1 :
名無しさん@3周年 :
2006/04/21(金) 22:52:21 ID:KPC7PWFf
>>1 ,,,,,,iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiilllllllllllllllllllllllllii
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3ゲットしたくない >>死ね。
4様 フォーおまんこしたい。
5 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 22:31:44 ID:JNMBvcDQ
あげ
6 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 22:39:23 ID:zzjxP3b6
◆『自己喪失の体験』 バーナデット・ロバーツ (紀伊国屋書店) 1989年
バーナデット・ロバーツは、キリスト教徒だが、あきらかにここには、「自己」超越の体験が語られている。岡野氏のいう霊性の体験。
いっぱんに「自己」超越体験は、覚醒・至高体験の事例集からもわかるように、ほとんどは強烈な喜び、歓喜に満ちているが、
ロバーツの歩みは、歓喜と凍りつくような虚無、静寂、苦しみの体験が交差する。
自己を超えて覚醒へと至る道は、こんなにも大変なことなのか。
彼女は、自己を失ったあと「それ」に至るには虚無の通路を通らなければならなかったが、それは絶望も狂気も超えた通路だという。
狂ったり絶望したりする自己はすでにないからである。
そんな虚無の通路を通って至りつくのは、
「自己がなくなれば事物を差別相において見る相対的な心も無くなって、『それ』だけが残るのです。
それは時に非常に強烈にもなりますが、何か異常なものではなく、自然で平明なので、どこを見てもあるという意味でむしろ通常なのものなのです。」
これは、何かしら禅者の心境に似ている。平常心!
彼女の体験は、確かにこれまで読んできた覚醒体験の記録とは、かなり異質だ。
が、その歩みの誠実な記録を読むと、体験のおどろくべき徹底性を感じる。根源的なところにたどり着いた人。
ときに凍りつくような虚無を感じさせる歩みににもかかわらず、彼女の言葉には禅の根本に通底するもの、
西田幾多郎や久松真一の言葉かと思うような表現が見られる。
たとえば、
「旅が終わった後では、現在の瞬間に生きることしかできません。心はその瞬間に集中していて、過去や未来を顧慮することがないのです。
そのために心はいつも一点の曇りなく晴れていて、既製の観念が何一つ入る余地もなく、観念が一瞬間から別の瞬間に持ち運ばれることも、
他の観念と照合されることもないのです。要するに、考えるべきことはいつも目の前にあり、何を考えるか何を為すかに迷って停滞することがないのです。」
これは、禅でいう即今即所、あるいは仏教思想の刹那滅そのものだ。 (読了:0011)
http://park8.wakwak.com/~noboru/book/satori.htm
書名: 『自己喪失の体験』 書誌: 原題 THE EXPERIENCE OF NO-SELF (c)1982 著者 バーナデット・ロバーツ 訳者 雨宮一郎、志賀ミチ 発行 株式会社紀伊国屋書店(1989年6月20日第1刷発行) 私評: なぜかこの本を読むと安心する。 自分が住まう“夢”の底が開いた風景を垣間見せられたような気がするからだろうか。 この本は還俗した元修道女の家庭の主婦が、生活の一部となった静修(瞑想)の中で、 あまりにも神を信頼しすぎ、自己を捨ててしまったがゆえに、虚無の中に落ちてしまった世界が描かれている。 彼女のまわりではすべての生命が完全に停止してしまい、恐ろしい虚無がすべてのものに侵入して生命を奪ってゆく。 彼女は「こんなものを見てはもう誰も生きていられない」と思う。 「そのとき初めて、自己と呼ばれるものは、絶対の無を見ること、 生命の欠如した世界を見ることから人間を防いでいることが分」かったという。 彼女は「恐るべき光景に取り囲まれながら恐怖も起こらず、逃げもできず、 対抗する手立ても何一つないままに虚無を見守り続けるという、生きた心地もない状況に置かれ」る。 彼女の運命は、内部の動かない静寂と、得体の知れない虚無の差し出す「氷の指」との間の危うい平衡に委ねられる。
∧∧ (゚Д゚)∩ ⊂ ノ / 0 し´ えっ…と、 糞スレはここかな…、と ∧∧ ∧∧ ∩゚Д゚≡゚Д゚) `ヽ |) |_ |〜 ∪∪ ドスッ ∧∧ ミ _ ( )┌┴┴┐ / つ 終了│ 〜′ /′└┬┬┘ ∪∪ ││_ε3
引用:
私は今にも真っ二つに割れてしまうと思いました。「氷の指」が私の身体を裂く間、いつ割れるかと待ったのですが、
無限の時間のように思われました。内には何の動きもなく、恐怖もどんな感情もありません。
私はこの内部の静寂に注目しようともしたのですが、それは頭上に蠅が飛んでいるほどにも気にかけていない様子で、
何の助けにもなりません。敵の矛先を受けるのはもっぱら私の身体だけで、心はまったく関与できないのです。
もっと関与していたらなお大変だったかもしれません。
私の身体は極度に痛めつけられていたので、奇跡でも起こらなければ助からないと思いました。
しかし奇跡を望んだわけでなく、祈りの言葉も出てきません。ただ、死ぬのなら死んでもよいからもう終わりにしてほしいと思ったのです。
次ぎに気がついたとき、恐ろしい相手はいつの間にか立ち去っていて、
私は身体の感覚をまったく失って深い静寂の中にいました。
少したってふと振り向くと、一尺ばかり離れたところに立つ野草の小さな黄色い花が目に入りました。
そのとき見たことはとても言い表せませんが、強いて言えば、その花が微笑んだのです。
全宇宙からの歓迎の微笑というように。私はそのまま目もそらせず身動きもできずに、その微笑の強烈さに耐えていました。
私の身体がまだ丘に横たわっていることに気がついたのは、かなり経ってからでした。
それまで身体があるという意識がなく、せいぜい雑草か石ころがあると思っていたのです。
身体があると分かると、まだ動くかどうか試してみようと思いました。
今度もまた、動こうと思わずにただ動くことができたのですが、ただそのとき、軽い衝撃がありました。
立ち上がってみると、身体はいつもと変わりがなくほっとしました。
こうして私は下りてきた丘をまたのぼっていったのですが、実は何ものかが丘を下りていったまま、ついに帰ってこなかったのです。
http://www.platon.co.jp/~pari/books/no-self.html
10 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 22:45:25 ID:zzjxP3b6
11 :
1 :2006/04/26(水) 22:36:55 ID:DZpTnPPm
自分の場合「見るものは見られるものである」という言葉が それ自体で禅の公案になっているような感覚がある。 (公案自体、やったことないので、あくまで「感覚」ですが) 昼休みに屋上に出てぼんやりして周囲を眺めているときなんか に、ふと、この言葉の「すき間」に意識全部が「張り付く」 感覚になって、まったく身動きができなくなってしまう。 自分が薄っぺらい紙一枚になって、前後から圧力が加わってる 感じといったらいいのか。目は驚いた人のように見開いて景色が 視界に映ってるんだけど、眼窩の筋肉は内部に引っ張られ続けて いるような。 でも、たいていすぐに、「見る」ほうの感覚が強くなって、 もとの自分にもどってしまう。 もどってしまうときにはたぶん、体のどこかの部分に注意が いってしまって、身体の感覚が自分という感覚を呼び起こして しまうのだと思う。 でも、寝る前なんかにベッドの中で、意識が遠のく瞬間とか、 身体の意識が薄れているからか、そのまま永遠にぽっかりと 抜け落ちてしまうようなときがある。 それは、恍惚とかではなくて、文字通り、ぽっかりとなくなって しまう感覚。 眠ってしまって無意識になってしまうのとも違う、世界全体が ぽっかりした穴に吸い込まれる感覚で、その穴自体になってしまう 感覚。 でも、そのことに気づいた瞬間、もとにもどってしまう。 その、ぽっかりした穴の中に飛び込んでみたらどうなるんだろうと思う。 まだ、怖くてできないけれど。 たぶんこれらを「感覚」と表現している時点で、すでに「遅い」んだろう。 自己喪失の体験を読んで、心の底からああいう体験をしてまでも、悟り たいと思う人は、どのくらいいるだろうか。 そのことを日々、自問している。
自己喪失の体験の最後に出てきたルーシルと言う、 近所のおばあさんが印象的でした。 彼女は人生の最後に起きる自然な過程だととらえていたみたいですね。 バーナデット・ロバーツの体験そのものが珍しいものだろうと思えるのに、 近所にそれを当たり前のこととして受け入れ体験していた人が 住んでいたなんて本当にまれなことだと思えます。 でもルーシルの考えを素直に受け入れれば、 何か勘違いして生きて死んで行くのは我々一般人のような気がします。
13 :
名無しさん@3周年 :2006/05/06(土) 16:56:19 ID:kk/prvPS
GWあげ
このスレが宣伝スレにしか見えないのはなぜだろう。
1さんの感想オモシロイね。 自分なんかはヴィパサナでした体験とロバーツの体験が似てたんで 興味持った。 タマス・グナの全面展開って感じだね。
16 :
1 :2006/05/06(土) 22:13:50 ID:/kpaAF69
自分もヴィパッサナー経験者なんですよ 自分なりに納得するところまではやりました しかし、ヴィパッサナーと上記の体験は別ものです ヴィパッサナーの世界では、妄想として一蹴されるでしょう 実際、ロバーツが長年行っていた瞑想はヴィパッサナーとは対極の サマタ瞑想ですよね 自分でも、これが退化なのかその逆なのかはわかりません ただ、もう流れにまかせているだけです なにもやろうとしていません 自分が必ず死すべきものであるということが日に度々思い起こされ、 それと同時に人間として知覚されうるすべてのことが(自我を認識する意識 も含めて)表面的な器のように感じられます では、人間としての逃れられない知覚システムだけでどこへたどり着けるのか? 花を見れば、花は自分が知覚しているものそのもの、自分の認識そのもの であるということは理性ではわかるし、理性を超えて一瞬花になってしまうこともある でも、まだ花は無条件に微笑んではくれない 知りすぎてしまった哀しみは、どこへも連れていってくれないのだろうか
僕はヴィパサナの先にサマタ瞑想(主客合一)が起きるものだと思うし そのように体験もしてる。 見るものと見られるものが一つというテーマは僕もここ数年気になってます。 >では、人間としての逃れられない知覚システムだけでどこへたどり着けるのか? この問い自体が主客を分離させてるんじゃないでしょうか。
18 :
1 :2006/05/07(日) 02:38:09 ID:mTpRknnU
ヴィパッサナーも方法論が微妙に異なるものがいくつかあるので、 アプローチの仕方が違うのかもしれませが、ヴィパッサナーの ある段階におけるカニカサマーディと呼ばれるものは、主客合一の「境界線」 にあると思います。うーん、経験したことのある人だったらわかるかな? 説明が難しい。ヴィパッサナーはサマタではないけど、結果的には目覚めた ままの状態のサマタというか、そんな状態は訪れますね。 ただし、サマタというと恍惚とした合一状態のイメージだけど、ヴィパッサナー のはまさに怒涛のごとく向こうからくっついてくる、というか、ガバッと 連れ去られてしまう衝撃がある。 でも、そのことが直接、解脱に関係あるのかどうかはわからない。 単なる、方法論を忠実に守ったが故の脳のメカニズムの結果を体験 しただけなのかもしれない。 はひょ丸さんの体験はいかがですか? (人の体験を聞くことがいいかどうかはわからないけど・・・・)
19 :
1 :2006/05/07(日) 02:39:26 ID:mTpRknnU
ただ、ヴィパッサナーのマハーシ長老が書いた実践書なんかを読むと、最後に 涅槃に触れるときには、人によってはストンと、また、人によっては雷に打たれた ように、脱落するようですね。そのときに完全に合一するのかな? でも、原始仏教では一貫してはじめから主客自体の存在を否定してるから、 合一という言い方はしないと思うけど。 えらそうに書いてすみません。 ヴィパッサナーはその段階で見切りをつけました。でも、いい指導者がいれば もう少しやってみる価値はあったかもしれない。 でも、クリシュナムルティなんかを読むと、瞑想を否定しつつも、 ヴィパッサナーに非常に近い観察(観照)の必要性を常にいっていますよね。 ただ、それをなんの訓練もなしに一日中続けることはやっぱり無理だと思う。 クリシュナムルティのいう「恐怖が自分自身なのです」というのは、 見るものが見られるものである、というのと同じなのかな? 自分は、観照するものが結局、ヴィパッサナーでは脱落仕切れなかった。 今の自分は、まったく方法論というものに頼れない状態で、なにもわからない。 とりあえず、現実の世界で、死ぬ前にやってみたいことは一通り意識的にやりつくしてみた。 話は変わるけど、ロバーツの体験で不思議に思ったのが「自己喪失の旅」 の途中でも、虚無に飲み込まれそうになるのを必死に抵抗しようとしていた 記述があること。これはどうしてなんだろう? その段階ではすでに恐怖を感じることがなくなっていたはずなのに。
20 :
1 :2006/05/07(日) 03:09:10 ID:mTpRknnU
あと、自分で立てておいてスレ違いですみませんが、 余談だけど、ヴィパッサナーでカニカサマーディが最初に起きたとき に、脊椎から第一頸椎までものすごい重力がかかったみたいな 振動があった。F1のレースみたいな感じかな? クンダリニーの上昇っていうのが解脱に直接関係あるのかわからないし、 少なくともヴィパッサナーでは問題にはされないけど、ゴゴゴゴゴゴっと まさに龍がジグザグに昇ってくる感じだった。 なぜヴィパッサナーと同時にそれが起きたのかはわからない。 関連性がないのにたまたま一緒におきたのかもしれない。 でも、最後までヴィパッサナーの観照を捨てないでいたので、頭上まで突き抜ける ことなく、ちょうど目の後ろあたり(松果体のあたり?)まで昇ってきた 先端が次々に崩れ去っていく感じだった。 崩れ去っていく消失点に、自分が自分を意識する暇もなくどんどん吸い込まれて いくんだけど、客体は次から次へとむこうから吸い付いてくる。 そのときはもうなにがなんだかわからかったけど、後から分析すると 身体のブロック?みたいなところでエネルギーが滞りながら無理やり昇って きた感じだった。 完全に主客合一してたら、そんな身体のことなんか自覚できるわけないんだけど、 なぜか強烈に自覚はあった。 今はそういう体験自体にあまり興味を持っていないけど。
CONTEMPLATIVE Autobiography of the Early Years by Bernadette Roberts "This book is an account of my spiritual journey from birth to seventeen. Since my book The Path to No-Self, begins at age seventeen, the present book covers the earlier years and my initial steps in the contemplative path. The purpose of this writing is both to give this background and give witness to God's work in a single soul. Since God is at work in every soul, it is up to each of us to give our own account, no one else can do this for us". (from the introduction)
自分のヴィパサナの体験だと単純に自分の自我が死んでいく感じでした。 自分は椅子に腰掛けて目を開いた状態なのに崖の上から今にも海に 飛び込もうとする時に感じるような恐怖を感じるわけです。 もちろんその間はヴィパサナ続けてるわけですけどね。 こういう恐怖を感じるのが一時的ならまだしもことあるごとに襲ってくるわけ ですから。 しかも長く。 いわば死に丁寧に愛撫されてるような感じでした。 ただ僕の場合は死の愛撫から途中で逃げ出してしまったんですね。 それは大変な苦痛でした。
このヴィパサナをやっていた頃はoshoの「存在の詩」がバイブル だったんでロバーツの事は知りませんでした。 ただひたすら24時間思考の動きを観察していただけです。 ボディーワークとして野口整体をやってはいました。 クリシュナムルティなんかは「思考は実存を体験する上で障害だ」的な 発言多くしてますけど思考を障害だなんて思ってたら是非なく観察するなんて 出来っこないと思うんですよね。 ですからこの時期は思考を肯定的に捉えるよう心がけてました。 思考のヴェールが脱げるとその先に死が待っていて半分狂気というか 錯乱状態になってしまうんです。 僕等が正気と呼んでるものは死に対する防御以外の何者でもないと いうことがよくわかりました。
このヴィパサナ(思考観察)でのプロセスは単純に言うと 1.思考を観察する 2.思考が減少してギャップが大きくなる 3.思考が停止して観察者だけが残る。 4.観察者自体が消える。 という感じだと思いますね。 ロバーツだと3から4の体験の記述が多いような気がします。 もうほとんど最終段階でしょう。 ほとんどの人はうまくいって2か3どまりのような気がする。 ちなみにタントラのある技法だと3から4に移るのに 「観察者を観察する」なんて工夫をするみたいです。
このヴィパサナの狂気の段階が一段落してから開花というかそういう段階に 移行しました。 一日中自発動功しているような状態ですね。 それが3か月位続いた。 その時にようやく3位の所までいけたように思います。 前に自分は死の愛撫の途中で逃げたと書きましたが正確には 開花の段階でそれに完全に明け渡すことができなかったという事です。
ところがこのヴィパサナの体験後観察の対象を思考ではなく クリシュナムルティの言うように思考・感情・身体・環境に拡大してみたら 時々自然に沈黙が訪れて3から4にいけるような体験がありました。 無論このときもボディワークとかoshoの瞑想も続けていましたが。 ただこうやって自分の体験を振り返ってみると自分は4にちょいと触れた 位でしかない、もしくは触れたと妄想しているにすぎないような気もします。
ロバーツの本読んでると彼女の場合ヴィパサナみたいに思考を観察して どうこうするとゆうよりも空白とか沈黙とか静寂点に直接切り込んでいく 没入していくスタイルみたいですね。 多分これが彼女の体験の深さの鍵なのかも知れない。 oshoの講和でエッセネ派の瞑想法を紹介しているのがあるんですが その方法は過去に自分に起きた至福や沈黙の体験を再体験していくもの です。 過去の至福なり沈黙に意識を合わせる事によって それらが呼び水のようになってさらに大きな沈黙を体験するようになる。 ロバーツの体験もそんな感じだったのではないのかな? ただ彼女は体験を常に客観的に検証しつくそうとしているような感じがありますね。
Anything I can say about this return or adjustment is but a shadow of its reality; let me just say that it was so difficult and terrible that, in comparison, the void of voids was easy going. Having to leave the devine condition and come back to the sensory or resurrected state can only be described as GOD-AUFUL; it is inhuman predicament, even an inhuman fest. This is more, however, than just a return to a previous state; it was a waking up to a sensory terrain and human condition that , compared the divine condition, could only be described as "hell". (It was not even a living hell because none of it was seen as true life.) In contrast to the divine, the human condition is so terrible and devastating that even the worst of descriptions could never do it justice. I am not referring here to sin, evil or suffering, but rather to bare human existence itself―and the whole natural world included. What we usually think is so beautiful in this world is actually monstrous and unbearable to look at, but only in contrast to the divine. Compared to this ordeal of entering the human condition, all our notions and experiences of suffering are as nothing. ("What Is Self"pp.195-196)
29 :
訂正 :2006/05/10(水) 10:51:38 ID:GJhUHlSe
GOD-AUFUL→GOD-AWFUL human fest→human feat
30 :
試訳 :2006/05/10(水) 10:52:31 ID:GJhUHlSe
この(昇天*からの)復帰または調整段階については、そのリアリティの影と しか言いようがありません。それは非常な困難と恐怖と件うもので、これに 比べれば虚無の虚無などお話にならないぐらい簡単なことです。 神の状態を離れ感覚的*または復活*状態に戻ることは「悲惨」としか表現 できません。それは非人間的な苦境、非人間的な偉業でさえあります。 ただし、それは単に以前の状態への復帰ではありません。感覚の地平および 人間状態への覚醒であり、神の状態に比較すれば「地獄」としか表現 できません(それは生きた地獄でさえありません。と言うのもその何者も真の生命には見えないからです)。 神の状態に比べると、人間状態は恐ろしく破壊的で、どんなに酷い表現を してもつり合わないでしょう。私はここで罪、悪、苦しみなどについて 言っているのではありません。無垢の人間存在自体について述べている のです(すべての自然界も含まれています)。 通常私達がこの世界で美しいと思っているものが、実際には醜悪で見るに 耐えないのです(ただし神と比較したときのみ)。この人間状態への突入の 試練に比べれば、人間のすべての苦しみの概念や経験など無に等しいものです。 訳注 *昇天:「天国に両足を置いて現世との扉がかろうじて永久に閉じた状態に はなっていない」状態。「純」感覚的知覚から感覚も抜け落ちそうになっている。強度を変化させながら6週間継続した。客観的にどうなっていたのかは 彼女の表現からはさっぱり理解できないです。 *感覚、復活:「自己喪失の体験」で窮極の通路を抜けて「見た」後の状態。 "pure" sensory perception(「純」感覚的知覚)と表現している。
「自己喪失の体験」だけでロバーツを賞賛する人は昇天(ascension)と 受肉(incarnation)について知らないのではないかと思っていますが、 これをどう評価しますか?
僕はロバーツの未邦訳の著作をまだちゃんと読んでないので何とも言えません。 31さんよかったら昇天(ascension)と受肉(incarnation)について もしくはその関係性についてもう少し説明してもらえませんか?
33 :
蛇の輪 :2006/05/10(水) 19:25:50 ID:FfrEoLCr
試訳のことですね。
どえりゃーすげーこと言ってます。
この前、大団円で終了したダイジスレで昔読みましたが、
クンダリニーで肉体から抜け出た者と普通の人とは人間とゴリラくらいの差がある。
とダンテス・ダイジが言ってたらしいです。
それ以上じゃんか。邦訳出ないかなぁ。読みてぇ。
人間っていったい何?と思ってしまう。
俺は
>>12 です。
説明が足りなくてすみません。
ロバーツは自分の旅をイエスの生涯にそのまま当てはめていますよね。
自己喪失=十字架上の死、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」
虚無と窮極の通路=黄泉下り
「見る」=3日後の復活
ここで「自己喪失の体験」は終わっています。
その後に、ある日divine air(神気?)が体に充満して、細胞の1つ1つが気体になったような
体験をします(その後6週間継続)。これをイエスの昇天になぞらえて「昇天」と言っています。
(「この認識には物理的な身体さえあれば十分である」とか訳の分からないことを言っています)
その後に、元の「復活」の状態に戻り、再度適応するのに9ヶ月かかっています。
その苦しさ(通常の心理的な苦しみではないので何とも言えませんが)の記述が引用部分です。
それをまたイエスが人々を救うためにわざわざ天国からこの世に現れ出でたことになぞらえて、
「受肉」と呼んでいます。なぜか普通の人は闇(神の顕現している面)から生まれ、イエスのみが
光(非顕現の神)から生まれたことになっています。受肉の後は聖餐のキリストの真実が分かった
というような記述で終わりです(私はキリスト教徒ではないのでほとんど理解できません)。
こうやってまとめてしまうと私の勝手な解釈が入ってしまうし、長くはないので、
amazon.com(米国)のなか味検索(Search Inside This Book)使って読んでおくことをお勧めします。
キーワード「divine air」で検索して昇天は186ページから、受肉は188ページから読めます。
版が違うので
>>28 で引用したのとはページが違います。
>>33 英語で読むと理解したつもりでも夢みたいに忘れてしまうので、
私も邦訳欲しいです。キリスト教徒の人に訳してもらいたいな。
仏教的あるいは禅的な解釈されてしまうのが日本における悲劇のような気がする。
unitive stateが愛の炎と自動的な無償の慈善、勇気凛々、試練ウェルカム、
おまけにエクスタシーと超能力があってダイジの世界によく似てるんですよね。
34さん 丁寧な説明ありがとうございます。 実はロバーツの未邦訳の著作は2冊所有しているんですが 自分には少々読みずらく感じていまだに部分的にしか読んでないです。 説明と試訳読んだかぎりではもう何もいえませんねw eoの地蔵の話思い出しました。 この存在世界がすべてクソに見えるというのも非常にeo的だし。
ところで34さんは1さんなのかな? そうでなかったら34さん自身の体験的な話も聞かせて頂けるとうれしいです。
38 :
34 :2006/05/11(木) 08:38:11 ID:u5zIuggT
>>36 EOシリーズは昔好きでしたし、ロバーツを知るきっかけにもなったので感謝はしてるんですが、
ロバーツとショーペンハウアー(パクリ?と思うほど似てます。かつ論理的)を知ってしまったので、
もうおとぎ話はいらなくなりました。
>>37 私は1さんじゃないです。
体験ですか。私には才能も努力する才能も努力に向かわせる大きな苦しみも信仰もない
のでドラッグによる一時的な変性意識ぐらいしかないです。
ロバーツ読んで十字架の聖ヨハネ読まねばということで「カルメル山登攀」読んで、
能動的感覚の暗夜(五感による一切の楽しみを捨てる)の厳しさに挫折しています。
ロバーツの道はとにかく自力では行けない神による本当の変容(受動的霊の暗夜)に入れなければ、
ロバーツの本自体自分の参考にすることができず、しかも道のはじめに戻れば戻るほど神の概念
が人格的なうさん臭い神になってしまうのが難しいです。
二段階変容理論:最初の変容(霊の暗夜→統一状態)で存在の最深に至り内面の旅は終わり。 内なる探究が終わったので世間(marketplace)に戻る。世間で成熟した人間として 経験できることを経験しつくすと、第二の変容が起きる(内面自体がなくなってしまう)。 キリスト教の変容:仏教のように変容が苦しみの解放ではなく、最初に不可逆の変化が 起きることによって苦しみが始まり、時間をかけて新しい生活に適応していく。 エゴ:生来の意識の中心。自分の意志が曲げられたときに不満を感じる部分。感じる自己の一部。 エゴが脱落するとブラックホールのような虚無が現れ、外的な困難があっても このブラックホールに皆吸い込まれてしまい、一定レベル以上に動揺することがなくなる。 セルフ:知る自己(knowing self)と感じる自己(feeling self)からなる。2つは一体化しており、 片方だけなくなることはない(エクスタシーのような一時的な体験を除く)。 知る自己は反射メカニズム(機構)であり、対象として自分を見る仕組み。 感じる自己はエネルギー(燃料)である。超能力の原動力もこれ。 ロバーツは統一状態の最後に超能力(読心、ヒーリング、空中浮遊など)を発動し、 これを抑制した(使わない、他人に言わない、瞑想しない)後しばらくしてセルフを失った。 わがままなお願いですが、ロバーツの最も主張したいこと「変容は2回」 だけは理解してあげてください(肯定するか否定するかはまた別です)。 そのためにロバーツは3冊も書いたのですから。
>34さん >もうおとぎ話はいらなくなりました。 おとぎ話ですか・・・・ まあ僕も全部信じてるわけじゃないんですが。 「反逆の宇宙」と「小さなブッダの大きなお世話」は読まれましたか? 変容は2回というのもダンテス・osho・eoの見解と一致してますね。 どこかにhp作って試訳を共同で載せるなんてのもよくないですかね。
>>40 >「反逆の宇宙」と「小さなブッダの大きなお世話」
読みましたけど、ほとんど忘れました。苦しみの構造が(
>>39 のキリスト教の変容参照)
まったく異なるのでロバーツとの比較は難しいなと考えています。細かい体験の表現は
似てることもありますが、体験の評価なんてそれこそ凡人には不可能なことだと思いますので。
凡人にも分かる大きな違いは説教臭の有無と文章の明晰さですね。
これを状態の違い(ロバーツはある意味病的と評価される可能性もあると考えています)と捉えるか
個性と捉えるかでしょう。
>変容は2回というのもダンテス・osho・eoの見解と一致してますね。
なるほど。ロバーツが理解されていないという私の思いは、私の方が
ダンテス・osho・eoの見解を理解していないだけだったのかもしれません。
>どこかにhp作って試訳を共同で載せるなんてのもよくないですかね。
すみません。霊の暗夜が降ってきてロバーツの本が真に役立つ状況にでもなら
ない限りそれは無理です。宗教系への興味なんて大して続かないし、
苦労して訳すより他の本読みたいです。
というわけでおじゃましました。
43 :
蛇の輪 :2006/05/11(木) 20:19:04 ID:z0FwqSjT
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」
この後にイエスは大悟したらしいですね。
EOの本にそう書かれてました。
ダイジも同じこと言ってたらしい。
EOの宇宙観は余計な観念を捨てさせる為の方便として考えられます。
あるいは行法を実習させるための手段。
しかし、通常認識できない世界のことは言語的にもイメージ的にも
正確な表現は不可能なのではないかと俺は考えているので、
おとぎばなしであっても真実が含まれているかもしれないと思っています。
>>41 また来ていろいろ語ってくださいよ。
俺は英語わかりませんので訳されてない本の内容がもっと知りたい。
>すみません。霊の暗夜が降ってきてロバーツの本が真に役立つ状況にでもなら ない限りそれは無理です。 まあそうですよね。 ロバーツはリトリートやっとるとのことだけど 果たして成果は上がっとるんだろうかな。 関係ないけどこのスレ何人見てるんだろうね。
46 :
名無しさん@3周年 :2006/05/14(日) 01:56:46 ID:XlOJ3WMD
>『無我の経験』 バーナーデッド・ロバーツ著、立花ありみ訳 「自己喪失の体験」の訳者あとがきに、 「同じ著者によって本書の続編ともいうべきThe Path to NO-self と題した著作がでているので、」 とありますが、これなのでしょうか? だとしたらうれしいです。
ロバーツさんのような境地に至って それでもこの地上に生きる理由ってなんだろう? 誰かわかります?
生きる理由がなくても生きれるんじゃないですかね。 それか人々への慈悲のみで生きてるとか。
50 :
名無しさん@3周年 :2006/05/15(月) 21:07:03 ID:PCxpbDgY
1さんとか、はひょ丸さんは上座で指導受けたんですか? 何年くらいでそこまで行けたんですか?
51 :
http://ex11.2ch.net05.tripod.com/log/1147446442.html :2006/05/15(月) 21:09:53 ID:ZXjXD4Pr
なんで聖書とか訳すとき変な古文で訳すの?
僕は上座の指導受けてないw ただ当時は精神的に最高最悪の時期で自殺するか瞑想するか、な感じ だったんでやっぱりある程度安定している今とは全然違うように思う。 大体2年位か。 なんか時間じゃなくて切迫度の問題のような気がする。 だらだら何年も修行しても意味ないし。 でも切迫度って無理して作るモンでもないしね。
53 :
名無しさん@3周年 :2006/05/15(月) 23:14:43 ID:PCxpbDgY
>> はひょ丸さん ありがとう。再開してみるか。 ここは原始仏教クソスレよりずっといいね。 我が青春はバグワンだった・・・
>>48 「それ」は生きていない。死んでもいない。
「それ」には理由も目的もない。時間も空間もない。
「それ」をロバーツと見るのは「自我」である。
「それ」が生きていると見るのは「自我」である。
「自我」はその性質上、生きる理由を必要とする。
生きる理由を放棄した時、「自我」は死に「それ」がわかる。
・・・・とか?
ドンファンの言葉で「全ての行為は死の前での選択だ」的なセリフが あったけどそういうメメントモリな感覚がつくづく必要だと思う。
56 :
蛇の輪 :2006/05/17(水) 20:01:05 ID:71EHORqN
EOは死を常に全面に押し出しているし、 ダイジも死はベストハーフだと言っている。 和尚、クリシュナムルティも死についての見解は同じように思う。 世間では死は敬遠されているけれど、だからこそまともに考察しなければと思う。 でも、俺も普段忘れている。 はひょ丸さん思い出させてくれてありがとう。
僕もここに書きこむ事で自分を俯瞰出来てる感じがするので助かってます。 死の自覚はタオイズムのイージーさと修行ノリの単細胞さのどちらも撲滅させて くれるように思います。 自分の弱さも傷も全て受け入れて死の前でしなやかににこやかに笑って生きて いこうと思う。
58 :
名無しさん@3周年 :2006/05/17(水) 22:52:11 ID:uKavCRDA
原始仏教スレではバグワン、K、ダイジ、ラマナを語るとニューエージ扱いされる。 彼らは何か決定的な事に気付いていないような気がする。 丸さんのレスは当にしなやかだよ。
59 :
名無しさん@3周年 :2006/05/18(木) 02:12:40 ID:7nydKpdm
ダイジが終わっちゃったな、と思っていたら こんなとこで皆さん見っけ ここの席、空いてますか?w
60 :
名無しさん@3周年 :2006/05/18(木) 15:10:01 ID:RFjTqCLD
私は確認しないで座っちゃいましたw
私もとっくに。
62 :
名無しさん@3周年 :2006/05/18(木) 17:22:52 ID:7nydKpdm
じゃ、失礼して・・・。 あ、醤油じゃなくて・・・コーヒーおながいします。 >53 我が青春はバグワンだった・・・ く〜〜〜、泣かせますね。 >56 まったく同感です。 死がなかったら宗教なんかやりませんよ。 死があるから真剣になれるんで。 死の扱いが弱いものって、結局自我の逃避になっちゃうんですよね。
ところで1さんは上座で指導とか受けられたんですか?
ダイジのスレがそのままここに移った羊羹
65 :
名無しさん@3周年 :2006/05/19(金) 00:24:55 ID:/4bIceK8
Kに興味ある人、Kスレの907からKの動画見れるよ。 俺は張れないので。。
はひょ丸さんてEO肯定派なんだ? EOってセックスはやりつくしておけ、って繰り返しいってるよね。 そこで真面目な質問なんだけど、自分の中でセックスの問題って片付いてる? もしくは、セックスに関して、意識的に取り組んだことってある? バーナデット・ロバーツの体験は45歳ぐらいだったんだっけ? 子宮をもっている女性は、生む性(さが)を逃れられないから、 やっぱり更年期ぐらいにならないと無理なのかなー? 自分は女なので、そのへんがいつもひっかかってる。
67 :
名無しさん@3周年 :2006/05/19(金) 03:02:26 ID:gul66dB1
横レスすまそ
>>66 その辺のことはバグワンが一番上手く語ってる気がする。
68 :
名無しさん@3周年 :2006/05/20(土) 03:28:07 ID:opUDOBnr
そうだね。「セックスから超意識へ」
ここ数年sexをあんまり問題として捉える発想自体がないです。 いろんなワークである程度身体が開いてくるとsexと瞑想の 垣根が無くなるので。 oshoのシュンニョって女弟子は占星術で見ても生む性の強い人 だったんだけどダイナミック瞑想でそういう衝動消失したみたいです。 ただここ最近僕が個人的につきあいのある女性は更年期の女性が多いです。 結婚して子供を生み一段落してから探求に目覚めてる女性ですね。 まあ人それぞれでしょうけど本気で探求する気があるなら性(さが)というのは 乗り越えられるものなのかもしれません。
70 :
名無しさん@3周年 :2006/05/20(土) 22:20:09 ID:opUDOBnr
丸さんはダイナミック今でもやってんの?40過ぎるとキツすぎ。 クンダリーニもここ3年くらいやってないよ。 25年前初めてダイナミックやったとき三日寝込んだ。
え〜と僕は36だけどこないだ一か月やりました。 友人のサは40だけど半年続けてます。 でセンター長は55だけどもうすぐ1年だとか言うとったw 僕もエネルギーが落ち着いたら又再開しようと思ってます。 ダイナミックは下手にヴィパサナやるより1千倍いいと思います。
72 :
名無しさん@3周年 :2006/05/20(土) 22:44:15 ID:opUDOBnr
脱帽。センターでやってんだ。俺の頃は目蒲線の大おかやまにシャンティユガ ってのがあったなあ。バグワンもいきなりヴィパサナ与えるグルは現代に属していない って書いてたよね。
73 :
名無しさん@3周年 :2006/05/20(土) 22:54:17 ID:opUDOBnr
ダイナミックの話できるなんてホントうれしい。 今日は寝るけど丸さんまた話きかせてね。
うぃ〜っすっ 了解です。
75 :
名無しさん@3周年 :2006/05/22(月) 00:49:46 ID:ZpsYOGiO
よっしゃ!
76 :
名無しさん@3周年 :2006/05/24(水) 19:57:25 ID:phRkVh7R
あげときますよ
77 :
名無しさん@3周年 :2006/05/25(木) 11:52:42 ID:IK3Kh5gD
>>丸さん 音を立てられない所でダイナミックやる時は発声せずに身体だけで カタルシスして第三ステージでもセックスセンターを内側から打つ。 って確か本に書いてあったと思うけど、効果は半減しますよね?
78 :
名無しさん@3周年 :2006/05/25(木) 14:43:09 ID:ITgZZ73b
Kスレ落ちた!
ですね。 音なしでは1回位しかやったことないんですが全然違いますね。 no-mind瞑想で音なしもやったことありますけどそっちの方が まだ幾分よかったです。
80 :
名無しさん@3周年 :2006/05/26(金) 03:28:35 ID:oB82FGQd
だよね。ミスティックローズもいいメソッドだけど ま 地道にやってみますよ。
無名庵が時々更新されるのを読んでるとほうざんさんここ読んでるのかな? と思うような話がちょくちょく出てきますね。 今日更新された内容なんかはすごく分かりやすいです。 ロバーツなんかは子供の頃から「沈黙の探求者」で親からもまっとうな 教育受けて健全な自我の基盤が出来ていたんだろうけど現代に生きている 僕達の大半は大きな抑圧なり傷なりを抱えて生きているのでやはりまず 最初に重要なのはハート中枢への働きかけだと思います。 でそこでダイナミック瞑想とかの技法が必要になってくる。 ただoshoは「ダイナミック瞑想は瞑想法における退化だ」と言って いましたからいかに現代が劣悪環境なのかよく分かると想います。 ただハート中枢に働きかけていると闇だとか空性への扉として ハートが機能していると感じる事があります。 どのみち自分の立ってる場所ちゃんと認識してそこから始めるしかないんでしょうね。
82 :
名無しさん@3周年 :2006/05/28(日) 00:08:56 ID:KOV5+u/b
>>丸さん 「ダイナミックが退化」は始めて聞きました。でもその意味はわかります。 彼は「私は貴方方の狂気を許している」と言っていますよね。 これほどの慈愛に満ちた言葉を私は知りません。 ハートに落ちたらユダヤ勢力にやられる。かと言ってヘッドばかりじゃ 生まれて来た意味がない。難しい世界に生まれて来たもんだ・・・ あと一歩だったグルジェフを再評価すべきか。 EO=ほうざん説もあるし、全くわからん世の中だ。
本当にハートに落ちたら空性へとつながりますよ。 そうならずハートトリップしてしまうのは自分の問題を直視しないからだと 思います。 僕は誰がどうだ、というよりも話された言葉のリアリティだけ嗅ぎ分けて 情報に接するようにしてますね。 ただ無名庵が「悟り」と言う時は常に第7身体の悟りだけを 意味しているのであそこの話読むときはそれをよく考慮して読む必要が あると思います。
84 :
五つの王国 :2006/05/28(日) 14:54:59 ID:AdO6INEV
>>はひょ丸さん 第7身体の悟りとはどういうものですか? 悟りは身体によって、様相が違うと言うことですか? 第7身体の意味もまったく分かっていないので、おかしな質問 になってたらすいません。
85 :
名無しさん@3周年 :2006/05/28(日) 15:17:00 ID:IficJBTS
脳の働きって欲望の肥大みたいに思われるけど 実は悟りへ一直線にむかってるんだよね。 途中で個別に引っかかるから駄目なんでw 脳って悟りが一番美味しいんだよね。 てか、そのための梯子みたいな装置なんだよね。
86 :
四零九 :2006/05/28(日) 20:15:55 ID:aZR+sPWW
// // I used to live in a room full of mirrors . / / // All I could see was me / / _.. 〜'::
87 :
四零九 :2006/05/28(日) 20:16:50 ID:aZR+sPWW
// // I used to live in a room full of mirrors . / / // All I could see was me / / _.. 〜'::""::''ヽ、 / / Well I take my spirit and I smash my mirrors // /:;r‐、:::::::__:::::::::::\ / /And now the whole world is here for me to see // /:::ノ ・ _)( ・_`つ、::::::ヽ、 l l I said the whole world is here for me to see / /::r(__ ノ´(:;;:)´__ノ〃ヽ:::::::} | | Now I'm searching for my love to be /:::::ノ二ニ彡 ノ 三彡-、 )::ノ | | Broken glass was all in my brain {::::( -_二 -‐'' ̄ )(::/ ノ ノ Cats screaming and crying in my head ヽ:::ヽ( ,r'' " ''‐-‐′ノl// Broken glass was all in my brain ヽ )`― ''′_ .... __ノ// It used to fall on my dreams and cut me in my bed ゞニニ二 -(/∂-‐// I said making love was strange to my bed
第7身体の悟りというのは究極の悟りという意味ですね。 ここら辺の話はダンテスの本とかoshoの「奇跡の探求2」 辺り読むといいかも。 あとeoの「反逆の宇宙」かな。 まあ悟りにはいろんな諸相があるというのは共通した見解みたいです。
89 :
名無しさん@3周年 :2006/05/29(月) 01:44:58 ID:k6A/vcFu
丸さんとは 語れるかな。今日は酔ってるので寝る。 このまえ貴方のスレよんで「存在の詩」と「究極の旅」読み直した。 20回目くらいかな。やっぱ泣けてくるよ。
90 :
名無しさん@3周年 :2006/05/29(月) 13:25:05 ID:DNLrbHnm
「存在の詩」はサイケデリックですね
91 :
名無しさん@3周年 :2006/05/30(火) 01:47:39 ID:M7hkufZ9
サイケなのかなあ。20歳で読んだからあれが当たり前になってます。 訳者のプラブッダ、星川が良かったよね。
92 :
名無しさん@3周年 :2006/05/30(火) 01:54:10 ID:gO4RRCPK
あれ読んでアシュラム行った知人がバグワンについて 「あれは人間じゃないわ」 行きたかった・・・ おっとスレ違い。 今、バーナデット・ロバーツ読んでます。 思考が男っぽいですね。
93 :
名無しさん@3周年 :2006/05/30(火) 10:23:25 ID:M7hkufZ9
まあある意味じゃ人間じゃないからなあ。
94 :
名無しさん@3周年 :2006/05/30(火) 22:55:48 ID:s/xBavZ2
95 :
名無しさん@3周年 :2006/05/31(水) 15:00:33 ID:lni/L8bL
丸さん くどくて申し訳ないけど無音のダイナミックと ヴィパサナーどっちがいいですかね?
96 :
名無しさん@3周年 :2006/05/31(水) 15:42:45 ID:lni/L8bL
それとノーマインド瞑想のジヴェリッシュは一時間ジヴェリッシュと 言い続けるのですか?質問ばかりですみません。
ダイナはやっぱり無音だと効力落ちるけどヴィパサナよりはいいかも。 ジヴェも本来なら1時間ジヴェして1時間座る。 僕はテープだから全部で90分でやってますけどね。 まあ自分で色々試してみるのが一番だと思います。
98 :
名無しさん@3周年 :2006/05/31(水) 21:52:28 ID:A3pSZnyA
>>94 ほー!バーナデットってこんなにあっけらかんとしたチャーミングな
表情するんですねー。
>>1 の顔のイメージがあったもんで。
クリシュナムルティは宗教を否定してるのに ロバーツさんは肯定的な立場をとっているみたいなんですが なぜなのでしょう? この違いはかなり大きいと思うのですが・・・
100 :
名無しさん@3周年 :2006/05/31(水) 23:48:08 ID:lni/L8bL
>>丸さんありがとう。和尚ジャパン見たけどノーマインドのテープないみたい。 あしたからやってみます。 やっぱヴィパサナは時間かかりすぎるよね。
かわゆいおばあちゃまですね
>>99 神がいなければ誰に自己を明け渡すのかという問題と
キリストがなければ三位一体の真実(イエスの登場によって初めて明かされた真実)に
到達できないと考えているみたいです。
(1)永遠の顕現あるいは実体がキリスト(イエスだけでなくこの世の存在すべて)の神性
(2)永遠の非顕現(父)は顕現が永遠に住まう栄光の状態(昇天の神的状態←顕現してるじゃねえかってつっこみたくなります)
(3)永遠の動きあるいは創造的な顕現の神が聖霊
この枠組み自体がキリスト教教育の結果の単なる解釈に思えるので、
なんでなんでそんなにこだわるのか全然分からないですけどね。
仏教にはリップサービスしてるけど基本的にキリスト教の真実最強論者に見えます。
神の死(それまで神だと思っていたのが単に無意識の自己であることが分かった)の反動ですかね。
逆にクリシュナムルティはなんでそんなに既存の文化の否定をず〜っと続けるのか分からんです。
103 :
名無しさん@3周年 :2006/06/01(木) 02:11:14 ID:g8WTKTyv
>>102 逆にクリシュナムルティはなんでそんなに既存の文化の否定をず〜っと続けるのか分からんです。
<そうしないと馬鹿がすぐそこに砂上の楼閣を建て始めるからね。
分かってる人がむこうからキリストの構図を利用する分には平気なんだが
こっちの人がその構図を使うと自分に都合よくしちゃうんだよね。
ついでにエゴの問題も。 「エゴは元々悪いものでもなんでもない。 エゴが至高の善である神に向かえば何の問題もなく、 我欲で神を求めればいい。エゴが自分にだけこだわるから問題になる。」 というようなことを言ってるのでロバーツ視点では宗教教育が重要になりますね。
105 :
名無しさん@3周年 :2006/06/01(木) 02:20:33 ID:7f1PTo6x
ふむふむ。少し賢くなった気分
>>103 今「クリシュナムルティの神秘体験」読んでるんですが、自分一人の日記なのに
脳が静まってただの、思考や感情はなかっただの、いつものワンパターンな構図を丹念に
確認するような記述がしつこいっす(あくまで本読みとしての感想ですけどね)。
すまん。つい反射的な反応してしまった。 クリシュナムルティは既存の宗教にいいように利用されたから、宗教をすべて否定する。 ロバーツは既存の宗教でものすごく順調に成長したから、宗教を肯定する。 単純に、悟っても過去の経験から(長期的な遠望で)完全に自由になることはできないとは考えられませんかね?
108 :
名無しさん@3周年 :2006/06/01(木) 16:52:00 ID:efgjQOU2
>>丸さん 今日ノーマインドやってみました。 最高ですね。サクシンにテープ頼みました。ありがとうございます。 これからもアドヴァイス宜しくお願いします。
まあがんばってください。 でももうここでのアドバイスは終わりにしときます。 1さんにも申し訳ないですし。 僕はもう当分書き込み控えたいと思います。 では。
さようなら・・・
111 :
名無しさん@3周年 :2006/06/02(金) 01:23:58 ID:99U78kQt
>>丸さん では。またどっかで・・・
112 :
名無しさん@3周年 :2006/06/02(金) 01:27:29 ID:x9Efo6jP
惜しい人を・・・
113 :
名無しさん@3周年 :2006/06/02(金) 01:43:35 ID:99U78kQt
本人がそう言うだから。いろいろあんだろう。 でも惜しいよね。
114 :
名無しさん@3周年 :2006/06/02(金) 16:41:11 ID:p9aiIda7
なくしました・・・
チーン、ポクポク
116 :
名無しさん@3周年 :2006/06/02(金) 21:32:15 ID:x9Efo6jP
チーンポ、クポク
117 :
名無しさん@3周年 :2006/06/03(土) 03:38:07 ID:HP/bL/QM
丸さんのいないスレは寂しすぎる・・・
∬ ┌┬┬┐ ( ∬ ∬ ││││ ( 丿 ∫ └┴┴┘ ( ノ ソ ∧∧ サウナはぁっぃょぅ ∬∬ (-ω-;) ∬∬ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (x )〜 ̄ ̄ ̄ ■●▲ ̄フ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ U U ̄ ̄ ̄ ̄ ▲◆■◆// ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄| ̄| ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄| ̄| ̄| |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| \ | | | | | \\ \\ | | \\ \\ | | ヽ▲/ | \ | | \\ \ | | ■ | | | | | /ノヽ | | | | | |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ □=====□ □=====□ □=====□ || || || /\ /\ /\ /||||ヽ ザー  ̄ ̄  ̄ ̄ / ∧ ∧⌒ ゴシ∧ ∧ 〜ょぅ ( ∩ ゴシ ( =゚ωノ ょぅ♪ ( ノ ゜( 。゜○゜
120 :
名無しさん@3周年 :2006/06/06(火) 02:52:47 ID:OqiryMD2
ほら、丸さんのせいで過疎スレに・・・・
121 :
名無しさん@3周年 :2006/06/07(水) 01:44:09 ID:tL19dyT/
丸さん・・・・ 醤油買ってきて・・・・・
122 :
名無しさん@3周年 :2006/06/07(水) 15:35:12 ID:NkLSin52
さあどうする丸さんw
/ ) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ./ / | 精神世界に未来はあるのか?! / / \ / ̄ ̄ ̄ / /  ̄|/ ̄ ̄ ̄ ̄| 脳内だけで終らせるな! ./ /_Λ , -つ \ / / ´Д`) ./__ノ  ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ / \ / / ⊂_ヽ、 .| へ/ / .\\ Λ_Λ | レ' /、二つ \ ( ´Д`) | /. . > ⌒ヽ / / / へ \ / / / / \\ / / レ ノ ヽ_つ / ノ / / _/ / / /| ノ / ( ( 、 ⊂ -' | |、 \ . | / \ ⌒l | | ) / ノ ) し' (_/
124 :
名無しさん@3周年 :2006/06/10(土) 12:48:10 ID:YTFgzryF
代々木のジャマイカフェス行く?あ、興味ないか。ごめん
125 :
名無しさん@3周年 :2006/06/13(火) 19:22:30 ID:GGcglVuA
日本の負けっぷり
126 :
名無しさん@3周年 :2006/06/16(金) 11:46:30 ID:Etnrxn8C
丸さん、ここ落ちそうだよ〜〜〜( ´ J▽し` )ノ
落としたくないです。 無明庵の近刊予定の本、ロバーツについての言及がけっこうあるようですね。 待ち遠しいです。
128 :
名無しさん@3周年 :2006/06/18(日) 19:49:52 ID:4/6rTG89
時の記念日 モモ
129 :
四零九 :2006/06/24(土) 12:56:42 ID:7X1noLi/
O o ムクッ ∧ ∧ (゚д゚ ):. _ ゆ・・・夢か? ・・・ r'⌒と、j ヽ ノ ,.ィ' `ヽ. / / i!./ (_,. // く.,_`^''ー-、_,,..ノ/ `~`''ー--‐' =========== 続 ===========
130 :
名無しさん@3周年 :2006/06/25(日) 16:20:24 ID:t7DTph73
昨晩、てか、今朝の夢はおもしろかったで!
おもろい夢の話し聞かせて。
それでは私が見た印象に残っている夢をば なだらかな緑の草原に大勢の男性と女性がペアで楽しそうに語らっていました みんなとても幸福そうな穏やかな表情でした。そして気がつくと私もその中にいました となりを見ると高校生の時に大好きだった片想いの女性が座っていました 私はこの上もないほどに幸せな気持ちでした そこにふと気球が飛んできました。ペルシャにあるようなアラベスク模様の美しい気球でした 私はあの気球に乗りたいと願いました そしたらいつの間にか私はその気球に1人で乗っていました そして私はその場から遠くへ飛んで行きました
ありがとう。 最近俺は夢を見ない。見てるんだろうけど思い出さない。
134 :
名無しさん@3周年 :2006/06/27(火) 22:59:59 ID:wxDa4jiY
夢見心地のスレになったのか
135 :
名無しさん@3周年 :2006/06/28(水) 00:33:11 ID:1DOL2/ea
さっきうたた寝で、 部屋の窓から警官が「これ、これ」 って指差すので見ると、フラッシュランプみたいなのが点滅してた。 それをはずしてると、大学の同級生だった巨乳さんが 「あ、やっぱ」とオレを確認した風で現れた。 迷わず部屋に招きいれたわけだが、 なんとなく雰囲気がいい感じで・・・ふふふ
昔、列車に乗ってる夢を見た 窓の向こうは紺碧の海。今までに見たことがない深い深い藍色 真実のブルーってこんな色だったのかと感動した というかその青と自分が一体になっている感覚に陥っていた 波しぶきが窓にバンバン飛び散ってくる しかし車内を見回すとこれまた何故か普通の通勤列車 俺一人が食い入るように外の景色を見て感激している そしていつの間にか視点が列車の上方500mくらいの位置に変わる するとこの列車はモーゼの海割れのごとく海の真ん中を走っていた。おしまい
137 :
名無しさん@3周年 :2006/06/28(水) 20:58:15 ID:1DOL2/ea
窓の外を食い入るように見入っていた君は 神々しかったよ。通勤列車内では浮いていたけどね。 また同じ列車であえるといいね
138 :
名無しさん@3周年 :2006/07/04(火) 22:56:00 ID:937fn5f+
ラマナ・マハシリ? 尻?
139 :
名無しさん@3周年 :2006/07/05(水) 16:16:53 ID:OlWQRCk2
>>138 ほんとだ、今気がついた。
本文はちゃんとマハリシになってるね。^^
141 :
139 :2006/07/17(月) 10:31:26 ID:dy4S43YN
>>140 マジで?
上にいくつもヒントあるよ。
ここ見てる人で、あそこ知らない人いないと思うけどなあ・・・。
単なるタイプミス。138さんは、上げるついでに遊んでみただけ。
ってか、本当に知らないのならば、まず検索してみては?
>>141 考え杉ですた。こっちこそ説明が必要か。
このスレの本文中の尻を集めるとラマナ・マハリシになるのかと思った。
あやうく向こうでも考え込むとこだった。
単なるタイプミスねw
143 :
名無しさん@3周年 :2006/07/17(月) 14:59:59 ID:B60q/NCH
うるさい!おまえは誰だ? ああ俺は一体誰なんだあ?!
144 :
名無しさん@3周年 :2006/07/17(月) 15:03:35 ID:hOkkR8PT
145 :
名無しさん@3周年 :2006/07/17(月) 16:40:57 ID:R3AIJZpT
至福をこやしてどうするの?
146 :
名無しさん@3周年 :2006/07/19(水) 03:28:45 ID:3AumnSy5
皆EOの事どう思ってるの?
147 :
名無しさん@3周年 :2006/07/19(水) 12:19:34 ID:f0VzNnWS
最高だぜ。自殺というアンタッチャブルに 光をともして、自由の本質を見せた功績はでかい。
148 :
名無しさん@3周年 :2006/07/19(水) 22:16:29 ID:neQgNCs0
方山氏のHPに生まれ変わりについて書いてあるけど なんか自分の生を別の存在にコントロールされてるみたいな印象を受けたんだけど・・・ そういうものなんだろうか? というか自分の生を他者にコントロールされるのは嫌だ
149 :
名無しさん@3周年 :2006/07/21(金) 01:11:38 ID:dxLC8EPb
既にコントロールされてんだよ。認めたくはないけど。 EOの自我に関する洞察は凄まじいものがあるよな。
150 :
名無しさん@3周年 :2006/07/22(土) 02:19:33 ID:qC9Xo/+c
コントロールってか 生まれてきた過程考えたって、受身だもの。 自我は後ずけの観念
151 :
名無しさん@3周年 :2006/07/22(土) 13:42:04 ID:qC9Xo/+c
自殺を考えてる奴に エオとか読ませるとどうだろ? いかに事故憐憫に浸ってることがわかるだろうな。
152 :
名無しさん@3周年 :2006/07/22(土) 19:41:09 ID:7SytXqLr
『無我の経験』 バーナーデッド・ロバーツ著、立花ありみ訳 まだ出ないの?
153 :
名無しさん@3周年 :2006/08/01(火) 02:27:24 ID:QnJgYTKG
落ちそうだから描きこするよ( #`皿´)
154 :
名無しさん@3周年 :2006/08/03(木) 22:59:57 ID:gdKM5mvV
このスレが過疎という事は、いかに悟りが曲解されてるかを表わしている。 本物の覚者には誰も興味なんてないんだよ。バカばっかり・・・
155 :
名無しさん@3周年 :2006/08/08(火) 16:14:21 ID:mgtA7JIH
摂理のガ良さ気w
156 :
明滅 :2006/08/13(日) 12:05:20 ID:fsospXRk
>>146 EOは好きだ。
「しかし同時に私の言葉には「本質」から「非本質」にまでまたがる、
いろいろな『次元のコントラスト』があるのも事実だ。
だから、そうした中間段階の説法は、全くの部外者や単なる読者にとっても、
それぞれの人の位置に応じて、
それぞれに利するものがあるのかもしれない。
EO」
こんなこと書いてるから俺のような奴でも読者でいていいんだと思う。
とりあえず「虚無の微笑」が楽しみだ。ロバーツにも言及してるみたいだし。
>>154 興味ないと言うより、みんな何を書いたらいいかわからないんでない?
俺を筆頭にバカばっかりなのは事実だなw
157 :
名無しさん@3周年 :2006/08/13(日) 12:47:49 ID:LE07o5Tg
EO>摂理
158 :
名無しさん@3周年 :2006/08/15(火) 00:36:50 ID:XZLv4dNY
「虚無の微笑」ってのが出るの?
159 :
明滅 :2006/08/21(月) 19:40:04 ID:sOMaJ3LG
>>158 来月あたりに出る予定だそうだ。
行法が人を選ぶと言う事で書籍も人を選ぶなら俺には手に入らないのか?
160 :
名無しさん@3周年 :2006/08/22(火) 13:28:37 ID:KXMEzmqg
>>159 置いてある書店で普通に買えると思うよ。通販もあるし。
考えすぎのような気が・・・。^^
ちなみに自分はいまのところ、行法には選ばれてないみたい。
コンスタントに続かないです。
161 :
名無しさん@3周年 :2006/08/25(金) 03:59:23 ID:8FExz5mJ
まんだらけにある?
162 :
名無しさん@3周年 :2006/09/02(土) 10:14:29 ID:N9Cp0SQj
まんだらけって、いまや全国展開なのね。 大昔、阿佐ヶ谷に住んでた頃よく行った。益三さんが奥で店番してた。 益三さんの、「月の雫」っていう作品が好きだった。 まんだらけには、たぶんない。 中野ブロードウェイ4Fの「大予言」ならある。 自分はいま地方の住人なので、「ブッククラブ回」など含め通販を利用してる。
163 :
名無しさん@3周年 :2006/09/03(日) 05:45:17 ID:4/yanrVN
164 :
名無しさん@3周年 :2006/09/03(日) 13:07:33 ID:Rtrs1S0q
あ、そっち行こう!
165 :
名無しさん@3周年 :2006/09/12(火) 15:37:01 ID:6Rg33ZGW
ここはもう押し毎回?
166 :
名無しさん@3周年 :2006/09/15(金) 23:15:38 ID:q2Qq+Nyq
持続は腐敗だ 持続すること、輪廻転生することは腐敗すること、 腐ることだとクリシュナムルティーは常々言っていた 持続し、何回も輪廻を重ねることで、 マインドの桎梏から離れることが可能であろうか 同じマインドの鎖はしっかりと繋がれたまま、神秘体験を重ね、 超常能力を得て、神を見ても 果たしてそれがマインドという自分を作り出す鎖から解放されただろうか 輪廻は続いている限り 解放はない 2012年を過ぎて、黄金時代に突入したとしても、 果たしてそれが、そのとき 時間の範疇・輪廻に縛られているなら、 それがマインドという自分を作り出す鎖から解放されただろうか、 同じように二元性と分離性、見るものは見られるものの分離が在るのではないか
167 :
名無しさん@3周年 :2006/09/15(金) 23:16:52 ID:q2Qq+Nyq
マインドの特徴である心 内省の機能 客体化してしまう機能 自己を認識の対象にしてしまう機能 認識の対象として自己があるとおもっている状態・機能 自己の意識・意志を感じている状態 即ち自己意識そのもの これらが続いている限り たとえ 2012年が来て黄金時代が来ても 自分が天国に行っても 自分がワンネスを実現しても 自分が愛に溢れても そこは地獄だ 本当には腐敗と悲惨しかないのだ
「虚無の微笑み」はしかしスゲー本だね。 今までどこにもないタイプの本だとあったけどホントそうだと思った。 トールについて「苦しまずに悟れると言っている本人がさんざん苦しんだ上 で覚醒している」なんていう批判があり・・・・これってoshoにもバイロン ケイティにもあてはまる批判だな、と思ったわ。 ほうざんさんとか今回の著作の中で手記を書いている人達に共通する 「自我嫌悪感」というのは自分もここに書いた体験をした時期に持っていた ものであり手記に書かれている通りまさにそれが探求の原動力だったけど それを裏切った挙句小技でごまかしごまかし生きてるような自分には示唆 する所の多い本だったように思う。 十代後半の時期ってのはその人の本質的個性から出た嫌悪感というか 理想主義的な衝動というモノがあると思うんだけどそれを着実に育てて 生き抜いた人達だけが本当の意味での瞑想に入れるのかなと思いました。
169 :
名無しさん@3周年 :2006/09/15(金) 23:18:15 ID:q2Qq+Nyq
何故なら、 自分という個別的存在があるという前提になりたっているからだ 自分という個別的存在があると思っている限り、それはマインドの罠である マインドの範疇である それは 解放ではない たとえ解放という言葉を使っていても それは解放ではない 鎖に繋がれたまま、マインドから解放されたと錯覚しているからだ この輪廻の鎖に繋がれている限り、自分という錯覚に陥っているとおもう これを読んでいる、今、あなたは自分を認識しているだろうか この自分を認識している状態こそマインドの状態であり、 自他を分離しているこのマインドの 根本的なシステムであること、二元性のシステムであることに気がつかないのだろうか このシステムは自覚されなくても、 それは悲しみであり、苦しみであり、恐怖そのものであり、憎しみであり、 戦争であり、暴力であり、葛藤であり、悲惨そのものなのだ このマインドのシステムそのものが輪廻転生なのだ いくら、この輪廻転生を続けていても、その最終地点は 又同じ場所に戻っていまうのだ、輪廻は解放をもたらさない
170 :
名無しさん@3周年 :2006/09/15(金) 23:20:09 ID:q2Qq+Nyq
この輪廻の中身こそ進化である しかし進化はまた退歩でもある そもそも進化という発想自体がマインドの考え方である 進化や進歩は真我には存在しない 最初から完成している 2012年は現象界の輪廻の中での出来事だ 進化や進歩は本当は腐敗なのだ それは悲惨の中を ぐるぐると回っているだけだのだ いくら 年を重ね 輪廻の回数を重ねても 進歩をして、ずる賢くなったとしても 自分という感覚、自分という意識は失われることはない その自分という意識そのものがマインドの機能なのだ それは結局はまた退歩に戻る
171 :
名無しさん@3周年 :2006/09/15(金) 23:21:20 ID:q2Qq+Nyq
悟りを得た、光明を得た、一体になったと思っている自分 それを実現した自分が居る限り それは悲しみであり、繰り返す憎しみであり、恐怖なのだ 自分は自分をどうすることも出来ない マインドにはこのマインド自体を変えることは出来ない 自分を良くすると思うこと自体がマインドの作用であり、自我なのだ この自我が居る限り なんの黄金時代であろうか 自我が終焉しないかぎり 真我が輝くことはない 自我の終焉は、自我である自分には出来ない 終焉させようとしている自分そのものが自我だからだ
キチガイって自我がないのかな?
>「虚無の微笑」 へー、このタイトルいいなぁ あの虚無を通過しないとわからない暗号みたいなもんだが・・・ 普通はこういう暗号は知られないようにかくしておくものだが これを聞いただけであんたも相当なオバカさんだなと言いたくなるな まぁこれが最終、これ以上はないという地点かな
最終願望ってヤツですかwww
ラジニーシくささがするんだよなタイトルにも 悟りゲームというか
176 :
名無しさん@3周年 :2006/09/18(月) 16:44:17 ID:6x2zaIDF
悟りをあまりすごいものにしてしまうのも考え門だと思うが。 それも屈折した願望の現われだし。 ただ普通に戻るだけでしょ。
177 :
名無しさん@3周年 :2006/09/18(月) 22:06:41 ID:J2R6qui0
悟りって禁煙するようなもんだとおもうけど、 やっぱ大変だとおもうよ。
178 :
名無しさん@3周年 :2006/09/20(水) 01:53:10 ID:ufl5k5zi
禁煙苦も無く出来たよ
179 :
名無しさん@3周年 :2006/09/20(水) 01:54:56 ID:WjO4jDgt
おれ二ヶ月。まだすいたいよお。
自分、二十年。 フェイドアウト作戦で、一ヶ月かけて徐々に減らしていった。 思ったよりラクだった。以来一本も喫ってないし喫いたいとも思わない。 未成年の頃から喫ってて、喫煙歴は約10年。 >悟りって禁煙するようなもんだとおもうけど、 そうなのか?
181 :
名無しさん@3周年 :2006/09/21(木) 02:35:31 ID:r3D6JkSw
バグワンも言ってたが こどもがオモチャを卒業するみたいな感じ? そしておとなのオモチャ(→ܫ←)
182 :
名無しさん@3周年 :2006/09/23(土) 20:57:40 ID:XDGWplKj
いやあ、「生きたい」と言う中毒からの解放と考えると 禁煙かな、と。クリシュナムルティも「真理を知るとは、今吸っている煙草を すてるようなものです」って書いてたからさ。
183 :
名無しさん@3周年 :2006/09/23(土) 21:12:47 ID:XDGWplKj
やればやるほどハマルのが麻薬だろ? 生存中毒。それからの解放が悟りかな、と。
184 :
明滅 :2006/09/30(土) 10:29:39 ID:deHCmV+U
>>160 回の通販で買えた。おまけも付いてた。
あまり売れてないのか?
引き込まれるように読んだ。おもしろかった。
185 :
160 :2006/10/01(日) 13:21:50 ID:Gg72ByWX
>>184 報告、サンキュ。 ちょっと気になってた。
自分も回の通販で、ソッコー買った。
「おまけ」は、追加納品分にも全部入ってるみたい。
あせることなかった・・・^^ゞ
ロバーツの前世云々は置いといて、
今生での彼女は、アメリカ先住民の血は流れていないのだろうか?
祖父母の代とか、あるいはその前とか。その風貌から、素朴にそう思った。
先住民との混血は、濃さはまちまちだろうけど、
ケビン・コスナーとかジョニー・デップとか、有名人でもけっこういるみたい。
↓ここ、「へー」がいっぱい。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/geo/1127087540/1-46 なんか下世話な話になっちゃって、ごめん。
あぼーん
187 :
明滅 :2006/10/12(木) 23:03:03 ID:7MgNvVfQ
>>185 うん。
ロバーツはそれ系の顔立ちだよね。
案外さかのぼってみれば近隣の人種の血が混じってるのって
多いのかもしれない。
だとすれば人種や国での差別やいがみあいは本当にくだらない。
とうとうEOスレに追い付かれた。
188 :
名無しさん@3周年 :2006/10/18(水) 02:09:14 ID:6ucLWn5e
いまや抜く勢いだ!
189 :
名無しさん@3周年 :2006/11/06(月) 13:45:04 ID:3RzLxsCr
190 :
名無しさん@3周年 :2006/11/29(水) 07:39:13 ID:k5gCkpFh
ポエムやねえ
192 :
明滅 :2006/11/29(水) 21:41:53 ID:7zL0pvQN
何が?
193 :
明滅 :2006/12/09(土) 11:59:41 ID:9SrsplIR
自己喪失の体験を読むとロバーツはあれが人間の成長に起きる自然な過程だと考えてるみたいだ。 ほんとかよ?って思う。 第一段階の終わりの方が人間の生き方にとって美味しいからみんなその状態で留まりたいのかな? どちらにしろ苦労して悟って自己が無いにもかかわらず生きた心地のしない第二段階に進むなんて誰も望むはずないだろうな。
194 :
名無しさん@3周年 :2006/12/17(日) 22:41:35 ID:/U2CtUK3
195 :
名無しさん@3周年 :2006/12/20(水) 15:43:58 ID:jK06Iq++
自分探しが結局は自己喪失につながるというくだらなさ・・・・・・ それに段階をつけて理性的な道があると、示唆するくだらさな・・・・・ 話すということは、そもそも理解しあうための処方であるのに、理解され ないための話。自分は特別だという悦と不安のために、教えてほめる、 そして成就するとりまき。あたらしき種を得るための、くもの巣。 社会$などそもそもないのに、社会というものを極度に社会$のように 色づけして、求心性を得ようとする馬鹿。批判をチャンスと捉えるしたたか なボケ具合。だます人、だまされる人、なんの得も無いという徳のある話。 だます側の人間が、みつける、恐ろしく素直な人間。世話をする人がいて さもありなんとみせる、赤子の魂100までを、そのままやってしまう あほうの不思議。悟って孤独にきがつき、本をかく泣きっ面。人に会う時 見せる余裕。阿鼻叫喚、1ま〜〜い2ま〜〜い3ま〜〜い。脱いでも脱いでも あらわれる、ユニホーム制作会社でつくったクルタ。表にでるときは、いつも 犯罪をおかしてから。ここはちがうあいつはちがう。構造が違う、こころがちがう 絶望すらネタにする、タネアカシ。美術界とおなじく精神世界も真贋論争の 時代に入った。子供に眼をつけるばか。
196 :
明滅 :2006/12/20(水) 23:24:48 ID:+M+66QE8
>>194 言葉にしてくんないとわかんないっす。
>>195 くだらさな・・になっとるぞい。
精神世界とかってもうやめたほうがいいよね。
197 :
185 :2006/12/23(土) 20:11:59 ID:WUoaLsLG
明滅さんは、禅問答参戦してみた? 自分、前回も今回も、かすりもしてない。 ちょっと悲しい・・・。
198 :
明滅 :2006/12/24(日) 00:12:12 ID:4oc+O8ZB
俺はしてない。 だってなんだかこえーじゃんw 考えてはいるんだけど。たまに。 自分で納得いくものが出てこなければ話になんないからね。 有料化される前に回答編が書かれるのだろうか?
199 :
197 :2006/12/24(日) 20:28:13 ID:ipEyxJzI
>だってなんだかこえーじゃんw うん、わかるw。 回答出たね。 人間の「感情」って、何なのだろう・・・。
200 :
明滅 :2006/12/24(日) 23:16:05 ID:4oc+O8ZB
ロバーツもクリスマスイブってことで七面鳥とかケーキとか食うんだろうか? 前の会社は感情のもつれで辞めたんだ。あはははは。 今また似たような状況に追い込まれてる。 今度は逃げないで留まるようにしてるけど。しんどいよなー。 感情ってのは厄介で難しい。
201 :
名無しさん@3周年 :2006/12/26(火) 13:11:46 ID:noYIJKB3
人間の「感情」って、何なのだろう・・・。 <欲なんじゃね?自分が描いてる有り様に、有りたいという。
202 :
名無しさん@3周年 :2007/01/13(土) 23:44:23 ID:8JWzY5g6
203 :
明滅 :2007/01/14(日) 00:36:06 ID:N9Df57Pd
新年あ・・・もう遅いからいいか。 人類絶滅物語、いいのが思いつかないんだな。 締め切りっていつなんだろう? 197さんは考えてみた?禅問答じゃないけど。
204 :
明滅 :2007/01/22(月) 23:06:32 ID:KAum8V4C
がーん! 落ちてる。
205 :
197 :2007/01/23(火) 19:56:38 ID:Hm8uab5w
あれ?????
NO202、203、204さん、今日初めて表示された。なぜ??
一日おきくらいには見に来てるのに。
EOスレもそう。
自分のPCでは、12月25日付けのNO685さんから昨日までずっと書き込みなしで、
今日になっていきなりNO908。 びっくり、ガクゼン!
うっすら、おかしいなとは思い始めていたけど、何でだろう??
>>203 >197さんは考えてみた?禅問答じゃないけど。
自分もいいのが思いつかなかった。なんかツキナミなオチになっちゃって。
昔、SFは和洋けっこう読んだんだけど。って関係ないか...^^ゞ
206 :
明滅 :2007/01/23(火) 22:46:34 ID:2ww98a6X
207 :
205 :2007/02/03(土) 08:45:55 ID:0rDA6apf
明滅さん、サンキュ。 うちの2ちゃん、なんかいまだに変。 EOスレ、終わっちゃったけどまた立ってるね。
208 :
名無しさん@3周年 :2007/02/16(金) 12:09:36 ID:hw4BnKlH
209 :
名無しさん@3周年 :2007/03/05(月) 10:23:41 ID:NKEL9LkS
210 :
神も仏も名無しさん :2007/03/23(金) 22:39:45 ID:H6tNtEJ3
211 :
神も仏も名無しさん :2007/04/07(土) 17:20:44 ID:36JNxiFc
212 :
神も仏も名無しさん :2007/04/20(金) 23:52:30 ID:l/AmbDMH
213 :
神も仏も名無しさん :2007/05/03(木) 05:57:55 ID:mLvM4fKH
214 :
神も仏も名無しさん :2007/05/19(土) 04:26:16 ID:5r0NDwYf
215 :
神も仏も名無しさん :2007/06/01(金) 06:21:17 ID:ehDJijjV
216 :
神も仏も名無しさん :2007/06/15(金) 06:55:00 ID:d1Nr/O8S
217 :
神も仏も名無しさん :2007/06/30(土) 22:50:06 ID:l1vfhJLF
218 :
神も仏も名無しさん :2007/07/13(金) 17:42:10 ID:8cSQEU7J
test
220 :
神も仏も名無しさん :2007/07/25(水) 00:07:47 ID:WuQuJyfv
221 :
神も仏も名無しさん :2007/08/01(水) 05:39:45 ID:X29gUsDt
222 :
神も仏も名無しさん :2007/08/05(日) 21:36:20 ID:O/WzEJAz
ジュリアロバーツって口でかい。
この板の住人はこの人に興味が無い…?
レス抽出 キーワード:奇跡の道 抽出レス数:0
225 :
神も仏も名無しさん :2007/08/18(土) 07:06:33 ID:DxJgz5zU
226 :
神も仏も名無しさん :2007/08/29(水) 22:10:16 ID:xJl3XAQ5
227 :
神も仏も名無しさん :2007/09/12(水) 08:34:14 ID:TPEf6m/f
228 :
神も仏も名無しさん :2007/09/18(火) 23:03:55 ID:L73kynbM
二冊目の訳は、いつごろ出るんでしょう。
229 :
明滅 :2007/09/24(月) 14:38:45 ID:VVI1GkHx
230 :
神も仏も名無しさん :2007/09/30(日) 09:10:15 ID:0cpV/Umb
231 :
明滅 :2007/09/30(日) 13:09:50 ID:J72OW5IX
保守ありがとう。 少しでも人が集まったスレは落ちにくいようだね。 二つ目の邦訳が出版されれば、また書き込む人が出て来るかな?
232 :
神も仏も名無しさん :2007/10/08(月) 01:30:25 ID:yvt00yz9
書店に行ったら「覚醒の炎 プンジャジの教え」という本を見つけ 買って読んでます。プンジャジは昔から好きだったので日本語で 読めるのは嬉しい。でもバーナデットさんはまた特異な気がします。 不思議。
233 :
神も仏も名無しさん :2007/10/15(月) 20:42:56 ID:vThvfP7j
プンジャジの本いいね。
234 :
神も仏も名無しさん :2007/11/03(土) 04:35:51 ID:0wN+btB/
235 :
神も仏も名無しさん :2007/11/10(土) 19:39:48 ID:n8vrIWI7
ガンガジやプンジャジは地味でもそれなりに売れている 気もするが、バイロン・ケイティは日本では全然、注目され てない気がする。なぜだろう。
>>235 むしろジャジの方が知らないよ
ケイティーは好きだけどな。クリスチャンなんだっけ?
237 :
神も仏も名無しさん :2007/11/17(土) 14:17:37 ID:dvkUYbq9
ケイティの本は、あまり売れてないような印象が強かったけど そうでもないのか。 クリスチャンなのは初耳です。 彼女の「ワーク」というのは面白い手法だと思う。(ベストか どうかは別として)。いわゆる精神世界は好きじゃない人でも 入りやすそうだ。意外と日本でも取り上げ方によっては一般に ブレイクするかもしれない気がする。 自分はあまりちゃんとしたことがないので、その効果はいまいち 良くわからないけど。 BRはある意味ハードだから人を選びそうな気がする。
238 :
神も仏も名無しさん :2007/11/20(火) 21:19:45 ID:OLf/LaAg
ここみてプンジャジの本よんでみた かなりよかった ありがとう
239 :
神も仏も名無しさん :2007/11/20(火) 21:23:34 ID:OLf/LaAg
ところでグルを真剣に探してる方いますか 見つからないのはまだ時期じゃないってことなのかな 積極的に自分の意思で探しても自我に都合のいいグル にしか出会えないのかな・・・
240 :
神も仏も名無しさん :2007/11/24(土) 22:42:29 ID:BWRv2ZSh
自分も真のグルを見出した人がうらやましいです。 そんな人は幸せだなあ。
241 :
神も仏も名無しさん :2007/11/30(金) 01:14:43 ID:g+2T05qi
しかしプンジャジの本読んでラマナの本も久しぶりに読み返してみたけど なんかどうしようもない感じがしたわ。 あれ読んでマインドが一時的に安心してるだけだったら読んだ意味あるのか?
242 :
神も仏も名無しさん :2007/12/17(月) 14:16:01 ID:5h8pItFY
243 :
神も仏も名無しさん :2008/01/09(水) 08:11:15 ID:oQZu0YDn
244 :
神も仏も名無しさん :2008/01/30(水) 20:55:42 ID:UEUVr4mm
245 :
神も仏も名無しさん :2008/02/01(金) 01:14:01 ID:UURUV6Jk
いつも保守ありがとぅ
246 :
神も仏も名無しさん :2008/02/16(土) 21:05:18 ID:/mZ3pTMy
247 :
神も仏も名無しさん :2008/02/20(水) 20:50:26 ID:B60PEFRI
ありがとう
248 :
神も仏も名無しさん :2008/03/08(土) 21:31:46 ID:6lvfTRhF
249 :
神も仏も名無しさん :2008/03/09(日) 00:55:25 ID:s4tFKKhC
ありがとう
250 :
神も仏も名無しさん :2008/03/26(水) 05:22:31 ID:CwHEtOtb
251 :
神も仏も名無しさん :2008/03/27(木) 00:02:32 ID:w/fipo7M
ありがとう
252 :
神も仏も名無しさん :2008/04/13(日) 07:57:57 ID:n5OeqUBU
253 :
神も仏も名無しさん :2008/04/13(日) 18:04:19 ID:CTzJM01k
ありがとう
254 :
神も仏も名無しさん :2008/04/30(水) 20:56:01 ID:+dX+tUFx
255 :
神も仏も名無しさん :2008/04/30(水) 22:07:16 ID:H+US9wpk
ありがとう
どういたしまして
257 :
神も仏も名無しさん :2008/05/11(日) 19:15:05 ID:vQB2ymTR
あげてないじゃん
ネタがないならスレを保守しないでほしい
259 :
神も仏も名無しさん :2008/05/12(月) 22:07:02 ID:uplKLRFO
うん
260 :
神も仏も名無しさん :2008/05/15(木) 16:19:09 ID:ovKpF7KX
_____________ |:: ┌──────┐ ::|\ |:: | | ::| .ヽ |:: | ・ω・ | ::| ....| |:: | | ::| ....| |:: └──────┘ ::| ....| | ┌────┐ .| _/  ̄ ̄ ̄ ̄U ̄U| ̄ ̄ ̄ ̄ (__(__J, ∧_∧ ( ) | ∪ ⊂と__)
261 :
神も仏も名無しさん :2008/05/29(木) 05:29:21 ID:rx8UQvCx
262 :
神も仏も名無しさん :2008/06/11(水) 05:29:08 ID:ONez2Yku
263 :
神も仏も名無しさん :2008/06/27(金) 21:12:29 ID:hCTv5rlo
264 :
神も仏も名無しさん :2008/06/28(土) 12:16:21 ID:dGDOrbsF
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日 詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月 酒税法違反 私文書偽造容疑 逮捕 警視庁防犯課 二十九年 三月酒税法違反 私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
265 :
神も仏も名無しさん :2008/07/10(木) 05:59:54 ID:EPatMV0o
266 :
明滅 :2008/07/26(土) 21:57:36 ID:sVYRNica
このスレ落ちたと思ったんだけど。 俺の勘違いかな。 早く出ねーかなロバーツの本。 刊行予定リストの一番上にあるからもうすぐなんだろうか?
新しくこのスレ見た人はバーナデットロバーツが誰なのか知らないから絡めないんだよね。
紀伊国屋から出た本、翻訳はだいじょうぶ? 昔から紀伊国屋書店の心理物って、誤訳の宝庫といわれてるもので。 学生時代に読んだフロムの本もひどかったなー。
269 :
神も仏も名無しさん :2008/08/01(金) 22:13:33 ID:MuAiX0Mb
270 :
神も仏も名無しさん :2008/08/20(水) 21:16:45 ID:qFlAG9r5
もうすぐThe Path to No-self の翻訳が出るらしいよ。業界にいる知人から聞いた。
272 :
神も仏も名無しさん :2008/08/30(土) 17:05:27 ID:flBY4V6F
もうすぐって、ずっと「刊行予定」のままになってるじゃん
274 :
神も仏も名無しさん :2008/09/02(火) 23:06:24 ID:14d0q0uu
275 :
神も仏も名無しさん :2008/09/03(水) 10:20:16 ID:fcSaJrt+
フーマンの本最近出たけどなかなかですね。
>>274 ロバーツの本で現在刊行されているのは下記の3冊。
1) The Experience of No-Self: A Contemplative Journey
2) The Path to No-Self: Life at the Center
3) What is Self?: A Study of the Spiritual Journey in Terms of Consciousness
『無我の経験』は1) の翻訳だと思われるが、これはすでに紀伊国屋書店から
出ている。新訳で出るのかな?
俺が聞いたのは、2)の翻訳が出るという話。版元はナチュスピではなかった。
277 :
神も仏も名無しさん :2008/09/03(水) 22:40:45 ID:gyPgexsa
あれ?「自己喪失の体験」=「無我の経験」なのか ちなみに2)と3)持ってるけど読んでないわ
ナチュラルスピリットは出す出す詐欺出版社だよ
279 :
神も仏も名無しさん :2008/09/19(金) 21:12:38 ID:jMF2DpX9
280 :
神も仏も名無しさん :2008/09/30(火) 11:57:16 ID:TSi2u/Jp
大型書店でバイトしてるけど、新刊のチラシ見たよ。 バーナデット・ロバーツ『神はいずこに:キリスト教における悟りとその超越』 日本教文社 2400円
281 :
205 :2008/10/01(水) 20:14:02 ID:Qa+QIYxI
282 :
神も仏も名無しさん :2008/10/01(水) 20:47:19 ID:0o8vPOKn
うわあ、このスレはじまって以来のニュースだ! ありがとー って、早速明日買いに行こうと思ったら10月23日発売かっ
284 :
神も仏も名無しさん :2008/10/20(月) 04:53:45 ID:MP5yaeEr
285 :
神も仏も名無しさん :2008/10/20(月) 09:39:48 ID:hOx+1DH+
286 :
神も仏も名無しさん :2008/10/21(火) 01:41:50 ID:mKVIrQ0K
アマゾンで新刊予約だと届くのは発売日の翌日になるのかな? 発売当日に買いに行くか迷う・・・ 大手書店で扱ってなかったらヤだしなあ
amazonで予約しといたの発送メール来た
288 :
神も仏も名無しさん :2008/10/21(火) 21:50:32 ID:Oipohs/s
予約すればよかったー
289 :
神も仏も名無しさん :2008/10/22(水) 00:33:07 ID:WYRXZjEK
新刊入手した人、早く感想聞かせてほしい。 期待age
290 :
神も仏も名無しさん :2008/10/22(水) 16:50:17 ID:SoKFE2XB
買った 読み終わったら感想書くわ
291 :
神も仏も名無しさん :2008/10/22(水) 20:53:02 ID:OqRdhX0Q
あれ?明日発売じゃなかったの?!
くそー明日買うわ
>>289 自分で読まないのか?
292 :
290 :2008/10/22(水) 22:36:34 ID:QugfhYGE
>>291 見つけちゃったからね。まあ、買うわな。
読破、少しだけ時間がかかりそう。
君もよろしければ感想を、ぜひ。
293 :
291 :2008/10/23(木) 21:10:17 ID:kWLxmTfY
買いました! この本はじっくり自分の深いところまで潜りこみながら読みたいから 時間かかると思う
294 :
神も仏も名無しさん :2008/10/26(日) 21:24:52 ID:alfurfaW
第一段階まで読んだけど、自分をはじめ、ほとんどの読者が 第一段階の合一すら体験していないだろうから、この本は下手すると 受動的なプロセスを歩むためには毒になるね・・・
295 :
神も仏も名無しさん :2008/10/28(火) 20:02:41 ID:e60ASK+S
ふぅ。読破。 キリスト教徒ではないので言葉を置き換えつつ、何とか。 それでもやっぱりキリスト教に詳しい方が判りやすいだろうね。 自分も合一体験は無いけど、多くのヒントはもらったよ。 宗教に関係なく、至高体験でゴールにするものが多い中、そこはしっかり注意喚起してるね。 最後の訳者のまとめが読者への心遣いを感じさせる。
296 :
神も仏も名無しさん :2008/11/13(木) 20:45:39 ID:gGM0WNBE
297 :
神も仏も名無しさん :2008/12/07(日) 20:00:46 ID:W1TQCmM9
現実の具体的な事柄に従事していないと、地に足のついた言動から遠く離れた 物言いになってしまう。
298 :
神も仏も名無しさん :2008/12/08(月) 00:02:03 ID:+tkcQ573
299 :
神も仏も名無しさん :2008/12/21(日) 11:15:40 ID:/guj+v0e
あげとくか
300げっと。
301 :
神も仏も名無しさん :2008/12/23(火) 19:52:24 ID:P6En5LQw
面白かったけれど、まず第一段階の合一に至るには どうすればいいのかよく分からなかった。 エックハルト・トールなどが人気だけれど それを読んだ人が、実現できた人はどの程度 いるのだろうか? 実際のところが知りたい気がする。
302 :
神も仏も名無しさん :2008/12/23(火) 22:52:41 ID:SVwhGnzJ
>>301 ロバーツもKもエックハルト・トールも、実践論や方法論は語ってない。
そこが不親切なんだよ。参考にはなるけど手本にならないから。
瞑想が筆頭だろうと思うが、他にもヨガ、気功、ドラッグ、ヘミシンク、アヤワスカ、ダウジング、占い、こっくりさんなど、いろんな方法があるけど、どれが本物なのやら。
向き不向きがありそうだが。
>>301 ロバーツはカトリックの伝統的な瞑想(黙想?)を行なったと書いてる。
その具体的な内容はカトリック関連の本に載ってるだろう。
ただ、誰もが同じように到達するかどうかは不明。
禅だって同じだ。誰もが見性するわけじゃない。
結局、見性するかどうかってどんな方法にしても恩寵によるものなんだよね
305 :
神も仏も名無しさん :2008/12/28(日) 13:06:09 ID:OUXKNW72
ラマナやブンジャジやガンガジにも弟子がいっぱいいたはずだけど その中に目覚めた人って、どの位いたのだろうか? ラマナの弟子で目覚めた人って、プンジャジの他に有名な人って いるのでしょうか? 伝記とか読んでいても、その辺の話ってでてこないですね。 トーレも精力的に活動しているみたいだけど、その教えを「伝達」 できる可能性については、どう思っているのか知りたい気がする。 マススター・エックハルトも自身は有名だけど、「教え」を 伝達できたのだろうか? ガンガジのサットサンなどの映像を見ていると、「あなたの おかげで自由になりました」と言っている人が出てくるのだ けれど、これは本当に目覚めることができた人なのか、 それとも気持ちが楽になった程度なのか見ていて いまいちよくわからない。
まあ何人かはいたのかもしれないけど、 クリシュナムルティの教えではゼロ人、 ラジニーシのとこだって2〜3人でしょ?
>>306 絶対自由はラジニジでは無理。
彼はクリシュナムルティにに劣る。
もちろんクリシュナムルティのが絶対自由だろうけど 彼は方法論を提示してないからね・・・
310 :
神も仏も名無しさん :2008/12/30(火) 20:01:02 ID:mlM2ZfEQ
教えの伝達が出来る人とそうでない人がいるのは なぜなんでしょうね? 教えの伝達のすごい人が居れば是非弟子入りしたいのだけれど。
311 :
神も仏も名無しさん :2009/01/15(木) 05:12:07 ID:sYbb5eTm
>>310 弟子にあった方便が使い分けられる人とそうでない人がいるからじゃない?
313 :
神も仏も名無しさん :2009/01/29(木) 20:46:18 ID:ygb0nlCk
314 :
神も仏も名無しさん :2009/02/12(木) 20:08:07 ID:d2yr306T
「教師はいつでも用意ができているが、生徒がいない」 とニサルガダッタマハラジかプンジャジの本に書いてあった。 乞食のようにはいずってでも恩寵を要求したまえ 気取っていたらどんな恩寵も得られない。
恩寵って要求するものなの? でも、自分が恩寵を受けるに値しない人間だって卑下するのは 間違ってるってことだけは最近気がついたよ
自我の有無を理性・相対化で分けている者は、真の悟者ではない EOにしてもそうだが、こういった「悟り=人格崩壊」論者(静寂主義者?)の最大の矛盾は、 絶対一と言いつつ自我については「ない」側に完全に偏っているところ。 この手の論者は、なまじ悟りの視点自体は体感した事があるだろうだけに、 正しい観察も混じっているから却って始末が悪い。 観察と離人症あたりがセットで発生すると、こういう思想を抱くのやも知れない。 その入り混じる正しさの断片ゆえに、透徹した思考を持てない者は、 悟った後にすら魔境に突き落とされる可能性がある。 悟りを目指す者へ。 虚を得ても、実を否定することなかれ。 実もまた真なり。それを忘れぬよう。
>>317 その手の論者はこのスレにはいないでしょ
いまどきの覚者はみんな「悟ったあとにも自我は残る」っていってるし
ロバーツの言う自我(エゴ)は善行を為すときにご褒美を ほしがってしまう部分で第一段階で落ちる。 これは人間としての成熟であってこの世を完全に生きるためのもの。 「愛の炎」、「内面探究の底に達した後は外に向う」、「自動的な無私の善行」 「いつでも逃避できる場所としての静寂点」 第二段階で自己(セルフ)が落ちた後の日常生活は、意思による選択が できなくなって、過去に培った習慣(行動パターン)に頼ることになるから 外部から見た人格は残る。こっちはたしかに廃人的だが、本人もこの世を 生きるための状態ではないと言ってる。 「首の上の私と首の下の私は同時に落ちる」、「体の面倒見るのは植物の面倒見るのと同じ」 「精神的活力は肉体的活力に支えられている(どちらもなくなってしまってこれが分かる)」 「痛さや苦しさは感じるが嫌だとか止めようとか思うことはない」 「いつでもなすべき事は見えていて梁の上を歩くようなもの(選択肢はなくて落ちるかうまく歩けるかだけ)」 (以上記憶に頼って書いてるから勝手な解釈入ってるかも) ロバーツ批判するならノーエゴとノーセルフ区別しないと。 ノーセルフはあんまりうらやましくは見えないね。
人格崩壊の否定って事は当然 「ノーセルフが間違い」って話でしょ?
321 :
The Emperor_The Fool_The Hermit :2009/02/22(日) 22:42:15 ID:KpjTW/6m
決断の時が来た
, r ´ , r ´ イ | |_ノ , r ´ ,.r.´ ,.r.´ ̄ ̄ ̄,.r.´ , r ´ /| |ン ., r´ / r´二二二二ヽ ,.r ' / /| | | . /, ' /______'_____'____/ //| | | |/ /, ' ./ |○___○| ヽ、/ .| | | |. /, ' |_____// ̄ ̄ ̄ ̄ヽ\____.| ┐| | |/ /, ' | |.高尾行| | .| | .| | | | | ./, ' || ̄ ̄ ̄ ̄|| | | ̄ ̄ ̄ ̄| | || ̄ ̄ ̄ ̄|| | | | .// || || | | | | || || | | | // || || | | | | || || ┘| | // ||____|| | |____| | ||____|| |/// |. .| | | |. .| // | 三三三三.| | | |.三三三三 | // _.. ‐'''''''''''' ‐ 、 | 三三三三.| | | |.三三三三 | // ,r' \ ぽ〜にょぽにょぽにょさかなのこ〜 | .口 | | | | 口 .|// / ⌒ .ヽ, ヽ、____.ヽ、二二二二二ノ____ノ/ . | ((о )) ⌒ .i おかあさんいままでありがとうだお \ /././ . i. ((о )) | | |/ / .... \(_入_ノ / └──────────‐┘/ . ノ__,,/,___/ // // / /ゝ/ノ:::::::::::ヽ 〜 // // / |ノ//:::::::i:::::::::| 〜 // // ./. |・:::::::::::::::|::::::::| 〜 // // / |・:::::::::::::::|::::::::|
323 :
神も仏も名無しさん :2009/03/13(金) 23:10:36 ID:L7Z7LqXP
一瀬隆重
324 :
輝韻 :2009/03/26(木) 17:43:39 ID:7XLWbMaK
神はいずこにを読んで一番印象に残ってるのは、 動物園の飼育係を呼べばいいじゃないかってとこ。
325 :
神も仏も名無しさん :2009/04/08(水) 04:27:40 ID:1eP1Ucst
326 :
神も仏も名無しさん :2009/04/12(日) 17:44:16 ID:YOL+G1L9
スレチごめん
334 名前: 名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中 投稿日: 2009/04/07(火) 20:49:37 ID:5Vq3qRxp0
イタリア地震。結構大きいらしい。
建物が古いので死者も確認するたびに増えているらしい。その義援金をイタリア大使館が募集始めた。
http://www.ambtokyo.esteri.it/ambasciata_tokyo で・・・。
なんでここに貼るのかというと、まるで、今日本に善行されると困る人でも居るのかと疑いたくなるくらいに
何故か今回マスコミが全くだんまりを決め込んでいるから気になって仕方が無いので・・・。
327 :
神も仏も名無しさん :2009/05/02(土) 06:13:41 ID:HloVOmqM
328 :
神も仏も名無しさん :2009/05/27(水) 21:09:24 ID:tCGrw3Lg
329 :
マイヤー マイヤー ◆JDl1K5oLuM :2009/06/20(土) 23:58:32 ID:P0F8Ix7P
ラジニジは世界一のロールスのコレクター この点は凄い。
ラジニジってだれだ? この素人がw
ギヨエテとは俺のことかとゲーテ言い。 カルトの素人でエガッタわ〜
著者の名もしらないとは 読書の素人だわな(苦笑
334 :
神も仏も名無しさん :2009/07/08(水) 13:47:43 ID:h4UBS9q4
西洋人の外向適マインドに対して 「静に有り続けなさい」と言うほうが 土台無理。 ラジニーシはその点を工夫したよね。
336 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 07:42:26 ID:JUdzZ0gt
>>302 特定の方法なんてない
>>303 きわめて公平にかつ平等に起こる
人の偏見や評価によって起こるのではないからだ
>>306 はっきりいって
誰が指導しようが無理なものは無理
起こるものは起こる
キーは指導側には無いのだから
>>318 >「悟ったあとにも自我は残る」
「自我を残す」なんだが・・・
341 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 21:49:38 ID:cY3oeUA2
自我を残すというのも違う。 自我というのは思考と記憶と身体感覚の集合体を自分と誤認している状態を指すから。 正確にいうと「状況に応じて思考を『利用』する能力は残る」ということだろう。 ただし、悟る以前の個性みたいなものは残るようだ。 バーナデット・ロバーツも悟ってから思考を再び自由に使えるようになるまでに 苦労したみたいだね。 悟りは、誰もが本来悟っているという意味では誰にでも公平に起こりうるが、 自我ありきの「時間」という流れの中で考えるときには、まったく公平ではない。 (公平には「見えない」といったほうが正確か。) だから、仏教でいう「差別と平等」というのは表裏一体なんだ。 また、指導側にキーはないというのは、そうともいえるが、悟りは必ず「縁に ふれて」起こるものであるので、師に完全に明け渡すことによって縁に触れる チャンスは増えるだろう。 思考と観照の主体を切り離す初期段階および、小悟を繰り返した後の最後の自忘の 一撃のような最終段階だけは師がいないと無理だと自分は思う。 (前者の初期段階は宗教に限らず、スポーツ・武道・芸術その他の分野を極めれば 独りで獲得される可能性もある) ただし、前世でそういう段階を済ませてしまった人は師なしで頓悟する可能性は あるだろうけれど。 バーナデット・ロバーツにしても、和尚にしても、師なしで悟った人は例外なく 子供のころに最初の一瞥を得ているが、それは前世の修行の名残だろう。 悟りについて語るときは、まず、自我と時間ありきの側と無我と永遠の側の どちらから語っているかを明記して体験的に語らないと不毛なやりとりと誤解 が続くことになる。
バーナデット・ロバーツは単なる離人症でしかない
>>341 素晴らしい考察だと思う。
最後の「永遠」というのは時間軸が
消滅した、という意味で使っているんだよね。
つまりこの一瞬が永遠そのもの。
バーナデットは禅やクリシュナムルティと対等の境地だと
思った。
まだ全部は読んでいないけど。
344 :
神も仏も名無しさん :2009/08/08(土) 17:10:40 ID:LdW7xFFl
補足すると、時間軸は「自我側の認識からとらえたときに見性の瞬間に 消滅したように見える」ということであって、そもそもはじめから現象世界の 時空と永遠の「空」とは別々なものではないということだろう。 (この点を間違えると、あたかも外側にいる神のようなものを設定してしまうのだ。) すなわち、この一瞬にすべての存在と全宇宙と有と無と過去と現在が 同時に「在る」ということだ。それは別の言い方をすると、すなわち すべてが「無い」ということとも同義となる。 なぜならば、在るということは無いということが前提の概念であるし、 無いということもまた、在るということが前提の概念だからだ。 ただし、これは現象世界側からみた「概念」による説明であって、 人間の姿形と認識能力を持って生まれた我々が見性するときには 自我による認識のゆがみのない状態において「3次元の人間特有」の悟りの 経験をするということだろう。 だから、別の次元にすむ宇宙人がいたとしたら、それは別の悟りの顕れに なるだろうと思う。 見性とは、在ることと無いことが一致していることを、現象世界のあらゆるもの の中に同時に見ることだ。ただし、そのときに見る主体はいなくなっているから もはや世界は映っているままにただ在る。(というより、ただ、在るものがいかなる 区別もなく在る。)
346 :
神も仏も名無しさん :2009/08/13(木) 18:08:56 ID:PrKeSClF
What an ironical turn of events!
347 :
神も仏も名無しさん :2009/08/17(月) 20:32:12 ID:D5pOXD5S
>>344 すばらしい考察です。真我とかそういう得体の知れないものがあると信じ込んでる人に聞かせてやってください。
348 :
神も仏も名無しさん :2009/08/17(月) 22:06:34 ID:BuK3+rfQ
>>347 真我というのは、我々人間の身体と認識構造ありきの概念であって、
なにか実質的な神のような存在が、世界と別個に存在するわけではない。
なぜならば、真我というものが客体として認識されたとたん、それは
空そのものではなくなるからだ。
ただし、我々人間の心身のシステムが空に「触れた(という言い方をとりあえず
しておく)」一瞥の瞬間、未だ認識されるものと認識する主体の区別が完全に
一致していない場合、人間の身体感覚は空のはじめての「手触り」のようなものをハートの奥
の爆発としてとらえる。(それは無条件に組み込まれた反応であり、当然、頭で理解されるもの
ではない)
だから、ヨガのように人間の身体構造から悟りを追求していく場合には真我というもの
が身体側からのひとつの「方便として」目標となる。
(いわゆる有象無象のスピリチュアルの目標とする真我、ハイアーセルフなどというものは
単にエゴの延長にあるものに過ぎない。また、ヨガなどにおいても、真我の概念は
誤りとはいえないまでも、それを時空の方向性のある客体としてとらえて「目指す」ことによっては
決してどこにもたどりつかない)
悟りの瞬間が爆発であったり、真我といわれるものが光であったりするのは、
認識(気づき)の生じる主体と客体の分岐点の一瞬の「空白」そのものに「帰った」
ときに、その一瞬だけ思考と身体の条件付けを超越するからだろう。
しかし、その爆発そのものが悟りであるわけではない。
だから、禅では悟りを体験する者自体を完全に忘れるための悟後の修行が必要なのだ。
最終的に認識している者自体がなくなったときには、空というのはただ当たり前のように
世界の現象にあまねく顕現されたものとなり、そもそも生まれる前からそうであったのだ、
と思い出す。(思い出す主体もなくなる)
349 :
神も仏も名無しさん :2009/08/17(月) 22:16:57 ID:BuK3+rfQ
ちなみに、ハートの爆発の経験そのものは一般人でも偶発的にけっこうな割合で 体験している人はいる。 しかし、その後、悟後の修行に移行する人はきわめて少ない。 だから、真我という概念がはびこる。
350 :
神も仏も名無しさん :2009/08/17(月) 22:34:59 ID:BuK3+rfQ
それにしても、当たり前のように見てきた世界が、人間という心身の「わたし」 を通して、このように顕現されて「見えている」ということは非常な驚きに満ちている。
>小悟を繰り返した後の最後の自忘の >一撃のような最終段階だけは師がいないと無理だと自分は思う。 これはいかなる理由でそう思われるのですか? 悟るのではなく、元々悟ってるものに戻るのに、特に師はいてもいなくてもよいと思うのですが 人に限らずあらゆるものが既に師であり
言葉遊び乙って感じだな
確かに修行した人の言葉とは思えんな。
ここのみなさんは悟りに修行が必要だと思っているのですか? ロバーツはそういう内容ではないと思いますが もちろん生きることが全て即修行であるという意味ならそうですが
受動的暗夜に入るまでは修行みたいなもんでしょ
バーナデットが幼少から行っていた観想と訳されている瞑想は 修行ではないという判断なのですね。。
358 :
神も仏も名無しさん :2009/08/18(火) 01:36:31 ID:eOIdpCs+
悟るためにあえてやってるのでないなら修行とはいえないのでは?日常の一部? 禅なんかでは悟るために修行するとやめろって怒られるけどな。
今の自分は実は既に悟っていたのだと気付くための修行はすればいいし、 今の自分は悟ってない、悟った自分になろうという、 今の自分でない別の自分になろうとする修行はむしろ悟りから遠ざかる 修行したい、修行したほうがいい、という思いがすでに欲であり、分別であり、 自我であるから、むずかしい
そんな境地は、全宗教、全精神世界業界がでっち上げた嘘であるとしたら、どうするね?
361 :
神も仏も名無しさん :2009/08/19(水) 08:35:01 ID:KQDNhf5o
>>360 なぜ嘘かどうかが気になるのですか?
嘘は悪いことで嘘でないことがいいことだと思うからですか?この世には嘘と嘘でないもの
があり自分はそれに気付ける人間になりたいと思ってるからですか?人生や時間を嘘でな
いもので有用に使いたいと思ってるからですか?人間は嘘と嘘でないものを判断できる存在
だと思っているからですか?
嘘であろうとなかろうと気にしない、気にならないのが悟りですからどうでもいいことです
なぜ嘘かどうかが気になるのか考えてみたらどうですか?
362 :
玖渚 :2009/08/19(水) 12:13:02 ID:VL36eoVE
363 :
神も仏も名無しさん :2009/08/19(水) 21:15:39 ID:QPIKB8ob
修行が必要ないかどうかは、少なくとも一度は修行したことがないとわからないよ あと、修行なしで悟ることがあったとしても、現段階で悟っていないのならば、 悟りについてまったくの想像だけで語ることは無意味だよ 悟っていないで悟りについて(それが誤りだとしても)体験的に語れるのは瞑想をある段階までやってみた人だけだよ 論理的に考えてもそうでしょ? 修行なしで頓悟した人は、頓悟の直前まで、悟りについてなにも知らないってことなんだから、何も語れるはずはない。 修行なしで本だけ読んで知識つけた人は悟りについて語る資格はないよ ここでいってる修行とは、バーナデットの観想を含む、瞑想ということだけどね。
364 :
神も仏も名無しさん :2009/08/19(水) 21:21:45 ID:QPIKB8ob
自我の思考による相対的な価値観で相手を責めても意味がない。 語るのならば、体験したことだけを具体的に語ろう。
365 :
神も仏も名無しさん :2009/08/19(水) 21:36:31 ID:QPIKB8ob
あ、でも、バーナデット・ロバーツの本を読んだ人のスレだから、 誰であっても、感想を書くのはもちろんOKだよ ただ、相手を批判するときはそれが「自分の体験の何に基づいているのか」を 明記してね。(悟りは自我による「体験」ではない、という言い方もできるから、実感をともなった 体験に基づいて話すことがナンセンスだと思う人もいるだろうけど、そうだとしても、 「悟りは『体験』ではない」ということそのものが、どのような体験から導き出されたものなのか が具体的じゃない人は観念だけで語らないでね) とにかく、自我の相対的な価値観で人の思考を批判しないようにしよう
366 :
神も仏も名無しさん :2009/08/19(水) 21:51:05 ID:QPIKB8ob
>>351 ちなみに、自分が師が必要だと思うのは、自分の死に物狂いの瞑想の体験の結果
そう思うという理由です。
ただ、瞑想したことのない人にたいしてなぜ師が必要なのかということを説明することは
難しい。
自転車に触ったことも無い人に、自転車に乗れたときの瞬間の、すべての軸と重力と
タイミングが一致したときに起こる空白の一瞬について言葉だけで生生しい体験を伝えることができないのと
同じように。
あと、すべての存在がすでにして悟っているというのはその通りだと思うが(だって、そうでなければ悟る意味はないでしょ)
、日常そのものが即、修行となるためには、日常に起こることすべて、24時間「観照」できてはじめて為されるものでしょう。
だから、自分は、観照のトレーニングの段階は絶対に必要だと思うのです。
宗教にかぎらず、なんらかのトレーニングなしで自我と気づきがはじめから完全に切り離されている人っているのかな?
なんで他人の書き込みを修行してない人の書き込みだと思ったの? なんで悟ってない人の書き込みだと思ったの? 頓悟した後でそれがなんであるかを調べ悟りだとわかった人も多い 悟りとは言わず神秘体験として語っている人も多い 頓悟でもなんでも語れるよ それに語ってる人がそれを自分の体験と言ってもそれが本当かどうかわからない ロバーツにしたってそう 自分の体験だとしても、単なる幻覚か何かかもしれない 結局それらを判断するのは自分 自分が勝手に他人を判断してる そして判断してる自分(自我)というものがわかればそれでいい 修行は分別や執着など判断してる自分(自我)に気付くためのものだし、修行したからといって 気付くわけでも悟るわけでもない 修行をきっかけに自分に気付いたというだけ 修行で悟れるなら修行した人はみんな悟ってる 修行するのが無駄ともいらないとも言わないけど、修行が必要だとも言わない うまい修行をすれば悟るきっかけになるし、そうならない修行もある きっかけになればなんでもいい、きっかけは修行しなくてもどこにでもある それらにうまく気付きながら自己を見つめていけばそれでいい 修行というならそれが修行だろう
観照っていうけど、自分を含め全てのものに本当に疑問を持てればその瞬間それだけで 悟れるよ 全てのものに疑問を持つってのは全てを否定、同時に全てを肯定するってことだから 否定も肯定もしない、否定する自分も肯定する自分もいないってことだから まあ観照も構造は同じことだけど
理屈で悟れないことだけは確かだな。
>>367 こういうのが出てくるから
クリシュナムルティやバーナデットは
厄介なんだよね。
「自分は正しい。だってクリシュナムルティが
言ってるし」
とか誤解しちゃうんだよね。
世間で言う瞑想や観照ってのは何かに集中することで自我の働きを抑え、無我状態を体験 してるんだ でも集中が無くなれば元に戻ってしまう 通常言われてる修行ってのはこういう集中のことだから、元に戻ってしまうって意味で無意味 だとも言える 無我状態を一時的にも味わえるという利点?はあるけど だから集中しなくても無我状態でなければ意味が無いし、そういう意味で修行はいらないって 言いたいんだよね 集中によって自我を抑えるのではなく、自我自体を手放す 集中する自分も集中しない自分も自分が丸ごといなくなる それが本当の瞑想や観照 瞑想や観照すらしなくなるのが瞑想や観照 でもたいていの人は修行した後で修行がいらないってわかるわけだからむずかしいけど でもなんでも修行だよ、生きてるなら
372 :
神も仏も名無しさん :2009/08/19(水) 23:08:01 ID:QPIKB8ob
自分にとって、修行とは気づきと自我(感情、記憶、感覚などすべて)を切り離すことと、および、その背後に悟りという ものが「ある」ということを体験的に信じられるようになる「一過程」であると思っている。 その意味から、修行している人や修行を通り抜けて悟った人の言葉に見られる具体性がないな、と判断した。 でも、もし、すでに修行を経験したり、悟ったりしている人の書き込みであったのならば、私の勝手な 思い込みでしたのでお詫びします。 瞑想における体験とは、単なる幻想であることがほとんどですが、瞑想したことがあれば、 幻想であればそれは幻想である、と瞬時に気づくことができます。それこそが瞑想の要です。 もちろん、悟るまではすべてが幻想である、ともいえるわけですが。 しかし、瞑想においては、悟る以前においても、しばしば悟りの一瞥というようなものがあるのも確かです。 純粋な気づきそれ自体になることは未だできなくとも、すべての幻想を丁寧に丁寧に 排除していったときに、見ることはできなくとも確かに全てを否定された裏側に 時空を超えた何者かの存在を確信することができる。(もっといえば、確信そのものの一撃というものが 明確に起こる。)そして、その確信すらも忘れていくことが本当の修行である。 ちなみに、おっしゃるとおり、判断している自我に気づいただけでは道の半分でしかありません。 それだけでは悟ったことにはならない。それは認識のメカニズムと苦の原因を「理解」したことにすぎない。 悟りは「理解」ではない。
373 :
神も仏も名無しさん :2009/08/19(水) 23:08:44 ID:QPIKB8ob
頓悟した人が語れない、といっているのではなく、頓悟した後に語ることはできても、頓悟する 以前に語ることはできない、ということです。なぜならば、頓悟する以前には、なんらの悟りに関する体験的 知識はないはずなので。そうでなければ、頓悟とはいわないでしょう。 あなたの言っていることは、私の言っていることと矛盾はしていないんです。 ただ、私は、あなたの「修行はかならずしも必要ない」という自明のレベルに到達する前に、 (あなたも同じことを意味しているであろう)日常即修行(イコール観照)という境地にくるまでに 観照の純度をトレーニングによって上げる必要があったのです。 それは、私が非常に疑い深い自我を持っていたためです。 そして、今の段階では、もちろん、あなたの言っていることが「本当の意味で」純粋になされれば、 今、この瞬間すぐにでもすべての人が悟れるだろうという確信にまでいたっています。 ただ、バーナデット・ロバーツはやはり、相当に瞑想三昧の半生を送ってきた人であるし、最初の 悟りからさらに大悟にいたるまでも、耐えざる修行と探求にあった人でしょう。 だから、このスレにおいては、瞑想の道について語るほうが趣旨に近いと思ったのです。 そしてなによりもまず、私はロバーツが「悟っている」ことを前提として話しています。 だから、ロバーツの悟りそのものが幻想である、といってしまうのならば、私の話は すべてその時点で無効となります。
374 :
神も仏も名無しさん :2009/08/19(水) 23:09:25 ID:QPIKB8ob
あなたの言っていることはクリシュナムルティに近いけれど、クリシュナムルティは 「私の話を聞いて悟った人は一人たりともいない」と断言してますね・・・ だからといってあなたが悟っていない、悟れない、とはいいませんけれど。 また、どうも瞑想に対する誤解があるようですが、観照というのは、一点集中の瞑想では ありません。むしろ逆に、全方向に拡散していき、そのすべてに気づく瞑想のことです!!! 一点集中の瞑想だけでは悟ることは難しい。しかし、拡散の瞑想の前に集中のトレーニング が役立つことも確かである。その意味はやってみないとわからない。 もちろん、あなたが指摘するように、観照においてサマタ瞑想的な無我状態は「幻想」として 即座に、他の現象と等価に切り捨てられます。 また、自我というのは観照において、自我の塊として切り捨てられるのではなく、等価に切り捨て られる段階でバラバラに切り捨てられていくので、観照と気づきが切り離された段階で自我という 幻想はすでにありえないのです。もっといえば、自我という実態が最後の最後まで残ってそれを捨てる わけじゃない。瞑想していない人は、その辺の微妙な手触りと体験にかけているように思うのです。 ただ、私が思うのは、バーナデットの観想が、記述を読むかぎりでは初期段階までは、 内部の神への極度の一点集中であったのではないか、ということで、そこが興味深いところです。
375 :
神も仏も名無しさん :2009/08/19(水) 23:31:20 ID:QPIKB8ob
疑問とは思考だ。 だから、疑問による排除だけでは純粋な「それ」には到達しない。 「本当に疑問をもつ」というのはどういう意味だろうか。 むしろ疑問そのものが、概念化できない気づきの空白の光のストロボに照らされて 無効になったときに、それ自身を見ることも概念化することもできない「それ」 が即座に立ち現れるのではないか。 気づきは、思考ではない。 観照のトレーニングとは、そのことにまず気づくことだ。 あなたの方法はすべてを排除していくアドヴァイタ的な方向としては間違ってはおらず、 最終的に全否定が全肯定と同義になるというのも私の先の書き込みとまったく同じだが、 瞑想の経験がないからか、気づきと思考の完全な切り離しの体験がないようだ。 その体験がないことがあなたにとって有利なのか不利なのかはわからないが、私の言っている 瞑想の体験から語られることと決定的に違うのはそこだ。
ロバーツが幻想とは言ってないよ ロバーツが幻想とか事実とか思う自分が幻想ということ ロバーツが事実に違いないと思ってるなら、それはロバーツの体験というものに執着してる ということ ロバーツに限らず、この世には現実があると現実の存在に執着してるということ ロバーツも現実もあるならあるでいいし、ないならないでいい、どっちでもいい サマタとか知ってるんならわかってるでしょ 観照が集中でないとしても、観照しようと思った時点で観照という概念に対する集中だよ 全体に集中だとしても 全体に集中することに対しての集中 あなたは体験があるみたいだからわかってるだろうけど、全体の集中はしようと思ってできる のではなく、自我が消えることによっていつのまにかそうなってること 自分ができるものではないこと 自分は自分を手放すことしかできない その結果、向こう側から来るもの 向こう側ってのは言葉にすぎないから自分の中からでもなんでもいいけど ようするに完全な観照、全体への集中は受身でしかないということ 全体との合一だから受身ですらないのだけど ただ、修行というと、ふつう能動的になってしまう 完全に受動的になる修行ならけどね クリシュナムルティが言ってるように、日常そのものが瞑想であって、瞑想という何かがある 修行という何かがあるというものではないよ あなたの言う観照がそういうものであるなら、それでいいんじゃない? ただそうだとしたら師が必要とか修行が必要とかは言わない気はするけど
本当に疑問を持つってのは、信じてることを全て放棄するってことだよ 信じてる自分を 悟りや修行や言葉や概念や現実や在るとか無いとか そういった自分が無意識のうちに信じてた全てを、信じてる自分を放棄するってことだよ そういった全てはあってもなくてもいい あるとかないとか自分が勝手に判断してるだけであって、ただ空でしかない あるともないともいえない
378 :
神も仏も名無しさん :2009/08/19(水) 23:40:15 ID:QPIKB8ob
>>374 ×観照と気づきが切り離された段階
○現象(あらゆる思考、感情、感覚、すべて)と気づきが切り離された段階
>>377 放棄が自動的に起こるまでには能動的な疑問がまずはじめにあるだろう。
能動的な疑問から、自動的な放棄にシフトする分岐点はどこなのか?
そのことを体験的に説明できますか?
379 :
神も仏も名無しさん :2009/08/19(水) 23:48:56 ID:QPIKB8ob
瞑想においては、能動から受動にシフトする瞬間が明確にある。 その導入部に、一点集中が役に立つのだ。 完全なる受動とはなにか? もしあなたが、完全な受動状態にあったら、生命を維持することができない。 なぜならば、たとえば日常生活において車が来てもよけることもできないからだ。 実際に瞑想していると、そのような状態になる。車と私の区別がなくなってしまうのだ。 その意味で、師が必要なのだ。 完全に明け渡せる師がいなければ、最後の最後の生命維持ストッパーははずすことができない、 と自分は個人的に思うのだ。 個人的に思うのであって、すべての人にあてはまるとは限らない。
>>378 疑問は必ずしも能動ではないよ
例えば能動的な自分(自我の働き)に疑問を持つことは能動的と言えるだろうか?
言葉だから矛盾するけど、自我の根源を探ることは能動とはまた違うと思うよ
それも能動っていうんならそれでいいけども
シフトは自我を見まいとしている自我自体の欲求が見れた瞬間だよ
自我が見れるだけでなく、自我の構造が完全に見れること
どこからどうやって自分が自我をつくり、それがどのように働いていたかまで見れるように
なること
>>379 じゃあそのまま死んでもいいじゃない?
なんで生命を維持する必要があるの?
それは完全なる目覚めの悟りではなく、トランス状態だと思うけど
どちらにしろ世界と合一してるならそのまま死んでもいいと思うけど
自分からすればそういうのが合一だとは思わないけど
まあどっちにしろ、全ては悟りだからどうでもいいんですよ あれこれ言わなくてもね ただ全体、ありのまま、そんだけです またね
383 :
神も仏も名無しさん :2009/08/20(木) 00:04:09 ID:0uR4vn9u
あなたが誰に教えを請うこともなく「自我自体の欲求が見られた瞬間」をとらえることを自ら知ったのならば、あなたは本当の意味で瞑想の才能がある。それはすばらしいことだ。
ただ、老婆心ながら、その才能を生かすためには、自我という言葉の概念にとらわれないことだ。
もっともっと今の気づき、「見ること」を純化していき、実態のない自我を極限まで見続けることだ。
回り道をしないことを願う。
>>381 あなたのいう自我が完全に無効になったときの状態を知っていますか?
それはトランス状態ではなく、完全にさめているけれど対象物との境界
がなくなっている状態です。
また、その状態は「合一」ではない。合一というのは、2つの異なる客体が
ひとつになることだから。そうではなく、自我という幻想が身体という幻想の中
から「どいた」ときに、もともと境界のなかった世界がただあるということだ。
バーナデットが悟った後に、川辺の花をみて「花がほほえんだ」といったのも
そういうことだ。
ただ、私は今の段階ではまだ、その一瞥までしか知らない。
もしかしたらすべてが間違っているかもしれない。
そろそろ黙ります。
すでにしてひとつであるあなたと私が、悟れますように。
384 :
神も仏も名無しさん :2009/08/20(木) 00:08:43 ID:0uR4vn9u
最後に、 生命を維持する必要があるのは、まだ最後の悟りにいたっていないからだよ。 そして、最後の悟りにいたるまでは、やっぱり生命を維持する本能があるんだ。 そこらへんの感覚も、やっぱり体験でしかわからない。
385 :
神も仏も名無しさん :2009/08/20(木) 00:25:49 ID:0uR4vn9u
すべてがはじめから悟りであるからどうでもいいじゃない、というのは 正しいといえば正しいのだが、ではなぜ確固とした悟りが必要なのか、というと、 それは単純に苦のメカニズムから抜け出したいからだ。 ただそれだけだ。単なる知的好奇心だけでは動機は維持できない。 もともと悟ってるんだからいいじゃん、といって開き直っても、絶対的な幸せで ないかぎりは、ふたたびあれやこれやと自我の欲求を満たそうとうろつきはじめる。 だから私もふくめ、このような場であれこれ発言したくなる・・・・ ただ、バーナデットロバーツは苦からの逃避が動機ではなく、神との合一が動機 であったんだよなあ その動機からはじまって、ある至高の状態の段階でとどまらず極限までいったのが特異な例だとしかいえない。
神との合一とかそんなもん言葉で元の無我に戻りたいだけじゃね? 苦からの逃避も同じ 元々無我で全体であるものが自己を作って苦や神との乖離を感じてるだけっしょ 単に元に戻りたいだけだよ 人間は
387 :
神も仏も名無しさん :2009/08/22(土) 16:18:04 ID:+CGtKSAV
385です。
先日は、個人的に修行が必要だと思うと述べましたが、実をいうと
自分は物心ついてすぐに空の一瞥をしました。
それは、瞑想によって得られるどのような体験よりも純粋で圧倒的かつ
あっけにとられるほど自然なものでした。それは一瞥という「体験」ですらありません。
自我はすでに芽生えていましたが、もちろん、悟りそのものについての知識
もあるはずもなく、それは、ぼんやりとまどろんでいるときに唐突に起こりました。
その意味では、誤解を恐れずに断言すると、空の一瞥には現世においての修行はまったく必要ありません。
というよりも、修行その他、あらゆるものが「それ」とは別のものであるのです。
しかし、自分の経験からいうと、「それ」の一瞥だけでは絶対的な悟りの体現ではないのです。
その後、しかるべき修行がやはり必要だというのが個人的な意見です。
なにも知らずに一瞥にいたるということは、文字どおり「何も知らない」ことが必要なのです。
その意味で、「修行は必要ない」ということ自体を「知識」として知ってしまっている段階で
すでに「何も知らない」状態ではなくなってしまっているということになります。
クリシュナムルティを読んでしまっていたり、欲望を見るという方法論を知ってしまっている以上、
それは、すでに修行の道に入ってしまっているのです。
>>386 すべての欲望や意思は、もちろん、元の無我に戻りたいという欲求の、現象世界における
「すりかえ」でしょう。
しかし、自我から見れば、それはやはり苦という形で感知される。自我側から苦の原因を
詳細に見ていくと、それは最終的には「見るものと見られるものとのズレが常にある」という
苦の根本原因につきあたる。(もちろん、そのズレ自体も幻想なのであるが)
それを見極めるのが瞑想の最初の半分、後の半分でそのズレ自体が幻想であることを思い出す。
自分の場合は、それを思い出すために、瞑想が必要でした。
どうでもいいがな! こだわりが多すぎ! 空の一瞥じゃなく空に留まるべき! それ以外どうでもいいがな!
空に留まるべき(苦笑) 世界を空とそうでない状態に切り分けて、 片側だけに拘っている時点で、それは空ではない。
>>389 そういうこともどうでもいいがな!
空とか留まるとかいう言葉に捉われすぎじゃがな!
空とか留まるとかいう実体なんてないがな!
空であるものも空でないものも空じゃがな!
他人の言葉も自分の言葉も空じゃがな!
何言ったところで空であればいいがな!
空は言葉じゃないがな 空はそこに執着があるかないかじゃがな 空はそこに自分がいるか全てであるかじゃがな 空はあるといってもいいがな、ないといってもいいがな、これは空だ、これは空でないと言って もいいがな、全ては空でしかないと言ってもいいがな、こだわりなく言ってればなんでもいい がな こだわりもって言ってれば何をいっても空じゃないがな というようなことも空じゃがな 空であっても空でなくてもどうでもいいがな!
392 :
神も仏も名無しさん :2009/08/22(土) 21:13:34 ID:+CGtKSAV
>>391 そういっていること自体、空に執着してることにならない?
たしかに空は言葉でも概念でも言い表せないが、悟りというものの
一瞥(としか自我側からは表現しようがない)はたしかにあるよ
留まるという言葉が正しくないのは、それが時空の概念で言い表せる
ものではないが故に、留まる場所などないからだ
しかし、留まるという表現もわからなくはないんだ
なぜならば、世界に現前するものすべてのものと不可分にある時空を超えた
もの、それそのものにどこまでも吸い込まれつつあるような、その、吸い込まれつつ
ある体験者が不在の状態に留まる、ともいえるからだ
その体験しているその瞬間には、いかなる体験の実感もなく、ただ、すべてのピースが
かちっと収まったようにただあるとしかいいようがないんだ
それは、誤解をおそれずにぶっちゃけてしまうと、あくまでも見かけ上は、
「た だ の あ り ふ れ た 景 色 だ!!」
それ以外のあれやこれやものものしい表現や、現実離れした認識状態のものは
すべてちがうと断言できる!
それはあらゆる質量を超えているのだが、異常なものでもサイケデリックなものでもなんでもなく
誰もがまったくあたりまえのように知っていたものであるともいえる
断言できるが、純粋な「それ」は生まれる以前から「知っていた」し、死ぬ直後にもまた、
「それ」に帰るだろう。生まれたての赤ん坊の目と、死体の目に純粋な「それ」の表れの
2つの認識の局面が現れている。
393 :
神も仏も名無しさん :2009/08/22(土) 21:14:33 ID:+CGtKSAV
それは、すべての存在に不可分の「地」のようなものなのだ (もちろん、時空がないのでそれとかこれとかいう言葉で言い表すことは本当はできないのだが。) そして、身体と自我の感覚が戻ってきた瞬間に、その体験が鮮烈なものになるんだ それは、体験者が裏返った全体性とでもいうべきものなのだが、身体の側に意識の比重が 高まると、心身との出会いの場所であるハートの奥の鐘が文字どおりほんとうに鳴るんだ (鳴っていること自体は、心身側からの感知であって、それが空そのものであるというわけ ではない。心身側からの説明はすべて、二次的な体験の表現だ。) むしろ、「一瞥の前にこそ空の概念が邪魔になる」のであって、悟りを 体現した人は、昔から、やっぱり言葉で何かを伝えようとしてきてるよね しかし、それは、当たり前すぎるほど当たり前の世界なのに、やっぱり言葉では 表現できないんだ なぜならば、言葉というのは自我ありきの世界でつくられたものだから、 自我のない世界の認識は表現しようがないんだ (ただし、表現しようのないそれに便宜上記号をあてはめて、すでに体験した人どうしで 「それ」を共有することは可能だ。) 表現されたものは、心身ありきの次元の世界の側からみたときに二次的に「似ている 感覚のもの」にたとえて表現しうるだけなんだ
394 :
神も仏も名無しさん :2009/08/22(土) 21:15:15 ID:+CGtKSAV
へんな表現だけど、あくびをしたその瞬間の空白が、いかなる質量もなくあまねく 全世界の存在にすでにして不可分な地としてカチっとあることを、自分のハートの奥の、 かつてないほど自分に近い(というより自分そのもの)ところで再発見するようなものなんだ (もちろん、再発見している時点では純粋なそれではなくなってしまっている) 純粋なそれは、いかなる執着も不在のものであるが、執着が執着だと判断するものも いないので、そんなものももともとなかったのだ たしかに、自分はその体験に執着があって、すでに体験したことの再現を無意識のうちに 求めてしまっている だから、その、追い求める自分を忘れる修行をするのだ いかなる言葉もそれじゃない、ということは誰にでも言えるんだ でも、それを言葉にするのであれば、体験的に語ることしか意味がないんだ。 そして、これも断言できるが、すでに悟りについての「知識」にとらわれてしまって いる人すべては、こだわりを捨てるとかなんとか言うまえに、徹底的に「こだわる」 ことからはじめないとだめなんだ。
そんなにいろいろ言わなくてもカラッポならいいがな! どこにも自分がなければいいがな! 自分が空そのものならそれでいいがな! あれこれ言わずにポーンと空になっちゃえばいいがな! 本来自分なんてどこにもないがな!そんなもん見つからんがな!
396 :
神も仏も名無しさん :2009/08/22(土) 21:51:42 ID:+CGtKSAV
空というのはただ、それを空という記号をあてはめて便宜上そう呼んでいるだけだ 宇宙にはじまりもおわりもないというのは、それを外側から判断するものも、内側から 判断するものもいないからだ ただ、このようにあるのならばあるだろうし、ないのならばないのだ しかし、それを判断するものは誰もいないのだ (当然、客観的に善と悪を判断する神のような外側の存在もない) もちろん、我々の次元を超えたいかなる高次の存在の世界においても、つきつめれば構造は同じだ。 だから、高次の存在がよりえらいとか悟りに近いとか、そういうことでは全然ないのだ。 もっというと無というものも有というものも、それそのものとして分割して存在はできない。 だからビックバン以前の時空間的な概念から考えた無というものは無を外側から判断する何者 もおらず、それそのものとしてすでに無と有を同時に含んだものとしかいえないんだ そして、今、心身を基盤とする意識をもって時空を認識している我々の今この瞬間も、その、ビックバン以前の無と有の 包括された状態、その瞬間となんら変わりがないんだ。 (もちろん、ビックバンというのは時空ありきの概念だから、その事実がすべての根源ということでは まったくない。そもそも、宇宙という概念そのものが時空の概念から成り立っているので、 宇宙の広大さと空の永遠を同列に並べてかたることは完全なる誤解だ) だから、原因と結果というのはすべて、この瞬間に含まれていて、はじまりもおわりもないんだ だからこそ、カルマなどは幻想であって、我々は今この瞬間に空なんだ 修行とは、その、外側に判断するものなど誰もいないということを知り、見るものと 見られるものを一致させることによって、今この瞬間の空を見極めることだ それは、一瞥という形で明確におこる そして、明確に体験された後に、おのずとすべてが自明につながってくる
397 :
神も仏も名無しさん :2009/08/22(土) 21:55:00 ID:+CGtKSAV
あなたもカラッポなら書き込めないでしょうよ カラッポに戻ります さようなら
カラッポで書けばいいがな! カラッポで歩けばいいがな! カラッポで飯食ってカラッポで味わえばいいがな! ありのままでも行動もなんでもできる! 空は黙って座ってることじゃないがな! そこに自己がないだけだがな! 聞ける話せる遊べる! そこに自我や執着があるかどうかだけだがな! 空なら何やっても空だがな! 空なら何やってもカラッポだがな!
399 :
神も仏も名無しさん :2009/08/22(土) 22:43:15 ID:+CGtKSAV
空というのはカラッポということではないよ! 言葉のアヤといえばアヤだけどね 体験的にいえば、人間の身体をもってしては、たとえ自我と執着がなくなっても、カラッポそのものは 肉体が死なないと体現できないよ ただ、自己がなくなったときにカラッポの心身に即時に世界がおきかわるんだ だから、禅の一瞥でカラスがカアとないたときには、カラッポの心身において ハートそのものがカアとなくんだ その響きが空の最初の一瞥だ その経験なくしては、空の概念の段階にとどまっているにすぎないよ! もちろん、その後、カアとなくハートそのものもカラッポになったときに、ただ 日常の動作や世界の現象が区別なくさらさらと起こっていくことになるのだが、 そのことをカラッポと呼んでいるのかな だったら、それは空の「表現」と呼ぶことはできるけれど、実態のある何かが「ない」 ことによるカラッポの感覚というのとは異なるよ 空というのはあるとないを同時に含むものだからね もちろん、黙って座ってることなんかじゃ断じてないよ! むしろ、実感としては「ない」というよりも、驚くほど「ある」という感覚のほうが近いよ
あるもないもない! ないもあるもある! そんなんわかっとるがな! カラッポて言えばカラッポでない! カラッポでないと言えばカラッポ! アホか!どっちでもいいねん!どっちも同じや! 人間が元に戻るだけなのに修行なんているわけないがな! 人間が元に戻るだけなのに師なんていらんがな! 修行や師匠で自分をつくったんか? 自分で自分をつくってしまってたんや! だったら勝手に自分でつくった自分から元に戻るだけだがな! 花は花、山は山やがな! 修行は修行!師は師やがな! それ以上でもそれ以下でもないがな! カラスがカアならそれが師匠や! 何でも師匠や、きっかけしだいで自分が元に戻るだけや! ただそれだけやがな!
401 :
四零九 :2009/08/22(土) 23:27:59 ID:C1hPIdvq
>>385 さん、詳しい説明。なかなか好感もてますねぇー。もしかしてほうざんさんですか?
言葉が多い奴は多分悟りの視点を言葉面でしか認識してない
>>401 よくクリシュナムルティを批判されている方ですよね?
ほうざんさんに関してはどう評価されているのですか?
404 :
四零九 :2009/08/23(日) 11:50:29 ID:0UthXnot
重要なことを書いておきたいのだけど、それを先に書いてみる。 自我の囚われから本当に開放させている人なら、こんなちっぽけな掲示板にうろついていることは無いと思うんだよね。 開放された自我によってダイレクトに人生を生きていると思うんだ。 一日二十四時間なんてあっと言う間に過ぎていってしまうというのに。 それからほうざんさんについて言えば、顔を隠してwebに登場している所がちょっと気になるけど、あのスタイルはあれで良いんじゃないかなぁ。 ほうざんさんがEO氏であるとするならば、EO氏が始めに出版した本の始めにこんなことが書かれてあったように記憶してるのだけど、 これから書くことは虚構である、だったかなぁ。EO氏はダンテス・ダイジがいなかったら、本を出版していなかったと私は思うんだ。 カルロス・カスタネダの作品と同じこと言ってるところも多々あるし、色々な精神世界系のものをミックスしてEO氏は著作物を作ってあるからね。 とにかく精神世界系のものはトリックだらけだよ。いざ、現実に戻ると頭の中だけの拘りでしかないのじゃないかなぁ。
おれもEOには否定的だけど バーナデットを見抜いたのはすごいね。
406 :
神も仏も名無しさん :2009/08/23(日) 19:04:03 ID:HgWCU6Rh
EOとほうざんという人は、悟る以前の自我の生き抜き方については 徹底していておおいに参考になるけど、やっぱり大悟にいたってるとは思えない 苦の構造に、我々の次元の存在を搾取する外側の宇宙人やら異次元の存在やらを設定する ことは無意味だよ もちろん、それらの存在は否定しないが、それらが存在していたからといって 悟りは「認識の次元の高低」の問題ではないからだ それらの存在をことさらに主張するのは、エゴの拡張でしかない むしろ、それらがはじめから無効であるところが「それ」なんだからね
異次元の存在(神々、悪魔?)を 設定してもいいじゃん。所詮は無常だから それらも滅び去る。
408 :
神も仏も名無しさん :2009/08/23(日) 21:09:18 ID:HgWCU6Rh
無常だから滅び去るんじゃなくて、認識の方向性が変われば、もともとなかったということだ 永遠のそれからすれば、すべてはもともと包括されている(包括されているものを外側から見る存在は、ない) 無常というのは時間からみた現象、永遠というのは差異と原因と結果があるように見えていた 現象がすべて同時にあり、かつ、いかなる空間座標も持たない「それ」だ
409 :
神も仏も名無しさん :2009/08/23(日) 21:40:24 ID:HgWCU6Rh
一日、24時間が短いからもったいない、と感じることこそ時間の流れの中にいる 自我の執着だ 本来、我々にはいかなる時間的制約もない 制約があるのは肉体だ 肉体が自分だと思い込んでいるならばもちろんそこには死までの時間のタイムリミットがある それに、目の前に便利なツールがある時代ならばそれを使うまでだ べつに、なにか成し遂げなくてはならないものなど、なにもない ただあることだけで、ダイレクトすぎるほどに生きてるんだから
>>404 ダイジはカスタネダについて書いてるし言ってるけど、EOにはまったく出てこない。
他のもの、和尚、グルジェフ、クリシュナムルティ、ダイジに関しては、いろいろ書いてるのに。
世界観が似すぎてるから、なんだろうか?
それとも、興味がないので読んだことないからか?
カスタネダがフィクション、創作だからだろ EOも創作だけど 少しの体験はあるだろうけどさ
412 :
410 :2009/08/25(火) 12:38:45 ID:eUzxhriq
創作かそうでないかは関係ないんだよ。 EOが知らないだけなのか、わざと何もコメントしないのかが気になってるんだ。
だから創作だからコメントしないんでしょ あれほど有名なもの知らないわけはないし
414 :
410 :2009/08/25(火) 17:20:12 ID:K6v4s0Mc
銀河ヒッチハイクガイドや、百億の昼と千億の夜には何か言ってるのに?www 有名だからって読んでるとはかぎらないし。 まあ、四零九に話しかけたかっただけなんで、気にすんなww
ああ四零九にはオレも聞きたいね ただ、元々創作として作られた作品はいいけどさ、カスタネダとかは創作ではないって建前 じゃない そういうものをとりあげたら、それ創作だろ?知らないの?ってツッコミ入れられると思うん だよね かといって創作だって完全に証明されたわけでもないしさ そういうものを安易に語って自分の程度を計られるのを避けたんじゃないのかね でもダイジなんかはカスタネダについて語ったりしてるよなあ まあ創作だろうとなんだろうと、そこに真理が内包されてればいいんだけどね この世界自体創作なんだし EOもカスタネダもそれ違うでしょってのがあるから安易な創作だと思っちゃうけど
416 :
410 :2009/08/25(火) 20:15:02 ID:TmKwRkrZ
>>415 > まあ創作だろうとなんだろうと、そこに真理が内包されてればいいんだけどね
そうだよね。
> この世界自体創作なんだし
それ言っちゃおしまいだww
> EOもカスタネダもそれ違うでしょってのがあるから安易な創作だと思っちゃうけど
でも本当かもと思わせる部分もあるからおもしろいんだ。
417 :
神も仏も名無しさん :2009/08/26(水) 21:03:10 ID:HknWH6QN
噂話は無意味だ 少なくともこのスレに関係ない 誰が悟ってる、誰が誰について評価している云々、なんのつもりで書き込んでるんだ? それを知ってなにか賢くなったつもりになりたいのか? お前たちは、ちょっと話がわかりそうな奴がいるところに、どこからともなくわいてきて 自らの悟りにとって糞の役にも立たない話を延々と続ける
419 :
410 :2009/08/26(水) 21:45:16 ID:WHeZXGLY
「自己喪失の体験」33ページ2行目から6行目。
俺には関係ないだろうが、本当にこんなことが起こるなら、悟りを目指す者は気をつけたほうがいいかもしれない。
>>417 だから、糞の役にも立たない話を楽しめるのも今だけになるかもしれない。
> 少なくともこのスレに関係ない
自分で関係あること書き込めよ。
俺はもう書かないが。
噂話も糞の役にも立たない話も実は悟りだとわかれば悟れるだろうに
馬鹿?
バーナデットはある意味 ラジニーシやクリシュナムルティ、禅門の著作群を 「自己喪失の体験」唯一冊で超えてしまったような気がする。 「神はいずこに」も注文した。
>>422 最近「自己喪失の体験」ネット通販で入手しにくくなっていない?
紀伊國屋Webは「入手不可」になっていた。
Amazonは「この商品が注文可能になった際にEメールでお知らせします」って表示になっていた。
>>423 アマゾンでは古本しかないよ。
で、注文したんだが
神保町の書泉グランデに電話したら
在庫あったので古本キャンセルして
グランデの新しいのを買ったよ。
この本は一生手元に置いておくべき本だから
急いで入手したほうがいいと思うよ。
まあ・・控えておきましょう。 わかる人はわかるでしょうから。
だったら書かなくても… まあいいけどw
>>426 それで正解ですね。
挑発に乗ると荒れますから。
私は「わかる」派です。。
べつに「わかる」派でもなんでもいいけど、聞いただけで挑発って… なんなんだろうね ちなみに、そういうこと言うほうが荒れるから今度からやめたほうがいいと思うよ
430 :
四零九 :2009/09/18(金) 17:34:22 ID:KpTmg7go
鏡のなかの鏡―迷宮 (岩波現代文庫) (文庫) ミヒャエル エンデ (著), Michael Ende (原著), 丘沢 静也 (翻訳) ISBN-10: 4006020317 ↑この本の最後、「解説 人はついに目覚めることなく死ぬのか?」 新宮一成さんが覚醒について書いている。 悟りを得たいという夢を見ている人には、そこに書かれていることを読み解くには苦しい作業になるだろう。 私は苦しんでいる。
なぜ苦しいかわかれば悟れる
その程度じゃ無理 分別を完全に外す体験しないとダメ
ダメってこたあないよ 分別なんて自分が作ってるだけだし 元々ないもんだし 外れるときは簡単に外れる、ポロリと
あなたにとっては間違いなんだろうね それはまあそうだろう 正解も間違いもそのひとがつくるものだし
437 :
神も仏も名無しさん :2009/10/17(土) 07:11:25 ID:XLWj9Ptd
438 :
神も仏も名無しさん :2009/11/15(日) 08:42:30 ID:N5Ojqn9R
悟りを得るための全ての神聖なシステムがでたらめであると言うことを除いて、 私は人類のために特別なメッセージを持っていません。 ですから、認識を通した精神的な変容に到達するための全ての話はたわごとです。 精神的な変容は不可能です。 生物学的変容を通してのみ、自然状態は起こることができます。
441 :
四零九 :2009/12/12(土) 19:17:00 ID:i67MSO70
「神はいずこに」 いやぁー、やっと読み終えたよ。凄く苦痛だったなぁ。はじめから中盤まで結界が 張られているが如く、とても読み辛かった。でも後半になると結構読めたなぁ。 この本のメインテーマは無心・心身脱落だね。 p247は自殺は救いになる可能性があると受け取られてもおかしくない記述だった。 p262からは、直接名指しはしていないけども、クリシュナムルティの落ち度について 書かれてある。そして、留意しておくべきことは、この本の製作者のひとりである訳者は、 クリシュナムルティの本の製作に携わっている人物であるということである。
442 :
神も仏も名無しさん :2009/12/12(土) 19:59:04 ID:Z/VaXkBA
>>441 本質からズレたことに興味を持ちすぎだよ
443 :
四零九 :2009/12/13(日) 01:32:17 ID:mKSgVqCE
ならば、本質を述べよう。 こんなものは、現実逃避だ。忘れてしまえ! 神との合一? なんですかそれは?
444 :
神も仏も名無しさん :2009/12/13(日) 03:15:05 ID:L+3m9hmO
本のメインテーマが無心・心身脱落だと思って、なんでどうでもいいことにこだわってるの?
445 :
神も仏も名無しさん :2009/12/13(日) 03:18:31 ID:L+3m9hmO
ダイエットの本読むことでお腹空かせてどうすんだよ><
446 :
神も仏も名無しさん :2009/12/13(日) 08:52:35 ID:OYRQRMc1
>>441 買ってから1年もたつけどまだ読んでねぇやwww
>>441 クリシュナムルティの落ち度?
読まねばな。
448 :
四零九 :2009/12/14(月) 01:49:04 ID:BIAyQgGe
>>446 この本の初めの方は取っ付きにくいんだ、うむ。
>>441 クリシュナムルティの落ち度をkwsk
かいつまんでもいいです
お願いします
450 :
神も仏も名無しさん :2009/12/20(日) 02:48:46 ID:Dn41eKCM
言行不一致 → まがい物
すまぬ・・もうちと具体的に。
俺はそう判断したのだが。
454 :
神も仏も名無しさん :2009/12/20(日) 21:43:34 ID:WrNlMj1J
本にクリシュナムルティが言行不一致だという書き方がしてあったということなら、何を言って 何をしなかったと書いてあったか聞きたいな
455 :
神も仏も名無しさん :2009/12/20(日) 22:32:12 ID:kWj2/4cL
自分で読めよ
456 :
神も仏も名無しさん :2009/12/20(日) 22:44:04 ID:WrNlMj1J
でも
>>441 は「直接名指しはしていないけども、クリシュナムルティの落ち度」って書いてる
わけでしょ
名指ししてないのにそう思ったなら441はクリシュナムルティがどう言行不一致だったと
解釈してるのか言ってもいいと思うけど
p247は肉体的な死と無関係であるって書かれてるし p262もアビラの聖テレサのこと書いてるようにしか思えない(華々しい体験のことなら)
459 :
神も仏も名無しさん :2009/12/21(月) 00:31:59 ID:oCuVC2wy
またKアンチの四零九さんですか。 でもスレが活性化するのはいいことですね。話し合える場所があるのはいいことです。 きちんとした考えがおありならお聞きしたいですし。
n-') // | | _______ | .| / ∧_∧ | におい袋は ==============、 (´Д`; ) < 強く振ることによって /_____/\\ ) ⌒ヽ | においを確認することができる /7 /7 \ \\ / r、 \ \__________ // \ // .\ \\ / /7 \ \ .// .\ .// \ \\ ノ ///\ / /、 // .// \ \ _,,..-''" / // // / .// .// \/7__/  ̄ ̄_,,.=======// /_ノ゙/7 ./ .// // / // ̄/ r /7 // \ /
461 :
神も仏も名無しさん :2009/12/30(水) 22:00:13 ID:b+C4P1qz
年末age
462 :
四零九 :2010/01/11(月) 17:26:12 ID:ojAeN7xf
463 :
神も仏も名無しさん :2010/01/14(木) 00:37:17 ID:3t5Jw7zz
覚知にまじわるは証則にあらず、か。
464 :
神も仏も名無しさん :2010/02/17(水) 10:43:49 ID:02/xuEzQ
465 :
神も仏も名無しさん :2010/02/17(水) 23:35:24 ID:GDrsMp30
定期的にあげてくれる人、ありがとう
466 :
神も仏も名無しさん :2010/03/12(金) 20:29:04 ID:nogM8u5Y
遅ればせながら、一昨日バーナデット・ロバーツのことを知りました。 「自己喪失の体験」むちゃくちゃ読みたくなり、大きな書店あたりまくり 1冊だけ地方店に残ってたやつを、取り寄せてもらえることになりました。 嬉しい。 今は「神はいずこに」を読んでます。 ついでにマイスター・エックハルトの本も買ったです。
467 :
神も仏も名無しさん :2010/03/12(金) 22:54:32 ID:Tkj3kjT5
マハルシ、マハラジの直系、ラメッシ・バルセカール 「誰がかまうもんか?」 先月発売
思考を する 「私」。 思考を している のは「私」。 その「私」に、ラマナの言う「私は誰か」ときいてみる。 返事は、来ない。しばしガクゼンとなる。誰もいない。実体がない。何もない。 何度問い直しても同じ。 けど、「私」「自分」「中心」「主体」、これらは確実に感じる。 「実体のないもの」の「感覚」。 なぜだろう。 自分は、いる。でも、指し示すことができない・・。
469 :
神も仏も名無しさん :2010/03/15(月) 19:14:50 ID:I7eU5+OA
「私」「自分」「中心」「主体」は消えるよ それらがどこにも感じられなくなってびっくりする 「私は誰か」の問いを続ければ、あるとき感じてる主体は無くなり永遠という感覚だけになる それを感じてるのは誰かという問いには、全体というより他ない
470 :
神も仏も名無しさん :2010/03/15(月) 23:24:32 ID:+dVuKeQB
「私」「自分」「中心」「主体」が消えたあと、どうやって 生活するのか知りたかったから、ロバーツさんの本は興味深かった。 仏教でも、大悟の後、どうやって生きるのか書いてる人が あんまりいないから。
471 :
神も仏も名無しさん :2010/03/15(月) 23:42:51 ID:EHBNeqkK
感じているという意識はないよ 無理やりたとえれば、あらゆる定点が消えて 自分自身が感情や感覚や言葉のない「世界という絵」 そのものになったという感じか
472 :
神も仏も名無しさん :2010/03/16(火) 00:40:53 ID:gtUY6kSn
他人や物質と完全な同一化体験したひといる? そのものになってしまったというクリシュナムルティの神秘体験みたいな
474 :
468 :2010/03/16(火) 16:02:40 ID:2VJRRJZw
レスありがとう。 なんだか、存在感覚が希薄というか、ヨリドコロがないというか、 幽霊にでもなったような、「漠」とした感じがする。 キャベツをきざんでる自分の手を、 まるで他人の手を見るように見つめていたりする。 離人症??
>>474 それは今まで実感していた部分の自我が抜けたせいだと思うよ
個人的には離人症なども同じ構造だと思うけどそれが苦じゃないならいいんじゃないかな
病気の定義ってのは本人かまわりが苦(問題)にするかどうかだから
というか「漠」とした感じってのが負の感じなら、それを負と思う自我がまだ残ってるんだと
思うよ
「漠」とした感じってのが自由なスッキリした感じならいいけど
完全に自我がなくなると、スッキリしてただ自由そのものでしかない
そうでないならまだ自我、自分、主体などが残ってる(部分的に自我が消えたけどまだ残っ
てる)んじゃないかな
476 :
神も仏も名無しさん :2010/03/16(火) 22:50:14 ID:MuAzNBPT
>>474 ロバーツさんの「自己喪失の体験」読んでみた?
参考にならなかった?
477 :
神も仏も名無しさん :2010/03/16(火) 23:18:44 ID:cqxHSrwj
ぼんやりとした感じ、希薄な感じ、曖昧な感じはまったく逆の方向。 すべてのフィルターがなくなってくっきりと鮮明な世界そのものになるのが 心身脱落の特徴。
一体感や気持ちよさに身を委ねる感じは自我を流れに同調させている単なる忘我、トランス 状態。これを自我の消滅と勘違いしてる人は多い。 全てがクッキリと存在感を現し、しかし混乱してしまうのは、空の状態に踏み込んで、それを 残った自我が認識しようと混乱してる状態。 全てが明らかでどこまでも何も無いのが自我の消滅、空の状態。
479 :
474 :2010/03/17(水) 17:54:22 ID:EkZdKMdg
>>475 離人感は、今のところ苦にはならないです。日常のこともできます。
ただ、できれば一人でいたい。
>そうでないならまだ自我、自分、主体などが残ってる(部分的に自我が消えたけどまだ残っ
てる)んじゃないかな
外郭を残して中身がない感じです。自分感、主体感はあります。
でも、その中身が見つけられない。具体性がないのです。
例えるなら、キューピー人形のような感じです。
>>476 「自己喪失の体験」は、大昔購入し、
以来ときどき引っぱり出してめくってみたりしていました。
ですが、内容のほとんどは、厳密に言えば「自己(自我)を喪失したその後」の話であるので、
自我を失っていく過程は詳しく書いてありません。
自我満開(良くも悪くも)や、自我が薄くなりかけの状態にいる人には、
あまり参考にはならないのではと思います。
なんというか、同じ土俵ではないなあという感じです。
でも、強いて、やや似ているかなと思われるのは、
キリスト教神秘主義で言う「暗夜」の一部分です。
私はキリスト教徒ではないので、神を見失う恐怖はありませんが、
自分の内部が空洞のように茫漠としているという感覚は、
似ているといえば似ているかもしれません。
>>477 >>478 「心身脱落」とか「自我の消滅、空の状態」とかではぜんぜんないと思います。
単なる離人症的な状態なのかもしれないですし、よくわからないです。
480 :
475 :2010/03/17(水) 19:33:27 ID:iio3FHkx
>>479 話を聞く限り、それはやはり自我が部分的に消えた状態だと思うよ
中身ってのはつまり自我でしょう? 今まではそれがあった、あるように錯覚してた
中身がないのはなにか問題なのかな? だとしたらなぜ問題なのだろう?
別に中身がなくてもキューピーでもいいと思うんだけど? どうしてそれが問題なのだろう?
そういう状態を自分が無くておもしろいとか身が軽いとよろこんでもいいのに、なぜかそれを
問題にするほうを選択しているわけだよね
苦じゃないとは言いつつも、ここで相談する程度には
それはやっぱり、そういう状態になじめない自我が残ってるんだよ
自分という中身は無くても、中身が無いなと問題にする自分がある、自我がある
今まで中身があると錯覚してただけなのに
そういうのは自我が消えてく過程でわりと見られる症状(状態)だと思うよ
自我が消えてくわけだけど、それを自我自体が恐れるから、自我が消えるのは自我から
すれば自分が死ぬことだから
自分を見て今まであった自分がないからためらう
でも自分があるのは当たり前じゃないよね 当たり前だと心で思ってるだけ
「暗夜」って言葉でいうなら明るいのが本来だと思ってる自分が残ってる
別に明るいとか暗いとか自分(自我)が勝手に判断してるだけなのに
多くの人は中身が無いのを空虚だと感じて信仰心とか愛とか拠り所を残して(再びつくって)
対処するけど、本当は自分が無いことを問題にする自我まで完全に無くして、全く自分が無
くなったほうがいいんじゃないかなと思うかな
自分が本当に無くなれば、自分が無いことをどうこう思う自分すらないからね
無は空虚ではなく無で満たされた本来の完全な状態だと思えるようになればいいんじゃない
かな
どっちにしろ普通の場合は自分の内部にまた自分(自我)をつくってしまい元に戻るよw
んで、あれはへんな体験だったなあで終わる、それが凡人、一般人
悟りの道を進むならそういうのを何回も繰り返してやがて完全に自分が無くなるんだろうね
481 :
神も仏も名無しさん :2010/03/17(水) 23:55:52 ID:pB6jKsrV
いや、自我が脱落するっていうのは自分が身体であるという意識が脱落する ことだから「中身」が部分的に消えるっていうのは感覚として違うと思うよ。 中と外を分けて認識していること自体が自我の認識作用なんだから。 でも、上の人がいってるとおり、部分的に抜けている感じがあったとしても それはそれとして捨て置いて観察してればいいと思う。 ただ、明らかに病的な離人症とかの場合は治療が必要だろうね。 家族に離人症だった者がいるんだけど、その瞬間は漠然とした感じとか生ぬるい ものじゃなくて「明らかに、今まさに自分が肉体と分裂する!!」っていう危機感と 非常な恐怖ともがきが見られたよ。 でも、それでもやっぱり「自分の肉体」と「自分の精神」という実体感を伴うものが 2つに分かれるという感じらしいから、あくまでも2元的なレベルでの離脱(分離)なんだよね。 体外離脱なんかもそういうことなんだと思うけど。 だから、根本的には悟りとはまったく別物だと思う。
482 :
神も仏も名無しさん :2010/03/18(木) 00:03:35 ID:j6YYUVS7
>>479 ロバーツさんの体験で、途中はなんかブラックホールみたいな虚無を
通り抜けたようだけど、最後に「花が微笑した」って書いてあったような。
自己がなくなって、全ては「空」だってことが見え始めたとき、それは
虚無かもしれなかったけど、最終的には「微笑に満ちてた」っていう
彼女の体験で、自分はあ−やっぱりそうなんだ、ありがたいって
なんかほっとしたんだよね。
前の人も書いているけど、
>無は空虚ではなく無で満たされた本来の完全な状態だと
>思えるようになればいいんじゃないかな
自我がなくなったあとの「空」は虚無ではなく、何か形のない
意識みたいなもの(?)に満たされていて、それをロバーツさんは
「微笑」って表現したのかなと思うわけだけど、それが真理なら、
自己を失っていく過程の漠とした不安(?)も、少しはやわらげられ
ないかな、と思って。
初期仏教のスマナサーラ氏が書いた、悟りの段階を説明した本を
読んだけど、悟る前の時期は「うつになりやすい」ってあったよ。
それ読んだどき、わかるような気がした。
あんまり役に立たないかもだけど、ごめんね。
483 :
神も仏も名無しさん :2010/03/18(木) 03:21:55 ID:RFQFxtog
>>481 >いや、自我が脱落するっていうのは自分が身体であるという意識が脱落することだから
そう?
自分が身体であるという意識もそうだけど、○○は○○であるという意識(自分のつくってる
概念、心の作用)は全て脱落するから、この人の場合自分が自分であるという実感や概念
が脱落(消えた)んだと思ったけど
身(身体から生じるもの)も心(心を作ってる概念や心理的作用)も脱落するのが心身脱落
だと思うけどな
自分とは誰でもなく、何でもないなく、ただ全てそのものという状態に至る過程じゃない?
自分や自分の知り合いにもこういう問題はけっこう見られるけど
まあ自分はどんな物事でも悟りと同じ問題だと思ってるよ、病気でも何でも日常でも
いかにどのように自我があるか無いか、それだけ
最近の展開読んでて、俺は怖くなってくるよ。自我にこだわってるのはわかるけど。 みんな怖く無いの?
485 :
479 :2010/03/18(木) 17:50:17 ID:l2uUyNZX
レスありがとう。 468の投稿にも書いたけど、 「具体的な内容」「実体」がないのに、なぜ「自分感」「主体感」があるのだろう。 この「自分感」「主体感」はどこに由来するのだろう。このことがとても不思議に思える。 見えてないだけで、自分という内容がどこかに居るのだろうか。 自分は誰なんだろう? 問う者は誰なんだろう? 自分の名前も、なんかしらじらしい。 自分の話し声や、言ってる事もそらぞらしく聞こえてしょうがないです。 実は、当初は時間の感覚も変だったのです。 「時間」という概念そのものがあやふやというか、 何時何分ってなんだろうという感じでした。この状態はつかのまでしたが。 離人症なのかも・・ ロムに戻ります。 レスくださった方々、ありがとうございました。
486 :
神も仏も名無しさん :2010/03/18(木) 22:40:07 ID:2/vxZtoB
>>485 自分がなくなると全部が自分になるっていうよ。
バーナデットが「花が微笑んだ」っていうのはそういうことじゃない?
全部が自分っていう境界線のない気づきみたいなものは主体と客体がなくなっても
残るんじゃないかな。
もちろん自分っていう感覚の定義は変わるだろうけど。
ここ人いないし、独り言でもいいからたまに近況報告してね。
487 :
神も仏も名無しさん :2010/03/18(木) 22:57:25 ID:RFQFxtog
>>484 自分も怖くていろいろあったけど、でもそれはチャンスだと思うんだよね
なぜ怖いのか、何が何を何故怖いと感じるのか、それを洞察していくといいんじゃないかな
>>485 名前なんて生まれたときは無いし、付けられてから呼ばれるうちに段々実感が出ただけじゃ
ない?実感ないほうが本来だよ 時間だってそう
それに慣れるうちにいつのまにかそういう概念や何かが本当にあると思い込んでしまっただけ
その錯覚がとれたけど、まだ本来の状態に違和感が残ってるだけじゃないかな
今はいままで持ってた実感を失って喪失感があると思うけど、そういう自分を洞察していけば
そのうち実感は自由に持てるようになるんじゃないかな
実感を持ってしまうのも自我なら実感を持てないのも逆の自我(実感を持ちたくない、実感は
よくないと内心思ってる)で、実感を持つことも持たないことも自由にできるのが空(本来の状
態)だと思うよ
そうなればいいんじゃないかな
このあたりの問題はこの板でもたびたび書き込まれてるし、他にも同じ思いをしてる人はいる
と思うから、これからもいつでもなんでも書き込んでいいと思うよ
それが自分にも他の人にもいい気づきのきっかけになるんじゃないかな
凄い人が来たけど 修行成就、祈っています。
ゲシュタルト崩壊ってやつじゃないだろうか・・・
その可能性もあるし そうでない可能性もある。
悟りうんぬんでの自我が消えることも実感の喪失もゲシュタルト崩壊も同じ構造じゃない? 禅の公案で非合理な問いを考えさせられるのも、火だとかマントラ唱えることに集中して日常 と別の状態に自分を置くのもゲシュタルト崩壊を意図的に引き起こそうとしてるんだと思うけどな
492 :
神も仏も名無しさん :2010/03/19(金) 00:36:09 ID:W8ldNCw3
なんかやさしいな、ここ。 いやされる。*。(*´Д`)。*°
493 :
485 :2010/03/20(土) 00:33:33 ID:RyYgXs9u
言うべきかどうか迷いましたが、
私の表現の仕方がまずかったのかもしれないですが、
かんちがいしてる方もおられるのようなので、ひとつだけ。
このスレの
>>319 がわかりやすいかな。(私の投稿ではありません)
「ノーエゴ」「ノーセルフ」この区別が前提にないと混乱します。
「自己喪失の体験」は、「ノーエゴ」から「ノーセルフ」、
そして「究極」へと至る道程の記録であると私は理解しています。
この本の出発地点は完璧な「ノーエゴ(の完了地点)」です。
上で述べた私の今の状態は、
たぶん「ノーエゴ」の入り口付近をウロウロというところではないでしょうか。
それも、「離人症」でないならの話です。
「エゴ」と「セルフ」、微妙ですが、わかる方はわかるのではないか思います。
494 :
神も仏も名無しさん :2010/03/20(土) 01:59:36 ID:4Jexmd7P
>「自己喪失の体験」は、「ノーエゴ」から「ノーセルフ」、 >そして「究極」へと至る道程の記録であると私は理解しています。 >この本の出発地点は完璧な「ノーエゴ(の完了地点)」です。 自分が体験する前から体験してないことをそういう風に理解してることが既にエゴじゃない? >上で述べた私の今の状態は、 >たぶん「ノーエゴ」の入り口付近をウロウロというところではないでしょうか。 そう見当ついてるならそれでいいんじゃない?何が聞きたかったの? 離人症かどうか?自分のつけた見当に後押しが欲しかったとか?
495 :
神も仏も名無しさん :2010/03/20(土) 02:22:15 ID:IbXVzye8
ラメッシ(
>>467 )読んでるけど、彼は一貫して「人間は単なる肉体精神機構であって
神の意思によって自動的に動いているだけ」「行為者はいない」というようなことを言ってるけど、
その理解が徹底して肉体とエゴという幻想への同一化を脱却すればバーナデットのいうところの
「体の面倒見るのは植物の面倒見るのと同じ」(
>>319 )と同じ状態になるんだろうな。
でも、それでもまだ体を対象としてとらえて面倒をみる側の意識みたいなものが
あるんだね。
ラメッシは、エゴが落ちて完全にノーセルフ(という言葉は使っていないが)の状態になっても
日常の仕事はむしろ精神的な苦痛やストレスがなく効率よくできるといっている。
クリシュナムルティは最期、末期ガンに侵されて、医者が「普通、これほどのレベルの苦痛に耐えられるはず
がない」と驚くほどの凄まじい状態だったらしいけど、完全に肉体との同一化から離れていれば苦痛を苦痛という
単なる事象として観照していることができたんだろう。
496 :
神も仏も名無しさん :2010/03/20(土) 06:11:04 ID:eUp5teLv
ノーエゴ、ノーセルフって止観みたいなことなんじゃないの? ノーエゴって言うとエゴが無いみたいだけど、実際はエゴが止まってるだけじゃない? 止まってるという意味で無いといううわけで、実際は静止した状態である だってエゴが完全に無いならエゴを作り出してる元のセルフも無さそうだけど ようするにノーエゴってのは自己をコントロールしてエゴが動いてない状態、コントロールする 主体もあるし、コントロールされる自我も残ってる ノーセルフはコントロールする側もされる側も消えた無我の状態、観、目に映ってるだけ そういうことなんじゃないかと思ったけど でもクリシュナムルティなんかはそういう段階的なことは言わないし、段階ってのはあるって ことにしたい人にはあって、ないならないでいいんじゃないかな そもそも究極において無なら、それ以前のことだとしても何故別々に分けるのかわからない し、説明するための便宜的なものだと思うんだけどな
497 :
神も仏も名無しさん :2010/03/20(土) 06:22:32 ID:eUp5teLv
>>495 無我になると生きていけないとか言う話をたびたび見かけるけど、あれは無我と我を分ける
分別がまだ残ってると思うんだけどなあ
有我→無我となっただけだと有我より無我を選んでる、残してる
最終的には有無我、有我も無我も無いにならないと無でもなんでもないと思うんだけど
無我になって息まで止まるんなら別だけど息するるわけだし、呼吸をするのと同じように
執着なくただあらゆることをすればいいんじゃないかな、生活でもなんでも
でもマハルシなんかは悟ったとき息まで止まってほっとくと死んでたらしいね
498 :
sage :2010/03/20(土) 09:41:34 ID:VWbr/rrz
「自己喪失の体験」読んで、著者が体験したような自我の喪失は、最後は 人間の意志を超えたところから降ってくるように、突然おこるんだなぁ、 って思った。 「最後の一歩は常に神の側から」「恩寵によって」というような表現を、 時々見かけるけど、例えば、悟りを目指して修行をしてるなんて場合も 最後の最後は、「向こうからやってくる」ような感じなのかなって。 だから、今の状態について、便宜上、解釈して安心するなら考えればいいと 思うけど、ただありのままの状態で淡々と日常を生きるっていうのもアリ かなと思う。 それが「ノーエゴ」であろうと、「ノーセルフ」であろうと、段階的に 起こるものであろうと、そうでなかろうと、起こっていることを自分で コントロールできないんだから、意味づけはどっちでもよくて、それぞれ の瞬間にその状態を生きればいいって気がするんだけど。 かなりツライくて、どうにかしたいのなら別だけどね。 漠という感じなら漠のままで生きていれば、そのうちまた変化があるかも しれないしね。
499 :
神も仏も名無しさん :2010/03/21(日) 02:45:40 ID:eL/oRMg6
すごく基本的な話だけど、そもそもエゴというものがもともとあったわけじゃなくて
幻想であったことを見破るのが悟りなんだから、無我っていうのは実体としての
我が止まったりなくなったりするわけじゃないよ?
結局、言葉の定義の問題と言葉のアヤ(方便)の問題なんだろうけど、
エゴというものが実体としてあるように思い、かつ、それを自分だと思い込んでるのは
単に記憶による自動的な反応によるものであって、その、単なる反応にすぎないものをエゴと
呼んで連続した時間軸としてとらえている構造が迷妄と苦なわけでしょ?
勘違いしやすいけど、悟った人だって瞬間瞬間には「肉体精神機構」としての記憶や習慣による
「反射」や「反応」は当然のごとくあるんだよね。
もちろん思考も出てくるし、いわゆる個別のカルマというものに従って、その肉体が死ぬまでは反応は起こり続ける。
ただ、悟った人はその瞬間瞬間の単純反射に対する執着がないから思考の連続性を自分自身だと思わずに
どこか離れたところから俯瞰して受け流していってるんじゃないかな。
>>496 だから、エゴが「止まる」という言い方はかなり語弊があるね。
ちなみに止観という言葉は瞑想の用語であって、意味をだいぶ勘違いして使ってるよ。
>>497 そう、だから無我と我という区別はもともと幻想なんだよね。
500 :
神も仏も名無しさん :2010/03/21(日) 02:54:59 ID:eL/oRMg6
あと、クリシュナムルティにかぎらず、悟りの段階的なことを言わない人は、 段階的なことをいうと誤解と混乱とエゴの強化を招くだけだから、あえて 言わない、真に良心的な指導者なんだと思うなあ。 クリシュナムルティだって伝記みたいなのを見ると悟りの初期段階とかいくつか 経験してるみたいだけど、そういうことを言うことの弊害のほうが大きいから 言わなかったんだろうね。
501 :
496 :2010/03/21(日) 03:24:55 ID:pwIDsKV4
>>499 概ねその通りだと思うし、言葉の問題だからそれほど言う必要もないけど、我が止まるって
のは上で言われてたノーエゴって言葉に対して言ったわけでいわゆる無我について言って
ないよ
つまりノーエゴは無我とは違うのではってことが言いたかったわけで、無我はノーセルフって
言ってる状態だと思ったので
あと、
>どこか離れたところから俯瞰して受け流していってるんじゃないかな。
ってのは自分が空になってるから透明なように全てがつっかかりなく通り過ぎるってほうが
表現として近い気がするけど
というのも、自我から離れようと俯瞰するような状態に持って行こうと、自分を分離させる人が多い
から
ちなみに止観は自分なりに本来の止観がどういうものかとしての止観なので一般に言われて
いる止観じゃないですね
止観は「サマタ」(止)と「ヴィパ」(観)のように言われてるけど、自分は「サマーディ、サマタ、
ヴィパの一部」(止)、「ヴィパの先、無我」(観)みたいなのが本来の止観の内容だったんじ
ゃないかと思ってるから
止観に詳しいなら無我とからめて意見を聞きたいけど
ところで体験ある方みたいなので聞きまたいのですが、ロバーツは無我だと思いますか?
最終的にロバーツが今どんな状態か知らないけど、著作を読む限りでは、無という状態に
過敏に反応してる我のようなものを感じるんだけど
つまり、無を受け流せてないというか、クリシュナムルティが言うような天真爛漫ではないと
いうか
503 :
神も仏も名無しさん :2010/03/22(月) 02:56:19 ID:8yXiM8Z7
まずはじめに、 >ロバーツは無我だと思いますか? という質問の仕方はとってもおかしいです。 なぜならば、無我というのは個別の肉体の到達状態を指すのではなく、「本来すべてのものが無我で ある」ということを、ロバーツならロバーツと呼ばれていた肉体を「たまたま入り口として」悟る(思い出す?)ということだからです。 だから「この人は無我である」とか「無我に近づいた」とか「無我になった」とかいう表現は、悟りの根本的な理解が間違っているでしょう。 ただ、なんとなく質問しようとしていることの意味はわかるので、個人的な意見をいいますが、ロバーツがあなたのいうように >無という状態に過敏に反応してる我のようなものを感じる というのは、やはりキリスト教から入った人特有のものなんじゃないでしょうか? もともと神という対象物が「自分という意識そのものと共にまったく無くなってしまった」というのは我々の思う以上のインパクトでしょう。 ロバーツは悟ってからもキリスト教を基本に語っていますし、主にキリスト教圏の人を対象に体験を記してるでしょうし。 でも、それはロバーツ自身に過敏に反応している我が残っているというよりは、無我を悟る過程を客観的に考察するに当たって、 記述に際して自ずと形成された語りの視点が我のように見えてしまうということじゃないでしょうか? 悟りを表現するときに文章という形式をとる場合、二元的な語りの視点を設定しないと記述不可能ですから。
504 :
神も仏も名無しさん :2010/03/22(月) 02:57:42 ID:8yXiM8Z7
これも個人的な意見ですが、自分はノーエゴ(を悟ること)とノーセルフ(の状態?)は「原理的には」同時に起こるんじゃないかと思うんだよね。 小悟、中悟、大悟、なんて言葉もあるぐらいだから、悟りにも段階があるのかもしれないけど、自分は、あなたも疑っているであろうとおり、どこかに少し でも「主体と客体を分離する認識作用」がある場合は大悟徹底ではないと思ってるので。 だからこそバーナデットは異質だし、もやもやした物議を醸すわけだけど。 ただ、一瞥というものは確かにあって、自分の経験からいうと「『その瞬間』には二元化して体験しているいかなる識別作用もない、のだけれども 現象がそこにあるということは『ひとつづきの全体性』として強烈に気づかれて」いて、具体的には身体はまったく認識から消えている状態です。 (気づく、という言葉もちょっと違うんだけど…。確かにあなたのいうとおり、まったくの透明さが全体とともに区別なくある、という感じか…) だから、上で自分の言った、 >どこか離れたところから俯瞰して受け流していってるんじゃないかな。 という表現は、完全に悟った人の認識状態の表現としては間違ってましたね。すいません。 俯瞰して観ている状態はまだ、それこそ「観」の修行の段階です。観というのは、上でもいったように、ヴィパッサナーの修行のようにエゴ(という幻想)と その反応を、「気づきの瞬間」から切り離すことです。(でも、ややこしいのは、ヴィパッサナーの修行体系の中にも止の修行が組み込まれてるってこと。 だから誤解が生じるんだと思う) 止というのはむしろ、観の前トレーニング段階というか、気づきと対象を能動的な努力なしに切り離すための集中力を養うためのツールですね。 (自分は止主体の修行体系は経験してないので異論がある人もいるだろうけど)
505 :
神も仏も名無しさん :2010/03/22(月) 02:58:54 ID:8yXiM8Z7
いずれにせよ、止も観も、それを「やってる」うちは決して無我を悟ることはできない。 しかし、少なくともある段階までやれば無我を「予感」することはできる。 「気づきの瞬間」というのは自分自身で見ることはできないけれど、それは思考が生まれる直前の空白の光の瞬間として、自分のコントロール外のところから 突如として起こってくるものだし、思考の生まれる瞬間だけを見ていけば、それらの瞬間にはなんの脈絡もないということがわかるから(=思考をひとかたまりの 整合性あるものにまとめあげて連続させるのは記憶による趣向性と執着でしかない)。 無我を悟るというのは、何度もいうように「思考の連続をエゴというひとかたまりのものとして認識すること」が誤認であることを悟ることだから、 観の修行は、そのことを(あくまでも)知性で予感・確信する段階までのツールですかね。そしてあなたのいうとおり、へたすると分離するだけ分離して にっちもさっちもいかない状態で不自然に膠着してしまう。 で、キリスト教の場合は、ツールとしての意味で、対象化された「神」というのが止の修行の入り口になっている。 ほんとは修行とか瞑想の具体的な話ってスレが荒れるからここではあんまりしたくなかったけど… 最近ちょっと論理的に話すこととか考察することに脳がすごく違和感を感じるようになってしまったのでこの話はこのへんで失礼します。
506 :
501 :2010/03/22(月) 04:16:44 ID:uZXRV1RY
>>503-505 ありがとう
体験者の方らしく、概ねその通りだと思いました
まあ無我どころか本来無我すら何も無いわけだから、表現をちゃんとしたいのもわかるんで
すけど、言葉の使い方にそんなにこだわらなくてもとは思うけどw
あと、よく言う小悟、大悟ってのは、ようするにどういう自我があるか(作ってるか)無いかだと
思います
普通の人間でも日常的に小さな我を作りそれを手放しを繰り返してるわけで、ほんとに小さな
小悟は誰でもしてるし、そういう悟りの構造は特別なものでも何でもないと思う
いかに気づきにくい根本的な自我に気づくか、それを手放せるかの違いに小悟、大悟って
レベルのような言い方をしてるだけじゃないかな、便宜的に
いわゆる覚者でも部分的に自我を感じるし(それは単なる反応ではなく執着のある自我)
大悟っていうか、大悟徹底したらまあどうだかわかんないけど
まあよくいう悟りに小も大も無いっていうのもわかるけど、そういう話でいうなら、悟りに関し
ては沈黙しかなくなるし
そういうのも含めてロバーツは言葉を使用してるからということとは別の意味で、我というか
自分が概念化したものに捉われる我(分別)のようなものを感じてしまうんですけどね
でもそれもまた無だからいいでしょう!
止観もおっしゃることの通りだと思いますよ
ちなみに止は感情や我が起こ(作ら)ないように静めて、気づきが起きやすくする準備体操
観はその表面が静まった状態(我を作り出してない状態)から自分の内面を観て、既につく
ってしまっている自我を観る状態〜気づき観る自己すら抜け一体となる状態かと思っていま
す
観といっても、観ている観られてる状態の観と、観そのものだけになってる観とを、同じ観と
いう字の中に含んじゃってる気がしますね
今回はていねいなレスをしていただきありがとうございました!
無我の世界を垣間見た際に、それを恐れて足止めする自我があるような気がするな。 自我にとっては消滅の恐怖、自己否定の恐怖だから。 そんなわけで恐れを抱いた俺は、逆に自我に執着するようになってしまった。
508 :
神も仏も名無しさん :2010/03/23(火) 00:43:10 ID:AA6MutTc
自我がストッパーになるんなら、まだその時期じゃないってことでは? 悟りはそれこそ自我のコントロール不能なところで突然やってくるんだろうし。 足止めする自我を、自我の力でどうにかしようと思うともっとややこしくなる。 恐れがあるなら恐れがあるままにしておけばいいんだと思う。 結局、なるようにしかならないさ。
恐れを感じたなら、それが何であるか気づくチャンスがおとずれたと思えばいいんじゃない かな まあでも気づくときは気づくし、今の自分に見合った次が訪れるだけだよね 求めず心配せず、ただ気づいていければよし いけなくてもよし
ID:8yXiM8Z7 仏教スレ行ったら、世俗諦と勝義諦を一緒にするな、 と一喝されて終りだね。 大体スレ内容がTM半年で理解できる程度だよ。。
511 :
神も仏も名無しさん :2010/03/24(水) 04:54:52 ID:UEbB4ywF
TM半年で理解できるならそれでいいし、何十年何をやっても何も体験できない人もいるし、 そういう分別はどうでもいい
512 :
神も仏も名無しさん :2010/03/24(水) 09:14:10 ID:KH/ajWtr
>>510 自分ID:8yXiM8Z7じゃないけど、TMってサマタでしょ?いろいろあるんですか?
半年やったくらいじゃ瞑想中に我が生じなくなるくらいだと思うけど。
瞑想やめたとたんに日常に戻って、見性とか空性とかとは程遠い気と思ってたけど。
ところで仏教スレでいうならロバーツの体験はなんだと思いますか?
大悟だろ。当然。
514 :
神も仏も名無しさん :2010/03/24(水) 23:25:36 ID:k/Fu3H9G
批判するなら具体的に自分の言葉と体験からしてほしいね。 ここはバーナデットスレなんだから、バーナデットのように 体験を独自の視点で語ってほしい。 TMを出すなら、TMのどこが具体的にどうバーナデットの悟りに関係してるのか、 あるいはどこがどう違うのかを述べるのが建設的な意見でしょ。 そこに自分の具体的な体験があれば、みんなとりあえず耳を貸すのにね。 どのような瞑想や修行をしようも、修行が逆に悟りの妨げになる段階まできて いったん素の自分に戻ったときに、実は自分は何も知らなかったのだということに 気づく。 ここの人は確かに瞑想や修行という意味では素朴な人たちなのかもしれないけど、 純粋さというか素直な自分自身の発見を語ってると思うけどな。
515 :
神も仏も名無しさん :2010/03/28(日) 17:45:30 ID:gPMWrEmS
バーナデットが言う純粋主体性。 例えば人が赤ちゃんでまだ自我がない状態の時、 その時すでに肉体がそこに存在し、身体も動き、呼吸もしていた、 自己意識とは関係なく身体は動き、生き、存在していた。 そこにそれ自体としてすでにおのずから存在し、動き、行為し、 意志や自我とは関わらずにそこに一瞬一瞬あり続けるもの(顕現し続けるもの)、 1つの生命全体として(宇宙それ自体の一部として)動き続けているもの、 それが純粋主体性ということなのかなと自分は思っている。 例えば眠っている時、自我はなくまったく無意識なんだけど、 そのとき意識とは関係なく「身体はそこに存在し、生きている」ので、 この"存在そのもの"が純粋主体性? そしてそれは花とか石とかと一緒で、ただ生きている存在そのもので、 意識(観念)とは無縁の(というか絶対的に隔たっている)存在そのもの。 クリシュナムルティはよく「観ることが、行為である」と言うけど、 これは純粋主体性の運動を(行為も思考も)ひたすら受動的に知覚し続けている状態で、 バーナデットと言ってることは同じなんじゃないかなと。 ただの「思考」や「腕を上げる」という行為は"経験"でもなんでもないから、 その経験のない行為自体が宇宙というか純粋主体性の動きであり、 それをただ観察し知覚することがだけがある、という感じの理解です。 バーナデットとクリシュナムルティってかなり似てるような気がする。 根底で繋がっているというか。あとマイスター・エックハルトも。 あとシモーヌ・ヴェイユも。この4者は深いところで繋がってるよう。
516 :
神も仏も名無しさん :2010/03/29(月) 00:31:11 ID:JnrUjSo0
偶然だけど自分も昨日ふと、自分が赤ん坊だったときの存在の空の手触り? みたいなものを思い出した。 自分が存在しているという意識はないから自分という個人が赤ん坊だった わけじゃなくて、ただ純粋な存在としてあった、という不思議さと無限さ。 最近は「行為者はいない」という言葉がすごく直接的に響いてきている。 ただし、自分が意識していなくても身体は確実にあって行為が起こってるから純粋な 存在がある、という考え方は、逆に身体との自己同一化を強めてしまうかもしれない。 「行為する主体がない」ということは、身体が勝手に行為している、という身体ありき の考え方とは違うと思う。 もちろん、純粋な存在というのは身体そのものも切り離せずに包含するものだろうけど。
>>515 シモーヌ・ヴェイユも似てるの?
禅とかマハルシとかそのあたりはみんな似てるというか同じだね
>>468 です。 あれから、離人感のようなものは徐々に落ち着いて、今はほとんどなくなりました。
(たまに、バイパスの直線道を運転してるときなどにキタりしますが)
でも、「私は誰でもない」という理解は残りました。
これは、他人にあてはめてみても同じです。他者の本質もまた、「誰でもない」ということです。
思考や感情は以前と同じようにあり、時に巻き込まれたりもしますが、
最終的には、それらから一歩離れている自分(主体)を思い出すことができます。
実は、今回のことにはきっかけがあります。
私は、ラマナの「私は誰か」に関して、大きなまちがいをしていたことに気がつきました。
もしかしたら、同じようなまちがいの渦中で、身動きとれないでいるも人いるかもしれないので、
参考までに以下に書いてみたいと思います。
先月のはじめ頃、あるブログが検索にかかりました。数年前の日付けの、その記事の中の4行が、
私の目をクギ付けにしました。引用します(ブログ主さんの了解を得ています)。
私は、今までラマナ・マハラジの事をよく分かっていなかったので
私は「私は誰か」を自己想起だと思っていました、
しかしラマナ・マハラジはハッキリと述べています
一番最初に起きる想念「私」を突き止めなさいと、これが「私は誰か」ですと
私はまさに、その自己想起をしていました。正確に言えば「自我」想起ですが。
私は、ラマナの言う「私は誰か」は、自己想起の意味あいも含まれているのではないかと思っています。
ですが、自己想起の「自己」に、どの「自己」をあてはめるかで話は変ってきます。
私は、「私は誰か」の 「私」 の部分、この 「私」 をまちがっていました。
問う相手をとりちがえていたということです。私が今まで、「私は誰か」とやっていたのは、
私の思考パターンや記憶、身体、知覚、感受性、発想、フィーリング等々の総体、
つまりは「エゴ」に対してだったのです。そこには、「自我という虚像」ながらも手ごたえがあります。
ですが、これはまさに「エゴ想起」「自我想起」以外のなにものでもありません。
本当は、【一番最初に起きる想念「私」】 に対して問うべき問いであるのに、 とんだ見当違いをしていたということです。 ラマナの本は一冊所有していますが、大昔虫食い状に読んだだけで、完読していません。 ものごとは浅知恵でやるものではではないと思い知りました。 それで、さっそくやってみたわけです。 【一番最初に起きる想念「私」】 に対して、「私は誰か」ときいてみました。驚くべきことが起こりました。 返事は、来ませんでした。そこには誰もいませんでした。 誰も、どころか何もありませんでした。 風さえも吹いていませんでした。何ら具体性のあるものは見つけられませんでした。 このことは、もろもろの本などで読んで、頭では知っていました。 ですが、実感として理解するのとは天と地それ以上の開きがあります。これもさらなる実感です。 このようなまちがいは、グルジェフの「自己想起」のメソッドでも陥りやすいのではないかと思います。 自己(自我)の複層性、「自己」という言葉のあいまいさ、 このことをわかっていないと、この道の初歩の初歩でつまづくことになってしまい、 起き上がれないままもんもんとすることになってしまいます。 「私は誰か」は、ふたつの意味あいを含んでいると思うのです。 ひとつは、【一番最初に起きる想念「私」】を突き止めるために、 私は思考や記憶ではないということに気づかせる、消去法としての「私は誰か」。 ふたつめは、突き止められた【一番最初に起きる想念「私」】に対して、(自己の)実体が想起され得ないことで、 「私は誰でもない」という理解に導くための、自己想起としての「私は誰か」。 「【一番最初に起きる想念「私」】 を見つけること」を、まずはじめにしなければならないのですが、 ひとつめの「私は誰か」は、エゴ想起、自我想起に陥ってしまう危険性を孕んでいます。 ですので、そのまちがいを避けるためには、厳密には、「私は誰か」ではなく、 「【 私 】とは どれ か」 か 「【 私 】とは どれでない か」 が適切なのではないかと思いました。 【一番最初に起きる想念「私」】 これを見つけないかぎり、この道は開けないのではないかと思います。 もちろん、それなりのモチベーションも必要でしょうが。
>>485 の投稿のこの2行
>「具体的な内容」「実体」がないのに、なぜ「自分感」「主体感」があるのだろう。
>この「自分感」「主体感」はどこに由来するのだろう。このことがとても不思議に思える。
これがどうしても不思議に思え、不快ではないのですが、
なんとなく座りが悪いというか落ち着かないので、手持ちの本やネットなどで調べました。
「神はいずこに」は、一年半前に購入したものの、
「はじめに」と「訳者あとがき」だけ読んで、積ん読状態でしたが、読み始めてみました。
52ページ4行めから53ページ3行めにかけて、答えがありました。
キリスト教のフィルターがちょっとじゃまですが、この「自分感」「主体感」は、
自我の核,中心,台風の目,のようなものではないかと理解しました。
ロバーツは、これを「沈黙の中心」あるいは「静寂点」等と呼んでいますが、
言い得て妙、しかも、とても詩的な表現だと思いました。
これは、よく言われるいわゆる「真の自己」のことではないでしょうか。
とりもなおさず【一番最初に起きる想念「私」】と同義ではないでしょうか。
ラマナ言うところの 「一番最初に起きる想念「私」」
グルジェフ言うところの 「自己想起」
和尚ラジニーシ言うところの 「観照者」
ロバーツ言うところの 「静寂点」
禅で言うところの十牛図の 「牛」
他にもさまざまありますが、これらは言い方は違っても、
同じことを指しているのではないかと思いました。
ロバーツは、旅の終わり近くで、この静寂点をも奪われました。
十牛図では、七図で牛が、八図では牧童もいなくなってしまいます。
とりあえずは牛を見つけることができたたものの(でもすぐ見失ってしまう)、
牛にロープをかけるやら、背に乗って笛を吹くやらは、私にはとても高いハードルに思えます。
ラマナは、「真理に段階はない。個人の体験に段階はあっても真理に段階はない」とも言っていますが、
凡夫は、この「段階」を踏みしめながら地道に行くしかないのでしょう。
モチベーション続くだろうか、自分・・。 長文、連投すみませんでした。
521 :
神も仏も名無しさん :2010/04/20(火) 22:53:53 ID:gWGx6hlW
すごくシンプルな話だよ。 「認識されうる対象はすべて『私』ではない」 んだから。
522 :
神も仏も名無しさん :2010/04/22(木) 03:59:34 ID:n9jaFPFd
>>520 よかったねー、おめでとう
「自分感」「主体感」ってのは誰でもない自分ってかんじ?
それとも全体である自分ってかんじ?
それとも自分でない全体ってかんじかな?
あるいはそういうのとも別かな
>とりあえずは牛を見つけることができたたものの(でもすぐ見失ってしまう)、
見失うってどういうこと? また普通の日常に戻ってしまうってこと?
自分がないならどうして戻るんだろう?
それとももっと違うことなのかな?
よければまた書いてねー
がんばってー
523 :
520 :2010/04/22(木) 17:38:40 ID:ENOl9+l2
>>521 そうですね。そう解っていても、「私は誰か」のみでは、私にとってはシンプルすぎました。
この「一番最初に起きる想念『私』」もまた、認識の対象になり得ていますしね。
「観照者」もしかり、「静寂点」もしかり、です。
>>522 >「自分感」「主体感」ってのは誰でもない自分ってかんじ?
これが近いです。「自分感」というと語弊がありますが、
自分以外の他の誰かというのともちがう、ただの「主体感覚」とでもいうか、居る、という感じです。
自分というものに付随している、思考や記憶や感情やその他もろもろを、
ひとひとつ切り離していって「残ったもの」。 ニュートラルな自分というか、
たとえば、花子さんという人物がいるとして、花子さんが形成される以前の、花子さん色のない、
「素材状態」の自覚?のようなもの、と思えばわかりやすいかもしれないです。
>見失うってどういうこと? また普通の日常に戻ってしまうってこと?
牛を意識しててもしていなくても、あるのは普通の日常に変わりはないのです。
ただ、花子さんの例で言うと、バリバリ花子さん色で彩られたカラーグラスをかけて世界を見るか、
花子さん以前の、ただの素材という視点から世界を見るか、このちがいはあります。
>自分がないならどうして戻るんだろう?
それは、完全には自我(という幻想)を捨てていないからです。
「自分は誰でもない」という理解は得ても、まだ自我というものに未練があるのと、
長いあいだの習慣が染み付いちゃってるのもあるかもしれません。
524 :
神も仏も名無しさん :2010/04/22(木) 23:15:09 ID:m1hHYClH
自我は捨てるもんじゃないでしょ 無我を悟ると、自我という幻想を形成している個々の現象を集合体として 捉えなくなるってことじゃないの
525 :
神も仏も名無しさん :2010/04/23(金) 01:23:29 ID:D2ILQ8By
言葉にすると違うけど同じかもね〜 自我を捨てる 自我に捉われない 自我なんて元々無い 自我もまた悟り 残ってる自我の視点の違いかな? 深さかな?
526 :
神も仏も名無しさん :2010/04/24(土) 01:27:29 ID:o/J/vWpi
深さ、というのが近いのかもしれないけど、そもそも無我の境地に 浅い深いなんてあるのかな? 自我を対象としてとらえること自体が、自我による認識作用でしかないからね
527 :
523 :2010/04/24(土) 10:13:56 ID:r6+On4EF
どの自我(幻想)と同化してるか、あるいは、してないか、っていうことじゃあないでしょうか? 無我に浅い深いはないだろうけど、自我には、士農工商じゃないけど、 身分というか役割というか、階層のようなものがあるように思えます。 ロバーツは、「静寂点」とは、神と自己の出会う場所と言っていますし、頓悟でもしないかぎり、 この中間点は、ステップてして必要なのではないかなと思えます。人にもよるかもしれないですが。
528 :
527 :2010/04/24(土) 13:29:01 ID:r6+On4EF
× ステップてして
○ ステップとして
>>525 さんの、
>残ってる自我の視点の違いかな?
>深さかな?
の、この「深さ」は、無我の境地の深さのことではなく、
自我の深さ、自我という幻想の根の深さのことを指してるんだと思います。
529 :
神も仏も名無しさん :2010/04/25(日) 00:15:26 ID:dB0awJAT
意識に階層はあるけれど、すべての階層を探っていこうと掘り下げていったら 結局、生命の歴史(カルマ?)をすべてたどることになってキリがない。 深さをたどるというのは時間と空間の幻想の中でのことだから無我を悟ること とは別モノだと思うんだよね。
>>518-520 自分以前475から何回かコメントした者だけど、言ってることその通りだと思うよ。
>>523 の
>自分以外の他の誰かというのともちがう、ただの「主体感覚」とでもいうか、居る、という感
>じです。
も自分と同じかな。
でも全体感で表す人もいるよね、あれはなんだろ。
こちら側から語るか、あちら側から語るかなのかな。
>>527 もよくわかる。
自我もいろいろあって、階層のようになってるのもあれば同程度の並列なものもある。
下のほうの根源的な自我が抜けるとその上に乗ってた自我まで全部ずっぽり抜けるけど、
上のほうの並列の自我が抜けても、そこだけ抜けるのでちょっとスッキリする程度。
誰でも日常的に自我を作ったり自我が抜けたりしてる。
どの程度のどの自我が抜けるかの違いだと思うんだよね。
でもさ、上で言ってた、ただの「主体感覚」も無くなりそうになってでちょっとビックリしたこと
ある。
空ですらないカオスみたいな。ビビって戻っちゃったけど。
あれは自我の反応だったのかなんなのかわからないんだけど。
あれが抜けるとほんとに全体になってたのかなあ?
>>529 それもそうですね。
無我ってのはとりあえず単に無我。
でも無我になるとそこからいろいろ見えるというかわかりそうになるからそっちにいきがちな
のかな。
532 :
神も仏も名無しさん :2010/05/15(土) 14:16:55 ID:mP9gunB3
あげとこう
533 :
四零九 :2010/06/01(火) 23:38:35 ID:RexA+3TO
ほうざん氏の言 ●「経験主体と、経験との間の、埋められない距離感」こそが、 原型自我を持って生まれた人間の特徴であるが、 しかし、現代のホーリービジネスはここに付け込む
これなら、やっていけそうだというものが見いだせない。 このままでは、人生の破滅が待っている。 一日の時間の経ち方が早すぎる。本当にやばいんだ、ここ最近。泣きたくなる。
>>534 歳取っただけじゃないか?
老人は一年たつのがあっという間に感じると言うしな。
536 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 22:20:33 ID:4wK+X+Ls
>>534 時間の概念を一瞬でいいから抜けてみればいいよ
この一瞬だけ、立ち止まってみたら恐れはなくなる
>>534 自分の内面をなんとかして解決できるか
環境を変えなければ何ともならんか
あるいは医者などの助けが必要な状態なのか
他にも方法あるかもしれないですし
よくみきわめて対処しましょう
ロバーツが11歳の頃、授業中に突然、 両親の顔さえも思い出せないような静寂に入ってしまったと書いてあったけど 実はこの経験だけある。 うとうとしていて、意識が戻っても、今がいつか、ここがどこか、自分が誰なのか 数秒間分からなくなる時が子供の頃からごくたまにあった。 日本語さえも理解不能で、遠くで誰かがしゃべっていても 「単調な音の言語だ」と言葉にならない思いで思うけれど、何を言っているのかわからない。 焦って混乱している間に思い出す…そんな感じ。 とある漫画家のエッセイでも似たようなことが書いてあったし この話を人にしたところ「自分もよくある」という人もいたので この経験に限っては結構多くの人がしているのかもしれない。
539 :
神も仏も名無しさん :2010/06/22(火) 22:07:46 ID:dex8+dyo
自分も、なぜか授業中にそういう経験をよくしていたよ。 小学校の低学年のころ。 先生がしゃべってるんだけど突然教室全体をはるか遠くから俯瞰する感覚になって 自分の体がなくなってしまった。
540 :
神も仏も名無しさん :2010/06/23(水) 00:33:28 ID:/r/qv/s8
まあ、ソフトウェアが立ち上がってない時はそんなもんでしょ。
541 :
神も仏も名無しさん :2010/07/06(火) 22:19:47 ID:luX9OMes
あげとこう
542 :
神も仏も名無しさん :2010/08/13(金) 06:47:42 ID:h30r2v1Y
ほすあげ
543 :
神も仏も名無しさん :2010/09/12(日) 11:44:33 ID:5sQt3K0U
過疎ってるな ほすage
544 :
神も仏も名無しさん :2010/09/22(水) 19:37:42 ID:GVFHQfNE
age
545 :
四零九 :2010/10/08(金) 22:34:15 ID:WNuzJaAs
人生とは、禅問答のようなものだ。次から次へと難題が降りかかってくる。
546 :
神も仏も名無しさん :2010/11/03(水) 23:47:30 ID:cMICViws
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕 警視庁防犯課 二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
「主体」は、自分ではなく、焦点を結ぶ前の「ただの注意」。 アテンションプリーズ「ご注目ください」っていう言葉があるけど、 対象にご注目する前の「方向のない注意」。 それがあることはわかる。 でも、でも、困った。つかまえようがない。 かたちがない。フィーリングもない。とっかかりも、ない。 自分は、この「注意」の対象のひとつでしかない。 「対象」が、主体を見ることはできない。 「認識された物」が、認識それ自体を認識することはできない。 あたりまえすぎる。 見るものは見られるものよりも先にある。 牧童は牛を捕まえることができたのだろうか? むしろ牛が牧童を捉えてるのではないのだろうか?
探求者が、探索に使っている「注意」、この「注意」こそが、
「探求の対象」そのものであるということ。
探求する事それ自体が「探求されるもの」であるというと。
探している最中の注意の「矢」そのものが、まさにその「マト」だということ。
注意の矢が何かをとらえたとたん、それは主体ではなくなってしまう。
対象が牧童(個人としての自分)でも、牛(ただの「居る」という感覚)でも、
他の何かでも、矢がとらえたものは真の主体じゃない。
このカラクリ、このパラドックスに気づいた時点で、お手上げ。
どう考えても無理。不可能。
自力で引き下がれるのは「牛」まで。そこからは今の自分には、なすすべがない。
矢は、矢自身を射抜くことはできない。
眼は眼それ自身を見ることはできない。
>>548 レスありがとう。
「ヒューマンブッダ」、K氏絡みの他3冊、今年の春頃読みました。
件のスレにも何度か投稿したことがあります。最後は6月、553です。
550 :
神も仏も名無しさん :2010/11/13(土) 12:31:39 ID:SVCM3LE5
>>549 >「ヒューマンブッダ」、K氏絡みの他3冊、今年の春頃読みました。
>件のスレにも何度か投稿したことがあります。最後は6月、553です。
そうなんだ。553をチェックしてみたけど、その頃、私も、そのスレにいましたw
>注意の矢が何かをとらえたとたん、それは主体ではなくなってしまう。
>対象が牧童(個人としての自分)でも、牛(ただの「居る」という感覚)でも、
>他の何かでも、矢がとらえたものは真の主体じゃない。
うん。なかなかいい捉え方だと思います。
>このカラクリ、このパラドックスに気づいた時点で、お手上げ。
>どう考えても無理。不可能。
>自力で引き下がれるのは「牛」まで。そこからは今の自分には、なすすべがない。
>矢は、矢自身を射抜くことはできない。
>眼は眼それ自身を見ることはできない。
そうだね。なすすべがないと気づいたけれど、なそうとしている自分がいる感じですかね。
牧童を捕らえて、牛だけが残ったにも関わらず、すぐまた牧童が「捕らえなければ!」とまた、逃げている状態というか。
そんなかんじでしょうか。
牛は捕らえられませんので捉えなくて良いですw。捉えるのは牧童です。
「パラドックスが・・・真の主体が」と言っている牧童を捉えるというか。
牛は、何も言いませんし、捉えられないのが牛ですしw牧童を捉えていれば、牛が残ります。
牛を捉える必要なないです。ここが重要なところです!
↑とか、書いてみたけど、そんなことは分かりきった事だったかなw
552 :
神も仏も名無しさん :2010/11/13(土) 22:12:02 ID:D9NzAiOf
牧童を捉えている矢はどうなんの?
>>552 ん?牧童を捉えたのは、牧童だよ。
矢は最初から何も捉えていない。ただ在るだけ。
そうだねえーー。この辺、ちょっと、説明がね。。。
頭で考えても、分からない部分だからね。
それに、私もまだ、修行中の己なので、上手く説明できないな。
ただの注意=牛というのは、何かに注意したり注目したりしているのでなく、
注意が起こるスペースの様なものだと言ったら良いのかな・・・。
伝わらないですかねww
どう言ったらいいのやら・・・・。
この辺が、私の限界かな・・・w
悲シスwwT^T;
554 :
神も仏も名無しさん :2010/11/13(土) 23:01:59 ID:vBucGqv6
カラクリに気づいて、なすすべがないと心底納得したら あとは何が起きようが起きまいがただ生きてればいいじゃん。 それしかできないし、それでいいじゃん。
555 :
神も仏も名無しさん :2010/11/13(土) 23:10:25 ID:D9NzAiOf
>>553 注意が起こるスペースはわかるけど、その状態からもう元に戻らないのですか?
戻るなら矢があるからだと思うんですが
つまり矢を間にはさんでスパースと自分がある
自分が完全にスペースそのもの(スペースに溶け込んでる)なら矢もなにもないだろうし、
元にも戻らないだろうけど
>>555 >注意が起こるスペースはわかるけど、その状態からもう元に戻らないのですか?
>戻るなら矢があるからだと思うんですが
スペースが分かるんですね。すばらしい。
矢というのがよく分からないですが・・・。
矢というのは、実際の感覚や、これだという、感じで認識できますか?
>自分が完全にスペースそのもの(スペースに溶け込んでる)なら矢もなにもないだろうし、
>元にも戻らないだろうけど
これは悟りを開いた状態になるのかな。
私の場合は、最初は、牛をつかまえる。逃げる。の繰り返しみたいな感じでした。
その次・・、牛を捕まえて、スペースの感覚。
その感覚のまま・・・スペースにくつろぐ。それが、牛を捕まえ続けている状態です。
その時、はじめは、スペースと私という感覚があります。
私という感覚は・・・、マインドです。微細なマインドです。
無理に捨てる必要はありません。私という感覚に、ただ、気づいて・・・、
そうすれば、自然に落ちていきます。
マインドが動き出したら、ただ気づいて、私(牧童)に意識を向けてリラックス・・・
という感じが、今のところの私の状態ですw
>>556 のつづき
アジズの説明では、牛を捕らえ続けることを勧めていましたが、
ずっとするのが無理だったら、ずっとしなくても大丈夫です。
できる範囲でも、やれば効果はあります。
それに、牛を捕まえていると、時として、自我の欲求が浮上してくる時があるので、
そういう場合は、牛のことはいったん忘れて、自我を満たす事も大事です。
自我を満たす事で、自我がリラックスし、より、牛を捕らえやすくなります。
牛をずっと捉えられない事を、責める必要はありません。
今を楽しく生きることが大事です。
牛を捕らえられるときは捉え、やりたい事は楽しんでやっていく、
そういう自然なやり方の方が、より、牛も安定すると思います。
558 :
555 :2010/11/14(日) 00:35:46 ID:hqeHP8HX
>>556 いや自分は549じゃないからわからないけど、549の言いたいことはそういうことじゃないんじ
ゃなかって思って書いただけで
矢っていうのは気づきのことでしょ
あるいはスペースだとかマインドだとか今の状態を観ている目(観察)
目(観察)があるということはまだ対象と観ている自分に分かれてる
分かれてるから戻ってしまう
つまりいくらリラックスしようがどうしようが自分がコントロールしてるだけ
コントロールしてる自分がいる
無我とか無常とかありのままとかでも、そういう状態にしてるだけ
そこから完全に自分も観察も丸々全て消えて、安定も安定しないもなく、初めから終わりま
で完全にそうでしかない状態にならないってことを549は言ってたのかと思ってね
>>558 ああ、そうなのw私が話したかったのは・・・w
牛を捕らえ、捉え続けた事や、自我の欲求を満たした事により、期が熟すと、矢が牛に溶け去るらしいw
牛に対してなすすべはないけど、なせる事は、矢(牧童)を無理のない程度に捉え、その「私とスペースの感覚」にリラックスし、
牛を見失う事を心配せず、楽しんで、自然に生きる事だけという話でした。
560 :
神も仏も名無しさん :2010/11/14(日) 00:58:48 ID:hqeHP8HX
549じゃなくてすんません まあ楽しんで、自然に生きているならそれでいいよね 自然であればそれだけでなにより
561 :
549 :2010/11/14(日) 13:44:44 ID:ORQHyWiY
>>558 ありがとう。おっしゃるとおりです。
自分の書き方、表現の仕方がまずかったのかと思い、凹んでました。
方向のない注意が、注意の矢になったとたん、もう無方向ではなくなってしまう。
矢の向きが、牧童であれ牛であれ、たとえ神を指したとしても、
それが対象として捉えられたものであるかぎり、ゲームオーバーにはならないんだと思う。
矢であるかぎり、ベクトルであるかぎり、まだまだゲームは続く。
>>550 さんとは、申し訳ないけど話がかみ合ってないような気がする。
視点を変えれば、牧童(探求者)も、牛(注意そのものの「自覚」)も、
認識される側の方だということに気がつく。
草や石やボールペンやコーヒーカップや思考や感情やその他もろもろと同じ。
「対象」にすぎないということ。
では、いったい誰が、なにが真の認識の「主体」なのだろう? 何者が認識者なのだろう?
「主体のないこと」とでも言うしかないのだろうか?
>>554 >カラクリに気づいて、なすすべがないと心底納得したら
本当にお手上げなら、2ちゃんに書き込んだり、ヘラヘラしてられないんでしょうね。
まだどこかで、何か打つ手がある、
なんとかできると思ってる「自分」が歴然といるということなんでしょう。
ここのところは、
>>550 さんの、
>そうだね。なすすべがないと気づいたけれど、なそうとしている自分がいる感じですかね。
まったくそのとおりだと思います。><。
>>561 うむw話がかみ合ってない感じは、ちょっとしてましたw
表現がまずいとかではないです。一度で、全部伝えるのは、無理ですから、何度かやり取りしていけば、
そのズレも何か分かるかな〜と、構えていたので、気にしてなかったと言うかw
あまり、伝わらなかった事は、気になさらないでw(←私は気にしろってかw)
>では、いったい誰が、なにが真の認識の「主体」なのだろう? 何者が認識者なのだろう?
認識に主体があると予測しているわけですね。
認識に、主体があると、考えている。
まあ、ないわけですが。
牛は、認識「力」(生命)で、「認識」は体の機能です。
この辺は、自分で、観察していく事なんでしょうね。
最近まで、私も、自我があると思い込んでいましたので・・・。
何かあるという前提で、探す。でも、「ない」
自我があるかじゃなくて、観察があるか、でしょ 自我という主体があるかじゃなくて、観察によって分けられる主体と客体の問題をどうするか
>>563 自我あると思い込んでた、という話は、私が最近まで「あると思っていた」事です。
主体が「あると思う」から、何者が認識者なのだろう?という疑問がわく、と言う主旨です。
>観察によって分けられる主体と客体の問題をどうするか
観察によっては、分けられてはいません。
記憶を繋げているから分かれているように思うのです。
観察をしているのは誰?
>>565 >観察をしているのは誰?
いい質問ですね。
悟りを開く方法として「私は誰か?」と、自分を探す事を勧めている覚者もいます。
「観察をしているのは誰?」という問いは、観察している「誰かがいる」事が前提ですね。
それにより、「誰かがいる・・・誰だ?」と探す思考活動をする事になります。
探したい人には、いい問いかけだと思います。
>>549 牛(悟り)を実体として捉えている時点で、間違いだね。
悟りはSPでも、ただ居るでもない。
何らかの状態として実体的に捉えた説明をする指導者は、わかっていない。
アジズの言っていることは、悟りではなくて、彼自身がつかんだ何かだ。
それ以下でもそれ以上でもない。
まあSPごっこをやりたい人はいつまでもやってればいいと思うが。。
注意とか気づきとかSPが悟りであるならば、それを妨げるマインドを落としてとか、雑念を排してとか、どうやったって、二元論の罠を抜かれない。 どうしても払拭の手段を用いる、まあそれじゃあいつまでたってもどうにもならんだろう、ちっとましになったとか思って自己満足が関の山だろうな。。
問44 本当に自己を忘ずるとはどういう樣子ですか。
答 本当に自己を忘ずるということは、人もものも本当に無くなってしまうという時節がある
んです。それを一遍やらにゃいかんのです。人法ともに忘ずるということをね。
道元禅師が大悟せられた様子なんかも、それですわね。あれは、忘ずる道を誰も教えな
かったんでしょう。ところが、如浄禅師が初めてそれを教えられたもんだから、それをそのま
んまに行じられて、本当に忘じてしまっておられた。
その時に、隣単の坊さんが居眠りをしていたので、如浄禅師が、「坐禅は身心脱落であっ
て、居眠りしとってどうするんじゃ」というて、「ピシャーッ」とやられた。その途端に、ちょっと
一念起きて、「アラーッ」ということがあったんです。
それが『学道用心集』の中にある「動静の二相了然として生ぜず、此の不生の時、これ頑
然にあらず。人、之を証する無し」という言葉があるのも、道元禅師がそういう体験を述べら
れたのです。そこまで本当に死なれた。それで初めて、自分で脱落しておる実体を知られ
たんです。
それからもう一つ話しておきたいのは、そうやって、「脱落しましたッ」というて、如浄禅師の
ところに行かれたら、「何を言うとるんじゃ、お前は」というわけで、如浄禅師から「そうじゃな
い。脱落の身心なんじゃよ」と言われて、もう一回「ああそうかッ」というて、未だ人が、自覚し
ましたという人がちょっといたのが、それまでコロッと取れちゃった。「ああそうかッ」と、終わ
っちゃったんです。そういうことがあるんです。
それで初めて、「『本来本法性天然自性身』、なるほど『本来本法性天然自性身』じゃ。誰
もみなそうじゃなァ」ということが、確認できたのです。
井上義衍老師問答集
http://tosenin.e-tera.jp/mondou.html
問45 悟るとはどういうことですか。
答 今話したように、悟るということは、宇宙の発生以前、それじゃからこれ(身を指して)が
発生する以前の自己に徹したんです。このもの(身)は知らずに出来たんでしょう。知らずに
出来てきた、その知らずに出来たそれ自体まで、人間の見解から何からみな離れたものじ
ゃから、それでちょうど着物を脱げば肌が見えると同じように、もうほかに出てくるものはな
い。
考え方を全部捨てたら、もう考え方以前に出来ている事実以外に何もない。そこまで本当
に落ちた。それの自覚ですわ、悟道いうのは。
それだから、本来の面目というんです。それを仏知見を開くともいわれる。それだから、仏
知見を開いたということは、「一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし」とあるように、本当にその
根源を知ってみるというと、因果のみにして、因果の法という法体すらも、実体らしいものも
何もないところに徹したんです。
井上義衍老師問答集
http://tosenin.e-tera.jp/mondou.html
問53 白隠和尚の『大悟十八遍、小悟その数を知らず』という言葉がありますが、それほど
数多く悟らなければいけないのでしょうか。
答 それは一方からいうと、ちょっと坐っとって、「変化があった、変化があった」というので
しょう。その変化の、少し変わったのと、大きく変化したというのと、やはりご覧なさい、これ
(身)を中心にして、これ(身)の底抜けじゃなくて、途中辺のあり方なんです。
はしごで屋根に上るのに、屋根まで登ってしまった人じゃないんです。途中までいくつか
階段があって、ようやくその近くまで行ったとか、行かんとかいう、そういう範囲のものです。
本当の悟りというものは、「終わり初物」とあるように、一回きりのものです。どうしてかとい
うたら、見たいと思うとったものを一回見たら、もうそれで疑念は起きんのでしょう。事実を見
たんじゃから。
ところが、そこに疑念が起きるんじゃったら、本当に見たんじゃなくて、どこか見損ねたおっ
たんです。何かがあったんです。そういうようなものをみな悟りいうて、ごっちゃにするから、
それで悟りというものに対する批判が色々出るのです。
だけれども、それはもうみなその範囲の人です。どっちにしても、それがどういう人であろ
うともですね。
井上義衍老師問答集
http://tosenin.e-tera.jp/mondou.html
572 :
神も仏も名無しさん :2010/11/14(日) 22:48:08 ID:PEapJZFi
悟った後の状態を先にいってしまう指導者は真の指導者ではないと思う。 修行者はそれを目指してしまうから。 SPを方便として言ってるならいいと思うが、視点を転換してSPの 場所そのものを見ろっていうのは混乱を招く。 それだといつまでたってもSPをスペースのような客体としてとらえ続けることになる。 とはいえ、自分は「SPそのもの」を「SPとして」執拗に見続けた経験がないので、 もしかしたらSPがSPをとらえようとしてもとらえられずにするりと逃げてしまう そのとらえられない空白みたいなところに何かあるのかもしれないが。 てか、ここバーナデットスレだよ?
自己を運びて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するは悟りなり。 迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷するは衆生なり。 ・・逆のことを教える指導者が多すぎる。。
>>567 >牛(悟り)を実体として捉えている時点で、間違いだね。
牛は、悟りではないんでないの?
牛も牧童もいなくなるのが悟りではないの?
576 :
神も仏も名無しさん :2010/11/15(月) 09:05:16 ID:nGrS112r
>>575 書いた本人じゃないですがw、
牛を実体として捉えている視点で言えば、
牛も牧童もいなくなるのが悟りという事にはなるでしょうね
どうでしょうかね、この辺は、言葉のあやの様なw
牛も牧童もいなくなるというか、いるけどいない、いないけどいる、いるいないがないってかん じでは 個人的な実感としては、いるいないがないっていうより、いるいない両方あるってのが近い気 がするけど 絶対無より絶対有っていうか まあ同じことなんだろうけど
578 :
神も仏も名無しさん :2010/11/15(月) 09:59:30 ID:nGrS112r
なるほどね〜、そういう捉え方もできるか〜
>>562 >>564 >>566 またまた話がかみ合ってないような気が・・・。
>>561 は、主体があるないを問題にしているのではないよ。
自我のあるないも関係ない。「私は誰か?」も関係ない。つっこむポイントが違う。
何かを認識するということは、
どうしても「認識するもの」と「認識されるもの」に分かれる。
主体と客体が必要だということ。主体という言葉がひっかかるならAとBでもいいけど、
「認識」や「観察」という言葉そのものが既にふたつのものを含んでるということ。
>>563 さんも
>>565 さんもこのことを言ってるんだよ。
580 :
神も仏も名無しさん :2010/11/15(月) 18:07:42 ID:BaUpu21v
>>579 >>562 >>564 >>566 を書いた者です。
ふ〜む?何はなしてたんだっけ?
ちょっと、忘れてしまったw
「主体」と「客体」がありますね。見るものと見られるもの。
それの何が問題なんだろう・・・?
>>580 俗に言えば、自分以外の誰か、もの、ことに対して、今現在なんら問題が生じてない、これ
からも生じない、ってんならいいんじゃない?
何かしらある、何かしら生じるってんなら見るものと見られるものということに問題があるっ
てことでしょ
問題が生じても問題にSPしてるからいいんですってことなら、それでいいんじゃない?
何らぎくしゃくしたところもなく全てが自然であるならそれでいいと思うよ
ようするにサマーディだよね
仏陀はそれは悟りではないと言ったけど、それでいいっていうならそれでいい
あなたがいいならそれでいい
ちなみに自分は563
582 :
567 :2010/11/15(月) 19:51:40 ID:UVl2NGFD
>>575 そういうこと。
>>580 >「主体」と「客体」がありますね。見るものと見られるもの。
それの何が問題なんだろう・・・?
何が問題なのかじゃなくて、それが問題の根源だよ。
迷いの根源。
自他・主客の分裂によってわれわれは迷うのだ。
SPやってもそれに気づかなければ、何にもならんのじゃないか?
主観がなくなって客観だけ、認識がなくなって、ものが見えるだけと言うのが、本来だな、原初の世界。。
583 :
神も仏も名無しさん :2010/11/15(月) 19:59:12 ID:NVHRZrTa
>>581 ありがとう。
なんかギクシャクというか、私のカキコが、ずれてるといわれているので、
何がずれてるのか??という疑問が・・・・w
>>561 さん、ご本人に伺いたいです。よろしく〜〜^^;
584 :
神も仏も名無しさん :2010/11/15(月) 20:02:51 ID:NVHRZrTa
>>582 >>SPやってもそれに気づかなければ、何にもならんのじゃないか?
SPやりました、ハイ、すぐ悟りました、とはならないですので・・
時間がかかるんですよw。
これで、話ずれてないかな?
>>583 疑問とかどうでもいいじゃん
ずれててもずれてなくてもどうでもいいし
どうでもよくないなら主客の問題があるんだよ
客に特定の反応をしてしまう自由でない主があるからでしょ
>>584 時間がかかるかどうかは自分が決めることじゃないよね
586 :
神も仏も名無しさん :2010/11/15(月) 20:19:03 ID:NVHRZrTa
>>585 やっぱ、禅的な(←私個人の感覚ね)返事って、自分に合わないみたいだ。すまぬ。
ハートのひと求むw
まあ、どうでもいい話よね〜、あははw
587 :
567 :2010/11/15(月) 20:24:57 ID:UVl2NGFD
禅なんてどこにもないのに・・あると思うってるのが架空だ、アジズでもエオでも同じ。。 まあいい夢見てる人たちは何か特別なものがあると思う、現実よりも夢がいいんだろうなあ。。
>>582 >主観がなくなって客観だけ、認識がなくなって、ものが見えるだけと言うのが、本来だな、原初の世界。。
「主観」がないのなら「客観」もないのでは? どちらか片方だけってことはありえないと思う。
>>583 >>580 の
>ふ〜む?何はなしてたんだっけ?
>ちょっと、忘れてしまったw
この2行が、このスレを見ている人たち、あなたの書き込みにレスした人たち、
この人たちに対してどれだけ失礼かわかるでしょうか?
それがわからなければ、何がずれているのかは、一生わからないでしょう。
589 :
567 :2010/11/15(月) 20:59:46 ID:UVl2NGFD
>>588 客観と言わずとも、何でもいいよ。
物、存在、現実・・花は花、月は月・・主観はなくともそれらはある。。
>>583 もちろん、あなたに悪意がないのはわかります。
でも、この2行は、いらなかったですね。
591 :
神も仏も名無しさん :2010/11/16(火) 01:20:27 ID:No/kkLn5
>>588 ああ、それはごめんねw
悪気はないですよ〜w失礼しましたw
>>547 と、
>>550 さんのの文章を読み返してみたんですが、
ずれてるのがやっとわかりましたwた、たぶんね・・・ww
見るもの見られるものが同じ視点だから、見れないって事かなあ?
気づき@に、気づくAとき、気づきAに気づくことができない。ってこと?
で、合ってるかな?大丈夫か?w
いや〜全然ずれるやん自分ww今まで何はなしてたの一体orz
参考までに、SPは、
気づき@に気づくAとき、気づきAになった時点で、Aの気づきを緩めてリラックス。これがSP。
頭の辺りに意識がある感じ。(ま、どこにあってもいいんだけど)
で、さらにリラックスしていくとビーイングの状態。
一応参考までに、SPの詳しい説明は「ヒューマンブッダ」でなくて、
「アジズとの対話」という本のほうね。
「ヒューマンブッダ」は、アジズ流のビーイングとハートについての説明、
日本人からの質疑応答が書かれていて、総合的だけど、SPについては、詳しくない。
あんまり参考にはならなかったかな。というか、そもそも、話ずれてたら意味ないけどw
どうでしょうか。
>>547 さん、OKですか?クリスタルクリア〜ですか?
SPする気はないかもしれないけど、一応参考までにorz
>>591 「気づき」になった時点で、「気づいた」時点で、すでに「遅い」ということです。
「気づき」は、かたちや概念はないけど、対象になり得てる。
対象が生まれた瞬間、見るものと見られるもの、
主体(としておきます)と客体に分かれてしまう。
ということは、「気づき」は真の主体じゃない。
自分の眼を鏡なしで見れるでしょうか?
矢は矢を的にできるでしょうか?
カメラはカメラ自身を写すことができるでしょうか?
どうやったって主体が主体そのものをとらえることはできない。
もしとらえようとしたら、主体以外のものが必要になる。
でも、もうそれは主体そのものではありえない。客体になってしまう。
主体は、その客体よりも先にある。主体なしでは対象は存在できない。
客体が主体をとらえるのは不可能。
客体(探求者)がいないときにしか主体は主体そのものとして在れない。
よって、探求者がいるかぎり主体そのものにはたどりつけない。
主体そのものが、主体そのものの「自覚」を持っても(SP)、それもまた「対象」。
SPに先行するもの、SPになる手前のもの、主客という概念を越えているもの、
SPは、それとの架け橋のようなものなんだと思う。
× >でも、もうそれは主体そのものではありえない。客体になってしまう。 ○ > でも、もうそれは主体そのものではありえない。主体と客体になってしまう。
子供の頃には自分の存在と世界との間に境界線はなかった 初めて自我という物が自分の中にあると気付いたのは もの凄く小さい頃に雪の中にダイブした瞬間だった それまでは自分の中に疑問というものが存在しなかった でもその瞬間に「ただ眺めている自分」がいた 眺めている自分と世界があってそしてもうひとつあったのが疑問だった 眺めている自分と世界と「これは一体何?」と疑問を投げかける存在 今思うとそれが自我の正体イコール世界との境界線 それを知る前の自分には絶対に戻れない絶対に壊せない壁 その感覚が突然やってきては恐怖によって消えるというBも書いていた状態 大人になるにつれて境界線はどんどん強くなって行って 「これを抱えたまま生きる位ならもう死ぬしかない」それだけが全てだった 自我は世界と自分との間にある境界線の事なんだと思った 宇宙があって自分がいてそれなら宇宙の最初の始まりがどこにあるのか 宇宙の果てと闇の間にある境界線がどうしても自分の中で繋がらない 苦痛が限界を超えてそれでもまだ発狂も出来ずに自殺も出来なかった時に その時に世界と自分の境界線が崩れはじめるこれがたぶん自我の崩壊の始まり ありのままの本当の世界は美しいということを自分は知っている それでもまだ自分がそこに近付いてはいてもたどり着いてはいない 中途半端な状態で生きている自分と本当の世界の距離感が無くなる事が覚醒か
595 :
神も仏も名無しさん :2010/11/17(水) 01:56:35 ID:9mjRpw/b
>>592 >真の主体は、気づけない、気づいた時点で、対象となってなっている。
>どうやったって主体が主体そのものをとらえることはできない。
主体は主体で在るだけで、気づきとはちょっと、違います。
気づいた、とは何なのか、という事ですね。
主体は気づくことはできない・・・ただ在るだけです。
気づくのは、知性です。
それが、何年ものあいだ、誰かさんを悩ませてきた事の答えです。
とかなんとか、「アジズとの対話」に書かれてたような・・・←何そのうろ覚えな文章(脳汁
すまぬ、本は、ブッコフに売ってしまいましたので・・・。
また話ずれてたら、ごめんね^^;;;
596 :
神も仏も名無しさん :2010/11/17(水) 01:58:02 ID:9mjRpw/b
あれ、何か、またずれてるのかなあ。
597 :
神も仏も名無しさん :2010/11/17(水) 02:01:02 ID:9mjRpw/b
ちょっと、また書き直してくるわ^^;;;;
598 :
神も仏も名無しさん :2010/11/17(水) 02:20:41 ID:9mjRpw/b
>>592 気づきは真の主体ではない。気づきは知性。
知性が知性に気づいているのがSP。
SPをしつづけることにより、(知性が知性を捉え続ける事により)
知性が完全に止まった状態にいたり、
真の主体そのもので在る事になる。
ということだった。。。私が言いたかったのは・・・。
たぶん、
>>592 さんと同じ事言ってるんだよね。
同じ事言ってるのに、違うって思ってた。
そこが誤読ポイントでした。
長らく、皆様にご迷惑かけました。ごめんなさい(;;)
あっまだ誤読してるのかな・・・(滝汗
599 :
567 :2010/11/17(水) 12:04:44 ID:ov9vpidn
>>598 >SPをしつづけることにより、(知性が知性を捉え続ける事により)
知性が完全に止まった状態にいたり、
真の主体そのもので在る事になる。
これは意味不明。
説明求む。
>>598 ものすごく乱暴なたとえだけど、こういうことなんだと思う。
小麦粉があります。
小麦粉に水分を加えて焼けば、パンやケーキやクッキー。
茹でれば、うどんやラーメンやパスタ。
油で揚げれば、天ぷらやドーナツ。
パンやうどんや天ぷら(知性、探求者)が、
「自分って小麦粉だったんじゃん」と思い出した状態がSP。
でも、小麦粉はもともとは小麦。
パンもうどんも天ぷらも、小麦粉も、とどのつまりは同じ「小麦」。
だからといって、うどんが小麦粉をどれだけ思い出し続けても、
乾燥して粉にもどっても、粉は元の小麦そのものじゃない。
どうしたら小麦にもどれるのか、私にはわからない。
たぶん自力では無理。というか自力があるうちは無理。自力で自力をなくすのも無理。
>>598 さんは、
>>594 さんをじっくり読んでみるといいと思う。
いくら読んでみても理解できなかったり、ピンとくるものがないのならば、
あなたにとっては、主客の問題、分断の問題は、問題ではないんだと思う。
それが悪いということではなく、
問題にしようとして問題にできることではないから。
私の勘違いかもしれないけど、あなたはPCを他の誰かと共有してる?
それとも、他スレ(アジズスレではなく)では、こことは違うキャラにしてる?
ど〜も、カマトトってるような気が・・・。^^,
無粋な質問なので、返事は無理にとは言いません。^^
601 :
神も仏も名無しさん :2010/11/17(水) 18:43:13 ID:Vu0DwsEz
>>599 >SPをしつづけることにより、(知性が知性を捉え続ける事により)
>知性が完全に止まった状態にいたり、
>真の主体そのもので在る事になる。
>説明求む。
う〜ん、まず第一に、この説明が、あってるかどうか、と言うのは、
自分でも、分からない部分もあって、(書いておいてなんだけど)
説明と言われても、困ると言うか、
私はそうだと思っていて、(違っていたとしても)とりあえず納得していて、
SPをしている・・・。
どのあたりが、意味不明なんだろうか?
知性が止まると、知性はなくなる、という事かなあ?
私は、知性は動いている時だけ存在するらしいとか、
SPをやってれば、さとるらしいという事だけで、よく分からない訳ですが・・・orz
602 :
神も仏も名無しさん :2010/11/17(水) 18:48:45 ID:Vu0DwsEz
>>600 うん・・・。いってる意味は、判ると思う。小麦粉は、小麦に戻れない。
>>594 さんは、もともとをダイレクトに体験出来ないという事を苦しんでいるから、戻りたいと思ってるという事なんだと思うんだけど・・・。
>あなたにとっては、主客の問題、分断の問題は、問題ではないんだと思う。
主客の問題は、、、つまり、「自分では、悟れないと言う問題」という事だよね。
悟りたいけど、自分では悟れない。違うかな?もしそうであるならば、
私も、悟りたいし、自分では悟れない事は分かっている。しかし、悟れない、私は自分では悟れない、と考えているより、
悟れるかもしれない方法をする、試していく。それで、悟れるかもしれないし、悟れないかもしれない。
どうせ、自分で悟れないなら、悟れると言われている技法を試して、楽しく生きる。
そういう感じで・・・主客の問題は、問題にしてないけど・・・orz
>私の勘違いかもしれないけど、あなたはPCを他の誰かと共有してる?
してないっすw
>それとも、他スレ(アジズスレではなく)では、こことは違うキャラにしてる?
それって、ダイジ和尚グルKニサルガEOガンガジ津留エック等2スレでは違うキャラって事かな?
最近2スレで書いたのは、ダイジ和尚(以下ry)スレと、アジススレと、ここだけ。
>ど〜も、カマトトってるような気が・・・。^^,
カマトトという意味がよく分からなかったので、ぐぐってみたw
「かまとととは、よく知っていながら知らないふりをすること。
無知を装い自分をかわいらしくみせること。」その他の情報で、
「何のためにカマトトぶるかといえば自分のビッチぶりを隠すためです。」というのが出てきた(;O;)
^^;;;;どうだろうか・・・。人に合わせて話してる部分とか、気分に左右されてる部分が
極端にでてるから、そう思われるのか、ただのカマトトなのか・・・ orz
あなたにとってのカマトトの意味と、どういうところが、カマトトぶってるような感じがしたのか、
できれば今後の参考のために、聞かせていただきたいです^^;;;
603 :
567 :2010/11/17(水) 19:22:38 ID:ov9vpidn
>>601 なぜ、知性が止まるんだ?
あるいは知性(の働きというのが普通の日本語か・・)を止めてどうする?
「真の主体」ってなんだ?
604 :
神も仏も名無しさん :2010/11/17(水) 22:03:14 ID:zqcrllxL
>>603 >なぜ、知性が止まるんだ?
うーん、例えば、知性に、足と手があるとするでしょ。
で、歩いているとする(知性の動き)
で、その歩いている知性の足を、知性の手でもってガッと、
こう・・・つかむわけですね。
で、止まると。
>あるいは知性(の働きというのが普通の日本語か・・)を止めてどうする?
どうする事もできない。
>「真の主体」ってなんだ?
それはね、言葉のアヤですね。
悟りは妊娠して子供を産む過程と似ている なんだかよく分からない空漠状態が始めに起る 疑問を投げかける主体自体がいないのに「これは何か?」という疑問 たぶんそれが受胎の瞬間 その後は本人が望むかどうかは関係なく子供が大きくなるように自我が育つ 子供が一定の大きさになると自然に産まれるのと同じように 自我が限界を超えた時にそれが剥がれて落ちはじめる 始めには世界と自分を隔てる物はなかった 自我を意識した瞬間に分離が起こり自分の内面が自己と自我に分かれる いろんな体験を読んで感じるのは男性と女性の悟り方の違い 男性の場合は一瞬で「それ」が落ちるのに対して 女性の場合は最初の「それ」自体が一気に落ちるというよりも 自我がひとつずつ落ちていく印象がある 安産と難産の違いというかもちろん全てがそうという訳ではないけれども 一度分離した状態から自我を捨てて元の状態に戻る 出産した女性が処女に戻れるという事は絶対にありえない 元の状態と同じに見えたとしても内面は全く別の物に変化している 悟ってしまった人間が無邪気な子供のように見えても それは元から天然だった訳ではなくて知性を持った「それ」になる
606 :
567 :2010/11/17(水) 23:53:42 ID:ov9vpidn
>>604 知性が知性をつかんで止めることではできないよ。
止めようとする働きそのものが知性の働きであるからだ。
何でもつかめる手がそれ自体をつかむことができないのと同じだ。
>どうする事もできない。
そういうこと訊いてるんじゃなくて、何のために止めるのかと言うことだ。
目的を尋ねている。
>それはね、言葉のアヤですね。
誤魔化すんじゃない、真の主体とは何か?
あるいは真ならざる主体が存在するのか?
それを実現したらどうなるのか、あるいは実現できるのか?
どーでもいい、くだらん神学論争が続いてますね。
608 :
567 :2010/11/18(木) 00:06:21 ID:uagCq2Fs
>>605 我というのは、思い込みであって、実際は始めからないもの。
だから、ないものが育つとか落ちると言うのは、勘違い。
ないものをあると思っているが故の、誤りだ。
609 :
567 :2010/11/18(木) 00:11:55 ID:uagCq2Fs
自己中心的に、認知・判断・行為するという意味で、心理学で言われる機能としての自我。 これはなくなったら困るし、なくす必要がない。 そうではなく、本来無我と言う意味での、我なしは、事実としてはじめからそうであるもの。 これは本来無我ですよと教えられて、そうかなーと自ら参じて確かめるものだろう。 はじめからないものだから、それをなくしたり、落としたりするものではない。
そりゃ言葉のあやというか、言葉だからしょうがないでしょ
611 :
567 :2010/11/18(木) 00:24:12 ID:uagCq2Fs
いや、根本的な誤りがあるのだよ。 自我を落とさなけりゃとか、知性を止めなければとか、あっはっは、自分で自分の首を絞めなけりゃ生きられねーみてー。。 無駄な足?きというか、変な思い込みに囚われているおかしな人々になってないか、きみらは。。
612 :
567 :2010/11/18(木) 00:25:40 ID:uagCq2Fs
「足掻き」という漢字が出ないときあるんだな。。 環境依存文字と言うのか。。
613 :
神も仏も名無しさん :2010/11/18(木) 00:26:33 ID:uemEhTGy
きみらはw
614 :
神も仏も名無しさん :2010/11/18(木) 00:28:32 ID:uemEhTGy
みんなの誤りを正して、正しいことを教えようとしてるの?
なんとなくドラッグくさいね
616 :
567 :2010/11/18(木) 00:45:11 ID:uagCq2Fs
617 :
神も仏も名無しさん :2010/11/18(木) 00:50:55 ID:uemEhTGy
ふーん がんばってねー
618 :
神も仏も名無しさん :2010/11/18(木) 09:14:50 ID:ZacxQo/x
>>606 >知性が知性をつかんで止めることではできないよ。
>止めようとする働きそのものが知性の働きであるからだ。
>何でもつかめる手がそれ自体をつかむことができないのと同じだ。
ふうむ。じゃあ、例えを変えると、
知性が知性を掴もうとする。けれど掴めない。
という、激しい追いかけっこにより、ちび黒サンボの虎がバターになるがごとく知性が溶けると。
>そういうこと訊いてるんじゃなくて、何のために止めるのかと言うことだ。
>目的を尋ねている。
目的は、悟るため。
>誤魔化すんじゃない、真の主体とは何か?
>あるいは真ならざる主体が存在するのか?
>それを実現したらどうなるのか、あるいは実現できるのか?
その問いは、私の中にはない。
619 :
神も仏も名無しさん :2010/11/18(木) 09:16:01 ID:ZacxQo/x
>>608 >我というのは、思い込みであって、実際は始めからないもの。
>だから、ないものが育つとか落ちると言うのは、勘違い。
それは、意味は分かるよ。
>ないものをあると思っているが故の、誤りだ。
あると思ってるけど、ないんでしょ。
でも私の場合、ないって言う思い込みになっちゃうじゃん。
「ああ、自我はないのか」「ああ、自我はやっぱあるのか」
という思考として、たまっていくだけなんだよね。
620 :
神も仏も名無しさん :2010/11/18(木) 09:16:43 ID:ZacxQo/x
>>609 >これは本来無我ですよと教えられて、そうかなーと自ら参じて確かめるものだろう。
自力では確かめれないから、技法に頼ってるんじゃない・・・。
>>611 >いや、根本的な誤りがあるのだよ。
>自我を落とさなけりゃとか、知性を止めなければとか、
それは、そう思うだけの動機があるわけでしょう。
ただ、自我を落としたいわけではないでしょう。
幸せになりたい訳なんだから。(おそらく)
そう思うのが普通。おかしくないよ。
621 :
神も仏も名無しさん :2010/11/18(木) 09:51:46 ID:XdeFZtQk
それからねえ、
>>609 >これは本来無我ですよと教えられて、そうかなーと自ら参じて確かめるものだろう。
本来無我なのかどうか確かめてる時というのは、
我をあると思ってる状態だから、自然に我に留意してると思う。
だから、やってる事のエッセンスは、SPと変わらないと思うよ。
ただ、無我なのかどうか問う思考がないってだけで。
だからねえ、「この境界線が、、」と境界線に留意してるのも、SPとエッセンスは同じ。
ただ、SPの場合は、エッセンスだけだから、問うていたり、境界線がなくなれば、
と考えている苦痛がない、楽な方法なの。
だからね、おすすめしたい訳ですよ(笑)
でも、やりたくないなら、それはそれでいいし。。
SPを無理に勧めたりはしてないから^^;;;
567はRONなのか コテあるんだからコテつけれ
>>602 >悟れるかもしれない方法をする、試していく。それで、悟れるかもしれないし、悟れないかもしれない。
どうせ、自分で悟れないなら、、楽しく生きる。
そういう感じで・・・主客の問題は、問題にしてないけど・・・orz
非常に建設的で前向きな意見だと思います。
でも、悟りは対象にできない。というか、なりえない。
「悟れると言われている技法を試している人」と「悟り」は同じものだから。
話がもどってしまいますが、眼は眼自身を見ることはできないと思いませんか?
悟りは対象として、客体としてはありえない。
「悟れると言われている技法を試している自分」がいるかぎり悟れない。
悟りは、見る人も、体験する人も存在しないと思う。
とか言いながら、実は自分はまだ本当にはホールドアップしていない。
いや、できないと言うべきか。
>あなたにとってのカマトトの意味と、どういうところが、カマトトぶってるような感じがしたのか、
できれば今後の参考のために、聞かせていただきたいです^^;;;
この場合は、
>「かまとととは、よく知っていながら知らないふりをすること。
これに近いですね。
ダイジ和尚スレの330さんの洞察が、このスレで誤読をする同じ方のものとは思えなかったから。
ものすごく聡明なのに、おバカを装ってる感じが、しないでもなかった。
ビッチ云々には笑った。
624 :
神も仏も名無しさん :2010/11/18(木) 19:39:36 ID:zANi2bn9
>>623 >眼は眼自身を見ることはできないと思いませんか?
眼とは、何の例えですか?
>「悟れると言われている技法を試している人」と「悟り」は同じ
>「悟れると言われている技法を試している自分」がいるかぎり悟れない。
この二つの矛盾した話が、私には、よく分からないです。
できれば、この辺りを、もう少し詳しく説明してください。
>この場合は、
>>「かまとととは、よく知っていながら知らないふりをすること。
ああ、そうなんですか。有難うございます^^;;;
330は、私です。あの洞察(笑)は、合っていないと思います。
あの人は、ほうざんさんですから(これが、私の唯一の洞察です(笑)
ま、そんなことは、どっちゃでもええわけですが。
バカは装ってないですwwwworz
>ビッチ云々には笑った。
ビッチの意味でなくてよったです^^;;;
>>619 自我と我と言うのは違うと言う思うけどね。
自我は日常生活を送るための機構。
我とは、その自我を実体として捉える思い込みだ。
僕はあるともないとも考えてないし、あってもなくとも困らん。
問題にならんのよ。。
>>620 確かめるのは容易だけどな。
自分を捉えなければいいだけで・・「これが自分だ」という意識が生じても、すぐ忘れていけば、無我のまま生活できる。
あるいは、坐ってるときとかね・・坐らなくとも、何にも考えてなかったら、我もないし。。
あたりまえなことだけどな。。
技法と言ったって、それを捨てないと、我なしの状態にならないでしょう。
我ががんばってるときに、どうして無我が見えるんでしょ?
>>622 僕にとってはあってもなくても同じなんだが。。w
628 :
Ron :2010/11/18(木) 20:02:48 ID:uagCq2Fs
>>621 坐っていると、自己を意識しない状態があたりまえになって、意識してそれが生じたときに、あれ??っとなる。。
発生の原理がわかれば、もともとないということにも気づく。
意識したものを「自分である」と思い込むことによって、作り出されるのだから、幻想なのよ、要するに。。
こんなんあたりまえなことだけどなー。。
629 :
Ron :2010/11/18(木) 20:06:53 ID:uagCq2Fs
肉体の運動、感情、想い、これらを自分のもの、自己と思い込むことによって、発生する、私と言う意識が。。 別に、あったらまずいというわけではないが、幻想なのよ。。 身体的現象、心的現象はある。しかし、「私の体」とか「私の心」というのは、それにレッテルを貼って、自分と思い込んでいるわけだ。。 そっちは幻のようなものだ。
>>629 そのつぎはなんですか?
悟りはそこで終わりですか?
悟った方ですか?
631 :
Ron :2010/11/18(木) 21:12:51 ID:uagCq2Fs
悟りとは今にしかないんだよ。 と言うか迷悟は関係ない。 今にしか真実はない、次のステップがどうのとか思うことによって、おかしくなるんだよ。
632 :
Ron :2010/11/18(木) 21:19:40 ID:uagCq2Fs
悟ってる迷ってるとか余計ごと。 今本当にあるものはなんだ? あるものだけ相手にしていれば迷いがないんだよ。 迷いとか悟りとか考え出すからおかしくなる。。
ではあなたは迷いも悩みもないんですか?
>>624 ビッチというよりも天然という感じがします
SPとかよく分からないから調べたけどやっぱり分からなかった
体験談とかならいっぱい出てくる
いわゆる瞑想のようなものでしょうか?
635 :
Ron :2010/11/18(木) 22:27:40 ID:uagCq2Fs
>>633 迷いなんて誰にもないよ。
これが迷いだと本人が思わなければいいだけ。
悩みはないけど、別に悩むときがあってもいいと思うし、なくそうとか思わない。
喜怒哀楽、楽しいとき苦しいとき、その時々の状態があるだけ。
>>635 >これが迷いだと本人が思わなければいいだけ。
それができてるならようするに迷いはないですよね。
できてるなら大したものですね。
637 :
神も仏も名無しさん :2010/11/18(木) 22:55:49 ID:REQwSZ4l
638 :
神も仏も名無しさん :2010/11/18(木) 23:33:07 ID:e7QQ4SpC
バーナデット出てこない。。。 あと、誰が誰だかわからんから全員、仮コテつけて。。。
>>624 >眼とは、何の例えですか?
>>561 でも書いたけど、「方向のない注意」のことです。
>>「悟れると言われている技法を試している人」と「悟り」は同じ
>>「悟れると言われている技法を試している自分」がいるかぎり悟れない。
>この二つの矛盾した話が、私には、よく分からないです。
>できれば、この辺りを、もう少し詳しく説明してください。
私が金魚を見ている、近所の子供の声を聞いている、テレビを見ている、
爪を切っている、明日の予定を考えている、
対象は違うけれど、向けているのはどれに対しても同じ「注意」。
でも、注意は、方向がなければ、対象がなければ現れられない。
注意が、注意自身に向いているのはSP。注意が注意に気づいてること。
かたちやイメージはないけど、注意があることはわかる。
そして、「注意が注意に気づいていると気づいている私」もまた注意の現れの対象のひとつ。
元々は方向のない注意だった。
対象はその主体を見ることはできない。客体は主体に依存してる。
方向のない注意は方向を持たない。そこには客体は存在しない。
よって、「悟れると言われている技法を試している人」は存在しない。
方向のない注意は、方向のない注意のままではそれを見ることはできない。
ということを言いたかった。
>あの人は、ほうざんさんですから(これが、私の唯一の洞察です(笑)
>ま、そんなことは、どっちゃでもええわけですが。
え? そうなの? ほんとう? びっくり。
てか、もしかしたらあなたも?? もう疑心暗鬼。
誰がだれやら誰がだれでないやら・・。w
>>638 あと、誰が誰だかわからんから全員、仮コテつけて。。。
下げてコテが、自分のPCではできない。前はできたような・・・。
半角sage以外の文字を入れても表示されない。しかも上がる。
なにかやりかたがあるのかな。
641 :
神も仏も名無しさん :2010/11/20(土) 07:02:26 ID:TdiLK73N
>>639 説明有難うございます。
えっと、眼とは、「方向のない注意」の例え。眼は眼を見ることはできない。ということですね。
>注意が、注意自身に向いているのはSP。注意が注意に気づいてること。
この場合の注意自身というのは、「方向のない注意」ですか?
であるならば、注意が、方向のない注意に向いてるのがSP「ではない」です。
注意自身を、見ることはできないので・・・・。その辺り、意味伝わりますかね??
眼は、眼を見ることはできない。それは、眼が眼自身を見れないと言う意味でなくて、
この場合の眼は、眼の機能がないからです。見る機能はないし、見られることもない。
眼はただ在るだけです。在ると言うから、意味が伝わらないのかな。
眼はない。注意自身はない。主体はない。ない。ないんです(笑)
>かたちやイメージはないけど、注意があることはわかる。
「方向のない注意があると想像していること」があるだけです。
だから、ないんですね。この辺は「あるんだか、ないんだか」みたいなところですけどww
SPをしてる人(方向のある注意)が「方向の“ある”注意」に向いているのが、SPです。
SP(方向のある注意)は本当の主体の自分ではないですね。それを見る。
ある意味、本当の自分自身でない物を見ていくことによって、本当の自分が現れる。それがSPです。
>え? そうなの? ほんとう? びっくり。
いや、私が勝手にそう思ってただけなので・・・^^;;;
642 :
神も仏も名無しさん :2010/11/20(土) 07:03:49 ID:TdiLK73N
>>638 コテは・・・名前何にしようかな~~という事だけで、一ヶ月くらい悩むw
無我の境地って、この世界のことじゃね? 我が無いと思う世界。ゆえに心も肉体も物も世界もある、みたいな。
>>641 >>注意が、注意自身に向いているのはSP。注意が注意に気づいてること。
>この場合の注意自身というのは、「方向のない注意」ですか?
「金魚やテレビや思考に向かっている注意」に気づいている注意、という意味です。
>注意自身を、見ることはできないので・・・・。その辺り、意味伝わりますかね??
それはわかります。
>眼はない。注意自身はない。主体はない。ない。ないんです(笑)
最初から、あなたの誤読でもなんでもなく、スタンスの違いというか、
立ち位置が違っていたみたいですね。
「ない。」と断言できるだけの説得力のある根拠を、あなたはお持ちなのだろうと思います。
私には、あるのかないのかはわかりません。主体がある、ないというより、
主体がないということで在りえる何かがあるのではないか、と想像するしかないわけです。
ないならないで、それでは困るというわけではないですが、
それならば、厳然としてある、自分のこの意識はなんなのだろうという疑問は、
今の自分にはどこまでも残る。
>SP(方向のある注意)は本当の主体の自分ではないですね。それを見る。
>ある意味、本当の自分自身でない物を見ていくことによって、本当の自分が現れる。それがSPです。
ここらあたり矛盾を感じるのですが。
「主体はない」けど「本当の自分が現れる」のでしょうか?
>いや、私が勝手にそう思ってただけなので・・・^^;;;
そうですね、思うのは勝手ですよねえ。ww
>>644 あ〜!やっと分かりました。
あなたは、「この意識は何なのだろう?」という事が大事だったんですね。
私は、疑問はある訳ですけど、それを考えるより、技法をすると言うスタンスでした。
>「ない。」と断言できるだけの説得力のある根拠を、あなたはお持ちなのだろうと思います。
説得力のある根拠というものはないです^^;その根拠も私は求めてないです。
私が求めているのは、この意識は何だろうとか、そういうのではないです。
思い返してみれば、私は、子供の頃から、夜に道路に寝転んで、星を見ながら「宇宙〜」とか、
屋根に登って「夕日〜」とか、木に登って「木登り最高〜、気のぬくもりがなんともいえぬ・・・」
とか思って、 「この意識が云々」ということは、全くなかった。
七歳くらいまでは、自我がなかったと思います。
なので、人とコミュニケーションも殆ど取れなかったし、結構、
それはそれで大変でした。自我って言うのは、Ronさんがいう「我」の方の意味です。
たぶん、大人になっても、自分と言う意識は、殆どなく、自分と言う意識に
焦点を当てたのは、無明庵を知ってからです。
それで、無明庵で、禅書を書いてもらったとき「書けない・・・この企画に縁がない人」
と言われて「えええええ!?」とか思っていました。
>>645 の続き
あなたと話して、自分には、あなたの様な疑問が全くないこと、
私の場合は、単純に、精神世界の本を読んで「自我なくさなきゃ」的な発想してたこと。
Ronさんの説明で、自我と我を混同して考えてたことなどが明瞭になって、
自分に自我があると思い込んでいただけだったことがわかって本当によかったです。
感動の涙すら流れてきました(;O;);;;;
失礼ながら、あなたの方こそ、カマトトぶってるんじゃないですか^^;;;
話してると、全くぶれない、聡明な感じがしました。
>それならば、厳然としてある、自分のこの意識はなんなのだろうという疑問は、
>今の自分にはどこまでも残る。
その疑問が、あなたにとって、とっても重要な事だという事が分かりました。
私は、余計なおせっかいをしまったようで、申し訳ないです。
疑問の答えが得られるといいですね。応援しています^^
>ここらあたり矛盾を感じるのですが。
>「主体はない」けど「本当の自分が現れる」のでしょうか?
このへんは、言葉のアヤですww気になさらずにwww
>>646 >あなたは、「この意識は何なのだろう?」という事が大事だったんですね。
もっと厳密に言うと、この意識の「由来」はなんなのだろう?ということかもしれないですけどね。
>説得力のある根拠というものはないです^^;その根拠も私は求めてないです。
>あなたと話して、自分には、あなたの様な疑問が全くないこと、
>Ronさんの説明で、自我と我を混同して考えてたことなどが明瞭になって、
>自分に自我があると思い込んでいただけだったことがわかって本当によかったです
あなたは、無明庵で言うところの「チー」さんなのではないかと思いました。
「チー」さんを理解することは私にはできませんが、
あなたにはSPは必要ないのではないかなとちょっと思いました。
>私は、余計なおせっかいをしまったようで、申し訳ないです。
いえいえ、そんなことはないです。あなたとのやりとりで、
自分の中で明確になったもの、明確でなくなったものがわかりました。
>>641 のあなたの
>「方向のない注意があると想像していること」があるだけです。
というこの一行を通り過ぎることができない自分がいます。
>疑問の答えが得られるといいですね。応援しています^^
ありがとうございます。
バーナデットからだいぶそれてしまって、スレの皆さん申し訳ありませんでした。
>>647 ゾンビ本読んでないからチーが分からない
パーとチーの説明ヒマだったらお願いします
>>647 >もっと厳密に言うと、この意識の「由来」はなんなのだろう?ということかもしれないですけどね。
ほう。。。由来ですか。。。うーむ(@_@;
>あなたは、無明庵で言うところの「チー」さんなのではないかと思いました。
「ゾンビ化する人々」は読みましたが、私は、チー、ではないと思います。。。
ゾンビ論ができ始めたのは、私が無明庵を知る以前の事で、
私が無明庵を知ったのは、ゾンビ論が終わりかけの頃でした。
簡単に言うと、ああいう具体的な法と言うのは、人(覚者)と人(私)とが関わりあってから、
発生する、と私個人は思っているので、ゾンビ論は、私には関係のないことだと思っています。
>あなたにはSPは必要ないのではないかなとちょっと思いました。
う〜ん・・・私がSPをしたきっかけ、というのが、、、ちょっと、また長い話で申し訳ないですが、、、
ある日、またまた、無明庵の掲示板で、「最終的に、人は『意識の問題』になる。この意識とは何か?
という事が、問題になる」という感じの事を書かれていたのを読んだんですね。
で、私は「ふーん、私は、そんな疑問は全くない。私は、全く最終的ではないようだ。ちっ」
とか思ってたんです。でも、次の日「暇だなあ・・・。考える事がないから、あの、最終問題と言う、
私には、あまり関わりのなさそうな、意識について、ちっと試しに考えてみるかな・・・」
と、五分ぐらい、意識についてあれこれ考えていると、意識が意識に向いて、ない感じがして、
「ないな。ない。ない物に、意識という名前をつけていただけなんだな」
と思って、しばらく、ない感じにとどまって、ちょっとすっきりしてたんですが、
次の日に、「で、最終問題はクリアになったのに、、、全く、全く、問題は解決していない。
悩みはあるし、苦痛もある、全くシアワセではない。。。で、どうするか」
と考えて、ネットでいろいろ調べてた時、(いや、単に、何か楽しい事ないかな〜みたいな感じだったかもw)
2スレで、SPの話で盛り上がってたんですね。たまたま。
>>649 の続き
で、SPってなんだろう?と、またまた、調べて、
「あ〜、この意識のない感じのする状態ってのが、どうやらSPで、その状態を続ければ、
私の問題はおそらく解決する」と確信して、やっていました。
しかし、SPを続けて、三ヶ月ほどたって、「SPは、私に向いてないのではないか。
何か上手く行かない。私には、師が必要だ。。。」と思って、師を探しました。
私は、絶対に、「私の人間的な欲求もちゃんと満たしてくれる師」でないとダメだ、と思っていたので、
なかなかいないかなーと思っていましたが、あっさり見つかり(笑)
その師も、「リラックスしながら、(ふんわりした感じで)気づきに気づくことが一番効果があります。」といっていました。
で、今に至る(笑)
>いえいえ、そんなことはないです。あなたとのやりとりで、
>自分の中で明確になったもの、明確でなくなったものがわかりました。
そうなんですか。そう言ってもらえて、とてもうれしいです^^
>ありがとうございます。
こちらこそ、いろいろと話を聞いていただき、有難うございました。楽しかったす。
それにしても・・・バーナデット・ロバーツが出てこなくて、本当にすみませんでした(>_<;;
思わぬ、長話になってしまい・・・スレの皆様、本当にごめんなさいm(__)m
>>648 かいつまんで説明するのは、ちょっと無理です。スレ違いでもありますし。
それに、私自身も、「チー」のことはよくわかりません。^^;
絶版なんですよね。
「ゾンビ化する人々」でググってみると、いくつかブログがヒットします。
そこに部分的な引用があったりするので、参考程度にはなるかもです。
652 :
神も仏も名無しさん :2010/12/20(月) 23:56:48 ID:9jacRnfa
h
ほんの数秒もなかったかもしれない。
スーパーの帰り、通り慣れた道を運転していた。 見慣れた風景。
雪をかぶった山、はしゃぎながら下校する子供達、信号機、葉を落とした街路樹、
雪かきしてるおじさん、フロントガラスに張り付く雪、それを掃うワイパー、
いつもと同じ景色。
けど、その中に自分自身もいた。運転してる自分、ミラーに映る後続車を見ている自分、
いつもの風景を見ている自分。その自分も風景の一部だった。
視点がない。 見ている主体がない。
それに気づいて「びっくりした」とたんにもとにもどった。
いや、もとにもどったから、気づいてびっくりしたのか・・・。
これに近い経験は何度かあったけど、おぼろげなものだった。
料理中だったり、バイパス走行中だったり、そんなに神経を使ってないときだったし。
夕方の市街地、雪道、しかも降雪中、歩行者、対向車、信号機、神経使いまくりの状態、
でも、認知してるのは、あきらかにその自分じゃない。
神経を使ってる最中の自分が、ついでに自分を意識してるのじゃない(そんな余裕ない)。
その自分も、歩行者や信号機と同じ、「対象」のひとつだったから。
でも、他に、見ている何かがいるわけでもない。
視点そのものが存在しないので、「何か」であると特定できない。
「認識」という「はたらきそのもの」があったというふうにしか言い表せない。
認識者はいない。
ほんの数秒とはいえ、ちゃんと運転もできてたのが不思議といえば不思議・・・。
再現しようとしてもできないし、自分の意思とは関係なく起こる。
>>641 >眼はない。注意自身はない。主体はない。ない。ないんです(笑)
腑に落ちました。w;;;
ある種の催眠状態にやられてるから、そんな思考形態になるんだよ。
655 :
神も仏も名無しさん :2011/01/31(月) 08:33:50 ID:7Aq5AFBh
むしろ、催眠からさめた状態なんじゃ?
656 :
神も仏も名無しさん :2011/02/08(火) 23:32:24 ID:IArckT7x
あれが催眠だ、これは催眠じゃないって、誰が判断してるんだろうね
657 :
神も仏も名無しさん :2011/02/12(土) 11:44:13 ID:NeYIpFR6
自分語りはそこそこにしてもらって、まっとうなロバーツ愛読者が現れることを願いつつ保守
659 :
神も仏も名無しさん :2011/03/08(火) 10:41:38.36 ID:3ybKCCtC
おもしろそうだけど図書館になくて読めずざんねん そしてほすage
660 :
谷口雅宣 :2011/03/28(月) 10:31:15.99 ID:TdCtY/Xc
『感謝と確信と明るい言葉が平和を実現する』 イエスは「神よ、あなたは常に私の祈りに応(こた)え給(たま)いし 事を感謝いたします」と先(ま)ず“感謝”の言葉を述べて神に 対したのである。そして、祈りの実現に確信をもってから、 その確信をもって自分の願望の実現を言葉の力をもって宣言したのである。 その方法によってラザロは癒やされたのである。 世界人類が平和でありますように 日本が平和でありますように 私達の天命が完うされますように 守護霊様有難うございます 守護神様有難うございます 天皇陛下有難うございます
661 :
五井昌宏 :2011/04/13(水) 09:06:31.85 ID:6gilrtsy
『天地の一切のものと和解せよ、無限供給が現われる』 まず神と和解することが必要なのである。神の救(たす)けを得よう と思ったら天地一切のものと和解した関係に入らねばならぬ。 神よりは善のみしか来らないと信ずることが神に対する和解の第一歩である。 神はわが親であり、わが供給であり給う。 神は決して人間の貧しきことを欲したまわないのである。 世界人類が平和でありますように 日本が平和でありますように 私達の天命が完うされますように 守護霊様有難うございます 守護神様有難うございます 天皇陛下有難うございます ー住吉生長の家ー
662 :
神も仏も名無しさん :2011/05/12(木) 23:50:29.76 ID:gMU8sP3Y
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕 警視庁防犯課 二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
★★★エホバ=ヤハウェ=アラー=高橋信次=エル・ランティ★★★ (釈迦、イエス・キリスト、モーセはエル・ランティの意識の一部) ★★★大天使ミカエル=アポロ=エリヤ=マルティン・ルター=如意輪観音=高橋佳子★★★
664 :
神も仏も名無しさん :2011/07/03(日) 13:34:09.41 ID:3PzwbCqo
hosyu
665 :
神も仏も名無しさん :2011/07/28(木) 17:14:45.17 ID:v8ctoclr
気づきは、認識は、留意は、どこからくるのだろう? それに「対象」という方向性を与えることはできるけれど、それそのものを知ることはできない。 気づきは、認識は、留意は、忙しい。常に対象を追いかける。 いや、私の心が忙しいと言うべきか。 何かに気づいているということ に気づいてみる。 何かを認識しているということ を認識してみる。 何かに留意しているということ に留意してみる。 対象を追うものを追う、というはがゆさもどかしさ。それは忍者のようだ。 追うものも追われるものも、それはみな同じそれなんだけれども。 ロバーツの言う「空白」や「沈黙」。 Aという対象からBという対象へ移動するその刹那の、 我々凡人にとっては果てしなく短いその間隙に留まるすべを、子供の頃から彼女は知っていた。 私は感情ではないし、思考でもないし、行為でもない。 私が認識するものすべては対象にすぎない。認識しているということを認識することさえも。 思考する者とは「思考」である。 とわかってはいても、その理解があっても、 感情や思考はいつもいつも私のふりをし続ける。
ローンレンジャーの音楽(ウィリアム・テル序曲)って、テンポが速くてにぎやかな曲だよね。 けど、6歳のロバーツにはそれは空白誘導曲だったんだね。 学校での授業や難しい数学の問題もしかり。 方便や技法としての集中の対象物は、結局なんでもかまわないのかもしれない。 瞑想に、心のありようやムードは関係ないのだろう。要は、資質ということか?。 6歳って・・・。−ー;
ひさしぶりにスレに則した話題を見たな。
668 :
神も仏も名無しさん :2011/09/21(水) 16:12:46.20 ID:rwd/j2wb
思考や感情や行為、 なにかと同化していない私は存在しない。 私は常に対象とセットだ。 というか対象そのものだ。私という感覚さえも思考であるし。 私という独立した単独のものは存在し得ない。 仮に、対象物と同化していない単独の「私」なるものがいるとしても、 それはもはや私とは呼べない。 それは何者でもないし「者」でさえない。 見る者、見られるもの、見ること、 これらすべてが、さらなる 見ること に吸いこまれていく。
見る者 見られるもの 見ること 主体 対象 認識 父と 子と 聖霊 クセモノは、この「聖霊」っていうやつだな。
なんだかなあ まったく薄っぺらいこと書いてんじゃねえよ
671 :
Qちゃん :2011/10/31(月) 13:05:29.19 ID:EywfoiK1
キリスト教は絶対神に服従する主体性なき奴隷の宗教だ。
672 :
神も仏も名無しさん :2011/11/05(土) 08:37:57.09 ID:XcuLZPif
保守ついでにマジレスしてみるw ロバーツは、自分はキリストと格闘する運命にあったと言ってる。 彼女は家庭や学校で厳格なカトリックの教育を受けたにもかかわらず、 子供の頃からキリストへの疑問を持ちつづけた。 それが彼女の旅のモチベーションのひとつではなかったかと感じる。 仮に、「キリスト教は絶対神に服従する主体性なき奴隷の宗教」だとしても、 少なくとも彼女は、主体性なき奴隷ではないよ。
674 :
神も仏も名無しさん :
2011/11/25(金) 08:10:33.16 ID:UrsYqHuK バーナデット