☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート11

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942名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 07:49:05 ID:9LIm0KbB
知性に傾き過ぎず、直感に傾き過ぎない。中道の実践が仏教。
943『仏教聖典』第三章第三節より:2005/04/29(金) 08:20:38 ID:tRNvf9aE
仏性ブッショウは我に似ているけれども、「われあり」とか「わがもの」とかいう場合の我ではない。
 (中略)
我の執着を取り去るために、我はないと説いたが、その誤った見方を取り去ったので、あらためて仏性があると説いたのである。
944第四章第一節の 一:2005/04/29(金) 08:27:54 ID:tRNvf9aE
仏性を覆いつつむ煩悩に二種類ある。
一つは知性の煩悩である。二つには感情の煩悩である。
この二つの煩悩は、あらゆる煩悩の根本的な分類であるが、このあらゆる煩悩の根本となるものを求めれば、一つには無明、二つには愛欲となる。
945独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/04/29(金) 09:02:40 ID:JXebQ3Dn
>>1
>明確な出展なく自説を述べる場合は、その旨はっきりさせると無用な議論の紛糾の防止になるでしょう。
こんな事書かれてますね。
>>940氏が袴谷憲昭氏の本覚思想批判に対する再批判を為されたいのであれば、
典拠と論拠をお願いします(念の為に言っておきますが、松本史朗氏の如来蔵批判
については私はノーコメントです)。
単に貴方の独断なのでしたらその旨言明下さい。
946名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 12:47:38 ID:YcBqmQXG
>袴谷憲昭氏の本覚思想批判に対する再批判を為されたいのであれば、
>典拠と論拠をお願いします

では一言だけ書きましょう。
無用な議論はしません。
よくお考えください。

本覚は個に属する事象ではない

ということです。
分かる人にはこれで充分でしょう。
947名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 13:06:56 ID:FHHphSZn
>>946
あなたは本覚さえも全く理解に達していないことがわかりました。
さらに、「個に属する」という意味も、「事象」を述語の要素にする
所など、筋道をたてて考える能力が無いこともわかりました。
948名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 13:57:58 ID:oEt5c6Nk
袴谷が本覚思想は仏教でないとする根拠って、
一言で言えば何?
949独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/04/29(金) 15:03:12 ID:TSx2wp+q
学問的手続きってご存知ですか?>946氏
それ、再批判でもなんでもありませんよ。
単にあなたの独断(乃至は信仰)です。それこそ貴方の意見を
一言で表すなら
「信じたくない意見には耳を貸さない」
これだけです。つまらない。
実のある再批判が聞けるかな?と少しは期待したのですが。

>>948さん
一言で表せるとも思えませんが、主張の中核だけ述べるなら
本覚思想は真如・如来蔵その他の永遠不滅の存在を仮設した
れっきとした実在論であり、釈尊が否定した(と思われている)
バラモンの思想の再生産(粗悪コピー?)でしかない、という事でしょうか。
専門家の御意見なら・・・
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582 名前:電波男Ψ(´д`)Ψ ◆Lrv4sH3gkA :03/09/07 12:12
>>581
本来は「常、楽、我、浄」と言うウパニシャッドの考えに対して「無常、苦、無我、穢(不浄)」の佛教観を打ち出しました。
その佛教観を現実認識とし、理想である涅槃の境地では「常、楽、我、浄」であると言い出す局面が現れます。
大乗仏教のある一群の人たちは無節操にこれらを全面に現実として出してきますが、もはや佛教であるとは言いがた
いのです。本覚思想はその類型の一つです。阿含原理主義を唱えるある機知外連中もこれを採用しています。

涅槃を得たものにとっての世界観は現実にある我々の世界にそのまま当てはめるわけには行きません。我々の
世界は飽くまでもリアルに「無常、苦、無我、穢(不浄)」です。
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この辺?
950名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 15:36:32 ID:YcBqmQXG
>本覚思想は真如・如来蔵その他の永遠不滅の存在を仮設した
>れっきとした実在論であり、

ここが間違い。
951名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 15:37:21 ID:YcBqmQXG
>学問的手続きってご存知ですか?>946氏

仏教は学問ではりません。
952名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 15:43:49 ID:YcBqmQXG
>本来は「常、楽、我、浄」と言うウパニシャッドの考えに対して「無常、苦、無我、穢(不浄)」の佛教観を打ち出しました。

これも全くの誤解。
953名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 15:52:41 ID:QzVUzv7Q
仏教が学問であろうがなかろうが、聞く耳を持たぬ、では面白くもなんともない。
間違いなら間違いの、誤解ならそう思うだけの論拠を提出しなさいな。
954独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/04/29(金) 15:54:40 ID:TSx2wp+q
はぁ・・・(溜め息
要するに『貴方にとっての』仏教とは本覚思想なんですね。
論拠も無い根拠も無い、理解しようとも対話しようともしない、とにかく
本覚思想こそが仏教だと頑なに信じて疑わないわけですね。
よく判りました。
盲目的な信仰の危険さと共に。
955名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 15:57:53 ID:YcBqmQXG
無用な議論はしない。

自分でじっくり考えてみたいという人のため、
ヒントだけ書いておく。
本覚や佛性を理解する鍵は「全体性」にある。
956名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 16:02:59 ID:YcBqmQXG
論拠を示しても納得できなけば
その論拠の論拠を示す必要があるでしょう。
無限に後退して、さてこれ以上後退できないところにあるものはなにか?

957机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/04/29(金) 16:05:32 ID:Rvyp4DrV
>>955
>本覚や佛性を理解する鍵は「全体性」にある。

このお題については、私が新スレッドに書き込みしときました。
どうか参考になさってくだされまし。
958独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/04/29(金) 16:16:35 ID:TSx2wp+q
ホントにくだらないですよ。
今度は「ほらふき男爵のトレリンマ」ですか?
http://page.freett.com/Libra0000/109.html
現在問題にされている部分に対してすらまともな議論を避けている
貴方がそんなもん引っ張り出しなさんな。
コンニャク問答が好きなら、一人で好きなだけおやんなさい。



#世間はGWなんですね。忘れてましたよ。
つまり「NGワードが激増する期間だ」という事です。

959名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 16:29:41 ID:YcBqmQXG
>今度は「ほらふき男爵のトレリンマ」ですか?
>http://page.freett.com/Libra0000/109.html

そうではくなく、それら論拠を支える合理性の話。
分からないなら黙っていることです。
960阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/04/29(金) 16:38:35 ID:oU9vDuXv
>>959
本覺を論証しようとすれば陥る「蟻地獄」<「ほらふき男爵のトレリンマ」
「全体性」などいくらでも論点拡張が可能な朦朧言説に過ぎない。
961名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 16:46:29 ID:YcBqmQXG
議論することができることは
定義づけできる「部分」に関してだけ。
「全体」は定義という行為の性格上、定義することもできない。

われわれの知性は全体を定義できると勘違いしているが
(かろうじて部分の対立概念として想起しえるが、
これは全体を捉えることではない)

知性のもつ本来的限界によってそれはできない。

よって議論は時間の無駄。
962阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/04/29(金) 16:49:31 ID:oU9vDuXv
>>961
よって本覺など戯論。
無駄な言説。
963名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 16:51:31 ID:YcBqmQXG
>よって本覺など戯論。
>無駄な言説。

知的議論としてその通り。
しかし仏教は学問ではないので
その部分が実は一番大事なのですよ。
964阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/04/29(金) 16:52:14 ID:oU9vDuXv
サーンキヤやヴェーダンタにでも入揚げた方が手っ取り早いだろうに・・・。
965名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 16:52:33 ID:FHHphSZn
>>961
>「全体」は定義という行為の性格上、定義することもできない。

ものすごく「と」なんですけど?
あなたには論証という作業がないのですか?
966阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/04/29(金) 16:55:31 ID:oU9vDuXv
>>965
まあこの手の「無記・捨置答」の領域に執著して迷走する
恍惚朦朧トンデモさんに何を言っても無駄でしょう。
967名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 16:56:31 ID:FHHphSZn
>>963
>しかし仏教は学問ではないので 
>その部分が実は一番大事なのですよ。 

「〜は学問ではないので」というのは思考弱者がよく使う手なんですけど。
学問とは、学問を学問するのではなく、考える筋道を確立させ、最も適切、
もっとも妥当な結論を導き出す手段です。通常の考えや思考を純化して
精度を高めたものが学問です。

あなたは死んでも理解できないでしょうが。
968名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 17:01:37 ID:YcBqmQXG
「語りえないことには沈黙するしかない」

のでこれ以上書きませんが
知性の領域だけで満足しているあいだは何も本当のことは理解できません。
もっともっと知性を磨いて、その限界に気が付いてください。

以上。

969名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 17:05:07 ID:FHHphSZn
>>966
最近、この手の論理無視な人が湧いて来ていますが、
叩き潰すのも大切だなあと感じています。
970名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 17:07:16 ID:FHHphSZn
>>968
あなたは何も語っていないので、何一つ得るものがありませんよ。
971阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/04/29(金) 17:11:57 ID:oU9vDuXv
>ID:YcBqmQXG
恥かき蒙昧駄弁を垂れ流すくらいなら出て来ないほうがいい。スレの無駄遣い。
972独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/04/29(金) 17:50:33 ID:JXebQ3Dn
せめて、これぐらいは掲示板におけるやり取りとして、提案させて貰っても
構いませんか?
ttp://page.freett.com/Libra0000/124.html
973名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 18:40:00 ID:DiTcvmmj
ここに書き込んでいる、知性派?の人々だって知性のみで
満足していることははないと思うな。
974ベロ ◆eOod7XM/js :2005/04/29(金) 18:53:34 ID:EjAiSuyk
「仏性」や「本覚」が「全体性」なんて聞いた事もないなぁ。
せめてそのような主張の経典・論書などを提示してもらえば
有益な議論になる可能性もありますが、
「言葉では語れない」や「論拠を提示しても無駄」なら「自説」を晒しているだけで、
少なくとも「仏教」を語っているとは言えませんね。
975机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/04/29(金) 19:17:54 ID:Rvyp4DrV
本覚思想というのは、仏道の初期の段階ではまだまだ有効かもしれません。
しかしながら修あらば、そういう概念も削ぎ落とされて逝きます。

道元などは「身心脱落」などという言い方をしますが、
まさに脱落するものです。

つまり、世界観はそのまま執着になるのです。
そういうことに気づいていくのです。

なにもかも捨てなされまし。
さすれば眼が開くのです。

976名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 19:26:03 ID:QzVUzv7Q
>>975
あんたが言うと、何の説得力もないなw
977名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 21:53:09 ID:FHHphSZn
>>975
概念が削ぎ落とされる?おまえきちがい。
それは観念のほうだろうが。
978名無しさん@3周年:2005/04/30(土) 13:44:08 ID:nqaXmMsy
ここが終了したら、下記へどうぞ

☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート12

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1114700011/l50
979独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/04/30(土) 15:59:46 ID:wMiMyIzR


      \∧_ヘ     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ,,、,、,,, / \〇ノゝ∩ < 1000取り合戦いくぞゴルァ!!       ,,、,、,,,
    /三√ ゚Д゚) /   \____________  ,,、,、,,,
     /三/| ゚U゚|\      ,,、,、,,,                       ,,、,、,,,
 ,,、,、,,,U (:::::::::::)  ,,、,、,,,         \ ぶーぶーぶー /
      //三/|三|\              タリー
      ∪  ∪     (\_/)タリー    タリー   まだはえーよ〜
                (  ´Д)    タリー  タリー
                /   つ  (\_/)   (\_/)ノ⌒ヽ、
               (_(__つ⊂(´Д`⊂⌒`つ(´Д` )_人__) ))

980独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/04/30(土) 17:19:32 ID:f4xKHusQ
新スレも立っておりますが、こちらのスレッドで未消化の部分を見付けました
ので、残されているレス数で少々議論させて頂けたら、と思います。

金剛般若経の解説で、>>538及び>>560で電波先生が「普遍論争をヒントに
考えて欲しい」と言われています。折角の宿題ですので、、、

普遍論争そのものは
ttp://www.geocities.jp/enten_eller1120/middle/universalia.html
概ねリンク先のような感じ。
で、問題になっている普遍概念の解説(兼、金剛般若経の正しい解釈の
仕方)は>>561-562でベロさんが大変丁寧に噛み砕いて解説下さってます。
内容としては「普遍」と「単語」の相関性を眺めるスタンスに、唯名論の主張
と殆ど差異は無いと思います(実はあるのかもしれませんが、私はハクチ
ですので判りませんでした)。
論争になった原因は
>普遍論争の眼目は、神の実在にまで関わるものだということである。
>唯名論の立場では、普遍的であるべき神の超越性は削減されてしまう。
らしいです。

で、これから中観にうまいことつなげる事ができません(涙 この論争の
意味を理解すれば中観もわかりやすくなる(>>560)とあるのですが・・・・。
どう繋がるんでしょう?
981机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/04/30(土) 18:55:35 ID:G3y44heB
>>980
>で、これから中観にうまいことつなげる事ができません

誰でも繋げることはできない。
中観は西洋哲学じゃないですから。

議論は無意味かとおもいますが、如何なもんでしょ?
982名無しさん@3周年:2005/04/30(土) 19:12:17 ID:vE11n7OW
>>980
>>普遍論争の眼目は、神の実在にまで関わるものだということである。 
>>唯名論の立場では、普遍的であるべき神の超越性は削減されてしまう。 
>らしいです。 
>で、これから中観にうまいことつなげる事ができません(涙 この論争の 

ここまで解っただけでも収穫としては十分だと思いますよ。この論争は本当はインド
発祥であって、仏教と伝統哲学との対論なのです。それがオリエントを経由してスコラ
哲学へ影響を及ぼしました。その詳細については電波さんが語ってくれるでしょう。

仏教は究極、唯名論的な立場であり、とりわけ般若経典においてはこれを理解しておく必要があるでしょう。
机氏には絶対に理解できないことです。
983机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/04/30(土) 19:38:59 ID:G3y44heB
>>982
>ここまで解っただけでも収穫としては十分だと思いますよ

解ったって・・・まだ話は伺ってないですが、続けて書き込みどうぞ。
984名無しさん@3周年:2005/04/30(土) 19:47:18 ID:vE11n7OW
>>983
あなたは対機ではありません。
ほかの方々はこれで般若経典の意味が明らかになりかけているのです。
聞く耳持たない人には言いたくありません。
985机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/04/30(土) 19:55:06 ID:G3y44heB
>>984
仏教は究極、唯名論的立場である。
ということが解った。
ということですね?
986弟子:2005/04/30(土) 20:05:40 ID:nqaXmMsy
唯名論ってなんですか?

おしえてくださいまし、、
987独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/04/30(土) 20:42:49 ID:f4xKHusQ
>>982さん、レスありがとうございます。
>この論争は本当はインド
>発祥であって、仏教と伝統哲学との対論なのです。
という有難いヒントを頂いたため、もうちょっとだけ頑張ってみます。
ttp://homepage1.nifty.com/manikana/paper/review.html
ここより該当部分を抜書きします。
------------------------------------------------------------------------
氏の言葉によると、ウパニシャッド文献に見られる「一元論にあっては、いわば、存在論的
ともいうべき唯名論がおのずから主張される」のであり、ここでは「森羅万象は、ただ名のみ
の存在」と説かれる。仏教でも「独立の本体をもたないという主張に支えられ」、唯名論と結
びついていく。さらに、氏は唯名論者の一人として仏教論理学派の陣那の名をあげ、彼の知
識論では「実在するものは個物でしかなく、普遍は存在しない」と解説している。ここまで、
問題はないように思われる。しかし、「おわりに」で再びスコラ哲学の普遍論争と現代論理学
の議論も実在論と唯名論の構図で括ることができると述べ、
(中略)
彼に、先ほどでてきた陣那の論理学説を任意に示し、もう一方、ヴァイシェーシカ派の実在
論を受け継ぐニヤーヤ派の論理学について、陣那に対立するウッディヨータカラのものを任
意に示してこう聞くとしよう。どちらが実在論者の説で、どちらが唯名論者の説だろうか。おそ
らく確実に彼はニヤーヤ派の説をさし「これが唯名論者の説だ」といい、陣那説をさし「これが
実在論者の説だ」と言うだろう。慎重な彼はさらに「実在論者と言えないまでも概念論者の説
ではある」と付け加えるかもしれない。
------------------------------------------------------------------------
988独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/04/30(土) 20:43:33 ID:f4xKHusQ
ちょっと乱暴かもしれませんが、「中観と普遍論争のつながり」は、

1、中観派が戦い、葬り去ろうとした思想は、実在論であり、それを擁する外道諸派であった。
2、戦うに当たり、中観派がとったスタンスは厳然たる唯名論であった。
3、言葉が持つ概念空間に実在を置こうとしたスタンス(概念実在論)において、カトリックと
当時のインド仏教(セクト?)には殆ど差異は無い。

こ、こんな感じでしょうか?再提出くさい・・・orz

あとは>>982さんが
>それがオリエントを経由してスコラ
>哲学へ影響を及ぼしました。その詳細については電波さんが語ってくれるでしょう。
と言われる通り、電波先生のレスを待とうと思います。
有難うございますm(__)m
989名無しさん@3周年:2005/04/30(土) 22:39:02 ID:TkLgOZef
馬鹿ばっかだな。

>インド発祥であって、仏教と伝統哲学との対論なのです。
>それがオリエントを経由してスコラ 哲学へ影響を及ぼしました。

インドじゃない。仏教じゃない。
イスラーム哲学だよ。
990独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/04/30(土) 23:02:53 ID:f4xKHusQ
自己補足です。
>仏教は究極、唯名論的な立場であり、とりわけ般若経典においてはこれを理解しておく必要があるでしょう。
ここの部分に関して、手持ちの本と関係ありそうな部分を見付けたので、引用して
おきます。
----------------------------------------------------------------------
「般若経」は、初めから終わりまで、空を説き、無執着を説き、有為の世界と無為の
世界との不二を説いている。それは小乗仏教を代表して、当時もっとも盛んに行わ
れていた説一切有部の実在論哲学に対する批判なのである。もちろん「般若経」の
実在論批判は、たとえばのちにナーガールジュナが展開したもののように論理的に
整ってはいない。しかし、全巻を通じ、あらゆる機会をとらえて、くりかえされるその
批判は、味わい深く説得力に富んでいる。『八千頌』第八章にあらわれる次の文章は、
すべてのものは過去・現在・未来にわたって実在する本体をもつ、という有部の哲学
に対する批判である。第八章は「清浄」という題名をもっているが、清浄あるいは本来
清淨ということばは空の同義語といってもよい。あるものの本体(自性)とはことばの
意味の実体化されたものに過ぎず、真実としては、ものはそのような虚妄な本体を
離脱していて空である、ということが清浄といわれる。
991独り言 ◆ZZW30U26jo
(中略)
長文の、しかもくりかえしの多い右の一段をあえて引用したのは、ここに述べられた
思想は「般若経」の核心であり、もっとも整った実在論批判であるからである。同じ
空−清浄−不二という考え方は『八千頌』第一章の主題でもあるが、この第八章の
叙述のほうがわかりやすい。
束縛(baddha)された状態から解放された(mukta 解脱)状態へ、ということは仏教
一般に共通する修行の過程である。説一切有部は物質的存在、感覚、表証、意欲、
思惟といった五蘊−無常なる有爲の世界の諸要素であり、人間の心身の構成要素
である五蘊は束縛され、汚れた(有漏)ものであると考えていた。五蘊は汚れと束縛
を本体とした実在である。学問と瞑想の修習によって、預流、一来、不還という聖者の
階梯をよじ登り、阿羅漢という最高の位に達することは、五蘊の束縛から解放された
状態にはいることであり、無為−いっさいの作為を超えた涅槃の世界にはいることである。
それが、制約されないものという本体をもった、修行の結果である。さきに第二章で
述べたように有部はこのように考えていた。
「般若経」はしかし、物質的存在をはじめとする五蘊はいかなる本体も持たないという。
物質は、物質としての本体をもたないから、物質として実在するのではない。しかし
それは物質ではないもの、恒常なる無為を本体としてあるわけでもない。だから物質
は物質として束縛されているのでもないし、物質でないものとして解放されているわけ
でもない。五蘊は束縛されてもいないし、解放されてもいない。というのは五蘊はすべて
空であるからである。五蘊という心身の諸要素からなる人間という存在も、本体がなく、
実在していないから束縛されてもおらず、解放されてもいない。それは「幻の人」の
ように空である。
------------------------------------------------------------------
中央公論社「般若経 -空の世界-」梶山雄一著 141-144頁より引用