あの、僕も何か宗教したいんですが、どの宗教がお勧めでしょう。
正しい宗教を教えて下さい。
174 :
XYZ(正教徒):04/07/14 22:43 ID:eA7qwZKc
>>172 ウチがお勧めですよ。ギリシャ正教。
…で終わらせたいとこですが、ちょっと待って下さい。「何か宗教
したい」っていう願望は少々危ないかもしれませんよ。「正しい
宗教」っていうのも、どこの宗教団体だって「ウチは正しい」って
いうんです。カルトも。
人間、何か拝む生物です。無宗教国家だって結局のところ個人崇拝
を国家の核に据えてしまう。好き嫌いはともかく人間は「礼拝する
生き物」なのです(シュメーマン神父による)。礼拝すること自体は
特殊でも徳につながることでも何でもない。
>>172さんは何を求めて
おいでなのでしょう?
正教会で救いを得たければ、おいでください。それしか言えません。
>>168 ほんと、たいへんだ。
175 :
172:04/07/15 08:59 ID:hiNEQOJ4
>>174 正教会は正しいですか?僕が求めているのは正しい宗教です
174さんは、正教会以外の宗教は間違っていると思いますか?
正教会以外に正しい宗教はないと思っていますか?
正教会以外にも正しい宗教がある可能性は認めますか?
正教会と見解の違う教義を持つ宗教は、少なくともその
点に於いては間違っていると考えますか?
それともそれは人間には結局わかる筈がないということは認めますか?
僕にはどれが正しいのか分からない。いくら考えたり感じようとしてみても、
その考えも、その感覚も、実は錯覚ではないとはどうしてもいい切れないのです。
自分の考えること感覚することには、自分では気付かない見落とし、錯覚が
あると思うのです、それは僕だけじゃなく全ての人間に。人間は限られた
ことをしか知り得ず、その限られた中で感覚し判断していると思うのです。
だからその限られた情報を元に下される判断を、信じ切る気になれないのです。
正教会を信仰するという判断に絶対の自信は有りますか?
それとも貴方は、宗教は一つの思想に過ぎず、世界をより良く、あるいは自分自身
がよりよく生きるための一つのモデルとして捉えていますか?
つまり法律は各国ごとに、それぞれ違うものを持っていますが、一概に
どの国の法律が正しいと言い切れるものではないのと同じように、
宗教もまた、仮のモデルであり、どれを妥当とするかは個人の判断であり、
少なくとも貴方自身は正教会だが、他の仏教やキリスト教やそれぞれの分派もまた
それなりに妥当性のあるモデルであると考えていますか?
つまり、貴方は、正教会の言うところの神が本当にいるとは思っていますか?
それとも、正教会の言う神がいることにして生きようと思っていますか?
スレ違いの長文すいません。ギリシャ正教及び他の宗教を否定する意図で
はありません。僕の信仰していた、これははっきりいっていわゆる
新興宗教ですが(名前は書けません)、そこの尊敬していた師と話し合い
をした際、「この宗教が正しいかどうかなんて教祖にも分かってはいないよ。
でもその教義を正しいものとしてまず自分が信じ、そして世界中の人が
その教義を正しいものとして生活すれば、世界は今より断然素晴らしい
ものになる、という確信はある。神様がどんな考えでいるかなんて、
本当は誰にも分かる筈がない。第一いるかどうかも分からない。
でもいることにして、他人を愛することは良いこととして、世界中の皆が
生活すれば、確実に世界はよくなると思って、俺はここに来たんだ。
だから似たような宗教ならそれでも別にいいんだ。もっと世界をよく
できるような教義を持つ宗教があれば迷わずそっちに鞍替えするよ。
真偽は関係ない、重要なのはその教義が広まった時の効果だと俺は思う」
という話をされて、僕はかなり混乱しました。そしてその時はそれが
受け入れられず、その人に貴方の言っていることはおかしい、貴方は信者
ではない、とかなり怒り狂ってしまいました。それが問題になって、
僕はその団体から追放されたのですが、・・・僕はやはりそんなものじゃなく、
本当に正しい、真、と言い切れるものが欲しかった。でもその人の話を
聞いてからは何も正しいとは言い切れないということが、考えてみれば
正にその通りで、それがもの凄く空しいのです。
178 :
名無しさん@3周年:04/07/15 19:25 ID:6HBM9NR4
>>177 善悪の相対性の問題は、中学生ぐらいで気がつくことが多い。
同様に、世界が一つの価値観(宗教)で、統一されることも、
同じ理屈で、人類にとっては不幸であることが分かるハズ。
(これは、高校生ぐらいで気がつくんじゃないかな)
だから、全ての人にとって正しい宗教なんてものはないし、
正しい価値観もない。
自分の正しさを、主張しつつ、異なる考えの人と共存する知恵を持つ。
これが正解じゃないかな。
すると、色々な宗教活動やっている人達も、それぞれその点は割り切って
活動しているということでしょうか?つまり必ずしもこれだけが正しい
というわけではないことを知りつつ・・・。でもそれならば初めから一つの
宗教に帰依するべきではないのではないでしょうか?色々な宗教を学び、
仏教の良いところを実践しつつ、キリスト教のよいところを実践し、
また無意味な部分は自分の中で無視して、初めからいい所だけを信じて
いればよいのではないでしょうか?
でもそれは結局、何も信じていないのと変わりないのではないでしょうか?
例えば、ある神に祈る時に、今祈っているその神が必ずしもいるとは限らない
と思いつつ祈ることができるのでしょうか?他の教義の矛盾する
宗教の神をも認めつつ祈っている人などいるのでしょうか?
例えば、174さんが正教会の神に祈るとき、他の神の可能性も認めつつ
祈っているのでしょうか?
すいません、174さんに粘着しているようですが、今ここで特定の団体に
所属していることが知れる方が貴方しかいないので、聞いています。
もしよかったらお答え下さい。
それから宗教に対する考え方として、178さん、179さんのようなスタンスで
臨むことについて、僕はそれも素晴らしいと思います。でもそれは飽くまで
道具としての宗教であって、仮のモデルだと思うのです。
いや、・・・それが悪いと言うんじゃなくて、・・・色々考えているうちに
僕自身もそういうスタンスでやって行こうかと思い始めています。
つまり「これだ」といい切れるものなどないのだから、その中で敢えて
都合の良い(というと何だか聞こえが悪いですが)ものを、信じることにして
生活しようかと。というか、全ての宗教をやっている人たちは既に初めから
そういうスタンスだったのでしょうか・・・僕だけが無知な盲信をしていたの
でしょうか・・・・。子供が交通事故に会ってしまい、一晩中教会の床で
祈っていた両親を見ました。彼らは道具として宗教を捉えていたでしょうか?
子供が助かって涙を流して神に感謝していた彼らも、宗教は道具として
捉えていたのでしょうか?
182 :
XYZ(正教徒):04/07/16 01:54 ID:S7fCRvyr
>>176 難しいご質問ですね。細かく分けてお答えさせて頂きます。
マジですね、これは。
正教徒は信徒人口が少なく、ここで私の信仰の来歴を語ってしまうと
即個人が特定されてしまいますので、私は元プロテスタントであり、
数年前に正教徒になった人間だということだけ前提として申し上げます。
これ以降に書きますことは、あくまで私個人の見解ですが、
同時に正教会の伝統に出来るだけ沿ったものを目指してはいます。
さて…
>174さんは、正教会以外の宗教は間違っていると思いますか?
についてですが、簡単に申し上げましょう。間違っています。
特にいえば他の宗派の方も間違っています。
(ローマ=カトリックの方やプロテスタントの方、すみません。しかし
ここは論文と思い、出来れば最後まで読んでから批判して頂きたく存じ
ます。)
「正教会」とは「正しく神を讃栄する教会」の略です。
イスラエルの伝統を引き継ぎつつ、旧約の成就としての新約を述べ
伝える、唯一の聖公使徒教会が正教会です。私はそう信じています。
(続く)
183 :
XYZ(正教徒):04/07/16 02:13 ID:S7fCRvyr
>>176 >正教会以外にも正しい宗教がある可能性は認めますか?
これについては、認めません。それは「正しい」の語を厳格に用いて
「正教会」を名乗っているからです。では他の宗教・宗派は全て邪教
なのか?「毒になる教え=邪教」というような意味で言えば、無論、
ノーです。良い働きをする宗教もあります。人に与えられた良心の働き
と一致するものであれば、邪教とは言えないでしょう。ここに、カルトと
「良い宗教」の区別が出てきます。しかしこれはあくまで正教会からみて
人間の良心に適っているかが問題であり、どの宗教にも納得のいく、客観
的な基準を提示できるわけではありません。あくまで世界観の中心は正教
なのです。その基準の上での「良い宗教」です。
しかし、天国(死後の世界ではなく、霊の状態としての天国)に至る
道としては正教が最も近道だと、信じています。
>つまり、貴方は、正教会の言うところの神が本当にいるとは思っていますか?
>それとも、正教会の言う神がいることにして生きようと思っていますか?
私は、前者です。というよりも、他の「神」はいません。いないのです。
と、ここまでは私個人の一種の「信仰告白」のようなものですが、
「論」となると書き方が変わって参ります。
184 :
XYZ(正教徒):04/07/16 02:38 ID:S7fCRvyr
これまで
>>182、
>>183 で述べたことをご覧になってお分かりの様に、
私は原理主義者ないし狂信者、もっといえば盲信している馬鹿ととられて
も仕方のない書き方をしています。是非もありません。
何故なら信仰告白そのものが「客観的」ではないからです。「神」の
存在証明などできません。
いや、偉大な数学者であり論理学者クルト=ゲーデルなどはこれを試みた
という本は興味深く読みましたし、神の存在形態に多神教と一神教の区別は
あまり意味のないことである…などとしている数理神学の論が載る本も興味
深く読んだこともあります。しかしだからどうなのでしょう?アインシュタイン
の良き友にして天才と称されるゲーデルが「神」の存在を(彼の論が正し
かったとして)証明していても、それが我々に何の意味があるのでしょう?
必死に私のような凡人が数学・論理学を学び、そこから得られるものはせいぜい
が「神の存在証明」だけとは、得られるものが小さすぎるのではないで
しょうか。数学は苦手ではあっても好きなのでこれらの本も楽しんで読んでは
いますが、娯楽以上でも以下でも、私にとってはありません。
正教会は客観性には拘りません(まったく無視するわけではないのですが)。
そして「効果」を考えて「神がいなくてもいると思えばいい」などとは
決して考えません。
なぜなら
>>176さんが
>>177に述べられたように、それではあまりに空しい
のです。なぜ空しいのか?
それは神を持たない教えでは社会秩序は保つことはできても、自分の
霊(たましい)を救うことはできないからです。
(続く)
185 :
XYZ(正教徒):04/07/16 03:12 ID:S7fCRvyr
>>176 以下の喩えは正教会の神父さまからは違う!と言われてしまうかも
しれません。これはあくまで私のイメージです。
>>176さんもおそらく
「私=XYZ」との対話をお望みでしょう。それにヒラ信徒に公式見解を
ご期待の第三者もいらっしゃらないと思われますので私の論を進めます。
ミシェル=フーコーの「監獄の誕生」に取り上げられているベンサム設計
の円形監獄「パノプティコン」をご存知でしょうか。光線の錯覚を利用し、
極めて少ない看守だけで囚人を見張るシステムです。この監獄は自動的に機能
し、中に看守がいなくても、囚人は見張られていると思い込み、規則正しい
生活を送ると考えられました。
そう、よく整備された社会において、社会秩序を維持するためには神の
存在はなくても良い(私は神の恵みがなければ世は続かないと信じています
が)のです。ただ、それに替わるものがあると人民が思い込んでいればそれ
でいい。寧ろカルト宗教によって秩序が乱されることの方が明らかなマイナス
である。よって宗教は要らない。…これが現代の世相だと思うのです。
成る程、社会はそれでいいかも知れません。私も自分の正教の信仰により
自らの霊の救いを祈るには、初代教会やソ連時代の教会に比べて、随分生き
易い世の中です。未熟なのでぶつぶつ文句言っていますが^^;。
(続きます)
186 :
XYZ(正教徒):04/07/16 03:14 ID:S7fCRvyr
そして
>>178さんのおっしゃるような、
>自分の正しさを、主張しつつ、異なる考えの人と共存する知恵を持つ。
>これが正解じゃないかな。
も、社会的生活としてはOKだと思うのです。共存は善いことです。
しかし自分の心の中は残念ながらパノプティコンにいる囚人程には欺けま
せん。皮肉なことに少なくともこうした問題では社会よりも自分を騙すこと
の方が難しいのではないでしょうか。
>>176さんはその自分の秩序の中に実は
神がいないという、実体の無い状態に我慢ができないのだと思います。気付
かなければそれは一種の「幸福」な状態なのかも知れません。
でもおそらく後戻りはできないのです。
神は私が証明するものではありません。もし私に証明できる程度の神秘で
あれば、わざわざベツレヘムにお生まれにはならなかったでしょう。
貴方の最寄の正教会の神父様が人として貴方と相性が合うかは残念ながら
わかりません。しかしいらして見、聞かれることを私はお勧めするしか
ありません。「来て、見なさい」(福音書より)
続き過ぎていますので取りあえずまた。
>>182-186 お答え頂きありがとうございます。正直、僕は貴方のような信仰の仕方
をしている方のお話を聞きたかったのです。宗教を社会秩序を保ち、
人間社会全体をよりよくするための、法律に近いものとして捉える人が
いて、それはそれで全然悪くないし、本当にそういう機能も宗教にはあると
思います。その考え方ならば、無論仏教もキリスト教も、ある点で矛盾しながら
「表現が違うだけ」と言って両方を認めることもでき、相争うことなく共存
できますよね。宗教戦争などを行う「盲信」系の宗教団体と比べたときに、
その「道具」としての宗教という考え方、マイルドな宗教の捉え方は一見
理知的知性的なものに思えます。しかしそれならば何故それぞれ特定の
神を持ち特定の祈りの儀式を持ち、特定の神を持つ意味があるでしょう?
それは宗教ではなく道徳でしかないのです。もし仮に全ての信者がそれぞれ
別の神を認め別の教義も認め、飽くまで一つのモデルとしてしか自分たちの
宗教を捉えていない教団があるとすれば、それは宗教団体ではなく、
道徳団体であると思うのです。世界をよりよく、自己をよりよくするための
機構として教義を捉えるならば、それは寧ろ社会学だと思うのです。
アダムスミスやマルクスが、経済をより良くする為に色々な思想を考え
それを実践しようとする人々(信者というのは変ですが)がいて、
事実それを実践して経済的発展を世界にもたらした(本当にそうかということは、
ここでは置いておきます)のと同じように、ある特定の社会の理想を掲げ、
それに向けて活動するだけならば、それは宗教とは違うと思うのです。
もし社会をよりよくするための活動を行うための団体ならば、何故特定の
神を語るのか。何故特定の「真理」「教義」を語るのか。そしてそれら特定の
神や教義を真であると断言しつつ、何故それと矛盾する他の教義をも
認めるということが有り得るのか。
だから正に、貴方の言う通り、
「それは神を持たない教えでは社会秩序は保つことはできても、自分の
霊(たましい)を救うことはできないからです。」
そこが宗教と社会学の違いであると僕は思うのです。
だから批判を承知で言えば、他の宗教を正しくない、と言えない宗教家は
その宗教の信者ではないと思うのです。それは宗教を利用しているだけで
神を、教義を信じるふりをして、世界が、自己が、よりよくなるための
道具にしているだけだと思うのです。
しかし僕はそういう人たちを非難するのではありません。そういうスタンスも
素晴らしい、人間的で合理的な態度で賞賛すべきだと思っています。
そういうスタンスで生きる人も全然それで素晴らしいと本当に思います。
ただ、それはもう政治団体と変わりがないものだと思うのです、あるポリシーを
共有する団体であるだけだと思うのです。そして、僕の場合、飽くまで
僕個人の場合、それだけでは空しい。そうではなく、貴方のように
「ギリシャ正教以外は間違っている」と言えなければ信仰しているとは
言えない筈だと思うのです。他の宗教について、「社会に良い影響を与え、
個人の安息のためには素晴らしい考え方である」ことは認めても、
それでもそれが間違っていると言えなければ信仰ではないと思うのです。
そして僕は、そのような信仰をしていましたがそれを失い、今とても
空しいのです。
今の所、僕は新しく何かの宗教を貴方のように信仰することはできないだろうと、
思えます。それは多分一生です。物凄く辛いですが、何かを「これしかない」
と思えることはもはや二度とないと思うのです。
しかし僕はとても弱い人間で何かにすがらなければ、行動の根拠を持たなければ
生きて行くことができません。だからまた何かの教えに従う、つまりはまた
何か頼るべき思想を探して生きて行こうと思います。
それはもはや宗教とは言えません。自分に、そして自分の考える「良い世界」
を目指すための指針、単なる道具としての宗教として僕はやって行くしかないようです。
実はそれはもう既に自分の中で決めていたことです。割り切って「都合の良い
教義」を信じた振りをして、世界を、自己をよりよくして行こう、という
スタンスです。だからそれでは決して魂は救済されません。祈るべき神をも
僕は持たないのですから。僕は仏教を認めキリスト教を認め、オウムでさえ
もしかしたら正しいのかも知れないと思いながら、何の信念もなく、
道具としての宗教を行います。ただこういうとかなり悲愴な感じがしますが、
これはこれでいいのではないかとも最近考えています。神や世界の仕組み
については何の信仰や信念を持たないとしても、やはり今の僕でも
ただ一つだけ確信できることは、やはり世界に生まれた、そしてこれから生まれて来る
全ての生命、全ての意識が少しでも幸福(幸福が何かということも難しいですが)
になることは良いことだ、ということです。
僕には何かを絶対に正しいと思うことは一生なだろうと思います。
しかし正しいか正しくないかは分からぬながら、やはりこの世の
全ての生命全ての意識が少しでも幸福になれるようにという願いは
僕の中で確かなものです。何の信念も信仰もなく、今後はそれだけ
を行動、思考の指針として生きて行くつもりです。
最後に貴方の話が聞けて本当によかった。長文すいませんでした。
それから批判を敢えて承知で、正直に、貴方の考えを書いてくれたことに
心から感謝します。「他の宗教は間違っています」なんて、敢えて
言わせてしまったことを謝ります。でも本当にあなたの意見が聞けて嬉しかった。
ありがとう。