■原始仏教談話室 その5■

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129無宗だ ◆4eP.G3wMrs
>>125-126
つまり、

>>123 :名無しさん@3周年:2006/11/29(水) 12:21:16 ID:6rUo32hq
>  フッサールは、自分の外側に「客観」的な事物が存在するのではなく、
> すべては自分の意識に現れ出るものだという。
と同じ立場ということですね?

・生物が絶滅しても夕焼けは赤いだろうか。
・無人の森で木の倒れる音はするのだろうか。
といった問いには、
認識主体が存在しないところに、認識対象は存在しない
と応えるわけですね?

私は、「自分の外側に「客観」的な事物が存在する」と考えます。
だから、赤いし、音はすると考えます。

>  そして、どうも、色が無くして、心があるということも言えないのではないかという気がする。
私は、脳がなければ、高度な思考はありえないと考えます。

そういう意味で
> 色が無くして、心があるということも言えない
と考えます。
130名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 20:54:46 ID:KKCQ+PQI
やはり違うと思う。
色があるかどうかどうして知るのですか?
心を通して以外無いでしょう?
だったら、やはり、色は心の範囲内にあるのであるといわなければならないでしょう。
 唯識と中間派の領域に入っているのではないでしょうか?
131名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 20:58:14 ID:KKCQ+PQI
>>130つづき
色は心から独立して存在し得ない。
132名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 21:07:51 ID:uX/mPvw8
>>131
それは、五蘊の色だよね?
六境の色も?(他五境も同様だが・・・)
それって独我論?
133名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 21:32:24 ID:KKCQ+PQI
>>132
 六境の色も同じことであると思います。
134名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 21:36:46 ID:uX/mPvw8
ということは、仏教は、
菩提樹の下から既に唯識だったということか・・・。
135名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 21:46:20 ID:KKCQ+PQI
目が無くして色は無い。
色が無くして眼は無い、とはいえない。この色は他の根により既に認識されているもので、
それは具体的に、あるものがあるとか無いとか想定しているのであり、それが無い時眼が無いとか、それが無い時
眼があるとか言っているに過ぎない。つまり、色はひとつのものばかりではないのであり、しかもあるものが無い時
眼が無いとかあるとか言う様に要求しているが、他に色がある以上色は必ずあるのであるから、そして、それは心により認識されているのであるから、
人を騙してここに有る色はないと言っても、無益な仮論である。即ち心により認識された色は必ずあるのである。
心がなければ色はない。
136名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 22:04:49 ID:KKCQ+PQI
>>134
 そう考える方が、合理的であると思いますね。
仮に主体客体があるとしても、それを認めるのは何でしょうか?やはり心でしょう。
そして両者を空ずる判断は必須なのですから、そして、空ずる対象は、あると思っている心です。
原始経典においても、唯識に基づく真理の教えが多くないですか?
137名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 22:56:26 ID:uX/mPvw8
>>136
本スレ(或いはその先)へ持っていくべきかもしれませんね。
教証の精査をして貰えるかもしれません。