1 :
名無しさん@3周年:
宗教ではないので板違いかもしれませんが語りましょう!
2 :
名無しさん@3周年:03/04/08 16:45
老荘の教えはいいね!
3 :
名無しさん@3周年:03/04/08 18:25
立ててくれてありがとう。哲学板にないんだよ…
漢文板のは趣旨が違うし…
マカロニほう老荘
5 :
名無しさん@3周年:03/04/08 19:21
道教や儒教の信者さんは
今回のイラク戦争には賛成ですか?
反戦ですか?
6 :
ダルタニヤン ◆JbZ01mWLSo :03/04/08 20:19
>>5 道教と道家思想はまったくの別物。
『韓非子』に「良薬は口に苦し」という言葉がある。
現在では(よい薬というのは苦いものだ)という意味で通っているが、実はこれは誤った解釈。
本来は(薬は苦いけれど病気になったら飲まないわけにはいかない。怪我をしたら痛いけれど手術をしないわけにはいかない。やりたくないことでもやらなきゃいけない時がある)という意味。
漏れは今回のイラク戦争はまさにこの言葉がぴったりの表現だと思う。
手術をするなら早い方がいい。言ってわからなければ戦うしかない。
敵に寛大にふるまったところで恩で帰ってくるとはかぎらない。
敵に情けをかけるべきでない。国際外交に情を交えるべきでない。
国とはただ自国の利益を追求すればいい。
それがしっかりできている国が他国に恩恵をもたらせばいい。
7 :
名無しさん@3周年:03/04/08 20:29
>>6 ちょっと待ったー
『韓非子』を引用するなら、あなたは法家じゃないですか…
まあこのスレ「中国古典思想」だから、本来の趣旨にはあってるけど
8 :
ダルタニヤン ◆JbZ01mWLSo :03/04/08 20:35
>>7 その通りです。
私は基本的に道家思想ですが、ちょっとだけ韓非子の思想の影響も受けてます。
9 :
聖人不仁 ◆CAgEU2NTKA :03/04/08 20:35
と、
>>7で書いたが、後期の儒教には法家思想が抱合されているので、いいのかも。
10 :
聖人不仁 ◆CAgEU2NTKA :03/04/08 20:38
おおっ、道家と名乗る人物に生まれて初めて会ったYO!
11 :
ダルタニヤン ◆JbZ01mWLSo :03/04/08 20:39
>>10 あなたは信奉している宗教・哲学、又は倫理学はありますか?
12 :
ダルタニヤン ◆JbZ01mWLSo :03/04/08 20:47
一つの思想にこだわらず、たくさんの思想から影響を受けるのはいいと思っています。
13 :
聖人不仁 ◆CAgEU2NTKA :03/04/08 21:01
>>11 あるときはキリスト教、あるときは儒教。またあるときは…
「菜根譚イズム」です。あるいは「俺専用の、俺が生きている限り変化する教」です。
14 :
ダルタニヤン ◆JbZ01mWLSo :03/04/08 21:04
>>13 『菜根譚』はいいね。漏れの心のバイブルです。
でも漏れは儒学はおおかた批判的に吸収しています。
荀子なんかは勉強になるのですが・・・。
15 :
名無しさん@3周年:03/04/08 21:18
池田大作先生こそが唯一絶対神!
16 :
聖人不仁 ◆CAgEU2NTKA :03/04/08 21:33
私は中国人の現実的、世俗的な考え方が好きなのです。
中国思想にも「天」や「道」といった、言語による思考で把握できない概念が
一般的な宗教の「神」と同じ位置を占めていますが、それらはほとんどロゴス化
しており人格は持たない。
そしてそれ以外は、現実的、世俗的な考え方で、無理なく人生を送れる。
また、一般レベルの人間でも従うことができる。こういった点が気に入ってます。
キリストや仏陀はラディカルすぎて(好きなんですが)耐えられない…
現代の普通のキリスト教徒は『墨家』と呼ぶほうがふさわしいのでは、などと思っていたりします。
>>12 私もそう思います。ちなみに私は仏教思想という視点から
物事を観たりしてますが、老荘思想などに触れたときでも
なにやら感じるところが少なくありません。共通する考え方も多いですしね
(善悪といった観念は相対的で、ある立場に立って初めて生じることである、とか)。
18 :
聖人不仁 ◆CAgEU2NTKA :03/04/08 21:51
やっぱりあれですかね。
湿潤で、森林の多い「もやついた、あいまいな」東アジアの風土からうまれた思想ですから
日本人に合うんですかね…特に「老荘」は、中国でも日本に気候風土の似た南部で盛んだったようですし。
ヘブライニズムだとクッキリと二分化するし、ヘレニズムだと全てを言語化しようとする。
また広義のヒンディズム(仏教も含む)だとあまりにも形而上の世界で、ダイレクトに仏教が
日本に入ってきたなら、受け入れられなかったかも。
>>18 確かにそうですね。
中国南部や日本のように、湿潤で「もやついた、あいまいな」気候下では
自分と自分以外の境界をあまり意識しない感覚が起きやすいとすると、
物事を複数に分析し、それらを比較して相対的に考えること を止める方向に
行きやすい気がします。
不勉強なのでヘブライニズムの内容は知りませんが、
物事を二分化して考えるものだとするとあちらのハッキリした気候が
色濃く影響してるんでしょうね。
20 :
名無しさん@3周年:03/04/09 21:11
キリスト教は理想主義でとうてい受け付けられません。
仏教は現実逃避気味。
かといって儒教は積極的すぎで説教っぽい。
道家思想はたしかに(・∀・)イイ!!と思うけど現在の日本社会で通用するとは思えん。
法家思想は現実的でかなり実用に向いているが友達が減りそうだ。
他にもアリストテレス・ニーチェ・ショーペンハワー・マルクス・高山樗牛・小林よしのりなどの思想に目を通した。
いったいどれがいいだろう!?
21 :
名無しさん@3周年:03/04/09 22:24
人の性は悪にしてその善なるものは偽なり。
22 :
聖人不仁 ◆CAgEU2NTKA :03/04/10 23:52
>>20 「菜根譚イズム」GO!
だれか忘れたが、「宗教は本来個人が自分で作るものである」といっていた。
同じ宗教・宗派に属していても一人一人考え方は違うのがあたりまえ。
お前も、自分で勝手に作っていってくれ。
23 :
聖人不仁 ◆CAgEU2NTKA :03/04/11 00:09
とりあえず、おいらが「菜根譚」を勧めるのは
バランス感覚が(・∀・)イイ!!からです。
禅宗の下級武士階級出身で
儒教的倫理でしつけられた
内村鑑三とともに洗礼を受けたキリスト教徒であり
神道を基本とした「武士道」が日本人の倫理であると説いた
5000円札の新渡戸稲造が、この本を引き合いに出している。
24 :
名無しさん@3周年:03/04/11 00:48
道の道とす可きは、常の道に非ず。名の名とす可きは、常の名に非ず。
これはどういう意味かと申しますと、老子の根本義である、自由自在性、無礙自在の生き方、在
り方を、単的に現わした言葉なのです。生命というものは本来自由自在に、生き生きと活動できる
ものであって、一つの道というものがつけば、その道以外には活動できなくなってしまう。また、
何の誰々という名がつき何々会という会名がつけば、その名の範囲に縛られてしまって、本来の
生命の自由自在性が出せなくなってしまいます。人間の本質は生命そのものであって、自由無礙に
何事でもなし得るように出来ているのでありますが、一つの道という定まったものを掴んでしまう
と、その道がどのように立派なものであっても、その道に心が把われてしまい、本来の自由自在性
が縛られてしまいます。また名にしても同じことで、何の何某という名がつけば、その名の範疇
でしか生命が働かなくなってしまうものです。
人間というものは、そんな窮屈なものではない、何もの、何ごとにも把われぬ存在であって、いささかでも把われがあれば、真の道はかくされてしまい、真の名は、その本性を輝かさなくなって
しまうものであります。
老子という人は、把われを最も嫌った人なので、老子の教えのどこをみても、生命の自由自在性を説いております。
25 :
名無しさん@3周年:03/04/11 00:48
この人生を生きてゆきますには、法律のようなものもあれば、宗教の道というようなものもあり
ます。しかし、法律の原則論に把われ、宗教の道というものに把われきっているような人の頑迷さ
不自由さは、この世のよどみない流れを停頓させ、生命の生き生きとした美しさを汚してしまいま
す。
宗教の道というのは、神のみ心の現われたところをいうのでありますので、これが道だと指し示
したときには、もうその道は、神のみ心の自由性を失っているのです。これが道だ、という道は、
言葉や文字でいうべき道ではなくして、その人その人の真心から自然と現われた行為の中にあるの
で、道そのものは変化自在なものなのです。
ですから、言葉そのもので、宗教の道を押しつけようとするやり方は、誤った道学的の在り方で
神のみ心の深い味わいを無くしてしまうのです。各人が自ら行じて、それが自然と神のみ心に叶
っている、という生き方こそ、道がそこに現われているのであります。
そういう生き方を常の道、真の道というのです。
名にしても同じことで、この世に生れ、この世の組織の中に生活していますと、種々と名をもつ
わけですが、そうした現われの名というものは、実は真実の名ではなく、現われの奥に、その人や、
その組織の真実の名がかくされているのです。その名とは、天命というものなのです。天命の一つ
の現われが、この世の名として現わされているのですから、現われの名の方にばかり気を取られて
生きている人は、真実の名を現わすことはできない、つまり、天命を果すことはできない、と老子
は云うのであります。
26 :
名無しさん@3周年:03/04/11 00:48
無名は天地の始なり。有名は万物の母なり。
無名というのは、宇宙万物を創りなす根源の力、絶対的な何もの、何ごとも現われ出でぬ以前の
すべての働きの根源の創造力そのもののことであります。絶対に現われぬ根源の力であり、絶対な
る生みの力でありますから、何ものもその力に対して名をつけることはできません。
この創造力、絶対力、宇宙に充ち充ちるものを、人類がはじまってから、宇宙神とか、大生命と
か、絶対者とか、創造主とか、道とか、種々と名をつけたのであります。
27 :
名無しさん@3周年:03/04/11 00:55
無名といっても、こうして文字に書き、言葉に現わせば、もう、無名という名がつき、言葉になるのですから、人類が、すべての根源の力を説明するためには、どうしても仮の名をつけて呼ばな
ければならなくなります。そこで私は、単刀直入に神と呼ぶことにしたいと思うのです。
神は天地の始めである。ということは、天地は神の中にあり、神の一つの現われであるというこ
とであります。天地と申しましても、私たちが、この肉眼で見ております、青空とか大地とかいう
より、もっと深い、もっと置くの霊的な天地があるのでして、その霊的な天地がこの肉眼見える
天地とも現われ、人間内部にも、天地或は陰陽として、その働きをしつゞけているのであります。
たゞ、神という名がつくと、その神という名によって、その形をすぐ想像したくなりますし、神
の道というような、一つの型をつけたくなるのが、人間のくせであります。そこで老子は、神とか
絶対者とか云わないで、無名という、把われることのない表現の仕方にしたのだと思います。
28 :
名無しさん@3周年:03/04/11 00:56
この無名が、何々という名をつけてきますと、これは無名ではなく、神そのものではなく、神の
現われとしての存在となってくるのです。そして、霊的な微妙な波動しての存在から次第に粗い
波動の存在、つまり物質的な現われに変化してくるのであります。
ですから、名がつくと、つまり有名になって参りますと、それは万物を生みなしたことになり、
万物の母なりということになるのであります。
こゝに一つずつの布巾と雑巾とがあるとします。この布巾と雑巾とは、その名がついた時に、そ
の役目が定まってしまっているのです。一反の木綿の布地が、その布地そのものとしては、布巾に
使われるか、雑巾に使われるか定まっていませんが、いざ人間の側で、これは布巾に、これは雑巾
にと定めてしまうと、その反物は、その定められた名の通りになってしまうのです。
すべてそうしたもので、名がつけば、その名に縛られてしまうのですが、人間はその名を遡っ
て、神のみ心そのものの中に入りきって、神即ち無名と一つの働きに合体することができるものな
のです。
29 :
名無しさん@3周年:03/04/11 00:56
故に常無以てその妙を観んと欲し、常有以てその徼を観んと欲す。此の両者は、同出にして
名を異にす。同じく之を玄と謂う。玄の又玄は、衆妙の門なり。
常無というのは、無名即ち神そのもののことであります。その神そのものの中に、妙々不可思議
なる絶対力というか、大智慧というか、大能力というか、そうした、妙なる実在の姿を観ることが
できるのであり、現われとしての天地の中に、徼(キョウ=とりで)つまり差別の姿を観ることができるの
であります。しかしこの両者は全く一つの実在の姿であり、現われの姿であって、名を異にしてい
るだけである、と云うのです。
30 :
名無しさん@3周年:03/04/11 00:57
そして、どちらも、之を玄という。つまり、霊妙不可思議なる、あ
らゆる能力を含んだ実在、即ち神そのものであり、神の現われの姿である、というのであります。そ
して、その玄と老子がいっている、霊妙不可思議なる実在は、どこまでも深く、どこまでも広く、
無限大にして、無限小ともいえる大能力であって、森羅万象ことごとく、この大能力、絶対力の中
から生れてくるのである、というのであります。
実際に、神というものについての説明ぐらいむずかしいものはありません。こうして文にしてゆ
くと、どうしても眼に見える言葉として書かねばなりません。神そのものは人間の眼に見え、手に
触れるものではなく、無限の広がりをもち、また無限に小さな姿ともなり得るのであります。です
から、神を説明する場合には、どうしても現れの姿を通しての説明に成ってしまいます。哲学者
などが、神を説こうとして、実にむずかしい、云い廻しをしてゆき、しまいには何が何だか、
読む側にはさっぱり判らず、只、何んとなく知識がついたような自己満足をしている、といった工
合になってしまうのです。
31 :
名無しさん@3周年:03/04/11 00:58
老子が、無名と云ったり、玄と云ったりして、説明している苦心がよく判ります。玄という言葉
でよく使われるのは、玄人という言葉であります。玄人というのは、その道の達人ということを云
ったものであって、その道にかけては、至妙至高の力をもっている人をいうのであります。玄とは
そういう意味の言葉なので、神はあらゆる部門の最高至高の存在である、ということなのでありま
す。すべての力は神のうちより現われているのであって、人間が、我れという小我があるうちは、
神の実体を知ることはできません。そこで、我を捨てた空の姿になった時、神のみ心深く入り得る
ことになるのであります。その空も老子によれば、浅い空、深い空というのがあって、どこまでい
っても行きつけぬ、深い深いものであるというのです。
↑
誰かの文章引用してるのならきちんと出典を明らかにするのが(ry
33 :
名無しさん@3周年:03/04/11 19:39
age
34 :
名無しさん@3周年:03/04/11 20:23
↑
この文体・内容は、漏れの記憶に間違いがなければ、
「五井昌久著 老子講義」 だす。
35 :
名無しさん@3周年:03/04/11 22:09
韓非子最強!
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1050061601/ 平成十五年四月丙午の日、皇帝Samson ◆I3tGz4xJ9Eは、黒牛を犠牲としてささげ、明らかに
天地の神々に告げる。
サムソンがカトスレを治めてより、既に悠久の歳月が流れた。
その間、ジョアン、星願による簒奪があったとはいえ、スレ住民の決起によって逆賊は
誅殺され、カトスレの社稷は再興された。
いままた、灰猫が武力を頼んで残虐をこととしスレ住民は分裂した。
その罪悪たるや、わがカトスレを滅ぼし、天の道に背くものがある。
さらに、灰猫の子、Hollywood. ◆bbnrXadT9.は、悪逆無道その極みに達し、ついにカトスレは
俺氏、青眼の跋扈するところとなった。ここにカトスレ住人はこぞって言う。
『カトスレの社稷は失われた。今こそ、Samson ◆I3tGz4xJ9Eが、先達たちのひそみにならい
Hollywood. ◆bbnrXadT9.に誅罰を下すべきときである』と。
わたくしSamson ◆I3tGz4xJ9Eは、不徳にして帝位を汚すことを恐れ、これを周囲に諮ったところ
プロテスタント、福音派、未信者までが
『天命には従わなくてはならない。祖先の勲は長く顕彰しなければならない。天下には主を欠く
ことができない』という。
いまや、天下の期待はことごとくSamson ◆I3tGz4xJ9Eの上に集まっている。
そこでわたくしSamson ◆I3tGz4xJ9Eは、天下に逆らうことを畏れ、またカトスレの系譜が途絶え
ることを恐れ、つつしんで吉日を選び、百官ともども壇に登り、皇帝の璽授を受け取る。
ここに天地を祭り、天神に即位を告げる。
神よ、帝位をとこしえにSamson ◆I3tGz4xJ9Eに授け、とこしえに天下を安んぜんことを!
老荘の道を行くと孤独になることは避けられないね。
まあこの孤独感ってのが故郷のようで心地いいのだが、語るのは簡単だが
実践するとなかなか厳しいものだ。
禅も似たようなものではないかなー?道と1つになれたらもうほとんど聖者阿羅漢と呼ぶに等しいと思う。
この道を他の人に教え導いたとき仏教で言う本当の意味での菩薩になるのではないかと考えたりするのだけれど、
まあそれは置いといて、耳を澄ませば「本で学んだら己を虚しくして即実践しろよ!」と、老さん壮さんの寝言が
聞こえてきま〜す。
老子の言葉を引用する人はいても
老子な人はほとんどいない
39 :
名無しさん@3周年:03/04/12 17:37
老子の生き方は現代日本では通用しづらい。
>>39 だからこそ老荘の生き方を実践する価値があるのでは?
一人では難しいことでも、共同でやるとずっとやりやすくなることがある。
老荘生活も、たとえばDASH村のように山奥に土地をもって村を作れば
ずっと簡単になる。お互い道<タオ>と繋がったもの同士、雨天晴耕の
暮らしをして、春には鳥とともに歌い、秋には実りを収穫する。
42 :
名無しさん@3周年:03/04/13 00:10
仏儒道三教帰一こそ真実の姿
老子なら、そういう陶淵明的田園生活が(・∀・)イイわけだが
荘子だと、そういう生活をしたい!と分別を持つこと自体が(・A・)イクナイ!!という罠
44 :
名無しさん@3周年:03/04/13 07:48
老荘って、最初に一括りにしたの誰なんだろうね?
物凄く違和感あるだけど・・・似て非なる思想だと思いません?
老荘よりはまだ、見解の相違である朱子学と陽明学
をごちゃまぜにする方が筋が通ると思うんでつが。
朱子学と陽明学は対比しているのに何故老荘は対比しないのだろう?
中国でも老荘は一括りなのかな?誰か知ってたら教えて。
見解の相違って陽明学の起点の事でつ〜。
誤解を与えてたらゴメソなさ〜い。
46 :
名無しさん@3周年:03/04/13 10:28
>>45 陽明学って朱子学を批判して出てきた思想でそ。
発展的な継承なんてニュアンスないしぃ。
47 :
名無しさん@3周年:03/04/13 16:34
漏れ的には朱子学や陽明学は儒学とはまったくの別物。
孔子の教えのみじんのかけらも見受けられない。
48 :
名無しさん@3周年:03/04/13 16:38
楊朱の利己主義思想こそ最強!
49 :
名無しさん@3周年:03/04/13 16:41
ぽまいら、墨子なんてどうよ!?
50 :
名無しさん@3周年:03/04/13 16:42
兼愛 非攻 尚賢
51 :
名無しさん@3周年:03/04/13 17:12
墨子好きなヤシ、どこが好き?漏れ正直、魅力を感じない。
言ってる事無理あると思うわけだがー。
どっか山奥にラオツ・コミューン作りたいなー。
遅々たる春の朧月夜に酒盃を重ね・・・
朗々として秋の月夜に酒盃を重ねる・・・
って結局酒ばっかり飲んでるんだけど。
53 :
名無しさん@3周年:03/04/13 19:36
>>52 詩人だねぇ・・・
蛙の泣き声と鈴虫の羽の音が交互に聞こえて来た気がしたよ!
子曰く「その鬼にあらずして、これを祭るはへつらいなり。義を見てせざるは勇なきなり。」
横着悪徳教団が横行する現代、この言葉をよく教える必要がある。
「義を見てせざるは勇なきなり」だけを知っている人がいるが、これよりも肝心なのは
「その鬼にあらずしてこれを祭るはへつらいなり」である。
易経は孔子も朱子もハマって、解説まで遺してるわけだが
易経を学問とせずに占術としてみられている現状に対して
いささかの憤りをおぼえる易経好きは、どんくらいいる?
儒の基本は五経!中でも易経は最強!
と言ってみるテスト。
56 :
名無しさん@3周年:03/04/14 03:07
>>52 俺はそこに酒の池を造って日毎夜毎に女を侍らせ、乱交パーティ。
57 :
名無しさん@3周年:03/04/14 19:14
>>56 漏れは石川梨華とあややに子どもを産ませたい
58 :
名無しさん@3周年:03/04/14 19:32
漏れは小学校高学年の女の子にイタズラしたい。
59 :
名無しさん@3周年:03/04/14 20:19
学をなすものは日々これを増し、道を学ぶものは日々これを減らす
60 :
名無しさん@3周年:03/04/14 21:39
61 :
名無しさん@3周年:03/04/15 03:48
パトラッシュ、僕もう疲れたよ・・・
62 :
名無しさん@3周年:03/04/15 04:11
糞スレになってしまったようだ
特定の女を「我が物」と思うことなく、
おおらかに性をたしなむこともまたタオなり。
自然はIIが、蚊に刺されるは
ムカデに刺されるは、それから、それから・・・
女体に挿してる場合では、ござりませぬ。
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
66 :
名無しさん@3周年:03/04/25 06:03
老子のような生き方はつまらない。
まるで引きこもりだ。
68 :
名無しさん@3周年:03/04/28 22:28
ただ私がヘタレなだけかもしれないが・・
どうしても「無為」の解釈が納得いかない。
老子が引きこもり生活、消極的生活を奨励しているとはとても思えない。
無為とは何もしないでなく、なにをすべきと定義しないよ、
あえてなにも言わないよ、とその程度のことだと思ってしまう。
そう考えると荘子と類似しているといえるのだが。。
解釈など無理して追求すべきでないかも。
それに実際、荘子の類は放言、と、随分批判もありましたし。
まぁ実際放言ですが(W
内篇はほぼ原荘子の形を残してますが、雑篇あたりになると
これはもう後学の作やらいろいろごたまぜで。
しかもその雑篇の方が物語り形式で人気があったりしますね。あはは。
好きなとこ取って処世に使うとようございます。
道は屎尿にも在り、ですよ。
>解釈など無理して追求すべきでないかも。
仰ることはわかります。ただ私は老子の知性・人格的気高さが
消極的生活がなんか結びつかないなぁと思って。
千里の道は一歩からとか、小しかなさずでも大を為す。というのは、
とても道教的仙人生活とは違うなぁと思たわけです。
71 :
名無しさん@墨家:03/04/30 04:10
今から約2千4百年前、ギリシアではプラトンが活躍していた頃、
中国に、墨子という思想家がいました。
墨子は、孔子の愛の思想である「仁」に反対したので有名です。
「仁」は、親や兄弟などの自分に近い人をより大切にし、自分にはあまり
関係のない人のことは、それほど大切にしないというように、区別を持った
「別愛」(partial love)であるが、そもそも、そのように自分と他人を
区別する考え方こそが、あらゆる憎しみや戦争などの根源ではないか。
自分も他人も、すべての人を、別け隔てなく大切にする「兼愛」(universal
love)こそが、本当の愛であると墨子は考えました。
さらに、愛とは、単なる理想にすぎないものではなく、愛することによって
のみ、人は現実的に(経済的にも)幸せになれるのであるという信念(兼愛
交利の思想)を墨子は持っていました。なぜなら、「やさしい人は、他人を
幸せにしてあげることができるし、その人自身は、他人によって、もっと幸
せにされる。(愛すれば、愛される。)」と考えたからです。
そして、人類の一体性を強調した墨子は、単にお題目を唱えるだけではなく、
理想を実現させるため、なりふりかまわず、東奔西走しました。
(「席の暖まるいとまもない」という表現は、もともと、墨子につけられた
形容です。単なる思想家ではなく、「行動的である」ということが、墨子の
大きな特徴になっています。)
72 :
名無しさん@墨家:03/04/30 04:14
墨子のことを思うとき、私は、いつも、
「驚き」を感ぜずにはいられません。
戦乱と陰謀の渦巻く、まさに弱肉強食の戦国時代に、
「人間にとって一番大切なのは愛することである。
人を愛し、人に利益を与えよ。」と断固として主張し、
実践を続けた墨子。
墨子の信念は、多くの人の賛同を集め、
強固な集団(墨家)が形成され、
当時は孔子の儒家を圧倒するほどの一大勢力となったのでした。
イエス・キリストなどとは異なり、
墨子は、神秘的な奇蹟など、何ひとつ起こしませんでした。
しかし、墨子の人生そのものが、
単に予言が当たったとか、水の上を歩いたなどという事とは
比べものにならないほどの奇蹟であると私には思われるのです。
墨子のことを思うたびに、私は、
墨子の持っていた信念や、決意、情熱、使命感に
体がふるえてくるような気がします。
墨子は、ガンジーやマザーテレサと同様、
愛と正義の実現に、人生のすべてを賭けた人だったのでした。
74 :
名無しさん@3周年:03/05/01 00:58
75 :
名無しさん@3周年:03/05/01 13:00
孔席不暇暖而墨突不得黔
76 :
名無しさん@3周年:03/05/02 05:02
>>74 仁は、より良い社会を築くうえで、
まったく不十分なものでした。
だから、墨子は兼愛を主張したのです。
77 :
名無しさん@3周年:03/05/02 22:34
老子が一番好きです。
78 :
名無しさん@3周年:03/05/02 22:48
この地球上で、半数以上の人たちが貧困に苦しんでいる
という悲惨な事実に対し、老子は無為自然、何もしないだろう。
墨子なら、世界から貧困をなくするために、
必死に現実的な努力を続けるに違いない。
かつて、戦争をなくするために戦い続けたように・・・。
79 :
名無しさん@3周年:03/05/02 22:50
大国を治むるは小鮮を煮るがごとし
80 :
名無しさん@3周年:03/05/02 22:55
大道廃れて仁義あり
81 :
名無しさん@3周年:03/05/02 22:56
墨子の思想は人間の究極の理想像ですな。
82 :
名無しさん@3周年:03/05/02 22:57
非攻 尚賢 兼愛
83 :
名無しさん@3周年:03/05/02 23:05
人の性は悪にして其の善なるものは偽なり。
人間というものは生まれつきに悪の存在であって、善人というのは後天的になったものであって人間の本来あるべき姿ではない。
84 :
名無しさん@3周年:03/05/02 23:08
>>78 無為自然というのは「何もしない」という意味ではない。
「自分から何かをしようとするのではなく、周囲に流されて生きる」という意味。
85 :
名無しさん@3周年:03/05/02 23:20
『韓非子』には次のようなことが書かれている。
焼死する者は少ないが溺死するものは多い。
火はその容貌が恐ろしいので誰も近づこうとしないので死ぬ者が少ないのだ。
水は無害そうに見えて、人をひきつける魅力がある。ゆえに溺れ死ぬ者が多いのだ。
86 :
名無しさん@3周年:03/05/03 00:16
>>76 兼愛の精神を儒家は厭いました。
何故でしょう。
87 :
名無しさん@3周年:03/05/03 13:14
人の性は悪にして其の善なるものは偽なり。
人間の本性は悪であって、善であるというのは努力によってなされたものである。
こんなかんじだと思うけど?
88 :
名無しさん@3周年:03/05/04 18:32
ムイ・・・シゼソ
89 :
名無しさん@3周年:03/05/05 19:11
古代の聖賢と友達になれるとしたら誰がいいですか?
漏れは洪自誠が(・∀・)イイ!!
90 :
名無しさん@3周年:03/05/05 23:31
90
91 :
名無しさん@3周年:03/05/06 01:14
古代の聖賢、非常に厳しい性格の人が多いからね。
師匠にするにはいいんだけど、友達は難しいかも
92 :
名無しさん@3周年:03/05/06 05:09
じゃ、誰の教えを請いたい?
93 :
名無しさん@3周年:03/05/06 05:13
小林よしのり
95 :
名無しさん@3周年:03/05/07 21:40
>>89,91
たしかに、友達になりたいと思うほど
性格のいい奴なんてなかなかいないけど、
例外的な一人として、プラトンとなら
親友になれると思う。
ソクラテスは絶対イヤだけど。
すごく興味があるのだけど
あまり人いないね
97 :
名無しさん@3周年:03/05/07 21:59
私は2元論的にみて悪がゆるせない時や、善を意識しすぎて窮屈になった時に
『韓非子』を読むとスッキリするね。ちょうどバランス(中庸?)がとれた感
じになる。
98 :
名無しさん@3周年:03/05/08 00:00
>>96 私もすごく興味があってこのスレは毎日チェックしているんですけど、何を話していいものかわかりません。
誰か何かネタふって・・・
例えば逆説とかは難解なことなのかとか?
100 :
名無しさん@墨家:03/05/08 00:52
>>98 あなたは、人間の本性は、
善だと思いますか、それとも悪だと思いますか?
本性が善であれば、堕落して悪にならないよう努力しなければならない。
悪であれば、善になるために努力しなければならない。
どちらにしても努力しなければならない。
102 :
名無しさん@墨家:03/05/08 01:56
人間が最大限に本性を発揮できるのは、その人が自由であるときです。
もし、人間の本性が悪なら、自由であることは最悪の状態であり、
自由には価値がなくなるでしょう。
逆に、人間の本性が善なら、
自由であることには最大の価値があることになります。
したがって、善でも悪でも同じだ、ということにはなりません。
自由という言葉は難しい、
なかなか相手にうまく伝わらない。
104 :
名無しさん@墨家 :03/05/08 02:39
自由=「最大限に本質を発揮できる状態」
です。
もしも、「どちらにしても努力しなければならない」を否定しているのだとしたら、こうなる。
努力しないならば、本性の善は堕落して悪となる。
努力しないならば、本性の悪は善になることはない。
どちらにしても最悪の状態である。
また、別の言い方もできる。
努力した結果の善が自由であることは、最大の価値がある。
努力しなかった結果の悪が自由であることは、最悪の状態である。
ゆえに、性善説・性悪説の趣旨は、「努力せよ」である。
>>102においては、スタート地点である本性に自由を与えている。
努力し改善するチャンスを与え、その結果に自由を与えて判断しなければ妥当ではない。
104さんのように言ってくれる人はいままでいなかった。
私もそう思います。
107 :
名無しさん@3周年:03/05/08 02:59
109 :
名無しさん@墨家:03/05/08 03:09
私は、人間の本性は善であり、それには確かな根拠があると考えています。
諸子百家の中では、孟子もそのように考えていましたね。
でも、犯罪者は沢山いるなぁ、と思いつつ寝るか
111 :
名無しさん@墨家:03/05/08 03:36
犯罪者がいるのにも理由があります。
犯罪者も、生まれたときからそうだったわけではありません。
非常に多くのケースで、犯罪者は、親からの愛を十分に受けられなかったという事情が
あります。
そのような場合、人間は、対人関係において、
相手を愛することではなく、愛されることばかりを求めるようになり、
思うように愛が得られなければ、憎しみを抱くようになってしまうのです。
しかし、本性の善が変わったわけではなく、また、愛する能力が消滅した
わけでもありません。
だから、たとえば、なにか良いきっかけさえあれば、普通に人を愛することが
できるのです。本性は善のまま不変なのです。
112 :
名無しさん@3周年:03/05/09 02:36
ホモとかロリコンって先天的なんですか?
113 :
名無しさん@3周年:03/05/09 03:43
幼少時のトラウマなどが原因になっていることが多いのではないでしょうか。
114 :
名無しさん@3周年:03/05/09 05:53
>>112 ホモ=先天的。
ロリ=精神の退行が主因。後天的。
つまり貴兄は、房中術におけるょぅι゛ょとの同衾について語りたい訳だな。
よろしい。相手になろう。
115 :
名無しさん@3周年:03/05/09 07:30
房中術=自分勝手
だよね。
ではロリコンについて語りましょう
117 :
名無しさん@3周年:03/05/09 21:52
ただ私がヘタレなだけかもしれないが・・
どうしても「無為」の解釈が納得いかない。
老子が引きこもり生活、消極的生活を奨励しているとはとても思えない。
無為とは何もしないでなく、なにをすべきと定義しないよ、
あえてなにも言わないよ、とその程度のことだと思ってしまう。
そう考えると荘子と類似しているといえるのだが。。
118 :
名無しさん@3周年:03/05/09 22:33
老子の「無為」というのは、
やはり、消極的な生き方であると言わざるをえない。
世の中の悪いところを積極的に変えていこうと努力する姿勢
を否定するものなのだから。
いつの時代にも、そのような思想はあらわれる。
近現代では、虚無主義、ニヒリズムとよばれる思想に近い。
何もしないほうが楽だからね。
そんな自分を正当化しようとするのが「無為」じゃないかな。
119 :
名無しさん@3周年:03/05/09 22:48
またーりした いいスレですね
だけど、
「悪いことをする」よりは、
老子が言うように、「何もしない」ことの
ほうがずっとイイんだよね。
人間の努力がマイナスの結果を招くことは珍しくない。
自然のままにしていた方が、進歩はないけど、幸せかもしれない。
根拠となる字句を引用すべし
122 :
名無しさん@3周年:03/05/09 23:07
字句なんて、引用しなくてもいいよ。
そんなことやってたら、誰もレスつけられないぜ。
必要なら自分で調べてよ。
123 :
名無しさん@3周年:03/05/11 18:30
(・∀・)スンスンスーン♪
124 :
名無しさん@3周年:03/05/12 08:23
荘子なんてどうよ。
知を棄て無知の領域へはばたこうとする思想には感動。
125 :
名無しさん@3周年:03/05/12 23:52
あらゆる思想家たちも池田大作先生には及ぶまい
126 :
いけた駄作:03/05/13 00:10
おれ以上に、カネを稼げる奴はいないんどぅわ〜〜〜〜〜
荘子は荘子のスレを立てれば?
たぶん、糞スレになると思うけど。
128 :
名無しさん@3周年:03/05/13 01:56
孔子は人肉喰いを非難したり、禁止したりしなかったそうだが。
でも、塩漬けにした肉は嫌いだったようだな。
家の外に捨ててたしw
130 :
名無しさん@3周年:03/05/13 13:14
あれ?あの当時の月謝って確か肉だよな?
捨ててたの?もったいねえな。ソースキボンヌ。
131 :
αντιΧΡΙΣΤΟΣ:03/05/25 17:21
自然に生きよう、バランスとって。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
無為にして治まる。カミさんに死なれて無気力になってもう死にたいと言うひとがいる。もし、おれが死んだらそんなふうに無気力になってほしくない。
思うに、だから無気力になったのではなく、もともと無気力なのだ。世の中なにがおこるかわからない。がっけっぷちに爪先立ちでかろうじて生かされてるのが人間。
なのにおれだけはどっかと2本足で立ってると思いこむ。棺おけに片足どころか爪先だ。無気力になってるヒマあんめー。あれやらこれやら言い訳して結局自己中心。
考えるという行為ふたつある。工夫と妄想。妄想はいいとこ一つも無し。おこったら即やめる。無為にして治まる。
御意見どうぞ。
為とは、われわれ人間の浅はかで無節操な活動のことを言う。(例 ブッシュの正義)
139 :
名無しさん@3周年:03/06/24 18:27
age
140 :
ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :03/06/30 20:43
▲資本共産法▽
職業安定所を国税庁に統合し、かつ公権力化する。企業面接を撤廃して雇用創出を図る。
備考:企業教育の必然性と人材派遣業の処分
▲琉球国際認定規格推進▽
同一国内でありながら、国籍と民族の固有化を尊重し、続けて北方領土問題にも取り組む。
【地域社会保護法案】
住民投票を公権力化し、地域社会の破壊を阻止する。
▲教育改革法▽
義務教育の数学・音楽・美術を廃止し、情報処理・脳神経学(精神学)・マインドコントロール手法(音楽・美術)を新たに加え、資本主義社会の虚弱性に抗する消費者層の暗黙的な社会主義化を目指す。
▲予約売買法▽
卸売り業者すべてに予約販売制を導入・義務化し、物資の流通を共産主義化する。
141 :
名無しさん@3周年:03/07/03 00:52
>130
授業料は干し肉だよね。塩漬け肉は孔丘の口にはあわなかったということか。
孔子の弟子の子路は衛の叛乱に巻き込まれ、死亡しました。
その時、死体は切り刻まれ、塩漬けにされました。
それ以来、孔子は家にあった塩漬け肉をすべて捨て、一切口にしなかった。
143 :
名無しさん@3周年:03/07/05 08:27
144 :
ダルタニヤン ◆JbZ01mWLSo :03/07/06 16:44
漏れは少し前までは老子に魅かれていたが最近その教えに疑問を感じるようになりました。
漏れって『現実』を重んじるんだよね。
老子は「学を絶てば憂いなし」といって教育を否定しているが、現実を見るとやはりしっかりと教育を受けてきている人のほうがいい人が多い。
(私の周りにいる人々がたまたまそうだっただけなのかもしれないが・・・)
勉強が出来ることと人格がそなわっていることはあまり関係ないと思う。
ただ、勉強が出来るような人ってたいていそういった人格教育を受けている人が多いから学問の出来る人はいい人が多いのではないでしょうか?
私は品位のある人間になりたいと思っています。
やはりそれには儒学が一番のような気もしてきます。
145 :
ダルタニヤン ◆JbZ01mWLSo :03/07/06 16:51
私が思うに・・・自分の人格って『血』で決まると思っています。
血には絶対逆らえない。
たとえば、自分の顔って選べないじゃないですか。
ブサイクな顔やカッコイイ顔の人もいる。
でも、ブサイクな人がおしゃれしてカッコよく見せたり、環境によっても微妙に香って変わります。
心も同じで、顔のように選べない。生まれつき心がブサイクな人もいればカッコイイ人もいる。
教育って心のおしゃれみたいなものだと思う。
146 :
名無しさん@3周年:03/07/07 01:23
>>145 >教育って心のおしゃれみたいなものだと思う。
すてき!
教育ってなんて素敵なんでしょう!!
147 :
名無しさん@3周年:03/07/07 20:02
(・∀・)
148 :
名無しさん@3周年:03/07/08 19:18
age
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
151 :
名無しさん@3周年:03/07/27 07:20
諸子百家だって立派な宗教だよ
俺的には孫子が好き、戦争屋に誤解されているけどね
152 :
名無しさん@3周年:03/07/27 07:29
老君の場合、悟りの域。
孔子の場合、ただの道徳と政治の学者。
タオに従うこととは、その場所、時における「メッセージ」に従うこと。
この時代の求める「タオ」は、数千年前の時代とは違うと思う。
ちなみに、このあたりを上手く説明している心理学に「プロセス指向心理学」
というのがあります。バランスいいですよ。
154 :
名無しさん@3周年:03/07/28 22:53
孔氏は朝鮮の宗教
155 :
名無しさん@3周年:03/07/30 07:05
ま、漏れらみたいなスーパーフリーターは
有る意味老荘思想の実践者なわけだが
156 :
名無しさん@3周年:03/07/31 21:43
>>154 孔子が目指していたのは周王国の儀礼の復活
宗教としての儒教は副産物にすぎないよ
本人が一番驚いているんじゃないかな?
158 :
名無しさん@3周年:03/08/14 03:02
159 :
名無しさん@3周年:03/08/14 17:22
今の日本人が一番学ばなければならないのは陽明学だと思う。
熊沢蕃山などの思想が現代にもっと紹介されていってほしい。
161 :
名無しさん@3周年:03/08/24 03:32
無為って解釈が
いろいろあるんだよね
なにもしないのが無為なら
ホームレスがいいってことになる
でもホームレスも御飯の心配を
日々しなくちゃいけないから
かなり心労の大きい
悟りとは遠い境地なんだけど
また自分本来の能力や嗜好に逆らわず
したいことをするという解釈もある
そうすると渋谷の若者たちが
そうだとも言える
ただ言えるのは老子という書
の生まれたのは戦国の世だったってこと
やはり、いろんな争いを避け隠者になるのが
理想だったようだ
ちなみに漏れは
カメ仙人や水戸黄門は
老子に見えてしまうな
162 :
名無しさん@3周年:03/08/24 12:13
菜根譚てなんかムカつかない?
臨済さんが読んだらどう思うだろう
163 :
名無しさん@3周年:03/08/26 13:03
老子の無為自然は、「無為自然に生きなさいよ」というのではなく、
「自由の極まった境地は無為自然ですよ」という究極の状態を説明したものではないでしょうか。
道の極まった状態の説明であり、そこに至る道は無限にあるのではないでしょうか。
素人意見ですみません。
>>162 すみませんが、私にとっては菜根譚は“座右の書”の筆頭格ですw
講談社学術文庫の菜根譚は、解説も充実していて読みやすくてとても気に入っています。
中国はともかく、日本の禅宗には評判いいのではないでしょうか。
物凄く乱暴に言ってしまうと、無極→大極は森田療法でいう絶対臥褥によって或る程度伺い知ることが出来る、…かも知れない
あ、太極だった。
166 :
名無しさん@3周年:03/08/27 04:07
>163
なかなかよい解釈だと思うよ
ただ老子の生まれた時代は
さまざまな人為が横行し
社会的な弊害を起こしていたんだ
政治、軍事、教育はもちろん
社会風俗などにおいてね
だから、その対極として
無為という言葉を用いたんだよ
人間の作った文明社会の弊害を説き
たかったんだと思うよ
167 :
名無しさん@3周年:03/08/30 02:27
老子は文字どうり
老人の書いた書
若い世代には
正直その本質を
理解できないだろうね
【子、怪力乱神を語らず。】
と論語にあったと思います。これは気に入っています。
だいたいこんな↓感じに解釈していますが、これでいいでしょうか。
怪・・・怪談話。怖い話。幽霊、妖怪、悪魔などの話。
力・・・暴力の話。武勇伝。ケンカの話。
乱・・・淫らな話。下ネタ。エロい話。性経験の話。
神・・・神秘的な話。神通力の話。超能力、霊能力、オーラが見える、などの話。
怪と神の話は、なんか似ているような気がしますが、どこが違うでしょうか。
どちらも万人に確かめられないようなことだという点で共通していると思いますが。
人肉を食う云々のレスがありましたが、本当にそんなことされていたの?
塩漬けとか。
孔子が塩辛を食べる事が出来なくなった話は有名だな
>>172 どこかの先生の解説として以下のようにありました。
(うろ覚えですのでまちがっているかもしれませんが)
常を語って怪を語らず
徳を語って力を語らず
治を語って乱を語らず
人を語って神を語らず
韻文としても美しく気に入っている一節です。
これによると、怪とは通常起こり得ないものを指すのであって、
妖怪の類に限定されないようです。
力も、身近な暴力ではなく(だけではなく)、政府によるもの
を指すのでは、と思われます。
乱、これを何で下ネタと解釈されるのか・・・(w
下ネタなら、「色」とでもすると思います。
神、は神秘的なものという抽象的なものではなく、当時の中国
人が崇拝の対象としていた鬼神を指すと思われます。
別のくだりで「鬼神は敬して遠ざく」というのがありますし。
>万人に確かめられない
神を語らないのは概ねこのような理由だと思います。
子路が神につかえることをたずねたときに、「まだ
人間にすらちゃんとつかえることができないのに・・
・」と答えていますから。
その他の3つは、孔子が否定すべきもの(あるいは少なくとも肯定し
難いもの)だったからと思われます。
以上は、素人である私の意見です。雑談としてお聞き流し下さい。
176 :
名無しさん@3周年:03/09/25 17:20
>>173 大昔の中国には人肉食の風がありました。
刑罰としての人肉食の例としては、漢高祖が反乱を起こしたほう越(ほうは膨の月がないもの)を
やはり塩辛(かいだったか。漢字がない。)にして諸王侯に配っています。
これは、憎い相手を共に喰らうことで「憎しみを共にせよ」という意味だとされます。
177 :
名無しさん@3周年:03/09/26 13:36
178 :
名無しさん@3周年:03/10/06 18:00
四書五経と史記と漢書などはもっと国民に知らせる方法を考えてほしい。
欧米のキリスト教文化圏にある人たちが信者非信者にかかわらず聖書をよく知っている。
欧米圏の聖書のような位置を、
国内において、四書五経と史記と漢書に与えたい。
>>178 趣味人とか、戦争マニアとかじゃないと無理かも..
特に最初っからじゃね..
銀河英雄伝説とかだと..四書五経と史記の 今風版なので
そこから語って遡れば善し..
180 :
名無しさん@3周年:03/10/06 21:27
>>178 現代語訳でなら、かなりの書を読みましたが、前提となっている精神風土が日本とは
違うので(例えば、易姓革命を肯定した「孟子」は、大和朝廷からは禁書に近い扱いを受けた)、
あまり賛成できない。
181 :
名無しさん@3周年:03/10/07 04:05
江戸時代の学問といえばまず儒学。
182 :
名無しさん@3周年:03/10/08 18:52
現代中国の青少年は日本のタレントをよく知っているが、
日本の青少年はあまり中国のタレントを知らない。だけど、
中国の青少年より、日本の青少年の方が三国志とか知ってそう。
中国の青少年は日本の歴史ドラマなんて殆ど知らないだろうに。
中国の古典は、まず、史記と漢書はもっと読まれてほしい。
他の中国史物は十八史略を読んでの知識ぐらいでいい。
儒学は荻生徂徠の著作辺りから親しむといいと思う。
183 :
名無しさん@3周年:03/10/08 19:07
>>182 荻生徂徠は儒学の一般化を目指した。
著作も俗語を大胆に使ったりしてた。
その意志は現代の初心者にも伝わる。
>中国の青少年より、日本の青少年の方が三国志とか知ってそう。
そんなことない。結構知ってるよ。
日本儒学が廢れたのは、カチカチの朱子学だったのも問題だったのではないかなぁ?
武士の特権物と化したのいけない。
185 :
名無しさん@3周年:03/10/10 19:39
もともと禅の上に乗っかってただけだからな。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」なんてのは、儒教からは出てこないよ。
186 :
名無しさん@3周年:03/10/10 20:29
韓非子はどうよ?
187 :
名無しさん@3周年:03/10/10 21:37
>>186 韓非子はいいよ。
漏れの独断と偏見だが、諸子百家は「荀子」と「韓非子」の二つを読めば、一応カバーできる。
孔子は卑屈なところや理不尽なところや猜疑心や驕慢さを持ち合わすが
まさしく聖人。孔子をあらわすのにこの言葉以外であてはまるのは
礼の化け物ってことくらい。
189 :
名無しさん@3周年:03/10/10 22:37
>>189 中国に喧嘩を売っているとしか思えない表現だが..
まぁ、あっちも 日本の有名者に 喧嘩を売る人もいるだろうし..
喧嘩で儲かる人もいるし..
孔子は力持ちだったという話は本当なんだろうか。
192 :
名無しさん@3周年:03/10/11 00:11
論語には、そうゆう、武人としての経験に触れた箇所があったと思う。
>>144 そういう意味での「学」じゃないと漏れは思うよ。
この場合の「学」が指すのは、よく老子が否定してる「技巧」のようなもんじゃねの?
人間が創った既存の価値観とか。
自分が醜いと悩む香具師がいる。
あるいは罪の意識におびえて、自分は生きていてはいけないんだろうかと悩む香具師もいる。
そういう既存の美醜、善悪なんかからの価値観から、
自由になることを老子は言ってたんじゃないかと漏れは思う。
196 :
名無しさん@3周年:03/10/30 20:59
孔子こそは最高・最強の哲学者である。
儒教ほどくだらない思想はないわな。
儒教と儒学を一緒にすんなっつうか。いつから孔子学派=儒者になったのかねえ。
当時儒者なんて腐るほどいただろうに。
孔子が関係しない儒教なんてない。