はない」と言っているのに
釈尊のレベルは相当高いですね。
現代でいうたら、相対性理論とか言語哲学相当なものは既に悟っていた訳ですから。
(相対性理論にしても、高校レベルで学んだとして本当に理解できる者は5%に満たないらしい)
それを「中道」とか簡潔なまでに言い表したところも敬意をもっております。
ゆえに、
それ程までにハイレベルな教説を、世間に通ずるまでに体系つけるには、
それ相当歴史経過を要するには至極当然なことかと思いますね。
原始佛教の時代というのは、そういった暗中模索の時期だったのかとおもいますね。
じつは禅においても、そういう時期というのがあったのです。
そういう歴史を経て、教説は開花するわけです。
(つづき) 「ローマは一日にしてならず」と、言うじゃ〜ないですか? そんなに簡単なもんじゃないです。 何故かと言いますと、釈尊の教説があまりにもハイレベルなんで、 それは時代を経て菩薩(龍樹)を待つほかないのです。 禅においても、その開花した時期というのは始祖より数百年を経るのですから。 六祖・慧能以降において覚者が大量に輩出されたのは、 歴史的証明でもあります。 ちなみに、始祖から五祖あたりの歴史に関心の向く禅者は殆どいないですね。
612 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/26(日) 10:06:37 ID:f5yCyvYH
613 :
名無しさん@3周年 :2006/11/26(日) 12:30:16 ID:YLsSSE33
人間サマの世間から爪はじきされてる失脚出禁バカがオシャカの話だと?ヘソで茶が沸くぜwwww
縁起は第一義空でありますから、こういうことが解らんと
>>581 こういうことになる。
阿含経典おいても第一義である由は記述のとおり。
これなくして真諦には到らんのです。
一生かかって勉学にいそしんでるどころじゃ〜ないでしょうにw
ちなみに金剛般若経の一節を耳にしただけで悟った優れ者もいるくらいですから。
凡人にはこういうことは無理にしても、
なんらかの開悟はして頂きたいですね。
釈尊は悟っておるわけですから、
やはり仏道におる者は、仏陀を見本にせねばなるまい。
615 :
583 :2006/11/26(日) 16:34:22 ID:kYg5Rn+c
616 :
マジで、質問、机さん、、 :2006/11/26(日) 16:44:41 ID:+lUA/oV/
ズレますけど、、机さん的には、、働くなど、日常生活と禅との関係は、どんな感じなんでしょうか?? 真面目に、お聞きします、、
それは彼岸に到れば白日の如くになります。 一遍上人や良寛、はたまた一休宗純が、何故にあれほど曇のない偈が残せるのか? ここまで逝ってっこそ、私は仏教と言えるのかと思います。 中途半端はいけません。 原始佛教が釈尊のレールを引いたなら、先師はそれを磨いておるのですから、 全ての師に敬意を払い、自らは求めねば、なんら得るものはござらん。 さような求道(菩提心)ありて、先師の境涯も解せるわけです。 で、皆さまは彼岸へは到る気はないのですか? 大乗では、こと細かに凡夫のために教説を開示しているというのに。 じつに勿体無いことかと思いますね。 とにかく、寿命というのはいつかは尽きるんですから、 その前に彼岸まで逝くべきです。 それなくして仏教に意味はない。
>>616 >働くなど、日常生活と禅との関係は、どんな感じなんでしょうか??
飯を食うて糞して、あとは寝るだけです。
一応は働いております。
619 :
名無しさん@3周年 :2006/11/26(日) 17:45:35 ID:YLsSSE33
働くだぁ? 世間様から石もて追われてノタレ死に一直線だろーがwww
620 :
マジで、質問、机さん、、 :2006/11/26(日) 18:13:17 ID:aysA5mUh
ま、そいうことですわねえ、、
揶鼈「含經 十八「一切諸行無常」 中論 觀行品「諸行名五蘊」 諸行を五蘊と名づく
「無明に際限なし」(ゴンダ、インド思想史)
本論を、いろいろと語ちりたいかと思うタのですが、 こういうのは無理のよぉですね。 やはり彼岸へ逝かんと無理だというのが、よくわかりました。 じつは、当該スレにおきまして論題によくなっているような「業報輪廻」とか そういうテーマを、原始佛教といふサイドでご指南受けようかと思うておったのです。 幸いにも、それらしき重鎮も揃っておいでのようだし 一期一会、今ここでこそこの大テーマに取り組む機会はござらんと、 かように思うておったのですが、 やはりこれは中道を悟らんと無理なんでしょう。 私はそう思いますね。
>>623 机さん、お願いですから、過去ログをちょっとは読んでください・・・・
以前のログより、業報輪廻に関する部分を引用しておきますよ。。。
------------------------------------------------------------
【縁起そのものについて】
一般的に縁起といえば、十二支縁起を示します。縁起説を本当に理解しようと思えば、「順観、逆観」・「流転門、
減滅門」という最低でも四つの角度から眺める必要があります。また順観、逆観とでは支数が異なる場合もあり、原
始仏教の本質を見出せるキーワードでもあります。説一切有部以降の三世両重の因果(縁起に即してこれを業感縁起
という)とはその本質においてまったく違うものになっています。
業報そのものを語るにはかなりの時間を要します。一つ確認すべき事があります。仏教の業報を語る場合、取りあえ
ず、前世、来世を無視してください。「いま善いことをするから将来いつか楽をする」という今生での完結で捕らえ
ないと話が拡散してしまいます。それを捉えた上で、「業報の根拠」とは自分を時系列で冷静に観察して得た「あり
よう」(真理 tathatA)です。
原始仏教では、「世界が自己の認識を出ることはない」のです。自己の認識を出る世界は十四無記として退けます。
仏教は哲学として捉えがちですが、命題としては完全では有りません。哲学として捉える事のできる側面が非常に多
いが、「苦の解決」と言う方向性を持つ限り、「動的な存在論」つまりある一定の価値観を付与した行動規範に近づ
きます。
原始仏教の縁起は個人の個人に限定した内証を言葉にしたものです。因縁生起は個人の枠を越えて一般化し、全体的
な事柄に普遍的な法則を見出そうとするウパニシャッドの方向性に近づくものです。「生れ変りや霊魂の肯定」もそ
の文脈にあります。折角釈尊が「苦の解決としての個」を打ち出しているのに勿体無い事です。
仏教では業報輪廻を受け入れましたが、「生れ変りとしての輪廻」には言及しません。「何が業の報いを受けるのか」 と言う問いには様々な答えがあります。 1 刹那滅の概念を用いて、連続性を根拠にその当体を主張する(有部、無常の弁証) 2 上記思想に心の流れ(心相続)を用い、それが段々変化して苦楽の果を得るとする(経量部、瑜伽行唯識派) というのが有名であり、仏教外の哲学もよくこれを紹介して用います。原始仏教ではどうなのかといえば、 「それでは何が苦しむのですか?」 「その苦しみの原因はなんですか?」 「その苦しみを取り除くにはこうすればよいのです」 「執着を離れ、先入観から離れ、ものごとをありのままに見て、価値観をかえることで苦しみから開放されます」 「執着した心で見るから、おこないやそのむくいなどに実体を求めてしまうのです」 「すべては空であると知るべきです」となります。阿含経典ではこのような説明が主流です。しかし、部派以降にな ると形而上学を求めるのでややこしい事を言い出すようになるのです。私は阿含経典の「空」も中観派の「空」も同 じ事だとおもいます。 業報を絶対前提に据え、解脱に向けたときに「執着すべき実体はない」と解釈すべきです。現実世界は厳然として最 低限の執着によってものごとが維持されています。これは「執着」と呼べないかもしれません。「現実世界」と「苦 の解決を目指すもの」にはある意味かけ離れたものに映りますが、それを埋めるのが「戒」です。 形而上学として見るのなら、原始仏教は確実に不完全でしょうね。それは釈尊自身も示唆するところです。原始仏教 以外では釈尊が「一切知者」などとするのが趨勢ですが、それは教団保持や権威付けの為であり、非本来的です。釈 尊は苦から開放されるための知識を大切にするのであり、それ以外の知識は無頓着であったとある意味、言い切って もいいでしょう。
縁起を観察する上で業報思想は大前提となります。 業報思想は縁起から導き出されたものではなく、縁起を観ずるための知識として最低必要条件に上げられる のです。そして戒律、善業と進み心を安定させて縁起を観ずるという順番になります。 縁起の法とは物質、現象とは直接かかわりあいません。縁起の法とは「苦」の原因追及の洞察からはじまり ます。ですからもっと倫理的な枠組みとして考えるべきでしょう。「これあるときに彼有る」と言う言葉に 惑わされるひとが多いのですが、勘違いしている思想研究者が多いのも確かですね。 苦の原因を追求していく際、その苦とは個人的なもの以外では検証しようがありません。縁起は公理ではな く観察方法と捉えるべきです。事実四支縁起から十二支縁起まで経典には諸説説明がありますからこれを公 理系と考えれば矛盾が生じます。 原始仏教では飽くまで「個人」、「個人の心」を中心に教法が説かれていたのに対して、それ以降は思考の 一般化が計られ、自然と物質、現象やその生成にまで言及し始めます。それは仏教外からの質問や論難、あ るいは内部での論争から生まれてきたものでしょうが、段々と原始仏教から遠ざかっていくようです。 釈尊が世界を構築する諸現象に言及することを避けてきた記述が阿含経典群の随所に説かれています。いわ ゆる「形而上学に言及しない」という「無記」ですね。 仏教では「世俗の真理」と「究極の真理」とを分けて考えます。業報論は前者、縁起は後者に振り分けられ ます。このことは仏典の中で繰り返し説明されているのであって、ただ単に「真理」で全てを括るのは過誤 になります。 経験的に確認可能なことと確認不可能なものに分けて考えます。三法印は苦からの開放のためにあるもので 、形而上学的なものはそれに直接寄与しません。
縁起を公理系のように考えている仏教哲学は善因楽果、悪因苦果などの業報を説明するものとして縁起を位置付け るのです。これが「三世両重の因果」と呼ばれるものです。特に説一切有部というセクトが提唱したのですが、他 のセクトは猛反発します。反発の理由は 1 縁起とは世界の説明ではなく、苦の滅と苦のありようを説明するもの 2 縁起とは三世にわたるものではなく、一瞬一瞬に内在するもの 3 その他多数 などがあります。
三世両重の因果は大変重要な概念なので別段でお話しましょう。この説一切有部は思想的には異端でしたが、最大の 勢力をもっていましたので、広く行き渡りました。また思想自体、原始仏教よりも他の思想に受け入れやすい要素が あったので、あっという間に知られることになりました。他の思想哲学の体系にも説一切有部の概念が導入され、一 見、仏教との差異が見出し難いものもあります。例えば真諦という大翻訳家はサーンキャの『金七十論』を仏教論書 と間違って翻訳してしまったとの伝説まであります。この三世両重の因果の出自やそのベース、仏教内部での論争、 他哲学との干渉、その後の展開と影響を見ることで仏教思想の本質まで最短距離で近付けます。 1 現象、事象としてのありよう(業報) 2 行動原理としての真理(縁起) になるでしょう。残念ながら明確にこの二者を弁別して思考している仏教学者は少ないのです。「縁起は世界観、人 間観としての真理であり、因縁生起という現実を説明している」と言う論点先取の虚偽を犯しているのです。因縁生 起とはまた別段に考えるべきなのです。「山口組」の人たちはこの点はキッチリしていますね。 形而上学(自然学に先立つ原理学)。最も基本的には、経験において与えられる具体的・個別的なものを超越して、 全体的・究極的・絶対的にみる哲学の部門をいう。つまり、経験的に確認不可能な根本原理について考察する学問で す。いくら抽象的で直感的なものであっても確認可能なものもあります。 諸行無常は経験則です。経験上、事象(諸行、意味的には認識がなされるその対象)には何一つ実体的で常住不変な ものなく、絶えず生成変化を続けている。それを認めずあるいは目をそらし、常住不変なものを求めるところに執着 が生じ、苦を招くというのが根本にあります。
善因楽果、悪因苦果は人の善悪の「おこない」とその報いであり、それを総称して「業」と呼びます。おこないを善 悪の二つで見ていますが、日常の通常的おこないで、楽果や悪果をもたらさないものを「無記」といい、価値的に三 種類のおこないを定義付けます。これは原始仏教問わず、全ての仏教に通じるものです。無記と言いますが、形而上 学に対する「無記答」とは全く別物なので要注意です。善因楽果、悪因苦果、おこないに三種あり、因から果が生じ るまで一定の時間が必要。これらを一応「業報論」と括りましょう。 ------------------------------------------------------------ ちと順序がでたらめかもしれませんが。 この辺が、原始仏教における業報輪廻に関する書き込みです。 たたき台として出されているので、これに沿って議論を展開するか、もしくは 別の論拠を持ってきて反証していくか。 実のある議論でしたら歓迎されると思われます。 ではどうぞ。
>>624 〜
>>629 いやぁ、じつに素晴らしい!大変参考になりました、サンクス
>>626 >仏教では「世俗の真理」と「究極の真理」とを分けて考えます。業報論は前者、縁起は後者に振り分けられ
>ます。このことは仏典の中で繰り返し説明されているのであって、ただ単に「真理」で全てを括るのは過誤
になります。
ここに書いてありますね、
業報論は世俗の真理だと。そのようにチャンと書いておるじゃないですか。
もう業報輪廻に迷うこともないわけです。
こういうことを達観したなら。
もともと私が思うには、業の思想というのは無かったのかと思いますね。
(仏陀は中道を悟っておるわけですから)
業報思想というのはバラモン教に影響を受けたもので、
この思想から断絶しますと、もっと明確に釈尊の本義に到れるかと思います。
(これは非常に重要です)
で、彼岸に到ってから、ゆっくり業報について考えればいいかと思いますね。
さすれば、こういった邪念からも解脱するんですから。
まあ、つまり私が言いたいのは、 月指す指が多すぎても、月を指し示すには都合が悪い。 と、こういうことです。
× 業の思想というのは無かったのかと思いますね。 〇 業の思想というのは、佛教には無かったのかと思いますね。
633 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/27(月) 18:56:18 ID:AeBLagxe
>>624 発掘&纏めご苦労様です。
しかしながら、かの荒らし外道壁蝨が読解力・学習能力共に皆無であることはとっくの昔に明白です。
おそらく無様な蟲喰い穴を増やすのみに終わるだけと思いますよ。
634 :
名無しさん@3周年 :2006/11/27(月) 20:20:48 ID:lJOn0MH8
>>625 仏教では業報輪廻を受け入れましたが、「生れ変りとしての輪廻」には言及しません。
生れ変り以外の輪廻などないでしょう。最近自演がばれた電波さんも、
その珍説に従っているわけですが、和辻以来の珍説はもう終わりにしましょうよ。
最近でも並川孝儀さん、望月海慧さんといった人が現代の常識への阿諛をやってますが、
どうしようもないですね。
はっきりいいますが、「生れ変りとしての輪廻」を認めないなら、
一切皆苦であることを承認する仏教徒は、今すぐ自殺するしかないでしょう。
貴方は、この問題についてどう考えますか?
635 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/27(月) 20:30:23 ID:AeBLagxe
無窮ループ基地外は癲狂院へ戻りましょう。
636 :
名無しさん@3周年 :2006/11/27(月) 20:45:05 ID:8VXvUdjA
>>634 またかよ。
「生れ変りとしての輪廻」を(形而下)経験主義的に論証してごらんwww
637 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/27(月) 20:54:17 ID:AeBLagxe
>>636 いつも涌いて出る粘着ビリーバー、もしくはどこぞの絶命王とかいう基地外でしょう。毎度のことなので
放っときましょう(笑)。
誤謬(虚偽)論法の標本を強いて御覧になりたいのならばお止めはしませんけど(苦笑)。
縁起法頌を仏像の内部に納めていた。 サンガ(僧団)は、次のように考えていたのだろう。 ブッダをブッダたらしめるものは、実に縁起の法である、と。
639 :
名無しさん@3周年 :2006/11/27(月) 23:07:57 ID:8VXvUdjA
/ ̄ノノノ ̄\ ( ) |;;;;; ー◎-◎-) <机 龍之介だ 文句あっか? (6 (_ _) ) 彼岸へ逝くには、先ず彼岸に逝く事だって・・・ \ トェェェェェイ ______ ./ \. ヾェェェ/ . | | ̄ ̄\ \ カタカタカタ その方法?彼岸に逝けばわかるwww /  ̄ ̄ ̄ヽ . | | | ̄ ̄| 空理空論空教祖 押印> / ,ィ -っ、 ヽ .| | |__| | / 、__ う人 ・,y ヽ|__|__/ / | / | ̄ ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄〕 ヽ、__ノ |二二二二二二二二二二| | x 9 / || | ヽ、_;;;;∩;;;_,ノ彡イ . .|| | ;;(::)(::);; | .||
机上の空論、龍樹の空観 >大河小説『大菩薩峠』の主人公の名前
>>634 >はっきりいいますが、「生れ変りとしての輪廻」を認めないなら、
いいお題ですので、わたくしが頂戴致しまふ。
因縁仮和合ゆえに、すでに業報といふベクトルそのものが消失します。
しかしながら世俗諦では有効です。
世俗諦というのは、その時代背景も影響しますから、
当時においての輪廻転生思想が一般的なものであったことも鑑みなければならんかと思います。
しかしながら、佛教はこれとは全く別問題なんです。
そういうことを一応は切り離さんと明智には到らんのです。
相対立するもんを凡夫が思推しようが、勉学に禿もうが、これは結論は出んのです。
だから私は、彼岸へ逝くことを推奨しとるんです。
正覚を得て、そして何もかもが明らかになるのです。
そういう、いわば優れた法門を邪推に囚われておるこそ害毒と言わねばならんでしょうね。
無量寿、無量光、縁起やらの理屈からすりゃ 生まれ変わりとしての輪廻」はありましょうな。 そんな迷うてる暇があったらトイレ掃除でもしてなさい!っていふのが佛道である。
643 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/28(火) 09:29:02 ID:7tKbhYfI
業報の感受認識領域。 T23n1442_p0810c17(13)?根本説一切有部毘奈耶卷第三十四 T23n1442_p0813c28(03)?縁合成熟果報不失。凡諸有情先身所作善惡之業。 T23n1442_p0813c29(00)?非於外界地水火風而令成熟。 T23n1442_p0814a01(05)?然於自身蘊界處中業果成熟。即説頌曰 T23n1442_p0814a02(00)? 假令經百劫 所作業不亡 T23n1442_p0814a03(00)? 因縁會遇時 果報還自受 各個人の感受認知領域=蘊界處=一切。
644 :
名無しさん@3周年 :2006/11/28(火) 10:26:32 ID:PWywkaKr
<中村 元:ブッダの人と思想49頁〜>を編集 ゴータマ・ブッダ不死の法則=「不生」 【 生存欲を中核とした妄執(渇愛)⇔執着⇔出生⇔老死 】 妄執がなければ執着は当然死滅するが、執着がなくなるとなぜ出生 までも無くなるのかの疑問がある。執着の有無に拘わらず人間は生まれるからだ。 ここで考えるべきは、「自己」とは妄執と執着によって仮構されたものだということだ。 妄執の中核を打ち砕けば、⇒仮構された自己は生滅する⇒自己によって仮構された世界像も壊滅する ⇒「ありのまま」の世界のみの現出=分別・対象化された世界はない。有る無しの分別した世界ではないので、 自己と世界は素通しになる。自己は無限定なものとなってしまった。後世の大教仏教では「自他不二」(自己と他とは分離できない) といっている。 こうした「ありのまま」の世界には、自己は限定なき存在そのものなのだから、当然出生もない。 出生がないのだから老死もない。 後年このブッダの不死の法則を「不生」といっている。盤珪さんもこのことを言っているのだろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 当然、業報輪廻などという妄想は入る余地が無い。 ブッダも六師外道など当時の自由思想家のひとりだったのさ。 特に三世両重の因果なんぞは願い下げだ。 俺の浮気が原因で、ロクロ首女や熊女が出てきては子孫に恨まれて、 お墓に小便をかけられかねんがな。
645 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/28(火) 10:35:43 ID:7tKbhYfI
またぞろ学習障害馬鹿が・・・(嗤)。 盤珪の主張は因果撥無の自然外道の典型。 そういう意味では六師ならぬ「六祖外道」の正嫡。
646 :
644学習障害児 :2006/11/28(火) 10:55:35 ID:PWywkaKr
× 大教仏教 〇 大乗仏教
647 :
学習障害児 :2006/11/28(火) 15:04:36 ID:PWywkaKr
盤珪さん、盤珪さん! 阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ があんたの主張は邪見=無明やと批判して侮辱してまっせ。 ブッダとは二律背反らしいですわ。
>>644 平易に解説するなら、中村先生の論でいいかと思います。
(縁起から分析する方法もある)
で、
私が折角いい流れに持って行こうとしたら、
アホダラ氏が、根本説一切有部論を展開するなど・・・
「説一切有部」は論外です。
こんなもんを、今まで原始佛教スレで語ちておったのですか?
じゃあ、殆ど駄目かもしれんね。
実有論は論外です。
うぶの娘は好きだけどね〜
650 :
学習障害児 :2006/11/28(火) 17:38:24 ID:PWywkaKr
ブッダにとっては、神・悪魔、業報・輪廻という概念は 当時のバラモン的社会通念を考慮した戦略的な方便だったんでしょ。 どう考えても実存的な生存苦の克服に必要なファクターだとは思えない。
651 :
名無しさん@3周年 :2006/11/28(火) 17:40:49 ID:e9V5RHcE
>>650 ブッダがテレポーテーションする場面がお経にありますが、どうとらえてますか?
652 :
学習障害児 :2006/11/28(火) 17:49:39 ID:PWywkaKr
>>651 申し訳ないが勉強不足で、ブッダが物体の瞬間移動をさせる場面があることを
知りません。お教え願えますか?
653 :
名無しさん@3周年 :2006/11/28(火) 23:04:14 ID:S5zKQtg5
珍遊記の玄奘がぶつぶつぶつFAXと唱えると瞬間移動します。
縁生・縁滅は相続なきをもって一切空なり。 業より報を成らしめること一切なし。 この妄念こそ無明なり。 これより離れたるを涅槃寂静。 大自然(だいじねん)は大慈・大悲なり。 これにて調えばよろし。 わたしは官休庵にていつでも茶を用意しておりますから、 お越しの折は、くれぐれも土産などを持参うえ門戸を叩いてくだされ。 いつでも問いには答えまふ。
656 :
名無しさん@3周年 :2006/11/29(水) 11:49:57 ID:sBXVc92l
あ〜あw 出禁バカが毎度の外道宣言ついでにクレーム送付先の一方まで吐いちまいやがったwww 官休庵、「 官 休 庵 」だとよwwww…
657 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/29(水) 12:24:38 ID:GQ9ihy1U
>>650 読解力学習能力ともに外道壁蝨並に皆無であることが露呈しておりますことで(失笑)。
658 :
名無しさん@3周年 :2006/11/29(水) 12:33:12 ID:mqPzjSVg
>>652 屈強な力士の腕を曲げ伸ばしするほどのわずかな時間で、ブッダがある場所から別の場所に移動した、
みたいな表現をを岩波文庫のブッダのことばシリーズのどれかで読んだ気がしますが、
今手元に本がないのではっきりとはわかりません。
移動手段の説明を省くためにそう書いただけなのかなぁ?
ブッダの神通力について、皆さんどう考えますか?
659 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/29(水) 12:42:01 ID:GQ9ihy1U
物理的実在を前提に三有・三界を捉える愚からいい加減離れましょう。
湯のけむり 庵に撓むる もみじ一葉 <机龍之介・官休庵にて> 花押
661 :
名無しさん@3周年 :2006/11/29(水) 13:20:22 ID:sBXVc92l
出禁バカ 知らぬがホトケ 笑い物www
>>658 2500年を経過している現代においては、釈尊に何があったか?
そういうことは、見証は不可能です。
もしかしたら釈尊は、空を飛んだかもしれませんね?
しかも相当な早さで。
で、そういうことがあったかもしれんけど、
あっても、なくても、あまり現代においては意味はないかと思います。
空を見上げれば、人は飛んで異国の地に逝く時代ですから。
(こんなことは、昔の人は想像もできんかったでしょうね?)
でもやはり、人間というのは空想はするもんです。
輪廻転生も、業報輪廻も、空飛ぶ釈尊も、空想においては同じです。
我々は、空想といふ虚構において逝きておるんかもしれません。
そういう示唆を与えておるのが、
いわゆる「岩波文庫のブッダのことばシリーズ」かと思いまふ。
・・・・全力で突っ込んでいいですか? >いわゆる「岩波文庫のブッダのことばシリーズ」 ち ゃ ん と 読 ん だ の か ?
わたすはね、読まなくても、何が書いてあるくらいなことは、チャンと分るんですよ。 そのくらいなことが分らんで、彼岸云々とか・・・ そういう書き込みは出来んでしょ? 文意だけ解釈すれがよきこと。 他にあらざるなり。
>読まなくても、何が書いてあるくらいなことは、チャンと分るんですよ。 もうダメだ・・・ これ以上机さんにレスってると、オレ、脳が死んじゃう。。。 樹海逝ってきま 再生するまで気長に待ってて>まともな住民一同
666 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/29(水) 18:17:01 ID:GQ9ihy1U
>>665 > 再生するまで気長に待ってて>まともな住民一同
了解です。
以後、片言隻句も解し能わぬ外道壁蝨への手出しは無用に願います。
>これ以上机さんにレスってると、オレ、脳が死んじゃう。。。 お、いい線行ってるじゃないですかw 戯論寂滅まであと少しです。
668 :
学習障害児 :2006/11/29(水) 18:21:24 ID:Vqyx++HM
>>666 お経読みのお経知らずとは、阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQのことでっか?www
669 :
学習障害児 :2006/11/29(水) 18:28:52 ID:Vqyx++HM
>>666 カール・マルクス:フォイエルバッハ テーゼ
<その第6テーゼの一部分>
「フォイエルバッハは、宗教的本質を人間的本質に解消する。
しかし、人間的本質は、個々の個人に内在するいかなる抽象物でもない。
人間的本質は、その現実性においては、社会的諸関係の総体である」
<第7テーゼ>
「したがって、フォイエルバッハは、『宗教的心情』そのものが一つの社会的所産であること、
そして彼が分析しだす抽象的個人が、現実には特定の社会形態にぞくしていることをみない」
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQはんにはなんのこっちゃ解らんやろな。
670 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/29(水) 18:35:37 ID:GQ9ihy1U
スレ違いの駄弁を幾ら並べ立てても癡悩破綻症状は一向に快方に向かわんのだが(失笑)。 外道壁蝨と同様に場所塞ぎなだけ。資源の無駄遣いそのもの(冷笑)。
671 :
学習障害児 :2006/11/29(水) 18:47:50 ID:Vqyx++HM
社会的諸関係の総体⇒社会的且つ歴史的諸関係の総体が正しい。
机はんも
>>654 なんかで落ちを着けてる場合でっか?
輪廻はともかく『業』を実存的個人の問題を超えて、「類」としての
人類生命を考える方向性をもてば、簡単に調う訳がないですよ。
正直私は迷ってますよ。
最終兵器としての核、イスラムVSキリストの歴史的宗教的憎悪、
社会的格差の固定化傾向etc 類的業としかいい様がないような・・
逆に、業と輪廻論が支配階級の民衆への諦観インチキ道徳を教え、支配体制
強化への階級的機能を果たしていた事に対するまともな徹底的自己批判
がない連中が多すぎる。
672 :
学習障害児 :2006/11/29(水) 19:08:09 ID:Vqyx++HM
人間的本質は、その現実性においては、社会⇒縁起的諸関係の総体である したがって、無自性=空と規定できる、とも読める。弁証法だ。
無明とは、無常を常住と、非我を我と、苦を楽と、不浄を清浄とする、 四つの顛倒せる見解を本性とする誤解である。これにより渇愛も生じる。(モークシャーカラグプタ)
>生涯学習児 か〜る君の主張をパラフレーズ 人間の本質とは、個人の内にある<抽象的なもの>ではない。/もっと具体的、物質的なものだ。 それは、社会的な関係の全体である。/社会的な関係とは、主に資本家と労働者の間にある 搾取し搾取されるという関係を指すと思われる。 宗教心は、社会的に出来上がったものである。/社会の要請やありようを離れては出来ていない。 個人は、特定の社会のありようの中に属している。/社会的・歴史的な現状から自由ではない。 一見ご尤もな意見ですが、なにか欠けてる気も。 これのせいで、キリング・フィールドとか、将軍さまマンセーとかになっちゃったんだけど。。。 その辺は、どうなの?
675 :
横山やっさん :2006/11/29(水) 23:52:55 ID:j+KwqFrf
「世界は一家、人類は皆兄弟。(当然 家長は俺様どぅわ)」 の笹川良一に敬礼!
676 :
名無しさん@3周年 :2006/11/30(木) 00:25:40 ID:VoumCVwk
『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤII』(中村元訳) 第VI篇第一章第五節より 「そこで尊師は、その梵天が心の中で考えていることを知って、 譬えば力のある男が屈した腕を伸ばし、また腕を屈するように、 ジェータ林のなかで姿を隠し、その梵天の世界に姿を現した。」
>>671 >輪廻はともかく『業』を実存的個人の問題を超えて、「類」としての
>人類生命を考える方向性をもてば
これもまた、社会的形態における所産となるわけで、
ようは、視座の違いが多様の論理構築を展開するのがいい例です。
つまり対立と捉えるマルクスも、それはそれででいいわけです。
また、逆に観念論もいいでしょう。
なんでも間違いじゃない。
これを、いわゆる世俗諦としたところが佛教の特徴かと思います。
つまり佛教とは、マルクスも観念論も含有する法門と、
さように言うても宜しいかと思います。
これは相対性理論をバックボーンに見据えると分りやすい。
心経においては、俗諦から空諦へ〜そこから還滅というふうに記述してあるところを鑑みなされば、
こういうことは既に分っておったんですね。
まあ、つまり、人類永遠のテーマにおける完結偏こそ、
じつに短い経典である心経に書いておったのですよ。
まあこういうことは、心経を解せる人なら、ここに到達するのかと思いますね。
この場合は、もう既に経典とか論書とか、そういうのも焼き捨ててよくなります。
まあ、悟った後に経典を焼き捨てた御仁は、
大体が悟った者かと拝して宜しいかと思います。
>>672 だんだん、分ってきておるようですね(^。^)
679 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/30(木) 15:45:01 ID:ziGcYZ/o
>>674 そのパラフレーズの如き戯論、夏炉冬扇イデオロギーのシンパは後を絶ちませんな(苦笑)。
畳の下の古新聞以下の役立たずです(笑)。
680 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/30(木) 15:57:32 ID:ziGcYZ/o
>>673 と類似の教説を原始佛典より。
バカ(Baka)バラモン(梵天)は無明にとらわれている。なぜならば、無常なるものを
常であるといい、恒常でないものを恒常であるといい、常住でないものを常住であ
るといい、変易の法を不変の法といい、衰え老い萎み消え生ずるものを、衰えず
老いず萎まず消えず生じないというからである。 『サンユッタニカーヤ』6・1・4
云何んが無明と為す。無知は是れ無明なり。云何んが無知なるや。謂わく、眼の無
常如実に知らず、是れを無知と名づく。眼の生滅法を如実に知らず、是れを無知と
名づく。耳鼻舌身意も亦た是の如し。 『雑阿含経』9(251)
四聖諦の説かれるもの。
苦しみに関して知らないこと、苦しみの生起に関して知らないこと、苦しみの止滅に
関して知らないこと、苦しみの止滅へ導く道を知らないこと、これが「無明」と呼ばれ
るのである。 『マッジマニカーヤ』vol.1
>>672 > 人間的本質は、その現実性においては、社会⇒縁起的諸関係の総体である
人間的本質は、社会における一形態である。とも言えるし
社会とは、人間的本質における一形態である。とも言える。
つまり、どうにでも言えるわけです。
論理的には間違いじゃない。
それは何故かというと、論理とは矛盾を内在しつつその構築をなす。
というのが、その前程としてある。
ということです。
まあ、ここまで達観してまいりますと、
釈尊言説に近くなるかと思う。
682 :
草レーサー :2006/11/30(木) 18:57:18 ID:vV8D1Ut3
最初期の仏教は、他の宗教とも対立するものではなかったという。 覚者の教えであったのだから当然と言えば当然かもしれないが。 最初に仏教教団を分裂させたのは、ダイバダッタなのだろうけど、 経典からはダイバダッタへの激しい憎悪が覗えてくる。 しかしながら、ダイバ衆はかなりの後代まで存続していたことが わかっています。 それは、ゴータマブッダの権威を認めない仏教なんですね。 仏教には最初期からこういう性格があったのだろう。
高僧法顯傳
ttp://w3.cbeta.org/result/normal/T51/2085_001.htm T51n2085_p0861a13(07)?調達亦有衆在常供養過去三佛。唯不供養釋迦文佛。
調達(=提婆達多)もまた衆あるあり、常に過去の三仏を供養す。ただ釈迦文仏をのみ供養せず。
大唐西域記卷第十
ttp://w3.cbeta.org/result/normal/T51/2087_010.htm T51n2087_p0928a23(06)?別有三伽藍不食乳酪。遵提婆達多遺訓也。
別に三つの伽藍あり、乳酪を食せず。提婆達多の遺訓にしたがふなり。
これでしょう? でも、どうなんですかね。ずっと続いていたと見るべきなのか。
それとも、経典中の提婆達多に関する記述に基づいて、
それに倣う者が時々現れた、ということなのか。なにせ、直前の記述がこれですから。
「学芸を好み尚び、邪正 兼ねて信ず。
伽藍 十余所、僧徒 二千余人、小乗 正量部の法を習学す。
天祠 五十余所 異道まことに多し。」
経済的に豊かで、諸説紛々、百花繚乱、といった感じだったのではないでしょうか。
684 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/30(木) 20:49:29 ID:ziGcYZ/o
>>682 先ず考察して押さえるべきなのは、釈尊とデーヴァダッタとの思想的前提の決定的分岐についてなんですけど。
685 :
学習障害者 :2006/11/30(木) 23:34:21 ID:goVjlbX6
>>674 >なにか欠けてる気も。
だからこそブッダに教えを請うて、ほとんど叩きのめされているわけで・・・
ポル=ポトにしても金正日にしても『マルクスの』マルクス主義とは反対極です。
金は反マルクス・スターリン主義の形骸残滓ですし、ポは社会・経済的条件を無視
して原始共産主義を強行しようとする、むしろ歪曲された原始仏教心情が根底にあった
と考えます。むしろ心情的にはオウムに近い。爆弾発言かもしれませんが、あえて叩き台として
提出します。「ミリンダ王の問い」がポイントでしょうか。まだ考え抜けてはいませんが。
人類のあらゆる民族・国家がジェノサイドの経験をもっています,だから⇒
>>671 指標とすべきはブッダとアナーキズムかもしれません。
686 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/11/30(木) 23:47:15 ID:ziGcYZ/o
夏炉冬扇の心情サヨクが必死にブッダに取り縋ろうとしても肩透かしを喰らい続けるだけなんだがね(嗤)。
688 :
学習障害者 :2006/11/30(木) 23:57:12 ID:goVjlbX6
こころ優しい真正なアナーキストの唄を聴いてやってくれ イマジン 〜ジョン・レノン〜 BGM(Imagine) Imagine 〜John Lennon〜 BGM(Imagine) 想像してみて、天国はないって Imagine there's no heaven やれば簡単だよ it's easy if you try 足元に地獄はなく no hell below us 頭上には空だけ above up only sky 想像してみて、みんなが imagine all the people 今日のために生きてるって living for today... 想像してみて、国は存在しないって Imagine there's no countries 難しくないよ it isn't hard to do そのために殺したり死ぬことないよ nothing to kill or die for 宗教もない no religion too 想像してみて、平和な人生を imagine life in peace...
689 :
学習障害者 :2006/11/30(木) 23:58:15 ID:goVjlbX6
(続き) 想像してみて、財産はないって Imagine no possessions できるかな I wonder if you can 欲張りや飢えは必要ない no need for greed or hunger 人はみな兄弟 a brotherhood of man 想像してみて、みんなが Imagine all the people 全世界を共有しているって sharing all the world... 僕が夢を見てるって思うかな you may say I'm a dreamer でも僕ひとりだけじゃない but I'm not the only one いつか君たちも一緒になって I hope someday you'll join us 世界がひとつになってほしい and the world will be as one
139 転載 sage New! 2006/12/01(金) 00:00:15 ID:j0MK1s52 31 名前:疑問[] 投稿日:2006/11/30(木) 21:12:39 ID:6dnmU7H2 疑問なんだが仏教は出家をして布施で生きるとしたら、世の中みんな仏教徒になって出家してしまったら 子供は出来ず、人類は滅びてしまうんじゃないのか。そうすると仏教は人類滅亡の教えと言うことにならないか。 二つに出家をして戒律を守り修行をした者が悟りをひらき救われて在家で戒律は守れず修行も出来ない者は救われない のかどうか。その在家が出家者に布施をしてるんだろ。在家の救いはどうなる。 三つに生き物の殺しはどう考えればいいのか。仏教は生き物の命を殺すなというけど それじゃどうやって生きるのか。出家の僧は生き物を殺さないといっておきながら、在家が殺した生き物や穀物をもらって しっかり食べて自分は命をつないでるだろ。それじゃ生き物を殺し食べたり布施をした在家が地獄に行くのなら、出家者は罪を在家に 押しつけていることにならないか。
691 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/01(金) 00:07:36 ID:f9ZIwKJx
オカルトニューエイジカルトのアンセム(讃歌)として「聖化」されてる外道小唄はスレ違い(嗤)。
692 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/01(金) 00:20:19 ID:f9ZIwKJx
>>690 「害毒スレ」相応の設問だことで・・・(笑)。
↓でも読んでみてくれろ。
『仏教者たちはこうして修行した−わたくしの釈尊論−』(『浄土宗選書16』、浄土宗出版室)
「(社会・経済的条件を無視した)原始共産主義」というものと 「(歪曲された)原始仏教心情」をわざわざ結び付ける必要はないと思うけど、つまり、 原始仏教と原始共産主義(という仮定が歴史的実態をいかほど反映したものか分からないが) が同じことを志向したとは到底思えないけど、 そのこととは別に、ソレル流の「暴力論」にむしろ本質があるのでは? アナーキズムも興味深い思想だけど、19世紀のテロリズムへの傾斜を見ても、 やはり「急進」「政治」思想である限り、常に強硬な反論に出会い、そして、 それへの過剰な反作用として、暴力の無制限使用という陥穽は免れ得ない、と思います。
694 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/01(金) 01:28:34 ID:f9ZIwKJx
アナーキズムからロマン主義的戯論を一掃した、リバタニアリズム乃至アナルコキャピタリズムなら実用可能性を 主張できるかもしれないが、いずれにしてもスレ違い。
695 :
ジョン・小野・レノンと仏教 :2006/12/01(金) 03:12:15 ID:TIAuHtUQ
スレ違いで、誠に恐縮ではございますけども(しかも、ホスト様でいらっしゃるようで・・) ジョン・小野・レノンの「Imagine」は、我田引水で狂惨さんやオカルトニューエイジおカルちゃん達が 勝手に「わが主張ぞっ!」と利用(悪用)してるだけであって White Houseに睨まれるまでの“あまのじゃく・ジョン”の本領発揮のブラック・ユーモア曲ですから。w いえ、あと1週間ほどの12月9日(日本時間)の悲劇的な命日が近づいてなければ、レスしなかったんですが。(^^; お詫びと言ってはなんですが一応、ジョン・レノンと佛教でよく(強引に!?)出来てるHPありましたので よろしければ、どうぞ。(多々、ツッコミどころもおありかとは存じますがw 管理人さんじゃないし、お後はしかるべき板→ビートルズ板とかでして頂ければ。(笑) どうも、失礼致しました。 www.geocities.jp/thebeatlescometogether/lennon-ism/page1/chap.2.html
ジョン・レノンの青春期というのは、ちょうどベトナム戦争の真っ盛りでして、 反戦に影響受けて、ヒッピー文化というのが興隆してきた。 ビートルズもやはりそういう文化の頂点をなす、いわゆる若者文化の象徴でしたから、 レノンの総括というのが、あのイマジンなのかとおもいますね。 本質的には、ヒッピーはノンポリ・ノンセクトですから、反戦でもなんでもない。 その頃、新宿の東口にはゴロゴロたむろしていたんですよ。 勿論、市民権を得て商店街は歓迎してくれたw (今のニートとは、かなり共通性があっても、そこが違う) 渋谷商店街では、ヒッピーの誘致まで真剣に考えていたんですから。 そういう時代だったんですね。 で、レノンはアナーキストだったのですか? 私は、そういうことは全く知りません。
697 :
学習障害者 :2006/12/01(金) 08:23:20 ID:P5ovQcJJ
>>694 仕事の前に、一言だけ。
スレ違いではない。
なぜなら、ゴータマブッダやイエス・キリストこそ真のアナーキストだからだ。
も一度
>>668 を
>お経読みのお経知らずとは、阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQのことでっか?www
>>697 テンプレぐらい読みましょう。
>アーガマ(漢訳阿含經典など)やニカーヤ(パーリ佛典)に説かれている教法や教理
>を中心に、様々な議論を重ねて行けたらと思います。
明らかにスレ違いです。
ゴータマの行政府に対するスタンスについて語りたいのならば、政治思
想板でスレを立ててやりなされば宜しい。
699 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/01(金) 09:39:43 ID:kgjr/Qcs
はいはい(嗤)。 学習能力皆無の足切り厨房は以後あぼ〜ん(冷笑)。 何処ぞあやしてもらえる板なり場なりを捜すように。
700
説一切有部の四大論師の一人、覚天の「待の不同」説というものがある。
これは、「三世実有、法体恒有」を言うに於いて、過去の法(もの)と言い、現在の法と言う、
その言い分ける違い(不同)の基準は何か、に対する答案の一つだが、
これが龍樹の「縁起」観に似ている。影響を与えたのかも知れない。
祖母・娘・孫娘という三代にわたる女性「A‐B‐C」がいたとして、
Bは、Aにとっては娘であるが、またCにとっては母でもある。
円暉の倶舎論頌疏では、相互観待の「観待」という語を用いている。
大毘婆沙論77
ttp://w3.cbeta.org/result/normal/T27/1545_077.htm 説一切有部 有四大論師。各別建立 二世有異。尊者覺天 説待有異。
説待異者。彼謂「諸法 於世轉時 前後相待 立名有異。
如一女人 待母名女 待女名母。體雖無別 由待有異 得女母名。
如是諸法 待後名過去。待前名未來。倶待名現在。」
倶舍論頌疏1
ttp://w3.cbeta.org/result/normal/T41/1823_001.htm 言待者。尊者覺天 説待不同。
三世有異。待謂觀待。前觀於後。名為過去。
後觀於前。名為未來。觀待前後。名為現在。
如一女人。名女名母。觀母名女。觀女名母。
parasparApekSA
paras-para -- each other, mutually 相互
apekSA -- regard to (in comp.); dependence on 観待
衆賢「順正理論」巻25 弁縁起品 依此有「彼有」、此生故「彼生」 此れあるに依って彼あり、此れ生ずる故に彼生ず。 言「彼生」者、未來果生 彼生ずといふは、未来の果生ずるなり。 「彼有」者・・・有現生果 彼ありとは、現生の果あるなり。 ここでは、縁起の定型句のうち、結果としての 「あり」を現在のこと、 「生ず」を未来のこと、 と区別して解釈しているようだ。
703 :
学習障害者 :2006/12/01(金) 23:57:11 ID:P5ovQcJJ
140〜150年前、法律学で法典の形式論理的解釈・運用を専ら重視する
主流派を「概念法学」と規定して、自由法論を起こしたイェーリングと
いう一派がいた。そのお陰で今日生きた法律学が追求されている。
それに比べりゃ、今日の仏教主流派なんて所詮「概念仏教学」の
レベルなんだ。アホな教条主義丸出しだな。死んだ仏教学だ。
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQのような、お経(ことば)読みのお経(ほんとう)知らず
が溢れている。
真実を知るためには、周辺の社会学・歴史学・・・辞めとこう。
だから、所詮葬式サービス仏教屋なんだ。
経典をその当時の思惑いっぱいで書きまとめた連中も「社会的・歴史的諸関係の総体」にしか
過ぎず、歴史的相対的な存在でしかない。「縁」ってくるファクターを解明せず、「起」った
字面ばかりを追いかける。
ここからは戦略的意味さえ理解できない。こんなものか・・・・
せいぜい字面を追いかけていてください。
>>693 ソレルは面白いですね。アナーキズムについては体制的な刷り込みが効いている
みたいですね。固定妄想は捨てましょう。
704 :
学習障害者 :2006/12/02(土) 00:04:46 ID:tmN8RG+S
>>698 アーガマ(漢訳阿含經典など)やニカーヤ(パーリ佛典)に説かれている教法や教理の背後にある
ブッダの思想の今日的意義を考えることは大事な「様々な議論」だよ。
スタンスの違いが判らないのかねえ。まさに「概念仏教」徒だな。狭量なこと。
705 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/02(土) 00:52:37 ID:rIBGr9MQ
蟲喰い壁蝨は夜中にも出没するようになったのか(失笑)。
706 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/02(土) 01:12:37 ID:rIBGr9MQ
>>702 縁起説を、時間乃至空間の実体視もしくは実念論的前提に基づいて解釈する向きがありますが、これ
が誤謬の出発点であると考えます。
707 :
学習障害者 :2006/12/02(土) 06:54:11 ID:tmN8RG+S
>>706 そんなにえらそうに言うんであれば、
仏教の根幹であるブッダの「縁起説」の持つ歴史的、社会的、思想的、
戦略的意味を学問的に解明してみろよ。それが「縁」だろう。
それによってはじめて「起」の持つ意味が「闡明」されたといえる。
縁起弁証法なんだから当然だろう?
縁起説も歴史的・社会的諸関係の総体として縁起したものなのだからだ。
>>707 > 縁起説も歴史的・社会的諸関係の総体として縁起したものなのだからだ。
唯物史観&唯物弁証法におけるアプローチかと思いますが、
これを、まあ、例えばニュートン力学だとすると、
佛教というのは、相対性理論で考えたら分りやすい。
貴殿の逝ってることは、半分は正しい。
宗教的ドグマに犯された御仁よりは、よっぽどマトモかとは思うね。
佛教というのはある意味、ニーチェに通ずるところがあるくらいだから。
まあ、だけどこれは世俗諦の範疇でして、
これより勝義諦(彼岸)に到ると、全くもってマルクスとは根本的に違ってくる。
でも懐かしい。
わたすはあの頃、こういう語らいを新宿西口地下通路にて、
リーマンや学生らと語りあったのです。
オルグとか、なんとか言うんですけどね。
(こういうことは経験がないんだろうな?)
709 :
707学習障害者 :2006/12/02(土) 07:23:49 ID:tmN8RG+S
× 「闡明」されたといえる。 〇 グラデーションを伴って「闡明」され得るといえる。 こういうのが「中道」としての態度だと思いますがネ。
>>702 自性における縁起と、無自性における縁起は、
全く意味が違ってきますよね。
釈尊の悟った「中道」の脈絡が、説一切有部にはない。
>此れあるに依って彼あり、此れ生ずる故に彼生ず。
光ありて闇あり、光生ずる故に闇生ず。という意味かと思いますね。
711 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/02(土) 10:39:29 ID:rIBGr9MQ
>>706 続き。
ともすれば陥りがちな、循環論・複問虚偽・不当前提などに基づく諸種の誤謬を
破棄却下し排除していく道程にこそ佛教の説く「中道」は見出され得るのです。
これはアーガマ文献の其処此処に記されるブッダの教説から容易に抽出され帰
結されることです。
あぼ〜ん処理済みの外道壁蝨・足切り厨房の蟲喰い駄弁がアーガマ乃至ブッダの
全く関知せぬものであるのは明らかです。
712 :
名無しさん@3周年 :2006/12/02(土) 11:15:32 ID:o4ZgX7d8
出禁バカ 閉めた戸越しに 笑われてwww
説一切有部のスキルでは、まったくもって悟入にも到らんですよ。 ましてや中道など、彼方の法になりてそうらん節。
714 :
名無しさん@3周年 :2006/12/02(土) 11:41:13 ID:o4ZgX7d8
出禁バカ 周りはヘソで 茶を沸かしwww
715 :
名無しさん@3周年 :2006/12/02(土) 11:43:43 ID:o4ZgX7d8
笑われた 挙げ句にクビの 出禁バカwww
716 :
学習障害者 :2006/12/02(土) 12:08:22 ID:tmN8RG+S
>>711 「形式概念仏教」徒=阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ の面目躍如の文言だなwwww
悟りを求める人間が
>あぼ〜ん処理済みの外道壁蝨・足切り厨房の蟲喰い駄弁
なんてセリフを吐くのかねえ。
717 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/02(土) 12:23:59 ID:rIBGr9MQ
足切り壁蝨共が必死に蟲喰いを作って粘着しようとも、とっくに破棄却下・帰謬されて門前払いされている ことに毫も変わりはない(冷笑)。
>>690 今の時代背景と、2500年前の時代は全く違うと思っていいかとおもう。
そういう理由により、これを論考するには多大なエネルギーを必要とする。
例えば「地獄絵図」などは、視覚から入る情報なので、
時の時代背景からして充分に説得力があったこともあるんだろうね。
(教育水準が違いますから)
「釈尊が空を飛ぶ」って話も、いわゆる民話とか伝説の類で、
話がどんどん大きくなって、しまいにはスーパースターになって逝く。
ってのは、昔も今も変わらんから、
こういのは、私は理解できるんですよ。
お伽話風で、こういうのは私は好きです。
日本的に言うたら粋とかいうんですかね。
やはり、どこのお人もロマンティックだったのですね。
ごたーまぶたー じざーすくらいっと
>>703 仏教と法学を一対にして比較することへの根本的疑問が一個ありますが、それは置いといて。
国家神道ないし神社神道への評価も、一応開陳して逝ってください。キリスト教は・・・結構です。
こちらも「葬式サービス仏教屋」に連座して「結婚式サービス神道屋」ってことになっちゃうんですか?
>>563 で引用した、葦束の比喩で「因果同時」(空間的因果関係)を説いた原始仏典が分かりました。
阿支羅迦葉經での上例のように、雜阿含經なので異訳があるかも知れませんが。
なお、舍利弗は問者の側でした。
ttp://www.cbeta.org/result/normal/T02/0099_012.htm 雜阿含經卷第十二(二八八)
尊者舍利弗 復問。「尊者摩訶拘[糸希]羅。
先言 名色 非<自作>.非<他作>.非<自他作>.非<非自他作無因作>。然 彼名色 縁識生。
而今復言 名色縁識。此義云何。」
尊者摩訶拘[糸希]羅 答言。「今當説譬。如智者 因譬得解。
譬如三蘆 立於空地。展轉相依 而得豎立。
若去其一 二亦不立。若去其二 一亦不立。展轉相依 而得豎立。
識縁名色 亦復如是。展轉相依 而得生長。」
−−−原始仏教の縁起に関する諸論文のいくつか > 山本敬量,原始仏教の縁起観と解脱涅槃,印仏研 28の2,仏教思想・文献,1980 > 松田和信,縁起にかんする『雑阿含』の三経典,仏教研究 14,仏教思想・文献,1984 > 藤田正浩,原始仏教における縁起と一切法,印仏研 33の1,仏教思想・文献,1984 > 平川彰,縁起思想の源流,仏教思想の諸問題,仏教思想・文献,1985 > 竹村淳,原始仏教における縁起説の構造,竜大大学院研究紀要 人文科学 8,仏教思想・文献,1986 > 舟橋智哉,九支縁起の成立,パーリ学仏教文化学 11,仏教思想・文献,1997 > 仲宗根充修,十支縁起説の成立について―四食説および識住説との関連から―,仏教思想・文献,印度学仏教学研究51の1,2002 > 仲宗根充修,十支縁起説について―四食説および識住説との関連から―,仏教思想・文献,印度学仏教学研究51の1,2002 > 服部弘瑞,原始仏教に於ける十二縁起の問題〜十二縁起に欠落している言外の部分の考察〜,印仏研50-1,仏教思想・文献,2001 −−−とくに十二縁起についての連載 > 橋浦寛照,十二縁起について,印仏研 31の1,仏教思想・文献,1982 > 橋浦寛照,十二縁起について(二),印仏研 32の1,仏教思想・文献,1983 > 橋浦寛照,十二縁起について−3−,印仏研 33の1,仏教思想・文献,1984 > 橋浦寛照,十二縁起について−4−,印仏研 35の1,仏教思想・文献,1986 −−−その後の歴史 > 梶山雄一,インド仏教における縁起説の発展,教化研究(真宗大谷派教学研究所) 106,仏教思想・文献,1991 > 中島憲雄,阿毘達磨論書における十二縁起説の教理と変遷,竜谷大学大学院文学研究科紀要22,仏教思想・文献,2000 −−−その他、興味深いタイトルの諸論文 > 真田康道,仏教的時間と科学的時間の考察(3)―(1)とくに縁起の時間性について―,文学部論集(仏教大学学会)78,補遺,1994 > 定方晟,縁起をめぐる四つのメモ,仏教思想の諸問題,仏教思想・文献,1985 > 吉田収,縁起の新解釈と新展開,パーリ学仏教文化学 11,仏教思想・文献,1997 > 室寺義仁,縁起と「滅」ー阿難と舎利弗の末裔たちー,高野山大学論叢34,仏教思想・文献,1998
空間と時間というのは、先ず不可分であることを念頭に入れるべきかと思う。 そのうえで、 縁起においても佛教史においては、いろんな意味に使われてきたことが一つの混乱なるやに思う。 十二縁起は俗諦としての意を有しており、時間概念にける連鎖手法は非常に初歩的な説明です。 というか、 釈尊入滅後に、後世において事細かく解釈したに過ぎない。 ということを、先ずアタマに入れねばならんでしょう。 空諦においては、縁起の意味は全く違ってきます。 それは、縁起は五蘊を離れてあるのではなく、 五蘊そのものが縁起なるゆえ、ゆえに不可分なり。 <机龍之介・花押>
なんやかんや言ってもてめぃらはエロサイトを観てんだろ!!?
4775.(untitled) 名前:よーこ 日付:11月30日(木) 0時25分 真光隊の制服は粗悪品です。すぐにほころびる、破れる北朝鮮以外では商品にならない。 超安物を高く売って儲けているの?スの神様? スカートorズボン。薄い生地に色がクリーム色、透けて下着の柄が見える。 救い主がデザインしたと聞きましたが、スケベ心のせい? これは、幹部が「真光隊女子に恥じらいを持ってほしいからだ」といっていたが・・ ・・と言うことは下着を見せろって事?
A。三世実有法体恒有、一切有 B。相互観待たる縁生法は無自性、無自性空、一切皆空 これを和らげると、 A。過去・未来・現在の三時にわたって変化せず、他から影響を受けない「ものの本体」が、 常に、ものの本質として内在している。 こういう、概念は実在している、とする説を実念論と言う。 具体的に説明してみよう。「物は変わりゆく(諸行無常)」というブッダの言葉を考えるとき、 「たしかに物、たとえばマンゴー樹は衰え滅してゆくが、マンゴー樹と呼び続けるからには、 「マンゴー樹」の本質は、不変で他から影響をこうむらない、実在のものなのであろう」と。 B。もの(縁生法)は、互いに相手があるのを受けてこそ成り立っている(相互観待)のであるから、 「常住不変の本体」なるものがあるとは言えない(無自性)。だから空である(無自性空)。 こういう見方を唯名論と言う。概念は、ただ名(なまえ、ことば)に過ぎない、と見る。 阿含経の(有力な)一解釈であった「法体」常住説(A)に対し、 「法は空なり」(B)と唱えたものである。 ものの性質を<時空を超越して実在する本体>ととらえることの否定。
727 :
学習障害者 :2006/12/02(土) 23:54:40 ID:tmN8RG+S
>>717 こら阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ よ、皆が勝手に書き加えて混乱してるぞ。無能な奴だな。
映画アマデウスなら、ヨゼフ二世に“4重唱、5重唱、6重唱・・どこまで行くのでしょう?
小説なら大混乱、音楽ならそこからハーモニーが生まれるのです!”と言えよ。
おい、アホでも捌けよ。
般若湯は美味い。けっこう出来上がってます。
そしてRogers LS3/5a+QUAD(44+405)+Meridian508.24という小粋ないステムで聴く
マレのヴィオール曲集(サバール/コープマン・・)はほんまにエエな。
また明日。今日はあたしは使い物になりまへん。
728 :
名無しさん@3周年 :2006/12/03(日) 02:45:08 ID:PUvC0r09
今日も
>>726 >「マンゴー樹」の本質は、不変で他から影響をこうむらない、実在のものなのであろう」と。
これは観念論ですから、非常にレベルは低いですね。
この対極が唯物論。
双方とも極論です。
で、佛教は一如の法門なるゆえ、こういうベクトルそのものがない訳です。
AとBの比較検討というのなら、非常にいいタタキ台かと思います。
原始佛教を語ちるなら、是非とも釈尊の本懐にまで到って頂きたいですね。
そうじゃないと、勿体無いじゃないですか?
勉学にいそしんでいるだけで、メクラのまんまじゃ、
なんのために勉学してるのか分らんじゃないですか?
死ぬまでメクラでいい。
ってんなら、話は別ですがね)^o^(
730 :
草レーサー :2006/12/03(日) 09:42:08 ID:BU5wfIv9
>>684 阿呆陀羅さんレスどうも。
>釈尊とデーバダッタとの思想的前提での決定的分岐について
ゴータマブッダは戒律や教団としての制度にはあまり頓着しな
かったのに対し、デーバダッタは厳格に拘っていた。
釈尊という人は物事をハッキリと決めて発言するのを、できるだ
け控えようとしていたようにも思えてくるのです。
(布施などの招待を受けての回答にも無言の返答をしていたり)
そして更に、釈尊は自分が修行僧の集団を導いていくという自覚
もあまりなかったのではないか?
うら覚えで出典を明確にできず恐縮ですが、どこかで見ました。
しかし教団としての体裁や秩序を保つためには、制度というもの
が確り整っていないと混乱や葛藤を生む温床にもなってきます。
釈尊は、心の問題や修行に重きを置いていたのに対して、デーバ
ダッタは教団の維持や発展を重視していたのではないでしょうか。
そこから分岐が生じていったのかなどと想像してます。
光明は真っ暗闇ほどよく輝くものである。 分派は必定なれど真理を明確するうえでは絶好なのである。
732 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/03(日) 15:17:16 ID:u8RtxTCC
>>720 かような話題は、質問スレもしくは害毒スレ(笑)に相応しいものでしょう。
いずれにせよ、ここでやるのはお門違いです。
>>730 デーヴァダッタの五事の思想的背景について考えましたか?
アーガマ文献に記される釈尊の言動は、常に明晰明瞭明解で曖昧模糊の対極といえ
るものです。
733 :
名無しさん@3周年 :2006/12/03(日) 15:53:30 ID:Un+NOI9R
電波先生はお元気なんでしょうか?
734 :
学習障害者 :2006/12/03(日) 17:01:06 ID:l5UzdFsu
>>720 >国家神道ないし神社神道への評価も、一応開陳して逝ってください。
あなたは、難しいことをサラリと問いますね、怖ろしい。
「日本人とは何か、日本人の歴史的精神形成とは何か」と問うのと同じですよ。
生存への怖れとアミニズム、多神教的弱さといい加減さ、“触らぬ神に祟りなし”・・
国家神道(明治〜昭和前期)は異常且つ狂気です。天皇は日本人にとって
機能的には無力な権威バッファーとして、現憲法の象徴性が正常でしょう。
聖徳太子が日本人にとって最大のキーマンなのでしょう。
この点につき「日本人は思想したか」(吉本、中沢、梅原:新潮文庫)がその後の推移を
考えても抜群に面白いよ。
これ以上は阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ が発狂すると可哀想なのでやめときます。
>循環論・複問虚偽・不当前提などに基づく諸種の誤謬を >破棄却下し排除していく これを忠実に実行すれば要するに観念なしに あるがままに見る ってことだな。 観念として特定しようとしたら曖昧模糊になるが、 あるがままに見るなら明晰明瞭明解。 要するに論理でもって論理の限界を示している。 観念論の終焉が戯論寂滅。
736 :
名無しさん@3周年 :2006/12/03(日) 17:13:47 ID:eDmpQRi2
>>736 は?大失敗ですか?裁判を勝利に導いたのですよ。
相当頭が悪いようですねあんたは。
息災そうでなにより
739 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/03(日) 17:31:40 ID:u8RtxTCC
落命王だの絶命王だのは出入り禁止(嗤)。
740 :
名無しさん@3周年 :2006/12/03(日) 17:37:18 ID:eDmpQRi2
>>737 裁判は、隠れ蓑。関係ない。
重要なのは、本当のことをはったりなく書くか、虚像を自演して護っているかだったんだから、
みごと自演がばれてもう終わり。よく、まだ書いてますな。
>>740 憶測での自演疑惑は興味なし。
もし自演と主張するのであれば、その明確な根拠を論理的に示すべし。
当該場所での馬鹿どもの宛て推量をコピペするなよ。
お前こそ名無しで何をいきがってるんだい?生きていて恥ずかしくないのかい?
某所では自称霊能者であるインチキペテン詐欺師の革命王を完全に駆逐しました。 私は何一つハッタリなど申しておりません。 私のカルト対策HPでご紹介申し上げている経歴にたいして革命王なるインチキ師が「嘘」「ハッタリ」だと言っていました。 この板の住人ならお笑い至極ですね。 裁判が隠れ蓑?隠れ蓑にしてボクがなにをしようとしたのでしょうか?何もありませんよ。 裁判では完全不利で敗訴確定だといわれていた被告に付いて勝訴へと導いただけです。
743 :
名無しさん@3周年 :2006/12/03(日) 18:08:48 ID:eDmpQRi2
>>741 おいおいID一致以上に明確な証拠なんてあるのかね。
論理的、論理的って一番非論理なのは君だろ。
頭もかなり悪いよ。なぜか重要なのは浅く広い知識なんじゃないんだ。
自分が何を知っていて何を知らないかを自覚し、間違いは認め、
敵対者でも正しいことや優れたことは称え、自分や味方でも間違いや劣ったことは
自覚、指摘して直さなければならないんだ。
こういったことができるのが普通の大人なんだよ。
そうでなければ恥ずべきなんですよ。お分かりか? まあ、分からないだろうが。
744 :
名無しさん@3周年 :2006/12/03(日) 18:21:15 ID:eDmpQRi2
何の隠れ蓑か? 自分でも自覚できてないのか? なんだか忘れたがオカ板で論争になっていたことで失言してことから逃れるためと、 ただ単に原告に中傷されたことに対する復讐であることを隠すためだろう。 被告が可哀想だからではない。途中から自分の中でも、そうすり替えているかもしれないが、 よく自分自身の心の動きを観察することだ、君の反応は実に単純だから、 褒められたり頼られたりすれば味方、貶されたり注意されると敵なんだから。
745 :
名無しさん@3周年 :2006/12/03(日) 18:27:16 ID:eDmpQRi2
経歴もハッタリだろう。 なぜか。出身校がしょぼくて書かれていないことと、論文数。 そして建築系では文系卒であることを明記してない。 これと論文数は、非常に問題だと思うが、ハッタリ以外の何なの?
746 :
学習障害者 :2006/12/03(日) 18:59:30 ID:l5UzdFsu
>>736 〜
>>745 邪魔だから場外で乱闘決闘して恋。
シッ、シッ あっち池。 邪魔だ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!
>>743 さて、頭の悪さ全快で来ましたか。
同じIDってか?ここは全く違う板であって、お前が言及するものではないというハクチ程度は置いておく。
同じIDになる現象として、
1 モデム無線LANのただ乗り
2 IP振分けの混雑による混同(yahooが多い)
があるのだけど、同じIDが誰であるか特定できないから言及を避けてきた。
すると、お前みたいなハクチが調子に乗って騒ぎ立ててきた。もし同一だとするのなら、確定的証拠を提示しろ。
また、同一であっても、あの内容にはこれと言って非難される内容は含まれていないはずだが?
ボクの発言であったとしても、自演する意味が全く無い発言だということ。
で、ボクが非論理的で浅く広い知識だ?ここの住人に笑われるよ。少なくともあんたより数万倍論理的で、知識も
お前より深く広いはず。そのような勘違いするお前はハクチなだけ。
>>744 立論の趣旨が小学生以下。意味不明になっている。やり直し。現実を見ろ。裁判は勝っている。
>>745 馬鹿かお前。経歴がハッタリだとよ>ALL
お前な、内容で勝負してこいや。腰抜けが!!
>>746 そいつとは場外で、例えば警察の道場で試合したいね。
そしてぼこぼこにする。プゲラ。
で、今話題になっている「我」と「わたしに」ついて始めましょうか。 「わたし」と言った場合、何を意味するのか、そして原始仏教の文脈では概念内容としてどうとらえるべきかを 考察したほうが本質に近づけると思います。
我=アートマン わたし=因縁の和合によって生じている現象
>>750 アートマンも当時は「わたし」と言うほどの意味で一般では使われていました。
アートマンとは呼吸という意味も見出すことが出来、
息をしているもの=生きているもの=わたし
と言う感覚ですね。ウパニシャッドで「わたしとは何か」が考察、分析、省察され、最後に残った「わたし」が実は梵と同じ性質を持つ
と言う意味になりました。そこに永遠普遍の実体性が認められ、ものごとの本質であるとされました。
ですから、出発のその時点では「我=わたし」で間違いは無く、文脈によって意味が変わってくることに注意しなくてはなりません。
752 :
学習障害者 :2006/12/03(日) 22:58:51 ID:l5UzdFsu
>>751 あんた、2〜3日してほとぼりが冷めてから、やって来なよ。
みんな、白けてんだよ。
真実のことばでも、出るタイミングと人格で真実性が変るんだよ。
とりあえず、消えなよ。今は目障りだ。
754 :
学習障害者 :2006/12/03(日) 23:21:42 ID:l5UzdFsu
>>753 おいらは学習障害だが、お前は人格障害だな (wwwwww・・・
勝負あり! お前の負け! 失せろ
>>754 失せるのはお前の方。仏教に関して、全くの無知ジャン。
756 :
学習障害者 :2006/12/03(日) 23:30:27 ID:l5UzdFsu
>>755 おいらは無知な人間だよ、それは認める。
頭でっかちでなければ、ニルヴァーナにいたれないのか?
清浄道のほうが大事ではないのかな?
>>756 あんたに清浄道が出来ているとは思えない。
理由1
以下のような言葉を根拠もなしに、真実も知らずに発言するから
あんた、2〜3日してほとぼりが冷めてから、やって来なよ。
みんな、白けてんだよ。
真実のことばでも、出るタイミングと人格で真実性が変るんだよ。
とりあえず、消えなよ。今は目障りだ。
ーーー
で、俺?清浄道なんて関係ないね。修羅道に生きているから。
涅槃に至らなくても結構。そんなところにのみ原始仏教を見ているのなら、このスレッドに来る必要は無い。
758 :
学習障害者 :2006/12/03(日) 23:38:00 ID:l5UzdFsu
>>757 だったら、もう問答無用だな。
どちらが真心のある「ほんとう」を言っているかは
このスレ参加者が判断されるだろう。
>>758 それではスレ参加者に判断してもらおう。
760 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/03(日) 23:51:52 ID:u8RtxTCC
>>759 無知(無恥)に居直る蒙昧愚物は足切り放置といたしましょう。
NGあぼ〜ん処理をお勧めいたします。
「わたし」とは何ぞや? 縁に依りて生起する。→これを縁起 逆に言うたら、縁なくば生起あらず。でありますから、 「わたし」とは、日常という連続性においてあるのではなく、 縁生・縁滅といふ非連続性において生じるだけである。 こういう理論というのは、自分でリアルで感得するのが一番いい訳です。 私はそういう場は官休庵とかありますが、 そういう場所がなくても、菩提心があればなんとか知恵もでるかと思う。 ようは、静かに瞑想に耽るもよし。 また、動中として作務なども宜しかろう。 己を知ることこそ第一義なり。 その位相こそ菩提心、ならびに空諦への道に候。 <机龍之介・花押>
明け方には、西の空に大きな満月が地平線すれすれに浮かんでましたね。 太古の人はこういう情景を見て、不滅の世界を思い馳せたのかと想像できます。 天文学の知識がなけりゃ〜、こういう光景というのは不思議だったかと思います。 原始佛教というのは、そういう時代のもんですから、 こういうことも、まあ、アタマに入れねばならんでしょうね。
763 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 09:17:07 ID:DpSD1boX
出禁バカ うわべは立てられ 爪はじきwww
764 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 10:05:08 ID:dsIG/mqC
「諸君、死を恐れるという事は、智慧がないのにあると思っていることにほかならないのです。 それは知らない事を知っていると信じていることになるのです。 もしかすると、死は人間にとって最大の幸福であるかもしれないのです。 しかし人間は死を最大の悪であると決めてかかって恐れているのです。 これこそ知らないのに知っていると信ずる事、無知ではないでしょうか。 それで私が少しでも智慧があると自ら主張するとすれば、 私はあの世のことについてはよく知らないから、 その通りよく知らないと思っているという点をあげるでしょう。」 「無知の知」 ソクラテスの弁明より
765 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 10:06:00 ID:Z3ngkCOv
電波男は、もう自演確定で消えるしかないでしょう。なんで平気に書けるのか。 恥ずかしいやつだ。自演ばかりで対面たもとうとして、「内容で勝負し」なよ。 阿呆陀羅經、電波男もたいした知識もなく、誤解ばかりだから。もう消えていいよ。 「現実を見ろ。裁判は」関係ない。問題は、自演や罵倒などの不誠実さにある。 知識の不正確さや、論理の破綻を指摘されて自演や罵倒で 繕うという手段はもういいよ。 みんな君が偽物だと知っているのだから、それらのコテハンを使えばバカにされ軽蔑されるだけだ。自覚されよ。
767 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 10:13:09 ID:gOYCk2B4
はいはい、落命王だか絶命王だかはとっとと癲狂院へ帰った帰った(嗤)。 何なら焼き場へ直行でもいいぞ(嗤)。
768 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 10:23:01 ID:dsIG/mqC
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ =阿呆陀羅スネオ=無明形式概念外道趣味者 よーするに、わかっちゃいない奴。
>>768 で、自演の証明はどうなった?当該スレと同じ論法を使うなよ。
また、自演することでの効果についての論証と、それに係わる主張内容の是非についても論じろ。
770 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 10:38:05 ID:gOYCk2B4
娑婆の頭数にも入れて貰えないような癡愚物が性懲りもなく生えてくることで(冷笑)。
>>765 このサンスクリットを訳せない場合、もうここには参加するな。
mahAyAne trai-dhAtukam vijNapti-mAtram viavasthApyate .
772 :
革命家 ◆mBM7iEISAk :2006/12/04(月) 10:44:58 ID:e/zfjAQQ
面白そうなので、見物にきますたw
773 :
革命家 ◆mBM7iEISAk :2006/12/04(月) 10:50:26 ID:e/zfjAQQ
774 :
768 :2006/12/04(月) 10:50:31 ID:dsIG/mqC
>>769 ついでに
>>770 =スネオ
ここでの書き込み内容をみれば、お前達がブッダの智慧の精神見地からの
真逆者であることは明らか。単に趣味として低劣な知識があると装っている
にすぎない。
>これこそ知らないのに知っていると信ずる事、無知ではないでしょうか。=
>>764 言っておくが俺は
>>765 ではない。
775 :
768 :2006/12/04(月) 10:53:34 ID:dsIG/mqC
>>771 =妨害電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k
>>774 のソクラテスの弁明を批判してみろよ
>>774 ここは原始仏教スレッドですよ。原始仏教周辺に限定してください。
そして質問返しはあなたの負けを認めたことになりますよ。
777 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 10:58:25 ID:gOYCk2B4
>>777 大正解です。
この大乘というのがいわゆるセクトとしての大乘なのかについて最近の論争があるわけですが、
論争内容を理解できる人が殆どいません。大乘⇔小乗の図式しかないわけですからね。
779 :
768 :2006/12/04(月) 11:06:02 ID:dsIG/mqC
>>776 =妨害電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k
俺は知らないということを知っている。
応えろよ
>>779 まずはボクの質問に答えなさい。
阿呆陀羅さんが漢訳を提示してくださったので、それからの訳でもいいですよ。
781 :
768 :2006/12/04(月) 11:10:00 ID:dsIG/mqC
空疎な連中だな 智慧につき無知だ
782 :
768 :2006/12/04(月) 11:13:38 ID:dsIG/mqC
空念仏 ブッダが論争につきどう教えられたか知っているだろう?
783 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 11:14:05 ID:gOYCk2B4
>>778 ありがとうございます。
以前からその箇所の教証の出所が気になっています。後段での引用関係や著者の傾向からすれば阿含經類
からではないかと推察するのですが、力不足につきお手上げ状態です。
784 :
革命家 ◆mBM7iEISAk :2006/12/04(月) 11:14:23 ID:e/zfjAQQ
785 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 11:16:41 ID:gOYCk2B4
>>781 言い訳はいいから早く答えなさいよ。
>>783 阿呆陀羅尼さん
> 以前からその箇所の教証の出所が気になっています。後段での引用関係や著者の傾向からすれば阿含經類
> からではないかと推察するのですが、力不足につきお手上げ状態です。
当該箇所はチベットからの還元梵本としてSレヴィが付しておりますが古来、華厳経の一説として解釈されてきました。
しかし、一致する要素は少なく、対応する経典が見いだせれておりません。原始仏教の世界観、人間観と対応させて
考えると有益でしょう。
>>784 革命家
スレ違いだ。出て行け。
裁判には勝てるね。だから手を引いた。お前は最初から経緯を見ていないな。
原告の目に入ってるよ。もろにだ。
787 :
768 :2006/12/04(月) 11:22:34 ID:dsIG/mqC
788 :
768 :2006/12/04(月) 11:26:23 ID:dsIG/mqC
>>788 言い訳はしていません。先に私の質問に答えなさい。
さっきから言い訳ばかり見苦しいですよ。
「無知」という言葉の意味すら知らないみたいですね。
790 :
768 :2006/12/04(月) 11:29:31 ID:dsIG/mqC
>>790 同じことしかいえなくなりましたか。
壊れてしまいましたね。可愛そうに。
792 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 11:33:21 ID:gOYCk2B4
>>786 華厳を構成する『十地經』からの引用という説は以前から称えられていますね。
ただ、その元となる十地思想は諸部派に伝承されていたものと思います。そうした部派伝持の
聖典(アーガマ)から引用されたのが件の箇所なのではないかなどと考えております。
793 :
768 :2006/12/04(月) 11:34:35 ID:dsIG/mqC
空疎な連中だな 智慧につき無知だ
794 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 11:38:41 ID:gOYCk2B4
癡愚物の死屍累々ですな(苦笑)。
795 :
768 :2006/12/04(月) 11:39:29 ID:dsIG/mqC
>>757 妨害電波男いわく
>で、俺?清浄道なんて関係ないね。修羅道に生きているから。
涅槃に至らなくても結構。そんなところにのみ原始仏教を見ているのなら、
このスレッドに来る必要は無い。
本音だな。まさに阿呆陀羅スネオと同伴で無明空虚念仏
ブッダから最も批判される連中だ。
796 :
768 :2006/12/04(月) 11:42:44 ID:dsIG/mqC
悪魔が来たりて、無明笛を吹く
797 :
768 :2006/12/04(月) 11:48:36 ID:dsIG/mqC
妨害電波男いわく >で、俺?清浄道なんて関係ないね。修羅道に生きているから。 >で、俺?清浄道なんて関係ないね。修羅道に生きているから。 >で、俺?清浄道なんて関係ないね。修羅道に生きているから。 >で、俺?清浄道なんて関係ないね。修羅道に生きているから。 >で、俺?清浄道なんて関係ないね。修羅道に生きているから。 >で、俺?清浄道なんて関係ないね。修羅道に生きているから。 >で、俺?清浄道なんて関係ないね。修羅道に生きているから。 >で、俺?清浄道なんて関係ないね。修羅道に生きているから。 >で、俺?清浄道なんて関係ないね。修羅道に生きているから。 >で、俺?清浄道なんて関係ないね。修羅道に生きているから。
798 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 11:48:37 ID:2mdKrp/j
セクハラ野郎がなにやってんだ。
>>792 唯識二十論の中では「三界は唯識である」とするのは「三界は唯心である」とする契経のいい直しです。
そこで、「心・意・識・表(唯識の識)は同義語(異門)である」と世親は言うのです。
簡単に言えば、「私にとって世界とは、私の知るところ以外の何ものでもない」と言うことになりますね。
それを敷衍させると
私の知らない世界は認識できない
進んで体験し認識できる世界はある
道理によって推測し、認識できる世界に再生産できるものはある
しかし体験も出来ない、認識できない世界は語りえない
→それ以外のもの→無記
と言う仮説が成立します。
800 :
768 :2006/12/04(月) 11:59:20 ID:dsIG/mqC
修羅道のゴミ知識 動機において不純であり、結果においてニルヴァーナに至らぬ無駄知識
【今日の作務】→白菜漬け 畑から白菜を採ってきまして、 (白菜というのは、畑に植わったまんまの状態ですと表皮は深緑です) 表皮もなるべく使うようにして、洗浄し1/4カットにする。 これを一日くらい天火にかけてから作業に入ります。 材料は、塩、鷹の爪、昆布、ニンニクとか使いますが、 ニンニクは国産でなくても充分です。 (ちなみに中国産ですと、3個で100円くらいです。
>>800 なんの議論も出来ないのか?修羅道も理解していないようですね?
涅槃の道を捨てたということはあなたには死んでも解らないでしょう。
「無知」の「無」も「知」もあなたは理解していないようですから。
803 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 12:04:50 ID:DpSD1boX
出禁バカ 塩漬にされ 晒しモノwww
だいひいっせんだい けうりゃうりんじん
>>792 >華厳を構成する『十地經』からの引用
>部派伝持の聖典(アーガマ)から引用
佛説十地經 卷4 www.cbeta.org/result/normal/T10/0287_004.htm には、
>自性生滅猶若束蘆。
というように蘆束喩も採り上げられているようです。これから十地經を通読してみます。
806 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 12:38:08 ID:preKJJAu
電波男が、ハキリとつるんで裏で画策。
今度は警察沙汰ですか・・・。
563 名前:波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆xd7mxrd9Z6 [] 投稿日:2006/12/03(日) 20:32:50 ID:AZ1yhLer
さきほど興味さんより連絡があり:八十八之弟子 ◆/j5BqlUfXU 及び
とわから脅迫行為を受けているとの電話連絡がありました。
共同で所轄警察に届け出る予定でいます。
580 名前:波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆xd7mxrd9Z6 [] 投稿日:2006/12/03(日) 21:37:55 ID:2CqmZ1bi
>>576 とわさんどうもです。私は少しばかり誤解をしていたようです。
電波男さんからあなたのことは聞きました。
583 名前:波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆xd7mxrd9Z6 [] 投稿日:2006/12/03(日) 21:40:54 ID:JtYOQCOL
>>579 私の内部かく乱かどうかは、電波男さんに聞いてください。
そうでないのがすぐにご理解いただけます。
807 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 12:46:58 ID:gOYCk2B4
>>805 蘆束喩は佛教における認識論を考察するに際して非常に重要ですね。
全員トイレ掃除!!
809 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 13:20:45 ID:dsIG/mqC
>>808 莫迦牟尼佛 ◆6.4oHoukEI さん、あんたHoukEI=包茎ですか?
810 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 13:28:59 ID:dsIG/mqC
811 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 13:30:54 ID:gOYCk2B4
>>810 解脱者でないものが、智者の振る舞いをして議論を放棄することは言葉を放棄するということです。
言葉を放棄するということは社会生活を放棄するということです。
つまり、あなたは発言するなと言うことです。
813 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 13:46:42 ID:dsIG/mqC
>>813 非論理的だと断じるからには、その論理構造の瑕疵を指摘し、虚偽構造を明らかにしなければならない。
またナンセンスと言うのであれば、その内包されている関連項目を列挙し、説明、例示を加え論評しなければならない。
大学での論理学講義の試験ではあなたには及第点を絶対に与えないであったろう。
815 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 13:53:54 ID:gOYCk2B4
一向に読めもしない經文を楯に、無知蒙昧に居直ろうと必死に足掻く癡愚物の標本がまた一つ・・・(嗤笑)。
816 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 13:54:37 ID:dsIG/mqC
>>814 812の命題の証明なし。応答に値せず よって却下
817 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 14:03:16 ID:gOYCk2B4
ID:dsIG/mqCの如き学習能力皆無の足切り癡愚物は、既に廃棄却下され放置されています。 たとえ名無しで出てもその魯鈍ぶりは隠し遂せませんので、各自でご判断の上処理願います。
818 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 14:07:41 ID:dsIG/mqC
>>817 スネオよ、おまいの反応はワンパターンだな。
もっと違った反応して楽しませろよ。
819 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 14:11:18 ID:gOYCk2B4
>>814 何か最近、あの種の「言説禁治産者」が急増しているように思えます(苦笑)。
某SNSでも見掛けましたが・・・。
>>816 命題の証明?
命題化するにはそれなりの必要条件がその対象に備わっている場合と、
抽象化、あるいは題材を抽出して命題化する必要がある。
あなたが命題の証明を求めるのであれば、まずそれを提示しなさい。
あなたはそれ以前の問題であるとボクは見ますが如何でしょうか?
論理学でボクに楯突く輩がいるとは思っていませんでしたよ。プゲラ。
>>819 私も多くのカルトや自尊心の塊を論破してきましたから、その亡霊が沸いて出てくるのでしょう。
論理学を語るのであれば、その訓練が必要なことを全く知らないのでしょうね。
822 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 15:41:54 ID:dsIG/mqC
>>820 阿呆陀羅スネオのありがたい御言葉を妨害電波男に与えよう。
名前:阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ 投稿日: 2006/09/23(土) 12:42:25 [ h3WqhCzc ]
論証責任の転嫁などみっともないばかり(笑)。
823 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 15:46:43 ID:gOYCk2B4
癡愚物は死ねば灰、されど治らず(嗤)。
824 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 15:58:19 ID:dsIG/mqC
論証責任の転嫁などみっともないばかり(笑)。 論証責任の転嫁などみっともないばかり(笑)。 論証責任の転嫁などみっともないばかり(笑)。 論証責任の転嫁などみっともないばかり(笑)。 論証責任の転嫁などみっともないばかり(笑)。 名前:阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ 投稿日: 2006/09/23(土) 12:42:25 [ h3WqhCzc ] !!!
825 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 16:03:35 ID:gOYCk2B4
外道壁蝨・言説禁治産者どもを眺めるに、 無始爾来薫習の虚言・妄語癖からの離脱は最早不可能のようですな。
826 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 16:05:23 ID:dsIG/mqC
>>825 ワンパターンは止めとけっちゅーに!
もっと楽しませろや。
827 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 16:08:55 ID:gOYCk2B4
レス番蟲喰いは、外道壁蝨・言説禁治産者どもの自涜の痕か(冷笑)。 行間から汚穢の悪臭が芬々と・・・。
>>795 修羅
>>796 悪魔
なにか根底から誤解してるようだが、阿修羅は飽くまではないよ。
奈良の興福寺で祀ってる国宝「阿修羅像」は有名だから多分知ってるでしょ?
仏法守護の護法善神です。
829 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 16:18:37 ID:dsIG/mqC
ちょっとタイム、来客や。
>>825 論証責任の転嫁?
意味がわかるのなら説明しろ。
そして早く宿題をしろや。
831 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 16:41:49 ID:gOYCk2B4
>>828 仰るとおりアスラ(阿修羅)は護法善神たる八部衆(または二十八部衆)の一員として祀られていますね。
アーリア系諸族のインド侵出以前の先住民である林住種族の神格を佛教化したものでしょうね。ヤッカ
(夜叉神)なども同系統であると思います。
>>764 > 知らない事を[知っている]と信じている
[知るべきこと]、[知らなくてよいこと]を弁別し、[知るべきこと]をすべて知っている、と
自覚したからブッダとなったわけであり、[知らなくてよいこと]まですべて知っているわけでもなく、
また[知らなくてよいこと]は知らなくても、十分にブッダであり得るわけです。
> 私は[あの世のこと]についてはよく知らないから、その通り[よく知らない]と思っている
箭喩経の如来(=衆生)死後無記と同様な意見ですね。
ソクラテスはデルポイ神殿の壁書にあった、骸骨の言う「汝自身を知れ」に着想を得た、とか
読んだような覚えがありますが、
彼の立場は、ソフィストたちの存在を前提に考えた方がいいでしょうね。
でもソクラテスは唐突の感もありますが何ゆえにソクラテス? 比較思想論ですか。
833 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 17:45:53 ID:gOYCk2B4
>>832 無知蒙昧を正当化し居直るために『弁明』を利用しようとしたに
過ぎないでしょう。
かかる醜業に担ぎ出されるソクラテスこそいい迷惑ですな(苦笑)。
>また[知らなくてよいこと]は知らなくても、十分にブッダであり得るわけです。 夜明け前の、西方にある大輪の月をじっと眺めておりますと、 その美しさに魅了され、人の迷いなどホンの些細なものかと、 そのような心境になりますね。 月というのは、佛教においては象徴的な意味がありますが、 古代から行者達は、おそらくは月を眺めながら自省などしたのでありましょう。 求めることあらずして、仏心は己の心なり。 こういう境涯になって逝ったんでしょうね。 まだまだ、ここまでは迷いですが、 これより彼岸まで逝って、それで諦観です。
835 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 18:37:23 ID:DpSD1boX
出禁バカ ヒソヒソ声に 怯え逃げwww
3流大学?4流かも?の大学院卒が何威張ってるんだろうね。
837 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 19:16:58 ID:VAzfqcDo
鎧袖一触で潰れて吹っ飛んだ落命王or絶命王やその眷属は疾く疾く癲狂院へ 戻って失せよ。
>>783 >>786 で触れられていた点について、いくつか調べまとめてみました。
●該当箇所の本文の異訳3種
『唯識論』(般若流支訳)「如大乗経中、説三界唯心、…此云何知。如十地経説三界虚妄、但是一心作故」
〔大乗経の中に、三界はただ心のみ、と説くが如し。…これいかんが知る。十地経の如きは、
三界は虚妄にして、ただこれ一心の作、と説くが故なり〕
『大乗唯識論』(真諦訳)「於大乗中立、三界唯有識」〔大乗中に於いて、三界ただ識あり、と立つ〕
『唯識二十論』(玄奘訳)「安立大乗、三界唯識。以契経説、三界唯心」
〔大乗に安立す、三界唯識と。契経に三界唯心と説くを以てなり〕
従来、「大乗三界唯識を安立す」と訓じたようですが、偈頌として四字句ごとに訳したと見れば
上記の訓も可能ですし、異訳からしてもその方がよいのでは、と考えてそのように訓じてみました。
●「十地経」の異訳『漸備一切智コ經』
巻3 又復思惟。其三界者。心之所為。其計於斯、十二縁起。五趣所歸。
如來至真、之所解暢。又此一切、一種一心。同時倶成。
巻4 解三界虚
『佛説十地經』
巻4 即此菩薩、作是思惟。所言三界、此唯是心。如來於此、分別演説、十二有支。皆依一心、如是而立。
●華厳経浄行品などの異訳『菩薩本業経』(十住を説く)、「十地経」の注釈『十住毘婆沙論』、
その他の検討も必要でしょうが、とりあえず調べられたのは以上です。
●
>>792 については、十地を説く説出世部の仏伝「マハーヴァストゥ」が、もともと律蔵の一章で、
各部派共有だったのではないか、という点も大乗成立とのからみで考慮すべきかも知れませんし、
また、
>>778 の点については、義浄「内法伝」の「菩薩を礼拝し大乗経を読む」か否かくらいしか
大小乗を分けるものはない、という点も大事でしょうね。
839 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/04(月) 23:21:59 ID:VAzfqcDo
>>799 >そこで、「心・意・識・表(唯識の識)は同義語(異門)である」と世親は言うのです。
T31n1590_p0074b28(01)?心意識了名之差別。此中?心意兼心所。
ですね。
教証は雜阿含經卷第十二の、
T02n0099_p0081c14(01)?三十。乃至百年。若善消息。或復小過。彼心.意.
T02n0099_p0081c15(00)?識日夜時剋。須臾轉變。異生異滅。
T02n0099_p0081c16(03)?猶如?猴遊林樹間。須臾處處。攀捉枝條。
T02n0099_p0081c17(03)?放一取一。彼心.意.識亦復如是。異生異滅。
や
T02n0099_p0082a11(00)?乃至百年。若善消息。或復少過。彼心.意.
T02n0099_p0082a12(02)?識日夜時剋。須臾不停。種種轉變。異生異滅。
T02n0099_p0082a13(00)?譬如?猴遊雜阿含經卷第十二林樹間。須臾處處。攀捉枝條。
T02n0099_p0082a14(00)?放一取一。彼心.意.識亦復如是。種種變易。
T02n0099_p0082a15(00)?異生異滅。
あたりでありましょう。これはパーリ相応部にもパラレルがみられますね。
840 :
名無しさん@3周年 :2006/12/04(月) 23:47:29 ID:dsIG/mqC
論語 学而-01 子曰、 學而時習之、不亦説乎、 有朋自遠方来、不亦楽乎、 人不知而不慍、不亦君子乎 20年ぶりの友人の突如の来訪 こんな嬉しいことはない 今夜は雲ひとつない快晴で、くっきりの満月 澄み切った冷気のなかを友と歩く 空華の万行が幻と思える今夜 友はたらちねの母堂との別れを語った
841 :
名無しさん@3周年 :2006/12/05(火) 00:09:37 ID:G1agdLGb
>>776 > ここは原始仏教スレッドですよ。原始仏教周辺に限定してください。
> そして質問返しはあなたの負けを認めたことになりますよ。
>>814 > 非論理的だと断じるからには、その論理構造の瑕疵を指摘し、虚偽構造を明らかにしなければならない。
> またナンセンスと言うのであれば、その内包されている関連項目を列挙し、説明、例示を加え論評
> しなければならない。
> 大学での論理学講義の試験ではあなたには及第点を絶対に与えないであったろう。
以上の言葉、完全に君に当てはまる。以下は、原始仏教周辺ではない。
>>771 > このサンスクリットを訳せない場合、もうここには参加するな。
> mahAyAne trai-dhAtukam vijNapti-mAtram viavasthApyate .
上記及び、
>>766 は「質問返し」で「負けを認めたことにな」るだろう。
さらに罵倒と自演や「質問返し」などのレトリックのみの君が
「論理構造の瑕疵を指摘し、虚偽構造を明らかにし」たことや、
「内包されている関連項目を列挙し、説明、例示を加え論評し」たことなどあっただろうか?
まあ、多少はあったかもしれないが、ほとんどは 罵倒と自演とレトリックだったと記憶する。
これは例証を挙げなくても明らかだろう。まあ、自演は認めないだろうが、
842 :
名無しさん@3周年 :2006/12/05(火) 00:11:34 ID:G1agdLGb
しかも上記のレヴィ還梵を出したのは複合的に恥ずかしい。 1. まず完全な論点のすり替えである。話の流れにも、原始仏教にも関係ないのだから。 2. 還梵でサンスクリットを試すということが倒錯している。 これは、蔵訳や漢訳から還梵されたものであるから、サンスクリット自体で読むのは倒錯している。 蔵訳や漢訳から読むしかないのである。還梵を想定するのはもちろんだが。 3. 誤記がある。viavasthApyate > vyavasthApyate 以上に反論するなら、自分が言ったのだから 論理構造の瑕疵を指摘し、虚偽構造を明らかにしなければならない。 その内包されている関連項目を列挙し、説明、例示を加え論評しなければならない。 論理的なんでしょ。私には感情的にしか見えないのだが。 また、自演を論証しろと言っているが「盗人猛々しい」とはこのことである。 ID が一致したら自演とするのが一般。普通、そう思ってるよ。 そうでない特殊なケースを証明するのは自分である。君も論敵が ID一致したら自演としてきただろう。 それ以前に IDが一致しなくても論敵は全て原告としてきたようだが、論証したことなどないだろう。 自分に甘く、他人に厳しい。いつもながら、身勝手でご都合主義ですな〜
>>840 う〜ん、じつに素晴らしい論語です。
今じぶんの月というのは、ダイナミックで実に美しい。
(冬の月はいいですね)
深夜には上空の白い月が、夜明けとともに地平線に少しづつ落ちてくる。
それにともない段々と大きくなり、それは黄金に輝いてくる。
俗世を、おぼろげに照らす月を浄土と比喩したのも、それなりの所以があるでしょう。
このようにして、私は先達を偲んでおるんですが、
これは禅でいうたら隻手の音声です。
これひとえに菩提心あらざれば、そのままで顕現す。
<机龍之介・官休庵より>
花押
まず、違う人が回答しても意味無いんですけど? > 1. まず完全な論点のすり替えである。話の流れにも、原始仏教にも関係ないのだから。 ここは原始仏教スレッドですが?スレタイの本筋に戻そうとしただけですよ。 > 2. 還梵でサンスクリットを試すということが倒錯している。 > これは、蔵訳や漢訳から還梵されたものであるから、サンスクリット自体で読むのは倒錯している。 > 蔵訳や漢訳から読むしかないのである。還梵を想定するのはもちろんだが。 唯識二十論そのものを問題にしているのではなく、還梵のようなきわめて簡単なサンスクリットも読めない人が スレ違いにも荒しに来ていることを指摘したのですが。それが何か?で、漢文を提示していただいて、その漢文から 話を始めても彼は付いてこれなかった。 > 3. 誤記がある。viavasthApyate > vyavasthApyate > 以上に反論するなら、自分が言ったのだから で、この誤記がどうかしましたか?誤記は誤記です。ご指摘ありがとうございました。 この誤記があるから読解不可能であるとする根拠もついでに出して欲しいものですね。 きわめて下らんあなたのコメントに対して説明しましたよ。 で、次は私の番。 > また、自演を論証しろと言っているが「盗人猛々しい」とはこのことである。 > ID が一致したら自演とするのが一般。普通、そう思ってるよ。 一般論で決め付けですか?特殊性を考えない薄ら脳みそですかあなたのは。 決め付ける側に論証責任があるのですよ。で、例の同IDは論敵でもないし、反論する相手でもないし、 自演する内容でもないから無問題。騒いでいるあんたたちが哀れに思われているだけですよ。 > それ以前に IDが一致しなくても論敵は全て原告としてきたようだが、論証したことなどないだろう。 あなたのような薄ら馬鹿に対してではなく、裁判所に対して論証し、裁判所にIP開示命令、プロバイダ個人情報開示命令を請求し、それが通り、原告特定された。 そして勝利路線へと導いたのですよ。あのスレは裁判スレですから穏やかな議論スレではありません。それは原告がフレーミングしたのですよ。 すれ違いなここに終わっている話を持ち込む意図は?あなたが薄ら馬鹿だからですか?
>>842 あんたの論点は「恥ずかしい」だったのか。あんたが恥ずかしいことは説明してあげたよ。
このスレッドでは「真偽」、「妥当であるか否か」、「適切、不適切」が議論されるのであって、「恥ずかしい」
は問題にしない。で、複合的って何?
1 スレタイへ戻れ
2 還梵という非常に簡単である文章で試した
3 誤記は認めるがそれが何か?
で、反論を求めるのであれば、命題不備を修復し必要条件を満たしてからにしてくれ。
あんたはこのスレで最も薄ら馬鹿だから相手にしないよ。スレ違いだしね。
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k =恥ずかしい人なんだけど よくもまあ、笑いの的のコテハンを捨てずに、ノコノコと出てこられるわw
848 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/05(火) 10:12:37 ID:Yuye9zhL
鎧袖一触で潰れて吹っ飛んだ落命王・絶命王やその眷属は疾く疾く癲狂院へ 帰って失せよ。もしくは焼き場へ直行すべし。
849 :
名無しさん@3周年 :2006/12/05(火) 10:22:43 ID:G1agdLGb
>>844 苦しいな。まず、何故、別人と考えるのか? 私は同じ人間だよ。
> > 1. まず完全な論点のすり替えである。話の流れにも、原始仏教にも関係ないのだから。
> ここは原始仏教スレッドですが?スレタイの本筋に戻そうとしただけですよ。
「スレタイの本筋に戻そうと」するのに、私のサンスクリット能力を試す必然性が理解できない。
次に論書として大乗である『唯識二十論』で、且つ内容も「大乗経」という記述があるのに
どこが原始仏教なのだろうか? まあ、勝手な珍説で妄想してるという予想はつくのだが。
> > 2. 還梵でサンスクリットを試すということが倒錯している。
> > これは、蔵訳や漢訳から還梵されたものであるから、サンスクリット自体で読むのは倒錯している
> 。
> > 蔵訳や漢訳から読むしかないのである。還梵を想定するのはもちろんだが。
> 唯識二十論そのものを問題にしているのではなく、還梵のようなきわめて簡単なサンスクリットも読
> めない人が
> スレ違いにも荒しに来ていることを指摘したのですが。それが何か?で、漢文を提示していただいて、
> その漢文から話を始めても彼は付いてこれなかった。
これが非論理な勝手な憶測であることを明解に証明している。
私はずっとネットを見ている訳ではないのである。つまり、二つの誤認がある。
1. 対論者が自分と同じように常にネットを見ていて即答するという思い込み。
2. 私が別人だという思い込み。
「スレ違いにも荒し」というが、私は親切に
>>733 に答えてあげただけである。
内容も事実である。
850 :
名無しさん@3周年 :2006/12/05(火) 10:23:38 ID:G1agdLGb
> 一般論で決め付けですか?特殊性を考えない薄ら脳みそですかあなたのは。
> 決め付ける側に論証責任があるのですよ。で、例の同IDは論敵でもないし、反論する相手でもないし、
> 自演する内容でもないから無問題。騒いでいるあんたたちが哀れに思われているだけですよ。
無茶いうね。
> それ以前に IDが一致しなくても論敵は全て原告としてきたようだが、論証したことなどないだろう。
> あなたのような薄ら馬鹿に対してではなく、裁判所に対して論証し、裁判所にIP開示命令、プロバイダ
> 個人情報開示命令を請求し、それが通り、原告特定された。
> そして勝利路線へと導いたのですよ。あのスレは裁判スレですから穏やかな議論スレではありません。
> それは原告がフレーミングしたのですよ。
また、関係ないことを笠に着て。裁判の勝利と君は関係ない。論敵は全て原告としたことは論証されてない
それは変わりない。因みに私も何度か原告とされたが、論証されたことはない。
>>845 > あんたの論点は「恥ずかしい」だったのか。あんたが恥ずかしいことは説明してあげたよ。
一体、どんな論拠で私が恥ずかしいのか? 私は自演もハッタリも罵倒も非論理も述べてないのだが。
851 :
名無しさん@3周年 :2006/12/05(火) 10:27:35 ID:G1agdLGb
>>845 あんたはこのスレで最も薄ら馬鹿だから相手にしないよ。
ほら、罵倒だ。非論理は上で指摘済み。もうそろそろ自演の登場だろうか?
852 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/05(火) 10:28:04 ID:Yuye9zhL
>>845 ここには、論文窃盗地獄坊主とその手下やら、粘着タルチュフ崩れビリーバーやら馬齢厨房詭弁ポピュリスト
やらの魑魅魍魎・臭穢の輩がこびり付いていて見苦しくて仕方ありませんな。いずれも頭隠して何とやらの
お間抜け共ばかりのようですけど(笑)。
853 :
名無しさん@3周年 :2006/12/05(火) 10:47:02 ID:00uS5ZI4
>>852 リテラシースキルと、原始仏教とどう関係あるんだよ、アホ。
あの非合理的な漢文を理解することが、原始仏教だとおもってんじゃないの〜おまえ。
だからおまえは”阿呆”陀羅經なんだよ。クスクス。
>>849 同一性を保持したいのならコテハン鳥を付けなさい。
ここは原始仏教を学問的に追求しようと志向する場です。だからあなたのサンスクリット能力を試しました。
唯識二十論の冒頭で漢訳では確かに「大乘経」とありますが、チベットその他では「大乘において」という於格
と読むのが妥当です。で、大乘と関係ないと主張するようですが、それはあなたの能力を超えているが故に
論じません。先ほどからサンスクリットを試すためと言っているのに、あなたは論点を摩り替えているだけですよ。
>1. 対論者が自分と同じように常にネットを見ていて即答するという思い込み。
>2. 私が別人だという思い込み。
これはものすごく恥ずかしい主張ですね。2については言いました。1については過去ログを読む努力が必要でしょう。
で、非論理的な憶測とはどういう論理構造でしょう?
>無茶いうね。
論証なしですか?こういうのが、罵倒される所以ですよ。
> また、関係ないことを笠に着て。裁判の勝利と君は関係ない。論敵は全て原告としたことは論証されてない
> それは変わりない。因みに私も何度か原告とされたが、論証されたことはない。
何回説明すればいいのかな?裁判沙汰になっているスレッドで原告よりの発言がなされれば、原告擬制やみなし
がなされるのは当然のこと。それら発言内容を一つの根拠として裁判所にIP開示命令とプロバイダ個人情報開示命令
の申請を出してそれが通り、発言が特定できたわけだ。解りやすく言うと、恐らくあなたの発言も裁判所に提出して、
原告の可能性ありとする「容疑者」として申請したわけ。解るかな?リアル裁判なのだからそこで発言するのなら、
それぐらいの覚悟をしろと言うわけだ。それが嫌ならコテハン+鳥を付けろ。それでも納得しないのなら、俺を提訴しろ。
あとで泣き言を垂れるな。
で、裁判の勝利とボクとは関係ないとすることを根拠を出して論証できるか?先ず裁判資料を調べて来い。
855 :
名無しさん@3周年 :2006/12/05(火) 10:55:44 ID:00uS5ZI4
妨害電波男と”阿呆”陀羅スネオの完敗はほぼ確定だな。
>>853 漢文が非合理的であることを説明してください。
857 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/05(火) 11:05:19 ID:Yuye9zhL
>>852 で示したような娑婆の塵屑どもは、外道壁蝨・足切り馬鹿共々お払い箱(嗤)。
858 :
名無しさん@3周年 :2006/12/05(火) 11:10:11 ID:00uS5ZI4
おやおや、大先生は皮肉がわからないらしい。
859 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/05(火) 11:13:05 ID:Yuye9zhL
基地外は狸穴燻し・炙り出しに易々反射反応したようですな(笑)。 あとは当該痴愚物の自焚・自焼を篤と眺め飽かすとしましょうか(嗤)。
860 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/05(火) 11:22:05 ID:Yuye9zhL
>>854 >「大乘において」
そんな有り難い論題を提示しても反応しませんよ。あの者ら(笑)。理由は以下に。
1.無知識・無能力がバレる。
2.素性がバレる。
3.1,2どちらもバレる。
派手にバレると見物なんですけどね(笑)。
スレの流れと関係ないですが 質問 十二縁起を観じる 因縁生を観じる という場合の「観じる」はヴィパシャナーを指すのだと思いますが、 知的、論理的な探求と異なる点はあるのでしょうか? たとえば「金儲けの方法を一心不乱に考察する」という場合の知的な考察と異なるのでしょうか?
>>858 あれ、何も書かずに送信してしまったね。悪い悪い。
でだ。皮肉と言うが、どういう皮肉なんだい?
ボク、馬鹿だからわからないよ。
864 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/05(火) 12:13:11 ID:Yuye9zhL
>>863 幾度這い出そうが、学習意志・能力いずれも皆無の荒らし癡愚物には取り合わないのが吉でしょう。
865 :
名無しさん@3周年 :2006/12/05(火) 12:36:58 ID:wHNnlL+2
テンプレだと確かアホカラスも出禁バカと同じ扱いだったなwww
>>861 HPで調べただけですが、
ヴィパシャナーは、「心の乱想を止めることによって智慧を起こし、その智慧をもって対象を正しく観察する」という意味
だそうですから、「金儲けをしよう」と考えること自体が乱想なのではと思います。
考えれば・・・別に「金儲けをしよう」と考えても構わないのでしょう。 それに執着するのが乱想なのしょうね。
>>866 ありがとうございます
でも、聞きたかったのはヴィパシャナーと単なる知的考究の違いでして
十二縁起について禅定などしないで知的に考究し、知的に理解することと
ヴィパシャナーによって十二縁起を観じることに差異があるかないかです
>>842 >原始仏教にも関係ないのだから。
阿含経の「心・意・識」と唯識二十論の「了」(「三界唯識」の識)の関係で繋がっていたじゃないですか?
阿含経の「心・意・識」の捉え方を考える上で、「了」的な視点は参考にすべきだと思うけど。
>>849 mahAyAnaは大乗経という意味でも使うし、般若流支はそれによって「大乗経中説」と訳したのでしょう。
しかし勿論、「於大乗中立」や「安立大乗」という他の訳のように、大乗の意味でも使うし、
その大乗の語義も種々考えられうるでしょう。
また、「安立大乗 三界唯識 以契経説 三界唯心」は、
「安立大乗 三界唯識」を著者の主張と見、
「以契経説 三界唯心」をその聖教量として見る、という見解もあります。
それから最後に一点。原始仏教の何をテーマに話したいかが全てであって、それ以外のツッコミは、
ギャラリーにとっては、何か知らない底意に基づく荒らしにしか見えないですよ。
他の人の視点や関心のありかの違いによって、それまで自分が気づかなかった点に気づかされるのが、
掲示板の価値でしょう? とにかく内容が全て、と思います。
>>868 何を以って知的といえるのか?という命題にも繋がってしまいそうですが・・
八正道にもとづけば差異はないのと違います?<私見ですが・・・
カトリック教徒は禅定などしないし。。。
(いいかげんで、すみません。)
電波男Ψ(´д`)Ψ さんに私もお聞きしたい。
お願いします。
いわゆる「ヴィパッサナー瞑想法」と、止観の観でも違いがあるし、 語源に基づけばいろんな解釈が可能になりそうだから、 何を指してるのか限定しないと議論がちぐはぐにならないかな。 それから大事な観点は、坐禅は禅定に必ずしも必要じゃない、ということ。 たしかに眠くなり難いし、姿勢が安定してるので意識が集中しやすい利点はあるけど、 経行(歩行禅)というのもあるし、竹箒で石を飛ばして出た音で見性したという人は 庭掃除の間、禅定の状態だったのだろうし、寝たきりの人にも禅定は可能だろうから。
>>868 >十二縁起について禅定などしないで知的に考究し、知的に理解することと
十二縁起というのは、お正月にお子達が遊ぶ双六(すごろく)みたいなものですよね。
知的に考究する程のこともなかろうに。
して、何を十二縁起に求めておるんですか?
舎利子よ、智慧といふもんはむろん観念によるものではない。 修行(諸善行)を積んで体得したのが智慧(ビパッシャナー)である。 黙ってトイレ掃除することもビパッシャナーである。 学習ばかりが佛教ではないのだよ!ちみたち
874 :
名無しさん@3周年 :2006/12/05(火) 17:53:28 ID:wHNnlL+2
出禁バカ 門松陰で 野垂れ死にwww
875 :
名無しさん@3周年 :2006/12/05(火) 18:09:20 ID:wHNnlL+2
正月の 公道汚す 出禁バカwww
>>874-875 惡口なら阿呆陀羅經の下で修行なされ!
氏の文學賞級罵歌はわしには伝わらんw
877 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/05(火) 19:13:42 ID:d8n8dazd
世上喧伝されている「ヴィパッサナー瞑想法」なるものを原始佛教と直結させるのは避けるべき。
878 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/05(火) 19:19:04 ID:d8n8dazd
「ゴータマ・ブッダ直伝」を謳い文句にした食わせものどもが撒布した害毒の数々を世人は常に 記憶に留めておくべきであろう。老婆心まで。
>>871 >竹箒で石を飛ばして出た音で見性したという人は
そういうことではないです。
その時が、たまたま「石が竹に当たった」ということです。
下駄を履いてて、その時がたまたま「転んだ」ときかもしれんし、
その時がたまたま「クシャミをした」ときかもしれんし、
状況は全く関係ない。
ちなみに私は、除夜の鐘を聞いていたとき眼がパチクリと開きましたね。
今は殆ど濁りのない眼をしております。
おかげさまで。
では、おやすみ。
「又作是念、【三界虚妄、但是心作】、十二縁分、是皆依心」
(六十華厳 巻22 十地品、東晋の仏駄跋陀羅の訳)が、
「如十地経説【三界虚妄、但是一心作】故」
(唯識論、後魏の瞿曇般若流支、または菩提流支とも、の訳)
とほぼ同文ですが、こちらは、六十華厳より後の漢訳のようですから、
その影響でそうなった可能性が高いと考えられるでしょう。
>>839 この阿含経の記述は「意馬心猿」の心猿そのままの描写ですね。
枝から枝へ次々と動き回るサルのように、心も次々と異なった様を生滅させてゆく、と。
「この、心とも、意とも、識とも呼ばれるものは、日夜、生滅を繰り返す。」
(SN vol.II p.95, 大正蔵2.81下)
citta 心、√cit 積む。積起。過去的。記憶・感情・性格などを含む
manas 意、√man 考える。思量。未来を意図する。決意。心の意志的作用の面
vijJAna 識、vi-√jJA 分け知る。了別。現在のもの。絶えず消え去る。判断。
心・意・識を過去・未来・現在の三世(三時)と捉えるのはアビダルマの解釈が入っているかな
とも思いますが(過未現の並べ方も同じ)、とにかく、
その心とは、vijJapti「知らされ(表示され)たこと」と同義である、という世親の見解には、
認識というもののありよう、限界を考えたとき、首肯できるものがあります。
>>799 >私の知るところ
唯識とは、よく見受けられるような、「存在するのはわが意識のみ」と唯心論のようなことを
言ってるわけじゃない、ということですね。つまり、
「ある、と言えるのは、わが知りうることだけ」ということだろうと。
881 :
名無しさん@3周年 :2006/12/05(火) 20:31:19 ID:fGkiWptp
>>870 >何を以って知的といえるのか?という命題にも繋がってしまいそうですが・・
>八正道にもとづけば差異はないのと違います?<私見ですが・・・
十二縁起のメカニズムを理解しただけでは悟ったとはいえないでしょう
あるいは、その理解したことを実践することが仏道であるのでしょうか
それとも、ヴィパシャナーとは、そのメカニズムを理解するだけではないなにかがあるんでしょうか…?
>>871 摩訶止観や、禅宗や、テーラワーダ協会の止観はそれぞれ違いがありそうですね
原始仏教では…というと、これも解釈が分かれるということでしょうか?
観仏など、観する対象も色々あるようですし…
>>873 >修行(諸善行)を積んで体得したのが智慧(ビパッシャナー)である。
ヴィパシャナーという観によって得られるのが智慧ではないのですか?
>>883 >十二縁起のメカニズムを理解しただけでは悟ったとはいえないでしょう
>あるいは、その理解したことを実践することが仏道であるのでしょうか
>それとも、ヴィパシャナーとは、そのメカニズムを理解するだけではないなにかがあるんでしょうか…?
仏教を知らずにモノ言いますが
「正しく有りたい、真実を知りたい」という気持ちが八正道を実践されるのでしょうし、
それを追っていくと「仏教の十二縁起」とやらを知らなくとも、そのメカニズムを知ることが出来るのではないでしょうか?
つまり、仏教徒に限らず(仏教を知らなくても)十二縁起に近いことは分かり得るということ。
ヴィパシャナーは・・・よく分からないです。
>>871 >それから大事な観点は、坐禅は禅定に必ずしも必要じゃない、ということ。
>たしかに眠くなり難いし、姿勢が安定してるので意識が集中しやすい利点はあるけど、
>経行(歩行禅)というのもあるし、竹箒で石を飛ばして出た音で見性したという人は
>庭掃除の間、禅定の状態だったのだろうし、寝たきりの人にも禅定は可能だろうから。
なるほど
禅定と知らなくても、禅定状態になることがあるんでしょうね。
>>880 >唯識とは、よく見受けられるような、「存在するのはわが意識のみ」と唯心論のようなことを
>言ってるわけじゃない、ということですね。つまり、
>「ある、と言えるのは、わが知りうることだけ」ということだろうと。
ちょっとよく知らないので教えていただきたいのですが、
唯識というのは「ただ識のみある」ということは聞いていましたが、
これは唯物論に対する唯心論としてこれまで解釈されてきたのですか?
正しいかどうかは別にして公式見解というか、そう解釈するのが一般的なんでしょうか?
888 :
名無しさん@3周年 :2006/12/05(火) 22:43:26 ID:8NFxPpJh
瞑想と言うものは行(walking)・住(standing)・坐(sitting)・臥(lying)のどの姿勢でやっても 構わないものなのです。逆に言えば、どの姿勢でもやらなければならない。だから坐禅と言うこと 自体がよく分かっていない者の言い草だと私は感ずる。理想形は勿論結跏趺坐と言うことです。
舎利子よ、蝋燭の火の如く諸要素が一つになった状態が智慧である。 五波羅蜜の布施、持戒、忍辱、精進、禅定が 一つでも欠落したら智慧は得られんのだよ。
>逆に言えば、どの姿勢でもやらなければならない と、他宗教徒や無宗教の人は禅定で得られる何かを得られないということでしょうか? それとも、瞑想やら禅定に換わる何かがあるということでしょうか? キリスト教徒なら「祈り」とか?
891 :
名無しさん@3周年 :2006/12/05(火) 23:12:28 ID:fGkiWptp
舎利子よ、佛教徒ならば無我(非我)すなわち“佛”に還れ。 迷いも真も棄て裸になれ。今日も黙ってトイレ掃除なさい!
ゴータマ シッタルダはトイレ掃除、しなかった・・・ それでも仏陀
894 :
名無しさん@3周年 :2006/12/06(水) 08:38:44 ID:LSy4alus
>>881 あの〜、よく読んでいただけないようですが、(しかも臭うのですが)
そのリンク先で求められている大学院卒というのは建築系であることに他ならない。
だが、彼は文系の大学院卒であることや、大学名を書くと逆効果だから書かない。
それがハッタリ以外の何なんでしょう?
仏教学の大学院出の人に建築系の学問を習いたい人なのいるのでしょうか?
真相を知ったら欺されたと思うのではないでしょうか?
895 :
名無しさん@3周年 :2006/12/06(水) 08:43:19 ID:LSy4alus
>>854 原始仏教を論ずる資格を試すならパーリだろう。そして何故、私だけ試されるのか?
ここで論じている人は皆、パーリやサンスクリットが読めるのだろうか?
> 先ほどからサンスクリットを試すためと言っているのに、あなたは論点を摩り替えているだけですよ。
「サンスクリットを試すため」なんてどこで言ってたかな? そうではなくいつものように
問題をすり替えるために、私が知らないだろうと思いこんで自分が一番得意な唯識を使っただけだろう。
非常に卑怯な手法である。しかも以下のように言うことがブレまくって、その場しのぎに
適当な屁理屈を並べてるのが明らか。
>> 844 ここは原始仏教スレッドですが?スレタイの本筋に戻そうとしただけですよ。
非論理的な憶測というのは、 以下の二つを勝手に想定して >> 844を書いたということだ。
感情的で勝手に思いこんで妄想する性向を如実に示している。
1. 対論者が自分と同じように常にネットを見ていて即答するという思い込み。
2. 私が別人だという思い込み。
896 :
名無しさん@3周年 :2006/12/06(水) 08:44:28 ID:LSy4alus
もう一つ「感情的で勝手に思いこんで妄想する性向」の例を挙げておこう。
>>799 や以下のような珍説「唯識有境」が 自説のようだが
> 「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」と続きます。
> 外界の存在否定などしてしまったら、当時の論理学的水準でも相対論に陥ってしまう
> ため、そんなバカな事はしません。
外界を認める唯識などありえない。「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」
などと説く『唯識二十論』があるのだろうか? 私にはそんな風に読めるところは見あたらない。
tsam zhes bya ba smos pa ni don dgag pa'i phyir ro /
mAtram ity artha-pratiSedhArthaM /
「唯」と述べたのは、外界対象を否定するためである。
大正1589 : 唯言者爲除色塵等
大正1590 : 唯遮外境不遣相應。
大正1588 : 唯識無境界故。
『唯識二十論』というのは『唯一識のみで外界の対象は存在しないことの論証』を説くのである。
「外界を認める唯識」など全く倒錯した主張である。「感情的で勝手に思いこんで妄想する性向」
と言わずにはおれない。
897 :
名無しさん@3周年 :2006/12/06(水) 09:01:20 ID:1GZKjgVf
>>889 そんなことはないだろう。
六波羅蜜の修行は大乗派が主張するブッダになる為の修行だろう。
そこで云う智慧と戒定慧の文脈で云う智慧とは同じものではない。
でなければ波羅蜜の修行をしないものは智慧が得られないと言う結論になる。
大乗唯一乗主義者なのね。
898 :
名無しさん@3周年 :2006/12/06(水) 09:06:24 ID:LSy4alus
>>869 >>880 <阿含経の「心・意・識」>に<唯識二十論の「了」>が何故、加えられねばならなかったか?
それが問題でしょう。つまり、何故 citta-mAtra ではなく vijJapti-mAtra と言わねばならなかったか?
それが問題です。結論から言えば『解深密経』で vijJapti-mAtra と述べられるからでしょう。
そして『摂大乗論』と違って経証に『解深密経』を引用しないのは何故か?
それは経典の受容射程の違いからと思われます。
通仏教的に受容された <阿含経の「心・意・識」>に
通大乗的に受容された大乗経典の citta-mAtra を経証として引用する。
唯識派だけで受容されたであろう『解深密経』を経証として引用せず、こっそり会通させる。
そのためには citta-mAtra ではなく vijJapti-mAtra と言わねばならかった。
899 :
名無しさん@3周年 :2006/12/06(水) 09:07:06 ID:LSy4alus
そこで vijJapti の意味ですが、二つの意味があるようです。 1.「知覚、了解」を意味する rnam par rig pa/識/了 : vi+√jJap+ktin 『中辺分別論』 vijJapti-pratibhAsaμ SaDvijJAnAni rnam par rig par snang ba ni rnam par shes pa drug rnams so/ / 真諦訳:似識者。謂六種識。 玄奘訳:變似了者。謂餘六識。 知覚的現れとは、六識である。(√jJap は『ダーツパータ』による) 2.「知らせる、表す」を意味する rnam par rig par byed pa/教/表 vi+√jJA+Nic+ktin 『倶舎論』 param na vijJApayatIty avijJaptiH / gzhan dag la rnam par rig par byed pa ma yin pas rnam par rig byed ma yin pa'o / / 真諦訳:不(如有教色)可令他知。故名無教。 玄奘訳 而非表示令他了知。故名無表。 他に表し示さないから、無表である。 『唯識二十論』の vijJapti は「知覚、了解」を意味します。 還梵: mahAyAne traidhAtukaM vijJapti-mAtraM vyavasthApyate / theg pa chen po la khams gsum pa rnam par rig pa tsam du rnam par gzhag ste / 大正1590 : 安立大乗三界唯識。 大正1589 : 於大乗中立三界唯有識。 大乗では三界は知覚だけだと設定する。 『解深密経』はもちろん「知覚、了解」を意味する vijJapti です。 rnam par shes pa ni dmigs pa rnam par rig pa tsam gyis rab tu phye ba yin no 玄奘訳:識所縁唯識所現故。 菩提ルチ訳:但是心意識觀得名故。 識は、所縁の知覚だけで顕されたものだ。 だから vijJapti-mAtra なのです。つまり知覚だけで実在(artha)などないというのが唯識に他なりません。 そしてこれがなんで原始仏教を論じることになるのか、疑問は深まるばかりなのですが。
900 :
名無しさん@3周年 :2006/12/06(水) 09:14:18 ID:mp6yif29
>>894 それは思い込みです。
ホームページにバグが無いか、とか監修の形は色々有ります。
表現は自由ですので、法に触れていない限り問題ありません。
>>897 >そこで云う智慧と戒定慧の文脈で云う智慧とは同じものではない。
同じことである。
>でなければ波羅蜜の修行をしないものは智慧が得られないと言う結論になる。
その通りである。
>大乗唯一乗主義者なのね。
>>892
師(釈尊)は「是」を覚ったのではなく、 妄執輪廻から解脱して悟ったのである。
903 :
名無しさん@3周年 :2006/12/06(水) 10:18:46 ID:tydYHFyf
頭でっかちが なんぼのもんじゃい! ブッダ 悟りの境地 勝義諦 プギャー!プギャー!プギャー! プギャー!プギャー!プギャー!プギャー! プギャー! m9 m9 ノ) プギャー! プギャー! 川 m9 川彡'三m9 プギャー! プギャー! m9ミm9、m9ミm9彡m9 プギャー! プギャー!m9三ミm9(^Д^)彡三彡三m9 プギャー! プギャー! m9彡川m9彡川ミm9 プギャー! プギャー!m9彡川m9m9 m9川彡m9 プギャー! プギャー! (ノ m9 川 m9ミ) プギャー! プギャー! m9 プギャー! プギャー!プギャー!プギャー!
905 :
名無しさん@3周年 :2006/12/06(水) 11:28:51 ID:tydYHFyf
>>902 莫迦牟尼佛 ◆6.4oHoukEI =包茎を治せよ。
チンカスは阿呆陀羅經 みたいに不潔だぞwwwwww
906 :
名無しさん@3周年 :2006/12/06(水) 11:37:49 ID:tydYHFyf
>>902 >五波羅蜜の布施、持戒、忍辱、精進、禅定が
一つでも欠落したら智慧は得られんのだよ。
なにをエラそーに。
アダルトサイト常住のお前に説教されたくねーなwwwwww
907 :
名無しさん@3周年 :2006/12/06(水) 12:37:44 ID:67cOdIfu
おつむの吹っ飛んだカラスのナンタラも出禁なんだがwww
>>905-906 エロサイトといふか「がむしゃら」だな。
世の女は必ずしも包茎を嫌ってるわけではないのだよ。
うちの嫁さんの場合は風船にして遊んでますがねw
910 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/06(水) 12:48:29 ID:l04t/bAK
篩に引っ掛かりもしない足切りどもはさっさと消え失せるように(嗤笑)。
912 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/06(水) 13:32:25 ID:l04t/bAK
>>912 シリーズ20まで頑張ったのですから、もうそろそろ釈尊の本懐に到ったら宜しいかと思いますよ。
(老婆心ながら)
十二支縁起を逆観したとして、本懐に到るには至難なり。
それはあたかも双六(すごろく)の、「ふりだし」と「上がり」を往復するが如し。
私たちが自分を変えようとするとき、必ず陥るいくつかの〈罠〉があり、
それをはっきり自覚しないかぎり根源的な〈自己の変容〉はけっして起こらない。
<byクリシュナムルティー>
914 :
名無しさん@3周年 :2006/12/06(水) 15:34:29 ID:1GZKjgVf
915 :
名無しさん@3周年 :2006/12/06(水) 15:47:44 ID:67cOdIfu
出禁バカ どこへ行っても 出禁済みwww
唯識とは、見るものと見られるものが同じである、という洞察です。 あなたが世界だ。 <byクリシュナムルティー>
唯識というのは、論理がドイツ観念論に非常に似ている。
釈尊の「無記」も、その延長線にあるような捉えかただね。
今、ザットROMってみたら。
中観における「無記」の考えかたと全く違うのが印象的。
(電波先生の書き込みをよんでみて)
>>799
「知る」ということには、 知るものと知られるものとの分離、分別が含意されています。 これに対して唯識では、 そのような分別を虚妄なものとしてしりぞけます。 したがって「無記」とは「私の知らないもの」ではなく、 分離のない「明知」そのもののこと、ということになります。
>したがって「無記」とは「私の知らないもの」ではなく、 >分離のない「明知」そのもののこと、ということになります。 帰結点は中観と同じですね。
920 :
名無しさん@3周年 :2006/12/06(水) 17:17:07 ID:67cOdIfu
出禁バカ クビ爪はじきが 帰結点www
>>896 まず、検討資料の提示に感謝し、入力の労をねぎらいます。
無相唯識と有相唯識との両説があるということは聞いていますが、
「唯識有境」という言葉は初耳ですが、明確にそういう主張なのですか?
想定されるカテゴリーには、
@「存在する」、A「存在しない」、の他に
B「存在する、という主張の否定」、C「存在しない、という主張の否定」
というものがあり得ると思いますが、
引用文、「外界の存在否定A・・・はしませんC」を読む限りでは、
「外界を認め@」ているとは読めませんよ。
「外界の存在否定A」をしないC、というのは、
「外界の対象は存在しないA」と主張することはないC、
ということまでしか言ってないんじゃないですか?
また、「[唯]言者、爲<除>[色塵等]」「唯<遮>[外境]、不<遣>[相應]」の解釈においても、
「除」「遮」「遣」の意味することは、「外界の対象は存在しない」と明言している、と言えるのでしょうか。
「意味範囲から除外する」といった程度の意味でなく「外界無存在」の明言だ、とまで言えるのでしょうか。
mahAyAne "traidhAtukaM vijJaptimAtram" iti vyavasthApyate. > 大乗では > 「〔われわれが経験している〕三界とは > 認識された〔その内容〕に過ぎない」 > と言っている。 > とあり、「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」と続きます。 やっぱりitiがあったんですね。なんか変な構文だなと思ってた。 「外界の存在そのもの」「直接そのまま」「わけではない」ってなってますね。これだと、 「外界の存在」−−>「認識」、ではなく、 「外界の存在」(その実在性の有無は目下、問われていない)−−>「認識された内容」==>「認識」 ということになるのでは?
artha-pratiSedha-artham
artha(境)のpratiSedha(否定)のartha(目的)で。
このpratiSedhaは、前提としての或る論にprati(対して)異論をsidh(立てる)ということだとすれば、
この場合、artho bhavati. という論を否定したとみれば、
「境あり」の否定と「(〜は〜の)境である」の否定、と二様に解釈することも可能ではないでしょうか。
前者からは「境なし、の主張」または「境の有無については無記」、
後者からは「境でない、の主張」または「境であるか否かについては無記」
が導き出せるでしょう。
>>896 氏は「境なし、の主張」を採り、電波男氏は(引用された文から見ると)
「境<そのもの>でない、の主張」または「境であるか否かについては無記」を採っているようです。
上のこととは別に、
>心意識了は、名の差別だ
>意は心所を兼ねる
>ただ外境を遮す
を見ると、
外境‐了‐心所‐心意識
こんな感じかな。どこまでが心かの見解の違いで境界線も色々引けそうだけど。
話の流れが変ですね。 そもそも「認識」が何であるかを問わなければ。 そこがポイントなんですけど。 「認識」が何であるか明らかでないから、 実在するかどうかわからない外界を設定してしまうんですよ。 話が逆なんです。
>>887 > 唯物論に対する唯心論としてこれまで解釈されてきたのですか?
> よく見受けられるような、「存在するのはわが意識のみ」と唯心論のようなこと
というのは、仏教界での理解のことではなく、一般的なレベルで仏教思想に触れた記述での話です。
漢字の「ただ識のみ」だと、心の側の識だけがある、というように取られがちだ、ということです。
その識の原語には「知らせる」「表示する」と二種類の意味がありますが、
これなど心の内外両方からのアプローチとも受け取れるし、
そのうちの「表示する」を取ってみても、外界の表象と見るのか、
内部のアラヤ識の生み出す影像とするのか、に意見が分かれ、
はたまた「境識倶(とも)に泯(みん)ず」という、
外境だけじゃなく識をも否定する立場もあるようです。
>>914 -------------------------------------------------------------------------------------
307 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆c9KW8mn4ss 投稿日: 02/10/05 07:07
バウさん。本当に愚か者ですね。「遺骨崇拝、釈尊を本尊とせよ」と書いてありますか?
三十七菩提分法は阿含経典、大乗経典、大乗論書に貫かれて説かれている修道方法です。
絶対に勘違いしていますね。
それと教えてあげますが、六波羅蜜は大本経だけでなく、多くの阿含経典に説かれていますよ。
知らなかった?「六波羅蜜」で原始仏教と大乗仏教の境界線を引いていたのですか?
阿含部には六波羅蜜を越えた十波羅蜜まであるのですよ。
つまりね、釈尊が成道するまでの過去世を「菩薩」として捉え、その行を菩薩の修行として
六波羅蜜を置くのですよ。大乗の比較的後に成立したものや中国日本での大乗は別にして、
完全な文献で歴史を遡ると、世親が大乗として阿含経典を用いているのですよ。成仏の系譜
として阿含経典を眺めると、すべてが成仏できるわけで、釈尊の成道前の菩薩の姿を当ては
めることが出来ます。そこで六波羅蜜を勧めるのです。勿論阿含経典の中には四波羅蜜とかも
出てきますが、数の問題はその次です。少なくとも世親の時代では阿含経典は大乗経典の一群
であったのです。「大乗は阿含経典を小乘と貶した」と言う先入観がその眼を曇らしているのですよ。
六波羅蜜についてそのような知見しかなかったなんて、バウさんは勉強不足も良い所。これを
素直に聞きいれることが出来なければ、三帰している意味が全くありませんよ。
『大本経』にしても貶すような発言しか出来ない。我々研究者は経典の古層を割り出すのが仕事
の一つなのですよ。
--------------------------------------------------------------------------------------------
らしいですが、どんなもんでしょうか?
わたしは、これの真偽を計る程通暁していませんが、大正大蔵経一巻と二巻を波羅蜜で検索したら16程ヒットしました
増壹阿含經/卷第十九 645-b 3
訶薩成就幾法而行檀波羅蜜具足六
波羅蜜疾成無上正眞之道佛告彌勒若
菩薩摩訶薩行四法本具足六波羅蜜疾
>>924 >実在するかどうかわからない外界
は、
>>896 >外界の対象は存在しない
とは見方が違いますね。
「認識」ってこれのことですか?
>>916 >見るものと見られるものが同じ
>>918 >知るものと知られるものとの分離、分別 >を虚妄なものとしてしりぞけます。
これって唯識の認識論なんですか。それともクリシュナムールティの?
>「無記」とは「私の知らないもの」ではなく、 >分離のない「明知」そのもののこと
これも分かりづらいので、もう少し敷衍して説明してください。
一般的な十四無記や善悪無記などの用法とは別のようですが。
>世親が大乗として阿含経典を用いている 『佛教学辞典』の「大乗」の項目に 「阿含経では佛の教えを(大乗と)いう」とあった。
汚泥に染まぬ蓮華 破戒者であった羅什三蔵、しかし彼の訳した大品般若経・法華経・阿弥陀経・中論・大智度論等々は光を放つ 罵詈雑言の中からも本物の宝物、法宝を見つけよう どのような泥池から生じようと、汚穢に汚れぬ法という蓮華は咲く
>>926 ちょっと訂正します
大正大蔵経一巻と二巻を波羅蜜で検索したのですが
一巻目ではヒットはなく、二巻目で十六個ヒットしました
あるいは一巻目の方には、違う言葉で波羅蜜が言われているのかも知れません
検索キーを思いつかないので、とりあえずここまでですが
931 :
名無しさん@3周年 :2006/12/06(水) 23:09:43 ID:AcYAOiDX
>>926 一例を挙げれば:
孔雀経(Morasutta)
皆さん、菩提の糧(菩薩の十波羅蜜)を充たし、孔雀に生まれ、護経によって守護の身仕度
をした大士(菩薩)を、狩人たちは(捕えようと)長い間努めたが、決して捕えることが出来
なかった。最勝の呪文(梵呪)と説かれた、その護経を誦えよう。──パリッタ
>>927 >これって唯識の認識論なんですか。それともクリシュナムールティの?
両方です。
唯識論では「虚妄分別」といいますね。
いろいろ書こうかなと思ったけど
ちょっとスレの流れを俯瞰してみます。
すみません。
お邪魔しました。
>>721 対応パーリ経典、相応部 12.67 蘆束(nalakalApiya)
パーリ文では二つの蘆束、説者はサーリプッタ。
尊者摩訶拘[糸希]羅(まかくちら)mahA-kauSThila
仏弟子。弁才にすぐれ、人の問難にうまく答えて名を知られた。
サーリプッタの母の弟で、長爪梵志といった人物。
それなら、サーリプッタが質問したという漢訳の記述も違和感がないか。
また漢訳のように、名・色と識で三束の方が葦束が立ちやすいということもある。
縁起の支分が十二でないこと、名色と識との関係を重視していることが注目されます。
934 :
名無しさん@3周年 :2006/12/07(木) 16:35:25 ID:9NfZ+TQ2
____ ,.'"´ ``ヽ / `、 /^ト、 ,′ i / | ヽ _,,j,,,_ニニ二ニー,,,, | | i `ーrー' `''⌒ヾミヽ rー、| | | 午ン冫 にニ''ー‐' ハリ l. | ノ`7´ ´`~ レ' 1 / | . | L_,,,ゞ、 i 1_ノ ト、/ | | f´ rーュ_``ヽ`, ,' ,' / /l | ヽ ⌒ ノ,ノ / / /// L_ \⌒ _,、 ' // / / /`「斤<´ // / /价 ,.ィ个 i | 1 // / /价公 /公レ!. | | レ'"/ // /价公 价公价l. | | |/ / / /价公价 价公价i | | / / /价公价 价公价| | | / / /价公价公 价公价| | |/ / ∠只⌒)公价 無名 解脱者
>>927 >これも分かりづらいので、もう少し敷衍して説明してください。
>一般的な十四無記や善悪無記などの用法とは別のようですが。
これは、般若心経における「羯諦、羯諦、波羅羯諦〜」のとこですよね。
真言における、いわゆる心経にとってのクライマックスな部分です。
原始佛教としては少々スレ違いになりますので詳細は控えますが、
いわゆる「彼岸へ逝け」という意になります。
インド思想とは実に素晴らしい!
釈尊、菩提達磨、龍樹、ガンジー、マザーテレサ、クリシュナムルティー、
やはりこういう分野では、日本人はかなわんですよ。
936 :
名無しさん@3周年 :2006/12/07(木) 18:07:28 ID:rvIg6cdP
寒空の 下行き倒れ 出禁バカwww
>>899 >『唯識二十論』の vijJapti は「知覚、了解」を意味します。
vijJaptiを原義の「知らしめる、示す」から解きほぐそうとするのは、「瑜伽行派の術語としての
意味が固定化する前のもの」として、vijJaptiを探る試みと思ってください。
世親が丁寧に倶舎論「而非表示 令他‘了知’ 故名無表」と唯識二十論「心意識‘了’
名之差別 此中説心 意‘兼心所’」でそれぞれ説明してくれているような点ですね。
それから、無表色、無表業・戒体との関連も、考究すべきと思います。
なぜavijJapti-rUpa無表色を強く連想させるvijJaptiが採用されたのか、という点。
>vijJapti-mAtra・・がなんで原始仏教を論じることになるのか
阿含経での心意識のありよう(境との関係)を解き明かすため、
唯識二十論でそれらとvijJaptiを同義としたことの意味合いを探るためでしょう。
つまり、唯識は帰納法なわけですね。 中観は演繹。 双修にしたら、もっと佛教理解にはいいかと思ふ。
939 :
名無しさん@3周年 :2006/12/07(木) 19:46:20 ID:rvIg6cdP
シッタカも 行き倒れまで 出禁バカwww
佛説十地經にある、
>為如實説 諸菩薩地 安立善巧。
>謂即十地 安立解釋。
>謂於諸地 安立法中 自所證智。
などの「菩薩地に於ける安立」ということを前提にして、唯識二十論の「安立大乗」を見ると、
もし「大乗」を「仏の教え」や仏乗・菩薩乗などと読み替えられれば、
「菩薩地で安立するならば・・・三界唯識」と世親は言っている、ということかも知れない。
なにやら、「勝義諦では」という中論派の前提句のような感じだけど。
-----
ttp://www.classics.jp/Contents/Assets/publication/NLpdf/NL08/NL08RP3.pdf インド大乗仏教瑜伽行学派における聖典(アーガマ)継承の研究 ―雑阿含から摂事分へ―
> インド大乗仏教瑜伽行学派は,あまたの阿含聖典のなかから,雑阿含経典を中心に自派の思想形成
> の拠り所となる聖典を取捨・選択した。それらの聖典は「摂事分」として集約され継承されている。
> 『顕揚論』第一章「攝事品」には教証として雑阿含もしくは中阿含経典が多々引用される。
> 教証としての雑阿含経典の引用(「比丘尼經」「取自心相經」「[晏鳥]經」
> 「般若経の二諦説」と称される「世俗・勝義の二諦に基づいて仏法が衆生に説かれる」と云うテーマを,
> 『顕揚論』「摂淨義品第二」(第3偈)はいわゆる大品系般若経から継承する。
> 重要なことは,『顕揚論』が世俗・勝義の二諦の枠組みのもとに三性説を説いていることである。
> 「三性説」というこの学派固有の根本教義が聖典に基づくこと,すなわち仏陀の直説であることを主張しようとしたのである。
> なおこの「般若経の二諦説」が『中論』第24章第8偈にも説かれることはよく知られている。
941 :
名無しさん@3周年 :2006/12/07(木) 23:35:05 ID:9NfZ+TQ2
>>939 枯れ木も山の賑わい。
まともな教養、人生省察をお持ちなら、
議論に御参加下さい、歓迎ですよ。
ただ現状は、妨害電波男と同じく目障りです。
慈悲の瞑想を !
942 :
名無しさん@3周年 :2006/12/07(木) 23:52:55 ID:rvIg6cdP
出禁バカ 落書きバカとも スレのゴミwww
943 :
名無しさん@3周年 :2006/12/08(金) 00:24:16 ID:rnXnwHDO
12月8日を成道会とするのは、北伝仏教だけ?
私は、正直なとこ阿頼耶識のことは分からない。→検索する気もないが。 たぶんこんなことかと推測する。 ユングの集合意識に通ずるものかな? (胸騒ぎとか、虫の知らせとか、シンクロ二シティーとか経験的に人間が感得してきたもの) あと現代的にいうなら、DNAは人類の歴史的情報をプログラムしているので、 古代においても、こういうことは経験的に人間は知っていた。 例えば、赤子が学習しなくても母の乳房に吸い寄せられ、また、 嗅覚で、他人と母の分別が出来る本能とか。 ただ、ユングは神秘主義としてマイナーなイメージが付きまとう。 唯識は佛教としてメジャ―な感じで学術?的な風味。 まあ、私は両者ともさほど差異はないような感じなんだが・・・
945 :
名無しさん@3周年 :2006/12/08(金) 08:29:57 ID:i9gEtnSP
>>943 中国仏教系だけ。チベットも違う。誕生会も涅槃会も違う。
946 :
名無しさん@3周年 :2006/12/08(金) 09:59:00 ID:NPMdiR41
転迷開悟 ゴータマ・ブッダ誕生 まこと熱意をこめて思惟する聖者に かの万法のあらわとなれるとき かれの疑惑はことごとく消え去れり 縁起の法を知れるが故なり(ウダーナ)
947 :
名無しさん@3周年 :2006/12/08(金) 10:11:41 ID:1GgI1eGi
出禁バカ 土下座も効なく 失脚しwww
唯識二十論で >安立大乗 三界唯識 >以契経説 三界唯心 と述べられた理由ですが、まず下段の教証について。 これは「三界唯心」と聞けば、すぐに佛説十地經の >所言三界此唯是心 (卷第四) >了達三界唯是心 (卷第五) などを想起させるほど、よく知られていたのでしょう。 上の「聖典(アーガマ)継承の研究」で書かれているように 「具体的な引用経典名などは周知のこととして省略されている」 ということでしょう。 >『解深密経』で vijJapti-mAtra と述べられる 唯識二十論は、「境と識との関係」についての問答が中心テーマとなっているので、 境に関わる「三界」という語を主張の中に書き入れたかった、と思われます。 その点で、下記の経文だとはっきりとは打ち出せない、と考えたのではないでしょうか。 また、十地経の「三界唯心」の「心」をvijJaptiと同義と判断したからこそ、 「三界唯識」と安立できたのでしょう。 異訳 深密解脱経「但是【心意識】觀得名」〔ただこれ心意識の観じて得名す(=?現ず)〕 解深密経「彼影像【唯是識】……識【所縁】【唯識所現】」〔かの影像はただこれ識……識の所縁はただ識の所現〕 [cf. 成唯識論所引厚厳経「【心意識】【所縁】、皆非離自性」〔心意識の所縁は、みな自性を離るるに非ず〕]
解深密経の「一切種子心識」は、仏説十地経に言う、 >識為種子名色芽〔識を種子となして名色 芽ぶく〕 >生時初心名為識〔生時の初心を名づけて識となす〕 といったこと、さらには雑阿含経 巻12(288)に通じますね。 >識縁名色 亦復如是 展転相依 而得生長 なお、vijJaptiという語が選ばれた理由として、 prajJapti (仮)との連想・連関もあったのではないかと思います。 仮の顕現として、対境の表われを捉えた、と。
950 :
名無しさん@3周年 :2006/12/08(金) 22:20:14 ID:w7Ed71If
>>900 違法とは言ってませんよ。 非良心的ハッタリであることには変わりないでしょう。
ちゃんと人の文章は読んでください。
自演も悪質なハッタリも明らかで、仏典読解能力もないと分かった彼を擁護するのは何故?
951 :
名無しさん@3周年 :2006/12/08(金) 22:21:09 ID:w7Ed71If
>>921 >>922 「唯識有境」私が読んだ彼の説の印象で、勿論皮肉です。
前にも指摘したようが、詳細に指摘すれば以下のように間違いだらけです。
1. mahAyAne "traidhAtukaM vijJaptimAtram" iti vyavasthApyate.
還梵であることを意識していないことと、勝手に iti を挿入してテキストを読み替えている。
以下のように蔵訳にも漢訳にも引用、直接話法を意味する言葉は見あたらないので、
蔵訳・漢訳からテキストを修正したという可能性もまったくない。文献学で、やってはいけないことです。
theg pa chen po la khams gsum pa rnam par rig pa tsam du rnam par gzhag ste /
大正1590 : 安立大乗三界唯識。
大正1589 : 於大乗中立三界唯有識。
2. 大乗では「〔われわれが経験している〕三界とは認識された〔その内容〕に過ぎない」と言っている。
iti を付加してテキストを読み替えたとしても誤訳があり、且つ勝手に言葉を補って意味を変えている。
既に述べたように vijJapti には「認識された」と過去あるいは受動を意味する語形素はないので誤訳である。
vyavasthApyate を「言っている」とは訳すのは誤訳である。
以上からサンスクリットのレヴェルが初級に達してないことが明白です。
952 :
名無しさん@3周年 :2006/12/08(金) 22:23:07 ID:w7Ed71If
3. とあり、「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」と続きます。 既に指摘したように一体、どこを読んだらそう読めるのか、私には見当もつきません。 完全な誤読であり、全く信用できません。しかも世親・唯識が彼の専門分野です。 専門分野でこれじゃ、他はより信用できないのが明らかでしょう。 私は唯識は全く素人、サンスクリットも初級です。ですが上の読みで、はっきりと彼よりはマシなのは分かります。 こんなレヴェルの人が以下のようなことを人に言うのはお笑いです。 >>サンスクリットを訳せない場合、もうここには参加するな。 >>それはあなたの能力を超えているが故に論じません。 自分がたいした能力を持たないことを自覚しないと、肥大した自我を甘やかして、 いつまで自我を護って自演、罵倒、ハッタリ、誤読、虚勢を続けるのか? 自我などないと悟らせるために、唯識は実体などなく知覚のみと宣言したのではないのか? いったい何のために仏典をよんでいるのが、無我でなく自我のためか? 全く倒錯している。
953 :
名無しさん@3周年 :2006/12/08(金) 22:25:23 ID:w7Ed71If
>>921 >>923 >>927 「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」というのは、
典型的な所謂「経量部説」ですね。例えば『タルカ・バーシャー』に説かれるような。
あるいは仏教論理学派(=有相唯識)の世俗諦ですね。
彼らはプラマーナ・シッディのために、つまり共通の論理領域として外界を認めざるえなかったのでしょう。
> また、「[唯]言者、爲<除>[色塵等]」「唯<遮>[外境]、不<遣>[相應]」の解釈においても、
> 「除」「遮」「遣」の意味することは、「外界の対象は存在しない」と明言している、と言
> えるのでしょうか。
> 「意味範囲から除外する」といった程度の意味でなく「外界無存在」の明言だ、とまで言
> えるのでしょうか。
『唯識二十論』偈頌だけでいいので、通読してみてください。
「外界無存在」あるいは「外界不成立」「対象不成立」の論証以外の何ものでもないことが、
はっきり分かると思います。「外界無存在」に対しての論敵からの反論が以下、
T31n1590_p0074c03(00) 若識無實境 則處時決定
T31n1590_p0074c04(00) 相續不決定 作用不應成
反論に対して例を挙げて退けるのが、以下。
T31n1590_p0074c15(00) 處時定如夢 身不定如鬼
T31n1590_p0074c16(00) 同見膿河等 如夢損有用
他ならぬ「外界無存在」論証こそ『唯識二十論』でしょう。
954 :
名無しさん@3周年 :2006/12/08(金) 22:26:01 ID:w7Ed71If
>>937 あの、
>>899 ではヴィヤーカラナによる語源分析もしてますが、 主たる根拠は『中辺分別論』『倶舎論』 の用例と
その漢訳と蔵訳です。つまり世親が使い分けていたこと、シナ・チベットでもハッキリ区別して使用していたことが分かります。
つまり、語源も用例も一致して区別される訳です。但し、サンスクリットの語形は同じなので、
漢蔵によって確認しながら読めば誤らずに意味を確認できます。
『唯識二十論』vijJapti-mAtraM 『解深密経』rnam par rig pa tsam の vijJapti は「知覚、了解」を意味し、
「表示」を意味しないのです。これは漢蔵から明らかで、もっと用例を詰める必要がありますが、
vijJapti-mAtraM、rnam par rig pa tsam といった場合の vijJapti は「知覚、了解」を意味することで間違いないと予想されます。
なんで以下のようなことが言えるのか、私には分かりません。
> 阿含経での心意識のありよう(境との関係)を解き明かすため、
> 唯識二十論でそれらとvijJaptiを同義としたことの意味合いを探るためでしょう。
「 阿含経での心意識のありよう」は、 阿含経から解き明かす以外ないと思われますし、
「唯識二十論でそれらとvijJaptiを同義としたこと」は、直接原始仏教には関係ないでしょう。
955 :
名無しさん@3周年 :2006/12/08(金) 22:26:35 ID:w7Ed71If
>>948 一体、何が仰りたいのか分かりかねます。
956 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/09(土) 01:07:34 ID:gMas9k7F
>w7Ed71If 対人言及てんこ盛りの、数年越し怨恨報復活動ご苦労さんです(笑)。
958 :
名無しさん@3周年 :2006/12/09(土) 06:21:07 ID:OL25DKXc
>> 阿含経での心意識のありよう(境との関係)を解き明かすため、 >> 唯識二十論でそれらとvijJaptiを同義としたことの意味合いを探るためでしょう。 う〜む、なるほど。 つまり、原始佛教スレを継続しておったのは、こういうことが分らんかったのですね? で、どうにかこういうことを知りたいと、 こういうことを考えておったのですね? 六識なら、やはり堺目は気になりますね?当然です。 う〜ん、中観だったら問題にもならんのだが・・・ 「まさに住まるところなくして、その心を生ずべし」。ということか。 これならスッキリする。 とにかく、唯識の書き込みずいぶん参考になりましたm(__)m
961 :
名無しさん@3周年 :2006/12/09(土) 10:33:50 ID:VA8br+7L
二畳半
962 :
名無しさん@3周年 :2006/12/09(土) 10:35:05 ID:VA8br+7L
二畳半 連れ込み自慢 出禁バカwww
963 :
名無しさん@3周年 :2006/12/09(土) 10:36:46 ID:90LB7Tey
いや〜、勉強になるな。 もっとも、成道には全く役立たずなトリヴィア知識がほとんどだが・・・
964 :
名無しさん@3周年 :2006/12/09(土) 12:22:13 ID:90LB7Tey
12月8日は ゴータマ・ブッダ成道の日であり 真珠湾攻撃の日であり ジョン・レノンの命日であった。 諸行無常 生きとし生けるものが幸せでありますように 合掌
>>932 にヒントが書いてありますね。
>唯識論では「虚妄分別」といいますね。
「虚妄分別」で語ちても所詮は無理なんですが、あえてこれを私は「論理矛盾」というておるのです。
この世俗諦より透過しまして第一義空諦へと悟入して逝くわけです。
その前程となるのなら、もはや論理矛盾も致しかたあるまい。
この方法(手段)を方便などと言うたりしますが、
彼岸に到れば、こういうことも捨てきっていいわけです。
967 :
名無しさん@3周年 :2006/12/09(土) 12:42:13 ID:VA8br+7L
尻穴も イイぞと自慢 出禁バカwww
彼岸に至れば捨てるものなし。合掌
969 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/09(土) 16:08:26 ID:gMas9k7F
970 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/09(土) 16:28:03 ID:gMas9k7F
尤も話に火が点くのは上掲スレのレス875以降ですが・・・。 終いの辺で「ちっ、憶えてやがれ」という風な三下チンピラ状の捨て台詞を吐いている、 えずくろしい輩が現れます(苦笑)。
>>951 >1 >勝手に iti を挿入してテキストを読み替えている。
これはあなたの誤解だと思いますよ。
チベット訳では於格助字(--- du rnam par gzhag ste の du ) が相当する。
漢語では直接話法を指示するための文字を使用する必要はない。現代中国語でも
古典でも同じ。
>2 >過去あるいは受動を意味する語形素はないので誤訳である。
質問です。 vijJapti の t は ppt. の接辞 ta の t が残存したものとは考えられないですか?
つまり vi-jJA の p-causative の ppt. vijJapta を女性名詞化する時に語尾の母音 a を i に
変えた形ではないかということです。
>>971 vijJapti の語形変化の手順ですが、
考えてみたのは、vi-√jJA-が、使役形の語幹vijJapaya-になり、それに
名詞化の語尾-tiが付くのですが、その際に過去分詞形vijJaptaにするときと
同じ形のvijJap-に-tiをつける、と解釈していましたがどうでしょうか。
これだと、知らしめること・もの、示すこと・もの、という意味になると思います。
自動詞か他動詞か、とか、誰・何が誰・何に何を知るようにするのか微妙な問題ですが。
使役形の語幹 vijJApaya- 知らしめる; vijJapaya- 知らしめる、示す vijJapti, vijJaptaの形になると、どちらの語幹から派生したか分からなくなります。 前者からの派生ならば、示すこと、という意味は出てきません。 倶舎論の当該引用箇所は、avijJapti-rUpa(無表色)についての記述のようなので、 後者からの派生ということでしょう。 唯識としてのvijJaptiも、唯識派の体系としては、どちらから派生したのか 厳密に確定するのは難しいと思いますが、いずれにせよ、 アラヤ識がらみで概念が発展・確立し固まっていった、ということではないでしょうか。 識を縁として名色があり、生長するを得る、という雑阿含の文言を 識をアラヤ識と見、名色の色(名もそうかも知れませんが)を外境と見て、 外境を「識から生じたもの」という風に解釈し、唯識という概念に至った、という事情なのかも知れません。
>>968 「捨てきる」も「捨てるものなし」も論理矛盾なわけです。
矛盾を承知のうえで、私は書き込みしとるんです。
真意は還滅にありまして、そのように了承いただけることを以心伝心とかいう。
この伝統を教外別伝とかいいますが、
ようするに唯識においても、こういったスキルにて拝すること肝要なり。
これも般若ですよね。
全てに通じるわけですから、やはり空諦こそ第一義なるわけです。
975 :
名無しさん@3周年 :2006/12/09(土) 18:19:01 ID:VA8br+7L
望まぬ子 堕胎奨める 出禁バカ このシャバに 居場所皆無の 出禁バカwww
いずれにせよ、この葦束の比喩は、中観・唯識両派の成立の契機として大きな意味がありそうですね。 中観には、相互依存関係として縁起を見るキッカケとなり、その縁起を用いて無自性を説明し、 さらに無自性を用いて空を説明する、というように。 唯識には、識があって色が生じる、ということで、色(三界)は識の所産である、三界唯識、となって、 さらには識とは、そもそも何かということから、六識やアラヤ識、ウダナ識(、アンモラ識)など 内面探求のキッカケにもなった、のではないでしょうか。
977 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/09(土) 18:25:16 ID:gMas9k7F
>>976 「稲竿經」類との関連なども興味深いでしょうね。
>>976 >いずれにせよ、この葦束の比喩は、中観・唯識両派の成立の契機として大きな意味がありそうですね。
相対性理論でいうたら、動態観察と静態観察の違いですね。
つまり視座の違い。
というても・・・
空諦においては視座そのものが空諦となりますから、
いわゆる観察者そのものを対象化するわけにはいかん。
というておるのが龍樹なんですね。
アインシュタインの相対性理論は、すでに2500年も前に釈尊によって発見されていた。
いや〜、驚くべきことです。
979 :
名無しさん@3周年 :2006/12/10(日) 10:46:54 ID:qrfWNZOV
子堕しも 罪咎なしと 出禁バカ 大病も 自己宣伝の 出禁バカ
980 :
名無しさん@3周年 :2006/12/10(日) 10:56:33 ID:qrfWNZOV
子堕しも 罪咎なしと 出禁バカ 大病も 自己宣伝の 出禁バカ
981 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/10(日) 12:05:20 ID:pD4KDzz/
>ID:qrfWNZOV まあ、えらい剥き剥きで身も蓋もないこと言わはりますけど、えずくろしい外道壁蝨の身から出た錆ですさかい 仕様おへんやろ。ネット世間からさっさと消えへん限り付き纏われる旧悪でっしゃろな(苦笑)。
vi- √jJA- Nic(parasmaipada活用)の接辞-aya ktin(kRt接尾辞)の-ti rnam-pa --- piece, part rnam-par --- into the pieces, etc. (<- vi-) rig-pa --- verb, to know, to understand ; substantive, knowing, knowledge , soul (probably only in later literature) rnam-par rig-pa ナンパルリクパ --- as a verb(動詞), to know fully, to understand thoroughly. as a substantive(名詞), <但しここではSkt. vijJAnaとなっている> consciousness; in philosophy : one of the five phun-po (五蘊), perceptions, cognitions ; in popular language : soul, e.g. of the departed(故人), (later literature and colloquially)
>>977 「稲竿經」というと、龍樹の「廻諍論」での引用「縁起を見る者は法を見る」というのが思い浮かびますが、
この法というのが、事物(の本質を見る)なのか、真理の方なのか、「見る」の理解によっても
違ってくると思います。
縁起を見る、ということに関連して、次のような記述がありました。
> この行為を、あるがままに見る。
> かれらは縁起を見る者であり、業とその報いとを熟知している。(Sn. 653-654)
> 執着のこだわりを嬉しがっている人々には、これを条件として彼があること、
> すなわち縁起という道理は見がたい。(SN. VI.1.1)
> 「縁起を見る者は、法を見る。法を見る者は、縁起を見る」MN. Vol.I, pp.190-191
> 「世尊、亦如是説。若見縁起、便見法。若見法、便見縁起」中阿含経巻7、大正1、p.467上
「稲竿經」の漢訳を3種類ダウンロードしたまま、まだ読んでいないのですが、今週中には読みたいと思っています。
上記の外、何か留意して読むべきところはありますか。
なにを仰いますか? わたすは今まで、令嬢と明鏡止水にて悠久の時空を戯れてきたんですよ。 庭先では、水仙やヒヤシンスが春の訪れを待っておるというのに、 メクラではこういうことも通り過ぎる。 不風流処也風流とか言うんですけど、 品格というのは無為に顕現するもんです。 これは意外に人生では大事なんです。 そのために良家では、お茶とか、お花とか、お料理とかを習得するんですから。
985 :
名無しさん@3周年 :2006/12/10(日) 13:20:52 ID:qrfWNZOV
出禁バカ 言い訳効なく 失脚しwww 繕えど もはや手遅れ 出禁バカwww
986 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/10(日) 13:32:13 ID:pD4KDzz/
>>983 T16n0712_p0823b20(00)?佛説大乘稻[艸/干]經
T16n0712_p0825b10(04)?此中業及煩惱。能生種子之識。業則能作種子識田。
T16n0712_p0825b11(01)?愛則能潤種子之識。無明能殖種子之識。
あたりの唯識思想との関連など興味深く思います。
「大乘」と銘打たれていることも含めて。
987 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/10(日) 13:40:28 ID:pD4KDzz/
追記 上掲の經には「蘆束の譬喩」もみられます。 T16n0712_p0824c07(03)?名為空界。五識身相應。及有漏意識。猶如束蘆。 T16n0712_p0824c08(01)?能成就此身名色芽者。名為識界。若無此衆縁。
988 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆xd7mxrd9Z6 :2006/12/10(日) 13:50:08 ID:l/6jiWtx
法学板やオカルト板で”ネカマ”がばれた御仁がとうとうと原始仏教を 説いておりますが、お釈迦様はなんとお思いでしょうねえ。 私も決して褒められた日常生活をしているわけではありませんが、 ああも赤裸々にネカマがばれたらハンドル変えるか、自殺してますな〜。 よくもまあ面の皮が厚い〜〜。
989 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆xd7mxrd9Z6 :2006/12/10(日) 13:52:28 ID:l/6jiWtx
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQさんヤツには失望しましたよ。 簡単に白旗をあげて縁を切っていました。 まぁバックレられないように全部逃げ道をふさいだから諸手をあげて 化けの皮をあらわしたんでしょうがね。 そのうちまとめてアップする予定ですからそれを見て判断してください。
990 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/10(日) 13:55:04 ID:pD4KDzz/
ところで止観の観は、普通の思索とは質が違うのかなあ…
原始佛教 その19
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1160400642/988 988 名前:波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆xd7mxrd9Z6 [] 投稿日:2006/12/10(日) 13:50:08 ID:l/6jiWtx
法学板やオカルト板で”ネカマ”がばれた御仁がとうとうと原始仏教を
説いておりますが、お釈迦様はなんとお思いでしょうねえ。
私も決して褒められた日常生活をしているわけではありませんが、
ああも赤裸々にネカマがばれたらハンドル変えるか、自殺してますな〜。
よくもまあ面の皮が厚い〜〜。
994 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/10(日) 15:37:20 ID:pD4KDzz/
空疎な藁人形をでっち上げて必死に釘打ち、鬱積したルサンチマンを晴らした気になってる間抜けチンピラが 徘徊彷徨してますな(苦笑)。
995 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/10(日) 15:44:57 ID:pD4KDzz/
996 :
名無しさん@3周年 :2006/12/10(日) 15:46:12 ID:wfjT2NtC
>990スレ違いのルサンチマン発散は余所でどうぞ。 >994空疎な藁人形をでっち上げて必死に釘打ち、鬱積したルサンチマンを晴らした気になってる間抜けチンピラが徘徊彷徨してますな(苦笑)。 一体、誰が「ルサンチマン」を「発散」しているのか? 何が「藁人形」で、誰が「間抜けチンピラ」か? 最低人類0号 :sage:2006/12/05(火) 21:52:36 ID: JIi9Kjff (1) > 創価大で免職になった男が個人的恨みで自分をアンチ、と謳っているだけで > 実態は創価に疑問を持つ人の親睦会、といった感じ。 > 脱会工作なんて任せられる器ではない。また本人も、それが建前である事を認めている。 > 電波男は、罵倒による憂さ晴らしと、女を口説く事を目的として固定を続けている。 同じく「ルサンチマン」によってオカ板で罵倒による弱い者虐めを行っていた電波男=バスタは、 原告に攻撃されたのを根に持ち、裁判による人助けの「藁人形 をでっち上げて」 「ルサンチマン」を「発散」していた。「間抜けチンピラ」は他ならぬ電波男とその子分、阿呆陀羅經の君だ。 >956対人言及てんこ盛りの、数年越し怨恨報復活動ご苦労さんです(笑)。 このスレを見る限り貴方の発言の90%は下劣な「対人言及」のようだが、自分のことは棚上げか? >657 読解力学習能力ともに外道壁蝨並に皆無であることが露呈しておりますことで(失笑)。 以上のように電波男が「読解力学習能力ともに外道壁蝨並に皆無であることが露呈し」た。 また、波木井坊竜尊さんが言うように自演は完全にばれている。そして君が挙げた >969 の言語学者なんて 完全な自演だろう、なんだい言語学で「形容詞化」(笑)なんて用語聞いたことない。全く言語学的ではない。 知識や誤解の程度も電波と全く同じだし、言語学を学んでないのは明らか。自演と思わないのか分からない。 君はなんで認められないのか? このまま 電波男と心中したいのか? もう言わないからね。よく考えて。
997 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/10(日) 15:49:47 ID:pD4KDzz/
はいはい、さっさと癲狂院(勿論ネット環境無し)へ帰りましょうね。おやすみなさいお大事に(冷笑)。
998 :
名無しさん@3周年 :2006/12/10(日) 16:02:51 ID:wfjT2NtC
>>957 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k
>
>>954 > はい。やり直し。
早めに間違いは認めるものだ、君の欠点はそこにある。そして自分で言ったことぐらい守ろう。
>>814 > 非論理的だと断じるからには、その論理構造の瑕疵を指摘し、虚偽構造を明らかにしなければならない。
> またナンセンスと言うのであれば、その内包されている関連項目を列挙し、説明、例示を加え論評
> しなければならない。
私が間違ってるなら根拠を示して、論理的に説明したらどうかな。
「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」という記述が『唯識二十論』にあるなんて
蔵訳か漢訳をコピペするだけで済むのだから。できなければ「間違ってました」と言えばいいだけだ。
999 :
名無しさん@3周年 :2006/12/10(日) 16:04:02 ID:dD4nSB1/
まして電波男のようにバレバレのネカマは演じません!(ワラ)
317 名前:波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆xd7mxrd9Z6 [] 投稿日:2006/12/10(日) 13:35:26 ID:lhOl5ncO
>>315 私は名無しではかきませんよ。
まして電波男のようにバレバレのネカマは演じません!(ワラ)
私には”事務所の近隣の川向こうあたりから電波ジャックされた、なんて
電話では言い訳してましたけど、微弱電波の無線LANで川むこうからの電波ジャックは
物理的に不可能です。(苦笑)
1000 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/10(日) 16:04:40 ID:pD4KDzz/
監理の悪い癲狂院があったもんだ(苦笑)。
1001 :
1001 :
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